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ロシアの若者の間でスターリンがじわじわ人気上昇中
http://www.asyura2.com/11/hasan72/msg/757.html
投稿者 中川隆 日時 2011 年 8 月 18 日 13:52:43: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 脳動脈硬化症で晩節を汚した(?)レーニン _ 実際は若い時から… 投稿者 中川隆 日時 2011 年 8 月 18 日 10:23:58)


100人の20世紀 『スターリン』
http://www.nicovideo.jp/watch/sm1422462


【ソ連】ロシアの若者の間でスターリンがじわじわ人気上昇  中部で胸像除幕

【モスクワ共同】ロシア中部ペンザでソ連の独裁者スターリンの胸像が完成、20日までに第2次大戦の従軍兵士や共産党支持者らが集まり、除幕式が行われた。 英字紙モスクワ・タイムズなどが伝えた。

メドベージェフ大統領は、スターリン復権は「絶対にあり得ない」と強調するが、プーチン首相が大統領時代以来、鼓舞した愛国主義に影響を受けた若者らの間でスターリン人気はじわじわ上昇しており、新たな像を建てる動きも各地で起きている。

 胸像が建ったのは共産党支部の敷地内。支部幹部は「元兵士に昨年、歴史的公正さを取り戻してほしいと頼まれた」のを機に、建立資金を募ったと話す。 2011/07/20(水)
http://plus.2chdays.net/read/newsplus/1311167870.html

ギリシャもイスラム圏も韓国も、独裁政権が多い。民主的政体は育たない。

それは民主主義というものは、個々の責任という面が要求されるからですね。自分自身が主体的に政治に参加する。そしてみんなの選択に共同責任を持つわけ。しかし、責任を取りたくないダメダメ人間は、独裁政治の方がラクなんです。だって独裁だったら上手くいかなかったら、その原因の全部を独裁者のせいにできるでしょ?そして「オレたちは独裁政治の被害者だ!」と言うだけ。

だから、これらの国の政権担当者は、政権を降りた後は大変な目にあいますよね?

それは「うまく行かない原因」を一手に引き受けされられるからです。「自分たちは被害者だ!」と思いたいダメダメ人間は、とにもかくにも加害者というレッテルを何かに貼りたがるわけ。民主的政体だと、自分自身にも責任を取らないといけないので、精神的にラクができない。だから、このようなダメダメな連中は無意識的に独裁政治を望んでいるわけです。

ダメダメというのは、経済的な問題というより、まずもって心が貧しいわけなんです。

http://space.geocities.jp/estrelladelsur010/04-11/04-11-12.htm


自分が裁量できる状態を拒否する・・・そんな発想だと当然のこととして、政治的には独裁政権を、内心では、望むことになります。

ダメダメなところでは独裁政権って多いでしょ?イスラムとか韓国とか・・・

そうして、後になって「我々はあの政治家による被害者だ!」と嘆くわけ。
そして過去の政治家を糾弾する。

イラク国民はサダム・フセインの被害者ではないんですね。サダム・フセインのような独裁者をイラク国民が求めたといえるわけ。

http://space.geocities.jp/estrelladelsur010/05-08/05-08-31.htm

                ./" ̄ ̄"''ヽ       _,, -‐- ,,_
        ./ ̄"ヽ    i        .|    ./
     / ̄'' b ,-、 d   ./¨ヽ {0}   .|   ./
     ,!-、b | `=' ',  i_,.ノ      |   /¨`ヽ  {0}
    ヽニ,  ,'  /´ \ `‐-    _,,,,..|  i__,,.ノ
     l´  >、_/    \__,>、,r'''"   |   `ー-
    . l   l /      /〈 ー'      ヽ   |
     l   ノ l .l    / /        l,r‐';"´〉  ,r'",r''"
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_,r=='  ノ`〉 l   / /    /      l   ヽl/"''''''''"
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1. スターリン血の粛正


〜20世紀最大の殺戮者と言われた独裁者の狂気と悪夢〜


 20世紀は、戦争と革命の世紀だと言われている。国家の利害関係とイデオロギーが激しく火花を散らせてぶつかり合った世紀であった。事実、世界の各地で数えきれない革命や戦争が起き、多くの人間が犠牲となった。世界の半分以上を巻き込んだ二つの世界大戦は、何千万という人間の屍の山をいくつも築き上げ、計り知れない悲劇を生んだ。

 同時に、20世紀は、悪名高き独裁者が数多くあらわれた時代でもあった。しかし、ここに、異常なまでの人間不信と権力への飽くなき欲望を持ち、殺戮に明け暮れた独裁者がいた。彼の狡猾で冷酷非情な性格は、その後の世界史の行方を大きく左右し、その影響は今日も続いている。彼、スターリンこそは、ヒトラー以上の狂気を持ち、ヒトラーの悪業と比べても何ら見劣りしないばかりか、その殺戮した人間の数ではヒトラーをはるかに上回るのである。彼こそは、20世紀最大の狂気の殺戮者と言っていいだろう。

 ヨシフ・スターリン・・・彼の本名はヨシフ・ジュガシビリと言い、スターリンという名は、党の機関誌「プラウダ」の編集長をしていた時に考えたペンネームである。スターリンとは、鋼鉄の人という意味があり、考案者はレーニンだと言われる。ジュガシビリは、1879年12月21日、グルジア地方の貧しい靴直し職人の子供として生まれた。グルジアは、コーカサス南麓と黒海に挟まれた地域で、気候が温暖ながらも変化に富んだ地形は、現在でも風光明媚な名所として知られている。

 彼が生まれた家は、大変、狭く台所と小さな部屋が一つしかなかった。しかし、みすぼらしい窓から見える景色は絶景だった。

 コーカサスの雄大な景色が一望出来たのである。その上、春になれば、ラベンダーが山肌一面に咲き乱れ、印象派の絵画を見るようだった。そうした、美しい自然環境のもとで、彼は、三番目の男の子として出生した。

 上の二人の兄は、誕生して半年ほどで死んでしまっていた。それだけに、ジュガシビリが誕生した時は、母親は、特別な思いを持って育てられた。

グルジア地方の夏の景色(古い絵はがき)

 しかし、母親の期待に反して、彼は病気ばかりする虚弱児であった。しかも、彼は不具であった。少年時代に発病した天然痘により、左足の二つの指はくっついたままで、左腕もほとんど動かすことさえ出来ず、まるで義手をつけているようだった。顔にも無数の瘢痕があり、風采の上がらない小男であったという。

 母親は、将来、我が子を神学校に入れて神父にさせたかったが、十代後半から社会主義運動に異常な興味を持ったジュガシビリは、母親の期待に反して、革命家の道を歩み出してしまった。そして、様々な活動に参加しては、逮捕、流刑を何度も繰り返すことになる。

 やがて、神学校から見切りをつけられたジュガシビリは、退学処分とされてしまった。しかし、彼に取っては、その方が、むしろ、せいせいしたようで、もうその頃には、若干22才でありながら、彼は党の指導者的存在にまでなっていた。

20才頃のスターリン

 この頃、スターリンは初めてレーニンと会った。この時レーニンは30代半ば、彼は、一目見て若く精力的なスターリンを気に入り、革命運動の戦略家としての素質を見抜いていたという。その後、彼はレーニンらと強い結束のもと、ますます、革命推進の中心的メンバーとなっていくのである。

 1905年のロシア情勢は、余談の許さぬ状態だった。前年には、日露戦争が勃発し、一年半に渡る戦いの末、ロシアは疲弊してしまい、国内には不満が爆発、血の日曜日事件や戦艦ポチョムキンの反乱を引き起した。ロマノフ王朝の権威は地に堕ち、ついに第一次大戦の最中、ロシア革命を誘発するのである。


 その結果、ロマノフ王朝ニコライ2世は退位し、代わって、ボルシェビキ(ソ連共産党の前身)による新政府が樹立した。

 1924年、レーニンが脳梗塞で再起不能の状態になると、スターリンは、レーニンの後継者として名乗りを上げ、ついに、党の実権を把握し事実上の最高指導者の地位に躍り出ることになる。

血の日曜日事件、平和とパンを求めて、首都ペテログラード(後のレニングラード)の宮殿に押し掛けた民衆は、軍隊の発砲で多数の死者を出す流血事件に発展した。

 しかし、時が経つにつれて、彼は、急速に凶悪な独裁者の本性をさらけ出し始めた。対立者を巧妙で悪徳の限りを尽くした手段で倒していくのである。

 まず、最大のライバル、革命の功労者だったトロツキーを国外追放し、カーメネフ、ジノビエフなど自分と意見主張を異にする政敵たちを、除名処分にして党から追い出したのである。それが済むと、スターリンは、ゲ・ペ・ウと呼ばれる秘密警察を設立した。ボルシェビキ的規律と秩序を確立するのがその目的だったが、その実態は、権力を思いのままに操るために、彼の意にそぐわない人物を手足となって粛正してゆく組織だった。まもなく、独裁体制樹立と同時に、恐怖の鎌首をもたげ、計り知れない恐怖の原動力となって活動を開始するのだ。

 1929年、スターリンは、第一次五カ年計画の発動を命じた。農業国ロシアを工業国に変えるのがその目的であった。その要となる政策は、農民の強制集団化であった。すべての農民をコルホーズと呼ばれる集団農場に一括してまとめ、そこで収穫される穀物を国家がすべて徴発しようというのである。そこでは、農機具は共同で用いられ、一切の私有は禁じられるのである。こうした彼の強引なやり方は、これまで、着々と富と財を蓄えていたクラークと呼ばれた富農層から猛烈な反発を食った。彼らにしてみれば、これまでの財産をすべて失い、以後も財を貯めることも許されないからだ。

 しかし、スターリンは、農業集団化に従わない農民には、情け容赦のない弾圧を加えた。29年だけでも、1千万近い農民が、処刑されたり、シベリアなどに送られている。ある農民などは、見せしめのため、広場で自らの墓穴を掘らされた上、銃殺されたのである。しかし、これは、まだ序曲であった。血の粛清は、ますます本格化し、やがて凄惨なクライマックスに向かってゆくのである。まもなく、農民だけでなく、民族主義者、知識人など彼の体制に批判的な人間も、すべて、その対象になっていった。彼らは、「人民の敵」と名指しされ裁判にかけられた。否、それは、裁判とは名ばかりの大量処刑であった。容疑がかけられると、陰惨な拷問や薬によって強制的に自白させられ、即刻、銃殺刑かシベリアの強制収容所に送られるのである。時間のムダを省くために、トロイカ(三頭だての馬車を意味する)と呼ばれる機関が暗躍することになった。それは、被告も原告もいなくても、その場で判決が下せると言う簡易型の移動式裁判であった。多くの者は、一方的に死刑判決を言い渡されると、その場で、それこそ、10分以内に処刑されてしまった。全く、信じられないほどの素早さであったという。

「我々は、国家の福祉増進という高潔な目的のために、日夜努力せねばならない。国内の工業化を実現するためには、ある種の犠牲も覚悟せねばならず、国民は耐久生活に耐えねばならない」無論、これは体裁のよいスターリンの言葉である。しかし、その表向きと違って現実は、想像を絶っするほどひどく惨いものだった。

 日々の配給は、わずかパン数十グラム程度。これでは、大人一人生きていくことは、到底不可能だった。人々は餓死から逃れるためには、ありとあらゆる努力をしなければならなかった。路上には、パンを求める孤児の群れが溢れ返った。あるウクライナから帰って来た学生は、身の毛もよだつ話をした。彼らによると、飢饉のために、食べるものがなくなった地方では、人肉を食べていると言うのである。餓死したと思われた死体は、細かく切って解体され、商品のように売りさばける準備がなされていたということであった。当然、この二人は秘密警察に逮捕され、拷問の上、銃殺に処せられたのは言うまでもない。スターリンは、自らの考えをイメージダウンさせるものは、事実であろうが、すべて隠蔽し、片っ端から闇に葬っていたのだ。



 スターリンの女性関係は、かなり派手であったことが知られている。3度、結婚したが、その他にも、愛人、情婦など数えきれないほどいて、浮気は絶えることがなかったという。一度目の妻は、逃亡生活の隠れ家で知り合ったケケという女性だった。しかし、逃亡生活の無理がたたったのか、彼女は結核にかかり死んでしまった。

 二度目の結婚は、彼が40才の時で、相手は彼より22才も若いナジェージダという女性だった。しかし、結婚して14年後、彼女は、革命15周年記念の晩餐会の夜、謎の死を遂げてしまう。

 晩餐会が終わって二人の言い争う声を聞いたという証言もあるが、真相はわからない。死因にしても、夫スターリンに対する抗議の自殺だの、逆に、怒りを買ったスターリンに毒殺されただの言われるが、今となっては永遠に謎のままであろう。


結婚したての頃、ナジェージダと(1920年頃)


 三度目の妻はローザという女性で、スターリンよりも10センチほど背も高く、大変、利口で陽気な女性だった。彼女は、二番目の妻ナジェージダとの間に出来た二人の子供にも愛情を注ぎ、いつも優しく誠実だった。しかし、スターリンは、何が気に食わないのかローザとも離婚してしまった。その後、ドイツとの戦争中にもかかわらず、女優、バレーの踊り子、オペラ歌手、クレムリンのタイピストたちを次々と別荘に招いては、深夜の響宴に明け暮れる始末だった。

 私生活でも、彼は、大変な独裁者で、冷酷非情な面を、度々、見せている。彼は、美食家で、国民が飢餓に苦しんでいようとも、毎日、たらふく食べねば気がすまなかった。料理が気に入らないと言って、皿ごと床にぶちまけたこともあった。また、妻の寝室に情婦を連れ込んで来ることもあったし、酔うと粗暴な振る舞いが多かったという。愛人の浮気の現場を押さえた時など、ものすごい癇癪を起こして、何度も殴りつけた上、二人の髪の毛をわし掴みにして、裸のまま部屋から引きずり出し、監獄にぶちこんでやるとののしった。二人は、即刻、連行され、裏切り者として銃殺されてしまったという。また、スターリンは、女性の嫉妬という感情には耐えられない面があった。例え、献身的に尽くそうが、嫉妬ゆえに彼に疎ましく思われ、闇に葬られて消息を絶った女性はあまりにも多い。

 スターリンは、恐ろしいほどの強靭な記憶力の持ち主だった。彼の頭の中では、日々の細々した私的な事柄から、党や軍内部のあらゆることまでが最大漏らさず記憶し尽くされていたのだ。例えば、どこそこの将軍が、どこの生まれでどういう性格と遍歴を持ち、どういった成果をおさめたか? あるいは、ヘマをしでかしたかということなどがビッシリと整理されていたのである。また、霊感力もするどく、軍事や外交面では、機が熟したと見るや、すばやく行動を起こした。それはいつも抜け目なく、まるで、鳶が油揚げをかっさらうようなすばやさであった。

 第二次大戦戦争が始まり、ドイツ軍がポーランドを屈服させた時も、スターリンは、東からポーランドに侵入し、労せずしてこの国の半分を占領した。スターリンとヒトラーとの間には、秘密裏に血も凍るような悪魔の取引がなされていたのである。

 この時、連合国は我が身可愛さから、ポーランドが東西の独裁者によって、なぶり殺されていくのを手をこまねいていただけだった。どの国も自国の利益のみを考えていた。


 フランスは、マジノ要塞に閉じこもり、イギリスなどは何もしなかった。そして、ポーランドがヒトラーとスターリンに食い尽くされてゆくのをただ見守っていたのであった。しかも、狡猾なるスターリンは、世界中がヒトラーのこの派手なパフォーマンスに気を取られている隙に、どさくさに紛れてバルト3国を武力で併合してしまったのである。第二次大戦の終戦直前には、日ソ中立条約を破って、怒濤のように満州に南下、息も絶え絶えとなった日本から、強引に北方領土を奪い取ることもした。

 このように、領土拡張の野望を夢見るスターリンにとって、国際法を踏みにじることなど朝飯前のことだった。彼は、室内に大きな世界地図を飾っていて、領土が新しく増えていく度に、色を塗っていくのが何よりの楽しみであったという。そして、地図を見ながら、今度はここをやる、ここが欲しい、これは気に食わぬなどと言って党の幹部たちの前でよくつぶやいていたらしい。

 スターリンは、地上最高の権力者になることに、この上ないあこがれを抱いていた。そして、何か、ピラミッドのような巨大なモニュメントを後世に残すことが夢だった。彼は、中世ロシアの暴君イワン雷帝をこよなく愛し、自らをそのイメージにダブらせるのが好きだったようだ。確かに、彼の政権下で、何十万という人間が、殴られたり蹴られたりして強制労働に従事する様は、陰惨な中世ロシアの時代を彷彿とさせるものがあった。

 スターリンは矯正労働収容所と称して、シベリアなど、ロシア北西部に数えきれない収容所をつくっていた。その数、百カ所以上・・・彼は、囚人を矯正し魂を鍛え直す労働だと言い張っていたが、その実態は、恐怖の強制労働に他ならなかった。スターリンは、国家の工業化のために、大量のただ働きの奴隷労働者が欲しかっただけなのである。

 スターリンにとって、囚人はいくらでも代替のきく安価な消耗品でしかなかった。賃金など払う必要もなく、かろうじて生きられるだけの食料を与えておけばよかったのだ。過酷な重労働で囚人が、どれだけ凍死しようが餓死しようが、お構いなしなのであった。こうした国家建設のプロジェクトの担い手である労働力を大量に確保するために、彼は、抜け目なく、第58条という新しい条例をつくっていた。1926年に交付されたその条例によれば、政府の転覆、崩壊、もしくは革命的成果を崩壊、弱体化させる行為は、反革命的と見なされ祖国の裏切り者と見なされるというのである。

 しかし、人々の日常的行為で、この条例に引っかからないものなどあり得なかった。要するに、どうにでもデッチ上げることが可能だったのである。全く意味もない行為が、ねじ曲げられて解釈され、その挙句に祖国の裏切り者というレッテルを張られて自由をはく奪されることが往々にしてあった。かくして、数百万の無実の人間が、囚人呼ばわりされ、全財産を国家に没収された上、処刑されるか、過酷な重労働を強制されることになった。この条例の目的は、罪のない人々を囚人にでっち上げ、スターリン体制を維持するための奴隷を合法的につくり出すことなのであった。裏切り者のレッテルを張られた者には、銃殺刑か荒涼としたシベリアへの流刑が待っていた。

 シベリアに送られた囚人たちを待っていたのは、金鉱の採掘、運河や鉄橋の建設などの過酷な強制労働であった。その労働は、想像を絶するほどひどいもので、一日に16時間以上の重労働が課せられるのである。真冬ともなると、あらゆる物が凍りつき、気温は零下60度にも下がる。当然、多くの囚人が凍傷にかかった。医者が、まるで植木職人のような手さばきで、凍傷にかかった囚人の手足をパチンパチンとハサミで切り落としていった。激しい飢餓に耐えきれずに、死体置き場から死人の肉を切り取って食べた者も少なくない。

 何をするにも『ダバイ!(動け!)』の罵声が飛び、反抗的な態度を取ると、それこそ目の玉が飛び出るほど殴られた。囚人たちは、体力を消耗して、みるみるうちに痩せおとり死んでいった。死んでコチコチに変わり果てて凍った死体は、次々に運搬用のそりに投げ込まれて片付けられていくが、その時、まるで木と木がぶつかり合うような音がしたという。ものすごい寒さと重労働による疲労、飢えのために、ほぼ全員が一冬で死に絶え消滅した。夏になると、再び、新しい囚人の群れが送られてくるが、彼らも冬になると同じ運命をたどるのである。毎年、補充のために、数十万単位の囚人が薄暗い船倉や列車に閉じ込められてピストン輸送されるが、決して囚人数が増えることはなかったという。こうして、死に絶えては補充されるという死のサイクルは休むことなく繰り返されるのである。

 スターリンは、金に異常な執念を見せた独裁者でもあった。全く、それは凄まじいばかりのものであった。彼は、ことあるごとに、金の備蓄量を増やさねばならないと口にし続けていた。そうして金を国家戦略の最重要資源に位置づけし、支配国の共産党へ金の提供を義務づけたのである。そうして、金を採掘するために、数百万の囚人が集められ、牛馬のごとくこき使われたのである。

 かくして、50年代の初めには、国家が保有する貴金属は、金2千トン、銀3千2百トン、プラチナ30トンという莫大な量にまで跳ね上がったのであった。しかし、それらを採掘するために強制労働に従事した数百万の人々は、とうにシベリアの凍土と化していた。白海・バルト海運河が開通した時など、スターリンは、蒸気船「カール・マルクス」号で完成したばかりの白海からオネガ湖までの227キロを快適な船旅としゃれこむ計画を立てた。その際、多くの役人や作家連中も招待された。彼は、第一次五カ年計画の中心事業であった白海・バルト海運河をわずか2年で開通させた偉業を世界に誇示したかったのである。招待された百名以上の作家たちは、超一流ホテルでチョウザメや高級食材、各種ハム類、ウォッカ、シャンパンなどふんだんに振る舞われた後、スターリンと優雅な運河の船旅を体験したのである。皮肉にも、その時、ウクライナでは有無を言わさぬ食料調達によって数えきれない農民が飢餓に苦しみ、その挙句に埋められた死体を掘り起こし、人食いまで行われていたにもかかわらずである。

 彼らは、その後、「スターリン記念」と称する本を書き、その中で、彼の数々の偉業を美辞麗句を並び立てて絶賛し、囚人たちがいかに再教育されて鍛え直され、国家に貢献し得たかを賛美したのであった。しかし、実際は、工事期限を死守するために、運河はかなり浅く掘られ、役には立たない代物だったという。また、運河開通の担い手、30万の労働者の内、10万人がボロクズのようになって死に絶え、運河の土となったことなど一行も書かれることはなかった。

 スターリンは、後にこう述べている「反抗心のない無力な労働者を育成するには、密告を奨励し、給食を飢餓すれすれにして、ちょっぴり食い物を増やしてやると彼らにたきつけることだ。そうすれば、労働力を最大限に引き出せる。彼らの苦情など一切無視すればよい。そうすれば、人間の個性や主張など簡単に打ち砕くことが出来るのだ」これほど、人間の尊厳を侮辱し冒涜した言葉もないだろう。しかし、この方法は、後になって、ヒトラーやムソリー二など西側の悪名高き独裁者たちも、見習って借用したということである。



 第一次五カ年計画が終わる頃、農民の強制集団化で富農層をほぼ撲滅した彼は、さらなる粛清をもくろんでいた。スターリン独裁の陰では、トロツキー、カーメネフ、ジノビエフと言った反対勢力がまだ幅をきかせていたし、党の幹部の中には、粗暴なスターリンを嫌って排除しようという動きもあった。ここでスターリンは再び狡猾な手段に出る。かつて、党から、追放したはずのカーメネフ、ジノビエフらを再び党員に迎え、要職につけたのである。これは、どういうことなのか? こうしたスターリンの心境の変化を西側のメディアは、「ロシアの赤がピンクになった」などという表現を使って「雪解け現象来る?」と大見出しで報道した。

 しかし、これは、さらなる大嵐が来る前の凪(なぎ)のようなものだった。スターリンは、何かとてつもないことをしでかす前には、必ずと言っていいほど、相手を油断させるためのフェイントを演出したからである。事実、スターリンの胸の内は、これから行われる大粛清のための構図が出来上がっていた。これまでに彼に楯ついた者、恥を掻かせた者、気に入らぬ者などが、彼の強靭な記憶力の中にインプットされ続けていた。そして、それらは、膨大なリストに細かく区分けされて、逮捕、拷問、処刑の瞬間を待ちわびていたのである。後は、スターリン自身が、合図を送るだけであった。

 キーロフの暗殺が大粛清のきっかけとなった。キーロフは、共産党の中央委員でもあり、人気があった。実際、スターリンの後継者と見なす党員がほとんどだった。

 スターリンは、表向きは、キーロフを同志として信頼しているように振る舞っていたが、本心は、彼の存在が我慢ならなかった。

 結局、キーロフの暗殺は、カーメネフ、ジノビエフらの犯行ということになり、彼らは、即刻、銃殺刑にされた。しかし、これは、とんでもないでっち上げで、キーロフの暗殺を仕組んだのは、スターリンの仕業に他ならない。


セルゲイ・キーロフ

(1886〜1934)スターリンを上回る人気があり、嫉妬したスターリンによって暗殺されたと言われる。


 こうして、彼は、次期に自分のポストを奪いかねないキーロフを暗殺し、その罪をかつての政敵、カーメネフとジノビエフらに擦りつけ、一挙に両方とも片付けることに成功したのである。後は、さらなる大粛清を行い、自らの独裁を揺るぎないものにしてゆくことであった。

 粛清の死の嵐は、たちまちソ連全土に波及していき、37年には空前絶後の規模で行われた。「古い細胞を除去し、党は一新されねばならない」・・・スターリンは、大虐殺をこのように弁明し粛清の論理を正当化した。そのために、彼は密告を奨励した。自分の陰口をたたく者、不満を持つ者、体制に批判的な者を密告によって嗅ぎ分け、ことごとく粛清するのである。

 身に覚えのない密告が盛んに行われ、数えきれない人間が深夜に連行され銃殺された。いたいげな子供が親を密告したケースも少なくない。まだ善悪の判断すらつかぬ子供が、多くの人々の前で表彰を受け無邪気に喜ぶ場面もあった。一方、実の子に密告された親は、強制収容所に送られ悲惨な死を遂げたのである。

 夜がふけると、人々は、身を寄せ合って、夜が明けるのを息を殺して待つよりなかった。こうしている間にも、自分に恨みを持った人間が、復讐のため、あることないことを告げ口し、処刑隊が向かっているかもしれないのである。もう、誰も信用出来なかった。人々は疑心暗鬼に脅え、毎夜、恐怖に震えおののいた。それは、まるで、中世の魔女狩りそっくりであった。いつ何時、死神がドアをノックするかわからず、おちおち眠ることも出来なかった。死刑執行人、すなわち、秘密警察が現れるのは、決まって深夜か早朝だったからである。

 この年だけで何百万人も連行され、約半数が処刑されたと言われている。大戦前の5年間だけでも、2千万人近い人間が逮捕され、銃殺もしくは強制収容所送りにされているのである。大粛清は党や軍などあらゆる分野に及んだ。軍に至っては、将校の8割が処刑されたと言われている。そして、ついには粛清を執行した本人たちにも矛先が向けられていった。スターリン政権下30年間で換算すると、ロシアだけで実に4千万を下らない人間が連行され有罪判決を受けたことになる。ソ連全土ともなると、その数はもっと膨らみ、もはや推定する以外にはない。当局によって有罪判決を受けた者たちは、その半数以上が虫けらのように処刑されるか流刑先で悲惨な死を迎えたのである。しかし、悲劇はこれが、すべてではない・・・4年間に渡る独ソ戦の死傷者2千5百万人がその上に加わるからである。

 さらに、大戦中も、ソ連占領下の各地で、粛清の嵐は容赦なく吹き荒れた。ソ連領内の北カフカスでは、ある山岳民族が強制移住の名目で大虐殺の憂き目にあっている。この山岳民族は、戦前から、自分たちの伝統文化を頑に守り、スターリンの農業集団化に協力しようとしなかったのだ。2月の大雪が降り続く深夜、突如、10万の軍隊で村々を包囲した当局は、着の身着のままで、住民を叩き起こし、駅で待っていた家畜輸送用の貨車に詰め込んだのである。その際、老人、妊婦、子供は足手まといになるため、射殺されるか、崖から突き落としたのであった。貨車に乗り遅れたある老夫婦と幼い孫はその場で射殺された。人々は貨車から5メートルも離れると、問答無用で射殺されたという。

 また、期限内に計画達成困難と見た当局が、スターリンの怒りを買うのを恐れ、残った村の数百人の住民を納屋に閉じ込め、火を放ったこともあった。苦しみ抜いて煙にいぶし出され、はい出して来たところを一人一人狙い撃ちして皆殺しにしてしまったという。グルジアに住んでいたある少数民族などは、こうして地上から永遠に抹殺されてしまった。

 スターリンの狂気は、敵対する民族のみならず、捕虜や自軍にも向けられ、止まることを知らなかった。戦時中、スモレンスク郊外のカチンの森の中で、数千人のポーランド将校が虐殺されて埋められているのが発見された。


 遺体はどれも、おがくずを口に詰め込まれて、銃剣で刺し殺されるか、後頭部を銃で撃たれるというひどいものであった。このような惨い虐殺現場は、その後、次々と発見されていくのである。

 また、スターリンは、捕虜は祖国の裏切り者とみなして、その家族はことごとく逮捕させていた。戦場を少しでも離れる者があれば、即刻、銃殺されるか戦車で引き潰したという。将兵を、生きたまま地雷を踏ませるために行進させることもあった。



カチンの森の虐殺現場

 かくして、スターリングラードの攻防戦だけでも、1万4千名のソ連兵が自軍に殺されたのである。つまり、一つの師団丸ごとが味方の手によって抹殺された計算となるのだ。こうした死者数まで漏れなく加算していくと、あまりに現実離れした数字となり計量することは、もはや不可能となる。

 彼の犯した罪が、いかに巨大なものか、自ずからわかると言うものだ。恐怖の戦慄の果てに、全身総毛立つ思いがして来るのも当然であろう。

この遺体は後ろ手で縛られた上、絞め殺されていた

 このような犠牲者の累積は、1953年、スターリンが死ぬ瞬間まで、急上昇を描くようにカウントされつづけたのである。この年、スターリンの突然の死によって、ようやく長引いていた朝鮮戦争も終結に向かっていった。彼は、晩年、殺されるのではないかという強迫観念に取り付かれていた。何をするにも異常に疑い深くなり、食べ物はすべて毒味をさせ、自分が招いた客でさえも、深夜、こっそり入って来て、寝ているのを確認する始末だった。元々、若い頃から何事にも疑り深かったスターリンは、今では病的で、誰も信じられる者もなく、医者でさえ自分のそばに決して近寄らせなかった。そして、長寿の薬だと称して訳のわからぬ薬を飲んだり、ヨードを垂らした怪しげな水を飲んでいたという。

 独裁者の最期は、あっけないものだった。脳内出血を起こした彼は、パジャマ姿で食堂で転倒し、ほとんど、意志朦朧としたままで息を引き取ったのであった。ラジオは荘重な音楽を鳴らし、国民に4日間、喪に服することを伝えた。享年74才だったと言われる。

 スターリンが死んでもう半世紀にもなる。嘘やでっち上げで固められた政治体制、共産主義の腐敗と害毒、粛清の恐怖など・・・国民は、過去を払拭し忘れたいと思った。しかし、スターリンの残した負の遺産は、あまりにも強烈で、人々の心の奥深くに刻まれて今も存続し続けている。新生ロシアになっても、その悪影響は国家の負の遺伝子として溶け込み、断ち切ることは出来ないようだ。これほどまでに多くの人間を殺しまくり、死しても、その影響力は、依然、弱まりを見せてはいない。
 歴史上、これまでには、残虐な独裁者は数多く登場した。皇帝ネロ、カリグラ、チンギスカン、ポルポト、フセイン・・・しかし、彼、スターリンに比べると、いかなる殺戮者もちっぽけで色あせて見えるようだ。あのユダヤ人大虐殺で有名なヒトラーでさえも・・・

   旧ソ連から独立したラトビア共和国内のある歴史博物館には共産主義の墓と称するものがある。その墓碑銘には、「共産主義死す。1945ー1991年」という文字が彫られているという。
 
http://members.jcom.home.ne.jp/invader/works/works_8_f.html


スターリンの、異常な人格については、さまざまに伝えられている。まず彼には、複雑な生い立ちから培われた「憎悪の心」が強かった。彼は田舎の、極貧の靴屋の息子として生まれたが、家庭には安らぎも楽しさも、まったくなかった。 

 父親は、短気で粗暴な男であった。スターリンは、父のひどい暴力に、いつも怯えていなければならなかった。幼い日の彼は、常に体のどこかが打ち身のあとで腫れていた。父の暴力がもとで、身体に障害も残ってしまった。彼は幼年にして、「憎む」ということを覚えた。環境を憎み、父親を憎み、すべての人間を憎むようになった。また、学校に入ると、友人たちが皆、自分より経済的に恵まれている、と悩んだ。自らの“生まれ”に対する劣等感は、他人への妬みとなって表れた。人が苦しむのを見て喜び、少しでも気に入らないと徹底的に暴力を振るった。彼にとって、人の不幸は“善”であり、人の幸福は“悪”であった。あわれにも、そのような見方が、染みついてしまったといわれる。自らの“育ち”に異常なまでの嫌悪を抱いていたせいであろうか。彼は、のちに権力を握ると、自分の幼少のころを知る人々を、次々に処刑している。人は自分の環境を克服して立派な人間になることもできる。しかし、彼は、環境に負けてしまったのである。
  
 また彼は、「自分さえよければいい」という卑怯な人間であった。彼の行動の基準は、“自分のため”という一点にしがなかった。自分がより大きな権力を得るためには、あらゆる人を利用し、多くの人々を平気で犠牲にした。若いころから革命運動に身を投じたが、常に「前進せよ、恐れるな」と、かけ声をかけるだけで、自分は決して危険な所へは現れなかった。事態が危うくなると、同志を見殺しにして、すかさず身を隠すのであった。三百人のデモ行進を指揮していたとき、リーダーの彼以外は全員、逮捕され、本人だけ逃走したということもあった。また、「進め!」という彼の号令で突撃した同志の多くが銃殺されたときも、彼はかすり傷ひとつ負わなかった。この卑劣な生き方は、生涯、変わることがなかった。 
  
 さてスターリンは、自分よりも優れ、恵まれている人に対しては、悪魔的ともいえる「嫉妬心」を抱いた。他人が勲章をもらうのを見れば、自分もそれを手にしなければ気がすまなかった。とにかく自分が一番にならなければ、おさまらないという性格であった。同時代のロシアの政治家であるブハーリン(のちにスターリンによって処刑された)は、こう語っている。

[スターリンは誰か他の人がもっているものは、自分も持たないと生きて行けないのだ」

(ロバート・コンクエスト著、片山さとし訳、三一書房刊、「スターリンの恐怖政治』上)と ― 。

  
 またスターリンは、極端な[幼児性」の持ち主であった。大変に“気まぐれ”で、ひとたび感情を害すると、すねて、数日間も会議に臨席しないことがよくあった。自分の思い通りにならないことに対しては、すぐさま“怒り”と“恨み”を抱いた。それゆえ彼は、他人と「対話」することができなかった。「納得」させるのではなく、自分の考えに反対する者には、すべて残忍な「暴力」を行使したのである。
  
 スターリンが競争相手を失脚させる常套手段は、「ウソ」を言いふらすことであった。巧みにウソをつき、「あいつは反レーニン主義者だ」などとレッテルを張り付け、攻撃したのである。また、自分を守り、飾り立てるためにも、多くのウソを作り出した。師ともいうべき立場のレーニンが死んだ時のことである。彼は、「スターリンは後継者として、ふさわしくない」としたレーニンの遺言をにぎりつぶした。その一方、レーニンと自分が仲良く並んで座っている写典を、新開やポスターなど、いたるところに掲げさせた。自分がレーニンの「正統の後継ぎ」であるかのような印象を、与えようとしたのである。しかも、その写真は、合成や修正を加えて作った偽物であったという。

自分の欲望のために、“師匠”をも利用したのである。多くの人が「おかしい」と思ったが、全部、封殺されてしまった。皆は知らないだろう、とウソをつく。事実をねじまげ、さも本当らしく、言いつくろう。だが、その場は、うまくごまかしたつもりでいても、真実は隠せない。隠せたところで、ウソはウソである。なかんずく仏法の世界においては、ウソは必ず、いつか自分への刃となって返ってくる。 

 スターリンは、民衆に対して、レーニンの死を深く悲しんでいるかのように見せかけた。しかし、実際は狂喜していた。彼の執務室に勤めていた職員は、「レーニンの死後の数日ほど、彼が幸せそうに見えたことはなかった」と語っている。彼は、権力の「座」にのぼりつめても、ウソをつき続けた。「スターリンは、レーニンの仕事の立派な後継者である」「スターリンは今日のレーニンである」と自ら宣伝した。自分に都合のいいように、歴史さえも「改ざん」していった。

  
 権力を手にしたスターリンは、自分の言うことは、すべて真実であるとした。あたかも神のごとく振る舞い、国民に「絶対的服従」を強いた。自分の思い通りになる人間しか認めず、人々の自由をうば奪い取ることで、絶対者として君臨したのである。思想統制にも力を入れた。出版物も厳しく制限。情報や表現の仕方まで、徹底して取り締まった。権力欲を満たすために、作家も利用した。自分の思いのままになる人間を作るために自分を礼賛する作品を書かせた。反対に、「絶対服従」しない者には、作品の出版を禁じ、すでに出版されていた作品も葬り去った。 
  
 スターリンは、人々の心から「安心」を取り除き、「恐怖」を植え付けることによって国民を支配した。秋谷会長が、現宗門を「恐怖政治」と呼んでいたが、まったく共通している。安心は信頼と自信を生み、人々を結び付ける。しかし恐怖は、疑いを生み、人々の間に「壁」を作る。圧政者に抵抗して結束することができなくなってしまう。彼は、そうした恐怖を与えるために、「密告制」を用いた。政府が一般市民の中から密告者を選ぶのである。町のいたるところに密告者がいた。家族や親友でさえ、密告者かもしれなかった。五人集まれば、そのうち一人は密告者だと言われるほどであった。そのうえ密告者は、告発された被害者の財産を分けてもらえた。だから、ますます密告に拍車がかかった。隣人の部屋や、同僚の仕事が欲しいと思えば、それが事実であろうとなかろうと、その人を、ただ告発しさえずればよかった。「だれも信じられない」世界は人々の欲望、嫉妬、憎悪をかきたてることで支配する。人間の最も醜い面を引き出す、やり方である。まさに、「魔性」であった。市民は、自分の身の安全と利益を守るために、心を閉ざすようになった。また、互いに敵意を抱き合い、公然と非難しあうようになっていった。
  
 当時の、さまざまなエピソードが残されている。裏側のページにスターリンの写真が載っていることに気づかず、新聞を空気銃で撃ち抜いた男性は、密告により懲役十年の刑に。また、ある集会で、スターリンの名が出ると、人々は一斉に拍手を始めた。三分、五分……拍手は、いっこうに鳴りやまない。やがて十分が過ぎた。一人が拍手をやめて席についた。その人は、翌日、逮捕された ― 。まさに「恐怖の世界」であった。 
  
 絶対者として振る舞う陰で、実はスターリンは驚くほど「臆病者」であった。常に暗殺の恐怖にとりつかれ、いかなる人間 ― 家族さえも信用することができなかった。例えば、何千人という護衛兵がいただけでなく、その一人一人に対しても、幾度も取り調べを行っていた。食事は、必ず検査室で調べさせ、そのうえで毒味をさせた。どんな時も、防弾チョッキを離さず、移動は、いつも装甲車で。屋敷の警備は、最も警戒が厳しい刑務所よりも厳重で、多くの錠や門、警備員、番犬などで守られていた。庭には地雷まで埋められていたという。しかも家の中は、暗殺者をまどわすために、同じ家具を備えつけた寝室をいくつも作り、毎晩、違う部屋で寝ていた ― 。
  
 スターリンは「自分を取り巻く、すべての人間が敵である」という妄想に、とりつかれていた。それは精神病の域にまで達していたといわれる。たった「一人」の狂気が、歴史に類を見ない大量の粛消をもたらしたのである。「狂った独裁者」を放置していてはならない。現代の“魂の大量虐殺者”も、断じて追放せねばならない。
  
 スターリンは、多ぐの無実の人々を捕らえては、拷問で“自白”させ、次々と処刑していった。彼は、こう語っていたといわれる。人の死は悲しいことであるが、それが百万人の死となると、単なる統計にすぎない」(アルバート・マリン著、駐文館訳刊、『スターリン』)  

 「自分の犠牲者を選び、自分の計画を詳しく練り、執念深く復讐をやって、それからベッドに入る……世の中にこれほど楽しいことはない」(前出、『スターリンの恐怖政治』上)と。 

 彼は、やがて、長年、自分に忠誠を尽くしてきた腹心の部下をも殺していった。だが、どんなことをしょうと、本当の安らぎを得ることは、決してなかった。最期は恐ろしい形相で、もだえ死んだという。
  
http://www.hm.h555.net/~hajinoue/jinbutu/suta-rin.htm

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2. 独裁者タイプの上司はなぜできるのか


世の中には独裁者のような上司が多くいる。しかし、彼らは果たして生まれつきそういう人たちなのだろうか。それとも、環境がそうさせるのだろうか。


私がよく聞く上司のタイプの1つに、独裁者タイプがある。このタイプの上司は、恐怖と脅迫で支配し、部下を扱う際に残酷な振る舞いをする傾向がある。

 私はいつも1つ疑問に思っている。悪い上司というのは、もともと悪い人間だからそういう振る舞いをするのか、それとも彼らは基本的にはいい人であるにもかかわらず、権威を背負ったことによって心理的に変わってしまったのだろうか。言い換えれば、悪いボスは生まれつきのものか、それとも後天的なものかということだ。Acton卿の

「権力は腐敗する。絶対的権力は絶対に腐敗する」

という言葉は正しいのか。  私は以前、魅力があり話しやすい人物と仕事をしたことがある。彼は野心的な性格だったが、腹の立つようなことはなかった。しかし、一度権威のある地位についてから、彼はまるで違う性格になってしまったように見えた。彼は「言うことに従わない者は去れ」というタイプの人間になってしまった。私は、彼があるミーティングで、おおっぴらに部下を馬鹿にし、恥をかかせたと聞いた。彼はおそらく、権威を手にした瞬間から、一度も間違いを認めたことがないだろう。その後彼と社交的な会話を交わした時、彼はまだ私が以前知っていた魅力的な人物のように見えたが、彼の仕事場での顔を無視することはどんどん難しくなっていった。

 1971年に、スタンフォード大学の心理科学者がある実験を行った(スタンフォード監獄実験)。この実験では、彼らはなぜ監獄があれほど不愉快な場所になるのかを見出そうとした。具体的に彼らが知りたかったのは、そうなる理由が、監獄に集まるのがひどい人間ばかりだからか、それとも監獄が人々をひどい人間にしてしまうからかということだ。研究者たちは、「塀の中での振る舞い」の効果を調べられるような擬似的な監獄を作った。

 24人の大学生がこの実験の被験者となった。学生たちは全員、最初に面接と性格テストを受けた後、コイントスで無作為に2つのグループに分けられた。半数が看守の役を与えられ、半数が囚人役となった。看守への唯一の指示は、監獄の法と秩序を維持するために何でも必要なことをしろというものだった。

 実験は2週間の予定だったが、たったの6日間で中止された。なぜか?それは「看守役」があまりにも虐待的になり、「囚人役」が心的外傷を受けたためだった。看守役の中には、自分は平和主義者だと主張する者たちもいた。

 これは1つの実験に過ぎず、職場は監獄ではない(そんな風に思える時もあるかもしれないが)。しかし、それでもこの結果は身も凍るようなものだ。私は、権威によって腐敗してしまう人たちの性格には、もともと心理学テストでは発見できないような、弱いところがあったのだと考えるようになってきている。私は確かにリーダーシップが人間を変えると考えているが、われわれすべての中に、権力によって芽を出す残虐さの種があるとは信じられない。

http://builder.japan.zdnet.com/off-topic/20379103/

権力者はなぜ「堕落」するのか:心理学実験


権力を手にすると、世界を他者の視点から想像することが難しくなり、さらに、他者に厳しく自分に甘くなるようだ。


権力者が正しくない行動をするというニュースは大量にある。彼らが、自分より地位が下にある者に対して横暴にふるまい、権力をかさにとった性的行動をとったりすることは、気が重くなることではあるが、驚くことではまったくない。問題は、このようなひどい行ないはなぜ起こるのかということだ。権力はなぜ堕落するのだろう?

心理学者たちによると、権力者の問題のひとつは、他者の状況や感情に対する共感性が低くなることだという。いくつかの研究によれば、権力的な地位にある人は、ほかの人を判断する際に、ステレオタイプ的な判断を行ないやすく、一般化しやすいという。

ノースウエスタン大学の心理学者Adam Galinsky氏らによる最近の研究を見てみよう。研究チームはまず、自らが大きな権力を手にした経験、あるいは自分に何の権力もないと感じた経験のいずれかを、被験者たちに語らせた。

そしてその後、自分の額に「E」の文字を書くよう指示した。すると、権力を手にした経験を語った被験者のほうが、文字を(他人から見て)左右逆に書く傾向がはるかに強かった。この傾向は、権力の「視野の狭さ」が引き起こすものだと研究チームは主張する。権力を手にすると、世界を他者の視点から想像することが非常に難しくなるというのだ。

さらに、権力者は偽善的傾向も持ちやすい。Galinsky氏の2009年の研究(PDF)では、一方のグループには、仕事の交通費を不正請求する行為は、倫理的にどの程度の悪事にあたるかを、9段階で評価させた。もう一方のグループには、さいころを使ったゲームに参加させた。[被験者は他人に見えないところでさいころをふり、]さいころの出た目に応じて、決まった枚数の宝くじを各被験者がもらえるというゲームだ。出た目の数が多いほど、もらえる券のくじも増える。

http://www.kellogg.northwestern.edu/faculty/galinsky/Power%20Hypocrisy%20Psych%20Science%20in%20press.pdf


前者の実験では、権力を手にした経験を事前に想起していた被験者のほうが、交通費の不正請求に対する倫理的評価は有意に厳しかった。ところが、さいころゲームのほうでは全く逆の結果が出た。権力を想起したグループの被験者に、振ったさいころで出た目の平均値を申告させたところ、偶然のレベルを平均20%上回る(統計的にはありえない)数字を申告したのだ。それに対し、無力さを想起したグループが申告した数字は、偶然をやや上回る程度だった。この結果は、前者のグループの被験者が、実際の出た目ではなく虚偽の数字を申告して、宝くじ券を余計にもらおうとした可能性を強く示唆している。

人間は大抵の場合、正しい行ないは何か(ズルは悪だということ)を知っているが、自分が権力を手にしていると感じると、倫理的な過ちを正当化しやすくなる。例えば、約束の時間に遅れてスピード違反をする行為について、両グループの被験者に評価をさせたところ、権力を想起したグループは、その行為をする当事者が自分ではなく他人であった場合に、より厳しい評価を下す傾向を一貫して示した。つまり、ほかの者は法律に従うべきだが、自分は重要な人物であり重要な行動をしているので、スピード違反にも適切な理由がある、と感じやすいというのだ。


以上の研究結果については、実験室での研究にすぎず、説得的ではないという思う人もいるかもしれない。「権力者の堕落」に関するほかのs研究で私が気に入っているのは、スタンフォード大学ビジネススクールの心理学者Deborah Gruenfeld氏による研究だ。1953〜1993年に米連邦最高裁が下した判決を1000件以上にわたって分析したところ、判事の法廷における権限が強まるにつれて、あるいは判事が法廷の多数意見を支持した場合において、彼らの意見書の文言からは、複雑さや細かいニュアンスが失われる傾向が明らかになった。彼らが検討する視点はより少なくなり、判決から生じうる影響についての検討も少なくなった。そして問題は、こうした「多数意見」が実際の法律になっていくことだ。

ミシェル・フーコーが語っているように、権力のダイナミクスはわれわれの思考に深く影響する。権力の階段を上るにつれて、われわれの内なる議論はねじ曲げられ、他者への自然な共感は否定されるようになる。自らの行動が及ぼす影響など気にかけず、お構いなしに実行するようになっていくのだ。

http://wired.jp/wv/2011/06/03/%e6%a8%a9%e5%8a%9b%e8%80%85%e3%81%af%e3%81%aa%e3%81%9c%e3%80%8c%e5%a0%95%e8%90%bd%e3%80%8d%e3%81%99%e3%82%8b%e3%81%ae%e3%81%8b%ef%bc%9a%e5%bf%83%e7%90%86%e5%ad%a6%e5%ae%9f%e9%a8%93/

独裁者の心理


NATOがトリポリを爆撃開始しても、ムアンマー・カダフィは相変わらず権力にしがみ付いている。シリアではバシャール・アルアサードが1000人以上の市民を殺しているし、イエメンでは今週には内戦状態になろうとしているのにアリ・アブドラ・サリーは辞任しない。何故、独裁者はこれほど権力に執着するのか。サウジアラビヤやベネズエラに逃亡して豪華に余生を過ごせないのか。最悪の結果が待っているのに彼等はそうしない。

誇りより欲が先立つということであろうが、独裁者は地位の維持にこだわる。独裁者の心理分析は難しいが、過去の有名な独裁者であるスターリンや毛沢東、サダム・フセイン、カダフィ等の得られる記録から、彼等の心理をある程度研究することができる。少なくても戦略局(今のCIA)がアドルフ・ヒットラーの心理分析を専門家に依頼して以来、独裁者の心理研究は進んできた。ここに最近の研究結果をもとに、独裁者の心を調べて見る。


1) 独裁者は変質者であると言う説


この説明が最も簡単で我々にも分かりやすいが、少し無理がある。変質者とは精神障害の診断と統計の手引き(DSM)によれば反社会的人格障害と記されている。その特性は犯罪の繰り返しと嘘、衝動的行動、自責の念の欠如とある。

多くの独裁者もこの傾向を持つ。彼等は民衆をだますが同時に自分をもだます。「もしスターリンが誰かを裏切り者と呼ぶとすれば、それは他人をそのように誘導していると同時に、実は自分自身をもだましている」とオックスフォード大学の歴史学者であるロバート・サービスは言っている。
カダフィは、彼の体制に反対するものは国家リビヤへの反逆と言いつつ、「全ての人民は私の側にいるし、私を守るに命を惜しまない」とも言っている。

連続殺人犯のジョーン・ウェイン・ゲーシーの例を見ても本当の変質者は嘘つきでも冷酷な人間でもなかった。ゲーシーは被害者を各種の道具を使って苦しめ、気絶するとわざわざ起こして苦しめた後に殺した。多くの独裁者はそのような残酷なことを少なくても直接自分は実行していなかった。

ミシガン大学の心理学のスコット・アトランは、20年間、世界の独裁君主を調べている。彼はハマスのリーダーであるカレド・メシャール、東南アジアで活動しているジェマー・イスラミヤの以前の司令官であるアブバカ・アシール、ムンバイでテロを行ったラシュカレタイバのハフィズ・サイード、アメリカの白人至上運動の指導者であったウィリアム・ピース等と直接話している。

アトランが引き出した結論は、衝動的道徳の追求が独裁者の性格の背後にあることであった。ヒットラーの場合、オーストリアのユダヤ人が現在のお金で数百億円を支払う意思を示しているにも関わらず、要請を拒否してガス室に送り込んでいる。イランの政府も外国からの多額の援助の申し出にも関わらず、独立を保つという聖なる目的のために、核兵器計画を維持する決定をしていた。


2) 独裁者は極端な自己愛主義者


一般の指導者は部下を持ち、部下は指導者を批判することが許されるが、独裁者の部下は生命さえも独裁者に握られているために、批判は絶対出来ない。

「私が強く印象付けられるのは、独裁者が変質者であるかどうかより、絶対権力が如何に人間の性格を変えてしまうかだ」

と香港大学のディコッター教授は言う。

「毛沢東は権力の頂上に長くいて権力の濫用は年々増し、最後は自分の作ったマユの中で生活しているような状態であった」

と彼は言う。独裁者は自分自身と他者への関わりを現実的に見る視点を失ってしまう。2003年にPsychological Review誌で発表されたカリフォルニア大学バークレーのダッチャー・ケルトナー等の報告によると、強い力を持つものはその心理体質を変えていくと指摘している。権力のあるものは他者が成し遂げた業績を自分の手柄にできるし、自分を囲む世界を単純化して考える傾向があった。

しかし我々を囲む現実を無視すると神経学的代償を払うことになる。どの脳の部位もそうであるが、余り使われないと退化してしまう。特に旁辺縁系皮質は我々の感情と自己規制の中枢で、そこを使わないと機能は退化してしまう。

カダフィは数百から数千人のスパイを張り巡らして、彼の体制に歯向かう者を探して抹殺して来た。スターリンは人民委員会を使って彼に反対する者や、特に革命以前のエリートを根絶やしにした。このように聞くべき批判を全て封じてしまうと、独裁者は自ら自分の旁辺縁系を機能不全にしてしまう。ゆえに彼等の末期には傍から見ていても狂ったように見える。

サダム・フセインはその好例であるとワシントンの心理学者であるレナナ・ブルークスは指摘している。フセインはアメリカが既に最新のステルス爆撃機の離陸準備をしているのに、最後まで大量破壊兵器のありかをはっきり言わなかった。

「独裁者は自分の権力を妄想肥大化し自分自身を英雄に見立て上げるが、その英雄幻想が叶わなくなると狂気に走る」

とレナナは言う。

3) 独裁者とは、絶対権力により心の病を発病した人


ジンバブエのロバート・ムガベ大統領は若い頃、至って禁欲的、礼儀正しい若者であった。ピーター・ゴールドウィンの著書「ロバート・ムガベとジンバブエの苦難」の中に、ムガベが若い頃は人の話を良く聞き、朝は早起きし腕立て伏せをし、決して酒を飲まなかったと補佐官が述べている記述がある。何故そんな若者があんな怪物になってしまうのか。

ここでロード・アクトンの言葉を引き合いに出して、”絶対権力がムガベを堕落させた”とする。では絶対権力が人を堕落させるメカニズムとは何だろうか。

新しく発表された”権力はどのように人を腐敗させるか”と題する論文で、コロンビア大学の研究チームは、権力は人間の心理を変えると言うより人の生理を変えるとしている。その論文の中でダナ・カーネイーは、権力を持つと人の日常のストレス・レベルは低下するから、ストレスの刺激で分泌されるコルチゾルのレベルも低くなるとしている。確かに権力者は車を運転する必要もないし、住宅ローンの心配もないからストレスレベルは低い。

一般に不道徳な行いをすればストレスレベルは高まる。

「例えば嘘を日常言う人間は、真実、道徳、社会のルール、結果がどうなるかと色々考察しながら、言葉を慎重に選ばないとならない。ストレスが余りに高まると気持は落ち込み、コルチゾルのレベルの上昇となって現われる」

とカーネイーは述べている。しかし、独裁者はコルチゾル・レベルが低いから、いざストレスに見舞われた時にも心に十分な余裕があり、悔やむ事なく何かを実行できる。この仮説が正しいかどうか調べるために、カーネイー等は心理実験をした。


被験者を2つのグループに分けて、最初のグループには大きな事務所をあてがい、貴方は管理職ですよと言う。

するとこの管理職のグループでは難しい決定も比較的簡単にやってのけた。

これに対して第2のグループは、狭い部屋を与えられ部下であると言われるが、彼等の反応は第一グループと反対の結果が出た。

管理職グループの人達は心理的にもストレスが低かったばかりか、唾液の中のコルチゾルのレベルも低かった。


このような理由があるから独裁者の犯罪が許されると言っているのではない。我々の脳は絶対権力を行使するようには出来ていないのだ。独裁者は自分の将来には色々の選択肢があると考えることが出来なくなっている。

カダフィも全てを失う前に辞任すべきだし、ムバラクも辞任を発表する数週間前にエジプトを出国すべきであった。ヒットラーは平和へ向けた交渉が可能だったかも知れないし、サダム・フセインも処刑を避け得た。しかし独裁者は軍事力に頼りすぎ、心理的にも柔軟性が欠けているため、全滅と言う結果になる。

http://mui-therapy.org/newfinding/psycology-dictatorship.html


 

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コメント
 
1. 中川隆[-5743] koaQ7Jey 2018年2月01日 23:20:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

スターリンは独立の悪党だった

信仰より現世を選ぶ神学生

  国家総力戦が起こった第20世紀には、それに相応しい梟雄(きょうゆう)が謀略を張り巡らしていた。その中でも、一、二を争う悪党と言えば毛沢東とスターリンである。一般的に、ユダヤ人や西歐人はヒトラーを巨悪の代名詞にするが、本当に兇悪なのはロシアの独裁者と支那の赤い皇帝だ。ユダヤ人の虐殺数から言えば、スターリンの方が遙かにヒトラーを上回るし、チャーチルとローズヴェルトを手玉に取り、ソ連を超大国に仕立てた暴君の奸智は“超一流”としか言い様がない。戦争というのは政治「目的」を達成する為の「手段」であり、武力を使った「外政」の「延長」だから、最終的に戦争目的を達成した者が“勝者”である。大英帝国を没落させたチャーチル首相は、戦闘で勝ったとはいえ、外政上の「敗者」であるし、ソ連の東歐征服を助けたトルーマン大統領も「敗者」の側に片足を突っ込んでいるから、「勝者」とは言いづらい。翻って、毛沢東は日本軍対して劣勢だったけど、政治力学の秀才だったから、漁夫の利を得て「勝者」となった。この極悪人は単細胞の日本人を利用して蔣介石を追放し、宏大な支那大陸をまんまと手中に収めたんだから大したもんだ。一方、満座の席で笑われるのが我が国で、運搬方法も考えぬまま石油獲得のために東南アジアへと進出し、「大東亜解放」という妄想を叫んで米国と闘ってはみたものの、見事に惨敗。アジア諸国が独立できても、我が国は軍隊を失い、米国の属州になって未だに立ち直れない。深田祐介の解放論は「日本」を忘れているのだろう。 日本人は「自国の独立」を最優先にすべきだ。

Harry Truman 3Stalin 3winston churchill 3
(左: ハリー・トルーマン / 中央: ヨシフ・スターリン / 右: ウィンストン・チャーチル )

  第二次世界大戦で“最大の果実”をもぎ取ったスターリンは、毛並みの良い貴族でもなければ、名門大学出の御曹司でもなかった。後に「スターリン」と呼ばれるヨシフ・ヴィサリオノヴィッチ・ジュガシヴィリは、1879年、グルジアにある「ゴリ」という町が故郷で、靴職人を営むヴィサリオンとその妻エカチェリーナとの間に生まれた。1879年と言えば、明治12年だから、スターリンは小説家の正宗白鳥や作曲家の瀧廉太郎、物理学者のアルバート・アインシュタインと同世代の人物となる。なるほど、同級生となるマルキストの河上肇はラッキーだろうが、大正天皇がお生まれになった年でもあるから、我々としては不愉快で気分が悪い。他人の命を平気で奪ったスターリンは結構しぶとく、1953年(昭和28年)に74歳で亡くなっているから、天の摂理は何とも不条理だ。大正天皇は1926年に崩御されたのに、この極悪人は吉田茂のバカヤロー解散くらいまで長生きしたんだから。


Stalin 6(左 / 青年時代のスターリン )
  スターリンと言えば泣く子も黙る大虐殺の達人であったが、少年時代はそれと全く異なり、周囲も認める優秀の神学生であった。世の中に尽くした偉人と同じく、悪党の経歴というのも意外性に満ちている。幼い頃、「ソソ」と呼ばれたスターリンは、病気ばかりしている虚弱児で、左腕が右腕よりも短く、その右腕すら動かすのがやっとの少年であった。ソソが母親から受け継いだ言葉はグルジア語であったが、ロシア人の友達と遊んでいたので自然とロシア語を流暢に話せるようになったらしい。彼が10歳の時、母のエカチェリーナは息子をゴリの神学校に入れようと思い、受験準備をさせたところ、ソソは優秀な成績で合格したという。しかも、月額3ルーブル50ペイカの奨学金まで得たというから、トップ・クラスに属する生徒であった事は間違いない。(バーナード・ハットン 『スターリン』 木村浩訳、講談社学術文庫、1989年) 学級で一番の優等生になったソソは、記憶力が抜群に良かったというから、小さい頃からギャングの親玉になる素質があったのだろう。

  世界を揺るがす独裁者が、幼い頃とはいえ、教会で賛美歌を独唱していたなんて冗談みたいな話だが、冷酷な革命家で神学校出身の人物は珍しくない。例えば、フランス革命で指導的役割を果たしたマクシミリアン・ロベスピエール(Maximilien F. M. I. de Robespierre)は、オラトリオ修道会の神学校を経て、パリのルイ・ル・グラン学院に入ったし、権謀術数を駆使して警察長官にまで上り詰めたジョセフ・フーシェ(Joseph Fouché)も、オラトリオ修道会の神学校に通い、結構な知識を身につけた姦雄の一人であった。(このフーシェという革命家は煮ても焼いても食えない奴で、シュテファン・ツヴァイクの伝記に詳しいが、本当に狡賢い“クセ者”である。) 地元の子供と変わりなく神学校に通うソソであったが、彼の関心は天上の来世ではなく、地上の俗世であった。ソソは旋毛(つむじ)に悪魔の刻印が出来る前に、民族意識が目覚めたようで、祖国解放の気概に満たこの少年は、友達を前にしてグルジア民族の英雄である「コバ」を讃えたそうだ。そして、自らもコバに倣い「民族解放の闘士になるんだ !」と息巻いていた。

Robespierre 2Joseph Fouche 2Karl Marx 1
(左: ロベスピエール / 中央: ジョセフ・フーシェ / 右: カール・マルクス )

  こうした野望に燃えた少年が退屈な聖書や神学書に没頭するはずがなく、少年「コバ」が好奇心を示すのはロシア政府から禁じられていた書物であった。彼は手当たり次第に図書室の本を貪り読んだそうで、バルザックの『人間悲劇』からヴィクトル・ユーゴーの『九十三年』、さらにカール・マルクスの『資本論』へと目を通していたそうだ。こうして、禁書と革命に興味を抱いた神学生は、次第に政治活動へと傾いてくる。彼はマルクス主義グループを組織するようになり、この集団に『ブルゾーラ(闘争)』という名前をつけると、その指導者になってしまった。メンバーは危険を避けるため、各人が匿名を用い、ソソは以前から憧れていた「コバ」の名前を選んだそうだ。

Kamenev 3(左 / カーメネフ)
  スターリンは神学生であったが、聖人が伝えた有り難い福音より、破壊分子の荒々しい雄叫びに興奮した。関根勤のギャグじゃないけど、「納得!」と言いたい。スターリンにとって、「右の頬を打たれたら左の頬を差し出せ」という教えは、ナンセンスどころか愚の骨頂だ。それよりも、「憎い圧制者を容赦無く打倒せよ !」とか「刃向かう者は皆殺しにしろ !」というスローガンの方が似合っている。社会主義と暴力革命に馳せ参じるスターリンは胸がときめき、「これが我が人生 !」と生き甲斐を感じていたんじゃないか。今では、東大の赤い学生でも「将来の職業は?」と訊かれて、「職業革命家です!」と答える馬鹿はいないけど、ロマノフ王朝時代のロシアでは、そこら辺に赤ヘルの卵がゴロゴロいた。敵をぶっ倒すことで生きて行けるなら、スターリンにとって格好の天国だ。「陰謀」と「暴力」は彼の十八番。破壊活動やストライキに参加して、官憲に追われる姿も結構「絵」になっている。ちなみに逃走中、スターリンは後に夫人となるナジェージタと出逢っていた。そして、この「お尋ね者」は若きジャーナリストのレフ・ボリソヴィッチ・ローゼンフェルド(Lev Borisovich Rozenfeld / 後のKamenev カーメネフ)に匿われていたのである。(ちなみに、カーメネフはユダヤ人の父を持っていた。ロシアの革命分子にはユダヤ人が多い。)

犯罪者に向いている革命家

  人には「向き不向き」というものがあるようで、チフリスの神学校を去って社会民主党に移ったコバは、メキメキと頭角を現すようになり、22歳で党の指導的地位にまで昇ることができた。彼の才能は犯罪で開花する。例えば、コバは党の発展のためにも秘密出版所が必要であると悟っていた。しかし、あいにく党の金庫は空っぽで、印刷用の設備すら“無い”ときている。せっかく、グルジア語やアルメニア語、トルコ語、ロシア語のパンフレットを作成できるのに、それを刷ることができないなんて残念。だが、そんなことでヘコたれるコバではない。この策略家は、「お金や機械が無ければ、どこからか調達してくればいい」と考える。ある日、裕福なアルメニア人印刷業者の工場に強盗が入り、活字ケースや印刷機が強奪されるという事件が起きたそうだ。すると、「あら不思議 !」、コバのところに秘密印刷所が出来ました。(上掲書 p.28) さすが、スターリンは機転が利く。

Joseph Stalin 1(左 / 若い頃のスターリン )
  盗みが得意だったコバは、脱走の名人でもあった。官憲に目を附けられたコバは、ある事が切っ掛けで逮捕されてしまい、シベリアにある「ノーヴァダ・ウヤ」という僻地に流刑となる。だが、党の仲間から二年前に死亡した絨毯商、ダヴィド・ニジェラーゼ名義の旅券を手に入れ、その村を脱出することができた。人間の心理を察知するのが上手いコバは、クリスマス・イヴに脱走を図ったという。なぜなら、その神聖な夜であれば、どんな連中も仕事を放り出し、職務そっちのけで酔っ払うに違いないと踏んだからだ。確かに、ロシア人ならウォッカをがぶ飲みしてドンチャン騒ぎというのが目に浮かぶ。お祭りの日に真面目に働くロシア人なんて想像できない。今だって、サッカーやアイス・ホッケーの世界大会があれば、仕事をズル休みして会場に駆けつけるんじゃないか。それにしても、スターリンは強靱な体を持っていた。安全地帯のマカーロフ村まで20マイルもあるのに、極寒の中、気が遠くなるほどの道のりを歩いたんだから。しかも、途中には空腹を抱えた狼や熊までいたというから、いくら猟銃を所持していたとはいえ、随分と危険を冒したものである。スターリンの評伝によると、寒風吹きすさむ中、コバの足は痺れ、肌を突き刺す冷気で凍死寸前だったというから、悪人というのは本当に運が強い。

Leonid Krasin 2(左 / レオニード・クラーシン)
  ボリシェビキときたら威勢だけは良かったが、肝心の活動資金に困っていた。そこで、レーニンの腹心だったレオニード・クラーシン(Leonid B. Krasin)が「チフリスの国立銀行を襲って、金を奪ったらどうでしょう?」と提案したそうだ。この「解決策」を実行するに当たり、白羽の矢が立ったのはコバ。というのも、彼以外、適役がいなかったからだ。要請を受けたコバは軍資金として50ルーブルをもらい、ダヴィド・チジコフという偽名まで用いて故国へ派遣されることになった。大規模な強奪計画を練り始めたコバは、チフリス銀行が頻繁に100万から200万ルーブルに上る現金を輸送する事に着目し、彼はこの点を突くことにしたという。待望の掠奪行為はある早朝に実行された。武装したコサック隊は銀行を出発した貨物運搬車を襲撃し、護送車からの反撃を受けるも、34万1千ルーブルの現金と、農業銀行の国庫債券、株券、鉄道債券などを強奪したという。

  ところが、奪った金は危険過ぎて直ぐには使えなかった。なぜなら、掠奪したお札が全部、高額紙幣の500ルーブ札で、おまけに、全部が続き番号の紙幣であったからだ。当時のロシアでは、1ルーブル紙幣1枚あればお金持ちと見なされていたくらいだから、500ルーブル紙幣なんて使ったら大変だ。コバたちは警察当局の捜査が打ち切られるのを待ってから、その紙幣や債権を国外に持ち出し、「リトヴィノーフ」の偽名を持つワラッフがパリで処分るはずであった。しかし、「リトヴィノーフ」はこの段取りを実行できず、あっさりと官憲に捕まってしまった。警察はダヴィド・チジコフという男が事件に関与していると察知したが、その容疑者がコバであることまでは判らなかったという。

  コバはコーカサス刑事捜査部に務める友人から、この捜査情報を渡されので、偽名を用いて旅券を手に入れると、さっそく高飛びを図った。しかし、誰かの密告により捕まってしまう。この不運な男はロシアの極北地、ソリビチェゴッツクという町に送られてしまうが、またもや偽名旅券を手に入れ脱走できた。まったく、要領がいいというか、狡賢いというか、窮地に立たされても何とか抜け出してしまうんだから、スターリンは根っからの犯罪者である。巣鴨プリズンに収容されたA級戦犯は、みんな“しょげていた”というから、ちっとはスターリンを見倣うべきだ。ただし、服役者の中で岸信介だけが元気だった、というから長州出身の「元革新官僚」で、「昭和の妖怪」と呼ばれた豪傑は桁が違っていたのだろう。

  バクーに戻ったスターリンは、壊滅状態にある党組織を目にする。大部分の指導者が警察に逮捕されていたし、党を運営する資金も底をついていた。でも、スターリンには心強い仲間がいた。といっても、強盗犯や前科者ばかりだったけど。お金が欲しいスターリンは、商店主や銀行家、実業者などりリストを作り、党に「献金」してほしいと“鄭重”に頼んだそうだ。しかし、この「お願い」拒み、警察に訴える者がいると、「お礼参り」があったという。つまり、こんな「階級の敵」には容赦せぬとばかりに、ゴロツキどもが商店や邸宅を破壊したそうだ。それにもし、被害者がこの「仕返し」を警察に訴えようとすれば、「お前ばかりか、テメエの家族まで命をもらうことになるぞ」と脅したそうだから、何とも念が入っている。ロシア人やグルジア人の恐喝って、ヤクザの因縁よりも怖い。なんかエメリアエンコ・ヒョードルみたいな用心棒が出て来そうだもん。そう言えば、K-1チャンピオンのセーム・シュルトを破ったセルゲイ・ハリトーノフは驚愕を越えた恐ろしさを味わっていた。試合中、彼がシュルトの首に馬乗りとなり、その顔面に鉄槌を下したことがある。ハリトーノフの顔には、必殺仕掛人でさえ怯えるほどの狂気があった。案の定、シュルトの顔は鮮血まみれ。外人の格闘家さえ、そのドス黒く紫色に変わった顔面に驚き、ゾっとするような戦慄を覚えたくらいだ。ロシア人と比べたら、日本人の格闘家なんて温和な好青年である。

娼婦を搾取する共産主義者

  銀行強盗を実行したスターリンは、別の資金集めにも熱心だった。今度は売春宿の経営だ。彼は警察のブラックリストに載っているラヨス・コレスクと一緒に売春宿を切り盛りすることになった。スターリンは娼婦らに街頭や報酬の悪い所で商売せず、自分達のもとに移るよう説得したそうだ。やがて彼の売春宿は、チフリスでも、バクーやバツームでも大繁盛となった。女たちは体を売って得た料金の1割をもらい、コレスクは宿の運営、女たちの扶養、自分の取り分などを含めて5割を受け取り、残りの4割をコバに渡したそうだ。(上掲書 p.45) ところが、こうして売上げの一部を得ていたコバは、“ちゃっかり”と店の常連客になっていたというから、何とも図々しい野郎である。まぁ、後にローズヴェルトやチャーチルを騙すことになるんだから驚かないけど、“抜かりの無い”コバは、こっそりと上納金の一部をピンハネしていたそうだ。学校の先生は教えないけど、陰で“ほくそ笑む”スターリンって、とても「絵」になっている。

  仕事と趣味を両立してコバは満足だったが、この噂を聞きつけたレーニンは眉を顰めたという。そりゃ、そうだ。建前でも、一応、革命家たちは「人間による人間の搾取」に反対していたのだ。それなのに、当の革命家が娼婦の生き血を啜って肥え太っていたのでは世間体が悪い。(コバ自身はそんな矛盾をちっとも「悪い」とは思っておらず、娼婦の搾取など当然と考えていた。さすが、極道のスターリンは生きている次元が違う。) また、売春宿の運営実態は不透明で、帳簿や領収書も無かったから、党はコバの差し出すお金を黙って受け取るしかなかった。したがって、誠実なボルシェビキ党員がコバの遣り口を非難したのも当然だ。レーニンはコバ宛に手紙をしたため、売春商売が党の名誉を傷つけていると非難したそうだ。綺麗事を好むインテリのレーニンは、自分でお金を稼がないくせに、スターリンが売春で仕送りしている事に文句を長けていたんだから、何となくスターリンの方が偉く思える。

  レーニンから書簡を受け取ったコバは、怒れる党の指導者に返事を送り、自分は売春宿を悪いとは思っていないと述べ、むしろ女たちを以前よりも良い状態で暮らせるようにしてやったのだ、と自慢したそうだ。なぜなら、娼婦たちは雨の日も風の日も、通りに出ては客を拾い、警察にしょっ引かれる心配をしながら営業していたのだ。しかし、今ではそうした不安に怯えることもなく、ちゃんとした家に住み、まともな食事を取れるようになった。こうした改善を施してやったのだから、「いいじゃないか」というのがコバの主張である。こう聞くと、コバの言い分にも一理あると納得してしまうから不思議だ。まるでスターリンが慈悲深い元締に見えてくる。といっても、山口組の田岡組長とは違うぞ。ある新聞記者が、スターリンの売春業を記事にしようとしたらしい。すると、「自分の関係無いことに首を突っ込むな !」と怒鳴られ、「お前とお前の家族も皆殺しにするぞ !」と脅されたそうだ。それ以来、誰一人としてこの件を明るみに出そうとはせず、警察も女たちが口を割らないため介入できなかったという。

Lenin 2Trotsky 2Wilhelm II
(左: 若い頃のレーニン / 中央: トロツキー / 右: 皇帝ウィルヘルム2世)

  ボルシェビキ党は定期的に資金を得ることができ、各種の出版物やパンフレットをばらまくことが出来るようになった。しかし、コバは「党に大打撃を与える事になる」というレーニンの忠告に耳を傾け、これからは彼の指令通りに従うことを約束したそうだ。コバはコレスクと話をつけ、方々の売春宿に足繁く通うことを止めたという。その代わり、彼は別の資金源を開拓した。街頭で「他人に頼らず稼ぐ」娼婦たちの為に、「保護事業」なるものを起こし、コバは喜んで「保護者」になるという前科者を集めたらしい。この連中は町を巡回し、娼婦から稼ぎの上前をハネて、その一部を党に上納したそうだ。でも、これって間接搾取じゃないのか? つまり、サラリーマンの源泉徴収みたいなものだ。企業の会計係が社員の給料から税金をピンハネし、この「抜き取った金」を税務署に上納する。税務署の役人は自らの手を汚さず、“きっちりと”年貢を集められるから楽なもんだ。

  スターリンはとんでもない悪党だけど、ある意味、レーニンやトロツキーなんかより凄い。なぜなら、お金に困れば“自力”で工面したからだ。口ばかりが達者な党の幹部連中は、活動資金を資本制国家の金融業者に求めた。レーニンたちが革命を達成するため、ドイツの皇帝と銀行家に頼ったことは有名だ。ドイツに店を構えるウォーバーグ銀行のマックス・ウォーバーグ(Max Moritz Warburg)は、カイゼルに資金提供の話を持ち掛け、ロシアの内乱を拡大したかったカイゼルはこれを諒承する。ドイツ政府は充分な資金を用意して、レーニンとその取り巻き連中を安全にスイスからロシアに輸送する手筈を整えた。この資金調達のために動いたのは、マックスの弟であるポール・ウォーバーグ(Paul M. Warburg)であり、彼とパートナーを組むヤコブ・シフ(Jacob Schiff)、そしてウォール街の国際金融家であった。(この経緯は、アンソニー・サットン教授の『ウォール街とボルシェビキ革命』に詳しい。) 本質的に、“ロシア”革命は“ユダヤ人”の金貸しと扇動家によって画策された政府転覆事業である。ヤコブ・シフから軍資金を調達できた日本人は「誠に有り難う御座います」と感謝していたが、シフにとっては憎いロマノフ王朝を倒すための、便利な「駒」に過ぎなかった。ポグロムでユダヤ人を殺すロシア人に仕返しをする為なら、いくら大金を使っても惜しくはない。たとえ、我が国が日露戦争で勝てなくても、相当なダメージを与えたはずだから、シフとしてはおおよそ満足だろう。ユダ人の大富豪にしたら、日本なんて使い捨ての消耗品である。かくも現実は冷酷で厳しい。

Max Warburg 1Paul Warburg 1Jacob Schiff 1
(左: マックス・ウォーバーグ / 中央: ポール・ウォーバーグ / 右: ヤコブ・シフ )

  一般的に、インテリというのは口舌の徒で、演説は上手いが銭儲けに関しては素人だ。しかも、勇ましいことを述べても、いざ腕力で勝負となるや尻込みする。その点、スターリンは武闘派の革命家で、資金が無ければ強盗になるし、売春婦を使ってでも小銭を稼ごうとする。暗黒街で暮らしたスターリンにとっては殺人だって朝飯前だ。このような犯罪者は、実際にナイフを持って人の腹を刺し、グリグリと刃物を回転させ、腸をズタズタに切り刻む事ができる。鮮血で濡れた手を見ても驚かず、帰って喜びを感じるのがスターリンみたいな男だ。この独裁者と比べたら、卑怯者の菅直人や、機動隊にボコボコにされた全共闘の学生、ソ連の赤軍を待ち望んだ野坂参三や宮本顕治なんか、母親の背後に隠れる稚児に等しい。日本の左翼には自分で自分の運命を切り開く気概が無いのだ。スターリンはレーニンのように銀行家に「借り」を作らず、独立不羈の革命家を目指した。このレーニンが病に倒れれば毒を盛って暗殺するし、邪魔になったトロツキーは奸計を用いて排斥しようとする。自分にとって危険な者は誰でも抹殺し、ちょっとでも障碍となれば粛清の対象にしてしまうんだから、ロシアの君主になる奴は只者じゃない。観念的な共産主義に憧れた近衛文麿は、本当に世間知らずの「お公家さん」だった。近衛家のお坊ちゃんには、人殺しや強盗など出来ないし、任せることさえ出来ない。『ゴッド・ファーザー』のドン・コルレオーネ役には、マーロン・ブランドーじゃなくて、ヨシフ・スターリンが適役だったのかもね。でも、アカデミー賞を授与するユダヤ人は複雑な気持ちだろうなぁ。  
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/

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2. 中川隆[-5688] koaQ7Jey 2018年3月25日 09:25:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8863]
ネオコンと呼ばれる集団の中には「元トロツキスト」が多いとも指摘されている。レオン・トロツキーの信奉者だったということだが、このトロツキーは謎の多い人物である。
 1917年3月にロマノフ朝が倒されているが、その「二月革命」(帝政ロシアで使われていたユリウス暦では2月)に参加した政党は立憲民主党(通称カデット)、社会革命党(エス・エル)、メンシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)だが、主導したのは資本家。革命の目的は資本主義体制の確立にあった。一気に社会主義を目指そうとしたボルシェビキ(ロシア社会民主労働党の一分派)は幹部が亡命していたり、刑務所に入っていたことから事実上、参加していない。ウラジミール・レーニンはスイス、二月革命当時はまだメンシェビキのメンバーだったトロツキーはニューヨークにいた。

 この臨時革命政府は第1次世界大戦に賛成で、ドイツとの戦争を継続する意思を示していたのだが、ボルシェビキは即時停戦を訴えていた。そこで西と東、ふたつの方向から攻められていたドイツはレーニンたちボルシェビキの幹部をモスクワへ運んでいる。紆余曲折を経てボルシェビキは11月に実権を握った。これが「十月革命」だ。臨時革命政府の首相だったアレクサンドル・ケレンスキーは1918年にフランスへ亡命、40年にはアメリカへ渡っている。

 革命の象徴的な存在であるレーニンを1918年、エス・エルの活動家だったファニー・カプランが狙撃、重傷を負わせている。この暗殺未遂事件の真相は明らかにされていない。レーニンは1921年頃から健康が悪化して24年に死亡しているが、その死にも謎がある。

 トロツキーはヨシフ・スターリンとの抗争に敗れて1929年にソ連を離れ、40年にメキシコで暗殺された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201803240000/


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3. 中川隆[-10392] koaQ7Jey 2019年5月03日 08:33:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1698] 報告
東京を囲むように米軍基地がある。
横須賀に海軍もある。
東京に敵は攻めて来るか?
なら、東京周辺は、何のために?

天皇家を守るために、又ク-デタ-を心配して駐屯しているのだそうだ。

天皇一族は軍人によるクーデターや革命を極度の恐れているので、日本軍を持たないで米軍に皇居の近くに駐留して天皇一族を守ってもらいたいのですね:


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昭和天皇とダブルファンタジー  昭和天皇の戦争責任と「言葉のアヤ」発言の論理 (朝日新聞社 論座)
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/276.html
   
菊地史彦 ケイズワーク代表取締役、東京経済大学大学院(コミュニケーション研究科)講師 2019年04月30日 

 
 昭和天皇とマッカーサーの会談は回を重ねていった。日本国憲法施行から3日目、1947(昭和22)年5月6日に開催された第4回会見では、「象徴」になったばかりの天皇がマッカーサーに向かって自らの外交・軍事方針を強く主張したという。豊下楢彦は、通訳・奥村勝三のメモを見た松井明の記録に基づき、憲法第9条をめぐって両者が活発な議論を交わしたと述べている。

https://image.chess443.net/S2010/upload/2019043000002_2.JPEG
1945年9月、連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥を訪問した昭和天皇=撮影・GHQ写真班
 
 天皇は、完全に軍備を撤廃するには、国連恃(だの)みでは心もとないこと、米国による安全保障が不可欠と述べた。対してマッカーサーは、軍備をいっさい持たないことが日本にとって最大の安全保障であり、将来の国連強化に期待すべしと説いた。しかし、天皇は納得しない。マッカーサーは天皇のリアリズムの前に屈し、半ば折れるように防衛協力を約束している。
 
 こうした天皇のアメリカ傾斜が、長期の米軍駐留を認める「沖縄メッセージ」(1947/昭和22年)、そして1952(昭和27)年の講和条約と安全保障条約・行政協定へつながっていったことは比較的よく知られている。


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21、マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。

@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。

A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。

ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。
http://www.snsi-j.jp/boards/sirogane/152.html


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April 29, 2017
天皇メッセージ発見者・進藤栄一氏に聞く 「苛烈な現実 今も」 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース

http://ift.tt/2oRPQmn

「天皇メッセージは、1947年9月に宮内庁御用掛の寺崎英成が米国側に伝えたものを米本国に送った報告電文で、昭和天皇がすすんで沖縄を米国に差し出すという内容だった。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の日記でも裏付けられた。昭和天皇実録でも確認されている」

―当時の背景は。

「まだ占領軍内で沖縄をどうするか意見が分かれていた。軍事化を進めて共産主義の対抗基地に使うというタカ派と、日本の民主化を進めることが平和構築につながるとするハト派が拮抗(きっこう)していた。そこへ天皇メッセージが出て来て、それを軸に占領軍内での沖縄の位置付けが反共拠点として要塞(ようさい)化すべきだというものへと明確化していった。それが天皇メッセージの歴史的意義だ」

「さらに翌48年2月に寺崎が2度目の天皇メッセージを届ける。その中で『南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、それに可能なら台湾を含め』て反共防衛線をつくるべきだと提言する。最も恐るべきは日本の共産主義化だと。これは戦前以来の発想だった」

―沖縄は日本から切り離され米施政権下を経て72年に日本に復帰した。だが米軍基地の集中は変わらず、基地の自由使用など“軍事占領”ともいえる実態は今も続いている。

「沖縄が日本に復帰した後も米軍基地は残り、逆に強化されている。これは天皇メッセージに始まる沖縄の苛烈な現実の帰結だ」
https://kuantan.me/2017/04/29/april-29-2017-at-0501am/


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革命に恐れおののいていた天皇家の人々


梨本宮伊都子妃の日記

梨本宮伊都子妃の日記が死後発表された。梨本宮伊都子妃は昭和51年まで生き、死後、この日記は発表された。よく発表したもんだと思う。プライベートに書き綴ったものを遺族が発表したのだ。ここまで書いていたら普通なら発表しない。あるいは、この部分は省略するか、あるいは発表する前に破り捨ててしまうか。それをしなかったのは大変な勇気だと思う。


伊都子妃が、「日本ももうだめだ」と考えたのが昭和33年11月27日だ。その4ヶ月前、その皇太子さまも、絶望的な気持ちになっていた。「おことば」はこうだ。

 『昭和33年7月14日。
 きみ、きっと、これが僕の運命だね。
 明仁皇太子』

 どんな運命かというと、「暗殺される運命」だ。島田の「解説」には、こうある。

 『この日、イラク国王ファイサル二世は、軍部のクーデターと民衆の蜂起により暗殺された。ご学友の橋本明氏がたまたま御所に招かれていて、一緒にお茶を飲んでいると、侍従から報告があったという。

 「皇太子はその瞬間、蒼白になり、手にしていた紅茶が入った茶碗を膝の上に落として、数秒だったが、口をおききになれなかった」が、自分を取り戻してこう発言されたそうだ。まだ美智子妃の実家、正田家が婚約を固辞していた頃だ。二十二才で暗殺された国王の不幸を他人事とは思えなかったのだろう』


(3)「浩宮の代で最後になるのだろうか」と悲しいおことばを

 昭和33年というのは、1958年だ。60年安保闘争の直前だ。左翼の力が強かった時だ。「天皇制打倒!」を叫ぶ人々も多くいた。そうした日本の風潮も知っていたのだ。そこにイラク国王の暗殺の報だ。

 しかし、ご学友が遊びに来てる時にわざわざ、こんな事を報告するなんて、侍従もおかしい。島田はさらにこう続けている。

 『のちに、戦後初の国賓として来日し、鴨猟で接待したエチオピア皇帝ハイレ・セラシェも亡くなり、イランのホメイニ革命によりパーレビ王朝も打倒され、アジアからは続々、王制が消えてゆく。

 長男浩宮が生まれると、明仁皇太子は学友たちに「浩宮の代で最後になるのだろうか」といったという』
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2005/shuchou0822.html


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脅迫で可決した日本国憲法

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に、7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。

GHQによる憲法発表が先であって、国会議員や総理大臣は新聞を読んで初めて「GHQ憲法」の存在を知らされた。

ここで駆け引きに使われたのが「昭和天皇処遇と戦争再開」で、GHQ側は公然と、「議会が承認しないならもう一度空襲してやる」と言ったそうです。


ここで日本の国会議員らは、もう一度アメリカと玉砕戦争をするか、それともGHQ憲法を承認するかの二者択一を迫られました、

GHQ憲法は3月7日に発表され、1946年8月24日に衆議院可決、10月6日に貴族院(後の参議院)でも圧倒的多数で可決成立した。

若干の審議と修正がおこなわれたものの、1946年の時点では昭和天皇を初めとして大半の政治家や有力者が、戦犯として裁判に掛けられる恐れがあった。

東京裁判はアメリカ軍側の証拠や証人だけが採用され、被告側の証人や証拠は一切認めないので、最初から有罪が確定していたイカサマ裁判でした。


例えば東京大学(当時唯一の最高学府で最高権威)はGHQ憲法は違法だと主張していたが、GHQは教授らを連行して戦争裁判に掛けると脅迫した。

東大は新憲法容認に立場を変えて「憲法学」という珍妙な学問を考案し、以来日本国憲法を擁護している。

日本国憲法はその成立過程において、民主的な手続きを一切経ておらず、憲法自体が無効だと考えられるが、安倍首相はあくまで正式な改正手続きを踏みたいようです。

リサイクルも良いが、ゴミはゴミ箱に捨てるべきでは無いだろうか。
http://www.thutmosev.com/archives/70762817.html


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新憲法が作られるのは早く、1947年5月3日に施行されているが、その理由も東京裁判と同じだ。
当時、日本の支配層は認められるはずのない「大日本国憲法」に執着、時間を浪費していた。

そのため、アメリカ主導で天皇制の継続が謳われた新憲法が作成されたわけである。

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と第1条にある。


1937年12月に日本軍は南京を攻略している。

中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官だった松井石根大将が指揮したことになっているが、事実上のトップは昭和天皇の叔父にあたる上海派遣軍の司令官だった朝香宮鳩彦だった。

そこで何が行われたかをイギリスも知っていたはずだが、その直後、イギリスの支配層でソ連を第1の敵と考える勢力が「日本・アングロ・ファシスト同盟」を結成しようと考えていたという。(Anthony Cave Brown, “"C": The Secret Life of Sir Stewart Graham Menzies”, Macmillan, 1988)


日本の場合、最大の問題になる人物は昭和天皇。日本が降伏した直後、堀田善衛は上海で中国の学生から「あなた方日本の知識人は、あの天皇というものをどうしようと思っているのか?」と「噛みつくような工合に質問」されたという(堀田善衛著『上海にて』)が、同じことを考える人が日本軍と戦った国々、例えばイギリスやオーストラリアには少なくない。ソ連も天皇に厳しい姿勢を示していた。

 つまり、そうした人びとの影響力が強まる前にアメリカの支配層は天皇制官僚国家を維持するために手を打とうとする。1946年1月に設立された極東国際軍事裁判(東京裁判)の目的はそこにある。その裁判では厳罰に処せられた人がいる反面、本来なら起訴されるべき人が起訴されていない。

 新憲法が作られるのは早く、1947年5月3日に施行されているが、その理由も東京裁判と同じだ。当時、日本の支配層は認められるはずのない「大日本国憲法」に執着、時間を浪費していた。そのため、アメリカ主導で天皇制の継続が謳われた新憲法が作成されたわけである。「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」と第1条にある。

 占領時代、アメリカ軍が中心のGHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)の内部でも、多くの将校は天皇を中心とする侵略戦争の象徴である靖国神社の焼却を主張していたという。焼かれなかったのは、ローマ教皇庁が送り込んでいたブルーノ・ビッターが強く反対したからだという。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)

 ビッターはニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟で、この枢機卿はジョバンニ・モンティニ(ローマ教皇パウロ6世)と同様、CIAと教皇庁を結びつける重要人物だった。

 月刊誌「真相」の1954年4月号によると、1953年秋に来日したリチャード・ニクソンはバンク・オブ・アメリカ東京支店の副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」というのだが、この会談では闇資金の運用について話し合われたとされている。
http://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201608070001/


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昭和天皇は日中戦争が勝てそうもなくなったので、

このまま行くと日本はソ連に占領される
ソ連よりアメリカに占領された方がいい

という判断をして、アメリカと八百長戦争をしたのです。

ソ連に占領されるとこうなるのが判っていたからなのですね:


ワイダ カティンの森 Katyń (2007年)

監督 アンジェイ・ワイダ
脚本 アンジェイ・ワイダ ヴワディスワフ・パシコフスキ プシェムィスワフ・ノヴァコフスキ
原作 アンジェイ・ムラルチク
音楽 クシシュトフ・ペンデレツキ
撮影 パヴェウ・エデルマン
公開 2007年9月17日
製作国 ポーランド
言語 ポーランド語 ドイツ語 ロシア語


動画
https://www.nicovideo.jp/search/KATY%C5%83%20%20%2F7%20?f_range=0&l_range=0&opt_md=&start=&end=


キャスト

マヤ・オスタシェフスカ (Maja Ostaszewska):アンナ
アルトゥル・ジミイェフスキ (Artur Żmijewski):アンジェイ大尉 - アンナの夫、カティンで殺害される
ヴィクトリア・ゴンシェフスカ (Wiktoria Gąsiewska) : ヴェロニカ(通称ニカ) - アンジェイとアンナの娘
マヤ・コモロフスカ (Maja Komorowska):アンジェイの母
ヴワディスワフ・コヴァルスキ (Władysław Kowalski):アンジェイの父・ヤン教授 - ヤギェウォ大学教授、講演会を名目に大学に招集され、同僚とともに収容所に送られ、病死
アンジェイ・ヒラ (Andrzej Chyra):イェジ中尉 - アンジェイの戦友 - カティンで殺害されず帰還、のちに「カティンの森事件」について、ソ連側の証人となったことを恥じて自殺
ダヌタ・ステンカ (Danuta Stenka):大将夫人ルジャ
ヤン・エングレルト (Jan Englert):大将 - カティンで殺害される
アグニェシュカ・グリンスカ (Agnieszka Glińska):イレナ - ピョトル中尉の妹
マグダレナ・チェレツカ (Magdalena Cielecka):アグニェシュカ - ピョトル中尉、イレナの妹
パヴェウ・マワシンスキ (Paweł Małaszyński):ピョトル中尉 - カティンで殺害される
アグニェシュカ・カヴョルスカ (Agnieszka Kawiorska):エヴァ - 大将とルジャの娘
アントニ・パヴリツキ (Antoni Pawlicki):タデウシュ(トゥル) - アンナの甥、父カジミエシュはカティンで殺害される
アンナ・ラドヴァン (Anna Radwan) : エルジュビェタ - タデウシュの母
クルィスティナ・ザフファトヴィチ (Krystyna Zachwatowicz):グレタ - ドイツ総督府の法医学研究所関係者。イェジ中尉の依頼により、アンナにアンジェイ大佐の手帳をわたす
セルゲイ・ガルマッシュ (Sergei Garmash) : ポポフ大尉 - 同情的でアンナを秘密警察から匿った赤軍将校
スタニスワヴァ・チェリンスカ (Stanisława Celińska) : スタシア - 大将の使用人
クシシュトフ・グロビシュ (Krzysztof Globisz) : 医師 ドイツ総督府の法医学研究所で、カティンの森の事件の調査をしている。ポーランドがソ連により解放されることになり、自分の身の危険を感じている。


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『カティンの森』(ポーランド語: Katyń)は、2007年(平成19年)製作・公開のポーランドの映画(en:Cinema of Poland)である。第二次大戦下に実際に起きた「カティンの森事件」を題材とした映画である。


自らの父親もまた同事件の犠牲者である映画監督アンジェイ・ワイダが、80歳のときに取り組んだ作品である[1]。原作は、脚本家でありルポルタージュ小説家でもあるアンジェイ・ムラルチクが執筆した『死後 カティン』(Post mortem. Katyń, 工藤幸雄・久山宏一訳『カティンの森』)である。構想に50年、製作に17年かかっている。

撮影は『戦場のピアニスト』等でも知られるポーランド出身の撮影監督パヴェウ・エデルマン、音楽はポーランド楽派の作曲家クシシュトフ・ペンデレツキが手がけた。ポーランドでは、2007年9月17日に首都ワルシャワでプレミア上映され、同年同月21日に劇場公開された[2]。

翌2008年(平成20年)、第58回ベルリン国際映画祭でコンペティション外上映された[2]。

ワイダは、2010年(平成22年)4月7日、ロシアのウラジーミル・プーチン首相、ポーランドのドナルド・トゥスク首相が出席した「カティンの森事件」犠牲者追悼式典に参列した[3]。同月10日に開催予定であったがポーランド空軍Tu-154墜落事故のため中止となった「カティンの森事件」追悼式典のための大統領機には、搭乗してはいなかった[4][5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE


1939年9月、クラクフのアンナ(マヤ・オスタシェフスカ)は娘を連れ、夫のアンジェイ大尉(アルトゥル・ジミイェフスキ)を探しに行く。一方、東から来た大将夫人(ダヌタ・ステンカ)はクラクフに向かう。アンジェイや仲間のイェジ(アンジェイ・ヒラ)たちは、ソ連軍の捕虜となっていた。アンジェイは、見たことすべてを手帳に書き留める決意をする。アンナはクラクフに戻ろうとするが、国境を越えられない。11月、アンジェイの父はドイツ軍の収容所に送られる。翌年初め、アンナと娘、アンナの義姉と娘は、ロシア人少佐の家に匿われていた。義姉親子は強制移住のため連れ去られるが、アンナたちは逃げ延びる。春、アンナと娘は義母のいるクラクフへ戻り、義父の死を知る。アンジェイはイェジから借りたセーターを着て、大将、ピョトル中尉らと別の収容所に移送される。1943年4月、ドイツは一時的に占領したソ連領カティンで、多数のポーランド人将校の遺体を発見したと発表する。犠牲者リストには大将、イェジの名前が記され、アンジェイの名前はなかった。大将夫人はドイツ総督府で夫の遺品を受け取り、ドイツによるカティンの記録映画を見る。1945年1月、クラクフはドイツから解放される。イェジはソ連が編成したポーランド軍の将校となり、アンナにリストの間違いを伝える。イェジは法医学研究所に行き、アンジェイの遺品をアンナに届けるよう頼む。イェジは大将夫人から“カティンの嘘”を聞き、自殺する。国内軍のパルチザンだったアンナの義姉の息子タデウシュは、父親がカティンで死んだことを隠すよう校長から説得されるが、拒否する。その帰り道、国内軍を侮辱するポスターを剥がした彼は警察に追われ、大将の娘エヴァと出会う。校長の妹はカティンで遺体の葬式を司った司祭を訪ね、兄ピョトルの遺品を受け取る。そして兄の墓碑にソ連の犯罪を示す言葉を刻み、秘密警察に狙われる。法医学研究所の助手グレタはアンナに、アンジェイの手帳を届ける。
http://www.kinenote.com/main/public/cinema/detail.aspx?cinema_id=40518


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カティンの森事件(ポーランド語: zbrodnia katyńska、ロシア語: Катынский расстрел)は、第二次世界大戦中にソビエト連邦(ロシア共和国)のグニェズドヴォ(Gnyozdovo)近郊の森で約22,000人[1]のポーランド軍将校、国境警備隊員、警官、一般官吏、聖職者がソビエト内務人民委員部(NKVD)によって銃殺された事件。「カティンの森の虐殺」などとも表記する。

NKVD長官ベリヤが射殺を提案し、ソビエト共産党書記長スターリンと政治局の決定で実行された[2]。

「カティン(カチンとも。Katyń)」は現場近くの地名で、事件とは直接関係ないものの、覚えやすい名前であったためナチス・ドイツが名称に利用した。


経緯

1939年4月にドイツはドイツ・ポーランド不可侵条約を廃棄し、同年8月にドイツとソ連の間で独ソ不可侵条約が締結された。同年9月1日にドイツがポーランドに侵攻することで第二次大戦が始まり、9月17日にソ連も同様にソ連・ポーランド不可侵条約を廃棄してポーランドの東部に侵攻した。独ソ不可侵条約には秘密議定書があり、両国はそれに従ってポーランドへの侵攻と分割占領を行ったのである。


ポーランド人捕虜問題

1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両国によってポーランドは攻撃され、全土は占領下に置かれた。武装解除されたポーランド軍人や民間人は両軍の捕虜になり、ソ連軍に降伏した将兵は強制収容所(ラーゲリ)へ送られた。

ポーランド政府はパリへ脱出し、亡命政府を結成、翌1940年にアンジェへ移転したがフランスの降伏でヴィシー政権が作られると、更にロンドンへ移された。

1940年9月17日のソ連軍機関紙『赤い星』に掲載されたポーランド軍捕虜の数は将官10人、大佐52人、中佐72人、その他の上級将校5,131人、下級士官4,096人、兵士181,223人となった。その後、ソ連軍は将官12人、将校8,000人を含む230,672人と訂正した[3]。ポーランド亡命政府は将校1万人を含む25万人の軍人と民間人が消息不明であるとして、何度もソ連側に問い合わせたが満足な回答は得られなかった。

1941年の独ソ戦勃発後、対ドイツで利害が一致したポーランドとソ連はシコルスキー=マイスキー協定(英語版)を結び、ソ連国内のポーランド人捕虜はすべて釈放され、ポーランド人部隊が編成されることになった。しかし集結した兵士は将校1,800人、下士官と兵士27,000人に過ぎず、行方不明となった捕虜の10分の1にも満たなかった。そこで亡命政府は捕虜釈放を正式に要求したが、ソ連側は全てが釈放されたが事務や輸送の問題で滞っていると回答した。12月3日には亡命政府首相ヴワディスワフ・シコルスキがヨシフ・スターリンと会談したが、スターリンは「確かに釈放された」と回答している。


捕虜の取扱い

ポーランド人捕虜はコジェルスク、スタロビエルスク(英語版)、オスタシュコフの3つの収容所へ分けて入れられた。その中の1つの収容所において1940年の春から夏にかけて、NKVDの関係者がポーランド人捕虜に対し「諸君らは帰国が許されるのでこれより西へ向かう」という説明を行った。この知らせを聞いた捕虜たちは皆喜んだが、「西へ向かう」という言葉が死を表す不吉なスラングでもあることを知っていた少数の捕虜は不安を感じ、素直に喜べなかった。彼らは列車に乗せられると、言葉通り西へ向かい、そのまま消息不明となる。


事件の発覚

スモレンスクの近郊にある村・グニェズドヴォ(Gnyozdovo)では1万人以上のポーランド人捕虜が列車で運ばれ、銃殺されたという噂が絶えなかった。独ソ戦の勃発後、ドイツ軍はスモレンスクを占領下に置いた際にこの情報を耳にした。

1943年2月27日、ドイツ軍中央軍集団の将校はカティン近くの森「山羊ヶ丘」でポーランド人将校の遺体が埋められているのを発見した。3月27日には再度調査が行われ、ポーランド人将校の遺体が7つの穴に幾層にも渡って埋められていることが発覚した。報告を受けた中央軍集団参謀ルドルフ=クリストフ・フォン・ゲルスドルフ将軍は「世界的な大事件になる」と思い、グニェズドヴォよりも「国際的に通用しやすい名前」である近郊の集落カティンから名前を取り「カティン虐殺事件」として報告書を作成、これは中央軍集団からベルリンのドイツ国民啓蒙・宣伝省に送られた。宣伝相ヨーゼフ・ゲッベルスは対ソ宣伝に利用するために、事件の大々的な調査を指令した。


発見当初の動静

1943年4月9日、ゲッベルスはワルシャワ、ルブリン、クラクフの有力者とポーランド赤十字社に調査を勧告した。ポーランド赤十字社は反ソプロパガンダであるとして協力を拒否したが、各市の代表は中央軍集団司令部に向かい、調査に立ち会った。ドイツ側は赤十字社の立ち会いの後に事件を公表する予定であったが、1943年4月13日には世界各紙で「虐殺」情報が報道された。このため、ドイツのベルリン放送でカティンの森虐殺情報が正式に発表された。

1943年4月15日、ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し、1941年にソビエトに侵攻してきたドイツ軍によってスモレンスク近郊で作業に従事していたポーランド人たちが捕らえられて殺害されたと主張した。しかし、捕虜がスモレンスクにいたという説明はポーランド側に行われたことがなく、亡命政府はソ連に対する不信感を強めた。ポーランド赤十字社にも問い合わせが殺到し、調査に代表を派遣することになった。すでに回収された250体の遺体を調査した赤十字社は遺体がポーランド人捕虜であることを確認し、1940年3月から4月にかけて殺害されたことを推定した。1943年4月17日、ポーランド赤十字社とドイツ赤十字社はジュネーヴの赤十字国際委員会に中立的な調査団による調査を依頼した。

これを受けてソ連はポーランド亡命政府を猛烈に批判し、断交をほのめかした。ソ連の反発を見た赤十字国際委員会は全関係国の同意がとれないとして調査団の派遣を断念した。1943年4月24日、ソ連はポーランド亡命政府に対し「『カティン虐殺事件』はドイツの謀略であった」と声明するように要求した。ポーランド亡命政府が拒否すると、26日にソ連は亡命政府との断交を通知した。

ポーランド赤十字社はカティンに調査団を送り込み、また、ドイツもポーランド人を含む連合軍の捕虜、さらにスウェーデン、スイス、スペイン、ノルウェー、オランダ、ベルギー、ハンガリー、チェコスロバキア(ベーメン・メーレン保護領及びスロバキア)など各国のジャーナリストの取材を許可した。さらに枢軸国とスイスを中心とする国から医師や法医学者を中心とする国際調査委員会が派遣された。1943年5月1日、国際委員会とポーランド赤十字社による本格的調査が開始された。


第一次調査

調査はソ連軍がスモレンスクに迫る緊迫した状況下で行われた。国際委員会は遺体の発掘と身元確認と改葬を行い、現地での聞き取り調査も行った。ドイツ側は「12,000人」の捕虜の遺体が埋められていると発表していたが、実数はそこまでには至らなかった。

発掘途中の調査では、遺体はコジェルスクの捕虜収容所に収容されていた捕虜と推定された。遺体はいずれも冬用の軍服を装着しており、後ろ手に縛られて後頭部から額にかけて弾痕が残っていた。遺体の脳からは死後3年以上経過しないと発生しない物質が検出されたことや、墓穴の上に植えられた木の樹齢が3年だったこと、遺体が死後3年が経過していると推定され、縛った結び目が「ロシア結び」だったことなどがソ連の犯行を窺わせた。

また、調査に同行したアメリカ軍捕虜のジョン・ヴァン・ブリード大佐とスチュワート大尉は、捕虜の軍服や靴がほころびていないことからソ連軍による殺害であることを直感したと後に議会公聴会で証言している。

1943年5月になると現場付近の気温が上昇し、死臭が強まったために現地の労働者が作業を拒否するようになった。6月からは調査委員会と赤十字代表団が自ら遺体の発掘に当たった。明らかに拷問に遭った遺体や今までに見つからなかった8番目の穴が発見されるなど調査は進展したが、この頃になるとソ連軍がスモレンスクに迫り、委員会と代表団は引き上げを余儀なくされた。ポーランド赤十字社代表団は6月4日、委員会は6月7日に現地を離れた。

撤収までに委員会が確認した遺体の総数は4,243体であった。


西側連合国の対応

イギリスは暗号解読の拠点であったブレッチェリー・パークでドイツ軍の無線通信を傍受し解読していたため、ナチス・ドイツが大きな墓の穴とそこで発見したものについて気づいていた。また当時ロンドンに移っていたポーランド亡命政府に対するイギリス大使であるオーウェン・オマレーが「事件がソ連によるものである」と結論した覚書を提出したが、ウィンストン・チャーチル首相はこれを公表しなかった[4]。

1944年、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領はカティンの森事件の情報を収集するために、かつてブルガリア大使を務めていたジョージ・ハワード・アール(英語版)海軍少佐を密使としてバルカン半島に送り出した。アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触してソビエト連邦の仕業であると考えるようになったが、ルーズベルトにこの結論を拒絶され、アールの報告は彼の命令によって隠された。アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルトはそれを禁止する文書を彼に送りつけた。アールは任務から外され、戦争の残りの期間をサモアで過ごすこととなった[4]。また、事件の生存者であるユゼフ・チャプスキ(英語版)は、1950年から「ボイス・オブ・アメリカ」のポーランド向け放送を担当することになったが、その際には事件に対して言及することを禁じられている[4]。


ソ連による「真相究明」

1943年10月15日からNKVDは独自に再調査を開始した。さらにモスクワに調査委員会を設置し、事件の調査を開始した。しかし、この調査委員会は委員長のニコライ・ブルデンコをはじめとして全員がソ連人であり、最初から「ナチス・ドイツの犯行」であることを立証するためのものであった[5]。ブルデンコ委員会は独自の聞き取り調査によって「殺害は1941年8月から9月、つまり、ドイツ軍の占領中に行われた」とし、殺害に用いられた弾丸がドイツ製であったことを根拠として、ナチス・ドイツの犯行であったと結論付けた[5]。

さらにソ連はニュルンベルク裁判においてドイツ人を裁くため、さらに調査報告書を作成した。告発を行ったソ連の検察官は「もっとも重要な戦争犯罪の内の1つがドイツのファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である」と述べている。これに基づいて1946年7月1日に裁判でカティンの森事件について討議が行われた。しかしこの告発は証拠不十分であるとして、裁判から除外された[5]。


冷戦期のカティンの森事件問題

冷戦が激化し始めた1949年、アメリカでは民間の調査委員会が設立され、事件の再調査を求めるキャンペーンを行った[6]。1951年、アメリカ議会はカティンの森事件に対する調査委員会を設置した[5]。1952年にはアメリカ国務省がソ連に対して証拠書類の提供を依頼したが、ソ連はこれを誹謗であるとして抗議している。調査委員会はソ連の犯行であることが間違いないと結論し、アメリカ議会は1952年12月に「カティンの森事件はソ連内務人民委員部が1939年に計画し、実行した」という決議を行っている[5]。しかし東側諸国はもとより西側諸国の多くもこれに同調しなかった[6]。

1959年、ソ連国家保安委員会(KGB)のアレクサンドル・シェレーピン議長は、ニキータ・フルシチョフ第一書記に対して、ポーランド人捕虜処刑に関する文書の破棄を提案している[7]。戦後ポーランドを支配していたPZPR(ポーランド統一労働者党)の幹部たちはソ連の説明を公式見解として認定した[8]。亡命ポーランド人たちは事件の研究を続け、時には地下出版の形でポーランド国内に伝えた[9]。

また、1970年代後半のイギリスでは事件に関する関心が高まり、ロンドンに犠牲者のための記念碑を作る計画があったが、イギリス政府はこの事件が起こった日付が「1940年」となっている点に難色を示し、除幕式に代表を派遣しなかった[4]。


冷戦後の調査

ソ連では1985年に就任したゴルバチョフ書記長の下でペレストロイカが進み、グラスノスチ(情報公開)の風潮が高まると、ソ連においても事件を公表する動きがあらわれた。1987年にはソ連・ポーランド合同の歴史調査委員会が設置され、事件の再調査が開始された。1990年にはNKVDの犯行であることを示す機密文書が発見され、ゴルバチョフ書記長らはもはや従来の主張を継続することはできないという結論を下した。

1990年4月13日、ソ連国営のタス通信はカティンの森事件に対するNKVDの関与を公表し、「ソ連政府はスターリンの犯罪の一つであるカティンの森事件について深い遺憾の意を示す」ことを表明した[7]。同日、ポーランドのヴォイチェフ・ヤルゼルスキ大統領がゴルバチョフと会談し、ゴルバチョフはカティンの森事件に言及するとともに、発見された機密文書のコピーをポーランド側に渡し、調査の継続を伝えた[7]。これにはカティンと同じような埋葬のあとが見つかったメドノエ(Mednoe)とピャチハキ(Pyatikhatki)、ビコブニアの事件も含まれている。


1992年、ソ連崩壊後の新生ロシア政府は最高機密文書の第1号を公開した。その中には、西ウクライナ、ベラルーシの囚人や各野営地にいるポーランド人25,700人を射殺するというスターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入りの計画書、ソ連共産党政治局が出した1940年3月5日付けの射殺命令や、21,857人のポーランド人の殺害が実行されたこと、彼らの個人資料を廃棄する計画があることなどが書かれたシェレーピンのフルシチョフ宛て文書も含まれている。しかし、公表された文書で消息が明らかとなった犠牲者はカティンで4421人、ミエドノイエで6311人、ハルキエで3820人、ビコブニアで3435人であり、残りの3870人は依然として消息不明のままである[10]。

2004年、ロシア検察当局の捜査は「被疑者死亡」、「ロシアの機密に関係する」などの理由で終結した[11]。さらにロシア連邦最高軍事検察庁は事件の資料公開を打ち切り、2005年5月11日に「カティンの森事件はジェノサイドにはあたらない」という声明を行った[12]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%81%AE%E6%A3%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6


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January 1, 2010
こんな映画を観た〜アンジェイ・ワイダ「カティンの森」

シアター・キノ代表の中島洋が正月映画に選んだ作品に間違いはないだろう。

こう考えて観た「カティンの森」(原題はカティン)、ソ連秘密警察によるポーランド将校の処刑シーンが延々と続いて終わるワイダ監督渾身の力作は、元日に観るべき映画として最良の選択だった。

カティンの森<事件>についてはウィキペディアが詳しい。カティンの森事件

しかしこの映画は「カティンの森事件」を伝えるためだけのものではない。実父をカティンで殺された経歴を持つワイダ監督の眼差しは、たとえば「存在の耐えられない軽さ」のような映画と同じ、犠牲者の側に立つのか、それとも生き延びるために加害者の欺瞞に迎合するのか、という非常に困難な問いに向けられている。そして、映画全体としてはソ連の犯罪の告発というより、夫の生還を信じて何十年も待ち続けたポーランドの女性たちへの痛切なグランプリになっている。

映画にはいくつかの役割がある。その中でも最も重要なものの一つは、歴史と人間の欺瞞を暴くことであり、もしかしたらすべてが欺瞞かもしれない歴史の中での人間の生き方を問うことである。

将校の妻たちは潔癖とも言える「拒否」の精神を発揮し、はた目には無意味に見える抵抗を続けていく。同じ状況におかれたとき、自分ならどうしただろうかと考えずにはいられないが、たぶん、現実に彼女たちはこういう生き方を貫いたのだ。処世術として迎合したふりをして時を待ち、組織化して反撃に転じるという発想はない。政治的にあまりにナイーブなのだ。すべては個人的な出来事に還元されてしまうようで、それを歯がゆくも感じる。

将校アンジェイの妻は、彼女とその娘の安全を心配する良心的な秘密警察幹部からの形式的な結婚話を断るが、思わず、なんて愚かなと思ってしまったほどだ。

しかし、これこそが女性特有の偉大さなのだ。極私的な「愛」しか信じるに値するものはない。一見、非歴史的で小市民的にみえるこの愚かといえば愚かな信念こそが、実はジェノサイドを不可避的に結果するあらゆる「政治」を解体する唯一の契機なのかもしれない。

大量の死体がブルドーザーで埋められていくシーンは圧巻で、自分が死体の一つとなって埋められていくかのような圧迫感がある。しかしそれは単に残酷なシーンというだけでなく、人間が本質的に持つ残酷さを感じさせて映像そのもの以上に恐ろしい。

バビ・ヤールでナチス・ドイツが行った大量処刑は機関銃によるものだったが、「カティンの森」ではソ連赤軍は一人ずつ確実にピストルで処刑したようだ。ほとんど証言が残されていないが、生涯最後となるかもかもしれない作品で、ワイダ監督はどんな細部にも細心の注意を払い、できるだけ事実に忠実に再現するように心がけたことだろうから、これがほぼ事実なのだろう。こうした「手工業的」な処刑方法には、いかにもスターリン型共産主義者らしい陰険さと小心さがうかがえる。

この大量虐殺の首謀者はスターリンとその片腕ベリヤであることが歴史的に明らかになっている。しかしこの「事件」は彼らの個人的な資質によって起きたものではなく、権力の集中によっていつでも起こりうることであり、現に起きていて、これからも起きていくことだろう。

最も軽蔑すべき人間たちによって最も優れた人間たちが粛清されてきたのが人類の歴史にほかならない。

その歴史を反転させる革命こそが待たれている。
https://plaza.rakuten.co.jp/rzanpaku/diary/201001010000/


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「カティンの森」アンジェイ・ワイダ監督 虐殺を今に問う 2009年12月19日
http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200912180298.html

 祖国の悲劇と抵抗の歴史を描き続けるポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダ監督の「カティンの森」が東京・神保町の岩波ホールで公開中だ。冒頭、「両親に捧(ささ)げる」という字幕が出る。父の命を奪い、母を苦しめた第2次大戦中の虐殺を、改めて「今」に問う。

 ポーランドに、ナチス・ドイツとソ連が侵攻した1939年。アンナは、ポーランド軍大尉の夫がソ連軍捕虜として連行される姿を目撃する。3年半後、ドイツは「虐殺された多数のポーランド人将校の遺体を発見」と発表。アンナは夫の死を伝えられるが、事実を受け入れられない……。

 この虐殺は「カティンの森事件」と呼ばれる。ポーランド東部を占領したソ連が40年、捕虜にした1万5千人ともいわれるポーランド人将校を殺害した。監督が映画化を構想し始めたのは、それから半世紀後だった。戦後、ポーランドはソ連の強い影響下にあった。「冷戦期、この事件はドイツの犯罪とされていた」と監督。89年に共産主義政権が次々倒れた東欧革命が起きるまで、真相はほぼ闇に葬られていたという。

 以後、すぐ製作に取りかかろうと試みるが、事件自体が長くタブー視され、全容を示す資料も、事件を扱った小説も見つからなかった。「世代」「地下水道」「灰とダイヤモンド」の「抵抗3部作」をはじめ、抑圧された人間像を切り出す原作を重厚に映してきた社会派の巨匠は、撮影までに長期をかけた。「見つかった将校の日記を参考にしたり、当時を知っている人にインタビューしたりした。映画は登場人物を含め、ほとんど実話だ」

 監督がつむぐ物語は、残された人たちを軸につづられていく。「特に、多くの女性の話を書くことが大事だった」と話す。監督自身、夫の生還を信じ続けた母親を見て育ったからだ。待つ側を物語ることで、残されて生きる者をも苦しませ続ける戦いの現実を強調したかった。犠牲になった兄のためにソ連の犯罪を意味する墓碑を建てようとする女性も登場する。

 手を縛り、後頭部を撃ち抜き、埋める――。終盤の虐殺場面は、まるで流れ作業のように残酷に映される。「この事件は戦争というより、スターリンの指示による官僚的、組織的な虐殺だろう」。独ソ双方が、相手側の犯罪としてプロパガンダ映画に利用するさまも象徴的に映される。

 劇中、アンナの夫の父にあたる大学教授はドイツの収容所で亡くなる。「言いたいことは一つ。独ソ両国ともポーランドを事実上、『消滅』させることで、同国を思うままに動かしたかった」と述べた。
http://www.asahi.com/showbiz/movie/TKY200912180298.html


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昭和天皇は日中戦争が勝てそうもなくなったので、
このまま行くと日本はソ連に占領される
ソ連よりアメリカに占領された方がいい

という判断をして、アメリカと八百長戦争をしたのです。

ソ連に占領されるとこうなるのが判っていたからなのですね:


の続き


天皇一族が夜も眠れない程恐れたベリヤとは


ラヴレンチー・パーヴロヴィチ・ベリヤ(1899年3月29日 - 1953年12月23日)は、ソビエト連邦の政治家。

ヨシフ・スターリンの大粛清の主要な執行者(実際にベリヤが統轄したのは粛清の終結局面のみだったにせよ)とみなされている。

彼の影響力が最高潮に達したのは、第二次世界大戦後からスターリンの死後にかけてであった。「エジョフシチナ」として知られるニコライ・エジョフによる大粛清の恐怖と猛威のもとでエジョフを失脚させて権力を握り、自らも粛清に加担した。

スターリンの死後は第一副首相(en:First Deputy Premier of the Soviet Union of en:Council of Ministers (Soviet Union))として、自由化推進のキャンペーンを実施したが、このキャンペーンは、ニキータ・フルシチョフらとの政争の敗北によるベリヤの失脚、そして死刑執行とともに終焉した。


1953年6月のベリヤの逮捕後の裁判で、ベリヤによる著しい件数の強姦と性的暴行が明らかになった[19]。

ベリヤは大変な漁色家であり、誘惑を断ったが最後、その女性とその家族に身の破滅が待っていると恐れられた。暇さえあれば彼とその部下はモスクワ市内を車で廻り、気に入った女性をNKVD本部に拉致しては暴行する悪行を繰り返した[20]。流石に苦情が出たものの、スターリンも黙認していたため被害者は泣き寝入りせざるを得なかった。ある夜、ベリヤは通行人である未成年の女性をいつものように車に乗せ、本部に連行した後解放した。女性は帰宅しても何があったか両親に話そうとせず、結局その事件を苦に自殺してしまった。遺体を解剖した医師によれば、彼女の体にははっきりと暴行された形跡が見られたという。彼女の父親はベリヤの護衛を務めた警備隊長で、のちにベリヤが政争に敗れて処刑される際には処刑の執行人となりたいと嘆願したが、政府から「私刑は認められない」という理由で要望は聞き入れられなかった。また、米国の外交官と交際していた女性にベリヤが迫ったところ、ひどく嫌がられ関係を拒否されたため、彼は「収容所の埃となれ!」と言い放ち「米国のスパイ」という罪状で彼女を強制収容所送りにしてしまった。

ベリヤに対するこれら非難は近年まではソヴィエト連邦内外の政敵によるプロパガンダとして片付けられていたが、ベリヤが女性を暴行し、政治的な犠牲者を私的に拷問し、殺害していたという疑惑は歴史的な証拠を得つつある。ベリヤの性的暴行、性的サディズムの最初の嫌疑は、1953年7月10日のベリヤ逮捕の2週間後に党中央委員会本会議において共産党中央委員書記のニコライ・シャターリンによって告発された。シャターリンはベリヤが多くの女性と性的交渉を持ち、娼婦との関係の結果梅毒にかかったと述べ、ベリヤと交渉をもった25人の女性のリストについて言及した。やがてこの非難はより劇的な展開を迎える。フルシチョフは彼の死後に出版された回想録において「我々は100人以上の女性の名前を記したリストを見せられた。彼女たちはベリヤの部下によって、ベリヤの元へ連れて行かれたのだ。彼はいつも同じ手口を使った。女性が彼の家に到着すると、ベリヤは彼女をディナーに招待する。そしてスターリンの健康を祈って乾杯しようと持ち掛ける。その乾杯のワインには睡眠薬が混入されていたのだ」と述べている。

1980年代には、ベリヤが10代の女性たちを強姦したという噂まで出始めた。ベリヤの伝記を著したアントン・アントノフ=オフセーエンコ(Anton Antonov-Ovseenko)はあるインタビューにおいて、ベリヤが複数の若い女性たちの中から1人をレイプするために選び出す際、彼女たちに強いたといわれる明らかに倒錯した行為について語っている。このときに行ったとされる行為は、「ベリヤのフラワーゲーム」と名づけられている。それは、部下に5人ないし7人ほどの少女を連れてこさせ、靴だけ履かせたまま彼女たちに服を脱がせた上で、頭を中心に向けた四つんばいの姿勢で円陣を作らせるというものだった。ベリヤは歩き回りながら彼女たちを品定めして、そのうち1人の脚をつかんで引っ張り出して連れ去り、レイプしたという[21]。ここ数年の間にベリヤが私的に犠牲者を殴り、拷問し、殺害したという数多くの物語が流布している。

1970年代以降モスクワの子供たちは、ベリヤの以前の住居(現在はトルコ大使館)の裏庭、地下室、あるいは壁の中から骨が発見されたと言う話を繰り返し噂し合っている。2003年12月、ロンドンの日刊紙 デイリー・テレグラフは「(トルコ大使館で)キッチンのタイルが改装された際、大きな大腿骨と小さな足の骨が発見されたのは、ほんの2年前のことだった。この大使館で17年働いているインド人のアニルは、地下室で彼が発見した人間の骨が入ったプラスチックのバッグを見せてくれた」と報じた[21]。政治的に動機付けされた非難として、性的虐待とベリヤに対する強姦告訴については、妻のニーナ、息子のセルゴといった近親者と、元ソビエト情報部長官パヴェル・スドプラトフによる議論がある。

歴史学者のサイモン・セバーグ・モンテフィオーリによると、ベリヤは個人的知り合いであるアブハジアの指導者ネストル・ラコバが1936年末に粛清された後、その家族を拷問にかけた。彼の未亡人サリヤは独房で毎日拷問にかけられ、衰弱死。息子ラウフは死ぬほど叩かれ、その後強制収容所送りになったという[22]。後に生還している。モンテフィオーリは、ベリヤについて「強迫観念的な堕落行為をほしいままにする自身の力を利用した性犯罪者」と暴露している[23]。

ベリヤは小さな子供を拷問・強姦するために、自分の事務室に隣接した特別室を独占したという[24]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A9%E3%83%B4%E3%83%AC%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%AA%E3%83%A4


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天皇一族が夜も眠れない程恐れたベリヤとは _ 3


ベリヤが支配した国はこうなる:

ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。


ブラッドランド : ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実 – 2015/10/15
ティモシー スナイダー (著), Timothy Snyder (原著), & 1 その他
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8A-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861297
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%83%89-%E4%B8%8B-%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3-%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F-%E5%8D%98%E8%A1%8C%E6%9C%AC/dp/4480861300/ref=sr_1_fkmrnull_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&keywords=%E3%83%92%E3%83%88%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%81%A8%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%AA%E3%83%B3+%E5%A4%A7%E8%99%90%E6%AE%BA%E3%81%AE%E7%9C%9F%E5%AE%9F&qid=1555198794&s=books&sr=1-1-fkmrnull


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【犠牲者1400万!】スターリンとヒトラーの「ブラッドランド」1933〜1945
http://3rdkz.net/?p=405


筑摩書房の「ブラッドランド ヒトラーとスターリン 大虐殺の真実」(ティモシー・スナイダー著)によれば、ドイツとロシアにはさまれた国々、ポーランド、ベラルーシ、ウクライナ、バルト諸国、西部ソ連地域(=ブラッドランド)において、ヒトラーとスターリンの独裁政権は、1933年〜1945年の12年間に1400万人を殺害した。

この数字は戦争で死亡した戦死者は一人も含まれていない。戦闘による犠牲者ではなく、両政権の殺戮政策によって死亡した人々だ。犠牲者の大半はこの地域に古くから住まう罪もない人々で、一人も武器を持っておらず、ほとんどの人々は財産や衣服を没収されたうえで殺害された。


筑摩書房「ブラッドランド」を読み解きながら、この地域で一体何が起こったのかまとめたい。


ブラッドランド=”流血地帯”はどういう意味を持つか

ブラッドランドは…

・ヨーロッパユダヤ人の大半が住んでいた

・ヒトラーとスターリンが覇権をかけて争った

・ドイツ国防軍とソ連赤軍が死闘を繰り広げた

・ソ連秘密警察NKVD(内務人民委員部)とSS(ナチス親衛隊)が集中的に活動した

…地域である。

ブラッドランドにおける主な殺害方法

1400万人殺したといっても、高度なテクノロジーは一切使われておらず、野蛮な方法であった。

ほとんどは人為的な飢餓による餓死である。

その次に多いのは銃殺である。

その次に多いのはガス殺である。

ガスも高度なテクノロジーとは無縁であった。ガス室で使用されたガスは、18世紀に開発されたシアン化合物や、紀元前のギリシャ人でさえ有毒だと知っていた一酸化炭素ガスである。

ウクライナの人為的飢餓テロー犠牲者500万人

http://3rdkz.net/?p=405


1929年〜1933年にかけて餓死したウクライナ農民の死亡率。赤は25%以上。ほぼ全滅した村も多くあった。

1930年代初頭、第一次五か年計画、集団農場化を焦るスターリンは、反抗的なウクライナ農民を屈服させるために飢餓を利用した。

年間770万トンにも及ぶ血も涙もない食糧徴発作戦により、少なくとも500万人のウクライナ農民が人為的な飢餓に追い込まれて死亡した。

食料徴発隊は共産党員、コムソモール、地元の教員・学生、村ソヴィエトの理事や議員、OGPU(合同国家政治保安部)で構成された《ブリガーダ》と呼ばれる作業班で、ほとんど盗賊と変わらなかった。作業班は家から家へと渡り歩き、家の中を隅から隅まで探し、屋根裏や床を破壊し、庭を踏み潰し、棒を突っ込んで穀物を探した。

村でも街でも国の組織にハッパをかけられ、残虐行為が広がっていた。
http://3rdkz.net/?p=405


ある妊娠中の女性が小麦を引き抜いたとして板切れで打ちすえられ死亡した。
三人の子供を抱えた母親は集団農場のじゃがいもを掘り出したとして警備員に射殺された。子供たちは全員餓死した。
ある村では穀物をむしり取ったとして7人の農民と14歳と15歳の子供達3人が銃殺された。

《ブリガーダ》は狂ったように食物を探しまわり、飢餓によって手足の浮腫が生じていない農民の家を怪しんで捜索した。しまいにはサヤエンドウ、ジャガイモ、サトウダイコンまでも取り上げた。餓死したものたちも瀕死の者たちも一緒になって共同墓地に放り出された。

人々の餓死は1933年初春に最高潮に達した。


雪が解け始めたとき、本物の飢餓がやってきた。人々は顔や足や胃袋をふくらませていた。彼らは排尿を自制できなかった・・。今やなんでも食べた。ハツカネズミ、ドブネズム、スズメ、アリ、ミミズ・・骨や革、靴底まで粉々にした。革や毛皮を切り刻み、一種のヌードル状にし、糊を料理した。草が生えてくるとその根を掘り出し葉や芽を食べた。あればなんでも食べた。タンポポ、ゴボウ、ブルーベル、ヤナギの根、ベンケイソウ、イラクサ・・

33年の冬までに、ウクライナの農民人口2000〜2500万人のうち、4分の1から5分の1が死んだ。
彼らは孤独のまま、極めて緩慢に、なぜこんな犠牲になったのかという説明も聞かされずに、自分の家に閉じ込められ、飢えたまま置き去りにされ、ぞっとするような死に方をしていったのだ。



ある農家はまるで戦争であった。みんな他を監視していた。人々はパンのかけらを奪い合った。妻は夫と、夫は妻といがみ合った。母は子供を憎んだ。しかし一方では最後の瞬間まで、神聖犯すべからざる愛が保たれていた。四人の子供を持った母親・・彼女は空腹を忘れさせようとして子供におとぎ話や昔話を聞かせてやった。彼女自身の舌は、もうほとんど動かないのに、そして自分の素手の腕さえ持ち上げられないのに、子供らを腕の中で抱いていた。愛が、彼女の中に生きていた。人々は憎しみがあればもっと簡単に死ねることを悟った。だが、愛は、飢餓に関しては、何もできなかった。村は全滅であった。みんな、一人も残っていなかった。



大粛清ー犠牲者70万人以上

ウクライナ大飢饉が一息ついた1934年1月、ナチスドイツとポーランドが不可侵条約を結んだ。当時のソ連はドイツ、ポーランド、日本という3つの宿敵に囲まれている形であった。ドイツとポーランドが手を結んだ今、ソビエト領内のポーランド人や少しでもポーランド人と関わりを持つ者は全てスパイとなった。

同年12月、レニングラード党第一書記キーロフが暗殺された。彼はスターリンにつぐナンバー2の権力者だった。スターリンはこれを最大限利用し、国内に反逆勢力がいるということを強調した。あたかも陰謀が常に存在するかのように。だがキーロフ暗殺の黒幕はスターリンその人であることが疑われている。

また、スターリンは集団農場化の大失敗によって引き起こされたウクライナの大飢饉を、外国のスパイ勢力の陰謀のせいだと主張した。


1936年、スターリンの妄想に付き従うものは重臣たちにさえ多くなかった。そんな中、ポーランド人のニコライ・エジョフという男がスターリンによってNKVD長官に任命されると、この男は反体制派とされる人々を嬉々として自ら拷問にかけ、手当たり次第にスパイであると自白させて銃殺にした。

1937年にはスターリンに歯向かうものは国内にいなかったが、依然政敵のトロツキーは外国で健在であり、ドイツとポーランドと日本という、いずれもかつてはロシア帝国やソビエト赤軍を打ち負かした反ソ国家に囲まれていた。スターリンは疑心暗鬼に囚われた。ドイツとポーランドと日本が手を携えて攻めてくるかもしれない……トロツキーが(かつてレーニンがそうしたように)ドイツ諜報機関に支援されて劇的にロシアの大地に帰還し、支持者を集めるのではないか……今こそ一見無害に見える者たちの仮面をはぎ取り、容赦なく抹殺するのだ!1937年の革命20周年の記念日に、スターリンは高らかにそう宣言した。

ポーランド人やドイツ人、日本人、またはそのスパイと疑われた人々や、元クラーク(富農)や反ソ運動の嫌疑により、約70万人の国民がスターリンとエジョフのNKVDによって銃殺された。また数え切れないほどの人々が拷問や流刑の過程で命を落とした。

粛清の範囲は軍や共産党やNKVDにまで及び、国中がテロに晒された。

殺された一般国民は全員、荒唐無稽な陰謀論を裏付けるために拷問によって自白を強要された無実の人々であった。

大粛清開始時のNKVD上級職員の3分の1はユダヤ人であったが、1939年には4%以下となっていた。スターリンは大粛清の責任をユダヤ人に負わせることを企図し、事実ヒトラーがそう煽ったように、後年ユダヤ人のせいにされた。こうしてのちに続く大量虐殺の布石がうたれたのである。


ポーランド分割ー犠牲者20万人以上

1939年ブレスト=リトフスク(当時はポーランド領)で邂逅する独ソの将兵。両軍の合同パレードが開催された。

1939年9月中旬、ドイツ国防軍によってポーランド軍は完全に破壊され、戦力を喪失していた。極東においてはノモンハンにおいてソ連軍が日本軍を叩き潰した。その一か月前にはドイツとソ連が不可侵条約を結んでいた。世界の情勢はスターリンが望むままに姿を変えていた。

ヒトラーはポーランド西部を手に入れて、初めての民族テロに乗り出した。

スターリンはポーランド東部を手に入れて、大粛清の延長でポーランド人の大量銃殺と強制移送を再開した。
http://3rdkz.net/?p=405&page=2


ソ連の場合、チェーカーやゲーペーウーを前身に持つエリートテロ組織であったNKVDや、革命初期の内戦期からテロの執行機関であった赤軍がヒトラーよりもっとうまくやった。

ソ連軍は9月中旬、50万の大軍勢を持って、既に壊滅したポーランド軍と戦うために、護る者が誰もいなくなった国境を超えた。そこで武装解除したポーランド将兵を「故郷に帰してやる」と騙して汽車に乗せ、東の果てへ輸送した。

ポーランド将校のほとんどは予備役将校で、高度な専門教育を受けた学者や医師などの知識階級だった。彼らを斬首することにより、ポーランドの解体を早めることが目的だった。

同じころNKVDの職員が大挙してポーランドに押し寄せた。彼らは10個以上の階級リストを作成し、即座に10万人以上のポーランド民間人を逮捕。そのほとんどをグラーグ(強制収容所)へ送り、8000人以上を銃殺した。またすでに逮捕されたポーランドの高級将校たちを片っ端から銃殺にし、ドイツの犯行に見せかけた。そして家族をグラーグへ追放した。銃殺された者は20000人以上、将校の関係者としてグラーグへ送られた者は30万人以上とされる。そのほとんどは移送中の汽車の中や、シベリアやカザフスタンの収容所で命を落とした。

独ソ双方から過酷なテロを受けたポーランドでは、20万人が銃殺され、100万人以上が祖国を追放された。追放された者のうち、何名が死亡したかはいまだ未解明である。
http://3rdkz.net/?p=405&page=3


抵抗の果てに

戦争後期、ソ連軍はドイツ軍を打ち破って東プロイセンへ侵入した。そして彼らは目に付く全ての女性を強姦しようとした。その時点でドイツ成人男性の戦死者数は500万人にのぼっていた。残った男性はほとんど高齢者や子供で、彼らの多くは障害を持っていた。女性たちを守る男はいなかった。強姦被害にあった女性の実数は定かではないが数百万人に及ぶと推定され、自殺する女性も多かった。

それとは別に52万のドイツ男性が捕えられて強制労働につかされ、東欧の国々から30万人近い人々が連行された。終戦時までに捕虜になり、労役の果てに死亡したドイツ人男性は60万人に上った。ヒトラーは民間人を救済するために必要な措置を一切講じなかった。彼は弱者は滅亡するべきだと思っていた。それはドイツ民族であろうと同じだった。そして彼自身も自殺を選んだ。

ヒトラーの罪を一身に背負わされたのが戦後のドイツ人であった。新生ポーランドではドイツ人が報復や迫害を受け、次々と住処を追われた。ポーランドの強制収容所で死亡したドイツ人は3万人と推計される。1947年の終わりまでに760万人のドイツ人がポーランドから追放され、新生ポーランドに編入された土地を故郷とするドイツ人40万人が移送の過程で死亡した。


戦間期のスターリンの民族浄化

独ソ戦の戦間期には、対独協力の恐れがあるとみなされた少数民族の全てが迫害を受けた。

1941年〜42人にかけて90万人のドイツ系民族と、9万人のフィンランド人が強制移住させられた。

1943年、ソ連軍がカフカスを奪還すると、NKVDがたった1日で7万人のカフカス人をカザフスタンとキルギスタンに追放した。更にNKVDはその年の12月には、2日間で9万人のカルムイク人をシベリアへ追放した。

1944年にはNKVD長官ベリヤが直接指揮を執って、47万人のチェチェン人とイングーシ人をわずか一週間で狩り集めて追放した。一人残らず連行することになっていたので、抵抗する者、病気で動けない者は銃殺され、納屋に閉じ込めて火を放つこともあった。いたるところで村が焼き払われた。


同年3月、今度はバルカル人3万人がカザフスタンへ追放され、5月にはクリミア・タタール人18万人がウズベキスタンへ強制移住させられた。11月にはメスヘティア・トルコ人9万人がグルジアから追放された。

このような状況であったから、ソヴィエトと共に戦ったウクライナやバルト諸国やポーランド、ベラルーシでもNKVDの仕事は同じだった。赤軍や新生ポーランド軍は、かつては味方だったパルチザンに対して牙をむいた。少数民族や民族的活動家はのきなみ捕えられ、同じように東の果てに追放されたのだった。その数は1200万人に及んだ!

おわりに

長年、ドイツとロシアにはさまれた国々の悲惨な歴史に圧倒されていた。これ以上恐ろしい地政学的制約はないだろう。ドイツとソ連の殺害政策によって命を失った人々は、誰一人武器を持たない無抵抗の民間人は、それだけで1400万人に及ぶ。もちろんこれは戦闘による軍人・軍属の戦死者は含まれていない。またルーマニアやクロアチアやフランスの極右政権によって虐殺されたユダヤ人やセルビア人は数に含まれていない。

ドイツとソ連の殺害政策は、偶発的に起こったのではなく、意図的に明確な殺意を持って引き起こされた。その執行機関はNKVDであり、赤軍であり、ドイツ国防軍であり、ドイツ警察であり、ナチス親衛隊だった。その殺し方は飢餓が圧倒的に多く、その次に多かったのが銃で、その次がガスである。


激しい人種差別と階級的憎悪、独裁者の偏執的かつ無慈悲な実行力が両国に共通に存在していた。

海に囲まれた我が国には、人種差別がどれほどの暴力を是認するものなのか、階級憎悪がどれほどの悲劇を生んできたのか、ピンとこない。

知ってどうなるものでもないが、この恐ろしい歴史を興味を持ったすべての人に知ってもらいたい。
http://3rdkz.net/?p=405&page=4



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

4. 中川隆[-10372] koaQ7Jey 2019年5月03日 13:09:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1718] 報告
日本人はロシア民謡やロシア文学は大好きなんだけど、ソ連はロシア人ではなくユダヤ人が支配していた国だからね:


右翼・左翼の対立を使った分割統治政策 _ 左翼運動・マルクス主義運動は国際金融資本が資金提供していた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/296.html

馬渕睦夫 ウイルソン大統領とフランクリン・ルーズベルト大統領は世界を共産化しようとしていた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/145.html


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カチューシャを歌いながら突撃してくるロシアの戦車軍団に日本兵は絶対に勝てなかったよ


ガールズ&パンツァー 第8話 ロシア民謡 カチューシャ - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%AC%E3%83%AB%E3%83%91%E3%83%B38%E8%A9%B1+++%E3%82%AB%E3%83%81%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%83%A3+++

Катюша - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%D0%9A%D0%B0%D1%82%D1%8E%D1%88%D0%B0


Katyusha dance War Army solo Военный танец Катюша сольный - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=YoB4Vkvceo0


ロシア民謡 カチューシャ Песни победы 2010 _Катюша_ (НУ _ОЮА_) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=y8qTcXdFpPc


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咲き誇る林檎と梨の花
川面にかかる朝靄
若いカチューシャは歩み行く
霧のかかる険しく高い河岸に

.
カチューシャは歌い始めた
誇り高き薄墨色の鷲の歌を
彼女が深く愛する青年の歌
大事に持ってる彼からの手紙


おお 歌よ 乙女の歌よ
太陽をかすめ 鳥の如く飛んでゆけ
遠い国境の若き兵士の元へ
カチューシャの想いを届けるのだ


彼は思い起こすか 純真な乙女を
彼は聞くだろうか カチューシャの澄んだ歌声を
彼は愛すべき祖国の地を守り抜き
カチューシャは愛を強く守り抜く


咲き誇る林檎と梨の花
川面にかかる朝靄
若いカチューシャは歩み行く
霧のかかる険しく高い河岸に  
 


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

5. 中川隆[-13569] koaQ7Jey 2020年3月22日 16:44:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1335] 報告



ロシア革命|100年後の真実





【ロシア革命】@ 10月革命は 首都ペテルグラードソビエト議長 トロツキーの演説から始まった



【ロシア革命】 A 内戦とトロツキーの赤軍創設



【ロシア革命】 B レーニンの死去 ソビエトはトロツキーではなくスターリンを後継者に選んだ



【ロシア革命】 C スターリンの時代



【ロシア革命】 D 党内派閥争いから粛清



【ロシア革命】 E 強制収容所



【ロシア革命】 F スパイ ゾルゲ



【ロシア革命】 G 祖国防衛戦争



【ロシア革命】 H ソビエト軍の満州国侵攻



【ロシア革命】 I ソビエトの崩壊



【ロシア革命】 J スターリン主義の亡霊




【ロシア革命】 K 【フランス映画】THE ASSASSINATION OF TROTSKY トロツキーの暗殺)




[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理
6. 中川隆[-13342] koaQ7Jey 2020年4月13日 12:57:39 : fsqm4t39Lc : b0hWUUt3RHJnVDY=[-9] 報告
『山本太郎から見える日本』から - 内田樹の研究室 2020-04-10
http://blog.tatsuru.com/2020/04/10_1141.html
山本太郎の起こしているムーヴメントは、たとえばスペインのポデモスや、アメリカのバーニー・サンダース、オカシオ゠コルテスなどが巻き起こしているオルタナティヴな運動とリンクしていると考えていいでしょうか?

内田 リンクしていると思います。ただそれは、よそでこういう実践があったから、それを模倣しようということではないと思います。世界同時多発的に起きるんです、こういうものは。

いま世界のどこも反民主主義的で、強権的な政治家が成功しています。アメリカのトランプも、ロシアのプーチンも、中国の習近平も、トルコのエルドアンも、フィリピンのドゥテルテも。非民主的な政体と市場経済が結びついた「政治的資本主義」が成功している。

 中国がその典型ですけれど、独裁的な政府が、どのプロジェクトにどんなリソースを集中すべきか一元的に決定できる。民間企業も軍部も大学も、党中央の命令には服さなければいけない。巨視的なプランを手際よく実行するためには、こちらの方が圧倒的に効率がよい。

民主国家では、民間企業や大学に対して、政府のプロジェクトに全面的に協力しろというようなことは要求できませんから。非民主的な国なら、政府のアジェンダに反対する人たちは強権的に黙らせられるし、人権も制約できるし、言論の自由も抑え込める。だから、短期的な成功を目指すなら「中国モデル」は魅力的です。日本の安倍政権も、無自覚ですけれど、中国やシンガポールのような強権政治にあこがれている。だから、国内的にはそれに対するアンチが出て来る。日本の場合は、それが山本太郎だったということなんじゃないですか。


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7. 中川隆[-8362] koaQ7Jey 2021年1月11日 12:34:11 : 3NBb5fpKfI : Y0tGbi83VmpNM2s=[44] 報告
ソルジェニーツィン作「イワン・デニーソヴィッチの一日」木村浩訳
2010年01月04日
https://blog.goo.ne.jp/moritake123-2007/e/0470876a9f8f529a113b18453c4c3b41

 この作品「イワンデ二ーソヴィチの一日」はアレクサンドル・イサエヴィッチ・ソルジェニーツィンの作品であり、この作品で彼は1962年11月にソ連文壇にデビューする。その内容はスターリンの大粛清時代に題材をとり、「反逆者」として逮捕され、25年のシベリア流刑の処分を受けたイワン・デニソヴィッチ・ショーロフの獄中での一日の生活を描いたものであり、その極限状態を収容所(ラーゲリ)の内と外において表現する。この作品を掲載した「ノーヴイ・ミール(新世界)」誌は空前の発行部数を誇り、のちに発行された単行本は70万部という驚異的な発行部数を記録した。さらにこれに続く一連の作品(「ガン病棟」、「煉獄の中で」、「1916年10月」)によって彼はノーベル文学賞を受賞し世界的文豪の栄誉を担ったのである。

 私はこの作品の内容を紹介する前にこの作品の背景にあるソ連の状況を述べていこうと思う。

 1989年11月にベルリンの壁が崩壊し、その年の暮にはルーマニアのチャウシェスク独裁体制が民衆の怨嗟の中で打倒されチャウシェスク夫妻は銃殺された。同年夏のポーランドにおける「連帯(ワルサ議長)」主導政権の成立、1990年の東西ドイツの資本主義的統一によって拍車のかかった東欧「労働者国家圏」の雪崩を打った崩壊はソヴェート政権には衝撃的事件であったにもかかわらず、何もなしえず、そのソヴェート政権もゴルバチョフ、エリツィンによる民主化が進展し、1991年には最終的に崩壊した。それはまさに歴史を画する「革命的」大変動でありスターリンなきあとのスターリン体制の破産と崩壊を意味していた。

 このようにソ連、東欧の社会主義化は世界中の労働者、民衆の希望の星であったにもかかわらず無残な結果に終わったのである。

 その原因はどこにあったのであろうか?

 トロッキーはその著「裏切られた革命」の中で革命後のソ連社会を「過度期社会」と名付けている。それは「資本論」に反する革命(グラムシ)だったからである。マルクスは社会主義革命を高度に発展した資本主義国から移行するものと考えていた。だからトロッキーは遅れた資本主義国から社会主義化したソ連は長期にわたる過度期を経験したのちでなければ、真の社会主義に移行できないと考えたのである。この過度期を真の社会主義に導いていくものをプロレタリア独裁に求めたのである。そしてこのことが重要なのだがこの過度期を特徴づけるものとして、その進む先を、社会主義への進化の道か、その逆に資本主義への後退の道かの二つの可能性を示した。トロッキーは真の社会主義の道を「高度の労働生産性」と「世界同時革命」の二つの柱に求めていた。そしてレーニンも考えていたように西欧の資本主義国の革命の成功により、そこからの資金及び技術の援助によって、ロシア革命は成功に導かれると考えたのである。しかし、トロッキーはレーニンの死後スターリンとの路線論争に敗れメキシコに亡命する。後にスターリンによって送り込まれた刺客(=ラモン・メヂカル=トロッキーの秘書の恋人=映画ではアランドロンが演じていた)によって頭にピッケルを打ちこまれ惨殺される。

 スターリンは西欧先進資本主義国での革命が夢となった段階で、世界同時革命を幻想と考え、一国社会主義革命の総和としての世界革命を考えた。スターリンは一国社会主義革命という困難な課題を、それ以上に困難な課題(内外での敵対勢力との対決)を解決しつつ実現していかねばならなかったのである。この為には強固な指導体制をを必要とした。スターリンによる独裁体制は必然だったといえるであろう。強固な中央集権国家が生まれ、個人崇拝のもと絶対的権力が彼に付与されたのである。この権力は大粛清時代を通じてさらに強化された。

 スターリンにとっての課題は社会主義建設であって、それ以外の発展の道は考えられなかった。資源と労働を一つ(国家)に集中(社会主義的原始的蓄積)し、これを必要な部分に計画的に配分していく。これによって社会主義的工業化と農業の集団化を達成していかなければならなかった。しかしそれは経験則のない史上初の試みであり、試行錯誤の連続であった。その結果としての非効率的運営は経済の停滞を生み出した。NEP(新経済政策:一時的な資本主義的経営の容認)によって生まれ、育ってきた私企業者に工業においても、農業においても勝ることが出来なかった。ネップマンと呼ばれる豊かな私企業者が生まれ、貧農を雇用する富農層が生まれてきた。ここに一つの可能性が芽生えていた。それはこの私的経営者が資本家に転じていく道である。NEPでは国家に供出した残りの生産物を市場で売ることが許されていた。個人的利益を保証する制度は、生産者の労働意欲を高め、その総生産高を増大させたのである。NEPは純経済的に見れば成功を収めていた。この状況は「イワン・デニソヴィッチの一日」の中でも述べられている。コルホーズの停滞、そこで働く人のネップマンのところでのアルバイトをする状況が叙述されている。

 この時ソヴェート政権には二つの道が考えられていた。一つはいわゆる修正主義的道で、それを主張する学者には修正主義の理論的創始者と云われるドイツのベルンシュタインがおり。ソ連国内にはブハーリンがいた。共に過激な政策を排し、資本主義の利点を生かし、否定面を修正していこうというものである。資本主義社会は自由競争の社会であり、優勝劣敗の社会である。その結果、敗者が生まれる。それは資本主義社会の抱える構造的矛盾であり、敗者を自己責任に帰することはできない。そこで修正主義を国是とする国にとって必要なことは、優勝劣敗を放置するのではなく、いかに敗者を救済するかにあった。その方法として国家のとる政策は勝者から多くの税金を取り立て、これを敗者に配分するという福祉政策であり、極端な金持も、貧乏人もいない中間層を中心とした社会を作り、自由と平等を同時に実現していこうというものである。しかしこれを実現するためには経済の発展を必要とする。福祉政策には多くの財源が必要だからである。これは現在、北欧諸国(デンマーク。フィンランド)で行われている政策であり、本来的社会主義(正当)に対し民主社会主義(異端)と呼ばれている。日本の共産党、社民党はこれを目指している政党である。管理された資本主義を目指すのである。

 この種の考えはスターリン統治下においてもブハーリンに見られるように当然生まれていた。これ以外にも多様な考えがあり、一つの考えによって統一されてはいなかった。ブハーリンたちはNEPの結果生まれてきた豊かな私的経営者(ネップマン、富農)を保護育成し、そこから生まれる利潤を税金として一部吸収し、それを社会主義工業やソホーズ、コルホーズに投資し、徐々に社会主義化をしていく漸進的な道を考えていたのである。しかしこのような漸進的な道はスターリンによって資本主義への後退への道と退けられた。そして第2の道である全面的な社会主義的工業化と農業の集団化の道が選択されたのである。ネップマンや富農層は当然これに反発した。当然大きな混乱が生じた。穀物の供出が拒否され、武力衝突も起こった。スターリンはこれに対して武力制圧を行った。富農は逮捕されシベリア送りとなる。その財産は没収された。このような高圧的な政策は政権内部にも反発が生じた。しかし権力の中枢を握ったスターリンはこれらの反権力者に対しては容赦をしなかった。ことごとく逮捕され処刑された。政権内部にいたブハーリンも逮捕され銃殺刑に合う。スターリンの盟友でありライバルでもあったキーロフは暗殺される(この事実は「イワン・デニーソヴィッチの一日」の中でも述べられている)。大粛清時代が始まった。スターリンは自分に反対するものは政権内部の幹部、軍関係者等々政権を担当するものでも容赦をしなかった。自身の指導体制を脅かすと思われる人間はゲーペーウー(総合国家政治保安部)の後を継いだエヌ・ケー・ヴィ・デー(内部人民保安部)を使い、ことごとく逮捕し、後には裁判もなしに処刑した。そこにあったものは派閥争いであり、権力闘争であり、スターリンに気に入られようとする者たちの闘争でもあった。この大粛清は、路線闘争などという単純なものではなく、まさに食うか食われるかの争いであり、相手を食わねば自分が食われるという凄まじさであった。この大粛清はスターリンによってはじめられたにもかかわらず、後には自動的に動き出しスターリンの手を離れた感があった。このような政権内部の粛清とは別に「普通」の人々=労働者、農民、教師、司祭、音楽家、軍人、年金生活者、バレリーナ、乞食等が処刑された。密告が奨励され、子が親を、恋人を友人を、それぞれがそれぞれを密告した。そうすることが自身の安全を保つ方法だったのである。「娑婆じゃーマッチがないといただけで逮捕されるそうだ」、と「イワンデニーソヴィッチの一日」の中で囚人は言う。告発者が逆に告発され処刑に合った事件も述べられている。ラーゲリ内で密告者が殺された事件も書かれている。密告者は極端に嫌われてはいたが、それが正義と考えられていた。お互いがお互いを疑心暗鬼の目で見てだれも信用することのできない不幸な事態が、この時代を特徴づけていた。政治的ヒステリーの嵐が吹き荒れていた。

スターリン自身「私はもうおしまいだ、誰も信用できない。自分自身さえも」という言葉をフルシチョフとミコヤンに云ったということが伝えられている。スターリン自身、絶えず政敵からの暗殺の危機にさらされていた。未遂事件も報告されている。それ故、彼は多くの影武者を用意し、絶えず数人のボデイガードとともに行動し、執務室も幾つも用意し、そこを渡り歩き、その居場所を決して明らかにしなかったという。このように彼の心は決して休まることはなかったのである。そこには独裁者の抱える孤独がある。恐れられてはいても決して親しまれることの無い寂しさ、悲しさがそこにはあったに違いない。その意味では不幸な人間であったと言えよう。天寿を全うできたのが不思議なぐらいである(1879〜1953年 74歳没)。古くはシーザーが最近ではフセインが悲惨な最期を遂げている。大体において独裁者の末路は哀れである。この時代に抹殺された人の数は正確な統計資料がないので、確かなことは言えないが諸説があり、500万人程度の人間が抹殺されたり流刑に処せられたといわれている。

 この時代に抹殺された人の中には多くの外国人も含まれているが、その数、略歴については省略するが、その数は膨大なものがあり、ポーランド共産党中央委員のほぼ全員が処刑されたという資料もある。
 日本人に関して言えば、手に手を取り合って、ソ連に恋の逃避行を行った女優の岡田嘉子とその愛人演出家の杉本良吉は、不法入国ということもあり、当時の日本はソ連にとって潜在的な仮想敵国であったことから、スパイ容疑で逮捕され、岡田嘉子は10年にも及ぶ強制労働、杉本良吉は銃殺刑に合っている。そのほか共産党員の山本懸蔵、留学中の医師国崎定洞が処刑されている。ソ連社会主義に希望の光を見出しその社会で自らを生かしたいと望み、スパイなど考えたこともない純粋な人までもスターリンは抹殺したのである。そこにはスターリンの危機意識があり、その結果としての過剰反応があったといえよう。この時代はソ連の歴史に汚点を残す暗黒時代であった。この大粛清の時代の後社会的混乱と経済の停滞は長期にわたって続いた。さらに否定的要因として生まれたのがノーメンクラツーラという特権階層であり、彼らは官僚世界を生み出し労働者の上に君臨した。プロレタリア独裁ではなく、プロレタリアに対する独裁が生まれた。ソ連社会の崩壊は、上からのものであったが故に官僚社会は残った。しかしいずれにしてもロシア共和国(ソ連改め)はトロッキーが危惧し、ブハーリンが望んだ民主社会主義的道を選択したのである。今ロシア共和国はソ連時代を引き継ぎ、アメリカに次ぐ大国ではあるが、その内部には多くの矛盾を抱えており、安定していない。ロシアはどこへ行くのであろうか?

 ソルジェニーツィンはこの作品の中で宗教論、芸術論も展開している。社会主義ソ連においても宗教は人々の心に深く根付いていることを示し、さらに当時の芸術家が時の権力に迎合しているがこれは当時の状況下では仕方がなかったのだという元映画監督ツェーザリの意見に対して、「天才というのは、独裁者の趣味なんかで解釈を変えたりしない」とX-123番(収容所内では名前でなく番号で呼ばれていた)の口を借りてソルジェニーツィンは自身の意見を述べている。さらに「芸術とは何をではなくいかにじゃないですか?」という意見に対しては「いかにではなく何をだ」とX‐123は反論する。「如何に」は技術であって、「何を」はテーマである。これは当時の社会主義リアリズムにおける芸術論争を反映している。
 私は今までこの作品が成立した時代背景を中心に述べてきたが、これからはこの作品の内容を中心に述べていきたい。

 ソルジェニーツィン自身は、スターリンを批判した罪で逮捕され、8年間のシベリア流刑に処せられている。その流刑地は一つに限られておらず、その一つにカザフスタンのエキパストーゼにある政治犯のみを収容する特別収容所があった。ここでの実体験が「イワン・デニーソヴィッチの一日」に結実したのである。

 この作品「イワン・デニーソヴィッチの一日」はイワン・デニーソヴィッチ・ショーロフというロシア農民のシベリアでの収容所(ラーゲリ)での一日、その起床から始まって、員数検査、現場作業、食事風景、点呼、就寝を、マロース(極寒)という劣悪環境の中で描き、それを通して大粛清時代=1935〜1939年)のソ連社会主義の過酷な現実を描いている。

 この作品の主人公ショーロフはドイツ戦の時にドイツの捕虜になり、そこから命がけで脱走し、森の中で友軍に助けられたのだが、「反逆罪」で捕えられ25年間の流刑に処せられた。誰もが何故と問うであろう。「反逆者」と「捕虜」の因果関係が分からないからである。その答えは次の叙述で明らかになる。「書類によるとショーロフの罪は祖国への裏切りということになっている。いや彼はそう自白までしたのだ。つまり、自分は祖国を裏切るために捕虜になり、ドイツ諜報部の任務を遂行して、帰還が許されたものである」と。そこにはあるものは自白への強要であり、それを拒否すれば死が待っていたのである。スターリン語録の中には次の言葉がある。「赤軍には捕虜は存在しない。存在するのは「反逆者」のみである」。反逆者にならないためには死しかない。日本にも「死しても虜囚の辱めを受けず」という言葉がある。沖縄での米軍との戦いにおいて、多くの民間人が降伏せず死を選んだというのも共通性を感じその非人間性には怒りを感じる。

 この作品を読んで思い出すのはドストエフスキーによって書かれた「死の家の記録」である。これもドストエフスキーの実体験をもとに書かれたものである。共にシベリアでの過酷なラーゲリ内での生活を描いたものであるが、ドストエフスキーの描くラーゲリ内での生活には笞刑5000回等という過酷さがある反面その生活の中にはおおらかさもある。囚人と村人の間には交流があり手作りの芝居を披露したり看守の目を盗んで(目こぼしを受けて:勿論賄賂を必要とする)ではあるが街の女との接触も出来る。ペットの飼育も出来る。囚人の手創りの品を村人に売り、小遣い稼ぎも出来る。看守の囚人を見る目は優しい。共に虐げられた民という共通意識があるからであろう。しかしこの作品「イワン・デニーソヴィッチの一日」には、そんなおおらかさは一切ない。過酷な生活があるだけである。この作品を特徴づけているものの一つはマロース(極寒)である。ドストエフスキーの作品にはこの表現はない。気温はマイナス40度にもなる。「一本の木立ちもない荒野の上を風がヒューヒューと吹き荒れている。夏はからからに乾ききった風、冬は肌身を刺すマロースの風。この荒野には昔から一本の木立ちも生えたことはないのだ。まして、周りを鉄条網に囲まれた今はなおさらだ」要するに人間の住める環境ではないのだ。その作業とはどんなものだったのだろうか?「囚人は煉瓦を焼いたり、畑を耕したり、壁を塗ったり、家を建てたりさせられる」何のために?勿論工業化のためである。工業化のための資材は運ばれなければならない。だから、鉄道は敷設されねばならないし、トラック輸送のためには道路も作られねばならない。中継地には駅も必要であろう。管理者の住居も建設されねばならない。シベリアには森林がある。木材資源があり、その他の天然資源も豊富である。それらは切り出され、発掘され運ばれなければならない。これらの労働に囚人は動員されたのである。その苛酷さは十分に想像できる。その苛酷さをこの作品は余すことなく描いている。そこにあるのはまさに奴隷労働である。体を温める十分な暖房も無く、身なしの粥のために、一本の煙草のために右往左往する。強靭な肉体と精神なくしては刑期を全うできない。全うするためには生活の知恵を必要とする。仕事の場において、食事の場において、休憩の場においてすらそれを必要とする。管理者に対する袖の下はそのひとつである。そこには生存競争があり、勝ち抜いていかねばならない。それと同時に、そこには同胞愛があり、協調があり、協力がある。生活の知恵を持たない元海軍中佐のヴィノフスキーにはショーロフは手を差し伸べる。

 終戦を控え、日ソ不可侵条約を破り満州(当時)に侵攻したソ連軍はそこに住む日本人の住民、軍人を捕虜として、シベリアに拉致し、そこで強制労働に従事させたがその生活環境はもっと苛酷なものであったであろう。その奴隷労働に耐えきれず多くの日本人は死に至った。中国での残留孤児の問題も生じている。

 第2に特徴づけられるものは、囚人の性格である。ドストエフスキーの描く囚人は一般の囚人である。しかしこの作品で描かれる囚人はいわゆる政治犯である。元官僚で娑婆では自動車を乗り回し威張り散らしていたおエラ方のなれの果てのフェチコーワを除けば、すべて心の自由を求め劣悪の条件下でも毅然として生きる人たちである。囚人の持つ暗さはない。心のプライドを失わず、与えられた苛酷な労働を神から与えられた使命と考え、それを喜びと感じている。そこには本来的な労働がある。労働に精を出し、汗をかくことによって、マロースの寒さを忘れる。仕事終了の合図があっても、ショーロフは立ち去ることなく、しばし立ち止まり、仕事の出来栄えを確かめる。まだこの腕もおいぼれていないと自画自賛する。そこには労働の喜びがある。本来的な労働とは生産者と対象との間の物質代謝であり、それによって生産者は精神の高揚を体験する。利潤を求める疎外された部分労働ではない。バプテスト信者のアリョウシャはショーロフに云う「人間には素晴らし者でも神様のお眼には卑しいことなんですから!精神的なことをお祈りしなければいけないんですよ」と。本来の労働の精神性を考えると神につながるものを感じる。

 いわれなき攻撃には反撃する「この毒虫め、貴様らが勝手に刑期を伸ばせる時代は終わったんだ。 今日が娑婆の見納めになるぜ」と看守のデールに班長のチューリンは言う。うしろには副班長のパウロがシャベルを高く振り上げている。他の連中もデールを睨めつけている。デールは震え上がる。引き下がる以外にない。そこには囚人の持つ卑屈さはない。スターリンに対する批判も公然と行われる。「ひげの親爺(スターリンの愛称)がお前らを憐れんでくれるだと!あいつはな血をわけた兄弟でも信じようとはしなかった奴だぞ、お前らみたいなどこの馬の骨か判らない野郎を憐れんでたまるかい」。ここには言論の自由がある。密告があっても保安部は取り上げない。囚人は怖いし、手続きは面倒だ。過酷な生活に苦しみ、右往左往しながらも、彼らは大切なもの=高潔な心を失っていない。

 登場人物を紹介する。


 ヴィノフスキー元海軍中佐 エリート育ちであるが故に生活の知恵を持ち合わせていない。英国に協力し、戦後英国の提督から記念品を贈られたためにラーゲリ入りする。英国はソ連と同じ連合国の一員なのになぜ?

 元映画監督ツェザリ・マルコーヴィチ しばしば芸術談義を戦わす不思議なインテリ。映画監督と云っても1本しか映画は撮っていない。反権力映画であろう。

 バプテスト信者のアリョーシャ:全てを神のおぼしめしと信じ現実を肯定している。「されどもしキリスト教徒としてならば、恥ずることなかれ、かえって、かかる運命(さだめ)の故に神をたたえよ」という福音書の言葉を絶えず唱えている。

 班長のチューリン:父親が富農であったため赤軍を追放され、後にラーゲリ入りする。囚人たちの信望は厚い。白髪の老人

 副班長パウロ:ドイツ戦での英雄

 官僚のなれの果て:フェチコーワ

等々ここでは紹介を省略した囚人たちを含めてソヴェート社会のあらゆる階層(農民、軍人、インテリ、オールドボリシェヴィキ、バプテスト信者、元富農、元官僚等など)を代表する人物が織りなす人間模様がこの作品を彩っている。ソ連(当時)を代表する文芸誌「ノーブイミール(新世界)」の編集長トワルドフスキーは、この作品の「序にかえて」で次のように述べている。「作者は登場人物たちの運命に対して読者の心に哀傷と痛み引き起さざるを得ないが、その哀傷と痛みが、絶望的な打ちひしがれた感情とは少しも共通点がないという点に芸術家としての疑う余地のない勝利がある」と。ソルジェニーツィンは、この作品の中に登場する囚人たちの中に、いや、これらの人と同じ心を持つ人々の中にロシアの未来を託したのである。これらの何に対してもめげることのないロシアの大地に深く根を下した人々に栄光あれと叫びたい。これらの人がいる限りロシアの未来は明るいと信じたい。

ソルジェニーツィン作「イワン・デニーソヴィッチの一日」木村浩訳 新潮文庫
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%AF%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%87%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%81%E3%81%AE%E4%B8%80%E6%97%A5-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%82%BD%E3%83%AB%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%A3%E3%83%B3/dp/4102132015

https://blog.goo.ne.jp/moritake123-2007/e/0470876a9f8f529a113b18453c4c3b41


詳細は

ソルジェニーツィンの世界
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1236.html

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8. 中川隆[-7823] koaQ7Jey 2021年1月24日 18:55:13 : kqBY7beTjw : V3J5dllMME5LdEk=[39] 報告
新しく誕生したバイデン政権はどうでしょうか。なにか面白い話はありますか?

ジェームズ バイデンが大統領になって早速やったことはなにかというと軍内にトランスジェンダーを受け入れると言い出したことです。一般的な報道ではパリ協定に復帰するとかのほうを注目していますが、それ以上にバイデン政権を象徴するのは軍のLGBT化のほうです。これには2つの意味があります。1つは軍の弱体化です。軍の強さというのは命令系統の徹底です。「ここを守れ」と命じたら死んでも守るのが軍で、そうでなければ戦えませんが、LGBTはその運動からもわかるとおり、自分ファーストであることに重きをおきます。自分ファースト自体は悪い考えでも何でもないですが、こと軍人には極めて不向きです。ですから、これまで外してきたんですが、民主党がそれを推し進めるのは軍が怖いからです。

──軍が怖い? 

ジェームズ 彼らは自分たちが不正をしたことがわかっていますから、いつ軍が反対勢力になるかわからないと思っているんです。それならいっそ弱くなってくれたほうがいいんです。これは極左の特徴で、スターリンも軍が信用できずに将軍たちを徹底的に粛清しましたし、一般兵士の銃からは実弾を抜いたんです。スターリンが一番恐れていたのはクーデターだったんですが、そこに第二次世界大戦でドイツに侵攻されてしまいましたから最初はコテンパンにやられたんです。それはそうですよ、訓練もしてないし、指揮系統もバラバラなんですから。

──でも、それをやったら国が弱体化しませんか?

ジェームズ 間違いなくしますが、自分たちの利権がなくなるよりはいいと考える人たちです。その証拠がすでに議会を守る州兵たちの扱いに出ています。バイデンが大統領になって、すぐに民主党は、これまで議会を守ってくれていた軍人たちを地下駐車場に押し込めて、そこで寝泊まりしろと言い出したんです。そこは寒いですし、トイレもひとつしかありません。そこに5000人の兵士がいるんですよ。

──どういうことですか? もう守ってもらう必要がないってことなんですか?

ジェームズ いえ、守ってもらう必要はまだあります。ただし、議会内はもう安全なので「お前たちは議会の外にいろ」ということです。その前は議会内の廊下とかに寝てましたけど、議会内で寝ていると見苦しいので地下に行けということです。


──身勝手な話ですね。いままで散々守ってもらったくせに。

ジェームズ 馬脚を露わすという言葉を地で行く人々です。民主党員に他人をねぎらう気持ちはありません。逆にいつ彼らが自分たちに牙を剥いてくるかわからないので警戒しているぐらいです。しかし、外は完全に安全ではないのでガードは必要なので地下駐車場にいろ、ということです。いま軍人たちはかなり怒っていますよ。そしてもう1つ理由は、LGBT化は国をアトム化させるためにはとても使いやすい、口当たりのいい言葉なんです。それを軍にも推し進め、アメリカ社会全体にも推し進めていくんです。重要なことなのでもう一度言いますが、LGBTの人々が悪いのではなく、それを利用する人間がいるということです。LGBTは政治に利用されずに差別をなくす方法を模索するべきです。

──LGBTが進むと社会はどうなるんですか?

ジェームズ 家族が解体され、親子の絆が断絶されていきます。もちろん、LGBTの人々がそういう悪影響を持っているということではなく、LGBTムーブメントは国の解体、断絶のために使いやすいということです。これはかつてソ連のボリシェヴィキ党が行ったことです。家族を解体すると社会がアトム化します。すると、コントロールしやすくなるので、こちらを推し進めているのです。
https://tocana.jp/2021/01/post_196891_entry.html

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9. 中川隆[-15645] koaQ7Jey 2021年11月01日 18:34:11 : iqAOGccErg : SEp1OTlwWGlHaWs=[27] 報告
米国の資本家はスターリンを倒す為にヒトラーを支援した


2021年07月31日
ナチスを育てた米国の資本家 / 隠された西歐史
http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68866346.html


ヒトラーに資金を流した黒幕

Hitler 2232J.P. Morgan 221

(左 : ドイツ兵を前にするヒトラー / 右 : ウォール街の大物 J.P.モルガン)

  西歐世界における歴史教育は非常に厄介だ。なるほど、歐米諸国では優秀な大学教授や有名な研究者が、膨大な資料に基づき様々な歴史書を出版してきたし、現在も続々と新刊本が出ている。かつてのソ連圏や支那、朝鮮で出版される歴史書なら、「こんなのは政治プロパガンダの一種だろう」と笑われてゴミ箱行になるところだが、名門大学の権威者が世に出した“学術書”となれば話は別だ。一般人は準聖書の如く扱い、謙虚な心を以て恭しくその青史を繙く。まさか、歴史の真実を隠蔽するための偽典とは思わない。なぜなら、多少、解釈や判断の違いがあっても、あからさまな捏造は無いからだ。しかし、高名な学者であっても、何らかの“不都合な事実”を葬るため、意図的に言及を避けたり、陰謀論として却下するから一般国民には注意が必要だ。

  従来の学校歴史観だと、英米はソ連を同盟国にして、極悪のドイツ、イタリア、日本を成敗したことになっている。さらに、英米の勝利は「ファシズムに対するデモクラシーの勝利」となっているから片腹痛い。なぜなら、どうして極悪の共産主義国、すなわち全体主義のソ連が同盟国となっているのに、リベラル・デモクラシーの勝利と宣言できるのか? しかも、アメリカは大虐殺を厭わない毛沢東を支援して、支那大陸の赤化を推進した張本人。朝鮮戦争だって、ディーン・アチソンやジョージ・マーシャルの不可解な言動を調べれば、米ソの「出来レース」だと判る。東アジアは米国から遠く離れた化外の地。冷たい“緊張状態”が続くことは、エスタブリッシュメントにとって必ずしも損な状態ではない。ノルマンディー上陸作戦だって甚だ怪しく、ポーランドを含めた東歐諸国をソ連に貢ぐための策略じゃないのか、と思えてくる。もし、本当に歐洲を救いたければ、フランスの海岸じゃなくバルカン半島から上陸し、北上しながら反撃すればいいじゃないか。英米の一般人は、ポーランドがヒトラーの手から解放され、スターリンの懐に入ったから嬉しいのか?

Normandy D Day 001WW II Battle-of-Stalingrad

(左 : 「ルマンディー上陸作戦」に参加したアメリカ兵 / 右 : 第二次大戦で勝利したロシア兵)

  もちろん、一般のアメリカ国民や連合軍の将兵は、米国と歐洲を救うべく、多大な犠牲を払ったと思っている。しかし、大戦が勃発する原因や経緯、戦後の経済体制や国際秩序を冷静に見つめてみれば、何となく割の合わない結果であることに気づく。普通のアメリカ人やイギリス人は絶対に口にしないけど、「どうも、腑に落ちない。日独に勝ったとはいうものの、俺達の生活は良くならないどころか、以前よりも悪くなっている。第一、ナチズムを一掃したら、今度は故郷に有色人種が増えちまった。アーリア人を殺して、アフリカ人が隣人なんて真っ平御免だぞ。これなら、ドイツと一緒に組んでユダヤ人を中東に叩き出しておけばよかった。あれだけ多くの血を流したのに、その結果がこの程度なんて・・・」と嘆いてしまう。そもそも、大戦前にブリテン帝國の崩壊と英国病を予想したイギリス人は、いったい何人いたんだ? また、南洋戦線で日本兵を撃ち殺した白人兵は、本国での人種平等、つまり黒人との混淆やユダヤ人との共生を望んでいたのか?

  第二次世界大戦の隠された目的は、独立を高めるドイツ帝國への懲罰処分にあった。我々はナチ・ドイツがヨーロッパ諸国を侵掠し、ユダヤ人を迫害したから、正義と秩序を守る英米が蹶起(けっき)した、と習っている。しかし、こんなのは子供騙しの御伽噺だ。大戦の理由は幾つかあるけど、そのうちの一つは、歐米世界を牛耳る闇組織の誤算にあった。ロスチャイルド家の指令を受けたウォーバーグ銀行が、レーニンのボルシェビキに資金を流したことはよく知られている。日本人は「ロシア革命」と思っているが、実質的には「ユダヤ人によるクーデタ」と呼んだ方がいいだろう。嘘だと思う日本人は、ボルシェビキの幹部を一人一人じっくりと眺めてみれはいい。

  ポグロムを以てユダヤ人を度々迫害してきたロマノフ朝ロシアは、ユダヤ人にとったら不倶戴天の敵であるから、一家皆殺しは当然の結果である。しかし、革命の目的はそれだけではない。ロシアの富を収奪しようとする連中にとって、買収の効かないロシア皇帝は邪魔者でしかなかった。もし、外国人勢力がロシアの天然資源を根こそぎ奪い、民衆を低賃金労働者にして搾取すれば、必ずやロマノフ王朝は介入してくる。おそらく、外国企業は国外追追放になってしまうだろう。でも、子飼いのレーニンが支配者になれば、共産党が唯一の窓口になるから、党の幹部に甘い汁を吸わせておけば、後は国際企業のやりたい放題。巨大な資金を有するオルガルヒのような悪党、つまりロシア人の“フリ”をしたユダヤ人が、ロシアの至る所で跋扈し、ロシアの石油や稀少金属を掘り出して巨万の富を得るだろう。もちろん、ボルシェビキの一般党員は「赤色革命」の輸出に夢中だ。しかし、裏から資金を流していた連中は違う野望を抱いていた。そして、世界政府の樹立を目論む大富豪は、レーニン亡き後の指導者にレフ・トロツキーを充てようと考えていたのだ。

Lenin 00321Trotsky 661Stalin 231


(左 : ウラジミール・レーニン / 中央 : レフ・トロツキー / 右 : ヨシフ・スターリン )

  ところが、グルジア人のヨシフ・スターリンが、国際金融業者の計画に大きなズレをもたらした。スターリンは巧妙な策略を用いてトロツキーを欺き、レーニンの葬儀に参列できないよう仕組んでしまう。意識朦朧のレーニンから「後継者の指名を受けた」スターリンは、独裁者として赤いロシアに君臨する。しかも、冷徹な目で現状を捕らえる大元帥は、トロツキーの永続革命論を斥け、一国社会主義で自分の土台を固めようと考えた。これはトロツキーを「操り人形」にしようと考えていた資金提供者にとっては番狂わせのパプニングだ。彼らはスターリンを甘く見ていたのかも知れない。知識人型のレーニンと違って、暴君型のスターリンは金持ちどものペットになる気は更々無かった。レーニンは資本家の足元にひれ伏したが、スターリンは彼らの尻(ケツ)を舐めるのが大嫌い。ユダヤ人のパトロンに頭を下げるくらいなら、自前で金を稼ぐ方がいいと考えた。実際、スターリンは金に困って強盗になったし、売春婦を搾取する女衒にもなっていた。やはり、革命家は暴力団の闘士でなきゃ。

  ボーダレス・エコノミーを夢見る資本家達は、「絶大な権力を手に入れたスターリンを何とか制禦しなければ !」と思い、このグルジア人を懲らしめる政敵を創ろうと考えた。そこで目に附けたのが、当時、まだ駆け出しの政治家であったアドルフ・ヒトラー。なんと、ロンドンやウォール街を牙城とする大物ビジネスマンは、現地の企業を通してヒトラーに活動資金を渡していたのだ。この経緯については、アンソニー・サットン教授が詳しく述べている。フーバー研究所に属していたサットン教授は、ウォール街とボルシェビキの関係を明らかにしたことで有名だ。彼の三部作を読めば、どんな人物がヒトラーのパトロンになっていたかが判る。

Anthony Sutton 1Emil Rathenau 002Walther Rathenau 001


(左 : アンソニー・サットン / 中央 : エミール・ラーテナウ / 右 : ヴァルター・ラーテナウ )

  ヒトラーの台頭を助けた企業として挙げられるのは、米国の有名企業である「ジェネラル・エレクトリック社(General Electric)」である。この会社はベルリンにある「ドイツ・ジェネラル・エレクトリック社(Allgemeine Electricitäts Gesellschaft / A.E.G.)」と提携し、国家社会主義者のヒトラーを支援するスポンサーになっていた。「A.E.G.」というのは、エミール・ラーテナウ(Emil Rathenau)がトマス・エジソンの特許を取得して設立した、「ドイツ・エジソン電器会社(Deutsche Edison Gesellschaft für angewandte Electricität)」が前身となっている。そして、エミールの息子というのが、ワイマール共和国で外相を務めたヴァルター・ラーテナウ(Walter Rathenau)ときている。彼は1922年に暗殺されてしまうが、元々は父親の跡を継いでA.E.G.の経営を担っていた人物だ。

  ドイツでA.E.G.をパートーナーにしていたのが、アメリカの「ジェネラル・エレクトリック(GE)」で、GEの経営陣には、日本でも有名なオーエン・ヤング(Owen D. Young)とジェラルド・スウォープ(Gerard Swope)がいた。第一次大戦後、ベルサイユ体制で痛めつけられたドイツは、不況とハイパー・インフレーションに見舞われ、賠償金の返済にも困っていた。これを憂慮したアメリカは、ドーズ案とかヤング案を用いてドイツの経済復興を助けようとした。当時のカルヴィン・クーリッジ大統領は、特別委員会を設置し、元銀行家で副大統領になったチャールズ・ドーズ(Charles Dowes)を委員長にしてドイツへ派遣する。オーエン・ヤングが議長となった委員会では、「ヤング案」という計画が作成され、これが新たな賠償方式となった。このヤング委員長はGEの会長で、復興支援を模索する傍ら、ドイツの電器産業を束ねる計画、すなわちカルテルを結成しようと目論んでいたのだ。彼は他の企業の経営にも携わっており、「Radio Corporation of America」の会長や「OSRAM」と「A.E.G.」の経営者、ニューヨークのFRB副議長も務めていた。(註 / 「オスラム : OSRAM」というのは、電球などの照明器具を製造するドイツ企業で、ここの日本法人は神奈川県にある。)

Owen D. Young 22Gerard Swope 001Charles Dowes 1


(左 : オーエン・ヤング / 中央 : ジェラルド・スウォープ / 右 : チャールズ・ドーズ )

  ジェラルド・スウォープはGEの社長で、「A.E.G.」や「OSRAM」の経営にも携わっていた。彼も様々な役職を兼ねており、RCA(ヤングが創設したラジオ局や電気機器、レコード会社を手掛ける多国籍企業)、NBC(三大ネットワークの一つ)、ニューヨークの「National City Bank」の経営陣にもなっていたが、ヤングと同じくモルガン商会の代理人であった。J.P.モルガンの手下は他にもいて、GEの経営陣に属するクラーク・ヘインズ・マイナー(Clark Haynes Minor)は、「International General Electric(I.G.E.)」の社長であった。ヴィクター・カッター(Victor M. Cutter)もGEの経営陣に加わっており、彼はボストンの「First National Bank」を任されていた。

  ドイツの経済界でカルテルを形成しようと図るGEは、大手企業のA.E.G.を傘下に納めようと画策した。1929年8月、1,400万マルク相当の株がGEの手に渡り、両者の人的関係や技術提携は濃密になった。1930年1月になると、A.E.G.の重役会議にはGEの三人衆、すなわちクラーク・マイナーとジェラルド・スウォープ、E. アーサー・ボールドウィン(E. Arthur Baldwin)が送り込まれた。(註 : ボールドウィンは「International General Electric Company」の副社長を務めていた。) GEの野望は壮大で、このアメリカ企業はドイツの大手企業である「シーメンス&ハルスケ(Siemens & Halske)社」にも食指を伸ばし、電器業界の独占を目指していたのである。しかし、GEの目論見は達成されず、シーメンス& ハルスケ社は独立を保つことができた。(このS&H社はシーメンス社の一部門で、かのシーメンス社は電気・通信技術をはじめ、発電機やロータリー・エンジンなどの開発も手掛ける大手企業。大正3年に発覚した「シーメンス事件」は有名で、帝國海軍の高官が贈賄を受けたとのスキャンダルが騒がれ、山本権兵衛内閣は総辞職に追い込まれた。)

  ウォール街からやって来た投資家や企業家は、貪欲にもドイツ企業の支配に励んでいた。GE社の「International General Electric(I.G.E.)」は、「A.E.G.」株の約30%を取得し、「Gesellschaft für Electrische Unternemungen」社の株だと全体の約25%、「Ludwig Lowe & Co.」も餌食となって、全体の約25%を占められていた。(「G.E.U」は投資会社から始まった電力供給会社で、鉄道事業も手掛けていたドイツ企業。「Ludwig Lowe」の方は、機械製造の会社で、武器弾薬の生産も行っていた。) IGEはOSRAMにも影響力を持ち、A.E.Gの経営陣を通して操っていたという。

  シーメンス社が間接的にヒトラーへ献金を行った事はあっても、直接的に渡したという証拠は無いらしい。でも、「A.E.G」や「OSRAM」からの資金提供は明らかで、「国家信託機構(Nationale Treuhand)」を介して資金を流していたそうだ。(Anthony C. Sutton, Wall Street and the Rise of Hitler, Seal Beach, California : '76 Press, 1976, p.53.) 米国のビジネス業界と連動するドイツ企業もヒトラーに資金提供をしており、染料や肥料、窒素の生産で有名な「I.G. ファーベン(Interessengemeinschaft Farbenindustrie)」も直接的に献金を行っていた。A.E.G.から数名の役員がI.G. Farbenに出向しており、A.G.Eの会長を務めるヘルマン・ブュヒャー(Hermann Bücher)とユリウス・フレッチハイム(Julius Flechtheim)、そしてヴァルター・フォン・ラス(Walter von Rath)の三名は、I.G. Farbenの重役でもあった。

  A.E.G.のウァルター・ファーレンホルスト(Walter Fahrenhorst)は、「フェニックス社(Pheonix A.G.)」や「ティッセン社(Thyssen A.G.)」、「デマグ社(Demag A.G.)」の重役を兼ねており、この三社はともにヒトラーへの献金を行っていたという。(上掲書、p.57) また、潜水艦や戦車に使われるバッテリーを製造していた「Accumulatoren Fabrik 社」もA.E.G.の重役二名、アウグスト・フェファー(August Pfeffer)とギュンター・クァント(Günther Quandt)を迎えており、2万5千ライヒス・マルクの献金をヒトラーに渡していた。ちなみに、クァントは「Accumulatoren Fabrik 社」が発行する株の75%を個人的に持っていたそうだ。A.E.G.のポール・マムロス(Paul Mamroth)とハインリッヒ・ファールス(Heinrich Pferls)は「OSRAM」の重役で、同社はヒトラーに4万ライヒス・マルクの献金を行っていた。

  鉄鋼業から始まり兵器産業へと進出した「クルップ社(Krupp)」も「I.G.E」と繋がっていた。GEは子会社の「Carbolony Company」を使ってクルップ社とカルテルを組み、「炭化タングステン(tungsten carbide)」の値段を吊り上げた。1920年代、この素材は1ポンド当たり50ドルしかしなかったのに、Carboloyが特許を用いて独占を図ると、1ポンド当たり453ドルまで高騰したという。これにより、両社は大儲け。I.G.E.と提携したクルップは、60万ライヒス・マルクの資金をヒトラーに提供していた。

  学校の教科書を疑わない日本人は、ナチスとヒトラーの話を聞けば、直ぐにホローストや侵略戦争を頭に浮かべてしまうが、「誰が伍長上がりの活動家に銭を渡したのか」を考えることはない。政治家になるには理念や情熱だけでは不充分で、必ず活動資金が必要となる。ユダヤ人の害悪を訴える退役伍長は、大企業の御曹司でもなければ、貴族の道楽息子でもない。露骨に言えば、大勢の乾分(こぶん)を抱えたルンペン親分だ。潰しの利かない武闘派の手下に飯を与えるだけでも精一杯。だから、アメリカやブリテンからやって来た怪しいビジネスマンでもOKとなる。「シドニー・ウォーバーグ(Sidney Warburg)」というペンネームで出版された『Financial Origins of National Socialism』によれば、ウォーバーグ自身が1929年から1933年にかけて、5回ほどヒトラーと会談し、このドイツ人が資金を欲していると分かったので、約2500万ドルを送金したという。

Paul Warburg 11James Paul Warburg 221max_warburg_1905Eric Warburg 11


(左 : ポール・ウォーバーグ / ジェイムズ・ポール・ウォーバーグ / マックス・M・ウォーバーグ / 右 : エリック・H・M・ウォーバーグ )

Mathilde Ludendorff 001(左 / マチルデ・ルーデンドルフ)
  もちろん、この「シドニー・ウォーバーグ」というのは実在の人物ではない。しかし、巷ではこの本がポール・ウォーバーグ(Paul Warburg)の息子であるジェイムズ・ポール・ウォーバーグ(James Paul Warburg)によって書かれたんじゃないか、という噂が流れた。なぜなら、第一次大戦で有名になったドイツ軍のエーリッヒ・ルーデンドルフ(Erich Friedrich Wilhelm Ludendorff)将軍の再婚相手で、未亡人となったマチルデ(Mathilde Friedrike Karoline Ludendorff)夫人が、ニュルンベルク裁判でジェイムズ・P・ウォーバーグがウォール街とナチスの橋渡しになっていた、と証言したからだ。しかし、マックス・M・ウォーバーグ(Max Moritz Warburg)の息子であるエリック・H・M・ウォーバーグ(Eric Hermann Max Warburg)は大激怒。マチルデ夫人の言説を「でっち上げただ!」と言い放った。この「シドニー・ウォーバーグの虚説」に対して憤慨したエリックは、これを掲載した各新聞社に抗議し、正式に取り消してもらったそうだ。(ロン・チャーナウ 『ウォーバーグ : ユダヤ財閥の興亡』 下巻、青木榮一 訳、日本経済新聞社、1998年、 pp.298-299.) 

  ちなみに、チャーナウの翻訳本は全訳ではなく、大切な「註」も省略しているので、本の価値が半減している。せっかくの労作なのに、肝心の註を省いたから台無しだ。まぁ、数頁にわたる脚注を附けると値段が高くなるから割愛したんだろうが、翻訳者の青木氏と日経新聞社はアホな事をしたものだ。

  話を戻す。「シドニー・ウォーバーグ」の本は元々、ネーデルラントのアムステルダムにある「Van Holkema & Warendorf」という老舗の出版社から刊行された書籍である。ところが、この小冊子は極めて少数しか販売されなかったので、今では稀覯本となっている。ただし、ここに隠れた価値を見出した人がいたので、スイスでドイツ語版が出版されたという。さらに、ドイツ語版を基にして英訳本が出版され、 1980年代に入って「Research Publications」が復刊した、という次第である。現在は、「Omnia Veritas社」が出版しているので、日本人でもアマゾンで購入できる。原書の『De geldbronnen van het nationaal socialisme : drie gesprekken Hitler』(Amsterdam : Van Holkema & Warendorff, 1933)が誰によって書かれたのかが不明だから、安心して信用できる資料とはならないが、もしかすると、内情に詳しい誰かがこっそりと暴露したのかも知れない。全くの素人が出鱈目を書いたとは思えないから、たとえウォーバーグ家が否定しても、幾つかの箇所は事実なのかも知れないぞ。日本の歴史学者は、こうした点に目を附けて詳しく調べるべきなのに、ユダヤ人の書いた学術書ばかりを有り難がるんだから本当に情けない。

  我々は学校で社会科の授業を受け、テレビや雑誌でも第二次世界大戦について聞いている。しかし、その歴史観、あるいは説明の枠組みを誰が作ったのか、に関しては興味が無い。生前、外務省の外政官でサウジ・アラビアやタイに赴任した岡崎久彦大使が語っていたけど、敗戦国では戦時プロパガンダが暴露され、様々な嘘が明らかにされているが、戦勝国では戦時プロパガンダがそのまま残ってしまうらしい。不正確な情報が否定ささず、修正もされないまま温存され、やがてそれが「定説」となってしまうのだ。ナチ・ドイツに関する「歴史」もその危険性があり、ナチス側の反論は悉く斥けられ、英米の学者やユダヤ人の一方的な解釈と論説で「正統な歴史書」が綴られている。

  そもそも、事後法に基づくニュルンベルク裁判自体が違法だし、検事と判事が“グル”なんて論外だ。勝者側の裁判官はドイツ側の弁護士が証拠の提出を求めても却下するし、英米側が持ち出してくる「証拠」だって、どんな「味付け」がなされているのか分からない。公式な報告書だって巧妙な捏造かも知れないし、調査官が米国側の工作員という可能性もあるのだ。日本人はユダヤ人の証言を鵜呑みにするが、科学的捜査に基づく物的証拠も無いのに、それを「真実」と思うのは間違っている。だいたい、「宣誓証言」でもない「噂話」や「感想」を「事実」と宣伝するのは異常だ。もし、米国と英国の政府がドイツと日本を裁くなら、英米の極秘ファイルも公開すべきだろう。しかし、いくら日本の弁護士が機密資料の公開を求めても米国は応じまい。つまり、英米は「疚しい過去」や「不都合な真実」を隠したまま、日独を裁いたということになる。たぶん、アメリカの弁護士や裁判官は、心の底でこうした魔女裁判を「リンチ法廷」と見なしているはずだ。でも、自分の社会的地位を守りたいから、誰もが口をつぐんで知らぬ顔。悧巧な者は無口だ。

Deborah Lipstadt 001David Irving 222

(左 : デボラ・リプシュタット / 右 : デイヴッイド・アーヴィング )

  歐米の知識人に勇気のある人は少ない。A.J.P.テイラーやパトリック・ブキャナンのように、従来の「歴史観」に刃向かったら、ユダヤ人勢力の総攻撃を食らって自滅となる。日本でもそうだけど、有名になる知識人というのは、民衆から尊敬されたいと望み、出来ることなら優雅な生活を送りたいと欲する高級種族。しかも、綺麗事を語るのが大好きな偽善者。日本学術会議にたむろってい連中をみれば判るじゃないか。リムジン・リベラルの先生達は、真実を喋って貧乏暮らしなんて真っ平御免である。英国のデイヴッイド・アーヴィング(David Irving)は、普通の大学教授が怠けて調べないドイツの一次資料を丹念に調べ、驚きの事実を数々公表したが、歐米ではネオ・ナチとか異端の歴史家扱い。ユダヤ人学者のデボラ・リプシュタット(Debora Lipstadt)から目の敵にされたアーヴィングは、「ホロコースト否定論者」との因縁をつけられ、訴訟沙汰に巻き込まれて多額の罰金を科せられた。こうした迫害を受けたアーヴィングは、憐れなことに破産状態へと陥った。こんな惨劇を見れば、普通の知識人はビビってしまうだろう。だから、ちょっと賢い歐米人は、どんなにユダヤ人が事実をねじ曲げ、勝手な歴史観をバラ撒こうが、絶対に反論しようとは思わない。日本人は自由な言論空間にいると思っているが、それは鉄壁の枠組みが透明で目に見えないからだ。しかし、勇気を持って主流の枠組みから逸脱し、「陰謀論」と馬鹿にされる世界に立ってみれば、別の景色が見えてくるかも知れないぞ。

http://kurokiyorikage.doorblog.jp/archives/68866346.html  

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10. 2023年10月10日 02:12:58 : qFFXQaTFBY : N01JczVSLzdlZEE=[1] 報告
【スターリン】大粛清はなぜ起きた?最恐のサイコパス独裁者!生い立ちから徹底解説!
2021/01/30
https://www.youtube.com/watch?v=h6Okldxlw8I&t=4s

最恐のサイコパス独裁者スターリンの生涯はいかに?
少年時代から垣間見えるサイコパス加減…
身内にも容赦なし!
第二次世界大戦での指揮も残虐非道…
スターリンがどのようにソ連のトップに立ち、どのように恐怖政治をしたのか、徹底解説!

11. 中川隆[-11269] koaQ7Jey 2024年3月16日 09:03:15 : K7e7fGe11s : Z3FieHlkMHRXUDI=[9] 報告
<■76行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳
2024年03月16日
江田憲治、中村勝己、森田成也『世界史から見たロシア革命 世界を揺るがした一〇〇年間』
https://sicambre.seesaa.net/article/202403article_16.html

https://www.amazon.co.jp/%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%81%9F%E3%83%AD%E3%82%B7%E3%82%A2%E9%9D%A9%E5%91%BD%E2%80%95%E4%B8%96%E7%95%8C%E3%82%92%E6%8F%BA%E3%82%8B%E3%81%8C%E3%81%97%E3%81%9F%E4%B8%80%E3%80%87%E3%80%87%E5%B9%B4%E9%96%93-%E6%B1%9F%E7%94%B0-%E6%86%B2%E6%B2%BB/dp/4806807168


 柘植書房新社より2018年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は2017年に開催されたロシア革命100周年記念シンポジウムの書籍化です。本書は、ロシア革命から100年となる2017年11月4日に開催されたシンポジウムの書籍化です。このシンポジウムでは、リーマンショックなど21世紀になって「社会主義に勝利した」はずの資本主義の問題点が顕在化する中で、ロシア革命の現代の世界史的意義が改めて討論されました。ロシア革命を全面的に肯定するわけではないとしても、ロシア革命を否定したり、ロシア革命の結果成立したスターリン体制がナチ体制とともに「全体主義」の枠組みで把握されたりする傾向に異議申し立てをする、というわけです。私の歴史認識や政治的立場とは大きく異なりますが、それだけにロシア革命に詳しくない私にとって教えられるところが多いのではないか、と考えて読みました。なお、このシンポジウムの参加者はほとんどが70歳前後だったようで、やはりこのシンポジウムのような問題意識が若い世代にはなかなか浸透していないようです。以下、本書の興味深い見解を備忘録としてまとめます。

 森田成也氏は、ロシア革命を一国の革命とは把握しないよう、提言します。ロシアが中心になっているものの、第一次世界大戦など世界的激動の一環として把握すべきというわけです。これは、ロシア革命が起点となり、その影響が世界中に広がっていったことも重視した認識です。「革命」自体はヨーロッパも含めてほぼ失敗しましたが、マルクス主義の影響は日本も含めて世界中の「非」もしくは「反」共産主義諸国にも広がった、というわけです。森田氏はロシア革命について、単なる必然史観でも単なる逸脱でもなく、偶然的側面も客観的に条件づけられた側面もある、と指摘します。また森田氏は、ヨーロッパ「先進諸国」に対するロシアの「後進性」と、それ故のロシアのブルジョアジーの「反動化」と労働者階級の大都市における集中度の高さを指摘します。また森田氏は、農奴制廃止が中途半端に終わった故の農民の「革命性」と、反ユダヤ主義が強かったことに起因する抑圧されていた少数民族の「革命性」とともに、第一次世界大戦における「後進的」農民と「先進的」労働者との従軍経験の共有も指摘します。

 中村勝己氏は、ロシア革命をめぐる同時代のレーニンとカール・カウツキーの論争のうち、ほぼレーニンの主張のみ翻訳されている戦後日本における左翼の言説空間の歪みを指摘します。カウツキーの言説には、公開性の原則や複数政党制(複数前衛党論)の重要性の指摘など、現代にも通ずる価値がある、というわけです。中村氏は、ロシア革命を同時代に経験したローザ・ルクセンブルクもロシア革命でのボリシェヴィキ独裁を批判しており、カール・カウツキーとローザ・ルクセンブルクには、民主主義における多元性保障の論理を必要とするヨーロッパ自由主義伝統の視点が根づいていた、と指摘します。湯川順夫氏は、ボリシェヴィズムとスターリニズムを一直線に結ぶことはできず、両者の間には質的断絶がある、と指摘します。

 江田憲治氏は、中国における共産主義の受容と定着での陳独秀の役割を重視します。江田氏は、陳独秀の民主主義闘争(革命)から社会主義革命への移行論(永続革命論)はトロツキーに学んだもので、民主主義と社会主義の同時並存論はそれを発展させた、陳独秀独自の思想の到達点と見ることができるかもしれない、と評価しています。なお、江田氏がかつて、中国共産党指導者が親族にいる中国史研究者に毛沢東の理論面での評価を尋ねたところ、毛沢東には理論などなく、せいぜいゲリラ戦の理論くらいだった、との返答があったそうです。さらに江田氏は、ゲリラ戦の理論も、毛沢東の思想的営為の結果ではなく、他の軍人(曾中生)の発案だったそうです。つまり、「毛沢東思想」とは、レーニン以来の社会主義の政治的指導者は同時に理論的指導者であり、そうあるべきという「政治文化」の所産か、実態を超えて指導者の正しさを強調する「政治文化」が、ロシアから中国、スターリンから毛沢東へと伝わったのではないか、と江田氏は指摘します。

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