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自己の感性を取り戻す探求の旅 1
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投稿者 金十字架 日時 2014 年 9 月 21 日 04:04:49: mfAWtS4GF8MpY
 

規範と云った常識は、それぞれの時代の権威、または立場上の利害に絡みながら、
人の手で創り上げられてきたものです。
物理的世界であれば、必ず決まって、こうした固有の概念社会を生み出すものである訳ではありません。

人々は一般常識に身を這わせるようにして生活しています。
謂わば、その元締めとなる概念の上に、我々は属し、"共生"している訳です。

常識とは、社会的論理に適合する為の道具であると言えます。
世間一般にとって、常識を"身につける"事とは、言葉通り、
人が衣服を着て生活するのと同じ位、当たり前の事とされています。

単純に社会に認知された「危険視される事柄」から身を守る為には、
防衛措置、謂わば安全策としてそれらが必要だ、と云うことになるのだと思います。

その代わりに、自分の感性にマッチしない事を強制されても、
自分の考えを押し殺して、社会的な安全や規範を優先するように非ねばならない訳です。

つまり、人々の求める利便的要素に適合出来ないことは即ち、
信頼の置けない人物としての評価を受けて、価値の無い人物と看做され、
人生からの転落、または社会からの脱落を意味することに繋がります。

誰もがそこに共有するとした同類としての「苦しみ」への理解を拒否することもが、
社会に於いてはもっとも敵視を集め、その者の生命を脅かす、
危険視された行為であるという訳です。

我が子には、感性が伸びやかに育つことを
親なら誰もが願うのが普通であるのだと思いますが、
人の倖せが、社会に於ける成功であると考えれば、そうとも言ってられなくなります。

しかも、そうした例はほんの一握りである事を認めれば、
保険があり、比較的、安全なものへと流れていくように教育するのは、
親心としても頷けるものなのではないでしょうか。

親の立場としてあれば、当然そこに自身への評価も被さる訳ですから、
「伸びゆく姿をそのままにしてはあげたいが、社会的責任も痛い程に感じる」訳です。
それで時に、過度に感情的な押し付けに発展することにもままなる訳です。

ただし、人を本当に愛情深く思って、信頼するというならば、
「かわいい子には旅をさせろ」という言葉に見る態度が適切であるように感じます。

そしてまた当人も、他者の振舞いにたじろぐ事無く、
自分自身もが、そのような妥協なき態度を自分の中に見出せてこそ、本当の自立と言え、
そして、他の者の苦痛を楽に変えたいという意思を具現化する力へと
見出すことができるのであるだろうと、私は思います。

つまり、本当の愛とは、実際は誰をも庇うものでは無く、
その者が自分の感性によって答えを出したのらなら、
後はその決断を尊重し、その者の責任を自覚させると云う一点にある訳です。

実は国家と云うものは、そうした意思と責任ある人々の決断によって、
一から形成されなくてはならないものである筈のものです。

人々が保護策と云うものが必要であるならば、それその者を活かす、
国家的役割もまた、それぞれの人の手に委ねて創られねばなりません。

災害にあって、家財を失った者が被災前のように、
すぐに復帰し、ストレスなく行動に転じる事が出来る金の使い方を
我々が望めば、それはそのようになる、という形へと作り替えられていく筈です。

個々のそうした決断を巨大な力と云う幻想によって後回しにされながら、
ただ、そこに自分達の感性を押し殺し、
目の前の行動指針に遵わざるを得ない形をとらされ続けて、その力を殺がれています。

そうでありながら、それぞれにとるべき行動は、
すべて各々の意思によって採択された自己責任であるとされている訳です。

故に、そこにある自身の行動に対して、論理的整合性をみようとすれば、
その胸中は、その都度、不可解なもので埋め尽くされる筈です。

本当の自分の力、そして感性、そして「行動に付随する責任」とは、
その事によって何かを「望む方へと作り替えていく為」に何より必要で、
我々から切り離せない重要なものであるのです。

あなた方がいつぞやに刷り込まれてしまった、「自己責任」という言葉にかぶせられた、
あなた方の力への否定性は、きちんとあなた方の意思の目覚めに依って取り戻さなくてはなりません。

何故、我々にそれが出来ないと考えるのでしょう。

「片方ではこう思っているけれど、片方ではその考えを閉め出そうという意識の働きがある」
大体こう云う自己の心のせめぎ合いの中で、外側にでないままに終わる訳ですね。

「判っちゃ居るけどやめられない」というのは、
自分の感性と論理的思考が一致してないことを単に物語っています。

よって、そのままでは、ただジレンマを膨れ上がらせる事にしかならないと云う訳です。

我々は一定のドラマ性に対して、泣いたり、笑ったり、感情を出す事を求めます。
(あまり怒りを求めて映画を見ようとする人は居ないでしょう)

強く心が揺さぶられて涙する時に、その自身のごく当たり前の感性に気付かされて、
普段切り離していた自分を感じ取る事が出来るからです。

映画の感想を言い合って、お互いの感じ方の距離を量るというのも、
心理的に、人と根底で繋がりたいと云う意識の現れである筈です。

しかしそれは、結局のところ、普段、どれだけ満たされていないと意識しているか、
そして、如何に自己の感性を解放して居ないかにも気付かせてくれているのです。

人々はそうして、自分への信頼や価値をその根底では理解しつつは居ても、
あまりそれを素直に人前に現すと云う事が、自然にはできづらい状況であることだけは、
常に認識している訳です。

そうした素の性分自体は、感性の開発に伴って成長するものだと言えます。

自分の素の部分をナイーブなものとだけ看做していれば、
それを隠し持つことだけに意識を傾けることになるでしょうし、
そうなれば、一向に自己を守る事だけに専念した働きを見せ続けます。

自分が恐怖におののくものがあれば、
「何故そう感じているのだろう?」と、とことん迄自問しつづければ、
自ずとおさまる所が見えて来るものです。(これに関する解法も別途詳しく書く予定です)

これは、自己中心的、エゴの働きであるとし、それを敵視するような考え方も、
所謂、その社会正義に同調した働きとして、世間一般に見ることでありますが、
社会をひとつの概念的存在と看做せば、それは社会そのものにもまた、拭えない恐怖、
つまり、社会的なエゴというものがあるのです。

ここに言える事は、(エゴについても別途投稿する予定です)、自我(エゴ)は、自然な役割として、
それそのものの生命活動を維持する為に不可欠な、監視役でもある、と云う事です。

生命と看做せる存在は全てそうした働きがあると言えます。
ただし、社会の場合は傷つく肉体そのものはないのですから、心理的な痛みそのものは、
それを支持し支える人々にあると言えます。

自我は自らの消滅を回避する為に、あらゆる危険をあなたの意識の中に指摘して回り、
あなたを危険から遠ざけ、保護するという立場を手に入れています。

社会的なエゴもまた、それぞれの人々を介して、同質一体として存在すると言えます。

つまり、人間社会は、あなた方が何に同調するかで変わってきます。

あなたの自我同様、社会性もあなた方の意思に付き従って来るのです。

既成の社会概念と云う生命として同化している間は、
あなたは社会生活が如何に必要かを人々に説き、
共に延命を図る為の広告塔として、画策しつづけるでしょう。

それぞれの宗教もまたそこに同じです。

しかしそれは、単にあなたが、社会的エゴが持つ、それ自体の崩壊の恐怖と、
そこに従えられる自己もまた崩壊する憂き目を感じる事によって同調を果たしているが為に、起きている事なのです。

そこにある論理的かつ、合理性によって生まれた考えは、常に感性を抑えつけてきました。
そしてついにあなたの感性は、そこにある論理性とは一致しなかった事実を見出す訳です。
つまりは、そこに、社会的論理性はあなた方の感性には、
ついぞ、追いつくことは出来なかったと見る事が出来るのです。

そしてこのままでは、あなたが確かな感性を取り戻すことはできません。

そこに生まれる確固たるその意思の力で、確かな意識を見出し、
あなたの感性の力を取り戻し、自身の主体性を確かなものにした暁には、
あなたが成長していける道が現れ、感性と論理性が一体のものとして働き、
すべての考えはそこにつき従うのです。

この物理的居住空間に於ける、あなたの素顔とも言える自我さえも。

どちらかと言えば、素顔とは、幼少期のごく初期にのみ人前で見せるものであって、
大人ともなれば、そうしたものは影に隠しておくべきだとする、差別的な考えの元、
大人が「実像」だと思う自己の姿を人前には現すことがないようにしようとしてきた所為でもあるのでしょう。

それは、社会と云うものの中では、常に、
危険性から自分のナイーブな部分を守らなくてはならない、
という、日頃自分の好きなキャストやらが登場するドラマ等で、
散々インプットされてきた認識から生まれているものです。

ある見方で言えば、傷つく事を怖れるのは、トラウマによる、
素顔の裏に隠された「影」による働きとされています。間違っているかもしれませんが。

つまり何らかの理由は有るものの、そのように自分を被害者意識に落とし込む人々は、
「虚」像を盾や鎧のように見立てて、痛みというものを隠す、
又は自分の意識しないところにそれを遠ざけようとします。

(これが意識されない、つまり、人々がその自己の感性に理解しない、
無意識に不幸を呼んでいるものであると云う事を、次の投稿に書きたいと思います)

そうして社会では、擬態する事が妥当であると理解している、ということになります。

社会に溶け込もうとする段階に、
損得勘定に長けたものは擬態の技術をしっかりと把握して身に纏っていきます。

素顔を隠すペルソナ。
所謂、社会的要請に応じて、場面ごとの剴切な防衛措置として創り出された、
「虚」の自己像であるという訳です。

そこには、素顔のままでは生きづらく、仮面を付けねば傷を負ってしまう、
という古びた考えがあります。

けれども、そうしていても、社会全体がそうした自己との不調和、
つまり個々に抱える怖れの中に留まる限り、結局なんの解決も見ず、
現状を打開する事などおいそれと出来やしない、という結論に引っ張り込まれていくのでしょう。

そして、全体としてはまた楽にもならないと云う事に行き当たる訳です。

そこでの社会性が人々にあらゆる規制を課すことによって維持されているとしたら、
その社会を維持する力は、人々の「怖れ」であり、けして緩められる事は無いと云う事になります。

つまり、この「怖れ」が緩めば、社会は崩壊します。


<つづく>
 

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