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宮崎の山村に伝わる「百済王伝説」の謎
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/849.html
投稿者 中川隆 日時 2013 年 7 月 14 日 00:22:09: 3bF/xW6Ehzs4I
 


いったいなぜこんな山奥の地に!?

古代の朝鮮半島に栄え、日本とも交流が多く、仏教をはじめとする多くの文化をもたらした王国「百済」。

その百済の王族が隠れ住んでいたと伝説に残る村が宮崎県にある。

南郷村という、九州山地の山間にある小さな村である。

今から1300年ほど前、百済の王族の禎嘉王とその息子の福智王が、宮崎の海岸に漂着して、南郷村に移り住んだという。

このふたりの霊を鎮めるため、南郷村では、毎年、旧暦の哩月に、息子の福智王が父の禎嘉王を訪ねる「師走祭り」という祭りが行われるが、この祭りには、朝鮮半島に伝わる風習とよく似た儀式がまじっている。たとえば、師走祭りでは、氏子や、祭りに参加した人々の行列が、途中で河原に降りて石を2つずつ拾い、自分の肩に乗せて、禎嘉王が祁られている神門神社の近くの石塚に納める。

いつぽう韓岡では、道を通る人々が道中の安全を願って石を供える「ソナンダン」という風習があるが、このソナンダンと、師走祭りで石塚に石を納める儀式はよく似ている。

また、祭りの最後に、「ヘグロ塗り」といって、神門神社の境内で、ナベやカマの炭を互いの顔に塗りあう風習があるのだが、韓国でもやはり、旅立つ人の魔よけとして、顔に炭を塗る習わしがある。

さらに、神門神社には、正倉院の遺物と同じ型の「瑞花六花鏡」が納められている。

こういったことからすると、南郷村の伝説は、史実を伝えたものと思われるのだが、そうすると不可解なのが、どうしてこんなところに隠れ住んだのかという点である。この百済の王族の親子が朝鮮半島から逃げてきたのだとすれば、朝廷に保護を求めればょさそうなものだ。どうしてわざわざ、宮崎の山奥の村に逃げ込んだりしたのだろう?

これについて、作家の金達寿氏は、この百済の王族親子は、朝鮮半島からではなく壬申の乱で逃げてきたのではないかという仮説を述べている(「歴史発見喝」角川書店刊)

天智天皇は、百済の危機に際して朝鮮半島に出兵したことからもうかがえるように、百済と親密な関係にあり、百済滅亡後、多くの百済人が日本に亡命してきていた。この百済からの亡命者たちは、天智天皇が現在の滋賀県大津に築いた近江京において官僚として仕え、天智天皇の死後、壬申の乱が起こったときには、天智天皇の子の大友皇子側についた。

これに対し、百済を滅ぼした新羅は、大海人皇子(天武天皇)の側についたものと考えられる。壬申の乱で大友皇子側が敗れると、近江朝廷に仕えていた百済人たちも、敗者として都から落ち延びることになるが、南郷村の伝説の禎嘉王と福智王も、史料には出てこないながら、この近江朝廷側の官僚、おそらくは武官だったのではないかという。

この仮説を裏付けるように、福智王を刷った比木神社の縁起では、禎嘉王と福智王はいったん安芸国厳島に滞在し、その後、日向の浜にたどり着いたという。安芸を経由して落ちのびてきたのなら、壬申の乱で都から逃げてきたという可能性も高そうだが、なぜこんな山深くに?という謎は依然として残る。
http://www.w-a-mozart.jp/entry/therekishi11.html  

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コメント
 
01. 2013年7月14日 00:50:28 : W18zBTaIM6

朝鮮半島からの流入民

 
日本列島へは、旧くからアジア大陸での争いに伴って、アジア大陸(主に朝鮮半島)からの流入民が多くいた。ここでは、大きく3回に分けて大陸からの流入について整理していく。


 
★流入第一波 〜紀元前4世紀頃 楚からの難民流入〜

約2400年前(紀元前4世紀頃)、中国は戦国時代と呼ばれる時代で、諸国(燕・斉・趙・魏・秦・韓・楚)が争っており、燕・秦・楚からの難民が南朝鮮へ流入し、日本列島へも海洋ルートで楚からの難民が流入していた。

 
★流入第二波 〜2世紀頃 朝鮮半島からの亡命部族(侵略部族)の流入〜

紀元後146年〜189年(桓帝・霊帝の治世)の間に「倭国大乱」が起こったと「後漢書」(東夷伝)に記されており、「三国志」(魏志倭人伝)他の書物にも2世紀後半に「倭国大乱」があったことを記述している。
 
一般には「倭国」=「日本」と解されていることが多いが、戦国時代〜前漢時代にかけて編纂された「山海経」の記述からは、朝鮮半島中部にあった国であると読み解け、「倭国」の範囲は倭人たちの領有地域に規定されており、前漢以前の時代はむしろ朝鮮半島中部〜南部が「倭国」の主要領土で、倭人の一部が日本列島にも上陸していたとみなせる。
 
よって、「倭国大乱」とは、日本列島だけでの出来事ではなく、2世紀頃に朝鮮半島南部にあった3つの部族連合

「馬韓(→4世紀に百済によって統一)」

「弁韓(→4世紀に部族連合のまま伽耶連合)」

「辰韓(→4世紀に新羅によって統一)」

の争いであり、その争いによって追いやられた部族が、日本列島へ流入したと考えられる。
 
「倭国大乱」期に朝鮮半島からの流入民は、数的に第一波より多いのはもちろん、亡命部族であると同時に武装した侵略部族であり、彼らによって縄文人たちは制圧されたであろう。
 
この大乱は最終的に女王(卑弥呼)を共立して収まったとされているが、これは女首長をおく母系集団的な治め方であり、この時期でも縄文的性質が失われておらず、むしろ統治のためには縄文的性質への同化が不可欠であったと言える。

 
★流入第三波 〜6世紀の任那滅亡、7世紀の百済滅亡と流入民〜

朝鮮半島では、新羅によって562年に任那が、新羅−唐連合軍によって660年に百済が滅ぼされた。

「倭国」がもともとは現在の「日本」だけではなく、南朝鮮と日本列島の一部を占めていたことを考えると、これは単なる朝鮮半島という地域の出来事ではない。
 
これは、日本列島にいた(伽耶を出身地とする)「倭人」にとっては、故地(伽耶・任那)を奪われ、同盟国(百済)を滅ぼされたことを意味する。

滅亡した百済の遺臣達からの要請に応じて、「倭国」が大軍を派遣して白村江の戦い(663年/百済・倭国軍敗戦)に挑んだのは、このような事情があったからに他ならない。
 
そして伽耶・任那滅亡から百済滅亡、白村江の戦いまで、大量に伽耶人、百済人の流入が続き、これらの中には社会的に高位の者も少なからずいた。
 
このような大量流入が起これば、使用言語が大きく変化したり、あるいは流入者の母語に取って代わられかねないが、この流入第三波によってもそのような事態にならず、縄文的性質が継承されていった。
 
【参考】
「渡来人の氏神様A…分化の融合−D渡来人」韓郷神社社誌
http://park15.wakwak.com/~yoshimo-2/moto.176.html

http://blog.trend-review.net/blog/2008/08/000799.html#more


02. 2013年7月14日 01:01:35 : W18zBTaIM6

古代朝鮮からの侵略部族が、一貫して日本を支配してきた 

古代日本、とりわけ朝鮮半島が戦乱にあけくれた2世紀〜6世紀に 、彼らは日本にやってきた。当時南朝鮮は、部族連合から国家への 移行期であり、激しい戦いを繰り広げ、そこから押し出された部族 が、一族郎党で武装のまま新天地の日本にやってきたのだった。


彼らは既に鉄製の剣を持ち、戦慣れした武装勢力であり、当時の縄文人・弥生人が敵う相手ではない。西日本に侵略部族による国が、あっという間に出来 あがる。


この2世紀ごろ西日本に成立した国々は、

・邪馬台国(ヒミコ)・・・・・・・・・・後の伊勢神宮系
・狗奴(くぬ)国(スサノウ、須佐氏)・・・・・宇佐神宮(八幡宮)系
・伊都国( 葛城氏、物部氏)・・・・・・加茂神社系
・不弥国(須佐氏)・・・・・・出雲大社

・・・・など

その後も、蘇我氏(高句麗からの侵略部族、神社を持たず仏教を導入)などが相次いだ。特に6世紀中ごろの任那滅亡、7世紀中ごろの百済滅亡の際には、任那・百済の支配部族の中核・大半が日本に移住した。


ここで注目するのは、2世紀にはよく言われる邪馬台国だけではなく、既にそれと同程度の国が各地に出来上がっているということです(邪馬台国ばかりに注目するのは意味がない)。そしてそれら侵略部族は自分の氏神として神社をもっていたこと。


その後これらの国々が、せめぎあい、勢力争いを繰り広げた後に、連合して作ったのが、大和王権(朝廷)であり、天皇制であり、日本における支配制度だった。


・・・・・・その名残が、名字(姓)と神社(神道)である。


★明治前まで支配部族だけが、名字(姓)をもっていた。=氏族という血統主義によって支配階級を形成。庶民は名無しだった。


日本では名字をもっていることが、支配階級(朝鮮からの渡来部族)の証であった。それが氏族の血統の証であり、当然名字のある階級と無い階級が交じり合うことは殆ど無かったと見られること。

従って姓を持っている名家は明らかに侵略部族の末裔であり、支配階級であった。


※従来、貴族制→武家支配が日本の支配機構で、それが明治維新でなくなったというのが定説だったが、より根本的な部分にこの“氏族による血統主義”があるということ。

ヨーロッパの身分主義、インドのカースト制とも少し違うが、明確な身分制度があったのだ。


※ちなみに百姓は、元々は農民を指すのではなかった。戦国時代までは、庄屋や下級武士など支配階級の最末端であり、“その他大勢 ”という意味だった。

大きくは名字のある無しの2階級だが、細かくは、

支配氏族>百姓(下級氏族)≫平民>エタ・非人 の4階級。


これらの朝鮮からの侵略部族が古代から一貫して苗字を持ち、氏族 を名乗り、血統を保ちながら、日本を支配してきた。なので平民が歴史上に登場 することはなかった。このような縄文人の末裔のあり方は、権力に従順ともいえるし、反抗しないし欲が少ないと言う点では本源的とも言える。


★神道は、支配部族(氏族)の氏神を祭る神であり、神社は、支配部族(氏族) の邸宅or砦であり、氏族の血統主義の権化、精神的な支柱であった。


神道や神社といえば、日本古来のものというのが一般的な認識だと思うが、そうではなかった。これは“右”的な人が聞いたら卒倒するかもしれないくらいの認識転換ではある。ただ古代からの事実をおさえていけば分かることだろう。


以上のように考えると歴史上の出来事と符号してくることがある。

なぜ有史以来朝鮮への出兵を繰り返してきたか?

 ・7世紀 天智天皇:白村江の戦い 
 ・16世紀 秀吉  :朝鮮出兵 
 ・19世紀〜明治以降の天皇による:日清・日露戦争〜太平洋戦争


いずれも、天下を取ったばかりor体制変革直後の時期に、急いで朝鮮へ出兵し、失敗している。天下をとった後は本来内部の体制固めが重要な時期である、それをおいてまず朝鮮に出兵している。彼らにとっては祖国奪還であり、至上命題だったのではないか?(イギリス王朝にとってのノルマンディーに近い。)


※秀吉は、“百姓”だが農民出ではない。下っ端氏族で修験者の出 。

(修験道は、天武天皇の時代に始まったもので、日本古代版のCIA(諜報機関)である。この修験道の修験者によって、各地の情報が集められ、監視され、また天皇崇拝の世論工作が行われた。そのための忍術や各種武術(剣道・柔道)もここから始まる。)


このように有史以来の日本の歴史は、朝鮮からの侵略部族により、 原住民である縄文→弥生人が支配されてきた歴史でもある。縄文人の末裔は、従順で反抗することも少なく、プロパガンダを疑うこともなく、天皇制を崇めてきた。

その一方で、朝鮮半島からの侵略部族が数次にわたって渡来してきたが、いずれ縄文・弥生の言葉(→日本語)を話すようになり、日本に同化していったのもまた事実です。朝鮮では分かれて合い争っていた部族が日本に来たら、大連合(=大和朝廷)を組んだのが象徴的だ。
http://blog.trend-review.net/blog/2008/08/000801.html


03. 2013年7月14日 02:02:26 : W18zBTaIM6

古代日本史は、氏族集団間の闘争史

大和朝廷以降、日本の政治を仕切ってきたのは、氏族集団(同じ姓を持った血縁集団)であった。史上、最も長く実権を持ち続けていたのは平安時代の藤原氏である。

氏族集団が勢力争いを繰り広げ、実権を握った氏族集団が政治を動かすというこの体制は、ヤマト朝廷誕生以前から続いている。この氏族集団が、朝鮮半島からの渡来人だと考え、日本の歴史を見ていくと、日本史の意外な側面が見えてくる。

邪馬台国が成立した時の朝鮮半島は、北部を高句麗が支配し、半島南部を馬韓・弁韓・辰韓という部族集団が存在していた。

この部族同士の争いの結果、勝ち残った部族が国家を作っていく。

(馬韓→百天照済、弁韓→任那(みまな)、辰韓→新羅) 

この部族間闘争の結果、負けた部族が日本に渡り、クニを作っていく。
邪馬台国、狗奴国など、百国以上のクニが成立した。


天照大神は、日本書紀では最初「大日巫女貴(おほひるめのむち)」という名前で登場しており、太陽神を祭る巫女(=日の巫女)を示している。

女シャーマンであった卑弥呼が統治する邪馬台国の南に、男子の王を立てる狗奴国(くなこく)が大きな勢力を誇っていた。邪馬台国と狗奴国は何度も領土争いを繰り広げていたようだが、両者の和合により大連合政権が九州にできたと考えられる。


任那系渡来人と、新羅系渡来人の連合国家が九州に誕生したことになる。

九州に誕生した王権は、その後、奈良へと移動し、大和朝廷が誕生する。

この九州から奈良への遷都を描いたのが、「神武天皇の東征」である。

神武天皇以降、大和朝廷は基盤を固めていくが、西暦550年前後に、高句麗から蘇我一族が日本に渡り、朝廷内で勢力を拡大していく。推古天皇の時代には当時の諸氏族の中でも最大の勢力をほこり、十七条憲法や冠位十二階制など中央集権国家としての体制を固めていった。

当時、朝鮮半島は北部を高句麗が、南部を百済、任那(伽耶諸国)、新羅が統治していたが、562年には、任那(伽耶諸国)が新羅に吸収される。その後、唐と手を組んだ新羅は、百済、高句麗を滅ぼし、朝鮮半島に統一国家が成立する。

この朝鮮半島の混乱期に、日本に百済系渡来人が渡ってくる。中臣氏(→藤原氏)一族である。天智天皇と組んだ中臣鎌足は、蘇我一族を滅ぼし、土地制度、戸籍制度の改革を実行する。(大化の改新)

しかし、天智天皇は制度改革の途上で、滅亡した百済王家の願いを聞き入れ、百済奪還のため朝鮮半島に出兵する(白村江の戦い)。改革途上の出兵は、古代史上でも謎だとされているが、天智天皇の最大の後ろ盾であった藤原氏が百済の王族であり、彼らが一貫して朝鮮半島での国家復活を求めていたと考えれば、辻褄が合う。

天智天皇の死後、天智天皇の太子(大友皇子)と皇弟(大海人皇子)との間で後継者争いが起こる。結果、大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位する(壬申の乱)。天武天皇は、それまでの親百済政策を一転させ、親新羅政策へと舵を切っていく。

おそらく、天武天皇は新羅系王族の末裔で、壬申の乱とは、新羅系渡来人が百済系渡来人に勝利したという出来事だったのではなかろうか。実際、天武天皇の時代には、百済系渡来人・藤原氏(中臣氏)は衰亡の危機を迎えている。

この天武天皇の命により、古事記と日本書紀の編纂が開始される。

天武天皇の死後は、天武天皇の皇后が即位し、持統天皇となる。持統天皇となってからは、対朝鮮外交政策は天智天皇時代に近いものとなり、藤原氏一族が再び勢力を拡大し続ける。

これは、持統天皇が、天智天皇の娘、つまり百済系であったこととが関係していると考えられる。

この後、持統天皇系→天智天皇系が即位する時代が続いていく。

このように、朝鮮半島からの血縁集団が朝廷内に勢力を作り、氏族集団を形成した。大和朝廷成立以降、誰が天皇となり、どのような政策を取るかは、この有力氏族間の勢力図によって決まっていた。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2008/08/000797.html


04. 2013年7月14日 02:47:15 : W18zBTaIM6

小石房子『物語 日本の女帝』(平凡社新書)P38


第二章 皇極天皇 ミステリアスな女帝

 皇極天皇は謎多き女帝といわれている。
なかでも、もっとも不可思議なのが結婚をめぐる謎である。

『日本書紀』は舒明大王との結婚を再婚とし、―はじめ用明天皇の孫の高向王〔たかむくのおおきみ〕に適〔みあい〕して、漢皇子〔あやのみこ〕を生〔あ〕れませり―と伝えている。つまり皇極女帝は好明大王に嫁ぐ前、高向王と結婚して漢王子という男子をもうけていたというのだ。

 そのころ、国の頂点に立つ大王の妃はよりどりみどりのはずである。にもかかわらず、舒明大王は子持ちで再婚の妃を迎えたという。なぜだろうか。そして先夫との子が漢王子というのも気になる。

というのは当時、百済からの渡来人の多くが漢人を称していたからだ。


皇極天皇は百済の王女

小石房子『物語 日本の女帝』(平凡社新書)P39

 天皇家の系譜『本朝皇胤紹運録〔ほんちょうこういんじょううんろく〕』によると、皇極は推古二年(五九四)に舒明大王の弟、茅渟王〔ちぬおう〕を父とし、推古の姪の吉備姫〔きびひめ〕王女を母として生まれ、幼名を宝〔たから〕王女といった。

ところが茅淳王の生母の大俣王〔おおまたおう〕には漢王女という記述がある。
百済の王女だというのだ。


 良くも悪くも倭国は朝鮮半島とは緊密で、皇居には「園神〔そののかみ〕」「韓神〔からのかみ〕」という朝鮮の神が祀られており、平安時代の中ごろまで二月と十一月の卯の日には盛大なお祭りがおこなわれていた。『大日本史料』にはその日付がはっきりと明記されており、現在の建国記念の日は戦前の「紀元節」に当たり、この日を「韓神」の祭日とする学者もいるし、さらにいえば、「韓神」は今も皇居に祀られているという。

こんな具合だから、百済王室が倭国と結ぶために大王家に王女を送り込むことは、十分あり得ることだった。

 古代においては百済の方が先進国で、韓国の歴史博物館の展示物を見ると、百済の方が倭国より二百年くらい先を歩いている。先進国の百済の女性は垢抜けていてチャーミングだったし、当時は神意を問うて天下を治める時代で大王家は雨乞いのできる巫女を求めていたから、霊力の優れた王女であれば、再婚であっても子持ちであっても構わなかった。

ただ、唐や新羅との関係から、皇極には百済の王女と明記することは憚られ、そのために謎多き女帝とよばれたのである。

天智天皇は百済の王女の息子

小石房子『物語 日本の女帝』(平凡社新書)P52〜53

『日本書紀』には、入鹿が殺されたとき、古人大兄王子はすばやく宮殿を抜け出して宮居に戻り、

「韓人〔からひと〕が入鹿臣を殺した。心が痛む」

と叫んで寝所に籠ったと書かれている。
 古人は上席にいて、葛城が入鹿を誅伐するのを目の当たりにしている。史書には三韓の使者が殺したとするものもあるが、それはおかしい。

皇極が百済王女だとすれば、葛城王子は百済の血をひく王子、おそらく王族の間では韓人とささやかれていたのだろう。古人にとって葛城は王位継承のライバル。だから蔑視の意を込めて常々そうよんでいたのだろう。

※葛城王子=中大兄皇子、後の天智天皇
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/sisou/1337418189/


05. 中川隆 2013年7月14日 03:14:57 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6


天皇陛下のお言葉

「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。」


天皇のゆかり発言と帰化人の出自詐称と武寧王の出生の秘史
http://www.youtube.com/watch?v=dmkRfkZ6ZVE&feature=player_embedded

いまの天皇家のルーツ

 韓国に対して天皇自らが「縁を感じる」とおっしゃったお言葉がきっかけになって、血筋の真実はかなり広くに知れ渡ったようだ。「天孫」が「朝鮮人」に変わってしまったことについては、天皇をはじめ皇族方のお立場に同情を禁じ得ない。いままた、私がこうして天皇家のルーツを細かく述べることに、私自身かなりの苦痛を覚える。けれども、これは広く国民が知らなければならない重要な問題だと思うから、勇を鼓して書き進めている。

 六六三年、白村江の戦いで日本・百済遺民の連合軍が唐・新羅連合軍に大敗し、朝鮮半島の百済の国が完全に滅びたとき、百済王族が一族配下数千人(一万人説もある)を引き連れて日本へ亡命してきた。彼らは貴族として迎え入れられ、土地や官職まで与えられ、複数の者が天皇に仕えた。

澤田洋太郎著『歴史教科書あなたはどう考える』によると、多くの百済人が住みついた近江の地は第二の百済国のようであったという。この集団の核となったのは百済王子豊璋、善光兄弟の直系子孫たちであった。

 白村江の戦いの途中に姿をくらませた百済遺民軍の指揮官・豊璋は、長年、賓客扱いの人質として滞在していた日本に密かに逃げ帰り、天智天皇から藤原鎌足の名をもらって日本に帰化した。

 その子孫は日本の上層部に深く根を張り巡らせた。狡猾なこの一族は初代天皇家を乗っ取り、他系を全て排除した。

 百済王族の血一筋になったのは、豊璋の弟善光の直系子孫・桓武天皇(七三七年生まれ)のときであり、天皇の周りは百済人ばかりだったという。

天皇が百済人に囲まれた形は、そのまま引き継がれているであろう。

私の友人の結婚相手に、公家出身の人がいる。実家は敗戦によって雲の上から転がり落ち、邸宅を売却したと聞いているが、その姓は「多羅」。明らかに百済系である。

 話を戻して、天皇家の血筋は父系は善光、母系は藤原、という形が桓武天皇の後、しばらく続いた。ところが、陰謀家の藤原氏は、赤ん坊すり替えの手段によって、善光の血筋まではじき出してしまったのである。父系、母系ともに藤原氏つまり百済王子豊璋の血一筋になったのは鳥羽天皇(一一〇三年生まれ)のときだった。鳥羽天皇の本当の父は藤原公実、母はその側室・藤原光子であると思われる。

 それ以降、実に九百年という歳月を天皇家は藤原氏に完全に私物化され、藤原氏の思うがままに操られ続けてきた。

 天皇暗殺、すり替えも辞さない冷酷な藤原氏のもとで天皇家は翻弄され続けてきたのである。日本の頂点に立ったのは天皇ではなく、実は黒幕・藤原氏だったということになる。

「藤原にあらずんば、人にあらず」の横暴ぶりを学校で教えられた記憶があるが、「人にあらず」どころか実は「天皇にあらず」でもあったのだ。

 あの大戦のとき、天皇の運命を握っていたのは藤原五摂家の筆頭・近衛家の当主文麿であった。具体的な話は別項に譲ることにする。余談だが、「麿」は朝鮮語で「高み」を表わす「まら」に由来する言葉だという。

 百済王族が日本の支配者であったことの裏付けになりそうな文章を、李青若著『在日韓国人三世の胸のうち』(草思社)から原文そのまま引用する。

「実家がある町の一角には、先祖が朝鮮半島から来たと思われる人たちが住んでいる。名字が『百済』というような家がある。彼らは、日本に文化を伝えた人の子孫ということで、由緒ある家柄とみなされているらしい。そういうところからお嫁さんをもらうのは難しい、と言われることもあるそうだ」

 まさに、それこそ百済王族の血筋であろう。辿っていけば天皇家と共通の先祖にいきつくことはまず間違いなかろう。
http://bunei321.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-e15a.html


06. 中川隆 2013年7月14日 09:50:57 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

極東遺伝子度調査 Y-DNA「O」(O1,O2,O3)


  長江文明の楚系と思われるY-DNA「O1a」、
         越系と思われるY-DNA「O2a」、
         呉系と思われるY-DNA「O2b」、「O2b1」及び

  黄河系の「O3」の頻度も併せてまとめました。

ただし、黄河系直系のY-DNA「O3a1」と黄河系と長江系の交配で分化した「O3a2」はデータが不十分なので見送りました。

Y-DNA「R1b」と世界の覇権を争っているのが黄河系漢系遺伝子Y-DNA「O3」です。

日本人が縄文文化系、呉系弥生文化系及び侵略者漢族系の3大遺伝子起源から成り立つことは完全に証明されたと言って良いようです。


日本列島で3番目を占めるのが大和朝廷族や武士団族などの韓半島の中華王朝出先機関から生き残りに負けて日本列島に流れてきたY-DNA「O3」漢族の侵略者遺伝子群です。

  Y-DNA「O3」は黄河文化直系のプロト漢族、「O3a1」は華北の周辺民族との交配で生まれた黄河系(華北系)漢族、「O3a2」は黄河系漢族と長江文化華南系との交配漢族になります。漢族は単独遺伝子ではなく、約50%強の「O3XX」亜型群をコアに現在少数民族となっている「O1」「O2」「F」「P」「NO」N」「C3c」など50以上の民族との交配の結果生まれた複雑な遺伝子構成の集団ですが、支配階級は「O3XX」なので「O3」で代表されます。


いずれにせよ日本列島で検出できる「O3」の子亜型は全て中華大陸で検出できます。つまり韓半島の「O3」とも全く同じです。つまり「O3」漢族は支配階級として日本列島先住民だった縄文−弥生集団との交配を行ってこなかったことを意味します。あくまで自分たちはエスタブリッシュメントとして先住縄文−弥生集団を見下していたわけです。


この「O3」は韓半島の支配階級でもあったため、早い話しが韓半島も日本列島も漢族の支配した土地であったことがよくわかります。

支配したがり屋、出世したがり屋が「O3」の本性です。

政治家や上級官僚などの大半は「O3」のはずです。

だから彼らは縄文−弥生の子孫がほとんどを占める田舎の3.11の犠牲者などそっちのけで政争・抗争に明け暮れていられるのです。「O3」は基本的に3.11等興味がなく、気にしているのは増税と原発の再稼働だけなのです。下々の暮らしなどどうでも良いのです。

  日本列島は残念ながら今でも「O3」封建体制のままなのです。自分たちのために政治・統治を行いますが、縄文−弥生が占める下々のことなど知ったことではないのです。それでも縄文−弥生遺伝子集団は基本的におとなしく、黙々と働き、年長者を敬い、和をもって貴しとなす集団のため、俺が俺がの「O3」には支配されるしかないのです。

●長江文明系の呉系と思われるY-DNA「O2b」は呉が滅んだあと楚や越の遺民や奴隷を交えて、南下した越とは反対の北方に逃げ満州辺りで「O2a」から「O2b」に分化し、稲作適地を求めて南下し韓半島南部で水田稲作農耕をおこない遺伝子は現在に至っています。韓民族の30%を占めるほど韓半島の農民層として定住・定着したようです。

「O2b」は更に水田稲作適地を求めてあるいは中華王朝の韓半島出先機関の圧政から逃れるためか南下しボートピープルとして日本列島に逃げ込みここで弥生文化を花咲かせたわけです。

この間縄文遺伝子のY-DNA「D2」と密に交配し「O2b1」に分化し、未分化の「O2b」と併せ日本列島でも韓半島とおなじく30%の呉系遺伝子頻度を現在持っています。「O2b」は基本的に満州族、韓(朝鮮)族と日本人(琉球民族も含む)のみに高頻度で現れる特殊な遺伝子子亜型なのです。

  この両民族の30%を占める呉系度が両国の近さの証明であり、縄文遺伝子を持たない韓国が一方で遠い国の証明なのです。

しかしどちらも支配層は見事に黄河系「O3」で同じなのです。ここも近さの証明となります。つまり日本人の50%強は韓族と同じ出自を持つ同根なのです。そして漢民族とも同根なのです。残念ながら! 

なんでこんなに文化が違うのだろう?

約50%弱を占める基層の縄文文化のあることが日本を中韓両国とは全く異なる風土を育んでいるのです。3.11でも称賛された日本人の国民性はY-DNA「D2」「C1」「C3a」(及びmtDNA「M」)縄文人が持つどちらかと言うと古代的な民族性なのです。

そして「C1」と「C3a」も日本独自の遺伝子子亜型で、「C1」は海洋性ハンターで日本人の一部が持つ海洋性気質のオリジンです。「C3a」は同じハンターですが内陸性ハンターです。過去にはナウマン象を追っていたはずです。やはり一部の日本人の持つ大陸性気質のオリジンです。両者は共に彫深顔のいわゆるソース顔イケメンのオリジンなのです。

両者はまた縄文土器の製作者という技能集団で、日本人の技能的民族性のオリジンでもあります。隼人・熊襲・蝦夷等の母体のはずです。しかし縄文人のコアであった圧倒的多数派の「D2」はとりえはなさそうですが黙々と働く勤勉な日本人気質のオリジンなのです。


●アイヌ民族は、縄文遺伝子Y-DNA「D2」が85%を占めるのですが、本土が「O3」侵略漢族に征服されたのに対し、アイヌは「C3c」古代ニヴフ族に征服され、お互い被征服民族でしたが、本土では圧倒的な人口だったため先住民化せず、残念ながら北海道では支配者ともども現代アイヌ民族として先住民化してしまいました。

●本土の「D2」,「C1a」,「C3a」縄文系も、韓半島での勢力争いで敗れ半島を追い出され武装勢力として日本列島に落ちのびてきた落ち武者Y-DNA「O3」の大和朝廷族や武士団族に征服され、結局北海道の「D2」と同じ”被征服者”の運命を歩むことになりましたが、

絶対人口が少なく古代ニヴフ文化に埋もれてしまった北海道「D2」文化に対し、本土では圧倒的多数派だった「D2」縄文集団は現代まで基層の縄文文化を我々現代人が感じる縄文精神文化としていまだに維持できています。


●現在世界の覇権を狙っているのがY-DNA「O3」です。

東ユーラシアからオセアニアまで広く進出しています。ニューギニアのY-DNA「C2」92%のDani 族の残り8%は「O3」です。なんでこんなところにまで進出したのか?なにかメリットがあったのか?拉致されたのか?不思議です。

ともかく純血を守ろうとした「O3」部族は残念ながら少数民族化してしまいましたが、交配をいとわなかった集団は漢族系として現在アジア諸国の支配層として日本を含むアジア各国に君臨しています。

大和朝廷族と武士団族は韓半島での勢力争いに敗れて、武力を持った武装勢力として日本列島に流れて侵略したのですが、狩猟用の戦闘力しか持たなかった縄文・弥生交配集団を武力で征服・支配し神話も乗っ取り、大和朝廷を現在にまで存続させるという奇跡を成し遂げたのです。それを認めてきた縄文・弥生交配集団の何とお人好しなことか!? 

  第二次大戦後に一気に縄文・弥生系と侵略者「O3」系との交配が進んだため、現在の日本人は階級意識が薄れていますが、長い間「O3」は支配集団として、身分が違うと称して、交配を拒んできたのです。

支配欲の塊の嫌なやつらですが、支配するプロなのです。だからこそ西欧文明の覇者のY-DNA「R1b」と渡り合うことができるのです。


●日本人のガラパゴス的民族性の核をなすのは、縄文系ではなく侵略者系のY-DNA「O3」です。

楽浪郡、帯方郡など中華王朝の出先機関が牛耳っていた韓半島での生存競争を勝ち抜くことができず、流れ者武装集団として日本列島に逃げ込んできた戦闘集団の中で最後に勝ち残ったのが大和朝廷族となり、敗れた集団はその他天神集団となったようです。

最後に勝ち残った百済系大和朝廷族の親衛隊からのし上がった戦闘要員の中から平氏が生まれ、高句麗から落ち伸びた戦闘集団の中から坂東武者が生まれ、新羅の落ち伸び花朗集団の中から源氏が生まれ、このような韓半島出自のY-DNA「O3」を中心とする武士団族が縄文-弥生交配集団が居住していた地方を制圧し力を蓄えていったようです。


●日本列島はこうして韓半島発のY-DNA「O3」漢族出自の大和朝廷族と武士団族という侵略者達に征服されたのです。

そして漢語で読み書きをしていた少数派の征服者は大多数の縄文-弥生集団をコントロールするために漢語を読み下しできるように「かな・カナ」を開発し、縄文系と長江文明・呉・楚・弥生系の神話を盗み取り自分たちの神話に付け加え、大和朝廷族があたかも古代から日本列島を支配していたように神話を改ざんし記紀をでっち上げてきたのです。

●日本人でありながら、中国地方の縄文度の低さは目を見はるものがあります。また長江文明の楚系と考えられるY-DNA「O1a」が突出して多いのも中国地方です。大国主神話の特殊性や吉備の豪族一族などもしかすると楚系の文化・部族なのかもしれませんね。ともかく中国地方は日本の中で特異な遺伝子地域であり、遺伝子的に異なる部族が住み独特の華南系文化を立ち上げていた可能性が極めて高いのです。

大和朝廷族が韓半島を追い出され流浪の武装集団として大和に向かった時に先住部族として立ちはだかった可能性は極めて高いと思います。

大国主神話は呉系か楚系の長江文明系神話で間違いないでしょうが、どちらかは調査ができていません。

縄文遺伝子Y-DNA「D2」と「C1」「C3」は日本列島で10000年もの長期間に渡り交配しお互いに子亜型に分化しています。また4000年前頃から徐々にボートピープルとして

満州 → 韓半島 → 日本列島

に水田稲作の耕作適地を求めて逃げてきた弥生遺伝子の呉系長江系Y-DNA「O2b」も縄文遺伝子「D2」との数1000年の長期間にわたる交配で「D2」は更に新しい子亜型に分化し、韓半島と共通の「O2b」も日本独自の「O2b1」に分化しています。

この結果は狭い日本列島で縄文−弥生集団が互いに武装集団・戦闘集団ではないため、意外に敵対せず共存−交配をしてきたことを如実に説明しています。

ところが、侵略者であった武装集団・戦闘集団の漢族Y-DNA「O3」は、日本列島上陸後1500年は経っているにもかかわらず、日本列島独自の子亜型が全く存在せず、中国大陸にあるそのままの子亜型のみしか検出されません。

つまり支配階級はエリート層として縄文−弥生集団を見下し差別し交配を進めてこなかったことを如実に物語っています。

「O3」層が縄文弥生集団と交配をするようになったのは階級分化が崩れてきた戦後のことです。戦前はまだ身分の違いとかでめったに交配は起きてはいないのです。今は世界の最先端を担う我が日本ですが、戦前までは「O3」の封建制がまだまだ根強く残っていたのです。

日本の中国化−正しく言うと漢化−もっと正しく言うとY-DNA「O3」化、は最近始まったことではなく、大和朝廷族や武士団族が韓半島での抗争に負けて半島を追い出され、ボートピープルとして日本列島に戦闘力を持って断続的に流れてきたことに端を発するのです。

記紀の神武東征に象徴されているように、漢語を話す漢族の端くれだった韓半島を追い出された大和朝廷族は(その頃の韓半島南部は弥生人と同じ呉系長江人のY-DNA「O2b」が民衆層を形成していたはずです)日本列島の恐らく九州に上陸し旧唐書が言うように「日本」なる小さな拠点を形成し侵略遠征を開始し、山陽道に既に割拠していた先陣の「O3」集団や縄文−弥生先住民土着集団を征服しながら大阪平野から奈良盆地を制圧し列島侵略に成功したのです。というより最後に勝ち残った「O3」集団が大和朝廷を名乗った、というのが正しいでしょう。

  記紀神話は、征服した先陣・先住集団の祖先伝承の都合の良い部分を取り込み創りあげたものです。そして確立した大和朝廷は漢語の支配する漢族の官僚が運営する政府でした。その後の日本列島はこの漢族朝廷と漢族官僚が文字通り牛耳ってきた中国化というより漢化されつつあった土地だったのです。

  日本人が漢族大和朝廷支配のもと漢民族に同化しなかった理由は1万年以上に渡る縄文時代とその後の弥生時代で日本列島が人口も含め完全に縄文・長江混成文化の風土が確立していたからです。漢族側が、人口的に大勢であった日本語の文法であるY-DNA「D2」の縄文語に合わせかなやカナを開発したように漢族側が歩み寄ったことが、日本人が漢民族化しなかった理由でしょう。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/


07. 中川隆 2013年7月14日 11:03:15 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

倭国は華僑たちがつくった(岡田英弘説)


「日本」誕生以前の「倭国」を含む東北アジアについてのいちばん古い資料は司馬遷の『史記』の「朝鮮列伝」である。それによると

前漢の武帝が紀元前108年、古朝鮮を征服し、楽浪郡を含む4群を置いた。

楽浪郡は日本から運ばれてくる豊かな鉱山資源に支えられ、中国人商人=華僑の出先機関として発展していった。

ところが紀元前後をピークに漢の力は衰弱過程に入る。そのような政治状況の中、倭国における中国の通商窓口として中国の力を分け与えられた倭国王が誕生した。

中国の史料に出てくる倭王とは、そのような土着的な支配力を持つもののことではなく、中国側に優位な条件で列島との通商を纏め上げた「弁韓辰韓の華僑と手を組んだ倭人貿易商」のことだったのだ。

この「倭王とは華僑と手を組んだ倭人貿易商」であるということは魏志倭人伝の以下の文章からも読み取ることが出来る。

「国々に市ありて、有無を交易し、大倭をして之を監せしむ」

この文章は、市の監視人は倭人であるとわざわざ述べているが、それは、市を開いているのは倭人ではなく、華僑であることを逆に証明している。

そして、そのような多くの倭王の統制がとれなくなった時、登場したのが「卑弥呼」だった。卑弥呼は遼東の公孫氏軍閥と手を結び、倭人の代表となった。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=209312

岡田英弘の画期的な新説とは、東アジア史全体(特に18世紀、19世紀における東南アジアの発展史)に関する同氏の鋭い観察眼から、東アジアにおける文明化のプロセス、すなわち、

華商の来航 → 華僑居留地の形成 → 大食漢の華僑に食糧を供給するため周辺地域の農業生産力が増加 → 人口増 → 都市の形成 → 経済発展 → 人口増大 → 建国

という化学変化をもたらす触媒・契機が明らかにされたこと。

 岡田説によると、東アジアでは、華商が船で未開地に到来して、地元酋長らを手なずけつつ、根気よく商品を現地人行商を通じて売る努力を重ねる過程で、徐々に現地側の農業生産力(自給自足の範囲・量を超える食糧生産)、特産品生産力(中国製品との物々交換のための商品生産)が増大し、華商がやがて店舗を構えた港湾地域において、徐々に市場が出来、華商達を庇護する現地酋長達の政治力も軍事力も高まって、やがて国家が建国されるという、アジアにおける国家形成の触媒=華商との理論が提示される。

そして、肝心の日本国形成の契機も、

紀元前3世紀に、北京地区に出現した燕国が、まず東方に進出して遼東郡を置き、朝鮮半島、日本への進出を開始し、

次いで前漢が紀元前108年、朝鮮北部に楽浪郡、南部に真番郡を設置して、対日貿易ルートを開設したことにあるという。

既に朝鮮半島よりも人口の多かった日本市場が、華商達にとっては魅力だったらしい。

 真番郡経由で、倭国北九州との貿易を開始し、更には瀬戸内海にも華商達が到来して、あちこちの港に華商が根拠地を置き、現地妻を娶って混血の華僑を産ませた。港に面する華僑居留地では、現地酋長が華商・華僑の商売を保護し、取引税を取ったほか、楽浪郡当局からの勧奨に基づき、漢、魏、東晋、宋などに倭国の現地酋長代表が、朝貢使節を派遣した由。

 倭国における華商達を通ずる貿易における利益と秩序を守るため、対日貿易を取り仕切る楽浪郡などの中国側役所が、本国における政権の箔付け、皇帝の権威を中国臣民に誇示するために、倭の使節の朝貢などという儀式・行事を、中国側の都合で、何度もアレンジし、これらが史書に記録として残ったが、名目上「親魏倭王」に任命された卑弥呼も、華商達を庇護する現地の名誉総領事のようなもので、倭国全体を統括するような軍事力もなく、統一国家も未だ無い段階だったという。

 対日貿易の利益を目指して、そのルート上にある朝鮮半島においても、北部中国地方から進出した華商達が、

遼東郡 → 楽浪郡の平壌へ、更に平壌から水路沿いに南下して、

対日貿易ルート沿いに都市が発達した。


これら韓半島の都市部には、華商=中国人と現地人との混血で、中国語を話す民=華僑が発生、居住して、彼ら華僑の人口が増えていった。

 また、対日貿易も、これら韓半島の新羅、加羅地方の華僑がまず担当して、北九州から瀬戸内海地方にかけて来航し、これら各地に華僑系の市場、都市(ただし、中国、韓半島における市場・都市は、城壁で囲った本来の中国式の都市=県城であったが、日本では市場、集落はあっても城壁は必要なかったようで、発達しなかった)が形成され、市場を庇護する現地酋長=倭人の酋長の軍事力も増大していった。

 結局、瀬戸内海地域の経済力(首として農業=米と、華僑が種を持ち込んだ各種野菜の生産力、或いは対中輸出商品の生産力)が増大し、瀬戸内海最深部の河内に最初の本格的な倭の政権が出現した(河内王朝)。

日本国建国に貢献した秦人、漢人


岡田史観は、古代(古墳時代)の華僑社会形成こそが、日本国(及び韓半島の統一新羅国)建国の基盤だった、という意見である。

新羅、加羅地方の中国系混血=新羅人、加羅人が、早い時期に倭国に到来して秦人(はたひと)と呼ばれた。

これに比し、より遅れて倭国に到来した百済人には、元来楽浪郡、帯方郡に居住していたが、高句麗の勢力拡大から逃れて、南方の百済地方に避難してきた中国人・中国系混血が多く、漢人(あやひと)と呼ばれる。


秦人・新羅人は前漢の標準語であった陝西方言系(河北・山東方言系)の中国語、

漢人・百済人は後漢・魏・晋時代の標準語だった河南方言系の中国語を話したという。

  畿内の河内、大和地方では、新しく百済の滅亡などで大挙到来した漢人・百済人の言語(河南語)が主流で、それより奥地の山城、近江では、漢人より先に到来して平野部の開拓農民化していた秦人の陝西語が話されていたらしい。

  現地人系の倭語は、畿内では平野部に多く入植してきた帰化人系の言語の影響で、語彙も文法も、相当変化してしまったが、生き残っていたという。

  ともかく、河内王朝、その他の倭国の政府機関の確立は、漢人、或いは秦人らの文書能力無しには、成立し得なかったし、韓半島、中国との間の交易も、コミュニケーションも、これら華僑達の漢文能力無しには、継続できなかったであろう。

  しかし、岡田英弘によると、中国から独立して、対中鎖国的に日本国家を建国した以上、中国語とは異なる自国語が必要であるから、漢人・百済人達の河南語系の話し言葉を中心に、倭語の単語・語彙を取り入れたりしつつ、新たに人口的に創り出していったのが、万葉集の日本語であるという。

要するに、日常語としては漢語を使用していた華僑社会が建国時の豪族、官僚達であるから、徐々に現地人の倭語を学習していたとは言っても、書き言葉の表記方法も、文法も、全てが手探りであったらしい。万葉集にも、日本語表記用として漢字の使用方法が未だ確定しておらず、訓で(すなわち表意文字として)、または音で(表音文字として)、或いは音・訓混合で、というように、書き方が各種混ざっているほか、結局純粋な漢詞のままという例すらあるという。

  ともかく、正式文書は漢文という伝統は、なかなか崩れなかったものの、


日本では万葉仮名(漢字を一音のみの表音文字として使用)
→漢字の部首を使用して「カナ」を、あるいは草書体から「かな」を、それぞれ工夫・創出

する形で、表音文字・和式アルファベットを発明したし、仮名を用いた「国文」文学も早くから発達した。

独自の国字と国語での詩文、文学が、対中独立後、早期に完成したこと、また地理的に海中に孤立して、陸続きではなかったことも幸いして、韓国に比べると、日本国の対中自立の完成、発展は早くて、既に9世紀頃には独自文化の確立傾向が見られた、と豪語しても良いのではないか、と小生は思う。

中国大陸からの血液、言語的影響の巨大さ

  そうは言っても、せっかく多くの日本人は、これまで、縄文時代、弥生時代と原日本人のみの時代が長く続き、ようやく飛鳥時代頃に朝鮮半島との交流が強くなり、百済滅亡後辺りに、かなり多数の百済系移民の波が日本に来訪したとはいえ、基本的に縄文時代以来日本においては「異国系の血液」は、さほど流入せず、原日本人の血液が保たれてきたし、日本語も、

縄文語 → 弥生語 → 奈良時代の古代日本語

と、外的な影響はほぼゼロで、自立的に発展してきたように思いこんでいたのが、移民・血統という面でも、或いは言語的影響という面でも、シナと韓半島の双方から、圧倒的と言えるほどの影響を、紀元前から7世紀にいたるまで受けていたことを確認することは、何か無念な心境と言えなくもない。

とはいえ、韓国人、中国人の中に、余りにも我々日本人とそっくりすぎる顔貌が多いと、以前から思っていたことも確かであり、結局、1300年前まで、とはいえ、多くの血液と、言語要素が、日本の中に導入されたことを、我々としても理解すればよいのであろう。

朝貢=臣従ではない、友好国程度の意味

  他方で、いくら海を隔てているとはいえ、国境線もはっきりしておらず、日本国家も明白には建国されていなかったような7世紀までの歴史段階で、中国本土---韓半島---日本列島に連なる民間人(華僑)による貿易経路が活発に機能していたらしいこと、これら交易も、中国側では、楽浪郡などの出先官庁(軍司令部)の有力な税収源として存在し、維持されていたことなど、岡田英弘の指摘により啓蒙されることは数多い。

  また、朝貢貿易という解釈は全くの誤解であり、中央の皇帝陛下に、楽浪郡その他の辺境地域軍司令官が、自らの傘下にある現地人酋長を招いて、種々お膳立てした上で朝貢させるという行為で、中央政府に「ごますり得点を挙げる」と言うシステムだったことも、これまでの歴史書で読んだことが無く、岡田英弘のおかげで初めて知る、目から鱗のすばらしい解説だ。貿易は貿易で、朝貢使節ではなく、華商達によって行われるのだ。

中国における「外交」の意味は、今日でも、現政権の権威付けのために外国使節らが、いかに現政権(現皇帝)に敬意を払い、朝貢してくるかを誇示すること、すなわち対国内宣伝が主目的(例えば台湾でも、未だにそうだという)と説明されると、よく分かる。

別段、朝貢=臣従ではなく、単に皇帝陛下の「高徳を慕って、遠方より来たり」(という建前を中国側の所管官庁がお膳立てする)て、挨拶するだけなのだ。

邪馬台国の卑弥呼の場合も、本当の意味で臣従したわけでもなく、「親魏倭王」の金印も、「在日名誉総領事」程度の肩書きに過ぎないらしい。

  あの広大な天安門広場、右広場に面したやたらに広大なホールの中で行われる中国首脳と外国首脳の会談風景も、主として写真とかTVカメラに映像を撮影して、国内宣伝用に配信することが目的の、そういう道具立てだと分かれば、あの空々しく見える雰囲気も、なんとなく理解が可能という気がしてくる!!
http://79909040.at.webry.info/200909/article_3.html
http://79909040.at.webry.info/200910/article_1.html


08. 中川隆 2013年7月14日 11:36:30 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

 語順のルーツはSOVだと言うことがアメリカ科学アカデミー紀要に発表されました。

つまり日本語やチベット語などY-DNA「D」遺伝子集団の文法である語順、S(主語)・O(目的語)・V(述語)が欧米語等のSVOより古いことがわかり、しかもホモサピエンスの祖語だろう、との驚異的な言語学上の発見です。


これは遺伝子の調査結果と完璧に合致します。

我々古代シーラカンス遺伝子Y-DNA「D」は古代の出アフリカした当時のホモサピエンスの形態を留めていると言うのが欧米の研究者の結論です。特に「D*」100%のアンダマン諸島のOnge族、Jarawa族は出アフリカ当時の形態をそのまま残していると信じられています。

ならば当然言葉も出アフリカ当時のままのはずです。

言葉は生き物でその時代のリーダーの決断で言葉は採用されるため、ドンドン変わります。そして征服者の人口が多く、経済力もあれば非征服者の言語はあっという間に征服者の言語に変わってしまいます。

ところがOnge族や、Jarawa族は外来者を殲滅するという古代習慣を強く持っていたため、遺伝子を保ってきたわけですが、当然言葉も保ってきたはずです。と言うことが今回の発表で間接的に証明されたことになります。

日本語は長い間孤立語として扱われてきましたが、とんでもない、縄文語から熟成したY-DNA「D2」日本語こそがY-DNA「D1」チベット語と並んで、出アフリカした当時のホモサピエンスの言葉(文法)を維持し続けてきた由緒正しい言葉だと言うことが正にアメリカの研究者によって証明されたのです。

 このニュースの重大さは、何故日本列島人はY-DNA「D2」縄文人の文法を守り続けてきたのか?という点です。「D2」縄文人が圧倒的な文化を確立し、技術者集団だった「C1」、「C3a」縄文人が土器つくりなどで「D2」の精神風土を支え、後からボートピープルとして断続的に韓半島から水田稲作農耕技術を携えて流れてきた呉系長江人「O2b」の子孫も圧倒的な多数派の「D2」と敵対せず、その精神風土を受け入れたため言語の文法も縄文文法を受け入れたのでしょう。

「O」は「R」などと同じ新興遺伝子集団です。既にSVO文法だったはずです。

我々日本人は語順が変わってもそれほど奇異に感じず意味が通じるような適当にあいまいな言葉になっているのはこの「O」の人口と、文化がしっかりと根付いているためです。

基本は縄文語ですが、呉系の長江語も漢語の語順でもその中間でも日本人は融通を利かせて理解してしまうように共存してきたからなのです。そして或る動作を強調したい時、我々は平気でSVOになるのです。なぜならSVOの方がキツく聞こえるからです。SOVの方が聞こえ方がやさしいのです。これが縄文の精神風土なのです。

そして更に後から侵略者として韓半島から暫時流れてきた大和朝廷族や武士団族などのSVO文法の「O3」集団も朝廷内や官僚エスタブリッシュメント階級の中ではSVO漢語を話していたにも関わらず、全国をまとめるために縄文語文法を受け入れることにしたのだと思われます。

そして縄文語に翻訳するために開発したのが「かな」、「カナ」なのでしょう。

もしこれがなければ、縄文人は漢語を全く理解せず、日本の統一は相当遅れ、日本列島は文化レベルが立ち遅れ西欧列強の植民地化していた可能性が大です。

当時の大和朝廷の上層部の誰かが縄文語を認め、縄文人に指示命令するために「かな」「カナ」の開発を命じたのでしょう。


日本列島の農耕を請け負ってきた長江文明の子孫は、日本列島の言葉を決してオーストロアジア語文法に代えることはしませんでした。なぜなら圧倒的に縄文人の人口の方が多かったからです。弥生人は自分たちのオーストロアジア語の文法を捨てて溶け込む道を選んだのです。


大陸から大挙して逃げてきた弥生人「O2b」も縄文人に比べれば少数だったからこそ共存するために縄文人の縄文語文法を受け入れたのです。そして先進だった水田稲作農耕関連単語をもたらしたのです。


そして征服者たる「O3」大和朝廷支配層一派は官僚機構内では日常的に漢語を話し漢文で書き、外に向けた発信では先住縄文・弥生集団を懐柔するために都合のよい圧倒的多数の話す縄文語を受け入れたのです。

だから漢文を縄文語を話す大衆のために読み下したのです。そうでなければ漢語のまま話せばよかったのです。

「読み下し」とは縄文語に翻訳することなのです。そしてその縄文語はY-DNA「D」の話していた文法・単語体系です。


しかし縄文人の凄いところは弥生単語(勿論長江文化も)も取り込み、漢語の単語(勿論漢文化も)も取り込み縄文語を日本語に昇華させてしてしまったところです。そして明治以降積極的に西欧単語(勿論西欧文化も)も取り込み、恐らく世界で最もグローバルな単語の語源体系を持っているのが日本語です。

しかも出アフリカしたときの古代遺伝子集団が話していた文法をいまだに維持している、という恐るべきガラパゴス性、つまり日本語の成り立ちそのものもガラパゴスの面目躍如の結果なのです。


遺伝子調査から追う日本語の成り立ち考

  これまでもブログで断片的に触れてきましたが、遺伝子調査の結果だけでどこまで言及できるか、いささか冒険ですが日本語の成り立ちに迫ってみました。

日本語とは、

●ガラパゴス的民族性の基層である古代シーラカンス遺伝子の縄文倭人(文字通り小柄なネグリート)の話していた古代語の縄文語が基層です。

特に縄文倭人の多数派のY-DNA「D2」の祖先の「D」が出アフリカ以来話していた言語が縄文語の祖形です。世界でこの縄文語の祖形を受け継いでいるのは日本以外では「D*」100%のアンダマン諸島のOnge族とJarawa族、「D1」「D3」のチベット族のみです。他に近い言語は全く存在しません。

このため日本語は古代語の形態のままの孤立言語なのです。もしかするとコイサン族やピグミー族の言語と同様にアフリカで話されていた古代言語の直接の子言語かもしれません。

●縄文語はこれに更に出アフリカ以来数万年行動を共にしたと考えられている土器製作などの技能集団でもあったと思われる沿岸漁労系Y-DNA「C1a」と大型獣ハンター系「C3a」の語彙が重なっている複合言語です。

縄文語は日本列島でも石器時代以来少なくとも2万年近くは話され根付いた熟成された言語のはずです。もしかすると西ニューギニアのY-DNA「C2」100%のLani族の漁労採集の言葉に日本語に似た単語があるかもしれません。

●そこに最初の外来文化言語である長江文明系オーストロアジア古語(水田稲作農耕文化の言語)の弥生系語彙が追加され、弥生人Y-DNA「O2b」「O2a」「O1a」は「O3」に極東ユーラシア大陸を追い出されボートピープルとして

満州 − 韓半島南部 − 北九州

と逃げ、これ以上行く先のない日本列島で大多数の縄文人と仲良く共存・融和するために縄文語を受け入れ新しい文化である水田稲作農耕の語彙を上積みしたのです。弥生人が迅速に溶け込んだため、稲作農耕技術は青森まで以外に早く伝播したのでしょう。

  このオーストロアジア古語系「O2b」は呉音を持ち込んだようです。

日本列島に越音が残っていないということは呉系の稲作農耕民が北方へ逃れ「O2b」になったようです。

当方が以前予想していた百越系の残党=百残=百済は越音ではなく支配層の使っていた唐音を持ち込んだようです。

●現代アイヌも日本列島人と同じY-DNA「D2」85%の「D」民族ですが、残念なことにオホーツク文化時代に侵略者だった古代ニヴフ族に征服され、熊祭りなどすっかり古代ニヴフ文化(古住シベリア民文化)に変貌してしまっています。言語も恐らく古代ニヴフ語に変わっているでしょう。

●紀元後になり中華王朝の膨張に伴い韓半島から続々と中華王朝辺縁部の黄河文明系「O3」集団がはじき出されて渡来・移住するようになりました、

複数の戦闘集団が前後して列島に日向など各地に占領地を設け、最終的に縄文-弥生交配集団の中心地だった畿内を目指して侵攻し、ある集団が渡来集団同士の戦いを制して大和に占領軍の王朝を築くまでになりました。

我が縄文-弥生遺伝子集団は下等な民として扱われたわけです。


  この占領軍のGHQは大和朝廷と称され奈良盆地に置かれ、支配階級は大和朝廷族となり漢語を日常語(母語)として読み書き話し、平安時代に最終的に百済系朝廷族が勝ち残りました。

百済は一般民衆は呉音系のY-DNA「O2b」ですが支配階級は「O3」で唐音系だったようです。


そしてこの2番目の外来語である漢語を母語とする大和朝廷族は先住民の縄文-弥生交配集団を支配・懐柔するため漢語から縄文語へ翻訳するためにかな・カナ文字を開発して読み下し、支配用の当時の古漢語の語彙を列島隅々まで浸透させ一気に列島の支配者にのし上がったのです。


●一方、武士階級では、高句麗系武士団(坂東武者系)や新羅花郎系武士団(源氏系)など韓半島から渡ってきた武士団族も「O3」漢語派だったため、縄文語に武士団系の語彙がかなり取り込まれたはずです。武士団は地元に根を下ろし地元密着型になり力を蓄え大和朝廷族と覇権争いを繰り広げることになったわけです。

●しかし幕末の動乱期まで日本列島の中で全員が話した標準言語はまだなく、支配階級と一般民衆は同じ言語を話していたわけではありません。幕末から明治の動乱期に第三の外来語である明治新政府系の新作語彙や翻訳語彙や西欧諸国の語彙が洪水のように入り込み、縄文語の文法の上にどんどん上積みされ日本語の祖語に昇華・熟成されたのです。

しかしこれでも日本語の完成ではありませんでした。明治の標準語とされたのは明治政府の教育を握った長州閥の山口弁でした。

●日本語が完成したのはほんの60年程度前の第二次大戦後です。あたらしい教育によって今我々が話している現代標準語になりやっと日本語になったのです。

日本語の歴史は極めて新しいのです。それまで縄文語にオーストロアジア古語の弥生語語彙と漢語の語彙が上積みされた複合言語だったのです。話し手も階級によって分かれていました。

  以上、語彙は時代と共にどんどん新しい文化のものが追加され古いものは消えて行き、言葉遣いも同時に変化して行きますが、最も基層になっている文法は縄文語、それも古代遺伝子Y-DNA「D」の話していた古代語です。

このため地理的に極めて近いはずの朝鮮半島も台湾も極東の諸民族も日本語とは全て言語体系が全く異なるのです。しかし日本語は古い外来語彙をどんどん取り込んできたため、今でも古語の語彙は似ているものも結構あるのです。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/


09. 中川隆 2013年7月14日 12:08:06 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

漢人(O3族)の言葉は八母音、縄文(D2族)ー弥生系(O2族)の言葉は五母音だった


信州秋山郷の方言

信州の地勢はヨーロッパにおけるスイスと同じである。スイスは山が険しくて、周辺の言語がはい上ってきて定着したので、今もドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4つが国語として憲法に定められている。

ロマンシュ語は5万人にしか話してはいないらしく、古代ヨーロッパの言葉が化石のように残ったらしい。

現在の信州の方言も実は周辺からはい上ってきて定着したため大きく4つに分かれている。

特に秋山郷の方言は、室町以前の母音が8つの時代の日本語で、日本のロマンシュ語である。

今も母音の「お」に二つあり、これを区別して発音するという。

万葉仮名の時代は8母音であったことを橋本博士が戦前発見されたというが、これが現在も残っているというから正に化石のような方言である。

弥生人が入り込んできた後はこのように朝鮮語系らしい弥生語は4つの方言に分かれて残ったのだろう。

それまでの縄文語はおもに地名にしか残らなかったようだ。

しかし、不思議なのはアイヌ語は今の日本語と同じあいうえおの5母音である。

8母音の弥生語や朝鮮語の10母音のような言語が入ってきても、大多数の人は縄文語の5母音しか発音できず、これがそのまま現在の日本語になったのではないかと思う。従って、現在の日本語は、朝鮮語系の弥生語とアイヌ語系の縄文語の混血語であると思われる。
http://www13.ueda.ne.jp/~ko525l7/s01.htm


古代日本語は古代朝鮮語の影響を強く受けています。

例えば「万葉集」の表記法として有名な万葉仮名は、日本の国文学者によれば日本独自のものだとされ、教科書でもそのように説明されています。 しかし実際には、古代の朝鮮にも「吏読(イドゥ)」と呼ばれる万葉仮名方式の表記法──古代朝鮮語を漢字の音読みと訓読みの音だけを使って表記したもの──がありました。 年代的にみて、古代日本の万葉仮名はこの吏読を真似したものと思われます。

万葉仮名では同じ「イ」「エ」「オ」という母音を持つ音が2つのグループに分けられ、2種類の漢字ではっきりと区別して表記されています。 このため現代の言語学者や国文学者は、多い方を「甲類」、少ない方を「乙類」と呼び、その区別について色々と議論しています。

ある学者は古代の日本には現在の5つの母音「アイウエオ」以外に、さらに3つの母音「イエオ」があったのではないかと主張し、別の学者はそれらの母音は条件異音――前後の音環境によって同じ音が異なる音声として表れる現象――を異なる漢字で表記したものだろうと主張し、また別の学者は文法的な使用法の違いによるものだろうと主張しています。

この一見難解で高度に学問的に思える議論は、韓国語のフィルターを通して眺めますとあっけないほど簡単に答が得られます。 現在の韓国語には10種類の単母音と11種類の複合母音(2種類以上の母音が合成されてできた母音)があり、古代朝鮮語では、さらにもう数個の母音があったと言われています。 古代朝鮮語の影響を強く受けていた古代日本語にも、同じように現在よりも多くの母音があったと思われます。 このことを踏まえ、母音と発声法の関係を図示しますと次のようになります。


※口を大きく開くほど前母音と後母音が
中母音に近づき、区別がしにくくなります。

(1)普通のイ、発音記号で表すと「i」。

日本語の「イ(万葉仮名・甲類のイ)」、韓国語の「イ」、英語の「i(sitのi)」

(2)イとウの中間音、発音記号で表すとmのひっくり返った記号。

古代日本語の「イ(万葉仮名・乙類のイ)」、韓国語の「ウ」。

(3)普通のウ、発音記号で表すと「u」。

日本語の「ウ」、韓国語の「ウ」、英語の「oo(bookのoo)」。

(4)普通のエ、発音記号で表すと「e」。

日本語の「エ(万葉仮名・甲類のエ)」、韓国語の「エ」、英語の「e(getのe)」。

(5)口を半開きにした「ア」、発音記号で表すとeがひっくり返ったもの。

韓国語に少し前まで存在した「ア」、英語の「a(agoのa)」。

(6)普通のオ、発音記号で表すと「o」。

日本語の「オ(万葉仮名・甲類のオ)」、韓国語の「オ」、英語の「o(omitのo)」

(7)エとアの中間音、発音記号で表すと「ε」。

古代日本語の「エ(万葉仮名・乙類のエ)」、韓国語の「エ」、英語の「a(maryのa)」。

(8)口を大きく開けたアに近いオ、発音記号で表すとcのひっくり返った記号。

古代日本語の「オ(万葉仮名・乙類のオ)」、韓国語の「オ」、英語の「o(stopのo)」。

(9)普通のア、発音記号で表すと「a」。

日本語の「ア」、韓国語の「ア」、英語の「a(calmのa)」。


つまり古代の日本語には、「アイウエオ」以外に、

ウに近い「イ」、

アに近い「エ」、

アに近い「オ」

の3つの中間音的な母音、つまり乙類の母音があったと考えられ、これらの母音は韓国語には現在も存在するのです。

漢字の韓国語読みではこれらの母音ははっきりと区別して使用されていますので、漢字を知っている韓国人が万葉集を読みますと、日本の専門の学者でなければ区別できない甲類と乙類をごく簡単に自然に区別することができるということです。

古代の日本語に存在した3つの母音が時代が経つにつれて消滅し、現在の5つの母音が残った理由はある程度想像がつきます。 本土日本人は元々南方系モンゴロイドと北方系モンゴロイドの混血であり、当時の日本列島は現在のアメリカのような移民の多い土地でしたから、色々な言語や方言が混在していたはずです。 そして中間音的な母音は色々な言語や方言によって発音が微妙に違いますので、それらの母音は次第に明確な発音の母音に収斂していったと考えられます。


つまり乙類の「イエオ」は普通の「イエオ」に収斂したと考えられます。

このことは前述の母音と発声法の関係図を見ますと納得できると思います。 図からわかりますように、現在の日本語の5つの母音「アイウエオ」は、発音上、非常に区別しやすい音なのです。 現在でも、各地の方言や神社などで使用される特殊な言葉に中間音的な母音が残されていますが、これは古代の名残だと考えられます。

ただし万葉仮名では区別されていたこれらの母音が、奈良時代後期から平安時代になって漢字と仮名で日本語を表記するようになると、表記上は区別されなくなります。 いくら母音が収斂したとしても、わずか50年ほどで母音が完全になくなるわけはないので、これは大きな謎です。

この謎は、それらの中間音的な母音は実は条件異音に収斂していたため、それを話している日本人はそれらの母音を区別していなかったと考えれば解決します。

つまり万葉仮名は朝鮮からの渡来人が吏読を参考にして編み出した表記法であり、奈良時代後期から平安時代になって、ようやく日本人が仮名を発明して自らの言葉を表記する方法を編み出したという説です。


万葉仮名が朝鮮からの渡来人によって書かれたのなら、条件異音を区別することができた彼等が母音を書き分けていたことも、万葉仮名で書かれた文章の中に古代朝鮮語と思われる言葉があることも納得できますし、日本人が書いた漢字仮名混じりの表記法ではそれらの母音が区別されていないことも納得できます。

飛鳥時代から奈良時代の文化の担い手は渡来人が中心だったことを考えると、朝鮮渡来人が日本語を表記するために万葉仮名を発明したことは十分に考えられます。 これはちょうど、幕末にイギリス人のジェームス・カーティス・ヘボンが、日本語を表記するためにヘボン式ローマ字を発明したのと同じような工夫だったのでしょう。
http://www.snap-tck.com/room04/c01/nihon/nihon01.html


10. 2013年7月14日 15:27:18 : jaAuTPSdC6
くだらん。

11. 中川隆 2013年7月15日 10:01:26 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6


漢民族は悪い _ Y遺伝子から見る漢民族の侵略の跡


人間は何故、集団を作り国を作ったのか。漫然と遺伝子の分布を見ても分からない。国境などないではないかと見えてしまう。それでも人間は国家を作り、国境を作った。

下に掲げた地図は、父から息子へと、男性のみに受け継がれるY遺伝子(Y−DNA)の、東アジアにおける分布図である。

これを見ると、東アジアではC、D、O、Nタイプだけが大半を占めていることが分かる。地図には、各DNAタイプをさらに分けたのを色分けしている。

Y-DNA図
http://file.kojoryoshu83.edoblog.net/ab184799.JPG


Y−DNAはAからRまで存在するが、枝分かれしたグループで分けると、人類発祥の地のアフリカに存在するAとB以外では、Cグループ、DEグループ、F〜Rグループに分けられる。

日本に注目すると、日本はこのCグループ、DEグループ、F〜Rグループの全てが存在する。この3グループ全てを含む地域は日本以外ないと言われている。

地図を見れば分かるように、日本列島には、C1(紺)、C3(空)、D2(緑2)、O2b(橙)、O3(黄)、N(紫)のタイプがいることが分かる。この内のD2タイプは日本にしかいないタイプである。日本が特殊だと言われているのは、この世界でも稀なD2タイプが30〜40%存在している事である。

日本列島各地のD2タイプに注目すると、アイヌや沖縄県に多く見られ、九州地方が少ないことに気が付く。D2タイプは縄文人のタイプと言われれている。従って、D2タイプがアイヌや沖縄県に多く見られ、九州地方の%が少ないのは、弥生の頃に大陸や半島の交流が有った歴史と一致する。そしてD2タイプが日本人が日本人とならしめている骨格をなしているタイプだと言う事が分かる。

日本でD2の次に多いのが02bタイプであり、その次に多いのがO3タイプである。

この内、O2bタイプは、長江地域から戦乱から逃れて来た人々であると思われており、朝鮮半島にも多く、タイやベトナムでも若干存在する事が分かる。

又O3タイプは漢民族のタイプと言われており、古代日本の朝鮮半島進出や百済滅亡等により流入して来た人間だと思われる。

C1タイプも日本周辺には存在せず、四国や青森の辺粋に多く、しかも青森止まりであることから、南周りで来た古い人間達であると思われる。

C3タイプは、北方アジアに見られるタイプであり、モンゴル人や満州人に多く見られ、百済の支配層であった扶余人も同じタイプと思われる為、百済滅亡のおり流入して来たのではないかと思われる。但し、アイヌ人に見られるC3タイプは、樺太や沿海州との交流によるものである。

その他、ブリヤート人やエンベンキ人、又カムチャッカや北東シベリアに住むコリャーク人やチュクチ人に良く見られるNタイプが、朝鮮半島や満州に存在せず、日本列島に存在するのは不思議である。

日本人は単一民族と言われるが、周辺国と比べれば、人種の坩堝であり、多民族国家と言うべきであろう。それが単一民族と言われるようになったのは、民族同士同和したからに他ならない。

それでは大陸に目を転じよう。まず大陸で目に付くのは北方アジア以外、O1(赤)、O2a(橙1)、O2b(橙2)、O3(黄)と殆どOタイプばかりである。Oタイプは支那大陸で分岐したから当然と言えるが、華北はO3タイプに殆ど占められO2aもO2bは、周辺に追いやられているように見える。特にO2bは、日本、朝鮮半島、インドシナに見えるだけで支那には見当たらない。

O3タイプは現在の支那人の主流を成す漢民族のタイプと言われており、O2a、O2bタイプは長江人の子孫のタイプと言われている。長江文明は、黄河流域にいた牧畜民による執拗な攻撃により滅んだとされている。

そしてその牧畜民こそ、現在の支那人の主流を成す漢民族であり、O3タイプの遺伝子を持つ人間達である。

その歴史の通り、長江文明が滅んだとき、長江人は各地に逃げたと思われ、それが現在日本や朝鮮、タイ、ベトナム等のO2aやO2bタイプのように、周辺の方に分布しているのである。これを見ると、タイはO2aとO2bの人間だけでだけで成り立っており、タイは逃げてきた長江人が作った国といえるかも知れない。

それよりも気が付くのは、アジア各地に見えるO3タイプの多さである。そのくせ漢民族の本拠地である華北では殆どがO3ばかりである。5000年の歴史を誇り、多民族国家といわれながらである。これを見れば、侵略的で且つ排他的な現在の支那人の性格が想像出来るというものである。

さらに古代では、日本人に多いDタイプが大陸に散らばっていたと言われる。しかし現在、Dタイプは山岳地帯や奥地にしか見られない。その奥地にもO3タイプは、しっかり侵食している。

現在チベットには、その希少のDタイプのD1とD3が半数以上いる。それは、チベットが漢民族にとって値打ちが無い土地の枯れた山岳だからである。しかし近年チベットに資源が見つかった。そして漢民族はやってきた。

チベットでは現在、漢民族の大規模な移住が行われ、彼等の手でチベット人の虐殺が行われている。おそらくチベットでは、Dタイプの人間は早晩駆逐され、O3タイプの人間が優勢になるだろう。

各Y遺伝子の分布は、只の人間の移動の結果と見えるかも知れない。しかしこうして見ると、その分布は、一つの民族による、もう一つの民族への強姦やホローコーストの結果だったとも言える。それは、南米のY遺伝子の分布が、僅かしかいなかった白人男性の遺伝子が、優勢になっていることでも説明が出来る。

ラルフ・タウンゼントは支那人の特異性と残虐性を言った。それは現在のチベットやウィグルを見れば今も変わりが無いことが分かる。恐らく大陸では5000年来このような事の繰り返しだったのであろう。

人間は何故国家を作るのか。それは支那人のように、他民族を襲う習性を持つ集団から結束して守る為である。チベットは国家体制不備と油断の為に、国民を守ることが出来なかった。確かに国家が無ければ戦争は起きないだろう。だがそこで起きるのは、虐殺や強姦なのだ。

中国武装警察によるチベット人弾圧
http://www.youtube.com/watch?v=u_HTUpi8fBY&feature=player_embedded

ウイグルでの中国人による人間狩り
http://www.youtube.com/watch?v=RE9nA00VEV0&feature=player_embedded
 

この地図のO3タイプの分布により、支那人の排他的で侵略的な性格も分かったと思う。それに対して、日本人は排他的処か包容的な民族であることも分かったと思う。日本の古いタイプも新しいタイプも共存している多様性は、来た者を受け入れる包容力と協調性が、太古の日本文明に存在していたからである。

しかし日本人の包容力にも限度がある。既に支那人も朝鮮人も充分受け入れた。これ以上排他的で協調性の無い支那人や朝鮮人を入れると、日本文明の特徴の一つである協調性が日本人から無くなるだろう。
http://kojoryoshu83.edoblog.net/%E6%96%87%E5%8C%96%E3%83%BB%E6%AD%B4%E5%8F%B2/%EF%BD%99%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90%E3%81%8B%E3%82%89%E8%A6%8B%E3%82%8B%E4%BE%B5%E7%95%A5%E3%81%AE%E8%B7%A1


12. 中川隆 2013年7月15日 10:23:51 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

漢民族は悪い _ 日本も朝鮮も支配階級は漢民族

kouitiroumagamiさん

Y染色体で見た場合、日本人に多いのは
D2、O2b1、O3

韓国人に多いのは
O3、O2b、C3


近いようで、ちょっと違いますね。

D2(縄文人の染色体です)、C1といった今の所、日本人以外には発見されていないY染色体も存在しますし、ミドコンドリアDNAも含めて考えますと、朝鮮半島からやってきた、というよりは元々日本に住んでいたのがO2系の民族(弥生人)で、それがD2系統に取り込まれ分岐しO2b1となり、日本人を形成していくようですね。

(朝鮮から渡来した漢民族による影響は主にO3で、全体の1割程度ですね)


朝鮮半島の場合、O2系の民族がO3の流入を受けて分岐、O2bとなるようです。

ようするにずっと祖先を辿るとChina 南部から移動してきたO2系統がD系統と少数のC系統と交わって生まれるのが日本人。

China 北部のO3と交わって生まれるのが朝鮮人の大元。

これにモンゴルやら漢人やら満州人やらが混じって現在の朝鮮人になります。

ですので日本人と朝鮮人は近いと言えば近いですが、ほぼ同じではないですね。

共通するのは弥生時代に流入したと思われるO3程度ですし。
(このO3もChina南部から来たと推測されています)


一番近いのはチベット族でしょうか。

日本以外でD系統のY染色体が残っているのはチベットとインドのアンダマン諸島程度ですし、O3が多いのはチベットですから。


弥生時代に流入した渡来人は全体の1割程度というのはほぼ確定のようです


___

termmasyuさん

Y染色体ハプロタイプは突然変異(主に細胞分裂の際の「コピー(複製)ミス」)でしか変化しませんので、

「元々日本に住んでいたのがO2系の民族(弥生人)で、それがD2系統に取り込まれ分岐しO2B1となり」

は間違いです。どのような混血が起こったとしても、Y染色体ハプロタイプ「マーカ」は全く変化しません。

突然変異でしか変わらないので「マーカ」として使えるのです。

それと、韓国人は「O2B*/O3/C3」となります。

(*はO2B1以外のO2B系統を示しO2Bではありません。)

弥生人(O2B1/O3)は、日本列島で誕生したのではなく大陸から渡来したものです。但し何処から来たかは不明です。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1397922003


13. 中川隆 2013年7月15日 10:44:18 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

漢民族は悪い _ 日本と朝鮮を支配している漢民族の出自は?

ヒトのY染色体のDNA型から見た現代の日本人 2012/1/5(木)

現在の日本人と原日本人とが、どのように違うかをY染色体の観点から考えてみました。

原日本人がどのような経路をえて、現在の日本人になったかをマイケル・F・ハマー博士のY染色体分析から、仮説ですが検証してみます。


        C     DE        NO
      C1 C3 D1 D2 D3 N O1 O2a O2b O3
ニヴフ(樺太) 38
アイヌ   0 13  0  88  0  0  0  *   0  0
青森県 8  0 0  39  0  8  0  0  31  15
東京都   1  2  1  40  0  0  3  1  26  14
静岡県   5  2  0  33  0  2  0  2  36  20
徳島県  10  3 0  36  0  7  0  3  33  21
九州    4  8  0 28  0  0  2  *  34  24
沖縄県   4  0  0 56  0  0  0  0  22  16
ハルハ(蒙古)52      1    1  0  0   23
朝鮮      11  6       3  0   36  38
漢(華北)   5           2  0  66
漢(華南)   5         15  30  0  33
ミャオ     4  7        7  11  0  71
チベット    3 16   33     0  0  33
台湾(原)   1       69       7
タイ                  47  6
ベトナム    4  3       6  36  14  41


 Y染色体の種類はA〜Rまであり、70,000年〜50,000年前に人類はAとBを除いて、CとDEとFが発祥地アフリカからユーラシア大陸に移動した。

その中で、D系の人類が日本に辿りついた。このD系のD2の人類が日本の原住民です。このD系の人類はD3のチベット人に、D1も多少残っていますが、それ以外は全世界に存在しません。D系の親戚E系は中東からアフリカに残っています。

このD2で比率的に多く残っているのが、アイヌで日本本土や沖縄のヒトには、比率的に多く残っていますが、中国や朝鮮から渡って来たヒトとの混血になっています。アイヌも僅かに樺太で生活しているニヴフ族との交わりがあったのでしょう。

 日本本土と沖縄でD2の次に多いのが、O2bで朝鮮やベトナムにも見られる中国の東北部、華北から東南アジアに掛けての染色体です。このO2bを多く持った民族が日本に渡来したと考えられます。この表からも分かるように、O3を多く持った華北にいた漢民族ではないようです。また、O1を多く持った台湾の原住民でもなかったようです。


その次に多いのが、O3で漢民族系となるわけです。


 O2bの染色体をもったのはどの民族なのか。

その前に、朝鮮を注目したいのです。

朝鮮も歴史的に日本人と同じで混血の民族です。染色体の比率をみますと、日本人が持っているD2はまったくありません。多いのが、O3とO2bですね。

これは中国の春秋戦国の時代に朝鮮に逃げ込んできた中国の少数民族と朝鮮に元々いたC3のツングース系との同化によるものと考えられます。

朝鮮に最初に中国の民族が入り込んだのは、殷王朝が滅びた後、最後の皇帝、帝辛の親戚の箕子が朝鮮に亡命して、箕子朝鮮を建国しています。

また、春秋時代に晋の滅亡により、韓、魏、趙に分かれ、秦が勢力を伸ばしてきた時、最初に秦に滅ぼされた。その韓の民衆が燕をたより、燕から朝鮮に移住した。

その一部は燕が秦に滅ぼされた時に燕の亡命者と衛氏朝鮮を建国した。

この箕子の一族や韓の民衆がO3だとしましょう。

 日本人の染色体のO3は朝鮮から渡って来た箕子の一族や韓の民衆達と仮定し、

O2bは夏王朝が滅びた時、夏人達は華南に逃亡し、春秋戦国時代に杞や越を建国し、さらにはベトナムにまで南下した夏人が楚や秦の攻撃から逃れて、日本に渡ってきた越人だったのではないでしょうか。
http://blogs.yahoo.co.jp/hs_anriver/14937191.html


O系統の拡散と水稲農耕の日本列島への流入


土器の出現後、すなわち新石器時代に入って、しばらくは野生種の採集というステージが続いたが、東アジアにおいては比較的早い時期に、華北では雑穀(ミレット)農耕(約7,000年前・・・新楽文化)が、華中・長江流域では水稲農耕(約9,000年前・・・彭頭山文化)が始まった。


崎谷によれば、華北の雑穀農耕を担ったヒト集団は、その後漢民族として拡大していく集団、すなわちY染色体O3亜型、特にO3a3cと関連する集団であるという。


また華中・長江流域の水稲農耕は、多様な集団すなわちモン・ミエン系(O3c3bと関連)やタイ・カダイ系(O1aおよびO2a)が当初担っていたと考えられる。

しかし彼らは、北方から漢民族の侵略を受け、中国南部や更に南の山岳地帯、雲南省や台湾方面に追いやられる。

(下図は漢民族の圧迫をうけ中国大陸南部の山岳地帯に追いやられた諸語族の現在の分布状況である)
  
 
またその一部は、山東半島を経由して朝鮮半島南部(O2b)から九州(O2b)に、或いは長江流域から直接九州(O2b)に波及した。

 弥生時代、九州や西日本に水稲農耕技術を伝えたのは、このO2b亜型集団であったことはまず間違いないであろう。


縄文前期に確かに伝播していたと思われる照葉樹林文化については、その担い手がどういうY染色体集団であったか明らかではない。

筆者は、福岡や徳島、静岡各地で低頻度ながら検出されている O2a(およびO1a)が、照葉樹林文化の担い手ではなかったかと想像している
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn4/004_08_2Ysennsyokutai_karamita_sosenn..html


14. 中川隆 2013年7月15日 12:57:51 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

漢民族は悪い _ 日本を支配している漢民族の出自は?

当ガラパゴス史観が2chや御用史観、皇国史観、右翼史観、左翼史観等の日本人優越史観論者や御用学者から嫌がらせを受けるのは、

大和朝廷族や武士団族は本来漢語を話したY-DNA「O3」漢民族のはしくれで、

古代中華王朝の出先だった韓半島での「O3」同士の抗争に敗れて韓半島を追い出され、武力を持って列島に流れてきた侵略民族で、

縄文系や弥生系の神話を乗っ取りさも昔から日本列島に住み着いていたように神話を改ざんし記紀神話をでっち上げ日本列島を侵略した集団である

と率直に書いていることが原因のようです。


しかし今や世界最大の遺伝子集団となったY-DNA「O3」抜きに日本民族は語れません。何かの本に

和泉式部日記の時代の大和朝廷族は読み書きを含め漢語を話していた、完全な漢文化民族だった

と、確か女性の研究者だと思いましたが、ハッキリと書いていました。その通りだと思います。

いづれにせよ王族と宮廷官僚たちは明らかに「O3」と思われます。

新羅に敗れた後、「O3」ボートピープルが日本列島に押しかけ好戦的な「O3」は縄文−弥生交配集団と闘いながら最終的に大和朝廷を興したのでしょう。


何故百済や伽耶は日本列島の倭と連携をとることが多かったのでしょうか?

理由は簡単で韓半島南部に位置したため非支配層がY-DNA「O2b」集団だったからです。ただし支配層は帯方郡などの中国王朝の出先機関から追い出されてきた漢族です。

高句麗等の新興勢力との抗争に負けた出先機関の「O3」漢族が韓半島を南下し土着の「O2b」を支配し作ったのが百済でしょう。あくまで漢族支配王国なのです。

日本列島に逃げてきた「O3」集団は戦闘集団でもあったようです。旧唐書にあるように九州から日本海沿岸のどこかに「日本」なる上陸拠点を作り、そこを足場に戦力を増強し、日本列島の中心地と考えられていた畿内を目指し侵略軍を進めたのが後に大和朝廷族となった神武東征軍でしょう。

我が縄文―弥生混成集団は本来戦闘集団ではなかったため、容易く征服されていったようです。

どちらかと言うと手を焼いたのは同じ「O3」で先に韓半島から逃げてきていた同類の戦闘集団でしょう。要するに侵略軍同士で闘い勝ち抜いたのが大和朝廷族だったと言うことです。あくまでも侵略者です。


もうひとつ妄想すると、蘇我一族は蘇我蝦夷の名前が占めすように縄文ー弥生系の土着集団だったのではないだろうか。当時奈良という土地の支配者だった縄文ー弥生系が「O3」に負けた歴史を書いたのが占領軍が書いた日本書紀です。縄文ー弥生の子孫を自認する小生から見ると、大和朝廷族は異遺伝子集団の占領軍に過ぎないのです。

宮中独特の言葉と言うのはその時代の漢語の名残に他ならないのでしょう。

日本人が持つアジアから毛嫌いされる特性、特に第二次大戦前までの特質はほとんど大部分が紀元後韓半島から抗争に負けて追い出されてきた武装侵略者の流れ者集団だったY-DNA「O3」大和朝廷族と武士団族が持っていた特質です。

この特質は同じY-DNA「O3」が支配する中国と韓国も共通に持っているものです。

Y-DNA「O3」の子亜型で韓半島独自、日本列島独自の子亜型・孫亜型はまだ発見されていません、中華大陸の子亜型そのもののままなのです。

つまりこのY-DNA「O3」の部分は中韓日で完璧に同根なのです。

つまりY-DNA「O3」は日本列島を武力で侵略して以来、長い間1000年以上もの期間、縄文や弥生の系統を蔑み交配してこなかった結果なのです。交配が始まったのは明治以降それも第二次大戦以降でしょう。結果としてアメリカによる統治が大きいと思います。

この日本人が持つ際立つ2面性は、この日本民族が持つ3重遺伝子構造から来ています。

縄文と弥生の2種の遺伝子は紀元前の間に十分交配し縄文−弥生交配人を構成してきましたが、縄文−弥生交配人を非支配階級として抑圧してきた侵略者系が縄文−弥生系と交配を始めたのは明治維新後それも第二次大戦後のことです。

今後の日本は3種の遺伝子がドンドン交配し新たな日本人を構築してゆくと思いますが、現在はまだまだ支配階級のY-DNA「O3」武装侵略者集団の子孫が政治経済を牛耳り、我々縄文−弥生交配系の子孫は末端に甘んじているのが現状です。

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2012/4/8 残念ながら2chの悪質な嫌がらせが発生しました。

  このブログの特に最近のY-DNA調査結果の全文をそのまま2chに無許可で転載し、叩くネタにするという嫌がらせが発生しました。

恐らく縄文系が本来ネグリートであったとか、漢族系侵略者が支配階級だとかY-DNAの調査結果を本音で発信していることがお気に召さないようです。

おまけにxx青牛とか名乗る縄文文化を認めたくない日本人御用学者達の手先が現れ、日本人は縄文人が基層をなしていることを矮小化するための御用学者達のこれまでの論法を繰り返し発言しています。


日本列島で3番目を占めるのが大和朝廷族や武士団族などの韓半島の中華王朝出先機関から生き残りに負けて日本列島に流れてきたY-DNA「O3」漢族の侵略者遺伝子群です。


Y-DNA

「O3」は黄河文化直系のプロト漢族、

「O3a1」は華北の周辺民族との交配で生まれた黄河系(華北系)漢族、

「O3a2」は黄河系漢族と長江文化華南系との交配漢族


になります。漢族は単独遺伝子ではなく、約50%強の「O3XX」亜型群をコアに現在少数民族となっている「O1」「O2」「F」「P」「NO」N」「C3c」など50以上の民族との交配の結果生まれた複雑な遺伝子構成の集団ですが、支配階級は「O3XX」なので「O3」で代表されます(面白いことに他の遺伝子との交配を嫌った純粋「O3」の少数民族もいるのです)。

研究が進み「O3」集団も黄河文明系遺伝子だけではないことがわかってきました。

長江文明系の血統が小亜型に大量に交配しているのです。

中華大陸で長江文明系の集団遺伝子は「O1」と「O2」ですが、現在残っている亜型は意外に少ないのです。つまり長江文明系は周囲の他の遺伝子との交配をあまり進めてこなかったようです。このため中国の少数民族には「O1」や「O2」が多いのです。

一方「O3」の方は長い歴史で「O1や「O2」とかなり交配を進め小亜型に分化しています。そして少数民族化せずそのまま漢民族の中に取り込んできたようです 

(「O3」の中にもDerung族のように他遺伝子との交配を嫌った集団も「O3」の故地の江南特に雲南省辺りに残っています。どんな集団にも保守的な守旧派のグループはいるものです。そしてそのようなグループは少数民族化しエネルギーが弱まり、衰退してゆくのです。

日本人の「O3」亜型の小亜型をご紹介します。
日本列島の「O3」合計は約19%です。日本人男性の5人に1人は「O3」なのです。

O3      雲南省あたりで「O2」から分化した亜型 日本列島では2.2%
O3a
O3a1    漢民族の20%を占める。黄河文明の直系の亜型かもしれない。
O3a1c                             日本列島では5.7%もある。 
O3a2    漢民族の35%を占める。長江文明人と交配し分化した長江文明系「O3」
                                  日本列島では3.3%
O3a2b   長江文明の大溪文化(5000年〜7000年前頃)人と交配した遺伝子らしい。
O3a2b1a ミャオ族特有の「O3」
O3a2b1b シェ族特有の「O3」
O2a2b2  ヤオ族特有の「O3」
O3a2c1   シナ―チベット語族特有の「O3」     日本列島では約3.1%
O3a2c1a  漢民族系特有の「O3」           日本列島では約4.6%
O3a2c1b  チベット−ビルマ語系特有の「O3」

以上を見ると黄河文明人=漢民族ではないことがよくわかります。

漢民族は黄河文明人を基盤に長江文明人と交配しながら出来上がり、周王朝辺りから自分たちを固有民族として自覚し始め、漢王朝辺りから漢民族として確立していったようです。

中国の漢民族内の頻度的には55%の「O3」の中で、黄河文明系の直系が10%程度なのに対し長江文明との交配系は残りの45%を占め、漢民族は黄河文明系と長江文明系の完全融合体であることが良くわかります。文化的には北方系の黄河系文化が中国の主流となりましたが、遺伝子頻度的には江南系の南方遺伝子系の方がはるかに多いのです。

では日本列島にやってきたのはどんな「O3」なのでしょうか?

まだ答えは出ていませんが、


・坂東武者の先祖と考えられる高句麗の戦闘集団

・Y-DNA「O2b」が非支配層と考えられる、3国によって取ってかわられた3韓の支配層。

・滅ぼされた百済王朝系のエスタブリッシュメント一派+戦闘部隊(平家か?)

・源氏の先祖と思われる新羅の花朗集団

・この中に長江文明交配系「O3」が特に知識層に多く、漢字の発音の呉音を持ち込んだようです。


等など、折につけ韓半島での抗争に負けた「O3」が日本列島に南下してきたものと思われます。長江文明交配系の「O3」が多いため「南下」することには抵抗がなかったものと思われます。


それでは日本人にもよく見られる、蒙古襞目でフラットフェースの寒冷地適応した新モンゴロイドはどの「O3」なのでしょうか?

日本で二重瞼が一重に対し優性遺伝をするところから考えると、長江文明系と交配史文化したY-DNA「O3a2b」は当然フラットフェースですが二重瞼でしょう。

原亜型のY-DNA「O3」も故地が江南で寒冷地とは関係ないことを考えると、寒冷地適応型は黄河文明直系と考えられる。Y-DNA「O3a1」と思われますが、しかし黄砂適応もしているはずなので、フラット化/一重瞼化した理由はどちらかはよくわかりません、あるいは相乗効果かもしれません。


明らかに寒冷地適応をしているのはシベリア系のY-DNA「N1」と「Q1」です

この両遺伝子は恐らく完璧な寒冷地適応型と考えられます。日本人は良く観察するといわゆる典型的なフラットフェースで一重瞼の新モンゴロイドフェースは意外に少ないのです。モンゴロイドの定義はやはり顔ではなく肌の色なのでしょう。

このためフラットフェースでなく二重瞼の集団を苦し紛れに古モンゴロイドと分類して逃げているのです。これなら人種分類など止めてしまえば良い。遺伝子分類だけに統一すればよいのです。しかし白人優越主義を維持したい連中は差別化のためにコーカソイド以外を劣等人種と位置付けておきたいだけなのです。

中部地方は「O3」の中で最も古い「O3」の頻度が高いです。

「O3」の中でもオリジナルの黄河系が韓半島に多く居住し「O3」の中でも新しい子亜型の進出で韓半島を追い出されたようです。

ちなみに「O3」「O3a1」は黄河(華北)直系漢族、「O3a2」は黄河系と長江(華南)系の交配系漢族です。

日本の中国地方は、大国主神話もあり予想された葦原の国通り、弥生系が圧倒的に多い土地です。当然ながら「O3」侵略軍の頭領神武や別の「O3」侵略軍も「O2b」の抵抗にあい相当苦労して山陽道を進軍したはずです。

そして「O2b」集団を征服するたびに「O3」支配者を常駐・在地化させコントロールしてきたため、「O3」頻度も全地方最大なのでしょう。その代わり縄文頻度は全地方最低です。最も日本らしくない地方です。


いずれにせよ日本列島で検出できる「O3」の子亜型は全て中華大陸で検出できます。つまり韓半島の「O3」とも全く同じです。

つまり「O3」漢族は支配階級として日本列島先住民だった縄文−弥生集団との交配を行ってこなかったことを意味します。あくまで自分たちはエスタブリッシュメントとして先住縄文−弥生集団を見下していたわけです。

この「O3」は韓半島の支配階級でもあったため、韓半島も日本列島も漢族の支配した土地であったことがよくわかります。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/


15. 中川隆 2013年8月11日 08:12:27 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

Y染色体ハプロタイプ DE系統D亜型D2A

本土日本人と沖縄県民(琉球民族)は「縄文人」と「弥生人」との間に産まれた混血民族です。Y染色体ハプロタイプでは、


●縄文人:DE系統D亜型D2A (今から3万年前より日本列島にいた先住民)

●弥生人:NO系統O亜型O2B1 (今から約3000年前に日本列島に渡来)


と推定されています。

本土日本人は、Y染色体ハプロタイプでは

「DE系統D亜型D2A(約40〜50%)」と

「NO系統O亜型O2B1(約22〜30%)」

「NO系統O亜型O3(約15%)」

による混血(ハーフ)です。


「DE系統D亜型D2A」と「NO系統O亜型O2B1」は、世界中で「沖縄県民(琉球民族)」と「本土日本人」しか持っていません。


中国人は「NO系統O亜型O3」、

朝鮮人は「NO系統O亜型O2B*/O3」

となり、基本的に「NO系統O亜型」しか持ちません。


「DE系統」としては他に「DE系統E亜型」があり、アフリカ、中東、南ヨーロッパに分布する民族となります。

日本人の混血の約半分を占める「DE系統」はいわゆるモンドロイドではなく、特徴の一つとして、立体的な顔が上げられます。日本人と「朝鮮人、中国人」で異なる点として、「個人差はあります」が、多少彫りのある顔、多少濃い髭、目が長くなく丸い、耳が離れている、顎がするりと丸い、子供っぽい容貌等は、「DE系統D亜型D2A」由来と考えられます。

(アイヌ人(D2*)、沖縄県民(琉球民族:D2A)は本土日本人より更に「DE系統D亜型D2」の比率が高くなります

(アイヌ人は88%、琉球民族は58%)。

また、容貌が日本人と似ていると言われる、羌族などのチベット人は

「DE系統D亜型D1/D3:両方足して48%」と

「NO系統O亜型O3」


との混血です。


今から約68000年前のアフリカにおいてDE系統DEからDE系統Dが分岐、

また約38000年前の東アジアにおいてDE系統DよりDE系統D2が分岐した

と推定されています。

チベット人のD3は数はD2より上ですが、分岐年代が一番新しいのはD2の方となります。

参考までに、主に中国人など東アジア一般的な「NO系統O亜型O3」の分岐は、今から約25000〜30000年前と推定されています。

DE系統とNO系統は、極めて遠い民族同士であり、20万年と言われる現世人類(サピエンス)の歴史の中で、10万年以上さかのぼらなければ接触点がありません。)


YAP遺伝子はDE系統D亜型とDE系統E亜型が持っています。

DE系統E亜型は中東のみならず、アフリカ、ヨーロッパにも見られます。ギリシャ、イタリアだけでなく、オーストリア(10%)でも検出できます。

Y染色体ハプロタイプの分岐年代には誤差がありますので、ここからは一つの説として聞いて下さい。


今から7万年〜7万5千年前に、インドネシアスマトラ島にあるトバ火山がカテゴリ8の大噴火を起こし、急激な気候の寒冷化が発生、これをきっかけとして、東アフリカにいた熱帯育ちのサピエンスのうち、A系統、B系統を除く、CF系統C、DE系統DE、DE系統D、CF系統CFが5〜6万年前にアフリカを出て東へ向かった。

DE系統Dの分岐は(出アフリカの前)約68000年前と推定されるので、出アフリカ前の東アフリカか、中東で産まれたと考えられる。

Dの祖であるDE系統DEは中東に留まり、そこからDE系統Eが分岐したと推定されるが、何故か東へは行かず、南ヨーロッパ及びアフリカ(逆戻り)へ向かった。

現在、DE系統DEは民族としては存在していない(但し僅かだがチベット人もしくはアフリカ人にハプロタイプDE系統DEは発見されている)。

CF系統Cは東南アジア→オーストラリア方面へ、CF系統CFはインド方面へ行きCF系統Fが分岐、DE系統Dは東アジアへ北上し氷河期最寒気をまともに受けたと推定、

DE系統Eは中東、アフリカ、南ヨーロッパへ(例えばエジプト人の40%、ギリシャ人の30〜40%等)。

一般的な白人(QR系統R)とか、東アジア一般的な中国人などの(NO系統O)は、元々インド方面にいたCF系統Fから分岐したものである。


なお、DE系統Dは出アフリカ以降、早ければ5万年前に現世人類として初めて東アジアへ到達したと考えられており、その間、ネアンデルタール人の兄弟種にあたるデニソワ人と遭遇する事はあっても、他サピエンスとは会っていないため、日本語はサピエンスの祖語である可能性との説もある(真偽はまだわからないが)。

DE系統Dは、東アフリカで誕生し、6万年前に出アフリカ、海岸ぞいをたどって、インドから東南アジアへ、それから東アジアへ北上して日本へ到達したと推定される(南ルート)、また東南アジア人、中国人、朝鮮人にほんの僅かD1が検出されるのも、元々東アジアの先住民だったためではないかと推定されている。

なお、CF系統CとQR系統Qは、その後、新大陸へ進出したが、DE系統Dは最初は氷河で阻まれ、その後、日本列島へ閉じ込められたため、新大陸へは行けなかったと思われる。


【追加:日本人のD2を調査した結果、「D」の範疇とはいえ、極めて大きな突然変異を既に5回発生している事が判明した。これはD系統の中心勢力がまさに日本列島の中に存在している事を示しており、D系統は中心を含めまるごと日本列島に取り込まれ孤立、閉じ込められた事を示している。

チベット人にD3があるが、一番新しい分岐はD2の方である】


東大と総合研究大学院のプレスリリースについて、確かに東大と総合研究大学院は嘘はついていません。しかし微妙ですね。

総合研究大学院の調査方法では、アイヌ人(D2*)と本土日本人(D2A)の遺伝的違いが判別出来なかったようです。

アイヌ人(D2*)は、縄文人(D2A)ではなく、同じ系列(D2亜型)の別集団(C3亜型が入ったのが証拠)と考えます。

言語が違うのもそのせいでしょう。

琉球(D2A)と似ているのは、本土日本人(D2A)です。

アイヌ人(D2*)とは若干の違いはありますが、本土日本人のD2Aに近い系統と言えます。

朝鮮人(O2B*)と弥生人(O2B1)は、O2Bとしては系統が近いですが異なるので、韓国人=弥生人とはならないでしょう。


総合研究大学院の(核遺伝子を使用した)調査方法では「系統分析」が出来ないので、アイヌ人と日本人、琉球人共通の「DE系統D亜型」内の違いと、弥生人と韓国人の「NO系統O亜型」内の違いまでは判別は出来ない欠点があります。

竹島より尖閣を優先した政治的配慮が伺えます。
中国が沖縄を口にしたので、急きょ発表したのでしょう。

投稿者: 通りすがり人 2013/01/26(土) 21:32:58

弥生人(NO系統O亜型O2B1)の判る範囲について、O2B1は「O−47z」と呼ばれ、「O2B」の中で「47z突然変異」があるものを「O2B1」としています。

また、「47z突然変異」がないものを「O2B*」としています。

「O2B*」は「O2B」から分岐した後、「O2B1」とは別の変異をしている可能性があり、また「O2B」も含む可能性も確かにあります。その為、「*」を付けた呼び方となっています。


------------------------------------------------
・O2B*(O−M176*)→満州族と朝鮮民族(47z突然変異なし)
・O2B1(0−47z)→本土日本人、沖縄人(47z突然変異あり)
------------------------------------------------


これにより「朝鮮人、満州族」と「日本人」は「O2B」としては近いが、系統としては別となります。

IS0GG(遺伝的系譜国際学会 The International Society of Genetic Genealogy) 2012年公式データより
「ISOGG Possible time of origin O-47z→7,870 [95% CI 5,720〜12,630] years」


「47z突然変異」は約7870年前(最小5720年〜最大12630年前 確率95%)に発生したとされています。

また、カーボンテストにより、弥生時代は今から3000年前(BC1000年)に始まった事が確認されています。

よって、弥生人は渡来人となりますが、朝鮮半島、中国東北部には「O2B1」の痕跡が全くない。

また、弥生人が持ち込んだとされる「稲」の遺伝子パターンが朝鮮半島と合わないが中国大陸とは合う。

稲作開始時期が朝鮮よりも日本の方が古い。

南琉球(日本)が「DE系統D亜型D2A:4%」「NO系統O亜型O2B1?:67%」「29%不明」

→南琉球人の遺伝子構成が、日本本土からやって来たと考えると計算が全く合わず、弥生人の渡来ルートの一つとしか考えられない。


現段階では、弥生人が朝鮮半島から来た証拠は全くなく、琉球列島を通って中国大陸から直接渡来した可能性の方が高い。
http://luna555.blog19.fc2.com/blog-entry-309.html


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