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収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族 _ 朝鮮から渡って来た華僑は日本の支配階級となったが…
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/850.html
投稿者 中川隆 日時 2013 年 7 月 14 日 07:52:12: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 宮崎の山村に伝わる「百済王伝説」の謎 投稿者 中川隆 日時 2013 年 7 月 14 日 00:22:09)

暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族


射殺された清少納言の実兄、不正のかぎりを尽くして私腹を肥やす受領……。

藤原道長や藤原行成の日記に書かれていたのは、王朝貴族たちの犯罪と暴力だった!
 
風雅で優美なイメージの裏側に隠蔽されてきた衝撃の実態。

平安時代には支配階級・特権階級である貴族たちが、庶民から収奪の限りを尽くし、暴走に次ぐ暴走を重ねている。


『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)
「序 清少納言の実兄、白昼の平安京にて射殺される」
「結 清少納言、源頼光の四天王に殺されそうになる」
「あとがき」

から要約する。


現代日本人がイメージする王朝貴族は、和歌や音楽や恋愛に人生の喜びを見出す繊細な人々であり、血が流れるのを見たら気絶するような気の弱い人々である。

このような王朝貴族のイメージを形成してきた情報源は『源氏物語』や『枕草子』に代表される一群の文学作品である。

紫式部や清少納言の作品に親しむ人々にとって、王朝貴族社会は犯罪や暴力とは縁のない、風雅で優美な世界である。

しかし、疑いのない事実として、王朝貴族が諸々の犯罪行為に手を染め、数々の暴力沙汰を起こしていた。王朝貴族の犯罪行為も数々の暴力沙汰も、王朝時代には当たり前の日常茶飯事だったのである。

その証拠は、藤原道長や藤原行成といった上級貴族たちの日記である。

彼らの日記を紐解けば、王朝貴族が犯罪や暴力に関与していたことは否定のしようがない。

1017年の藤原道長の日記『御堂関白記』によると、清少納言の実兄清原致信が騎馬武者の一団の襲撃を受けて殺されている。 清原致信は王朝貴族の一人であり、朝廷に仕える中級官人であった。大宰府の三等官である大宰少監を務めていた。そして、清少納言の実兄である清原致信が襲撃され殺されたのは、それに先立って、致信自身が人殺しをしていたからである。

清原致信を殺したのは、源頼親の武士団であり、致信殺害は源頼親が命じたものである。
そして、源頼親は王朝貴族たちから「人を殺すことを得意としている」と見られていた。一方で、源頼親は淡路守や右馬頭といった官職を帯びる中級官人であり、王朝貴族であった。

同時に、大江山の酒呑童子を退治したことで知られる源頼光の弟であり、「大和源氏」と呼ばれる武士団の祖でもあった。王朝貴族の一員でありながら自ら強力な武士団を率いていた、「軍事貴族」と呼ばれる存在だったのである。

その軍事貴族の源頼親が、配下の武士たちに命じて清原致信を殺害したのは、仲間の当麻為頼の仇を討つためであった。当麻為頼が清原致信によって殺されていたからである。

ところが、当麻為頼殺害の真の首謀者は清原致信ではなく、その背後にいた。清原致信が仕える藤原保昌であろう。

丹後守として丹後国に赴任した藤原保昌は、悪名高い王朝時代の受領国司たちの一人だった。しかも丹後守の他に日向守・肥後守・大和守・摂津守などをも歴任した保昌は、その貪欲さと悪辣さとで知られる受領を代表する存在であった。

藤原保昌が1017年の清原致信殺害事件に先立って大和守の任にあった。従って、藤原保昌の朗等であった清原致信は、大和国において大和守保昌の汚い欲望を満たすことに勤しんだこともあっただろう。

当時、大和守の住人であった当麻為頼は保昌にとって邪魔な存在であり、保昌が為頼の抹殺という汚れ仕事を致信に押しつけたものと想像される。

清原致信殺害の首謀者であった源頼親は、配下の武士たちに致信を殺させたことが露見したため、それまで帯びていた淡路守および右馬頭の官職を取り上げられたが、当時の朝廷は、これ以上には頼親を罰しようとはしなかった。つまり、致信の殺害を謀った頼親は、ただ官職を失うだけで済んだ。しかも、1017年に淡路守と右馬頭を罷免された頼親も、1024年には、新たに伊勢守を拝命し、続けて大和守と信濃守を務めている。

さらに真の黒幕である藤原保昌に至っては、致信が殺されても、馴染みの朗等の一人を失っただけで、1020年あたりに丹後守に任命され、その後、大和守を経て、摂津守に任命されている。

それにしても、人を殺すという凶悪な犯罪行為が、王朝貴族にとっては、いかに身近なものであったことか。

王朝貴族の世界とは、悪事を働いた者が臆面もなく暮らすような、悪徳に満ちた世界だったのである。

この事例は、王朝貴族の悪だくみの氷山の一角にすぎない。

当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

清少納言の実兄である清原致信殺害事件の真相は、次のように理解される。

1013年頃、大和守に任命された藤原保昌は、同国の豪族たちから少しでも多くの財を巻き上げようとして、不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領といった不正行為の数々に手を染めていた。

だが、そんな藤原保昌に歯向かったのが、大和国の当麻為頼である。

地元の有力豪族として大和守藤原保昌との確執を深めた当麻為頼は、藤原保昌の配下によって消される。保昌から当麻為頼殺害という汚れ仕事を任されたのが、保昌の朗等であった前大宰少監清原致信であった。清少納言の実兄である致信は、藤原保昌が大和国で財を成すことを助けるため、保昌の命じるままに為頼の始末を実行した。

しかし、清原致信が藤原保昌から与えられた汚れ仕事は、為頼抹殺だけではなかっただろう。藤原保昌が企図した不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領などの実行にあたったのは、藤原保昌の朗等たちだったはずであり、その中には(清少納言の実兄)清原致信がいたに違いない。

清少納言が『枕草子』に描いた王朝貴族社会の豊かさは、悪徳受領たちが地方諸国において不正行為を用いて築き上げた汚れた富によって支えられたものだったのである。

それだけではない。試験制度の弊害は枚挙に暇がないが、試験制度(官人採用試験)は平安時代には既に整えられていた。


宮中での取っ組み合いの喧嘩、従者の殴殺。
果ては邸宅建設のために平安京を破壊するなど、優雅な王朝時代のはずが、貴族たちはやりたい放題の暴れぶり。当時の記録をもとに貴族たちの意外な素顔を探り出した意欲作。

『殴り合う貴族たち〜平安朝裏源氏物語』繁田信一著 柏書房刊

序 素行の悪い光源氏たち
藤原道長、官人採用試験の試験官を拉致して圧力をかける」

によると、


988年当時、23歳の権中納言の藤原道長が、従者たちに命じて、式部少輔橘淑信という貴族を拉致させた。

橘淑信は式部省という官司の次官であった。式部省とは官人の採用や評価を職掌とする官司であり、この頃の橘淑信には官人採用試験の試験官の職務が与えられていた。当時、家柄のぱっとしない者にとっては、式部省の官人採用試験で好成績を残すことが、出世のための重要な足がかりとなった。

ところが、藤原道長は、自身が懇意にしている受験者の試験結果に手心を加えさせようと、試験官に脅しをかけた。この受験者を何とか官人にしようとする道長の身勝手な思惑の犠牲となったのが、官人採用試験の試験官式部少輔橘淑信であった。

この事件は瞬く間に世間の知るところとなり、この一件を伝え聞いた人々は、嘆きの吐息を洩らしたという。

庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたのである。


これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。
おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにあるからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/05/002556.html


暴走の源流=平安貴族2 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた

国府を焼く平忠常の乱 

前回の記事(暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族)
では、

●庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたこと。

●これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにある。

ということを提起しました。


今回記事では、

●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めていきます。

 『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)「第2章 公共事業費を横領し尽くす」から要約します。 


@収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族から生命を狙われていた。

1007年の7月1日、鎮西の大宰府において大隅守菅野重忠が殺されるという事件が起きた。

歴史書の『日本紀略』によれば、重忠を殺したのは、大宰大監大蔵種材の息子の大蔵光高であった。その光高が、重忠を弓矢で射殺したのである。 こうして生命を落とした大隅守重忠は「王朝貴族」と呼ばれる人々の一人であった。彼は、受領国司として鎮西に下向した王朝貴族だったのである。従って、その重忠が非業の最期を遂げたという話は、当時の貴族層の人々に大きな衝撃を与えたことだろう。

大隈守菅野重忠を射殺した大蔵光高の父親は、1019年の「刀伊の入寇」の折に異国の賊徒を相手に奮戦するように、鎮西の軍事貴族の一人であった。しかも、大宰府の三等官である大宰大監を務めたことから見て、鎮西において相当に有力な軍事貴族であったらしい。その彼を「豪族」と呼ばずに「軍事貴族」と呼ぶのは、彼が従五位下以上の位階を持つ厳密な意味での貴族の一人だったことが推測されるからに他ならない。

ただし、大蔵種材という実在の軍事貴族は、おそらく、大隈国の有力者だったのだろう。また種材の一族は、大隅国内の権益を守るため、ときとして同国の受領国司である大隅守と衝突しなければならなかったに違いない。そして、歴代の大隅守たちの中で最も激しく種材の一族と対立したのが、寛弘4年に種材の息子によって射殺された菅野重忠だったのではないだろうか。

このように、一条天皇が玉座にあった1007年、わが国の西の辺境である鎮西において、大隅守が大隅国の軍事貴族によって殺害されるという事件が起きていたわけだが、これは、けっして希有な出来事ではなかった。

例えば、一条天皇の曾祖父にあたる醍醐天皇の治世にも、かつて本朝の東の辺境であった上野国において、同国の豪族たちが上野介を殺すという事件が起きていた。

そして1002年の年末もしくは、その翌年の年頭には、平維良という下総国の軍事貴族が、下総守の公邸である下総守館に焼き討ちをかけていたらしい。『百錬抄』という歴史書によれば、長保五年二月八日の公卿会議において、「平維良が下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国の公有財産を掠奪したこと」が議題にされているのである。

受領国司の生命を狙って守館に焼き討ちをかけるという事件は、鎮西の軍事貴族よって引き起こされている。すなわち、一条天皇の息子の後一条天皇が帝位にあった長元2年(1029)の春もしくは夏、大隅国を活動拠点とする従5位下平兼光などとともに、大隅国府や大隅守館などを襲撃して火を放ったのである。この一件でも、大隅守自身は難を逃れていたようだが、『小右記』によれば、国府・守館に攻め込んだ季基・兼元の一党は、その場に居合わせた人々を殺戮しつつ、大隅国の国有財産を掠奪したらしい。

A地元の王朝貴族(受領)は、地元の豪族から恨まれていた。その証拠として
 「尾張国郡司百姓等解」という文章があります。


■「尾張国郡司百姓等解」

永祚元年(989)の2月5日および同6日、両日の公卿会議における議題の一つは、「尾張国の百姓などが朝廷に尾張守藤原元命の違法行為を告発したこと」であった。 尾張守元命は、任国の百姓たちからのみならず、国守を助けて働くべき郡司たちからまでも、その罷免を強く望まれていたことになろう。そして、尾張国の百姓たちと歩調を合わせて朝廷に尾張守の交替を求めた尾張国の郡司たちというのは、尾張国内の各郡の統治にあたる地元出身の地方官人たちである以前に、それぞれの郡内に地盤を持つ古くからの豪族達であった。
 
ここで朝廷に尾張守元命の更迭を要求したとされている「尾張国の百姓」というのは、映画「七人の侍」やテレビドラマ「水戸黄門」に登場するような、汗と泥にまみれて朝から晩まで働き続けながらも食うや食わずの生活を送らねばならないという、貧しく憐れな農民ではない。むしろ、そうした無力な農民たちを自在に使役することによって広大な田地から膨大な収益を上げようとしていた、才覚ある農業経営者として理解されるべきであろう。王朝貴族が「尾張国の百姓」と呼んだのは、尾張国において豪族のような立場にあった人々であり、あるいは、尾張国の豪族そのものとみなされるべき人々であった。

尾張守元命の罷免を望む尾張国の百姓達は、元命の行った31種類もの違法行為を書き連ねた解を、元命の頭越しに朝廷に提出したのである。そして、その嘆願書あるいは告訴状こそが、われわれが「尾張国郡司百姓等解」や「尾張国解文」などの名称で聞き知っている文書に他ならない。

その嘆願書なり告発状なりに示されているは、郡司あるいは百姓として尾張国に根を張っていた大勢の豪族達の総意なのである。


■5種類の悪行

「尾張国郡司百姓等解」の冒頭に置かれたのは、文書の表題の役割を果たす次のような一文であった。この嘆願書もしくは告発状を朝廷に提出したのが尾張国の郡司と百姓とであるということは、ここに改めて確認されよう。

「尾張国の郡司および百姓が解を提出して朝廷によるお裁きをお願い致します。」
「願わくば、ご裁断くださいませ。当国の国守である藤原元命殿は、本年を含む3カ年の間、税の名目で物品を奪い盗るという違法を行うとともに、暴力を用いた脱法を行いましたが、それらの違法行為や脱法行為は、合わせて31ヶ条にも及びます。これが本状の趣旨です。

そこで、尾張国の郡司や百姓が数え上げる尾張守元命の不正は、おおむね、以下の5つに分類されよう。

A.不当課税および不当徴税(9ヶ条)
B.恐喝およびさ詐欺(3ヶ条)
C.公費横領(10ヶ条)
D.恐喝および詐欺の黙認(4ヶ条)
E.その他(4ヶ条)
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002566.html

暴走の源流=平安貴族3 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?


任国に赴く受領(因幡堂縁起) 

前回の記事(暴走の源流=平安貴族2 収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた)
では、


●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めました。

この地元の受領たちが恨まれていた証拠として、「尾張国郡司百姓等解」という書物が残っています。今日はこの書物に綴られている悪行の数々について具体的な中身を紹介していきます。


■悪用された公的融資制度

[第1条]公的融資の利息を名目とした不当な増税を行った。

 王朝時代、尾張国をはじめとする地方諸国の政府=国府は、われわれ現代人には少し奇異なもの見えるような公的融資を行っていた。それは、毎年の春先、国内の百姓=農業経営者たちに対して一年間の農業経営の元資となる米を貸しつけるというものであり、また、その年の冬、新たに収穫された米の中から元本と三割ほどの利率と利息とを回収するというものであった。

こうして公的な融資は、表面上、国府による農業振興策に見えるのではないだろうか。しかし、これは借り手の意志を無視した強制的な融資であった。つまり、農業経営に携わる百姓達は、たとえ経営の元資に困っていなくとも、毎年、必ずや国府から融資を受けなければならなかったのである。そしてこの融資をまったく無意味に受けた百姓であっても、融資を受けた以上、絶対に利息を払わなければならなかった。当然豊富な元資を持つ百姓にしてみれば、右の公的融資の制度は、迷惑なものでしかなかっただろう。

 結局、王朝時代の国府が行っていた公的融資は、農業振興策であるどころか、融資の体裁を借りた課税でしかなかった。当時の百姓たちは、正規の税を納めさせられた上に、公的融資に対する利息を名目とする不可解な税の納付をも義務づけられていたのである。

 986年に着任した尾張守藤原元命は、こうした従来よりの規定を平然と無視したという。988年までの3ヶ年に合計で2万1500石を超える額の強制融資を追加して、百姓たちから6400石以上もの米を利息として取り立てたのである。

 ちなみに、こうして元命が尾張国の百姓たちから巻き上げた米6400石は王朝時代の大半の人々にとって、一生を費やしても稼ぎ出し得ないほどの巨富であった。当時一般的な雑役に従事する労働者は、朝から晩まで働いても、一升(0.01石)もしくは二升(0.02石)ほどの米しか手にできなかったのである。そんな庶民層の人々にしてみれば、6400石というのは、数百年分から千数百年分の年収に等しい額であった。


■着服のための増税

 尾張国の富を吸い上げられるだけ吸い上げるつもりであった元命は、本来的な課税制度をも、存分に悪用したのである。

[第2条]課税対象ではない田地からも税を取り立てた。

 当然のことながら、本来は徴収されないはずの税は、徴収された後、国府の財政に組み込まれることもなければ、朝廷に上納されることもなかった。非課税のはずの田地から不当に徴収された税の行き先は、言うまでもなく、尾張守元命の懐であったろう。


[第3条]朝廷の許可を得ずに税率を大幅に引き上げた。

 違法な税率を用いて百姓達から税を取り立てた尾張守は、けっして藤原元命だけではない。王朝時代の尾張国においては、法定に倍する税率での課税が慣例化してしまっていたようなのである。だが、そんな尾張国に生きる百姓たちも、元命が986年に新しく採用した税率には、さすがに憤慨せずにはいられなかった。というのも、元命の提示した新税率が1町につき21.6石というあまりにも高いものだったからである。それは従来の違法税率の1.8倍から2.4倍の税率であり、法定税率と比較すれば4.8倍にもなる高すぎるほどに高い税率であった。


[第4条]着服するためにまったく名目の立たない税を取り立てた。

 一町につき8.4石というのは、尾張守元命が任国の百姓たちに臨時で課した特別税の税率である。これが本来の税の法定税率の2倍に近い高い税率であることは、ことさらに言うまでもないだろうが、この高税率の特別税は、一片の正当性もないまったく違法なものであった。すなわち、この税は、ただたんに元命の懐を温めるためだけに課されたものだったのである。


[第5条]前3条の不正によって毎年のように5万石を超す不当な利益を上げた。

 15万石というと、王朝時代の一般的な労働者の2万年分の年収を上回る額である。それは、当時の庶民層の人々にとって、まったく現実感のない数字であったかもしれない。だが、確かな現実として、尾張国の百姓達は3年間の間にそれだけの富を尾張守元命によって巻き上げられていたのである。


■公務としての掠奪


[第6条]絹織物の公定価格を不正に改変して事実上の増税を行った。

尾張国の百姓たちが負っていた税には、2.4町の田地について一疋(0.67メートル×15.56メートル)の絹織物を納めるというものもあった。そしてこの税の税率は、田地一町につき米2石というものとして理解されていた。


[第14条]絹織物を納付する期限を不当に早めた上に乱暴な取り立てをした。

 尾張守に就任した藤原元命には、任国の百姓の都合など、まったく考慮するに値しないものであったらしい。元命が絹織物の取り立てを開始したのは、毎年、いまだ多くの田地において田植が完了していなかったであろう5月中旬だったのである。それまでより半月以上も早く絹織物が徴収されはじめるようになったことは、尾張国の百姓たちをひどく困惑させたことだろう。

 しかも、尾張守元命による絹織物の徴収は、実に乱暴なものであった。元命の配下の徴税使は、その郎等や従者を百姓たちの家宅に踏み込ませ、徴収するべき絹織物の他、めぼしい物品の全てを、手当たり次第に奪い去ったというのである。これでは強盗団の掠奪と何ら変わるところがあるまい。いや、強盗よりも始末が悪かったかもしれない。というのは、あくまで公務を遂行していることになっていた徴税使たちには、手向かう者があった場合、尾張守元命の名のもとに容赦のない刑罰を与えることも可能だったからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002571.html

暴走の源流=平安貴族4 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?(第2回)

今回も、引き続き古文書から平安貴族の実態を暴きます!

以下引用は、繁田信一氏「王朝貴族の悪だくみ〜清少納言危機一髪〜」からです。

●熱心な取り立て

藤原元命のような悪徳受領は、ときとして、あたかも謹厳な国司であるかのような顔をすることもあった。

〔第八条〕過去の未納分の税を無関係な郡司や百姓から不当に取り立てた。

元命が尾張守を拝命した当時、どこの国の国府の帳簿を見ても、ずいぶんと昔の国司たちが取り立て損ねた税が、累積しつつ繰り越され続けているものであった。が、当時の朝廷は、そうした税を徴収することを、すでに締めていたらしい。そうした意味では、過去の未納分の税というのは、あくまでも帳符上の数字にすぎなかったのである。

そう、税の徴収が大好きな尾張守元命は、すでに時効を迎えたものとして扱われていた過去の未納分の税をも、かなりの熱意を持って完璧に取り立てようとしたのであった。

つまりその時点で尾張国内に住んでいた郡司や百姓が、まったく理不尽にも、かなり以前に赤の他人が滞納した税を負わされたのである。「尾張国郡司百姓等解」 によれば、このときの徴税もまた、掠奪さながらに実行されたらしい。


〔第十五条〕課税対象でない作物にも税を課した。

しかし、貪欲な元命は、そうした非課税の作物にさえ、徴税の手を延ばした。尾張何の隅々から、麦や豆をも容赦なく取り立てたのである。

そして、もちろん、任期中に多量の漆をせしめておくことも忘れなかった。彼の治めた尾張国には、上質の漆を産出することで知られる丹羽郡があったのである。


●不払いを決め込む受領国司

王朝時代の受領国司は、税として徴収した米を財源として、さまざまな物品の買い上げを行った。

というのも、任国にて調達した多様な物品を朝廷に上納することもまた、当時の受領たちが帯びていた重安な任務の一つだったからである。

 だが、尾張守藤原元命のような悪徳受領は、そうした公務としての買い上げの際にさえ、私腹を肥やさんとして、あまりにもえげつない不正を働いたのであった。

                                     
[第七条] 買い上げの名目で種々の物品を騙し盗った

元命が尾張守として尾張国において買い上げたのは、絹織物・麻織物・漆・油・苧麻・染料・綿といった品々である。そして、これらの物品を生産して元命に売ったのは、尾張国の百姓たちだったわけだが、その百姓たちの不満は、元命が物品を不当に安く買い上げたことにあった。そうした不公正な買い上が尾張国の百姓たちにもたらした損失は、絹織物に関してだけでも、数千疋にも及んでいたという。

貸しつけというかたちで元命のために絹織物を用立てた百姓の中には、その貸しっけを踏み倒された者もあった。


〔第九条〕借り入れの名目で大量の絹織物を騙し盗った

この絹織物の借り入れに関して、元命が一瞬でも返済の意思を持ったことがあったとは思えない。おそらく、ここでの借財は、当の元命にとって、返済するつもりなど初めからまったくない、事実上の接収だったのだろう。彼が、彼が借り入れの名目で集めた絹織物の総量は、一二一二疋にも及んでいたという。

尾張守元命が踏み倒した借り入れの総額は、当時の庶民層の人々にとって、八〇〇年分ほどもの年収に相当するものだったようだ。

ちなみに、こうした不正によって元命のもとに番えられた富を都に運び上げたのは、運送業をも営む百姓たちであったが、そうした百姓たちは、ここでもひどい目に遭っていた。


[第二十二条]物品の運送に雇った人々に不当に安い賃金しか支払わなかった


どうやら、貪欲な元命は、払うべき運賃の四割弱ほどしか払わなかったらしいのである。

●救民策の完全な放棄

 さて、尾張守藤原元命が悪辣な受領国司であったことは、ここまでに見てきたところからも、すでに十分に明らかであろう。しかし、元命の行った悪事を数え上げる「尾張国郡司百姓等解」は、まだまだこれでは終わらない。尾張国の郡司や百姓は、元命による公費横領の数々をも、かなり強い口調で弾劾しているのである。


〔第十条〕 貧民救済に充てる費用の全てを着服した

〔第十三条〕灌漑施設補修費および災害対策費の全てを着服した

地方諸国の漑漑施設の補修は、当時、受領国司たちに期待されていた重安な役割の一つであった。

また、それは、当の受領たちにとっても、切実な意味を持つ事業であったろう。任国から少しでも多くの利益を上げたかった彼らは、それぞれの任国の農業力を維持あるいは強化するため、ある程度漑施設を整えておかねばならなかったはずなのである。

しかし、王朝時代を代表する悪徳受領として知られる尾張守元命は、潅漑施設補修費および災害対策費として計上されていた六〇〇石余りの米の全てを、何のためらいもなく横領したという。

●食い尽くされた公共事業費

尾張守藤原元命が任国において横領した公共事業費は、灌漑施設補修費や災害対策費だけではない。

〔第十一条〕公的な連絡網を維持するための費用の全てを着服した。

〔第十二条〕公有の馬の飼育費および購入費の全てを着服した。


「駅」と呼ばれる施設を置いていた。そして、朝廷から諸国への命令や諸国から朝廷への報告は、駅から駅へと運ばれるかたちで、ほぼ確実に伝達されていたのである。
それぞれの駅には、多数の馬が用意されていた。駅ごとに馬を替えながら情報や使者を選ぶというのが、王朝時代の国家的な連絡網としての駅の制度であった。

また、その広域連絡網の結節点であった諸国の駅は、それぞれの国を治める受領国司の責任において維持されることになつていた。つまり、諸国に下った受領は、駅を維持するために、一定の規模の財源を確保しなければならなかったのである。

 しかし、尾張守藤原元命の場合、そうしたことに意を砕くことはなく、むしろ、駅のために支出するべき費用を丸ごと自分の懐に入れていたらしい。

そして、その尻拭いをさせられたのは、尾張国の郡司たちであったという。尾張国を治めていた三ケ年の問、同国の駅の全ては、同国の郡司たちの私財によって維持されていたのである。

しかも、これと同様の不正は、水上交通網の整備を巡っても行われていた。

   任地に赴く受領

●罰あたりな横領

〔第二十四条〕国分尼寺の再建に充てられるべき費用の全てを着服した。

王朝時代の受領国司たちは、国分寺や国分尼寺を存続させることに意を用いねばならなかった。要するに国分寺・国分尼寺の修理や改築などは、受領の責任において行われなければならなかったのである。

 ところが、尾張国の受領国司となった藤原元命は、任国の国分尼寺が火災によって失われていたにもかかわらず、けっして同寺の再建に必要な費用を支出しようとはしなかった。いや、それどころか、国分尼寺再建費に充てられるべきであった米九〇〇石に相当する財を、悪びれることなく自分のものにしてしまっていたのである。

〔第二十五条〕国分寺の僧および国分尼寺の尼への公的な布施の全てを着服した。
ここで元命が横領したとされる布施の総額は、六〇〇石強にもなったというが、それは、本来、国分寺あるいは国分尼寺において仏法を行う僧尼の生活費となるべき財であった。


●給料未払い

こうして、多様な名目の公共事業費を着服し尽した藤原元命であったが、そんな悪徳受領の元命は大胆にも、彼以外の尾張国司たちの給料にまで手を出していた。


〔第二十条〕掾(じょう)、目(さかん)、史生(ししょう)など下級国司の給料を全て着服した。

諸国の国司としては、長官である守と次官である介との下に、文書の作成や管理などに当たる国府の書記官のような官職もあった。これら国司の給料というのは、諸国の国府が行なう公的融資の利息を財源として支払われることになっていた。しかし、尾張国では、元命がその大半を横領し、結果として、下級国司には給料はほとんど支払われていなかった。


〔第二十一条〕国府に勤務する国司以外の人々の給料の全てを着服した。


「尾張国郡司百姓等解」が国府関係者の給料に関する不正をも糾弾しているのは、右の二カ条に見える横領によって損害を被った下級国司や国府職員の多くが、毛張国諸郡の郡司を兼任する人々だったからに他ならない。つまり、ここにおいてもまた、元命によって少なからぬ財を巻き上げられたのは、尾張国の郡司たちだったのである。 

以上は、役職を利用した横領や着服ですが、次の文を見ると、配下の者を使って、直接略奪を働いていたようです。こうなると完全なギャングです。


●受領に仕える野獣たち

王朝時代の受領国司にとっては、連れ下った子弟・郎等・従者こそが、任国における悪辣な蓄財活動の実行委員であった。尾張守藤原元命、彼の子弟や郎党や従者は、尾張国の郡司や百姓から財を巻き上げるため、元気に横暴の限りを尽くし続けた。


[第十六条]徴税使が人々に贅沢な接待や土産を強要するのを黙認した。

[第二十七条]子弟や郎等が郡司や百姓から物品を脅し取るのを黙認した。

[第二十八条]息子が馬を持つ人々から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。

[第二十九条]子弟や郎等が郡司や百姓から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。


 尾張守藤琴冗命の徴税便を務めたのは、当然、元命が都から連れ下った子弟や郎等や従者であった。そして、この連中は、公務にかこつけて頻繁に尾張国内の村々を訪れては、接待や土産などの名目で、郡司や百姓から多くの財を脅し盗っていた。「尾張同郡司百姓等解」によれば、そうして奪われた尾張国の冨は、数千石にも及んだらしい。

また、尾張守の威光を振りかざす元命の子弟や郎党は、尾張国の人々のもとに何か欲しいものがあれば、とにかく何でも奪い去ったという。これを「尾張同郡司百姓等解」は。「民の物を奪ひては、則ち京洛の家に運ぶ」と訴え、また、「日に見る好物は乞ひ取らざる莫く、耳に閃く珍財は使を放ちてしひ取る」と弾じる。

そして、尾張国の郡司や百姓による元命の手下たちについての総合的な評価は、おおよそ次のようなものであった。「尾張守殿の子弟や郎等の様子は、辺境に住む野蛮人と異なるところがなく、むしろ、山犬や狼のような野獣に近いほどです」。

●隠匿された法令

藤原元命が尾張守の任にあった三ケ年の間、尾張国の人々が悩まされ続けたことの一つは、ありにも頻繁に都への物品の移送に駆り出されることであった。

[第二十三条] 物品の還送のために国内の人夫や荷馬を動員することが不当に多かった。

[第二十六条]任地の大半を都の自宅で過ごして郡司や百姓からの陳情機会を奪った。

都からそう遠くない国々を預かる受領の場合、任国の支配を郎等たちに任せて、自身は多くの時間を住み慣れた都で過ごしていたのであった。

〔第三十条〕 官人身分の悪人たちを積極的に国内に連れ込んだ。


尾張守元命が下向の折に任国へと連れ込んだのは、位階や官職を持つ宮人であり、中級貴族層あるいは下級貴族層に属する人々であった。当然、彼らは、それなりに身元の確かな者たちであったろう。だが、この連中こそが、尾張守に仕える野獣の如き郎等たちの主力となったのであった.

[第三十一条]受領国司に都合の悪い新規の法令を発布しなかった。

●幸運な悪徳受領

さて、以上に「尾張国都司百姓等解」 の内容を少し詳しく見てきたわけだが、これによって明らかになったように、尾張守藤原元命がその任国において犯した罪は、あまりにも大きなものであった。

数々の悪行が尾張国にもたらした損失は、経済的なものだけを見ても、十七万数千石にもなっていたのである。それは、王朝時代において、一般労働者の二万数千年分の年収に匹敵する額であった。そして、国司の権力を振りかざして欲望のままに犯行を重ねた悪徳受領は、989年の四月五日、ついに尾張守を罷免されることになる。

右に見た『小右記』の一節に明らかなように、元命を失職に追い込んだのは、「尾張国都司百姓等解」あるいは「尾張国解文」として知られる一過の文番であった。朝廷に元命の更迭を決断させたのは、この嘆願書もしくは告発状だったのである。そして、件の「尾張国郡司百姓等解」を朝廷に提出したのは、当然のことながら、尾張国に暮らす郡司たちや百姓たちであった。

とすると、受領ぶりを遺憾なく発揮した尾張守藤原元命は、尾張国に地般を持つ豪族たちからひどく憎まれていたということになろう。そう、元命の更迭を願って「尾張国郡司百姓等解」を作成した尾張河の郡司たちや百姓たちというのは、要するに、同国に根を張る新旧の豪族たちだのである。

このことからすれば、現実には罷免されるだけですんだ尾張守元命も、ことによっては、任国の豪族たちの手により、むごたらしく血祭りに上げられていたかもしれないのである。

すでに幾つかの事例を紹介したように、受領国司たちが任国の軍事費族や豪族に生命を狙われるというのは、王朝時代において、まったく珍しいことではなかった。激しく憎まれていた尾張守元命ならば、彼に恨みを持つ豪族たちに襲撃されて血塗れの最期を迎えていたとしても、それは、実に似つかわしいことであろう。


・・・・以上が平安時代の貴族の実態です。これでも日本人か?もうこれ以上の悪は居ないだろう・・・と思うくらいですね。

でも上には上が、もっと悪い奴が居たようです。「尾張国郡司百姓等解文」という告発文により藤原元命は解任されたのですが、もっとあくどい奴は、このように告発されないように、事前に手を廻して押さえつけていたようです。次回紹介します。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002574.html


暴走の源流=平安貴族5 

自分の都合の悪いことを隠蔽、口封じする貴族たち

前回までの記事は、貴族たちが行ったありえないほどのえげつない収奪についてまとめました。
 
平安貴族たちの悪行はこれだけに止まりません。
 
今回は自分達の都合が悪いことを隠蔽、口封じしまくった貴族たちについてまとめます。
 
『王朝貴族の悪だくみ―清少納言、危機一髪』より抜粋引用します。
  
  『餓鬼草子』に描かれている貴族の食事
 
  『餓鬼草子』に描かれている庶民の様子

 
○告発者の親兄弟を皆殺しにした『藤原文信』

尾張国の豪族たちが「尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげ)」を通じて朝廷に強く求めたのは、要するに、悪徳受領の罷免であった。そして、この国司更迭の請願は、あっさりと聞き届けられることとなった。すなわち、「尾張国郡司百姓等解」によって尾張守藤原元命(おわりのかみふじわらのもとなが)の度を越した悪辣せを知った朝廷が、永祚元年(九八九)の四月五日、元命に代わる新たな尾張守を任命したのである。

そして尾張国の豪族たちは、藤原元命の追放を成し遂げた後、その成功に味をしめてか、朝廷に受領国司の解任を要求することを繰り返すようになる。

 
 ところが、現存する史料を見る限り、藤原元命の後任の尾張守については、朝廷によって罷免されたという事実もなければ、尾張国の豪族たちから退任を要求されたという事実もない。どうやら、元命の次の尾張守は、その任を無事に務めおおせたようなのである。

そして、その藤原元命の後任の尾張守というのは、藤原実資の『小右記』の藤原文信であった。
  
尾張国の豪族は藤原元命の悪行に怒りを示し、「尾張国郡司百姓等解」を作成し、朝廷に罷免を求め、見事成功。それ以来、受領国司の解任要求を朝廷に繰り返すようになります。

しかし、元命の後任の藤原文信は地方豪族ではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪だったようです。
 


 だが、この事実は、文信が善良な受領国司であったことを示すとは限らない。また、尾張国の豪族たちが文信に好感を抱いていたことを示すとも限らない。任国の豪族たちから明白なかたちで拒絶されることのなかった尾張守文信は、ことによると、尾張国の郡司や百姓にとって、現に彼らの働きかけによって尾張守の職を追われた元命や経国などよりも、はるかに厄介な受領だったかもしれないのである。もしかすると、文信というのは、地方豪族などではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪な受領だったのではないだろうか。

というのもこの藤原文信という中級貴族には、恐ろしい前科があったからに他ならない。実は、かつて筑後守の任にあった頃の文信は、自身に不都合な筑後国の住人を抹殺しようとしたうえ、その筑後国人の親兄弟を皆殺しにしていたのである。

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朝廷が藤原文信を尾張守に任命したのは、永祚元年四月五日のことであったが、その直前となる同月一日、当の文信が暴漢に襲われて頭部に傷を負うという事件が起きていた。

そして、永祚元年四月六日の『小右記』には、次のような記述が残されている。

「藤原文信を負傷させた安倍正国(あべのまさくに)が、伊賀国の以忠(もちただ)という名前の追捕使によって捕獲されたらしい。

そこで、検非違使の右衛門尉藤原惟風(うえもんのじょうふじわらこれかぜ)が、伊賀国追捕使以忠から正国の身柄を引き取ったところ、件(くだん)の正国は、両手の指を切断されたうえ、脚をへし折られていたらしい。また、その文信襲撃事件の犯人と見られる男は、鎮西(ちんざい)において文信に父母・兄弟・姉妹を殺されたことから、その報復をしようと、文信が隙を見せるのを待っていたらしい」。

 こうして検非違使が安倍正国の身柄を確保したことで都の人々の前に明らかにされたところによれば、前筑後守藤原文信が正国に生命を狙われねばならなかったのは、かつて文信が正国の家族を殺害していたためであった。検非違使が正国の口より「鎮西において文信に父母・兄弟・姉妹を殺された」との供述を引き出したことから見て、また、正国がたった一人で家族の仇を討とうとしていたらしいことから見て、筑後守であった頃の文信は、その任国において、正国の家族を皆殺しにしていたにちがいない。

 
このように、藤原文信は安倍正国の家族を皆殺しにし、そのあだ討ちに来た正国自身も返り討ちにし殺してしまいます。しかも、両手の指を切断し、脚をへし折るという残虐なやり方で、、、

この凶暴さに地方豪族もびびってしまい、文信が朝廷に受領の任期を伸ばす要請を出しても止めることができず、長期間受領を勤めることができたようです。
  

文信の筑後守の任期は、本来、天元四年正月の四年後の正月となるはずであった。

文信が受領としてその任国から富を吸い上げ得る期間は、正規のかたちで正月に任命された受領の場合に比して、ほとんど一年間も短くなってしまうはずだったのである。

 だが、これに納得できなかった文信は、彼の筑後守としての任期を天元五年正月からの四年間とするよう、文章を通じて朝廷に願い出たのであった。そうして少しでも長く受領国司の任にあり続けようとするのは、当時の中級貴族層の人々にとって、あまりにも当たり前のことであったろう。

そして、『小右記』によれば、文信から上げられた申請が朝廷において検討されたのは、天元五年、の二月二十五日のことであったが、この新任の筑後守の切実な願いは、すんなりと承認されたものと思われる。

 
○自分の横領を知った盗人の口を封じる『伯耆守』
 

王朝時代の人物と思しき橘経国(たちばなのつねくに)は、伯耆守(ほうきのかみ)の任にあった頃、国府の倉庫に忍び込んだ盗人を、捕らえた途端に処刑したことがあった。その盗人は、四十歳ほどの男であったが、身形もよく肌の色も白かったというから、おそらくは、伯耆国に地盤を持つ新旧の豪族たちの一人だったのだろう。そして、そんな人物が盗みなどに手を染めたのは、折からの飢饉のため、食べるものがまったく手に入らなかったからであったという。
      
しかし、王朝時代のこととはいえ、ただの盗人が死刑に処されるというのは、尋常なことではない。そもそも、当時の朝廷の方に従えば、わが国の臣民を死刑に処し得たのは、日本の国の主である天皇だけであり、天皇の名代として諸国を治めるにすぎない受領たちは、その任国の住人に対してさえ、独自の判断で死刑を科してはならないはずであった。

 それにもかかわらず、伯耆守経国が盗人の処刑を強行したのは、『今昔物語集』によれば、「後の聞こえも有り」という事情を鑑みてのことであったらしい。つまり、同様の犯罪の再発を防ぐため、敢えて盗みの罪を犯した程度の罪人に死刑を科したというのである。

 だが、『今昔物語集』が語るのは、経国の本音ではあるまい。

 というのは、伯耆国府の倉庫に忍び込んだ盗人が、そこには何もないことを目撃していたからである。これは、『今昔物語集』も認める事実であるが、国府の倉庫が空になっていたというのは、受領国司が国府の財を横領していたことの動かぬ証拠であろう。そして、そんな重大な証拠を握ってしまった盗人を、悪徳受領が放置するはずはなかったのである。
 
当然、筑後守藤原文信も、国府の倉庫に入った盗人を生かしてはおけなかっただろう。また、その盗人が倉庫の中で見たことを彼の家族に話したとすれば、盗人本人のみならず、その家族までもが、文信に生命を狙われることになったにちがいない。そして、安倍正国の家族が皆殺しにされた理由は、もしかすると、こんなところにあったのかもしれない。

 
前稿でまとめたように、当時の貴族達は横領を当たり前のように行っていました。そのため、倉庫が空になったのだと思いますが、それを知ったものは口封じのため容赦なく殺されたようです。
 
藤原文信が安倍正国に命を狙われたのもこんなやりとりがあったからかもしれません。
 
 
○殺人を隠蔽する『常陸介』 

 ところで、王朝時代において、受領国司が任国の住人を殺害するというのは、少しも珍しいことではなかった。いや、むしろ、当時の受領たちについては、殺人の常習犯であったと見ておいた方がいいようにさえ思われる。

 しかも、自分の犯した殺人の罪を姑息に隠蔽しようとするのが、王朝時代の受領たちの常であった

常陸国(ひたちこく)において同国に住む公侯有常(きみこのありつね)が殺害されたのは、万寿元年(一〇二四) のことである。そして、その頃に常陸介(ひたちのすけ)として常陸国の受領国司であった平維衡(たいらのこれひら)が朝廷に報告したところによると、有常の生命を奪ったのは、常陸国住人の公侯有材(つねもと)であった。
 ここに登場する公侯有常と公侯常材とは、それぞれの氏名から推測されるように、おそらく、かなり近い親類であったろう。 

しかし、常陸介維衡によれば、そんな二人の間でおきてしまったのは、あろうことか、生命のやりとりであった。つまり、万寿元年に常陸国で起きた殺人事件は、同国の責任者として事件の捜査を指揮した維衡の言うところ、親類間のいざこざが激化した末の悲劇だったのである。
 
だが、万寿二年の三月、都の貴族社会の人々は上の殺人事件に関して、それまでに得ていたのとは全く異なる情報を与えられることになる。
 
 同月二十六日の『小右記』から知られるように、前年より公侯有常殺害事件の犯人と見なされていた公侯常材が、みずから朝廷に出頭したうえで、有常の最後について「国司の為に殺される」と証言したためであった。

結論から言えば、有常殺害事件に関する事実は、常材が捨て身で告発した通りであった。
すなわち、同年七月二十一日の『小右記』によると、維衡の後任の常陸介となった藤原信通(のぶみち)が、朝廷の指示に従って事件の捜査をやり直したところ、かつて犯人断定の決め手とされた被害者の妻の証言は、維衡によって捏造されたものだったのであり、また、そうして常材を殺人犯に仕立て上げた維衡こそが、有常殺害の真犯人だったのである。

 
常陸介は自分に都合の悪い人間を殺しておきながら、それを他の人間、しかも親縁に罪をなすりつける
 
○書生に帳簿を改ざんさせ口封じのために殺した悪徳受領『日向守』
 

 地方諸国の国府に勤める下級事務職員として「書生(しょせい)」と呼ばれた人々も、その本来の姿は、それぞれの国に根づいた豪族であった。それゆえ、任国の豪族たちから富を吸い上げようとする悪徳受領にしてみれば、公式には彼の下僚ということになっている書生たちも、けっして信頼できる部下などではあり得なかっただろう。いや、それどころか、現に国府の事務処理に携わっていた如くに読み書きに長じていた書生たちは、いつ受領国司の不正を告発しないとも限らない、どうにも厄介な存在であったにちがいない。

 一方、その書生たちの側でも、任国で蓄財に励むことしか考えていない悪徳受領に対しては、けっして気を許すわけにはいかなかったはずである。とくに、何らかの事情で受領国司の不正行為に手を貸してしまった書生ともなれば、不正の露見を未然に防ごうとする悪辣な上司に消されてしまわないよう、つねに警戒していなければならなかったことだろう。

 そして、実際のところ、日向国の国府に勤務していた一人の書生が、若くして生命を落とさねばならなかったのは、強いられてのこととはいえ、悪徳受領である日向守(ひゅうがのかみ)の不正の片棒を担いでしまったがゆえのことであった。

 その日向守某が手を染めていた不正の多くは、おそらく、「尾張国郡司百姓等解」が弾劾する違法行為や脱法行為と同じものであったろう。すなわち、問題の日向守もまた、尾張守藤原元命と同様、さまざまな機会に不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領といった悪事を働き、郡司や百姓として任国に暮らす豪族たちから、多くの財を巻き上げていたと考えられるのである。

 それにもかかわらず、この日向守の場合、受領国司としての任期を全うすることができたわけだが、任期満了を迎えた日向守某は、後任者の下向を待つ間、それまでに多くの不正が行われてきた痕跡を消し去ることに余念がなかった。すなわち、自身の行った不正が次の日向守によって暴かれることのないよう、何か辻褄の合わないところのある書類を徹底的に洗い出し、それらを全て整合性のあるものへと書き直していったのである。当然、それは、かなり根気の要る作業であったろう。

 そして、この困難な隠蔽作業のために重用されたのが、かねてより日向国府に出仕していた一人の書生であった。機転が利くうえに字も上手かったという彼は、国府の一室に監禁され、二十日ほどもの間、書類を改竄する作業を続けさせられたのである。


もちろん、切れ者であった書生は、自身が悪事に関与していることに気づいていた。が、日向守某の従者たちに厳しく監視されていたため、逃亡することもかなわず、命じられるままに偽装書類の作成を続けるしかなかったという。

 しかも、こうして意に反して不正行為に荷担することになった書生は、その役割を終えるや、彼に不正への関与を強いた悪徳受領の勝手な都合により、あっさりと殺されてしまう。『今昔物語集』巻第二十九第二十六の「日向守口口□□の書生を殺す語」という話によれば、書類の改竄を完了した日のうちに、日向守某の郎等に射殺されたのであった。

日向守某が私利私欲のためにまったく非のない書生の生命をを奪ったというのが、正真正銘の史実であったとすれば、やはり、『今昔物語集』の編者としては、「日向守□□□□」の氏名を明かすわけにはいかなかったにちがいない。

 
このように、平安貴族達は自分の都合の悪いことを隠蔽、口封じしまくっていたようです。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002575.html

うーん、漢民族は中国でも、日本に来ても えげつなさは変わらないですね。  

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コメント
 
01. 中川隆 2013年7月14日 18:37:22 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

日本の支配階級になった漢民族は選民思想が強く、日本人を人間だと思っていなかった

6:名無しさん@涙目です。(WiMAX):2011/10/28(金) 18:06:18.76 ID:RNVRwNQp0

貴族遊びまくり庶民餓死しまくり
貴族が牛車で呑気におでかけする脇道には死体がゴーロゴロ

17:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:13:14.61 ID:j5KVDQzL0
>>6
あいつら死体が道に落ちてたらソッコーで家に帰って清めするだろ


28:名無しさん@涙目です。(東京都):2011/10/28(金) 18:15:52.73 ID:+z8ty5Br0

平安時代は和歌とか紫式部とかのほほんとした平和なイメージだけど あれは貴族の話。
一般市民は餓死しまくりで路上に死体が転がっていて政治機能はマヒだから次の時代に武家社会が到来した

37:名無しさん@涙目です。(アラバマ州):2011/10/28(金) 18:20:58.16 ID:T8Am9NQl0

藤原家の奴とか大体和歌詠んでは天皇や上皇にゴマすってるだけで何にもしてないよな

45:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:23:39.06 ID:j5KVDQzL0
>>37
あいつら道端に猫の死骸がありましたとかで仕事休むからな
自分とこの荘園管理以外仕事してないな
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/ojyuken/1331048080/

京都名物
1. ぶぶ漬け
2. さかさぼうき
3. やらずぶったくりの精神


大阪名物
1.儲かってまっか? という挨拶
2.関東と聞くと うどん と そばの汁の濃さの違いばかり言うアホ
3. 電車で乗客が降りるのも待たないで我先に席を取ろうと突進するアホ人間

京都のさかさぼうき  

「ゆっくりしていかはったらよろしやないの、
今おいしいお茶いれまっさかいに。新幹線なんか待たしといたらよろしいがな」

といいながら、後ろにさかさぼうきが立っている。これが最初のサントリーのお茶のコマーシャルです。

これは市田ひろみさんが出演されていたコマーシャルの事です。

「さかさぼうき」とは、長居をしたり、食事の時間になってもなかなか帰らないお客さんがいる時に、玄関や出入口にほうきを逆さまに立てかけておくというもの。

京都の人は本当に恐ろしいですね.


_________

京都の人の家に訪問して、

「ぶぶ漬けでもどうどす?」

と食事をしていくように勧められても、あくまでそれは婉曲表現であって、本心では「もう帰ってくれ」という意思表示なのです。

 私の知り合いの先生の体験ですが、京都で法事があり、その家の人に

「ご飯食べて帰りよし」

と何度も言われたので、ぶぶ漬け伝説は知っていたのですが、あまりの熱心さに

「そんなに言わはるのやったら」

と食べていかれたのです。すると遠くのほうから、

「あの人、ほんまにぶぶ漬け食わはった」

「ほんまや、ほんまや」

と陰口が聞こえてきて、その後3日間ほど寝込んでしまったらしい(笑)。
http://www.dnp.co.jp/jis/g_gakko/talk/45/45_talk2_1.html


それは、友人Aが京都に旅行したときの時の話である

そのAには、京都に行ったら寄ろうと心に決めていた料理屋があった
ガイドブックに載るほどの有名店で、各界の著名人も多数出入りする店である

しかしAは、京都についての知識をそれなりに持っていたのでその店に入るのをためらっていた

なぜなら、京都の有名店、いや京都の料理屋は大概が「一見さんお断り」の店だと聞いていたからだ

(※一見さん→誰からの紹介もなく、初めて店を訪れる客)

普通の料理屋でも「一見さんお断り」だという噂があるのに、果たしてその有名店に入れるのだろうか?

Aはビクビクしながらも、その有名店に足を踏み入れることにした

ダメでもともと!断られたら断られたでしょうがない

まずは、その店に行ってみよう

断られたら諦めよう、それでいいじゃないか
とにかく行かずに諦めるなんて悔いだけは残したくない

Aは勇気をふりしぼり、単身その店ののれんをくぐった


女将「おいでやすー」

A「あのー、はじめてなんですけど、食事できますでしょうか?」

女将は、オドオドしながら標準語で問いかける客に一瞬怪訝そうな表情をしたが
すぐに笑顔でこう答えた

「どうぞ、入っておくれやす〜」

友人は、あまりにアッサリと店に招き入れる女将に多少面食らったものの
憧れの名店で食事できる喜びと、店に入れた安堵感で有頂天だった

「一見さんお断り」なんて、ただの都市伝説だったんだ〜

おしぼりで手を拭きながら、友人はウットリとそんなことを考えていた

そして、まずは店員にビールを注文することに
緊張で乾いていた喉を、まずはビールで潤したかった

京都の有名店での食事。あれも食べたい、これも食べたい
何を食べようか迷う友人の所に、ビールを注文した店員とすれ違いに別の店員がやってきた

あれ、この店員は何をしに来たんだろう?食事の注文を取りに来たのかな?
そんなことをボンヤリ思った友人の目の前に置かれたのは…

その、あまりにも早い登場にAは面食らった

まだビールも出てないのにぶぶ漬け!

座って5分も経たずにぶぶ漬け!

問答無用でぶぶ漬け!


あまりの衝撃と屈辱に言葉を失ったAは
箸に手をつけることなく、席を立ちフラフラと店の出口へ向かった
その背中に女将からの声が響く

「あら?お客はん、もうお帰りどすか〜?」

とか「お代は結構どす〜、おおきに〜」

そんな台詞が、Aの背中に向かって投げかけられたそうな

女将の顔は見なかったが、Aにはわかったという

Aの背中を見ながらニタァーッと笑う、鬼か、はたまた化け狐の如く顔のゆがんだ女将の笑顔が、友人にはハッキリと見えていたそうな
http://taketaka.cocolog-nifty.com/mogu/2004/05/post_24.html

京都のお宅を訪問するからには、自ら”ぶぶ漬け”を忍ばせて訪問するぐらいの備えと心構えが必要である。

そして敢えて長居を決め込み、

「ぶぶ漬けでも食べていきなはれ」

と言われたら、

「いえ、手持ちのものがありますから」

と、その場でオカ持ちから”ぶぶ漬け”を取り出してムシャムシャと食べ始める。

もちろん、それだけじゃ許さない!! 

逆に

「ぶぶ漬けいかがどす?」

と、こちらから茶碗を差し出してやるのだ! 

”必殺ぶぶ漬け返し”!

 京の伝統に従って、ぶぶ漬けをすすめられた者は、その場を立ち去らねばならない。相手は自分の家であるにも関わらず、荷物をまとめてその家を出て行くことになるわけだ。

途方にくれた相手がとりあえずホテルで一泊を過ごそうとしても、先回りしてホテルの前に”ぶぶ漬け”を置いておく。ドラキュラが十字架を恐れるように、京都人は”ぶぶ漬け”を越えることができない。

仕上げはここからだ。途方に暮れる相手の前にタイミングよく現れて仲直りを持ちかけて温泉へと誘いだす。そして相手がリラックスして湯につかっているところに、ご飯とお茶っ葉をぶち入れて叫ぶのだ!

「どうだー! おまえが、ぶぶ漬けだー!!!」


だが一度噴火した怒りの火山は相手を退治したぐらいでは納まらない! 今度は、”ぶぶ漬け”宅配業者となって京の都を恐怖に陥れてやる! まず手近なラーメン屋に忍び込み、かかってきた注文の電話を何食わぬ顔でとる。そしてラーメンの出前を頼んだ気になって油断している客の家に、いきなり”ぶぶ漬け”を届けてやるのだ!

宅:「お待たせしました。来来軒でーす!」

家の奥から子供が走りだしてくる。

子:「わーい、らーめんらーめん!」

宅:「おい、ぼうず。これはな…ぶぶ漬けだーー!!!!」

子:「ぎゃーー!」

一家で出前ラーメンを食べるはずの楽しい夕べは、”ぶぶ漬け”によって家を追い立てられる悲劇の時間に変わるのだ!! 京都人である以上、この不文律を破ることは許されない。破れば京都人失格だ。京の都は家を失った人であふれかえる。子供達は全員トラウマだ。

更に今度は市の職員を装い、腹を空かせた人々の前に現れて食料配給を行うのである。もちろん、配給する食糧は”ぶぶ漬け”に決まっている。そして集まってきた人々に茶碗を差し出しながらこうささやくのだ…。

「ぶぶ漬け食べますか? 京都人やめますか?」
http://www1.odn.ne.jp/aaa55210/kara1/bubu1.htm


58 :七つの海の名無しさん:2009/04/22(水) 01:39:29 ID:qsEUqLPo

キッシンジャー国務長官は来日したときに、
京都でものすごいハイテンションで祇園遊びをした。

酒に酔ったキッシンジャーは隣にいた舞妓に舞妓は"Yes Yes”と答えるだけだった。

次の日、舞妓は驚くべき事実を告げられた。
なんとキッシンジャーが大激怒しているというのだ。

実はあの時キッシンジャーは舞妓に

『今夜、私の部屋に来るか?』

と問いかけていた。

舞妓はYesと答えていたので、てっきりOKと思ったキシンジャーは
一晩中有頂天になって舞妓を待ち続けていたのだった。

160 :七つの海の名無しさん:2009/04/25(土) 03:28:01 ID:obWA5jPE
>>58
京都では Yes=No なのだよ。
わからん阿呆キッシンジャ−は
”田舎もん、どすな〜、キッシンジャ−はん。ぶぶ漬けでもいかがどすえ?”
(とっとと、帰れという意味)

______


京都の人間は、笑止な選民思想を持っており、自分は1200年の伝統が醸し出す洗練された人間と勘違いしているが実は野暮ったい田舎っぺそのもの。前述の通り差別(逆も含む)が凄まじく、閉鎖的なムラの論理ばかりが横行し、新住民や新しい文化、気質を受け入れない。住みやすいなんてのは全くの嘘。


「比叡山より東は蛮族の棲み家」

が彼らの口癖。 究極の井の中の蛙!東京って知ってる?


頭の中は坂上田村麻呂征夷大将軍の時代で止まっているらしい。おそらく彼らの世界観は高句麗や唐、せいぜい天竺どまりで、地球が丸いことも知らないのだろう。京都が学術の都というのもガセ。確かに大学数が多いが、殆どが極右、極左で、何も知らないで入学すると変な思想で洗脳され、卒業するときとんでもない人間になってたりする。


人口も、もはや茨城県にも抜かれ停滞気味。それでも京都「府」という特権意識だけは非常にがめつい。

最後に自称雅やかな古都の礼儀作法「三度の辞退」をば。

他県人「どうぞつまらんものですが、召し上がって下さい」

京都人「いいえ、けっこうです」

他県人「まあそうおっしゃらずに、軽い気持ちで遠慮なくどうぞ」

京都人「いいえ、けっこうなんです」

他県人「本当にいらないんですか?」

京都人「はい」

他県人、それならと差し出したお菓子を引っ込めようとする。京都人、突然ブチ切れる。

京都人「何やボケ!そんな謙遜を真に受ける奴がおるかこの田舎者め!わしに食わさんとは礼儀知らずなやっちゃのう!!!」

他県人「・・・・・(唖然)・・・・」


「はるばる田舎からようきやんしたなあ」

「あの、東京から来ました」

「それはそれは」

「はるばる田舎からようきやんしたなあ」(爆

京都で進学・就職後、今関東にいるが、京都気質がぬけず苦労している。

京都では、徹底して相手をこきおろす社会やったから、なかなか他人を信じられない。人間不信、瞬間にして敵・味方を判別、相手を罵倒・威嚇する。この癖は当分、なおらんと思う。


京都に旅行に行ったとき、やたらと「差別をなくそう!」という看板やビラがあり、その時は何のことかさっぱりわからなかった。(東北出身なもので)

事実を知り、ゾッとした。

古都とか日本情緒あふれる・・・なんて優雅なイメージは表だけ、実は非常にドロドロした所だと感じた。京都には住みたくありません


京都生まれ・京都育ちのくせに「この人性格いいな」と思ったら、大抵その人の両親は、他府県出身者。ジジババのころから代々京都生まれの奴に、ロクなのがいない。


他府県出身で、京都に住んでも何とかなるのは、大学生だけ。一般人は踏み込むべきではありません。

京都の常識は、世間では非常識!!

京都人ほど、高慢ちきで、人間関係において内・外を使い分ける人種を他に知らない。他人を無視するのでも一度無視したら、あいつら何年という期間で無視するやん。ホンネはいわへんし、執念深いし。したたかで、ずる賢くて他人を利用するし。こんな陰湿な常識が、他の世界に通用するか?

大半の人間は、驚いて「あしらう」レベルに到達しいひんで、ただオロオロするだけちゃうか?

ただし、極少数のいい人がいるのも事実。知っている限りでいい人達の特徴は、京都生まれで京都育ちだけど両親が他府県出身のひとたちと、高卒の人達が多かった。京都の私学の附属あがりの金持ち連中及び西陣・祇園の商売人の息子・娘たちは、ホント高飛車にも程がある、根性腐った奴が多かったよ。


オレも京都嫌い。
湯豆腐1000円で売ったり、あんなチャッチい野菜高く売りつけたりする
ボッタクリ商売人は氏んで欲しい。消費者の敵。

オレ、和牛オーナーだったが預託会社が高槻に高級肉の直売店を建てたところ
京都のクサレ食肉団体がカス議員→ゴミ警察に圧力掛けてその店を潰した。
そのせいで預託会社は倒産して金は返ってこなくなった。
金返しやがれカス!


京都駅の八条口にタクシー乗り場がありますが運賃値下げをしたMKタクシーは“村八分”状態にされて乗り場内に立ち入ることを他のタクシーが阻止していた。


新幹線で大坂から東京に帰るとき、自由席だと京都から乗ってくる人が何とか席に座ろうとして、あまりにもあさましいのを何度も見てるからです。でも、京都の人のあの独特の性格は必要悪だと思っています。あの異常なまでの誇りがなければ、他の地方都市と同じようにミニ東京になってしまうでしょう


ヤフーで個人売買していた際に最も嫌な思いをした取引相手は京都人でした。もーずうずうしいったらありゃしない。
京都ではそうかもしんないけど、東京や神奈川は違うんだよ!!
あたしゃずっと神奈川だからさ、そんな京都の常識語られたって知らんよ、もう。

ちなみに取引物は某少女趣味のブランド服。
勝手に電話番号調べてきて「他の人より高く買うから自分に譲ってくれ」と文句たれ。あんまり煩いからそれでOKしたら今度は「東京は知りませんけど京都ではこの服もっと安く買えるからもっと安くしてくれ」だって。
最初と話ちがうじゃん。

「こっちもね、主婦だからたいへんなんですよ。」って知るかもう・・・・。
この態度がまた自分のほうが正当である!!とさも言わんばかり。
あーもうアンタ逝っていいよ・・・・と何度口から出そうになったことか。

この厨房主婦の次の京都人も最悪だった。
それ以来京都人を見る目がかわった。もー逝ってくれ。


京都人の武器はやはり口です。そして彼らに口で勝つのは至難の業です。

彼らはこちらが失敗などして劣勢にあるとき、落ち込んでいるとき、つまり反撃できない状態にある時を機敏に察知して、攻撃してきます。

やり方は「○○ちゃうんけ!」といった言葉をややヒットアンドアウェイぎみにかますことが多いと思います。(あとでむかついてくる)

また、こちらが一般的に優位な立場にある場合は、過去の細かな失敗を適当に誇張して、こちらを蹴落とす世論を構築しようとします。

この行動はこちらも察知できて、しゃくなのですが、そのような細かい事をいちいちとがめることも出来ず、非常にストレスがたまります。

で、一番言いたいのは、このような理不尽な行いも受け止めることです。
彼らが何故このようなことをするのか、道徳的に心の中で批判してみてもこちらのストレスがたまって参ってしまいます。そういうものなのだと受け止めて下さい。

彼らのなれなれしい言葉、親切に心を開かないこと、また、とりあえず下手に出て彼らの弱みを握るチャンスを得ること、これが対策法だと思います。

おれが大学で東京に住んだときはなんちゅう「ばか正直」なやつが多いんやとおもったなあ。普通にしゃべる中で、ちょっとかま掛けても「そうなんだ、ふうん」とかえされて、こまってしもたわ。

私は東京出身だけど、京都で働いてた時によく地元の人に「あんた。素直やねぇ」とよく言われました。バカ正直って意味なのね。ごめんなさいね。関東人の美徳なのよ。

私は、知的でセンスがあって、出が良くて気の利いた会話が出来ても性格が屈折して陰険な人物は最初から(人として)低いと思うけどね。


京都は関西のくせに、隠れ見栄張りが多いね。そのくせして、居酒屋とかで飲んでも、1円単位まできっちりと割り勘にする。このギャップにずいぶんとまどった。見え張りというよりも、やせ我慢に近い。。。

ようするに、せこいくせに、プライドだけは一人前って事。
矛盾してるのに、認めようとせずに、突っ込まれたら急に、流暢な京都弁でさらりとかわす・・これが手口。


京都の富裕層、特に金持ちの商売人(祇園・西陣)が最悪やね。あと、材木屋・漬物屋・かんざし屋とか地場産業の連中。洛南出身の人達は、おそらく京都の富裕層階級の子弟だと思われる。


だから、言ってるやん。京都の金持ちは、根性汚いのが多いって。全員が全員やないけど、私の知っている限りの、京都の有名私学の金持ち連中たちの世界は別世界。ほんまに極悪!!!


ちなみに、私の妹は小学校途中で左京区の学校に転校したが、卒業するまで、いじめぬかれたよ。絶対、よそもんは入れない社会やね。


悪いけど、京都を日本と思ったらあかん、京都の常識は、世間の非常識やしね。


京都は怖くていけないよね…。


自分の知らないしきたりで意思表示されても知らないから、裏で陰口言われるんだろうね。


「あの人、嫌だって言ってるのに居座りつづけてるよ。 だから、東京の田舎もんはやなんだ。」
http://mimizun.com/log/2ch/yasaitr/971890080/


02. 中川隆 2013年7月14日 18:43:59 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

京都は美しい街、 しかし幽鬼の住む死の世界

いい日旅立ち 京都へ
http://www.youtube.com/watch?v=QMhX_pF0NkA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=gBDVDeupbhc


遥かな しまなみ 錆色の凪の海
セピアの雲は流れて どこへ行く

影絵のきつねを追いかけた あの頃の夢を今もふところに 西へ行く

ああ 日本のどこかに私を待ってる 人がいる
いい日旅立ち ふたたび風の中 今も聞こえるあの日の 歌を道連れに

蛍の光は 遠い日の送り火か
小さく見える景色は 陽炎か

出逢いも別れも 夕暮れにあずけたら自分の影を捜しに 西へ行く

ああ 日本のどこかに私を待ってる 人がいる
いい日旅立ち 朝焼けの雲の中 今も聞こえるあの日の 歌を道連れに

ああ 日本のどこかに私を待ってる 人が居る
いい日旅立ち 憧憬は風の中 今も聞こえるあの日の 歌を道連れに

いい日旅立ち _ 山の向こう側にいるのは…
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html


03. 中川隆 2013年7月15日 01:50:07 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

京都のおもてなし文化を全身で体感したかったらここ

京都御艶の会席料理 お品書き
http://www.kyoto-gyoen.com/menuSystem.html


おいでやす、京都ならではの「おもてなしの文化」を現代に色濃く伝える『京都御艶』へ


デリヘル「京都御艶」(京都) by ナンニバル氏


 お世話になってます。ナンニバルです。

 すごい悪徳な店を見つけました!と、よろこんでもいられないのですが、せめて皆さんのお役に立てばと投稿します。

【店名】:京都御艶
【業種】:デリヘル
【HP】:http://www.kyoto-gyoen.com/
【日時】:10月下旬
【場所】:とあるホテル
【費用】:95分15000円+指名料2000円


 サイトの写真を見ると、なかなか可愛い子がいて、しかもなぜか値段が安い(その時点で気づけよ、自分)。電話をしたら

「75分12000円です」

とのこと。「30分ほどかかります」とのことで、じっと待つ。待つ。待つ。

 しかし来ない。何の連絡も入らないまま1時間以上が経過。んー。まあ寝るかなあ、とおもったらチャイムが鳴る。ノゾキ穴から外を見ると、男が一人つったている。ドアをあけると、遅れたことにわび一つなく、

「どうも。12000円と指名料2000円で合計14000円です」

と言い放つ。ドライバーらしい。

「じゃ95分で」というと、「合計で17000円です」と答える。

支払いを済ますと「じゃ今から女の子上げますから、しばらくまってください」。

 5分ほどするとチャイムがなる。

 これはいわゆる..「アナタハドチラサマデスカ?」現象だ!  指名した子とはまったくの別人。

パネルマジックとか、そんな生やさしいもんじゃないぜ。完全な別人だ。

ヤニだらけの歯、そばかす面、とがった口、マジックペンで書いたかのようなアイシャドウ、そして茶髪のおばさんが、サングラスをかけミニスカートを履いてそこにいるのだ。

その容姿は、絶滅した恐竜T.rexを彷彿とさせた。T.rex。まさに「暴君」にふさわしいその容姿が与える恐怖はタダゴトではなかった。

 「うわああああああああ(心の叫び)」。

完全なる戦意喪失。しかし支払い済みなこともあり、仕方なく部屋へ入れる。「シャワーを」というので、「どうぞどうぞ」と万全の注意を払いながらシャワーへ誘導。T.rexが衣服を脱ぎきったところを見計らって、こちらもすばやく裸になりシャワーへ。

 体型は、下腹部プックリ、タレ気味の乳房、力強い太もも。加えて猫背ぎみの姿勢。やはり、暴君T.rex(ただしメス)。

 こちらはさっさと先にシャワーを出て、再度の対峙に備える。なんとかやってみよう。心を落ち着かせよう。目をつむってみた。決戦の時は迫っている。

「ガラアァァッッッ」

ドアが開いた。前傾姿勢をとりつつのっそり出てくる様子には、やはり隙がない。

「さあプレイしようよ」

というドスの効いた威嚇がこちらに向かって発せられた!

とりあえず、どうでもいい会話を交わしつつ、ソファへ移動。

 すると、携帯が大音量で鳴る。T.rexは着信を確認。どうしようかなあと思案しながらどうでもよいさらに会話を続けていると、また携帯が鳴る。T.rexが確認。さらに5分ほど後、またしても着信。

 T.rexの咆吼。

「いかなきゃあああ」。

「はあ?まだ30分もたってないよ」

「忙しいの」

「いや、115分で頼んでるけど」

「だから忙しいっていってるでしょ。なんでそんな自分勝手なこと言うの!」

「自分勝手もなにも、115分で頼んだから」

「じゃあドライバー呼ぶから話したら。まったく、人の都合も考えないで」。

 来た!T.rexの本領発揮だ!

とりあえずは穏やかだった顔が、おそろしい形相に。そして吠えまくる。

プレイ時間115分は30分に。

こりゃ、時短なんてレベルじゃないぜ!

そして一瞬にして悟った。これ以上の抵抗は無駄だと。即時退却を決心する。

 T.rexは、到着時の遅れとは対照的な素早さでドアを開け、最後の雄叫びを上げて走り去っていった。「まったく嫌な奴やな!」

 おう...。やれやれ、命だけは助かったようだ。

 では評価です。

【嬢】T.rex
【サービス】サービス?なにそれ食べられるの?
【店員】店ぐるみのぼったくりです。
【金額】人生勉強にはこんなものか。

 みなさん、くれぐれも気をつけてください。命は大切にしようね!
http://www.kyoto-gyoen.com/


_________


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04. にほじーん 2014年7月07日 00:43:51 : Lmfkb3Y/DNR1A : 79F2pRoEdY
在日朝鮮人や左翼活動家が京都は多いそうですね。「人権!!人権!!」叫ぶ¨差別¨利権に吸い付く魑魅魍魎が跋扈するそうで…さぞ賑やかなこってしょう。

5. 中川隆[-11255] koaQ7Jey 2018年4月24日 16:41:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-12184]

朝日新聞10月31日付け日本史研究者の磯田道史氏(慶応・宇都宮大で非常勤講師)が「一様でなかった武士身分」というタイトルの論文を寄稿している。彼は著書「武士の家計簿」(新潮社)でヒットを放ち、この9月、東大出版会から「近世大名家臣団の社会構造」を上梓。日本各地の生の古文書を読み説いてきた。彼の今回の論文の論旨を以下にまとめた。

1 戦後、江戸期庶民(商家・農民)の研究は進んだが、意外なことに、今日まで武士については謎だらけで来た。

2 武士身分というのは「かなり空虚なものであることが分かった。」

3 武士クラスはさらに三クラスからなっていた。
この「武士身分の中にこそすさまじい差別構造があった」。またそれぞれの階級ごとに生活スタイルは大きい違いがあった。


a エリート武士:侍(士分)クラス=家老・番頭・物頭・平士=(袴がはける。私服勤務)(結婚は20歳代前半で子沢山で長寿)(家督相続なのでボンクラでかまわない。)

b 非エリート武士:徒士(かち)クラス=(袴がはける。私服勤務)(結婚は30前後で子が少ない。貧困であるため)(事務員仕事なので、相続の際に、読み書きソロバンの能力が要求された。)

c 最下層武士:足軽とそれ以下の奉公人クラス=(袴も足袋も許されない。外出は裸足が強制された。制服勤務)(百姓・町人から「も」採用されたが、a,bクラスに昇進はほとんどできなかった。)(農村に住み、牛馬を飼い、農業をするのが普通であり、兵農分離という実態ではなかった。)

a,bはcに対し土下座をさせるのは当たり前だった。熊本藩などではa,bは威光が強く、cを「切り捨て御免」する法令をもっていた。

4 近代革命
欧州=被支配者が支配身分を打倒
日本(明治維新)=支配身分内の潜在的対立(これが日本史の流れを左右したというのが磯田氏の見方)

5 現代日本の組織文化と江戸の藩組織と通底すること

ア エリートと非エリートの差の待遇が大きい。非エリートの出世は「鉄の天井」が容易されている。現代でも国家公務員のキャリアとノンキャリアの壁は強固
イ 現代社会でも総合職は私服、一般職は制服。


3 江戸初期は藩主や家老会議が物事を決めていたが、時代が下ると、藩主は家老会議に出席せず、決定実務は家老会議(最高意思決定機関)が担っており、しかしそれも形式化した。藩主は象徴にしかすぎなかった。「おぼっちゃん家老」が下から来る案件書類にひたすら判子を押すだけとなった。

有能な非エリート武士が毎日毎日規則・慣例にしたがって膨大な書類を製作し、それを上(「何もしない空っぽの頂上会議」)にあげた。(「膨大な無駄書類がまるで真空ポンプに吸われるように、猛烈に上がっていく。」)(「藩がどうなるかは自分の仕事ではない。それはエリートの仕事。今日提出する書類が大事だよ」ーそんな感じで、つつましく暮らしを守っている。これが私(磯田氏)に見えてきた「藩」組織の姿だ。)


「藩も武士もなくなった現代だが、こういう組織文化は現代の我々の政府,我々の社会,我々の学校に受け継がれていないか。」

このような形で論文は結ばれている。

日本風俗図会集から大名行列の絵が引かれているが、たしかにcクラスは裸足だ。時代劇を見ることがあったら、cクラスである足軽の足を見て欲しい。もし、わらじなどを履いていたとすると、時代考証がまちがっていることになる。足軽以下は裸足だったのだ。

注目すべき指摘のひとつは日本の近代革命の本質が、支配者層内の対立が主力となっていたという点。また、現代の組織文化は江戸の藩組織文化の延長線にあるのでは、との指摘だろう。つまり藩という官僚組織のシステムが、今日のあらゆる組織の母系(matrix)になっているという点だ。

士農工商というクラス構造の中でさらに武士階層が厳しい3クラスに分かれていた。もちろんトップに天皇がいた。事ほど左様に、日本のヒエラルキー構造は厳しく構築されていた。武士が武士以外の階層の人間を問答無用で殺傷できるだけでなく、武士が武士を問答無用で切り殺すことが法令上許されていた。なんと、非人間的な社会原理なのだろうか。

わたしは、戦後に生まれ育ったことのありがたさを死ぬほど思う。切り殺される恐怖から逃れているからだ。権力の発生は武力を持つものと持たないものというクラスを誕生させ、人間と人間の間には真の意味での信頼や協力の関係は発生しない。信頼や協力の原理が存在しない社会は、心底寒々しい。実際、武力の脅威に晒されて生活するのは到底耐えられない。

阿修羅で天皇制や武士といった支配層を、美学がある、またはノブレス・オブレージなどといって美化する人たちには強い疑問を感じる。たとえば、ノブレスなんとやらは、あくまで、権力ヒエラルキーを容認する立場のものの見方である。

もし仮にこうした権力ヒエラルキーないし特権階層を病理と見定めているなら,このノブレスなんちゃらの概念それ自体を否定する必要があるだろう。これは一つのセットの考え方なのだ。ノブレスの考え方など持ち込むから、特権階層を思い上がらせ、ひずんだ美意識をよりもたせるようになるのである。また、人に一方的に他人に土下座を強要したり、外を歩くのに裸足を強制したり、問答無用で切捨て御免などという人間として倣岸不遜・夜郎自大の態度に生きる人間に美学を感じるという人は根本から精神が腐敗しているとしかいいようがない。それがいかに根腐れした考えか自覚ができないなら、人間をやめることをおすすめする。餓鬼なのだ。そしてこの倣岸不遜さ・夜郎自大さで、アジア進出を図ったものである。アジアを襲った日本の軍人は「武士」ぶった餓鬼である。アジア・アフリカを襲い苦しめた白人の餓鬼ぶり・傲岸不遜ぶりと、同質のものであり、何の違いもない。

またトップが無責任化し、意思決定機構が空洞化する傾向をもつことは、官僚制において不可避の病理であることを改めて、確認させられる。
http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/387.html


6. 中川隆[-4563] koaQ7Jey 2021年6月26日 09:56:19 : dMxUwB7vqY : aG8yWTdpeGFLeWc=[18] 報告

 2021年06月26日
繁田信一『平安朝の事件簿 王朝びとの殺人・強盗・汚職』
https://www.amazon.co.jp/%E5%B9%B3%E5%AE%89%E6%9C%9D%E3%81%AE%E4%BA%8B%E4%BB%B6%E7%B0%BF-%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E3%81%B3%E3%81%A8%E3%81%AE%E6%AE%BA%E4%BA%BA%E3%83%BB%E5%BC%B7%E7%9B%97%E3%83%BB%E6%B1%9A%E8%81%B7-%E6%96%87%E6%98%A5%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%B9%81%E7%94%B0-%E4%BF%A1%E4%B8%80/dp/4166612859


 文春新書の一冊として、文藝春秋社より2020年7月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は藤原公任が『北山抄』を著したことで残った「三条家本北山抄裏文書」に基づき、平安時代中期の地方における武士の在り様を検証しています。平安時代の一般的な?印象とは異なり、とくに地方は、ひじょうに粗暴で危険な社会であり、そうした殺伐さの大きな要因として武士の存在があった、というのが本書の見通しです。平安時代の一般的?な印象は貴族の日記や物語に基づいており、偏っているのではないか、というわけです。ただ最近では、著者の他の著書などにより、都の貴族の暴力的性格も知られるようになってきていると思います。

 本書はさまざまな事件を通じて、当時の武士・豪族の在り様など、社会の特徴を浮き彫りにしていきます。一族内の対立が武力衝突に至ることは珍しくなかったようですし、国司や田堵の有り様も見えてきます。本書はおもに「三条家本北山抄裏文書」に基づいていますが、そこから当時の社会習慣や人々の行動・観念を叙述していく手腕は見事だと思います。また本書は理解が難しいとされる荘園制についての解説もなかなか充実しており、この点でも有益だと思います。

 本書の提示するからは、平安時代にはかなり治安が悪かったように思え、じっさい当時の貴族の日記でも治安の悪さが指摘されています。ただ、現代においてそうであるように、「体感治安」と「客観的な」治安状況が一致するとは限りません。平安時代の「客観的な」治安状況を定量的に評価することは困難ですが、本書から窺える平安時代の荘園制下の農業はかなり不安定で、後世のような安定的集落はまだ広範に存在しなかっただろうことを考えると、本書で取り上げられた事件は氷山の一角で、平安時代はかなり治安状況が悪かったのではないか、と思います。また、藤原純友の乱の鎮圧後も、瀬戸内海で海賊が跋扈していた様子も窺えます。

https://sicambre.at.webry.info/202106/article_26.html

7. 中川隆[-15919] koaQ7Jey 2021年7月30日 10:06:13 : FR7Mntvne3 : cFNhZkVmS0FoM2c=[22] 報告
同和地区、被差別部落関連のご相談です。気分を害される方もいらっしゃるかと思いましたがネットで調べても詳しく分からないのでこちらでご相談させていただくことにいたしました。

付き合って5ヶ月ほどの彼氏がいる30代の女性です。

年齢のこともあり、付き合い始めからお互い結婚を意識した中で、お付き合いをしております。付き合って3ヶ月頃には互いの両親にも会うことができ、双方の両親ともに私たち自身は気に入ってくださっています。ただ、、彼のご両親が同和地区や被差別部落出身のことを気にされる方のようで、私の苗字と、両親祖父母の出身地が九州ということを知ると、祖父が部落出身ではないかということを気にされてるということを聞きました。

第三者機関で調べてくださって結構ですとお伝えしたのですが、付き合いもまだ浅く、結婚の話にも具体的になっていないので調べないと言われました。彼もご両親と言い合いになったりして辛い思いをしています。なんとかこれから結婚という先を見て楽しくお付き合いを続けたいと思っているので、彼も私も自分達なりに調べたところ、そちらの出身ではないと思っているのですが、それでは信じてもらえる証拠にならず困っています。興信所に調べてもらいたいと思っています。そこでお聞きしたいのですが、

@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。

A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。

B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。

探偵も興信所も、部落問題は取り扱わないと記載されていることが多いので困っています。もちろん私も彼も差別はしてはいけないという考えですが、彼のご両親にも色々と事情があり、彼のことを思って気にしているので、彼とご両親を仲違いさせていることに心苦しいのです。ただ私も彼もお互いこの人と結婚したい‼︎と心から願っています。とはいえ彼の大切なご両親に祝福されないまま強行突破はしたくありません。わがままかもしれませんが、、

とにかく調べる方法がなにかあれば助言をいただけると大変嬉しいです。
また、同じような経験をされた方がいらっしゃったらどのようにされたのかお聞きしたいです。

大変深い悩みで辛い思いをしております。差別だというご叱責は遠慮していただきたいです。

___

Answer katuragi_893さん 2016/9/11 8:49:32

部落とは元来、村の集落を表す単語で昔はズバリ、穢多村・穢多・非人村・非人と言っていましたが、余りに露骨すぎるので今は穢多村・穢多・非人村・非人の隠語で部落を使ってます。同和は「同胞融和」の意味でこれまた穢多村・穢多・非人村・非人の隠語です。(江戸時代中期以前は穢多と非人は違うモノでしたが江戸時代後期?頃から、セックス、混血、共同行動で今では非人も穢多に同化し同じモノです。有名な非人の末裔に「フーテンの寅」こと車 寅次郎がいます)


$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$
穢多とは奴隷の末裔で日本人じゃ無い。諸説あるが

穢多(えた)とは
日本人とは異なる異人種・異民族。
古代、日本人との戦争に負けた民族が日本人に捕えられ奴隷となっていた民族、穢多族。

非人(ひにん)とは
罪を犯した者に与えられる刑罰の一つ。
罪を犯した者は罰として、非人の身分に落とされた。

穢多は奴隷の末裔。具体的には国栖・土蜘蛛の末裔(マレーポリネシア系人種)+蝦夷の俘囚+中世、近世の流民、罪人・賎民との混血。日本人では無い。

室町時代から「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。穢多の子はいつまでも穢多である」との絶対的概念があるから、穢多族の子は確定的に穢多族に成る。それ故、穢多族男女は既成事実作り中出し妊娠H狙って来る傾向があり大変危険です。

超強力な穢多部落優遇が存在してる段階で差別は無いし、現実は非穢多部落民が穢多部落民からヤリタイ放題されてます。穢多部落民忌避は邪馬台国と出雲帝国時代、2300年前からある日本の伝統文化です。西日本では婚姻忌避は存在していますが、あれは差別ではありませんし誰だって穢多の子は穢多で忌避される血筋を入れたくありません。もし、穢多部落民が逆の立場なら絶対穢多部落民の血筋は入れないでしょう。

或る左翼部落問題活動家が自分の息子の嫁に穢多部落民女を忌避し破談にしたのはこの部落の真実知ってるからです。左翼部落問題活動家で息子の嫁に穢多部落民女を忌避した奴は狡い奴です。他人には穢多部落民と婚姻しても何ともないよ言いながら、自分の息子の嫁には人種的、歴史的に穢多と言う階級の真の意味を知ってるかから忌避したんです。ホントに狡い奴です。

穢多部落民との結婚は彼も穢多部落民に成り、産まれて来る子も穢多部落民に成ると言う事です。わかっていましたか?。彼との子供も排除・忌避される側に成るという事です。本音と建て前、違いますから今でも就職忌避・婚姻忌避が現実に存在していますから貴方の子供が成人した時に穢多の血筋で就職忌避・婚姻忌避に遭遇するでしょう。。
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全部説明したと思いますが私の書き込みを絶えずチェックし絶えず削除
依頼を出す真実を知られたく無い歴史隠蔽、穢多部落民血筋(DNA)拡散
を狙う穢多部落民に付き纏われてるのでコピペで失礼します。

実際、部落の問題にはこれがあり、奴等が「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と言えた義理ではありません。

山口組ヤクザ約70%の者が部落出身者であり約10%の者が韓国人等の外国人。 カプランとデュブロ

潜入ルポ ヤクザの修羅場(鈴木智彦著 文春ウェブ文庫)

「不良はある程度の年齢になると、ヤクザになるか、右翼になるか、同和にいくか進路を決めるんですわ」彼のいう右翼も同和も”似非”を意味しており、純粋なそれに所属している人間たちにとっては迷惑な話だろう。しかし、彼の何気ない一言は、関西の暴力社会の基本構造をストレートに現している。鈴木智彦は曰く「暴力団と政治団体と人権団体の三位一体は、裏社会最強のコンビネーションだ」、「大阪ではかつて、同和利権を制するものがヤクザ社会を制すると言われていた」。

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実。

被差別部落と暴力団(鈴木智彦)

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実で、仮に一般人と穢多非人部落民が婚姻し、その婚姻が破綻し穢多部落民と離婚しょうとしても、離婚する時は、解同(人権団体)が出て来て「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と喚き散らし一般人の親・親戚の所に押しかけます。

警察は相手が解同(人権団体)なのと民事不介入で介入してくれません。
ヤクザ(暴力団)、右翼団体(政治団体)の場合は警察が介入してくれますが解同(人権団体)の場合は警察が介入しないのを知ってて奴等はやって来ます。
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穢多部落民は過去戦争を煽動・推進したことから天皇から絶対的に嫌悪・忌避・排除されています。

穢多部落民忌避の根源は天皇が絶対的に穢多を嫌悪・忌避・排除してるからです。千年経っても変わりません。

天皇・皇后、障害者支援施設視察

:質問:
@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。
A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。
B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。


:回答:完璧に調べる方法はある。

ただ、貴方が穢多だった場合、自殺、、、。。。魔の宗門人別改帳、江戸時代穢多管理は仏教(宗門)で行っていたので菩提寺が穢多寺なら絶対穢多で一般百姓は原則穢多寺を菩提寺に出来ません。曽祖父の嫁、曽祖母の菩提寺もついでに調べたら完璧に判ります。どの寺が穢多寺だったかは今でも完璧に判ります。逃げられません。徳川幕府の完璧な穢多部落民、嫌悪・忌避・排除に感謝すべきですね。

私は前、この菩提寺による穢多判別の回答をしましたが、穢い穢多部落民共によって削除されました。でも、これが核心です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12163671097


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朝日新聞10月31日付け
日本史研究者の磯田道史氏(慶応・宇都宮大で非常勤講師)が「一様でなかった武士身分」というタイトルの論文を寄稿している。
彼は著書「武士の家計簿」(新潮社)でヒットを放ち、この9月、東大出版会から「近世大名家臣団の社会構造」を上梓。日本各地の生の古文書を読み説いてきた。彼の今回の論文の論旨を以下にまとめた。

1 戦後、江戸期庶民(商家・農民)の研究は進んだが、意外なことに、今日まで武士については謎だらけで来た。

2 武士身分というのは「かなり空虚なものであることが分かった。」

3 武士クラスはさらに三クラスからなっていた。
この「武士身分の中にこそすさまじい差別構造があった」。またそれぞれの階級ごとに生活スタイルは大きい違いがあった。


a エリート武士:侍(士分)クラス=家老・番頭・物頭・平士=(袴がはける。私服勤務)(結婚は20歳代前半で子沢山で長寿)(家督相続なのでボンクラでかまわない。)

b 非エリート武士:徒士(かち)クラス=(袴がはける。私服勤務)(結婚は30前後で子が少ない。貧困であるため)(事務員仕事なので、相続の際に、読み書きソロバンの能力が要求された。)

c 最下層武士:足軽とそれ以下の奉公人クラス=(袴も足袋も許されない。外出は裸足が強制された。制服勤務)(百姓・町人から「も」採用されたが、a,bクラスに昇進はほとんどできなかった。)(農村に住み、牛馬を飼い、農業をするのが普通であり、兵農分離という実態ではなかった。)

a,bはcに対し土下座をさせるのは当たり前だった。熊本藩などではa,bは威光が強く、cを「切り捨て御免」する法令をもっていた。

4 近代革命
欧州=被支配者が支配身分を打倒
日本(明治維新)=支配身分内の潜在的対立(これが日本史の流れを左右したというのが磯田氏の見方)

5 現代日本の組織文化と江戸の藩組織と通底すること

ア エリートと非エリートの差の待遇が大きい。非エリートの出世は「鉄の天井」が容易されている。現代でも国家公務員のキャリアとノンキャリアの壁は強固
イ 現代社会でも総合職は私服、一般職は制服。


3 江戸初期は藩主や家老会議が物事を決めていたが、時代が下ると、藩主は家老会議に出席せず、決定実務は家老会議(最高意思決定機関)が担っており、しかしそれも形式化した。藩主は象徴にしかすぎなかった。「おぼっちゃん家老」が下から来る案件書類にひたすら判子を押すだけとなった。

有能な非エリート武士が毎日毎日規則・慣例にしたがって膨大な書類を製作し、それを上(「何もしない空っぽの頂上会議」)にあげた。(「膨大な無駄書類がまるで真空ポンプに吸われるように、猛烈に上がっていく。」)(「藩がどうなるかは自分の仕事ではない。それはエリートの仕事。今日提出する書類が大事だよ」ーそんな感じで、つつましく暮らしを守っている。これが私(磯田氏)に見えてきた「藩」組織の姿だ。)


「藩も武士もなくなった現代だが、こういう組織文化は現代の我々の政府,我々の社会,我々の学校に受け継がれていないか。」

このような形で論文は結ばれている。

日本風俗図会集から大名行列の絵が引かれているが、たしかにcクラスは裸足だ。時代劇を見ることがあったら、cクラスである足軽の足を見て欲しい。もし、わらじなどを履いていたとすると、時代考証がまちがっていることになる。足軽以下は裸足だったのだ。

注目すべき指摘のひとつは日本の近代革命の本質が、支配者層内の対立が主力となっていたという点。また、現代の組織文化は江戸の藩組織文化の延長線にあるのでは、との指摘だろう。つまり藩という官僚組織のシステムが、今日のあらゆる組織の母系(matrix)になっているという点だ。

士農工商というクラス構造の中でさらに武士階層が厳しい3クラスに分かれていた。もちろんトップに天皇がいた。事ほど左様に、日本のヒエラルキー構造は厳しく構築されていた。武士が武士以外の階層の人間を問答無用で殺傷できるだけでなく、武士が武士を問答無用で切り殺すことが法令上許されていた。なんと、非人間的な社会原理なのだろうか。

わたしは、戦後に生まれ育ったことのありがたさを死ぬほど思う。切り殺される恐怖から逃れているからだ。権力の発生は武力を持つものと持たないものというクラスを誕生させ、人間と人間の間には真の意味での信頼や協力の関係は発生しない。信頼や協力の原理が存在しない社会は、心底寒々しい。実際、武力の脅威に晒されて生活するのは到底耐えられない。

阿修羅で天皇制や武士といった支配層を、美学がある、またはノブレス・オブレージなどといって美化する人たちには強い疑問を感じる。たとえば、ノブレスなんとやらは、あくまで、権力ヒエラルキーを容認する立場のものの見方である。

もし仮にこうした権力ヒエラルキーないし特権階層を病理と見定めているなら,このノブレスなんちゃらの概念それ自体を否定する必要があるだろう。これは一つのセットの考え方なのだ。ノブレスの考え方など持ち込むから、特権階層を思い上がらせ、ひずんだ美意識をよりもたせるようになるのである。また、人に一方的に他人に土下座を強要したり、外を歩くのに裸足を強制したり、問答無用で切捨て御免などという人間として倣岸不遜・夜郎自大の態度に生きる人間に美学を感じるという人は根本から精神が腐敗しているとしかいいようがない。それがいかに根腐れした考えか自覚ができないなら、人間をやめることをおすすめする。餓鬼なのだ。そしてこの倣岸不遜さ・夜郎自大さで、アジア進出を図ったものである。アジアを襲った日本の軍人は「武士」ぶった餓鬼である。アジア・アフリカを襲い苦しめた白人の餓鬼ぶり・傲岸不遜ぶりと、同質のものであり、何の違いもない。

またトップが無責任化し、意思決定機構が空洞化する傾向をもつことは、官僚制において不可避の病理であることを改めて、確認させられる。
http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/387.html


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日本のカースト制 氏姓制度(しせいせいど)

さて、氏姓制度と陰陽修験は、大和朝廷成立前後の重点的政策だった。
思い出して欲しいが、征服者と被征服者の違いが「明治維新まで」は氏(うじ)と姓(かばね)で直ぐに判る仕組みだった。

古代日本に於いて、中央貴族や地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より地位を表す氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度を氏姓制度(しせいせいど)と呼ぶ。

五世紀頃から始まったその制度は「氏姓制(ウヂ・カバネせい)」とも言い、「氏(ウヂ)・姓(カバネ)」を音読して「氏姓(しせい)制」とも言う。

大化の改新後、大和朝廷(ヤマト王権)が律令国家の形成に及ぶと、戸籍制に拠って、氏姓(ウヂカバネ)はかつての部民(べみん/渡来部族)、つまり百姓階層にまで拡大され全ての階層の国家身分を表示するものとなった。

この戸籍制に拠って、氏姓(ウヂカバネ)を有しない者は大王(おおきみ/天皇)を始めとする皇族と被差別階級の賤民(せんみん)奴婢(ぬひ)階層のみとなった。
但しこの戸籍制に拠って人口の大半が氏姓(ウヂカバネ)を有したと解されるのは誤解で、該当者は実質総人口の一割程度だったと推測される。


氏(うじ)と姓(かばね)は、征服王の神々の子孫しか名乗らせない。

被征服者の農業従事者(使役農民)や漁業従事者(使役漁師)の生活環境は村里集落であり、身分はその地名に住む誰々(山里村のゴンベイ)で苗字に当るものは無いので有る。

何故なら、苗字の語源が土地の所有(支配権)を意味していたからである。
氏(うじ)は同じ祖先をもつ家族の集団、つまり血の繋がりによって成り立つ同族の集団である。

問題なのは、この氏(うじ)族、実は天孫族を名乗る征服部族で、好戦的な戦人天孫族(いくさびとてんそんぞく)がその「恐怖の大王達」の正体だった事である。
大化改新以前では、この氏(うじ)による集団が、社会的にも政治的にも基礎となる集団だった。

その統率者を氏上(うじかみ)と呼んだ。
この入植集団の守り神が氏神様となる。

姓(かばね)は氏に付いてその職掌・家格や尊卑を表わす呼称である。

氏を基礎単位として、それを姓によって秩序づけたのが、所謂(いわゆる)「氏姓制度」であり、大化以前の大和連合政権の支配形態であった。

この姓(かばね)が曲者で、大王(おおきみ・天皇)から認められた血統の家格を表す制度だが、その家格がそのまま長期に渡り、その一族の身分を保証するシステムだったのである。

この氏姓制度と陰陽修験のシステムが確りと生き残り、千年の時空を隔てて、まさか、明治維新の時点に「鮮やかによみがえる」とは、誰も想像出来ない事に違いないだろう。しかし、そこに日本史の真実があった。
http://jiyodan.exblog.jp/7950159/


【名字のルーツと氏姓の歴史】

氏族末孫願望が強い日本人だが、大体に於いて支配階級を食わせられる比率は五パーセント前後がやっとだから、幕末時点での公家・武家・有姓僧侶家の合計は七〜八パーセントで、後は非人が六パーセント位、従って八十五パーセント〜八十七パーセントは只の平民だった。

圧倒的に多くの比率を占める只の平民は、遡れば蝦夷族(えみしぞく/原住縄文人)の末裔か、以前に氏族の姓を有していた過去が在るにせよ、そこから陥落した家柄と言う事で被搾取階級で有る事に変わりは無い。


大王(おおきみ)家=天皇(てんのう)家には氏姓は無い。

何故なら、大王(おおきみ)=天皇(てんのう)は氏姓(うじかばね)を授ける立場だからである。

大王(おおきみ)=天皇は、**大王(おおきみ)=**天皇を名乗り、その子息である親王や内親王、そして歴代の皇族も**王(宮)を名乗って臣籍降下するまで氏姓(うじかばね)を持たない。

氏姓(うじかばね)が、制度上の全ての国家身分階層を表示すものから、やがて名字(苗字)と同じ意味に変化し、名字と苗字はどちらが先かと言えば、名田経営(みょうでんけいえい)者が支配する土地を苗字(なえあざ)と呼ぶ所から名字と苗字は同じ意味である。
◆◇◆◇◆名字のルーツと氏姓の歴史◆◇◆◇◆◇

現在の氏名の元となった姓は、古代日本に於ける氏姓制度(しせいせいど)から始まっている。

古代日本に於いて、中央貴族や地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より地位を表す氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度を氏姓制度(しせいせいど)と呼ぶ。

五世紀頃から始まったその制度は「氏姓制(ウヂ・カバネせい)」とも言い、「氏(ウヂ)・姓(カバネ)」を音読して「氏姓(しせい)制」とも言う。

六百八拾四年(天武十三年)に大王(おおきみ)の地位の確立を進める為、大和連合政府(大和朝廷)で用いられた身分制度が、八色の姓(やくさのかばね)である。

一番上の姓(かばね)である真人(まひと)は、主に皇族に与えられ、次に朝臣(あそみ、あそん)、臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などが、八色の姓(やくさのかばね)の身分をも表す姓(かばね)制度で、天皇家への権力掌握をはかった。

当時の有力部族王(臣王)には、和邇(わに)・葛城(かつらぎ)・大伴(おおとも)・物部(もののべ)・蘇我(そが)・安部(あべ)・秦(はた)・中臣(なかとみ・後の藤原)・犬養(いぬかい)と言った姓名が連なっている。

天皇から朝臣(あそみ)の姓(カバネ)を賜っての賜名であるから、読み方に「の」が入って物部尾輿(もののべのおこし)・大伴家持(おおとものやかもち)・蘇我馬子(そがのうまこ)等が正しい読み方である。

王族(皇族)が臣籍降下(しんせきこうか)して姓(カバネ)を賜った平氏・源氏・橘氏も読み方に「の」が入り、例を挙げれば、平清盛は「たいらのきよもり」で、源頼朝は「みなもとのよりとも」となる。

つまり藤原氏の姓(カバネ)読みは「ふじわらの」で平氏の姓(カバネ)読みは「たいらの」、源氏の姓(カバネ)読みも「みなもとの」が正しい読み方である。


大化の改新後、大和朝廷(ヤマト王権)が律令国家の形成に及ぶと、戸籍制に拠って、氏姓(ウヂカバネ)はかつての部民(べみん/渡来部族)、つまり百姓階層にまで拡大され全ての階層の国家身分を表示するものとなった。

但しこの戸籍制に拠って大半が氏姓(ウヂカバネ)を有したと解されるのは誤解で、該当者は実質総人口の一割程度だったと推測される。

氏ではない非征服部族の良民蝦夷の扱いは、村里集落が一つの共同体単位で、「**村のゴンベイの所の娘っ子のオサト」と言う表現の集団だった。

非征服部族の良民蝦夷は、氏を持たない事でその身分が土地に固定し、その土地の附帯的な存在に位置する隷属身分だったのである。

実はこの「村里集落が一つの共同体単位」が、それ以後我が国の庶民に永く続く「村落共同体」の「共生社会意識」を育てた最初の出来事だった。

我が国の大衆社会に育ったこの特異な「村落共同体」の「共生社会意識」については、この物語の後半で詳しく記す事にするので、そこまで是非読み進めて欲しい。

千八百六十九年(明治二年)、旧藩主が自発的に版(土地)・籍を天皇に返上した事を「版籍奉還」と言うが、この版籍奉還をよく見ると「籍」つまり「人民」を「旧藩主が明治天皇に返した」と言う意味で、概念上、人民は「藩主の持ち物」だった。

この考え方が、とりもなおさず征服、非征服時代の考え方がそのまま存在していた事実を示した事に成る。


公家や神官、武士と違い、彼ら民人は村(居住地)の所属であり、その土地の統治者の所属だった。
村(集落・居住地)の名が、一体化した村人の氏姓(うじかばね)の代わりだった。

つまり氏姓(うじかばね)の代わり、土地の名に支配者の名(苗字)がかざされ、「大田村(太田氏が所有する)のゴンベイ」と言う表記になる。

名字(みょうじ・苗字/なえあざ)は氏姓を持つ土地支配者の名字(なあざ)、つまり土地の名であり村長(むらおさ)の別名「名主(なぬし)」の語源は、ここから来ている。

この名字(なあざ)由来は、平安期に起こった武士の台頭と名田経営体制(みょうでんけいえいたいせい)の成立に拠るものである。

下級貴族・百姓の多くは源氏流・平氏流・藤原氏流・橘氏流を名乗る枝の者が圧倒的に多くなり、混乱を避ける為に名田(みょうでん)の夫々(それぞれ)固有の呼び方(地名)が、名田経営者の氏名乗りである名字(みょうじ)・苗字(みょうじ/なえあざ)となったからである。

その後町が形成されたが、町人も「**河岸のタロ吉、**辻のジロ吉」で、氏(うじ)姓(かばね)は無い。

百姓は氏族、農民は民人が本来の身分の分類であり、百姓は農業従事者であっても農民ではなかった。

従って当初の村主、庄屋、名主、地主などは、その出自が身分の低い氏族の百姓である。

同様に、町家に在っても氏族系の商人や工業主、鉱山主、船主などの百姓(身分の低い氏族)が居て、それらに従事する民人が、本来の町民だった。
町家に在って名字(みょうじ)の他に通用したのは、大店(おおだな)商家の屋号が精々である。

この身分の線引き、かなり時代が下がると一部の例外として士分に取り立てられ、「氏を名乗る者もいた」のだが、あくまでもこの原則は明治維新まで変わる事は無かった。


本来の「姓(カバネ)」は、古代の氏族を政治的分類・格付けしたもので、職掌を示す姓(カバネ)としては、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたのぬし)、稲置(いなぎ)。

地位・格式・立場を示す姓(カバネ)としては、公(きみ)、大臣(おおおみ)、大連(おおむらじ)、臣(おみ)、連(むらじ)、造(みやつこ)、直(あたい)、首(おびと)、史(ふひと)、村主(すぐり)などである。

しかし、時代が下がるに連れて姓(かばね)は本来の意味を失い、別の意味に変わって「氏」の同意語や元の血筋を示す意味と成った。

その元の血筋を示すと言う用法の「姓」が、平安中期頃から始まった「藤原姓の工藤氏」、「平姓の村岡氏」、「平姓の北条氏」、「源姓の足利氏」、「源姓の新田氏」と言う様に「氏」が細分化された結果、古代の「氏」にあたるものを「姓」と呼ぶようになったのである。


帝の子(親王)は代々多数存在し世継ぎは皇太子を称して次の帝となる事に備えるが、そこから外れた者は帝の代が代われば王族(皇族)と成って「王」を名乗る。

しかし、そう何代も「王」を名乗っていつまでも「王族(皇族)」と言う訳には行かないから臣籍降下(しんせきこうか)をする事に成るのだが、その時に賜姓(しせい/たまわりせい)をして「賜姓降下(しせいこうか)」をする慣わしがある。

王族(皇族)としての賜姓(しせい/たまわりせい)で有名なのは葛城王(かつらぎおう)、賜姓降下(しせいこうか)で有名なのは桓武帝・高望王(たかもちおう)流れの「平氏流」、歴代天皇が皇子に賜姓(しせい)した「源氏流」がある。

源氏流に関しては、嵯峨源氏、仁明源氏、文徳源氏、清和源氏、陽成源氏、光孝源氏、宇多源氏、醍醐源氏、村上源氏、冷泉源氏、花山源氏、三条源氏、後三条源氏、後白河源氏、順徳源氏、後嵯峨源氏、後深草源氏、正親町源氏などがある。

中でも嵯峨源氏流には、現代に於いて人口百十五万を数え五位にランクインする渡辺氏(わたなべうじ)の摂津・渡辺綱(わたなべのつな/源頼光四天王)、肥前・松浦氏(まつらうじ)、筑後・蒲池氏(かまちうじ)、常陸・源護(みなもとのまもる/将門の乱鎮圧)などの有名どころを排出している。

武門として名を成した清和源氏流は、初代・経基(つねもと)流を始めとして清和(嵯峨)源氏、清和(摂津)源氏、清和(河内)源氏など清和源氏だけで二十一流がある。


その清和源氏よりも格が高いのが村上源氏・師房(もろふさ)流で、村上帝・第七皇子の具平親王の子で藤原頼通の猶子となった右大臣・源師房(みなもとのもろふさ)に発し、鎌倉期の源通親(みなもとのみちちか/土御門通親)や南北朝期の北畠親房(きたばたけちかふさ)、幕末の討幕派公家・岩倉具視(いわくらともみ)も村上源氏の支流である。

尚、播磨国赤松を名字の地とする赤松氏もまた村上源氏季房流と自称し、名和長年も村上源氏雅兼流と自称している。
更に村上源氏と自称する赤松満則流を、奥三河の作手城主(奥平氏)の奥平貞能・奥平信昌父子も称している。

瀬戸内海で活動した村上水軍は、河内源氏の庶流・信濃村上氏を起源とする説、平安時代に活躍した村上為国の弟・定国説、そして村上源氏説がある。


平安中期から始まっていたが、氏族の多くは源氏・平氏・藤原氏・橘氏の姓(カバネ)を名乗る者が圧倒的に多くなり、「藤原殿」と姓で呼んでは混同混乱する。

それで姓(カバネ)乗りではなく、領地・赴任地を意味する地名である苗字(なえあざ・名字)を名乗ったり、官職名などと組み合わせて称するように成る。

例えば官職・権兵衛(ごんのひょうえ)の藤原氏で権藤(ごんどう)も、そうした名乗りの一である。

佐藤氏(さとううじ)の様に、官職・「左衛門尉(さえもんのじょう/左衛門府の判官)の藤原氏」の略だったり、「佐野の藤原氏」や「佐渡の藤原氏」などの地名と組み合わせた略だったりとその由来がある。

藤姓の近藤氏・安藤氏・伊藤氏・加藤氏などには、近藤は近江国、安藤は安芸国、伊藤は伊豆国または伊勢国、加藤氏は加賀国(加賀介)などが挙げられる。

鎌倉期に入ると将軍でさえ「鎌倉殿」と呼ぶ時代で、つまり配下の御家人達も「**殿」と呼ばれ称する習慣になり、正式な氏姓である源氏・平氏・藤原氏・橘氏は一部を残して常用されなくなる。

つまりややこしい事に、言わば「姓(かばね)」と「苗字(なえあざ)」と「通称」と「実名」が用いられ、例えば清和源氏・土岐頼国明智流を自称する坂本龍馬(さかもとりょうま)は、明智流が正しければ姓は源、名字(苗字)は坂本、通称が龍馬、実名が直柔(なおなり)と言う事に成る。


明治維新以前の日本は血統至上主義社会だったから、養子を迎え藤原に改姓する者、氏の女子を娶(めと)り、母系によって藤原、その他の姓(源、平、橘、紀、菅原、大江、中原、坂上、賀茂、小野、惟宗、清原、安倍、他の名族の大姓)を称した例もある。

こうした例は当時の氏族社会で頻繁に行なわれ、例えば熱田大宮司家ら多数が藤原氏から養子を迎えて藤原を名乗った例が残っている。

それで、氏族社会が旧名族系の大姓ばかりになり、区別の為に知行地(領地)を意味する地名である苗字(なえあざ・名字)を、それぞれが名乗って氏名(うじな)とする者が現れる。

その後、また旧姓に復して名乗る身内も出るなど、膨大な姓が誕生する。
しかしそれらの氏姓の末裔達も代を重ね枝分かれして身分は低くなり、中央権力と直結する高位の身分とは大差が付いて行く。

その総称が「百姓」の語源で、当初の「百姓」は農業従事者の事では無く枝分かれして身分の低い氏族だった。

つまりこの物語をお読みの貴方も、鎌倉幕府以降だけでも三十代以上の世代混血を経過していて、父方・母方を辿れば源、平、橘、紀、菅原、大江、中原、坂上、賀茂、小野、惟宗、清原、安倍、他の名族の大姓に必ず何処かで繋がっている。

まぁ恐れ多いかも知れないが、千五百年間も世代混血を遡れば必ず何処かで皇統の血も混ざって居る訳で、その意味では日本民族は一つにまとまる要素が在るとも言える。

そう言う訳だから、貴方の先祖が世代混血の系図の中からチョイスして「先祖は何々」と公表してもほとんど個人的誇りを満足させる気分の問題かも知れない。

豊臣秀吉の最初の氏(うじ)名乗りは、木下(きのした)だったが、途中から氏名乗りを羽柴(はしば)として、羽柴秀吉(はしばひでよし)を名乗る。

豊臣姓は天皇から朝臣(あそみ)の姓(カバネ)を賜っての賜名で、「豊臣朝臣(とよとみのあそみ)」であるから、読み方に「の」が入って豊臣秀吉(とよとみのひでよし)が正しい読み方である。

事のついでに名前のルーツを付け加えると、後に町民や農民と言った庶民にも名前に用いられた「衛門(えもん)に兵衛(べぇ)」の謂れは、元々御所の内裏(だいり)の内外を守る衛門(えいもん)や兵衛(へいえい)が内裏(だいり)の左右に在る役所名・役名をかざした武士の通称から発祥したものである。

名字(みょうじ・苗字/なえあざ)と組ませて名乗ったもので、右衛門・左衛門、伊右衛門、茂右衛門、安右衛門、杢右衛門、宇左衛門、宇兵衛、安兵衛、茂兵衛などがあり、名字(みょうじ・苗字/なえあざ)にそれを組ませて忠臣蔵の堀部安兵衛(ほりべやすべい)と言う具合になる。

それが商家の当主にも使用され、町民や農民と言った庶民にも広がって当時名前の多数派を占めている。

明治期の元勲の一人、山本権兵衛(やまもとごんべい)の官職読み「ゴンノヒョウエ」もそう言う類の一つである。

また、ここで律令制に於ける官職名を紹介する。

何故ならば官職名が武人の名前に採用され、時代が下がるとその官職名が庶民にまで広がったからである。

官職は、部署ごとに「省」に於いては卿(かみ)、輔(すけ)、丞(じょう)、録(さかん)、「寮」に於いては頭(かみ)、助(すけ)、允(じょう)、属(さかん)がある。

また武官職は、左衛門府・右衛門府・左衛士府・右衛士府・左兵衛府・右兵衛府の六衛府があり、「近衛府」に於いては大将(かみ)、中将・少将(すけ)、将監(じょう)、将曹(さかん)、「兵衛府」に於いては督(かみ)、佐(すけ)、尉(じょう)、志(さかん)となる。

そして地方の官職は、「国司」於いて守(かみ)、介(すけ)、掾(じょう)、目(さかん)である。

その内の、「輔(すけ)」や「助(すけ)」に「介(すけ)」、「佐(すけ)」、「丞(じょう)」や「允(じょう)」などが好んで名前に使われ、一部は現代まで続いている。

また、左近・右近の名も、左近兵衝(さこんのひょうえ)・右近兵衝(うこんのひょうえ)の略称から採ったものである。

尚、律令制に於ける例外の官・別当(べっとう)は名字、蔵人(くろうど/くらんど)は名前に使われている。


今に成っての現代人には実感が湧かないと思うが、この物語の冒頭で記述した様に氏姓の支配体制は明治維新まで続いていた。

氏族由来の氏姓としては線が細いが、稲作文化として歴史を刻んだ日本では、名字に田が着く姓が多い。

氏姓順位四位・蘇我氏族系の田中臣の田中氏や、氏姓順位十二位・吉田連、卜部姓公家、吉田社社家の吉田氏、桓武平氏、藤原氏、橘氏などの諸流も伝えれられているが、由来不明も多いのが田系姓の特徴である。

氏姓順位十三位・山田姓(やまだせい)に関しては、山田臣、山田連、山田県主、平城天皇・山田皇子裔の山田氏などの他、氏族起源ではないと思われる庶民(良民)派または土着した百姓氏族で、日本の原風景である棚田に由来する農業従事者が山と田を合わせて自称した事が発祥とされる。

その他、氏姓順位七十五位の高田姓(たかだせい)も、山城国葛野郡高田郷発祥の高田首(たかだのおびと)や源平その他の氏系流を名乗る者あるが、平安期から江戸期に掛けて名族は出ていない。


氏姓順位六百三十五位の安倍氏系・今田(こんた)姓に関しては平安期に奥州(東北一帯)に住んでいた今一族(こんいちぞく)がルーツとされその今氏(こんうじ)が、前九年の役や後三年の役の後奥州に覇を唱えた清原氏(奥州藤原氏)の下で帰農し、日本の原風景である棚田に由来する農業従事者として田を加えた今田(こんた)を称した。

今田(いまだ)氏に関しては、平安期に備後国御調郡今田邑(いまだむら)発祥の桓武平氏・千葉氏流今田氏が主な所で、この場合の今(こん)は新しいの意味で、新田と同じ意味である。

そして明治維新後に制定された政府発布の戸籍法(壬申戸籍 /じんしんこせき)に拠り地方豪族にあやかって創氏した者も多くいた為、使用されている氏姓がその出自を顕すものとは限らないのである。


実は「公家(殿上人)の家名」は、鎌倉期から明治維新の七百年間に掛けての各家の分流・支流が武門や神官・僧籍、果ては商家や百姓に到る広がりを見せている所から、かなりの家名が名字のルーツと成って居る。
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百姓(ひゃくしょう)

百姓(ひゃくしょう、ひゃくせい、おおみたから)と言う身分であるが、実は初期の大和朝廷国家での身分は低くない。

明治の版籍奉還(はんせきほうかん)によって江戸期での区分が曖昧(あいまい)に成ったが、農民(のうみん)と百姓(ひゃくしょう)は以前は区別される身分だった。


律令制における被差別階級として、賤民(せんみん)がある。

賤民(せんみん)を、姓(かばね)を有しない自由民の下人(げにん)と非人(ひにん)に分け、非人(ひにん)を奴婢(ぬひ)と称して律令制における被差別階級に組み入れ、隷属的に支配していた。

公に大和朝廷政府が抱える賤民(せんみん)を公奴婢(くぬひ)、地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者が定められていた。

「奴(ぬ)」が男性奴隷、「婢(ひ)」が女性奴隷で、その身分も親子代々受け継がれたものだった。

奴婢(ぬひ)は制度上人間扱いしない所有物であるから、奴(ぬ)は力仕事で酷使し、婢(ひ)は仕事をさせながら持ち主の慰め者として扱われた。
永きに渡り続いた血統に拠る差別の基本だった氏姓制度において、百姓の下に在ったのは良民・下人(げにん)であり、その下に在ったのが非人(ひにん/奴婢・ぬひ)である。

補助的な餞民農民(せんみんのうみん)を束ねるのは、氏の子孫、有姓階層全体を指す「百姓」であり、支配者層が在地社会において直接把握の対象とした社会階層が百姓の総称だった。

それ故、貴族、武士、神官、僧侶も永い兼業時代があり、他の多様な生業(なりわい)も含め、安土桃山時代の「太閤刀狩」に至るまでの長い事、武士と百姓は「さしたる差はなかった。」と言うより農業も兼業だった。

中世以降次第に「百姓の本分を農とすべき」と言う思想が広がり、明治維新以後は「一般的に農民の事を指すと」理解されるようになった。

その事を踏まえて領地を意味する地名である苗字(なえあざ・名字)をそれぞれが名乗ったり、熱田大宮司家らが藤原氏から養子を迎え藤原に改姓したり、それらの氏の女子をめとり母系によって藤原、その他の姓(源、平、橘、紀、菅原、大江、中原、坂上、賀茂、小野、惟宗、清原、他の名族の姓)を称した例もあるが、旧姓を名乗る身内も出るなど、膨大な姓が誕生する。

しかし代を重ね、枝分かれして身分は低くなり、高位の身分とは大差が付いて行く。

その総称が、「百姓」の語源で、当初は身分の低い氏族だったのである。

つまり、村主、庄屋、名主は百姓であり、姓を持たぬ民(餞民・奴婢)とは区分けされていた。

その言い回しが「民と百姓」と言う分け方である。

百姓は氏族、農民は民人(賤民)が本来の身分の分類であり、百姓は農業従事者であっても農民ではなかった。

従って当初の村主、庄屋、名主、地主などは、その出自が身分の低い氏族の百姓である。

同様に、町家に在っても氏族系の商人や工業主、鉱山主、船主などの百姓(身分の低い氏族)が居て、それらに従事する民人(賤民)が、本来の町(人)民(賤民)だった。

つまり豊臣秀吉の「太閤刀狩」は、専業武士(統治と武力行使を担当)と氏族系百姓の間に明確な線引きをして、氏族系の商人や工業主、鉱山主、船主を町人、氏族系の地主を百姓と身分を明確に分けた「身分制度改革」だったのであり、それらの身分制度は江戸期に入って確定し、氏族系百姓身分の商業者は町人(商家/商人)と成ったのである。
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武士のルーツ

武士の出現に関しては、如何なる必然が在っていつ頃出現した事かを意外と知らない方が多い。

実は決定的な必然として、支配体制を確立し掛かっていた渡来部族に対する原日本人(縄文人/蝦夷族)のレジスタンスに対する対策として日本武士は出現した。

つまり出現時の武士に武士道の精神など微塵もない。
何故なら原日本人(縄文人/蝦夷族)は、容赦無く討ち取る蛮人扱いの相手だからである。

大体に於いて、武術(武道)の原型は山中に篭って抵抗を続ける縄文人(蝦夷族/えみしぞく)を取り締まる為に結成された初期の陰陽修験者に拠って開発された単独もしくは少数に拠る機動力が基本の為に、世界でも珍しく剣だけで盾のない武術である。


弥生期から平安期に到る日本列島黎明期の武力は、部族単位の自警団的要素が強いもので、必要に応じて召集される武力だった。

それが、原日本人(縄文人/蝦夷族)のレジスタンスと言う必要な事態が常態化して専業の武門を組織する必要が生じた。

古代に於ける治安維持に関して、大和朝廷(ヤマト王権)初期の官憲としては犬飼部が挙げられ、その後は後胤貴族である平氏や源氏が大和朝廷(ヤマト王権)から地方派遣される形でその役割を担う経緯が存在した。

この頃に成り立ったのが実は全国に存在する初期鎮守神の出現で、鎮守府将軍に表される治安維持に関して、武力組織が地方に派遣され、陰陽修験道師(山伏)の活動も在り地方の平安を司どる呪詛的要素を習合して鎮守氏神(鎮守氏上)の信仰概念が成立した。

平安時代の中期になると、奈良時代の防人制度の廃止、武力ではなく神の力で国を修める建前の為に、朝廷の武人貴族が形式化して弱体となり、地方豪族の私的で日常的な武装化が促進され、武器・武具の形状に著しい変化が現れる。

所謂(いわゆる)「武士の台頭」で、地方豪族の私的で日常的な武装化が進んだからである。


日本武士の出現が平安期とすると、それではそれ以前の武力は何だったのかと疑問をお持になるだろう。

それは、当初の大和合国家の成り立ちからして、武力ではなく「神の威光で統治する」と言う呪詛的意味で統治する初期大和朝廷(ヤマト王権)の大王(おおきみ/天皇)に武力は相応(ふさわ)しくは無く、御所の守りは兵衛(ひようえ)と呼ばれる武官職の衛士で武士ではなかった。

地方に派遣するにしても、警察権的要素の犬飼氏を除くと米大陸に於ける移民が武力専任ではない立場で武器を携えていたのと同じレベルの位置付けになるのである。

つまり八百年も後の、米大陸の開拓移民に対する原住ネイティブアメリカン(インデアン)のレジスタンス抗争に騎兵隊が編成されたがごとくに良く似た経緯を辿って日本武士の出現を促した。

そしてそうした武力と言うものは、世界の常識のごとくご他聞に漏れず、やがて独自に動き始めて統制の利かない勢力に育ち、歴史の表舞台に昇る事になる。

◆◇◆◇◆俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)◆◇◆◇◆◇

渡来部族が日本列島にやって来て西日本各地に部族小国家を成立するまでは、列島の原日本人は縄文人である。

その原日本人(縄文人)を、渡来部族側は「蝦夷族(エミシぞく)」と呼び武力で制圧して隷属化(奴婢身分)して行った。

渡来部族は王族・貴族化してその蝦夷族(エミシぞく)を国家の支配下に置き、服属した降伏蝦夷族を俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)として労働力として使役した。

その後、原日本人(縄文人)の一部は渡来部族と混血同化の道を歩んだが、一部はマツラワヌ者として抵抗し、俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)として看視体制下に置かれた。

そしてその俘囚(ふじゅう)と言う存在は、坂東(関東)に於いて平安中期まで、奥州(東北)に於いては平安後期の後三年の役頃まで続いて、一部は奴婢身分(ぬひみぶん/非人)として残った。

坂東(関東)に於いての俘囚(ふじゅう)は、「平安群盗」と呼んだ平安期(寛平・延喜年間東国の乱)の反乱(レジスタンス)が頻発した記録が残っている。

この抵抗(レジスタンス)の取り締まりに活躍し、武門の先駆者として名を挙げたのが、藤原北家魚名流・藤原利仁(ふじわらとしひと)や藤原秀郷(ふじわらひでさと)だった。

また、奥州(東北)に於いての源頼義(みなもとよりよし)と前九年の役(ぜんくねんのえき)の蝦夷俘囚側・俘囚長(ふじゅうちょう)とされる安倍貞任(あべのさだとう)・安倍宗任(あべのむねとう)兄弟の戦乱は有名である。


どうも現代の日本人は、この辺りの歴史経過をロスト(欠落)して物を考えるから間違えるのだが、本来の原日本人(縄文人)ならともかく「全ての現代日本人」に幾許(いくばく)かの渡来人の血が流れていて当たり前である。

困った事に現代の日本人は、当たり前なのに二千年から前の事を「天皇の祖先が朝鮮半島から来たと言うのは本当か」と大騒ぎをし、名字を見て「あいつは朝鮮系だ」と愚かに騒ぐ。

そもそも渡来部族が日本列島にやって来た頃はそうした線引きは無く、朝鮮半島と日本列島には朝鮮人も日本人も居なかったし、居たのは朝鮮半島から日本列島の西半分の広域に広がる小国家群・倭の国々の人々だった。


◆◇◆◇◆前九年の役(ぜんくねんのえき)◆◇◆◇◆◇

奥州藤原家は、源氏とは歴史的に経緯(いきさつ)が有る。

千百八十五年(千百九十二年説在るもほぼ訂正されている)に鎌倉幕府を開いた源頼朝の五代前に遡る。

村岡(平)五郎の孫・平忠常(上総介)の「長元の乱」以後関東地区で勢力を広げ、あら方の関東武士を従えていた河内源氏・源頼義が、源氏の棟梁として奥州(東北)の鎮守府将軍に朝廷より任じられて着任する。

この鎮守府将軍、かなり出世意欲が強く、奥州を平定して「自分の勢力下に置こう」と企んでいた。

それで、当時奥州で一定の勢力を持っていた豪族「安倍氏」にちょっかいを出す。

安倍氏については、蝦夷(エミシ)族長説や、土着した下級役人が時間を掛けて豪族化した説、など色々有るが、たとえ後者としても、安倍氏は蝦夷との「混血が進んだ氏族」と考えられる。

蝦夷(エミシ)については、当時、「俘囚(ふしゅう)」などと言う差別制度があり、安倍氏は、「俘囚長であった」と記述する文献も存在する。

朝敵として仕立て上げ、討伐して手柄にするには格好の相手である。

そのタイミングは、源頼義が任務を終え帰任する直前に起こった。

安倍頼時の息子・貞任(さだとう)が、部下を襲ったから「処刑するので差し出せ」と、源頼義が言い出したのだ。

明らかに言いがかりだった。

拒んだ安倍頼時に対し、それをきっかけにして安倍一族に朝廷敵の汚名を着せた頼義は源氏の白旗を掲げた大軍を差し向けるが、安倍氏(頼時一門)も良く戦う。

源頼義が兵を率いて奥州に居座り戦を継続させるこの奥州の混乱で、鎮守府将軍の後任予定者は赴任を辞退し、源頼義が再び陸奥守・鎮守府将軍に返咲き、戦闘は続く。

当初、相手を甘く見ていた源頼義は、蝦夷馬(南部馬)を良く使う安倍頼時軍に、思わぬ苦戦を強いられる。

一時は安倍側が戦況有利に成ったが、頼義は安倍氏と似た様な出自(しゅつじ・出身)の豪族「清原氏」をくどき落して味方につける事に成功し、連合して安倍氏を討ち、永い戦いの後に安倍一族を壊滅させる。

安倍氏の「反乱を平定した」として、源頼義は、朝廷の実力者・藤原氏の助力で戦功を認められ、正四位下に昇格、息子達二人も叙任される。

この叙任において破格ながら、朝廷に味方した事に成った清原家の当主「清原武則」は、従五位下・鎮守府将軍に任じられる。

この時点で、奥州の地元リーダーは安倍家から清原家(後の奥州藤原家)に代わった。

これが千五十年代に、実際には十二年かかった「前九年の役」と呼ばれる東北の戦乱である。

◆◇◆◇◆後三年の役(ごさんねんのえき)◆◇◆◇◆◇

前九年の役から二十年後、鎮守府将軍になった清原武則は既に亡くなり、清原家は孫の真衛(まさひら)の時代に成っていた。

この頃赴任してきた鎮守府将軍が、源頼義の息子義家である。

源義家は、愛称(当時の風習)を、「八幡(はちまん)太郎」と称し、歌を読むなど「文武に優れていた」とされ、後世には、武門のシンボル=征夷大将軍の血筋は「武家の棟梁・源氏正統」の根拠の元と成った人物である。

以後源氏の白い旗指し物に「八幡大菩薩(八万台菩薩)」が使われた。

源八幡太郎義家が鎮守府将軍に赴任して来た頃の奥州は、比較的平穏だった。

処が、清原真衛(まさひら)に子が無い事で、養子取りの祝い事の際のいざこざから弟の清衝と家衝が敵に回り、兄弟で合戦と成り奥州は乱れた。

これは身内の相続争いだが、当時の権力者の相続争いは、殺し合いに発展する。

この混乱の最中、真衛(まさひら)が病死した為、真衛方に味方していた鎮守府将軍・源義家に、清衛、家衛が投降した。

源義家は二人を許し、奥州の安定を図るべく奥州を半分に分けそれぞれに与える。

しかし家衛が不満を持ち、清衛の「暗殺を謀り」奥州全域を手に入れようとするが発覚、暗殺は失敗する。

それで、奥州は、再び戦乱に成ってしまった。

清衛側に源義家が付けば、家衛の側には「安倍氏の残党が結集する」と言った具合で、簡単には決着が付かない。

その後源義家は苦労の末、弟の義光の助けも借りて、家衛を討ち取る。
これを、「後三年の役」と言う。

しかし、朝廷はこれを「公務と認めず」、私闘と裁定された為に、源義家は恩賞を何も得られず、戦(いくさ)のやり損であった。


この朝廷の前回(前九年の役)と異なる裁定の裏には、時の中央政権の事情がある。

義家にとって不幸な事に、この時点で時の白河法皇は院政を引きつつある最中で、藤原摂関家とは一線を隔す為にあえて藤原寄りの「源義家」を見放し、摂関家の「勢力を削ぎに掛かったのである。

それだけでなく、義家は中央政権から外され左遷されて「近江の所領に隠居同然の扱い」に処置されたのである。

しかしこの事が、結果的に源義家と源家(げんけ)の名声を上げ、「武門の棟梁」と認められる事に成ったのは、皮肉である。


朝廷からは認められなかった後三年の役の乱鎮圧だったが、源義家は自分にに従った関東武士(主に関東平氏)達に酬いなければならない心情に駆られる。

源義家は、自らが左遷されると言う不遇の中で「後三年の役」での配下の活躍に報いる為、私財を投じて独自に恩賞を配る。

その義家の行為が、結果的に配下のみならず多くの武士の共感と信望を集め部門の棟梁として命を預けるに足りる「棟梁として在るべき姿」と称えられる。

つまり「後三年の役」での大和朝廷(ヤマト王権))での仕打ちが、武門の棟梁が「源家(げんけ/源氏)」と言う血統的な資格を成立させ、同時に征夷大将軍が独自に恩賞を与える実績と成った。

◆◇◆◇◆平安群盗と原初の武士達(自衛武力)◆◇◆◇◆◇

平安期に到って貴族武人に代わって登場を始めた「武士」と言う名の存在は、「平安群盗」と呼ばれる武装集団の発生に対抗する下級貴族の自衛武力から始まっている。

凡(おおよ)そ九世紀頃から、平安期の坂東(関東)に於いて国家の支配下に服属した降伏蝦夷族が反乱(レジスタンス)を起こした「貞観年間の俘囚(奴婢身分)の反乱」、同じく降伏蝦夷族(奴婢身分)の反乱「寛平・延喜年間東国の乱」が頻発する。

この現実は、被占領下での蝦夷族に拠る民族抵抗テロだった可能性が強いのだが、こうした弾圧の歴史はどの国に於いても隠蔽される傾向にあり、正史上は群盗に拠る騒乱である。

つまり平安期の坂東(関東)に於ける原初の武士達(自衛武力)は、文字通り鎮守府将軍と呼ぶ占領軍であり、抵抗テロ鎮圧部隊で在った。

また、この頃に僦馬の党(しゅうばのとう)と呼ばれる群盗が坂東で見られ、これは自ら武装して租税等の運輸を業とする赴任後そこに土着してしまった富豪層の一部、「僦馬の党」の集団に拠る運京途中の税の強奪と言う馬や荷を狙った群盗行為が横行し始めていた。

これらの事象についても、当時の坂東(関東)の「法秩序が乱れた」と言う見かたよりも、まだ坂東(関東)は大和朝廷支配が本格的に及び始めたばかりの「未整備の無法地帯だった」と解するべきかも知れない。

つまり平安の雅(みやび)は、その一部を先住縄文人(蝦夷/エミシ)からの搾取システムが支えていた。


この群盗の活動は九世紀を通じて活発化して行き、朝廷は群盗鎮圧の為に東国などへ軍事を得意とする貴族層を国司として派遣するとともに、従前の軍団制に代えて国衙に軍事力の運用権限を担わせる政策を採った。

これらの僦馬の党の横行を鎮圧し盗賊の取締りで名を上げたのは、平氏流・平高望(たいらのたかもち)、藤原北家魚名流・藤原利仁(ふじわらのとしひと)、藤原北家魚名流・藤原秀郷(ふじわらのひでさと)らの下級貴族らで、この軍団制政策が結実したのが九世紀末〜十世紀初頭の寛平・延喜期であり、この時期の勲功者が武士の初期原型となった。

彼らは自らもまた名田経営を請け負う富豪として、また富豪相互あるいは富豪と受領の確執の調停者として地方に勢力を扶植して行ったが、彼ら同士の対立や受領に対する不平が叛乱へ発展したのが、藤原忠平(ふじわらのただひら)執政期の九百四十年前後に発生した平将門(たいらのまさかど)と藤原純友(ふじわらのすみとも)の承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱である。

朝廷の側に立ち、反乱側に立った自らと同じ原初の武士達を倒して同乱の鎮圧に勲功の在った者の家系は、承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)勲功者、すなわち貴族とは一線を画す正当なる武芸の家系と認識された。

当時、成立した国衙軍制に於いて、「武芸の家系」は国衙軍制を編成する軍事力として国衙に認識され、このように国衙に拠って公認された者が家業武士へと成長して行った。

◆◇◆権門層(有力貴族・寺社)と荘園(しょうえん/私領・私営田)◇◆◇

十世紀中葉から後期にかけての平安期、特定の家系へ世襲として官職に伴う権限義務を請け負わせる官司請負制が、中央政界でも地方政治でも著しく進展して行った。

この官職の世襲体制を担う貴族や官人の家組織の中では、子弟や外部から能力を見込んだ弟子に対し、幼少期から家業たる専門業務の英才教育をほどこして家業を担う人材を育成した。

つまり官職の世襲制体制を担う貴族や官人の家組織の中では、子弟や外部から能力を見込んだ弟子に対し、幼少期から家業たる専門業務の英才教育を施(ほどこ)して家業を担う人材を育成した。

中でも、承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱の鎮圧に勲功の在った者の家系は、その勲功者家系が貴族(公家)とは一線を画す正当なる武芸の家系と認識され、その武士の登場も、武芸の家系に軍事警察力を請け負わせる官司請負制の一形態と見なされる事になる。

地方政治に於いて国司へ大幅な行政権を委任する代わりに一定以上の租税進納を義務づける政治形態が進んだ形態で、朝廷の財政は地方からの収入に拠っていた。

この、時行政権が委任された者が、現地赴任した国司の筆頭者であり、受領と呼ばれて大きな権限を背景として富豪層からの徴税に拠って巨富を蓄え、また恣意的な地方政治を展開した。

当然ながら受領は、解由制(げゆせい)や受領考過定など監査制度の制約も受けていたが、それでもこの赴任して来た国司(受領)と郡司・田堵・負名・百姓階層などの在地勢力との間で紛争が生じ、国司苛政上訴(こくしかせいじょうそ)と呼ぶ国司(受領)の苛政・非法を中央政府(太政官)へ訴える行為が頻発した。


また官司請負制に拠る官職の世襲制体制に伴い、この十世紀前期に時代を代表する「荘園(しょうえん)」と呼ぶ権門層(有力貴族・寺社)の私領(私営田)が、従来の租税収取体系が変質した事で次第に拡大形成し、発達して行ったのもこの時期である。

権門層は、私領する荘園を国衙(こくが)に収公されないよう太政官(官省符荘)、民部省や国衙の免許(官省符荘)を獲得し運営して財を蓄え、大きな勢力に育って行った。

律令制に於ける国衙(こくが)は、国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた公領区画範囲を指すが、国衙に勤務する官人・役人(国司)を「国衙(こくが)」と呼んだ例もある。

また、その公領区画範囲を、荘園(しょうえん/私領・私営田)に対して国衙領(こくがりょう/公領)とも呼ぶ。

十世紀後期に登場した花山天皇は、こうした動きに対し権門抑制を目的として荘園整理令などの諸政策を発布し、かなり大規模な改革を志向していたが、反発した摂関家によって数年のうちに花山天皇は退位に追い込まれている。

しかし、その後の摂関政治が必ずしも権門優遇策をとった訳ではなく、摂関政治で最大の栄華を誇った藤原道長の施策にはむしろ抑制的な面も見られる。

摂関政治の最大の課題は、負名体制と受領行政との矛盾への対処、そして権門の荘園整理にどう取り組むかと言う点に在り、その摂関政治による諸課題への取り組みに漸く成果が見られ始めたのが、十一世紀前期〜中期にかけての時期である。

この諸課題への取り組み期間、国内税率を一律固定化する公田官物率法が導入されたり、小規模な名田に並行して広く領域的な別名が公認されるようになった。

また、大規模事業の財源として一国単位で一律に課税する一国平均役が成立するなど、社会構造に変革を及ぼすような政策がとられた為、十世紀前期に始まった王朝国家体制は、依り中世的な後期王朝国家形態へ移行して行った。


◇◆◇◆名田経営(みょうでんけいえい)と武士の台頭◆◇◆◇◆

平安時代に起こった武士台頭の背景は名田経営体制(みょうでんけいえいたいせい)である。

名田(みょうでん)または名(みよう)は、日本の平安時代中期から中世を通じて荘園公領制に於ける支配・収取(徴税)の基礎単位である。

この平安時代中期頃には、律令制の解体が進展し百姓(注・農民ではない。)の中に他から田地を借りて耕作し、田堵(たと)と呼ばれる田地経営をおこなう有力百姓層が出現して富の蓄積を始めた。

有力百姓の田堵(たと)には古来の郡司一族に出自する在地豪族や土着国司などの退官した律令官人を出自とする者が多く、彼等は蓄積した富を持って、墾田開発・田地経営などの営田活動を進めた。

この平安時代、朝廷政府は土地(公田/くでん)を収取の基礎単位とする支配体制を構築していたが、律令制を支えていた戸籍・計帳の作成や班田の実施などの人民把握システムが次第に弛緩して行き、人別的な人民支配が存続できなくなった。

そうした収取体制の弱体化を改革する為に、朝廷政府は度々荘園整理令(しょうえんせいりれい)を発し、まず国衙(こくが)の支配する公田が、名田(みょうでん)または名(みょう)と呼ばれる支配・収取単位へと再編成される。

この名田(みょうでん)を基礎とする支配・収取体制を名体制(みようたいせい)と言う。

国衙(こくが)領に於いて公田(くでん)から名田(みょうでん)への再編成が行われると、田堵が名田経営を請け負う主体に位置づけられるようになる。

律令制に於ける国衙(こくが)は、国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた公領区画範囲を指すが、国衙に勤務する官人・役人(国司)を「国衙(こくが)」と呼んだ例もある。

また、その公領区画範囲を、荘園(しょうえん/私領・私営田)に対して国衙領(こくがりょう/公領)とも呼ぶ。

更に荘園にも名田化が波及すると、荘園内の名田経営も田堵(たと)が請け負うようになり、田堵は、荘園・公領経営に深く携わるようになって行き、荘官や名主の地位を得るに到る。

その下級貴族・百姓の多くは源氏・平氏・藤原氏・橘氏を名乗る枝の者が圧倒的に多くなり、混乱を避ける為に名田(みょうでん)の夫々(それぞれ)固有の呼び方(地名)が、名田経営者の氏名乗りである名字(みょうじ/なあざ)・苗字(みょうじ/なえあざ)となった。

田堵(たと)は荘園・公領経営に深く携わり、その経営規模に拠って大名田堵(だいみょうたと)や小名田堵(しょうみょうたと)などと呼ばれ、荘園公領制の成立に非常に大きな役割を果たした。

尚、荘園・公領経営期から名田経営者一族が力を着けて自営を始める後の守護領国制の守護大名(しゅごだいみょう)や戦国期に、半国、一国、数ヵ国を領有する大名の由来は「大名田堵(だいみょうたと)から転じた」で、たまに見かける「大いに名が轟くから大名と言う説」は怪しい解説である。


一方で「平安群盗」と呼ばれる武装集団の発生に、田堵(たと)が対抗する為の自衛武力の整備が始まっている。

その群盗の活動は九世紀を通じて活発化した為、朝廷は群盗鎮圧の為に東国などへ軍事を得意とする貴族層を国司として派遣するとともに、従前の軍団制に代えて国衙に軍事力の運用権限を担わせる政策を採った。

盗賊の取締りで名を上げた勲功者が武士の初期原型となり、彼らは自らもまた名田経営を請け負う富豪として、また富豪相互あるいは富豪と受領の確執の調停者として地方に勢力を扶植して行った。

つまり平安期に到って貴族武人に代わって登場を始めた「武士」と言う名の存在は、名田経営を行う下級貴族・百姓の私兵組織として発展し、その財力と武力の相乗効果で力を蓄え、中央の朝廷政権の制御は衰えた。

そしてこの私兵組織を保有する名田経営者一族が、その組織の維持と拡大の為に共同して武力活動を行い、俘囚(奴婢身分)の反乱や、承平・天慶(じょうへい・てんぎょう)の乱、前九年の役と後三年の役、治承(じしょう)のクーデターなどを経て主従関係が成立し、武門の政権・鎌倉幕府が成立するのである。


◆◇◆◇◆豆まき・「鬼は内」に隠された歴史の真実◆◇◆◇◆◇

大和朝廷が最後に平定した東北地方では、節分の豆撒きに「鬼は内」の所がある。

つまり、関東以西で鬼は悪役だが東北では先祖の神様で、ここら辺りに蝦夷(エミシ/先住民)が鬼とされた経緯の「名残が在る」と見るべきである。

青森県弘前市字鬼沢の「鬼神社」の豆まきは、「鬼は内」である。

東北だけではなく群馬県鬼石町でも「福は内、鬼は内」と言い、埼玉県比企郡・武蔵嵐山の「鬼鎮神社(きじんじんじゃ)」の豆まきも「鬼は内」なのだ。

鬼鎮神社(きじんじんじゃ)の祭祀は、陸奥国地頭職・鎌倉有力御家人・畠山重忠の手に拠るもので、東北の鬼とされた「安倍氏」に対する同情心や遠慮とされている。

また、陸奥国安達郡二本松城に拠った戦国大名・二本松畠山氏(はたけやまし)は、秩父平氏・支族で、武蔵国・畠山庄に在した鎌倉有力御家人・畠山重忠にその名跡を発している。

奥州合戦の功により陸奥国葛岡郡地頭職に任官した畠山重忠は北條時政に謀られ鶴ヶ峯で戦死するも、妻(北条時政の娘)は重忠の死後、源氏系流・足利義兼の子・義純と再婚する。

足利義純は畠山氏の名跡と領地を継承して室町期から戦国初期に戦国大名とし活動、また、その子孫の一部は二本松畠山氏となり伊達氏の興隆に圧されて滅亡した。


凡(おおよ)そ九世紀頃から、平安期の坂東(関東)に於いて頻発した「貞観年間の俘囚(奴婢身分)の反乱」、同じく降伏蝦夷族(奴婢身分)の「寛平・延喜年間東国の乱」がある。

平安群盗と呼ばれ文献に残るそれらは、国家の支配下に服属した降伏蝦夷族が起こした大規模な反乱(レジスタンス)だった。

つまり平安時代中期の武将・源頼光(みなもとのよりみつ/らいこう)と酒呑童子の物語や、平安末期・源(三位)頼政が生きた時代の妖怪・鵺(ぬえ)の物語は、後の世に先住民族・蝦夷(エミシ)の存在を無い事として覆い隠す同化策の御伽話に伝えられたのではないだろうか?
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切捨て御免のルーツ

別名を無礼討ち(ぶれいうち)とも言う「切捨て御免」は、苗字帯刀と並ぶ江戸時代の武士(氏族)の特権である。

もっとも、「切捨御免」と言う言葉は江戸時代のリアルタイムのものではなく後の表現として広まった物で、当時の史料に於いては「手討」・「打捨」などと表現されていた。

「手討」・「打捨」などは、無礼な行為に拠って武士(氏族)の名誉が傷つけられる事を制止する為の特権的地位の正当な行為と認識されていた。

これは当時の江戸幕府の法律である「公事方御定書」の七十一条追加条に拠って明記され、武士(氏族)が平民(良民/町人・百姓)及び穢多(エタ)・非人から耐え難い「無礼」を受けた時は、「斬殺しても処罰されない」とされた。

勿論その「手討」・「打捨」が正等だったか審査は在り、実際に切捨御免を行い「正当な権利行使」と認められた事案はそれほど多くはないが、「切捨て御免」は特権階級の地位的象徴とされた。

それにしても、この随分不公平な法制度は何を根拠に成立したのだろうか?

この武士(氏族)の特権思想の原点は遠く弥生時代まで遡り、当時列島に渡来した部族が日本列島に現住する縄文人(蝦夷/エミシ)を武力制圧して隷属した事に始まる。

つまり征服部族(氏族)の被征服部族・ネイティブジャパニーズ・縄文人(蝦夷/エミシ)に対する優位性が、そのまま江戸時代の武士(氏族)の特権として制度に反映したのである。

この「切捨て御免」の制度を見ても、日本人が単一民族に成るのはズット時代が下がってからで、現住する縄文人(蝦夷/エミシ)を制圧して日本列島を乗っ取った歴史が存在する証拠である。

天武帝(てんむてい)〜桓武帝(かんむてい)に到る皇統が編纂した「古事記」と「日本書紀」は、皇統に拠る統治を補完する「虚(きょ/感性)」の部分を多く含み、同時にこの後ろ暗い列島乗っ取りの歴史を覆い隠す事に在った。
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◆◇◆◇◆(国家の品格・武士道の国日本のまやかし)◆◇◆◇◆◇

近頃「日本は武士道の国だ」とやたらに強調する連中が居るが、それは本当だろうか?
正直、侍魂(さむらいたましい/武士道精神)は、維新後の明治政府が国民男子の皆兵政策を目的に喧伝した「虚」がそのまま残って今日が在る。正直、武士道とやらの清廉な精神の持ち主が武士ならば、賂(まいない/賄賂)など在る訳も無く、本気で武士道精神を忠実に守っていれば命など幾つ在っても足りない。

歴史的に観て、江戸期以前の武士は今日に考えられる精神思想などとは全く違う「武を持って支配地を広げるだけの争いの組織」だった。

武士の社会は、支配地の拡大を求めて主従関係の「合従連衡(がっしょうれんこう/結びついたり離れたりする)」や「下克上(げこくじょう/上下関係の身分秩序を侵す)」の世界だった。

つまり鎌倉幕府、室町幕府は、地方の支配地争いの結果を実行支配として認証する機関的な役割に過ぎない時期が多かった。


歴史的に観て、封建制とは近世の幕藩体制(江戸幕府)を指して用いられた歴史用語で、武士の思想が「道」と言う極みにまで達したのは、江戸期に入ってからである。

平安中期から江戸期開幕に到るまで、氏族武士の本質は領地利権の為に親兄弟でも戦で争う人種で、主君に対する下克上(げこくじょう)も当たり前だった。

そこに在った武士道は「強い者が勝つ」で、「主君に滅私奉公する」何て事は江戸期に入ってからの「幕府の統治政策」と永く続き在った「戦乱の反省」とが為した合意に過ぎない。

まぁ今の政治劇も一緒だが、勝ち馬に乗りたい連中の駆け引きは今も昔も変わらない。だから大戦(おおいくさ)と成る程、敵味方どちら付かずでギリギリまで決められない武将は幾らでも居た。

氏族社会の成立から安土桃山期に到るまでの氏族社会は、領地獲得と下克上が当たり前で、場合いによっては親子兄弟、親戚とも権力を争っていたから、鎌倉期くらいから広まりだした儒教・儒学(朱子学)の「忠孝思想」は永い事「一部の氏族の精神思想」だった。

しかし、お堅い筈の「儒教」についても実は扱い方次第である。
清廉を謳い文句に「儒教の国」と誇り高きお隣りの朝鮮半島においても、性的愛玩を含む身分階級制度は、間違い無く存在していた。

朝鮮王朝(チョソンワンジョ)の身分制度は、上から王族、両班(ヤンバン・特権貴族階級)、中人(チュンイン・科挙に合格した役人)、良民(ヤンミン・常民と呼ぶ普通の身分)で、最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷)である。

最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷)は、公に王朝政府が抱える賤民(せんみん)を公奴婢(くぬひ)、地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者が定められ、被差別階級に組み入れて隷属的に支配されていた。

つまり、公奴婢(くぬひ)と私奴婢(しぬひ)は非人(奴隷)であり、家畜同然だったから儒教の精神は都合良く及ばない理屈で、公奴婢(くぬひ)の遊技の妓生(キーセン)制度は公に存在し、私奴婢(しぬひ)は抱え主の両班(ヤンバン)の愛玩要素を含む慰め者だった。

この辺りの考え方は、ご多分に漏れず国家体制を維持する為に特権階級を設けて実力者を取り込み、王朝に忠誠心を持たせる狙いであるから、奇麗事の「儒教の精神」に組しない例外扱いだったのである。

また宮廷の医女(イニョ)も身分は公奴婢であり、遊技の妓生(キーセン)同様に両班(ヤンバン)のストレス解消の為の慰め者だったのが実情で、現代で言うヘルス嬢的な愛玩要素を含んでいた。

身分を示す帽子状の被り物の形状が、医女(イニョ)と妓生(キーセン)はまったく同じで、医女の身分は「奴婢(ヌヒ)」で在った。

だから、両班(ヤンバン)に取っては逆らえない性奴隷同然の存在で、医女を妓生(キーセン・日本で言う芸者)扱いする悪弊は、李氏朝鮮の燕山君の時代に生まれ、内医院(ネイオン・宮中の医局)の風紀が乱れ、「儒教の国」の精神も多分に統治上の権力的例外が存在したのである。
 

支配者の血統身分である氏族(武門)の間では、その価値観である支配権の為に親子兄弟でも「討つ討たない」の抗争が珍しくない時代が千五百年以上続いた。

この「戦は武士の本分」の原点は、勝手に渡来して縄張りを広げて行った氏族の覇権主義に在ったもので、何も武士の本分は格好の良い物ではなく、切り取り強盗の親玉みたいな物である。支配権の為に、親子兄弟でも武力抗争をする氏族(武門)の精神が立派とは思えないが、それを見てくれだけの格好良さで手放しに「武士道の国」と胸を張るのはいかがなものか?

その一方で庶民(民人)は生きる為に「村社会」を形成し、独特の性習慣の元に村落の団結を図って生き長らえる方策を編み出している。

つまり、支配者である氏族(武門)と被支配者である庶民(民人)は「全く違う価値観と生活習慣でそれぞれが生きる」と言う特異な二重構造が形態化していて両者に武道精神的な統一性など無かった。

そして武士道など知った事ではない被支配者である庶民(民人)は「村社会」を形成し、あらゆる意味で融通し合い助け合い、共同で安全を確保して生活している。


武士道の精神にまつわる織田信長のエピソードがあるので紹介する。
信長が吉法師と名乗った若き頃より「大虚け者(おおうつけ)」と言われたのは、彼の常識破りな考え方や行動が常人に理解されなかったからである。

信長が十歳の頃の事である。
初夏を迎えたある日、彼は庭のもみじの木の根元を熱心に見ていた。もう一刻ほどになるが、見ていたのは蟻の巣だった。

先ほどから、黒蟻が無数に集って行列を作り、数十倍も大きい蜘蛛の屍骸を運んでいた。
「非力なものでも、一度に懸かれば意外な力になる・・・」
信長の組織戦の原点である。

考える事がそんなだから、付き家老や戦術師範の教えなど信長は頭から「間違っている」と信用しない。

信長は戦国時代の武士の風習を良しとせず、当時としては新しい団体戦法を考えていたのだが、それは配下の武士達の物凄い抵抗に合っている。

例え武士と言えども、戦はしていても元々始めから「死にたい」と思って戦をして居るものは、そう多く居る訳が無い。

本音を言えば、良い思いをしたいからこそ、武士はいささか危ない思いをしても戦はする。そこまで行かなくても、行き掛かりで止むを得ずにする戦も在る。

そう言う訳だから、戦は充分根回しをした謀事で決着をつけるか、若い者達の無鉄砲な気力が役に立つくらいで、古参の武士など現代の映像で見せられるように格好の良い戦ぶりは少なく、互いに「こけ脅(おど)し」とヘッピリ腰の合戦が現実だった。

それを「武士道のフェアプレィ精神(尋常に勝負)だ」と綺麗事を喧伝する輩がいるが、命をやり取りする切り合い(殺し合い)にフェアプレィが存在するなど本来おかしな話である。

戦国時代になって特にこの傾向が顕著になったのだが、武士道に於けるフェアプレィ精神(尋常に勝負)のルーツをバラセば、実の所「恩賞の確定」と言う止むに止まれぬ事情があっての事だった。

この事は後に講談師や脚本家、果ては明治維新政府から昭和初期の戦陣訓にまで利用される武士道の精神にまで発展するので明記して置くが、旧勢力にとっては「名乗ってから切り合う」個人戦が、譲りがたい利権だったのである。

本来、戦場で自分の手柄を公に認めさせる為に始めた「名乗ってから切り合う」は当時の武士の暗黙の了解で、それが「恩賞の決め手」と言う常識なのだ。

それを、団体戦にされると手柄を雑兵に持って行かれる。
つまり織田信長の提案した団体戦は上級武士の利権がらみなのであるから、それで事の是非ではなく旧勢力は頭から抵抗する。


日本の武士道が、世間で言われて居るような精神的(君命なら切腹もする)なものに成ったのは、江戸期に入ってからで、その後の僅(わずか)二百五十年間の事である。

建前の武士道など残酷なもので、幕末期に於いて「剣の腕が立つ」など見掛け格好は良いかも知れないが、それは只の古風な侍の羨望や庶民の憧れで、役に立つのは精々人切り暗殺の類である。本当の力は知恵の方に在る事を、坂本龍馬を始めとする有意の志士達は知っていた。武市瑞山(半平太)などは「かなりの使い手」と評されているが、大抵の修羅場は逃げの一手だった。

哀れだったのは、武士道の建前を信じて暗殺の道具にされた岡田以蔵(おかだいぞう)、田中新兵衛(たなかしんべえ)らや、新撰組の近藤勇(こんどういさみ)や土方歳三(ひじかたとしぞう)達だったのでは無いだろうか?
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両班(ヤンバン・特権貴族階級)

清廉を謳い文句に「儒教の国」と誇り高き朝鮮半島においても、性的愛玩を含む身分階級制度は、間違い無く存在していた。

朝鮮王朝(チョソンワンジョ)の身分制度は、上から王族、両班(ヤンバン・特権貴族階級)、中人(チュンイン・科挙に合格した役人)、良民(ヤンミン・常民と呼ぶ普通の身分)で、最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷)である。

最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷)は、公に王朝政府が抱える賤民(せんみん)を公奴婢(くぬひ)、地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者が定められ、被差別階級に組み入れて隷属的に支配されていた。

つまり、公奴婢(くぬひ)と私奴婢(しぬひ)は非人(奴隷)であり、家畜同然だったから儒教の精神は都合良く及ばない理屈で、公奴婢(くぬひ)の遊技の妓生(キーセン)制度は公に存在し、私奴婢(しぬひ)は抱え主の両班(ヤンバン)の愛玩要素を含む慰め者だった。

処罰として法も倫理観も適用されない卑しい家畜身分にされた訳で、女性は結果的に性の愛玩物にされても仕方が無い。

この辺りの考え方は、ご多分に漏れず国家体制を維持する為に特権階級を設けて実力者を取り込み、王朝に忠誠心を持たせる狙いである。

貴族特権とは王権に対抗し得る有力者の懐柔目的も在るから、如何に儒教の国とは言え王権維持の為の実利的例外に性奴隷としての奴婢身分は、法の抜け道として必要だったのだろう。

都合が良い事に、人に非(あら)ずの家畜である「奴婢(ヌヒ)身分」には儒教の精神思想は除外で、奇麗事の「儒教の精神」に組しない例外の扱いだったのである。

また宮廷の医女(イニョ)も身分は家畜扱いの公奴婢(くぬひ)であり、遊技の妓生(キーセン)同様に女医と言うよりも両班(ヤンバン)のストレス解消の為の慰め者だったのが実情で、現代で言うヘルス嬢的な愛玩要素を含んでいた。

身分を示す帽子状の被り物の形状が、医女(イニョ)と妓生(キーセン)はまったく同じで、医女の身分は「奴婢(ヌヒ)」であったから、両班(ヤンバン)に取っては逆らえない性奴隷同然の存在で、医女を妓生(キーセン・日本で言う芸者)扱いする悪弊は、李氏朝鮮の燕山君の時代に生まれ、内医院(ネイオン・宮中の医局)の風紀が乱れ、「儒教の国」の精神も多分に統治上の権力的例外が存在したのである。

旧李氏朝鮮王国でも罪を犯した者の刑には、身分刑として良民(ヤンミン)から奴婢身分(ぬひみぶん)に落とす刑罰が存在した。

奴婢身分に落されると、国が所有する公奴婢(くぬひ)や個人が所有する私奴婢(しぬひ)となり、人格は認められない。

女性の場合は、公奴婢(くぬひ)の遊技・妓生(キーセン)や私奴婢(しぬひ)は抱え主の両班(ヤンバン)の愛玩、また宮廷の医女(イニョ)も身分は公奴婢(くぬひ)であり、王侯貴族のヘルス嬢的な慰め者だった。
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奴婢(ぬひ)

律令制における被差別階級として、賤民(せんみん)がある。

古事記・日本書紀、神武東遷記(じんむとうせんき)などは、大和朝廷(ヤマト王権)の西日本統一過程を美化している為に何処まで信じられるか判らないが、渡来各部族や原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)が連合過程を経て大和朝廷(ヤマト王権))が成立した事は想像に難くない。

その過程で、原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)の部族長を含む渡来各部族長が、大和朝廷(ヤマト王権)体制に於いて県主(あがたぬし)や国造(くにのみやっこ)と言う称号を得て初期の貴族・御門群(みかどぐん)を形成する。

原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)の部族長系の県主(あがたぬし))や国造(くにのみやっこ)と考えられる主な存在に、誓約(うけい)誓約を持って天宇受売命(あめのうずめのみこと)と夫婦に成ったとされる猿田彦神(さるたひこがみ)の宇治県主(うじあがたのぬし)や越後国造(えちごくにのみやっこ)で後に奥州(東北)蝦夷族の俘囚長を務めた阿部臣(安倍氏)などが有力である。

いずれにしても、恭順した渡来部族長や恭順した原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)の部族長は臣王、それに従う部族長の身内までは氏姓(ウジカバネ)を授かって支配階級に列し、それ以外の従った原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)は「良民」、反抗した原住縄文人(蝦夷族/えみしぞく)は「俘囚(ふしゅう)・非人(ひにん)・賤民(せんみん)・奴婢(ぬひ)」などと呼んで隷属させた。

賤民(せんみん)を、姓(かばね)を有しない自由民の下人(げにん)と非人(ひにん)に分け、非人(ひにん)を奴婢(ぬひ)と称して律令制における被差別階級に組み入れ、隷属的に支配していた。

公に大和朝廷政府が抱える賤民(せんみん)を公奴婢(くぬひ)、地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢(しぬひ)と呼ばれる身分の者が定められていた。

「奴(ぬ)」が男性奴隷、「婢(ひ)」が女性奴隷で、その身分も親子代々受け継がれたものだった。

奴婢(ぬひ)は制度上人間扱いしない所有物であるから、奴(ぬ)は力仕事で酷使し、婢(ひ)は仕事をさせながら持ち主の慰め者として扱われた。

永きに渡り続いた血統に拠る差別の基本だった氏姓制度において、百姓の下に在ったのは下人(げにん)であり、その下に在ったのが非人(ひにん/奴婢・ぬひ)である。

百姓までは姓(かばね)を有する言わば支配階級の血筋であり、下人(げにん)、非人(ひにん)は被支配階級の血筋である。

下人(げにん)、非人(ひにん)も農作業はするが、正確に言うと百姓ではない。
百姓が農業従事者の総称に成ったのは江戸期に入ってからで、それまでは支配階級の血筋(姓/かばね)を持つものは商人であれ、工業従事者であれ、「百姓」だったのである。

非人の内、穢多(えた)に関しては人別別帳に記載がないものを言い、別に非人々別帳に記載される卑しい身分の者の事である。

穢多(えた)は読んで字のごとく「穢(けが)れ多き」と言う意味だが、仏教の教えに絡んで家畜の屠殺(とさつ)やその皮革の取り扱い、或いは死人の始末や磔獄門などの刑死の下働きを生業とした特殊な身分の者のとされた。

尚、江戸期の刑法で男性なら非人手下(ひにんてか)、女性なら奴刑(しゃつけい)に拠る非人・穢多(えた)身分とする刑が存在した。

日本国内では、渡来氏族が反抗的な蝦夷族を制圧して母国に倣った奴婢制度(ぬひせいど)について、「早い時期に消滅した」と言う説がある。

しかし渡来氏族系と被支配階層の旧蝦夷系の身分差別が変遷しながら明治維新の版籍奉還(はんせきほうかん)まで続いていた。

版籍奉還(はんせきほうかん)とは、千八百六十九年(明治二年)に諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還を意味し、つまり奴婢制度の前提は支配階級の所有権で、制度上領民は領主の持ち物だった。
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穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)

穢多頭(えたがしら)・矢野弾左衛門(やのだんざえもん)は、江戸時代の被差別民であった穢多・非人身分の代々世襲頭領で、江戸期を通じて十二代(十三代名があるが、初代と二代は重複)を数える。

戦国期、小田原近在の山王原の太郎左衛門が後北条氏が認めた関東の被差別民の最有力者で在ったが、徳川家康が関東支配を始めると、徳川家康は鎌倉近在の由比ヶ浜界隈の有力者・弾左衛門に被差別民支配権の証文を与えた。

山谷堀の今戸橋と三谷橋の間に弾左衛門屋敷はあり、屋敷一帯は浅草新町とも弾左衛門囲内とも呼ばれた広い区画であった。

弾左衛門囲内は、周囲を寺社や塀で囲われ内部が見通せない構造になっていて、屋敷内には弾左衛門の役宅や私宅のほか蔵や神社が建ち、穢多頭(えたがしら)差配の三〜四百名の穢多役人(えたやくにん)家族が暮らす住宅も在った。

弾左衛門は、支配地内の配下は勿論の事、関東近国の天領の被差別民についても裁判権を持っており、罪を犯したものは屋敷内の白州で裁きを受け、屋敷内に設けられた牢屋に入れられた。

弾左衛門(だんざえもん)・矢野家は、幕府から関八州(水戸藩、喜連川藩、日光神領等一部を除く)・伊豆全域、及び甲斐都留郡・駿河駿東郡・陸奥白川郡・三河設楽郡の一部の被差別民を統轄する権限を与えられ、触頭(ふれがしら)と称して全国の被差別民に号令を下す権限をも与えられた。

「穢多頭(えたかしら)」は幕府側の呼称で、自らは代々長吏頭(ちょうりがしら)・矢野弾左衛門を名乗り称した。
矢野家は浅草を本拠とした為に、通称として「浅草弾左衛門」とも呼ばれた。

大きな権力を世襲する弾左衛門(だんざえもん)家であるが、身分はあくまでも非人・穢多頭(えたかしら)であり、名字帯刀を許された訳では無いので矢野と言う名は私称で、公文書に矢野が使用される事はなかった。

弾左衛門(だんざえもん)は、非人・芸能民・一部の職人・傾城屋(けいせいや・遊廓/ゆうかく)などを支配するとされ、傾城(けいせい)は囲われた一郭を意味し廓(くるわ)と同じ意味である。

傾城(けいせい)は公許の遊女屋の集合設置場所を意味し、遊女の元々の起源は神社の巫女による官人の接待とされ、平安期の白拍子などもその遊女の分類に入る。

芸能民に関しては、猿飼(さるかい)・大道芸を生業とした乞胸(ごうむね)などが、非人同様に弾左衛門(だんざえもん)の差配下にあった。

また町方の庶民が罪を犯し、町奉行所の裁きで女性の罪人が非人穢多(えた)身分に落される「奴刑(しゃつけい)」や男の罪人が非人穢多(えた)身分に落とされる「非人手下(ひにんてか)」は、弾左衛門(だんざえもん)に下げ渡され、女性は廓(くるわ)に売られ、男性は市中引き回し刑や処刑場の手下(てか)となる。

つまり穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)は、今風に言えば、さしずめ「囚人ビジネス」を代々家業として手掛けて居た事になる。

弾左衛門(だんざえもん)は幕府から様々な特権を与えられ、皮革加工や燈芯(行灯などの火を点す芯)・竹細工等の製造販売に対して独占的な支配を許され、多大な資金を擁して権勢を誇り、格式一万石、財力五万石などと伝えられた。
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身分制度と五パーセントの悪魔の犠牲者

為政者が統治を安定する為の手法として、「出世」を目標にさせて忠誠心を醸成させる事が身分制度の目的である。

しかしそれだけでなく、「自分より不幸な存在が在る。」と言う比較感を創出する事で不満を逸らせる狙いが、身分制度の陰に隠されている。

他国の事例でもほとんど同じだが、こうした隷属民の比率は五パーセントから十パーセント以内の少数である。

何故ならば、この賤民(せんみん)の存在が、被統治者の不満をかわす為の物で、「統治の安定」と言う政治的効果を狙ったものだからである。

狙いを明確にすると、惨めな身分の下層階級を作り出して大多数の比重を占める一般民衆の「不満と抵抗をそらす役割」を果たさせるのが目的である。

つまり数パーセントを犠牲者にして、一般民衆を自分達よりも下の身分の者が居る事で納得させ、武士支配を容易にするのが狙いである。

従って、この身分差別制度は「狙いが先に在ったもの」で、その差別を始めた被差別側には、被差別の強制世襲まで負わされる負い目や必然性などまったく無い。

大和朝廷は成立後、中華文明の身分制度を模倣採用した。

つまり、「中世」に制定された「律令制(りつりょうせい)」に於いて、同じ下層階級の非支配者層の民は「良民(常民)」と「非良民」に分けられていた。

支配階級の氏姓制度と下層階級の「良民(常民)」と「非良民(賤民・せんみん、奴婢・ぬひ)」の組み合わせで、身分別の居住エリアの分類が始まり、それぞれの居住地区が「本所と散所」に分離され、「散所(さんじょ)」に住む「非良民」と言う不当な身分の既存化・固定化が促進された。

此処で言う「中世」とは、おおむね平安時代終わり頃の十一〜十二世紀の事である。

当初、身分制度の最下級に在ったのが被征服部族である縄文人(蝦夷族/えみしぞく)の抵抗勢力俘囚(ふじゅう/奴婢身分・ぬひみぶん)だった。

平安末期から戦国時代末期の十六世紀まで、この身分制度は多少の変遷を伴いながら実質的に続いた。

この時代、戦乱や飢饉が繰り返される中で、所有地または耕作地を失い生活ができない人々を排出した。

その中には荘園の免税地(散所)などに住み、公家や寺社に使われて労役奉仕をする事で生き長らえる道を選択した為に、その居住区が発生して「非良民・賤民(せんみん)奴婢(ぬひ)」の身分が定着した。

賤民(せんみん)奴婢(ぬひ)身分は、我が国日本では律令制(りつりょうせい)の解釈が完全消滅する江戸末期まで、お隣の朝鮮半島では両班(ヤンバン・特権貴族階級)制度が解消される大韓帝国成立まで、人間性を認められず「家畜身分」だった。

人間は残酷な生き物で、自分が安心する為に「見下す相手」を作りたがる。

それは現代の学校でも企業でも同じ事だが、多くの無知な者が、必ず虐めたり見下したりする被害者を作りたがる。

根にあるのは、生きる事に対する自信の無さ、「不安感」である。

こうした民衆心理を、巧みに利用したのが卑劣で不当な江戸期の身分制度だった。
子供の社会で起こる「虐(いじ)め問題」も、根にあるのは虐(いじ)める側の「不安感」である。

本来、その「救い」となるべきが「信仰の教え」の筈(はず)であるが、どう言う訳か宗教指導者は、信者を増やす為に不安心理を煽りたてる。

つまり、この差別願望と信仰は、精神的には究極の所で「同根」であり、いずれも目的は自分を安心させる為のものである。

この不合理な身分制度は、、千八百七十一年(明治四年)明治新政府発布の戸籍法に基づいて、翌明治五年に編製された壬申戸籍 (じんしんこせき)が発効され言われ無き差別は建前上なくなったが、その後も社会的に消滅するには尚時間が必要だったのである。
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閏刑(じゅんけい)としての奴刑(しゃつけい)

江戸期の講談話しなどで、生き残った心中の片割れの女性が女郎に売られる話がある。

実は、江戸期に於ける穢多(えた)・奴婢(ぬひ/奴隷)身分つまり非人の補充は、主として罪を減じた閏刑(じゅんけい)に拠るものである。

町人身分の男は人別改帳から除籍(本籍を除き)し、穢多頭(えたがしら)に下げ渡され非人手下(ひにんてか)としての人生が待っている。

町人身分の女性なら奴刑(しゃつけい)と呼ばれる身分刑で、人別帳から除籍され穢多頭(えたがしら)に下げ渡された後に女衒(ぜげん)に売り渡されて遊郭女郎に身を落として客を取る。

非人手下(ひにんてか)と奴刑(しゃつけい)は犯人の社会的身分に影響を与える身分刑で、言わば良民身分から奴婢(ぬひ/奴隷)身分に落とされる刑である。

江戸期の司法は身分によって犯罪の構成や刑の適用が違い、閏刑(じゅんけい)は身分者や弱者に関する刑罰で、身分の高い有位者或いは僧侶・婦女・老幼・廃疾の人に閏刑(じゅんけい/本刑に代えて科せられる寛大な刑罰)として行われる事が多い。

律令制の下では、官吏の免官、僧侶の還俗(げんぞく)などの寛大な刑罰を閏刑(じゅんけい)とし、江戸時代には、武士の閉門、婦女の剃髪刑(ていはつけい)などの寛大な刑罰を閏刑(じゅんけい)とした。

江戸期の刑罰にも身分刑は存在し、大名・大名・旗本の場合は死刑を免じてその領分・地行所の没収、役儀取上・御家断絶を意味する改易と言う武士に対する閏刑(じゅんけい)が在った。

江戸期当時の町家女性の刑罰には余り死罪などは為されず、大罪でも晒(さら)し刑である罪状書きの高札で罪を示しての市中引き回しの上、穢多(えた)・非人に身分を落とす奴刑(しゃつけい)と言う「身分刑」としての閏刑(じゅんけい)が一般的である。

穢多(えた)・奴婢(ぬひ/奴隷)などと言うと随分古い話しだと思うかも知れないが、江戸期にもまだこの身分制度は存在し、その身分に落とす身分刑も存在した。

つまり町奉行所では女性には刑一等を減ずる慣習があり、よほどの重罪でなければ女性に死刑判決が下る事がなく、見せしめの為に「奴刑(しゃつけい)」とする事が多かった。

奴刑(しゃつけい)とは庶民たる婦女にのみに適用される閏刑(じゅんけい)で、女性の罪囚に対し人別改帳から除籍(本籍を除き)し希望者に下付し奴婢(ぬひ/奴隷)として無償で下げ渡される刑罰で、早い話が女郎屋に下し置かれて建前では一生遊郭から出られない身分刑である。

そもそも奴刑(しゃつけい)の名称そのものが、大和王権成立時から鎌倉時代中期まで続いて居た奴婢制度(ぬひせいど)に起因したものであるのは明らかである。

奴婢(ぬひ)は所有権が発生する制度で、この閏刑(じゅんけい)としての奴刑(しゃつけい)に依り、穢多頭(えたかしら)・弾左衛門(だんざえもん)に下げ渡された婦女は、その後遊郭に売られる婢(ひ)の立場に置かれる。

人別改帳から除籍された女罪人を受領した非人総取り締まり役の穢多頭(えたがしら)は、それが衒(う)り物になる女性だったら女衒(ぜげん)に売る権利を暗黙の了解で認められていた。

理論的には、処罰として法も倫理観も適用されない卑しい家畜身分にされた訳で、女性は結果的に女郎にされても仕方が無い。

そして衒(う)り物にならない女性女性の場合は、そのまま非人手下(ひにんてか)の群れの中に留め置かれて慰め者の日々を過ごす事になる。

つまり「奴刑(しゃつけい)」は、事実上の娼婦刑だったのである。

苦界と言うからには接客態度で客から苦情を言われたり、客取りに励まなければお仕置きの私刑(リンチ)に遭うのが相場の業界で、勿論、過酷な肉体労働であり半端な気持ちでは女郎は勤まらない。

この遊郭女郎にして客を取らせる現代で在ったら人権問題に成りそうな奴刑(しゃつけい)の刑罰でも、当時のおおらかな性習俗の価値観では死刑よりは随分お情けのある裁きで在った点は、現代の感覚とは大分時代的な相違がある。

それにしても、現代では終身系に相当する非人手下(ひにんてか)や奴刑囚(しゃつけいしゅう)を早々に牢屋敷から穢多頭(えたかしら)に下げ渡して無駄飯を喰わせない辺り、経費の点では現代より遥かに経済的である。

確かに人道人権問題は残るが、犯罪を犯された上にその被害者まで税金で間接的に受刑者を喰わせるのは釈然としない話で、被害者側の人権はどうなっているのか?
被害者側からすれば、死刑に成らないなら「一生酷い目に合って貰いたい」と想うのが普通の感情かも知れない。

穢多(えた)は読んで字のごとく「穢(けが)れ多き」と言う意味だが、仏教の教えに絡んで家畜の屠殺(とさつ)やその皮革の取り扱い、或いは死人の始末や磔獄門などの刑死の下働きを生業とした特殊な身分の者の事である。

非人手下(ひにんてか)とは庶民のみ適用される刑で、罪囚の庶民たる身分を剥奪し庶民の人別改帳より除籍した上で非人頭(えた頭)に交付され非人に身分を落とされ非人別改帳(ひにんべつあらためちょう)に登載し、病死した牛馬の処理や死刑執行の際の警護役などの使役をさせた。

なお、犯罪内容が凶悪な場合は遠国非人手下として遠方に送られる。


只し、こうした身分刑は日本だけの存在ではない。

例えば、隣の国・旧李氏朝鮮王国でも罪を犯した者の刑には、身分刑として良民(ヤンミン)から奴婢身分(ぬひみぶん)に落とす刑罰が存在した。

奴婢身分に落されると、国が所有する公奴婢(くぬひ)や個人が所有する私奴婢(しぬひ)となり、人格は認められない。

女性の場合は、公奴婢(くぬひ)の遊技・妓生(キーセン)や私奴婢(しぬひ)は抱え主の両班(ヤンバン)の愛玩、また宮廷の医女(イニョ)も身分は公奴婢(くぬひ)であり、王侯貴族のヘルス嬢的な慰め者だった。

朝鮮王朝(チョソンワンジョ)の身分制度は、上から王族、両班(ヤンバン・特権貴族階級身分)、中人(チュンイン・科挙に合格した役人身分)、良民(ヤンミン・常民と呼ぶ普通の身分)、最下級は奴婢(ヌヒ・奴隷身分)で、日本の制度と若干の共通性がある。

日本では、吉原以外の闇娼婦が摘発されれば、吉原へ三年間無償奉公させるのもこの奴刑(しゃつけい)の一種である。

何もこの奴刑(しゃつけい)、実は満更日本の昔話とばかり言い切れない。
身分刑とは若干異なるが、台湾(中華民国)にも奴刑(しゃつけい)と似たような事例がある。

台湾(中華民国)は現在でも大陸(中華人民共和国)と国交緊張関係にあり、皆兵政策で徴兵制度が布かれている。

未だ軍票が在る国で、若い連中が徴兵され娯楽も無い金門島を始め馬祖島・澎湖島・蘭嶼島など離島防衛への将兵派遣で困難が生じた。

離島に派遣されると何の楽しみも無く、若者は離島派遣を嫌がって敬遠するし、対大陸防衛で財政負担が多いのに女囚が増えて財政を圧迫していた。
そこで必要に迫られて考え出したのが、女囚の判決刑期減刑(短縮)と引き換えに離島防衛将兵の性的慰安(慰問刑)を務めさせる事である。

この従軍慰安婦もどき、勿論奴隷制度では無く、台湾(中華民国)では臨時措置的なれっきとした国法根拠があり、この交換減刑(短縮)は本人の希望に拠るもので強制では無いが、犯罪行為に対するお仕置き的な意味合いがあるのは当然である。

台湾は売春を禁止されている国だが、徴兵々士の離島赴任慰安欲求と、懲役には違いないが女囚の「お仕置き懲役」を組み合わせた現実的な刑の執行方法は例外刑(慰問刑)として認められて居るのだ。

国情が違えば国策の対応が変わるの当たり前で、この話しは台湾(中華民国)離島派遣経験がある若者多数から直接聞いた話だから事実である。

現在の日本でこの制度を「合理的だ」と評価すれば「人権だ何だ」と袋叩きだろうが、考えて見ればそんな良い悪いの判断はいったい何時(いつ)誰がどう言う価値基準で決めたのだろうか。
現にそれを承知で、女囚の交換減刑(短縮)希望者は後を絶たないのである。

日本国内では、渡来氏族が反抗的な蝦夷族を制圧して母国に倣った奴婢制度(ぬひせいど)について、「早い時期に消滅した」と言う説がある。

しかし渡来氏族系と被支配階層の旧蝦夷系の身分差別が変遷しながら明治維新の版籍奉還(はんせきほうかん)まで続いていた。

版籍奉還(はんせきほうかん)とは、千八百六十九年(明治二年)に諸大名から天皇への領地(版図)と領民(戸籍)の返還を意味し、つまり奴婢制度の前提は支配階級の所有権で、制度上領民は領主の持ち物だった。

奴刑(しゃつけい)の名称と奴婢(ぬひ)についての関連性も無視し、ある時期から奴婢(ぬひ)の名称が使われなくなった事だけを根拠にするのは如何なものだろう?

第一、科学でも歴史でも定説は常に翻されて学問は進むものだから、自分の思考でもない定説をひけらかして証拠のごとき主張は浅学と言える。
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八百屋お七と天和の大火(てんなのたいか)

天和の大火(てんなのたいか)とは、「八百屋お七の火事」とも呼ばれた江戸の大火である。

千六百八十三年一月二十五日(旧暦天和二年十二月二十八日)に駒込大円寺から出火したとされ、正午ごろから翌朝五時頃まで延焼し続け、死者は三千から三千五百名余と推定される。

この天和の大火により焼き出された加賀藩御用達の大商人(おおあきんど)・八百屋・八兵衛(太郎兵衛説あり)の一家が吉祥寺(本郷の円乗寺とも言う)に避難して八兵衛の十六歳に成る娘のお七が、寺小姓・生田庄之助(山田左兵衛説あり)と知り合い恋仲になった。

所が、やがて八兵衛の八百屋が再建され、お七は寺の小姓と離れて暮らさねば成らなくなり、寺小姓・生田庄之助へ恋しさが募ったお七は、また家が焼ければ会えると想った。

為にそのお七はまた会いたい想いばかりで、幸い大きな火事にはならなかったが、あちこちに放火してみつかり捕縛されてしまった。

放火は大罪で死罪(火刑)が相当だったが、捉えた奉行所ではお七を哀れに想いなんとか助けようとして、当時の十五歳以下の罪が減一等規定を適用しようと何度も「十五歳であろう」と年齢を尋ねたが、お七は頑として十六歳と正直に申告した。

現代のような戸籍制度がない時代の事で、年齢の確認は本人の申告次第で在った為にそこで奉行所の意図を汲み「十五歳」と応えればお七の命は助かったのだが、お宮参りの記録まで提出して十六歳で在る事を証明した。

実はこれには訳が在り、当時の死罪相当刑の女性の罪一等を減じれば奴刑(しゃつけい)となり、人別改帳から除籍(本籍を除き)され、非人・穢多(えた)として穢多頭(えたがしら)に下げ渡される。

奴刑(しゃつけい)を科せられた女の非人・穢多(えた)は、下げ渡された後に女衒(ぜげん)に売り渡されて遊郭女郎に身を落として客を取らされるのが相場だった。

判り易く言えば、十六歳の八百屋お七は命が助かっても下げ渡された穢多頭(えたがしら)に陵辱された後、一生遊郭女郎として客を取らされる運命が待っていたのだ。

苦界と言うからには接客態度で客から苦情を言われたり、客取りに励まなければお仕置きの私刑(リンチ)に遭うのが相場の業界で、勿論、過酷な肉体労働であり半端な気持ちでは女郎は勤まらない。

こうした奴刑(しゃつけい)が存在した事実を過去の汚点として、体裁の為に触れずに「お七が素直過ぎて嘘が付けなかった」とする解説が目立っている。

まぁ、人情話しの越前守・大岡忠相や遠山金四郎景元が、映画やテレビドラマのお情けの裁きで、死罪を減じて「奴刑(しゃつけい)」と言う訳には行かないので「遠島刑」で誤魔化す事になり、通念として事実が歪められたのかも知れない。

時代ごとの民衆意識と定め(司法)には、時と伴に「ずれ」が生じる事は多い。

元々「奴刑(しゃつけい)」に裁かれるような大罪を犯す女性は、相当の「阿婆擦(あばず)れ」か群れ婚状態の共生村社会の在方から出稼ぎで流れて来たものだから、そう女郎家業には抵抗がない。

死罪を免じるのだからお情けの裁きで在ったが、それが氏族である百姓文化側に育ったお七は大店の娘で、受け取り方が違った。

この奉行所の慈悲とお七との量刑上の価値観に対する認識の違いは、お七が町場ではなく村落部の人間であれば夜這い文化の共生村社会でさほど苦にならない女郎の生業(なりわい)が、既に性の習俗に変化が起こりつつ在った町娘には大きな抵抗に成った為である。

放火の大罪を犯せば火刑か、命が助かっても女郎屋に売り飛ばされて客を取らされる事は当時は周知の事実で、まぁ本人が「死んでも女郎は嫌」と言う事なら火刑も仕方がない。

死を選んだお七は、ご定法通り八百八町を引き廻しの上、鈴ヶ森刑場で火炙りの刑(火刑)に処せられ、浄瑠璃や歌舞伎芝居などの題材と成って今に伝えられている。

お七がこの連続放火事件を起こすきっかけになった火災が天和の大火(てんなのたいか)だった事から、天和の大火(てんなのたいか)を人々が「八百屋お七の火事」と呼んだ。
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女衒(ぜげん)

女衒(ぜげん)は「女衒(おんなう)り」の意味で、主に若い女性を買い付けて遊郭などで性風俗関係の仕事を強制的にさせる人身売買の仲介業者である。

歴史は古く古代からこのような職業が存在していたと考えられ、古くは「女見(じょけん)」と言い「七七四草(ななしぐさ)」には「女見の女を衒(う)る所より、女衒と書き、音読み転訛してゼゲンと呼ばれるに至れるならん」とある。

女見(じょけん)は文字通り遊女(娼婦)としての商品価値を見極める品定めの意で、その目利きの良い者をそう呼んだと言う。

江戸時代の女衒(ぜげん)は、身売りの仲介業として生計を立てていた。

女性を苦界(遊郭)に落とす職業など「酷い話だ」とするのは簡単だが、当時の身分事情には違う事情の側面も垣間見える。

江戸期当時の女性の刑罰には余り死罪などは為されず、穢多(えた)・非人に身分を落とす閏刑(じゅんけい)が一般的であり、女罪人を受領した非人総取り締まり役の穢多頭(えたがしら)は、それが衒(う)り者になる女性だったら女衒(ぜげん)に売る権利を認められていた。

基本的に女性に科される見せしめの為の「奴(しゃつ)刑」であり、受刑した非人は既に人ではないから女衒(ぜげん)に売られても文句は言えない。

最も、世間も裁きを言い渡す方も、穢多頭(えたがしら)が女衒(ぜげん)に売り渡すのは承知の上で、言わば苦界(遊郭)で身をひさぐ事が、実質的な刑罰の執行だった。

しかし女郎に成る事は、生まれ付いて先祖末代まで穢多(えた)・非人とされた女性や貧しい家の女性にとっては喰って行ける道だった。

そして、そうした境遇に生まれの女性や、この刑罰に拠って穢多(えた)・非人に落とされた女性にとって、女衒(ぜげん)の行いはその境遇から抜け出し、差別を抹消できる唯一の方法でもあった。

女衒(ぜげん)に売られて遊郭を回りに回ればいつしか出自が判らなくなり、年季明けや身請けなどで無事に遊郭を出て来る事が出来れば、町人になる事が出来た。

この女衒(ぜげん)にも仲介ルートがあり、地方の女衒(玉出し)が貧しい家の親や兄、叔父などから十代前半の若い女性を主として買い、それを都会の女衒に売り、都会の女衒はその女性を遊郭などに売った。

江戸期が終焉を迎えた明治維新、欧米列強の影響で人身売買禁止法が制定され女衒は消えたかと言うと、それは表向きの話で実際はそのような事はなかった。

明治期から大正・昭和期になっても貧しい家では女衒により女性の売買が続行され、当時日本は現在の台湾や南樺太を領有し、大韓帝国(朝鮮)を併合し傀儡国家・満州国を建国して、国の内外に娼婦として売り飛ばされて行った。

強制で在ったのか或いは高額の金を条件に本人や親の承諾が在ったのかは定かでは無いが、内地(本土)の女性以外にも日本領朝鮮や台湾から、現地女性が女衒の仲介を経て「からゆきさん」と呼ばれる娼館の女郎に売ったりしたとされている。

この事実に、朝鮮人が朝鮮人の女性を拉致し売り飛ばしたや日本人が強制的に連行して慰安婦にしたとの証言も存在し、従軍慰安婦問題として現在でも未解決となっている。

この女衒(ぜげん)に相当する職業は、現在でも国や地域によっては半ば公然と行われている所もある。
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吉原遊廓(よしわらゆうかく)と廓内女郎折檻(くるわうちじょろうせっかん)

遊郭(ゆうかく)は傾城(けいせい)とも言われ、傾城(けいせい)は囲われた一郭を意味し廓(くるわ)とも同じ意味である。

元々遊郭(ゆうかく)の発生は、風紀の取り締まりなどを求め「他所での開業を認めない」と言う為政者側の管理思想が背景にある。

江戸幕府は、遊郭惣名主・甚右衛門と条件を交わして江戸市中の遊女街を一ヵ所に集めた公娼(公許)の地を吉原遊郭(よしわらゆうかく)と呼んだ。

また、江戸・吉原のみならず大坂や京都、長崎などに於いても大規模な公娼遊廓が存在し、地方都市にも小さな公娼(公許)遊廓は数多く存在した。

吉原遊廓は敷地面積は二万坪余り、最盛期で「数千人の女郎(遊女)がいた」とされ、最大級の規模を誇った公娼街である。

芝居(しばい)の猿若町と日本橋、そして吉原が江戸市中の中でも「一日に千両落ちる場所」と言われて、吉原遊廓は最大級の繁華街と言う事ができた。

そして誤解が多いのだが、吉原遊廓の女郎(遊女)は借金に縛られ女衒(ぜげん)に奉公期間を売られた年季奉公の女性とする解説には欠落がある。

実は吉原遊廓の女郎(遊女)には、重罪を犯して町奉行所で裁かれ、罪一等を減じられて現代で居言う終身刑にあたる奴刑(しゃっけい)に科された者がいた。

つまり吉原の女郎(遊女)には年季奉公の女性と、建前終身非人として遊廓で客を取る奴刑者(しゃっけいもの)の二通りが居たのだ。

女郎(遊女)の年季明けの者の平均年齢は二十七歳で、女郎(遊女)に病死が多く寿命が短いは俗説であり、当時の町人の罹病率と極端な差はなく、早期身請けを含む年季明け率は約八割で、実稼動期間は十年から十五年と言われている。

奴刑者(しゃっけいもの)が年齢を重ねて女郎(遊女)としての仕事が難しくなった場合は「やり手(女郎上がりの世話係り)」「飯炊き」「縫い子」等に再雇用された。

女郎(遊女)にはランクが在り、美貌と機知を兼ね備えて男性の人気を集める事が出来る女性であれば、女郎の中でも高いランクに登る事が出来た。

女郎の最高のランクは、宝暦年間まで「太夫(だゆう)」と呼ばれ、以下「局(つぼね)」、「端(はし)」とされていたが、湯屋を吉原に強制移転した際に花魁(おいらん)と呼ばれるようになる。

花魁は気位が高く、振袖新造と呼ばれる若い花魁候補や禿(かぶろ)と呼ばれる子供を従えており、気に入らない男性は「中々相手にして貰えなかった」と伝えられている。

まぁ、多分にスター娼婦を演出する商売上の付加価値創造と言う所だが、吉原遊廓は一歩中に踏み入れたら寺社奉行所は勿論、町奉行所も管轄外の別世界で、非ずの場であるから非人差配の穢多頭(えたかしら)が管轄していた。

つまり日常生活の場とは異なり、非ずの場であるから粋に振舞う事が男性のステータスと特殊な世界に考えられ、そうした夢想空間として演出され、男性の下心を上手く使ってお金を搾り取るのが遊廓全体の仕事である。

尚、吉原遊郭に於ける遊女の変形として、湯女(ゆな)と言う営業形態も在った。

投げ込み寺(浄閑寺)の事を、女郎(遊女)の末路とする解説が多いが、実際には吉原の掟を破った者に限られている事が、最近の研究で明らかになっている。

浄閑寺に投げ込まれてのは、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発(恋文乱発勧誘)」「足抜け(逃亡)」「廓内での密通」「阿片喫引(アヘンきついん)」など吉原の掟を破った者と奴刑者(しゃっけいもの)に限られている。

この吉原の掟を破って死に到った場合、人間として葬ると後に祟るので、「犬や猫なみに扱って畜生道に落とす」と言う迷信により亡くなった女郎(遊女)は素裸にされ、荒菰(あらごも)に包まれ、浄閑寺に投げ込まれた。

吉原遊廓内では町奉行所もその権限が及ばないから、「心中」「枕荒らし」「起請文乱発(恋文乱発勧誘)」「足抜け(逃亡)」「廓内での密通」「阿片喫引(アヘンきついん)」など吉原の掟を破った場合、これを裁くのは持ち主である遊廓主である。

また、「足抜け(逃亡)」などで遊廓外に抜けた場合は、その探索を穢多頭(えたかしら)とその配下の穢多役人(えたやくにん)が受け持った。

吉原の掟を破った場合、女郎(遊女)は折檻(せっかん)にかけられるが、その折檻にも誤解が在り、そのまま  店に  置くにしても他所に売るにしても肉体(からだ)は売り物だから痛め付けると言うよりも苦しめる事を主眼にした見せしめを施した。

例を挙げれば、寝させない、食事(水)を与えない、丸裸にして縄で縛り上げ  て吊るし、  そのまま水に漬けて呼吸を苦しめるなどである。

先を考えない竹木での吊るし叩きなどは、遊廓主が痛め付けて死んでも構わないと判断した特殊な場合だけで、その場合は文字通り「打ち殺す」在った。
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▲△▽▼


遊女の一生

 いくら着飾ろうと、江戸中の男たちに愛されようと、しょせん遊女は商売道具でしかなかった(「遊女」を「芸能人」に置き換えれば現代に通じるか)。

 休みもほとんどなく、食事も粗末なものが出るだけだ。いいものを食べたければ、懸命に働いて客からお捻りをもらい、そのお金で自前の食べ物を買っ
たり、見世にあげた客に台の物をとらせご相伴にあずかるしかないのである。

 さらに、着飾る着物、帯、化粧品に至るまで、すべて自分で買い整えねばならない。そのために、見世から借金しなければならなかったから、借金は増
える一方である。

 大名や大商人が贔屓にしてくれる遊女はほんの一握りで、ほとんどの遊女が手練手管を労して客からお金を吸い上げることに精を出した。

 『傾城の恋は誠の恋ならず 金もってこいが本のこいなり』

 遊女の務めは「苦海十年(苦界とも書く)」と呼ばれ、十八歳から二十七歳くらいまでが吉原で遊女として商売できる期間である。この期間に、身を売っ
た代金、つまり身代金を働いて返さねばならない。これに加えて、前述のように借金が加算されていく仕組みになっており、馬車馬のごとく働かされる。

 遊郭の掟や慣例も遊女たちを苦しめた。その掟の見張り役が、遊女上がりの遣手たちである。

 遊郭の一ばんの掟は、見世の若い衆と遊女が男女の仲になってはいけないというものだ。見世側とすれば、商品に手をつけられてはその商品が働か
なくなる。つまり、若い衆といい仲になると、その遊女が客を取りたがらなくなるのである。

 この関係が深くなってしまうと、やがて手に手を取り合って遊郭から逃げ出すということも起こる。いわゆる駆け落ちだが、見世側としては、黙って見逃すわけにはいかない。吉原の地回りなど大勢を使って二人を見つけ出すのである。

見つけ出された男はほとんどの場合殺されてしまった。

遊女は吉原へ連れ戻され、凄惨な折檻を受けることになる。

殺してしまえば商品としての価値がなくなってしまうが、それでも他の遊女たちへの見せしめの意味もあり、命を絶たれてしまう遊女もいた。

 遊女が苦海から抜け出る方法は三つしかなかった。一つは年季奉公を勤め上げた、いわゆる「年明き」で遊女から足を洗う場合。二つ目は、金のある
客に見初められて「身請け」される場合。そして三つ目が死んだ場合。

 吉原の年明きは二十八歳なので、この年になった遊女は見世から暇を出される。中には遣手として見世に残る遊女もいたが、多くは吉原の外を望ん
だ。吉原を出た遊女は、年明きになったら一緒になろうと約束していた男と所帯を持ったり、そのまま吉原以外の色里・岡場所に行く女もいた。

 客に身請けされるのが遊女の幸せといわれるが、なかなかそんな客は現れない。特に太夫クラスの上級遊女になれば、身請け金は膨大な額だったの
である。もともとの身代金に加え、これから働いて稼ぐであろう金額、これまでの借金、見世や周囲の人間に出す祝い金など、合計すると何百両にもな
る。このような大金をぽんと出すのは、大名や大商人以外は不可能である。

 中級あたりの遊女でも、やはり百両前後はかかったという。ランクが下がれば身請け金も下がるが、宵越しの金は持たねぇと突っ張る江戸っ子には数
十両のまとまった金は調達不能だろう。それでも、中にはコツコツお金を貯めて、身請けした町人もいたようである。

 死ぬほど辛い苦海・吉原では、実際に死んだ遊女の数は知れない。粗末な食事で馬車馬のように働かせ、体力は消耗する一方だが、さらに病気が追
い打ちをかけた。遊女たちが一ばん恐れた病気が梅毒であった。

 梅毒はもともと西インド諸島の風土病で、コロンブスが西インド諸島に到達し、スペインに帰国した際、その船員たちがヨーロッパに運んだといわれてい
る。シャルル八世のナポリ攻撃以来ヨーロッパから世界に広がり、日本にも十六世紀の半ば南蛮船の来航によって上陸した。ちなみに日本の文献には
それよりも前、1512年に「梅毒」という言葉が登場している。

 当時梅毒は、「かさ」などと呼ばれていた。感染すると感染部におできのようなかたまりができ、これがかさぶたのようになるからである。この「かさ」が
潰れると、痛みを伴うがしばらくすると治ってしまう。実際は一次症状が収まって潜伏しているだけであるが、当時の医学知識ではこれで治ったと思って
いた(治ってしまう場合もあったが)。

 一度「かさ」にかかって治った(と思っている)遊女は、二度と梅毒にかからないとされ、客の方でも病気のない遊女として認知された。見世からも一人
前の遊女として扱われ、遣手は客にどんどん勧めた。おまけに病気が潜伏している影響か、妊娠しにくい身体になっているから、見世としては大変重宝
した。こうして、梅毒はどんどん広がっていったのである。客の方でも、梅毒にかかることは一種のステータスで、遊びを極めているという目で見られた。

 何年か後、再び症状が現れると、今度は皮膚にゴム状の腫れ物が出て、その部分の肉が落ちる。鼻が落ちるといわれる梅毒の症状はこの時期だ。
やがて神経系が冒され、死に至る。

 こういう症状が出ると遊女としての価値はなくなり、吉原を追い出されたり、生きたまま投げ込み寺へ捨てられたという。悲惨な結末が遊女を待ってい
たのである。 

 梅毒とともに遊女を悩ませたのが妊娠だった。妊娠は遊女の恥とされ、さまざまな避妊法を用いたが、当時の知識では妊娠は避けられない出来事だ
った。

 当然見世側とすれば中絶させたが、この手術も原始的なもので危険極まりないものだった。中条流というのが堕胎専門医師の看板で、中絶に失敗し
て命を落とす遊女も多かったという。

 堕胎できずに子供を産んでしまった場合もあった。この場合は、見世の子供として育てられ、女の子なら遊女の道へ、男の子なら見世の若い衆として
将来は決められた。まさに、吉原生まれ吉原育ちの遊女もいたわけである。
http://home.a05.itscom.net/hotaru/page168.html

遊郭の規律

遊女たちは、厳格な規律に縛られていた。
遊女の掟

遊女には守らなねばいけない鉄の掟があった。吉原遊郭では、「吉原の掟」と呼ばれ恐れられていた。「枕荒らし」と呼ばれる盗みや、「アヘン喫引(きついん)」といった犯罪行為。「起請文乱発」と呼ばれた無節操な恋文営業、「心中」や「密通」のような恋の諍い。

これらのほかには、「足抜け」と呼ばれる逃亡などが掟によって禁じられていた。

遊女は身体を売る商売。
肉体を痛めつけるわけにはいかない。
些細な罪なら、精神的な苦痛を与えるものが多かった。
だが、掟を破ろうものなら、手ひどい折檻が待ち受けていた。


折檻執行人

折檻を執行するのは遊女上がりの女性であることが多かった。彼女らは「やり手」と呼ばれ、いまのやり手の語源でもある。

せっかん役がなぜ女か。
それは、男は女の涙に弱いから。遊女を責める際に、冷徹になりきれないことも多かったのだ。

掟破りをした遊女に折檻を命令するのは楼主の仕事だ。

「働きが悪い」「遊女同士の喧嘩」のような、些細なことが原因の折檻は、楼主の妻や、妾、娘分などが命令していた。
特殊な治安体制

遊郭は町奉行所や寺社奉行の管轄外。

 江戸幕府が設置した、穢多頭(えたかしら)・弾左衛門・(だんざえもん)という特殊な部署が治安を守っていた。

 遊女が逃亡すると、穢多頭と、その配下である穢多役人(えたやくにん)が捜索を行った。
http://shichikasha.info/stories/1/chapters/1014


吉原の掟・・・

「心中」
「枕荒らし」
「起請文乱発」
「足抜け」
「廓内での密通」
「阿片喫引」

「心中」
男女が来世で結ばれることを願って一緒に自殺すること。近松門左衛門の「曽根崎心中」以降巷間心中が流行した時代があり市中に「心中禁止令」が出された。ことに同作は安遊女のお初と町人徳兵衛の心中事件がモデルであったため、遊郭ではことさら厳しかった。


「枕荒らし」
遊女が客の財布を盗むこと。

「起請文乱発」
起請文とは本来誓約書のことであるが、遊郭では遊女が客に出した

「私はあなたのものになりたく思っています。ウソではありません。だからまた来てください」

という内容のラブレター。これを乱発すると悪質な客引き行為とされた。


「足抜け」
遊郭内からの脱走行為。大抵の遊女は人身売買されていたので、その代金が返済されないと解放されない。客や実家がその代金を遊郭の亭主に支払って自分のものにすることを「身請け」という。

「廓内の密通」
遊郭の若い衆(男性従業員)や遊女の間夫を、正規の料金を廓に支払わずに相手する行為。

「阿片喫引」
アヘン=ケシから作った麻薬を煙管(キセル)を使用して吸うこと。

吉原のような高級遊郭以外の、場末の私娼窟のような所でも適用された有名な「遊女の掟」ですね。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1023463190
いわゆる駆け落ちだが、見世側としては、黙って見逃すわけにはいかない。吉原の地回りなど大勢を使って二人を見つけ出すのである。遊女は吉原へ連れ戻され、凄惨な折檻を受けることになる。

凄惨な折檻というのはこういう感じでしょうね:

15 :名無しさん@ピンキー:2001/06/29(金) 01:25 ID:R0emiL.6

飲み屋のババアから、終戦直後のパンパン(ストリートガール)の「オサネ切り」リンチの話を聞いたことがあります。

オサネ=クリトリスですね。

いくら言って聞かせても、ナワバリや掟を守らない女がいると、まずリンチでボコにする。それでも聞かないやつを、みんなで押さえつけて、クリトリスをちょん切ったそう。

慣れてる女がいて、包皮をつまんでキュッと上の方にしごくと、クリのあたまがプルッと出てくるのだそうです。

そこをカミソリでスパッと切ると、その瞬間、切断面からおしっこみたいに血がピュと出て、切られた女はほとんど失神、あるいは失神寸前の状態になるそうです。

これをやられた女は、娼婦としては使いものにならなくなるらしい。

お客がオサネのない女をいやがるとか言ってた。もちろん私生活のセックスも楽しめなくなって、つらい思いをするそうです。

ああ。こわ。
http://mimizun.com/log/2ch/sm/993375254/


_______

クリトリスを切り取られた激痛に泣き叫ぶ香月には、容赦なく、次の子宮摘出が待っていた。体内に器具を入れ、強引に引きはがすという乱暴なもので、女性にとっては、精神的にも、肉体的にもこれ以上ない苦痛を与えるものだ。

「どうだ、香月、クリトリスを切られて痛いだろうな。しかし、おまえに対する拷問はまだ始まったばかりだ。次は子宮だぞ。ここに同意書があるから読み上げてやろう」

「もう...好きにすれば...いいわ」

「私、香月は子宮を摘出されることに同意し、一切の不満を申し立てません。また摘出の為に、どれだけ激しい苦痛があろうともかまいません。これ以降、少しでも、 性的な興奮を憶えた場合は、肛門を含めて、体のいかなる部分を拷問されることに同 意します...どうだ、合意するか」

「お尻だけは許して下さい。お願いします...」

「なんだと、肛門は許してくれだと。だったらここに書いてあるとおり、濡らさなければいいじゃないか。流すのは、血だけにするんだな」

香月を大の字に縛り付けている柱のロックを外す。彼女を、ほぼ水平にし、上半身を起こして、切り取られたクリトリスのあたりからうっすらと血が流れている所を、自分でも見えるようにする。

「かわいそうに、一番感じる部分を千切られて、これから子宮を摘出されるんだぞ。そんなことさえされなければ、これだけのいい体だ。男がいくらでも寄って来るだろうに。それも、もう、一生ありえないことだな。私が若いお前の、女らしい体を見る最後の男になるわけだ。せっかくだから、よく、見せてもらうぞ」

「好きにすればいいわ」

「女を失おうとしているんだ。まさか、触られようと、弄られようと、ここを濡らす事はないだろうな。それに、もし、濡らしたら、お前の一番嫌いな肛門を拷問されるんだからな。これから取られてしまう子宮はこれか? そうか、これが、子宮口と言う

 やつだな。こいつを箝子で挟んでおいて、引っ張りだすことになる。痛いだろうよ、きっと」

「ひ、酷い!!」

「おやっ、何だ。お前、オマンコが光ってるじゃないか!」

「そ、そんな...う、嘘です!!」

「どうしようもない助平女だな、香月は。自分で一番嫌だと言っておきながら、そこを責めて欲しいというわけだ」

「お尻だけは...許して下さい...お願いします」

「まあいい。こっちは、後で、じっくりと責めさせてもらうからな。それじゃ、いよいよ、お前の子宮摘出をはじめるぞ。こいつでな。どうだ、すごい形してると思わないか。こんなものが体に入っていくんだぞ!」

「い、嫌っ!!」

「最初、入れる時は、こういう風にすぼまっている。その後でこうすると見ろ、広がるだろ。中から出て来るこいつがお前の子宮口をがっちりと掴み、外側のギザギザの部分が子宮の表面にのびて、がっちりと食い込む。そうしておいて、思いっきり引っ張るとどうなると思う? うまくすれば、卵管もろとも子宮が出て来る。へたすれば途中からちぎれてぐずぐずの肉になって出て来る」

「そんな事して...何が面白いの?」

「さあ、はじめるぞ。目をそむけるなよ。良く見てるんだ」

「あぁーっ」

何十人もの娘達に使われた後、ろくに手入れがされていない拷問具には、あちこちに錆が浮き、表面がざらざらになっている。その拷問具が自分の股間に伸びて来るのを見て、香月の表情が引きつるようにこわばる。拷問具の先端がやわらかな女の入口にあてがわれた。先端を回転させながら、じわっと体内に押し込んでゆく。

「目を閉じるな。見るんだ」

「ゆ、許して...」

先端が中に入った所で、レバーを引くと外側が彼女の体内で広がり、その状態でさらに押し込む。先端が子宮口にあたった。第二のレバーで香月の子宮をがっちりと掴む。あと少しで、女を引き千切られる恐怖で全身を震わせ、泣き始める香月。初めは啜り泣きだったのが次第に号泣に変わっていく。拷問のクライマックスが訪れようとしていた。

道具を掴む手がさすがに汗ばむ。手の平の汗をぬぐい、つかみなおす。香月の体内からおびただしい液体が流れ出ている。女として、最期になるであろう液体だ。二つのレバーにさらに力を加える。錆びた金属が子宮にざっくりと食い込んだに違いない。

次の瞬間だ。屋敷中に響き渡るような絶叫。悲鳴などという生易しいものではない。絞り出すような、苦痛の叫び。股間から顔を出した子宮口を見て、香月がさらに声を上げる。乳首に無数に刺された針の痛みも、クリトリスを切られた痛みも、すっかり、忘れさせるような激痛。無限に続くかと思われるような、体の芯を襲う、ちぎれるような痛み。

いつものことだが、子宮を一気に引き剥がすのは極めて困難だ。いくら、力一杯に、引っ張ってもそう簡単にちぎれるものではない。また、そんな目に会う女の絶叫と激痛に歪む表情がどうしても手の力を削いでしまう。結果として、彼女の苦痛はさらに長引くことになってしまう。最も、この段階でやめたところで彼女にとっては、既に手遅れである。掴まれて、引っ張られた子宮口は、既に、原形を留めぬ位に潰れており、その周りに食い込む金属によって子宮の表面は、すっかり、傷つけられている。私は、子宮全体の摘出はあきらめ、ギザギザの歯を下に移動させて子宮口の根元を掴み直した。

「お前の女としての機能は既に完全に破壊されたぞ!」

「あぁぁぁーっ」

「子宮はもう完全につかいものにならなくなっている。これからこのコリコリした子宮口だけを千切ってやるからな」

「ひ、ひと思いに、こ、殺して!!」

私は、握った道具をゆっくりと回転させる。子宮口に食い込む歯が回転する度に、肉を少しずつ傷付けていく。女の体内組織は、そんな力に到底耐えることはできない。そして、五分後、赤い小さな肉塊が私の手の道具に付いているのを見て、香月は失神した。

股間から鮮血を垂れ流したまま、ぐったりとした香月を床に転がす。先程までの香月の絶叫が嘘のように、今は静まり返っている。既に、女とは言えない体となった香月。しかし...私は大きな疑問にとらわれ始めていた。確かに、香月は二度と子供を作ることはできない。普通の意味では、香月は、既に女ではなくなっている。だが、本当にそうだろうか。毎月の生理は、もう無いだろう。だからといって、香月の顔が男のようになるわけではない。子供は生めなくとも、男の欲望を受け止める穴は、今でも、存在しているではないか。香月は動物の雌としての役割を果たす事はできなくなっているが、人間の女として、快感を感じる機能はまだ持っている。ひょっとしたら、毎月のわずらわしいものから解放され、妊娠の危険からも完全に解放された香月は、いままで以上に女としての喜びを感じ、その快感に、何の心配もすることなく身を委ねられるようになったとは言えないだろうか。間違いない。あれほどの苦痛に見まわれながらも、激しく濡らしていた香月は、こうなる事を望んでいたのかもしれない。女としての快感、オマンコよりも数倍も感じるといわれる肛門さえ残しておけば、香月は、いままで以上に自

由に女でいられるのだ。そんなことは許すわけにはいかない。性器破壊という女性にとって本来耐えられない精神的、肉体的な苦痛が香月の場合は、解放の快感になっていたのかもしれない。それは断じて許すわけにはいかないことだ。香月に対する本当の拷問は、香月が望む自由な女への道を完全に断つことだ。彼女の肛門、オマンコ以上の快感の源を完全に破壊することだ。失神した香月の顔には、女でなくなった事への悲しみなど、これっぽっちも浮かんではいない。そうだったのか。彼女が潜在意識の中で望んでいたのはこういう事だったのだ。そうと分かればやる事は明らかだ...

私はぐったりとした彼女を鞍馬の上にうつぶせに縛りつけた。お尻の谷間から肛門が恥ずかしげに覗いている。いや、恥ずかしげにと言うのは私の気持ち、私の期待だ。実際には、香月の肛門は解放され、ようやく主役に躍り出ることができる喜びで、生き生きとしているではないか。鞍馬の白い革の表面に、彼女の性器から滴る血が垂れている。

もうすぐ、別の場所からの血がそれに加わることになるだろう。私は、香月の肛門が二度と快感を与えることが無いようにするための道具を揃え、彼女を失神からさめさせるために長い針を手に取った。彼女の白くて柔らかいお尻の肉にそれを深々と突き立てる。

「い、痛い!!」

「気が付いたか、肛門を拷問するのに失神したままでは面白くないからな。お前の性的 な快感の源をこれから破壊してやろう。二度とお尻で感じることなどできないようにしてやるから、覚悟するんだな」

「そ、そんな...ひ、卑怯よ!!」

「何とでも言え、叫べ。どうせお前には助けは来ない。もうすぐお前は、気持ちいいと

 思う事が一生できなくなるんだ。だが殺しはしない。潰れた性器、潰れた肛門はここの医療スタッフがちゃんと治療してくれるだろう。排泄機能だけはな。これからの長い一生をお前は快感とは無縁の世界で生きていくことになる」

「い、嫌よ!!」

私は、肛門拡張器を手に取った。普通の物よりは、はるかに広がる範囲の大きい物だ。

しかも、肛門の内側に触れる部分はヤスリのようにギザギザになっている。これを香月のお尻の穴に入れ、ぐりぐりと回転させればどうなるか。彼女のお尻の谷間を指で左右に広げる。さっきまでボールペンを押し込まれていた肛門が縮こまっている。私はクリームをたっぷりと指に付けると、肛門に塗り、拡張器を当てがった。先端が触れる。きゅっと肛門が動く。

「お、お願い!! お尻だけは許して!!」

「今更何を言ってももう遅い。ここをたっぷりと苛めさせてもらうからな」

拡張器はずぶっと言う感じで香月の体内に入っていった。

「ようし、広げるぞ。肛門の中に何を隠しているのか良く見せてもらうぞ」

「い、嫌ぁーっ!!  」

「お前の肛門が開いていくのが分かるな」

「い、痛い!! もう、許して」

「痛いだと。こんなもんで痛がっていてどうする。まだ始まったばかりだぞ。普通だったらこの位までだな。見えるぞ。汚いものが入ってるのが」

「ひ、酷い!!」

「もっと、ひろげてやる」

「さ、裂けるーぅ!!」

「まだ、まだだ。」

香月の肛門は、普通の限界を越えて開かれていった。あと少しで裂けると言う所で止める。既に直径は3センチを越えている。そのままの状態でやすりのように毛羽立った拡張器に回転を加える。

「ぎゃーっ!!」

「どうだ、体の内側がけずれていくのがわかるか」

「とうとう血が流れてきたぞ。このままぐるぐるまわしながら、もっと開いてみるか」

「お、お願い!! もう、ゆ、許して!!」

肛門が限界を越えた拡張で悲鳴を上げる。今にも裂けそうだ。その開ききった肛門にナイフを突き刺す。しばらくすると、彼女の肛門はナイフを突き刺した周りから裂け始めた。

「ぐぇーっ!!」

「どうだ、体が裂けていくのを感じるか。」

私は近くのインターホンで医療スタッフを呼び出した。

「私だ。もうすぐ、終わるから待機していてくれ」

「彼女はどういう状態ですか」

「クリトリスは切り取った。乳首と乳房は針だらけになっている。子宮口は引っ張り出してあって、今、肛門が裂け始めている。これから膣と肛門の両方に火薬を詰めて焼くつもりだ。」

「分かりました。その程度だったら、楽なもんです。さっきの女の子の場合は、膣と肛門の両方に、ドリルの先端に付けた金属ブラシを10センチ近く押し込まれて、回されたのでしょう。中がめちゃくちゃになってましたからね」

「それでどうなった」

「大丈夫ですよ。排泄だけはできるように手術しておきましたから」

「相変わらず、腕がいいな」

「もちろんですよ。ところで、そこの子、ただ、火薬で焼くんじゃなくて、肛門と膣の間を切ったらどうです」

「そこまでして大丈夫か」

「ええ、単に、排泄の区別がつかなくなるだけで、命に別状は」

「よし、火薬に火を付けたら、切ってしまおう」

「分かりました。いつでもいいですよ」

香月は、肛門が裂けていく苦痛で悲痛な叫び声を上げている。私は、細長く形の整えられた火薬を彼女の膣と開ききった肛門に一本ずつ押し込んだ。導火線が下に垂れている。

久々の日本人である香月は、実に良く私を楽しませてくれた。が、もうおしまいだ。ライターで火を付ける。導火線特有の激しい煙が上がる。

「お前の性器と肛門の両方が、もうすぐ、焼かれるからな」

「ひ、ひと思いに、こ、殺して!!」

火は確実に火薬に近付いて行く。そして...彼女の体内で、くぐもった音と共に小さな炎が二つ、一瞬だが見えた。香月の絶叫は、炎と同じように、ほんの一瞬だった。
http://homepage3.nifty.com/kichiku/b/mayumi/ro04.htm

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