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収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族 _ 朝鮮から渡って来た華僑は日本の支配階級となったが…
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/850.html
投稿者 中川隆 日時 2013 年 7 月 14 日 07:52:12: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 宮崎の山村に伝わる「百済王伝説」の謎 投稿者 中川隆 日時 2013 年 7 月 14 日 00:22:09)

暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族


射殺された清少納言の実兄、不正のかぎりを尽くして私腹を肥やす受領……。

藤原道長や藤原行成の日記に書かれていたのは、王朝貴族たちの犯罪と暴力だった!
 
風雅で優美なイメージの裏側に隠蔽されてきた衝撃の実態。

平安時代には支配階級・特権階級である貴族たちが、庶民から収奪の限りを尽くし、暴走に次ぐ暴走を重ねている。


『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)
「序 清少納言の実兄、白昼の平安京にて射殺される」
「結 清少納言、源頼光の四天王に殺されそうになる」
「あとがき」

から要約する。


現代日本人がイメージする王朝貴族は、和歌や音楽や恋愛に人生の喜びを見出す繊細な人々であり、血が流れるのを見たら気絶するような気の弱い人々である。

このような王朝貴族のイメージを形成してきた情報源は『源氏物語』や『枕草子』に代表される一群の文学作品である。

紫式部や清少納言の作品に親しむ人々にとって、王朝貴族社会は犯罪や暴力とは縁のない、風雅で優美な世界である。

しかし、疑いのない事実として、王朝貴族が諸々の犯罪行為に手を染め、数々の暴力沙汰を起こしていた。王朝貴族の犯罪行為も数々の暴力沙汰も、王朝時代には当たり前の日常茶飯事だったのである。

その証拠は、藤原道長や藤原行成といった上級貴族たちの日記である。

彼らの日記を紐解けば、王朝貴族が犯罪や暴力に関与していたことは否定のしようがない。

1017年の藤原道長の日記『御堂関白記』によると、清少納言の実兄清原致信が騎馬武者の一団の襲撃を受けて殺されている。 清原致信は王朝貴族の一人であり、朝廷に仕える中級官人であった。大宰府の三等官である大宰少監を務めていた。そして、清少納言の実兄である清原致信が襲撃され殺されたのは、それに先立って、致信自身が人殺しをしていたからである。

清原致信を殺したのは、源頼親の武士団であり、致信殺害は源頼親が命じたものである。
そして、源頼親は王朝貴族たちから「人を殺すことを得意としている」と見られていた。一方で、源頼親は淡路守や右馬頭といった官職を帯びる中級官人であり、王朝貴族であった。

同時に、大江山の酒呑童子を退治したことで知られる源頼光の弟であり、「大和源氏」と呼ばれる武士団の祖でもあった。王朝貴族の一員でありながら自ら強力な武士団を率いていた、「軍事貴族」と呼ばれる存在だったのである。

その軍事貴族の源頼親が、配下の武士たちに命じて清原致信を殺害したのは、仲間の当麻為頼の仇を討つためであった。当麻為頼が清原致信によって殺されていたからである。

ところが、当麻為頼殺害の真の首謀者は清原致信ではなく、その背後にいた。清原致信が仕える藤原保昌であろう。

丹後守として丹後国に赴任した藤原保昌は、悪名高い王朝時代の受領国司たちの一人だった。しかも丹後守の他に日向守・肥後守・大和守・摂津守などをも歴任した保昌は、その貪欲さと悪辣さとで知られる受領を代表する存在であった。

藤原保昌が1017年の清原致信殺害事件に先立って大和守の任にあった。従って、藤原保昌の朗等であった清原致信は、大和国において大和守保昌の汚い欲望を満たすことに勤しんだこともあっただろう。

当時、大和守の住人であった当麻為頼は保昌にとって邪魔な存在であり、保昌が為頼の抹殺という汚れ仕事を致信に押しつけたものと想像される。

清原致信殺害の首謀者であった源頼親は、配下の武士たちに致信を殺させたことが露見したため、それまで帯びていた淡路守および右馬頭の官職を取り上げられたが、当時の朝廷は、これ以上には頼親を罰しようとはしなかった。つまり、致信の殺害を謀った頼親は、ただ官職を失うだけで済んだ。しかも、1017年に淡路守と右馬頭を罷免された頼親も、1024年には、新たに伊勢守を拝命し、続けて大和守と信濃守を務めている。

さらに真の黒幕である藤原保昌に至っては、致信が殺されても、馴染みの朗等の一人を失っただけで、1020年あたりに丹後守に任命され、その後、大和守を経て、摂津守に任命されている。

それにしても、人を殺すという凶悪な犯罪行為が、王朝貴族にとっては、いかに身近なものであったことか。

王朝貴族の世界とは、悪事を働いた者が臆面もなく暮らすような、悪徳に満ちた世界だったのである。

この事例は、王朝貴族の悪だくみの氷山の一角にすぎない。

当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

清少納言の実兄である清原致信殺害事件の真相は、次のように理解される。

1013年頃、大和守に任命された藤原保昌は、同国の豪族たちから少しでも多くの財を巻き上げようとして、不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領といった不正行為の数々に手を染めていた。

だが、そんな藤原保昌に歯向かったのが、大和国の当麻為頼である。

地元の有力豪族として大和守藤原保昌との確執を深めた当麻為頼は、藤原保昌の配下によって消される。保昌から当麻為頼殺害という汚れ仕事を任されたのが、保昌の朗等であった前大宰少監清原致信であった。清少納言の実兄である致信は、藤原保昌が大和国で財を成すことを助けるため、保昌の命じるままに為頼の始末を実行した。

しかし、清原致信が藤原保昌から与えられた汚れ仕事は、為頼抹殺だけではなかっただろう。藤原保昌が企図した不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領などの実行にあたったのは、藤原保昌の朗等たちだったはずであり、その中には(清少納言の実兄)清原致信がいたに違いない。

清少納言が『枕草子』に描いた王朝貴族社会の豊かさは、悪徳受領たちが地方諸国において不正行為を用いて築き上げた汚れた富によって支えられたものだったのである。

それだけではない。試験制度の弊害は枚挙に暇がないが、試験制度(官人採用試験)は平安時代には既に整えられていた。


宮中での取っ組み合いの喧嘩、従者の殴殺。
果ては邸宅建設のために平安京を破壊するなど、優雅な王朝時代のはずが、貴族たちはやりたい放題の暴れぶり。当時の記録をもとに貴族たちの意外な素顔を探り出した意欲作。

『殴り合う貴族たち〜平安朝裏源氏物語』繁田信一著 柏書房刊

序 素行の悪い光源氏たち
藤原道長、官人採用試験の試験官を拉致して圧力をかける」

によると、


988年当時、23歳の権中納言の藤原道長が、従者たちに命じて、式部少輔橘淑信という貴族を拉致させた。

橘淑信は式部省という官司の次官であった。式部省とは官人の採用や評価を職掌とする官司であり、この頃の橘淑信には官人採用試験の試験官の職務が与えられていた。当時、家柄のぱっとしない者にとっては、式部省の官人採用試験で好成績を残すことが、出世のための重要な足がかりとなった。

ところが、藤原道長は、自身が懇意にしている受験者の試験結果に手心を加えさせようと、試験官に脅しをかけた。この受験者を何とか官人にしようとする道長の身勝手な思惑の犠牲となったのが、官人採用試験の試験官式部少輔橘淑信であった。

この事件は瞬く間に世間の知るところとなり、この一件を伝え聞いた人々は、嘆きの吐息を洩らしたという。

庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたのである。


これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。
おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにあるからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/05/002556.html


暴走の源流=平安貴族2 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた

国府を焼く平忠常の乱 

前回の記事(暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族)
では、

●庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたこと。

●これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにある。

ということを提起しました。


今回記事では、

●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めていきます。

 『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)「第2章 公共事業費を横領し尽くす」から要約します。 


@収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族から生命を狙われていた。

1007年の7月1日、鎮西の大宰府において大隅守菅野重忠が殺されるという事件が起きた。

歴史書の『日本紀略』によれば、重忠を殺したのは、大宰大監大蔵種材の息子の大蔵光高であった。その光高が、重忠を弓矢で射殺したのである。 こうして生命を落とした大隅守重忠は「王朝貴族」と呼ばれる人々の一人であった。彼は、受領国司として鎮西に下向した王朝貴族だったのである。従って、その重忠が非業の最期を遂げたという話は、当時の貴族層の人々に大きな衝撃を与えたことだろう。

大隈守菅野重忠を射殺した大蔵光高の父親は、1019年の「刀伊の入寇」の折に異国の賊徒を相手に奮戦するように、鎮西の軍事貴族の一人であった。しかも、大宰府の三等官である大宰大監を務めたことから見て、鎮西において相当に有力な軍事貴族であったらしい。その彼を「豪族」と呼ばずに「軍事貴族」と呼ぶのは、彼が従五位下以上の位階を持つ厳密な意味での貴族の一人だったことが推測されるからに他ならない。

ただし、大蔵種材という実在の軍事貴族は、おそらく、大隈国の有力者だったのだろう。また種材の一族は、大隅国内の権益を守るため、ときとして同国の受領国司である大隅守と衝突しなければならなかったに違いない。そして、歴代の大隅守たちの中で最も激しく種材の一族と対立したのが、寛弘4年に種材の息子によって射殺された菅野重忠だったのではないだろうか。

このように、一条天皇が玉座にあった1007年、わが国の西の辺境である鎮西において、大隅守が大隅国の軍事貴族によって殺害されるという事件が起きていたわけだが、これは、けっして希有な出来事ではなかった。

例えば、一条天皇の曾祖父にあたる醍醐天皇の治世にも、かつて本朝の東の辺境であった上野国において、同国の豪族たちが上野介を殺すという事件が起きていた。

そして1002年の年末もしくは、その翌年の年頭には、平維良という下総国の軍事貴族が、下総守の公邸である下総守館に焼き討ちをかけていたらしい。『百錬抄』という歴史書によれば、長保五年二月八日の公卿会議において、「平維良が下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国の公有財産を掠奪したこと」が議題にされているのである。

受領国司の生命を狙って守館に焼き討ちをかけるという事件は、鎮西の軍事貴族よって引き起こされている。すなわち、一条天皇の息子の後一条天皇が帝位にあった長元2年(1029)の春もしくは夏、大隅国を活動拠点とする従5位下平兼光などとともに、大隅国府や大隅守館などを襲撃して火を放ったのである。この一件でも、大隅守自身は難を逃れていたようだが、『小右記』によれば、国府・守館に攻め込んだ季基・兼元の一党は、その場に居合わせた人々を殺戮しつつ、大隅国の国有財産を掠奪したらしい。

A地元の王朝貴族(受領)は、地元の豪族から恨まれていた。その証拠として
 「尾張国郡司百姓等解」という文章があります。


■「尾張国郡司百姓等解」

永祚元年(989)の2月5日および同6日、両日の公卿会議における議題の一つは、「尾張国の百姓などが朝廷に尾張守藤原元命の違法行為を告発したこと」であった。 尾張守元命は、任国の百姓たちからのみならず、国守を助けて働くべき郡司たちからまでも、その罷免を強く望まれていたことになろう。そして、尾張国の百姓たちと歩調を合わせて朝廷に尾張守の交替を求めた尾張国の郡司たちというのは、尾張国内の各郡の統治にあたる地元出身の地方官人たちである以前に、それぞれの郡内に地盤を持つ古くからの豪族達であった。
 
ここで朝廷に尾張守元命の更迭を要求したとされている「尾張国の百姓」というのは、映画「七人の侍」やテレビドラマ「水戸黄門」に登場するような、汗と泥にまみれて朝から晩まで働き続けながらも食うや食わずの生活を送らねばならないという、貧しく憐れな農民ではない。むしろ、そうした無力な農民たちを自在に使役することによって広大な田地から膨大な収益を上げようとしていた、才覚ある農業経営者として理解されるべきであろう。王朝貴族が「尾張国の百姓」と呼んだのは、尾張国において豪族のような立場にあった人々であり、あるいは、尾張国の豪族そのものとみなされるべき人々であった。

尾張守元命の罷免を望む尾張国の百姓達は、元命の行った31種類もの違法行為を書き連ねた解を、元命の頭越しに朝廷に提出したのである。そして、その嘆願書あるいは告訴状こそが、われわれが「尾張国郡司百姓等解」や「尾張国解文」などの名称で聞き知っている文書に他ならない。

その嘆願書なり告発状なりに示されているは、郡司あるいは百姓として尾張国に根を張っていた大勢の豪族達の総意なのである。


■5種類の悪行

「尾張国郡司百姓等解」の冒頭に置かれたのは、文書の表題の役割を果たす次のような一文であった。この嘆願書もしくは告発状を朝廷に提出したのが尾張国の郡司と百姓とであるということは、ここに改めて確認されよう。

「尾張国の郡司および百姓が解を提出して朝廷によるお裁きをお願い致します。」
「願わくば、ご裁断くださいませ。当国の国守である藤原元命殿は、本年を含む3カ年の間、税の名目で物品を奪い盗るという違法を行うとともに、暴力を用いた脱法を行いましたが、それらの違法行為や脱法行為は、合わせて31ヶ条にも及びます。これが本状の趣旨です。

そこで、尾張国の郡司や百姓が数え上げる尾張守元命の不正は、おおむね、以下の5つに分類されよう。

A.不当課税および不当徴税(9ヶ条)
B.恐喝およびさ詐欺(3ヶ条)
C.公費横領(10ヶ条)
D.恐喝および詐欺の黙認(4ヶ条)
E.その他(4ヶ条)
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002566.html

暴走の源流=平安貴族3 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?


任国に赴く受領(因幡堂縁起) 

前回の記事(暴走の源流=平安貴族2 収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた)
では、


●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めました。

この地元の受領たちが恨まれていた証拠として、「尾張国郡司百姓等解」という書物が残っています。今日はこの書物に綴られている悪行の数々について具体的な中身を紹介していきます。


■悪用された公的融資制度

[第1条]公的融資の利息を名目とした不当な増税を行った。

 王朝時代、尾張国をはじめとする地方諸国の政府=国府は、われわれ現代人には少し奇異なもの見えるような公的融資を行っていた。それは、毎年の春先、国内の百姓=農業経営者たちに対して一年間の農業経営の元資となる米を貸しつけるというものであり、また、その年の冬、新たに収穫された米の中から元本と三割ほどの利率と利息とを回収するというものであった。

こうして公的な融資は、表面上、国府による農業振興策に見えるのではないだろうか。しかし、これは借り手の意志を無視した強制的な融資であった。つまり、農業経営に携わる百姓達は、たとえ経営の元資に困っていなくとも、毎年、必ずや国府から融資を受けなければならなかったのである。そしてこの融資をまったく無意味に受けた百姓であっても、融資を受けた以上、絶対に利息を払わなければならなかった。当然豊富な元資を持つ百姓にしてみれば、右の公的融資の制度は、迷惑なものでしかなかっただろう。

 結局、王朝時代の国府が行っていた公的融資は、農業振興策であるどころか、融資の体裁を借りた課税でしかなかった。当時の百姓たちは、正規の税を納めさせられた上に、公的融資に対する利息を名目とする不可解な税の納付をも義務づけられていたのである。

 986年に着任した尾張守藤原元命は、こうした従来よりの規定を平然と無視したという。988年までの3ヶ年に合計で2万1500石を超える額の強制融資を追加して、百姓たちから6400石以上もの米を利息として取り立てたのである。

 ちなみに、こうして元命が尾張国の百姓たちから巻き上げた米6400石は王朝時代の大半の人々にとって、一生を費やしても稼ぎ出し得ないほどの巨富であった。当時一般的な雑役に従事する労働者は、朝から晩まで働いても、一升(0.01石)もしくは二升(0.02石)ほどの米しか手にできなかったのである。そんな庶民層の人々にしてみれば、6400石というのは、数百年分から千数百年分の年収に等しい額であった。


■着服のための増税

 尾張国の富を吸い上げられるだけ吸い上げるつもりであった元命は、本来的な課税制度をも、存分に悪用したのである。

[第2条]課税対象ではない田地からも税を取り立てた。

 当然のことながら、本来は徴収されないはずの税は、徴収された後、国府の財政に組み込まれることもなければ、朝廷に上納されることもなかった。非課税のはずの田地から不当に徴収された税の行き先は、言うまでもなく、尾張守元命の懐であったろう。


[第3条]朝廷の許可を得ずに税率を大幅に引き上げた。

 違法な税率を用いて百姓達から税を取り立てた尾張守は、けっして藤原元命だけではない。王朝時代の尾張国においては、法定に倍する税率での課税が慣例化してしまっていたようなのである。だが、そんな尾張国に生きる百姓たちも、元命が986年に新しく採用した税率には、さすがに憤慨せずにはいられなかった。というのも、元命の提示した新税率が1町につき21.6石というあまりにも高いものだったからである。それは従来の違法税率の1.8倍から2.4倍の税率であり、法定税率と比較すれば4.8倍にもなる高すぎるほどに高い税率であった。


[第4条]着服するためにまったく名目の立たない税を取り立てた。

 一町につき8.4石というのは、尾張守元命が任国の百姓たちに臨時で課した特別税の税率である。これが本来の税の法定税率の2倍に近い高い税率であることは、ことさらに言うまでもないだろうが、この高税率の特別税は、一片の正当性もないまったく違法なものであった。すなわち、この税は、ただたんに元命の懐を温めるためだけに課されたものだったのである。


[第5条]前3条の不正によって毎年のように5万石を超す不当な利益を上げた。

 15万石というと、王朝時代の一般的な労働者の2万年分の年収を上回る額である。それは、当時の庶民層の人々にとって、まったく現実感のない数字であったかもしれない。だが、確かな現実として、尾張国の百姓達は3年間の間にそれだけの富を尾張守元命によって巻き上げられていたのである。


■公務としての掠奪


[第6条]絹織物の公定価格を不正に改変して事実上の増税を行った。

尾張国の百姓たちが負っていた税には、2.4町の田地について一疋(0.67メートル×15.56メートル)の絹織物を納めるというものもあった。そしてこの税の税率は、田地一町につき米2石というものとして理解されていた。


[第14条]絹織物を納付する期限を不当に早めた上に乱暴な取り立てをした。

 尾張守に就任した藤原元命には、任国の百姓の都合など、まったく考慮するに値しないものであったらしい。元命が絹織物の取り立てを開始したのは、毎年、いまだ多くの田地において田植が完了していなかったであろう5月中旬だったのである。それまでより半月以上も早く絹織物が徴収されはじめるようになったことは、尾張国の百姓たちをひどく困惑させたことだろう。

 しかも、尾張守元命による絹織物の徴収は、実に乱暴なものであった。元命の配下の徴税使は、その郎等や従者を百姓たちの家宅に踏み込ませ、徴収するべき絹織物の他、めぼしい物品の全てを、手当たり次第に奪い去ったというのである。これでは強盗団の掠奪と何ら変わるところがあるまい。いや、強盗よりも始末が悪かったかもしれない。というのは、あくまで公務を遂行していることになっていた徴税使たちには、手向かう者があった場合、尾張守元命の名のもとに容赦のない刑罰を与えることも可能だったからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002571.html

暴走の源流=平安貴族4 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?(第2回)

今回も、引き続き古文書から平安貴族の実態を暴きます!

以下引用は、繁田信一氏「王朝貴族の悪だくみ〜清少納言危機一髪〜」からです。

●熱心な取り立て

藤原元命のような悪徳受領は、ときとして、あたかも謹厳な国司であるかのような顔をすることもあった。

〔第八条〕過去の未納分の税を無関係な郡司や百姓から不当に取り立てた。

元命が尾張守を拝命した当時、どこの国の国府の帳簿を見ても、ずいぶんと昔の国司たちが取り立て損ねた税が、累積しつつ繰り越され続けているものであった。が、当時の朝廷は、そうした税を徴収することを、すでに締めていたらしい。そうした意味では、過去の未納分の税というのは、あくまでも帳符上の数字にすぎなかったのである。

そう、税の徴収が大好きな尾張守元命は、すでに時効を迎えたものとして扱われていた過去の未納分の税をも、かなりの熱意を持って完璧に取り立てようとしたのであった。

つまりその時点で尾張国内に住んでいた郡司や百姓が、まったく理不尽にも、かなり以前に赤の他人が滞納した税を負わされたのである。「尾張国郡司百姓等解」 によれば、このときの徴税もまた、掠奪さながらに実行されたらしい。


〔第十五条〕課税対象でない作物にも税を課した。

しかし、貪欲な元命は、そうした非課税の作物にさえ、徴税の手を延ばした。尾張何の隅々から、麦や豆をも容赦なく取り立てたのである。

そして、もちろん、任期中に多量の漆をせしめておくことも忘れなかった。彼の治めた尾張国には、上質の漆を産出することで知られる丹羽郡があったのである。


●不払いを決め込む受領国司

王朝時代の受領国司は、税として徴収した米を財源として、さまざまな物品の買い上げを行った。

というのも、任国にて調達した多様な物品を朝廷に上納することもまた、当時の受領たちが帯びていた重安な任務の一つだったからである。

 だが、尾張守藤原元命のような悪徳受領は、そうした公務としての買い上げの際にさえ、私腹を肥やさんとして、あまりにもえげつない不正を働いたのであった。

                                     
[第七条] 買い上げの名目で種々の物品を騙し盗った

元命が尾張守として尾張国において買い上げたのは、絹織物・麻織物・漆・油・苧麻・染料・綿といった品々である。そして、これらの物品を生産して元命に売ったのは、尾張国の百姓たちだったわけだが、その百姓たちの不満は、元命が物品を不当に安く買い上げたことにあった。そうした不公正な買い上が尾張国の百姓たちにもたらした損失は、絹織物に関してだけでも、数千疋にも及んでいたという。

貸しつけというかたちで元命のために絹織物を用立てた百姓の中には、その貸しっけを踏み倒された者もあった。


〔第九条〕借り入れの名目で大量の絹織物を騙し盗った

この絹織物の借り入れに関して、元命が一瞬でも返済の意思を持ったことがあったとは思えない。おそらく、ここでの借財は、当の元命にとって、返済するつもりなど初めからまったくない、事実上の接収だったのだろう。彼が、彼が借り入れの名目で集めた絹織物の総量は、一二一二疋にも及んでいたという。

尾張守元命が踏み倒した借り入れの総額は、当時の庶民層の人々にとって、八〇〇年分ほどもの年収に相当するものだったようだ。

ちなみに、こうした不正によって元命のもとに番えられた富を都に運び上げたのは、運送業をも営む百姓たちであったが、そうした百姓たちは、ここでもひどい目に遭っていた。


[第二十二条]物品の運送に雇った人々に不当に安い賃金しか支払わなかった


どうやら、貪欲な元命は、払うべき運賃の四割弱ほどしか払わなかったらしいのである。

●救民策の完全な放棄

 さて、尾張守藤原元命が悪辣な受領国司であったことは、ここまでに見てきたところからも、すでに十分に明らかであろう。しかし、元命の行った悪事を数え上げる「尾張国郡司百姓等解」は、まだまだこれでは終わらない。尾張国の郡司や百姓は、元命による公費横領の数々をも、かなり強い口調で弾劾しているのである。


〔第十条〕 貧民救済に充てる費用の全てを着服した

〔第十三条〕灌漑施設補修費および災害対策費の全てを着服した

地方諸国の漑漑施設の補修は、当時、受領国司たちに期待されていた重安な役割の一つであった。

また、それは、当の受領たちにとっても、切実な意味を持つ事業であったろう。任国から少しでも多くの利益を上げたかった彼らは、それぞれの任国の農業力を維持あるいは強化するため、ある程度漑施設を整えておかねばならなかったはずなのである。

しかし、王朝時代を代表する悪徳受領として知られる尾張守元命は、潅漑施設補修費および災害対策費として計上されていた六〇〇石余りの米の全てを、何のためらいもなく横領したという。

●食い尽くされた公共事業費

尾張守藤原元命が任国において横領した公共事業費は、灌漑施設補修費や災害対策費だけではない。

〔第十一条〕公的な連絡網を維持するための費用の全てを着服した。

〔第十二条〕公有の馬の飼育費および購入費の全てを着服した。


「駅」と呼ばれる施設を置いていた。そして、朝廷から諸国への命令や諸国から朝廷への報告は、駅から駅へと運ばれるかたちで、ほぼ確実に伝達されていたのである。
それぞれの駅には、多数の馬が用意されていた。駅ごとに馬を替えながら情報や使者を選ぶというのが、王朝時代の国家的な連絡網としての駅の制度であった。

また、その広域連絡網の結節点であった諸国の駅は、それぞれの国を治める受領国司の責任において維持されることになつていた。つまり、諸国に下った受領は、駅を維持するために、一定の規模の財源を確保しなければならなかったのである。

 しかし、尾張守藤原元命の場合、そうしたことに意を砕くことはなく、むしろ、駅のために支出するべき費用を丸ごと自分の懐に入れていたらしい。

そして、その尻拭いをさせられたのは、尾張国の郡司たちであったという。尾張国を治めていた三ケ年の問、同国の駅の全ては、同国の郡司たちの私財によって維持されていたのである。

しかも、これと同様の不正は、水上交通網の整備を巡っても行われていた。

   任地に赴く受領

●罰あたりな横領

〔第二十四条〕国分尼寺の再建に充てられるべき費用の全てを着服した。

王朝時代の受領国司たちは、国分寺や国分尼寺を存続させることに意を用いねばならなかった。要するに国分寺・国分尼寺の修理や改築などは、受領の責任において行われなければならなかったのである。

 ところが、尾張国の受領国司となった藤原元命は、任国の国分尼寺が火災によって失われていたにもかかわらず、けっして同寺の再建に必要な費用を支出しようとはしなかった。いや、それどころか、国分尼寺再建費に充てられるべきであった米九〇〇石に相当する財を、悪びれることなく自分のものにしてしまっていたのである。

〔第二十五条〕国分寺の僧および国分尼寺の尼への公的な布施の全てを着服した。
ここで元命が横領したとされる布施の総額は、六〇〇石強にもなったというが、それは、本来、国分寺あるいは国分尼寺において仏法を行う僧尼の生活費となるべき財であった。


●給料未払い

こうして、多様な名目の公共事業費を着服し尽した藤原元命であったが、そんな悪徳受領の元命は大胆にも、彼以外の尾張国司たちの給料にまで手を出していた。


〔第二十条〕掾(じょう)、目(さかん)、史生(ししょう)など下級国司の給料を全て着服した。

諸国の国司としては、長官である守と次官である介との下に、文書の作成や管理などに当たる国府の書記官のような官職もあった。これら国司の給料というのは、諸国の国府が行なう公的融資の利息を財源として支払われることになっていた。しかし、尾張国では、元命がその大半を横領し、結果として、下級国司には給料はほとんど支払われていなかった。


〔第二十一条〕国府に勤務する国司以外の人々の給料の全てを着服した。


「尾張国郡司百姓等解」が国府関係者の給料に関する不正をも糾弾しているのは、右の二カ条に見える横領によって損害を被った下級国司や国府職員の多くが、毛張国諸郡の郡司を兼任する人々だったからに他ならない。つまり、ここにおいてもまた、元命によって少なからぬ財を巻き上げられたのは、尾張国の郡司たちだったのである。 

以上は、役職を利用した横領や着服ですが、次の文を見ると、配下の者を使って、直接略奪を働いていたようです。こうなると完全なギャングです。


●受領に仕える野獣たち

王朝時代の受領国司にとっては、連れ下った子弟・郎等・従者こそが、任国における悪辣な蓄財活動の実行委員であった。尾張守藤原元命、彼の子弟や郎党や従者は、尾張国の郡司や百姓から財を巻き上げるため、元気に横暴の限りを尽くし続けた。


[第十六条]徴税使が人々に贅沢な接待や土産を強要するのを黙認した。

[第二十七条]子弟や郎等が郡司や百姓から物品を脅し取るのを黙認した。

[第二十八条]息子が馬を持つ人々から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。

[第二十九条]子弟や郎等が郡司や百姓から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。


 尾張守藤琴冗命の徴税便を務めたのは、当然、元命が都から連れ下った子弟や郎等や従者であった。そして、この連中は、公務にかこつけて頻繁に尾張国内の村々を訪れては、接待や土産などの名目で、郡司や百姓から多くの財を脅し盗っていた。「尾張同郡司百姓等解」によれば、そうして奪われた尾張国の冨は、数千石にも及んだらしい。

また、尾張守の威光を振りかざす元命の子弟や郎党は、尾張国の人々のもとに何か欲しいものがあれば、とにかく何でも奪い去ったという。これを「尾張同郡司百姓等解」は。「民の物を奪ひては、則ち京洛の家に運ぶ」と訴え、また、「日に見る好物は乞ひ取らざる莫く、耳に閃く珍財は使を放ちてしひ取る」と弾じる。

そして、尾張国の郡司や百姓による元命の手下たちについての総合的な評価は、おおよそ次のようなものであった。「尾張守殿の子弟や郎等の様子は、辺境に住む野蛮人と異なるところがなく、むしろ、山犬や狼のような野獣に近いほどです」。

●隠匿された法令

藤原元命が尾張守の任にあった三ケ年の間、尾張国の人々が悩まされ続けたことの一つは、ありにも頻繁に都への物品の移送に駆り出されることであった。

[第二十三条] 物品の還送のために国内の人夫や荷馬を動員することが不当に多かった。

[第二十六条]任地の大半を都の自宅で過ごして郡司や百姓からの陳情機会を奪った。

都からそう遠くない国々を預かる受領の場合、任国の支配を郎等たちに任せて、自身は多くの時間を住み慣れた都で過ごしていたのであった。

〔第三十条〕 官人身分の悪人たちを積極的に国内に連れ込んだ。


尾張守元命が下向の折に任国へと連れ込んだのは、位階や官職を持つ宮人であり、中級貴族層あるいは下級貴族層に属する人々であった。当然、彼らは、それなりに身元の確かな者たちであったろう。だが、この連中こそが、尾張守に仕える野獣の如き郎等たちの主力となったのであった.

[第三十一条]受領国司に都合の悪い新規の法令を発布しなかった。

●幸運な悪徳受領

さて、以上に「尾張国都司百姓等解」 の内容を少し詳しく見てきたわけだが、これによって明らかになったように、尾張守藤原元命がその任国において犯した罪は、あまりにも大きなものであった。

数々の悪行が尾張国にもたらした損失は、経済的なものだけを見ても、十七万数千石にもなっていたのである。それは、王朝時代において、一般労働者の二万数千年分の年収に匹敵する額であった。そして、国司の権力を振りかざして欲望のままに犯行を重ねた悪徳受領は、989年の四月五日、ついに尾張守を罷免されることになる。

右に見た『小右記』の一節に明らかなように、元命を失職に追い込んだのは、「尾張国都司百姓等解」あるいは「尾張国解文」として知られる一過の文番であった。朝廷に元命の更迭を決断させたのは、この嘆願書もしくは告発状だったのである。そして、件の「尾張国郡司百姓等解」を朝廷に提出したのは、当然のことながら、尾張国に暮らす郡司たちや百姓たちであった。

とすると、受領ぶりを遺憾なく発揮した尾張守藤原元命は、尾張国に地般を持つ豪族たちからひどく憎まれていたということになろう。そう、元命の更迭を願って「尾張国郡司百姓等解」を作成した尾張河の郡司たちや百姓たちというのは、要するに、同国に根を張る新旧の豪族たちだのである。

このことからすれば、現実には罷免されるだけですんだ尾張守元命も、ことによっては、任国の豪族たちの手により、むごたらしく血祭りに上げられていたかもしれないのである。

すでに幾つかの事例を紹介したように、受領国司たちが任国の軍事費族や豪族に生命を狙われるというのは、王朝時代において、まったく珍しいことではなかった。激しく憎まれていた尾張守元命ならば、彼に恨みを持つ豪族たちに襲撃されて血塗れの最期を迎えていたとしても、それは、実に似つかわしいことであろう。


・・・・以上が平安時代の貴族の実態です。これでも日本人か?もうこれ以上の悪は居ないだろう・・・と思うくらいですね。

でも上には上が、もっと悪い奴が居たようです。「尾張国郡司百姓等解文」という告発文により藤原元命は解任されたのですが、もっとあくどい奴は、このように告発されないように、事前に手を廻して押さえつけていたようです。次回紹介します。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002574.html


暴走の源流=平安貴族5 

自分の都合の悪いことを隠蔽、口封じする貴族たち

前回までの記事は、貴族たちが行ったありえないほどのえげつない収奪についてまとめました。
 
平安貴族たちの悪行はこれだけに止まりません。
 
今回は自分達の都合が悪いことを隠蔽、口封じしまくった貴族たちについてまとめます。
 
『王朝貴族の悪だくみ―清少納言、危機一髪』より抜粋引用します。
  
  『餓鬼草子』に描かれている貴族の食事
 
  『餓鬼草子』に描かれている庶民の様子

 
○告発者の親兄弟を皆殺しにした『藤原文信』

尾張国の豪族たちが「尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげ)」を通じて朝廷に強く求めたのは、要するに、悪徳受領の罷免であった。そして、この国司更迭の請願は、あっさりと聞き届けられることとなった。すなわち、「尾張国郡司百姓等解」によって尾張守藤原元命(おわりのかみふじわらのもとなが)の度を越した悪辣せを知った朝廷が、永祚元年(九八九)の四月五日、元命に代わる新たな尾張守を任命したのである。

そして尾張国の豪族たちは、藤原元命の追放を成し遂げた後、その成功に味をしめてか、朝廷に受領国司の解任を要求することを繰り返すようになる。

 
 ところが、現存する史料を見る限り、藤原元命の後任の尾張守については、朝廷によって罷免されたという事実もなければ、尾張国の豪族たちから退任を要求されたという事実もない。どうやら、元命の次の尾張守は、その任を無事に務めおおせたようなのである。

そして、その藤原元命の後任の尾張守というのは、藤原実資の『小右記』の藤原文信であった。
  
尾張国の豪族は藤原元命の悪行に怒りを示し、「尾張国郡司百姓等解」を作成し、朝廷に罷免を求め、見事成功。それ以来、受領国司の解任要求を朝廷に繰り返すようになります。

しかし、元命の後任の藤原文信は地方豪族ではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪だったようです。
 


 だが、この事実は、文信が善良な受領国司であったことを示すとは限らない。また、尾張国の豪族たちが文信に好感を抱いていたことを示すとも限らない。任国の豪族たちから明白なかたちで拒絶されることのなかった尾張守文信は、ことによると、尾張国の郡司や百姓にとって、現に彼らの働きかけによって尾張守の職を追われた元命や経国などよりも、はるかに厄介な受領だったかもしれないのである。もしかすると、文信というのは、地方豪族などではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪な受領だったのではないだろうか。

というのもこの藤原文信という中級貴族には、恐ろしい前科があったからに他ならない。実は、かつて筑後守の任にあった頃の文信は、自身に不都合な筑後国の住人を抹殺しようとしたうえ、その筑後国人の親兄弟を皆殺しにしていたのである。

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朝廷が藤原文信を尾張守に任命したのは、永祚元年四月五日のことであったが、その直前となる同月一日、当の文信が暴漢に襲われて頭部に傷を負うという事件が起きていた。

そして、永祚元年四月六日の『小右記』には、次のような記述が残されている。

「藤原文信を負傷させた安倍正国(あべのまさくに)が、伊賀国の以忠(もちただ)という名前の追捕使によって捕獲されたらしい。

そこで、検非違使の右衛門尉藤原惟風(うえもんのじょうふじわらこれかぜ)が、伊賀国追捕使以忠から正国の身柄を引き取ったところ、件(くだん)の正国は、両手の指を切断されたうえ、脚をへし折られていたらしい。また、その文信襲撃事件の犯人と見られる男は、鎮西(ちんざい)において文信に父母・兄弟・姉妹を殺されたことから、その報復をしようと、文信が隙を見せるのを待っていたらしい」。

 こうして検非違使が安倍正国の身柄を確保したことで都の人々の前に明らかにされたところによれば、前筑後守藤原文信が正国に生命を狙われねばならなかったのは、かつて文信が正国の家族を殺害していたためであった。検非違使が正国の口より「鎮西において文信に父母・兄弟・姉妹を殺された」との供述を引き出したことから見て、また、正国がたった一人で家族の仇を討とうとしていたらしいことから見て、筑後守であった頃の文信は、その任国において、正国の家族を皆殺しにしていたにちがいない。

 
このように、藤原文信は安倍正国の家族を皆殺しにし、そのあだ討ちに来た正国自身も返り討ちにし殺してしまいます。しかも、両手の指を切断し、脚をへし折るという残虐なやり方で、、、

この凶暴さに地方豪族もびびってしまい、文信が朝廷に受領の任期を伸ばす要請を出しても止めることができず、長期間受領を勤めることができたようです。
  

文信の筑後守の任期は、本来、天元四年正月の四年後の正月となるはずであった。

文信が受領としてその任国から富を吸い上げ得る期間は、正規のかたちで正月に任命された受領の場合に比して、ほとんど一年間も短くなってしまうはずだったのである。

 だが、これに納得できなかった文信は、彼の筑後守としての任期を天元五年正月からの四年間とするよう、文章を通じて朝廷に願い出たのであった。そうして少しでも長く受領国司の任にあり続けようとするのは、当時の中級貴族層の人々にとって、あまりにも当たり前のことであったろう。

そして、『小右記』によれば、文信から上げられた申請が朝廷において検討されたのは、天元五年、の二月二十五日のことであったが、この新任の筑後守の切実な願いは、すんなりと承認されたものと思われる。

 
○自分の横領を知った盗人の口を封じる『伯耆守』
 

王朝時代の人物と思しき橘経国(たちばなのつねくに)は、伯耆守(ほうきのかみ)の任にあった頃、国府の倉庫に忍び込んだ盗人を、捕らえた途端に処刑したことがあった。その盗人は、四十歳ほどの男であったが、身形もよく肌の色も白かったというから、おそらくは、伯耆国に地盤を持つ新旧の豪族たちの一人だったのだろう。そして、そんな人物が盗みなどに手を染めたのは、折からの飢饉のため、食べるものがまったく手に入らなかったからであったという。
      
しかし、王朝時代のこととはいえ、ただの盗人が死刑に処されるというのは、尋常なことではない。そもそも、当時の朝廷の方に従えば、わが国の臣民を死刑に処し得たのは、日本の国の主である天皇だけであり、天皇の名代として諸国を治めるにすぎない受領たちは、その任国の住人に対してさえ、独自の判断で死刑を科してはならないはずであった。

 それにもかかわらず、伯耆守経国が盗人の処刑を強行したのは、『今昔物語集』によれば、「後の聞こえも有り」という事情を鑑みてのことであったらしい。つまり、同様の犯罪の再発を防ぐため、敢えて盗みの罪を犯した程度の罪人に死刑を科したというのである。

 だが、『今昔物語集』が語るのは、経国の本音ではあるまい。

 というのは、伯耆国府の倉庫に忍び込んだ盗人が、そこには何もないことを目撃していたからである。これは、『今昔物語集』も認める事実であるが、国府の倉庫が空になっていたというのは、受領国司が国府の財を横領していたことの動かぬ証拠であろう。そして、そんな重大な証拠を握ってしまった盗人を、悪徳受領が放置するはずはなかったのである。
 
当然、筑後守藤原文信も、国府の倉庫に入った盗人を生かしてはおけなかっただろう。また、その盗人が倉庫の中で見たことを彼の家族に話したとすれば、盗人本人のみならず、その家族までもが、文信に生命を狙われることになったにちがいない。そして、安倍正国の家族が皆殺しにされた理由は、もしかすると、こんなところにあったのかもしれない。

 
前稿でまとめたように、当時の貴族達は横領を当たり前のように行っていました。そのため、倉庫が空になったのだと思いますが、それを知ったものは口封じのため容赦なく殺されたようです。
 
藤原文信が安倍正国に命を狙われたのもこんなやりとりがあったからかもしれません。
 
 
○殺人を隠蔽する『常陸介』 

 ところで、王朝時代において、受領国司が任国の住人を殺害するというのは、少しも珍しいことではなかった。いや、むしろ、当時の受領たちについては、殺人の常習犯であったと見ておいた方がいいようにさえ思われる。

 しかも、自分の犯した殺人の罪を姑息に隠蔽しようとするのが、王朝時代の受領たちの常であった

常陸国(ひたちこく)において同国に住む公侯有常(きみこのありつね)が殺害されたのは、万寿元年(一〇二四) のことである。そして、その頃に常陸介(ひたちのすけ)として常陸国の受領国司であった平維衡(たいらのこれひら)が朝廷に報告したところによると、有常の生命を奪ったのは、常陸国住人の公侯有材(つねもと)であった。
 ここに登場する公侯有常と公侯常材とは、それぞれの氏名から推測されるように、おそらく、かなり近い親類であったろう。 

しかし、常陸介維衡によれば、そんな二人の間でおきてしまったのは、あろうことか、生命のやりとりであった。つまり、万寿元年に常陸国で起きた殺人事件は、同国の責任者として事件の捜査を指揮した維衡の言うところ、親類間のいざこざが激化した末の悲劇だったのである。
 
だが、万寿二年の三月、都の貴族社会の人々は上の殺人事件に関して、それまでに得ていたのとは全く異なる情報を与えられることになる。
 
 同月二十六日の『小右記』から知られるように、前年より公侯有常殺害事件の犯人と見なされていた公侯常材が、みずから朝廷に出頭したうえで、有常の最後について「国司の為に殺される」と証言したためであった。

結論から言えば、有常殺害事件に関する事実は、常材が捨て身で告発した通りであった。
すなわち、同年七月二十一日の『小右記』によると、維衡の後任の常陸介となった藤原信通(のぶみち)が、朝廷の指示に従って事件の捜査をやり直したところ、かつて犯人断定の決め手とされた被害者の妻の証言は、維衡によって捏造されたものだったのであり、また、そうして常材を殺人犯に仕立て上げた維衡こそが、有常殺害の真犯人だったのである。

 
常陸介は自分に都合の悪い人間を殺しておきながら、それを他の人間、しかも親縁に罪をなすりつける
 
○書生に帳簿を改ざんさせ口封じのために殺した悪徳受領『日向守』
 

 地方諸国の国府に勤める下級事務職員として「書生(しょせい)」と呼ばれた人々も、その本来の姿は、それぞれの国に根づいた豪族であった。それゆえ、任国の豪族たちから富を吸い上げようとする悪徳受領にしてみれば、公式には彼の下僚ということになっている書生たちも、けっして信頼できる部下などではあり得なかっただろう。いや、それどころか、現に国府の事務処理に携わっていた如くに読み書きに長じていた書生たちは、いつ受領国司の不正を告発しないとも限らない、どうにも厄介な存在であったにちがいない。

 一方、その書生たちの側でも、任国で蓄財に励むことしか考えていない悪徳受領に対しては、けっして気を許すわけにはいかなかったはずである。とくに、何らかの事情で受領国司の不正行為に手を貸してしまった書生ともなれば、不正の露見を未然に防ごうとする悪辣な上司に消されてしまわないよう、つねに警戒していなければならなかったことだろう。

 そして、実際のところ、日向国の国府に勤務していた一人の書生が、若くして生命を落とさねばならなかったのは、強いられてのこととはいえ、悪徳受領である日向守(ひゅうがのかみ)の不正の片棒を担いでしまったがゆえのことであった。

 その日向守某が手を染めていた不正の多くは、おそらく、「尾張国郡司百姓等解」が弾劾する違法行為や脱法行為と同じものであったろう。すなわち、問題の日向守もまた、尾張守藤原元命と同様、さまざまな機会に不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領といった悪事を働き、郡司や百姓として任国に暮らす豪族たちから、多くの財を巻き上げていたと考えられるのである。

 それにもかかわらず、この日向守の場合、受領国司としての任期を全うすることができたわけだが、任期満了を迎えた日向守某は、後任者の下向を待つ間、それまでに多くの不正が行われてきた痕跡を消し去ることに余念がなかった。すなわち、自身の行った不正が次の日向守によって暴かれることのないよう、何か辻褄の合わないところのある書類を徹底的に洗い出し、それらを全て整合性のあるものへと書き直していったのである。当然、それは、かなり根気の要る作業であったろう。

 そして、この困難な隠蔽作業のために重用されたのが、かねてより日向国府に出仕していた一人の書生であった。機転が利くうえに字も上手かったという彼は、国府の一室に監禁され、二十日ほどもの間、書類を改竄する作業を続けさせられたのである。


もちろん、切れ者であった書生は、自身が悪事に関与していることに気づいていた。が、日向守某の従者たちに厳しく監視されていたため、逃亡することもかなわず、命じられるままに偽装書類の作成を続けるしかなかったという。

 しかも、こうして意に反して不正行為に荷担することになった書生は、その役割を終えるや、彼に不正への関与を強いた悪徳受領の勝手な都合により、あっさりと殺されてしまう。『今昔物語集』巻第二十九第二十六の「日向守口口□□の書生を殺す語」という話によれば、書類の改竄を完了した日のうちに、日向守某の郎等に射殺されたのであった。

日向守某が私利私欲のためにまったく非のない書生の生命をを奪ったというのが、正真正銘の史実であったとすれば、やはり、『今昔物語集』の編者としては、「日向守□□□□」の氏名を明かすわけにはいかなかったにちがいない。

 
このように、平安貴族達は自分の都合の悪いことを隠蔽、口封じしまくっていたようです。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002575.html

うーん、漢民族は中国でも、日本に来ても えげつなさは変わらないですね。  

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コメント
 
01. 中川隆 2013年7月14日 18:37:22 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

日本の支配階級になった漢民族は選民思想が強く、日本人を人間だと思っていなかった

6:名無しさん@涙目です。(WiMAX):2011/10/28(金) 18:06:18.76 ID:RNVRwNQp0

貴族遊びまくり庶民餓死しまくり
貴族が牛車で呑気におでかけする脇道には死体がゴーロゴロ

17:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:13:14.61 ID:j5KVDQzL0
>>6
あいつら死体が道に落ちてたらソッコーで家に帰って清めするだろ


28:名無しさん@涙目です。(東京都):2011/10/28(金) 18:15:52.73 ID:+z8ty5Br0

平安時代は和歌とか紫式部とかのほほんとした平和なイメージだけど あれは貴族の話。
一般市民は餓死しまくりで路上に死体が転がっていて政治機能はマヒだから次の時代に武家社会が到来した

37:名無しさん@涙目です。(アラバマ州):2011/10/28(金) 18:20:58.16 ID:T8Am9NQl0

藤原家の奴とか大体和歌詠んでは天皇や上皇にゴマすってるだけで何にもしてないよな

45:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:23:39.06 ID:j5KVDQzL0
>>37
あいつら道端に猫の死骸がありましたとかで仕事休むからな
自分とこの荘園管理以外仕事してないな
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/ojyuken/1331048080/

京都名物
1. ぶぶ漬け
2. さかさぼうき
3. やらずぶったくりの精神


大阪名物
1.儲かってまっか? という挨拶
2.関東と聞くと うどん と そばの汁の濃さの違いばかり言うアホ
3. 電車で乗客が降りるのも待たないで我先に席を取ろうと突進するアホ人間

京都のさかさぼうき  

「ゆっくりしていかはったらよろしやないの、
今おいしいお茶いれまっさかいに。新幹線なんか待たしといたらよろしいがな」

といいながら、後ろにさかさぼうきが立っている。これが最初のサントリーのお茶のコマーシャルです。

これは市田ひろみさんが出演されていたコマーシャルの事です。

「さかさぼうき」とは、長居をしたり、食事の時間になってもなかなか帰らないお客さんがいる時に、玄関や出入口にほうきを逆さまに立てかけておくというもの。

京都の人は本当に恐ろしいですね.


_________

京都の人の家に訪問して、

「ぶぶ漬けでもどうどす?」

と食事をしていくように勧められても、あくまでそれは婉曲表現であって、本心では「もう帰ってくれ」という意思表示なのです。

 私の知り合いの先生の体験ですが、京都で法事があり、その家の人に

「ご飯食べて帰りよし」

と何度も言われたので、ぶぶ漬け伝説は知っていたのですが、あまりの熱心さに

「そんなに言わはるのやったら」

と食べていかれたのです。すると遠くのほうから、

「あの人、ほんまにぶぶ漬け食わはった」

「ほんまや、ほんまや」

と陰口が聞こえてきて、その後3日間ほど寝込んでしまったらしい(笑)。
http://www.dnp.co.jp/jis/g_gakko/talk/45/45_talk2_1.html


それは、友人Aが京都に旅行したときの時の話である

そのAには、京都に行ったら寄ろうと心に決めていた料理屋があった
ガイドブックに載るほどの有名店で、各界の著名人も多数出入りする店である

しかしAは、京都についての知識をそれなりに持っていたのでその店に入るのをためらっていた

なぜなら、京都の有名店、いや京都の料理屋は大概が「一見さんお断り」の店だと聞いていたからだ

(※一見さん→誰からの紹介もなく、初めて店を訪れる客)

普通の料理屋でも「一見さんお断り」だという噂があるのに、果たしてその有名店に入れるのだろうか?

Aはビクビクしながらも、その有名店に足を踏み入れることにした

ダメでもともと!断られたら断られたでしょうがない

まずは、その店に行ってみよう

断られたら諦めよう、それでいいじゃないか
とにかく行かずに諦めるなんて悔いだけは残したくない

Aは勇気をふりしぼり、単身その店ののれんをくぐった


女将「おいでやすー」

A「あのー、はじめてなんですけど、食事できますでしょうか?」

女将は、オドオドしながら標準語で問いかける客に一瞬怪訝そうな表情をしたが
すぐに笑顔でこう答えた

「どうぞ、入っておくれやす〜」

友人は、あまりにアッサリと店に招き入れる女将に多少面食らったものの
憧れの名店で食事できる喜びと、店に入れた安堵感で有頂天だった

「一見さんお断り」なんて、ただの都市伝説だったんだ〜

おしぼりで手を拭きながら、友人はウットリとそんなことを考えていた

そして、まずは店員にビールを注文することに
緊張で乾いていた喉を、まずはビールで潤したかった

京都の有名店での食事。あれも食べたい、これも食べたい
何を食べようか迷う友人の所に、ビールを注文した店員とすれ違いに別の店員がやってきた

あれ、この店員は何をしに来たんだろう?食事の注文を取りに来たのかな?
そんなことをボンヤリ思った友人の目の前に置かれたのは…

その、あまりにも早い登場にAは面食らった

まだビールも出てないのにぶぶ漬け!

座って5分も経たずにぶぶ漬け!

問答無用でぶぶ漬け!


あまりの衝撃と屈辱に言葉を失ったAは
箸に手をつけることなく、席を立ちフラフラと店の出口へ向かった
その背中に女将からの声が響く

「あら?お客はん、もうお帰りどすか〜?」

とか「お代は結構どす〜、おおきに〜」

そんな台詞が、Aの背中に向かって投げかけられたそうな

女将の顔は見なかったが、Aにはわかったという

Aの背中を見ながらニタァーッと笑う、鬼か、はたまた化け狐の如く顔のゆがんだ女将の笑顔が、友人にはハッキリと見えていたそうな
http://taketaka.cocolog-nifty.com/mogu/2004/05/post_24.html

京都のお宅を訪問するからには、自ら”ぶぶ漬け”を忍ばせて訪問するぐらいの備えと心構えが必要である。

そして敢えて長居を決め込み、

「ぶぶ漬けでも食べていきなはれ」

と言われたら、

「いえ、手持ちのものがありますから」

と、その場でオカ持ちから”ぶぶ漬け”を取り出してムシャムシャと食べ始める。

もちろん、それだけじゃ許さない!! 

逆に

「ぶぶ漬けいかがどす?」

と、こちらから茶碗を差し出してやるのだ! 

”必殺ぶぶ漬け返し”!

 京の伝統に従って、ぶぶ漬けをすすめられた者は、その場を立ち去らねばならない。相手は自分の家であるにも関わらず、荷物をまとめてその家を出て行くことになるわけだ。

途方にくれた相手がとりあえずホテルで一泊を過ごそうとしても、先回りしてホテルの前に”ぶぶ漬け”を置いておく。ドラキュラが十字架を恐れるように、京都人は”ぶぶ漬け”を越えることができない。

仕上げはここからだ。途方に暮れる相手の前にタイミングよく現れて仲直りを持ちかけて温泉へと誘いだす。そして相手がリラックスして湯につかっているところに、ご飯とお茶っ葉をぶち入れて叫ぶのだ!

「どうだー! おまえが、ぶぶ漬けだー!!!」


だが一度噴火した怒りの火山は相手を退治したぐらいでは納まらない! 今度は、”ぶぶ漬け”宅配業者となって京の都を恐怖に陥れてやる! まず手近なラーメン屋に忍び込み、かかってきた注文の電話を何食わぬ顔でとる。そしてラーメンの出前を頼んだ気になって油断している客の家に、いきなり”ぶぶ漬け”を届けてやるのだ!

宅:「お待たせしました。来来軒でーす!」

家の奥から子供が走りだしてくる。

子:「わーい、らーめんらーめん!」

宅:「おい、ぼうず。これはな…ぶぶ漬けだーー!!!!」

子:「ぎゃーー!」

一家で出前ラーメンを食べるはずの楽しい夕べは、”ぶぶ漬け”によって家を追い立てられる悲劇の時間に変わるのだ!! 京都人である以上、この不文律を破ることは許されない。破れば京都人失格だ。京の都は家を失った人であふれかえる。子供達は全員トラウマだ。

更に今度は市の職員を装い、腹を空かせた人々の前に現れて食料配給を行うのである。もちろん、配給する食糧は”ぶぶ漬け”に決まっている。そして集まってきた人々に茶碗を差し出しながらこうささやくのだ…。

「ぶぶ漬け食べますか? 京都人やめますか?」
http://www1.odn.ne.jp/aaa55210/kara1/bubu1.htm


58 :七つの海の名無しさん:2009/04/22(水) 01:39:29 ID:qsEUqLPo

キッシンジャー国務長官は来日したときに、
京都でものすごいハイテンションで祇園遊びをした。

酒に酔ったキッシンジャーは隣にいた舞妓に舞妓は"Yes Yes”と答えるだけだった。

次の日、舞妓は驚くべき事実を告げられた。
なんとキッシンジャーが大激怒しているというのだ。

実はあの時キッシンジャーは舞妓に

『今夜、私の部屋に来るか?』

と問いかけていた。

舞妓はYesと答えていたので、てっきりOKと思ったキシンジャーは
一晩中有頂天になって舞妓を待ち続けていたのだった。

160 :七つの海の名無しさん:2009/04/25(土) 03:28:01 ID:obWA5jPE
>>58
京都では Yes=No なのだよ。
わからん阿呆キッシンジャ−は
”田舎もん、どすな〜、キッシンジャ−はん。ぶぶ漬けでもいかがどすえ?”
(とっとと、帰れという意味)

______


京都の人間は、笑止な選民思想を持っており、自分は1200年の伝統が醸し出す洗練された人間と勘違いしているが実は野暮ったい田舎っぺそのもの。前述の通り差別(逆も含む)が凄まじく、閉鎖的なムラの論理ばかりが横行し、新住民や新しい文化、気質を受け入れない。住みやすいなんてのは全くの嘘。


「比叡山より東は蛮族の棲み家」

が彼らの口癖。 究極の井の中の蛙!東京って知ってる?


頭の中は坂上田村麻呂征夷大将軍の時代で止まっているらしい。おそらく彼らの世界観は高句麗や唐、せいぜい天竺どまりで、地球が丸いことも知らないのだろう。京都が学術の都というのもガセ。確かに大学数が多いが、殆どが極右、極左で、何も知らないで入学すると変な思想で洗脳され、卒業するときとんでもない人間になってたりする。


人口も、もはや茨城県にも抜かれ停滞気味。それでも京都「府」という特権意識だけは非常にがめつい。

最後に自称雅やかな古都の礼儀作法「三度の辞退」をば。

他県人「どうぞつまらんものですが、召し上がって下さい」

京都人「いいえ、けっこうです」

他県人「まあそうおっしゃらずに、軽い気持ちで遠慮なくどうぞ」

京都人「いいえ、けっこうなんです」

他県人「本当にいらないんですか?」

京都人「はい」

他県人、それならと差し出したお菓子を引っ込めようとする。京都人、突然ブチ切れる。

京都人「何やボケ!そんな謙遜を真に受ける奴がおるかこの田舎者め!わしに食わさんとは礼儀知らずなやっちゃのう!!!」

他県人「・・・・・(唖然)・・・・」


「はるばる田舎からようきやんしたなあ」

「あの、東京から来ました」

「それはそれは」

「はるばる田舎からようきやんしたなあ」(爆

京都で進学・就職後、今関東にいるが、京都気質がぬけず苦労している。

京都では、徹底して相手をこきおろす社会やったから、なかなか他人を信じられない。人間不信、瞬間にして敵・味方を判別、相手を罵倒・威嚇する。この癖は当分、なおらんと思う。


京都に旅行に行ったとき、やたらと「差別をなくそう!」という看板やビラがあり、その時は何のことかさっぱりわからなかった。(東北出身なもので)

事実を知り、ゾッとした。

古都とか日本情緒あふれる・・・なんて優雅なイメージは表だけ、実は非常にドロドロした所だと感じた。京都には住みたくありません


京都生まれ・京都育ちのくせに「この人性格いいな」と思ったら、大抵その人の両親は、他府県出身者。ジジババのころから代々京都生まれの奴に、ロクなのがいない。


他府県出身で、京都に住んでも何とかなるのは、大学生だけ。一般人は踏み込むべきではありません。

京都の常識は、世間では非常識!!

京都人ほど、高慢ちきで、人間関係において内・外を使い分ける人種を他に知らない。他人を無視するのでも一度無視したら、あいつら何年という期間で無視するやん。ホンネはいわへんし、執念深いし。したたかで、ずる賢くて他人を利用するし。こんな陰湿な常識が、他の世界に通用するか?

大半の人間は、驚いて「あしらう」レベルに到達しいひんで、ただオロオロするだけちゃうか?

ただし、極少数のいい人がいるのも事実。知っている限りでいい人達の特徴は、京都生まれで京都育ちだけど両親が他府県出身のひとたちと、高卒の人達が多かった。京都の私学の附属あがりの金持ち連中及び西陣・祇園の商売人の息子・娘たちは、ホント高飛車にも程がある、根性腐った奴が多かったよ。


オレも京都嫌い。
湯豆腐1000円で売ったり、あんなチャッチい野菜高く売りつけたりする
ボッタクリ商売人は氏んで欲しい。消費者の敵。

オレ、和牛オーナーだったが預託会社が高槻に高級肉の直売店を建てたところ
京都のクサレ食肉団体がカス議員→ゴミ警察に圧力掛けてその店を潰した。
そのせいで預託会社は倒産して金は返ってこなくなった。
金返しやがれカス!


京都駅の八条口にタクシー乗り場がありますが運賃値下げをしたMKタクシーは“村八分”状態にされて乗り場内に立ち入ることを他のタクシーが阻止していた。


新幹線で大坂から東京に帰るとき、自由席だと京都から乗ってくる人が何とか席に座ろうとして、あまりにもあさましいのを何度も見てるからです。でも、京都の人のあの独特の性格は必要悪だと思っています。あの異常なまでの誇りがなければ、他の地方都市と同じようにミニ東京になってしまうでしょう


ヤフーで個人売買していた際に最も嫌な思いをした取引相手は京都人でした。もーずうずうしいったらありゃしない。
京都ではそうかもしんないけど、東京や神奈川は違うんだよ!!
あたしゃずっと神奈川だからさ、そんな京都の常識語られたって知らんよ、もう。

ちなみに取引物は某少女趣味のブランド服。
勝手に電話番号調べてきて「他の人より高く買うから自分に譲ってくれ」と文句たれ。あんまり煩いからそれでOKしたら今度は「東京は知りませんけど京都ではこの服もっと安く買えるからもっと安くしてくれ」だって。
最初と話ちがうじゃん。

「こっちもね、主婦だからたいへんなんですよ。」って知るかもう・・・・。
この態度がまた自分のほうが正当である!!とさも言わんばかり。
あーもうアンタ逝っていいよ・・・・と何度口から出そうになったことか。

この厨房主婦の次の京都人も最悪だった。
それ以来京都人を見る目がかわった。もー逝ってくれ。


京都人の武器はやはり口です。そして彼らに口で勝つのは至難の業です。

彼らはこちらが失敗などして劣勢にあるとき、落ち込んでいるとき、つまり反撃できない状態にある時を機敏に察知して、攻撃してきます。

やり方は「○○ちゃうんけ!」といった言葉をややヒットアンドアウェイぎみにかますことが多いと思います。(あとでむかついてくる)

また、こちらが一般的に優位な立場にある場合は、過去の細かな失敗を適当に誇張して、こちらを蹴落とす世論を構築しようとします。

この行動はこちらも察知できて、しゃくなのですが、そのような細かい事をいちいちとがめることも出来ず、非常にストレスがたまります。

で、一番言いたいのは、このような理不尽な行いも受け止めることです。
彼らが何故このようなことをするのか、道徳的に心の中で批判してみてもこちらのストレスがたまって参ってしまいます。そういうものなのだと受け止めて下さい。

彼らのなれなれしい言葉、親切に心を開かないこと、また、とりあえず下手に出て彼らの弱みを握るチャンスを得ること、これが対策法だと思います。

おれが大学で東京に住んだときはなんちゅう「ばか正直」なやつが多いんやとおもったなあ。普通にしゃべる中で、ちょっとかま掛けても「そうなんだ、ふうん」とかえされて、こまってしもたわ。

私は東京出身だけど、京都で働いてた時によく地元の人に「あんた。素直やねぇ」とよく言われました。バカ正直って意味なのね。ごめんなさいね。関東人の美徳なのよ。

私は、知的でセンスがあって、出が良くて気の利いた会話が出来ても性格が屈折して陰険な人物は最初から(人として)低いと思うけどね。


京都は関西のくせに、隠れ見栄張りが多いね。そのくせして、居酒屋とかで飲んでも、1円単位まできっちりと割り勘にする。このギャップにずいぶんとまどった。見え張りというよりも、やせ我慢に近い。。。

ようするに、せこいくせに、プライドだけは一人前って事。
矛盾してるのに、認めようとせずに、突っ込まれたら急に、流暢な京都弁でさらりとかわす・・これが手口。


京都の富裕層、特に金持ちの商売人(祇園・西陣)が最悪やね。あと、材木屋・漬物屋・かんざし屋とか地場産業の連中。洛南出身の人達は、おそらく京都の富裕層階級の子弟だと思われる。


だから、言ってるやん。京都の金持ちは、根性汚いのが多いって。全員が全員やないけど、私の知っている限りの、京都の有名私学の金持ち連中たちの世界は別世界。ほんまに極悪!!!


ちなみに、私の妹は小学校途中で左京区の学校に転校したが、卒業するまで、いじめぬかれたよ。絶対、よそもんは入れない社会やね。


悪いけど、京都を日本と思ったらあかん、京都の常識は、世間の非常識やしね。


京都は怖くていけないよね…。


自分の知らないしきたりで意思表示されても知らないから、裏で陰口言われるんだろうね。


「あの人、嫌だって言ってるのに居座りつづけてるよ。 だから、東京の田舎もんはやなんだ。」
http://mimizun.com/log/2ch/yasaitr/971890080/


02. 中川隆 2013年7月14日 18:43:59 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

京都は美しい街、 しかし幽鬼の住む死の世界

いい日旅立ち 京都へ
http://www.youtube.com/watch?v=QMhX_pF0NkA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=gBDVDeupbhc


遥かな しまなみ 錆色の凪の海
セピアの雲は流れて どこへ行く

影絵のきつねを追いかけた あの頃の夢を今もふところに 西へ行く

ああ 日本のどこかに私を待ってる 人がいる
いい日旅立ち ふたたび風の中 今も聞こえるあの日の 歌を道連れに

蛍の光は 遠い日の送り火か
小さく見える景色は 陽炎か

出逢いも別れも 夕暮れにあずけたら自分の影を捜しに 西へ行く

ああ 日本のどこかに私を待ってる 人がいる
いい日旅立ち 朝焼けの雲の中 今も聞こえるあの日の 歌を道連れに

ああ 日本のどこかに私を待ってる 人が居る
いい日旅立ち 憧憬は風の中 今も聞こえるあの日の 歌を道連れに

いい日旅立ち _ 山の向こう側にいるのは…
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html


03. 中川隆 2013年7月15日 01:50:07 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

京都のおもてなし文化を全身で体感したかったらここ

京都御艶の会席料理 お品書き
http://www.kyoto-gyoen.com/menuSystem.html


おいでやす、京都ならではの「おもてなしの文化」を現代に色濃く伝える『京都御艶』へ


デリヘル「京都御艶」(京都) by ナンニバル氏


 お世話になってます。ナンニバルです。

 すごい悪徳な店を見つけました!と、よろこんでもいられないのですが、せめて皆さんのお役に立てばと投稿します。

【店名】:京都御艶
【業種】:デリヘル
【HP】:http://www.kyoto-gyoen.com/
【日時】:10月下旬
【場所】:とあるホテル
【費用】:95分15000円+指名料2000円


 サイトの写真を見ると、なかなか可愛い子がいて、しかもなぜか値段が安い(その時点で気づけよ、自分)。電話をしたら

「75分12000円です」

とのこと。「30分ほどかかります」とのことで、じっと待つ。待つ。待つ。

 しかし来ない。何の連絡も入らないまま1時間以上が経過。んー。まあ寝るかなあ、とおもったらチャイムが鳴る。ノゾキ穴から外を見ると、男が一人つったている。ドアをあけると、遅れたことにわび一つなく、

「どうも。12000円と指名料2000円で合計14000円です」

と言い放つ。ドライバーらしい。

「じゃ95分で」というと、「合計で17000円です」と答える。

支払いを済ますと「じゃ今から女の子上げますから、しばらくまってください」。

 5分ほどするとチャイムがなる。

 これはいわゆる..「アナタハドチラサマデスカ?」現象だ!  指名した子とはまったくの別人。

パネルマジックとか、そんな生やさしいもんじゃないぜ。完全な別人だ。

ヤニだらけの歯、そばかす面、とがった口、マジックペンで書いたかのようなアイシャドウ、そして茶髪のおばさんが、サングラスをかけミニスカートを履いてそこにいるのだ。

その容姿は、絶滅した恐竜T.rexを彷彿とさせた。T.rex。まさに「暴君」にふさわしいその容姿が与える恐怖はタダゴトではなかった。

 「うわああああああああ(心の叫び)」。

完全なる戦意喪失。しかし支払い済みなこともあり、仕方なく部屋へ入れる。「シャワーを」というので、「どうぞどうぞ」と万全の注意を払いながらシャワーへ誘導。T.rexが衣服を脱ぎきったところを見計らって、こちらもすばやく裸になりシャワーへ。

 体型は、下腹部プックリ、タレ気味の乳房、力強い太もも。加えて猫背ぎみの姿勢。やはり、暴君T.rex(ただしメス)。

 こちらはさっさと先にシャワーを出て、再度の対峙に備える。なんとかやってみよう。心を落ち着かせよう。目をつむってみた。決戦の時は迫っている。

「ガラアァァッッッ」

ドアが開いた。前傾姿勢をとりつつのっそり出てくる様子には、やはり隙がない。

「さあプレイしようよ」

というドスの効いた威嚇がこちらに向かって発せられた!

とりあえず、どうでもいい会話を交わしつつ、ソファへ移動。

 すると、携帯が大音量で鳴る。T.rexは着信を確認。どうしようかなあと思案しながらどうでもよいさらに会話を続けていると、また携帯が鳴る。T.rexが確認。さらに5分ほど後、またしても着信。

 T.rexの咆吼。

「いかなきゃあああ」。

「はあ?まだ30分もたってないよ」

「忙しいの」

「いや、115分で頼んでるけど」

「だから忙しいっていってるでしょ。なんでそんな自分勝手なこと言うの!」

「自分勝手もなにも、115分で頼んだから」

「じゃあドライバー呼ぶから話したら。まったく、人の都合も考えないで」。

 来た!T.rexの本領発揮だ!

とりあえずは穏やかだった顔が、おそろしい形相に。そして吠えまくる。

プレイ時間115分は30分に。

こりゃ、時短なんてレベルじゃないぜ!

そして一瞬にして悟った。これ以上の抵抗は無駄だと。即時退却を決心する。

 T.rexは、到着時の遅れとは対照的な素早さでドアを開け、最後の雄叫びを上げて走り去っていった。「まったく嫌な奴やな!」

 おう...。やれやれ、命だけは助かったようだ。

 では評価です。

【嬢】T.rex
【サービス】サービス?なにそれ食べられるの?
【店員】店ぐるみのぼったくりです。
【金額】人生勉強にはこんなものか。

 みなさん、くれぐれも気をつけてください。命は大切にしようね!
http://www.kyoto-gyoen.com/


_________


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04. にほじーん 2014年7月07日 00:43:51 : Lmfkb3Y/DNR1A : 79F2pRoEdY
在日朝鮮人や左翼活動家が京都は多いそうですね。「人権!!人権!!」叫ぶ¨差別¨利権に吸い付く魑魅魍魎が跋扈するそうで…さぞ賑やかなこってしょう。

5. 中川隆[-11255] koaQ7Jey 2018年4月24日 16:41:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-12184]

朝日新聞10月31日付け日本史研究者の磯田道史氏(慶応・宇都宮大で非常勤講師)が「一様でなかった武士身分」というタイトルの論文を寄稿している。彼は著書「武士の家計簿」(新潮社)でヒットを放ち、この9月、東大出版会から「近世大名家臣団の社会構造」を上梓。日本各地の生の古文書を読み説いてきた。彼の今回の論文の論旨を以下にまとめた。

1 戦後、江戸期庶民(商家・農民)の研究は進んだが、意外なことに、今日まで武士については謎だらけで来た。

2 武士身分というのは「かなり空虚なものであることが分かった。」

3 武士クラスはさらに三クラスからなっていた。
この「武士身分の中にこそすさまじい差別構造があった」。またそれぞれの階級ごとに生活スタイルは大きい違いがあった。


a エリート武士:侍(士分)クラス=家老・番頭・物頭・平士=(袴がはける。私服勤務)(結婚は20歳代前半で子沢山で長寿)(家督相続なのでボンクラでかまわない。)

b 非エリート武士:徒士(かち)クラス=(袴がはける。私服勤務)(結婚は30前後で子が少ない。貧困であるため)(事務員仕事なので、相続の際に、読み書きソロバンの能力が要求された。)

c 最下層武士:足軽とそれ以下の奉公人クラス=(袴も足袋も許されない。外出は裸足が強制された。制服勤務)(百姓・町人から「も」採用されたが、a,bクラスに昇進はほとんどできなかった。)(農村に住み、牛馬を飼い、農業をするのが普通であり、兵農分離という実態ではなかった。)

a,bはcに対し土下座をさせるのは当たり前だった。熊本藩などではa,bは威光が強く、cを「切り捨て御免」する法令をもっていた。

4 近代革命
欧州=被支配者が支配身分を打倒
日本(明治維新)=支配身分内の潜在的対立(これが日本史の流れを左右したというのが磯田氏の見方)

5 現代日本の組織文化と江戸の藩組織と通底すること

ア エリートと非エリートの差の待遇が大きい。非エリートの出世は「鉄の天井」が容易されている。現代でも国家公務員のキャリアとノンキャリアの壁は強固
イ 現代社会でも総合職は私服、一般職は制服。


3 江戸初期は藩主や家老会議が物事を決めていたが、時代が下ると、藩主は家老会議に出席せず、決定実務は家老会議(最高意思決定機関)が担っており、しかしそれも形式化した。藩主は象徴にしかすぎなかった。「おぼっちゃん家老」が下から来る案件書類にひたすら判子を押すだけとなった。

有能な非エリート武士が毎日毎日規則・慣例にしたがって膨大な書類を製作し、それを上(「何もしない空っぽの頂上会議」)にあげた。(「膨大な無駄書類がまるで真空ポンプに吸われるように、猛烈に上がっていく。」)(「藩がどうなるかは自分の仕事ではない。それはエリートの仕事。今日提出する書類が大事だよ」ーそんな感じで、つつましく暮らしを守っている。これが私(磯田氏)に見えてきた「藩」組織の姿だ。)


「藩も武士もなくなった現代だが、こういう組織文化は現代の我々の政府,我々の社会,我々の学校に受け継がれていないか。」

このような形で論文は結ばれている。

日本風俗図会集から大名行列の絵が引かれているが、たしかにcクラスは裸足だ。時代劇を見ることがあったら、cクラスである足軽の足を見て欲しい。もし、わらじなどを履いていたとすると、時代考証がまちがっていることになる。足軽以下は裸足だったのだ。

注目すべき指摘のひとつは日本の近代革命の本質が、支配者層内の対立が主力となっていたという点。また、現代の組織文化は江戸の藩組織文化の延長線にあるのでは、との指摘だろう。つまり藩という官僚組織のシステムが、今日のあらゆる組織の母系(matrix)になっているという点だ。

士農工商というクラス構造の中でさらに武士階層が厳しい3クラスに分かれていた。もちろんトップに天皇がいた。事ほど左様に、日本のヒエラルキー構造は厳しく構築されていた。武士が武士以外の階層の人間を問答無用で殺傷できるだけでなく、武士が武士を問答無用で切り殺すことが法令上許されていた。なんと、非人間的な社会原理なのだろうか。

わたしは、戦後に生まれ育ったことのありがたさを死ぬほど思う。切り殺される恐怖から逃れているからだ。権力の発生は武力を持つものと持たないものというクラスを誕生させ、人間と人間の間には真の意味での信頼や協力の関係は発生しない。信頼や協力の原理が存在しない社会は、心底寒々しい。実際、武力の脅威に晒されて生活するのは到底耐えられない。

阿修羅で天皇制や武士といった支配層を、美学がある、またはノブレス・オブレージなどといって美化する人たちには強い疑問を感じる。たとえば、ノブレスなんとやらは、あくまで、権力ヒエラルキーを容認する立場のものの見方である。

もし仮にこうした権力ヒエラルキーないし特権階層を病理と見定めているなら,このノブレスなんちゃらの概念それ自体を否定する必要があるだろう。これは一つのセットの考え方なのだ。ノブレスの考え方など持ち込むから、特権階層を思い上がらせ、ひずんだ美意識をよりもたせるようになるのである。また、人に一方的に他人に土下座を強要したり、外を歩くのに裸足を強制したり、問答無用で切捨て御免などという人間として倣岸不遜・夜郎自大の態度に生きる人間に美学を感じるという人は根本から精神が腐敗しているとしかいいようがない。それがいかに根腐れした考えか自覚ができないなら、人間をやめることをおすすめする。餓鬼なのだ。そしてこの倣岸不遜さ・夜郎自大さで、アジア進出を図ったものである。アジアを襲った日本の軍人は「武士」ぶった餓鬼である。アジア・アフリカを襲い苦しめた白人の餓鬼ぶり・傲岸不遜ぶりと、同質のものであり、何の違いもない。

またトップが無責任化し、意思決定機構が空洞化する傾向をもつことは、官僚制において不可避の病理であることを改めて、確認させられる。
http://www.asyura2.com/0311/dispute15/msg/387.html


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