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皇族初夜の儀式
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投稿者 中川隆 日時 2013 年 7 月 14 日 08:39:28: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 宮崎の山村に伝わる「百済王伝説」の謎 投稿者 中川隆 日時 2013 年 7 月 14 日 00:22:09)

厳かに執り行われる皇族の初夜。神武天皇の染色体だか遺伝子だかは、こうして受け継がれていった…


皇族初夜の儀式は束帯と十二単の正式な衣装をまとって宮中三殿の賢所で行う「賢所大前の儀」や、親と子の杯を交わす「朝見の儀」ら、一連の結婚の儀をとどこおりなく終えると初夜を迎えるための準備「入浴潔斎の儀」を行う。

簡単に言えば、風呂に入って身を清めるということだが、花嫁は巫女と呼ばれる女官[正式には神社の娘(処女)だが、実際は皇族に仕える中高年の女性が大半]と一緒に入浴する。

浴室に入ると花嫁は、仁王立ちのまま一切自分の体に手を触れてはならず、巫女が服を脱がせ、体の隅々まで洗う。

隅々というからには外側から触れることのできる内部(耳・口・鼻からアソコ・肛門など)にも手指を入れて清める。

これは暗に花嫁の生殖機能を確かめる意味合いも併せ持つと言われている。

ちなみに花婿も巫女と一緒に入浴し、同様に体を清めてもらうのだが、この時の巫女は花婿にとってみそぎ相手でもあり、すでに生殖機能については確認済みということになる。

みそぎとはつまり筆おろしの意。これは皇族代々の風習で、皇族の直系男子は年頃(15歳から18歳)になるとみそぎを済ませる。正式にはみそぎの段取りを教え込まれた巫女、つまり性技に長けた処女がお相手を務めるが、実際は経験豊富な熟女の女官になる。

入浴潔斎の儀を終えると「初夜装束」と呼ばれる白い着物に着替えて(その下には一切下着をつけない)いよいよ初夜の床入り。これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、平安の時代から続く伝統的な儀式である。

まず、花嫁の歳の数だけの白餅を用意し、四枚の銀盤に乗せる。これを子宝に恵まれた老夫婦(主に子供のいる侍従上がりの人間)が初夜の寝床に運んで供える。新婚夫婦はこの餅をひとつずつ食べてから行為に及ぶ。元々は3日間繰り返すものであったが、近代は初夜のみとされる。要するに初めてのセックスで子宝に恵まれるよう霊力を与える儀式ということらしい。

さらに特筆すべきは、以上の儀式には夫と妻、それぞれの身分を保証する、一組の男女が介添人(仲人夫婦にあたる立場の人で部屋の隅で行為の一部始終を見届ける)として立ち会っていることと、儀式が終了した(性行為を終えた)ということを知らせる露見という、お披露目する点である。

露見とは、寝所の扉を開け壁代と呼ばれる衝立を外し、寝具の上に並んで座る夫婦の姿を廊下で待っていた親族に見せ、行為終了後は再び初夜装束に着替え、寝具(厚手の布団)の掛け布団を外しシーツに処女の証である血がついているところを見せるのが正式な方法である。

さらに皇族には「一世一代の秘事口伝」なるものがある。これは代々の帝が口頭で直接申し送りするもので…その中にはセックスに関する風習も多く含まれており初夜の段取りから作法、体位、出産しない時期の避妊法などが伝えられている。

この儀式、少なくとも大正天皇までは行われていただろうと推測される。それにしても、一般人にとっては驚愕の事ばかりだ。他人に初夜の一部始終を見てもらい、終いには「血のついたシーツ」を見せなければならない。

何れにしても、穢れを基本とした内容は、朝鮮半島からの影響が大きいと思われる。


歴代天皇で妾が一番多いのは、嵯峨天皇で29人。毎日違う女性を相手しても1ヶ月かかる。以下、桓武天皇が26人、清和天皇が25人、亀山天皇が21人、後醍醐天皇が20人となっている。金正日の喜び隊なみなのだ。
http://anarchist.seesaa.net/article/11013180.html  

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01. 中川隆 2013年7月14日 13:53:04 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6


天皇霊について二三の事(メモ)

 天皇霊とはあまり聞いたことのない言葉かもしれないが、民俗学の創始において折口信夫博士が唱えた興味深い説の一つである。藤原氏の隆盛と他氏の没落の元となったことなのでここに置くこととした。


天皇霊とは、狭義にいえば天皇家の祖霊である。

祖霊はイエの祖先の御霊の集合体で、どのイエにも個々人にも存在し、さして特別なものではないが、天皇家の祖霊は大大和のうちでも最も力の強い祖霊であるとみなされ、とくに「天皇霊」と呼んだ。

天皇霊は天皇に即位するものに宿る。返していえば、天皇になるにはその霊を宿さねばならない。そしてそれを宿す儀式が即位後の秋に行なわれる「大嘗祭」 なのである。


 この大嘗祭の内容は秘中の秘で明らかにはされていない。しかし、ある程度のことは漏れ伝わってい て、それによれば天皇は殿中で三つの儀式を行なうとされる。


 一、「霊水沐浴」。白い帷子(天羽衣)をきて水風呂に浸かり、浴槽の中で着ている物を脱ぎ去る。

 二、「神人共食」。その年、悠紀田と主基田から取れた米を神と共に食する。

 三、「御衾秘儀」。衣に包まり眠る。


 この三つである。

 直接的に見ると、霊水沐浴は禊であり、天羽衣を脱ぎ去るのは地獄の「脱衣婆」が衣を剥ぎ取るのと 同じで、この世の穢れをすべて衣に移してしまい綺麗な体になることが目的である。

天羽衣の名は「日御子」のイメージからそう呼んだのであろうか、天皇が異人であることを強調している。

そして神人共食をすることでその「ケ」、つまり自然の力をその体内に取り込む。

また、御衾秘儀で神と共に添い寝することで「神婚」をするのである。



 異見として、これを「誕生の模倣」と見る向きもある。

つまり霊水に浸かり天羽衣を脱ぐことにより「羊水と胞衣からの離脱」を、「神人共食」で「歯固め」を、衣に包まることで「おくるみ或いはむつき」をあら わしているというのだ。

確かに「御衾秘儀」は『古事記』の「天孫降臨」に見られる「真床覆衾」(ニニギの 命があまりにも幼かったので天から降ろすときに包んだオクルミのこと)に比定されるのは揺るがないところだと思われる。多面的に見た場合そういう意味合いも含まれているのは否定はできないが、まずは 単純に見るべきであろう。

 最後の三、は古代中国にも見られる風習であると白川静先生が述べられているのを読んだことがあるし、古代バビロニアにも神降ろしの巫女との「神婚」による王位継承がなされたことをご指摘いただいてもいるので、おそらくこの御衾秘儀は相手のあって行われたものである可能性もある。

ではこの相手は誰か。

思うに「伊勢斎王」なのではないだろうか。

伊勢斎王は天皇の即位のたびに新しくなる。仕事は といえば伊勢神宮に天皇の代わりに年三度の奉幣をするだけである。だがこの斎王にはもっと重要な 仕事、「神降ろし」をするための、天皇霊の依り代であったのではないか。

柳田國男先生は

「神を降ろす には巫女とこの言葉を伝える司祭が必要であった。」

と述べられている。これは天皇と斎王の関係をよくよくあらわしている。

斎王は天皇霊をその身に降ろし、天皇はその口から発する言葉に従い政(まつり ごと=祀り事)を行なう。『魏志倭人伝』に描かれた卑弥呼とその弟の関係にそっくりではないか。(斎 宮と天皇の「神婚」は近親姦というタブーを神を介することで神聖化している。)

折口信夫先生によれば 「神婚」は神降ろしの巫女との添い寝と、先帝(の骸)との添い寝が考えられるとおっしゃっておられる。

エロスとタナトスが交錯する儀式。

いずれにしても、いつまでそのようなことをやっていたかは知る由もな く、その後はもっと形ばかりになり、先帝の御衣を身にまとうばかりとなったのだろう。

 これにより分かることは、天皇には二度の即位儀礼があるということである。

はじめは「即位礼」。そして「大嘗祭」。

即位礼は中国の皇帝の即位式を真似たもので、いわば対外的に見せる「昼の儀」であ る。

一方、大嘗祭は夜に秘して行なわれる「夜の儀」で、天皇を天皇足らしめる為の儀式はこちらなの である。


 ではこの天皇霊はどのように創造されたのか。

おそらく大化の改新以後、天智天皇から聖武天皇の 在位中に、祭祀を司っていた中臣氏により成形されたと推定される。それまで一大王家の祖霊であった 神を様々な工程を経る事で、日本全体を覆うまでの巨大な霊体に仕立てるのだから並の作業ではなか ったはずだ。それは取りも直さず「天皇霊=国家神」の創造であり、その先には「現人神」という危うい 一面も内包して誕生した思想であった。

 大化の改新以前でも天皇家(正しくは「大王家」であるが)の祖霊は特別な扱いを受けてきたが、けして国家の神ではなかった。そして天皇家の祖霊を祀る御諸山、いわゆる三輪山での祭祀は他氏と同じように族長たる天皇自らが司っていたのである。

そう、実は伊勢神宮が天皇家の祖霊を祀る地になったのは、そのかなり後になってからのことで、それまでは御諸山が天皇の祖霊の坐ます地(今でもお盆 には死者が山から帰ると言い伝えられる地域もある)であった。

この「天皇家の祖霊」を「国家神」とし、 御諸山から伊勢へと遷したのは、思金命を祖とする中臣氏であった。

古来より、中臣氏は忌部氏と共に 祭祀を職掌としいたが、両氏が祭祀してきたのは「国の霊(いまだアミニズムが抜け切らない自然と一体になっている神)」で、けして天皇家個人の祖霊ではなかったはずである。ところが、いつしか「天皇家の祖霊」は「国家の神」となり、両氏はこれを祭祀するようになっていたのである。

中臣鎌子が中大兄皇子の側近となり名を藤原鎌足に改めた頃から、不十分であった「大王」から「天皇」への移行を完全なも のにするため、様々な試みがなされている。「天皇家の祖霊」を「国家の神」と成すべく、中臣(藤原)氏 が奔走したのもその一端であったと見られる。

 まず、今までの歴史を再編することからこの作業は始まった。

天皇家の始祖を「日の光の神=アマテルの神」とし(これは元々そう云われていたのかもしれない)、これを天上の最高神にした。

と同時に『アマテラスオオミカミ』と改められた神の名は、天皇家の祖霊に付けられた名前でもあった。

この神を、三輪山から伊勢へと移したのもこの頃である。

なぜ伊勢か?

疑問はあるが、太陽神を日の昇る地、どこよりも早く日が拝せる地に祀るのは自然な考えであろう(鹿島神宮も香取神宮も海が近く、東が開けてい る。)。

元々伊勢は磯部氏の所領であったが、天皇家に献納され(というより壬申の乱で取り上げられた)、条件がよいとして遷宮の地と白羽の矢が立ったらしい。わざわざ遷宮させたのは、天皇家の神か ら国家の神へと変貌させるため、旧来染み付いた「祖霊」の記憶から切り離す意図があったのだろう。

三輪山は「大王家の祖霊を祀った地」の記憶を払拭するかのように、大国主命の和霊「大物主命」を祀り、のちに大田々根子(大三輪君)の一族にこれを祀らせている。寺山修二が「書き換えられない過去 はない」といったというが、まさに天皇家として新たな一歩を踏み出すためにすべての過去は都合の良いよう書き換えられた。

この功が認められてか、すでに奈良後期に中臣氏は朝廷で祭祀をつかさどる神祇官で重きをなし、平安初頭には神祇の官位を独占しいたため、他氏の介入は皆無となっていた。

これを憂いた斎部広成は『古語拾遺』を著し、史書の誤謬を指摘し、古来からの職掌の重要性を説き、 中臣氏の専横の非を論じたが、その後も改善は見られなかった。(少々脱線をする。この祭祀を司った 中臣氏と忌部氏、あるいは軍事を司った大伴氏と物部氏(衰退ののちに佐伯氏)など特定の職掌には必ず専らとする家が二つある。これは天皇が新たに即位するたびに斎王が入れ替わるように、各職掌の家も入れ替わったため「二家」あるのではないか。

時代が下るとその制度自体も明確さを失い、上記のようなことが起こったのである。膳部を任されていた安曇氏と高橋氏の争いも『高橋氏文』の上奏にまで発展している。)

「天皇霊」は稲の霊である。このような見解もある。なぜ「大嘗祭」に天皇霊を降ろすのか、という疑問に 対し、かなり傾いた答えではあるが、納得できる点も多く存在する。

 天皇はまず「神人共食」をし、その身に天皇霊を降ろす。

そうすると、本朝でもっとも強い「ケ」の塊で ある天皇霊は、天皇の身の中に充満する。「ケ」をたくさんに取り込んだ天皇はこれを小分けにし、「幣帛」にこめて、これを各地に配布する(奉幣)ことにより、ケが枯れていた各地に天皇霊が撒かれれ、国 はまた再生するのである。(民俗学講義になってしまうが、ここでいう「ハレ」と「ケ」と「ケガレ」は今一般 化されている「日常・非日常」の考え方とは違っている。

「ケ」は一種のエネルギーであり、生活をしてい るとだんだんに減ってくる。これが涸れて無くなると「ケ・ガレ」の状態となる。この状態を元に戻すため、 「ハレ」を作り、「ケ」を集め取り込むのである。)つまり天皇霊がケガレを回復してくれるのである。

 戦後まもなく、昭和天皇が各地を巡幸したことがあった。この行為は荒野となった日本の国土を「反閇」して清め、天皇霊を撒くことで「ケ」で満たそうとしたのだとみられている。
http://www8.plala.or.jp/furan/page064.html


02. 中川隆 2013年7月14日 14:36:15 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

「良子(りょうし)、天狗はどこにいる?」

義詮は息も絶え絶えに正室の良子に春王(しゅんおう)を呼ぶように言った。

「はい、今すぐに呼んでまいります。上様」

貞治(じょうじ)六年師走の十二月、室町幕府二代将軍足利義詮(よしあきら)は三十八歳の若さで一粒種の春王を残して逝去した。

その時、後の三代将軍足利義満(よしみつ)こと幼名春王は十一歳の若さで、内裏の女人貞子と情を交わしていた。

貞子は二十四歳の女御で、後光厳(ごこうごん)天皇の寵愛を嘗て受けていたが、薹(とう)が立つにつれて遠ざけられ、淋しい想いをしていたところへ春王が、義満の名を賜るために父の義詮に連れられ内裏(だいり)に参上した。

襖越しに春王を見た貞子はその日から春王に恋文の歌を贈って誘惑したのである。
それから一年の間、春王は人目を偲んでは貞子の部屋に忍び込み情を交わす日々が続いた。

父の義詮が逝去した際も、春王は貞子の激しい欲望に応えていたのだ。

陽も沈みかけていたその日の夕方、将軍の館である室町第(むろまちだい)の門の前に着いた春王は、館の中が騒々しいのに奇異な感じを持ったが、それが父の死だとは思うべくもなかった。

まだ三十八歳の父が急死するなど考えてもいなかった春王は、門の中で家中の者が、「若君が戻られましたぞ!」と叫んでいるのを聞いて、母の良子に何かあったのではと思った。

良子は帝の后である崇賢門院仲子の妹で体が病弱であったからだ。
その母が跳んで春王のところへやって来たから、春王は安心した。

「春王。上様が亡くなられましたぞえ!」

涙を流しながら良子は春王を抱えた。

女人の香りが春王の衣類からしたのを感じた良子は、情けない表情で春王に言った。

「父君が亡くなられた時にも、お前は女人を抱いておられたのか。ああ先が思いやられる!」

春王が父・将軍義詮、母良子の顔を見たのはこの日が最後となったのである。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu1-1.htm

応安の変

二代将軍義詮が死んだ貞治六年十二月の三ヶ月後、応安元年三月南朝の後村上(ごむらかみ)天皇も死んだ。享年四十一歳。

後村上天皇は吉野に南朝を開いた後醍醐天皇の子である。

義詮の父・足利尊氏は後醍醐天皇の仇敵であり、後村上天皇は義詮のライバルであったが、その二人がたった三ヶ月の間にこの世から去ってしまった。

南北朝と言っても天皇の正統性は南朝が持っていた。
それは三種の神器が南朝方にあったからだ。

義詮が死ぬ一ヶ月前の貞治六年十一月に四国の守護だった細川頼之が管領になった。

頼之が管領になった後、数ヶ月の間に、室町幕府将軍と南朝の後村上天皇が死んだことになる。

しかも後村上天皇は父の後醍醐とは違って温厚な性格で、管領・細川頼之と和平するつもりだったし、将軍義詮もその話に乗り気だった。

それがすべて水の泡となり、もとの木阿弥に戻ってしまった。

まだ十一歳の若き将軍義満にとって、都合のいい出来事ばかりが次々と起こる。
そしてそれから十一年後の康暦(こうりゃく)元年、二十二歳になった義満は満を持して十一年続けた管領・細川頼之を解任し、この時点から義満の独裁政治が始まることになる。

だが義満の暗躍は既に十歳になった頃から始まっていて、そのきっかけをつくったのが内裏の女人たちであった。

特に貞子は後光厳天皇の寵愛を得られなくなった頃から義満に近づき、夜な夜なの閨事(ねやごと)の際の寝物語で指嗾(しそう)していった。

父である義詮が急死した際も、貞子と閨事をしていたが、母の良子はそれ以上の疑いを持たなかった。だが、後に義満の異常なほどの朝廷、特に天皇家に対する仕打ちを遠くから眺めていくうちに、良子は我が子とは思えない魔性を義満に感じ取っていた。

後村上天皇が死んだ応安元年に、細川頼之は「応安の半済令」を発した。
この禁令は後代まで悪法と言われたものだが、頼之が管領として発したことになっている。しかし幕府の棟梁・義満が発したものである。
その年の十二月三十日、足利義満は征夷大将軍に就任した。

「春王殿。ことはうまく運びましたね」

貞子は寝所で義満に優しい声で囁いた。

「わしは、もう春王ではない。これから上様と呼ぶのじゃ」

まだ十二歳の少年だと思っていた貞子も、良子が感じた義満の魔性をこの時一瞬感じたが、肉体の欲望が心を曇らせた。
後に命とりになる運命を貞子は知る由もなかった。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu2-1.htm


応安六年(1373年)、三代将軍足利義満は十八歳の青年に成長した。

管領細川頼之は今川了俊(りょうしゅん)を九州探題に任命し、九州南朝の支配者・懐良(かねよし)親王を筑後の高良山(こうらさん)へ追い込み、九州の中心である大宰府を奪い、南朝の勢いを落とす活躍をした。そして頼之の実権は絶頂期に達していた。

応安の半済令という悪法も、この九州平定で帳消しになり四国の一守護から管領になった当時はそれほどの欲もなかった頼之だったが、この時期になると権力欲が頭を擡げてきた。

天狗の鼻柱を持つ、誇り高い義満には我慢ならない時期でもあった。
義満と頼之との関係は徐々に表面だってぎくしゃくしだし、後光厳天皇も心配していた。

「天狗はおとなしくしているのか?」

久しぶりに貞子を招き入れた後光厳天皇は閨事(ねやごと)の後、義満のことを尋ねた。

帝は貞子と義満の関係を承知の上で、貞子を閨(ねや)に招いた。
帝から御召しがあれば断ることは出来ない。

貞子の情は完全に義満に向いていたが、頼之との確執が激化していることを憂えた貞子は帝の後押しを期待した。

「春王どのは、いま管領どのとうまくいっておられません。それが貞子には気がかりでございます。お上から管領どのにたしなめて頂ければ貞子は・・・」

子猫がじゃれつくような声を出して貞子は帝の胸に顔を埋めた。

義満が十歳そこそこの頃から閨事を交わしていた貞子は、年齢は三十歳(みそじ)であったが、閨事の技は巧みになって、老いた帝にはこの上ない相手になっていた。

二度目の閨事の後、帝は貞子の願いを寝物語として聞いてやった。

貞子は帝が義満の後押しの約束をしてくれたものと思い、精一杯奉仕した。

しかし、それは所詮寝物語であったとは貞子は思ってもいなかった。

明くる年、北朝第四代天皇・後光厳帝は崩御され、元号も明徳元年となり、第二皇子である緒仁(おひと)親王が第百代(北朝第五代)後円融天皇として即位した時点で、この約束は水の泡となったのである。
貞子は先帝を恨み、その由を義満にうち明けた。

義満は烈火のごとく怒り、

「必ずや、王権を纂奪(さんだつ)してみせようぞ!」

貞子に言い放った。 義満の怒りの表情をまざまざと見ていた貞子は、「これこそ、天狗の怒りぞえ!」と絶叫した。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu5-1.htm


大嘗祭の夜の閨事

後円融天皇の即位式である大嘗祭が永和元年(1375年)十月二十二日に伊勢神宮で執り行われることが決まった。

征夷大将軍でありながら、まだ中納言であった義満は従三位であったから、天皇即位式の大嘗祭には直接参列できない。

義満はこのことにも恨みを抱き、その後、管領細川頼之を解任した義満は強引なやり方で永和六年(1380年)には二十五歳で従一位に昇り、翌弘和元年(1381年)には内大臣、同二年には左大臣、そして遂に武家から初めての太政大臣にまで昇りつめることになる。

もともと官位に執着がなかった義満であったが、後円融天皇の即位式の時に抱いた屈辱感が、義満をして太政大臣延いては自らの子を天皇にし、治天の君(上皇)の位まで目指さしめたのである。

武家としては破格の出世で、祖父の尊氏は正二位大納言、父の義詮も、死後従一位左大臣を賜った程度である。

大嘗祭の行われる伊勢神宮で義満ははじめて帝の后である厳子と顔を合わせた。
五十鈴川に架かる橋の上で帝の輿が右側を通り過ぎて行く際に、帝の後の輿から顔を出した厳子は後ろに控えている義満の視線と合ったのである。
その時、義満の従兄弟である緒仁こと後円融天皇は満面の笑みを輿の中で浮かべていた。

『今に見ておれ、このわしが日本国王になってみせる!』

実際にそれから十九年後の応永元年(1394年)、四十歳で将軍職を我が子の義持に譲った義満は出家し天山道義と称し、法皇となって天皇家の纂奪を狙うのである。

貞子も後光厳天皇の女御として即位式に参列していた。
直接参列できない義満の序列は貞子よりも低かったのである。

その夜、貞子は厳子を伴って義満の寝室に潜り込んできた。
貞子と二十歳も違う厳子は輝くような美しさであった。

「そなた達は本当に姉妹なのか?」

義満は信じられない様子であった。

「腹違いの姉妹で、藤原信秋の子種であることは事実です」

貞子が答えたら、横で厳子も恥ずかしそうに頬を赤めながら頷いて義満を見つめた。
その表情はたとえ彼女が帝の后であろうと抑えることが出来ない程強烈に、義満の欲望を突き上げるものだった。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu7-1.htm

大嘗祭の即位式は夜を徹して行われる。

夜半に行われる儀式がまさに皇祖神天照大神から天皇として認められるもので、即位する天皇が一人で皇祖神と対面するのだ。

数時間に亘る儀式は想像を絶する厳しさで、大嘗祭で病に臥せてしまう天皇もいる。

緒仁親王が後円融天皇になる、まさにその瞬間に、義満はその后に最初の裏切り行為をさせたのである。

しかも聖地である伊勢神宮で、義満は日本国の権威の象徴である天皇を侮辱したのだ。

平治の乱で源義朝を討ち取り、ついでに義朝の愛妾である常磐御前まで奪った太政大臣平清盛でさえ、後白川上皇と真っ向から対立はしたが、皇位纂奪までは考えなかった。

初の武家支配の幕府を開いた源頼朝も征夷大将軍で甘んじていたのは、天皇家の万世一系の伝統には対抗できなかったからである。

義満の足利家は源氏の直系であり、貞観(じょうがん)元年(858年)に即位した第五十六代清和天皇がその祖先であるから、義満の代までに既に五百年の歴史を誇る名家であった。

しかし、後円融天皇が第九十九代にあたる天皇家の伝統には遠く及ばない。
嘗て、武力で日本の国を制覇した人物は多くいたが、天皇家を覆す者は誰一人いなかった。

時代が要請したのか、第九十九代天皇が即位する真っ只中で、その后と密通する大胆不敵な怪物が登場したのだ。

「そなたの名前は厳子(げんし)と申すのか。貞子(じょうし)とは姉妹と聞いたが、貞子は先帝のお手つきにあったにもかかわらず、そのままこのわしに払い下げられた気の毒な女人であった。しかしそなたは新しい帝の后となった運のいい女人ではないか。

それが選りにも選って帝の即位式の夜に、このわしと閨事をするとは大胆な女御であらせられる。なぜそのようなことをするか、理由(わけ)を申せられよ」

義満は帝の后である厳子に精一杯の礼を尽くして言った。

「あなたはこの国の実質の支配者と藤原家ではみな申しております。必ずや近い将来、皇位を奪われる方だと聞きおよびます。だから帝など怖くはございません。またあの方は手弱男で、あなたと同い年でありながら、わたしにまだ手をつけようともなさいませぬ。

それに比べてあなたは、貞子さまと十一歳の頃から寝床を共にしておられるとか、たくましゅうございます。何の、何の、どうかわたしの体を喜ばせてくださいませ」

義満は大胆な厳子の言葉に唖然として、

「女人とは、永遠に分からぬものよ・・・」

と言って、貞子がいるそばで厳子を抱いた。

その間、緒仁(おひと)こと後円融天皇は大嘗祭のまさに一番中心の御衾(おぶすま)秘儀の儀式の真っ最中で、皇祖神天照大神との神人共寝をするのである。

神と同じ霊格になるため、皇祖神と神聖なる共寝をしている時に、その后が同じ神宮で、従三位中納言足利義満と閨事をしているのだ。


大嘗祭の夜には三つの儀式がある。

聖水沐浴、神人共食、御衾秘儀である。

聖水沐浴は、沐浴時に「天羽衣」と呼ばれる湯帷子(ゆかたびら)を天皇が羽織り湯殿に入り、湯槽の中で脱ぎ捨てられ、湯槽から出られて新しい「天羽衣」
に着替えられることで天から生まれ変わられ天子となられる儀式である。

それに合わせて、義満は厳子と一緒に湯殿に入り、湯殿で閨事を交わし厳子に自ら次の天子の種づけをしたのである。

神人共食は、天子となって生まれた天皇が天照大神と、外宮の豊受(とようけ)大神から生命エネルギーの大御饌(おおみけ)である新穀を与えられ、共に食される儀式である。

饌(ケ)とは食であり、生命エネルギーを指し、また新しい魂でもある。

皇祖神・天照大神と同じ霊格を持たれる。

この時、義満は貞子と厳子の二人と共に同じ大御饌を食したのである。

大嘗祭とは一年に一回行われる収穫の感謝と次の豊穣を祈願する新嘗祭(にいなめさい)に合わせて行われる、天皇にとって一生に一度の祭事で、その時に神宮の斎宮も交代される。

貞子は大嘗祭の意義を義満に教えていた。

義満は皇位簒奪を決意し、その予行演習のつもりで、この大嘗祭に臨んだのである。

「必ずや、天皇になってみせる!」と貞子に約束した、その時であった。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu8-1.htm

推古二十八年(593年)に、聖徳太子による十七条憲法と十二の官位が制定されてから半世紀後の大化元年(645年)、中大兄皇子と祭祀の中臣鎌足が、聖徳太子没後、権力を掌握していた蘇我馬子・入鹿親子を宮中で成敗し、大化の改新を成し遂げた。

祭祀の中臣鎌足が中心になって、天皇による祭祀が始まり、文武天皇の大宝元年(701年)に刑部(おさかべ)親王と中臣鎌足の子・藤原不比等によって大宝律令が制定され、本格的中央集権国家が確立された。

七世紀後半に始まる律令天皇制国家の祭祀によって大嘗祭が制定されたのだ。
律令制によって、それまでの氏姓(うじかばね)制時代には、各地の豪族たちが既得権として所有していた土地を、「公地公民」「班田収授」の導入で、国有地にしてしまったのが正式な税の始まりである。

各地の豪族である国造(くにのみやつこ)が郡司となり、それを監視するために朝廷から国司(くにのつかさ)が派遣され、米の収穫感謝と豊作祈願をする年一回の新嘗祭(にいなめさい)が行われ、その時に最初の収穫を、祭祀を行う神社に納め、その次の収穫を朝廷に納めるのが税となったのである。

律令中央集権天皇制国家となって、この新嘗祭が新しい天皇の即位式となり大嘗祭となったのである。

日本における税の概念は、最初に収穫する穀物に対する収穫感謝と次の豊作祈願から始まったものであるのだ。

天皇の即位式である大嘗祭と税制は、中央集権国家ができる前の共同体社会において既に存在した慣習であった。

各地の豪族を土豪と言って、彼らがほとんどの税を納めていたのである。

その土豪が、永和四年(1378年)、義満、22才の時に大和(おおやまと)国で反乱を起こした。

後円融天皇即位の三年後の出来事である。

大嘗祭の神宮で種づけをしたはずの厳子が身ごもらず、後円融天皇が晴れて即位した後は、厳子との閨事もままならなくなった義満は鬱憤を溜めていた。

その時、管領として権勢を誇っていた頼之が、この土豪の反乱で窮地に立たされた。

父、義詮の治世の頃の権力者であった斯波義将(しばよしまさ)が、将軍義満に頼之の管領解任を陳情した。

それまで、政事は頼之に任せ、もっぱら朝廷の女人遊びに溺れていた義満だったが、いらいらが募っていたこともあって、十年以上も任せてきた頼之を解任してしまった。

頼之は翌・康暦(こうりゃく)元年、京の屋敷を焼き払い四国に引っ込んでしまった。
この時から、義満の政治家としての怪物ぶりが発揮されることになる。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu9-1.htm


細川頼之を追放し、斯波義将を管領に復帰させた義満は御家人を信用していなかった。

詰まるところ自分の家第一で、幕府第一とは誰も思っていないことを、義満は女人に溺れ、管領に政事を任せている間に女人から教わったのである。

男は如何なる身分でも、それ以上のものを常に望む動物であることを女人達は体で知っていた。

まだ元服もしていなかった春王の時から貞子や他の女人と情を交わすことで、自分と同じ男の性を知ってしまった。

「男というものは、たとえ帝であっても欲は尽きないもので、肉欲と権力欲は裏表の関係でありますぞ。女は肉欲の対象とされ、権力欲の道具として使われる哀しい動物であります。どうかお忘れなきように」

貞子から口酸っぱく言われてきたことだ。

貞子は後光厳天皇の寵愛を受けていたが、春王という天狗の化け物が登場すると、我が子の時代になった時のことを考えた帝は貞子を春王に与えたのである。

それが仇になるとは先帝も思っていなかった。

女が男の気持ちを測ることが出来ないように、男は女の気持ちを測ることは出来ない。

貞子は、相手が帝であろうが、その瞬間(とき)に情を交わした男に全てを与えることを、男である帝には理解出来なかった。これは男と女の永遠に埋めることの出来ない溝なのである。

権力を持つ男の性を嫌という程教えられた春王は、三代将軍になっても若年だということもあって、権力に全く関心を持たなかった。

男の権力欲の醜さを知っていたためであり、まだそれを吸収するだけ男として成熟していなかったからである。

御家人どころか義満は我が子たちも、腹の底では信用していなかったようである。
嫡男義持を将軍にはしたが、院政を引き、一方で次男義嗣を寵愛した振りをしていたことでも分かる。

義嗣の元服式を天皇の内裏で挙げるという前代未聞の天皇家侮辱を平然とやってのけた。

義満の絶大なる権力は管領頼之を追放した時から始まった。

生まれもっての天性か、権力の本質を知り抜いていたのか、義満はまず近衛軍の設置をした。

奉行人という将軍直属の文人と、奉公衆という将軍直属の軍人を掌握したのである。

現代世界で言えば、アメリカ合衆国の大統領がそうであり、戦前の昭和天皇が国家の大権と軍隊の統帥権を持っているのと同じである。

そうなれば現人神になれるのである。 義満の女人遊びは決して無駄ではなかった。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu10-1.htm


貞子は義満によって女官としては最高の位を賜った。

徳川三代将軍家光と春日局との関係に酷似している。

後小松天皇の母である皇太后が厳子であり、厳子の姉である貞子は朝廷の女人を悉く品定めをしてから義満に献上していたのである。

その献上の方法が義満に大いに気に入られた。

永年続いた貞子と厳子との三つ巴の閨事を、目ぼしをつけた女人に覗き見させるのである。

上皇の后とその姉が絡む情交を見せられた女人は大胆になり、情交の仲間入りをする。

そして二人の前で義満に味見されるのである。

最初は貞子との閨事だったのが、その後厳子が加わり、そして按察局(あぜちのつぼね)と悉く上皇の愛妾が義満の女人天国の住人になっていった。

まさに、その情景は男冥利に尽きる天国であった。

それを演出していたのが、後光厳天皇に捨てられた貞子であったということは、歴史の裏の話とはいえ余りにもドロドロしたものである。

そして義満は精力家としてだけではなく、政治家としても大きく育っていくのである。

まず手始めに、義満は自分に反抗的な公家をいじめ抜くことをした。
その餌食にされたのが西園寺、久我、葉室の御三家である。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu14-1.htm


義満が若い将軍でありながら絶大な権力を掌握していったのは、その政治力に拠るところが多い。

これほどの若さでありながら、公家や武家の老獪な連中を手玉に取る能力は際立っていた。

「犯罪の影に女あり」ではないが、義満の政治力の影には二品尼貞子を筆頭に、厳子、按察局、池尻殿、加賀局、誠子といった宮中の女御がいた。

彼女らとの閨事は、義満にとっては大事な政事の場でもあったのだ。

改元権をも握った義満が元号を考えた中に応仁というのがあったが、結局義満が五十一才で暗殺された後、彼の三男で青蓮院門跡であった義円こと、後の六代将軍義教(よしのり)も暗殺されることで室町幕府はその求心力を失っていくことになる。

そして戦国の乱世となっていった時代の元号が応仁であったのは歴史の皮肉と言えるだろう。

応仁の乱を最後に制したのは、義満没後その義満の意を継いだ義教が赤松満祐に殺害されてから百年後に颯爽と登場した寵児・織田信長であった。

信長は義満のように三代将軍の地位を利用して、政治力によって天下を握ることはしなかった。いや出来なかったと言った方がいいだろう。

室町幕府時代の管領職を細川家と争った名門・斯波家の家来の一人が織田家であったから、義満とはいくら大名とは言え大きな差があった。

そういう意味では、天皇家から王権を奪い取ろうとして結局暗殺されていった二人の英雄ではあったが、信長は創始者であったから、力づくで天下を抑えようとしたのに対して、先祖の遺産を受け継いだ三代目義満が政治力を駆使して天下を支配していったのは慧眼であったと言える。

その影で義満の力の源泉となって支えていたのが女御たちであり、彼女らとの閨事は政事よりも重要な勤めであったのかも知れない。

歴史に「もし・・」は無いが、「もし」織田信長が義満のような政治力を駆使して公家や朝廷を掌握していたら、明智光秀に暗殺されるようなことは無かったであろう。

明智光秀は細川藤考(幽才)と共に信長と京都の朝廷の橋渡し役をしていた人物で、朝廷との突き詰めれば天皇とのパイプ役を家来に任せ、女性を政略の道具にしか使わなかったことが、本能寺の変を招いたのであり、義満のように女性を味方に取り込んだ政事をしていたら、その後の歴史は大きく変わっていたことは想像に難くない。

やはり「犯罪の影に女あり」は歴史の真実であり、また人間社会の真理であるのかも知れない。

女性を敵にすると怖いのは、いつの世も同じであり、逆に女性に沈溺しても身の破滅を招く。

女性の扱いは、いつの時代でも、最も難しい問題であるようだ。

現代の日本の政治は、まさに女性人気だけに支えられた政権である。

厳密に言うなら女性的体質の人間の支持基盤が重要な時世になっていると言える。
女性と男性の決定的違いは、男性は行動で己の想いを示すが、女性は言葉で示して貰わないと理解出来ない生き物なのだ。

言葉巧みな男には、いくら賢明な女性でもころりと参る。

我が国の宰相は、その言葉だけで政治をやっているように思えてならない。

歴史はその結末を教えてくれる。 義満が暗殺されたように。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu22-1.htm


改元は本来天皇若しくは治天の君が変わった時に行われるものであったが、叙任権・改元権・祭祀権を掌握した義満は、自分の権威を高めるために、二、三年に一回の間隔で、管領細川頼之の解任による頼之の造反で起こった康暦の政変以来次々と改元していった。

永和四年(1378年)、西園寺公永(きみなが)は右近衛大将になりたくて、貞子に近づいて、義満に頼み込んだ。

しかし、貞子に頼んだのが仇になった。

貞子に何度も煮え湯を飲まされてきた後円融上皇は、この上奏を徹底してはねつけた。

そして序列に従って、徳大寺実時(さねとき)が右大将になった。

『あの不能者めが、わしに楯突きおって!』

義満は貞子と上皇の后である厳子を前にして怒りを露にした。

まさに腹いせとばかりに、二人の女御を相手に情を交わし、怒りのエネルギーを彼女らにぶつけた。

その様は、長いつき合いの貞子ですら、さすがに異常かと思わせるほどの荒々しさで、まるで動物を犯すような残虐さと執拗さであった。

特に厳子に対する情交は、何が何でも自分の種を植えつけてやるといった執拗さで、妹である厳子が目の前で義満に犯し殺されるのではないかと、貞子が思う程の激しさであった。

管領細川頼之を解任して、いよいよ独裁体制にと考えていた矢先の康暦元年八月、義満は廷臣の最高位にいて、自分に肩入れしてくれている二条良基の摂政再任を奏聞したが、後円融上皇の猛反対で、左大臣二条師嗣(もろつぐ)に宣下された。

怒り心頭の義満に対して、後円融の反撃もここまでであった。
厳子が身ごもったのである。

『してやったり!』と狂喜する義満を見つめる貞子と厳子には、まさに大天狗に見えたのであった。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu24-1.htm

身籠った厳子だが、上皇の寝所お召しには応じていた。

義満の官位叙任権を撥ねつけた後円融は、近侍の者たちに、我が権威を大いに見せ付けることが出来たと満足し、厳子との関係もいたって順調だと思っていた。

厳子自身も、大天狗に変貌した義満に不安を感じていた反動で、上皇のお召しに進んで応じていた。

そこへ孕んだことを知った厳子は、それが天狗の種であることを直感した。

義満は、厳子が自分の子を孕んだことを貞子より伝え聞き、喜色満面で狂喜した。

上皇の方に気持ちが傾きかけていた厳子は、自分が孕んでいることを上皇には教えずに、厳子の方から積極的に連夜の閨事を上皇に求めた。

そして、とうとう厳子は連夜の閨事の過労で、出血して腹の子を流してしまった。

上皇には、閨事の過労で風邪の病に臥したと伝え、上皇から、「体を癒すことに専念するよう大事に」と心篭ったお言葉まで賜り、三条家の実家で体を癒した。

貞子は、厳子が流産したことを聞き、義満に伝えた。

「何ゆえ、流産したのか?」

「分かりませぬ。厳子の話では、風邪の病が高じたのが原因だと申しておりました」

上皇に対する怒りのエネルギーを上皇の后の体内で爆発させることで、収まっていたものが再び再燃した。

「厳子を、今夜呼べ!」

貞子に命じたが、さすがの貞子も流産した直後の厳子に、義満の激しい情交の相手をさせることは出来ないと断った。

鬱憤を晴らせぬ義満は、仕方なく尼になった按察局(あぜちのつぼね)を召そうとした。

しかし、按察局事件で後円融上皇が持明堂事件を起こし、「自殺してやる!」と喚き立てたのを、生母の崇賢門院に説得されやっと収まった事件の張本人である按察局に手を出すことは余りにも不条理だと、又もや貞子から諫言された。顔を真っ赤にして黙っている義満に、貞子は言った。

「今夜は、わたくしを弄びなされ」

義満は駄々を捏ねる子供のように貞子の胸に顔を埋めた。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu25-1.htm


束の間の栄華

永和四年(1378年)及び康暦元年(1379年)の義満の奏上による西園寺公永及び二条良基の官位の叙任を、決死の覚悟で拒否した後円融上皇は、義満の種を孕み、それを意図的に流してまで上皇のことを憂慮した厳子の想いに応えて、精神的に最も落ち着いた時を送っていた。

義満との相克もさほど無く、穏やかで平和な期間であったが、それは上皇最後の悲劇の序曲であった。

永徳二年(1382年)。厳子は後円融の子を孕んだ。

この時期、義満は病がちで、まだ嫡男が生まれていないこともあって、閨事(ねやごと)は正室日野業子(なりこ)だけに絞っていた。

その間に厳子は後円融の子を孕み、もともとしっくりしていなかった夫婦関係が極めて良くなった時期であった。

貞子から、厳子が身篭ったことを聞いた義満は、自分の子種でないことは明白であったので地団太を踏んだ。

貞子も義満に言わなければよかったのだが、女の気持ちは計りしれない。
妹の厳子に必死に子種を植え付けようとする義満に対してではなく、妹の厳子に嫉妬心を燃やしていたのだ。

自分から進んで天皇の后である妹を義満に提供し、三人交えての閨事も重ねていたのに、嫉妬心を抱く女の気持ちを、まだ若い男の義満には到底理解できるはずもなかった。

しかし、老獪な年齢に達した貞子には、義満の心情は手に取るように分かっていた。

その結果、厳子が後円融の子を孕んだことを敢えて義満に知らせたのである。

政治力においては、見事なまでの老獪さを発揮する義満も、男女の問題では貞子の手中に入っていたのだ。

地団太を踏んで悔しがった義満が、どういう手を打つのかも貞子には読めていた。

「日野資康を呼べ!」

義満は武家伝奏である日野資康を呼び付け、罠を仕掛ける相談を持ち込んだ。
日野資康は武家伝奏という役職もあって、情報操作にかけては右に出る者はいないことを知っての相談であった。

貞子さえ、この相談事の中に入れてもらえなかったが、貞子は察しがついていた。
そして予想通り、後円融上皇の束の間の平和をぶち壊したのであった。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu26-1.htm


後円融天皇の父である後光厳天皇の典侍で、遁甲(とんこう)という忍びの役目も負っていた三条貞子という女性がいた。

貞子は後光厳天皇の肝煎りで、足利義満の幼名・春王のところへ、閨事の指南役として送り込まれたが、ミイラ取りがミイラになって、貞子は春王の遁甲になってしまい、自分の妹であり、後円融天皇の皇后であった三条厳子をも、春王との閨事に引きずり込んだのである。

後円融天皇が若くして上皇である治天の君になったのも、そして若死したのも、元はと言えば皇后三条厳子と義満との密通疑惑が原因であった。

義満が権勢を誇り始めたのは、管領細川頼之が失脚してからであったが、十一才で征夷大将軍になった時から、既に怪物の片鱗を見せていた。

後顧の憂いを懸念した後光厳天皇が、十一才の春王が将軍になるために元服した際に義満という名を与えたのである。

後光厳天皇の寵愛を受けていたこともある貞子だが、自分の体をいとも簡単に、まだ十才程度の義満に払い下げられたその失望は計り知れないほど大きかった。

今も昔も変わらない人間関係、特に男女関係には、ひとつの真理がある。

相手を人間として扱わない人間は、必ず男女関係でつまずき、そういう人間の本質である上昇志向の強さとは裏腹に、最終的には人生の敗北者になる。

その時、そのつまずきの原因になるのが、人間扱いせずに物扱いした相手である。
男女の関係では、男にその傾向性が強いのは当然である。

最も代表的な例が、女性を利用した政略結婚である。
豊臣秀吉と徳川家康の関係においても、自分の妹で既に夫持ちの旭姫を、離婚させてまで家康に嫁がせた。

徳川家康も今川義元によって政略結婚させられた築山殿に裏切られている。
現代においても、宰相にまでなった政治家が、たかだか三百万円を吝嗇(けち)って、宰相の地位を棒に振っている。

「英雄色を好む」の真意は、本当の英雄は、いかなる人間をも人間として扱う公正・平等の体質を持っている。だから英雄になれる。そしてその影には支えとなる女がいる。英雄はその女が愛妾であっても人間として大切にする。

だから多くの女が、英雄に心奪われ自ら進んで愛妾になって、英雄の周りには、女がつきまとうことになるのである。

女にとって、男と体質が正反対だから見抜くことは困難なことであるが、一番警戒しなければならない男は、人間を物扱いする種類(たぐい)であることを忘れてはならない。

足利義満が、権勢を縦にすることが出来、王権纂奪まで考えた背景には、払い下げされた貞子を最後まで大事にし、人間扱いしていたからであり、後円融天皇の皇后となった三条厳子が密通の噂まで流れても、義満との閨事を重ねたのも、義満に、「英雄色を好む」体質が具わっていたからであろう。
http://www.satoshi-nitta.com/tengu/tengu48.htm


03. 中川隆 2013年7月15日 01:14:05 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6


芥子の花


ふ〜しょう♪ふ〜めつ♪ふ〜くう〜♪ふ〜じょう♪〜

読経は続いている。焼香の煙が静かに漂い流れてくる。

私の実家は阿波の国、土佐との国境で、海底で堆積し褶曲された山々がある所では隆起しある所では黒潮が流れる青い海へと没した海辺に開けたのどかな土地にある。

宗派は真言、それで弘法大師いわれの話しがここかしこに言い伝えられている。


大師さんが休み、杖をついたところ、そこから清水が湧いてきたとか、ちょうど大石が落ちてきた時、弁当に使っていた箸を地面に突き刺すと忽ち箸は大木の杉の木になって大石の落下をくい止めたとか、小さな頃から法事がある度に先代のおじゅっさんから先祖の逸話を聞くと伴に大師さんにまつわる話しを数多く聞いてきた。

・・・ないし♪むろし♪やくむろしじん♪・・・


遠い声を聞く様に清んだ先代のおじゅっさんの話し声が重なって聞こえてくる。


裏山に住む狸の話をしてくれた事や椎の大木の陰に潜む天狗が夜な夜な空を飛ぶ話しとか、そんな幾つかの話しの中にあって、ことさら不思議と胸の内にわだかまった話し


「大きな声では言えないがね寺の裏山には終戦頃まで芥子の花が咲みだれていてね・・・」


何か咲きみだれる見知らない花々が秘密めいて思い出されてくる。

これは我が母校の校章となっているからだろうか?

焼香の匂いが一層強く漂い私はさらに静かにゆっくりと夢想の翼が開いていく様に感じられてきた。 月の青い光が降り注ぐ裏山に白い花びらの芥子の花が青白く濡れている。 これは梶井基次郎が書いた『櫻の木の下に死体が埋まっている』より尚妖艶ではないだろうか?

芥子の花の下には骨が埋まっているのに違い無いのでは。


空海さんはさすが博学やったんやな〜と思ってしまう。 真言密教の片田舎の末寺に芥子の花が咲き乱れていたと言う事は日本各地の数多くの寺々では芥子が植えられ使われていたのではないだろうか?

さても、古く真言密教の儀式において護摩火に芥子も焼香のひとつとして投げ入れる秘儀が常時おこなわられていたのでは?・・・

かの時代なら十分うなずけれることなのでは。


薄暗い堂内に掲げられた曼荼羅に昇る火と立ち込める煙、それと伴に強い香を焚けば祈りを捧げる人々、 みんな酩酊しないわけが無いのではないだろうか。

人々の眼前に現れるのは極楽浄土だったのではないだろうか。


夢想する私の耳には空海さんが唐国から船で帰るさい墨染めの衣の袖の下には身毒(インド)渡りの芥子坊主を忍ばせた・・・・

サラサラと芥子坊主の中の乾いた実の音が聞こえてくる。

そしてその音はサラサラ サラサラと木霊し流れ来て私の脳内の神経節の一部にエンドルフィン、エンケファリンとして反応し点滅している様に感じられてくる。

それはランニングハイのような高揚なのだろうか?

いやいやそれは今まさに私の脳内で芥子坊主から滲み出した黒く変色した果汁が翼を開ける様に広がっている高揚なのではないだろうか?


・・・ぎゃあ〜てい♪ぎゃあ〜てい♪はらさそ〜うぎゃあ〜てい♪・・・・


読経は尚も続いている。

ああ・・・またもや何処か人知れない廃寺の裏山でひっそりと月の光に濡れながら青白く咲く芥子の花と唄う様に揺れる芥子坊主の姿が私の頭の中で映像として結びだしてきた。
http://plaza.rakuten.co.jp/maeno7547/diary/200901310000/


真言密教立川流と後醍醐天皇の子沢山

文観弘真(もんかんこうしん)僧正の真言密教立川流に心酔した後醍醐天皇は、教義に添って多くの子を為すのだが、この「後醍醐天皇の子沢山」は、後の出来事を思うと「歴史の必然だった」のかも知しれない。

後醍醐天皇のお相手と成った女妾、女官も数多く、皇子・皇女と認められただけで十六人に及ぶ親王(しんのう/皇子)、内親王(ないしんのう/皇女)を設けられている。

正直、一頃の親王(しんのう/皇子)・内親王(ないしんのう/皇女)の誕生時期が重なるほど後醍醐帝の子創りがお盛んだった為、どなたが何番目のお子なのか不明なくらいだった。

南北朝期の初期、中央の畿内では北朝方・足利尊氏が南朝の本拠地・吉野山周辺を残してほぼ制圧を果たし、戦が義良親王(のりながしんのう /後村上天皇・ごむらかみてんのう )を頂いた東北地方と懐良(かねなが)親王を頂いた九州にその主戦場が移って居て居た。

その他に中国・四国を中心に活躍した第十一皇子・満良親王(みつながしんのう)、越後・越中・信濃で活躍した宗良親王(むねながしんのう)、新田義顕(にったよしあき)と共に戦い越前国金ヶ崎に散った尊良親王(たかながしんのう)など、帝の意を受けて戦った多くの皇子がいた。

千三百八十二年(元中九年/明徳三年)の「南北朝合一(明徳の和談)」まで南北朝の抗争が六十年間続いたのは、多くの親王が各地で抵抗したからである。

つまり真言密教立川流に心酔した後醍醐帝の「子沢山」が「歴史の必然だった」と思えるほど、南朝方は「皇統を繋ぐには親王(しんのう)が多いに越した事は無い」と言う事態に見舞われたのだ。
http://jiyodan.exblog.jp/18745248/

インドにおける密教は変容し、性欲崇拝の濃厚なものになり、やがてチベットに伝わり、ラマ教になるのだが、ラマ教は密教という点では空海が遺した真言密教との違いはないといっていいであろう。

しかしながら両者は神秘性の表現においてははなはだ異なっている。

ラマ教は、インドで衰弱段階に入った後の左道密教といわれるものに相似し、性交をもって宇宙的な原理を表現することに於いて強烈で得あるが、空海がもたらした密教はそういう思想を内蔵しつつも教義全体の論理的筋肉がまだ若々しく、活動がなお旺盛で、性欲崇拝へ傾斜するような傾向は外部からは窺いにくい。

しかし空海の没後、数百年を出ずして彼の密教も左道化した。

「真言立川流」 と呼ばれる密教解釈が、平安末期から室町期にかけて密教界に瀰漫し、とくに南北朝時代にはその宗の指導者である文観(もんかん) が後醍醐天皇の崇敬を受け、立川流が密教の正統であるかのような座を占めたことなどを見ても、空海の体系には、性欲崇拝を顕在化させる危険が十分内在したというべきであろう。
http://singetu.ddo.jp/kuukai_huukei/56.htm


ヨガの起源はインドにおける「尸林(しりん)の宗教」にあります。「尸林」とは中世インドの葬儀場のことで、大きな都市に隣接してこの尸林が存在していました。死者の遺骸は都市部から尸林に運ばれ、荼毘にふされるかそのまま放置されて鳥獣の貪り食うにまかせられました。しばしば尸林は処刑場を兼ねており、斬首されたり、串刺しにされた罪人の死骸が晒されていました。


これらはまともな神経の人間には実に恐ろしい場所であり、実際に野獣が跋扈する危険な場所であり、しばしば魑魅魍魎が徘徊する場所として恐れられていました。

 この尸林では、「尸林の宗教」といったものがあり、墓場に女神が祀られ、女神に仕える巫女が住み、死体や血液を用いる黒魔術的な秘儀を行なっていたのです。
尸林の土着の女神たちは、それぞれの尸林を管理する教団によって、ヒンドゥー教か仏教の女神として崇拝されていました。それぞれの尸林の女神の祠(ほこら)には巫女が仕え、女神を供養する傍ら、呪術を生業としていました。

その巫女は苦行母(茶吉尼・ダーキニー)または、瑜伽女(ヨーギニー)と言いました。シヴァ神の神妃サティーの暗黒面を表象するドゥルガー女神に彼女たちは侍女兼巫女として仕えていたのです。

その聖地(墓場)に土着の女性たちは、多くはアウト・カースト(日本で言う穢多非人)の出身で、昼間は牧畜や工芸等の底辺労働に従事し、夜間は(アウト・カーストの女性に特有の)妖術を使うとみなされていました。彼女等は1年の特定の祭日、又は月の特定の祭日に尸林に集まり、人肉や排泄物を含む反日常的な食物、つまりは聖なる食物として食し、酒を飲み、歌舞音曲を楽しむというオルギア(秘教的儀式)を行ないました。

 この尸林におけるオルギアの中核をなすのは、ガナチャクラと呼ばれる性魔術儀式です。ガナチャクラとは仏教行者の行なう修法の一種であり、修法を構成する儀礼は曼荼羅制作、護摩、観相(瞑想)法、飲食、歌舞、供犠、性瑜伽(ヨガ)などです。


 ガナチャクラの構成員は9名であり、破壊神シヴァの最も凶暴な姿を具現した神、パイラヴァを召喚した男性行者が1名がアジャリとなり、その周囲を円形に囲む女神を召喚した女性行者が8名の計9名で行なう儀礼です。


天体の運行を模す形で周囲の女性が位置を変え、順番に中央の男性と瑜伽(性行為・読み方はヨガ、ヨガのポーズはこの性行為の秘儀が元になっています。)します。この位置変換を「瑜伽(ヨガ)女の転移)(サンチャーラ)と言います。
女性行者が8名に臨時のメンバー(行者でない女性)を1名加えた9名と言う説もあります。その場合は中央の歓喜仏の姿勢で交合する男女1組に対して、円形に8名の女性が並び、曼荼羅が常時成立することになります。この結果、中央の男性行者はすべての女性行者と平等に和合することになります。

 この儀式はインドの古代神話世界において、ヴィシュヌ神が金輪剣(チャクラ)を用いてシヴァの神妃サティーをばらばらに切断し、地上に落としたあと、サティー女神が復活し、シヴァ神と再結合を果たした説話をかたどっています。ちなみに切断された女神の遺体が落下した場所が前出の聖地です。


星辰の回転を象徴しながら、都合8回(1対8)の性的和合により発生する宇宙的快楽は「大楽(マハースーカ)」と呼ばれ、子の大楽が行者を「梵我一如」の境地に連れ去ると言われているようです。 梵字はこの瑜伽(ヨガ)のポーズを記号化したものであることから、ヨガのポーズや梵字には多くの憑依霊や狐などの動物靈を呼び寄せる大変危険なものなのです。


 上記の尸林に集まる巫女の内、ダーキニーと呼ばれた人たちは、空海が日本に密教を持ち込んだ時に茶吉尼天(ダキニテン)という女神として現在の稲荷神社に祀ってしまいました。稲荷神社でキツネを眷族として祀っているのは、このダキニテンからきています。


 というのは、もともとダキニテンはインドの墓場、尸林で性行為を伴う黒魔術をおこなっていたダーキニーであり、インドでは人肉を食らいながら裸で踊り狂い、左手には人の腎臓(もしくは心臓)、右手には人からもぎ取った手足を持っている姿で描かれていますが、何と日本の稲荷神社で茶吉尼天となったダーキニーは優しい姿で左手には宝玉、右手には剣を持って描かれています。

 そして、何故キツネかと言えば、もともとダーキニーは夜になると死肉をあさるゴールデンジャッカルの変身した姿だと言われていたり、ゴールデンジャッカルを人食い女神の眷族(けんぞく・使いっ走り)として使っていた、と言うことから来ていますが、日本にはジャッカルが存在しないため、ダーキニーとジャッカルのコンビが茶吉尼天とキツネのコンビに変容してしてしまったようです。 
http://www2.tba.t-com.ne.jp/onmyoukai/newpage109.html

父母や先祖の髑髏に漆を塗って祭壇に祀る。

そしてへールカと呼ばれる中央の男性とダーキニーと呼ばれた女性行者が9名とその前で契りを交わし、その和合水を髑髏に塗り付ける。


髑髏の「建立」

髑髏をそのままにして、頤(おとがい)と舌をつくって髑髏にしつらえ、また歯をつけて、髑髏全体に生身の肉がついているかように見えるまで、何度も漆を念入りに塗ったあと、箱の中に納めておく。

続いて,地面に血を用いて曼荼羅を描き中心に指導者がそのパートナーと座し,その周囲に円形に8人の容姿端麗な美女を配置する. 天体の運行を模す形で周囲の女性が位置を変え、順番に中央の男性と和合を行なう。

中央の歓喜仏の姿勢で交合する男女1組に対して、円形に8名の女性が並び、曼荼羅が常時成立する様にする。 中央の男性行者はすべての女性行者と平等に和合し,それを5日間続ける.

そしてその和合水(淫水=男性の精液と女性の愛液)をこの髑髏に百二十回塗り重ねる。 それから毎夜子丑の刻(午前零時と午前二時)に反魂香を焚いて髑髏を薫染する。 反魂香を焚けば死者の姿が煙のなかに現れる。

その一方で反魂の真言を千回唱える。そうすれば死者の魂が戻る。

このような修法を行ったのち、髑髏の中に種々の相応物や秘密の符を書いて納め、頭頂に銀箔と金箔をそれぞれ三重につけ、その上に曼荼羅を書き、その上に金銀箔をおす。 さらにその上に曼荼羅を書き、銀箔と金箔をおし重ねてはりつける。


このような曼荼羅画を交えた箔おしの所作を略式では五重か六重、通式では十三重、最高では百二十重とする。曼荼羅を書く染料はすべて男女の交合の二H(和合水)を厳守する。

舌や唇には朱をさし、歯には銀箔をおし、目には絵の具で若々しく綺麗に彩色するが、義眼に用いる玉を入れてもよい。 顔にはお白いを塗り、紅をつけて、美女のように化粧する。

こうして髑髏が完成したら、それを壇上に祭り、山海の珍味を供え、反魂香を焚き、子、丑、寅の三刻に祭祀を行う。 そして卯の刻になったら、七重の錦の袋に入れる。

こうして、行者はその袋に入った髑髏本尊を、夜は行者が肌で抱いてあたため、昼は壇に据えて山海の珍味を備えて供養する。


これを7年間続けるのである。


 そして、8年目になると、髑髏本尊はその位階に応じて3種類の験力を現す。

下位ではあらゆる望みをかなえ、中位では夢でお告げを与え、上位のものでは言葉を発して三千世界の全ての真理を語る。
http://www5e.biglobe.ne.jp/~occultyo/tachikawa/dokurohonzon.htm

髑髏の「建立」。

用意した髑髏を加工して組み立てる。 これには大頭、小頭、月輪形の三種類の制作法がある。

大頭とは、髑髏をそのままにして、頤(おとがい)と舌をつくって髑髏にしつらえ、また歯をつけて、髑髏全体に生身の肉がついているかように見えるまで、何度も漆を念入りに塗ったあと、箱の中に納めておく。

つづいてすでに訳知りの容姿端麗な美女と性交し、その和合水(淫水=男性の精液と女性の愛液)をこの髑髏に百二十回塗り重ねるのである。

髑髏を守っているという七魄(人間の魂は三魂七魄からなるとされる)に和合水(三魂の象徴)を三魂七魄の本尊としての準備が整うわけである。

それから毎夜子丑の刻(午前零時と午前二時)に反魂香を焚いて髑髏を薫染する。 反魂香とは、漢の孝武帝が李夫人の死後も恋しくてならず、方士に香を造らせ、それを焚いて夫人の面影を見たという故事にちなむもので、それを焚けば死者の姿が煙のなかに現れるとされる香である。

その一方で反魂の真言を千回唱える。そうすれば死者の魂が戻るというのである。

このようなず修法を行ったのち、髑髏の中に種々の相応物や秘密の符を書いて納め、頭頂に銀箔と金箔をそれぞれ三重につけ、その上に曼荼羅を書き、その上に金銀箔をおす。さらにその上に曼荼羅を書き、銀箔と金箔をおし重ねてはりつける。
このような曼荼羅画を交えた箔おしの所作を略式では五重か六重、通式では十三重、最高では百二十重とする。


曼荼羅を書く染料はすべて男女の交合の二H(和合水)を厳守する。舌や唇には朱をさし、歯には銀箔をおし、目には絵の具で若々しく綺麗に彩色するが、義眼に用いる玉を入れてもよい。

顔にはお白いを塗り、紅をつけて、美女か、童子(美少年)のように化粧する。
その際、表情は貧相にせず、笑みをたたえ、決して怒ったような顔つきにしないことが大切である。
http://park8.wakwak.com/~kasa/Religion/shingontatekawa.html

「真言立川流」を始めたのは見蓮と言う人物で、陰陽師を習得した真言宗の僧侶兼陰陽師だった。

北斗・北辰妙見信仰に始まる「交合に寄る歓喜行」は、日本の信仰史上に連綿と続いた呪詛巫女の神行であるから、真言宗の僧侶兼陰陽師だった見蓮が創始した八百万の神・陰陽修験と陀羅尼真言密教の習合教義である真言密教立川流に、その奥義が取り入れられていても「自然な流れ」と言える。

この真言立川流、今の時代ではとても理解されないが、当時、素朴な民衆を矛盾無く導く為に、性に対していたずらに禁欲をさせるより、「肯定した上で民意をリードしよう」と言う考え方があった。

真言密教立川流の始祖と言われ、立川流開祖見連に奥義を授けた仁寛僧正は、伊豆の大仁に住まいし真言宗の僧侶で、陰陽師だった見蓮に、真言密教の秘伝「歓喜法」を授けた者である。

仁寛に限らず高野山系の僧達の多くも、鎌倉時代末期近くまではこの男女交合の「秘術」を理念としていた。

仁寛は、鳥羽天皇の暗殺を謀ったとして、捕らえられて、「伊豆大仁」に流されていた。言わば、政治犯の流人である。 そこで陰陽師修行中の見蓮に出会い、醍醐三宝院流秘伝の奥義を伝授されたのだ。

現代人の宗教観とは合致しないであろうが、本来、いずれの宗教も「現世利益」が基本である。 つまり他人の事はどうでも良く、祈る者だけに「利を与える」のが元々の教義だった。 本来、信者の本音で言えば「現世利益」が無い信仰など魅力がある訳が無い。

近・現代に於いて「教えが改善された」と言えばその通りだが、元々の信仰はそんなに立派なものではなく、自分の「利」の為に祈るもので、呪詛的には「相手を呪い殺す願い」をも受け入れる事が「信仰(宗教)の実態」と言って良かったのである。 この辺りを理解すると、個人の「現世利益」の考え方から、極楽浄土に「性的な境地」が結び付く教義「真言密教立川流」に、現実感が出て来ても不思議ではないのである。


常識的に見て密教経典の意味解釈は、解釈する側の意志で加工が可能である。弘法大師(空海)が日本にもたらせた密教は、やがて日本で加工されて行ったが、その原点に近いものがインド・ジャンム・カシミール州最大の地方「ラダック(Ladakh)」に残っている。

このラダック地方の土着宗教がタントラ教の影響を受けた密教で、いわゆるチベット仏教である。 ラダックには多数の仏教寺院、ゴンパがあり、全人口が敬けんな仏教徒である。

釈迦生誕の地に近く、「真言・天台両宗の源流」とも言える「敬けんな仏教徒の地ラダック地方」には、つい近代の英領インド時代に禁止されるまで「一妻多夫」の習慣があり、一人の妻を兄弟で共有していたが、それはチベット仏教においては「けっして教えには背いては居ない」のである。

つまり密教において、性はかなり「おおらかな扱い」であり、現在の日本人が意識する厳しい戒律は「無かった」のである。

元来性行為と言うものは、単に「男女が交われば良い」と言う即物的なものではない。 そこには精神的感情が介在する。 それも複雑で、一口に「愛」とばかりにかたずけられない。

性交の本質は、想像力をたくましくして、被虐心、加虐心、羞恥心に触覚、聴覚、視覚を駆使して、初めて上等な性感を得る。 つまり【右脳域】の本能的無意識の境地に入る為の「行」として捉えるのである。

人間の感性は複雑で、あらゆる情報を脳で処理する事で、結論を導きだす。従って、性的快感も単純ではなく、それに拠る精神的癒し効果も認められる。

つまり、性と精神はリンクしていて、人格の形成にも関与する重大事項と言えるのだが、これを「無理やり離して考えよう」と言う間違った傾向がある。 喜怒哀楽は人間の基本的な感性で、【右脳域】の思考である。 その内の「喜」を以って「楽」を為すのが、密教における性交呪詛所謂「歓喜法」に拠る「極楽浄土」の境地である。


人間は、性行為や食事、音楽や映像鑑賞の際に「ベータ・エンドロフィン」と呼ばれる快感ホルモン物質を分泌させ快感を得る。 言うなれば、宗教行為と性行為、音楽の演奏などは、ある意味同質の目的、快感ホルモン物質の分泌を促す為にある。

宗教に陶酔したり、音楽に聞き惚れたり、視覚、嗅覚、五感の刺激がこの快感ホルモン物質の分泌を促すのなら、人は神の教えで救われても不思議はない。 それを経験的に学習しているから、いかなる宗教にも音楽や雰囲気創りの演出は付き物で、そのトリップ状態は、けして否定すべき物でもない。

言うなれば、宗教行為と性行為が合体した真言密教立川流は、「究極の奥義」だったのではないだろうか?

この快感ホルモン物質がモルヒネと同じ作用を持つ「脳内麻薬」で、精神的ストレスの解消と肉体的老化防止の特効薬であり、必要なホルモン物質なので、健康な性行為の抑制は必ずしも人間の為にはならない。 当然の事ながら、気の持ち様で「自然治癒力が増す」などの奇蹟は現に症例が多いから、宗教の奇蹟も存在する。 真言密教では、この生物反応的効能を肯定して、「修験道に活用しよう」と考えた。


快感ホルモン物質が大量に分泌されると、人間はトリップ状態になる。

従ってかがり火の燃え盛る呪詛の場で、陀羅尼・呪文(オンマニ・ペドフム)が流れる荘厳な雰囲気の中、激しい性行為を繰り返す事によって、常人には無い激しい反応を見せる。 それが呪詛の効果で、真言密教で言う所の「極楽浄土」である。

その状態が「呪術の効果をもたらす為に必要だ」としていたから、立川流は成立した。 それにしても、呪詛の為に身体を提供して「歓喜法」を体現する呪詛巫女の存在は、現在の感覚では理解が難しい。

しかし、密教の教えの詰まる所は「空」である。 空に私心は無い。

有にしても無にしても、そこには私心が介在するから、空に成れば、如何なる行を求められても、それを不条理と思う事は無い。 実は、「気」も、奇跡と扱うには「ペテン染みた」物理現象である。 言わば、思い込み(既成概念)と言う物差しを外した所に奇跡とも思えるパワー現象が生じる。 しかし、そこに到達するには、「空」が要求されるのである。 その「空」に、成りおおせないのがまた、人間である。


行を施され、呪詛巫女が空に及ぶには、その行の厳しさに相応の覚悟が要る。女性の身体は不思議なもので、縛り上げて三日ほど変わる変わる攻め立てれば「脳で考える気持ち」とは別に、身体が性交の快感を覚えてしまう。

つまりそちらの感性は【右脳域】の本能的無意識が覚醒するからである。 そうなればしめたもので、女性から呪詛(性交)に応じる様になり、滞りなく行える呪詛巫女が完成する。 当初の呪詛巫女の仕込み方は大方そんな処である。

呪詛巫女の確保については多くの方法がある。 その一つが、前述した律令制における被差別階級として賤民の利用である。

奴婢として地方の豪族が所有し、基本的に家畜と同じ所有物扱いの私奴婢と呼ばれる身分の者の中から「婢」の身分の女性奴隷を選び出し、執拗に性交を施して極楽浄土を体現させ、呪詛巫女に仕立て上げた。

八百六年(大同元年)、ちょうど桓武天皇が崩御し、第一皇子が平城天皇として即位(八百六年)の準備をしていた頃、唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県伊都郡高野町)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山する。

仏教の発祥はご存知インドであるが、実を言うとインドには「密教」と呼ぶ言葉や宗派はない。 金剛乗(ヴァジュラヤーナ)、或るいは大乗(マハーヤーナ)等が相当しそうだが、厳密には意味がかなり異なっていて「伝播の途中で変化したものと」考えられる。

大陸での修行を終えた空海(弘法大師)は、持ち帰った経典に重さを付ける為に「密教呪法」の存在を強調し、その呪法効果を期待させる事に成功する。 当時の日本の指導階層は血統を重んじる氏族で、世継ぎを得る為には多くの妾を抱える社会だったから凡そ禁欲的な教えでは受け入れられない。

空海(弘法大師)の教えは、その教義の中で「人の世界の理性的な原因の世界」を肯定し、然る後に

「密教呪法」に拠り身に印契を結び(両手の指を様々に組み合わせる)、
口に真言(真実の言葉)陀羅尼を唱え、
心に本尊(大日如来)を念ずる

事により、仏の不思議な力で「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)出切る」としている。 その教えを秘密仏教、即ち「密教」と称し、教理と行に呪術的かつ具象的表現を伴う教義を成立させ、「潅頂」と言う入門の密教儀式をしていない者に師の許しなく真言や行の内容を軽々しく教えを説き伝える事を禁止してこれに反する行為は大罪としてその自戒を三昧耶と呼んでいる。

密教とは、「深遠な秘密の教え」の意味で日本では主として真言宗(東密)、天台宗(台密)と結び付いて発展した。 手に印を結び(手の指で種々の形をつくること)、口に真言・陀羅尼を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事によって、仏の不思議な力により「煩悩にまみれた生身のまま成仏(即身成仏)できる」とされている。つまり本能(煩悩)で汚れた人々を、「真言・陀羅尼を唱える事で救う」と言う教えである。

この真言宗の教えの中の密教と日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、修験者が生まれている。修験者とは、修験道を修行する人で、山伏とも言い、修験道とは高山などで修行し、呪術(呪詛・まじないの力)を体得しようとする宗教である。

当然の事ながら、陰陽修験は呪詛を使う。 呪詛の目的は、それを行なう事に拠ってあらゆるものを操ろうとするものである。

修験道には、役小角を祖とし天台宗の本山派(天台山伏)、真言宗の当山派(真言山伏)などがある。 弘法大師(空海)、伝教大師(最澄)達が、我が国にもたらした密教は、強力な「現世利益の秘法」であったのだ。 本来の仏教は祈りによる現世利益で、まずは手っ取り早く長生きや裕福と言った幸せを願う物だった。

この現世利益については、現在の中国式寺院にその面影を見る。 お金に見立てた寺院発行の紙の束を、供え物として火にくべ、金持ちに成る様、先祖に祈るのだ。 そうした教えが、真言宗の密教として伝えられ、日本古来の山岳信仰・神道などが結びついて、陰陽修験の呪詛を使う真言密教・立川流が成立した。


真言密教立川流は陰陽修験の呪詛を使い、あらゆるものを操ろうとしてその呪詛の手段に性交の行を採用した。 立川流の教義は、真言宗の


「即身成仏・即事而真(そくじにしん・物そのものが真実)」、

「当相即道(とうそうそくどう)」


の意味は、「ありがたちそのままが理想」と言うであり、つまり「自然の欲望(煩悩)は自然な事である」としている。


「本有平等(ほんぬびょうどう)」の意味は

「本来もっているものが皆同じく真実を宿す」という真言を、男女二根の交会、

淫欲成就の妙境をそのまま「即身成仏の意味」

に解したもので、ごく自然な人間の命の営みを、素直に容認したものである。


この教義の根拠として「首拐厳経」、「理趣経」などが用いられて、なかでも「理趣経」の十七清浄句の、「欲望は浄らかなり〈大楽の法門〉」と言うその教えは「一切の法は清浄なり」と言う句門であった。この時点で、愛欲に対する罪悪の考え方はまったく存在しない。

「一切の法(手段)は清浄なり」を「男女の性交も清浄なり」と解すれば、良いのである。


如来は十七の清浄なる菩薩の境地を挙げて、男女交合の「妙適なる恍惚境」も、
欲望、箭の飛ぶ様に速く激しく働くのも、男女の触れ合いも異性を愛し堅くい抱き、男女相抱いて「縛(しば)ごう」と満足するも世の一切に自由である。

男女相抱いて「縛(しば)ごう」と満足するも世の一切に自由とは、解釈の仕方では現代で言うSM的な行為まで性愛の形として肯定している。 つまり、欲望に身をゆだねて「恍惚境」に入る事を、真言密教は教義として肯定しているのである。

それはそうだろう。 禁欲主義は生き物としての最も基本的な「種の保存本能」に矛盾している。


「全ての主である様な心地となる事」、
「欲心をもって異性を見る事」

も、また、

男女交合して「適悦なる快感を味わう事」、男女の愛、これらの全てを身に受けて生ずる「自慢の心」も、ものを荘厳る事、全て思うにまかせ「意滋沢ばしき事」、
満ち足りて光明に輝く事も、身体の快楽も、この世の色も、香も、ものの味もまた清浄なる菩薩の境地である。


と、立川流では、全てのものをその本質において積極的に肯定している。つまり色欲の煩悩を含めて、人間の存在が完全に清浄なもの、菩薩のものとして肯定されており、性欲肯定の句として知られている処である。

何が故に、これらの欲望の全てが「清浄なる菩薩の境地」となるのであろうか。

それは、菩薩が人々の【右脳域】に存在し、これらの欲望を始め世の一切の法は、「その本性は清浄なものだからである」と、自然に存在する性的欲望を菩薩のものとして肯定しているからである。

故にもし、真実を見る智慧の眼を開いて、これら全てを「あるがままに眺める」ならば、人は真実なる智慧の境地に到達し、全てに於いて「清浄ならざるはない境地」に至るのである。


真言宗開祖・弘法大師(空海)は、仏教とは異教である儒教を廃してその禁欲思想に攻撃こそすれ認めてはいない。 現代人の感覚では理解し難いかも知れないが、弘法大師・空海が日本に持ち帰った経典の中にインド・ヒンドゥー教の影響を受けた経典が多数含まれていた事も事実で、日本の初期密教の成立にヒンドゥー教の生命への畏怖を根源とした性的な教義が混ざっていて当たり前である。

つまり真言密教・立川流に拠ると、弘法大師・空海が持ち帰った真言密教の教義解釈は「性交に拠って穢れが浄化される」 と言う解釈なのである。


儒教の抑制的な考え方は人間の本質と矛盾する教えであるから、現実に起こり得る様々な事象を闇に葬るばかりで結果的に「在る事」を「無い」と建前で覆い隠すに過ぎず、何ら解決には至らないからである。

ところが、後世の真言宗僧侶達は時の権力におもねり、開祖・弘法大師(空海)の教えを翻して儒教の抑制的な考え方を取り入れて真言密教の王道たる立川流を「淫邪教」と廃し始め、弾圧の挙句その存在まで闇に葬った。

愛欲は生きる事の一部であり、後世に血脈を引き継ぐ原点である。

開祖・弘法大師(空海)が「あるがままに眺める」とした真言宗の抑制的改宗は、信念とは別の御都合主義の為せる業で教義を変節したのであり、人間の本質として必ず「在る事」を「無い」と建前で覆い隠して対処を放置する事こそ、現実に正面から向き合わない「邪教」ではないのか?


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3) 立川流の呪詛様式


立川流の経典は理趣経を習している。 そして呪詛を使い、あらゆるものを操ろうとしてその呪詛の手段に性交の行「歓喜行」を採用した。 邪神とされる荼枳尼天(だきにてん)を拝し、特に髑髏を本尊とする為、世間から邪教と解される原因と成っている。

確かに、髑髏の存在は「死と言う現実」を見せ付けられるものであり、並みの人間で有ればそれだけでも不快に感じるのは事実である。また、髑髏には生前のその持ち主の魂が宿っていそうで、精神的には犯すべからぬ畏怖の対象であるから、その辺りの抵抗感が存在して、違和感が生じても不思議はない。

にも関わらず、真言立川流が髑髏を本尊としたには、こうした精神的な意識に元付く既成概念そのものを、共通して一気に変革させる狙いを試みていたのではないのだろうか?

真言密教立川流の髑髏本尊は大頭、小頭、月輪行などの種類があり、この建立に使われる髑髏は、王や親などの貴人の髑髏、縫合線の全く無い髑髏、千頂と一千人の髑髏の上部を集めたもの、「法界髏(ほうかいろ)」と言う儀式を行って選ばれた髑髏を用いなければならない。

その様に選ばれた髑髏の表面に、女人の協力を得て、性交の際の和合水(精液と愛液の混ざった液)を幾千回も塗り、それを糊として金箔や銀箔を貼り、更に髑髏の内部に呪符を入れ、曼荼羅を書き、肉付けし、山海の珍味を供える。

しかもその七日七晩に及ぶ壮絶な「歓喜行」の間絶え間なく本尊の前で性交し、真言を唱えていなければならない。 こうして約七年間もの歳月を「歓喜行」に費やして作られた立川流の髑髏本尊はその位階に応じて「三種類の験力を現す」と言う。

下位ではあらゆる望みをかなえ、中位では夢でお告げを与え、上位のものでは言葉を発して「三千世界の全ての真理を語る」と言う強烈な現世利益の本尊である。


真言密教立川流の真髄は性交によって男女が真言宗の本尊、「大日如来と一体になる事」である。 立川流の金剛杵は特殊な金剛杵であり、片方が三鈷杵(さんこしょ)、もう片方が二鈷杵(にこしょ)になっている。 この金剛杵を割五鈷杵(わりごこしょ)と言う。

本堂のお勤め場所の周りに星型の結界が、蝋燭としめ縄で張られる。 しめ縄はいわば神の「結界占地」を標示するもで、神域に張られる事になっている。

蝋燭の炎は、「歓喜行」の間絶やす事は無い。

反言真言を唱え、星形の結界(五芒星)は陰陽師家、安倍晴明の判紋である。

格子状のしめ縄の結界は、九字紋と同じ形状であり、九字紋は横五本縦四本の線からなる格子形(九字護身法によってできる図形)をしている。 九字結界は、「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」を星型に配置し、その間を結んで五芒星(晴明判紋)となす。 安倍晴明判紋は晴明桔梗とも呼ばれ、五芒星と同じ形をしている。五芒星(九字護身法に拠って出来る図形)の意味は、一筆書きで元の位置に戻る事から、「生きて帰ってくる」と言う意味でもある。


「歓喜行」はこのしめ縄の結界の中で全ての障害を排して執り行うのである。呪法に使う髑髏にも、それなりの確りした仕度がいる。

亡なって間もない人頭を、丁寧に洗い清めて、真言を唱えながら漆を塗る。朱色を出すには「辰砂(水銀)」を使う。水銀と硫黄からなる硫化水銀鉱が、「辰砂」であり、細かく砕くと水銀朱の朱が取れる。

この「辰砂(水銀)」、弘法大師(空海)が多用していた事で知られている。

真言密教立川流に取って、朱は血の色であり、活力と蘇生の呪術には欠かせない。 仕上がったら、よく乾燥させ、上等な桐箱に収めて置く。

そして七日七晩に及ぶ壮絶な「歓喜行」を行い、八日目の朝、「開眼供養を迎える」と言う荒行である。

この本格的な「歓喜行」は、真言密教立川流の僧正が呪詛を用いる為に強力な呪力を有する淫液に塗れた髑髏本尊を会得させる為の物だった。これが、「髑髏本尊・歓喜法」と言う秘術である。

立会いの僧正や男女の信者達は、願主が「歓喜行」を行うを、眼前にて見守りながら「反魂真言」を絶やさず唱える。 一度達しても、茶吉尼(だきに)天の妖力の色香は強烈で、男はすぐにまた活気を取り戻す。

願主は真言密教秘伝の強壮の秘薬と食べ物をとりながら、和合と髑髏に和合水の塗布を続けて、七日目の深夜「結願」を迎える。


いよいよ「結願」を迎えた八日目に入った深夜十二時を過ぎからは、「開眼供養」を夜明けまで行う。 和合水と反魂香にまみれた髑髏の頭部に、金箔を幾重にも重ねて張り、口に紅、歯に銀箔を施し、作り物の眼球を入れて、最後に化粧するのだ。 その後、錦の袋に入れて七年間、願主が毎夜抱いて寝る。 願主が歓喜行をする時は傍らに捧げ、仮本尊となす。

八年目に、ようやく「髑髏本尊」が完成する。 この本尊に妖力が宿り、「呪詛祈願の達成効果を保持する」としていた。 陀羅尼・呪文(オンマニ・ペドフム)や反魂真言を唱えて、性交を繰り返す「歓喜行」は多分に異様である。

しかしこの淫靡な儀式の奥には、別の真実が隠れている。

理趣経は、「本来男性と女性の真の陰陽があって初めて物事が成る」と説いている。 この儀式に七年もの歳月がかかるのは、その過程で僧侶とその伴侶の女性が「大日如来」の導きで、悟りを得る事がその目的だからであり、何の事は無い互いの情が移る年月である。 そうなれば髑髏本尊は、単なるシンボリックな物に成ってしまうのである。


何故こうした信仰が成立するのか、種明かしをして置く。

人間は「恐怖心や高揚心、羞恥心」と言った興奮を背景にすると、普段の判断とは全く違う感覚で物事を受け止める。こうした興奮の心理的な影響は極論理的なものであるが、当事者は意外と「興奮に影響されている」とは思い到らずに「自分の正常な判断」と結論着けてしまう。 その興奮に影響される判断が、興奮が覚めても「正常な判断」と確信されて残る所に所謂「洗脳状態」に陥る状態が、信仰などに利用される心理的な手段である。


真言密教立川流、その教義は、遠く印度の仏教に遡る。 印度の仏教の教えの中に、白い狐に乗り移った茶吉尼天と言う魔女が、大日如来の教えで、「仏法諸天の仲間入りをした」と言うのがある。

これが日本では、後に稲荷神社に成る。 財産や福徳をもたらすとして信仰され、老舗の商家の奥庭に、祭られたりしていた。

当時の商人の考え方は、「商は長くやるもの」であり、家業、商売を代々繁栄させるのが使命であるため、老舗跡の跡継ぎの確保は重要だった。 その為には跡継ぎに困らない様に妾を持つほどの艶福家で無ければならず、性的パワーのある稲荷の社を祭ったのである。

つまり、幸せにしてくれる神様で、その茶吉尼天が、真言立川流の御本尊である。 茶吉尼天の法力を高める秘法が、密教の儀式である。 茶吉尼天の法力を高める為には、男女和合の性エネルギーのパワーが必要で有る。

つまり初期の仏教は、信じればご利益があると言う「現世利益」の教えで有ったものが、時代とともに変遷して、道徳教育的な目的から「悪行を積むと地獄に落ちる」と言う死後の利益に変わって行った。

一方で修験道師が村々に分け入って布教し、植え付けて行った矛盾とも取れる「おおらかな性意識」は、庶民の中で生き続けていた。

真言密教立川流の本尊・荼枳尼天(だきに天)は、元々はインドのヒンドゥー教の女神で、「荼枳尼天」は梵語のダーキニー(英字:Dakini)を音訳したもので、ヒンドゥー教ではカーリー(インド神話の女神/仏教・大黒天女)の眷属とされる。

このヒンドゥー教の女神が仏教に取り入れられ、荼枳尼天は仏教の神となる。元々は農業神であったが、インドの後期密教においては、タントラやシャクティ信仰の影響で、 荼枳尼天は裸体像で髑髏などを抱えもつ女神の姿で描かれるようになって、後に性や愛欲を司る神とされ、さらには人肉、もしくは生きた人間の心臓を食らう夜叉神とされるようになった。


荼枳尼天は、自由自在の通力を有し、六ヶ月前に人の死を知り、その人の心臓をとってこれを食べると言われたが、その荼枳尼天が、大日如来が化身した大黒天によって調伏されて、仏教神となって「死者の心臓であれば食べる事を許された」とされる。

日本では鎌倉時代から南北朝時代にかけて、荼枳尼天は、性愛を司る神と解釈された為、その男女の和合で「法力を得る」とする真言密教立川流と言う密教の一派が形成され、荼枳尼天を祀り、髑髏を本尊とし性交の儀式を以って即身成仏を体現したとされる流派が興隆を極めた。


真言密教と陰陽道を究めた人物に仁海(じんかい)僧正がいる。醍醐寺隨心院は、九百九十一年(平安時代中期・正暦二年)に雨僧正と呼ばれていた仁海僧正によって建立され、千二百二十九に門跡寺院となった真言宗善通寺派の大本山である。「雨僧正」と呼ばれ、占術の祈祷で「祈雨祈願に成功した」とされる仁海僧正は和泉国の小豪族の家に生まれ、七歳で高野山に上る。 そこで、占星術を身につけ、学僧としても、知られるようになる。

仁海はしばしば五行の考えに基づく易を使う。安倍晴明より少し後の時代に活躍した仁海は、しばしば五行の考えに基づく易を使う。 このことは当時の僧侶が仏教の経典だけではなく、中国の「易経」のような中国特有の古典にも通じていたことを示している。 仁海僧正の私生活を「生臭坊主であった」とする評があるが、それは当時の僧を後世の常識感覚で評するからである。

そもそも、日本の神官や僧侶は、長い事氏族が武士や官僚と兼務していたもので、勢力争いもするし女性も抱く。 高僧と言えども例外ではないから、正妻を置いたかどうかを問わなければ、江戸期以前の僧侶は全て「生臭坊主」である。 と言うよりも、「女性との交わりを呪詛パワーの源」と言う解釈が、密教に於いては為されていたのである。


陰陽師の見蓮に、仁寛が密教の秘術を伝授して、かれこれ百年に成ろうとする頃、北条(平)政子が心血を注いで礎を作った流石の鎌倉幕府執権・北条得宗家も、代を重ねて落日を迎えようとしていた。 鎌倉幕府が弱体化していた頃、敵対していた勘解由小路(賀茂)家と土御門(安倍)家の両家は天皇の皇統護持の為に和解している。

◆真言密教立川流・南北朝との関わり

北条(平)政子が心血を注いで築きあげた「鎌倉幕府執権・北条得宗家」も、体制百三十年余りを数えて独裁への反感も膨れ上がり、流石に屋台骨が揺らぎ、「時節到来」と倒幕の機運も、静かに盛り上がりつつあった。

そんな時に、皇位に目覚めた後醍醐天皇(第九十六代)が、突如現れた。 それは取りも直さず、地に潜っていた「勘解由小路党」を、そして幕府御家人衆に甘んじていた「源氏の血筋」を目覚めさせる事となった。

この後醍醐天皇(第九十六代)、まさしく密教の申し子だったのである。

京都醍醐寺は、皇統・大覚寺統(後の南朝)を護持する為の寺であり、後醍醐天皇の支えだった。その醍醐寺は、真言密教の教義を支持していた。 従って後醍醐天皇は、真言密教を信奉していたのである。


本来、男女の交合は尊い物である。男女の陰陽を現世の基本として、人々の生活の向上、平和と幸福を願う呪詛(法力)の為のエネルギーの源が、男女交合の歓喜パワーであり、密教理念としていた。 この教義を後醍醐天皇が信奉した事は、彼がしごく「人間的であった」と言う事である。

真言密教の理念は、けして浮ついた邪教ではない。 至極まじめで、日本に入って来た初期の頃の真言宗の教えの一部として、間違いなく存在した。

それはそうだろう、武器を携えて破壊と殺戮に行くよりよほど良い。 精神的な愛に於いて、性交はあってもなくても良い。そして独占欲はそれも愛情で有るが、それが愛情の全てではない。 その違いが判らないと、大人の対応は出来ない。

全てに拘束を欲する愛情もあれば、全てを赦す愛情もある。 難しい所で有るが、愛し方はそれぞれで、自分と違うからと言って、愛が無いとも言いきれない。

空海(弘法大師)が唐から伝えた経典では、何よりも性に対する位置づけが「生命力パワー」と言う前向きな思想からなっている。 真言密教でも、その「生命力パワー」は認められていた。


京都醍醐寺に文観弘真と言う僧侶がいた。彼は先人で有る仁寛僧正を信奉し、その弟子が興した見蓮の真言密教立川流を継承していた。

勿論同じ醍醐寺に、文観弘真に対立する勢力もある。後醍醐天皇(第九十六代)と文観弘真僧正が結び付けば、当然反対派もまた結び付くのが世の習いである。


話は、鎌倉時代末期の事である。

後宇多上皇(第九一代)の皇子・尊治親王(後醍醐天皇)は宋学者の玄恵や文観から宋学の講義を受け、宋学の提唱する大義名分論に心酔し、鎌倉幕府の倒幕を目指し、宋の様な専制国家の樹立を志した。

千三百十七年の文保の御和談に於いて花園天皇から譲位され践祚(せんそ)した尊治親王(後醍醐天皇)は野心満々で、平安時代の聖代(延喜帝・醍醐天皇や天暦帝・村上天皇の政治)のような復古的天皇親政を行うべく、当時の醍醐天皇(第六十代)に肖って自ら後醍醐天皇(第九十六代)と名乗り、手初めに父である後宇多上皇が行っていた院政を停止させ、天皇としての実権を確立した。


鎌倉時代末期、北条寺の僧・道順から真言密教立川流の奥義を学んだ文観は、「験力無双の仁」との評判を得ていた。 これを耳にした後醍醐天皇は彼を召し抱え、自身の護持僧とした。 文観僧正は、後醍醐天皇に真言密教立川流を直伝する。

茶吉尼天のイメージが演出され、衣服の透ける様な美女姿を宮中に現し、天皇は絶倫になる。 退屈な宮中生活にあって、これが「楽しくない」筈はない。

若き天皇は好色でこの教えを痛く気に入り、自ら実践する事で極楽浄土を体感し、教義は宮中に広がった。 後醍醐天皇の相手と成った女妾、女官も数多く、皇子・皇女と認められただけで、十六人に及ぶ親王、内親王を設けている。

つまり、「皇統を繋ぐには親王が多いに越した事は無い」と言う事態に見舞われたのだ。 「勘解由小路党の女人(白拍子)」も天皇相手に、歓喜の行で大活躍したのかも知しれないが、詳しい記述はない。 唯、夜な夜な「おごそかな歓喜儀式が、宮中で盛大に執り行われた」と、想像にするに難くない。

「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前」は、九字呪法である。 そして男女による「歓喜法」で「極楽浄土」を体現する。 その強烈なパワーを持って、四方に幸せをもたらす。

この教えに傾倒した後醍醐天皇は真言密教立川流を保護し、文観を政務の補佐役にする。 文観の権力は強くなり、一時、日本中に真言立川流は広がって行った。


この辺から、雲行きが怪しくなる。

真言立川流が、余りの隆盛を見せた事で、真言宗右派(禁欲派)が嫉妬し、文観の立川流(左派)から、宗派の最高権力を奪取すべく行動を起こす「きつかけ」と成った。 右派が、後醍醐天皇の対立相手、大覚寺(持明院統方)と組んだのである。 これは、宗教上の権力争いで、醍醐寺統(後醍醐天皇)と左派(真言立川流)連合が勝っていれば、その後の日本の宗教観は変わっていたかも知れない。 「菩薩の境地」が、精神的抵抗無く庶民のものに成っていたかも知れないのだ。

だが、醍醐党が破れ真言立川流は衰退して行った。 つまり、負けた方が「弾圧された」のである。 そこに至る経過が、南北朝並立の争いとリンクしていた。


文観は、当時としては珍しく、八十歳と言う長寿を全うしたそうである。 文観は死期を迎える僅か前まで、村娘を相手に日々のお勤めを欠かさず、真言密教立川流を守っていたのだ。

真言密教立川流(真言宗左派)は、対立する宗教勢力(真言宗右派)と結び付いた政治勢力(北朝方)が、南朝方に勝利すると、倫理観を前面に出して「淫邪教」の烙印を押されてしまった。

所が、本来の立川流の教義の形成経緯は、密教の命の持つ力(パワー)に対する純粋な信仰心と土着の呪術・占術を一体化した修験密教の教義を、誓約(うけい)の概念をも含めて理論武装し、再構築したもので、ただ単に淫蕩な目的の宗教では無いのである。

真言宗右派(反立川流禁欲派)と北朝(持明院統・光明天皇)、足利尊氏派が、真言宗左派(密教立川流・文観弘真僧正)と南朝(大覚寺統・後醍醐帝)、新田義貞・北畠顕家派に勝利し、文観僧正に拠って頂点を極めた真言密教立川流は、急速に衰えて行く。

元々、仏教と儒教は異なる宗教であるから、仏教・真言宗の開祖・弘法大師(空海)が儒教を否定した。 その開祖・弘法大師否定した儒教思想を、主流と成った真言宗右派は、チャッカリ教義に取り入れて真言密教立川流を邪教とし禁欲の教義を広めた為、安土地桃山期には立川流はほとんど無くなり、江戸初期には完全に消滅してしまった。

後醍醐天皇が吉野へ逃れ、足利氏と持明院統(北朝)が勢力を拡大すると、醍醐寺大覚寺統の「真言密教立川流」は徹底的に弾圧されて先細りと成り、やがて衰退して消滅している。

弘法大師(空海)がもたらした真言密教の、鎌倉初期に封印された教えには、性は「生きる為の活力の元」と書いてある経典も数多くあった。真言密教に大きく影響を及ぼした理趣経の経典は、その基礎に大陸での「妙見信仰」がある。

実はこの妙見信仰は弘法大師・空海が経典として持ち帰る前に、既に大陸からの移住者(渡来人)達に拠って先行して伝来し普及していた。 そして列島独自の原始宗教と習合し、陰陽修験道として集成していたのである。 そうした経緯から、弘法大師・空海の真言密教は陰陽修験道とは一体化の道を辿り、総本山金剛峰寺は修験道の修行の地と成るのである。

さて妙見信仰の伝来当初は、渡来人の多い南河内など辺りでの信仰であった様だが、次第に畿内などに広まって行った。 しかし朝廷の統制下にない信仰であった為、統治者としての統制が取れない。 神の威光で統治する朝廷にとって、庶民の間で勝手に広がった「妙見信仰」は危険な存在だった。

七百九十六年(延暦十五年・平安遷都直後)に妙見信仰最大の行事「北辰祭(妙見祭)」を禁止した。表だった理由は「風紀の乱れ」であった。

これは何を意味するのか?

庶民の間に、男女の交わりを指す隠語として「お祭りをする。」と言う用法がある。 本来、信心深いはずの庶民の間で、神の罰当たりも恐れず使われていたこの言葉の意味は、何故なのだろうか?

命を繋ぐこの行為を、「ふしだらなもの」ではなく、「神聖なもの」と捉えられていたからに他ならない。 元々「生み出す」と言う行為は神の成せる業で、それを願う行為が「お祭り(性交)」なのである。

気が付くと、神前で挙げる結婚の原点が此処に垣間見れる。 日本における所謂庶民参加の祭り行事のルーツは、北斗妙見(明星)信仰が源であり、陰陽修験の犬神信仰の影響を受けているから大抵その本質は「乱交闇祭り文化」である。

つまり、建前(本音はただの性欲のはけ口かも知れないが?)子供(命)を授かる事が豊作を祈る神事であるからだ。

例えば、京都・宇治の「暗闇祭り」、今でこそ暗闇で御輿を担ぐ程度であるが、昔は暗闇で、相手構わず男女が情を通ずる為の場だった。 京都府宇治の県神社の「くらやみ祭り」は、明治維新まで無礼講の祭りだったのである。

こうした事例は何も珍しい事ではなく、日本全国で普通に存在する事である。

◆【私の愛した日本の性文化】


当時の庶民感覚は、元々「性」に対しておおらかだった。 信仰が庶民に浸透して行くには、それなりの現世利益が必要で、「北辰祭(妙見祭)」は、当時の庶民が日頃の憂さをおおっぴらに晴らす有り難い行事として、「大いに支持された」と言う事だろう。 そこまで行かなくても、若い男女がめぐり合う数少ないチャンスが、「祭り」の闇で有った事は否定出来ない。


朝廷の「北辰祭(妙見祭)」禁止から十年、八百六年(大同元年)唐から帰国した空海(弘法大師)は高野山(和歌山県伊都郡高野町)に真言宗・総本山金剛峰寺を開山する。 空海(弘法大師)が信徒獲得の為に目を付けたのが、北辰祭(妙見祭)禁止に対する「庶民の不満」である。


空海の教えは、

身に印契を結び(両手の指を様々に組み合わせる事)、
口に真(真実の言葉)を唱え、心に本尊(大日如来)を念ずる事

により「即身成仏(煩悩にまみれた生身のままでも救われる)に成る事が出来る。」として「性」を積極的に肯定している。

この妙見信仰や、修験道と結び付いた弘法大師(空海)の真言密教は庶民にも浸透して行った。

そもそも密教には、人間は「汚れたものではない」と言う「自性清浄(本覚思想)」と言う考えがある。 真言立川流が弘法大師(空海)の「東密(真言密教)の流れを汲む」とされるのに対し、
伝教大師(最澄)の台密(天台宗の密教)でも男女の性交を以って成仏とし、摩多羅神を本尊とする「玄旨帰命壇」と言う一派があった事からも、性交を通じて即身成仏に至ろうとする解釈が密教中に存在したのは確かである。
http://jiyodan.exblog.jp/7936468/



04. 2013年10月22日 08:26:22 : W18zBTaIM6

中川隆ブラック投稿集xx_http://amezor-iv.net/book/131005175551.html

中川隆 _ 皇室関係投稿リンク
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/458.html


05. 2014年5月28日 07:19:33 : 3cdYZYbVIc
中川隆投稿集
http://amezor-iv.net/shisou/131216002631.html

[32削除理由]:無関係
6. 2015年10月14日 07:09:23 : b5JdkWvGxs

阿修羅_中川隆投稿集
http://amezor-iv.net/shisou/150920200912.html

7. 中川隆[-7969] koaQ7Jey 2017年4月30日 12:57:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

阿修羅管理人に投稿・コメント禁止にされましたので、本日をもってこのスレは閉鎖します

8. 中川隆[-7894] koaQ7Jey 2017年5月01日 08:40:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

参考に、僕が阿修羅原発板で反原発派の嘘とデマを明らかにした為に、阿修羅で投稿・コメント禁止にされた経緯を纏めました:

これが阿修羅に巣食う電通工作員
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c73


9. 2017年5月18日 16:21:25 : TCCutQy1e6 : 8QwIxnWDPck[3]
なんだかゲスだな。誰が確かめたんだか。
我々一般国民が知る必要もない世界の話じゃないんかい?
そんな気持ち悪い伝統が(その昔は呪術的な神事の一環として必要だったのかも?)今なおキッチリ続けられてるとは信じがたい・・。
お世継ぎ問題が深刻というなら、(今どき側室をおくのは人権問題だろうから)人工授精の借り腹も必要になる可能性もあるかもしれんが。


\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\


SARAS

皇族のセックスのやり方とは?皇室の性行為の特徴7つ
http://saras-media.com/12215(抜粋)

(中川氏の説と同じ内容が縷々述べられている記事)


(〆の言葉)

>これらの情報は太古の昔より伝えられてきたもので、

>現在の皇室においてどの程度続けられているかは謎多き部分であります。


10. 2018年3月01日 00:14:20 : jP7p1cC0JA : Uj3gBThKTdU[9]
元記事はここ。
http://buzzap.jp/news/20180227-jaycee-net-kaiken/
同ページにリンクのある以下の記事もどうぞ。
徹底的に拡散しまくります。
============
http://buzzap.jp/news/20180227-jaycee-net-kaiken-uyokun/
ネット工作がバレた途端に垢消し逃亡、日本青年会議所(JC)謹製の憲法改正マスコット「宇予くん」の発言をお楽しみ下さい

◆「保守的なことを面白くつぶやく」「炎上による拡散も狙う」の結果は?
では実際、宇予くんはどのような発言をしていたのでしょうか。アーカイブに保存されている発言をざっくり分類して並べてみました。

・NHK、朝日新聞叩き
まずはネット上でよく見られるNHK、朝日新聞叩き。

宇予くん:”甲府駅前の反日洗脳偏向報道機関のNHKだど。さすが国民から受信料を合法的にカツアゲしてるだけあってカネがかかってるど。NHKを見ると頭がバカになるど。#NHK #反日 #洗脳 #偏向報道 #山梨”


宇予くん:”何だこれ。平成三十年一月八日のガイキチ朝日新聞。戦争での辛い記憶を書き綴り、だから憲法改正はダメと言いたげな頭の悪い記事。戦争なんて誰もしたくないど。戦争しないよう抑止力のため九条を改正するんだど。#朝日新聞 #憲法改正 #戦争 #改憲 #改憲反対 ”


・改憲に反対する政党を叩く
メンバーの大半が経営者や役員などで構成されているJCにとって、労働者政党は目の敵もいいところ。ただ取材を受けただけの一般人すらターゲットになるようで、実名を挙げてクソミソに言っています。工作がバレるや否や速攻で垢消しした理由はこの辺にあるのでしょうか。

宇予くん:”平成三十年一月七日のしんぶん赤旗。高校時代から赤旗まつりに参加していた新成人ww。(編集部にて削除)さん、完全に頭がやられてるど。自民党改憲案を読んでの感想が「何としても戦争をしたいんだ」だと。間違いなく狂ってるど。まだ若いのにかわいそうだど。#しんぶん赤旗 #共産党 #戦争法 #憲法改正 #憲法…”


工作活動がバレた時のリスクを勘案し、フォロワーの水増しなどを図れなかったであろう宇予くんが活用したのはハッシュタグ。リベラル勢が頻繁に使うタグをわざと入れることでアクセスを稼ぎ、あわよくば炎上での拡散を狙いたかったようです。

宇予くん:”街で左翼の若手エースの山本太郎を発見。山本太郎も聞き入ってる聴衆も救えないアホだど。変なパンフを配ってたどww。パンフの中身は洗脳まみれで、ここまで洗脳されて熱心な姿からは憐れさしか感じないど。#山本太郎 #洗脳 #モリカケ問題 #安倍首相 #安倍は辞めろ ”


しかし「炎上による拡散狙い」のわりには煽りが単調で、単純に中の人の偏った考え方や嫌悪感などを垂れ流しているだけに見える宇予くん。自らが目指す「署名3000万人」を先に達成した改憲反対派をディスるも、それが回り回って自分たちへのブーメランになりそうなことくらい、少し考えれば分かりそうなものですが……。

宇予くん:”改憲反対の共産党の署名活動。勝手に知人や家族の名前を書かせるわ、架空人物の名前は書くわ、顧客名簿を買ってきて数字を水増しするわ、3000万人は嘘八百だど。この署名はそのまま左翼活動家リストにすればいいど。#改憲反対 #改憲阻止 #3000万署名 #日本共産党 #共産党”


それにしても目立つ「脳が壊れる」「頭が狂う」「洗脳」などのフレーズ。ちなみに人間は「自分が一番言われたくない、コンプレックスに感じている言葉」で相手を罵倒するそうです。

宇予くん:”しんぶん赤旗のホームページの購読者の声がヤバイど。頭イカレテルど。政治、社会の真実が知りたいってあるけど、北海道白老の男、頭おかしいど。正しい情報に接したい神戸の男、狂ってるど。しんぶん赤旗は読むと脳が壊れる新聞だど。#日本共産党 #偏向報道 #北海道 #神戸 #神戸市”


宇予くん:”平成三十年一月五日のしんぶん赤旗一面。なぜ戦前回帰と思うのか。来ました来ましたレッテル貼りだど。合理的な反論が出来ないから、これしか言うことないんだど。これ読んで騙されるのはガイキチだけだど。#しんぶん赤旗 #戦争 #日本共産党 #フェイクニュース #憲法”


宇予くん:”平成三十年一月七日のしんぶん赤旗。完全に論理破綻だど。なんで九条の改憲で戦争が始まるのか謎だど。改憲も解散も安倍さんがやることは全部否定の頭の悪さを何とかして欲しいど。こんな新聞を読んでたら頭が狂うど。さて、肉でも食うど。#しんぶん赤旗 #憲法改正 #憲法9条 #憲法…”


宇予くん:”一月八日のしんぶん赤旗。写真にある「戦争をやめよう」のキャッチコピー。何で改憲が戦争することになるのか不明だど。左翼の論理はメチャクチャだど。洗脳って怖いど。戦争をしたくなくて、平和のための改憲なんだど。#安倍9条改憲NO #憲法 #憲法改正 #憲法9条 #日本共産党”


宇予くん:”一月六日のしんぶん赤旗。米軍基地も安保法制も集団的自衛権も平和のためであって、決して戦争がしたいわけではないど。#日本共産党 #共産党 #集団的自衛権 #安保法 #米軍基地… ”


・天皇陛下の政治利用
工作用アカウントとはいえ、憲法改正を促すという政治的な働きかけを行う団体(日本青年会議所)が己の理想を推進するための存在が宇予くん。その宇予くんが天皇陛下に言及することは、政治利用と考えられても仕方がないと思われます。

宇予くん:”平成三十年一月七日の産経新聞。両陛下、年末年始ありがとうございます、だど。今年の参賀者は126720人と過去最高。天皇陛下バンザイだど。さて、筋肉の超回復の促進のため、アミノ酸でも飲んで寝るど。筋肉の超回復の促進。#産経新聞 #一般参賀 #天皇陛下 #アミノ酸 #筋肉… ”


宇予くん:”昨日、一般参賀で天皇皇后両陛下をはじめとする皇族方が手を振られたど。天皇陛下はお言葉を述べられたど。天皇陛下バンザーイ、バンザーイ、バンザーイだど。さて、気合い入ったから、筋トレして肉でも喰うど。今日はフルスクワットだど。#一般参賀 #筋トレ #天皇陛下バンザーイ #天皇陛下…”


・「改憲は戦争目的じゃない」→中国韓国をミサイル爆撃したほうがいい
そして最もアレなのが「改憲は平和のため」「改憲は戦争することにならない」と言い続けながら「ミサイル爆撃したほうがいい」という発言。結局これが本音ですよね。

宇予くん:”中国、韓国は自分たちを棚に上げて、日本だけに文句を言って来てるど。一言で言うとバカだど。中国は世界の嫌われ者。韓国は中国の舎弟。日本はこのバカ二国と国交断絶、もしくはミサイル爆撃したほうがいいど。#中国共産党 #中国人 #中国 #韓国 #韓国人”


下町ボブスレーの公式ツイッターアカウントと似たような発言もありました。

宇予くん:”一月十一日の産経新聞。平昌五輪、出なくていいど。理論破綻国家だから、国際社会から見放されてるど。#平昌五輪 #平昌五輪の開会式欠席 #韓国 #産経新聞 #安倍… ”


・改憲反対派を罵倒し続けた宇予くんが好きなもの(2/28 1:35追記)
新たなアーカイブから、宇予くんの好きなものが明らかになりました。

憲法について語り合う成人向けソフトが好きなようです。


神社本庁の機関紙的な色合いの強い「神社新報」を称え……


「日本会議かっこいい」だそうです。なお、今までのツイートから宇予くんの中の人には「炎上による拡散も狙った面白く保守なツイート」ができるような頭脳がないことは明らか。そのため、このあたりの発言は丸まま中の人の考えとみられます。


見れば見るほど発覚後すぐさまアカウントが即消しされた理由がよく分かる日本青年会議所の工作用アカウント「宇予くん」。

アカウントを消しても一般人の実名などを挙げて罵倒した名誉毀損の疑いは消えないので、関係者は素直に名乗り出て一連の工作の全容を明るみにした上で、謝罪すべきではないでしょうか。

・次の記事
藪を突くととんでもない人が出てきました。「日本青年会議所によるネット工作」確定です。

日本青年会議所(JC)のネット工作完全確定、「宇予くん」のデザイン発注者は憲法改正推進委員会の委員長でした | BUZZAP!(バザップ!)


「宇予くん」がどのようなコンセプトで作られたのかも明らかに。もはや保守思想でなく、ただの差別思想によるものです。

もはや保守にあらず、日本青年会議所(JC)の憲法改正ネット工作用アカウント「宇予くん」の内部告発があまりにも悲しい | BUZZAP!(バザップ!)

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日本青年会議所(JC)が憲法改正に向けて正真正銘本物のネット工作、マスコットキャラ「宇予くん」も


2018年2月27日19:44 by Toratarou | カテゴリー 社会 | タグ ネット工作, 宇予くん, 日本青年会議所

陰謀論でもなんでもない、本物の工作活動がそこにはありました。詳細は以下から。

◆謎の工程表が流出
まず見てもらいたいのが、出どころ不明の「工程表」。憲法改正に向けて、日本青年会議所(JC)が進める一連の動きを確認するもののようです。


具体的にどのような行動を行うのか、個々の項目を見ていきましょう。FacebookやTwitterを使い、改憲派著名人のインタビューを拡散することを目指していることが分かります。


産経新聞のPRモデルで「日の丸印の小娘ロック!」こと山口采希による「ありがとう、じえいたいさん」という曲をYouTubeやニコニコ動画で拡散し、さらにはボカロに歌わせるそうです。若年層がどんどん減っているニコニコ動画を選ぶあたり、いかにも「(中高年が考えた)若年層をターゲットにしています」感がありますね。


さらには47都道府県各ブロック協力事業として「つながり!憲法改正賛成美魔女奥様/ちょいワルおやじ図鑑全国版」を提供するとのこと。今さら「美魔女奥様」「ちょいワルおやじ」を選ぶあたり、平均年齢46歳オーバー、さらなる少子高齢化へフルスロットル状態の日本らしい、ナウでヤングな考えです。


極めつけが憲法改正推進委員会による保守ツイッターキャラクター「宇予くん」。脳筋キャラのはずが「憲法改正をはじめとする歴史や愛国心など保守的なことを面白くつぶやく、また対左翼を意識し、炎上による拡散も狙う」というドス黒い作られ方をしています。なお、文中の「話題の記事の検索サイトRUNDA」はPR・マーケティング会社「アウル」が提供しているサイトです。


一連の資料のまとめ方、それなりに高齢であろうクライアントを喜ばせることを意識した言葉選び、そして炎上商法を狙うこざかしさ。バックにはネットを理解した広告代理店が控えており、世論形成案件を仕掛けているとしか思えない内容となっています。

◆工程表の通りに進んでいる現実
上記の内容だけならば「こんな出どころ不明の資料で喜んで記事を書くBuzzap!は低能」という謗りを受けても仕方が無さそうなものですが、上記を踏まえた上で見てもらいたいのが、JC自らが今年1月に配布した(PDFファイル)フライヤー。

自民党の”ヒゲの隊長”こと佐藤正久議員によるセミナーの告知が行われています。


見るべきは裏面にある「政策一覧 国家戦略グループ」のところ。


憲法改正推進委員会が進める「目指せ全国3000万人賛成投票プロジェクト」の内容に「美魔女奥様図鑑」があるなど、資料の内容をそのまま裏付けるものとなっています。


さらにツイッターアカウント「宇予くん」も実在(なぜか先程いきなりアカウントを非公開にしました)。どうやら上記の資料は正真正銘本物のネット工作に関する資料だったようです。

宇予くん(@j0fd7eci6mkCaHz)さん


広告代理店や産経新聞系列のメディア関係者が介在している気配があり、それなりにお金も動いているとみられる一連のネット工作。

企業の経営者、取締役が9割を占め、「名士会」の色合いも強い青年会議所。彼らにとって憲法改正とは、それほどまでに都合の良いもののようです。


・次の記事
宇予くんの発言、あまりにも分量が多かったのでまとめました。「一般人の実名を挙げて罵倒」など、ルール無用の残虐ファイトを繰り広げていたようです。

ネット工作がバレた途端に垢消し逃亡、日本青年会議所(JC)謹製の憲法改正マスコット「宇予くん」の発言をお楽しみ下さい | BUZZAP!(バザップ!)


藪を突くととんでもない人が出てきました。日本青年会議所によるネット工作と完全確定しています。

日本青年会議所(JC)のネット工作完全確定、「宇予くん」のデザイン発注者は憲法改正推進委員会の委員長でした | BUZZAP!(バザップ!)


「宇予くん」がどのようなコンセプトで作られたのかも明らかに。もはや保守思想でなく、ただの差別思想によるものです。

もはや保守にあらず、日本青年会議所(JC)の憲法改正ネット工作用アカウント「宇予くん」の内部告発があまりにも悲しい | BUZZAP!(バザップ!)


吉本興業と包括提携関係にあることまで明らかになりました。

吉本興業、なんと日本青年会議所(JC)と包括提携していた | BUZZAP!(バザップ!)


中傷・差別なんでもありのネット工作が発覚した日本青年会議所(JC)と包括提携している吉本興業主力タレントの発言をお楽しみ下さい | BUZZAP!(バザップ!)


ついには副会頭が謝罪する事態に。しかし日本青年会議所 憲法改正推進委員会のトップが関与していたことについては触れられていません。

日本青年会議所(JC)が「宇予くん」を使ったネット工作を謝罪、「すべて担当者の個人的見解」と切り捨ても | BUZZAP!(バザップ!)


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日本青年会議所(JC)が「宇予くん」を使ったネット工作を謝罪、「すべて担当者の個人的見解」と切り捨ても | BUZZAP!(バザップ!)

世界を蝕む「フェイクニュース」、ロシアのサイバー工作に見るその目的と勝利条件 | BUZZAP!(バザップ!)

朝鮮総連銃撃テロの実行犯、在特会関連のヘイトデモ常習者でした | BUZZAP!(バザップ!)

道徳の教科書に載った「下町ボブスレー」が公式ツイッターで保守速報を拡散&他国チームを「笑い者」呼ばわり | BUZZAP!(バザップ!)

三浦瑠麗が「大阪にテロリスト分子が潜んでいる」の根拠にした英デイリーメール紙、Wikipediaにもソースとして禁止されていた | BUZZAP!(バザップ!)


11. 2018年6月26日 19:18:23 : FpbarCpxRM : x1wJj_kiW00[4]
ジジウヨバカ川隆うぜー

12. 2018年6月26日 22:36:52 : 7EiYaQx3gY : W@hUfVvS_3Y[169]

>皇族初夜の儀式

そうかいそうかい、それは良かったね!


13. 中川隆[-13624] koaQ7Jey 2018年11月27日 12:00:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21175] 報告

諏訪春雄のホームページ
http://home.s00.itscom.net/haruo/index.html


諏訪春雄通信10 2002年 9月

9月21日(金曜日)午後5時から、「中国少数民族の祭りと芸能―トン族・苗族・土家族の世界―」というテーマで、今年の夏におこなった中国調査の報告会を実施しました。


中国の長江中流域地帯には女神信仰がゆきわたっています。たとえば、私たちが調査したトン族社会では、薩神とよばれる民族の祖先の女神にたいする信仰がさかんです。薩神は薩歳ともよばれています。薩はトン族語で祖母を意味します。祖先の女神ということになります。

トン族の神話では、彼らの世界を創生した人物は薩神の子孫姜良姜妹の兄妹です。天下に大洪水がおきて万物がほろんだとき、薩神が送ったひさごにのってたすかった兄妹二人が夫婦となって、山川動植物を生み、トン族をはじめとする人類の祖先になったというのです。水稲農耕もこの兄妹がつくりだしたものとつたえられています。

薩神はまた隋唐時代の女英雄キョウニの伝説と習合しています。キョウニは、都から派遣された官吏の苛政に反乱をおこした村人の先頭にたってたたかい、幾度も勝利をおさめますが、最後は大軍にかこまれて自殺した女性です。

後人は彼女の霊をなぐさめるために祭壇をきずき、神としてまつりました。このキョウニが薩神と同一視されて崇拝の対象になっています。

薩神信仰とならんで、トン族の二大信仰とよべるのが、太陽信仰です。鼓楼、住居、男女の正装、帽子、その他に円形の鏡として造型された太陽をみることができます。年中行事のなかにも太陽信仰は浸透しています。

また、トン族の男女は雨具ではない紙製の傘を冠婚葬祭や日常生活に頻用します。この傘は太陽を象徴するもので、辟邪の働きがあるとされています。

この太陽信仰と薩神信仰はふかくかかわっており、トン族の人々は両者を同一とみなし、太陽光線は薩神の威力をあらわすものとかんがえています。

日本の創世神話とトン族神話には興味ぶかい一致があります。『古事記』によるイザナギ・イザナミを主人公とした創世神話とトン族神話には以下のような一致点があります。

@ イザナギ・イザナミの二神は、神世七代の洪水後に男女対偶神として誕生し、国土の生成、始動にかかわります。姜良姜妹の二神は、洪水のさいにひさごのなかにはいって命がたすかり、国土と人類の生成にかかわります。

A イザナギ・イザナミの二神は、天神の命をうけて、まず天の浮橋に立ち、海をかきまわして得たオノゴロ島に降り、天の御柱をめぐって結婚します。姜良姜妹の二神は最高神の薩神のはからいで結婚します。

B イザナギ・イザナミの二神は、はじめヒルコなどを生んで失敗しますが、天神の指示をあおいで大八島国および石・海・水門・山野の神々を生んでゆきます。イザナギは日向の橘の阿波伎原でミソギをします。そのさいに防塞神や穢れから成る神またはこれを直す神、海の神などが出現し、最後に左右の眼と鼻をあらうと、アマテラス・ツクヨミ・スサノオが誕生します。姜良姜妹の二神は、十ヶ月に満たない九ヶ月で一人の男子を生みます。その子は、頭はあるが耳はなく、眼があって脚がない不完全な人間でした。その身体が斬りくだかれて民となり、手や指が地におちて高峰となり、骨がおちて岩石に化し、頭髪は万里の河川となり、脳がおちて土手や田畑になり、歯牙が黄金白銀になりました。肝腸が長江大河となり、野牛や野鹿、山脈、三百六十四の姓、トン族をはじめとする人類が誕生しました。

両神話のあいだに、洪水から生存した男女二神が結婚して国土と人類を生んだこと、その結婚ははじめうまくゆかず身体不完全の子が生まれたがつぎに国土と人類などが誕生したこと、しかもそうした行為が薩神(『古事記』では天神)の指導ですすめられたことなど、世界創造神話の基本構造が一致していることが注目されます。

さらに薩神とアマテラスとのあいだにもつぎのような一致点があります。

@ 民族の祖先の女神、A太陽神でもある、B稲作の神である、C歴史上の人物(女性英雄神と皇室の祖先)と習合し祭壇がもうけられた、の四点です。

トン族の神話が日本神話の直接の原型であったなどと主張する気はありませんが、長江中流地域が日本の稲作の源流であったことは疑問のない事実である以上、稲作にともなう文化の交流についても真剣に検討する必要があるとおもいます。

この問題についてはつづけてまたこの通信でかんがえてゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa10.htm


諏訪春雄通信 11

東アジアの王権の問題について、夏期の中国調査の結果をふまえて、その後、かんがえたり、調べたりしたことをのべます。私の最終目的は、日本の天皇制の解明です。しかし、そのためには、東アジア、ことに中国大陸での王権の歴史の検討が絶対必要条件であるとかんがえています。

 

中国北方、黄河流域で巨大な王権が誕生し、南方、長江流域でなぜ巨大王権が成立しなかったのか、という問いについて、最初のきちんとした説明をしたのは、ドイツ生まれの社会学者カール・アウグスト・ウイットフォーゲル(1896〜1988)でした。水利社会論とよばれて有名な彼の考えをまとめれば以下のようになります。

 

黄河流域は黄河文明のさかえた土地である。定期的に氾濫をくりかえした黄河の大量の土砂が堆積してできた沖積平野であり、そのままでは農耕に適せず、大規模な潅漑工事が必要であった。そのため、この土地では、大量の人手をあつめて水を支配しなければならず、それが可能な強大な力をもった者が、王権を獲得し、巨大国家を建設した(平野義太郎監訳『新訂 解体過程にある中国の経済と社会』原書房、1977)。

 

この水利社会論は、現在かなり旗色が悪く、日本でも戦後きびしい批判にさらされています。批判は二つにわけることができます。一つは、彼の政治性にたいする反発です。はじめマルクス主義者として出発したウイットフォーゲルはアメリカにわたって反共産主義者にかわりました。その政治理論から、進んだヨーロッパ社会にたいする停滞したアジアという図式をつくりあげました。この図式が不評を買って、批判者の舌鋒をするどくさせたのです。

 

もう一つは、彼の水利社会論そのものにたいする批判です。最近の代表的な批判者二人を紹介しましょう。中国環境史学者の原宗子氏(流通経済大學教授)は、農業のために黄土は多量の降雨を必要とし、でなければ人工的な潅漑がもとめられるというウイットフォーゲルの主張は空想にすぎないとしりぞけ、年間降雨量そのものが不足していない華北の多くの地では、降った雨や雪の水分を発芽期までどう保持するかが問題になるのであり、潅漑の必要など多くの地域で存在しないと断定します(「土壌から見た中国文明」『四大文明』NHK出版、2000年)。

 

批判者をもう一人紹介します。日本の考古学界はフィールドワーク重視一色です。遺跡を発掘しない考古学者を日本では考古学者とはみとめません。ところが、欧米では考古学理論とか比較考古学という学問方法が市民権を得ています。自分では発掘体験のない土地の発掘報告をもとに、比較をこころみる学問です。

 

カナダ・モントリオールのマッギル大學人類学部教授のブルースG・トリッガー博士は、考古学理論家として現在もっとも生産的な仕事をしている学者です。彼は水利社会論をつぎのように批判します。「いっそう大きい潅漑システムへの要求が結果として文明発展の初期段階に専制国家を生む、というかつての通説は、初期文明においては大部分の水利施設が小規模で断片的であったという特徴を、認識していなかった。大規模な国家管理の潅漑システムは、国家の産物であり、その逆であったようにはみえないのである」(川西宏幸訳『初期文明の比較考古学』同成社、2001年)。

 

こうした批判論に接しますと、ウイットフォーゲルの水利社会論の破綻はみとめざるをえないようです。しかし、黄河流域における巨大王権の誕生という事実をどのように説明するのかという問題は、依然そのままにのこります。

 

水利社会論にかわって提出されている論を検討してみます。

 

前述の原宗子氏はつぎのように説きます。「人類が摂取するエネルギー源として太陽エネルギー利用効率の点でもっとも効率的なのは穀物生産である。当時における人工増加のポイントは、いうまでもなく食糧の確保にあったから、穀物生産を発展させた社会が、人口増加でも軍事力増強でも、他の方法で暮らしている社会にくらべ優位に立ったわけである」(前掲論文)。

 

穀物生産農業が巨大国家を誕生させたという考えです。しかし、この説明は成立しません。年間の降雨量も平均温度も農業に適さない黄河流域(前掲の原氏の批判にもかかわらず、この事実は疑問がありません)で巨大専制国家が誕生したのに、あらゆる条件がより農業に適した長江流域で巨大専制国家がなぜ誕生しなかったのか、という問題の解答にならないからです。

 

北中国と南中国の農耕の発展形態に周到な目配りをしながら論をすすめ、巨大国家成立の秘密を説きあかそうとした論文が、やはり中国史学者の岡村秀典氏(京都大學助教授)の「中国文明の起源―農耕のはじまりから国家の成立へー」(前掲『四大文明』)です。

 

氏は、殷墟から出土した甲骨文に大規模な祭祀儀礼の存在をしめす文言がきざまれていることに注目します。そして、巨大な祭祀儀礼をいとなむために、それをささえる経済システムを整備し、農業の大規模経営がおこなわれ、その結果、巨大な専制王権が誕生したと主張します。

 

しかし、この論も誤っています。事実は逆です。巨大政権が成立したから、それを維持するために巨大な祭祀がいとなまれたのです。そうした事例はいくらでもあげることができます。日本の大和政権成立後の国家祭祀整備や大規模化がさしあたっておもいうかびます。

 

湿潤地帯と乾燥地帯のはざまに巨大な大河文明が誕生したという、文明史学者安田喜憲氏の学説は、ウイットフォーゲルに匹敵するスケールの大きなものです。

 

ユーラシア大陸を、大きく湿潤地域のモンスーン・アジア、大西洋地帯と、乾燥地域の乾燥アジア、北方アジアに二分し、これまで四大文明といわれてきたメソポタミア・エジプト・インダス・黄河の四大文明は、そのはざまをながれる大河のほとりでおこっていると主張し、乾燥地帯の牧畜民と湿潤地帯の農耕民の接触によって大文明は誕生したと主張するのが、安田理論です(『大河文明の誕生』角川書店、2000年)。

 

牧畜民は主食の穀物を農耕民との交易によって手に入れないかぎり生きてゆくことができない。この牧畜民に主食となる穀物や野菜を提供した人々こそ、乾燥アジアとの接点をながれる大河のほとりに生活する農耕民であった。それゆえ、乾燥と湿潤のはざまをながれる大河のほとりは、農業革命以来、農耕民と牧畜民の異文化の接触地帯になった。安田氏はそのように説きます。

 

この安田理論も、黄河文明にかぎってもいくつかの疑問があります。まず、華南に比較して、寒冷で乾燥した華北の地を湿潤地帯といえるのかという疑問です。

 

もともと、氏の説の立脚点には、1988年にはじめて氏が発見したという5700年まえにおこった地球規模での気候変動がありました(安田喜憲「五〇〇〇年前の気候変動と古代文明の誕生」『科学』五八号、岩波書店)。この変動は、北緯35度以南の大河ほとりの乾燥化をもたらした。このため、牧畜民が水をもとめて大河のほとりに集中した。この大河のほとりへの人口の集中と、もともと大河のほとりにいた農耕民とあらたにやってきた牧畜民の文化の融合が、都市文明の契機になった。これが安田理論の骨格です。

 

しかし、この論は、北緯35度以北に位置し、しかも5700年まえより1000年以上もあたらしい黄河文明に適用できないことはあきらかです。しかも、遊牧民との接触という事実の確認できない長江周辺に、巨大王権ではありませんが、都市文明の誕生したことの説明ができません。

 

批判することはかんたんにできますが、それに代わる理論を提出することは容易ではありません。ウイットフォーゲルに対する批判を丹念にたどってみると、そのことを痛感します。黄河流域に巨大王権が誕生したことは事実です。その事実にたいして納得できる説明がまだありません。

 

ここであたらしい説明を提示できなかったら、私もおなじ非難をうけることになります。次回の通信12で、私の考えをのべます。あらかじめ、私の立場をあきらかにしておけば、私は一つの理由だけを強調する一元論ではなく、複数の要因を考慮する多元論で、この問題を解明したいとかんがえます。しかも、黄河領域で最初に成立した巨大専制国家であった秦の成立要因を分析することによって、その目的を達成したいとかんがえています。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa11.htm

諏訪春雄通信 12

前回の通信につづいて、東アジアの王権についてかんがえます。

黄河流域で最初に成立した巨大専制国家は秦です。紀元前221年に、のちに始皇帝とよばれることになった秦王政は、戦国6国のなかでただ一つのこっていた斉をほろぼして、天下統一をなしとげました。この中国史上最初の統一国家の成立要因を検討することによって、華北における巨大王権誕生の秘密を解明してみます。

 

@鉄製農具の出現

春秋時代の終りに、木製や石製にかわって鉄製農具があらわれ、未墾地の耕作が可能になりました。農民はかぎられた土地で氏族制を保持する必要はなく、家族単位に分解、その農民たちをあたらしく発生した官僚たちが再組織しました(西嶋定生『秦漢帝国』講談社学術文庫)

 

A潅漑工事

水利技術者鄭国の献策により、秦王政の即位元年に、渭水北岸の荒地を潅漑する大規模な工事がはじまりました。これが完成して沃野が出現し、秦国が富強になり天下統一の財政基盤ができあがりました(西嶋前掲書)。

 

B経済の発展

春秋時代の後半からはじまった鉄器の発明と普及は、農業や手工業の発展をうながし、経済と文化に繁栄をもたらしました。商業の発展にともなって、商人の往来や産物の流通もさかんになり、列国の封鎖的な国境をこえて、各地の経済はたがいに依存の度をつよめていきました(松丸道雄・永田英正『中国文明の成立』講談社)。

 

C富国強兵策

北方の強大な遊牧民族である匈奴の進入を阻止する防衛対策のうえからも、強力な統一国家の出現がもとめられました。富国強兵策を実施したために、生産は発展し、兵力は増強しました。戦国後期、秦の国土面積は全国の三分の一弱でしたが、その富は全国の十分の六に達したといわれ、騎馬戦術を得意とする軍団は無敵の強さをほこりました(松丸・永田前掲書)。

 

以上の四つは、主要な要因であって、この四つに限定されるといいはることはできません。また、たとえば、Bについて、経済の発展とまとめるか、鉄器の発明とするかは、意見のわかれるところです。

 

しかし、鶏が先か、卵が先かをあらそうことは、それほど生産的ではなく、秦帝国出現の要因はけっして一元的ではなく、多元的、複合的であったことを確認することが重要です。

 

さらに大切なことがあります。以上の四つは秦帝国出現の要因であって、そののち、漢、晋、隋、唐、五代、宋、金、元、明、清とつづいた歴代王朝のすべてに適応できる成立要因と断定することはできません。鉄器の発明は、秦成立の重要な要因ではありましたが、漢成立の要因とはいえません。

 

黄河流域の王朝成立過程を検討するためには、学問の手続きとして、秦のばあいと同様に、歴代王朝の成立要因を検討し、共通する原因を抽出するという作業が必要になります。

 

その作業の詳細を展開することは、しかし、日本の王権の成立におよぼした中国古代思想の影響という、私のさしあたっての研究テーマからずれることになりますので、ここでは必要最小限の言及にとどめます。

 

私の研究にとっては、秦につづいて、紀元前三世紀に成立し、紀元後三世紀に滅亡した漢帝国までを対象として、両国の共通性をぬきだせば、さしあたっては十分であるといえます。

 

両帝国誕生の共通要因はつぎの3点にまとめられます。

 A 匈奴を中心とした周辺遊牧民との抗争、軋轢

 B 商業を中心とした経済の発展

 C 農民勢力の台頭

 

Aは秦の4に対応します。匈奴が、モンゴル高原一帯の遊牧社会を統一して大帝国に成長したのは、秦末漢初といわれています。秦がこの匈奴の侵入にそなえて富国強兵政策をとったと同様に、漢もまた、強力な騎馬軍団で侵入をこころみる匈奴との対応に腐心し、軍備の充実につとめ、結果として国勢をのばしています。

 

Bは秦のBに対応します。漢の経済政策は商業一辺倒ではなく、税制の改革、塩鉄専売制度の実施、貨幣制度の制定など、多方面にわたっています。それらの総合的な経済政策が効果をあげて、武帝の時代には、「都鄙の倉庫は一杯になって財貨があふれている。都の銭の量は巨万をかさね、ぜにさしはくさってかぞえることができない。国庫の穀物は古米がふえて外にまで流れだし山積みになって腐敗している」と『史記』が叙述するようなゆたかな財政状態を現出させています。歴代の皇帝は、財政の好景気時代に、その資力を駆使して外征を実行し、領土の拡大と国威の昂揚につとめました。

 

Cは秦の@と共通です。巨大帝国秦を倒したのは、農民蜂起でした。決起軍の指導者の一人陳勝は、一時は、河南省の陳に農民王国を建設して王位につくほどの勢いをしめしています。最終的に秦をほろぼして漢を建設した劉邦もまた農民の出身でした。秦代以来の潅漑工事による農地の拡大と農業技術の改革が、農民に力をたくわえさせ、その爆発が秦をほろぼし、漢を誕生させたともいえます。

 

ウイットフォーゲルの水利社会論が批判の矢面にさらされていることについては、前回の通信でふれました。しかし、彼の論が批判されなければならないのは、その一元的主張であって、潅漑水利が巨大王国出現の重要な原因の一つであったことは、秦や漢巨大化の歴史の検討を通しても、みとめられなければなりません。

 

くりかえしになりますが、私の検討すべき課題は、日本の天皇家の永続です。そのために、大陸において巨大王権が交替をくりかえした黄河流域と、そうした現象のみとめられない長江流域を対比的にまずとらえてみようとしています。

 

中国で王朝交替を正当化する理論として生みだされたのが天の思想であり、日本では天皇の永続をささえる理論として太陽の思想が形成されました。これまでの通信でのべてきたところです。

 

天の思想とは、天の命令をうけて王となり、徳をうしなって天の怒りをうけて王の位置を追われるという思想です。一地方政権にすぎなかった周が殷(商)をたおして王権をうばった行為を正当化するためのイデオロギーであり、『書経』『詩経』など、儒教の書物のなかで理論が整備されていきました。『書経』の「多士」という章では、殷をほろぼした周公が、殷の遺臣たちにつげたことばをつぎのようにつたえています。

 

「汝ら殷の王室につかえていた者たちよ。天が亡国の運命を殷にくだした。そこでわが周は王国を開くべき天命を受けて、天の明らかな威光を奉じて、殷に大罰をくわえ、殷にあたえられた天命が終わったことを上帝に告げたのだ。」

 

この天の思想に対立する、日本の天皇家永続の理論的根拠が太陽の思想です。太陽の子孫だけが天皇の地位につくことができ、太陽の永続が天皇家の永続をささえるという考えで、八世紀の天武・持統の両朝のころから理論化され、『古事記』や『日本書紀』に神話体系としてとりこまれてゆきます。

 

『古事記』を例にとれば、そうした思想は全体にゆきわたっていますが、ことに、「三貴子の分治」、「スサノオの追放と五穀の起源」、「草薙剣」、「オオクニヌシの国譲り」、「ニニギの出生と降臨の神勅」、「天孫降臨」、「ホデリノミコトの服従」などの、骨格をなす神話に、天上の太陽神アマテラスの子孫の永続性と絶対性が周到にかたられています。

 

この天の思想と太陽の思想の生まれてくる母胎は、黄河流域の天への信仰と、長江流域の太陽への信仰にあります。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa12.htm


諏訪春雄通信 13

   前回につづいて、東アジアの王権についてかんがえます。

 

 中国古代の先秦時代、詩ということばは黄河流域でおこなわれた歌謡の歌詞を意味していました。この北方の歌謡はのちに『詩経』とよばれる歌謡集にまとめられました。『詩経』におさめられた詩篇は、周代の民俗と信仰について、かなり豊富な情報をつたえてくれます。北方の民の天への信仰をしめす一篇をつぎに引用します。

 

  ああ諸侯の楽師よ、あなた方は宗廟にいるのだから謹め。
  王はあなた方の豊作のため身を謹み正している。(この事実を)十分よく受け止めよ。
  ああ保介よ、この晩春に、
  (農事以外)また何を求めるのか、新田の様子はどうなのか。
  ああ豊作の麦をみのらせ、多くの実を収穫させたまえ。
  光り輝く上帝よ、豊作をあたえたまえ。
  さて農民たちにいそぎ耕具をととのえさせよ。
  速やかにたくさん刈りいれん。(周頌)

 

 王が臣下とともに神廟で、豊穣を天の神の上帝に祈念し、みずから苗をうえる儀礼をうたった詩です。これを籍田(せきでん)といいました。この祭りに参加した諸侯の楽師につつしんで奉仕することをもとめているのが、一行めと二・三行めです。四行めの保介は農事をたすける者です。

 

 上帝は天命を下して王朝の交替をおこなうだけではなく、豊作を実現させる豊穣の神でもあったことが、この詩であきらかです。

 

 天によって任命された皇帝=天子は、つねに天の祭りをおこない、その意思にしたがって、政治をおこないました。天の神の祭りは天子だけの特権でした。『礼記』によって郊祀(こうし)とよばれた天の祭りの内容をうかがってみます。


 天子は五年に一度諸国を巡視する。その年の二月に、まず東方の巡視をして泰山に至り、柴を焼いて天を祭り、山川にたいして望という祭りをもよおし、その地方の諸侯をあつめて会見し、かつ諸侯の国々に百歳以上の人があるか否かを問い、あれば天子みずから訪問する。そして大師(楽人の長)に命じその地方の詩歌をあつめて並べさせ、その地方の風俗を知る。(王制)


 天子が四方へ行ったときは、まずそれぞれの方角の山嶽に至り、柴を焼いて天を祭る。(郊特牲)

 柴を焼いて煙をたちのぼらせ、その煙をとどけて天をまつることを「燔柴(はんし)」といいました。柴のうえに玉と絹、犠牲などをならべ、これを燃やした祭りでした。

 

 天子による天の祭りは、地方巡行のさいだけではなく、年中行事としても定着し、後続の王朝にもうけつがれていきました。都城の四周に祭壇を常設し、その中心には天をまつる圜丘壇をもうけ、天子みずから祭祀を執行しました。その遺跡である北京の天壇をご覧になった方は多いとおもいます。すでに前漢時代にはおこなわれておりました。その祭祀でも、柴のうえに玉、絹、供物をならべ、焼いて煙を天にとどける儀礼が中心になっていました。

 

 『詩経』が華北の地の民謡や詩であるのにたいし、長江流域の楚の国でうたわれた歌謡の歌詞が『楚辞』です。『楚辞』を分析して、紀元前三、四世紀ごろの中国江南地方の信仰をうかがってみます。


蘭の湯を浴び、香水に髪を洗い、色彩うるわしい衣は花のようである。このように清潔に美しくよそおって神に仕えまつれば、神霊はゆらゆらと降りとどまり、神光はかがやかしく照らして極まりつきることがない。雲の神は、ああ、祭殿に安らごうとして、日月と光をひとしく輝き給う。竜に車をひかせ、天帝の服をつけて、神はしばらく天駆けりさまよい給う。神はかがやいて、すでにここに降り給うたけれども、たちまち遠く雲中にあがってゆかれた(雲中君)

 着飾った巫女が天の神をまつる情景をうたっています。天の神は巫女の招きで地上におりてきます。

 この詩で注意されることは、冒頭部分の神の降臨する場所が、巫女の身体そのものとうけとれることです。この個所は、原詩では、「蘭湯に浴し芳に浴す。華采の衣は英(はな)のごとし。霊連蜷(けん)として既に留まり、爛として昭昭として未だ尽きず」とあります。前の行で巫女をうたい、つづけて神霊がとどまるという表現から、神はその巫女の身体に降り給うたと判断されます。

 この詩は、江南の地のシャーマニズムが、脱魂型(エクスタシー型)、憑霊型(ポゼッション型)の二つのタイプのうち、神が巫女の身体に降りる憑霊型であったことをしめしています。

 太陽をうたった詩があります。つぎにそれを検討してみます。


 赤々と朝日は東方に出ようとして、扶桑のもとにあるわが宮殿の欄干を照らす。私の馬をおさえて静かに駆けると、夜は白白とはや明けてきた。竜に車をひかせ、雷雲に乗り、雲の旗を立てて、ゆらゆらとたなびいている。私は長いため息をついて、いよいよ天に上ろうとするのであるが、心は去りがたくて顧みおもう。ああ、歌声や色うつくしい巫女の私をなぐさめることよ。観る者は皆心やすらかに帰るをわすれる。張りつめた琴と打ちかわす鼓の音、玉でかざった台にかけた鐘を撃つ。鳴り響く横笛と吹き鳴らす笙の調べ。神巫女(かんみこ)の徳すぐれてみめうるわしいのを思うのある。
 巫女たちは飛びめぐり、カワセミのように挙がり、詩を陳(の)べ、集まり舞う。音律に応じて調子を合わせているうちに、もろもろの神の御魂が日を蔽うようにして天下る。私は青雲の上衣に白虹の袴をつけ、長い矢をとりあげて、天狼星を射る。そして自分の弓を持って立ちかえりくだって、北斗の星の柄杓をとり、肉桂のかおる薄い酒をのむ。やがてわが手綱を持って高く馳せかけって、はるかな暗黒の中を私は東へと行くのである。(東君)

 
 東君は太陽です。巫女が太陽神である東君に扮して神威を自賛しています。昇ってゆく朝日である東君が、自分をまつる地上の祭儀に心ひかれて去りがたくおもう。あまりの祭儀の盛観に、日神はついに高い空から降りてきます。太陽神は天狼神を射て、天空を征服し、赫赫と神威をかがやかし、北斗を取って、そなえられた飲み物をのんで、祭りを享受します。そして暗黒の空のなかを東へ去ってゆきます。

冒頭の朝日の光が東君の欄干を照らすという、日神と太陽が分離した表現は、日神に扮した巫女が日の出をうたったもので、客観としての太陽と主観としての日神東君が分離した形式になっています。

 このように、巫女が太陽に扮してその威力を自賛するという詩の表現が成立するのも、神霊が巫の身体に憑依する憑霊型のシャーマニズムが長江流域にひろがっていたからです。

 黄河流域では天にたいする信仰がさかんであり、長江流域では太陽の信仰がさかんでした。このことは、『詩経』と『楚辞』の詩篇からもあきらかですが、より明確なかたちでこの事実を指摘されたのは、中国史の専門である京都府立大學教授の渡辺信一郎氏です。

 今年、二〇〇一年七月二十八日(土)、二十九日(日)の両日、アジア文化研究プロジェクト主催の講演会・シンポジウム「東アジアの王権と祭り」が、学習院百周年記念会館で開催されました。両日をとおして三百五十人余りの方々が参加してくださいました。熱心な聴衆の皆さんに感謝します。

 その初日、「古代中国の王権と祭りー南郊祭天儀礼を中心にー」という題で、中国古代の天子による天の祭りについて、各種の文献を渉猟されて詳細な報告をされた渡辺氏は、結論として、講演内容をつぎのようにまとめられました。覚えておられる方も多いでしょう。

 「匈奴・韓・夫余・高句麗・わい(「さんずい」に「歳」)・烏丸など、中国北方・東北地方ならびに朝鮮半島に活動したモンゴル・トルコ・ツングース系諸族、すなわち遊牧地帯ならびに稲・雑穀栽培地帯には祭天の儀礼が広汎に存在する。しかし、中国南方、長江以南の諸族をはじめ、稲単作文化地帯に属するいわゆる南蛮、西南蛮には祭天の諸儀礼にかかわる記述はない。」

 ここでいう天とは天空または夜空にまたたく星辰をさしています。対する太陽は、昼間は天に位置していますが、夜は地平線にかくれています。太陽は地上の存在と信じられていたのです。

このような太陽にたいする中国人の考え方は、先に紹介した『楚辞』の「東君」にみることができます。そこでは太陽は、夜は扶桑の木のもとにある宮殿にやすんでおり、夜があけると竜車に乗って空にのぼるとうたわれています。同種の観念は、前漢時代初期に成立した『山海経』にもみることができます。

なぜ、黄河流域では天の信仰がおこなわれ、長江流域では太陽の信仰がさかんであったのか。次回はこの問題についてかんがえます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa13.htm

諏訪春雄通信 14

前回にひきつづいて東アジアの王権についてかんがえます。今回のテーマはつぎのとおりです。

「なぜ華北黄河流域で天の信仰が、華南長江流域で太陽の信仰が誕生したのか」

 この問題を解明するのに参照すべき現象が三つあります。
 その一つは一神教と多神教の分布です。世界の宗教を一神教と多神教にわけることがあります。一神教は、一柱の神をたてて崇拝する宗教です。一神教の神は一般的には抽象的な男性原理を有し、全知全能にして万物の創造主とかんがえられています。ユダヤ教のヤーウェの神、キリスト教の父なる神、イスラム教のアッラーの神などがそれにあたります。

 これにたいし、複数の神々を同時に崇拝する宗教を多神教とよびます。古代ギリシアの宗教、インドのヒンズー教、日本の神道、仏教、道教などがそれにあたります。

 この両宗教が生まれ、分布する地域に区別があります。一神教は砂漠地帯に生まれ、多神教は農耕地帯に多くみられます。多神教が神と人間との交流を教義に説くのにたいし、一神教は神と人間との隔絶を強調します。これは一神教が、砂漠に誕生したことと関係があるとされています。荒涼たる自然環境の砂漠では、地上から超絶する天上の神が祈願の対象にえらばれる傾向がありました。たいする多神教は豊穣の大地にいます神々が信仰の対象になりました。一神教と多神教は天の神と地上の神の対比でもあるのです。

 二つめは、シャーマニズムにおける脱魂型(エクスタシー型)と憑霊型(ポゼッション型)の分布です。通信13であきらかにしたように、長江流域では、神が巫女の身体にやどる憑霊型がさかんでした。太陽神も巫女の身体に憑依しました。他方、黄河流域の王の祭天儀礼では柴とその上の供物を燃やして、煙を天にとどけました。神は天にあって、人間の側から神に接近していました。そこでは脱魂型がおこなわれていたとみることができます。

 現在も長江南部では憑霊型がさかんであり、黄河の北方では脱魂型のシャーマンが活躍しています。私はかなり長期にわたって、江蘇、浙江、湖南、貴州、広西チワン族自治区、黒竜、吉林、内蒙古自治区などのシャーマンを調査してまわってこの事実を確認しています。天の信仰と太陽の信仰は、また、シャーマニズムの脱魂型と憑霊型の問題でもありました。

 シャーマニズムでなぜこの両タイプが存在するのか、という問いについてはまだ完全な解答は提出されていません。

 シャーマニズムの研究で大きな業績をあげたM・エリアーデは脱魂型を本質とみて、憑霊型を第二次的な変化とかんがえました。その結論的な部分だけを代表作『シャーマニズム』(堀一郎訳・冬樹社・1985年)から引用します。


 アジア的シャーマニズムは、一つの古代的エクスタシー技術と考えねばならない。この原初的根本理論―天界上昇によって直接の関係を持ち得る可能性のある天界至上神の信仰―は、たえず仏教などの侵入を最頂点とする長い一連の異国からの著彩によって変形せしめられてきた。神秘的死の概念は、漸次祖霊と「精霊」との正常な関係、「憑移」にいたる関係を促進した。

 エリアーデの考えがよくうかがわれます。アジアのシャーマニズムはシャーマンが天界への上昇によって至上神と接触するエクスタシー型こそが真の姿であり、仏教などの侵入による異国からの影響と祖先崇拝によって変化が生まれ、憑移(憑霊、ポゼッション)型を増加させたが、しかし、エクスタシー型をなくするまでにはいたらなかった。このように彼は主張します。

 このエリアーデにたいし、民族学者のW・シュミットはポゼッション型を基本とかんがえ(大林太良「シャマニズム研究の問題点」『北方の民族と文化』山川出版社・1991年)、I・M・エリスは二つのタイプは共存するとみています(平沼孝之訳『エクスタシーの人類学―憑移とシャーマニズム』法政大学出版局、1985年)。

 脱魂型は狩猟文化と関わりをもち、憑霊型は農耕社会に顕著です。この事実は多くの研究者がみとめるところです。日本にかぎっても、本土では脱魂型がほとんど存在しないのに、ながいあいだ狩猟採集社会であった沖縄では他界を旅したり空中を飛翔したりする脱魂型の体験をユタなどから聞くことはまれではありません。

 地球的の規模でシャーマニズムの研究をおこなったアメリカの人類学者エリカ・ブールギェヨンとエヴァンスキーは「全世界からの民族誌的事例の通文化的統計研究において、社会の複雑度が低く、ことに採集狩猟経済にもとづく社会などでは、脱魂型シャーマニズムがふつうで、社会が複雑になり、農耕をいとなむようになると、憑霊型シャーマニズムがさかんになる傾向がある」という結論をみちびきだしています(大林氏前掲書)。

 このようにみてきますと、天の信仰と太陽の信仰を解明する重要な鍵がシャーマニズムの脱魂型と憑霊型にあることがたしかになります。

 華北の天の信仰、華南の太陽の信仰とかかわる現象の三つめは仮面の分布です。
 世界の民族に仮面をもつ民族ともたない民族があります。
 日本の仮面使用の祭りや芸能の分布状況を、『日本民俗芸能事典』(第一法規・1976年)によってみますと、南北につらぬく日本列島で、北から南へゆくほどその分布密度は濃くなり、南島とよばれる九州や沖縄の島々が濃密に仮面芸能をつたえるのにたいし、北の北海道にはこの地で生まれた仮面の儀礼や芸能が存在しません。

 北海道は北緯40度以北に位置します。おなじように朝鮮半島の仮面の祭りや芸能の分布状況を、金両基氏の『韓国仮面劇の世界』(新人物往来社・1987年)収載の表によって検討してみますと、北緯39度線より北に仮面芸能は存在しません。日本と朝鮮半島はともに北緯40線あたりに仮面芸能の北限があったことがわかります。おなじような調査を中国でおこなってみますと、やはり北緯40度の北京あたりに仮面祭式の北限があることがあきらかになります。

 しかし、地球規模に調査の範囲をひろげますと、北緯40度という緯度に特別の意味があるわけではありません。アフリカ大陸の仮面の分布は赤道を中心に南緯15度と北緯15度のあいだにみられ、北アメリカでは北緯65度のアラスカ湾あたりまで仮面をみることができます(吉田憲司編『仮面は生きている』岩波書店・1994年)。緯度に特別の意味はありませんが、世界の民族または人々に仮面をもつ人々ともたない人々のあることは確実です。

 一神教と多神教、シャーマニズムの脱魂型と憑霊型、仮面の有無、の三つの現象と天の信仰・太陽の信仰はふかい関わりがあると私はかんがえます。三つの現象が解明できれば、黄河流域に天の信仰が誕生し、長江流域に太陽の信仰が誕生した理由もあきらかになると信じています。 

 四つの現象をつらぬく共通のキーワードは農耕です。多神教、憑霊型、仮面、そして太陽信仰の四者を誕生育成した社会は農耕社会でした。他の四者を生みだした社会は狩猟または牧畜社会か、農耕社会への転進のおくれた社会でした。こうした私の断定には異論をもつ向きもあるかもしれません。現存の考古学の発掘資料によるかぎり、黄河流域に農耕がはじまった時期は、長江流域に農耕のはじまった時期にそれほど遅れているとはみえないと…。

 黄河流域では紀元前6000年ころまで農耕開始時期をさかのぼることができます。河北省武安県磁山遺跡からは炭化した粟や耕作用の石製鋤、収穫用の石鎌などの農具が出土しています。

 ちょうどそのころ、長江下流域の浙江省余姚市河姆渡遺跡からは野性稲や栽培稲、耕作用の骨製鋤、炊飯用の土器などが大量に出土しています。猪を家畜化した豚の飼育もはじまっていました。それから2000年ほど経過した紀元前4000年ごろの江蘇省蘇州市の草鞋山遺跡では、人工的な水路や水田があらわれています。

 この比較だけでは、両地域はほぼおなじころに農耕社会にはいっていて差はありません。しかし、長江中流域の湖南省にはさらに1000年以上さかのぼった彭頭山遺跡群が存在し、籾や土器、石製農具、集落跡など、水稲耕作のほぼ確実な証拠が発見されています。長江流域の農耕は黄河流域の農耕を1000年以上さかのぼります。さらに湖南省の玉蟾岩遺跡からは12000年前の炭化米を出土しており、これを栽培稲とみる説が有力です。これがみとめられれば、長江中流域に稲作の起源はじつに黄河流域を6000年さかのぼることになります。

 さらに重要な事実があります。長江流域の農耕が稲作であったのにたいし、黄河流域の農耕は雑穀栽培であったということです。毎年おなじ場所に栽培すると連作障害のおこる雑穀では、粟、黍、豆類などを順番に土地を替えて植えなければなりません。その結果、黄河流域では、農耕だけでは十分な食糧を得ることができなかったために、狩猟採集経済がながく並存しました。

 ここで問題はしぼられます。なぜ農耕社会は太陽の信仰を生み、狩猟社会は天の信仰を生むのか。私はそこにいくつかの段階と理由を想定します。

 

1.農耕民は食糧を生む大地を信じ、そこに神々の存在を感得するのにたいし、狩猟民や牧畜民は大地をはなれたところ=天に神の存在を信じる。

2.農耕民の信じる大地の多様な神々のなかでの最高神が農作物の豊凶を支配する太陽神であった。

3.狩猟民は獲物の獣を追う。その獲物は身体の内部に神の分身を宿している。狩猟民はその神をつねに追うことになる。幾世代にもわたって神を「追う」生活が脱魂型のシャーマンを誕生させた。彼らの多くは神の分身の獣を守護霊としている。

4.農耕民は大地をたがやして収穫を待つ。収穫物は農耕民にとっての神の分身である。幾世代にもわたって神を「待つ」生活をくりかえした農耕民のなかのえらばれたシャーマンが、自己の肉体を依代としてそこに神を待ちうける憑霊型を生みだした。

5.仮面も神をよりつかせる依代である。憑霊型のシャーマニズムの分布地帯と仮面の分布地帯がほとんどかさなるのはそのためである。


 

 今回はこの辺で通信を閉じます。次回は長江流域の少数民族社会に太陽信仰以外の信仰を追いかけてみます。
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諏訪春雄通信 15

前回予告しましたように、長江流域の少数民族社会にひろまっている太陽神信仰以外の信仰をみてゆきます。今回のテーマは「稲魂信仰」です。

 私たちのアジア文化研究プロジェクトには、学習院大学内外の多くの研究者が「プロジェクト参加者」としてくわわっておられます。これまでなんらかの形で私たちの活動に関わりをもたれた方々です。その参加者の一人に曽紅さんという中国の女性がおられます。この方は、現在は学習院大学の中国語講師をつとめていますが、本来は中国雲南省のハニ族の稲作について調査研究をかさね、すでに多くの論文も発表している比較民俗学者です。私の中国調査にもよく同行され、各地の民俗をいっしょに見てまわった方です。

 曽紅さんの研究の核心は雲南省ハニ族の稲作儀礼と日本の稲作儀礼との比較研究です。彼女はそこに多くの共通性を発見しましたが、しかし、なぜ遠く離れた雲南のハニ族と日本とのあいだに稲作にかかわる共通の信仰や儀礼が存在するのかという問いについては判断を保留しています。というよりも、明確なことはわからないというのが曽紅さんの本音のようです。

 彼女の研究の一端を紹介します。
 ハニ族の年中行事のうち、稲作に関係する行事にはつぎのようなものがあります。

1月 五穀祭(穀物神に豊作を祈願する)
2月 ガマツ祭(稲魂の降臨をむかえる) 
3月 苗床祭(稲の苗を祭る) 稲娘の聖婚式(稲魂を水田におろす儀礼) 穀物神と田の神を祭るハォへへ
6月 夏の松明祭(松明の火に照らして稲の多産を祈願する) 水口祭(水田の水口に供物をささげる)
7月 虫送り(稲の害虫駆除の祭り) 稲花酒を飲む(初穂を神棚にそなえ稲籾をいれた酒を飲む)
8月 新米節(ホスザ 稲刈に先立ちあたらしい稲魂と家の神棚にまつってある昨年の稲魂との新旧交代をおこなう)
9月 田の神への感謝祭(主婦は水田の真中で田の神に供物をささげ感謝の歌をうたい稲刈をする) 倉入れ(新旧稲魂の交替の儀礼)
10月 松の飾りと団子飾り(松の枝と稲の籾や若草を入れた竹筒、栗の枝を玄関にかざる。団子飾りは餅花) 年取り(団子をたべる)
    曽紅「ハニ族の年中行事」(諏訪春雄編『東アジアの神と祭り』雄山閣・1998年)

 ハニ族の古い暦法は一年を十ヶ月とします。この年中行事はその暦法によっています。このかんたんな叙述からも、(1)農家の一年の行事が稲作の作業過程とむすびついて進行する、(2)稲の祭りの中心に稲魂信仰がある、(3)稲魂は家の神棚と倉に祭られる、(4)稲魂は新旧交代する、(5)稲は人々の生命力の根源である、など、日本の稲作の祭りと共通の信仰が存在することがあきらかになります。

 家庭の主婦となった曽紅さんは、最近、中国調査を一時休止しています。曽紅さんのあとをうけて、雲南省の少数民族の稲作儀礼調査に目覚しい成果をあげているのが、麗澤大学教授の欠端実氏です。欠端氏とは国際日本文化研究センターのプロジェクトでご一緒し、しばしばお話を聞く機会がありました。
 氏の説の核心部分を引用してみます。

 現在の雲南省においても、穀物が発芽し成長し開花し結実するのは、穀霊の働きによると考え、そのための儀礼を執り行なっている小数民族は多い。アチャン族の穀霊祭は典型的なものとされる。アチャンは、稲には稲魂があって、稲魂を離れると稲は育たず、実も入らないと信じている。したがって、ぜひとも稲魂を祀らなければならないと考えている……ハニにおいても稲魂信仰は強く残され、日本の稲作儀礼と同じ儀礼が今日に至っても守られている。
 「雲南少数民族における新嘗祭」(『新嘗の研究4−稲作文化と祭祀―』第一書房・1999年)

 ハニは現在でも新穀を供える新嘗祭(フォシージャー)を行なっている。期日は一定していないが、おおむね七、八月の龍の日に行なわれる。稲魂(新穀の女神)はとても恥ずかしがりやなので、新穀を刈り取るときにはめでたい詞を唱えて、穀物を収穫する目的と新穀の女神をお迎えする誠意を表明しなければならない。穂がびっしりとつまっていて虫に食われていないものを選ぶ。刈り取った穀物は三本一くくりとし、三束に分けて先祖の位牌の所に掛け、一年中そのままにしておく。ただしお年寄りが亡くなったときにだけ持ち出して焼く。
 新米節のときにはまず先祖に供える。主な供え物としてはご飯である。(同上論文)

 氏はまたハニ族の新嘗祭の特徴をつぎのようにまとめています。

1.家の祭である。
 新嘗の時には家族全員で新穀を食べる。その際、客を招かず、家族以外の人には食べさせない例が多い。また新穀を収めた穀倉は他人 に見せようとはしない。

2.女性が主宰する祭である。
 調査した60余の村の内、11の村が「新嘗」は女性家長が主宰すると答えた。男性が主宰すると答えた村は2例であった。

3.新嘗儀礼の中心にあるのは穀霊(稲魂)信仰である。
 田畑にいる穀霊を家の中に迎え入れ祖先棚あるいは穀物蔵で休息してもらう。新穀を祖霊、穀霊および天神に供え共食する。新穀を食することは穀霊を食べることに他ならないという観念が今日も残されている。

4.穀霊信仰と祖霊信仰とが結合している。
 田畑から迎え入れられた穀霊は祖先棚に安置される。この祖先棚の移動や新設は新嘗の日に行わなければならない。

5.穀霊を保護しているのは聖樹である。穀霊信仰と聖樹崇拝とは結合している。
 ハニ族最大の祭は、田植前に行なわれる聖樹祭(アマトゥ)である。稲魂を庇護する天神が聖樹を伝わって降臨すると考えられている。聖樹は村建ての時、村のセンターとして選ばれるものであるが、西双版納(シーサバンナ)では各家で聖樹をもつ村があった。

欠端実「ハニ族の新嘗―アジア稲作の古層―」(アジア民族文化学会秋季大会発表要旨・平成13年11月11日・共立女子短期大学)


 ここでのべられている雲南省のハニ族の新嘗祭はそのままに日本の新嘗祭です。しかものちに変質してしまった日本の新嘗祭の古代の原型を推定する手がかかりさえのこされています。なぜそのような酷似性がみとめられるのでしょうか。これまでの本通信の注意ぶかい受信者ならば、その理由を容易にかんがえつくことができるはずです。

 欠端氏もまた曽紅さんと同様に、日本との類似性は指摘するがその理由についてはふれられません。雲南省は長江中流域にひろがる湖南省、湖北省などよりもさらに西南に位置し、日本からは遠くはなれた山岳地帯です。ここの稲作が、間にはさまる巨大な空間を超えて注目されるようになったのは、いまから三十年以上もむかしに、照葉樹林文化論(上山春平ら編『照葉樹林文化論』中央公論社・1969年初版)が流行したころからです。雲南省のハニ族の稲作が中国の他の土地に先んじて調査対象になったのは、じつはこの照葉樹林文化論の影響でもあったのです。

 1980年代、アジアの稲作の起源地としては、インドのアッサム州から中国の雲南省・貴州省にかけての高原地帯が有力でした。いわゆるアッサム・雲貴起源説です。この説をささえる重要な根拠は、この高原地帯で日本の農学者渡部忠世博士によって野性の稲が発見され、さらに、3、4000年まえにさかのぼる栽培稲が見出されたことでした。渡部博士の説は、1977年に『稲の道』(日本放送出版協会)として発表され大きな影響を学界にあたえました。

 このアッサム・雲貴稲作起源論のうえに華麗な照葉樹林文化論が強化され、日本の学界をにぎわしたことはご記憶の方も多いとおもいます。照葉樹林文化というのは、西ネパール付近からヒマラヤの南山麓を通り、中国南西部を経て西日本にいたる帯状の地帯にひろがっていた照葉樹林地帯(照葉樹林は、クスノキ、シイ、ツバキなどの、葉は革質で光沢のある常緑広葉樹の林で、日本では九州、四国、関東までの沿岸部に分布します)に生まれそだった文化で、焼畑農耕にもとづく雑穀栽培、ナットウやなれずしなどの醗酵保存食の利用、高床式住居の住居形式などなどの文化複合を形成しています。稲作もまたこのルートをたどって日本に到達したと主張されました。

 しかし、湖南省が稲作の源産地として確定した今日、照葉樹林文化論の骨格はくずれました。ほぼ4000年前の雲南省の稲作は、それよりもさらに4000年以上さかのぼる長江中流域から伝来したものと推定されます。したがって雲南の地にひろまった稲作の祭りや信仰もじつは長江中流域が起源地であったということになります。

 日本の稲魂信仰と雲南省ハニ族の稲魂信仰の共通性は、長江中流域の稲作民の稲魂信仰が東西に伝播したためであるといいきることができます。そして、私たちはすでに、湖南、湖北、貴州などの少数民族社会にその原型となる稲魂信仰を見出しています。

 次回は中国長江中流域の少数民族社会の稲魂信仰についてのべます。
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諏訪春雄通信 18 2002年 12月

 通信15で雲南省のハニ族の稲魂信仰についてのべました。最終のねらいは、中国の長江中流域ではじまった稲作が、日本へ伝来したときに、稲作の技術とともに、稲にかかわる各種の信仰を同時に日本へもたらし、日本の天皇制の基盤となった信仰・精神を形成したという事実の証明です。

 中国の少数民族ミャオ(苗)族の居住地は、湖北、湖南、四川、雲南、貴州、広西チワン族自治区などの各省にひろがっていますが、738万人におよぶ全人口(1990年の調査)の50パーセントまでが貴州省にすんでいます(田畑久夫他編『中国少数民族事典』東京堂出版・2001年)。

 ミャオ族の現在の主要な生業は稲作を中心とした農業です。山間低盆地や河谷を主体とする山間部に形成された平坦地では、付近をながれる河川の水を利用する水田稲作が中心で、一部の水田では鯉などの養殖もおこなわれています。これにたいし、山腹の斜面をきりひらいて造成した棚田では天水を利用した稲作が、段々畑ではトウモロコシ、おかぼ陸稲などが栽培されています。

 この貴州省のミャオ族のあいだに顕著な稲魂信仰をみることができます(潘定智「丹寨苗族的穀神崇拝」『貴州古文化研究』中国民間文芸出版社・1989年・他)。藩氏は穀神ということばつかっていますが実体は稲魂です。

 彼らのあいだに地上の穀物の起源について3種の神話がつたえられています。
1.大洪水がおこりこの世から穀物がなくなった。姜告略という老人がいた。老人は白バトとスズメに命じて天上の銀河のあたりから穀物をぬすませた。人間はそのおかげで稲をうえることができた。


2.むかし、人間は山の洞窟にすんでいた。そのころ、ミャオ族と漢族がおなじ洞窟に居住していた。その洞窟に一人の老婆がいて穀物と酒の麹種をもっていた。穀物は大きすぎて煮てもたべることができなかった。そののち、老婆がいなくなった。利口な人間が斧で穀物をわったところ、その破片からトウモロコシ、麦、稲、高粱、粟などが生え、また土中にはいって芋や蕨が生じた。漢族は麹種を得て、辛い酒をつくり、ミャオ族は甘い酒をつくった。


3.もともと穀物はとおくはなれた神農氏の里にあった。老人が犬に命じて穀物をとりにゆかせた。犬は途中に流れのはやい大河があったので、尾の先に穀物の粒をつけてもどってきた。そのために、現在、穀物の穂は犬の尾とおなじ形をしている。

 以上の3話は東アジアに流布している稲作神話の三つのタイプを代表しています。1の鳥のモチーフは穂落し神の伝承として中国、朝鮮、日本に流布しており、3の犬のモチーフはとくに中国南部にひろくおこなわれています。また2の洞窟から穀物を入手するモチーフは、洞窟から米が流出する、いわゆる「流米洞伝説」の変型とみることができます。このタイプは中国や朝鮮にひろがっています(大林太良『稲作の神話』弘文堂・1973年)。

 この三つの稲作神話のうち、1は日本でも東北から沖縄にまでひろまっています。穀物をもたらす鳥は多くは鶴ですが、雀、鴻などの種類もみることができます。3の犬は弘法大師伝説とむすびついてかなり変型した話がひろく流布しています。2の流米洞伝説はいまのところ日本からは発見されていません。朝鮮半島にまでつたわっていながら、海峡をこえることができず、日本につたわらなかった神話、伝説、習俗などはかなりあります。流米洞伝説もその一つです。

 稲魂のことを、ミャオ族は穀魂、米鬼、穀神などとよんでいます。稲が田圃で生長する旧暦の2、3月から8、9月のころまで、稲魂は田にあって稲の生長を見まもります。この時期の稲作の祭は稲魂を中心にいとなまれます。
 起活路 翻鼓節 撤苗 開苗門 粽節 稲魂祭 苗家稲祭 吃新節 稲魂収倉行事など、農事の節目ごとの行事がそれにあたります。

 起活路は春節(旧正月)ののちの決められた日(旧暦2月の第一亥の日など)の農事始めの行事です。河のそばの田を鋤でほりおこし、カヤ・ススキや山椒を田にさします。これは邪鬼の類の侵入をふせぐための儀礼です。

 開苗門は田植開始の儀礼です。もち米のご飯と魚を苗代にささげ、稲魂の保護を祈願します。そのときにとなえる文句のなかで、稲魂に「姑娘(娘)」とよびかけます。稲魂を女神とみなしていることがわかります。稲魂祭は、虫の害などで稲の発育が不良のとき、その原因を稲魂が田のなかにいないせいとかんがえ、鴨、酒などを持参して田にやってきて、稲魂に田にもどるように祈願する祭りです。

 苗家稲祭は、若者や娘が稲魂になる儀礼です。七月半ばの夜半、若者と娘たちが村の岡にあつまってこの儀礼がおこなわれます。指導者で歌い手になる人(巫師)が田から青々とした稲の葉(稲魂の変身とみなされている)をとってきて、えらばれて稲魂になる若者の頭上にさします。そして若者に耳をふさがせておいて、腰の鈴をならしながら、稲魂に生育をうながす歌をうたう。そのあいだに若者はしだいにトランスにおちいって、あの世にはいってゆきます。そして、途中、亡霊にあったりしながら、もっとも美しい場所までいってひきかえしてきます。これで若者は稲魂と一体になって成長することができると信じられているのです。

 吃新節は稲が成熟してきたころ、各家で田から奇数本の穂をぬき十粒の新米を古米のもち米とまぜて祖先と稲魂に感謝しながらたべる行事です。

 稲魂収倉行事は秋の収穫がおわったのち、一升の米をえらび、一把の稲束を小さな天秤棒にかけたものをその米にさし、倉におさめる儀礼です。そのときに

 九月がきました。十月がきました。穀粒はすべて倉におさまりました。稲魂様もどうぞ倉におかえりください。

ととなえます。

 ミャオの人たちにとって、稲魂は田の神であるとともに彼らの一生を守護する神でもあります。母の胎内にやどったときから、最後の死をむかえるまで、稲魂にまもられることによって無事にすごすことができると信じています。

 女性は懐妊すると巫師をよんで稲束を部屋の入口にかかげて祈祷をしてもらいます。邪鬼の類の侵入をふせぐためです。子供が成長すると、一碗の米と一個の鶏卵をいつも床の上においておきます。稲魂の保護を期待するためです。子供の衣服や帽子には穀物や米をいれた布の袋がぶらさげられています。

 病気にかかると枕もとに一束の稲の束をおいて病魔の退散を祈願します。新築のさいには、まず使用する柱に稲束、鶏、魚、酒などをささげて祈祷し、家が完成すると、大きな梁の両端に稲束をかけておきます。不幸があって巫師がよばれると、稲束が重要な役割をはたします。巫師は占いによって稲魂からその家の不幸の原因を聞きとり、災難を消滅させます。

 ミャオの人たちの一生は稲魂の保護のもとにあり、死ぬと稲魂にみちびかれてあの世にゆくと信じられています。出棺のとき、巫師は通過する道に米をまきちらし、死者をほうむる墓穴にも米を敷きます。こようにして稲魂は死者の霊魂につきそいます。

 このような事例をならべると、稲魂が祖霊神と一つになっていることがあきらかです。梁に稲束をかけて、家の保護を期待するのも、死者が稲魂にみちびかれてあの世にゆくのも、稲魂即祖先神だからです。

 そして、稲魂はまた太陽神でもあるはずです。

 この断定については、すこし説明が必要です。通信15で紹介した雲南省のハニ族の稲魂信仰では穀霊信仰が祖霊信仰とむすびついていました。その事実は、欠端実氏の報告によってあきらかです。信仰の有無や結合の判断はむつかしく、調査者のモチーフの持ち方に大きく左右されます。調査する人の側に太陽信仰というモチーフがないと、調査結果からこの部分がそっくりぬけおちてしまいます。つまり、欠端氏は穀霊信仰と祖霊信仰という二つのモチーフはつよくもっていましたので、両者の結合をとらえることができましたが、太陽信仰というモチーフははじめからもっていなかったので、調査結果からぬけおちてしまったのです。

 じつは、私がこれまでの貴州省ミャオ族の稲魂信仰の記述に主として利用した藩定智氏の報告にも、太陽神信仰という視点ははじめからないので、稲魂信仰と太陽神信仰の結合という事実はまったくうかびあがってきません。しかし、私は貴州省のミャオの稲魂信仰は太陽信仰と結合していたと判断します。

 私たちのアジア文化研究プロジェクトには企画を立案し、活動の基本の方針を審議する10名の運営委員がおります。著名な民俗写真家の萩原秀三郎氏もその委員の一人です。萩原氏の最近の著書に『稲と鳥と太陽の道』(小学館・1996年)があります。天皇制に焦点をしぼっている私のこの通信文のテーマとはねらいがちがいますが、稲魂信仰、鳥霊信仰、太陽信仰の三つが中国から日本へわたってきたという認識は共通しています。

 氏は、この書の中で広西チワン族自治区のミャオ族の信仰習俗にふれ、正月に村の中心にたてられる芦笙柱の本質を鳥竿、宇宙樹、太陽樹としてとらえておられます。この柱の上には鳥の作り物がかざられます。その鳥がすべて東の方向をむいているのは太陽をむかえるためで、太陽は稲の豊穣に不可欠であり、そこから柱と鳥、太陽、稲魂がむすびつくとのべておられます。したがうべき説です。

 今年の八月、私たちが中国長江流域の湖南、湖北、貴州3省の少数民族社会を調査してまわったことは、すでにこの通信でも報告しております。そのさい、調査にはいったミャオ族部落で太陽信仰の証跡をいくつも発見しています。

 8月4日には貴州省のミャオ族のー秋節という秋をむかえる祭りを見学しました。その部落入口の門の中央には木製の太陽がかざられていました。娘さんの正装の飾りにも太陽を象徴するものがみられました。
 8月11日に湖南省ミャオ族の竜舟行事を見学したときにも、竜舟や竜王廟の飾りに太陽のモチーフを見出しています。

 長江流域の稲作民族であるトン族の人たちが、稲魂、太陽、女性祖先神の三者の結合した信仰をもっていることについては、この通信10でくわしく報告しました。

 こうした長江中流域の文化複合が稲作とともに日本へ伝来したことは確実です。これまでながいあいだ、中国大陸をさすらってきましたが、次回の通信からは、比較民俗の視点と方法で、日本の王権の誕生と本質についてかんがえます。
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諏訪春雄通信 19

 この通信では日本の天皇制をささえる基本の信仰と精神が、中国の長江流域の少数民族がつたえている信仰と精神をうけついでいることについてのべます。そのために、今回は、日本の古代神話を素材とすることになりますが、しかし、私の採用している方法は比較神話学ではなく、比較民俗学です。日中両国の神話の類似を立証するのではなく、日本の天皇制をささえる基本精神の解明が目的です。

 日本の古代神話をつたえている代表的な書物は『古事記』と『日本書紀』です。この二つの書物が記述されるとき、中国の書物、それも黄河流域の漢民族の著述が、多く参照されました。よく知られている事実です。『古事記』や『日本書紀』の神話を分析するときに、留意すべき点はこの書承による修飾的な叙述を排除して、直接に天皇制の支えとなった稲作民の思想を抽出することです。

そうした修飾を排除した、日本神話の基本構造はつぎのように整理されます。主として『古事記』によります。
1.別天つ神五柱、神世七代のあとをうけ、ただよっている国土生成の命を天神からうけて誕生したイザナギ・イザナミの男女二神は、の浮橋に立ってアメノヌボコで海水をかきならしてオノゴロ島をつくった。その島に降り、聖なる御柱のまわりをまわって結婚する。はじめはヒルコや淡島を生んで失敗する。


2.天神の指示をうけて御柱めぐりと発言をやりなおした二神は、淡路島以下の大八島国、吉備児島以下の六島、石、海、風、木などの神々をつぎつぎに生む。


3.イザナミは日の神カグツチを生んだときに産道を焼かれて病にかかり没した。イザナギはいかってカグツチの首を斬った。その剣の血からは雷神ほか、カグツチの身体からはさまざまな山の神などが誕生した。


4.イザナミは黄泉の国へ去る。そのあとを追ったイザナギは、妻のことばにそむいて死体を見た。「見るなの禁忌」をおかしたイザナミはヨモッシコメらに追われるが桃の実などの呪力で逃走し、黄泉の国と現世との境のヨモツヒラサカを巨大な岩でふさいでしまった。


5.黄泉の国からのがれたイザナギは、筑紫の日向の阿波岐原でみそぎをする。そのとき、左眼からアマテラスが、右眼からツクヨミが、鼻からスサノオが誕生した。三貴子が誕生したことをよろこんだイザナギは、アマテラスに高天原を、ツクヨミに夜の世界を、スサノオに海原の支配を命じた。スサノオは父の命令にしたがわず泣きつづけたので、イザナギは根の国に追放してしまった。


6.スサノオは根の国におもむくまえに高天原のアマテラスをたずねた。スサノオの振舞のあらあらしさをおそれた姉の疑いをはらすために、天の安河をなかにはさんで姉弟は誓約をおこなった。アマテラスはスサノオの剣をかみくだいて三柱の女神を誕生させ、スサノオはアマテラスの玉をかみくだいて五柱の男神を誕生させた。


7.誓約のあと、勝者としてふるまったスサノオは、田を破壊し、大嘗の御殿を汚し、神聖な機織屋に逆はぎした馬の皮をなげこむなどの乱暴をはたらいた。おそれたアマテラスは天石屋戸にこもった。そのために高天原も葦原中国も暗闇となってさまざまな災いがおこった。八百万の神々は天安河原にあつまって相談され、長鳴鳥をなかせ、天香具山のサカキに玉、鏡、白幣、青幣などをつけてフトダマがもち、アメノコヤネが祝詞を奏上し、アメノウズメが神がかりして性器を露出させておどった。八百万の神々が大笑いし、アマテラスが不思議におもってのぞいたところを手力男命が手をとってひきだした。神々はスサノオの鬚と爪をきって追放した。


8.高天原を追放されたスサノオが食物をオホゲツヒメにもとめたところ、鼻・口・尻などから食物をだしたので、汚いといかったスサノオはオホゲツヒメを殺害した。殺害されたオホゲツヒメの身体から五穀や蚕が生じた。


9.天上界をおわれたスサノオは根の国へむかう途中、出雲の肥の河のほとりで、アシナヅチ、テナヅチの夫婦と娘クシナダヒメにあう。娘はヤマタノオロチという八頭八尾の大蛇にくわれる運命にあったが、スサノオは八つの瓶につよい酒を用意させ、大蛇が酔って寝ているすきにきりころした。そのとき、大蛇の尾のなかから出現した剣をスサノオはアマテラスに献上した。スサノオはクシナダヒメと結婚して出雲の地にすんだ。この二神の子孫からオオクニヌシが誕生する。


10.オオクニヌシは、兄の八十神たちが因幡のヤカミヒメのもとに求婚におもむいたときに袋を負って供をし、ワニに皮をはがれ、兄たちにおしえられたいつわりの治療法で苦しんでいた白兎をすくった。


11.白兎の命をすくったことでヤカミヒメの愛を得たオオムナチ(オオクニヌシの別名)は兄弟のねたみをうけ、二度も命をねらわれたが、母神にすくわれ根の国へのがれた。そこでスサノオから、蛇、ムカデ、蜂、野火などの試練を課せられたオオムナチは、スサノオの娘スセリビメの助けによって難をのがれ、太刀、弓、琴などの宝物を入手した。宝物の威力で兄弟の神々に復讐し、葦原中国の王者オオクニヌシとなる。


12.出雲のヤチホコ(オオクニヌシの別名)は高志のヌナカワヒメに求婚に出かけ、歌をうたいかわして結婚した。それを知った正妻のスセリビメがはげしく嫉妬したために大和へ行こうとしたが、夫婦で愛の歌を唱和し、心とけてともに出雲の地に鎮座した。


13.オオクニヌシが出雲の美保の岬にいたとき、小舟にのって海をわたってきたスクナビコナと逢った。両神が力をあわせて国造りにはげんだのち、スクナビコナは常世国へわたっていった。国造りの未完成をなげくオオクニヌシのまえに海を照らして近づいてきた神が国づくりの協力を申しでた。この神は大和の御室の山にまつられた。


14.葦原中国平定のために高天原の神々の命令で派遣されたアメノオシホはオオクニヌシにへつらって三年たっても復命しなかった。そこでアメノワカヒコがあたらしく派遣されたが、オオクニヌシの娘シタテルヒメと結婚して八年たってももどってこなかった。しかも事情をさぐるためにおくられた雉を射殺し、高木神(タカミムスヒの別名)の射返した矢にあたって死んだ。アメノワカヒコの葬儀がいとなまれ、川カリ、鷺、カワセミ、スズメ、雉が役割を分担して歌舞音曲をつとめた。弔いにおとずれたシタデルヒメの兄アジスキタカヒコネは死者とまちがえられたことをいかって、喪屋をけちらしてしまった。


15.アマテラスはタカミムスヒと相談して、つぎにタケミカヅチにアメノトリフネをそえて葦原中国に派遣した。タケミカヅチがオオクニヌシに国譲りをせまると、子のコトシロヌシにこたえさせた。コトシロヌシは天神の御子に国譲りするとこたえた。しかし、もう一人の子のタケミナカタは承知しなかったので、タケミカヅチは力比べに勝って信濃の諏訪に追いはらった。オオクニヌシは出雲国に御殿をたててもらって住み、葦原中国を天神御子に献上した。


16.アマテラスとタカミムスヒ(高木神)はアメノオシホミミに天降りを命じた。オシホミミは自分とタカミムスヒとのあいだに誕生したホノニニギを代りに推薦した。ニニギが降臨する途中、天の八ちまたにサルタヒコが眼から光を発してあらわれた。アメノウズメにその正体を問わせると、「先導をつとめるため」とこたえた。ニニギにアメノコヤネ以下の五伴緒、オモヒカネなどの供と、三種の神器があたえられた。アマテラスは、ニニギに「この鏡をわが魂とおもってまつれ」といい、オモヒカネに「神の祭りをつかさどれ」と命じた。したがって、鏡とオモヒカネは伊勢の五十鈴の宮にまつられている。


17.ホノニニギは笠沙の岬で大山津見神の娘コノハナサクヤビメと出あった。父神は姉のイワナガヒメをあわせて献上したが、ニニギは醜い姉をかえし、コノハナサクヤビメと一夜の契りをかわした。父神は「コノハナサクヤビメをとどめた天孫のお命は木の花のようにはかないでしょう」と申しおくった。一夜で妊娠したコノハナサクヤビメをうたがったニニギにたいし、ヒメは火中出産によって天孫の子であることを証明した。そのときに生まれた子が、ホデリ、ホスセリ、ホオリの三神である。


18.ホデリとホオリは海幸彦、山幸彦として漁労と狩猟にしたがっていた。あるとき、兄弟は釣針と弓矢を交換し、山幸は兄の釣針をうしなった。兄にせめられた山幸は海神の宮をたずね、娘のトヨタマビメをめとり、釣針をとりもどした。海神から呪詛の方法をまなび兄の海幸をくるしめて臣従させた。


19.臨月のちかづいたトヨタマビメは御子を生むために夫のもとにやってきた。しかし八ひろワニとなって出産している姿を夫に見られ、誕生した子ウガヤフキアエズをのこして海の宮へかえっていった。天皇家第一代の神武天皇はこのウガヤフキアエズの四男である。

 以上の19段が『古事記』のつたえる初代神武天皇誕生までの王権神話です。これらの神話の個々のモチーフについては、多くの神話学者による研究のつみかさねがあります。それらは、とうてい長江流域から伝来した稲作にともなう伝承としては解釈できない多様性をもっています。

 たとえば、7の著名なアマテラスの天石屋戸隠れについてはつぎのようなさまざまな説明がこれまでになされています。

A.アマテラスは大嘗祭の準備中に穢れにふれた。
B.日神であるアマテラスの日蝕神話である。
C.日神であるアマテラスの冬至神話である。
D.生命力の回復を祈願する鎮魂祭である。
E.大祓の儀礼の性格をもつ。

 7が以上のような多様のモチーフを複合していることはたしかですが、しかし、『古事記』の王権神話には全体をつらぬく主題があり、19段の神話素はその主題にしたがって、選択、配置、変容をくわえられていることも疑問のない事実です。私がはじめに、この通信で神話の比較研究をこころみているのではなく、王権の永続の秘密を比較民俗学の手法で解明しようとしているのだとのべたことにかかわります。個々のモチーフの由来を検討するのではなく、根本をつらぬく構造の解明とその由来が、私の研究目的になります。

 『古事記』神代の神話(多少形をかえてはいるが『日本書紀』にもいえます)はつぎのような基本テーマで編集されています。

1.日本の天皇は国土を生成し、時間の秩序をさだめた兄妹神イザナギ・イザナミの子孫である。1,2,3,5
2.日本の天皇の直接の祖先神アマテラスは太陽神、穀霊である。5,6,7,16
3.日本の天皇は天界から地上に下った。5,6,7,8,14,15,16
4.天皇以前に地上を支配していた勢力は出雲を拠点としたオオクニヌシ一族の神々である。9,10,11,12,13,14,15
5.地上勢力オオクニヌシの権力の根源もじつは天界にある。9,10,11,13
6.天皇は海の神の血統と呪力をとりこんで王権を強化した。18,19

 『古事記』神代の神話は以上の王権にかかわるテーマのほかに、国土生成(1,2)、地上と黄泉国の分離(4)、祭祀の起源(7)、穀物の起源(8)、地上の整備(13)、寿命の限界(16)などのテーマもかたっています。しかし、王権に限定すれば、以上の6つに整理されます。そして、この6つのうち、さらに日本の王権を確立させる最重要テーマが1から3までの3つです。この根本構造を決定する3つが、じつは中国南部の稲作にかかわる信仰に由来しているというのが私の基本の考えです。

 次回は新春にふさわしくこの天皇制の根本問題を中心にのべます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa19.htm


諏訪春雄通信 20 2002年 1月

2002年最初の通信を、「日本の王権神話と中国長江中流域」というテーマでお送りします。

 『古事記』を中心にまとめた日本の王権神話の最初はつぎのようになります。

 別天つ神五柱、神世七代の神々の最後に誕生したイザナギ・イザナミの男女神は、天の浮橋に立ってアメノヌボコで海水をかきならしてつくったオノゴロ島に天降り、聖なる柱のまわりをめぐって夫婦となる。はじめはヒルコや淡島を生んで失敗する。天神の指示によって御柱めぐりと発言をやりなおし、大八洲の島々と自然の神々を次々に生んだが、火の神を生んだときに火傷を負ってイザナミは死に黄泉国へゆく。妻を追って黄泉国へいったイザナギは妻のつれもどしに失敗する。筑紫の日向の阿波岐原でみそぎをしたイザナギは身体から、アマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴子を得て、天・夜・海の三界を分治させる。スサノオは父の命令に不満をもつ。

 これと構成要素がほとんど一致する中国江蘇省の「三官伝承」とよばれる民間伝承を大林太良氏が紹介されています(「イザナギ・イザナミ神話と中国の伝説」『神話の系譜―日本神話の源流をさぐる』青土社・1996年)。三官とは天神水神地神の三神です。大林氏はつぎの六つの要素に分類し、イザナギ・イザナミ神話との一致を論証しています。
1.海に囲まれた島に夫婦
2.夫婦別離
3.生まれた子を流す
4.夫は水中に入り新しい妻をめとり三子を得る
5.三子は三つの宇宙領域の代表者となる
6.三子のうちの一人は、自分に割り当てられた領域に不満

 この三官伝承は『西遊記』第九回「陳光蕊、任に赴いて災いに会い江流の僧讐を復して本に報ず」を直接の種本にしています。この事実をもとに大林氏は、「三官伝説がいま紹介したような形になったのは、もちろん『西遊記』が広まってからの新しいことであるが、イザナギ・イザナミ神話と対応するような大筋は、すでに古くから呉越の地に神話として存在していたのではないか」という仮説を提示しています。

 2と3が入れ替わっただけの一致は不思議にさえ感じられます。大林氏が提案されるような母胎の神話は呉越の地に実在したのでしょうか。それはどのような形をとっていたのでしょうか。広大無辺とでもいうべき学識の持主であった大林氏はその具体例をあげることなく昨年2001年4月12日に他界されました。私どものプロジェクトも創立当初からお世話になりました。ご冥福をお祈りします。

 中国の長江中流域の稲作民トン族が明確な洪水伝説を核とした祖先神話をもっていることについては、この諏訪春雄通信の10で紹介しました。日本神話とのあいだは、A洪水から生存した兄妹の男女二神が結婚して国土と人類を生んだこと、Bその結婚ははじめうまくゆかず身体不完全の子が誕生したがつぎに国土と人類などが誕生したこと、Cしかもそうした行為が最高神の指導でおこなわれたことなど、基本構造が完全に一致しています。

 世界の神話研究者には意外に知られていない事実ですが、洪水で兄妹が生きのこり、結婚して人類と国土を誕生させるという、いわゆる洪水神話は中国ですくなくとも58話がすでに発見、紹介されています(林河『儺史―中国儺文化概論―』台北東大図書公司・1994年)。

 著者の林河氏が私のふるくからの友人であり、昨年の夏に中国長江流域の少数民族調査を共同でおこなったことについては、この通信の9でのべました。氏は現代中国最高の民俗学者です。この神話の分布状況を、この神話を保持している民族の居住地域で整理するときわめて興味ぶかい結果が出てきます。居住地域の決定は『中国少数民族事典』(田畑久夫ほか編、東京堂出版・2001年)によりました。

雲南省 29  福建省 3  貴州省    12  広西チ自治区 3ワン族
四川省  3  湖南省 8  内蒙古自治区  2  遼寧省       2
湖北省  2  海南島 4  黄河辺     1

 この数値の総計は69となって、58話を超えます。たとえば、トン族は貴州省と湖南省にわかれて居住しています。そのさいにそれぞれを1として計算したために数値がふえたのです。

 洪水神話は、『旧約聖書』のノアの方舟で知られるように、古代オリエント、古代インド、南アメリカ、東南アジアなどにまで分布していて、その起源地についても諸説があって、一定しません。

 しかし、上掲の表によってみると、洪水神話は、雲南、貴州、湖南などの長江周辺の稲作民居住地に稠密に分布していて、そこから南北にずれると、急速に減少しています。このことから、洪水神話の起源地は長江中流域である可能性がきわめて高いといえます。

 私は、さらに、林河氏の紹介例にあたらしく20余話をつけくわえることができます。収集資料の整理・検討がまだ不十分ですので発表は後日を期しますが、私の資料をくわえても、林河氏の資料の分析から得た結論はつよめられこそすれ、ゆれることはありません。

 典型的な洪水神話のいくつかを紹介しましょう。


 むかし、一人の病気がちの老女がいた。彼女は雷神の肉をたべて病をなおそうと、子供たちに雷神をとらえる方法をかんがえさせた。しかし、彼女の孫と孫娘はやさしい性格であったので、こっそり雷神に危険を知らせた。雷神は兄妹に感謝し、歯を一本ぬいて彼らにあたえ、空に雷がなりひびき、大雨がふり、大洪水がおこるようなときには、いそいでこの歯を土中にうめなさい、そうすれば二人の命はすくわれるであろうと告げた。雷神は天の門をひらいて洪水をおこし、人類をことごとくおぼれさせてしまった。兄と妹は天の門がひらかれたときに、すぐ歯をうめた。歯からは大きな瓢箪が生え、兄妹はその瓢箪を割いてなかにかくれ、洪水から身をまもることができた。旧い人類は死にたえ、兄と妹だけがのこった。兄は崑崙山のまわりをまわって妹を追いかけ、天に兄と妹が結婚してよいかどうか、うかがいをたてた。天の許しを得て、ちぎりをむすぼうとするとき、妹ははずかしがって扇で顔をかくし、結婚したあとに肉の卵を生んだ。兄がそれをくだいて人類の種をまいたという(林河著・平石淑子訳「東アジアの動物信仰」諏訪春雄編『東アジアの神と祭り』雄山閣・1998年)。

 この漢民族の神話はほかの少数民族神話の影響下に成立したものとかんがえられます。同型の神話が、トン、ミャオ、トウチャ、チワン、プイ、コーラオなどの各民族につたえられているからです。洪水、生存した兄妹、宇宙の中心をめぐったあとの結婚、失敗、世界の生成などの、重要な要素が出そろっていることに注意してください。

 漢民族の神話と同型のミャオ族の洪水神話をつぎに紹介します。


 おおむかし、天から雷鳴とともに雨がふりそそいだ。雷のしわざである。一人の勇敢な男が鉄の檻を用意して雨のなかにとびだし、雷をとらえた。男が市へ出かけたるす、雷はるす番の子供たち兄妹にたのんで水をそそいでもらった。そのとたん、雷は檻の外へとびだし、天に飛びさった。そのとき、雷は兄妹に礼として歯を一本わたし、土中にうめるようにいいのこした。二人の子供がいわれたとおりにすると、大きな瓢箪が生えた。雷のいかりで大洪水になり、地上の生物はすべて死にたえたが、瓢箪のなかにかくれた二人は生きのこることができた。あるとき、兄が妹に結婚しようと申し出たが、妹はことわった。兄がなおもたのむと、妹は自分を追いかけてつかまえたら結婚するといった。兄は大きな木のまわりをめぐりながら妹を追いかけた。妹はなかなかつかまえられなかったが、兄は急にむきをかえて妹をつかまえた。結婚して間もなく生まれた子は、手足のない肉のかたまりであった。二人は肉塊をこまかにきざみ、天の神にたずねるために天への梯子をのぼりはじめた。しかし、大風がふいて肉の包みが解け、地におちて人間が生まれた。こうして人類は誕生した(君島久子『中国の神話』筑摩書房・1983年)。

 このミャオ族の神話でも洪水と樹めぐりが結合しています。日本の神話との一致は、樹=柱のまわりをめぐる行為が二度目に成功する細部にまでみられます。

 もうひとつ、リス族の民族創成の長編叙事詩を紹介しましょう。


 天空を黒雲がおおい、大地には強風がふきすさぶ。江水、河水がみなぎり、いまや人類は死にたえようとしていた。そのなかで兄一人と妹一人だけが生きのこった。兄妹は瓢箪にかくれて避難した。七日七夜ただよい、九日九夜漂流した。大江の水、大河の水がへりだし、瓢箪は山谷のあいだにただよった。銀刀、金刀で瓢箪をたたきわってみると、屍が大地をうずめていた。兄妹は人類の絶えるのをおそれ、櫛を二つにわり、腕輪を二つに切って交換し、兄は妻をさがしに北へ、妹は夫をたずねて南へゆく。兄と妹は大地の中央、谷の真中で出あった。兄の髪には白髪、妹の目じりにはしわが生じていた。櫛と腕輪はぴたりとあった。兄は妹にむかっていった。伴侶をさがせないのなら、兄妹で夫婦になるほかはない。妹は承知しない。もし結婚をのぞむなら針穴を弓で射なさい。兄は針の穴を射ぬいた。妹はなおも承知しない。池のほとりに臼をおき、谷のそばに臼をおき、もし結婚がうまくゆくなら、二つの臼は一つになるだろうところがした。臼はくぬぎの丘をころがって上部と下部がかさなった。天神は二人をむすびつけ、地神は臼をひきあわせた。二人は涙ながらに結婚し、リス族、漢族、ヌー族、トウロン族などを生んだ。人類は大地をおおい、活力は山野に満ち満ちた(君島久子氏前掲書)。

 この詩でも重要なモチーフはそろっています。洪水、瓢箪、兄妹、中心めぐり、神の意思による結婚など。柱のまわりをめぐる日本神話にたいし、大地をまわって二人は出あっています。柱を立てることは小宇宙(ミクロコスモス)を設定することです(諏訪春雄編『巨木と鳥竿』勉誠出版・2001年)。柱をまわるとは宇宙の中心をまわることであり、それは宇宙の星座が天界をめぐって秩序が更新されることになぞらえられる行為なのです。人類の祖先の結婚は世界の始原の時間の行為であったことをしめしています。

 もう一つ。人類最大タブーの近親婚をやぶるために慎重な配慮がほこされています。五体不満足のヒルコや肉のかたまりが最初に生まれてくるのは、インセスト(近親相姦)を犯した結果なのです。

 イザナギ・イザナミの国生み神話は岡正雄氏(「日本文化の基礎構造」『日本民俗大系』平凡社・1958年)以来、東南アジアの兄妹始祖洪水神話の系列に属するものと論じられ、ほぼ定説とされています。また、火の神カグツチの出産を契機としてのイザナミ・イザナミの夫婦別れも沼沢貴市氏の研究(「天地分るる神話の文化史的背景」『アカデミア』・1952年)以来、これも東南アジアに分布している天地分離神話の一種と理解されてきています。

 中国神話にたいする研究が進展していなかった時代の学説がそのまま今日までうけつがれているのです。王権を論じるこの通信のテーマからはなれますので、深入りはしませんが、天地分離神話も中国の少数民族社会に数多くつたえられています。それぞれの民族がそれぞれの天地創造(分離)神話をもっているといってよく、その数は洪水神話を超えるかも知れません。しかも多くは洪水神話とセットでかたられています。東南アジアで発見される断片的な洪水神話や天地分離神話は中国神話が波及していったものと断定できます。

 中国を中心軸として左右対称に、東南アジアと日本・朝鮮には相似の文化や民俗をみることができます。中国で変質してしまったり、うしなわれたりしたものが、東南アジアの各国や極東の朝鮮・日本にのこっている例もすくなくありません。まして、洪水神話や天地分離神話は中国大陸に数多く発見できるのです。これまでの定説は再検討されなければなりません。

 次回は「太陽と稲魂」をテーマに論じます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa20.htm


諏訪春雄通信 21

 今回は、前回お約束したように「太陽と稲魂」というテーマでお送りします。

 前々回19の通信で整理した神話素によりますと、アマテラスにかかわる神話の大筋はつぎのようにまとめることができます。

 黄泉国からのがれたイザナギが穢れをはらうためにみそぎをした左眼から誕生したアマテラスは高天原の支配を命じられた。鼻から誕生したスサノオは海原の支配を命じられたが、したがわなかったので、根の国へ追放された。
 スサノオは根の国へおもむくまえにアマテラスをたずねた。そのあらあらしさに恐れをなした姉の疑いをはらすために、姉弟は誓約をおこない、アマテラスはスサノオの剣をかみくだいて三柱の女神を誕生させ、スサノオはアマテラスの玉をかみくだいて五柱の男神を誕生させた。誓約のあと、勝者としてふるまうスサノオは、田を破壊し、大嘗の御殿を汚し、機織屋に逆はぎにした馬の皮をなげこんだ。
 おそれたアマテラスは天石屋戸にこもり、高天原も葦原中国も暗闇となりさまざまな災いがおこった。八百万の神々は、長鳴鳥をなかせ、玉、鏡、白・青の幣帛などをつけた榊をフトダマノミコトがもち、アメノコヤネが祝詞を奏上し、アメノウズメが神がかりして性器を露出しておどった。八百万の神々が大笑いし、アマテラスがのぞいたところを手力男命が手をとってひきだした。
 アマテラスは、天降りするニニギに「この鏡をわが魂とおもってまつれ」といい、オモヒカネに「神の祭りをつかさどれ」と命じた。鏡とオモヒカネは伊勢の五十鈴の宮にまつられている。

 『古事記』によってまとめたこの梗概からもアマテラスの《太陽神+稲魂》という本質はうかがうことができます。高天原の支配を命じられて、名がアマテラス(天空を照らす)であること、天石屋戸にこもったこと、鏡を魂とするとなどは、アマテラスが太陽神であることをしめしています。

 『日本書紀』を援用すると、アマテラスが太陽神であることはいっそうあきらかです。
 『書紀』によると、アマテラスは、日神(太陽の神)、オオヒルメノムチ(太陽の女神)などとよばれ、「この御子は輝くこと明るく美しく、天地四方の隅々まで照りかがやいた」などと叙述されています。

 天石屋戸ごもりについては、日蝕、冬至、などの解釈がありますが、いずれにしてもアマテラスが太陽神であることをうかがわせます。鏡が本来太陽をあらわしていることは、長江流域のトン族、ミャオ族などの習俗からあきらかです。

 姿をかくした太陽を鶏がよびだす招日神話が中国の少数民族のあいだに伝承されています。ここではミャオ族の「オンドリになぜトサカがあるか」という話を紹介します。

 むかし、天に住む天爺さんにはオテントサンとよばれる十人のせがれがいた。天爺さんは自分がねむっているあいだ、十人のせがれに一人ずつ空を見まわるよう命じたが、子どもたちは父の言いつけにしたがわず、皆で一度に空をまわることにした。しかし、末っ子だけは父の命令をまもって、兄たちに同行せず留守番をしていた。
 九つのオテントサンが照りつけるため、地上は干あがって作物はみな枯れてしまった。こまった人間たちは相談し、声の大きな動物にオテントサンを追いはらってもらうことにし、アカウシ、シシなどがよばれたが失敗してしまった。そこでつぎに弓の名人が太陽を射ることになり、九本の矢で九つの太陽を射落とした。
 兄たちの射落とされるのをみた末っ子の太陽は、肝をつぶし、矢のとどかない山の向こうににげこんで、二度と顔をみせようとしなかった。世の中は真っ暗闇となり、人々はこまりはてた。声の大きな動物に太陽をよびださせることになったが、シシ、アカウシが失敗し、オンドリがよばれた。しかし、しわがれ声で一回めは失敗、二回めも失敗した。猛練習をかさねたオンドリの三回めのよび声にオテントサンは東の山の頂上から大地をのぞいた。あたりは明るくなり、人々はニコニコして歓迎した。
 オテントサンはすっかりオンドリが気にいって、自分の真っ赤な服のはしを切りとって赤い帽子をつくってやった。それからは、オンドリの呼び声にきっと山の後ろから顔をだすようになった。(村松一弥翻訳『東洋文庫 苗族民話集』平凡社・1974年)。

 前半は射日神話とよばれる話型で、後半が鶏と太陽の招日神話になっています。この両神話はセットになって、中国のミャオ族のほかに、ワ、ラフ、ハニ、プーラン、リー、ヤオ、イ、チベット、チワン、トンなどの諸族につたえられています。おそらく、日本に伝来した招日神話も本来は討日神話とセットになっていたものを、前半を切りおとして、体系のなかにくみいれたものとかんがえられます(萩原秀三郎『稲と鳥と太陽の道』大修館書店・1996年)。

 たいせつなことは、日本の王権神話の重要な骨格が中国長江流域の稲作民族の神話で説明できるということです。

 アマテラスが稲魂であるということも、『古事記』からうかがえます。

1.アマテラスが田をつくり、新嘗を主宰している。
2.地上に降臨したアマテラスの孫ホノニニギは稲穂の豊穣の意味をもつ。

 さらに『日本書紀』を援用するとアマテラスの稲魂、穀霊としての性格はつぎの記述によっていっそう明瞭になります。

1.死んだウケモチノ神の身体から生じた稲などの五穀を天の田にうえ、大きな稲穂を収穫している。
2.新穀をたべる新嘗を主宰している。
3.第二の一書によるとニニギの降臨のさいに高天原の田の稲穂をさずけている。

 皇室の祖先神であるアマテラスは、女神、太陽神、稲魂という三つの性格をかねそなえています。このような性格をもった神がトン族に信仰されていることについては、この通信の10で報告しました。トン族の薩神とよばれる神は、民族の祖先神、女神、太陽神、稲魂、歴史上の人物という五つの性格がアマテラスと一致しています。

 また、祖先神・女神・稲魂・太陽神の四位一体となった神が長江中流の稲作民であるミャオ族やハニ族に信仰されていることについては、通信18で報告しました。

 日本の王権神話の発端となっている、
1 日本の天皇家は国土を生成し時間の秩序をさだめた兄妹神イザナギ・イザナミの子孫である
2 日本の天皇家の直接の祖先神アマテラスは太陽神であり稲魂である

という二項の骨格部分が、中国の長江流域稲作地帯の神話伝承や習俗で説明できることをこれまでにのべました。

 次回は、以上の1と2につづく天孫降臨神話についてもおなじ説明方法が適用できるかどうか、検討します。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa21.htm


諏訪春雄通信 22

 前回の通信で次回は「天孫降臨神話」についてお送りすると予告しましたが、1回先延ばしさせていただき、今回は「沖縄の稲作」というテーマでのべます。

 私たちのプロジェクトは学外の各種機関から助成金をもらって活動を継続しています。その援助機関の一つ、サントリー文化財団から、沖縄祭祀研究のテーマで平成12年、13年とつづけて助成金をうけました。そのために、1月23日、大阪の財団本部で、財団理事の方々やほかの研究プロジェクト代表をまえに研究報告をしなければなりません。今回はその報告の概要をお送りします。

 日本列島へ大陸から稲がわたってきた経路は三つかんがえられます。1:朝鮮半島経由ルート、2:江南からの直接ルート、そして3:沖縄経由ルートです。この3のルートは、柳田國男が昭和36年に刊行した『海上の道』で主張した説です。

 1,2は考古学の裏づけがありますが、3には古い遺跡も出土品もありません。いまのところ、沖縄の最古の稲は、玉城の糸数城遺跡から出た、西暦10世紀ごろのもので、それより古い稲は発見されていません。したがって、考古学者や歴史学者は3をみとめませんが、一部の民俗学者や農学者のなかに、かなり根強い支持があります。

 その一人、遺伝子分析で大きな成果をあげている農学者の静岡大学助教授の佐藤洋一郎氏は、東南アジアから台湾、沖縄、九州にかけて、現在、焼畑耕作にともなう熱帯ジャポニカが点在することを根拠に、3の海上の道説は、《魅力ある仮説》といいきっています。

 一方は考古学上の証拠、他方は現在の熱帯ジャポニカの分布、という相反する事由にもとづく二つの対立した立場に、解決の道をさぐろうとして、私は沖縄と本土の稲魂信仰に注目しました。そして、成熟度に差異があることを根拠に、私は沖縄の十世紀以前の稲作の存在を疑問視しています。

 社会人類学者の伊藤幹治氏は、昭和49年に刊行された『稲作儀礼の研究』(而立書房)で、本土と沖縄の稲作儀礼の周到な比較研究をとおして、両者の異質性を指摘し、柳田國男や折口信夫らが研究の立脚点とした本土日本と沖縄の同祖論を否定しています。

 私はおなじ見方が稲魂信仰や太陽信仰に適用できるとみます。そして、本土日本の稲魂信仰と太陽信仰・祖霊信仰の結合は、稲作の誕生地である中国の長江流域の影響を直接にうけているからとかんがえます。沖縄の稲魂信仰は本土を経由して時間をかけて伝来したために、沖縄固有のニライカナイ信仰に包摂されて変質したものと判断しています。以下、私の報告書を掲載しましょう。


沖縄の太陽信仰と稲魂信仰
   沖縄民俗祭祀の源流を東南アジア・中国大陸南部・台湾などの黒潮文化圏に探る研究
                代表:学習院大学文学部 教授 諏訪春雄

 沖縄の神観念
 沖縄の固有信仰の対象となる神々を二つにわける見方がある(高阪薫「沖縄の祭祀と神観念」同氏編『沖縄の祭祀―事例と課題』三弥井書店・1987)。

A 可視と不可視

 見える神…表象認識できる特定の場に滞在する神      
アニミズムの要素をもつ自然の神々 屋敷神 井の神 カマドの神(火の神) 御嶽の神など
 見えない神…表象認識できない不特定な空間のいずこかに存在する観念的、抽象的な神
火の神 ニライカナイの神 竜宮神 アマミヤシネリヤ(開闢神) 祖霊神 オボツ神(天上や山上の神)など
 
B 信仰集団

 家レベル
オナリ神 火の神 祖先崇拝 アニミズム的な具象の神々
 村レベル
御嶽の神 火の神 ニライカナイ神 祖霊神 竜宮神 アマミヤシネリヤ オボツ神など

 このような体系のなかで、太陽神はAでは見える神、Bでは村レベルに分類できるが、ここにあげられた神々ほど顕著な神格ではない。沖縄の年中祭祀を検討しても太陽神だけを対象とした祭祀はみとめられない。粟国島の正月のユークムイ(世を乞う丘)で区長が東方にむかって豊穣を祈願するのは太陽信仰の数すくない事例である。しかし、太陽神を「てるかは」とよんでいる例が『おもろさうし』にみえるところからも、太陽が信仰されていることは確実である。

 これにたいし、稲を対象とした祭りは多い。旧暦の八月前後におこなわれる豊年祭(広義には、八重山諸島の六月下旬のプールィ、八、九月の結願、十月の種子取祭、宮古諸島の世乞いなどもふくめる)は豊穣祈願を目的とし、稲をはじめとする五穀の豊作が、豊漁、子孫繁栄などとともに対象になる。また、稲霊(魂)信仰が存在することは、旧暦八月にアマミ大島でおこなわれるショッチョガマ(片屋根のわらぶき小屋)、つづく平瀬マンカイ(招き合い)によってあきらかである。ともに収穫感謝と豊作祈願の祭であり、この祭で男、女のとなえる文句のなかに稲霊があらわれる

 稲霊が祈願対象となるショッチョガマと平瀬マンカイの基本構造は対応している。

  早朝―男性―垂直神
  夕方―女性―水平神

 ショッチョガマで男たちによってとなえられる文句はつぎのようである。


ハー、トートガナシ(神への尊称・神拝みの常套句)
八月の新節がやってきて
ショッチョガマ祭を祭ってあげましょう
西東の稲霊様は
伊津部の田袋に お寄り下さって
伊津部田袋の稲霊様は
秋名田袋に お寄り下さって
北風が吹いたら上の畔を枕にして
南風が吹いたら下の畔を枕にするように
稲を実らせて下さい
そして名を上げて下さい トートガナシ

 ここで稲霊様は天から招かれている。

 女たちが掛合いでうたう平瀬まんかいの歌はつぎのようである。


〈神平瀬〉
 玉の石に登って 何のお祝いをしましょう 西東の稲霊を 招き寄せよう
〈女童平瀬〉
 秋名の親ノロが すべての稲霊を寄せて 村があるかぎり 祭ってあげましょう
〈神平瀬〉
 朝潮の満ちあがるころは ショッチョガマの祭り 夕潮の満ちあがるころは 平瀬の祭り
〈女童平瀬〉
 今年世は変わって 不思議なことに 海の魚たちが 陸にあがってきたことよ
            (口語訳のみ 『おきなわの祭り』沖縄タイムス社・1991年)

 ここでは稲霊様は海の彼方から招かれている。

 これらの歌から、沖縄の稲霊は、1.稲の豊穣をつかさどる、2.天または海の彼方から招かれる、3.漁労、狩猟などの豊かさをつかさどる神々と同格である、などの性格がみちびきだされる。
 沖縄の稲魂信仰は固有のニライカナイの信仰に包摂されている。


 日本本土の太陽信仰と稲魂信仰

 日本本土では太陽信仰をまだ各地でみることができる。正月に初日の出をおがむこと、彼岸の社日(土地神の祭り)参り、お日待ち、天道信仰、天道念仏、天道花、お火焚き神事、おびしゃの神事、ゲーター祭などの行事や習俗となってあらわれている。

 天道信仰はとくに対馬を中心とし、北九州などにも分布する。日神信仰と稲魂信仰を合体させ、真言密教の教義で体系化したものである。天道は天童とも書き、テンドウサンとよばれる。赤米を耕作し、その稲魂を加持祈祷して神霊とし、崇拝の対象にした。このテンドウとはべつに真言密教系統の天道法師とよばれる菩薩を信仰の対象にした。この天道童子は母が日光に感精して懐妊し、成長して僧となったという伝説をつたえる。

 天道念仏は、福島、茨城、栃木、千葉などの各県におこなわれている念仏行事である。四本の竹で櫓をくんで注連縄をはり、中央に梵天をたて、供え物をして、梵天を中心にして右回りに念仏をとなえながらおどる。一月から三月彼岸にかけて集中しており、テントウすなわち太陽の信仰が核になっており、そこに出羽三山の信仰や大日信仰、念仏信仰などが集合したものとされている。

 関東地方にことに集中して分布するオビシャは、三本足の烏または烏と兎を一対でえがいた的を弓で射る正月行事である。烏は太陽、兎は月をあらわすものとされ、中国にはじまって日本に伝来した射日神話である。太陽の死と再生を儀式化したものと理解されている。おなじように、三重県鳥羽市神島で年の暮れから元旦の早朝にかけておこなわれるゲーター祭も、太陽の死と再生による秩序の更新をはかるものと理解されている。この祭では、アワとよぶぐみの枝に白紙をまいてつくった直径二メートルほどの輪を、若者たちが雌竹ではげしくたたき、初日の出とともに東の浜で高々と空につきあげる。アワは日輪をかたどり、たたくことは偽の太陽をたたきおとすことであり、空につきあげる行為は日の出を意味する。ゲーターとは迎旦つまり日の出をむかえることという。

 稲魂にたいする信仰も、前述の対馬の赤米神事以外にも本土各地でみることができる。その年の初穂を神にそなえて感謝する新嘗祭、十二月の始めに田の神をむかえて収穫を感謝し、二月のはじめに豊作を祈願して田の神をおくりだす能登半島先端部のアエノコトの行事、その年の稔りの豊さを祈願する祈年祭などの行事に稲魂の信仰をみることができるし、ハレの日の餅、悪鬼ばらいの散米、墓への供物としての洗米、病人の枕元での振り米、出産のさいの力米などにも米の霊力にたいする信仰がある。

 本土の太陽信仰と稲魂信仰は全体としてつぎのような特色をもっている。
1.対馬の天童信仰からあきらかなように太陽信仰と稲魂信仰の合体がみられる。
2.能登のアエノコトにしめされるように祖霊信仰と稲魂信仰の合体がみられる。
3.稲の豊穣をつかさどるだけではなく、人間の寿命や健康までを左右する米の霊力にたいするつよい信仰が存在する。

 以上を総合して、本土の稲魂信仰は、沖縄よりもはるかに成熟していると、結論づけられる。そして、稲魂信仰と太陽信仰や祖霊信仰との結合は、中国の長江中流の稲作地帯の少数民族社会におこなわれている信仰が、稲作とともに日本に伝来したものとみることができる。


稲の来た道

 よくしられているように、柳田國男は昭和36年(1961)に刊行された『海上の道』で、日本人の先祖は稲作をともなって中国大陸南部から沖縄に漂着して宝貝を発見し、その魅力にとりつかれ、また稲作の適地をもとめて、日本列島各地にひろがったという日本人北上論をとなえた。

 このような柳田の論は現在の考古学の裏づけを欠いている。

 沖縄に稲作のはいった時期は、玉城の糸数城跡から麦とともに出土した炭化米の時代判定によって、10世紀以前とみられ、そのころにはかなり栽培されていたとかんがえられる。また、1477年(尚真一)に与那国島に漂着した朝鮮済州島人(金非衣ら)の記録によると、与那国・西表・伊良部・宮古・沖縄の各島に稲作がおこなわれているとの記述がみられ、15世紀後半には沖縄全域で稲作がおこなわれていた(「いね」『沖縄大百科事典』)。

 沖縄に稲の来た道も最近の研究によれば、中国南部から直接に伝来するよりも日本本土を経由した可能性がつよい。

 本土の最古の稲は岡山県や鹿児島県などから出土しており、縄文時代前期、6000年前にまでさかのぼる熱帯ジャポニカである。おそらく焼畑耕作によって、ヒエやアワ、キビなどの雑穀とともに栽培されていた。この熱帯ジャポニカは中国大陸の江南地方から直接日本に渡来していた。

 日本で熱帯ジャポニカが焼畑で耕作されだした、ちょうどそのころ、中国江南では水田耕作による温帯ジャポニカの生産がはじまっていた。現在わかっている水田の最古の遺跡は江蘇省蘇州市の6000年前の草鞋山遺跡である。この水田は朝鮮半島をへて縄文晩期の2600年前には佐賀県唐津市の菜畑遺跡におよんでいた(浦林竜太「イネ、知られざる1万年の旅」『日本人はるかな旅』NHK出版・2001年)。

 水田稲作は、朝鮮半島を経由せず、直接、中国から日本に伝来したものもあった。遺伝子研究によって、佐藤洋一郎氏は、水稲は、中国からの直接ルートと朝鮮半島経由ルートの二つがあったことを主張している(「DNAからみたイネの道」『日本人はるかな旅』)。

 こうした大陸から本土への稲の道に沖縄は登場してこない。

 柳田國男が主張したように、沖縄への稲の伝来を10世紀以前に想定する可能性がまったくないわけではない。

 佐藤洋一郎氏作成の「熱帯ジャポニかの分布図」によると、現在、熱帯ジャポニカは、中国南西部からインドシナ半島半島奥地にかけての地域と、フィリピンやインドネシアなどの熱帯島嶼部で栽培されている。また、熱帯ジャポニカ固有の遺伝子をもつ品種が、台湾の山岳部から南西諸島を経て九州にまで点在している。この事実から佐藤氏は、〈かつて柳田國男が主張した「海上の道」はがぜん魅力ある仮説となる〉とのべている(佐藤洋一郎氏前掲論文)。

 沖縄から古い米が出るか出ないかはいまのところ判断材料はない。また、アジアの熱帯ジャポニカの原産地は中国長江中流域であり、日本には6000年まえには伝来していた。沖縄の熱帯ジャポニカも本土経由の可能性をすてきれない。しかも、沖縄の稲魂信仰が本土にくらべて、太陽信仰や祖霊信仰とむすびつくことがないなど、未成熟または変質の事実を考慮すると、沖縄に十世紀以前のふるい稲作を想定することはむずかしい。
 沖縄の稲作の祭祀儀礼じたいが本土とはかなり異質である(伊藤幹治『稲作儀礼の研究』而立書房、一九七四年)。長い時間をかけて本土から沖縄につたわったために、独自の風土と信仰のなかで変質していった可能性がかんがえられる。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa22.htm


諏訪春雄通信 23

 今回は「天孫降臨神話」についてのべます。

 日本古代神話のなかでも、天孫降臨神話についての研究は格段にすすんでいます。この神話が、日本の王権神話のなかでも核心となる部分だからです。松村武雄、三品彰英、大林太良、西郷信綱、松前健、吉田敦彦などという名立たる神話学者の研究がつみかさねられ、日本の天孫降臨神話が朝鮮半島から内陸アジアにかけてひろく分布している、祖神の天降り神話に由来することは定説となっています。

 これまでに上記の研究者たちによって指摘されている先行神話はつぎのようなものです。

 まず朝鮮の歴史書『三国遺事』がつたえる檀君神話です。
 天帝の子の桓雄は父の命令によって、天符印三個をもって、風・雨・雲および穀物・生命・疾病などをつかさどる神々をひきいて、太白山山上の檀の木をつたわって降臨した。このさいに、熊がよもぎとにんにくをたべて、女に化身し、桓雄と結婚して檀君を生んだ。この檀君が国をひらいて朝鮮と命名した。

 おなじ『三国遺事』がつたえる首露王神話はつぎのようになっています。
 伽耶地方の村々の首長らが亀旨峰という山にあつまって、迎神の祭りをおこなっていると、天から紫色の紐がたれさがってきた。紐の端をみると、黄金の卵が六つはいっている赤い包みがあり、そのなかの一つから伽耶国の始祖である首露がうまれた。

 もう一つ、ブリヤート・モンゴル族のゲセル神話です。
 至高神デルグエン・サガンは、マラトの民の哀願を聞き、一日も早く天神を降して悪者を退治しなければならないと考えた。彼はドロン・オドウン天に全天の諸神九十九柱の主な神々と、天上に住む数千のブルハンをあつめて、悪者征伐の大評定を開いた。最初、至高神サガンの子、カン・チュルマスを下すべきことが提案されたが、チュルマス神は老齢を理由にことわった。そして自分の末子ゲセル・ボグドゥに天下りを命じるよう乞い、四歳のボグドゥが天命を拝受した。ボグドゥは、1)全天の九つの天の主宰神がもつ智謀のすべて、2)祖父のもつ黒い軍馬、3)英雄の準備金、4)祖父の蹄縄、5)祖父の短い槍、6)一人の妻を所望し、これを手に入れて下った。

 この神話を紹介された大林太良氏は、
1.天神の子が天下ることをことわり、孫がその代りに天下る。
2.天下る神が幼児である。
3.日本の三種の神器にあたるものに蒙古の六種がある。
4.日本では荒ぶる神のいる葦原中国を平らげるために神集いにつどい、その結果国譲りがおこなわれたが、蒙古神話でも、荒ぶる神を平らげるために天神の子をくだそうとして神々の大評定がおこなわれた。

という四点の類似をあげて、「おそらく元来はアルタイ語族系の牧畜民文化を母胎とした神話であって、日本へは、皇室の先祖の起源神話として入ったものであろう」と結論づけておられる(『神話と神話学』大和書房・1975年)。

 以上、日本の天孫降臨神話を北方系としてとらえる視点が定着しています。そのばあい、私がこの通信でこれまでのべてきた日本の王権神話の源流であった南方農耕地帯の神話や習俗との関係はどうなるのでしょうか。

 じつは、南方長江流域の少数民族社会にも、民族の祖先が天から穀物をもって下ったという種類の神話や伝説は流布しているのです。いままで考慮されなかっただけのことなのです。そのなかから二つの神話を紹介します。

 まず雲南省を中心にすんでいるナシ族の神話です。

 大昔、兄弟姉妹が近親婚をはたらいたために神の怒りをかって大洪水がおこり、わずかな人類はほろびました。皮鼓のなかにはいってただ一人生きのこったツォゼルウは、天神ツラアブの娘ツフブブミと出会って恋におち、天にともなわれ、父の天神に会いました。若者が気に入らない天神は、一日のうちに九つの林の木をきる、伐採した木を一日でやきはらう、焼け跡に穀物をまいて収穫する、収穫した穀物のうちじゅずかけ鳩と蟻にたべられた三粒の穀物をとりもどす、岩羊の猟のさいに天神のしかけた罠からのがれる、川魚猟のさいに天神のしかけた罠からのがれる、虎の乳をしぼってくる、などの試練を課しましたが、ツォゼルウは娘の知恵にたすけられてことごとく突破します。さすがの天神も二人の結婚をゆるし、家畜、穀物の種などをあたえて下界へかえしてやります。二人は地上の多くの種族の祖先となりました。

 前半は省略しましたが、天地創造神話と洪水型神話が結合しており、後半はスサノオとオオクニヌシの神話と同型の難題婿の話型になっています。しかも天神の娘が人間の男とむすばれて天上から穀物をもたらし、地上の多くの種族の祖先となる話にもなっています。

 もう一つ、湖南省から広西チワン族自治区にかけて居住するヤオ族の神話を紹介します。

 大昔、天は今よりも低いところにあり、人間は大木をつたわってたやすく天へあそびにゆくことができました。そのころ天神に命じられて地上の水をつかさどっていたのは天上にすむ水仙姫でした。ある日、彼女は地上からきた若者に夢中になって、水口をふさぐのをわすれ、地上は大洪水におおわれてしまいました。天神のはげしい怒りにおそろしくなった水仙姫は、若者の手をとってにげだしてしまいました。水仙姫の両親は二人をさがしまわり、月宮の桂の木の下にいる娘と若者を発見しました。たのもしい若者と娘がいることに安堵した両親は、二人に穀物の種子とゴマの種子をあたえて地上へにがしてやりました。
 地上はすでに水がひいていました。二人は穀物とゴマの種をまき、人類や動物をつくりだしました。天神は地上が元通りに豊かになっているのみて、二人をゆるしました。ただ、地上の人間が天に上ってくるのをふせぐため、天をたかくひきあげてしまいました。このときから、地上の人間は天へ登ることができなくなりました。

 このような神話はまだ数多くつたえられています。いずれきちんと分布状況を整理したいとおもっています。

 さしあたり今はつぎのようなことがいえます。
1.天孫降臨神話の骨格は北方諸民族の山上降臨型神話によって形成された。
2.しかし、その北方系神話をうけいれた基盤は、南方農耕民族の天から穀物をもたらし地上の人類の祖先となる神話、稲魂信仰、太陽信仰などであった。そのために天孫ホノニニギは豊穣な穀霊、太陽神などの性格ももつことができた。
3.天孫降臨神話は、シャーマニズムの二つのタイプ、脱魂型と憑霊型が融合して誕生した。

 この3についてさらに説明をくわえておきます。

 天に神がいますという信仰は、北方狩猟採集民族の脱魂型にもとづきます。他方、その神々が地上に降臨して人間にまじわるという信仰は農耕社会に優勢な憑霊型です。この二つが融合しなければ、天孫降臨神話は成立しません。

 2と3をあわせて、これまで、北方系神話が伝来したものといわれてきた天孫降臨神話を、北方、南方両系統の複合としてかんがえなおそうというのが、この通信23の主題です。

 これ以降の日本王権の展開は、北方原理にもとづく思想と南方原理にもとづく思想の葛藤・複合としてとらえることができます。その最初のモデルが天孫降臨神話なのです。これを北方原理だけとしてとらえると、日本の王権の本質は解明できませんし、永続の秘密もみえてきません。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa23.htm

諏訪春雄通信 24

 今回のテーマは「根の国神話」と「海幸山幸神話」です。この二つの神話は、ともにこれまで長江流域の神話や伝説とむすびつけてかんがえられることはほとんどありませんでした。ほとんどといったのは、海幸山幸神話にかぎっては少数意見として、長江流域に源流をもとめる説が存在するからです。

 まず根の国神話から検討してみます。
 王権にかかわる日本神話の基本構造は通信19で整理しておきましたが、念のために根の国神話の梗概をのべておきます。


 オオクニヌシは、兄の八十神たちが因幡のヤカミヒメのもとに求婚におもむいたときに袋を負って供をし、ワニに皮をはがれ、兄たちにおしえられた偽りの治療法で苦しんでいた白兎をすくった。
 白兎の命をすくったことでヤカミヒメの愛を得たオオナムチ(オオヌニヌシの別名)は兄たちのねたみをうけ、二度も命をねらわれたが、母神にすくわれ、根の国へのがれた。そこでスサノオから、蛇、ムカデ、蜂、野火などの試練を課せられたオオナムチは、スサノオの娘スセリビメの助けによって難をのがれ、太刀、弓、琴などの宝物を入手した。宝物の威力で兄弟の神々に復讐し、葦原中国の王者オオクニヌシとなる。

 この神話についても、これまでに、松村武雄、松前健、西郷信綱など各氏の研究がすでに世に出ていますが、一種の成年式、通過儀礼としての解釈をしめすのみで、典拠または原型が指摘されたことはありません。

 しかしこの根の国神話の由来も、長江流域の少数民族の神話や伝説にもとめることができるのです。

 前回の通信23で、私は天孫降臨神話の原型として、雲南省にすんでいるナシ族の神話と湖南省や広西チワン族自治区にすんでいるヤオ族の神話を紹介しました。この二つの神話は地上の人間の先祖が天上から稲をもたらす話であるとともに、前者のナシ族の神話は、地上の若者が天神の課した数々の試練を天神の娘の愛と助けによってのりきり、地上に家畜、穀物の種などの宝物をもたらす話でもあるのです。

 このナシ族の神話と日本の根の国神話とはつぎのような類似点をもっております。
1.地上の若者が異界をおとずれる。
2.異界の王から数々の試練を課せられる。
3.試練を異界の王の娘の助力によってのりこえる。
4.その異界の王の娘と結婚し、王から宝物をあたえられる。
5.二人は地上に生還し、地上の人種の祖先となる。

 もちろん、日本の根の国神話と比較すると、異界が根の国にたいし天界であり、宝物が呪術的な宝器にたいする家畜・穀物である、などの相違もあります。

 しかし、私はこの相違よりも、問題のナシ族の神話が、中国長江流域の少数民族社会の思想や信仰と日本の王権神話の構造的関連を検討するという、大きな構想のなかにうかびあがってきた資料であることを重視します。日本王権神話の骨組みを構成する中国長江流域の神話・伝説群にぴたりと適合する神話であり、いわばミッシングリンクであるということです。

 当然、同地域のほかの民族の神話や伝説のなかに類似の話があるであろうという予想のもとに、私は手許の資料にあたってみましたが、いまのところ、同型の話を見出していません。時間をかけて、ていねいに文献を読むだけのゆとりが、この時期の私にないという事情もはたらいているのかもしれません。この通信を一冊の書物にまとめるときまでに類話を発見しておきたいとかんがえています。

《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》という、これまで何人もおもいつくことのなかった基本構想のもとに、つぎに海幸山幸神話を検討します。

 海幸山幸神話の梗概はつぎのようにまとめられます。


 ホデリとホオリの兄弟は、海幸彦、山幸彦として漁労と狩猟にしたがっていた。あるとき、兄弟は釣針を弓矢と交換し、山幸は兄の釣針をうしなった。兄にせめられた山幸は海神の宮をたずね、娘のトヨタマビメをめとり、釣針をとりもどした。海神から呪詛の方法をまなび兄の海幸をくるしめて臣従させた。

 この神話は通常、兄弟争いと復讐、海神国訪問、異類婚という三つの要素にわけて説明されます。このうち、兄弟争いについては、東南アジア系の類話が報告されています(『上代説話事典』雄山閣・1993年)。
 インドネシアのケイ族につたわるヒアンとパルバラ兄弟の話はつぎのような梗概です。


 天上に兄弟がいた。ある日、弟のパルバラが釣りをしていて、兄のヒアンから借りた釣針をうしなってしまう。兄は返せとせめた。弟はさがしまわり、偶然出あった魚の協力で、のどに針のささった一尾の魚をみつけた。弟は兄に釣針を返したが、一計を案じて兄に油をこぼさせ、その油を返せとせまった。

 ほかにパラウ島の伝承も紹介されています。


 釣針を魚にとられた族長の息子アトモロコトが父にしかられて海中アダックの地にゆく。そこで釣針をのみこんでくるしんでいる女リリテウダウに会う。針を吐きだして痛みがなおった女は、アッダクの支配者であった。アトモロコトが自分の孫であることを知ったリリテウダウはなんでも欲しいものもって帰ることをゆるす。

 このような説話が紹介されたことによって、源流をインドネシア方面にもつ「失われた釣針型説話」を原型として、婚姻や出産、通過儀礼などの要素がそこにくわわってこの神話が形成されたという説が定着しています。

 この定説形成に大きくはたらきかけた要因が、この神話が隼人の服属神話として王権神話にくみここまれたという事実です。隼人の故郷を東南アジアにもとめる視点はかなりな妥当性をもって承認されるからです。

 しかし、私は今年最初の通信20で、東南アジアの兄妹始祖洪水神話の系列に属するとこれまでされてきたイザナギ・イザナミの国生み神話がじつは長江流域に数多く発見される洪水神話にもとづくことを論証しました。東南アジアで発見される洪水神話は、分布状況から判断しても、中国から伝播したものとみられます。

 海幸山幸神話の原型も、同様に、中国の長江流域でおこなわれていた伝承が、隼人の服属神話に組みかえられて、『古事記』や『日本書紀』の神話体系にとりこまれたというように判断されます。

 そのように主張するのは、中国の長江流域で、兄弟の争いと復讐、海神国訪問、呪術的宝物の獲得、などの重要なモチーフをそなえた話がつたえられているからです。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa24.htm


諏訪春雄通信 25

 今回のテーマは前回につづいて「海幸山幸神話」です。

 この神話については東南アジアに原型をもとめる説がつよいことについては前回に紹介しました。この神話にかぎらず、全体として日本神話の源流を東南アジアにもとめる傾向が目立つことは、この通信で再三ふれてきました。その理由は二つあります。

 第一の理由は中国神話の調査が不十分だったことです。私は1988年(昭和63)に初版の出た著書『日本の幽霊』(岩波新書)のなかでつぎのようにのべたことがあります。


 中国は幾度も王朝が交替した。王朝が交替するたびに、新しい歴史がつくりなおされ、前王朝の遺制が破壊されたので、日本の『古事記』や『日本書紀』が伝えたような体系的な神話や伝承が後代に残らなかった。中国神話の研究が立遅れている根本の理由はそこにあり、さらにそれに加えて、もともと孔子が『論語』の中で「子は怪力乱神を語らず」といった国柄なので、神話や伝承の類についての研究はあまりさかんではなかった。

 この説明はいまも通用するとおもいます。儒教をまなんだ中国の知識人も、またその影響をうけた日本の研究者も、ながい間、中国には体系的な神話は存在していないとかんがえてきたのです。しかし、この考えは大きな誤りです。私は『日本の幽霊』のなかで、前掲の文につづけてつぎのようにのべました。


 しかし、1950年ごろ、つまり解放の翌年ごろから、中国の神話研究は、ミャオ、チベット、ヤオなどの少数民族のあいだに伝えられてきた口承神話に注目しはじめた。文化大革命によって一時的に頓挫したが、七十七年に復活、前にも増して活発に研究は続行され、少数民族のあいだにそれこそ無尽蔵といってもよいほどに貴重な神話が蔵されていることが明らかになってきた。

 いまから15年もまえに書いた文章ですが、結局、私自身で実践するよりはかはないというのが、この通信をはじめた動機の一つです。

 第二の理由は、当然のことですが、東南アジアについての研究が中国の少数民族の研究よりもはるかにすすんでいるということです。しかもその研究は、日本人による研究ではなく、ほとんどは欧米の学者による研究なのです。海幸山幸神話にかぎっても、前回の通信で紹介したように〈失われた釣針〉型の神話と類似の神話が東南アジアで分布している事実を最初に報告したのは、19世紀以来のフリードリヒ・ミューラーやフロベニウスといったようなヨーロッパの研究者たちだったのです。

 ヨーロッパの研究者による東南アジア研究が先行し、中国少数民族社会の研究は文献資料を欠くためにいちじるしくたちおくれていました。この事実が、日本神話の原型を東南アジアにもとめさせることになったのです。

 ただ故人の大林太良氏は、晩年、日本神話の源流として中国南部にとくに注目しておられました。1995年10月28日、29日の両日に私たちのアジア文化研究プロジェクトが学習院大學で開催した公開講演・フォーラム「日本民族の形成」で「日本神話の系統」という題で講演されたさいにも、その最後を、


 このように日本神話の系統論にはまだまだ多くの問題があるということ、そして中国の江南がそのなかで大きな地位を占めていること、を申しあげて、私の講演を終わりたいと思います。

とむすんでおられました(諏訪春雄・川村湊編『日本人の出現―胎動期の民族と文化』雄山閣・1997年)。氏がお元気であられたら、おそらく、中国南部と日本神話の結びつきの研究はかくだんにすすんだこととおもわれます。

 すこし話が横にそれますが、私がこの王権神話と並行して研究をすすめている来訪神祭祀にもまったく類似した現象があります。

 よくご存知のように、日本の各地で、季節の変りめに仮面をかぶったり、蓑笠をつけたりする異様な風体をして集団で部落や村へおとずれてくる来訪神の儀礼が保存されています。秋田県男鹿半島のナマハゲは有名ですが、ほかにも沖縄のアカマタクロマタ、パーントゥ、マユンガナシ、鹿児島県のトシドン、石川県のアマミハギ、新潟県のアマメハギ、山形県のアマハゲ、岩手県のスネカタクリ、青森県のシカタハギなどなど、その数は40種をこえます。

 この日本の来訪神儀礼の源流を、太平洋上のメラネシア・ポリネシアの島々におこなわれている秘密結社の儀礼にもとめる説を提出したのが、日本の文化人類学者の草分けとでもいうべき岡正雄でした(「異人その他―古代経済史研究序説草案の控へー」『民族』三巻六号、昭和3年)。

 岡は、秘密結社には未成年者や女子を参加させず、加入には厳重な入社式をおこない、その成員は時あって異様な服装を身につけ、怪音を出してその出現を報じ、村々を横行して、強奪威圧をあえてし、あるいは祝詞をのべる行為をするなどなど、全部で23条の特色をあげて、この異人こそが日本の来訪神儀礼の源流であると主張しました。

 80年ちかくもむかしにだされたこの岡説は、いまも多くの信奉者をあつめています。しかし、この説は、岡正雄自身が太平洋上の島々を調査して提出した説ではなく、19世紀から20世紀の初頭にかけて、コドリントン、リヴァーズ、ウィリアムソンなどの欧米人類学者の調査に全面的に依拠した説だったのです。

 岡説の問題点は、煎じつめますと、(イ)異人と来訪神が混同されている、(ロ)来訪する目的が日本の来訪神に適合しない、の二つにまとめることができます。男子だけによって維持される仮面結社儀礼は世界各地の農耕社会にひろくみられる習俗であり、日本との関係を想定するためにはその本質が厳密に検討されなければなりません。

 私は、中国の長江流域、稲作農耕の誕生地である湖南省にはじまって中国全土にひろまっていった来訪神儀礼13種の調査結果にもとづき、出現の時期、役柄、服装、神の性格、扮装、持物、出現の目的、演じ手の6項目にわたって、日本の来訪神儀礼との共通性を確認しています。日本の来訪神儀礼は中国の来訪神儀礼が稲作農耕とともに日本へわたってきたものと断定できるのです。中国、ベトナム、日本などの分布状況から、その渡来の経路もほぼ特定できます。

 大林太良氏は、海幸山幸神話を海の原理をあらわす海幸と山の原理をあらわす山幸の闘争というようにとらえられ、江南地方につたわる呉越の戦いの伝説をその原型として紹介しておられます(『日本神話の構造』弘文堂)。

 中国江南の浙江省の大河銭塘江は満潮時におこる逆流の高波現象が天下の奇観として有名です。私もちょうどその時間帯にいあわせて、下流から上流にむかっておしよせてくる潮流の迫力に圧倒された体験があります。この逆流現象を春秋時代の呉と越の戦いにむすびつけた伝説が、『呉越春秋』につたえられています。大林氏はその伝説を山の原理をあらわす越と海の原理をあらわす呉との闘争の結果、山の原理が勝利する話として分析されたのです。

 『呉越春秋』の巻三がつたえる伝説です。
 呉と越が一進一退の戦いくりひろげていた時代、呉王夫差は越との和解をかんがえ、越王の提示した講和の条件を呑むことにした。しかし、父の時代から呉につかえていた臣下の伍子胥が講和にはげしく反対したので、夫差は伍子胥に死罪を科した。その死体をなまずの皮の袋にいれて、銭塘江になげこんだ。それ以来、子胥の亡霊はこれをうらんで、潮を逆流させ高波で人びとを溺死させたという。

 また、『呉越春秋』巻六では、越王勾践も家臣の文種に死を命じて、その死体を三峰の下に埋めた。その一年後に、子胥が海上から山に穴をあけて、種をつれさり、共に海上に出現して人々をなやましたという。

 大林氏はこれらの伝承から、越は山の原理、呉は山の原理を代表し、子胥が死後に高潮をおこしたことは、海幸山幸神話で山幸彦が干満珠をもちいておこした満潮に対応するとされました。しかし、山に死体をほうむったから山の原理、海(事実は川)に死体を投じたから海の原理をあらわすというのは、ややくるしい解釈のようにもおもわれます。

 大林氏の紹介した呉越の物語よりも、もっと海幸山幸神話に接近した伝承を紹介されたのが伊藤清司氏でした(「日本と中国の水界女房譚」『昔話―研究と資料21・日中昔話の比較』三弥井書店)。湖南省の土家族のあいだにつたえられている「格山竜珠を与えられる」という話です。


 ある村里に二人の兄弟がいた。兄を格路、弟を格山といった。兄夫婦が格山につらく当たった。堪えられなくなった格山は、ある老人のすすめにしたがって家をぬけだし、さまよいあるく途中、大蛇におそわれて呑みこまれそうになっていた一羽の黄鶯をたすけた。すると、その鶯はうつくしい人間の娘に変わり、竜王の三女と名のり、格山と夫婦になって、竜王の国におもむいた。格山は竜宮で連日歓待をうけたが、やがて望郷の念が昂じ、妻をともなって地上へもどった。帰郷にさいし、竜王が金銀財宝を土産にあたえようとしたが、格山はそれをことわり、
「郷里は水が不足し、田作りもままならず、人びとは暮らしに困っている。水を自由にできるものが欲しい」
と願い出た。そして呪宝の竜珠をもらいうけ、竜王の娘と故郷にもどった。そこで二人は山の上にのぼり、頂から竜珠をたむけると水は奔流となって噴出し、たちまち村の田という田をうるおし、おかげで土家の人びとは裕福になった。

 この話の後日談を伊藤氏が紹介しています。


 如意宝珠である竜珠をもちかえった格山は、その竜珠からりっぱな御殿を出し、その御殿で竜神の娘といっしょに幸福な日々をおくった。意地悪な兄夫婦はそれを知ってねたみ、二人を焼きころそうとするが、格山は竜珠をもちいて逆に兄夫婦を焼きころし、他方、その呪宝から水を噴出させて潅漑の水になやむ土家族の田畑をうるおし、りっぱな耕地に変えた。

 伊藤氏はこの伝説と海幸山幸神話の類似点として、
1.水界訪問
2.水界の女性との結婚
3.水界の女性との結婚
4.水界よりの呪宝の将来
5.呪宝による水の支配
6.兄への復讐

などをあげ、弟の山幸彦が呪宝を得て、最後に日本の統治者の祖先になったという結末と、弟の格山が海神からあたえられた呪宝によって土家族の世界に楽土を実現したという結末とは共通すると主張しています。

 この土家族の伝承と日本の海幸山幸神話の類似性はうたがうことができませんが、「失われた釣針」というモチーフのないのは気にかかるところです。今後、精査する必要があります。

 これまでこの通信でふれてきた稲作農耕地帯に海幸山幸神話につうじるような伝承が散在しています。そのなかには、釣針を魚網にかえただけの同じモチーフの伝承が存在します。私のノートから紹介しましょう。


 むかし、非常にまずしいが人に親切な漁夫がいた。ある日、大河の堤のほとりで網をうって魚をとっていると、一人の老人が大きな岩のうえで泣いているのに出あった。漁夫はすぐに老人にそのわけをたずねた。老人は「自分の娘が奇妙な病気にかかってなおすことができません。どうか家にきて娘の病気を看てください」とたのんだ。承知した漁夫は老人について堤を歩いた。すると老人はどんどん水のなかにはいってゆく。漁夫が老人にむかって、「水のなかには入れない」とうったえると、「いそがずにわしについてきてください。水のなかも地上をゆくのとおなじようになります」とこたえた。ふしぎにも漁夫は地上をゆくように水のなかをすすむことができた。まもなく一軒のうつくしい家がみえてきた。その家の一室に娘が全身を魚網にからめられて横たわっていた。漁夫がその網をとりのぞいてやると娘はすぐに元気になった。父と娘は感謝してたくさんの金銀を礼としてさしだしたが、漁夫はことわって、かわりに刀と鋤をのぞんでその二品をもらった。漁夫がその家を去ろうとすると、門の樹に黄牛と白牛がつながれていた。老人は袋に多量の牛の糞を入れて漁夫に背負わせ、「野菜をうえるときに肥料になさい」といった。漁夫が家にかえると、不思議にも黄牛の糞は金、白牛の糞は銀、刀は金刀、鋤は銀鋤に変わった。漁夫は農夫となって幸福に暮らしたという。

 雲南省のラフ族がつたえている「漁夫の故事」という伝承です。水界の王の娘をたすけ、莫大な宝を得るという話です。その王の娘は魚網にからめられており、漁夫によってその網をとりのぞいてもらっています。失われた釣針と同一のモチーフです。しかも漁夫から農夫に変わるところに、海の原理に野(高地では山)の原理が勝利を占める話にもなっています。日本における海幸山幸神話で、海の原理にたいする山の原理の勝利の意味も、漁労民にたいする狩猟民や農耕民の勝利の話であったことがわかります。

 もう一話、貴州省のコーラオ族がつたえている「竜女と旺哥」という伝承を紹介します。こちらも竜王の娘の報恩物語です。


 むかし、母と子が二人で暮らしていた。母は年をとって眼が見えなかった。子の旺哥は村の金持ちの家にやとわれて毎日手間賃をもらっていた。ある年の正月、旺哥がはじめて金持ちの家に働きにゆくと、主人は「一年はたらいてくれたら三頭の牛を報酬にやろう」と約束した。誠実な旺哥はこの約束を信じて、1年間、金持ちの家の田畑を懸命に耕作した。一年たって、旺哥が主人に約束の三頭の牛をもとめると、主人は「おまえはなにをいうのだ。三頭の牛だって。私はおまえに柄杓で三杯の油をやるといったのだ」といった。あらそうこともできず、旺哥は三杯の油をあたえられただけで帰途についた。
 途中に竜王廟があった。旺哥はせっかく1年間はたらいてもらった油だからと竜王像のまえにその油で灯火ともすことにした。竜王廟を出てまもなく大雨になった。旺哥が村の入口の小川にさしかかったとき、1尾の大きな紅鯉が土砂のうえにのりあげていた。その鯉をとらえて家にもどった旺哥は母に鯉を見せた。鯉の尾から水滴がしたたり、母の眼にはいったとたん、母の眼は見えるようになった。よろこんだ母と子はその鯉を川にはなしてやった。
 その鯉は東海の竜王の娘の変身であった。竜宮にもどり、命をたすけられた恩に報いようと両親に相談すると、竜王夫婦は、ひとり娘であるからと、360日をかぎって旺哥のもとにゆくことをゆるした。うつくしい女性に変わって旺哥の家をおとずれた竜女は、訪問の目的をつげ、一吹き、口でふくと、あばら家はたちまち御殿となり、食物や家具も家内に満ち満ちた。このようにして一家はしあわせな日をおくることになった。
 この噂をきいたのが主人の金持ちであった。旺哥の家にやってきて、うつくしい妻を自分に貸してくれと難題をもちかけた。困惑している旺哥に竜女がそっとささやいた。「わたしは父から360日の日限をみとめられてきたのですが、その日限はもう切れようとしています。あなたは主人の金持ちと家を交換するよう申し出てください」金持ちはすばらしい旺哥の御殿を見て交換の申し出に応じた。母と旺哥は主人の家にうつり、主人は家族をつれて旺哥の御殿にやってきた。
 その夜、主人と竜女が床につくことになったが、竜女は一桶の水をさげて浴室にはいり、そのままもどってこなかった。主人が灯りをともして浴室にいってみると、すでに竜女の姿はなかった。そのとき、一陣の風がふいて御殿が消え、主人はあばら家のなかに身をちぢめて立っていた。 

 長江南部は沼地や河川の多い土地です。ここで数々の水界訪問譚や水界報恩譚が生まれました。海幸山幸神話が海の原理と山の原理が相克するという構造をそなえているとするなら、その誕生地は、地形から判断しても、漁労民、狩猟民、農耕民が混在する中国南部がふさわしいと断言できます。
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諏訪春雄通信 26

 今回のテーマは「米と雑穀」です。日本の天皇家は、太陽信仰と稲魂信仰にささえられて、その隔絶した地位と永続をたもってきました。この二つの信仰が祖霊信仰や女神信仰などと結合しながら、長江流域から日本に伝来したことについては、これまでこの通信で詳細にのべてきました。

 稲作民にとって米はあらゆる〈穀物や農作物=食料〉のなかで優越した最高の価値をもちます。天皇家の絶対性はこの稲の絶対性にささえられます。しかも稲は大地におち〈朽ちて新しい生命を生みだす〉というサイクルをくりかえすことによって永続性をもちます。天皇家は、この稲の永続性と太陽の永続性の思想にささえられて、その絶対と永続の地位を保証されてきたのです。

 これにたいし、巨大王権が交替をくりかえした黄河流域では天にたいする信仰がさかんであったことについてもこの通信でくりかえしのべてきました。天の信仰は太陽の信仰に対応します。それでは、稲魂信仰に対応して黄河流域で誕生したものは何であったのでしょうか。それがこれからのべようとしている雑穀の信仰なのです。

 低温乾湿の黄河流域は、古来、稲作に適せず、冬小麦、粟、高粱、綿などが栽培の中心になり、水産資源の不足を牧畜などでおぎなってきました。これにたいし、高温多湿の長江流域では、ゆたかな水産資源にめぐまれ、稲をはじめとして、綿、油菜、茶などの多様な作物が栽培されていました。農耕に限定してかんがえると、稲作の長江文明にたいし、雑穀の黄河文明というように対比することができます。

 黄河文明の雑穀は、稲のように一元的絶対的な価値をもつ食物ではなく、複数の穀物にそれぞれ平等の価値をみとめる多元的相対的価値観をそだてます。黄河流域の王権交替を生みだした要因については、通信12で、
1.周辺遊牧民との抗争・軋轢
2.商業を中心とした経済の発展
3.農民勢力の台頭
4.潅漑工事

などをあげて検討しました。こうした要因の基盤にさらに天の思想や雑穀の思想が存在して、王権の交替現象をささえたとみることができます。

 アジアの稲の起源地は、これまでもたびたびのべてきましたように中国の長江中流域に決定しました。そこから日本への稲の伝来ルートの主要なものは二つありました。
  A 江南から直接に九州へ
  B 黄河淮河流域から山東・遼東半島、朝鮮半島を経て九州へ

 注意すべきは、このうち、Aルートが稲単独の伝来であったのにたいし、Bは黄河流域の雑穀地帯を経由したために、稲と雑穀の混合の伝来ルートであったということです。日本の稲作遺跡のほとんどからは雑穀と稲があわせて出土しています。朝鮮半島の稲作遺跡も同様な状況にあることが、この伝来ルートの存在をしめしています。他方、九州の筑後川、矢部川流域の有明湾沿岸部の遺跡からは稲だけが出土しており、江南からの直接ルートの存在をしめしています。

 米がながいあいだ日本人の主要な食物であったことは事実であり、米にともなう稲作文化が日本文化の重要な骨格をつくってきました。日本の王権がこの稲作文化をイデオロギーとして利用してきたのです。そうした様相は、すでに『古事記』や『日本書紀』の神話にみることができます。

 『古事記』の国生み神話で、イザナギ・イザナミの両神は、淡路島以下の大八島国などをつぎつぎに生んでゆきます。その個所で、「讃岐国を米飯の霊のよりつく意味で飯ヨリヒコといい、粟の国を穀物をつかさどるという意味のオホゲツヒメという」とあり、そのオホゲツヒメ神話では、スサノオに殺害されたオホゲツヒメの身体から、「二つの目には稲種、二つの耳には粟、鼻には小豆、陰部には麦、尻には大豆が生まれた」とあります。このあたり、米だけにとくにほかの穀物から超絶した位置をあたえているようにもみえません。

 しかし、しだいに、天孫降臨の地を「みず穂の国すなわち稲穂のみずみずしい国」とし、主役を「ホノニニギすなわち稲穂の豊穣」という名をあたえるなど、米を特別視する意図がつよくなってきます。

 稲を特別視する意図がよりあらわになっているのは『日本書紀』です。国生み神話でも一書第一に天つ神がイザナギ・イザナミに「豊葦原の、豊に稲穂の実る国がある。そこへいって治めるように」と命じ、天孫降臨神話でも、一書第二では、「わが高天原の神聖な稲穂をわが子にあたえなさい」とアマテラスがホノニニギに神聖な稲の携行を命令するなど、稲の特殊化はいちだんとすすんでいます。

 しかし、稲作農業を唯一の日本の農耕文化であるかのようにみなすことに反対する学者や思想家は数多くいます。昭和以降にかぎっても、宮本常一氏を先駆として、坪井洋文、網野善彦、佐々木高明、杉山晃一らの各氏です。

 この人たちは、麦、そば、粟、ひえ、大豆、小豆、胡麻などの雑穀やいも類などが、日本人の主食であり、米よりも重要な食べ物であったと主張しています。これらは米にくらべて、やせ地や寒冷地でそだち、はるかに耕作に手間がかかりません。しかもこれらの雑穀は水田稲作伝播以前の焼畑農耕で栽培されていました。

 弥生時代の初期から中期、日本人は、炭水化物の総摂取量の半分以上は、米以外の雑穀やいも類からとっていたであろうという見解も出されています(佐々木高明『稲作以前』NHKブックス・1983年)。

 網野善彦氏は、米が日本人の唯一の主食であったとかんがえる風潮がつくられたのは、江戸時代の状況を中世にあてはめ、二つの時代がなめらかに同質的に連続しているかのようにみなしたためであると主張します。

 中世の土地税の納め方をしらべてみると、西日本では、租税は米でおさめられていたが、東日本では、これとはちがって、絹や綿でおさめることが多かったといいます。また、米を租税としておさめていた西日本でも、日常、農民がたべていたのは、主に米以外の穀類であったと網野氏はいいます。

 その根拠として、若狭の国太良荘の貞和三年(1347)の記録を氏は提出しました。女百姓の所有物をさしおさえたときの記録によると、没収されたもののなかに、米五斗と、その二倍の量の粟一石がふくまれており、太良荘のような米を税としておさめている稲作地帯でも、ふだんたべていたのは、米ではなく雑穀であったことをあきらかにしています(『日本中世の民衆像―平民と職人』岩波書店・1980年)。

 日本文化のなかで、米に特別の地位をあたえたのは、支配者のイデオロギーであったといえますが、しかし、その観念がながく日本人にうけいれられてきたのは、稲とともに長江流域から伝来した信仰や思想のささえがあったからだということを私は前回までの通信でのべてきました。

3月2日(土曜日)午後2時から、学習院大学西5号館302教室で、公開研究会

「中国の地方劇」

東洋大學文学部助教授 有澤晶子氏

が、アジア文化研究プロジェクト主催で開催されます。講師の有澤先生は中国演劇の専門家です。日本人に馴染みの京劇、昆劇、川劇も中国の地方劇です。その数は300を超えるともいわれています。

   中国の信仰や祭祀→日本の信仰や祭祀
   中国の神話   →日本の神話
   中国の民俗   →日本の民俗
   中国の民間芸能 →日本の民間芸能

という対応がみられるように、

   中国の演劇   →日本の演劇

という対応が存在するというのが、私の確信です。その一端が今回の研究会であきらかになればと期待しています。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa26.htm


諏訪春雄通信 27

 今回のテーマは「大嘗祭」です。

 神話時代が終わって、日本は現実の国家経営に乗りだしてゆきます。統一国家の形態をととのえたのは4世紀から7世紀にかけてのころ、中国の隋・唐の王朝制度をとりいれて律令国家の制度を整備したのは7世紀末から8世紀初頭といわれています。

 これ以前、これ以降の国家としての日本の歴史は、中国の北方原理と南方原理の摂取と融合・葛藤のなかに展開してゆきます。その両原理は、また、日本の王権の歴史的展開を解明する重要な鍵にもなります。

 日本の天皇制永続の秘密をあきらかにするという本通信テーマの独自な視点の一つをあらかじめ提示しておくなら、じつは、この《中国の北方原理と南方原理の融合・葛藤として日本の天皇制をかんがえる》ということにあるのです。

 両原理は、一方が優越することもあれば、拮抗することもあり、また対立もしながら、日本の歴史をつくってゆきます。現時点で両原理はつぎのように対比されます。


北方原理  天の信仰   雑穀の思想  男神信仰   多元的  秩序への志向  
南方原理  太陽の信仰  米の思想   女神信仰   一元的  融和への志向

 これらの特性がどのようにあらわれて日本の国家と天皇の歴史を織りなしてゆくかをこれからあきらかにしてゆきます。

 大嘗祭は、天皇の即位後、最初に挙行する大きな規模の新嘗祭です。大嘗祭をおこなうことによってあたらしい天皇としての資格をもつことできるのですから、即位式でもあります。この大嘗祭をテーマにとりあげて、北方原理、南方原理を検討します。

 大嘗祭の文献上の初出は、『日本書紀』の天武天皇2年(673)12月の記事に「大嘗(おおにえ)」とある記事です。式の進行がよくわかるのは、平安時代にはいってからで、『貞観儀式』『延喜式』『江家次第』などの有職故実の書に記載があります。

 4月の悠紀国(ゆきのくに)、主基国(すきのくに)の選定からはじまって、11月の午の日の豊明節会(とよあかりのせちえ、天皇と臣下の饗宴)まで、半年にわたる行事の中心をしめるのは、11月の卯の日におこなわれる大嘗宮の祭りです。

 大嘗宮は、大嘗祭のためにあらたにたてられた黒木造りの建築物で、東西に悠紀殿、主基殿、廻立殿(かいりゅうでん)という三つの建物がつくられ、外部を柴垣でかこみます。

 外部からうかがい知れない秘密の祭りであるために、のちにみるように種々の推測説がだされていますが、基本の骨組みは、天皇の、廻立殿における《湯浴み》、悠紀殿・主基殿における《聖餐》、《就寝》という三つの行事に還元されます。この三つは、日本の各地の民俗行事にふつうにみられる儀礼であって、その一つ一つには、なんの不思議も神秘もありません。

 《湯浴み》は禊ぎです。水、海水または湯によって心身をきよめることで、祭りをおこなう当事者がけがれをさけるための行為です。

 この禊ぎが火の浄化力とむすびついたものが湯立てです。湯立ては、祭りの場の中央にしつらえられた釜で湯をわかし、笹の葉などにその湯をつけて、あつまってきた参加者たちにあびせるかたちをとるのがふつうです。

 この形式の儀礼は各地の民間神楽に一般的にそなわっている行事です。愛知、静岡、長野の3県をながれる天竜川ぞいに演じられる花祭りには、生まれ清まりと称して、すべてこの湯立ての儀礼をつたえていますし、また、暮れから新春にかけておこなわれる湯立て神楽とよばれる行事も、おなじ儀礼を祭りの中心にすえています。

 《聖餐》は、神と人との共食ですが、大嘗宮では、天皇と天皇の祖先の霊であるアマテラスとの共食です。

 天皇が一世一代の即位式として挙行する湯立てと聖餐が、日本人の民俗行事と共通して、特殊なものではないということをのべました。ここまでなら、数は多くありませんが、日本の民俗学者のなかにも指摘する人がいます(真弓常忠『日本の祭りと大嘗祭』朱鷺書房・1990年、森田悌編『天皇の祭り 村の祭り』新人物往来社・1994年)。

 しかし、この通信で、とくに私が強調したいことは、この二つの儀礼の由来が中国の南方にあるということです。

 稲魂信仰と祖霊信仰が結合した新嘗の祭りが、中国の長江南方の少数民族社会でおこなわれていることについては、この通信の15、18などで報告しました。ミャオ族の人たちは日本の新嘗にあたる祭りを《喫新節》といい、ハニ族の人たちは《フォシージャー新嘗祭》とよんでいます。いずれも、新穀を祖霊、穀霊および天神にそなえたのちに共食する儀礼です。

 中国でも一般的に祭りにさいして清めの火と水が重要な役割を演じていることについて、以前、私は日本・韓国・中国の事例について詳細に検討したことがあります(「中世祭祀の構造―道教・別祭・花祭りー」『日中比較芸能史』吉川弘文館・1994年)。

 日本の新春の若水汲みという民俗行事は水に生命更新の力をみとめる信仰です。この習俗が中国南方の稲作民族社会にひろく分布していることは、大林太良氏の報告があります(『正月の来た道』小学館・1992年)。水に清めの力をみとめ、祭りにさいして禊ぎに使用するのは、この若水汲みと共通する水への信仰にもとづきます。

 《就寝》は篭りです。記録によると、大嘗宮の悠紀と主基のあいだに寝具が用意されてありました。この寝具にくるまって天皇はお休みになるものとみられますが、しかし、この就寝の儀礼については、注目される説がこれまでに提出されています。整理するとつぎの4つです。
1.亡くなられた先帝と新帝との共寝
2.新帝と采女(うねめ)との聖婚
3.死者をほうむる喪屋
4.新生児のための産屋

 4つの説ともに新帝に新生の活力、それは天皇霊とよばれることの多い天子の霊力を付与することを目的にするという点では、ほぼ一致していますが、具体的な儀礼順序や性格規定で、以上のような対立があります。

1の説は、折口信夫(「剣と玉と」昭和7年、「上代葬儀の精神」昭和9年)、堀岡文吉氏(『国体起源の神話学的研究』培風館・1929年)などがとなえています。折口の「剣と玉」から引用します。


 古代には死と生とがあきらかに決らなかったので、死ぬものならば生きかえり、死んだものならば他の身体にたましいが宿ると考えて、もとの天皇霊の著いていた聖躬と新しくたましいの著く為の御身体と二つ、一つ衾で覆って置いて盛んに鎮魂術をする。この重大な鎮魂の行事中、真床襲衾と言う布団の中に篭って物忌みをなされるのである。

2の説をもっとも強力に主張しているのは岡田精司氏です(『古代王権の祭祀と神話』塙書房・1970年)。岡田氏は、新嘗祭には、服属儀礼の一環として、天皇と采女とのあいだに同衾がおこなわれたと推定しています。氏は、大嘗祭は新嘗祭の延長とかんがえ、マドコオスフスマは、これにつつまれて祖神と一体化した天皇と、国々の神の資格をもって奉仕する采女との神婚がおこなわれた衾の遺物であろうとします。

 岡田説の根底には、折口信夫の神の嫁という考えがあります。日本の古代、男性の君主と女性の巫女がたすけあって国をおさめていた時代がありました。君主の身近にある女性が神の嫁となって神意をききわけ、それを君主につたえて政治の方向を決定しました。

 巫女は、地方豪族が服属のあかしとして自己の子女を朝廷にさしだしたものでした。彼女たちは、出身の国々の神につかえる巫女の資格をもち、彼女たちが朝廷につかえることは、国々の神が朝廷に服従することを意味していました。采女は、祭りのさいには、神の生活にはいる天皇に奉仕し、神の嫁として、天皇と神聖な結婚をとげることがあったと、折口は説きました(「宮廷儀礼の民俗学的考察」)。

 この折口の説を支持するような事例が『日本書紀』などに記載されていることは事実です。神の嫁という折口の論はそれなりの有効な射程距離をもっていますが、しかし、それを大嘗祭に適用することについては、反対意見のほうが圧倒的に優勢です。

 その一人、谷川健一氏は諸種の資料を引用して、采女は、推古・皇極・斎明とつづいた女帝の成立によって地位を低下させ、天武天皇以降は、後宮十二司の最下位に所属したと主張します。「大嘗祭という一世一代の由々しい盛儀における采女の役割は、神膳をととのえる以外にはあり得ない」というのが谷川氏の断定です(『大嘗祭の成立』小学館・1990年)。したがうべき見解です。

 3の喪屋説は1の説とかかわる論です。この3の説を強力に主張する谷川氏(前掲書)は、南島のモガリの習俗を論拠に、先帝の死にさいして死者が完全に死者になりきるまえに、死者と共寝して、その活力をうけつぐ儀礼が、喪屋としての大嘗宮でおこなわれたといいます。モガリの習俗が日本の古代におこなわれていたことは確実ですから、谷川説は就寝儀礼の本質をついた説といえます。

 しかし、3の裳屋説と4の産屋説は、じつは相互に補完しあう説なのです。産屋説は、折口信夫がはじめにとなえ、いったんすてたのちに、晩年また採用した説でした(「大嘗祭の本義」昭和3年)。大嘗宮の悠紀、主基の両殿に布団がしかれ、枕もそなえられているのは、「日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、御寝所に引き篭って、深い御物忌みをなさる場所である。実に重大なる鎮魂の行事である」とのべています。

 おなじ考えは、西郷信綱『古事記研究』(未来社・1973年)にもみることができます。マドコオスフスマの儀礼は、子宮の羊膜につつまれた胎児の状態にもどり、新生児として誕生しようとする模擬行為であったといいます。

 就寝の儀礼は民俗の死生観をあらわしています。民俗では、死と生は連続または循環として意識されます。死んでよみがえる擬死再生の儀礼がおこなわれる場所が大嘗宮であるといえます。それは稲の種子が大地におちて死に、あたらしい生命を得てよみがえる《篭りの精神》の儀礼化でもあります。

 大嘗祭の就寝の儀礼がモガリとウブヤの複合した性格をもっているとすれば、その習俗もまた中国の南方にもとめることができます。

 1993年の4月から5月にかけて、私たちは中国の東海沿岸、ジョウ泗列島、舟山列島の現地調査をおこなったことがあります。その調査報告は『中国東海の文化と日本』(勉誠社・1993年)として刊行されています。

 そのなかですでにのべたことですが、この地方一帯にお墓を二度つくる複葬がおこなわれています。死者がでると、その死骸を、住まいの近くの田畑などに仮の埋葬の墓(殯廓とよんでいます)をつくっておき、1年または3年が経過した時点で、山の傾斜地などに里のほうにむけて永久的な墓をつくって埋葬しなおします。

 日本の古代のモガリや近畿地方などにおこなわれている両墓制の起源もまた江南にあったことをしめす調査結果です。それが農耕民に顕著な篭りの精神と結合したものが、大嘗宮の就寝儀礼なのです。

 このようにみてきますと、大嘗宮での行事は明確に中国の南方原理をしめしていますが、しかし、全体としての大嘗祭は大嘗宮以外の行事もおこなわれており、大きく、

  A 大嘗宮での天皇一人の儀礼
  B 宮中における天皇と群臣の饗宴(豊楽院の節会、最後の豊明の節会)

と二分されます。

 Bは一種の新帝にたいする服属の儀式であり、そこでは悠紀・主基の両国から献上された貢物が分配されます。悠紀・主基の両国は天皇の統治する日本国の象徴であり、Bはあきらかに新しい天皇とそれに仕える臣下の秩序を確定する北方の原理に支配されています。

 このようにみてきますと、大嘗祭は、結局、北方原理の外枠に核心としての南方原理がつつみこまれた儀礼であると規定できます。この構造は、日本の王権構造全体の象徴でもあります。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm


諏訪春雄通信 28

 今回のテーマは「天皇号」です。

 3月2日(土曜日)午後2時から東洋大學文学部助教授有澤晶子先生を講師にお招きして、「中国の地方劇」という公開研究会を学習院大學で開催しました。この通信の読者のなかで当日おいでいただいた方々もいらっしゃるとおもいます。

 内容といい、発表形式といい、最近の講演や研究発表のなかでは出色のものでした。当日、おいでになった方は幸運であったといってよいでしょう。

 発表形式はパソコンとビデオを組み合わせたもので、私の所属している国際浮世絵学会などではよくおこなわれている形であり、大學での講義などでも採用される先生が多くなりました。

 ただ、有澤先生のばあいは、その演出がよくゆきとどいており、写しだされることばとビデオの配合が絶妙で、観客を飽かせることがありません。

 機械に習熟せず、機械にふりまわされている発表者(私などはその典型です)がままいますが、有澤先生は機械を、平凡な表現ですが、手足のように使いこなしておられました。

 内容は、360種をこえるといわれている中国の地方劇のなかから4大国劇といわれる、昆劇、京劇、川劇、椰子劇の4種をとりあげ、その概要と特色を紹介したものです。私も前々から関心をもって、研究をすすめている分野ですので、発表内容の評価が多分当日の一般的な聴衆の方々よりはできます。

 小さなテーマで高度な発表をすることは、じつは、一定の水準に達した研究者にはそれほどむずかしいことではありません。真にむずかしいのは、そしてこれからの人文科学系の学者にもとめられることは、

「広く、高度な内容を、わかりやすく、興味ぶかく伝える」

ことなのです。有澤先生の実力をあらためて再認識したというのが、私の率直な感想です。

 この公開研究に先立つ2月26日(火曜日)、私のもとにあるテレビ会社からの取材がありました。といっても、テレビ撮影ではなく、番組の台本づくりのための取材です。松竹株式会社からの依頼をうけて、歌舞伎役者、それも今人気絶頂にある三之助クラスの役者を中国に旅させて歌舞伎の源流をたずねさせるという企画です。

 私が平成12年に吉川弘文館から「歴史文化ライブラリー」の一冊として刊行した『歌舞伎の源流』をじつにていねいに読みこんで、要点をついた質問をしてきました。ディレクターと台本作家と二人で、私の研究室に訪れてきて、交互に質問をしてメモをとっていました。

 そのときに、「歌舞伎の遠い原型が故郷の地を出発して、しだいに演劇としての形をととのえながら、日本にまで到達する歌舞伎ロードという構想は成立しますか」という興味ぶかい問題を、台本作家の方が私に問いかけてきました。

 じつはこの問題はここ数年追いかけている私の重要な研究テーマの一つなのです。

 学習院大学文学部は平成13年に人文科学研究所を創設し、助成金を出す研究プロジェクトを募集しました。そのときに私は「東アジア演劇形成過程の比較研究」という3年計画のテーマで応募し、九件の応募のなかからトップで採用されました。

 有澤先生にもそのプロジェクトにくわわっていただいており、3月2日の公開研究会は、この人文研究所の研究プロジェクトの費用で開催されたものでした。

 この通信の25で私はつぎのようにのべたことがあります。


「私は、中国の長江流域、稲作農耕の誕生地である湖南省にはじまって中国全土にひろまっていった来訪神儀礼13種の調査結果にもとづき、出現の時期、役柄、服装、神の性格、扮装、持物、出現の目的、演じ手の6項目にわたって、日本の来訪神儀礼との共通性を確認しています。日本の来訪神儀礼は中国の来訪神儀礼が稲作農耕とともに日本へわたってきたものと断定できるのです。中国、ベトナム、日本などの分布状況から、その伝来の経路もほぼ特定できます」

 その伝来の経路は大きく二つにわかれるとかんがえています。一つは西回りのルートです。ほぼ長江にそって貴州、雲南、広西チワン族自治区などを経由してベトナムにはいり、沖縄にわたり、北上して九州、福井、石川、新潟、山形、秋田などにつたわったものです。有名な秋田のナマハゲはその最末端の痕跡です。

 もう一つの経路は東回りです。西回りが比較的純粋に来訪神儀礼の原型を保存しているのにたいし、東回りのコースは、悪鬼ばらいの儺の儀礼と結合しながら、文化の先進地帯を経過したことによって、高度な演劇化をとげたというのが、私の基本的な考えです。

 私は概略以上のような構想で「東アジア演劇形成過程の比較研究」というプロジェクトを立ち上げたのです。

 したがって来訪されたテレビ局の台本作家から歌舞伎ロードについて質問されたときにすぐにこの東回りのルートをかんがえました。そしてつぎのようにこたえました。

「東回りをたどった来訪神と儺の複合体は、中国では古代演劇、宋元南戯、元雑劇、明清伝奇劇、地方劇などへと発展しました。おなじ複合体は、朝鮮半島では、処容舞、山台雑戯、農楽などを誕生させ、日本にも上陸して、中世以降の民間神楽、田遊び、王の舞、能、狂言などを生み、最後に歌舞伎として結晶しました」

 そして、中国長江中流域からいったん北上し、山東、遼東、朝鮮などの各半島を経過し、日本海側の出雲に上陸し、京都の五条、北野を経て、現在の四条の南座を終点とする歌舞伎ロードの具体的な道筋についても説明しました。

 この構想を、テレビ局が、台本としてどのように生かしてくださるか、仕上がりが楽しみです。

 大風呂敷のひろげすぎと眉をひそめる方も多いとおもいます。ことに実証主義をたいせつな方法とする専門研究者はそのように批判するとおもいます。

 しかし、私は、このごろ、学問の究極とは「志」であり「夢の実現」なのだとおもうようになりました。もちろん、堅固な実証にささえられた「夢の実現」です。

 通信26で、中国の古代文化と日本の古代文化につぎのような対応があると申しました。

    中国の信仰・祭祀→日本の信仰・祭祀
    中国の神話   →日本の神話
    中国の民俗   →日本の民俗
    中国の民間芸能 →日本の民間芸能

 自分でもそれなりに調査したことのあるこのような対応を前提に、


中国の演劇→日本の演劇

という対応も確実に存在するとかんがえています。

 「天皇号」についてのべます。

 天皇は中国の道教に由来することばです。その出典は、中国古代、紀元前3世紀ごろの各種の道教文献に「天皇大帝」とみえるのが最初です。たとえば、その一つ『春秋緯合誠図』には


 天皇大帝は北辰の星であり、元を含み陽を秉(と)り、精を舒(の)べ光を吐き、紫宮中に居りて四方を制御する。

 とあります。わかりやすくいえば、宇宙の根源として全世界を統御する北極星である、ということです。中国の道教では最高神として崇拝される北極星を天皇といったのです(福永光司『道教思想史研究』岩波書店・1987年)。

 ここから、日本の天皇号についてはむずかしい議論が生まれました。道教信仰そのものと関係があるのかないのか、いつごろから、どのような目的で使用されるようになったのか、などです。

 こまかな詮索はおいておいて、最新の研究成果にもとづいて、結論的なことだけをのべますと、最初は単なる尊称として使用されていた段階(推古天皇の時代)があり、持統天皇の時代に君主号としてもちいられるようになりました。また、東アジア世界における日本国家の地位を意識した呼称ではあるが、かならずしも道教思想と関連させる必要はないということです。

 日本が国家体制をととのえつつあった7世紀から8世紀のころに、主として対外意識のなかで採用され、浸透していったことばが天皇であったということになります。

 この天皇にたいする和語が「すめらみこと」です。平安前期に成立した『令集解(りょうのしゅうげ)』には


君は一人を指す。天皇これなり。俗にすめらみことというなり。

とあって、公式用語の天皇にたいする一種の俗語とかんがえらえられていたようですが、天皇号が成立する以前にはひろくもちいられていたことばです。

 すめらみことは「すめら」と「みこと」にわけられます。すめらについては、「統べら(統治する)」とおなじ意味というのが通説でしたが、上代特殊仮名遣いから判断して、「統べ」のベはエ列乙類、「すめ」のメはエ列甲類であって、甲乙が一致しないという疑問が提出されました。

 そこから、アルタイ諸民族が世界の中心とかんがえるSUMERE(梵語で至高・妙高の意味の蘇迷盧)と同義とする説、清澄、神聖の意味の「澄める」とおなじ意味であるとする説などが出されました。

 上代特殊仮名遣いというのは、奈良時代およびそれ以前のある種の仮名(エキケコソトノヒヘミメヨロ、古事記ではモも)に二種類の書き分けがあったという説です。したがって、発音と表記法がちがうことばは、当然意味の違うことばになるという考えです。

 しかし、私はこの法則をあまり厳密に適用すると行き過ぎになりはしないかという危惧をもっています。

 私は新潟県の出身であるためにイとエの発音があいまいで、仮名遣いもよほど意識しないと誤ってしるしてしまいます。私の友人の数代つづいた家に生まれた江戸っ子はヒとシの区別がまったくできません。こうした現象が古代にもあったのではないでしょうか。

 すめらみことの「みこと」は「尊」「命」などの字があてられますが、もとの意味は「御言」とする説が有力です。

 各様の説があるにしても、結局、すめらは尊貴な存在をあらわすことばであり、このことばを上にかぶせたすめらみことは「天の神のことばを代ってつたえる尊貴な御方」という、折口信夫の説(「天子の諡」)が妥当性をもちます。つまり、高位のシャーマンです。

 すめらみこととよばれた尊貴な方は、この世にあって天の神のことばを体現する神の代行者でした。南方原理につらぬかれた存在だったといえます。

 これにたいする天皇は、天界の北極星そのものと合一する北方原理をとりいれた存在です。

 この通信で、私がもっとも強調したかったことは、のちには混同されますが、本来は、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったということです。

 日本が、6世紀から7世紀にかけて、国家組織を整備してゆくときに、南方原理を北方原理で補完してゆくという当時の基本略を象徴的にしめすものが、君主号すめらみことと天皇の使い分けでした。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa28.htm


諏訪春雄通信 29


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 年度末の学校行事が一段落し、ようやく時間的なゆとりも出来ました。そこで、収集してあった中国の神話資料の整理と読み直しをすこしずつはじめました。日本神話とかかわりのある新しい資料が続々と出てきています。

 以前、この通信の24で、《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》という、私の研究の基本態度を説明しました。新しい資料を補足することによって、この研究姿勢に誤りはないという確信をますますつよめています。

 まだ完全な整理がおわっていませんので、結果が出次第、この通信で概要を報告しましょう。

 今回は「天皇と祭祀」というテーマでお話しします。これも大きな問題ですので、数回にわたって、この通信でとりあげる必要がありそうです。

 前回の通信の最後に、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったと申しました。まず、この結論にたいして説明をくわえます。

 通信27で「大嘗祭」をとりあげました。そこで説明しましたように、大嘗祭の中心行事である大嘗宮での祭りは天皇一人の儀礼であって、女官がその他が奉仕するにしても脇役にすぎず、祭りを進行させる神主はとくにいません。天皇自身が神と直接に接触する祭祀主体=シャーマンです。

 この大嘗祭のほかにも、天皇自身が祭祀主体となる祭りは、宮中行事に数多く存在します。

 奈良時代の養老2年(718)に古代法を集成して編纂された法令集が養老律令です。奈良時代から平安時代にかけての日本国家の基本法でした。そのなかで、国家祭祀を規定した
 「神祇令」には、全部で13の祭祀があげられています。

祈年祭  鎮花祭  神衣祭  三枝祭  大忌祭  風神祭  月次祭  鎮火祭
道饗祭  神嘗祭  相嘗祭  鎮魂祭  新嘗祭(大嘗祭)

 「神祇令」の冒頭の第1条には「およそ天神、地祇は、神祇官が神祇令の規定にしたがって祭れ」とあって、13種の祭りを執行するのは、「神祇官」であって、天皇の名は出てきません。

 このことから天皇は国家祭祀に関与していないという結論を出すことはできません。神祇官は祭祀を管轄する行政官であって神主ではないからです。

 わかりやすい例でいえば、文部科学省の役人は教育の管轄はするが教師ではありません。学校の現場で児童に接触するのは教師です。おなじように、祭りで神に接触したのは天皇でした。

 このあたりの事情は、通信27の「大嘗祭」についての記述をお読みいただければわかります。大嘗祭は、天皇一代一度の大祭であって、例年は神嘗祭として執行されます。その神嘗祭は「神祇令」の規定によれば、神祇官が管轄しますが、実際に祭りの主体者として神と接触するのは天皇です。同様の事情がほかの12種の祭祀にもあてはまります。

 国家的規模の祭りの祭祀主体は天皇であって、神祇官は儀式の管轄者、あるいは代理人にすぎなかったという事実をほかの方法で説明してみましょう(丸山裕美子「天皇祭祀の変容」『日本の歴史8 古代天皇制を考える』講談社・2001年)。

 前掲13の祭祀には、新嘗祭(大嘗祭)のように、天皇が関与したことのあきらかな


月次祭  鎮魂祭  新嘗祭

などのほかに、天皇が直接には関与していない多くの祭祀があります。つまり地方の神社で祭りをおこない、そこに天皇が参加していないものです。

 しかし、そうした祭りでも、中央の神祇官から幣帛つまり供物がわけあたえられます。こうした資格をもつ神社を官幣大社といいます。天皇の参加しない国家祭祀でも、官幣大社でいとなまれます。

 その分与式(班幣)はつぎのように進行します。上京した神主(祝部ほうり)たちは、宮中神祇官の役所前の広場に集合します。大臣以下の役人たちが参列するなかで、神祇官の中臣氏がつぎのような内容の祝詞を奏上します。


 あつまってきた神主・祝部らよ、皆聞きなさい。高天原にいらっしゃいます、スメラミコトがむつまじく親しむ男女皇祖神のご命令にしたがって天神・地祇としてまつる神々の前に申しあげます。今年の二月、ゆたかな収穫をたまわりますように皇孫のスメラミコトが珍しく尊い供え物を、朝日がみごとに輝きのぼるときに祝詞を奏上して、奉ります。

 大宝2年(702)2月に実施された祈年祭の祝詞です。この例からもあきらかなように、国家祭祀の正当性は、高天原の神々の子孫である天皇が奉る供物によって保証されるとともに、天皇は供物をとおして、自身直接に参加しない祭祀の主体者となっているのです。

 この祝詞のなかに天皇ということばは出てきません。和語でとなえられる祝詞に漢語の天皇が出てこないことは当然とかんがえられるかも知れませんが、天皇にあたることばとして「皇」と「皇御孫命」という漢語は出てきます。これは「すめら」、「すめみまのみこと」とよまれています。その基本に「すめらみこと」が祭祀用語として存在したとかんがえます。

 「神祇令」は中国の唐代の祭祀を規定した「祀令」を参照して成立したといわれています。しかし、根本精神は日本流に変更がくわえられています。それは天皇が国家祭祀の主宰者であるという観念です。

 天皇は祭祀王であるという観念は7世紀から8世紀にかけて、日本が国家体制をととのえていったときに、為政者によって周到に準備され、律令にもとりいれられましたが、それだけにとどまらず、『古事記』や『日本書紀』のような編纂物のなかにも布石されています。

 一例を『日本書紀』の第10代崇神天皇の記事にとります。
1.天神地祇に祈願する。
2.天照大神・倭大国魂の二神を宮中にまつる。
3.八百万の神々を神浅茅原に招いて占いをする。
4.お祈りした夜の夢に大物主神があらわれ、大物主神をまつる。
5.八十万の神々をまつる。
6.夢中の神の教えのままに墨坂神・大坂神をまつる。
7.鏡をまつる。

 崇神天皇については各種の説がこれまでに提出されています。


事実上の初代天皇である。
三輪王朝の創始者である。
騎馬民族系の渡来王である。
『魏志倭人伝』の卑弥呼をたすけた男弟である。

 複雑な性格をもった天皇であったことが推測されますが、いずれにしても祭祀王であったことは『日本書紀』の以上の記載からあきらかです。

 天皇が祭祀王としての性格をもつようになった過程については、大きく三つの考え方が成立します。

A.天皇ははじめから祭祀王としての本質をそなえていた。
B.巫女王の時代から男性祭祀王の時代に推移した。
C.男女の祭祀王ははじめから並存していた。

 この問題を解決するためには、巫女王、女帝、斎王、後宮などについて検討する必要があります。次回以降、これらの課題を解明してゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm

諏訪春雄通信 30

 私たちのプロジェクトは、会員とはべつに、40数名の学識経験者の方々を「参加者(メンバー)」とよんで、会の運営についてご助言をいただいています。その参加者の一人谷川健一先生から久しぶりにお電話をいただき、新宿の中村屋でお会いしました。

 用件は、5月の連休あけに韓国へ取材にゆく予定であるが、適当な案内者を紹介してくれないか、というものでした。さっそく、やはり参加者の一人である広島大学の崔吉城先生に連絡をとり、最適の案内者を谷川先生に紹介することができまし。

 中村屋で谷川先生と一緒に私を待っていた方が、新潮社の文芸誌『新潮』の編集長前田速夫さんでした。その場で『新潮』に7枚の短文の寄稿を依頼され、「日本神話と中国長江流域神話」という一文を書いてすぐに送りました。この通信でこれまでにのべたことをまとめたものですが、その後に新しく発見した資料を追加しています。

 その追加資料をふくむ部分だけを、まず、この通信でお送りします。読みやすいように段落分けをします。


「日本神話と中国長江流域神話」

 日本神話の研究には、中国の少数民族社会の神話・伝承の調査研究が必須である。
しかし、残念ながら、日本神話の研究に中国少数民族の神話が考慮されることは、亡くなられた大林太良氏のような先覚者をのぞくと、これまでほとんどなかった。

 その理由の第一は、中国の民間伝承研究の成果が利用しやすいかたちで日本の学界につたえられていないということである。現在、中国神話として日本に紹介されている類書はほとんどすべて、文献に記載のある漢民族の神話であって、少数民族の口承神話ではない。

 第二の理由は、ヨーロッパ研究者による東南アジアや南太平洋の神話研究がはるかに先行していて、日本の神話学者はその成果をほとんど無批判に利用していることである。

 具体例で説明してみよう。

 海幸彦・山幸彦として漁労と狩猟に従事していたホデリとホオリの兄弟が、釣針と弓矢を交換し、弟が兄から借りた釣針をうしなって、竜宮をおとずれる神話は『古事記』と『日本書紀』がつたえている。日本人にもっともなじみのふかい神話の一つである。

 この神話の源流として、これまでに、インドネシアのケイ族の伝承、パラウ島の伝承などが指摘されている。インドネシア方面の「失われた釣針型説話」を原型として、日本の海幸彦・山幸彦の神話が成立したというのが現在の定説である。

 東南アジアの「失われた釣針型説話」の存在を最初に報告したのは、十九世紀以来、この地方に入って調査にしたがったフリードリヒ・ミューラーやフロベニウスといったヨーロッパの研究者たちであった。日本の神話研究はその成果を借用してきたのである。

 しかし、最近、中国の長江南部に海幸彦・山幸彦と類似の話が存在することが報告されている。大林太良氏は、この神話を海の原理と山の原理の闘争ととらえ、江南地方につたえられる呉越の戦いにかかわる伝説を、山を代表する越と海を代表する呉の対立として分析し、日本神話の原型として紹介している(『日本神話の構造』)。

 また、伊藤清司氏は、湖南省のトウチャ族につたわる「格山竜珠を与えられる」という話を紹介し、兄弟の争い、水界訪問、水界の女性との結婚、水界よりの呪宝の将来、呪宝による水の支配、兄への復讐、という六つのモチーフが共通することを説いている(「日本と中国の水界女房譚」)。

 私自身はこのほかに、雲南省のラフ族、貴州省のコーラオ族、四川省のイ族、貴州省のプーイー族などがつたえる二十種を超える異型の水界女房譚を、現時点で発掘している。この数はもっとふえるはずである。これらを総合すると、日本の海幸彦・山幸彦の神話の源流は中国の長江南部であると確信をもって断定することができる。

 もう一例、イザナギ・イザナミの国生み神話について検討する。この神話の原型についてもポリネシア、内陸アジア、インドなどの神話との類似がこれまでに説かれてきた。

 日本の国生み神話は、A洪水で生存した兄妹が結婚する、Bその結婚ははじめうまくゆかず身体不完全な子が誕生したが試行の結果国土と人類などが誕生する、Cしかもそうした行為が神、動物などの指示によっておこなわれる、という三つのモチーフから成る、いわゆる洪水神話の不完全型である。

 『旧約聖書』のノアの方舟で知られる洪水神話は、インド、南アメリカ、東南アジアなどに分布していて、起源地についても諸説があって一定していない。しかし、私は、中国ですくなくとも八十七種の洪水神話を収集している。その分布状況はつぎのようになる。

雲南省 三十八種   貴州省 十五種  湖南省 十一種  広西チワン族自治区 七種
四川省    五種   海南島  四種  湖北省   三種  内蒙古自治区      三種
遼寧省    三種   福建省  一種  台湾    一種  河南省          一種
青海省    一種   黄河辺  一種  黒竜江省 一種

 総数が九十五種となるのは、同一話が二つの地域にまたがって存在する例があるからである。この表によってみると、洪水神話は、雲南、貴州、湖南など、長江周辺の稲作民の居住地に稠密に分布していて、そこから南北にはなれると、急速に減少している。このことから洪水神話の起源地は長江中流域であると確定することができる。

 このほかにも、「アマテラスの天石屋戸隠れ」、「天孫降臨」、「オオクニヌシの根の国訪問」など、日本の王権の成立にかかわる神話の重要な骨格部分が、ほとんどすべて、中国の長江流域の稲作民居住地の伝承を源流としていることがあきらかになっている。太陽神・女神・祖先神・稲魂という四つの性格を兼備して、皇室の祖先となったアマテラスと同一神格への信仰もこの地方に存在している。

 このような中国長江流域神話と日本神話の類似という事実はけっして偶然の暗合ではない。アジアの稲作は一万年以前に長江中流域にはじまって、長い年月をかけてアジア各地にひろまっていた。そのときに稲作の技術とともに、稲作にかかわる信仰や民俗、神話伝承もまた伝播していった。その末端が日本に保存されているのである。

 以上です。ここで洪水神話87種といっているのは、通信20でのべたように、中国の民俗学者林河氏紹介の58話に私が29話を追加した数値です。中国の少数民族の神話については、なおも調査を続行中ですので、結果がまとまりしだいまたご報告します。

 今回は前回お約束した「巫女王」の問題について簡潔にのべます。

 巫女王とは女王が巫女をかねているものです。典型的な例は、『魏志倭人伝』にしるされて有名な卑弥呼です。彼女は邪馬台国の女王であったが、夫をもたず、一人の弟が政治をおこない、彼女じしんは鬼道につかえていたといいます。

 卑弥呼の没後、和国は混乱におちいったので、人々は卑弥呼の長女壹与を王として国を治めさせたといいます。壹与もまた巫女王でした。

 卑弥呼や壹与は邪馬台国にかぎられた特殊な例でなく、古代の日本にかなり一般的にみられる政治と祭事の形態だったようです。ヒメ・ヒコ制とよばれるものがそれです。

 ヒメ・ヒコ制は、兄弟と姉妹が政事と祭事を分担する統治の形態です。一般に「地名+ヒメ」と「地名+ヒコ」の名をもつ男女が一対となってその地域を支配する原始的な王権のあり方でした。具体例としては、『日本書紀』神武天皇即位前紀のウサの国の祖先ウサツヒコとウサツヒメの場合などがあります。

 このほかにも『日本書紀』には地方の首長が女性であった例をいくつかひろいだすことができます。政事権または軍事権をもつ男性の名がしるされていませんが、女性が祭事権をもつために首長にされたのであろうと推測されています(鳥越憲三郎「巫女の歴史」『講座日本の民族宗教4』・弘文堂)。

 ただ時代がさがると、男女の役割分担に相互移動もあったようで、女性の首長が政事や生産にたずさわる例もありました(今井尭「古墳時代前期における女性の地位」『日本史研究』397)。

 しかし、ヒメ・ヒコ制の精神は日本の歴史を貫流していました。

 『古事記』や『日本書紀』には天皇の代替わりにともなう皇位継承争いの記事が頻繁と出てきます。そのばあい、ライバルが同母の姉妹をもっていますと、皇位継承者がその女性をめとっている例が多いのです。

 これは、霊的守護者である姉妹を兄弟からひきはなすことに目的があったのではないかとかんがえられます。

 平和のうちにそれが成功すれば、皇位継承者はライバルにたいして優位にたつことができましたが、不幸にして両者が対立関係にあるときは、相手を倒してその霊的守護者である姉妹をめとることによって皇位争奪戦の完全な勝利をかちとることになりました(倉塚曄子『巫女の文化』平凡社・1979年)。

 沖縄にオナリ神とよばれる、兄弟を守護する姉妹の霊にたいする信仰があることはよく知られています。柳田國男が『妹の力』(1940)収載の論文で先鞭をつけ、伊波普猷がそのあとを受けて解明をすすめた問題でした。

 オナリは、奄美・沖縄・宮古・八重山の諸地域で兄弟から姉妹をさすことばです。姉妹から兄弟をさすときはエケリといいます。オナリ神信仰は、宮古をのぞく前記の各地にみられます。

 オナリ神の働きは呪詛にもしめされますが、多くは兄弟が危機にたったときの守護に力を発揮します。航海や戦争などの出発のさい、姉妹は守護のしるしとして、手ぬぐいや毛髪をもたせ、兄弟が危地におちいったとき、姉妹の霊は白鳥になって現地に飛ぶといいます。

 姉妹は兄弟にたいし霊的守護の役割をはたしますが、同時に兄弟は姉妹にたいし俗的守護の役割をします。しかも家族のレベルを超えたさまざまな上位の祭祀集団にもこの関係をみることができます。根神(ニーガミ)と根人(ニーッチュ)、ノロと按司(アジ)、聞得大君と王の関係などです。

 こうなると、本土古代のヒメ・ヒコ制の関係と完全にかさなります。

 興味ぶかいことは、このヒメ・ヒコ制、オナリ神信仰の源流についても、ポリネシアなどのオセアニアやインドネシアにもとめる説(馬渕東一『馬渕東一著作集3』、鍵谷明子『インドネシアの魔女』、他)が有力であるのにたいし、少数意見として、中国の守護女神媽祖(まそ)信仰との関係をかんがえる説があることです(植松明石「オナリ神」『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社・1983年)。

 私はいまこの少数意見の立場にくみして、女性の霊力の問題を究明してみようとおもっています。

 さらにまた、女帝、斎王、後宮、采女など、日本の王権の維持にふかくかかわる諸制度で、ヒメ・ヒコ制、オナリ神の観点から説明しなければならないものが数多くあります。

 これらの問題を逐次この通信でかんがえてゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f04/suwa30.htm


14. 中川隆[-13737] koaQ7Jey 2018年11月30日 13:12:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460] 報告

秋篠宮さま、大嘗祭の国費支出に疑問 2018/11/30
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38317800Z21C18A1000000/


秋篠宮さまは、30日に迎えた53歳の誕生日に先立ち、東京・元赤坂の秋篠宮邸で記者会見に臨まれた。2019年の代替わりに伴う皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」への公費支出に疑問を呈し、長女、眞子さま(27)の婚約に対する考え方も示された。発言の要旨は以下の通り。


■大嘗祭の国費負担に異例の疑義「長官は聞く耳持たず」

新天皇となる皇太子さまが即位後初めて国民の安寧や五穀豊穣(ほうじょう)を祈る大嘗祭に公費が充てられることについて、秋篠宮さまは「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」と異例の言及。大嘗祭を前回と同規模で行った場合、30億円近い支出が見込まれることが背景にあるとみられる。宮内庁の山本信一郎長官に意見を述べても「聞く耳を持たなかった」と批判された。


秋篠宮さま 即位の礼は国事行為として行われますが、大嘗祭については皇室行事として行われます。宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか。私は、平成の大嘗祭でもそうすべきではないとの立場でしたが、その頃は若かったですし、多少意見を言ったくらいでした。今回も結局、当時を踏襲することが決まったわけですが、すっきりしない感じを今でも持っています。


平成の代替わりに際して行われた大嘗祭(1990年11月22日、皇居)


宗教行事と憲法との関係はどうなのか。私は今でも(天皇家の生活費などに充てられるお手元金の)内廷会計で行うべきだと思っています。相当な費用がかかりますが、できる範囲で、身の丈に合った儀式にすることが、本来の姿ではないかと思います。そのことは、宮内庁長官などにはかなり言っているのですが、残念ながら、話を聞く耳を持たなかった。非常に残念なことだったなと思っています。


■小室さんは「それ相応の対応をすべきだ」

 結婚関連の行事を延期した長女、眞子さま(27)と大学時代の同級生、小室圭さん(27)。「金銭トラブル」など小室家を巡る様々な報道が相次いでいることを念頭に、秋篠宮さまは小室さん側が「それ相応の対応をすべきだ」と指摘。現状では正式な婚約にあたる「納采の儀」は行えないとの認識を示された。会見に同席した秋篠宮妃紀子さまは、眞子さまの体調が「優れないことが多くなりました」と明かされた。


秋篠宮さま 小室さんに関わることが毎週のように週刊誌等で報道されていることは、承知しております。小室さんからの連絡は、2、3カ月に1度くらいでしょうか、時々もらうことがあります。これは娘と小室さんのことではありますが、私は、今でもその2人が結婚したいという気持ちがあるのであれば、やはりそれ相応の対応をすべきだと思います。


まだ婚約前ですので、人の家のことについて私が何か言うのははばかられますが、やはりそれ相応の対応というのは大事ですし、これは2人にも伝えましたが、やはり、今いろんなところで話題になっていることについてはきちんと整理をして問題をクリアすること(が必要)かもしれません。そして多くの人がそのことを納得し喜んでくれる状況にならなければ、私たちは婚約にあたる「納采の儀」を行うことはできません。


(眞子さまの様子については)私は最近はそれほど、娘と話す機会がないので、よく分かりませんが、公の依頼されている仕事は極めて真面目に取り組み、一生懸命行っていると思います。

小室さんから、報道自体について聞いていませんが、今までに(報道が)あった中で、これは事実とは違うとの説明があったことはあります。ただ、それについて何か行動を今するのかどうか、うかがうことはできていません。

紀子さま 私は母親としてどのように受け止め、どのように感じているかについてお話をしたいと思います。昨年の夏から様々なことがあり、折々に私たちは話し合いを重ねてきました。そうした中で、昨年の暮れから、だんだん寒くなっていく中で、長女の体調が優れないことが多くなりました。そうした状況が長く続き、長女は大丈夫だろうか、どのような思いで過ごしているだろうか、と大変心配でした。

家族として非常に難しい状況の中にありますが、私は眞子がいとおしくかけがえのない存在として感じられ、これからも思いは変わることなく、大切に見守りたいと思っております。


■皇嗣への抱負や公務の分担

 秋篠宮さまは2019年5月の代替わりに伴い、皇位継承順位第1位の皇嗣となられる。新たな立場となることへの抱負や、新天皇となる皇太子さまと分担することになる公務に対する考えなどを問われ、「一つ一つをその都度その都度考えながら、自分の仕事や務めを進めていきたい」と回答された。

新年祝賀の儀を終え、退出する天皇、皇后両陛下、皇太子さま、秋篠宮さま(2018年1月1日)


秋篠宮さま 抱負になるかどうかは分かりませんが、これからも様々な公的な仕事をする機会があります。例えば、毎年のように行われているものについては、前年度とか、その前の機会と同じようにすればいいと思いがちです。やはり、それら一つ一つを、その都度その都度考えながら、自分の仕事や務めを進めていくようにしたいと思っています。

公的な活動について、来年5月以降、今まで皇太子殿下が行ってきたものが、天皇になられると併せてすることができなくなります。一方、私も自分で行っていることがあり、それらをそっくり誰かに譲ろうにも受ける先はありません。今、宮内庁は、いったん全て皇太子殿下の仕事を引き取って整理し、次に私がどれをその後行っていくかを検討しているところです。そう遠くないうちに発表されるのではないかと思います。


■「全身全霊」の天皇陛下と支え続けた皇后さまに敬意
 天皇陛下の退位まであと5カ月。秋篠宮さまは平成の30年を「自然災害が非常に多い時代だった」と振り返り、象徴としての務めを果たしてこられた陛下に対し「まさしく全身全霊でお務めを果たしてこられた」と述べられた。


秋篠宮さま バブルが崩壊し、経済が低迷し、失われた10年、20年と言われますが、そのバブルの頃とその後で、人々の生活のパターンが変わったと感じております。また大変残念なことですが、自然災害が非常に多い時代だったという印象があります。

陛下は即位以来、象徴とはどのようにあるべきかという、その象徴としての在り方について、常に模索し、考え、一昨年8月に「お気持ち」を表明されましたが、その中に「全身全霊」という言葉がありました。まさしく「全身全霊」でお務めを果たしてこられたと思います。皇后陛下は陛下のお務めや立場を重んじ、宮中に伝わる伝統を守り継承してゆくことに心を砕かれながら、ご結婚以来、長い期間、60年近くにわたって支えてこられました。これはなかなかできることではなく、お二方に深く敬意を表するところです。息子の立場としては、私は二十何年、一緒に過ごし、常に笑いのある温かい家庭を築いてくださいました。そのことに感謝したいと思います。


■佳子さまの今後や悠仁さまの成長に思い寄せ
 来春、次女、佳子さま(23)は大学を、長男、悠仁さま(12)は小学校を卒業される。秋篠宮さまは佳子さまの今後について「ライフワークになるようなものを持ってもらいたい。結婚はそれほど遅くなくしてくれたら」。悠仁さまに対しては「自分の意見をはっきり言うようになった」と成長を喜ばれた。

53歳の誕生日を迎えた秋篠宮さまとご家族(東京・元赤坂の秋篠宮邸)=宮内庁提供

秋篠宮さま 大学卒業後、次女にも色々な公的な仕事の依頼が来ることが予想されます。長女がそうしているように、一つ一つ大切に思いながら、取り組んでいってほしいと思います。大学院進学の希望を持っているかどうか存じませんが、公的か私的かは別にして、ライフワークになるようなものを持ってもらいたいと思っています。

結婚については、親の勝手な希望としては、それほど遅くなくしてくれたらいいとは思いますが、やはりご縁の関係もありますので、別に私からせかしたりすることもしません。いずれ本人から何か言ってくるかもしれません。

長男はかなり自主的に動くようになってきたと思いますし、自分の意見をはっきり言うようになったなという印象があります。一方、人の話にもきちんと耳を傾けるようになってきたと思います。人のことを思いやる気持ちというのは、以前よりも増してきたなと思います。進学先については、そう遠くないうちに発表されることと思います。


■災害相次いだ1年、若い世代の活躍たたえ

 この1年を振り返り、印象に残った出来事や感想を問うと、秋篠宮さまは7月の西日本豪雨など相次いだ災害を口にされた。明るい話題としては、幅広い分野で快進撃が続く若い世代の活躍を挙げられた。


秋篠宮さま この1年も自然災害が非常に多い年でした。(西日本豪雨で甚大な被害を受けた)広島県に参りましたが、色々な所で土砂崩れや流木を見て、水の力のすごさを改めて認識しました。今後、どのように防災、減災をしていくかを考えていかないといけないと思いを新たにしました。

今年は日本人がハワイに移住して150年。現地で日系社会の人たちと話をし、様々なことを知ることができて大変良い機会でした。また本庶佑さんがノーベル生理学・医学賞を受賞しました。将棋の藤井聡太さんや、(世界オセロ選手権で優勝した)福地啓介さん、テニスの大坂なおみさんら、色々な分野で若い世代の活躍が目立ち、明るい話題だったと思います。


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秋篠宮さま、大嘗祭の国費支出に疑問 2018/11/30

秋篠宮さま 即位の礼は国事行為として行われますが、大嘗祭については皇室行事として行われます。宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか。

私は今でも(天皇家の生活費などに充てられるお手元金の)内廷会計で行うべきだと思っています。

相当な費用がかかりますが、できる範囲で、身の丈に合った儀式にすることが、本来の姿ではないかと思います。そのことは、宮内庁長官などにはかなり言っているのですが、残念ながら、話を聞く耳を持たなかった。非常に残念なことだったなと思っています。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO38317800Z21C18A1000000/


秋篠宮さまが唯のアホなのか、神道を憎んでいるのか、どちらなのかはわかりませんが

天皇家が大嘗祭の費用をケチって簡略式にしたら、2000年前からの伝統がすべて失われてしまいます。 一度忘れられた伝統はもう二度と取り戻せなくなります。

そんな事をしたら、皇室の存在意義が無くなってしまうのですね:

コラム 式年遷宮に見る技術継承と技術者確保
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1233c20.html


 2013年は日本を代表する神社の一つである三重の伊勢神宮で20年に1度の式年遷宮が行われ、多くの参拝客が訪れました。「式年」とは定められた年を意味し、「遷宮」とは新しい社殿を造って御神体を遷すことをいいます。

 伊勢神宮の式年遷宮は飛鳥時代の690年に始まり、約1,300年の歴史を有します。戦国時代に中断された時期はありましたが、現在に至るまで20年ごとに内宮・外宮の正殿等、正宮・別宮の全ての社殿と御装束・神宝の造り替えが繰り返し行われ、2013年は第62回目の式年遷宮を迎えました。社殿には檜の素木造りで堀立柱と萱(かや)の屋根等を特徴とする「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」という日本最古の建築様式が用いられており、当時から変わらぬ姿を今も見ることができます(図表2-3-56)。

 
図表2-3-56 正殿(内宮)


 神宮には内宮・外宮ともそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、20年ごとに同じ形の社殿を交互に新しく造り替えます。この造り替えによって生じた古材は、可能な限り再利用されています。例えば、内宮と外宮の正殿の一番太い柱である棟持柱は、削り直したうえで、神宮の表玄関である宇治橋の内側と外側の鳥居として20年間利用され、その後は三重県亀山市の「関の追分」と桑名市の「七里の渡」の鳥居としてさらに20年間利用されています。このほかにも、古材は内宮・外宮の摂社・末社の修繕・造り替えに使用されたり、全国の神社に無償で提供したりしています。

 また、遷宮にかかる費用については、古代には朝廷、鎌倉時代には鎌倉幕府、江戸時代には徳川幕府、明治以後戦前までは政府によって賄われてきましたが、戦後は伊勢神宮が民間の宗教法人となり政府の手を離れ、以降は国費の投入はなく伊勢神宮の自己財源により賄われています。今回の遷宮による事業費は約550億円と公表されています。

 遷宮がなぜ20年に一度と定められたか、その理由には諸説ありますが、その説の一つに「技術継承説」があります。

20年という期間は、当時の寿命でも2度は遷宮に携わることができ、初めて遷宮を経験する次世代の技術者へ技術を継承していくのに合理的であるという理由です。実際に伊勢神宮ではどのようにその建築技術が受け継がれているのでしょうか。

第61回式年遷宮が行われた1993年から、第62回式年遷宮が終わる2016年までの伊勢神宮の技能者の雇用状況と作業内容について概要を見ていきます(図表2-3-57)。

 
図表2-3-57 伊勢神宮が雇用している技能者の推移と作業内容


 式年遷宮は正宮の遷宮が終わった後に別宮の遷宮があるため、2年間は約160名の技能者の雇用が続きます。別宮の遷宮終了後、若手や技能優秀者30名ほどを神宮の常勤職員として残し、その他の技能者は解散となり、以後12年間、30名の技能者は摂社・末社の修繕・造り替え等を行います。

 本殿の遷宮終了後15年目に、次の遷宮のための木材加工が始まりますが、この頃から作業量や進捗に応じて全国から技能者を雇い入れていきます。この時、遷宮を経験している30名が新たに参加する技能者の教育を行います。この20年の周期によって、多い人で3回の遷宮に携わることができます。

 特筆すべき点としては、最低限技能を伝承するのに必要な技能者(30名)を遷宮終了後も常勤職員としてその雇用を確保していることです。一方で、ピーク時に雇い入れる技能者は、特に宮大工のみを採用しているわけではなく、一般の大工等を採用した後に必要な技能を教育しています。このことは、中核となる技能者を継続雇用し維持・更新業務に従事させることによって技術力が維持されているゆえに可能となっているといえます。

 このように、伊勢神宮の式年遷宮においては、次回の遷宮を見越して、人材の確保(ピーク時に向けた弾力的な雇用)と技術伝承(中核的な技能者の雇用維持)の取組が実践されています。社会インフラの維持管理・更新の担い手不足が大きな問題となっている昨今、1300年前から続いてきたこの仕組みから学ぶべき点も多いのではないでしょうか。

 
図表2-3-58 社殿造営の様子


(参考文献)
 伊勢神宮式年遷宮広報本部公式ウェブサイト http://www.sengu.info/index.html
 (株)野村総合研究所「NRIパブリックマネジメントレビュー(2011/4月)」
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1233c20.html

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理


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神道の世界観を外国人に語ろう 2018/07/29
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201807/article_5.html


 日本は古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術が同居する「ワンダーランド」。


■1.各国首脳の神宮「参拝」

 平成28(2016)年5月、「先進国首脳会議」、通称「サミット」が伊勢志摩で開催され、各国首脳が伊勢の神宮を「参拝」した。外務省は当初、日本以外の参加各国はキリスト教国のため、「参拝」ではなく「表敬」として、神道色をできるだけ消したいと考えていた。

 ところが、参加国の方から「日本に合わせたい」「日本の伝統文化を味わいたい」ということで、事実上の「参拝」の形式を取ることの了承を申し出て来たそうだ。

 内宮御正宮から出てきた各国首脳の顔は太陽の明るい光に照らされて、喜びと感激に溢れていた。各国首脳は次のような言葉を記帳した。一部だけを引用すると:

「日本の源であり、調和、尊重、そして平和という価値観をもたらす、精神の崇高なる場所」(フランス・オランド大統領)

「平和と静謐、美しい自然のこの地を訪れ、敬意を払うことを大変嬉しく思う」(イギリス・キャメロン首相)

「幾世にもわたり、癒しと安寧をもたらしてきた神聖なこの地を訪れることができ、非常に光栄に思います。人々が平和に理解し合って、共生できるよう祈る」(アメリカ・オバマ大統領)

■2.人間は自然の主人か、同胞か?

 これらの感想に共通するキーワードは「平和」である。確かに深い木立の中にひっそりと立つ白木造りの内宮の姿は平和そのものである。私見では、キリスト教文明には自然と共生していく、という思想はないように思う。人間は自然を支配するか、近代文明が自然を破壊し始めると、今度は自然を「保護」するか、という関係でしかない。

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 日本には、「山の神様」もいらっしやれば、「海の神様」もいらっしやいます。
 太陽の神を「お天道様」、先祖を「ご先祖様」、礼会のことを「世間様」と呼び、敬いを欠かしません。いかに日本人は、日本という共同体国家・社会のなかで、自然と人間のDNAが共生しているのかというあらわれでしよう。[1, 807]

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 その一方で、キリスト教は主である神という絶対的な存在によって、人類は動かされます。『旧約聖書』にも『新約聖書』にも、絶対的な神は、姿だけでなくその名前すら現しません。
 自然や人間は、あくまで唯一の神の下で一神教である神が「造りたもうた」ものであり、人間は自然を管理する義務を負っています。
 天と地、海や川、人間や植物や家畜、そのすべてを神が創り、全知全能の神として創造します。(『旧約聖書』・「創世記」)[1, 807]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 山村明義氏の『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』[1]での比較である。山村氏は神職の家系に生まれ、20代から30代にかけて全国の神社約3万社に参拝し、約3千人の神職と語り合って来たという。タイトルから想像できるように、この本の動機は、神道の世界観、人生観を外国人にも広く訴えていきたい、という事である。

 神道的世界観では、人間も自然も「神の分け命」であり、同胞でとして共生している。現代科学は、人間も動物も植物も、同じ構造の遺伝子を持っていることを明らかにしており、同じ命から発生したものと見なす。これは神道的世界観に近い。

 それに対して、キリスト教では人間は自然と同じく神に作られた存在ながら、「自然を管理する」義務を負う。いわば、羊飼いと羊の関係なのである。

 深い神宮の森の中にひっそりと立つ白木の本殿を見た各国首脳が、キリスト教的な人間と自然との対立緊張関係ではなく、人間と自然とが睦み合うような共生関係を感じとったことは想像に難くない。それを各首脳は「平和」として表現したのではないか。

 地球環境危機が人類全体の前に立ちはだかる中で、人間が「自然を管理する」自然観よりも、「人間と自然が共生している」という自然観の方に共感を抱く人々が、欧米においても増えている。


■3.全体主義か、自由民主主義か

 自然と人間が共生しているように、人間同士も共生していると神道では考える。そこでの共生の本質を山村氏は次のように指摘する。

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神道は「多神教」でありながら、一柱一柱の神様の動きはあくまで「自由」で、
「平等」の存在になります。[1, 1392]

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 共生とは、生きとし生けるものが自由かつ平等の中で、主体的に協力していく世界である。一木一草も、鳥も魚も、そして人間も、自由平等に生きている。

 万葉集には少年の防人から天皇まで身分の区別無く、男女の差も無く、人の真心を素直に歌い上げた歌が平等に取り上げられているが、それはこの万物が自由、平等に生きている、という神道の世界観が基底にあるからだろう。

 これに比べると、唯一万能の神がすべてを取り仕切るというキリスト教的世界観は、独裁と服従という全体主義モデルに近い。神道の自由と平等の多神教世界は、はるかに現代の自由民主主義と親和性の高い世界観なのである。


■4.性悪説か、性善説か

 しかも、神道的世界観においては、人間は神の分け命であるから、当然、その性は善である。時に個人的な欲望に駆られて悪をなすこともあるが、それは禊(みそ)ぎや祓(はら)えで水に流すこともできる。

 これに対して、キリスト教の原罪説では、人間は性悪なものと捉え、だからこそ神にすがる必要があると説く。万能の神がなぜ人間を性悪に作ったのか、とは戦国時代にキリスト教に触れた我が先人たちが抱いた疑問であるが、その疑問は現代の日本人にも依然、答えられない。

 先般も弊誌[a]で紹介したように、最先端の大脳生理学では利他心は集団生活を必要とする人類が進化の過程で得た本能であると考えている。神道的世界観で育った日本人には当たり前のように思えるこの学説も、性悪説が支配するキリスト教国で唱えるのは、かなり勇気のいる事のようだ。


■5.統制経済か、自由市場経済か

 生きとし生けるものが自由、平等に生きていると言っても、各自が自分勝手にバラバラに生きているわけではない。例えば、農民は大地を耕し、川から水を引いて水田を作り、そこに苗を植え、その苗が太陽の光を浴びて、稲が育つ。

 川から流れ込む水は川床からの養分を運び入れ、田んぼの中では藍藻類が空気中の窒素を固定して、土を豊かにする。その水の中にはオタマジャクシが住んでいて、枯れ草や藻などの有機物を食べて分解し、稲が吸収しやすい栄養分に変える。[b]

 このように、生きとし生けるものが個々バラバラではなく、それぞれが「処を得て」互いに助け合って生きている。人間どうしも同じである。米を作る人、村から町に運ぶ人、店で売る人など、人それぞれが「処を得て」互いに助け合い、社会全体を支えている。

 生きとし生けるものは、決して万能の神が設計し創造した機械の歯車ではない。それぞれが人体の各器官のように、自由平等に、かつ、主体的に協調し合って働いているのである。神の設計のもとで動く歯車では共産主義の統制経済に近いが、万物が処を得て自由に働く姿は、自由市場経済に通じている。


■6.宇宙は時計仕掛けか、生成発展するものか

 古事記では、最初の神が現れた時、「大地はまだ若く、水に浮く脂(あぶら)のようで、海月(くらげ)のように漂っていて、しっかりと固まっていませんでした」[3]と説く。

 そこから、神々が国土を作り、その上で人々が田を作り、水を引く。神や人や万物が力を合わせて何事かを生みなすことを、神道では「むすぶ」と呼ぶ。男女が結ばれて、家庭を作り子をなす。農民が土や水などと力を合わせて作物をなす。

「むすび」の「むす」は、「うむす」が縮まった形で、「うむ(産む)」と同じく、「物の成り出づる」ことを言う。「むすこ」「むすめ」「苔むす」は、この意味である。「び」は「ひこ(彦)」「ひめ(姫)」など、「物の霊異(くしび)なるをいう美称」である。したがって、「むすび」とは万物を生成する不思議な働きを指す。[2]

 この「むすび」に示されるように、神道の世界観では世界は生成発展するものであり、人間もそのプロセスに参画する。

 これに対して、キリスト教では唯一絶対神が宇宙を創造し、あとは人間も自然もその「時計仕掛け」の一部として運動を続けるのみである。この世界観では生物が勝手に進化するという進化論は受け入れられない。今でもアメリカでは42%の人々が「神が今の人間をそのままの形で作った」と信じている。[4]

 人間の努力も与(あずか)って世界が生成発展するという神道の世界観は、人類が科学によって自然法則を発見し、それを応用して新たな技術を生み出すという技術革新を後押しする。

 経済学者ヨーゼフ・シュンペーターはイノベーションが経済発展をもたらすことを主張したが、そのイノベーションとは既存の要素の「新しい結合」であると考えた。異なるものの「むすび」が新たなる生成発展をもたらすという神道的世界観と同じである。

 技術革新は日本企業の強みであるが、それはこの「むすび」の考え方が後押ししているからと考える。特に現場の作業者一人ひとりまでが「改善」に参加するという日本の製造業における「改善サークル」「改善考案」は今や、世界の製造業のグローバル・スタンダードになりつつあるが、その根底にあるのも、人間が世界の生成発展に参画する、という神道の考え方だろう。


■7.神道的世界観の中で生まれた幸福と責務

 こうして見ると、現代のグローバル社会における環境運動、自由民主主義、大脳生理学、自由市場経済、技術革新などのトレンドは、みな神道的世界観と親和性が高いことが判る。

 逆にキリスト教的世界観と、現代文明はきわめて相性が悪いことが見てとれる。考えて見れば、キリスト教が支配した中世から訣別して始まったルネサンスや宗教改革が西洋近代の出発点となった。

 そこから産業革命、自由民主主義、自由市場経済、ついには現代の「リベラル」にまでつながってくるが、この点に関して、山村氏は田中英道・東北大学名誉教授の『日本人にリベラリズムは必要ない』から、こう指摘する。

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 もともと「リベラル」そのものが伝統的な「反キリスト教」から始まり、政治思想的には17世紀の「キリスト教からの自由」で始まったイギリスのジョン=ロックに始まり、経済的にはアダム=スミスから、心理学的にはフロイトから始まったといわれているからです。[1, 1146]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 西洋近代は、キリスト教との戦いの中で「キリスト教からの自由」を訴えざるを得なかった。しかし、それを追求する過程で、キリスト教が支えていた宗教的道徳も失うことになってしまう。その結果の「神なき近代文明」が現代人から安心立命を奪ってしまった、と言えるのではないか。


■8.古いものと新しいものが同居するワンダーランド

 山村氏は外国人観光客数十人に「日本の良いところはどこですか?」とアンケートで聞いたことがあるという。

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 その結果を見ると、50%以上の外国人が、「日本には、古いものと新しいものが共存し、同居しているところ」と、答えていました。
 古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術がなぜ同居するのか。また、日本人は新しいものを好む傾向があるのに、なぜ古いものを残そうとするのか。
 日本人にとっては、神社以外にも仏閣や古い家屋の残る日本の当たり前の風景ではありますが、外国人から見れば、日本は「なぜか古いものが残っている」ということが、「ワンダーランド」に見えてしまうのです。[1, 827]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 外国人、特にキリスト教徒から見れば、「古いもの=キリスト教」、「新しいもの=現代文明」で、両者は基本的に相容れないところがある。しかし、日本では「古いもの=神道」であって、それは以上述べたように、現代文明を包摂し、より良き方向に導く力を持ったものである。

 神道的世界観は現代文明の自由化、民主化、技術革新などを肯定しつつ、自然や共同体の中で共生し、より良く生きる道を教えている。そのような世界観の下で生まれた我々日本人の幸福をよく噛みしめつつも、外国人にもその世界観を共有する責務を我々が担っていることを知るべきだろう。

 昨年の訪日外国人客数が28百万人を超え、政府は2020年には4千万を目標としている。神道的世界観を世界に共有するには絶好の機会である。

 しかし、神道は言挙げよりも、まずは自然の美しさ、有り難さを感じとる処から始まる。そのためには、各国首脳が神宮参拝で感じとったように、まずは我々日本人がこの美しい国土を大切にし、それの姿を見て貰うことが出発点だろう。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(1071) 最新科学が解明する利他心の共同体
 人間が進化の過程で獲得した利他心を最大限に発揮しうる仕組みをわが国は備えている。
http://blog.jog-net.jp/201807/article_3.html

b. JOG(707) 農が引き出す自然の恵み
 農業はカネでは計れない価値を自然から引き出す。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h23/jog707.html

c. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/

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■伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』に寄せられたアマゾン・カスタマー・レビュー
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー1位(H28/6/30調べ) 総合19位(H28/5/29調べ)

■評価★★★★★ 日本に誇りが持てるようになります。(Tatchyさん)
 
 この本を読めば日本人が受け継ぎ発展させてきた世界に誇る日本の文化や伝統、国民性・・・(その他もろもろ)が深く理解できるでしょう。
 特に神道と仏教が融合された独自の宗教観には感銘を受けました。(やや神道寄りに書いていますが)

 西洋や中東のような上から目線の一神教と異なり神は身近にあり労働も生殖も祝福される事であった事などは日本人の勤勉さや弱者や子供を助ける精神に繋がる事がよく分かり素晴らしいと思いました。
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 山村明義『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』★★★、ベスト新書、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4584125708/japanontheg01-22/

2. 竹田恒泰『現代語古事記: 決定版』★★★、学研パブリッシング、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4054050751/japanontheg01-22/

3.平凡社『神道大辞典 全三巻合本』(Kindle版)桜の花出版、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B01FQFSNIY/japanontheg01-22/

4. Gallup「In U.S., 42% Believe Creationist View of Human Origins」
https://news.gallup.com/poll/170822/believe-creationist-view-human-origins.aspx

15. 中川隆[-13736] koaQ7Jey 2018年11月30日 13:33:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460] 報告

鳥居の起源は長江の稲作文明

吉野ヶ里遺跡の紹介 門と鳥形
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには、鳥の姿が描かれていることがあります。また弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており、当時の習俗的シンボルであったと考えられます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に広くみられることから、弥生時代に穀霊信仰が存在したと推察されます。

当公園においては佐賀県神埼市の「託田西分貝塚遺跡」の出土例に基づいて復元した鳥形を環壕入口の門や主要な建築物の軒飾りとして設置しています。


南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

▲南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

穀霊信仰と鳥に対する崇拝

穀霊信仰は穀物の霊に対する信仰であり、精霊信仰の一種です。稲作が開始された弥生時代に、縄文時代以来の精霊信仰の上に穀霊に対する信仰、観念が独自に発達していったことは当然推定されます。

それとともに穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に秘匿認められるものであり、ここから逆に弥生時代に穀霊信仰が存在したことを推定することができます。

鳥に対する独自の観念は『古語拾遺』や『古事記』、『日本書紀』などの古代文献でも認めることが出来、そうした観念は弥生時代に遡ると言えます。

天空に近い場所をより神聖な場所とする観念の表れでもあることが、東南アジア民族事例や古代中国の文献などから窺ことが出来、弥生時代の建物が描かれた絵画土器などに高床建物、重層建物が多く描かれ、吉野ヶ里遺跡の祭殿、物見櫓などが出現してくる背景には稲作とともにもたらされたアジアの稲作地帯にみられる穀霊を運ぶ生物として鳥を神聖視する観念が存在したことが窺われます。
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

鳥居から鳥が消えた日 2016/5/5
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336


神社と鳥居はワンセットになっている。


日本の神社になぜ鳥居が有るのかは、私なりの見解が有り、このHPにも書いた。
鳥居は神を封じ込める結界
http://artworks-inter.net/ebook/?p=162

日本の場合、畏敬すべき神の存在がメインなのだが、タブーとしての神に仕立て上げた存在も有る。

祟り神や怨霊神がそうである。

そのための鳥居や結界も存在する。

しかし、それは神道が形式化され整備されてからの事であり、それ以前の神道は各地さまざまな形で、その土地やその種族にあわせたものとして存在していた。

古代の神道は、古事記や日本書紀の記述に無い、日本の土着の神の存在の証明でも有る。

学問的呼び名で言うと原始神道というらしい。

これは、魔術的な不可思議なものではなく、先祖崇拝や祈祷や占いなどである。

鳥居の形にいろいろ有るのは、原始神道と現在までの神道の融合のせいも有るだろう。

また、神仏習合のせいもあるかと思われる。

しかし、人と神を分ける結界という考え方は同じようだ。

弥生時代の鳥居

先日吉野ヶ里にいった際、復元された弥生時代を見てそこに鳥居があるのを発見した。

壱岐の原の辻遺跡復元集落と同じような鳥居である。

門のような鳥居の上に、木で作った模型の鳥がとまっているのだ。

吉野ヶ里歴史公園

遺跡というのは、発見された時は穴ぼこだらけの土地である。

そこにあるものを、今までの研究に照らし合わせて復元する。

だから、復元模型は研究者たちの思い入れや、想像が入るのですべてを丸のみにして、信じるわけにはいかない。

だから、鳥居風の門の上に、木の模型の鳥があったのも、研究者たちの演出だと思っていた。

吉野ヶ里遺跡の職員の人に、何気なく木の模型の鳥の話しをした所、出土品として木の模型の鳥があったとの事でびっくりしたのだ。


鳥形木製品

恥ずかしながら、日本の鳥居のことばかりやっていたので、アジアに広がっている鳥のトーテムの事は、頭から消え去っていた。

穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

韓国のソッテという鳥のトーテム
http://satehate.exblog.jp/16749464/

ソッテ
鎌倉から、こんにちは
ソッテ(鳥竿)という木の鳥が居ます。
http://blog.kamakura-seoul2005.com/?eid=1062236

s-ソッテ(鳥竿)


壱岐の鳥居

(長崎県壱岐市芦辺町 原の辻遺跡) 撮影アートワークス

縄文や弥生といった時期には、当然神社と鳥居はないのだが、鳥居の起源として色んな説がある。

弥生時代に稲作が始まったと教科書では書いているが、稲作は縄文時代からおこなわれていた。

弥生時代に盛んになったのは、水田という手法が広まったという事である。


穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。吉野ヶ里歴史公園
鳥竿
日本野鳥の会関係のサイトには、「この鳥竿は、アジアの稲作地特有の風習で、優良な稲作地を探すときの目安として朝、鳥が多く集まるところに設置されたのが始まりといわれています」とあります。

確かに、鳥と稲作は深い関係があり、信仰の対象である事は間違いない。

日本神道の結界としての鳥居とつながっていると思うが、この時点ではもっと範囲の広い信仰の対象だった。

朝鮮のソッテだけではなく、中国の少数民族にも鳥竿は見られる。

特に有名なのは中国のミャオ族である。


芦笙柱(トン・カー

(杉浦康平アジア図像の世界 11 http://www.kousakusha.co.jp/RCMD1/rcmd_11.html)

鳥越憲三郎 説

倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったとした。分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族 (古代での和夷に比定。またタイではアカ族)、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通するとしている。

それ以外にも多数の説があり面白い本も多い。

ミャオ族歌手 阿幼朶

朝鮮では鳥竿だが、他の地方ではトーテムポール風に変化しているものもある。

鳥への信仰は同じなのだが、インド仏寺のトラナ、中国の牌楼、朝鮮の紅箭門など門としてつながっていったと思われる。

インド仏寺のトラナインド仏寺のトラナ

s-朝鮮の紅箭門朝鮮の紅箭門

日本にも朝鮮半島のチャンスンと同じものが神社に残っている。


高麗神社(埼玉県日高市)
第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられた。
http://blue-angels.my.coocan.jp/jinja/koma/komajinja.htm

高麗神社

吉野ヶ里の門の上の鳥は、これらの流れを考えて作られたのだろう。

精霊門ハニ族(アカ族)の精霊門

http://ameblo.jp/hex-6/entry-12020355977.html
中国の雲南省に住むハニ族(アカ族)の精霊門を参考にしたとおもわれる。


特に印象的なものは神武天皇の絵画である。

もちろん書かれたのは江戸時代だとおもうが、弓の上に止まっている八咫烏(やたがらす)の絵は、鳥竿(ソッテ)を持っているといっても、誰も疑わないだろう。

神武天皇

日本には鳥竿やトーテムポールは直接伝わっていないが、鳥信仰は色んなものに変化していったのと推測される。

鳥信仰の門が、神社の鳥居と結びつくのはそれほど違和感がないと思える。

神社だけではなくお寺にも鳥居がある。これは神仏習合の影響である。

日本というのはつくづく不思議な国だと思われる。

日本以外の所から色んなものが伝わっているのだが、すべてを日本流に変化させているのだ。

ジャパンフィルターと呼んでも良い。

これは現代でも大いに作用している。

ここからが本題である。

鳥信仰の鳥居なのに、日本に定着するとその鳥の模型がなくなってしまっている。

吉野ヶ里歴史公園にあった、鳥の模型が乗っている門がなくなっているのだ。

そして、その代わりにセットになったものがある。

注連縄である。

これはどういうことなのだろうか。

稲作はどんどん広がっていて、九州から東北地方までも広がっている。

考えられる理由はただ一つしか無い。

鳥信仰を持っていない稲作の民の台頭である。

鳥の模型が無くなった代わりに登場したのが注連縄である。

現在鳥居に注連縄がはっているものも多い。

注連縄の原点は『蛇』
http://www.ne.jp/asahi/anesaki/ichihara/kyuukei/simenawa/simenawa.htm

鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市西新井町)鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市)

shimenawa_torii


蛇と注連縄

6−1 鳥居

http://www.741.cc/Bonhu/kami06.htm


星宮神社


くらら日記  栃木県下野市下古山 星宮神社

http://blog.livedoor.jp/clala_koubou/archives/2013-07-21.html

鳥から蛇に変っていったのだ。

鳥信仰は、その土地に住む原住民が長い間培ってきた信仰でもあり、稲作や穀物の生育と鳥との関係が信仰を生んだと思われる。

つまり、長い農耕の歴史が空や鳥を信仰の対象にしてきたのだ。

ところが、日本は1万5千年とも言われる長い縄文の時代があった。

農耕一筋ではなく、狩猟と農耕という独特のサイクルを持って、長期間平和に暮らしてきた。

農耕というと穏やかなイメージがあるが、水田というのは山を崩し土地を開墾して自然破壊を繰り返していくライフスタイルなのだ。

さらに、水田は新技術として日本中を駆け抜けていく。

稲作の鳥信仰は薄れていったのだ。

もちろん鳥という天空と地面をつなぐ神秘的な生き物に対する信仰は消えていないが、日本には古くから蛇信仰がある。

稲作の大敵でもあるネズミの天敵というのもその理由の一つだろう。

それ以外にも


蛇の形体が男根を思わせること
蝮などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃のもとに倒す強さ
脱皮により生まれ清まる再生力

有名な説に「蛇 (講談社学術文庫)吉野 裕子」がある。

吉野氏によれば、田んぼに立っているかかしは蛇のことだという。

蛇の力と神社がいつか寄り添って、日本中に広まっていったのだろう。

蛇の怖さは、縄文人たちはよく知っている。

そしてその生命力も計り知れない。

蛇信仰は鳥居とセットとなって広がっていった。

その事実からいえることは、稲作を伝えた人達の主導権を奪った人達が日本の主流になったという事である。

それが縄文人と言われる日本在住の民たちである。

縄文人は別に単一の種族ではない。

長い間混血を繰り返し、日本に定住していた民だ。

この民たちが動き出したのだ。

ジャパンフィルターが稼働したのである。

渡来倭族たちの新技術を吸収し、日本風にアレンジさせて進化させた。

水田に適した熱帯ジャポニカを品種改良して東北の寒冷地でも収穫が出来るように進化させたのである。

漢字が日本に入ってきたが、ジャパンフィルターを稼働させ、ひらがな、カタカナを生み出した。

仏教は日本の仏教へと変化させ、神仏習合を生み出し日本教を生み出した。

江戸から明治に移る時、無血革命という離れ業を実現し日本を外国から守った。

戦後、欧米の技術が入ってきたが、物まね、イエロー・モンキーといわれながら、世界一のトランジスタラジオを生み出した。

数え上げればキリがない。

古代新技術の到来は、現日本人にとって渡来人に土地を奪われていくことと同じだったのだ。

渡来人たちは、別に親切で日本にやってきたのではない。

征服者の顔を持っているのだ。

色んな理由で日本にやってきた渡来人のいいなりになるわけにはいかない。

だから、ジャパンフィルターが稼働した。

空白の4世紀というのがある。

倭国が歴史に記載されない時代だ。

邪馬台国の時代、まだ縄文の生活様式が残っている。

そのご大和朝廷が本格的に動き出す時は水田稲作は全国に広まっている。

空白の4世紀とは弥生時代とかさなっている。

日本はなぜ、世界の歴史に登場しなかったか。

それは、鎖国をしていたからである。

これは、江戸時代の鎖国と同じ状況だ。

外国の新しい風にさらされていた日本は、数ある選択肢の中から国を閉じることを選んだのだ。

世界の常識から見れば、とんでもない選択だったはずだ。

しかし、鎖国を実行して国力を充実させる道を選んだ。

日本の4世紀、邪馬台国から大和朝廷に脱皮して行くには、海外との交易をなるべくさけて、国内の体制を固める必要があったのだ。

これは、中国大陸などの情勢を察知して働いたジャパンフィルターだと確信する。

そしてこの時期、鳥の鳥居から蛇の鳥居となり、本格的な日本水田稲作の道が切り開かれたのである。

荒唐無稽といわれればそれまでの話しだが、多数の渡来人の説が幅をきかせる中

日本語という言語が変らなかった事実を説明できる説はこれしか無い。

チベット、中国、モンゴルなどの様々な人種と文化が日本にやってきて化学反応を起こし、ハイブリットな日本人が出来上がった。

日本人の故郷は何処かといわれれば、世界中だといえる。

それが気障なら、日本人の故郷はここ日本列島だというのが正解だ。
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336


タイ山岳民族は日本の弥生人と同系の民族


http://wee.kir.jp/thailand/tai_people.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/4525/introduction.html

三輪隆文集・「黄金の三角地帯から」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1850/essays.html

タイの山岳民族(三輪隆)
http://column.chaocnx.com/?eid=22870


タイのアカ族と日本との不思議な共通点


遠い昔にどこかで見たような懐かしい風景が広がっています。

アカ族はこの国の先住民族ではなく、リス族同様に中国やビルマからこの国に移住してきた民族です。この国に入植した歴史は新しく、まだ100年ほどしか経過していないそうです。この民族は他の民族同様に、中国の雲南省、ビルマ、ラオス、及びタイ北部にまたがって広く分布している。

現在、北部タイの山岳地帯には300余のアカ族の村があり、約5万人が暮らしている。焼畑農業によって主食の米を作っているのは他の山岳民族と同じです。

伝統的にすべてものに精霊が宿り、精霊が人を幸せにも不幸にもするとしたアニミズムの信仰を続けているが、近年、キリスト教の布教活動によって改宗した者も多い。


パトォー・ピー(精霊の門)

山頂に築かれたアカ族の村。


アカ族の村の入口には、パトォー・ピー(精霊の門)と呼ばれる日本各地の神社にある鳥居にそっくりの門が建っています。この門は必ず村の入口2ヵ所以上に築かれ、悪霊が村に侵入しないように結界の役目を果たしています。峻険なドイ・メーサロンの山中は山岳民族の宝庫なのですが、もっとも多くこの地に居住しているのはアカ族です。

アカ族の中では、もっとも早く北部タイの地に移住してきたのは、ウロ・アカ族だと言われている。この国では、ウロ・アカ族とロミ・アカ族がもっとも多く、他にはパミ・アカ族という支族がわずかにビルマとの国境周辺に集落を築いて住みついている。

右側の女性は、杵でもち米をついてもちを作っていました。


アカ族は、精霊と共に生きる民族と言われるぐらい、精霊との関わりの強い民族である。

アニミズムの信仰を続けているアカ族の村の入口には、上の写真のように必ずパトォー・ピー(精霊の門)が設置されています。いまでは迷信扱いされ、村人からも忘れ去られようとしている存在のこの門ですが、昔は村を訪れたすべての人がこの門を潜って村に入らなければいけないとされていた。

その人について来た悪霊が村に侵入して悪さをするのを防ぐためである。

アカ族の伝統的な宗教の根幹とも言えるパトォー・ピーには、木製の鳥が数羽止まっていたり、支柱に幾何学模様が刻まれていたり、竹で作った風車のようなものが取り付けられたりしています。

そして門の脇には、悪霊に対する強力な武器として、鉈や弓矢が置かれていることもあります。


アカ族の村のモー・ピー(祈祷師)。

モー・ピーは山岳のどの村にもいて、さまざまな行事を執り行なったり、病人を治癒したりします。

病人が重い病気の時には、よりパワーの強い祈祷師を他の村から呼び寄せたりするのですが、基本的にその村のモー・ピーが祈祷によって村人の治療にあたります。

病人のいる家の床下で祈祷を行なうのが、より効果的だと言われています。

この時には、犬とアヒルが生贄とされていました。

器の中には、精霊の大好きな酒が満たされています。


アカ族は自由恋愛の民族と言われていて、どの村にも若い男女が集まって愛を交わす場所というものがあるそうです。

アカ族はリス族のように社交的ではなく、どちらかと言えば閉鎖的な民族だが、一度仲間と認めるとどんなことがあっても相手を裏切らない、実に律儀な民族です。
http://maesai.main.jp/page068.html

アカ族はタイ、ラオス、ミャンマー、中国雲南省にかけて住む少数民族です。

タイへは20世紀初め頃から、雲南省より南下し、現在海抜800m以上の山岳地帯に住んでいます。焼畑を中心とした農耕生活を営み、質素な暮らしをしています。

信仰はアニミズムであらゆる物や自然現象に霊が宿ると考えます。自然崇拝に加えて祖霊崇拝を重要視しており、驚く事に、系譜をたどり初祖にいたるまで60以上もの先祖の名前を暗唱できます。

アカ族の社会が父系制で、名付け方法が「父子連結名」のため、これを可能にしています。

「父子連結名」とは子供に父親の名前の一部を付けることです。

「我が父、家康。家康の父、秀吉。秀吉の父、信長。信長の父・・・」と続けるととても覚えきれませんが、

「我が父、家康。家康の父、吉家。吉家の父、秀吉。秀吉の父、長秀。長秀の父、信長・・・」

となれば多少覚えやすくなります。

名前と同じようにしてアカ族は自分の祖先がどこからやってきて、どこに住んでいたかを暗記しており、彼らの移住経路をたどることができます。

特別な儀式や葬式などでこれらは朗唱されます。またアカ族のある2人がお互いの関係を知りたいと思ったら、彼らは自分の系譜を唱えます。祖父の代から始め、曾祖父、曾々祖父・・・と繰り返し、お互いの共通の先祖が現れるまで続けられます。

アカ族は文字を持たない民族ですが、文字の代わりに語り継ぐことによって民族の歴史、伝説を記憶に保存しているのです。


アカ族の風習には日本と不思議な共通点があります。

アカ族では、稲の種まきの始まる毎年4月に、村の出入り口に木造の「門」を作ります。この「門」は日本人なら誰でも知っている見慣れた「門」です。垂直に立てられた2本の木。その上に水平に乗せた木は垂直の2本の木の間隔よりもやや長く、両端が少し反っています。これらの門には縄が張られています。

そう、神社で必ず見かける「鳥居」と「しめ縄」にそっくりなのです。この「門」には、木製の鳥が数羽載せられています。日本の「鳥居」は「鳥の居る場所」と書きます。現在の日本の鳥居には鳥はみかけませんが、「鳥居」の文字で分かるように、そのルーツには鳥が関係していることがわかります。

大阪和泉市の弥生時代の遺構から、アカ族の村の門に置く鳥とまったく同じ形の木彫りの鳥が見つかっています。古代日本の鳥居には恐らく、鳥が据えられていたのでしょう。アカ族のこの鳥居に似た「門」は神聖なもので、村人以外の人間は触れてはなりません。村人たちは門が完成すると儀礼を執り行ない、その後この門をくぐり、村の中に入ります。

天の神が鳥に乗って降りてきて、邪霊や悪鬼を祓い、村人たちを守ってくれると信じられています。

なぜ幾千キロも離れた日本とアカ族に共通点があるのか?
誰しも疑問に思うはずです。

この謎を調べて行くと興味深い事実と歴史が浮かび上がってきます。
それは日本人のルーツにもつながっていきます。
http://www.cromagnon.net/blog/2004/07/post_85.php


倭族と鳥居
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=191832


神社にある鳥居の起源って?これは昔から不思議に思っていたのだけれど、どうも東南アジアから東アジアに広がる“倭族”に共通した信仰・風習を起源としているようです。


「鳥居論---ニッポン人の鳥信仰とその出自」

鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、それから朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括る。

その氏によって、雲南省やそこに隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲むタイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」が見出されている。それは左右二本の柱の上に笠木(横に渡す木)を載せたものだ。ただし、これは「社(やしろ)の門」ではなく「村の門」(「ロコーン」と言う)だ。

「鳥居」の起源は、共同体(村)へ侵入する悪霊を防ぐ結界門だったのである
(「締め縄」とはそういう意味だ)。

 そして、果たしてその門の笠木には木製の鳥が止まっていた。

実は、吉野ヶ里遺跡を始め、わが国の弥生時代の遺跡からは木製の鳥が頻出している。だが「鳥居」は残っておらず、どこにどう止まっていたのかは分からない。

「村の門」には左右の自然木に「締め縄」が渡されただけのものもある。それらにはしばしば「鬼の目」がぶら下がっている。鬼の目とは竹で編まれた悪霊を追い払う呪具(「籠目」もその一つ)で、現代の日本の締め縄にも吊されている。(中略)


再び中国大陸に戻ろう。

南部に住む苗(ミャオ)族の村の中心には芦笙(ろしょう)柱というものが立ててある。苗族の神樹・楓香樹で出来ている。

てっぺんに木製の鳥が止まるのだが、その柱には竜が巻き付いている。しかも柱の上部には牛の角が左右ににょきと突き出している。

ここに正月(苗年)祭りのときには、一対の神聖な銅鼓(どうこ)が下がられていたはずだ(というのも今ではもうほとんどの銅鼓が失われている)。

 実は朝鮮のソッテでも一本柱の場合、鳥杆に竜に見立てた綱が巻かれる。

芦笙柱、そしてソッテとはもう明らかだろう。神話的世界の中心にそびえる「世界樹」である。文字通り、木である場合も、山である場合もある。そして、それは聖林となり、社となった。

天に向かいそびえるもの、すなわち、神を呼ぶもの、依り代が世界樹の本質である(注)。

そして、鳥は神を運ぶ神使であり、依り代でもある。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=191832

112 :出土地不明:2009/06/18(木) 23:22:16 ID:H5jIqf+0

中国少数民族には、太陽は鳥が引っ張ってくると言ういい伝えがある。

だから、太陽を引っ張ってもらう鳥に止まってもらうために鳥居がある。
鳥が太陽を引っぱってくれないと朝があけない。

実際に、鳥の模型を止まらせた鳥居もある。
少数民族の鳥居には、鳥の模型を止まらせたものもある。


113 :出土地不明:2009/06/19(金) 01:43:48 ID:9/5gRbpN
太陽の船には鳥がとまってるよ

タイの山岳少数部族「アカ族」について


 「アカ族」はタイ北部の山岳地帯に暮らす少数民族で、日本と同じ稲作文化、精霊信仰を持ち草木染めなどカラフルな色の民族衣装を着て生活しています。

 顔などは日本人そっくりで、村の入口には鳥居を思わせる門があり、お歯黒の習慣を持っているなど日本と共通のルーツを思わせます。

一方で、婚姻制度は父系制で、代々父親の名の一部をとって子供に命名していく「父子連名法」により、各自が50代以上にわたる祖先の系譜を暗記しているなど、母系制度が色濃く残っていた日本の農村とは異なる文化も見られます。 


■アカ族の村 

 人口約50,000人。メーサイを中心としたチェンラーイ県にほぼ集中して約120の村がある。標高1,000m以上の高地の山頂近くの斜面にへばりつくようにして集落を形成する。高床式の家に住み、男女の部屋が別々なのが特徴。

 女性の民族衣装は、銀貨や銀細工、ビーズ等をあしらったカブトの様な重い帽子を被り、黒いミニスカートに脚絆という出で立ちで、帽子は作業中もおろか就寝時もこのままだ。帽子を脱ぐと悪霊が頭から入ってしまうそうだ。

アカ族の女性は温和で素朴、優しくてサービス精神に富み、働き者で知られる。
   
 アカ族は最も奇妙な習慣をもつ山の民で、あらゆる物に精霊が宿ると信じている典型的なアミニズムである。村の霊、山の霊、光や風にも霊が宿るという。水の霊を恐れるために水浴をも嫌う。
   
 村の入口には、日本の鳥居と同様の門が築かれ、木製の男根と女性器の偶像が村の神様として祀られている。これは悪霊や疫病から村人を守り、子孫の繁栄や穀物の豊作を祈願するものである。

奇祭として知られる村の大ブランコ乗りの儀礼は、豊作を祈って稲穂が風に揺れるブランコにイメージさせる 「親感呪術」 という説と、身体を振ることで体内に住む悪霊を振り払う説と、昔アカ族の村に女の子が生まれなかった頃、森の中でブランコに乗った妖精を見つけて村に連れてきたことをお祝いするという説があり、祈祷とお清めの場でブタを殺して4日間儀礼を行う。
   
 アカ族はいわゆるフリーセックスで、自由恋愛の民族で、どの村にも男が娘を抱く広場、ハントする場所がある。若い男女は毎日ここに集まり、黄昏の刻から親交を深め、目出度く成立したカップルは闇に包まれた森の茂みの中に消えて行く。

ただし、双生児が生まれた場合は悲惨で、その赤ん坊は不吉なものとして殺さねばならない。生んだカップルも村を追い出され、出産した家は焼き払われる。


■アカ族の家族 

 アカ族は普通、男性で十七歳から二十歳、女性は十四歳から十七歳ぐらいまでの間に結婚する。集落の中には若者が集まる広場があり、竹や木で作ったベンチがしつらえられ、夜になると若い男女が集まってきて自由に語り合う。

特に農閑期や祭礼時には、夜更けまで騒いだり、愛を語り合ったりして、それが結婚相手をみつける絶好の機会となる。アカ族の恋愛は比較的自由で、結婚前に複数の異性と婚前交渉を重ねることもまれではなく、恋を語る少女たちも実にオープンで、屈託がない。結婚に際しても、特に親の同意を必要とせず、本人同士の合意によって決定される。


  父系制のアカ族とって、男子が生まれることは必要不可欠である。
生まれてきた子供が女児ばかりの場合、家系がとだえることになり、恥ずべきこととされる。私の知り合いのアカ族のおじさんは六人の子供がいるが、みな女の子ばかりなので、世間の視線は冷たく、内心肩身の狭い思いをしている。アカ族では、男児に恵まれない場合、妻に原因があるとされ、亭主は第二夫人を娶る権利があるとされる。

そうでなくてもアカ族では、財力のある男性は第一夫人の同意が得られた場合に限り、複数の妻をもつことができる。しかし、アカ族の社会でも、第一夫人以下のヒエラルキーは厳然としてあり、夫の愛情の質量とは無関係に、母屋に居住を許されるのは第一夫人だけである。第二夫人以下は仮小屋などを建てて別居することになる。

第一夫人のみが正式な妻として社会的に認知され、その妻の同意がない限り、離婚も容易ではない。第一夫人の権利と威厳はこうして保たれる。

結婚前の恋愛は自由だが、家庭をもち、一人前の成人として認められるようになれば、共同体の社会的秩序と体面を維持しなければならないのである。これを犯したものは、それなりの制裁が待っている。


 精霊信仰、おおらかな性意識という農耕民族的な暮らしぶりと、父系制という遊牧民族的な風習が融合したアカ族の文化は彼らの出自にその秘密がありそうです。
 
 アカ族がタイにやってきたのはそれほど昔のことではなく、20世紀初めころとされています。中国雲南省から、ビルマ、シャン州を経由して、タイ北方の山岳部へやって来たらしい。彼らの起源は中国で羌(チャン族)と呼ばれた遊牧民族というのが有力です。

長く漢族、チベット族という二大部族の支配下にあり、一時期「西夏国」という国を建てたりしましたが1227年に滅亡、二大民族に同化していったようです。その後一部の集団は同化を逃れ、南下していった末裔がアカ族なのではないでしょうか。

当初は遊牧部族的な風習を持っていた彼らが、次第に農耕へと生活手段を変化させてゆく中で、精霊信仰を獲得していったが、父系制だけは残存させたという推察ができます。

 父系制が残った理由として、(これは私の想像ですが)南下逃亡して来たチャン族の生き残りは男ばかりの集団で、周辺部族からの略奪婚によって集団を維持してきた時期があったからではないでしょうか。

http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/05/000593.html


『稲と鳥と太陽の道』
http://www.amazon.co.jp/%E7%A8%B2%E3%81%A8%E9%B3%A5%E3%81%A8%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E9%81%93%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%82%B9%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86-%E8%90%A9%E5%8E%9F-%E7%A7%80%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4469231274


 日本の神社には鳥居が立っている。なぜ鳥居というのか。組んだ木のてっぺんに鳥が居るからだ。この鳥は他界から鳥の姿をした祖霊が幸福や豊饒をもたらすためにやってきたシンボルである。日本神話では「天の鳥船」といって、そうした祖霊や幸福や豊饒を天空で運ぶ船さえ想定されていた。

 一方、竪穴式住居を脱した古代の家々は、それでも吉野ケ里遺跡や三内円山遺跡に見るごとく掘っ建て柱に屋根をかぶせたようなもので、つねに柱が目立っている。そうした家々のある集落では、その入口に1本あるいは2本の柱をゲート状に立てて、その上に木彫りの鳥を止まらせる風習をもっていた。いや、最初から鳥を置いたのではなくて、そんな高い柱や組み柱にはたいていどこかから鳥がやってきて止まった。その鳥の来し方行く末は、古代集落にとっては祖先や未来の国である。そこで木に鳥を彫って、それを柱のてっぺんにつけた。

 このような柱と鳥の関係を総称して「鳥竿」(とりざお)とよぶとして、この鳥竿をつかった祭は日本にも韓国にもいっぱいある。韓国ではソッテとかチントベキといって、やはり鳥を止まらせている。ソッテは蘇塗とも綴るのだが、そのテはシンテ(神竿)やナッカリテ(禾竿)のテのことをさした。その鳥竿のルーツをさらに追っていくと、中国に行きつく。萩原さんはさらに追いかけて、それがミャオ族の習俗に出所していたことをつきとめた。ここまでが第1段の前段になる。

 ところで、関西ではオコナイ、関東ではオビシャとよばれる行事が広まっている。

 オコナイとは祈年行事のことで、神社でやるときはミヤオコナイ、寺院でやるときはテラオコナイといった。リーダーとなるのはその年の頭屋(とうや)で、鏡餅づくりをするか、茅の輪を編んでみんなでこれをくぐるか、丸い的をつくってこれに矢を射るかした。関東のオビシャは御奉射のことで、三本足の烏や三つ目の兎を描いた的を弓で射ることが多い。これでわかるように、関西のオコナイ・関東のオビシャのどちらにも弓神事なるものが絡んでいる。

 これらに共通するのは、鏡餅にしても茅の輪にしても丸い的にしても円形の標的があることで、そこに矢を射ることやそこに烏や兎が描かれることが加わっている。いったいこれらは何を示しているのか。オコナイやオビシャより古いかたちを見る必要がある。たとえば神楽だ。

 日本の神楽はおおむね天地創成神話を背景としている。舞庭(まいにわ)あるいは神庭(こうにわ)を一つの異界として創出するのが演目になる。このとき野外なら柱や竿から、室内なら天井から綱や紐や糸を垂らして、そこに三本足の烏を描いた日輪と三つ目の兎を描いた月輪を吊るした。のちにはそれが左右の幡(旗)になった。

 この舞庭・神庭で新しくは「岩戸」「五行」が、古くは「将軍」という神楽曲が舞われた。鹿児島県薩摩の大宮神社の「将軍」を例にすると、将軍は弓に矢をつがえて五方を射る所作をする。なぜ、こんなことをするかといえば、この所作には物語がある。太古、太陽が7つ、月が7つあったのだが、スイという鬼が太陽を6つ、月を6つ呑みこんだ。さらにもう1つ呑みこんだらこの国は真っ暗になるので、選ばれた将軍が五方に弓矢を射て鬼を退治して、その片方の目を日輪に、もう片方の目を月輪とあらわして、未来永劫の万象を祈願したというのだ。

 これはイザナギの左の目からアマテラスが、右の目からツクヨミが生まれたことと対応する。が、それとともにこの物語は、中国の天地創成神話にある弓の名人のゲイが9つの太陽を射落とした話や、太陽に住んでいた烏を9羽射落とした話に似ている。済州島にも太陽を落とした神話がある。朱蒙(ジゥモング)という弓の名人もいる。

 つまりここにはいわゆる招日神話・射日神話があったのだ。そこで、その分布を調べてみると、アムール川流域からインドネシアまで広まっている。ミャオ族にもまったく同じ伝説がある。

 以上のことから類推できるのは、鳥と太陽の話はどこかでつながっているということである。そこに弓矢神事が出入りしていた。これが第2段の前提になる。そこで、これらの話のすべてをもっているミャオ族のことを知っておく必要があるということになる。


三本足の烏を描いた的(沼南町高柳)


 ミャオ族は中国江南に居住する民族で、中国では古くから三苗とよばれた。3つの言語集団がいた。その後はタイ北部にまで広がった。移動した連中はまとめて「百越」とよばれた集団である。

 民族上は少数山岳民族グループに分類されているが、いまでも150万人か200万人くらいがいる。しかし古代中世のミャオ族は文字をもっていなかった。移動の記録や歴史の記録は古歌や伝説や習俗にしか残っていない。

 そのミャオ族では、新年になるとジーユイニャオという鳳凰に似た木彫の鳥をとまらせる柱あるいは竿を立てる。芦笙柱(ろしょうばしら=トン・カー)という。楓香樹であることが多い。その上のほうに牛の角のような横木をつけた(写真を見るとすぐわかるが、鳥居の原形に近い)。新年、その芦笙柱を左まわりで踊る。

 なぜそのようになったかという伝説が「跋山渉水」という古歌にあって、カササギあるいはツバメの先導でこの地にやってきたことをあらわしているのだという。この到着地はのちのちまで神聖な場所になり、カー・ニンとよばれる。カーは芦笙のこと、ニンは場所である。村の“へそ”にあたる。

 この神聖な場所は東西軸を重視する。そもそも中国では純潔チャイニーズの漢民族は天空の中心の北極星(太極)を信仰して、そのため南北軸を重視する。風水も、天子や宮殿が北を背に南面することを基本とする。一方、江南のノン・チャイニーズの少数民族は繁茂する植物の象徴である太陽を信仰して、太陽の昇降する東西軸を重視する。

 これでわかるように、ノン・チャイニーズのミャオ族の村の“へそ”に立つ芦笙柱は、太陽が依り坐す柱なのである。太陽のトーテム・ポールなのだ。

 太陽は季節や時間とともにコースを動くので、その季節や時間を感じることが大切になる。そこで暦のようなものが生まれるのだが、文字をもたないミャオ族は、この季節と時間の“しるし”を鳥の去来で学習していった。また、それを教える者を鳥官といった。

 さらに、このような太陽信仰を支える鳥の存在と去来を忘れないように、芦笙柱を寿ぐ数々の祭では、男はニワトリの羽根や茅萱(ちがや)の輪を差し、女は鳥の羽根の衣裳で身を飾った。これが鳥装である。いいかえれば、村のシャーマンたちは鳥装によって鳥霊になり、太陽の行方と合体するわけである。たちまち日本の鷺舞や鶴の舞といった各地の祭りがおもいあわされよう。

 ここまでが第3段で、話の前提があらかた出揃ってきた。太陽と鳥と弓はひとつのものなのだ。では、これらの前提の話がどうして日本のコメ文化と結びつくかということである。ここからが本題になる。その前にちょっとおさらいをしておく。

 コメはムギにくらべて一本当たりの収穫量が格段に多い作物である。ヨーロッパの麦作の播種量が5倍〜6倍であるのに対して、日本の米作はざっと30倍〜40倍になる。何千年でも連作もできる。

 コメは稲からとれる。稲は籾に包まれていて、その籾殻をとったものが玄米、それを精米すると白米になる。ようするに稲の種実がコメなのである。その稲種を学名ではオリザ・サチバという。もともとは野生の稲種オリザ・ペレニス一種が起源だとされている。それがいろいろ分かれていった。

 その稲種には大きく分けてジャポニカ種とインディカ種がある。アフリカ種も現在まで伝わっているが、ごく少量だ。

 中国南部を原産地とするジャポニカは短粒でやや粘り気があり、インドを原産地とするインディカは長粒でぱさぱさしている。今日ではDNA分析によって、二つはまったく異なる遺伝子をもっていて、それぞれ独自の祖先型があることがわかっている。

 日本人のコメ文化はほぼ100パーセントがジャポニカで成り立っている。タイ米やカリフォルニア米は炒めたチャーハンやピラフにするならともかく、それらはとうてい“ごはん”にはならない。以前はこれを「外米」(がいまい)といった。


日本へ稲が伝わったころのジャポニカとインディカの出土地
(『九州歴史大学講座』第2期No.3より)

 日本に到来した稲には最近流行の黒米・赤米で知られるように、ジャポニカにも熱帯ジャポニカや温帯ジャポニカなどいくつもの種類があった。インディカも入ってきた。何がいつ入ってきたかはまだ正確に確定できないのだが、だいたい縄文後期から弥生前期にかけての時期、2500年くらい前には稲が渡来していた。

 なかで熱帯ジャポニカはいわゆるモチ米に近いもので、中粒で粘り気が強い。そのためモチ性の弱い普通のコメをウルチ米とよぶようになった。ただし、このモチ米のモチは漢字で書くと「餅」ではなくて、本来は「糯」と書く。日本ではこれをモチと読むが、もともとはダである。ちなみに中国では、いまでも餅(ピン)といえば小麦粉食品のことをいう。だから月餅などという菓子もある。

 ともかくも総じていえば、日本はウルチ米とモチ米を含むジャポニカを何世代にもわたって品種改良して、日本の食文化の中心にすえてきたということだ。稲作にあたってはウルチ米でもモチ米でも、ともに陸稲と水稲があるのだが、日本はもっぱら水稲によって水田で育てた。このときいったん稲苗をつくって、それを田植えで移植するという独特の方法をとった。おそらく紀元前5世紀から3世紀にはこの方法が確立しはじめた。

 この「苗」と「田植え」が日本の社会や文化に大きな影響を与えたのである。これは、湿度の高い日本では直播きの陸稲では稲とともにすぐに雑草が繁茂して、どうにもならない。そこでいったん苗をつくり、それを移植する。そうすればすでに一尺ほどの貯金があるのだから、稲はなんとか雑草と対抗できる。つまり「株立ち」をしておくことが日本の稲作の基本であって、それが春に種蒔きをし、5〜6月に田植えをし、秋に収穫するという、日本の稲作生活の大きなリズムと特色をつくることになったわけである。

 この稲作とほぼそっくりの原型をもっていたのが、実はミャオ族だったのである。


ミャオ族は稲刈りした稲を高倉に収める。梯子は丸太を刻んだもので日本の弥生時代のものに酷似している。

 ミャオ族にはイネ文化もモチ文化もトウモロコシ文化も雑穀文化もある。しかし、そのうちのいくつかは日本の社会文化によく似たものをもっている。稲を保存する高倉、高床式の住居、チガヤを稲に見立てる田植え行事、正月のモチ月、羽根つき、竹馬、おこわ、チマキ(粽)、なれズシ、糯稲の麹でつくる酒、鯉や鮒の水田飼育、鵜飼いなどである。

 そのほか、正月料理を男主人がつくり、最初の3日間は女性は家事をしない風習、その料理を家の者たちが10日ほど食べつづけること、新年の辰の日(元旦)に2個の丸餅を台状の脚の低い椅子にのせて大地に酒をそそぐ儀礼なども、どこか日本の正月に通じるものがある。

 萩原さんはこうしたミャオ族の儀礼や生活をつぶさに観察して、しだいに中国原産のジャポニカを日本に運んだのはミャオ族ではないかと考えるようになった。おそらく中国江南地方の稲作の技能をもったミャオ族の一部が、なんらかの事情で長江から山東半島と朝鮮半島をへて日本に来たのではないか。

 なんらかの事情についても考えてみた。それはきっと中国の戦乱事情と関係があって、たとえば紀元前473年に越王が呉を滅ぼしたこと、その越が楚に滅ぼされて、楚が山東地方にまで勢力を拡大していったことなどと関係があるのではないか、というふうに。

 ただし、このときちょっとした選抜がおこったのではないかということを萩原さんは考えた。それというのも古代日本の中国側の記述には、例の『魏志』倭人伝をはじめ、倭人が入れ墨をしていたということがしばしば書かれているのだが、しかも日本の海人伝承にはしばしば黥面や入れ墨をしていることが語られているのだが、その海人が日本に来たとすると、いろいろ辻褄があわないことがあるからだ。

 従来、倭人の勃興と海人伝承は重ねて仮説されてきた。ということは漁労と入れ墨と倭人の勃興はひとつの出来事とみなされてきたということだ。

 しかし、考古学史料や植物学や遺伝学による調査が進んでくると、日本列島に稲作が入ってきたとおぼしい時期がしだいに早まって、紀元前3世紀にはかなりの水田耕作が広まりつつあったと見るしかないことがわかってきた。

 そうだとすると、文身(入れ墨)の習俗をもった漁労民が稲作を定着させたというような奇妙なことになる。これはちょっとおかしいのではないか。その後の日本文化を見ても、田植えの民が文身をもっているということはほとんどないし、そういう祭りもほとんど見ない。しかし他方、鏡餅にアワビやコンブを飾ったり、田植え行事にワカメ採りが重なっているような例はある。

 では、この辻褄があわない脈絡を説明するにはどうするか。新たな解答を与える仮説はなかなか出なかったのだ。こうして萩原さんの仮説が浮上した。先に水田民が定着して、それに漁労文化が集合していったのではないか。

 結論をいえば、萩原さんは中国南部からタイ北部の少数民族(チベット族・リス族・リー族・タイ族・シャン族・ワ族・カレン族・イ族など)をほぼすべて調査した結果、ミャオ族だけが入れ墨の習慣をもっていないことをつきとめたのである。

 そうであれば、文身をもたないミャオ族が春秋戦国期の内乱に押し出されるようにして、山東半島や朝鮮半島をへて日本にやってきて稲作技術を伝えたとしてもおかしくないことになる。少なくともそう考えれば、日本の正月儀礼や食物文化に似るミャオ族の儀礼や習慣との関連も説明がつく。しかし、ほんとうにそんなふうに言えるのか。萩原さんは傍証をあげていく。

 本書や、その前著の『稲を伝えた民族』で萩原さんが掲げている傍証はたくさんある。それをいまは絞って紹介する。

 まず第1には、稲魂(いなだま)信仰がある。稲魂とは稲に宿る精霊のようなものを信仰する習慣がもたらした観念で、稲穂が稔ることを期待した観念である。日本にはこの稲魂を重視する行事や祭がかなりある。その最も代表的なものは新嘗祭である。近いものが日本の西南や南島にある。これはミャオ族にもあって、初穂を捧げる儀礼になっている。

第2には、種蒔き・田植え・刈り入れというリズムによって、農村生活がハレとケを重視していることだ。稲作にとってハレはなんといっても豊作と収穫にある。そこにむかって農民は予祝をし、雨が涸れたり稲が枯れることを恐れ、そのための行事や占いをする。これはケ(枯)をしっかり感得することによってハレを招きよせるという考え方を生む。また、それを1年のサイクルにする生活様式をつくっていく。

ここで重要になってくるのが、晴れ着で着飾る新年がいつだったかということである。実は調べていけばいくほどに、もともと新年は収穫期の直後にあったのだということがわかってくる。いまでも西表島では8月や9月に節祭をおこなって稲や粟などの五穀の収穫を祝う。そこで一年が切り替わるとみなしている。このような例はいくらもあるのだが、このことから、第3の生と死の観念に関する問題が特色されてくる。

すなわち第3に、稲も人も「生と死」をもっていて、そこにはいったん「籠もる」という出来事が挟まって、それによって稲は稔り、人は充実を迎えるのではないかという考え方である。これは民俗学では「擬死再生」というふうによばれてきたことだが、日本にもミャオ族にもこの擬死再生をあらわす儀礼や祭礼がきわめて多いということだ。

しかも第4に、そのような稲や人の擬死再生には、その「籠もり」が終わったことを告げる神がたいてい出てくる。いわゆる春を告げる来訪神、折口信夫がマレビトと名付けた来訪神である。来訪神が蓑笠をつけて、いったん隠れた場所から出現してくるという所作をともなうことも看過できない。

すなわち第5に、稲の成長がもたらした藁束は神の似姿の衣裳となって、ケを破ったハレを告げるわけなのだ。
このような来訪神の習俗はミャオ族にもいまなお続行されている。異装のマンガオがやってきて、ツァイライ(長老)の家で鍋墨などをなすりつけ、そのあとで芦笙柱を派手にまわって人々を驚かせ、また笑わせる。モウコウという来訪神もいる。おどろおどろしい異装のモウコウが5人・7人・9人といった奇数が集まって、ウォーウォーと唸り声をあげて子供を寿ぐ。まさにナマハゲだ。 

5つの傍証をあげただけだが、これでも十分に推測がつくように、ミャオ族の村落儀礼と日本の稲作儀礼をつなぐ紐帯はけっして浅くない。それどころか、すでにいくつかの前段でのべたように、ここには太陽信仰と鳥信仰がさまざまに重なってくる。

萩原さんは、こうした「太陽と鳥と稲」の相互関係からは、おそらく日本人の祖霊をめぐる観念の形態がいろいろ読みとれるのではないかというふうに、本書を結んでいく。

日本の祖霊信仰は基本的に正月と盆を、また春分と秋分を行ったり来たりすることで成立しているのだが、それは稲作の儀礼ともぴったり重なっている。だいたい種蒔きと刈り入れが春分と秋分の幅をもっている。そこには太陽の道が劇的に通過する。ここにはしかも日本人の彼岸と此岸の観念も重なってくる。また、もしも新年が収穫期と深い関係をもっていたとするのなら、「魂があらたまる」という日本人の感覚は田植えの夏至から冬籠もりの冬至に向かってドラマをつくっているといえるのだ。

千葉県沼南では天道念仏という行事がくりかえしおこなわれている。いまでは3月15日におこなわれているが、おそらくは春分行事であったおもわれる。かつてはたんに「天祭り」とよんだ。ここではボンデンという竹で編んだ丸い籠に半紙を貼って鳥の目を描きこみ、これを「カラス」とか「シラサギ」とよんで竹串で射る。まさにオビシャである。このボンデンを折口は「髭籍」(ひげこ)と認識して、光を放つ太陽だとみなした。

これでだいたいの話はつながったはずである。萩原さんは遠い地の話をしたわけではなかったのだ。われわれも正月や春分や冬至を、アジアとともに感じるべきだと言いたかったのである。


秋分の朝、真東の太陽を迎える芦笙柱上の鳥
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1141.html

「北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁撈民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこでテン(シ+眞)王国を作った。

同じように、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。テン文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。


 この仮説は百年も前に鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)が台湾の生番族と苗族の文化的共通性からすでに着想していたことである。それから百年後、その鳥居の仮説がようやく一歩近づいたのである。」

安田喜憲『龍の文明 太陽の文明』PHP新書170 2001
http://www.amazon.co.jp/%E9%BE%8D%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E%E3%83%BB%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%89%E7%94%B0-%E5%96%9C%E6%86%B2/dp/4569617352


「『古事記』が選録されたその年には、唐では玄宗皇帝が即位し、唐文化は爛熟の時代をむかえつつあった。「家畜の民」「畑作・牧畜民」の漢民族の巨大王国の世界支配が貫徹した時代に、「森の民」「稲作・漁撈民」としての日本民族のアイデンティティーをいかに記録にとどめるかに、元明天皇も太安万侶も腐心したはずである」


テンと日本の共通性は


「コメと肉を食べ、太陽や蛇や鳥を長らく神として信仰し母権制を軸とする共通の伝統があるからである」

それを「中尾佐助氏や佐々木高明氏は照葉樹林文化と名づけた。」


この著者は北方畑作・牧畜文化を龍の文明とし、一方南方文化を太陽、蛇、鳥の文明としている。日本が藤原氏以後、天皇を女帝とし、神を太陽神・アマテラスにしたのは、追いやられてゆく南方系文明をこの国の正統な王朝としようとしたためだとする。そして天皇家が今でも北方系のシンボル龍よりも南方稲作民のシンボル太陽神を象徴としていると言うのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/45768819.html

安田喜憲氏の新著『龍の文明・太陽の文明』(PHP新書、二〇〇一年九月刊)で著者が江上波夫氏による「騎馬民族征服王朝」を意識して提唱した「稲作・漁労民征服王朝説」を立ち入って検証してみたい。

一、龍族の南下と縄文文化


今から約八千年前、中国東北部の遼寧省から内モンゴル自治区にかけて、龍信仰の原形となる猪龍や鹿龍などをトーテムとする牧畜民が興り、七千年前には現在の龍に近いものが玉器とともに信仰され、六千年前には龍と玉それに女神がセットなって、一つの宗教体系を形成するに至った。

著者はおよそ十年間にわたって、中国各地の先史遺跡をひろく踏査し、「龍は森と草原のはざまに生息する猪や鹿、それに森の中を流れる川にすむ魚そして草原の馬をモデルにして誕生していた」(P.98)と突きとめ、龍は長江(揚子江)流域の蛇か鰐をモデルにした架空動物だとみなす従来の通説を覆した。

龍信仰を定着させた紅山文化は、内モンゴル自治区から遼寧省・吉林省にかけて発達したが、五千年前に寒冷化と乾燥化とが顕著になってくるにつれて、しだいに衰弱し、そして四千年前には完全に崩壊してしまった。

それと時期を同じくして、長江流域の各地において約五千年前に、巨大都市に象徴される王権が突如として出現した。五千年前の良渚文化の遺跡では、角と耳のついた玉龍が見つかり、龍に対する信仰があらたに現われてきたことを物語る。

こうした長江流域に見られるの新しい文化的要素について、著者は「玉への信仰は長江流域と内モンゴルがほぼ同じか、あるいは内モンゴルが若干早く出現した可能性が高い」または「長江流域で最古の龍が出現するのは五千年前なので、内モンゴルの方が二千年近く早いことになる」と指摘し、さらに「こうした玉と龍への信仰は長江流域の稲作地帯で独自に誕生したのではなく、北方の畑作地帯でもほぼ同時に、あるいは北方の畑作・農耕地帯で誕生し、それが南方の稲作・漁労地帯へ伝播したとみなす必要が出てきた」と論じる(P.31)。

ここでも、長江文明を特徴づける「玉」への強い信仰の南方起源説という「通念」は、あっけなく論破されたのである。

著者が中国の遺跡を調査する際には、つねに日本文明の起源という問題を意識していることは、本書の随所にそれをうかがうことができる。たとえば、遼寧省西部の査海遺跡から、約七千年前と推定される玉玦や玉匕などといった中国最古の玉製品が出土していることに関連して、著者はすぐに縄文時代の遺跡に目をむけ、次のように述べる。

「この査海遺跡の玉玦や玉匕は、福井県金津町の縄文時代早期末〜前期の桑野遺跡から出土した玦状耳飾りや玉匕とよく似ている。さらに類似した玦状耳飾りは滋賀県守山市赤野井湾遺跡、京都府舞鶴市浦入遺跡、兵庫県淡路町まるやま遺跡、新潟県堀之内町清水上遺跡、大分県本耶馬渓町枌洞窟遺跡などで発見されていることが明らかとなっている。」(P.30)

このような出土品の類似によって、著者は「七千年前頃からすでに日本海をわたって中国東北部との交流があった」(P.30)と大胆に推論する。さらに、気象の寒冷化と紅山文化の崩壊にともなって、龍族の南下が始まったが、その影響が長江流域の文明にあらたな転機を来したのみならず、縄文時代中期の文化的発展にも波及したと論を進めていく。

気候の寒冷化により紅山文化の担い手たち、あるいはその文化的影響を受けた北方の人々が南下したり日本列島に渡来することによって、長江文明発展の契機や縄文時代中期の文化的発展の契機を作ったのではあるまいか。

「いうまでもなく縄文時代中期以降、土偶と翡翠そして蛇信仰がきわだったものになってくる。そうした縄文時代中期文化の画期には、龍を信仰し、玉を持ち、女神を信仰していた大陸の紅山文化の影響があるのではあるまいか。」(P.35)

ところが、龍と玉それに女神を信仰する北方系の「紅山文化の担い手たち」が縄文文化に影響を及ぼしたという推論は、本書の骨格をなす「稲作・漁労民征服王朝」の仮説と噛み合わないものがある。

つまり、著者は再三にわたって「日本において龍とみなされるものが出現してくるのは、弥生時代後期以降のことである」と強調し、その背景として「王権の誕生が中国に比べて遅かったこと」(P.50)を指摘し、龍信仰が稲作とともに日本に伝わらなかったと断言する。

このことは、初期の稲作伝播の径路と龍をもたらした人々の渡来径路を考える上でも重要な意味を持っている。すくなくとも初期の稲作をもたらした人々は、龍信仰を持っていなかった。おそらく彼らは龍よりは太陽と鳥を崇拝する長江流域の人々であった可能性がきわめて大きいことを示唆している。

龍の造形は、古墳時代より以降の遺跡では中国龍に近い形で見られるようになるのだが、弥生時代の後期では大阪府の池上曾根遺跡、恩智遺跡、船橋遺跡、下池田遺跡、兵庫県の玉津田中遺跡、奈良県の唐古遺跡、岡山県の天瀬遺跡など、近畿地方から瀬戸内海沿岸にかけて、足のついた龍らしき動物を描いた土器片が出土している。 この意味で、龍信仰の将来者は縄文末期から東シナ海をわたってきた稲作民ではないとする見解はうなずける。

二、鳥から鳳凰そして朱雀へ


北方の森と草原のはざまで生息していた龍族は、約五千年前から寒冷化にともなって南下すると、長江流域において太陽信仰を持つ鳳凰族らの異文明と遭遇する。この異文明とは、南方の森と湿地のはざまで発達したもので、本書のキーワードでもある「長江文明」にほかならない。

「その森と湿地の周辺で、稲作・漁撈民が一万年以上も前から畑作・牧畜民とはまったく異質の暮しを続けていたのである。そして六千年前には、城壁都市を構築し、五千年前には本格的な都市文明の段階へと突入し、四千年前にはメソポタミアのウルクなどに匹敵する巨大な都市を作りあげていたのである。」(P.55)

著者によれば、「太陽の運行は稲作を行なう上で実りの光を与え、稲作の行事にリズムを与えてくれる」ため、稲作民と漁撈民は太陽を崇拝し、また太陽は鳥によって運ばれると信じているという。(P.55)そして、鳥を神格化したのが鳳凰であり、鳳凰はすなわち太陽の化身とみなされる。

鳳凰信仰の原型である鳥崇拝は、長江各地では異なった様相を呈する。たとえば、長江中流域にある湖南省の高廟遺跡からは、太陽を両羽にかかえる怪鳥の姿が造形されていた七千年前の土器が出土しており、その鳥は立派なトサカを持ち、鶏の面影をとどめている。そして長江下流域では、七千年前と推定される浙江省の河姆渡遺跡に、二羽の鳥が太陽を真ん中に向かい合う象牙の彫刻が発見され、その姿はどうやら水鳥に似ている。時代はくだるが、長江上流域の四川省三星堆遺跡から、青銅製の扶桑木といわれるものが発見され、その枝にとまっている九羽の鳥は、明らかにカラスをモデルにしている。

このような地域差のある個性的な鳥崇拝は、長い歴史のなかで互いに融合して、鳳凰という空想の神鳥信仰に吸収されていく。『山海経』には、鳳凰の頭は徳をあらわし、翼は順を、腹は仁、背中は義を、それぞれ象徴しているとあるのは、鳳凰の組み合わせ動物としての多様性を想像させる。

著者の唱える鳳凰の南方起源説、鳳凰信仰を鳥崇拝の進化とみなす説、鳳凰が太陽信仰の根幹をなしているとの説などは、いずれも中国でも早くから指摘されており、おそらく疑問をいれる余地はなかろう。ただし問題となるのは、稲作民と漁労民がなぜ鳥を崇拝し、鳳凰信仰を持つようになったかをめぐっての説明である。

これに対して、著者は「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」(P.60)と説明しているが、こう簡単に片づけられては困る。著者のもう少し詳しい解釈を引用しよう。

「太陽の運行は稲作・農耕民にとっては、きわめて重要な生産のメルクマーク(指標)であった。いつ種もみを播き、いつ苗床を作り、いつ田植えをし、いつ田の草を取り、いつ収穫するかという稲作の農作業は、畑に水をやる必要もない天水農業の麦作に比べると、はるかに複雑な作業であり、綿密さと緻密さ・計画性を要求された。その綿密の根幹を司るのが太陽の運行であった。そして鳥はその太陽の運行を助けるものであった。太陽は朝生まれて、夕方には死ぬ。その永劫の再生と循環を支えているのが鳥であった。」(P.62)

右文はもっぱら稲作民と太陽および鳥との深い関連を述べているが、漁労民との関連についてはまったく言及していない。漁労民とは漁業を生計とする人々をさし、長江下流域の沿岸地帯では漁業をいとなむ漁民が生息していたと思われるが、中流域の湖南省と上流域の四川省では漁労で生計を立てる民族集団がいたかどうか疑わしい。つまり、漁労民と鳥崇拝との間に、必然的な関連が見出せないということである。

たとえ水鳥と漁労民の間になんらかの接点があったとしても、それはあくまでも長江下流域の河姆渡遺跡などに限られ、高廟遺跡の鶏崇拝と三星堆遺跡のカラス崇拝には当てはまらない。したがって、鳥を崇拝するのは漁労民ではなく、稲作民とみなした方が無難であろう。というのは、鳥崇拝の遺物が発見された地域は大抵、早くから稲作が盛んなところだったからである。

湖南省については、玉蟾岩遺跡から一万六千五百年前と推定される稲籾が四粒見つかり、現時点では中国最古の稲作の証拠とされている。また七千年前の河姆渡遺跡からは大量の米粒と稲殻そして農具などが出土し、太陽と鳥を造形した象牙彫刻も同じ遺跡から出ており、鳥崇拝と稲作民との深いつながりを思わせる。

鳥崇拝が稲作農耕から生まれたとすれば、農業に密接な関係を持つ太陽信仰に鳥がなぜ登場してくるかを「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」では説明できなくなる。

ここで思い出されるのは、長江下流域に生息していた越人の「鳥田」に関する伝承である。『論衡』(巻四)によれば、「禹葬會稽、鳥為之田。蓋以聖コ所致、天使鳥獸報祐之也」とあり、つまり夏王朝を創った禹が亡くなって会稽山に葬られたとき、天はその聖徳を嘉みし、鳥を遣わして田を耕させたという。

中国の文献、たとえば『越絶書』と『論衡』はこの故事をしばしば「鳥田」と約して称しているが、それは「鳥の田」という意味ではなく、「鳥が田を耕す」と理解すべきことは、『墨子』(佚文)の「禹葬於会稽、鳥為之耘」、『呉越春秋』(無余外伝)の「天美禹コ、而労其功、使百鳥還為民田」などによっても裏書きされる。

鳥が人力のかわりに田を耕すことは後世の伝承にすぎないが、しかし原始農業のころ、鳥は稲作民によってありがたい存在に違いない。禹が葬られた会稽山は今の紹興にあり、そこに「大禹陵」と呼ばれる墓が現存している。『論衡』はさらに「会稽衆鳥所居」といい、「鳥自食苹」とも伝えている。「苹」は「草」の意味で、『水経注』(四十)は「鳥為之耘、春拔草根、秋啄其穢」と説明している。

 このように、鳥は稲の種を運び、土を柔らかくし、害虫や雑草を除去してくれることで、稲作民から崇拝され、さらに鳳凰信仰と発展し、同じく農耕から生まれた太陽信仰に融合していく。鳳凰信仰と太陽信仰との結合は、南方の稲作民において、独自な宗教世界あるいは宇宙像がついに体系をととのえたことを物語る。鳳凰族の誕生である。


三、苗族と越族と長江文明


第二章「鳳凰と太陽」において、著者は鳳凰信仰の源流をたどってのち、中国西南部にひろく分布している苗族を調査した成果を披露し、ついでに長江文明を創った栄冠を苗族に贈ったのである。

苗族は中国に五十六ある民族の一つであり、人口は一九九〇年の調査によれば、七三九万に達して四番目である。その半数は貴州省に集中し、その他は雲南・湖南・広西・四川・湖北・海南の六省に散在している。

著者はおよそ十年間にわたって湖南省・貴州省・雲南省・四川省・湖北省の各地をかけめぐり、古代の遺跡と苗族の生態を綿密に調査しつづけた。日本人として苗族の調査をはじめて行なったのは、鳥居龍蔵博士である。博士は台湾の生番族の大陸渡来説を提唱し、生番族と類似点の多い苗族の調査を手がけたのである。そして、著者の苗族調査は明らかに鳥居博士の先駆的な仕事を意識したものである。

著者は「鳥居との間に不思議な縁を感じることがある」と述べ、鳥居博士の「私は純粋な考古学者ではなく、先史考古学者である。先史考古学は自然科学に属する」との言葉を引用して、オリジナルな環境考古学も「自然科学の立場から人文社会科学を総合」(P.75)する目標をかかげていると宣言する。

その通り、本書に披露された調査結果は、考古学のデータに民俗学の資料を重ねたものといえる。つまり、湖南省の城頭山遺跡から出土した木材の分析で、この六千年前の古代都市を築くときに、周辺から伐採したフウの木(中国名は楓香樹)を多用したことが判明、つづいて広西省にある苗族の村を踏査した結果、苗族の楓香樹信仰をつきとめ、台湾の生番族と大陸の苗族が同族であろうという鳥居博士の仮説を立証し、さらに弥生時代の倭人のルーツも苗族にあったのではないかと推測する。

「その長江文明の担い手は、苗族であり、苗族を含む長江流域の人々が、長江文明の崩壊とともに台湾や日本列島へと移動する大民族移動があった可能性が高くなってきたのである。」(P.75)

日本人にとって、苗族の村には弥生時代を彷彿させる風景は少なくはない。苗族の村を訪ねたときの第一印象について「一瞬、弥生の村に迷い込んだのかと思った。高床式の倉庫が立ち並ぶ。倉庫にあがる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じだ」(P.77)と心境を語っている。

もっとも著者の視線を釘づけにしたのは、村の要所に立てられた蘆笙柱である。蘆笙柱とは苗族の生命世界の根幹をつかさどる宇宙樹であり、フウの木で作られる。その先端には鳥または太陽を象徴する瓢箪などがつけられている。ここに稲作民の古代信仰とみなされる鳥と太陽のセットが出てきた。

さらに著者の目をひくのは、きまって蘆笙柱の下に置かれていた水牛の角である。苗族では十三年ごとに祖先の霊を祭る牯葬節を催し、そのときに百頭以上の水牛が犠牲になるという。苗族の多く生息している山間部では水牛を飼育しにくい。したがって、水牛は祭りの犠牲に供えるために飼われている場合が多い。これに対して、「苗族がかつて水牛の生育に適した平野部の低湿地地帯で生活していたことの名残り」(P.80)との解釈は妥当であろう。鳥と太陽にくわえて稲作農業に重要な役割を果たす水牛も登場してきた。

著者の目線はまた祭りそのものにも向けている。一万人を超す群衆は一つの村に集まり、若い男性の吹く蘆笙(楽器)の音色にあわせて、「百鳥衣」と呼ばれる衣装を身にまとった女性が蘆笙柱のまわりを踊りながら回る。この百鳥衣はすそに鳥の羽が一面に縫いつけてあることから名づけられ、その由来は「昔、苗族に稲穂をくわえて運んでくれたのが鳥だから、その鳥に感謝するためだ」(P.82)そうである。これは越人にまつわる「鳥田」伝承の類話ではないか。

ここに至って、著者の主張つまり苗族の原郷は長江流域にあり、六千年前に長江文明を創りあげながら、龍族の南下によって南へ追いはらわれたとの仮説に、思わず同調したくなる。

しかし、右の仮説を立証するためには、いくつかの疑問をクリアしなければならない。一つは苗族の起源であり、もう一つは越族との関係である。

まずは苗族の起源について、著者はその先祖を三苗とみなし、古くから洞庭湖周辺の江漢平原に居住していたが、約四千年前に「家畜の民」こと龍族の南下によって貴州省や雲南省などの山岳地帯へ追放され、南蛮へと落ちのびたと論じる。

中国における最近の研究を調べると、苗族の先祖を蚩尤とするのが、ほぼ通説となっている。『山海経』(大荒南経)には「楓木、蚩尤桎梏所棄、是為楓木」とあり、楓木すなわち楓香木は蚩尤の化身である。それは苗族の楓香木信仰の原点に違いない。

蚩尤の率いる九黎族はもと黄河の中下流域に分布し、東方の強族として勢力を張った。五千年前に西の黄帝族と拮抗して敗れ、四千年ほど前に淮河・長江流域にまで逃れ、ここで三苗族として再起したが、秦の始皇帝による統一戦争によってさらに南遷し、ついに中原に鹿を逐う力を失ったのである。

右のごとく五千年前には、苗族の先祖は北方の東部に興り、本書の想定した稲作・漁労民ではなく、また畑作・牧畜民というよりも、畑作をいとなむ農耕民である。それは蚩尤についての文献記録とも合致する。

『龍魚河図』に登場してくる蚩尤は「獣身人語、銅頭鉄額」とあり、また『述異記』は蚩尤の姿を「黾足蛇首」あるいは「人身牛蹄」と記している。「黾」とは蛙の一種である。蚩尤は金属技術を持つ農耕民であるため、牧畜民の黄帝は勝てず、そこで「人首鳥形」の女性から『玄女兵法』を授けられ、ようやく勝利を収めたと『黄帝玄女戦法』が伝える。『山海経』(大荒北経)によれば、蚩尤は風雨を起こして黄帝軍を苦しめたとあり、『春秋繁露』(求雨)には「夏求雨、其神蚩尤」と記され、明らかに農耕民の首領である。

次に苗族と越族の関係について考えてみよう。著者は六千年前に苗族が長江文明を誕生させたと主張しているが、そのとき苗族の先祖は黄河中下流域に生息していたし、五千年前までは長江より北に活躍していたから、長江流域の先住民ではなかったことは明らかである。

一方、越人の先祖とみなされる七千年前の河姆渡人、五千年前の良渚人は稲作をいとなみ、長江下流域において華麗な呉越文明を創りあげたのである。黄帝側に協力して「黾足蛇首」の蚩尤を退治した「人首鳥形」の玄女は、鳥と太陽を信仰する越人の象徴であるかもしれない。三苗は牧畜民に圧迫され、黄河流域から南下し、長江流域の民族と交流を持ったに違いないが、長江文明の創造主ではない。

要するに、第二章後半部の論述は、実地調査を行なった地域の見聞に頼りすぎ、多民族の衝突と融合をくりかえした中国文明史の全体像への目配りは十分とはいえない。日本との関係を苗族に絞りすぎたため、越人と倭人の関連を考察する第四章「稲作・漁労文明の系譜」とも齟齬してしまう恐れがある。


四、鳥族と蛇族と弥生人

第三章「北の龍・南の鳳凰」では、いよいよ日本との関連に考察の重点を移すようになる。まず本章の前提となる論点を整理すると、北方に興った龍族は五千年前から南下し、四千年前に長江文明がその圧力によって衰退し、三千年前には三苗と呼ばれる太陽族・鳥族・蛇族が長江流域を追われて西南部の山岳地帯へ逃れる。

「かくして太陽族・鳥族・蛇族の苗族たちは敗れ、雲南省や貴州省の山岳地帯へとおちのびていく。その一派が海上難民として日本列島にも到達し、太陽信仰、鳥信仰をもたらしたのである。」(P.105)

三苗は龍族との抗争に負けてしまい、一部は陸路から南方へ逃れて苗族となり、一部は海路から日本へ渡って倭人となったという図式は、簡単明瞭ではあるが、にわかに賛同できない点が多々ある。

前にもふれたが、苗族の先祖は黄河流域に居住していた北方東部の農耕民であり、蚩尤の伝承にも象徴されているように、蛇をはじめ牛や蛙などを崇拝していた。つまり、苗族の先祖は蛇族であり、黄帝と手を結んだ鳥族とは仲が悪かったらしい。

中国の統一はまず北方における東西の折衝から始まり、戦争に勝った西の牧畜民は蛇族をも受け入れて龍族として生まれ変わったと考えられる。『爾雅翼』に「龍の角は鹿、頭は駱駝、眼は鬼、うなじは蛇、腹は蛤、鱗は魚、爪は鷹、掌は虎、耳は牛」とあるのは、まさに新生の龍族の姿である。

 龍族の支配に服従しない蛇族は長江中流域にまで南下し、そこの漁民と融合して伏羲と女媧の創世神話を生みだしたのであろう。鱗身の伏羲と蛇体の女媧は兄妹であるが、二人が結婚して人類万物を創ったという。伏羲の出身は河南省とも江蘇省とも伝えられ、南北融合を反映した神話であると見てよかろう。

伏羲と女媧の神話は「黾足蛇首」の蚩尤と重なる部分が見てとれ、苗族はもとより蛇族だった証拠になる。対して、約四千年前に長江下流域を舞台に活躍した禹は「鳥田」伝説に示されるように、鳥信仰を持つ稲作民である。それは七千年前の河姆渡遺跡、五千年前の良渚遺跡によって証明されている。

長江流域において、蛇を崇拝する畑作民の苗族と鳥を崇拝する稲作民の越人は互いに多くの交流を持っていたことと推察される。今の苗族が持っている楓香樹信仰と牛信仰は古来のものであるのに対して、鳥信仰はおそらく稲作をいとなむ越人から受けた影響によるものと推察される。

著者は日本列島にも渡ったであろう太陽族も鳥族も蛇族もすべて「苗族たち」としているが、苗族と信仰も生業も民族も異なる江南の鳥族を視野に納めるべきところであろう。

第三章では苗族と倭人の蛇信仰に多くの紙幅を割いている。雲南省昆明市の滇池周辺に、およそ二千四百年前から、弥生時代とほぼ同じころ、滇王国と呼ばれる王国が繁栄していた。そこの出土品には蛇や蛙それに女性などの造形が際立っており、強烈な蛇信仰と女性信仰を認めることができる。

著者がいう、「女性中心の母権制の社会で蛇信仰を持った社会は、人間を大蛇の犠牲にするという戦慄すべき風習が存在した。女王は同時に蛇巫女であったのであろう」(P.122)と。そして、『古事記』などに語られたヤマタノオロチ退治の話に言及して、「日本ではこのような大蛇はいない。おそらく日本の神話に語られるヤマタノオロチの人身供養の物語などは、こうした雲南省などの長江流域の物語にその起源がもとめられるのであろう」(P.122)と述べる。

このように、著者はつねに日本文化または日本民族の起源を探察する視線を雲南省あたりの奥地に向けている。大胆にも以下のような発言もされている。

「日本の弥生時代の世界史的な位置づけは、同じく漢民族の周辺に位置した雲南省などとの比較の中で、より明らかになってくるのではあるまいか。雲南省では漢民族の国々とは異なり、長らく母権制が維持されていた。日本の弥生時代もまた漢民族からみれば滇王国と同じ少数民族の稲作農耕社会であったとみなされる。」(P.126)

紀元後百年ごろ、滇王国は突然に衰亡する。著者は自然科学者の眼目をもって、その原因を気候の悪化に求める。その影響によって、民族移動が盛んに行なわれ、既成秩序を脅かす新たな不安要素となり、東アジア全域に大動乱を誘発し、滇王国の衰亡から倭国の大乱までは連鎖的に起こった。

これらの政局の激変によって、各地の政治地図が大きく塗り替えられ、漢民族の立てた漢王朝は東アジアに君臨するようになった。漢民族の勢力がいちじるしく伸張しているなかで、著者は滇王国と日本の弥生文化だけがその波及を逃れて、「長江文明の伝統をもっとも色濃く受け継いでいる」(P.132)と断言する。

北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁労民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこで滇王国を作った。同じように長江下流域に生活し、良渚文化などの長江文明を発展させた稲作・漁労民の一派は、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。滇文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。

右は第三章の到達した結論である。この雄大な文明論は、著者の光り輝く知見をキラ星のごとくちりばめ、また自然科学者ならではの的確なデータをフルに活用しており、読者の眼前に斬新な世界を広げてくれる。

ただし、この結論では、著者の雲南省への愛着が隠すことなく現わされ、あたかも滇王国を作ったのも長江下流域の稲作民も台湾へわたった生番族も弥生文化を生み出した倭人も、長江の中・上流域を追われた苗族の一派だったかのような印象を読者に与えてしまう。


五、羽人と越人と征服王朝

本書のクライマックスは、なんといってもこの第四章「稲作・漁労文明の系譜」にほかならない。佐々木高明氏の『照葉林文化の道』(NHKブックス)にちなんで、著者は北方のナラ林文化を龍族、南方の照葉林文化を蛇族にあてて、次のように述べる。

中国大陸では北方のナラ林帯の龍族が、南方の照葉林帯の太陽族・鳳凰族・蛇族を駆逐した。そして中国大陸で龍族に追われた一派が、ボートピープルとなって稲作とともに鳥と深く関わる太陽信仰を中心とする神話体系を日本にもたらし、弥生時代を開幕する原動力となった。

周知のとおり、日本神話には天津神と国津神という系統の異なった神々が登場している。著者は国津神を縄文人、天津神を渡来人とみなし、国津神から天津神への国譲りが平和的に行なわれたと見る。つまり、弥生文化を主導した王権は長江文明を持った稲作・漁労民であり、これを「稲作・漁労民南方征服王朝説」と名づける。

そもそもこの新説の発端は、江上波夫氏の唱える「騎馬民族征服王朝説」へ反省にあった。つまり、「日本人の伝統的な習俗や世界観は、かならずしも騎馬民族征服王朝説を支持しなかった」こと、「日本神話の故郷がなぜ南九州にあるのか」との疑問から、著者は長年の中国調査の成果を生かして、日本神話の見直しに踏み切ったようだ。

考えてみれば、もし朝鮮半島を経由して騎馬民族が征服王朝を作ったとすれば、著者のいうように「天皇のルーツを誇る日本神話の故郷は、北九州にあるのが自然である」(P.138)。しかし、神話の舞台だった高千穂の峰は南九州にあり、天皇の高祖と崇められるニニギノミコトも出雲国を譲られて南九州から上陸するのである。

長江文明の視点から日本神話を見直してみると、驚くほど多くの共通点に遭遇する。たとえば、葦原中国の保食神が死ぬと、頂が牛馬となり、顱の上からは粟、眉の上からは繭、眼の中からは稗、腹の中からは稻、女陰からは麦と豆がそれぞれ生まれ、それを入手したアマテラスは大いに喜び、「粟稗麦豆を以ては、陸田種子とす。稻を以ては水田種子と」して、高天原に稲作と蚕桑を始めたという。(『日本書紀』)

これは稲作民の神話そのものであり、、しかも蚕桑を兼業とする長江下流域の稲作民の神話を想起させる。さらに日本神話のなかに鳥の存在が大きいことも稲作民渡来説を補強する。

神武天皇が熊野から奈良盆地へ向かうときに道先案内をしたのはヤタガラスであり、大国主が出雲国をゆずるときに天鳥船の供給を約束された。そして、弥生遺跡の出土品に鳥の造形が多いことは多言を要しまい。

鳥信仰と関連するものに、羽人の存在も無視できない。岐阜県の荒尾南遺跡、鳥取県の淀江町角田遺跡、高槻市の新池遺跡、奈良県の東殿塚などから、頭上に羽を挿した人々が船を操っている場面を描いた弥生時代の出土品が報告されている。それらと類似したものは雲南省の石寨山遺跡からも見つかり、中国の研究者はそれを「羽人」と呼んでいる。羽人の操る船こそ天鳥船の原型ではなかろうか。

稲作民にとって、鳥信仰はあくまでも太陽信仰の一部である。それも日本神話に反映されている。アマテラスは太陽の化身であり、天皇家の後継者は「日子」と称される。太陽信仰は世界各地に見られるが、ギリシア神話のアポロのように男神が普通であって、アマテラスのような女神はめずらしい。長江下流域の越人地域には、太陽神の性別を中原の男神と違って、女性とする伝承は少なくない。

このように、日本神話を検討した結果、雲南省よりも江南の沿岸地帯の伝承と実情に多くの類似点を持っていることがわかる。著者もこの点を汲み取って「羽人は越人であった」(P.150)と認め、そしてニニギノミコトの来日径路については

「長江下流域から、船で東シナ海に出ると、対馬暖流に乗って真っ先につくところが、鹿児島の南端なのである。さらに、そこから対馬暖流が行きつくところが、出雲でありその先が富士の越の国なのだ。海流に乗れば、漂着する場所が南九州である。」(P.148)

と述べ、「富士を中心とする北陸三県の越の国の起源も、こうした長江下流域にもとめられる」(P.150)とも付け加えている。江南の越人は同じ地域にすむ呉人よりも航海技術に長じており、『淮南子』(斉俗訓)に「胡人は馬に便れ、越人は舟に便る」とあり、『越絶書』(記地伝)にも「(越人は)船を以って車と為し、楫を以って馬と為す」と見える。彼らはいざという時に、東シナ海を横切る航海技術を十分に持っていると考えられよう。


六、呉人と越人の海外移住

考古学の発掘資料を多用し、自然科学者の視点を生かしたのは、本書の特徴であり、意表をつく魅力でもある。ただし、三千五百年前には、日本がまだ原始社会の縄文時代にとどまっていたころ、中国ではすでに文字を使う歴史時代に突入している。したがって、日本神話の検証にも、考古学資料の裏づけにも中国の文献資料をより積極的に用いれば、結論の妥当性が一段と高まるのではないか。

たとえば、『通典』にひかれた『魏略』に「倭人自謂太伯之後」とあり、『資治通鑑』にも「今日本又云呉太伯之後、蓋呉亡、其支庶入海為倭」と記されている。呉国は太伯(泰伯とも)を始祖と崇め、紀元前四七三年、越国に滅ぼされてから、その一派が日本へ渡ったと考えられる。三角縁神獣鏡をめぐっては論争がまだ続きそうだが、王仲殊氏の主張する呉人移民の製作説はかなり有力であろう。また『漢書』(地理志・呉地)に出てくる東鯷人も日本へ移住した呉人だった可能性は指摘されている。日本との関連において、第二章と第三章は苗族のみに照準をあて、第四章は越人を引き立てすぎるといった印象がある。それはおそらく著者の調査した地域との関係があろうが、文献資料を補助的に使えば、こうした偏りをいくらか回避できたかもしれない。

苗族を長江文明の創造者と強調するためか、長江流域に分布していた太陽・蛇・鳥の諸信仰を持ち合わせる南方民族として扱うところも気になる。苗族の先祖は北方民族であり、その首領蚩尤は黄河流域において、東方の農耕民を率いて西方牧畜民の黄帝軍と戦を重ねて中原を争った。私見では、蛇を崇拝する苗族は基本的には龍族の根幹をなし、牧畜民との戦争に敗れて、農耕技術や金属技術とともに蛇信仰も中原を制圧した西方民族に吸収され、龍族という混合民族が生まれたと考えたい。長江流域では、西方部族と東方部族は楚と越のようにしばしば紛争を引き起こし、信仰や生業などでも相違が見られる。要するに、中国の文明発展史を見るかぎり、黄河と淮河それに長江に阻まれて、南北の交流よりも東西の交流がきわめて活発であった。この意味で、本書は東西関係への目配りはいささか不足している気がする。

日本における龍の出現を弥生後期か古墳時代とし、その影響は朝鮮半島から受けているとの指摘にも賛同しがたい。蛇崇拝は黄河下流域の苗族にあり、また長江下流域の越人にも行なわれていたようだ。水または海との関連で、東方の夷族に共有されていると推定される。鳥から進化した朱雀が南方の守護神とされるのと同じように、蛇から進化した青龍は東方の守護神である。したがって、日本へわたった越人が龍信仰を弥生文化にもたらした可能性もある。『魏志』(倭人伝)をひもとくと、「(越人は)断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人も好んで沈没して魚蛤を捕る。文身して、亦以って大魚と水禽を厭う」とあり、蛟龍信仰が九州沿海の漁民に広がっていた証拠となろう。

http://www.geocities.jp/jiangnankejp03/lunwen/jp_lunwen06.htm

日本のルーツ? 長江文明


漢民族の黄河文明より千年以上も前に栄えていた長江文明こそ、日本人のルーツかも知れない。 H15.08.03


■1.再生と循環の長江文明■


 6300年前、中国の長江(揚子江)流域に巨大文明が誕生していた事が近年の発掘調査で明らかになっている。メソポタミア文明やエジプト文明と同時期かさらに古く、黄河文明よりも千年以上も早い。長江の水の循環系を利用して稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であり、自然と共生する「再生と循環の文明」であった。

 4200年前に起こった気候の寒冷化によって、漢民族のルーツにつながる北方の民が南下した。彼らは畑作牧畜を生業とし、自然を切り開く「力と闘争の文明」の民であった。彼らはその武力で長江文明の民を雲南省や貴州省の山岳地帯に追いやった。 これが今日の苗(ミヤオ)族などの少数民族である。

 別の一派はボートピープルとなって、一部は台湾の原住民となり、別の一派は日本に漂着して、稲作農耕の弥生時代をもたらし、大和朝廷を開いた、、、

 日本人の起源に関するこうした壮大な仮説が、考古学や人類学の成果をもとに学問的に検証されつつある。これが完全に立証されれば、日本人のアイデンティティに劇的な影響を与えるだろう。今回はこの仮説に迫ってみよう。

■2.森と川と水田と■


 1996年、国際日本文化センター教授・安田喜憲氏は3年もの交渉期間を経て、長江流域に関する日中共同の発掘調査にこぎつけた。対象としたのは長江の支流・岷江流域、四川省成都市郊外の龍馬古城宝トン(土へんに敦)遺跡である。測量してみると、この遺跡は長辺1100メートル、短辺600メートル、高さ7〜8メートルの長方形の城壁に守られた巨大都市だった。

 城壁の断面から採取した炭片を放射性炭素による年代測定法で調べてみると、4500年前のものであった。エジプトで古王国が誕生し、インダス川流域に都市国家が出現したのと同じ時期だった。

 1998年からは湖南省の城頭山遺跡の学術調査が開始された。 直径360メートル、高さ最大5メートルのほぼ正円の城壁に囲まれた城塞都市で、周囲は環濠に囲まれていた。城壁の最古の部分は今から約6300年前に築造されたことが判明した。また約6500年前のものと思われる世界最古の水田も発見され、豊作を祈る農耕儀礼の祭壇と見なされる楕円形の土壇も見つかった。

 さらに出土した花粉の分析など、環境考古学的調査を行うと、これらの都市が栄えた時代には、常緑広葉樹の深い森であることがわかった。この点はメソポタミア、エジプト、インダス、 黄河の各文明が乾燥地帯を流れる大河の流域に発生したのとは根本的に異なっていた。


 深い森と豊かな川と青々とした水田と、、、長江文明の民が暮らしていた風景は、城壁さえのぞけば、日本の昔ながらのなしかしい風景とそっくりである。


■3.平等な稲作共同体■


 長江文明が稲作農耕をしていたのに対し、他の四大文明が畑作農耕をしていたというのも、決定的な違いである。小麦や大麦は、極端に言えば、秋口に畑に種をまいておけば、あとはたいした手間をかけずに育っていく。そのような単純労働は奴隷に任され、支配者は都市に住んで、農奴の管理をするという階級分化が進みやすい。都市は交易と消費の中心となり、富と武力を蓄える役割を持つ。

 それに対して稲作は複雑で手間がかかる。苗代をつくってイネを育て、水田に植え替えをする。秋に実るまでに水田の水を管理し、田の草も取らねばならない。高度な技術と熟練を要するので、奴隷に任せてはおけず、共同体の中での助け合いを必要とする。そこでの都市は水をコントロールする灌漑のセンターとして成立し、さらに豊穣を祈る祭祀が行われる場所として発展していく。おそらく祭祀を執り行う者がリーダーとなったであろうが、その下で身分の分化は畑作農耕社会ほどには進まなかったであろう。


■4.太陽と鳥の信仰■


 7600年前の浙江省河姆渡遺跡からは、二羽の鳥が五重の円として描かれた太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙製品が出土した。8000年前の湖南省高廟遺跡からは鳥と太陽が描かれた土器が多数出土している。長江文明においては、太陽と鳥が信仰されていたのである。

 種籾をまき、苗床を作り、田植えを行い、刈り取りをする、という季節の移ろいにあわせて、複雑な農作業をしなければならない稲作農耕民にとって、太陽の運行は時を図る基準であった。同時に太陽はイネを育てる恵みの母でもあった。太陽信仰が生まれたのも当然であろう。

 その聖なる太陽を運んでくれるのが鳥であった。太陽は朝に生まれて、夕方に没し、翌朝に再び蘇る。太陽の永遠の再生と循環を手助けするものこそ鳥なのである。

 太陽信仰と鳥信仰は日本神話でも見られる。まず皇室の祖神である天照大神は日の神、すなわち太陽神そのものであった。 神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったのが天から下された「八咫烏(やたがらす)」という大烏であった。

 景行天皇の皇子で九州の熊襲(くまそ)を征し、東国の蝦夷を鎮定した日本武尊は、帰途、伊勢の能褒野(のぼの)で没したが、死後、八尋白智鳥(やひろしろちどり、大きな白鳥)と化して天のかなたへ飛び去ったという。さらに伊勢神宮、熱田神宮など多くの神社では、「神鶏」が日の出を告げる神の使いとして大切にされている。


■5.鳥と龍との戦い■


 約4200年前に気候の寒冷化・乾燥化が起こり、黄河流域の民が南下して長江流域に押し寄せた。司馬遷の「史記」には、漢民族の最古の王朝・夏の堯(ぎょう)・瞬(しゅん)・禹(う)という三代の王が、中原(黄河流域)から江漢平野(長江と漢水が合流する巨大な湿地帯)に進出し、そこで三苗(さんびょう)と戦い、これを攻略したという記事がある。三苗とは今日の苗族の先祖で、長江文明を担った民であると見られる。

 一方、苗族の伝説にも祖先が黄帝の子孫と戦ったという話がある。黄帝とは漢民族の伝説上の帝王である。苗族の祖先は黄帝の子孫と戦って、敗れ、首をはねられたという。

 長江文明の民が逃げ込んだ雲南省では龍を食べる鳥を守護神とする伝説がある。龍は畑作牧畜の漢民族のシンボルであり、鳥と龍との戦いとは、長江文明と漢民族との争いを暗示していると考えられる。

 これは筆者の想像だが、出雲神話に出てくる八岐大蛇(やまたのおろち)も龍なのかもしれない。この頭が8つに分かれた大蛇を天照大神の弟・戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治して、人身御供となりかけていた稲田姫(くしなだひめ)を救い、二人は結ばれる、という物語である。大蛇の体内から出てきた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、後に皇位を象徴する三種の神器の一つとなった。八岐大蛇はこの世の悪の象徴であり、草薙剣はその悪と戦う勇気を表しているとされている。


■6.収奪と侵略の黄河文明に対抗できなかった長江文明■


 馬に乗り、青銅の武器を持って南下してきた畑作牧畜の民にとって、長江文明の民は敵ではなかった。彼らは精巧な玉器を作る高度な技術は持っていたが、金属製の武器は持っていなかったからである。

 金属器は農耕でも使われたが、それ以上に人を殺す武器として発展した。長江文明より遅れて誕生した黄河文明は、金属器を使い始めてから急速に勢力を広げていった。畑作牧畜で階級分化した社会では、支配者階級が金属器による武力をもって下層階級を支配し、また近隣地域を侵略して支配を広げていく。

収奪と侵略の中で、金属器を作る技術はさらに急速に発展し普及したのであろう。また階級分化した社会であれば、大量の奴隷を兵力として動員する事も容易であったろう。

 それに対し、長江の稲作漁撈民は自然の恵みの中で争いを好まない文明を築いていた。インダス文明がまだ細石器を用いていた頃、彼らはすでに精巧な玉器を作る技術を持っていた。しかし平和で豊かな社会の中では、金属器の必要性はあまり感じなかったようだ。また平等な社会では、共同体の中から一時に大量の戦闘員を動員する事にも慣れていなかったと思われる。

 収奪と侵略に長けた北方の民が、馬と金属製武器をもって現れた時、長江の民はとうてい敵し得なかった。平和に慣れた文明が、武力を誇る北方の蛮族に敗れるという図式は、ローマ帝国対ゲルマン民族、さらには後の中華帝国対蒙古・満洲族との戦いにも共通して見られた現象である。


■7.苗族、台湾の先住民、そして弥生時代の日本■


 漢民族の南下によって長江の民は次第に雲南省などの奥地に追いつめられていった。その子孫と見られる苗族は今では中国の少数民族となっているが、その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたような風景だという。倉庫に上がる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じである。かつての水田耕作を山岳地でも続けるために、急勾配の山地に棚田を作っているのも、日本と同様である。

 苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていた。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われている。

 また明治時代に東アジアの人類学調査で先駆的な業績を残した鳥居竜蔵は、実地調査から台湾の先住民族・生番族と雲南省の苗族が同じ祖先を持つ同根の民族であるという仮説を発表している。

 長江文明の民が漢民族に圧迫されて、上流域の民は雲南省などの山岳地帯に逃れて苗族となり、下流域に住む一族は海を渡って台湾や日本に逃れた、とすれば、これらの人類学的発見はすべて合理的に説明しうるのである。


■8.日本列島へ■


 日本書紀では、天照大神の孫にあたる天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原から南九州の高千穂峰に降臨され、そこから住み良い土地を求めて、鹿児島・薩摩半島先端の笠狭崎(かささのみさき)に移り、この地に住んでいた木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)を后とする。

 天孫降臨の場所がなぜ日本列島の辺境の南九州であるのか、この質問に真剣に答えようとした研究者は少なかった。どうせ架空の神話だと一蹴されてきたからである。しかしどうにでも創作しうる架空の神話なら、たとえば富士山にでも降臨したとすれば、皇室の権威をもっと高めることができたろう。

 笠狭崎は中国から海を渡って日本列島にやってくる時に漂着する場所として知られている。天平勝宝5(753)年に鑑真が長江を下って、沖縄を経て漂着したのは、笠沙から車で15分ほどの距離にある坊津町秋目浦であった。

 漢民族に追われた長江下流の民の一部は、船で大洋に乗り出し、黒潮に乗って日本列島の最南端、笠狭崎に漂着したのであろう。そこで日本の先住民と宥和した平和な生活を始めた。その笠狭崎の地の記憶は、日本書紀が編纂された時まで強く残っていたのであろう。

 鳥取県の角田遺跡は弥生時代中期のものであるが、羽根飾りをつけた数人の漕ぎ手が乗り込んだ船の絵を描いた土器が出土している。それとそっくりの絵が描かれた青銅器が、同時代の雲南省の遺跡から出土している。さらに弥生時代後期の岐阜県荒尾南遺跡から出土した土器には、百人近い人が乗れる大きな船が描かれている。長江で育った民は、すでに高度な造船と航海の技術を駆使して、日本近海まで渡来していたのであろう。

瓊瓊杵尊の曾孫にあたる神武天皇も、船団を組んで瀬戸内海を渡り、浪速国に上陸されたのである。


■9.幸福なる邂逅■


 当時の日本列島には縄文文明が栄えていた。たとえば青森県の三内丸山遺跡は約5500年前から1500年間栄えた巨大集落跡で、高さ10m以上、長さ最大32mもの巨大木造建築が整然と並び、近くには人工的に栽培されたクリ林が生い茂り、また新潟から日本海を越えて取り寄せたヒスイに穴をあけて、首飾りを作っていた。


 日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生を大切にする文明を持っていた。そこにやってきた長江の民も、稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であった。両者ともに自然との共生を原則とする「再生と循環の文明」であった。

 この両者の出会いは「幸福な邂逅」と言うべきだろう。瓊瓊杵尊が木花之開耶姫を后とされたという事がそれを象徴している。神武天皇が九州から大和の地に移られた時も部族単位の抵抗こそあったが、漢族と苗族の間にあったような異民族間の血で血を洗う抗争という様相は見られない。


 人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか。


 神武天皇が即位された時のみことのりである。この平和な宣言こそ、わが国の国家として始まりであった。わが国は縄文文明と長江文明という二つの「再生と循環の文明」の「幸福な邂逅」から生まれたと言えるかもしれない。

 以上は長江文明の発見から生まれた壮大な仮説であり、なお考古学的、人類学的な立証が進められつつある。かつて古代ギリシャの詩人ホメロスの叙事詩に出てくるトロイアの都は伝説上の存在と考えられていたが、子供の時からその実在を信じていたシュリーマンによって遺跡が発掘され、高度な文明をもって実在したことが証明された。長江文明に関する研究が進展して、日本神話の真実性を立証する日も近いかもしれない。(文責:伊勢雅臣)
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog304.html

16. 中川隆[-13735] koaQ7Jey 2018年11月30日 13:39:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460] 報告


ros********さん 2012/11/13 23:45:16

オオナムチについて。

福岡県朝倉市にオオナムチ神社という神社があります。

質問します。

@このオオナムチ神社は、日本で最も古い神社だと聞きましたが、これは本当ですか。
逆に言えば、日本で最も古い神社は、どこなのでしょうか。

Aオオナムチ⇒オオクニヌシノミコト
として同一視されているそうですが、オオナムチ自体は、何の宗教のどんな神なのでしょうか。

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aki********さん 2012/11/18 10:25:00

日本最古の神社は、縄文時代の日本に建っていた、という説を採らせて頂きます。天津神が渡来する前から、縄文時代の日本にも神社があった、一万年の歴史を持つ、と思います。

伊勢神宮の内宮などに、心の御柱と呼ばれるものが建っています。これに注目します。廣田神社に天照大神荒魂、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とあります。撞賢木厳之御魂は、撞=依り憑く、賢木=御神木、厳之御魂=男神の魂、です。その後に続くのは、おそらくこの神を奉斎した巫女の名前。御神木に依り憑く男神の魂を奉斎する巫女を神格化した神、と読めます。男神が依り憑く御神木こそが、伊勢神宮の内宮にある心の御柱と考えます。

神は一柱二柱と数えます。これは、神が宿る御神体の御柱を数えるところから来たもの。三内丸山遺跡や諏訪の祭りを観察すれば、神が依り憑く巨大な柱の存在が明確になってきます。三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期末葉です。数千年から一万年前まで遡れるかもしれません。

猿の子供のメスは、木の枝を赤ん坊に見立てて、お人形遊びをして、母親の心を学んでいきます。宗教を生みだすアニミズムの発想の原型は、母親の尻尾を獲物に見立てて追い回して遊ぶ、子猫にも認められるそうです。哺乳類がもともとアニミズム的な発想をする習性を持つ動物だとすれば、人類はまだ猿だった時代から、原始宗教を持っていた可能性があります。猿の時代から依り代として使ってきた木の棒を巨大化して大地に建てれば御柱です。これが神社の原型です。扶桑信仰の扶桑は、日出国の日本に縄文時代から建っていた。これは、間違いないと思います。それもおそらく最初は蛇と関わりが深い蒲葵だった。しかし、現在の神社のような建築物はまだなかった、御神体の柱だけだった可能性もあります。

オオナムチの蛇神のほうですが、縄文の模様を観察していると、縄模様に蛇の頭が付いたものが散見されます。たしかに蛇は土坑祭祀と関連があるのかもしれません。土坑に見立てた縄文の壺の穴の周囲にも蛇がトグロを巻いて守っていたのだと思います。壺に入れたものに腐敗などの邪気が寄り付かないように。縄文人達が注連縄模様を描いたものを、考古学者が縄文と名付けたのが真相と思います。

壺の中で蛇を飼う昔話は、常陸国風土記のヌカヒメ伝承があります。蛇を飼育する容器が神聖視されて祀られていたことが分かる伝承です。

鏡とは、カカメが転化したもので、カカ=蛇、メ=目で、本来は蛇目のことだったそうです。鏡餅は、カガ=蛇、ミ=身で、蛇がトグロを巻いた姿に見立てて飾ってあるものと考えられます。また神社の御神木とされるナギ(梛)の木は、ナギ=蛇の木だったと思われます。

オオナムチは、政争に敗れて出雲に島流しになる前は、縄文として描かれていた時代からの日本の神だった、と思います。日本神道には渡来系の天津神だけでなく、縄文時代からそのまま引き継がれた在来系の国津神の系列があり、オオナムチは後者かと。ただ、大陸の扶余に渡る前の巫女達が、縄文時代の日本に存在した可能性もあり、両系統は同根で、明確な区分はないのかもしれない。すでに日本最古の神社や信仰の姿を示す証拠品は出土しているものの、現代人はその情報をまだ整理しきれていないと考えます。

銅鐸に刻まれた、太陽の三態を表す記号、朝『\』昼『○』夕『/』とか、火起こしの回転運動に由来する、火(日)の神の力を召喚するパワーを表す、左右の連結された渦巻とか、いろんなものが残っているものの、我々はまだその信仰の姿を十分読み解けていません。


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aka********さん 2012/11/18 01:56:35


神道施設の成立過程から順に明らかにしていきましょう。

神道は、八百万の神々を祀っていますから、多くの信仰が習合しています。そのほとんどは自然崇拝と祖霊崇拝です。自然崇拝は霊山や島や磐座や塚や御神木など、自然物が対象(御神体)ですから、本来は建物を建てて祀るものではありませんでした。神社は社(ヤシロ)とも言い、元は屋代です。代(シロ)とは、お祓いして清められた神が降臨する場所のこと。そこに建てられるのが屋代です。古い時代は仮の宮とされ、神事のときだけ存在して、用がなくなれば解体されていました。

対して、祖霊崇拝の場合は、生前の業績を称えて祀るのが基本ですから、生前の住まいである宮を子孫が大切に保存したり、霊廟を建てることもありました。神宮と神社の違いは、神宮は貴人の住まいが原点というところです。一般的に、神社には依り代となる御神体を祀る神棚の類はあっても、神様が寝起きしたり座る場所はありません。しかし、祖霊崇拝の場合は、依り代となる現人神(生き神)の巫女が寝起きしたり座る、神座がなくてはなりません。両者の違いを、皇室関係の神社とそれ以外と解説するケースが目立ちますが、神道施設が生まれた過程から見れば、不自然な俗説です。

神道のルーツは扶余の名前の由来になった扶桑信仰にあります。扶桑とは日が昇る場所に立つ同根二柱の神木の夫婦神のことで、現在はイザナギとイザナミと呼ばれていますね。扶桑信仰を作った人々は、後の狛犬のモデルになった狼犬を連れて、日本から大陸に渡っています。おそらく縄文時代の鬼界カルデラの大噴火のときに、噴煙による日照条件の悪化に伴う食糧危機を避けるため、青森県まで逃げて、そこから海外脱出した人々です。大陸から祖先の国を拝んだのが、扶桑信仰の始まりだったと推測できる神話が、日の巫女の王の家の神庫に残っています。扶桑信仰は今でも、初日の出を拝む大和民族の風習として残っていますね。つまり、神道の朝日を拝む歴史は七千年程度あると考えられます。

その長い歴史から見ると、神社という言葉は、かなり新しい時代に生まれた高句麗語&日本語です。扶余から派生した高句麗も、太陽信仰の国でした。神庫に残る故老の伝承を総合すると、高句麗は日の巫女の王が宮を構えていた五女山の神宮(高天原)の境内都市から生まれているようです。天照大神の原型となった女神は明姫(アカルヒメ)と言い、東明聖王の母とも妹ともされています。夜明けの情景から太陽が昇る→夜明けを神格化した明姫から太陽を神格化した東明聖王が生まれてくる→天照大神から皇統が生まれた、というのが、天津神の一族が日本へと渡来してもたらした、祖霊崇拝の日拝の神事を起点とする太陽信仰の原初の姿です。

高句麗の国教の姿を伝える中国の文献には、国母とその息子の王の二霊廟を祀っているとあります。あるとき高天原に難民が押し寄せて、国難を解決するために、明姫は豊葦原瑞穂の国(日国)への里帰りを託宣しました。渡来後の宮はヒメコソと呼ばれたようです。これを古い朝鮮語で「姫の社」という意味だと指摘する人々がいますが、私達は神宮を指す古い高句麗語と認識しています。つまり、最も古い日本の神道系の建物は、明姫を奉斎する日の巫女達が住まう神宮で、最初の入植地姫島のヒメコソだった、ことになります。

オオナムチは大国主の別名です。出雲の神々は四国に入植した渡来氏族が奉斎していた神々で、畿内に移動して大和朝廷の基盤を作りましたが、政権闘争に敗れて出雲へと島流しになっています。前方後円墳の原型は、近畿地方に出現するより百年古い時代から四国で痕跡が認められます。また出雲の神々の信仰実績は四国から見つかっています。つまり、オオナムチは、明姫の日国への里帰りの託宣に従って、九州から四国にかけて入植した人々が奉斎していた蛇神の名残りです。

蛇信仰は纏向型祭祀(土坑祭祀)や東盟祭用の隧穴に棲む蛇から生じたもので、注連縄は雌雄一対の蛇の交尾を表したシンボルです。大地母神の多産の象徴であるホトを表しているのが隧穴で、トンカラリン遺跡などにも見ることが出来ます。天岩戸伝説も隧穴信仰から派生しています。鏡の光を当てると、天照大神がなんだろうと思って岩戸から出てきたエピソードがあります。これは、日矛鏡で陽光を反射して作った、太陽神の男性のシンボル(日矛)の光で、多産を祈願して大地母神のホトを突く神事が元になっている表現です。箸墓古墳のホトを箸(隧神の男性の象徴の木の棒)で突いたという伝承もこの系統です。天照大神が隧穴(天岩戸)から出たとき、再び入らないようにと注連縄を渡したことからも、隧穴とそこに棲む神遣の蛇への信仰の関係が見て取れますね。隧穴と一対の男神のシンボルとして蛇信仰が考えられることもあり、蛇神のオオナムチも古い隧穴信仰の名残りの一つなのです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1097174915


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aki********さん 2012/10/31 13:54:35

天照大神は女神とされていますが、なぜ伊勢神宮などに男神の装束が奉納されているのですか?


ベストアンサーに選ばれた回答


aka********さん 2012/11/4 08:51:34


日の巫女の王を襲名した斎の巫女としてお答えします。

日本人は初日の出を拝む風習を持っていますが、神道本来の太陽信仰の姿は、為政者の宗教改革によって見えなくなっています。詳細は省きますが、蘇我馬子は天皇暗殺に飽き足らず、皇祖大兄を名乗って皇統に割り込み、没後は天照大神・男神として祀られるように画策しました。皇祖神・蘇我馬子を後世の人々は否定したものの、太陽信仰の姿が定かでなくなってしまい、本来の太陽神もろとも封印される形になったのです。日本の国姓の姫を母系継承する当家や他の幾つかの社家が、より古い時代の太陽信仰の姿を伝承しています。しかし、天皇記や国記が燃やされるなど、焚書が横行したので、神庫と古い書物の存在は秘匿されたのです。

天照大神は、日本の国号と記紀神話が成立したときに創作された新しい神です。より古い時代に「天照国なになに」という名で祀られた天照系の神々がいますが、そのなかに女神が単体で祀られたケースは見当たりません。信仰実績がないのですから、蘇我馬子達の暴挙が否定された後で、記紀神話が創作された時に、新しく設定された皇祖神と分かります。

記紀神話以前の古い国母神は、比売許曽(ひめこそ/姫の社という意味の古い高句麗語)に祀られていた明姫(アカルヒメ)でした。阿加流比売(アカルヒメ)という音写しか一般に知られてませんよね。天照大神・荒魂・瀬織津姫もまた記紀神話から除外されて、神社からもその名を消されていった女神です。隠蔽体質が顕著です。古い日女神達や建国にまつわる神話は、新たな日本国の神話と信仰を確立する妨げになるので、日本書紀に掲載されませんでした。本当の王統の誕生を祝うお祭りは、京都の葵祭です。建国神話はこのお祭りと一対一対応する桃太郎の昔話として知られています。

詳細を省きますが、アカルヒメが新羅から渡来した女神という神話は真に受けないでください。特有の仮託された表現で構成されているものを、矛盾に気付かずに、太陽神と巫女神が夫婦喧嘩したとか、元祖ストーカー王子と解釈するのは間違いです。書き手の地理的感覚や時間軸も混乱しています。阿加流比売を奉斎する巫女集団が大陸の高天原から渡来した時期は、黄巾の乱の後、卑弥呼登場の少し前です。

記紀神話成立以前の本来の太陽信仰を再生するうえで、国外の和人文化の記録が参考になります。
纏向型祭祀(土坑祭祀)と高句麗の東盟祭の類似性が指摘されています。中国大陸東岸の長江文明の稲作が日本まで伝わってきたことから分かるように、東夷とも倭(和)人とも呼ばれた人々の渡来によって、縄文時代は弥生時代に変わっていきました。黄巾の乱で発生した難民の渡来は、弥生時代を古墳時代に変えていきました。山東半島から纏向遺跡に至る東進ルート沿いに、和人文化圏が形成された時代がありました。高句麗地域(渤海湾岸文明)の朝日に対する信仰は東明信仰です。これを漢民族は扶桑信仰として書き残しています。高句麗では国母神とその息子の男王神の二霊廟を祀っているという記述も残ります。

明姫は「日が明ける」という意味を持つ日女神です。夜明けを神格化した女神です。夜明けから生まれてくるのは太陽です。太陽を神格化した男神が東明聖王です。夜明けが産む太陽。明姫が産む東明聖王。皇祖神・天照大神(女神)が産み出した皇統。高句麗の国母神とその息子の男王神に対する信仰とも対応します。

飛鳥と書いても明日香と書いてもアスカと読みます。飛鳥はじつは「日が明ける(新しい)」を意味する古い高句麗語(祝詞の吏読のルーツ)の音写です。朝鮮語でも「日が明ける」と「飛ぶ鳥」は「날 새/ナルセ」で同音です。「明日」は「日が明ける」の漢語表記です。語尾の「香」は「郷」の音写です。つまり飛鳥郷(京)は、国母(皇祖神)とされた日女(姫)神の明姫の名にちなんだ太陽(東明)信仰の王都なのです。

記紀神話は、イザナギとイザナミの男女一対の神による国産みから始まります。これは陰陽思想に基づきます。天照大神も陰陽思想の影響を受けて設定された太陽神です。天上に輝く陽の存在(太陽)は男神で、その光を受けて人の姿を取るとき、陰の存在の女神の姿を取るとされます。ですから、太陽神・天照大神の依り代となる巫(かんなぎ)は、生き神扱いの男装の巫女なのです。

記紀神話のなかで、スサノオは天照大神のことを姉と呼びます。また、スサノオと対峙するとき、女性の髪形を解いて男装する描写があります。人の姿をした天照大神は、記紀神話の伝承でも女神として描かれます。私が天照大神と心身一体の状態になって神座に座るときに着る神服もまた、男装の剛装束です。皇室から伊勢神宮に奉納される神服も男神用です。普通の人が着るには、やや大きめに作られた物が奉納される慣習があるのは、日の巫女の王の一族は体が大きいことが知られてきたからです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1296497722


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aki********さん 2012/11/13 22:28:43

高句麗は朝鮮ですか大陸(中国?)ですか?民族的に文化的に言語的にどうなのか、それぞれの視点からお願いします。

補足
回答ありがとうございます。

高句麗が騎馬民族だったことを示す、文献なり遺跡なりは残っているのでしょうか?

高句麗は農業大国扶余の分国という情報をネットで拾い読みしましたが、これは間違っているでしょうか?


ベストアンサーに選ばれた回答

aka********さん 2012/11/15 08:36:25


高句麗国の神宮(高天原)の日の巫女の王の忌名と姫姓を受け継ぐ、社家の者としてお答えします。

高句麗は扶余と同じツングースで、北から来たと思っている人も多いようですが、じつはスンダランドが消滅したことで、中国大陸東岸を北上した人々の血がかなり入っているようです。言語的に日本語と近いことは数詞の一致などから見て取れます。固有語レベルで共通性がほとんどない現在の朝鮮語と日本語の関係と比べると、大違いです。とはいえ、地理的に隔たった分だけ差異が認められます。文献研究者が吏読と思っている言葉の多くが、じつは高句麗語というケースが多々あります。当家では日の巫女の王の名を襲名する者は高句麗語(文語的)を第一言語として育てられるので、はっきり認識出来るのですが、そうでない一般の日本人は、失われた言語についてほとんど認識出来ないと思います。

縄文人達は、鬼界カルデラの大噴火の災厄から逃れるために、海外脱出しています。疎開先に東北平原の地域を選んだ人々もいたようです。日の昇る方角に二柱の祖先神が立っていると考える、扶桑信仰が誕生しました。扶は寄り添って立つ同根一対の御神木を指す言葉で、扶余の国名になったようです。この二柱の神々は、現在の日本神話ではイザナギ・イザナミと呼ばれていますね。

扶余国は広大な平野に興った国ですが、寒冷化の影響を受けやすい地域です。太陽の力が陰ったのは王の人徳に問題があるからだという噂が広まって、民から責められた出来事を、漢民族が書き留めています。食糧難が発生して南下を余儀なくされた結果、高句麗や百済が派生したと見るべきでしょう。

高句麗は扶余と同じ太陽信仰の国でした。国母神とその息子の男王の二廟を祀っていることを漢民族が記録しています。これは、夜明けが太陽を産む→明姫(アカルヒメ)が東明聖王を産む→天照大神(神功皇后)が皇統を産んだ、という形で、皇室神道へと繋がっています。高句麗国が半農の国だったことは、東盟祭を観察すれば明らかです。隧穴を大地母神のホトに見立てて、隧神の男性のシンボル(箸=丸太の棒)で突いて、翌年の豊穣を祈願するお祭りをしていました。現代の新嘗祭の原型となった、纏向型祭祀(土坑祭祀)と共通します。箸墓古墳の箸でホトを突くという伝承は、墓の主の死因ではなく巫女が主宰した祭祀形態の伝承です。後世の人々が意味を取り違えたのです。隧穴は高句麗式の石組みのトンカラリン遺跡として日本にも残ります。隧神の箸は日矛鏡で反射した陽光(日矛)へと変り、隧穴を照らす形になりました。天岩戸伝説にも見ることが出来ますね。五穀豊穣を祈願する祭祀は農耕文化の象徴です。当家の主食は今もヘンプ(麻の実)の醗酵粥の醍醐です。東明聖王は朱蒙(弓の名手)の異名を持ちますから、半狩猟民族です。当家の者はボーラや印地の技を伝えています。

扶桑信仰は神仙思想と習合して、東夷=倭人=和人の人々の、蓬莱(日本)への東進を促す原動力になりました。和人文化圏が、山東・遼東半島付近から纏向の地まで広がっていたようです。もし東征だったら、男性は移動しても女性の移動は見られない筈です。ところが、九州の弥生の遺跡からは、縄文に見られないミトコンドリアの遺伝子の型、N9aやZが見出されます。今日の日本人と共通性を持ったパターンが、山東半島や遼東半島付近まで分布しています。つまり女性を伴っての移動だったのです。ところが、男性が担うY染色体のO2bのほうは、かつての和人文化圏に沿った分布が見られません。朝鮮半島付近は、後から男性のみの集団が侵入してY染色体を上書きしています。つまり侵略を受けたのですね。

天照大神の原型となった日の巫女の王が、難民達に日国への里帰りの託宣を下して、自ら日本に渡来して大王家(後の天皇家)を産みだした結果、高句麗の精神文化と言葉が日本にもたらされました。飛鳥や大和や息長などは、高句麗語の音写が変化せずに現代まで残ったものです。この時はO3の型を持った人々が大勢含まれていたと思われます。東明聖王が5部族を無血統一した故事に由来する、和を尊ぶ大和民族の精神に導かれた豊葦原瑞穂の国への里帰りの入植だったようです。京都や奈良の湿地帯の干拓事業を行ったので、古くから日本に住んでいた人々の土地を奪ったわけではないようです。平和的な入植だったので、Y染色体のD2遺伝子などが駆逐されずにちゃんと日本には残っていますね。

高句麗は半農半狩猟の民族で、言語や精神文化は日本が受け継いでいます。難民となって移動した人々は、Y遺伝子で見るとO2bやO3のほうが多いようです。多くの高句麗国の人々は大陸に残ったようですね。東進しやすかったのは、高句麗の民よりも半農・半漁労の人々だった、ということでしょう。

当家の神庫に残る故老の伝承を裏付けるものが多く見出せます。それなりに史実を反映していると思われます。

質問した人からのコメント

2012/11/15 09:09:10

高句麗に大和民族の精神的ルーツがあるという姫様のお家の伝承を元にした御説を以前から読ませて頂いてきましたが、遺伝的な痕跡まであったとは驚きです。

東北平原の土地は肥沃で中国最大の食糧生産地ですが、寒冷化が当時の扶余のヘンプの生産にどういう影響を与えたのか詳しく知りたくなってきました。日女神のお家の主食が米でなく麻の実の発酵粥の理由が、なんとなく分かってきました。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1197169726


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ikz********さん 2012/10/19 16:29:16
日ユ同祖論 信憑性はどの程度なのでしょうか。

言語が似ている、歌をヘブライ語にすると意味が通る(君が代、かごめかごめ、 ソーラン節など)という具体的な共通点から、遺伝子が中国韓国人にはないものをもつという根拠不明なものなどが上げられます。

某掲示板では、宗教観が違いすぎる、戦前の白人コンプレックスの日本の学者が作り上げたものだとしているのをみて妙に納得してしまいました。確かにユダヤ教と神道、仏教は違いすぎます。まず一神と多神、偶像崇拝禁止と仏像とで明確です。

ただはっきりどちらに分があるとは判断しにくい部分が多いため詳しい方いたらよろしくお願いします。


aki********さん 2012/10/21 01:10:58

歌の類似性と言えば、和歌がインドの民謡と共通性が高いほうが注目に値すると思います。今でも日本人は海外の文化を輸入して、独自に発展させる才能を発揮していますが、昔もそうだったと考えるべきだと思います。ただし、ヘブライ語と日本語の類似性は他の言語と同程度で、かなり低いと思います。多くは音が似ているだけのコジツケになっていると感じます。

本当に日本語と近いのは、大陸の高句麗語です。言語が近縁かどうかを観察するとき、真っ先に見るのが数詞と言われています。日本語と高句麗語の数詞の比較を行うと、朝鮮語などよりもはるかに近縁の言語という結果が出るようです。

高句麗は滅亡して、その人々は女真族と名を変え、今は満州族と呼ばれています。

彼等は清帝国を築いたわけですが、清の時代に遭難した日本の商人が北京に行って驚いたのが、一二三四ではなく、ヒ・フ・ミ・ヨの日本語の数え方がそのまま通じたことだそうです。高句麗の流れを汲む女真族の言葉を話す人々と、北京で普通に接触できたようです。

百済は扶余・高句麗から枝分かれした王室で、朝鮮半島は異民族支配されていました。

そのため、百済の王室と民は異なる言語を話しているという指摘が、中国側に残っています。

神道の世界には古い朝鮮語が数多く残っていると指摘されることがありますが、実際にはそれが失われた高句麗語という説も出てきています。


高句麗語は日本語と同じ膠着語です。

系統が違う漢民族の言葉と文字がいきなり日本に輸入されたわけではなく、まず漢民族の言葉と直接接していた高句麗語が漢字表記されるようになり、それが、高句麗と近い山東半島や遼東半島付近の海人の手を経て日本にもたらされて、古い神道の祝詞の言葉などが作られていったと考えられます。

纏向型祭祀と高句麗国の東盟祭の類似性も、かなり指摘されているようです。

倭人文化圏が北九州から済州島を経て山東半島や遼東半島付近に分布していたと認識している中国側の史料が幾つか散見されるようです。

卑弥呼寒冷期と呼ばれる地球規模の寒冷化に伴って、飢饉に直面した高句麗地域の人々が日本に渡来した結果、弥生時代が古墳時代に変わっていったという説があるようです。

九州に山東半島原産の三眠蚕が入り、纏向(奈良)にも山東半島付近の製鉄と蚩尤(兵主・天日槍)の信仰が入っています。その結果、天照大神のモデルになった古い日女神を祭った比売許曽(ヒメコソ)神社が建てられるといった現象が起こったようです。

比売許曽は姫を祀る神社という意味の高句麗語(朝鮮古語)です。だから、比売許曽神社の末尾の「神社」は必要のない筈ですが、時代が下って元の意味が見失われた結果、付けられるようになったと考えられます。祝詞にも高句麗語由来の言葉が大量に入っている、というより、本来祝詞は高句麗語(吏読)だったそうです。謎が多いとされる「ひふみ祝詞」は、高句麗語として意味がほぼ通じる形で伝わっているそうです。飛鳥という都の名前も元は高句麗語のようです。

トルコからシルクロードを介して日本まで、膠着語圏が広範囲に広がっています。
文法的に近いため、日本語に輸入しやすかったことが考えられます。


たとえば、天皇を古い時代はスメラ・ミコトと呼んでいました。

シュメール文明と日本語の関係がかなり指摘されていますが、シュメール・ミグトと言えば、天降りた支配者のことで、日本語と音が似ているだけでなく、意味も一致しています。したがって、シルクロードを介して日本に入ってきたのは、なにも古代イスラエルの文化に限られるわけではないと思われます。

秦の始皇帝の兵馬俑はペルシャ式の軍団編成になっていて、ペルシャ人の人骨が近くから出ているようです。

ササン朝ペルシャの滅亡に伴って、シルクロードに逃れた王子が中国に亡命し、妻子を安全な日本まで連れて来ているケースもあるようです。わずか数年で日本とペルシャは繋がる距離にあります。西の文化が日本に断片的に入っていても、不思議ではありません。仏教も入れば、ギリシャ彫刻もガンダーラの地域で形を変えながら伝わっています。

しかし、文化的影響が認められるからと言って同祖論を持ち出すのは、不自然すぎると感じます。それを言うなら、人類はアフリカ原産の動物で、皆同祖という話になります。

遺伝子に関しては本来akatamayorihimeさんが御専門の筈ですが、完全スルーしているようです。相手にする必要もない勘違い、ということだと思います。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1195894356


17. 中川隆[-13734] koaQ7Jey 2018年11月30日 13:56:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460] 報告

2017-05-31 日本神話=朝鮮神話
http://japbuster.hatenablog.com/entry/2017/05/31/092557


日本人が天から舞い降りた民族でもなければ日本から生えてきた民族でも無い以上日本人はどこからかやってこなければならない。そしてそれは間違いなく朝鮮半島であった。日本神話は確実に朝鮮神話に源流を持つ。日本神話で有名な八咫烏も高句麗のシンボルである。

↓高句麗の壁画に描かれた八咫烏

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八咫烏とは、当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。 日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、 導きの神として篤い信仰があります。

八咫烏について - 熊野本宮大社 | 公式サイト

平安から鎌倉時代にかけて皇族や貴族から篤い信仰を受けた熊野神社の主祭神は朝鮮半島ソシモリ出身のスサノオであり、そのお仕えである八咫烏は高句麗のシンボルである。熊野神社は高句麗系渡来人の神社であったのだろう。スサノオは朝鮮半島のソシモリから虵の韓鋤の剣を携えやってきてヤマタノオロチを退治した。「虵の韓鋤の剣」は間違いなく朝鮮製の剣であろう。ヤマタノオロチは蛇である。日本の古くからの信仰は蛇信仰である。蛇信仰は注連縄や鏡餅や土器などに見ることができる。脱皮し永遠の命を持つと思われた蛇は信仰の対象であった。その蛇を朝鮮半島からやってきた神が朝鮮製の剣で退治したヤマタノオロチの神話は示唆的である。これは渡来人が蛇信仰の土着倭人を殺戮した歴史では無いだろうか。

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古神道とはどのようなものか考えたときそれは原始的なアニミズムであっただろう。その特徴を色濃く残す神社と言えば諏訪大社である。諏訪大社の巨木信仰はまさにアニミズムだろう。また諏訪大社ではソソウ神という蛇神やミシャグジ神を祀っている。柳田国男もこれを先住民族の信仰と考えた。諏訪大社の主祭神は建御名方神と八坂刀売神である。建御名方神といえば国譲り神話でこっぴどくやられた神であり八坂刀売神は記紀神話には存在しない諏訪土着の神である。おそらく土着の倭人が朝鮮系の民族に追いやられた歴史を反映していると考えられる。縄文の信仰を残す諏訪大社と国を譲らざるを得なかった神。偶然の取り合わせでは無いだろう。実際縄文系のDNAは日本の周縁へと追いやられている。朝鮮系渡来人である弥生系DNAは日本の中心に分布している。

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古神道を考える上で忘れてはならないのが出雲大社である。記紀の3分の1の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社には出雲系の神が祭られているという。間違いなく古神道といえるだろう。出雲大社の主祭神は大国主大神である。国譲りで国を明け渡さなければならなくなった神であり、大和へその地位を譲らなければならなかった古代出雲文明の神であろう。事実、大国主神は祟り神として知られている。大国主神は国津神の主祭神であり土着の神である。大国主神もまた縄文系の土着の倭人の神であろうか。出雲大社にも流れ着いた海蛇を祀る風習があるという。古代の蛇信仰も色濃く残した神社である。研究によれば出雲の人々のDNAは朝鮮人や中国人とは違うようだ。やはり出雲大社は土着の倭人の神社であるように思われる。

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比較的新しい信仰が天照大神信仰であろう。天照大神は天津神である。渡来人の神であろう。天照大神は機織りや稲作を行う記述があることからも渡来人であることが伺える。天孫降臨神話においても天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊は「この地は韓国に面して、笠沙の岬にも通じており、朝日と夕日が照らす素晴らしい土地である」と発言したように、朝鮮半島との関係をうかがわせる。天照大神は皇室の祖神であり、国家神道の主祭神である。大化の改新の後に皇祖神となったと言われている。持統天皇が日本書紀を編纂させた。その日本書紀が天照大神に特別な地位を与えたと言われている。
http://japbuster.hatenablog.com/entry/2017/05/31/092557


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朝鮮と日本の神話の類似性
上田正昭 京都大学名誉教授(2002年1月26日 講演記録より)

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。


 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。


 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html



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高天原故地碑

高天原故地碑(たかまがはらこちひ)は、大韓民国慶尚北道高霊郡の加耶大学校内にある石碑。日本神話の天津神が住む高天原は、ここであると記されている。


慶尚北道 高霊郡 地図
https://map.konest.com/daddr/4783034032


高天原は実在の地域を反映しているとする説は古くから存在し、第二次大戦後は主としてアマチュア研究家によって朝鮮半島説も唱えられることがあった。当初その比定地とされたのは、戦前から一部の研究家によってスサノオが立ち寄ったという新羅のソシモリの候補とされた、『冬のソナタ』のロケ地として知られる江原道春川市であって、慶尚北道高霊郡ではなかった。


春川に代わって名乗りをあげたのが高霊郡であった。加耶大学校の李慶煕総長がこの説の主唱者で、1999年6月28日に「高天原故地」と記された石碑が建立された。


李慶煕の主張


この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2010年10月)


李慶煕総長の主張によると

高皇産霊尊は、高と霊の字が含まれるので、高霊郡で誕生した[1]。

東国與地勝覧に書かれている伽耶の天神夷毗訶の次男伊珍阿豉(イジンアシ)はイザナミと発音が似ている。そのため、伊珍阿豉はイザナミである。

任那の任は現代の韓国語で「主人」「母」を意味する。そのため、任那は『主人の国』や『母なる国』を意味する。

高千穂の添山(そおりやま)は韓国の首都ソウルと発音が似ている。そのため、添山はソウルを指す。


と、いうことだそうである。

これらの主張は、2001年に訪韓した筑波大学の馬渕和夫名誉教授らの賛同を得ている。このとき、馬渕教授は李総長の主催する学会で「朝鮮民族が日本を征服し大和王朝を建てた」と発表している[2]。


脚注

1.^ 以下、特に論評はしない。
2.^ 『韓国 堕落の2000年史―日本に大差をつけられた理由』 加耶大学校客員教授 崔基鎬 著
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F%E6%95%85%E5%9C%B0%E7%A2%91


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10. 2013年7月13日 17:47:40 : WUs3UH3xVg

天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、
として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。
例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような
盛り土である事は知られています。
古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。
終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。
当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、
それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。


日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。
日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。
現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の
小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である
ために容易に近づく事は出来ないだろう、同行した当時KCIA局員の話としては、
そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。

38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、
仮にこの付近が関連する村であると、南だけではなく北とも天皇は接点を持つ
可能性が浮かび上がります。

(私の直感として、天皇と北の接点が存在した場合に拉致問題と関係して
いなければ良いなあ、と思うのですが、、、、、気にしすぎでしょうかね)

こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで
爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。

天皇が戦争とどう関わったかについては、総括することは必要だという考えは
理解しますが、
戦前の体制や、戦後の状況からいっても、昭和の時代、平成一桁の時代において
戦争経験者が多く存在する時代ですし、
天皇制や天皇と戦争との関連を法的に取り扱う事は、容易ではない
といえるでしょう。

そうした意味では、棄却理由は無理があるとはいえ裁判所が天皇の戦争との関わり
以外に出自等歴史的タブーに絡み、歴史に挑戦するというのも難しいので、
棄却は無理も無いといえるでしょう。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html


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昔、三宅さんから聞いた話 2012-11-16

あのころは、三宅さんに、竹村健一さん、飯島清さんが、


テレビで活躍中だった。

空港まで車で三宅さんを迎えに行った。

高速道路を走りながら車中で、


昭和天皇の話になった。


三宅さんが、日本史の江上波夫さんから聞いた話だと。

あの騎馬民族説の江上さんですね。


そう。

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、


昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?
A:朝鮮半島だと思う。
Q:どうしてそう思われますか?
A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。

と答えられたと。


三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、


もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。


現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。


昭和天皇ゆかりの話をしたかったようだ。

いま、あのときの顔を思い出しています。

三宅さん、歯切れのいい話で、


日本の左傾化に歯止めを掛けていた。


やすらかにお眠りくださいますように。
https://blog.goo.ne.jp/akirakasan/e/a6f887959603d8e10b513314716d3643


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hoh********さん 2016/2/13 01:29:09

神武東征は実際にあったとすれば、西暦何年頃の出来事だと思いますか?

pin********さん 2016/2/13 21:23:55

「日本書紀の神武紀」を見ると、彼らは、大阪湾までやってきて、「登美のナガスネヒコ」との戦闘の時に、舟で日下の蓼津(現在の東大阪市日下町付近)まで進出して来ます、そこでの戦闘で、兄の五瀬命が負傷したので、南方(現在の大阪市淀川区西中島南方付近)を舟で経由して撤退し血沼海(茅渟海、大阪湾)に出たとの記述があります。

現在の地形では、「蓼津も南方」も陸地で、舟で到達したり通過したりすることができません。

でも、250年から300年頃の弥生時代の後半には、大阪湾の奥に河内湾というのがあり、この二つの湾を分断するような半島状の地形(片町台地)の先端部分が開いていて、海水が河内湾にも流入していたのです。

その後、堆積物によりふさがって河内湖になり、ふさがったところが「南方」です。

このように、「神武」が東征してきた時の状況がリアルに伝えられていますので、時期としては、250年から300年ごろのことだと考えられます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13155826588



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文献は語る −日本神話

1.天孫降臨


天孫降臨の話は、基本的には高天原の神々がその直系の神を高天原から地上の世界へ降ろし、地上を支配していた国津神たちから国土を譲り受ける、あるいはそのまま支配する話なのだが、これは以下のような構成になる。

(1)天菩比神と天若日子の派遣
(2)建御雷神と事代主・建御名方神の交渉
(3)迩迩芸命の降臨
(4)迩迩芸命と木花之咲夜姫

このうち(1)、(2)はオオクニヌシの支配する葦原の中津国、すなわち出雲地方のことで、この物語は天孫降臨よりも、「出雲の国譲り」としてのほうが知られている。しかしこれも意味合いから言えば天孫降臨である。「国譲り」とはぶんどった方の呼び方であって、取られた方からすれば略奪であり、占領である。

難波や日向に天下った際には特別な記事はないのに、出雲だけ何故建御名方神が抵抗したのか。おそらく、当時の国々の中では出雲だけが、高天原(天津神(渡来して北九州にいた集団)たちの国)に抵抗できるだけの体制(軍備・文化・技術等々)を持っていたからに相違ない。これは、出雲が北九州とは独立して、遙か昔からの先進文化を受け入れていたことを示している。

葦原中国を平定後、アマテラスは最初、我が子天之忍穂耳命(オシホミミノミコト)に、葦原中国を統治するように命じたが、オシホミミノミコトに子が生まれ、アマテラスは、その子番能邇邇藝(ホノニニギノミコト)を降臨させる。 最初命を受けたオシホミミノミコトが、降臨の役目を辞退してしまうのはなぜかよくわからない。アマテラスは、天児屋命(アメノコヤネノミコト)、布刀玉命(フトダマノミコト)、天宇受売命(アメノウズメノミコト)、伊斯許理度売命(イシコリドヒメ)、玉祖命(タマノオヤ)を孫のニニギノミコトに付けて、共に地上に行くように命じ ニニギノミコトに、八尺の勾玉(ヤサカノマガダマ)、八尺鏡(ヤタノカガミ)、そして草薙剣(クサナギノツルギ)を授ける。更に、思兼神(オモヒカネノカミ)、天手力男神(タヂカラヲノカミ)、天石門別神(アメノイハトワケ)、らにニニギノミコトと一緒の天降りを命じた。ニニギノミコトには、

「この鏡を私の魂と思って、私の前で拝むような気持ちでいつも敬うように」

と下命した。一行の降臨を国津神の猿田彦神(サルタヒコ)が待ち受けていた。こうして、ニニギノミコトは、高天原を離れ、随行する神々と、途中、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の峰に天降った。

この地は韓国に向き、笠沙の岬にまっすぐ道が通じていて、朝日がまぶしくさす国であり、夕日が明るく照りつける国でもあった。ニニギノミコトはここに宮殿を造るが、ニニギノミコトが天降った高千穂という伝説地は、宮崎県西臼杵郡高千穂町と宮崎・鹿児島両県にまたがる高千穂峰が有名である。天孫降臨の話は、古事記と日本書紀では若干違っており、日本書紀では本伝のほかに多くの異伝を伝えている。天上から地上への降臨による地上支配の発生という神話は、東アジアを中心にして多くの民族に共通し、それらを北方的な要素とみなす見解もある。 天孫降臨のあとは、いわゆる日向神話における山幸彦・ウガヤフキアヘズ命の誕生を経て、初代神武天皇へと直結する。


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古事記での「天孫降臨」


故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降りまさしめき。故爾に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、天津久米命是に詔りたまひしく、

「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原の氷椽多迦斯理て坐しき。
(倉野憲司・武田祐吉校注「古事記・祝詞」岩波書店、1993年)


日本書紀での「天孫降臨」

「時に、高皇産靈尊、眞床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊々杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、くし日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、そ宍の空國を、頓丘から國覓き行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到ります。」
(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本書紀 上」岩波書店1993年)

(注;)日本書紀では複数ヶ所に「天孫降臨」が記されている。すべて「一書に曰く」という引用によるものであるためそれぞれに表現が異なっており、天孫降臨の地も上記「高千穂峯」の他に「くしふるの峰」「二上峰」「添(そほり)の山の峰」などと記されている。

日向國風土記逸文での「天孫降臨」

「日向の國の風土記に曰はく、臼杵の郡の内、知鋪(=高千穂)の郷。天津彦々瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、天暗冥く、夜昼別かず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。ここに、土蜘蛛、名を大くわ・小くわと曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまをしき。時に、大くわ等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。因りて高千穂の二上の峯と曰ひき。後の人、改めて智鋪と號く。」
(秋本吉郎校注「日本古典文学大系2 風土記」岩波書店)


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梅原猛は、この神話は一般に「天孫降臨」として知られるが、最初は「天子降臨」だったのではないか、という指摘をしている。この神話の原典は古事記・日本書紀・万葉集だが、万葉集が一番古い資料で、古事記・日本書紀では確かに 「天孫降臨」になっているが、万葉集では『日の皇子』という表現になっていて、『皇孫』ではない。そこで梅原は、万葉集の原型が作られたのが、まだ持統天皇の子供の草壁皇子が生きていた頃で、その後草壁皇子が早死にしてしまい、持統天皇は孫の軽皇子(後の文武天皇)に位を譲るべく活動していた時に、この孫に国を治めさせるという話が成立したのではないか、としている。なかなか興味深い推察である。


天孫が降臨した「高千穂」を巡っても諸説ある。古事記では、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)、日本書紀では「一書に曰く」と諸説あるため、高千穂峯(たかちほのたけ)、久志振流岳(くじふるだけ)などに降臨した事になっているが、宮崎県の高千穂町と、鹿児島の霧島山系・高千穂の峰が「高千穂峯」の本家争いをしているのは有名な話である。しかしその「くじふるだけ」という呼び方から、大分県の「久住岳」(くじゅうだけ)と言う意見もあるし、福岡県の英彦山には、天忍穂耳神が降臨されたという伝説があり、農業や鉱業などの守り神として今も信仰されている。


本居宣長(1730年〜1801年)は、高千穂は二説あり、どちらか決めがたいと言っている。「彼此を以て思へば、霧嶋山も、必神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに、何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし。」(『古事記伝』十五之巻)

 
また宣長は、二説併記のみならず、移動説も提示している。「つらつら思ふに、神代の御典に、高千穂峯とあるは、二処にて、同名にて、かの臼杵郡なるも、又霧嶋山も、共に其山なるべし、其は皇孫命初て天降坐し時、先二の内の、一方の高千穂峯に、下着賜ひて、それより、今一方の高千穂に、移幸しなるべし、其次序は、何か先、何か後なりけむ、 知るべきにあらざれども、終に笠沙御崎に留賜へりし、路次を以て思へば、初に先降着賜ひしは、臼杵郡なる高千穂山にて、其より霧嶋山に遷坐して、さて其山を下りて、空国を行去て、笠沙御崎には、到坐しなるべし」
(『古事記』十七之巻)


前出梅原猛氏は、「天皇家の“ふるさと”日向をゆく 新潮社刊」の中で、この本居宣長説について、ニニギノミコトが稲作技術を持って笠沙御崎に上陸したが、シラス台地は稲作に適した場所ではないため、弥生時代中期から後期頃に臼杵郡の高千穂に入り、西都から霧島へ移動したのではないかとこの説を補強している。

2000年9月14日(木)から17日の間、第38回歴史倶楽部例会で、「南九州/神話・遺跡の旅」と称して、宮崎神宮・西都原古墳群・高千穂町・上野原遺跡・橋牟礼川遺跡・水迫遺跡などを廻ってきた。高千穂町はほんとに山深い鄙びた町である。こんな所に神々が降ったとは一寸思えない。しかしそれは、一大生産地としての観点から見ればであって、神話に言うただ降りてきただけの「降臨の地」とすれば納得できない事ではない。山深い幽玄な雰囲気はそれを十分感じさせるだけの説得力を持っている。だが神話を離れて、外来民族か或いは他地方からの民族移動を「天孫降臨」だとすれば、この地はあまりに辺境すぎる。あまりにも山の中である。天孫ニニギの尊が、「葦原の中つ国」を治めるために降りて来るには一寸ばかり山峡すぎる。日向に三代に渡って住んだと記紀は書いているが、高千穂から日向の国へ移ったという記述はない。とすれば、降りてきた高千穂にニニギニミコト、ウガヤフキアエズ、カンヤマトイワレビコと三代住んだと考える方が自然だろう。それにしてはここはあまりにも山の中である。ここでは東に良い国があるなどという情報も到達しないのでは、と思える程辺境だ。


(以下古事記による。)

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爾くして、天照大御~・高木の~の命(みことのり)以ちて、太子(おおみこ)正勝吾勝勝速日天忍穗耳(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)の命に、

「今、葦原中國を平らげ訖(おわ)りぬと白す。故、言依(ことよ)」

さし賜いし隨(まにま)に降り坐して知らせ」

と詔りき。爾くして其の太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳の命、答えて、


「僕、將に降らんと裝束(よそ)える間に、子、生まれ出でぬ。 名は天邇岐志國邇岐志(あめにきしくににきし)天津日高日子番能邇邇藝(あまつひたかひこほのににぎ)の命、此の子を降すべし」


と白しき。 此の御子は高木の~の女、萬幡豐秋津師比賣の命に御合して生める子、天火明(あめのほあかり)の命、次に日子番能邇邇藝の命【二柱】也。是を以ちて白しし隨に、日子番能邇邇藝の命に科(おお)せて、「此の豐葦原水穗の國は汝が知らさん國と言依さし賜う。


故、命の隨に天降爾くして日子番能邇邇藝の命、將に天より降らんとする時に、天之八衢(あめのやちまた)に居て、上は高天原を光し、下は葦原中國を光す~、是れ有り。故、爾くして天照大御~・高木の~の命以ちて、天宇受賣の~に、

「汝は手弱女人(たわやめ)に有りと雖も、伊牟迦布(いむかふ)~と面勝(おもかつ)~ぞ。故、專(もは)ら汝往きて將に、

『吾が御子の天降らんと爲す道に、誰ぞ如此して居る』と問え」

と詔らしき。 故、問い賜いし時に答えて、

「僕は國つ~、名は猿田毘古(さるたびこ)の~也。出で居る所以は、天つ~の御子、天降り坐すと聞きし故に、御前に仕え奉らんとて參い向い侍る」

と白しき。


爾くして、天兒屋(あめのこやね)の命・布刀玉(ふとだま)の命・天宇受賣(あめのうずめ)の命・伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命・玉祖(たまのおや)の命、并せて五伴緒(いつとものお)を支(わか)ち加えて天降しき。是に其の遠岐斯(おきし)、八尺勾(やさかのまがたま)、鏡、及び草那藝の劍、また常世思金の~、手力男の~、天石門別(あめのいわとわけ)の~を副え賜いて詔らさくは、

「此の鏡は專ら我が御魂と爲て、吾が前を拜むが如く伊都岐(いつき)奉れ。次に思金の~は前の事を取り持ちて政を爲せ」

と、のりき。此の二た柱の~は、佐久久斯侶伊須受能宮(さくくしろいすずのみや)を拜み祭る。次に登由宇氣(とゆうけ)の~、此は外宮の度相(わたらい)に坐す~也。


次に天石戸別の~、またの名を櫛石窓(くしいわまど)の~と謂い、またの名を豐石窓(とよいわまど)の~と謂う、此の~は御門の~也。次に手力男の~は佐那縣(さなあがた)に坐す也。故、

其の天兒屋の命は【中臣連(なかとみのむらじ)等の祖(おや)】。
布刀玉(ふとだま)の命は【忌部首(いんべのおびと)等の祖(おや)】。
天宇受賣(あめのうずめ)の命は【猿女君(さるめのきみ)等の祖(おや)】。
伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命は【鏡作連(かがみつくりのむらじ)等の祖(おや)】。
玉祖(たまのおや)の命は【玉祖連(たまのおやのむらじ)等の祖(おや)】。


故、爾くして天津日子番能邇邇藝の命に詔りて、天の石位(いわくら)を離れ、天の八重の多那(たな)雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて)、天の浮橋に宇岐士摩理蘇理多多斯弖(うきじまりそりたたして)筑紫の日向の高千穗の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降り坐しき。故、爾くして天忍日(あめのおしひ)の命、天津久米(あまつくめ)の命の二人、天の石靭を取り負い、頭椎(くぶつち)の大刀を取り佩き、天の波士弓(はじゆみ)を取り持ち、天の眞鹿兒矢(まかごや)を手挾み、御前に立ちて仕え奉りき。

故、

其の天忍日(あめのおしひ)の命【此は大伴連(おおとものむらじ)等の祖(おや)】、
天津久米(あまつくめ)の命【此は久米直(くめのあたい)等の祖(おや)也】。

是に詔らさく、

「此地は韓國に向かい、笠紗(かささ)の御前に眞來通(まきどお)りて、朝日の直(ただ)刺す國、夕日の日照る國也。 故、此地は甚吉(いとよ)き地」

と、詔りて、底津石根に宮柱布斗斯理(ふとしり)、高天原に氷椽多迦斯理(ひぎたかしり)て坐(いま)しき。


【ホノニニギの、諸文献における表記】

古事記 天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命
天津日高日子番能邇邇芸命
天津日子番能邇邇芸命
日子番能邇邇芸命
日本書紀 天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
天之杵火火置瀬尊
天杵瀬尊
火瓊瓊杵尊
天津彦火瓊瓊杵尊

風土記 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
瓊瓊杵尊
哀能忍耆命

先代旧事本紀 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊


ホノニニギの神名の多さと長さは記紀にもあまり例がない。ちょっと異常と思えるほどだが、想像をたくましくすれば、北九州の高天原からあちこちへ降臨した神々がいたのではないかと思わせる。日向へ降ったホノニニギはその一人で、神話が形成されていく過程で、ホノニニギ一人に集約されたもののようにも思える。ホノニニギの「ホ」は「穂」であり、ニニギは「にぎにぎ」の意で「賑やかな」「賑わう」と解釈し、稲穂が豊穣に実っている様を表していると言われる。

また、ホノニニギは「天神御子」とも称され、神から天皇へ繋がる系譜上の重要なポイントに位置し、先に見たように、記紀編纂当時の、持統天皇・草壁皇子・文武天皇の皇位継承問題の事情が反映されているのではないかとも言われる。日本書紀九段本書では、天孫降臨の任務は初めからホノニニギであり、赤ん坊の姿でマトコヲフスマに包まれて降臨している。ホノニニギは、崩じた後日本書紀によれば「可愛之山綾」に葬られ、現在その場所は、鹿児島県川内市宮内町や、宮城県延岡市北方の可愛岳などが想定されている。

「国譲り」神話を、何らかの史実を秘めた伝承であるとする立場からすれば、冒頭にも記したように、これは明らかに民族間の領土移譲を含めた権限委譲である。若干の武力抗争もあっただろうが、「国譲り」と表現されるような、圧倒的な軍事力の違いの前に、国を譲らざるを得ないような状況があったのだろうと想像できる。見てきたように、それは北九州の高天原に、出雲の葦原の中津国が屈したのだと考えれば、以後の歴史展開が、考古学の成果も含めて一番説明が容易である。そうやって北九州の、当時の日本列島で一番勢力が強かった一団が、出雲や畿内や南九州を屈服させていったのだろうと思われる。天孫降臨は、それらの屈服させた領地へ派遣する司令官とそのお供の武官達を任命した、いわば壮行会であり、辞令交付式だったのだろうと思われる。そして時代を経て、それは高天原と国津神たちの支配する中津国とのお話として神話となって伝承された。


高天原の神々が降臨に用いる乗り物は天の磐船であり、雲であり、その上に乗って大勢のお供とともに天下っている。これは明らかに海上を船によって移動したことを示唆している。陸上を馬や徒歩で移動したのであればこういう表現にはなっていない。これは高天原が少なくとも近畿ではなかったことを強く物語る有力な証左である。

2.日向三代


天孫「ニニギの尊」が高天原から高千穂に降臨して以来、「ウガヤフキアエズ」「カンヤマトイワレビコ(神武天皇)」と、三代に渡って日向に住んだという事になっており、これを「日向三代」と呼ぶ。「神武東征」については、「邪馬台国の東征」と並び古代史の重点項目である。戦前、戦中は真剣に(現代でもそうだが。)、高千穂の峰や「日向三代」の所在を巡って大論争が巻き起こっていた。今日の視点からすればずいぶんと滑稽な論争もあったようである。

神話を全く否定した「唯物史観」の立場にたてば、神話そのものの基盤が虚構なのだから、その上に立っての議論など何の意義もないと言うことになろう。しかし、すぐ側の西都原(さいとばる)古墳群を見ると、確かに、古代この地方に何らかの有力な勢力が存在していた事を実感させる。古墳群は現にここにあるのだから、これを否定する事はできない。呼応して我が国の古史がそれに似た話を残しているとなれば、もっとその方面の研究がなされてもいいような気もする。


こういう意見を言うとすぐ「軍国主義」とか「皇国史観の復活」とか言われるのは困ったものである。いいかげん、学問からイデオロギーを取り去って欲しいもんだが。


さて、ニニギの尊が地上に降りてからある時、海岸で一人の美女に出会う。迩迩芸命が名を尋ねると

「私は大山津見神の娘で木花之咲夜姫(このはなのさくやひめ)といいます。」

と答えた。そこでニニギは咲夜姫に結婚を申し込むが、咲夜姫は

「私の父に言って下さい」

と答える。そこで迩迩芸命が大山津見神の所に行き、咲夜姫との結婚を申し込むと大山津見神は喜んで、姉の石長姫も一緒に娶ってくれといい、婚礼用品を添えて二人の娘をニニギの元にさしだした。

ところが石長姫の方は醜女だったため、ニニギは大山津見神の所へ返してしまう。すると大山祇神は怒り、

「石長姫とも結婚していたら、あなたの子孫は石のように永遠の命を持てたのに。咲夜姫とだけの結婚でしたら、あなたの子孫は木の花のようにはかなく散り落ちていくでしょう」

と答えた。古事記は、だから代々の天皇の寿命は短いのだとコメントしている。

さて、その咲夜姫だが、ニニギとは一度しか交わらなかったのに、その一回の交わりだけで妊娠してしまう。ニニギは、1回交わっただけで妊娠するとは、と疑った。咲夜姫は、

「これは間違いなくあなたの子供です。その証拠に私は火の中で子供を産みましょう。私が正しければ神の加護があるはずです」

と言い、産気付くと家に火を付け、その中で3人の子供を産み落した。その子供は産まれた順に、火照命・火須勢理命・火遠理命という。火照命が別名海幸彦、火遠理命が別名山幸彦である。山幸彦はまた、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)という名を持つ。


海の神の娘、豊玉姫神と結婚し、やがて鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を産む。彼は豊玉姫の妹で、育ての親でもある玉依姫神(たまよりひめのかみ)と後に結婚して、神武天皇が産まれる。


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是に天津日高日子番能邇邇藝能命、笠紗の御前に麗しき美人に遇いき。爾くして、

「誰が女ぞ」

と問いき。答えて、


「大山津見の~の女、名は~阿多都比賣(かむあたつひめ)、またの名は木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ)と謂う」

と白しき。また、

「汝、兄弟有りや」

と問いき。答えて、

「我が姉、石長比賣(いわながひめ)在り」

と白しき。 爾くして、

「吾は汝と目合(みあ)わんと欲う。奈何に」

と詔りき。答えて、

「僕は白すことを得ず。僕が父、大山津見の~、將に白すべし」

と白しき。故、其の父の大山津見の~に乞い遣りし時に、大きに歡喜びて其の姉の石長比賣を副(そ)えて、百取(ももとり)の机代の物を持たしめて奉り出だしき。故、爾くして其の姉は甚凶醜きに因りて、見畏みて返し送り、唯に其の弟の木花之佐久夜毘賣を留めて一宿、婚爲き。爾くして大山津見の~、石長比賣を返ししに因りて大きに恥じて白し送りて、

「我(あれ)の女、二並(ふたりとも)に立て奉りし由は、石長比賣を使わさば、天つ~の御子の命、雪零り風吹くと雖も、恆に石の如くして、常わに、堅わに動かず坐さん、また木花之佐久夜毘賣を使わさば、木の花の榮ゆるが如く榮え坐さんと宇氣比弖(うけいて)貢進(たてまつ)りき。此く石長比賣を返らしめて、獨り木花之佐久夜毘賣を留むる。故に天つ~の御子の御壽(みいのち)は木の花の阿摩比能微(あまひのみ)坐(ま)さん」

と言いき。故、是を以ちて今に至るまで天皇命(すめらみこと)等の御命(みいのち)は長くあらぬ也。


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豊玉姫は妊娠し、天津神の御子は海の中で生んではならないと地上へやってきた。そして渚に鵜の羽を茅葺(かやぶき)にした産屋を建ててくれと山幸彦に頼み、異郷の者が出産するときには、すべて元の国の姿になるので、出産現場を見ないでくれと頼む。山幸彦は見ないと約束するが、心配と好奇心で産屋を覗いてしまう。そこに居たのは、八尋(やひろ)ワニの姿に戻った豊玉姫がいた。驚く山幸彦に、約束を破って姿を見られたからにはもうここにはいられないと豊玉姫は、我が子ウカヤフキアヘズノミコトの世話を、妹である玉依姫神に託すと単身海の国へと戻っていった。


山幸彦ことホヲリノミコト(火遠理命)は、日向で580年生き、高千穂の山の西に葬られた。ホヲリノミコトの子、アマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノミコト(天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命)は、やがておばの玉依姫神と結ばれ、イツセノミコト(五瀬命)、イナヒノミコト(稲氷命)、ミケヌノミコト(御毛沼命)、ワカミケヌノミコト(若御毛沼命)が生まれた。ワカミケヌノミコトの別名は、カムヤマトイハレビコノミコト(神倭伊波礼昆古命)と言った。

ミケヌノミコトは常世国へ行き、イナヒノミコトは母のいる海原に入った。


故、後に木花之佐久夜毘賣、參い出でて、

「妾(あれ)は妊身(はら)みぬ。今、産む時に臨みて、是れ天つ~の御子にして、私(わたくし)に産むべきにあらぬが故に請(もう)す」

と白しき。爾くして、

「佐久夜毘賣、一宿(ひとよ)にや妊(はら)める。是れ我が子に非ず。必ず國つ~の子ならん」

と詔りき。爾くして答えて、

「吾が妊(はら)める子、若し國つ~の子ならば、産むこと幸くあらず。若し天つ~の御子ならば幸くあらん」

と白して、即ち戸の無き八尋殿(やひろどの)を作り、其の殿の内に入り、土を以ちて塗り塞(ふさ)ぎて、方(まさ)に産まんとする時に火を以ちて其の殿に著(つ)けて産む也。 故、其の火の盛りに燒ゆる時に生める子の名は、火照(ほでり)の命【此は隼人(はやと)の阿多(あた)の君の祖(おや)】。 

次に生める子の名は、火須勢理(ほすせり)の命【須勢理の三字は音を以ちてす】。 

次に生める子の御名は、火遠理(ほおり)の命、またの名は天津日高日子穗穗手見(あまつひたかひこほほでみ)の命【三つ柱】。

(略)

是に海の~の女、豐玉毘賣の命、自ら參い出でて、

「妾(あれ)は已(すで)に妊身(はら)みぬ。今産む時に臨みて此(これ)を念(おも)うに、天つ~の御子を海原に生むべくあらず。故、參い出で到れる也」と白しき。爾くして即 ち其の海邊の波限(なぎさ)に鵜の羽以ちて葺草と爲て産殿を造りき。

是に其の産殿の未だ葺き合えぬに御腹の急(にわ)かなるに忍(た)えず。故、産殿(うぶや)に入り坐しき。爾くして將方(まさ)に産まんとする時に其の日子に白して、「凡そ他(あた)し國の人は産む時に臨みて本(もと)つ國の形を以ちて産生(う)むぞ。故、妾(あれ)今本の身を以ちて産まんと爲(す)。願う妾を見る勿(なか)れ」


と言いき。是に其の言(こと)を奇しと思いて竊かに其の方(まさ)に産まんとするを伺えば、八尋和邇(やひろわに)と化りて匍匐(はらば)い委蛇(もごよ)いき。

即ち見驚き畏みて遁(に)げ退(そ)きき。爾くして豐玉毘賣の命、其の伺い見る事を知りて心恥(はずか)しと以爲(おも)いて、乃ち其の御子を生み置きて、

「妾は恆に海の道を通りて往來(かよ)わんと欲(おも)う。然れども吾が形を伺い見ること、是れ甚(いと)(はずか)し」

と白して、即ち海坂(うなさか)を塞(ふさ)ぎて返り入りき。

是を以ちて其の産める御子を名づけて、天津日高日子波限建鵜葺草不合(あまつひたかひこなぎさたけうがやふきあえず)の命と謂う。然くして後は、其の伺いし情(こころ)を恨むと雖ども戀(こ)うる心に忍(た)えずして、其の御子を治養(ひた)す縁(よし)に因りて、其の弟(おと)の玉依毘賣(たまよりびめ)に附(つ)けて歌を獻(たてまつ)りき。 

(略)

故、日子穗穗手見(ひこほほでみ)の命は、高千穗の宮に坐(いま)すこと伍佰捌拾歳(いほとせあまりやそとせ)。御陵(みささぎ)は、即ち其の高千穗の山の西に在り。是の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合の命、其の姨(おば)の玉依毘賣の命を娶りて生みし御子の名は、五瀬(いつせ)の命。次に稻氷(いなひ)の命。次に御毛沼(みけぬ)の命。

次に若御毛沼(わかみけぬ)の命、またの名は豐御毛沼(とよみけぬ)の命、またの名は~倭伊波禮毘古(かむやまといわれびこ)の命【四つ柱】。故、御毛沼の命は浪の穗を跳(ふ)みて常世(とこよ)の國に渡り坐し、稻氷の命は妣(はは)の國と爲(し)て海原に入り坐しき。


古代、南九州には隼人と呼ばれる一族がいた。山幸彦に降伏した海幸彦は、溺れたときの所作を演じ、ふんどしをつけ顔や手足を赤く塗り、俳優の技をして弟を慰めたといい、そして、この子孫が隼人であるといわれる。海幸・山幸神話は、皇孫である山幸彦に隼人の祖である海幸彦が服従するという、隼人の朝廷への服従起源でもある。この話は、もともと南九州にいた隼人族の伝承であったといわれており、その伝えていた芸能隼人舞の由来話という形で、その首長の前で演じられていたのではないかといわれている。猟具の交換を発端とする海底国への訪問、失った釣針などに類似する話としては、喜界島の「竜神と釣縄」という話があり、そのほか、パラオ等、インドネシアからミクロネシアにかけて類似した話が語られている。


日向国が、現実の南九州の日向であったかどうかについても色々な議論がなされている。日向とは現在の宮崎県ばかりでなく、大隈と薩摩を含んだ地域であるとすると、それは隼人族の住む未開の地でもあるので、皇室の祖先はそうした未開の地は原郷にしないという説もあるし、日向とは単なる「太陽の照らす聖地」という意味にすぎないという説もある。そもそも邪馬台国問題と同じで、或いはそれ以上に情報量は少ないので、神話や民俗学に興味がある者なら、いかようにも解釈できることになる。

日向三代の神話が全て隼人族の伝承だったとすると、「コノハナサクヤヒメの神話」「海幸山幸の話」も同じくインドネシア、ミクロネシアに類似した神話が多くあるので、隼人族そのものも南方種族ではないかとする説もあり、かなり有力視されている。しかし、日向三代神話が隼人の伝承であったとすると、これを大和朝廷が皇室の神話系譜の中に取り入れたのは何故なのか、またいつごろなのかという問題が残る。

北九州の高天原から南九州へ移動した一団がほんとにいたのだと解釈すれば、宮崎に残る西都原古墳群やこの神話の持つ意味も理解できる。日向に三代も住めば、そこが地理的に日本列島の統治にとって都合のいい場所ではないと判明したかもしれないし、もっと実りの多い、稲作に都合の良い平野を抱えた地方が東にあるという情報も、派遣した先兵や偵察隊が報告していたかもしれない。実際に、後に神武天皇と呼ばれる人物が東を目指して旅だった可能性も高いが、私が邪馬台国東遷説にいまだ同意できないのは、もし、高天原=北九州、天照大神=卑弥呼だとすると、その後の邪馬台国はどうなったのかという疑問が未だに解けないからでもある。邪馬台国から日向へ降りてきたニニギは日向で勢力を発展させるが、では北九州に残った邪馬台国はどうなったのだろうか。依然として勢力を保っていたのなら、東遷するのは北九州の高天原でなくてはならない。しかるに、近畿を平定するのは日向に住んだイワレビコなのだ。


3.神武東遷


初代の天皇である神武天皇(カムヤマトイハレビコノミコト)は、日向国に天下りした邇邇芸命(ニニギのみこと)の曾孫にあたる。神武の時期から人代で、それ以前は神代とされる。神武の一族は、日向国高千穂宮に住んでいたが、兄のイツセノミコトと共に、東国に豊かな土地を求めて移住を始め、豊国宇佐足一騰宮(あしひとつあがりのみや:

大分県宇佐市)、竺紫岡田宮(福岡県遠賀川河口)、阿岐国多祁理宮(たけりのみや:広島県府中町)、吉備高嶋宮 (岡山市高島)、青雲の白肩津(東大阪市日下町)、紀国男水門(大阪府泉南郡樽井町)、熊野村(和歌山県新宮町)、吉野の川尻(奈良県吉野郡)を経て、宇田(奈良県宇陀郡)へ到着した。

岡田宮に一年、多祁理宮に七年、高島宮には八年も滞在したとされる。瀬戸内海を渡った神武は、難波の津で長髄彦に抵抗され、兄・五瀬命を失うが、和歌山の大台ヶ原から大和に入り、長髄彦を破って大和の平定に成功し、辛酉年春正月一日に、橿原宮で即位し、百廿七歳で、橿原宮にて死んだ。


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宇佐に行く前、二人は速吸門(はやすいのと:豊予海峡)で亀の甲羅に乗って釣をしている人間を見つける。お前は誰かと尋ねると国つ神だといい、海路をよく知っているというので案内人とし、サヲツネヒコ(棹根津日子)という名をあたえる。

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  一行は難波に上陸するが、登美(奈良市富雄町)の豪族、ナガスネビコ(那賀須泥昆古)が軍勢を率いて攻めてきた。戦闘はナガスネヒコが優勢で、イツセノミコトも敵の矢を受ける。イハレビコは

「日の神の御子である我々が、日に向かって攻め入ったのが良くなかった」

として、日を背にして敵を撃とうと紀州沖を南下し熊野から内陸をめざすが、兄のイツセノミコトは船上で絶命してしまった。今、イツセノミコトの御陵が紀伊の国の竈山にある。

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イハレビコは、和歌山から南に回って、熊野村に到着したが、大きな熊に出会い、やがて一行の兵士達は突然気を失い、次々に倒れ伏す。そのとき一振りの太刀をもった男が現れ、イハレビコに剣を献上した。この太刀で、イハレビコは熊野の山の荒ぶる神を退治した。この時剣を献上したタカクラジ(高倉下)が、イハレビコに剣を渡した訳を説明する。

夢をみて、夢にアマテラスとタカギノカミが現れ、二人は、タケミカヅチ神を呼び寄せて

『葦原中国はひどく騒然としており、我が御子たちは病み悩んでいるようだ。かの国はそなたが服従させた国なのだから、もう一度そなたがいって御子たちを助けてこい。』

と。タケミカヅチは、

『私が降らなくても、かの国を平定した太刀がありますから、このサジフツノカミ(佐士布都神)を降しましょう』

と、タカクラジが授かって届けに来たのだという。さらにタカクラジは、夢の中で、タカギノカミからの伝言を預かっていると言う。

「荒れすさぶ神がたくさんいるから、天つ神の御子をこれ以上奥に行かせてはならない。」

「今、天上からヤタガラス(八咫烏)を遣わそう。そして、そのヤカガラスが先導するので、その後についていくように。」

ヤタガラスの後を追いながら吉野川の川下にたどりついたカムヤマトイハレビコは、魚をとっている人物に出会った。 さらに進むと、井戸から尾の生えた人物に出会った。さらに、山に入ると尾の生えた人物が岩を押し分けで出てきた。それぞれ、天津神の御子が来るというので、出迎えにきた国つ神だった。そして、奈良県の宇陀という場所にたどりついた。タケミカヅチから授かったこの霊剣、サジフツノカミは別名、フツノミタマ(布都御魂)といい、現在石上神宮に鎮座している。


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これが神武東征神話の概略である。戦前は史実として流布され、戦後は一転して全面的に否定された。辛酉年は紀元前660年にあたり、1月1日は太陽暦の2月11日にあたるとされる。神武天皇は、なぜ辛酉年に即位したと考えられたのだろうか。中国人の革命思想は、天地を支配する天帝は、人民の中から仁の心に富んだ男を選び、愚民を支配する権力を委任する。

天子は道徳的な力に満ちた男であるが、その権力を譲られた子孫はそうとは限らない。人民を痛めつける天子は、もはや天子ではなく、新たに自分が天子だと自覚する男が、これを殺すことが正当化される。これを革命(革令)といい、このうち、辛酉年には新しい王朝が建てられるという。ただし、60年ごとの辛酉年ではなく、60年の21倍の1260年ごとの辛酉年である。600年代はじめ、推古天皇の摂政だった聖徳太子を責任者として、国史の編纂が行われた。西暦601年が辛酉年であり、ここから1260年さかのぼった紀元前660年が、神武天皇の即位の年と計算され、日本書紀にも引き継がれたのである。神武天皇は、紀元前660年の人物であり、この時期は縄文時代とされているから、とても実在の人物とはいえない。産能大教授の安本美典説では、歴代天皇の平均在位数の計算から、天皇の在位期間は、過去にさかのぼればさかのぼるほど短くなる。そして一代の天皇の平均在位年数は約10年とする。これは日本だけでなく、中国の王の在位年数の場合も、西洋の王の場合も同じ傾向を示しているのである。


ここから導き出される結論は、神武天皇以後、全ての天皇が実在すると考えても、神武天皇の活躍した時代は280年から290年くらいにしかならない。つまり大和朝廷の一番初めは、邪馬台国の時代に届かないことになる。つまり大和朝廷の始まりは、邪馬台国以後である、ということになるのである。

これは、邪馬台国=弥生時代、神武以後=古墳時代という私の史観と合致する。わたしはこの「神武東遷」に象徴される、九州からの勢力が東へ東へと進み大和朝廷を築き上げたと考える説に賛同する。それは中国の文献や我が国の考古学の成果とも、今の所は一番合致していると考えるからである。しかし神武天皇に比定される人物、或いは一団が、ほんとに日向から来たのか、それとも九州の他の地域から来たのかまでは、まだわからない。

だが明らかに、弥生時代から古墳時代に移り変わる我が国の考古学上の状況は、西から新しい文化文明が東へ移ってきたことを示しているし、奈良盆地の中に縄文人が古くから住み付き、純粋な日本人として培養されて、やがて稲作を取り入れ、農耕具や青銅器を自分たちで考えたとはとうてい思えない。それらは明らかに西の九州から来たのであり、厳密に言えばそれは北九州で、更にその源は朝鮮半島であり、中国大陸である。そしてそれらは、散発的な移動はともかく、神武東遷に象徴される、北九州の一団によって近畿地方にもたらされたものとする考え方が一番合理的である。


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古事記・日本書紀に書かれている天孫降臨や神武東遷伝承が、大和朝廷の役人達によって机上で述作されたものであるという考え方は、全くの想像である。記紀が編纂されてから今日まで、そういう事を書いてある古文献は1点も存在しない。それを、述作されたものであるとか、創作されたものだとする考えは、完璧に主観的判断に基づいて、歴史をねつ造しているのと同じである。

歴史学者・考古学者たちの第二次世界大戦における敗戦のショックと、戦前・戦中を通じて、強権に確執を醸せなかった自らの贖罪を求める気持ちはよく理解できる。同胞が、戦時中に近隣諸国に対して行った行為に対して、それらの国々に対する謝罪の念も持って良い。しかし、そういったイデオロギーと学問の世界における真理の追究とは全く別物であるということに、もうそろそろ気づいても良い頃だ。古事記・日本書紀という、我が国最古の歴史書に書かれ、また多くの伝承を持ち、長きにわたって多くの研究がなされてきたこれらの日本神話が、戦後50数年間にわたって、歴史家によって殆ど無視され、語られもしなかった事実は全く異常としかいいようがない。教科書にも載せず、読み物にも書かれない今の現状では、やがて日本人は、自分たちの祖先が語った多くの神話と、その中にもしかしたら潜んでいるかもしれない歴史の核を、まるで理解できない、世界でも希有な民族になってしまう。


私は古代史を学んで、日本国家の成立を探り、天皇家の起源を探り、ひいては自分が誰なのかを探ろうとしている。それには、掛ければ色や形が変わって見えてしまう、イデオロギーというサングラスだけは絶対に掛けたくないと思う。
http://inoues.net/yamahonpen10.html


18. 中川隆[-13733] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:00:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460] 報告

八咫鏡とアマテラスの墓


糸島郡の平原遺跡 2014-11-02


平原遺跡 :糸島郡前原町平原

昭和40年糸島郡前原町平原(当時、現在は平原市)において、農作業の最中に多量の朱と共に大小鏡の破片等が発見された。

偶然の発見であったが、福岡県教育委員会はただちに原田大六を調査団長とした発掘調査団を組織し、調査・発掘が実施された。結果、遺構は東西十八m、南北十四mの長方形の方形周溝墓で、弥生時代から古墳時代にかけての遺構であるとされた。原田大六は、2世紀中頃であるとしている。

遺構の中央部には、割竹形木棺を収めていたと思われる痕跡もあった。

この遺跡からは、破砕された合計39面の鏡、ガラス・メノウなどの装身具、素環頭太刀等が出土し、鏡の枚数は一墳墓からの出土数としては我が国最多であった。

又、復元された内行花文鏡は直径が46.5cmもあり、これ又我が国では最大経の鏡であった。太刀等武具の少なさ、装飾品の豪華さ、それに鏡の多さなどから、原田は、この遺構を「伊都国の女王」の墓だと想定している。

平成2年には、平原方形周溝墓出土品が国の重要文化財に。さらに、平成18年には国宝に指定されました。

副葬品は銅鏡40枚、鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類が多数発見されていて、銅鏡のなかには日本最大級の直径46.5cmの内行花文鏡が5枚ありました。ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数も弥生時代としては日本一。

副葬品にネックレスやブレスレットなどのアクセサリーが多いことから、この墓に葬られた人物は女性で、特に超人的な力を持った女性ということで、卑弥呼の墓という説もあるほどです。


1号墓出土品(国宝)

大型内行花文鏡 4面(5面) 別称「内行花文八葉鏡」[3]、仿製鏡(日本製)、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡である。

内行花文鏡(内行花文四葉鏡) 2面

方格規矩鏡 32面、(鋸歯文縁方格規矩四神鏡が23面、流雲文縁方格規矩四神鏡が9面)

四螭文鏡 1面

メノウ製管玉 12個
ガラス製(瑪瑙:めのう)勾玉(くだたま) 3個、ガラス丸玉 約500個
ガラス小玉 一括(約500)
ガラス管玉 一括(30以上)
ガラス連玉 一括(約886)
耳璫(じとう、耳珠)3
素環頭大刀 1振
鉄鏃10
鉄やりがんな1
鉄のみ1
鉄斧1

 日本一大きな国産の内行花文八葉鏡四枚について、考古学者故原田大六(だいろく)はその図抜けた大きさと特異文様とが、伊勢神宮に関する種々の史料から内宮の御神体である八咫鏡( や たのかがみ)と同じものではないかと推察し、次のように述べている(『実在した神話』、学生社)。

「伊勢神宮の八咫(やた)の鏡と平原弥生古墳出土の大鏡は上述のように、寸法、文様ともに食い違ったところを見受けないのである。これがもし事実だとしたら、平原弥生古墳には大鏡の同型同笵鏡(どうはんきょう)が四面あることから、はじめは五面を作製したものの一面が伊勢神宮の御神体になっているといわれないことはない」

原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。

 森浩一氏も、この原田説を支持され、

「原田氏の生涯をかけての、この重要な研究が基本において修正を要しないとすれば、八咫鏡は弥生時代後期に北部九州で製作され、他の同類は破砕されたけれども、一面だけがはるばる近畿地方にもたらされたということになる」

と述べておられる(『日本神話の考古学』)。


 豊玉姫−玉依姫−イワレヒコ(神武)の系譜から、この鏡の製作の中心にいたのは母豊玉姫を弔(とむら)ったであろう玉依姫ということになる。

その玉依姫が、わが子神武の東征にあたって、鏡の一面を携帯させたとすれば、当然、大和朝廷においてその鏡は玉依姫の鏡として長らく宮中にあったに違いない。それが、

「崇神五年、国内に疫病多発、人民の大半が死亡、六年には国内大混乱。その原因としてこれより先、宮中にアマテラスと倭(やまとの)大国魂(おおくにたま)の二神の並祭が、お互い神威が強すぎることにあると思えたので、別々に祭ることにし、アマテラスは豊鋤入姫(とよすきいりびめ)に託して云々」

とある『書紀』に従えば、このときからアマテラスこと玉依姫の依り代である八咫鏡が、現在の鎮座地である伊勢へと至る長い巡幸が始まるのである。 

 その伊勢神宮内宮を見てみれば、アマテラスこと玉依姫の相殿に万幡(よろずはた)豊秋津姫こと豊玉姫が鎮座している。


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原田先生の報告書は『平原弥生古墳 大日霊貴の墓』

原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。


tokyoblog April 2015 八咫の鏡

「咫(た)」とは円周の長さの単位で、1咫=8寸、直径2.5寸の円周(円周率3.2)とされている。
八咫鏡とは直径2尺、46センチの鏡という事になる。

平原遺跡からは、まさに直径46センチの国内出土最大の鏡が4枚出土している。御統は勾玉や管玉などを緒に通して首飾りにしたもので、五百箇の御統とは、珠が五百箇ある首飾りという事になる。平原遺跡出土の首飾りを写真で数えてみると約470個の珠があった
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%E7%B3%B8%E5%B3%B6%E9%83%A1%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%80%81/

平原遺跡(ひらばるいせき)は、福岡県糸島市にある弥生時代後期のものと考えられる遺跡。 曽根遺跡群の一つとして、昭和57年10月、国の史跡に指定。平成12年10月追加指定。

平原遺跡は弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称である。 1965(昭和40)年1月、平原遺跡1号墓が偶然発見され、原田大六を中心に学術調査された。昭和63〜平成11年度にかけて、1号墓周辺に調査範囲を広げて、最終的に5基の墳丘墓が発見されている。 この遺跡は「平原歴史公園」として、1号墓のみが墳丘墓として復元管理されている。

1号墓からは直径46.5センチメートルの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、その全てが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年、国宝に指定された(文化庁所有、伊都国歴史博物館保管)。


1号墓は方形周溝墓で、割竹形木棺の埋納が検出されている。

その1号墓の副葬品の中には日本製と中国製の破砕した銅鏡片が多数あった。これらの破片は当初、39面分に復元されていた。

その後の調査の結果、従来4面に復元されていた直径46.5センチメートルの大型内行花文鏡の破片が実は5面分の破片の可能性があると指摘された。(前原市調査報告書)。このうち1面が九州国立博物館、4面が伊都国歴史博物館に展示されている。

1990年の重要文化財指定時には、銅鏡の員数は39面分とされていたが、上述の調査結果をふまえ、2006年の国宝指定時の官報告示では、銅鏡の員数は40面分となっている[1]。この数は1つの墳墓から出土した銅鏡の枚数としては日本最多である(2009年現在)。

なお直径46.5センチメートルの鏡の外周は鏡の円周の単位で八咫(やあた)あることから、八咫鏡と同じ大きさになる。

この副葬された多数の銅鏡片は「人為的に破砕されたモノではない」と発掘責任者の原田大六は主張している[2]。

学術調査時に、2〜5号墓からは青銅器類の遺物は発見されず、出土した土器や石器類などから弥生時代後期の墓と推定された。5号墓から発見されたとする銅鏡の鈕部分2個は、この破片が土中から発見されたことから5号墓の発見に繋がっていることによる。


主な出土品

1号墓大型内行花文鏡 5面(または4面) 別称「内行花文八葉鏡」[3]、日本製、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡。
内行花文鏡 2面
方格規矩鏡 32面
四螭文鏡 1面
メノウ製管玉12、ガラス製勾玉3、ガラス丸玉 約500、ガラス小玉 約500、ガラス管玉 約30、ガラス連玉 約900
耳璫 3破片
素環頭大刀 1


国宝指定名称は以下のとおり。

福岡県平原方形周溝墓出土品 銅鏡 40面分
玉類 一括
鉄素環頭大刀 1口
附:土器残欠、ガラス小玉、鉄鏃等 一括

5号墓銅鏡片 2


1号墓から出土した大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)を、その文様と大きさから原田大六は「八咫鏡」と解し、伊勢神宮の八咫鏡も元々は同型の鏡であったのではないか、との説を提示している[5]。『御鎮座伝記』に「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」とあり、この「八頭花崎八葉形也」の図象を持つ考古遺物は現在のところ、この「大型内行花文鏡」のみである。

1号墓は副葬品の多くが勾玉や管玉、耳璫(耳飾り)[6]などの装身具であり、武器類が少ないため、この墓に埋葬された人物は女性であると考えられている。 原田大六はこの平原1号墓の主を玉依ヒメとし、大日孁貴であるという説を提示している[5]。

1号墓の東南にある直径約70センチメートルの縦穴を、発掘調査した原田大六は、湧水の存在から井戸として報告している。この縦穴を「前原市報告書」は大柱跡(穴中の土壌成分未調査)として、墓から見て東南の日向峠の方角に位置していることから、この大柱跡は太陽信仰に関係するものとの説を提示している。

墓壙周辺の12本の柱穴の遺構について、原田大六は「銅鐸や弥生式土器などの絵画に見られる棟持柱を持つ切妻造の倉庫建築の柱の配置にこの柱跡の遺構が似ている」として、この墓壙周辺の12本の柱跡は「殯宮関係の建築物の遺構と考えられる」としている[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1

2008.9.28
邪馬台国の会 【特別講演会】 柳田康雄先生  伊都国と邪馬台国
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

1.伊都国と邪馬台国  柳田康雄先生

私は伊都国とは深い関わりがある。平原遺跡を始め数多くの遺跡の発掘に携わり、平原遺跡の巨大鏡を始め120枚以上の鏡を発掘した。

平原遺跡については発掘後20年以上になるが、ようやく報告書を刊行することができた。

今日は、これらの経験を踏まえて、邪馬台国に入る直前までの北部九州(福岡、佐賀)の状況について解説する。

■ 弥生時代のクニと国の出現

弥生時代の集落を村とすると、それを束ねているのを考古学で、カタカナで「クニ」 という。そして、この「クニ」が「国」に発展する。

現在、発掘が進んでいる早良(さわら)平野に、弥生中期の初め(紀元前200年前後)に 出現した遺跡があり、朝鮮半島の青銅器がはじめて副葬品として現れる。

そのなかの吉武高木遺跡は青銅器が副葬される率が高い。なかには、1人で銅剣、銅戈4本を持ち、小さいが「多鈕細文鏡」という鏡を持ち、勾玉を持つものがある。

銅剣を1本もっている集落が周辺にいくつか散らばっている。 この地域ではこのような銅剣は合計15〜16本出ているので、これは、吉武高木遺跡を中心に付近の村を統率した「クニ」が出現していたと考える。

弥生時代初期からある板付遺跡は福岡平野の拠点集落であるが、ここには弥生中期の初めに銅剣、銅矛7本が出てくる墳墓が出現する。しかし福岡平野の他の地域からは出てこない。

少し後の弥生中期の中ごろ以後、春日平野の須玖岡本遺跡に青銅器が集中する。青銅器を作る工房も集中する。ここでは銅鏡30枚、銅剣、銅矛が8〜10個出土した甕棺が出現する。

福岡平野は、中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。 博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在する。

発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。

30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。考古学では環濠集落でないと拠点集落と言わない風潮があるのはおかしい。

須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。

比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6〜7mの縦貫道路遺溝が出てくる。比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。

吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、この地域の遺跡と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、どんぐりの背比べである。

弥生中期の段階で首長墓が出てくる。弥生中期の終わりに、いままでは朝鮮半島との 交流ばかりであったが、福岡平野の首長墓から中国の鏡が出てくる。

これは全部前漢時代の 鏡である。三雲南小路遺跡からは1号甕棺と2号甕棺の合計で57枚の前漢鏡が出土した。

三雲南小路の1号甕棺は、金銅製の埋葬用の飾り金具(下図の8)が発見されている。これは、皇帝が王侯クラスに下げ渡した物で、1号甕棺が王墓であることを示している。


2号甕棺は22枚の小型鏡が出ているが、ペンダントや勾玉が多数出ていることや、武器がないことから女性の墓と考えられている。

なお、昔に発掘されたもので、金ぴかなものなど価値のありそうなものは持ち去られたりして申告されていない可能性がある。 このようなことも考慮しないと、出土物についての研究では誤る可能性がある。

井原鑓溝遺跡は江戸時代に発掘され、鏡の鈕が21個あったことから少なくとも21面の鏡があったとされる。鉄刀や鉄の鎧なども発見されていることから王墓級の墓である。ただし、大型鏡がない。


最近の発掘では、井原鑓溝遺跡から割竹型の木棺墓が発見され鏡やガラス玉が多数出土している。割竹型木棺は4世紀の前期古墳からしか出ないと言われていたが、伊都国では弥生時代後期のはじめから出る。

九州では甕棺が注目されるが、甕棺と同時に木棺がある。大阪の場合は河内湖があって、木材が水に浸かって残るので発見しやすい。しかし九州では大地の中だと木棺が腐ってしまうので発見しにくい。しかし、最近は技術の進歩で木棺が分かるようになった。

このように、弥生中期後半から後期の初めにかけて、北部九州は鏡をはじめとした副葬品をもった墳墓が大量に増える。しかしそれは伊都国だけである。福岡の奴国と言われているところからはほとんど出て来ない。

後漢からもらった金印が志賀島から出土したが、委奴国と彫られた金印の文字を「倭の奴国」と読んで福岡平野の国とすると、鏡が奴国から大量に出ないのはおかしい。金印の読み方はいくつか提案されているが、「倭の奴国」とは読まないのではないか。

吉野ヶ里からは鏡のかけらは出てくるが鏡が出て来ない。吉野ヶ里は福岡に持ってくれば普通の遺跡。福岡では土地の値段が高いので吉野ヶ里のような大規模な発掘はできないのが残念。現在の吉野ヶ里は宣伝などで過大に評価されている。そのため考古学者はそっぽを向いている。

■ 平原遺跡

平原遺跡の1号墓は王墓である。寺沢薫氏などの近畿の一部の考古学者も王墓と認めるようになった。

王墓もランクがある。鏡の大小や数だけでなく、いろいろな要素で決まる。

王墓には鏡がなければいけない。4世紀までの初期の前方後円墳の副葬品は鏡が主体である。

鏡を副葬品の主体とする墳墓は、弥生時代では三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡、平原遺跡だけである。

棺の主軸近くにある柱跡と、少し離れたところにある大柱の跡を結ぶ線を延長すると、日向(ひなた)峠に向かっている。

10月20日ごろの収穫の時期に日向峠から日が昇るので、何か関係があるかも知れない。

墓には長さ3mの刳抜式木棺があり、大量の朱が蒔かれていた。

頭と足の付近で大量に見つかった鏡の破片のうち、頭付近の破片は全て元の鏡に復元できた。

墓坑のコーナに柱穴の跡があり、木槨があった可能性がある。ホケノ山古墳と同じよう、副葬品は木槨の上から落ちてきているように見える。

出土した前漢鏡(上図左)は直径16センチもあり、この型式の鏡としては中国でもトップクラスのもので、楽浪郡でも見つかっていない。平原の王が中国の外臣の中でも上位として扱われた証拠であろう。

この鏡は、カドが丸くなっていて、周りがすり減っている。前漢末に作られたものが、平原の王の時代まで伝世されたものと思われる。

また、直径21センチの方格規矩四神鏡(上図右)は、京都大学の岡村秀典氏の編年では、漢鏡4期から5期の鏡で、1世紀前半から中頃のものとされる。

しかし、後漢の始めの鏡とすると、銘文は鏡の上から始まるのだが、この鏡では下側から始まっているのはおかしい。

また、後漢の鏡では四の文字を横棒四本で現すのが特徴であるのに、ここでは四の文字を用いている。

つまり、この鏡は岡村氏の言うような中国の鏡ではなく、日本で作られた製鏡である。

平原からは40枚の鏡が出土しているが、直径46.5cmの超大型内向花文鏡や、直径27cmの内向花文鏡も中国にはなく、製鏡と思われる。

平原王墓から、楽浪郡などでも出土するガラス耳(じとう:ピアス)が出てくる。

耳は女性の墓からしか出ないので、平原王墓の被葬者は女性であると判断できる。

耳は時代が降るに従って端部の広がりが少なくなり管玉のようになる。

平原出土の耳は端部の広がりがほとんど無く、後漢の終わり頃のものと考えられている。発掘主任の原田大六氏はこれを琥珀の管玉としていた。

平原王墓からは、ガラス連玉、ガラス小玉、細型ガラス管などが多数出てくる。

右図上段左の連玉は直径5ミリ長さ2センチほどのものだが、高度な技術で作られており、内側は薄い空色で外側が紺色の二重構造になっている。

平原王墓を始め伊都国の地域からは、加工途中のものを含め大量のガラス玉や小玉が出てきており、この地域が高い技術でガラス飾りや玉を製作していたことがわかる。

三雲の弥生終末の遺跡からファイアンス(ガラスの釉薬をかけた焼きもの)が出てきている。

ファイアンスは地中海地域が起源で、エジプト・メソポタミアや中国にもあるので、海のシルクロード経由で南方からもたらされた物である。

伊都国地域のガラス玉の技術も南方から海を経由して入ってきたものであろう。

■ 弥生終末から古墳時代

福岡市の那珂八幡古墳は九州で最も古い時期の前方後円墳である。前方部がやや長めだがその形から纏向型前方後円墳であろう。

このような古墳は小さいものを含め、福岡県には多数あるが、唐津を除くと佐賀県にはない。

弥生時代の福岡県の王墓・首長墓を、副葬品の数などの要素から5段階のランクを付けて表に整理してみた。

この表を見ると弥生後期では圧倒的に伊都国の地域に権力が集中していることがわかる。

北部九州の地域では、弥生王墓から初期の前方後円墳に権力が繋がっているのである。

近畿地方でもこのような表を作って検討して欲しい。近畿で前方後円墳が発生したとするなら、福岡地域のように弥生時代から繋がっていないとおかしい。

近畿地方の前方後円墳は、主体部の構造や副葬品については九州の影響を受け、円形に突出部がでた輪郭のデザインは吉備から東瀬戸内の要素である。

近畿の古墳は、独自に発展したものではなく、これらの地域の影響を受けて出来たものである。

弥生終末と古墳出現の時期はAD200年頃と考える。卑弥呼は2世紀の終わりごろ共立されたとすれば、その墓は古墳が出現した近畿の大和であり、卑弥呼の邪馬台国は古墳時代の近畿の大和にあったと考えられる。

考古学者の中には、邪馬台国は弥生時代にあったと考える人がいる。邪馬台国が弥生時代から存在したとすれば、首長墓のある伊都国しかその候補はない。

平原が卑弥呼の墓ではないかという話があるが、そうは考えていない。平原の被葬者は卑弥呼と親子関係なのではないか。


2.柳田先生の論点                             安本美典先生

邪馬台国論争そのものは、いずれ別の機会に行いたいと思うので、今回は論点の整理をしてみたい。

■ 考えの一致する部分と異なる部分

柳田先生は著書『伊都国を掘る』のなかで、原田大六氏の発言を引用して「考古学的事象は日本の原始・古代に関するかぎり、古事記や日本書紀の「神代」神話をさけて通ることは出来ない。」と述べているが、これについてはまったく同感である。

また、「これまで、多くの研究者が平原王墓を無視してきたが、そのために邪馬台国問題や古代国家形成で避けて通れない古墳出現期の諸問題の研究に多くの時間がかかった。今後は、古墳出現期の研究に対して、平原王墓を正面から評価し、その研究に取り組んで欲しい。」とする考えについても賛成である。

邪馬台国に関連する部分では、柳田先生の考えは「伊都国東遷説」ともいえるような内容である。すなわち、邪馬台国は大和朝廷の一時期の姿であり、大和朝廷は九州で発生し、邪馬台国時代以前に畿内に移ったと考えておられる。邪馬台国は畿内にあったことになる。

いっぽう、安本先生は、九州勢力が畿内に移ったのは邪馬台国時代の後であり、邪馬台国は九州にあったとする。

北九州勢力が畿内に移ったとする点では、柳田先生と安本先生の考えは同じであり、中山平次郎や和辻哲郎が述べていた「北九州の弥生文化と大和の古墳文化の連続性」や「大和の弥生文化を代表する銅鐸と、古墳文化の非連続性」は、このような考えと整合するものである。

骨組みの所で意見が異なるのは、北九州勢力が近畿地方に移動する時期の違いである。

■ 洛陽焼溝漢墓出土鏡の時期について

洛陽の焼溝漢墓の鏡の年代の、日本での紹介のされ方がおかしい。洛陽焼溝漢墓の鏡の年代は平原遺跡の年代にも関係する重要なことである。

下表は、奥野正男氏の『内行花文鏡とその製鏡』(季刊邪馬台国32号)による。ただし、後漢晩期の年代幅は、もとの報告書に基づき安本先生が訂正。

平原遺跡から、長宣子孫内行花文鏡が出土している。長宣子孫鏡は、焼溝漢墓では、第六期に最も多く出土する鏡である。

奥野氏は、第六期を後漢晩期として、後147〜160という年代幅を与えていたが、もとの報告書では、西暦190年の年号が記された入れ物から第六期の鏡が出土した記録があり、第六期は少なくとも190年まで時代を広げるべきである。

柳田先生は、平原遺跡を西暦200年ごろと見ておられるので、長宣子孫鏡が洛陽で190年ごろに使用されていたことと年代的には整合することになり、平原の年代についての柳田先生の見解に納得できる。

ところが、京都大学の岡村秀典氏は、平原遺跡でも出土した長宣子孫鏡を漢鏡5期とし、紀元75年頃の鏡としている。平原を200年ごろとする柳田先生とは、100年以上年代が異なっているのはおかしなことである。


3.対談                         柳田康雄先生 VS 安本美典先生

■ 平原遺跡について

安本: 副葬品から考えると平原遺跡を卑弥呼の墓と考えてもおかしくない。しかし、『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓は径100余歩と記されている。魏の尺度では100余歩は100m以上になるが、平原遺跡全体に土を持った墳丘としたとき100m以上になる可能性はあるのか?

柳田: 14m×10mくらいの方形周溝で区切られているので、まったく無理である。周溝があると言うことは、掘った土を盛り上げるので、もともとは墳丘があったはずだが、100m以上にはなり得ない。

安本:女性の墓か?

柳田: 弥生時代で一番大きな素環刀太刀が出てきているが、女性の墓からしか出土しない耳(じとう:ピアス)が出土しており、女性に間違いない。

また、女性の墓とされている三雲南小路2号墳と同じように、小型の鏡に色を付けて模様を塗り分けていることからも女性の墓といえる。

■ 三角縁神獣鏡と庄内式土器の初現

安本:柳田先生の著書に「現在のところ布留式土器より古い土器が伴い、確実に質のよい三角縁神獣鏡を副葬しているのは九州の前方後円(方)墳のみである。」という文章がある。これを素直に理解すれば、三角縁神獣鏡が出てくるのは、畿内より、九州の方が早いということになるが・・?

柳田: 土器で見ると、庄内式土器の一番新しい物と三角縁神獣鏡がいっしょに出るので、三角縁神獣鏡は九州の方が先に出現したといえる。

■ 庄内式土器

安本: 庄内式土器が畿内で発生したことを疑っている。九州の方が早いのではないか?

柳田: 庄内式土器は圧倒的な量が近畿から出る。古い庄内式土器は九州では少ないが三雲遺跡で若干出てくる。しかし、近畿の人はこれを新しいと言う。私も土器の編年についてはみっちりやってきたがどこが新しいというのか良く判らない。私が見ると古いのもあるのだが数は圧倒的にすくないのは確か。

庄内以前の土器は単体で九州に流れてくるが、庄内式土器からは高坏や壺がセットで出現する。ここに大きな違いがあるので庄内式土器から古墳時代に移る。

九州の古墳では、那珂八幡古墳などから庄内式土器の新しい物は出てくるが、古いものは出ない。しかし、近畿と違って、庄内式土器の新しいものと三角縁神獣鏡がいっしょに出てくる。

■ ホケノ山古墳

安本:庄内式土器や画文帯神獣鏡を出土したホケノ山古墳から、布留T式相当の小型丸底土器がでている。柳田先生も、土器の底部の形態変化は平底→凸レンズ状平底→とがり気味丸底→丸底という変化の方向であることを述べておられる。従って、小型丸底土器を出土するこの古墳は、かなり新しいのではないか?

『ホケノ山古墳調査概報』には、布留式相当の小型丸底土器と庄内式土器が同時期に使用された可能性が高いと記されている。そうすると、ホケノ山の庄内式土器の年代は、かなり新しい布留式土器の時代になるのではないか。

柳田: 当事者ではないので、確定的なことを言えない。一時、ホケノ山古墳は新しい布留式土器の時代との話もあったが、今年の2月の勉強会では、また古いとされているようである。

一般的に言えば、古い土器と新しい土器がいっしょに出たら新しい土器で年代を考えるのだが、発掘担当者などによる最近の勉強会では、ホケノ山のものは布留式土器の古いものが見つかったと解釈しているようである。

また、見つかった銅鏃は、普通にみれば布留式土器に伴う銅鏃であるが、これも、古い銅鏃という解釈をしているようだ。報告書をまとめる人たちは、古墳の年代を3世紀なかごろ以前と考えているようだ。

■ 伊都国と女王国の位置関係

安本: 『魏志倭人伝』には、女王国は伊都国の南にあることが、3回も書かれている。伊都国が糸島半島の国だとすると、その南の筑後平野は女王国の有力な候補であり、甘木や朝倉地域を邪馬台国の有力候補と考えている。

ところが、柳田先生の資料に「佐賀平野・筑後平野・筑豊地域などは邪馬台国の候補地どころか卑弥呼を共立した国にも含まれない」と書かれているので、甘木や朝倉は候補地ではないのか?

柳田: 考古学の立場で考えているので、初期の前方後円墳が出現していて、三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡が出ているところは候補地になる。

大願寺方形周溝墓、神蔵(かんのくら)古墳のある甘木・朝倉地域は、初期の前方後円墳が出現しているし三角縁神獣鏡も出ているので、候補地に含まれる。

文献学者は安本先生のような見方をする九州説の人が多いが、朝倉以南の筑後平野では、前方後円墳から三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡を出すところがないので、この地域が女王国だということは考古学的には証明出来ない。

■ 三種の神器

安本: 三種の神器が出てくる遺跡は須玖岡本遺跡、平原遺跡、三雲遺跡と言われたが、 すぐ南の東小田峰遺跡から璧がでているので、璧を玉と考え、剣、鏡も出土しているので、 三種の神器が出ているといえるのではないか?

柳田: 玉というのは勾玉ではないのか?

安本:璧という字は下に玉がついているので・・・

柳田:ははは、それなら認めます。(^_^)

璧を持っている三雲南小路や須玖岡本は最高ランクであるが、かけらを加工したものがその次に準じると國學院雑誌にはっきり書いた。

東小田峰遺跡では4分割以上したものを丸く再加工して璧に見せようとしている。更に璧のかけらを再加工して勾玉に見せようとしたものもあるので、東小田峰遺跡の例も勾玉と同レベルと考えて良い。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

19. 中川隆[-13732] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:02:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460] 報告
古代史の鍵・丹後 籠神社
太陽信仰もつ海人集団の拠点

「元伊勢」、伊勢神宮の成立に関与?

 京都府の丹後(かつての丹波)地方は、天女伝説や浦島伝説で知られる。近年、古代海部(あまべ)氏の系図が公表されたり、考古学的にも注目すべき遺物が出るなど、漁労や航海を生業とした海人集団による独自の歴史性が明らかにされつつある。

 丹後半島の東側、日本三景の一つ「天の橋立」の付け根に、「元伊勢」といわれる籠 (この)神社が鎮座する。祭神はホアカリノミコト(火明命)で、丹波国造が祖神として祭った。

 籠神社の宮司家は海部直といい、宮司家が長く秘蔵してきた二つの系図、通称「海部氏系図」「勘注系図」は、現存する最古の系図として、昭和五十一年に国宝に指定された。

 これら系図によれば、海部直氏の始祖、ホアカリノミコトをオシホミミの第三子とする。

 オシホミミは『古事記』によれば、天照大神の子である。一方、『新撰姓氏録』(九世紀成立)によれば、ホアカリノミコトは愛知県の濃尾平野に勢力を築いた雄族・尾張氏の祖神である。尾張氏の配下にあった有力な海部集団が、ホアカリノミコトを自らの祖神としたものらしい。


浦島伝説にちなんで名前の付けられた丹後半島の亀島

 籠神社にはまた、二枚の中国製の銅鏡も伝えられてきた。それぞれ前漢時代、後漢時代のもので、系図中にも「息津鏡」(おきつかがみ)「辺津鏡」(へつかがみ)と記されている。昭和六十二年に初めて公表され、弥生時代に招来されて以来、二千年にわたって伝世されたということで、大きな反響をよんだ。息は沖、辺は岸辺のことで、航海の安全に呪力をもつ鏡として祭られたものだ。

 銅鏡といえば、平成六年には、竹野郡弥栄町の墳墓から、邪馬台国の卑弥呼の晩年に相当する「青龍三年」(紀元二三五年)の年号がある銅鏡が発見され、卑弥呼とのかかわりも取り沙汰された。

 弥生時代の近畿地方には、銅鏡文化はほとんどなく、丹後の特殊性がうかがわれる。太陽信仰をもっていた海人集団の幅広い活動を示すといえよう。

 ホアカリノミコトは太陽神で、各地に鎮座するアマテル(天照)神社の祭神である。神話学の松前健氏は、もともとあった「アマテル」という神が、その格があげられて皇祖神である「アマテラス」となったのだと説く(『日本神話の形成』)。

 当時の海人集団の習俗をパノラマ的に描いたらしい土器がある。鳥取県西伯郡淀江町から出土した壷(弥生時代中期後半)だ。神殿建築のような高床式の建物があり、その右側の船には、鳥の装束の人物が乗っており、船の上には太陽らしい渦巻き(同心円)紋がある。

 さらに、左側の木には、瓜のようなものが二つぶら下がっている。金関恕・天理大教授 によれば、銅鐸であるという。千田稔・国際日本文化研究センター教授は、このパノラマ図について銅鐸をともなった弥生時代の太陽信仰を描いたものとし、アマテル信仰の 源流とみている。


息津鏡=籠神社・海部宮司家所蔵

 しかしこれがアマテラス信仰の源流であるかについては、さらに検討の必要がある。ホアカリノミコトは、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)のように、ニギハヤヒと複合で称されることがしばしばで(丹後の天照玉命神社もその一つ)、ニギハヤヒは物部氏の祖神の名であるからだ。

 物部氏は銅鐸を奉祭した氏族とみられ、実際、丹後には銅鐸が多く出土する。天ノ橋立に囲まれた阿蘇海に流入する野田川右岸の加悦町から、銅鐸形土製品が発見され、籠神社の東の由良川の上流には、阿陀岡神社が鎮座し、付近から二個の銅鐸が出ている。

 郷土史家の金久与市氏によれば「銅鐸出土地には必ずといっていいほど古社がある。海洋民の集団が由良川をさかのぼり、上流地点に銅鐸を祭祀し、祠を建立、拠点としたのではないか」(『古代海部氏の系図』)という。

 丹後町から西に向かう網野町の函石浜遺跡からは、中国の新時代の王莽によって鋳造された「貨泉」が発見されている。中国とかかわる交流を物語るものだ。

 平成十年には、王墓とみなされる墳墓(弥生後期〜末期)が籠神社から約三キロ西南で見つかった。美しい透明の青色ガラス製の釧で話題を呼んだ。他に、貝輪系の銅釧(く しろ)(腕輪)十三点、鉄剣十四本などが出土したが、これらは九州系の文化遺物である。

 銅鐸氏族・物部氏には、天磐舟(あまのいわふね)による降臨神話があり、先の壷のパノラマ図をほうふつとさせる。物部氏は航海、交易によって栄えた氏族だったといえよう。


 さて、この地を「元伊勢」というのは、天照大神が大和から伊勢に遷座する途中、最初に立ち寄ったのが、この籠神社だったとする伝承が、伊勢神宮に伝わる「倭姫命世記」(やまとひめのみことせき)(七六六年の成立という)にあるからだ。また、伊勢神宮外宮の豊受大神ももと籠神社奥宮の祭神で、八世紀に、丹後から遷座したと伝えられる。

 このように、丹後は大陸・韓半島に近いがゆえに、物部氏や海部氏をはじめとする海人集団の幅広い活動の舞台となり、アマテラスの伊勢への遷宮ともかかわりをもったと思われる。まさに古代史を解くカギが潜む地といえる。

http://tamagaki.exblog.jp/2992078/


京都府北部、丹後半島の付け根にある天橋立は、日本三景の一つに数えられる観光の名所ですが、天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社はまた、古代史ファンにはよく知られた神社です。

 1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表され、関係者の大きな注目を集めました。現存する日本最古の系図として、また、従来にない古代史の新史料として、思いがけないものだったからです。翌年にはさっそく国宝の指定を受けたのも異例のスピードでした。

 この系図には、なんと邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。最近、卑弥呼の墓の最有力候補として注目されている奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳、その被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っているのです。

 系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。

 「日神」とは、すごい呼び方です。太陽神のような扱いを受けた女性ということでしょうか。なんとなく卑弥呼を思わせるといってもいいでしょう。
 それに、「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」とある記述に完全に一致します。宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」の「大市」です。

 どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、彼女が卑弥呼であるらしい。つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。

 この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。

 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。

 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。

 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。

 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。


息津鏡(下)と辺津鏡(上) (c)gakken

 ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。

 前漢鏡の方は、近畿地方では出土例がまったくない貴重なものですし、後漢鏡の方も、近畿地方では破片で出ることはあっても、完全な形で出土したことはなく、やはり貴重な鏡といえます。

 驚くべき鏡が、代々神社の神宝(かんだから)として伝えられていたわけです。
 では、なぜ卑弥呼の名が籠神社の系図のなかに残っているのでしょうか。それが謎です。


古代丹後の鉄とガラス


 籠神社のある丹後半島周辺は、不思議な伝説が多いところでもあります。

 『丹後国風土記逸文』には、このあたりの漁師の若者が竜宮城を訪れる話、つまり、有名な浦島太郎の伝説が残っています。ほかにも、羽衣を奪われた天女が天に帰れなくなるという羽衣伝説、さらに、天橋立はもともとイザナギ命が天から通ってくる梯子でしたが、神が地上で寝ている間に倒れて天橋立になった、という伝説もあります。いずれも、天上界や海の彼方にある別世界と交渉する内容をもっているのが特徴といえます。

 籠神社の名前の由来も、神代に彦火火出見命(ひこほほでみのみこと・彦火明命の別名)が籠船で龍宮に行ったとの伝説があり、そのために昔は籠宮(このみや)といったようです。

   


 丹後はこのように、どこか神話的な世界の残る地方でもあります。籠神社のある宮津市の「宮津」とは、大きな宮のそばにある港という意味です。むろん籠神社を指してのことです。天橋立はもともと籠神社の参道だったからです。

 なお、丹後という呼び名は比較的新しいもので、古代には、現在の京都府と兵庫県の中部北部合わせた全部を丹波と呼んでいました。ところが、684年(天武13年)に丹波国から但馬国(兵庫県北部)が分けられ、713年(和銅6年)、丹波国の北部5郡が分けられて丹後国となったという経緯があります。

 弥生時代には、この丹後地方は列島のなかでもかなり特別な地域だったようです。何が特別かというと、弥生時代からなんとガラスや鉄製品が作られていたのです。それを物語る考古学の発掘が、この10年ほどの間に相次いでいます。
 特徴的なものをいくつかピックアップしてみると…

 まず、丹後半島中央部の弥栄(やさか)町、奈具岡(なぐおか)遺跡では、紀元前1世紀頃ごろ(弥生時代中期後半)の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっています。水晶やガラスを使って勾玉(まがたま)や管玉(くがたま)などを生産していた工房です。そのための道具としてノミのような鉄製品が作られていたようです。
 この遺跡の場合、出土した鉄屑だけでも数キログラムになるといわれ、大和や河内など近畿地方の中心部と比べると、「鉄の量としては桁違いの多さ」だといわれます。ましてや、鉄製品そのものが残されていたら、どれほどの量だったのでしょうか。

 驚くべきことに、このような玉造りが丹後半島では紀元前2世紀ごろから始まっていました。玉造りの工房のある遺跡が、丹後半島だけで十数か所見つかっています。

 当然、この地域の遺跡から大量のガラス玉が出土するケースも多く、大宮町の三坂神社墳墓群や左坂墳墓群など、ガラス玉の総数は1万点にも及ぶということです。全国の弥生時代のガラス玉のほぼ10分の1が、丹後から出土しているといわれます。


もう一つの先進地域


 次は、墓です。平成13年5月、宮津市の隣、加悦町の日吉ヶ丘遺跡からやはり弥生時代中期後半の大きな墳丘墓があらわれました。紀元前1世紀ごろのものです。30メートル×20メートルほどの方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさでした。

  墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかりました。水銀朱は当時としては貴重なもので、魔よけの意味があるといわれます。それがふんだんに使われていました。しかも、大量の管玉。墓に接するように環濠集落があるようです。

 この墓は、他の地域と比べてみると、あの吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代です。墓の大きさも、吉野ヶ里よりわずかに小さいだけで、しかも、吉野ヶ里の墳丘墓には十数体が埋葬されていましたが、日吉ヶ丘遺跡の場合はただ一人のための墓です。当然、王の墓という性格が考えられ、「丹後初の王墓か」と新聞などでは話題になりました。

 全国的に見ても、この時代にはまだ九州以外では王はいなかったと考えられていますが、丹後では王といってもよい人物が登場してきたわけです。


丹後半島の古墳公園(加悦町)


倭国大乱の原因となる鉄

 丹後地方は、弥生時代の終わりごろになってくると、今度は鉄製の武器を大量に保有するようになります。
 平成10年9月、携帯電話の中継塔を立てる目的で、籠神社から数キロはなれた岩滝町の天橋立を見下ろす丘陵の中腹を調査したところ、驚くべき出土品が多数見つかりました。これは大風呂南遺跡と呼ばれる墳墓群ですが、その中心的な墓(1号墓)から11本の鉄剣と、美しい青色のガラスの腕輪が出土したのです。墓の年代は西暦200年前後。

 ほかにも、銅の腕輪(銅釧・どうくしろ)が13個、大量の鉄製品や管玉、朱など、弥生時代の墳墓の常識を超えるものでした。
 なかでもガラスの腕輪は、国内ではこれまでに3例しかないうえに(福岡県で2例、丹後で1例)、どれも原形をとどめていませんでしたが、ここでは完全な形で出土し、透明感のあるコバルトブルーの輝きを放っています。被葬者が左手につけていたもので、権威の象徴です。

 11本の鉄剣も、墓の副葬品としては異例の多さです。弥生時代の墓に副葬される鉄剣は通常1〜2本ですが、11本というのは被葬者がいかに大きな権力を持っていたかをよく物語っています。しかも、時代は西暦200年前後、まさに邪馬台国が誕生した直後です。

 この墓の被葬者は、奈良県・纏向遺跡の石塚や、岡山県・楯突墳丘墓に葬られた人物と同じ時代に生きていたことになります。

 この時代の丹後の墓からは、鉄剣が大量に出土します。特別な立場にあるような人の墓ではなく、家長クラスの墓からも当たり前のように鉄剣が出てくるのです。おそらく軍事集団のようなものが存在していたのではないか、と考えられています。そうなると当然、軍事集団を束ねるリーダーがいたはずです。大風呂南遺跡の墓の被葬者は、そのような人物だったのではないか、と考えられています。


ガラス釧(腕輪)と銅釧 丹後郷土資料館蔵

 このように倭国大乱期から邪馬台国時代にかけて、列島のなかでどこよりも鉄を保有していたのが丹後です。その多くが鉄剣や鉄鏃(てつぞく・矢の先端部)など、武器として出土しています。

 弥生時代はかつて平和な農村社会と考えられていましたが、案外、戦いが多かった時代だと今では考えられています。各地の戦いで武器の主力が鉄器になってくるのは、1世紀ごろからです。そのころから、丹後の墓からも鉄剣が出始める。ちょうど1世紀ごろの王墓と見られる三坂神社3号墓からは、大陸製の鉄刀やりっぱな弓矢、豪華な玉飾りなど、経済的な権力を持った王の姿があらわれてきます。

 その後、2世紀後半から3世紀前半にかけては、上に述べたような状況で鉄剣がポンポン出てくきます。この時期に丹後の勢力がもっていた鉄は、キャスティング・ボードになったのではないでしょうか。これほどの突出した武力が、あの倭国大乱を引き起こしたのではないか、とさえ思えるのです。

  そう考えると、丹後(古代丹波)の勢力は、女王卑弥呼の誕生にも重要な立場を取ったに違いありません。邪馬台国の女王に卑弥呼を共立していく主要なメンバーに、古代丹波が入っていたのはほぼ間違いないでしょう。しかも、海部氏の系図に残る「日女命」の名は、卑弥呼がじつは古代丹波出身だったのではないか、と思えてきます。

 先進の技術によって蓄えられた力が、数百年をかけてピークに達したとき、そういう時代に合わせるように、ひとりの飛びぬけて神秘的な能力をもった女性が丹波にあらわれたのではないでしょうか。もちろん、その女性こそが卑弥呼です。

http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/index.html

十種神宝


十種神宝(とくさのかんだから、じっしゅしんぽう)とは、物部氏の祖神である饒速日命が伝えたとされる十種の神宝である。

『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の記載によるもので、饒速日命が天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする。『先代旧事本紀』には「天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)」と書かれている。

分類すれば、鏡2種、剣1種、玉4種、比礼(女性が、首に掛けて、結ばずに、左右から同じ長さで前に垂らすスカーフ様のもの)3種となる。これを三種の神器に対応させて、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説もある。

十種神宝の内容は以下の通りである。

沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)


布瑠の言

布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。

『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。

「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。

饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている。


十種神宝の行方

石上神宮の祭神である布留御魂神は十種神宝のことであるとする説もある。石上神宮に伝わる鎮魂法では「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱える。いずれにしても、十種神宝は現存していない。

本物か不明であるが、大阪市平野区喜連6丁目にある楯原神社内の神寶十種之宮に、偶然、町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られている。石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返していないという。

江戸時代、山崎闇斎は、垂加神道においては神秘的な意義の有るものとして、さまざまな口伝的著述を残した。

籠神社には、息津鏡・辺津鏡という2面の鏡が伝世している。十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明で、籠神社も特に見解は出していない。

秋田県大仙市の唐松神社には古史古伝のひとつである『物部文書』とともに奥津鏡、辺津鏡、十握の剣、生玉、足玉とされる物が所蔵されているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D



▲△▽▼

神武東征の物語
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/index.html

奈良県の神武天皇伝承地
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-15-3tousen2.html

古代史の復元 目次
http://www.geocities.jp/mb1527/mokuji.htm


20. 中川隆[-13731] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:05:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21460] 報告

巫女(みこ/シャーマン)
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/

御託宣(ごたくせん)の神・事代主(ことしろぬし)の神に始まるシャーマニズムに於いて「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。

当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。

巫女舞に於ける「神懸り」とは、すなわち巫女に過激な舞踏をさせてドーパミンを発生させる事で、神道では恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態の呪詛行為の術で、仏法では脱魂(だっこん)と言い現代で言うエクスタシー状態(ハイ状態)の事である。

現代に於いても人々に踊り好き祭り好きが多いのも当たり前で、ディスコダンスでも盆踊りでも夜明かし踊ればベータ・エンドロフィンが脳内に作用して疲れ心地良いダンシング・ハイの興奮状態を招く。

その最も初期に行なわれ、永く陰陽修験に伝え続けられた呪詛行為の術が、すなわち巫女に過激な性交をさせてドーパミンを発生させ、脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させ、セックスハィの陶酔状態にする。

そうした事で、巫女がオーガズム・ハイの状態(ラリル状態)に成れば、その巫女の様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸(かみがか)り」と成る。

日本の独自文化と言えば、この国では古来から女神が多いのだが、実を言うとその資格について現代では考えられない条件があった。

それは性交の儀式を執り行う事である。

歴史を知らない者にして見れば、「何で神聖な神社や巫女が性交儀式と結び付くのか?」と疑問に想うかも知れない。

しかし歴史にはその時代時代で必要な事情があり、また、歴史には前代から受け継がれる連続性の記憶がある。

弥生時代から古墳時代までの間、日本列島は縄文原住民族と渡来した多くの他民族・他部族が混在する人種の坩堝(るつぼ)だった。

その日本列島に在って、部族間の争い事に対処するもっとも有効な呪術は、次代が混血する為の性交に拠る人種的和合の「誓約儀式(うけいぎしき)」だった。

つまり異部族間の性交が人種的和合の為の呪術だったからこそ、巫女に拠る神前性交儀式や神前娼婦などの文化が残った。

これは理屈に合っていて、後の江戸末期に「公武合体」のスローガンの下に皇女・和宮を十六歳で徳川十四代将軍・家茂に嫁がせている。

つまり「誓約(うけい)」の概念の基本が、何百年経ても血の混血で在った事が、証明されている。

大和合の国(日本列島)黎明期の女神は、神の言葉を天上から受け取り、御託宣(ごたくせん)として下界の民に伝えるのが役目、つまり巫女(シャーマン)だった。

そこに介在したのが、神事として奉納する性交の儀式である。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、巫女の神前性交行事が神殿で執り行われていたのだ。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々に部族集団を形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。

そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

語呂合わせみたいな話だが、祀(祭・奉)り事は政治(まつりごと)であり、政治(まつりごと)は性事(せいじ)と言う認識が在った。

そして誓約(うけい)の精神こそ民族和合と言う最大の政(祭り)事であり、巫術と称するシャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。

理解して欲しいのは、当時の物差しが現代と違い、子宝を得る事も実りの豊穣を得る事も、同じ命を産み出す神の恵みであり、その作業を神の御前(みまえ)で執り行い奉納してご利益を願い、同時に巫女を通して神の声(御託宣)を聞くのである。

勿論民人も、只、巫女に何か言われても易々とは信じない。

巫女が神懸(かみがか)りに成って初めてその御託宣(ごたくせん)が信用される。

この御託宣(ごたくせん)を得る為のアンテナが、巫女の女体そのもので、オーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を巫女が彷徨(さまよ)う事に拠って、天上神の声が聞えて来るのである。

それ故に神事として奉納する性交の儀式が真面目に要求され、思想的違和感は無かったのである。

これも、もう少し掘り下げると、初期黎明期の征服部族長(氏族の長)の神格化に辿り着く。

当初は専門の巫女が居た訳ではない。

征服地の統治を容易にするには、民人が信用する絶対的な逆らえない武力以外の力が必要で、それは天上からの神の声である。

氏族長の神格化を進めるにあたって、氏族長を神と成し、屋敷を神域化して神社とすると同時に、その后妃(ごうひ/妻)を、シャーマン役の女神に任じ御託宣(ごたくせん)の能力を持たせる。

つまり女神は、氏族長の后妃(ごうひ/妻)であり、「氏族長(神)の言葉」を、后妃(ごうひ/妻)に御託宣(ごたくせん)させる茶番劇的な「ペテン・カラクリから始まった」と考えるのが合理的である。

それが段々に様式化されて行き、氏族長の后妃(ごうひ/妻)から性交の儀式を執り行う専門の巫女(シャーマン)に替わる。

その女体のアンテナで御託宣(ごたくせん)を得るオーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を、巫女が彷徨(さまよ)う為の儀式が、性交呪詛(せいこうじゅそ)と言う「術(すべ)」と成って陰陽呪術に発展、後に本書で記述する「人身御供伝説」への流れが形成されて行くのである。

定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。

その白拍子は源義経の愛妾・静御前で有名で、白拍子の為す遊芸も元は「神事音楽の巫術から」とされている。

その背景に在ったのは、正に巫女のシャーマニズムと性交呪詛が「誓約(うけい)誓約神話(うけいしんわ)」の古代信仰文化として深く関わっていた事に他ならない。

実はこれらの誓約神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

そのが多部族・多民族夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。

元々神道のお祀り(祭り)の意味の内には、異民族(異部族)和合と五穀豊穣の豊年祈願などの呪詛目的を含んでいる。

いずれにしても、巫女は神事としてお祀り(祭り/性交呪詛)に拠る神懸り(かみがかり/神霊降臨)の依り代(よりしろ/憑り代)を役目として負っていた。

そこから派生して、巫女が官人を接待する風習が出来上がって遊女の原型が生まれて行ったのではないだろうか?

現代科学に於いてもこのジャンルは存在を認めていて、エクスタシー状態(ハイ状態)とは恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態で、宗教的儀礼などでは脱魂(だっこん)とも解説される。

その宗教的儀礼に於けるエクスタシー状態の際に体験される神秘的な心境では、「神迎え又は神懸かり」に相応しくしばしば「幻想・予言、仮死状態などの現象を伴う」とされている。


尚、アイヌ語では「オイナ」と発音する女性(おんな)は中文(中国語)では女(ニュィ/ニョイ)と発音し、アイヌ語のオイナカムイ(oyna kamuy)は「巫術の神」と解釈するズバリ女神である。

その「巫術の神」は、アイヌラックル (aynu rak kur)で、人間・臭い・神 (つまり半神半人)であるから、原始神道に於ける巫女の原型かも知れない。

◆【性文化史関係一覧リスト】
http://miracle-jiyoudan.com/seibunka_yougo.html

をご利用下さい。

この文章は、

小論・【遊女(女郎)の歴史】
http://miracle-jiyoudan.com/yuuzyonorekisi.html


の一部として記載されています。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/


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そもそも巫女とはどういう存在かというと、「神と交わる人」だ。

ここで、「交わる」の意味が問題となる。 遠まわしな表現でいえば「神と一つになる」だが、それでもわからなければ「神と寝床を共にする人」だ。 だから、「神」が男神であれば巫女は女性であり、女神であれば逆になる。 そして人は「神の子孫」となる。

もちろんこのような話は、王室の正当性を主張するために作られる神話だ。

吉野裕子さんによると、古代の日本は蛇信仰のメッカだったという。 そして、吉野論の極めつけは、「日本人は蛇の落とし子である」というものだ。日本人は古来より、蛇に対して畏敬の念をもつと同時に強烈な嫌悪の対象として見るという、アンビバレントな感情を抱いていた。

だから蛇に対する信仰は、多くの場合は隠された形で、隠喩として示されてきた。
だから、その謎を解明するのは困難を極める。蛇信仰が縄文時代からあったことは、縄文土器に多く見られる蛇の形からもわかる。

だが、吉野説では、その「縄文」自体が蛇とかかわりがあるという。


さて問題の蛇巫の話だ。

吉野裕子著の『蛇−日本の蛇信仰』では、「蛇巫の存在」として1章を当てている。

そこで吉野は、『常陸風土記』のヌカヒメ伝承と大和の「箸墓伝説」、つまり大物主神とヤマトトトヒモモソヒメ命の神話を比較して、この二つに見られる共通点を以下のように挙げている。


 蛇巫が夜ごと、神蛇と交わること。

 幼蛇を生むこと。

 幼蛇を小さい容器の中で飼うこと。


先に、巫女とは神と交わる者だと書いたが、それに習えば、蛇巫とは「蛇と交わる者」ということになる。吉野は他にもいくつかの例証をあげ、以下のように結論づける。

日本古代蛇信仰では、神蛇とはまず人間の巫女と交わることをその第一義としたから、「祭り」とは要するに巫女による蛇との交合であったとさえ思われる。

また、、太古の諏訪大社の主祭神であったと思われるミシャグチ神についても、諏訪大社の代々の最高神官であった大祝(おおはふり)はミシャグジ神の蛇巫だったとしている。

諏訪大社ではたしかに蛇あるいは龍神とのかかわりが密のようであり、そのことは現在の諏訪大社の主祭神である諏訪大明神つまり建御名方神においても受け継がれているようだ。
http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20041009/1202903595


何者かと深くつながるとき、たとえそれが神という存在であっても、結婚という形をとるのですね。 神に所有されるというのとは、やはりニュアンスは違うようです。

人の痛みを知るため、自らを不幸の中に置くというよりも、逆に神との結合・一体化のエクスタシーを通じて、神の意図をダイレクトに感じ、知るという面が強いようです。

実際、ここで紹介した根間さんが神とつながったときの表情は、非常にエロチックに見えました。 一般人である我々には理解しがたい境地ですが、案外その歓喜を知ってしまったら、かえって人間の男では到底満たされないのかもしれません。

おそらくは、離婚されたカミンチュの方々も、もともと人間の男性には満たされていなかったのではないか、とも思います。

一つ確実に言えることは、宗教的感性とは、本来決して反性的なものではなく、非常にエロチックなものであるということです。

とくに、インドの神々のエロチックさったらないですね。
http://kohocounsel.blog95.fc2.com/blog-entry-55.html



21. 中川隆[-13731] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:49:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463] 報告

神社は支配の道具か、縄文の残存か
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3366.html

第3回は神社を扱います。

神社といえば日本古来から存在していたように殆どの人は思われているでしょうが、神社の本質は渡来人が土着縄文人や混血した弥生人を支配する手法であり税を徴収する役所機関です。また神社は地域と密着し、一部には裏情報を収集する諜報機関としても存在していました。そんな神社がなぜ縄文体質の史的足跡になるのか?そこに絞って言及してみます。

やはりどうしても触れておきたいのが神社が作り出す環境です。或いはどのような環境に神社が存在しているかです。

全ての神社に大小あるのでしょうが、最も特徴的なのが三輪山を抱える大神大社です。日本最古と言われる三輪神社は鳥居こそありますが、境内は山そのもので、人々は山に向って拝み、祈ります。

今でも三輪山は神社の所有地で山に存在する木も石も土も持ち出すことは禁じられています。倒木も腐って土に帰るまで何十年も重ねて放置されています。山の全てに神が宿っているからです。神社とはその始まりにおいて縄文人が持っているアニミズムを取り込み、形にしたのです。例えそれが渡来人の意図であっても、逆に言えば渡来人が縄文人に同化する上でアニミズム信仰は進んで取り込み、縄文人もまた渡来人を神社を通じて渡来人を巻き込んでいったという見方もできるかもしれません。

この三輪山と同様の古代の神社は各地に大和時代〜奈良時代にかけて多く作られていきます。その代表が、出雲大社、伊勢神宮、諏訪大社です。いずれも巨木と深い森の中に存在しています。

もう一つは縄文の性です。渡来人は縄文人と婚姻、混血する際に神社を使ったと言われています。

それが巫女であり、誓約の儀式です。縄文が性を肯定視していた事と、神社を仕切る巫女、これらが大量の渡来人を受け入れながら縄文体質を残し続けた象徴的な儀式と言えるかもしれません。


アニミズム(精霊信仰)の歴史@

アニミズムが神社に発展した事例を紹介したい。

後のヤマト政権の時代になって、大己貴神などの「国津神」が加えられ主な祭神となる

・奈良県の三輪山 ⇒ 大神神社(おおみわじんじゃ)
・滋賀県の山の神・大山咋神信仰 ⇒ 日吉大社(ひえたいしゃ)
・島根県の磐座信仰 ⇒ 出雲大社
・長野県の土着の神々(蛇神、木霊など) ⇒ 諏訪大社(すわたいしゃ)
・埼玉県見沼の水神 ⇒ 氷川神社(ひかわじんじゃ)
・神奈川県の神山(駒ケ岳山頂) ⇒ 箱根神社
・長野県の地主神・九頭龍信仰 ⇒ 戸隠神社(とがくしじんじゃ)
・富士山の神霊信仰 ⇒ 富士山本宮浅間大社
・島根県の火を祀る信仰 ⇒ 熊野大社
・和歌山県熊野地方の太陽神、水神、木神 ⇒ 熊野本宮大社
・奈良県吉野の水神信仰 ⇒ 丹生川上神社(上社、中社、下社)


名だたる古社のルーツは、ほぼ全てがアニミズムです。
これらの古社は、次のヤマト政権になってから「神社」化されていくようになります。


古代日本の月信仰と蛇信仰、その変遷

■日本古代の祭り

日本の古代の祭りは、概ね二つの類型があるようである。
一つは男女の祖霊神としての蛇を何らかの方法で現出させる様式。例えば藁や縄で作られた蛇を祀る等。現在も豊年祭で使われる雄綱、雌綱はその好例である。もう一つは男祖霊神である蛇と巫女との交合により巫女が神を身ごもり、籠もり(こもり)の儀礼の後、神として現出する様式である。つまり蛇との交合、受胎、出産を儀礼化させたものである。この場合、概ね男根と蛇の象徴として蔓の絡まる御神木や、山を蛇がとぐろを巻いている姿を蛇に見立てているものが多く、こちらの祭りが多数を占めていた。

これらは満月の夜に行われていたとされる。

実際神社の出来る前の古神道に於いては、蛇や山そのものをご神体としているものが多い。

例えば三輪山(大神神社)、出雲の佐上神社(神事で海蛇を奉納する)、諏訪大社(冬眠中の蛇を奉納する)等が上げられる。

また 物部氏は日本における強力な蛇信仰の担い手であったと推測され、物部氏の子の天語山(あめのかごやま)命(のみこと)は別名、高倉下(たかくらじ)と呼ばれた。この高倉とは高床式の倉であって、倉は富の象徴であった。高倉は鼠害から穀類を守る設備なので、そこには鼠の天敵としての蛇、あるいは蛇を象徴する蛇行剣が祀られていた。蛇が祀られている倉は、その意味でも住居の守護神的存在となるが、これらの理由から、穀倉が神社の起源になっていったようである。


諏訪と縄文 〜なぜ諏訪が人々を惹きつけるのか

諏訪を今日まで縄文的な聖地として確定させたのは諏訪大社の存在です。この大社は数ある日本の神社の中でも最古と言われており、建立時期もあきらかになっていません。

おそらくは弥生時代前期〜中期、紀元前200年〜紀元後100年くらいの時期に一番旧い社屋ができていると言われています。大社と言われる神社はおそらく縄文人と弥生人との合作、原点の神社です。諏訪大社は中国から渡来した出雲族が土着の諏訪人と融合し、作り上げた神社と言われています。諏訪大社には4つの神社が諏訪湖を囲むように存在していますが、各神社は御柱4本が神社の4隅に建てられ、杉の柱で囲まれた領域を聖なる地として領域付けられているのです。

さらにこの御柱を7年毎に新しい柱に交換する、御柱祭りは現在も活き続けています。

2010年には3人の死者を出しながらも現在も続けられる御柱祭り。

現在でも諏訪に在住の普通の人々が祭りを作り運営している。諏訪の人々は7年に一度のこの祭りの為に生きているというくらい、祭りは人々の生活に入り込み、祭りを中心に多くの民が暮らしているのです。祭りと言えば祇園、ねぶた、天神など大きなものは日本中にたくさんありますが、この縄文由来の祭りが今もほとんど変わらず行われている、そんな地は他にはありません。


【誓約(うけい)】

この国には、二千年の永きに渡り特殊な性文化が存在した。

元を正すと、縄文末期に日本列島に数多くの征服部族が渡来して縄文人(原住民・/エミシ族)を征服し、それぞれが土地を占有して小国家を打ち立てた。

その征服部族の出身が、中国大陸から朝鮮半島に到る極めて広域だった事から、被征服者の縄文人(原住民・/エミシ族)を含めそれぞれが対立したこの環境を、武力を背景にした強姦や性奴隷化ではなく、双方の「合意に拠り創り出す知恵」が、誓約(うけい)だったのである。

太古の昔、人間は小さな群れ単位で生活し、群れ社会を構成した。

その群れ社会同士が、争わずに共存するには性交に拠る一体化が理屈抜きに有効であり、合流の都度に乱交が行われて群れは大きくなって村落国家が形成されたその事情が、仲間として和合する為の誓約(うけい)の性交を産みだしたのである。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々(それぞれ)に部族集団を多数形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

(中略)

異民族同士が、簡単且つ有効に信頼関係を構築して一体化する手段は一つしかない。

それは、性交に拠り肉体的に許し合う事に拠って究極の信頼感を醸成し定着させる事である。

その結果は明らかで、次代には混血した子孫が誕生する。

「誓約(うけい)」とは、一義的には性交を伴う現実的和解であり、結果的に両部族(両民族)の子孫が融合して新たな部族(民族)を創造する事である。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3366.html

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東漢氏の遺産・「祓いの神道」


梅原猛は、その著「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)の中で、「祓いの神道」は初めて天武天皇によって開始されたが、それは東漢氏の遺産によるものだと言っている。詳しくは「飛鳥とは何か」(1986年6月、集英社)を読んでほしいが、その要点のみここに紹介しておこう。梅原猛は、次のように述べている。すなわち、

『 平城遷都とともに、まさに、飛鳥の時代は完全に終焉を遂げるのである。後に、東漢氏の中にただ一氏、坂上氏が栄えたが、それは、武人・坂上田村麻呂を出現せしめたことによってである。東漢氏は、文化的指導力を失って、武人として生き残ったのである。(岩井國臣の注:梅原猛は丹波康頼に眼がいっていないのは残念である。阿知王の子孫は、坂上氏と丹波氏がずっと歴史を通じて文化的指導力を発揮したのである。丹波氏のこと、医心方のことを忘れてはならない。)』

『 こうして、飛鳥はと遠くなったが、私は、不比等、というより藤原氏は、東漢氏から実に重要なものを受け継いでいると思う。それは、「祓いの神道」である。われわれはふつう日本の神道というと、祓いのことを考えるが、祓いは、けっして昔から日本の神道の中心的行事ではなかった。』

『「大宝令」の施行とともに、この祓いの行事は、もっとも重要な国家の神事の一つになったのである。この定例の祓いの神事に、東漢氏は西漢氏とともに重要な役割を演じるのである。』

『 まず、東西の漢氏によって祓いが行われ、次に文武百官を集めて、中臣氏によって祓いが行われるのである。この東西漢氏の祓いと、中臣氏の祓いの言葉が、「延喜式」の祝詞(のりと)に残されているが、東西漢氏の祓詞(はらえごと)は漢語であり、中臣氏の祓詞(はらえごと)は和語である。東西漢氏の祓詞(はらえごと)次のようである。「謹請、皇天上帝、三極大君、日月星辰、八方諸神、司令司籍、左東王父、右西王母、五方五帝、四時四気、捧以禄人、請除、禍災捧以金刀、請延帝祚、呪曰、東至扶桑、西至虞淵、南至炎光、北至弱水、千城百闕、精治万歳、万歳万歳」』

『 これは、明らかに道教の神事であろう。東西漢氏は、これを漢語で読み、人形(ひとがた)を捧げて、天皇の身のけがれを除き、金刀を捧げて、天皇の齢(よわい)の長久を祈る訳である。祓いの儀式の一つの目的は、明らかに、天皇の長久を祈るためである。しかし、それに尽きないところに、祓いの神道の政治的性格がある。中臣の祓いは、文武百官を集めて行われるところに、その意味がある。親王以下文武百官を侍らせて、祓いがなされ、神の言葉が告げられる。皇孫が天降りましましてから多くの罪が出たが、この罪を、この六月の晦(つごもり)、あるいは十二月の晦(つごもり)を期して、水に流してやる。それゆえに、購(あがな)いを出せ。これを私は、国家による司法権の確認の神事であると思う。』

『 このように不比等は、東漢氏の伝える道教の儀式を、律令の精神によって改造して、「中臣の大祓の祝詞」なるものを作成し、そして、それに基づいた記紀神話を創造したと思われるが、この祓いに刑罰を含ませる事は、おそらく天武帝から学んだのであろう。』・・・と。
http://iwai-kuniomi.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/post-db00.html


【天武天皇】

日本書紀の天武紀を見ますと、第四〇代天武天皇(在位六七三〜六八六年)の和風の諡は、「天淳中原瀛真人」(あまのぬなかはらおきのまひと)といいます。

「天淳中原」は沼の中の原ということで、天武天皇が水沼を開拓して飛鳥浄御原宮の都づくりをしたことに由来しています。

瀛州は東海に浮かぶ神山の一つです。八色の姓の最上位は真人であり、真人は仙人の上位階級になるので、天皇も道教の最高神に近い存在であることを示しています。

ここに天武天皇の宗教観に道教の要素がみられるのです。

「天皇は神にしませば」と詠まれるときの神は、神仙思想の神のことを指し、仙人の上位にいる存在であったのです。天武天皇は天文遁甲を重視していたことがわかります。この道教への関心は天武天皇だけではなく、母の斉明天皇に顕著にみえます。天武天皇の没後以後は、日本の道教と神道と分かちがたく融合し、独立には存在していないといいます。ただし、影響をどこまで大きく評価するかは見方が分かれるところです。(『日本の古代』6、鎌田元一稿、五三頁)。

天武天皇などの名称は漢風の諱で八世紀の後半ころにつけられました。この「真人」とは道教でいう勝れた道士とか覚者の呼称です。陶弘景は神・真人・仙人の三階級を説き、それぞれは七または三に分け、これらのランクに対応して天宮を説きます。最高の宮殿は玉清宮で、中央にあるのは元始天尊(虚皇道君)です。

また、真人とは現人神のことで、悟りを開いた神仙のことです。後漢になりますと天上世界の最高神となります。この「天皇大帝」は北極星を神格化したものです。紀元六世紀に老子の「元始天尊」が説かれますと、この新しい最高神である「元始天尊」に移行します。つまり、日本の天皇に道教の影響が伝わっていたということです。「天淳中原瀛真人」の「瀛」というのは司馬遷の『史記』始皇本紀に、仙人がすむ東方海中の三神山の一つです。三神山は蓬莱・方丈・瀛州(えいしゅう)のことで、瀛州にすむ真人という諱が送られているのです。理由は風神を祭った竜田の風神の祭祀や、占星占台を作る道教の行事を行っていることに関係しているといいます。

天武四(六七五)年に始めて占星台が置かれます。『日本書紀』に天武天皇は「天文遁甲を能くす」とあり、これらの基盤に八門遁甲や天文占星を使いこなしていたことがわかります。天武天皇が式占に通じていたということは、式盤(ちょくばん)のような占具や占法を記した易書が輸入されていたことになります。式盤の現物は北朝鮮の平壌府の近郊にある漢代楽浪郡治の遺跡から発見されています。(村山修一著『日本陰陽道史話』四〇頁)。

また、天武天皇は伊勢の日神を天照大神としてあがめ、天武三年に大来皇女を伊勢に遣わして祭祀にあたらせています。一方では鎮護国家の経典として『金光明経』を重視していました。神道と仏教をその目的に向かって両立させていました。天武天皇と天照太神は強い結びつきがあります。

神道の振興は外来文化の浸透に対抗する、日本の民族意識を高揚させるためであったといいます。結論的には、天武天皇は日本古来の豪族の信仰を重視し、地方的な祭祀の一部を国家の祭祀に引き上げたのが天照太神といえます。しかし、各地豪族の祭祀をそのまま容認することではなく、天皇家が祖神とした天照大神の下位に、各地の神を位置づけ体系化することにありました。つまり、天皇権力の強化の指標でもあったのです。

この条件のもとに各地の神社・祭祀は保護されますが、引き換えに国家の管理に服すことを余儀なくされたのです。こういう情勢のなかに古代の国家神道が形成されました。天武天皇は伊勢神宮を日本の最高の神社とする道筋をつけたのです。天武天皇が天照太神を祭祀した由来は「壬申の乱」にあります。

『日本書紀』に「壬申の乱」のとき伊勢に入った大海人皇子は、途中の迹太川(朝明川)のほとりで伊勢神宮の方角に向かい天照大神を望拝したとあります。

古代の伊勢神宮は「私幣禁断の制」があり、皇族であっても私的な参拝や奉幣はできませんでした。天武天皇が陣中から望拜しただけではなく、戦勝祈願のため使者を神宮に使わしたとも言います。(萩原龍夫編『伊勢信仰』T、六二頁)。

天武天皇は式占と呼ぶ仙術に通じていたといいます。式は栻(チク)とも書き、楓子棗の心木で作り回転して吉凶を占う陰陽道の用具です。伊賀国を通過するとき黒雲が十余丈にわたって天になびいたのを見て、式占により天下が二つに分かれる兆候であること、そして、自分が勝利すると占ったといいます。楽浪の遺跡から式が二個発見されており、方円の二枚の小薄板で表面に黄粉を塗り朱線で輪郭を書いています。

円盤は径が九a、北斗七星を朱画し一二月神名・十干十二支を墨書し、方盤は一三、四a、墨で八卦・十干十二支・二十八宿を配列し、方盤の上に円盤を重ねて使用します。(金指正三著『星占い星祭り』五五頁)。この『日本書紀』の天照大神望拜の記事は、『安斗智徳日記』を基に書かれたといいます。安斗智徳は天武天皇に従って吉野を出発した舎人の一人です。

ここから天武天皇における天照太神と伊勢神宮の創立が始まります。

伊勢神宮は陰陽五行説を導入した当初の姿を今に伝える重要な宮といいます。

天武朝の思潮は星の信仰と五行の理の応用の二つに分けられ、星の信仰は主として仏教に吸収され、五行の理の応用は神社の祭祀に下降していったといいます。(吉野裕子著『陰陽五行思想からみた日本の祭』三六九頁)。

ただし、一説には天武天皇が望拜したのは天照太神ではなく、滝原の地で祭られていた伊勢大神であるともいいます。この解釈においては、天照大神の出現は伊勢大神からの移行ではなく新しい神の創出であるとし、伊勢大神を望拜したが伊勢大神を通して天照大神にであり、その神は名前も無くいわば原初の天照大神であるとします。そして、この根拠は仏教にあるとします。

欽明天皇の仏教受容いらい、傍観中立の立場をとってきた倭王家でしたが、始めて仏教受容に踏み切った舒明天皇の子として生まれ、出家した経歴をもっていたのが天武天皇でした。つまり、『金光明経』(正論品)の帝王神権説を基にして、天照大神を祖神とする神統譜がつくられたとします。

天照大神は三十三の諸天=神になぞらえられたのであり、その子孫である天孫・皇孫は天護によって天子となったとのべます。天皇=明神=現人神の思想的根拠となります。(田村圓澄著『伊勢神宮の成立』一一八頁)。

道教の天皇・地皇説と『金光明経』の正法治世説の両者が融合されたことになります。

「壬申の乱」が終わり天武元(六七二)年九月に飛鳥京に帰ります。まず嶋宮に着き数日後に岡本宮に移ります。岡本宮は斉明天皇の後飛鳥岡本宮です。そして、翌六七三年二月に即位します。近江朝廷に従った豪族が排除され、皇后の鵜野皇女(持統天皇)や草壁・大津皇子などの皇族を重用し、その下に豪族を位置づける皇親政治を行います。そして、味方となった美濃の尾張氏(熱田神社)、鴨氏(賀茂神社)、三輪氏(三輪神社)などに、功績により伊勢神宮・熱田神宮として国家から擁護され、三種の神器の賦与がこの二神宮におこなわれました。(西野儀一カ著『古代日本と伊勢神宮』二三一頁)。

即位後の一番初めの新嘗祭を大嘗祭といいます。天武天皇が最初(次の持統天皇とも)に始めます。新嘗祭は一一月下の卯・辰の二日間の行事で常設の神嘉殿を祭場としますが、大嘗祭は卯の日から午の日までの四日間行います。大嘗宮を臨時に増設して祭場とします。二日目の辰の日には中臣寿詞(よごと)の奏状や、忌部による神器の鏡剣献上という即位儀そのままの儀式があります。(『神道史大辞典』六二七頁)。

大嘗祭において天皇は新穀を神と共食したのち、神座に莚と薦を重ねてとじた褥(しとね)を巻いて作られた坂枕を寝具として、その床に籠もる儀礼を行います。この寝具を天孫瓊瓊杵尊が降臨するさいに覆われていた真床追衾に比定し、天皇がこれに籠もることによって、天孫の霊を獲得することができるとします。(折口信夫稿「大嘗祭の本義」『古代研究』民俗学篇)。

このような床に籠もる儀礼が特徴です。美園古墳(大阪府八尾市。古墳時代前期末から中期初頭)出土の家形埴輪は床を持つことから、新嘗祭を行う建物を表現しているといいます。豪族居館のハレの場の中心となる建物には床が設けられていたのです。(『日本の古代』5、辰巳和弘稿、三七六頁)。また、六七四年に斎宮制度の復活として、娘の大来皇女を伊勢神宮に送り、初代斎王として仕えさせます。四年二月一三日には娘の十市皇女と天智天皇の娘阿閉皇女(元明天皇)が伊勢神宮に参詣します。

天武天皇の没後の七〇一年(大宝元年八月三日)に大宝律令が施行されます。六八一年に天武天皇は律令制定を命ずる詔を発令し六八六年に没します。持統天皇の三(六八九)年六月に飛鳥浄御原令が制定されます。この令は律がなく国情に適さないものでした。

律令選定に携わったのは、刑部親王・藤原不比等・粟田真人・下毛野古麻呂などで、藤原不比等は天智天皇から藤原朝臣の姓を賜った藤原鎌足の子です。

文武天皇二(六九八)年に不比等の子孫のみが藤原姓を名のり、太政官の官職に就くことができました。不比等の従兄弟たちは中臣朝臣姓とされ、神祇官として祭祀のみを担当します。不比等は氏寺の山階寺を奈良に移し興福寺と改めます。

大宝律令において初めて日本の国号が定められたように、白村江の敗戦を契機に進められた大きな国家事業でした。これにより、天皇を中心として二官八省(太政官・神祇官の二官、中務省・式部省・治部省・民部省・大蔵省・刑部省・宮内省・兵部省の八省)の官制を骨格にした中央集権統治体制が成立します。天皇は律令的な官僚機構に裏付けられた王権となったのです。

二官は国政を総括します。神祇官(カミツカサ・カムツカサ)の淵源は、推古・舒明朝ころの祭官である中臣氏が担当しています。中臣氏は従来の物部・忌部氏に代わって、宮廷祭祀を担当した新興氏族でした。中国の皇帝に対する日本の天皇の特徴は、祭祀に大きな役割がかかっていることです。そのような天皇像をつくりだしたのが、律令の立法者である藤原不比等(六五九〜七二〇年)にほかならないといいます。(『日本の古代』一四、佐藤宗諄稿、一二頁)。

伊勢神宮の式年遷宮開始年については、天武天皇一四(六八六)年、持統天皇二(六八八)年などがありますが、持統天皇四(六九〇)年に第一回が行われたとされます。注目すべきは同三(六八九)年正月に吉野に行幸を始めたことです。

方位のうえで内宮は熱田神宮と吉野宮までの距離が同じです。外宮は断夫山古墳と吉野宮までの距離も同じです。伊勢神宮の内外宮ともに吉野宮とつながる方位なのです。「高天原広野姫天皇」の諡号は、高天原の女神である天照太神になぞらえたことです。天武天皇一四年一月二一日に冠位制定がなされ、二月四日に大唐人・百済人・高麗人の併せて一四七人に官位を与えています。藤原京造営に関わるものとされますが、伊勢神宮の遷宮にも関わっていたといいます。

百済王氏への位階授与と賜姓は百済系渡来人に結束をもたらし、大仏造立にあたり藤原仲麻呂と関与していきます。(大坪秀敏著『百済王氏と古代日本』一三三頁)。持統五(六九一)年に呪禁博士木素丁武・沙宅万首に銀二十両を賜っています。翌六(六九二)年二月、伊勢行幸に先だって、陰陽博士沙門法蔵・道基に銀二〇両を賜っています。

これは、行幸の安全や神宮祭祀など、政策における褒美といわれます。先には、天武天皇三(六七四)年八月三日に、石上神宮に忍壁皇子を遣わして神宝を磨かせています。同四(六七五)年四月一〇日には、竜田の風神を祀るために美濃王を、広瀬の大忌神を祀るために間人大蓋を遣わしています。両神を祀るために勅使が遣わされる初めとされます。この年一月二三日に諸々の社を祭ったのを、祈年祭の始まりとみる説もあります。同一三(六八五)年の二月に広瀬王を畿内に遣わします。このとき陰陽師が同伴し四神相応の要件を相地しています。

占筮相地の判断は『周易』『新撰陰陽書』『黄帝金匱』『五行大義』『大唐陰陽書』によります。天武天皇の強権により、道教が日本土着宗教との合体により図られたといいます。持統朝には斎王の派遣はありませんが、同六(六九二)年三月に伊勢に行幸します。その後の天皇は行幸をしていません。ここに、伊勢神宮の謎といわれる一面が指摘されています。(関裕二著『伊勢神宮の暗号』九六頁)。

明治から敗戦までの国家神道全盛時には、道教が海を渡って神道になったとか、天皇が立てた多武峰の両槻宮は道観と同じというと、学会から非難されたといいます。

いずれにしても七世紀の伊勢神宮にその変化の秘密が隠されていました。

天武天皇の玄孫になる称徳天皇の崩御により、皇統は天武系から天智天皇の孫である光仁天皇に移ります。これにより天武天皇の血筋は皇統から絶えますが、舎人親王の子孫が清原真人の姓を賜り清原氏の祖となり、高市皇子の子孫が高階真人の姓を賜り高階氏の祖となっています。ともに、後世になっても「真人」を名のっています。

そして、天武・持統陵が藤原京の真南(丙午)に造ったのは、蘇りの地を意味していました。持統天皇は子供の草壁皇子と敵対した大津皇子を刑死させ二上山に葬りました。二上山は藤原京からは庚の方角で、「金=刑死」を意味した所です。『万葉集』に飛鳥の神奈備や神岳をよんだ歌が二〇首あまり収められています。

そのなかに、天武天皇の死にさいしての持統天皇の歌があります。この神岳は通説では雷岳(いかずちのおか)でしたが、橘寺の背後に「ミハ山」という小字名があることから、この山を神奈備・神岳にあてることができます。

ミハとはミワともいえます。ミハ山の麓一帯は橘と呼ばれた地域で、橘は神仙の常世にある「非時の香菓」(ときじゃくのかぐのみ)のことです。つまり、ミハ山はこの神仙の山なのです。(『日本の古代』9、千田稔稿、一三四頁)。

また、天武天皇は「壬申の乱」のとき迹太川畔で天照太神に加護を祈っています。古来、伊勢大神は倭王によって日の神として、伊勢の滝原に祀られていました。

また、伊勢神祀の原初形が蛇神(竜蛇神)を祀るものであったといいます。クサナギのナギは蛇の古語を意味しており、クサナギの剣は猛蛇剣といえる霊異をもつ剣の通称で、スサノオのヤマタノオロチ退治の神話がクサナギ剣を通してヤマトタケルにつながるとき、伊勢を舞台に同じような大蛇退治と霊剣発見の英雄譚が語られたといいます。(本位田菊士著『伊勢神宮と古代日本』三四頁)。

即位した天武天皇は律令国家の樹立をめざし、伊勢大神を皇祖神天照大神として祀り、伊勢神宮を国家の総廟、日本統治の根幹としました。そして、天皇は天照大神の聖性を継承した明神、現人神としたのです。

また、即位のときに大来皇女を斉内親王として泊瀬で潔斎させ迫瀬斎宮に送ります。これにより、斉内親王による伊勢奉斉を再興しました。同時に護国の経典である『金光明経』と『仁王経』を寺院で読誦させます。

さらに、その皇統を確立するために『古事記』の編纂を命じ、養老四(七二〇)年には諸氏族の伝承も納めた『日本書紀』がまとめられます。

皇大神宮の創始に関する伝承は、こうした天武天皇の意図に即した記述といいます。(宮家準著『神道と修験道』五八頁)。
http://www.myoukakuji.com/html/telling/benkyonoto/index205.htm

22. 中川隆[-13730] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:50:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463] 報告


「朝鮮隠し」 と 「日本神話」

「白村江の戦」で新羅に破れ国を追われた百済人は、故郷を追われた怨念もあったであろうか、追われた身としてではなく「天から降臨した神の子」として新天地づくりに熱情を傾けた。自分たちの国として、自分たちの位置づけを明確化し、故郷に対する優越意識を高めるために、「朝鮮隠し」なるものを発揚させたのである。

「日本」という国号を作り、「我々は日本人である」という意識高揚が、現日本人の祖先の位置づけを曖昧化させた。朝鮮系の地名・人名を変え

加羅→唐 高麗→呉 金→今、

その風潮は1300年経った現在も消えず、朝鮮の痕跡を顕在化させまいとする歴史が今でも点灯している。


「日本神話」の真実

ソウル市内の国立中央博物館で韓国の「檀君神話」 と「日本の建国神話」 を比較考察する学術会議が開催されたとき、アジア史学会会長 上田正昭氏の論文が事前公開された。その際、上田氏の

「天孫が空から降りる韓国と日本の神話には類似性が多い」

という記述に注目が集まったという。日韓の神話を比較研究してきた上田氏は、

日韓の天孫は山頂に降臨しており、共通点が多い

と主張。百済の神の存在が、日本で継続的に命脈を受け継いできたと指摘しているという。


日本の建国神話は、韓国の「檀君神話」の影響を大きく受けており、この事実は韓国だけでなく日本史学界でも認められているという。「日本神話」は、主に八世紀初めに書かれた「記紀」の記述がもとになっている。

この説は、「駕洛国記」による韓国の降臨地「亀旨kuji」と「記紀」による降臨地「久志」の音がそっくりであることからも否定できないという。


日本にも朝鮮にも、「仏教」以前から「神道」が存在している。

「神道」は、朝鮮半島の古代文化を形成した北方民族 (騎馬民族) のシャーマニズムに由来すると言われている。北方民族のシャーマニズムは「天孫降臨神話」をもっており、「天孫降臨神話」が日本にも朝鮮にもあるということは、騎馬民族によって形成された朝鮮文化の流れに日本も乗っていることになる。

弥生時代から急増した朝鮮渡来人が、倭国へ「神道」をもちこんだのはごく自然な流れだろう。


梅原猛は「芸術新潮(2009年)」の大特集「古代出雲王朝」で、

「日本書紀の記録や出雲で発見された古墳・遺跡・大社の社などから判断すれば、

スサノオは朝鮮半島から出雲へ来た

という説が正しい。スサノオがヤマタノオロチを切った刀は韓鋤の剣であることからしても、スサノオが韓国から来た神であると考えるのが最も自然であろう。

スサノオに始まる出雲王朝には朝鮮の影が強く差している。」

と述べている。さらに、梅原猛は、著書『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』で、

「出雲王朝の創立者は韓国系と考える。

その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。
銅鐸の起源は韓国の貴族が双馬馬車につけていた鈴だ。
スサノオが韓国からきたとする説はますます有力になっている。
新しい日韓関係を見せてくれる。韓国に注目しなければならない。
古代日本にとって、韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた。」


と述べている。


出雲市の斐伊川の上流に「鳥髪」という所がある。

市町村合併によりその地名なくなったが、奥出雲の「鳥上小学校」「鳥上公民館」の「上 かみ」は「髪」の音から転用した語である。

AD四世紀ごろ スサノオは韓国の「소머리 somoli 牛頭」から奥出雲の「鳥髪(とりかみ)」へ渡来し、「たたら流し」のリーダーとして名を成した人であるという。

スサノオは砂鉄によって「草薙の剣」を作った偉人という伝説があり、「草薙の剣」はヤマタノオロチの尾にあった剣のことである。「記紀」の神話を書く際に、フィクションのモデルにされたのはスサノオであろうという説がある。奇妙に思うかもしれないけれども、

「記紀」を書いたのは渡来人(主として百済のエリート)であり、「記紀」が書かれるより300年前の伝説の人 スサノオも渡来人である。

「日本神話」の成立についてのこのような話は、現在の日本人にとって想像を超えた物語に聞こえるだろう。


「소머리 somoli 牛頭」と「鳥髪(とりかみ)」は同じ言葉で、「소 so 牛」が「새 se 鳥」に転訛し、「머리 moli 頭 髪」は「鳥髪」の「髪」と同じ言葉であるという。

スサノオが天から降りて来たという神話は、朝鮮の「天孫降臨神話」を模したものでフィクションに過ぎない。このような真実を、馬鹿馬鹿しい想像によるものであると影に移し、「記紀」が書かれて1300年たった現在ですら「スサノオ」と「ヤマタノオロチ」は日本神話の真髄である。朝鮮の影が映っている歴史は影に過ぎないと追跡せず、朝鮮由来の歴史は朦朧と曖昧化されている。従って、日本の古代史の書籍には「謎である」という解釈が目立ち、日本語のルーツは明治以来150年にたってもわからないのだから、今後も「謎だらけ」であろうと豪語する学者らしき人の書籍が店頭を飾っている。
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-1eca.html

[庚戌国辱100年紙上座談会・上]韓日元老6人が100年を論ずる
◇古代からの韓日交流史 2010年04月14日 中央日報/中央日報日本語版

−−韓国と日本は古代からさまざまな交流をしてきた。 お互いどんな影響を及ぼし合いながら現在の社会文化を形成してきたと考えるか。

梅原猛=中国の先進文化は韓国を経由して日本に入った。
私は今月、『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』という本を出すが、

出雲王朝の創立者は韓国から来たと考えている。

『日本書紀』に多くの文書があるが、そのうち3つの文書は‘韓国系’と把握している。 これは新しい考えだ。

弥生(BC200−AD300)時代には日本海(東海の日本式表現)側が日本の中心部だった。 したがって越の国、今の新潟県から移ってきた国が出雲を支配していたが、韓国から来たスサノオ(日本神話の人物)が出雲を越の国の支配から独立させた。

出雲王朝の創立者は韓国系と考える。

その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。 大和王朝の鏡に代わるものだ。 銅鐸の起源は韓国の貴族が双頭馬車に付けて入った鈴だ。

(神話に出てくる)スサノオが韓国から渡ってきたとする説はますます有力になっている。

新しい日韓関係を見せてくれる。 韓国にまた注目しなければならない。 古代日本にとって韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた恩人だった。

朴泰俊(パク・テジュン)=古代韓国は日本に文明を伝授した。
ポスコがある迎日湾の村には、『三国遺事(サムグクユサ)』に記録されている新羅時代の「延烏郎細烏女」という夫婦の話が伝えられている。

この夫婦が日本に‘太陽と月’(光)を伝え、王と王妃に推戴されたという話だ。

‘光’は文明を意味する。

1973年に迎日湾には日本の協力で新しい‘光’が誕生した。 溶鉱炉の光、すなわち浦項製鉄だった。 迎日湾を背景に両国間でやり取りした‘光’の話は、両国関係の未来を照らす灯火と考えてもよい。 韓日間には日本の侵略と植民地という痛ましい歴史もあったが、お互い助け合いながら発展した時期も多かった。
http://japanese.joins.com/article/246/128246.html?sectcode=&servcode=A00

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出雲王国は実在したか?

結論から言ってしまえば、この問いに対する私の答えはYESである。後で述べるような意味合いにおいてであるが、出雲に象徴される一大「山陰王国」は実在したと思う。しかもその「王国」は、はるか紀元前後から大和朝廷が成立する古墳時代まで続いていた可能性がある。


1984(昭和59)年の夏、神庭・荒神谷遺跡からの大量銅製品の出現は、従来の出雲観を塗り替えたと言ってよい。それまで出雲には目立った遺跡・遺物は出土しないとされていた為、日本史上多くの謎を秘めていたのである。

なぜ「古事記」「日本書紀」に出雲関係の記事が多いのか、日本神話はどうしてああまで出雲を取りあげているのか、山陰の鄙びた一地方である出雲に、伊勢神宮を上回る規模で最古・最大の神社が存在しているのはなぜか? 

これらは誰にも解けない謎として、過去多くの研究者や古代史マニア達を悩ませていたのだ。


神話の持つ歴史性にさほど信頼を置かない歴史学者や考古学者にとっては、山陰地方に考古学的遺物・遺跡の少ないことが、「記紀」の歴史性を否定する理由にもなっていた。「記紀」の出雲神話や「出雲の国風土記」はもっぱら文学者や民俗学者の研究対象だったのである。

それが今回の発見で、全国でそれまで出土していた銅剣の数を上回る358本の銅剣、銅矛16本(翌'85年)が出土した。さらに、これまでの学説では異なる文化圏として区別されていた「銅矛文化圏」と「銅鐸文化圏」の、まさしくその円陣が重なる部分として、ここ出雲から銅矛と中型銅鐸が6個並んで出土したのである('85年)。日本神話の故郷は、一気に考古学最前線としてのアプローチを受ける事になった。


この時から出雲に対する認識は一変したと言える。

誰もが、出土した銅剣のその量の多さに驚き、多くの疑問が各方面から提示され、本格的な研究もやっと端緒についた 1996年(平成8年)、今度は加茂岩倉遺跡から実に39個もの銅鐸が一挙に出土した。トンボ、シカなどの絵画に加え出雲独特の文様も持ったこれらの銅鐸は、人は殆ど通らないような谷間の斜面に意図的に埋められていた。出雲はふたたび世間の耳目を集める事になった。更に同じ年、正蓮寺周辺の遺跡から、直径が800mにも及ぶ環濠跡も発見されている。もはや出雲は何もない国ではなくなったのである。誰もが出雲王国の存在を予感した。


更に、1992(平成4)年から昨年(1998年)まで発掘調査された鳥取県の「妻木晩田遺跡」の出現は、後述するようにその周辺遺跡の調査発掘の結果とともに、従来の日本海沿岸地方に対する考古学的所見をことごとく塗り替えたと言ってもよい。


私が表題に掲げた「出雲王国」というのは、ただ島根県だけを指しているのではないことをご理解いただきたい。現在では出雲と言えば島根県という事になるが、私の考える「出雲王国」というのは出雲を中心として、西は山口県から東は丹後半島から、もしかすると能登半島を通り越して現在の糸魚川あたりまでの広い範囲を考えている。

勿論、ただ一つの国がこれらの広い範囲を支配・管轄していたとは考えられない。2000年前の紀元前後に、王をいただいた唯一つの行政機関がこれらの地域を統括していたとは一寸想像し難い。しかし中国においては「漢王朝」があの広大な領土を統治していたのであるから全く可能性が無いわけではないが、現在の所この地方にそれを窺わせる文献も考古学的知見も存在してはいない。私の言う「王国」とは「文化圏」と同義である。北九州、畿内とは異なる、環日本海文化を共有する集団が存在していたと考える。


クニとしてはそれぞれ独立し、王や首長のもと原始国家を形成していたと思われるが、これらの人々はある一つの大きな事実で互いに結びつき、文化圏を同じくしていた。それは「渡来」である。彼ら環日本海地方の人々は、出身地方こそ違え、皆朝鮮半島からの「渡来人」であった。

一部中国大陸からの人々も居たかもしれない。北九州と同様な、或いはそこよりも進んだ文化と技術を携えた人々が、段階的に日本海側に渡来したのである。

それは縄文末期もしくは晩期にその萌芽を見て、弥生期に入って本格的に形成され古墳時代中期頃まで続いたと考えられる。
http://inoues.net/mystery/izumo_oukoku.html


我が国に現存する五つの風土記の内、「出雲国風土記」のみがほぼ完全形で伝えられている。成立年代や編作者もあいまいなものが多い中、「出雲国風土記」のみは、天平五年(733)、出雲国造出雲臣広嶋(いずものくにのみやっこ・いずものおみひろしま)編という事がわかっている。この風土記は、神社・寺院・山川・地名の由来、地方の物産などの他に、出雲の国が出来た由来を伝える「国引き物語」など、他の風土記にはない内容を多く伝えており、当時の様子を知ることが出来る第一級の史料である。


「国引き神話」によると、古代の出雲は小さく領土が不足しているので四つの国から土地を引いてきて今の形にしたとある。

現在の島根半島である。衛星からの写真で島根半島を見ると、大きく四つの山塊に別れている事が見てとれる。


「三穂の埼」みほのさき・・・・・・・・・・美保関町北浦・稲積から松江市手角町にかけての東側の岬。美保神社がある。

「闇見の国」くらみのくに・・・・・・・・・・・鹿島町多久川から美保関町北浦・稲積までを言う。闇見の神が鎮座する。

「狭田の国」さだのくに・・・・・・・・・・・・平田市小津から鹿島町多久川の切れ目までを指す。佐太大神が鎮座する。

「八穂米支豆支の御埼」やほしねきづきのみさき・大社町日御碕から平田市小津・平田までを指す。ここに出雲大社がある。


地質学的には、島根半島は約7000年前には日本列島から離れた横に細長い独立した島であった。3000年から2500年ほど前に現宍道湖の東側・西側が地続きになり宍道湖が出来、弓ヶ浜半島も陸続きとなって中海も湖となった。1200年ほど前、弓ヶ浜半島の付け根が再び海となり中海は湾となり、現在に至っている。

神話は例えば三穂の埼を、高志(越:北陸地方。)の国から弓ヶ浜半島を綱にして、大山を杭に引き寄せたという荒唐無稽なものであるが、その地形的な成り立ちと一致しているのには驚かされる。また西側の杵築(きづき)の御崎は、遠く新羅の国から引き寄せたとあるが、衛星も地図もない時代にただ想像力だけでこういう壮大なスケールの物語を作った古代人には圧倒される。


しかし実は、古代出雲人が単なる想像力だけで新羅の国を持ち出したのではない事は明白だ。環日本海ル−トとでも呼ぶべき、大陸・半島との交流が相当昔から存在していたと見るべきだろう。

地図を見れば一目瞭然だが、朝鮮半島東側の新羅からは、実は北九州に行くよりも出雲や伯耆・若狭あたりの山陰・北陸へ行く方が自然である。対馬海流の流れを見ても、逆らってわざわざ松浦に行く事はない。

こぎ出せば海流に乗って自然に出雲あたりへ流れ着くのだ。北九州に負けず劣らず、山陰地方にも古くから大陸・半島からの渡来が行われていたと推測できる。とりわけ出雲では他の地域に先駆けて朝鮮半島と交易を行い、最新ハイテク技術である金属加工法を獲得していたのではないか? 

技術とともにその技術を伝える人々も渡来してきたはずだ。人的交流も盛んだったはずである。その成果が冒頭の358本の銅剣につながるのだろう。


スサノオ、オオナムチを中心とする出雲神話は、我が国神話(記紀)の約3分の1を占めている。8世紀初頭に成立した古事記・日本書紀がここまで出雲を取りあげた、或いは取りあげねばならなかった理由は一体何であろうか。

出雲は、記紀が成立した時代にそれほど重要な、又は重要な記憶を秘めた場所であったのか。


出雲の最高神、大国主(オオナムチ:大国主の命)は、遠く高志(越)のクニまで進出し糸魚川の翡翠製産をもその勢力下に納めようとするほどの権勢を誇っていたが、この出雲王朝に悲劇は突然訪れる。

高天原の天照大御神(アマテラス)と高御産巣日神(タカミムスビ)は孫の火瓊瓊杵(ホノニニギ)を下界へ降ろし、大国主以下の神々に出雲の統治権を高天原に譲るよう交渉させようと試みるのである。しかし第一陣、第二陣の使者達は出雲側の懐柔に会い使命を放棄してしまう。三度目の使者、建御雷(タケミカヅチ)と天鳥船(アメノトリフネ)は出雲の稲佐の浜(出雲大社東岸)に降り立ち、建御雷は、波頭に突き立てた刀の刃先にあぐらをかくという奇怪な格好で大国主と「国譲り」の交渉を開始する。

大国主は即答せず、長男の事代主(コトシロヌシ)と相談したいと返事する。事代主は大国主に国譲りを勧め、自らは沈む船の中に隠れてしまう。そこで大国主は国譲りを決意するが、末子建御名方(タケミナカタ)は腕力による決着を望み、建御雷に信濃の諏訪まで追いかけられ、結局諏訪の地に封じ込められてしまう。建御雷は出雲に戻って大国主に決断を迫り、ここに「出雲の国譲り」が成立する。

大国主は国譲りにあたって、高天原の神々の子らと同様の壮大な宮殿造営の条件を出す。高天原はこれを了承し、大国主の為に多芸志の浜に宮殿を造る。


この宮殿について日本書紀は、


(1).宮殿の柱は高く太く、板は広く厚くする。

(2).田を作る。

(3).海で遊ぶ時のために、高橋、浮橋、天鳥船を造る。

(4).天の安川に打橋を造る。


....などと厚遇し、天穂日命(アメノホヒ:国譲り交渉の第一陣使者)を大国主の祭祀者として任命する。

(この天穂日命が出雲国造の祖神という事になっており、現在の宮司はその83代目にあたるとされている。)


以上がいわゆる「出雲の国譲り」と称される神話の概要である。古事記と日本書紀で細部は異なるが、話の大筋は同じである。この神話を巡っての解釈も諸説あり、神話の中に何らかの史実性を見いだそうとするもの、全くの創作だとするもの、
殆ど史実ではないかと唱えるものなど様々だ。私見では、かなりの確率でこの話は史実に基づいているのではないかと考える。そう仮定すると、出雲の重要度、弥生以後の我が国の展開が矛盾なく説明できると思う。


皇学館大学の田中卓教授は、「田中卓著作集2」所収「古代出雲攷:日本国家の成立と諸氏族」で、出雲族の根拠地はかって大和であり、出雲は、出雲族が追われた場所である、とする説を述べている。

又、梅原猛氏は集英社刊「神々の流竄(るざん)」において、出雲族の根拠地は大和であり、出雲は8世紀の大和朝廷が神々を追放しようとした土地である、と考えている。これは現在のところ、学会では一般的な意見のようである。即ち、出雲にある程度の文化的な先進性を認めたとしても、それは元々大和にあったのだという発想である。

特に近畿圏で活動する学者達は殆どそういう意見のように見える。

しかしながら私には、大和に文化が独自に発展したと考える方がはるかに非論理的なように思える。どうしてあんな辺鄙な盆地に突然文化的な萌芽が湧いて出るのか?

渡来によらず、縄文からどうしていきなり青銅器や稲作を始められるのか?

渡来文化しかありえないではないか。


しかも大陸・半島からいきなり大和を目指してくる訳もない。北九州か、山陰か、瀬戸内海を経由してくるしか無いのだ。

渡来人達は、征服しやすい土地を求めて奈良盆地にたどり着いたと考えるのが一番自然であろう。山陰地方から内陸へ南下した渡来人達は、丹波で負け、摂津で負け、河内で負け、或いはこれらの土豪達とは戦わず迂回して、最も弱かった奈良盆地を征服したのだ。そのおかげで、奈良は渡来文化をあまさず享受できたと考えられる。大国主の神々の本拠地が元々出雲にあり、大和地方もその傘下に治めていたのだ。


大和の勢力が出雲に大国主の神々を派遣して王国を築いたという見方は、私には本居宣長の考えとそう違わないような気がする。天皇家とその発祥を大和におき、あくまでも日の本は大和を中心に栄えたとし、よその地方から移ってきたなどとんでもないという考えは、渡来人及びその源地を蛮族視しているようにしか思えない。いわゆる「進歩的な」歴史学者達の中にも、結果的にはこういう立場に立っている人達もいるのである。

「記紀」によれば、大国主の命は高天原勢力に「国譲り」をする。そして高天原から出雲の国へ天穂日命(アメノホヒノミコト)が天下る。

天穂日命は出雲の国造(くにのみやっこ)の祖先となる。大国主の命の領地であった(可能性が高い)大和には、邇芸速日の命(ニギハヤヒノミコト)が天下る。天照大神の孫が2人も出雲と大和に天下っている。邇芸速日の命の降臨は神武東征の前であり、出雲の国譲りの後のように思われる。


「杵築(きづき)を見たということは、これはただ珍しい社殿を見たにとどまらず、それ以上のものを見たことになるのである。杵築を見るという事は、とりもなおさず今日なお生きている神道の中心を見るということ、・・・・・ 悠久な古代信仰の脈拍にふれることなのである。」

明治 23年(1890)9月13日夜半、出雲大社に初詣したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、翌14日、唯一昇殿を許された外国人として、この感動・衝撃的体験をその著書「杵築」で語っている。(昭和50年、恒文社刊 小泉八雲著「杵築」平井呈一訳)


出雲大社十六丈復元図(「日本のやしろ出雲」美術出版社)によれば、古代の出雲大社は、実に巨大で異常な高さを持つ。

往古三十二丈、中古十六丈の社伝が残っていて、現在が八丈(24m)であるから、大昔(創建時)には96mの高さを誇っていた事になる。現在の伊勢神宮が9mである事を考えると出雲大社がいかに高さを主張していたかが理解できる。96mがほんとに建っていたのか、48mにしても、古代にそんな建造物製作が可能であったかについては、大林組プロジェクトチームによる「出雲大社の復元」に詳しい。

復元図を見ていると、この建物は何かに似ている。初めは何かわからなかったが、左右に建っている柱でようやくわかった。

これは縄文・弥生の遺跡から発見される「高床式建物」である。柱がぐーんと伸び、階段も広く長くなっているが、これはまさしく高床式建物ではないか。

高床式建物が渡来文化の賜(たまもの)だとすれば、これは見事にその文化の行き着いた先を表わす「象徴」である。むしろその為にこそ、大国主は高天原にこの宮殿を建てさせたのかもしれない。また、その条件を呑みこの宮を建てた高天原にとっても、出雲はそれほどの強大な権力と見なされていたのであろう。階段の端は遠く稲佐の浜まで続いていたとされている。大国主の命が、宮殿から海に遊びに行く時のために、高橋と浮き橋と天の鳥船が造られたと「日本書紀」は伝えるが、この絵を見ていると宮殿から遙か日本海の彼方を眺めては、自らの父祖の地を想っている大国主の姿が目に浮かぶようである。

1665(寛文5)年10月10日、出雲大社の東方200mの摂社(せっしゃ:本社の付属社で、本社に祀られている神以外を祀る。

勿論本社の神と関わりが深い神々を祀るのが普通である。)「命主神社」裏において、石の切り出し作業中、硬玉(ヒスイ)製勾玉と銅戈が発見された。後世この鑑定が行われているが、硬玉は、京都大学原子炉実験室による成分解析の結果、新潟県糸魚川地方の産とほぼ認定され(近似値を得た)、銅戈は、中細形と言われる形式であり、弥生時代中期に北部九州で濃密な分布があり、鋳型も春日市を中心に多く発見されている。

糸魚川は越(高志)の国とも呼ばれ、大国主がここを訪れ奴奈河比売(ぬなかわひめ)に求婚した話も残っているし、また銅戈とともに出土した土器片は、北部九州に多く見られる木葉文がくっきりと残されており、出雲が北部九州から越の国まで広く交流していたことはほぼ間違いない。北九州と糸魚川を結ぶ環日本海ルートのちょうど中間の位置に出雲はある。

「古事記」によると奴奈河比売訪問の後、大国主は倭国行脚を想起し「出雲国造神賀詞」には大国主の和魂(にぎたま)を大和の三輪山に祀るとある。大和は、出雲の支配下にあった事をうかがわせる。
http://inoues.net/mystery/izumo_oukoku1.html


大林組 出雲大社本殿の復元
http://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/izumo/p01.html


23. 中川隆[-13729] koaQ7Jey 2018年11月30日 14:52:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463] 報告

日本人の思想の原基

 吉本さんと梅原さんが、中沢新一さんの司会で、1994年に対談をしている。その対談を収録した本「日本人は思想したか」(新潮社)の第一章『日本人の「思想」の土台』から、「縄文時代までさかのぼる」という問題意識を語り合っている部分を抜書きしてみる。


中沢

 いま期せずして国家という問題が出てきました。これは日本の思想というものを考える時、一番のカギになる言葉だと思います。たとえば日本人の思想がどうしてお茶の思想とか、お花の思想というふうな、個別的で具体的な表現の形態として出てくるかということにも、深く関係していると思います。日本人が何か創造的な思想を試みようとすると、実感や情念がとらえているものと、仏教や儒教や道教のような、超越的ないし普遍的な表現のちょうど中間のようなところで表現を試みていたように思います。たとえば、仏教はとても普遍的な表現の体系を持っているけれども、日本人の創造的な思想家は、その体系の中で作業をしたわけではなくて、自分の実感と普遍の体系との間(はざま) というか、ずれというか、そういうところに立脚して思想をつくり出そうとしてきて、そのずれというようなものが、日本的な仏教とか日本化された儒教としてあらわれてきて、そのことが一番出ているのが国家にかかわる問題なのだろうと思います。

 普遍的な国家という考え方を、近代日本人はヘーゲルなどを通じて知りますが、一日本人にとって国家が実体性を持った意味を含み始めた時に、とても重要な意味を持ったのは中国に発生した国家という考え方だったと思います。梅原さんは古代史をめぐるさまざまなお仕事をなさってきましたが、そのとき日本に起こることを、つねに広いアジア史の中でとらえようとしていらっしゃったように思います。日本人の国家という概念は、ヘーゲルが考えたような国家とも違うし、中国人がとらえていた国家とも違う。日本がおかれていた位置や環境とのかかわりで、国家というものについて日本の特殊性が発生している。いつまでたっても日本人には国家というものが、ヘーゲルや中国人が考えたようなものにはなり得ない。その日本的国家という問題を、梅原さんはいつ頃を起点にして考え始めたらよろしいとお考えでしょうか。


梅原

 私が日本研究に転向した時に、一番の問題は、戦争中からの日本主義はイコール国家主義であった。そして日本の思想家も、非常にリベラルな思想家と言われる人も、戦争中には完全に国家主義になった。日本的であることが国家主義であるような、そういう日本主義とは無縁なものを私は探していた。だからいま出たヘーゲル的な国家論は、日本でたとえて言うと和辻哲郎の『倫理学』にある。あれは見事な哲学的体系なんですよ。人間を個人と考えず、人間の間柄で考える。間柄という概念には個人主義を止揚する重要な思想が含まれている。私は儒教思想の現代版だと思いますけど、現代でもなお十分傾聴に値する哲学的思想だったと思うんです。しかし結論は、全部国家の中に飲みこまれてしまう。最終的には国家が万能であり、普遍的なものである。まあ、ヘーゲルの日本版だと思いますけど、そういう和辻に対して、私は厳しく批判した。それから鈴木大拙ですら、最後はやっぱり国のために死ぬことだ、それが無だというようなことを言っている。そういうことも一切私は許すことができなかった。私はそういうものの批判者として登場した。

 特に私が仏教をやったのは、明治以後の神道は完全に国家主義になってしまって、そういう神道に対するアレルギー反応を長い間脱却することができなかったからです。神道に対してアレルギーを脱却できたのは、アイヌの宗教を知ってからです。仏教は比較的国家主義の色彩が少なかった。また、その時は万葉集にもアレルギーがあって、万葉より古今を、と言った私の最初の論文の『美と宗教の発見』で、古今を日本美の中心においたというのも、一種のアレルギー反応でしてね。国家というものはとにかくかなわない、という意識が非常に強かった。そんなことを考えていたのですが、偶然のように、七、八世紀の、吉本さんの言った日本国家成立期の歴史を勉強するようになった。そしてそこで『隠された十字架』や『水底の歌』が書かれた。そこで私が見出したものは、国家成立期に権力から排除されて、怨みを飲んで死んでいった怨霊の姿だった。たとえば、聖徳太子は一度は体制側の人だったけど、やがて藤原氏が律令体制をつくると、それに滅ぼされて、そして怨霊になった。柿本人麿も同じように一旦は律令体制で高い地位につくがやがて失脚して水死刑死をする。聖徳太子とか柿本人麿の怨霊というような、国家形成の影に隠れた怨霊が十何年の間、私のパトスそのものだったんですね。怨霊がのりうつったわけですが、なぜ怨霊が外ならぬ私にのりうつったのかはよく分らない。

 私の七、八世紀研究は、主として怨霊の研究に始まったのですが、しかし自ら七、八世紀の日本の考察をせざるをえない。七、八世紀は、日本が中国から律令制度を移入し、それで日本国家をつくった。しかしそれは中国の律令制度がその まま移入されたものではない。あれは中国から借りて国家をつくったんですけど、その中国文化は変質させられた。変質させたのは、それよりも前に日本に存在した何かだろうということに気づいたんですね。その前に何があるか、それからいろいろ思想的に問い詰めると、どうも縄文文化がそれではないか。そして、アイヌと沖縄に縄文文化が残っているんじゃないかというふうに考えてきた。そうすると、吉本さんと思弁の方法は違うんですけど、結論は大変似ているところに行っているような気がしているんだけど。そういうふうに日本を奥へ奥へと掘り下げてゆくことによって、国家という枠を超えた、むしろ普遍的なところに達した。そういうところに達したことによってやっと神道に対するアレルギーを捨てることができた。アイヌや沖縄の宗教に、神道の原初的な姿を見た。そこから見れば明治以後の神道は、これは神道と言えないようなものだ。しかし神道の国家主義化はすでに律令時代に始まっていて、だから神道は二度大きな国家主義化を受けた。ひとつは律令時代、ひとつは明治以後。明治以後の神道は、神道とさえ言えない、プロイセン主義なりナポレオン主義に伝統の殻を着せただけのようなものだといま考えているんですけどね。


中沢

 いま梅原さんから、同じ言葉が二度出ました。ふたつのちがう意味をこめて、「普遍」という言葉を二回使われました。
 ひとつは、実感を超えて超越である普遍。これはたぷんヘーゲルの国家概念や中国の国家みたいなところにたどりついて行くんだと思います。ところが最後に梅原さんが、たとえば神道のようなものを通して普遍へ行くんだとおっしゃったその普遍は、まえの普遍とちょっと違うのでしょうね。


梅原

 ちょっと違いますね。


中沢

 その、あとの方の普遍というのは、いまとこれからの日本が超近代というような形で出てくるものとして探っている普遍なんじゃないかと思うのですね。それはひょっとすると日本の国家が、前方へむかってさぐっているものとつながっているんじゃないか。梅原さんの考えてらっしゃるアイヌの神道などは、ヘーゲル的な普遍とは異質な、もうひとつの普遍に触れているのかも知れませんね。


梅原

 そうと言えるかもしれん。


中沢

 それは神道以前のもので、ひょっとするとそれは、オーストラリア原住民の神道とか、南中国の少数民族の神道とか、チベット人の神道とか、そういう神道につながっていて、そういう形でもうひとつの普遍というものがいま大きく浮上してきた感じがしますが、このふたつの普遍が混同されて、普遍という問題を考える時に、日本人の思考を混乱させているのではないでしょうか。

 これは吉本さんが超近代の問題として考えているテーマとつながっている、と僕は思います。
 古代の向こうにあるもの、アジア的なものの向こうにあるもの、それを吉本さんはアフリカ的という言葉で表現しようとしています。それは新しい普遍につながる考えです。
 いまお二人の話の中に期せずして普遍という言葉の、二通りの使い方というものが浮上してきて、ヘーゲル的な普遍の国家や神道や日本国家に取り込まれてしまって、見えなくなってしまうもうひとつの神道がそこで同時に出てきました。近代の原理を解体していくものと、壊していくものと、縄文や南島のテーマが浮上してくるプロセスが、お二人の思想の中では同時進行しているような感じを受けるのですが。


吉本

 僕はそうだと思いますね。梅原さんのアイヌについての論文は、柳田国男の初期の仕事から延長していくと大変よくわかり、位置づけがしやすいんですが、とても重要で、僕はずいぶん影響を受けたように思うんですね。

 アイヌの問題や沖縄の問題は、いま「遡る普遍」という言い方をすれば、どうしても出てくるんじゃないかなという感じです。それをヘーゲル、マルクス流の国家と直かに対応させることはなかなかできないので、現在は、対応できそうな超近代のところを睨んで持っていくよりしょうがないと思います。でも「遡る普遍」のところでは、かなり確実に出てくるんじゃないかと思い込んでいるんです。

 ちょうど中間のところで、梅原さんの言われた神道があって、それはふたつの理解ができます。明治以降、天皇制神道、あるいは伊勢神宮神道と結びついた意味の神道と、それからそうじゃなくて、田舎へ帰れば鎮守様があって、お祭りがあって、とてもいいんだ、というのと二重性があるような気がするんです。明治以降の天皇制神道と結びついた部分は、僕も梅原さんと同じでアレルギーが多い。つまり自分が戦争中イカレた分だけアレルギーがあって、ということになります。そこで、遡る神道といいましょうか、あるいは村々の鎮守様へ行く神道とはちょっと分けなくちゃいけないよ、ということになってくる気がします。鎮守様としての神道みたいなのは宗教というふうに言わなくて、もっと風俗・習慣というところで生きられる部分があるように僕は思ってます。これは国家神道にまで編成されちゃったものと区別しないといけない。国家神道に収斂させられてしまったものは、何となく第二次大戦までが生命だったという気がして、それ以降はあるとしても、そんなに生きられるものとしてあるというわけではなく、壊れつつある過程としてあると考えたほうがいいんじゃないか、僕はそう思ってます。


 以上のやり取りで、梅原さんと吉本さんが、方法論は違っていても、同じ問題意識を持って日本人の思想の原基にアプローチしようとしていることが分かると思う。 この後、梅原さんは「アイヌや沖縄の宗教に、神道の原初的な姿を見た。」という前段の発言を敷衍してその内容を詳述しているので、その部分を抄録しておく。


 七、八世紀の神道は祓い、政の神道なんですよ。それが私、なかなかわからなんだ。『古事記』の書かれた時代、国家に有害なやつは祓ってしまう。そしてまだ祓わんやつは禊をさせて改心させる。やはりこれは律令国家体制の産物だ、という点を考えんと神道は理解できない、と思った。そこまでは行ったんですけど、それから向こうの神道が見えてこなかった。

 そしてアイヌをやった時に、ほんとに目から鱗が落ちるようなショックを受けたのは、アイヌ語の神の概念、神をあらわす言葉が全部、古代日本語と一致し、しかもその古代語の中にラマットなんていう言葉がある。ラマットというのはヤッコラマットという、祝詞や宣命にわずかに出てくる言葉で、本居宣長もこれは古代語が残ったんだと言ってる。そのラマットという言葉が魂という意味でアイヌ語にある。それを知った時に、アイヌ語と日本語は同起源である、やっぱり日本の古代語の縄文語がそこへ残ったんだろうということと同時に、神道の古い形がアイヌの神道の中にあるという直観があったんですね。それでアイヌの神道をいろいろやってると、国家主義なんて全然関係ない。それはやはり森の中で人間が宇宙の精霊と、魂たちと共存して生きて、その魂の力で自分たちの生活を守り、そして死んでいき、あの世へ行ってまた魂がこの世へ帰ってくる。そういう信仰であるということがわかった。

 その眼で沖縄を見ると、沖縄の神道もアイヌと同じような神道ではないか。柳田国男や折口信夫は、今まで日本研究の外におかれた沖縄を日本研究の中に取り入れた。しかしそれは弥生時代で日本本土を沖縄と結んだ、米で結んだ。つまり沖縄は弥生時代の古い米文化が残ったものだとした。これはいわゆるあの柳田の南方の島を伝わって稲がやって来るという説ですが、この説は実証的に否定されている。こういう沖縄と本土を結ぶと、米栽培しないアイヌは落ちて、それは日本じゃないということになる。私は柳田も記紀の史観に無意識に影響されていると思う。私は、それは違う、沖縄と日本というのは縄文でつながるんじゃないか。アイヌ、沖縄、日本、この三つを結ぶものが日本的じゃないかと。ずっと思弁してそういうふうになってきたんですけどね。私はそこへ来て初めて、この原理はどうもいわゆる普遍的なんじゃないかと思った。それは恐らく、中沢さんのおっしゃったようにアボリジニーやアメリカ・インディアンとも同じだし、あるいはシベリアの狩猟採集民族と同じ、あるいはケルトとも同じもので、一時代前の、人類の普遍的な原理がまだ残っていたんじゃないか。それが日本国家をつくった後にわずかに日本に残ってる。


 「日本本土と沖縄」を米で結ぼうとし、「米栽培しないアイヌ」を見落としてしまうことは、柳田や折口の民俗学が「日本=瑞穂の国」という虚像の枠の中で展開されていることからくる限界を示している。「日本=瑞穂の国」という虚像については、いずれ取り上げる予定でいる。


 
縄文人と弥生人


  吉本、梅原、中沢三氏の鼎談より8年前(1986年)に、吉本さんと梅原さんは対談をしている。その対談が「対話・日本の原像」(中央公論社)という本になっている。 その本の中に梅原さんが日本語の源流について次のような意見を述べている。


 縄文人のつかう縄文語というのがあって、これはかなり日本列島全体に行き渡っていただろう…‥。縄文土器が朝鮮半島にはほとんどないのに、日本列島にはほぼ全体に普及している。そのように、だいたい同質の言語が南は沖縄から北は千島まで、多少のローカルカラーがあるけれども、日本列島に普及していたのではなかったかと思います。

 そして弥生人が入ってきて日本列島の中枢を占領した。そして弥生人はまったく縄文人とは違う言語をもってきたけれども、言語学の法則として、少数の民族が多数の民族の中に入ってきて、それを支配する場合、その言語は被支配民族の言語になるが、発音その他は相当な変更を蒙り、そして、支配民族が新たにもってきた新文化や技術にかんするものの名称は支配民族の言語で呼ばれる、というふうな法則がある。こういうことが弥生時代以後、起こったのではないでしょうか。
 だから縄文語が弥生時代以来かなり変質した言語が倭人の言語であり、それが日本語の源流になったのじゃないかと思うんです。そして南と北により純粋な縄文人が残っていて、縄文語がより純粋な形で生きのびて残ったのではないだろうか。琉球は朝鮮や中国とも近いから人種も混血し、言葉もかなり変質しているけれども、あそこは稲作農業には不適な所なので、かなり強く縄文文化が残っている。北の方は中国などとの交渉も薄いし、沿海州あたりとの接触があるにせよ混血も少なく、縄文語がいちばん強く残った。それが小進化してアイヌ語になったと考えているんですけれどね。


 この梅原さんの仮説と考古学の成果を照らし合わせてみよう。

 近年、古代遺跡の発掘がいよいよ盛んで、古代像のさまざまな仮説・通説が書き換えられている。その近年の考古学の成果をまとめた本がある。天野幸弘という方の著作で、こちらの書名は「発掘・日本の原像」(朝日選書)という。
 この本から梅原さんの仮説に関係すると思われる部分をまとめてみる。もちろん、考古学による学説もいまだに仮説レベルのものも多い。さしあたってはそれらの学説から古代のおおまかなイメージが描ければよいとする。


 まず縄文人について。

 東アジアで縄文人と似た人骨が判明した例は今のところない。ということは、特定の集団が日本列島になだれこんで縄文人になった形跡はないわけだ。こう考えて、京都大学霊長類研究所の片山一道教授(人類学)は科学誌『サイアス』(1997年5月2日号)に書いた。タイトル「縄文人は来なかった」は刺激的だ。これまでに見つかっている縄文人骨の特徴を詳しく分析したうえで、「縄文人は日本列島で生まれ、育った」と結論づけている。決着がついたとされるルーツ探しより、これまでに数千体見つかっている縄文人骨の精査の方が大切だと考える片山さんは、「混血しなくても体格が変わるのは、われわれ現代人も経験した通りだ。生活の変化も大きな要素だ」。だから縄文人がどのように形づくられたか、生活の復元こそが問題だ、と強調する。例えば「海民的な性格が加わるなど、大陸の人びととは別の道を選んだ結果なのだろう」。
 確かに、縄文時代は独特だ。その次の弥生時代から現代までの五倍弱、一万年近くも続いた。ところが北海道から琉球列島に至るまで、人びとの体格などに地域による大きな違いはなかった。地域差より、時代の推移に伴う変化の方が目立つといわれる。アメリカ人の生物学者エドワード・S・モースが東京の大森貝塚を発掘調査し、七体の縄文人骨を見つけて以来、120年間にわたる調査や論争、研究の結果である。そして、「縄文人は先住民などではなく、現代日本人の祖先だ」というのが、大方の研究者の見解になってきた。

(中略)

   この年(1998年)、北海道の北西端の離島、礼文島にある船泊(ふなどまり) 遺跡でも、同じころの縄文時代の人骨約三〇体分が発掘された。サハリンやバイカル湖周辺で見つかるのと似た形式の貝製装飾品、日本列島南方産の貝製品も副葬されていたため、「縄文時代に大陸から来た渡来者か」と注目された。先の片山教授の説と食い違いが出そうだったが、専門家の詳しい鑑定による結論は「すべて典型的な日本列島の縄文人」だった。もちろん、縄文人の活発な行動力を印象づける発見として、重要な遺跡が新たに分かった意義ははかりしれない。


 弥生人は縄文人に比べて顔が細長く彫りが浅く、縄文人より長身だ。それまでの縄文人とかなり異なる体格などから「渡来系」とされてきた。では弥生人はどこから来たのか。

 「土井ケ浜遺跡人類学ミュージアム」館長の松下孝幸さん(人類学)たちは中国社会科学院考古学研究所の韓康信教授らと共同で、山東省出土の紀元前5世紀から400年間ほどの人骨500体分を調べた。その結果「体の各部の計測データや顔面のプロポーションのほか、神経が通る頭の骨の小さな穴といった細かい部分も土井ケ浜人とそっくりだった。」


 調査は新たに黄河、長江の最上流部の青海省へ舞台を移す。「人と文化はおそらく、中国では大河に沿ってつながるに違いない。これまでの南北の流れとは別の『東西の道』を探りたい」からだ。中国原郷説への自信がのぞく。

 青海省での1998年までの日中共同調査でも、山東省に似た結果が出た。李家山など三遺跡から出土した約3000年前などの人骨計約300体は、いずれも土井ケ浜や佐賀県の吉野ヶ里などから出た渡来系弥生人骨の特徴をそなえていた。「黄河、長江上流の人びとが北部九州など一部の弥生人の祖先だった可能性がある」という分析結果なのだ。

 1999年の共同調査では、長江下流の江蘇省梁王城(りようおうじよう) 遺跡と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡出土の二体の人骨の、母系遺伝子に限定されるミトコンドリアDNAの塩基配列がぴったり一致する例まで分かった。縄文時代の稲作伝播も長江との関係で考えられており、重視されている。


 一方、縄文人そっくりの弥生人の人骨が発掘されている。 阪神・淡路大震災の被災者住宅の建設に先立つ調査(1997年)のときに出土した人骨は、紀元前三世紀の前半、弥生時代前期のものである。しかしその人骨は縄文人そっくりの特徴を示していた。典型的な弥生時代の遺物、遺構の中から、土井ケ浜遺跡で見つかったような渡来系の人ではなく、弥生以前に一万年近くも続いていた縄文時代の人の体つきの人骨だったのである。

 福岡県志摩町新町遺跡から出土した人骨も「縄文的な弥生人」だった。しかもこの遺跡の墓は中国東北部から朝鮮半島にかけて築かれているものとよく似ているという。さらに、中国・秦時代(紀元前221〜202年)の銅貨や新時代(紀元8〜23年)の硬貨も出ている。またその近くの、明らかに稲作が行われていたとみられる曲り田遺跡では出土した土器のうち朝鮮半島由来の無文土器はごくわずかで、多くは縄文時代の流れを汲む土器だったという。

 これらの事実は何を物語っているのだろうか。


 縄文的な特徴をとどめた弥生人骨は、西北九州などからも出ている。ところが、遺物との関係がつかめないことが多い。この新町や神戸の新方は数少ない例である。「朝鮮半島から渡来人が稲作などをもたらした時、地元がそれらの中からいいものを選び取った。土器が激変しないのは渡来人がそんなに多くはなかったためで、やがて在来人は彼らと融合しながら変わっていった」と、中橋さんは見る。「大勢の渡来人が縄文人を追い払い弥生時代になった」という人もいる。しかし近年、調査・研究が進むにつれて、ひとことではいえない複雑な様相が弥生当初、各地で繰り広げられたことが浮き彫りになってきた。

 中橋さんが数学者の飯塚勝さんと連名で1998年に『人類学雑誌』(106号)に発表した論文「北部九州の縄文〜弥生移行期に関する人類学的考察」は、その面からも興味深い仮説といえる。弥生時代の中期、渡来系弥生人と見られる人びとが占める割合は80〜90パーセントにのぼっている。これは中期初めまでに形成された人口構成と見られる。しかし、初期の渡来人はこれまでの発掘成果から見て、少数だったようだ。そうすれば、200〜300年間にこの逆転現象が一体、なぜ起きたのか。その答えは「渡来系集団の人口増加率が、水田稲作などの進んだ文化を背景に、土着系集団を大きく上回り、弥生中期には圧倒的になった可能性が大きい」というものだ。弥生の開花期はこうして始まったようだ。その後、人びとの行き来は次第に頻繁になり、多くの渡来人が来た、と歴史書にも記されている通りだ。


天皇制の古層(1)


 どうやら、琉球・蝦夷とヤポネシア中央部との間の大きな断層とは、まったく無関係という意味の断層ではなく、ヤポネシア全体に分布していた古層の上に、中央部だけ新来の人種が覆いかぶさって新たな層=天皇制の基層を形作った結果である、と考えてよさそうだ。そうであれば、天皇制の基層とその下の古層との関係を明らかにすることは天皇制を相対化あるいは無化する上で重要な課題となる。

 「第314回」(6月28日)の引用文の中で梅原さんは、アイヌ語の魂を表す言葉ラマットが祝詞や宣命に残っている古代日本語=倭語と一致していると指摘していた。日本文化の古層にあるアイヌ文化の痕跡を言葉の面からもう少し探ってみる。「対話・日本の原像」から拾い出す。二つの第一級の思索が響きあう対話は気持ちよく読める。内容もとても興味深いものなのでそのまま引用する。

 まず吉本さんが地名を二つ重ねる枕詞を論じている。枕詞については吉本さんは著書「初期歌謡論」(枕詞論・続枕詞論)で詳細に論じているが、ここでは「初期歌謡論」を調べる労はとらない。「対話・日本の原像」で話題にされたものでその大略を知ればよいとする。


 枕詞の中に地名を二つ重ねる枕詞がある。例えは「春日の春日」――「ハルヒノカスガ」と読みましょうか ―― とか「纏向の檜原」とかね。これはとても古い、原型にちかいタイプの枕詞なんです。

 『古事記』に、ヤマトタケルが東国へ遠征してきたところ、海が荒れ、オトタチバナヒメが海に飛び込んで海を鎮めるという話がありますね。そこのところで、オトタチバナヒメが「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」という歌を詠んで飛び込むのですが、この「さねさし相模」の「さねさし」というのは、どういう意味か全然わかっていないんです。アイヌ語に、陸地がちょっと海の方へ突き出た所という意味で「タネサシ」という言葉があって、僕は、「さねさし」はアイヌ語の地名じゃないか、というふうに考えました。

 つまり相模もちょっと出っ張った所ですから、そこに昔、アイヌあるいはそれに近い人たちが住んでいたときに地形から「タネサシ」というふうに言われていた。それをもうひとつ重ねて「さねさし相模の小野に燃ゆる火の」とした。「さねさし」という枕詞はアイヌ語だとするのが一番もっともらしいのじゃないか、そこのところで、柳田国男の地名の考え方にちょっと接触していくのです。

 柳田は、アイヌ語の地名は自然の地形をそのまま名づけた所が多いのだという。なぜアイヌ語の地名が残っているのかというと、それは単にそこにアイヌ人が住んでいたからではなくて、アイヌ人またはそれに近い人たちが住んでいたときの地名があった所へ、後から移り住んで来た人間がいる。先住民たちを完全に駆逐してしまったら、その地名はなくなってしまう。そこで地名が残っているということは、アイヌ人たちと後から来た人間たちとが共存状態であったのだろう、というふうに柳田は言っています。

 つまり、アイヌ語の地名という問題はそういう意味でとても大切なことになってきます。先住民と後住の人とが異なった人種であっても、共存していたか、駆逐してしまって新しい地名をつけたか、またはこの「さねさし相模」みたいに、枕詞の形で残したか ―― そういうふうに分けると微妙にいろんな段階があって、それはとても重要なことだなと、たしか『地名の研究』の中で言っているんです。


 これを受けて、梅原さんは次のように応答している。

 枕詞の発生はそういう二つの異言語の接触、いってみれば「春日の春日」というのは、「カスガ」をどうして「春日」と書いたかという謎を説明しているわけですね。そういう言語の違う二つの文化が接触して、そこで生ずる言語のギャップを枕詞によって埋めようとしたという説はたいへん興味深いのです。私もぼんやりそういうことを考えていました。「さねさし」は「タネサシ」から来ているだろうとおっしゃるのは、きっとそうでしょう。「タンネ」というのはアイヌ語で「長い」という意味で、「種子島」も「長い島」ですからね。アイヌ語で解ける地名が東北地方に広がっているのは当然ですけれど、もっとはるか沖縄にまであるということは非常に重大な問題だと思います。

 日本の真ん中にはなくて、北と南の両端にだけ残っている言葉がだいぶたくさんあるんですね。例えば沖縄ではサンゴ礁と海の境目を「ヒシ」といいますが、アイヌ語でも、海と浜との境目−海岸線を同じように「ピシ」というんです。ところが興味深いことには、『大隅風土記』に必志の里というものがでてきて、その必志の里に「海の中の州は隼人の俗の語に必志という」と註がついています。ということは、『大隅風土記』が作られた八世紀現在でもヒシという言葉はもう中央ではわからなくなっていたけれど、大隅の国では方言として残っていたということです。

 そうすると、ヒシという言葉はアイヌと沖縄に現在も存在し、本土では八世紀にわずかに大隅地方の方言として残っていた、この問題をどう考えるかということです。いまの「タネ」の問題でもそうですが、そういうのがたくさんありますね。たとえば「ト」という言葉はアイヌ語では湖あるいは沼を意味しますが、古くは海を意味したと知里其志保はいいます。ところが『おもろ草子』に「オクト」とか「オオト」という言葉が出てきますが、それは「奥の海」「大きい海」を意味します。本州の「トネガワ」とか「セトノウミ」の「ト」も海あるいは湖の意だと思います。利根川は海のような川、セトはおそらくセプト、広い海ということになります。

 私も枕詞についてそういうことを考えることがあって、例えば「チハヤ」という言葉があるでしょう。「チハヤビト宇治」とか「チハヤフル神」とか、『古事記』には、「チバノカドノニ」という言葉がある。「チハヤフル」「チハヤビト」「チバノカドノニ」 ―― 全部神様につながっているけれど、意味はよくわからない枕詞なんですね。

 ところが「チバ」というのは、アイヌ語では「ヌサバ」なんですよ。つまり神に祈る時にイナウというものを作るのですが、イナウが集まったものを「ヌサ」という。日本の古代語では御幣そのものをヌサというけれど、アイヌ語では御幣の集合をヌサといいまして、ヌサのある所がチバなんです。そうすると「チハヤフル」は神を祭るヌサのあるチバが古くからある、だから神につく。「チハヤビト」というのはヌサ場で一族が集ってお祭をする、だから氏につく。「チバノカドノニ」というと、チバの多くあるカドノニ。平城京跡からたくさんイナウが出てきた。古代日本にも到る所にチバがあったと思います。私はそういう解釈で、「チハヤフル」などの枕詞は理解できるのではないかと思うのですよ。

 だから、おっしゃるように、そういう異言語の接触で、枕詞として古い言葉を残しておくというのはたいへん興味深い解釈で、いま言われた「さねさし」が「タネサシ」から、というのは私は気がつかなかったのです。これは柳田国男の洞察に敬意を表したい。枕詞をもう一度、アイヌ語で考えてみることは必要なんでしょうね。金田一(京助)さんのようなアイヌは異民族でアイヌ語は異言語、アイヌ文化と日本文化とは全くの異文化であるという通説、その通説について私は批判しましたが、その通説のタブーさえなくなればいまのような解釈は十分成立可能だし、そう考えることによって、日本の古代語研究は飛躍的に進むと思いますよ。


記紀歌謡をもういちど、アイヌと琉球の歌謡との比較を通して見直してみる必要があると、お二人の意見は一致している。枕詞だけではなく、記紀歌謡の中で、どう考えても近世以来のこじつけに近い解釈が多々ある。もしかすると、そういうことは全部、アイヌや琉球の歌謡とよく照合することができれば、解明できるのではないかと考えている。
 そういう観点から、枕詞の次に取り上げられたのは「逆語序」という文法面での古層だった。


吉本さんの問題提起。

 これは地名の重ねと同じことになるんですが、琉球の古い歌謡の『おもろ草子』の中にも例がありますが、古い問題ではないかと考えていることが一つあるのです。それは僕が考えたというよりも、その前に折口信夫が「日琉語族論」などでいちはやく指摘していることなんです。

 現在の常識でいえば、地名を呼ぶ場合、東京都中央区とか京橋何丁日というふうに、大きか地域の地名を先に言って、だんだん小さくしていきます。

 ところが、折口さんは古い形はそうじゃなくて逆語序になっていて、小さい地名を先にいって大きい地名を後でいう言い方があったんだと指摘しているんですね。その例は『おもろ』の中にいろいろあります。
 「ヒルカサリ(辺留笠利)」という場合に、「カサリ」村の中の何とかという意味で「カサリ」の方が地域的に大きい。


 逆語序の関連でいうと、「大工の吉本」というのが普通の語序ですが、『おもろ』の中では「吉本」を先にいって「吉本が細工」のように、大工だから細工人というような言葉を後でいう言い方がある。折口信夫は「それは古い言い方なんだ」といっているんですね。

 たとえば「山があってその傍に村がある」とすると、それをヤマカタという。それをカタヤマというふうにいうと、後世は「片山」という言い方になってしまって、片方が削げている山みたいに思うかもしれないけれど、本当は、昔はそうじゃなくてヤマカタと、いって、山の傍という意味で、山の途中をそう呼んだと、折口さんは言っているわけです。

 それらを全部合わせて、いわゆる「逆語序の時代」というのがあったというのが折口さんのとても大きな指摘で、 僕らも初期歌謡を調べてその種の例をいくつか見つけて、折口さんの説が正しいということを論じたことがありま す。その種のことを考えていくと、これは梅原さんのご領域でしょうが、日本の古代あるいは古代以前のことは、 どうも半分だけわからないところがあるような気がしてしょうがないのです。


 この問題について、梅原さん次のように応えている。

 地名を小さい順から書くというのは、外国もそうですね。アイヌと沖縄の形容詞の書き方を比べてみると、アイヌ語はわりと自由で、形容詞が名詞の前にきていたり後にきていたり、いろいろあると思うのです。どちらの形が古いのか、そこのところはまだ検討していないのですが、たいへん面白い問題を含んでいると思います。

 これは少し大胆すぎる意見かもしれませんが、アイヌ語では顔のことを「エ」および「へ」といい、お尻のところを「オ」あるいは「ホ」というんです。古代日本語でも上と下の対立を「エ」と「オト」で表現します。「エヒメ」「オトヒメ」、「エウカシ」「オトウカシ」などです。また、「エボシ」とか「エダ」とか、上のほうを「エ」あるいは「へ」という。それでお尻のほうも尻尾のことを「尾」という。「山の尾」というのも山の裾ではなくて、ちょうど山のお尻にあたる所と考えるとよくわかる。

 ところでアイヌ語では動作を表すのに「ホ〜」「へ〜」というのが実に多いんです。人間の動作を、顔と尻の二点でだいたい表現している。それが名詞の前にもおかれ、「へ何々」「ホ何々」という。「へ何々」というのは、何々に顔を向けて、何々の方へとなり、「ホ何々」は何々の方へ尻を向けて、何々から、ということになる。こういう言葉から、さらに「へ」および「ホ」が言葉の後について、「何々へ」「何々ホ」「何々ヲ」となる。こうなると日本語の助詞「へ」と「ヲ」に近くなる。日本語の助詞と非常に似ている。「東京を発って京都へ行く」は、東京に尻を向けて京都へ顔を向けるという意味であるということになるわけです。

 そういうふうに考えると、肉体の部分を表す「エ」あるいは「オ」が前置詞のように用いられ、後に後置詞になって、助詞になってゆくという、そういう助詞の成立の過程がわかるように思うんです。さきの逆語序という問題とこの問題とはつながっているように思われて、私にはたいへん興味深い。

 それから吉本さんが「わからない部分がある」とおっしゃったのは、まさにその通りでして、私はついこの間まで、縄文文化というのはわからないと思っていたのですね。考古学ではある程度物質生活は知ることができるが、精神生活を知りえない。いくら頑張っても、考古学だけでは縄文人の精神生活や宗教意識がわかるはずがない。ところが私はいま、アイヌ文化を発見して、沖縄文化との対比で考えると、あるところまで縄文人の精神構造や宗教意識が理解できるのではないかと思うようになったのですね。今までわからなかった縄文文化を解く鍵が多少みつかってくると思います。


 琉球やアイヌの文化を読み解くことによって、縄文人の精神構造や宗教意識が理解できるのではないか、と梅原さんは言っている。それは同時に天皇制の古層を掘ることでもあり、天皇制の相対化あるいは無化へと向かう道筋でもある。
 吉本さんと梅原さんの対話は、ヤポネシアを広く覆っていたであろう天皇制以前の精神文化や宗教意識の問題へと続く。吉本さんの問題提起から。


 たとえば、中央部でも岩磐とか巨石とか樹木信仰というのがありますね。これはむしろ先住民の信仰だと考え、そこに天皇家みたいなものが入ってきて、それをそのまま容認したんだというふうに考えると、三輪山信仰でも考えやすいところがあります。

 それから、たとえば諏訪神社の信仰もそうですが、どうもこれは北方系あるいは東北からきているんじゃないかと思えるのですが、信仰の形として男の生き神様を造って、それは生涯不犯で神事ばかり司って、その兄弟が政治を司るみたいな形がいろんな所に見えるのですね。諏訪地方の信仰もそうですが、瀬戸内海でも大三島の信仰のあり方もそうです。

 そういうのと、そうじゃなくて母系制で、耶馬台国のように女の人が神事を司り、その御託宣によってその兄弟が――これは沖縄もそうですが――政治を司る、そういう形と両方あるような気が僕はするんですね。

 ですから神話の中でも、実在かどうかわかりませんが、神武というのがいて、その兄に五瀬命(イツセノミコト)というのがいますが、これは神事を司っていた長兄と思われますが、遠征の途中で登美の那賀須泥此古(ナガスネヒコ)と戦って撃退され、熊野の方に廻って転戦して、戦死してしまうことになっています。この五瀬命が、神人というか神事を司っていたと考えると、男系の匂いもするんですね。

 そうはいうものの、たとえば神武が熊野から入っていって三輪山の麓まできて、その地の村落共同体の首長の娘を嫁にもらうか入婿するかどちらかわからないが、それと結婚する。すると、それはどうも母系制に従っているようにも思える。ところがいろんなところを見ていくと、男系の神様を奉っておいて、兄弟が村落を支配するという形が、どこかにほの見えたりして、よくわからないところがあるんです。 これをどういうふうに理解すればいいのかということです。それはつまり時代の差異とか、そういうものを象徴しているのか、あるいはまた先住・後住ということを意味しているのか、それとも系統が違うということなのか、そこがよくわからないんです。


 この問題について、以下のように対話が続く。

梅原 おっしゃるように、どれが縄文文化なのか、どれが弥生以後の文化なのか、またどれが記紀にいう神武天皇という新しい支配者が出た大和朝廷以後の文化なのか、それを分別するのは容易ではないですね。私は構造として縄文文化を根底において、次に弥生文化を――神武伝承以前の弥生文化というものもあると思いますけれど――その次に神武伝承以後の大和朝廷の文化を考えますと、三輪山はどこに属するのか。朝鮮などに行くと、そっくりそのまま三輪山みたいな山があって、同じように崇拝されている。こう見ると、これは端的に縄文文化とはいえない。あるいは神武以前の弥生文化の遺跡ではないのかとも思われますが、それらは重層的に重なり合っているので粘り強く一つ一つ解いていくよりしょうがないだろうと思います。

 最後に出された男系の問題ですが、男の司祭の問題は、私は気がつかなかったが、たいへん面白い。それも父系社会と双系社会の問題と関係するのではないでしょうか。社会学者の中根千枝さんなどの考え方でも、中国・韓国は父系社会であるけれども日本はそうじゃなくて、双系社会だという。ところがアイヌも双系社会なんですね。どういうふうに違うかというと、父系社会というのは、本貫を同じくする氏により団結がたいへん固い。ですから当然大家族制になってくる。そして同姓娶らず、その範囲では結婚はできない。中国や韓国は今でもそういう社会です。

 そういう社会だと姓は増えないわけです。だから韓国は全部で二百姓ぐらいしかない。中国も百姓といいますが、今ちょっと増えましたが、少数民族を含めても五百くらいでしょうね。こういう父系社会では同姓を超えた団結はなかなか生まれません。会社でも同姓で集まるし、異姓の人が入っても絶対に社長になれないから、どうしても会社に対する帰属感がない。

 ところが日本ではそうではなくて、父系社会の団結が弱い。古代では「物部鹿島」というような複姓がある。父は物部氏、母は土着の鹿島の人、そこで物部鹿島という姓ができ、物部氏から独立する。だから姓は無数にふえる。日本の苗字というのはほとんど地名ですが、結局、氏、血よりも今住んでいる土地のほうが大事なんです。だから苗字が何十万とあるわけです。

 またアイヌでは、財産を継承するときに、男のものは父系で相続、女のものは母系で相続するのです。弓矢のような男の持ち物は男の血縁で相続され、女の持ち物は女の血縁のほうに行く。上代日本もそうではないかと思われます。それから、「同姓娶らず」の韓国では本貫を同じくする同姓のものが結婚したら、禽獣の行為だとされるくらいたいへんです。同姓を娶ったら法律で罰せられて、監獄に行かなければならない。それを免れるためには亡命をしなくちゃならん。現に最近でもそういう悲劇の実例があるのを私は知っていますよ。

 ところが古代日本の場合は、父親が一緒でも母親さえ違えば兄妹でも結婚してもかまわない。それは父系社会からみれば、まったくの禽獣の行為としかみえないかもしれないけれど、それはそれで双系社会の掟はある。母親が一緒だったら、これはやはり畜生の行為ということになるわけです。

 いまの話でいうと、初期天皇家が父系的な社会であったか、双系的な社会であったか――私は、入ってきたとき、初めは父系的であったと思います。けれど、いつの間にかだんだん双糸的に変ってきたのではないかという気がしてしょうがないんです。

 入婿の話が出ていましたが、父系社会では入婿は絶対あり得ないわけですね。


吉本 あり得ないですね。


梅原 ところが、神武天皇が大和を支配するために入婿みたいな形になっていますね。


吉本 入婿ですね。三輪山の麓の長の娘と結婚して、そこに入婿していますから。そこで僕は思うんだけれど、初期天皇でも、十代目ぐらいまでたいてい長男坊ではないですよね。それは長子相続ではなかったという意味なのか、それとも長男というのは隠れているけれど、宗教的な司祭をしていて、全然子孫を残さないことになっているから、長男ではなかったのか、そこがよくわからない。


梅原 末子相続でしょう。


吉本 それに近いと思います。


梅原 アイヌも末子相続です。アイヌは家が小さいから、大家族はできないのですね。長男が嫁さんをもらうと独立をしてまた家をつくる。兄弟がだんだん独立をすると、最後の子どもが年とった親父さんと一緒にいる。だからアイヌは財産は子どもにみんな平等に分けるけれど、最後まで親父さんと一緒にいるのは末子ということになる。ここに末子相続的な原理が含まれていると思うんですね。


 それと、いま吉本さんがおっしゃった、天皇家はだいたい末子相続ということとつながりが出てくるような気がしますね。応神天皇の時、ウジノワキイラツコとオオササギノミコトが皇位をゆずりあって困り、ついにワキイラツコが自殺したという事件がありますが、あれも伝統的な末子相続と儒教的長子相続の争いと見られます。この場合、末子相続法によって皇位の相続の権利を主張できるワキイラツコが儒教信者であり自分は相続すべきではないと考えたところに悲劇の原因があったと思います。とすると古代日本社会はアイヌ社会に似ていた。だからいまの問題は言語だけでなくて、習俗というものを考えても、アイヌと沖縄をみると古代日本のことがいろいろわかってくることになるのじゃないかと思いますね。


吉本 そう、アイヌの問題を調べていくと、弥生時代から残っているいろいろな宗教的な行事とか文化的なもの、風俗・習慣もそこに保存させている部分がありますから、そういうことがとてもわかってくるという問題があるわけですね。


梅原 しかし、アイヌにないものを調べることも大事だと思いますね。弥生時代にすでにあってアイヌにまったくないものは何かということです。それは外から持ち込んできたものである可能性が高い。アイヌでは消えてしまった可能性もありますけれど。そういうものをいろいろと比較・検討してみると、今までわからなかったものが、少しずつわかってくるのじゃないかという気がしますね。


 縄文文化と弥生文化を対比するとき、その違いは非農耕民と農耕民の違いに還元される部分が多いと思う。そして非農耕民と農耕民という場合、縄文人と弥生人という対比の外にもう一つ考慮すべきことがある。「山の民」と「里人」の対比である。

 山の民=山人とは何か。

 私たちは普通「山人」というと、木地師や 木樵などと呼ばれている人たち、さらに は狩猟を仕事とする「マタギ」や「山窩」と呼ばれている人たちを考えると思う。しかし山人研究をしていた柳田国男は、 放浪の鍛冶屋とか 鉱山師、あるいは放浪の修験者とか放浪の宗教者みたいなものも山人として考えてい たらしい。

 柳田は山人研究を半ばにして放棄しているが、これについて梅原さんが次のように言っている。


吉本 柳田さんはそれ(山人)を異人種、人種が違うと考えていたんでしょうか。


梅原 初期にはそうでなかったと思いますね。『山人の研究』で「自分の生まれたところは昔、異族が住んでいたところだと『播磨風土記』にある記事を見て、自分も山人の子孫の血が入っているのじゃないかと思った」という意味のことを言っている。それが彼にはショックだったと思いますね。だから彼はたいへん厭世的になり、民俗学の研究に入っていく。あの玉三郎が演じた泉鏡花の『夜叉ケ池』で竜の女と住む学者は柳田さんがモデルだといわれているくらいですからね。自分の血とつながっているそういう山人の文化のすばらしさを明らかにし、里人をおどろかしてやろうという気特が、山人の研究に入っていった彼の気持であり、それが『遠野物語』になってゆく。彼の民俗学の出発点は明らかに「山人研究」「異族研究」なのです。

 しかし柳田さんは大正六年頃を境として変った。山人研究は完成しなかった。おそらく私は、幸徳事件などが間接的な原因と思います。山人研究を続けていたらたいへんなことになると心配し、それは天皇制とぶつかって危険だと、官僚でもある柳田さんはそこで転向し、山人研究から里人、つまり常民の研究者となる。自分を山人じゃなくて里人と一体化する。そこで新しい柳田民俗学が生まれたと思います。そういうふうに、柳田さんには微妙な転換があるような気がしますね。だから、初期の柳田さんはアイヌに対する関心が非常に強かったのだけど、どこかの段階で捨ててしまった。柳田さんを考えるときに、そのへんがいちばん大事になってくるのじゃないか、と私は思うんです。


 山人研究から常民研究への柳田の転向の理由を幸徳事件と結びつけるのは、私には穿ち過ぎのように思える。しかし、そういう結びつきを想像できる要素が山人研究には濃厚に含まざるを得ないのは確かだ。 吉本さんと梅原さんの対話は、天皇制の基盤である農耕民とその古層の狩猟採集民との関係を神話から読み解く議論に移っていく。


吉本 そういうところから考えますと、柳田さんは何を日本人というふうに見ていたのでしょうか。
 『海上の道』でもそうですが、よくよく突きつめてみると、柳田さん流にいえば、稲作をもって南の島からだんだんと東北の方に行った、そういうものを日本人と呼んでいるみたいに思えます。これではとても狭い気がしますね。そうすると、ほとんどが日本人じゃない、ということになりそうな気がしてくるところがあるんですが、それはどうでしょう。


梅原 柳田さんは農林省ですか、勤めていたのは。


吉本 農商務省ですね。


梅原 やはり農商務省の役人としての職業意識が強くなると、どうしても日本を農業国と考える。稲作農耕民の渡来によって日本の国はできたと考えた。しかしその背後には記紀史観の影響があると思いますね。

 アマテラスオオミカミ、というのは明らかに農耕民族の神だし、その孫のニニギノミコトも農耕民族として日本の国に来た。ところが土着のクニツカミ、というのがすでにいた。たとえばオオヤマヅミというのは山民ですし、ワダノカミというのは漁撈民でしょう。ニニギとその子孫が、そのオオヤマヅミやワダノカミ、の娘を娶った曾孫が神武天皇です。ですからあの神話は、農耕民がやってきて、山地狩猟民や漁撈民と混血して、日本民族ができたということを物語っている。

 日本人は渡来の農耕民が土着の狩猟民を支配してつくった国家だ――こういう記紀史観が当時の日本人の共通の史観になっていた。それに柳田さんも影響されているのではないかと思います。だからどうしてもアマツカミ、主体の歴史観だった。われわれは今は、クニツカミを重視した歴史観を考えていかねばならないと思いますよ。

 しかし記紀のニニギから以後の九州での話は、事実そのままではないとしても、日本人の成立の過程についてたいへん正確に語っていると思われます。渡来した稲作農耕民を父系、土着の狩猟採集民を母系に、その二つの混血によって日本人はできてきたということをその神話は示している。そのために出産のときにトラブルが起きたりする。文化が違うと出産がいちばん問題だと思います。出産のときに必ず文化のトラブルが起きてくる――そういうものを、とてもうまく語っていると私は思いますけれどね。


 次いで、「マタギ」と「山窩」の社会習俗や宗教が話題となる。


吉本 それから、柳田さんのいう山人の中に事実として、たとえば山の中腹から煙が立っているのを見て、「あれは山窩の人がまたやってきたんだ」というような言い方で出てくるけれど、山窩というのは、つまり山人のうちにどういうふうに位置づけられるのでしょうかね。


梅原 まあ、柳田さんを読むとびっくりするのは、大正天皇の御大典のときに、京都の若王子の山の中腹から煙が出ていた、あれは天皇の即位を祝って山人がたいた火の煙だと書いてあるんですね。僕は若王子の山裾に住んでいるんで、どうしてそんなことを柳田さんが考えたか、びっくりしてしまいますけれど。(笑)

 山窩とかマタギという人たち――山窩とマタギとはどう違うのか。マタギというのは東北に住んでいる狩猟民で、山窩というのはもうちょっと中部の山岳地帯に住んでいる狩猟民ですね。マタギのほうがまだ農耕民との間の、ある種の友好関係があるけれど、山窩は差別され非常に迫害されていた、と考えていいのではないでしょうかね。

 ところがマタギ社会ですけど、ご承知のようにカメラマンの内藤正敏さんがダムで埋没する新潟県のマタギの社会を撮っていますね。この間、私も山形県の小国町という所のマタギ部落へ行って、マタギの熊祭を見てきましたよ。マタギ部落というのはもうどこでもほとんどなくなってしまいましたが、まだそこには少し残っているんです。

 熊を獲るのに、今はライフルですから、かなり遠い所からでも撃てるはずなんですよ。ところが、そんなふうにパッと撃たないで、やはり勢子が出て、熊を下の方から追い上げ、一の鉄砲、二の鉄砲、三の鉄砲が待ちうける。そしてずーっと追い詰めてきて、一の鉄砲から順に撃って行く。武器がすっかり近代的に変っても、昔、熊を追い込んで、槍で仕止めるのと同じ方法でやっているんです。

 ここにどうしてマタギ社会が残ったのかというと、彼らは片方で農耕をやっている。冬になって農耕ができなくなってからマタギの生活に入るんですね。ふだんは農耕をやって、冬の間だけマタギですから、かえって純粋に残ったのです。

 そこでいろいろ聞きましたけど、完全な共産社会ですね。分配が実に公平です。つまりマタギの親方を能力によって、今度の熊狩りには誰がいちばんいいか相談して決める。一種の職能的な秩序が完全にできていて、親方はご飯も炊かなくていいし、寝ていればいい。しかし親方の命令には全部従う。その代り、親方は責任をもたなくてはならない――そういう形でやっているわけです。ところが熊を獲って、熊の肉を分けるのはみんな平等で、狩りに参加できない未亡人とか年寄りにもちゃんと平等に分けるんです。ですからマタギ社会は見事な平等社会で、長は機能に応じてできる………というので、私は感動しましたね。

 そんな彼らが熊祭をしている。それがいつやるかというと、マタギをやめるとき、つまり熊が冬眠からさめて出て来るときに熊を獲るわけです。ですから熊を獲り終ると春で、彼らはそれから農耕生活に入るんです。その熊祭もやはり、アイヌの熊送りに似ていました。熊の魂を天に送るという、そういう意味が残っているようでした。同時に、熊祭を終えて、自分たちはこれからマタギをやめて農耕の生活に変るという、そういう意味ももっているけれども、どこかにアイヌの熊祭の面影を保っていました。

 ところで、そういうマタギとか山窩――山窩はまたちょっと生活が違うと思いますけれども ――彼らの生活習慣を見ていると、ふつうには、山人はやはり異民族だと考えられるんじゃないかと思うんです。しかし、分配の見事な平等主義の社会を実際に見ると、やはり感動しましたね。


 記紀歌謡の中には近世以来のこじつけに近い解釈が多くある。このことと山窩が結びついて思い出したことがある。
 吉本さんは著書「共同幻想論」で柳田国男の「遠野物語」や「記紀」の神話の他に三角寛の「サンカの社会」 を素材に用いている。その「共同幻想論」の「規範論」に、古事記の中の次の歌の意味について論じているくだりがある。


 夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁徴爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
(やくもたつ いずもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを)


 通説ではこの歌を

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」

と読み下している。そしてその意はおおよそ

「八雲の幾重にも立ちのぼる出雲の宮の幾重もの垣よ。そこに妻をむかえていま垣をいくつもめぐらした宮をつくって共に住むのだ」

とするのが通説だ。 学者たちは何故そのような読解と解釈をしたのか。

この歌は、「天津罪」を犯して高天原を追放されたスサノオが出雲を平定し、その地に宮を作ったという物語に挿入されている。


 故ここをもちてその速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまひき。ここに須賀の地に到りまして詔りたまひしく、

「吾此地に来て、我が御心すがすがし。」

とのりたまひて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀と云ふ。この大神、初めて須賀の宮を作りたまひし時、其地より雲立ち騰りき。ここに御歌を作みたまひき。その歌は、


 夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁徴爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁


 「其地より雲立ち騰りき」という物語の地の文にとらわれてのことであるのは明らかだ。勿論これは古事記の編者の意図であっただろう。しかし、記紀の歌謡については、物語の部分とは別個に考えなければならない場合が多いことが一般に認められている。伝承の歌があってそれをもとに物語が作るられたり、物語の前後の関係からその物語にうまく会う伝承歌を挿入されたりした可能性があるのだ。

 実はこの歌はサンカの社会にも伝承されていて、サンカの解釈はまったく違うという。吉本 さんが「サンカの社会」から引用している部分を孫引きする。


サンカは、婦女に暴行を加へることを「ツマゴメ」といふ。また「女(め)込めた」とか、「女込んだ」などともいふ。この「ツマゴメ」も、往古は、彼らの得意とするところであった。そこで、「ツレミ」(連身)の掟( ヤヘガキ)ができて、一夫多婦を禁じた。それが一夫一婦(ツ レ)の制度(ヤヘガキ) である。

 ここで問題になるのは、古事記・日本書紀に記された文字と解釈である。すなはち、


(古事記)夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微雨夜幣賀岐都久留骨能夜幣賀岐衰

(日本書紀)夜句茂多菟伊都毛夜覇餓岐菟磨語妹爾夜覇餓枳菟m盧贈廼夜覇餓岐廻


 右に見るやうに、両書は、全く異った当て字を使ってゐるが、後世の学者は、次のやうに解釈してゐる。


八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を

と、決定してゐるやうであるが、サンカの解釈によると、(昭和11年、富士山人穴のセプリ外 18ヶ所にて探採)次の通りである。


ヤクモタチ(ツ)は、八蜘昧断ち(つ)であり、暴漢断滅である。

イヅモ、ヤへガキは、平和を芽吹く法律で、ツマゴメ(ミ)ニは、婦女手込めにし、である。

ヤへガキツクルは 掟( ヤヘガキ)を制定して、コ(ソ)ノヤへガキヲ、はこの 掟( ヤヘガキ)をこの守る憲法を―で、これが「一夫一婦」の 掟( ヤヘガキ)である。

 それで出雲族を誇示する彼らは、自分たちのことを、「沢瀉(おもだか) 八蜘蛛断滅」だと自称して、誇ってゐるのである。


 吉本さんは「サンカの伝承の方が確からしく思われてくる」と言い、その理由を次のように述べて いる。

 なぜこういう解釈に吸引力があるかといえば、スサノオが追放されるにさいして負わされた〈天つ罪〉のひとつは、農耕的な共同性にたいする侵犯に関しており、この解釈からでてくる婚姻についての罪は、いわゆる〈国つ罪〉に包括されて土着性の濃いものだからである。『古事記』 のスサノオが二重に象徴している〈高天が原〉と〈出雲〉における〈法〉的な概念は、この解釈にしたがえば大和朝廷勢力と土着の未開な部族との接合点を意味しており、それは同時に〈天つ罪〉の概念と〈国つ罪〉の概念との接合点を意味していることになる。


 「規範論」はこのあと「〈天つ罪〉の概念と〈国つ罪〉の概念との接合点」を論究していく。


 前回、梅原さんが「こういう記紀史観が当時の日本人の共通の史観になっていた。それに柳田さんも影響されているのではないかと思います。だからどうしてもアマツカミ、主体の歴史観 だった。われわれは今は、クニツカミを重視した歴史観を考えていかねばならないと思います よ。」と言っていた。上記のような記紀歌謡の洗い直し、あるいは記紀の神話の古層の掘り 起こしはそのことと別のことではないと思う。網野さんのお仕事もその線上にある。


 サンカの誰かが里に下りてきて、古事記あるいは日本書紀を読む機会をもった。その中の「ヤクモタツ・・・」という歌を知り、自分流に解釈しなおしてサンカ社会に流布した、なんてとても考えられない。とすると「ヤクモタツ・・・」の歌は古事記の編者が伝え聞いた伝承と同じ発祥のものを、古事記編纂の時代よりずっと古くから、古事記とは無関係に、サンカの祖先の社会に伝承され、今日まで伝えられてきたと考えるのが自然だ。そういう点からもサンカの人たちが解く解釈の方が確からしい。
 サンカの人たちは出雲族を誇示しているという。出雲族というのは歴史的な信憑性のある種族だろうか。
 出雲神話はまったくの作り話だというのがこれまでの通説だが、梅原さんはこの通説にも疑問を呈している。


 実はこの間、出雲にすばらしい銅剣がたくさん出たので見に行きました。銅剣が356本。これは今まで日本全土で出ているより多い数です。それに銅鉾が16本、銅鐸が6個――ちょっと日本の古代史を書き換えなくてはならない。われわれもそうですが、長いこと「出雲神話」はフィクションだと考えてきた、これは津田左右吉に影響された日本の古代史家が一様にもってきた考え方です。

 ところが、「出雲神話」の中心地である斐伊川の近くの、ほんの小さい丘からそれだけのものが出てきて、国譲りの話をそのままあらわしているようなことになってきた。

 それから、和辻哲郎の銅鐸文化圏、銅剣・銅鉾文化国の対立で弥生文化を、近畿文化圏と北九州文化圏の対立と考える図式もすでにおかしくなってきましたが、この荒神谷遺跡の出現でもう一度大きく問い直されなければならなくなった。

 そこで、どうしてそんなものがそこに埋められていたか、いろんな説が出ていますが――最初、銅鐸を使って地の祭をしていた。ところが今度は太陽を祀る宗教になったから、要らなくなって埋めたという説が有力のようですが、埋めたにしては数が多すぎる。それと同時に、地の神から太陽の神へと、そんな簡単に信仰の対象が移るものかどうか。どうにもうまい説明がつかないんですね。私はこの遺跡がヤマトタケルと関係する記紀や『風土記』のタケルべの里であることを考えて、やはり出雲権力の大和権力への降服儀式ではないかと思いますね。


 「発掘・日本の原像」がこの神庭荒神谷(かんばこうじんだに) 遺跡に関連した記述をを書き出してみる。


  島根県松江市に弥生時代の戦場跡らしい遺跡がある。田和山遺跡という。この田和山の西約 40kmに出雲大社、約17km西南西に神庭荒神谷と加茂岩倉の両遺跡がある。

 この田和山遺跡は標高46mの丘陵にあり、2100年あまり前の弥生時代前期後半につくられ、200 年ほど続いた不思議な遺跡だという。まるで砦か、聖地のようだという。人が住んでいた形跡はない。こんな弥生遺跡はきわめて珍しい。見晴らしの良い丘陵に、倉庫にしてはあまりにも小規模、しかも厳重な防衛態勢をとって営まれた形跡が濃い。いったいどんな施設だったのだろうか。神庭荒神谷遺跡はこうした周辺の遺跡とも関連して考えなければいけないだろう。

 神庭荒神谷遺跡から大量の銅剣、銅鉾、銅鐸が発掘されたのが1984年。梅原さんがそれに注目して上記のような発言をしたのが1986年のこと。その後、1998年には吉野ヶ里遺跡から九州初の銅鐸(高さ約26cm)が発見されている。さらに99年6月、これまで6種類以上の鋳型が出土している大阪府茨木市東奈良遺跡から、朝鮮式小銅鐸と日本式銅鐸双方の特徴をもち、「日本式が考案される過程でつくられた祖形のひとつで、絶滅してしまった型の遺物」ともいわれる古い銅鐸(高さ14.2cm)が出土している。同じ年の9月には奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡で、類例のない文様の銅鐸鋳型が見つかった。このように近年、銅鐸関係の新発見が続いている。しかし、鋳型が見つかった約35ヵ所のうち、30ヵ所を近畿地方が占めている。


 このため、春成秀爾・国立歴史民俗博物館教授(考古学)は「近畿に銅鐸の中心部があったことは依然、揺るがない」という。そして「高度で繊細な技術やデザインなどから見ても、銅鐸は当時の地域集団にとって、格別なものだった。とても対価を支払って入手できるものではなく、製作も限られていた。贈り主と贈られた相手の間には、半永久的に従わざるを得ないような関係ができたに違いない」とし、社会統合の象徴とも考えている。

 銅鐸はこれまで、その用途や埋納目的に関心が向きがちだった。奈良国立文化財研究所は、加茂岩倉銅鐸の原料産地などの科学分析を始めている。詳しい分布状態や製作推定地、兄弟関係などから、銅鐸の「動き方」が解明されれば、ここからも弥生社会の実態が見えてくるだろう。


農耕があると富の蓄積がきくわけですね。狩猟社会というのは絶えず移動していますから、富を一カ所に貯蔵することはなかなか困難ですね。だから例のオオクニヌシノミコトが袋を背負っていくというのは、狩猟民族の移動方法を示しているのではないかと私は思います。

 獲物があった場合でも食べられない分は腐ってしまいますから、自分だけ一人占めにすることはできないだろうし、部族の全部に分ける――そういう、非常に共産主義的な社会だったと思います。

 ところが農耕が発明されて、富の集中が可能になり、そしてそこから国ができる。国ができれば国家を統一する大宗教、世界宗教が出てくる。そして巨大な神殿ができてくる。それからそれに対して必ず文字が出てくる――ということになると思うのですが、縄文文化というのは、そういう意味でいうと、すでに世界の他の地区にそういう大文明が出現しているのに、一時代前の生産方法のもとにかなり精神的に高い文化を発展させた特殊な文化であったと思いますよ。

 日本では農耕の成立が遅れ、巨大な国家の出現が遅れたために、富の集中する社会が出てくるのがたいへん遅かった。それから文字の出現も遅かったと思いますが、それはいいことではなかったか、といま僕は考えているんですよ。

 国家のできるのが遅かったからよかったという考え方です。巨大国家が造られたときは富の集中があって、階級社会ができて、うんと金持と貧乏人の差ができる。そういうところから生ずる人間の心の歪みがたいへんきつい。そのきつい歪みを世界宗教が反映しているのではないかと、私は思うんです。


 縄文文化は、巨大国家や大文明は生み出さなかったが、それはむしろよいことだったのだと言っている。大文明の代わりに「精神的に高い文化を発展させ」ていた。現代の人類が陥っている陥 穽から人類を救い出し人類の未来を開くための新しい思想あるいは倫理を創出する手懸りが、 縄文文化を発掘・考究することによって得られるのではないか。梅原さんと吉本さんの対話から、 こんな壮大なモチーフが浮かび上がってくる。

 さて、いきおい、お二人の話題は「日本国」ということになる。 梅原さんの要請に従って、吉本さんが「共同幻想論」のモチーフと方法論を次のように語っている。


吉本

 制度的というか、政治的というか、そういうところから考えると、日本人の歴史と、日本国家、つまり初期の大和朝廷成立以降の国家らしい国家が農耕を基礎にしてできあがったことは同じではありません。つまり日本国の歴史と日本人の歴史は違って日本人の歴史の方がずっと古いわけです。それこそ縄文早期、あるいはもっと前から始まっているかもしれませんから。日本人の歴史と日本国の歴史――もっといえば天皇家の歴史とを全部同じものとして見るのは不当ではないかという感じ方はあったのです。

 だから、天皇家の始まりが日本国の始まりというのはまだいいとしても、天皇家の始まりが日本人の始まりだ、というのは少なくとも違うから、日本人の歴史というところを掘り起こしていけば、天皇家を中心にしてできた日本国家の歴史のあり方を相対化することができるのではないかということが問題意識の一番初めにあったわけです。


 網野さんの厳密な定義に従えば、日本国成立以前には「日本人」はいなかったことになるが、吉本さんが「日本国」と「日本人」とを使い分けている意図が網野さんの問題意識と同じであることは言うまでもないだろう。吉本さんは「日本人」という語を「日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉」として用いているのではない。ヤポネシアを「日本列島」と呼ぶときと同じで、吉本さんがこの文脈で「日本人」というときの「日本」は国名ではなく地名を表していると考えてよいだろう。
 不要な解説だったかもしれない。吉本さんの発言の引用を続ける。

 ですから初めの頃、熱心にやったのは、天皇家の即位の仕方とか宗教の作り方というもの――僕は主としてそれを琉球・沖縄をみて、沖縄にずっと後まで、十世紀以降まであった聞得大君(キコエオオキミ)という女官の制度的な頂点にいる、宗教を司る女性たちの即位の仕方と比べると、たいへん似ているところがあるのではないか、そこを知ろうとしました。
 『共同幻想論』の中では何を考えたかというと、能登半島などの田の神が来訪してくるという田の神の儀式と、大嘗祭の神事のやり方とがわりあい似ているのではないか。同じ型があるのではないか――それを調べて研究すると、日本人の歴史という問題と天皇家の成立以降の国家の歴史、あるいは天皇家の祭儀や祭の中に残っている制度的な名残りなどを類型づけられるのではないかというふうに考えて、初めはそんなことばかりつつき回していたように思います。

 初期の天皇家が大和盆地に入ってきて、そこで地域国家らしきものを造っていくときの信仰のありかたは、沖縄の聞得大君の即位のときの信仰のやり方と似ていて、いずれもはっきりいえば一種の巨石信仰あるいは樹木信仰みたいなもので、その巨石や樹木、あるいは小高い丘の頂点から神が降りてくるという感じがあって、それは同じ類型づけができるのではないかと考えたんです。

 それが、天皇家あるいはもっと普遍化して農耕民に特有な信仰だったのか、あるいはそれ以前からあった信仰を継承したのか、そこがわからないから、初めは農耕民のいちばん古い祭の仕方を、天皇家が大和盆地で継承して最初にやったのだと考えたのですけれども、後になるにつれて、それは前からいた先住民の信仰ではないのかと思えるようになってきているんです。でも本当は、そこがよくわからないんです。

 つまり初期の天皇をみていても、相続は少なくとも長子相続ではない。しかし婚姻になるといつでも姉と妹がいて、入婿的で、女系的な匂いがするのは確かです。そうすると、そこのところはどういうふうに理解したらいいか。つまり宗教的な為政と、現実に一族のあり方としてとっている相続の形とがどうしても混合していて、よくわからないというのが問題です。

 これと異質なのは、縄文時代からの狩猟民的な祭式といわれる、諏訪湖のほとりの諏訪神社の祭のあり方と相続の仕方です。あれは男系の子どもを連れてきて、何十日かその子どもを籠らせたあと、岩盤みたいなものの上で相続の儀式をする。それは一種の生き神様の役割をさせるという形で、大和朝廷が近畿地方、大和盆地でやったやり方とちょっと違うんですね。

 それと、瀬戸内海の大三島神社の古くからの相続の仕方――河野氏の祖先でしょうけれども ――あのやり方が、兄が生き神様を相続して、それは生涯結婚できず子孫を残すことかてきないことになっていて、弟が支配するという形を強固に保ってきた――わずかにその二つぐらいが異質だということがわかっていた。

 江上(波夫)さんのいうように、もし大陸からやってきたのが天皇家だというのならば、そのとき大勢の原住民がいて宗教的な形態も決まっていた、そこに支配的な民族が土着の人たちより少人数という形で入ってきた場合に、自分たちの宗教を押しつけるものなのか、あるいはそこに元からあったものをうまく使うのか――僕は、そこのあたりの解明がとても重要ではないかという感じがします。


梅原

 記紀の記事を尊重すると、神武天皇の次に重要なのは崇神天皇でしょう。神武天皇も崇神天皇も、どちらもハツクニシラススメラミコトといわれている。どうして二人に同じ名前をつけたのかという問題が生じてくるけれども、政治支配は神武天皇から始まっている。記紀の記述に従って南九州からやってきて、巨大な統治政権を固めたのが神武天皇だとすれば、それの宗教的な基礎を固めたのが崇神天皇であるということになる。そういう意味で崇神天皇が神武天皇とともにハツクニシラススメラミコトと呼ばれるのだと思います。

 崇神天皇の時代に疫病がはやってたいへん多くの人が死んだことがある。どうして疫病がはやるのか占ってみたら三輪の神様が崇っている。そこで三輪山の神様の子孫であるオオタタネコを見つけ出して三輪山を祀らせたら、疫病はおさまって日本の政治はうまくいったという記事が『古事記』にも『日本書紀』にも出ているんです。

 これは、神武天皇以後九代までの天皇が向こうからもってきた、近くは南九州、その前はおそらく朝鮮半島からもってきた宗教で交配しようとしたけれどうまくいかない。そして世の中がいろいろ乱れたので、結局、先住民が信仰していた宗教を祀ることによっておさまった、ということではないかと私は解釈するんです。三輪山の宗教が縄文時代までさかのぼるものか、それとも弥生時代に始まるものか、これまた難しい問題ですが……。

 一応、日本の国を考えるときに、言語だの宗教だのはだいたい土着のものを基本にして、それを継承したのではないか。そうしないと、少数の支配者が多数の被支配者をうまく治めることはできないだろうと、そう考えているんです。

 それでは先住民、縄文住民の宗教はどうであって、弥生初期にどう変って、再びいまの天皇家の祖先が来たときにどう変ったかということはなおわからない。私は、いわゆる神様が山の峰に天降って、それが現在の支配者の祖先だという考え方は、天皇家が大陸のほうからもってきた思想ではないかと思っていました。ところがそれもやはり、それ以前の縄文時代の人たちがすでにもっていた考え方ではないか――沖縄やアイヌの例もあって――そういうふうに今は考えております。
 アイヌでもかれらの祖先が降った山が必ずあるところを見ると、天上から神が降臨するというのがアマツカミ渡来農耕民の考え方であるとはいえないようです。

http://www3.kitanet.ne.jp/~nihirata/nippontoha.html

ヤマト王権の出自(1)


 吉本さんと梅原さんの対話が次に取り上げたのはヤマト王権の出自である。この問題に まつわる事柄はいまだほとんど仮説の域にあるが、それらの仮説を照らし合わせたり組み合わせたりしながら、より信憑性のある説を作り出すほかはない。そのときの基準・方法は たぶん、「常識的な感性」だと思う。
 ヤマト王権は弥生文化を生活基盤とする人たちによって樹立された。ヤマト王権の出自を問う前に弥生文化がだれがどこからどのようにヤポネシアに伝えたのか、まず歴史学者の見解を聞こう。「岩波講座・日本の歴史1」所収の山尾幸久氏の論文「政治 権力の発生」を利用する。山尾さんはもちろん、考古学や文献学の成果を論拠にして論を進めているが、それらの論拠は省いて、大まかな論旨だけを追うことにする。
 朝鮮に青銅器文化が始まったのは遅くとも前四世紀ごろを下らないとといわれている。やがて中国戦国時代末期、前240年代〜前220年代、燕や斉の亡命者が鋳造鉄器を朝鮮にもたらした。 漢が朝鮮に四郡を設置(前108年〜前107年)した後には錬鉄鍛造品も作られるようになったという。 南部朝鮮が鉄器時代に入るのはさらに一時期遅れて一世紀とされている。
 燕や斉の亡命者は鉄だけではなく、鉄とともに稲をももたらしたと考えられる。 「日本の弥生文化複合の物質的二大要素すなわち鉄と稲」はまず朝鮮半島に伝えられた。
 そのころの南部朝鮮の人々の生活様式特色の一つは西南部の多島海などでの漁撈活動にあり、 造船・航海術にも習熟していたことが察せられる。また、低湿地では初期的な水稲栽培が行われていたと考えられる。

 さて、中国を統一した漢は朝鮮を征服して四郡を設けた。そのうち「真番」という郡は早くも26年後(前82年)完全に放棄された。その理由として反乱などの外的要因は考えられない。そこで山尾さんは次のように推論している。
 漢の郡県制支配の特色の一つは、前後三回行なわれた戸口調査を基礎とする人頭課税と力投 徴発であるが、国家権力の基盤「庶民」「編戸の民」の中心、力役や兵役を負担する15〜56歳の男子が種々の方法で国家権力の掌握から逃れて減少し「荒地」(『魏志』韓伝)と化した場合、 長吏を派遣して郡県として維持する意味は稀薄になる。真番郡廃止の理由の一つとして、この ような事情があったのではなかろうか。(その逃亡者たちが)豪族の私的経済機構に流入する といった事態は考えられないから、郡県支配の及ばぬ地に、かなり多数の人々が新たな安住の地を求めて移動したのであろう。

 漢の郡県制を嫌った南部朝鮮の人々の中にヤポネシアにまでやってきた人たちがいただろう ということは、地理的条件や北九州の海民たちの活動からも容易に考えられる。山尾さんの説は次のとおりである。

 北部九州人の縄文晩期以来の南部朝鮮人との接触または歴史的親縁性を前提として、当初の ある期間、弥生文化の主として物質的・技術的領域などが学ばれていたのであろう。その後し ばらくして伊勢湾沿岸までの西日本に、比較的短期間に人間集団が飛び地的に移住することに より、この文化が伝播したとされる。その人間集団は南部朝鮮の系統であったらしいが、しか し水稲栽培がなぜ日本列島に定着したかとは一応別個の説明を要するはずの、南部朝鮮からな ぜ人間集団が移住したかの問題は、いまだ必ずしも明らかではない。弥生時代の開始期を想定するについても、その時期の南部朝鮮の可耕地がどのように分布しており、いかなる稲作がど の程度行なわれ、人間集団を移住させた特殊歴史的な事情はなにであったのか、あまり関説されてはいないように思われる。小稿のように鉄と稲との大同江流域への伝来を前三世紀後半と考え、南部朝鮮への伝播や北部九州人の海を越えての接触による習得の期間をある程度考えた場合、前三世紀じゅうに、南部朝鮮人または北部九州でのその二世などが、畿内から伊勢湾沿 岸にまで移住して弥生文化を伝えたといったことは、あまり考えられなくなる。かりにそのよ うなことがあれば左に述べる特別の政治的事情は畿内などへの弥生文化伝播の第二波であった ことになりかねないが、小稿は、前記した前108年ないし前82年の、真番郡の設置から放棄まで の時期に、注目したいのである。

 朝鮮半島西南部全羅道地方の、鉄器を使用し稲作を行ない、航海にも長じた半農半漁民の一 部分が、漢の郡県制支配を忌避して朝鮮半島東南部慶尚道地方などに移住する過程で、さらに その一部分は、すでにかなり長期にわたって接触があった北部九州にも渡来し、西日本の各地に初めて進出したと考える可能性もあるのではなかろうか。

 こう考えると朝鮮四郡の設置は、北部九州などに限られていた弥生文化の西日本各地への伝播の直接的契機であり、弥生文化は縄文晩期のそれを基礎とし南部朝鮮の文化を受容して成立した ことになり、朝鮮のそれ自体が、江准地区や山東地方の稲作や墓制、北アジアに系譜がたどれる遼寧地方の牧畜民の青銅器文化や墓制、もちろん戦国期の四大文化系統の一つとされる燕・斉の鉄器文化等々が、朝鮮半島西南部の河畔・沿海の漁撈生活者としても特色があった人々の新石器 文化を基礎として、習合したものであったことになるであろう。
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山尾さんの説から当面のテーマに沿った部分を取り出してみる。

1. 朝鮮半島西南部と北部九州とはかなり長期にわたって接触があった。

2. 北部九州に朝鮮からの本格的な移住が始まったのは、真番郡の設置から放棄までの前108年〜前82年ごろからである。

3. 弥生文化は縄文晩期のそれを基礎とし南部朝鮮の文化を受容して成立した。


 また、山尾さんは中国の史書の記述を詳細に吟味して、そこに登場する倭人の「国」の地理上の位置を次のようにまとめている。すなわち『前一世紀中葉ごろの北部九州の多数の「国」、一世紀半ばの那珂郡の「奴国王」、二世紀初頭の北部九州の「倭国」とその王、三世紀中ごろ、「親魏倭王」が都する畿内の「邪馬台国」』。「邪馬台国」畿内説を採用しているが、「邪馬台国」がどの地方の「国」なのかという問題は、いまは問題としない。そのかわりに初期ヤマト王権の王と考えられている「倭の五王」の記事が「宋書」に書き留められたのが413年〜502年であることを付け加えておきたい。

 以上のことを前提として梅原さんと吉本さんの対話に戻る。

 まず江上波夫さんの「騎馬民族渡来説」が取り上げられる。「騎馬民族渡来説」は、たぶんいまは歴史学会ではまったく問題にされていないのではないか。吉本さん、梅原さんももちろん否定的取り上げている。

 吉本さんは時間の幅を問題にする。異質の宗教と乗馬の技術と武器をもった一団が、何の抵抗もなくスーッと入ってきて短期間に畿内へ進出したと考えるのは不自然だという。 ヤマトにやってきたヤマト王権の祖先が騎馬民族だったのか、北九州の定住民だったのか、あるいは記紀が記述するとおり高千穂の峰あたりからやってきたのか、いずれにしても九州に定住した弥生人であり、幾世代もの定住を経ながら漸進してきたと考えるのが自然だという。

 そのそのように考えるヒントの一つとして柳田さんの考えを紹介している。


 そこで、興味深いと思えるんですが、稲の種子とか耕作をもって南の島づたいに来た人たちはどうやって近畿地方に入ってきたかについて、柳田さんが言っていることは、外側、つまり四国の土佐の太平洋側を海岸伝いに通って近畿地方に入るのは、それほど高度な航海術や大きな船でなくても可能であったということです。けれど、豊後水道か北九州の関門海峡かわかりませんが、そこを通って瀬戸内海を航海するというのは、相当な航海術と船の大きさとがなければできなかったといっています。

 だから、柳田さんの考え方を敷術すると、琉球・沖縄から島づたいにやってきた、稲作をもった人々は、南のほうからやってきて、海峡を通って瀬戸内海から近畿地方に入るという船の技術が充分に身につくまでは、そこまで来るコースによって北九州か南九州かわかりませんが、そこへんの沿岸に何代かにわたって住んでいた、というふうに潜在的に考えていたんじゃないか、と僕は思っているんです。

(中略)

 つまり日本列島で人類が発生したと考えない限りは、どうせ大陸から渡ってきているわけですから、おおざっぱにいえば王権も民衆も大陸から渡ってきたというのは確かでしょう。しかし、それは時間的にたくさん幅をとらないといけないので、あまり早急に考えると違ってくるのではないか。


 柳田さんは稲と稲作技術が南の方から伝わってきたという説に依拠している。私が冒頭にまとめた朝鮮渡来説とは真っ向から対立する説である。南方渡来説が今なお有力な説の一つなのかどうか詳らかにしないが、ここでは太平洋側の海岸伝いの航海より瀬戸内海の航海のほうが難しいという点に注目したい。そして、弥生人の移住が本格的に始まってから「倭の五王」までに数百年の時間があることを考慮すれば吉本さんの「時間的にたくさん幅をとらないといけない」という判断はきわめて「常識的」だと思う。

 この吉本さんの考えを受けて、梅原さんも「騎馬民族説」を二つの点で退けている。一つは歴史書にその反映がないこと、二つは騎馬民族は父系社会で日本は双系社会と間には相当に断絶があるという点をあげている。そして、梅原さんはさまざまな新説よりも記紀の記述のほうがずっと納得できるといっている。


 その点、『古事記』にあらわれているニニギノミコトから神武天皇までは――曾孫ですね。これは非常に自然ではないでしょうか。ニニギノミコトというのは向こうから来た種族にしても、その次に来ると、オオヤマヅミノミコトの娘のコノハナサクヤヒメとの間に次の子ができて、それが二代にわたってワダノカミの娘との結婚によって神武ができるということになると、外国から来た血統が結局、八分の一になってしまいますね。そういう土着の血が入らないと渡来民が、なかなか日本を支配することは難しいのじゃないかという気がしますね。

 それでもしかし、神武天皇が大和に入ってくれば、さっそく土地の娘を娶らなきゃならんということになる。次代の天皇は、九州の女の子どもではなくて、大和の三輪山の神の血を引く娘の子どもでなければならぬという――こういうところにそれが事実でないとしても日本の国の成り立ちが、大変よく説明されているような気がするんです。ですから、いろいろな人が頭で考えた戦後のあれこれの新説よりも、日本の国の成り立ちというのは記紀に記されている話の方がずっと納得可能なのではないかと、この頃思うようになりましたよ。

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 それを認めても、決して国家主義の史観にはならないのではないか。天皇家の祖先が日本列島にやって来る以前から日本人があり、日本文化があった、そう考えさせるものがすでに記紀の中に秘かに含まれているのじゃないか、という気がしてしょうがないんですね。柳田国男とちがって記紀神話を、天つ神の方からでなく国つ神の方から読むことが可能ではないでしょうか。

 「天皇家の祖先が日本列島にやって来る以前から日本人があり、日本文化があった」というくだりの「日本人」「日本文化」は、もちろん「縄文人」「縄文文化」と読まれるべきだろう。また「天つ神の方からでなく国つ神の方から読む」という読み方により新たに開けてくるものがあるかもしれない。梅原さんの仮説を聞いてみよう。

 そして、それは南九州の権力が大和に攻めてきたということになっている。文化的にみると、北九州は弥生時代にすばらしい文化をもっているわけで、北九州文化圏あるいは大和文化圏と二つの文化圏があって、弥生時代の末になって一つに統一される、ということが大体いえるわけですね。そこで和辻(哲郎)さんは、北九州権力が大和に攻めてきて、統一したのではないかと考えている。私もそういう考えでしたが、だんだん記紀神話どおり、北九州権力ではなく南九州権力が大和へ攻めてきたと考えた方がいいのではないかと考えるようになってきた。

 大体、そういう言葉があるように、金持ちはあまり喧嘩しないもんでね(笑)。アレキサンダーとかジンギスカンのように、遠征したり冒険したりするやつは、みんな貧乏でハングリー精神をもっている(笑)。だからおおよそ弥生末期にいわゆる天孫族が外国から日本に入ってきたとしても、北九州のいいところは全部、先に来た部族に押えられていて南九州にゆくより仕方がない、そして南九州は環境的にとても不利なところですよ。ああいう所で農業をしていたら食っていけないに決まっているから、そこで大きな賭に出た。今でも薩摩の人は気が荒い。おくればせに日本にやって来た天孫族とアマ族との混血の部族集団が大和へ攻めてきたと考えてよいと思う。

 そして、宮中儀式に使ういろいろなものは、南のものが大変多いですね。例の仁徳天皇の豊楽の式のときに、紀州でも南の新宮地方にしか出ないようなミツナガシワが必要になって、それを求めるために仁徳天皇の皇后のイワノヒメが紀州に行く。すると、その間に天皇はワカイラツメと浮気をしていた。カシワの葉を船に積んで帰ってくる途中でその浮気のことを聞いたイワノヒメは、怒って摘んできたカシワをみんな海へ捨てたという話がありますけど、そんな南にしかないものが即位の式に必要だということは、やはり南方説をどこかで裏付けているような気がしますよ。だから僕は、そういう意味で、記紀神話というのが意外に事実を忠実に伝えているのじゃないかと考えているんです。


 どうやら弥生人は稲と鉄とともに、中国大陸の殺戮・略奪・征服による富と権力の樹立方法をも携えてきたようだ。縄文時代の穏やかな暮らしは一変する。

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話題は再度、精神文化とくに信仰や祭祀の問題が取り上げられる。まず神道について梅原さんが自論を展開している。その根源を縄文時代までさかのぼれる宗教としてとらえている。

 日本の土着宗教は二度、国家による大きな変化を受けた。一度は律令時代、もう一度は明治以後。ふつうわれわれが神道と考えるのは律令神道で、これも当時としては大変新しいものだったのではないだろうか。国家を造っていく場合に、

「要らないやつは祓ってしまおう。そして、心の悪いやつを改心させよう」

という、祓い禊の神道ですが、これもそれほど古いものではないと思うんです。あの時代、7,8世紀に、むしろ道教などの影響を受けながら作られたものだと思います。

 ちょうど明治以後の国家神道が、ヨーロッパの国家主義を伝統宗教で受け止めようとして生まれたように、律令神道も律令国家建設という大きな歴史的課題のもとで、道教を神道の伝統と結ぴつけてつくりだされたものだと、僕は考えるのですね。


 この観点から、政治家たちが政治的に利用して日本の伝統と妄言している「靖国神社」について、次のように述べている。


 靖国神社にしても、あれは日本の国のために死んだ人だけ祀っているんでしょう。ところが、日本の神道の本来はそうじゃないですよ。自分たちがやっつけたほうを祀っている。それのほうが恨んでいるわけですから、それの鎮魂をする知恵なんです。だから敵を味方にする知恵ですね(笑)。自分のほうだけ祀るのでは、昔の敵はいよいよ恨みを深める。これは、日本民族の知恵と反対のやり方だ。だから僕は、明治の国家神道は、ほとんど外来のものだと思うんですよ。


 では国家による作為を受ける以前の土着宗教はどんなものだったのだろうか。


 日本の土着宗教の最も基本的な哲学は、やはり霊の循環という考え方じゃないかと、この頃思うんです。人間の生まれてくるのは、霊が肉体に宿ることから始まりますが、その霊がやがて肉体を離れて天に帰って行く。すぐには天に行けないから山にゆき、そこで清められてから天に行く。そして天に何十年、何百年いて、またこの世に還ってくる……。これは人類が自分の住んでいる世界を考える場合、すべてそういう循環の理に従っていると考える。太陽が朝昇って夜没する。そして次の朝また出てくる。太陽も生きて、死んで、また復活してくる。月が満月になったり欠けたりするのもそうだ。植物も春夏秋冬と生死のリズムを繰り返す。昆虫も同じである。そういう循環する世界を見ていたら、人間の霊魂も、一度天に昇って、また還ってくると考えるのは、きわめて自然でしょうね。

 その霊魂が人間・動物・植物みんな共通で、そういう生死の輪廻を無限に繰り返しているという世界観は、旧石器時代の人類に共通したもので、とくに狩猟採集文化が後代まで続いた日本では非常に色濃く残っているのじゃないか、といまは考えているんです。

 神道の本質は基本的にはそういう思想にあるんじゃないかと、この頃考えているんです。で、僕はそういう考え方がだんだん好きになってきたな。死んで地獄へは行きたくないけれども、極楽へもあんまり行きたくはない(笑)。極楽を考えるのは、よっぽどこの世で恵まれてない人間ですよ。向こうへ行ったら、今度は腹いっぱい食べて女にもてたいと思っている。死後の地獄極楽という考えの中には、この世はどうにもならない悪の里だという考えがある。(笑)

 ところがキリスト教のようになってくると、イエスが再臨して、最後の審判がある。そこで良いものと悪いものが二分され、裁判される。これはニーチェのいうように復讐心の末世への投影である。仏教は少しちがうが、やはり地獄極楽に分かれる。キリスト教や仏教の世界観は、厳しい階級社会から生まれてきたもので、どうも日本人の本来もっている世界観のそれとは違う。死んでも、ときどきはお盆やお彼岸には孫の顔を見に還ってきて、あんまり邪魔しないで三日ほどで帰っていって、何十年、何百年、天に留まって、また子孫に生まれかわってこの世に還ってくる……。こういう世界観が、だんだん好きになってきました。

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楕円構造の文化


 梅原さんは日本の文化を中心(焦点)が二つある楕円構造をしているものとしてとらえることを提唱している。

 僕は日本文化を楕円構造をもつものと考えると一番いいと思っている。一つの中心は縄文文化で、もう一つの中心が弥生文化です。日本の精神構造は縄文的なものに大きく影響されていますが、技術的なものや制度的なものは、やはり弥生の精神で、弥生時代以来、ずっと日本人は大陸から先進文化を輸入している。古い伝統的な縄文文化を精神の根底にしながら、絶えず海外の文化や制度を貪欲に輸入している。この二つの面を考えないと、日本文化は解けないと思いますよ。

 ただ、私も一貫して日本とは何かを考えてきた点でナショナリストですけれど、日本文化の根底をずっと掘っていくと、今の人類が失ってはいるが、かつて人類が共通にもっていたものにぶっからざるをえないと思います。
 私はそれを「縄魂弥才」といっているんですよ。縄文の魂に弥生の知恵――日本人は、そういう矛盾する魂を自己の中にもっている。たしかに狩猟採集時代の文明にふさわしい魂をもっているが、弥生時代から新しい文明を海外から移入し続けていることを、つまり私のいう弥才と称するものを考えないと日本文化は十分よく解釈されない。この縄魂弥才が後に和魂漢才になり、また和魂洋才になったというのが私の考え方です。

 吉本さんは、日本文化はわからないことが多いと謙虚におっしゃるが、それは本当だと思います。まだ分からないことが多い。私のは一つの仮説ですがこの仮説は誤っているかもしれない。日本の文化が世界の文化の中で、どのような特質をもっているのか、そしてそういう特質をもった日本文化が今後の世界にどのような役割を果たすべきなのか、こういうことを個別科学の正確な認識にもとづいて、多くの学者でそれを明らかにすべきです。そしてその仮説は出来るだけ多い方がよい。多い理論が自然に淘汰され必要なもののみが生き残るのが歴史の摂理なのです。だけど仮説なしには生きてはゆけない時代が来ているように思うのです。


 一方、吉本さんは日本を日本の中から見る眼のほかに上から大きく見る鳥瞰の眼をもつ必要があると指摘している。また、日本と日本人の分からなさのゆえんを述べて、梅原さんが言うところの楕円構造と同趣旨の意見を述べている。

 これは、梅原さんの日本学というものの根本的なモチーフになるわけですが、僕はとても内在的といいますか、自分の中から見る眼を使うと、とても面白い考え方だと思いますし、それはとても重要な問題提起だと思えるんです。でももうひとつ、いわゆる鳥瞰というか鳥の眼で見る見方からいきますと、どう考えても日本国は東アジアの片隅の、小さな島に過ぎません。先ほどの地名でいきますと、アジア・オリエントの一般的な制度・風俗・習慣・思想・宗教を考えてみますと、アジア・オリエントのそういうものがまず最初にあって、その次にたとえば東アジアの風俗・習慣・宗教・思想というのがあって、そこに今度はまたもう少し島という条件がひとつ加わって、この島も地形がかなり細長くて北と南にわたっているから、とても特殊な島でしょうけれど、そういう島という条件があって、その条件をまたアジア・オリエントの一般条件の中から特殊に考えていかないと、日本の問題はわからないよ ――と考えています。つまり大きな地名から小さな地名、それからまたその下にある小さな地名……と考えていきますと、「日本学」というものを取り出して、つくりあげていくという考え方と、もうひとつ鳥の眼で見る見方と……その両方の交錯点的なものを想像力の中で入れてないと、なんとなく特殊の普遍化みたいな感じがするんですね。

 そういう点はどうでしょうかね。そういうところが、梅原さんの日本学という概念は、特殊をとても普遍化するといいましょうか、そういう感じがしないこともないです。

 僕は、いま梅原さんが言われたことと同じことなんですが、ニュアンスを違えて考えて、日本も日本人も、よくわからないなと思っているところがあるんですね。

 つまり先ほどから、アジアの全体から見て東アジアの片隅の小さい島だと考えて、地勢的には済んでしまうところもあります。現在の日本を考えると、世界第二の先進国だというのが気になってきます。現在の日本の社会の規模と高度さを支えている技術の多様さは、ちょっとどうしようもないくらい高度なものです。多分、理屈とか技術の詳しい内容はわからなくても、この間行なわれた筑波万博を見ても、秋葉原の電気製品街を歩いても、どんな高度な技術製品が並べてあっても、民衆の誰もびっくりしない。何か一種の古さと、わけのわからないほど高度になっている新しさとが共存している奇妙なあり方はたいへん不思議な気がします。これはちょっと、日本というのはわからないぜ、というのが僕の実感ですね。

 梅原さんが言われたように、僕も楕円というのを考えていて、世界有数の高度な技術を持っている技術民としての現在の日本あるいは日本人と、依然としてアジア的な農耕社会の共同体意識を残している古い面の日本あるいは日本人と、この二つの軸を中心として回っていて、しかも共通に重なり合う部分もあると思います。この二つの軸を強いて一致させてはいけないのではないかというのが僕の考え方です。そう考えていかないと日本についての理解は間違えるのではないかと漠然と考えています。

 梅原さんが日本の歴史の深層を掘っていき、弥生的と縄文的という両方の軸を考えないといけないと言われたのは、そういう意味でとても興味深いことですね。


 網野さんが農耕民以外の人たちに焦点当てたり、島国の中だけでなく海の方にも視線を向けてるのも、梅原さんや吉本さんと同じモチーフによるものだと思う。

http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-593.html


梅原さんは記紀神話には歴史的な投影があるという仮説のもとにヤマト王権の祖先を南九州から大和に侵略してきた種族だと考えている。この問題をもう少し追ってみる。

 久しぶりに本屋をのぞいたら「歴史としての天皇制」という本が眼にとまった。その中に書名と同じ「歴史としての天皇制」というテーマでの網野さんと吉本さんの対談が収録されている。川村湊さんが司会役ということで参加しているが、むしろ鼎談といったほうがよいだろう。その鼎談がもたれたのは 1987年で、「対話・日本の原像」の一年後ということになる。 その鼎談の中に次のような興味深い話がある。


吉本

 ぼくは高千穂というところに行ったことがあるんです。車で3時間も4時間もかかる山のなかへ皇族というのが参拝に来ていて、記念の植樹とかあるんです。だけども、なんとなく、おおっぴらには参拝に来たことを、言えないみたいなところもあるんですね。

 なぜならば、おおっぴらに高千穂神社に参詣したと言っちゃえば、神話のなかの、自分たちの出自はあそこらへんの縄文中期に栄えた山のなかの村落にあったんだと認めたことになっちゃいますからね。天皇制がさ。つまり神話のとおりに、自分たちの祖先は南九州の山のなかの縄文時代の村落がたくさんある、そういうところが出自だとおおっぴらに認めることになるわけでしょう、間接的に。

 だから、ぼくはなんとなく、これはひっそりと来ているなという感じを持ったんです。それはとても面白かったですね。あれは、ひっそりと参詣に来て、ちゃんと何々が来た、記念のなんとかと、ちゃんとあるからね。だから、ひっそりとは、ちゃんと参詣しているんですね。

 それは神話にそう書いてあるから、なんか自分たちの祖先はあそこだというふうに、一応なっているんじゃないでしょうか。ひそかになっているんじゃないですか。でもそれをおおっぴらにしたら、別になんてことはないじゃないか、おまえの祖先は田舎の山の奥の奥の縄文人だったんじゃないかっていうことを認めたことになるわけでしょう。

 しかしみんな来てるなというのが、ぼくの印象で、とても面白かったです。


川村
 「象徴天皇」のなかに出てますが、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の陵なんてのもちゃんとあるらしいですね。


吉本
 みんなありますよ。ちゃんと対応関係は皆ありましたね。ちゃんとそれは出来ているんですよ。


川村
 やっぱりほんとうに神話のなかの天皇なんですね。


吉本
 これまた考古学者の仕事なんでしょうけども、とにかく大規模な縄文村落の発達したところですから、もちろん可能性だってあるわけだし、出自だという象徴的必然はあるわけなんですよ。 だけど、それをほんとうに認めたら、別になんていうことじゃない、この人たちは、ということにも、なってしまいます。

 つまり、畿内にきて初期王朝を築いたみたいなところにきちゃえば、堂々たる中央の大きな王権のはじめなんだということを言えるんだけど、しかし、もともとはあそこだったんだということを認めたら、それはどうということはないわけです。 ぼくの印象はひっそりと来てるなという感じです。


川村
 何とかの別荘に行くときには新聞に出るけれども、そういうときは出ないですね。


吉本
 出たらおかしなことになりそうな気がしますね。別におかしかないんだけど、日本人の先入の印象とはぜんぜん違っちゃうみたいなことになり、イメージダウンにつながります。


 神話はヤマト王権のふるさとが高千穂の山の中の一集落だと語っている。

http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-594.html


「対話・日本の原像」には巻末に、対話で取り上げられた話題について、吉本さんが「註記」と題する補足を書いている。その中の「信仰・祭祀」に関する部分を読むことにする。


 ここには日本列島の住人の種族における南北問題と、縄文期、弥生期を貫き初期古墳期にいたる歴史時間の問題が複雑にからみあっていて、神話、伝承、地域信仰や習俗を解き分けてゆかなければ、とうてい一義的な確定が得られそうもない。この問題を具体的に整理してみる。

(1) 諏訪地方に諏訪神社を中心とした大祝祭政体が成立していたことが、比較的よく研究されている。このばあい男性の生き神大祝と随伴する共同体の政事担当者の起源の関係は、神話の伝承に入り込んでおり、時代を降ってまた中世・近世の態様も比較的よく知られている。

(2) 神話伝承の最初期の天皇群(神武から崇神まで)の祭政の在り方は、『古事記』『日本書紀』の記載の読み方によっては、長兄が祭祀を司り、末弟(またはそれに準ずるもの)が政治を司る形態とみられなくはない。これらは次第に皇后が神事を司り、天皇が政治を司る形、皇女が分離した祭祀を司る形へと移行する。

(3)おなじように長兄が祭祀を司り、生涯不犯の生き神として子孫をのこさず、弟が共同体を統括する形は、瀬戸内の大三島神社を中心とする祭司豪族河野氏の祖先伝承として存在するとされる。

(4)沖縄地方では姉妹が神事を司り、その兄弟が政治を司るという形態が古くからあり、聞得大君の祭祀的な村落共同体の統轄にまで制度化された。

(5)樹木・巨石の信仰は、日本列島の全域にわたって遺跡が存在する。諏訪地方における諏訪神社信仰。三輪地方における三輪神社信仰。高千穂地方における岩戸神社信仰。沖縄における御岳信仰。これらは神話や伝承に結びついているが、その他制度化されていない形で無数に存在する。そしてこの信仰は狩猟や木樵の祭儀の形態と農耕祭儀の形態とを重層しているばあいもあれは、狩猟だけ、農耕だけの祭儀に結びついているはあいもある。

(6)神話、伝承の考古学的な対応性ともいうべきもの、また民俗学的な対応性ともいうべきものが存在する。それは縄文期、弥生期、古墳期のような区分が、日本列島の地理的な条件の上では、地勢の海からの標高差に対応している面があるからである。狩猟、木樵、漁業、農耕(水稲耕作)などの差異は、地勢上の標高差の問題と対応し、縄文、弥生、古墳期のような歴史以前と歴史時代初頭の問題との対応をもっている。


 「神話・伝承」と「民俗学」の対応の一つとして、吉本さんは柳田国男の例をあげている


 わたしたちはこの問題について民俗学者柳田国男を論じたとき、柳田国男が民俗学の眼から神話をみていた視点を想定して、つぎのように述べたことがある。柳田国男のばあいには、この種の対応は、海流と航海技術と造船技術が、神話とのある対応関係にあるとみなされていた。

 このところには柳田国男の『記』『紀』神話にたいする微妙な異和と同和とが同時にふくまれている。始祖の神話の持主である初期王権が、いわゆる「東征」といわれたものの起点を南九州(もちろん日向の沿海であってもいい)においているところまでは「船」を仕立て直す休息点(あるいは「日本人」が成長してゆく熟成点)として、柳田の「日本人」がはしってゆく流線と、一致できるものであった。

 だがそこから瀬戸内海にはいる経路と土佐国の沿岸を連ねる経路とのあいだの〈分岐〉〈異和〉〈対立〉は、柳田のいわゆる常民「日本人」と初期王権の制度から見られた「日本人」との絶対的差異として、柳田の容認できないところであった。

 初期王権が『記』『紀』のなかで始祖神話の形で暗喩している支配圏や生活圏の版図は、北九州から南九州にわたる沿海地帯と、瀬戸内海の四国側寄りの沿海地帯や島々にかぎられている。わたしのかんがえでは、柳田国男はこの神話の暗喩する版図になみなみならない親和感をいだいていた。この親和感が、南九州(日向沿岸でもよい)のどこかで南西の島から東側海岸に沿ってやってきた柳田の「日本人」が、「船」を整えなおしたというかんがえに愛着した理由だとおもえる。

 またしいていえば柳田が、本来無意味なのに、じぷんの常民的な「日本人」の概念を、制度や王権の問題にまで無造作に拡大して、朝鮮半島を南下したいわゆる騎馬民族が初期王権に坐ったという説に、抜き難い不信を表明した理由であった。

 もうすこしくわしくできるだろうが、柳田のいう「日本人」は、地上二米以下のところしか歩いたり、走ったり、願望したりしない存在だから、制度や王権にかかわりない、まったくべつの概念であった。
          (吉本「柳田国男論」第T部「国文学 解釈と教材」29巻9号、59年ア月号)

 整理しなおすと次のように言っていると思う。

柳田の「原」常民は宝貝を求めてはるか南の方からやってくる。南九州で「船」を仕立て直した「原」常民は「土佐国の沿岸を連ねる経路」を通っていくはずである。しかるに「記紀」神話が描く経路は「瀬戸内海にはいる」。

「北九州から南九州にわたる沿海地帯と、瀬戸内海の四国側寄りの沿海地帯や島々」という「記紀」神話が描く支配圏・生活圏を柳田は原「常民」の版図と考えたいのだが、ヤマト王権がたどる経路が柳田の「原」常民の経路と整合しない。その矛盾は、もともと、「制度や王権にかかわりない」常民という概念を「制度や王権の問題にまで無造作に拡大」したためだ。

http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-595.html


ヤマト王権の出自(続き)

(3)即ち、鳥見(とみ)の長髄彦(ながすねひこ)、菟田(うだ)の兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)、吉野の井光(ゐひか)、同じく磐排別(いわおくわく)、苞苴担(にへもつ)、国見岳の八十梟帥(やそたける)、磐余(いわれ)の兄磯城(えしき)・弟磯城、磯城の磯城八十梟帥、高尾張の赤銅(あかがね)八十梟帥、兄倉下(えくらじ)・弟倉下、波?丘岬(はたのおかさき)の新城戸畔(にいきとべ)、和珥坂(わにさか)の居勢祝(こせほふり)、臍見長柄丘岬(ほとみのながらのをかさき)の猪祝(ゐのほふり)、高尾張の土蜘蛛(つちくも)などとあります。地名は動く可能性もあり、また奈良朝人の想定も予測されるが、地名と部族名が平行して出て来るところから、古くからその部族がそこに住んでいたという気がします。これらの地名を現在の地図にあてはめると、全部標高 70m線以上にあります。若し神武紀が奈良朝に偽作されたものならは、考古学や地質学の知識のない、しかも地盤隆起の原則を知らなかった奈良朝人は、これらの地名のうち一つ位は地盤の低い所をあてても良いと想像される。このようなところに案外、古代人の活躍の史実が古典に投影しているのではないかと思われるわけです。


 古い土地、つまりより標高の高い土地70m以上のところには土着の人たち、たぶん縄文人と弥生人が融合しながら平穏な社会を営んでいた集落があった。

 更にこれらの遺跡を発掘してみますと、全部が縄文土器終末期のものです。最近、晩期縄文土器の年数設定が出来た。炭素放射能の減退量をミシガソ大学が測定したところによると、近畿地方の中期弥生式土器は大体今から二千四百年ほど前、そして晩期縄文土器は約二千六百年前のものと測定された。もちろんプラス・マイナス二百年の誤差はありますが、この事実は科学的に信用せざるを得ないのではないでしょうか。従って神武天皇遺跡は大体において少なくとも二千六百年、更にはそれ以上前の湖岸もしくはそれよりも高い所の地名が舞台になっていると云うことが出来ます。14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる偶然としては見過ごされない事実でして、寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当かと思います。


 樋口さんは土器から推定された紀元前600〜400年という年代をそのままヤマト王権の初期の大王たちの時期とみなしているようだが、私たちが史書の記録から100〜300年頃と推定した年代とはるかに異なり、容認しがたい。その反論の根拠は素人としさし控え、深入りしない。

 しかし「14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる偶然としては見過ごされない事実でして、寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当かと思います。」という点は、その可能性は否定しがたいと思う。

(4)しかも橿原遺跡は、奈良県では珍らしく大きな縄文末期のものです。この岡で人間は半水上生活をしていたこともわかっております。舟も着きやすく、見張りにも便であり、三方が水であってみれば敵から守ることにも都合がよかったようです。そしてこの遺跡から出た食糧を眺めると、水の幸・山の幸の両面に恵まれた生活であったことが想像出来る。即ち、鼬廃鼠(いたち)・野兎・猪・鹿・狼・山犬・狸・狐・河獺・熊・穴熊・猿・鶴・白鳥・鴨・鳩・鴫・山鳥・鯨・石亀・?(えい)・鯛・河豚・鯔(ぼら)・鱸(すずき)・海豚など、まことに多種多彩です。魚類にしても近くの淡水魚はもちろん、?(えい)・鯛・鯔などの海魚は恐らく遠く大阪湾から持ち運んだと思われ、また鯨・海豚などは紀伊方面からの経路が想定されます。更にこの遺跡から出る石器の石質は吉野地方の緑泥片岩であって、かくみると、橿原遺跡の生活圏或は物資伝播の経路は非常に広いということになります。所で、檪(くぬぎ)・樫はやや亜寒地性のところに好んではえる植物で、今の大和平野にはありませんが、当時の気温環境はより寒冷に近いものだったことも同時にわかって、まことに面白いと思います。 このように縄文晩期の聚落はこの地に栄えていましたが、或る時期に川が流れて来て半島の先をけずり、水で包んでしまったために木は枯れ、その上から堆積土が2mも重なり長い間地下に埋まってしまった。もし橿原の地名が畝傍山の東南にあったとしても、その地名は消え去ってしまう可能性が肯けるのであります。

 かく云う私は、神武天皇個人の存在を無条件で認めているわけではない。神武天皇紀の説話に、 歴史的信憑性があり、歴史の投影があると云っているのです。


  吉本さんのコメントで結論付けると、樋口さんは

「これらの根拠から、神武東征の神話が、北九州の稲作や製鉄器の技術を伴った弥生式の文化が、畿内に伝播し、流入する経路を象徴するに足りることを結論している。」

ことになる。 しかし私が注目したいのは、ヤマト王権がよそから畿内に侵略してきた種族だとすると、その侵略までは縄文人 たち(弥生人との融合を深めながら)が豊かで平穏な社会を営んでいたらしいということである。
http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-597.html


樋口さんは、畿内にやってきた勢力がどこから来たのかという問題には言及していない。「ヤマト王権の出自」についての諸説をまとめてみる。

 「第328回」(7月11日)で紹介した論文「政治権力の発生」の筆者・山尾幸久さんは邪馬台国畿内説を採っている。その邪馬台国が発展して「倭の五王」につながっていくと考えているようだ。従ってイワレヒコの東征についてはまったくの歯牙にもかけていない。

 一方、邪馬台国北九州説を採る人たちはその所在地を筑後山門郡とする説が有力のようだ。「神武天皇」(中公文庫)の著者・植村清二さんはその説に同意して、邪馬台国の所在を筑後御井付近、投馬国は薩摩の川内付近としている。そして北九州の連合国家の支配権を手にした邪馬台国が東征して畿内に入ったと考えている。東征したのは邪馬台国ではなく薩摩にあった投馬国だという説もある。

 これらの諸説に対して、「戦後のあれこれの新説よりも、日本の国の成り立ちというのは記紀に記されている話の方がずっと納得可能なのではないか」という梅原さんの考えを先に述べた(第329回)。梅原さんは「記紀」の記述の通り、ヤマト王権の始祖は日向から東征したと考えている。

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27. 中川隆[-13611] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:42:09: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20728] 報告
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葬られた王朝: 古代出雲の謎を解く (新潮文庫) 梅原 猛 (著)
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『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―』(新潮文庫)

著者は梅原猛。
哲学者にして日本文化の深層を解明する論考を世に問うている泰斗である。  

この本は梅原の著作のなかでも重要な意味をもっている。  

梅原はかつて『神々の流竄』(集英社)という本で「出雲神話はヤマトで起こった物語を出雲に仮託したものだ」という説を唱えた。出雲神話などフィクションだという立場をとっていたのだ。

しかし、出版から40年を経て、梅原は自らの説を否定し、出雲王朝は神話ではなく事実であったと、その存在をフィールドワークも加えながら検証している。  

出雲王朝を語るうえで重要な資料となるのは『古事記』、『日本書紀』、『出雲国風土記』があるが、記紀については大きく2つのとらえ方がある。  

ひとつは本居宣長の唱えた「『古事記』こそ日本の「神ながらの道」が記された神典である」という説。
もうひとつが、津田左右吉による、「記紀の応神天皇以前の記事は、6世紀末に創作された、天皇家に神聖性をもたせるためのフィクションであった」という説である。  

第二次世界大戦以前は宣長の説に支配されてきたが、戦後の歴史学者の多くは津田の説によっており、現在もその声は大きい。

梅原は『神々の流竄』において、中臣鎌足の嫡子である藤原不比等を日本歴史偽造の中心人物と考えた。それについては正しいという立場は現在も変わっていない。
梅原が自分の説に疑問を抱いたのは、出雲神話だけでなく日本の神話はフィクションであると断じたことにあった。  

というのも、昭和59年(1984)に、島根県斐川町の荒神谷遺跡から358本の銅剣、6個の銅鐸、16本の銅矛が出土し、出雲の存在をフィクションであると一蹴することができなくなったのだ。  

この本では神社に残された伝承や祝詞、荒神谷遺跡などから発掘された大量の銅剣や銅鐸などの例証を挙げながら、出雲神話の伝承が事実に基づいていたことを明らかにしていく。

記紀に登場する神々やストーリーを解説するのは、読み解く側の視点によって見え方が変わってくる。ここでは梅原の解釈にしたがって話を進めていくことにしよう。 

日本人なら一度はヤマタノオロチ伝説を聞いたことがあると思う。
悪行により高天原を追われたスサノオが、高志(越)の国を荒らしていた八つの頭と八つの尾を持つヤマタノオロチを退治したという説話だ。オロチの尾を切り開くと、そこから三種の神器のひとつ、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ・草薙剣)が出てくる。  

この話は、出雲を治める「国つ神」の子孫アシナヅチが、毎年娘を食べにくるヤマタノオロチを退治してほしいとスサノオに懇願することからはじまる。
スサノオがヤマタノオロチを退治したのは出雲の国の鳥髪山の近くで、現在の奥出雲地方の木次(きすき)に当たる。
この一帯には、ヤマタノオロチにまつわる神社や伝承地がいまでも数多く点在している。

出雲の国の民の救済者となったスサノオは、アシナヅチの娘クシナダヒメと結婚し、?賀(須賀)の地に家を建てるのだ。
この?賀の宮の地は、鳥髪山から北東に15qほど離れた場所にあり、いまも須我神社として歴史を刻んでいる。


八重垣神社
所在地:島根県松江市佐草町227
TEL:0852-21-1148
奥の院の森の中には「鏡の池」があり、クシナダヒメの御霊が水底深くに沈んでいる。縁結びの神として知られ、硬貨を紙に乗せてお供えし、早く沈むと早く結婚できるという。
スサノオが住んだという場所は、出雲ではここだけではない。  

ヤマタノオロチを退治する際、クシナダヒメを隠す場所として選ばれたのが、斐伊川の川上から七里離れた「佐久佐女(さくさめ)の森」にあり、夫婦が住んだこの宮は八重垣神社となっている。  

梅原はこれらの地に残された数々の伝承や事実をつなぎ合わせ、スサノオこそが出雲王朝の初代王であると結論づけている。  

そしてその6代目として、古事記に兄弟の神々の従者として大きな袋を背負って登場するのが、オオナムヂことオオクニヌシである。  

八十神(ヤソカミ)たちは、稲羽(因幡/現在の鳥取市周辺)のヤガミヒメに求婚しようと、オオナムヂに重い荷物を背負わせて東方の因幡国に向かう。
この旅の途中に挿入される説話が、「因幡の素兎(しろうさぎ)」の話だ。
素兎はワニ(鮫)と八十神に翻弄され、いじめられるのに対し、オオナムヂだけがやさしく兎を介抱する。その結果、ヤガミヒメが結婚相手に選んだのが一番身分の低いオオナムヂであった。

当然、八十神たちの嫉妬は激しさを増す。
兄弟の神々の画策により、オオナムヂは殺されてしまう。
嘆き悲しんだのはオオナムヂの母、サシクニワカヒメだった。母は高天原に参上し、出雲の守護者であるカミムスビに助けを乞う。カミムスビはふたりのヒメを遣わし、オオナムヂを治療し、見事に蘇生させる。

しかし、八十神の迫害は止まらない。

身を案じた母のサシクニワカヒメは、紀伊国(和歌山県)のオオヤビコの元へとオオナムヂを逃がしてやる。
それでも追手がやってくるため、オオヤビコの手引でスサノオのいる根之堅洲国(ねのかたすくに/黄泉の国)へと送ってやるのだ。

黄泉の国では祖先であるスサノオが王であった。
スサノオは、オオナムヂを温かく迎えたわけではなく、いくつかの試練を与える。  

そこでオオナムヂの苦難を救ったのは、スサノオの娘であるスセリビメだった。
愛を交し合ったふたりは、スサノオの隙を突き、宝物である太刀と弓矢と玉飾りのついた琴を抱えて逃げ出す。
スサノオは我が娘スセリビメを奪っていったオオナムヂが憎いのだが、その反面、この娘婿がかわいくてしかたがないのが、和歌からありありと伝わってくる。

黄泉の国から帰ったオオクニヌシことオオナムヂは、苦難を克服する強い男に成長していた。  

八十神を討つため、オオクニヌシが最初に城を構えたのは、木次町里方の妙見山の尾根筋に位置する城名樋山(きなひやま)であったという。
ヤマタノオロチを退治した、スサノオゆかりの地で挙兵したオオクニヌシは、出雲平野の北部の地を占領して出雲の王となった。
正妻には黄泉の国より連れてきたスセリビメを迎えたが、最初の妻であった因幡のヤガミヒメはスセリビメを恐れ、因幡へと帰って行った。  


熊野大社
所在地:島根県松江市八雲町熊野2451
TEL:0852-54-0087
古代出雲において、最も格式が高い一之宮とされたのが熊野大社。出雲大社の宮司が亡くなって引継ぎが行われる際、直ちに熊野大社の「鑽火殿」に赴いて「火継」の式を執り行わなければならない。
兄弟神を征伐し、大国の王を継いだオオクニヌシは、次にヌナカワヒメという女王が支配する越の国に軍を進める。
ヒスイを産出する糸魚川を支配する越の国は、豊かな富を誇っていたに違いないと梅原は説く。
ヒスイは縄文時代より「玉」という呪力を持つ宝石であった。  

オオクニヌシはヌナカワヒメと契りを結び、しばらく越の国で暮らす。
ヌナカワヒメとの間に生まれたタケミナカタは、「国譲り」の際に最後までヤマト王朝に抵抗することになる。その後、戦いに敗れ、諏訪に追いやられて諏訪神社の祭神となっている。  

越を征服したオオクニヌシは、出雲へ戻るとすぐにヤマト(奈良県)へと向かう。
その様子は古事記の、正妻スセリビメとオオクニヌシとの間で交わされた和歌に表れている。遠征先で次々に女性を娶るオオクニヌシに対し、嫉妬心を抱くスセリビメ。オオクニヌシはその心中を察しながら、妻に癒す言葉を返すのだ。

このヤマト遠征の旅については、『古事記』にも『日本書紀』にもその記述がない。
しかし、梅原は「オオクニヌシの大勝利に終わったことはほぼ間違いないと思われる」という。
関西周辺にある神社に、オオクニヌシやその子ら、同神といわれるオオモノヌシなど、出雲系の神を祀った古社が非常に多いことに着目する。  

ヤチホコノカミという別名を持ち、日本海沿岸だけでなく近畿、四国、山陽までをも支配下においていたと思われるオオクニヌシだが、戦争で征服するのと統治するのとは違う。  

梅原が指摘するのは、どこからともなくオオクニヌシを補佐する有能な参謀が現れるということだ。

 『古事記』によれば、オオクニヌシが島根半島の東端にある「御大の御前」(美保関の岬)にいるときに、「羅摩(かがみ)の船」に乗ったスクナヒコナが登場する。
「羅摩」というのは多年草の蔓草のガガイモの古名であり、その実を割った姿が小舟に似ている。それに乗ってきたというのだから、小人のような神である。そう梅原は推測する。  

『古事記』では、出雲の守護者カミムスビ(タカミムスビ)には1500もの神の子がおり、スクナヒコナは指の間からこぼれ落ちた子で、『日本書紀』には自分の教えに従わなかった悪い神であるとされている。  

ところが、オオクニヌシは、海を渡って他の国からやってきたと思われる素性のわからないスクナヒコナを、国造りの最大の協力者として重用するのだ。  

オオクニヌシとスクナヒコナの最大の功績。それは医療技術をもたらし、民の命を救ったことであると梅原は指摘する。  

その施設のひとつが、スクナヒコナが発見し、温泉療法を伝えた玉造温泉である。  


玉造温泉 湯之助の宿 長楽園
所在地:島根県松江市玉湯町玉造323
泉質:ナトリウム・カルシウム−硫酸塩・塩化物泉(低張性弱アルカリ性高温泉)
源泉:69.7度
pH:8.1
TEL:0120-62-0171
120坪の大露天風呂「龍宮の湯」をはじめ、すべての浴槽が加温、加水をしない源泉かけ流しになっている。残念ながら日帰り入浴はない。
ここまできて、ようやく温泉の話にたどり着いた。

玉造温泉は、出雲大社の宮司が沐浴して身を清めなければならない聖泉とされている。  

『出雲国風土記』によれば、宮司である出雲国造が都へ就任あいさつの詞(「出雲国造神賀詞」)を奏上しに都へ上る際、「御沐(みそぎ)の忌の里」である玉造へと向かう。
「再び沐(ゆあみ)すれば、万(よろづ)の病悉(やまいことごと)に除(い)ゆ」とあり、万病に効いたことが記されている。

『日本鑛泉誌』(明治19年・内務省衛生局編纂)に、玉造温泉の歴史について興味深い記述がある。

温泉の発見は養老年間(717−724)であるらしい。というのも古の温泉は洪水によって失われており、再興したきっかけは佐々木義綱(富士名義綱か/?―1336)にある。
義綱が病に倒れ、家族が仏神に祈ると、夢のなかに源泉のありかが示されたという。その温泉に入ることで義綱は治癒し、延慶2年己酉(1309)7月、義綱は医王の祠を造営した。
温泉はその後も興衰を繰り返し、寛永18年辛己(1641)、出雲松江藩主松平直政(1601−1666)が浴場を修補する、と記述されている。  

さて、スクナヒコナの功績は、医療だけではなかった。  

この神は醸造技術ももたらし、記紀にも「スクナヒコナの造った酒が美味しい」という歌があるほどだ。  

王朝が変わっても、オオクニヌシとスクナヒコナの政治に対する賛美は日本各地に残っていた。
国造りに励んだスクナヒコナだが、国造りが一段落すると突如姿を消してしまう。
出雲国内についての後継者争いについて、『古事記』や『日本書紀』、『出雲国風土記』にその記述はない。だが、梅原は『伊予国風土記』の逸文のなかに、ふたりの決定的な争いの様子が残されていることを示す。  

ともに国を造ってきた間柄ではあったが、暴力をふるうオオクニヌシに対し、これ以上協力するわけにはいかず、これからの出雲の近い将来の衰亡を予見して王国を去ったのではないか、と梅原はまとめている。  

その後、出雲王朝がどのようにしてヤマト王権に敗れていくのか。ここでは触れないでおこう。  

たとえヤマト王権に敗れ、歴史書から抹殺されていたとしても、万民に愛され、そして語り継がれてきたからこそ、オオクニヌシの物語は現在もこうして全国に遺されている。  
http://www.smart-acs.com/magazine/12110103/onsen001.php

梅原猛 「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く」 2011/1/12(水)


梅原猛先生の「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く」 を読みました。

記紀神話に関して、本居宣長説、津田左右吉説のみならず、自らの、「神が
みの流ざん」までも否定して、古代出雲王朝について語りました。


@記紀神話は、高天原神話、出雲神話、日向神話の三つの神話から成り立っている。

特に日向神話は、アマテラスの孫ニニギが日向の高千穂に降臨して以来三代を経て、ひ孫カムヤマトイワレヒコ、すなわち神武天皇が東征の旅に出て、ついにヤマトを占領し、天皇家の祖となる話である。


@出雲王朝は少なくとも6代は続いたとみなければならない。出雲王朝はオオクニヌシ以来、日本全国を支配する王ではなく、出雲一国を支配する王としてささやかながら続いたと考えなければならない。

「古事記」を素直に読む限り、アマテラスを開祖とするヤマト王朝の前に、スサノオを開祖とする出雲王朝が、この日本の国に君臨していたと考えねばならない。

そして出雲王朝が存在した形跡を追って、写真多数で、出雲の各地を回るのですね。
そしてそこには見事に、出雲王朝の存在を立証するかのような様々な形跡が残されているのですね。


@アマテラスは石屋戸から現れるが、神がみは、スサノオの悪行に憤り、スサノオを流罪にしてしまう。そこでスサノオは出雲の国にやってきたのである。


@イザナギ、イザナミはその子孫によって、二つの系統の神々にわかれた。
ひとつは、イザナギ、アマテラス、ニニギのヤマト王朝の系統である。
もうひとつが、イザナミ、スサノオ、オオクニヌシの出雲王朝の系統である。


@多くの出雲の山々が越の豪族の支配下にあり、その山々が荒廃していることを表現したのではないかと思う。すなわち、スサノオは出雲の森林の荒廃を嘆き、出雲の国を越の支配から解放して山々に木を植え、そして今のような植林が青々とした森の国にしたのではなかろうか。このようにスサノオは出雲の森林を再生することによって、さらにまた農業も盛んにしたのだと思う。


@オオクニヌシはヌナカワヒメと結婚し、しばらくこの越の地で暮らした。そしてヌナカワヒメとの間に生れた子が、「国譲り」の際、最後まで抵抗して、ついに諏訪に追いやられ、諏訪神社の祭神になったタケミナカタであった。
ヌナカワヒメは半ば強姦のような形でオオクニヌシの妻となったが、結局彼女は追われて、北陸のあちこちを流浪したらしい。

クロヒメというのは、ヌナカワヒメの別名で、越後には黒姫山という山がいくつかあり、クロヒメを祀る神社は、オオクニヌシに追われた晩年のクロヒメの怒りと悲しみを伝えている。
黒姫山ってそこから来てるんですね。歴史ロマンを感じますね。


@海外から一人でやってきた前歴の全くわからないこのスクナヒコナを、オオクニヌシは国造りの最大の協力者として重用した。
オオナムジことオオクニヌシとスクナヒコナの最大の功績は、日本に医療をもたらしたことである。
おそらくスクナヒコナは朝鮮から先進の医療技術を持ってきて多くの人命を救ったであろう。そのような医療に関する施設の一つが、スクナヒコナが発見し、温泉療法を伝えたという、玉造温泉である。


@私は、日本に新しい医療技術をもたらし、病に苦しむ多くの人を救ったスクナヒコナはまた温泉の開拓者ではなかったかと思う。
またスクナヒコナは酒の醸造技術をもたらした神でもあったらしい。記紀には、「スクナヒコナが造った酒は美味しい」という歌がある。酒造りが米作りと深い関係があることを考えれば、オオクニヌシとスクナヒコナが行った米造り、酒造りをはじめとする農業の改良政策はおおいに民衆を喜ばせたに違いない。


@出雲大社で毎年旧暦十月に行われる有名な神在祭は、日本全国の神々が出雲にお悔やみにやってくる、いわばオオクニヌシの葬式であると私は思うが、それに対して、「一つ山大祭」「三つ山大祭」は、むしろ生きているイタケルとオオクニヌシに二十一年あるいは、六十一年に一回、敬意を表して全国の神々が集まり、その神々をもてなすという祭りなのである。


@神在祭はオオクニヌシの葬儀に全国の神々が集まり、神譲りをおこなう祭事なのである。それは言葉を変えれば、オオクニヌシが日本海に身を隠して現身の人ではなくなったが、黄泉の王として再生したことを祝う祭りとも言える。
この手の込んだ神在祭は、「古事記」「日本書紀」に語られる国譲りの神話は決して架空のことではなく、事実であることを末永く後世に伝えるものであろう。


@銅鐸の起源は馬のクビにつける鈴である。
朝鮮の馬の首につける鈴がそのまま日本に移入され、銅鐸という宝器になったわけではない。朝鮮の人にとって漢式馬車に乗る貴族こそ尊敬の的、憧れのまとであった。そして漢式馬車を持つ貴族は、その墓に貴族の証拠として漢式馬車の部品を副葬したのであろう。

貴族のシンボルとして、馬の首につける鈴ほど適当なものはない。それゆえにこのような馬の鈴を日本で祭器、宝器としたのは、朝鮮から来た貴族か、あるいは貴族に強い憧れを持つ人物であったに違いない。
それが私は、朝鮮からきた、スサノオを想起する。銅鐸は出雲王朝の祖であるスサノオと結びつく。


@私はやはり銅鐸は出雲でうまれ、出雲王朝の領土拡大と共に中国、四国、近畿まで多く造られるようになったのではないかと思う。


@荒神谷遺跡から出土した358本の銅剣のうち344本になかごといわれる柄に差し込まれる部分に「×」印が刻まれている。


この「×」印の謎について、梅原先生は解き明かします。
凄いですよ。

@縄文時代の土偶は全て胎児を宿した成熟した女性であり、そして土偶はすべて必ず破壊されている。


そしてこの謎も解き明かします。


@アイヌの葬式の話。
「まあふつうの大人が死ねば型どおりに葬られますが、子供が死んだ時は特に大変でした。アイヌの社会では子供をはらむと、その子は必ずあの世へ行った祖先の霊が帰ってきたものだとしんじられています。

その子が幼くして死ぬと、遠いあの世から帰ってきた祖先にこの世の幸せを十分味あわせずにすぐにあの世へ帰すのは申し訳ないと考え、子供の死体を甕に入れて、人のよく通る入口に埋められるのです。それは、その子を産んだ夫婦がセックスに励んで、死んだ子が次の子として生まれ変わってくるようにという願いからなのです。」

この話は私にとって、とても興味深かった。縄文時代の竪穴住居の入り口には、子供の骨が入れられた甕が逆さにして埋められていることがある。この風習がアイヌの社会に残されていたのだろう。
さらに、

「しかし子供が死んだときよりもっと大変なのは妊婦が死んだ時でした。せっかく祖先の霊が帰ってきて妊婦の腹に宿ったのに、妊婦が死んでしまったら、その子は妊婦の腹に閉じ込められてあの世に行けません。妊婦の腹に入ったままであの世にいけない先祖の霊は祟りをなすと思われていたのです。

ですから妊婦はいったんふつうの人と同じように墓に埋められますが、翌日、霊力を持った女性がその墓を掘り返し、妊婦の腹を割いて、その胎児を女性に抱かせて葬ります。」


縄文の文化が色濃く残っているアイヌ。
このアイヌに残る風習は大きな謎を解くカギとなったんですね。


@土偶について、
1、 土偶は全て生きた人間とはおもえない異様な形をしている。
2、 土偶は全て妊婦である。
3、 土偶はすべて破壊されている。
4、 土偶は全て縦に腹をひきさいたような真一文字の線がある。

 土偶は腹を裂かれて死んだ妊婦の像であり、妊婦が胎児とともに葬られる時、その妊婦が完全な人間として再生することができるようにバラバラにして埋められるものである。

@眼のない死体は再生不可能であり、眼のある死体は再生可能であるという信仰によって、死んだ妊婦が完全な人間としてあの世で生まれ変わることを願って、巨大な眼窩のある土偶がつくられたのであろう。また長年の謎の、土偶の腹の縦真一文字の線も、腹を割いて胎児を取りだした後として理解できた。

凄いでしょ?
土偶の謎はそうゆう事だったんですね。


@このような縄文時代からのあの世観は、ずっと日本人の中に残っていて、この世とあの世はあまり違わないが、万事あべこべであり、この世で完全なものはあの世では不完全であり、この世で不完全なものはあの世では完全であるという信仰がずっとあったと思われる。それゆえ死者に贈られるべきものは必ず壊して贈らねばならない。

死者に供えるものはそのように、壊されたり、焼かれたりする。
日本で恒久的な都が遅れたのは、前代の帝の宮殿を焼いて死んだ帝に捧げられたためであると私は考える。


このことは、縄文時代のことを考えるときに決して忘れてはいけないことですね。これを忘れると、現代の感覚では理解できないことになってしまいますね。


@二つの遺跡から出土した銅器に付けられた「×」の謎が初めて理解される。それらの銅鐸、銅剣、銅矛は、全て死者に贈られたものの印であろう。しかし、この堅固な銅鐸などを壊すのは容易でなく、また忍びがたい。それで、「×」の印を刻んで、不完全なものであることを示そうとしたのではないか。


凄いでしょ??
興奮するでしょ??
いやーそうだったんですね。


@紀元一世紀といえば、記紀に語られる南九州にいた天孫族が東征して、西日本全体を戦乱の渦に巻き込んだ時代である。とすれば、それはオオクニヌシの国譲りの時代とも重なってくる。この大量の青銅器は、稲佐の海に身を隠し、今は黄泉の国の王となった、地下のオオクニヌシに贈られたものではないだろうか。

@天皇の御陵が前方後円墳になるのは、ハツクニシラススメラミコトと称される崇神天皇の御陵からである。とすれば、出雲小王国は崇神天皇以前に滅びたことになる。

@出雲は四角形の墳墓に強く執着し、四隅突出型墳丘墓が消失した後も、円墳ならぬ方墳が多く造られ、ヤマトで前方後円墳よりも、前方後方墳が造り続けられた。この四角形への執着は、黄泉の国を支配するオオクニヌシの宮殿に対する敬意であり、オオクニヌシへの深い愛情の心を示すものではなかろうか。


コメント

ついでに三輪山の神と出雲の神の関連について、考察していただけませんか?
私は三輪山の神が出雲に放逐されたのではないか?と疑っているのですが・・・
確か梅原先生もそのような説を立てていませんでしたっけ?
2011/1/13(木) 午後 3:30 [ mak**ina38 ]


実は、大神神社を参拝して山之辺の道を旅したとき、神武天皇の皇后を祀る「狭井神社」の周辺が出雲屋敷と呼ばれていることを知りました。

皇后の父が三輪の大物主(大国主神の和魂?)であることからふと、神武東征まで三輪の地を拠点としていた三輪氏なる豪族が神武天皇に娘を差し出して降伏したあと、出雲に放逐されたのでは?と想像してしまったのです。

大和政権に匹敵する大きな力と祭祀権を持っていた三輪氏に対する畏怖の念から、東西にほぼ一直線をなす東・伊勢ー三輪ー西・出雲という重要な地点に巨大な神殿を築いて今もなお天皇は丁重に祀り続けてこられたのでは?

という推察ですが、学問的な構築の土台が弱いので、所詮推理作家的視点でしか見ることができないので、突然こんなお願いをしてしまい、申し訳ありませんでした。

私の考えは梅原氏が以前に出された「神々の流竄」が下敷きにあったのかもしれませんが、梅原氏はこの「葬られた王朝」で前説を訂正されているようですね。
それでもなんか三輪神と出雲神・・どうも気になるんですよね〜
2011/1/14(金) 午後 11:03 [ mak**ina38 ]
http://blogs.yahoo.co.jp/warabe401/60202767.html


梅原猛の「古代出雲王朝の謎を解く」(1)
アマテラスとスサノオという光と影 2012-01-04

梅原猛氏の「葬られた王朝・古代出雲の謎を解く」を読んでみました。
古来、日本海沿岸には大きな文明があり、アマテラスに追放されたとされるスサノオの住んだ世界は実在した、という話です。

著者梅原氏は、以前に書いた自分の本の説は間違っていた、大国主に謝りたい、という気持ちで出雲地方を旅し、新しい説を書いたということです。 「環日本海文化圏」という発想は、日本という風土に風穴を開ける発想であるように思います。


           (引用ここから)

出雲には神話にふさわしい遺跡がないという説は昭和59年(1984)の出雲市の荒神谷遺跡の発見によって吹き飛んでしまっていた。 出雲市の荒神谷遺跡から銅剣358本と銅鐸6個、銅矛16本が出土したのである。 それまで全国で出土していた銅剣の総数は約300本。 銅剣の数は一挙に倍以上になったのである。

われわれは学問的良心を持つ限り、出雲神話は架空の物語であるという説を根本的に検討し直さなければならないことになる。

「古事記」を素直に読む限り、アマテラスを開祖とする「ヤマト王朝」の前にスサノオを開祖とする「出雲王朝」がこの日本に君臨していたと考えなければならない。

スサノオとは何者であろうか?

「古事記」・「日本書紀」によれば、スサノオには出雲の神となる以前に、高天原を舞台にした前史がある。

愛しき妻イザナミを失ったイザナギは死者の国である黄泉の国に行った。
イザナミの変わり果てた姿を目にしたイザナギは、驚いて黄泉の国から命からがら逃げ帰ってきた。 そして汚れた体を清めようと「禊ぎ」をし、水の中に潜って体を清めると、左の眼を洗った時にアマテラス、右の眼を洗った時にツクヨミ、鼻を洗った時にスサノオの三貴子が生まれたのである。

つまり「出雲王朝」の祖先神スサノオと「ヤマト王朝」の祖先神アマテラスとは、「禊ぎ」によって生まれた姉弟と言うことになる。 ところがスサノオは母を慕って泣いてばかりいて海原を支配しようとしないので、イザナギは怒ってスサノオを追放してしまう。

スサノオは母のいる根の国に行く前に、姉アマテラスと誓約(うけい)をして、それぞれ子どもを産み出す。 その誓約(うけい)に勝って勝ち誇ったスサノオは傲慢になり、アマテラスの作った田の畔を壊し、悪しき業を繰り返す。 そしてそのことが原因でアマテラスが天の岩戸に隠れるという、天人族にとっての大事件が起こるのである。

そして神がみはスサノオの悪行に憤り、スサノオを流罪にしてしまう。
そこでスサノオは出雲の国に来たわけである。

この契約でスサノオの口から吐き出された5柱の男神はアマテラスの意志によってアマテラス直系の男神となる。そしてその男神の子がアマテラスの孫、天孫ニニギなのである。

つまりスサノオを祖とする「出雲王朝」とアマテラスを祖とする「ヤマト王朝」の関係は、契約によって深く繋がっていることになる。

「出雲王朝」の祖であるスサノオは、イザナギが最後に産んだ三貴子の嫡男とも言える男神である。 スサノオは当然葦原の中津国、つまり日本の国を支配してもよいわけである。 スサノオは実際にイザナギから日本国の支配を命ぜられたのである。それなのに、彼は黄泉の国で暮らす母イザナミを慕思し、根の国に流罪になった。

このようにイザナギ・イザナミはその子孫によって二つの系統の神がみに分かれた。

一つはイザナギ・アマテラス・ニニギの「ヤマト王朝」である。

そしてもう一つはイザナギ・スサノオ・オオクニヌシの「出雲王朝」の系統である。

前者はまさに日本を支配する光の神であり、後者は一旦は成功をおさめるが、最後には悪神となり、根の国へと行かざるをえない神である。

ヤマト王朝と出雲王朝の神々はもともと親戚であったが、ヤマト王朝の神々はすべて光の神、善神であり、出雲王朝の神々は結局闇の神、悪神である。

二つの王朝の関係は、たとえば「ヤマト王朝」に伝わるやたの鏡・勾玉、草なぎの剣の「三種の神器」にも見ることができる。

その内、鏡は「ヤマト王朝」の独自の神器である。

これに対して「草なぎの剣」はスサノオがヤマタノオロチを切ってその尾から取り出したものである。

勾玉についてもまた出雲の土地で盛んに作られていたもので、「出雲王朝」でも宝とされるものである。

このことから、「ヤマト王朝」は「出雲王朝」の権力を受けついでいるという継承性と、「ヤマト王朝」の独自性と正統性を示すために、このような「三種の神器」の神話が作られたと見るべきであろう。

つまり「古事記」・「日本書紀」に書かれた神話は「ヤマト王朝」と「出雲王朝」の血縁関係を示すものであり、すでに5世紀以前に成立していたに違いないと思われる。
         (引用ここまで)
          


荒神谷博物館HP
http://www.kojindani.jp/


wikipedia「荒神谷遺跡」より

荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)は、島根県出雲市斐川町神庭西谷の小さな谷間にある国指定の史跡である。

1983年広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い遺跡調査が行われた。
この際に調査員が古墳時代の須恵器の破片を発見したことから発掘が開始された。
1984年 - 1985年の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。

銅剣の一箇所からの出土数としては最多であり、この遺跡の発見は日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与えた。
これにより、実体の分からない神話の国という古代出雲のイメージは払拭された。

その後の加茂岩倉遺跡の発見により、古代出雲の勢力を解明する重要な手がかりとしての重要性はさらに高まった。

出土した青銅器の製作年代等については下記の通りであるが、これらが埋納された年代は現在のところ特定できていない。


銅剣

丘陵の斜面に作られた上下2段の加工段のうち下段に、刃を起こした状態で4列に並べられて埋められていた。358本の銅剣は、全て中細形c類と呼ばれるもので、長さ50cm前後、重さ500gあまりと大きさもほぼ同じである。 弥生時代中期後半に製作されたとみられている。

この形式の銅剣の分布状況から出雲で製作された可能性が高いが、鋳型が発見されていないため決定的ではない。いずれにしろ、形式が単一なので同一の地域で作られたことは確かである。

また、このうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれている。
このような印は、現在までのところこれらと加茂岩倉遺跡出土銅鐸でしか確認されておらず、両遺跡の関連性がうかがえる。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/724e9a0543a63c28f546eb8996670106


梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(2)
スサノオは渡来人だったのか? 2012-01-07

         (引用ここから)

「古事記」ではスサノオは高天原から出雲にやってきたということになっているが、「日本書紀」には異なる伝承が語られている。

それによると、スサノオは高天原から追放されてただちに出雲に降りたわけではなく、まずその子イタケルとともに新羅の「ソシモリ」という所に降り立ったというのである。 おそらく「ソシモリ」は韓の国のかなり豊かな町であったのであろう。

ところがスサノオはこのような豊かな地に自分は住みたくないといって、舟を造り、その舟に乗って出雲の国に至る。


さらにまた「日本書紀」は、スサノオの故郷を物語る別の一書も伝えている。

そこではスサノオがヤマタノオロチを切った剣は「韓(から)さいの剣」であるという。

それは韓国から伝来した小刀を指す。 その小刀でヤマタノオロチを切ったのだとすれば、スサノオ自身も韓国から来たと考えるのが自然であろう。

このようにスサノオに始まる「出雲王朝」には朝鮮の陰が強く射しているのである。


「古事記」には「高志(こし)の八俣のオロチ」と書かれているが、「高志(こし)」は「越(こし)」であり、明らかに越前・越中・越後の「越」を意味している。

また「出雲国風土記」には「越の八口(ヤクチ)」とある。
クチは蛇・蝮と同義で、「越のヤマタノオロチ」と同じ意味である。
八つの頭と八つの尾を持つオロチが実在したとは考えられない。

オロチはしばしば強くて悪い人間に譬えられる。
鬼退治やオロチ退治というのは、人民を苦しめる強くて悪しき人間を退治することを言うのであろう。

このように考えてみるとヤマタノオロチとは人民を苦しめる悪い豪族を指すのかもしれない。

出雲の「国引き神話」においては、オオクニヌシは西は新羅の国から、東は越の国から国を引いてきたという。 つまり「出雲王国」の交易範囲は、西は新羅から東は越に及んでいたことを意味するのであろう。

日本海に臨む当時の国ぐにの中で、ヒスイを生産する越の国がもっとも豊かで強い国であったに違いない。 そしてこの越の国からやって来た越のヤマタノオロチに、スサノオは酒を飲ませて油断させ、皆殺しにしたのではないか。

このように土着の神であり、初期農業の神である国津神の支配を妨げ、出雲の国を植民地として荒廃させた越の豪族が、朝鮮の国からやって来たであろうスサノオに退治されたと解釈すると、ヤマタノオロチ伝説は良く理解出来るのである。

オオクヌヌシは越のヌナガワヒメを娶り、さらにヤマト遠征の旅に出た。

オオクニヌシがヤマトといかなる戦いをしたかは分からない。 これについて「古事記」も「日本書紀」も何も語っていない。 しかしその戦いは幾多の困難があったにせよ、オオクニヌシの大勝利に終わったことはほぼ間違いないと思われる。

関西周辺の地域にはオオクニヌシおよび彼の子たちをまつる神社や出雲の名を当てる場所がはなはだ多い。 こう考えると、古くはヤマトも山代も出雲族の支配下にあり、この地に多くの出雲人が住んでいたと見るのがもっとも自然であろう。

このようにオオクニヌシは日本海沿岸だけでなく、近畿・四国・山陽の地までも支配下に置いていたと思われる。

そしてこのオオクニヌシを助ける有能な参謀が現れた。 島根県松江の美保関に、誰も知らない小人のような神スクナヒコナが小舟に乗ってやってきたのである。

スクナヒコナは一体どこからやってきた神なのであろう。
やってきた場所から考えれば、やはりスサノオと同じ韓国からであろう。

オオクニヌシはこの海外からやってきた前歴のまったく分からないスクナヒコナを国づくりの最大の協力者として重用したのである。

スクナヒコナが去ると次に、海の向こうから神々しい新たな神が現れた。

「日本書紀」にはこうある。

「時に、神しき光海に照らして、たちまちに浮かび来る者あり。
我は日本国の三諸山に住まんと欲ふ。」

スクナヒコナの時と同様、またも海の彼方から光を放ちながら、オオクニヌシの国づくりを手助けする神が現れたのである。

わたしはかつてこの三輪の神をヤマト土着の神と考えたが、「古事記」「日本書紀」が語るように、オオモノヌシは外来の神であると考える方がよいのかもしれない。

          (引用ここまで)


スクナビコナが誰だったかについては、別の考え方として、歴史研究者・山崎謙氏は著書「まぼろしの出雲王国」で以下のように考察しています。


          (引用ここから)

神の名はスクナビコナ神といい、神産巣日神の子だという。
神産巣日神は、天地開闢の際に登場した「造化三神」のうちの一柱。
神産巣日神はスクナビコナ神に対して

「オオクニヌシ神と兄弟になって、葦原の中津国をつくり固めよ。」

と言う。

日本神話に登場する神は、「天津神」と」国津神」に大別される。
オオクニヌシ神は「国津神」である。

不思議なのは、「国津神」の代表的な存在であるオオクニヌシ神の手助けをして、一緒に国づくりをおこなったスクナビコナ神が「天津神」系だということだ。

またその後オオクニヌシ神を助けて国づくりをしたオオドシ神も「古事記」では「天津神」系になる。

神話はこの話の後「国造り」になるが、オオクニヌシの国づくりに「天津神」系が協力したという記述は、それを正当化するために意図的に挿入されたと考えられるだろう。
         (引用ここまで)


しかし同書でも、スクナビコナ神は韓国から来た渡来神だと考えられるとも述べられています。
 


         (引用ここから)

奈良市に漢国(かんごう)神社がある。

「漢」はもともとは「韓」、「国」はもともとは「園」であった。

祭神はもともと大物主神で、藤原不比等が韓神としてオオナムチ神とスクナビコナ神を合祀したという。 不比等は「日本書紀」の編纂に関わっており、「日本書紀」は不比等の構想によるものだという見方もある。

この神社では、オオナムチ神とスクナビコナ神は韓国から来た神ということになる。

確かにスクナビコナ神は神話でも海上からやって来たことになっており、渡来した神である可能性が高い。

         (引用ここまで)


wikipedia「スクナビコナ」より

スクナビコナ(スクナヒコナとも。須久那美迦微、少彦名、少日子根など他多数)は、日本神話における神。

『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。

大国主の国造りに際し、波の彼方より天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗って来訪した神。

国造りの協力神・常世の神・医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物霊・知識・酒造・石など多様な姿を有する。

『古事記』によれば、大国主の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、オホナムチ(大己貴)大神の命によって国造りに参加した。

『日本書紀』にも同様の記述があり、『記』・『紀』以外の文献では多くは現れない神である。

酒造に関しては、酒は古来薬の1つとされ、この神が酒造りの技術も広めた事と、神功皇后が角鹿(敦賀)より還った応神天皇を迎えた時の歌にも「少名御神」の名で登場する為、酒造の神であるといえる。

ただし石に関しては記述よりそうした面が見られると想像されるだけであり、あくまで性質的なものである。

創造における多様な面を持つ神ではあるが、悪童的な性格を有すると記述される(『日本書紀』八段一書六)。

オホナムチ同様多くの山や丘の造物者であり、命名神として登場する。のちに常世国へと渡り去る。

小さいと言われているが、「鵝(ひむし・蛾)の皮の服を着ている」と高御産巣日神の「わが子のうち、指の間から落ちた子」という記述からの後世の想像である。

名前の由来について、『古事記伝』によれば「御名の須久那(スクナ)はただ大名持(オホナムチ)の大名と対であるため」とあり、名前が必ずしも体の大きさを表すわけではない。

あるいは金井清一によれば「若き日の御子」の意とする説もある。

また、この神が単独ではなく、必ずオホナムチと行動を共にすることから、二神の関係が古くから議論されている。

大林太良はこの神に「第二の自我」を見、吉田敦彦は双生児的な関係を指摘している。

海から来訪したとの記述により渡来人という説もあるが、船で渡来=外国人という単純な図式からの連想であり、奇説の域を出ない。


wikipedia「国引き神話」より

国引き神話(くにびきしんわ)は、出雲国に伝わる神話の一つである。

『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれている。

八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとした。

そして、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、以下のように「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、できた土地が現在の島根半島であるという。

国を引いた綱はそれぞれ薗の長浜(稲佐の浜)と弓浜半島になった。

そして、国引きを終えた八束水臣津野命が叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/bbafc7f59e87fd98e00bbb362834869d


梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(3)
出雲の国譲りと、たたり 2012-01-11


          (引用ここから)

では、オオクニヌシの「出雲王朝」はどのようにして崩壊したのか。

内部分裂とアメノヒボコと言われる韓国から来た強力な神の出現によって追いつめられたオオクニヌシの下に、ついに「国譲り」の使者がやって来る。


「古代出雲王朝」がどのように滅びたか、史実として確かなことは全く分からない。

しかしオオクニヌシ王国を滅ぼしたのは物部氏の祖先神であるという説がある。

「古事記」では「国譲り」の使者はアメノトリフネを従えたタケミカヅチであるのに対し、「日本書紀」では主なる使者は物部の神を思わせるフツヌシであり、タケミカヅチは副使者にすぎないのである。


「出雲王国」を滅ぼしたのはニニギ一族より一足先にこの国にやって来た物部氏の祖先神かもしれない。

青柴垣神事、諸手船神事といった、たいそう手の込んだ「国譲りの神話」を象徴する祭りは、「古事記」や「日本書紀」に語られる「国譲り」の神話は決して架空の事ではなく、事実であることを末永く後世に伝えるものであろう。


「古事記」を虚心に読むかぎり、「出雲王朝」がヤマトをも支配していたことはほぼ確実であると思われる。


神武天皇は日向からはるばると遠征して、ヤマトにいるナガスネヒコと、一足先にヤマトに来ていたニギハヤヒの子、ウマシマジの連合軍を滅ぼし、ヤマトを占領した。

しかし神武天皇が権力を保つには、かつてこの国を支配したオオクニヌシ一族の血を引く女性を娶り、その女性との子を次の天皇にすることが必要であった。

そこで探してきたのが、三島と三輪のオオモノヌシの娘である。


神武天皇が亡くなった時、日向の元の妻との間の息子は殺された。
おそらく日向の豪族の血を持つ王子が皇位を継ぐことに、ヤマトの人たちの支持は得られなかったのであろう。

そして明らかに出雲王朝の血を持つヌナガワミミが第二代の天皇に就くことによって、神武天皇は安泰を保つことができたのだろう。
しかし以後オオクニヌシ系の女性で正妃の位に就く人はなく、物部系の女性が多く就くようになる。


新たに政権の座に就いた王朝がもっとも力を尽くすのは、前代の王朝の鎮魂である。
疫病が流行したり災害が起こったりしたとき、それはおそらく前代の王朝の祟りであると考えられた。


第10代の天皇、天皇家の祖とされる崇神天皇の御代に悪性の流行病がたびたび起こり、それはおそらく前代の「出雲王朝」の祟りであると考えられた。

このような出雲大神のたたりは崇神、垂仁で終わらず、「古事記」が作られた和銅の御世に近い過去にも起こったのである。


「日本書紀」の斉明天皇5年(659)に次のような記事がある。

「この歳、出雲国造に命せて神の宮をつくりよそわしむ。」

斉明天皇は天智・天武天皇の母であり、「古事記」選集当時の天皇であった元明天皇の祖母に当たる。

現天皇の祖母の時代にまで出雲大神の祟りが存在していたとすれば、「古事記」選集の段階において出雲大神の鎮魂ということが重要な国家的課題であったと考えられるのである。
          (引用ここまで)
 

著者梅原氏は、「出雲王朝」の崩壊の原因には直接言及することなく、話をすすめていくように思えます。もしかしたら「出雲王朝」を滅ぼしたのは物部氏の祖先フツヌシだったかもしれない、、と軽く触れられますが、深い詮索は行われません。

ただ、「青芝神事」や「諸手舟神事」、また姫路の「一つ山・三つ山祭り」といった地域の古い伝統行事は、まさにスサノオやオオクニヌシたちが今も生きているように生き生きとした伝承を行っており、「出雲の国譲り」は神話や物語などではなく、かつて出雲のオオクニヌシ一族の支配下にあった人々の心には決して忘れられることがない史実であり、心の奥深くに刻み込まれている記憶であることを証明していると考える、と語る道を選んでおられます。

そしてまた、だからこそ、「出雲王朝」にたたられているという出来ごとは、「古事記」・「日本書紀」が書かれている当時の人々にとって、最大の恐怖をもたらす最大の関心事であり、最大の悩みの種であったであろうと考えられています。

ニギハヤヒとは何者なのか、物部氏とは何者なのかということは、後で他の研究者の著作も比較してみてみたいと思っていますが、かつて在った者により「たたられている」という感覚は日本の歴史の中には脈々と流れ伝わっているように思います。


wikipedia「ニギハヤヒ」より

『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。

ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけた。

ウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている。

イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。

『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。

これらは、ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。

また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。

大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。


wikipedia「フツヌシ」より

経津主神(ふつぬしのかみ)は日本神話に登場する神である。

『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。

別名、斎主神(いわいぬしのかみ)、伊波比主神(いわいぬしのかみ)。『出雲国風土記』では布都怒志命として登場する。


『日本書紀』の神産みの第六の一書では、伊弉諾尊が軻遇突智を斬ったとき、十束剣から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群となり、これが経津主神の祖であるとしている。

第七の一書では、軻遇突智の血が天の安河のほとりの岩群を染めたことにより岩裂神・根裂神が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神が生んだのが経津主神であるとしている。

葦原中国平定では武甕槌神とともに出雲へ天降り、大国主命と国譲りの交渉をしている。

『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』では経津主神のみが天降ったとしており、出雲の意宇郡楯縫郷(島根県安来市)で天石楯を縫い合わせたとの逸話が残っている。


神名の「フツ」は刀剣で物がプッツリと断ち切られる様を表すもので、刀剣の威力を神格化した神であるとの解釈がある一方、「フツ」は刀で切る音ではなく「フツフツ」と沸き上がり「フルイ起す」フツであるとも解されている。

一説には、神武東征において建御雷神が神武天皇に与えた刀である布都御魂(ふつのみたま)(または佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ))を神格化したものであるともいう。

逆に『先代旧事本紀』では、経津主神の神魂の刀が布都御魂であるとしている。

『古事記』においては、建御雷之男神の別名が建布都神(たけふつのかみ)または豊布都神(とよふつのかみ)であるとしており、葦原中国平定は建御雷之男神が中心となって行っているなど、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるように書かれている。

布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の武器庫であったと考えられていることから、経津主神も元々は物部氏の祭神であったと考えられる。

後に中臣氏が擡頭するにつれて、その祭神である建御雷神にその神格が奪われたものと考えられている。

経津主神は香取神宮で主祭神として祀られているが、香取神宮と利根川を挟んで相対するように、建御雷神を祀る鹿島神宮がある。

また、春日大社では経津主神が建御雷神らとともに祀られている。

これは香取神宮・鹿島神宮のある常総地方が中臣氏(藤原氏)の本拠地であったため、両神社の祭神を勧請したものである。

また、鹽竈神社でも経津主神・建御雷神がシオツチノオジとともに祀られている。

コメント

国譲りの試論 (須賀の語部)2012-03-29 19:45:26 

古事記の出雲神話は弥生後期の四隅突出型墳丘墓と古墳時代を先取りした王墓が造成された時代と不思議とマッチすると。渡辺島根大学名誉教授が季刊「考古学」に書いておられた。

 私の解釈だとこうだ。

こたつ状の形をした四隅突出墳丘墓の分布は東は島根県の安来市、西は出雲市を中心とした王族が造成した。

発達時期は東が若干早く、数は東が、大きさは西のものが大きく国内最大級のものがある。しかし両者とも出雲の中では、数量、規模とも他を圧倒している。

つまりこれは、東はスサノオの王国、西はオオクニヌシの王国があったと考えるとすると説明がつく。

これが古墳時代に入ると、墳丘墓(古墳)を突然作らなくなる。
この西の勢力の衰弱が、国譲りを表しているとピッタリ符合する。

それでも西の勢力は古墳時代中期には回復し、当時全国的に流行していた前方後円墳を作り始める。一方東部は四隅突出墳丘墓の伝統を濃厚に引き継いだ、方墳、前方後方墳を頑なに作り続け、奈良時代までの500年間栄える。

また、古墳時代に埋葬された大刀の東西の差異も面白い。
東部は装飾性の強い大刀で蘇我氏系のもので、西部は装飾性が弱く、物部氏系のものであると考古学者は言っている。

つまり、大和朝廷の有力豪族として東部は入廷し、西部は吉備で栄えた大和朝廷の有力豪族物部氏の軍事侵攻に屈したと解釈するのが自然だろうと考えられる。

今年は島根県が神話博しまねをやっているのでこのあたりの詳しい情報は、島根県にある古代出雲歴史博物館に行って実物や考古学的成果を見てみるとより臨場感がわくだろう。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/0ebb60e97215cb8f6449e18dcfb5d7a7


梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(4)
縄文から弥生へ 2012-01-14


          (引用ここから)

わたしはイザナギ・イザナミは縄文の神であると思う。

縄文の哲学は産みの哲学である。

タカミムスビ・カミムスビの「ムスビ」というのは、子を産むことを意味する。

このような「ムスビ」の神が、縄文時代において最も崇拝されていたことは、縄文時代にあまねく崇拝された石棒を見ても分かる。

これに対してイザナギ・イザナミに続く神々は、明らかに弥生の神であり、農耕の神々であろう。


「古事記」では国産みの後に神産みの話が続く。 イザナギはその最後にアマテラス・ツクヨミ・スサノオを産んだというが、この三人はいずれも農耕の神々である。 つまり縄文時代が終わり、弥生時代が始まるのである。

このように考えるとスサノオ、オオクニヌシの出雲神話は弥生時代の話なのであろう。

この弥生時代について、これまで紀元前5世紀から紀元後3世紀頃の間の約800年間と考えられていたのだが、放射性炭素年代測定法により、その始まりが通説より500年ほど遡った。 つまり紀元前10世紀頃にはすでに稲作農業が日本で行われていたと考えられる。


新たに認識された約3000年前の弥生時代初期に目を向ける時、われわれは古代の日本が現代の日本とははなはだ違う状況にあったことを認識しなければなるまい。

それは、かつてはこの日本列島の文化的中心は太平洋沿岸ではなく、日本海沿岸であったということである。

このような日本海沿岸の高い文化を示すものに、主として北陸地方に出土する巨大なウッドサークルの遺跡がある。 その代表的なものが能登半島の真脇遺跡であろう。

最大直径1メートルもある10本の栗の木が柱の断面を外側に向けている環状木柱列が発見された。 そのサークル状の柱の穴は幾重にも重なっていて、10本の柱が何年かに一度、立て替えられていたことを示していた。

また少し時代は後になるが、そこに無数のイルカの骨塚があったのが発見されている。 そこはおそらくアイヌの「熊送り」のように、「イルカ送り」をした場所であったのであろう。

サークル状に配された10本の柱は、生命の永劫回帰を意味するのかもしれない。


巨大な建造物の遺跡は山陰にもある。

このような伝統の下で、出雲のオオクニヌシの隠居の宮殿として、現在の出雲大社の本殿の高さの二倍もある巨大な宮殿が建てられたと見るべきであろう。


そしてもう一つ、この日本海沿岸で栄えた文明は、「玉 」の文明であった。
近年の調査で、新潟県糸魚川地方がヒスイの現産地であることが確かめられた。
この勾玉の起源を猪や魚の形をした獣型勾玉に求める梅原氏の説に、わたしはたいへん興味を覚えた。

アイヌ語は縄文語の名残を留めている言語だと私は考えているが、アイヌ語の「タマ」は「カムイ」と同じように霊的な存在を意味する。 玉はまさに霊的な存在であり、特に、勾玉は霊的存在の最たるものである。

勾玉はやはり魂の形を示しているのであろう。
その魂は植物の魂であるよりは動物の魂であろう。
動物と植物の違いは、動物にははっきりと死があることである。
それは動物の肉体から魂が去っていくからであろう。


魂の去った肉体はむしろなきがらであり、縄文人にとっては全く意味のないものであった。 縄文人はそのようななきがらを山に捨てて二度と参ろうとは思わなかった。 彼らが参るのは別の墓なのである。

縄文人は人が死ねばその魂は西の空に行き、そこでほぼこの世と同じ生活をすると考えてきた。 そしてその人物の子孫に妊娠が告げられると、あの世にいる祖先の誰かの魂が選ばれ、またこの世に帰ってくると考えていたのである。

それゆえ魂はこの世とあの世との間を永遠に行き来するものであった。

勾玉はそのような魂を表わすものであると考えられる。
人間をはじめすべての獣の、死からの復活を願う祈りが込められている。


「古事記」にある出雲の神オオクニヌシの越の神ヌナガワヒメに対する恋の話は、同時に征服の話なのである。 勾玉文化の中心地、越はついに出雲のオオクニヌシの手に帰したのである。

出雲の地は長年、ヒスイ王国・越の支配下にあった。

 その越の支配からの解放が、スサノオによる越のヤマタノオロチの退治の話であり、逆に出雲による越の征服の話がオオクニヌシの強引なヌナガワヒメとの結婚の話であろう。
            (引用ここまで)


wikipedia「真脇遺跡」より

真脇遺跡(まわきいせき)は、石川県鳳珠郡能登町字真脇にある縄文時代前期から晩期にいたる集落跡の遺跡である。

真脇遺跡は能登半島の先端から少し内海に入ったところにある入江の奥に位置する。

用水路工事に伴う1982-83年にかけて行われた発掘調査により発見された。

遺跡は入江奥の沖積低地の包含層の、最近の水田の土地の約1メートル下にあって、そこから約3メートル下に亙って遺跡の含まれる層が年代順に層を成していた。

そこから発掘される史料なども豊富であるため、「考古学の教科書」などとも呼ばれる。

約6000年前から約2000年前まで、採集・漁撈の生活を営む集落があったものと考えられている。

発掘で出土した厚く堆積した300体を超える大量のイルカの骨や、長さ2.5メートルもある巨大な彫刻柱、土偶、埋葬人骨、厳つい風貌の土面は後期に属する日本最古の仮面、整然とした地層などが話題を呼んだ。

この遺跡に住んでいた人々はイルカ漁を盛んに行ったらしく、大量のイルカの骨が発掘されている(特に前期-中期にかけて多く見られる)。

イルカの骨には石器の鏃や槍が残っていて、獲ったイルカは食用に供せられるほか、骨を再利用したり、油を採ったりされた。

また、イルカは、この土地だけでなく他地域との交易に使われたと考えられる。

船は出土しなかったが、船の櫂(ヤチダモ材)が出土している。

さらに中部山岳地帯や東北地方からの土器や玉が出土していることからも分かる。


遺跡最晩期の地層からは、円状に並べられたクリ材の半円柱が発掘された。

10本の柱で囲んだと思われる直径7.4メートルの環状木柱列で、各々の柱を半分に割り、丸い方を円の内側に向けている。

その太さは直径80〜96センチもある。

小さな環状木柱列もあり、これらは何度も立て替えられたと考えられる。

同じ石川県金沢市で先に確認されたチカモリ遺跡の環状木柱列(ウッド・サークル)と良く似ており、注目されている。


このような巨木を用いた建物や構築物は巨木文化と呼ばれ、日本海沿岸から中央高地にかけていくつか確認されている(新潟県糸魚川市の寺地遺跡、富山市古沢の古沢A遺跡、長野県原村の阿久遺跡など)。

2000年11月の発掘で、縄文時代中期頃の盛り土で区画された大規模な集団墓地遺構が検出された。

大量の土を動かし、それを積み上げて盛り土をし、墓を造っている。

盛り土は、日本列島では、縄文時代後期に属する北海道斜里郡斜里町の環状土籬、弥生時代の墳丘墓、古墳時代の各種の古墳などがある。

人間の労働力を集中して自然の景観を変えてしまう共同作業が縄文の時代にも行われていた。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/8f8f1191a02512bca01e813e5afc50b4


梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(5)
×印をつけて埋葬された銅鐸をめぐって 2012-01-21

梅原猛は近年島根県の遺跡から大量に発見された銅鐸について、以下のような問いを立てます。


>近年発見された荒神谷遺跡や加茂倉遺跡で発見されたおびただしい青銅器は、どのような形でスサノオ・オオクニヌシの「出雲王朝」と結びつくというのだろうか。


        (引用ここから)

ヒスイおよび玉の産地はほぼ環日本海地域である。
日本海沿岸はこのような巨大建築と玉の文化が栄えていた。
そしてさらに青銅器文化も栄えていたのである。
それは大量の銅鐸の出土によって分かったことである。


弥生時代の芸術作品といえば、銅鐸をあげねばならぬと思う。
弥生文明は稲作農業を生産の基礎とする文明であった。
農業に従事する人々を統合する宗教的・政治的権威が必要である。
それが神聖たるべき王の存在であろう。
日本では昔から「政りごと」は「祭り事」と言われるように、政治はすなわち祭事でもなければならなかった。 そしてそこで、青銅器は「出雲王朝」の政治と深く結びついた祭器であったと考えられる。


「古事記」「日本書紀」は、日本の農業はスサノオ、オオクニヌシの始めたものであるとする。

では、近年発見された荒神谷遺跡や加茂倉遺跡で発見されたおびただしい青銅器は、どのような形でスサノオ・オオクニヌシの「出雲王朝」と結びつくというのだろうか。


銅鐸研究家佐原氏は、銅鐸の起源について、銅鐸は中国から来たものではなく、朝鮮の馬の首につける鈴が日本に来て、祭器になったものであるとする。
朝鮮の人にとって漢式馬車に乗る貴族は尊敬の的、憧れの的であった。
貴族のシンボルとして馬の首につける鈴ほど適当なものはない。
それゆえにこの様な馬の鈴を日本で祭器としたのは朝鮮から来た貴族、あるいは貴族に強いあこがれを持つ人物であったに違いない。

わたしはそういう人物として「日本書紀」の記述により朝鮮から来たと考えられるスサノオを想起する。 そうであるとすれば、銅鐸は「出雲王朝」の祖であるスサノオと結びつく。

では、このような大量の青銅器を所有していたのは誰か、そしてそのような大量の青銅器を埋蔵したのはなぜなのだろうか。


これほど多くの宝器を所有したのは間違いなく「出雲王朝」の大王であり、おそらくオオクニヌシと言われる人であったに違いない。

しかしそのような宝器をなぜ人目につかない丘の中腹に埋めたのか。

その謎を解く鍵は、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の銅鐸のほとんどに×印が刻まれていたことにある。

西洋から近代科学文明を採り入れて以来、日本人は「あの世」について考えなくなった。
しかし日本人の「あの世」信仰は、浄土教が日本に移入される以前に、すでに深く日本人の魂に浸透していた信仰であると思わざるを得ない。
日本人は縄文時代以来、深い「あの世」感を持っていたので、とりわけ浄土教が日本仏教の主流になったのではないかと思う。

かつて柳田国男が指摘したように、日本人には人が死ぬとまず近くの里山に行き、しばらくたって亡くなった祖先達の住むあの世へ行き、お盆やお正月やお彼岸にはこの世に帰ってくるという縄文時代以来の信仰と、十万億土離れた遠い極楽浄土へ往生するという浄土教の信仰がまだら染めのように混在していたと思われる。

このような「あの世」観において「あの世」は、「この世」とあまり変わりない所と考えられていたのである。


ただし一つだけ大きく違うことがある。
「あの世」と「この世」は万事あべこべなのである。
たとえば「この世」の夏は「あの世」の冬、「この世」の冬は「あの世」の夏。

「この世」の昼は「あの世」の夜、「この世」の夜は「あの世」の昼、というように、「この世」で完全なものは「あの世」では不完全であり、「この世」で不完全なものは「あの世」で完全なものであるという信仰でもある。


そうした信仰の最もはっきり認められるものが、縄文時代に作られた土偶であろう。

土偶はすべて必ず破壊されていた。

また土偶の特徴は中央に縦一文に引き裂いたような跡があることである。

土偶の中にはあたかも人間を葬るかのように丁寧に埋葬されたものもある。

土偶は腹を裂かれて死んだ妊婦の像であり、妊婦が完全な人間として再生することが出来るようにバラバラにして埋められるものである。

それゆえ、死者に贈られるものは必ず壊して贈らなければならない。

弥生時代の副葬品として貴重な鏡が供えられることもあるが、その鏡はばらばらに壊されているものがあり、死者に供えるものはそのように壊されたり、焼かれたりする。

火で焼くことによって、そのものを「あの世」へつつがなく贈るのである。

日本で恒久的な都が作られるのが遅れたのは、前大帝の宮殿を焼いて、死んだ帝に捧げられたためであると、私は考えている。


このように考えると、遺跡から出土した銅器に付けられた×印の謎が初めて理解される。

それらの品物は、すべて死者に贈られたものの印であろう。

×印を刻んで、不完全なものであることを示そうとしたのではないか。

大量の銅鐸の出土した遺跡は賀茂氏の祖先であるオオクニヌシの愛児・アジスキタカヒコネのいたところで、この地に彼の宮殿があったと思われる。

それゆえ、「国譲り」後も生き残った彼とその子孫たちは、持っていた銅鐸をすべてこの丘に埋蔵して、父・オオクニヌシに送り届けようとしたのではあるまいか。

いずれの遺跡においても、銅鐸は愛情をこめて、実に丁寧に埋葬されている。

そこにオオクニヌシに対する深い哀悼の心が込められているのではないかと私は思ったのである。  
           (引用ここまで)


梅原氏は、出土した銅鐸は朝鮮からやってきて、出雲王国を作り上げたスサノオノミコトが朝鮮からもたらしたものであり、出雲王朝の王オオクニヌシが所有していたものであり、オオクニヌシの息子が死者の住むという「あの世」にいる亡き父オオクニヌシに贈ったものではないだろうか、と考えています。


この考えとは別の考えとして、山崎謙氏は著書「幻の出雲王国」において別の見解を述べておられます。

       (引用ここから)

古代出雲は日本海をつうじて諸地域と交流があった。

近年の考古学的発見の数々はその様子を次第に明らかにしつつある。

弥生時代は中国の史書に「倭国騒乱」の文字があるように、各地に地域国家が出現し、勢力争いが勃発していたと見られる。

弥生時代の出雲は、青銅器の出土量は全国でもトップクラスであり、その後の鉄器も北九州に次いで出土数が多い。 出雲は当時、現在で言えばハイテク分野でトップクラスの力をもつ強国であったと考えてよい。

青銅器は鉄器が流入すると、急速にすたれる。
荒神谷遺跡などの青銅器の大量埋納はそのことと関係があるかもしれない。
あるいは青銅器を使用することに意味をもつ宗教的な行事が意味を失い、廃棄されたのかもしれない。

また、古代出雲王国が大和王権に屈し、伝えられてきた同国の象徴である青銅器を廃棄させられたという可能性も捨てがたい。

        (引用ここまで)
確かに、どの説の可能性も捨てがたいと感じます。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/ce75cf2f7f37e0487c4f1305c5e2f258

[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理


28. 中川隆[-13610] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:44:12: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20728] 報告
▲△▽▼

hoh********さん 2016/2/13 01:29:09
神武東征は実際にあったとすれば、西暦何年頃の出来事だと思いますか?

pin********さん 2016/2/13 21:23:55

「日本書紀の神武紀」を見ると、彼らは、大阪湾までやってきて、「登美のナガスネヒコ」との戦闘の時に、舟で日下の蓼津(現在の東大阪市日下町付近)まで進出して来ます、そこでの戦闘で、兄の五瀬命が負傷したので、南方(現在の大阪市淀川区西中島南方付近)を舟で経由して撤退し血沼海(茅渟海、大阪湾)に出たとの記述があります。

現在の地形では、「蓼津も南方」も陸地で、舟で到達したり通過したりすることができません。

でも、250年から300年頃の弥生時代の後半には、大阪湾の奥に河内湾というのがあり、この二つの湾を分断するような半島状の地形(片町台地)の先端部分が開いていて、海水が河内湾にも流入していたのです。

その後、堆積物によりふさがって河内湖になり、ふさがったところが「南方」です。

このように、「神武」が東征してきた時の状況がリアルに伝えられていますので、時期としては、250年から300年ごろのことだと考えられます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13155826588


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理


29. 中川隆[-13609] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:46:49: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20728] 報告
▲△▽▼

文献は語る −日本神話

1.天孫降臨


天孫降臨の話は、基本的には高天原の神々がその直系の神を高天原から地上の世界へ降ろし、地上を支配していた国津神たちから国土を譲り受ける、あるいはそのまま支配する話なのだが、これは以下のような構成になる。

(1)天菩比神と天若日子の派遣
(2)建御雷神と事代主・建御名方神の交渉
(3)迩迩芸命の降臨
(4)迩迩芸命と木花之咲夜姫

このうち(1)、(2)はオオクニヌシの支配する葦原の中津国、すなわち出雲地方のことで、この物語は天孫降臨よりも、「出雲の国譲り」としてのほうが知られている。しかしこれも意味合いから言えば天孫降臨である。「国譲り」とはぶんどった方の呼び方であって、取られた方からすれば略奪であり、占領である。

難波や日向に天下った際には特別な記事はないのに、出雲だけ何故建御名方神が抵抗したのか。おそらく、当時の国々の中では出雲だけが、高天原(天津神(渡来して北九州にいた集団)たちの国)に抵抗できるだけの体制(軍備・文化・技術等々)を持っていたからに相違ない。これは、出雲が北九州とは独立して、遙か昔からの先進文化を受け入れていたことを示している。

葦原中国を平定後、アマテラスは最初、我が子天之忍穂耳命(オシホミミノミコト)に、葦原中国を統治するように命じたが、オシホミミノミコトに子が生まれ、アマテラスは、その子番能邇邇藝(ホノニニギノミコト)を降臨させる。 最初命を受けたオシホミミノミコトが、降臨の役目を辞退してしまうのはなぜかよくわからない。アマテラスは、天児屋命(アメノコヤネノミコト)、布刀玉命(フトダマノミコト)、天宇受売命(アメノウズメノミコト)、伊斯許理度売命(イシコリドヒメ)、玉祖命(タマノオヤ)を孫のニニギノミコトに付けて、共に地上に行くように命じ ニニギノミコトに、八尺の勾玉(ヤサカノマガダマ)、八尺鏡(ヤタノカガミ)、そして草薙剣(クサナギノツルギ)を授ける。更に、思兼神(オモヒカネノカミ)、天手力男神(タヂカラヲノカミ)、天石門別神(アメノイハトワケ)、らにニニギノミコトと一緒の天降りを命じた。ニニギノミコトには、

「この鏡を私の魂と思って、私の前で拝むような気持ちでいつも敬うように」

と下命した。一行の降臨を国津神の猿田彦神(サルタヒコ)が待ち受けていた。こうして、ニニギノミコトは、高天原を離れ、随行する神々と、途中、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の峰に天降った。

この地は韓国に向き、笠沙の岬にまっすぐ道が通じていて、朝日がまぶしくさす国であり、夕日が明るく照りつける国でもあった。ニニギノミコトはここに宮殿を造るが、ニニギノミコトが天降った高千穂という伝説地は、宮崎県西臼杵郡高千穂町と宮崎・鹿児島両県にまたがる高千穂峰が有名である。天孫降臨の話は、古事記と日本書紀では若干違っており、日本書紀では本伝のほかに多くの異伝を伝えている。天上から地上への降臨による地上支配の発生という神話は、東アジアを中心にして多くの民族に共通し、それらを北方的な要素とみなす見解もある。 天孫降臨のあとは、いわゆる日向神話における山幸彦・ウガヤフキアヘズ命の誕生を経て、初代神武天皇へと直結する。


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古事記での「天孫降臨」


故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降りまさしめき。故爾に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、天津久米命是に詔りたまひしく、

「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原の氷椽多迦斯理て坐しき。
(倉野憲司・武田祐吉校注「古事記・祝詞」岩波書店、1993年)


日本書紀での「天孫降臨」

「時に、高皇産靈尊、眞床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊々杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、くし日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、そ宍の空國を、頓丘から國覓き行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到ります。」
(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本書紀 上」岩波書店1993年)

(注;)日本書紀では複数ヶ所に「天孫降臨」が記されている。すべて「一書に曰く」という引用によるものであるためそれぞれに表現が異なっており、天孫降臨の地も上記「高千穂峯」の他に「くしふるの峰」「二上峰」「添(そほり)の山の峰」などと記されている。

日向國風土記逸文での「天孫降臨」

「日向の國の風土記に曰はく、臼杵の郡の内、知鋪(=高千穂)の郷。天津彦々瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、天暗冥く、夜昼別かず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。ここに、土蜘蛛、名を大くわ・小くわと曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまをしき。時に、大くわ等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。因りて高千穂の二上の峯と曰ひき。後の人、改めて智鋪と號く。」
(秋本吉郎校注「日本古典文学大系2 風土記」岩波書店)


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梅原猛は、この神話は一般に「天孫降臨」として知られるが、最初は「天子降臨」だったのではないか、という指摘をしている。この神話の原典は古事記・日本書紀・万葉集だが、万葉集が一番古い資料で、古事記・日本書紀では確かに 「天孫降臨」になっているが、万葉集では『日の皇子』という表現になっていて、『皇孫』ではない。そこで梅原は、万葉集の原型が作られたのが、まだ持統天皇の子供の草壁皇子が生きていた頃で、その後草壁皇子が早死にしてしまい、持統天皇は孫の軽皇子(後の文武天皇)に位を譲るべく活動していた時に、この孫に国を治めさせるという話が成立したのではないか、としている。なかなか興味深い推察である。


天孫が降臨した「高千穂」を巡っても諸説ある。古事記では、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)、日本書紀では「一書に曰く」と諸説あるため、高千穂峯(たかちほのたけ)、久志振流岳(くじふるだけ)などに降臨した事になっているが、宮崎県の高千穂町と、鹿児島の霧島山系・高千穂の峰が「高千穂峯」の本家争いをしているのは有名な話である。しかしその「くじふるだけ」という呼び方から、大分県の「久住岳」(くじゅうだけ)と言う意見もあるし、福岡県の英彦山には、天忍穂耳神が降臨されたという伝説があり、農業や鉱業などの守り神として今も信仰されている。


本居宣長(1730年〜1801年)は、高千穂は二説あり、どちらか決めがたいと言っている。「彼此を以て思へば、霧嶋山も、必神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに、何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし。」(『古事記伝』十五之巻)

 
また宣長は、二説併記のみならず、移動説も提示している。「つらつら思ふに、神代の御典に、高千穂峯とあるは、二処にて、同名にて、かの臼杵郡なるも、又霧嶋山も、共に其山なるべし、其は皇孫命初て天降坐し時、先二の内の、一方の高千穂峯に、下着賜ひて、それより、今一方の高千穂に、移幸しなるべし、其次序は、何か先、何か後なりけむ、 知るべきにあらざれども、終に笠沙御崎に留賜へりし、路次を以て思へば、初に先降着賜ひしは、臼杵郡なる高千穂山にて、其より霧嶋山に遷坐して、さて其山を下りて、空国を行去て、笠沙御崎には、到坐しなるべし」
(『古事記』十七之巻)


前出梅原猛氏は、「天皇家の“ふるさと”日向をゆく 新潮社刊」の中で、この本居宣長説について、ニニギノミコトが稲作技術を持って笠沙御崎に上陸したが、シラス台地は稲作に適した場所ではないため、弥生時代中期から後期頃に臼杵郡の高千穂に入り、西都から霧島へ移動したのではないかとこの説を補強している。

2000年9月14日(木)から17日の間、第38回歴史倶楽部例会で、「南九州/神話・遺跡の旅」と称して、宮崎神宮・西都原古墳群・高千穂町・上野原遺跡・橋牟礼川遺跡・水迫遺跡などを廻ってきた。高千穂町はほんとに山深い鄙びた町である。こんな所に神々が降ったとは一寸思えない。しかしそれは、一大生産地としての観点から見ればであって、神話に言うただ降りてきただけの「降臨の地」とすれば納得できない事ではない。山深い幽玄な雰囲気はそれを十分感じさせるだけの説得力を持っている。だが神話を離れて、外来民族か或いは他地方からの民族移動を「天孫降臨」だとすれば、この地はあまりに辺境すぎる。あまりにも山の中である。天孫ニニギの尊が、「葦原の中つ国」を治めるために降りて来るには一寸ばかり山峡すぎる。日向に三代に渡って住んだと記紀は書いているが、高千穂から日向の国へ移ったという記述はない。とすれば、降りてきた高千穂にニニギニミコト、ウガヤフキアエズ、カンヤマトイワレビコと三代住んだと考える方が自然だろう。それにしてはここはあまりにも山の中である。ここでは東に良い国があるなどという情報も到達しないのでは、と思える程辺境だ。


(以下古事記による。)

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爾くして、天照大御~・高木の~の命(みことのり)以ちて、太子(おおみこ)正勝吾勝勝速日天忍穗耳(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)の命に、

「今、葦原中國を平らげ訖(おわ)りぬと白す。故、言依(ことよ)」

さし賜いし隨(まにま)に降り坐して知らせ」

と詔りき。爾くして其の太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳の命、答えて、


「僕、將に降らんと裝束(よそ)える間に、子、生まれ出でぬ。 名は天邇岐志國邇岐志(あめにきしくににきし)天津日高日子番能邇邇藝(あまつひたかひこほのににぎ)の命、此の子を降すべし」


と白しき。 此の御子は高木の~の女、萬幡豐秋津師比賣の命に御合して生める子、天火明(あめのほあかり)の命、次に日子番能邇邇藝の命【二柱】也。是を以ちて白しし隨に、日子番能邇邇藝の命に科(おお)せて、「此の豐葦原水穗の國は汝が知らさん國と言依さし賜う。


故、命の隨に天降爾くして日子番能邇邇藝の命、將に天より降らんとする時に、天之八衢(あめのやちまた)に居て、上は高天原を光し、下は葦原中國を光す~、是れ有り。故、爾くして天照大御~・高木の~の命以ちて、天宇受賣の~に、

「汝は手弱女人(たわやめ)に有りと雖も、伊牟迦布(いむかふ)~と面勝(おもかつ)~ぞ。故、專(もは)ら汝往きて將に、

『吾が御子の天降らんと爲す道に、誰ぞ如此して居る』と問え」

と詔らしき。 故、問い賜いし時に答えて、

「僕は國つ~、名は猿田毘古(さるたびこ)の~也。出で居る所以は、天つ~の御子、天降り坐すと聞きし故に、御前に仕え奉らんとて參い向い侍る」

と白しき。


爾くして、天兒屋(あめのこやね)の命・布刀玉(ふとだま)の命・天宇受賣(あめのうずめ)の命・伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命・玉祖(たまのおや)の命、并せて五伴緒(いつとものお)を支(わか)ち加えて天降しき。是に其の遠岐斯(おきし)、八尺勾(やさかのまがたま)、鏡、及び草那藝の劍、また常世思金の~、手力男の~、天石門別(あめのいわとわけ)の~を副え賜いて詔らさくは、

「此の鏡は專ら我が御魂と爲て、吾が前を拜むが如く伊都岐(いつき)奉れ。次に思金の~は前の事を取り持ちて政を爲せ」

と、のりき。此の二た柱の~は、佐久久斯侶伊須受能宮(さくくしろいすずのみや)を拜み祭る。次に登由宇氣(とゆうけ)の~、此は外宮の度相(わたらい)に坐す~也。


次に天石戸別の~、またの名を櫛石窓(くしいわまど)の~と謂い、またの名を豐石窓(とよいわまど)の~と謂う、此の~は御門の~也。次に手力男の~は佐那縣(さなあがた)に坐す也。故、

其の天兒屋の命は【中臣連(なかとみのむらじ)等の祖(おや)】。
布刀玉(ふとだま)の命は【忌部首(いんべのおびと)等の祖(おや)】。
天宇受賣(あめのうずめ)の命は【猿女君(さるめのきみ)等の祖(おや)】。
伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命は【鏡作連(かがみつくりのむらじ)等の祖(おや)】。
玉祖(たまのおや)の命は【玉祖連(たまのおやのむらじ)等の祖(おや)】。


故、爾くして天津日子番能邇邇藝の命に詔りて、天の石位(いわくら)を離れ、天の八重の多那(たな)雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて)、天の浮橋に宇岐士摩理蘇理多多斯弖(うきじまりそりたたして)筑紫の日向の高千穗の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降り坐しき。故、爾くして天忍日(あめのおしひ)の命、天津久米(あまつくめ)の命の二人、天の石靭を取り負い、頭椎(くぶつち)の大刀を取り佩き、天の波士弓(はじゆみ)を取り持ち、天の眞鹿兒矢(まかごや)を手挾み、御前に立ちて仕え奉りき。

故、

其の天忍日(あめのおしひ)の命【此は大伴連(おおとものむらじ)等の祖(おや)】、
天津久米(あまつくめ)の命【此は久米直(くめのあたい)等の祖(おや)也】。

是に詔らさく、

「此地は韓國に向かい、笠紗(かささ)の御前に眞來通(まきどお)りて、朝日の直(ただ)刺す國、夕日の日照る國也。 故、此地は甚吉(いとよ)き地」

と、詔りて、底津石根に宮柱布斗斯理(ふとしり)、高天原に氷椽多迦斯理(ひぎたかしり)て坐(いま)しき。


【ホノニニギの、諸文献における表記】

古事記 天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命
天津日高日子番能邇邇芸命
天津日子番能邇邇芸命
日子番能邇邇芸命
日本書紀 天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
天之杵火火置瀬尊
天杵瀬尊
火瓊瓊杵尊
天津彦火瓊瓊杵尊

風土記 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
瓊瓊杵尊
哀能忍耆命

先代旧事本紀 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊


ホノニニギの神名の多さと長さは記紀にもあまり例がない。ちょっと異常と思えるほどだが、想像をたくましくすれば、北九州の高天原からあちこちへ降臨した神々がいたのではないかと思わせる。日向へ降ったホノニニギはその一人で、神話が形成されていく過程で、ホノニニギ一人に集約されたもののようにも思える。ホノニニギの「ホ」は「穂」であり、ニニギは「にぎにぎ」の意で「賑やかな」「賑わう」と解釈し、稲穂が豊穣に実っている様を表していると言われる。

また、ホノニニギは「天神御子」とも称され、神から天皇へ繋がる系譜上の重要なポイントに位置し、先に見たように、記紀編纂当時の、持統天皇・草壁皇子・文武天皇の皇位継承問題の事情が反映されているのではないかとも言われる。日本書紀九段本書では、天孫降臨の任務は初めからホノニニギであり、赤ん坊の姿でマトコヲフスマに包まれて降臨している。ホノニニギは、崩じた後日本書紀によれば「可愛之山綾」に葬られ、現在その場所は、鹿児島県川内市宮内町や、宮城県延岡市北方の可愛岳などが想定されている。

「国譲り」神話を、何らかの史実を秘めた伝承であるとする立場からすれば、冒頭にも記したように、これは明らかに民族間の領土移譲を含めた権限委譲である。若干の武力抗争もあっただろうが、「国譲り」と表現されるような、圧倒的な軍事力の違いの前に、国を譲らざるを得ないような状況があったのだろうと想像できる。見てきたように、それは北九州の高天原に、出雲の葦原の中津国が屈したのだと考えれば、以後の歴史展開が、考古学の成果も含めて一番説明が容易である。そうやって北九州の、当時の日本列島で一番勢力が強かった一団が、出雲や畿内や南九州を屈服させていったのだろうと思われる。天孫降臨は、それらの屈服させた領地へ派遣する司令官とそのお供の武官達を任命した、いわば壮行会であり、辞令交付式だったのだろうと思われる。そして時代を経て、それは高天原と国津神たちの支配する中津国とのお話として神話となって伝承された。


高天原の神々が降臨に用いる乗り物は天の磐船であり、雲であり、その上に乗って大勢のお供とともに天下っている。これは明らかに海上を船によって移動したことを示唆している。陸上を馬や徒歩で移動したのであればこういう表現にはなっていない。これは高天原が少なくとも近畿ではなかったことを強く物語る有力な証左である。

2.日向三代


天孫「ニニギの尊」が高天原から高千穂に降臨して以来、「ウガヤフキアエズ」「カンヤマトイワレビコ(神武天皇)」と、三代に渡って日向に住んだという事になっており、これを「日向三代」と呼ぶ。「神武東征」については、「邪馬台国の東征」と並び古代史の重点項目である。戦前、戦中は真剣に(現代でもそうだが。)、高千穂の峰や「日向三代」の所在を巡って大論争が巻き起こっていた。今日の視点からすればずいぶんと滑稽な論争もあったようである。

神話を全く否定した「唯物史観」の立場にたてば、神話そのものの基盤が虚構なのだから、その上に立っての議論など何の意義もないと言うことになろう。しかし、すぐ側の西都原(さいとばる)古墳群を見ると、確かに、古代この地方に何らかの有力な勢力が存在していた事を実感させる。古墳群は現にここにあるのだから、これを否定する事はできない。呼応して我が国の古史がそれに似た話を残しているとなれば、もっとその方面の研究がなされてもいいような気もする。


こういう意見を言うとすぐ「軍国主義」とか「皇国史観の復活」とか言われるのは困ったものである。いいかげん、学問からイデオロギーを取り去って欲しいもんだが。


さて、ニニギの尊が地上に降りてからある時、海岸で一人の美女に出会う。迩迩芸命が名を尋ねると

「私は大山津見神の娘で木花之咲夜姫(このはなのさくやひめ)といいます。」

と答えた。そこでニニギは咲夜姫に結婚を申し込むが、咲夜姫は

「私の父に言って下さい」

と答える。そこで迩迩芸命が大山津見神の所に行き、咲夜姫との結婚を申し込むと大山津見神は喜んで、姉の石長姫も一緒に娶ってくれといい、婚礼用品を添えて二人の娘をニニギの元にさしだした。

ところが石長姫の方は醜女だったため、ニニギは大山津見神の所へ返してしまう。すると大山祇神は怒り、

「石長姫とも結婚していたら、あなたの子孫は石のように永遠の命を持てたのに。咲夜姫とだけの結婚でしたら、あなたの子孫は木の花のようにはかなく散り落ちていくでしょう」

と答えた。古事記は、だから代々の天皇の寿命は短いのだとコメントしている。

さて、その咲夜姫だが、ニニギとは一度しか交わらなかったのに、その一回の交わりだけで妊娠してしまう。ニニギは、1回交わっただけで妊娠するとは、と疑った。咲夜姫は、

「これは間違いなくあなたの子供です。その証拠に私は火の中で子供を産みましょう。私が正しければ神の加護があるはずです」

と言い、産気付くと家に火を付け、その中で3人の子供を産み落した。その子供は産まれた順に、火照命・火須勢理命・火遠理命という。火照命が別名海幸彦、火遠理命が別名山幸彦である。山幸彦はまた、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)という名を持つ。


海の神の娘、豊玉姫神と結婚し、やがて鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を産む。彼は豊玉姫の妹で、育ての親でもある玉依姫神(たまよりひめのかみ)と後に結婚して、神武天皇が産まれる。


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是に天津日高日子番能邇邇藝能命、笠紗の御前に麗しき美人に遇いき。爾くして、

「誰が女ぞ」

と問いき。答えて、


「大山津見の~の女、名は~阿多都比賣(かむあたつひめ)、またの名は木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ)と謂う」

と白しき。また、

「汝、兄弟有りや」

と問いき。答えて、

「我が姉、石長比賣(いわながひめ)在り」

と白しき。 爾くして、

「吾は汝と目合(みあ)わんと欲う。奈何に」

と詔りき。答えて、

「僕は白すことを得ず。僕が父、大山津見の~、將に白すべし」

と白しき。故、其の父の大山津見の~に乞い遣りし時に、大きに歡喜びて其の姉の石長比賣を副(そ)えて、百取(ももとり)の机代の物を持たしめて奉り出だしき。故、爾くして其の姉は甚凶醜きに因りて、見畏みて返し送り、唯に其の弟の木花之佐久夜毘賣を留めて一宿、婚爲き。爾くして大山津見の~、石長比賣を返ししに因りて大きに恥じて白し送りて、

「我(あれ)の女、二並(ふたりとも)に立て奉りし由は、石長比賣を使わさば、天つ~の御子の命、雪零り風吹くと雖も、恆に石の如くして、常わに、堅わに動かず坐さん、また木花之佐久夜毘賣を使わさば、木の花の榮ゆるが如く榮え坐さんと宇氣比弖(うけいて)貢進(たてまつ)りき。此く石長比賣を返らしめて、獨り木花之佐久夜毘賣を留むる。故に天つ~の御子の御壽(みいのち)は木の花の阿摩比能微(あまひのみ)坐(ま)さん」

と言いき。故、是を以ちて今に至るまで天皇命(すめらみこと)等の御命(みいのち)は長くあらぬ也。


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豊玉姫は妊娠し、天津神の御子は海の中で生んではならないと地上へやってきた。そして渚に鵜の羽を茅葺(かやぶき)にした産屋を建ててくれと山幸彦に頼み、異郷の者が出産するときには、すべて元の国の姿になるので、出産現場を見ないでくれと頼む。山幸彦は見ないと約束するが、心配と好奇心で産屋を覗いてしまう。そこに居たのは、八尋(やひろ)ワニの姿に戻った豊玉姫がいた。驚く山幸彦に、約束を破って姿を見られたからにはもうここにはいられないと豊玉姫は、我が子ウカヤフキアヘズノミコトの世話を、妹である玉依姫神に託すと単身海の国へと戻っていった。


山幸彦ことホヲリノミコト(火遠理命)は、日向で580年生き、高千穂の山の西に葬られた。ホヲリノミコトの子、アマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノミコト(天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命)は、やがておばの玉依姫神と結ばれ、イツセノミコト(五瀬命)、イナヒノミコト(稲氷命)、ミケヌノミコト(御毛沼命)、ワカミケヌノミコト(若御毛沼命)が生まれた。ワカミケヌノミコトの別名は、カムヤマトイハレビコノミコト(神倭伊波礼昆古命)と言った。

ミケヌノミコトは常世国へ行き、イナヒノミコトは母のいる海原に入った。


故、後に木花之佐久夜毘賣、參い出でて、

「妾(あれ)は妊身(はら)みぬ。今、産む時に臨みて、是れ天つ~の御子にして、私(わたくし)に産むべきにあらぬが故に請(もう)す」

と白しき。爾くして、

「佐久夜毘賣、一宿(ひとよ)にや妊(はら)める。是れ我が子に非ず。必ず國つ~の子ならん」

と詔りき。爾くして答えて、

「吾が妊(はら)める子、若し國つ~の子ならば、産むこと幸くあらず。若し天つ~の御子ならば幸くあらん」

と白して、即ち戸の無き八尋殿(やひろどの)を作り、其の殿の内に入り、土を以ちて塗り塞(ふさ)ぎて、方(まさ)に産まんとする時に火を以ちて其の殿に著(つ)けて産む也。 故、其の火の盛りに燒ゆる時に生める子の名は、火照(ほでり)の命【此は隼人(はやと)の阿多(あた)の君の祖(おや)】。 

次に生める子の名は、火須勢理(ほすせり)の命【須勢理の三字は音を以ちてす】。 

次に生める子の御名は、火遠理(ほおり)の命、またの名は天津日高日子穗穗手見(あまつひたかひこほほでみ)の命【三つ柱】。

(略)

是に海の~の女、豐玉毘賣の命、自ら參い出でて、

「妾(あれ)は已(すで)に妊身(はら)みぬ。今産む時に臨みて此(これ)を念(おも)うに、天つ~の御子を海原に生むべくあらず。故、參い出で到れる也」と白しき。爾くして即 ち其の海邊の波限(なぎさ)に鵜の羽以ちて葺草と爲て産殿を造りき。

是に其の産殿の未だ葺き合えぬに御腹の急(にわ)かなるに忍(た)えず。故、産殿(うぶや)に入り坐しき。爾くして將方(まさ)に産まんとする時に其の日子に白して、「凡そ他(あた)し國の人は産む時に臨みて本(もと)つ國の形を以ちて産生(う)むぞ。故、妾(あれ)今本の身を以ちて産まんと爲(す)。願う妾を見る勿(なか)れ」


と言いき。是に其の言(こと)を奇しと思いて竊かに其の方(まさ)に産まんとするを伺えば、八尋和邇(やひろわに)と化りて匍匐(はらば)い委蛇(もごよ)いき。

即ち見驚き畏みて遁(に)げ退(そ)きき。爾くして豐玉毘賣の命、其の伺い見る事を知りて心恥(はずか)しと以爲(おも)いて、乃ち其の御子を生み置きて、

「妾は恆に海の道を通りて往來(かよ)わんと欲(おも)う。然れども吾が形を伺い見ること、是れ甚(いと)(はずか)し」

と白して、即ち海坂(うなさか)を塞(ふさ)ぎて返り入りき。

是を以ちて其の産める御子を名づけて、天津日高日子波限建鵜葺草不合(あまつひたかひこなぎさたけうがやふきあえず)の命と謂う。然くして後は、其の伺いし情(こころ)を恨むと雖ども戀(こ)うる心に忍(た)えずして、其の御子を治養(ひた)す縁(よし)に因りて、其の弟(おと)の玉依毘賣(たまよりびめ)に附(つ)けて歌を獻(たてまつ)りき。 

(略)

故、日子穗穗手見(ひこほほでみ)の命は、高千穗の宮に坐(いま)すこと伍佰捌拾歳(いほとせあまりやそとせ)。御陵(みささぎ)は、即ち其の高千穗の山の西に在り。是の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合の命、其の姨(おば)の玉依毘賣の命を娶りて生みし御子の名は、五瀬(いつせ)の命。次に稻氷(いなひ)の命。次に御毛沼(みけぬ)の命。

次に若御毛沼(わかみけぬ)の命、またの名は豐御毛沼(とよみけぬ)の命、またの名は~倭伊波禮毘古(かむやまといわれびこ)の命【四つ柱】。故、御毛沼の命は浪の穗を跳(ふ)みて常世(とこよ)の國に渡り坐し、稻氷の命は妣(はは)の國と爲(し)て海原に入り坐しき。


古代、南九州には隼人と呼ばれる一族がいた。山幸彦に降伏した海幸彦は、溺れたときの所作を演じ、ふんどしをつけ顔や手足を赤く塗り、俳優の技をして弟を慰めたといい、そして、この子孫が隼人であるといわれる。海幸・山幸神話は、皇孫である山幸彦に隼人の祖である海幸彦が服従するという、隼人の朝廷への服従起源でもある。この話は、もともと南九州にいた隼人族の伝承であったといわれており、その伝えていた芸能隼人舞の由来話という形で、その首長の前で演じられていたのではないかといわれている。猟具の交換を発端とする海底国への訪問、失った釣針などに類似する話としては、喜界島の「竜神と釣縄」という話があり、そのほか、パラオ等、インドネシアからミクロネシアにかけて類似した話が語られている。


日向国が、現実の南九州の日向であったかどうかについても色々な議論がなされている。日向とは現在の宮崎県ばかりでなく、大隈と薩摩を含んだ地域であるとすると、それは隼人族の住む未開の地でもあるので、皇室の祖先はそうした未開の地は原郷にしないという説もあるし、日向とは単なる「太陽の照らす聖地」という意味にすぎないという説もある。そもそも邪馬台国問題と同じで、或いはそれ以上に情報量は少ないので、神話や民俗学に興味がある者なら、いかようにも解釈できることになる。

日向三代の神話が全て隼人族の伝承だったとすると、「コノハナサクヤヒメの神話」「海幸山幸の話」も同じくインドネシア、ミクロネシアに類似した神話が多くあるので、隼人族そのものも南方種族ではないかとする説もあり、かなり有力視されている。しかし、日向三代神話が隼人の伝承であったとすると、これを大和朝廷が皇室の神話系譜の中に取り入れたのは何故なのか、またいつごろなのかという問題が残る。

北九州の高天原から南九州へ移動した一団がほんとにいたのだと解釈すれば、宮崎に残る西都原古墳群やこの神話の持つ意味も理解できる。日向に三代も住めば、そこが地理的に日本列島の統治にとって都合のいい場所ではないと判明したかもしれないし、もっと実りの多い、稲作に都合の良い平野を抱えた地方が東にあるという情報も、派遣した先兵や偵察隊が報告していたかもしれない。実際に、後に神武天皇と呼ばれる人物が東を目指して旅だった可能性も高いが、私が邪馬台国東遷説にいまだ同意できないのは、もし、高天原=北九州、天照大神=卑弥呼だとすると、その後の邪馬台国はどうなったのかという疑問が未だに解けないからでもある。邪馬台国から日向へ降りてきたニニギは日向で勢力を発展させるが、では北九州に残った邪馬台国はどうなったのだろうか。依然として勢力を保っていたのなら、東遷するのは北九州の高天原でなくてはならない。しかるに、近畿を平定するのは日向に住んだイワレビコなのだ。


3.神武東遷


初代の天皇である神武天皇(カムヤマトイハレビコノミコト)は、日向国に天下りした邇邇芸命(ニニギのみこと)の曾孫にあたる。神武の時期から人代で、それ以前は神代とされる。神武の一族は、日向国高千穂宮に住んでいたが、兄のイツセノミコトと共に、東国に豊かな土地を求めて移住を始め、豊国宇佐足一騰宮(あしひとつあがりのみや:

大分県宇佐市)、竺紫岡田宮(福岡県遠賀川河口)、阿岐国多祁理宮(たけりのみや:広島県府中町)、吉備高嶋宮 (岡山市高島)、青雲の白肩津(東大阪市日下町)、紀国男水門(大阪府泉南郡樽井町)、熊野村(和歌山県新宮町)、吉野の川尻(奈良県吉野郡)を経て、宇田(奈良県宇陀郡)へ到着した。

岡田宮に一年、多祁理宮に七年、高島宮には八年も滞在したとされる。瀬戸内海を渡った神武は、難波の津で長髄彦に抵抗され、兄・五瀬命を失うが、和歌山の大台ヶ原から大和に入り、長髄彦を破って大和の平定に成功し、辛酉年春正月一日に、橿原宮で即位し、百廿七歳で、橿原宮にて死んだ。


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宇佐に行く前、二人は速吸門(はやすいのと:豊予海峡)で亀の甲羅に乗って釣をしている人間を見つける。お前は誰かと尋ねると国つ神だといい、海路をよく知っているというので案内人とし、サヲツネヒコ(棹根津日子)という名をあたえる。

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  一行は難波に上陸するが、登美(奈良市富雄町)の豪族、ナガスネビコ(那賀須泥昆古)が軍勢を率いて攻めてきた。戦闘はナガスネヒコが優勢で、イツセノミコトも敵の矢を受ける。イハレビコは

「日の神の御子である我々が、日に向かって攻め入ったのが良くなかった」

として、日を背にして敵を撃とうと紀州沖を南下し熊野から内陸をめざすが、兄のイツセノミコトは船上で絶命してしまった。今、イツセノミコトの御陵が紀伊の国の竈山にある。

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イハレビコは、和歌山から南に回って、熊野村に到着したが、大きな熊に出会い、やがて一行の兵士達は突然気を失い、次々に倒れ伏す。そのとき一振りの太刀をもった男が現れ、イハレビコに剣を献上した。この太刀で、イハレビコは熊野の山の荒ぶる神を退治した。この時剣を献上したタカクラジ(高倉下)が、イハレビコに剣を渡した訳を説明する。

夢をみて、夢にアマテラスとタカギノカミが現れ、二人は、タケミカヅチ神を呼び寄せて

『葦原中国はひどく騒然としており、我が御子たちは病み悩んでいるようだ。かの国はそなたが服従させた国なのだから、もう一度そなたがいって御子たちを助けてこい。』

と。タケミカヅチは、

『私が降らなくても、かの国を平定した太刀がありますから、このサジフツノカミ(佐士布都神)を降しましょう』

と、タカクラジが授かって届けに来たのだという。さらにタカクラジは、夢の中で、タカギノカミからの伝言を預かっていると言う。

「荒れすさぶ神がたくさんいるから、天つ神の御子をこれ以上奥に行かせてはならない。」

「今、天上からヤタガラス(八咫烏)を遣わそう。そして、そのヤカガラスが先導するので、その後についていくように。」

ヤタガラスの後を追いながら吉野川の川下にたどりついたカムヤマトイハレビコは、魚をとっている人物に出会った。 さらに進むと、井戸から尾の生えた人物に出会った。さらに、山に入ると尾の生えた人物が岩を押し分けで出てきた。それぞれ、天津神の御子が来るというので、出迎えにきた国つ神だった。そして、奈良県の宇陀という場所にたどりついた。タケミカヅチから授かったこの霊剣、サジフツノカミは別名、フツノミタマ(布都御魂)といい、現在石上神宮に鎮座している。


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これが神武東征神話の概略である。戦前は史実として流布され、戦後は一転して全面的に否定された。辛酉年は紀元前660年にあたり、1月1日は太陽暦の2月11日にあたるとされる。神武天皇は、なぜ辛酉年に即位したと考えられたのだろうか。中国人の革命思想は、天地を支配する天帝は、人民の中から仁の心に富んだ男を選び、愚民を支配する権力を委任する。

天子は道徳的な力に満ちた男であるが、その権力を譲られた子孫はそうとは限らない。人民を痛めつける天子は、もはや天子ではなく、新たに自分が天子だと自覚する男が、これを殺すことが正当化される。これを革命(革令)といい、このうち、辛酉年には新しい王朝が建てられるという。ただし、60年ごとの辛酉年ではなく、60年の21倍の1260年ごとの辛酉年である。600年代はじめ、推古天皇の摂政だった聖徳太子を責任者として、国史の編纂が行われた。西暦601年が辛酉年であり、ここから1260年さかのぼった紀元前660年が、神武天皇の即位の年と計算され、日本書紀にも引き継がれたのである。神武天皇は、紀元前660年の人物であり、この時期は縄文時代とされているから、とても実在の人物とはいえない。産能大教授の安本美典説では、歴代天皇の平均在位数の計算から、天皇の在位期間は、過去にさかのぼればさかのぼるほど短くなる。そして一代の天皇の平均在位年数は約10年とする。これは日本だけでなく、中国の王の在位年数の場合も、西洋の王の場合も同じ傾向を示しているのである。


ここから導き出される結論は、神武天皇以後、全ての天皇が実在すると考えても、神武天皇の活躍した時代は280年から290年くらいにしかならない。つまり大和朝廷の一番初めは、邪馬台国の時代に届かないことになる。つまり大和朝廷の始まりは、邪馬台国以後である、ということになるのである。

これは、邪馬台国=弥生時代、神武以後=古墳時代という私の史観と合致する。わたしはこの「神武東遷」に象徴される、九州からの勢力が東へ東へと進み大和朝廷を築き上げたと考える説に賛同する。それは中国の文献や我が国の考古学の成果とも、今の所は一番合致していると考えるからである。しかし神武天皇に比定される人物、或いは一団が、ほんとに日向から来たのか、それとも九州の他の地域から来たのかまでは、まだわからない。

だが明らかに、弥生時代から古墳時代に移り変わる我が国の考古学上の状況は、西から新しい文化文明が東へ移ってきたことを示しているし、奈良盆地の中に縄文人が古くから住み付き、純粋な日本人として培養されて、やがて稲作を取り入れ、農耕具や青銅器を自分たちで考えたとはとうてい思えない。それらは明らかに西の九州から来たのであり、厳密に言えばそれは北九州で、更にその源は朝鮮半島であり、中国大陸である。そしてそれらは、散発的な移動はともかく、神武東遷に象徴される、北九州の一団によって近畿地方にもたらされたものとする考え方が一番合理的である。


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古事記・日本書紀に書かれている天孫降臨や神武東遷伝承が、大和朝廷の役人達によって机上で述作されたものであるという考え方は、全くの想像である。記紀が編纂されてから今日まで、そういう事を書いてある古文献は1点も存在しない。それを、述作されたものであるとか、創作されたものだとする考えは、完璧に主観的判断に基づいて、歴史をねつ造しているのと同じである。

歴史学者・考古学者たちの第二次世界大戦における敗戦のショックと、戦前・戦中を通じて、強権に確執を醸せなかった自らの贖罪を求める気持ちはよく理解できる。同胞が、戦時中に近隣諸国に対して行った行為に対して、それらの国々に対する謝罪の念も持って良い。しかし、そういったイデオロギーと学問の世界における真理の追究とは全く別物であるということに、もうそろそろ気づいても良い頃だ。古事記・日本書紀という、我が国最古の歴史書に書かれ、また多くの伝承を持ち、長きにわたって多くの研究がなされてきたこれらの日本神話が、戦後50数年間にわたって、歴史家によって殆ど無視され、語られもしなかった事実は全く異常としかいいようがない。教科書にも載せず、読み物にも書かれない今の現状では、やがて日本人は、自分たちの祖先が語った多くの神話と、その中にもしかしたら潜んでいるかもしれない歴史の核を、まるで理解できない、世界でも希有な民族になってしまう。


私は古代史を学んで、日本国家の成立を探り、天皇家の起源を探り、ひいては自分が誰なのかを探ろうとしている。それには、掛ければ色や形が変わって見えてしまう、イデオロギーというサングラスだけは絶対に掛けたくないと思う。
http://inoues.net/yamahonpen10.html


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30. 中川隆[-13617] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:50:53: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20737] 報告
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古代史の鍵・丹後 籠神社
太陽信仰もつ海人集団の拠点

「元伊勢」、伊勢神宮の成立に関与?

 京都府の丹後(かつての丹波)地方は、天女伝説や浦島伝説で知られる。近年、古代海部(あまべ)氏の系図が公表されたり、考古学的にも注目すべき遺物が出るなど、漁労や航海を生業とした海人集団による独自の歴史性が明らかにされつつある。

 丹後半島の東側、日本三景の一つ「天の橋立」の付け根に、「元伊勢」といわれる籠 (この)神社が鎮座する。祭神はホアカリノミコト(火明命)で、丹波国造が祖神として祭った。

 籠神社の宮司家は海部直といい、宮司家が長く秘蔵してきた二つの系図、通称「海部氏系図」「勘注系図」は、現存する最古の系図として、昭和五十一年に国宝に指定された。

 これら系図によれば、海部直氏の始祖、ホアカリノミコトをオシホミミの第三子とする。

 オシホミミは『古事記』によれば、天照大神の子である。一方、『新撰姓氏録』(九世紀成立)によれば、ホアカリノミコトは愛知県の濃尾平野に勢力を築いた雄族・尾張氏の祖神である。尾張氏の配下にあった有力な海部集団が、ホアカリノミコトを自らの祖神としたものらしい。


浦島伝説にちなんで名前の付けられた丹後半島の亀島

 籠神社にはまた、二枚の中国製の銅鏡も伝えられてきた。それぞれ前漢時代、後漢時代のもので、系図中にも「息津鏡」(おきつかがみ)「辺津鏡」(へつかがみ)と記されている。昭和六十二年に初めて公表され、弥生時代に招来されて以来、二千年にわたって伝世されたということで、大きな反響をよんだ。息は沖、辺は岸辺のことで、航海の安全に呪力をもつ鏡として祭られたものだ。

 銅鏡といえば、平成六年には、竹野郡弥栄町の墳墓から、邪馬台国の卑弥呼の晩年に相当する「青龍三年」(紀元二三五年)の年号がある銅鏡が発見され、卑弥呼とのかかわりも取り沙汰された。

 弥生時代の近畿地方には、銅鏡文化はほとんどなく、丹後の特殊性がうかがわれる。太陽信仰をもっていた海人集団の幅広い活動を示すといえよう。

 ホアカリノミコトは太陽神で、各地に鎮座するアマテル(天照)神社の祭神である。神話学の松前健氏は、もともとあった「アマテル」という神が、その格があげられて皇祖神である「アマテラス」となったのだと説く(『日本神話の形成』)。

 当時の海人集団の習俗をパノラマ的に描いたらしい土器がある。鳥取県西伯郡淀江町から出土した壷(弥生時代中期後半)だ。神殿建築のような高床式の建物があり、その右側の船には、鳥の装束の人物が乗っており、船の上には太陽らしい渦巻き(同心円)紋がある。

 さらに、左側の木には、瓜のようなものが二つぶら下がっている。金関恕・天理大教授 によれば、銅鐸であるという。千田稔・国際日本文化研究センター教授は、このパノラマ図について銅鐸をともなった弥生時代の太陽信仰を描いたものとし、アマテル信仰の 源流とみている。


息津鏡=籠神社・海部宮司家所蔵

 しかしこれがアマテラス信仰の源流であるかについては、さらに検討の必要がある。ホアカリノミコトは、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)のように、ニギハヤヒと複合で称されることがしばしばで(丹後の天照玉命神社もその一つ)、ニギハヤヒは物部氏の祖神の名であるからだ。

 物部氏は銅鐸を奉祭した氏族とみられ、実際、丹後には銅鐸が多く出土する。天ノ橋立に囲まれた阿蘇海に流入する野田川右岸の加悦町から、銅鐸形土製品が発見され、籠神社の東の由良川の上流には、阿陀岡神社が鎮座し、付近から二個の銅鐸が出ている。

 郷土史家の金久与市氏によれば「銅鐸出土地には必ずといっていいほど古社がある。海洋民の集団が由良川をさかのぼり、上流地点に銅鐸を祭祀し、祠を建立、拠点としたのではないか」(『古代海部氏の系図』)という。

 丹後町から西に向かう網野町の函石浜遺跡からは、中国の新時代の王莽によって鋳造された「貨泉」が発見されている。中国とかかわる交流を物語るものだ。

 平成十年には、王墓とみなされる墳墓(弥生後期〜末期)が籠神社から約三キロ西南で見つかった。美しい透明の青色ガラス製の釧で話題を呼んだ。他に、貝輪系の銅釧(く しろ)(腕輪)十三点、鉄剣十四本などが出土したが、これらは九州系の文化遺物である。

 銅鐸氏族・物部氏には、天磐舟(あまのいわふね)による降臨神話があり、先の壷のパノラマ図をほうふつとさせる。物部氏は航海、交易によって栄えた氏族だったといえよう。


 さて、この地を「元伊勢」というのは、天照大神が大和から伊勢に遷座する途中、最初に立ち寄ったのが、この籠神社だったとする伝承が、伊勢神宮に伝わる「倭姫命世記」(やまとひめのみことせき)(七六六年の成立という)にあるからだ。また、伊勢神宮外宮の豊受大神ももと籠神社奥宮の祭神で、八世紀に、丹後から遷座したと伝えられる。

 このように、丹後は大陸・韓半島に近いがゆえに、物部氏や海部氏をはじめとする海人集団の幅広い活動の舞台となり、アマテラスの伊勢への遷宮ともかかわりをもったと思われる。まさに古代史を解くカギが潜む地といえる。

http://tamagaki.exblog.jp/2992078/


京都府北部、丹後半島の付け根にある天橋立は、日本三景の一つに数えられる観光の名所ですが、天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社はまた、古代史ファンにはよく知られた神社です。

 1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表され、関係者の大きな注目を集めました。現存する日本最古の系図として、また、従来にない古代史の新史料として、思いがけないものだったからです。翌年にはさっそく国宝の指定を受けたのも異例のスピードでした。

 この系図には、なんと邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。最近、卑弥呼の墓の最有力候補として注目されている奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳、その被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っているのです。

 系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。

 「日神」とは、すごい呼び方です。太陽神のような扱いを受けた女性ということでしょうか。なんとなく卑弥呼を思わせるといってもいいでしょう。
 それに、「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」とある記述に完全に一致します。宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」の「大市」です。

 どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、彼女が卑弥呼であるらしい。つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。

 この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。

 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。

 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。

 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。

 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。


息津鏡(下)と辺津鏡(上) (c)gakken

 ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。

 前漢鏡の方は、近畿地方では出土例がまったくない貴重なものですし、後漢鏡の方も、近畿地方では破片で出ることはあっても、完全な形で出土したことはなく、やはり貴重な鏡といえます。

 驚くべき鏡が、代々神社の神宝(かんだから)として伝えられていたわけです。
 では、なぜ卑弥呼の名が籠神社の系図のなかに残っているのでしょうか。それが謎です。


古代丹後の鉄とガラス


 籠神社のある丹後半島周辺は、不思議な伝説が多いところでもあります。

 『丹後国風土記逸文』には、このあたりの漁師の若者が竜宮城を訪れる話、つまり、有名な浦島太郎の伝説が残っています。ほかにも、羽衣を奪われた天女が天に帰れなくなるという羽衣伝説、さらに、天橋立はもともとイザナギ命が天から通ってくる梯子でしたが、神が地上で寝ている間に倒れて天橋立になった、という伝説もあります。いずれも、天上界や海の彼方にある別世界と交渉する内容をもっているのが特徴といえます。

 籠神社の名前の由来も、神代に彦火火出見命(ひこほほでみのみこと・彦火明命の別名)が籠船で龍宮に行ったとの伝説があり、そのために昔は籠宮(このみや)といったようです。

   


 丹後はこのように、どこか神話的な世界の残る地方でもあります。籠神社のある宮津市の「宮津」とは、大きな宮のそばにある港という意味です。むろん籠神社を指してのことです。天橋立はもともと籠神社の参道だったからです。

 なお、丹後という呼び名は比較的新しいもので、古代には、現在の京都府と兵庫県の中部北部合わせた全部を丹波と呼んでいました。ところが、684年(天武13年)に丹波国から但馬国(兵庫県北部)が分けられ、713年(和銅6年)、丹波国の北部5郡が分けられて丹後国となったという経緯があります。

 弥生時代には、この丹後地方は列島のなかでもかなり特別な地域だったようです。何が特別かというと、弥生時代からなんとガラスや鉄製品が作られていたのです。それを物語る考古学の発掘が、この10年ほどの間に相次いでいます。
 特徴的なものをいくつかピックアップしてみると…

 まず、丹後半島中央部の弥栄(やさか)町、奈具岡(なぐおか)遺跡では、紀元前1世紀頃ごろ(弥生時代中期後半)の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっています。水晶やガラスを使って勾玉(まがたま)や管玉(くがたま)などを生産していた工房です。そのための道具としてノミのような鉄製品が作られていたようです。
 この遺跡の場合、出土した鉄屑だけでも数キログラムになるといわれ、大和や河内など近畿地方の中心部と比べると、「鉄の量としては桁違いの多さ」だといわれます。ましてや、鉄製品そのものが残されていたら、どれほどの量だったのでしょうか。

 驚くべきことに、このような玉造りが丹後半島では紀元前2世紀ごろから始まっていました。玉造りの工房のある遺跡が、丹後半島だけで十数か所見つかっています。

 当然、この地域の遺跡から大量のガラス玉が出土するケースも多く、大宮町の三坂神社墳墓群や左坂墳墓群など、ガラス玉の総数は1万点にも及ぶということです。全国の弥生時代のガラス玉のほぼ10分の1が、丹後から出土しているといわれます。


もう一つの先進地域


 次は、墓です。平成13年5月、宮津市の隣、加悦町の日吉ヶ丘遺跡からやはり弥生時代中期後半の大きな墳丘墓があらわれました。紀元前1世紀ごろのものです。30メートル×20メートルほどの方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさでした。

  墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかりました。水銀朱は当時としては貴重なもので、魔よけの意味があるといわれます。それがふんだんに使われていました。しかも、大量の管玉。墓に接するように環濠集落があるようです。

 この墓は、他の地域と比べてみると、あの吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代です。墓の大きさも、吉野ヶ里よりわずかに小さいだけで、しかも、吉野ヶ里の墳丘墓には十数体が埋葬されていましたが、日吉ヶ丘遺跡の場合はただ一人のための墓です。当然、王の墓という性格が考えられ、「丹後初の王墓か」と新聞などでは話題になりました。

 全国的に見ても、この時代にはまだ九州以外では王はいなかったと考えられていますが、丹後では王といってもよい人物が登場してきたわけです。


丹後半島の古墳公園(加悦町)


倭国大乱の原因となる鉄

 丹後地方は、弥生時代の終わりごろになってくると、今度は鉄製の武器を大量に保有するようになります。
 平成10年9月、携帯電話の中継塔を立てる目的で、籠神社から数キロはなれた岩滝町の天橋立を見下ろす丘陵の中腹を調査したところ、驚くべき出土品が多数見つかりました。これは大風呂南遺跡と呼ばれる墳墓群ですが、その中心的な墓(1号墓)から11本の鉄剣と、美しい青色のガラスの腕輪が出土したのです。墓の年代は西暦200年前後。

 ほかにも、銅の腕輪(銅釧・どうくしろ)が13個、大量の鉄製品や管玉、朱など、弥生時代の墳墓の常識を超えるものでした。
 なかでもガラスの腕輪は、国内ではこれまでに3例しかないうえに(福岡県で2例、丹後で1例)、どれも原形をとどめていませんでしたが、ここでは完全な形で出土し、透明感のあるコバルトブルーの輝きを放っています。被葬者が左手につけていたもので、権威の象徴です。

 11本の鉄剣も、墓の副葬品としては異例の多さです。弥生時代の墓に副葬される鉄剣は通常1〜2本ですが、11本というのは被葬者がいかに大きな権力を持っていたかをよく物語っています。しかも、時代は西暦200年前後、まさに邪馬台国が誕生した直後です。

 この墓の被葬者は、奈良県・纏向遺跡の石塚や、岡山県・楯突墳丘墓に葬られた人物と同じ時代に生きていたことになります。

 この時代の丹後の墓からは、鉄剣が大量に出土します。特別な立場にあるような人の墓ではなく、家長クラスの墓からも当たり前のように鉄剣が出てくるのです。おそらく軍事集団のようなものが存在していたのではないか、と考えられています。そうなると当然、軍事集団を束ねるリーダーがいたはずです。大風呂南遺跡の墓の被葬者は、そのような人物だったのではないか、と考えられています。


ガラス釧(腕輪)と銅釧 丹後郷土資料館蔵

 このように倭国大乱期から邪馬台国時代にかけて、列島のなかでどこよりも鉄を保有していたのが丹後です。その多くが鉄剣や鉄鏃(てつぞく・矢の先端部)など、武器として出土しています。

 弥生時代はかつて平和な農村社会と考えられていましたが、案外、戦いが多かった時代だと今では考えられています。各地の戦いで武器の主力が鉄器になってくるのは、1世紀ごろからです。そのころから、丹後の墓からも鉄剣が出始める。ちょうど1世紀ごろの王墓と見られる三坂神社3号墓からは、大陸製の鉄刀やりっぱな弓矢、豪華な玉飾りなど、経済的な権力を持った王の姿があらわれてきます。

 その後、2世紀後半から3世紀前半にかけては、上に述べたような状況で鉄剣がポンポン出てくきます。この時期に丹後の勢力がもっていた鉄は、キャスティング・ボードになったのではないでしょうか。これほどの突出した武力が、あの倭国大乱を引き起こしたのではないか、とさえ思えるのです。

  そう考えると、丹後(古代丹波)の勢力は、女王卑弥呼の誕生にも重要な立場を取ったに違いありません。邪馬台国の女王に卑弥呼を共立していく主要なメンバーに、古代丹波が入っていたのはほぼ間違いないでしょう。しかも、海部氏の系図に残る「日女命」の名は、卑弥呼がじつは古代丹波出身だったのではないか、と思えてきます。

 先進の技術によって蓄えられた力が、数百年をかけてピークに達したとき、そういう時代に合わせるように、ひとりの飛びぬけて神秘的な能力をもった女性が丹波にあらわれたのではないでしょうか。もちろん、その女性こそが卑弥呼です。

http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/index.html

十種神宝


十種神宝(とくさのかんだから、じっしゅしんぽう)とは、物部氏の祖神である饒速日命が伝えたとされる十種の神宝である。

『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の記載によるもので、饒速日命が天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする。『先代旧事本紀』には「天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)」と書かれている。

分類すれば、鏡2種、剣1種、玉4種、比礼(女性が、首に掛けて、結ばずに、左右から同じ長さで前に垂らすスカーフ様のもの)3種となる。これを三種の神器に対応させて、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説もある。

十種神宝の内容は以下の通りである。

沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)


布瑠の言

布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。

『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。

「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。

饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている。


十種神宝の行方

石上神宮の祭神である布留御魂神は十種神宝のことであるとする説もある。石上神宮に伝わる鎮魂法では「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱える。いずれにしても、十種神宝は現存していない。

本物か不明であるが、大阪市平野区喜連6丁目にある楯原神社内の神寶十種之宮に、偶然、町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られている。石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返していないという。

江戸時代、山崎闇斎は、垂加神道においては神秘的な意義の有るものとして、さまざまな口伝的著述を残した。

籠神社には、息津鏡・辺津鏡という2面の鏡が伝世している。十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明で、籠神社も特に見解は出していない。

秋田県大仙市の唐松神社には古史古伝のひとつである『物部文書』とともに奥津鏡、辺津鏡、十握の剣、生玉、足玉とされる物が所蔵されているという。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D


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31. 中川隆[-13619] koaQ7Jey 2018年11月15日 12:57:40: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20740] 報告
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神武東征の物語
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/index.html
奈良県の神武天皇伝承地
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-15-3tousen2.html

古代史の復元 目次
http://www.geocities.jp/mb1527/mokuji.htm


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32. 中川隆[-13621] koaQ7Jey 2018年11月15日 13:00:53: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20743] 報告
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巫女(みこ/シャーマン)
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/

御託宣(ごたくせん)の神・事代主(ことしろぬし)の神に始まるシャーマニズムに於いて「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。

当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。

巫女舞に於ける「神懸り」とは、すなわち巫女に過激な舞踏をさせてドーパミンを発生させる事で、神道では恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態の呪詛行為の術で、仏法では脱魂(だっこん)と言い現代で言うエクスタシー状態(ハイ状態)の事である。

現代に於いても人々に踊り好き祭り好きが多いのも当たり前で、ディスコダンスでも盆踊りでも夜明かし踊ればベータ・エンドロフィンが脳内に作用して疲れ心地良いダンシング・ハイの興奮状態を招く。

その最も初期に行なわれ、永く陰陽修験に伝え続けられた呪詛行為の術が、すなわち巫女に過激な性交をさせてドーパミンを発生させ、脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させ、セックスハィの陶酔状態にする。

そうした事で、巫女がオーガズム・ハイの状態(ラリル状態)に成れば、その巫女の様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸(かみがか)り」と成る。

日本の独自文化と言えば、この国では古来から女神が多いのだが、実を言うとその資格について現代では考えられない条件があった。

それは性交の儀式を執り行う事である。

歴史を知らない者にして見れば、「何で神聖な神社や巫女が性交儀式と結び付くのか?」と疑問に想うかも知れない。

しかし歴史にはその時代時代で必要な事情があり、また、歴史には前代から受け継がれる連続性の記憶がある。

弥生時代から古墳時代までの間、日本列島は縄文原住民族と渡来した多くの他民族・他部族が混在する人種の坩堝(るつぼ)だった。

その日本列島に在って、部族間の争い事に対処するもっとも有効な呪術は、次代が混血する為の性交に拠る人種的和合の「誓約儀式(うけいぎしき)」だった。

つまり異部族間の性交が人種的和合の為の呪術だったからこそ、巫女に拠る神前性交儀式や神前娼婦などの文化が残った。

これは理屈に合っていて、後の江戸末期に「公武合体」のスローガンの下に皇女・和宮を十六歳で徳川十四代将軍・家茂に嫁がせている。

つまり「誓約(うけい)」の概念の基本が、何百年経ても血の混血で在った事が、証明されている。

大和合の国(日本列島)黎明期の女神は、神の言葉を天上から受け取り、御託宣(ごたくせん)として下界の民に伝えるのが役目、つまり巫女(シャーマン)だった。

そこに介在したのが、神事として奉納する性交の儀式である。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、巫女の神前性交行事が神殿で執り行われていたのだ。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々に部族集団を形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。

そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

語呂合わせみたいな話だが、祀(祭・奉)り事は政治(まつりごと)であり、政治(まつりごと)は性事(せいじ)と言う認識が在った。

そして誓約(うけい)の精神こそ民族和合と言う最大の政(祭り)事であり、巫術と称するシャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。

理解して欲しいのは、当時の物差しが現代と違い、子宝を得る事も実りの豊穣を得る事も、同じ命を産み出す神の恵みであり、その作業を神の御前(みまえ)で執り行い奉納してご利益を願い、同時に巫女を通して神の声(御託宣)を聞くのである。

勿論民人も、只、巫女に何か言われても易々とは信じない。

巫女が神懸(かみがか)りに成って初めてその御託宣(ごたくせん)が信用される。

この御託宣(ごたくせん)を得る為のアンテナが、巫女の女体そのもので、オーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を巫女が彷徨(さまよ)う事に拠って、天上神の声が聞えて来るのである。

それ故に神事として奉納する性交の儀式が真面目に要求され、思想的違和感は無かったのである。

これも、もう少し掘り下げると、初期黎明期の征服部族長(氏族の長)の神格化に辿り着く。

当初は専門の巫女が居た訳ではない。

征服地の統治を容易にするには、民人が信用する絶対的な逆らえない武力以外の力が必要で、それは天上からの神の声である。

氏族長の神格化を進めるにあたって、氏族長を神と成し、屋敷を神域化して神社とすると同時に、その后妃(ごうひ/妻)を、シャーマン役の女神に任じ御託宣(ごたくせん)の能力を持たせる。

つまり女神は、氏族長の后妃(ごうひ/妻)であり、「氏族長(神)の言葉」を、后妃(ごうひ/妻)に御託宣(ごたくせん)させる茶番劇的な「ペテン・カラクリから始まった」と考えるのが合理的である。

それが段々に様式化されて行き、氏族長の后妃(ごうひ/妻)から性交の儀式を執り行う専門の巫女(シャーマン)に替わる。

その女体のアンテナで御託宣(ごたくせん)を得るオーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を、巫女が彷徨(さまよ)う為の儀式が、性交呪詛(せいこうじゅそ)と言う「術(すべ)」と成って陰陽呪術に発展、後に本書で記述する「人身御供伝説」への流れが形成されて行くのである。

定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。

その白拍子は源義経の愛妾・静御前で有名で、白拍子の為す遊芸も元は「神事音楽の巫術から」とされている。

その背景に在ったのは、正に巫女のシャーマニズムと性交呪詛が「誓約(うけい)誓約神話(うけいしんわ)」の古代信仰文化として深く関わっていた事に他ならない。

実はこれらの誓約神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

そのが多部族・多民族夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。

元々神道のお祀り(祭り)の意味の内には、異民族(異部族)和合と五穀豊穣の豊年祈願などの呪詛目的を含んでいる。

いずれにしても、巫女は神事としてお祀り(祭り/性交呪詛)に拠る神懸り(かみがかり/神霊降臨)の依り代(よりしろ/憑り代)を役目として負っていた。

そこから派生して、巫女が官人を接待する風習が出来上がって遊女の原型が生まれて行ったのではないだろうか?

現代科学に於いてもこのジャンルは存在を認めていて、エクスタシー状態(ハイ状態)とは恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態で、宗教的儀礼などでは脱魂(だっこん)とも解説される。

その宗教的儀礼に於けるエクスタシー状態の際に体験される神秘的な心境では、「神迎え又は神懸かり」に相応しくしばしば「幻想・予言、仮死状態などの現象を伴う」とされている。


尚、アイヌ語では「オイナ」と発音する女性(おんな)は中文(中国語)では女(ニュィ/ニョイ)と発音し、アイヌ語のオイナカムイ(oyna kamuy)は「巫術の神」と解釈するズバリ女神である。

その「巫術の神」は、アイヌラックル (aynu rak kur)で、人間・臭い・神 (つまり半神半人)であるから、原始神道に於ける巫女の原型かも知れない。

◆【性文化史関係一覧リスト】
http://miracle-jiyoudan.com/seibunka_yougo.html

をご利用下さい。

この文章は、

小論・【遊女(女郎)の歴史】
http://miracle-jiyoudan.com/yuuzyonorekisi.html


の一部として記載されています。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/


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33. 中川隆[-13620] koaQ7Jey 2018年11月15日 13:04:43: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20743] 報告
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そもそも巫女とはどういう存在かというと、「神と交わる人」だ。
ここで、「交わる」の意味が問題となる。 遠まわしな表現でいえば「神と一つになる」だが、それでもわからなければ「神と寝床を共にする人」だ。 だから、「神」が男神であれば巫女は女性であり、女神であれば逆になる。 そして人は「神の子孫」となる。

もちろんこのような話は、王室の正当性を主張するために作られる神話だ。

吉野裕子さんによると、古代の日本は蛇信仰のメッカだったという。 そして、吉野論の極めつけは、「日本人は蛇の落とし子である」というものだ。日本人は古来より、蛇に対して畏敬の念をもつと同時に強烈な嫌悪の対象として見るという、アンビバレントな感情を抱いていた。

だから蛇に対する信仰は、多くの場合は隠された形で、隠喩として示されてきた。
だから、その謎を解明するのは困難を極める。蛇信仰が縄文時代からあったことは、縄文土器に多く見られる蛇の形からもわかる。

だが、吉野説では、その「縄文」自体が蛇とかかわりがあるという。


さて問題の蛇巫の話だ。

吉野裕子著の『蛇−日本の蛇信仰』では、「蛇巫の存在」として1章を当てている。

そこで吉野は、『常陸風土記』のヌカヒメ伝承と大和の「箸墓伝説」、つまり大物主神とヤマトトトヒモモソヒメ命の神話を比較して、この二つに見られる共通点を以下のように挙げている。


 蛇巫が夜ごと、神蛇と交わること。

 幼蛇を生むこと。

 幼蛇を小さい容器の中で飼うこと。


先に、巫女とは神と交わる者だと書いたが、それに習えば、蛇巫とは「蛇と交わる者」ということになる。吉野は他にもいくつかの例証をあげ、以下のように結論づける。

日本古代蛇信仰では、神蛇とはまず人間の巫女と交わることをその第一義としたから、「祭り」とは要するに巫女による蛇との交合であったとさえ思われる。

また、、太古の諏訪大社の主祭神であったと思われるミシャグチ神についても、諏訪大社の代々の最高神官であった大祝(おおはふり)はミシャグジ神の蛇巫だったとしている。

諏訪大社ではたしかに蛇あるいは龍神とのかかわりが密のようであり、そのことは現在の諏訪大社の主祭神である諏訪大明神つまり建御名方神においても受け継がれているようだ。

http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20041009/1202903595


何者かと深くつながるとき、たとえそれが神という存在であっても、結婚という形をとるのですね。 神に所有されるというのとは、やはりニュアンスは違うようです。

人の痛みを知るため、自らを不幸の中に置くというよりも、逆に神との結合・一体化のエクスタシーを通じて、神の意図をダイレクトに感じ、知るという面が強いようです。

実際、ここで紹介した根間さんが神とつながったときの表情は、非常にエロチックに見えました。 一般人である我々には理解しがたい境地ですが、案外その歓喜を知ってしまったら、かえって人間の男では到底満たされないのかもしれません。

おそらくは、離婚されたカミンチュの方々も、もともと人間の男性には満たされていなかったのではないか、とも思います。

一つ確実に言えることは、宗教的感性とは、本来決して反性的なものではなく、非常にエロチックなものであるということです。

とくに、インドの神々のエロチックさったらないですね。

http://kohocounsel.blog95.fc2.com/blog-entry-55.html


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34. 中川隆[-13625] koaQ7Jey 2018年11月15日 13:47:41: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20749] 報告
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鳥居の起源は長江の稲作文明

吉野ヶ里遺跡の紹介 門と鳥形
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

弥生時代の土器等に描かれた高床建物や重層建物の屋根の棟飾りや軒飾りには、鳥の姿が描かれていることがあります。また弥生時代の遺跡からは木製の鳥形が出土しており、当時の習俗的シンボルであったと考えられます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に広くみられることから、弥生時代に穀霊信仰が存在したと推察されます。

当公園においては佐賀県神埼市の「託田西分貝塚遺跡」の出土例に基づいて復元した鳥形を環壕入口の門や主要な建築物の軒飾りとして設置しています。


南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

▲南内郭入口(東側)門に設置した鳥形

穀霊信仰と鳥に対する崇拝

穀霊信仰は穀物の霊に対する信仰であり、精霊信仰の一種です。稲作が開始された弥生時代に、縄文時代以来の精霊信仰の上に穀霊に対する信仰、観念が独自に発達していったことは当然推定されます。

それとともに穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。

鳥への信仰は現在でも穀霊観念が明確な東南アジアの稲作民族に秘匿認められるものであり、ここから逆に弥生時代に穀霊信仰が存在したことを推定することができます。

鳥に対する独自の観念は『古語拾遺』や『古事記』、『日本書紀』などの古代文献でも認めることが出来、そうした観念は弥生時代に遡ると言えます。

天空に近い場所をより神聖な場所とする観念の表れでもあることが、東南アジア民族事例や古代中国の文献などから窺ことが出来、弥生時代の建物が描かれた絵画土器などに高床建物、重層建物が多く描かれ、吉野ヶ里遺跡の祭殿、物見櫓などが出現してくる背景には稲作とともにもたらされたアジアの稲作地帯にみられる穀霊を運ぶ生物として鳥を神聖視する観念が存在したことが窺われます。
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

鳥居から鳥が消えた日 2016/5/5
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336


神社と鳥居はワンセットになっている。


日本の神社になぜ鳥居が有るのかは、私なりの見解が有り、このHPにも書いた。
鳥居は神を封じ込める結界
http://artworks-inter.net/ebook/?p=162

日本の場合、畏敬すべき神の存在がメインなのだが、タブーとしての神に仕立て上げた存在も有る。

祟り神や怨霊神がそうである。

そのための鳥居や結界も存在する。

しかし、それは神道が形式化され整備されてからの事であり、それ以前の神道は各地さまざまな形で、その土地やその種族にあわせたものとして存在していた。

古代の神道は、古事記や日本書紀の記述に無い、日本の土着の神の存在の証明でも有る。

学問的呼び名で言うと原始神道というらしい。

これは、魔術的な不可思議なものではなく、先祖崇拝や祈祷や占いなどである。

鳥居の形にいろいろ有るのは、原始神道と現在までの神道の融合のせいも有るだろう。

また、神仏習合のせいもあるかと思われる。

しかし、人と神を分ける結界という考え方は同じようだ。

弥生時代の鳥居

先日吉野ヶ里にいった際、復元された弥生時代を見てそこに鳥居があるのを発見した。

壱岐の原の辻遺跡復元集落と同じような鳥居である。

門のような鳥居の上に、木で作った模型の鳥がとまっているのだ。

吉野ヶ里歴史公園

遺跡というのは、発見された時は穴ぼこだらけの土地である。

そこにあるものを、今までの研究に照らし合わせて復元する。

だから、復元模型は研究者たちの思い入れや、想像が入るのですべてを丸のみにして、信じるわけにはいかない。

だから、鳥居風の門の上に、木の模型の鳥があったのも、研究者たちの演出だと思っていた。

吉野ヶ里遺跡の職員の人に、何気なく木の模型の鳥の話しをした所、出土品として木の模型の鳥があったとの事でびっくりしたのだ。


鳥形木製品

恥ずかしながら、日本の鳥居のことばかりやっていたので、アジアに広がっている鳥のトーテムの事は、頭から消え去っていた。

穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

韓国のソッテという鳥のトーテム
http://satehate.exblog.jp/16749464/

ソッテ
鎌倉から、こんにちは
ソッテ(鳥竿)という木の鳥が居ます。
http://blog.kamakura-seoul2005.com/?eid=1062236

s-ソッテ(鳥竿)


壱岐の鳥居

(長崎県壱岐市芦辺町 原の辻遺跡) 撮影アートワークス

縄文や弥生といった時期には、当然神社と鳥居はないのだが、鳥居の起源として色んな説がある。

弥生時代に稲作が始まったと教科書では書いているが、稲作は縄文時代からおこなわれていた。

弥生時代に盛んになったのは、水田という手法が広まったという事である。


穀霊信仰と鳥に対する崇拝
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

穀霊を運ぶ生物としての鳥を崇拝する観念が生まれたことが大阪府池上遺跡や山口県宮ヶ久保遺跡など、各地の弥生時代の遺跡から鳥形木製品や鳥装のシャーマンとおぼしき人物の描かれた土器などにより推察できます。吉野ヶ里歴史公園
鳥竿
日本野鳥の会関係のサイトには、「この鳥竿は、アジアの稲作地特有の風習で、優良な稲作地を探すときの目安として朝、鳥が多く集まるところに設置されたのが始まりといわれています」とあります。

確かに、鳥と稲作は深い関係があり、信仰の対象である事は間違いない。

日本神道の結界としての鳥居とつながっていると思うが、この時点ではもっと範囲の広い信仰の対象だった。

朝鮮のソッテだけではなく、中国の少数民族にも鳥竿は見られる。

特に有名なのは中国のミャオ族である。


芦笙柱(トン・カー

(杉浦康平アジア図像の世界 11 http://www.kousakusha.co.jp/RCMD1/rcmd_11.html)

鳥越憲三郎 説

倭族の一部が日本列島に移住し、また他の倭族と分岐していったとした。分岐したと比定される民族には、イ族、ハニ族 (古代での和夷に比定。またタイではアカ族)、タイ族、ワ族、ミャオ族、カレン族、ラワ族などがある。これらの民族間では高床式建物、貫頭衣、注連縄などの風俗が共通するとしている。

それ以外にも多数の説があり面白い本も多い。

ミャオ族歌手 阿幼朶

朝鮮では鳥竿だが、他の地方ではトーテムポール風に変化しているものもある。

鳥への信仰は同じなのだが、インド仏寺のトラナ、中国の牌楼、朝鮮の紅箭門など門としてつながっていったと思われる。

インド仏寺のトラナインド仏寺のトラナ

s-朝鮮の紅箭門朝鮮の紅箭門

日本にも朝鮮半島のチャンスンと同じものが神社に残っている。


高麗神社(埼玉県日高市)
第1駐車場内の将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられた。
http://blue-angels.my.coocan.jp/jinja/koma/komajinja.htm

高麗神社

吉野ヶ里の門の上の鳥は、これらの流れを考えて作られたのだろう。

精霊門ハニ族(アカ族)の精霊門

http://ameblo.jp/hex-6/entry-12020355977.html
中国の雲南省に住むハニ族(アカ族)の精霊門を参考にしたとおもわれる。


特に印象的なものは神武天皇の絵画である。

もちろん書かれたのは江戸時代だとおもうが、弓の上に止まっている八咫烏(やたがらす)の絵は、鳥竿(ソッテ)を持っているといっても、誰も疑わないだろう。

神武天皇

日本には鳥竿やトーテムポールは直接伝わっていないが、鳥信仰は色んなものに変化していったのと推測される。

鳥信仰の門が、神社の鳥居と結びつくのはそれほど違和感がないと思える。

神社だけではなくお寺にも鳥居がある。これは神仏習合の影響である。

日本というのはつくづく不思議な国だと思われる。

日本以外の所から色んなものが伝わっているのだが、すべてを日本流に変化させているのだ。

ジャパンフィルターと呼んでも良い。

これは現代でも大いに作用している。

ここからが本題である。

鳥信仰の鳥居なのに、日本に定着するとその鳥の模型がなくなってしまっている。

吉野ヶ里歴史公園にあった、鳥の模型が乗っている門がなくなっているのだ。

そして、その代わりにセットになったものがある。

注連縄である。

これはどういうことなのだろうか。

稲作はどんどん広がっていて、九州から東北地方までも広がっている。

考えられる理由はただ一つしか無い。

鳥信仰を持っていない稲作の民の台頭である。

鳥の模型が無くなった代わりに登場したのが注連縄である。

現在鳥居に注連縄がはっているものも多い。

注連縄の原点は『蛇』
http://www.ne.jp/asahi/anesaki/ichihara/kyuukei/simenawa/simenawa.htm

鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市西新井町)鳥居に巻き付く蛇しめ縄(熊野神社・所沢市)

shimenawa_torii


蛇と注連縄

6−1 鳥居

http://www.741.cc/Bonhu/kami06.htm


星宮神社


くらら日記  栃木県下野市下古山 星宮神社

http://blog.livedoor.jp/clala_koubou/archives/2013-07-21.html

鳥から蛇に変っていったのだ。

鳥信仰は、その土地に住む原住民が長い間培ってきた信仰でもあり、稲作や穀物の生育と鳥との関係が信仰を生んだと思われる。

つまり、長い農耕の歴史が空や鳥を信仰の対象にしてきたのだ。

ところが、日本は1万5千年とも言われる長い縄文の時代があった。

農耕一筋ではなく、狩猟と農耕という独特のサイクルを持って、長期間平和に暮らしてきた。

農耕というと穏やかなイメージがあるが、水田というのは山を崩し土地を開墾して自然破壊を繰り返していくライフスタイルなのだ。

さらに、水田は新技術として日本中を駆け抜けていく。

稲作の鳥信仰は薄れていったのだ。

もちろん鳥という天空と地面をつなぐ神秘的な生き物に対する信仰は消えていないが、日本には古くから蛇信仰がある。

稲作の大敵でもあるネズミの天敵というのもその理由の一つだろう。

それ以外にも


蛇の形体が男根を思わせること
蝮などの強烈な生命力と、その毒で敵を一撃のもとに倒す強さ
脱皮により生まれ清まる再生力

有名な説に「蛇 (講談社学術文庫)吉野 裕子」がある。

吉野氏によれば、田んぼに立っているかかしは蛇のことだという。

蛇の力と神社がいつか寄り添って、日本中に広まっていったのだろう。

蛇の怖さは、縄文人たちはよく知っている。

そしてその生命力も計り知れない。

蛇信仰は鳥居とセットとなって広がっていった。

その事実からいえることは、稲作を伝えた人達の主導権を奪った人達が日本の主流になったという事である。

それが縄文人と言われる日本在住の民たちである。

縄文人は別に単一の種族ではない。

長い間混血を繰り返し、日本に定住していた民だ。

この民たちが動き出したのだ。

ジャパンフィルターが稼働したのである。

渡来倭族たちの新技術を吸収し、日本風にアレンジさせて進化させた。

水田に適した熱帯ジャポニカを品種改良して東北の寒冷地でも収穫が出来るように進化させたのである。

漢字が日本に入ってきたが、ジャパンフィルターを稼働させ、ひらがな、カタカナを生み出した。

仏教は日本の仏教へと変化させ、神仏習合を生み出し日本教を生み出した。

江戸から明治に移る時、無血革命という離れ業を実現し日本を外国から守った。

戦後、欧米の技術が入ってきたが、物まね、イエロー・モンキーといわれながら、世界一のトランジスタラジオを生み出した。

数え上げればキリがない。

古代新技術の到来は、現日本人にとって渡来人に土地を奪われていくことと同じだったのだ。

渡来人たちは、別に親切で日本にやってきたのではない。

征服者の顔を持っているのだ。

色んな理由で日本にやってきた渡来人のいいなりになるわけにはいかない。

だから、ジャパンフィルターが稼働した。

空白の4世紀というのがある。

倭国が歴史に記載されない時代だ。

邪馬台国の時代、まだ縄文の生活様式が残っている。

そのご大和朝廷が本格的に動き出す時は水田稲作は全国に広まっている。

空白の4世紀とは弥生時代とかさなっている。

日本はなぜ、世界の歴史に登場しなかったか。

それは、鎖国をしていたからである。

これは、江戸時代の鎖国と同じ状況だ。

外国の新しい風にさらされていた日本は、数ある選択肢の中から国を閉じることを選んだのだ。

世界の常識から見れば、とんでもない選択だったはずだ。

しかし、鎖国を実行して国力を充実させる道を選んだ。

日本の4世紀、邪馬台国から大和朝廷に脱皮して行くには、海外との交易をなるべくさけて、国内の体制を固める必要があったのだ。

これは、中国大陸などの情勢を察知して働いたジャパンフィルターだと確信する。

そしてこの時期、鳥の鳥居から蛇の鳥居となり、本格的な日本水田稲作の道が切り開かれたのである。

荒唐無稽といわれればそれまでの話しだが、多数の渡来人の説が幅をきかせる中

日本語という言語が変らなかった事実を説明できる説はこれしか無い。

チベット、中国、モンゴルなどの様々な人種と文化が日本にやってきて化学反応を起こし、ハイブリットな日本人が出来上がった。

日本人の故郷は何処かといわれれば、世界中だといえる。

それが気障なら、日本人の故郷はここ日本列島だというのが正解だ。
https://artworks-inter.net/ebook/?p=1336


タイ山岳民族は日本の弥生人と同系の民族


http://wee.kir.jp/thailand/tai_people.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/4525/introduction.html

三輪隆文集・「黄金の三角地帯から」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1850/essays.html

タイの山岳民族(三輪隆)
http://column.chaocnx.com/?eid=22870


タイのアカ族と日本との不思議な共通点


遠い昔にどこかで見たような懐かしい風景が広がっています。

アカ族はこの国の先住民族ではなく、リス族同様に中国やビルマからこの国に移住してきた民族です。この国に入植した歴史は新しく、まだ100年ほどしか経過していないそうです。この民族は他の民族同様に、中国の雲南省、ビルマ、ラオス、及びタイ北部にまたがって広く分布している。

現在、北部タイの山岳地帯には300余のアカ族の村があり、約5万人が暮らしている。焼畑農業によって主食の米を作っているのは他の山岳民族と同じです。

伝統的にすべてものに精霊が宿り、精霊が人を幸せにも不幸にもするとしたアニミズムの信仰を続けているが、近年、キリスト教の布教活動によって改宗した者も多い。


パトォー・ピー(精霊の門)

山頂に築かれたアカ族の村。


アカ族の村の入口には、パトォー・ピー(精霊の門)と呼ばれる日本各地の神社にある鳥居にそっくりの門が建っています。この門は必ず村の入口2ヵ所以上に築かれ、悪霊が村に侵入しないように結界の役目を果たしています。峻険なドイ・メーサロンの山中は山岳民族の宝庫なのですが、もっとも多くこの地に居住しているのはアカ族です。

アカ族の中では、もっとも早く北部タイの地に移住してきたのは、ウロ・アカ族だと言われている。この国では、ウロ・アカ族とロミ・アカ族がもっとも多く、他にはパミ・アカ族という支族がわずかにビルマとの国境周辺に集落を築いて住みついている。

右側の女性は、杵でもち米をついてもちを作っていました。


アカ族は、精霊と共に生きる民族と言われるぐらい、精霊との関わりの強い民族である。

アニミズムの信仰を続けているアカ族の村の入口には、上の写真のように必ずパトォー・ピー(精霊の門)が設置されています。いまでは迷信扱いされ、村人からも忘れ去られようとしている存在のこの門ですが、昔は村を訪れたすべての人がこの門を潜って村に入らなければいけないとされていた。

その人について来た悪霊が村に侵入して悪さをするのを防ぐためである。

アカ族の伝統的な宗教の根幹とも言えるパトォー・ピーには、木製の鳥が数羽止まっていたり、支柱に幾何学模様が刻まれていたり、竹で作った風車のようなものが取り付けられたりしています。

そして門の脇には、悪霊に対する強力な武器として、鉈や弓矢が置かれていることもあります。


アカ族の村のモー・ピー(祈祷師)。

モー・ピーは山岳のどの村にもいて、さまざまな行事を執り行なったり、病人を治癒したりします。

病人が重い病気の時には、よりパワーの強い祈祷師を他の村から呼び寄せたりするのですが、基本的にその村のモー・ピーが祈祷によって村人の治療にあたります。

病人のいる家の床下で祈祷を行なうのが、より効果的だと言われています。

この時には、犬とアヒルが生贄とされていました。

器の中には、精霊の大好きな酒が満たされています。


アカ族は自由恋愛の民族と言われていて、どの村にも若い男女が集まって愛を交わす場所というものがあるそうです。

アカ族はリス族のように社交的ではなく、どちらかと言えば閉鎖的な民族だが、一度仲間と認めるとどんなことがあっても相手を裏切らない、実に律儀な民族です。
http://maesai.main.jp/page068.html

アカ族はタイ、ラオス、ミャンマー、中国雲南省にかけて住む少数民族です。

タイへは20世紀初め頃から、雲南省より南下し、現在海抜800m以上の山岳地帯に住んでいます。焼畑を中心とした農耕生活を営み、質素な暮らしをしています。

信仰はアニミズムであらゆる物や自然現象に霊が宿ると考えます。自然崇拝に加えて祖霊崇拝を重要視しており、驚く事に、系譜をたどり初祖にいたるまで60以上もの先祖の名前を暗唱できます。

アカ族の社会が父系制で、名付け方法が「父子連結名」のため、これを可能にしています。

「父子連結名」とは子供に父親の名前の一部を付けることです。

「我が父、家康。家康の父、秀吉。秀吉の父、信長。信長の父・・・」と続けるととても覚えきれませんが、

「我が父、家康。家康の父、吉家。吉家の父、秀吉。秀吉の父、長秀。長秀の父、信長・・・」

となれば多少覚えやすくなります。

名前と同じようにしてアカ族は自分の祖先がどこからやってきて、どこに住んでいたかを暗記しており、彼らの移住経路をたどることができます。

特別な儀式や葬式などでこれらは朗唱されます。またアカ族のある2人がお互いの関係を知りたいと思ったら、彼らは自分の系譜を唱えます。祖父の代から始め、曾祖父、曾々祖父・・・と繰り返し、お互いの共通の先祖が現れるまで続けられます。

アカ族は文字を持たない民族ですが、文字の代わりに語り継ぐことによって民族の歴史、伝説を記憶に保存しているのです。


アカ族の風習には日本と不思議な共通点があります。

アカ族では、稲の種まきの始まる毎年4月に、村の出入り口に木造の「門」を作ります。この「門」は日本人なら誰でも知っている見慣れた「門」です。垂直に立てられた2本の木。その上に水平に乗せた木は垂直の2本の木の間隔よりもやや長く、両端が少し反っています。これらの門には縄が張られています。

そう、神社で必ず見かける「鳥居」と「しめ縄」にそっくりなのです。この「門」には、木製の鳥が数羽載せられています。日本の「鳥居」は「鳥の居る場所」と書きます。現在の日本の鳥居には鳥はみかけませんが、「鳥居」の文字で分かるように、そのルーツには鳥が関係していることがわかります。

大阪和泉市の弥生時代の遺構から、アカ族の村の門に置く鳥とまったく同じ形の木彫りの鳥が見つかっています。古代日本の鳥居には恐らく、鳥が据えられていたのでしょう。アカ族のこの鳥居に似た「門」は神聖なもので、村人以外の人間は触れてはなりません。村人たちは門が完成すると儀礼を執り行ない、その後この門をくぐり、村の中に入ります。

天の神が鳥に乗って降りてきて、邪霊や悪鬼を祓い、村人たちを守ってくれると信じられています。

なぜ幾千キロも離れた日本とアカ族に共通点があるのか?
誰しも疑問に思うはずです。

この謎を調べて行くと興味深い事実と歴史が浮かび上がってきます。
それは日本人のルーツにもつながっていきます。
http://www.cromagnon.net/blog/2004/07/post_85.php


倭族と鳥居
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=191832


神社にある鳥居の起源って?これは昔から不思議に思っていたのだけれど、どうも東南アジアから東アジアに広がる“倭族”に共通した信仰・風習を起源としているようです。


「鳥居論---ニッポン人の鳥信仰とその出自」

鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、それから朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括る。

その氏によって、雲南省やそこに隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲むタイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」が見出されている。それは左右二本の柱の上に笠木(横に渡す木)を載せたものだ。ただし、これは「社(やしろ)の門」ではなく「村の門」(「ロコーン」と言う)だ。

「鳥居」の起源は、共同体(村)へ侵入する悪霊を防ぐ結界門だったのである
(「締め縄」とはそういう意味だ)。

 そして、果たしてその門の笠木には木製の鳥が止まっていた。

実は、吉野ヶ里遺跡を始め、わが国の弥生時代の遺跡からは木製の鳥が頻出している。だが「鳥居」は残っておらず、どこにどう止まっていたのかは分からない。

「村の門」には左右の自然木に「締め縄」が渡されただけのものもある。それらにはしばしば「鬼の目」がぶら下がっている。鬼の目とは竹で編まれた悪霊を追い払う呪具(「籠目」もその一つ)で、現代の日本の締め縄にも吊されている。(中略)


再び中国大陸に戻ろう。

南部に住む苗(ミャオ)族の村の中心には芦笙(ろしょう)柱というものが立ててある。苗族の神樹・楓香樹で出来ている。

てっぺんに木製の鳥が止まるのだが、その柱には竜が巻き付いている。しかも柱の上部には牛の角が左右ににょきと突き出している。

ここに正月(苗年)祭りのときには、一対の神聖な銅鼓(どうこ)が下がられていたはずだ(というのも今ではもうほとんどの銅鼓が失われている)。

 実は朝鮮のソッテでも一本柱の場合、鳥杆に竜に見立てた綱が巻かれる。

芦笙柱、そしてソッテとはもう明らかだろう。神話的世界の中心にそびえる「世界樹」である。文字通り、木である場合も、山である場合もある。そして、それは聖林となり、社となった。

天に向かいそびえるもの、すなわち、神を呼ぶもの、依り代が世界樹の本質である(注)。

そして、鳥は神を運ぶ神使であり、依り代でもある。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=191832

112 :出土地不明:2009/06/18(木) 23:22:16 ID:H5jIqf+0

中国少数民族には、太陽は鳥が引っ張ってくると言ういい伝えがある。

だから、太陽を引っ張ってもらう鳥に止まってもらうために鳥居がある。
鳥が太陽を引っぱってくれないと朝があけない。

実際に、鳥の模型を止まらせた鳥居もある。
少数民族の鳥居には、鳥の模型を止まらせたものもある。


113 :出土地不明:2009/06/19(金) 01:43:48 ID:9/5gRbpN
太陽の船には鳥がとまってるよ

タイの山岳少数部族「アカ族」について


 「アカ族」はタイ北部の山岳地帯に暮らす少数民族で、日本と同じ稲作文化、精霊信仰を持ち草木染めなどカラフルな色の民族衣装を着て生活しています。

 顔などは日本人そっくりで、村の入口には鳥居を思わせる門があり、お歯黒の習慣を持っているなど日本と共通のルーツを思わせます。

一方で、婚姻制度は父系制で、代々父親の名の一部をとって子供に命名していく「父子連名法」により、各自が50代以上にわたる祖先の系譜を暗記しているなど、母系制度が色濃く残っていた日本の農村とは異なる文化も見られます。 


■アカ族の村 

 人口約50,000人。メーサイを中心としたチェンラーイ県にほぼ集中して約120の村がある。標高1,000m以上の高地の山頂近くの斜面にへばりつくようにして集落を形成する。高床式の家に住み、男女の部屋が別々なのが特徴。

 女性の民族衣装は、銀貨や銀細工、ビーズ等をあしらったカブトの様な重い帽子を被り、黒いミニスカートに脚絆という出で立ちで、帽子は作業中もおろか就寝時もこのままだ。帽子を脱ぐと悪霊が頭から入ってしまうそうだ。

アカ族の女性は温和で素朴、優しくてサービス精神に富み、働き者で知られる。
   
 アカ族は最も奇妙な習慣をもつ山の民で、あらゆる物に精霊が宿ると信じている典型的なアミニズムである。村の霊、山の霊、光や風にも霊が宿るという。水の霊を恐れるために水浴をも嫌う。
   
 村の入口には、日本の鳥居と同様の門が築かれ、木製の男根と女性器の偶像が村の神様として祀られている。これは悪霊や疫病から村人を守り、子孫の繁栄や穀物の豊作を祈願するものである。

奇祭として知られる村の大ブランコ乗りの儀礼は、豊作を祈って稲穂が風に揺れるブランコにイメージさせる 「親感呪術」 という説と、身体を振ることで体内に住む悪霊を振り払う説と、昔アカ族の村に女の子が生まれなかった頃、森の中でブランコに乗った妖精を見つけて村に連れてきたことをお祝いするという説があり、祈祷とお清めの場でブタを殺して4日間儀礼を行う。
   
 アカ族はいわゆるフリーセックスで、自由恋愛の民族で、どの村にも男が娘を抱く広場、ハントする場所がある。若い男女は毎日ここに集まり、黄昏の刻から親交を深め、目出度く成立したカップルは闇に包まれた森の茂みの中に消えて行く。

ただし、双生児が生まれた場合は悲惨で、その赤ん坊は不吉なものとして殺さねばならない。生んだカップルも村を追い出され、出産した家は焼き払われる。


■アカ族の家族 

 アカ族は普通、男性で十七歳から二十歳、女性は十四歳から十七歳ぐらいまでの間に結婚する。集落の中には若者が集まる広場があり、竹や木で作ったベンチがしつらえられ、夜になると若い男女が集まってきて自由に語り合う。

特に農閑期や祭礼時には、夜更けまで騒いだり、愛を語り合ったりして、それが結婚相手をみつける絶好の機会となる。アカ族の恋愛は比較的自由で、結婚前に複数の異性と婚前交渉を重ねることもまれではなく、恋を語る少女たちも実にオープンで、屈託がない。結婚に際しても、特に親の同意を必要とせず、本人同士の合意によって決定される。


  父系制のアカ族とって、男子が生まれることは必要不可欠である。
生まれてきた子供が女児ばかりの場合、家系がとだえることになり、恥ずべきこととされる。私の知り合いのアカ族のおじさんは六人の子供がいるが、みな女の子ばかりなので、世間の視線は冷たく、内心肩身の狭い思いをしている。アカ族では、男児に恵まれない場合、妻に原因があるとされ、亭主は第二夫人を娶る権利があるとされる。

そうでなくてもアカ族では、財力のある男性は第一夫人の同意が得られた場合に限り、複数の妻をもつことができる。しかし、アカ族の社会でも、第一夫人以下のヒエラルキーは厳然としてあり、夫の愛情の質量とは無関係に、母屋に居住を許されるのは第一夫人だけである。第二夫人以下は仮小屋などを建てて別居することになる。

第一夫人のみが正式な妻として社会的に認知され、その妻の同意がない限り、離婚も容易ではない。第一夫人の権利と威厳はこうして保たれる。

結婚前の恋愛は自由だが、家庭をもち、一人前の成人として認められるようになれば、共同体の社会的秩序と体面を維持しなければならないのである。これを犯したものは、それなりの制裁が待っている。


 精霊信仰、おおらかな性意識という農耕民族的な暮らしぶりと、父系制という遊牧民族的な風習が融合したアカ族の文化は彼らの出自にその秘密がありそうです。
 
 アカ族がタイにやってきたのはそれほど昔のことではなく、20世紀初めころとされています。中国雲南省から、ビルマ、シャン州を経由して、タイ北方の山岳部へやって来たらしい。彼らの起源は中国で羌(チャン族)と呼ばれた遊牧民族というのが有力です。

長く漢族、チベット族という二大部族の支配下にあり、一時期「西夏国」という国を建てたりしましたが1227年に滅亡、二大民族に同化していったようです。その後一部の集団は同化を逃れ、南下していった末裔がアカ族なのではないでしょうか。

当初は遊牧部族的な風習を持っていた彼らが、次第に農耕へと生活手段を変化させてゆく中で、精霊信仰を獲得していったが、父系制だけは残存させたという推察ができます。

 父系制が残った理由として、(これは私の想像ですが)南下逃亡して来たチャン族の生き残りは男ばかりの集団で、周辺部族からの略奪婚によって集団を維持してきた時期があったからではないでしょうか。

http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/05/000593.html


『稲と鳥と太陽の道』
http://www.amazon.co.jp/%E7%A8%B2%E3%81%A8%E9%B3%A5%E3%81%A8%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E9%81%93%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%82%B9%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86-%E8%90%A9%E5%8E%9F-%E7%A7%80%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4469231274


 日本の神社には鳥居が立っている。なぜ鳥居というのか。組んだ木のてっぺんに鳥が居るからだ。この鳥は他界から鳥の姿をした祖霊が幸福や豊饒をもたらすためにやってきたシンボルである。日本神話では「天の鳥船」といって、そうした祖霊や幸福や豊饒を天空で運ぶ船さえ想定されていた。

 一方、竪穴式住居を脱した古代の家々は、それでも吉野ケ里遺跡や三内円山遺跡に見るごとく掘っ建て柱に屋根をかぶせたようなもので、つねに柱が目立っている。そうした家々のある集落では、その入口に1本あるいは2本の柱をゲート状に立てて、その上に木彫りの鳥を止まらせる風習をもっていた。いや、最初から鳥を置いたのではなくて、そんな高い柱や組み柱にはたいていどこかから鳥がやってきて止まった。その鳥の来し方行く末は、古代集落にとっては祖先や未来の国である。そこで木に鳥を彫って、それを柱のてっぺんにつけた。

 このような柱と鳥の関係を総称して「鳥竿」(とりざお)とよぶとして、この鳥竿をつかった祭は日本にも韓国にもいっぱいある。韓国ではソッテとかチントベキといって、やはり鳥を止まらせている。ソッテは蘇塗とも綴るのだが、そのテはシンテ(神竿)やナッカリテ(禾竿)のテのことをさした。その鳥竿のルーツをさらに追っていくと、中国に行きつく。萩原さんはさらに追いかけて、それがミャオ族の習俗に出所していたことをつきとめた。ここまでが第1段の前段になる。

 ところで、関西ではオコナイ、関東ではオビシャとよばれる行事が広まっている。

 オコナイとは祈年行事のことで、神社でやるときはミヤオコナイ、寺院でやるときはテラオコナイといった。リーダーとなるのはその年の頭屋(とうや)で、鏡餅づくりをするか、茅の輪を編んでみんなでこれをくぐるか、丸い的をつくってこれに矢を射るかした。関東のオビシャは御奉射のことで、三本足の烏や三つ目の兎を描いた的を弓で射ることが多い。これでわかるように、関西のオコナイ・関東のオビシャのどちらにも弓神事なるものが絡んでいる。

 これらに共通するのは、鏡餅にしても茅の輪にしても丸い的にしても円形の標的があることで、そこに矢を射ることやそこに烏や兎が描かれることが加わっている。いったいこれらは何を示しているのか。オコナイやオビシャより古いかたちを見る必要がある。たとえば神楽だ。

 日本の神楽はおおむね天地創成神話を背景としている。舞庭(まいにわ)あるいは神庭(こうにわ)を一つの異界として創出するのが演目になる。このとき野外なら柱や竿から、室内なら天井から綱や紐や糸を垂らして、そこに三本足の烏を描いた日輪と三つ目の兎を描いた月輪を吊るした。のちにはそれが左右の幡(旗)になった。

 この舞庭・神庭で新しくは「岩戸」「五行」が、古くは「将軍」という神楽曲が舞われた。鹿児島県薩摩の大宮神社の「将軍」を例にすると、将軍は弓に矢をつがえて五方を射る所作をする。なぜ、こんなことをするかといえば、この所作には物語がある。太古、太陽が7つ、月が7つあったのだが、スイという鬼が太陽を6つ、月を6つ呑みこんだ。さらにもう1つ呑みこんだらこの国は真っ暗になるので、選ばれた将軍が五方に弓矢を射て鬼を退治して、その片方の目を日輪に、もう片方の目を月輪とあらわして、未来永劫の万象を祈願したというのだ。

 これはイザナギの左の目からアマテラスが、右の目からツクヨミが生まれたことと対応する。が、それとともにこの物語は、中国の天地創成神話にある弓の名人のゲイが9つの太陽を射落とした話や、太陽に住んでいた烏を9羽射落とした話に似ている。済州島にも太陽を落とした神話がある。朱蒙(ジゥモング)という弓の名人もいる。

 つまりここにはいわゆる招日神話・射日神話があったのだ。そこで、その分布を調べてみると、アムール川流域からインドネシアまで広まっている。ミャオ族にもまったく同じ伝説がある。

 以上のことから類推できるのは、鳥と太陽の話はどこかでつながっているということである。そこに弓矢神事が出入りしていた。これが第2段の前提になる。そこで、これらの話のすべてをもっているミャオ族のことを知っておく必要があるということになる。


三本足の烏を描いた的(沼南町高柳)


 ミャオ族は中国江南に居住する民族で、中国では古くから三苗とよばれた。3つの言語集団がいた。その後はタイ北部にまで広がった。移動した連中はまとめて「百越」とよばれた集団である。

 民族上は少数山岳民族グループに分類されているが、いまでも150万人か200万人くらいがいる。しかし古代中世のミャオ族は文字をもっていなかった。移動の記録や歴史の記録は古歌や伝説や習俗にしか残っていない。

 そのミャオ族では、新年になるとジーユイニャオという鳳凰に似た木彫の鳥をとまらせる柱あるいは竿を立てる。芦笙柱(ろしょうばしら=トン・カー)という。楓香樹であることが多い。その上のほうに牛の角のような横木をつけた(写真を見るとすぐわかるが、鳥居の原形に近い)。新年、その芦笙柱を左まわりで踊る。

 なぜそのようになったかという伝説が「跋山渉水」という古歌にあって、カササギあるいはツバメの先導でこの地にやってきたことをあらわしているのだという。この到着地はのちのちまで神聖な場所になり、カー・ニンとよばれる。カーは芦笙のこと、ニンは場所である。村の“へそ”にあたる。

 この神聖な場所は東西軸を重視する。そもそも中国では純潔チャイニーズの漢民族は天空の中心の北極星(太極)を信仰して、そのため南北軸を重視する。風水も、天子や宮殿が北を背に南面することを基本とする。一方、江南のノン・チャイニーズの少数民族は繁茂する植物の象徴である太陽を信仰して、太陽の昇降する東西軸を重視する。

 これでわかるように、ノン・チャイニーズのミャオ族の村の“へそ”に立つ芦笙柱は、太陽が依り坐す柱なのである。太陽のトーテム・ポールなのだ。

 太陽は季節や時間とともにコースを動くので、その季節や時間を感じることが大切になる。そこで暦のようなものが生まれるのだが、文字をもたないミャオ族は、この季節と時間の“しるし”を鳥の去来で学習していった。また、それを教える者を鳥官といった。

 さらに、このような太陽信仰を支える鳥の存在と去来を忘れないように、芦笙柱を寿ぐ数々の祭では、男はニワトリの羽根や茅萱(ちがや)の輪を差し、女は鳥の羽根の衣裳で身を飾った。これが鳥装である。いいかえれば、村のシャーマンたちは鳥装によって鳥霊になり、太陽の行方と合体するわけである。たちまち日本の鷺舞や鶴の舞といった各地の祭りがおもいあわされよう。

 ここまでが第3段で、話の前提があらかた出揃ってきた。太陽と鳥と弓はひとつのものなのだ。では、これらの前提の話がどうして日本のコメ文化と結びつくかということである。ここからが本題になる。その前にちょっとおさらいをしておく。

 コメはムギにくらべて一本当たりの収穫量が格段に多い作物である。ヨーロッパの麦作の播種量が5倍〜6倍であるのに対して、日本の米作はざっと30倍〜40倍になる。何千年でも連作もできる。

 コメは稲からとれる。稲は籾に包まれていて、その籾殻をとったものが玄米、それを精米すると白米になる。ようするに稲の種実がコメなのである。その稲種を学名ではオリザ・サチバという。もともとは野生の稲種オリザ・ペレニス一種が起源だとされている。それがいろいろ分かれていった。

 その稲種には大きく分けてジャポニカ種とインディカ種がある。アフリカ種も現在まで伝わっているが、ごく少量だ。

 中国南部を原産地とするジャポニカは短粒でやや粘り気があり、インドを原産地とするインディカは長粒でぱさぱさしている。今日ではDNA分析によって、二つはまったく異なる遺伝子をもっていて、それぞれ独自の祖先型があることがわかっている。

 日本人のコメ文化はほぼ100パーセントがジャポニカで成り立っている。タイ米やカリフォルニア米は炒めたチャーハンやピラフにするならともかく、それらはとうてい“ごはん”にはならない。以前はこれを「外米」(がいまい)といった。


日本へ稲が伝わったころのジャポニカとインディカの出土地
(『九州歴史大学講座』第2期No.3より)

 日本に到来した稲には最近流行の黒米・赤米で知られるように、ジャポニカにも熱帯ジャポニカや温帯ジャポニカなどいくつもの種類があった。インディカも入ってきた。何がいつ入ってきたかはまだ正確に確定できないのだが、だいたい縄文後期から弥生前期にかけての時期、2500年くらい前には稲が渡来していた。

 なかで熱帯ジャポニカはいわゆるモチ米に近いもので、中粒で粘り気が強い。そのためモチ性の弱い普通のコメをウルチ米とよぶようになった。ただし、このモチ米のモチは漢字で書くと「餅」ではなくて、本来は「糯」と書く。日本ではこれをモチと読むが、もともとはダである。ちなみに中国では、いまでも餅(ピン)といえば小麦粉食品のことをいう。だから月餅などという菓子もある。

 ともかくも総じていえば、日本はウルチ米とモチ米を含むジャポニカを何世代にもわたって品種改良して、日本の食文化の中心にすえてきたということだ。稲作にあたってはウルチ米でもモチ米でも、ともに陸稲と水稲があるのだが、日本はもっぱら水稲によって水田で育てた。このときいったん稲苗をつくって、それを田植えで移植するという独特の方法をとった。おそらく紀元前5世紀から3世紀にはこの方法が確立しはじめた。

 この「苗」と「田植え」が日本の社会や文化に大きな影響を与えたのである。これは、湿度の高い日本では直播きの陸稲では稲とともにすぐに雑草が繁茂して、どうにもならない。そこでいったん苗をつくり、それを移植する。そうすればすでに一尺ほどの貯金があるのだから、稲はなんとか雑草と対抗できる。つまり「株立ち」をしておくことが日本の稲作の基本であって、それが春に種蒔きをし、5〜6月に田植えをし、秋に収穫するという、日本の稲作生活の大きなリズムと特色をつくることになったわけである。

 この稲作とほぼそっくりの原型をもっていたのが、実はミャオ族だったのである。


ミャオ族は稲刈りした稲を高倉に収める。梯子は丸太を刻んだもので日本の弥生時代のものに酷似している。

 ミャオ族にはイネ文化もモチ文化もトウモロコシ文化も雑穀文化もある。しかし、そのうちのいくつかは日本の社会文化によく似たものをもっている。稲を保存する高倉、高床式の住居、チガヤを稲に見立てる田植え行事、正月のモチ月、羽根つき、竹馬、おこわ、チマキ(粽)、なれズシ、糯稲の麹でつくる酒、鯉や鮒の水田飼育、鵜飼いなどである。

 そのほか、正月料理を男主人がつくり、最初の3日間は女性は家事をしない風習、その料理を家の者たちが10日ほど食べつづけること、新年の辰の日(元旦)に2個の丸餅を台状の脚の低い椅子にのせて大地に酒をそそぐ儀礼なども、どこか日本の正月に通じるものがある。

 萩原さんはこうしたミャオ族の儀礼や生活をつぶさに観察して、しだいに中国原産のジャポニカを日本に運んだのはミャオ族ではないかと考えるようになった。おそらく中国江南地方の稲作の技能をもったミャオ族の一部が、なんらかの事情で長江から山東半島と朝鮮半島をへて日本に来たのではないか。

 なんらかの事情についても考えてみた。それはきっと中国の戦乱事情と関係があって、たとえば紀元前473年に越王が呉を滅ぼしたこと、その越が楚に滅ぼされて、楚が山東地方にまで勢力を拡大していったことなどと関係があるのではないか、というふうに。

 ただし、このときちょっとした選抜がおこったのではないかということを萩原さんは考えた。それというのも古代日本の中国側の記述には、例の『魏志』倭人伝をはじめ、倭人が入れ墨をしていたということがしばしば書かれているのだが、しかも日本の海人伝承にはしばしば黥面や入れ墨をしていることが語られているのだが、その海人が日本に来たとすると、いろいろ辻褄があわないことがあるからだ。

 従来、倭人の勃興と海人伝承は重ねて仮説されてきた。ということは漁労と入れ墨と倭人の勃興はひとつの出来事とみなされてきたということだ。

 しかし、考古学史料や植物学や遺伝学による調査が進んでくると、日本列島に稲作が入ってきたとおぼしい時期がしだいに早まって、紀元前3世紀にはかなりの水田耕作が広まりつつあったと見るしかないことがわかってきた。

 そうだとすると、文身(入れ墨)の習俗をもった漁労民が稲作を定着させたというような奇妙なことになる。これはちょっとおかしいのではないか。その後の日本文化を見ても、田植えの民が文身をもっているということはほとんどないし、そういう祭りもほとんど見ない。しかし他方、鏡餅にアワビやコンブを飾ったり、田植え行事にワカメ採りが重なっているような例はある。

 では、この辻褄があわない脈絡を説明するにはどうするか。新たな解答を与える仮説はなかなか出なかったのだ。こうして萩原さんの仮説が浮上した。先に水田民が定着して、それに漁労文化が集合していったのではないか。

 結論をいえば、萩原さんは中国南部からタイ北部の少数民族(チベット族・リス族・リー族・タイ族・シャン族・ワ族・カレン族・イ族など)をほぼすべて調査した結果、ミャオ族だけが入れ墨の習慣をもっていないことをつきとめたのである。

 そうであれば、文身をもたないミャオ族が春秋戦国期の内乱に押し出されるようにして、山東半島や朝鮮半島をへて日本にやってきて稲作技術を伝えたとしてもおかしくないことになる。少なくともそう考えれば、日本の正月儀礼や食物文化に似るミャオ族の儀礼や習慣との関連も説明がつく。しかし、ほんとうにそんなふうに言えるのか。萩原さんは傍証をあげていく。

 本書や、その前著の『稲を伝えた民族』で萩原さんが掲げている傍証はたくさんある。それをいまは絞って紹介する。

 まず第1には、稲魂(いなだま)信仰がある。稲魂とは稲に宿る精霊のようなものを信仰する習慣がもたらした観念で、稲穂が稔ることを期待した観念である。日本にはこの稲魂を重視する行事や祭がかなりある。その最も代表的なものは新嘗祭である。近いものが日本の西南や南島にある。これはミャオ族にもあって、初穂を捧げる儀礼になっている。

第2には、種蒔き・田植え・刈り入れというリズムによって、農村生活がハレとケを重視していることだ。稲作にとってハレはなんといっても豊作と収穫にある。そこにむかって農民は予祝をし、雨が涸れたり稲が枯れることを恐れ、そのための行事や占いをする。これはケ(枯)をしっかり感得することによってハレを招きよせるという考え方を生む。また、それを1年のサイクルにする生活様式をつくっていく。

ここで重要になってくるのが、晴れ着で着飾る新年がいつだったかということである。実は調べていけばいくほどに、もともと新年は収穫期の直後にあったのだということがわかってくる。いまでも西表島では8月や9月に節祭をおこなって稲や粟などの五穀の収穫を祝う。そこで一年が切り替わるとみなしている。このような例はいくらもあるのだが、このことから、第3の生と死の観念に関する問題が特色されてくる。

すなわち第3に、稲も人も「生と死」をもっていて、そこにはいったん「籠もる」という出来事が挟まって、それによって稲は稔り、人は充実を迎えるのではないかという考え方である。これは民俗学では「擬死再生」というふうによばれてきたことだが、日本にもミャオ族にもこの擬死再生をあらわす儀礼や祭礼がきわめて多いということだ。

しかも第4に、そのような稲や人の擬死再生には、その「籠もり」が終わったことを告げる神がたいてい出てくる。いわゆる春を告げる来訪神、折口信夫がマレビトと名付けた来訪神である。来訪神が蓑笠をつけて、いったん隠れた場所から出現してくるという所作をともなうことも看過できない。

すなわち第5に、稲の成長がもたらした藁束は神の似姿の衣裳となって、ケを破ったハレを告げるわけなのだ。
このような来訪神の習俗はミャオ族にもいまなお続行されている。異装のマンガオがやってきて、ツァイライ(長老)の家で鍋墨などをなすりつけ、そのあとで芦笙柱を派手にまわって人々を驚かせ、また笑わせる。モウコウという来訪神もいる。おどろおどろしい異装のモウコウが5人・7人・9人といった奇数が集まって、ウォーウォーと唸り声をあげて子供を寿ぐ。まさにナマハゲだ。 

5つの傍証をあげただけだが、これでも十分に推測がつくように、ミャオ族の村落儀礼と日本の稲作儀礼をつなぐ紐帯はけっして浅くない。それどころか、すでにいくつかの前段でのべたように、ここには太陽信仰と鳥信仰がさまざまに重なってくる。

萩原さんは、こうした「太陽と鳥と稲」の相互関係からは、おそらく日本人の祖霊をめぐる観念の形態がいろいろ読みとれるのではないかというふうに、本書を結んでいく。

日本の祖霊信仰は基本的に正月と盆を、また春分と秋分を行ったり来たりすることで成立しているのだが、それは稲作の儀礼ともぴったり重なっている。だいたい種蒔きと刈り入れが春分と秋分の幅をもっている。そこには太陽の道が劇的に通過する。ここにはしかも日本人の彼岸と此岸の観念も重なってくる。また、もしも新年が収穫期と深い関係をもっていたとするのなら、「魂があらたまる」という日本人の感覚は田植えの夏至から冬籠もりの冬至に向かってドラマをつくっているといえるのだ。

千葉県沼南では天道念仏という行事がくりかえしおこなわれている。いまでは3月15日におこなわれているが、おそらくは春分行事であったおもわれる。かつてはたんに「天祭り」とよんだ。ここではボンデンという竹で編んだ丸い籠に半紙を貼って鳥の目を描きこみ、これを「カラス」とか「シラサギ」とよんで竹串で射る。まさにオビシャである。このボンデンを折口は「髭籍」(ひげこ)と認識して、光を放つ太陽だとみなした。

これでだいたいの話はつながったはずである。萩原さんは遠い地の話をしたわけではなかったのだ。われわれも正月や春分や冬至を、アジアとともに感じるべきだと言いたかったのである。


秋分の朝、真東の太陽を迎える芦笙柱上の鳥
http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1141.html

「北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁撈民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこでテン(シ+眞)王国を作った。

同じように、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。テン文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。


 この仮説は百年も前に鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)が台湾の生番族と苗族の文化的共通性からすでに着想していたことである。それから百年後、その鳥居の仮説がようやく一歩近づいたのである。」

安田喜憲『龍の文明 太陽の文明』PHP新書170 2001
http://www.amazon.co.jp/%E9%BE%8D%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E%E3%83%BB%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%89%E7%94%B0-%E5%96%9C%E6%86%B2/dp/4569617352


「『古事記』が選録されたその年には、唐では玄宗皇帝が即位し、唐文化は爛熟の時代をむかえつつあった。「家畜の民」「畑作・牧畜民」の漢民族の巨大王国の世界支配が貫徹した時代に、「森の民」「稲作・漁撈民」としての日本民族のアイデンティティーをいかに記録にとどめるかに、元明天皇も太安万侶も腐心したはずである」


テンと日本の共通性は


「コメと肉を食べ、太陽や蛇や鳥を長らく神として信仰し母権制を軸とする共通の伝統があるからである」

それを「中尾佐助氏や佐々木高明氏は照葉樹林文化と名づけた。」


この著者は北方畑作・牧畜文化を龍の文明とし、一方南方文化を太陽、蛇、鳥の文明としている。日本が藤原氏以後、天皇を女帝とし、神を太陽神・アマテラスにしたのは、追いやられてゆく南方系文明をこの国の正統な王朝としようとしたためだとする。そして天皇家が今でも北方系のシンボル龍よりも南方稲作民のシンボル太陽神を象徴としていると言うのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/45768819.html

安田喜憲氏の新著『龍の文明・太陽の文明』(PHP新書、二〇〇一年九月刊)で著者が江上波夫氏による「騎馬民族征服王朝」を意識して提唱した「稲作・漁労民征服王朝説」を立ち入って検証してみたい。

一、龍族の南下と縄文文化


今から約八千年前、中国東北部の遼寧省から内モンゴル自治区にかけて、龍信仰の原形となる猪龍や鹿龍などをトーテムとする牧畜民が興り、七千年前には現在の龍に近いものが玉器とともに信仰され、六千年前には龍と玉それに女神がセットなって、一つの宗教体系を形成するに至った。

著者はおよそ十年間にわたって、中国各地の先史遺跡をひろく踏査し、「龍は森と草原のはざまに生息する猪や鹿、それに森の中を流れる川にすむ魚そして草原の馬をモデルにして誕生していた」(P.98)と突きとめ、龍は長江(揚子江)流域の蛇か鰐をモデルにした架空動物だとみなす従来の通説を覆した。

龍信仰を定着させた紅山文化は、内モンゴル自治区から遼寧省・吉林省にかけて発達したが、五千年前に寒冷化と乾燥化とが顕著になってくるにつれて、しだいに衰弱し、そして四千年前には完全に崩壊してしまった。

それと時期を同じくして、長江流域の各地において約五千年前に、巨大都市に象徴される王権が突如として出現した。五千年前の良渚文化の遺跡では、角と耳のついた玉龍が見つかり、龍に対する信仰があらたに現われてきたことを物語る。

こうした長江流域に見られるの新しい文化的要素について、著者は「玉への信仰は長江流域と内モンゴルがほぼ同じか、あるいは内モンゴルが若干早く出現した可能性が高い」または「長江流域で最古の龍が出現するのは五千年前なので、内モンゴルの方が二千年近く早いことになる」と指摘し、さらに「こうした玉と龍への信仰は長江流域の稲作地帯で独自に誕生したのではなく、北方の畑作地帯でもほぼ同時に、あるいは北方の畑作・農耕地帯で誕生し、それが南方の稲作・漁労地帯へ伝播したとみなす必要が出てきた」と論じる(P.31)。

ここでも、長江文明を特徴づける「玉」への強い信仰の南方起源説という「通念」は、あっけなく論破されたのである。

著者が中国の遺跡を調査する際には、つねに日本文明の起源という問題を意識していることは、本書の随所にそれをうかがうことができる。たとえば、遼寧省西部の査海遺跡から、約七千年前と推定される玉玦や玉匕などといった中国最古の玉製品が出土していることに関連して、著者はすぐに縄文時代の遺跡に目をむけ、次のように述べる。

「この査海遺跡の玉玦や玉匕は、福井県金津町の縄文時代早期末〜前期の桑野遺跡から出土した玦状耳飾りや玉匕とよく似ている。さらに類似した玦状耳飾りは滋賀県守山市赤野井湾遺跡、京都府舞鶴市浦入遺跡、兵庫県淡路町まるやま遺跡、新潟県堀之内町清水上遺跡、大分県本耶馬渓町枌洞窟遺跡などで発見されていることが明らかとなっている。」(P.30)

このような出土品の類似によって、著者は「七千年前頃からすでに日本海をわたって中国東北部との交流があった」(P.30)と大胆に推論する。さらに、気象の寒冷化と紅山文化の崩壊にともなって、龍族の南下が始まったが、その影響が長江流域の文明にあらたな転機を来したのみならず、縄文時代中期の文化的発展にも波及したと論を進めていく。

気候の寒冷化により紅山文化の担い手たち、あるいはその文化的影響を受けた北方の人々が南下したり日本列島に渡来することによって、長江文明発展の契機や縄文時代中期の文化的発展の契機を作ったのではあるまいか。

「いうまでもなく縄文時代中期以降、土偶と翡翠そして蛇信仰がきわだったものになってくる。そうした縄文時代中期文化の画期には、龍を信仰し、玉を持ち、女神を信仰していた大陸の紅山文化の影響があるのではあるまいか。」(P.35)

ところが、龍と玉それに女神を信仰する北方系の「紅山文化の担い手たち」が縄文文化に影響を及ぼしたという推論は、本書の骨格をなす「稲作・漁労民征服王朝」の仮説と噛み合わないものがある。

つまり、著者は再三にわたって「日本において龍とみなされるものが出現してくるのは、弥生時代後期以降のことである」と強調し、その背景として「王権の誕生が中国に比べて遅かったこと」(P.50)を指摘し、龍信仰が稲作とともに日本に伝わらなかったと断言する。

このことは、初期の稲作伝播の径路と龍をもたらした人々の渡来径路を考える上でも重要な意味を持っている。すくなくとも初期の稲作をもたらした人々は、龍信仰を持っていなかった。おそらく彼らは龍よりは太陽と鳥を崇拝する長江流域の人々であった可能性がきわめて大きいことを示唆している。

龍の造形は、古墳時代より以降の遺跡では中国龍に近い形で見られるようになるのだが、弥生時代の後期では大阪府の池上曾根遺跡、恩智遺跡、船橋遺跡、下池田遺跡、兵庫県の玉津田中遺跡、奈良県の唐古遺跡、岡山県の天瀬遺跡など、近畿地方から瀬戸内海沿岸にかけて、足のついた龍らしき動物を描いた土器片が出土している。 この意味で、龍信仰の将来者は縄文末期から東シナ海をわたってきた稲作民ではないとする見解はうなずける。

二、鳥から鳳凰そして朱雀へ


北方の森と草原のはざまで生息していた龍族は、約五千年前から寒冷化にともなって南下すると、長江流域において太陽信仰を持つ鳳凰族らの異文明と遭遇する。この異文明とは、南方の森と湿地のはざまで発達したもので、本書のキーワードでもある「長江文明」にほかならない。

「その森と湿地の周辺で、稲作・漁撈民が一万年以上も前から畑作・牧畜民とはまったく異質の暮しを続けていたのである。そして六千年前には、城壁都市を構築し、五千年前には本格的な都市文明の段階へと突入し、四千年前にはメソポタミアのウルクなどに匹敵する巨大な都市を作りあげていたのである。」(P.55)

著者によれば、「太陽の運行は稲作を行なう上で実りの光を与え、稲作の行事にリズムを与えてくれる」ため、稲作民と漁撈民は太陽を崇拝し、また太陽は鳥によって運ばれると信じているという。(P.55)そして、鳥を神格化したのが鳳凰であり、鳳凰はすなわち太陽の化身とみなされる。

鳳凰信仰の原型である鳥崇拝は、長江各地では異なった様相を呈する。たとえば、長江中流域にある湖南省の高廟遺跡からは、太陽を両羽にかかえる怪鳥の姿が造形されていた七千年前の土器が出土しており、その鳥は立派なトサカを持ち、鶏の面影をとどめている。そして長江下流域では、七千年前と推定される浙江省の河姆渡遺跡に、二羽の鳥が太陽を真ん中に向かい合う象牙の彫刻が発見され、その姿はどうやら水鳥に似ている。時代はくだるが、長江上流域の四川省三星堆遺跡から、青銅製の扶桑木といわれるものが発見され、その枝にとまっている九羽の鳥は、明らかにカラスをモデルにしている。

このような地域差のある個性的な鳥崇拝は、長い歴史のなかで互いに融合して、鳳凰という空想の神鳥信仰に吸収されていく。『山海経』には、鳳凰の頭は徳をあらわし、翼は順を、腹は仁、背中は義を、それぞれ象徴しているとあるのは、鳳凰の組み合わせ動物としての多様性を想像させる。

著者の唱える鳳凰の南方起源説、鳳凰信仰を鳥崇拝の進化とみなす説、鳳凰が太陽信仰の根幹をなしているとの説などは、いずれも中国でも早くから指摘されており、おそらく疑問をいれる余地はなかろう。ただし問題となるのは、稲作民と漁労民がなぜ鳥を崇拝し、鳳凰信仰を持つようになったかをめぐっての説明である。

これに対して、著者は「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」(P.60)と説明しているが、こう簡単に片づけられては困る。著者のもう少し詳しい解釈を引用しよう。

「太陽の運行は稲作・農耕民にとっては、きわめて重要な生産のメルクマーク(指標)であった。いつ種もみを播き、いつ苗床を作り、いつ田植えをし、いつ田の草を取り、いつ収穫するかという稲作の農作業は、畑に水をやる必要もない天水農業の麦作に比べると、はるかに複雑な作業であり、綿密さと緻密さ・計画性を要求された。その綿密の根幹を司るのが太陽の運行であった。そして鳥はその太陽の運行を助けるものであった。太陽は朝生まれて、夕方には死ぬ。その永劫の再生と循環を支えているのが鳥であった。」(P.62)

右文はもっぱら稲作民と太陽および鳥との深い関連を述べているが、漁労民との関連についてはまったく言及していない。漁労民とは漁業を生計とする人々をさし、長江下流域の沿岸地帯では漁業をいとなむ漁民が生息していたと思われるが、中流域の湖南省と上流域の四川省では漁労で生計を立てる民族集団がいたかどうか疑わしい。つまり、漁労民と鳥崇拝との間に、必然的な関連が見出せないということである。

たとえ水鳥と漁労民の間になんらかの接点があったとしても、それはあくまでも長江下流域の河姆渡遺跡などに限られ、高廟遺跡の鶏崇拝と三星堆遺跡のカラス崇拝には当てはまらない。したがって、鳥を崇拝するのは漁労民ではなく、稲作民とみなした方が無難であろう。というのは、鳥崇拝の遺物が発見された地域は大抵、早くから稲作が盛んなところだったからである。

湖南省については、玉蟾岩遺跡から一万六千五百年前と推定される稲籾が四粒見つかり、現時点では中国最古の稲作の証拠とされている。また七千年前の河姆渡遺跡からは大量の米粒と稲殻そして農具などが出土し、太陽と鳥を造形した象牙彫刻も同じ遺跡から出ており、鳥崇拝と稲作民との深いつながりを思わせる。

鳥崇拝が稲作農耕から生まれたとすれば、農業に密接な関係を持つ太陽信仰に鳥がなぜ登場してくるかを「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」では説明できなくなる。

ここで思い出されるのは、長江下流域に生息していた越人の「鳥田」に関する伝承である。『論衡』(巻四)によれば、「禹葬會稽、鳥為之田。蓋以聖コ所致、天使鳥獸報祐之也」とあり、つまり夏王朝を創った禹が亡くなって会稽山に葬られたとき、天はその聖徳を嘉みし、鳥を遣わして田を耕させたという。

中国の文献、たとえば『越絶書』と『論衡』はこの故事をしばしば「鳥田」と約して称しているが、それは「鳥の田」という意味ではなく、「鳥が田を耕す」と理解すべきことは、『墨子』(佚文)の「禹葬於会稽、鳥為之耘」、『呉越春秋』(無余外伝)の「天美禹コ、而労其功、使百鳥還為民田」などによっても裏書きされる。

鳥が人力のかわりに田を耕すことは後世の伝承にすぎないが、しかし原始農業のころ、鳥は稲作民によってありがたい存在に違いない。禹が葬られた会稽山は今の紹興にあり、そこに「大禹陵」と呼ばれる墓が現存している。『論衡』はさらに「会稽衆鳥所居」といい、「鳥自食苹」とも伝えている。「苹」は「草」の意味で、『水経注』(四十)は「鳥為之耘、春拔草根、秋啄其穢」と説明している。

 このように、鳥は稲の種を運び、土を柔らかくし、害虫や雑草を除去してくれることで、稲作民から崇拝され、さらに鳳凰信仰と発展し、同じく農耕から生まれた太陽信仰に融合していく。鳳凰信仰と太陽信仰との結合は、南方の稲作民において、独自な宗教世界あるいは宇宙像がついに体系をととのえたことを物語る。鳳凰族の誕生である。


三、苗族と越族と長江文明


第二章「鳳凰と太陽」において、著者は鳳凰信仰の源流をたどってのち、中国西南部にひろく分布している苗族を調査した成果を披露し、ついでに長江文明を創った栄冠を苗族に贈ったのである。

苗族は中国に五十六ある民族の一つであり、人口は一九九〇年の調査によれば、七三九万に達して四番目である。その半数は貴州省に集中し、その他は雲南・湖南・広西・四川・湖北・海南の六省に散在している。

著者はおよそ十年間にわたって湖南省・貴州省・雲南省・四川省・湖北省の各地をかけめぐり、古代の遺跡と苗族の生態を綿密に調査しつづけた。日本人として苗族の調査をはじめて行なったのは、鳥居龍蔵博士である。博士は台湾の生番族の大陸渡来説を提唱し、生番族と類似点の多い苗族の調査を手がけたのである。そして、著者の苗族調査は明らかに鳥居博士の先駆的な仕事を意識したものである。

著者は「鳥居との間に不思議な縁を感じることがある」と述べ、鳥居博士の「私は純粋な考古学者ではなく、先史考古学者である。先史考古学は自然科学に属する」との言葉を引用して、オリジナルな環境考古学も「自然科学の立場から人文社会科学を総合」(P.75)する目標をかかげていると宣言する。

その通り、本書に披露された調査結果は、考古学のデータに民俗学の資料を重ねたものといえる。つまり、湖南省の城頭山遺跡から出土した木材の分析で、この六千年前の古代都市を築くときに、周辺から伐採したフウの木(中国名は楓香樹)を多用したことが判明、つづいて広西省にある苗族の村を踏査した結果、苗族の楓香樹信仰をつきとめ、台湾の生番族と大陸の苗族が同族であろうという鳥居博士の仮説を立証し、さらに弥生時代の倭人のルーツも苗族にあったのではないかと推測する。

「その長江文明の担い手は、苗族であり、苗族を含む長江流域の人々が、長江文明の崩壊とともに台湾や日本列島へと移動する大民族移動があった可能性が高くなってきたのである。」(P.75)

日本人にとって、苗族の村には弥生時代を彷彿させる風景は少なくはない。苗族の村を訪ねたときの第一印象について「一瞬、弥生の村に迷い込んだのかと思った。高床式の倉庫が立ち並ぶ。倉庫にあがる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じだ」(P.77)と心境を語っている。

もっとも著者の視線を釘づけにしたのは、村の要所に立てられた蘆笙柱である。蘆笙柱とは苗族の生命世界の根幹をつかさどる宇宙樹であり、フウの木で作られる。その先端には鳥または太陽を象徴する瓢箪などがつけられている。ここに稲作民の古代信仰とみなされる鳥と太陽のセットが出てきた。

さらに著者の目をひくのは、きまって蘆笙柱の下に置かれていた水牛の角である。苗族では十三年ごとに祖先の霊を祭る牯葬節を催し、そのときに百頭以上の水牛が犠牲になるという。苗族の多く生息している山間部では水牛を飼育しにくい。したがって、水牛は祭りの犠牲に供えるために飼われている場合が多い。これに対して、「苗族がかつて水牛の生育に適した平野部の低湿地地帯で生活していたことの名残り」(P.80)との解釈は妥当であろう。鳥と太陽にくわえて稲作農業に重要な役割を果たす水牛も登場してきた。

著者の目線はまた祭りそのものにも向けている。一万人を超す群衆は一つの村に集まり、若い男性の吹く蘆笙(楽器)の音色にあわせて、「百鳥衣」と呼ばれる衣装を身にまとった女性が蘆笙柱のまわりを踊りながら回る。この百鳥衣はすそに鳥の羽が一面に縫いつけてあることから名づけられ、その由来は「昔、苗族に稲穂をくわえて運んでくれたのが鳥だから、その鳥に感謝するためだ」(P.82)そうである。これは越人にまつわる「鳥田」伝承の類話ではないか。

ここに至って、著者の主張つまり苗族の原郷は長江流域にあり、六千年前に長江文明を創りあげながら、龍族の南下によって南へ追いはらわれたとの仮説に、思わず同調したくなる。

しかし、右の仮説を立証するためには、いくつかの疑問をクリアしなければならない。一つは苗族の起源であり、もう一つは越族との関係である。

まずは苗族の起源について、著者はその先祖を三苗とみなし、古くから洞庭湖周辺の江漢平原に居住していたが、約四千年前に「家畜の民」こと龍族の南下によって貴州省や雲南省などの山岳地帯へ追放され、南蛮へと落ちのびたと論じる。

中国における最近の研究を調べると、苗族の先祖を蚩尤とするのが、ほぼ通説となっている。『山海経』(大荒南経)には「楓木、蚩尤桎梏所棄、是為楓木」とあり、楓木すなわち楓香木は蚩尤の化身である。それは苗族の楓香木信仰の原点に違いない。

蚩尤の率いる九黎族はもと黄河の中下流域に分布し、東方の強族として勢力を張った。五千年前に西の黄帝族と拮抗して敗れ、四千年ほど前に淮河・長江流域にまで逃れ、ここで三苗族として再起したが、秦の始皇帝による統一戦争によってさらに南遷し、ついに中原に鹿を逐う力を失ったのである。

右のごとく五千年前には、苗族の先祖は北方の東部に興り、本書の想定した稲作・漁労民ではなく、また畑作・牧畜民というよりも、畑作をいとなむ農耕民である。それは蚩尤についての文献記録とも合致する。

『龍魚河図』に登場してくる蚩尤は「獣身人語、銅頭鉄額」とあり、また『述異記』は蚩尤の姿を「黾足蛇首」あるいは「人身牛蹄」と記している。「黾」とは蛙の一種である。蚩尤は金属技術を持つ農耕民であるため、牧畜民の黄帝は勝てず、そこで「人首鳥形」の女性から『玄女兵法』を授けられ、ようやく勝利を収めたと『黄帝玄女戦法』が伝える。『山海経』(大荒北経)によれば、蚩尤は風雨を起こして黄帝軍を苦しめたとあり、『春秋繁露』(求雨)には「夏求雨、其神蚩尤」と記され、明らかに農耕民の首領である。

次に苗族と越族の関係について考えてみよう。著者は六千年前に苗族が長江文明を誕生させたと主張しているが、そのとき苗族の先祖は黄河中下流域に生息していたし、五千年前までは長江より北に活躍していたから、長江流域の先住民ではなかったことは明らかである。

一方、越人の先祖とみなされる七千年前の河姆渡人、五千年前の良渚人は稲作をいとなみ、長江下流域において華麗な呉越文明を創りあげたのである。黄帝側に協力して「黾足蛇首」の蚩尤を退治した「人首鳥形」の玄女は、鳥と太陽を信仰する越人の象徴であるかもしれない。三苗は牧畜民に圧迫され、黄河流域から南下し、長江流域の民族と交流を持ったに違いないが、長江文明の創造主ではない。

要するに、第二章後半部の論述は、実地調査を行なった地域の見聞に頼りすぎ、多民族の衝突と融合をくりかえした中国文明史の全体像への目配りは十分とはいえない。日本との関係を苗族に絞りすぎたため、越人と倭人の関連を考察する第四章「稲作・漁労文明の系譜」とも齟齬してしまう恐れがある。


四、鳥族と蛇族と弥生人

第三章「北の龍・南の鳳凰」では、いよいよ日本との関連に考察の重点を移すようになる。まず本章の前提となる論点を整理すると、北方に興った龍族は五千年前から南下し、四千年前に長江文明がその圧力によって衰退し、三千年前には三苗と呼ばれる太陽族・鳥族・蛇族が長江流域を追われて西南部の山岳地帯へ逃れる。

「かくして太陽族・鳥族・蛇族の苗族たちは敗れ、雲南省や貴州省の山岳地帯へとおちのびていく。その一派が海上難民として日本列島にも到達し、太陽信仰、鳥信仰をもたらしたのである。」(P.105)

三苗は龍族との抗争に負けてしまい、一部は陸路から南方へ逃れて苗族となり、一部は海路から日本へ渡って倭人となったという図式は、簡単明瞭ではあるが、にわかに賛同できない点が多々ある。

前にもふれたが、苗族の先祖は黄河流域に居住していた北方東部の農耕民であり、蚩尤の伝承にも象徴されているように、蛇をはじめ牛や蛙などを崇拝していた。つまり、苗族の先祖は蛇族であり、黄帝と手を結んだ鳥族とは仲が悪かったらしい。

中国の統一はまず北方における東西の折衝から始まり、戦争に勝った西の牧畜民は蛇族をも受け入れて龍族として生まれ変わったと考えられる。『爾雅翼』に「龍の角は鹿、頭は駱駝、眼は鬼、うなじは蛇、腹は蛤、鱗は魚、爪は鷹、掌は虎、耳は牛」とあるのは、まさに新生の龍族の姿である。

 龍族の支配に服従しない蛇族は長江中流域にまで南下し、そこの漁民と融合して伏羲と女媧の創世神話を生みだしたのであろう。鱗身の伏羲と蛇体の女媧は兄妹であるが、二人が結婚して人類万物を創ったという。伏羲の出身は河南省とも江蘇省とも伝えられ、南北融合を反映した神話であると見てよかろう。

伏羲と女媧の神話は「黾足蛇首」の蚩尤と重なる部分が見てとれ、苗族はもとより蛇族だった証拠になる。対して、約四千年前に長江下流域を舞台に活躍した禹は「鳥田」伝説に示されるように、鳥信仰を持つ稲作民である。それは七千年前の河姆渡遺跡、五千年前の良渚遺跡によって証明されている。

長江流域において、蛇を崇拝する畑作民の苗族と鳥を崇拝する稲作民の越人は互いに多くの交流を持っていたことと推察される。今の苗族が持っている楓香樹信仰と牛信仰は古来のものであるのに対して、鳥信仰はおそらく稲作をいとなむ越人から受けた影響によるものと推察される。

著者は日本列島にも渡ったであろう太陽族も鳥族も蛇族もすべて「苗族たち」としているが、苗族と信仰も生業も民族も異なる江南の鳥族を視野に納めるべきところであろう。

第三章では苗族と倭人の蛇信仰に多くの紙幅を割いている。雲南省昆明市の滇池周辺に、およそ二千四百年前から、弥生時代とほぼ同じころ、滇王国と呼ばれる王国が繁栄していた。そこの出土品には蛇や蛙それに女性などの造形が際立っており、強烈な蛇信仰と女性信仰を認めることができる。

著者がいう、「女性中心の母権制の社会で蛇信仰を持った社会は、人間を大蛇の犠牲にするという戦慄すべき風習が存在した。女王は同時に蛇巫女であったのであろう」(P.122)と。そして、『古事記』などに語られたヤマタノオロチ退治の話に言及して、「日本ではこのような大蛇はいない。おそらく日本の神話に語られるヤマタノオロチの人身供養の物語などは、こうした雲南省などの長江流域の物語にその起源がもとめられるのであろう」(P.122)と述べる。

このように、著者はつねに日本文化または日本民族の起源を探察する視線を雲南省あたりの奥地に向けている。大胆にも以下のような発言もされている。

「日本の弥生時代の世界史的な位置づけは、同じく漢民族の周辺に位置した雲南省などとの比較の中で、より明らかになってくるのではあるまいか。雲南省では漢民族の国々とは異なり、長らく母権制が維持されていた。日本の弥生時代もまた漢民族からみれば滇王国と同じ少数民族の稲作農耕社会であったとみなされる。」(P.126)

紀元後百年ごろ、滇王国は突然に衰亡する。著者は自然科学者の眼目をもって、その原因を気候の悪化に求める。その影響によって、民族移動が盛んに行なわれ、既成秩序を脅かす新たな不安要素となり、東アジア全域に大動乱を誘発し、滇王国の衰亡から倭国の大乱までは連鎖的に起こった。

これらの政局の激変によって、各地の政治地図が大きく塗り替えられ、漢民族の立てた漢王朝は東アジアに君臨するようになった。漢民族の勢力がいちじるしく伸張しているなかで、著者は滇王国と日本の弥生文化だけがその波及を逃れて、「長江文明の伝統をもっとも色濃く受け継いでいる」(P.132)と断言する。

北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁労民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこで滇王国を作った。同じように長江下流域に生活し、良渚文化などの長江文明を発展させた稲作・漁労民の一派は、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。滇文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。

右は第三章の到達した結論である。この雄大な文明論は、著者の光り輝く知見をキラ星のごとくちりばめ、また自然科学者ならではの的確なデータをフルに活用しており、読者の眼前に斬新な世界を広げてくれる。

ただし、この結論では、著者の雲南省への愛着が隠すことなく現わされ、あたかも滇王国を作ったのも長江下流域の稲作民も台湾へわたった生番族も弥生文化を生み出した倭人も、長江の中・上流域を追われた苗族の一派だったかのような印象を読者に与えてしまう。


五、羽人と越人と征服王朝

本書のクライマックスは、なんといってもこの第四章「稲作・漁労文明の系譜」にほかならない。佐々木高明氏の『照葉林文化の道』(NHKブックス)にちなんで、著者は北方のナラ林文化を龍族、南方の照葉林文化を蛇族にあてて、次のように述べる。

中国大陸では北方のナラ林帯の龍族が、南方の照葉林帯の太陽族・鳳凰族・蛇族を駆逐した。そして中国大陸で龍族に追われた一派が、ボートピープルとなって稲作とともに鳥と深く関わる太陽信仰を中心とする神話体系を日本にもたらし、弥生時代を開幕する原動力となった。

周知のとおり、日本神話には天津神と国津神という系統の異なった神々が登場している。著者は国津神を縄文人、天津神を渡来人とみなし、国津神から天津神への国譲りが平和的に行なわれたと見る。つまり、弥生文化を主導した王権は長江文明を持った稲作・漁労民であり、これを「稲作・漁労民南方征服王朝説」と名づける。

そもそもこの新説の発端は、江上波夫氏の唱える「騎馬民族征服王朝説」へ反省にあった。つまり、「日本人の伝統的な習俗や世界観は、かならずしも騎馬民族征服王朝説を支持しなかった」こと、「日本神話の故郷がなぜ南九州にあるのか」との疑問から、著者は長年の中国調査の成果を生かして、日本神話の見直しに踏み切ったようだ。

考えてみれば、もし朝鮮半島を経由して騎馬民族が征服王朝を作ったとすれば、著者のいうように「天皇のルーツを誇る日本神話の故郷は、北九州にあるのが自然である」(P.138)。しかし、神話の舞台だった高千穂の峰は南九州にあり、天皇の高祖と崇められるニニギノミコトも出雲国を譲られて南九州から上陸するのである。

長江文明の視点から日本神話を見直してみると、驚くほど多くの共通点に遭遇する。たとえば、葦原中国の保食神が死ぬと、頂が牛馬となり、顱の上からは粟、眉の上からは繭、眼の中からは稗、腹の中からは稻、女陰からは麦と豆がそれぞれ生まれ、それを入手したアマテラスは大いに喜び、「粟稗麦豆を以ては、陸田種子とす。稻を以ては水田種子と」して、高天原に稲作と蚕桑を始めたという。(『日本書紀』)

これは稲作民の神話そのものであり、、しかも蚕桑を兼業とする長江下流域の稲作民の神話を想起させる。さらに日本神話のなかに鳥の存在が大きいことも稲作民渡来説を補強する。

神武天皇が熊野から奈良盆地へ向かうときに道先案内をしたのはヤタガラスであり、大国主が出雲国をゆずるときに天鳥船の供給を約束された。そして、弥生遺跡の出土品に鳥の造形が多いことは多言を要しまい。

鳥信仰と関連するものに、羽人の存在も無視できない。岐阜県の荒尾南遺跡、鳥取県の淀江町角田遺跡、高槻市の新池遺跡、奈良県の東殿塚などから、頭上に羽を挿した人々が船を操っている場面を描いた弥生時代の出土品が報告されている。それらと類似したものは雲南省の石寨山遺跡からも見つかり、中国の研究者はそれを「羽人」と呼んでいる。羽人の操る船こそ天鳥船の原型ではなかろうか。

稲作民にとって、鳥信仰はあくまでも太陽信仰の一部である。それも日本神話に反映されている。アマテラスは太陽の化身であり、天皇家の後継者は「日子」と称される。太陽信仰は世界各地に見られるが、ギリシア神話のアポロのように男神が普通であって、アマテラスのような女神はめずらしい。長江下流域の越人地域には、太陽神の性別を中原の男神と違って、女性とする伝承は少なくない。

このように、日本神話を検討した結果、雲南省よりも江南の沿岸地帯の伝承と実情に多くの類似点を持っていることがわかる。著者もこの点を汲み取って「羽人は越人であった」(P.150)と認め、そしてニニギノミコトの来日径路については

「長江下流域から、船で東シナ海に出ると、対馬暖流に乗って真っ先につくところが、鹿児島の南端なのである。さらに、そこから対馬暖流が行きつくところが、出雲でありその先が富士の越の国なのだ。海流に乗れば、漂着する場所が南九州である。」(P.148)

と述べ、「富士を中心とする北陸三県の越の国の起源も、こうした長江下流域にもとめられる」(P.150)とも付け加えている。江南の越人は同じ地域にすむ呉人よりも航海技術に長じており、『淮南子』(斉俗訓)に「胡人は馬に便れ、越人は舟に便る」とあり、『越絶書』(記地伝)にも「(越人は)船を以って車と為し、楫を以って馬と為す」と見える。彼らはいざという時に、東シナ海を横切る航海技術を十分に持っていると考えられよう。


六、呉人と越人の海外移住

考古学の発掘資料を多用し、自然科学者の視点を生かしたのは、本書の特徴であり、意表をつく魅力でもある。ただし、三千五百年前には、日本がまだ原始社会の縄文時代にとどまっていたころ、中国ではすでに文字を使う歴史時代に突入している。したがって、日本神話の検証にも、考古学資料の裏づけにも中国の文献資料をより積極的に用いれば、結論の妥当性が一段と高まるのではないか。

たとえば、『通典』にひかれた『魏略』に「倭人自謂太伯之後」とあり、『資治通鑑』にも「今日本又云呉太伯之後、蓋呉亡、其支庶入海為倭」と記されている。呉国は太伯(泰伯とも)を始祖と崇め、紀元前四七三年、越国に滅ぼされてから、その一派が日本へ渡ったと考えられる。三角縁神獣鏡をめぐっては論争がまだ続きそうだが、王仲殊氏の主張する呉人移民の製作説はかなり有力であろう。また『漢書』(地理志・呉地)に出てくる東鯷人も日本へ移住した呉人だった可能性は指摘されている。日本との関連において、第二章と第三章は苗族のみに照準をあて、第四章は越人を引き立てすぎるといった印象がある。それはおそらく著者の調査した地域との関係があろうが、文献資料を補助的に使えば、こうした偏りをいくらか回避できたかもしれない。

苗族を長江文明の創造者と強調するためか、長江流域に分布していた太陽・蛇・鳥の諸信仰を持ち合わせる南方民族として扱うところも気になる。苗族の先祖は北方民族であり、その首領蚩尤は黄河流域において、東方の農耕民を率いて西方牧畜民の黄帝軍と戦を重ねて中原を争った。私見では、蛇を崇拝する苗族は基本的には龍族の根幹をなし、牧畜民との戦争に敗れて、農耕技術や金属技術とともに蛇信仰も中原を制圧した西方民族に吸収され、龍族という混合民族が生まれたと考えたい。長江流域では、西方部族と東方部族は楚と越のようにしばしば紛争を引き起こし、信仰や生業などでも相違が見られる。要するに、中国の文明発展史を見るかぎり、黄河と淮河それに長江に阻まれて、南北の交流よりも東西の交流がきわめて活発であった。この意味で、本書は東西関係への目配りはいささか不足している気がする。

日本における龍の出現を弥生後期か古墳時代とし、その影響は朝鮮半島から受けているとの指摘にも賛同しがたい。蛇崇拝は黄河下流域の苗族にあり、また長江下流域の越人にも行なわれていたようだ。水または海との関連で、東方の夷族に共有されていると推定される。鳥から進化した朱雀が南方の守護神とされるのと同じように、蛇から進化した青龍は東方の守護神である。したがって、日本へわたった越人が龍信仰を弥生文化にもたらした可能性もある。『魏志』(倭人伝)をひもとくと、「(越人は)断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人も好んで沈没して魚蛤を捕る。文身して、亦以って大魚と水禽を厭う」とあり、蛟龍信仰が九州沿海の漁民に広がっていた証拠となろう。

http://www.geocities.jp/jiangnankejp03/lunwen/jp_lunwen06.htm

日本のルーツ? 長江文明


漢民族の黄河文明より千年以上も前に栄えていた長江文明こそ、日本人のルーツかも知れない。 H15.08.03


■1.再生と循環の長江文明■


 6300年前、中国の長江(揚子江)流域に巨大文明が誕生していた事が近年の発掘調査で明らかになっている。メソポタミア文明やエジプト文明と同時期かさらに古く、黄河文明よりも千年以上も早い。長江の水の循環系を利用して稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であり、自然と共生する「再生と循環の文明」であった。

 4200年前に起こった気候の寒冷化によって、漢民族のルーツにつながる北方の民が南下した。彼らは畑作牧畜を生業とし、自然を切り開く「力と闘争の文明」の民であった。彼らはその武力で長江文明の民を雲南省や貴州省の山岳地帯に追いやった。 これが今日の苗(ミヤオ)族などの少数民族である。

 別の一派はボートピープルとなって、一部は台湾の原住民となり、別の一派は日本に漂着して、稲作農耕の弥生時代をもたらし、大和朝廷を開いた、、、

 日本人の起源に関するこうした壮大な仮説が、考古学や人類学の成果をもとに学問的に検証されつつある。これが完全に立証されれば、日本人のアイデンティティに劇的な影響を与えるだろう。今回はこの仮説に迫ってみよう。

■2.森と川と水田と■


 1996年、国際日本文化センター教授・安田喜憲氏は3年もの交渉期間を経て、長江流域に関する日中共同の発掘調査にこぎつけた。対象としたのは長江の支流・岷江流域、四川省成都市郊外の龍馬古城宝トン(土へんに敦)遺跡である。測量してみると、この遺跡は長辺1100メートル、短辺600メートル、高さ7〜8メートルの長方形の城壁に守られた巨大都市だった。

 城壁の断面から採取した炭片を放射性炭素による年代測定法で調べてみると、4500年前のものであった。エジプトで古王国が誕生し、インダス川流域に都市国家が出現したのと同じ時期だった。

 1998年からは湖南省の城頭山遺跡の学術調査が開始された。 直径360メートル、高さ最大5メートルのほぼ正円の城壁に囲まれた城塞都市で、周囲は環濠に囲まれていた。城壁の最古の部分は今から約6300年前に築造されたことが判明した。また約6500年前のものと思われる世界最古の水田も発見され、豊作を祈る農耕儀礼の祭壇と見なされる楕円形の土壇も見つかった。

 さらに出土した花粉の分析など、環境考古学的調査を行うと、これらの都市が栄えた時代には、常緑広葉樹の深い森であることがわかった。この点はメソポタミア、エジプト、インダス、 黄河の各文明が乾燥地帯を流れる大河の流域に発生したのとは根本的に異なっていた。


 深い森と豊かな川と青々とした水田と、、、長江文明の民が暮らしていた風景は、城壁さえのぞけば、日本の昔ながらのなしかしい風景とそっくりである。


■3.平等な稲作共同体■


 長江文明が稲作農耕をしていたのに対し、他の四大文明が畑作農耕をしていたというのも、決定的な違いである。小麦や大麦は、極端に言えば、秋口に畑に種をまいておけば、あとはたいした手間をかけずに育っていく。そのような単純労働は奴隷に任され、支配者は都市に住んで、農奴の管理をするという階級分化が進みやすい。都市は交易と消費の中心となり、富と武力を蓄える役割を持つ。

 それに対して稲作は複雑で手間がかかる。苗代をつくってイネを育て、水田に植え替えをする。秋に実るまでに水田の水を管理し、田の草も取らねばならない。高度な技術と熟練を要するので、奴隷に任せてはおけず、共同体の中での助け合いを必要とする。そこでの都市は水をコントロールする灌漑のセンターとして成立し、さらに豊穣を祈る祭祀が行われる場所として発展していく。おそらく祭祀を執り行う者がリーダーとなったであろうが、その下で身分の分化は畑作農耕社会ほどには進まなかったであろう。


■4.太陽と鳥の信仰■


 7600年前の浙江省河姆渡遺跡からは、二羽の鳥が五重の円として描かれた太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙製品が出土した。8000年前の湖南省高廟遺跡からは鳥と太陽が描かれた土器が多数出土している。長江文明においては、太陽と鳥が信仰されていたのである。

 種籾をまき、苗床を作り、田植えを行い、刈り取りをする、という季節の移ろいにあわせて、複雑な農作業をしなければならない稲作農耕民にとって、太陽の運行は時を図る基準であった。同時に太陽はイネを育てる恵みの母でもあった。太陽信仰が生まれたのも当然であろう。

 その聖なる太陽を運んでくれるのが鳥であった。太陽は朝に生まれて、夕方に没し、翌朝に再び蘇る。太陽の永遠の再生と循環を手助けするものこそ鳥なのである。

 太陽信仰と鳥信仰は日本神話でも見られる。まず皇室の祖神である天照大神は日の神、すなわち太陽神そのものであった。 神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったのが天から下された「八咫烏(やたがらす)」という大烏であった。

 景行天皇の皇子で九州の熊襲(くまそ)を征し、東国の蝦夷を鎮定した日本武尊は、帰途、伊勢の能褒野(のぼの)で没したが、死後、八尋白智鳥(やひろしろちどり、大きな白鳥)と化して天のかなたへ飛び去ったという。さらに伊勢神宮、熱田神宮など多くの神社では、「神鶏」が日の出を告げる神の使いとして大切にされている。


■5.鳥と龍との戦い■


 約4200年前に気候の寒冷化・乾燥化が起こり、黄河流域の民が南下して長江流域に押し寄せた。司馬遷の「史記」には、漢民族の最古の王朝・夏の堯(ぎょう)・瞬(しゅん)・禹(う)という三代の王が、中原(黄河流域)から江漢平野(長江と漢水が合流する巨大な湿地帯)に進出し、そこで三苗(さんびょう)と戦い、これを攻略したという記事がある。三苗とは今日の苗族の先祖で、長江文明を担った民であると見られる。

 一方、苗族の伝説にも祖先が黄帝の子孫と戦ったという話がある。黄帝とは漢民族の伝説上の帝王である。苗族の祖先は黄帝の子孫と戦って、敗れ、首をはねられたという。

 長江文明の民が逃げ込んだ雲南省では龍を食べる鳥を守護神とする伝説がある。龍は畑作牧畜の漢民族のシンボルであり、鳥と龍との戦いとは、長江文明と漢民族との争いを暗示していると考えられる。

 これは筆者の想像だが、出雲神話に出てくる八岐大蛇(やまたのおろち)も龍なのかもしれない。この頭が8つに分かれた大蛇を天照大神の弟・戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治して、人身御供となりかけていた稲田姫(くしなだひめ)を救い、二人は結ばれる、という物語である。大蛇の体内から出てきた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、後に皇位を象徴する三種の神器の一つとなった。八岐大蛇はこの世の悪の象徴であり、草薙剣はその悪と戦う勇気を表しているとされている。


■6.収奪と侵略の黄河文明に対抗できなかった長江文明■


 馬に乗り、青銅の武器を持って南下してきた畑作牧畜の民にとって、長江文明の民は敵ではなかった。彼らは精巧な玉器を作る高度な技術は持っていたが、金属製の武器は持っていなかったからである。

 金属器は農耕でも使われたが、それ以上に人を殺す武器として発展した。長江文明より遅れて誕生した黄河文明は、金属器を使い始めてから急速に勢力を広げていった。畑作牧畜で階級分化した社会では、支配者階級が金属器による武力をもって下層階級を支配し、また近隣地域を侵略して支配を広げていく。

収奪と侵略の中で、金属器を作る技術はさらに急速に発展し普及したのであろう。また階級分化した社会であれば、大量の奴隷を兵力として動員する事も容易であったろう。

 それに対し、長江の稲作漁撈民は自然の恵みの中で争いを好まない文明を築いていた。インダス文明がまだ細石器を用いていた頃、彼らはすでに精巧な玉器を作る技術を持っていた。しかし平和で豊かな社会の中では、金属器の必要性はあまり感じなかったようだ。また平等な社会では、共同体の中から一時に大量の戦闘員を動員する事にも慣れていなかったと思われる。

 収奪と侵略に長けた北方の民が、馬と金属製武器をもって現れた時、長江の民はとうてい敵し得なかった。平和に慣れた文明が、武力を誇る北方の蛮族に敗れるという図式は、ローマ帝国対ゲルマン民族、さらには後の中華帝国対蒙古・満洲族との戦いにも共通して見られた現象である。


■7.苗族、台湾の先住民、そして弥生時代の日本■


 漢民族の南下によって長江の民は次第に雲南省などの奥地に追いつめられていった。その子孫と見られる苗族は今では中国の少数民族となっているが、その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたような風景だという。倉庫に上がる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じである。かつての水田耕作を山岳地でも続けるために、急勾配の山地に棚田を作っているのも、日本と同様である。

 苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていた。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われている。

 また明治時代に東アジアの人類学調査で先駆的な業績を残した鳥居竜蔵は、実地調査から台湾の先住民族・生番族と雲南省の苗族が同じ祖先を持つ同根の民族であるという仮説を発表している。

 長江文明の民が漢民族に圧迫されて、上流域の民は雲南省などの山岳地帯に逃れて苗族となり、下流域に住む一族は海を渡って台湾や日本に逃れた、とすれば、これらの人類学的発見はすべて合理的に説明しうるのである。


■8.日本列島へ■


 日本書紀では、天照大神の孫にあたる天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原から南九州の高千穂峰に降臨され、そこから住み良い土地を求めて、鹿児島・薩摩半島先端の笠狭崎(かささのみさき)に移り、この地に住んでいた木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)を后とする。

 天孫降臨の場所がなぜ日本列島の辺境の南九州であるのか、この質問に真剣に答えようとした研究者は少なかった。どうせ架空の神話だと一蹴されてきたからである。しかしどうにでも創作しうる架空の神話なら、たとえば富士山にでも降臨したとすれば、皇室の権威をもっと高めることができたろう。

 笠狭崎は中国から海を渡って日本列島にやってくる時に漂着する場所として知られている。天平勝宝5(753)年に鑑真が長江を下って、沖縄を経て漂着したのは、笠沙から車で15分ほどの距離にある坊津町秋目浦であった。

 漢民族に追われた長江下流の民の一部は、船で大洋に乗り出し、黒潮に乗って日本列島の最南端、笠狭崎に漂着したのであろう。そこで日本の先住民と宥和した平和な生活を始めた。その笠狭崎の地の記憶は、日本書紀が編纂された時まで強く残っていたのであろう。

 鳥取県の角田遺跡は弥生時代中期のものであるが、羽根飾りをつけた数人の漕ぎ手が乗り込んだ船の絵を描いた土器が出土している。それとそっくりの絵が描かれた青銅器が、同時代の雲南省の遺跡から出土している。さらに弥生時代後期の岐阜県荒尾南遺跡から出土した土器には、百人近い人が乗れる大きな船が描かれている。長江で育った民は、すでに高度な造船と航海の技術を駆使して、日本近海まで渡来していたのであろう。

瓊瓊杵尊の曾孫にあたる神武天皇も、船団を組んで瀬戸内海を渡り、浪速国に上陸されたのである。


■9.幸福なる邂逅■


 当時の日本列島には縄文文明が栄えていた。たとえば青森県の三内丸山遺跡は約5500年前から1500年間栄えた巨大集落跡で、高さ10m以上、長さ最大32mもの巨大木造建築が整然と並び、近くには人工的に栽培されたクリ林が生い茂り、また新潟から日本海を越えて取り寄せたヒスイに穴をあけて、首飾りを作っていた。


 日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生を大切にする文明を持っていた。そこにやってきた長江の民も、稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であった。両者ともに自然との共生を原則とする「再生と循環の文明」であった。

 この両者の出会いは「幸福な邂逅」と言うべきだろう。瓊瓊杵尊が木花之開耶姫を后とされたという事がそれを象徴している。神武天皇が九州から大和の地に移られた時も部族単位の抵抗こそあったが、漢族と苗族の間にあったような異民族間の血で血を洗う抗争という様相は見られない。


 人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか。


 神武天皇が即位された時のみことのりである。この平和な宣言こそ、わが国の国家として始まりであった。わが国は縄文文明と長江文明という二つの「再生と循環の文明」の「幸福な邂逅」から生まれたと言えるかもしれない。

 以上は長江文明の発見から生まれた壮大な仮説であり、なお考古学的、人類学的な立証が進められつつある。かつて古代ギリシャの詩人ホメロスの叙事詩に出てくるトロイアの都は伝説上の存在と考えられていたが、子供の時からその実在を信じていたシュリーマンによって遺跡が発掘され、高度な文明をもって実在したことが証明された。長江文明に関する研究が進展して、日本神話の真実性を立証する日も近いかもしれない。(文責:伊勢雅臣)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog304.html


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04. 2012年10月16日 22:11:21 : HNPlrBDYLM

日本語の母体のY-DNA「D」縄文語がホモサピエンスの祖語かもしれない
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/450.html
大和朝廷は漢民族?
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/451.html

05. 2012年10月16日 23:01:40 : HNPlrBDYLM

弥生人の起源


弥生時代は紀元前800年から始まる。日本人の起源や現在に至る氏族を追いかけていくと朝鮮半島に始まるが、その前の稲作伝来まで数百年の隔たりがある事を忘れてはならない。

朝鮮半島の紀元前の歴史は殆どなく、中国がようやく半島の鉄資源を求めて鉄職人を送り込んできた時期である。稲作もその頃に半島南部に広がっており、日本列島まで渡来して先進文化を伝える状況になかった。

朝鮮半島からの渡来人は早くて2世紀まで遅れる。その間、九州、中国地方を中心に弥生の文化や技術を創ってきたのは間違いなく大陸の渡来人である。先行して大陸から渡来人が稲作、漁労、養蚕を伝え、拡げていったのが呉人である安曇族であるという説がある。安曇族はその後の奴国を作り、57年に大陸から金印を授かっている。


「海から見た日本列島」
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/

にある以下の記事はそのくだりが書かれており、かなり信憑性が高いので紹介しておきたい。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【安曇族を解く鍵「金印」】

 博多湾の入口にある志賀の島は 海人の安曇族の根拠地として また AD57年に 後漢の光武帝から授かった「漢委(倭)奴國王」(カンノワノナノコクオウ)と彫られた金印が出土した地として知られている。

中国大陸を制覇した後漢から奴国王が金印を授かったことは破格の厚遇である。なぜ光武帝は倭国の中の一部族に過ぎない奴国に金印を与えたのかまたなぜ奴国王は遠く洛陽まで使者を出したのか。両者の間には 金印授受に値する結びつきがあったはずだしまた 突然の訪問で金印を授かることは考えられないからそれ以前に奴国は中国大陸と交流があったはずである。

その交流にしても奴国王の使者が洛陽まで出かけるにしても海を渡らなければならない。そこには航海術に長けた海人の安曇族が深くかかわっていたはずである。
 


【安曇族はBC5世紀に呉から渡来。】

『魏志・倭人伝』や『晋書』『梁書』など中国史書にある倭人は入墨などの習俗から会稽地方(現在の浙江省から江蘇省)と共通している。またAD57年に洛陽へ行った奴国の使者は呉の祖といわれている太伯の後裔と述べたと記述されている。 
一方、中国大陸では春秋時代(BC770〜403年)に呉は越と30年ほど戦ってBC473年に亡ぼされた。長年の戦争に船を駆使して戦ってすぐれた航海術をもっていた呉人が日本列島へ亡命してきた可能性は大きい。

以上記した習俗、呉の後裔、呉人の亡命の3点から奴国の使者は呉が亡びたときに日本列島へ亡命した呉人の子孫であると考えた。


北九州へ亡命して来た呉人すなわち安曇族は仇敵越への復讐を誓い志賀島を根拠地に中国大陸に出かけて越の情報を集めるのに都合がいい交易をはじめた。

 ところがBC334年には仇敵の越も楚に亡ぼされる。元々呉と越は同族で呉越同舟という言葉は両国は戦争をつづけているが何か呉と越に共通する敵が現れたら力を一つにしてその敵に向かうという意味である。このように呉越は兄弟のようなものだから越が亡びて困っていると呉の後裔の安曇族は得意の航海術を使って越人が日本列島へ亡命することを手助けした。

 またBC221年に秦の始皇帝が天下を統一すると万里の長城を築いたり阿房宮をつくったりでそのために過酷な税の取立てや強制労働などを行った。安曇族はこれらに耐えかねて祖国を棄てる人たちの亡命も手助している。


【亡命者を日本列島の水田稲作適地に斡旋】

 亡命者たちは水田稲作・養蚕や漁撈の技術をもっていた。安曇族は 中国大陸との交易が軌道に乗ると交易で取り扱う品を多くするため日本列島内にも交易網を広げていたから鉄製品がまだ普及せず石や木の農具を使っての水田稲作と養蚕に適している地域の情報ももっていたし魚介類が豊かで船を扱いやすい海岸の情報ももっていた。だから 安曇族は亡命者たちに水田稲作と養蚕に適した地へ漁撈が得意な人たちへはそれに適した海岸を斡旋して住まわせた。
 
その斡旋先での生産物は安曇族が一手に引き受け日本列島内の交易も中国大陸との交易も大きく発展した。ということで日本列島内においては水田稲作・養蚕と漁撈が盛んになってきた。
 
こうなると倭国においては一部族に過ぎない奴国すなわち安曇族ではあるが商業に重点を置いた政策をかかげた後漢の光武帝にとっては取引先として大切な相手であった。安曇族にとっても光武帝から金印を授かることは円滑に交易を進める上で欲しいものであった。ということで「漢委奴國王」の金印を安曇族が授かったという仮説は成立するのではないか。


【安曇族の橋渡しで水田稲作技術は中国大陸から伝わった】

●水田稲作について〜稲のDNAを調べた佐藤洋一郎によると 水田稲作技術の日本列島への伝播ルートは 中国大陸から直接と朝鮮半島経由の二つのルートがあるという。ここでは中国大陸からの直接水田稲作技術が日本列島へ入った点に注目する。


●養蚕について〜布目順郎は確定的とは言えないがと前置きして浙江省や江蘇省から東シナ海を直接渡ってきたといっている。水田稲作の適地と養蚕の適地は豊かな水、風通しがよいなど条件が重なっている。


●言葉について〜森博達は日本には中国南朝の音である呉音が入ってきた。そのルートは朝鮮半島経由というのが通説だが呉音には濁音があるが朝鮮の漢字音には濁音がない。と朝鮮半島との結びつきに疑問を投げかけ中国南朝から直接日本列島へ入ってきた可能性を示唆している。


これらの技術や文化が中国大陸から直接日本列島へ伝わるには東シナ海を渡らねばならないからそこに安曇族が関与したことは間違いない。中でも水田稲作と養蚕は日本列島内の交易と中国大陸との交易に結びつくし、安曇族の入植地斡旋は日本列島内の水田稲作の短期間普及につながっている。
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/

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以上のように呉人である安曇族が航海技術に長けた海人としての特徴を生かして、中国から人、物、技術を運んできたと考える事は、その後の日本の海洋国家としての歴史を見ても頷けます。

また、弥生時代の最大の集落である吉野ヶ里遺跡に養蚕が盛んに行われており、中国とも交易をしていたという史実とも整合します。

一方、安曇族が越人を運んだと言われる北陸地方から関東にかけても同質の弥生文化は広がっていったと思われます。

朝鮮半島から来る渡来人第2波の前に既に相当程度、中国の先進文明を受け入れていた可能性があるのです。古墳時代を経て大陸の隋の時代に至るまで、日本列島が半島からの戦火を免れている背景には、弥生時代に構築した中国との関係は見逃せないのではないでしょうか。

戦争に明け暮れた朝鮮半島と戦争史がほとんどなかった日本、その対比を見ていく上で中国からの視点が必要になってくると思います。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=202671
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=202674


百越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。越、越人、粤(えつ)とも呼ぶ。
非漢民族および半漢民族化した人々を含む。日本の現代の書物において「越人」「越の人」と表される場合、現在のベトナムの主要民族であるベト人(越人)、キン族(京人)とは同義ではない。

現在の浙江省の東海岸が起源と見られる。言語は古越語を使用し、北方の上古漢語を使う華夏民族とは言語が異なり、言葉は通じなかった。秦および漢の時代には、「北方胡、南方越」といわれ、「越」は南方民族の総称ともなっていた

周代の春秋時代には、呉や越の国を構成する。秦の始皇帝の中国統一後は、その帝国の支配下に置かれた。漢代には、2つの越の国が確認できる。1つは中国南部、すなわち現在の広東省、広西、ベトナムにかけて存在した南越、もう1つは、中国の閩江(福建省の川)周辺の閩越(びんえつ)である。この時代、中国の南方を占めた越人は、北方民族による力の支配とぶつかり、しばしば反乱がおきている。チュン姉妹の乱は、現代に伝わる当時の反乱の1つである。

その後は、徐々に北方からの人々の南下とともに、越人の一部は彼らと混じり、また他の一部は山岳の高地や丘陵地帯などに移り貧しく厳しい暮らしに身を投じる人々に分かれるなど、越人の生活圏には変化が起こっていく。北部ベトナムは中国王朝の支配が後退すると、939年に最初の民族王朝である呉朝が呉権により成立している。

文化面では、稲作、断髪、鯨面(入墨)など、百越と倭人の類似点が中国の歴史書に見受けられる。現代の中国では廃れたなれずし(熟鮓)は、百越の間にも存在しており、古い時代に長江下流域から日本に伝播したと考えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%B6%8A


句呉(こうご、くご)は、中国の周の時代に、太伯(泰伯とも)が、弟の虞仲と千余家の人々と共に建てた国である。紀元前12世紀から紀元前585年まで続いた。後に、太伯の弟の子孫である寿夢が国名を呉と改名する。国姓は姫(き)。
太伯(たいはく)は、中国周王朝の古公亶父の長男で、呉の祖とされる人物。泰伯とも。虞仲(ぐちゅう)は古公亶父の次男。『史記』「周本紀」では弟が虞仲とあるが、「呉世家」では仲雍とある。季歴の兄、文王の伯父に当たる。姓は姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。

古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。

父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。
太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。
『史記』では世家の第一に「呉太伯世家」を挙げているが、これは周の長子の末裔である呉に敬意を表したものであろう。『論語』泰伯篇では、季歴に地位を譲ったことについて孔子が「泰伯(太伯)はそれ至徳と謂う可きなり」と評価している。


日本との関連
髪を短く切るのは海の中で邪魔にならないための処置であり、刺青をするのは模様をつけることで魚に対する威嚇となる。この二つの風習は呉地方の素潜りをして魚を採る民族に見られるという。歴代中国の史書で倭に関する記述にも同じような風習を行っていることが記されており、これが元となって中国や日本そして李氏朝鮮までの朝鮮半島において、倭人は太伯の子孫であるとする説が存在した。
例えば『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『梁書』東夷伝などに「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とあり、『日東壮遊歌』や『海東諸国紀』等にもある。これは日本の儒学者の林羅山などに支持され、徳川光圀がこれを嘆き『大日本史』執筆の動機になったと伝えられている。

九州宮崎県の諸塚山には、句呉の太伯が生前に住んでいて、死後に葬られたという伝承がある。

鹿児島神宮(大隈国隅正八幡)には、全国の神社で唯一、太伯が祭られている。

『新撰姓氏録』では、松野連(まつののむらじ)は呉王夫差の後とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2


呉 (春秋)
呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉。
呉の成立については詳しいことはわかっていないが、司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載っている。
周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていた。長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に後継を譲り、呉の地にまで流れて行き、現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。

後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないと示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。

興隆と滅亡
6代王の闔閭の時代、呉は強勢となり、名臣孫武、伍子胥を擁し当時の超大国楚の首都を奪い、滅亡寸前まで追いつめた。しかし新興の越王勾践に攻め込まれ闔閭は重傷を負い、子の夫差に復讐を誓わせ没する。夫差は伍子胥の補佐を受け、会稽にて勾践を滅亡寸前まで追い詰める。勾践が謝罪してきたため勾践を許したが、勾践は呉に従うふりをして国力を蓄えていた。
夫差はそれに気付かず北へ勢力圏を広げ、また越の策にはまり伍子胥を誅殺し、中原に諸侯を集め会盟したが、その時にすでに呉の首都は越の手に落ちていた。紀元前473年、呉は越により滅亡する。この時、夫差は勾践に対し助命を願った。勾践は夫差に一度助けられていることを思い出し願いを受け入れようとしたが、宰相の范蠡に
「あの時、天により呉に越が授けられたのに夫差は受け取らなかった。ゆえに今呉は滅亡しようとしているのです。今、天により越に呉が授けられようとしているのです。何をつまらない情を起こしているのですか」
と言われ、和議を蹴った。それでも勾践は夫差を小島に流刑にして命だけは助けようとしたが、夫差はこれを断って自害し、呉は滅びた。
夫差は越に闔閭を殺された後、薪の上に寝て復讐心を忘れなかった。勾践は夫差に負けた後、胆を嘗めて復讐の心を呼び起こし、部屋に入るたびに部下に「汝、会稽の恥を忘れたか」と言わせて記憶を薄れさせないようにした。この故事から臥薪嘗胆の言葉が生まれた。また、呉越の激しいライバル争いから呉越同舟の言葉が生まれた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)



越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前334年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。

呉との抗争
隣国の呉とたびたび抗争し、紀元前515年、楚に遠征した呉王闔閭の留守を狙って越王の允常[1]は呉を攻め、呉領内を荒らしまわった。更に混乱に乗じて実弟の公子夫概が兄に対して謀反を起こすなど、闔閭の立場が大いに揺らぐ事となり闔閭は越を憎んだ。やがて紀元前496年に允常が死去して、太子の勾践が父の後を継いで即位した。その報せを受けた闔閭が越を攻めたが敗死した。

闔閭の後を継いだ次男の夫差が報復の準備を整えつつある事を憂えた勾践は、先手を打って仕掛けたが逆に大敗し、越は滅亡寸前にまでなったが勾践が謝罪したために滅亡は免れる。謝罪後、勾践は呉で使用人として労働を命じられたりしたが、范蠡の助けを借り、越は呉への復讐心から着実に力を蓄えてゆき、呉が伍子胥を殺害し夫差が中原に諸侯を集めて会盟を結びに行っている隙を突いて呉を攻め、呉に大打撃を与え、紀元前473年には呉を滅ぼした。呉を滅ぼした勾践は、越の都を現在の山東省の琅邪に遷し(江蘇省連雲港との説もある)、更に諸侯と会盟して中原の覇者となった。

勾践は讒言によって腹心の文種を粛清した。これを聞いた范蠡は勾践の猜疑心を知り尽くしていたために、既に斉に逃亡しており、陶朱公と称して富豪となっていた。紀元前465年、勾践は死去した。


滅亡
紀元前334年、勾践の6世の孫である無彊の代に楚の威王の遠征によって、王の無彊は逃亡するも、楚の追撃を受けて捕虜にされ直ちに処刑された。その後、楚懐王の代の紀元前306年頃までに、楚の王族卓滑によって滅ぼされた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A


[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理


35. 中川隆[-13657] koaQ7Jey 2018年11月18日 09:19:21: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20872] 報告
▲△▽▼

弥生人と言われていた民族も弥生前期は長江系、後期は朝鮮系で、別民族みたいですね。 天皇一族は勿論朝鮮系ですね:

弥生時代後期の弥生人骨 大半が渡来系 2018年11月18日
https://www.yomiuri.co.jp/local/tottori/news/20181117-OYTNT50025.html


研究の成果について報告する篠田副館長(右、鳥取市青谷町で)

DNA分析に使われている弥生時代の人骨。青谷上寺地遺跡展示館で展示が始まった


 ◇青谷上寺地遺跡

 ◇DNA分析 後期、盛んな交流


 鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で見つかった弥生時代後期の人骨について、県埋蔵文化財センターや国立科学博物館などが実施しているDNA分析調査の中間報告会が17日、同町の市青谷町総合支所で開かれた。

大半の人骨のルーツが大陸からの渡来系だったといい、同博物館の篠田謙一副館長は「日本人の成り立ちを知る重要な手がかりだ」と話す。(河合修平)

 遺跡からはこれまでに約5300点の人骨が出土。調査では、頭蓋骨約40点から微量の骨を削り取り、DNA分析を行っている。報告会では、母から子へ受け継がれるミトコンドリアのDNA配列を分析し、母系の祖先をたどった調査結果を篠田副館長が説明。市民ら約130人が聞き入った。

 篠田副館長によると、九州北部の遺跡から出土した弥生前期の人骨の分析では、在来の縄文系と渡来系の遺伝子が見つかった。当時の人が両方の祖先を持っていたことを示しており、青谷上寺地遺跡の人骨についても、両方の遺伝子が検出されると予想していたという。しかし、今回DNAを抽出した人骨32点のうち、31点が渡来系で、縄文系は1点だけ。DNAの型は29種類に分かれ、血縁関係がほとんどないことも分かった。

 青谷は遺跡の発掘調査から、大陸などとの交易拠点だったと考えられており、分析からも、多くの渡来人が入ってきて、交易で栄えていたことがうかがえるという。また、従来の研究では、稲作の普及や定住生活の広がりに伴って弥生後期には日本人の中に渡来系と縄文系が交ざっていたと考えられていた。しかし、今回の調査結果は定説に当てはまらず、篠田副館長は「これまでの説について発展的に考える契機になる」と述べた。

 共同研究では今後、細胞核のDNAから父系のルーツについても分析する。2019年3月には、鳥取市内で最終的な研究成果を発表する予定で、篠田副館長は「当時の人々がどのように暮らしていたのかを明らかにしていきたい」。報告を聞いた同市の会社員宮川昌樹さん(64)は「青谷でどんな人が暮らし、自分たちのルーツはどこにあるのか、興味をかき立てられた。研究内容に注目したい」と語った。

 同町の青谷上寺地遺跡展示館では17日、研究に用いられている人骨5点の展示も始まった。午前9時〜午後5時。月曜、祝日の翌日は休館。無料。終了日は未定。問い合わせは同展示館(0857・85・0841)。

2018年11月18日 Copyright © The Yomiuri Shimbun


24. 中川隆[-13726] koaQ7Jey 2018年11月30日 16:50:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463] 報告
日本人の源流考 2018/10/18
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1

  国立遺伝学研究所教授で著名研究者の斎藤成也氏が、2017年10月に核-DNA解析でたどる「日本人の源流」本を出版しました。 その中でやっと海の民にも焦点が当たり、当ガラパゴス史観の「縄文人の一部は海のハンター」史観が 間違ってはいないかもしれない雰囲気になって来ました。

  そろそろ時機到来の様相になって来ましたのでガラパゴス史観を総括し、日本人の源流考をまとめてみました。 これはY-DNA及びmtDNAの論文104編を読み込みメタアナリシスした結果得た、アブダクション(推論)です。 追加の着想がまとまる都度書き足します。 枝葉末節は切り捨て太幹のみに特化して組み立てていますので、異論・興味のある方は、 当史観が集めた論文をじっくり読んで是非御自分で源流考を組み立ててみてください。


0.はじめに

  当ガラパゴス史観が、Y-DNAとmtDNAツリー調査を進めて行った時、ホモサピエンスの歴史自身をもう少し深堀したい疑問が生じてきました。


・何故、ホモサピエンス始祖亜型のY-DNA「A」やY-DNA「B」はその後現代にいたる
 まで狩猟採集の原始生活から前進せず、ホモエレクトスの生活レベルのままだったの
 か?

・出アフリカを決行した結果、分化したシ−ラカンス古代4亜型の中でY-DNA「D」、
 Y-DNA「E」やY-DNA「C」などの、オーストラリア、ニューギニアやアンダマン諸
 島、アフリカなどの僻地に残った集団も、現代に至るまで何故「A」,「B」同様、狩
 猟採集から抜け出せなかったのか?

・彼らは本当にホモサピエンスになっていたのだろうか?我々現生人類はアフリカ大陸
 でホモサピエンスに進化してから出アフリカしたと思い込んでいるが、もしかすると
 出アフリカ後に、ネアンデルタール人との遭遇で現代型に進化したのではないか?


1.ネアンデルタール人の出アフリカから始まったようだ。

  ホモサピエンスの亜種とされているネアンデルタール人(ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス:Homo sapiens neanderthalensis)は、 ホモエレクトスから先に進化し、60万年ぐらい前には出アフリカし、先輩人類としてユーラシア大陸に拡がったらしい。 そして3万年前ぐらいには絶滅した、という見解になっている。

  しかし現生人類の遺伝子の3−4%はネアンデルタール人から受け継いでいることも研究の結果解明されている。 その後、現生人類の先祖が、スタンフォード大学の研究では2000人程度の規模で、出アフリカしユーラシアに拡がるまで ネアンデルタール人の歴史は既に数十万年を経過しており、その間にネアンデルタール人はユーラシア各地で亜種に近いぐらい分化していたらしい。 アジアで発掘されたデニソワ人はどうもネアンデルタール人のアジア型の1例のようだ、 しかも研究ではデニソワ人の遺伝子が現代人に6−8%も受け継がれている、という報告まである。

  これはつまり現生人類は既にある程度の高度な文化を築き上げていたネアンデルタール人との亜種間交雑の結果、 一気に爆発的に進化し現ホモサピエンスとして完成したのではないかと考えるのが妥当なのではないかと思われる。


2.原ホモサピエンスから現ホモサピエンスへ脱皮したのではないか!

  我々現代人(Homo sapiens sapiens=解剖学的現生人類)の祖先は、ネアンデルタール人が先に進化し出アフリカした後も進化できずに出遅れ、 アフリカ大陸に残存していたホモエレクトスの中で、先ずmtDNA「Eve」がやっと進化し、Y-DNA「Adam」は かなり遅れて進化したと考えられていた様だが、最近の研究ではY-DNA「Adam」も20万年近く前には既に現れていたらしい。

  しかも最近の発掘調査では、10万年前ごろにはすでにレバント地域に移動していたらしく、 8万年前頃には中国南部に到達していたのではないか、と報告されてきている。 これまでの5−6万年前頃に出アフリカしたのではないかという旧説が、どんどん遡ってきているのは 今後まだまだ新しい研究報告がある予兆と思われる。

  いずれにせよ、ネアンデルタール人が先に進化し、出アフリカした後に、落ちこぼれ 取り残されていた最後のホモエレクトスが遅れて進化したのが、我々の直接の先祖の原ホモサピエンスだったと考えられる。

  つまり、このころまでアフリカ大陸ではホモエレクトスが存続していた可能性があり、 原ホモサピエンスはホモエレクトスの最終形だったはずである。

Y-DNA「Adam」がY-DNA「A」となり、
Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分化し、
Y-DNA「BT」がY-DNA「B」とY-DNA「CT」に分化したが、

  この「A」と「B」はホモエレクトスのY-DNA亜型だった可能性も十分ありえる。

Y-DNA「CT」が初めて出アフリカし、Y-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分化した。

  これは中近東あたりで先住ネアンデルタール人との交雑の結果と推測可能である。

  この「C」以降が現生人類のY-DNA亜型と考えられるが、もしかするとネアンデル
  タール人の亜型の可能性だってありえる。

 つまりY-DNA「A」と「B」はホモ・サピエンス・サピエンスではあるが完成形ではない プロト(原)ホモ・サピエンス・サピエンスと言っても良いかもしれない。

 西欧列強が世界中を植民地化するべく搾取活動を続けているときにわかったことは、 アフリカ大陸やニューギニア・オーストラリアやアンダマン島の先住民は、 何万年もの間、古代のままの非常に素朴な狩猟採集民の文化レベルにとどまっていた、ということだった。

  研究調査からかなり高度な文化・技術レベルに達していたと判ってきているネアンデルタール人と比べると、 分類学的・解剖学的な現生人類/ホモサピエンスに進化したというだけではホモ・エレクトスと何ら変わらない文化レベルだったという証明だろう。 つまり脳容積がホモエレクトスより大きくなったり、会話が出きるようになった程度では、同時代のネアンデルタール人より原始的な、 しかし可能性は秘めている新型人類に過ぎなかったようだ(しかし体毛は薄くなり、前頭葉が発達し、見た目は多少現生人類的だが)。

  では一体、なぜ現生人類は現代につながるような文明を興すほど進化できたのだろうか?大きな疑問である。 一部の王国を築いた集団を除いた、古ネイティブ・アフリカンは大航海時代になっても、狩猟採集民でしかなかった。 その後西欧列強と出会わなければ、今でも狩猟採集のままのはずである。

  このことは、文明と言うものを構築するレベルに達するには解剖学的なホモサピエンスではなく、 何か決定的なブレークスルーのファクターがあったはずである。

  ネアンデルタール人と原ホモサピエンスの亜種間交配の結果、進化の爆発が起こったと推測するのが今のところ最も妥当だろう。

  出アフリカした先輩人類のネアンデルタール人と亜種間交雑し、 ネアンデルタール人がすでに獲得していた先進文化を一気に取り込むことに成功し、 恐らく人口増加率(繁殖性)が高い原ホモサピエンスの中にネアンデルタール人が自然吸収される形で統合化されたのが 完成形の現ホモサピエンスと考えるのが最も妥当性が高い。 (この繁殖力の高さが現生人類の勝ち残った理由なのではないか、想像を逞しくすると、交配の結果得た後天的な獲得形質かもしれない。)

  もし出アフリカせずネアンデルタール人とも出会わずアフリカの中に留まっていたら、 人類は相変わらず19世紀ごろのサン族やピグミー族のように素朴な狩猟採集段階に留まっているだろうと容易に推測できるが、 北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。 つまりホモサピエンスが出アフリカし狩猟採集文化から脱し、現代文明にまで至ったのは必然だったということかもしれない。


3.日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子系集団:Y-DNA「D」と「C」
  Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。

  移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、故地である地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 先住親遺伝子のY-DNA「A」の古サン集団等やY-DNA「B」の古ピグミー集団等の支配階級として ネイティヴ・アフリカンの主力となり現代に至っている。

  これは重要なことで、Y-DNA「A」と「B」はネアンデルタール人の遺伝子が混じっていない原ホモサピエンスだが、 ネアンデルタール人遺伝子を獲得したはずの現サピエンスのY-DNA「E」がアフリカ全土にもれなく拡大したため、Y-DNA「A」が主体のサン族も、 Y-DNA「B」が主体のピグミー族も支配階級はY-DNA「E」に代わっているようだ。 (余談だがアフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」がアナトリア、中近東から南下してきて 更に新しい支配階級として現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部になっている。)
  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのだろう。

  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至った。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのだろう。

  一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の 大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、そこから北上し現在の中国大陸に到達した。 その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、 その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し現代までJarawa族やOnge族として 絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきている。 Y-DNA「D」は基本的に原始性の強い狩猟採集民と考えてよいだろう。 日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いない。

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人(アジアにいたのは恐らくデニソワ人か?)と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できる。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えられる。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸に拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族やLani族などニューギニア高地人集団やオーストラリア・アボリジニ集団、つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っている。

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大した。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われる。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大である。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのだ。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔である。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できる。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。

  しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていない。 どうやら途絶えてしまった可能性が高い。 いやもしかすると火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高い。そしてY-DNA「D」のようにチベット高原のような高高地に適応できず 途絶えてしまったのかもしれないですね。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」が そのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 サハリンや北海道に留まった集団はアイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。

  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような 移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。 最も頻度が高いのはTanana族である、約40%もの頻度を持つ。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、 大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。


4.長江文明系稲作農耕文化民の到来

  さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

  古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した現代遺伝子亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、 Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分化しインダス文明を興し、後にドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。 Y-DNA「T」からは後のジェファーソン大統領が出自している。

  Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「NO」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。 このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く70-80%も残されており、テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。

  しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子は Y-DNA「R1a」,「R1b」,「J2」などに変貌している為、東アジア起源の面影は全くない。 唯一タタール人に若干の面影が残っているが、今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も40%以上も残っている。やはり移動性の強い遺伝子のようだ。

  さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている事は研究者の周知である。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えない(当史観は環境適応は進化ではないと考えるが、 ラマルクの後天的獲得形質論も進化論といわれるので、進化の一部なのでしょう。と言うことは余談だが、 人類(動物)は体毛が減少する方向に進んでいるので、実は禿頭/ハゲも「進化形態」である事は間違いない。)

  この東北アジア起源のY-DNA「O」は雑穀栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。

  一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」(旧「O2a」)と「O1b2」(旧「O2b」)が分化し稲作農耕は発展したようだ。 このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

  長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し江南から更にベトナムへ南下し、 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 ほぼ純系のY-DNA「O1b1」が残っているのはニコバル諸島 (Y-DNA「D*」が残るアンダマン諸島の南に続く島嶼でスマトラ島の北に位置する)のShompen族で100%の頻度である。

また南インドのドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、 越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。 カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、ドラヴィダ民族(特にタミール人)に 長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、その結果、学習院大学の大野教授が 日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となったが、こんな遠くまで稲作農耕民が逃げてきたことを間接証明した功績は大きい。

  一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。 この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州族で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州族の14%は、満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い(恐らく起源は同一集団)要因となっている。 北朝鮮はツングース系遺伝子の分布が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。 過去の箕子朝鮮や衛氏朝鮮が朝鮮族の起源かどうかは全く分かっていないが、呉系稲作農耕民が起源の一つであることは間違いないだろう。

  長江流域の呉越の時代の少し前に江南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、インド亜大陸でY-DNA「O1a」はほとんど検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは台湾のほとんどの先住民、フィリピンの先住民となんと日本の岡山県である。

  岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として 混在して来たのか単独で来たのか?岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は 楚系文化の名残と推測可能で、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。 台湾やフィリピンの先住民の民話を重点的に学術調査するとわかるような気がしますが。


5.黄河文明系武装侵攻集団の到来

  狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島での中国王朝出先機関内の生き残りの戦いに敗れ逃れてきたのが、 Y-DNA「O2」(旧「O3」)を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、 長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「群」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

  朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ追い出される形で日本列島に逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でも、また黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。

  この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていた戦闘要員としてのツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」であろう。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など 朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた騎馬を好む好戦的な集団と推測できる。

  この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の朝鮮半島の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由である。

  一方、韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」,Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」,「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。

  一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 特有の征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。


6.簡易まとめ

  日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、 一方過去の武士団や維新前後の武士や軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 日本人を構成するもともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。


  日本人の3つの源流は、

  ・日本列島の中で約1万年以上純粋培養されてきた大多数の素朴な狩猟採集民と少数のハンターの縄文系、

  ・中国大陸から僻地の日本列島にたどり着き、集団の和で結束する水田稲作農耕民の弥生系、

  ・朝鮮半島を追い出された、征服欲出世欲旺盛な大王系/武士団系の武装侵攻集団系、


  個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの古代遺伝子(縄文系、しかも女系遺伝するmtDNAでは何と約67%が 縄文系のmtDNA「M」系なのです。)が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。 もしこの縄文系遺伝子がなければ、日本列島と朝鮮半島及び中国はほとんど同一の文化圏と言って差し支えないでしょう。 それだけ縄文系遺伝子がもたらした日本列島の基層精神文化は、日本人にとって世界に冠たる独特の国民性を支える守るべき大切な資産なのです。


7.後記

  これまで独立した亜型として扱われてきた近代亜型のY-DNA「L」,「M」,「N」,「O」,「P」,「Q」,「R」,「S」,「T」は、 現在、再び統合されてY-DNA「K」の子亜型Y-DNA「K1」とY-DNA「K2」の更に子亜型(孫亜型)として再分類される模様です。 つまり独立名をつける亜型群として扱うほど「違いが無い」ということなのです。

  ところがこのY-DNA「K」は、我々極東の代表Y-DNA「O」や西欧の代表Y-DNA「R」や南北ネイティヴアメリカンの Y-DNA「Q」等が含まれているのです。 とても遺伝子が近いとは思えないのです。では何故これほど外観も行動様式も異なるのだろうか?

  これらの亜型群は何十万年の歴史でユーラシア大陸の各地で亜種に近いほど分化していたと考えられている ネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNA亜型を受け継いだだけの可能性も十分にあるのです。 西欧と極東であまりにも異なる外観や行動様式などの違いの原因を亜種間の接触に求めるのは荒唐無稽とは言えないでしょう。 何しろネアンデルタール人もデニソワ人もホモサピエンスも元をただせばホモエレクトス出身で当然Y-DNAもmtDNAも 遺伝子が繋がっているのだから。恐らくY-DNAもmtDNAもほとんど同じ亜型程度の違いしかない可能性は高いのです 今後の研究の発展を楽しみに待ちましょう。


8.余談

  (極めて余談ですが、北方系極東人の多くは寒冷地適応や黄砂適応を受け、フラット顔になってはいますが、 中国で発掘される古代人骨はほとんどコーカソイド顔であり、フラット顔は後天的獲得形質であることは研究者達が認めています。 日本人にはこの後天的獲得形質を獲得してから日本列島に渡ってきた集団が多かったことを示しています。 日本人の胴長短足は、高身長の弥生系と武装侵攻系の上半身と小柄な縄文の下半身の交雑の結果に過ぎず、日本人に意外に多い反っ歯や受け口も 弥生系の細身の顎に縄文系のがっしり歯列が収まりきらず前に出てしまっただけであり、親知らずは逆に出られなかっただけです。

  また日本人固有の古代的なホスピタリティは、縄文系である古代亜型Y-DNA「D」と「C」(合計で日本人男性の出現頻度約45%を占める) 及びmtDNA「M」(合計で日本人全体の約67%を占める)の固有の特質であり、近代亜型群の特質ではありません。 つまり特に日本人と他の民族との違いのほとんどは、この縄文系遺伝子の伝えてきた極めて古代的な、 狩猟採集民やハンター民の持つ行動様式や思考回路のもたらす結果に帰することは疑いようがありません。

  もし、天孫族や武士団族が朝鮮半島から負け組として追い出されてこなければ、日本列島は徳川時代の高度な文化もなく、 当時世界最大の都市だった江戸もなく、容易に西欧列強の植民地になっていたでしょう。つまり極めて残念なことですが、 日本人の世界に冠たる高度な技術力や文化性は、日本列島の3重遺伝子構造を構成する遺伝子の中で最後にやってきた Y-DNA「O2」(旧O3)がもたらしてきたものなのです、中国や韓国と支配階級が同じY-DNA「O2」遺伝子なのに結果が異なってきたのは、 常に外敵との抗争や侵略に脅かされ、技術や文化の熟成が近代までに確立「出来なかったか/出来たか」の違いなのでしょう。)


9.時代の趨勢

  3.3 Y-DNA「R1b」に書いた文章を復誦します。

  極めて明らかなことは、国・国民が先進的になるには純系民族では無理なのです。辺境民化してしまいエネルギーが低すぎるのですが、 競う共存遺伝子の種類が多ければ多いほど集団エネルギーが高くなり、国の活性度が上がり、覇権に向かうのです。 アジアの中で唯一近代化に成功した日本は縄文系−弥生系(長江文明系)−武装侵攻系(黄河文明系)が交雑し、 武装侵攻系が核になり集団エネルギーを一気に高め、一時はジャパンアズNo1と覇権を握るかもしれないほどの勢いを手に入れました。

  しかし日本が高止まりしてしまった間に中国が、日本以上の複雑な遺伝子ミックスにより集団エネルギーを高め、近代化らしきものに成功し 対外的には日本に取って替わりアジアの覇権を握ったように見えるレベルに達しました。しかし国民一人当たりの生産性があまりにも低く、 日本の1/4以下程度しかなく真の覇者には恐らく永久になれないでしょう。

  その中国も恐らく近いうちに日本同様高止まりするでしょうが、東アジアには日本、中国に代わる国はもはや存在しません。 南アジアのインドはロシアのスラブ系と同じインド・ヨーロッパ系遺伝子が支配する国ですが、中国同様あまりに国民一人あたりの 生産性が低すぎ日本の1/20程度しかなく覇権には届かないでしょう。

  当分の間はY-DNA「R1b」のアメリカとY-DNA「O2」(旧「O3」)の中国が覇権争いを続けるでしょうが、中国も日本もアメリカに 対する輸出で生産性を上げてきたので、アメリカにとって代わることは逆に自滅に向かうためまず不可能でしょう。
  非常に残念ですが、現代世界の構図は、世界の警察官であり輸入超大国のアメリカが太陽として中心に存在し、世界中から生産物を 買いまくり、そのおかげでアメリカの周りに各国が衛星のように回っていられるだけなのです。 水星、金星はEU諸国、地球は日本、火星はロシア、木星が中国、土星がインドという感じでしょうか。

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空想談

  このコラムの項目2で「北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。」と書いたのですが、 布団に入ってウトウトし始めた時に、突然、”空想の語り部”が降臨してきて グチュグチュと御託言を言い残していったので、忘れないうちに書き留めます。

  何故、ヒトを含む類人猿の進化ツリー前半のギボン(テナガザル)やオランウータンは(東南)アジアにしか棲息しておらず、 進化ツリー後半のゴリラやチンパンジーはアフリカにしか棲息していないのか?

  ヒトがアフリカで発祥したのはチンパンジーとの共通の祖先がアフリカにしかいなかったからなのは極めて明白ですが、 では何故共通の祖先はアジアにはいなかったのか?何故アフリカにしかいなかったのか? この疑問に関する納得できる説明を探してみたのですが、今のところ全く見つかってはいません。

  今のところの進化ツリーでは進化の後半で、ゴリラの祖先になった類人猿はアジアからアフリカに大移動をしたことになります。 要するに、ヒトの遠い源郷はアジアだったから、人は出アフリカしてユーラシア大陸を東に進んだと言うことになります。 つまりサケやウナギが戻ってくるのと一緒で、源郷戻りが遺伝子に埋め込まれているのではないか!? では逆に、なぜ類人猿はアジアからアフリカに移動をしたのか?も依然、極めて大きな謎です。

  とにかく解剖学的現代ヒト族は宿命に導かれ出アフリカし、中東あたりで先輩ヒト族の中東型ネアンデルタール人と交雑し分化し、 インド洋の沿岸に沿って東のアジアを目指し大移動を決行し、古代遺伝子Y-DNA「C」と「D」はアジアに到達しそこで棲息をしてきたわけです。 ところが別の古代遺伝子Y-DNA「E」は、せっかく出アフリカしたにも関わらずまたアフリカに出戻ってしまった。 ということはアフリカに進むことも遺伝子に組み込まれているのかもしれない。

  では残りの古代遺伝子Y-DNA「F」は、なぜインド亜大陸に留まり全新興遺伝子の親遺伝子となったのだろうか? アフリカ大陸でヒト族がチンパンジーとの共通の祖先から分化したように、インド亜大陸で新興遺伝子の共通の祖先の古代遺伝子「F」から 分化したのでしょう、それを実行した最も考えられる要因はアジア型ネアンデルタール人との交雑でしょう。

  インド亜大陸はアフリカ大陸と同様の、進化や分化を後押しするパワーがあるのではないか?誰か研究してくれませんかね!!!!!。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1


25. 中川隆[-13725] koaQ7Jey 2018年11月30日 16:52:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463] 報告

歴史REAL日本人の起源 (洋泉社MOOK 歴史REAL) ムック – 2018/6/5
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2REAL%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-%E6%B4%8B%E6%B3%89%E7%A4%BEMOOK-%E6%AD%B4%E5%8F%B2REAL/dp/4800314739


『洋泉社ムック歴史REAL 日本人の起源』 2018/07/24
https://sicambre.at.webry.info/201807/article_37.html


 洋泉社より2018年6月に刊行されました。本書はおもに、弥生時代までの古代DNA研究・縄文時代研究・弥生時代研究の解説で構成されています。それぞれの執筆者は篠田謙一・山田康弘・藤尾慎一郎の各氏で、期待できそうなので購入しましたが、期待通りに最近の研究成果を知ることができました。とくに、弥生時代までの古代DNA研究の解説では、私が不勉強なため、多くの知見を新たに得ることができ、たいへん有益でした。以下、本書で注目した見解について、備忘録的に取り上げていきます。

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析から、縄文人にはハプログループM7aとN9bが広範囲で見つかっており、現代ではほぼ日本人にしか見られません。ただ、どちらも出現(分岐)年代が3万〜2万年前頃なので、38000年前頃に日本列島に進出してきた人類と縄文人とは直接的な祖先-子孫関係にはなかった可能性が指摘されています。もっとも、あくまでもmtDNA解析に基づく推測ですから、38000年前頃の日本列島の人類集団と縄文人とが、もちろんその後の流入による遺伝的影響はあるとしても、直接的な祖先-子孫関係にある可能性も考えられます。

 縄文人のmtDNA解析数も蓄積されて、地域差が見えてくるようになりました。琉球列島を含む関西以西ではM7aが卓越するのにたいして、北海道・東北ではN9bが多数を占めています。また、サブグループまで分類すると、関西以西と東北・北海道では、M7aでもそれぞれ異なるグループが分布しています。そのため本書では、地域間の人的交流が広範囲に及ぶものではなかったかもしれない、と指摘されています。もっとも、後述するように、遺伝的交流は盛んではなくとも、交易などによる文化的交流はある程度以上活発だった可能性もじゅうぶんあるとは思います。

 また、現代日本人では、N9bが2%程度で、7%程度存在するM7aも、縄文時代の関西以西のサブグループで大半を占めることから、現代日本人に継承されている縄文人のDNAは、おもに西日本の縄文人に由来するのかもしれません。そうだとすると、弥生時代最初期にユーラシア大陸から九州北部に渡来した集団が在地の縄文人と混合し、東進していったために、現代日本人に占める縄文人の遺伝的影響は、西日本系の方が東日本系より高くなったのかもしれない、と本書は推測しています。

 縄文人のゲノム解析も進められており、最近になって、北海道礼文島の船泊遺跡から出土した3800〜3500年前頃の女性のゲノムは、現代人とほぼ同じ精度で解析されたそうです。平均網羅率は明示されていませんでしたが、30倍以上ということでしょうか。この女性の血液型はA型で、耳垢は湿式、切歯はシャベル状ではなく、巻き毛だったことが明らかになっています。これらの表現型はおおむね予想通りでしたが、目の虹彩は茶色で、人骨からの推測通り、身長が低くなる傾向を有する遺伝子が確認されました。

 この女性の両親は近い血縁関係にあり、両親の近縁関係の程度はアマゾンの先住民と同じくらいと推測されています。船泊遺跡からは、新潟県の糸魚川沿いの翡翠や、シベリアで発見されたものと類似した貝製装飾品が発見されていますが、婚姻圏は狭かったのではないか、と本書は推測しています。ただ、こうした狭い婚姻関係が一般的だったのか否かは、もっと縄文人のゲノム解析数が蓄積されないと、判断が難しいように思います。

 船泊遺跡の女性のゲノム解析の結果、福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚の縄文人と同様に

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201609/article_3.html


船泊縄文人も現代の東アジア集団とは大きく離れている、と明らかになりました。現代人の集団で船泊縄文人とある程度遺伝的に近縁性を示すのは、アイヌ・琉球・「本土」日本・台湾や沿海州などユーラシア東部圏沿岸地域の先住民でした。本書は、東南アジアからの初期拡散により北上した集団のなかでユーラシア東部圏沿岸地域に居住した人々が融合し、縄文人が形成されたのではないか、と推測していますが、確証するにはユーラシア大陸の古代DNA解析が必要だ、と指摘しています。

 船泊遺跡では縄文時代の男性遺骸も発見されており、ゲノムが部分的に解析されているそうです。この男性もゲノムが解析された女性も、海獣など脂肪分に富む食資源に依存している場合に有利となる、脂肪代謝に関連する多様体を有しており、北極圏の先住民集団も同様です。船泊遺跡ではじっさいに漁撈具や海獣の骨が多数発見されているので、海獣への依存度が高い食生活を送っていたようです。船泊遺跡の男性のY染色体ハプログループは、現代日本人では30%以上存在するものの、中国や韓国ではほとんど見られないD1bでした。しかし、船泊遺跡の男性のY染色体ハプログループは、D1bの中でも現代日本人で多数を占めるサブグループD1b1ではなく、Y染色体でも、北海道の縄文人が現代日本人にはさほど遺伝的影響を及ぼしていない、という可能性が想定されます。

 弥生時代の人類のゲノム解析も進められていますが、縄文系と渡来系という以前からの形態学的分類がそのまま当てはまるものではなく、複雑な様相を呈していることが明らかになってきました。福岡県那珂川町安徳台遺跡で発見された弥生時代中期の女性は、典型的な渡来系弥生人と考えられており、遺伝的には韓国や中国の集団と類似する、と予想されていましたが、ゲノム解析の結果、現代日本人の範疇に収まり、むしろやや縄文人に近い、と明らかになりました。本書は、安徳台遺跡の弥生時代中期の集団が東進し、在来の縄文系と混合していったとすると、現代日本人における縄文人の遺伝的影響はもっと高くなっていると予想されることから、弥生時代中期〜古墳時代におけるユーラシア大陸からの渡来を想定する必要がある、と指摘しています。

 縄文系とされる弥生人のゲノムも解析されています。長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡で発見された弥生時代後期の合葬された男女2人は、縄文人と共通する形態学的特徴を有している、と評価されています。mtDNAのハプログループでは、女性が縄文系と考えられるM7a、男性が渡来系と考えられるD4aと明らかになりました。しかし、核ゲノム解析では、縄文人と現代日本人の中間に位置する、との結果が得られました。上述した安徳台遺跡の事例からも、弥生時代には在来系と渡来系との融合が進んでおり、弥生人は均一な集団ではなく、独自の遺伝的構成を有していた、と言えるでしょう。本書は、弥生時代の渡来系は当初より在来系の縄文人と融合し始め、当時の朝鮮半島には渡来系弥生人と同じ遺伝的構成を有する集団はいなかっただろう、と推測しています。

 また本書は、弥生時代になっても日本列島の大半に縄文系の人々がいたと考えられることから、弥生時代以降もユーラシア大陸から日本列島への流入があり、現代日本人につながる集団の完成は古墳時代だろう、との見通しを提示しています。まだ予備的な研究の段階ですが、古墳時代になると、関東の集団の遺伝的な構成が大きく変わるそうで、古墳時代の日本列島の住民のDNA解析の進展が期待されます。また、飛鳥時代以降の古代DNAの解析も、日本史研究に大きく寄与するでしょうから、今後の研究の進展が楽しみです。


 これまで、先史時代の研究は考古学と形態学が主流でした。近年では古代DNA研究の進展が目覚ましいものの、考古学と形態学でも研究は着実に進展しています。日本列島最初期の土器は北海道では発見されておらず、朝鮮半島最古の土器は1万年前頃であることから、縄文土器は日本列島で開発された可能性が高そうです。また南島地域においては、縄文文化との共通性も相違点も見られ、時期により縄文文化と連動したり離れたりしていたそうです。本書は、他地域との交流はあるにしても、対馬海峡において文化的な境界線を引けることからも

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_45.html

縄文文化の空間的範囲は、現代の日本国の領域と厳密に一致しているわけではないものの、ほぼその範囲に収まる、との見解を提示しています。

 これは形態学的にも言えることで、縄文人の形質は、空間的には北海道から九州まで、時代的には早期から晩期前半までほぼ同一で、世界中で類似した古人骨は発見されていないそうです。そのため、縄文時代には、形質を大きく変化させるような他地域からの人的流入はなかった、と考えられています。それでも、やはり地域差はあり、北海道では地位内の差異が比較的大きい一方で、九州では小さいことが明らかになっており、縄文人の形成過程と関わっているかもしれません。

 縄文時代には定住が進みましたが、その度合いは地域により異なっており、その要因は依存していた食資源の違いだろう、と推測されています。縄文時代の農耕は近年よく主張されるようになりましたが、畑はまだ見つかっておらず、ダイズやアズキなどの作物が確定しただけだ、と本書は慎重な姿勢を示しています。縄文時代には、後期において、墓の分析から、北海道や東北でかなりの階層化が生じていた、と推測されています。しかし本書は、晩期にはこれらの地域で均質化が見られることから、おそらくは人口の少なさが要因で、階層社会は持続しなかっただろう、と指摘しています。

 弥生時代については、本書では紀元前10世紀にさかのぼるとする早期説が大前提となっていますが、まだ議論が決着したとは言えないようです

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201406/article_1.html


茨城県と栃木県以北では、水田稲作が行なわれても環濠集落が見られませんが、本書はその理由を、地域の核となる存在がなかったからではないか、と推測しています。水田稲作は、災害にあってもすぐに再開する傾向が強いのですが、東北の北部では、水田稲作が途絶えて数百年再開されませんでした。本書はその理由として、寒冷な気候が要因ではなく、東北の北部には水田稲作が始まっても土偶があることから、何らかの信仰形態・世界観の違いを挙げています。本書では古墳時代についても少し言及されており、九州や近畿では墳丘墓が早くから見られるものの、紀元後には衰退して古墳時代には直結しておらず、古墳時代の直接の起源は、紀元後2世紀半ば〜後半にかけての吉備や出雲にあるのではないか、との見解が提示されています。
https://sicambre.at.webry.info/201807/article_37.html


26. 中川隆[-13724] koaQ7Jey 2018年11月30日 16:53:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463] 報告

最先端技術を用いた古人骨全ゲノム解析から東南アジアと日本列島における人類集団の起源の詳細を解明 2018年7月25日
https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/58540

金沢大学人間社会研究域附属国際文化資源学研究センターの覺張隆史特任助教,医薬保健研究域医学系・革新ゲノム情報学分野の佐藤丈寛助教および田嶋敦教授は,コペンハーゲン大学が中心となって進めている古代ゲノム研究の国際研究チームと共に,日本列島の縄文時代遺跡や東南アジアから出土した古人骨26個体のゲノム解析(※1)を実施し,今日の東南アジアで生活する人々の起源と過去の拡散過程を解明しました。

今回,ゲノム解読がなされた縄文人骨は,愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚遺跡(※2)から出土した約2千500年前の縄文晩期の女性人骨(※3)で,縄文人の全ゲノム配列(※4)を解読した例としては世界で初めての公表となります。

この縄文人骨1個体の全ゲノム配列をもとに,現代の東アジア人,東南アジア人,8〜2千年前の東南アジア人など80を超える人類集団や世界各地の人類集団のゲノムの比較解析を実施した結果,現在のラオスに約8千年前にいた狩猟採集民の古人骨と日本列島にいた約2千500年前の一人の女性のゲノムがよく似ていることが分かりました。

このように,本研究は,縄文時代から現代まで日本列島人は大陸南部地域の人々と遺伝的に深いつながりがあることが,独立した複数の国際研究機関のクロスチェック分析(※5)によって科学的に実証された初めての研究として位置付けられます。

特に,縄文人骨のゲノム解析は,覺張隆史特任助教,北里大学医学部の太田博樹准教授,国立歴史民俗博物館の山田康弘教授を中心とした『縄文人ゲノム解読プロジェクト(※6)』の成果の一つとなります。

これらの知見は,日本列島に居住していた各時代の人々の起源の解明に将来活用されるだけでなく,広く東アジア・東南アジアにおける人類集団の起源と拡散に関する研究に大きな寄与をもたらすことが期待されます。

本研究成果は,2018年7月6日に国際学術誌「Science」に掲載されました。


https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/58540
図 古人骨ゲノムデータから復元された人の拡散ルート

【用語解説】

※1 ゲノム解析
生物が持つ遺伝情報の広範囲な解析のこと。

※2 伊川津(いかわづ)貝塚遺跡
愛知県田原市に位置する縄文時代後晩期の貝塚遺跡。明治期から現代までに200体以上の人骨が検出されている日本で最も代表的な縄文時代遺跡。小金井良精や鈴木尚など著名な人類学者が人骨の形態学的な研究を進めてきた。同市は,他にも,吉胡貝塚,保美貝塚などの縄文時代を代表する貝塚が古くから調査されており,各遺跡から非常に多くの人骨が検出されている。

※3 約2千500年前の縄文晩期の女性人骨
2010年度に伊川津貝塚から出土した縄文人骨。近年の研究では,日本列島における弥生時代の開始は3000年前とされているが,弥生文化の到来時期は地域ごとに異なる。今回の伊川津貝塚出土の成人女性人骨は共伴した土器などから,五貫森式土器の時期のものと判明しており,渥美半島においてこの時期はまだ縄文時代の文化を残している。また,分析対象となった女性人骨は形態学的に典型的な縄文人の特徴を有していた。

※4 全ゲノム配列
生物が持つDNA配列の中でも,タンパク質の発現に関連する遺伝子領域のDNA配列だけでなく,遺伝子以外の領域全てを含めた広い範囲のDNA配列のこと。

※5 クロスチェック分析
異なる分析機関,異なる分析手法,異なる解析手法で,独立して同じ結果が得られるかを評価する分析手法のこと。古代DNA研究で重要な科学的指標の一つに当たる。

※6 縄文人ゲノム解読プロジェクト
日本の考古学者と人類学者,遺伝人類学者,ゲノム研究者などから構成される研究プロジェクト。
https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/58540


以下、詳しい説明(PDF)より抜粋
 ==========================================================

【研究成果の概要】

本論文で国際共同研究チームは,DNA の保存環境として最も悪い東南アジアの遺跡出土人骨25 個体と日本の縄文人骨1 個体の計26 個体の古人骨からDNA 抽出を実施し,ゲノム配列決定に成功しました。得られた古人骨ゲノムデータと世界各地の現代人集団のゲノムデータを比較した結果,東南アジアに居住していた先史時代の人々は,6 つのグループに分類できることが分かりました(図3)。

グループ1 は現代のアンダマン諸島のオンゲ族やジャラワ族,マレー半島のジャハイ族と遺伝的に近い集団で,ラオスのPha Faen 遺跡(約8 千年前)から出土したホアビン文化という狩猟採集民の文化を持つ古人骨と,マレーシアのGua Cha 遺跡(約4 千年前)の古人骨がそのグループに分類されました。

また,このグループ1 に分類された古人骨のゲノム配列の一部は,驚くことに日本の愛知県田原市にある伊川津貝塚から出土した縄文人(成人女性)のゲノム配列に類似していたことが分かりました。

さらに,伊川津縄文人ゲノムは,現代日本人ゲノムに一部受け継がれていることも判明しました。

一方,他のグループ2〜6 は農耕文化が始まる新石器時代から約500 年前までの古人骨で,ホアビン文化の古人骨とは遺伝的に大きく異なっており,それぞれ異なる拡散と遺伝的交流(すなわち混血)の歴史を持っていることが分かってきました。

グループ2はムラブリ族などの現代オーストロアジア語族と遺伝的に近く,現代東アジア集団とは遺伝的な構成要素をあまり共有していないことが分かりました。

さらにグループ1 と東アジア集団が分かれた後に,グループ1 からグループ2 への混血の痕跡が見つかりました。

また,グループ3 は現代東南アジア集団のタイ・カダイ語族やオーストロネシア語族と遺伝的に近く,グループ4 は現代の中国南部地域の人々と遺伝的に近いことも分かりました。

さらに,グループ5 は,現代のインドネシア西部の人々と遺伝的に近く,グループ6 は,いわゆる旧人に分類される古代型人類であるデニソワ人からの部分的な混血の痕跡なども見られました。

このように,部分的には中国南部の少数民族からの遺伝的な影響があったり,台湾などの地域へも遺伝的なつながりがあったりと,新石器時代の東南アジアの人々は単純に元々住んでいた狩猟採集民がそのまま農耕を取り入れたという静的な状態ではなく,大陸内と島嶼部で複数の大きな移住の過程で徐々に農耕を取り入れて行ったことが分かってきました。

従来の考古学的な視点からは,これらの時期には稲作・雑穀などの農耕文化を持つ人類集団が東南アジアに多数入植して原住民と置き換わったというシンプルな「2 層構造仮説」が提唱されてきました。

本研究成果では,すでに稲作文化を持っていた中国南部からの遺伝的な影響は部分的で,人々が完全に置き換わったということではないことが判明しました。その大きな移住の波が少なくとも4 回以上はあったことが解析の結果分かってきたことから,このような東南アジアの人々の移動を「複合モデル」という新しい枠組みで捉え直すことになりました。

本研究は,考古遺物でしか人類の拡散の議論ができないと従来考えられてきた東南アジア地域において,古人骨のゲノム分析により人類の拡散を解明した初の成功例になりました。今後,同様の分析を様々な地域に応用することで,各地域の詳細な人類の移動史を科学的に評価することが可能になったことが,本研究の最も大きな成果といえます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=337608


27. 中川隆[-13723] koaQ7Jey 2018年11月30日 16:53:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463] 報告

縄文時代における九州と朝鮮半島との交流 2018/05/27


 以前、当ブログで


つくられた縄文時代: 日本文化の原像を探る (新潮選書) – 2015/11/27
山田 康弘 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%83%8F%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%82%8B-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B1%B1%E7%94%B0-%E5%BA%B7%E5%BC%98/dp/4106037785


を取り上げ、縄文時代における九州と朝鮮半島との交流についても少し言及しましたが

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201512/article_30.html


もう少し詳しく同書の見解を取り上げることにします(同書P129〜133)。

じゅうらい、縄文時代の日本列島は他地域との交流がほとんどなかった、と考えられてきました。それは、「縄文人」のような形態の人類集団が他地域で確認されず、細かな地域差・時代差があるとはいえ、地理的範囲は北海道から九州まで、時間的範囲は早期から晩期前半まで、「縄文人」の形態はほぼ同一とされてきたからでした。

 しかし、考古学的資料により、縄文時代における九州、さらには西日本と朝鮮半島との交流が明らかになってきました。たとえば、西日本各地に分布する縄文時代前期の轟式土器や曽畑式土器は、朝鮮半島に分布する隆起線文土器や櫛目文土器との類似性が指摘されています。また、轟式土器と曽畑式土器の間に位置づけられる西唐津式土器と朝鮮半島の土器との関係も指摘されるようになっており、相互の土器形式に影響を及ぼす水準で交流があったことは確実とされています。

 朝鮮半島の煙臺島遺跡からは、縄文時代の石器として一般的な石匙が出土しています。縄文時代後期に西北九州で多くみられる石鋸も、朝鮮半島の松島遺跡など南岸部から出土しています。佐賀県の腰岳から産出する黒曜石は、朝鮮半島南岸部からも出土しています。また、朝鮮半島の土偶の中には、縄文時代早期のものとの類似性が指摘されるものもあります。その他にも、縄文時代には珍しくない貝輪・獣歯牙製装身具・土製耳飾りなどが、朝鮮半島南部で出土しています。こうした遺物だけではなく、人類遺骸でも、朝鮮半島と縄文時代の日本列島との交流の可能性が指摘されています。煙臺島遺跡から出土した人類遺骸には、縄文人の形態がよく認められるそうです。

 しかし、近年の研究の進展により、九州を中心とする縄文時代の西日本と朝鮮半島との交流については、一時期の過大評価が訂正される傾向にあるようです。まず、朝鮮半島における縄文(系)土器の出土点数は、在地の有文土器と比較すると0.1%にも満たない、とのことです。また、土器の製作技法・文様の割り付け方法・結合式釣針の製作技法などの比較の結果、縄文時代の日本列島と朝鮮半島との類似性は、同一の文様構成原理や技法で製作されたという水準ではなく、あくまでも視覚的な部分に留まっている、とも指摘されています。見た目は類似しているものの、人間が恒常的に往来して製作技法そのものが伝えられているような状況ではなかっただろう、というわけです。

対馬の越高・尾崎遺跡や夫婦岩遺跡などでは、朝鮮半島系の土器が主体的に出土することもありますが、これは特定の時期だけの減少で、他の時期では基本的に縄文土器が出土するそうです。朝鮮半島には縄文(系)土器が主体的に出土する遺跡は存在せず、あくまでも単発的・客体的に出土するにすぎません。

 これまで、縄文時代の日本列島と朝鮮半島の考古学的資料の類似性は、交流の証明としてひじょうに高く評価されてきましたが、再考が必要ではないか、と本書は指摘します。縄文時代の北部九州と朝鮮半島南部との交流はさほど多くなく、南島地域との比較でも少なかったので、北部九州と朝鮮半島南部の間には言語の壁があったのではないか、との見解も提示されています。

また本書は、朝鮮半島では土偶はほとんど出土せず、大型のものはないことと、縄文文化でよく見られる呪術具は朝鮮半島では出土頻度が低いことなどからも、縄文時代の北部九州と朝鮮半島南部は文化を共有するという状況ではなく、対馬海峡で線を引くことが可能ではないか、と指摘します。縄文文化がユーラシア大陸からの影響を受けたことは間違いないとしても、縄文文化はおおむね日本列島内に収まっているとの見解にも一理ある、と本書は指摘しています。
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_45.html

28. 中川隆[-13722] koaQ7Jey 2018年11月30日 17:00:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463] 報告

畿内の被差別部落民は縄文人の子孫

2013年12月17日 形質人類学のデータ

第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、


部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。


とし、


頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。


と書き、さらに、


大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。


と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099203.html

小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」
『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号

畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、
東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を
とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。

このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、
東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半
島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、
東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に
一致することは興味深い(以上、75頁)

(追加)形質人類学的にみた未解放部落

われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調
査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。

(中略)

身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。
頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅
は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、
一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国
東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので
ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ
いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。

大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持
つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ
らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ
ているものと思われる。このような部落の成因については、文化史その他の
分野より検討せらるべき課題であろう。(成績はいずれも男子資料による)
(大阪大学医学部教授)


▲△▽▼

網野善彦 『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』 岩波現代文庫

私がこの『東日本と西日本』を読んで、とくに衝撃をうけた記憶がはっきりとあるのは、小浜基次さんの論文でした。

小浜さんは大阪大学の名誉教授で、形質人類学・解剖学の専門家、1904年に生まれ、1970年に亡くなっておられます。

この文章は短いものですが、小浜さんは形質人類学の立場から日本列島の、
東と西に住む人びとの差異をいろいろな角度から指摘しておられます。

その中で私がもっともショックを受けたのは、朝鮮半島人と、近畿、瀬戸内海沿岸の人びとがきわめてよく似ており、
形質上は同じであると指摘されている点です。

そしてそれに対して、山陰・北陸と東北の人びとと近畿人との差異は、朝鮮半島人と近畿人の違いに比べて、
はるかに大きく、東北、北陸の人びとはむしろアイヌに近いと小浜さんは強調しておられます。

これは頭部の特性、短頭、中頭、長頭をはじめ、身体的な特質から導き出された結論ですが、
さらに衝撃だったのは小浜さんの、被差別部落に踏み込んだ発言でした。

小浜さんは大阪大学の方ですから、ここまで立ち入っておられるのですが、この論文の書かれた時期には、
被差別部落民は朝鮮半島から渡ってきた人たちだというとらえ方をする人たちが、実際に関西では少なからずあったと思います。

これに対して、小浜さんはとんでもない誤りで、むしろ部落を差別している人びとの方が朝鮮半島人にそっくりで、
差別されている被差別部落の人びとは、東日本人、東北北陸型の人びととむしろ形質上はよく似ているとされています。

小浜さんは被差別部落の人びとが朝鮮半島からきたなどということはまったくの誤りだと強調されているのです。

29. 中川隆[-13721] koaQ7Jey 2018年11月30日 17:02:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463] 報告

畿内の被差別部落民は縄文人の子孫 _ 2


chielien_4f89277efa984404924a2bf6bさん 2016/8/30 21:55:06

同和地区、被差別部落関連のご相談です。気分を害される方もいらっしゃるかと思いましたがネットで調べても詳しく分からないのでこちらでご相談させていただくことにいたしました。

付き合って5ヶ月ほどの彼氏がいる30代の女性です。

年齢のこともあり、付き合い始めからお互い結婚を意識した中で、お付き合いをしております。付き合って3ヶ月頃には互いの両親にも会うことができ、双方の両親ともに私たち自身は気に入ってくださっています。ただ、、彼のご両親が同和地区や被差別部落出身のことを気にされる方のようで、私の苗字と、両親祖父母の出身地が九州ということを知ると、祖父が部落出身ではないかということを気にされてるということを聞きました。

第三者機関で調べてくださって結構ですとお伝えしたのですが、付き合いもまだ浅く、結婚の話にも具体的になっていないので調べないと言われました。彼もご両親と言い合いになったりして辛い思いをしています。なんとかこれから結婚という先を見て楽しくお付き合いを続けたいと思っているので、彼も私も自分達なりに調べたところ、そちらの出身ではないと思っているのですが、それでは信じてもらえる証拠にならず困っています。興信所に調べてもらいたいと思っています。そこでお聞きしたいのですが、

@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。

A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。

B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。

探偵も興信所も、部落問題は取り扱わないと記載されていることが多いので困っています。もちろん私も彼も差別はしてはいけないという考えですが、彼のご両親にも色々と事情があり、彼のことを思って気にしているので、彼とご両親を仲違いさせていることに心苦しいのです。ただ私も彼もお互いこの人と結婚したい‼︎と心から願っています。とはいえ彼の大切なご両親に祝福されないまま強行突破はしたくありません。わがままかもしれませんが、、

とにかく調べる方法がなにかあれば助言をいただけると大変嬉しいです。
また、同じような経験をされた方がいらっしゃったらどのようにされたのかお聞きしたいです。

大変深い悩みで辛い思いをしております。差別だというご叱責は遠慮していただきたいです。

___

Answer katuragi_893さん 2016/9/11 8:49:32

部落とは元来、村の集落を表す単語で昔はズバリ、穢多村・穢多・非人村・非人と言っていましたが、余りに露骨すぎるので今は穢多村・穢多・非人村・非人の隠語で部落を使ってます。同和は「同胞融和」の意味でこれまた穢多村・穢多・非人村・非人の隠語です。(江戸時代中期以前は穢多と非人は違うモノでしたが江戸時代後期?頃から、セックス、混血、共同行動で今では非人も穢多に同化し同じモノです。有名な非人の末裔に「フーテンの寅」こと車 寅次郎がいます)
https://www.youtube.com/watch?v=HR01VW7qpKY
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穢多とは奴隷の末裔で日本人じゃ無い。諸説あるが

穢多(えた)とは
日本人とは異なる異人種・異民族。
古代、日本人との戦争に負けた民族が日本人に捕えられ奴隷となっていた民族、穢多族。

非人(ひにん)とは
罪を犯した者に与えられる刑罰の一つ。
罪を犯した者は罰として、非人の身分に落とされた。

穢多は奴隷の末裔。具体的には国栖・土蜘蛛の末裔(マレーポリネシア系人種)+蝦夷の俘囚+中世、近世の流民、罪人・賎民との混血。日本人では無い。

室町時代から「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。穢多の子はいつまでも穢多である」との絶対的概念があるから、穢多族の子は確定的に穢多族に成る。それ故、穢多族男女は既成事実作り中出し妊娠H狙って来る傾向があり大変危険です。

超強力な穢多部落優遇が存在してる段階で差別は無いし、現実は非穢多部落民が穢多部落民からヤリタイ放題されてます。穢多部落民忌避は邪馬台国と出雲帝国時代、2300年前からある日本の伝統文化です。西日本では婚姻忌避は存在していますが、あれは差別ではありませんし誰だって穢多の子は穢多で忌避される血筋を入れたくありません。もし、穢多部落民が逆の立場なら絶対穢多部落民の血筋は入れないでしょう。

或る左翼部落問題活動家が自分の息子の嫁に穢多部落民女を忌避し破談にしたのはこの部落の真実知ってるからです。左翼部落問題活動家で息子の嫁に穢多部落民女を忌避した奴は狡い奴です。他人には穢多部落民と婚姻しても何ともないよ言いながら、自分の息子の嫁には人種的、歴史的に穢多と言う階級の真の意味を知ってるかから忌避したんです。ホントに狡い奴です。

穢多部落民との結婚は彼も穢多部落民に成り、産まれて来る子も穢多部落民に成ると言う事です。わかっていましたか?。彼との子供も排除・忌避される側に成るという事です。本音と建て前、違いますから今でも就職忌避・婚姻忌避が現実に存在していますから貴方の子供が成人した時に穢多の血筋で就職忌避・婚姻忌避に遭遇するでしょう。。
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全部説明したと思いますが私の書き込みを絶えずチェックし絶えず削除
依頼を出す真実を知られたく無い歴史隠蔽、穢多部落民血筋(DNA)拡散
を狙う穢多部落民に付き纏われてるのでコピペで失礼します。

実際、部落の問題にはこれがあり、奴等が「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と言えた義理ではありません。

山口組ヤクザ約70%の者が部落出身者であり約10%の者が韓国人等の外国人。 カプランとデュブロ

潜入ルポ ヤクザの修羅場(鈴木智彦著 文春ウェブ文庫)

「不良はある程度の年齢になると、ヤクザになるか、右翼になるか、同和にいくか進路を決めるんですわ」彼のいう右翼も同和も”似非”を意味しており、純粋なそれに所属している人間たちにとっては迷惑な話だろう。しかし、彼の何気ない一言は、関西の暴力社会の基本構造をストレートに現している。鈴木智彦は曰く「暴力団と政治団体と人権団体の三位一体は、裏社会最強のコンビネーションだ」、「大阪ではかつて、同和利権を制するものがヤクザ社会を制すると言われていた」。

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実。

被差別部落と暴力団(鈴木智彦)

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実で、仮に一般人と穢多非人部落民が婚姻し、その婚姻が破綻し穢多部落民と離婚しょうとしても、離婚する時は、解同(人権団体)が出て来て「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と喚き散らし一般人の親・親戚の所に押しかけます。

警察は相手が解同(人権団体)なのと民事不介入で介入してくれません。
ヤクザ(暴力団)、右翼団体(政治団体)の場合は警察が介入してくれますが解同(人権団体)の場合は警察が介入しないのを知ってて奴等はやって来ます。
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穢多部落民は過去戦争を煽動・推進したことから天皇から絶対的に嫌悪・忌避・排除されています。

穢多部落民忌避の根源は天皇が絶対的に穢多を嫌悪・忌避・排除してるからです。千年経っても変わりません。

天皇・皇后、障害者支援施設視察

:質問:
@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。
A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。
B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。


:回答:完璧に調べる方法はある。

ただ、貴方が穢多だった場合、自殺、、、。。。魔の宗門人別改帳、江戸時代穢多管理は仏教(宗門)で行っていたので菩提寺が穢多寺なら絶対穢多で一般百姓は原則穢多寺を菩提寺に出来ません。曽祖父の嫁、曽祖母の菩提寺もついでに調べたら完璧に判ります。どの寺が穢多寺だったかは今でも完璧に判ります。逃げられません。徳川幕府の完璧な穢多部落民、嫌悪・忌避・排除に感謝すべきですね。

私は前、この菩提寺による穢多判別の回答をしましたが、穢い穢多部落民共によって削除されました。でも、これが核心です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12163671097

30. 中川隆[-13720] koaQ7Jey 2018年11月30日 17:10:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463] 報告

日本語は西日本の縄文人が使っていた、人類始原の言葉に近い古代語


奈良時代まで皇室で使われていた言葉は 8母音の百済語であり、百済語を縄文人・弥生人の 5母音の日本語に翻訳する為に 平仮名・片仮名が発明された

日本語の母体のY-DNA「D」縄文語がホモサピエンスの祖語かもしれない


  今朝の朝日新聞にまさしく日本学の研究者・マニアには衝撃的なニュースが小さく掲載されました。恐らく2012年の日本学最大のニュースの1つになるでしょう。

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The origin and evolution of word order

Murray Gell-Manna, Santa Fe Institute and Merritt Ruhlenb, Department of Anthropology, Stanford University
Contributed by Murray Gell-Mann, August 26, 2011

Abstract

Recent work in comparative linguistics suggests that all, or almost all, attested human languages may derive from a single earlier language. If that is so, then this language—like nearly all extant languages—most likely had a basic ordering of the subject (S), verb (V), and object (O) in a declarative sentence of the type “the man (S) killed (V) the bear (O).” When one compares the distribution of the existing structural types with the putative phylogenetic tree of human languages, four conclusions may be drawn. (i) The word order in the ancestral language was SOV. (ii) Except for cases of diffusion, the direction of syntactic change, when it occurs, has been for the most part SOV > SVO and, beyond that, SVO > VSO/VOS with a subsequent reversion to SVO occurring occasionally. Reversion to SOV occurs only through diffusion. (iii) Diffusion, although important, is not the dominant process in the evolution of word order. (iv) The two extremely rare word orders (OVS and OSV) derive directly from SOV.


Conclusion:

The distribution of word order types in the world’s languages, interpreted in terms of the putative phylogenetic tree of human languages, strongly supports the hypothesis that the original word order in the ancestral language was SOV. Furthermore, in the vast majority of known cases (excluding diffusion), the direction of change has been almost uniformly SOV > SVO and, beyond that, primarily SVO > VSO/VOS. There is also evidence that the two extremely rare word orders, OVS and OSV, derive directly from SOV.

These conclusions cast doubt on the hypothesis of Bickerton that human language originally organized itself in terms of SVO word order. According to Bickerton, “languages that did fail to adopt SVO must surely have died out when the strict-order languages achieved embedding and complex structure” (50). Arguments based on creole languages may be answered by pointing out that they are usually derived from SVO languages. If there ever was a competition between SVO and SOV for world supremacy, our data leave no doubt that it was the SOV group that won. However, we hasten to add that we know of no evidence that SOV, SVO, or any other word order confers any selective advantage in evolution. In any case, the supposedly “universal” character of SVO word order (51) is not supported by the data.

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  語順のルーツはSOVだと言うことがアメリカ科学アカデミー紀要(業界用語でPNAS=プロナス、当方の学生時代はProNASと呼んでいました)に発表されました。つまり日本語やチベット語などY-DNA「D」遺伝子集団の文法である語順、S(主語)・O(目的語)・V(述語)が欧米語等のSVOより古いことがわかり、しかもホモサピエンスの祖語だろう、との驚異的な言語学上の発見です。

  これは遺伝子の調査結果と完璧に合致します。我々古代シーラカンス遺伝子Y-DNA「D」は古代の出アフリカした当時のホモサピエンスの形態を留めていると言うのが欧米の研究者の結論です。特に「D*」100%のアンダマン諸島のOnge族、Jarawa族は出アフリカ当時の形態をそのまま残していると信じられています。ならば当然言葉も出アフリカ当時のままのはずです。言葉は生き物でその時代のリーダーの決断で言葉は採用されるため、ドンドン変わります。そして征服者の人口が多く、経済力もあれば非征服者の言語はあっという間に征服者の言語に変わってしまいます。

  ところがOnge族や、Jarawa族は外来者を殲滅するという古代習慣を強く持っていたため、遺伝子を保ってきたわけですが、当然言葉も保ってきたはずです。と言うことが今回の発表で間接的に証明されたことになります。

  日本語は長い間孤立語として扱われてきましたが、とんでもない、縄文語から熟成したY-DNA「D2」日本語こそがY-DNA「D1」チベット語と並んで、出アフリカした当時のホモサピエンスの言葉(文法)を維持し続けてきた由緒正しい言葉だと言うことが正にアメリカの研究者によって証明されたのです。

  マレー・ゲルマン博士のチームの仕事ですが、なんとマレー・ゲルマン氏は言語学者ではなく、1969年「素粒子の分類と相互作用に関する発見と研究」でノーベル物理学賞を受賞した物理学者でクォークの提唱者の一人です。恐らく筋金入りの言語学者ではないことが柔軟な発想を生んだのでしょう。西欧優越主義の言語学者なら絶対に欧米語のSVOを祖語として主張すると思われるからです。何はともあれ縄文文化・時代を矮小化したい「O3」御用学者に取っては目障りな発表となりました。

  このことは当然ながら日本人の行動様式こそがホモサピエンスとして本来持っている行動様式であり、ガラパゴス的民族性こそがホモサピエンスの本来の行動様式である事が間接的に証明されたことにもなるはずです。

  そーなんです。やはり日本がガラパゴス化を捨てるのではなく、世界をJaponization(日本化)することこそが人類にとって正しいことなのです。日本人よ自信を持って世界に向かって発言しよう!スティーヴ・ジョブズごとき「R1b」御用商人の日本人に対する悪口・たわごと等クソくらえだ。そしてJaponizationで世界を導こう!

  このニュースの重大さは、何故日本列島人はY-DNA「D2」縄文人の文法を守り続けてきたのか?という点です。「D2」縄文人が圧倒的な文化を確立し、技術者集団だった「C1」、「C3a」縄文人が土器つくりなどで「D2」の精神風土を支え、後からボートピープルとして断続的に韓半島から水田稲作農耕技術を携えて流れてきた呉系長江人「O2b」の子孫も圧倒的な多数派の「D2」と敵対せず、その精神風土を受け入れたため言語の文法も縄文文法を受け入れたのでしょう。

  「O」は「R」などと同じ新興遺伝子集団です。既にSVO文法だったはずです。我々日本人は語順が変わってもそれほど奇異に感じず意味が通じるような適当にあいまいな言葉になっているのはこの「O」の人口と、文化がしっかりと根付いているためです。基本は縄文語ですが、呉系の長江語も漢語の語順でもその中間でも日本人は融通を利かせて理解してしまうように共存してきたからなのです。そして或る動作を強調したい時、我々は平気でSVOになるのです。なぜならSVOの方がキツく聞こえるからです。SOVの方が聞こえ方がやさしいのです。これが縄文の精神風土なのです。

  そして更に後から侵略者として韓半島から暫時流れてきた大和朝廷族や武士団族などのSVO文法の「O3」集団も朝廷内や官僚エスタブリッシュメント階級の中ではSVO漢語を話していたにも関わらず、全国をまとめるために縄文語文法を受け入れることにしたのだと思われます。そして縄文語に翻訳するために開発したのが「かな」、「カナ」なのでしょう。もしこれがなければ、縄文人は漢語を全く理解せず、日本の統一は相当遅れ、日本列島は文化レベルが立ち遅れ西欧列強の植民地化していた可能性が大です。当時の大和朝廷の上層部の誰かが縄文語を認め、縄文人に指示命令するために「かな」「カナ」の開発を命じたのでしょう。この人物こそ本当は歴史に名を残すべきなのでしょうが......。

  またこのニュースは、最近の研究で、人類の祖先は50000年前頃に突然洗練された道具を使ったり、絵画などの芸術活動を始めた、とも書いていますが、これは当たり前のことです。中東でネアンデルタール人と遭遇し交配し、彼らの文化を遺伝子とともに受け継いだけに過ぎません。もしかするとSVO文法はネアンデルタール人の文法だった可能性が実は大です。

  ホモサピエンスは本来SOV文法
  ホモネアンデルターレンシスはSVO文法だったのしょう。
  
  なかなかおもしろくなってきましたね。当ガラパゴス史観が歴史の真実に迫っていることが、少しづつ実証されつつあります。やはりデータマイニング手法はマーケティングだけでなく、古代日本学にも有効なようです。

http://galapagojp.exblog.jp/i29/  

  日本語の祖先はこれまで書いたようにY-DNA「D2」の話していた縄文語です。現在世界でY-DNA「D」語を祖先にしているのは、わかっている範囲ではチベット語と「D*」100%のアンダマン諸島のJarawa族とOnge族だけです。Y-DNA「D」72%の雲南のPumi族は未調査です。つまりY-DNA「D」語は孤立言語です。

遺伝子調査で初めて理解できたことです。しかもY-DNA「D」は人類が出アフリカを果たした際の形質を最も残していると欧米の研究者は述べています。ということは縄文語が最も古いホモサピエンスの言葉を残している可能性もあるのです。Jarawa族やOnge族、Pumi族の語彙を徹底的に追いかければ解明できそうですが、日本の御用学者ではない欧米の気鋭の言語学者が研究してくれるとありがたいですね!

  現代アイヌも日本列島人と同じY-DNA「D2」85%の「D」民族ですが、残念なことにオホーツク文化時代に侵略者だった古代ニヴフ族に征服され、熊祭りなどすっかり古代ニヴフ文化(古住シベリア民文化)に変貌してしまっています。言語も恐らく古代ニヴフ語に変わっているでしょう。

丹念に追えば語彙には「D」語の痕跡が残っているかもしれません。日本列島のように「D2」が圧倒的な人口多数派だったなら「D」語が残ったかもしれませんが、人口そのものが少なかった北海道では文化も言語も語彙も古代ニヴフ語に変わってしまっている可能性が大です。
http://galapagojp.exblog.jp/i31/

遺伝子調査から追う日本語の成り立ち考


  これまでもブログで断片的に触れてきましたが、遺伝子調査の結果だけでどこまで言及できるか、いささか冒険ですが日本語の成り立ちに迫ってみました。

日本語とは、

●ガラパゴス的民族性の基層である古代シーラカンス遺伝子の縄文倭人(文字通り小柄なネグリート)の話していた古代語の縄文語が基層です。特に縄文倭人の多数派のY-DNA「D2」の祖先の「D」が出アフリカ以来話していた言語が縄文語の祖形です。世界でこの縄文語の祖形を受け継いでいるのは日本以外では「D*」100%のアンダマン諸島のOnge族とJarawa族、「D1」「D3」のチベット族のみです。他に近い言語は全く存在しません。このため日本語は古代語の形態のままの孤立言語なのです。もしかするとコイサン族やピグミー族の言語と同様にアフリカで話されていた古代言語の直接の子言語かもしれません。

●縄文語はこれに更に出アフリカ以来数万年行動を共にしたと考えられている土器製作などの技能集団でもあったと思われる沿岸漁労系Y-DNA「C1a」と大型獣ハンター系「C3a」の語彙が重なっている複合言語です。縄文語は日本列島でも石器時代以来少なくとも2万年近くは話され根付いた熟成された言語のはずです。もしかすると西ニューギニアのY-DNA「C2」100%のLani族の漁労採集の言葉に日本語に似た単語があるかもしれません。

●そこに最初の外来文化言語である長江文明系オーストロアジア古語(水田稲作農耕文化の言語)の弥生系語彙が追加され、弥生人Y-DNA「O2b」「O2a」「O1a」は「O3」に極東ユーラシア大陸を追い出されボートピープルとして満州−韓半島南部−北九州と逃げ、これ以上行く先のない日本列島で大多数の縄文人と仲良く共存・融和するために縄文語を受け入れ新しい文化である水田稲作農耕の語彙を上積みしたのです。弥生人が迅速に溶け込んだため、稲作農耕技術は青森まで以外に早く伝播したのでしょう。

  このオーストロアジア古語系「O2b」は呉音を持ち込んだようです。日本列島に越音が残っていないということは呉系の稲作農耕民が北方へ逃れ「O2b」になったようです。当方が以前予想していた百越系の残党=百残=百済は越音ではなく支配層の使っていた唐音を持ち込んだようです。一方陸稲系稲作農耕(O3」系)も縄文晩期頃に日本列島に入ってきたようなのですが語彙上の影響度はまだ全くわかっていません。

  一方、「O2b」の兄遺伝子の「O2a」が東南アジア-東インド-南インドと逃れ、現代ドラヴィダ人に14%以上の遺伝子頻度を残すぐらい交配し、ドラヴィダ語に水田稲作農耕文化の語彙を持ち込んだため、もともと同一だった稲作関連の語彙が日本語とドラヴィダ語(特にタミール語)で似ているのは当然です。またオーストロネシア語系の古単語も古日本語には見つかっているそうですが、それは当然「O1a」が話していたはずのオーストロネシア古語の持っていた語彙のはずです。

●ところが、紀元後になり中華王朝の膨張に伴い韓半島から続々と中華王朝辺縁部の黄河文明系「O3」集団がはじき出されて渡来・移住するようになりました、複数の戦闘集団が前後して列島に日向など各地に占領地を設け、最終的に縄文-弥生交配集団の中心地だった畿内を目指して侵攻し、ある集団が渡来集団同士の戦いを制して大和に占領軍の王朝を築くまでになりました。我が縄文-弥生遺伝子集団は下等な民として扱われたわけです。

  この占領軍のGHQは大和朝廷と称され奈良盆地に置かれ、支配階級は大和朝廷族となり漢語を日常語(母語)として読み書き話し、平安時代に最終的に百済系朝廷族が勝ち残りました。百済は一般民衆は呉音系のY-DNA「O2b」ですが支配階級は「O3」で唐音系だったようです。

  そしてこの2番目の外来語である漢語を母語とする大和朝廷族は先住民の縄文-弥生交配集団を支配・懐柔するため漢語から縄文語へ翻訳するためにかな・カナ文字を開発して読み下し、支配用の当時の古漢語の語彙を列島隅々まで浸透させ一気に列島の支配者にのし上がったのです。そしてできあがったのが正統性を主張し都合のよい経緯を書いた記紀です。こんなものは我々縄文-弥生交配遺伝子集団から見れば進駐軍のたわごと・絵空事に過ぎないのです。無視しましょう!

●一方、武士階級では、高句麗系武士団(坂東武者系)や新羅花郎系武士団(源氏系)など韓半島から渡ってきた武士団族も「O3」漢語派だったため、縄文語に武士団系の語彙がかなり取り込まれたはずです。武士団は地元に根を下ろし地元密着型になり力を蓄え大和朝廷族と覇権争いを繰り広げることになったわけです。

●しかし幕末の動乱期まで日本列島の中で全員が話した標準言語はまだなく、支配階級と一般民衆は同じ言語を話していたわけではありません。幕末から明治の動乱期に第三の外来語である明治新政府系の新作語彙や翻訳語彙や西欧諸国の語彙が洪水のように入り込み、縄文語の文法の上にどんどん上積みされ日本語の祖語に昇華・熟成されたのです。しかしこれでも日本語の完成ではありませんでした。明治の標準語とされたのは明治政府の教育を握った長州閥の山口弁でした。

●日本語が完成したのはほんの60年程度前の第二次大戦後です。あたらしい教育によって今我々が話している現代標準語になりやっと日本語になったのです。日本語の歴史は極めて新しいのです。それまで縄文語にオーストロアジア古語の弥生語語彙と漢語の語彙が上積みされた複合言語だったのです。話し手も階級によって分かれていました。

  以上、語彙は時代と共にどんどん新しい文化のものが追加され古いものは消えて行き、言葉遣いも同時に変化して行きますが、最も基層になっている文法は縄文語、それも古代遺伝子Y-DNA「D」の話していた古代語です。このため地理的に極めて近いはずの朝鮮半島も台湾も極東の諸民族も日本語とは全て言語体系が全く異なるのです。しかし日本語は古い外来語彙をどんどん取り込んできたため、今でも古語の語彙は似ているものも結構あるのです。
http://galapagojp.exblog.jp/i35/


日本列島の農耕を請け負ってきた長江文明の子孫は、農村という代表的な日本の原風景の一つの担い手として縄文語の文法の上に農耕文化関連の単語を大量に上乗せし、縄文語を豊かなものにしたのです。

日本列島の言葉を決してオーストロアジア語文法に代えることはしませんでした。なぜなら圧倒的に縄文人の人口の方が多かったからです。弥生人は自分たちのオーストロアジア語の文法を捨てて溶け込む道を選んだのです。
http://galapagojp.exblog.jp/i34/

大和朝廷族と武士団族は韓半島での勢力争いに敗れて、武力を持った武装勢力として日本列島に流れて侵略したのですが、狩猟用の戦闘力しか持たなかった縄文・弥生交配集団を武力で征服・支配し神話も乗っ取り、大和朝廷を現在にまで存続させるという奇跡を成し遂げたのです。
http://galapagojp.exblog.jp/16672971/


日本人のガラパゴス的民族性の核をなすのは、縄文系ではなく侵略者系のY-DNA「O3」です。

楽浪郡、帯方郡など中華王朝の出先機関が牛耳っていた韓半島での生存競争を勝ち抜くことができず、流れ者武装集団として日本列島に逃げ込んできた戦闘集団の中で最後に勝ち残ったのが大和朝廷族となり、敗れた集団はその他天神集団となったようです。

最後に勝ち残った百済系大和朝廷族の親衛隊からのし上がった戦闘要員の中から平氏が生まれ、高句麗から落ち伸びた戦闘集団の中から坂東武者が生まれ、新羅の落ち伸び花朗集団の中から源氏が生まれ、このような韓半島出自のY-DNA「O3」を中心とする武士団族が縄文-弥生交配集団が居住していた地方を制圧し力を蓄えていったようです。

日本列島はこうして韓半島発のY-DNA「O3」漢族出自の大和朝廷族と武士団族という侵略者達に征服されたのです。

そして漢語で読み書きをしていた少数派の征服者は大多数の縄文-弥生集団をコントロールするために漢語を読み下しできるように「かな・カナ」を開発し、縄文系と長江文明・呉・楚・弥生系の神話を盗み取り自分たちの神話に付け加え、大和朝廷族があたかも古代から日本列島を支配していたように神話を改ざんし記紀をでっち上げてきたのです。
http://galapagojp.exblog.jp/16831514/

記紀の神武東征に象徴されているように、漢語を話す漢族の端くれだった韓半島を追い出された大和朝廷族は(その頃の韓半島南部は弥生人と同じ呉系長江人のY-DNA「O2b」が民衆層を形成していたはずです)日本列島の恐らく九州に上陸し旧唐書が言うように「日本」なる小さな拠点を形成し侵略遠征を開始し、山陽道に既に割拠していた先陣の「O3」集団や縄文−弥生先住民土着集団を征服しながら大阪平野から奈良盆地を制圧し列島侵略に成功したのです。というより最後に勝ち残った「O3」集団が大和朝廷を名乗った、というのが正しいでしょう。

  記紀神話は、征服した先陣・先住集団の祖先伝承の都合の良い部分を取り込み創りあげたものです。そして確立した大和朝廷は漢語の支配する漢族の官僚が運営する政府でした。その後の日本列島はこの漢族朝廷と漢族官僚が文字通り牛耳ってきた中国化というより漢化されつつあった土地だったのです。

  日本人が漢族大和朝廷支配のもと漢民族に同化しなかった理由は1万年以上に渡る縄文時代とその後の弥生時代で日本列島が人口も含め完全に縄文・長江混成文化の風土が確立していたからです。漢族側が、人口的に大勢であった日本語の文法であるY-DNA「D2」の縄文語に合わせかなやカナを開発したように漢族側が歩み寄ったことが、日本人が漢民族化しなかった理由でしょう。何故歩み寄ったのかは今後の調査が必要です。
http://galapagojp.exblog.jp/15362496/


今や世界最大の遺伝子集団となったY-DNA「O3」抜きに日本民族は語れません。何かの本に和泉式部日記の時代の大和朝廷族は読み書きを含め漢語を話していた、完全な漢文化民族だったと、確か女性の研究者だと思いましたが、ハッキリと書いていました。その通りだと思います。

いづれにせよ王族と宮廷官僚たちは明らかに「O3」と思われます。新羅に敗れた後、「O3」ボートピープルが日本列島に押しかけ好戦的な「O3」は縄文−弥生交配集団と闘いながら最終的に大和朝廷を興したのでしょう。

蘇我一族は蘇我蝦夷の名前が占めすように縄文ー弥生系の土着集団だったのではないだろうか。当時奈良という土地の支配者だった縄文ー弥生系が「O3」に負けた歴史を書いたのが占領軍が書いた日本書紀です。縄文ー弥生の子孫を自認する小生から見ると、大和朝廷族は異遺伝子集団の占領軍に過ぎないのです。宮中独特の言葉と言うのはその時代の漢語の名残に他ならないのでしょう。
http://galapagojp.exblog.jp/15270404/


漢人(「O3」族)の言葉は八母音、縄文ー弥生系の言葉は五母音だった

韓国語と日本語はどちらもウラル・アルタイ・ツングース語族に属し、非常によく似ています。 弥生時代以後の本土日本民族(主として九州・四国・本州に住む日本人を指します)が、東南アジア起源の南方系モンゴロイドと、中国大陸および朝鮮半島起源の北方系モンゴロイドの混血であることは考古学にも生物学的にも証明されつつあります。 そして生物学的には南方系モンゴロイド1〜2割に対して、北方系モンゴロイド9〜8割程度の混血だと言われています。 南方系モンゴロイドの血が濃い日本人の典型としては俳優の緒方拳を、北方系モンゴロイドの血が濃い日本人の典型としては俳優の中井貴一を思い浮かべていただければ、何となく両者の特徴を把握できると思います。

また弥生時代以後も朝鮮半島から絶え間なく渡来人がやって来て、古代日本の歴史と文化に多大な影響を与えました。 このことから、古代日本語が古代朝鮮語の影響を強く受けていることは至極当然だと思われます。 例えば「万葉集」の表記法として有名な万葉仮名は、日本の国文学者によれば日本独自のものだとされ、教科書でもそのように説明されています。 しかし実際には、古代の朝鮮にも「吏読(イドゥ)」と呼ばれる万葉仮名方式の表記法──古代朝鮮語を漢字の音読みと訓読みの音だけを使って表記したもの──がありました。 年代的にみて、古代日本の万葉仮名はこの吏読を真似したものと思われます。

万葉仮名では同じ「イ」「エ」「オ」という母音を持つ音が2つのグループに分けられ、2種類の漢字ではっきりと区別して表記されています。 このため現代の言語学者や国文学者は、多い方を「甲類」、少ない方を「乙類」と呼び、その区別について色々と議論しています。

ある学者は古代の日本には現在の5つの母音「アイウエオ」以外に、さらに3つの母音「イエオ」があったのではないかと主張し、別の学者はそれらの母音は条件異音――前後の音環境によって同じ音が異なる音声として表れる現象――を異なる漢字で表記したものだろうと主張し、また別の学者は文法的な使用法の違いによるものだろうと主張しています。

この一見難解で高度に学問的に思える議論は、韓国語のフィルターを通して眺めますとあっけないほど簡単に答が得られます。 現在の韓国語には10種類の単母音と11種類の複合母音(2種類以上の母音が合成されてできた母音)があり、古代朝鮮語では、さらにもう数個の母音があったと言われています。 古代朝鮮語の影響を強く受けていた古代日本語にも、同じように現在よりも多くの母音があったと思われます。 このことを踏まえ、母音と発声法の関係を図示しますと次のようになります。


※口を大きく開くほど前母音と後母音が
中母音に近づき、区別がしにくくなります。

(1)普通のイ、発音記号で表すと「i」。

日本語の「イ(万葉仮名・甲類のイ)」、韓国語の「イ」、英語の「i(sitのi)」

(2)イとウの中間音、発音記号で表すとmのひっくり返った記号。

古代日本語の「イ(万葉仮名・乙類のイ)」、韓国語の「ウ」。

(3)普通のウ、発音記号で表すと「u」。

日本語の「ウ」、韓国語の「ウ」、英語の「oo(bookのoo)」。

(4)普通のエ、発音記号で表すと「e」。

日本語の「エ(万葉仮名・甲類のエ)」、韓国語の「エ」、英語の「e(getのe)」。

(5)口を半開きにした「ア」、発音記号で表すとeがひっくり返ったもの。

韓国語に少し前まで存在した「ア」、英語の「a(agoのa)」。

(6)普通のオ、発音記号で表すと「o」。

日本語の「オ(万葉仮名・甲類のオ)」、韓国語の「オ」、英語の「o(omitのo)」

(7)エとアの中間音、発音記号で表すと「ε」。

古代日本語の「エ(万葉仮名・乙類のエ)」、韓国語の「エ」、英語の「a(maryのa)」。

(8)口を大きく開けたアに近いオ、発音記号で表すとcのひっくり返った記号。

古代日本語の「オ(万葉仮名・乙類のオ)」、韓国語の「オ」、英語の「o(stopのo)」。

(9)普通のア、発音記号で表すと「a」。

日本語の「ア」、韓国語の「ア」、英語の「a(calmのa)」。

つまり古代の日本語には、「アイウエオ」以外に、ウに近い「イ」、アに近い「エ」、アに近い「オ」の3つの中間音的な母音、つまり乙類の母音があったと考えられ、これらの母音は韓国語には現在も存在するのです。 漢字の韓国語読みではこれらの母音ははっきりと区別して使用されていますので、漢字を知っている韓国人が万葉集を読みますと、日本の専門の学者でなければ区別できない甲類と乙類をごく簡単に自然に区別することができるということです。

古代の日本語に存在した3つの母音が時代が経つにつれて消滅し、現在の5つの母音が残った理由はある程度想像がつきます。 本土日本人は元々南方系モンゴロイドと北方系モンゴロイドの混血であり、当時の日本列島は現在のアメリカのような移民の多い土地でしたから、色々な言語や方言が混在していたはずです。 そして中間音的な母音は色々な言語や方言によって発音が微妙に違いますので、それらの母音は次第に明確な発音の母音に収斂していったと考えられます。

つまり乙類の「イエオ」は普通の「イエオ」に収斂したと考えられます。 このことは前述の母音と発声法の関係図を見ますと納得できると思います。 図からわかりますように、現在の日本語の5つの母音「アイウエオ」は、発音上、非常に区別しやすい音なのです。 現在でも、各地の方言や神社などで使用される特殊な言葉に中間音的な母音が残されていますが、これは古代の名残だと考えられます。

ただし万葉仮名では区別されていたこれらの母音が、奈良時代後期から平安時代になって漢字と仮名で日本語を表記するようになると、表記上は区別されなくなります。 いくら母音が収斂したとしても、わずか50年ほどで母音が完全になくなるわけはないので、これは大きな謎です。

この謎は、それらの中間音的な母音は実は条件異音に収斂していたため、それを話している日本人はそれらの母音を区別していなかったと考えれば解決します。 つまり万葉仮名は朝鮮からの渡来人が吏読を参考にして編み出した表記法であり、奈良時代後期から平安時代になって、ようやく日本人が仮名を発明して自らの言葉を表記する方法を編み出したという説です。

万葉仮名が朝鮮からの渡来人によって書かれたのなら、条件異音を区別することができた彼等が母音を書き分けていたことも、万葉仮名で書かれた文章の中に古代朝鮮語と思われる言葉があることも納得できますし、日本人が書いた漢字仮名混じりの表記法ではそれらの母音が区別されていないことも納得できます。

飛鳥時代から奈良時代の文化の担い手は渡来人が中心だったことを考えると、朝鮮渡来人が日本語を表記するために万葉仮名を発明したことは十分に考えられます。 これはちょうど、幕末にイギリス人のジェームス・カーティス・ヘボンが、日本語を表記するためにヘボン式ローマ字を発明したのと同じような工夫だったのでしょう。
http://www.snap-tck.com/room04/c01/nihon/nihon01.html

「日本史の誕生〜千三百年前の外圧が日本を作った」岡田英弘/弓立社‘94年  

≪日本語の起源の古さ≫

 日本列島と韓半島の歴史を比べてみて、際立って目立つのは、日本では7世紀の建国直後から国語が発達しているのに、韓半島では、やはり7世紀の新羅の統一からはるかに遅れて、やっと15世紀になって韓国語(朝鮮語)が国語として正式の地位を認められたことです。それまでの新羅朝、高麗朝の時代には、公用語は土着の言葉ではなく、中国語・漢文でした。漢文を日本のように返り点をつけて訓読するのでなく、そのまま漢文を上から下へ、韓国式の漢字音で音読するのです。韓国語が本格的に発達するのは、日本に比べると800年も遅れました。

 日本語は不思議な言語です。近ごろの有力な学説では、日本語の語彙はオーストロネシア系(マダガスカル島から台湾・東南アジア、南太平洋の島々に拡がっている言語)であるとされています。また、日本語の統辞法はアルタイ系の言語(トルコ語・モンゴル語・満州語など)と共通な要素があるとされています。日本語は奇妙な混合語だということになります


≪日本語は人造語≫

 どこの国においても、国語というものは、天然自然に存在するものではなく、建国に際して人工的に作りだされるものである。これが歴史の法則で、日本語も例外ではない。

 7世紀までに韓半島から日本列島に流入してきた人々は、それぞれグループごとに中国語の方言を話していたと考えられる。方言と言っても、現代の福建人・潮州人・客家人・広東人・海南人がたがいに話が通じないのと同様、秦人・漢人・高句麗人・百済人・新羅人の間ではたがいに話が通じなかっただろう。

 日本列島の雑多な種族たちは、新羅に併呑されて独立と自由を失わないために、倭国王家の天智天皇のもとに結集して、日本国を作りあげる。中国語を国語とすることは危険であった。新羅の公用語が中国語だから、別の途を選ばねばならなかった。それは漢字で綴った中国語の文語を下敷きにして、その一語一語に、意味が対応する倭語を探しだしてきて置き換える、対応する倭語がなければ、倭語らしい言葉を考案して、それに漢語と同じ意味をむりやり持たせる、というやり方である。これが日本語の誕生であった。


≪「万葉集」に見る国語開発≫

 柿本人麿から山上憶良まで、半世紀の間にはじまった国語の開発は、情緒を表現する韻文の詩歌に関する限り目覚ましく成功したが、」より実用的・論理的な散文の文体の開発は、百年たってもなかなか成功しなかった。


≪散文は未発達≫

 紀貫之の時代から百年をへて、11世紀の初めに紫式部の「源氏物語」が現れてもまだ、散文の文体の開発が完了したとは言えない。日本語の散文の開発がおくれた根本の原因は、漢文から出発したからである。

 結局、19世紀になって、文法構造のはっきりしたヨーロッパ語(ことに英語)を基礎として、あらためて現代日本語が開発されてから、散文の文体が確定することになった。


≪日本型の歴史は反中国≫

 日本の歴史は、720年に完成した「日本書記」に始まる。倭人たちが7世紀に突然、目覚めて、日本人となったのは、中国の脅威に対する自己防衛の必要からである。

 いずれの文明でも、最初に書かれた歴史の枠組みが、人間の意識を規定してしまう。「日本書紀」の表現する日本は、中国と対立する。まったく独自の正統を天からうけついだ国家であるという思想は、長く日本の性格を規定した。
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/706.html


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アイヌと縄文: もうひとつの日本の歴史 (ちくま新書) – 2016/2/8
瀬川 拓郎 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%81%A8%E7%B8%84%E6%96%87-%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%80%AC%E5%B7%9D-%E6%8B%93%E9%83%8E/dp/4480068732


日本人がなぜ本源的なのか⇒3万5千年に渡る古代人の歴史が土台になっている
 

日本人や日本文化が世界で最近、注目されている。

理由や現象は敢えて並べないが、一言で表せば思考方法や行動、言語等が人類の本源的、源流的であるという点。裏返せば独自的、孤立的、世界中に広がった他の地域、人類との類似が少ないという点ではないだろうか。

最近の研究で言語学的にも遺伝子的にもそれは証明されてきており、人種の孤島として縄文人、アイヌ人の事を書いた著書の一説を紹介したい。


「アイヌと縄文」〜瀬川拓郎著

>「人種の孤島」としての縄文とアイヌ

本土人、琉球人、アイヌの遺伝的多様性の分布を見ると、それらは他の東アジア人や、ヨーロッパ人と混血した中央アジアの人々(ウイグル人、ヤクート人)のまとまりとは反対の方向に分布しています。

 現代の本土人、琉球人、アイヌは直線状にならび、この順でアジアの人々から離れていきます。直線の延長上にはかれらの共通祖先である縄文人が想定できます。つまり本土人、琉球人、アイヌのDNAを特異な方向に「引っ張って」いるのは縄文人であり、そのことは縄文人が現代のどの人類集団とも大きく異なる特徴を持っていたことを物語っているのです。

縄文人は、上下の歯が爪切りの刃のように嚙み合い、彫が深く、鼻が高いといった形質的な特徴をもっていました。これはアイヌにも共通します。

そのアイヌは形質人類学では長くコーカソイド(ヨーロッパ人)に分類されてきましたが、1960年代に総合調査が行われ、歯冠の形などから本土と同じモンゴロイド(アジア人)であると結論付けらました。

ただし、先のアイヌの特徴は一般的なモンゴロイドとは異なるものです。一般的なモンゴロイドとは異なるものです。そのため、形質人類学者はこれに頭を悩ませ、現代モンゴロイド成立以前のモンゴロイド、すなわち原モンゴロイドという仮想的な集団を設定し、アイヌをこれに帰属させたのです。

つまり、私たちが常識のようにみなしているアイヌ=モンゴロイド説は学界で完全に受け入れられているわけではありません。形質人類学者の百々幸雄はアイヌがどの人類集団とも異なる、現生人類という大海に浮かぶ「人類の孤島」であるとし、アイヌと縄文人は「出アフリカ」をはたした現世人類が、ヨーロッパ人とアジア人に分化する以前の状態を保っているのではないかと述べています。(百々2007年)

このこととかかわって興味深いのは、同学者の山口敏が旧人のネアンデルタール人のあとに出現した、化石現生人類のクロマニョン人と縄文人の類似性を指摘し、縄文人の形態的特徴は、現生人類のなかの古層に属すると見なされている事です。

 日本列島の縄文人は北海道から沖縄まで形質的な共通性をみせています。かれらは地域性がはっきり認められず、均質な形態をもつ人々でした。つまり縄文時代の日本列島には、アイヌにうかがわれるような「モンゴロイド離れ」した人々が暮らしていたのです。

1万年以上続いた縄文時代には、日本列島をとりまく朝鮮半島、中国、台湾、サハリンとの交流はほとんどありませんでした。そのため縄文人のヒトとしての特異性はかなり純粋に保たれてきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーー

同様に言語学でも日本語、アイヌ語は世界中の言語から孤立している。


>日本列島を含むユーラシア大陸では2500以上の言語が話されています。ただし、同系関係を辿っていくと、これらのほとんどはアルタイ系言語、シナ・チベット系言語、インド・ヨーロッパ系言語のようなわずか10あまりの大きな「語族」にまとめられます。

その中で同系関係がたどれず系統的に孤立していた言語はわずかに9つにすぎません。さらにその約半数が日本列島の周辺に集中している。日本語、アイヌ語、朝鮮語、サハリン先住民のニブフ語です。

これ以外はピレネー山中のバスク語、西シベリアのケット語、インド中部のニハーリー語、東ヒマラヤのクスンダ語でいずれも人里から離れた辺境地帯の言語である点が共通しています。

言語学者の松本克己はこのうち日本列島周辺に集中する日本語、アイヌ語、朝鮮語はかなり旧い時代につながっていたと述べています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーー

これら、ホモサピエンスの最初の系統の人類が日本列島で3万8千年前の旧石器時代からその後の縄文時代1万6千年に渡って純粋培養されていた事を示している。渡来人文化を受け入れ縄文人から日本人に変化したその後の歴史はわずか2500年間であり、その10倍以上の時間が日本人の歴史に刻み込まれている。

言語はその民族の思考方法を限定する。日本語の独自性、孤立性が未だ保たれている事を根拠に、私たち日本人の中に古代人から直結する本源性が世界中の人種の中で最も色濃く残っているのではないかと仮説しておきたい。

それが注目されている最も大きな潜在的理由の一つではないだろうか。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=312916


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京都を中心に近畿地方の人達は平均的な日本人のデーターと全く違う数値を示します。

100%朝鮮からの渡来人の特徴を示すそうです。


京都中心とする近畿地方では渡来人の文化圏を作り混血が進まなかったと思われます。
http://www.ishikari-...cs/2013/10/10-7.html

はい縄文時代の西日本はスッカスカ
http://web.joumon.jp...5%AF%86%E5%BA%A6.gif

ここでもスッカスカ
http://ichigen-san.c...2014/07/15/photo.jpg

弥生期に渡来人が増えるまでスッカスカ
http://homepage2.nif...nin/jinkoubunpu1.jpg


日本語は百済語と近接しているという説は多い。

ブログ「日本語と韓国語は同系語」
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-3a69-1.html


という中から信憑性のある部分を紹介します。

>飛鳥〜平安時代頃、日本には各地域の方言の外に「宮廷語」があった。

「宮廷語」も日本全体から見れば、宮廷という限られた区域の方言である。

『万葉集』『記紀』はこの「宮廷語」によって書かれ、作者は漢字を自在にあやつることができる宮廷の知識層、朝廷にかかわって働くエリートであった。

大和朝廷で働いていた人たちの生活の本拠地は「飛鳥」で、『続日本紀』『姓氏録』によれば、飛鳥地方の住民の80〜90%は朝鮮人であったという

飛鳥地方を中心に活躍していた聖徳太子は蘇我氏(朝鮮人―当時の実質天皇)の一族で、妻も蘇我氏の人である。

日本で最初に建てられた寺院「飛鳥寺」は蘇我氏の氏寺で創立者は蘇我馬子である。

明日香村にある日本最大級の横穴式古墳「石舞台古墳」の埋葬者は蘇我馬子ではないかとされている。有名な「高松塚古墳」は明日香村にあり、中に描かれた彩色壁画の婦人像の着衣は古代朝鮮人の服装そのままである。

なぜ「飛鳥地方で使われていた言葉は朝鮮語(主に百済語)であった」と言われているか、下記に列挙した研究者の言葉を見れば一層その信憑性に気づくのではないだろうか。


※「飛鳥における政治の実権は蘇我氏(朝鮮人)の掌中にあった。このころの天皇とは蘇我氏のことである。」 (亀井勝一郎他)

※「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であ
った。宮中では百済語が使われていた。古事記・日本書紀は百済の学者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。
(金容雲 日韓文化交流会議の韓国側代表)

※ 日本書紀は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合がいいように整理されている。 (上田正昭らの対談集)

※ 飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)

※ 平安時代までの日本文化は外国のもの。日本の王朝文化は百済と同じ。
(司馬遼太郎・丸谷才一 他)

※ 朝鮮半島からのエリート集団の集中的移住が宮廷文学を開花させた。
(国弘三恵)

※ 唐への留学僧は百済人であった。当時の僧侶の言葉は百済語であった。
(金達寿 司馬遼太郎 上田正昭らとの対談集)

※ 日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、白村江の戦いの敗北で渡来した百済人。『日本』という国号をつくったのも百済人。(文定昌)


司馬遼太郎は「平安時代までの日本の文化は外国のもの、日本らしくなったのは鎌倉時代になってから」と述べている。

「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は国を追われ、王族・高官などのエリートがたくさん倭国へ亡命した。

故国を失い百済再興の夢を倭国に託した百済人は、奈良時代に「日本」という国号を作り、倭国の文化を根底から変える著しい日本文化の礎石を「飛鳥」に置いたのである。

従って、「百済の王朝語」が「飛鳥王朝の宮廷語」になり、雨後の竹の子のように生まれた「宮廷文学」の言葉は、それ以後の多くの知識層の文学作品の言葉として使われ、結果的に江戸・明治・大正・昭和の学問・文学などの用語として日本全国に広がって行った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上抜粋ーーーーー

これらを読むに付け、日本の宮廷、天皇、王朝を語る際に「百済」という朝鮮半島から消えてなくなった国家が大きく影響している事が判る。

それを日本土着のものに取り戻すのに鎌倉時代までの400年かかっている。
しかし再び明治以降、この百済の復興が天皇を担ぎ上げる事によって為された。

百済王朝が日本に亡命してまだ1300年しか経っていない。

この影響は日本語という言葉の中に浸透しただけでなく日本人の気質や一つに成り切れない民族の核心部にまだ残っているのではないか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=314004


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【言語の進化】8.1.5万年前〜1万年前頃の抱合語
 
アイヌやエスキモーやインディアンは、現在でも、一つの文言を一語で表す抱合語を使っているが、それら隔絶された地域に残された抱合語は、人類が洞窟から出た後の原初的な言語の形を現在に伝えていると考えられる。
 
エスキモー語の例
qayar−pa−li−yug−a−qa(カヤック−大きい−作る−たい−私−お前)
           「私はお前に大きなカヤックを作ってやりたい」


アイヌ語の例
a−e−kore(私−お前−与える)「私はお前に与える」※「て・に・を・は」
                          がない一語。

a−e−ipe−p(我々−それ−食事する−物)「食器」


 
アイヌ語では、主句・対象句・述句という語順規則が見られるが、エスキモー語の場合、語順規則も明確ではなく、その瞬間瞬間に最も言いたい言葉を順に並べただけのように見える。

おそらく、より隔絶度の高いエスキモー語の方が古い言語だと考えられ、洞窟を出た原初の言語は、エスキモー語に近い、「て・に・を・は」はもちろん、語順規則さえ明確には定まっていない(言いたい単語を言いたい順に並べただけの)一言だったのだろう。

つまり、1.5万年前の人類の言語は、エスキモー語のように、語順規則もさだまっていなかったと考えられ、1万年前頃に、ようやくアイヌ語に見られるようにS・O・Vの語順規則ができたと推定される。

(なお、アイヌはユーカラという長大な伝承物語を持っているが、部族の物語を伝える程度の文言ならば、て・に・を・は(関係詞)無しでも用は足りたという点は、注目すべきだろう。又、アイヌ語は縄文語から枝分かれしたと見られており、そうだとすれば縄文語も原初は抱合語であったことになる。この点も、興味深いところである。)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=314835


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 7世紀までに韓半島から日本列島に流入してきた人々は、それぞれグループごとに中国語の方言を話していたと考えられる。
方言と言っても、現代の福建人・潮州人・客家人・広東人・海南人がたがいに話が通じないのと同様、秦人・漢人・高句麗人・百済人・新羅人の間ではたがいに話が通じなかっただろう。

 日本列島の雑多な種族たちは、新羅に併呑されて独立と自由を失わないために、倭国王家の天智天皇のもとに結集して、日本国を作りあげる。

中国語を国語とすることは危険であった。新羅の公用語が中国語だから、別の途を選ばねばならなかった。

それは漢字で綴った中国語の文語を下敷きにして、その一語一語に、意味が対応する倭語を探しだしてきて置き換える、対応する倭語がなければ、倭語らしい言葉を考案して、それに漢語と同じ意味をむりやり持たせる、というやり方である。これが日本語の誕生であった。


 柿本人麿から山上憶良まで、半世紀の間にはじまった国語の開発は、情緒を表現する韻文の詩歌に関する限り目覚ましく成功したが、」より実用的・論理的な散文の文体の開発は、百年たってもなかなか成功しなかった。

 紀貫之の時代から百年をへて、11世紀の初めに紫式部の「源氏物語」が現れてもまだ、散文の文体の開発が完了したとは言えない。日本語の散文の開発がおくれた根本の原因は、漢文から出発したからである。

 結局、19世紀になって、文法構造のはっきりしたヨーロッパ語(ことに英語)を基礎として、あらためて現代日本語が開発されてから、散文の文体が確定することになった。


【出典】「日本史の誕生〜千三百年前の外圧が日本を作った」岡田英弘/弓立社‘94年  
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/706.html

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日本語は縄文由来
http://web.joumon.jp.net/blog/2017/03/3176.html

日本語は言語学的にも独立言語でありほぼ人類最古の方の言語に類する。

この日本語がほぼ一貫して変わることなく縄文ー弥生―現在へと引き継がれてきた。

母音を言語脳(左脳)で聞き分ける日本語は擬態語(ザーザー、しとしと等)が多い。そして日本語以外のほとんどの地域の言語が音声を左脳と右脳で使い分けるのに対して全ての音を左脳でとりいれる日本人は特徴的でもあり、それ故に自然の音を細かく聴き分けることができる。これが日本人特有の同化能力の基盤となり、自然に向けた同化能力を使って、現在でも人や社会に視座を向けることが可能な民族として存在している。


★自然の音を左脳で取り入れる日本人、その特徴を明らかにしたのが角田教授である。
⇒やっぱり、『日本語』はすごい言語のようです。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=222237


★日本語研究は進んでいるが、結局今判っているのは日本語はどの系統にも属さない独立言語であるという事のようだ。

アルタイ語起源説やタミル語起源説、朝鮮古語起源説などがあるが、部分的に類似しているというだけで母音言語であり膠着語である日本語を定義つけるとしたら人類古語が起源であり、それを今も脈々と残しているのは日本と世界中の辺境の小部族だけという事になる。

学説で解明できないのは日本語がどこからの由来かという視点で見ているからなのだろう。


⇒日本語の起源研究の状況
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=184840

⇒日本語の起源をアルタイ語とするのは誤りではないか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=242652


★日本語がなぜすばらしい言語なのか 黒川伊保子氏の著書を読めばストレートに伝わってくる。


日本語はなぜ美しいのか (集英社新書) – 2007/1 黒川 伊保子 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E3%81%AF%E3%81%AA%E3%81%9C%E7%BE%8E%E3%81%97%E3%81%84%E3%81%AE%E3%81%8B-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%BB%92%E5%B7%9D-%E4%BC%8A%E4%BF%9D%E5%AD%90/dp/4087203743


黒川氏が語る日本語の特徴を要約すると以下のようになる。


@ 日本語を含めて「言語」には、共認機能や観念機能の構造との密接な関係があるはずで、これを追求することには、大きな可能性があると思われる。発音体感と対象(実態)の一致は、日本語に顕著であり、日本語こそが「始原の言語」、太古よりこの土地で育まれた言語であると述べられている。

A 母音語の使い手は、自然とも融和する。
母音を言語脳で聴き取り、身体感覚に結び付けている日本人は、母音と音響波形の似ている自然音もまた言語脳で聴き取っている。いわば自然は、私たちの脳に”語りかけて”くるのである。

B 何千年も続く、豊かな自然が、私たちに、融和する母音語をもたらした。
一方で、融和して共存する日本人の特性は、日本語という母音言語がもたらしているとも考えられる。なぜなら、DNA上日本人とまったく無関係でも、日本語を母語として育つと、母音を左脳で聞くようになることが確認されているからだ。環境は言語を作り、言語は人を作るのである。

C 子音言語に比べ圧倒的に長い歴史を持つのが母音言語で、その原型を現在まで引き継いでいるのが日本語と言えるかもしれない。自然に同化し、調和する日本語とはこれからの共認時代に相応しい、時を得た言語なのではないだろうか。

黒川氏の著書の記事を集約しています。参考に一読いただければと思います。

⇒始原の言語・日本語の可能性〜むすび
http://web.joumon.jp.net/blog/2012/09/001437.html

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萬葉集と風土記に見られる不思議な言葉と上代日本列島に於けるアイヌ語の分布
アレキサンダー・ヴォヴィン 国際日本文化研究センター, 2009.3.12.
http://publications.nichibun.ac.jp/ja/item/foru/2009-03-12/pub

アイヌ語と日本語との関係は非常に複雑であると思う。近年、上村幸雄氏はアイヌ語と
日本語が同源要素を持つ可能性について多数論文をお書きになり上(村80PPOOωP
POOωFPOOメPOO。。)、大変勉強になった。私も以前は諸言語の関係を同源説の観点から研
究していたが、ここ八年間に私の研究の焦点は日本列島諸言語とその周辺の諸言語の接点
に移り変わったので、今回は主にアイヌ語から日本語への借用語とそれに基づいた上代口n
本列島におけるアイヌ語の分布について発表させて頂くつもりである。
現在通説となっている伝統的な意見は、上代日本語にはアイヌ語からの借用語は殆どな
、というものである。たとえば佐伯梅友氏は、上代中央日本語に見られる冨巳冨〜冨巳日冨
「桜の皮」のみをアイヌ語の冨旨冨「山桜の皮」の借用語として挙られた佐(伯ピいPωP。)
しかし、以下で示すように、冨巳冨〜ξ巳目冨「桜の皮」のみが唯一の例ではない。
アイヌ語が上代日本列島において少なくとも東北地方の全地域で話されていたというこ
とはもう定説になったと言ってもいいであろう。地名はいうまでもなく、東北の方言には 「山の言葉」として残っているアイヌ語の言葉もある金(田一POO命宝Oーミ)。また、関
東の古い地名を見ると、「武蔵」元(来万葉仮名音声表記「牟射志」\日信N婁.\)、「阿之賀利」
\琶、冨ミなどは日本語の地名ではなく、アイヌ語であると解釈できる。
1
〈地名一関東〉
「牟射志」\85N.9・。く「武蔵」
たとえば、「牟射志」\目⊆N.9・。ぐは東国歌に出る。
萬一四二壬二七九武(蔵国の歌)
和我世故乎安杼可母伊波武牟射志野乃宇家良我波奈乃登吉奈伎母能乎
わがせこをあどかもいはむむざしののうけらがはなのときなきものを
我が背子をあどかも言はむ武蔵野のうけらが花の時なきものを
2
「牟射志」く目`N9.。。ぐは蕾目き。。。。一に遡る。梼日巷旨巴は日本語としての解釈は困難だが、
アイヌ語では完全に意味が通る。アイヌ語目自「草」服(部一〇ひ井6ひ)、夥「濱」知(里ちいひ親  
=ω)、「野原」】(W9一〇げ0一〇円一〇Pひ日N甼Oり)、自三人称所有接尾辞(日本語では臣-は。・-一になる。
後述の上代東国日本語の言葉である「思太〜之太」葭量.\「時」〈アイヌ語ぼ$も参照)。
従って、武蔵は「牟射志」\目N`9.。。ぐく蒡目巷。・色く梼日き。。甲ぼ「草の野原」であろう。武
蔵は東京に変わる以前は、日本で一番大きい草の野原だったにちがいない。
「阿之賀利」\9巴、 Qσ巴\「足柄」
あしがら 次に「足柄」を見てみよう。「阿之賀利」\琶q、僧αユ\または「安思我良」\婁q。輿σ9\という
地名も東国歌に出てくる。
萬一四・三四三一相(模国の歌)
阿之我里乃安伎奈乃夜麻尓比古布祢乃斯利比可志母與許己波故賀多尓
あしがりのあきなのやまにひごふねのしりひかしもよここばこがたに
足柄の安伎奈の山に引こ舟の後引かしもよここば来がたに
萬一四・三三六三相(模の国の歌)
和我世古乎夜麻登敝夜利弖麻都之太須安思我良夜麻乃須疑乃木能末可
わがせこをやまとへやりてまつしだすあしがらやまのすぎのこのまか
我が背子を大和へ遣りて待つ時す足柄山の杉の木の問か
一3
阿之賀利\量。q巴σ\または安思我良\9巴、。。9逗には後世「足柄」という漢字が当てられた
としても、地名として余り意味が通じないだろう。安思我良\琶。 q碧oミは阿之賀利\蟲、q豊σ\
より頻繁に現れるが、この音声上の違いは\婁. q9ユo\〉\琶。。σ鐔ミの音声同化の結果であろ
う。ところで、阿之賀利\9巴. q9ミσは北海道にある「石狩川」の一・。貯9ユ一[。。一q卑σ二]を連想させ
はしないだろうか。アイヌ語の。・貯9ユの[督9邑は。。貯・二。。[お9包「川の中の水の回流する所」
または罕冨ユ「迂回する、回る、回流する」として解釈される傾向がある知(里おいひ親一PO)。
アイヌ語の冨ユは「回る、徘徊する」という意味を持っている菅(野POOD…PON)。しかし、冨二
は説明がつくとしても、残りの部分の9。。学は説明が困難である。アイヌ語には一人称の複
数の包括接頭語kがあるが、その甲は他動詞にしか付かない。色-はアイヌ語の。・学「自
分」と解釈する可能性もあるが、私の意見では、そのような解釈は信憑性が低い。では、
もう一つの可能性を考えてみよう。アイヌ語の千歳方言、沙流方言と旭川方言には訝冨巨。
「きれい、清潔な、清い」という言葉がある中(川一〇〇い"ひ)、(田村一遷9P。。)、菅(野PO8…一い)、
太(田POOい"一〇)。アイヌ語では8--子音群はいつも目--に変化するため知(里6いひげ"
一$も一)、中(川・中本一ゆ旨二い)、アイヌ祖語では梼ーヨーを再構しなければならないZ>目9ぐ土(佐風逸四九九・九)或いは「大穴持」\O噌O>Z>
目αミ(出雲風一〇二"五、一〇六"一〇・一二、一〇八"二・一二、一一〇"一、一二
六"四・七、一六六二二、エハ八"六、一八○"八・一二、一八二二、一九〇二四、
二〇二二・八・一〇、二〇四二・三、二〇人"四、二一六二・五、二二〇二、二
二四二四、二二六"二・六、二三六"五・七・九、二一二八"九、二四二…五、伊豫風逸
四九五"六)、『萬葉集』では於保奈牟知\o℃o蠧日三ぐ萬(一人.四一〇六)、そして『目
41 本書紀』では於褒婀娜武智\名。き9巨昌ぐ紀(一・一四)と表記されているので、『古事記』
の「大穴牟遅」も静O勺O諺Z>巨目象.ではなく、\O噌○諺Z>目二↓ぐと読まねばならない。そ
して、万葉仮名の「遲」は鼻音有声子音がある\鞋.の音節のみならず、無声子音がある
註\の音節も表す事ができる。
従って、『肥前風土記』の「比遲波」を\冨象.嚏\ではなく\℃↓ξ9\と読む可能性もある
わけである。『肥前風土記』の言↓喜ミ「岸」という言葉は、他の上代日本語文献にも、中
古日本語文献にも、現代日本方言にも見られない。しかし、アイヌ語には葱号9〜冨8「岸」
という言葉がある。たとえば、幌別方言℃σ号9、帯広方言忌89、美幌方言℃。89「岸」服(
51 部6ひ命Pま)、旭川方言冨言笹「岸」(一位=一DQ=NOO斜"Pいひ)、釧路方言℃。89「岸、川岸」(山
本POO舒一遷)、樺太方言篦8蕁「寄せ波が砕ける海岸の部分」】()。訂9≧ゆ。。9・一を.ξぎ8喜-皀。ゴ巴・・二@婁・・貫弖8霞く。琶ω..牢@ω婁畧8・α冨・・二冨 ⊂巳く・『・・芽亀匡署曁gζ畧8こお=蕗80。唱畧8@巨ゴ@。・α鎚。Q@邑羮 . 。。§談βぴ8三§げ・寄.自。・…。牾§。】-〈。蔘白它唇賽自く。≦・互・菖。旨罠】〈。掃・・.畧.臼驀…巨g 罍巨・§ぎ邑08貯@・88=ぎ旨巴詈 q・α一眷・×Hδ×9づ似奠POOいP=月げ0団ロ血Oh爵0>冒巴OOO巨δδ×9p傷9POOいげ・匡b題ミ鷽瓢菴Q嵩翫60ミミ無、ミ〜蒸Q、無ミミ匙丶◎丶ミ窃、ミ謡Oミξ窺嵩驚鼬・℃9巨一日きko§6赴oき
ミYミ嵩qσ匂ミ恥ミ亀ミ翫、隷oミo丶o堕℃卜爰皆o鐸〉δミ旨亀壁×一×+とP℃づ・"聞o貯o。。8昌Φ"O一〇げ亀O賦@巨巴・
δ×p口血qPOO◎Q9」一℃δδ-f℃o巳oσ@koロユ一げ09000巨。。k。。8目=.ぎ…、、ミo毒ミ謡軸器、腎向ミ題亀ミ翫℃、o竜象聲
厘曽時oi@=o。。≦qαLo『p≦巨酔日き(9。。)●●〉日・。8a9ヨこ卑5ゆo彑9目言ω…P8。0Ψb歹玉でいひ・
5×きα2NO。OGげ(8§8巨昌q)σ●鼠b題ミ鷽嵐蕊匙嵩亀Oo耄ミミ丶菴Qミミミミ£丶ミ鮮向紺ミOミ書亀ミ吻馬丶ミ、
9惹§§℃譚蚤退§・穿為ミ§§蕩`ミミ・・`毳§・ミ§・×××+。。。。。bb`。器・・喜ρo喜巴9ぎ件鉾

1北海道教育大学旭川校の井筒勝信先生はアイヌ語への翻訳をしてくださつた。感謝申し上げる。
2標準語でも\げぐはよく強\と発音される。たとえば、≧δ\「人」〉[簿o]。その音声変化は多くの
日本方言だけでなく、韓国語の方言にもツングース諸言語にもよく見られる。また、上代日本語には
\ミという音素がなかったことも忘れてはならない。
3ところで、この反映は母音の間に出る上代日本語の無声破裂音\b\uミΨミは有声破裂音[げ尸[色"q][α
として発音されたという=9日き。と昌q9oの仮説(}山卑【P9コOPOOO)、(C昌qgoPOO伊POOい)に対するもう一 つの版袵鬣 す娩田濯絡輜勤仮説への他の反証についてく。<一昌巴(Oいσ"ωSω。。)を参照. 4『源平盛衰記』は『源平盛衰記』とも知られている。
5アイヌ語o冒≦吋三卑「はこべ」は」U讐9@δ円の辞典にもo巻ロ冠蠧として記録されてある(一〇Pひ"ωいい)
ので、一九世紀の北海道方言にもあったらしい。
6この伝説をインターネットで探し出してくれた妻の石崎(ヴオヴィン)賛美に感謝を表す。
一53一
7『萬葉集』の第十四巻末に防人歌が十二首も集められてあるが、その内には思太〜之太\ωぎ量\「時」
という言葉は見られない。
8あはのへ\巷 -き19-誘\「逢わなかったりする」に見られる上代東国日本語のーoは(甲類の-罵とし て書かれている)上代東国日本語の特別な連体形であるらしい。後に引用した萬二〇・四四〇七のこ
え爵身-。\も参照。西洋の言語学者の大部分は上代以前日本語(蔑¢6匡旨巷き@ωo)の連体形が元来甲類
の\O\であったと信じている(国巴8≦ q"o。。2農β鬢『一巨きとの個人的だ話し合いによる)。上代東国 日本語では連体形は甲類のδ\とも乙類の\o\とも書かれているが、上代東国日本語では甲類のδ\と
乙類の\α\の区別が消滅したため、そのような混合した書かれ方も納得できる。私の意見では、連体
形は甲類のδ\より乙類の\α\であった可能性が高いと思う。その一つの証拠として、上代中央日本語
の繋辞の昌-の連体形は〒αであることが挙げられる。上に言及した上代東国日本語に現れる -oの連 体形はもう一つの証拠であるとも考えられる。少なくとも、上代東国日本語の\@\と上代中央日本語
の\α\の間に何か密接な関係があったらしい事は確かであろう。たとえば、上代中央日本語の叶欝曾α
「心」と上代東国日本語の冨犀臼o(古今集二〇・一〇九七)を参照。
9『肥前風土記歌謡』の引用は(秋本6い。。)による。しかし、『肥前風土記歌謡』の番号は(土橋一〇い刈)
による。そして、万葉仮名の「素」は上代日本語には\Z。。α\ではなく、\のひ\であるから、仮名の書き
下しには秋本の「ぞ」を「そ」に変えた。
01『肥前風土記』の引用は(秋本一りい。。)による。
11この歌の「遲」は≧\である理由については高木氏などの意見も参照(高木など這いSひPω黯)。
21ただしζ霞。自●ζ蔓艮@が指摘したように、森(一〇〇一)のα\β区別は理解が困難である(80ω勲雪-ひO)。
31『日本書紀歌謡』の引用は(土橋6い刈)による。
41『日本書紀』の引用は(黒板勝美這ひひ)による。
54
51旭川方言の冨89目「岸」はく梼b♀の馨から発展した形なので(太田N8い…一い。。)、需8騨には関係がな
い。
61冒鋳ロはぎ艮「歯」の所属形巨艮二-であろう。千島(鳥居竜蔵資料)巨9『ぎ騨巨「歯」(服部這ひ命ひ)
参照。
η前にはぜ§臣として再構した<(。<巨澤塞い)雪が、今はぜ睫よりはゴーの再構は自然だと
思う。
81例外は・。o目。が助動詞匡「する」で伴う場合に、。。。日。匹が主動詞の後に出る。

注記本書のタイトルは日文研フォーラム第二一五回の原題「萬葉集に見られる不思議な言葉と上代日本列島に於けるアイヌ語の分布」を改題したものである。
http://publications.nichibun.ac.jp/ja/item/foru/2009-03-12/pub


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「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった!
読売新聞メディア局編集部 伊藤譲治.2017年12月15日
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html

日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?


 斎藤教授は、日本列島への「三段階渡来モデル」を提唱している。


第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで

第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、

第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。


「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。

第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。

第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。


 日本人のルーツの一つ「縄文人」は、きわめて古い時代に他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だったことが、国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の斎藤 成也 なるや 教授らのグループによる縄文人の核DNA解析の結果、わかった。現代日本人(東京周辺)は、遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいることも明らかになった。縄文人とは何者なのか。日本人の成り立ちをめぐる研究の現状はどうなっているのか。『核DNA解析でたどる日本人の源流』(河出書房新社)を出版した斎藤教授に聞いた。


世界最古級の土器や火焔土器…独自文化に世界が注目


縄文時代を代表する大規模な集落跡、青森市の三内丸山遺跡。復元された6本柱の大型掘立柱建物が威容を誇る
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/photonews/article.html?id=20171214-OYT8I50003


 縄文人とは、約1万6000年前から約3000年前まで続いた縄文時代に、現在の北海道から沖縄本島にかけて住んでいた人たちを指す。平均身長は男性が160センチ弱、女性は150センチに満たない人が多かった。現代の日本人と比べると背は低いが、がっしりとしており、彫りの深い顔立ちが特徴だった。

 世界最古級の土器を作り、約5000年前の縄文中期には華麗な装飾をもつ火焔かえん土器を創り出すなど、類を見ない独自の文化を築いたことで世界的にも注目されている。身体的な特徴などから、東南アジアに起源をもつ人びとではないかと考えられてきた。由来を探るため、これまで縄文人のミトコンドリアのDNA解析は行われていたが、核DNAの解析は技術的に難しかったことから試みられていなかった。

 斎藤教授が縄文人の核DNA解析を思い立ったのは、総合研究大学院大学教授を兼務する自身のもとに神澤秀明さん(現・国立科学博物館人類研究部研究員)が博士課程の学生として入ってきたことがきっかけだった。「2010年にはネアンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)解読が成功するなど、世界では次から次に古代人のDNAが出ていたので、日本でもやりたいと思っていた。神澤さんが日本人の起源をテーマにしたいということだったので、縄文人の核DNA解析に挑戦することにした」と振り返る。


福島・三貫地貝塚人骨のDNA解読に成功


(『核DNA解析でたどる日本人の源流』に掲載された図をもとに作成)
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html?page_no=2


 問題は、縄文人骨をどこから手に入れるか、だった。ねらいをつけたのは、自身が東大理学部人類学教室の学生だったころから知っていた東大総合研究博物館所蔵の福島県・三貫地さんがんじ貝塚の人骨だった。同貝塚は60年以上前に発掘され、100体を超える人骨が出土した約3000年前の縄文時代後期の遺跡。同博物館館長の諏訪元げん教授に依頼すると、快諾。男女2体の頭骨から奥歯(大臼歯きゅうし)1本ずつを取り出し、提供してくれた。

 解析を担当する神澤さんがドリルで歯に穴を開け、中から核DNAを抽出。コンピューターを駆使した「次世代シークエンサー」と呼ばれる解析装置を使い、核DNAの塩基32億個のうちの一部、1億1500万個の解読に成功した。東ユーラシア(東アジアと東南アジア)のさまざまな人類集団のDNAと比較したところ、驚くような結果が出た。中国・北京周辺の中国人や中国南部の先住民・ダイ族、ベトナム人などがお互い遺伝的に近い関係にあったのに対し、三貫地貝塚の縄文人はこれらの集団から大きくかけ離れていた。

 「縄文人は東南アジアの人たちに近いと思われていたので、驚きでした。核DNAの解析結果が意味するのは、縄文人が東ユーラシアの人びとの中で、遺伝的に大きく異なる集団だということです」と斎藤教授は解説する。


アジア集団の中で最初に分岐した縄文人


 20万年前にアフリカで誕生した現生人類(ホモ・サピエンス)は、7万〜8万年前に故郷・アフリカを離れ、世界各地へと広がっていった。旧約聖書に登場するモーセの「出エジプト」になぞらえ、「出アフリカ」と呼ばれる他大陸への進出と拡散で、西に向かったのがヨーロッパ人の祖先、東に向かったのがアジア人やオーストラリア先住民・アボリジニらの祖先となった。

 縄文人は、東に向かった人類集団の中でどういう位置づけにあるのか。「最初に分かれたのは、現在、オーストラリアに住むアボリジニとパプアニューギニアの人たちの祖先です。その次が、縄文人の祖先だと考えられます。しかし、縄文人の祖先がどこで生まれ、どうやって日本列島にたどり着いたのか、まったくわかりません。縄文人の祖先探しが、振り出しに戻ってしまいました」

 アフリカを出た人類集団が日本列島に到達するには内陸ルートと海沿いルートが考えられるが、縄文人の祖先はどのルートを通った可能性があるのだろうか。「海沿いのルートを考えています。大陸を海伝いに東へ進めば、必ずどこかにたどり着く。陸地に怖い獣がいれば、筏いかだで海へ逃げればいい。海には魚がいるし、食料にも困らない。一つの集団の規模は、現在の採集狩猟民の例などを参考にすると、100人とか150人ぐらいではなかったかと思います」と斎藤教授は推測する。

分岐した時期は2万〜4万年前の間


 では、縄文人の祖先が分岐したのはいつごろか。「オーストラリアやパプアニューギニアに移動した集団が分岐したのが約5万年といわれるので、5万年より古くはないでしょう。2万〜4万年前の間ではないかと考えられます。日本列島に人類が現れるのが約3万8000年前の後期旧石器時代ですから、4万年前あたりの可能性は十分にある」と指摘。「旧石器時代人と縄文時代人のつながりは明確にあると思う。後期旧石器時代はもともと人口が少ないですから、日本列島にいた少数の後期旧石器時代人が列島内で進化し、縄文人になった可能性も考えられます」と語る。

 また、縄文人のDNAがアイヌ、沖縄の人たち、本土日本人(ヤマト人)の順に多く受け継がれ、アイヌと沖縄の人たちが遺伝的に近いことが確かめられた。ヤマト人が縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%だった。「その後、核DNAを解析した北海道・礼文島の船泊ふなどまり遺跡の縄文人骨(後期)でも同じような値が出ているので、東日本の縄文人に関してはそんなにずれることはないと思う」。アイヌと沖縄の人たちの遺伝情報の割合についてはヤマト人ほどくわしく調べていないとしたうえで、「アイヌは縄文人のDNAの50%以上を受け継いでいるのではないかと思う。沖縄の人たちは、それより低い20%前後ではないでしょうか」と推測する。

 以前から、アイヌと沖縄の人たちとの遺伝的な類似性が指摘されていたが、なぜ北のアイヌと南の沖縄の人たちに縄文人のDNAが、より濃く受け継がれているのだろうか。

 日本人の成り立ちに関する有力な仮説として、東大教授や国際日本文化研究センター教授を歴任した自然人類学者・埴原はにはら和郎かずろう(1927〜2004)が1980年代に提唱した「二重構造モデル」がある。弥生時代に大陸からやってきた渡来人が日本列島に移住し、縄文人と混血したが、列島の両端に住むアイヌと沖縄の人たちは渡来人との混血が少なかったために縄文人の遺伝的要素を強く残した、という学説だ。斎藤教授は「今回のDNA解析で、この『二重構造モデル』がほぼ裏付けられたと言っていい」という。


遺伝的に近かった出雲人と東北人


 日本人のDNAをめぐって、もう一つ、意外性のある分析結果がある。

 数年前、島根県の出雲地方出身者でつくる「東京いずもふるさと会」から国立遺伝学研究所にDNAの調査依頼があり、斎藤教授の研究室が担当した。21人から血液を採取してDNAを抽出、データ解析した。その結果、関東地方の人たちのほうが出雲地方の人たちよりも大陸の人びとに遺伝的に近く、出雲地方の人たちは東北地方の人たちと似ていることがわかった。

 「衝撃的な結果でした。出雲の人たちと東北の人たちが、遺伝的に少し似ていたのです。すぐに、東北弁とよく似た出雲方言が事件解明のカギを握る松本清張の小説『砂の器』を思い出しました。DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出てきた。昔から中央軸(九州北部から山陽、近畿、東海、関東を結ぶ地域)に人が集まり、それに沿って人が動いている。日本列島人の中にも周辺と中央があるのは否定できない」と指摘。出雲も東北地方も同じ周辺部であり、斎藤教授は「うちなる二重構造」と呼んで、注目している。その後、新たに45人の出雲地方人のDNAを調べたが、ほぼ同じ結果が得られたという。


日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?


 斎藤教授は、この「うちなる二重構造」をふまえた日本列島への「三段階渡来モデル」を提唱している。日本列島への渡来の波は、これまで考えられてきた2回ではなく3回あった、というシナリオだ。

 第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。

 このモデルが新しいのは、「二重構造モデル」では弥生時代以降に一つと考えていた新しい渡来人の波を、第2波と第3波の二つに分けたことだという。この二つの渡来の波があったために「うちなる二重構造」が存在している、と斎藤教授は説く。


弥生・古墳人も解析、沖縄では旧石器人骨19体出土


 日本人の成り立ちをめぐり、現在、さまざまなDNA解析が行われ、新たな研究成果も出始めている。「神澤さんや篠田謙一さんら国立科学博物館のグループは、東日本の縄文人骨や弥生人骨、北九州の弥生人骨、関東地方の古墳時代人骨など、数多くの古代人のゲノムを調べています。北里大学医学部准教授の太田博樹さんらの研究グループは愛知県・伊川津いかわづ貝塚の縄文人骨のDNAを解析していますし、東大理学部教授の植田信太郎さんの研究グループは、弥生時代の山口県・土井ヶ浜遺跡から出土した人骨から核ゲノムDNAの抽出に成功しています」

沖縄・石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡から出土した約2万7000年前の日本最古の人骨
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/photonews/article.html?id=20171214-OYT8I50007


 古代人と現代人はDNAでつながっているため、現代人を調べることも重要になってくる。「いま『島プロジェクト』を考えています。島のほうが、より古いものが残っているのではないかと昔から言われている。五島列島や奄美大島、佐渡島、八丈島などに住む人たちを調べたい。東北では、宮城県の人たちを東北大学メディカル・メガバンクが調べているので、共同研究をする予定です。日本以外では、中国・上海の中国人研究者に依頼して、多様性のある中国の漢民族の中で、どこの人たちが日本列島人に近いのかを調べようとしています」と語る。

 縄文時代以前の化石人骨も続々と見つかっている。日本本土で発見された後期旧石器時代人骨は静岡県の浜北人だけだが、近年、沖縄・石垣島の白保竿根田原しらほさおねたばる洞穴遺跡から約2万7000年前の人骨が19体も出土し、学際的な研究が進められている。

 分子(ゲノム)人類学の進展と技術革新で、謎に満ちた縄文人の由来や日本人の起源が解き明かされる日が、近い将来、きっと訪れるだろう。

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ikz********さん 2012/10/19 16:29:16
日ユ同祖論 信憑性はどの程度なのでしょうか。

言語が似ている、歌をヘブライ語にすると意味が通る(君が代、かごめかごめ、 ソーラン節など)という具体的な共通点から、遺伝子が中国韓国人にはないものをもつという根拠不明なものなどが上げられます。

某掲示板では、宗教観が違いすぎる、戦前の白人コンプレックスの日本の学者が作り上げたものだとしているのをみて妙に納得してしまいました。確かにユダヤ教と神道、仏教は違いすぎます。まず一神と多神、偶像崇拝禁止と仏像とで明確です。

ただはっきりどちらに分があるとは判断しにくい部分が多いため詳しい方いたらよろしくお願いします。


aki********さん 2012/10/21 01:10:58

歌の類似性と言えば、和歌がインドの民謡と共通性が高いほうが注目に値すると思います。今でも日本人は海外の文化を輸入して、独自に発展させる才能を発揮していますが、昔もそうだったと考えるべきだと思います。ただし、ヘブライ語と日本語の類似性は他の言語と同程度で、かなり低いと思います。多くは音が似ているだけのコジツケになっていると感じます。

本当に日本語と近いのは、大陸の高句麗語です。言語が近縁かどうかを観察するとき、真っ先に見るのが数詞と言われています。日本語と高句麗語の数詞の比較を行うと、朝鮮語などよりもはるかに近縁の言語という結果が出るようです。

高句麗は滅亡して、その人々は女真族と名を変え、今は満州族と呼ばれています。

彼等は清帝国を築いたわけですが、清の時代に遭難した日本の商人が北京に行って驚いたのが、一二三四ではなく、ヒ・フ・ミ・ヨの日本語の数え方がそのまま通じたことだそうです。高句麗の流れを汲む女真族の言葉を話す人々と、北京で普通に接触できたようです。

百済は扶余・高句麗から枝分かれした王室で、朝鮮半島は異民族支配されていました。

そのため、百済の王室と民は異なる言語を話しているという指摘が、中国側に残っています。

神道の世界には古い朝鮮語が数多く残っていると指摘されることがありますが、実際にはそれが失われた高句麗語という説も出てきています。


高句麗語は日本語と同じ膠着語です。

系統が違う漢民族の言葉と文字がいきなり日本に輸入されたわけではなく、まず漢民族の言葉と直接接していた高句麗語が漢字表記されるようになり、それが、高句麗と近い山東半島や遼東半島付近の海人の手を経て日本にもたらされて、古い神道の祝詞の言葉などが作られていったと考えられます。

纏向型祭祀と高句麗国の東盟祭の類似性も、かなり指摘されているようです。

倭人文化圏が北九州から済州島を経て山東半島や遼東半島付近に分布していたと認識している中国側の史料が幾つか散見されるようです。

卑弥呼寒冷期と呼ばれる地球規模の寒冷化に伴って、飢饉に直面した高句麗地域の人々が日本に渡来した結果、弥生時代が古墳時代に変わっていったという説があるようです。

九州に山東半島原産の三眠蚕が入り、纏向(奈良)にも山東半島付近の製鉄と蚩尤(兵主・天日槍)の信仰が入っています。その結果、天照大神のモデルになった古い日女神を祭った比売許曽(ヒメコソ)神社が建てられるといった現象が起こったようです。

比売許曽は姫を祀る神社という意味の高句麗語(朝鮮古語)です。だから、比売許曽神社の末尾の「神社」は必要のない筈ですが、時代が下って元の意味が見失われた結果、付けられるようになったと考えられます。祝詞にも高句麗語由来の言葉が大量に入っている、というより、本来祝詞は高句麗語(吏読)だったそうです。謎が多いとされる「ひふみ祝詞」は、高句麗語として意味がほぼ通じる形で伝わっているそうです。飛鳥という都の名前も元は高句麗語のようです。

トルコからシルクロードを介して日本まで、膠着語圏が広範囲に広がっています。
文法的に近いため、日本語に輸入しやすかったことが考えられます。


たとえば、天皇を古い時代はスメラ・ミコトと呼んでいました。

シュメール文明と日本語の関係がかなり指摘されていますが、シュメール・ミグトと言えば、天降りた支配者のことで、日本語と音が似ているだけでなく、意味も一致しています。したがって、シルクロードを介して日本に入ってきたのは、なにも古代イスラエルの文化に限られるわけではないと思われます。

秦の始皇帝の兵馬俑はペルシャ式の軍団編成になっていて、ペルシャ人の人骨が近くから出ているようです。

ササン朝ペルシャの滅亡に伴って、シルクロードに逃れた王子が中国に亡命し、妻子を安全な日本まで連れて来ているケースもあるようです。わずか数年で日本とペルシャは繋がる距離にあります。西の文化が日本に断片的に入っていても、不思議ではありません。仏教も入れば、ギリシャ彫刻もガンダーラの地域で形を変えながら伝わっています。

しかし、文化的影響が認められるからと言って同祖論を持ち出すのは、不自然すぎると感じます。それを言うなら、人類はアフリカ原産の動物で、皆同祖という話になります。

遺伝子に関しては本来akatamayorihimeさんが御専門の筈ですが、完全スルーしているようです。相手にする必要もない勘違い、ということだと思います。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1195894356


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実はとてつもなく古かった日本語 2018 05.01
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3756.html#more


日本語は、もしかすると世界最古の言語であり、しかも世界で最も美しい言語かもしれません。

かつて谷村新司がロンドン交響楽団をバックにレコーディングをしたことがあります。
そのとき日本語の素晴らしさを再認識し、日本語を大切に歌っていくことを信念にしたそうです。

ディズニー・アニメの『アナと雪の女王』は、世界的ヒットとなったアニメ映画ですが、そのなかの挿入歌の『レット・イット・ゴー、ありのままで』は、世界25ヶ国語に翻訳され、それぞれの国の歌手が歌ったものが youtube で公開されました。

このとき、世界中の人たちが驚き、そして圧倒的な人気をはくしたのが日本語バージョンです。

Let It Go - Behind The Mic Multi-Language Version (from Frozen) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=BS0T8Cd4UhA

松たか子ver(日本語吹替版)「Let It Go」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=4DErKwi9HqM


それは、歌った松たか子さんの声の素晴らしさももちろんあるでしょうが、日本語による発声が、メロディに+αの効果をもたらしたのかもしれません。

どこの国でも、それぞれにお国自慢があります。
ここで日本語が世界一だと述べるつもりは毛頭ありません。
ただ、ひとついえることは、どうやら日本語には、他の言語にはない、不思議なところがあるということです。

ひとつは言霊(ことだま)です。
言葉に魂が宿る。

ではどうして言葉に魂が宿るのかというと、日本語が実はもともとそのように構造された言葉だからなのだそうです。

構造とは、日本語の文法や発音や語彙のことです。

つまり、自然との共生を大切に育くむこと、自然を征服したり、人と自然とどちらが上かのような上下構造をもとうとするものではない文化の下で、人と自然とが対等な関係を育んで来たのです。

2つ目はオノマトペ(仏:onomatopee)です。
オノマトペというのは擬声語を意味するフランス語です。

擬声語は、たとえば

わんわん、メーメー、ブーブー、ニャーオ、ホウホウといった動物の鳴き声を真似たものや、

ドキドキ、パチパチ、バキューン、チリーン、ドカン、カリカリ、バタン、ガタピシ、ガタンゴトン、パチバチ、ビリビリ、ジュージュー、グワァ〜ン、パタパタ、ボキポキなどなど、音を真似たもの、

あるいは、

おずおず、おどおど、めろめろ、ふらふら、きゅんきゅん、きらきら、ぴかぴか、ぐずぐず、ツルツル、サラサラのように、本来音を発しない感情などを言葉で表現するものなどのことです。

おもしろいことに、擬声語(オノマトペ)は、言語ごとに、表現がまったく異なります。

冒頭にあるのは、その違いを示した絵本の抜粋で、クリックしていただくと当該ページに飛びますが、たとえば食事をするときは、日本では「PAKU PAKU」ですが、英語では「CHOMP」、フランス語では「MIAM」、イタリア語では「GNAMグナム」、Korea語では「NYAM」です。

キスは日本語では「CHU」ですが、英語では「MWAH」、China語では「BOH」です。
つまり言語によって擬声語(オノマトペ)は、まったく異なります。
ということは、それぞれの言語圏においては、音がそのように聞こえているということです。

そして日本語の擬声語(オノマトペ)は、China語やKorea語ともまったく異なるものです。

ということは、日本語はChinaやKorea半島からの輸入語では絶対に「ない」ということです。


それだけではありません。

日本語は、この擬声語(オノマトペ)が、他の国の言語と比べて著(いちじる)しく多いのです。
その数、なんと5千語です。

日本語の単語数は、たとえば『日本国語大辞典』の収録単語数が50万語です。
このことは、日本語の1%、およそ100語にひとつが擬声語(オノマトペ)であるということです。

そして単語の中には、日常生活でよく使われるものと、そうでない(たとえば学術用語)ものがあります。

オノマトペは日常的によく使われる語です。
早い話、今朝起きたとき、ご家族に「ぐっすり寝れた?」と聞く。
その「ぐっすり」というのがオノマトペです。

しかし睡眠は「ぐっすり」などという音は立てません。
ではなぜ「ぐっすり」というのかというと、「ぐうぐう、すやすや」寝ているからです。
その「ぐうぐう+すやすや」が短縮されて「ぐっすり」です。

「ぐうぐう」も「すやすや」も、なんとなく、そのような音を立てているといわれれば、なんとなくそうかもしれないと思われるかもしれません。
では、

 風が「そよそよ」と吹く
 太陽が「かんかん」に照る
 白い雲が「ぽっかり」浮かぶ
 星が「きらきら」光る

などはどうでしょうか。

風は「そよそよ」などという音をたてないし、太陽は「かんかん」なんてしゃべったりしません。

ではなぜこのようなオノマトペが使われているのでしょうか。

実は、自然がそのような音を立てているのではなくて、受け止める側が自然が発する音をそのように聞いているのです。

このことについて考古学者の小林達雄先生は、「人々が、人と人との間で行うコミュニケーションのための言語活動と同じか、あるいはそれに近いレベルで自然と向き合い、自然との間で活発な言語活動を行ってきた結果」(『縄文文化が日本人の未来を拓く』p.134)と述べておいでです。

つまり、日本語は「自然と対話しながら発達してきた言語」なのです。

だから欧米人にはただの雑音にしか聞こえないカエルの鳴き声や虫の声も、日本人には美しい秋の音色となって聞こえる。なぜ美しいのかといえば、それは人がカエルや虫たちとコミュニケーションしているからです。

では日本語は、いつ頃の時代から形成されはじめたのでしょうか。
言語の発達には、ムラの形成が欠かせません。
なぜならムラを営むには、言語が必要だからです。
そしてそれは磨製石器の登場と時期を同じにするというのが世界の考古学会の定説です。

世界の磨製石器は、おおむね7千年前以降のものです。
中には2〜3万年前のものもあります。

 シベリアの2万年前のもの
 ロシア南西部の紀元前1万6000年前のもの。
 オーストリア中部の2万9000年〜2万1500年前のもの。

など、ほんの数例です。

ところがこれらは、異常に早過ぎる磨製石器であって、作成経緯等はすべて不明です。
そして、その後に起こるおよそ7千年前の磨製石器の時代(新石器時代)と接続していないのです。

ところが日本の磨製石器は、3万年前の磨製石器だけが単独であるのではなくて、昭和48年に東京・練馬区石神井川流域の栗原遺跡で2万7000年前の地層から磨製石斧が発掘され、また同じときに千葉県三里塚からも磨製石斧が出土、以後、秋田から奄美群島まで、全国135箇所から400点余の磨製石器が発掘されています。

そして1万7千年前には縄文時代が始まるのですが、なんとものの見事に、その縄文時代の文化へと、磨製石器の時代が接続しているのです。

ちなみに長野県日向林遺跡から出土した60点、長野県の貫ノ木(かんのき)遺跡から出土の55点の磨製石器に用いられている石は、伊豆の神津島から運ばれてきた石です。

つまり当時の日本人は航海術に長け海洋さえも自在に往来していたことも伺わせています。

こうしたことから、英国のJ・ラボックという考古学者は、

「日本列島の住民は世界に先駆けること二万数千〜三万年前に新石器時代を迎えていた。」

と述べています。

言い方を変えると、これはつまり、日本は世界最古の文明を持っていたことが証明されている国である、ということです。

そして磨製石器の登場と言語の登場、そしてムラを営むための神話の登場が重なるものであるならば、日本語は、およそ3万年前には生まれ、そこから現代に至るまで、ずっと続いている世界的にも稀有な言語である、ということになります。
そしてそれが可能になったのは、日本人が殺し合いや、自然への征服を好まず、人と人、人と自然が常に調和することを好む民族であったからです。

というより、調和を好むという日本人の性質は、最低でも3万年という途方もない長期間のなかで、最終的に生き残ってきた性質である、ということができます。

おもしろいもので身勝手な文化、自分さえ良ければという文化は、一時的な成功を手に入れることができても、必ず最後に崩壊し、再起不能になります。
ところが調和を大切にする文化は、一時的にどん底に落とされても、必ずまた再生し復活します。

植物には一年草と多年草があります。

最近は品種の改良によって、どちらも美しい花を咲かせますが、もともとは一年草の多くは、だいたい派手な花を咲かせるのに対し、多年草の花は、わりと地味な花が多いです。
地味だけれど、ずっと咲き続けます。
まるで日本人そのもののようです。

日本人は、はっきりとわかっているだけでもおよそ3万年、ずっと自然と調和し共生する道を選んできました。

だから日本語には擬声語(オノマトペ)が圧倒的に多いのです。


コメント


新宿の縄文人は、どんな言葉を話していたか?

東京の新宿のど真ん中、皇居の御堀端から2q程の地点から、縄文時代中期や後期(5千年前〜4千年前)の人骨が多数出土した事がありました。

江戸時代の遺跡を調査すると、その下から縄文時代や弥生時代の古い遺跡が続いて出土する事がありますが、その場合、江戸時代以降の大開発等によって、無残に破壊されていてる場合が多いそうです。

僅かな貝殻の堆積が確認されたとはいえ、分厚い貝層が存在しない内陸の地域から、多数の人骨がまとまって出土すること自体が非常に珍しく、当時現場は大変な興奮に包まれたそうです。

当時、保存状態の良かった、40代ぐらいの男性の顔が復元されました。

やや長めの顔に、上下に潰れた長方形の眼窩、彫りの深い目元の頭蓋骨は、ヨーロッパ人の様な風貌、あるいは、若い頃の宇梶剛士さんに似たイケメン風に仕上がりました。

彼のミトコンドリアDNAのハプロタイプは北方系と言われるA、一方彼の近くに葬られていた別の人骨は、南方系と目されるM7aだったそうです。

様々な地域をルーツに持つ縄文人たちが、新宿の地で仲良く暮らしていたのですから興味深いです。

日本語が「どのように成立したか分からない」と言われる所以は、様々なルーツを持つ人々の言葉が、極めて長い時間をかけて、ゴチャゴチャに混じり合った結果ではないかと思います。
2018/05/14(月) 11:38 | URL | 疑問 #iydQorAY[ 編集]


外国人に日本語で話しかける時にこの擬声語は使わない方が良いそうです。

擬声語に相当する外国語がないので、彼らにはさっぱり分からないようです。

また、行けなくも無いなどの二重否定もダメ。

日本人なら、何とかすれば行けると理解できますが、外国人は
理解できないようです。

外国人にとって日本語は本当に難解のようですが、
この言語を意識せず使いこなしている
我々は本当、凄いのかもしれませんね。
2018/05/14(月) 13:40 | URL | 名無し #mQop/nM.


新宿に生きた縄文人〜市谷加賀町二丁目遺跡の発掘

新宿に生きた縄文人〜市谷加賀町二丁目遺跡の発掘
http://www.city.shinjuku.lg.jp/video/video_jm01.html
https://www.youtube.com/watch?time_continue=607&v=P7VUMR0Mvzo

これですね。
2018/05/14(月) 14:31 | URL | KI


加賀町二丁目遺跡の関連本が出版されています。>KIさん

KIさんへ

動画等のご紹介ありがとうございます。

加賀町二丁目遺跡に関しては、講談社から関連書籍も出版されています。

『おどろきの東京縄文人』(瀧井宏臣著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E3%81%A9%E3%82%8D%E3%81%8D%E3%81%AE%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA-%E4%B8%96%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%89%89-%E7%80%A7%E4%BA%95-%E5%AE%8F%E8%87%A3/dp/4062870029

という本です。

この本は、考古学少年から考古学おじさん・おばさんまで、幅広い層の人々が興味深く読める内容になっていると思います。

映像で見るのと、写真で見るのとでは、復元された縄文人の顔の印象は少々異なりますね。

映像の方はバックが暗めで、陰影が強調されていますが、写真の方は細部まで鮮明に写っていますので、少し印象が違ったのかも知れません。
写真で見ると、かなり欧米風味の顔に見えます。

個人的に注目されたのは、12号人骨(復元された縄文人)が腰にぶら下げていた、イルカの下顎の骨のアクセサリーです。

縄文人は、イルカやクジラやサメやエイ等も捕獲していたことが分かっていますが、丸木舟しかない時代ですから、漁の腕前は、現代人と比較しても大したものだったと思います。
2018/05/15(火) 09:54 | URL | 疑問 #iydQorAY
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3756.html#more


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オホーツク人のDNA解読に成功ー北大研究グループー
http://www.okhotsk.org/news/oho-tukujin.html

 6月18日の北海道新聞朝刊に興味深い記事が掲載された。

5〜13世紀にオホーツク海沿岸などで独自の文化を発展させたオホーツク人の遺伝子を解読することに北大の研究グループが成功。オホーツク人のルーツには諸説あるが、現在の民族ではサハリンなどに暮らすニブヒやアムール川下流のウリチと遺伝的に最も近いことがわかったというもの。

また、アイヌ民族との共通性も判明、同グループはアイヌ民族の成り立ちについて「続縄文人・擦紋人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられる」と推測している。

アイヌ民族と共通性

 大学院理学研究員の増田隆一准教授(進化遺伝学)らのグループで、日本人類学会の英語電子版「アンスロポロジカル・サイエンス」に発表した。同グループは、道東・道北やサハリンの遺跡から発掘されたオホーツク人の人骨102体を分析。うち37体から遺伝子の断片を取り出し、DNAを解読した。

その結果、ニブヒやウリチなど北東アジアの諸民族だけが高い比率で持っているハプログループY遺伝子がオホーツク人にもあり、遺伝子グループ全体の特徴でもニブヒなどと共通性が強いことがわかった。現在、カムチャッカ半島に暮らすイテリメン、コリヤークとの遺伝的つながりも見られた。

  一方、縄文人―続縄文人―擦文人の流れをくむとみられるアイヌ民族は、縄文人や現代の本州日本にはほとんどないハプログループY遺伝子を、20%の比率で持っていることが過去の調査で判明している。
http://www.okhotsk.org/news/oho-tukujin.html


ニヴフ人とアイヌ語

ニヴフ語はアイヌ語や日本語、朝鮮語と同じように系統のわからない、いわゆる孤立語である。アイヌ語やウィルタ語といった隣り合った言語とも長い接触の歴史があるが、借用語程度の共通語彙しかなくお互いの言語が通じあうことはない。

ニヴフ人はかつて狩猟、漁労、採集を主な生業としていたが、最近の研究では中国(清)と日本との仲介貿易として知られる「サンタン交易」の重要な担い手であったことも明らかになってきた[1]。蝦夷錦や鉄器、毛皮といった商品を積んだ交易船を水面に走らすたくましい海洋交易民族でもあったのだ。
http://ext-web.edu.sgu.ac.jp/hidetos/HTML/mombetsuhandout.htm


ニヴフ語


ニヴフ語は少し昔までギリヤーク語と言われた。こう言うと聞いたことがあると思う人もいるだろう。サハリンが樺太といわれた時も、その遙か昔からニヴフ語はアイヌ語の隣にあった。つまり日本語の向こう隣にあった。奈良・平安時代にオホーツク海沿岸にオホーツク文化という古代文明があった頃、ニヴフの人たちは網走や稚内とか西は江差の方まで活動していたという見方もある。いまでこそニヴフの人たちが主に住んでいるところはサハリンの中部以北とアムール川の下流だけになってしまったが、ニヴフ語は日本地域の諸言語の中の一つであることになる。アイヌの人たちニヴフ人とのつき合いはもちろん古い。しかし日本人との触れあいも稀ではない。例えば間宮林蔵がアムール川を遡って清朝の出先交易所デレンへ行ったとき、同行して案内してくれたのはニヴフの人たちであった。

ニヴフの人たちがどこから来たかを問うのは愚問かも知れない。縄文以来その辺りに住んでいたと考えるほかはないからである。だから当然ニヴフ語も昔からそこにあって、アイヌ語と隣り合っていたに違いない。ところがこの両言語を比べて似ているところはない。おそらく親類ではない。それどころかニヴフ語はアイヌ語よりもむしろ日本語の方に似ている。といっても共通な語彙があるわけではない。ただ文法に構造に比較的共通な面が見られるというに過ぎない。

それに何と言っても人のすがた形がわれわれにそっくりなのには驚く。日本のスーパーマーケットではニヴフ人がレジで叱られる。「日本人のくせに日本語の計算できないの」というわけである。一方、アムールの店では日本人をニヴフ人と区別する目安ははいているジーンズの出来くらいのものである。

アムールの下流には2000人ほどのニヴフ人がネギダール人などと一緒に住んでいる。殆どニヴフだけの村もまだ2,3箇所は残っている。しかし家でも道路でも店でもニヴフ語は聞かれない。名の知れたおばあさんのところへ行って頼んで話していただけれるのがやっとである。一方サハリン全体でもやはり2000人を少し越える位のニヴフ人が住んでいる。だがこちらでは州議会にニヴフの代表を送ったり、著名な作家が活動していたり、あちこちの博物館に学芸員をやっていたり、ニヴフは大活躍である。『ニヴフ語』という新聞(月刊)も出している。だがそれでもニヴフ語が家庭語になっている家は一・二軒か、それもあのおばぁちゃんとあの娘との会話だけかなと言えるくらいである。

公教育でニヴフ語を正課にしているところはアムールとサハリン合わせて二校である。もっとも随意科目としてニヴフ語教室をおくところがほかにいくつかある。それにしては立派な教科書が1970年代から作られ、学習用の辞書も読本もある。しかも北西方言(アムール下流と北西サハリン)と南東方言(サハリンのトゥミ川流域以南)に分かれて、結構使われている。それでもニヴフ語はすでに生活語として使われてはいない。全員がロシア語の母語話者になってしまっている。昔話を語るひとも数えるほどしかいない。この言語の先行きは見えない。いまのところ完全に先細りである。あのお婆さんが亡くなったらどうするんだと思うばかりである。そして事実、一昨年はあの方が、去年はあの人が、という有様である。

しかし『ニヴフ語』の編集と配布に精を出している姿を見て、たとえ余所者であっても、何か手伝いたいと思う。本やビデオ番組を作る手助けでもできればと願う。「危機言語」だなどとよそよそしいことを言わないでほしい!このほれぼれするほどに立派な言語を必死にに守ろうとするひとたちがそこに生きているのだから。

《金子亨:言語学(2006年掲載)》
http://www.chikyukotobamura.org/muse/low060402.html


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アイヌと縄文: もうひとつの日本の歴史 (ちくま新書) – 2016/2/8
瀬川 拓郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E3%81%A8%E7%B8%84%E6%96%87-%E3%82%82%E3%81%86%E3%81%B2%E3%81%A8%E3%81%A4%E3%81%AE%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E7%80%AC%E5%B7%9D-%E6%8B%93%E9%83%8E/dp/4480068732


日本人がなぜ本源的なのか⇒3万5千年に渡る古代人の歴史が土台になっている
 


日本人や日本文化が世界で最近、注目されている。
理由や現象は敢えて並べないが、一言で表せば思考方法や行動、言語等が人類の本源的、源流的であるという点。裏返せば独自的、孤立的、世界中に広がった他の地域、人類との類似が少ないという点ではないだろうか。

最近の研究で言語学的にも遺伝子的にもそれは証明されてきており、人種の孤島として縄文人、アイヌ人の事を書いた著書の一説を紹介したい。

「アイヌと縄文」〜瀬川拓郎著
>「人種の孤島」としての縄文とアイヌ

本土人、琉球人、アイヌの遺伝的多様性の分布を見ると、それらは他の東アジア人や、ヨーロッパ人と混血した中央アジアの人々(ウイグル人、ヤクート人)のまとまりとは反対の方向に分布しています。

 現代の本土人、琉球人、アイヌは直線状にならび、この順でアジアの人々から離れていきます。直線の延長上にはかれらの共通祖先である縄文人が想定できます。つまり本土人、琉球人、アイヌのDNAを特異な方向に「引っ張って」いるのは縄文人であり、そのことは縄文人が現代のどの人類集団とも大きく異なる特徴を持っていたことを物語っているのです。

縄文人は、上下の歯が爪切りの刃のように嚙み合い、彫が深く、鼻が高いといった形質的な特徴をもっていました。これはアイヌにも共通します。そのアイヌは形質人類学では長くコーカソイド(ヨーロッパ人)に分類されてきましたが、1960年代に総合調査が行われ、歯冠の形などから本土と同じモンゴロイド(アジア人)であると結論付けらました。

ただし、先のアイヌの特徴は一般的なモンゴロイドとは異なるものです。一般的なモンゴロイドとは異なるものです。そのため、形質人類学者はこれに頭を悩ませ、現代モンゴロイド成立以前のモンゴロイド、すなわち原モンゴロイドという仮想的な集団を設定し、アイヌをこれに帰属させたのです。

つまり、私たちが常識のようにみなしているアイヌ=モンゴロイド説は学界で完全に受け入れられているわけではありません。形質人類学者の百々幸雄はアイヌがどの人類集団とも異なる、現生人類という大海に浮かぶ「人類の孤島」であるとし、アイヌと縄文人は「出アフリカ」をはたした現世人類が、ヨーロッパ人とアジア人に分化する以前の状態を保っているのではないかと述べています。(百々2007年)
このこととかかわって興味深いのは、同学者の山口敏が旧人のネアンデルタール人のあとに出現した、化石現生人類のクロマニョン人と縄文人の類似性を指摘し、縄文人の形態的特徴は、現生人類のなかの古層に属すると見なされている事です。

 日本列島の縄文人は北海道から沖縄まで形質的な共通性をみせています。かれらは地域性がはっきり認められず、均質な形態をもつ人々でした。つまり縄文時代の日本列島には、アイヌにうかがわれるような「モンゴロイド離れ」した人々が暮らしていたのです。

1万年以上続いた縄文時代には、日本列島をとりまく朝鮮半島、中国、台湾、サハリンとの交流はほとんどありませんでした。そのため縄文人のヒトとしての特異性はかなり純粋に保たれてきました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーー

同様に言語学でも日本語、アイヌ語は世界中の言語から孤立している。

>日本列島を含むユーラシア大陸では2500以上の言語が話されています。ただし、同系関係を辿っていくと、これらのほとんどはアルタイ系言語、シナ・チベット系言語、インド・ヨーロッパ系言語のようなわずか10あまりの大きな「語族」にまとめられます。

その中で同系関係がたどれず系統的に孤立していた言語はわずかに9つにすぎません。さらにその約半数が日本列島の周辺に集中している。日本語、アイヌ語、朝鮮語、サハリン先住民のニブフ語です。

これ以外はピレネー山中のバスク語、西シベリアのケット語、インド中部のニハーリー語、東ヒマラヤのクスンダ語でいずれも人里から離れた辺境地帯の言語である点が共通しています。

言語学者の松本克己はこのうち日本列島周辺に集中する日本語、アイヌ語、朝鮮語はかなり旧い時代につながっていたと述べています。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー引用ーーーー

これら、ホモサピエンスの最初の系統の人類が日本列島で3万8千年前の旧石器時代からその後の縄文時代1万6千年に渡って純粋培養されていた事を示している。渡来人文化を受け入れ縄文人から日本人に変化したその後の歴史はわずか2500年間であり、その10倍以上の時間が日本人の歴史に刻み込まれている。

言語はその民族の思考方法を限定する。日本語の独自性、孤立性が未だ保たれている事を根拠に、私たち日本人の中に古代人から直結する本源性が世界中の人種の中で最も色濃く残っているのではないかと仮説しておきたい。

それが注目されている最も大きな潜在的理由の一つではないだろうか。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=312916


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縄文体質は日本語を通じて我々の心に息づいている
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3361.html

縄文体質はさまざまな方法で、分野で人々の暮らしに、文化に、心に残存していきました。しかしその影響力の中で最も大きなものはなんでしょうか?私は間違いなく日本語だと思います。

日本語は縄文時代に作られた言語であり、もっと言えばその以前、旧石器時代、さらにホモサピエンスが登場した時代に人類が言語を作り出した最も旧い古語を母体にしています。日本列島には縄文時代、それ以降も様々な大陸人が渡来し、定着していきましたが、彼らはいずれも母国語を持ちながらも日本に定着する為に日本語を使えるようになり、2世代、3世代を経て日本人になっていきます。それは現代でも同じで、アメリカ人であっても生まれて直ぐに日本で生活し、日本語で育った子どもは顔は西洋人でも心はまったくの日本人です。(テニスプレーヤーの大坂なおみや野球のダルビッシュ有などを見てもわかるでしょう)日本人は日本語で考えるから日本人になれるのです。

縄文―弥生―平安から江戸時代、明治、昭和、そして現在まで、日本語はほとんどその骨格を変化させず、時々の外来の文化を取り込んできました。るいネットでは日本語で検索するだけで100以上の投稿が掲載されています。

その中で縄文体質がどのように日本語を通じて我々の血肉に、心になっていったか、それを推し量る投稿をいくつかダイジェストで紹介します。


これらを読んで改めて思うのは日本語教育の大切さ、今学校教育で最も必要なの英語教育ではなく母国語を使った思考力育成教育ではないでしょうか?


日本人がなぜ本源的なのか⇒3万5千年に渡る古代人の歴史が土台になっている
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=312916


これら、ホモサピエンスの最初の系統の人類が日本列島で3万8千年前の旧石器時代からその後の縄文時代1万6千年に渡って純粋培養されていた事を示している。渡来人文化を受け入れ縄文人から日本人に変化したその後の歴史はわずか2500年間であり、その10倍以上の時間が日本人の歴史に刻み込まれている。

言語はその民族の思考方法を限定する。日本語の独自性、孤立性が未だ保たれている事を根拠に、私たち日本人の中に古代人から直結する本源性が世界中の人種の中で最も色濃く残っているのではないかと仮説しておきたい。

それが注目されている最も大きな潜在的理由の一つではないだろうか。


縄文語は抹殺されなかった
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=307372&h_d=1433&m_d=rpc


人類学でほぼ定説になっているのは、日本列島には縄文時代の一万年にわたってアイヌ人を含む南方モンゴロイド系の縄文人が生活しており、紀元前二・三百年ごろ北方モンゴロイド系の渡来人が移入してきたことである。

しかし、大量の渡来人が一挙に押し寄せてきて、日本列島を席巻してしまったわけではなかった。縄文人が抹殺されたり、奴隷にされたりして、日本列島から縄文文化が消滅したわけでもなかった。大陸からある程度の集団的な渡来があったとしても、この時代の渡航技術からして先住民を一気に駆逐したり虐殺したりできるほどの大規模な移動はできなかった。

渡来人の移入以前、縄文人は、前期からすでに日本列島にはひろく住んでおり、土器の生産に従事し、相互に交流していた(ヒスイが糸魚川で産出し加工され、日本列島に広く流通していた例など)。縄文人はかなり均質化した文化をもっており、とすれば、地域差はあったにしろ、異言語の乱立するような状況は考えにくい。縄文前期からすでに縄文語という原日本語が形成され始めたのではないかと著者はいう。

(中略)

とすれば、言語もまた制圧と断絶という形で入れ替わったとは考えにくい。しかも日本語は、様々な学説はあるものの、現在までのところ琉球語以外にその同族関係が証明されていないという。「周辺言語との同型性を証明する比較方法の手がかりがつかめないとするならば、日本語は、日本列島が孤立して以来一万年の間に、この島国の中で形成されたと考えなければならない」と、著者は主張する。確かに、二千数百年前に渡来した弥生人が縄文語を消滅させてしまったなら、大陸のどこかに弥生語ときわめて親近性の高い言語が残っているはずなのに、それが見つからないのだ。日本語は、縄文文化とともに始まり、断続なく現代に連なる長い歴史ももっているというべきだろう。


原始日本人の感覚は、「ひらがな」によって継承されている
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=321391

文字を持たない時代の言語とその感覚を、現代まで引継いでいるのは、世界の中でも「ひらがな」のみという。どんな文字も、「てにをは」のひらがなにし組み立てることで、話し言葉しかなかった原始日本人の感覚を伴った理解ができる。「ひらがな」が、日本人の縄文体質を継承する基盤になっているということ。

日本語の感覚はひらがなの言葉やひらがなの使い方の中に脈々と継承され続けているのです。ひらがな以外の文字は他国の先進文明や新しい技術・考え方などを日本語として取り込んできたものなのです。


日本語の凄さ〜お互いが分かり合うこと(日常会話)に特化した言語〜
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=333010


日本語を含め計4ヶ国語を勉強した方が、日本語の秘密=日本語の凄さを書いてくれている。この日本語の凄さを読めば読むほど、日本語ほど相手と意思疎通を図るのに適した言語は無いのではないかと思えてくる。


○主語がなくても通じる

日本語は、主語がなくても通じます。良い例が、「愛してる」。
誰が、誰を、愛していると言わなくても、「愛してる」と言うだけで意味が伝わりますね。誰も日本語で「私はあなたを愛しているよ」なんて長ったらしいフレーズは使いません。

しかし、英語では「I love you」、中国語では「我愛(あなた)」を普通に使います。


○言葉を入れ替えても通じる

日本語は、英語や中国語に比べて言葉の並びをあまり気にしない(法則性が少ない)と感じます。例えば、英語で「Where are you now?」

日本語では、「今どこにいるの?」・「どこにいるの今?」・「どこに今いるの?」どれも不自然でなく使うことができます。

しかし、英語では「Now where are you?」とは言いません。なぜか説明できないけれど、しっくりきません・・・。もちろん「Where are now you?」とも言いませんよ。


思考するための最高の言語:日本語
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=332003


・・・日本語が思考言語としてはこれぼど適したものはないということになります。

特にアイデアや発想の広がりは、他の言語の比較にならないものだということができます。

問題は、その特徴を使いこなしているかどうかということになります。
枠にはまった思考や、限られた知識に縛られた思考では、せっかくの日本語のチカラを生かしていないことになります。


日本語が作る脳〜日本人の“縄文体質”や“本源性”は日本語を母語とする限りは失われない!?A
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=291491&h_d=1433&m_d=rpc


角田教授の発見で興味深いのは、自然音を言語脳で受けめるという日本型の特徴が、日本人や日系人という「血筋」の問題ではなく、日本語を母語として最初に覚えたかどうか、という点で決まるということである。

その端的な例として、南米での日系人10人を調査したデータがある。これらの日系人は1名を除いて、ポルトガル語やスペイン語を母語として育った人々で、その脳はすべて西洋型であった。唯一日本型を示した例外は、お父さんが徹底的な日本語教育を施して、10歳になるまでポルトガル語をまったく知らずに過ごした女性であった。その後、ブラジルの小学校に入り、大学まで出たのだが、この女性だけはいまだに自然音を言語脳でとらえるという完全な日本型だった。


日本語とポリネシア語の共通性〜ともに母音を中心として認識する言語
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=285350


日本で日本語を母語として育った在日の人々は、完全な日本型になっている。こう考えると、西洋型か日本型かは人種の違いではなく、育った母語の違いである可能性が高い。「日本人の脳」というより、「日本語の脳」と言うべきだろう。角田教授の今までの調査では、日本語と同じパターンは世界でもポリネシア語でしか見つかっていない。

世界の言語のほとんどは子音を中心に認識するものです。

ヨーロッパ語もアラビア語も中国語も、口から空気を出す時に障害を作って変化をつける子音によって音声の認識をしています。

子音は感覚的には、相手との距離を保ち威嚇する発音体系ということができるのだそうです。子音語族(こんな言い方があるのかどうかわかりませんが)においては、会話をすることによって、相手との対立や違いを明確にしていくことができるようです。

母音は息で制動を付けなくても、声帯の振動をそのまま伝えることで発することができる自然な音です。痛いときには「うー」と奥の方から自然に発せられます、感動した時には「おー」と自然な音が発せられます。母音は自然に発せられる音からできています。

母音を中心とした言語である日本語やポリネシア語の話者は、母音を言語脳がある左脳で聞いています。


『生きる力を育てる教育』〜日本語の力(番外編)こんこんと流れる日本人の心の地下水脈
http://web.kansya.jp.net/blog/2012/05/001281.html


子どもの頃に暗誦した言葉で意味の分からなかった所も、人生の経験を積み重ねていくうちに、ふと分かる瞬間が訪れる。嬉しい事や悲しいことがあった時に、子どもの頃に暗誦した言葉がふと思い浮かんで、その言葉の持つ深い意味に気づく。そういう経験を積み重ねると、その言葉を口ずさむだけで、自分の人生の様々な場面が思い起こされるようになる。子どもの頃に暗誦した言葉は長い人生において、自分を導き、支え、励ましてくれる道連れとなる。老人方の「喜び」とは、そういう道連れに恵まれた幸福であろう。

自分が共に生きた言葉を、また子や孫の世代が習い覚えてくれるなら、それはまた大きな喜びである。自分はこの世から去っても、自分がともに人生を歩んだ言葉は後の世代が大切に受け継いでくれる。自分はいなくなっても、自分が大切にした根っこは、後の世代が大切に引き継いでくれるのだ。

国語はこのようにして世代を貫いて民族の心の地下水脈をなす。暗誦文化が衰退したといっても、たかだかこの1,2世代のことである。現在の世代が忘れていても、国語の地下水脈はこんこんと流れ続けている。


日本語が美しい理由

言葉はその音が単なる記号ではない。
その音が持つイメージから言葉は作られる。太古、精霊を見て、観念を発明したとき、彼らの感覚にしっくりくる発音が与えられたはずだ。
日本は幸い、太古から民族、文化、言語がずっとつながっている。
日本語が持つ語感は、日本の風土の中で作られた言葉が変化しながらもずっとつながりを持っている。

だから日本語には擬態語が多い。

カラカラ、クルクル、コロコロ
サラサラ、ソロソロ、スルスル
タラタラ、ツルツル、トロトロ

Kは回転する固体、Sは乾いた空気の摩擦、Tは粘性のある液体のイメージだ。

日本人ならみんな共有できる音のイメージ。新しく擬態語を創ってもすぐ通用する。ところが、外国人にはこれが理解できない。

無数の音節単位を認識する他国の言語では、各音に対する性格付けがほとんど不可能。

音の語感だけで雰囲気の解る日本語発音体系、それを太古から途切れずに発達させることが出来た。

日本語は美しい。

黒川伊保子 「日本語はなぜ美しいか」 より

サクラサク、この語感の美しさ。みんなが共有できることの幸せ。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3361.html


31. 中川隆[-13719] koaQ7Jey 2018年11月30日 17:26:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463] 報告

これが縄文人と同じ遺伝子を持つアンダマン人の姿


Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の 大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、そこから北上し現在の中国大陸に到達した。

その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、 その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し現代までJarawa族やOnge族として 絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきている。

Y-DNA「D」は基本的に原始性の強い狩猟採集民と考えてよいだろう。 日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いない。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1


インド アンダマン諸島先住民、米国人宣教師を矢で殺害

アンダマン諸島 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%9E%E3%83%B3%E8%AB%B8%E5%B3%B6

アンダマン諸島 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%9E%E3%83%B3%E8%AB%B8%E5%B3%B6

アンダマン諸島 - Google マップ
https://www.google.co.jp/maps/place/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%9E%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%8B%E3%82%B3%E3%83%90%E3%83%AB%E8%AB%B8%E5%B3%B6+%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%9E%E3%83%B3%E8%AB%B8%E5%B3%B6/data=!4m2!3m1!1s0x308f6b6e7bc413a9:0x763c2b5ed91bc92?hl=ja&ved=2ahUKEwicmIyzneneAhUR5bwKHb7aBc4Q8gEwD3oECAUQCA


アンダマン人 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%9E%E3%83%B3%E4%BA%BA


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先住民、米国人を矢で殺害=立ち入り禁止の島−インド アンダマン島 2018/11/22
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018112200267&g=int


インド東部アンダマン・ニコバル諸島・南アンダマン島の海岸=2007年9月撮影(AFP時事)

 【ニューデリー時事】インド主要メディアは21日、同国東部アンダマン・ニコバル諸島の北センチネル島で、米国人男性(27)が先住民に矢で射られるなどして殺害されたと報じた。同島の先住民は、外部との接触を拒否し、近づく者を攻撃してきた。政府も独自文化保護などの観点から島への立ち入りを禁じている。


 民放NDTVによると、殺害された男性は牧師で、先住民を改宗させようとしていたという。16日にインド人漁師の舟に乗って島に近づき、カヌーを使い上陸したものの、矢を浴びた上、首に縄を掛けられて引きずられ、殺害された。(2018/11/22-08:42)
https://www.jiji.com/jc/article?k=2018112200267&g=int

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インドの孤立部族、米国人宣教師を殺害か 北センチネル島
2018.11.22 Thu posted at 11:45 JST
https://www.cnn.co.jp/world/35129078.html


住民を改宗させる目的で北センチネル島に渡航したとみられる宣教師のチャウさん/John Allen Chau/Instagram
住民を改宗させる目的で北センチネル島に渡航したとみられる宣教師のチャウさん/John Allen Chau/Instagram


ニューデリー(CNN) インド東部アンダマン・ニコバル諸島の警察は22日までに、同諸島の北センチネル島を訪れていた米国人宣教師が地元部族に殺害されたとみられると明らかにした。

北センチネル島はインド本土の数百キロ沖合にあり、住民は世界で最も孤立した部族の1つとなっている。

地元警察幹部がCNNに明かしたところによると、殺害された男性はジョン・アレン・チャウさん(27)で、インドには観光ビザで訪れていた。しかし10月にアンダマン・ニコバル諸島に来た際は、明らかに布教目的だったといい、「彼のことを観光客とは呼びたくない」としている。

チャウさんから警察に対し、住民の改宗を目的とした渡航だとの報告はなかった。

同島にはインドの法律で保護対象の「センチネル族」が住む。公式記録では住民は十数人に過ぎないとされる。

島は保護区域となっており、5カイリ(約9キロ)以内への進入は禁止されている。以前に外部の人間への攻撃的な行動が2件確認されたことを受けた措置で、2006年には地元漁師2人が部族に殺害されていた。

警察によれば、米国人宣教師は現地の友人に頼んでボートを手配してもらい、島への上陸を助ける漁師も見つけていた。訪問を手助けした7人の現地住民は全員逮捕されている。

警察はチャウさんが死亡したことを独自に確認していないが、漁師たちの話をもとに殺害されたとみている。
https://www.cnn.co.jp/world/35129078.html


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先住民が弓矢で殺害の米国人、訪問目的は「キリスト教の布教」
2018年11月22日 23:06 発信地:ポートブレア/インド
http://www.afpbb.com/articles/-/3198832?cx_part=top_topstory&cx_position=4  


先住民が弓矢で殺害の米国人、訪問目的は「キリスト教の布教」

【11月22日 AFP】現代文明から隔絶されたインド・北センチネル島(North Sentinel Island)で、米国人青年が先住民から多数の矢で射られて死亡した事件で、青年が同島を訪れたのはキリスト教の布教のためだったと、複数のメディアが22日報じた。

 報道によると、ジョン・アレン・チャウ(John Allen Chau)さん(27)は先週、インド洋上の同島に不法に上陸しようとカヤックで接近。チャウさんは贈り物として、魚やサッカーボールを持参していたという。

 チャウさんは、「私の名前はジョンです。私は皆さんを愛しています、イエス(Jesus)も皆さんを愛しています…魚を持ってきました!」と声を掛けていたという。

 先住民らはチャウさんに向かって矢を放ち、矢の1本がチャウさんが手にしていた聖書を射抜いたため、チャウさんは上陸を手助けしていたインド人漁師らの舟に戻った。夜が明けてから再びカヤックで島への上陸を試みたチャウさんが、漁師の舟に戻ってくることはなかった。

 米紙ワシントン・ポスト(Washington Post)は、別の宣教師がチャウさんの母親に電子メールで知らせた話として、先住民が浜辺にチャウさんの遺体を埋めているのを漁師らが目撃したと報じた。

 ベンガル湾(Bay of Bengal)に浮かぶ北センチネル島には、約150人の先住民が暮らしている。独自の生活様式を保護するため、インド人も外国人も一様に島から5キロ以内に近づくことを禁じられている。北センチネルの先住民は、外部の者に対して敵対的な行動を取ることで知られている。

 報道によると、チャウさんは両親に宛てた手紙の中で「こんなことをして正気じゃないと思うかもしれないけれど、ここの人々にイエスについて教える価値はあると思っている」「私がもし殺されたとしても、彼らや神を恨まないで」と書いていたという。

 北センチネル島にはインド当局も上陸を避けており、チャウさんの殺害が犯罪として扱われるかどうかは不明。

 英ロンドンを拠点とする先住民らの権利保護団体「サバイバル・インターナショナル(Survival International)」はツイッター(Twitter)で、今回の事件は起こさせてはならなかった「悲劇」であり、先住民と外部者の安全を確保するため、双方の保護対策を適切に講じておくべきだったと指摘した。(c)AFP
 




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弓矢で米国人殺害、インド・北センチネル島の先住民とは?
2018年11月23日 15:03 発信地:ポートブレア/インド
http://www.afpbb.com/articles/-/3198906?cx_part=top_topstory&cx_position=2


上空のヘリコプターを弓矢で狙うインド・北センチネル島の先住民。
印沿岸警備隊と先住民らの権利保護団体「サバイバル・インターナショナル」提供(2004年12月28日撮影、提供日不明)。(c)AFP PHOTO / INDIAN COAST GUARD / SURVIVAL INTERNATIONAL


【11月23日 AFP】米国の若い宣教師がインド・北センチネル島(North Sentinel Island)で命を落とした事件は、世界で最も現代文明から隔絶されたグループの一つと考えられているこの島の人々に、再びスポットライトを当てるきっかけとなった。

 先週、宣教目的でインド洋上の同島にカヤックで近づき、不法に上陸しようとして殺害されたのはジョン・アレン・チャウ(John Allen Chau)さん(27)。チャウさんは、複数の矢で射られて死亡したとみられている。

 この島の先住民について、これまでに分かっていることは以下のとおり。

■隔絶

 北センチネル島は、米ニューヨーク・マンハッタン(Manhattan)ほどの広さがある。ここで暮らす唯一の先住民のグループは、強い警戒心を持って自分たちの土地を守っている。食料は、森や海から調達しているとされる。

 北センチネル島の人々は、アンダマン諸島(Andaman islands)のいくつかの先住民族の中で最も外界から隔絶されている。また、インドの法律でも、先住民と接触することは固く禁じられている。島に暮らす人々は、現代文明から隔絶された生活を送っているため、免疫を持たない病気に対して身を守る術を持っていないのだ。

 英国は18世紀にこれら島々の植民地化を試みた。当時の記録では、約8000人が暮らしていると推定されていた。現在の人口は約150人と考えられているが、遠方から撮影した写真を頼りに行った国勢調査では、15人程度とも記録されている。

 センチネル島の先住民に関する大半の情報は、島から遠く離れた沖合の船から観察して得られたものだ。しかし、チャウさんが死亡する数時間前に書き留めたとされる日記によると、島の男性らの身長は約1メートル65センチで、顔は黄色く塗られていたという。

 一時期、センチネル島の先住民たちは、外部からの訪問者を受け入れていた。人類学者らによって、贈り物の交換や現地調査が1960年代に行われていたのだ。しかし、2004年のスマトラ島沖地震後、同島上空を飛行する印沿岸警備隊のヘリコプターに対して、先住民らが敵対する態度を示したことから、以降の交流継続が断念された。当時、先住民との接触は金輪際しないと宣言されたが、遠方からの監視はその後も継続して行われている。

■「人間サファリツアー」に批判

 50年前に北センチネル島を訪れたことのある人類学者のT.N.パンディット(T.N.Pandit)氏は、彼らとの接触を急ぐべきではないと話す。同氏は、インド誌「Down To Earth」との最近のインタビューで、「アンダマン諸島の4部族のうち、外界と密に接触している部族が最も困難な状況に置かれている。人口統計学的にも文化的にも」と語っている。

 アンダマン諸島の先住民の中で英国が最初に接触したのは、近くの島で暮らしていたジャラワの人々だった。2011年に実施された国勢調査では、人口は約400人と推定されている。

 彼らは当初、外部の人々との接触をかたくなに拒否していたが、1970年代になると次第に接触を許すようになった。当時、一部の旅行会社が、ジャラワの人々の暮らしぶりを見ることができるとして「人間サファリツアー」を企画し、非難されるという出来事もあった。

 現地を訪れた人々によると、観光客との頻繁な接触によって、若い世代はヒンディー語を少し理解できるようになり、飲酒や喫煙を始めた者もいたという。

 2012年には、観光客相手に裸で踊るジャラワ人女性の映像が拡散。こうした現状が問題視され、規制や取り締まりが強化された。また2016年には、島の外の男性が父親とみられる色白の赤ちゃんが生まれ、グループのルールにのっとって殺されたと複数のメディアが報じている。(c)AFP



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【報ステ】未開の島の住民 米国人宣教師を殺害(18-11-23) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=oQqWQUa_qbY


11/23(金) 23:30配信 テレ朝 news

 インド東部にある北センチネル島で、数千年にわたり外部との接触を拒んでいる住民にキリスト教を広めようとしたアメリカ人男性(27)が殺害された。

住民は部外者に敵対的で、その危険性などから島に近付くことも禁止されているが、男性は無許可で上陸。魚などを持参し、友好を図ろうとしていたが、上陸直後に矢が降り注いだという。

その後、男性は首に縄をかけられて引きずられていき、翌朝、遺体で見つかった。



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弓矢で殺された米国人宣教師、先住民保護のため遺体収容は困難か 印
11/24(土) 22:20配信 AFP=時事

【AFP=時事】現代文明から隔絶されたインド・アンダマン・ニコバル(Andaman and Nicobar)諸島の島に上陸し、弓矢を浴びて殺害された米国人宣教師のジョン・アレン・チャウ(John Allen Chau)氏(27)について、専門家らは遺体が島から運び出されることはないかもしれないとの見通しを示している。

【図解】北センチネル島の位置
http://www.afpbb.com/articles/-/3198663?pid=20739165&tmpl_skin=gallery&utm_source=yahoo&utm_medium=news&cx_from=yahoo&cx_position=p1&cx_rss=afp&cx_id=3199018


 先住民の人権に関する専門家らは、同諸島にある北センチネル島(North Sentinel Island)の人々にとって、チャウさんが単独で島に侵入したことは非常に脅威であったため、殺人罪が島民らに問われることはなく、世界でも最後とみられる新石器時代以前の暮らしを送る彼らを保護する観点から、チャウさんの遺体は島にとどめ置かれることになるだろうと指摘する。

 北センチネル島に国内法を適用しようとしないインド当局は、外部者に対して長年にわたり敵対的な行動を取ってきたこの島の先住民に対し、警察を上陸させて事情聴取しようとすらしていない。

 一方で警察は23日、北センチネル島付近に、チャウさんが殺害されて以降2度目となる船舶の派遣を実施。「特に脆弱(ぜいじゃく)な民族集団である彼らの生活を混乱させたり、苦痛を与えたりすることがないよう、正当な予防策を講じた」と説明している。

 チャウさんは、島の5キロ以内に近付くことは違法と知りながら、キリスト教を布教するために何度か島への上陸を試み、島の先住民に複数の矢で射られて死亡した。

 風邪といった軽い現代の病気でも、感染すれば先住民は絶滅する恐れがあり、電力やインターネットを体験することで生活様式が徹底的に破壊されるかもしれないという懸念から、先住民は外界と隔離したままにされている。

 そうして守られた世界に、チャウさんは「イエス(Jesus)は皆さんを愛しています」というメッセージを携えて侵入した。

 先住民の人権に関する専門家で、同諸島に関する著作もあるパンカジ・セクサリア(Pankaj Sekhsaria)氏は、チャウさんの遺体を収容しようとするのは「無益な試み」だと指摘。AFPに対し「(北センチネル島の)近くに行くことが良いアイデアとは思わない。現地社会との対立を生むからだ」と語った。

 先住民らの権利保護団体「サバイバル・インターナショナル(Survival International)」の研究者であるソフィー・グリグ(Sophie Grig)氏も「作業者とセンチネルの人々双方を危険にさらすことなく、遺体を収容するための安全な方法があるとは考えていない」と話す。

 デリー大学(University of Delhi)で人類学を教えるアヌプ・カプール(Anup Kapoor)教授は、センチネルの人々と対話を持ちたい人は誰でも「同じ水準」であることを示す必要があったと指摘。「何も着るな、そうしたら何らかの関係が築くことが期待できるかもしれない」と話した。カプール教授はかつて同諸島の別の先住民であるオンゲ(Onge)の人々に対し、「下着以外、自分の服全部を脱いでから」接触した経験を持つという。

 その一方、同諸島の警察は、チャウさんの遺族の祈りにどう応えるか、また北センチネル周辺で先住民の生存にとって必須である隔離をどう維持するかというジレンマに頭を悩ませている。

 アンダマン警察トップのデペンドラ・パタック(Dependra Pathak)氏は、遺体発見に向けたスケジュールは出し得ないと述べている。

 またセクサリア氏も、当局はチャウさんをまねる行動を防ぐため、北センチネル周辺の監視を強化する必要があるかもしれないと指摘。同氏は詳細について明らかにしなかったものの、「行政側はこの問題を承知している。彼らは監視についてすでに検討している」と述べた。【翻訳編集】 AFPBB News
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20181124-00000032-jij_afp-int

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弓矢で宣教師射殺、先住民と遺体捜索の警察がにらみ合い インド
2018年11月25日 23:27 発信地:ポートブレア/インド
http://www.afpbb.com/articles/-/3199082?cx_part=top_topstory&cx_position=4

上空のヘリコプターを弓矢で狙うインド・北センチネル島の先住民。印沿岸警備隊と先住民らの権利保護団体「サバイバル・インターナショナル」提供(2004年12月28日撮影、提供日不明)。(c)AFP PHOTO / INDIAN COAST GUARD / SURVIVAL INTERNATIONAL


【11月25日 AFP】現代文明から隔絶されたインドの北センチネル島(North Sentinel Island)では、米国人宣教師のジョン・アレン・チャウ(John Allen Chau)さん(27)を弓矢で射殺した先住民と、遺体を捜索するため同島の沖合にボートを停泊させている警察が、緊張に満ちたにらみ合いを続けている。警察が25日、明らかにした。

 地元警察のデペンドラ・パタク(Dependra Pathak)署長がAFPに語ったところによると、警察の捜索チームは24日、チャウさんが最後に目撃された島の浜辺の400メートル沖合から、双眼鏡で先住民の姿を発見。先住民らは弓矢で武装していた。

 チャウさんは先住民に向かってキリスト教のメッセージを叫んでいたところ、こうした弓矢で殺害されたと報じられている。

 北センチネル島については、先住民独自の生活様式の保護や疫病対策の観点から、島の5キロ以内に近付くことは違法とされている。

「先住民たちはわれわれを凝視し、われわれも彼らを注視していた」とパタク署長は語った。結局、先住民との衝突するいかなる事態も避けるため船は引き返したという。

 外部者に閉ざされた島で、先住民たちの新石器時代以前の暮らしを妨げずにチャウさんの遺体を捜索するため、警察は苦心に苦心を重ねている。

 チャウさんの死は公式には殺人事件の扱いだが、人類学者らはチャウさんの遺体収容はほぼ不可能とみており、法律で保護された先住民に殺人罪は適用できないとの見解を示している。

 チャウさんの死をめぐっては、チャウさんが小舟で北センチネル島に渡る手引きをした地元漁師6人を含む7人が逮捕された。この漁師らは警察の遺体捜索チームに同行し、チャウさんが殺害された場所の特定に協力している。(c)AFP




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米宣教師を殺したセンチネルは地球上最後の「石器人」
11/27(火) 16:53配信 ニューズウィーク日本版

地球上で最後の石器時代を生きるといわれるセンチネル族 BBC News


<接近が厳しく制限されているインドの離島で殺害された米国人の遺体は先住民保護のため収容断念となる可能性も>

インドの北センチネル島で先住民に殺害された米国人宣教師ジョン・アレン・チャウの遺体は、今も収容できていない。最古の推定では6万年も前からこの島で暮らしてきたといわれる「貴重な」先住民、センチネル族を傷つけかねないからだ。

センチネルの動画を見る

AP通信によれば、11月21日にチャウが殺害されたとの見解を発表したインド当局は、アンダマン・ニコバル諸島に属するこの離島に船舶を派遣。同島で暮らす先住民、センチネル族と衝突することなく、チャウの遺体を収容する計画を作ろうとした。

今も石器時代の暮らしを続ける地球上で最後のコミュニティーとされるこの先住民は、外部との接触に強い抵抗を示している。遺体収容のためとはいえ不用意に近づけば、互いにさらなる犠牲者が出かねないことをインド当局は懸念している。

アンダマン・ニコバル諸島を管轄する警察のトップであるデペンドラ・パタックは、センチネル族は「宝だ」として「島に乗り込んで我々のやり方を押しつけることはできない」と説明した。「彼らに害を及ぼすようなことはしたくない」

チャウは11月半ば、地元の漁師にカネを払って手助けして貰い、上陸が禁止されている同島を訪れて殺害された。彼が最後に書いた複数の手紙には、島の住民にキリスト教を布教したいという思いと、地元漁師の船を拠点にして複数回、島に上陸したことが記されていた。
.

遺体が埋められるのを漁師が目撃

またこれらの手紙には、センチネル族との緊迫したやりとりがあったことも書かれていた。ある時はセンチネル族の若者がチャウに向けて放った矢が、彼が持っていた聖書を射抜いたという。

それでもチャウは11月16日に再び北センチネル島に接近し、漁師たちに「船には戻らない」と告げて島に上陸した。翌朝、漁師たちは先住民がチャウの遺体を引きずって運び、海岸に埋めるところを見たという。その後、チャウが島に接近するのを手引きした罪で7人の漁師が逮捕された。

11月23日と24日には警察や当局者がボートで同島に接近し、双眼鏡でセンチネル族の様子を観察。パタックによれば、彼らは弓矢で武装していたものの、過去に接触が試みられた際のように火をつけた弓矢を放ってくることはなかったという。「我々は離れた場所から彼らを観察し、彼らも我々を観察していた」とパタックは説明した。

当局者たちは今もチャウの遺体の収容を諦めていないが、センチネル族は過去にも島を訪れた外部の人間を殺害しており、それらの遺体はいまだに収容されていない。

2006年には、船で眠っていた2人の漁師が北センチネル島に漂着。センチネル族はこの2人を殺害し、その遺体を海岸に埋めた。遺体収容のためにヘリコプターで接近したが、弓矢で追い払われたという。


インド政府は、先住民を病気や搾取から守るために島の周囲およそ4.8キロを立ち入り禁止にするなど、北センチネル島への接近を厳しく制限している。このため同島に暮らす先住民の正確な数は分かっていない。

「島で何が起こったのか、センチネル族が何をしたのかを注意深く調べている」とパタックは説明した。「複数の人類学者の協力を得て、どのような善意の意思表示ができるかを検討している」

さらに彼はこう続けた。「先住民側から、彼らの生活に支障をきたすことなく接触する方法が提案されなければ、遺体収容は難しい。彼らと対立するつもりはない」

当局者や人類学者たちは過去に何度か、センチネル族にココナッツやバナナの贈り物を届けて限定的な接触を試みている。センチネル族は贈り物を喜んで受け取ったこともあったものの、それ以上の交流は頑として拒んできた。

デリー大学の教授で人類学者のP.C.ジョシはAP通信に対して、チャウがどのような状況で死亡したのかを知るためには、遺体を収容することが重要だと語った。だが加害者を「訴追することはできず」、また北センチネル島は高温多湿なため、早くしなければ遺体の腐敗が進み、収容も分析も「無益な試み」になるだろうとも指摘した。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20181127-00010001-newsweek-int


32. 中川隆[-13718] koaQ7Jey 2018年11月30日 17:43:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463] 報告

これが縄文人と同じ遺伝子を持つアンダマン人の姿 _ 2


 縄文主力系Y-DNA「D2」のオリジン、Y-DNA「D*」のアンダマン諸島/オンゲ族、ジャラワ族

  後世にインドからの統治者の来島やカレン族の島流しなどで遺伝子は荒らされた、と思っていたのですが Thangarajの論文で Onge、Jarawa の2部族は Y-DNA「D*」を100%維持し、 出アフリカした現代人類の世界最古の姿をとどめている純系の集団であることがわかりました。

縄文人の主力集団のY-DNA「D2」の祖形になり、 日本人に最も多いジャガイモ顔でパッチリ二重瞼ののルーツになります。

女性は典型的な安産型の大きな臀部でいわゆるQPちゃん体形です。
ホッテントット族が典型的ですが臀部に脂肪としてエネルギーを蓄えるのです。

出アフリカ時の飢餓状態だったアフリカ・サハラ時代の 名残をとどめているのです。 そのくらい古代の遺伝子なのです。

  しかし50000年もの間純系を保てたのは定住先の小さなアンダマン諸島で外来者を殲滅する部族の習慣だったのですから 何とも複雑な感じがします。

もし縄文人主流の「D2」が純系を保つために少数派の「C1」や「C3」との交配を拒んでいたら今の日本人は存在しなかったかもしれません。 スンダランドか東シナ海−黄海ランドが広大な土地だったため、棲み分けが可能だったからではないかと思います。

  歴史を見ると男子の侵入者はせん滅しますが、アマゾン等の他の先住民と同様近親婚による遺伝的障害から部族消滅を防ぐため 女子は他の近隣部族から新しい遺伝子を導入してきたようです。 こうして部族を維持してきたのです。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-2.htm

縄文人、ラオス・マレーシアにルーツ? 金沢大の研究グループがゲノム配列解読
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1531327113/


想定される日本人の祖先の移動ルート
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20180711004656_comm.jpg

 約2500年前の縄文人の人骨に含まれる全ゲノム(遺伝情報)を解析した結果、約8千年前の東南アジアの遺跡で出土した古人骨から得られたゲノム配列と似ていることが、金沢大学の覚張(がくはり)隆史特任助教(生命科学)らの研究グループの調査でわかった。縄文人の全ゲノム配列の解読に成功したのは世界で初めて。日本人の祖先が、どこから来たのかを考えるうえで注目されている。

 研究成果は11日、横浜市で開催中の国際分子生物進化学会で報告されたほか、6日付の米科学誌サイエンス電子版に発表された。

 覚張さんらの研究グループは、コペンハーゲン大学を中心とした国際研究チームと共同で調査。愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚で出土した縄文時代晩期の成人女性の人骨1体について全ゲノム解析を行った。日本のような温暖湿潤気候の地域では、人骨のDNAは劣化しやすく調査は難しいとされてきたが、最新の研究手法で縄文人の全ゲノム配列を初めて解読した。

 この結果を東南アジア各国の遺跡で出土した人骨25体や現代人のデータと比較すると、東南アジアの先史時代の人々は六つのグループに分類できることが判明。そのうちの約8千年前のラオスと、約4千年前のマレーシアの遺跡でみつかった人骨のグループのゲノム配列の一部が、伊川津貝塚の人骨と類似していた。

 日本人の祖先は、約4万年前以…

朝日新聞デジタル 2018年7月11日19時37分
https://www.asahi.com/articles/ASL7B5V8QL7BPTFC018.html


金沢大学プレスリリース:
最先端技術を用いた古人骨全ゲノム解析から東南アジアと日本列島における人類集団の起源の詳細を解明
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf


オンゲ族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%B2%E6%97%8F

ジャラワ族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%83%AF%E6%97%8F

ジャハイ族
https://en.wikipedia.org/wiki/Jahai_people


https://i.imgur.com/DMUIpO0.jpg
http://www.mohr-mcpherson.com/blog/wp-content/uploads/2015/07/9896889874_a000749cc7_b-1024x781.jpg


●数部族に分かれていますが、まぎれもない絶滅危惧部族です。

●Y-DNAの「D*」遺伝子を持つアンダマン諸島先住民は、50000年〜60000年前頃には
当時まだ陸続きの陸橋だったアンダマン諸島弧部分に住み着いたと考えているよ
うです。アボリジニの先祖Y-DNA 「C4」がオーストラリア亜大陸に到達した頃と同
じ古さです。もしかすると一緒に移動していた可能性もあります。

●彼らの、外来者をすべてを殺す習慣はオリジナルの「D」遺伝子や言語を見事に維
持し続けた、と考えられています。 アンダマン諸島先住民は縄文人の先祖の血を  守ってきてくれているのです....感謝!
出アフリカしたホモサピエンスの生きた化石なのです。日本人は彼らを大切に保  護しなくてはなりません。

●アンダマン諸島において、耕作は未知でした、そして、彼らは特有のブタを狩っ  たり、釣り、などで食生活し、集合して生活をしていました。

●唯一の兵器が、弓と、手斧と木製のもりでした。

●絶滅したタスマニアの先住民とアンダマン諸島先住民のみが19世紀に入っても火
を作る方法を全く知らなかった人々だったそうです、 木への落雷によって引き起  こされた炎から燃え残りを慎重に保存したそうです。

●ところがイギリス人の上陸で1867年のアンダマン諸島では、たくさんのOnge部族  民がイギリス人の海軍に殺されました。

●1940年代に、Jarawa部族は彼らの敵意のための日本軍によって爆撃されました。
日本軍は世界でチベット人と並ぶ唯2の縄文人の親戚民族であるアンダマン諸島  先住民を爆撃するという愚挙を行ったのです。大反省....です。

イギリスの最初の上陸時にはおよそ5,000人の先住民がいたそうですが、虐殺、 文明国が持ち込んだ病気、アルコール中毒、 インド亜大陸やビルマ(カレン族)か らの移住者などの影響で、1901年までには600人に減り、
1927年には100人の生存者 だけになったそうです。 1961年には19人に減りましたが、現在約50人に回復してい るそうです。

その間絶滅した部族はかなりあるそうです。アンダマン諸島の古代先 住民 Y-DNA「D*]が絶滅する前に、
同じ「D」の遺伝子を持つ日本人が彼らの調査を行 えるといいですね!

https://web.archive.org/web/20160223020324/http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-6.htm

http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-6.htm
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/21467/21109/show_image/sanjuro.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/01/07/andamanese.jpg


『アンダマン島土人は地球上最小の人種なるべし。

二、三の人類学者は南アのブッシュ人、アメリカの掘食(デイガ)インディアン、フィジ島のテラ土人等をもって最小なりとなせども、

本島の土人は平均身長四フィート以下にして、成人者中にもはるかにこれに満たざるもの少なからず。

一度信をおくときは、きわめて厚き友情を示すことあるも、一般には残忍獰猛にして気むずかしく、馴致しがたき人種なり』

(延原謙訳)

http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/21467/21109/66999919

33. 中川隆[-13716] koaQ7Jey 2018年11月30日 17:59:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463] 報告

アンダマン諸島同様、日本の被差別部落にも近付かない方がいい:


奇習! カップルが次々と“謎のグループ”にレイプ&惨殺…!
「何をやっても事件化しない地域」警察の怠慢捜査に隠された真実=近畿
https://tocana.jp/2018/11/post_18766_entry.html


【日本奇習紀行シリーズ】 近畿地方


 1988(昭和63)年に起きた、いわゆる『名古屋アベック殺人事件』(大高緑地公園アベック殺人事件)では、犯行当時主犯格であったとび職の少年(19歳)を中心とした少年6人の非行グループが、何の罪もないデート中のカップルを襲撃し、集団でリンチ・強姦を加えた挙句、被害女性が「もう私を殺して」と言わしめるほどの状態へと追い込んだ末に惨殺。その後、2人の遺体を山中に遺棄するという、なんとも惨たらしい犯行が行われたが、実はこうした“カップル襲撃”を繰り返していた集団というのは、なにもこの事件に限らず、古くから存在していたようだ。


「なんでしょうね…… ああいう連中が当たり前のようにのさばっていたこと、それを誰も咎めず、罰することもできなかったこと自体、異常としか言いようがなかったと思います」


 かつて、近畿地方のとある地域で頻発したという“カップル襲撃事件”と、その犯人であったという“ある集団”についてそう語りはじめたのは、仲の良い幼馴染までもが犠牲者になるという、なんとも苦い体験をした山本洋三さん(仮名・88)。山本さんの話によると、その昔、当地とその周辺地域では、前出の『名古屋アベック殺人事件』と同様、たびたび若いカップルたちが襲撃され、無残な状態でうち棄てられるという事件が頻発していたのだという。


「当時、私はまだハタチそこそこで、ちょっと奥手な方でしたから、(事件の話を聞いても)最初は“物騒な世の中になった”ぐらいにしか思っていなかったんです。けれども、子供の頃から同じ学校に通って、それこそ家族みたいに接してきた隣の家の子が被害に遭って……それからは我が事のように考えるようになりました」


 山本さんの話によると、当時、前出の『名古屋アベック殺人事件』のような実に痛ましい事件が、当地ではたびたび発生していたのだという。そのため、家族や近隣住民との間でも、用心するようには伝え合っていたと言うが、そうした矢先、山本さんの幼馴染である女性(当時・19)が、そうした輩の毒牙にかかり、不幸にも、遺体となって発見される事件が発生してしまった。そのため、当時の山本さんは、懸命になって地道な聞き込みを行い、その結果、犯人を突き止め、当局にその内容を通報したのだという。しかし、捜査関係者から告げられた言葉は、山本さんを更なるどん底へと突き落とすものであった。


「自分が一生懸命になって(調べたことを)伝えても、生返事ばかりで……挙げ句には、“もうこれ以上、深入りするな”と、お説教ですよ。考えられます? お説教ですよ。犯人だってわかっているのに、何もしないどころか、私に対してお説教です。私はね、もう何十年も前のことになりますけれどもね、あの時の刑事がね、大あくびをしながら、心底面倒臭そうに、私の話を聞き流していた顔がね、本当に忘れられないんですよ」


“真犯人”と思しき犯行グループの素性がわかっていながらも、その情報提供を受ける形で捜査を開始することもなく、むしろ、その答えに辿り着いた山本さんを邪険にした感すらあったという捜査員たち。そうした彼らの“不可解すぎる対応”が持つ“意味”を、山本さん知ったのは、それから随分と時が流れた後であったという。


「(応対した捜査員)本人が言ったことではないですから、それが真実か? と問われれば断言はできないですけれどもね、少なくとも、あいつら(※犯行グループ)の暮らしている地域というのは、昔から“何をやっても事件にはならない地域”としてね、位置づけられていたというんです。詳しいことは私もよくわかりませんけれどもね、そのルールみたいなものがね、あの事件の捜査を妨げていたのだろう、と。今でもそう確信していますよ、私は」


 たしかに日本各地で日々、発生している事件を隈なく見ていくと、“なんとも奇妙な形”で、その捜査が打ち切られているケースがままあるということは、現代の世に暮らす我々でも“なんとなく”ではあるにせよ、体感していることである。おそらく、山本さんの証言を聞く限り、彼の幼馴染の身に起きた事件についても、そうしたケースの1つであると考えられるが、いずれにしかり、いくら“アンタッチャブルな要素”を孕むものであったとしても、そうした事件の被害者や、遺族の心情を鑑みれば、たとえいくら時間がかかったとしても、本当の意味での“解決”がもたらされるよう、我々も切に願うばかりだ。

 人々の胸中を察すると、誰しもなんともやりきれないものがあると言えるだろう。
(取材・文/戸叶和男)

34. 中川隆[-13715] koaQ7Jey 2018年11月30日 18:06:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463] 報告


2018年11月23日
縄文体質の史的足跡〜第7回 婚姻様式は本来、安定した集団を支える社会基盤。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3382.html

第7回(最終回)は夜這い・婚姻を扱います。

シリーズ「縄文体質とは何か?」第4回縄文の”性”を知る にあるように

>縄文時代の婚姻様式は総遇婚、近接集団との交差婚であり、集団婚であった。その後弥生時代以降も男が女集団に入る妻問い婚という形態にはなったが、ついぞ江戸時代までは女は母集団の中に残り、集団の共認充足に包まれた中で集団と女達は一生暮らすことができた。諸外国を見渡しても婚姻形態がこれほど近代まで残った国も稀有だし、一対婚がこれほど根付かなかった国もない。その意味で縄文が最も色濃く残ったのが婚姻であり、男と女であり、性充足である。それほど、日本人は性におおらかで性を心から楽しんでいた。

日本人の”性”への意識はつい50年ほど前まで集団・社会を安定させる基盤であり、性充足により安心で安定した集団を核として日本人は西洋とは違う民族性=縄文体質を維持してきました。

このように、本来、婚姻様式は社会の根幹を成す規範・制度であり、個人主義に傾斜した現代の一対婚制度により、現代は日本でも集団性が破壊され、縄文体質も薄れつつある危機的な状況にあります。

今回は縄文から今日に至る婚姻の変遷をおさらいし、今の日本で失われつつある精神を探っていきたいと思います。

以下るいネットから要約します。

【縄文から弥生への婚姻様式の変化〜共認風土に取り込まれていく渡来人〜】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=270746

縄文社会に変化が起きたのは2,450年前の渡来人である呉人以降だろう。 稲作水田は大規模化し、環濠集落が生まれ階層化した村社会の構造が現れてくる。この時代の呉人は大陸での略奪闘争の負け組みだが、私権闘争を経験し支配社会のパラダイムを始めて日本社会に取り込んだのがこの第2波の呉人と思われる。

日本では、二群単位とはかぎらず、二群でも三郡でもが集落をなし、その中央に祭祀施設のあるヒロバをもち、そこをクナドとし、集落の全男女が相集まって共婚行事をもつことによって、族外婚段階を経過したと考えられる。

縄文前期までは単一集団内での族内婚のみであったが、集団規模が大きくなっていく縄文中期から後期は、村と村の要路がヒロバとなり、全男女を対象とした族外婚(クナド婚)が形成されていった。このクナド婚は、それまでの族内婚であった全員婚を、そっくりそのまま族外にも適用した婚姻様式であり、共認充足を第一とする縄文社会を端的に現したものであるといってよい。

そして、第2波の渡来人によって、このクナドも変化を見せる。

しかし、そうした日本も、縄文中期以降は、ようやく集落を定着させて、農耕段階へと進みつつあったと思う。それにつれて婚姻形態も、一方では族外群婚を発達させたが、また他方では北アメリカで20世紀初頭までみられたような母系制的対偶婚への道をひらこうとしていた。紀元前2、3世紀のころに移入されたといわれる水田農耕の普及は、社会関係を複雑にし、孤立した氏族集落対から部族連合体への道が開け始めた。   なおクナド婚は市場や入会山で威力を発揮し、部族連合の一つの動力となって活動したが、その方式に特記すべき変革が起こった。それは神前集団婚から神前婚約が始まり、それによって男が女の部落へ通う妻問形態の個別婚を生み出したことであった。

ここでいう対偶婚は渡来人によってもたらされた婚姻様式。大規模水田とともに新たなパラダイムで縄文を取り込み、そのことによって全員共婚のクナド婚から、対偶婚、さらに時代が進み妻問婚への個別婚へと表向きの婚姻制度が変化していったことが伺える。

クナド婚の場所で、こうした神前婚約が成立すると、男が女に通う妻問形態の個別婚が新しい時代に照応する正式の婚姻制として表面化してくる。しかし、そうなっても、群婚原理はまだ容易にたちきれず、婚約した相手だけでなく、相手の姉妹や兄弟にも波及する。

このように、この全員共婚であるクナド婚は、その後日本の村落共同体では様相を少しずつ変えながら根強く残り続けることになる。(夜這婚はその系譜にあるだろう) むしろ興味深いのは、妻問婚を持ち込んだ渡来人でさえ、共認充足に導かれて実態はクナド婚へ傾斜しているように見える点だ。支配者側であった渡来人は、表向き血筋を明らかにするために個別婚である必要があったが、縄文の共認風土に導かれて平和裏に共存していく様子が婚姻様式にも現れているように思える。

【母系社会の伝統が決定的に影響した日本の婚姻様式2】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=320152

万葉集には、両親を歌った歌が100首ばかりあるが、それらの殆どは母親を歌っており、父親だけを歌ったものは1首しかない。子の母親に対する情愛は現代にも通じるものがあるが、万葉集の世界においては、子は父と同居することがなくても、母親とは常に強い絆で結ばれていた。上の数字はそのことを反映しているのだともいえよう。

では、古代の男女はどのように結ばれたのか。

上層階級は別にして、庶民の間では遠方の地域との婚姻はそう盛んではなかったのではないか。部族集団の中か、せいぜい近隣地域との出会いが中心だったと考えられる。

結婚生活は基本的には、男が女のもとに通う通い婚であった。そのほか男が女の家族と同居する場合や、夫婦が独立して住居を構えることも行われた。だが女が男の家族のもとに同居する例は殆どなかったようである。したがって、近年の社会問題たる嫁舅の関係は、古代には存在しなかったと考えてよい。

通い婚の場合、新婚早々には男は足しげく女のもとに通ったであろう。しかし女が妊娠したり、あるいは男に他の思い人ができたりして、その足が遠のきがちになることもあった。古代の女性の歌には、男の到来を待ちわびる女の歌がそれこそ数多くあるが、そんな文化を日本以外に求めることはできないだろう。

こうした場合、結婚は自然と解消され、女は他の男と再婚することもできたようだ。古代には、男の女に対する責任がきつく問われなかったかわりに、女のほうにも相応の自由が保障されていたのである。

女が比較的簡単に離婚を決意しえたのは、後の時代と異なって、女が経済的に男に従属していなかったからだと思われる。先史時代以来の共同体のあり方に守られて、女は男がいなくとも、何とか生きていくことができたのだと考えられる。

こうした女中心の婚姻や家族の形態が大きく変容するのは平安時代中期である。それには家の成立が深くかかわっている。古代的な共同体が解体され、その中から社会の基本単位として家というものが成立した。家は社会的・経済的な単位として国家機構の中に組み込まれ、課税の単位ともなった。

この新しい家にとっては、家を代表するものとしての戸主というものが登場し、家族の成員はその戸主の名の下に把握された。そこで新しく戸主となったものは男たちだったのである。

家の成立は上流層では10世紀ごろ、庶民層では12世紀ごろだとされている。家が社会の公的な構成単位となったからといって、すぐさま女が男に従属したわけではない。中世初期まで家の中での女の力はまだ根強く残っており、女にも独自の財産を持つことが許されていた。女房が亭主を相手に貸付をしたという記録も残っているほどである。

だが一旦成立した家は次第に機能の増殖をはじめ、ついには家の中の長たる男の権威が妻のそれを圧倒するようになる。女は経済的にも男に従属するようになり、婚姻の形態も自然と、女を男の家に迎える「嫁取り婚」へと変化していくのである。

【中世の社会と婚姻制度・相続制度】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=338907

鎌倉時代は貴族は婿取婚(母系氏族が婿を迎える)という制度であったが、武士は次第に嫁取婚へと移行していく。それは、戦闘軍団ゆえに男の武力が制覇力となったことによるが、とりわけ地方武士は土着性が強いが故に、土地を離れるわけに行かなかったという事情が実際上は大きい。父系制の成り立ちの時期は、それぞれの社会階層によって異なり、武家上層においては、院政期から鎌倉時代において、そして一般武家は鎌倉時代から南北朝時代、さらに庶民層においては、南北朝時代から戦国時代である。 但し、庶民は江戸時代に至るまでも夜這い婚を併用している 因みに、公家層が嫁取りに移行するのは、武士の力が強まり、公武の結婚が行われるようになって以降である。 また鎌倉時代は「分割相続」を原則としており、新しく建てられた分家は本家の惣領(家督)のもとで血縁集団を形成した。惣領は戦時には一門を率いて闘い、軍役と恩賞を一門の各家に割り当てた。この惣領制を土台に幕府は御家人たちを束ねていたのである。 しかし父系制とはいえ、当時は夫と妻とは別々の姓(氏の名)を名乗り、それぞれが父母から相続した氏の財産を継承するという、夫婦別財産制度をとっており、妻も自前の財産を有していた。(女子が惣領となるケースもあった)

この惣領制が揺らぐのは、元寇(鎌倉中期)以降である。それまでは、承久の乱や元寇を通じて、荘園領や非御家人領に支配が及び、分家の所領も確保できていたが、安定期に入ると所領の増加がなくなり、所領は相続の度減少し、御家人たちの収入は激減する。 その結果、戦闘集団として一体化していた本家と分家の結びつきは弱まり、次第に一門同士の血縁的統合から、生産基盤を共にする地縁的結合が高まっていく。このことが地域の独立性を高め惣村の自立性を強める大きな要因となっていく。

【夜這い婚の情景@】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=89190

■若衆宿 その頃は、一人前と認められ、若者宿への参加が認められることが、子供の楽しみであった。十三、四、五歳から参加が認められ、結婚するまでの間、毎年農閑期の何ヶ月間か、そこで共同生活をしたものだ。中には、一年通して、つまり数年間、若者宿で過ごす者も、少なくなかった。彼らは、農繁期の強力な助っ人として、重要な存在であった。

共同生活を通じて、親からの躾とは違う、共同体の一員としての ケジメ を先達から教えられる場であった。また、年に何ヶ月かの共同生活を、数年繰り返すことで、自然と仲間内の序列、派閥なども形成されていった。つまり、仕事のときの采配はだれだれ、遊びはだれだれ、交渉ごとのうまい奴、物資調達のうまい奴、情報通のものなど、互いに相手を知り合う機会でもあった。

■夜這い規範 夜這いといっても、誰もが好き勝手に、女の家へ忍び込んだわけではない。通常、相手の娘が、承知してくれた場合のみ、あるいはその娘が、自分の誘いに応じてくれたときのみ、夜這いに行けたものである。相手の望まない夜這いは、無理に忍び込み、ことに及ぼうとするとき、娘に騒がれて、親に捕まった時など、村のさらし者にされる恐れがあった。

また、忍び込んだ娘の家で、あまり無茶をしないよう、夜這いの礼儀作法というものも教えられた。先達たちが、四方山話の一環として、面白おかしく話すこともあったが、実際は、ベテラン女性に、手取り足取り教えてもらったものである。

■性の指導 若者宿ではまず、新入りには忍び込みのテクニックを教える。そして筆下ろしのため、先輩が事前に了解を得て、ベテランの女性に、童貞の子への筆下ろしを頼んだものである。上農の場合には、元服の際、両親が相談し、親類縁者のなかから、これという女性を選びだして依頼し、文字通り手取り足取り、女性の体の 造り を教え、扱い方 の指導を任せたものである。

娘の場合も、赤飯を炊いて祝った夜、一族の年配者や、主家筋の、しかるべき長老の誰かに、水揚げというか、道を通してもらうのが慣わしであった。そうしておかないと、夜這いされたとき、戸惑うことになる。そして、母親や叔母さん、先に一人前になっていた近所の姉様たちが、具体的に心構えや、手練手管を伝授するなど、共同体の一員としての教育がなされてきたのである。

■性の喜び:活力源 当時は、男女とも、性の悦びを味わうことは、タブーではなかった。もちろん、公然たる不倫は咎められ、相手かまわず交合する者も嫌われた。しかし、農民においては、性とは、心行くまで自由に楽しむべきものであり、過酷な労働に耐える農民の、活力源でもあった。男は十数歳で元服し、女も初潮を迎えれば、ともに一人前として、大人の扱いを受けることになった。

大人の扱いを受けるということは、一人前の労働力として期待されることでもあったが、同時に、自由意志で性を楽しむことを、認められることを意味した。自由とは、規律を守ることにより、自由を保障される。その規律を教えるのが、若者宿であり、赤飯の祝いの夜の儀式であった。当時は男も女も、互いに相手が複数の異性と、交渉を持っていたことを当然として、結婚したものである。

結婚後も、一定の規範の元に、自由であった。不自由なのは、支配者階級である。なまじ、守り、引き継ぐべき、金や富を持っているため、子の血筋を重視するがために、女を家に閉じ込め、他の男との接触を不義として、禁じてきた。下これに倣うで、家臣も、町家の者も、女性の人権、自由度を制限し、現在に到っている。のではなかろうか。

【ムラの「公事」であった「夜這い」】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=156930

>明治以降、国家権力の弾圧によって旧来の日本の夜這い文化は衰退の一途を辿ります。

以下「村落共同体と性的規範の6.弾圧と亡失」より引用)

ところが「筆おろし」の年齢を一挙に引き上げる事件が起こった。すなわち徴兵検査の励行で、富国強兵の政府といたしましては、国家の干城たる青年に花柳病が蔓延するのを座視することはできない。これは古い若衆組の罪で、質実剛健を主旨とする青年会に改組する。「夜這い」などもってのほか、青年、処女は純潔でなければいけぬことになって、教育も。これに応じて大合唱したから、若衆組も、夜這いも決定的な打撃を受けた。

男も男なら、女も女ということになるが、若衆組や夜ばいの盛んであった時代には、こんなことは想像もできなかっただろう。四十六の仲人あっぱが、若衆も娘も実地教育してみせたので、昔の若衆の初夜教育が、いかに適切、かつ科学的教育方法として作動したか、を実証している。まさにあっぱはムラの性教育の伝統を継ぐ、最後の一人であったのだろう。

では、近代教育の「純潔」とか、「貞操」とかはなんであったのか。肉体的な抑制を強要するだけで、健康な発散を考えなかった結果として、いま私たちは、その当然の代償を支払わせられている。娘を商品として高価に売り込むための処女性尊重と「貞操」の強要、息子を売春風俗産業の購買力に仕立てる手段としての「純潔」教育、そこには資本主義社会の露骨な商品化政策があるだけだ。

私たちは若衆組の行事や夜這いを、かつて淫風陋習として退けたのである。しかしムラがムラであったとき、成熟した女性にとって若衆へ心身ともに健全な教育をすることは、次代への継承を維持するために負った義務であり、また権利であっただろう。

ムラが一つの共同体として作動しているとき、夜這いも結婚関係も、若衆組その他と同じく、それぞれムラの「公事」であったから、かれらに「純潔」や「貞操」の観念はなく、どうして生活を維持するかが根本の約束であったものと思われる。

つまり個人として私匿しなければならない密室の作業ではなく、いつでも公開されているルールに乗った行為であった。長い間、私たちは「夜這い」を誤解してきたが、それはムラの古い共同結婚方式を継承したものとして、まさに「公事」として維持されてきたのである。近代日本は結婚を「私事」に変質させることで、「夜這い」の伝統と継承とを否定したが、そのためにかえって社会的性生活を荒廃させた。

【日本における現行の婚姻制度〜日本国憲法@】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=225216

戦後日本の家族のあり方に最大の影響をもたらしているもの。それは、日本国憲法である。日本国憲法は、戦後、GHQによって押しつけられた憲法である。その基本理念は欧米の価値観に基づいている。その理念の一つが、個人主義である。これは家族や国家より個人を重んじる考え方である。日本の社会に個人主義を植えつけること、それが日本を「民主化」することであり、同時に日本を弱体化することだった。

西洋近代の思想の一つである啓蒙主義は、17世紀イギリスのホッブス、ロックらによって展開された。彼らは、デカルトの要素還元主義の影響を受けていた。そのため、まるで幾何学的空間におかれた原子(アトム)のようなものとして、人間をイメージした。「個人主義」とは、原子(アトム)的な個人を、集団より先在する要素とし、個人を原理として、社会の構成を考える考え方である。

日本国憲法は、こうした西洋近代啓蒙思想が根底に置かれている。そして、この思想をさらに極端に推し進めた学説が普及した。すなわち、「個人の尊厳」を持って「個人主義の原理」とし、アトム化した個人を持って「人間社会における価値の根源」などと説明する宮沢俊義らの学説である。

こうした極端な学説が出てくる原因は、日本国憲法にある。具体的に挙げれば、第24条である。この条項には婚姻に関する規定がある。すなわち第1項に「婚姻は、両性の合意のみによって成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とある。また第2項に「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と記されている。

このように憲法に婚姻に関する規定が設けられているのは、世界的に見ても異例である。男女が恋愛をし、性的に結びつくことには、法律はいらない。その限りでは、私的な事柄であり、国家が介入すべきことではない。しかし、結婚した男女は、単なる同棲者ではなく、親や家族や親族・友人などの認知を得た関係となる。私的な男女関係が、ここで公認による公の関係となるのである。それは、結婚は夫婦の性的関係を維持する手段ではなく、家族を形成することが目的だからである。つまり、結婚とは、社会の基本単位である家族を形成するという公共性のある行為なのである。そこに、結婚を法律に定める必要があるわけである。そして家族の安定のために、婚姻の安定性を求める法律も定められる。それゆえ、憲法に規定する必要があるのは、婚姻よりも家族に関する規定である。

しかし、第24条は、個人の尊厳と両性の権利の平等を強調する一方、家族の大切さを規定していない。そこに大きな欠陥がある。条文には、夫婦と並んで家族を構成するもう一本の柱である、親子への言及がない。これは、生命と文化が、世代から世代へと継承されていくことを軽視している。憲法の全体に、世代間の縦のつながり、民族の歴史が断ち切られている。

【婚姻が社会と切り離されて50年も経ってない】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=87512

日本の婚姻史を調べてみると、集団や社会から切り離された婚姻や性関係は、ほんのこの50年くらいしかなかったようだ。

まず、庶民の生活の中で、縄文時代から昭和10年から30年頃まで受け継がれてきた、夜這い婚などの集団婚。それらは、村単位で性充足を高めるシステムで、男女老若既未婚をとわず、性の役割が与えられた。

子育ても、誰の子であろうと、娘の親が育てるというように、村の規範の中で育てられた。決して個人課題ではない。また、性や子育て規範を共有する単位(村)と、生産にかかわる規範を共有する単位(村)は一致していた。

このように、性や婚姻は社会とつながっていて、性自体が集団維持の課題のひとつであった。それゆえ、性をみんなの期待として、肯定的に捉えていた。

次に、貴族や上位層の武士は、父系制の一夫多妻・一夫一婦制をとるが、基本的には政略結婚である。結婚は個人の課題という現代の感覚からすると、無理やり嫁がされてかわいそう、ということになるが、おおきな間違いだと思う。

私権社会での集団維持という歪んだ側面をもつことは否めないが、明らかに集団維持のための婚姻である。 それは、採取時代の人類は、男女の婚姻関係・性関係が、“集団統合上の重要課題である”ことを、ごく当たり前のように認識していたと思われることです。

そして、貴族の娘も、いい家柄に嫁げるように、家庭教師を招いて、教養を身につけるのが、役割であった。娘自身も教養あるおしとやかな女になることを、目指していたのである。ちなみに清少納言や紫式部は、上記の家庭教師だった。

そして、昭和の30年から45年くらいまでの婚姻制度も、基本的には家という基盤を背後に持ちながら、恋愛結婚という形をとった。この源流は、武士や貴族の婚姻制度にある。かなり社会との関係は薄れるが、まだつながりを保っていた時代だと思う。

このように、この50年を除けば、性は社会とつながっており、衰弱することはなかった。そして現在、まったく社会とつながりを失い、当人同士以外だれの期待も受けない性が始めて登場した。そのときから、性は衰弱し続けている。

再生のためには、社会の中でみんなに期待される『性』が役割として再認識される必要がある。そのためには、性も生産も包摂した新しい本源集団の再生が不可欠になる。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3382.html

35. 中川隆[-13714] koaQ7Jey 2018年11月30日 18:09:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463] 報告

宮崎の山村に伝わる「百済王伝説」の謎


いったいなぜこんな山奥の地に!?
古代の朝鮮半島に栄え、日本とも交流が多く、仏教をはじめとする多くの文化をもたらした王国「百済」。

その百済の王族が隠れ住んでいたと伝説に残る村が宮崎県にある。

南郷村という、九州山地の山間にある小さな村である。

今から1300年ほど前、百済の王族の禎嘉王とその息子の福智王が、宮崎の海岸に漂着して、南郷村に移り住んだという。

このふたりの霊を鎮めるため、南郷村では、毎年、旧暦の哩月に、息子の福智王が父の禎嘉王を訪ねる「師走祭り」という祭りが行われるが、この祭りには、朝鮮半島に伝わる風習とよく似た儀式がまじっている。たとえば、師走祭りでは、氏子や、祭りに参加した人々の行列が、途中で河原に降りて石を2つずつ拾い、自分の肩に乗せて、禎嘉王が祁られている神門神社の近くの石塚に納める。

いつぽう韓岡では、道を通る人々が道中の安全を願って石を供える「ソナンダン」という風習があるが、このソナンダンと、師走祭りで石塚に石を納める儀式はよく似ている。

また、祭りの最後に、「ヘグロ塗り」といって、神門神社の境内で、ナベやカマの炭を互いの顔に塗りあう風習があるのだが、韓国でもやはり、旅立つ人の魔よけとして、顔に炭を塗る習わしがある。

さらに、神門神社には、正倉院の遺物と同じ型の「瑞花六花鏡」が納められている。

こういったことからすると、南郷村の伝説は、史実を伝えたものと思われるのだが、そうすると不可解なのが、どうしてこんなところに隠れ住んだのかという点である。この百済の王族の親子が朝鮮半島から逃げてきたのだとすれば、朝廷に保護を求めればょさそうなものだ。どうしてわざわざ、宮崎の山奥の村に逃げ込んだりしたのだろう?

これについて、作家の金達寿氏は、この百済の王族親子は、朝鮮半島からではなく壬申の乱で逃げてきたのではないかという仮説を述べている(「歴史発見喝」角川書店刊)

天智天皇は、百済の危機に際して朝鮮半島に出兵したことからもうかがえるように、百済と親密な関係にあり、百済滅亡後、多くの百済人が日本に亡命してきていた。この百済からの亡命者たちは、天智天皇が現在の滋賀県大津に築いた近江京において官僚として仕え、天智天皇の死後、壬申の乱が起こったときには、天智天皇の子の大友皇子側についた。

これに対し、百済を滅ぼした新羅は、大海人皇子(天武天皇)の側についたものと考えられる。壬申の乱で大友皇子側が敗れると、近江朝廷に仕えていた百済人たちも、敗者として都から落ち延びることになるが、南郷村の伝説の禎嘉王と福智王も、史料には出てこないながら、この近江朝廷側の官僚、おそらくは武官だったのではないかという。

この仮説を裏付けるように、福智王を刷った比木神社の縁起では、禎嘉王と福智王はいったん安芸国厳島に滞在し、その後、日向の浜にたどり着いたという。安芸を経由して落ちのびてきたのなら、壬申の乱で都から逃げてきたという可能性も高そうだが、なぜこんな山深くに?という謎は依然として残る。
http://www.w-a-mozart.jp/entry/therekishi11.html  


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朝鮮半島からの流入民

 
日本列島へは、旧くからアジア大陸での争いに伴って、アジア大陸(主に朝鮮半島)からの流入民が多くいた。ここでは、大きく3回に分けて大陸からの流入について整理していく。


 
★流入第一波 〜紀元前4世紀頃 楚からの難民流入〜

約2400年前(紀元前4世紀頃)、中国は戦国時代と呼ばれる時代で、諸国(燕・斉・趙・魏・秦・韓・楚)が争っており、燕・秦・楚からの難民が南朝鮮へ流入し、日本列島へも海洋ルートで楚からの難民が流入していた。


 
★流入第二波 〜2世紀頃 朝鮮半島からの亡命部族(侵略部族)の流入〜

紀元後146年〜189年(桓帝・霊帝の治世)の間に「倭国大乱」が起こったと「後漢書」(東夷伝)に記されており、「三国志」(魏志倭人伝)他の書物にも2世紀後半に「倭国大乱」があったことを記述している。
 
一般には「倭国」=「日本」と解されていることが多いが、戦国時代〜前漢時代にかけて編纂された「山海経」の記述からは、朝鮮半島中部にあった国であると読み解け、「倭国」の範囲は倭人たちの領有地域に規定されており、前漢以前の時代はむしろ朝鮮半島中部〜南部が「倭国」の主要領土で、倭人の一部が日本列島にも上陸していたとみなせる。
 
よって、「倭国大乱」とは、日本列島だけでの出来事ではなく、2世紀頃に朝鮮半島南部にあった3つの部族連合

「馬韓(→4世紀に百済によって統一)」

「弁韓(→4世紀に部族連合のまま伽耶連合)」

「辰韓(→4世紀に新羅によって統一)」

の争いであり、その争いによって追いやられた部族が、日本列島へ流入したと考えられる。
 
「倭国大乱」期に朝鮮半島からの流入民は、数的に第一波より多いのはもちろん、亡命部族であると同時に武装した侵略部族であり、彼らによって縄文人たちは制圧されたであろう。
 
この大乱は最終的に女王(卑弥呼)を共立して収まったとされているが、これは女首長をおく母系集団的な治め方であり、この時期でも縄文的性質が失われておらず、むしろ統治のためには縄文的性質への同化が不可欠であったと言える。


 
★流入第三波 〜6世紀の任那滅亡、7世紀の百済滅亡と流入民〜

朝鮮半島では、新羅によって562年に任那が、新羅−唐連合軍によって660年に百済が滅ぼされた。

「倭国」がもともとは現在の「日本」だけではなく、南朝鮮と日本列島の一部を占めていたことを考えると、これは単なる朝鮮半島という地域の出来事ではない。
 
これは、日本列島にいた(伽耶を出身地とする)「倭人」にとっては、故地(伽耶・任那)を奪われ、同盟国(百済)を滅ぼされたことを意味する。

滅亡した百済の遺臣達からの要請に応じて、「倭国」が大軍を派遣して白村江の戦い(663年/百済・倭国軍敗戦)に挑んだのは、このような事情があったからに他ならない。
 
そして伽耶・任那滅亡から百済滅亡、白村江の戦いまで、大量に伽耶人、百済人の流入が続き、これらの中には社会的に高位の者も少なからずいた。
 
このような大量流入が起これば、使用言語が大きく変化したり、あるいは流入者の母語に取って代わられかねないが、この流入第三波によってもそのような事態にならず、縄文的性質が継承されていった。
 
【参考】
「渡来人の氏神様A…分化の融合−D渡来人」韓郷神社社誌
http://park15.wakwak.com/~yoshimo-2/moto.176.html

http://blog.trend-review.net/blog/2008/08/000799.html#more

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古代朝鮮からの侵略部族が、一貫して日本を支配してきた 


古代日本、とりわけ朝鮮半島が戦乱にあけくれた2世紀〜6世紀に 、彼らは日本にやってきた。当時南朝鮮は、部族連合から国家への 移行期であり、激しい戦いを繰り広げ、そこから押し出された部族 が、一族郎党で武装のまま新天地の日本にやってきたのだった。


彼らは既に鉄製の剣を持ち、戦慣れした武装勢力であり、当時の縄文人・弥生人が敵う相手ではない。西日本に侵略部族による国が、あっという間に出来 あがる。


この2世紀ごろ西日本に成立した国々は、

・邪馬台国(ヒミコ)・・・・・・・・・・後の伊勢神宮系
・狗奴(くぬ)国(スサノウ、須佐氏)・・・・・宇佐神宮(八幡宮)系
・伊都国( 葛城氏、物部氏)・・・・・・加茂神社系
・不弥国(須佐氏)・・・・・・出雲大社

・・・・など

その後も、蘇我氏(高句麗からの侵略部族、神社を持たず仏教を導入)などが相次いだ。特に6世紀中ごろの任那滅亡、7世紀中ごろの百済滅亡の際には、任那・百済の支配部族の中核・大半が日本に移住した。


ここで注目するのは、2世紀にはよく言われる邪馬台国だけではなく、既にそれと同程度の国が各地に出来上がっているということです(邪馬台国ばかりに注目するのは意味がない)。そしてそれら侵略部族は自分の氏神として神社をもっていたこと。


その後これらの国々が、せめぎあい、勢力争いを繰り広げた後に、連合して作ったのが、大和王権(朝廷)であり、天皇制であり、日本における支配制度だった。


・・・・・・その名残が、名字(姓)と神社(神道)である。


★明治前まで支配部族だけが、名字(姓)をもっていた。=氏族という血統主義によって支配階級を形成。庶民は名無しだった。


日本では名字をもっていることが、支配階級(朝鮮からの渡来部族)の証であった。それが氏族の血統の証であり、当然名字のある階級と無い階級が交じり合うことは殆ど無かったと見られること。

従って姓を持っている名家は明らかに侵略部族の末裔であり、支配階級であった。


※従来、貴族制→武家支配が日本の支配機構で、それが明治維新でなくなったというのが定説だったが、より根本的な部分にこの“氏族による血統主義”があるということ。

ヨーロッパの身分主義、インドのカースト制とも少し違うが、明確な身分制度があったのだ。


※ちなみに百姓は、元々は農民を指すのではなかった。戦国時代までは、庄屋や下級武士など支配階級の最末端であり、“その他大勢 ”という意味だった。

大きくは名字のある無しの2階級だが、細かくは、

支配氏族>百姓(下級氏族)≫平民>エタ・非人 の4階級。


これらの朝鮮からの侵略部族が古代から一貫して苗字を持ち、氏族 を名乗り、血統を保ちながら、日本を支配してきた。なので平民が歴史上に登場 することはなかった。このような縄文人の末裔のあり方は、権力に従順ともいえるし、反抗しないし欲が少ないと言う点では本源的とも言える。


★神道は、支配部族(氏族)の氏神を祭る神であり、神社は、支配部族(氏族) の邸宅or砦であり、氏族の血統主義の権化、精神的な支柱であった。


神道や神社といえば、日本古来のものというのが一般的な認識だと思うが、そうではなかった。これは“右”的な人が聞いたら卒倒するかもしれないくらいの認識転換ではある。ただ古代からの事実をおさえていけば分かることだろう。


以上のように考えると歴史上の出来事と符号してくることがある。

なぜ有史以来朝鮮への出兵を繰り返してきたか?

 ・7世紀 天智天皇:白村江の戦い 
 ・16世紀 秀吉  :朝鮮出兵 
 ・19世紀〜明治以降の天皇による:日清・日露戦争〜太平洋戦争


いずれも、天下を取ったばかりor体制変革直後の時期に、急いで朝鮮へ出兵し、失敗している。天下をとった後は本来内部の体制固めが重要な時期である、それをおいてまず朝鮮に出兵している。彼らにとっては祖国奪還であり、至上命題だったのではないか?(イギリス王朝にとってのノルマンディーに近い。)


※秀吉は、“百姓”だが農民出ではない。下っ端氏族で修験者の出 。

(修験道は、天武天皇の時代に始まったもので、日本古代版のCIA(諜報機関)である。この修験道の修験者によって、各地の情報が集められ、監視され、また天皇崇拝の世論工作が行われた。そのための忍術や各種武術(剣道・柔道)もここから始まる。)


このように有史以来の日本の歴史は、朝鮮からの侵略部族により、 原住民である縄文→弥生人が支配されてきた歴史でもある。縄文人の末裔は、従順で反抗することも少なく、プロパガンダを疑うこともなく、天皇制を崇めてきた。

その一方で、朝鮮半島からの侵略部族が数次にわたって渡来してきたが、いずれ縄文・弥生の言葉(→日本語)を話すようになり、日本に同化していったのもまた事実です。朝鮮では分かれて合い争っていた部族が日本に来たら、大連合(=大和朝廷)を組んだのが象徴的だ。
http://blog.trend-review.net/blog/2008/08/000801.html


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古代日本史は、氏族集団間の闘争史


大和朝廷以降、日本の政治を仕切ってきたのは、氏族集団(同じ姓を持った血縁集団)であった。史上、最も長く実権を持ち続けていたのは平安時代の藤原氏である。

氏族集団が勢力争いを繰り広げ、実権を握った氏族集団が政治を動かすというこの体制は、ヤマト朝廷誕生以前から続いている。この氏族集団が、朝鮮半島からの渡来人だと考え、日本の歴史を見ていくと、日本史の意外な側面が見えてくる。


邪馬台国が成立した時の朝鮮半島は、北部を高句麗が支配し、半島南部を馬韓・弁韓・辰韓という部族集団が存在していた。

この部族同士の争いの結果、勝ち残った部族が国家を作っていく。

(馬韓→百天照済、弁韓→任那(みまな)、辰韓→新羅) 

この部族間闘争の結果、負けた部族が日本に渡り、クニを作っていく。
邪馬台国、狗奴国など、百国以上のクニが成立した。


天照大神は、日本書紀では最初「大日巫女貴(おほひるめのむち)」という名前で登場しており、太陽神を祭る巫女(=日の巫女)を示している。

女シャーマンであった卑弥呼が統治する邪馬台国の南に、男子の王を立てる狗奴国(くなこく)が大きな勢力を誇っていた。邪馬台国と狗奴国は何度も領土争いを繰り広げていたようだが、両者の和合により大連合政権が九州にできたと考えられる。


任那系渡来人と、新羅系渡来人の連合国家が九州に誕生したことになる。

九州に誕生した王権は、その後、奈良へと移動し、大和朝廷が誕生する。

この九州から奈良への遷都を描いたのが、「神武天皇の東征」である。

神武天皇以降、大和朝廷は基盤を固めていくが、西暦550年前後に、高句麗から蘇我一族が日本に渡り、朝廷内で勢力を拡大していく。推古天皇の時代には当時の諸氏族の中でも最大の勢力をほこり、十七条憲法や冠位十二階制など中央集権国家としての体制を固めていった。

当時、朝鮮半島は北部を高句麗が、南部を百済、任那(伽耶諸国)、新羅が統治していたが、562年には、任那(伽耶諸国)が新羅に吸収される。その後、唐と手を組んだ新羅は、百済、高句麗を滅ぼし、朝鮮半島に統一国家が成立する。

この朝鮮半島の混乱期に、日本に百済系渡来人が渡ってくる。中臣氏(→藤原氏)一族である。天智天皇と組んだ中臣鎌足は、蘇我一族を滅ぼし、土地制度、戸籍制度の改革を実行する。(大化の改新)

しかし、天智天皇は制度改革の途上で、滅亡した百済王家の願いを聞き入れ、百済奪還のため朝鮮半島に出兵する(白村江の戦い)。改革途上の出兵は、古代史上でも謎だとされているが、天智天皇の最大の後ろ盾であった藤原氏が百済の王族であり、彼らが一貫して朝鮮半島での国家復活を求めていたと考えれば、辻褄が合う。

天智天皇の死後、天智天皇の太子(大友皇子)と皇弟(大海人皇子)との間で後継者争いが起こる。結果、大海人皇子が勝利し、天武天皇として即位する(壬申の乱)。天武天皇は、それまでの親百済政策を一転させ、親新羅政策へと舵を切っていく。

おそらく、天武天皇は新羅系王族の末裔で、壬申の乱とは、新羅系渡来人が百済系渡来人に勝利したという出来事だったのではなかろうか。実際、天武天皇の時代には、百済系渡来人・藤原氏(中臣氏)は衰亡の危機を迎えている。

この天武天皇の命により、古事記と日本書紀の編纂が開始される。

天武天皇の死後は、天武天皇の皇后が即位し、持統天皇となる。持統天皇となってからは、対朝鮮外交政策は天智天皇時代に近いものとなり、藤原氏一族が再び勢力を拡大し続ける。

これは、持統天皇が、天智天皇の娘、つまり百済系であったこととが関係していると考えられる。

この後、持統天皇系→天智天皇系が即位する時代が続いていく。


このように、朝鮮半島からの血縁集団が朝廷内に勢力を作り、氏族集団を形成した。大和朝廷成立以降、誰が天皇となり、どのような政策を取るかは、この有力氏族間の勢力図によって決まっていた。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2008/08/000797.html


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小石房子『物語 日本の女帝』(平凡社新書)P38


第二章 皇極天皇 ミステリアスな女帝

 皇極天皇は謎多き女帝といわれている。
なかでも、もっとも不可思議なのが結婚をめぐる謎である。

『日本書紀』は舒明大王との結婚を再婚とし、―はじめ用明天皇の孫の高向王〔たかむくのおおきみ〕に適〔みあい〕して、漢皇子〔あやのみこ〕を生〔あ〕れませり―と伝えている。つまり皇極女帝は好明大王に嫁ぐ前、高向王と結婚して漢王子という男子をもうけていたというのだ。

 そのころ、国の頂点に立つ大王の妃はよりどりみどりのはずである。にもかかわらず、舒明大王は子持ちで再婚の妃を迎えたという。なぜだろうか。そして先夫との子が漢王子というのも気になる。

というのは当時、百済からの渡来人の多くが漢人を称していたからだ。


皇極天皇は百済の王女

小石房子『物語 日本の女帝』(平凡社新書)P39

 天皇家の系譜『本朝皇胤紹運録〔ほんちょうこういんじょううんろく〕』によると、皇極は推古二年(五九四)に舒明大王の弟、茅渟王〔ちぬおう〕を父とし、推古の姪の吉備姫〔きびひめ〕王女を母として生まれ、幼名を宝〔たから〕王女といった。

ところが茅淳王の生母の大俣王〔おおまたおう〕には漢王女という記述がある。
百済の王女だというのだ。


 良くも悪くも倭国は朝鮮半島とは緊密で、皇居には「園神〔そののかみ〕」「韓神〔からのかみ〕」という朝鮮の神が祀られており、平安時代の中ごろまで二月と十一月の卯の日には盛大なお祭りがおこなわれていた。『大日本史料』にはその日付がはっきりと明記されており、現在の建国記念の日は戦前の「紀元節」に当たり、この日を「韓神」の祭日とする学者もいるし、さらにいえば、「韓神」は今も皇居に祀られているという。

こんな具合だから、百済王室が倭国と結ぶために大王家に王女を送り込むことは、十分あり得ることだった。

 古代においては百済の方が先進国で、韓国の歴史博物館の展示物を見ると、百済の方が倭国より二百年くらい先を歩いている。先進国の百済の女性は垢抜けていてチャーミングだったし、当時は神意を問うて天下を治める時代で大王家は雨乞いのできる巫女を求めていたから、霊力の優れた王女であれば、再婚であっても子持ちであっても構わなかった。

ただ、唐や新羅との関係から、皇極には百済の王女と明記することは憚られ、そのために謎多き女帝とよばれたのである。


天智天皇は百済の王女の息子

小石房子『物語 日本の女帝』(平凡社新書)P52〜53

『日本書紀』には、入鹿が殺されたとき、古人大兄王子はすばやく宮殿を抜け出して宮居に戻り、

「韓人〔からひと〕が入鹿臣を殺した。心が痛む」

と叫んで寝所に籠ったと書かれている。
 古人は上席にいて、葛城が入鹿を誅伐するのを目の当たりにしている。史書には三韓の使者が殺したとするものもあるが、それはおかしい。

皇極が百済王女だとすれば、葛城王子は百済の血をひく王子、おそらく王族の間では韓人とささやかれていたのだろう。古人にとって葛城は王位継承のライバル。だから蔑視の意を込めて常々そうよんでいたのだろう。

※葛城王子=中大兄皇子、後の天智天皇
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/sisou/1337418189/


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天皇陛下のお言葉

「私自身としては、桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると、続日本紀に記されていることに、韓国とのゆかりを感じています。」


天皇のゆかり発言と帰化人の出自詐称と武寧王の出生の秘史
http://www.youtube.com/watch?v=dmkRfkZ6ZVE&feature=player_embedded


いまの天皇家のルーツ

 韓国に対して天皇自らが「縁を感じる」とおっしゃったお言葉がきっかけになって、血筋の真実はかなり広くに知れ渡ったようだ。「天孫」が「朝鮮人」に変わってしまったことについては、天皇をはじめ皇族方のお立場に同情を禁じ得ない。いままた、私がこうして天皇家のルーツを細かく述べることに、私自身かなりの苦痛を覚える。けれども、これは広く国民が知らなければならない重要な問題だと思うから、勇を鼓して書き進めている。


 六六三年、白村江の戦いで日本・百済遺民の連合軍が唐・新羅連合軍に大敗し、朝鮮半島の百済の国が完全に滅びたとき、百済王族が一族配下数千人(一万人説もある)を引き連れて日本へ亡命してきた。彼らは貴族として迎え入れられ、土地や官職まで与えられ、複数の者が天皇に仕えた。

澤田洋太郎著『歴史教科書あなたはどう考える』によると、多くの百済人が住みついた近江の地は第二の百済国のようであったという。この集団の核となったのは百済王子豊璋、善光兄弟の直系子孫たちであった。


 白村江の戦いの途中に姿をくらませた百済遺民軍の指揮官・豊璋は、長年、賓客扱いの人質として滞在していた日本に密かに逃げ帰り、天智天皇から藤原鎌足の名をもらって日本に帰化した。


 その子孫は日本の上層部に深く根を張り巡らせた。狡猾なこの一族は初代天皇家を乗っ取り、他系を全て排除した。


 百済王族の血一筋になったのは、豊璋の弟善光の直系子孫・桓武天皇(七三七年生まれ)のときであり、天皇の周りは百済人ばかりだったという。

天皇が百済人に囲まれた形は、そのまま引き継がれているであろう。

私の友人の結婚相手に、公家出身の人がいる。実家は敗戦によって雲の上から転がり落ち、邸宅を売却したと聞いているが、その姓は「多羅」。明らかに百済系である。


 話を戻して、天皇家の血筋は父系は善光、母系は藤原、という形が桓武天皇の後、しばらく続いた。ところが、陰謀家の藤原氏は、赤ん坊すり替えの手段によって、善光の血筋まではじき出してしまったのである。父系、母系ともに藤原氏つまり百済王子豊璋の血一筋になったのは鳥羽天皇(一一〇三年生まれ)のときだった。鳥羽天皇の本当の父は藤原公実、母はその側室・藤原光子であると思われる。


 それ以降、実に九百年という歳月を天皇家は藤原氏に完全に私物化され、藤原氏の思うがままに操られ続けてきた。


 天皇暗殺、すり替えも辞さない冷酷な藤原氏のもとで天皇家は翻弄され続けてきたのである。日本の頂点に立ったのは天皇ではなく、実は黒幕・藤原氏だったということになる。


「藤原にあらずんば、人にあらず」の横暴ぶりを学校で教えられた記憶があるが、「人にあらず」どころか実は「天皇にあらず」でもあったのだ。


 あの大戦のとき、天皇の運命を握っていたのは藤原五摂家の筆頭・近衛家の当主文麿であった。具体的な話は別項に譲ることにする。余談だが、「麿」は朝鮮語で「高み」を表わす「まら」に由来する言葉だという。


 百済王族が日本の支配者であったことの裏付けになりそうな文章を、李青若著『在日韓国人三世の胸のうち』(草思社)から原文そのまま引用する。


「実家がある町の一角には、先祖が朝鮮半島から来たと思われる人たちが住んでいる。名字が『百済』というような家がある。彼らは、日本に文化を伝えた人の子孫ということで、由緒ある家柄とみなされているらしい。そういうところからお嫁さんをもらうのは難しい、と言われることもあるそうだ」


 まさに、それこそ百済王族の血筋であろう。辿っていけば天皇家と共通の先祖にいきつくことはまず間違いなかろう。
http://bunei321.cocolog-nifty.com/blog/2012/04/post-e15a.html

36. 中川隆[-13713] koaQ7Jey 2018年11月30日 18:10:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463] 報告

こうして畿内は朝鮮からの渡来人に完全に乗っ取られた


国内最古の大壁建物跡か、奈良 渡来人の定住早まる可能性 2018年11月27日
http://www.chunichi.co.jp/s/chuspo/article/2018112701001874.html

 奈良県高取町教育委員会は27日、同町の市尾カンデ遺跡で4世紀末から5世紀初めに渡来人が建てたとみられる朝鮮半島式の大壁建物跡が16棟分見つかったと発表した。国内最古とみられ、これまで5世紀後半以降とされていた渡来人の本格的な定住時期が大幅に早まる可能性がある。

 町教委によると、大壁建物は狭い間隔で柱を立てた後、土で壁の中に柱を塗り込めるのが特徴。全容が分かる最大のもので東西約15メートル、南北約13メートルだった。高取町の森ヲチヲサ遺跡で見つかった大壁建物跡と並び最大級という。同町ではこれまで約40棟見つかっていた。

(共同)


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埴原和郎 東京大学・国際日本文化研究センター各名誉教授

私どもが行った現代日本人頭骨の分析からみても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で“特殊な日本人”ともいえる。

その理由は、この地方で渡来系集団の影響がきわめて濃厚であるためと
想像されるが、このような傾向は、すでに古墳時代に現れていたといえる。

時代はやや下がるが、平安時代に編纂された『新撰姓氏録』によると、
畿内の氏族一一八二氏のうち、ほぼ三分の一が渡来系の氏族といわれる。
とくに新羅系の秦氏、百済系の漢氏、高句麗系の高麗氏などは
代表的な氏族で、ともに畿内を中心として、ほぼ全国に拡散した。

この他、日本書紀や続日本紀などにある渡来人の歴史をみれば、
近畿地方に渡来系の特徴が濃厚に残っていることは当然ともいえる。
そして人骨の研究からこれが裏付けられることは、日本人および
日本歴史を考えるうえできわめて重要である。


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小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」
『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号

畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、
東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を
とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。

このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、
東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半
島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、
東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に
一致することは興味深い(以上、75頁)

(追加)形質人類学的にみた未解放部落

われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調
査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。

(中略)

身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。
頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅
は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、
一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国
東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので
ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ
いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。

大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持
つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ
らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ
ているものと思われる。このような部落の成因については、文化史その他の
分野より検討せらるべき課題であろう。(成績はいずれも男子資料による)
(大阪大学医学部教授)


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網野善彦 『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』 岩波現代文庫

私がこの『東日本と西日本』を読んで、とくに衝撃をうけた記憶がはっきりとあるのは、小浜基次さんの論文でした。

小浜さんは大阪大学の名誉教授で、形質人類学・解剖学の専門家、1904年に生まれ、1970年に亡くなっておられます。

この文章は短いものですが、小浜さんは形質人類学の立場から日本列島の、
東と西に住む人びとの差異をいろいろな角度から指摘しておられます。

その中で私がもっともショックを受けたのは、朝鮮半島人と、近畿、瀬戸内海沿岸の人びとがきわめてよく似ており、
形質上は同じであると指摘されている点です。

そしてそれに対して、山陰・北陸と東北の人びとと近畿人との差異は、朝鮮半島人と近畿人の違いに比べて、
はるかに大きく、東北、北陸の人びとはむしろアイヌに近いと小浜さんは強調しておられます。

これは頭部の特性、短頭、中頭、長頭をはじめ、身体的な特質から導き出された結論ですが、
さらに衝撃だったのは小浜さんの、被差別部落に踏み込んだ発言でした。

小浜さんは大阪大学の方ですから、ここまで立ち入っておられるのですが、この論文の書かれた時期には、
被差別部落民は朝鮮半島から渡ってきた人たちだというとらえ方をする人たちが、実際に関西では少なからずあったと思います。

これに対して、小浜さんはとんでもない誤りで、むしろ部落を差別している人びとの方が朝鮮半島人にそっくりで、
差別されている被差別部落の人びとは、東日本人、東北北陸型の人びととむしろ形質上はよく似ているとされています。

小浜さんは被差別部落の人びとが朝鮮半島からきたなどということはまったくの誤りだと強調されているのです。


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生体の頭長幅指数分布の分布図
http://i.imgur.com/RXXfQ0q.gif


最初は、化石でなく生体の頭長幅指数分布の分布図である。

頭長幅指数とは上から見た頭骨について長さに対する幅の百分比であり、値が大きいほど短頭である(丸い頭である)ことを示す。

この場合、朝鮮半島と同様に九州から中四国、近畿そして関東にかけて、短頭の地域が分布している。

 日本学術会議の研究班は1949年から4年をかけ全国5万6千人を対象に日本人の生体を計測した。

小浜基次はこの結果の地方差から東北・裏日本型と畿内型に分類し、
「その2つの型の分布状況を歴史的に解釈すると、まず、アイヌ系の東北型が広く日本に分布していた。

その後、朝鮮半島から朝鮮系が渡来し、畿内、瀬戸内に本拠をしめ、一部は東進して南関東に達した。

この畿内型の周縁や西日本の離島に東北型がのこっているのも、先住民であったからであろうといっている。

上田常吉はこの後来の朝鮮系が弥生文化をもたらしたと解釈した。」
(樋口隆康「日本人はどこから来たか」講談社現代新書、1971年)


▼各地の男性頭骨の弥生・縄文判別関数値

(池田次郎・京都大学名誉教授による)※数値が高いほど朝鮮に近い

+2.12…畿内 ←★ (アッ…
+1.08…四国
+0.76…東中国
+0.70…西中国、北東九州
+0.51…関東、東北
+0.40…北陸
-0.87…西九州、南東九州

▼手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との遺伝的距離

(山口敏『日本人の顔と身体』より)

0.000…朝鮮半島
0.007…近畿地方
- - - - - - - - - - -  日本と朝鮮の境界
0.012…中部地方
0.035…中国地方
0.035…九州地方
0.038…四国地方
0.048…関東地方
0.068…東北地方
0.092…南西諸島

▽分離型耳垂(福耳)の出現率(兵庫医大・欠田名誉教授)

アイヌ 96.2%
奄美諸島 77.24%
新潟県 72.8%
山形県 70.5%
青森県 63.3%
三重県 60.4%
- - - - - - - - - - -  日本と朝鮮の境界
山口県 36.88%
京都府 36.6%
朝鮮半島 32.6%


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▼梅原猛(愛知県出身・京都在住の哲学者)
『近畿人は日本人全体からかけ離れて朝鮮人に近い。東大の埴原和郎先生は近畿人は日本人じゃないと言うんだ』

▼中上健次(和歌山県出身・作家)
『大阪はね、ほとんど韓国と一緒の土地だと思うんです。着るものとか街並みだとか、ものすごく韓国に似てますね』

▼国民百科事典(平凡社)
『近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する』

▼池田次郎(京都大学名誉教授・自然人類学)
『畿内人は韓国朝鮮人と同じグループに属し、日本人から最も離れている』

▼レヴィン(旧ソ連の人類学者)
『シベリア抑留者1万人を調査した結果、近畿人は朝鮮人とほぼ同じだが、東西へ向かうに従い日本人となっていく』

▼岩本光雄(京都大学名誉教授・霊長学)
『畿内人と大陸人、とりわけ朝鮮人は人種的につながっている』

▼埴原和郎(東京大学名誉教授・自然人類学)
『近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近く、日本人からは外れている』

▼関晃(東北大学名誉教授・熊本県出身)
『帰化人たちは、ほとんど全部が大阪京都奈良に根を下ろしたといってよい』

▼松村博文(札幌医科大学准教授・解剖学)
『畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。朝鮮半島の人々も畿内人と同じようだとわかりました』

▼欠田早苗(兵庫医科大学名誉教授・解剖学)
『大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い』

▼ハシゲ徹(大阪民國総統)
『大阪の人たちは韓国人と非常によく似ている』

▼網野善彦(山梨県出身・歴史学者)
『以前サントリーの会長が東北には未開なクマソが住んでると言って問題になりましたが、あれは関西人の発想です』

▼戸田恵梨香(神戸市出身・女優)
『神戸って大阪と一緒にされるの凄い嫌なんですよね〜大阪は下品!汚い!』

▼堤真一(西宮市出身・俳優)
『兵庫は大阪と違って洗練された町なんで』

▼森喜朗(石川県出身・元首相)
『大阪は日本のタンツボ』

▼ローラ(東京都出身・モデル)
『アニョハセヨは関西弁』

▼吉田定房(公卿、14世紀)
『赤ん坊級に弱い関西人が一騎当千の鎌倉武士に勝つなんて無理ゲー』

▼人国記(戦国時代の地誌、16世紀)
『関西侍は弱兵、卑劣、欲心深く、狐が服を着てるだけ』

▼武田信玄(戦国最強の将、16世紀)
『関西人は義理も作法も知らず、自分さえ助かればどんな卑怯もする』

▼甲陽軍鑑(甲斐武田の軍学書、17世紀)
『関西侍どもはあまりにも弱すぎる。そこいらの町人レベル』

▼雑兵物語(江戸時代の兵法書、17世紀)
『関西侍は馬にも乗れねえ屁っぴりだんべい』

▼葉隠(佐賀鍋島藩の武士道書、18世紀)
『関西侍は卑怯者だらけ。真似するなよ』

▼薩摩兵(西南戦争の頃、19世紀)
『またも負けたか八連隊(=大阪兵)、それでは勲章くれんたい(=京都兵)』

▼全国体力テスト(文部科学省、21世紀)
『大阪男子の体力は47位で全国ビリ、学力は45位』

▼向江松雄さん(鹿児島歩兵第145連隊)
『大阪なんかな、「またも負けたか8連隊」ち、大阪なんか言いおったっじゃっどんな』

▼古瀬正行さん(久留米第18師団)
『大阪とか京都の兵隊は途中で会ったけどその場でビンタですよ。「こん、ばかたれが」っていうような状態だったですからね、うん』

▼坂本芳次さん(自動車第34連隊)
『うちの部隊にも何名か大阪人がいましたよ。もうこんな「ぜえろく」っていってみんなから蹴飛ばされてたけどね』

▼田辺聖子(大阪府出身・作家)
『浪速の男どもはみな争いごと好まず、膂力(腕力)にも乏しい』

▼司馬遼太郎(大阪府出身・作家)
『大阪兵は日本最弱。上方者が兵にむかないのは当然なこと』

▼樋口清之(奈良県出身・考古学者)
『平安末期の関西人は、本当に男でも女のような体質ですね。肉体的鍛錬をしませんと関節が小さいんです』


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道府県別朝鮮人人口(1940年) 
典拠:内務省警保局『社会運動の状況』、総理府統計局『国勢調査報告』

01 大阪312,269
02 福岡116,864
03 兵庫115,154
04 東京87,497
05 愛知77,951
06 山口72,700
07 京都67,698
08 北海道38,273
09 広島38,221
10 神奈川24,842
11 岐阜20,093
12 長崎18,144
13 静岡15,726
14 岡山11,887
15 福井11,725
16 三重11,660
17 和歌山11,298
18 山梨9,514
19 奈良9,232
20 佐賀8,693
  長野8,152
  大分8,046
  滋賀7,792
  島根7,146
  熊本5,699
  福島5,549
  愛媛5,506
  宮崎5,476
  石川5,169
  千葉4,886
  埼玉4,884
  群馬4,544
  新潟4,365
  茨城3,877
  富山3,876
  高知3,744
  岩手3,721
  鹿児島3,220
  鳥取2,678
  香川2,214
  青森2,175
  栃木2,091
  宮城2,015
  秋田1,678
  徳島1,343
  山形1,048
  沖縄109


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【難波=朝鮮】

摂津の地域では、難波の地にあたる東生(成)、西成の両郡に吉志系の氏族と三宅忌寸とが居住していたことが知られる。

東生郡では難波忌寸・日下部忌寸、西成郡では吉士・三宅忌寸が、それぞれの郡の郡領をつとめる有力氏族であったのであろう。

吉士は朝鮮語の首長を意味する語に由来し、新羅では官位十七等の十四位の称にも用いられており、これを氏姓とする氏族の実体は渡来系氏族であると思われる。
『日本書紀』によると、難波忌寸がもとは草香部吉士であることが知られる。
(『大阪府史』)


【浪花っ子=朝鮮人】

高権三『大阪と半島人』(1938年)より

・大阪の半島人は平壌人口よりも多い。
・大阪の浪波子には朝鮮の人の血を受けていないものは、殆どない。
・大阪の何処の通りに行っても、何処のデパートに於ても、朝鮮服の女の姿の見受けられぬところはない。


▽大阪=ヤクザ
関西に暴力団が10人おったらそのうち9人はマイノリティ(『グリコ・森永事件 最重要参考人M』宮崎学・大谷昭宏)

約65万人といわれる在日朝鮮人のうち約50%が兵庫・大阪・京都に集中していることと山口組の発展は決して無関係ではなく、
山口組は部落差別や在日朝鮮人差別の問題をなしにしては語れない(『文藝春秋』昭和59年11月号)

▽大阪=部落
部落民の分布は、穢多の水上と称せられる近畿地方を中心として最も多い。大阪西浜は、全国の中心をなすほどの大部落である。
(『被差別部落一千年史』高橋貞樹・大分県出身)

被差別部落の人口数からいうと、近畿が半数の50%を占め、九州、中国、四国がそれぞれ12%前後、関東、中部となると5%前後となっています。
(『被差別部落の歴史』原田伴彦・佐賀県出身)

▽大阪=在日
いま在日韓国・朝鮮人は67万人だが、うち半数が関西に住む。大阪府下は18万人で実に全国の3割に近い
(大谷晃一・帝塚山学院大学学長)

関西の3府県で韓国・朝鮮籍の永住者が全国の約5割を占める。
(仲尾宏・京都造形芸術大学客員教授)

▽大阪=ヘタレ
大阪の剣術は日本一レベル低い
→鎌倉〜幕末の大阪府下三カ国で名の知れた剣豪は一人も居ない

大阪の侍は日本一弱い
→信州長野の人国記によると大阪武士は詐欺師まがいの狐侍と酷評されている

大阪に武士道などない
→佐賀の葉隠に上方武士は打算で動く卑怯者とある


▽大阪=帰化人
→近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する(国民百科事典・平凡社)

→大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)

→朝鮮系の土器の列島内における分布は、畿内の河内、大和にとりわけ多い(『アジアからみた古代日本』)

→河内国(大阪府)は列島随一の渡来人(朝鮮半島)の集住地域(熊谷公男・東北学院大学教授)



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耳かきで分かるあなたの先祖 意外な勢力図 2011/1/21
https://style.nikkei.com/article/DGXBZO21914010Z10C11A1000000

人間の耳あかは、各自の体質(遺伝子)によって、乾いて粉状になる乾型(カサカサ)と、松ヤニのように粘り気のある湿型(ネバネバ)の2種類に分かれる。通常、耳そうじをする際、カサカサな人は小さなスプーンのような形をした「耳かき」を使い、ネバネバな人は「綿棒」を使う。ところが、こんな奇妙な話を耳にした。

「日本ではおなじみのあの『耳かき』が、海外ではほとんど見かけない」というのだ。耳そうじがしたくても、現地のホテルや店に「耳かき」が見当たらず、困った経験をした人も多いらしい。

どうしてなのか?

不思議に思って、耳あかの種類を決める遺伝子を発見した北海道医療大学の新川詔夫学長に取材してみた。

「実は日本では7割から8割までがカサカサな乾型なんです。逆に、欧米ではネバネバな湿型がほとんどで乾型はあまり見られない」。新川さんはこんな“逆転現象”があると教えてくれた。そのため、日本では「耳かき派」が主流で、海外では「綿棒派」が主流になっているというのだ。


図1と表2を見てほしい。

https://style.nikkei.com/article/DGXBZO21914010Z10C11A1000000


新川さんらが世界33民族を対象に調査した世界の乾型遺伝子の出現率である(耳あかが実際に乾型になる割合は遺伝子出現率を2乗した値)。世界における乾型と湿型の勢力分布がはっきりと読み取れる。

調査によると、たしかに世界では湿型が圧倒的に多く、乾型は東アジアに偏在している。乾型はとりわけ黄色人種によく見られる特徴で、耳かきを使った耳そうじは、世界でも東アジアを中心とした地域に限られるようだ。


さらに分析を続けてみよう。

乾型遺伝子の出現率が最も高いのは中国北部やその周辺(たとえば中国山西省や韓国大邱市は100%)。ところが、中国北部から離れるほど出現率が低下する。

中国北部からやや離れた日本の平均は7〜8割程度。タイでは7割程度、インドネシアでは5割程度、カザフスタンでは4割程度となり、ヨーロッパまで行くと1〜2割程度に下がる。そして、さらに遠方のアフリカや南米ではついに5%を切る。

この調査から何が分かるだろうか?

実は、各自の遠い先祖のルーツをたどることができるという。


「もともと人間の耳あかはすべて湿型だった。ところが、数万年前に中国北部やモンゴルの周辺で遺伝子の突然変異に伴い乾型の耳あかが生まれ、周辺地域に広がった」


新川さんはこんな仮説を披露する(図3)。乾型と湿型の“逆転現象”はこうして生まれたというわけ。

https://style.nikkei.com/article-image?ad=DSXBZO2189245019012011I00000&ng=DGXBZO21914010Z10C11A1000000

かつて、アフリカで誕生した人類の祖先は世界各地に広がり、黒人、白人、黄色人などに分化した。そのうちの中国北部にいた黄色人の中から乾型の耳あかが生まれた。「それが寒冷気候への適応だったのか、感染症への抵抗性だったのか、理由はまだ不明だが、ある特定の環境下で乾型の耳あかを持つ人は生存に有利だったのではないか」と推測する。


では、日本にどう伝わったのか。

「弥生時代以来、日本に移り住んできた渡来人が乾型の遺伝子を運び込んだ」と新川さんは見る。もともと日本の先住民だった縄文人は、白人や黒人らと同様に湿型ばかりだった。そこへ、渡来人が高度文明や技術、専門知識などとともに乾型の遺伝子も持ち込んだらしい。

乾型の遺伝子は縄文人と混血を繰り返しながら日本人の血に溶け込み、やがて、現在のように湿型と乾型が混在するようになった(図4)。

https://style.nikkei.com/article/DGXBZO21914010Z10C11A1000000?page=2


しかも、現在も遺伝子の混血は進行中だという。

実は、その痕跡を示す統計がある。


図5と表6は、日本国内の耳あかの乾型と湿型の勢力分布を示したものだ。

https://style.nikkei.com/article/DGXBZO21914010Z10C11A1000000?page=3


新川さんらと共同で県立長崎西高校が調査した都道府県別の乾型遺伝子出現率(対象1963人)をもとに作成した。最も高いのは京都、次いで岐阜、大分、愛媛、福井……。逆に最も低いのは岩手、次いで沖縄、広島、宮城、山梨……。

調査を見ると、「乾型は西日本で特に多い」というざっくりした傾向が浮かび上がる。詳しく言うと「乾型は近畿地方で圧倒的に多く、さらに四国北部、九州東部へとつながる臨海地域にも集中している」という。

これは何を意味するのか?

「渡来人が通った足跡のように見えませんか?」と新川さんは言う。「大陸から来た渡来人は中央権力があった近畿地域を目指して移り住んだ。そのルートに沿う形で、乾型遺伝子が多く残った」というのだ。


この仮説によれば「耳あかが湿型の人は縄文人、耳あかが乾型の人は弥生人(渡来人)が祖先」ということになる。何だか、太古の人との「きずな」を見せられたような気がして、歴史のロマンをかき立てられる。

実は、これとよく似た現象を以前、このコラムで書いたことがある。

2010年7月2日に掲載した「全国酒豪マップ」――。耳あかと同様、人が酒に強い(酒豪)か、弱い(下戸)かも各自の体質(遺伝子)で決まる。もともと人間は酒に強かったが、中国南部で酒に弱い遺伝子が突然変異で生まれ、周辺に広がったという話だ。

下戸の遺伝子は渡来人とともに日本に伝わり、酒が強い土着の縄文人との混血で混ざり合った。今では下戸と酒豪が混在しており、近畿、中部、瀬戸内、九州北部など渡来人が移り住んだルートに特に下戸が多い。

比べてみると、たしかに「全国酒豪マップ」との共通点は多い。

例外はあるが、乾型遺伝子の出現率が上位の都道府県は近畿、四国北部、九州東部など下戸が多い地域と重なり、一方の出現率が低い都道府県は東北、四国南部、九州西部など酒豪が多い地域と重なっている。

最後に新川さんにこう尋ねてみた。

「耳あかがカサカサな乾型の人は、そのまま酒に弱い下戸ということになるのですか?」。ともに祖先が渡来人と考えられるからだ。耳あかの種類で酒豪か下戸かが判断できるのなら、便利に違いない。

だが、残念ながら「耳あかと下戸の遺伝子は直接は関連していない。乾型だからといって、その人が必ずしも下戸だとは限らない」という答えが返ってきた。それぞれ、遺伝子上はまったく別の現象らしい。つまり、乾型の耳あかの持ち主が酒豪だったり、湿型の耳あかの持ち主が下戸だったり、はっきりとは区別できないらしいのだ。

とはいえ「どちらも『渡来人と先住民の縄文人が混血しながら日本民族を形成した』という仮説を支持している」と新川さんは言う。

現代の生活では、耳あかの違いも、酒豪か下戸かの違いも、生命を脅かすほどの決定的な要因にはなりえない。ただ太古の時代は謎に包まれている。予想もできない出来事が大きな役割を果たしていた可能性だってある。

乾型耳あかや下戸の遺伝子がなぜ淘汰を免れたのか――。その完全な全体像を解明するには、まだまだ時間がかかりそうだ。


37. 中川隆[-13712] koaQ7Jey 2018年11月30日 18:11:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463] 報告

収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族 _ 朝鮮から渡って来た華僑は日本の支配階級となったが…

暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族


射殺された清少納言の実兄、不正のかぎりを尽くして私腹を肥やす受領……。

藤原道長や藤原行成の日記に書かれていたのは、王朝貴族たちの犯罪と暴力だった!
 
風雅で優美なイメージの裏側に隠蔽されてきた衝撃の実態。

平安時代には支配階級・特権階級である貴族たちが、庶民から収奪の限りを尽くし、暴走に次ぐ暴走を重ねている。


『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)
「序 清少納言の実兄、白昼の平安京にて射殺される」
「結 清少納言、源頼光の四天王に殺されそうになる」
「あとがき」

から要約する。


現代日本人がイメージする王朝貴族は、和歌や音楽や恋愛に人生の喜びを見出す繊細な人々であり、血が流れるのを見たら気絶するような気の弱い人々である。

このような王朝貴族のイメージを形成してきた情報源は『源氏物語』や『枕草子』に代表される一群の文学作品である。

紫式部や清少納言の作品に親しむ人々にとって、王朝貴族社会は犯罪や暴力とは縁のない、風雅で優美な世界である。

しかし、疑いのない事実として、王朝貴族が諸々の犯罪行為に手を染め、数々の暴力沙汰を起こしていた。王朝貴族の犯罪行為も数々の暴力沙汰も、王朝時代には当たり前の日常茶飯事だったのである。

その証拠は、藤原道長や藤原行成といった上級貴族たちの日記である。

彼らの日記を紐解けば、王朝貴族が犯罪や暴力に関与していたことは否定のしようがない。

1017年の藤原道長の日記『御堂関白記』によると、清少納言の実兄清原致信が騎馬武者の一団の襲撃を受けて殺されている。 清原致信は王朝貴族の一人であり、朝廷に仕える中級官人であった。大宰府の三等官である大宰少監を務めていた。そして、清少納言の実兄である清原致信が襲撃され殺されたのは、それに先立って、致信自身が人殺しをしていたからである。

清原致信を殺したのは、源頼親の武士団であり、致信殺害は源頼親が命じたものである。
そして、源頼親は王朝貴族たちから「人を殺すことを得意としている」と見られていた。一方で、源頼親は淡路守や右馬頭といった官職を帯びる中級官人であり、王朝貴族であった。

同時に、大江山の酒呑童子を退治したことで知られる源頼光の弟であり、「大和源氏」と呼ばれる武士団の祖でもあった。王朝貴族の一員でありながら自ら強力な武士団を率いていた、「軍事貴族」と呼ばれる存在だったのである。

その軍事貴族の源頼親が、配下の武士たちに命じて清原致信を殺害したのは、仲間の当麻為頼の仇を討つためであった。当麻為頼が清原致信によって殺されていたからである。

ところが、当麻為頼殺害の真の首謀者は清原致信ではなく、その背後にいた。清原致信が仕える藤原保昌であろう。

丹後守として丹後国に赴任した藤原保昌は、悪名高い王朝時代の受領国司たちの一人だった。しかも丹後守の他に日向守・肥後守・大和守・摂津守などをも歴任した保昌は、その貪欲さと悪辣さとで知られる受領を代表する存在であった。

藤原保昌が1017年の清原致信殺害事件に先立って大和守の任にあった。従って、藤原保昌の朗等であった清原致信は、大和国において大和守保昌の汚い欲望を満たすことに勤しんだこともあっただろう。

当時、大和守の住人であった当麻為頼は保昌にとって邪魔な存在であり、保昌が為頼の抹殺という汚れ仕事を致信に押しつけたものと想像される。

清原致信殺害の首謀者であった源頼親は、配下の武士たちに致信を殺させたことが露見したため、それまで帯びていた淡路守および右馬頭の官職を取り上げられたが、当時の朝廷は、これ以上には頼親を罰しようとはしなかった。つまり、致信の殺害を謀った頼親は、ただ官職を失うだけで済んだ。しかも、1017年に淡路守と右馬頭を罷免された頼親も、1024年には、新たに伊勢守を拝命し、続けて大和守と信濃守を務めている。

さらに真の黒幕である藤原保昌に至っては、致信が殺されても、馴染みの朗等の一人を失っただけで、1020年あたりに丹後守に任命され、その後、大和守を経て、摂津守に任命されている。

それにしても、人を殺すという凶悪な犯罪行為が、王朝貴族にとっては、いかに身近なものであったことか。

王朝貴族の世界とは、悪事を働いた者が臆面もなく暮らすような、悪徳に満ちた世界だったのである。

この事例は、王朝貴族の悪だくみの氷山の一角にすぎない。

当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

清少納言の実兄である清原致信殺害事件の真相は、次のように理解される。

1013年頃、大和守に任命された藤原保昌は、同国の豪族たちから少しでも多くの財を巻き上げようとして、不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領といった不正行為の数々に手を染めていた。

だが、そんな藤原保昌に歯向かったのが、大和国の当麻為頼である。

地元の有力豪族として大和守藤原保昌との確執を深めた当麻為頼は、藤原保昌の配下によって消される。保昌から当麻為頼殺害という汚れ仕事を任されたのが、保昌の朗等であった前大宰少監清原致信であった。清少納言の実兄である致信は、藤原保昌が大和国で財を成すことを助けるため、保昌の命じるままに為頼の始末を実行した。

しかし、清原致信が藤原保昌から与えられた汚れ仕事は、為頼抹殺だけではなかっただろう。藤原保昌が企図した不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領などの実行にあたったのは、藤原保昌の朗等たちだったはずであり、その中には(清少納言の実兄)清原致信がいたに違いない。

清少納言が『枕草子』に描いた王朝貴族社会の豊かさは、悪徳受領たちが地方諸国において不正行為を用いて築き上げた汚れた富によって支えられたものだったのである。

それだけではない。試験制度の弊害は枚挙に暇がないが、試験制度(官人採用試験)は平安時代には既に整えられていた。


宮中での取っ組み合いの喧嘩、従者の殴殺。
果ては邸宅建設のために平安京を破壊するなど、優雅な王朝時代のはずが、貴族たちはやりたい放題の暴れぶり。当時の記録をもとに貴族たちの意外な素顔を探り出した意欲作。

『殴り合う貴族たち〜平安朝裏源氏物語』繁田信一著 柏書房刊

序 素行の悪い光源氏たち
藤原道長、官人採用試験の試験官を拉致して圧力をかける」

によると、


988年当時、23歳の権中納言の藤原道長が、従者たちに命じて、式部少輔橘淑信という貴族を拉致させた。

橘淑信は式部省という官司の次官であった。式部省とは官人の採用や評価を職掌とする官司であり、この頃の橘淑信には官人採用試験の試験官の職務が与えられていた。当時、家柄のぱっとしない者にとっては、式部省の官人採用試験で好成績を残すことが、出世のための重要な足がかりとなった。

ところが、藤原道長は、自身が懇意にしている受験者の試験結果に手心を加えさせようと、試験官に脅しをかけた。この受験者を何とか官人にしようとする道長の身勝手な思惑の犠牲となったのが、官人採用試験の試験官式部少輔橘淑信であった。

この事件は瞬く間に世間の知るところとなり、この一件を伝え聞いた人々は、嘆きの吐息を洩らしたという。

庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたのである。


これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。
おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにあるからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/05/002556.html

暴走の源流=平安貴族2 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた

国府を焼く平忠常の乱 


前回の記事(暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族)
では、

●庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたこと。

●これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにある。

ということを提起しました。


今回記事では、

●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めていきます。


 『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)「第2章 公共事業費を横領し尽くす」から要約します。 


@収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族から生命を狙われていた。

1007年の7月1日、鎮西の大宰府において大隅守菅野重忠が殺されるという事件が起きた。

歴史書の『日本紀略』によれば、重忠を殺したのは、大宰大監大蔵種材の息子の大蔵光高であった。その光高が、重忠を弓矢で射殺したのである。 こうして生命を落とした大隅守重忠は「王朝貴族」と呼ばれる人々の一人であった。彼は、受領国司として鎮西に下向した王朝貴族だったのである。従って、その重忠が非業の最期を遂げたという話は、当時の貴族層の人々に大きな衝撃を与えたことだろう。

大隈守菅野重忠を射殺した大蔵光高の父親は、1019年の「刀伊の入寇」の折に異国の賊徒を相手に奮戦するように、鎮西の軍事貴族の一人であった。しかも、大宰府の三等官である大宰大監を務めたことから見て、鎮西において相当に有力な軍事貴族であったらしい。その彼を「豪族」と呼ばずに「軍事貴族」と呼ぶのは、彼が従五位下以上の位階を持つ厳密な意味での貴族の一人だったことが推測されるからに他ならない。

ただし、大蔵種材という実在の軍事貴族は、おそらく、大隈国の有力者だったのだろう。また種材の一族は、大隅国内の権益を守るため、ときとして同国の受領国司である大隅守と衝突しなければならなかったに違いない。そして、歴代の大隅守たちの中で最も激しく種材の一族と対立したのが、寛弘4年に種材の息子によって射殺された菅野重忠だったのではないだろうか。

このように、一条天皇が玉座にあった1007年、わが国の西の辺境である鎮西において、大隅守が大隅国の軍事貴族によって殺害されるという事件が起きていたわけだが、これは、けっして希有な出来事ではなかった。

例えば、一条天皇の曾祖父にあたる醍醐天皇の治世にも、かつて本朝の東の辺境であった上野国において、同国の豪族たちが上野介を殺すという事件が起きていた。

そして1002年の年末もしくは、その翌年の年頭には、平維良という下総国の軍事貴族が、下総守の公邸である下総守館に焼き討ちをかけていたらしい。『百錬抄』という歴史書によれば、長保五年二月八日の公卿会議において、「平維良が下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国の公有財産を掠奪したこと」が議題にされているのである。

受領国司の生命を狙って守館に焼き討ちをかけるという事件は、鎮西の軍事貴族よって引き起こされている。すなわち、一条天皇の息子の後一条天皇が帝位にあった長元2年(1029)の春もしくは夏、大隅国を活動拠点とする従5位下平兼光などとともに、大隅国府や大隅守館などを襲撃して火を放ったのである。この一件でも、大隅守自身は難を逃れていたようだが、『小右記』によれば、国府・守館に攻め込んだ季基・兼元の一党は、その場に居合わせた人々を殺戮しつつ、大隅国の国有財産を掠奪したらしい。


A地元の王朝貴族(受領)は、地元の豪族から恨まれていた。その証拠として
 「尾張国郡司百姓等解」という文章があります。


■「尾張国郡司百姓等解」

永祚元年(989)の2月5日および同6日、両日の公卿会議における議題の一つは、「尾張国の百姓などが朝廷に尾張守藤原元命の違法行為を告発したこと」であった。 尾張守元命は、任国の百姓たちからのみならず、国守を助けて働くべき郡司たちからまでも、その罷免を強く望まれていたことになろう。そして、尾張国の百姓たちと歩調を合わせて朝廷に尾張守の交替を求めた尾張国の郡司たちというのは、尾張国内の各郡の統治にあたる地元出身の地方官人たちである以前に、それぞれの郡内に地盤を持つ古くからの豪族達であった。
 
ここで朝廷に尾張守元命の更迭を要求したとされている「尾張国の百姓」というのは、映画「七人の侍」やテレビドラマ「水戸黄門」に登場するような、汗と泥にまみれて朝から晩まで働き続けながらも食うや食わずの生活を送らねばならないという、貧しく憐れな農民ではない。むしろ、そうした無力な農民たちを自在に使役することによって広大な田地から膨大な収益を上げようとしていた、才覚ある農業経営者として理解されるべきであろう。王朝貴族が「尾張国の百姓」と呼んだのは、尾張国において豪族のような立場にあった人々であり、あるいは、尾張国の豪族そのものとみなされるべき人々であった。

尾張守元命の罷免を望む尾張国の百姓達は、元命の行った31種類もの違法行為を書き連ねた解を、元命の頭越しに朝廷に提出したのである。そして、その嘆願書あるいは告訴状こそが、われわれが「尾張国郡司百姓等解」や「尾張国解文」などの名称で聞き知っている文書に他ならない。

その嘆願書なり告発状なりに示されているは、郡司あるいは百姓として尾張国に根を張っていた大勢の豪族達の総意なのである。


■5種類の悪行

「尾張国郡司百姓等解」の冒頭に置かれたのは、文書の表題の役割を果たす次のような一文であった。この嘆願書もしくは告発状を朝廷に提出したのが尾張国の郡司と百姓とであるということは、ここに改めて確認されよう。

「尾張国の郡司および百姓が解を提出して朝廷によるお裁きをお願い致します。」
「願わくば、ご裁断くださいませ。当国の国守である藤原元命殿は、本年を含む3カ年の間、税の名目で物品を奪い盗るという違法を行うとともに、暴力を用いた脱法を行いましたが、それらの違法行為や脱法行為は、合わせて31ヶ条にも及びます。これが本状の趣旨です。

そこで、尾張国の郡司や百姓が数え上げる尾張守元命の不正は、おおむね、以下の5つに分類されよう。

A.不当課税および不当徴税(9ヶ条)
B.恐喝およびさ詐欺(3ヶ条)
C.公費横領(10ヶ条)
D.恐喝および詐欺の黙認(4ヶ条)
E.その他(4ヶ条)
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002566.html


暴走の源流=平安貴族3 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?


任国に赴く受領(因幡堂縁起) 

前回の記事(暴走の源流=平安貴族2 収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた)
では、


●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めました。

この地元の受領たちが恨まれていた証拠として、「尾張国郡司百姓等解」という書物が残っています。今日はこの書物に綴られている悪行の数々について具体的な中身を紹介していきます。

■悪用された公的融資制度

[第1条]公的融資の利息を名目とした不当な増税を行った。

 王朝時代、尾張国をはじめとする地方諸国の政府=国府は、われわれ現代人には少し奇異なもの見えるような公的融資を行っていた。それは、毎年の春先、国内の百姓=農業経営者たちに対して一年間の農業経営の元資となる米を貸しつけるというものであり、また、その年の冬、新たに収穫された米の中から元本と三割ほどの利率と利息とを回収するというものであった。

こうして公的な融資は、表面上、国府による農業振興策に見えるのではないだろうか。しかし、これは借り手の意志を無視した強制的な融資であった。つまり、農業経営に携わる百姓達は、たとえ経営の元資に困っていなくとも、毎年、必ずや国府から融資を受けなければならなかったのである。そしてこの融資をまったく無意味に受けた百姓であっても、融資を受けた以上、絶対に利息を払わなければならなかった。当然豊富な元資を持つ百姓にしてみれば、右の公的融資の制度は、迷惑なものでしかなかっただろう。

 結局、王朝時代の国府が行っていた公的融資は、農業振興策であるどころか、融資の体裁を借りた課税でしかなかった。当時の百姓たちは、正規の税を納めさせられた上に、公的融資に対する利息を名目とする不可解な税の納付をも義務づけられていたのである。

 986年に着任した尾張守藤原元命は、こうした従来よりの規定を平然と無視したという。988年までの3ヶ年に合計で2万1500石を超える額の強制融資を追加して、百姓たちから6400石以上もの米を利息として取り立てたのである。

 ちなみに、こうして元命が尾張国の百姓たちから巻き上げた米6400石は王朝時代の大半の人々にとって、一生を費やしても稼ぎ出し得ないほどの巨富であった。当時一般的な雑役に従事する労働者は、朝から晩まで働いても、一升(0.01石)もしくは二升(0.02石)ほどの米しか手にできなかったのである。そんな庶民層の人々にしてみれば、6400石というのは、数百年分から千数百年分の年収に等しい額であった。


■着服のための増税

 尾張国の富を吸い上げられるだけ吸い上げるつもりであった元命は、本来的な課税制度をも、存分に悪用したのである。

[第2条]課税対象ではない田地からも税を取り立てた。

 当然のことながら、本来は徴収されないはずの税は、徴収された後、国府の財政に組み込まれることもなければ、朝廷に上納されることもなかった。非課税のはずの田地から不当に徴収された税の行き先は、言うまでもなく、尾張守元命の懐であったろう。


[第3条]朝廷の許可を得ずに税率を大幅に引き上げた。

 違法な税率を用いて百姓達から税を取り立てた尾張守は、けっして藤原元命だけではない。王朝時代の尾張国においては、法定に倍する税率での課税が慣例化してしまっていたようなのである。だが、そんな尾張国に生きる百姓たちも、元命が986年に新しく採用した税率には、さすがに憤慨せずにはいられなかった。というのも、元命の提示した新税率が1町につき21.6石というあまりにも高いものだったからである。それは従来の違法税率の1.8倍から2.4倍の税率であり、法定税率と比較すれば4.8倍にもなる高すぎるほどに高い税率であった。


[第4条]着服するためにまったく名目の立たない税を取り立てた。

 一町につき8.4石というのは、尾張守元命が任国の百姓たちに臨時で課した特別税の税率である。これが本来の税の法定税率の2倍に近い高い税率であることは、ことさらに言うまでもないだろうが、この高税率の特別税は、一片の正当性もないまったく違法なものであった。すなわち、この税は、ただたんに元命の懐を温めるためだけに課されたものだったのである。


[第5条]前3条の不正によって毎年のように5万石を超す不当な利益を上げた。

 15万石というと、王朝時代の一般的な労働者の2万年分の年収を上回る額である。それは、当時の庶民層の人々にとって、まったく現実感のない数字であったかもしれない。だが、確かな現実として、尾張国の百姓達は3年間の間にそれだけの富を尾張守元命によって巻き上げられていたのである。


■公務としての掠奪


[第6条]絹織物の公定価格を不正に改変して事実上の増税を行った。

尾張国の百姓たちが負っていた税には、2.4町の田地について一疋(0.67メートル×15.56メートル)の絹織物を納めるというものもあった。そしてこの税の税率は、田地一町につき米2石というものとして理解されていた。


[第14条]絹織物を納付する期限を不当に早めた上に乱暴な取り立てをした。

 尾張守に就任した藤原元命には、任国の百姓の都合など、まったく考慮するに値しないものであったらしい。元命が絹織物の取り立てを開始したのは、毎年、いまだ多くの田地において田植が完了していなかったであろう5月中旬だったのである。それまでより半月以上も早く絹織物が徴収されはじめるようになったことは、尾張国の百姓たちをひどく困惑させたことだろう。

 しかも、尾張守元命による絹織物の徴収は、実に乱暴なものであった。元命の配下の徴税使は、その郎等や従者を百姓たちの家宅に踏み込ませ、徴収するべき絹織物の他、めぼしい物品の全てを、手当たり次第に奪い去ったというのである。これでは強盗団の掠奪と何ら変わるところがあるまい。いや、強盗よりも始末が悪かったかもしれない。というのは、あくまで公務を遂行していることになっていた徴税使たちには、手向かう者があった場合、尾張守元命の名のもとに容赦のない刑罰を与えることも可能だったからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002571.html


暴走の源流=平安貴族4 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?(第2回)


今回も、引き続き古文書から平安貴族の実態を暴きます!

以下引用は、繁田信一氏「王朝貴族の悪だくみ〜清少納言危機一髪〜」からです。


●熱心な取り立て

藤原元命のような悪徳受領は、ときとして、あたかも謹厳な国司であるかのような顔をすることもあった。

〔第八条〕過去の未納分の税を無関係な郡司や百姓から不当に取り立てた。

元命が尾張守を拝命した当時、どこの国の国府の帳簿を見ても、ずいぶんと昔の国司たちが取り立て損ねた税が、累積しつつ繰り越され続けているものであった。が、当時の朝廷は、そうした税を徴収することを、すでに締めていたらしい。そうした意味では、過去の未納分の税というのは、あくまでも帳符上の数字にすぎなかったのである。

そう、税の徴収が大好きな尾張守元命は、すでに時効を迎えたものとして扱われていた過去の未納分の税をも、かなりの熱意を持って完璧に取り立てようとしたのであった。

つまりその時点で尾張国内に住んでいた郡司や百姓が、まったく理不尽にも、かなり以前に赤の他人が滞納した税を負わされたのである。「尾張国郡司百姓等解」 によれば、このときの徴税もまた、掠奪さながらに実行されたらしい。


〔第十五条〕課税対象でない作物にも税を課した。

しかし、貪欲な元命は、そうした非課税の作物にさえ、徴税の手を延ばした。尾張何の隅々から、麦や豆をも容赦なく取り立てたのである。

そして、もちろん、任期中に多量の漆をせしめておくことも忘れなかった。彼の治めた尾張国には、上質の漆を産出することで知られる丹羽郡があったのである。


●不払いを決め込む受領国司

王朝時代の受領国司は、税として徴収した米を財源として、さまざまな物品の買い上げを行った。

というのも、任国にて調達した多様な物品を朝廷に上納することもまた、当時の受領たちが帯びていた重安な任務の一つだったからである。

 だが、尾張守藤原元命のような悪徳受領は、そうした公務としての買い上げの際にさえ、私腹を肥やさんとして、あまりにもえげつない不正を働いたのであった。

                                     
[第七条] 買い上げの名目で種々の物品を騙し盗った

元命が尾張守として尾張国において買い上げたのは、絹織物・麻織物・漆・油・苧麻・染料・綿といった品々である。そして、これらの物品を生産して元命に売ったのは、尾張国の百姓たちだったわけだが、その百姓たちの不満は、元命が物品を不当に安く買い上げたことにあった。そうした不公正な買い上が尾張国の百姓たちにもたらした損失は、絹織物に関してだけでも、数千疋にも及んでいたという。

貸しつけというかたちで元命のために絹織物を用立てた百姓の中には、その貸しっけを踏み倒された者もあった。


〔第九条〕借り入れの名目で大量の絹織物を騙し盗った

この絹織物の借り入れに関して、元命が一瞬でも返済の意思を持ったことがあったとは思えない。おそらく、ここでの借財は、当の元命にとって、返済するつもりなど初めからまったくない、事実上の接収だったのだろう。彼が、彼が借り入れの名目で集めた絹織物の総量は、一二一二疋にも及んでいたという。

尾張守元命が踏み倒した借り入れの総額は、当時の庶民層の人々にとって、八〇〇年分ほどもの年収に相当するものだったようだ。

ちなみに、こうした不正によって元命のもとに番えられた富を都に運び上げたのは、運送業をも営む百姓たちであったが、そうした百姓たちは、ここでもひどい目に遭っていた。


[第二十二条]物品の運送に雇った人々に不当に安い賃金しか支払わなかった


どうやら、貪欲な元命は、払うべき運賃の四割弱ほどしか払わなかったらしいのである。


●救民策の完全な放棄

 さて、尾張守藤原元命が悪辣な受領国司であったことは、ここまでに見てきたところからも、すでに十分に明らかであろう。しかし、元命の行った悪事を数え上げる「尾張国郡司百姓等解」は、まだまだこれでは終わらない。尾張国の郡司や百姓は、元命による公費横領の数々をも、かなり強い口調で弾劾しているのである。


〔第十条〕 貧民救済に充てる費用の全てを着服した

〔第十三条〕灌漑施設補修費および災害対策費の全てを着服した

地方諸国の漑漑施設の補修は、当時、受領国司たちに期待されていた重安な役割の一つであった。

また、それは、当の受領たちにとっても、切実な意味を持つ事業であったろう。任国から少しでも多くの利益を上げたかった彼らは、それぞれの任国の農業力を維持あるいは強化するため、ある程度漑施設を整えておかねばならなかったはずなのである。

しかし、王朝時代を代表する悪徳受領として知られる尾張守元命は、潅漑施設補修費および災害対策費として計上されていた六〇〇石余りの米の全てを、何のためらいもなく横領したという。


●食い尽くされた公共事業費

尾張守藤原元命が任国において横領した公共事業費は、灌漑施設補修費や災害対策費だけではない。

〔第十一条〕公的な連絡網を維持するための費用の全てを着服した。

〔第十二条〕公有の馬の飼育費および購入費の全てを着服した。


「駅」と呼ばれる施設を置いていた。そして、朝廷から諸国への命令や諸国から朝廷への報告は、駅から駅へと運ばれるかたちで、ほぼ確実に伝達されていたのである。
それぞれの駅には、多数の馬が用意されていた。駅ごとに馬を替えながら情報や使者を選ぶというのが、王朝時代の国家的な連絡網としての駅の制度であった。

また、その広域連絡網の結節点であった諸国の駅は、それぞれの国を治める受領国司の責任において維持されることになつていた。つまり、諸国に下った受領は、駅を維持するために、一定の規模の財源を確保しなければならなかったのである。

 しかし、尾張守藤原元命の場合、そうしたことに意を砕くことはなく、むしろ、駅のために支出するべき費用を丸ごと自分の懐に入れていたらしい。

そして、その尻拭いをさせられたのは、尾張国の郡司たちであったという。尾張国を治めていた三ケ年の問、同国の駅の全ては、同国の郡司たちの私財によって維持されていたのである。

しかも、これと同様の不正は、水上交通網の整備を巡っても行われていた。


   任地に赴く受領

●罰あたりな横領

〔第二十四条〕国分尼寺の再建に充てられるべき費用の全てを着服した。

王朝時代の受領国司たちは、国分寺や国分尼寺を存続させることに意を用いねばならなかった。要するに国分寺・国分尼寺の修理や改築などは、受領の責任において行われなければならなかったのである。

 ところが、尾張国の受領国司となった藤原元命は、任国の国分尼寺が火災によって失われていたにもかかわらず、けっして同寺の再建に必要な費用を支出しようとはしなかった。いや、それどころか、国分尼寺再建費に充てられるべきであった米九〇〇石に相当する財を、悪びれることなく自分のものにしてしまっていたのである。

〔第二十五条〕国分寺の僧および国分尼寺の尼への公的な布施の全てを着服した。
ここで元命が横領したとされる布施の総額は、六〇〇石強にもなったというが、それは、本来、国分寺あるいは国分尼寺において仏法を行う僧尼の生活費となるべき財であった。


●給料未払い

こうして、多様な名目の公共事業費を着服し尽した藤原元命であったが、そんな悪徳受領の元命は大胆にも、彼以外の尾張国司たちの給料にまで手を出していた。


〔第二十条〕掾(じょう)、目(さかん)、史生(ししょう)など下級国司の給料を全て着服した。

諸国の国司としては、長官である守と次官である介との下に、文書の作成や管理などに当たる国府の書記官のような官職もあった。これら国司の給料というのは、諸国の国府が行なう公的融資の利息を財源として支払われることになっていた。しかし、尾張国では、元命がその大半を横領し、結果として、下級国司には給料はほとんど支払われていなかった。


〔第二十一条〕国府に勤務する国司以外の人々の給料の全てを着服した。


「尾張国郡司百姓等解」が国府関係者の給料に関する不正をも糾弾しているのは、右の二カ条に見える横領によって損害を被った下級国司や国府職員の多くが、毛張国諸郡の郡司を兼任する人々だったからに他ならない。つまり、ここにおいてもまた、元命によって少なからぬ財を巻き上げられたのは、尾張国の郡司たちだったのである。 


以上は、役職を利用した横領や着服ですが、次の文を見ると、配下の者を使って、直接略奪を働いていたようです。こうなると完全なギャングです。


●受領に仕える野獣たち

王朝時代の受領国司にとっては、連れ下った子弟・郎等・従者こそが、任国における悪辣な蓄財活動の実行委員であった。尾張守藤原元命、彼の子弟や郎党や従者は、尾張国の郡司や百姓から財を巻き上げるため、元気に横暴の限りを尽くし続けた。


[第十六条]徴税使が人々に贅沢な接待や土産を強要するのを黙認した。

[第二十七条]子弟や郎等が郡司や百姓から物品を脅し取るのを黙認した。

[第二十八条]息子が馬を持つ人々から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。

[第二十九条]子弟や郎等が郡司や百姓から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。


 尾張守藤琴冗命の徴税便を務めたのは、当然、元命が都から連れ下った子弟や郎等や従者であった。そして、この連中は、公務にかこつけて頻繁に尾張国内の村々を訪れては、接待や土産などの名目で、郡司や百姓から多くの財を脅し盗っていた。「尾張同郡司百姓等解」によれば、そうして奪われた尾張国の冨は、数千石にも及んだらしい。

また、尾張守の威光を振りかざす元命の子弟や郎党は、尾張国の人々のもとに何か欲しいものがあれば、とにかく何でも奪い去ったという。これを「尾張同郡司百姓等解」は。「民の物を奪ひては、則ち京洛の家に運ぶ」と訴え、また、「日に見る好物は乞ひ取らざる莫く、耳に閃く珍財は使を放ちてしひ取る」と弾じる。

そして、尾張国の郡司や百姓による元命の手下たちについての総合的な評価は、おおよそ次のようなものであった。「尾張守殿の子弟や郎等の様子は、辺境に住む野蛮人と異なるところがなく、むしろ、山犬や狼のような野獣に近いほどです」。


●隠匿された法令

藤原元命が尾張守の任にあった三ケ年の間、尾張国の人々が悩まされ続けたことの一つは、ありにも頻繁に都への物品の移送に駆り出されることであった。

[第二十三条] 物品の還送のために国内の人夫や荷馬を動員することが不当に多かった。

[第二十六条]任地の大半を都の自宅で過ごして郡司や百姓からの陳情機会を奪った。

都からそう遠くない国々を預かる受領の場合、任国の支配を郎等たちに任せて、自身は多くの時間を住み慣れた都で過ごしていたのであった。

〔第三十条〕 官人身分の悪人たちを積極的に国内に連れ込んだ。


尾張守元命が下向の折に任国へと連れ込んだのは、位階や官職を持つ宮人であり、中級貴族層あるいは下級貴族層に属する人々であった。当然、彼らは、それなりに身元の確かな者たちであったろう。だが、この連中こそが、尾張守に仕える野獣の如き郎等たちの主力となったのであった.

[第三十一条]受領国司に都合の悪い新規の法令を発布しなかった。

●幸運な悪徳受領

さて、以上に「尾張国都司百姓等解」 の内容を少し詳しく見てきたわけだが、これによって明らかになったように、尾張守藤原元命がその任国において犯した罪は、あまりにも大きなものであった。

数々の悪行が尾張国にもたらした損失は、経済的なものだけを見ても、十七万数千石にもなっていたのである。それは、王朝時代において、一般労働者の二万数千年分の年収に匹敵する額であった。そして、国司の権力を振りかざして欲望のままに犯行を重ねた悪徳受領は、989年の四月五日、ついに尾張守を罷免されることになる。

右に見た『小右記』の一節に明らかなように、元命を失職に追い込んだのは、「尾張国都司百姓等解」あるいは「尾張国解文」として知られる一過の文番であった。朝廷に元命の更迭を決断させたのは、この嘆願書もしくは告発状だったのである。そして、件の「尾張国郡司百姓等解」を朝廷に提出したのは、当然のことながら、尾張国に暮らす郡司たちや百姓たちであった。

とすると、受領ぶりを遺憾なく発揮した尾張守藤原元命は、尾張国に地般を持つ豪族たちからひどく憎まれていたということになろう。そう、元命の更迭を願って「尾張国郡司百姓等解」を作成した尾張河の郡司たちや百姓たちというのは、要するに、同国に根を張る新旧の豪族たちだのである。

このことからすれば、現実には罷免されるだけですんだ尾張守元命も、ことによっては、任国の豪族たちの手により、むごたらしく血祭りに上げられていたかもしれないのである。

すでに幾つかの事例を紹介したように、受領国司たちが任国の軍事費族や豪族に生命を狙われるというのは、王朝時代において、まったく珍しいことではなかった。激しく憎まれていた尾張守元命ならば、彼に恨みを持つ豪族たちに襲撃されて血塗れの最期を迎えていたとしても、それは、実に似つかわしいことであろう。

・・・・以上が平安時代の貴族の実態です。これでも日本人か?もうこれ以上の悪は居ないだろう・・・と思うくらいですね。

でも上には上が、もっと悪い奴が居たようです。「尾張国郡司百姓等解文」という告発文により藤原元命は解任されたのですが、もっとあくどい奴は、このように告発されないように、事前に手を廻して押さえつけていたようです。次回紹介します。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002574.html

暴走の源流=平安貴族5 

自分の都合の悪いことを隠蔽、口封じする貴族たち


前回までの記事は、貴族たちが行ったありえないほどのえげつない収奪についてまとめました。
 
平安貴族たちの悪行はこれだけに止まりません。
 
今回は自分達の都合が悪いことを隠蔽、口封じしまくった貴族たちについてまとめます。
 
『王朝貴族の悪だくみ―清少納言、危機一髪』より抜粋引用します。
  
  『餓鬼草子』に描かれている貴族の食事
 
  『餓鬼草子』に描かれている庶民の様子

 
○告発者の親兄弟を皆殺しにした『藤原文信』

尾張国の豪族たちが「尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげ)」を通じて朝廷に強く求めたのは、要するに、悪徳受領の罷免であった。そして、この国司更迭の請願は、あっさりと聞き届けられることとなった。すなわち、「尾張国郡司百姓等解」によって尾張守藤原元命(おわりのかみふじわらのもとなが)の度を越した悪辣せを知った朝廷が、永祚元年(九八九)の四月五日、元命に代わる新たな尾張守を任命したのである。

そして尾張国の豪族たちは、藤原元命の追放を成し遂げた後、その成功に味をしめてか、朝廷に受領国司の解任を要求することを繰り返すようになる。

 
 ところが、現存する史料を見る限り、藤原元命の後任の尾張守については、朝廷によって罷免されたという事実もなければ、尾張国の豪族たちから退任を要求されたという事実もない。どうやら、元命の次の尾張守は、その任を無事に務めおおせたようなのである。

そして、その藤原元命の後任の尾張守というのは、藤原実資の『小右記』の藤原文信であった。
  
尾張国の豪族は藤原元命の悪行に怒りを示し、「尾張国郡司百姓等解」を作成し、朝廷に罷免を求め、見事成功。それ以来、受領国司の解任要求を朝廷に繰り返すようになります。

しかし、元命の後任の藤原文信は地方豪族ではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪だったようです。
 


 だが、この事実は、文信が善良な受領国司であったことを示すとは限らない。また、尾張国の豪族たちが文信に好感を抱いていたことを示すとも限らない。任国の豪族たちから明白なかたちで拒絶されることのなかった尾張守文信は、ことによると、尾張国の郡司や百姓にとって、現に彼らの働きかけによって尾張守の職を追われた元命や経国などよりも、はるかに厄介な受領だったかもしれないのである。もしかすると、文信というのは、地方豪族などではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪な受領だったのではないだろうか。

というのもこの藤原文信という中級貴族には、恐ろしい前科があったからに他ならない。実は、かつて筑後守の任にあった頃の文信は、自身に不都合な筑後国の住人を抹殺しようとしたうえ、その筑後国人の親兄弟を皆殺しにしていたのである。

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朝廷が藤原文信を尾張守に任命したのは、永祚元年四月五日のことであったが、その直前となる同月一日、当の文信が暴漢に襲われて頭部に傷を負うという事件が起きていた。

そして、永祚元年四月六日の『小右記』には、次のような記述が残されている。

「藤原文信を負傷させた安倍正国(あべのまさくに)が、伊賀国の以忠(もちただ)という名前の追捕使によって捕獲されたらしい。

そこで、検非違使の右衛門尉藤原惟風(うえもんのじょうふじわらこれかぜ)が、伊賀国追捕使以忠から正国の身柄を引き取ったところ、件(くだん)の正国は、両手の指を切断されたうえ、脚をへし折られていたらしい。また、その文信襲撃事件の犯人と見られる男は、鎮西(ちんざい)において文信に父母・兄弟・姉妹を殺されたことから、その報復をしようと、文信が隙を見せるのを待っていたらしい」。

 こうして検非違使が安倍正国の身柄を確保したことで都の人々の前に明らかにされたところによれば、前筑後守藤原文信が正国に生命を狙われねばならなかったのは、かつて文信が正国の家族を殺害していたためであった。検非違使が正国の口より「鎮西において文信に父母・兄弟・姉妹を殺された」との供述を引き出したことから見て、また、正国がたった一人で家族の仇を討とうとしていたらしいことから見て、筑後守であった頃の文信は、その任国において、正国の家族を皆殺しにしていたにちがいない。

 
このように、藤原文信は安倍正国の家族を皆殺しにし、そのあだ討ちに来た正国自身も返り討ちにし殺してしまいます。しかも、両手の指を切断し、脚をへし折るという残虐なやり方で、、、

この凶暴さに地方豪族もびびってしまい、文信が朝廷に受領の任期を伸ばす要請を出しても止めることができず、長期間受領を勤めることができたようです。
  

文信の筑後守の任期は、本来、天元四年正月の四年後の正月となるはずであった。

文信が受領としてその任国から富を吸い上げ得る期間は、正規のかたちで正月に任命された受領の場合に比して、ほとんど一年間も短くなってしまうはずだったのである。

 だが、これに納得できなかった文信は、彼の筑後守としての任期を天元五年正月からの四年間とするよう、文章を通じて朝廷に願い出たのであった。そうして少しでも長く受領国司の任にあり続けようとするのは、当時の中級貴族層の人々にとって、あまりにも当たり前のことであったろう。

そして、『小右記』によれば、文信から上げられた申請が朝廷において検討されたのは、天元五年、の二月二十五日のことであったが、この新任の筑後守の切実な願いは、すんなりと承認されたものと思われる。


 
○自分の横領を知った盗人の口を封じる『伯耆守』
 

王朝時代の人物と思しき橘経国(たちばなのつねくに)は、伯耆守(ほうきのかみ)の任にあった頃、国府の倉庫に忍び込んだ盗人を、捕らえた途端に処刑したことがあった。その盗人は、四十歳ほどの男であったが、身形もよく肌の色も白かったというから、おそらくは、伯耆国に地盤を持つ新旧の豪族たちの一人だったのだろう。そして、そんな人物が盗みなどに手を染めたのは、折からの飢饉のため、食べるものがまったく手に入らなかったからであったという。
      
しかし、王朝時代のこととはいえ、ただの盗人が死刑に処されるというのは、尋常なことではない。そもそも、当時の朝廷の方に従えば、わが国の臣民を死刑に処し得たのは、日本の国の主である天皇だけであり、天皇の名代として諸国を治めるにすぎない受領たちは、その任国の住人に対してさえ、独自の判断で死刑を科してはならないはずであった。

 それにもかかわらず、伯耆守経国が盗人の処刑を強行したのは、『今昔物語集』によれば、「後の聞こえも有り」という事情を鑑みてのことであったらしい。つまり、同様の犯罪の再発を防ぐため、敢えて盗みの罪を犯した程度の罪人に死刑を科したというのである。

 だが、『今昔物語集』が語るのは、経国の本音ではあるまい。

 というのは、伯耆国府の倉庫に忍び込んだ盗人が、そこには何もないことを目撃していたからである。これは、『今昔物語集』も認める事実であるが、国府の倉庫が空になっていたというのは、受領国司が国府の財を横領していたことの動かぬ証拠であろう。そして、そんな重大な証拠を握ってしまった盗人を、悪徳受領が放置するはずはなかったのである。
 
当然、筑後守藤原文信も、国府の倉庫に入った盗人を生かしてはおけなかっただろう。また、その盗人が倉庫の中で見たことを彼の家族に話したとすれば、盗人本人のみならず、その家族までもが、文信に生命を狙われることになったにちがいない。そして、安倍正国の家族が皆殺しにされた理由は、もしかすると、こんなところにあったのかもしれない。

 
前稿でまとめたように、当時の貴族達は横領を当たり前のように行っていました。そのため、倉庫が空になったのだと思いますが、それを知ったものは口封じのため容赦なく殺されたようです。
 
藤原文信が安倍正国に命を狙われたのもこんなやりとりがあったからかもしれません。
 
 
○殺人を隠蔽する『常陸介』 

 ところで、王朝時代において、受領国司が任国の住人を殺害するというのは、少しも珍しいことではなかった。いや、むしろ、当時の受領たちについては、殺人の常習犯であったと見ておいた方がいいようにさえ思われる。

 しかも、自分の犯した殺人の罪を姑息に隠蔽しようとするのが、王朝時代の受領たちの常であった

常陸国(ひたちこく)において同国に住む公侯有常(きみこのありつね)が殺害されたのは、万寿元年(一〇二四) のことである。そして、その頃に常陸介(ひたちのすけ)として常陸国の受領国司であった平維衡(たいらのこれひら)が朝廷に報告したところによると、有常の生命を奪ったのは、常陸国住人の公侯有材(つねもと)であった。
 ここに登場する公侯有常と公侯常材とは、それぞれの氏名から推測されるように、おそらく、かなり近い親類であったろう。 

しかし、常陸介維衡によれば、そんな二人の間でおきてしまったのは、あろうことか、生命のやりとりであった。つまり、万寿元年に常陸国で起きた殺人事件は、同国の責任者として事件の捜査を指揮した維衡の言うところ、親類間のいざこざが激化した末の悲劇だったのである。
 
だが、万寿二年の三月、都の貴族社会の人々は上の殺人事件に関して、それまでに得ていたのとは全く異なる情報を与えられることになる。
 
 同月二十六日の『小右記』から知られるように、前年より公侯有常殺害事件の犯人と見なされていた公侯常材が、みずから朝廷に出頭したうえで、有常の最後について「国司の為に殺される」と証言したためであった。

結論から言えば、有常殺害事件に関する事実は、常材が捨て身で告発した通りであった。
すなわち、同年七月二十一日の『小右記』によると、維衡の後任の常陸介となった藤原信通(のぶみち)が、朝廷の指示に従って事件の捜査をやり直したところ、かつて犯人断定の決め手とされた被害者の妻の証言は、維衡によって捏造されたものだったのであり、また、そうして常材を殺人犯に仕立て上げた維衡こそが、有常殺害の真犯人だったのである。

 
常陸介は自分に都合の悪い人間を殺しておきながら、それを他の人間、しかも親縁に罪をなすりつける
 
○書生に帳簿を改ざんさせ口封じのために殺した悪徳受領『日向守』
 

 地方諸国の国府に勤める下級事務職員として「書生(しょせい)」と呼ばれた人々も、その本来の姿は、それぞれの国に根づいた豪族であった。それゆえ、任国の豪族たちから富を吸い上げようとする悪徳受領にしてみれば、公式には彼の下僚ということになっている書生たちも、けっして信頼できる部下などではあり得なかっただろう。いや、それどころか、現に国府の事務処理に携わっていた如くに読み書きに長じていた書生たちは、いつ受領国司の不正を告発しないとも限らない、どうにも厄介な存在であったにちがいない。

 一方、その書生たちの側でも、任国で蓄財に励むことしか考えていない悪徳受領に対しては、けっして気を許すわけにはいかなかったはずである。とくに、何らかの事情で受領国司の不正行為に手を貸してしまった書生ともなれば、不正の露見を未然に防ごうとする悪辣な上司に消されてしまわないよう、つねに警戒していなければならなかったことだろう。

 そして、実際のところ、日向国の国府に勤務していた一人の書生が、若くして生命を落とさねばならなかったのは、強いられてのこととはいえ、悪徳受領である日向守(ひゅうがのかみ)の不正の片棒を担いでしまったがゆえのことであった。

 その日向守某が手を染めていた不正の多くは、おそらく、「尾張国郡司百姓等解」が弾劾する違法行為や脱法行為と同じものであったろう。すなわち、問題の日向守もまた、尾張守藤原元命と同様、さまざまな機会に不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領といった悪事を働き、郡司や百姓として任国に暮らす豪族たちから、多くの財を巻き上げていたと考えられるのである。

 それにもかかわらず、この日向守の場合、受領国司としての任期を全うすることができたわけだが、任期満了を迎えた日向守某は、後任者の下向を待つ間、それまでに多くの不正が行われてきた痕跡を消し去ることに余念がなかった。すなわち、自身の行った不正が次の日向守によって暴かれることのないよう、何か辻褄の合わないところのある書類を徹底的に洗い出し、それらを全て整合性のあるものへと書き直していったのである。当然、それは、かなり根気の要る作業であったろう。

 そして、この困難な隠蔽作業のために重用されたのが、かねてより日向国府に出仕していた一人の書生であった。機転が利くうえに字も上手かったという彼は、国府の一室に監禁され、二十日ほどもの間、書類を改竄する作業を続けさせられたのである。


もちろん、切れ者であった書生は、自身が悪事に関与していることに気づいていた。が、日向守某の従者たちに厳しく監視されていたため、逃亡することもかなわず、命じられるままに偽装書類の作成を続けるしかなかったという。

 しかも、こうして意に反して不正行為に荷担することになった書生は、その役割を終えるや、彼に不正への関与を強いた悪徳受領の勝手な都合により、あっさりと殺されてしまう。『今昔物語集』巻第二十九第二十六の「日向守口口□□の書生を殺す語」という話によれば、書類の改竄を完了した日のうちに、日向守某の郎等に射殺されたのであった。

日向守某が私利私欲のためにまったく非のない書生の生命をを奪ったというのが、正真正銘の史実であったとすれば、やはり、『今昔物語集』の編者としては、「日向守□□□□」の氏名を明かすわけにはいかなかったにちがいない。

 
このように、平安貴族達は自分の都合の悪いことを隠蔽、口封じしまくっていたようです。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002575.html


うーん、漢民族は中国でも、日本に来ても えげつなさは変わらないですね。

38. 中川隆[-13711] koaQ7Jey 2018年11月30日 18:12:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463] 報告

日本の支配階級になった漢民族は選民思想が強く、日本人を人間だと思っていなかった

6:名無しさん@涙目です。(WiMAX):2011/10/28(金) 18:06:18.76 ID:RNVRwNQp0

貴族遊びまくり庶民餓死しまくり
貴族が牛車で呑気におでかけする脇道には死体がゴーロゴロ


17:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:13:14.61 ID:j5KVDQzL0
>>6
あいつら死体が道に落ちてたらソッコーで家に帰って清めするだろ


28:名無しさん@涙目です。(東京都):2011/10/28(金) 18:15:52.73 ID:+z8ty5Br0

平安時代は和歌とか紫式部とかのほほんとした平和なイメージだけど あれは貴族の話。
一般市民は餓死しまくりで路上に死体が転がっていて政治機能はマヒだから次の時代に武家社会が到来した


37:名無しさん@涙目です。(アラバマ州):2011/10/28(金) 18:20:58.16 ID:T8Am9NQl0

藤原家の奴とか大体和歌詠んでは天皇や上皇にゴマすってるだけで何にもしてないよな


45:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:23:39.06 ID:j5KVDQzL0
>>37
あいつら道端に猫の死骸がありましたとかで仕事休むからな
自分とこの荘園管理以外仕事してないな
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/ojyuken/1331048080/


京都名物
1. ぶぶ漬け
2. さかさぼうき
3. やらずぶったくりの精神


大阪名物
1.儲かってまっか? という挨拶
2.関東と聞くと うどん と そばの汁の濃さの違いばかり言うアホ
3. 電車で乗客が降りるのも待たないで我先に席を取ろうと突進するアホ人間


京都のさかさぼうき  

「ゆっくりしていかはったらよろしやないの、
今おいしいお茶いれまっさかいに。新幹線なんか待たしといたらよろしいがな」

といいながら、後ろにさかさぼうきが立っている。これが最初のサントリーのお茶のコマーシャルです。

これは市田ひろみさんが出演されていたコマーシャルの事です。

「さかさぼうき」とは、長居をしたり、食事の時間になってもなかなか帰らないお客さんがいる時に、玄関や出入口にほうきを逆さまに立てかけておくというもの。

京都の人は本当に恐ろしいですね.


_________


京都の人の家に訪問して、

「ぶぶ漬けでもどうどす?」

と食事をしていくように勧められても、あくまでそれは婉曲表現であって、本心では「もう帰ってくれ」という意思表示なのです。

 私の知り合いの先生の体験ですが、京都で法事があり、その家の人に

「ご飯食べて帰りよし」

と何度も言われたので、ぶぶ漬け伝説は知っていたのですが、あまりの熱心さに

「そんなに言わはるのやったら」

と食べていかれたのです。すると遠くのほうから、

「あの人、ほんまにぶぶ漬け食わはった」

「ほんまや、ほんまや」

と陰口が聞こえてきて、その後3日間ほど寝込んでしまったらしい(笑)。
http://www.dnp.co.jp/jis/g_gakko/talk/45/45_talk2_1.html


それは、友人Aが京都に旅行したときの時の話である

そのAには、京都に行ったら寄ろうと心に決めていた料理屋があった
ガイドブックに載るほどの有名店で、各界の著名人も多数出入りする店である

しかしAは、京都についての知識をそれなりに持っていたのでその店に入るのをためらっていた

なぜなら、京都の有名店、いや京都の料理屋は大概が「一見さんお断り」の店だと聞いていたからだ

(※一見さん→誰からの紹介もなく、初めて店を訪れる客)

普通の料理屋でも「一見さんお断り」だという噂があるのに、果たしてその有名店に入れるのだろうか?

Aはビクビクしながらも、その有名店に足を踏み入れることにした

ダメでもともと!断られたら断られたでしょうがない

まずは、その店に行ってみよう

断られたら諦めよう、それでいいじゃないか
とにかく行かずに諦めるなんて悔いだけは残したくない

Aは勇気をふりしぼり、単身その店ののれんをくぐった


女将「おいでやすー」

A「あのー、はじめてなんですけど、食事できますでしょうか?」

女将は、オドオドしながら標準語で問いかける客に一瞬怪訝そうな表情をしたが
すぐに笑顔でこう答えた

「どうぞ、入っておくれやす〜」

友人は、あまりにアッサリと店に招き入れる女将に多少面食らったものの
憧れの名店で食事できる喜びと、店に入れた安堵感で有頂天だった

「一見さんお断り」なんて、ただの都市伝説だったんだ〜

おしぼりで手を拭きながら、友人はウットリとそんなことを考えていた

そして、まずは店員にビールを注文することに
緊張で乾いていた喉を、まずはビールで潤したかった

京都の有名店での食事。あれも食べたい、これも食べたい
何を食べようか迷う友人の所に、ビールを注文した店員とすれ違いに別の店員がやってきた

あれ、この店員は何をしに来たんだろう?食事の注文を取りに来たのかな?
そんなことをボンヤリ思った友人の目の前に置かれたのは…

その、あまりにも早い登場にAは面食らった

まだビールも出てないのにぶぶ漬け!

座って5分も経たずにぶぶ漬け!

問答無用でぶぶ漬け!


あまりの衝撃と屈辱に言葉を失ったAは
箸に手をつけることなく、席を立ちフラフラと店の出口へ向かった
その背中に女将からの声が響く

「あら?お客はん、もうお帰りどすか〜?」

とか「お代は結構どす〜、おおきに〜」

そんな台詞が、Aの背中に向かって投げかけられたそうな

女将の顔は見なかったが、Aにはわかったという

Aの背中を見ながらニタァーッと笑う、鬼か、はたまた化け狐の如く顔のゆがんだ女将の笑顔が、友人にはハッキリと見えていたそうな
http://taketaka.cocolog-nifty.com/mogu/2004/05/post_24.html


京都のお宅を訪問するからには、自ら”ぶぶ漬け”を忍ばせて訪問するぐらいの備えと心構えが必要である。

そして敢えて長居を決め込み、

「ぶぶ漬けでも食べていきなはれ」

と言われたら、

「いえ、手持ちのものがありますから」

と、その場でオカ持ちから”ぶぶ漬け”を取り出してムシャムシャと食べ始める。

もちろん、それだけじゃ許さない!! 

逆に

「ぶぶ漬けいかがどす?」

と、こちらから茶碗を差し出してやるのだ! 

”必殺ぶぶ漬け返し”!

 京の伝統に従って、ぶぶ漬けをすすめられた者は、その場を立ち去らねばならない。相手は自分の家であるにも関わらず、荷物をまとめてその家を出て行くことになるわけだ。

途方にくれた相手がとりあえずホテルで一泊を過ごそうとしても、先回りしてホテルの前に”ぶぶ漬け”を置いておく。ドラキュラが十字架を恐れるように、京都人は”ぶぶ漬け”を越えることができない。

仕上げはここからだ。途方に暮れる相手の前にタイミングよく現れて仲直りを持ちかけて温泉へと誘いだす。そして相手がリラックスして湯につかっているところに、ご飯とお茶っ葉をぶち入れて叫ぶのだ!

「どうだー! おまえが、ぶぶ漬けだー!!!」


だが一度噴火した怒りの火山は相手を退治したぐらいでは納まらない! 今度は、”ぶぶ漬け”宅配業者となって京の都を恐怖に陥れてやる! まず手近なラーメン屋に忍び込み、かかってきた注文の電話を何食わぬ顔でとる。そしてラーメンの出前を頼んだ気になって油断している客の家に、いきなり”ぶぶ漬け”を届けてやるのだ!

宅:「お待たせしました。来来軒でーす!」

家の奥から子供が走りだしてくる。

子:「わーい、らーめんらーめん!」

宅:「おい、ぼうず。これはな…ぶぶ漬けだーー!!!!」

子:「ぎゃーー!」

一家で出前ラーメンを食べるはずの楽しい夕べは、”ぶぶ漬け”によって家を追い立てられる悲劇の時間に変わるのだ!! 京都人である以上、この不文律を破ることは許されない。破れば京都人失格だ。京の都は家を失った人であふれかえる。子供達は全員トラウマだ。

更に今度は市の職員を装い、腹を空かせた人々の前に現れて食料配給を行うのである。もちろん、配給する食糧は”ぶぶ漬け”に決まっている。そして集まってきた人々に茶碗を差し出しながらこうささやくのだ…。

「ぶぶ漬け食べますか? 京都人やめますか?」
http://www1.odn.ne.jp/aaa55210/kara1/bubu1.htm


58 :七つの海の名無しさん:2009/04/22(水) 01:39:29 ID:qsEUqLPo

キッシンジャー国務長官は来日したときに、
京都でものすごいハイテンションで祇園遊びをした。

酒に酔ったキッシンジャーは隣にいた舞妓に舞妓は"Yes Yes”と答えるだけだった。

次の日、舞妓は驚くべき事実を告げられた。
なんとキッシンジャーが大激怒しているというのだ。

実はあの時キッシンジャーは舞妓に

『今夜、私の部屋に来るか?』

と問いかけていた。

舞妓はYesと答えていたので、てっきりOKと思ったキシンジャーは
一晩中有頂天になって舞妓を待ち続けていたのだった。


160 :七つの海の名無しさん:2009/04/25(土) 03:28:01 ID:obWA5jPE
>>58
京都では Yes=No なのだよ。
わからん阿呆キッシンジャ−は
”田舎もん、どすな〜、キッシンジャ−はん。ぶぶ漬けでもいかがどすえ?”
(とっとと、帰れという意味)

______

京都の人間は、笑止な選民思想を持っており、自分は1200年の伝統が醸し出す洗練された人間と勘違いしているが実は野暮ったい田舎っぺそのもの。前述の通り差別(逆も含む)が凄まじく、閉鎖的なムラの論理ばかりが横行し、新住民や新しい文化、気質を受け入れない。住みやすいなんてのは全くの嘘。


「比叡山より東は蛮族の棲み家」

が彼らの口癖。 究極の井の中の蛙!東京って知ってる?


頭の中は坂上田村麻呂征夷大将軍の時代で止まっているらしい。おそらく彼らの世界観は高句麗や唐、せいぜい天竺どまりで、地球が丸いことも知らないのだろう。京都が学術の都というのもガセ。確かに大学数が多いが、殆どが極右、極左で、何も知らないで入学すると変な思想で洗脳され、卒業するときとんでもない人間になってたりする。


人口も、もはや茨城県にも抜かれ停滞気味。それでも京都「府」という特権意識だけは非常にがめつい。


最後に自称雅やかな古都の礼儀作法「三度の辞退」をば。


他県人「どうぞつまらんものですが、召し上がって下さい」

京都人「いいえ、けっこうです」

他県人「まあそうおっしゃらずに、軽い気持ちで遠慮なくどうぞ」

京都人「いいえ、けっこうなんです」

他県人「本当にいらないんですか?」

京都人「はい」

他県人、それならと差し出したお菓子を引っ込めようとする。京都人、突然ブチ切れる。

京都人「何やボケ!そんな謙遜を真に受ける奴がおるかこの田舎者め!わしに食わさんとは礼儀知らずなやっちゃのう!!!」

他県人「・・・・・(唖然)・・・・」


「はるばる田舎からようきやんしたなあ」

「あの、東京から来ました」

「それはそれは」

「はるばる田舎からようきやんしたなあ」(爆


京都で進学・就職後、今関東にいるが、京都気質がぬけず苦労している。

京都では、徹底して相手をこきおろす社会やったから、なかなか他人を信じられない。人間不信、瞬間にして敵・味方を判別、相手を罵倒・威嚇する。この癖は当分、なおらんと思う。


京都に旅行に行ったとき、やたらと「差別をなくそう!」という看板やビラがあり、その時は何のことかさっぱりわからなかった。(東北出身なもので)

事実を知り、ゾッとした。

古都とか日本情緒あふれる・・・なんて優雅なイメージは表だけ、実は非常にドロドロした所だと感じた。京都には住みたくありません


京都生まれ・京都育ちのくせに「この人性格いいな」と思ったら、大抵その人の両親は、他府県出身者。ジジババのころから代々京都生まれの奴に、ロクなのがいない。


他府県出身で、京都に住んでも何とかなるのは、大学生だけ。一般人は踏み込むべきではありません。

京都の常識は、世間では非常識!!

京都人ほど、高慢ちきで、人間関係において内・外を使い分ける人種を他に知らない。他人を無視するのでも一度無視したら、あいつら何年という期間で無視するやん。ホンネはいわへんし、執念深いし。したたかで、ずる賢くて他人を利用するし。こんな陰湿な常識が、他の世界に通用するか?

大半の人間は、驚いて「あしらう」レベルに到達しいひんで、ただオロオロするだけちゃうか?

ただし、極少数のいい人がいるのも事実。知っている限りでいい人達の特徴は、京都生まれで京都育ちだけど両親が他府県出身のひとたちと、高卒の人達が多かった。京都の私学の附属あがりの金持ち連中及び西陣・祇園の商売人の息子・娘たちは、ホント高飛車にも程がある、根性腐った奴が多かったよ。


オレも京都嫌い。
湯豆腐1000円で売ったり、あんなチャッチい野菜高く売りつけたりする
ボッタクリ商売人は氏んで欲しい。消費者の敵。

オレ、和牛オーナーだったが預託会社が高槻に高級肉の直売店を建てたところ
京都のクサレ食肉団体がカス議員→ゴミ警察に圧力掛けてその店を潰した。
そのせいで預託会社は倒産して金は返ってこなくなった。
金返しやがれカス!


京都駅の八条口にタクシー乗り場がありますが運賃値下げをしたMKタクシーは“村八分”状態にされて乗り場内に立ち入ることを他のタクシーが阻止していた。


新幹線で大坂から東京に帰るとき、自由席だと京都から乗ってくる人が何とか席に座ろうとして、あまりにもあさましいのを何度も見てるからです。でも、京都の人のあの独特の性格は必要悪だと思っています。あの異常なまでの誇りがなければ、他の地方都市と同じようにミニ東京になってしまうでしょう


ヤフーで個人売買していた際に最も嫌な思いをした取引相手は京都人でした。もーずうずうしいったらありゃしない。
京都ではそうかもしんないけど、東京や神奈川は違うんだよ!!
あたしゃずっと神奈川だからさ、そんな京都の常識語られたって知らんよ、もう。

ちなみに取引物は某少女趣味のブランド服。
勝手に電話番号調べてきて「他の人より高く買うから自分に譲ってくれ」と文句たれ。あんまり煩いからそれでOKしたら今度は「東京は知りませんけど京都ではこの服もっと安く買えるからもっと安くしてくれ」だって。
最初と話ちがうじゃん。

「こっちもね、主婦だからたいへんなんですよ。」って知るかもう・・・・。
この態度がまた自分のほうが正当である!!とさも言わんばかり。
あーもうアンタ逝っていいよ・・・・と何度口から出そうになったことか。

この厨房主婦の次の京都人も最悪だった。
それ以来京都人を見る目がかわった。もー逝ってくれ。


京都人の武器はやはり口です。そして彼らに口で勝つのは至難の業です。

彼らはこちらが失敗などして劣勢にあるとき、落ち込んでいるとき、つまり反撃できない状態にある時を機敏に察知して、攻撃してきます。

やり方は「○○ちゃうんけ!」といった言葉をややヒットアンドアウェイぎみにかますことが多いと思います。(あとでむかついてくる)

また、こちらが一般的に優位な立場にある場合は、過去の細かな失敗を適当に誇張して、こちらを蹴落とす世論を構築しようとします。

この行動はこちらも察知できて、しゃくなのですが、そのような細かい事をいちいちとがめることも出来ず、非常にストレスがたまります。

で、一番言いたいのは、このような理不尽な行いも受け止めることです。
彼らが何故このようなことをするのか、道徳的に心の中で批判してみてもこちらのストレスがたまって参ってしまいます。そういうものなのだと受け止めて下さい。

彼らのなれなれしい言葉、親切に心を開かないこと、また、とりあえず下手に出て彼らの弱みを握るチャンスを得ること、これが対策法だと思います。

おれが大学で東京に住んだときはなんちゅう「ばか正直」なやつが多いんやとおもったなあ。普通にしゃべる中で、ちょっとかま掛けても「そうなんだ、ふうん」とかえされて、こまってしもたわ。

私は東京出身だけど、京都で働いてた時によく地元の人に「あんた。素直やねぇ」とよく言われました。バカ正直って意味なのね。ごめんなさいね。関東人の美徳なのよ。

私は、知的でセンスがあって、出が良くて気の利いた会話が出来ても性格が屈折して陰険な人物は最初から(人として)低いと思うけどね。


京都は関西のくせに、隠れ見栄張りが多いね。そのくせして、居酒屋とかで飲んでも、1円単位まできっちりと割り勘にする。このギャップにずいぶんとまどった。見え張りというよりも、やせ我慢に近い。。。

ようするに、せこいくせに、プライドだけは一人前って事。
矛盾してるのに、認めようとせずに、突っ込まれたら急に、流暢な京都弁でさらりとかわす・・これが手口。


京都の富裕層、特に金持ちの商売人(祇園・西陣)が最悪やね。あと、材木屋・漬物屋・かんざし屋とか地場産業の連中。洛南出身の人達は、おそらく京都の富裕層階級の子弟だと思われる。


だから、言ってるやん。京都の金持ちは、根性汚いのが多いって。全員が全員やないけど、私の知っている限りの、京都の有名私学の金持ち連中たちの世界は別世界。ほんまに極悪!!!


ちなみに、私の妹は小学校途中で左京区の学校に転校したが、卒業するまで、いじめぬかれたよ。絶対、よそもんは入れない社会やね。


悪いけど、京都を日本と思ったらあかん、京都の常識は、世間の非常識やしね。


京都は怖くていけないよね…。


自分の知らないしきたりで意思表示されても知らないから、裏で陰口言われるんだろうね。


「あの人、嫌だって言ってるのに居座りつづけてるよ。 だから、東京の田舎もんはやなんだ。」
http://mimizun.com/log/2ch/yasaitr/971890080/

39. 中川隆[-13710] koaQ7Jey 2018年11月30日 18:14:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21463] 報告

京都は美しい街、 しかし幽鬼の住む死の世界

いい日旅立ち 京都へ
http://www.youtube.com/watch?v=QMhX_pF0NkA&feature=related

遥かな しまなみ 錆色の凪の海
セピアの雲は流れて どこへ行く

影絵のきつねを追いかけた あの頃の夢を今もふところに 西へ行く

ああ 日本のどこかに私を待ってる 人がいる
いい日旅立ち ふたたび風の中 今も聞こえるあの日の 歌を道連れに


蛍の光は 遠い日の送り火か
小さく見える景色は 陽炎か

出逢いも別れも 夕暮れにあずけたら自分の影を捜しに 西へ行く

ああ 日本のどこかに私を待ってる 人がいる
いい日旅立ち 朝焼けの雲の中 今も聞こえるあの日の 歌を道連れに

ああ 日本のどこかに私を待ってる 人が居る
いい日旅立ち 憧憬は風の中 今も聞こえるあの日の 歌を道連れに


いい日旅立ち _ 山の向こう側にいるのは…
http://www.asyura2.com/10/yoi1/msg/191.html


▲△▽▼


京都のおもてなし文化を全身で体感したかったらここ

京都御艶の会席料理 お品書き
http://www.kyoto-gyoen.com/menuSystem.html


おいでやす、京都ならではの「おもてなしの文化」を現代に色濃く伝える『京都御艶』へ


デリヘル「京都御艶」(京都) by ナンニバル氏


 お世話になってます。ナンニバルです。

 すごい悪徳な店を見つけました!と、よろこんでもいられないのですが、せめて皆さんのお役に立てばと投稿します。

【店名】:京都御艶
【業種】:デリヘル
【HP】:http://www.kyoto-gyoen.com/
【日時】:10月下旬
【場所】:とあるホテル
【費用】:95分15000円+指名料2000円


 サイトの写真を見ると、なかなか可愛い子がいて、しかもなぜか値段が安い(その時点で気づけよ、自分)。電話をしたら

「75分12000円です」

とのこと。「30分ほどかかります」とのことで、じっと待つ。待つ。待つ。

 しかし来ない。何の連絡も入らないまま1時間以上が経過。んー。まあ寝るかなあ、とおもったらチャイムが鳴る。ノゾキ穴から外を見ると、男が一人つったている。ドアをあけると、遅れたことにわび一つなく、

「どうも。12000円と指名料2000円で合計14000円です」

と言い放つ。ドライバーらしい。

「じゃ95分で」というと、「合計で17000円です」と答える。

支払いを済ますと「じゃ今から女の子上げますから、しばらくまってください」。

 5分ほどするとチャイムがなる。

 これはいわゆる..「アナタハドチラサマデスカ?」現象だ!  指名した子とはまったくの別人。

パネルマジックとか、そんな生やさしいもんじゃないぜ。完全な別人だ。

ヤニだらけの歯、そばかす面、とがった口、マジックペンで書いたかのようなアイシャドウ、そして茶髪のおばさんが、サングラスをかけミニスカートを履いてそこにいるのだ。

その容姿は、絶滅した恐竜T.rexを彷彿とさせた。T.rex。まさに「暴君」にふさわしいその容姿が与える恐怖はタダゴトではなかった。

 「うわああああああああ(心の叫び)」。

完全なる戦意喪失。しかし支払い済みなこともあり、仕方なく部屋へ入れる。「シャワーを」というので、「どうぞどうぞ」と万全の注意を払いながらシャワーへ誘導。T.rexが衣服を脱ぎきったところを見計らって、こちらもすばやく裸になりシャワーへ。

 体型は、下腹部プックリ、タレ気味の乳房、力強い太もも。加えて猫背ぎみの姿勢。やはり、暴君T.rex(ただしメス)。

 こちらはさっさと先にシャワーを出て、再度の対峙に備える。なんとかやってみよう。心を落ち着かせよう。目をつむってみた。決戦の時は迫っている。

「ガラアァァッッッ」

ドアが開いた。前傾姿勢をとりつつのっそり出てくる様子には、やはり隙がない。

「さあプレイしようよ」

というドスの効いた威嚇がこちらに向かって発せられた!

とりあえず、どうでもいい会話を交わしつつ、ソファへ移動。

 すると、携帯が大音量で鳴る。T.rexは着信を確認。どうしようかなあと思案しながらどうでもよいさらに会話を続けていると、また携帯が鳴る。T.rexが確認。さらに5分ほど後、またしても着信。

 T.rexの咆吼。

「いかなきゃあああ」。

「はあ?まだ30分もたってないよ」

「忙しいの」

「いや、115分で頼んでるけど」

「だから忙しいっていってるでしょ。なんでそんな自分勝手なこと言うの!」

「自分勝手もなにも、115分で頼んだから」

「じゃあドライバー呼ぶから話したら。まったく、人の都合も考えないで」。

 来た!T.rexの本領発揮だ!

とりあえずは穏やかだった顔が、おそろしい形相に。そして吠えまくる。

プレイ時間115分は30分に。

こりゃ、時短なんてレベルじゃないぜ!

そして一瞬にして悟った。これ以上の抵抗は無駄だと。即時退却を決心する。

 T.rexは、到着時の遅れとは対照的な素早さでドアを開け、最後の雄叫びを上げて走り去っていった。「まったく嫌な奴やな!」

 おう...。やれやれ、命だけは助かったようだ。


 では評価です。

【嬢】T.rex
【サービス】サービス?なにそれ食べられるの?
【店員】店ぐるみのぼったくりです。
【金額】人生勉強にはこんなものか。

 みなさん、くれぐれも気をつけてください。命は大切にしようね!
http://www.kyoto-gyoen.com/


_________


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40. 中川隆[-13727] koaQ7Jey 2018年12月01日 08:37:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21496] 報告

【田布施システムw】明治天皇すり替え説 フルベッキ写真←大ウソ【大室寅之祐(笑)】
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n297974


teinouinbouchuさん投稿日:2014/8/10

明治天皇すり替え説Q&A として分かりやすく論点をまとめました。
どうぞこちらもご覧ください。
明治天皇すり替え説Q&A→http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n346861


皆さんは明治天皇が大室寅之祐にすり替えられた、という説を聞いたことあるだろうか?

それらは根も葉もない虚説である。

以下の根拠を上げる。


まず、そもそも、世襲親王家(皇位継承資格者)がそんな天皇を認める訳がない。


陰謀論者が明治天皇として広めているこの写真は伏見宮貞愛親王を写したものである。

                

伏見宮貞愛親王 (1858年- 1923年)
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n297974

「貞愛親王逸話」(佐藤愛麿著/伏見宮家蔵版/1931年)「御少年時代(御家来と共に)
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n297974

親王宣下を受けた伏見宮邦家親王(1802年 - 1872年)が、明治維新の時に健在であられ。
邦家親王の跡を継いだ、伏見宮邦家親王第14王子である伏見宮貞愛親王は孝明天皇の養子になられており。

伏見宮邦家親王は孝明­天皇を亡くした、睦仁親王(明治天皇)の後見人のような形­­­に­­なっており。明治天皇の皇女は、次々­と伏見宮系の王子の妃となられている。

皇統断絶の危機の事態には、伏見宮邦家親王の系統に皇位を移す準備をして­­いた­­­のは明らかであり、中山忠能や摂政の二条斉敬など、孝明天皇と睦仁親王をよく知る人物ですり替えを支持した人物はいないばかりか、孝明天­皇の信頼の篤かった側近や堂上公家を騙すことは不可能である。

かつまた、すり替えが事実であればこれ等の人々が明治になっても皇室につかえる道理もなく、必ず皇位継承をめぐる争いになっていたことだろう。


顔見知りの他の皇族との物理的な婚姻関係はすり替えが無かったことの有力な証拠の一つである。

このような状況下で睦仁親王をすり替える事などは不可能であり、絶対にあり得ないことは誰の目にも明らかである。


尊皇攘夷思想が蔓延していた幕末において、そんなことをしたら、「朝敵」長州藩を徳川家はもとより他藩の志士が黙っている訳がなく、内戦の長期化により欧米の植民地になっていたことだろう。

明治天皇に対し大政奉還した母方が皇族で水戸出身の尊皇家である徳川慶喜が許す訳もない。


それに敵対する旧幕府側・奥羽越列藩同盟に伏見宮邦家親王の第9王子であり孝明天皇の義弟でもある、北白川宮能久親王がいるのにすり替えなどは到底考えられない。

何故なら幕府に対しての不当なクーデターの正当性として、錦の御旗を掲げる新政府軍はその時点で正当性が失われるからです。

そもそも自分たちの意見で操ることができる、都合のいい幼帝をわざわざ殺して入れ替える動機がそもそも無く
井上毅が世襲親王家を永世皇族とし、それをすり替わったとする天皇が認める訳もない。


当時の明治天皇は14歳の成長期である。

成長期には、身長・体格及び声帯の変化を経て成人となり、人格が形成される。

身体的特徴及び性格の変化は成長期には誰しも起こる一般的な変化である。

ましてや激動の時代に天皇位ともなれば、即位に伴う精神的変化は劇的なものであった事は察するに余りあり、その事は何の根拠にもならない。


それに明治天皇は御所言葉をお話になられており、御所言葉を一朝一夕で覚えられる訳もない。


陰謀論者はフルベッキ写真に明治天皇が写っていると言うがフルベッキ写真が明治維新の
立役者が全員そろった写真であるという奇説は、それを覆す原版の発見によって、完全に否定されており。


さらに、東京歯科大学­法人­類学教室の橋本正次教授がフルベッキ写真を検証したところ99パーセント別人という鑑定が『鑑定書』付きで出ています。


「維新」の根拠となる、天照大神の神裔、神の血統である南北両統の皇統を否定してまでも、いわゆる後南朝にすり替える理由もない。


明治44年に明治天皇の裁定により、南朝の2代2人(後村上天皇、後亀山天皇)を正統な天皇と認め、光厳天皇から後円融天皇までの 5代5人を北朝として正統から外したが、明治天皇は北朝の五帝の祭祀については従前どおり行うよう指示したとされ、皇室祭祀等においては天皇として扱われている。


明治天皇の裁断は南北朝時代に限って南朝の正当性を認めたものであり、そのことは最終的に南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に三種の神器を渡し、南北朝が合体した明徳の和約までを否定するものではない、

したがって現在の北朝の天皇の正統性を否定するものでもない。


南北朝正閏論は「南朝も正統」あるいは「南朝は正統」であって、熊沢寛道など自称南朝後胤を除きいわゆる後南朝の正統性は明治時代の後でも議論にもなっていない。


第二次世界大戦後、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」たちの一人である、三浦芳聖が田中光顕から「明治天皇は実は南朝の正統である」という「秘説」を聞き、ならば自分はあえて皇位を要求しない、として天皇家の擁護派に回ったとするが。

三浦芳聖 の『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』は自費出版で絶版でとても歴史学的な証拠に成り得ない。


以上、これらの根拠からすり替えは無かったと断言する。

【追記】

虎の子という言葉があるが、薩長にとって正しく 睦仁親王は虎の子であった。

しかるに、「君臣豊楽」、「国家安康」の故事を引くまでもなく、政治とは微妙なバランスの上に成り立っている。

かの太閣殿下の堅牢な大阪城・豊臣政権もかくの如く哀れな末路。

このように、どんな一文も攻撃の口実に利用され、どんな政権でも滅ぼされかねないのに、ましてや不安定な時期に親王をすり替えるなど言語道断、政治力学的に不可能である。


仮に、恐れ多くも天子様を傀儡にしたあげく、どこの馬の骨とも知らぬ者にすり替えたとすれば、そのような事はすぐに広まり、尊皇でありこそすれ、引いた徳川、並びに幕臣及び諸藩一党、不倶戴天の敵・逆賊薩長相手に捲土重来・一意奮闘、戦っていたであろう。

1874年 明治天皇第三皇子 大正天皇ご生誕

明治天皇の皇子は男子5人、女子10人がいたが、成人した男子は大正天皇ただ一人である。

大正天皇ご誕生から昭和天皇ご誕生まで皇統(明治天皇の男系系統)の危機であった。

1886年 伏見宮邦家親王第17王子 定麿王 親王宣下を受け、明治天皇猶子となり名を依仁と改める。

1889年 皇室典範 永世皇族制を採用         

1901年 大正天皇 第一皇子 昭和天皇ご生誕

1902年 大正天皇 第二皇子 秩父宮雍仁親王ご生誕

1905年 大正天皇 第三皇子 高松宮宣仁親王ご生誕

1907年 皇室典範増補第1条「王ハ勅旨又ハ情願ニ依リ家名ヲ賜ヒ華族ニ列セシムコトアルヘシ」

1908年 竹田宮恒久王と明治天皇第六皇女 昌子内親王ご成婚

1909年 北白川宮成久王と明治天皇第七皇女 房子内親王ご成婚

1910年 朝香宮鳩彦王と明治天皇第八皇女 允子内親王ご成婚

             全て伏見宮邦家親王の系統の王子。

1915年 大正天皇第四皇子 三笠宮崇仁親王殿下ご生誕

1920年 「皇族ノ降下ニ関スル施行準則」

   

宣仁親王ご生誕から、皇族降下準則までの15年間(1905年〜1920年)は大正天皇の皇子の元服までの期間。

当時は幼児死亡率も高い上に大正天皇以外の明治天皇の男系の皇子は早年で薨去されたため。

事と次第によっては伏見宮邦家親王の系統に皇位を移す可能性もあったと思われる。

そのために邦家親王系の王子と明治天皇皇女の間で婚姻が成立している。

大正天皇は4人もの男子を授かり、明治天皇の系統の皇位継承資格者が確保されたことで一先ず安定し、

皇室の肥大化が問題になり皇族降下準則を定めた。
http://note.chiebukuro.yahoo.co.jp/detail/n297974


▲△▽▼



田布施システム(笑)明治天皇すり替え説・後南朝替え玉説は大嘘【幕末の真実〜西郷隆盛本当の顔】

陰謀論者が広める伏見宮貞愛親王、明治天皇、西郷隆盛等々の幕末明治の偉人達の偽キャプション写真や「奇兵隊天皇」や後南朝を検証する
更新日: 2018年04月16日
https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101


明治天皇として陰謀論者の間で広まってるこの写真は
伏見宮貞愛親王 (1858年-1923年)を写したものである。
明治天皇ではない。


「貞愛親王逸話」(佐藤愛麿著/伏見宮家蔵版/1931年)「御少年時代(御家来と共に)


奇兵隊の天皇なんて存在しない

前後の事柄に因果関係はなく、差し迫った出来事を箇条書きしただけと思われる。


これから元服する明治天皇の父は崩御された孝明天皇であると記された文献がすり替え説の根拠になる訳が無い。


『中山忠能日記』


出典
dl.ndl.go.jp


『中山忠能日記』

(『正心誠意』)
慶応三年 七月十九日

謂況以御冠禮之故被縮父帝之諒闇之条甚不可然欤尚可有熟慮示答卿甚 
不服之氣、井蛙徒 不弁大道悲哉 正三又光仁帝之列可然稱賛之由
一、攝政拝面お八百姪 事申入置―
一、去十日自加州異人上陸
一、寄兵隊ノ
(段落)
天皇来正月上中旬之内御元服御治定之事


まず、そもそも後南朝は滅亡しています。


『群書類従』第拾參輯「嘉吉記」


出典
dl.ndl.go.jp


『群書類従』第拾參輯「嘉吉記」


「南帝を輙く弑し奉り。三種の神器を取持て忍び出ける。吉野十八郷の者ども起て急に追懸る。御頸をば中村太郎四郎給て出けるが郷人に討れ。とりかへされにけり。三種の神器をば。間島其外の者共持奉て罷上り。内府へ此由申す。」

後南朝の皇子が殺され、再び奪われたものの、三種の神器(神璽)は取り返されて後南朝は滅亡している。 その後の後南朝の正統な末裔などは西陣南帝などを除き確認されてない。


『昭和史の謎を追う』熊沢天皇始末記  後南朝の皇統(川上村伝承)


「昭和史の謎を追う」熊沢天皇始末記の一節からスキャンした画像です。
南朝の血統の行方を記す最後の信用できる史料が記す「長禄の変」について説明がなされています。

田中義成博士「南北朝時代史」の長禄の変の項には「吉野の山奥に尚南朝の皇子二人御座し・・・・・共に御名並びに御系統を審らかにせず・・・」の記載がある上月記、赤松記を紹介して、これ以上の資料がまだ発見されておらず、今後も期待が出来そうもないと論じられています。


他に南朝の末裔と伝えられる家といえば、鹿児島の後醍醐天皇皇子懐良親王を祖と称する後醍院氏や、後醍醐天皇の孫で宗良親王の王子の尹良親王を祖と称する津島神社社家の氷室氏や大橋氏等以外にはないと思われるが。それらは臣籍降下した後醍醐源氏であり皇位などは以ての外であろう。


一部の陰謀論者は神皇正統記や神皇正統記に影響された大日本史などの水戸学・国学の尊皇攘夷思想の結果、南朝天皇のすり替えがおこったと意味不明な説明をするが


『神皇正統記』―「伏犠氏の後、天子の氏姓をかへたる事三十六。乱のはなはだしさ、云にたらざる者哉。」


出典
www.j-texts.com


『神皇正統記』―「伏犠氏の後、天子の氏姓をかへたる事三十六。乱のはなはだしさ、云にたらざる者哉。」


(伏羲(前3308年に治世を始めたとされる伝説上最初の中国の帝王。)の時代からこれまでに三六もの王朝を数え、さまざまな筆舌に尽くしがたい動乱が起こってきた。)

『神皇正統記』
「唯我国のみ天地ひらけし初より今の世の今日に至まで、日嗣をうけ給ことよこしまならず。一種姓の­中におきてもおのづから傍より伝へ給しすら猶正にかへる道ありてぞたもちまし<ける」

北畠親房「我が国のみ、今の世の今日に至るまで皇統は連綿と続いている。」


神皇正統記には、「一種姓の中で傍系継承であっても正しきにかえる道があって皇統は保たれてきた」とあるので、現在の公式的立場である南朝が正統で、南朝→北朝の皇統は矛盾せずに成立し得るが。
皇位にもついていない、系譜も定かではない、自称後南朝→明治天皇などを正統とするロジックは神皇正統記や大日本史には記されていない。

明治天皇の裁断は南北朝時代に限って南朝の
正当性を認めたものであり、そのことは最終的に
南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇に
三種の神器を渡し、南北朝が合体した
明徳の和約までを否定するものではない。
後南朝が絶たれ、三種の神器が取り返され、明徳の和約の両統迭立は履行され得ない。


現在の皇統は北朝なのに皇居前に楠木正成像があるのはおかしいという者がいるが


北朝側の立場から描かれている史料である
『梅松論』には
「最後の振舞符合しければ、「誠賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべき」とて、敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり。」

と記されている。


北朝側の立場から描かれている史料の『梅松論』楠木正成のこと―「賢才武略の勇士」「敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり」


『梅松論』
「今度は正成、和泉・河内両国の守護として勅命を蒙り軍勢を催すに、親類一族なほ以て難渋の色有る斯くの如し。況や国人土民等においておや。是則ち天下君を背けること明らけし。然間正成存命無益なり。最前(まつさき)に命を落とすべきよし」申し切りたり。最後の振舞符合しければ、「誠賢才武略の勇士とも、かやうの者をや申すべき」とて、敵も御方も惜しまぬ人ぞなかりけり。」


その死を「敵も御方も惜しまない人はいない」 その栄誉を称えた楠木像があっても当然で、何ら不思議はない。


敵味方、南朝側・北朝側にかかわらず、楠木正成は忠臣・勇士扱いであり、皇居外苑にその栄誉を称えた楠木像があっても当然で、何ら不思議はない。


「フルベッキ写真」伝説覆す原板 幕末の志士集合写真→実は佐賀藩校の生徒


2013年04月24日読売新聞  東京朝刊 文化 27面

佐賀藩が幕末、長崎に設けた藩校・致遠(ちえん)館で教育にあたったオランダ生まれの宣教師フルベッキ(1830〜98年)と佐賀藩士ら計7人が写った古写真のガラス原板が見つかった。


(上の写真)
写真=見つかったガラス原板。前列の右がフルベッキ、その左隣が伊東次兵衛とみられる(倉持さん提供)


二つは同時期の撮影と考えられ   「原板からも志士の集合写真説は完全に否定された」


記録から明治元年(1868年)に写真家・上野彦馬が撮った可能性が高いという。撮影者や撮影日が分かる古写真は珍しく、貴重な発見だ。
 縦7・8センチ、横10・7センチ。個人所蔵の資料から倉持基・元東大特任研究員(歴史写真学)らが確認した。古写真研究家の高橋信一・元慶応大准教授によると、原板に写る佐賀藩士の一人で、中老などを務めた伊東次兵衛の日記に、明治元年10月8日に長崎にあった上野彦馬の写真館にフルベッキらと出かけ、写真を撮ったことが記されている。「若い武士は月代(さかやき)をそっておらず、時期は幕末から明治期。日記にある通り明治元年の撮影と考えられる」と言う。


志士の写真ではあり得ない。だが、約40年前に「慶応元年(1865年)に志士が長崎で撮った写真」とする説が出され、写真に名前をつけたものが売られたことから、「志士の集合写真」として広まった。


写真=幕末志士の集合写真と言われている「フルベッキ写真」。フルベッキが中央部分に写っている

興味深いのが、西郷隆盛や坂本龍馬ら幕末の志士が写っていると言われる「フルベッキ写真」との関係。フルベッキを囲んで多数の武士が写るこの写真は、もともと明治時代に致遠館の生徒の写真として世に出ており、龍馬没後の明治元年に同館に留学した、岩倉具視の息子2人が写っている点などからも、志士の写真ではあり得ない。だが、約40年前に「慶応元年(1865年)に志士が長崎で撮った写真」とする説が出され、写真に名前をつけたものが売られたことから、「志士の集合写真」として広まった。


しかし、原板と比較した結果、伊東以外の6人が「フルベッキ写真」にもほぼ同じ姿形で写っていた。このため、二つは同時期の撮影と考えられ、高橋さんは「原板からも志士の集合写真説は完全に否定された」とする。


原板には致遠館の教官も確認されるといい、「フルベッキ写真」が同館の生徒らを写したものであるのは間違いないようだが、「研究があまり進んでいなかったため、史実と離れたイメージが独り歩きしてしまった」と倉持さんは苦笑する。
古写真を歴史資料として生かすには、実証的な研究が欠かせないことを、今回の発見は改めて教えてくれる。(大阪文化・生活部 早川保夫)


元治元年12月「島津久治公と薩摩藩士一行」 テリー・ベネット「Early Japanese Images」


元治元年12月から慶應元年1月にかけて薩摩藩主島津忠義の名代で島津久治と珍彦が長崎のイギリス艦隊を表敬訪問した時に、上野彦馬のスタジオで撮影された写真であることは以前から知られていた。

島津久治の長崎訪問については「写真サロン」昭和10年12月号で、古写真研究家の松尾樹明が「写真秘史 島津珍彦写真考」として説明しており、写っている人物数名を明らかにしている。
また、昭和43年刊行の「図録 維新と薩摩」には13名中11名の名前が上げられているが、西郷隆盛従道兄弟、樺山資紀、川村純義、東郷平八郎らは含まれていない。」
加治将一「西郷の貌」の問題点
http://bit.ly/2jPqjaZ


この写真に西郷隆盛 従道兄弟、樺山資紀、川村純義、東郷平八郎らは含まれていない


出典
pro.cocolog-tcom.com


西郷の遺族、親族列席の上にて「此こそ翁の真像」との決定を与えられ、イト子未亡人に贈呈されたのがキヨッソーネの西郷隆盛の肖像である。


西郷の遺族、親族列席の上にて「此こそ翁の真像」との決定を与えられ、イト子未亡人に贈呈されたのがキヨッソーネの西郷隆盛の肖像である。


キヨッソーネは西郷とゆかりの深い得能良介からのアドバイスなど西郷の縁者の意見の結果、下半分は従兄・大山巌をモデルに上半分は弟・西郷従道をモデルに西郷の肖像を描き上げたのだから、かなり実像を捉えた肖像だと思われる。


西郷と直接的に会った顔見知りの絵描きが描いた肖像画という複数の傍証が存在するので「このような顔」だったことは間違いない。


服部英龍/画(上段左)
肥後直熊/画(上段右)
床次正精/画(下段左)
石川静正/画(下段中央)
平野五岳/画(下段右)

西郷の肖像といえばキヨッソーネの肖像画が有名だが、他にも西郷に直接会った顔見知りの絵描きが描いた肖像画という複数の傍証が存在している。
親戚縁者のお墨付きがあるので「このような顔」だったことは間違いない。

伝源頼朝の肖像と違い、キヨッソーネの西郷の肖像画は縁者の意見をもとに間違いなく西郷本人を描いた肖像である。


「西郷隆盛の肖像」佐藤均/画 “隆盛夫人、遺子などの鑑定により、真に迫る一品といわれる。”


「もと荘内藩 士族の石川静正が、明治3年11月鹿児島に練兵修行に赴き8年4月にも再訪し、西郷の風容に接した。このときの印象をもとに年月をかけ隆盛の肖像を描いた。これを見た薩摩出の洋画の巨匠黒田清輝が、肖像画家として令名の高かった門弟佐藤均に勧め、苦心の上、大正2年に完成したのが此の肖像。隆盛夫人、遺子などの鑑定により、真に迫る一品といわれる。」(「安藤英男『西郷隆盛』 学陽書房」)


西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、 亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で 出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。


上野の西郷像の公開の際に招かれた西郷夫人 糸子は
「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてえ(うちの主人はこんなお人じゃなかったですよ)」と腰を抜かし、また「浴衣姿で散歩なんてしなかった」
といった意の言葉(薩摩弁)を漏らしたというが。

「 西郷隆盛の伝記読本『西郷隆盛』では、
亡夫は多くの人間の前に正装ではなく普段着で
出るような礼儀をわきまえない人間ではないのにという文脈で解説している。 」

つまり、上野の西郷象の風体、
正装ではなく浴衣で着流しという
だらしない姿に「こげんなお人ではない」と言ったのが真意だったのだ。


ドイツで発見されたとされる真偽が怪しい西郷隆盛 ※撮影は明治7年となっているが明治8年太政官布告第54号(勲章制定ノ件)から始まった勲章をつけている。


※「ほとんどの人物が陸軍の軍服を着ていますが、川村純義と勝安房は海軍所属のはずです。これはまったくお笑い種です。海軍の人間が陸軍の軍服を着るような、そんなことは起き得ないことです。http://bit.ly/2gcZqgy

研究者の高柳毅氏は「軍服が意外」「これまでいろいろ写真は出てきたが、すべて偽物だった」
歴史教師の浮世博史氏は「撮影は明治7年(1874年)となっているが、西郷はその前年の明治6年に征韓論で敗れて下野、7年には東京にいなかった」と指摘。
http://bit.ly/2fgSUTe


鹿児島の西郷像のモデルになった石澤宏太郎氏は構図と体型そして雰囲気のモデルであって、鹿児島の西郷象の顔はキヨッソーネの肖像画がモデルである。


元山形県議会議員の石澤宏太郎氏


キヨッソーネの西郷の肖像画を参考に作られた鹿児島の西郷隆盛の銅像
https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101


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血統妄想 [ Descent delusion]統合失調症や躁病などの症状として現れる。
https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101?page=2


血統妄想とは、「自分は王侯貴族のような高貴な血統の生まれだが、事情により一般家庭で育てられた」などと思い込む、誇大妄想のひとつ。ミニョン妄想とも呼ばれる。
血統妄想は、統合失調症や躁病などの症状として現れる。


出典
ミニョン妄想 - 意味・解説 美容外科用語辞典


血統妄想の場合は、自分をより偉く、より強く見せるという願望から、自分の血統を誤った状態で信じ込んでいるというケースに至ることが多いようです。
ただの思い込みのレベルではなく、実際にそうである者として行動、言動を行うという点に問題があります。
周りの人から見れば、やはりそれは「危険な人」という認識をせざるを得ないでしょう。
血統妄想は、天皇陛下の隠し子であるとか、織田信長の生まれ変わりとか、そのような思い込みが多いようです。
つまり、現状の自分で満たされない部分を、血統という安易なステータスの向上によって補うというものです。


出典
血統妄想


第二次世界大戦後に正統な皇位継承者を主張した「自称天皇」の代表的存在である。大延天皇、また熊沢天皇(くまざわてんのう)の呼称で知られる。


熊沢 寛道(くまざわ ひろみち、1889年(明治22年)12月18日 - 1966年(昭和41年)6月11日)


熊沢の主張によれば、熊沢家は熊野宮信雅王に始まる家で、信雅王は応仁の乱の際に「西陣南帝」と呼ばれた人物だとし、その父は南朝の後亀山天皇の孫とされる尊雅王(南天皇)であるとする


昭和天皇の全国巡幸の後を追い、面会と退位を要求したが拒否される。


歴史学者は熊野宮信雅王の実在を否定し、反熊沢キャンペーンを展開、さらにGHQの昭和天皇利用方針が固まると、世間は熊沢天皇に次第に冷ややかになっていった。情勢を打開すべく、1947年(昭和22年)3月政治団体「南朝奉戴国民同盟」の総裁に就任したり、同年10月に正皇党を結成して、党首として選挙で候補者を立てるが失敗する。その後、熊沢は多くの側近、それに妻子にまで見捨てられた。


サンフランシスコ講和条約が成立すると、人々の熊沢への関心も次第に薄れていった


その後も、折に触れ週刊誌や同人誌のネタとなっていた熊沢は、支持者の家を転々としながら、映画の幕間のアトラクションに登場して南朝の正当性を訴えるなどの活動を続ける。1957年(昭和32年)、尊信天皇に自称天皇を譲位し、法皇を自称するようになり、1960年(昭和35年)の第29回衆議院議員総選挙では天皇廃止論を主張したという理由で日本共産党の神山茂夫の支持を表明した。1966年(昭和41年)6月11日、東京の板橋病院で膵癌のため死去。晩年は東京池袋の人生横町に間借りし、著書『日本史の誤りを正す』の編纂に専念していた

第二次世界大戦後、南朝正統の皇胤であることを主張した「自称天皇」たちの一人である、三浦芳聖


三浦芳聖が田中光顕から「明治天皇は実は南朝の正統である」という「秘説」を聞き、ならば自分はあえて皇位を要求しない、として天皇家の擁護派に回ったとするが。 三浦芳聖 の『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』は自費出版で絶版でとても歴史学的な証拠に成り得ない。


三浦の主張は以下の通りである。

「南朝には、1336年(延元元年)10月に後醍醐天皇から皇位を継承して北陸に落ちた神皇正統の皇統(北陸朝廷#三浦芳聖の主張する北陸朝廷)と、後醍醐天皇が陽動作戦のために吉野に設けた偽装朝廷である副統の「正副二統」が存在した。擬天皇である後亀山天皇(三浦の主張では「熙成王」)が、足利義満の謀略により合一した後、正統の天皇は三種の神器を封印して地下深く埋蔵し、民伍に隠れ、今日に至った。三浦家は、その正統の皇統家の嫡孫である。」


出典
三浦芳聖 - Wikipedia


自称「大室天皇」の誕生


「ニセ天皇」かく語りき(『新潮45』2005年10月号)


「大室天皇の存在が、一部の歴史研究者の間に噂されるようになったのは1980年代初め頃である。いわゆる「ニセ天皇」としてはごく新しいデビュー(?)といえよう。
大室家は南朝の末裔という。大室天皇こと大室近祐(1904〜1996)によると、慶応3年(1867)に北朝系の孝明天皇の皇子・睦仁親王が近祐の祖父の兄にあたる大室寅之祐とすりかえられたという。それは長州藩と岩倉具視ら公卿の画策によるものであった。それが本当なら、明治天皇とは大室寅之祐に他ならず、近祐は明治天皇の弟の孫ということになる。
 ハイヤーを下りて、表札を確かめ、玄関に立つ。庭先には「史跡 大室遺跡(弥生時代)」という表示杭が立っていた。
 家族の方の取次ぎがあり、やがてがっちりとした体格の老人が私たちを出迎えに現れた。


「明治天皇のことですか。まあ、こっちに来てください」
 家の離れに建てられたプレハブの倉庫、その中には大量の巻紙が積み上げられていた。大室天皇はその巻紙の一つを抜くと代の上に広げ、私たちに指し示した。紙面に踊るは「瀬戸内海―エジプトの神セト」「聖母マリア」「十字架の地」といった書き込みだ。彼は上機嫌で語った。

その内容は、大室遺跡は宇宙の中心、あらゆる宗教の発祥地であり、大室家はそれを守る家である、といったものである。いつまでたっても、南朝なり、明治維新の裏面なり、のことは出てこない。
 そこで明治天皇すりかえ説のことに水を向けようとしても、大室天皇曰く、明治天皇がこの家で生まれたことなど、宇宙全体からすれば、ささいなことにすぎないから、というわけで、またも新たな巻紙を広げ、大室家は世界の中枢、といった内容の話を始める。
 大室天皇の語り口からは、その純朴さと熱意とが伝わってはきたが、とても歴史の参考にはなりそうもない。」


出典
熊沢・長浜・大室・・・・・・「ニセ天皇」かく語りき(『新潮45』2005年10月号) 熊野孤道


「大室遺跡は宇宙の中心、あらゆる宗教の発祥地であり、大室家はそれを守る家である、といったものである。」


「その純朴さと熱意とが伝わってはきたが、とても歴史の参考にはなりそうもない。」

大室近祐


「高松宮殿下、ご災難(昭和五十八年八月二十五日 朝日新聞)」
山口県田布施町御訪問中の高松宮殿下に対し、
同町在住の大室近祐容疑者(82)が古今未曾有の暴挙に及び、
その場で逮捕される。
大室容疑者は毎日、明治天皇は南朝満良親王の二十五世の末裔、
大室寅之助なりなどと意味不明の発言を繰り返しており、
現在同容疑者に余罪があるものと追及中。
今回の事件で鹿島昇なる徳弁護士(横浜弁護士会所属)を顧問として
今回の犯行に及んだ模様。同弁護士も今回の事件に関与したものとして
追求、横浜弁護士会では弁護士資格の剥除を決定。
大室容疑者は精神鑑定のうえ、八王子特別鑑別所へ収容される模様」
http://bit.ly/2kTdpcF


この説は鬼塚英昭のオリジナルではなく、歴史研究家の鹿島昇や郷土史家の松重揚江によるもの。田布施の隣の柳井市の郷土史家、松重揚江氏が、近所で変わり者扱いされていた「大室近佑」という古老(写真は鹿島昇『日本王朝興亡史』より)が、自分の爺さんは天皇になったと言っていたことから、鹿島昇と聞き取りを開始し、それからこの近佑の祖父が明治天皇になったという説ができたわけだ。


出典
陰謀論「田布施システム」とはなにか −三宅洋平氏が信じる日本近現代史とユダヤの陰謀論 | Football is the weapon of the future


陰謀論者の「リチャード・コシミズ」、「鬼塚英昭」という人物が明治天皇すり替え説の論者としているが、コシミズの本を出版し、鬼塚英昭の書いた本のすべてを出している出版社の成甲書房は朴­甲東という、朝鮮共産党機関紙「解放日報」元記者である在日朝鮮人が設立した会社である。


陰謀論者、リチャード・コシミズ


陰謀論者の「リチャード・コシミズ」


竹細工職人、鬼塚英昭


出典
ja.wikipedia.org


大分県別府市生まれ。大分県立別府鶴見丘高等学校卒業、上京し中央大学法学部に入学する。働きながら大学で学んでいたが学費が払えず中退。故郷の別府にて家業の竹細工職人となる。
2016年1月25日死去。78歳没。


鬼塚英昭の書いた本のすべてを出している成甲書房は朴­甲東という、朝鮮共産党機関紙「解放日報」元記者である在日朝鮮人が設立した会社である。


出典
page.auctions.yahoo.co.jp


http://ja.wikipedia.org/wiki/成甲書房
朴甲東によって1979年日本で設立。
朴甲東は1919年朝鮮慶尚南道に生まれ、1941年早稲田大学卒業後朝鮮へ帰国し、朝鮮独立運動に身を投じ抗日パルチザン「朝鮮独立同志会」を組織する。
戦後朝鮮共産党機関紙「解放日報」記者を経て、南朝鮮労働党に合流。1948年朝鮮民主主義人民共和国が建国されると、文化宣伝省ヨーロッパ部長になるが、1950年金日成の粛清により逮捕、監禁される。
1956年釈放されると翌年に北朝鮮を脱出し、日本へと逃れて金日成政権批判を続けた。同じ南朝鮮労働党出身の朴正煕とも親交があった


鹿島昇が大室氏から大室寅之祐(大室氏の大叔父)が睦仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった、という話を聞かされ、大室寅之祐=明治天皇説を自費出版したのが始まりです。


山口県熊毛町田布施町在住の大室近祐(平成8年没)という人の裁判で弁護人に選任された事で大室氏と知り合い、大室氏から大室寅之祐(大室氏の大叔父)が睦仁親王(孝明天皇の皇子)を殺害して明治天皇になった、という話を聞かされ、大室寅之祐=明治天皇説を自費出版したのが始まりです。


桓檀古記―20世紀に作られた朝鮮半島の偽書。


出典
ja.wikipedia.org


桓檀古記―20世紀に作られた朝鮮半島の偽書。


鹿島昇は新国民社を設立後。
1978年倭と王朝を出版し、これが韓国で話題となり、これが機縁となって朴蒼岩氏や李裕ャ氏と知り合い、韓国の20世紀に作ら­れた全くの偽書である桓檀古記を委託された。この書から全訳桓檀古記を出版。

他には、同和差別問題に取り組んでいたという。鹿島­昇の背後には大韓民国在郷軍人会日本支部(もしくは統一教会)が関係しているといわれる。
1987年に松重正、または松重楊江と出会い、自分の大叔父(大室寅之祐)が
睦仁親王を殺害して明治天皇になったとする、大室近祐という人物に会いに行き。その後日本侵略興亡史を出版し、すり替え説を書いたのだ。


韓国の超民族主義者の聖典である桓檀古記―国粋的歴史観を持つ韓国人を卑下してファンパというが、この書から生まれた言葉である。


ファンパという言葉は、韓国の在野史学で韓民族(朝鮮民族)の過去の歴史を語るときに根拠とする『桓檀古記(환단고기、ファンダンゴギ)』に由来する。つまり桓檀古記の内容を非常に信頼して、韓民族の初代国家である古朝鮮の領域は黄河以北の大陸全般をカバーしていたと信じている。

http://mottokorea.com/mottoKoreaW/Vocabulary_list.do?bbsBasketType=R&seq=26677


鬼塚英昭に影響を与えたのが、この鹿島昇ともう一人、松重楊江である。 そして鹿島昇の設立した会社を継いだのが太田竜なのである。


← ja.wikipedia.org/wiki/太田竜
太田竜とは、日本革命的共産主義者同盟(第四インターナショナル日本支部)委員長。反家畜制度、反米、フリーメーソンやイルミナ­ティのような秘密結社を含む反ユダヤ主義、反国際金融支配論者。人類は爬虫類人によって支配されているという説を取り込んだ。2­009年5月19日腹膜炎のため死去。

松重楊江(日韓親善協会、日中親善協会会員)


もう一人の松重は鹿島の本に影響を受けた日韓親善協会、日中親善協会会員でもある共産党員である。


明治天皇すり替え説が広まった流れとして、第二次大戦後の自称南朝の自称天皇ブーム、熊沢天皇(熊沢寛道 )・三浦天皇(三浦芳聖)等そして、三浦が『徹底的に日本歴史の誤謬を糺す』を自費出版→トンデモ歴史家鹿島昇、松重楊江が自分は南朝で大叔(大室寅之祐)が明治天皇になったとする田布施の変人である大室近祐と出会い、鹿島が明治天皇すり替えを書いた『日本王朝興亡史』を出版→日本で革命を起こしたい共産主義者や新左翼(太田竜、鬼塚英昭)がそれらと出会い、朝鮮系、トンデモ系、陰謀系の出版社で本を出版→それが今知られているすり替え説です。


おまけ 万世一系の日本の皇室を羨む中国・朝鮮

天壌無窮の神勅―『日本書紀』「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。」


『日本書紀』
「葦原千五百秋瑞穂の国は、是、吾が子孫の王たるべき地なり。爾皇孫、就でまして治らせ。行矣。宝祚の隆えまさむこと、当に天壌と窮り無けむ。」


「葦原千五百秋之瑞穂國、是吾子孫可王之地也。宜爾皇孫、就而治焉。行矣。寶祚之降、當與天壤無窮者矣。」
https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101?page=2


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天孫降臨
https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101?&page=3

出典
teikoku-denmo.jp


天孫降臨


天壌無窮の神勅―
現代語訳:
「日本国は、我が子孫が王たるべき国である。さあ瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)よ、行って、しっかりと治めなさい。恙(つつが)なくお行きなさい。天津日嗣(あまつひつぎ;寶祚=皇位)は、天地と共に永遠に栄えることでしょう。」

神武天皇


高天原から天降ったニニギの曾孫
第一代天皇,神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)。彦波瀲武鸕鷀草葺不合尊(ひこなぎさたけうがやふきあえずのみこと)の第四皇子。九州日向(ひむか)から東進して大和地方を平定,紀元前660年(皇紀元年),大和の橿原宮で即位したという。


歴代天皇と世界の帝国興亡史

北宋の第2代皇帝・太宗も驚く日本の皇室


『宋史』日本伝「北宋の太宗は、その国王(日本の天皇)は一つの姓で継承され、その臣下も官職を世襲して絶えることが無いと聞き、嘆息して宰相にいうには...

『宋史』日本伝「これは島夷であると言うのに、代々の位は遥かに久しく、その臣下もまた世襲していて絶えていない。これぞまさしく古の王朝の在り方である。」

太宗(たいそう)は、北宋の第2代皇帝(在位:976年11月15日 - 997年5月8日)。太祖趙匡胤の弟。諱は元は匡義であったが、兄帝の名を避諱して光義、即位してからはQ(日の下に火)に改めた。


『宋史』日本伝「これは島夷であると言うのに、代々の位は遥かに久しく、その臣下もまた世襲していて絶えていない。これぞまさしく古の王朝の在り方である。」


中国は唐李の乱(李克用による禅譲)により分裂し、五代は王朝こそ継承したが、その期間は短く、臣下も世襲できる者は少なかった。我が徳は太古の聖人に劣るかもしれないが、常日頃から居住まいを正し、治世について考え、無駄な時を過ごすことはせず、無窮の業を建て、久しく範を垂れ、子孫繁栄を図り、臣下の子等に官位を継がせることこそが我が願いである」


上聞其國王一姓傳繼臣下皆世官 因歎息謂宰相曰 此島夷耳 乃世祚遐久其臣亦継襲不絶 此蓋古之道也 中国自唐李之乱寓縣分裂梁周五代享歴尤促 大臣世冑鮮能嗣続 朕雖徳慙往聖常夙夜寅畏講求治本不敢暇逸建無窮之業 垂可久之範 亦以為子孫之計 使大臣之後世襲禄位此朕之心焉(『宋史』日本伝)


『宋史』(そうし)は、中国、元代に編纂された正史(二十四史)の一つ。宋(北宋・南宋)を扱った紀伝体の史書である。1345年完成。元のトクト(托克托・脱脱)が編纂した。16本紀47巻、15志162巻、2表32巻、197列伝255巻の計496巻。正史の中で最も膨大である。


出典
宋史 - Wikipedia


『宋史』では日本は巻四百九十一、列伝第二百五十、外国七において「流求」国の少し後で触れられている。「然が太宗に献上した『王年代紀』から引用して、天御中主から彦瀲尊まで23世と神武天皇から守平天皇(円融天皇)まで64世の系譜が述べられる。周の僖王の甲寅の年に神武天皇が即位したと記すが、日本書紀では即位は辛酉の年であり、甲寅は東征開始の年である。どちらも周の恵王の時代に当たる。


出典
宋史 - Wikipedia


聖徳太子が年3歳にして10人の言葉を聞き分けられたという逸話も紹介している。また日本が中国で滅失したものも含め多くの漢籍を蔵していることはこの頃から知られていたようで、「其國多有中國典籍」という記載も見える。記述は南宋寧宗(趙擴)の嘉泰二年の記事までで終わっている。


朝鮮通信使も羨む日本の皇室ー『日東壮遊歌』


『日東壮遊歌』とは第11次朝鮮通信使として来日した金仁謙の著書で旅行記である。


『日東壮遊歌』(にっとうそうゆうか、イルトンジャンユガ)とは、江戸時代の1763年(宝暦13年)から1764年(明和元年)にかけて来日した第11次朝鮮通信使(目的は徳川家治(在職1760年〜1786年)の将軍襲職祝い)の一員(従事官の書記)として来日した金仁謙(ko:김인겸、キム・インギョム、当時57歳)の著書で旅行記である。


『日東壮遊歌』大坂での記述より「天下広しといえこのような眺め、またいずこの地で見られようか。北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中原(中国)の壮麗さもこの地には及ばないという。」


『日東壮遊歌』
大坂での記述より

「天下広しといえこのような眺め、またいずこの地で見られようか。北京を見たという訳官が一行に加わっているが、かの中原(中国)の壮麗さもこの地には及ばないという。この世界も海の向こうよりわたってきた穢れた愚かな血を持つ獣のような人間が、周の平王のときにこの地に入り、今日まで二千年の間世の興亡と関わりなくひとつの姓を伝えきて、人民も次第に増えこのように富み栄えているが、知らぬは天ばかり、嘆くべし恨むべしである。」


『日東壮遊歌』大坂での記述より「この世界も海の向こうよりわたってきた穢れた愚かな血を持つ獣のような人間が、」


「周の平王のときにこの地に入り、今日まで二千年の間世の興亡と関わりなくひとつの姓を伝えきて、」


「人民も次第に増えこのように富み栄えているが、知らぬは天ばかり、嘆くべし恨むべしである」


『日東壮遊歌』京での記述より「この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ。」


『日東壮遊歌』京での記述より「沃野千里をなしているが、惜しんであまりあることは、この豊かな金城湯池が倭人の所有するところとなり、帝だ皇だと称し、子々孫々に伝えられていることである。この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ。」


『日東壮遊歌』京での記述より「惜しんであまりあることは...帝だ皇だと称し、子々孫々に伝えられていることである。」


第11次朝鮮通信使、金仁謙の著
『日東壮遊歌』
「この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし、朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ。」


「この犬にも等しい輩を、みな悉く掃討し、四百里六十州を朝鮮の国土とし」


「朝鮮王の徳を持って、礼節の国にしたいものだ。」


「倭王は奇異なことに何ひとつ知ることなく、兵農刑政のすべてを関白にゆだね、自らは関与せず、」


『日東壮遊歌』「倭王は奇異なことに何ひとつ知ることなく、兵農刑政のすべてを関白にゆだね、自らは関与せず、宮殿の草花などを愛でながら、月の半分は斎戒し、あとの半分は酒色に耽るとか」
https://matome.naver.jp/odai/2147844990360224101?&page=3

41. 中川隆[-13726] koaQ7Jey 2018年12月01日 08:57:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21496] 報告

お風呂場から寝室まで「明治天皇」と「昭和天皇」の私生活比較
米窪明美(学習院女子中・高等科非常勤講師)
https://news.ameba.jp/entry/20160103-114


昭和天皇

 食べて、浴びて、寝る。日々繰り返される当たり前の営みだが、皇居内での話となると想像がつかない。どんな食卓だったのか、どうやって息抜きをされていたのか――。宮廷儀式などの研究を続けてきた筆者が、明治天皇と昭和天皇の「日常」を浮かび上がらせる。

 ***

 驚くべきことに、昭和天皇はお一人でお風呂に入られていた――。

 何を言っているのか、入浴は一人が当然であり、どこが驚くべきことなのか、と思われるかもしれない。しかし、これは宮廷においては決して「常識」ではなかった。明治天皇がお風呂に入られるときには、3人の女官がお供をしていた。お体を洗うにしても天皇は何もせず、女官たちがお世話をしていたのである。

 戦後70年の節目にあたる平成27年、ご聖断を下し、終戦への道を開かれた昭和天皇の存在が再びクローズアップされた。昭和天皇といえば、背広をお召しになった戦後の学者天皇としてのお姿が記憶に残る。戦前戦後を通じて生真面目で誠実なイメージを抱く方が多いのではないだろうか。

 これに対して祖父の明治天皇は、玉座に座り美々しい軍服を身につけ、剣を握りしめた肖像が流布したせいだろうか、威厳に満ちた大帝のイメージがある。

 近代国家・日本を導いた2人の天皇の公的なご活躍は様々な機会に紹介されるが、その私生活が語られることは少ない。しかしいくら偉大な天皇であっても、日常生活は必ず存在する。そして、その生活ぶりには時代や個性が表れる。

 入浴方法がそうであるように、側近たちの日記、回想録、証言をつなぎあわせてゆくと、皇居の森の奥深くに隠された天皇の私生活が鮮やかに蘇(よみがえ)る。こうした史料をもとに、私は明治天皇の私生活に関する著作に続いて、この度、その昭和天皇版とでも言うべき『天皇陛下の私生活―1945年の昭和天皇』(新潮社刊)を上梓した。日々の暮らしの中にこそ宮廷、そして天皇の本質を解く鍵が潜んでいると考えているからだ。

 節目の年を締めくくるにあたり、2人の天皇の暮らしぶりを通して近代皇室の歩みについて今一度思いを馳せてみたい。まずはお風呂場の様子をさらに詳しく眺めてみることにしよう。

「独浴」されていた昭和天皇はお風呂があまりお好きではなく、週に1回程度入るが、あっという間に出てきてしまったという史料が残されている。空っぽになった御湯殿(お風呂場)をのぞくと、シャボンはあちらこちらへ跳ね、スポンジは隅っこに転がっている状態だったというから、いささかお行儀が悪い。

 対する明治の御内儀(私生活を営む空間)では、日常のあらゆる場面で清らかであることが尊ばれた。清浄と不浄は峻別され、上半身は清浄、下半身は不浄とされた。それゆえ、明治天皇がお風呂に入られるときには3人の女官がお供をして、お体を洗う際には上役の女官が天皇の上半身を、下級の女官が下半身を担当した。

 また、首までお湯に浸(つ)かると、下半身に触れたお湯により上半身まで穢(けが)れてしまうことになる。そこで湯船には少なめにお湯が張られて、明治天皇は半身浴の形式で湯船に浸かられ、後ろに回った女官が手拭いで新しいお湯をかけた。

 さらに湯上がりに一枚の布で全身を拭くと、お体全体が穢れてしまうため、専用の浴衣をまとい水分を拭きとる。

 明治天皇と昭和天皇の御湯殿の大きな違いは、先に触れた通り一人で入るのか否かだが、実は幼いころの昭和天皇のお側にはお付きの女性たちが控え、あれこれとお世話をしていた。ところが学習院初等科卒業後、未来の大元帥としてふさわしい帝王学を学ぶため、東宮御学問所にて5人のご学友と共に「合宿生活」を行う時期になると、女性職員は遠ざけられ周囲を固めるのは男性職員のみとなる。昭和天皇が自身で身の回りのことを行うようになったのはこの頃からと推察される。

 天皇という「システム」が最優先された明治と、皇族とはいえ時代に即して「個」が重要視された昭和。入浴に関しても、その時代ゆえの「天皇像」の違いが浮かび上がってくるのだ。

■変化した「おすべり」

 お風呂と並ぶもう一つのプライベートスペースといえば寝室である。

 皇太子時代にヨーロッパを外遊して以来、昭和天皇はライフスタイルを欧米風に切り替えられていた。それゆえ新婚時代からずっとベッドを使用し、パジャマを着用されていた。

 昭和天皇がベッドから起き上がられると、共に寝ていた良子皇后はすでに傍らにいない。身支度を整えるために一足先に洗面所へと向かわれているからだ。ガウンをはおり、スリッパを履いた天皇はブザーを押す。これは侍従の控える部屋など関係部署に通じていて、昭和の宮廷の一日が始まる。

 一方、明治天皇は美子皇后と御寝室を共にされていない。2人が不仲だったのではなく、それが皇室の伝統だったのだ。

 明治天皇は御寝台という、宮廷伝来の天蓋付きの寝具の上で目覚めた。白羽二重(しろはぶたえ)の寝間着を身につけた天皇を起こすのは、御寝台の脇に侍寝した権典侍(ごんてんじ)、所謂(いわゆる)お后女官(きさきにょかん)の役目である。お后女官は江戸時代の将軍家の側室と似た存在で、大正天皇の生母・柳原愛子も、成人した4人の皇女の生母・園祥子もお后女官だった。

 天皇のお目覚めを確認すると、お后女官はおもむろに「おひーる」と声を張り上げる。「おひる」といっても朝8時頃だ。すると、これに呼応して隣室に当直した女官が、「申しょー、おひるでおじゃーと、申させ給う」と声を張る。さらにこれに応えて……と女官たちの甲高い声がさざなみのように伝わってゆき、明治宮廷の一日が始まる。

 明治天皇と昭和天皇の御寝室の違いは、なんといってもお后女官の有無に尽きる。お后女官は大正時代まで存在したが、貞明皇后から4人もの皇子が誕生したことで、「お后」としての役目はなかった。表面的な制度は残したまま、実質的には一夫一婦制度へと移行していたことになる。昭和天皇はさらに改革を推し進め、権典侍という役名そのものを宮廷からなくす。これにより、皇室は完全な一夫一婦制となり現在に至っている。

 続いて天皇家の食卓をのぞいてみる。

 明治天皇は寝間着から和服へと着替えられて、お一人で朝の食卓に向かう。美子皇后は化粧着のまま、自室で朝食をとられる。

 昼食、夕食は両陛下揃ってとる。とはいえ、一つの食卓は囲まない。天皇皇后が別々のテーブルに着席する。

 給仕は天皇に2人、皇后に1人の女官が付く。彼女たちが最も気を遣ったのは、食事をいかに美味しく召し上がって頂くか、ではない。最大の注意を払ったのは、食器を触る手の平が何かの加減で自分の衣服に触れないようにすることだ。このような場合、もう一度手を洗い直さなければならない。こうした独特な作法を守るため、お給仕に時間がかかってしまう。しかし、天皇皇后は文句も言わずじっと待っていた。

 ところで、両陛下のお食事というと、懐石料理のようにほんのちょっぴりずつ、美しくお料理が盛りつけられているイメージを抱く方が多いのではないか。しかし明治の御代はイメージと逆で、大きなお皿に驚くほどの量が盛られていた。

 そこから、女官が天皇皇后用としてほんの少しだけ取り分け、残りは全て臣下に下賜された。これは「おすべり」という宮廷で古くから続く慣習である。おすべりは天皇から臣下への思いやりの気持ちを表すもので、同じ料理を食べることで和気藹々(わきあいあい)とした雰囲気作りに一役買っていた。

 一方、昭和の宮廷では、三食とも天皇皇后が揃って一つのテーブルを囲まれた。また、明治天皇ご夫妻の食事と異なるのは、それぞれ一人前が一つの器に上品に盛りつけられていた点だ。臣下へのおすべりという習慣は残っていたが、厨房で最初から天皇皇后用と臣下用に取り分けられていた。

 明治の御世と昭和の御世では、このように臣下へのおすべりの形式が異なる。その意味するものは何か。

 明治の宮廷では、天皇の周囲に常に多くの人々が控えていて、およそプライバシーというものはなかったが、それが当たり前だった。身分の差こそあったものの、宮殿全体がまるで一つの家庭のようで、いつも笑いが絶えなかった。大きなお皿から同じ料理を取り分けるスタイルは、天皇皇后を中心とした大家族の雰囲気をよく表している。

 昭和天皇も祖父と同様に多くの人々に囲まれて生活していたが、近代的な教育を受け外遊を経験し、君主といえども、ある程度のプライバシーは守られるべきだと考えられていた。天皇は皇后やお子さまたちとの時間を殊の外大事にされており、家族団欒の様子は世間一般のそれと変わらない。一つのお皿に一人前ずつ盛りつけられたスタイルは、伝統を受け継ぎつつも、個というものを大切に考え始めた昭和の宮廷の姿を図らずも表している。

■Xデーが近づくなかで…

 さて、多忙な公務と独特な宮廷の慣習にしばられた生活のなかで、天皇はどのように息抜きをされていたのだろうか。

 昭和天皇のお楽しみはなんといっても生物学の研究だった。普段は口が重いが、話題が生物に及ぶと途端に活き活きと話し出される。それが嬉しくて、側近たちは好んで生物学の話題を持ち出した。研究には専門の御用掛がついていたが、貝やクラゲを採取する際には側近たちもお手伝いした。

 側近たちの回想録や日記などを調べてゆくと、昭和天皇と彼らの交わす会話は知的好奇心に満ち、まるで大学の研究室の教授と弟子のそれのようだ。勿論、教授は天皇である。

 このお楽しみへのこだわりは病床でも貫かれた。

 昭和63年9月19日午後10時前、天皇は大量吐血される。宮内庁関係者やマスコミがXデーに向かって走り出している最中、病床の天皇は生物学への情熱を未だに失っていなかった。

 9月25日午後8時15分過ぎ、吹上御所2階の御寝室で、天皇はベッドに横たわり侍従の中村賢二郎と話されていた。やがて中村が御前を下がろうとすると、「あのね」と大きな声で呼び止められた。

「それからもう一つ。蚊がいたんだ。看護婦が獲ったんだ。清水(筆者注・生物学御研究所の専門官)に言って、御研究所の清水に、何の種類か調べるように」

 なんと天皇は鼻孔に酸素吸入のチューブが2本入っている状態で、病室に迷い込んだ蚊に目を止め、種類を突き止めたいと言い出されたのだ。

 朝までに手分けをして季節外れの蚊が5匹捕らえられ、生物学御研究所に届けられた。折り返し、1匹はヒトスジシマカの雌、2匹はハマダラカの類の雄、他2匹は吻(ふん)がないのでヌカカとキノコバエ科の虫で、蚊ではない、との報告があったので中村がその通り言上する。

 しかし、これでめでたく問題解決……ではなかった。天皇は動物分類学者の朝比奈正二郎にサンプルを渡し、さらに詳しく調査するように命じられたのだ。

 その日の午後5時、朝比奈から、〈ヒトスジシマカ 1♀(黒色種、吸血、昼間・薄暮)、アカイエカ 2♂(褐色種、♀吸血、夜間)、キノコバエ科 2(黒色、森林中の菌などより発生)〉との詳細な報告を受けて、天皇はやっと満足される。ついで5匹のサンプルは、ラベルを貼り生物学御研究所にて保管するようにと指示された。

■女官たちがキャッキャッ

 一方、明治天皇の生涯を通じてのお楽しみは、学者肌の昭和天皇とは対照的に酒を呑むことだった。若い頃の天皇は毎晩のように遅くまで臣下と酒を酌み交わし、度を越して側近に抱えられながら還御(かんぎょ)(帰宅の意)されることも、一度や二度ではなかった。側近たちの多くがついこの間まで地方の中・下級武士だったので、酒席の話題も洗練されているとは言い難い。

 薩摩藩出身で後に内閣総理大臣となった黒田清隆は、酒乱との噂のある人物だったが、天皇皇后の御前でも大虎ぶりを発揮している。皇太子(後の大正天皇)の御立儲(りっちょ)(皇太子を立てる所謂立太子)の御内宴で嬉しさのあまり泥酔した黒田は、旧幕臣の榎本武揚を指さし、「陛下、この席に賊がおります」と言い出した。その後も「賊がおる」を連発し、危うく一触即発の事態となったという。

 黒田の悪酔いにも呆れるが、とぐろを巻く黒田を放置して宴会は続いたというから驚かされる。恐れ多くも臣下のほうが先に酔い潰れることはよくあり、皆さして気にしなかったのだ。

 また、天皇はあだ名をつける名人で、美子皇后のことは「天狗さん」とお呼びになっていた。これは皇后の鼻筋が通っていることに由来するものだが、3歳年上のしっかり者の姉さん女房に対する、そこはかとない畏敬の念が感じられる。

 盃を重ねるごとに陽気になった天皇はすっかりご機嫌になり、何か面白いことを思いつかれては傍らの皇后を振り返り、「な、天狗さん」「な、天狗さん」と話しかける。その都度、部屋には皇后や女官たちの笑いさざめく声が広がっていた。そして、電気を嫌い、ベルギー製の蝋燭(ろうそく)を愛用されていた天皇は、灯りを点けたり消したりしては女官たちを困らせ、キャッキャッと大騒ぎになることもあった。厳しい風貌の写真からは想像しにくいが、明治天皇はお茶目な人物で、その周囲には陽気で楽天的な人々が自然と集まった。明治宮廷には、まるで体育会のような雰囲気が漂っていた。

 ちなみに昭和天皇は酒が全く呑めない。宮中饗宴の席では煮冷水(ゆざまし)を用意させ、あたかも酒を口にしているように振る舞い、相手に気を遣わせないよう工夫されていたほどだ――。

 元号が一世一元制となった現在、天皇は国家の時計であり国家を映す鏡である。

 明治天皇は陽気で冗談がお好きで、臣下と酒を酌み交わすのを何よりの楽しみにされていた。そんな天皇が治めた日本は西洋列強の脅威に晒されながらも国家の独立を守り、世界の一等国を目指してひたすらに前へ前へと歩んでゆく。

 その後日本は国際的な孤立、敗戦、占領と荒波をくぐり抜け、経済大国へ駆け上がっていく。それを可能にしたのは勤勉な国民性であり、病床にあっても学者肌で生真面目な昭和天皇こそがあの時代の天皇としてふさわしかったと言えよう。

 今までの天皇と国民がそうであったように、天皇陛下と私たちもまた平成という時間で結ばれている。

 12月23日、天皇陛下は満82歳のお誕生日をお迎えになった。年が明ければ皇室ご一家のご近影が公開され、講書始の儀、歌会始の儀など伝統的な宮中儀式をニュースで目にする機会も多い。

 これまで見てきたように明治と昭和で違いがあったとはいえ、例えば天皇が決して食べ物の好き嫌いを口にされず、大膳(調理係)は下がってきたお皿を確認して好みを推し測っていたように、貫かれてきた「天皇像」というものもある。

 天皇陛下のお姿を通じて見えてくる明治、大正、昭和に続く平成の時代は、果たして我々に何を突き付けているのだろうか。

米窪明美(よねくぼ・あけみ)
1964年東京都生まれ。学習院女子中・高等科の非常勤講師として作法を教えている。近代宮廷の研究を続け、『明治天皇の一日』(新潮新書)などの著書がある。近刊は12月18日に発売された『天皇陛下の私生活―1945年の昭和天皇』。

「週刊新潮」2015年12月31日・2016年1月7日新年特大号 掲載
https://news.ameba.jp/entry/20160103-114


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下半身の触れたお湯で上半身を穢してはいけない 明治天皇の入浴法
https://www.dailyshincho.jp/article/2015/12220600/?all=1


【画像1】明治天皇の宿泊所にあった湯殿(浴室)
https://www.dailyshincho.jp/article/2015/12220600/?photo=1

 いつの間にか、入浴法の定番となった感のある半身浴。実は、天皇は大昔から半身浴を実践していた。

『天皇陛下の私生活 1945年の昭和天皇』
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4101214964/ref=as_li_tl?ie=UTF8&tag=dshinchoweb-22&camp=247&creative=1211&linkCode=as2&creativeASIN=4101214964&linkId=3c37788bbc5405967204023259d223da


の著者、米窪明美さんが言う。

「天皇夫妻のプライベート空間(御内儀)では、あらゆる場面で清らかであることが尊ばれ、清(清浄)と次(不浄)がはっきりと区別されていました。そのルールでは、人間の上半身は清浄、下半身は不浄。ですから、下半身の触れたお湯で上半身を穢してはいけないのです」

 だから湯船には少なめにお湯が張られ、半身浴の形式で入浴しているのだ。清と次のルールは実に細かい。

「お風呂からあがるとき1枚の布で全身を拭くと体全体が“穢れてしまう”ので、明治天皇は専用の浴衣をまとって水分を拭きとっていたのです」

 ちなみに、米窪さんが書いた『明治天皇の一日 皇室システムの伝統と現在』によれば、明治天皇は自分で体を洗わなかった。3人の女官がお供して入浴、「清」である上半身は上役の女官が、「次」である下半身は下級の女官が担当していたのだ。至れりつくせりだが、これも清と次のルールを守るためである。

お風呂は苦手、のはずが……

 一方、昭和天皇は1人で入浴する。それもカラスの行水のようにあっという間だった。使用したあとをのぞくと、シャボンはあちらこちらへ飛び、スポンジは隅っこに転がっている状態だったというから、いささかお行儀が悪い。

「まるで幼い子供のようなふるまい方ですが、明治天皇のお風呂の入り方を考え合わせると、別の可能性も思い浮かびます。わたしは、たったひとりで清と次のルールを守った結果かもしれないと想像しているんです」

 はっきりわかっているのは、昭和天皇はあまりお風呂が好きではなかったこと。ところが戦後全国巡幸の際、一般の宿に泊まると毎日のように入浴したという。つまり天皇は宮中のお風呂より民間のお風呂の方を好んでいたのだ。ちなみに、明治天皇も規則ばかりの入浴法のせいかお風呂が嫌いだったという。もしも民間のお風呂に入る機会があれば、風呂好きになっていたかもしれない。

デイリー新潮編集部
https://www.dailyshincho.jp/article/2015/12220600/?all=1


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「寝室問題」は皇室にもあった 昭和天皇が変えた「寝室」の作法
https://www.dailyshincho.jp/article/2015/12190600/?all=1

 夫婦の寝室を別にするかどうか。それは、ときに大問題となる。天皇も例外ではなかった。

「一人で寝ても必ずしもうまくゆくとは限らぬ」

 昭和59年(1984年)1月5日。皇后と寝室を別にしては、という侍従・卜部亮吾の提案に、天皇はなかなか首を縦に振らなかった。『天皇陛下の私生活 1945年の昭和天皇』の著者、米窪明美さんが言う。

「その6年半前に那須御用邸で腰椎を骨折して以来、皇后さまは体力、気力、記憶力などの減退に悩まされていました。入江相政侍従長の日記には、妻を懸命に支える天皇の姿が詳細に記されています。老齢の天皇にとって公務はただでさえ激務。そのうえ夜分に皇后のお世話をしていれば、睡眠不足が重なり体調を崩してしまう。寝室を別にすれば、皇后には女官がつきっきりで行き届いたお世話ができるし、天皇はぐっすりと休むことができる。双方にとって最も良い解決策だと側近たちは考えたんです」(米窪さん)

 入江侍従長の日記を引用する。

〈どういふものか大変おねむさう。のべつにおあくび。又昨夜皇后さまお起こしになったか〉(昭和57年6月15日)

〈この間お吐きになつたのも、皇后さまがお厠所がおわかりにならず、お上をお起こしになつた為ではないかと思はれる〉(昭和57年7月19日)

 側近たちが心配するのも無理はなかった。皇后と一緒にいたいと渋った天皇も結局折れた。しかし、一時的に寝室を別にしたものの、3カ月後の4月12日には元に戻っている。このとき昭和天皇82歳、良子皇后81歳。ダイヤモンド婚を迎えていた。

お后女官という“配偶者”

 米窪さんによれば、明治天皇は美子皇后と寝室を共にしなかったという。

「高齢とか不仲といった理由ではなく、それが皇室の伝統なのです。天皇を起こすのも、脇に侍寝したお后女官の役目です。大正天皇の生母・柳原愛子も、成人した4人の皇女の生母・園祥子もお后女官でした」

 お后女官は江戸時代の将軍家や大名家における側室と似た存在であるが、だからといって両者は同じではない。徳川将軍家や大名家の側室には美人であれば町娘でもなれた。しかしお后女官の実家は旧堂上家、明治時代の家格に直すと伯爵、子爵家と厳しく定められており、容姿よりもまず家柄が優先された。つまりお后女官は側室というよりも、むしろ配偶者の色合いが濃いのだ。

 昭和天皇は皇太子時代のヨーロッパ外遊以来、ライフスタイルを欧米風に切り替えていた。それゆえ新婚時代からずっとベッドを使用し、パジャマを着て、皇后と一緒に寝ていたのだ。宮中を変えたといわれる昭和天皇の改革は、寝室にも及んでいたのである。
https://www.dailyshincho.jp/article/2015/12190600/?all=1


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天皇陛下はどんなものを食べているのか? 「チャーハン」や「ふりかけご飯」
https://www.dailyshincho.jp/article/2016/01070600/?all=1

 食べることは生きること。いわば食は命の素である。多くの人にとって食事は大きな関心事だろう。では、天皇の食事はどうなっているのだろうか。調べてみたら、知らないことだらけで驚いた。

「昭和天皇の朝食は1年中洋食でした」

 と言うのは、『天皇陛下の私生活 1945年の昭和天皇』の著者、米窪明美さんだ。

「具体的には、オートミール、パン、野菜料理、サラダ、果物、煮冷水(湯冷まし)、お茶、牛乳を毎朝食べていたんです。オートミールは大麦を使った西洋風のおかゆのようなもので、戦後はコンフレークのこともありました。牛乳や甘みを足して天皇好みの味に仕上げるのは皇后の役目です」

 風変わりな習慣もあった。

「ピーナッツか銀杏の炒ったものを3粒だけ食べる、というのが昭和天皇の毎朝の習慣でした。ピーナッツは皮をむき、バターで炒めて軽く塩をふります。銀杏は殻からだして皮付きのまま焼き、その後皮をむいて軽く塩をふるのです」(米窪さん)

 朝食は8時、昼食は12時、夕食は18時で1年中変わることがない。昼食が洋食であれば夕食は和食、昼食が和食なら夕食は洋食と決まっていた。


ウナギ以外の好物は

 食べ物の好き嫌いを言わなかった天皇が、ふと好みを口にしたことがある。昭和62年(1987年)10月3日、前月に十二指腸部の腺癌の手術を受けた天皇は、昼食として出された平目のムニエルに全く食欲を示さなかった。そこで医師団が食べたいものを尋ねたところ、イワシやサンマだというではないか。

「本来、イワシやサンマ、サバのような大衆魚は皇室の食卓にのぼらなかったのですが、戦時中に物資が手に入らず、天皇がヤミで物を買うのを禁じたために、献立の常連となったのです。天皇はそれらをとても気に入っていました」

 米窪さんが解説してくれる。

「昭和天皇のウナギ好きはよく知られていますが、宮内庁大膳課に勤めた渡辺誠さんによれば、昭和59年にウナギの蒲焼を食べた回数は22回、それに対してサバの味噌煮も12回ありました。麦入りごはんで山かけを食べるのも好きだったようです。ただ、基本的にお刺身は少ないんです。特に地方への行幸啓に出かける前は、行事に支障をきたしてはいけないので、なまものは外されました」

困ったときの「ふりかけご飯」

 繰り返すが、天皇は基本的に好みを言わない。だから料理人は天皇の食べっぷりから好みを推し量るほかない。

「渡辺さんによれば、リンゴはシャキシャキよりもふかふかが好きで、サツマイモは黄色いホクホクより白っぽいベチャ芋がお好きだったそうです。また、稚鮎を塩焼きにして骨をとらずに頭から食べたり、鮎の内臓を塩漬けしたウルカをご飯に混ぜてよく食べていたとか。そこだけみるとお酒もいけそうに思えますが、お酒はまったく飲めませんでした」(米窪さん)

 一方、苦手なのは酸っぱい味付け。洋食にレモンをつけても使わなかった。しょっぱいもの、辛いものも苦手だった。食が進まないときは、ふりかけをかけて食べたという。

 チャーハン、餃子、春巻、酢豚、シューマイといったお馴染みの中華料理も食卓に並んだ。さらに米は市中の米屋さんから普通の米を買い、押し麦を混ぜ、水道水を使って炊いたというから、なんだか親しみがわくではないか。

デイリー新潮編集部
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天皇は「接待のプロ」だった GHQを味方につけた皇室の「鴨場接待」
https://www.dailyshincho.jp/article/2015/12181144/?all=1

 休みなし、定年なし、行動の自由なし。天皇は、日本でいちばん過酷な職業だ。そもそも職業選択の自由すらないのだから。

 天皇(と皇族)の仕事で最も多いのは「人に会うこと」だ。一般参賀や園遊会はほんの一例。宮中晩餐会やお茶、ランチなどの席をもうけ、1年を通じて様々な人をもてなしている。つまり、天皇は「接待のプロ」なのだ。

 それらの中で最も大規模なのが、「鴨場(かもば)接待」である。鴨場とは、越冬のために飛来する鴨を捕獲するための猟場のこと。宮内庁の鴨場は千葉県市川市(新浜(にいはま)鴨場)と埼玉県越谷(こしがや)市(埼玉鴨場)にあり、鴨の飛来する11月半ばから2月まで、天皇の思し召し(意向)という形で各国の要人を招いて伝統的な鴨猟を体験してもらう。

 猟といっても、使うのは網。よく訓練したアヒルで鴨をおびき寄せ、突然目の前に現れた人間に驚いて飛び立つところを、子供がトンボを捕まえるように網を左右に振り回して捕獲するのだ。お互いの網がからみ合って混乱することもあるが、それもまた一興。

 先日、秋篠宮家の眞子さまが案内役を務めたのは千葉県の新浜鴨場。ここは皇太子が小和田雅子さん(当時)にプロポーズした場所だった。


GHQも鴨がお好き?

「鴨場接待は明治以来の伝統で、敗戦直後はGHQに対しても非公式招待という形で行われていました」

 と言うのは、『天皇陛下の私生活 1945年の昭和天皇』の著者、米窪明美さん。捕った鴨はすぐにさばかれて、醤油を付けたりして鉄板で焼いて食べた。醤油風味の新鮮な鴨肉でバーベキュー、という感じだ。野外で行われる健康的な遊びで夫人や子供たちも同伴できるから米国人の心をつかみ、希望者が殺到したという。鴨猟の準備は案外大変で、1カ月に2回くらいが関の山だったが、毎週土日に行わなければならないほどの盛況ぶりだった。

「春になって鴨がいなくなると下総(しもふさ)の御料牧場、夏は長良川(ながらがわ)の鮎漁と、接待攻勢は続きました。地道な接待作戦でGHQ内に皇室ファンを増やしていったんです。鴨猟の非公式招待は、日本の主権が回復されたサンフランシスコ平和条約が発効する昭和27年まで続けられました。おそらく他の接待も同様でしょう」(米窪さん)

 ちなみに、現在の鴨場接待では、捕獲した鴨は野に放っているという。

デイリー新潮編集部
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昭和天皇は若いころから、宮中の書斎にはナポレオンの胸像が飾られていた(有名な話らしい)。パリを訪問したときに土産として自分で買ったもので、珍重していた。

「ナポレオンの軍隊は安上がりの徴集兵で」彼は「この軍隊を愛国心に燃える兵隊の群れに仕上げた。日本の軍隊は葉書一枚で徴兵された“民草”といわれる安上がりの軍隊で、ナポレオンの軍隊以上に愛国心に燃えていた。

ナポレオンは補給のほとんどを現地補給とした。天皇の軍隊はこれを真似た。

ナポレオンは参謀部をつくり、機動力にまかせて、波状攻撃を仕掛けた。天皇は大本営を宮中に置き、参謀部の連中と連日会議を開き、ナポレオンと同様の波状攻撃を仕掛けた。」

「あの真珠湾攻撃は、そしてフィリピン、ビルマ、タイ…での戦争は、ナポレオンの戦争とそっくりである。」と鬼塚氏は書いている。そう言われれば確かにそうだ。

 つまり、昭和天皇はナポレオンを崇拝し、彼にならって大戦争を仕掛けるという壮大な火遊びをやったのである。真珠湾攻撃が「成功した」と聞くと、狂喜乱舞したと言われる。2・26事件当時の侍従武官・本庄繁の『日記』には、天皇がナポレオンの研究に専念した様子が具体的に描かれているそうだ。

終戦の玉音放送が流れる日の朝、侍従が天皇を書斎に訪ねると、昨夜まであったナポレオンの胸像がなくなっており、代わってリンカーンとダーウィンの像が置いてあった、と…。

 この変わり身の素早さには驚かされる。つまりもう占領軍が来てもいいように、好戦的なナポレオンの像は撤去し、アメリカの受け(好印象)を狙って、リンカーンを飾り、自分は生物学に専念している(政治に無関心な)人間なのだとの印象を与えるためダーウィンを飾ったのであった。天皇は書斎からしてこうなのです…といえば、戦争責任が回避でき、マッカーサーに命乞いできるという思惑である。

戦後、天皇が海洋生物の研究家になったのは、ただひとえに自分が専制君主ではなかったというポーズであり、戦争中の責任を隠す念のいった方便だった。国民もそれに騙された。

 そして戦争指導の責任を全部、東条ら軍人(それも陸軍ばかり)に押し付けた。

大東亜戦争で米英と戦った主力は帝国海軍である。陸軍の主任務地は支那およびビルマやインドであって、太平洋を主任務地としたのは海軍であったから、あの太平洋での拙劣きわまる作戦で惨敗につぐ惨敗を喫し、国家を惨めな敗北に導いた直接の責任は、海軍にあった。

ところが、戦後は「海軍善玉論」がマスコミや出版界を席巻し、あの戦争は全部陸軍が悪かったという風潮が醸成された。多くの作家(阿川弘之ら)がそのお先棒を担いだ。

だから後年、阿川弘之が(あの程度の作家なのに)文化勲章を授賞したのは、海軍と天皇の戦争責任を隠してくれた論功行賞であったとしても不思議はない。

海軍の作戦を宮中の大本営で指導したのが、昭和天皇だったから、天皇としてはどうしても敗戦の責任を海軍に負わせるわけにはいかなかった。そこから「海軍善玉論」を意図的に展開させたのではないか。

佐藤氏は太平洋の作戦全般を大本営の服部卓四郎や瀬島龍三ら下僚参謀が勝手に指揮したと書いているが、知ってか知らずか、さすがに本当は昭和天皇が指導したとは書いていない。

東京裁判で収監された東条英機は尋問に答えて、

「我々(日本人)は、陛下のご意志に逆らうことはありえない」と言った。

これは当時としては真実である。

しかし東条のこの発言が宮中に伝えられると天皇は焦ったと言われる。責任が全部自分に来てしまい、自分が絞首刑にされる。

それで天皇は部下を遣わして、東条と軍部に戦争責任を負わせるべく工作をした。

 それから天皇は、なんと東京裁判のキーナン検事に宮廷筋から上流階級の女性たちを提供し、自分が戦犯に指名されないよう工作した。キーナンはいい気になって、しきりに良い女を所望したと鬼塚氏は書いている。

キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。

みんな天皇一人が責任を回避するためであり、東条らが天皇を騙して戦争を指揮したというウソの歴史をつくるためであった。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2


私の調べた確証から浮かび上がる昭和天皇の姿は、公式の伝記にあらわれる姿とは、まるで写真のネガとポジのように異なっていた。

私の見方では、裕仁は、献身的で、衰えを知らず、利巧かつ細心で、そして忍耐力を備えた、卓越した戦争指導者だった。

昭和天皇は、アジアから白人を追放するというその使命を、大祖父から引き継いでいた。だが、国民は無関心かつ後進的であったので、人々をそうした役務にかりだすため、戦争の20年前から、心理的、軍事的に準備を重ね、巧みにあやつっていった。

公式の人物像は、これとは逆に、裕仁を、魅力に乏しいところの多い、文化的な隠居した生物学者で、自らの公務は将官や総督にゆだね、そのすべてのエネルギーをおだやかに、きのこや小さな海洋生物につぎこむ人、と描いていた。http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm


戦争後の四年間、昭和天皇は戦前からの擦り切れた背広のみを着て、人々とみじめさを共有する姿勢を表した。

そして1949年、アメリカの新聞が彼をぼろを着て散歩していると報じたと家臣が告げたことを契機に、昭和天皇は、彼の結婚25周年を記念して、背広を新調することを受け入れた。

その数年後、作家、小山いと子が、皇后良子について小説を書いた時、その新しい背広について書いて話を終わらせていた。

天皇はイソップやアンデルセンを好み、この作家は、彼女の「天皇の新しい服」という喩えが、昭和天皇の好感をさそうだろうことを予期していた。

 「天皇の新しい服」は、喩え話として、1950年代を飾った。1940年代の西洋の判事と報道記者の執拗な疑念は忘れ去られた。
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm


終戦後、昭和天皇は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、

わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。

昭和天皇は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。

何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。

戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった昭和天皇が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。

 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。
http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/b2add89dad958852f4994fb54f0874b0


ある60才代の風変わりな華族は、私に英語で以下のように告げた。

「もちろん、貴君は私をたぶらかそうとしていると思う。貴君は私に何を言わせたいのかね。

私は裕仁を子供の頃から存じている。

彼は、戦争好きの馬鹿ロマンチストだったし、たぶん今でもそうだと思う。

しかし、もう数十年もご無沙汰している。私は、自分の古い時代に乱されたくはない。もし、貴君が私の名前をあげるなら、私が貴君には会ったこともないことにする。」
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_04_choshakara.htm


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こんな女に誰がした(パンパン編)__天皇陛下を恨んでね

終戦わずか2週間後「東京の慰安婦」は米軍のいけにえにされた 「次から次へ、体じゅう痛くて…」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56962

2018.08.15 貴志 謙介 元NHKディレクター・プロデューサー 現代ビジネス
ようやく見えた「戦後ゼロ年」の真実

今年も8月15日がめぐってきた。だが、73年前の敗戦をめぐる記憶は日々確実に薄れている。

とりわけ記憶の劣化が著しいのは、敗戦直後の一年間、いわゆる「戦後ゼロ年」であろう。みじめな焼け跡暮らし、占領の屈辱、飢え、虚脱感、思い出したくもないヤミ買い。高度成長という威勢の良い華やかなサクセス・ストーリーの陰で、暗い役回りを押し付けられたせいかもしれない。

だがもっと本質的なことは、敗戦直後の時代には、その時代を経験した人であっても知ることのできなかった秘密がたくさんあるということだ。

占領軍は、情報をコントロールしていることを悟られないような巧妙なやり方で検閲をおこない、メディアを支配する情報戦を仕組んでいた。その結果、占領政策にとって都合の悪い出来事や情報は隠されたまま、いわばブラックホールのなかへ姿を消してしまった。

「戦後社会の原点」とみなされる時代であるにもかかわらず、多くの真実が欠落し、核心がぼやけたまま風化してしまったのである。

ところがここへ来て、思いがけず、戦後ゼロ年をめぐる新しい視野がもたらされようとしている。原動力のひとつは、機密資料の公開である。たとえば、2007年に機密解除された10万ページのCIA文書があり、150万点に達するGHQの検閲記録がある。A級戦犯に対するIPS(国際検察局)の尋問記録やアメリカ戦略爆撃調査団の調査報告も公開された。

こうした極秘文書を多くの証言とつきあわせていくと、驚くべき真実が続々と浮かび上がってくる。まず、時計の針を敗戦から3日後の1945年8月17日にあわせてみよう。

日本政府がつくった「性の防波堤」

この日、組閣された東久邇内閣の国務大臣に就任した近衛文麿がなによりも急いだことは何だったか。

実は近衛は入閣直後、ただちに警視総監の坂信弥を呼びつけ、米軍相手の売春施設を作るよう要請したのである。

40万人の占領軍上陸を2週間後に控え、日本の戦争指導者がもっとも恐れたことは、兵士による性犯罪であった。そして「性の防波堤」と位置づけられたのが、「国策売春組織」、すなわち「特殊慰安施設協会(RAA)」であった。

RAAをめぐる公式記録『R・A・A協会沿革誌』はこう述べている。

〈R・A・A協会が、その使命を忠実に達成する為、真先に開業したのは慰安所である。進駐軍将兵にとって、何よりも先ず慰安すべき面はセックスの満足であった〉

電光石火のごとく霞が関が動いた。外務省・内務省・大蔵省・運輸省・東京都・警視庁など、主要官庁がこぞって協力。座長役を務めたのは、大蔵省の主税局長・池田勇人(のちの首相)である。池田の号令で大蔵省がポンと3300万円を出す。現在の価格に換算すれば10億円を超える。

占領が始まる前に、政権の中枢にいた政治家や軍人、そして官僚が何を置いても、外国の軍隊による性暴力にこれほど強い恐怖感を抱いたのは、なぜだろう。国家が主導した売春施設を準備した警視総監・坂信弥は、内務省の資料のなかでこう証言している。

「東久邇さんは南京に入城されたときの日本の兵隊のしたことを覚えておられる。(略)それで、アメリカにやられたら大変だろうなという頭はあっただろうと思います」(大霞会編『続内務省外史』、地方財務協会)

軍国主義者がおびえていたのは、結局のところ、来るべき占領軍の蛮行というよりも、鏡に映った己の姿、日本軍の影だったのではあるまいか。

「からだじゅうが痛くて…」

8月28日、午前9時、RAAの幹部20名が皇居前広場に集合した。『R・A・A協会沿革誌』によれば、ここで全員が宮城に向かい宣誓式を行ったという。宣誓の主旨はこうである。

〈(RAA協会は)戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の難事業を課せらる。(略)『昭和のお吉』幾千人かの人柱の上に、狂瀾を阻む防波堤を築き、(略)「国体護持に挺身せんとするに他ならざることを重ねて直言し、以て声明となす〉

敗戦国であるドイツやイタリア、あるいはソ連に占領された東ヨーロッパの国々にも、占領軍を相手にする売春婦は大勢いた。しかし、国家が号令を発して、莫大な予算を投じ、官僚がプロジェクトを組み、「国体護持」のために女性を犠牲にするという“理想”を高らかに掲げた国はほかにない。

8月27日、RAAは、占領軍の上陸地点に近い品川の大森海岸に「慰安所第一号」として、「小町園」を開店した。ポツダム宣言の受諾からわずか2週間しかたっていない。

50人の女性、それも大半はシロウトの女性が送り込まれ、10畳、20畳の大部屋をカーテンや屏風で仕切り、30ほどの部屋が作られた。待ちかねたように、米兵がどっと押し寄せ、障子や襖を蹴破って、土足のまま押し入ってくる。女たちは恐怖のどん底へ投げ込まれた。

「恐怖におびえるまもなく、兵隊が入ってくるなり私を抱くと、しびれるほど唇を吸う。(略)入れ替わりに、つぎの兵隊がくる。(略)つぎからつぎへと抱いては送り、送っては抱き、(略)からだじゅうが痛くて……。」(『東京闇市興亡史』より)


RAAが横須賀に設けた慰安施設「安浦ハウス」(米軍資料)

女とみると、手あたりしだい

『R・A・A協会沿革誌』によれば、小町園を皮切りに、立川「キャバレー富士」、調布「調布園」、福生「福生営業所」、北多摩「ニューキャッスル」、築地「宮川」、人形町「花家」、向島「迎賓館大蔵」、若林「R・A・Aクラブ」が次々とオープン。

東京だけで33か所。従業員は450人。ダンサー2000人。350人の「慰安婦」。ひとりの女性が最高で一日60人を相手にした、との証言もある。


銀座松坂屋近くにRAAがつくったキャバレー“Oasis of Ginza”(Photo by gettyimages)

一方、RAAの幹部連中は何をしていたか。戦前に吉原で遊郭を経営していた経歴を持つRAA営業所長・岡本清次の談。

「RAAの仕事は国家の肝煎りですから、国から給料もらっているような身分でした。基本給千百円、手当て千百円の計二千二百円というのは、当時としてはそうとうな高給取り」

「食事のほうは、米兵からの土産もあったし、なにしろ警視庁から食券がきていましたから。(略)兵隊がもってくる牛肉は、ブ厚くてスキヤキにするとほんとうにうまかった」

当時、警視総監であった坂は、「RAAがあったおかげで占領軍兵士による強姦事件はほとんどなかった」と主張している。しかし、近年公開された米軍の極秘資料は、それがまぎれもなく“虚偽の申告”であり、実態はむしろ逆であったことを示唆している。

米兵による暴行事件は、8月30日にはじまり、RAAの営業によっても止むことがなかった。1945年11月中に発生した米兵の犯罪は、婦女暴行、強姦、盗み、おどし、たかりなど、554件に達している。報道が禁止されていたゆえ、一般に知られなかっただけなのである。

特に強姦事件や強盗事件が多かったのは、小町園に近い大森海岸であった。売春婦の紹介業を務めていた菅原道雄は、その理由をこう証言している。

「大森で、強盗・強姦事件が頻繁におきたのも慰安所と関係ありますね。タバコや洋服を『金にかえてくれ』といってくるヤツが多かったし、それもないヤツは強盗をしてまで女を抱く金を得ようとする。慰安所にはGIが行列をなしていてあぶれちゃうヤツがでるんですよ。そうなると、手あたりしだい、女とみると襲いかかるのです。

夜の八時ころだったでしょうか。大森から大森海岸へ行くまっ暗な道で女の人の悲鳴をきいたことがあります。たぶん素人の人でしょうが強姦されていたんです。私は一目散に逃げましたよ。だって、アメちゃんは刃物をもってましたからね」

RAAの組織と人脈から、占領終了後、赤線や基地売春が生まれた。国家がつくりだした巨大売春施設こそ、戦後の売春産業の源泉であったのである。

いまも残る「東京ブラックホール」

戦後ゼロ年のブラックホールに迷い込んだのは、国家の「いけにえ」となった女性ばかりではない。占領下の東京には、いたるところに、ブラックホールが存在していた。

あらたに発掘された映像からも、その痕跡がみつかる。たとえば、東京湾から引き揚げられた大量の金塊の映像。数兆円にもおよぶ日本軍の隠匿物資の一部である。もとはといえば、本土決戦のために軍が国民から徴用した物資であり、こうした莫大な財産は国民には返還されず、高級軍人や官僚など特権階級に横領されて、ヤミ市に横流しされていたのである。

戦後ゼロ年、飢餓やインフレは、戦争中より深刻だった。もし、隠匿物資が国民を救うために使われていたら、どれほど多くの戦災者が救われていたことだろう。

人々を苦しめた敗戦直後の地獄は、物資の隠匿に狂奔したエリートの不正によってもたらされたのである。その事実を、私たちの記憶のなかに、あらためて刻み込んでおかなくてはならない。

膨大なCIA文書から、戦後ゼロ年にどのような権力構造が生まれていたかを知ることもできる。たとえば、占領軍は、表向きは「日本を民主化し、軍国主義者を追放する」政策を推進したが、裏では大本営の参謀を戦犯の訴追から外し、対ソ諜報戦の手先にしていた。

米軍の諜報機関に囲い込まれた軍や特務機関の残党は、アメリカの後ろ盾を利用して密輸や謀略を重ね、密かに影響力を拡大していく。軍国主義の残党、ヤミ成金、官僚や政治家を問わず、占領軍に深く食い込んだ者だけが権力を確保し、利権を得た。

こうして戦後ゼロ年を出発点として、アメリカの秘密工作に積極的に協力した日本の支配層との合作で「世界最大の親米国家ニッポン」が造られていく。そのときできあがった権力構造のDNAは、いまも日本を支配している。

戦後ゼロ年は、戦前のしがらみを断ち切った年ではなく、むしろそれを温存し、戦争を推進した旧支配層を取り込んで、アメリカの国益に沿った日本社会の改造が開始された年だったのである。

『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』という本では、いままで視界から失われていた闇を見つめ、わたしたちの記憶の欠落を埋めていくことを試みた。復元された戦後ゼロ年の姿を現在の日本と重ね合わせれば、いまの日本を呪縛する仕掛けも見えてくるにちがいない。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56962

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こんな女に誰がした(パンパン編)__天皇陛下を恨んでね

 『新日本女性に告ぐ!
 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳まで。宿舎、被服、食糧当方支給。』


 敗戦直後の昭和20年8月22日、この広告が新聞などに張り出される。「新日本女性に告ぐ!」などと勇ましいことを書いているが、これは単なる事務員の募集の求人広告ではない。

 この前日、近衛文麿国務相が「婦女子を性に飢えた占領軍兵士から守る」という狙いのもと「特殊慰安施設協会(RAA)」の設置を決めた。上の広告はこの施設で占領軍相手の売春をする女性を集めるものであった。大抵の女性は、はじめからこれがただの事務の仕事ではないことは気付いていたようだが、中にはやはり単なる事務の仕事だと思って応募してくるものや、慰安とは「歌でも歌えばいい」と思って応募してきた良家の子女もいたと言う。

 この売春施設の目的は性のハケ口を設けることによって、占領軍がレイプ事件などを起こさないためにという「性の防波堤」とも言うべきものであった。が、実際は占領軍によるレイプ事件は日常茶飯事であった。

 さてRAAであるが、東京の大森を皮切りに各地に作られ全盛期にはそこで働く「パンパン」と呼ばれた女性は7万人を数えるようになった。しかしその後占領軍兵士が持ち込んだ性病が蔓延し、GHQは21年3月10日慰安所への兵士の立ち入りを禁止し、RAAは崩壊する。パンパンの彼女たちの多くは私娼となって街で客を求めるようになる。

 そのころ吉原はというと、戦時中に東京大空襲で焼け野原になるも政府の援助によってすぐに復興。そして終戦を迎えると、前述のRAAの慰安施設となる。

 GHQは占領軍のRAAの立ち入りを禁止すると同時に、日本政府に対して公娼廃止を求める。日本政府はこれを受けて公娼を廃止するが、実際は特殊飲食街を指定しその地域内での売春行為は取り締まらないようになった。これが「赤線」の始まりである。

 赤線地帯は吉原や新宿二丁目など戦前は貸座敷があったところが指定され、風俗営業取締法(以下風営法)によって「カフェー喫茶」などが営業されていた。この「カフェー喫茶」であるが、もちろん「喫茶」といってもただ単にお茶を飲むのではない。かつて花魁として働いていた女性が今度は女給という呼称で売春をしていたのである。その後赤線は朝鮮戦争の特需景気により営業する店が急増した。そのころの泊まりの料金は1000〜3000円。

 赤線が一応風営法というかたちで許可をとっていたのに対し、その許可を取らないで売春行為をしていたのが青線である。青線は表向き料理屋の形をとっているが客と交渉が成立したときは店を閉め売春をする。青線のほうが基本的に価格は安く、比較的所得・階層の低い人が利用していたと言う。

 しかし、赤線・青線地帯もやがて崩壊する。昭和33年4月1日売春防止法(以下売防法)が施行される。これはこれまで黙認してきた売春行為を禁止するものであった。なぜこの次期に売防法が公布・施行されたのか。それは日本が国連に加盟するためである。国連は昭和24年「人身売買及び売春行為の搾取禁止のための条約」を決議しており、国連に加盟するためには娼婦をなくすことが必要であったからである。

 売防法について、赤線で働いていた女性は猛反対していた。もし赤線がなくなれば彼女達は生きる術を失うことになる。政府は何も生活の保障や仕事の斡旋などはしてくれない。東京では「東京都女子従業員組合連合会」を結成し、売防法に反対するビラまきなどを行った。

 しかしながら売防法は施行され、そして吉原をはじめとする赤線地帯は消えていったのである。職を失った女性たちは、厚生施設に通い手に職をつけようとした者もいたが、白線・黒線と呼ばれる結婚相談所の形をとった売春組織で働く者もいたし、それ以外の性風俗で働く者もいた。 
http://www.hit-press.jp/column/shakai/shakai26.html


42. 中川隆[-13725] koaQ7Jey 2018年12月01日 09:21:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21496] 報告

天皇家では1700年間にも渡って近親結婚を繰り返した為に、まともな子供が一人も生まれなくなり、遂に外部の血を入れる決断をしたが…

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世間の噂


秋篠宮文仁  

みなさんこんにちは 

もう皆さんお気づきでしょうが、僕は今上天皇の息子ではありません
(顔立ちを見てもらえば一目瞭然だと思います)

その事で、父や兄や妹から随分ひどい虐めを受けました。
僕の父親は一体誰なんでしょう?(母は頑として口を割りません)
皆さんも一緒に探してください


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秋篠宮 (文仁) 殿下が、天皇実子でないという噂は、関係各位に根強く伝承されている。

噂の出所は、天皇一族の警護、護衛を主務とする皇宮警察。 皇宮警察と言えば、警察官の中でも選りすぐりの良血者で構成されている機関だが、良血と言っても所詮は田吾作集団。

酒が入れば、口も軽くなり、同期生が集まれば、ここだけの話が、あっちこっちで交わされるのである。

「ここだけの話だが、秋篠宮が、天皇の本当の子供でないってこと、お前知ってるか?」 ここだけの話の一つが、それである。

それが酒席の冗談で終わらなかったのは、それなりのバックボーンがあるからだ。

遡ること四十数年、昭和天皇の后や、后の取り巻き女官たちから陰湿なイジメを受けた美智子妃殿下 (当時) は、精神に深いダメージを受け、那須の御用邸で一人寂しい静養生活を送っていた。


生まれついての貴種である前の皇后にとって、平民出身の美智子妃殿下の一挙一動作がしゃくの種。 子供 (浩宮) の育て方に始まって、手袋の持ち方一つにもアヤをつけたのである。

悩み多き貴婦人の警護を担当していたのが、若き偉丈夫の皇宮警察官。 深い同情が恋情に変わり、いつしか二人は恋に落ちたというのが、まことしやかな警察物語である。

そして、皇太子 (当時) と没交渉の筈の妃殿下に、懐妊のニュースが流れることになる。 

道ならぬ恋の噂は、宮内庁首脳にも届いている。 だからと言って、出産を止める手だてなどあろう筈もない。 そこで代々の宮内庁長官に、一つの言葉が引き継がれることになった。 

「皇位継承者は浩宮の血脈から ・・・」 と、である。

秋篠宮 (文仁) 殿下は成長するにつれ、天皇一族とは明らかに異なる特徴を見せつける。 体型、思想、行動の全てである。 皇太子や、黒田清子さんが、一目で陛下のお子さんだと分かるのに比べ、秋篠宮の体型は似ても似つかぬものがある。


それよりも何よりも、ナマズの研究にかこつけて、タイ女性にうつつを抜かしたり、祖父である昭和天皇の喪が明けぬ内に結婚を決行するといった傍若無人の精神性を露出する。 挙げ句の果てには、兄である皇位継承一位の皇太子を、公然と批判したりするのである。

「文仁殿下は、血の秘密を知っているに違いない」 の呟きが宮内庁首脳から洩れる。

そうとしか理解できぬ異常行動が多すぎるのである。

菊のカーテンの奥に潜む機密事項が、小泉総理にもたらされたのは、今から一年以上も前になる。

雅子妃殿下の病状が思わしくないこと。 おそらく、お子さんは愛子内親王お一人でありましょう。

「だからこそ、皇室典範を改訂し女性天皇、女系天皇への道筋をつけて戴きたいのです」 さもないと、神武天皇以来続いた万系一世の貴種は、今世をもって終焉するかも知れません。万が一にも秋篠宮家に第三子が誕生し、それが男子であったなら ・・・・・・・

流石の小泉も、菊の秘事を耳にして腰を抜かさんばかりに驚いたという。


当時は、郵政政局真っ盛りの頃、政局に破れ退陣するようなことにでもなれば、郵政もさることながら、皇室が大変なことになるのである。

結果、総選挙に大勝し、郵政を片づけた小泉内閣は、早速大事案である皇室典範の改訂に取りかかる。 平沼赳夫のように、小泉憎しで反対音頭を歌うのはどうでも良い。 何としてでも片を付けてみせると決意を固めた矢先である。

秋篠宮紀子妃殿下が十一年ぶりに懐妊したとのニュースが日本全土に配信される。 長兄に男子が出来ぬなら、作って見せようの気構えかどうかは別にして、皇室典範事案の帰趨が大問題になっている矢先の懐妊である。

このことが万々歳でないことは、美智子皇后が突然体調を崩されたことからも察することが出来る。

馬鹿なマスコミは、目出度さ一色の報道を繰り返すが、目刺しの頭も信心からと言う事態になるやも知れないのである。

日本には、触れれば血が出る、死人が出ると言われる世界が三つあった。 同和、総連、それに菊の紋所である。 特に菊は、タブー中のタブー、同和・総連が小泉改革で崩壊しても、菊に関しては批判めいたことが何一つ言えないという風潮がまかり通っている。

だから今回は、署名投稿で秘中の秘、禁断のエリアに踏み込んでみた。 その場を与えてくれた、論談編集者に礼を言いたい。
http://www.rondan.co.jp/html/mail/0602/060208-3.html


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まあ、天皇家は近親相姦で精神薄弱の家系になってしまったから、天皇家とは全く異なる血を持った(?)秋篠宮が天皇になった方がいいんですけどね。紀子さんが被差別部落出身(?)だというのも面白いしね。

詳細は


被差別部落出身の有名人は?・yomi.mobi(部落出身者は、大和民族の誇りを思い出し、在日・米国と手を切るべきです)
http://www.asyura2.com/11/lunchbreak45/msg/860.html


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65 : 宛櫛[] : 投稿日:2004/01/26 15:53:00ID:AZVihGut [1/1回]

天皇家の障害児をあげるのよ。おほほほほほ

・常陸宮(顔からして火星人)

・島津貴子の息子(白人女と結婚させた)

・紀宮(脳ではなく、顔に障害) ほほほほほほほほほほお


67 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/01/27 09:04:00ID:zmHhSGYm [1/1回]

俺が拾ってきた猫はあまりに顔がブサイクだったので紀宮と命名しました。

今も皆に「紀ちゃん」と呼ばれて元気に暮らしてます。
http://www.logsoku.com/r/rights/1073388229/

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明治天皇が、種なし寸前だったため、また交配相手の側室も天皇家の女性だったため、ほとんど障害児しか産まれませんでした。正室にいたっては、まったく出産できてません。
大正天皇も、知恵が遅れてましたが、なんとか育ったため天皇即位までもっていけました。

大正天皇の奥さんは、健康で皇室と血縁のない、かなり若い人が選ばれました。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1353053733

117 名前: 日本@名無史さん 投稿日: 02/03/11 20:04

ではこの辺で大正天皇がどうしてアホになったか説明しましょう。

確か同じ年同じ月(同じ時期)、大正天皇候補が2人いたんだよね。

一人は明治天皇の胤で柳原愛子のおなかの中にいた大正天皇候補1。
もう一人はやはり明治天皇の胤で某女官(名前忘れた)のおなかの中にいた大正天皇候補2。

結果的に柳原愛子のおなかにいたほうが大正天皇になったわけだが、もう一人のほうは柳原愛子派の九の一忍者により始末されたわけだ。だから当然柳原の方も敵にいつ殺されるか判らない精神不安ていな状況下でこっそり大正天皇を生んだわけ。

この頃一条勝子が明治天皇と女官の間の子を嫉妬して次々赤ん坊の口をふさぎ窒息死させたから柳原愛子としても気が気でなかったのであろう。

かくして妊婦は安静を保って子を産まなければならないのにいつ自分が殺されるかびくびくびくついて大正天皇を生んだため赤ん坊に十分な酸素が行き渡らなかった
ため脳に障害のある子が生まれてきたというわけだ。


まあ、どちらにしろ知恵遅れの家系だから結果も大して変わらなかっただろうなwwww


_____


厳かな雰囲気に包まれた日本の議場、壇上に立つは軍服に身を包み原稿を手にする一人の紳士。

その面前には百人超の議員達、実に恭しく敬礼している。

が、次の瞬間議員たちの間にどよめきが起こる。

というのも壇上の紳士がにわかに原稿をくるくる丸めると、望遠鏡のようにそれを覗き込みながら、辺りを見回し、へらへらとしまりのない笑みを浮かべているのである・・・

お分かりであろうが、この紳士とは大正天皇その人であり、彼は天皇の業務をおよそこなし得ない白痴であった。この逸話は、皇室に関する醜聞がタブーとされる日本において陰ながら語り継がれてきた。

斯様な彼の知的障害は、遺伝性のものであり、明治期以前の歴代天皇家
の近親相姦が原因であった。かつて天皇はごく一部の血縁ある公家としか通婚せず、その血はおのずと濃くなっていった。

こんにちにも、現天皇のいとこもまた軽い知的障害があり、先日の皇太子妃雅子の流産も、胎児に身体または知能に障害があったために秘密裏に人口中絶したのではないかと、まことしやかに囁かれているのも事実である。

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昭和天皇は明治天皇を深く尊敬していたといわれる。日本の近現代史のなかでは特別の理由も示されないまま,この裕仁に限らず天皇家関係者すべてが,そして歴史家たちもごく当たりまえに「大正天皇を軽視し,ときには無視していた」かのような位置づけで,とりあつかってきている。

大正天皇は4人の男子を生んだが本当は「種なし」であったために,前段のように,東久邇宮稔彦のような〔皇族の立場にある女性になぞらえていえば「〈天皇の配偶者:皇后〉を出せる資格がある」とされた皇族の立場にあった〕男性が主に,万世一系の維持のために性的に協力したという話になる。

 明治以降の天皇家の種が断絶していてはまずい。それゆえ,皇室の藩屏たるそれも「皇族のなからその種」を提供し,万世一系の系譜を創作しつづけてきたわけである。

明治天皇自身が何人もの側室(典侍および権典侍といったが,要するに正妻以外の2号以下の妾)をもち,5人の側室に女10人:男5人を産ませた。だが,男子のうち成人したのは大正天皇だけであった。

この大正天皇が〈種なし〉であったために,明治天皇があえて裕仁天皇の種つけをした話もある。


 大正天皇は実際には正妻:貞明〔皇后〕とのあいだで子どもができていなかった。そこで,貞明に子どもを産ませて天皇「後継者:男子」をえようと,東久邇宮稔彦などが代わりにその「人間再生産」の製作作業 [大正天皇も嫌々ながら認めていた自分の配偶者の他者との性交渉] に参与したという筋書なのである。

貞明は,最初に押しつけられた男〔明治天皇(舅!)か?〕を嫌がっていた。それで,裕仁に拒否反応をもっていた(この段落,鬼塚,前掲書,408頁, [ ] 内のみ 422頁)。


 それにしても,裕仁と秩父宮・高松宮・三笠宮の全員が顔つきが違う。

秩父宮の父〔東久邇宮稔彦?〕が貞明の心を射止めていたので,貞明は秩父宮を溺愛した。貞明はそのせいで,裕仁を皇位継承から外し,秩父宮を天皇の座に送りたかった。これを画策したのが山県有朋であった。これはさらにまた,昭和天皇の妃が薩摩藩の血を引く良子に決定されたさい〈色盲〉問題が提起されたひとつの背景である。
http://pub.ne.jp/bbgmgt/?entry_id=2709626


日本のいちばん醜い日 鬼塚 英昭 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%86%9C%E3%81%84%E6%97%A5-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862169


昭和の劇―映画脚本家・笠原和夫
笠原 和夫 (著), スガ 秀実 (著), 荒井 晴彦 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E6%98%AD%E5%92%8C%E3%81%AE%E5%8A%87%E2%80%95%E6%98%A0%E7%94%BB%E8%84%9A%E6%9C%AC%E5%AE%B6%E3%83%BB%E7%AC%A0%E5%8E%9F%E5%92%8C%E5%A4%AB-%E7%AC%A0%E5%8E%9F-%E5%92%8C%E5%A4%AB/dp/487233695X


昭和天皇の出生の疑惑


1 : 日本@名無史さん[] : 投稿日:2007/10/19 19:28:40ID:QjGviBga0 [1/1回(PC)]

大正天皇の第1皇子の昭和天皇の出生に関する疑惑がいろいろ出てきている。
私個人としては昭和天皇(弟3人含めて)の父親は、大正天皇だと思っている。
とりあえず、今まで出てきた疑惑を整理してみると。


まず、笠原和夫の本「昭和の劇」。

この中で、昭和天皇の皇女・照宮成子内親王の舅で、香淳皇后の叔父に当たる東久邇稔彦が、

「大正天皇は子種がなく、代わりに貞明皇后に何人かの男を当てて産ませていった。だから、昭和天皇の兄弟は皆、顔が違う」

と語っていたことを河野司から聞いたと笠原は語っている。
笠原がこの説にかなり確信を持っていたとうかがわせる発言がある。


次に、鬼塚英昭の本「昭和のいちばん醜い日」。

この本には、「昭和の劇」の東久邇稔彦の発言が引用しつつ、「木戸幸一日記」の島津治子の調書から昭和天皇の父親は西園寺八郎だとしている。

また別の歴史家の本には、明治天皇が昭和天皇の父親だとする説もある。


ここで疑問に思うのは、以下の3点である。


1.東久邇稔彦の発言の信憑性

東久邇稔彦は皇室と縁戚関係にあるものの、自分の妻・聡子内親王の兄である義兄の大正天皇とは折り合いが悪く、大正天皇の崩御の際にも留学先から帰国しなかった。
その大正天皇を貶めるため、あえて混乱を招くような嘘をついたのか、戦後の臣籍降下をあれほど熱望していたものの、辛酸を舐めて皇室に怨恨でも持ったゆえの発言なのか。


2.三笠宮誕生の必要

明治時代に貞明皇后は3人の親王を産んで皇統を守ったのだから、大正時代に三笠宮を産む必要はなかったと思われる。なぜ、明治天皇も昭憲皇太后も亡くなった後に子供を産む必要があったのか。
東久邇稔彦の発言から感じる矛盾である。


3.大正天皇の子種なしについての決定的証拠がないこと

大正天皇に子種がないとする証拠は、東久邇稔彦の発言しか見当たらない。
あとは、噂や風説などであり、医学的見地から見た証拠はどこにもないのである。
確かに大正天皇は病弱だったものの、貞明皇后と結婚した当初は健康体であった。
皇族の中にも病弱だった賀陽宮邦憲王のように健康を回復して、子供をもうけたり、伏見宮貞愛親王の嫡子・邦芳王は病気により宮家の存続が危ぶまれ、宮家を継承できず、代わりに兄の博恭王が継いだ場合もある。

原武史は、大正天皇に万が一のことがあった場合、有栖川宮威仁親王が次の皇位継承者であったと語っている。

10 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2007/10/20 16:22:03ID:vGuCDJA40 [1/1回(PC)]

問題なのは三笠宮出生だろ。
なぜほかの兄弟と10年以上も違うのか。

紀子様の場合は様々な事情があって12年間ブランクがあったということはみなわかってるけど。


17 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2007/10/22 19:17:23ID:7W//g5Re0 [1/1回(PC)]

知的障害者の大正天皇が父親だからこそ、あんな出来そこない(裕仁)ができたんじゃないの
http://www.logsoku.com/r/history2/1192789720/

大正天皇
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&hl=ja&v=0mNIQLIhgR8


大正天皇は知的障害者だったんだよ?


497 :日本@名無史さん:2010/03/06(土) 00:34:59

なんか大正天皇のDNAが愛子に出てきたみたいで騒ぎになってるな。


506 :日本@名無史さん:2010/05/22(土) 00:55:27

大正天皇は明治天皇の子でないから、どうでもいいですよ〜
明治生まれの、明治天皇の末子が昭和天皇です。


3 :名無し象は鼻がウナギだ!:2007/01/18(木) 15:06:14

大正天皇の和歌や漢詩や書は、専門家のあいだでは、お世辞ぬきで評価されてるぜ。
・・・・ただ、あの方は、奇行が多かったようだけど・・・・。


5 :日本@名無史さん:2007/01/18(木) 21:17:46

書は確かにうまいよね。


7 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 17:42:16

詔勅の紙を丸めて覗いてたって言うけど、それで知的障害ですか?
そういうことってオレもよくやるんだよね
辞令の紙を丸めて覗いたことあるし


41 :NONAME:2009/10/24(土) 21:36:54 8 :日本@名無史さん:2007/01/19(金) 19:16:16
>>7
ちゃんと巻けてるかどうかを確かめたのをそう勘違いされたと聞いたことある。


12 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 12:21:18

中学校の歴史の授業で、
大正天皇は頭が弱かったので、困り果てた側近が毒殺した
天皇家は途中で朝鮮半島からの渡来人に乗っ取られている
ということを習ったよ。


53 :日本@名無史さん:2007/03/01(木) 23:44:44

厳かな雰囲気に包まれた日本の議場、壇上に立つは軍服に身を包み原稿を手にする一人の紳士。その面前には百人超の議員達、実に恭しく敬礼している。
が、次の瞬間議員たちの間にどよめきが起こる。というのも壇上の紳士がにわかに原稿をくるくる丸めると、望遠鏡のようにそれを覗き込みながら、辺りを見回し、へらへらとしまりのない笑みを浮かべているのである・・・

お分かりであろうが、この紳士とは大正天皇その人であり、彼は天皇の業務をおよそこなし得ない白痴であった。この逸話は、皇室に関する醜聞がタブーとされる日本において陰ながら語り継がれてきた。

斯様な彼の知的障害は、遺伝性のものであり、明治期以前の歴代天皇家の近親相姦が原因であった。かつて天皇はごく一部の血縁ある公家としか通婚せず、その血はおのずと濃くなっていった。

こんにちにも、現天皇のいとこもまた軽い知的障害があり、先日の皇太子妃雅子の流産も、胎児に身体または知能に障害があったために秘密裏に人口中絶したのではないかと、まことしやかに囁かれているのも事実である。


58 :日本@名無史さん:2007/03/03(土) 19:12:31
>>53
「見える 見える よく見える」

世紀の名言だなw


42 :NONAME:2009/10/24(土) 21:41:29

巻けてるかどうかというより、国会の開会の際に巻いてある詔勅の紙をパッと広げて読もうとしたら、上下逆だったため持ちかえて読んだことがあった(ハズカシ)
そのため、それ以降は広げる前に丸めた状態で中をのぞいて事前にちゃんと確認するようにした
その様を見た当時のある国会議員が

「あの馬鹿帝、のぞいて遊んでやがる(プギャー」

と言いふらした。 近年それを裏付ける当時の女官の日記が発見されたらしい


11 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 02:12:48

山県が流したんだっけ、確か


290 :日本@名無史さん:2007/12/09(日) 17:43:36

つうか宮内庁やら政府が隠したいのは山県との確執(と言うより山県によるイジメ)では?

「遠眼鏡」の件がどうであれ「御発語に難あり」とされ赤子の時脳膜炎やったのはもう隠し様が無いし
少なくとも心身共に問題無ければヒロヒトが摂政になる必要は無かった訳で…

山県にすれば自由奔放な嘉仁は御しにくく気にいらない存在だったらしい。
「遠眼鏡」やその他のネガティブ情報は山県の発信と言うのは良く囁かれるところw

因みに山県はヒロヒトの結婚の相手を選ぶ時もイチャモン付けているwww


335 :日本@名無史さん:2008/04/21(月) 12:13:42

真面目な話、思い通りに操れない大正天皇を排除して、昭和天皇に摂政として事実上譲位させるため、山縣有朋らが仕組んだ風説なんだよね。


79 :日本@名無史さん:2007/03/10(土) 02:36:45
>>53
これ名誉毀損だろw特に後半の存命の人物に触れてるとことか
ていうか近親相姦云々いうが、嘉仁は妾腹だったんだが、、、


289 :日本@名無史さん:2007/12/09(日) 04:03:25
>嘉仁
確か生まれた時に脳膜炎にかかりそれが知的障害?に繋がったと聞く。

母親の愛子は先に男女二人を生んでいるがこれも脳膜炎で死んでいるとか。
小学校の過程を14歳でやっとの事卒業したとか。
多動症(極端に落ち着きの無いってことらしい)であったとか。

多動症ってものに付いては奇行が多かったという話に繋がるんだろうが
即位後はかなりのプレッシャーがあったろうし
>>11にもチラっと出た山県との軋轢とかもあったらしい。

ただ堅苦しい宮中より旅行等で外に出て庶民に気軽に話しかけたと言うから息子や父親よりは人間的にはイイ奴だったかもしれんw


…ところで昭和天皇も障害者だったって言う話は出ないのかな?
「脊柱側湾症」という背骨のゆがみだったと思うが、
確かに異常に猫背だったようなw


296 :日本@名無史さん:2008/01/02(水) 08:02:59
>>289
望遠鏡事件。皆を驚愕させました。 <原敬日記


111 :日本@名無史さん:2007/05/25(金) 23:54:18

父親から聞いた話(正しくは曽祖父→祖父→父)だが、

学習院初等科の卒業式の際、大正天皇(当時は皇太子)は卒業証書で折り紙を折れと御付の方に言い、作ってもらった何か(飛行機や兜の類だったと思う)でケラケラ笑いながら遊んでいたという。
当然級友は見て見ぬ振りをさせられ(下手したら退学)、先生は叱るに叱れず(下手したら死刑)、学友の父兄は失笑すら禁止(左に同じ)。
公には写真すら出してはいけなかった。やんごとなき御家の黒歴史。

123 :日本@名無史さん:2007/06/16(土) 11:10:26

漏れの曽祖父、徴兵されて入営した後、近衛兵に抜擢されて明治帝に仕えていたそうなんだ。 曽祖父は漏れが生まれる前に他界していて、直接話を聞いたことがあるわけではないんだけど、曽祖父が、当時、皇太子殿下の身辺警護の任に就いていたときのエピソードを、母より伝え聞いたことがある。

皇太子殿下から、「おまえ、馬になれ!」と命令されて、四つん這いになって背中に皇太子殿下を乗せて、ハイドウドウとやらされたことがあったそうな。
また、皇太子殿下は紙をくるくると丸めて、望遠鏡のように周囲を眺める癖があったそうな。
別に漏れは、大正帝の知的能力がどうこうと言及するつもりはない。
だが、彼と同時代に生きた人間の証言を、ここに、参考材料として提供しておく。


386 :日本@名無史さん:2009/02/20(金) 22:00:53

中学の時に社会科の教師から、
大正天皇の乳母が乳を上げるときに、普通の胸から飲ますのは恐れ多いから乳房に鉛の入った成分の化粧をしてそれで乳を飲んだから大正天皇に傷害があるようになったと聞いたな。


393 :日本@名無史さん:2009/02/27(金) 17:57:08
>>386
俺の中学の時の社会科の教師は
当時、乳母たちが子供を寝かしつけるために睡眠薬を使っており、その影響で脳に障害が残ったのだと言ってた。
明治天皇の子供の多くが早死にしたのもそのせいだと。


396 :日本@名無史さん:2009/03/01(日) 22:39:33
>>393
それがほんとなら当時の上流階級が全滅してるだろ.


423 :日本@名無史さん:2009/08/12(水) 19:50:26

梅の毒が脳に廻ったと、普通に聞いた事があるのだが、


420 :日本@名無史さん:2009/05/31(日) 14:04:52

http://www.yuko2ch.net/mako/makok/src/1243743674806.jpg

1912年8月15日、即位したばかりの32歳の大正天皇と側近たち、
左から、杉孫七郎(子爵、枢密顧問官) , 山県有朋(公爵、元帥), 大正天皇、 
桂太郎(公爵、内大臣兼侍従長)、 村木雅美(男爵・陸軍中将、東宮大夫)

同年7月30日、明治天皇崩御を受け践祚。「大正」と改元した。
3年後の大正4年に京都御所で即位の礼を行なうが、その性格と病状の悪化から「頼りない」「頭が弱い」などという認識が、山縣ら政界の一部での公然とした認識となった。天皇自身、 即位後の急激な環境の変化と、山縣らの冷淡な態度に過度のストレスを持つようになる。


425 :日本@名無史さん:2009/08/13(木) 15:11:11
>>420
いらん口出しして山縣の怒り買ったんだから自業自得


12 :日本@名無史さん:2007/01/20(土) 12:21:18

中学校の歴史の授業で、
大正天皇は頭が弱かったので、困り果てた側近が毒殺した
天皇家は途中で朝鮮半島からの渡来人に乗っ取られている
ということを習ったよ。


374 :日本@名無史さん:2009/01/26(月) 23:48:15

山県が毒を盛らせて大正天皇を暗殺した。


406 :日本@名無史さん:2009/04/13(月) 23:24:32

毒殺です。神道の明治天皇南朝説では、 昭和天皇は、 明治天皇56歳の末子
明治男子なかなか生まれず、江戸入城に際し、徳川警戒し明治天皇の替え玉の
大西という男子らしい〜昭和天皇に早く、 継がせたかったかららしいー

189 :日本@名無史さん:2007/08/23(木) 22:46:04

あの一家馬鹿しかいない。
ブサイクだしね。
日本の恥。


307 :日本@名無史さん:2008/01/10(木) 22:59:25

天皇誕生日に、皇族がお立ち台で勢ぞろいしてるのを見ましたが、全員、見れば見るほど、顔(マヌケズラ)も人格(ボーーーーっとしている)もお粗末な連中ですね!
こんな連中を270億円も払って飼っる日本って、ワーキングプアなんて存在しない、裕福な国ですよね!


350 :日本@名無史さん:2008/10/11(土) 23:10:55

愛ちゃんもショウガイシャでしょ。


319 :日本@名無史さん:2008/02/08(金) 17:50:17

精神薄弱者じゃないのか?


112 :日本@名無史さん:2007/05/27(日) 14:25:10

生まれ持った汚い血筋と、近親相姦の連続のなせる業ですな
池沼がよだれをたらしながら玉座にふんぞり返る、それを崇拝し昆虫の群れの如く付き従う蛮族、まさに野蛮な原始社会w


113 :日本@名無史さん:2007/05/30(水) 20:24:33

大正天皇は明治の第三皇子なんだね。
調べたら、柳原愛子が産んだ子供は帝以外は全員夭折か・・・
で、第一皇子は愛子腹ではないね。
誰が産んでその後どうなったのか?


114 :日本@名無史さん:2007/05/30(水) 23:26:33

>>113明治天皇の第一皇子は稚瑞照彦尊、誕生した日に亡くなった
生母は権典侍葉室光子(長順の娘)光子も4日後に20歳の若さで亡くなった
ちなみにこのお産にシーボルトの娘楠本いねが携わっている

あと明治天皇の皇女4人(全員生母は、園祥子権典侍)は成人して旧宮家に嫁いでる


206 :日本@名無史さん:2007/08/29(水) 03:35:48
天皇は近親相姦に起因する劣等遺伝子を盛った奇形野郎だ


251 :日本@名無史さん:2007/09/26(水) 13:41:31

天皇家は1500年間も近親婚やってたんだぜ?
5代や10代の話ではない。
それでも普通に続いていけるってことだ。


253 :日本@名無史さん:2007/09/26(水) 15:01:46
>>251
 高貴な血筋が要求される皇后の嫡子が天皇になる場合は本当に少ない。


254 :日本@名無史さん:2007/09/26(水) 15:10:16
>>253
歴代天皇の生母を調べたことある?
歴代天皇だいたい半数が皇后腹。
残る半数の母親も、藤原氏や源氏などの公家の娘たちだよ。
天皇の女官となって側へあがるにはそれなりの家柄が求められるからね。
生母が皇后でない天皇であっても、母親が公家の姫である以上、血筋は非常に濃い。
結果的に近親婚である例がほとんどだよ。


257 :日本@名無史さん:2007/09/26(水) 16:25:32
>>254
藤原氏は特に露骨だったね。
血筋的に叔母と甥の関係にあっても平気で結婚させたし。
入内した藤原の姫君たちも、近親婚の影響を受けて「鬼に憑かれた」状態になる人がいたり。


43 :NONAME:2009/10/24(土) 21:44:57

明治帝の息子で皇太子の身分になる男にあてがわれた妻は華族の父親が女中に手をつけて生ませた娘。
母親の出自があまりに低いので、赤ちゃんの頃から豪農に預けられて育った
いわば「野育ち」の娘。
大正天皇が健康で知的で美貌だったら、わざわざ女中を実母に持つ娘を正妻にしなくてもいくらでも美貌の華族令嬢や宮家の姫がお相手になったはず。


194 :日本@名無史さん:2007/08/27(月) 22:46:29

てか、五摂家で年齢がつりあうのが貞明皇后とその姉しかいなかったんじゃない・・・?
宮家に範囲を広げても全員側室腹。
美貌でしかるべき身分の母を持つ鷹司家の姫君(貞明皇后の従妹)などはは年下過ぎる。
年齢が釣り合い美貌でしかるべき身分の母を持つ伊都子妃は大名家の時点で×
おそらく美貌でしかるべき身分の母を持つ岩倉具視の孫も候補にいたが時代が時代なら側室身分なので×


195 :日本@名無史さん:2007/08/27(月) 23:45:42

貞明皇后は、妾にもなれなかった、お手つきの女中の子ですが?


196 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 15:24:15

大正天皇の妃には最初、伏見宮貞愛親王の娘・禎子女王が内定していた。
しかし、健康上の理由から破談となり、健康的な九條節子(貞明皇后)が選ばれ、妃となった。


200 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 16:13:44

明治天皇の皇后一条美子も側室腹。
そもそも、大正天皇自身が側室腹なのに、貞明皇后が側室腹で悪いことは何もない。
大正天皇の生母柳原愛子も、生母の名は公されず、父光愛の正室ではない。愛妾腹であったことは確実。


201 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 19:28:38
>>199
>邸内ではそんなに引け目を感じることはなかったのでは?

その頃の日本は、妾を持つことは合法だったから
公爵の娘を産んだのだから、別邸を構えて堂々と妾生活も送れたはず。
ところが、貞明さんの実母の女中は、出産早々に子供と引き離され、九条家の屋敷から出され、実の娘の貞明皇后とは生涯会わなかったから女中と言う身分は当時の感覚では相当な引け目だったんだろう。


202 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 19:36:45

昭和天皇は、母の出自を恥じていらしたそうですね。
特に英国留学から帰国して以降は。


203 :日本@名無史さん:2007/08/28(火) 21:32:40
>>201
貞明皇后と生母は皇后の誕生日とかにあってるよ ただ皇居は正門から入ることを許さず皇太后になってから大宮御所に住まうようになってから正門から通した
大正天皇とも道実夫妻とともに京都御所で拝謁してる この時浄操院(野間幾子)が道実夫妻より先に馬車に乗ろうとして道実に降ろされた事件?がありそれをみていた侍従かなんかが複雑な気持ちになったらしい


205 :日本@名無史さん:2007/08/29(水) 00:49:10
>>203
昭和帝は遊学先の英国で妾腹の子=庶子とはどういうものか、知ったんだよ。


204 :日本@名無史さん:2007/08/29(水) 00:28:34
>>199
>>201
野間幾子は貞明皇后を産んだとき結構な年齢だったからお褥下がりになったのでは?(貞明皇后以前に道実、範子、籌子を産んでいる)

あと建前上は父の正室が母となるから生母が側室だと生母を母上とは呼べなかったらしい(有名どころでは徳川慶喜側室新村信・中根幸、松平慶永側室糟屋婦志、松平容保側室田代佐久・川村名賀他)
それと道孝の正室宗和子は大正初期まで生きていたはず
http://mimizun.com/log/2ch/history/1169050628/

43. 中川隆[-13724] koaQ7Jey 2018年12月01日 09:22:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21496] 報告

天皇家ではもう知恵遅れの子供以外は産まれないでしょうね:

家柄、血筋を知らないと大変なことになる
子供が生まれると精神異常の子供が生まれるからだ

兄弟、姉妹、親子で子供を作った先祖には奇形が生まれる確率が高い

昔は親や兄弟姉妹間で子供を作ったので奇形が多く、生まれるとすぐに川に流した

今はみやげもの屋に売っているが…
日本でも「こけし」これを漢字にすると「子消し」
生まれるのが殆ど奇形児で川に流し「こけし」として押入れなどに隠していた

だから天皇家のDNAを引き継ぐと大変なことになる
http://uracigoto.blog.fc2.com/blog-entry-246.html

近親相姦だと44%の確率で奇形児が生まれる


竹内久美子さんの『万世一系のひみつ』という本に引用されていたデータによると兄妹・父娘間の近親相姦(血縁度1/2)で生まれた子供161人を調査した所、その内71人に先天的な異常があったらしい。

最も多いのが知的障害で20人。殆どは内臓の奇形とかなのでそれほど深刻な問題ではないのだろうけど、全体の44%が何らかの障害を持って生まれてくると言うのはかなりのリスクだ。

しかもこの調査には精神障害は含まれていないっぽい。年取ってから発症する遺伝病にも近親婚が関係してたりするから実際はもっとヤバイのでは?

ちなみに近親でない場合に奇形が生まれる確率は2%程度。いとこ同士(血縁度1/8)でも16〜22%(通常の10倍)が障害児になるので高齢出産なんかより遥かに危険。

日本では「いとこ婚」が合法だけど近親相姦のリスクを少し甘く見過ぎているのでは?

ブサイクも一種の奇形、障害だと言えるでしょう。日本人には奇形レベルのブサイクがうじゃうじゃいるけど、これは日本人に近親婚が多く、血が濃くなっているのが原因ではないか?

歴史的に混血が多い民族は美人が多いって言うしね。日本人は血が濃すぎて殆どが近親相姦レベルなんじゃないか?www
http://0dt.org/000996.html
http://q.hatena.ne.jp/1150703834


▲△▽▼


近親婚


20 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/01/08 15:21:00ID:VBA8MRuR [1/3回]

近親婚を何十代も繰り返すと遺伝子情報が狂い奇形が遺伝するのが当たり前になるって本当?

インドのカ−スト制度のなごりで同族結婚しかしない部族で部族全員の手足全部の指が4本しかない部族がいるとだいぶ前に人権板のあちこちに書いてあったけど。
あと中国には歯無し部族とかいるらしいね。


23 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/01/08 21:12:00ID:TAU0S6+f
>>20
天皇家に異常児が何人も生まれている上に子供が10数人いるのにすべて夭折したという例も少なくない。

24 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/01/08 21:26:00ID:VBA8MRuR
>>20
>>23
徳川の家系やフランスのルイ王朝も奇形児や精神障害者多いよね。
近親婚は避けなければ。。。。。。

65 : 宛櫛[] : 投稿日:2004/01/26 15:53:00ID:AZVihGut


天皇家の障害児をあげるのよ。おほほほほほ

・常陸宮(顔からして火星人)
・島津貴子の息子(白人女と結婚させた)
・紀宮(脳ではなく、顔に障害) ほほほほほほほほほほお


67 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/01/27 09:04:00ID:zmHhSGYm

俺が拾ってきた猫はあまりに顔がブサイクだったので紀宮と命名しました。
今も皆に「紀ちゃん」と呼ばれて元気に暮らしてます。


99 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/14 20:15:00ID:FL++QAVY
>>65
島津貴子たんのだんなは、イトコよりは血は薄いけど
母親の故長子皇太后のいとこでしたね。


79 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/08 16:43:00ID:fuYMR/aW

>>65大正天皇もやはりそうだったんですかね?

 有明海のムツゴロウが乱獲のせいで狭い地域での交配が進んだ結果、繁殖能力が劣ってしまい数が急速に激減してしまい急遽、韓国産のムツゴロウを放流してるという話を聞いたことがある。
だからトキも300羽くらいの時にすでに純血種は途絶えることがほぼ確定していたそうだ。
あと、シベリアンハスキーが拝金ブリーダーのせいで近親交配が進み、バカ犬化したのは記憶に新しい。

25 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/01/08 22:46:00ID:VBA8MRuR

遺伝子が原因の歯無し一族発見 中国陜西省


 【上海14日共同】十四日付の上海紙、解放日報は、中国の陜西省で一生の大部分を歯なしで過ごす一族がこのほど発見され、上海交通大学生命科学研究所の調査の結果、遺伝子異常が原因であることが分かったと報じた。遺伝子異常で歯なしになることが確認されたのは世界初としている。 
                 
 この一族は陜西省に住んでおり、六代にわたる三百人以上が乳歯が抜けた後に永久歯が生えないため、かゆ状の食事しか取れないでいた。                           
 同研究所で一族の二百人余りの遺伝子を調べたところ、十番染色体の特定部分の異常に原因があることが確認できたという。   
 研究成果は米国の歯科専門誌に発表され、発見者の名前を取って「賀―趙欠陥症」と名付けられたとしている。         
(了)  020114 1355              
[2002-01-14-13:56]

30 : 一事くん[] : 投稿日:2004/01/09 11:02:00ID:j9BVZwrD
>>25

よく部落擁護派の医者もどきなどが遺伝などの事実を隠匿しながらデタラメを並べているけど、事実は意外なところから出てくるね(w


29 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/01/09 10:36:00ID:Uq2KVr0t

昔、みつくち?(上唇が縦に3分割してニワトリのトサカみたいになってる)
の人とか見たことあるけどあれも近親結婚によるものなんでしょうか?


41 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/01/14 04:12:00ID:Flr+yxLx

遺伝子異常で完全に歯が生えないのは優性遺伝子病なのかな。
でないと部族全員が歯が生えないってのはおかしいかなと。

ある狭い村社会の中で1人が遺伝子の突然変異をおこしたとする。
その子は年頃になり村人の1人と結婚し子供を授かる。
こうした極貧の社会では子供は1人ということはないでしょう。
子供が2人ならその内1人が、運が悪ければ2人とも遺伝子病を引き継ぐ。
さらにその子供が・・・。と想像してみたりするけど。

ところで頭蓋骨の発育に異常を及ぼして顔の変形、知能障害、視力障害、『歯』の発育不全などを起こす病気はあるようですね。
クルーゾン病っていうらしいけど。これも優性遺伝子病のようですね。
50%の確率で遺伝するだろうな。

ただ「常染色体性優性遺伝子病」は近親婚には関係ないかも。
この中国の部族は特殊なケースじゃないかな。
例えばもしも漏れがこの中国の部族の1人と結婚すれば子供は50%歯が生えないわけだし。
ただ、似たようなことは日本でもあったよ。
ただし家畜の話ですが。人間の集団は聞いたことない。


42 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/01/14 04:40:00ID:Flr+yxLx

近親婚による遺伝的な病気は「常染色体劣性遺伝子病」が多いようですよ。

例えば両親それぞれ46本ある染色体のうち常染色体(44本)の第9番目の染色体に原因遺伝子「a」、正常遺伝子「A」があったとします。
両親は正常遺伝子「A」がある為両親は発症しません。
この場合両親とも保因者(キャリア)と呼ばれるそうです。
両親共々の原因遺伝子を引き継いでしまうことによって子供だけが発症します。

子供の常染色体第9番目のこの遺伝子の組み合わせは

1 A(母)A(父)→AA(子)でセーフ○  
2 A(母)a(父)→Aa(子)で保因者(発症はしない)△
3 a(母)A(父)→aA(子)(Aaと同じ)で保因者△ 

4 a(母)a(父)→aa(子)原因遺伝子2つを受け継ぎ発症×

この場合25%の確率で生まれてくる子供は劣性遺伝子病を発症するようです。
常染色体第9番目では『先天性筋ジストロフィー』が、第6番目の染色体であれば20台半ばで発症する『若年性パーキンソン氏病』があるようですね。
後者は患者の87%が近親婚(いとこ婚)だとか。他にもいろいろあるでしょうね。

何で近親婚だと危険度増なのかは長すぎるのでここいらで。


46 : ちんこ。[] : 投稿日:2004/01/15 18:17:00ID:hEwZMDgE

近親相姦にはリスクよりもはるかに高い確率で優秀な子どもが産まれるそうで…
もちろん自分は近親婚なんて絶対にしたくないけど、進んでしたがる人がいてもおかしくないなぁって思う。


45 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/01/15 17:44:00ID:ijmXiGPm


自分の知り合いの親戚に、部落出身の女性と結婚した人がいるんだと。
その女性は、乳首がなく(しかし胸の膨らみはちゃんとあるそうな)生まれてきた子供はテンカン持ち(旦那の方の親戚には居ない)なのだとか。
もちろんその夫の方は、結婚するまでその女性に乳首がないのは知らなかったのだそうな。

やはり近親関係が代々続くと、そういうことも起こりやすいのでしょうかね。

47 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/01/15 18:21:00ID:YMYLp+Bi
>>45
てんかんは遺伝病じゃないですよ


48 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/01/15 19:03:00ID:qLaB8toG
>>45
乳リンもないのかな?
たまに陥没乳頭の人を乳首が無いって言う奴がいるけどそうじゃないの?


51 : 45[] : 投稿日:2004/01/16 11:23:00ID:RJtg41An
>>48

陥没乳首ではないようです。出産後に、乳が生産されるけど出口がなくて、かなり苦労したらしいですし。


50 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/01/16 00:47:00ID:HigIvV/6
>>40
>近親婚にはあまり関係ないかもしれないということですね?

それは正直わからないです。
ただ、歯がない部族のように限られた地域で繁殖を続ければ当然、遺伝子の異常はあるでしょう。

2つの優性、劣性の遺伝子病をあげましたが
封鎖されざるを得ない地域での婚姻をくり返せばその地域住民の遺伝子情報は当然似通ってくるはずです。
両方の遺伝子病を発症するということかな。


59 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/01/25 16:35:00ID:rFwCyc5J

東北の被差別部落とは何も関係ない地域ですが、イトコ婚は普通に行われていたみたい。さらに、ハトコ婚(祖父、祖母の兄弟の孫)なんかも合わせると、かなりの数になる。

昔の武家、公家、ましてや天皇家もイトコ婚、ハトコ婚は普通に行われていた。これは「一族」の結束を固くするために行われていたよう。

60 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/01/25 19:15:00ID:kaUSenAt
>>59
部落ではごく普通にあった父親が娘を犯し続けて子供が出来る例とは意味が違うよ。

78 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/02/08 15:30:00ID:wCn+B56L

部落では近親婚があるというのは聞いたことがある。
しかしスレを読むと閉鎖的な社会では多いことではないかなと思う。

地方が舞台の「開かずの間」の話もそうでしょ。
血を濃くしすぎるのは問題だよね。競走馬じゃないのだからw

80 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/08 17:00:00ID:fuYMR/aW
>>78
我も“開かずの間”聞いたこと。でも近親婚とはちょっと違う。
貧しい農家では次男三男は結婚できず(わずかな畑を分けないため)、もし兄貴が死ぬと血を絶やさないために兄嫁と義理の弟がまぐわったと!
この場合血はつながってないから生物学上はOKなのでは?
倫理上はともかく…


81 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/08 17:30:00ID:7RxTgQLN

あと昔は戦争で死んだ兄貴の嫁を弟がもらったこともあった。逆もしかり。

で、これで出来た子供同士って、義理兄弟でもあり、イトコでもあるわけだが、この場合どうなるんだろう。日本だと一応イトコは結婚できるわけだが。なんか昼の番組の再現ドラマで父が、男の子と母親を捨てて蒸発。外で結婚して娘が生まれるんだけど、大人になった二人が出会って結婚するという。

息子が、嫁を母親に紹介するとき、母親は苗字や父親の名前やその他の情報で、二人が義理兄弟だと知るんだけど、その父親はすでに死んでるんだって。二人が兄妹であることを知ってるのはその母親だけなんだけど、嫁のお腹にはすでに子供がいるとの事。
どーしたら良いのでしょーか、って言ってたなぁ。

本当がやらせか知らんが、日本中探したら、知らず知らずのうちに血縁同士で子供作ってたって例は多いかもね。


82 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/09 18:39:00ID:DrNvHC1R

鼻が特異な形の人(根元が隆起など)をたま〜に見るのだが、やはり血が濃いせいだろうか。
私の知ってる二人はすぐ近くに同姓の家が2〜3軒あるのだが・・・


83 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/02/10 19:12:00ID:9/Mk3glT

血が濃いとなんで劣等遺伝子が表に出てくるの?


84 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/02/10 19:57:00ID:3eMkSUfC
>>83
>>42に書いたのだけど。

その前に優性、劣性というのは別に優れてる、劣ってるという意味ではないよ。
どちらに反応が顕著に出るとかという意味だよ。
反応が顕著に出たほうを「優性」と、それに比べて「劣性」だと。
勘違いする人が多いから最近は「優性」を「顕性」、「劣性」を「潜性」と言い換えてるようだけど。

君の23対46本の染色体とその遺伝子は父親、母親からそれぞれ受け継いだものだから両親と似ていて当然。

それとイパーン人にも君にもどこかの遺伝子に異常があるのはあるのも当たり前。
ただ、発病しないのは正常な遺伝子が「優性遺伝子」として1対片方で働いているから。
ジャンボジェットが片方のエンジンが壊れても飛び続けられることと似たようなもんかな。

ところがね、君がもし遺伝子情報が似ている近親者と結婚してしまうとね。
相手の遺伝子異常がある場所が君と同じである可能性が強いんだよ。
っで、子供がそれぞれ問題の遺伝子である「劣性遺伝子」を受け継いで発病すると。

ついでに、劣性遺伝子病の患者が多いのは日本なんだよね。
まぁ、部落とは関係ないとは思うけど。そう、思いたいね。


85 : メコスジ[] : 投稿日:2004/02/10 22:41:00ID:9/diKUAl

外国でも、農家だと、かみさんが死んだので、妹をもらうというのはあるみたい。イギリスが舞台のテスがそう。
別にイトコ婚でもないから何とも思わないけど。

あと、同姓ってのも、一族という場合だけでなく、地方にいくと、本家はちゃんと名前もらってつけたけど、あたり一帯の貧乏人は、どさくさで同じ名前をおこぼれみたく、付けてる場合もあるからな〜。
由緒ある?平家の落人から付いた名前なら、古くからあるんだろけど、かなりの数の人は、本当最近名字が付いてるし。
ちなみに俺の近所、中学校は半分(笑)は同姓。でも血はつながってるわけでない。


87 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/11 04:08:00ID:GJY9fLRW

イスラム社会ではイトコ婚が望ましいとされているらしい


88 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/11 04:23:00ID:g/pxSY1P

ロスチャイルド家でも近親婚が多いが、これは財産分配により一族の資産が減ることを恐れたためである。


95 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/02/14 04:40:00ID:ufqh0R5n

うちの先祖にもいとこで結婚したした人がいたらしいが、生まれてきた子供は昔ならシラコとかいわれたいわゆるアルビノだったそうで、そんなに長くは生きられなかったそうな。40歳くらいで亡くなったとか。
まあこういう話は一昔前の田舎には珍しくなかった話らしい。


131 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/29 21:09:00ID:YKD+MZIS

アルビノか…これって程度の差はあるの?
なんちゅーか白子っていやあ何から何まで色素がないってもんでも
ないとは思うんだが、中にはそういわれて長生きした人もいるのでなぁ…


132 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/03/01 16:27:00ID:Nz6+kpxj
>>131 
10年くらい前神奈川県S工科大学にチャーリーというあだ名のアルビノの男の子いたけど髪は白でなく茶だった。ただ目に色素ないから光に弱く昼は室内でもグラサンかけっぱなしだった。


110 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/22 16:38:00ID:qgsZGHnG

俺の父親の集落では近親相姦ともいえるような複雑な結婚が行われている(た?)。
叔父と姪が結婚したり、叔母と甥が結婚したり。
実際に障碍者も生まれているし。
本当に山奥の集落だから昔からそういうことが行われているのかもしれないけど(信号機が一つしかないw)
周りを見渡せばほぼ全戸が夫婦の親戚という恐ろしい所があります。


113 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/22 19:58:00ID:aIeCyok0

狭いバラックに大人数が暮らしていたため
嫁が妊娠しても誰の子供かわからなかったらしい
旦那が留守のときは平気で親父や兄弟、近所の男がまぐわっていた

125 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/02/25 16:31:00ID:x+4GLwOk

津山30人殺し事件の村って犯人以外にも村ぐるみでまぐわってたと見ていいのかな?
家族関係が複雑になるよね。
はっきり言って誰が誰の子だか分らないわけだよね。
本人たちは実の兄弟だとも知らずに実の兄と妹がまぐわったりってな事も数知れずあったんだろうな。

152 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/03/14 21:31:00ID:lRa8hGwg

でも近親相姦=障○者でもないと思う。例えば伊達政宗の家臣伊達成実も、叔父と
姪との間柄で産まれたし。

159 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/03/15 00:18:00ID:o2R4oq5j
>>152

部落のものは親子が基本。
父親が娘を犯して子供が生まれ その子を父親の私生児扱いにする例がけっこうあったそうだ。
父娘とくらべればいとこ程度はさほど問題にならないと思うよ。


190 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/03/24 20:32:00ID:7XxQozRr

近親相姦で生まれた子どもに近親相姦してるっぽい
色白ってのが


193 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/03/24 23:32:00ID:lIAjrtxF
>>190
昔の部落では当たり前だよん。


199 : 名無しさん@お腹いっぱい。[sage] : 投稿日:2004/03/26 05:05:00ID:ePBJlOu5

近親婚じゃないにしても同じ名字の家ばっかりがあるようなド田舎で幼なじみとできちゃうのは避けたほうがいいでしょう。何代か遡れば絶対親戚です。
一見障害がないようでも遺伝学的にはもう終わってます。
国際結婚をオススメします。いやせめて他県の人と結婚しましょう。

559 : 名無しさん@お腹いっぱい。[] : 投稿日:2004/04/20 02:37:00ID:V/BPaEoe [1/1回]

福岡県のとある部落。
なんかみんな顔が似ているのには正直驚いた。

237 : 42[sage] : 投稿日:2004/03/27 00:27:00ID:AhaneFhR


遺伝子病にもイロイロあるらしいのだけどそのひとつに早齢症の一種とされるウェルナー症候群という病気があるのですよ。時折TVでも報道しますが発祥すると加速度的に肉体年齢が衰えていき大体40代で肺炎で死亡するようです。要するに老衰ですね。

本題なのですが、この病気は世界的にも珍しい病気のようで100万人に1人
が発症するといわれています。ただ、これまでの患者の6割以上が日本人なんですよ。

確かに貧困などの事情による地域では地域外部者との婚姻は難しいかもしれません。
ただ、被差別者も近親婚を重ねることの危険性は牛馬を扱う以上知っていたのではと思うのですが。


239 : 松本治一郎[sage] : 投稿日:2004/03/27 00:37:00ID:ZDBZuQOg [3/11回]
>>237

その手の話は御殿山が詳しいので聞いてくれ。


>被差別者も近親婚を重ねることの危険性は牛馬を扱う以上知っていたのではと思うの
ですが。

これは答えるが
まず、穢多が牛馬の死体を扱っていたのは周知のことだが、
これから近親婚の危険を理解することは難しいと思う。
ただし祖父母の代からの色々な経験で近親婚の危険性は賎民に限らず理解していたとは思う。
ただし賎民には選択の余地はないから同じ集落の者同士でしか生殖活動はできない。
結果としてそうなっただけだよ。

どこかでもあったが、少し前までは
儀式として父親が娘を犯すという風習が残っていたくらいだしな。


241 : 真正B[] : 投稿日:2004/03/27 00:47:00ID:YyT6xeqx [1/6回]

>儀式として父親が娘を犯すという風習が残っていたくらいだしな。

(・∀・)オマイオモロイ!


243 : 松本治一郎[sage] : 投稿日:2004/03/27 00:51:00ID:ZDBZuQOg [5/11回]
>>241

ていうかお前が本物のBなら祖父母に聞いてみな。
大っぴらに残っていたのは奈良県だよ。
http://www.logsoku.com/r/rights/1073388229/

▲△▽▼


【近親婚】☆★ 近親相姦 ★☆【近親婚】


335 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/08/08(水) 17:37:15.08 ID:dzBWrIuh0

血族婚が続いた故の弊害だな
障害を持って産まれる人、身体及び精神を病んでいる人が多い
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/rights/1248218269/

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/11/29(月) 22:41:19 ID:97w0ScBB0

地主とか近親婚姻とか多いと本人から聞いた。
近親相姦に関しては、韓国とかシンナーや珍、覚せい剤、麻薬などに関係する人間だという認識。
というかそれも事実に聞いたことある。


167 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/16(水) 20:16:19 ID:UGPBcoGu0

地主の人間は、近親婚姻が多い。


162 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/01/22(土) 20:49:03 ID:CfM3H4iK0

同じ苗字が密集部落は、近親相姦 近親婚姻で FA。
鳩山前首相の父親は近親婚で出来た子供だって、本当?


213 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/10/10(月) 11:34:21.90 ID:n8ZLfaQ00

いや、近親相姦なんて普通だって
信長と妹のお市も近親相姦してたしな
チンチンとマンコと性知識があれば、どの兄妹でも近親相姦する可能性はあるよ


304 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/04/26(木) 20:42:28.50 ID:ryqTG4Hn0

近親婚繰り返してると、アルビノとか生まれたりするんだよね。
ウサギみたいに真っ白で目の赤い…


30 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/05/07(木) 22:40:05 ID:5fNhjna/O

私の知人にも親が近親者同士だったのがいるよ。母とその兄弟が両親だったって。

身体的特徴は足が左右で長さがちがう → 歩くとビッコを引く。
顔の長さが悪い事考える時は縮む → クシャおじさんみたいに短くなる。
頭が弱い → 儲け話しにすぐ乗って騙される。

名古屋市○○区から金銭貸借で逃亡。三重県出身らしいよ。
やっぱり血が濃いと頭は弱いんだね。
こんなのでも一男一女がいるらしい。
よう、生きとるわ、親子共々。


97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/13(金) 01:23:31 ID:8dUXTfwO0

低身長140弱で、極度の老け顔の気の毒な30台女性が同僚。
住所は未指定だが所謂「川向こう」で下駄屋臼屋が数件。
性格は明るい方だが、空気読めないのでうざい。たぶんガチとオモ


47 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/13(土) 17:27:04 ID:c6BgmFej0

いとこ同士でも、気持ち悪いと思う。二人知ってる。
その親(60代)が、そうなんだが、やはり子供の顔が濃い。


280 :名無しさん@お腹いっぱい。:2012/03/24(土) 13:05:57.56 ID:2J5zbc2M0

いとこ同士で結婚するキモイ事を平気でする同和民。
だから、何らかの遺伝病を持っている。
ガン家系、精神疾患、体が異常にデカイ、異常に小さい、等等。


52 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/18(木) 01:25:45 ID:jTmXnxBZ0

この前読んだ部落対談って言う本で読んだけど、
近親相姦ばっかりして山奥に追い出された一族とかもあるみたいだね。

村人A「あの山に住んでる○○という一族は近親相姦ばっかりしておる・・・
気持ち悪いのう」
村人B「ああ、だからあいつ等みんな同じような顔しとる・・・近づきたくないのう・・・」


53 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/18(木) 03:41:49 ID:Heiqkq/V0

歯の話で思い出したが、ドイツに留学した歯科医の人知ってて、その人がドイツで聞いて、ドン引きしてた話。
ドイツ人の歯科の教授が、なにやら各民族の遺伝子的特性の流れを調査する為のプロジェクトにちびっと参加して、各民族のアゴの骨のデータを調査してたらしいんだが、 その人がDNAサンプルから特性把握する人と会った時に、その人がドン引きしてて、 「どしたの?」って聞いたら、

 「韓国人の一家を一単位として家族のDNAサンプル取って調べてたんだが、
  どう考えても"父+娘"と"母+息子"の組み合わせで生まれたとしか思えない
  サンプルがワラワラでてきて・・・」

ふう、真の闇をマジで見たよ。


164 :名無しさん@お腹いっぱい。:2011/02/09(水) 04:06:16 ID:KJC6BeN30

韓国の試し腹が有名
近親相姦の風習国家。
宮崎の橋本さんも実際に、試し腹をカンコックで経験されて、その事実を述べられています。


【試し腹】△初夜権
http://yomi.mobi/read.cgi/society3/society3_korea_1122658102


55 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/18(木) 05:57:24 ID:5iPMSLLBO
>>53
やっぱりな…
なるほど…
納得、納得って感じかな、だから前頭葉に欠陥が有る訳だw
医学的根拠が有るなら間違いないなw


56 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/19(金) 00:30:51 ID:6xTf1WbA0
>>53
確か、ダッポクしたアンミョンチョル氏が北朝鮮の強制収容所の実態を書いた本
があったよ
その中に、近親相姦(確か、姉と弟)している家族を見つけてしまい、
「いつもやっているのか?」と尋ねたら
「はい、私達は、欲情したらこうするほかないのです。」と答えられたそうな
衝撃的な本だった

遺伝子地図では、そこまでわかるんだね?


57 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/24(水) 03:20:23 ID:IS4FsJA+O

夫婦って顔が似るって良く言われるジャン。
だけどそれも余りにも似すぎている夫婦ってひょとして・・・と

とある地区近くの健康の湯でくつろいでいたじーさん・ばあさん見てたら思ってしまった。


58 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/25(木) 11:37:06 ID:BTnEE5QQO

野村夫妻ゞ


118 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/08(火) 21:21:34 ID:rayG6rhh0

近親相姦とかやってる椰子の結納写真を見たことあるけど、ヤクザ雑誌に載ってる内々の婚姻を公明正大にする結納写真と同じなんだよ。
特にひどいのだと何代近親相姦続けたか知らんが顔全く一緒の夫婦というキモいのもある。
そしてこういう夫婦は、戸籍詐欺とかやって捕まりそうになったら男装した妻に出頭させて夫が逃走する時間稼ぎとかしょうもないことやるからますます世間から隔絶されるのだ。


62 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/27(土) 09:23:36 ID:BzKQ2fSCO

近所に住んでいた おじいさんとおばあさんが いとこ同士だった

息子が兎口で小さいときに手術したそうで唇から鼻にかけて傷跡があった
兎口なだけで頭脳明晰(大学の教授だった)


65 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/28(日) 00:53:06 ID:xyQ04R/cO

近親関係だと口元に特徴が出るのかい?


63 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/27(土) 18:23:18 ID:RtuC7paw0

ミツクチは、500人に1人だっけ?そんなに珍しいものではなさそうだよ


64 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/27(土) 18:54:00 ID:OXISMgyZO

近鉄南大阪線に乗るとロンパリやコビトやジョンイルみたいな顔のJKや馬みたいな口元の人を見てしまうんだが。


67 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/28(日) 12:10:59 ID:VFB4+3hfO

最近街ん中ではミツクチ珍しいよ
大概手術してるからわかりにくくなってるだけ
産まれたて赤ちゃんのミツクチはキモイ


68 :63:2009/06/28(日) 13:45:31 ID:2wErXDy20

大人のみつくちは見たことないよ。
幼児か赤ん坊の頃に手術するからじゃないかな?

近親婚で口元に特徴が出るのかどうかは知りませんが、顔の造りや体型は、瓜二つ
では?
旦那がちびで、いとこでもある妻もちびなら子供は間違いなくちびとか。

一家全員160センチ以下という、いとこ婚の家族は、顔もほぼ同じ。
息子なんて、成長期に細胞は成長したがっているんだろうけど、遺伝子が邪魔しているという感じだった。 身長は伸びず、筋肉ばかり横へ広がる感じ。

確か、ネパールかその辺りでは、深刻な嫁不足で、3人兄弟に1人の妻なんて、普通らしい。
毎晩、誰かしらの相手をしなくてはならず、子供が出来ても誰の子か、わからないそうだよ。
3人兄弟の父親、つまり、義父も参加してくるらしい。
あれ?近親相姦とはちょと違うかな?


69 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/06/28(日) 20:33:51 ID:PL23/anOO

↑乱婚・雑婚といわれるもの


70 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/07/03(金) 15:55:00 ID:fSgAmzeBO

何らかの理由で周囲から生殖隔離している集落ならすぐに親戚だらけになるから、イトコ婚を無くせば相手を選択する余地がほとんどなくなっちゃうんじゃないか?
あと、家財の分散を防ぐために親戚同士で結婚というのもあるだろうね。

とはいえ法律婚可能な範囲でも近親婚を繰り返せば、下手をすれば一代限りの兄弟婚よりもリスクが高いなんてこともありそうだ。


83 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/08/11(火) 09:54:24 ID:8lHvgMFy0

仏教で言う畜生道とは近親相姦のことである。
また、牛や豚を意味することもある。


91 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/10/29(木) 21:30:13 ID:SseOf15X0

近親婚で子供を作るのはやめてくれ!!
俺の祖父母は親せき同士で結婚しやがった
親が高齢の時に生まれた親父がADDと思われるような症状がある
そんな俺もおれも親父が高齢の時に生まれて、高機能自閉症を患ってる
本当に学生時代は人間関係に苦労したし、人並みのことができないから就職すると本当に苦労の連続

同じ町内に父娘同士で子供を二人作ったカップルがいた
その子供の一人は明らかに知的障害を患ってるし、残る一人も発達障害っぽかった
近親婚はしたかったら勝手にやればいい、だが子供は作らんでくれ!!
子供はほしいだろうが、生まれる子供のことをよく考えてほしい


99 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/14(土) 22:47:02 ID:yCBujUI70

やんキーはきれいな子も多いけど、近親相姦のおかげだよな。
(親の親の・・・代かもしれんが)
おんなじ数だけ、ブサイク病弱も産まれるという理解でおk?


122 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/15(火) 21:52:17 ID:JuJrO0TO0

もれの近所、父母 姉妹2人の4人家族の話し。ちなみに200戸余りの新興住宅地。
おねぇちゃんは背も高くてめちゃきれい。今は都会に出ている。
が、妹はダウン症。いまは3人仲良く倹しく暮らしている。


123 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/12/22(火) 21:54:58 ID:mWzlz03+0

巫女の血を引く家系かもしれんな。
それこそ神様と婚姻してもいいほどの超美人1人を頂点として侍女やら小姓やら取り巻き一族が沢山付いてくるような感じの今となっては社会にそぐわなくなった古い血筋なのかもしれん。
中国やアジア奥地の村なんかだといまでもこういう血族が近親婚で集落つくってるのが残っとるんだが、日本の場合は国策で廃村に追い込んで村人は都市に流入したのだった。 理由は赤軍の潜伏先見ればあれですが。


96 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/10(火) 20:40:10 ID:yScEslMP0

自分たちは古代からの特殊な血を受け継いだ優良種でそれを守っているという認識が部落民の一般人に対する優越感の根底にあるからな。
土着系の呪術的風習を捨てられない人たちに多いのだが未だに親や同和頭の決めた相手と近親そかーんしている。九州とか離島とか中央集権支配の届きにくい場所でほそぼととって感じで。


98 :名無しさん@お腹いっぱい。:2009/11/13(金) 23:36:31 ID:TYBUozCa0

古代社会では血を濃くする目的で近親婚してたようだが現代の社会モラルに背を向けてこそこそ近親相姦する連中ってそんなにメリットあるとおもってんのかね。血を濃くして卑賤民のリーダーとなりうる子をつくるとかいっても十数年たたないと結果のわからない博打みたいだもんだろうに


127 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/01/12(火) 19:43:00 ID:qqhY6yGa0

穢多の人たちのオカルト的習慣によると近親相姦して血を濃くすることに意味があるらしいだ
なんでも同和電波の感度が上がるとかなんとかという理由なんだけどこんな古代人みたいなことするのがよっぽど重要だから人里離れた場所でこそこそ近親相姦に励んでいるのだろう。


129 :名無しさん@お腹いっぱい。:2010/04/28(水) 20:40:31 ID:5O9zOHs30

中上さんも、高貴な血と何回も書いているし。
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/rights/1241434742/

44. 中川隆[-13720] koaQ7Jey 2018年12月01日 23:39:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21517] 報告

「古事記に学ぶ日本のこころ」 馬渕睦夫 〜天と地を結ぶ日本人の力〜 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=xcQ1sp6fV2g


2018/12/01 に公開

いつもの馬渕大使とは一味違う、ライブ感あふれるメッセージ!
物質欲、金銭欲で支配されるグローバリズム的な生き方を、私たちは祓い除け、伝統的な日本人の生き方を取り戻す必要があるのではないでしょうか。世界の人々もそこに注目しています!
そして、グローバリズムとナショナリズムを共存させる知恵とは何か?日本人の力が問われています。

45. 中川隆[-13720] koaQ7Jey 2018年12月02日 00:07:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21523] 報告

馬渕睦夫『グローバリストが恐れる日本の底力』
◉講演「新嘗のこころ」第2部(グローバリズムとは共産主義である) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=YoH3GG3WiAc&index=2&list=PL7MaEu9i584cGqauRwWXCapXVTxom8dDT

今の天皇一族=グローバリスト

46. 中川隆[-13725] koaQ7Jey 2018年12月02日 00:42:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21532] 報告


馬渕睦夫「古事記と現下の世界情勢」


2016年5月のG7伊勢志摩サミット

・各国首脳が伊勢神宮で感じた何か
・静謐。自然。平和。調和。といった言葉を彼らは記帳した


▲△▽▼


神道の世界観を外国人に語ろう 2018/07/29
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201807/article_5.html


 日本は古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術が同居する「ワンダーランド」。


■1.各国首脳の神宮「参拝」

 平成28(2016)年5月、「先進国首脳会議」、通称「サミット」が伊勢志摩で開催され、各国首脳が伊勢の神宮を「参拝」した。外務省は当初、日本以外の参加各国はキリスト教国のため、「参拝」ではなく「表敬」として、神道色をできるだけ消したいと考えていた。

 ところが、参加国の方から「日本に合わせたい」「日本の伝統文化を味わいたい」ということで、事実上の「参拝」の形式を取ることの了承を申し出て来たそうだ。

 内宮御正宮から出てきた各国首脳の顔は太陽の明るい光に照らされて、喜びと感激に溢れていた。各国首脳は次のような言葉を記帳した。一部だけを引用すると:

「日本の源であり、調和、尊重、そして平和という価値観をもたらす、精神の崇高なる場所」(フランス・オランド大統領)

「平和と静謐、美しい自然のこの地を訪れ、敬意を払うことを大変嬉しく思う」(イギリス・キャメロン首相)

「幾世にもわたり、癒しと安寧をもたらしてきた神聖なこの地を訪れることができ、非常に光栄に思います。人々が平和に理解し合って、共生できるよう祈る」(アメリカ・オバマ大統領)


■2.人間は自然の主人か、同胞か?

 これらの感想に共通するキーワードは「平和」である。確かに深い木立の中にひっそりと立つ白木造りの内宮の姿は平和そのものである。私見では、キリスト教文明には自然と共生していく、という思想はないように思う。人間は自然を支配するか、近代文明が自然を破壊し始めると、今度は自然を「保護」するか、という関係でしかない。

__________

 日本には、「山の神様」もいらっしやれば、「海の神様」もいらっしやいます。
 太陽の神を「お天道様」、先祖を「ご先祖様」、礼会のことを「世間様」と呼び、敬いを欠かしません。いかに日本人は、日本という共同体国家・社会のなかで、自然と人間のDNAが共生しているのかというあらわれでしよう。[1, 807]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

__________

 その一方で、キリスト教は主である神という絶対的な存在によって、人類は動かされます。『旧約聖書』にも『新約聖書』にも、絶対的な神は、姿だけでなくその名前すら現しません。
 自然や人間は、あくまで唯一の神の下で一神教である神が「造りたもうた」ものであり、人間は自然を管理する義務を負っています。
 天と地、海や川、人間や植物や家畜、そのすべてを神が創り、全知全能の神として創造します。(『旧約聖書』・「創世記」)[1, 807]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 山村明義氏の『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』[1]での比較である。山村氏は神職の家系に生まれ、20代から30代にかけて全国の神社約3万社に参拝し、約3千人の神職と語り合って来たという。タイトルから想像できるように、この本の動機は、神道の世界観、人生観を外国人にも広く訴えていきたい、という事である。

 神道的世界観では、人間も自然も「神の分け命」であり、同胞でとして共生している。現代科学は、人間も動物も植物も、同じ構造の遺伝子を持っていることを明らかにしており、同じ命から発生したものと見なす。これは神道的世界観に近い。

 それに対して、キリスト教では人間は自然と同じく神に作られた存在ながら、「自然を管理する」義務を負う。いわば、羊飼いと羊の関係なのである。

 深い神宮の森の中にひっそりと立つ白木の本殿を見た各国首脳が、キリスト教的な人間と自然との対立緊張関係ではなく、人間と自然とが睦み合うような共生関係を感じとったことは想像に難くない。それを各首脳は「平和」として表現したのではないか。

 地球環境危機が人類全体の前に立ちはだかる中で、人間が「自然を管理する」自然観よりも、「人間と自然が共生している」という自然観の方に共感を抱く人々が、欧米においても増えている。


■3.全体主義か、自由民主主義か

 自然と人間が共生しているように、人間同士も共生していると神道では考える。そこでの共生の本質を山村氏は次のように指摘する。

__________

神道は「多神教」でありながら、一柱一柱の神様の動きはあくまで「自由」で、
「平等」の存在になります。[1, 1392]

 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 共生とは、生きとし生けるものが自由かつ平等の中で、主体的に協力していく世界である。一木一草も、鳥も魚も、そして人間も、自由平等に生きている。

 万葉集には少年の防人から天皇まで身分の区別無く、男女の差も無く、人の真心を素直に歌い上げた歌が平等に取り上げられているが、それはこの万物が自由、平等に生きている、という神道の世界観が基底にあるからだろう。

 これに比べると、唯一万能の神がすべてを取り仕切るというキリスト教的世界観は、独裁と服従という全体主義モデルに近い。神道の自由と平等の多神教世界は、はるかに現代の自由民主主義と親和性の高い世界観なのである。


■4.性悪説か、性善説か

 しかも、神道的世界観においては、人間は神の分け命であるから、当然、その性は善である。時に個人的な欲望に駆られて悪をなすこともあるが、それは禊(みそ)ぎや祓(はら)えで水に流すこともできる。

 これに対して、キリスト教の原罪説では、人間は性悪なものと捉え、だからこそ神にすがる必要があると説く。万能の神がなぜ人間を性悪に作ったのか、とは戦国時代にキリスト教に触れた我が先人たちが抱いた疑問であるが、その疑問は現代の日本人にも依然、答えられない。

 先般も弊誌[a]で紹介したように、最先端の大脳生理学では利他心は集団生活を必要とする人類が進化の過程で得た本能であると考えている。神道的世界観で育った日本人には当たり前のように思えるこの学説も、性悪説が支配するキリスト教国で唱えるのは、かなり勇気のいる事のようだ。


■5.統制経済か、自由市場経済か

 生きとし生けるものが自由、平等に生きていると言っても、各自が自分勝手にバラバラに生きているわけではない。例えば、農民は大地を耕し、川から水を引いて水田を作り、そこに苗を植え、その苗が太陽の光を浴びて、稲が育つ。

 川から流れ込む水は川床からの養分を運び入れ、田んぼの中では藍藻類が空気中の窒素を固定して、土を豊かにする。その水の中にはオタマジャクシが住んでいて、枯れ草や藻などの有機物を食べて分解し、稲が吸収しやすい栄養分に変える。[b]

 このように、生きとし生けるものが個々バラバラではなく、それぞれが「処を得て」互いに助け合って生きている。人間どうしも同じである。米を作る人、村から町に運ぶ人、店で売る人など、人それぞれが「処を得て」互いに助け合い、社会全体を支えている。

 生きとし生けるものは、決して万能の神が設計し創造した機械の歯車ではない。それぞれが人体の各器官のように、自由平等に、かつ、主体的に協調し合って働いているのである。神の設計のもとで動く歯車では共産主義の統制経済に近いが、万物が処を得て自由に働く姿は、自由市場経済に通じている。


■6.宇宙は時計仕掛けか、生成発展するものか

 古事記では、最初の神が現れた時、「大地はまだ若く、水に浮く脂(あぶら)のようで、海月(くらげ)のように漂っていて、しっかりと固まっていませんでした」[3]と説く。

 そこから、神々が国土を作り、その上で人々が田を作り、水を引く。神や人や万物が力を合わせて何事かを生みなすことを、神道では「むすぶ」と呼ぶ。男女が結ばれて、家庭を作り子をなす。農民が土や水などと力を合わせて作物をなす。

「むすび」の「むす」は、「うむす」が縮まった形で、「うむ(産む)」と同じく、「物の成り出づる」ことを言う。「むすこ」「むすめ」「苔むす」は、この意味である。「び」は「ひこ(彦)」「ひめ(姫)」など、「物の霊異(くしび)なるをいう美称」である。したがって、「むすび」とは万物を生成する不思議な働きを指す。[2]

 この「むすび」に示されるように、神道の世界観では世界は生成発展するものであり、人間もそのプロセスに参画する。

 これに対して、キリスト教では唯一絶対神が宇宙を創造し、あとは人間も自然もその「時計仕掛け」の一部として運動を続けるのみである。この世界観では生物が勝手に進化するという進化論は受け入れられない。今でもアメリカでは42%の人々が「神が今の人間をそのままの形で作った」と信じている。[4]

 人間の努力も与(あずか)って世界が生成発展するという神道の世界観は、人類が科学によって自然法則を発見し、それを応用して新たな技術を生み出すという技術革新を後押しする。

 経済学者ヨーゼフ・シュンペーターはイノベーションが経済発展をもたらすことを主張したが、そのイノベーションとは既存の要素の「新しい結合」であると考えた。異なるものの「むすび」が新たなる生成発展をもたらすという神道的世界観と同じである。

 技術革新は日本企業の強みであるが、それはこの「むすび」の考え方が後押ししているからと考える。特に現場の作業者一人ひとりまでが「改善」に参加するという日本の製造業における「改善サークル」「改善考案」は今や、世界の製造業のグローバル・スタンダードになりつつあるが、その根底にあるのも、人間が世界の生成発展に参画する、という神道の考え方だろう。


■7.神道的世界観の中で生まれた幸福と責務

 こうして見ると、現代のグローバル社会における環境運動、自由民主主義、大脳生理学、自由市場経済、技術革新などのトレンドは、みな神道的世界観と親和性が高いことが判る。

 逆にキリスト教的世界観と、現代文明はきわめて相性が悪いことが見てとれる。考えて見れば、キリスト教が支配した中世から訣別して始まったルネサンスや宗教改革が西洋近代の出発点となった。

 そこから産業革命、自由民主主義、自由市場経済、ついには現代の「リベラル」にまでつながってくるが、この点に関して、山村氏は田中英道・東北大学名誉教授の『日本人にリベラリズムは必要ない』から、こう指摘する。

__________
 もともと「リベラル」そのものが伝統的な「反キリスト教」から始まり、政治思想的には17世紀の「キリスト教からの自由」で始まったイギリスのジョン=ロックに始まり、経済的にはアダム=スミスから、心理学的にはフロイトから始まったといわれているからです。[1, 1146]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 西洋近代は、キリスト教との戦いの中で「キリスト教からの自由」を訴えざるを得なかった。しかし、それを追求する過程で、キリスト教が支えていた宗教的道徳も失うことになってしまう。その結果の「神なき近代文明」が現代人から安心立命を奪ってしまった、と言えるのではないか。


■8.古いものと新しいものが同居するワンダーランド

 山村氏は外国人観光客数十人に「日本の良いところはどこですか?」とアンケートで聞いたことがあるという。

__________
 その結果を見ると、50%以上の外国人が、「日本には、古いものと新しいものが共存し、同居しているところ」と、答えていました。
 古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術がなぜ同居するのか。また、日本人は新しいものを好む傾向があるのに、なぜ古いものを残そうとするのか。
 日本人にとっては、神社以外にも仏閣や古い家屋の残る日本の当たり前の風景ではありますが、外国人から見れば、日本は「なぜか古いものが残っている」ということが、「ワンダーランド」に見えてしまうのです。[1, 827]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 外国人、特にキリスト教徒から見れば、「古いもの=キリスト教」、「新しいもの=現代文明」で、両者は基本的に相容れないところがある。しかし、日本では「古いもの=神道」であって、それは以上述べたように、現代文明を包摂し、より良き方向に導く力を持ったものである。

 神道的世界観は現代文明の自由化、民主化、技術革新などを肯定しつつ、自然や共同体の中で共生し、より良く生きる道を教えている。そのような世界観の下で生まれた我々日本人の幸福をよく噛みしめつつも、外国人にもその世界観を共有する責務を我々が担っていることを知るべきだろう。

 昨年の訪日外国人客数が28百万人を超え、政府は2020年には4千万を目標としている。神道的世界観を世界に共有するには絶好の機会である。

 しかし、神道は言挙げよりも、まずは自然の美しさ、有り難さを感じとる処から始まる。そのためには、各国首脳が神宮参拝で感じとったように、まずは我々日本人がこの美しい国土を大切にし、それの姿を見て貰うことが出発点だろう。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(1071) 最新科学が解明する利他心の共同体
 人間が進化の過程で獲得した利他心を最大限に発揮しうる仕組みをわが国は備えている。
http://blog.jog-net.jp/201807/article_3.html

b. JOG(707) 農が引き出す自然の恵み
 農業はカネでは計れない価値を自然から引き出す。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h23/jog707.html

c. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/

__________
■伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』に寄せられたアマゾン・カスタマー・レビュー
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー1位(H28/6/30調べ) 総合19位(H28/5/29調べ)

■評価★★★★★ 日本に誇りが持てるようになります。(Tatchyさん)
 
 この本を読めば日本人が受け継ぎ発展させてきた世界に誇る日本の文化や伝統、国民性・・・(その他もろもろ)が深く理解できるでしょう。
 特に神道と仏教が融合された独自の宗教観には感銘を受けました。(やや神道寄りに書いていますが)

 西洋や中東のような上から目線の一神教と異なり神は身近にあり労働も生殖も祝福される事であった事などは日本人の勤勉さや弱者や子供を助ける精神に繋がる事がよく分かり素晴らしいと思いました。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 山村明義『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』★★★、ベスト新書、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4584125708/japanontheg01-22/

2. 竹田恒泰『現代語古事記: 決定版』★★★、学研パブリッシング、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4054050751/japanontheg01-22/

3.平凡社『神道大辞典 全三巻合本』(Kindle版)桜の花出版、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B01FQFSNIY/japanontheg01-22/

4. Gallup「In U.S., 42% Believe Creationist View of Human Origins」
https://news.gallup.com/poll/170822/believe-creationist-view-human-origins.aspx


▲△▽▼


天皇制は廃止しても全く問題無いですが、大嘗祭は弥生時代以降ずっと伝えられてきた大切な儀式なので死守しないといけないのですね。

儀式を後世に伝える為には、定期的に、太古から伝えられているやり方そのままに完璧に再現するしかないのです。

少しでも手抜きしたらもう二度と太古のやり方を再現できなくなってしまいます:


コラム 式年遷宮に見る技術継承と技術者確保
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1233c20.html


 2013年は日本を代表する神社の一つである三重の伊勢神宮で20年に1度の式年遷宮が行われ、多くの参拝客が訪れました。「式年」とは定められた年を意味し、「遷宮」とは新しい社殿を造って御神体を遷すことをいいます。

 伊勢神宮の式年遷宮は飛鳥時代の690年に始まり、約1,300年の歴史を有します。戦国時代に中断された時期はありましたが、現在に至るまで20年ごとに内宮・外宮の正殿等、正宮・別宮の全ての社殿と御装束・神宝の造り替えが繰り返し行われ、2013年は第62回目の式年遷宮を迎えました。社殿には檜の素木造りで堀立柱と萱(かや)の屋根等を特徴とする「唯一神明造(ゆいいつしんめいづくり)」という日本最古の建築様式が用いられており、当時から変わらぬ姿を今も見ることができます(図表2-3-56)。

 
図表2-3-56 正殿(内宮)


 神宮には内宮・外宮ともそれぞれ東と西に同じ広さの敷地があり、20年ごとに同じ形の社殿を交互に新しく造り替えます。この造り替えによって生じた古材は、可能な限り再利用されています。例えば、内宮と外宮の正殿の一番太い柱である棟持柱は、削り直したうえで、神宮の表玄関である宇治橋の内側と外側の鳥居として20年間利用され、その後は三重県亀山市の「関の追分」と桑名市の「七里の渡」の鳥居としてさらに20年間利用されています。このほかにも、古材は内宮・外宮の摂社・末社の修繕・造り替えに使用されたり、全国の神社に無償で提供したりしています。

 また、遷宮にかかる費用については、古代には朝廷、鎌倉時代には鎌倉幕府、江戸時代には徳川幕府、明治以後戦前までは政府によって賄われてきましたが、戦後は伊勢神宮が民間の宗教法人となり政府の手を離れ、以降は国費の投入はなく伊勢神宮の自己財源により賄われています。今回の遷宮による事業費は約550億円と公表されています。

 遷宮がなぜ20年に一度と定められたか、その理由には諸説ありますが、その説の一つに「技術継承説」があります。

20年という期間は、当時の寿命でも2度は遷宮に携わることができ、初めて遷宮を経験する次世代の技術者へ技術を継承していくのに合理的であるという理由です。実際に伊勢神宮ではどのようにその建築技術が受け継がれているのでしょうか。

第61回式年遷宮が行われた1993年から、第62回式年遷宮が終わる2016年までの伊勢神宮の技能者の雇用状況と作業内容について概要を見ていきます(図表2-3-57)。

 
図表2-3-57 伊勢神宮が雇用している技能者の推移と作業内容


 式年遷宮は正宮の遷宮が終わった後に別宮の遷宮があるため、2年間は約160名の技能者の雇用が続きます。別宮の遷宮終了後、若手や技能優秀者30名ほどを神宮の常勤職員として残し、その他の技能者は解散となり、以後12年間、30名の技能者は摂社・末社の修繕・造り替え等を行います。

 本殿の遷宮終了後15年目に、次の遷宮のための木材加工が始まりますが、この頃から作業量や進捗に応じて全国から技能者を雇い入れていきます。この時、遷宮を経験している30名が新たに参加する技能者の教育を行います。この20年の周期によって、多い人で3回の遷宮に携わることができます。

 特筆すべき点としては、最低限技能を伝承するのに必要な技能者(30名)を遷宮終了後も常勤職員としてその雇用を確保していることです。一方で、ピーク時に雇い入れる技能者は、特に宮大工のみを採用しているわけではなく、一般の大工等を採用した後に必要な技能を教育しています。このことは、中核となる技能者を継続雇用し維持・更新業務に従事させることによって技術力が維持されているゆえに可能となっているといえます。

 このように、伊勢神宮の式年遷宮においては、次回の遷宮を見越して、人材の確保(ピーク時に向けた弾力的な雇用)と技術伝承(中核的な技能者の雇用維持)の取組が実践されています。社会インフラの維持管理・更新の担い手不足が大きな問題となっている昨今、1300年前から続いてきたこの仕組みから学ぶべき点も多いのではないでしょうか。

 
図表2-3-58 社殿造営の様子


(参考文献)
 伊勢神宮式年遷宮広報本部公式ウェブサイト http://www.sengu.info/index.html
 (株)野村総合研究所「NRIパブリックマネジメントレビュー(2011/4月)」
http://www.mlit.go.jp/hakusyo/mlit/h25/hakusho/h26/html/n1233c20.html


47. 中川隆[-13722] koaQ7Jey 2018年12月02日 01:12:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21532] 報告

秋篠宮が異例の発言。「大嘗祭」は宗教的ゆえ国費支出べきでないと、国民に。新たな皇室の姿か( 日本がアブナイ! ) 2018-11-30


 今朝、一番ビックリしたニュースは、秋篠宮が来年の皇位継承に伴う伝統儀式「大嘗祭」の費用について、公の場で意見を述べたことだ。(゚Д゚)

 皇族は、政府の支出する予算に関しては、政治的な発言に当たるおそれもあるため、基本的にクチを出さないものが通例なのであるが・・・。<今回も問題になるかも。>
 秋篠宮はちゃんと憲法上の「政教分離」の観点から、皇位継承に伴う伝統儀式「大嘗祭」は宗教的な儀式に当たるものなので、政府の費用を支出すべきでないと主張したのである。(@@)

 しかも、宮内で主張していたのに、聞く耳を持ってくれなかったので、自分の誕生日の会見の場を使って、思い切って国民に直接、自分の考えを伝えようとしたのだ。(**)

<もともと皇室の儀式や行事の多くは、その歴史から考えても、神道にのっとった宗教的なものが多いのだけど。以前から、あまりに宗教的な色彩の強い儀式は、国事行為として政府のお金を使うのではなく、宮廷内のお金を使うべきではないかという意見が出ていたのだ。
 特にこの大嘗祭については、議論が続いていたらしい。詳しくは*1に>

* * * * *

 正直なところ、mewも含めて、おそらく国民の多くはふだん、何の費用がどこから支出されているなんて、ほとんど考えないと思うのだけど。よく考えれば、それはとても大切なわけだし。<しかも、皇位継承に伴う儀式は、億、十億単位のものが多いしね。^^;>

 今上天皇ご夫妻も、皇太子ご夫妻も、できる限り、皇室、宮中に関する行事は質素に倹約をしてという方針をとられてきたように思うのだが。
 秋篠宮も、それを受け継いで、政府、宮内庁が宮中行事に何となく、半分、どんぶり解釈、どんぶり勘定で済ませようとしていることにも一石を投じようとしているのではないかと・・・。

 そして、もうすぐ新天皇に代わる中、もっとオープンでスリム化した新しい皇室のあり方を実現しようとしているのではないかと感じた。(・・)

<しかも、天皇や皇太子が言いにくいことは、自分が言って、国民に伝えようと考えているのかも。>

* * * * * 

 mewは、あまりネトウヨのブログを読むことはないのだが。何かネトウヨ界の中では、今上天皇ご夫妻も、皇太子ご夫妻は、伝統的な皇室のあり方を踏襲せず、本来あるべき皇室の姿を壊したものとして、批判されているものも少なからず見られる。

 それに対して、秋篠宮夫妻やお子様方は、そのようなネトウヨにも好評らしく・・・。
 彼らこそが、日本の国体としての天皇家を再興してくれると。女性天皇が誕生するのを防ぐために、男の子をもうけてくれた日本の救世主的な存在だと賛美しているのさえ見たことがある。(・o・)

 それゆえ、今回の秋篠宮の発言には、本当に驚いたのであるが。もし秋篠宮が父である今上天皇の後押しを経て、兄の新天皇と共に、新しい皇室作り、オープンでスリム化した皇室作りに・・・もちろん、何より日本の平和主義を大切にする守る皇室の継続にて努めて行きたいと考えているなら、mewは、応援したいと思う。(**)

 逆に、もしかして秋篠宮信奉の強いネトウヨや皇室オタにとっては、今回の発言はちょっとショックな出来事になるのかも知れない。^^;

『秋篠宮さま、大嘗祭支出に疑義「宮内庁、聞く耳持たず」

 秋篠宮さまが30日の53歳の誕生日を前に紀子さまと記者会見し、天皇の代替わりに伴う皇室行事「大嘗祭(だいじょうさい)」について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」と述べ、政府は公費を支出するべきではないとの考えを示した。この考えを宮内庁長官らに伝えたが「聞く耳を持たなかった」といい、「非常に残念なことだった」と述べた。

【写真】記者会見する秋篠宮さまと紀子さま=22日、東京・元赤坂の秋篠宮邸、代表撮影

 記者会見は誕生日当日の30日に報道されることを前提に、22日に行われた。政府が決定した方針に、皇族が公の場で疑義を呈することは異例。秋篠宮さまは来年5月の代替わり後、皇位継承順位第1位で皇太子待遇の「皇嗣(こうし)」となる。

 大嘗祭は、新天皇が新穀を神々に供えて世の安寧や五穀豊穣(ごこくほうじょう)などを祈る儀式。1990(平成2)年に行われた前回の大嘗祭では、国から皇室の公的活動に支出される公費「宮廷費」約22億5千万円が使われ、「政教分離に反する」という批判は当時から根強くあった。政府は今回も、儀式に宗教的性格があると認めつつ、「極めて重要な伝統的皇位継承儀式で公的性格がある」として宮廷費を支出する方針を決めた。前回を踏襲して同規模の儀式を想定しているが、人件費や資材の高騰で費用が増す可能性もある。

 これに対し、秋篠宮さまは天皇家の「私費」にあたる「内廷会計」で賄うべきだと述べた。遺産や国から支出されている内廷費などだが、使途は天皇家の裁量で、通常の宮中祭祀(さいし)にも使われている。

 秋篠宮さまは「身の丈にあった儀式」にすることが本来の姿、とも述べた。前回の代替わりでも同様の意見を述べていたといい、今回も宮内庁の山本信一郎長官らに「かなり言った」というが、考えてもらえなかったという。

 山本長官は直後の会見で「聞く耳を持たなかったと言われるとつらいが、そのようにお受け止めになったのであれば申し訳ない」と話した。一方、天皇陛下からは即位関係の諸儀式などは皇太子さまとよく相談して進めるよう伝えられているといい、「ご理解を頂いて進めている」としている。(多田晃子、中田絢子)


     ◇

 〈大嘗祭〉

 新たに即位した天皇が1代に1度限り行う重要な儀式。稲作農業を中心とした古代社会の収穫儀礼に根ざしたもので、7世紀の天武天皇の大嘗祭が最初とされる。中核の「大嘗宮(だいじょうきゅう)の儀」では、新天皇がその年に収穫された米などを神々に供え、自身も食し、五穀豊穣(ほうじょう)や国家安寧を祈る。今回は来年11月14〜15日に予定。このために皇居・東御苑に大嘗宮(前回は建設費約14億円)が新設され、儀式後に解体・撤去される。(朝日新聞18年11月30日)』  

『秋篠宮さま53歳 大嘗祭「身の丈にあった儀式に」代替わり行事でご見解 眞子さまご結婚延期にご言及 

 秋篠宮さまは30日、53歳の誕生日を迎えられた。これに先立ち、東京・元赤坂の宮邸で秋篠宮妃紀子さまとともに記者会見に臨み、代替わりに伴う大嘗祭(だいじょうさい)について、国費ではなく、天皇ご一家の私的活動費「内廷会計(内廷費)」でまかなうべきだとし「身の丈にあった儀式」とすることが「本来の姿」との認識を示された。政府決定と異なる見解を皇族方が明らかにされるのは異例。

 長女の眞子さまのご結婚延期に関しては、婚約内定相手の小室圭さん(27)側に対し、母親の金銭トラブルなどを指摘する報道を念頭に「相応の対応をするべきだ」とし、多くの人が納得する状況にならなければ、婚約にあたる納采(のうさい)の儀を行えないと述べられた。眞子さまのご結婚延期について、秋篠宮さまが公の場で発言されるのは初めて。


 秋篠宮さまは会見で、大嘗祭について「絶対にすべきもの」とする一方で、「ある意味の宗教色が強いもの」と言及された。その上で、政教分離を定めた憲法上の問題から、国費ではなく「内廷会計で行うべきだ」との見解を示された。こうした意見は宮内庁の山本信一郎長官にも伝えたが「聞く耳を持たなかった」とも述べられた。

 政府は来年11月の大嘗祭に関し、皇室行事とするものの、皇室の公的活動費「宮廷費」(国費)を充てた平成の代替わりを踏襲することを決定している。山本長官は秋篠宮さまのご発言に対し、大嘗祭のあり方が決定済みであることを踏まえ「かねての持論を述べられたもの。政治的な発言ではない」と述べた。天皇陛下からは、即位関連儀式は皇太子さまと相談するようお話があったといい、「(皇太子さまには)理解をいただきながら進めている」としている。(産経新聞18年11月30日)』

* * * * *

 各界からの反応は・・・(麗澤大学の八木教授は安倍ブレーンの超保守派の人ね。)


『首都大学東京 木村教授「もっともな発言」

 秋篠宮さまの発言について、憲法学者で首都大学東京の木村草太教授は「もっともな発言だ。前回の大嘗祭のあと、最高裁が大嘗祭には宗教性があるという判断を示していて、政府は来年の儀式の在り方について、前例の踏襲に終わらず、もっと慎重に検討すべきだった」と述べました。

そのうえで、「皇室の行事について、皇室の一員として述べられたもので、政治的な発言とまでは言えないが、秋篠宮さまがここまで踏み込んだ発言をしないといけない状況だと認識されていることに強い衝撃を受けた」と話しています。

 麗澤大 八木教授「真意くみ取れない」

 秋篠宮さまの発言について、憲法学者で麗澤大学の八木秀次教授は「大嘗祭は宗教的性格を有するが、憲法に定められた皇位継承を行ううえでの重要な儀式であり、皇室の私的行事とはならない。国費から支出することに問題はなく、議論も尽くされていて、何を懸念されているのか真意をくみ取れない」と述べました。

 そのうえで、「予算の使い方について公の場で言及されたものであり、皇族による政治的な発言とも言え、決して無視できるものではない」と話しています。

元判事 園部さん「やむにやまれぬお気持ちに理解」

 秋篠宮さまの発言について、最高裁判所の元判事で、皇室制度に詳しい園部逸夫さんは「皇族が内閣で決めたことに記者会見の場で意見を述べられるのは、喜ばしいことではないと思うが、宮内庁に話してもなにも変わらない中で、皇室にもこんな意見があるのだと知ってもらいたいという、やむにやまれぬお気持ちも理解できる」と述べました。

そのうえで、「これをきっかけに大嘗祭の費用の在り方について議論が広がる可能性もある」と話しています。(NHK18年11月30日)』

 そして、ここから政治家や識者(特に超保守派ね)や国民からどんな反応が出るのか、と〜っても楽しみなmewなのだった。(@@)

         THANKS


大嘗祭めぐるこれまでの議論

平成の「大嘗祭」は、戦後の新しい憲法のもとで初めて行われ、政教分離の原則との整合性をめぐって、さまざまな議論が生じました。

一部の学者や市民グループは、大嘗祭は神道に基づく宗教的儀式で、政府が関わるのは信仰を助長することになり、政教分離を定めた憲法に違反すると主張しました。

そのうえで、実施する場合は国事行為でなく、皇室の私的儀式とすべきで、費用は天皇の生活費などに充てられる「内廷費」から支出すべきだという意見が出されました。

政府は有識者から意見を聴くなどして、大嘗祭の位置づけや予算措置などについて検討を進めた結果、「宗教上の儀式としての性格を有するとみられることは否定することができず、国事行為として行うことは困難だ」とする見解をまとめました。

そのうえで、「一世に一度の極めて重要な伝統的皇位継承儀式であり、皇位の世襲制をとるわが国の憲法のもとにおいては、その儀式について国としても深い関心を持ち、その挙行を可能にする手だてを講ずることは当然と考えられる」として、費用は皇室の公的な予算にあたる「宮廷費」から支出することが妥当だとしました。

これに対し、反対する学者や弁護士などが集会を開いて抗議の声を上げ、各地の住民から国費を支出したことや知事などが参列したことが憲法違反だとする訴えが起こされましたが、いずれの裁判も訴えられた国などが勝訴しました。

そうした中、平成7年の大阪高等裁判所の判決では、訴えを退けたうえで、「国費の支出は、国家神道を助長するような行為として、憲法に違反するのではないかという疑いは一概には否定できない」と指摘しました。

来年の大嘗祭について、政府はことし2月の式典準備委員会で、前回の政府見解やこれまでの司法判断を踏まえて検討を行い、その後の閣議で前例を踏襲することを決めています。

大嘗祭めぐるこれまでの議論 (NHK18年11月30日)

平成の「大嘗祭」は、戦後の新しい憲法のもとで初めて行われ、政教分離の原則との整合性をめぐって、さまざまな議論が生じました。

一部の学者や市民グループは、大嘗祭は神道に基づく宗教的儀式で、政府が関わるのは信仰を助長することになり、政教分離を定めた憲法に違反すると主張しました。

そのうえで、実施する場合は国事行為でなく、皇室の私的儀式とすべきで、費用は天皇の生活費などに充てられる「内廷費」から支出すべきだという意見が出されました。

政府は有識者から意見を聴くなどして、大嘗祭の位置づけや予算措置などについて検討を進めた結果、「宗教上の儀式としての性格を有するとみられることは否定することができず、国事行為として行うことは困難だ」とする見解をまとめました。

そのうえで、「一世に一度の極めて重要な伝統的皇位継承儀式であり、皇位の世襲制をとるわが国の憲法のもとにおいては、その儀式について国としても深い関心を持ち、その挙行を可能にする手だてを講ずることは当然と考えられる」として、費用は皇室の公的な予算にあたる「宮廷費」から支出することが妥当だとしました。

これに対し、反対する学者や弁護士などが集会を開いて抗議の声を上げ、各地の住民から国費を支出したことや知事などが参列したことが憲法違反だとする訴えが起こされましたが、いずれの裁判も訴えられた国などが勝訴しました。

そうした中、平成7年の大阪高等裁判所の判決では、訴えを退けたうえで、「国費の支出は、国家神道を助長するような行為として、憲法に違反するのではないかという疑いは一概には否定できない」と指摘しました。

来年の大嘗祭について、政府はことし2月の式典準備委員会で、前回の政府見解やこれまでの司法判断を踏まえて検討を行い、その後の閣議で前例を踏襲することを決めています。
https://mewrun7.exblog.jp/27690394/

天皇の継承、即位の儀式は、1年にも及ぶ長い期間に渡るものです。
大嘗祭は、その一連の行事として行われるものであり、行事の中心は即位の礼であります。
次に今生天皇の即位の礼、大嘗祭の日程を紹介します。

1990年(平成2年)

1月23日 賢所・皇霊殿・神殿に期日奉告の儀、伊勢神宮・天皇陵等に勅使発遣の儀
1月25日 伊勢神宮・神武天皇・前四代天皇陵奉幣の儀
2月8日 斎田点定の儀
8月2日 大嘗宮地鎮祭
9月27日 斎田抜穂前一日大祓(悠紀田:秋田県南秋田郡五城目町)
9月28日 斎田抜穂の儀(悠紀田)
10月9日 斎田抜穂前一日大祓(主基田:大分県玖珠郡玖珠町)
10月10日 斎田抜穂の儀(主基田)
11月12日 即位礼当日賢所大前の儀
同日 即位礼当日皇霊殿・神殿に報告の儀
同日 即位の礼・即位礼正殿の儀 ※国事行為
同日 即位の礼・祝賀御列の儀(オープンカーでのパレード) ※国事行為
同日 - 15日 即位の礼・饗宴の儀 ※国事行為
11月13日 園遊会・内閣総理大臣夫妻主催の晩餐
11月16日 伊勢神宮に勅使発遣の儀
11月18日 一般参賀
11月20日 大嘗祭前二日御禊・大祓
11月21日 大嘗祭前一日鎮魂の儀・同大嘗宮鎮祭
11月22日 大嘗祭当日神宮に奉幣の儀
同日 大嘗祭当日賢所大御饌供進の儀
同日 大嘗祭当日皇霊殿・神殿に奉告の儀
同日 大嘗宮の儀・悠紀殿供饌の儀
11月23日 大嘗宮の儀・主基殿供饌の儀
11月23日 - 25日 大饗の儀
11月24日 大嘗祭後一日大嘗宮鎮祭
11月27日 - 28日 即位礼・大嘗祭後神宮に親謁の儀
12月2・3・5日 即位礼・大嘗祭後神武天皇・前四代天皇陵親謁の儀
12月3日 茶会
12月6日 即位礼・大嘗祭後賢所・皇霊殿・神殿に親謁の儀
同日 即位礼・大嘗祭後賢所御神楽の儀
12月10日 天皇陛下御即位記念祝賀会


※ 秋篠宮が言及した 大嘗祭は、この中の一部であり、即位の礼の約10日後に行われています。

なお、即位礼正殿の儀 ・祝賀御列の儀・饗宴の儀は国事行為とされています。
国事行以外は、内廷費から出すべきだと言う秋篠宮の主張です。
http://kenpo9.com/archives/4493

48. 中川隆[-13717] koaQ7Jey 2018年12月02日 01:15:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21532] 報告

天皇制は廃止しても全く問題無いですが、大嘗祭は弥生時代以降ずっと伝えられてきた大切な儀式なので死守しないといけないのですね。

儀式を後世に伝える為には、定期的に、太古から伝えられているやり方そのままに完璧に再現するしかないのです。

少しでも手抜きしたらもう二度と太古のやり方を再現できなくなってしまいます。


▲△▽▼


秋篠宮がこういう事を言う理由は明らかです。

国際金融資本の手先でグローバリストの天皇一族は野暮ったくて手間と時間が掛る面倒な儀礼をやりたくないのですね:


神道や日本古来の文化を憎んでいた天皇一族

カトリック教徒になろうとした昭和天皇


「昭和天皇実録」を読む (岩波新書)

昨年公開された『昭和天皇実録』は、あまり新事実がないという評判だったので興味がなかったのだが、本書を読んで驚いたのは、戦後に昭和天皇がカトリックに改宗しようと考えていた事実だ。1948年には次期ローマ法王とされていたスペルマン枢機卿と面会し、改宗について相談している(当時は単なる儀礼的訪問と発表された)。

これは天皇が「現人神」だとするとありえない話で、靖国神社もカトリック教会に改造しなければいけない。しかし天皇はそういう矛盾を気にかける様子もなく、「こういう戦争になったのは宗教心が足りなかったからだ」と述懐している。つまり彼も、国家神道なんて宗教とは思っていなかったわけだ。

これは退位問題ともからんでいた。天皇自身は退位したいと考えていたようだが、皇太子が未成年なので摂政を立てざるをえない。しかしそれはむずかしいので、天皇は改宗して国家神道を捨て、戦争責任に決着をつけようと考えたらしい。今でも日本の「保守派」には天皇制=国家神道=靖国神社と信じている人が多いが、天皇は信じていなかったのだ。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51969028.html


昭和天皇の発言記録(1946・4〜6)ホイットニー文書


昭和天皇 神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要する。


この文書は、昭和天皇ヒロヒトが占領軍司令部に対し表明した見解の要約が全編にわたり記された、「極秘」扱いの、英文三頁以上にわたるメモランダムである。

1946年4月から6月の間に、東京駐在の国務省員によって作成され、マッカーサーの腹心であったコートニー・ホイットニーの私物として保管された後、1970年代前半にヴァージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に寄贈され、1978年に機密解除されている。


ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】

二、三週間前に占領が長く続くべきであるとの希望を述べた根拠を説明したい。日本人の心には未だ封建制の残滓が多く残っており、それを眼こそぎにするには長い時間がかかるだろうと感じている。

日本人は全体として、自己の民主化に必要な教育に欠けており、さらに真の宗教心にも欠けており、そのため一方の極端から他方の極端へと揺れやすい。日本人の封建的特徴の一つは、進んで人に従おうとする性格にあり、日本人はアメリカ人のように自分で考える訓練を受けていない。

徳川政権は、民は指導者に従うべきであり、そのため忠誠心以外はいかなる道理も与えられてはならない、という論理のうえに築かれていた。かくして、平均的な日本人は、自分で考えることにおいて昔からの障害に直面している。かなり闇雲に従うという本能によって、現在、日本人はアメリカ的な考えを受け容れようと熱心に努力しているが、例えば労働者の状況を見れば、彼らは自分本位に権利ばかりに注意を集中し、本分と義務について考えていない。

この理由は、ある程度、長年の日本人の思考と態度における氏族性に求められる。日本人が藩に分割されていた時代は、完全には終っていない。平均的日本人は、自分の親戚はその利益を追求すべき友人とみなし、他の人間はその利益を考慮するに値しない敵と考えている。

日本人の間には宗教心が欠如している。私は神道を宗教とは考えていない。

それは儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。

しかし、たいていの神道信者は超保守的で、彼らと、神道と超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持っているので、依然として危険な面がある。

政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。

以上のようなことから、私は今は日本人のもつ美点を述べている場合ではなく、むしろその欠点を考える時だと感じている。

私は、マッカーサー元帥と元帥の行っていることにたいへん大きな感銘を受けている。また、対日理事会におけるアメリカの態度にとても感謝し、それが安定効果を持つと感じている。

しかし、私は今、この国の労働状況をかなり憂慮している。日本の労働者は、物事を真似する事において、義務を等閑にして自分の権利を利己的に追求しやすく 、米国のストライキから有害な影響を受けるので、米国の炭坑ストが速やかに解決するよう希望している。

自分の治世に与えられた名前 ―昭和、啓発された平和― も今となっては皮肉なように思えるが、自分はその名称を保持することを望み、真に「煌く平和」の治世となるのを確実にするまでは、生き長らえたいと切に願っている。

私は鈴木(貫太郎)提督の被った損失に心を痛めている。鈴木は、降伏準備のための内閣を率いるよう私が命じたのであり、海軍の恩給ばかりでなく、それは理解できるにしても、文官としての恩給までも失った。

彼は侍従長を長く勤め、そして降伏準備の任務をよくこなした。彼の提督という階級と戦時の首相という地位が追放に該当するのは当然としても、彼は、皇室に仕えていた地位の恩給の受け取りも現在停止されている。私は、鈴木提督個人のためだけでなく、このような価値剥奪が日本人に理解されず、占領軍の利益にも日本自身の利益にもならない反米感情をつくり出すという理由から、不安を募らせている。
http://zenkyoto68.tripod.com/CourtneyWhitney1.htm
http://nueq.exblog.jp/20875307/

▲△▽▼

美智子さまは皇族を全員クリスチャンにさせる使命を与えられていた

やっぱり!! 正田家とGHQの癒着。美智子さま入内を仕組んだGHQ 2016年3月11日
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/b176c669206cae06cadf0d41f5530ed5

今回の記事は、何かあった時のために先の稿と共に、それぞれできる形で永久保存扱いにしておいたほうがよいかもしれません。

皇后陛下とGHQとの癒着の根っこが明らかになりました。

現代の日本における、あらゆる国家弱体化・破壊要素は全て、在日さえ含めてGHQ発です。皇后陛下はGHQ施策の極めて具体的な体現者です。


◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

↑ 国会で美智子さんの出自と、成婚の陰謀、そして皇太子(今上)の不出来ぶりが、厳しく追求された極めつけの史料です。

◆なんと、社会党が支援していた美智子さま

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/113f75c1f2919bd0cc381ceee34452c1

◆皇后陛下は「アカ」でした

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/c1d3f5e7a9593118391c92ad90752bac


かねてより、拙ブログでは正田美智子さんの入内がGHQによる、日本/皇室弱体化施策の一環であることを、推論として検証してきました。

また、余剰小麦粉を敗戦国日本に売りつけたい希望がGHQにあり、そのために日清製粉と結びついたことも。

GHQが日本弱体化のためにプロテスタントとカトリック問わず、キリスト教をそのツールに使ったことは事実です。

そういう意味で、カトリック背景でまた実家が粉を扱い、また一説には「ある出自」の美智子様は、満点以上のお后候補ではありました。これ以上望めぬ日本と皇室弱体化・破壊の尖兵候補ではありました。

彼らの狙いは実に正しく、美智子さまは皇室内の伝統を次から次に破壊、現在は天皇陛下を率いた女帝として、 愛子さまを皇太子の次の、皇位継承権者として女性天皇の擁立を強く主張、天皇陛下もそれに従っていらっしゃいます。

他に、朝鮮式挨拶コンスふうの宮中導入、お手振りを天皇より高い位置で、肩並べて歩かれ時には天皇より先に立って歩かれ、天皇陛下が語っていらっしゃる間の低頭廃止を、徐々に巧妙に。また控えめながら自らの思想の披瀝。

日の丸と君が代忌避。自衛隊の制服嫌悪、ということは自衛隊の否定。GHQ憲法ともいうべき現憲法の擁護者であり、GHQメンバーや、一条の会という憲法護持の左翼者との親交他。


20150203.館林の日清製粉ミュージアムと正田記念館内外部CX-535
https://www.youtube.com/watch?v=CA9Nht0Bo30


こちらに正田家と、GHQ派遣のアップルトン女史との密着ぶりが残っています。
女史は館林の正田家をわざわざ訪れています。


当時の敗戦国の国民である日本人が、GHQ関係者を「自宅招待」というのは凄いことでしょう。

正田家は、商売人なので関係はないとはいえ、当時愛国者は軒並みGHQから追放されていた時代です。

外務省内でも、愛国者は追われるか隅に押しやられ、GHQの意向通りに反日を貫く者が出世していた時です。雅子妃の実父小和田恒氏がその筆頭格ですね。

雅子妃の背景を知るにつけ、なぜこのような頭も性格も悪い皮膚病持ちの出自も清らかではないお方が入内を?(おまけに身内に精神病者がいるのに)と不可解だったのですが、結局GHQという大きな潮流の中の、美智子さまから雅子様への系譜と捉えると、クリアに視えて来るものがあります。因縁めくことには、お二方とも日本人の健康破壊に関与した第一第二水俣病に、つながっていらっしゃいます。現代では日清製粉の遺伝子組み換え小麦粉が、日本人の健康破壊。皇后は敗戦時から今まで、日本人の健康破壊者とご縁があります。


野田醤油の工場を訪れたアップルトン女史。右端は日本醤油協会会長・正田文右衛門氏(1948年8月)

正田文右衛門は、正田醤油の創業者です。文右衛門も日本人としては相当に高身長。正田一族、それと母の冨美さんも当時としては図抜けた背の高さ、兄妹共に。ただ一人美智子さんだけが小柄。(当時の日本人としては、 平均ですが正田の中では、一人だけ極端に小さい)


日本本来のものである醤油から、小麦粉への新たな進出。
敗戦国から戦勝国アメリカへの擦り寄りが日清製粉です。

美智子様の入内直前に、国会でその入内ぶりの不可解な動きを追求されています。その一つが新平民、つまり部落出身ということの ほのめかしです。拙ブログではその点は断定していず、保留状態です。

ただ、正田家が新平民ではなくても、母方はどうでしょうね。
正田家が、部落と密着した存在であったことは事実。

美術館には正田家の、家系図まで麗々しく掲げられています。

1873 明治6年12月
・正田文右衛門(三代)醤油醸造創業 ※1

1891 明治24年7月
・帳簿組織を改め複式簿記を採用

1900 明治33年1月
・合名会社正田文右衛門商店設立

1908 明治41年10月
・正田式麦煎機特許取得

1910 明治43年2月
・正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社


この年譜で目を引くのは、「正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社」

「正田稲荷神社」とは?

これは稲荷神社ではなく、白山神社ではなかったかと思うのですが?

なぜ稲荷と書くのでしょう? 白山神社は、部落の人々の信仰対象でした。
(信仰者即穢多非人というわけではありません。)

「目車町」は、皇后を部落の出として書いた被差別部落出身作家の上原善広氏によれば非差別地区だということです。


⇒ 調べました


http://www.shoda.co.jp/knowledg/bunkazai.htm

正田醤油は明治6年(1873年)今から140年前に創業いたしました。
また、正田家が群馬県館林市のこの地に移住してきたのはそれ以前のことで、300年程ここにいることになります。

そのためか、この敷地の中には醤油業をはじめる前のもの、例えば文政11年(1828年)に建てたという『正田稲荷神社』、現在は『正田記念館』として現在にいたるまでの資料が陳列されております嘉永6年(1853年)に建てられた店舗、そして江戸末期にたてられた文書蔵などがあります。これらは全て登録有形文化財に指定されていますが、古いものはなるたけ壊さずに残しておこうという気持ちは以前よりございました。


【正田稲荷神社】
もともと目車町(現・栄町)の鎮守であったが、明治43年(1910年)に正田家が目車町より譲り受けた。

以後、正田稲荷神社として栄町および当社の守護神として祀られている。例祭は2月の初午である。御社と本殿からなり、御社の創建は館林城築城天文元年(1532年)以前といわれるが定かでない。文政11年(1828年)、安政6年(1859年)の2度の再建を経て今日に至る。

・・・・・・・・・・・・ここまで

画像二枚目の神社さんがネットでは「白山神社」として、認識されている祠だと思われますが、いったいなぜ稲荷が白山神社に変貌?

仮説が一つあるとすれば、目車という被差別部落にあった神社さんの移転なので、穢多非人という人たちに多く信仰されていた白山神社さんと勘違いされた?

念のため、白山神社さんの ご神体を調べましたがお狐さんではありません。

更に白山神社は全国に散らばっていますが、そこが全部被差別部落だということではありません。穢多非人の人たちだけの信仰対象でもありません、念のため。

由緒正しいお家柄なら、なぜわざわざ穢多非人村に越していらしたのか?
醤油製造に穢多非人を使った?

しかし「正田神社」と呼ばれるほどの厚き稲荷信仰のお家が、一族根こそぎカトリックに改宗?

何か不穏な気がするのは考えすぎでしょうか。

・・・・・・と書いて、ふと思い出したのですが・・・・


先入観を与えるといけないので、この画像を見て見える人だけどうぞ。
更にオカルト的な話が嫌な人や認めない人は、スルーして下さい。


皇后陛下に現れた数少ない・・・・・皇太子夫妻に比べると少ない・・・・
霊画像に、霊眼が多少ある人が見えるのは、



九尾の狐です。

誰でも視える形ではなく、視える人だけに限定で、むしろよかったです。
わかりやすいと、合成とか気のせいとか言われてうざったらしいので。
なぜ皇后に狐? と霊写真に気づいた時には不思議だったのですが、
お狐信仰のお家でしたか・・・・。
皇后に憑いた霊体の、九尾の狐は瞋恚(怒り)の形相ですが・・・・・。

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/41d4caf989f1ec33423082307330b824

とはいえ、BBの霊眼もさしてあてになるレベルではないので、視える知人に再チェックしていただいたら・・・


こんな感じで、美智子さまの背後にいるそう。BBはこんなに判然と視えるわけではありません。
帽子のデザインも、狐っぽいのは偶然でもないのかもしれません。

霊眼のある知人が更に示してくれたのは、皇后陛下の内面がこういうふうである、と。


一説に半島出自だとも言われる小和田家のように下賤なことはしない・・・・のが正田家だと長いこと言われてきましたが・・・・


もっと下品でした。

美智子さまのご両親様の胸像でございます・・・・


日清製粉会社の歴史を展示している「製粉ミユージアム」内に展示。何の事はない、皇后陛下を間接的にCMガールとして、日清製粉の宣伝ですね。

普通、妻の銅像まで置きませんが。日清製粉にとっては夫妻の娘が皇后陛下だってことで、莫大なメリットです。

こういうところからも商売人の娘は本来、忌避されたのでしょう。
小和田は小和田で、娘の入内を最大限に活用、外務省機密費流用疑惑は不問にされるし、とうとうハーグの判事にまで上り詰めました。

◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

こちらの記事で、国会で正田美智子さんの素性に関して今では考えられないほどの肉薄ぶりで追求、またカトリック(キリスト教徒)たちがよってたかって美智子さんを入内させた「陰謀」について、また皇太子(今上陛下)の不出来ぶりを、仮借ないまでに述べた平井義一議員。

以前も調べたのですが、不可解なほどのその後の動きが解らないのです。

http://www.wikiwand.com/zh-yue/%E7%AC%AC25%E5%B1%86%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%9C%BE%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B8%BD%E9%81%B8%E8%88%89

若くして(34歳)福岡4区でトップ当選の実力と人望と人気。その後も当選すること、5期。第28回(1958年5月)でもトップ。これほどの政治家の、写真すら残っていない、気味の悪さ。美智子さん入内1959年の翌年に落選しています。
5期連続当選のベテラン議員が。


中央が平井義一氏。


1958年 皇室会議で満場一致で正田美智子皇太子妃に決定。これも実は奇妙な話。

国会にすら知られずまずアメリカで発表され、名だたる皇族は全て正田美智子入内に反対していたのが、いきなり賛成派に。昭和天皇の賛成の一言により、とされていますが その昭和天皇はいまだGHQの呪縛の中にあられました。


1959年2月 国会で平井義一議員が正田美智子入内の胡乱さと出自を問い詰める。

その2ヶ月後の1959年、正田美智子入内。

その翌年の総選挙で、今まで5期落選したことのなかった平井義一落選。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E7%BE%A9%E4%B8%80_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)


平井 義一(ひらい ぎいち、1913年3月 – 没年不明)は、日本の政治家。元衆議院議員(5期)Wikiより

国会議員を5期務め、第4次吉田内閣で郵政政務次官に就任、横綱審議委員、日本プロレス協会長などの、華やかなポジションにいた人物の没年が不明?・・・・。

没年不明は行方不明とほぼ同義ではないのですか?

気色の悪い・・・・。⇒ コメント欄に・・・・ご存命だそうです。Wikiの「没年不明」記述はなぜに?

⇒更にコメ欄に。衆議院の広報課に訊いたら、平成19年9月6日にご逝去。

平井議員とは違う意味で、履歴の一部がすっぽり消されているのは、美智子さん入内に直接動いたカトリック神父、ジョセフ・フロジャックです。

足跡はかなり詳しくWiki他にまとめがあるのに、部落布教のために群馬は館林に向かい、そこで布教していた事実だけ全部、過去から抜き取られ、なかったことになっています。

ご本人が著した書物まで焚書されたら、ジョセフ・フロジャック神父が美智子さんの父方祖母、正田きぬさんを一番目の布教者として、それから次々に正田一家をカトリックに改宗させたことも、 「なかったこと」にさせられるのかもしれません。

正田家とGHQの癒着、それにからんだ美智子さんの入内について発信し始めたのは、ひょっとして拙ブログが始発だったかもしれませんが(始発信は誰でもいいのですが)これまで推論の域を出なかったことが更に今回の記事で一歩進めたかもしれません。


朝鮮髪飾り ペッシテンギ


国連女子差別撤廃委が女性天皇を認めよ、そのために皇室典範改正をと、言ってきましたが、もともと現行の皇室典範も戦前のそれから様変わりしたのはGHQ関与だと思います。憲法をいじった彼らが皇室典範放置はないですね。

それまでは皇太子が不出来であったり人望が無かったり、ふさわしからぬ行為がった時は、長男であろうと排除、ふさわしい人物が天皇になっていました。

皇后も目論む女系天皇は論外ですが、どんなアホでも長男なら即位というのも、考えてみればGHQのやりそうなことです。当時の皇太子(今上)はさんざん、GHQによる恫喝と洗脳教育で自虐史観左翼に仕立てていたので、そのまま即位させないと、計画が成就しないわけです。


いまだ日本を敵国としてみなす「敵国条項」のある反日国連とその事務総長、潘基文と癒着している皇太子。そのさぼり妻は国連大学通学には熱心で、 個室が与えられたほど。またその父はGHQの意向に忠実で、要するに反日姿勢で出世階段を駆け上がっています。妹も国連関係。

池田 (小和田)礼子国際連合職員、国連ユニセフ駐日事務所(東京事務所)副代表などを歴任。

そして、売国の宮高円宮の長女と同じく、あの中抜き日本ユニセフに母親と妹が関与。小和田は真っ黒。反日一家です。出自はほぼ間違いなく半島。

そして国連といえば美智子皇后の盟友、ブサヨフェミの緒方貞子。

皇后の、女性宮家の創設で皇后の助っ人をし、一方ですでに在日という難民に苦しめられている日本に、更に難民受け入れを迫る左翼女がいます。

皇后陛下が主張なさり、天皇陛下がそれに追随なさっている「皇太子の系譜の女性天皇」を立てたら、皇統に朝鮮人の血が入り込みます。
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/b176c669206cae06cadf0d41f5530ed5

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世間の噂

秋篠宮文仁  

みなさんこんにちは 

もう皆さんお気づきでしょうが、僕は今上天皇の息子ではありません
(顔立ちを見てもらえば一目瞭然だと思います)

その事で、父や兄や妹から随分ひどい虐めを受けました。
僕の父親は一体誰なんでしょう?(母は頑として口を割りません)
皆さんも一緒に探してください


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「万世一系」  秋篠宮様の種は誰ですか?  美智子妃殿下様
https://www.youtube.com/watch?v=E4g5y1qq4Tw

[不倫]の美智子 「日本の皇室はイイカゲン」
https://www.youtube.com/watch?v=B1EbVre0prI

美智子の不倫  33333    美智子妃殿下
https://www.youtube.com/watch?v=0UikfbuWxg8

美智子妃殿下の「不倫と出産」
https://www.youtube.com/watch?v=pR7JHtPkKfk

美智子のおもてな し「趣味と実益」
https://www.youtube.com/watch?v=nYs_iBmyL6s

美智子皇后様の「不倫・出産・悪事・電動こけし事件」
https://www.youtube.com/watch?v=k_bXPvuWGzQ

80歳まで14年間侍従長を務めた「入江侍従長」
https://www.youtube.com/watch?v=MUqRHN9KV6k

「侍従長と美智子妃殿下」と どっちから誘ったの?
https://www.youtube.com/watch?v=jfLWtOZEj7w


秋篠宮 (文仁) 殿下が、天皇実子でないという噂は、関係各位に根強く伝承されている。

噂の出所は、天皇一族の警護、護衛を主務とする皇宮警察。 皇宮警察と言えば、警察官の中でも選りすぐりの良血者で構成されている機関だが、良血と言っても所詮は田吾作集団。

酒が入れば、口も軽くなり、同期生が集まれば、ここだけの話が、あっちこっちで交わされるのである。

「ここだけの話だが、秋篠宮が、天皇の本当の子供でないってこと、お前知ってるか?」 ここだけの話の一つが、それである。

それが酒席の冗談で終わらなかったのは、それなりのバックボーンがあるからだ。

遡ること四十数年、昭和天皇の后や、后の取り巻き女官たちから陰湿なイジメを受けた美智子妃殿下 (当時) は、精神に深いダメージを受け、那須の御用邸で一人寂しい静養生活を送っていた。


生まれついての貴種である前の皇后にとって、平民出身の美智子妃殿下の一挙一動作がしゃくの種。 子供 (浩宮) の育て方に始まって、手袋の持ち方一つにもアヤをつけたのである。

悩み多き貴婦人の警護を担当していたのが、若き偉丈夫の皇宮警察官。 深い同情が恋情に変わり、いつしか二人は恋に落ちたというのが、まことしやかな警察物語である。

そして、皇太子 (当時) と没交渉の筈の妃殿下に、懐妊のニュースが流れることになる。 

道ならぬ恋の噂は、宮内庁首脳にも届いている。 だからと言って、出産を止める手だてなどあろう筈もない。 そこで代々の宮内庁長官に、一つの言葉が引き継がれることになった。 

「皇位継承者は浩宮の血脈から ・・・」 と、である。

秋篠宮 (文仁) 殿下は成長するにつれ、天皇一族とは明らかに異なる特徴を見せつける。 体型、思想、行動の全てである。 皇太子や、黒田清子さんが、一目で陛下のお子さんだと分かるのに比べ、秋篠宮の体型は似ても似つかぬものがある。


それよりも何よりも、ナマズの研究にかこつけて、タイ女性にうつつを抜かしたり、祖父である昭和天皇の喪が明けぬ内に結婚を決行するといった傍若無人の精神性を露出する。 挙げ句の果てには、兄である皇位継承一位の皇太子を、公然と批判したりするのである。

「文仁殿下は、血の秘密を知っているに違いない」 の呟きが宮内庁首脳から洩れる。

そうとしか理解できぬ異常行動が多すぎるのである。

菊のカーテンの奥に潜む機密事項が、小泉総理にもたらされたのは、今から一年以上も前になる。

雅子妃殿下の病状が思わしくないこと。 おそらく、お子さんは愛子内親王お一人でありましょう。

「だからこそ、皇室典範を改訂し女性天皇、女系天皇への道筋をつけて戴きたいのです」 さもないと、神武天皇以来続いた万系一世の貴種は、今世をもって終焉するかも知れません。万が一にも秋篠宮家に第三子が誕生し、それが男子であったなら ・・・・・・・

流石の小泉も、菊の秘事を耳にして腰を抜かさんばかりに驚いたという。


当時は、郵政政局真っ盛りの頃、政局に破れ退陣するようなことにでもなれば、郵政もさることながら、皇室が大変なことになるのである。

結果、総選挙に大勝し、郵政を片づけた小泉内閣は、早速大事案である皇室典範の改訂に取りかかる。 平沼赳夫のように、小泉憎しで反対音頭を歌うのはどうでも良い。 何としてでも片を付けてみせると決意を固めた矢先である。

秋篠宮紀子妃殿下が十一年ぶりに懐妊したとのニュースが日本全土に配信される。 長兄に男子が出来ぬなら、作って見せようの気構えかどうかは別にして、皇室典範事案の帰趨が大問題になっている矢先の懐妊である。

このことが万々歳でないことは、美智子皇后が突然体調を崩されたことからも察することが出来る。

馬鹿なマスコミは、目出度さ一色の報道を繰り返すが、目刺しの頭も信心からと言う事態になるやも知れないのである。

日本には、触れれば血が出る、死人が出ると言われる世界が三つあった。 同和、総連、それに菊の紋所である。 特に菊は、タブー中のタブー、同和・総連が小泉改革で崩壊しても、菊に関しては批判めいたことが何一つ言えないという風潮がまかり通っている。

だから今回は、署名投稿で秘中の秘、禁断のエリアに踏み込んでみた。 その場を与えてくれた、論談編集者に礼を言いたい。
http://www.rondan.co.jp/html/mail/0602/060208-3.html

49. 中川隆[-13709] koaQ7Jey 2018年12月03日 08:10:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21574] 報告

“佳子さまICU志望”で考えた 皇室とキリスト教はどんな関係? 2014.10.30
https://dot.asahi.com/wa/2014102900074.html?page=1

米国へホームステイに出発する佳子さま(2013年8月) (写真:読売新聞社代表撮影) (c)朝日新聞社 

 秋篠宮家の次女、佳子さま(19)が学習院大学を辞め、AO入試に挑んだことで話題の国際基督教大学(ICU)。結果はまだ公表されていないが、迎えるためにはやはり大学側も、入念に準備するのだろう。

 ところでなぜ、佳子さまと眞子さまの姉妹は、キリスト教精神に基づく大学を選んだのか。天皇は天照大神の子孫とされ、一切の神儀祭事は神道にのっとって実施されている。だが、皇室とキリスト教の関係を調べると、公開されたばかりの「昭和天皇実録」に興味深い記述がいくつか見受けられる。

 まずクリスマスにプレゼントを贈る習慣は、1904年の日露戦争のころにすでに皇室にあった。戦後、A級戦犯が処刑された1948年ごろには、昭和天皇は多くのキリスト教徒と接し、定期的に聖書の講義も受けていたと記されている。

 また、実録ではこんなエピソードを伝えている。皇太子(いまの天皇陛下)が結婚する際、皇太子妃(美智子さま)がミッション系の聖心女子大出身だったことから、「ある皇族の一人がキリスト教に興味を持ったのは皇太子妃の影響」と聞いた昭和天皇が美智子さまに「皇室においてキリスト教の話はしないように」と叱責したというのだ。実はこれらは当時の雑誌が書き立てた噂話で、昭和天皇は「事実でないし、心に思ったことさえなかった」と伝えるよう側近に命じたと実録は記している。

 京都産業大学の所功名誉教授(日本法制文化史)が解説する。

「皇室とキリスト教の関係を、狭い宗教の観点から考えると事実を読み違えるでしょう。明治以降、欧米からさまざまなことを学びながら近代化してきた中で、キリスト教もひとつの西洋文化として、柔軟に受け入れてきたのです」

 その流れは現代まで脈々と続き、眞子さまと佳子さまがICUを目指すことになったのは、何の不思議もないことなのだ。そんな歴史と伝統を受け継ぎながら、学習院という皇室の「殻」を破った佳子さまの新たな青春のスタートが待たれる。

※週刊朝日  2014年11月7日号より抜粋
https://dot.asahi.com/wa/2014102900074.html?page=1

50. 中川隆[-13717] koaQ7Jey 2018年12月04日 04:11:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21628] 報告

秋篠宮が“宗教色”を指摘した「大嘗祭」に秘密の儀式が! 新天皇が寝座のある部屋に一晩こもり…
https://lite-ra.com/2018/12/post-4406.html
2018.12.03 秋篠宮が「大嘗祭」には秘密の儀式が リテラ

    
    宮内庁HPより


 秋篠宮文仁親王(以下、秋篠宮)が、来年行われる大嘗祭について、「宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか」などと公に疑義を呈したことが、大きな波紋を広げている。

 大嘗祭は、代替わりした天皇が初めて行う「一世一度」の新嘗祭であり、皇位継承にまつわる主要儀式だ。今の明仁天皇が1990年11月に行った際には、経費総額約25億円、終われば即座に撤去される儀式用施設「大嘗宮」の建設だけで14億円以上が使われた。当時の政府は、大嘗祭について「宗教上の儀式としての性格」を否定できないとしながらも「公的性格がある」という二枚舌を使って、皇室の私的な費用である「内廷費」からではなく、宮内庁管理の公費である「宮廷費」を投じた。

 来年に予定される大嘗祭についても、安倍政権は宮廷費からの支出を今年4月から閣議決定していたのだが、今回、秋篠宮はその決定に真っ向から反対を表明したわけである。

 誕生日に際した記者会見で、記者から「即位の行事や儀式についてのお考えを」と尋ねられた秋篠宮は、「国事行為で行われるものについて、私が何かを言うことができるかというと、なかなかそういうものではない」と前置きしたうえで、「一方、皇室の行事として行われるものについては、ある程度私の考えというものもあってもよいのではないかと思っています」とし、大嘗祭についてこう私見を述べた。

「大嘗祭については、これは皇室の行事として行われるものですし、ある意味の宗教色が強いものになります。私はその宗教色が強いものについて、それを国費で賄うことが適当かどうか、これは平成の時の大嘗祭の時にもそうするべきではないという立場だったわけですけれども、そのころはうんと若かったですし、多少意見を言ったぐらいですけれども。今回も結局、その時を踏襲することになったわけですね。もうそれは決まっているわけです。ただ、私として、やはりこのすっきりしない感じというのは、今でも持っています」

「今回もそうなわけですけれども、宗教行事と憲法との関係はどうなのかという時に、それは、私はやはり内廷会計で行うべきだと思っています。今でも。ただ、それをするためには相当な費用が掛かりますけれども。大嘗祭自体は、私は絶対にすべきものだと思います。ただ、そのできる範囲で、言ってみれば身の丈にあった儀式にすれば(よいと思う)」

 実は、秋篠宮が大嘗祭について〈「皇室祭祀に公費を支出することは避けるべきではないか」との懸念を宮内庁幹部に伝えられている〉ことは、すでに毎日新聞が8月25日付朝刊ですっぱ抜いていた。しかし、それでも皇族が記者会見という場で、ここまで政府決定と異なる意見を直接的に述べたのは、異例中の異例と言わざるを得ない。

 しかも、秋篠宮は「そのことは宮内庁長官などには、かなり私も言っているんですね。ただ、残念ながらそこを考えること、言ってみれば話を聞く耳を持たなかった。そのことは私は非常に残念なことだったなと思っています」とまで踏み込んだのだ。

 いかに「政教分離問題」を懸念しているかがわかるが、秋篠宮は日頃から代替わり関連の儀式について、天皇・皇后とたびたび話し合いの場を設けているとされる。今回の発言が秋篠宮だけの意見であるとは思えない。

 事実、秋篠宮は会見のなかで「身の丈にあった」という言葉を用いて儀式簡略化への希望をにじませたが、これは、2016年の今上天皇による「生前退位」に関するビデオメッセージともリンクする。今上天皇は崩御にまつわる「殯の行事」を例に、「行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります」と述べていた。

■大嘗祭で秘密の儀式が行われる部屋に寝座=ベットが

 そう考えると、秋篠宮が述べた、“大嘗祭へ莫大な血税が投じられることは憲法の政教分離違反の恐れがある”との指摘は、天皇の意思でもあるということだろう。そして、この指摘は至極まっとうなものである。

 大嘗祭の実相は、単なる「豊作を祝う農耕儀礼」ではなく、明らかな「宗教儀式」だ。明治時代、天皇神格化と国家神道を徹底するために旧皇室典範と登極令をつくり、それまで国民の知らないところでこじんまりと行われていた宗教的な皇室祭祀を大々的に執り行うようになった。

 いや、それだけではない。大嘗祭では、現代を生きる皇族が違和感を抱くのが当然と思えるような、霊的、性的な意味合いをもつ“秘密の儀式=秘儀”の存在が取りざたされてきた。

 大嘗祭は、新たな天皇が皇祖神とされる天照大神(アマテラスオオミカミ)らに穀物を供え、新天皇自らも口にすることで豊穣と国民の安寧を祈る儀式と説明され、半年以上前から、当日にかけて、多岐にわたる儀礼が執り行われる。だが、そのなかに具体的な内容がまったく明かされていない儀式がある。

 それは、本祭の夜、新天皇が大嘗宮の悠紀殿および主基殿に籠ってなされる儀式だ。一般参列者はもちろん報道関係も完全にシャットアウトされたなか、天皇は11月22日夕方から翌23日未明まで、ふたつの殿の内陣に合計8時間にわたって引きこもる。

 このとき、新天皇は供えた新稲をアマテラスと一緒に食す〈共食〉の儀を行うと説明されているが、この共食の儀は、悠紀殿と主基殿で二度繰り返されることを除けば、毎年の新嘗祭と同じだ。しかし、それではどうして大嘗祭が特別な皇位継承儀礼であるかの説明がつかない。

 そして着目されたのが、内陣の構造だ。両殿内部には天皇と神の席がしつらえられており、ここで対座して〈共食〉をすることになっている。ところが、これが中心儀礼の割には部屋全体から見ると片隅に追いやられており、内陣の中心・大部分を占めるのは八重畳(やえだたみ)の寝座、つまりベットなのだ。そしてこのベットを使って〈秘儀〉が行われている、というのが最も有力な説として浮上してきたのである。

 言っておくが、こうした寝座を使った秘儀の存在は、都市伝説として語られているわけではない。神道や歴史学の分野でも本格的に議論されてきたものだ。その先鞭をつけたのが、民俗学の権威で、戦前は国家神道の強化にも多大な影響を与えた折口信夫である。

■折口信夫が指摘した「前天皇との同衾」「性の解放」の儀式の存在

折口は大嘗祭がおこなわれた昭和3年の前後にかけて、自身の天皇論と大嘗祭に関する論考を積み上げていった。それらのテーマを総合的にまとめたが、昭和5年に発表された「大嘗祭の本義」である。折口はそのなかで、寝具を天孫降臨神話で瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)がくるまって地上に降り立ったとされる「真床覆衾(マドコオフスマ)」に見立て、天皇が布団にくるまる儀式の存在を唱えた。そして、これに不可欠な要素として持ち出したのが「天皇霊」という概念だ。折口によれば、〈天使様の御身体は、魂の容れ物〉であり、天皇はその魂(「天皇霊」)を受け入れることで完全な天皇として「復活」する。すなわち折口は、天皇の権威をほかならぬ「万世一系」の「血筋」ではなく、「肉体を入れ替えて復活をとげる霊魂」という超越的存在の継承によって説明しようとしたのだ。

 折口は「真床覆衾」「天皇霊」に付随して、「先帝同衾」という説も唱えている。これは前天皇の亡骸と新天皇の肉体というふたつの〈御身体〉を〈一つの衾で覆うて〉、復活のための儀式を行ったというものだ。折口によれば、古代には生死を明確にする意識がなく、平安期でも生死がはっきりしなかったので、「天皇霊」が前の身体に戻るか別の身体に移るかを確認する必要があった。そのための「同衾」だという。

 折口の説はその後、発展されるかたちで、さまざまな論考を生み出した。その一つが「聖婚儀礼」だ。あけすけにいえば、大嘗祭の夜、天皇による性行為が行われるという説である。大嘗宮の悠紀・主基両殿に入ることが許される人間は極めて限られる。その内構造は大きく二つにわかれており、御座と神座がある内陣(「室」という)には、天皇以外に「采女(うねめ)」という身の回りの世話をする女官の代表ひとりしか入れない。日本史学者の岡田精司氏らは、この采女を性行為の相手と見た。地方豪族から貢上された采女と「聖婚」することで服従を誓わせる儀礼があったのでないかと推定したのである。

 また、折口は、悠紀・主基両殿以外での性的な儀式の存在を指摘している。大嘗祭において、天皇は悠紀・主基両殿に籠る前に、廻立殿という併設の殿舎で「大忌の御湯」「小忌の御湯」と呼ばれる二度の沐浴=聖水儀礼を行うことで「穢れ」を払うという。史料によれば、この沐浴時に天皇は「天羽衣」を着用したというのだが、折口は〈元来、褌即、下紐は、物忌みの為のものである〉などとして、なんと、天羽衣とフンドシを結びつけた。そして〈物忌みの褌を締めて居る間〉は〈神秘たる霊力をして発散させぬ為〉の〈極端なる禁欲生活〉だとし、その〈解放の時〉が〈性の解放〉であると見立て、こう続けている。

〈天使様の場合には此湯の中の行事の、一切の御用をつとめるのが、処女である。天の羽衣をおぬがせ申し上げるのが、処女の為事なのである。そして羽衣をおとりのけさると、ほんとうの霊力を具へた、尊いお方となる。解放されて、初めて、神格が生じるのである。〉(「大嘗祭の本義」)

 ちなみに、御所には「内掌典」と呼ばれる処女の巫女がおり、その内掌典がこの「大忌の御湯」「小忌の御湯」に立ち会うとされてきた(実際、昭和天皇の代には、本当に若い頃からずっと俗世界と関係を絶った4人の女性が御所に住んでいたが、その後、交代制になった)。

■平成の大嘗祭でも秘密のうちに執り行われた主紀殿、悠紀殿の儀

 しかも、ここで指摘しておかなければならないのは、かくも異様な儀式の存在を述べた折口の説を当時、当局が容認していたという事実だ。前述したように、折口が前後に天皇論・大嘗祭論を展開した昭和3年は、大嘗祭の実施年であったと同時に、治安維持法の最高刑が死刑へ改められた年であり、「三・一五事件」と呼ばれる共産党への大弾圧も行われた。

 ところが、折口の説は取締の対象とならなかっただけではなく、当時、国家神道推進の中心人物によって堂々と紹介されてもいる。近代神道の創始者であり、内務省神社局考証課長でもあった宮地直二が東大の神道講座で「天皇霊」論を講義したのである。

 もちろん、大嘗祭に、折口らの主張する秘儀があったとしても、途中からは、実際に性的行為や前天皇との同衾が行われていたわけではなく、模擬儀礼として行われているだけという可能性が高い。

 また、民主主義下で初めて行われた平成の大嘗祭では、海外メディアが秘儀をめぐる報道を繰り広げたことを政府が憂慮。わざわざ宮内庁が事前に会見で「(大嘗祭に)特別な秘儀はなく、特別な御告文にもそのような思想はない」と否定した(ただし、折口が性的儀式の存在を指摘した「大忌の御湯」「小忌の御湯」の儀については、会見で具体的内容について質問がとんだものの、宮内庁は説明を拒否している)。

 しかし、その平成の大嘗祭にしても、大正や昭和の大嘗祭とまったく同じように、長時間、徹底して秘密裏に執り行われたことは事実だ。

 大嘗祭を取材した元朝日新聞皇室担当記者でジャーナリストの岩井克己氏は、当時のことを〈午後五時過ぎから午後九時過ぎまで約四時間にわたって天皇の悠紀殿の儀が行われたが、殿内での天皇の「秘儀」はもちろん、廻廊を歩む姿も諸役の動きも全く見えない。奏されたという神楽歌など楽部の奏楽もほとんど聞こえず、ただひたすらじっと座って寒さを我慢しただけで終わった〉と振り返っている(「選択」2014年1月号)。

 今回の秋篠宮の指摘は、「政教分離」違反への懸念はもちろん、こうした平成の大嘗祭を体験した明仁天皇の思いを代弁したという部分もあるのではないだろうか。

51. 中川隆[-13738] koaQ7Jey 2018年12月06日 08:11:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21754] 報告

秋篠宮や日本の皇族は典型的なリベラル派でグローバリストなんですね。

馬渕睦夫さんが明らかにしていますが

左翼=リベラル=グローバリズム=ユダヤ人=国際金融資本、軍産複合体、ネオコン、CIA
=マクロン、ヒラリー・クリントン、オバマ、小泉純一郎、竹中平蔵、小沢一郎、橋下徹、枝野幸男、日本の官僚・皇族


右翼・民族主義=反リベラル=反グローバリズム=反ユダヤ
=プーチン、チェ・ゲバラ、カストロ、J.F.ケネディ、トランプ、サダム・フセイン、カダフィ、ウゴ・チャベス、 ロドリゴ・ドゥテルテ、田中角栄、安倍晋三


なんですね。


安倍晋三は調整型の政治家で権力基盤が弱く、IQ も随分と低いので、官僚や自民党のグローバリストに引き摺られているのですが、本来はプーチンやトランプと同じナショナリストなのです :


【秋の特別対談】馬渕睦夫氏と語る - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=BU4nkKMmVfo&app=desktop

ゲスト:馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
聞き手:水島総(日本文化チャンネル桜代表)


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馬渕睦夫×水島総 「世界を統治する者との最終戦争が始まる!」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=L06Zs03T2D0

出演:
 馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)
 水島総(日本文化チャンネル桜代表)


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馬渕睦夫『グローバリストが恐れる日本の底力』
◉講演「新嘗のこころ」第2部(グローバリズムとは共産主義である) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=YoH3GG3WiAc&index=2&list=PL7MaEu9i584cGqauRwWXCapXVTxom8dDT


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「古事記に学ぶ日本のこころ」 馬渕睦夫 〜天と地を結ぶ日本人の力〜 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=xcQ1sp6fV2g

52. 中川隆[-13759] koaQ7Jey 2018年12月08日 20:46:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21865] 報告

ひとりがたり馬渕睦夫 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PL7MaEu9i584fGdp78r27h-eH0rmWLioEC


2018/06/22 に公開
待望の馬渕睦夫大使の新番組がスタート!激動する世界、今の日本に必要なのは何か?どんな危機が訪れているのか?マスメディアでは伝えられない世界の真実と、馬渕睦夫の「眼」をお届けいたします。

53. 中川隆[-13762] koaQ7Jey 2018年12月09日 22:26:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21880] 報告

ノンフィクション作家・河添恵子#4-1
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」前編・グローバリスト&共産主義勢力 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z7syO3BhDdQ


ノンフィクション作家・河添恵子#4-2
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」後編・北朝鮮問題の行方 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z4Ot9KiWPV8


収録日:2018年4月25日


今回はゲストに馬渕睦夫氏(元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使)をお招きし、2018年の世界情勢を語っていただきました。馬渕氏曰く「今、世界は100年に1度の地殻変動」が起こっています。

アメリカ、中国、北朝鮮問題を中心に、マスメディアでは得られることがない、最先端の世界の見方がここにあります。この100年、世界はいかに作られてきたのか、どうぞしっかり掴んでください!


ゲスト馬渕睦夫氏の後半!北朝鮮問題の行方を中心に、朝鮮戦争の真実・そして終焉、グローバル勢力の影響下にあるNHK、世界の反ロシア・反プーチンの動き、マレーシア・マハティール首相の反中国、金融や企業スキャンダルに潜む外資企業の動き、テロに無自覚な日本、求められる日本国民の自衛・・・等、初対談となった今回、両先生も手応えをつかんだご様子。

<ゲスト>
馬渕睦夫(まぶち むつお)1946年1月21日生まれ
吉備国際大学客員教授 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使 
1946年京都府生まれ 世界情勢を視る眼差しは超一級品


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ノンフィクション作家、河添恵子さんの番組が林原チャンネルで配信中!中国問題の専門家として知られる河添さんの、実はそれだけじゃ無い!本当の姿をお届けします。
「中国のことは好きでも嫌いでもなく、私はただ、ありのままの中国を見ているだけ・・・」
決してブレることなく燃え上がる、ノンフィクション作家としての河添恵子魂をどうぞキャッチしてください!

54. 中川隆[-13788] koaQ7Jey 2018年12月15日 12:07:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22159] 報告

西暦200年代に朝鮮半島から日本に移動したグループと判定されました
日本人に多くいそうだね☆


2018年02月25日 Home DNA
http://blog.livedoor.jp/mukamikami000/

Home DNAという祖先解析サービスを見つけたので
早速使ってみました。
https://homedna.com/

他の業者で得られたraw dataをアップロードすると
有料(39US$)で解析してくれるプランもあったため
まずは昨年得られたFamilyTreeDNAでのデータを
ダウンロード、拡張子[.csv.gz]のファイルを保存してから
Home DNAのサイトにアップロード、同時に料金を支払います。
数時間後に、以下の結果が報告されました。

map01

遺伝子多型を解析し、割合の多い3種の人種を提示してくれます。
私の場合
1.オーストロネシア・オセアニア
2.オーストロネシア・東南アジア
3.中央アメリカ
の順でした。この分類はHomeDNA独特のもののようですが
他社データを使って即時に結果がわかるのは便利です。
ほかにも23andme、AncestryDNAやNationalGeographicのデータも受け付けています。
(今後、気が向いたらこれらのデータも解析依頼してみます)
map02
また、上図のように地域上で移動した経路も推測してくれます。
私の場合、西暦200年代に朝鮮半島から日本に移動したグループ
と判定されました。
このバリエーションがどれだけ用意されているかはわかりません。


当然、Home DNAに直接DNAサンプルを送付して解析してもらった場合は
異なる結果が得られる可能性もあるため、通常のサンプル回収キットも
注文しました。
Asian editionなるアジア人集団に特化したと思われるサービスもあったので
ついでに申し込みました。
キットが届き次第再度報告します。

Asian editionは他社にはないユニークなサービスです。
遺伝子解析をするアジア人も多くなった結果でしょうか。
African editionもあるのでアフリカ系のひとたちもこれまでのような
ざっくりとした解析結果にがっかりすることはなくなるかもしれません。

Home DNAではスキンケアなどの健康情報にかかわる遺伝子解析も
提供しているそうなので興味がある方は試してみても
よいかもしれません。
http://blog.livedoor.jp/mukamikami000/

アジア人に特化したサービス
https://homedna.com/product/gps-origins-ancestry-test-asian-edition

55. 中川隆[-13493] koaQ7Jey 2018年12月24日 15:05:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

【馬渕睦夫】天皇陛下御退位 国民が知らない本当の理由!! - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Ka9dGRk-gpA&app=desktop

2018/08/12 に公開

56. 中川隆[-13313] koaQ7Jey 2018年12月30日 12:12:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告
皇室関係の噂は皇位継承に絡んでいるので嘘やデマが多いですね。
もし事実だったとしても、宮内庁が必死に揉み消し工作をするので、真偽の判定が難しいのです。


▲△▽▼


メディアが触れない「天皇家」の闇。
「皇太子徳仁親王」と「秋篠宮文仁親王」は「平成天皇」の子供ではありません。
Posted on 2018年6月23日
http://kawata2018.com/2018-06-23/


今回はいろいろとうわさの絶えない天皇家について書こうと思います。

ネット上で調べ物をしていますと、天皇家についての情報があふれています。

「天皇」は「悪魔崇拝者」である。

この衝撃的な事実が「RAPT BLOG」によって暴露されて以降、「天皇」は悪人だという認識がますます高まっていきました。

そしてついには「生前退位」まですることとなりました。


○RAPT BLOG-天皇がどこからどう見ても悪魔崇拝者であるという証拠。


○RAPT BLOG-天皇が行う「大嘗祭」はまさに悪魔崇拝そのものです。


○RAPT BLOG-天皇家が悪魔崇拝に関わっているとしか思えない幾つかの理由。


生前退位に伴い、今後の「天皇家」では跡継ぎなどの問題が山積しています。

その中でタイトルに書いたような「皇族」たちのいろいろなうわさがネット上に流れています。

一般庶民からすると、とてもおどろくようなことです。

実子としておおやけに登場している「皇族」がまさかの「他人」だなんて。

調べを進めていくうちに、かれらにとってはそのような一般的な感覚が欠如するしかない世界で生きていることがわかりました。

昔から日本の「貴族社会」では「一夫多妻制」があたりまえでした。

「天皇家」の「一夫多妻制度(女官制度)」は、なんと「昭和天皇」が廃止するまでつづきました。

そのため、「天皇」は正妻とは別の女性、「女官」たちと性的な関係を持つのがあたりまえだったのです。

世の中では性の乱れが激しくなっていますが、「天皇家」先祖代々乱れているのがあたりまえだったようです。

——————————————————-(以下転載)

明治天皇も大正天皇も正妻の子ではない
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/773.html


明治・大正天皇には正妻のほかに側室がいた

◆ミカドと女官 菊のカーテンの向こう側 小田部雄次

http://www.netpro.ne.jp/~takumi-m/book/258-mikado_jokan.htm(リンク切れ)

皇室典範の第1条に、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と、うたわれているので、天皇の血族の男性しか天皇になれない。天皇制は前近代のものだから、現代社会にはなじまない。

近代社会に天皇家を生き延びさせるために、1夫1婦制を取り入れて、側室制度を廃止した。しかし、そのツケは大きく残っている。昭和天皇だった裕仁が側室制度を廃止したことは、もっと注目されて良い。

裕仁の戦争責任が、あるとかないとか云々される。

もちろん彼に責任があったのは当然で、軍部に踊らされたというのは、天皇家を存続させるための責任逃れである。

彼は日本国の裕仁ではなく、天皇家の裕仁だったから、太平洋戦争に負けたときの最大の関心事は、わが国の存立ではなく、天皇家の存続だったろう。

何もできない天皇を装っているが、裕仁は皇室制度をさかんにいじっている。

女官についても、周囲の反対を押し切って、制度改革を行っている。

女官とは、天皇家の女中さんではない。天皇のセックスの相手のことである。

 明治天皇や大正天皇には、多くのセックス相手がいた。

建前上は、ある位以上の女官しか、セックスに誘ってはいけなかったが、女性の色香に迷うには男の常である。

しかも、子供を産ませることが奨励されていれば、天皇たちは気軽に女性に手をだした。

明治天皇も大正天皇も、正妻の子供ではない。

明治天皇と一条美子の結婚には法的規定はなく、美子が入内して「女御宣下」(天皇の寝所に侍する高位の女官であるという内輪の命令)があったのみであった。

今日「古式ゆかしい」と伝えられる賢所大前での神前結婚の定式は嘉仁親王(=大正天皇)と節子の結婚以後に定まったものである。

皇室婚嫁令のみならず、近代天皇制を支えた法令の多くは明治以後に制定されたものである。P69

明治以降、天皇制を確立するために、さまざまな手段が講じられた。

とりわけ皇位の継承には、細心の注意がはらわれた。

それが側室制度で、天皇たちは多くの女性とセックスをし、多くの子供を出産させた。しかし、その多くは小さいときに死んでしまい、なかなか育たなかった。

ちなみに、昭和天皇の裕仁は、正妻・節子の子供であるが、節子は16歳で裕仁を出産している。

つまり、大正天皇は15歳の節子とセックスをした。

15歳とは、今日の中学3年生である。中学生のセックスを、世の親たちは奨励するだろうか。天皇にとってはセックスが可能なら、相手の年齢など、どうでもよかった。

天皇と肉体関係をもったことにより、女官の発言力が高まり、隠然とした権力を手にすることもあった。

また、天皇の生母であれば、発言力もました。大正天皇の母親である柳原愛子は、大きな影響力を持ったらしいし、「魔女」といわれた今城誼子は、裕仁の妻=良子をつうじて、さまざまに影響力を行使したという。
女官は、おおくが華族の娘から選ばれたが、例外もいた。

華族出身ではない女官で異色なのは、岸田俊子と下田歌子であろう。

俊子と歌子は近代の女官のなかでも特異な存在であったが、俊子と歌子の女官辞任後の生き方はまったく対照的であった。P78

大正天皇の正妻だった節子は、裕仁、雍仁(秩父宮)、宣仁(高松宮)、祟仁(三笠宮)をつぎつぎと出産した。

多くは成人まで育たないのであるが、4人とも無事に成人した。

大正天皇は、病弱だったことも手伝って、節子以外の女性とのあいだには、子供を残さなかった。

そうした事実を受けて、昭和天皇である裕仁は、側室制度を廃止した。

女官がセックスの相手をしなければ、彼女たちは住み込みの必要がない。

裕仁は1夫1婦制をとると同時に、宮内大臣だった牧野伸顕の反対にもかかわらず、女官を住み込みから通勤制に変えた。つぎつぎと宮中の改革を進めた裕仁が、国政にだけ無関心だったとは思えない。

おそらく軍部の動向も、きちんと掌握していたに違いない。

それは2.26事件の時の、彼の発言を見てもわかる。

天皇のセックス相手以外にも、女官は必要だった。

それは乳人とよばれる女性、つまり人工栄養のなかった時代、授乳をする女性である。

当時(=昭和初期)、軍部や右翼が政治的に台頭し、牧野や一木ら天皇機関説派とよばれる宮中側近を攻撃する動きが強まっていた。

なかでも、平沼騏一郎枢密院副議長は宮中側近の地位を狙っていたが、その右翼的な傾向が元老西園寺らに忌避されており、平沼は現職の宮中側近を攻撃することでその野望を遂げようとしていた。

こうした政治的策謀の渦に乳人選定が巻き込まれたといえる。P184

選挙以外で選ばれた者を、政治権力の座につけることは、決して良いことはない。

どんなに名君であろうとも、身分制の害悪からは逃れられない。

血統にもとづく天皇制は、悪い制度である。またそこに使える女官たちにも、彼女たちの人生に悪い影響しか残さない。

天皇制は、近代的な制度にはなりえない。たとえ男の子が産まれても、時代遅れの天皇制は呻吟を続けるであろう。(2002.12.13)
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/773.html

——————————————————-(転載ここまで)

なんと「明治天皇」も「大正天皇」も正妻の子ではないのです。

そして「大正天皇」は中学生と同年代の「正妻」と性的関係を持っています。

現代では考えられませんし、立派な犯罪です。

このような「天皇家」のタブーをテーマに映画を作っている映画監督もいるようです。


○渡辺文樹-Wikipedia

——————————————————-(以下こちらから転載)


今朝発売の日本一汚れた週刊新潮に渡辺監督へのインタビューが掲載されてた。

新潮に取り上げられたということは、いよいよ大騒動に発展なのか?

『天皇伝説』は天皇家の血を巡る物語です。

オレは10年以上前から、万世一系とは言うものの、実は天皇家は血がつながっていないのではないかと思っていました。

それを確かめるべく旧皇族などに話を聞いてみたところ、やはり天皇家の血筋は続いてきたわけではない、という確信を得たのです。

映画の組み立てとしてはあくまでもフィクションという形を取り、アクションシーンなどの娯楽要素も盛り込んでいます。

映画のあらすじ

主人公の渡辺は米軍で働いた経験のある男。内縁の妻を殺したとの濡れ衣を着せられて逮捕される。

渡辺は脱獄し、無実を証明すべく、事件の真相を追究。

そしてM資金と呼ばれる秘密資金の存在を突き止めた渡辺はそのルーツを探るため、天皇家の血脈の謎に迫る……

天皇家の問題は、映画の中で渡辺が明らかにした事実という形で挿入されています。

その事実とはまず、明治天皇が16歳の時に別人にすり替えられていること。出来が悪かったため、騎兵隊の幼年兵として活躍していた大室寅之祐という青年と取り替えられてしまったのです。

オレは寅之祐の生家周辺で聞き込みを行った。そして、子孫にあたるおばあさんから、寅之祐が幼少期に明治天皇になったと聞いたのです。おばあさんから唾液をもらってDNA鑑定したんですが、今の皇族のDNA配列に非常に似ていることが明らかになりました。

大正天皇の4人の子は皆、貞明皇后の不倫の末に生まれた子です。

まず、昭和天皇は貞明皇后と、西園寺公望の養子である毛利八郎との間に生まれた子。

秩父宮、高松宮の父親が誰なのかは分かりませんが、大正天皇でないことは間違いない。

三笠宮の父親はDNAで調べると、中川宮の第5皇子である多嘉王です。

昭和天皇もまた子種がありませんでした。

平成天皇の父親は、三笠宮です。また、秋篠宮も平成天皇の子供ではありません。

美智子皇后と入江相政・元侍従長の間の子なのです。

つまり、秋篠宮には皇室の血は一切入っていないのです。

渡辺監督が饒舌に話すトンデモ内容であるが、もしホントウなら一部のトンデモ保守の間で騒がれている「悠仁」さまを天皇にすることで男系天皇の伝統を守る、というのは跡形もなく崩れ去る。

なんせ秋篠宮家には皇室の血が一滴も入っていないのだから……。

また毛利八郎については、こんなの見つけた↓

鬼塚英昭は、昭和天皇の実父は西園寺八郎であるとする(母はもちろん貞明皇后)。

ゾルゲ事件の尾崎秀実に情報を流していた西園寺公一は八郎の息子である。西園寺八郎は、もと毛利八郎で、西園寺公望の娘・新と結婚し婿入りした。大正天皇と同級。

もし、西園寺八郎が昭和天皇の実父だとすれば(わたしは確信しているが)、ゾルゲ事件で政府の秘密書類を盗み出し、尾崎秀実に渡していた公一と昭和天皇の父親は同じである。

すなわち、秩父宮、高松宮、三笠宮よりは皇統に近い兄弟となる。(同前p423)


——————————————————-(転載ここまで)

この人物は「一水会」の「鈴木邦男」ともかかわりがあるため、あやしげな人物ではありますが、このような映画の題材にまでなってしまうほど「皇室」の闇はスキャンダラスで深いです。

上記の「インタビュー」内で語られていますが、「秋篠宮文仁親王」には一滴も「皇族」の血が入っていないといううわさが流れています。

このような情報が流れるのは、「皇太子」と「秋篠宮」の争いゆえだと考えられます。

以下のような報道もよく目にするようになりました。


○眞子さま「婚約延期」で「皇太子vs秋篠宮」代理戦争(1)「母親だけの問題じゃない」


○眞子さま「婚約延期」で「皇太子vs秋篠宮」代理戦争(2)「得体が知れない」との声も


○眞子さま「婚約延期」で「皇太子vs秋篠宮」代理戦争(3)お相手の醜聞を広める理由


たがいに「工作員」を利用して悪口やスキャンダルを垂れ流している状態です。

読むだけで心がすさみそうなひどい悪口もたくさん書かれています。

以下のような系図も掲載されていました。

この系図によると「皇太子」さえも「平成天皇」と「美智子皇后」の実子ではないということがわかります。

——————————————————-(以下こちらから転載)

島原出身と云う女性店主が【和田迪子ミチコを検索してご覧?】と云う、徳川に殲滅された島原の乱、明治維新で徳川が殲滅されたと思っていたが、天皇家に根強く張り巡らされて健在な江戸時代のネットワーク、その強さに驚愕した、と言う。

明治維新後の天皇家が、徳川家、前田家、冷泉家などの系譜だとわかった。

浩宮➡︎徳川恒孝(嫡流)と和田迪子(前田家の血筋)

秋篠宮➡︎入江侍従長(冷泉家)と美智子妃

正田家は江戸時代徳川家の墓守(満徳寺)、美智子妃の母親は多久聖廟の娘

浩宮の娘【愛子】➡︎浩宮の種を清朝の康熙帝の血筋を引く女性に(雅子妃無関係)

万世一系では無さそうだ


——————————————————-(転載ここまで)


じっさいにいくつもの画像を見くらべてみたのですが、「皇族」それぞれに「影武者」が存在するようですので、もはやだれが本物なのかわからない状態です。


○皇太子の影武者@@徳仁親王の影武者疑惑、皇太子は少なくとも4人いる


それぞれが権力者の血筋の子供たちで、養子というかたちで「天皇家」に入り込み、その家の権力を保持しているのです。

皇太子の父親とうわさされている「徳川恒孝」は「徳川家」の当主です。


◯徳川恒孝ーWikipedia

「養子」や「影武者」という話まででてくるなら、「天皇家」は「家族」ではなく、うそで塗りかためられたただの「権力の集合体」です。

国民の税金をむさぼっている「日本の象徴」が「嘘で塗り固められた集団」というのは何ともゆるしがたいことです。

「RAPT BLOG」をとおして、日本の「イルミナティ」たちは「養子縁組」を繰り返し、戸籍上は家族だとしても、じつは血のつながりがない、というひとたちがたくさん存在することを知りました。

幼少期に養子に出されて、さらに結婚時に婿養子となり、2回も苗字が変わっているひともよく発見します。

そのため「○○は○○の子供ではない!」ということが一般庶民にとってはおどろくようなことでも、かれら「イルミナティ」にとってはごくふつうのことなのです。

実子ではなく、妾の子、という情報がふつうに出てきます。

しかし世の中にその事実が出まわれば、その風習が一変して「スキャンダル」となるのです。

そのような情報をたがいに暴露しては蹴落としあっているのです。

そんな争いのさなかにいる「秋篠宮文仁親王」の本当の父親は皇室の「侍従長」をつとめた「入江相政」という人物です。


<入江相政>

——————————————————-(以下こちらから転載)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E6%B1%9F%E7%9B%B8%E6%94%BF

入江 相政(いりえ すけまさ、1905年(明治38年)6月29日 – 1985年(昭和60年)9月29日)は、日本の官僚、歌人・随筆家である。

昭和天皇の侍従・侍従長を長く務めた。

従二位勲一等旭日大綬章、勲一等瑞宝章、紺綬褒章・賞杯。

堂上華族の入江家出身。歌人・柳原白蓮の甥であり、元岩崎勝商事社長・岩崎勝太郎は相政の義弟にあたる。

柳原前光の孫である。

1985年(昭和60年)9月26日、同年10月1日付の侍従長退任を控え宮内記者会とお別れの会見。

同年9月29日午後、自宅で意識を失っているところを家人に発見される。

同日午後1時31分、搬送された慶應義塾大学病院(東京都新宿区信濃町)で、虚血性心不全により死去。享年81。勲一等旭日大綬章を受章、従二位を追贈される。

—–

吹上御所で入江の訃報を聞いた昭和天皇は「……えらく突然だったね」と言った。夕方、侍従があらためて報告した時は、窓に面した椅子に掛けて、振り向かずに「そうか」とだけ述べ、雨に濡れる吹上の庭を見つめていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E6%B1%9F%E7%9B%B8%E6%94%BF

——————————————————-(転載ここまで)


写真を見くらべるといかがでしょうか。

顔のパーツ、特に特徴的な「鼻」は似ていますね。

とくに若いころのひげをはやした姿は似ています。

かれと「美智子皇后」について以下のように書いているひともいました。

——————————————————-(以下こちらから転載)


正田美智子さん=現在の美智子皇后は聖心女子学院を卒業されている。

聖心女子学院はお嬢様が通うミッション系(キリスト教系)の学校である。

聖心女子大学文学部外国語外国文学科(英文学)を首席で卒業とある。

家柄や家系図を10代以上遡り、犯罪者・精神異常者・障害者・学歴・成績等を調べて問題が無いとされた家なのだから当然なのかもしれない…

現在の宮内庁に勤める女子の多くは首にロザリオか十字架かは知らないが架けてるらしい…
私如きが入れる訳ではないし、見たのでもないので何とも言えないが、ある人のブログにはそのように書いてあった。

如何に天皇や周りが美智子皇后に気を使っているかが解るような話しに、何となく納得してしまう私です。
庶民からの入皇室に皇族からの反発
やイジメが有ったのは想像に難くない。

(香淳皇后や柳原白蓮等)

そりゃ〜利権をよそ者に取られたくないわな(笑)

しかし、活発で勝ち気な性格だったとされる美智子様は、泣いて堪える人ではない。

巻き返しを計ったのである。そのパートナーに選ばれたのが、後に侍従長となった入江相政(すけまさ)である。

公務員の定年は60歳であるが、彼が80歳まで侍従長を勤めれたわけは、美智子様の浮気相手であり、秋篠宮文仁(紀子さんの旦那)の父親だからだと言う噂はかなり良く知られているようである。

現在の皇太子までは血筋が保てるかもしれないが、その次が問題なわけですよね?
だって、事実なら完全に血筋が違うんだから…

秋篠宮文仁が皇太子になり、現在9歳くらいの子供悠仁が次期天皇になるなら…

だから女系天皇論なんかが出てくるわけよ…

この問題は他の所でまた書くとして、イマサラ何を言ってるんだ!なんだけどね(笑)

美智子さんは3人の子供を産んだ事になっている…

徳仁・文仁・清子である。

しかし実際に産んだのは、浮気相手の子供秋篠宮文仁だけだとこの人は言っている。

参考ブログ


根拠として、性格・体格・鼻の形をあげている。

簡単に言えば、皇室の血筋を絶やさない為なら何でもアリなのだろう。

借り腹・浮気公認・子供の入れ替え・強姦・乱交…

だから表向きは近親相姦で血が濃くなっても異常者が出ないのだね。納得(笑)


——————————————————-(転載ここまで)


「入江相政」と「美智子皇后」には大きな共通点があります。

「美智子皇后」は「正田家」出身です。

「正田家」はクリスチャンの家系として知られています。

その「正田家」をクリスチャンに改宗させたのが「フロジャック牧師」という人物です。

「フロジャック牧師」は「入江相政」と深いかかわりがあり、さらには「皇室」から庇護を受けた重要人物です。

——————————————————-(以下こちらから転載)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF

ヨゼフ・マリウス・シャルル・フロジャック(Joseph Marius Charles Flaujac、1886年3月31日 – 1959年12月12日)はパリ外国宣教会所属のフランス人宣教師である。

1909年(明治42年)に来日し、結核患者及びその家族のための総合的な福祉施設を目指して活動し、東京における社会福祉活動に大きな足跡を残した。

<行幸啓の様子>

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF
——————————————————-(転載ここまで)

「正田家」を伝道した宣教師が「皇室」にも深くかかわるようになったのです。


<<正田家 家族写真>

——————————————————-(以下こちらから転載)


■弁慶のような荒法師ことフロジャック神父

木下道雄は侍従次長を辞めた後、敬虔なカトリック信徒になっていた。

洗礼を与えたのはヨゼフ・フロジャック神父である。

財団法人慈生会の設立者として知られるフランス人神父のフロジャック神父は、一九〇九(明治四二)年に来日、戦前から乳児院、結核療養施設、診療所などを建てて社会事業に貢献していた。日本語巧みで胸まで伸びた真っ白いヒゲが特徴だった。

木下は、幼友達の妹がフロジャック神父の下で働いていた関係で、噂だけは聞いていた。

村から村へと布教の旅を続ける神父が、足に大きな裂傷を負った際、近くの農家から針と糸を借りて、自分で縫い合わせたという話を聞いて、「フランス人にも、こんな弁慶のような荒法師がいるのかと、一種の親しみを感じた」と語っている。

この親しみとともに、フロジャック神父の名前が木下の記憶に刻まれた。

宮内省総務課長時代、陛下からの推奨金推薦先として財団法人慈生会の前身にあたる「ベタニアの家」の名前があがり、木下の記憶によれば、三二(昭和七)年の暮れに弁慶の元を訪ねる。

ここで二人は初めて出会い、事業も評価され、フロジャック神父には推奨金五千円が与えられることになる。

本格的に二人がかかわり出すのは、侍従次長時代の四五(昭和二十)年十一月二五日、この日の夜にフロジャック神父は木下宅を訪れ、戦災の傷跡残る上野駅周辺の浮浪者救済のための診療施設開設と関東に酪農を主体とするトラピスト施設の必要性を説いた。

木下の日記にも「共に予の共鳴する所なり。考慮を約す」とある。

木下は早速その翌日の宮内省事務調査会でフロジャック提案を披露して、宮内省の協力を取り付けた。

 しかも、那須の名前は早くも十一月二九日に登場し、木下退官直後の四六(昭和二一)年七月には木下の斡旋で那須御料地約三百町歩が貸し下げられることが決まる。

フロジャック神父は貸し下げられた川西御料地六〇町歩を「聖ヨゼフの山」、奥まった道上下の御料地を「聖マリアの山」と名づけて、早速開墾が開始され、引揚者、復員兵の受け入れを始める。

この地には那須診療所、林間学校宿舎、精神薄弱児のための光星学園(現マ・メゾン光星)などが次々とつくられていく。

この御料地貸し下げの背景を見ておこう。

木下によれば、フロジャック提案を昭和天皇に話したところ、昭和天皇より「助けてあげなさい」と言われ、それがきっかけで林野庁との話し合いもつき、貸し下げることになり、成績によってはこれを払い下げることまで決まったとしている。

興味深いのは一九三四(昭和九)年に侍従となり、侍従次長、侍従長として半世紀余にわたって側近を務め、宮中生活最後の休日に急死した入江相政もフロジャック神父と交流していた。

この入江もクリスチャンだったとする説もあるが、現時点では事実かどうか確認できていない。

『入江相政日記』(朝日文庫)にヨゼフ神父として登場するのは、四六(昭和二一)年三月十九日この時入江はフロジャック神父と会食している。

 木下と入江の口利きもあっただろうが、昭和天皇も積極的に支援したことは間違いない。これを順に追っていこう。

フロジャック神父は四六(昭和二一)年十二月十九日に天皇皇后両陛下に進講する。カトリック宣教師が単独で拝謁したのはこの時初めてと言われている。

この時、入江日記にはフロジャック神父が「大変色々申上げて面白かつた」とある。

四七(昭和二二)年九月二日に木下道雄が拝謁しているが、おそらくこの直後に行われる両陛下の那須巡行の件でお願いでもしたのだろう。

 五日後の九月七日、入江日記には「夕狩の慈生会に行く。フロージヤアク老が大変な元気で何かと案内してくれる。例によつて愉快といつたらない。」と書かれている。

 翌九月八日にも両陛下は慈生会を訪れている。

フロジャック神父は、進駐軍やフランス大使館員や大工を一人ずつ引き合わせた後、「私は日本人以上の愛国心を持つて居ります。

一生懸命に致しまして必ず立派な国に再建致します、云々」と語る。

入江はこの時の様子を「フランス人らしい上品なユーモアの連続で非常にお楽しませした」と書き記した。

四八(昭和二三)年もフロジャック神父は二度にわたって両陛下に拝謁し、この年には高松宮、三笠宮も慈生会施設の視察を行っている。つまり、皇室あげてフロジャックの事業を後押ししていたのである。

■弁慶神父「会心の傑作」とは

皇太子の結婚の儀が行われたのは五九(昭和三四)年四月十日、その年の十二月十二日、フロジャック神父は帰天。

「わたしは貧しいひとびとの友であった。

わたしの葬式は貧しい人にふさわしいものにして欲しい。花は一切ご遠慮したい。

思召しがあったら貧しいひとびとに与えていただきたい」との遺言を残した。フロジャック神父には勲四等瑞宝章が贈られ、昭和天皇より祭資料を賜る。

この年、衰弱激しいフロジャック神父の身を気遣う見舞客はあとを断たなかった。

その中には、軽井沢のテニスコートで天皇皇后両陛下の「初めての出会い」の瞬間を写真におさめたカトリック信徒の田中耕太郎最高裁長官もいた。

そして、三〇年来にわたってフロジャック神父の事業を援助し続けてきた正田きぬの姿も当然あった。

フロジャック神父は、この年皇太子妃になったばかりの正田きぬの孫への心やりと永年の援助に対する感謝の気持ちから、こう語りかけた。

美智子さんも大変だろうね、わたしも天国で祈っているよ、美智子さんによろしくね

 これが何を意味するのかは、木下が一番よく知っている。その翌年一九六〇(昭和三五)年七月二日、朝日新聞社講堂では「フロジャック神父を偲ぶ集い」が行われた。

この時壇上には、すでに敬虔なカトリック信徒になっていた木下道雄の姿があった。

この時の木下の「フロジャック神父を思う」と題する記念講話は、『フロジャック神父の生涯』(五十嵐茂雄、緑地社)におさめられている。その四二五ページから引いておきたい。

神父には、この時代のことが、余程なつかしいらしく、晩年になって、いろいろな思い出話をうかがいましたが、そのうちで上州館林に於ける活動は、神父の布教生活中の会心の傑作と自分でも思っておられたようです。

皇太子殿下御婚約のよきしらせを耳にされたときの神父の心中は、定めしけいけんな祈りと感謝と期待との熱きものがあったのではないかと思います。

 「神父」とは当然フロジャック神父、「この時代」とあるのはフロジャック神父が水戸を拠点に日本伝道を始めた頃を意味する。そして、「会心の傑作」が「皇太子殿下御婚約のよきしらせ」につながっていく。

フロジャック神父は関東の山野を歩きまわって布教していた。

文中にあるように上州館林へ行ったのもこの頃である。

上州館林と言えば、美智子皇后の実家があったところ。つまり、上州館林の正田家にカトリックの信仰の種をまいたのもフロジャック神父だった。

 一九二七(昭和二)年、東京関口教会で美智子皇后の祖母である正田きぬはフロジャック神父の手から洗礼を受けて敬虔なカトリック信徒になっていた。

このきぬと美智子皇后の祖父・正田貞一郎(日清製粉創業者)、それに叔母・正田郁子の告別式はいずれも 千代田区 麹町の聖イグナチオ教会で営まれた。

また、母・登美子も聖路加国際病院で臨終洗礼を受け、妹の安西恵美子も洗礼を受けている(『美智子皇后と雅子妃』福田和也、文藝春秋他参照)。

 弁慶が皇室とカトリックの縁結びを務めていた。

明治維新以後、神道界や仏教界にフロジャック神父のような弁慶が存在していたなら、やはり歴史は大きく変わっていただろう。

『フロジャック神父の生涯』のとびら裏にはこんな言葉が飾られている。

最後の握手皆様によろしくとみ声細く

    仰せありしも悲しき思ひ出

                正田きぬ


——————————————————-(転載ここまで)


じつは「皇室」は「カトリック教徒」で固められている、と語るひともいます。

——————————————————-(以下こちらから転載)


そもそも皇室はキリスト教なのですよ

まず、意外なところから説明しますと、皇室神事に携わっている式部職(雅楽奏者など)は渡来豪族の「秦氏(秦河勝)」の末裔(東儀家など)が代々務めていますが、彼らは皆クリスチャンです。

つまり皇室神事はクリスチャンたちが仕切っているのです。

彼らの先祖秦河勝はユダヤ系の血を引く景教徒(古代東方キリスト教徒)だったようです。

そのこと(ルーツが原始キリスト教であること)は一族で代々伝わってきたようです。

現在、皇室神事の式部職クリスチャンたちは都内の名門教会数か所に分散して属しています。

また、上記の式部職だけでなく、皇室職員・皇室メンバーの大部分がクリスチャンであることは公然の秘密なのです。

歴代の宮内大臣(宮内庁長官)、侍従長、書稜部長など各種部門の長などがクリスチャンであることは公開情報としても有名です。

次に、中世(戦国時代)にキリシタン大名として歴史に名を残した領主たちの末裔が現在はクリスチャンとして皇室の要職に就いています(例:前田利家の末裔で前田家当主の人など)。

さらに、近世では幕末の大名の「最後の藩主」たちには禁教令が解ける以前に熱心なキリスト教信仰を始めていた大名が多く、廃藩置県の後は皇室に入って要職に就いています(三田藩の九鬼氏など)。

昭和天皇の即位後初代の侍従長珍田伯爵は元外務次官でかつメソジスト派の牧師でもありました。

その他の歴代侍従長もクリスチャンが多いです。

女官長に至ってはこの40年以上クリスチャン・リレー状態です。田島宮内庁長官、宇佐美宮内庁長官などもクリスチャンでした。

そして現在は、たとえば、現職の川島侍従長はカトリックで、国際機関で活躍のカトリック重鎮の緒方貞子氏といとこ同士、渡邊前侍従長は聖公会クリスチャンで明治元勲の大山巌元帥の末裔。

で、皇室へ嫁ぐお嫁さんはキリスト教系の名家からというのが不文律になっているようです。

(美智子皇后:カトリック名門の正田家、雅子妃殿下:妹たちはいづれもカトリックの洗礼を受けている、三笠宮信子妃殿下:カトリック名門の麻生家で麻生前総理の妹・・などなど)

で、再度古代に目を向けると、秦河勝は伊勢神宮をはじめ皇室ゆかりの神社の多くの創建にも関わっていますので、皇室神道は古代東方キリスト教がオリジナルであると推定できます、古代東方キリスト教とキリスト教発祥の地の連絡は中世に途絶えているので、皇室メンバーは西方キリスト教(カトリックなど)の人を次々に迎え入れているというのが明治以降の状況であると思います。

よって、結論は皇室は「日本で最も濃くて長い歴史を持つキリスト教信仰の家」であり、秋篠宮眞子さまが国際基督教大学にご入学なさることは「あまりにも自然なこと」だと推定できるということです。

——————————————————-(転載ここまで)


ちなみに上記に書かれている「キリスト教」というのは、本来のただしい「キリスト教」ではなく、悪魔崇拝者によって乗っとられてしまった、にせものの「キリスト教」です。

「RAPT BLOG」では「キリスト教」が悪魔崇拝者によって乗っとられた経緯について詳細に書かれています。

○キリスト教は悪魔崇拝者によって内部から破壊された。その歴史の詳細について。


○キリスト教プロテスタントも悪魔崇拝者に乗っ取られている可能性大です。「日本基督教団」は在日・反日勢力と同一体でした。


「天皇」は年間たくさんの「神道儀式」をおこないますが、じつはクリスチャン(カトリック教徒)で固められているというのです。

表向きは「クリスチャン」だとしても裏の顔は「悪魔崇拝者」です。

かれらは「権力」「名声」さえ自分の手元に入るなら、悪魔をも拝み、他人の子も利用する。

「フロジャック」という人物が「皇室」に入り込んだのも、権力獲得の手段の一環だったのではないでしょうか。

「正田美智子」が「皇后」としてのし上がることができたのも、このような宗教的な背景もかかわっているのです。

今回「皇太子」や「秋篠宮」が実子ではないといううわさの裏には「悪魔崇拝」と権力争いが渦巻いていることがわかりました。

「皇太子」に権力を保持させたい勢力と、「秋篠宮」に権力を握らせたい勢力が存在するのです。

いずれにせよ、このようなひとたちがいつまでも「国の象徴」であってはなりません。

今後さらに調べを進めて書いていきたいと思います。
http://kawata2018.com/2018-06-23/

57. 中川隆[-13310] koaQ7Jey 2018年12月30日 13:13:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

神道の事を単なる儀式であって宗教ではないと思っている天皇一族には理解できなかった神道の世界

ポケモンが広める神道的な世界観〜マンリオ・カデロ、加瀬英明『神道が世界を救う』を読む 2018/12/30
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201812/article_7.html


 自然への畏敬を説く神道は世界の諸宗教と両立し、その対立を和らげる可能性を持っている。


■1.ポケモンが広める神道的な世界観

 今年の春、北はフィンランドから南はギリシャまで欧州を回って、おみやげにポケモンのイラスト入りのクリアファイルを配ったら、各地で大人気だった。息子がポケモンに熱中している、とか、孫が大好きだ、など、ポケモンを知らない人は一人もいなかった。

 人間が様々なポケット・モンスターと心を通わせる、というのは、従来のキリスト教から完全にはみ出した神道的な世界観だ。人間以外の様々な生物・無生物に精霊が宿っているというアニミズムは、西洋では「原始宗教」として見下されてきた。しかし、ポケモンに夢中になって育った欧米の子供たちは、キリスト教の神よりも、アニミズムの方に親近感を覚えるようになるだろう。

 サンマリノの駐日大使にして在日外交団長を務めるマンリオ・カデロ氏と外交評論家の加瀬英明氏との対談集『神道が世界を救う』[1]を読むと、神道的世界観が現代文明の様々な問題から世界を救う可能性があることが説かれており、ポケモンがその旗振り役になるのでは、と期待をもった。


■2.「神道は信ずるものではありません。感じるものです」

 カデロ氏は日本滞在40年を超し、すでに80か所以上の神社を訪問されている。本書でも伊勢の神宮の式年遷宮への参列、福岡県の宗像(むなかた)大社の「みあれ祭」への参加などを語られているが、そのうち出羽三山を訪れた時の体験を引用しよう。

__________
カデロ 神道は日本文化の原型ですね。この原型が日本人をつくってきたし、いまもつくっています。
 出羽三山を訪れると、森林の霊気をいっぱいに感じます、
 樹木は、私たちと同じように呼吸しています。
 樹木は人間にとって有害な二酸化炭素を吸い込んで、新鮮な酸素を私たちへの贈り物としていっぱい吐き出してくれるから、きっと、霊気を感じるのでしょう。・・・

 三山は、月山、湯殿山、羽黒山の三つの峰ですが、のぼっていくと、木の香がまじった清い空気が胸をみたして、しだいに心身が安らぎます。いきいきとして、豊かな、贅沢な体験ですね。・・・

 樹木や森林が信仰のよりどころとなるのが、よく理解できますね。
 そして、山は、天と大地が接するところだから、霊気を感じるのでしょう。
 それに山は水の源です。現代人は日常、水の有難さを意識することがありませんが、昔の人々は生命(いのち)を支えてくれる水をもたらしてくれる山に、大きな恵みを感じたのでしょう。[1, P31]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 カデロ氏が「神道は信ずるものではありません。感じるものです」と言うのも、こういう体験からである。そして、この感じ方は日本人なら誰でも経験したことがあるだろう。


■3.「宗教」とは「縛る」もの

 カデロ氏の言う「神道は感じるもの」は上記の体験からもよく分かるが、「信ずるものではありません」という言葉は、もう少し説明が必要だ。氏は、対談の中で、こう説明している。

__________
カデロ 神社は、キリスト教の教会や仏教の寺に見られるような、神か仏を「信じれば、救われると、脅迫ーーいや説いたり勧誘したりすることが、まったく行われません。
 神道には、天国も地獄もなくて、賞も罰もないのも、大きな特徴ですね。[1, p76]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この点を加瀬氏はこう補足する。

__________
加瀬 英語の「レリジョン(宗教)」も同じようにラテン語を根っこにしていますが、ラテン語では「レリギオ」religio で、レリギオの類語の「レリガーレ」religare は、「縛る、固く縛る、束縛する」を意味しています。
 宗教は、信者をかならず束縛します。しかし、神道は、ユダヤ・キリスト・イスラム教や仏教とちがって、人を束縛する教義や戒律が、いっさい存在していません。[1, p46]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「宗教」とは「縛る」ものであり、「人を束縛する教義や戒律」からなる、という定義を踏まえれば、神道は「宗教」ではない、というお二人の指摘が腑に落ちるだろう。さらに、カデロ氏は、神道は宗教ではないから、他の宗教とも両立するという。

__________
カデロ 私はイタリアの古都であるシエナで、カトリックの家庭で育ちました。・・・
 幼児洗礼を受けたカトリック教徒なのですが、キリスト教徒であることと神道を受け入れることに、何一つ矛盾がないと確信しています。[1, p40]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■4.「神道は他宗と競おうとまったくしない」

 宗教が発達すると、それを専門に説く神父やお坊さんのような人々が現れ、それが組織化されて教団ができる。

__________
カデロ いったん教団になると、その教団の力を増すために、できるだけ信者を増やして財力を蓄えなければなりません。
 だから、他宗がすべてライバルとなって競争します。
 コンビニ業界の激しい競争と似ていますね。(笑)
 すると、教団を維持し拡大することが、目的となってしまいます。
 しばしば信仰そのものよりも、教団を維持し拡大することのほうが、目的となってしまうのですね。[1, p75]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
__________
カデロ 他宗の信者を、神道に改宗させようともしませんね。
 神道は他宗と競おうとまったくしないからですね。
 このような宗教は、世界のどこにも存在していません。[1, p49]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 宗教どうしの競争をコンビニ業界に譬えれば、神道とは競う合うコンビニ店の間に挟まれた公園のようなものだ。公園はコンビニ店とは競わない。ただ双方のコンビニ店の客も店員も、一緒に一休みできる場所である。


■5.「わたしをおいて、他に神を崇めてはならない」

 仏教も宗教として教団を持ち、信者を得ようとする。しかし、その激烈さにおいて、ユダヤ・キリスト・イスラム教は特別だ。

__________
加瀬 キリスト教に、全能の神から授かった、「モーゼの十戒」としても知られる、「天主の十戒」がありますが、第一戒目が「あなたは、わたしをおいて、他に神を崇めてはならない」というものです。・・・

カデロ ユダヤ・キリスト・イスラム教は、自分だけが絶対に正しいから、他宗がすべて邪教となっているのですね。[1, p48]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 そのために、これら一神教は他宗教の神殿や彫像破壊を平気で行う。アフガニスタンのバーミアンの石仏をイスラム過激派のタリバン政権が爆破したが、こうした蛮行はイスラム教に限ったことではない。

__________
加瀬 ローマ帝国がキリスト教化すると、キリスト教徒によって、異教ーー邪教となった多神教の神殿や、彫像、列柱が、帝国の全域にわたって、手当たり次第に、無残に破壊されましたね。[1, p104]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 破壊だけではなく、殺戮も行う。それも他宗どころか、同じ宗教内の他宗派との間で殺し合いをする。

__________
加瀬 今日、中東と北アフリカでは、イスラム教の二大宗派であるスンニー派とシーア派が、アフガニスタン、イラク、シリアから、イエメン、リビアにいたるまで、血を血で洗う凄惨な抗争を繰り広げています。・・・
 イギリスは、もちろん、超先進国の一つですが、ついこのあいだまで北アイルランドにおいて、カトリックとプロテスタントが殺し合って、四千人近くが犠牲になりました。[1, p102]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

__________
カデロ キリスト教も、イスラム教も、同じように愛を説いているはずなのに、そのかたわらで宗教が激しい憎しみを生むのは、本末転倒であって、恐ろしいことですね。[1, p104]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 これが「高等宗教」の現実である。


■6.「人間が自然の支配者」

 一神教のもう一つの特徴は、人間と自然との特異な関係である。旧約聖書の冒頭の「創世記」には、こういう一節がある。

__________
 神は自分を象って男と女を創造した。神は人を祝福して言った。「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせ、全ての生き物を支配せよ」
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 この点について、加瀬氏はこう指摘する。

__________
加瀬 一神教は、人間の天下ですね。人間が自然の支配者であるから、人間が自然を望むままに、“煮ても焼いても”好きなようにしてよい、というものですね。
 そして、ユダヤ・キリスト・イスラム教では、自然は敬うべきものでも仲間でもありません。
 自然は下僕(しもべ)か奴隷であって、人が征服したうえで、自由に使い捨てて役立てるべきものなのです。[1,p82]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
__________
カデロ 「シビリゼーション Civilization」(文明)の「シビル civil」は、「礼儀正しい」「人にやさしい」「親切な」という意味ですからね。
 でも、いったい、空気や水を汚し、森林や熱帯雨林を切り拓き、珊瑚礁を破壊するのがシビルなのでしょうか。(笑)[1, p93]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 カデロ氏は、「人間が動物の上にある」という傲慢な発想は、牧畜が始まって、人間が家畜を飼育するようになったからだろう、と推察している。中東地域はもともと緑が豊かだった。そこに土地への負担の大きい牧畜や麦作を何千年も続けたために、砂漠になってしまった。その砂漠地帯に生まれたのが、「人間が動物の上にある」という特異な自然観を持つ宗教だった。

 それに比べて、神道が発達した縄文時代の日本列島では、豊かな自然の中で、その恵みをいただいて生きていた[a]。だからこそ、「人間が動物の上にある」という発想などは生まれようがないのである。多くの欧米人の先祖であるゲルマン人やケルト人はもともと森の民だった[b]。だから、神道的な世界観は彼らにとっては幼児期を過ごした故郷のようなものだろう。


■7.神道の感じ方が示す道

 冒頭で紹介したカデロ氏の「樹木が新鮮な酸素を私たちへの贈り物としていっぱい吐き出してくれる」という受け止め方には、人間と樹木が同じ生命(いのち)として、共に生きている、という感じ方がある。山は水の源として「大きな恵みを感じた」ということは、山への感謝である。

 現在の日本列島が世界有数の人口密度と経済規模を支えながら、緑地の比率でもフィンランド、スウェーデンに続いて先進国中三位という豊かな自然を保っているのも、この神道の「人間は自然の中で生かされている」という感じ方が今も日本文化の中に根づいているからだろう。地球環境の危機が叫ばれる中で、欧米でもこの神道の感じ方に近い環境意識が高まってきている。

 しかも、神道は自然を崇め、その恵みに感謝する「感じ方」であるから、宗教の違いを乗り越えて、人類が共感できる。カデロ氏がカトリックでありながら神道に共感できるように、イスラム教徒も仏教徒も、そして共産主義者ですら、神道には共感できるだろう。

 人間の窮屈な理性の束縛から、しばし脱して、共に自然の恵みをありがたく感することが、宗教やイデオロギーの対立から逃れる一つの道だろう。それは世界平和への道である。


■8.サンマリノに創建されたヨーロッパで最初の神社

 サンマリノはイタリア半島の中東部にある世田谷区ほどのミニ国家で、4世紀の初めに建国された世界最古の共和国と呼ばれる。この世界最古の共和国と、世界最古の君主国・日本との友好協会の会長が加瀬氏である。

 この友好協会の提案により、ヨーロッパで最初の神社がサンマリノに創建された。サンマリノには、欧州全体やアメリカなどから多くの観光客が訪れるが、このサンマリノ神社が神道と日本文化を理解するための文化センターの役割を果たすだろう。

 毎年6月にはこの神社を中心に、「ジャパン・フェスティバル」が催され、さまざまな和食を提供する屋台が並び、夜には提灯行列が行われる。

 日本の神社というと、はじめのうちはキリスト教と競合する、奇妙な宗教だという誤解も一部にはあったが、お祭りを通じて、神道が自然崇拝の営みであって、宗教と両立するものだ、ということが、しだいに理解されるようになってきている、という。

 今年の訪日外国人観光客数が3千万人を超え、世界各国で日本食がブームを呼び、子供達はポケモンに熱狂する。それらを通じて神道的な世界観は、無言のうちに自然への畏敬をひたひたと世界中に広めつつあるようだ。それは人間を宗教的対立と環境破壊から救う道でもある。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. 「まえがき」、「縄文・弥生・古墳時代の独創性」
伊勢雅臣『比較 中学歴史教科書−国際派日本人を育てる』、勉誠出版、H30
アマゾン「中学生の社会」1位、「教科教育 > 社会」1位、「日本史」11位、総合252位(H30/11/10調べ)
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4585222251/japanonthegl0-22/

b. JOG(070) フランスからの日本待望論
 現代人をして守銭奴以外の何者かたらしめるためには世界は日本を必要としている。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_1/jog070.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. マンリオ・カデロ、加瀬英明『神道が世界を救う』★★★、勉誠出版、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4585210482/japanontheg01-22/


https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201812/article_7.html

58. 中川隆[-11080] koaQ7Jey 2019年3月29日 19:37:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[940] 報告

皇族の性処理はタブー?天皇のセックス事情 2018年12月18日
https://thepartner.jp/3114


最近、小室圭さんと眞子様の婚約発表&延期や、新たな元号の発表でも話題の皇室。外からはうかがい知ることのできない世界ですが、そんな世界だからこそ気になってしまうの皇族のセックス事情。

天皇の初夜の迎え方や、やり方に関して特別なルールがあると言いますが、実際の所どうなのでしょうか。今回は、皇族のセックス・性処理事情について、歴史を踏まえて解説していきます。

天皇のセックスに関するしきたり

皇族には、代々の天皇から口頭で直接セックスに関する申し送りをするしきたりがあると言われています。これには皇室ならではのセックスに関する風習などが多く含まれており、初夜の作法、体位、出産しない時期の避妊法など多岐にわたります。

結婚をして、初夜を迎える者に対して代々申し伝えられているという仕組みです。こうした儀式・しきたりは、主に大正天皇の時代まで続けられていたと言われており、形式に変化はありつつも長い歴史の間続けられてきたと考えられています。

巫女の存在

こうしたしきたりの中でも重要な存在が、巫女です。皇室には巫女と呼ばれる女官が存在し、性において重要な役割を果たしてきました。女官は皇族の世話をおこなう女性たちのことで、性に関するものを含め多岐にわたる領域で役割を担ってきました。

皇室のセックスにおいては、巫女が重要な役割を果たしてきたと言われていますが、たとえば皇族の初夜において巫女がともに入浴するなど、数々の儀式において側には巫女がいたようです。

では、こうした儀式について見ていきましょう。

皇族の初夜の迎え方

皇族のセックスは巫女が手助けしますが、そのための準備や作法など、皇族の初夜はやらなければいけないことがたくさんあります。

初夜の床入りの際に白餅を用意しなければならなかったり、花婿と花嫁、巫女の3人で入浴をする入浴潔斎の儀など、皇族ではない私たちにとっては耳慣れないものばかり。

みそぎ

みそぎは皇室代々の風習で、皇族の直系男子である皇太子が、年頃(15歳から18歳頃)になると、性技に長けた巫女から性に関する技術を学ぶものです。

いわるゆる筆おろしの行為であり、このみそぎを担当した女官が巫女として、皇室男子の花婿とともに入浴をします。

入浴潔斎の儀

この入浴のことを、入浴潔斎(にゅうよくけっさい)の儀と呼びます。巫女とともに風呂に入り、体中を清めてもらいます。この際、花嫁も花婿も巫女とともに入浴すると言われています。

すでに述べた通り、ここで入浴する巫女はみそぎにおいて花婿に性に関する手ほどきをしており、花婿の生殖機能を確認しています。皇室にとって家系を途絶えさせないことは重要な役割のため、入浴潔斎の儀よりも前にみそぎを済まして、生殖機能に問題がないことを確認していることが大事なのです。

初夜装束を身につける

その後、花婿と花嫁は初夜を迎えますが、この時に初夜装束と呼ばれる着物を身に着けます。これは入浴潔斎の儀をすませた花嫁花婿が、初夜のために着る白い着物のことです。

この着物にはその下には一切何も下着をつけないと言われています。

初夜の床入り

いよいよ初夜の床入りですが、これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、初夜の床入りの際には白餅を用意します。

花嫁花婿はこの白餅を食べあうことで、初めてのセックスで子宝に恵まれるように霊力を与えることが願われます。

露見

床入りをへてセックスに至りますが、この際には介添人が、花嫁花婿のセックスの場に立ち会い、一部始終を見届けます。

またセックスが終わったあとは、寝所の扉を開けて、壁代と呼ばれる衝立を外し、寝具の上に並んで寝ている夫婦のシーツに処女の証である血がついているところを確認する役目も果たします。

現在の皇室におけるセックス事情は?

以上、皇室に代々伝わるセックスに関する話を紹介しました。皇室のセックスにおいては、巫女含めて3人で入浴をしたり、他人にセックスを見届けられなければいけなかったりと、一般人には驚きのしきたりが数多くあります。

もちろんこれらの儀式は、歴史的な皇室においておこなわれてたきもので、現在の天皇家において、どの程度まで続けられているかは不明です。一般的に、明治・大正天皇の時代までは儀式が重んじられていたと言われていますが、一部の儀式については現在も残っている可能性もあります。

ただし、人権意識が高まった現在においては、こうした儀式が天皇や皇室にとって負担になっている事実もあり、SPがついていたり、日々の行動が制限されているとはいえ、皇室や天皇も普通の人と同じような生活をすることが目指されていることから、あくまでも歴史的なセックスの儀式・しきたりだと考えていた方が良さそうです。
https://thepartner.jp/3114

59. 中川隆[-11079] koaQ7Jey 2019年3月29日 19:40:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[941] 報告
>>58
>いよいよ初夜の床入りですが、これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、初夜の床入りの際には白餅を用意します。

>花嫁花婿はこの白餅を食べあうことで、初めてのセックスで子宝に恵まれるように霊力を与えることが願われます。

昔、三宅さんから聞いた話 2012-11-16
あのころは、三宅さんに、竹村健一さん、飯島清さんが、


テレビで活躍中だった。

空港まで車で三宅さんを迎えに行った。

高速道路を走りながら車中で、


昭和天皇の話になった。


三宅さんが、日本史の江上波夫さんから聞いた話だと。

あの騎馬民族説の江上さんですね。


そう。

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、


昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?
A:朝鮮半島だと思う。
Q:どうしてそう思われますか?
A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。

と答えられたと。


三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、


もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。


現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。


昭和天皇ゆかりの話をしたかったようだ。

いま、あのときの顔を思い出しています。

三宅さん、歯切れのいい話で、


日本の左傾化に歯止めを掛けていた。


やすらかにお眠りくださいますように。
https://blog.goo.ne.jp/akirakasan/e/a6f887959603d8e10b513314716d3643

60. 中川隆[-11078] koaQ7Jey 2019年3月29日 19:43:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[942] 報告


天皇・皇室コミュの皇族初夜の儀式 2011年12月26日
https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=16500&id=67001857

皇族初夜の儀式は束帯と十二単の正式な衣装をまとって宮中三殿の賢所で行う「賢所大前の儀」や、親と子の杯を交わす「朝見の儀」ら、
一連の結婚の儀をとどこおりなく終えると初夜を迎えるための準備「入浴潔斎の儀」を行う。

簡単に言えば、風呂に入って身を清めるということだが、花嫁は巫女と呼ばれる女官[正式には神社の娘(処女)だが、
実際は皇族に仕える中高年の女性が大半]と一緒に入浴する。

浴室に入ると花嫁は、仁王立ちのまま一切自分の体に手を触れてはならず、巫女が服を脱がせ、体の隅々まで洗う。

隅々というからには外側から触れることのできる内部(耳・口・鼻からアソコ・肛門など)にも手指を入れて清める。

これは暗に花嫁の生殖機能を確かめる意味合いも併せ持つと言われている。

ちなみに花婿も巫女と一緒に入浴し、同様に体を清めてもらうのだが、この時の巫女は花婿にとってみそぎ相手でもあり、
すでに生殖機能については確認済みということになる。

みそぎとはつまり筆おろしの意。これは皇族代々の風習で、皇族の直系男子は年頃(15歳から18歳)になるとみそぎを済ませる。
正式にはみそぎの段取りを教え込まれた巫女、つまり性技に長けた処女がお相手を務めるが、実際は経験豊富な熟女の女官になる。
入浴潔斎の儀を終えると「初夜装束」と呼ばれる白い着物に着替えて(その下には一切下着をつけない)いよいよ初夜の床入り。
これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、平安の時代から続く伝統的な儀式である。

まず、花嫁の歳の数だけの白餅を用意し、四枚の銀盤に乗せる。これを子宝に恵まれた老夫婦(主に子供のいる侍従上がりの人間)が
初夜の寝床に運んで供える。新婚夫婦はこの餅をひとつずつ食べてから行為に及ぶ。元々は3日間繰り返すものであったが、
近代は初夜のみとされる。要するに初めてのセックスで子宝に恵まれるよう霊力を与える儀式ということらしい。

さらに特筆すべきは、以上の儀式には夫と妻、それぞれの身分を保証する、一組の男女が介添人(仲人夫婦にあたる立場の人で
部屋の隅で行為の一部始終を見届ける)として立ち会っていることと、儀式が終了した(性行為を終えた)ということを知らせる露見という、
お披露目する点である。

露見とは、寝所の扉を開け壁代と呼ばれる衝立を外し、寝具の上に並んで座る夫婦の姿を廊下で待っていた親族に見せ、
行為終了後は再び初夜装束に着替え、寝具(厚手の布団)の掛け布団を外しシーツに処女の証である血がついているところを見せるのが
正式な方法である。

さらに皇族には「一世一代の秘事口伝」なるものがある。これは代々の帝が口頭で直接申し送りするもので…
その中にはセックスに関する風習も多く含まれており初夜の段取りから作法、体位、出産しない時期の避妊法などが伝えられている。

https://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=16500&id=67001857

61. 中川隆[-11063] koaQ7Jey 2019年3月30日 12:39:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[960] 報告

昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?
A:朝鮮半島だと思う。
Q:どうしてそう思われますか?
A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。


____


みぽりんの韓国歳時記
シルトック ー古代のお餅ー
http://www.geocities.co.jp/SweetHome/6347/c3.html


近所の市場に、キムチや塩を貯蔵するときに使う瓶を買いに行った時のことです。買い物を済ませてから、そこら辺に並べてある、壺や植木鉢も見物していたのですが、何やら植木鉢のように見える焼き物を発見しました。というのは見た目には植木鉢そっくりなのですが、底の穴が1個ではなく、3個くらいあるのです。

「パンジーを植えたらぴったりだけど、これでは土や小石が水と一緒に流れ出てしまう。一体これは何かしら。」と数ヶ月間考えたのですが、ある日女性雑誌に「シルを使って作るお餅」という特集を見つけました。そしてこの底にボコボコと穴の開いている器が、植木鉢ではなく、「シルトック」という名前のお餅を作るときに使う道具「シル」だということが分かったのです。  

シルトックはこの「シル」の底に、「シルミッ」という底敷きをひき、その上にうるち米の粉を入れて、底の穴を通して上がってくる、高温の蒸気で蒸して作るお餅です。紀元前の青銅器時代の住居跡からも「シル」が出土していて、韓国の最古のお餅と言っても過言ではないと思います。

ーいろいろなシルトックー  

さて一口にシルトックと言っても、歴史が長いだけあって、バラエティーに富んでいて、作る人やお店によっても千差万別、何種類あるのか分からないくらいです。さすが古代のお餅はすごいな、と感嘆してしまいます。   

まずはシルトックの代表格、「ベクソルギ(白雪肌)」。
うるち米の粉に少量の水と白砂糖を交ぜて作るので、出来上がったお餅が真っ白なところから、この名前が付きました。でもいくら上手に作っても、あまりお勧めできる味にはなりません。主材料がお米の粉と砂糖だけなのですから、それも当然のことでしょう。

子供の百日祝いや、一歳の誕生日には欠かせないお餅なのですが、まるで白いブロックの山のように、積み上げられたベクソルギは、食用と言うよりも観賞用で、食欲がグッと落ちてしまいます。

次は、ぱさぱさに煮た小豆とお米の粉を、サンドイッチの様に交互に入れて作るパッシルトック(パッは小豆のこと)です。

普通シルトックと言ったら、これを指すくらい有名で、シルトックの代名詞ようになっています。特にお店の開店祝いには欠かせないお餅なのですが、これも味の方は今一歩で、「あの美味しくない小豆のお餅。。。」などと悪口を言われている、悪名高きお餅です。

5色や7色に見事に層を作ったムジゲトック(ムジゲは虹)も、お祝いの席ではとても人気のお餅ですが、見た目ほど美味しくないのが難点です。今度こそ美味しいはずだと、期待して食べて、失望してしまった人は私だけではないはずです。  

さてシルトックも栗やナツメ、干しぶどう、ユズの砂糖付けなどがたっぷり入ったザッカビョン(雑果餅)や、ヨモギの粉を混ぜて作ったスッkトック(スッkはヨモギの意味)、カボチャ入りのホバクトック(ホバクはカボチャのこと)など、盛りだくさんに具をミックスしたものは非常に美味です。ただどれも出来損ないの蒸しパンのように、口当たりが、ぼそぼそがさがさとしていて、手放しで誉めまくれないのが残念なところです。そして昔ながらのシルトックは、「うっ!何だこれは」の一言で終わってしまう。う〜ん。苦しいところですね。
http://www.geocities.co.jp/SweetHome/6347/c3.html

62. 中川隆[-11061] koaQ7Jey 2019年3月30日 12:55:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[962] 報告
10. 2013年7月13日 17:47:40 : WUs3UH3xVg

天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。

例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような盛り土である事は知られています。

古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。

終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。

当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。


日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。

日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。

現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。


38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、仮にこの付近が関連する村であると、南だけではなく北とも天皇は接点を持つ可能性が浮かび上がります。

(私の直感として、天皇と北の接点が存在した場合に拉致問題と関係していなければ良いなあ、と思うのですが、、、、、気にしすぎでしょうかね)

こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。

天皇が戦争とどう関わったかについては、総括することは必要だという考えは
理解しますが、戦前の体制や、戦後の状況からいっても、昭和の時代、平成一桁の時代において戦争経験者が多く存在する時代ですし、天皇制や天皇と戦争との関連を法的に取り扱う事は、容易ではないといえるでしょう。

そうした意味では、棄却理由は無理があるとはいえ裁判所が天皇の戦争との関わり
以外に出自等歴史的タブーに絡み、歴史に挑戦するというのも難しいので、
棄却は無理も無いといえるでしょう。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

63. 中川隆[-10667] koaQ7Jey 2019年4月20日 03:07:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1393] 報告

世間の噂

プチエンジェル事件の顧客と噂されている皇族 秋篠宮文仁親王・高円宮憲仁親王


真相に潜むタブー!秋篠宮文仁親王と高円宮憲仁親王が顧客に?

プチエンジェル事件の捜査が打ち切りとなった背景には、皇族の名前が顧客リストに入っていたからという噂もあります。載っていたのは秋篠宮文仁親王殿下と高円宮憲仁親王殿下。皇室に名を連ねる方々がこのようなことをしているとは考え辛く、噂も高円宮殿下が薨去されてからは下火となりました。しかし都市伝説として伝わっている話があります。

いわくプチエンジェルの作った動画の中には秋篠宮殿下と高円宮殿下が秋篠宮家の長女・眞子様と行為に及んでいるものがあるというのです。動画は「パパだーいすき」という名前で覚えられています。宮内庁はこの動画を探しているそうです。ファイル共有ソフトが出回ったのはこの「パパだーいすき」を探すためと言われています。


この記事ではプチエンジェル事件について取り上げました。この事件は不可解な点が多く、残念ながら真相が明らかになっているとは言えません。ただ事件の背景には何かとても大きな闇と呼ぶべき何かが横たわっているような気がします。もし興味を持たれても、あまり深入りはしないほうが賢明ではないでしょうか。
https://career-find.jp/archives/30091/3


▲△▽▼


プチエンジェル事件の詳細は

プチエンジェル事件の深すぎる闇
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/358.html

64. 中川隆[-10678] koaQ7Jey 2019年4月20日 11:35:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1383] 報告

プチエンジェル事件と皇室の関係
https://xtreeem.com/I0010863


プチエンジェル事件の真相は皇室・秋篠宮殿下の失態?


実は、プチエンジェル事件は秋篠宮殿下の失態を隠すためのスケープゴート事件だとも言われています。あくまで都市伝説の域を出ない話しではありますが、納得させられるところはありますね。


秋篠宮と言えば誰もが知っている日本の皇室のお一人ですが、秋篠宮殿下が高円宮憲仁親王殿下と、秋篠宮家の長女と行為をしている動画が流れたのがプチエンジェル事件の発端であるという伝説があります。

皇室内でそんなタブーな動画が撮られるなんて信じられない話しではありますが、都市伝説として存在しているようです。

動画内では秋篠宮家の長女が「パパだ〜いすき!!」と言っているそうで、そのタイトルでこの動画は覚えられたのだとか。

こんなとんでもない皇室動画が流れ出してはいけないと、皇室・秋篠宮が法律を変える為に容易したのがプチエンジェル事件。

プチエンジェル事件を起こして、児童ポルノ動画を持つことは犯罪という法律を作り、皇室の安全を守ったのではないか、と言われています。

皇室・秋篠宮殿下の「パパだ〜いすき!!」動画は持ってると危険


秋篠宮殿下の動画を探す為に作られたと囁かれる「ファイル共有ソフト」。
秋篠宮殿下が映っている動画を持っている人を探していると言われています。

ファイル共有ソフトも、パパだ〜いすき動画を探す為に作られたという伝説があります。
もしその動画を持っていたら、殺されてしまうかもしれません。

このように、プチエンジェル事件は噂が噂を呼んで、様々なサイトで動画や文章にされています。
どの情報も全ては憶測の領域を出ないため、「〜らしい」としか言えない情報ではありますが、真実も多数含まれているようです。


プチエンジェル事件の真相に更に切り込んだ動画です。

https://www.youtube.com/watch?v=LZgDVZw9UkI


プチエンジェル事件自体は経営者の男性を殺す目的で作られた事件で、実はことの発端は4ヶ月前に女子高生との売春で逮捕されたことだと動画では語られています。

逮捕されたことにより、顧客リストの大物や、裏で操る人物達に迷惑がかかることを恐れ、監禁事件を起こして上手く殺害したのではないかと語られています。
そうなってくると、監禁されていた少女四人も、経営者の男性を殺すために口裏を合わせている可能性が出てきますね。


実は監禁されたとされる少女四人は、プチエンジェル事件の裏側にいる人たちとグルなのではないか?と言われています。

少女四人の言動はそれぞれ一致していないことや、四日間も縛られて監禁されていたのに、トイレはどうしていたのかなど、謎な部分が多いのです。

このことから、作られた事件なのではないか?と予想されています。

政治家がお客にいたのは事実なのだそうですが、少女の証言は信じきってはいけないのかもしれません。

漫画化されるほどの伝説の事件となったプチエンジェル事件。
日本の闇が隠された恐ろしい事件のようですね。

興味本位で深入りすると染谷悟さんの後に続くことになるかもしれないので、あまり首を突っ込まない方がいいのかもしれません・・・!
https://xtreeem.com/I0010863

65. 中川隆[-10669] koaQ7Jey 2019年4月20日 11:47:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1392] 報告

プチエンジェル事件に関わった記者が消されたのは秋篠宮までハニートラップにかけたのを明らかにしたのが原因?:


プチエンジェル事件の真相を暴け

89 : 可愛い奥様[sage] 投稿日:2009/08/03(月) 04:52:53 ID:iVTcFInO0 [1/2回(PC)]

秋篠宮も会員だからこの事件必死に封印してるんでしょ


113 : 可愛い奥様[sage] 投稿日:2009/08/03(月) 16:36:49 ID:iVTcFInO0 [2/2回(PC)]

秋篠宮はタイから愛人を密かに日本のマンションに呼び寄せて逢瀬するほど暇だよ。プチエンジェルの件は結構有名。


126 : 可愛い奥様[sage] 投稿日:2009/08/04(火) 03:18:11 ID:N1zXyqhK0 [1/1回(PC)]

秋篠宮の話題になると必死に火消しに来る輩がいるあたり逆に信憑性が増すw


234 : 可愛い奥様[sage] 投稿日:2009/08/20(木) 17:48:12 ID:ODnosw630 [1/1回(PC)]

秋篠宮はタイの売春宿に「視察」で訪れてる。
それは秋篠宮サイドも認めてたよね。
川嶋・秋篠宮は真っ黒。
http://www.logsoku.com/r/ms/1248789509/


127 : 名無しさん@お腹いっぱい。 [sage] 2013/01/15(火) 13:53:53.81

活字にしたが最後、秋篠宮絡みのプチエンジェル事件のように
関わった記者が消されてしまう可能性だってあるのに、本当に物騒な馬鹿ですねw
http://archive.2ch-ranking.net/uwasa/1358199870.html


36 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/13(金) 07:02:04.10 ID:nBEoAHw3I

秋篠宮が顧客、あ、誰か来たようだ


600 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 07:49:00.82 ID:Nq9r4bRD0
>>36
その兄がって言う噂有りだよ。


713 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/17(火) 08:23:51.48 ID:unNvVBpU0

皇太子殿下がお忍びでいらしていたと聞いて。


596 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 07:08:52.90 ID:n+vCL14/0

プチエンジェルと皇太子はかなりヤバイ話なんだな。
こんなにバカな煎餅がわんさか湧いてくるのを見るとw


342 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/13(金) 20:15:33.95 ID:L6HIst8y0

皇族の秋篠宮が顧客


430 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/14(土) 05:16:30.20 ID:1swOn44C0
>>342
スライドねつ造するな

高円宮が顧客だったという噂があったな
それで友愛されたと
カナダ大使館でスカッシュ中に突然死というのも工作
日韓WCといい高円宮はチョンとの関わり合いが深かっただけに


484 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/14(土) 17:25:29.47 ID:PW2An6HQ0
>>342
有名だよね
当時の記事に載ってるし過去スレにもある

皇太子や高円宮家にスライドしようとしてるのは
キチガイ男系男子カルトと皇太子一家叩きの鬼女だけ


520 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/14(土) 20:07:29.71 ID:JRpFz/I2O

男なら冷静に考えてみなよ
男の欲求不満がたまる嫁はどっちなんだ?
マサコ屁なのか紀子妃なのか。

本当に皇族の顧客が居ると言うならばだ。


616 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 10:02:04.49 ID:+RSl1FHR0
>>520
そういえばアヘ顔流出とか、なぜか頻繁に訪れていた大学にベッドが用意されていたとかあったな雅子さん

薄汚い噂が、多数流れていたとか言う奴。うわさには人と発信源が必要なんだよ
一つの噂が同時多発的に多数に流れるのはテレビなどのメディアを使うか
大人数がいる団体や組織。まあ大抵は学校なんだがそれらは元が同じ情報でも地域やその団体での特性や差異がでる
メディアではなく伝聞であっても伝言が続いていくあたりで変化が加えられてゆく

しかしこの弟宮の件は大人で各地方で差異もなく広まっているそうで
つまり全国に組織がある団体が文言も指定して各地の人間に意識的に言うように指示されたのが良く判る

そうかがっかい


617 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 10:57:48.59 ID:ogTMwF550
警備が凄いのは兄だろ?
従兄が心室細動とかでアボンが怖かったとかじゃね?


618 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 11:21:57.57 ID:45EBgeit0
>>512
秋篠の素行と性格と顔見たらあまり説得力をもたないよね

チョンヤクザが兄陣営認定して東宮に矛先そらそうとしてても火消しが逆によけいあやしく見える

秋篠が東南アジアになまず研究?で遠征に行ったときに風呂屋で風俗遊びしてた噂はかなり昔に聞いて
あー皇位継承権持ちの皇族の癖に風俗はヤクザの美人局がやばいのにぃ
と思って私は長くずっと記憶に留めていたし

もともと結婚前の紀子さんに中だし中絶の常習犯して義父を激怒させてた男だし
帰化チョンのグループがやたら秋篠を推すのがなんだか逆にすごくあやしいし

皇太子はあなどられがちなポッポに似て堅物くさいし女の趣味も柏原よしえとブルックシールズでしょ、
あれほど付き纏ってゲットした雅子も同じ派手なつくりの顔でそれに大柄でごっついし
東宮はロリよりマザコンだよたぶん

子供もなかなかできなかったしEDのイメージはあっても性風俗遊びのイメージない
よくて東宮御所のプロのおばさん女官の手ほどきで鍛えられた素人童貞

皇太子が幼い少女が好きでも共産党パヤオみたくメンタル高齢童貞の子持ち既婚者が
幼女に真面目な母性を見るみたいなアレを連想する

嵌められるにせよカルト系の社会福祉法人に騙されて善意で悪巧みの神輿看板に使われるぐらいしか想像できないし
魚座だから少女趣味のケはあるだろうけど本人が少女漫画読みそうな顔してるし
ヤクザに紹介されて一晩少女と一緒にいても真顔か笑顔でずっと雑談してそう
それも敬語で

秋篠は風俗好きそうだし節操なさそうだからシモのスキャンダルはこっちのイメージ
これは火消し矛先そらしでなく正直な感想だから弟陣営に寄生したチョンヤクザが必死に工作してもイメージは消せない
紀子さんもいまはキツネっぽいけど昔は美少女風だし
その紀子さんにあの仕打ち、秋篠は性的に少女が好きそう

つうかやっぱザイニチは皇室も狙ってたんだよな
プチエンジェルでこんなん話題にでるとは
風俗関係に限らずあやしい法人の神輿にされてる華族多いし今後はそっちも洗ったほうがいいかもね


623 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 12:23:12.85 ID:4ylmY0UJ0

弟くんの話は部室で見られちゃったりとか色々有名じゃん
兄もそうならそれでまたよし
そういう血筋でしょ?
特別変態なわけじゃなし
弟はちょっと堪え性無さすぎだけど


560 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/14(土) 22:07:50.47 ID:NkYeoZLj0

定期的に秋篠宮さまの名を挙げる奴がいるな。
皇室の方の名前が挙がるなんてこれっぽっちも思ってないのに
出るとは、俗に言うスライドってやつか?
やばいのは本当は誰だ?


653 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 14:08:09.47 ID:OIeY1g9V0
>>560
事件当時はそんな噂無かったと思うんだよね。
今頃になって急に湧き出してきて、さも昔からあった噂のように
言い出すのは何なんだろう。どこかで何度も見た光景だよ。

とりあえずトプカプ宮殿思い出したw


545 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/14(土) 21:18:29.91 ID:oVsZZ3f7

秋篠宮が顧客って話はどっから?
学生時代相当性的に遊んでたって話は聞くけど。


557 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/14(土) 21:59:13.33 ID:1swOn44C0
>>545
学生時代遊んでいたと嘘流していたのも高円宮

小和田、高円宮、外務省、創価学会
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-746.html


720 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/17(火) 16:23:40.03 ID:TJkacFS60

事件発覚前から秋篠宮の不穏な話は漏れてた
ま、そうでなくともまともな日本人で彼を崇める者はいない


561 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/14(土) 22:12:39.56 ID:FwHVUwcc0

秋篠宮はガチなので火消しにも消せないだけだ。


562 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/14(土) 22:13:27.27 ID:d5/LkhQj0

やばいのは皇太子と東宮職と小和田だろ。


563 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/14(土) 22:15:48.74 ID:vzRu8Q3V0

当時から挙がっていた政治家や皇族の名前はガチだろう。
事実じゃなかったら本人が出版社を名誉棄損で訴えるはず。


662 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 15:10:11.54 ID:jGKO/L/q0
>>563
無知だね〜
皇族は法の主体になれないので、訴えることはできない。


663 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 15:10:29.57 ID:ABP+wmpf0

女の子たちもあの気持ち悪いヒロノミヤが近づくだけてきもいだろうに


567 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/14(土) 22:51:42.64 ID:yr5XENb/0

皇族はちゃんとそれ専用の処理係がいるって聞いたことあるけど
いくらなんでもこんな怪しいとこで買ってないと思う


573 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 00:45:17.63 ID:nTm8nXvI0
>>563
当時挙がってたのが愚弟皇族の名
今更必死になってスライドしようにも絶対に無理だ


583 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 05:20:12.25 ID:V60yM5Ne0
>>573
本当になw
堕胎2回も小和田雅子だったし、その性的遊びが激しくて性病&不妊症になった
中学生の頃から巨人のプロ野球選手の追っかけしてスナックに出入りしてた
高校中退してアメリカに行ったら中華系アメリカ人デビッドカオと同棲
親父のコネで外務省に入ったら幼馴染の越智隆雄や同僚、上司岡本やらと不倫

日本単独WC開催だったのを高円宮ら韓国利権に群がった奴らが日韓WCにした


592 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 06:47:23.07 ID:py0y9MOH0
>>583
おかしいな
まだ東宮の結婚なんか形にもなってなかった秋篠宮の結婚の頃に
そのお相手が●胎を余儀なくされたという話が学校中心に飛び交ってたんだけど


594 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 07:03:09.22 ID:4ylmY0UJ0
>>583
紀子さんは2回どころじゃないいよ
全く鬼畜兄弟だね


584 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 05:27:31.58 ID:QK1skSLQ0
>>583
お前のような雑魚三下が踊り出すから

プチエンジェル事件=秋篠宮

と国内外でハッキリ認識されてた事実が
より一層信憑性を増していくんだよ


596 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 07:08:52.90 ID:n+vCL14/0

プチエンジェルと皇太子はかなりヤバイ話なんだな。
こんなにバカな煎餅がわんさか湧いてくるのを見るとw


603 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 08:06:47.21 ID:V60yM5Ne0
>>596
そのヤバい遊びのために皇室の宝を海外に持ち出して売ったりヤフオクで売ったりと
池田礼子もヤフオクに絡んでいる
治外法権の国連大学にも一時雅子さんは通い詰めていた
前回の薬物OKのオランダへも相当皇室から荷物持ち出しているよな
今回のスイス行きもアレだと言われている

皇太子夫妻のヤバい遊びが子の発達障害へ
高円宮のところは長女がブログで淫乱ぶりを吐露


614 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 09:41:54.27 ID:JhFsn/El0

紀子様の噂は必死に広めた連中がいたんだね
インターネットもない時代にメディアにのらない話を。


616 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 10:02:04.49 ID:+RSl1FHR0
>>520
そういえばアヘ顔流出とか、なぜか頻繁に訪れていた大学にベッドが用意されていたとかあったな雅子さん

薄汚い噂が、多数流れていたとか言う奴。うわさには人と発信源が必要なんだよ
一つの噂が同時多発的に多数に流れるのはテレビなどのメディアを使うか
大人数がいる団体や組織。まあ大抵は学校なんだがそれらは元が同じ情報でも地域やその団体での特性や差異がでる
メディアではなく伝聞であっても伝言が続いていくあたりで変化が加えられてゆく

しかしこの弟宮の件は大人で各地方で差異もなく広まっているそうで
つまり全国に組織がある団体が文言も指定して各地の人間に意識的に言うように指示されたのが良く判る

そうかがっかい

617 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 10:57:48.59 ID:ogTMwF550警備が凄いのは兄だろ?
従兄が心室細動とかでアボンが怖かったとかじゃね?

618 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 11:21:57.57 ID:45EBgeit0>>512
秋篠の素行と性格と顔見たらあまり説得力をもたないよね
チョンヤクザが兄陣営認定して東宮に矛先そらそうとしてても火消しが逆によけいあやしく見える
秋篠が東南アジアになまず研究?で遠征に行ったときに風呂屋で風俗遊びしてた噂はかなり昔に聞いて
あー皇位継承権持ちの皇族の癖に風俗はヤクザの美人局がやばいのにぃ
と思って私は長くずっと記憶に留めていたし
もともと結婚前の紀子さんに中だし中絶の常習犯して義父を激怒させてた男だし
帰化チョンのグループがやたら秋篠を推すのがなんだか逆にすごくあやしいし

皇太子はあなどられがちなポッポに似て堅物くさいし女の趣味も柏原よしえとブルックシールズでしょ、
あれほど付き纏ってゲットした雅子も同じ派手なつくりの顔でそれに大柄でごっついし
東宮はロリよりマザコンだよたぶん
子供もなかなかできなかったしEDのイメージはあっても性風俗遊びのイメージない
よくて東宮御所のプロのおばさん女官の手ほどきで鍛えられた素人童貞

皇太子が幼い少女が好きでも共産党パヤオみたくメンタル高齢童貞の子持ち既婚者が
幼女に真面目な母性を見るみたいなアレを連想する
嵌められるにせよカルト系の社会福祉法人に騙されて善意で悪巧みの神輿看板に使われるぐらいしか想像できないし
魚座だから少女趣味のケはあるだろうけど本人が少女漫画読みそうな顔してるし
ヤクザに紹介されて一晩少女と一緒にいても真顔か笑顔でずっと雑談してそう
それも敬語で

秋篠は風俗好きそうだし節操なさそうだからシモのスキャンダルはこっちのイメージ
これは火消し矛先そらしでなく正直な感想だから弟陣営に寄生したチョンヤクザが必死に工作してもイメージは消せない
紀子さんもいまはキツネっぽいけど昔は美少女風だし
その紀子さんにあの仕打ち、秋篠は性的に少女が好きそう

つうかやっぱザイニチは皇室も狙ってたんだよな
プチエンジェルでこんなん話題にでるとは
風俗関係に限らずあやしい法人の神輿にされてる華族多いし今後はそっちも洗ったほうがいいかもね


703 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/16(月) 08:05:05.48 ID:1FMWJCeD0

日嗣の皇子のお名前があがってるのは、元ネタがイギリス留学中に
あるとかいう書き込みみたことあるな。


718 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/17(火) 15:21:19.50 ID:JWaxyPS90

皇族が絡んでいたから消された・・・・

なんてなw
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1402608583/

66. 中川隆[-10668] koaQ7Jey 2019年4月20日 12:02:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1393] 報告

秋篠宮ではなく皇太子の方がプチエンジェルの顧客だった?


プチエンジェル事件というと必ず糸山英太郎の名前が出て来ますが、これだけ糸山英太郎のロリ趣味が喧伝されるというのは、プチエンジェルのもっと重要な顧客の事が話題にならない様に、スケープゴートにされているという事なのですね:


【英中】「まさか自分がハニートラップかかるとは」 ロンドン前市長告白 
出会った中国人女性がホテルで待ち伏せ、部屋に誘ったら…

546 : 名無しさん@十周年[] : 投稿日:2009/12/05 12:35:31ID:67IbI1s+O [1/1回(携帯)]

小沢はわざと同行者を罠にかからせにいくんだろうな。
映画の『エイリアン』と変わらん。

皇太子も罠にかかりつつあるか、すでに罠にかかっているんだろう。

小沢は日本に恨みがあるのか。
http://www.logsoku.com/r/newsplus/1259949962/


36 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/13(金) 07:02:04.10 ID:nBEoAHw3I

秋篠宮が顧客、あ、誰か来たようだ


600 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 07:49:00.82 ID:Nq9r4bRD0
>>36
その兄がって言う噂有りだよ。


713 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/17(火) 08:23:51.48 ID:unNvVBpU0

皇太子殿下がお忍びでいらしていたと聞いて。


596 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/15(日) 07:08:52.90 ID:n+vCL14/0

プチエンジェルと皇太子はかなりヤバイ話なんだな。
こんなにバカな煎餅がわんさか湧いてくるのを見るとw


718 :名無しさん@0新周年@転載は禁止:2014/06/17(火) 15:21:19.50 ID:JWaxyPS90

皇族が絡んでいたから消された・・・・
なんてなw
http://peace.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1402608583/
http://koramu2.blog59.fc2.com/blog-entry-746.html


53 : 名無し草[sage] 投稿日:2011/04/08(金) 09:56:22.35

小和田がらみもあったが、皇太子自身がロリというエピがイギリス留学中あったそうだ。


94 : 名無し草[sage] 投稿日:2011/04/08(金) 13:05:11.29
>>53
ロリコン疑惑があるのは秋篠宮
プチエンジェル事件を蒸し返されるから無茶なスライドはやめるべき

皇太子はイギリス留学当時、同時期のブルック・シールズファン
ロリではない
http://www.logsoku.com/r/2ch.net/nanmin/1302183091/


【皇室】デヴィ夫人「徳仁殿下を廃嫡、雅子妃殿下を廃妃、皇太子位を秋篠宮様に移譲することを求める請願書」の署名運動開始★3

132 : 名無しさん@12周年 [sage] 2011/11/16(水) 03:18:16.30 ID
:h/wOIZGL0
柏原芳恵だのブルック・シールズだのが好きって、いい歳して言ってたりするのは現代風
そういえば、シールズ好きを公言し始めたのは、オックスフォード時代かな?
当時のシールズはまだ10代で、代表的ロリータ女優とみなされていた時期だから、皇太子はたぶんロリコン
http://archive.2ch-ranking.net/newsplus/1321379074.html


【皇室】こどもの日は皇太子ご夫妻、敬老の日は秋篠宮ご夫妻...両陛下の施設訪問引き継ぎ - 宮内庁 [15/01/22]©2ch.net

1 :ゆでたてのたまご ★@転載は禁止 ©2ch.net:2015/01/22(木) 15:49:52.52 ID:???0
31 :自治スレでLR変更等議論中@転載は禁止:2015/01/22(木) 21:42:07.98 ID:0VbMzUDs0

>こどもの日は皇太子ご夫妻、
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20070805191913.jpg

ああ、ロリだからな徳仁は。やっぱりそっちを取ったかw
http://daily.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1421909392/


皇室御一行様避難所 part56

32 :可愛い奥様@避難所生活:2014/02/03(月) 17:59:49 ID:68.HsP5o

ローリーと言えば、プチエンジェル。
タトムもいっちょ噛みしていたと噂されていましたねぇ。
時系列的にマサ丼&準皇族ご一行様の狼藉具合と照らし合わせると、面白い妄想が出来るかも知れませんねw


33 :可愛い奥様@避難所生活:2014/02/03(月) 18:00:09 ID:zRJUtpEQ
>>31
いや〜、生徒の体操着がなくなったり、更衣室にカメラがあったりって事案が出てきそうな。

三の丸尚蔵館あたりで入場券のもぎりでいかが?


34 :可愛い奥様@避難所生活:2014/02/03(月) 20:31:23 ID:aKIOyEkc
>>32
プチエンジェルは憲仁殿下やナルの噂もあったね
都市伝説的な噂だけならいいけど
コルマールで外務に嵌められているだけに
他にどれだけやらかしているか


39 :可愛い奥様@避難所生活:2014/02/04(火) 11:31:23 ID:sSD5QI8o
>>34
owd(中川註:小和田)が皇室の弱みを握ってるってよく聴くけど
ナルのプチエン遊びのことかな?
あの人若い頃は巨乳好きでロリってイメージじゃなかったんだけど
でもブルックシールズのデビュー作って思っきしロリなのよね(プリティベイビー)
青い珊瑚礁の時でも15歳だもんな


805 :可愛い奥様@避難所生活:2014/03/13(木) 14:07:50 ID:FoJkxjvk

女性セブンの記事のはじめのモノクロ写真は3月10日の最後の授業参観の下校風景です。>三人お揃いw

54歳のおっさんが、授業参観ばっかりして何が面白いんだろう、と素で思う。
どんなイクメンでも、年に1回、1時限したらオナカイッパイじゃない?


806 :可愛い奥様@避難所生活:2014/03/13(木) 14:44:41 ID:VPmj/kMM
>>805
ヒント:ロリコン
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read_archive.cgi/news/5135/1391054484/-100

786 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 11:48:07.78 ID:5q0BW7LL0.net[2/3]

鴨場の出来事とは麻薬取引現場の証拠写真を突き付けられたとか?
今日のASUKA被告の裁判報道を見てたら、トウグウも乱●パーティーやってそー、オェwとあらぬ想像が浮かび

プチエンジェルという言葉も思い出し、何が何やらw
これは一大スキャンダルだよね

次代になれないなら皇室廃止にシフトチェンジ
引いたら終わりのカード、コウタイシ ハ ハコビヤ
お抱え反日マスゴミを使って皇室廃止キャンペーンだったりしてね


789 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 12:06:45.39 ID:cmQqIkIl0.net[2/2]

そう言えばプチエンの話題で唐突に秋篠宮殿下のお名前を出してきたり、異様だったな。
いつもの●の行動パターンなら東宮が絡んでるとしか思えんぞ。


790 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 12:16:29.97 ID:5q0BW7LL0.net[3/3]

そっか・・・
じゃあ、取引材料かな
認めざる負えない証拠、次々と事件発覚
で、関わっている各擁護勢力の力が衰える展開
お手上げ、身を引く代わりに不問?
廃太子に出来るなら致し方なしとか


791 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 12:55:22.54 ID:n3SWW+i5O.net

全てowd(中川註:小和田)一味がやったことなので
無条件廃妃・現盗宮家劣り潰しでおk


794 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 14:04:54.69 ID:QUszUBr30.net[2/3]
>>789
プチエンジェルの件は
事件当初から礼宮の名前が名簿にあったということが騒がれてたけど?

必死にスライドして皇太子のせいにしてるけど
皇太子じゃ警備が厳しすぎて自由に行動もできないことは明白なのにw


 
796 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 14:08:45.90 ID:Gy+cR+L8O.net[3/6]

紀子様という彼女がいるのにプチエンする理由がまずないし
当時モテナイ君だった皇太子のほうが…


800 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 14:20:14.12 ID:jqePko710.net[1/3]
>>794
プチエンはマサが関係?それにナルだよ、ナる。
今だって学習院で運動会、幼女の写真撮りまくり。
アーヤじゃないよ、ナル。自分より小さいヨウジョに・・・


798 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 14:13:07.32 ID:zQqewQnU0.net

愛子様の運動会で撮りまくってたんでしょう…
皇太子の方でしょ…


822 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 18:59:55.30 ID:4pfHjkrZ0.net

スレタイ夫、娘の運動会でもロクに見もしないで写真ぱかり撮ってるよね


806 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 16:03:22.76 ID:cbuHdh5qO.net[1/7]
>>796
ナルは愛子の運動会でも女子小学生を撮りまくるロリコン。
モテないし妻の雅と新婚時から寝室は別。
昔イギリス留学時にそっち関係の遊びをお付きの人が同行したと、過去スレ。
秋篠宮殿下は紀子様とラブラブ。愛人報道は捏造。タイの王女の写真付証言あり。


807 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 17:05:43.94 ID:cbuHdh5qO.net[2/7]
>>806
プチエン総括サイトから探して取ってきました。

_____
700 :名無しさん@お腹いっぱい2011/03/30(水) 09:58:06.58 ID:???.

兄。嗜好は学友の間でも有名である。英国留学の際のエピソードあり。
常に側近が同行している。
妃の入内に関わりありとの噂→小和田恒


701:名無しさん@お腹いっぱい。:2011/03/30(水) 14:11:37.11 ID:???
12歳当時の雅子様の写真とプチトマト(中川註:ロリ写真集)に掲載されていた少女の一人がそっくりだった件w
ちなみに清岡女史は元華族


709:名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 10:03:47.11 ID:???
>>701
なにそれ?


710:名無しさん@お腹いっぱい。:2011/04/08(金) 13:06:24.68 ID:???
>>709
それ、ロリコンにしかわからない隠語のようなもんだから
気にすんな!w
http://shimasoku.com/kakolog/read/archives/1146071493/

_____


815 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 18:13:17.71 ID:JD+cGIbP0.net[1/2]
>>812
こういう雅子さんの画像を見るとね・・・
http://www.yuko2ch.net/mako/imgbbs3jik/img-box/img20071124112148.jpg


816 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 18:17:15.72 ID:M+6FUsI8O.net[2/4]
>>815
おい、なんだこりゃ


827 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 19:39:06.43 ID:jqePko710.net[3/3]
>>815
芝生に直接座るかな?
昔は「虫が入るよ」って言われて、敷物くらい用意するんだが。
スカートが湿るし汚れるし、絶対、こんな写真撮らないね!断言する。


828 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 19:54:58.45 ID:rTpkkYf/0.net

赤ちゃんのころなら、はだかんぼで、撮ったことありますけど、あの大きさでは、ねぇ。意図的なんでしょうか?


817 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 18:27:25.68 ID:26gePjrv0.net[1/2]

普通の親だったら、
「パンツ見えるから、足を真っ直ぐ伸ばして膝をくっつけなさい」
って言ってから撮る、よな?


820 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 18:37:06.91 ID:JD+cGIbP0.net[2/2]
>>817
パンツはいてたらね・・ 知らないけど。


833 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 21:01:27.69 ID:+YmUSvh20.net
>>817
パンツ見せるための写真かもな
ロリコンの権力者に売り飛ばすために。

雅子が嫁ぐ前からずっとあの家族の振る舞いの傍若無人さはHISASHIの力を当てこんでる訳でもなく それ以上が後ろにあるからだろ


834 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 21:15:28.36 ID:cbuHdh5qO.net[6/7]

こんなパンツ丸見え写真は雅だけでしょ?
礼節はゲロ写真はあっても、つんつるてんの浴衣とか、長襦袢なしの着物とかは雅だけ?
ジジンもバンビも雅に対する愛情はあまりないと思った。
あくまでも利用価値のある駒。


823 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 19:05:08.19 ID:26gePjrv0.net[2/2]
>>820
まさか…と思ったけど、斜め上なのがあの家か。なくはないか。


808 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 17:20:27.00 ID:Gy+cR+L8O.net[4/6]
>>807
まさか自分の娘にまで手を出してないよね?
そこまで鬼畜ではないと思いたいけど…


811 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 17:34:28.53 ID:cbuHdh5qO.net[3/7]

いくらロリコンでも愛子みたいな感じでは大丈夫でしょう。
ナルの好みは愛子のご学友バンビちゃん?


812 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 17:39:56.49 ID:vA0p93nx0.net[5/5]
>>808
ヒサシジジンもマサが本当の娘じゃないから手を出して売り飛ばしたんじゃないのって噂があった。
プチエンの前はプチ○マの話がかつて出たよ。
嘘か誠か不明だけどプチ○マにスレタイらしき少女が居たって。
裏で実はある部署が絡んでいる説もある、あの女性写真家はいつ死んだかも分からない。
国会図書館でも、この手の本は既に閲覧禁止になっている。

スレタイ妻が中学生から野球選手の追っかけやってた、というのは
性的な部分が発達しすぎていたというより幼少期にすでに壊れたんじゃないか?


813 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 17:57:51.66 ID:cbuHdh5qO.net[4/7]
>>812
そのような事が書いてあるblogを前に読みました。
ジジンもプチ○ンで脅迫されていると書いてありました。
死んだ女性写真家ってのは初めて知りました。
よくわからないけど口封じ?裏の世界は汚くて怖い。


814 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 18:05:26.58 ID:Gy+cR+L8O.net[5/6]
>>813
えっ、ジジンまでロリコンなの?
浮気ばかりしてたのは知ってたけど
ロリコンは気持ち悪すぎ…


821 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 18:44:10.86 ID:cbuHdh5qO.net[5/7]

プチ○ン関係→140番組の途中ですがアフイサイトへの転載は禁止です

2013/01/29(火) 20:22:55.08 ID:略
たかが国会議員レベルで報道が止まるなんてありえない。
愛人におしっこ飲ませた山拓は週刊誌で叩かれた当時は自民党副総裁だ。
名前を出すのが恐れ多い立場の人が顧客リストに居たんだろ。


836 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 21:42:42.01 ID:bK8mlHeh0.net

プチエンとかクスリとか、東宮家 後ろ暗すぎだろ


838 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 21:52:57.58 ID:M+6FUsI8O.net[3/4]

こういう話になるとどこまで信じていいのかワカランが
オワダの荒らぶりチンコがロシアに喰われたかチャイナに掴まれたか
日本国のためにならんのは確か


840 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 22:01:44.26 ID:ViGYo/0j0.net[1/3
]>>836
プチエンも薬もパソナの匂いがするわね。社長の名前はケケ中。
そういえば、どっかの誰かさんが愛国者って言っていたわ。
それって、皮肉?

韓国のアキヒロの黒幕として、米韓FTAに尽力。結果、未曽有の雇用破壊とグローバル化を招き、ただいま韓国絶賛沈没中。
そして、またもや日本に舞い戻り、日本を奈落に沈めんとせん・・・かww


841 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 22:10:43.63 ID:f1ZMI58A0.net
>>838
KGBは徹底して性的趣味まで調べるそうなのでw
ヒサシがゲイだったとしてもロシア美少年をあてがわれていたよ

ロリコンは日本の得意技なんだけどね


842 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/28(木) 22:14:44.90 ID:ViGYo/0j0.net[2/3]
>>841
ロリータを書いた、作家のウラジーミル・ナボコフは米国在住の亡命ロシア人だった。
美少女趣味って、全世界共通の性癖だったのよ。
KGBが用意するのも、お手の物だったんだろうね。


861 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/29(金) 09:43:19.12 ID:0ez69SYw0.net[1/2]
>>841
KGBだけじゃないでしょ。
日本の政治家はシナチョンの愛人多すぎ。
ついでに自衛隊も。


882 :本当にあった怖い名無し@\(^o^)/:2014/08/29(金) 13:32:06.65 ID:iqgRfbuUO.net[3/4]あるblogより→2012/01/0901:31

東宮家の渡仏渡英予定も麻薬利権がらみ?

プチ○ン事件で脅迫されて○璽を持ち出し…

オランダ静養日本出国時の大量スーツケースの中身は?

帰国時 中身は麻薬?国連大学○本木で売りさばく?
http://toro.2ch.sc/test/read.cgi/occult/1408172468/

67. 中川隆[-10661] koaQ7Jey 2019年4月20日 12:40:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1400] 報告


【児童ポルノ】題名:パパだ〜いすき! ご存知ですか?
この動画が切っ掛けで法律が制定されました★ [転載禁止]©2ch.net


1 :Ψ:2015/10/13(火) 00:49:40.46 ID:cKCLOk1n0

実はこの動画、高円宮憲仁親王殿下と秋篠宮文仁親王殿下が映っているんですよ。
秋篠宮家の御長女と、高円宮憲仁親王殿下と秋篠宮文仁親王殿下の3人での行為が映っているのです。
お嬢さんがちょうど5年生程でしょうか。

赤い絨毯がひかれ、奥にキングサイズのベッドがある、パッと見で40〜50畳の部屋で高円宮憲仁親王殿下と秋篠宮文仁親王殿下自身がビデオカメラにて撮影しているものです。
この時、高円宮憲仁親王殿下が秋篠宮様の娘さんに『パパのこと好き!?』と訊き、それに対して『パパだ〜いすき!!』と言っている姿が映っております。
この一言が動画のタイトルとして使用され、流出しているという事になります。

よって、この動画の流出をうけ、児童ポルノ単純所持が違法となった経緯があります。
この動画が流出した際に、スケープゴートとして起こされた事件が、
かの有名な『プチエンジェル事件』です。

一時期、世間を賑わせた『ファイル共有ソフト』ですが、実は先述した流出動画を保有している人物を探す為に作られた物だったわけです。
したがって、現状、動画の保有者が特定されている為、単純所持での捜査という形での証拠隠滅に動いている経緯が有るわけです。
この様な事があり、流出元となった高円宮憲仁親王殿下が亡くなったのです。

さらに、『プチエンジェル事件』では、秋篠宮文仁親王殿下や高円宮憲仁親王殿下の名前が密かに挙がっておりますが、
先述した三人での行為動画という流出があったから、名前が出てきたのです。

この動画がアップロードされていたのは、携帯サイトの『秘密の桃の花園』と『秘密の桃源郷』というようなサイト名の、児童ポルノサイト(小学生もの)でした。
もちろん、この動画サイトの管理人は2006年頃に逮捕されておりますので、ご安心下さい。

この動画、天皇家の儀式だったのでしょうか??

あなたは、『パパだ〜いすき!!』を持っていますか??


8 :Ψ:2015/10/13(火) 01:39:43.82 ID:TtnOK8iU0

>>1を訂正します。(ID代わりました)

サイト名ですが、『未成熟なつぼみ』のように、『未成熟』が入っております。


11 :Ψ:2015/10/13(火) 01:50:29.69 ID:TtnOK8iU0

『未成熟な膨らみ』というサイト名であったと思います。
http://carpenter.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1444664980/

68. 中川隆[-10652] koaQ7Jey 2019年4月20日 13:51:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1409] 報告
都市伝説

【婚約】秋篠宮家の佳子様と眞子様の彼氏事情【結婚】(満州事変)
https://sites.google.com/site/kimitujyouhou/?overridemobile=true

秋篠宮(紋章;家紋)
秋篠宮家の家紋,眞子様-佳子様の御家の紋章(家紋)である.

ベールに包まれた秋篠宮家の実態と,お年頃の御姉妹.
季節は春,雪白が水面を覆うと,花の芽吹きが静かに栄ゆる.
秋篠宮家の二輪の花,『眞子内親王殿下』と『佳子内親王殿下』の「実情」を,
『棘』と『親しみ』を持って明らかにしてゆく.
これから述べてゆく事は,全て真実の記録である.
1990年(平成2年6月29日),文仁親王と川嶋紀子との結婚を機に創設された.
宮号は和歌の歌枕として有名な奈良県奈良市の「秋篠」に由来する.
宮号に秋篠が選ばれたことで,同地が話題となった. 特に,秋篠寺の技芸天像が文仁親王妃紀子殿下に似ているとも言われたそうである.

※秋篠宮家(天皇家)と私"達伊 和洸"の関係性
※仁和寺宮(小松宮彰仁親王‐伏見宮)と蝦夷地開拓(北海道)の暗号公文書《明治維新》


モバイル用ページ

はじめに(宮内庁の考え方と芸能人化する皇族や皇室と天皇家)

 突然ですが,天皇家;宮内庁は,どの様に物事を考えているのか,その実態を以下に纏めてゆく事としよう.
"天皇家の秘密"では,EXILE(エグザイル)と云う具体名を多用する事となるが,誤解を避ける為に,あらかじめ,説明させて頂きたく思う.

 まず第一に,EXILE(エグザイル)は「芸能」である.と云う事.
したがって,私はEXILE(エグザイル)を否定しているわけではなく,
「芸能を芸能として見る事ができていない」現在の世の中を表す為の具体例である.と云う事を念頭に置き,
述べさせて頂いたものである.と云う事である.

 この事は,「お笑い芸人」でも言える事であり,世の中の風潮として,
「面白い人が好き」「お笑い芸人みたいな人が好き」と云うような世論が形成されている事でも説明する事ができる.

 EXILE(エグザイル)の方達は,社会に出た際には大変礼儀が良く,社会のお手本となるような方たちである可能性も極めて高いと思う.
お笑い芸人の方達もまた,テレビと云う芸能の「仮想現実的世界」でのみ,ずば抜けた芸を披露しているのであって,一般社会に出た際には,ずば抜けた芸を行う事は無いだろう.

 何故ならば,一般社会に出てテレビの中と同様の行為を行えば,世間的に「これだから,お笑い芸人は」と,言われかねないからである.
しかしながら,現在の世の中は,「芸能を芸能としてみる事ができていない」方達(かたたち)で溢れかえっている状況である.

 したがって,ここで大きな問題が発生し(芸能の真似事),世間を驚かせるニュースが多発している実態が鮮明となっているのである.
以上の事を念頭に置いて読んで下されば,私が述べている事柄の本意を読み解いて頂ける事と思う.

※EXILE;http://ja.wikipedia.org/wiki/EXILE

EXILEダンスチームの写真(イメージ画像)
※イメージ画像


代表例;EXILE(エグザイル)と流行と社会的影響と宮内庁の関係

[1]

 皇居に「EXILE(エグザイル)」を呼び,コンサートを行ったのは記憶に新しいかと思う.
では,EXILE(エグザイル)を呼ぶと云う事柄は,どの様な考えを元に行った事なのかを分析してみたい.

 まず第一に,「EXILE(エグザイル)」と云う「芸能グループ」を呼ぶに至る考え方の中心点としての,
「若者に人気のEXILE(エグザイル)」と云うキーワードに着目し,考察;分析を行った.

 この,『若者に人気の』と云うキーワードを中心に,どの様な過程でコンサートを行うと云う決定に至り,
また,どの様な考え方が根底にあるのかを分析し,主観的な意見としての分析結果を以下に纏めてゆく.

 早速ではあるが,「EXILE(エグザイル)」と云う芸能グループについて表面的に触ってゆきたい.
EXILE(エグザイル)は最近の若年層を中心とした根強い人気がある,ダンスボーカルユニットである.

 最近の若年層を中心とし,皆が憧れを抱くと同時に,ファッションなども,EXILE(エグザイル)と同様の物が流行っている.
ここで注目したいのが,EXILE(エグザイル)の「人気の秘密」である.

 EXILE(エグザイル)のファッションは,海外ブランドの物であったりする.
また,EXILE(エグザイル)は「コワモテ(強面)」の方を中心としている事からも分るとおり,
元を辿れば「イカツイ系(強面)=一寸悪い系(見た目が怖い)」が売りである事は周知の事実であろう.

「悪い者(悪人)」に対する憧れは,誰しもが内包しているものであり,その悪い者(悪人)に対する憧れをくすぐる意味合いが極めて強いと云う事がわかる.

 そもそも,「イカツイ系」とは,極道者などの,所謂アウトローな方達が金銭面など,
自身の社会的ステータスを表す為にブランド物を身に纏うと云う事に端を発するものである.

 したがって,悪そうな見た目を演出する為に,EXILE(エグザイル)は「イカツイ系」と云う売り方をしているのである.
例えば,育ちが良さそうな男性がブランド物を身に纏っていると「育ちが良い男性」と云うふうに第三者の目に映るであろう.

 では,「イカツイ系」の男性がブランド物を身に纏っていると,「極道者かな?」「怖いな」と云うふうに第三者は見る事となる.
したがって,上述した,「怖いな」「極道者かな?」と思われたい方達,
即ち,ちょっと悪そうに見られたい方に受け入れられているのがEXILE(エグザイル)である.と云う事になる.

それでは,EXILE(エグザイル)が及ぼしている社会的影響と,昨今のインターネット事情(情報発信ツール;twitterやSNS)の相互作用を,
以下の[2]で纏めてゆく.
天皇陛下 御即位20年をお祝いする国民祭典(EXILE)
天皇陛下 御即位20年を記念する国民祭典(EXILE)


[2]

「若者に人気」の「EXILE(エグザイル)」は,今や社会現象とも言える程に世間に浸透し,国民に定着している.
街中を歩いてみると,若者の服装や髪型は,雑誌から出てきたモデルの如く,EXILE(エグザイル)一色である.

 これは,一過性の流行とは一線を画する人気であり,日本と云う国の国民性が如実に表れている一例である事は言うまでも無いだろう.
どのような国民性であるのかといえば,良くも悪くも「流行に流されやすい」と云う体質である.

 要するに,「皆と同じ」である事に異様なまでの執着があり,「皆と同じ」でなければ疎外感を感じると同時に,実際に疎外されると云う事である.
良くも悪くも皆と同じである事で,「安心感」を得ているのである.
※女性に関して言えば,「女性モデルの服装,その年にメディアで騒がれた服装ばかりである(作られたトレンド)」

 したがって,[1]で述べたように,「コワモテ=悪そう;怖い」と思われたい心理の表れである事と同時に,
負の側面自体が定着していると云う事に他ならない.

 例えば街中で,EXILE(エグザイル)=イカツイ系の集団が前から歩いてきたとしよう.
大抵の方達は,「怖い」と思い,「目を背ける」「注意できない」と云う状態になるだろう事は,安易に推測する事ができる.

 この事に付随する事は,[1]で述べたように,「イカツイ系に見られたい若者心理」を達成させると同時に,
友人;知人と外出している際に発生する「非常識な集団心理」を起こす要因となっている事は事実だろう.
よって,集団心理により,社会では受け入れられないような「モラルが無い行動」「社会秩序を乱す行動」に拍車が掛かる事態となっているのである.

 さらに,〔はじめに〕でも記述した,「お笑い芸人」のような「面白い人が好き」「お笑い芸人みたいな人が好き」と云う,
ある種の世論(理想の男性像)が形成されている為,異性に対するアピール的な要素をも含み,
「モラルが無い行動」「社会秩序を乱す行動」を助長しているのである.

この事柄を決定付ける事ができる例を幾つか挙げてみたい.

記憶に新しい事案では,
「自身が働いているコンビニエンスストアにて,冷凍庫に入り,その画像を情報発信ツール(twitter等)に掲載する.」
「イカツイ系の若者集団が全裸で大手牛丼チェーン店に入り,その動画を動画サイトに投稿する.」
「電車の中で全裸になり,その画像を情報発信ツール(twitter等)に掲載し,公然わいせつ罪で逮捕される.」
などが挙げられる.

 ここで注目したいのが,情報発信ツールの存在である.
自分では面白いと思い,WEB上に投稿しているようであるが,
第三者から見た際には,「モラルが無い行動」「社会秩序を乱す行動」である事は間違いのない事である.

 したがって,「モラルが無い行動」「社会秩序を乱す行動」がニュースで取り上げられ,社会問題となっている現状があるのである.
この事に関して見ると,全国ニュースにする事で,ある種の見せしめを作り,負の連鎖を断ち切ろうとしている状態が見えてくる.

 しかしながら,メディア(テレビ)もまた,情報発信ツールであるが故に,ニュースを見た者が,その行為を模倣し,
次から次へと「モラルが無い行動」「社会秩序を乱す行動」が発生しているのである.

 この様な事態は,全国に存在するモラルが無い者が,情報発信ツールを介し助長し合っているから発生するのである.
よって,この負の連鎖を断ち切る事は到底不可能である事は間違いないだろう.

 この事柄の根底にあるのは,「精神年齢の低年齢化」であると言えよう.
物事の良し悪しを判断する事ができる年齢に達しているにも関わらず,上述した行為が多発する状況から見て判るとおり,
「物事の良し悪し」「思慮分別ができない」"大人"が急増していると云う事であろう.

 この事は,若者のみに限った事ではない.
「モラルが無い行動」「社会秩序を乱す行動」を,若者と一緒になって行う"大人"が多いのも実状であるからである.
"大人"が,若者や女性の前で,自分自身を大きく見せようとし,若者よりも過激な行動に出る事も少なくない.

 したがって,情報発信ツールと社会問題としてのEXILE(エグザイル)が見えてくる事となる.
以上の問題が有りながらも,皇居に「EXILE(エグザイル)」を呼び,コンサートを行い,全国に放送したのである.
電車の中で全裸になりtwitterに投稿、炎上して逮捕(社会問題) 電車の中で喫煙しtwitterに投稿、炎上(社会問題)
優先席の荷物置き場に乗る若者がTwitterに投稿し炎上(社会問題)
※イメージ画像


EXILE(エグザイル)が及ぼす社会的影響とインターネット(情報発信ツール)の相互作用

 先述した問題を含む現状に於いて,何故,天皇家;宮内庁はEXILE(エグザイル)を呼び,コンサートを行ったのか,
考察;分析を行い,その結論を述べてゆきたいと思う.
まずは代表例;EXILE(エグザイル)で述べたように,

1;「若者に人気」の「EXILE(エグザイル)」は,今や社会現象とも言える程に世間に浸透し,国民に定着している.
2;街中を歩いてみると,若者の服装や髪型は,雑誌から出てきたモデルの如く,EXILE(エグザイル)一色である.
以上の事から導き出される考え方を,以下で述べてゆく.

 皇室と宮内庁の様々な現状を分析した結果,「国民の皇室離れ」を危惧している現状が見えてくる.
特に若者の皇室離れは顕著となっており,次世代に於ける皇室の存在意義に対する危機感が垣間見えてくる.

 では,何故に「若者に人気」の「EXILE(エグザイル)」を呼ぶ事となったのか,
そこには先述した,「若者に人気」の「EXILE(エグザイル)」と云う「若者」と云うキーワードに主眼を置いていると見る事ができるであろう.

あくまでも推測の域を脱する事はできないが,
宮内庁側としては「若者に人気」+「皇室に若者を取り込みたい」=EXILE(エグザイル)を呼ぼう
と云う事になったのではないだろうかと推測する事ができる.

 また,宮内庁としても,「EXILE(エグザイル)を呼ぶ事ができる宮内庁」と云う,ある種の付加価値を付けたかったのではないだろうか.
宮内庁側が参考にしたのは,おそらく「オリンピックの開会式」ではないだろうか.
「オリンピックの開会式」ではライブパフォーマンスがある事から,まさにオリンピックを意識してのコンサートであると言えるだろう.

 天皇家側としても,"個人的な親交(お付き合い)"もあるであろうし,また,皇族との関わりも浮き彫りとなってくるのでは無いだろうか.
皇族としても,EXILE(エグザイル)との親交(お付き合い)を世間にアピールできる機会であると捉えたのであろう.

 しかしながら,ここで問題となってくるのは代表例;EXILE(エグザイル)で述べた事を一切考慮していない事である.
はっきり言ってしまえば「個人的な趣味;個人的な親交アピール」であると云う事である.
「自国の国民性を理解していない」極めて浅い考え方が見えてくる事となった.

極めて残念で有るが,これが日本を代表する天皇家の現在の状況である.
大変心苦しいが,その他の現状を下記で述べてゆきたい.
オリンピック会場の写真(イメージ画像)
皇室離れ(神道と仏教)の写真(イメージ画像)
※イメージ画像


ICUダンスサークルと秋篠宮佳子さまのご関係‐繋ぎ役は眞子さま!?

[1]

 佳子内親王殿下(佳子さま)のICUダンスサークルの話題が記憶に新しいが,よく考えてみると,なぜ接点があるのだろうか.
そう,『学習院大学在籍中はダンス関連の部には一切属していない』のである.

にも拘らず,何故,入学前からICUのダンスサークルに関わりがあるのだろうか?
この点を分析してみると,ここで浮上してくるのは眞子内親王殿下(眞子さま)以外に接点となる人物は見当たらない.

 と云う事は,眞子内親王殿下(眞子さま)がダンスサークルと親しい関係にあり,
そこで,妹である佳子内親王殿下(佳子さま)が接点を持てたと考えるのが一番納得できる推測となるだろう.
したがって,眞子内親王殿下(眞子さま)は,スキーサークルの他に,ダンスサークルとの交流もあった(ある)と云う事になるだろう.
眞子さまと国際基督教大学(ICU)スキー部の写真(イメージ画像)
眞子さまと佳子さまのに関連するダンスサークルの写真(スムステ:スムースステッパーズのイメージ画像)
※イメージ画像

[2]

 では,ダンスサークルとはどの様なものであるのか?
ダンスサークルは,都内のクラブを貸しきってパーティーを開催したり,他校のクラブ等が主催するパーティーに参加したりと云う具合である.
なるほど,ダンスサークルとはクラブでパーティーをしなければ,その意味合いが希薄となる存在である事がわかる.

と云う事は,眞子内親王殿下(眞子さま)はクラブに出入りしていたり,それなりの交流があると云う事になってくるだろう.

 ここで疑問点が出てくるのであるが,眞子内親王殿下(眞子さま)が英国エディンバラ大学に留学し,
帰国後の学内アンケートで答えた内容は皆様ご存知だろうか?


***以下,アンケート回答内容***

【眞子内親王殿下(眞子さま)】
「どちらかと言えば派手でお金がある新入生が多かったようで,毎晩のようにクラブに出かけて部屋や共有スペースでパーティーをしているような人が多かった.」
「私は盛り上がって楽しむのも好きだが,基本的にゆっくりお茶を飲みながらおしゃべりするほうが好きだったので,そこからして合わなかった.」
といった具合の回答をしている.

参照元;〔女性自身〕

ここで,『え!?』と思われた方も多いのではないだろうか?
では一体,騒ぐのが好きなような方とは,性に合わないと云う眞子内親王殿下(眞子さま)が何故,ダンスサークルとの交流が浮上するのだろうか?
この疑問点を,私「実態を知る者」が,これから暴露してゆきたい.
眞子さまとお茶:喫茶店Cafe(イメージ画像)
眞子さまとパーティー(ホームパーティーのイメージ画像)
※イメージ画像

[3]

 2012年〜2013年まで留学(交換留学生)していた眞子内親王殿下(眞子さま)ですが,
帰国後の学内アンケートに,
「寮の近くはレイプの被害が多いので,フード付のパーカーを一着持って行くことをお勧めします.」
と云う事を書いていると週刊誌に取り上げさせているのは,
留学中に妊娠した事がバレた際に,「実は私,レイプの被害にあったの」と被害者のふりをする為にも見えますがどうでしょうか.
(ことが発覚した際の保険を掛けた)

 先程の,[1]・[2]で明らかにしたように,クラブなどはお好きのようですから,
ごまかし方としては,海外留学にぶつける形で(2014-2015年)
「秋篠宮の会員制のクラブ遊びは,眞子ではなく佳子ですよ?」と誤魔化す為に,
成人式の後に「会員制クラブ」に佳子内親王殿下(佳子さま)を行かせたと推測できます.
(これに,宮内庁職員逮捕「ハプニングバー」で公然わいせつ.複数プレイで誤魔化し.宮務官を使ったスケープゴート)
誤魔化したい事柄は,時期をずらして他人に擦り付けを行っているようです.

※産経新聞:秋篠宮家担当の宮内庁職員逮捕「ハプニングバー」で公然わいせつの疑い
(秋篠宮の名前を使わなければ誤魔化しが効かない場合,身内を使って誤魔化す.)
眞子さまのファッションとフード付のパーカー服(イメージ画像)
眞子さまがクラブで知り合った男性とデート(イメージ画像)
※イメージ画像

[4]

 アンケートに関する内容では,[2]で記述した,
「毎晩のようにクラブに出かけて部屋や共有スペースでパーティーをしているような人が多かった」とあるが,
この他にも,留学初期にプリペイド式の携帯電話を購入し,友達作りの為に,片っ端から電話番号を聞いて回った.との情報もある.

 したがって,留学先で,いかがわしいパーティーを主催している人間からすれば,「良い鴨が来た」となる可能性が高い.(この時は自らその場に参加しているもよう.)
ここで,眞子内親王殿下(眞子さま)は,いかがわしいパーティーに参加し,(妊娠騒動)となった可能性が極めて高いと思われる.
※国内にて既に妊娠していた可能性も否定できない.
 したがって,[2]で記述したように,帰国後の学内アンケートに,
「寮の近くはレイプの被害が多いので,フード付のパーカーを一着持って行くことをお勧めします.」
と云う事を書いていると週刊誌に取り上げさせているのは,
留学中に妊娠した事がバレた際には,「実は私,レイプの被害にあったの」と云う状況を作る為に,アンケート内容を週刊誌に取り上げさせ,
後に発覚しても被害者のふりをする為であると推測できる.

この事柄を誤魔化す為のスケープゴートとして利用されたのが,
[3]で記述した「秋篠宮家の宮務官」と「佳子内親王殿下(佳子様;会員制クラブ)」となるであろう.

※今年2015年3月に英国ロンドンの会員制クラブのトイレの個室内にて,某有名サッカーチームの選手と利用客の女性が性的行為を行い,
その状況をサッカーチームのメンバーが撮影すると云う事がありニュースとなったが,
実は,2013年3月にも同様の事が,英国ロンドンのクラブであったのは御存知だろうか?
『何故,2年経て同様の事件を起こさなければならなかったのか?』
ここまでお読みの皆様は言わずとも察する事ができるかと思う.

※日刊スポーツ:会員制クラブの個室トイレで性行為
※ライブドアNEWS:パブBARの個室トイレで性行為

※1;周知の通り,イギリスでは階級意識が強い.大きく分けて上流階級,中産階級,下層階級に分かれる.
各階級の中でも序列は細分化されており,たとえば上流階級は,いわゆる貴族全般を指すが,
その中身は,王室から始まり,その親族の公爵など,(世界史でやった公侯伯士男)から,勲章をもらったナイトまでの上下関係があるし,
中産階級,下層階級もそれぞれ3つに分かれると云う.
ちなみに上流階級は,もちろんパブなどには出入りせず,クラブと呼ばれる会員制の集まりに行く.
いきおい,中産階級はサルーン;バーへ,下層階級はパブリック;バーへ行くことになる.
(※1-参照抜粋元;英国でのクラブとパプの差)

※そもそも,高円宮承子女王(承子さま)が一足先にICUに入学されているのですから,
なぜ,秋篠宮家の眞子さまと佳子さまがICUに入学されたのか,皆様お察しの事かと思われます.(エディンバラ大でしたか?)

【追加情報】
2012年8月から9月にかけて,留学の為に一人暮らしの練習でしょうか?
マンションが2つあるらしく,このマンションにて,友達皆が集まって,飲み食いした後,ゴミが,そのまま散らかった状態で,
部屋にはこんなにどうするの?と云う位の量の避妊具や,洗面台には大量の日焼け止めクリーム等がそのままあったそうです.
1つは,一年ほど使用していないと,洗面台などの水周りにカビが生えやすい部屋であるとの事です.
(一戸建ての部屋をマンションと言い換えている可能性も考慮するべきであろう.)

※この話は,2012年11月頃の話でありまして,部屋を片付けに行ったと云う女性(清掃担当者と云うのでしょうか?)から入ってきた情報となります.
このような事柄も,英国留学中であったり,秋篠宮家の宮務官の逮捕(ハプニングバー)で誤魔化しているようです.


【追記情報:2018.07.06(2016+2017も追記したがデータが飛んでいる為,再掲)】

 これらの話に関してですが,眞子さまは,2012年6月から小室圭さんと付き合っていたと云うのにこれです・・・.
英国内の銀行系(金利操作で問題になった)で働いていて,フットサルのチームにいた人です.
だから,わざわざ小室氏の話題でフットサルをアピールして誤魔化そうとしている事実があるわけです.


 これらの事柄は,その男性がTwitterをやっていたから特定できた事実です.
まだTwitterをやっているでしょうか?

 そもそも,2012年は『留学先で良い相手を探して来い』と秋篠宮文仁親王が言っていたんですよね.(週刊誌報道)
にも拘らず小室圭 氏を投入したのは,これらが内部で露呈したからです.
交際を認めていたなら『良い相手を探して来い』とか,そんな事言わないですよね?

この矛盾点を明確に説明できる事が,これらの事です.

 あとは,人物像のすげ替えで,『銀行系の人物』やら『二股』やらを誤魔化しにかかったって事です.(現状=結果論です)
これが眞子さまの本当の姿です.
これらを皇室や宮内庁ぐるみで“この国の為”と云う所に話を集約し,誤魔化そうと必死なのです.

※皇后陛下(美智子さま)と紀子さまが危惧している事は,これらの事実が世間に知れ渡る事でもあるわけです.(宮内庁発表の“雑音”声明文)

小室圭 氏の二股疑惑が出てきたのは,眞子さまの男性との関係に関する話を挿げ替える為だった訳です.(事実,小室圭 氏も二股をしていた様ですが)
ですから,『銀行系』『サッカー』『二股』といった具合に,人物像のすげ替えをひた繰り返してきている訳です.

《※皆様,皇室以外で見た事ありますか? 自分の娘の男遊びを,親族ぐるみで正当化しようとする人達を・・・.》


【眞子様と小室圭さんと山守さんの三角関係】

 ICU大学時代,山守さんも小室さんも同じスキー部員だったとの話が週刊誌にて報道されていた.
そのスキー部に,眞子様も居た事実があります.
少ない人数のスキー部内で,眞子様は,男を取っ替え引っ換えしていた事実があります.
しかも,小室さんに乗り換えた後も,山守さんも居るスキー部で活動を継続していた事実があるわけです.

 2011年,週刊誌にて,眞子様と山守さんが布団の上で寄り添っている写真が報道されました.
2012年には,記者会見の場に於いて,2人の関係を質問された紀子さまは,
『私達の学生時代を思い出します.うちの娘は爽やかな青春を送っております.』
上記の回答をしております.

 しかしながら,眞子様と小室圭さんは,2012年から付き合っていると話をしております.
したがって,上述した,「スキー部内で男を取っ替え引っ換えしている」事実が鮮明となるわけであります.
よって,「小室圭さんに眞子様が騙されている」と云う風潮は,あまりにもおかしいと云う事に気が付きます.
どこが『爽やかな青春』なのでしょうか??

 2012年の留学中に英国で知り合ったアジア人や日本人とも関係を持っているのも眞子様です.
その時期,既に小室さんと付き合っていた事実が鮮明となっております.

 また,美智子様は,孫である眞子さまの男漁りの結果に心を痛めているのではなく,
それらの話を出している世論に心を痛めていらっしゃるようでして,
孫の酷さに愕然とするどころか『“雑音”声明文』を宮内庁から発表するありさまです.
皇室を擁護したいなら,男漁りの数々を正当化できる方法を全国民で考えてあげては如何か,と思う次第であります.

※これら眞子様の異性関係に関する趣味嗜好の何処が,『この国の為』として正当化できると云うのでしょうか!?
国際的な問題を,自分の娘の男遊びの趣味嗜好を正当化する為に利用している事実があるわけであります.
したがって,眞子様の異性関係について,このように記述する必要がある訳であります.
即ち,プライバシーや人権を盾に言論を弾圧する事は,絶対に許されない事となる訳である.

※宮内庁職員や警備を担う警察官は,この様な皇族の為に職務を遂行している事に誇りを持ちましょう!!
(私ならば御先祖様に顔向けできなくなりますが…)


※海外で男遊びをしている証明
■海外のクラブにて一夜限りの男性と成り行きでした証明
■政略的に必要な男性を複数維持する心理テクニック
■歌会始の儀(林ありて"下陰")
■秋篠宮眞子内親王殿下発表の歌と,その意味
■佳子さまの婚約相手と身内で話をスリ変える(林)
■皇族発表の私を貶す和歌
上記を御読み下さい.
眞子さまが男性とクラブのパーティーで知り合う写真(イメージ画像)
眞子さまが妊娠する写真(イメージ画像)
※イメージ画像


眞子さまと佳子さまの在日の彼氏の噂と裏側の目的


[1]

 眞子内親王殿下(眞子さま)が入学してから〜2012年以降までの間に,在日特権を許さない市民の会などが話題に上がっていた.
この時と時期を同じにして,「在日の彼氏」などの話の基礎が築き上られてきた実態が浮かぶ.

 では,何の為に「在日の彼」を的に絞ったのかを推測してゆこう.
時を同じくして在特会など,人種的憎悪表現が話題に上がっていた時期である.

 したがって,ここに天皇家の戦争責任,及び,日本国政府の戦争責任が浮上してくる事になっていた.
この時に,在特会とは実質関係の無い「スケープゴート(実態を知る者)」もまた,"保守的活動に参加させられていた"時期でもある.

 眞子内親王殿下(眞子さま)は,彼氏とのベッド画像の流出により,「プロテスタントとは程遠い実態」が浮き彫りとなり,
国際基督教大学入学(ICU)は売国奴と言われていた時期でもある.
秋篠宮家の罠、在特会系のデモ活動に参加させられ嵌められる写真(イメージ画像)
眞子さまと佳子さま、噂の在日の彼氏と元彼の写真(イメージ画像)
※イメージ画像

[2]

 以上の事から,自身の中に内包する,「2ちゃんねる」と云う極めて狭い世界に対する狭視的な敵対心が,
自身の交友関係に大きく作用する事となったと推測できる.

 この事柄は,皇后陛下の「天皇家も百済からやって来ました」と云うアナウンスに代表されるであろう.
しかしながら,在特会は,清和会関連の組織でもあり,この実態は,いわばマッチポンプの様相を呈している事が見えるのである.

 したがって,眞子内親王殿下(眞子さま)自身の交友関係と,プロテスタントとは程遠い実態が浮き彫りとなってきた事を誤魔化す為に,
眞子内親王殿下(眞子さま)の「在日の彼(フレンド)」を,
佳子内親王殿下(佳子さま)の「在日の彼」と摩り替えて誤魔化しに利用している実態が浮かび上がってくる.

 この事柄は,【ICUダンスサークルと秋篠宮佳子内親王殿下(佳子さま)のご関係,繋ぎ役は眞子内親王殿下(眞子さま)!?】で述べた様に,
デッチ上げから発生する,共通認識(注釈※A)の敵である「スケープゴート」を利用した自己保身的要素に主眼に置いた事柄である事が見えてくる.
(注釈※Aを参照の事)

 また,2010年の語学留学の際であろうか?
2012年からの留学の際であろうか?
いずれにしても,英国の大学には「アジア系」が多いのも実状である.
したがって,ここでの異性関係もまた,「"中国人ないし台湾人"と"日本人"」と云う状態となっている事が安易に予測できる.

 これを濁す為(隠蔽する為)の「在日の彼の噂」が見えてくる事となる.
また,濁さなければならない程の「軽いお付き合い(フレンド)」である事も見えてくる.

このような事柄も,英国留学中であったり,秋篠宮家の宮務官の逮捕(ハプニングバー)で誤魔化しているようです.


【注釈※A】

セオドア;ニューカムのA-B-Xモデル(心理学).実態は,この三角関係を裏で操る"Z"と環境を構築する"Y"が居る事となる.
したがって,実態は,"Z-Y"‐"A-B-X"となる.
※A-共通認識;セオドアニューカム

以上の事は,2011年〜2012年にかけて私が達していた結論であり,この事柄は,2013年3月〜4月にかけて,別のWEBページ上でも同様の事を書いていた.
(そのWEBサイトは公開直後に削除されてしまった.)

 たとえ自身の過ちに気が付き,現状を正したところで,「昔の自分は....だった」と云うような事は通用しない.
何故ならば,昔の自分と云う,「昔」と云うキーワードを用いて,「現在の自分」と「昔の自分」と云う,区切りを作り,
自己正当化しているに過ぎないからである.
自分も巻き込まれた被害者であって,知りませんでした.では済まないのである.

 要するに,自身が行ってきた事柄である事に相違は無いのであって,どのような要因があろうとも,自身が行った事柄に違いは無いからである.
これは,「スケープゴート」にも適用される.「自分に甘く他人に厳しい」は通用しないのである.

 結局は,思慮分別を経て,根本的な問題点に帰結するのである.「道理が無い=考え方が浅い」したがって,この結果となった.
「知りませんでした」「お互い様」「関係ない」は通用しない.
辻褄が合わない程,誤魔化さなければならない事が多く,誤魔化しに明け暮れているのは何処の誰であろうか?
『信用皆無』手遅れである.
恋愛に於けるA-B-X理論(共通認識の敵)参考文献
日本福祉大学福祉社会開発研究所『日本福祉大学研究紀要−現代と文化』
第130 号 2014 年9 月
友人関係の進展過程におけるパーソナリティの類似性認知 および一致・不一致事象の変化について(※PDFファイルです)
著者:吉原 智恵子

■秋篠宮家(天皇家;宮内庁;関係者)が行うインターネットに対する工作
■秋篠宮家が行う共通認識の敵を利用した恋愛と付加価値の付与(心理学の悪用)

眞子さまと佳子さまの本命の結婚相手と偽りの彼氏の写真(ダミー、スケープゴートのイメージ写真)
眞子さまと海外の彼氏の写真(イメージ画像)
※イメージ画像

[3]

 ちなみに,上述した「在日の彼氏」の話題について,2013年頃にレスリングのオリンピック選手である「伊調選手」が,
韓国人のレスリング選手と結婚すると云う話題が大々的に報道されていたが,
これ自体が,秋篠宮眞子(眞子さま)の「在日の彼氏」と云う話題を消す為に,大々的に報道させた話である.

 伊調選手は可愛いと云うネット世論であったり,秋篠宮眞子(眞子さま)に似ていると云う論調が,
ネットを中心に広がっている事からも,上述した事柄について利用しやすいと云う点がある.

 皇室では,他人のイメージを利用した,『心理学的印象操作による自己の付加価値創造』を行っているが,
これらの事柄に関していえば,『自身の男遊びを誤魔化す為に利用された』のが「伊調選手」である.

 ここまでの事柄を御読みになられても,あまりにも漠然としていて,ピン!!とこないと思われるので,
上述している事柄について,他人を利用する具体的な手法の詳細を記述してゆく.

※誤解を避ける為,あらかじめ前置きをさせて頂くが,以下[4]に記述してゆく内容に,
「大沢たかお 氏」についてのイメージ解説があるが,その点については,私の主観的なイメージである事を述べさせて頂きたい.


[4]

 秋篠宮佳子(佳子さま)と秋篠宮文仁親王に関して,「映画の鑑賞会」と云う公務を利用している.

 例えば,秋篠宮佳子(佳子さま)に関する,《純粋イメージ構築》の為に,「宮崎あおい 氏」を利用し,
《華やかで美人で若者に絶大な人気》がある「May J 氏」をイメージ構築の為に利用していると云う事柄がある.

 秋篠宮文仁親王に関しては,映画『風に立つライオン』に出演されていた「大沢たかお 氏」を利用し,
《若々しくイケメンでダンディー》と云う『入れ替わりによる心理学的印象操作』を行っている.
一連の流れと手法について,[写真1〜7]までを解説に用いて説明してゆく.

 秋篠宮佳子(佳子さま)に関しては,《高校時代の彼氏との写真流出》や,
《学習院大学での彼氏》の話題が,2012年頃に噴出している事からも,
その後の,『佳子さまフィーバー』と云う,イメージの改善と付加価値創造に関する報道工作が生じている.

 これらの事については,秋篠宮眞子(眞子さま)の男遊びを誤魔化す為でもあり,
世の中の視線を逸らす為に,『佳子さまフィーバー』を意図して作ると云う,
まさに《一石二鳥》と云う考え方からメディアを利用した印象操作の工作を行っている事が明確にわかる.

映画『船を編む』を鑑賞される秋篠宮文仁親王と紀子さま(眞子さまと佳子さま)
映画『風に立つライオン』を鑑賞される秋篠宮佳子さまと紀子さま

※左の写真から,[写真1:映画『船を編む』]‐[写真2:映画『風に立つライオン』]

 [写真1]を見れば,1:秋篠宮文仁親王 2:紀子殿下(紀子さま) 3:「宮崎あおい 氏」と云う座り順である.
「宮崎あおい 氏」に関しては,純粋なイメージを芸能価値として売り出しており,テレビCMや,映画等で起用されている.

 そのうえで,[写真2]の,1:「大沢たかお 氏」 2:紀子殿下(紀子さま) 3:秋篠宮佳子(佳子さま)と云う座り順を見れば判るが,
秋篠宮夫妻と「宮崎あおい 氏」の後に,秋篠宮佳子(佳子さま)を座らせ,「宮崎あおい 氏」の《純粋イメージ》を付けている事が判る.
アナと雪の女王を鑑賞する秋篠宮眞子さまと紀子さま 映画『船を編む』を鑑賞される秋篠宮文仁親王と紀子さま(眞子さまと佳子さま)
映画『風に立つライオン』を鑑賞される秋篠宮佳子さまと紀子さま

※左の写真から,[写真3:映画『アナと雪の女王』]‐[写真1:映画『船を編む』‐[写真2:映画『風に立つライオン』]

 [写真3]を見れば,1:紀子殿下(紀子さま) 2:秋篠宮眞子(眞子さま) 3:「May J 氏」と云う座り順である.
「May J 氏」は,《華やかで美人で若者に絶大な人気》がある有名歌手であり,秋篠宮眞子(眞子さま)の横に「May J 氏」を座らせる事によって,
秋篠宮家の姉妹(眞子様と佳子様)を連想させようとしている.

 そのうえで,[写真1]の,1:秋篠宮文仁親王 2:紀子殿下(紀子さま) 3:「宮崎あおい 氏」や,
[写真2]の,1:「大沢たかお 氏」 2:紀子殿下(紀子さま) 3:秋篠宮佳子(佳子さま)と云う座り順を見れば判るが,
秋篠宮夫妻の横に秋篠宮眞子(眞子さま),その横に「May J 氏」を座らせ,
其処には居ない秋篠宮佳子(佳子さま)に「May J 氏」の《華やかで美人で若者に絶大な人気》と云うイメージを付けている事が判る.(姉妹を連想させる)

 また,先述した,秋篠宮眞子(眞子さま)の「在日の彼氏」と云う話題を消す為に,『佳子さまフィーバー』にて《一石二鳥》と云う,
国民の視線逸らしの為に,他人と公務を利用した『心理学的印象操作による自己の付加価値創造』を,行っている事が判る.

 どちらの写真も芸能人の髪型や化粧を,そっくりそのまま真似し,
その芸能人が座った席に,秋篠宮佳子(佳子さま)を座らせていると云う明確なる特徴がある.

 上述した事柄については,『偉人の座った椅子に座る事で偉人の持つパワーを吸い取る』と云う様な,
極めて『呪術的な思考と行為』が其処にある事を読み取る事ができる.


[5]

 上述した『心理学的印象操作による自己の付加価値創造』と云う事柄を基礎とし,下の[写真4〜5][写真6〜7]を見ると判るが,
秋篠宮佳子(佳子さま)に,「宮崎あおい 氏」の《純粋イメージ》と,「May J 氏」の《華やかで美人で若者に絶大な人気》と云う利用した後は,
[1][2][3]で述べた,問題となる異性関係に関する事柄のある,秋篠宮眞子(眞子さま)に,
「宮崎あおい 氏」の《純粋イメージ》と《キャリアウーマン》と云うイメージを定着させる為に利用し始めている事が判る.

 そのうえで,2つの公務のみでは,偶然の可能性を指摘する事できるが,
その他の映画鑑賞に関する公務について,下に掲載している写真を見て頂くと,
上述してきた『心理学的印象操作による自己の付加価値創造』を継続して意図的に行っている事が明確にわかるかと思う.
女優『宮崎あおい』
秋篠宮眞子さま大学院留学の際『宮崎あおい』のイメージを利用する

※左の写真から,[写真4:女優『宮崎あおい』]‐[写真5:『秋篠宮眞子さま大学院留学の際『宮崎あおい』のイメージを利用する』]

秋篠宮家の姉妹に関して,何も問題が無いのであるならば,ここまで国民に対する印象操作を行う必要は皆無であろう.
事実,これだけ大掛かりな事を,『心理学的印象操作による自己の付加価値創造』と云う形で行っているのであるから,
秋篠宮家の教育方針による,眞子さまと佳子さまの異性関係に関して,『国民の信を失う』事柄が事実としてあると云う事である.
映画『奇跡のひとマリーとマルグリット』を鑑賞される秋篠宮紀子さまと佳子さま
歌手『May J』

※左の写真から,[写真6:映画『奇跡のひとマリーとマルグリット』を鑑賞される秋篠宮紀子さまと佳子さま]‐[写真7:歌手『May J』]

 また,これらの事柄に関連する事件もたくさんある.
それらの事柄については,別の項目にて,その詳細な経過を記述してゆく.
※関連する項目:眞子様と彬子様‐富士急様と山守様‐婚約と結婚‐皇室と政府の裏工作と印象操作
※上記している事柄に関して,2013年1月と2015年5月にも記述している.現在2016年8月21日,再び,[3]〜[5]を追記した.(削除の経緯がある為)



天皇家の秋篠宮家と統一教会(自民党清和会)と在特会の繋がり(自作自演)

[1]

 誰も読まれた事が無いのだろうか?
日本三代実録の第一巻には,天皇は百済から来たと明確に記述されている.
これは,図書館で借りる事ができる書物である.(館外持ち出し禁止であった.札幌中央図書館)

 私は,地震学を勉強していたが,この際に,災害のあった時期と,災害を祓う為に,陰陽師に執り行わせた祭祀との関係を調べ,
新収日本地震年表に記載されていない地震を探していた.

 この際に,日本三代実録を借り,年表と照らし合わせている際に目に留まったのが,第一巻の初めに記載されている『百済から来た』との記述である.
この際に,秋篠も天皇の側近として百済から来ている.
このように,天皇家は朝鮮半島から来たと云う学術的な文献が存在する.

平成元年改訂版の日本三代実録の写真(イメージ画像)
※イメージ画像

[2]

 これを持ち出して,皇后陛下の『百済から来た』と云う発言をアナウンスし,『在日批判は駄目です』と云う姿勢を顕にした.(2012年)
また,秋篠宮家では,『在日の彼氏』と云う存在をアピールして,戦争責任や在特会の存在から目を逸らそうとしているのが『現天皇家』である.

※2012年に,国連から人種的憎悪表現に関し日本へ是正勧告があった.尚,この時期にしばき隊等の反ヘイト過激団体が出現している.
法務省がヘイトスピーチ撲滅広告を出した時期でもある.
尚,警察庁等は,減少してきた自称保守団体等から左翼側に監視をシフトし始めた時期でもある.

 要するに,『統一教会=自民党清和会』の"作り出した"『在特会』を利用して,
“自分達は在日批判から救ったヒーロー”であるように振舞っているのが現状であると云う事.
『弱い物虐めを裏で操っておいて,虐められている本人を救う』と云う酷い事をしている.

歌会始;2012年発表の皇后陛下発表の歌『岸とふ文字を歳時記に見ず』=岸と云う文(仁)
歌会始;2015年発表の皇后陛下発表の歌『来し方に元問う文』=来し(岸)方に元問う文(仁)

岸方に責任を問うている様にも見えますが,見える様にするのが目的の一部でもあるだろう.
(詳細は後述する内容を御読み頂ければ,お判り頂けると思う)
※清和会との関係が見えます.

東条英機内閣と岸信介の集合写真(画像)
※右上上段,「元首相 岸信介」

[3]

 要するに,『秋篠宮家』+『清和会』=『在特会』と云う構図となり,天皇家が自分達を持ち上げるのと同時に,
戦争責任から逃れる為に作った『在日批判』である事が見えてくるのである.

 これだけではなく,『満州事変』についても責任逃れをしようと云う動きが鮮明となっている.
『満州事変から始まる先の大戦』ではなく,本当は『張作霖爆殺事件から始まる先の大戦』であって,
さらに,『明治維新と戊辰戦争から始まる先の大戦』と云うのが本当の事である.(秋篠宮家=川嶋家)
※地震学を学んでいた証拠は,後程,画像付きで掲載します.
満州鉄道の車両と満州事変の写真(機関車の画像) 満州鉄道の線路を走る旧日本軍の車両写真(機関車と満州事変)
ナチスと大日本帝国、岸信介の時代と集合写真(画像)
※左から満州鉄道・満州鉄道日本軍車両・旧ドイツと日本

[4]

 一見すると,秋篠宮や皇太子などの皇族を罵倒しているかのような書き込みがネット上に溢れておりますが,
書き込み内容を分析してゆきますと,罵倒しているようで持ち上げていると云う視覚的な心理誘導が行われております.

 例えば,障がい者を引き合いに出し,「悠仁は聾唖者だ」であったり,差別的表現となる「かたわ」であったりと,
障がい者を蔑む書き込みを行いつつ,皇族を罵倒しております.

 これによって,皇族に興味を抱きネットで検索した方が書き込み内容等を見た際に抱く印象は,
秋篠宮や皇太子をはじめ,皇族に対し何かしらの苦言を呈する発言を行っている人物は「差別主義者」であり,
極めて非常識な人物が異論を唱えていると云うふうに印象を付ける事となります.

 この事柄に至っては,あえて,異常な書き込みを行い,まともな人物の見解を損ね,
皇室の価値を保とうとする組織的な書き込みである事が鮮明となっております.

 この事柄に,宮内庁はじめ,皇族が関わっているのかといいますと,
2006年頃から始まった,「ネット右翼ブーム」に乗じた自身の付加価値を創造する為の工作的書き込みが多々見受けられます.

 特に,秋篠宮眞子内親王はじめ,女性皇族の男性関係の話が出始めた際には顕著なものがあります.
例えば,先にも述べましたが,皇后陛下である美智子様が行った,在日批判から救った清和会とのマッチポンプによるヒーロー演出や,
後に詳しく書きますが,皇太子妃雅子様が,ハロウィンパーティーには出るが,公務には出られないと云う週刊誌等の記事の際に多く見られます.

 事実上,ネット上に於いての書き込みと,皇族自身が行ってきた一連の動きは連動しておりますので,
宮内庁や皇族自身が裏側から手を回しているか,『言わなくても解るでしょう?』といった,暗黙の連携がある事が,はっきりと見えてまいります.

 その上で,秋篠宮眞子内親王が2012年の海外留学時に,ハロウィンパーティーに参加している写真を,
"敢えて"ネット上や週刊誌を使い流出させる等の動きがあるのです.

 ハロウィンパーティーは経済効果的側面から見た際にも良い事であると私は思いますが,
作られたネット右翼による在日批判や排外主義を利用し,ハロウィンパーティーに街宣を掛けるなどした上での,
「在日批判から救った清和会とのマッチポンプによるヒーロー演出」を行っている事が,時系列順に見てゆきますと鮮明化しているのであります.
このような事が事実ありますので,「暗黙の連携」ないし「裏側から動員を掛ける」といった事柄を行っていると云う事が判るのであります.

 子供達も大人達も楽しみにしているイベント事を利用したり,人種憎悪表現を敢えて行い,
自身の付加価値を創造する事自体が,私はおかしいと思っております.

 そのうえで,私のようにネット上に於いても苦言や異論を唱えている人物を,異常者であるかのようにする為の,
「印象操作」や「心理誘導」を行なうと云う事柄事態が異常な事であり,
昨今の「モラルハザード」と云う社会問題に直結すると云う事を私は述べているまでであります.

※関連項目:秋篠宮家の宮務官逮捕と障がい者関連手話公務の矛盾

秋篠宮佳子さまと眞子さまのカラオケデートと元彼氏や男性との遊び方

 2013年の3月〜4月頃,ちょうど今時期であるが,国内に於いては佳子内親王殿下が「カラオケ店の一室」にて,
『男性と二人きりでカラオケを楽しんでいた』
ここまでは良いのだが,その男性とあろう事か『室内にて性的行為』に及んだのである.
この時の二人の会話は,以下である.

噂の男性 ;『○○歌ってよ!』
佳子内親王;『えー!歌えないよ!』
噂の男性 ;『歌ってよ!歌ってよ!』
佳子内親王;『えー!下手だよ!』
噂の男性 ;『○○に似てるよね!?』
佳子内親王;『えー!?似てないって!』
噂の男性 ;『似てる似てる!!』

その様なやり取りの後,あろう事か,薄暗い室内にて『性的行為に及んだのである』

※さらにこの事は,佳子内親王殿下のみならず,『眞子内親王殿下』も2013年より以前に,同様の手口で『性的行為に及んでいる』のである.
そして丁度この時期(2013年)は,眞子内親王が英国にて,キスをする程の関係の男性と『性的行為に及んでいる』時期と一致している.

※眞子内親王が2013年に英国内にて出来た,この男性は,『山守さん』ではない男性であった.
この様な状況となり,眞子内親王は『妊娠』となり,
佳子内親王は,『カラオケ室内での性行為』と云う状況となり,ICU入学の時期を,ズラさなければならなくなったのである.

 今後の状況は,もしかすると,『時期をずらしての誤魔化し』となり,
昨年ご結婚された,千家典子さんの御懐妊発表,又は皇族の結婚報道で,
『眞子内親王の妊娠;佳子内親王の性行為』を誤魔化しにかかる可能性が高いと思われる.

※現在,眞子内親王は英国内に『彼氏がいる状況である』と思われる.(留学中)
(以前から環境を調整し,出会った二人)(※既に接触したもよう)←"キス"ではなく"接触"
眞子内親王が「2013年に英国内にてできた"彼氏"(成り行き)」であるが,この男性は,『山守さん』ではない男性であった.

※何故,週刊誌に佳子様彼氏とカラオケデート(複数人でデート"グループデート")と取り上げさせたのか.
それは,上述したような事があり,彼氏では無くとも彼氏であるとの『名札』を,ぶら下げ,
さらに,「複数人でデート(グループデート)」とする事によって,
『付き合っていない男性と成り行きで性行為をした』と云う事実を隠す為である.


※この話は,2012年11月頃の話でありまして,部屋を片付けに行ったと云う女性(清掃担当者と云うのでしょうか?)から入ってきた情報となります.
このような事柄も,英国留学中であったり,秋篠宮家の宮務官の逮捕(ハプニングバー)で誤魔化しているようです.

※男遊びと複数の男性との関係を維持している証明
■クラブで知り合った男性と成り行きでした証明
■身内を使って男遊びから視点を逸らすやり方(証明)
■政略的に必要な男性を複数維持する心理テクニック
■歌会始の儀(林ありて"下陰")
■秋篠宮眞子内親王殿下発表の歌と,その意味
■佳子さまの婚約相手と身内で話をスリ変える(林)
■皇族発表の私を貶す和歌
上記を御読み下さい.
佳子さまと眞子さま、カラオケ店で彼氏との写真(イメージ画像) 眞子さまと佳子さまが彼氏とホテルでの写真(イメージ画像)
佳子さまと眞子さまが彼氏とベッドで抱き合う写真(イメージ画像)
※イメージ画像


眞子さまと佳子さまが2011年7月中に行ったボランティア活動の虚実と宮内庁発表

[1]

 2011年7月4日から14日頃の間に,眞子内親王殿下が,被災地の宮城県で活動する『ボランティア団体に単身で入り』,
被災したイチゴ農家の復興を手伝ってきた話は,何故,出てこないように手を回しているのでしょうか.

 今出てくるのは,大学の友人とボランティアで読み聞かせをしてきた話しか出てこなくしております.(女性のみのボランティア活動)
7月の『お友達』とホテルで何かあったのでしょうか?
誤魔化さなければならない理由とは一体なんでしょう?

2011年7月5日に撮影した東日本大震災の被災地の写真
※その7月に私は,単身被災地に投入され,尻拭いのスケープゴートとして利用された事もあります.(証明写真7月5日撮影)
 この話を裏付ける事柄として,読売新聞での報道がある.
---以下,読売新聞 より---(詳細は読売新聞を御覧下さい)

東日本大震災により,大きな被害を受けた宮城県を訪問している天皇皇后両陛下は,東松島市の農家を訪れ,イチゴ摘みを体験された.
両陛下は14日午後3時すぎ,津波により甚大な被害を受けたイチゴや米を生産する東松島市の農家を訪問された.
そして両陛下は,収穫期を迎えたイチゴのビニールハウスに入り,説明を聞きながら,赤く熟れたイチゴの手摘みを体験された.
お2人は,「こういうふうにするといいみたい」などと会話を交わしながら,それぞれ12個入りの箱いっぱいイチゴを収穫された.
眞子さまと佳子さま、東日本大震災で被災したイチゴ農家でボランティア活動の写真(イメージ画像)
佳子さまと眞子さま、東日本大震災で瓦礫撤去のボランティアの写真(イメージ画像)
※イメージ画像

[2]

『12+12』で『24個』となる.
したがって,今年で「24歳」となる,収穫期(結婚適齢期)を迎えたイチゴのビニールハウスに入り,
赤く熟れたイチゴ(24歳の女性皇族)の手摘みを体験された.と云う事になるでしょう.

 また,「千年希望の丘」を御視察され,
天皇陛下は,丘の高さや機能を質問され,皇后さまは,丘のあずま屋が非常時のテントになるとの説明に,
「幕が張られると寒さがしのげますね」と安心したように話されたと云う.

丘のあずま屋が非常時のテントになるとの説明に,
「膜が張られると寒さをしのげる」=「処女膜再生手術」を行うと外の目を「篠げて」良いですね.と云う事になると解釈できる.
「丘=恥丘」との解釈も可能である.
「非常時=東急(東;丘)」
「幕が張られる=幕張関連(幕;張)」
「どうしようもなくなったら」,「非常時には」,「丘」の「東」が「避難場所」になるとの説明に,上記の回答をされていると云う事にも着目したい.

※いのちを守る森の防潮堤推進東北協議会
※「千年希望の丘」に関してであるが,秋篠宮悠仁親王が,30歳代で天皇に即位した際には,
『約1000年ぶりとなる,30歳代での天皇となる.』
※被災地を秋篠宮眞子内親王自身の"馴れ初め作り"と"自分アピール"に利用するとは異常としか言いようがありません.


【宮内庁が行った,眞子様の被災地ボランティアに関する報道とイメージ操作】
[1]
 未曾有の災害,東日本大震災から早くも5年.
様々な方達が被災地にてボランティア活動をされておりました.
実は,その被災地に秋篠宮家のご長女である眞子内親王(眞子さま)が入られておりました.

 そう,この時,2011年7月は,避難所生活が続き,仮設住宅もまだ,さほど出来ていない時.
様々な方達がボランティアをされておりましたが,被災地である東北はまさに『お葬式会場さながら』・・・.
親・兄弟・姉妹・祖父母・友人・同僚を亡くし,悲しみが広がり,行方不明者の数も増える一方・・・.

 そんな中,眞子内親王(眞子さま)は被災地入り,“満面の笑顔”でボランティア活動を満喫されておりました.
信じ難い事でありますが,いわば,よそ様が途方に暮れているお葬式会場で“満面の笑顔”・・・.
御皇室と云うのは,いつから被災地を踏み台にして自身の付加価値を創造するようになったのでしょうか?

 もし,貴方が被災者となった場合に,“満面の笑顔”でボランティアを満喫している方達が居たら?
貴方は,どう思い,どのようにボランティアを見る事になるでしょうか?

 この事は,御皇室のみに限った事ではなく,いつ被災者とも分からない私達自身も,
被災地での振舞いを,よく考える必要があるのではないでしょうか?

眞子内親王(眞子さま)に至りましては,この他にも,渦中の彼達との馴れ初め作りのボランティアもされております.

 なぜ,宮内庁が,複数のボランティア活動の内,『女性ばかりのボランティア団体での活動』を,
必死に宣伝するに至ったのか,言わずもがな見えてくる事かと思われます.

 また,《お忍びでボランティア》と言っておりますが,お忍びとは公表される物ではないはずです.
したがって,お忍びと云う言葉を利用した印象操作と,自身の付加価値創り,
そして,馴れ初め創りの為のボランティア活動である事が分かります.

 そのうえで,ボランティア活動をしている際の動画を見て下さい.
博物館の公務等と同様,展示物を上目遣いで覗き込むように見ている眞子内親王(眞子さま)や佳子内親王(佳子さま)の姿を見る事ができます.

 ようするに,被災地の子供を,博物館の公務等と同様に,
自身が一番可愛く見えるようにアピールし,撮影と公表を行っている事が分かります.

今この記事を御覧下さっている貴方は,この事実をどの様に受け止めますか?

秋篠宮眞子(眞子さま)が博物館へ公務で行かれた時の写真(画像) 秋篠宮佳子(佳子さま)と秋篠宮眞子(眞子さま)が被災地で子供にボランティアの写真
秋篠宮佳子(佳子さま)が博物館へ公務で行かれた時の写真(画像)


眞子さまが被災地でボランティア活動をされ、満面の笑顔の写真(画像)

[2]

 これまでの経過を元に,仮説では有るが公表されている事柄を元に分析してみた.
数年前,眞子様が被災地にてボランティアをされたニュースが出ておりました.
この際,自身を『まこC』と呼んで貰っていたそうです.

“マコC”とは,学習院時代からの"あだ名"だそうでありまして,
報道での説明では,"ちゃん"の"C"であると大々的に宣伝しておりました.

 しかし,国民に対し,そこまでのイメージ形成をするとは何かあると思い調べました所,
やはり,今までの経過の通りの事柄を見受ける事ができますので,記述してゆきたい.

 俗に,『A・B・C』と云うと,男女の関係を表すものでありますが,
事実,この"あだ名"である"マコC"には,同級生から付けられた早熟な由来があったようです.

 当時,許婚やお付き合い等,家柄とも言えるような状態にあった御嬢様.
特に,富士急ハイランドの御子息とは同期でありまして,家族ぐるみのお付き合いがあるそうです.

 富士急ハイランドのご子息の曽祖父は,『元:満州鉄道総裁』の『林さん』がおります.
ここに明確なる相関性がある事が分かりました.

 要するに,お祭りなどで有名な『お囃子(おはやし)』とは,
即ち,『尺八』や『横笛』などがありまして,日本には古くから『性的な意味合いの隠語』として根付いております.

 学習院界隈では一部のみが知っているようでして,疑惑を兼ねた渾名がついた経緯があるように見えます.
したがって,眞子様に付けられた『隠語を兼ねた渾名』それが,『マコC』である事が見えてきました.
これも,学習院大学には進学できない御事情である"可能性"は,御察し頂けたかと思われます.

※しかし,上記はあくまでも仮説であり,誤分析を行わせる為の,ミスリードである可能性も考慮したい.

※また,『林さん(富士急ハイランドの御子息)』に関する相関性と,これらを利用した男性関係の誤魔化しについては,下記に記述する.
眞子さまボランティア活動で知り合った男性と良い関係になる写真(イメージ画像)
眞子さまが受けられた処女膜再生手術の写真(イメージ画像)
※イメージ画像


2015年.歌会始の儀(眞子さまの現状と結婚相手に関する報告)

※宮内庁(歌会始の儀):平成27年発表,歌会始の儀(※PDFファイルです)

[1]

源頼朝関連=守山氏
(私が述べているのは,富山県高岡瑞龍寺ではなく,富山県"瑞龍山(瑞龍寺)"の方ですが,天皇家は公務を利用し,高岡瑞龍寺に視点を逸らしています.)

【来し方に本とふ文の林ありてその下陰に幾度いこいし】

『来し方』=岸かた(2012年発表;岸とふ文字を歳時記に見ず;歳時記の中の季語に岸と云う文字は無く.)
『本とふ』=本当(元とう)ウォンは台湾.ゲンは中国
『文の林ありて』=「林」は「人工的に作られた物(者)お友達」;自然の物は「森」.医者で有名なのは「林先生」+「噂の婚約相手の富士急,林さん」
『その下陰にいくどいこいし』=下陰(子息;陰部)であり,下の陰部に幾度もいこいしてきましたよ.(一人=一本ではないから.林=複数である.)
(中国の方に幾度も憩いしてきましたよ.)

また,

『来し方』=来る方
『本とふ文の林ありて』=「元を問う方」娘の御相手(ご子息)リンさん.貴方(それは)はゲン(元)ですよ
『その下陰にいくどいこいし』=同上
山守凌平と眞子さまと源頼朝と富山県の写真(イメージ画像)
眞子さまの現状を歌われた歌会始の儀の和歌の写真(イメージ画像)
※イメージ画像
※それとなく読み解く物であって,解説するのは極めて失礼に当たると思いましたが,
今年の歌会始の儀で発表された歌が余りにも個人的に目に余るものでしたので失礼を承知で書かせて頂きます.
目に余るのが,以下の歌になります.
(どこが目に余るのかは,後に記述する"秋篠宮眞子内親王殿下発表の歌と,その意味"をお読み下さい.)

【時久しく風月の移ろい見続けし一本の巨樹に思いめぐらす】

『時久しく』=久しぶりである.時が「悠」の時(2006年)2006年ぶりである.
『風月の移ろい見続けし』=「デリヘル風月」は「大阪」「福岡」そして「長崎」にのみある.
大阪;福岡=天満宮;長崎=2013年7月30〜31日8月1日の公務に絡む.7月31〜8月1日は札幌公務となる.
2013年;2014年6月28日の事.他の方々の目を誤魔化す意味も含む.
『一本の巨樹に思いめぐらす』=縦書きの際,漢数字の「一」は一線を引く事となる.元の巨樹(神木=御相手;元は真珠いま泥団子=娘)に思いめぐらす.

※漢数字を使った歌を発表されたのは,天皇陛下と秋篠宮文仁親王殿下;眞子内親王殿下(眞子さま)のみである.


"秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)発表の歌"
2015年歌会始の儀で発表(眞子さまが詠まれた和歌)

【呼ぶ声に気づかず一心に本を読みふける幼き我が日】

※上記,秋篠宮眞子内親王の歌については,後に詳細を記述する,
"秋篠宮眞子内親王殿下発表の歌と,その意味"をお読み下さい.

※皇后陛下が詠まれた和歌について(林ありて"その下陰")について
■秋篠宮眞子内親王殿下発表の歌と,その意味
■佳子さまの婚約相手と身内で話をスリ変える(林)
■皇族発表の私を貶す和歌
■政略的に必要な男性を複数維持する心理テクニック
上記を御読み下さい.
秋篠宮文仁親王が詠んだ和歌にあるデリヘル風月の写真(イメージ画像)
歌会始の儀で発表された和歌に隠された眞子さまの現状と結婚相手の写真(イメージ画像)
※イメージ画像


秋篠宮眞子や佳子の縁談と大宰府天満宮‐異性関係清算と歌会始の和歌

読売新聞:白いスーツ姿の佳子さま,紀子さまと映画鑑賞

ついに天満宮繋がりの公務でしょうか.
さだまさしの名曲「飛梅」=太宰府天満宮の神木として知られる梅の木の名称ですね.

※太宰府天満宮
と云う事は,天満宮に絡めた縁談絡みのお話の先駆けだとすれば,今年の歌会始の儀で発表された,

皇后陛下『来し方に本とふ文の林ありてその下陰に幾度いこひし』
秋篠宮文人親王殿下の歌『年久しく風月の移ろひ見続けし一本の巨樹に思ひ巡らす』

来し方;文;いこいし
巨樹=神木
と見る事もできます.

※天満宮の隣には国立博物館がありますし,天満宮には博物館学の先生もいらっしゃるようですし,
2012年の秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま),英国留学(エディンバラ大学)の際は,小梅神社(菅原道真公)に天皇陛下も一緒に参拝しておりますから,
ご挨拶から,今年の婚約会見に繋がるかもしれません.

この為(結婚の為)の,スケープゴート(今までに遊んできた事柄を誤魔化す為)であると見る事ができます.(過去の清算)
例:秋篠宮家担当の宮内庁職員逮捕「ハプニングバー」で公然わいせつの疑い

また,【2011年7月中ボランティアの虚実】に記述したように,
天皇陛下は,丘の高さや機能を質問され,皇后さまは,丘のあずま屋が非常時のテントになるとの説明に,
「幕が張られると寒さがしのげますね」と安心したように話されたと云う.

「非常時=東急(東;丘)」
「幕が張られる=幕張関連(幕;張)」
「どうしようもなくなったら」,「非常時には」,「丘」の「東」が「避難場所」になるとの説明に,上記の回答をされていると云う事にも着目したい.

※以上の事から,それとなく目処がついている方々に対する,自身の状況報告であると思われる.

※皇后陛下が詠まれた和歌について(林ありて"その下陰")について
■歌会始の儀(林ありて"下陰")
■秋篠宮眞子内親王殿下発表の歌と,その意味
■佳子さまの婚約相手と身内で話をスリ変える(林)
■皇族発表の私を貶す和歌
■政略的に必要な男性を複数維持する心理テクニック
上記を御読み下さい.
眞子さま海外留学と大宰府天満宮の菅原道真に関する写真(イメージ画像は梅)
眞子さまが学ぶ博物館学と留学の写真(イメージ画像はアンモナイト)
※イメージ画像

秋篠宮眞子が札幌のレディースクリニックを2008年10月下旬11月初旬に訪れた

[1]

 札幌のメディカル山鼻の2階にあるレディースクリニックに,
中年の女性と当時15歳〜16歳の秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)が窓際の席に座って,診察を待っていました.
入って左側に下足箱があり,入って直ぐ右手の通路が診察室に繋がっている.

 待合室の真ん中に受付のカウンターがあり,中年の女性が,受付の女性の問診に対して,
「どこの誰と関係を持っているか分らない男の子とサイトで知り合って性的な関係を持っちゃって,何か病気を貰っていても怖いものですから…」
との説明しておりました.
この中年の女性は,15歳16歳の女の子に対して,「敬語交じりの話し方」をしておりました.

札幌が遊び場になっております.

一般の方よりも座り方に特徴があって目立っておりました.
背筋を伸ばして,背もたれに,もたれかからないで座ると云う独特な座り方でした.

 なぜ,私がこの事を知っているのか.
それは,"同じ年齢の女友達"に「一人で病院行くの怖いから連れてって」と"頼まれて"連れて行ったからです.
私は,指一本触れていない女性ですから,私には一切関係無いのですが,
そこに居たのが,「秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)」だったものですから知っております.

同様の病院であるのかは分かりませんが,2009年3月〜5月の間にかけて,アフターピルを処方してもらっていると云う情報もあります.
眞子さまサイトで知り合った男性と親密になる写真(イメージ画像) 眞子さまネットで男性と会った後、レディースクリニックに行く写真(イメージ画像)
眞子さまサイトで知り合った男性と関係を持つ写真(イメージ画像)
※イメージ画像

[2]

 北海道は土地柄,天皇家に対する関心が低い一面もあります.
何故ならば,明治時代に開拓された歴史が浅い土地ですし,皇室ゆかりの歴史的な話も少ない.

 しかし,北海道にはスキーと云う大きな繋がりもあります.(三笠宮様で有名な宮様スキー大会など)
皇族の方々が,公務で北海道に御成りになることが少ない為,普段,遊びで出入りしていても,あまり目立たないと云う特性があるからです.
あとは,思いのほか,○○の子孫など,遊んでもそこまで問題にならないような遊び相手が居ると見ることもできるでしょう.

 そしてこれは,「秋篠宮眞子(眞子さま)が札幌に居るわけがない」と考える「先入観を逆手に取った行動」です.
どのようなコネがあろうと,宮内庁病院であろうと,情報が漏れる可能性はあります.

 上記の理由がありますので,スケープゴートの保険証を使ったり,
皇族専用に用意してある空の戸籍を元にした保険証を使い,
「都内以外」で受診した方が安全です.(全額自己負担でありますと保険証は不要です.)


それでいて,この一連の行動の裏側には,「探し者」と「ごまかし」の意味合いも有ったようです.
北海道開拓(蝦夷地開拓)をおこなった藩の分布図(画像写真):北海道観光入門『行政編』(藩の分布)
眞子さまが、アフターピルを処方してもらった病院の情報の写真(イメージ画像)
※イメージ画像
[3]

ちなみに,眞子さまの初体験(ロストバージン)は『小学生の時』である.

 お相手はなんと,当時の許婚か彼氏? とのこと.
ただ,その許婚の男性の他にも二人ほど絡みがあったそうで,
聞こえはよいが「トリプルスタンダード」,所謂「三股」の状態が,2003年の時(11歳)には有ったとの確定情報である.

 だから,学習院大学には進学せず,ICU大学に入学となった経緯があるのだ.
それは,小学生の頃から,良く知っている男性達とは別の学校に行きたくもなるだろう.

 ただ,それだけで話が済む分けではない.
なぜなら,小学生の時から性的な接触を堪能されているのだから,やはり“虫が騒ぐ”.

学習院からの男性は『Aグループ』
ICUの男性は『Bグループ』
その他の男性は『Cグループ』
※秋篠宮眞子内親王(眞子さま)ご婚約と二股保険(恋愛心理学応用テクニック
 といった具合に男性との交友を堪能されてきたのである.
この期に及んでも「トリプルスタンダード」をやめる事ができないそうだ・・・.

 ある意味で『政略的な』・・・.
いや,『性略的な』と言った方がしっくり来るだろう.

そんなこんなで,ICU大学の彼が『処女ゲット』と,国民に対する処女であると云うイメージ形成をおこなったのだ.
にわかには信じ難いかもしれないが,これが現実の話である.

そんな事があり,触れられたらマズイ話は,
大学時代で印象操作を行い,封印しようとしている.と云う事だ.

 世の中には『表向きの顔』と『裏側の顔』がある人は沢山居るが,
これ程の“顔”をお持ちの方達は早々居ないだろう.

 また,秋篠宮家にO脚の血は入っていない.にも拘らず,長女がO脚なのは?(紀子様は出産してからO脚である)
幼少期に性的虐待を受けている少女を見つける際には,O脚か否かを見る事もある.
なぜならば,行為時に膝に負担が掛かるから,成長期は関節や骨格が固まりやすい.

 したがって,足を閉じて滑走するスキーをやらされている.(三笠宮寛仁親王の薦めだそうだ)
但しお嬢様の場合は,虐待ではなく個人的な趣味嗜好の類である事は言うまでもない.
これは,※宮様スキー大会(札幌・旭川富良野)の関連と,歴史の捏造を引き継ぎさせる目的もある.(一石二鳥との考え方)

 学習院かいわいの一部では有名な話であるようだが,週刊誌にも出てこない話である.
それは,週刊誌も書けない話だろうと納得して頂けた事だろうと思う.



秋篠宮眞子さまや佳子さまの交友関係と実態を知る者の周辺事情(誤魔化し工作とネット工作)

[1]

 佳子内親王殿下(佳子さま),2014年5月中に札幌に遊びに来ていたようである.
2014年6月27日夕方〜30日夜までの3日間,公務は休みである.(秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)が札幌入りしたとの情報あり.)

 また,7月3日夕方〜7日明朝までの3日間もまた,公務が休みである.(未確定情報であるが札幌入りしたとの情報あり.)
あとは,7月1日と2日,それに6日.6日が小樽で,眞子内親王殿下(眞子さま)でしょうか?他の皇族の方でしょうか?

佳子内親王殿下(佳子さま)が5月の連休中で,7月が眞子内親王殿下(眞子さま)だったでしょうか.
デートでしょうか??

 5月中の,佳子内親王殿下(佳子さま)を警備していた身長180cm位でオレンジに近い髪の毛の男性,
7月2日の深夜2時頃,札幌市中央区中島公園近くのウォータホテルKに,
肘までボーダー柄のロングのTシャツとジーンズ姿の眞子内親王殿下と入っていったとの情報もあります.
同じ男性だと思いますが,これはどういう関係なのでしょうか.
完全プライベートだと思います.

『2012年も同じ時期』に,眞子内親王殿下(眞子さま)が札幌で遊んでいたようです.
※それとも,2012年の事を誤魔化す為のスケープゴートで,2014年には,宮内庁で用意した,皇族に似た方を使って誤魔化しをしているのでしょうか?

※もし,以前に目撃情報の書き込みをした私の目の前に,わざわざ『似た女性』(スケープゴート)を派遣すると云う事は,
それ相応の事柄があると云う事でしょう.
眞子さまと佳子さまが、彼氏とデートを札幌でする写真(イメージ画像) 眞子さまと佳子さま札幌で警備警察の彼氏とホテルへ入る写真(イメージ画像)
眞子さまと佳子さまが札幌に来る写真(ようこそ札幌へ!!イメージ画像)
※イメージ画像

〔2012年,私の近所の公園〕

 私の家から近い公園で待ち合わせをしている男女が居た.
女がベンチで読書,後に男が来るとういうのが大半であった.
日の出の時間に『映画タイタニックの船頭で抱き合っているシーン』そのままで我が家の方を向いて自撮りしている.
(我が家は日の出方向である為だろうとは思うが)

 このように,デートしている二人が一定期間のみ現れていた.
この二人は,休み期間中に,札幌に来ていた秋篠宮眞子内親王(眞子さま)の可能性が高いだろう.
2015年現時点で,この二人は一切見なくなった.

 何故,私が公園の方を注視しているのかと云う詳細は後程,
【公安関係者≒宮内庁関係筋からのリーク】と【実態を知る者の周辺事情と秋篠宮(眞子様;佳子様)の交友関係】で説明するが,
公安警察の連中が,私の家の近くの公園に張り付いているからである.(監視)

 ようするに,公安の連中が私に張り付いていると,秋篠宮(眞子さま佳子さま)のデートの際,皇族の警備担当はどこに居るのか,
警備をしている秋篠宮(眞子さまと彼氏)が何処に居るのか,この事を,警察総出にする事によって隠しやすいからであろう.

※北海道警察は,『警備部公安二課(右翼・左翼・過激派・要人警護・皇族警衛)』で全てを賄っている.
よって,私の監視要員も皇族警衛も同じ部署の者達であるから,私をスケープゴートとして利用しやすいと云う利点も発生する.
さらに,私には【秋篠宮家と"実態を知る者の関係"(満州事変)】がある為,私を中心としてスケープゴートにまで利用している実態がある.

 したがって,私を利用する事により,
『警備(公安警察)が居た?私の娘ではなく"実態を知る者"が居たからでしょう?』
と云う具合に誤魔化しやすいと云う事になる.
この事は,先述した事を説明できるとともに,秋篠宮絡みであると云う事を,明確に指摘できる点である.

※2013年と2014年に,2012年とは全くの別人が,私の近所の公園でデートをするようになった.(一定期間)
 2012年の事を,2重3重に上塗りし,誤魔化す為だろう.(宮内庁で用意した人物の可能性もある.)

※後程,大胆になる秋篠宮の手口と,追い込まれた際にとっている天皇家の行動を説明してゆく.
2012年に眞子さまがデートしていた公園のベンチの写真(椅子の画像)
2012年に眞子さまがデートしていた公園の山の写真(山の画像)
※2012年に秋篠宮眞子内親王(眞子さま)がデートしていた公園の山とベンチ(実際の現地写真)

[2]

【以下,同一人物の書き込みか?】で後ほど紹介させて頂きますが,
『2ちゃんねる』にて,誤魔化しの為に雇われた,書き込み専門の方であろうか?24時間書き込みを続けております.

 一見すると,秋篠宮家を罵倒するような書き込みでありますが,
【秋篠宮家のお噂1023】で必死に2011年3月11日(東日本大震災)のスキーネタを出おります.

二人は公然の関係であると云う事を世の中に再認識させたいからではないのでしょうか?
どこの指示でしょう?宮内庁でしょうか?
帰国後の婚約会見の為に,再燃させようとしているのでしょうか?

 一般人との結婚となると,結構騒がれる可能性がある為に,2011年から今に至るまで,インターネット上で騒がせて,
騒がれる事に慣れさせておく意味もあるようにみえます.
黒田さんも未だに騒がれておりますから,所謂,「水に慣れさせておく為」かと推測できます.

 2011年11月頃に,秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)との布団上での写真流出を受け,
やったやらないの「下半身事情」で世間では相当騒がれていた時に,
渦中の男性が行っていた,twitter上に於いての発言も年月を経て,
「お酒の飲み方を覚えられた方が宜しいかと思います」であったのが,「お酒の飲み方を覚えなきゃ」
と云う具合に,誤魔化しの為に雇われた,書き込み専門の方であろうか?自分の事の発言のように,すり替え工作がされております.
その他にも「処女ゲット」であったり,避妊具に関する発言日時も,秋篠宮眞子内親王殿下を取り巻く環境;状況を表しているものであるといえます.
山守遼平がtwitterで泥酔したと云う投稿の写真(イメージ画像) 山守凌平が眞子さまの誕生日パーティー用の避妊具を買いに行くと云うtwitterの投稿写真(イメージ画像)
眞子さまと佳子さまが札幌のホテルでスキー部の1部の彼氏とお泊りデートの写真
※イメージ画像


プチエンジェル事件と秋篠宮高円宮家の縁談(眞子様:佳子様)と異性関係で遊んだ清算
伊藤華奈さん殺人事件の真相(スケープゴート殺人)

【厚別区女性殺人事件】
朝日新聞社:厚別区女性殺人事件

[1]

伊藤華奈さん
⇒画像(1)
⇒画像(2)
※歯列矯正の形跡がある.


特徴は右耳のピアス(開耳の一致)
⇒ピアス画像(1)
⇒ピアス画像(2)
2014年6月28日-29日,秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)と思われる女性の有力な目撃情報あり.(目の下に特徴的なソバカスあり.)
秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)は,耳タブが繋がっていないが,伊藤華奈さんは繋がっている.
耳タブが繋がっていない女性は,2014年6月28日-29日に,札幌で目撃(有力な目撃情報)している女性と瓜二つである.


[2]

秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま).公務日程
公務日程(1)
公務日程(2)
6月27日夕方〜30日夜までの3日間,公務は休みである.
また,7月3日夕方〜7日明朝までの3日間もまた,公務が休みである.(未確定情報であるが札幌入りしたとの情報あり.)


右から二番目の写真.秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)と瓜二つである.
⇒右から二番目を参照


秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)
⇒画像(眞子さま)
その他の比較写真は,Googleにて画像検索して下さい.
※幼少期に歯列矯正している.


※殺害の容疑者となっている,錦野昌行であるが,2006年,札幌にて秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)と遊んでいるとの有力な情報がある.
(WEB上で知り合ったとの情報・自殺した10月6日は伊勢神宮式年遷宮があった日にちである.)
秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)は札幌が遊び場となっているようである.

したがって,伊藤華奈さんと容疑者との関係は,
秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)と錦野昌行の交友を誤魔化す為の,スケープゴート殺人事件と見る事ができる.
これがもっとも有力である.


※2012年,伊藤華奈さんの写真が,出会い系サイトの『Mコミュ』の厚別区に投稿されていたのは確認できている.
(本人による投稿か否かの確認はできていない.)(関連会社の裁判記録をあたれば日付から導き出せる事も存在する.)

※裁判所発表資料(PDF):「着うた・出会い掲示板運営‐〔第3世界〕裁判(081823)」


[3]

■この事件の加害者の写真は誰に似ているだろうか?
⇒長崎県佐世保児童殺人事件
⇒参考画像(加害者)
⇒参考画像(眞子さま)

■この事件の地域と家族構成は?
⇒和歌山県高野山児童殺人事件
※家族構成の遺伝子:X-X-Y(長女・次女・容疑者)

■この事件の当事者と皇族との関係は?⇒秋篠宮家の宮務官(ハプニングバー)

■名前で画像検索(google画像)
⇒このサイトに書かれている名前で検索
ご本人様であろうか?そっくりさんであろうか?(秋篠宮眞子内親王殿下?)
⇒ご本人様?

■高円宮絢子女王殿下?
⇒プライベート写真の流出?
⇒比較用の画像(高円宮絢子女王)1
⇒比較用の画像(高円宮絢子女王)2


※プチエンジェル事件と天皇家についてですが,
正確には,身内同士の性行為,女性皇族の男遊びと,女性皇族を使ったハニートラップ.
そのトラップと,身内同士の性行為,男遊びを誤魔化す為のプチエンジェル事件と云う事になります.

ちなみに,奈良県には『秋篠』と云う苗字が大勢おります.
したがって,『秋篠宮』が奈良県で遊んでも,誤魔化し易いと云う利点もあります.
昔から,秋篠宮眞子内親王の遊び場となっていると考えられます.
以上で,皇族とスケープゴートとの関連性が見えてくる事となります.


〔未流出画像(プライベート)とプチエンジェル事件に絡む人物〕

眞子さま:未流出画像⇒画像1(眞子さま)
眞子さま:既流出画像⇒画像2(眞子さま)
眞子さま:未流出画像⇒画像3(眞子さま)
絢子さま:未流出画像⇒画像4(絢子さま)
絢子さま:既存の画像⇒画像5(絢子さま)

プチエンジェル事件(赤坂と渋谷にて小学生児童買春事案)


【プチエンジェル事件と高円宮承子・秋篠宮眞子】

《パパだ〜い好き!!》と云う動画が世の中に存在する.

 実はこの動画,高円宮憲仁親王殿下と秋篠宮文仁親王殿下が映っている.
秋篠宮眞子内親王(眞子さま)か高円宮承子女王(承子さま)と,高円宮憲仁親王殿下と秋篠宮文仁親王殿下の3人での行為が映っているのです.
お嬢さんは,5年生くらいでしょうか.

 赤い絨毯がひかれ,奥にキングサイズのベッドがある,パッと見で40〜50畳の部屋で,
高円宮憲仁親王殿下と秋篠宮文仁親王殿下自身がビデオカメラにて撮影しているものです.
この時,高円宮憲仁親王殿下が秋篠宮眞子内親王(眞子さま)か高円宮承子女王(承子さま)に『パパのこと好き!?』と訊き,
それに対して『パパだ〜いすき!!』と言っている姿が映っております.

この一言が動画のタイトルとして使用され,流出していると云う事になります.

 よって,この動画の流出をうけ,児童ポルノ単純所持が違法となった経緯があります.(拡散防止策)
この動画が流出した際に,スケープゴートとして起こされた事件が, かの有名な『プチエンジェル事件』です.

 一時期,世間を賑わせた『ファイル共有ソフト』ですが,
実は先述した流出動画を保有している人物を探す為に作られた物だったわけです.

したがって,現状,動画の保有者が特定されている為,単純所持での捜査と云う形での証拠隠滅に動いている経緯が有るわけです.
この様な事があり,流出元となった高円宮憲仁親王殿下が亡くなった可能性が高いのです.


※高円宮憲仁親王殿下は,『伯家神道‐立川流』に心酔していた可能性も無いとは言えないだろう.
(後述する後白河天皇・後醍醐天皇の項も参照の事)

※皇族の許婚と彼氏と結婚と男遊び(歴史の捏造を利用した誤魔化し工作)


眞子さまと佳子さまの男遊びと、元彼とのデートの清算をごまかす為の裏工作事件の写真



眞子さまや佳子さまの男遊びを誤魔化した事を誤魔化すネット工作
(同一人物と思われる書き込み内容)

2ch【札幌】厚別区女性殺人事件21

92 ;朝まで名無しさん;2015/03/26(木) 22:37:40.01 ID:IR6LNq0v
>>90
>「助けて警察よ呼んで」約5秒は被害者の部屋での会話?

詳しくは過去スレのテンプレにあるけど
その「助けて、警察呼んで」ってのは
被害者が自宅を出てセイコーマートを通り過ぎた後あたりに婚約者にかけた電話での会話
それで通話状態のまま婚約者は自宅を出たが電波が悪かったのか切れたらしい

そういえば被害者のスマホ見つかってないんだよな…


2ch 秋篠宮家のお噂
814 ;名無しさん@お腹いっぱい.;2015/04/09(木) 12:15:24.61
>太平洋各地を船で巡るような長期慰霊旅行なら、アリだったとはおもうけどね。

ナニソレ?
その船どこから持ってくんの?


817 ;名無しさん@お腹いっぱい.;2015/04/09(木) 12:16:31.19
>天皇陛下の御為にと信じて死んでいった兵士を慰霊するのは当然

だから、英霊はあっちで先帝陛下に会ってるって
贅沢三昧してたアホの継宮に慰霊されても浮かばれないって
丸太船作って自分で漕いで回るなら勝手にすれば?


2ch 秋篠宮眞子内親王親衛隊

575 ;名無しさま;2015/04/06(月) 06:50:46.52 ID:taMcUxYN
<源頼朝関連

あのさぁ、それは功績があって頼朝のために働いたから所領を与えられたんでしょ
おまえらは頼朝に悪いことしかしてないじゃん、ねぇって
「永遠なるヒトラー」って本読んだことある?
ヒトラーは未来の社会は土地が根本になるって言ってるよ
幹部は土地が与えられるともね
もちろん「あいつ」に未来を見せられたんだよ


※上記書き込みと,関連スレッドの書き込みを詳しく分析してゆきますと,
個人個人にある癖として,書き込みをする際の文体や使用文字が,特徴的に偏っております.
したがって,上記書き込みは,同一人物である可能性が極めて濃厚となってきます.
佳子さま眞子さまの男性情報含め皇族の不祥事をネット世論誘導で誤魔化す写真(イメージ画像)
眞子さま佳子さまの男性情報を誤魔化すネット工作の写真(イメージ画像)
※イメージ画像


大祓の儀と神道大麻と天皇家の秋篠宮眞子様‐祝詞から読み解く罪穢れの意味

[1]

 先程も記述しましたが,誤魔化しの為に雇われた,書き込み専門の方であろうか? 24時間書き込みを続けております.
一見すると,秋篠宮家を罵倒するような書き込みでありますが,
【秋篠宮家のお噂1023】で必死に2011年3月11日(東日本大震災)のスキーネタを出おります.

二人は公然の関係であると云う事を,世の中に再認識させたいからではないのでしょうか?
どこの指示でしょう?宮内庁でしょうか.
帰国後の婚約会見の為に,再燃させようとしているのでしょう.

 一般人との結婚となると,結構騒がれる可能性がある為に,2011年から今に至るまで,インターネット上で騒がせて,
騒がれる事に慣れさせておく意味もあるようにみえます.
黒田さん も未だに騒がれておりますから,所謂,「水に慣れさせておく為」かと推測できます.

 2011年11月頃に,秋篠宮眞子内親王殿下との布団上での写真流出を受け,やったやらないの「下半身事情」で,世間では相当騒がれていた時に,
渦中の男性が行っていた,twitter上に於いての発言も年月を経て,
「お酒の飲み方を覚えられた方が宜しいかと思います」であったのが,「お酒の飲み方を覚えなきゃ」
と云う具合に,誤魔化しの為に雇われた,書き込み専門の方であろうか?自分の事の発言のように,すり替え工作がされております.

その他にも「処女ゲット」であったり,避妊具に関する発言日時も,秋篠宮眞子内親王殿下を取り巻く環境;状況を表しているものであるといえます.

以上の事柄が,誤魔化しの為に雇われた,書き込み専門の方と思われる24時間続く書き込みとなります.

 このように,言動を誤魔化す工作が行われていると云う事を,このサイトを閲覧して下さっている方にも知って頂きたく思います.

2011年7月5日撮影、東日本大震災の被災地にて撮影した写真 2011年7月5日撮影、東日本大震災の津波で流された消防団の消防車の写真(被災地にて撮影)
眞子さまが2011年3月11日にスキー部の大会に結婚相手と出場している写真(イメージ画像)
※左の写真から2番目まで,私が2011年7月5日に撮影した写真.
右の写真は2011年3月11日に秋篠宮眞子内親王(眞子さま)がスキー部の大会に出ていたと云う情報のイメージ画像.
詳細は,後程,【身内を使ったスケープゴート】・【地震学の風景】・【世界的な問題と,円高を用いた経済的な圧力】で説明します.


[2]

 そのうえで,「神道の儀式」までもが,自身の付加価値創造と誤魔化しの為の裏工作に利用されている状態である事を述べさせて頂きます.
具体例を出しますと,秋篠宮眞子内親王が参加した神道の儀式である「大祓の儀」は利用されております.
大祓と云う儀式については『知らず知らずの内に犯した罪穢れを祓う』と云う意味合いがあるそうです.

 その上で,大祓には,神道上極めて重要な《麻》が使われるそうです.
麻と云う植物には穢れを祓う意味合いがあるそうでして,この麻で"御祓い"を行うのです.
神社で神主がバサバサと振っている白い紙が麻であり,お札やお守りを包む紙もまた麻であります.


神社と神道大麻と伊勢の御札(天照大神宮)


 養蚕と云う儀もまた,絹を作る為であり,絹には穢れを寄せ付けないと云う意味があるそうです.
この時に,桑科の植物である麻を食べさせ,麻を食べた蚕が吐き出した糸を紡ぎ,絹ができ,
この絹を使用し,大祓の儀が執り行われると云う事であります.

 ところが,秋篠宮眞子内親王は,大学生時代や高校生時代,小学生時代に至るまで,いいだけ男遊びを繰り返してきたのです.
本人が自覚を持ち,知っていながら繰り返してきた事を,どのように祓うと云うのでありましょうか?
本人は無自覚の状況に於いて,意識が無いままに男遊びを繰り返してきたと云うのでしょうか?
この期に及んで,『うちの娘は知らなかった』『私は知らなかった』と言うのでしょうか?

 このように,神道としての儀式的意味合いを利用し,自身の交友関係を正当化しようと云う事までに及んでいるのです.
なぜ本人は自覚があり男遊びを行ってきたと言えるのかについての詳細は,後程記述しますが,
読み進めて頂きますと,事の真相がお判り頂ける事と思います.


■大祓えの儀式(日本古代思想における悪)大阪大学の研究
⇒日本古代思想における悪(大祓えの儀).PDFファイル


浮世絵と養蚕と皇室‐養蚕皇国栄(国政 Kunimasa)



京都と秋篠宮眞子(眞子さまと佳子さま)、祇園と縁談の関連(藤崎晋吾)

 2005年に,西の里の立命館高校近くに,夏休みの期間中に,お手伝いさんのお婆ちゃんと住んでいた,
当時12歳の女の子(秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま))の情報もあります.
厚別東通沿いで,車に乗った男性とのトラブルがあったそうです.

この件と密接な繋がりを認める事ができる事件は,以下となります.

記憶に新しい2012年4月に発生した,京都祇園に於いて白昼に発生した死者・負傷者多数のあの事件.
『てんかん:癲癇』と自動車運転免許証について大きく取り上げられました.

【藤崎晋吾】
経歴;立命館中学校‐立命館高等学校‐立命館大学文学部‐吉本総合芸能学院(NSC)‐呉服店

 事件概略;京都市東山区の祇園で4月に通行人7人が死亡し,12人が負傷した軽ワゴン車暴走事故で,
京都府警は死亡した呉服店社員の藤崎晋吾容疑者(当時30歳)について,
運転中,持病のてんかんの発作をおこし事故を起こしたと判断し,京都府警は年明けにも自動車運転過失致死傷容疑で,
被疑者死亡として書類送検する方針です.

 他車の車載カメラの映像を見ても,明らかにハンドル操作をしているように見えるため,当時から意識はあったのだろうと言われていました.
しかし,専門家によると「発作が起きて意識朦朧の状態でも,大きな障害物をよけるなど,周囲からは意識があるように見える症状もある」のだそうです.
秋葉原で7人が死亡し10人が負傷した無差別殺人事件の同様の通り魔的犯行かとも言われていましたが,
てんかん発作が原因の事故であると判断されました.
てんかん発作による自動車事故は,2011年4月18日に,栃木県鹿沼市樅山町の国道293号で登校中の小学生の列に
クレーン車が突っ込み6人が死亡した事故もありました.

※詳細;;月刊精神分析特集京都祇園自動車暴走事故

藤崎晋吾;画像
⇒藤崎晋吾
女性皇族(秋篠宮眞子内親王殿下)=ジャニーズの松本潤さんのファン.藤崎晋吾;松本潤さん系の顔.
上記した,藤崎晋吾の顔と比較して下さい.

上記の事柄と密接に繋がっています.

眞子さまと佳子さまの男遊びや元彼とのデートを清算する為の裏工作事件の写真(イメージ画像)

実態を知る者の周辺人物と秋篠宮眞子様と佳子様‐伊藤華奈さん殺害事件と秋篠宮の交友関係

[1]

 2012年中に私,「実態を知る者」の周辺にいた「ブンタン(現在30歳)」と云う,あだ名がついている人物が居た.
この人物は,2012年の大学在籍中(大学院生)に,付き合っていた女性が居たようである.
この女性,元の大学で色々と問題があって大学に居れなくなったそうで,その大学に籍を置いたまま,この札幌の大学に編入してきていたそうである.

 この女性は,大学生であり,「ブンタン(あだ名)」は大学院生と云う状況である.
この女性は,周りが敬遠してしまい,誰も話しかけなかったそうであるが,
この「ブンタン(あだ名)」は,興味を持って話しかけ,仲良くなり付き合うまでになったそうである.

付き合っていた女性であるが,特殊な女の子で,
「社会的な目があるから結婚はできないが,お付き合いまでならできる.」だから付き合っていると云う事を聞いている.

 そしてこの「ブンタン」であるが,2012年から2013年にかけての就職活動中に,横から走行して来た車に追突され,「首の骨が折れる重症を負っている」
そう,死にかけている(暗殺されかけた).
この「ブンタン」であるが,今話題に上がっている,某家具屋と同じ苗字である.

眞子さま絡みの元彼の男性がスケープゴートとして交通事故に遭った写真(イメージ画像)
※イメージ画像

[2]

 その他の周辺人物だと,2011年12月〜2013年7月頃にかけて,
SNSで有名な,「mixi(ミクシィ)」の「スキーサークルで知り合ったお嬢様」と,都合が良いお付き合いをしていると云う男も居る.

 この男は,サークルで知り合ってはスキー場に行き,都合が良い関係を築き上げている男である.
その女性は,2012年4月に,家族で私的なオランダ旅行に行き,帰国後,この男に御土産を渡していると云う事である.(男本人談)
この女性と,この男であるが,男の友人含め計4人で関係を持ったとの話も聞いている.

 また,この女性の口癖は「気持ち悪い男だなー!お前もー!!」「ほんっっとに気持ち悪い男だな!お前もー!!」であるそうだ.
この女性の名前は,『まこ』と云う事を聞いている.
この女性は,関東に住んでいる女性だと云うことである.

 2013年6月30日に聞いた話だと,この女性は父親に,「お前は世の中を知らなさ過ぎる,世界を見て来い」と言われ,
一年間海外留学しているとの話を聞いている.
したがって,語学堪能であると云う事を,この男から聞いている.

 更に,2013年5月の中頃には,昨今話題になっている「LINE(ライン)」で知り合った,
当時18歳で札幌のマンションに一人暮らしをしている女性とも関係を持っていると聞いている.

この女性は,ダンスをやっている女性だそうだ.
この女性と関係を持ったこの男は,6月の中頃に,妊娠したかもしれないと連絡が来たそうであるが,この連絡を最後に交友を絶ったと聞いている.

この男は,2013年の6月30日,一年間海外留学の女性とLINEの女性との関係を,
「非常に気まづそうに」「大変な事になった」と云うふうに話している.

※2013年6月30日の翌日である.2013年7月1日に,秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)は一年間の海外留学から帰国している.
※2013年8月に秋篠宮佳子内親王殿下(佳子様;ダンスで有名)は,急遽一ヶ月間のホームステイに行っている.
6月中頃に妊娠発覚であれば,7月に手はずを整えて8月に出国となるであろう.
※また,この時と同じ時期,学習院大学の友人から洩れたと云う噂であると,「妊娠している」と云う未確認情報もある.

2009年10月下旬,私は不自然なバイクの事故により殺害されかけているが,
その翌年の2010年12月24-25日に,私の知人が目の前にて,死ななかった事が不思議なほどの大きな事故に遭っている.

伊藤華奈さんについてですが,伊藤華奈さんのお父様は,「ぶんたん」と云うあだ名であると拝見致しました.

※錦野昌行が自殺した「10月6日(おそらく自殺した日は10月5日)」は「伊勢神宮式年遷宮外宮の日」であり,
千家典子さん(高円宮典子女王殿下)が結婚披露宴を行った日でもあります.

以上,私の周辺だけでも,これだけの事が揃っているのである.


私"実態を知る者"のスケープゴートとしての使われ方(眞子様と佳子様の遊びの誤魔化し)

[1]

 2014年6月28日〜29日;デリヘルを利用させられた.
この際に来たのが【伊藤華奈さん殺人事件の真相】で述べた特徴を持つ(自称;雛)である.(送り雛;流し雛とでも言いたいのだろうか?)
※源氏名と聞いても分っていなかった.(水商売に居るならば源氏名くらいは分る筈であろう)
【歌会始の儀】を読んで頂ければ分るとおり,札幌入りした際のスケープゴートとして使われている事は明らかである.

 したがって,秋篠宮眞子内親王(眞子さま)が,今までにホテル等を利用し,男と遊んできた画像や動画が流出した際に,
『うちの娘は関係ありません』ないし『そっくりな人が居るんです』
と云うように,誤魔化しをかける為に,そっくりな人,もしくは本人を近づけている事が分るだろう.(宮内庁の案か,秋篠宮の案か?)

 2014年6月28日〜29日の女性ですが,
帰り際に,自らのプライベート(彼氏)の時と,仕事でこうして来る時と,と云う具合に,自らの普段の性生活事情をつらつらと話し,
私の本名;名字は「守山」(イントネーションを下げ)と名乗り帰って行きました.(これにより,何の為に風俗を利用させたのかを残していった.)
(目の下に特徴的なソバカスあり.)
 私は,秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)が留学にて出国して行く2014年9月17日に,「この女は!?」と気が付いた状況です.
と云うのも,9月17日は,化粧をほぼしていない状況での出国画像が出ておりますので,普段メディアに掲載される写真とは別人であったものですから,
当日は気が付かなかったのです.(プロの風俗嬢と遜色がなかった.)
この,化粧をしていない写真使う事によって,「この顔に見覚えない?」と言わんばかりだと受け取るほかありません.

※化粧に関してですが,一般に対しては,公務に専念と云う発表をして,化粧をしっかり施し,『もう大人です』とアピールしていたものが,
急な留学となった為,化粧を落として『子供っぽく見せる』と云う視覚的な誤魔化しの意味合いがある事も窺えます.

眞子さまの男遊びや元彼を誤魔化す為のスケープゴートの写真(イメージ画像)
※イメージ画像

[2]

 スケープゴートとして使った挙句,嫌悪感情を抱いている被害者に対し,秋篠宮眞子内親王(眞子さま)の日常を話して行くとは正に,
『きちがい沙汰』としか言いようがありません.
一連の事件を含め,面白がっているとしか思えない状況です.
異常としか言いようがありません.

 この事を説明できる事柄は,
秋篠宮文仁親王殿下が歌会始の儀で歌っている,【歌会始の儀】で記述した,
『風月の移ろい見つづけし』となるのである.
(スケープゴートを馬鹿にし面白がりつつ,多方面に良い顔をする八方美人)

 繰り返しになるが,何故,私がここまで書くのか,知っているのか.
私自身が,スケープゴートとして利用されているのと,川嶋家(池上家)の関係で人生を潰されているから知っている事であり,
この様にして,実態を書かせて頂いているしだいであります.

 暴露させて頂いている内容は,私がスケープゴートとして利用されているから知っている事であり,
その裏づけは,明確に示す事ができる事から,こうして暴露に踏み切らせて頂きました.

 これは,川島家(池上家)の1800年代中頃(明治維新以前)から始まり〜1928年(張作霖爆殺事件);1931年(満州事変)の事柄について,
未だにスケープゴート(責任の擦り付け)として私の一族が利用されているからであります.
「知らなかった」では済まない事柄でありますし,「すみませんでした」「自分は関わっていない」では済まない事であります.

 暴露に踏み切ったのは,「思慮分別」即ち「道理=すじ」が無い事から,このような暴露に至ったと云う事を,述べさせて頂きます.
私の一族は,少なくとも曽祖父からデッチ上げの被害に遭ってきております.(詳細は後述します)

 上記の事柄は,まるで劇本作家になったかのようにシナリオを作り,頭の中に花を咲かせ,面白がっているとしか言えない事柄でしょう.
天皇家;宮内庁及びその関係者は,『劇本作家になった気分』で『シナリオを組み』この日本を舞台として『面白がっております』.
もはや,異常としか言いようがありません.

下記に記載している歌は,2015年の歌会始の儀で発表の歌である.

※宮内庁(歌会始の儀):平成27年発表,歌会始の儀(※PDFファイルです.)

【呼ぶ声に気づかず一心に本を読みふける幼き我が日】

※皇后陛下の歌は音読みと訓読みの差で意味合いが異なるが,これを模している歌となる.

したがって,

「呼ぶ声に気づかず一心に本を読みふける幼き我が日」
「呼ぶ姓に気づかず(守山)|心に元を読みふける"幼き我"が日("雛")
「呼ぶ性(姓)(守山)に傷数々,心に,元を読みふける"幼き我"が日」
「瘤ぶ 性に傷かず|シンに本を読みふける幼き我が日」
「呼ぶ声に気づかず|新日本を読みふける幼き我が日」
「呼ぶ声に気づかず一心に元を毒味ふける幼き我が日」
「呼ぶ声に気づかず一心に本を黄泉耽る幼き我が日」
「呼ぶ声に気づかず|"心"に本を読みふける幼き我が"日"(真実-心日)」

 これぐらい,多方面に自身の事情を公開している歌となる.
これを読んで心当たりがある方は何十人いるのだろうか?
少なくとも私は,姓が"守山" 源氏名が"雛"と云う部分で小馬鹿にされている.
また,漢数字を用いて一線を引くと云うのも特徴的である.
これは,天皇陛下発表の和歌にて,漢数字の一を用いた事を踏襲する形である事が分かる.

※上記のように,私『実態を知る者』の場合は,上述のように「スケープゴート」「シナリオ遂行の為の遊び道具」として使われております.

※皇后陛下が詠まれた和歌について(林ありて"その下陰")について
■歌会始の儀(林ありて"下陰")
■秋篠宮眞子内親王殿下発表の歌と,その意味
■佳子さまの婚約相手と身内で話をスリ変える(林)
■皇族発表の私を貶す和歌
■政略的に必要な男性を複数維持する心理テクニック
上記を御読み下さい.

2013年8月の盆と2014年2月から一ヶ月間の埼玉暮らしの際に見ている同一の女性
(天皇家の回し者)

[1]

 まずは2013年8月盆,祖父の墓参りにて,寺に安置されている先祖の仏壇を参りに行った時の事である.
この際,50代の小太りで目つきの悪い女性が,辺りをキョロキョロと見回し,私の顔を見つけると,グルッと回ってきて左隣四つ目の仏壇に来て,
なにやら不自然に手を合わせていた.

 お盆の時期にのみ,実態を知る者家は,過去帳を置いていない事から,実態を知る者家の過去帳を見に来たと捉える事ができる.
(後に記述する"満州事変"の項を参照されたい)

どの様に不自然な女性であるのか.

 実はこの女性,2014年1月中頃,レンタルビデオショップに私が映画を返却したついでに,新たに映画を借りようと思いつき店に行った際に,
20代後半と見える女性と,店内入り口の外(駐車場側)に2人で立っていたからである.(外気温マイナス6〜8℃.)

店内に入り,映画を探していると,私の真横に,先ほどの女性2人が来て,
20代後半の女性が,「私がロスに一年間行っていた時に,この映画見た!」とワザとらしく言っていたのである.

※これにより,「眞子と云う女性との関係を気まずそうに話した男」との関係は,
秋篠宮ではなく自分(20代後半の女性)だと誤認識-裏工作を行おうと試みたようである.

 さらに,私(実態を知る者)は2014年2月4日〜2月9日-2月12日〜3月13日まで埼玉県に行っていたのであるが,
この時の2月中にも,先述した50代の女性と「埼玉県東大宮の道路」ですれ違っている.(互いに徒歩である)
この際,私は埼玉県東大宮;レオパレス21.に入居させて頂いていた.

※一階に女性一人と男性二人(女性;真ん中の部屋)
※二階に男性二人(端から二番目と端から二番目)
※三階に,私(実態を知る者)含め男性二人(端端の部屋)

 何故,私が入居後すぐに,入居者状況を知っているのか.『大雪が降り"足跡"が付いていたので判明している』
これも恐らくは,レオパレス関連の,何かしらのスケープゴートととして使われた可能性もあろうかと思う.

私を付け回す不審な女性の写真(宮内庁の回し者のストーカーのイメージ画像)
※イメージ画像

[2]

 22時頃と26時頃,それと28時頃に幾度となく,マフラーを変えたV型エンジンとマークU系統と思われる,
1JZエンジンの車が暫らく停車し,二人の別の男と,同じ一人の女が出入りしていた.
(声でのみ判断-二股か?三股か?)(排気音のみで現車確認はしていない)
(居なくなる際にアクセルを吹かして行く;社外マフラーは良いが,吹かして居なくなると騒音となる)

その他であると,19inのアルミを履かせたプリウス.(助手席ダッシュボードにソーラーで動く蛙があった.我が家にはこれと同タイプのイルカの物がある)
2月初旬迄しか見ていない青いアロファロメオ(昼間しか居ない)

 2月20日と2月22日は「アンアンと五月蝿い声が階下から聞こえてきている」(恐らくは,アダルトビデオを大音量で再生していたと思われる.)
これは,誰かの部屋にて行われている事の誤魔化しだろう.
(2月21日と2月23日に,レオパレス側から,「内容が内容だけに」と前置きをしたうえで,契約以外の車を止めるなとのポスティングをされる)
※2月23日は,投函されている内容に「赤字」が使われるといった,相当強い意味合いが付加されている.(私は車を保有していない)

 さらに,退出前に他の物件を紹介して頂いたのであるが,
部屋の条件として,私の知識から,D50程度の遮音性と部屋の構造,これらの注文をして下見をさせて頂いている.
(良いと思い入居の申請をした直後,法人に入られる)

 また,部屋を案内して頂いている際に,『実態を知る者さんは,料理が趣味なんですか?』と遠まわしに
『料理の臭いが迷惑である』と受け取れるような事を直接言われている.
(誰かが苦情を入れたのだろうか?)
以上の事により,私は埼玉県から帰ってくる事となった.

この様にして,私の周りでの動きが発生している.

※埼玉県東大宮;レオパレス21.に入居,退出前の2日間を使い,部屋の隅々,ダクトまで外して清掃してから退出している.
(私の退出後に,私が入居していた部屋を汚しにでも来たか?)
※2013年8月の盆に,実態を知る者家の過去帳を見て,何かしらの重大事項に気が付き,やり直しと,誤魔化しを始めたと見る事が出来る.
※実態を知る者に隠された先祖にまつわる事柄と,探し者が一致したのだろうか?
または,誤魔化し工作の為の情報収集か.
※過去帳と満州事変の繋がりは何であるのか,何故,過去帳を見る必要があるのか,
この理由は,後述させて頂く,【秋篠宮家と"実態を知る者"の関係(秋篠宮家と満州事変)】をお読み下さい.

佳子さまと眞子さまの下半身事情と異常性の理由(宮内庁職員宮務官逮捕)

 何故,ここまで「下半身事情」と云う下世話な話ばかりが出てくるのか.
それは,金銭問題などは出てこないであろう「天皇家」にとって,一番のスキャンダルとなるのが「下半身事情」となるからに他ならない.

したがって,スケープゴートに利用されるのもまた,下半身事情ばかりとなるのは当たり前の事であろうと思う.
※産経新聞:秋篠宮家担当の宮内庁職員逮捕「ハプニングバー」で公然わいせつの疑い

それに加え,"セオドアニューカム"の項でも説明したとおり,嫉妬や妬み,共通認識の敵と云う方向性に「視点そらし」をする事により,
「スケープゴート(1928;1931〜現在)」の実態から目をそらす,「視点そらし」の意味合いも相当に強い事がわかるかと思う.
【スケープゴートの使われ方】や【秋篠宮家の思惑と川嶋家の誤魔化し(謀略)※後述】で述べた様に,誤魔化し;まやかし;欺き,これらの事柄に傾倒している.


 更に,【スケープゴートの使われ方】;2014年6月28日〜29日/で述べているように,一連の事件を含め,
まるで小説や映画を作っているような感覚で事件を起こし,周辺環境を作り上げ,その一連の工作を面白がっている実態が見えてくる.

 これは,フィクションと現実世界の区別ができていない程に,異常な精神状態である事が浮かび上がっていると言えるだろう.
これが,現在の天皇家;宮内庁;関係者の実態である.

天皇家が行う事件と誤魔化しのシナリオと云う異常性の写真(イメージ画像)
※イメージ画像

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秋篠宮家の宮内庁職員宮務官逮捕と障がい者関連手話公務の矛盾

[1]

 2013年3月〜4月にかけて,私は今年2015年と同様の"サイト"を作成しております.
さらに2012年10月〜12月にかけても2ch上に書き込みを行ってきております.

 しかしながら,当時の書き込みを見る為に2chの過去ログを読み込みますと,当時私が行った書き込みは全て消されている状態となっております.
これにより,実態を知る者は,宮務官が逮捕された後に,後出しのこじ付けで私たちの事を騒ぎ立てていると思わせる事ができます.

 さらに,これを行う事によって,今までに出てきている「下半身事情」は,私たちの娘の事ではなく,
「逮捕された宮務官が行っていた事です」と,宮務官に責任の擦り付けを行った事は明白となっております.(その他も含む)
※産経新聞:秋篠宮家担当の宮内庁職員逮捕「ハプニングバー」で公然わいせつの疑い

 また,秋篠宮家が責任の擦り付けにより言い訳を行う場合,
『私たちの公務を決めているのは宮務官ですし,2011年〜2014年までの私たちが行った公務に,誤魔化しの為の,何らかの意味合いがあるとしても,それは,異常な宮務官が決めていたものですから私たちは関係ありません』
このように言う為の"トカゲの尻尾切り"と保険が,宮務官の逮捕である事も見えてきます.

 したがって,私が書き込みをした2012年10月〜12月・2013年4月までの事を2chの過去ログから消去する事によって,
『"実態を知る者"は,秋篠宮眞子内親王(眞子さま)の根も葉もないデタレメをばら撒き,おかしな妄想をし始めた.』
と云うようなインターネット工作を行ったといえます.
しかし,インターネットは世界中で利用されており,世界中が2chにアクセスできます.

 さらに,2chは告発など,重大なリークが出てくるサイトでありますから,
当たり前のように,世界中が当時のログを保存していると云う事は,考えずとも分かるかと思います.
にも拘らず,私『実態を知る者』対個人にばかり目が行き,2chのログを改竄した,と云う事は,
世界中が保有しているログとの整合性がとれない事態を引き起こしたと云う事になります.(※A)

 これにより,自ら世界中に対し,自身が行った事を世界中に披露した事となるのは,お分かり頂けると思います.
要するに,「墓穴を掘った」「策士,策に溺れる」となったと云う事になります.
そして何より,『根本的な問題』,それも『世界的な問題』を理解していないようです.
("世界的な問題"については後述します)

※A
Google等の検索サイトは,一度クローラーが回ったURLを短期間に,何度も繰り返し巡回し,サイトの内容やキャッシュを保存してゆきます.
したがって,改竄後は,Googleで検索を行ったとしても,改竄された情報しか出て来なくなります.
(おおよそ2年もあれば完全に,改竄された内容しか出て来なくなる.)

 このようにして,"国内向けの裏工作"を行っているのが秋篠宮家(天皇家)です.
はっきり申し上げさせて頂きますと,ここまで裏工作を行わなければならない程に,秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)は酷い状況と言えるでしょう.

 このような事柄は,英国留学中の出来事など,視線を逸らしたい事から国民の目を欺く常套手段です.
したがって,《秋篠宮家の宮務官の逮捕(ハプニングバー)》で視線逸らしを行おうと画策している側面も強い事が見えて参ります.


眞子さまと佳子さまの不都合な情報をネット上から消す検閲行為(日本国憲法最高法規違反)
※イメージ画像

[2]

 皇族が行うハロウィンパーティーについての批判がインターネット上で散見される.
これについては,街宣団体が行っている『ハロウィンパーティーをぶっ潰せ!!』と云う街宣行為が一つの指標となる.
街中でハロウィンを楽しんでいる方達から見ても,その他の方達から見ても,このような街宣行為は迷惑と言えるような行為であろう.

この様な事柄を利用し,天皇家は下記の事柄を演出している.

 皇太子妃のハロウィンパーティーの話と,天皇家も百済から来たとの皇后の発言.(眞子さまと佳子さまの,在日の彼氏の噂と,裏側の目的 )
これに乗る形で秋篠宮眞子内親王が参加したハロウィンパーティーの話でのネット上の苦言.

 秋篠宮家の御長男に聴覚障害があるかのような,障害を馬鹿にするネットの書き込みと,秋篠宮家の手話公務によるイメージ形成.
この書き込みによって,皇室に苦言を呈する者は,ならず者であると云う風潮を作り出すイメージ構築の為のネット工作.

同様の事は,皇太子の御長女が知的障害であるかのようなネット工作にも見る事ができる.
これは,世間様を踏み台にし,自らの価値を創造しようとするやり方である.

 2015年,皇太子が発表した歌会始の和歌にある『紅葉山と学び舎』であるが,(平成27年発表,歌会始の儀(※PDFファイルです))
北海道石狩市花川の紅葉山公園の横には養護学校がある.

 この周辺は,皇太子妃の御印である『ハマナス』の群生地でもあり,石狩砂丘がかつて存在した地点でもある.
現在,石狩砂丘に関連する施設で,石狩ハマナスの丘公園と云う施設がある.

このようなネット世論の構築と,自身に対する付加価値を付ける行為は如何な物であろうかと思う.

※紅葉山公園:北海道石狩市花川に実在する"紅葉山公園"(Googleマップのキャプチャ画像)
※2015年発表の和歌との関連性皇族発表の私を貶す和歌

■ここだけ表示


天皇家(秋篠宮)と実態を知る者の関係(川嶋紀子と満州事変‐宮城事件と近衛兵)

[1]

 此処で一つ,大変恐縮ながら調べてみたのですが,川嶋さん(秋篠宮紀子殿下の実家)の御先祖様ですが,
池上さん等,警察官僚も多い御家系のようです.
戊辰戦争に絡み,そして,満州事変に絡んでいる可能性を指摘する事ができます.

 まず第一に,川嶋さんの御家系は,特別高等警察含む警察官僚の御家系であり,
秋篠宮紀子殿下の親族を辿ると,『大日本帝国陸軍陸地測量部隊』に携わると共に,
マルクス思想や自由主義といった思想に関する調査研究をされていた方も居るようです.

※小菅智淵
⇒陸軍参謀本部初代陸地測量部長

※池上四郎
⇒警察官僚(特高絡み)

※杉本嘉助・服部俊太郎(南満州鉄道)
⇒南満州鉄道

 満州事変の『三年前』にあたる『1928年』に,『新聞赤旗』が発行されました.
この『1928年』に,『張作霖爆殺事件』が発生します.
それから『三年後』の『1931年』に,満州事変が勃発します.

 この時,一説によると,満州鉄道の調査部員に,人員不足から自由主義やマルクス主義の者が居たとの説がありますが,
調査部と云う重要な部署に,思想絡みの人員を配置する程の危険を冒す必要性は見当たりません.
人員の調達に際し,それ相応の身辺調査も行われるのが部署の特性上,最低限行われていると思われます.
(鉄道は国家にとって重要なインフラである為)

 この際に,最低限の調査すら無いのであれば,それは何の為であるのか,意図して共産思想の方やマルクス思想の方を入れたのか,
その様な意図が働いていた場合には,どの様な意味合いがあり,取り込んだのか,裏を疑わなくてはならない事柄となると思われます.

※満鉄調査部:南満州鉄道内の調査機関

張作霖爆殺事件の現場、実際の写真
※画像:『張作霖爆殺事件』

〔"時代背景"に関連する"裏の意味"〕

 先述の事柄は,1928年から年代を遡る事,110年前と,346年前に繋がります.
346年前,織田信長が平家を名乗り,全国統一の大義名分を手にした事柄や,『平家の旗』は『赤い旗』である事などが挙げられるかと思われます.

 次いで110年前,『伊能忠敬(商者)と測量』であり,平家に関連する「祇園精舎の〜=擬音商者」と「測量部隊」とが繋がる事になります.
織田信長にて「縁起を担ぎ」,伊能忠敬で「平家流れの商者(諜報)」と「国土拡大の為の測量部隊」とを掛け,
明治維新で北海道開拓,後の満蒙開拓に繋げると同時に,謀略によって不利益が生じた際には,
責任集約の為,平家の仕業であるとの保険を掛けていた事が見えてきます.

 また,先に述べさせて頂きました,時代の流れをなぞりますと,『明治維新』から,神仏分離令と,神社合祇令,満蒙開拓と『北海道開拓』,
第二次世界大戦の疎開先としての満州,引き上げ後の札幌移住と北海道移住に繋がってくる事が見えてきます.

明治維新と北海道開拓に関して,『重要なキーワード』となってくる事は,
『明治天皇と札幌丘珠村(アイヌ語で男が刀を落とした場所)』
『札幌丘珠神社(天照大神のみを祀る神社)』
『篠路神社(伊勢両宮の二柱・崇徳天皇・菅原道真・山口金刀比羅宮など)』
『現在の"三笠市"(農地開拓と炭鉱・三重県からの入植者と富良野:中国との姉妹都市提携)』
上記の土地と神社が,明治維新と謀略に繋がる鍵であり,北海道と云う重要な土地に対する関連付けと裏の意味合い,言い逃れの為の保険となります.

 それでは,どのような保険が掛けられているのか,裏の意味と,土地にまつわる縁起担ぎについて説明してゆきたい.
まずは,『明治天皇と札幌丘珠村(アイヌ語で男が刀を落とした場所)』について.

北海道(蝦夷地)はアイヌが住んでいる土地でもある事.
丘珠と云う地名は,アイヌ語で"オッカイ・タム・チャラパ(アイヌ語で男が刀を落とした場所)"を,地名語源とすると云う"説"がある事.
※札幌丘珠羆事件:明治天皇と札幌丘珠村(アイヌ語で男が刀を落とした場所)

 明治天皇は,無類の日本刀好きであった事などから,この地名に対する裏の意味合いが見えてくる事となる.
それは,日本刀と武士に関して言える事であり,たんなる戦の道具としてではなく,
武士の魂とも言われる程,武士が持つ日本刀に対する心を表しているものであると云う点からである.

したがって,"丘珠"と云う地名には,『武士の魂である日本刀を落としてしまった所』と云う意味合いが見えてくる事になる.

 それでは何故,私が「丘珠と云う地名は,アイヌ語で"オッカイ・タム・チャラパ(アイヌ語で男が刀を落とした場所)"を,地名語源とすると云う"説"がある」
と云うふうに『説』としたのか.

これには,"北海道弁"が関連している.
北海道弁で『おっかい(オッカイ)』と言うと,『怖い』と云う意味になるからである.

 ようするに,アイヌ語で"オッカイ・タム・チャラパ"とは,アイヌ語から北海道弁に影響を与えていると仮定するならば,
『オッカイ・タム・チャラパ=怖い土地』と云う意味になるからである.
※その他にも,アイヌ語と照らすと見えてくる仮説もある.
『オッ・カムイ・タプ・チャ・ラパ=神が居て(カムイ),切り刻まれて(タプ),食べられる(チャ),場所(ラパ)』

したがって,この仮定が正しいならば,丘珠と云う地名の由来に関して,『明治政府にとって都合が良い解釈をした』と云う事が浮上してくるのである.

 では,どの様に都合が良い解釈がなされていると云うのか.
それは,『明治天皇は謀略を嘆いていた』したがって,『武士の魂である刀を落としたのである』
『したがって,天皇に謀略の責任は無い』と云う,責任回避の為に付けられた地名と云う事になるだろう.

※明治天皇:明治天皇(詳細情報)

仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(小松宮彰仁親王)暗号文書
【公文書】


仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達
簿冊標題:公文録・明治元年・第四十五巻・丁卯十二月〜戊辰十二月・皇族伺


《掲載している公文書について》

記述されている文字は,斜めに分析する事が可能である.

小松宮彰仁親王に関する詳細と解読結果は,下記を御覧下さい.

※小松宮彰仁親王とは?


〔丘珠神社と札幌飛行場(丘珠空港)〕

 丘珠神社及び,丘珠空港(札幌飛行場)に関する関連性を明確に指摘できる事柄を挙げる.
丘珠神社には,征露凱旋記念碑(日露戦争の戦勝記念碑)が明治39年に建設(奉納)されている.

 丘珠空港に関しては,昭和17年(1942年)に大日本帝国陸軍によって施設された.
即ち,明治天皇北海道行幸の後であり,第二次世界大戦敗戦の前に『軍部によって施設されている』と云う点で,明確なる相関性を指摘できる事となる.

 征露凱旋記念碑については,丘珠村の青年組が奉納している事から,政府及び軍部の関連性を指摘する事はできないが,
皇祖神である天照大神のみが祀られている神社である事などから,軍部が対ソの為に,丘珠空港を,この地に施設した可能性が極めて高い事となる.

 即ち,『験担ぎの為の征露凱旋記念碑と丘珠神社』が浮き彫りとなってくる.

 天皇皇后両陛下が北海道へ来たが,利尻島へ向かう際に利用したのが当該空港である.
新千歳空港からも利尻島への便は出ているのだが,わざわざ丘珠空港を利用したのであるから,その意味合いは極めて重い物となるが,
この程度では,皇室の正当化はできない事を,宮内庁は理解しているのであろうか?

 尚,利尻島の隣にある島は『礼文島』である.
秋篠宮文仁親王が川島紀子と結婚する前,秋篠宮は『礼宮文仁親王』である事も推して知るべきではないだろうか.
札幌丘珠神社(征露凱旋記念碑 日露戦争戦勝記念碑)1
札幌丘珠神社(征露凱旋記念碑 日露戦争戦勝記念碑)2


[2]

 それでは,ここまでの話を要約し,話を纏めてゆく.
平家の旗は『赤い旗』であり,「明治維新から始まる謀略は,平家の仕業である」と云う口実の為に,
『新聞赤旗が作られた』と云う事を指摘する事ができる.
また,『三』と云う数字が多用されるのは,平家の繋がりを示す,『かぐや姫=竹取物語』の文献がある『平安後期』に見る事となる.

 以上の事を基礎とし,分析して行くと,織田信長の全国統一になぞらえた明治維新遂行と,国内宗教の統一に行き着き,
更に,この事は,2・26事件と張作霖爆殺事件と満州事変へと繋がり,第二次世界大戦後の状況に直結する事となる.
それは,戦前に行われた謀略を隠す為の大義名分と,事後処理を目的とし,
『意図して作られた"左派思想"』が見え隠れする事となるのである.

 したがって,1970年代に,国内に於いて発生している公安事案(テロ等)の中には,事後処理の為に作られた事件があると云う事が見えてくるのである.
例えば『1975年』の『北海道警察本部爆破事件=本部"三"階』や,翌年の1976年『北海道庁爆破テロ』等は,代表される一例とも言えるだろう.

※1976年『北海道庁爆破テロ』に関しては事後処理の為に作られた事件であるのか否かを明確に示す事ができる点を私は現時点では見出せていない.
※1975年は,川嶋庄一郎さんのご遺骨が,和歌山県に分骨された年とも一致します.
※北海道警察本部爆破事件:警察本部にて発生した爆発テロ


【後白河天皇と平安後期と平家;「かぐや姫」と「かごめ唄」】

かぐや姫:かぐや姫(物語の詳細)
あらすじ:中から三寸(約 9 cm, この物語には「三」と云う数字が頻出する)

竹取物語:物語の詳細

かごめ唄:かごめ歌(童謡)と今様と後白河天皇


[3]

 私の家は,近い所(曽祖父)ですと「富山県」と「石川県」が出身です.
(倶利伽羅峠の戦い)≒(倶利"娑羅"峠の戦い)

 私の母方の曽祖父は『三次朗』と云う名であり,『満州鉄道』で働いておりました.
また,三次郎は名前に「3」が付く為,『満州事変のスケープゴート』として使われたと見る事ができます.(三次朗の家族には"イトコ"と云う名もいる)

 父方の曽祖父と,曾祖母は『丸に剣片喰の家紋』がある為,川嶋家のスケープゴートとして使われたと推測するのが一番腑に落ちます.
(川嶋家の家紋:丸に剣片喰)

 また,父方の曾祖母の遺影は,昭和29年に描かれた肖像画となっておりますが,この肖像画を描いた画家の名は,流れの画家『錦 舟』であります.
(肖像画の左下に書かれているが,曾祖母の名前ではない)

 したがって,この謀略を指摘する為に,何者かが残した痕跡であり,現状を指し示す為であるのか,
成りすます為であるのか,川嶋家では,ご長男の名前に「舟」と名付けたのではないかと思われます.
(万一,成りすます為であるならば,肖像画の画家名を名前と間違えたのであろうか.)

要するに,絵を描いたのは「錦 舟」であるが,「川嶋家」にて「錦 舟」を,名前であると誤認識し,
秋篠宮紀子殿下(川嶋紀子:曾祖母)と同様にする為,ご長男に「舟」と名付けたのではないだろうかとも見る事ができます.

さらに,私の祖父の兄弟であり,曽祖父である三次朗の息子である,長男(92歳)は,『大日本帝国陸軍中等科』に入学し『測量』を学び,
第二次世界大戦中は,『大日本帝国陸軍陸地測量部隊で兵役をこなし』後に「製図;測量会社」を経営し,生計を立てております.

上記の,『大日本帝国陸軍陸地測量部隊』は,上述している小菅智淵(池上四郎)関係と同一部隊となります.
この事から,私の家柄を利用し,平家の陰謀であるとの謀略に巻き込み,責任の擦り付けと,責任の集約を行っている事を説明する事ができます.
この事により,戦前から現在にかけての『スケープゴート』と『一族潰し』が行われていると云う事を,明確に指摘する事ができます.

※私の祖母は,『長崎の藩の家紋』と『桐紋』です.
※祖母の家は『成田山』に御縁があり,親戚の集合写真には髷を結った方も居ります.
※祖父は,今上天皇(当時;皇太子殿下)に随行した,儀仗兵(近衛兵)であり,日光御用邸にも随行しております.
丸に剣片喰(家紋) 揚羽蝶(蝶紋)平家の家紋 丸に中が瓜実の片喰(家紋)
五七桐(家紋)
※関連する家紋:『丸に剣片喰・揚羽蝶・丸に中が瓜実の片喰・五七桐』

【猿蟹合戦と相撲】

 関係者には分る様,一般には一切公開されていない話を記述したい.
今上天皇(当時,皇太子殿下)は,第二次世界大戦末期,栃木県の日光御用邸に疎開していた.

この疎開先にて,私の祖父を含めた儀仗兵と共に,『猿蟹合戦の芝居』を観ている.
『相撲』に関しては,私の祖父などが,今上天皇(当時,皇太子殿下)の前で,相撲を取り,楽しんで頂いた事もあると祖父から直接聞いた事がある.

 その他であると,富士山の方に訓練(恐らくは"名目上"訓練となっている)で行軍している.
儀仗兵に関してであるが,皇太子殿下と共に行軍していたと聞いている.(連隊名は敢えて伏せさせて頂きたい)

※かの有名な宮城事件は,1945年のポツダム宣言受諾を受けて発生したが,私の祖父は1944年に近衛兵の任を満了し,地元に戻ってきた.
したがって,宮城事件画策に巻き込む人員を最小限に抑え,部隊の統率を抑える事ができない様な不測の事態を抑える為の対策である事が窺える.

 そもそも,一部隊の一存で,任と解任を決める事はできないであろう事から,
この事件に通じる根本的な決定を下したのは,軍部及び政府天皇家である事が見えてくるだろう.

ようするに,当時は明確に皇國であったのだから,頂点に位置する天皇家の戦争責任を逸らす意図があったと云う事であろうことが見えてくる.

 さらに,この宮城事件であるが,似たような事件であるならば,2.26事件が宮城事件より以前に発生している.
この2.26事件もまた,軍部の暴走と云う事で話されているが,私が今まで記述してきた事から分析するならば,
2.26事件の時点で,軍部に責任を集約し,天皇家の保護を画策したと言えるだろう.

 また,2.26事件の事柄で軍部の責任に集約してあるので,終戦後に発生する天皇家への責任回避の為に宮城事件が画策され,
実行に移されたと見る事ができる.

上記の事から,2.26事件と宮城事件を起こす事により,戦争責任の所在が軍部のみであるかの様にする為に作られた事件であるのが,
2.26事件と宮城事件であると云う事が窺えるだろう.

 また,当時の近衛兵に任期は無く,通常ならば終戦まで兵役(奥日光御用邸)をこなしていたであろうにも拘らず,一足先に地元に帰って来ると云う事柄が有る事から,先述した,軍部のみならず,全体が一丸となって作られた2.26事件であると云う事を,指摘できる事柄となるだろう.

以上の事から,川嶋家と天皇家の結婚は,戦争責任回避に関連する政略的な結婚であって,
それに伴う被害を受けてきている私と私の一族は,デッチ上げに今でも使われていて,現状に至っている事が鮮明となっているのである.

※したがって,天皇陛下が述べられた御言葉,『満州事変に始まる先の大戦をもう一度,学び直し』については,
正確には,『張作霖爆殺事件や2・26事件より遡る事,明治維新に始まる先の大戦をもう一度よく学び直し』であるのが本来の御言葉であろう事かと思う.

※2.26事件と天皇家の関係(秋篠宮家と財閥)

※宮城事件とは?


【2016年2月26日宮内庁に電話 〜 さすが宮内庁!!素晴らしき電話応対★part1‐5 〜】

 2016年2月26日に,国民には知らされていない歴史を調べた結果が出たので質問の電話をさせて頂きました.
秋篠宮様と三笠宮様を中心とした歴史になります.
その際の宮内庁の電話応対になります.
初めは普通の応対のようでしたが,徐々に様子が変貌してきます.
日本の機関である宮内庁が,このような応対をするとは驚きです.
2013年2月25日と2015年2月26日にも電話しておりますが,これとほぼ同様の応対をされております.

大日本帝国陸軍の儀仗兵(近衛兵)の祖父の写真
近衛兵(儀仗兵)の祖父

上述させて頂いた,近衛兵(儀仗兵)の祖父が日光御用邸にて写っている写真である.
ここには,日光御用邸儀仗兵本部が置かれていたそうだ.
一見すると,お金が入っていそうな写真右に写っている紙包みの中には,
下賜物の『スルメ』と『タバコ』と『昆布』が入っている.
祖父はタバコを吸わない人だったので,タバコはあげたそうである.
※一説によると,
『敗戦した場合,GHQの統治下となり,軍人に恩給を下賜する事ができなくなる為,
天皇の御厚意により,終戦前に軍役を解除した』との話があるが,
実態は『スルメ』と『タバコ』と『昆布』である.

写真の拡大画像:儀仗兵(近衛兵)の祖父


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仁和寺宮(小松宮彰仁親王‐伏見宮)と蝦夷地開拓(北海道)の
暗号公文書(開拓使日誌)‐《明治維新》


以下に,明確なる相関性を指摘する事ができる資料の写真と共に,その詳細を記述する.

【小松宮彰仁親王】

続柄:伏見宮邦家親王第8王子

身位:親王
敬称:殿下
出生:1846年2月11日(京都)
薨去(死去):1903年2月18日〜26日(満57歳没)東京府
埋葬:1903年(豊島岡墓地)
配偶者:有馬頼子
子女:依仁親王(養子)
父親:伏見宮邦家親王
母親:堀内信子
役職:元帥陸軍大将,近衛師団長,参謀総長,博愛社総長→日本赤十字社総裁,
大日本水産会会頭,大日本山林会総裁,大日本武徳会総裁,高野山興隆会総裁 他多数

小松宮彰仁親王(こまつのみや あきひとしんのう,弘化3年1月16日(1846年2月11日) - 明治36年(1903年)2月26日)は,
日本の皇族,陸軍軍人.官位は元帥陸軍大将大勲位功二級.仁和寺宮嘉彰親王と同一人物.
伏見宮邦家親王第8王子である.妃は,旧久留米藩主有馬頼咸の長女頼子.


【経歴】

安政5年(1858年),仁孝天皇の猶子となり,親王宣下を受け純仁親王を号し,仁和寺第三十世の門跡に就任した.
慶応3年(1867年),復飾を命ぜられ仁和寺宮嘉彰(にんなじのみや よしあきら)親王と名乗る.
明治維新にあっては,議定,軍事総裁に任じられた.
戊辰戦争では,奥羽征討総督として官軍の指揮を執った.

明治3年(1870年)に宮号を東伏見宮に改める.
明治7年(1874年)に勃発した佐賀の乱に於いては征討総督として,
また,同10年(1877年)の西南戦争にも旅団長として出征し乱の鎮定に当たった.

明治14年(1881年)に維新以来の功労を顕彰され,家格を世襲親王家に改められる.
翌明治15年(1882年)に,宮号を仁和寺の寺域の旧名小松郷に因んで小松宮に改称した.
親王は,ヨーロッパの君主国の例にならって,皇族が率先して軍務につくことを奨励し,自らも率先垂範した.

明治23年(1890年),陸軍大将に昇進し,近衛師団長,参謀総長を歴任,日清戦争では征清大総督に任じられ旅順に出征した.
明治31年(1898年)に元帥府に列せられる.

国際親善にも力を入れ,明治19年(1886年)にイギリス,フランス,ドイツ,ロシア等ヨーロッパ各国を歴訪した.
また,明治35年(1902年),イギリス国王エドワード7世の戴冠式に明治天皇の名代として臨席した.

社会事業では,日本赤十字社,大日本水産会,大日本山林会,大日本武徳会,高野山興隆会などの各種団体の総裁を務め,
皇族の公務の原型を作る一翼を担った.


【年譜】

上野恩賜公園にある小松宮像弘化3年(1846年):降誕
安政5年(1858年):親王宣下・嘉彰親王.入寺得度・純仁と号す
慶応3年(1867年):王政復古・復飾を命じられる
明治元年(1868年):軍事総裁,海陸軍務総督,軍防事務局督,軍務官知事,会津征討越後口総督
明治2年(1869年):兵部卿,辞職
明治3年(1870年):宮号を東伏見宮に改める.イギリス留学,議定
明治6年(1873年):帰国,陸軍少尉
明治7年(1874年):佐賀の乱.佐賀征討総督
明治9年(1876年):陸軍戸山学校長,兼議定官
明治10年(1877年):東京鎮台司令長官,新撰旅団司令長官
明治11年(1878年):東部検閲使
明治13年(1880年):陸軍中将・近衛都督
明治15年(1882年):小松宮と改める.大勲位菊花大綬章
明治19年(1886年):欧州差遣
明治20年(1887年):帰国・近衛都督
明治23年(1890年):陸軍大将
明治24年(1891年):近衛師団長
明治26年(1893年):兼議定官
明治28年(1895年):参謀総長,日清戦争征清大総督,大勲位菊花章頸飾
明治31年(1898年):元帥・日清戦争征清大総督辞職
明治35年(1902年):英国国王戴冠式差遣
明治36年(1903年):薨去,国葬


【小松宮家】

明治14年(1881年),彰仁親王は永世皇族となる.
もともとは一代限りの皇族であった.
明治18年12月,子どものいなかった彰仁親王は,伏見宮邦家親王の十七男依仁親王(当時の名前は定麿王)を養子に迎えた.
しかし,しだいに依仁親王を排除し,北白川宮能久親王の四男輝久王を後継者にしようと考えるようになった.
明治35年4月,宮内大臣の田中光顕に臣籍降下し,輝久王を養子に迎えることを願う.

田中が難色を示すと,彰仁親王本人が臣籍降下を断念する代わりに輝久王を臣籍降下させて侯爵として財産を相続させて,依仁親王を別家させることを願った.
その結果,明治36年1月,依仁親王との養子縁組は解消されて,依仁親王は東伏見宮家を創設した.
ただし,輝久王の臣籍降下は認められなかった.

明治36年2月,彰仁親王は亡くなり,頼子妃らは輝久王の小松宮家相続を願ったものの,認められなかった.
そのため,小松宮は一代で断絶することになった.
しかし,明治43年(1910年)7月20日,輝久王は臣籍降下し,小松輝久侯爵と名乗り,小松宮の祭祀を継承した.


【血縁】

父:伏見宮邦家親王
母:同妃鷹司景子
兄弟(姉妹は省略):晃親王,嘉言親王,譲仁親王,朝彦親王,男子,貞教親王,男子,彰仁親王,能久親王,男子,男子,博経親王,智成親王,貞愛親王,清棲家教,載仁親王,依仁親王
妻:有馬頼子
子:(養子)依仁親王

■参照元:wikipedia(小松宮彰仁親王)
仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(小松宮彰仁親王)
【公文書】
仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達
簿冊標題:公文録・明治元年・第四十五巻・丁卯十二月〜戊辰十二月・皇族伺
《掲載している公文書について》
※記述されている文字は,斜めに分析する事が可能である.
[例]:『したがいまして,北海道開発および,ご採用の,ご決意に於いて,早速行き届けるように,見込みの趣旨を建て,決定し,ご採用させて頂きます.
北海道は,皇国のゆえ,「彼嶋五部」を中任して下さるよう,懇願させて頂きます.』

※その他にも,斜めに解読する事が可能である.
『行商人,届候』・『平の家,大いなる念を悟りて』・『今任務,易きなりて此れ嘉彰へ被委任候なり』…等々
やはり,これだけ長い文脈の文書でありながらも,一行あたりの文字数制限もある.よって,偶然この様な記述になっているとは思えない.したがって,事の趣旨を,暗号化し,伝達している文書である事が判る.


【仁和寺宮が残した公文書(明治元年)と開拓使日誌(明治2年)の符合点】

 それでは,仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(明治元年)が如何なる暗号文書となっているのか,その詳細を以下に記述してゆく.
まず,北海道開拓に関して残されている『開拓使日誌(明治二年)』との符合点を明示する.

 先述した暗号の解析にて提示した『彼嶋五部』との記述に関しては,下記の内容である.
『したがいまして,北海道開発および,ご採用の,ご決意に於いて,早速行き届けるように,見込みの趣旨を建て,決定し,ご採用させて頂きます.
北海道は,皇国のゆえ,「彼嶋五部」を中任して下さるよう,懇願させて頂きます.』

 上述した,「カシマ」と云う名字を持つ日本人の割合は,そう多くない.
まして,蝦夷地の開拓と云う事柄に関し,要職に赴任している人物の割合から考察すると尚の事であろう.

 したがって,仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(明治元年)の時点で「彼嶋五部」を任命した人物は誰であり,
また,『どのような目的を以ってしての任命であるのか』について明確に指摘できる事となる.

 よって,私が解説している暗号文としての意味合いに符合する古文書を以下に提示する.

開拓使日誌(北海道蝦夷地)no,31

 上記の古文書は,仁和寺宮の公文書の翌年である,“明治二年”に記述された『開拓使日誌』である.
明治二年八月,水戸藩『鹿島 又四郎』との記述がある.

 したがって,上記の『開拓使日誌』により,「カシマ」とは誰の事であるのかを,指摘する事ができるようになるが,
この文面のみでは,明確なる符合とまでは言い難い.

 よって,暗号文書との符合点を明確に指摘してゆく為に,更なる符合点を,以下に提示する.

開拓使日誌(北海道蝦夷地)no,84

 上記の古文書も,先の古文書と同じ,『開拓使日誌』である.
会計官判事『島 五位』との記述がある.

 即ち,暗号としての記述であると私が指摘している,『彼嶋五部』に関し,
「彼,島五位」及び,「鹿島」を任命するよう,仁和寺宮(小松宮)は文章を作成していた事となる.
これらを,明確に結び付る事ができる文面は,同じく,『開拓使日誌』に残されているので,以下に提示する.

開拓使日誌(北海道蝦夷地)no,90

 上記,古文書の文面に於いて,任開拓使次官『清水谷 従三位』との記述がある.
したがって,仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(明治元年)の一行目に,『清水谷侍従』と記述されている事から,
仁和寺宮が明治元年の時点に於いて,“蝦夷地開拓に関する任命を明治天皇へ暗号を用いて要請”し,
それらが明治天皇に認められた結果として,明治二年の『開拓使日誌』に記述された事となるのである.

 さらに,『仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(明治元年)』には,“金策”に関する記述も存在している.
先に提示した画像に,『仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(明治元年)』も写っているが,
こちらを御覧頂くと,私がマークした部位を見る事ができるかと思う.

 マークした部位の文面を並べると判読できるのであるが,『軍使金行届候(金策)艦』とある.
即ち,会計官判事である「島 五位」と「清水谷 侍従」が担った役割についても説明が付く事となるのである.
以上の事柄から,『仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(明治元年)の暗号文書』に関し,明確なる提示ができる事となる.


【『開拓使日誌(明治二年)』に記述されている『山丹満州』と『魯西亜(ロシア)』に関して】

 先に記述した,『開拓使日誌』に記述されている文面の始まりは,以下である.
「明治二年 五月二十一日:蝦夷地の儀は,皇国の北門,直に山丹満州に接し」
上記の記述から始まる.

開拓使日誌(北海道開拓史料 蝦夷地)No.03

 即ち,明治政府が如何なる点に重きを置き,蝦夷地の開拓に邁進していたのかを,理解する事が出来得る文面であろう.
結果論となるが,日本が満州を植民地化し,満州事変の後,満蒙開拓による農民の移住を,三十万人まで達せさせるに至った端緒及び思慮は,
『仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(明治元年)の暗号文書』及び,『開拓使日誌』によって説明が付くであろう.

 上述した事柄と結果論のみでは,満州への侵攻に関し,明確なる相関性を有している文面である事が判りづらいであろう事から,
以下の項目にて,明確なる相関性と結果論から導き出される事柄を記述してゆく.


【地政学的側面から読み解く「北海道」及び「樺太」と「満州」】

〔1〕
 明治元年,仁和寺宮が明治天皇へ暗号文書を提出し採択された.
翌,明治二年,蝦夷地の開拓が明治政府によって本格的に行われる事となる.

 この際,『開拓使日誌』の冒頭にて記述されている,『山丹満州』の行に於いて,
「蝦夷地の儀は,皇国の北門,直に山丹満州に接し,境界祖定と云えども,北部に至っては,中外雑居致し,
これまで官使がアイヌ(土人)を使役する事,苛酷を極め,外国人はもっぱら愛血を施している事により,
アイヌ(土人)は常々,我々邦人を怨離し,外国人を尊信するに至っている.一旦,アイヌ(民)の苦しみを救うを大儀名分とし,
アイヌ(土人)を煽動する者が居れば,その時は,その災いが,たちまち函館松前にまで及ぶ事は必然にて,災いを未然に防ぐには,
各方々が,今の要務に就いている間に函館平定の際は,速やかに開拓の教導などの方法を施設し,
人民繁殖の域とするが為には,利害得失の各意見は忌み憚り無しとする事を申し出でます.」
上記の内容が記述されている.

開拓使日誌(北海道 蝦夷地開拓史料)No.04

 まず,着目すべきは,文章の冒頭に,何の脈略も無く「山丹満州」が出てくる事である.
したがって,「山丹満州」に関し,脈略と成り得るのは,文章の最後に記述されている「人民繁殖の地」であろう.
ようするに,結果論でいう所の,「満州の植民地化」に至るのである.

 さらに,着目すべきは,「外国人」と云う記述であろう.
アイヌに関しては,土人との記述がある事から,ここで指す「外国人」とは,ロシア人で間違いないと見る事ができる.

〔2〕
 それでは,「外国人(ロシア人)」に関し,どのような記述が『開拓使日誌』に残されているのかを,以下で解説してゆく.

開拓使日誌(北海道蝦夷地)no,41

「明治二年 九月:《一》北海道は,皇国の北門,最要衝地帯の地なり(中略)
《一》樺太はロシア人と雑居の地に付き,もっぱら体節を主とし,
条理を儘し,軽率な振る舞い,曲がった振る舞いを我々にとる事があり,自然と暴虐非義を加える事があっても,
一人一巳の挙動は慎み,必ず全府決議の上で,是非曲がりを正し (以降省略)」
上記の記述がある.

 したがって,蝦夷地の開拓を始める以前から,樺太(サハリン)に於いて,「アイヌ」と「外国人(ロシア人)」が生活していた様子が判る.
即ち,「アイヌ」と「外国人(ロシア人)」が混在していた樺太に,明治政府が蝦夷地の開拓として入植し,北海道とした経緯が判る文章となっている.

 では,『地政学的側面』から,「満州」と「樺太」を皇国(日本の領土)とする必要性は何処に有るのだろうか,
と云う話になるのであるが,これに関しても結果論から導き出す事ができるので,下記の〔3〕で記述してゆく.

〔3〕
 満州事変の翌年である1932年,満蒙開拓が始まった.
満州事変は,関東軍(日本軍)の自作自演によって行われた事案であった事は,日本政府も公式に認めている.

 上述した満州事変を切っ掛けとし,満蒙開拓が始まったのであるが,満州事変で判るように,満州には鉄道網が敷かれていた.
当時の,物資及び人員の移送手段は,船舶ないし鉄道である.

 したがって,日本と云う島国が,欧州圏への覇権と領土を拡大する為に必要な『地政学的戦術』は,
海に面した大陸側を日本領土とする事により,十分な物資及び人員を大陸で移送する事ができるようにする必要が出てくる.

 ようするに,満州と樺太以外の,蝦夷地を取り囲んでいる大陸側全てを日本が領土化し,鉄道網を敷く為には,
満州と樺太を先に領土化している必要性が出てくる.

 したがって,欧州圏への覇権,及び領土を拡大する為に必要となってくる中間点であり,
尚且つ,『開拓使日誌』に関して〔2〕で解説した「要衝地」となるのは『蝦夷地』であるのだから,
「満州」と「樺太」と云う二地点を,何としても皇国(日本の領土)とする必要が有ったと云う事である.

 さらに,上述した「要衝地」である蝦夷地は,満州と樺太の両陣からソ連を含めた欧州圏へ本格的に侵攻した際に受けるであろう,
本州への攻撃を緩衝する為の土地としての意味合いも深い事が判る.

 したがって,明治二年の『開拓使日誌』に記述されている「要衝地」の意味合いが鮮明化するうえに,
明治元年の『仁和寺宮蝦夷開拓ニ付申立并職務任免ノ御達(明治元年)の暗号文書』の時点で,戦略的な謀が存在している事が判明するのである.

また,余談であるが,〔1〕にて記述した,
「一旦,アイヌ(民)の苦しみを救うを大儀名分とし,
アイヌ(土人)を煽動する者が居れば,その時は,その禍恨が函館松前にまで及ぶ事は必然にて,災いを未然に防ぐには,
各方々が,今の要務に就いている間に函館平定の際は,速やかに開拓の教導などの方法を施設し,
人民繁殖の域とするが為には,利害得失の各意見は忌み憚り無しとする事を申し出でます.」
上記の文面に於いて私が,「アイヌ(土人)」では無く,「アイヌ(民)」と云う記述を行った事には訳が有るので,下記の〔4〕で解説する.

〔4〕
「一旦,アイヌ(民)の苦しみを救うを大儀名分とし,アイヌ(土人)を煽動する者が居れば,
その時は,その災いが,たちまち函館松前にまで及ぶ事は必然」との記述がある.

『開拓使日誌』の原文にも,
「一旦民苦ヲ救フヲ名トシ土人ヲ煽動スル者有レ之時ハ其禍忽函館松前へ延及スルハ必然ニテ」
と云うように「民」の記述があるだけではなく,この文面を記述するに至った前例がある事だろうと分析できる.

 したがって,これまでに提示してきた資料とは別の資料から,その前例を提示する.

維新前 北海道変災年表

 上記の資料は,「昭和7年9月10日印刷,15日発行」の『維新前 北海道変災年表』である.
御覧頂くと御分り頂ける通り,
「1771年 明和8年:夏エトロフ,ラショワの土人団結し,ウルップ,マカルル島にて,ロシア人数十人を撃殺す.」
上記の記述があるが,これ以前に邦人が目撃した,ロシア人を襲撃するアイヌの姿は明確ではない.

 また,〔1〕と〔2〕で解説している通り,明治政府が蝦夷地を開拓・統治するにあたって邪魔な存在となっているのは,
アイヌと外国人(ロシア人)である事が判るが,両人種が互いに争い,その勢力が衰退する事を目論むのならば,
『開拓使日誌』に記述されているように,
「一旦,アイヌ(民)の苦しみを救うを大儀名分とし,アイヌ(土人)を煽動する者が居れば」,明治政府側は痛手を負わずに,両人種の勢力を衰退させる事ができるのである.

 したがって,『開拓使日誌』に,記述されるに至った前例を指摘する事ができる事となる.
これらは,2013年及び2016年と2017年も記述していた内容であるが,データが飛んでいる為,再掲する.

 以上,〔1〕〜〔4〕までに記述した内容が,《仁和寺宮(小松宮彰仁親王-伏見宮)と蝦夷地開拓の暗号公文書(明治維新)》に関しての解説である.
また,ここに記述した内容により,『第二次世界大戦に至る歴史上の発端はいつであるのか』と云う事柄及び,
弊WebSiteに記述してある,その他の項目との明確なる関連性を表面的に説明する事ができる.

 さて,私が分析し提示している内容に関して,右翼左翼といった思想的な色分けをする事は可能であろうか?
また,これらの内容に関しては,教科書には一切記述されていない史実であるが,
これらを熟読されたうえで尚,『関連妄想』であると断言できる医師及び機関は,まだ存在するのであろうか?
(口述にて説明したが妄想と判断され,私は医療措置入院〈精神福祉法第29条を濫用〉と云う処分を下されていた.2016.11.1〜2017.03.17)

これらの事柄が明確に存在している『北海道』と云う地に於いて,
《北海道命名150周年記念》と云う記念行事を,御目出度い雰囲気にて盛大に執り行う風潮に,私は“個人的に”賛同できかねるしだいだ.


《※第125代天皇(平成の今上天皇)の名前は,小松宮(仁和寺・伏見)と同じ読みである,『明仁(あきひと)』である. 
第125代天皇は,「第二次世界大戦が終戦する以前に生まれている」事から,
先述した内容にて,『どのような意味合いで付けられた名であるのか』と云う事も明確に見えて来るであろう.》

1.開拓使日誌に,初めて「北海道」と記述された日付は,『8月15日』である.
2.終戦宣言を発表した日付もまた,『8月15日』である.
3.125代天皇(平成)の名は,『あきひと』であり,小松宮と同じ名前の読みである.
4.元号に『平成』と付けられた事.
5.『戦後レジームからの脱却』を政府が標榜している事.

表面的に見てもこれだけ揃っている. 国際社会が,知らないとは思えない状況ではなかろうか.


北海道開拓の清水谷侍従職 明治9年不正登書でトカゲの尻尾切り(公文書)

※上記画像は,蝦夷地の開拓を任命されていた清水谷侍従が,トカゲの尻尾切りで明治9年に不正登書で摘発された旨の公文書である.


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広島と長崎に原爆を投下された理由と明治維新‐天皇家と平家と織田信長と豊臣秀吉

【広島原爆と長崎原爆が投下された理由と明治維新‐天皇家と織田信長と豊臣秀吉と平家】
[1]

 第二次世界大戦に至るまでの過程を整理してゆくと,先述した要点が明確に存在する事を確認できる.
そのうえで,日本政府は,国際社会に対しての歴史の捏造を遂行しようとする動きを加速させている.

 例えば,明治産業遺産として世界遺産に登録させた『軍艦島』があるが,
読んで字の如く明治時代に利用され活況に至っていた島である.

 このタイミングに等しく,英国の情報機関であるMI6をモチーフとした映画007が公開された.
公開された映画は,軍艦島が舞台として作成された映画でもある.
映画007の主人公は,第二次世界大戦中にも活躍した実在する諜報員であったとの事である.

 このタイミングに合わせて,日本政府は国際社会を騙す動きを加速させてきた.
どのように国際社会を騙す動きを国内外で加速させてきたかについては,後ほど述べさせて頂くが,
極めて自己中心的かつ,国際社会を愚弄するやり方である事が鮮明となっている.

 産業遺産と云う世界遺産に登録させる事によって,国民に対して『明治維新は良いもの』と云う印象操作をする動きである.
これを行う事により,『明治維新から始まる先の大戦』である事を誤魔化し,都合が悪くなった際には,
『国民感情がありますから』と,歴史の捏造から脱却する為と云う口実を元に,『時間稼ぎ』を行おうと云う考えが明確に見える.

 また,これまでの動きを正当化する為に,『そんな自分に都合が悪い事やるわけ無いでしょう?』と云う,
見せる《心理学的印象操作》を国際社会及び国内に対して行い,国内の情報機関を「トカゲの尻尾切り」として利用してきた.

 国内の情報機関といえば,旧内務省の関連であり,新聞赤旗を発行させた「公安警察」や「検察庁」や「公安調査庁」がある.
これら国内の情報機関を利用し,歴史の捏造が露呈しないよう裏工作を行わせ,天皇家(川島紀子の実家)を正当化する事によって,
天皇家が行っている自己正当化や裏工作を有耶無耶にしようとする動きが現在も続いている.

 どうしようも無くなった際には,国外に対して水面下で自身に都合が良い事のみを説明し,土下座で騙す外交を行い,
国内の民衆には歴史を捏造した話を教育し,事実を伝えないようにする動きが出ている.

 何よりもの証拠は,私"実態を知る者(teda wakou)"が,この30年行われてきた事柄であり,
私の家柄を利用した歴史の捏造を継続している事にある.

 その上で,私の家柄や私の周辺にて,先述してきた事件や後述してゆく事件を発生させ,
歴史の捏造を利用して天皇家の娘たちの不始末までをも,この国の為であるかのように装い誤魔化してきている事実である.

 したがって,国内外の情報機関が私の家柄を利用し,歴史の捏造を遂行していると仮定した際には,
通常ならば,皇族(皇室)の動きの前に,国内外の情報機関が裏工作を行わなければ整合性が取れない.
ところが,この30年間と云う現実を見ると,皇族(皇室)の動きの後に情報機関が動いている.

例えば,具体例を5つ挙げてみる.(以下,具体例)
1.2005年や2006年に秋篠宮家で悠仁親王が誕生する事を国内外の情報機関は知っているだろうか?

2.高円宮承子さまが海外留学の際に現地で男遊びをすると云う事を知っているだろうか?

3.秋篠宮家の娘である眞子さまが2003年頃から男遊びを繰り返し,2006年頃には"立派な大人"になる事を事前に知っているだろうか?

4.2010年に,山守凌平と同じ大学に秋篠宮家の長女である眞子さまが入学すると云う事を知っているだろうか?

5.2009年に,皇太子(天皇家)が,わざわざ週刊誌に書かせた,『愛子(敬宮)を虐めている同級生の給食に向精神薬入れたらどうかと"警察上がりの侍従が言った"』と書かせる事を,2002年11月の時点で知っていただろうか?


少なくとも5つの氷山の一角を挙げれば分かるが,国内の情報機関は,『予知能力者の組織』ではない.
したがって,誰が主導しているのか明白であろう.

 そのうえで,まともに働いている方達には申し訳ないが,
現在の公安警察や公安調査庁の予算獲得の為の異常な調査や捜査が事実あるのだから,
そういう異常な連中を利用して工作を行わせる事によって,自身の不都合を誤魔化す為の動きである事が分かる.

『違法捜査であったり,違法調査が当たり前で,これによって自己価値を高めようとする異常な者を敢えて利用すれば,
自己正当化に繋がると云う動きである』と云う事である.

 これらの事柄について分析してゆくと,明治時代の皇族や現皇族は,なんら性質や考え方が変わらず,
現在進行中である,歴史の捏造に関する保険掛けと裏工作を行い,現在に至っている事が分かる.
これ即ち,戦後産まれのA級戦犯であろう.

 これだけ筋が通らず,物事の道理を弁えない事を,明治時代から行い,
このように国際社会を愚弄する裏工作を行ってきたのだから,広島と長崎に原爆が投下されたと云う事を認めざるをえない.

 その上で私は,今後の日本や国際社会に於いて,原爆が使用される事や,
過度に拡散させる事を容認しているのではない事を,この場にて述べさせて頂く.

 上述した事を考慮したうえで,第二次世界大戦中の当時,
日本と云う国が原爆である核爆弾や水素爆弾(原水爆)を使用できる準備が整っていたら,
どのような状態に至っていたかを,今一度考えるべきであると思う.

 何故ならば,日本政府がNHK(国営放送)で,
『原爆開発は国際社会と僅差であった』と云う番組を編集・放送した事実があるのだから尚の事である.

 今まで否定していた731部隊の人体実験についても同様である.
そのうえで,現状でも当時の日本や731部隊同様の倫理観で,人体実験や歴史の捏造が行われている事も考えなければならない.
時間は解決してくれない.特効薬にもならない.

 したがって,戦後70年を経た現在に於いても,国際社会が用いている国定教科書と日本の教科書には,大きな隔たりがあるのである.
これら総ての事が,この先,日本を苦しめ,国民を困窮させる事である事は間違いのない事であると私は思う.

広島原爆ドームと皇族(リトルボーイが投下された理由)
原爆の写真と皇族(爆発の瞬間)


[2]

先にも述べたが,根本的な問題は,「明治維新,そして張作霖爆殺事件から始まる先の大戦」であり,
この事は,「終戦期の皇太子(現.天皇陛下)が10歳の時,奥日光御用邸で終戦を迎えた」事に繋がり,
「広島原爆は,祇園精舎の鐘の聾;擬音商者の鐘の聾(じゃが;じゃけん)」
「長崎原爆は,豊臣秀吉によるキリシタン禁止令と長崎,平家を語り全国統一を行った織田信長が"磔"を行い,さらに十字架を背わせ,長崎で磔刑をおこなった事」と「明治政府がキリシタン弾圧をおこなった」に伴ったものである事.(※"満州事変と秋篠宮"を参照の事)

 1971年に,「実態を知る者の両親」と「礼宮(秋篠宮)」との「三者」が,「札幌オリンピック」の「"真駒内;眞子真ない"アイスアリーナ」に集まっていた事である.(私の両親は,この時まだ知り合っていない.私(実態を知る者)も産まれていない.)
この事柄を世界中が知っているにも拘らず,異常な精神性をあらわにし,面白がって行っている.
(【スケープゴートの使われ方】を参照されたい)
上述の事から,私(実態を知る者)に対す極めて卑劣な裏工作と,自身の誤魔化しに明け暮れている現状は,世界中に見られていると云う事を指摘できる.

 さらに,キリスト教や世界中の宗教を馬鹿にしている現状を世界中に披露しており,
秋篠宮眞子内親王は,純潔とは程遠い現状を披露しているのであるから,基督教大学(キリスト教)を馬鹿にしていると云う事になる.

 ましてや,自分達で汚らわしい現状を作り出しているにも拘らず,「淫売婦の烙印を押された」などと云う妄言を万が一にでも吐くならば,
「聖母マリアを冒涜し,基督教を蔑めている」と云う事になるのは間違いないだろう.
※キリスト教や世界中を馬鹿にしている現状については,後ほど詳細を記述する.

※天皇家の誤算は,多方面が,それぞれ聞いている事柄との差であり,
最終的に,「実態を知る者」に全責任を集約し,全体の敵意を向ける裏工作を行っても,誤魔化しが過ぎた為に整合性が取れない状況である事.
さらに,国民の意識を変えようとしても,世界中が知っている事柄であると云う事である.
(【満州事変と秋篠宮家(天皇家;宮内庁;関係者)が行うインターネットに対する工作】を参照されたい)

眞子さまと佳子様を含めた政府と天皇家が行う責任の擦り付け(イメージ画像)

[3]

 2014年の11月8日の秋篠宮家の宮内庁職員逮捕「ハプニングバー」で公然わいせつの疑いは,
「秋篠宮は秋篠宮でも家の娘ではなく宮務官です」
「公務は宮務官が選んでおりますから,2013年7月30-31日8月1日の公務は私達が選んだものでは有りません」
「宮務官逮捕が報道されていない11月4日以降に,実態を知る者からメールが着たでしょ!?題名にハニートラップと書いてありますよね?私達は異常者に嵌め込まれました!」
このように,アピールする意味合いが強い事件である.
(私,実体を知る者は,2006年に札幌で秋篠宮の娘と知らずに会わされた事がある)
これにより,多方面に良い顔をして,二枚舌三枚舌で誤魔化しを掛けようとしている事が分る.
(交差点の中心に立ち,どちらに転んでも大丈夫な様にしている)
※11月4日以降に,全国の特定の方に,メールを配信させて頂いた.(メール業法には一切抵触しない)


※女性皇族の男遊びと,工作対象が"実態を知る者"である証明
■クラブで知り合った男性と成り行きでした証明
■身内を使って男遊びから視点を逸らすやり方(証明)
■政略的に必要な男性を複数維持する心理テクニック
■歌会始の儀(林ありて"下陰")
■秋篠宮眞子内親王殿下発表の歌と,その意味
■佳子さまの婚約相手と身内で話をスリ変える(林)
■皇族発表の私を貶す和歌
上記を御読み下さい.


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秋篠宮家の思惑と川嶋家の誤魔化し
(異性関係清算と責任逃れの謀略;佳子さまの婚約と眞子さまの婚約)

※秋篠宮佳子内親王殿下(佳子さま)の御相手として週刊誌に取り上げられている,
「富士急ハイランドの御曹司」の御家系には,「満州鉄道総裁」もいらっしゃるようである.
(曽祖父;林 博太郎(伯爵,第13代南満州鉄道(満鉄)総裁,貴族院議員などを歴任)

この男性は,眞子内親王と学習院時代からの同期である.
元々は,誰と関係が有り,"どの様な間柄"なのだろうか?

 これは,自身の家柄に結び付く「満州事変」を浮き彫りにさせない為の「政略的裏工作」である事が見えてくる.
また,これにより,常磐会関連(華族;伯爵)も取り込むことができ,天皇家(皇太子家;秋篠宮;川嶋家;池上家)が行った謀略(1928;1931)を誤魔化す為の動きである事が見えてくる.

満州鉄道総裁『林博太郎』(伯爵‐第13代南満州鉄道総裁などを歴任)
※満州鉄道に対する武力攻撃に備えて完全装甲仕様となった鉄道の写真

最近の秋篠宮佳子内親王(佳子さま)の持ち上げ方が極めて過度であるのは,
次女である佳子内親王を目だたせて,他の女性皇族や皇室の動きから世間の目を逸らす事のみならず,
「アイドル的付加価値」を付け,目的の御相手に逃げられないようにする為である事も見えてくる.

※さらに,宮内庁としても,『アイドルの佳子様を抱えている宮内庁』と云う付加価値が欲しいのだろう.("EXILEの項目"に記述した通り.)
例;Q&A
Q;『○○さんは,どこで働いているの?』
A;『私は宮内庁!』
Q;『宮内庁??』
A;『エグザイルのコンサートを皇居でやったり,アイドル皇族の佳子様を抱えていたりする所!』
Q&A;『あーーー!!ハイハイ!!わかったわかった!!』
    『わかった!?そうそう!その宮内庁!!』
この様な浅い考え方であろう事は想像するまでもない.

※皇后陛下が詠まれた和歌について(林ありて"その下陰")について
■歌会始の儀(林ありて"下陰")
■秋篠宮眞子内親王殿下発表の歌と,その意味
■佳子さまの婚約相手と身内で話をスリ変える(林)
■皇族発表の私を貶す和歌
■政略的に必要な男性を複数維持する心理テクニック
上記を御読み下さい.

恋愛に於けるA-B-X理論考察(共通認識の敵)参考文献
日本福祉大学福祉社会開発研究所『日本福祉大学研究紀要−現代と文化』
第130 号 2014 年9 月
友人関係の進展過程におけるパーソナリティの類似性認知 および一致・不一致事象の変化について(※PDFファイルです)
著者:吉原 智恵子

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【婚約】秋篠宮家が行う身内を使ったスケープゴート誤魔化し工作の証拠
(承子さまが眞子さまのデートのスケープゴートとなっていた証明)

 秋篠宮眞子内親王との関係を,大学時代から噂されている山守凌平であるが,
この二人の関連を,『身内を使い』誤魔化そうとしている動きを証明できる事がある.

 Googleには『キーワードプランナー』と云う,月間検索数を調べる事ができるツールがあるのだが,このツールを使い月間検索数を調べると,
(キャプチャ画像参照の事)

「眞子様 彼氏」⇒月間平均検索数:1300件‐2014年9月の検索数:2600件(2倍に増加)
「眞子様 婚約」⇒月間平均検索数:90件 ‐2014年9月の検索数:1900件(21倍に増加)
「山守凌平」  ⇒月間平均検索数:590件 ‐2014年9月の検索数:2400件(4倍に増加)
「承子 彼氏」 ⇒月間平均検索数:無し ‐2014年9月に検索数:無し
「高円宮承子 彼氏」⇒月間平均検索数:無し‐2014年9月に検索数:無し
「高円宮承子 婚約」⇒ 月間平均検索数:無し

上記の結果となる.

 この結果から判る事は,週刊誌では高円宮承子女王の交際を報じているにも拘らず,世間では秋篠宮眞子内親王で検索されている点である.
したがって,本来ならば高円宮様が検索されるはずの所で,秋篠宮眞子内親王が検索されていると云う事は,
水面下で噂になっている渦中の人物は,秋篠宮眞子内親王と云う事になる.
(自身の周辺に話し,噂となったか,二人の目撃情報からだろう.)

 それどころか,『婚約』と云う特定キーワードでの検索数が『21倍に増加』していると云う事は,
巷では『秋篠宮眞子が婚約した』と云う情報が出てきている事になるだろう.

 また,『山守凌平』と云う特定個人での検索数が,急激な増加をしていると云う事は,
この話は『山守凌平』と『秋篠宮眞子』の関係話が元であると云う事になる.
『山守凌平と秋篠宮眞子が婚約している状態』であったり,『密会』していたり,
『互いの家に出入り』していると云う話が出てきた初期の時点が,「2014年3月頃」であり,
2014年7月〜9月にかけて,「話に抑えが効かない状態」になってきた事の表れである事を,証明する検索数の統計となるだろう.
(2012年7月〜9月にかけても同様の検索数上昇があった.留学前に上昇する.)

上記の事から判る事は,秋篠宮眞子と山守凌平の関係が世間に広がり始めた際に,天皇家が高円宮承子(身内)の名を使い,
週刊誌に異性関係を取り上げさせる事で,本来の話の原点である秋篠宮眞子の話を誤魔化しにかかったと云う事である.
(身内を使ったスケープゴート)

 これだけではなく,この時期から,秋篠宮佳子内親王は『美しすぎる皇族』『アイドル皇族』として頻繁に話題に上げられる事が多くなった上に,
秋篠宮佳子内親王の婚約者として『佳子様の婚約者(御曹司)』と云うように,『婚約話のスリ替え工作』を行ったと云う事がわかる一件となっている.

 これにより,『秋篠宮眞子と山守凌平の婚約関係の話』に対して,
1:『高円宮承子女王殿下の交際』
2:『アイドル皇族;秋篠宮佳子』
3:『佳子内親王の婚約者(御曹司)』
と云うふうに,話を三重に被せての誤魔化し工作を行っていると云う事が,判るのである.

 先に私が述べている様に,
『秋篠宮は秋篠宮でも,うちの眞子ではなく佳子です!(会員制クラブ)(遊びの清算)』
『交際の話は秋篠宮ではなく高円宮です!』
『婚約の話は眞子ではなく佳子です!』
と云う誤魔化しとスケープゴートの使用をしている.と云う事が証明される.

 この様にして,秋篠宮家(天皇家)は,誤魔化しとスケープゴートを行い,根本的な事柄を誤魔化しているのである.

※現在の天皇家の状況は,世間から注目されなくなっている.(戦後教育)
にも拘らず,この様にして過剰な誤魔化しを行うと云う事は,自作自演にて自分達の人気を演出し,付加価値を作り上げると同時に,
皇室関係者全員が劇作家にでもなったかの様に,シナリオや事件を作り遂行し,面白がっていると云う事に他ならないのである.

※このような状態を異常と言わずして何と云うのだろうか.
私,"実態を知る者"は,上述の様に,異常な精神性の連中に,面白い,と云うように人生を壊され,
天皇家から戦争犯罪のデッチ上げを行われてきているのである.
これにより,先述してきたスケープゴートと事件の関連性も証明した事になるだろう.

以上,世間の目は誤魔化せても数字は誤魔化せないのである.


以下,キーワードプランナーのキャプチャ画像
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2014年9月に検索数:無し

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週刊新潮の写真(サンプル画像)
週刊新潮(2014年9月4日号)

『お相手の自宅による日もある』
「高円宮承子女王」の恋と結婚
掲載された写真は,承子女王が公務の際に御召になられていたショール・ストールを私服の上から羽織ると云う,
一見して承子女王であると判る服装で"盗撮風"の写真を撮影されております.
(意図して撮影された)

拡大画像:週刊新潮(2014年9月4日号)

秋篠宮眞子内親王(眞子さま)と山守凌平-彼氏-婚約者の写真(2011年大学スキー部の合宿画像とのこと)
秋篠宮眞子内親王と山守凌平
(2011年大学スキー部の合宿画像とのこと)

この二人が渦中の二人である.
画像は,2011年3月8日〜3月11日にかけてスキー部が集まって宿泊していた際に撮影の物との事.
一説によると,震災時に長野で開催されたスキー大会参加の際の合宿画像との事であるが,
震災時について質問された会見では『家に居た』と云う矛盾した一枚である.
なお,この画像はインターネット上(誰もが閲覧できるSNS)に
眞子内親王(眞子さま)の友人が投稿した物であるとの事.
この画像は,『週刊誌にも掲載』され,大きな波紋を呼んだ画像である.

拡大画像:渦中の二人

2014年9月17日レスター大学に出発される秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)の写真
秋篠宮眞子内親王(眞子さま)
(2014年9月17日レスター大学留学時の画像)

2014年9月17日レスター大学留学の際,
空港にて撮影された画像.
ご覧の通り,普段メディアに露出する時とは,うって変わって,ほとんど化粧をしていないような,
『まだ子供』『まだ学生』
を思い切りアピールした様相で出国してゆく一枚である.

拡大画像:2014年9月17日レスター大学留学の際

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私"実態を知る者"が書き込みを行った内容と三日後に発表された事柄との一致
(眞子さまの婚約相手と侍従長)

 下記は,天皇陛下の侍従長が交代となる以前に書き込みさせて頂いていた内容である.
この度,侍従長に任命された方は,河相周夫さんである.
報道内容:NEWS24

河相周夫さんの経歴には『2013年8月1日 - 株式会社伊藤園顧問』
※参照元:河相周夫
上記が入っております.

どのような状況であるのか,下記書き込み内容をお読み下さい.


【秋篠宮家のお噂1032】

113 :実態を知る者:2015/04/21(火) 02:15:48.11
>>94さん。

秋篠宮眞子内親王の御相手候補には、「お茶(四葉)で有名な御曹司」も居るみたいですよ?
どうも、2006年頃から「とある件」を利用して接触を試みたとかいう話ですね。


114 :実態を知る者:2015/04/21(火) 02:19:21.05
>>113を訂正さて頂ます。
(四葉)ではなく、(四つ葉)が正しい表現法でした。
大変失礼致しました。


116 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/21(火) 02:47:39.34
>>114

実態を知る者さん、眞子さまより佳子さまについて詳しく知りたいんだけど。
なにかある?


131 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/21(火) 09:29:44.12
>四つ葉
伊藤園ね?


333 :実態を知る者:2015/04/22(水) 01:23:08.74
>>116さん。

回答が大変遅くなり申し訳ございません。
今更ですが、佳子内親王殿下の「お相手候補」についての情報です。

佳子内親王殿下が、お生まれになれた1994年の時点で既に御相手は決まっていたようです。
お相手は、『伊達政宗の系譜』の男性で、今年で29歳になる御方のようです。
しかし、2006年〜2007年頃にかけて、その男性の就寝中に、御兄弟と関係を持ってしまったとの、極めて信憑性の高い情報があります。
したがって、もしかすると破談になっているかもしれません。


以上、佳子内親王殿下の縁談話は、2007年の時点での、ほぼ確報のみとなります。


334 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/22(水) 01:33:44.82
>>333

ご回答ありがとうございます。>>331についてですが佳子さまとそのダンス関連の
男性とは現在も進行中なのですか?その問題とは推測ですが後のホームスティの
関連につながるのですか?


343 :実態を知る者:2015/04/22(水) 03:36:35.79
>>334 >>335さん。

それは「プリカ」から得た情報である事を推測します。
現在の状況については、
ttp://anago.2ch.net/test/read.cgi/mass/1429459661/
上記URLを参照の元、姉妹互いに被せる形での有耶無耶工作が為されている状況と言えるかと推測されます。
したがいましては、上記情報の組み合わせを精査して頂き、導き出される情報を、精査し、導き出される真相を御知り頂きたく思います。


344 :名無しさん@お腹いっぱい。:2015/04/22(水) 04:52:30.56
>>343

ありがとうございます。ただ疑問として形としてはその男性の後を追って入学と云う感じですが
入れ違いで入学してもあまり意味がないような気がしますし
またそれが真実だとすれば当時の状況を知る人物も少なからずいるはずで、わざわざそんな
学校に入ったらよけい目立つ事になると思うのですが。普通なら逆にまったく違う学校に
入って目立たないようにするのでは。その話はあまり信憑性がないような感じがしますが。


588 :実態を知る者:2015/04/22(水) 18:47:32.39
>>334さん。

回答が遅くなり大変申し訳ございません。
以下に回答させて頂きます。

 佳子内親王殿下は、男性の後を追っての入学と云うよりは、『ダンスに関するお友達』が多いと云う状況と、
警備の面に於いての受け入れ態勢の問題、
また、皇族がICUに入学されるのは今回で『3人目』となり、大学側の受け入れ態勢が整っていると云う事もあるかと思われます。
さらに、私(実態を知る者)が暴露させて頂いた事もありますので、『環境が出来上がっている』状況となり、
外部に諸事情が洩れる事を防止できると云うメリットも存在します。
私(実態を知る者)が暴露させて頂いた事柄も御座いますので、学習院からは一線を引き、学習院に対しての影響を抑えると言う意味もICU入学にはあるかと思われます。

 したがいまして、異性間の問題が浮き彫りとなった際には、ICUに行くと云うのが現在の秋篠宮家の常となっているようです。
以上の事から、>>344さんの疑問は快晴となったと思われます。


以上,現状の動きと一致している事が御分かり頂けるかと思います.

侍従長交代と秋篠宮眞子さまや佳子さまの彼氏関係の告発


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秋篠宮眞子とクラブのパーティーで知り合い一夜限りの関係を持った男性の話

 秋篠宮眞子内親王がエディンバラ大学に留学中でしょうか,それとも日本国内でしょうか.
クラブで知り合った男性と,その日限りの性的な関係があったそうです. (成り行き)

 それを,まとめサイトで暴露され,暴露したサイトの管理者に秋篠宮眞子と思われる女性が連絡を入れ,
その後,その女性が宮内庁に連絡を取り,サイト削除してもらっております.

 宮内庁も,連絡先が明記してある,そのサイト管理者に一切連絡すら入れず,問答無用で削除させておりました.
その暴露サイトは,連絡が来た2日後に,

『このページは権利者のお申し出により削除されました.』

と表示され閲覧できない状況となっておりました.
削除された【婚約】秋篠宮家の佳子様と眞子様の彼氏事情【結婚】の写真 削除された【婚約】秋篠宮家の佳子様と眞子様の彼氏事情【結婚】の写真2
削除された【婚約】秋篠宮家の佳子様と眞子様の彼氏事情【結婚】の写真3
※削除された『まとめNAVER』のキャプチャ画像です.(本年2015年の『まとめサイト』)※連絡が来たのは『2013年3月頃』
↓↓↓画像拡大↓↓↓(下記のURLは削除されたキャプチャです.2013.04のキャプチャは抹消されていて掲載できません.)
削除された『まとめNAVER』のキャプチャ画像(1)
削除された『まとめNAVER』のキャプチャ画像(2)
削除された『まとめNAVER』のキャプチャ画像(3)
削除された『まとめNAVER』のキャプチャ画像(4)
削除された『まとめNAVER』のキャプチャ画像(5)
削除された『まとめNAVER』のキャプチャ画像(6)

 先述した本人と思われる女性からメールが来る暫く前に(一ヶ月以上前),宮内庁に対し,
「暴露サイトを立ち上げました」と管理者自らがメールを出していたのですけれども,
その際は,一切,苦情も入らず,サイト自体も削除すらされていない状況でした.

 暴露サイトが削除されたのは,本人と思われる女性からメールが着てから2日後の事です.(宮内庁にメールを出してから1ヶ月以上経過)
この出来事は,一声で『宮内庁を動かせる人物が連絡を入れた』と云う事になるかと思われます.
ちなみに,この出来事は,2013年3月頃だったように思います.(サイト公開から一ヶ月以上経過した後)

また,この時にメールで苦情を申し入れてきた女性は,

『なんで本人しか知らない事を知っているんですか!』
『誰から聞いたんですか!?友達ですか!?スムステ関係ですか!?』
『親しい人しか知らない話を何で知っているんですか!』
『名前を教えて下さい!プライバシーの侵害です!!』
『宮内庁に連絡して削除してもらいます!!』

と云う様な内容のメールを出してきておりました.
この時,2013年3月の時点では,私はスムステと云うダンスサークルの存在を知りませんでした.
この様なメールが来た後に,スムステと云うのは何かを調べ,初めて知ったしだいです.

恐らくは,クラブに関連する関係者から情報が洩れ伝わったと思い,自身の周辺で一番身近なスムステが思い浮かんだ物であると思われます.
したがって,この様なメールを出してきたのは,秋篠宮眞子内親王(本人)以外に考えられないと思われます.

 ようするに,その削除された暴露サイトの管理者が,『私"実態を知る者"』であります.
また,2014年11月と2015年5月にも同様に暴露サイトを,この様に作成しましたが,その際は何かしらのメールも来ずに,突如として削除されました.
ですから,また暴露サイトを立ち上げて暴露させて頂き,皆様が閲覧する事ができる,このサイトがあると云う事になります.
(URLは変わっておりますが,これで削除される事,7度目の公開となります)

したがって,『身内を使ったスケープゴート』としても,秋篠宮佳子内親王とスムステの関連を大々的に取り上げさせ,
秋篠宮眞子内親王とクラブで知り合った男性の関係性を有耶無耶にする誤魔化し工作にかかっているのが,
2014年9月〜2015年の現在の状況となっております.

何故ならば,その男性は一夜限りの相手であって,
しかも,その様な状態にあるのが,『天皇家;秋篠宮家』の『長女』であると云う事が世間にバレてしまうと大変な事態に陥るからでしょう.

※他にも秋篠宮眞子内親王や秋篠宮佳子内親王,及び,その他の皇族に関するサイトは無数にありますが,
いずれも削除される事無く運営されております.
にも拘らず,私"実態を知る者"の立ち上げたサイトのみが削除されると云う事は,私が言っている事が本当の事であると云う証明になると思われます.
(2013年4月まで利用していたGoogleアカウント(gmail)は,直後に『不正利用を理由に』強制的に削除されました.)

※そもそも,高円宮承子女王(承子さま)が一足先にICUに入学されているのですから,
なぜ、秋篠宮家の眞子さまと佳子さまがICUに入学されたのか,皆様お察しの事かと思われます.


【追記情報:2018.07.06(2016+2017も追記したがデータが飛んでいる為,再掲)】

 これらの話に関してですが,眞子さまは,2012年6月から小室圭さんと付き合っていたと云うのにこれです・・・.
英国内の銀行系(金利操作で問題になった)で働いていて,フットサルのチームにいた人です.
だから,わざわざ小室氏の話題でフットサルをアピールして誤魔化そうとしている事実があるわけです.


 これらの事柄は,その男性がTwitterをやっていたから特定できた事実です.
まだTwitterをやっているでしょうか?

 そもそも,2012年の留学先で『良い相手を探して来い』と秋篠宮文仁親王が言っていたんですよね.(週刊誌報道)
にも拘らず小室圭 氏を投入したのは,これらが内部で露呈したからです.
交際を認めていたなら『良い相手を探して来い』とか,そんな事は娘に言わないですよね?

この矛盾点を明確に説明できる事が,これらの事です.

 あとは,人物像のすげ替えで,『銀行系の人物』やら『二股』やらを誤魔化しにかかったって事です.(現状=結果論です)
これが眞子さまの本当の姿です.
これらを皇室や宮内庁ぐるみで“この国の為”と云う所に話を集約し,誤魔化そうと必死なのです.

※皇后陛下(美智子さま)と紀子さまが危惧している事は,これらの事実が世間に知れ渡る事でもあるわけです.(宮内庁発表の“雑音”声明文)

小室圭 氏の二股疑惑が出てきたのは,眞子さまの男性との関係に関する話を挿げ替える為だった訳です.(事実,小室圭 氏も二股をしていた様ですが)
ですから,『銀行系』『サッカー』『二股』といった具合に,人物像のすげ替えをひた繰り返してきている訳です.

《※皆様,皇室以外で見た事ありますか? 自分の娘の男遊びを,親族ぐるみで正当化しようとする人達を・・・.》


【眞子様と小室圭さんと山守さんの三角関係】

 ICU大学時代,山守さんも小室さんも同じスキー部員だったとの話が週刊誌にて報道されていた.
そのスキー部に,眞子様も居た事実があります.
少ない人数のスキー部内で,眞子様は,男を取っ替え引っ換えしていた事実があります.
しかも,小室さんに乗り換えた後も,山守さんも居るスキー部で活動を継続していた事実があるわけです.

 2011年,週刊誌にて,眞子様と山守さんが布団の上で寄り添っている写真が報道されました.
2012年には,記者会見の場に於いて,2人の関係を質問された紀子さまは,
『私達の学生時代を思い出します.うちの娘は爽やかな青春を送っております.』
上記の回答をしております.

 しかしながら,眞子様と小室圭さんは,2012年から付き合っていると話をしております.
したがって,上述した,「スキー部内で男を取っ替え引っ換えしている」事実が鮮明となるわけであります.
よって,「小室圭さんに眞子様が騙されている」と云う風潮は,あまりにもおかしいと云う事に気が付きます.
どこが『爽やかな青春』なのでしょうか??

 2012年の留学中に英国で知り合ったアジア人や日本人とも関係を持っているのも眞子様です.
その時期,既に小室さんと付き合っていた事実が鮮明となっております.

 また,美智子様は,孫である眞子さまの男漁りの結果に心を痛めているのではなく,
それらの話を出している世論に心を痛めていらっしゃるようでして,
孫の酷さに愕然とするどころか『“雑音”声明文』を宮内庁から発表するありさまです.
皇室を擁護したいなら,男漁りの数々を正当化できる方法を全国民で考えてあげては如何か,と思う次第であります.

※これら眞子様の異性関係に関する趣味嗜好の何処が,『この国の為』として正当化できると云うのでしょうか!?
国際的な問題を,自分の娘の男遊びの趣味嗜好を正当化する為に利用している事実があるわけであります.
したがって,眞子様の異性関係について,このように記述する必要がある訳であります.
即ち,プライバシーや人権を盾に言論を弾圧する事は,絶対に許されない事となる訳である.

※宮内庁職員や警備を担う警察官は,この様な皇族の為に職務を遂行している事に誇りを持ちましょう!!
(私ならば御先祖様に顔向けできなくなりますが…)


※なぜ,海外や国内で男遊びができるのかについて.(証明)
■政略的に必要な男性を複数維持する心理テクニック
■歌会始の儀(林ありて"下陰")
■秋篠宮眞子内親王殿下発表の歌と,その意味
■佳子さまの婚約相手と身内で話をスリ変える(林)
■皇族発表の私を貶す和歌
上記を御読み下さい.


眞子さまがクラブのパーティーで男性と知り合った時の写真(イメージ画像)
※イメージ画像
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川嶋舟と錦舟‐地震学の画像‐日本の儀仗兵の写真(近衛兵)‐秋篠宮と自民党清和会(統一教会)

実態を知る者の地震学の風景の写真(証拠)
実態を知る者;地震学の風景(証明画像)

公安含め,地震学ではなく天皇家の粗捜しの為に日本三代実録を借りたのであって,
地震学はやっていないと云う事を言い出しかねないので,
私"実体を知る者"が行っていた地震学の様子を掲載する.
モニターに映し出されている波形やツールは,
NIED発表のHi-net連続波形(重点観測点の分析),
NIED公開のKIK-net強震モニター,及びAQUAシステムCMT.
この他には,USGS及び,IRISのデータと解析結果を使用させて頂いておりました.

拡大画像:地震学の風景(証拠画像)


秋篠宮家と"実態を知る者"の関係(秋篠宮家と満州事変)
近衛兵(儀仗兵)の祖父 その他の写真

大日本帝国陸軍の儀仗兵(近衛兵)の祖父、日光御用邸前の写真
近衛兵(儀仗兵)の祖父 その他の写真

【秋篠宮家と"実態を知る者"の関係(秋篠宮家と満州事変)】に掲載した,
近衛兵(儀仗兵)の祖父の写真に追加の画像を掲載する.
向かって左側,矢印を付けたのが祖父である.
銃剣が付いていない事から判るように,
休憩中ないし,警戒解除の状態である事が御分かり頂けるだろう.
この様な写真は,どこを探しても無い貴重な写真である.

拡大画像:近衛兵(儀仗兵)の祖父 その他の写真


秋篠宮家と"実態を知る者"の関係(秋篠宮家と満州事変)【錦 舟】の画像

曾祖母の肖像画を描いた流れの画家「錦 舟」川嶋舟との相関性の写真
曾祖母の肖像画:画家【錦 舟】の画像

【秋篠宮家と"実態を知る者"の関係(秋篠宮家と満州事変)】に掲載した,
曾祖母の肖像画を描いた『錦 舟』の証明画像になります.

ご覧の通り,『昭和29年3月 錦舟 (印)』とあります.
聞いた話ですと,流れの画家がやってきて,曾祖母の肖像画を描いて下さったそうです.
私の一族に責任を擦り付ける為に,ご子息に『舟』と名付けたのではないでしょうか.
川嶋家が,画家名を私の曾祖母の名前と勘違いしたと云う事を指摘できる物です.
「錦 舟」は画家名ですから,ここで明確な謀略が発生した事を意味すると言えます.

拡大画像:画家【錦 舟】

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円高株安と円安株高に相関する歴史の捏造と日本経済の実態

 アベノミクスと云う造語を耳にして久しいが,大々的に宣伝しているのが「円安」と「株高(日経225)」である.
日経225とは,日本の株式市場に上場(参加)している数千企業の中から,二百二十五の企業をピックアップし,
その二百二十五の企業株価の平均を算出し,数値化(総体的株価)した株価である.
よって,上場している企業は数千企業に及ぶが,国内全企業の価値と云う実態を伴った数字ではない事を思い出したい.

 そこでひとつ,思い出すと"ハッ!"とする事がある.
それは,「円安」と「円高」である.
日本の「円」と云う貨幣価値を,他国の貨幣価値と比較した数字が「円安」「円高」と云う"表現"である事だ.

 なぜ,私がたった今,"表現"と云う言い方をしたのか,これからその深〜い意味を説明してゆこう.
例えば,《USD/JPY(ドル/円)》に関してであるが,米国の$と日本の¥で[日本企業と米国の企業を買収]しようと考えてみよう.

 日本企業の価格が1万円と仮定した場合,日本企業の値段は日本から見て1万円である.
ところが,円安(米国$の価値の方がある)であるがゆえに,米国$からみた日本企業の価値は1万円以下である.
ようするに,円と云う価値は,ドルと云う価値よりも下なので,米国から見た際には企業価値は割安となるのである.

 したがって,株高と云う状況で円安(株高円安)となっている以上,
株価が上昇している分と,円の価値が下落している分が相殺されると云う事なのである.
よって,円安株高で一喜一憂しているが,これ自体が実に空虚な物であると云う事がわかる.

 国民がもつ,ある種の自己中心的な貨幣価値に対する感覚を利用し,
「株高円安の効果」を政府が国民にマインドコントロールしようとしているのである.
輸出企業が日本の経済を牽引していると云う話は,よく耳にすると思うが,上述してきた事柄をベースに考察すると,
『日本製品は海外でリーズナブル(お手頃価格)でなければ売れなくなっている』と云う事でもある.

 したがって,高度経済成長期と云う事柄について分析すると,
『海外製品より特段優れているわけでもない日本の製品を海外が購入していた』と云う事実に直面する.

 要するに,日本と云う国は現在,『経済大国』として胸を張っているが,
『海外が日本製品を購入していなければ日本経済は壊滅していた』と云う事実に直面するのである.

 では何故,『海外がわざわざ日本の製品を購入していたのか』を考察してゆくと,第二次世界大戦の日本に直結してくるのである.
日本は,いわゆる“東京裁判”に至るまでの間に,戦争に関する軍事資料や機密書を証拠隠滅の為に廃棄したのである.

 したがって,戦後の日本は戦争責任の所在の在り処を,のらりくらりと言い訳し,調査調査と回避してきた事実がある.
よって,責任が確定した東条英機は刑を執行され,その他の戦犯については,ある種の猶予を与えられてきた事が分かる.

 したがって,日本と云う国が戦争責任と云う事柄に関して自覚が有るか否かを診る為にも,国際社会が日本製品を購入し,
経済大国と主要国と云う立ち位置を与え,日本と云う国を持ち上げてきたのである.
ところが日本は,経済大国と云う立ち位置を手にした途端,強行姿勢に打って出る.

 昨今編纂された『昭和天皇実録や満州事変に始まる先の大戦』など,
関東軍の暴走が発端であると云う形での終着点を国際社会に対し示しているのである.
ところが,日本と云う国は,ダブルスタンダードと云う策を講じながら,時間が解決してくれる事を前提とした牛歩戦略に出ている現状がある.

それでは,ダブルスタンダードとは,どのような状態であり,どのような事柄であるのかを以下に示してゆこう.
円高株安と円安株高に相関する歴史の捏造と日本経済の実態
円安株高アベノミクスによって日経平均株価17000円の大台を超える2014年11月
※2014年11月にアベノミクス(安倍のミクス)によって日経平均株価(Nikkei225)が17000円の大台を突破した時の株価一覧

【三笠宮彬子女王と秋篠宮家の御嬢様と,富士急ハイランドの御子息と,山守凌平の相関性】

 詳細に関しては後述しているが,先に,この項目との相関性を記述してゆく.
三笠宮彬子女王についてであるが,お名前には『彬子』と云う漢字があてられている.
つまり,結果論から記述する事となるが,『林に逆さんずい=さんづくり』である.

 "さんずい"は,汚職を意味する検察用語でもあり,
秋篠宮様の御嬢様の相手と噂されている富士急ハイランドの曽祖父の名は『林さん(元:満州鉄道総裁)』である.
しかし,彬子女王や瑤子女王が生誕された時にはまだ,方針が固まっていなかったようである.
したがって,秋篠宮家が創設され,御嬢様を誕生させる事が決まるまで,方針は固まっていなかったと思われる.

 したがって,秋篠宮家の御嬢様が産まれる時期に合わせて,富士急ハイランドの御子息を誕生させた事が判る.
よって,秋篠宮家の御嬢様を主軸とした歴史の捏造が行われている現状があり,
当時は保険掛けとして用意されていた,秋篠宮家の御嬢様の"山守凌平さん"が,大学からの彼氏であり,"夫婦"となる状態となった.

 しかし,浩宮(皇太子)は"サンズイにツゲル(告)"である.
これぞ正に,ダブルスタンダードと言わずして何であろうか.
それどころか,『彬子』と云う名の意味合いを破棄したのが,
その父親であらせられる三笠宮寛仁親王と皇后陛下の美智子様である.

『満州事変に始まる先の大戦をもう一度よく学び直し・・・』と云う天皇陛下の御言葉に対し皇后陛下は,
『岸と云う字を歳時記に見ず』+『来し方(岸方)に元問う文の林ありてその下陰に幾度いこいし』
と云う"和歌"を歌会始にて発表されている.

 即ち,山守凌平(ウ冠に寸+平を凌駕する・凌辱する)の意味合いが決定した事となる.
山に瓦を干す(岸+安倍+山守)の案に皇后は反対している.と云う意味合いを自ら棄却した事が判る.

 ようするに,『満州事変に始まる先の大戦をもう一度学び直す=張作霖爆殺事件〜2.26事件〜明治維新』
と云う保険掛けの意味合いを破棄した事となる.

 さらに,宮様スキー大会にて,旭川(富良野=三重県からの入植者)と札幌(丘珠神社)と云うダブルスタンダードの姿勢もある.
この大会に秋篠宮杯が無いのは,目立ちたくないのと,保険掛けのダブルスタンダードであろう.

 彬子女王の父親であらせられる三笠宮寛仁親王は,2008年頃に,自らの娘の名の意味合いを破棄し,山守に賭けた事となる.
山守の案を発表しなかった時の為に,娘である瑤子女王が日本赤十字社に勤めた.

なぜならば,保険掛け(山守+赤十字)の要素を有耶無耶にする為の日本赤十字社勤務だからであろう.

 この様にして,今までの事柄は消せない事実(結果)であり,保険掛けのおこない方が露呈したのである.
したがって,これらの事柄(過去の行動言動)事態が結果となる.

 上記のように,ダブルスタンダードにて,自己保身と自己正当化を行おうとしているのだ.
しかしながら,このようなダブルスタンダードが海外に通用するはずは無い.
したがって,これから見えてくる事柄は,『日本と云う国がどのような末路を辿るのか』と云う事だろう.

 水面下にて『海外に対し交渉や説明をしている日本』であるが,
実態は,『自分に都合が良い嘘ばかりを説明している』と云う事になる.

 さらに,これらの事柄について,国民に対する情報規制を行い,
日本国憲法の最高法規を侵害していると云う事柄にまで繋がるのである.

 日本国憲法の最高法規に記述されている事柄は,当たり前の事(検閲を行わない・人権を守る・学問の自由・言論の自由)であり,
これら日本国憲法の最高法規は,国際社会の一員であり,主要国である為には最低限必要不可欠な物であろう事は言うまでもない.
何故ならば,日本国憲法は,『戦後に国際社会からの提案も受け入れたうえで作成された憲法』であるからだ.

 これらの状況を的確に分析してゆく能力があれば,
現在のような『事の重大性を認識できていない』と云う状態には至っていないはずである.
したがって,《円安や円高や株高》で,日本の能力や立ち位置を把握する事は不可能である.

 さて,この現状を理解できる者が,日本国内で権力を与えられている者であるか否かを,今一度考えて頂きたいと思う.
その上で,経済と云う"生き物"の実態や生体を,今一度"学び直す"べきであろうと私は思う.

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《第1項》世界的な問題と,円高を用いた経済的な圧力と明確なサイン
〔天皇家;政府が行っている事と秋篠宮紀子殿下「川嶋家」関連〕
(眞子さまの彼氏;婚約相手と友人関連)

[1]

 民主党政権下であった,2010年〜2012年.
実は,この期間こそが,中国への軟化姿勢の為と「重大な失策に関する責任」を,民主党へと転化集約する為に,
政府が民主党を,“使い捨て与党”に“押し上げた”事実が見えてくる.

 一見すると,日本は民主主義であるかのように見えるが,
実際は,メディア(テレビ・情報発信ツール)を使い,『国内世論を形成した上で投票に持ち込む.』と云う政治を行っている.

 それでは,『何故,日本が経済的な圧力を世界から受けたのか.』について,以下で述べてゆく.
それは,現在の世界経済ショック=リーマンショック+サブプライム焦げ付きの引き金を引いたのが日本であると云う事が見えてくるからである.
(戦争責任について逃れようとしている事も要因であろう.)

 日本バブルの崩壊(橋本元総理)の時代と,現在の政権を照らし合わせると,
現在,天皇家と政府が必死になり経済面に関する過去の清算を行おうと云う思惑も見えてくるが,
実態は,清算と云うよりは誤魔化しであり,経済面に関する事のみである事が見えてくる.

 何故ならば,政府と天皇家は対立しているかのように演じているだけであり,
実際は,極めて密接な関係にある事が判明しているからです.

 上述した事柄を,様々な観点から照合すると,日本は円高と云う経済制裁を世界中から受けたと云う事に繋がってくる.
では,円高を用いた経済制裁の根拠は,どのような事から説明できるのか,下記の画像を御覧頂きたい.


2007年11月9日の為替チャート画像(ポンド・米ドル)
ポンド/米ドルのチャートに出された明確なるサイン(2007年11月9日)

11月9日は,原油が高騰し始めた時であると同時に,
9月11日の米国同時多発テロの逆であり,
9月11日は『秋篠宮紀子殿下の誕生日』でもある.
また,2007年は,私"実態が知る者"を潰す為に,
私をハニートラップに掛けた年でもある.
テロとの戦いの矛先は,日本にも向いていると云う事の表れであると私は推測する.

拡大画像:ポンド/米ドル(2007年11月9日)

2008年7月30日の為替チャート画像(ポンド・米ドル)
ポンド/米ドルのチャートに出された明確なるサイン(2008年7月30日)

2008年の7月30日は陽線十字が出現しているが,
トレンドラインを引いた際に,30日と31日に中間のトレンドラインがピッタリと当てはまる.
(海外から見たチャートだと陰線十字である)
ちなみに7月30日は,私"実体を知る者"の誕生日である.
7月31日も,海外時間での7月30日となる.
ここから,米ドル高・ポンド安が進行し始める.
したがって,7月30日-31日に明確なサインがあると言える.

拡大画像:ポンド/米ドル(2008年7月30日)

2009年3月11日の為替チャート画像(ポンド・米ドル)
ポンド/米ドルのチャートに出された明確なるサイン(2009年3月11日)

2009年3月11日に,ポンド/米ドルがダブルボトムを描き,底を打つ.
“3年後”の2011年3月11日に東日本大震災発生.
(急激な地殻変動は,2008年から明確に発生していた)
(国土地理院GSIの地殻変動図にて確認可能)

また,3月11日は神武天皇崩御の日でもあり,
秋篠宮紀子殿下の曽祖父の母である,「かつ」の命日でもある(1930年3月11日).

※政府がここまで行っている事から,死亡日時は自在であろうし,
命日は3月11日であると云う関連付けを行い,川嶋家が暗殺された被害者だと云う誤魔化しの意味合いをも含ませているのではないだろうか.

拡大画像:ポンド/米ドル(2009年3月11日)


2007年8月16日の為替チャート画像(米ドル・円)
米ドル/円のチャートに出された明確なるサイン(2007年8月16日)

2007年8月16日に長い下髭陰線を付けている.
この陰線が抵抗線となっている事が先の日足を見た際に判る.
1946年8月16日は,経済団体連合会(経団連=財閥連合)が設立された日でもある.
この抵抗線を突破し,円高が進行し始めたのが2007年11月9日である.

拡大画像:米ドル/円(2007年8月16日)

2007年11月9日の為替チャート画像(米ドル・円)
米ドル/円のチャートに出された明確なるサイン(2007年11月9日)

8月16日の抵抗線を突破している事が判ると同時に,
11月9日の下限を突破した後,円安方向の抵抗線となっている事が先の日足で判る.
この抵抗線で頭を抑えられ,円安方向の抵抗線が明確になるのは,
2008年8月15日と16日である.
2007年11月9日は,ポンド/米ドルにも明確なサインが現れている.

拡大画像:米ドル/円(2007年11月9日)

2008年8月15日の為替チャート画像(米ドル・円)
米ドル/円のチャートに出された明確なるサイン(2008年8月15日)

円安方向に対する抵抗線となっている事が明確に判る.
翌日の8月16日には,円安方向の圧力よりも,
円高方向の圧力が強くなっている事が,この日足から判る.
以上の事から,日本に対する経済的圧力と,戦争責任について,
天皇家;政府に対する世界的なサインを知る事ができる.

拡大画像:米ドル/円(2008年8月15日)


為替:TedaWakou式トレンドラインによる経済分析法
上記画像は,私(TedaWakou)が,為替に相関する世界情勢を分析する際に使用している独自分析トレンドライン手法の一例である.
上記画像のトレンドラインに各国の情勢を被らせる事により,国家間の相互性を視覚的に表現する事ができる.(経済学;行動経済学・経済心理学)


《第2項》世界的な問題と,円高を用いた経済的な圧力と明確なサイン
〔天皇家;政府が行っている事と秋篠宮紀子殿下「川嶋家」関連〕
(眞子さまの彼氏;婚約相手と友人関連)

[2]

 2013年,財務官僚が書いたと思われるスピーチ内容を米国で読み上げた安倍総理であるが,
この内容は『政府が買い支えしますから,世界の皆さん買って下さい!』と云う内容であった.
また,為替介入過去2番目の財務官は,黒田財務官である.
したがって,現在,黒田さんの事に関する市場に流す情報(投資家心理誘導)は,ミスター円こと榊原さんである.
この為替介入により,世界中のファンドが混乱したのは事実である.(倒産含む)

 さらに,前回の安倍政権(2006年9月-2007年9月)の際には,ヘッジファンドが悪いと云う理由を付けた断続的な介入が行われ,
金融業会含め,世界的に大きな混乱をもたらした.(国単位)

 日本は,為替介入により,世界的な為替水準の均衡を保つ役割をしたと考えているようですが,
実態は,何故為替介入を行わなければならない事態になったのかを理解していないところにあると言えるだろう.
これを物語るのが,先程の《第1項》の[1]で説明した為替チャートである.

 また,対中国強硬姿勢を取り続け,切羽詰った日本が,中国に対して軟化姿勢を見せようとしたのが, 西宮伸一 死去である可能性も見えてくる.
(国内の抵抗勢力を粛清してますからと云う,お腹を見せる態度.)

 しかし,日本はこれまでに,中国を馬鹿にする国内世論を構築してきた.
例えば,習近平(シー・ジーピン)国家主席を,シュウ・コンペイ国家主席と,わざと間違った読みで国民に流布し,刷り込みを行ってきた.

 ここ最近になって,ようやく正しい読みである,シー・ジーピン氏と一部の新聞社が,振り仮名を付けるようになったが,
街中で習近平国家主席の読みを振り仮名なしで読ませたら,大半の方が,日本政府に刷り込まれた間違った読みをするであろう.
どの様な関係にある国同士でも,氏名ぐらいは正しく伝えるものなのですが・・・.

 したがって,信用できない国であると捉えられ,世界的に脱日本と云う事柄が発生していると言える.
常日頃から,二枚舌三枚舌八方美人である日本は,世界でも嫌われているようです.(私に対して行っている事を見れば判るとおり.)

 したがって,秋篠宮佳子内親王(佳子さま)が,ご両親の友人である,米国ハーバードの教授の元にホームステイした2013年8月以降に,
日本人留学生の交通事故が,米国で立て続けに発生したと見る事ができる.

朝日新聞:米で車衝突、日本人留学生3人が死亡 カリフォルニア(別件)
産経新聞:大阪出身の日本人留学生が死亡 米カリフォルニア州で4人死傷事故


 上述の事故は,『北白川宮様の交通事故』に似通っていると言える.
検分結果を参照されたい:北白川宮様の交通事故

さらに,『北京での高速道路事故(御曹司)』にも繋がってくるかと思われる.
北京での高速道路事故(御曹司):北京の公道でスーパーカー衝突、学生らがレースか

 これのみならず,英国では『ロンドンの名物2階建てバスで屋根が取れる』と云う事故が,秋篠宮眞子内親王が留学している際に発生しております.
このバスの左側面にはZoopla.ukと云うレンタルハウス等を扱う不動産関連会社の広告があり,
この広告にアクセスすると,秋篠宮眞子内親王(眞子さま)がパーティーに参加した部屋であったり,
2012年から2013年にエディンバラ大学に留学していた際に,共同生活を行った寮を見る事ができるようです.

2階建バスの右側面には,King'sManと云う,シークレットサービスが題材となった映画の広告もあります.
したがって,秋篠宮眞子内親王(眞子さま)が英国に居る間は,シークレットサービスが付いていると云う事でしょう.
※英国にてテロの懸念も高いと云う情勢であり,日本人も標的であるとの声明も出ている為

しかし,秋篠宮眞子内親王(眞子さま)は,その事に気が付いているのかいないのか,
【ICUダンスサークルと秋篠宮佳子内親王殿下(佳子さま)のご関係,繋ぎ役は眞子内親王殿下(眞子さま)!?】で記述した遊びをしていたようです.
この事を裏付けできる事は,『Zoo=動物園』であり,日本でヒット曲となった『Zoo(愛を下さいwow-wow)』
であり,たくさんの動物が,つがいで乗った『ノアの箱舟』に繋がり,さらに,山守凌平の『劇団のの』に繋がります.

『劇団のの』では,『ノア・ノエル』と云う名でブログを書いており,この『ノア』が山守遼平の事を紹介しております.
2014年には,『劇団ののTwitter』にて『ノア・ノエル』が,またしても,山守凌平の事を紹介しております.

 さらに,『のの』と云う名でありますが,2008年に私がレディースクリニックに連れて行った女性が通称『ノノ』と云う名でありました.
(劇団は2012年にできている)

 山守遼平のTwitterでは,10月23日に『行き付けの渋谷のコンドーム屋が潰れていた』と,
秋篠宮眞子内親王の誕生日パーティーに必要なコンドームを購入できなかったと受け取れる発言があり,
翌24日には『過ちの末,緑のタヌキを食べている』と云う発言がされております.

10月24日は,私"実体を知る者"が『この国が大変な事になりそうだ,スパイが右翼をやっているかもしれないから右翼になって手伝ってくれ』と言われ,私は右翼の活動をさせられた日でもあります.(意図して社会的信用を潰された)

※私の家族は,緑のタヌキを作る会社で働いております.

このような行動は,一連の事柄を,秋篠宮から山守遼平が聞いていなければ,この様に人を蔑むツイートはできないと思われます.
一切関係が無い私と私の家族に対し,この様な侮辱を『情報発信ツール』で行うとは言葉を失います.

※山守凌平とノア・ノエル:劇団のの
※山守凌平とノア・ノエル:劇団のの(プロフィール紹介)
山守凌平と眞子内親王の誕生日パーティーで使うコンドーム購入した時の写真(イメージ画像)
山守凌平と眞子さまと演劇団体である劇団のの写真(イメージ画像)
※イメージ画像

[3]

 まだ,事件に関わる事柄があります.
それは,2月4日(英国時間.2月3日)(日本時間2月4日=立春)に,
高速速道路上を走行中の『黄色い車』が,推力を失った民間双発機(飛行機)の『ATR72』に左翼が接触し,
川の中に墜落すると云う悲惨な航空機事故がありました.

『ATR72』は,台湾の航空会社(復興航空)でありますが,ここで見えてくる秋篠宮家との関わりは,高速道路で『黄色い車』に接触と,『機体に描かれている"赤と青のリボン"』
それと『川の中に墜落』と云う事柄です.

※私は2004年7月に免許を取りましたが,
この際,私に接近してきた者から,黄色い車の購入を比較的安い金額で紹介され,『黄色い車に乗っておりました』
秋篠宮の回し者によって購入せられた車は,2004年に『石狩市花川にある紅葉山公園』に引き取りに行った.
2015年の歌会始の儀で皇族が詠んだ歌の中には『紅葉山・紅葉・池』が入っている.(皇太子と高円宮承子)
何れも紅葉山公園に実在する.
(2004年,私は,秋篠宮家と云う皇族の存在すら,知りませんでした.)
※紅葉山公園:北海道石狩市花川に実在する"紅葉山公園"(Googleマップのキャプチャ画像)
※宮内庁(歌会始の儀):平成27年発表,歌会始の儀(※PDFファイルです)

※皇族全員で私を貶している和歌の証明
■歌会始の儀(林ありて"下陰")
■秋篠宮眞子内親王殿下発表の歌と,その意味
■佳子さまの婚約相手と身内で話をスリ変える(林)
■政略的に必要な男性を複数維持する心理テクニック
上記を御読み下さい.

秋篠宮の回し者によって,2004年に紅葉山公園に引き取りに行った黄色い車の写真(イメージ画像)

秋篠宮文仁親王は黄色い初代ビートルに乗っておりました.
『赤と青のリボン』に関しては,『三笠宮彬子女王』が『赤と青のガウン』と云う自身の留学記を出版しました.
(これも,身内を使った誤魔化しであると思われます)

私"実体を知る者"は,2014年2月4日に埼玉県の『川越のビジネスホテル』に宿泊しておりました.
CNN:台湾当局、全ATR72型機の飛行を停止 墜落事故で
産経新聞:「信じられない」高速道を横切る機体、思わず絶叫した走行中の女性…台湾機墜落事故

※川越に宿泊した時ですが,その後に部屋が決まり,9日に札幌に一時帰宅し,
10日と11日に小樽のオーンズスキー場に,一人でナイター営業の時間にスノーボードをしに行き,
荷物を纏めて,2月12日の昼に埼玉に行き,ビジネスホテルが満室の為,一人でラブホテルに宿泊し,翌日2月13日から東大宮に入居したと云う足取りです.

※スキー場にも,おかしな連中が付いて来て嫌がらせを受けている.
もしかしたら,埼玉−札幌 札幌−埼玉と云う私の動きに合わせて,私をスケープゴートとし,
秋篠宮の娘が遊んでいた可能性(これについては断定できない)がある.

 高速道路上の事故に関して言えば,
『米国留学中の日本人学生の交通事故』
『中国高速道路での御曹司の事故』
『台湾の高速道路での事故(ATR72』
と,3つの事故が重なる事になります.

 2階建バスの車種で,『ATR23』と云う中国や台湾といった『アジア諸国』で良く使用されている2階建バスもありますので,
この事柄は,秋篠宮眞子内親王が『アジア系の男性と関係を持った』と云う事の裏づけになるかと思われます.
(世界中で遊んだ事,ないしハニートラップを行った事の清算が行われている)

 また,『ATR7200』と云う,録画・録音・集音機材もあります.
"7200"といいますと,私"実体を知る者"が2005年から2008年まで乗っていた車のナンバープレートになります.

 さらに,英国内では,『会員制クラブの個室トイレで性行為(日刊スポーツ)』や,『パブBARの個室トイレで性行為』のニュースも出てきております.
(パーティーを行うクラブの話は陰に隠れている)
この事に関連して,『ATR7200』との繋がりを見る事ができるかと思われます.

 航空機事故関連に関しては,米国でも発生しております.
米国にて,2015年3月6日に,リソン・フォードさんが,LA近郊で小型機墜落にみまわれ,重症を負ったと云うニュースがあります.
ハリソン・フォードさんと聞いて,私が一番初めに思い浮かぶのはやはり,
『インディ・ジョーンズ 魔宮の伝説』ではないでしょうか.

〔インディージョーンズ魔宮の伝説〕
「  1935年,考古学者インディ(ハリソン・フォード)は上海のギャングとの取引が決裂しトラブルに陥る.
その場に居合わせた歌手ウィリー(ケイト・キャプショー),相棒の少年ショート・ラウンド(キー・ホイ・クァン)と共に飛行機で追っ手から逃れるが,
ギャングの策略により飛行機は墜落,インドへたどり着く.
奇妙な老人に出会い,彼が住む小さな村へ案内されると,そこは井戸が干上がり食べることもままならない状態で,子供が一人もいなかった.
村にはシヴァ・リンガムと呼ばれる秘石が祭られていたが,邪教集団に奪われ,村の子供も連れ去られたと云う.
老人から救世主だと言われたインディ達はサンカラ・ストーン(シヴァ・リンガム)と子供達を取り戻すため,邪教集団が住み着いていると云う,
かつてマハラジャが支配していたパンコット宮殿へ向かう.
無人の筈のパンコット宮殿には新しいマハラジャが即位し,表向きには煌びやかに見え,インディ達を大歓迎する. 」
※上記参照元:インディ・ジョーンズ/魔宮の伝説

上記に出てくる飛行機は,『水上機』である.

※インドと日本をつなぐ機体は『水上機』である.
US-2:US-2 (航空機)
産経新聞:30日に日印防衛相会談 救難飛行艇US2輸出など協議

天皇陛下は,インド訪問時の晩餐会にて仏教について触れられる(インドにはチベット亡命政府もある)
南沙諸島(スプラトリー)の問題と沖ノ鳥島(世界遺産の話も有る)とツバル(文科省・外務省・他外郭団体)とビキニ環礁の話の関連性は御存知だろうか?
積極的に皇室外交を行っている様子が見える.

 この他に,インドのモディ首相が訪日された際に,安倍総理大臣が,日本を案内したのであるが,
世界遺産に登録されている,『東寺』と云う『チベット仏教にも繋がる宗教施設』を案内したのである.

 当然ながらこれは,インド政府の要望による東寺訪問ではなく,
日本政府が『政治的意味合い』を全面に出して案内したものである事は言うまでもないだろう.
後に天皇陛下は,インド外交に注力した方たちを招き,慰労会を行なわれた.

※産経新聞:原爆犠牲者への追悼「心からの感謝」 陛下のインド大統領主催晩餐会お言葉全文

以上が,世界的な動きと天皇家;政府が行っている事である.

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政府の思惑によって作られた右翼思想と左翼思想による悪影響と裏の意味

【秋篠宮家と"実態を知る者"の関係(秋篠宮家と満州事変)】で述べたように,
作られた右翼思想・左翼思想での政府の思惑によるマッチポンプが現在の主なやり方となっているようでありますが,
右翼が行うフリーチベット活動や,過度なチャイナバッシングもまた,極めて浅はかであり幼稚な考え方に基づく国家的工作であって,
過剰なまでに中国を刺激しているのが現状であると言えます(公調・公安)
ダライラマ14世が日本に来ると云う事は,中国もまた,日本国内の活動家に注視していると云う事になります.(私は10月24日から活動させられた)

 日本国内でデモ活動が活発だった2007年以降,中国でも対日本のデモ活動が発生した.
中国でのデモにより,チャイナリスクをうたった日本企業の生産拠点移動(ベトナム・タイ・インド)が起こったが,
日本企業は人件費の上昇で生産拠点を移行したかった為にチャイナリスクを口実としたと云う一面もある.

 では,現在のアルミ価格下落と資源価格の下落,生産物の輸出関税,それに人件費の上昇を対比した際,生産拠点の移行は正しい判断であったと言える結果を,この先確保できるのだろうか?
日本は「産・学・官の連携」をうたっているが,実際は「産(準官)・学(準官)・官」であることは明白であろうと云う事も頭に入れておきたい事である.

 また,国民に対するメディアを用いたマインドコントロール(世論誘導)による選挙など.(自民から民主が良い例である)
この観点から見ても,決して民主主義国家とはいえず,実態は「社会主義国家」となっている事は,世界中が認知している事である.

 若者から大人までに幅広く人気を博した番組が,『やりすぎコージー(人気番組)やりすぎ都市伝説』である.
この番組は,一見すると『小学生』『中学生』向けの番組となっているが,実際は,『大学生や大の大人にまで浸透している人気番組』である.

 この番組の構成は,『歴史的偉人』や『歴史的史実の間』に『オカルト的要素を挟み』,
『明治維新』は『フリーメーソン』『欧米』『ユダヤの金融資本』による『裏工作』であったと云う番組構成である.

 したがって,第二次世界大戦は,ユダヤ・欧米・メーソンが起こしたものであって日本は悪くないと云うすり込みを行う為の番組であるといえる.
(次世代に対するすり込み)

 小学生や中学生がまさに歴史の授業を受けている最中,所謂ゴールデンタイムと云うのだろうか,
一番視聴率が良い時間帯で,このような番組が組まれている.

 ちなみに,日本人が挙げる好きな歴史的人物第二位は「坂本竜馬」であるが,
この「坂本竜馬」と「西郷隆盛」は,欧米とユダヤの金融資本から資金提供を受け,明治維新に関わる有名な志士であると云う内容である.

 ようするに,日本人に染み込んだ歴史的ポイント(明治維新)を,アンカリングのポイントとして,
アンカー(坂本竜馬)とアンカー(西郷隆盛)の間に,マインドコントロールの要素を入れているのである.

この様な事柄からも判るとおり,次世代で,日本の戦争責任に対する疑問符を作り上げているのである.(実質反省皆無である事がこの事により判る)

 また,現在の大人達(社会人.大学生含む)は,精神年齢の低年齢化が顕著となっており,
子供向け番組と大人向け番組の境界線(すみ分け)が無いに等しい.
したがって,小中学生のみならず,大人もまたアンカリングされているのである.

 人気がある,池上彰 氏を起用した "大人向け授業風番組(世界一受けたい授業)"にて関東軍の話を出しても意味が無い.
何故ならば,「国民に対する教育の変化には混乱が起こらないように時間が掛かりますから」と言い時間をかけて表面を見せた所で,
実際は,関東軍に全責任があるような番組構成であり,深くは追求せず,海外の反応をも見ようと云う,いやらしい考え方が全面に見えているからであり,
この様な事柄に関しては,国民の精神性(流されやすさ)を考慮したうえでの,次世代育成の為の洗脳番組に注力している現状が有るからである.

以上の事から推測する事ができる,近い将来に発生するであろう事は,『極東の春』と思われる.
日本政府が行うテレビを使ったマインドコントロールと歴史の捏造の方法『秋篠宮紀子(川嶋紀子や眞子様佳子さま)』
日本政府が行っているテレビ番組を使った国民洗脳と歴史の捏造の方法『皇太子妃雅子さま(小和田雅子)皇室』
※日本政府が行っているテレビ番組を使った国民洗脳と歴史の捏造の方法(イメージ画像)

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山の日制定(国民の祝日)と天皇家;政府;秋篠宮眞子内親王(眞子さま)の関連性

[2016年8月11日から『国民の祝日"山の日"』が始まります] 『山の日』

 元々は8月12日,日航空123便が墜落した日にしようとしていたようです.
批判が出た為に,八(8)は漢字で山のようで,11が木のようだから8月11日に制定されたとの事です.

 実際は,"山"に関連する人物に花を持たせる意味があるようでして,
日航123便に関しては,皇后陛下や皇太子妃雅子様がお付き合いしていた(お見合い相手)の男性が搭乗していたとの情報もあります.
※勘が良い皆様ならば,お察し頂けたでしょう.

 ちなみに,『和歌山県』では,独自制定した"紀州・山の日"があり,『11月7日』となっています.
『11月7日』から10月10日(海外は9ヶ月)=9ヶ月(10ヶ月10日)(子供が生まれるまでの日数)を引くと,
『1月27日』と『12月29日』なります.(札幌市でガスボンベの連続爆発事件があった日)

また,3月27日にも『3月27日』から『123日(旧暦)』で,7月30日-31日である.
※一年を360日計算の旧暦360日(1ヶ月は30日)とグレゴレオ暦で計算. (12月29日は佳子内親王の誕生日となる)

また,キリスト生誕から数えて磔にされた日までが『99日』の説もあり,7月30日から『99日』で『11月6日』
※11月6日は,"出口なお"が亡くなった日)政府から弾圧されていた.

7月31日から『99日』で,『11月7日』となります.
『11月7日』に,"山の日"が制定されている和歌山県では,高野山が2004年7月7日に世界遺産登録されています.(有名な楠木正成に関わる)

『2014年11月7日(金曜日)』は『皇族が全員公務を入れておらず(当時公開されていた公務日程)』,
翌8日の午後10時に,『秋篠宮家の宮務官がハプニングバーで逮捕』されています.

※山の日含め,目処の立っている方達には華を持たせる意味合いもあるようです.
2016年8月11日、国民の祝日『山の日』の写真
天皇家が行う事件と誤魔化しの異常性と菊の家紋と湖の写真(イメージ画像)
※イメージ画像

【関連性があるであろう全体像】

 関連性がある全体像(上記)を分析する,儀式的な異常性と脅迫性,何かあった際には,誤認逮捕で公安に責任転嫁したい思惑が見えてまいります.
これが,天皇家・政府・宮内庁・警察庁・法務省や,何処かの宗教組織が行っている事となります.

※ちなみに,『11月7日』は『金曜日』で『ユダヤ教では安息日』となっております.
11月8日(日本時間)は海外での11月7日金曜日でもあります.
これは,ユダヤ教をも馬鹿にしていると云う事になるでしょう.

札幌ガスボンベ爆発連続テロの始まりから(1月27日),10月10日(と月とう日:子供が生まれるまで)で11月7日.
和歌山県小学5年生児童殺傷事件の加害者は,高野山に関連があり,加害者は『"中村"桜洲』.
この児童が,運び込まれた病院には,児童の母が出産の為に入院していた.
児童が亡くなった翌日に,母は出産したとの情報がある.(前日・前々日とも)
だとするならば,クリスマスイブの12月24日(天皇誕生日12月23日)とクリスマス(12月25日)の日数と重なる事になる.

 その他の事件であると,伊藤博重 容疑者(渋谷立てこもり事件)の行動は,秋篠宮紀子殿下の学生時代に一致する.
自宅のベランダから外を眺めて物思いに耽る写真を週刊誌に撮影させている(この動きに一致する)
また,モデルガンを持っての立て篭もりであったが,モデルガンについては,
『ウェスタンアームズM92事件』
上記事件があり,『北海道警察本部長:室城信之』の親族が関連してくる事が伺える.

連続ガスボンベ爆破テロ(那須川容疑者)
那須川氏は平家由来とも言われている
(実態は不明であるが,簡単に調べられる所では)

山口県と兵庫県の県境に位置する平家落人伝説(須萬盛衰記"紀の村")がある村で5人が殺害された事件
(付け火して煙喜ぶ田舎者)

兵庫県"洲"本市(平家伝説がある)
(テクノロジー被害を訴える男性により一家5人が殺害された事件)

長崎佐世保高校生殺人事件
(顔が似ている人物と長崎県と平家)
※秋篠宮文仁親王と眞子内親王が7月30日,原爆慰霊碑に献花

和歌山県小学5年生殺人事件
(中村欧州容疑者,高野山と平家の関係)
高野槇に関連のある人物と和歌山県と平家と倶利伽羅峠:"紀"の松島)

以上の事からも,札幌が裏工作の中心地となっている事が判るかと思う.

※したがって,極めて独特な“宗教思想的”な事件や動きが鮮明化していると見る以外に無い.
尚,陰謀論のように見える事と思うが,これら事件の背景にあるのが,極めて独特な“宗教思想的”な側面が強い事から,
単なるこじ付け陰謀論の様に見えてしまう事を御理解されたく思う.


【私が爆発テロに遭遇する(脅しの意味合いか)】

 11月7日から10月10日引くと,3月27日.(札幌市でガスボンベの連続爆発事件があった)
この日,私は事件に直接巻き込まれました.(現場に居た)
現場にて動画を撮影していたのですが,警察提供を申し出ると,『上からの命令でその動画は受け取れない』と断りの連絡が後日来ました.
これは,陰謀論ではなく,実際に『国家的謀略及び警察組織による不正がある』と云う事です.
どの様な謀略が存在するのかは,《全ての項目》を御読み頂ければ理解できる事と思います.

■ここだけ表示


札幌市北区屯田ガスボンベ連続爆破テロ事件(警察に受け取り拒否された映像)

札幌市北区屯田のジョイフルエーケー 〜ガスボンベ連続爆破テロ事件〜

 札幌市北区屯田のジョイフルエーケーで2014年3月27日に発生したガスボンベ連続爆破テロ事件の際に,現地で撮影した動画です.
那須川早苗容疑者が逮捕されましたが,十分な証拠は無いそうです.

 ちなみに,この動画は,現地にて警察へ提供を申し出ましたが,後日,北警察署の警察官(お巡りさん)から電話が掛かってきて,
『上からの命令でその動画は受け取るなと言われました・・・(お巡りさん)』と相当困惑した様子で連絡がありました.

 この事件は,爆発テロと云う事もあり,公安警察が担当したと思われますが,逮捕と起訴を強行した可能性も指摘できます.(道警本部で聴取)
この動画に写っている人物で,2014年3月27日以降に,私が行く先々に出没してきた女性が写っておりますが,
この動画を撮影した際は,消防も警察もまだ到着していない時です.

 したがって,この女性は通常の刑事ではなく,公安の刑事,ないし公安調査庁の調査官である事も指摘できるかと思われます.
ここまで行うほど,自分達(政府・天皇家)にとって不都合な真実(暴露)であると言えます.

 この他にも,私の自宅周辺では,連続放火事件が2012年秋頃に発生しております.(犯人未逮捕)
また,2006年頃から2012年にかけても冤罪による逮捕を狙ったといえる事件が複数発生しております.(口封じの為の投獄狙い)
秋篠宮家と政府が連携し,極めて卑劣な犯行を繰り返しております.(秋篠宮家が行った公務の日付と内容を確認.)

2014年3月27日男性用トイレでガスボンベが爆発(放火)しトイレが全焼し、けが人が出た事件、札幌市北区屯田ジョイフルAK(ジョイフルエーケー)

※2014年3月27日ガスボンベが爆発した事件.札幌市北区屯田ジョイフルAK(イメージ画像)

【裁判】
2016年3月11日,札幌地裁の裁判員裁判は主婦に対し,
懲役18年(求刑:懲役20年)を言い渡した.これに対し主婦側は控訴した.

■裁判結果(裁判所)
http://www.courts.go.jp/app/hanrei_jp/detail4?id=8591

■声明文の画像
https://imgur.com/i3j2c7t.jpg
※この声明文は,句読点を使用しない赤報隊の声明文と極めて類似している.ボンベと云う手口もだ.主婦の犯行だろうか??
尚,主婦逮捕後も同様の事件が連続して発生している.
しかし,北海道警察は,これらの事件を模倣犯として発表している.(軽犯罪法違反の疑いで捜査との報道)
尚,最後の事件は,2014年11月29日に報道された,札幌市東区の北園公園にて発生したガスボンベの意図的な破裂事件である.(犯人未逮捕)

【疑問点:1】
北海道警察の内部ないし公安調査庁の内部に,正常な精神状態とは言い難い人物がいる可能性も考慮するべきではないだろうか.
又は,上記2組織以外に雇われ,事件を起こした人物がいる可能性も考慮できないだろうか.

主婦がわざわざ声明文とガスボンベで赤報隊の真似をするだろうか??

【疑問点:2】
判決の主文を読むと,
(4)3月27日の事件についてのみ,控訴の余地を窺わせる文面となっている.

ところが,疑わしきは罰せずには遵わず有罪となっている.
明らかに不審な点が多い主文の書き方ではないだろうか.(主文の作成人物は何かを知っているのだろうか?)
田尻裁判長は,どこからか圧力が掛かっている可能性は無いのだろうか?

【疑問点:3】
これらの事情も考慮すると,被告人の刑については長期間の服役が相当であり,
主文のとおり刑を定めた.
(検察官 矢崎正子,仲戸川武人,伊丹直彰 各出席
国選弁護人 中村憲昭(主任),皆川洋美(副主任) 各出席)
(求刑 懲役20年)
平成28年3月11日
札幌地方裁判所刑事第1部
裁判長裁判官 田尻 克已
裁判官 今井 理
裁判官 貝阿彌 健

※“国選弁護人”に「反ヘイトスピーチ過激派団体(しばき隊)」の『皆川洋美 氏(副主任)』が居るが,偶然であろうか?


 尚,下記【公安警察が自作自演で事件を画策する時期の分析結果】で説明している稲葉事件関連の弁護団の中にも,
中村憲昭 弁護士(主任)の名前がある事にも注視されたい.
ちなみに,当該事件(ガスボンベ事件)の裁判後の2017年に,
稲葉事件関連判決(無罪)が出ているのである.


【追記】
2013年11月頃から,天皇誕生日に打ち上げ花火がどうの,パーティーがどうの,(2013.12.21日)
と云う事を私の周りで言って歩く20代の連中(スーツ姿の2人組みの男女)が出始めていた時期もあります.


【公安警察が自作自演で事件を画策する時期の分析結果】

 一年間の内で,公安警察関係が顕著な動きする時期を分析した.
分析手法は,Googleのアドワーズを用いて,一年間の内に検索された,公安関係の検索動向を調査する方法で行った.

 検索キーワードの月間検索数(検索ボリューム:12ヶ月)を調べ,公安の動向を調査した結果は,
弊サイト内のコンテンツで公表しているので,下記〔※分析結果〕を御覧頂きたい.


※分析結果:公安警察関係者≒宮内庁関係筋からのリーク情報と久保哲彦(社会的信用毀損工作)


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天皇家と政府が仕組む"平成の謀略"「東京オリンピック2020」
【秋篠宮と高円宮と三笠宮‐彼氏と婚約】


 これから記述してゆく内容に関してであるが,構成される内容は,大きく分けて三つの事柄を基にした分析と考察で出来上がる.
一つ目は,『東日本大震災と六次産業化と復興特区)と秋篠宮家』
二つ目は,『高円宮家とオリンピック誘致と原発事故』
三つ目は,『天皇陛下と原発事故の風評被害払拭報道』
纏めとして,『これからの皇室が辿る将来と事柄』
以上の内容構成で進めて行く.

専門的な知識は,『世界が日本に対して示している姿勢』をお読み下さい.
それでは,さっそく一つ目の事柄を分析してゆく.


【東日本大震災と六次産業化と復興特区と秋篠宮家】

 2011年3月11日に発生した『東日本大震災』.
この未曾有の地震と津波により太平洋沿岸部は壊滅的な打撃を受けた.
それに追い討ちを掛けるように,福島第一原子力発電所のプラントが前代未聞の原発事故を起こし,
放射能汚染と云う打撃を,産業界に与える事態となった.

 上記の災害と事故は,様々な経済活動に打撃を与えているが,この中で天皇家と密接な関わりを持ってくる産業がある.
それは,『漁業と農業』である.

 題名に秋篠宮家が出ているが,これは秋篠宮ご夫妻が被災地を訪れたからである.
2011年6月27日に秋篠宮様は宮城県を訪れたのだが,この際,秋篠宮ご夫妻は県から水産業復興特区について説明を受けている.

この事は,宮城県の職員用に作成された,当日の予定を記したPDFファイルに記載されている.
上述した,水産業復興特区であるが,2011年5月に発表された構想である.

 この時,宮城県の地元漁師の90%が自分の船舶を失い,路頭に迷っていた時でもあるのだ.
水産業復興特区は『復興』と名が付いているが,実際は六次産業化法案である事は周知の事かと思う.

宮城県は,2012年1月27日に国内で最初に特区構想を政府に申請している県である.
この時に,地元漁師や漁協が反対をしていた事は周知の事であろう.

 したがって,秋篠宮夫妻が宮城県から個別に説明を受けると云う事は,
世間の目には,『秋篠宮文仁親王殿下が水産業復興特区に賛成している』と云う風に映る事になるのである.

ここまでが,水産業復興特区と秋篠宮家の関連性になるが,この他にも関わっている政治的政策がある.
それが,『農業の六次産業化』である.

この,六次産業化された農業関係先に訪問を行うと云う公務もされている事から,
先述した『秋篠宮文仁親王が背中を押している六次産業化』と云う風に世間の目に映るであろう.

 秋篠宮文仁親王は,東京農業大学で学生指導をされていた経験があり,
東京農業大学大学農学部バイオセラピー学科客員教授に就任もされていた事がある.
以上の事より,秋篠宮家と六次産業化は密接な関係となったのである.

 先述しているが,被災地の地元漁師は反対している実態があるわけであり,
地元に企業が参入すと云う事は,船舶を失った漁師が企業から雇われると云う事になる.

 この際,不漁の年が続いた際には,先代から受け継がれてきた漁師と違い,撤退と云う選択が待ち受けている事だろう.
撤退した際には,当然の事ながら,雇われていた漁師は職を失う事になるわけであろうし,
撤退しない為には何らかの『補助金』が必要となってくるだろう.

 したがって,もしも水産業復興特区事業に陰りが出てきた際には,背中を押した秋篠宮様も,世間から,その事を指摘される事になるだろう.
この事は後々,食料自給率と食糧問題と云う事柄をもってして大きな問題となる事が予測される事から,
問題が発生した際には,秋篠宮家に影を落とす事となるだろう.

農林水産省が提示している6次産業化モデル

6次産業化のイメージロゴに関する由来(農林水産省)

※皇后陛下である美智子様や秋篠宮紀子様のイメージにピッタリではないでしょうか?


【高円宮家とオリンピック招致活動と原発事故】

 2013年9月8日に確定した『東京オリンピック・パラリンピック2020』.
日本中が固唾を呑んで見守ったIOC総会.
世界が見守るIOC総会にて,日本を代表する錚々たる面々が行った各プレゼンテーション.
その成果が功を奏し,発表された『TOKYO』.
その瞬間,喧声とも言える程の歓喜の声が日本中に響き渡った.
しかし,その歓喜の声の裏側では,招致できなかった国々の喧声と無念が響き渡っていたのは,想像するに容易いだろう.

 当該IOC総会で,東京オリンピック招致に力を発揮したのは言うまでも無く『高円宮久子殿下』である.
この御功績は,東京オリンピック開催決定を受けて,英国誌のデイリーメールなど,世界中から賛美の声が上がっていたのであるから,
その注目度は大きいと云う事が判る.

しかしながら,その賛美と歓喜の裏に潜む,とてつもなく根深い問題を忘れてはいけない.

それは『原発事故』である.
現在,2015年であるが,原発事故の根本的な解決策は確立されていないのが現状である.

 また,事故後の福島県の健康調査で明らかとなっている甲状腺検査の結果が,
事故後3年を経過した現在,ようやく比較できるだけの統計資料となった.
上述した,公表されている資料から判る,現在の健康状態と,今後発生する可能性がある事柄を以下で述べよう.

 2011年当時,福島県に在住していた18歳以下の男女の甲状腺検査の結果,原発事故後の後天的腫瘍(良性のシコリ)が認められた人数は,全体の約50%にのぼっている.
※福島県が公表している追跡調査の結果が出ているので,公表資料※Aを参照して頂きたい.

 腫瘍の発生数に,特段目だった地域差が認められ無い事が判るが,
これは,風向きや土地の汚染度合いによる顕著な差が認められず,後天的腫瘍が県内全域で発生している事を示すものである.
では,良性の腫瘍と聞いて,すぐに思い当たる例を以下に挙げる.

例:大腸ポリープ(腫瘍=シコリ)

 大腸ポリープは何故,癌に変異していない状態でも切除するのだろうか.
それは,悪性の腫瘍に変異するのが早いからと云うのも切除理由の一因であろう.

 しかし,ここで問題となってくるのは,当時18歳以下であった方が寿命を全うするまでの年数であろう.
日本の平均寿命から逆算した場合,当時18歳であった男性の平均余命は51.84年であり,当時18歳であった女性の平均余命は『59.04年』である.
したがって,甲状腺の腫瘍が悪性となる方が出てくると想定した場合,腫瘍が癌となるまでに要する年数は十分である事が判る.

 次いで,1986年4月26日に発生した,旧ソ連チェルノブイリ原子力発電所事故の放射能が,人間に与える影響の追跡調査を元に考察してみよう.
ウクライナの調査結果と,事故後から東京オリンピックまでの年数を比較したら見えてくる将来像はどうだろうか?

 ウクライナに於いては,『事故後,5年を境に健康被害が増加している』事が報告されている.
2011年の『原発事故から9年後に東京オリンピックが開催される』予定だ.
現在,2015年で『事故から4年たらず』である.
東京オリンピックが開催される2020年までに健康被害が露呈した場合,『健康第一のスポーツ選手が東京に来てくれるか否か』が問題となるだろう.

 さらに,総理大臣はIOC総会のプレゼンテーションにて『原発はコントロールされています』『日本は安全です』と公言してきている.
もしも,2020年までに顕著な健康被害が露呈した際には,『参加を辞退する選手が出てくる』事は免れないと思われる.

その際には,『辞退する選手が記者会見を行い理由を述べる』といった状況が想定され,
それと同時に高円宮久子殿下に対する賛美は消え去り,世界中が当時の招致活動を報道する事となる.

 したがって,高円宮久子殿下や総理大臣が『世界中から非難されるのは確実』であろう.
何故ならば,先述したとおり,『歓喜の声の裏側では,招致できなかった国々の喧声と無念が響き渡っていた』からである.

その際には,世界中から賛美された高円宮久子殿下のみならず,天皇家全体に,その影響が及ぶ事と思われる.
あまり言及したくはないが,上記の事から推測される事柄の一つとしては,『高円宮家と三笠宮家の皇籍離脱と女性宮家論の停止』が挙げられる.

 何故ならば,『高円宮家と三笠宮家は現状で女性宮家に近い状況となっている』が,
女性宮家となるならば,三笠宮家を継ぐ事となる『三笠宮彬子女王もIOC総会の審査員の貴族が居る国に海外公務を行い,招致活動を行った』と報道されているので,招致活動の一員とみなされるからである.

 要するに,『オリンピックの招致活動に,高円宮久子殿下も三笠宮彬子女王も関わっている』のであるから,
世界中に対し事実と違う状況を説明して招致を行った一員と云う風に,世界中がみなすだろう事が予測されると云う事である.

 さらに,海外のみならず,健康被害に対する国内での世論の高まりと,
オリンピック招致に対する批判的な風潮が生じるであろう事は必然であろうと思われる.

 この状況で,高円宮家を継いだ場合,天皇家全体に影を根付かせる事柄となるであろう事から,女性宮家論は消滅するであろう事が予測される.
また,旧宮家の復籍も不可能となったのである.

何故ならば,旧皇族の家系である竹田恆和 氏が日本オリンピック委員会の理事長を務めているからである.

 以上の事から,6年後のオリンピック開催時に,極めて重大な問題が生じる事が確実となっている事がわかる.
このような状況が安易に予測できるにも関わらず,オリンピック招致活動を宮内庁や皇室関係者が認めたと云う事は,
高円宮家と三笠宮家の皇籍離脱を視野に入れた動きであるとしか言いようが無い.

上記の事から考察した際には,様々な利権が絡むオリンピック招致活動に『私欲の為に参加した』と云う結論に達するのである.


※高円宮様と三笠宮様に関しまして,上述した『オリンピック誘致』がありますが,
オリンピックが決定した際に,『復興に力を入れた"鹿島建設"と"大手ゼネコン"にインフラを』と政府が見解を出しておりました.
この時,高円宮承子女王と鹿島建設の御曹司(重役の子息だろうか?)との,お付き合いの噂も散見されていました.
鹿島さんではなくとも,ゼネコン関連の御曹司との縁を作りに行ったと考える事もできます.
したがって,先述した『皇籍離脱』とは,結婚による皇籍離脱である事が見えてきます.
オリンピックで公共事業で雇用と景気を・・・は,5年先にどうなっているか,安易に推測できます.

よって,高円宮家と三笠宮家がおこなった,『私欲が絡む』,政治的オリンピック誘致活動である事を指摘できる事となります.


※注(追記:2018.10.29):鹿島(カシマ)の意味合いは深い.
歴史的な事柄からの視線逸らしの為に“カシマ”との関係を持ち,その話を意図的に流布させている可能性も浮上している.
即ち,『鹿島建設を取り込み,協力を仰ぎつつ,自らが行って来ている事柄を誤魔化そうとするのが天皇家である』と云う事である.
詳細は,下記【仁和寺宮(小松宮彰仁親王‐伏見宮)と蝦夷地開拓(北海道)の暗号公文書(開拓使日誌)‐《明治維新》】を御覧頂きたく思う.


※カシマの意味:仁和寺宮(小松宮彰仁親王‐伏見宮)と蝦夷地開拓(北海道)の暗号公文書(開拓使日誌)‐《明治維新》


2020年開催の東京オリンピックと高円宮久子、竹田、天皇陛下と皇族の関わりの写真
〔参考資料〕

■福島県保健福祉部県民健康調査課(PDFファイルです)
⇒(※A):調査結果PDF(1)
⇒(※A):調査結果PDF(2)
⇒(※A):調査結果PDF(福島県以外の県,青森など)

■福島第一原発の近くに生息するサルの血球数が少ない
⇒調査結果:Nature


【天皇家が行う,六次産業化法案と官僚機構と天下り先の確保】

 1970年代〜80年代にかけて,スーパーカーブームがあったが,
この時に,補助金を受けている米農家や牧場の納屋には,
『ランボルギーニやフェラーリといったスーパーカーが入っている.』
と云う,ある種の噂が立っていた.
これ事態が,昨今の六次産業化と天下り先の確保に繋がる発端である.

 ようするに,《農家はスーパーカーと云う,庶民には手が出ない高級車を,補助金を貰っていながら所有している.》
と云う,ある種の噂によって,大衆から農家のイメージを悪化させ,補助金を打ち切ると同時に,
失敗する事が見えている六次産業化を押し,六次産業化に乗り出した企業を支援する機構を設立する.
したがって,六次産業化推進によって,官僚自らの天下り先を作り出す為である事がわかるのだ.

 問題は,これだけでは止まらない.
皇后陛下(美智子さま)の実家である,《日清製粉》が,上述した六次産業化支援機構に名を連ねている.

 したがって,天皇家自体が,官僚の天下り先を作っており,官僚に対して自身に都合が良い状況を作り出している事が判る.
日清製粉の経営者は皇后美智子ではないが,間接的,それも極めて密接な関係を自身の実家を利用し提供している事が判る.

よって,天皇家と農業には密接な関連があり,農家を守る立場にあると云う宣伝を国民に流布しているが,
実状は,官僚機構に対し,天下り先を作る事によって得られる政治的権力の確保である事が判る.

 そのうえで,天皇の息子であり将来の天皇である悠仁親王がいる秋篠宮家が六次産業化に関する公務や,
外務省や経済産業省が英国で開催させた《福島の物産展》に,秋篠宮家の長女である,眞子内親王(眞子さま)が個人的に顔を出すといった動きがある.

 ようするに,秋篠宮家は,戦争責任回避や,自身の家柄(川嶋紀子)の事柄について,
歴史の捏造を進めさせる為に,官僚を抱きこむ策に出ていると云う事までもが見えてくるのである.

 さらに,今までこのサイトで暴露してきた秋篠宮家の長女や次女(眞子さまと佳子さま)の男遊びまでをも,
『この国の為』と言って誤魔化しを掛けさせている事にも繋がってくる.

※英国開催の福島県物産展と男遊びと政略的結婚相手

※株式会社農林漁業成長産業化支援機構《出資企業;日清製粉(皇后美智子の実家)》

※官僚の天下り先リストに,株式会社農林漁業成長産業化支援機構《六次産業化によるファンド設立と天下り先確保》

※なぜ,海外や国内で男遊びができるのかについて.(証明)
■政略的に必要な男性を複数維持する心理テクニック
■歌会始の儀(林ありて"下陰")
■秋篠宮眞子内親王殿下発表の歌と,その意味
■佳子さまの婚約相手と身内で話をスリ変える(林)
■皇族発表の私を貶す和歌
上記を御読み下さい.

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天皇陛下と原発事故の風評被害払拭報道と6次産業化(復興特区)


※この項目は,先程記述した,
一つ目は,『東日本大震災と六次産業化と復興特区と秋篠宮家』
二つ目は,『高円宮家とオリンピック誘致と原発事故』
三つ目は,『天皇陛下と原発事故の風評被害払拭報道』
纏めとして,『これからの皇室が辿る将来と事柄』
以上の〔三つ目〕にあたる項目となる.

 2011年3月11日から発生している『原発事故』.
その際に,原発事故による放射性物質が外部に拡散したのは周知の事だろう.

 この際,放出された放射性物質により,農作物が出荷できない状況となった過去があったり,
放射性含有量が,国が定める数値の許容範囲内であっても,放射能の影響を懸念する方達からは,敬遠されている状況である.
※2018.10.27追記:現在は敬遠されている情報が少ない為,販売実績から割り出す事は不能.

 このように,いわゆる風評被害が発生している事から,国が主導して『食べて応援プロジェクト』を推進している状況である.
食べて応援といえば,天皇陛下が被災地の農家を訪問された際に,提供された農作物を口にされている.

 ここで,天皇陛下と言われて思考を停止せずに考えなければならない事がある.
それは,事故直後に出荷され,市場に流れていた,基準値を大幅に上回る放射性物質を含有する農作物である.
その証拠に,各地で基準値以上に汚染された野菜等が発見されていた事実が存在するからである.(北海道のスーパーで販売されていた"ホウレン草")

 したがって,検査を受けていない国民の中には,健康被害を懸念する程に内部被爆をしている方が居ても不思議ではないと云う事になるのである.
何故ならば,当時から『食べて応援』を謳っていたのだから,上述した内部被爆をしている国民が実在する可能性が生じるのは当然だろう.

 このような事が発生している状況で,天皇陛下が農作物を口にされたと言う事は,
『天皇陛下が食べて応援をした』『今まで食べた分も安全なんだ』と云う風に国民の目には映るだろう.
何よりも,『食べて応援をされましたと云う報道がされていた』事実がある以上,上述したように国民は誤認していると云う事になると思われる.

 以上の事から判る,将来発生するであろう事柄は,食べて応援を積極的に実践していた国民が体調不良を起こした際に,
『天皇陛下が食べて応援安全だと言ったのに』となる事だ.

さらに拡大解釈が進むと,食べて応援以外の事柄が原因である放射線被爆による体調不良を引き起こした方達が向ける矛先が,
天皇家に向く可能性が極めて高くなると云う事が予想できる.

 上述した状況となった際には,先述した理由により天皇皇后両陛下と秋篠宮家と高円宮家と三笠宮家が苦境に立たされる事は予想するに容易い.
要するに,天皇家全体に極めて深刻な影を落とす事になると云う結論に達するのである.
天皇皇后両陛下が原発事故の被害に遭われた桃農家をご訪問された時の写真
自民党の安倍晋三が原発事故被害関連の食べて応援をしている写真


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秋篠宮紀子さまと眞子さま−高円宮久子さまとオリンピック
天皇家と政府に対し世界が示している姿勢

 先程,『天皇家と政府が仕組む"平成の謀略" 』で説明した事を補う意味を含め,
ここで『天皇家とオリンピック』,『世界が示す事柄』に触れてゆく.

 元総理大臣;森善朗(元総理大臣;橋本龍太郎の絡み)がオリンピックの組織委員長で,GPIFの絡みも橋本元首相絡み.(厚生労働省)
NISA口座で国内(国民)に押し付けを図ったが,不発に終わる.(資金の引き上げが始まる)
六次産業化(復興特区)で補助金団体設立を試みるも失敗に終わる.(5カ年計画)参入企業の撤退束縛期間は5年.

 あとは,ハーバードを踏み台にした挙句,将来重役になるであろう学生との交流によって次世代を見据えた皇室外交を誰が行ってよいと言ったのか?
と云う事であろう.

英国も,レスターからオックスフォードの三笠宮様を国民に刷り込んだうえで,そのレスターに留学しますと云う踏み台を誰が行ってよいと言ったのか?
と云う事であろう.

さらに,王室に手紙を送った上で留学されたエピソードも前面に押し出して,王室とオックスフォードを踏み台にして良いと誰が言ったのか?
と云う事にもなるだろう.

 その他,脱IMF(日本の出資比率は世界第2位)の世界的な動きを見て焦ったのか知らないが,
BRICsやAIIBの絡みであったり,誰がメキシコやブラジルに行こうと考えたのか?と言う話にも繋がるであろうし,
そもそも,川嶋家の話を誤魔化そうとしている動きは何なのか?と云う事にもなる.
ここまでやったからには,『守山"名古屋"で"富山"を誤魔化す』と云う規定路線は行ってもらうと云う"世界的な圧力"が見えます.

 世界的な経済ショックは日本がトリガーとなったのであるし,自覚を持って頂きたいと云うふうに解釈できます.
PIIGSの話もある状態でオリンピック開催国と云う二択が発生し,日本は開催国となる事を選んだ.
したがって,自覚の有無を見る為にも"世界が一円安い店"を演じたのも頷けますね.

例:一円安いガソリンスタンドで最初に燃料を入れる為に,1時間も2時間もエンジンを掛けたまま開店を待っていると,得ですか?損ですか?
(これが日本が手にしたオリンピック招致である.)

高円宮久子さまと東京オリンピックと6次産業化やGPIFに関連する政治的動きが炎上し灰になる


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2・26事件の勾坂暗号と暗号通話記録
天皇家と財閥と政府が利用した近衛師団に繋がる宮城事件(陸軍軍法会議秘話)


二・二六事件 消された真実 〜陸軍軍法会議秘話〜

1.10時50分=10>50←トカゲの尻尾切りを意味する(時計の長針と短針)

2.午後3時=15:00="3"時←平家(謀略)を意味する.

3.電話傍受記録=カネ・カネ(鐘・鐘)アルカ?(○○アルカ?日本語を話す中国人)=「時計」は中国語で「鐘」(zhong)
(中国で時計を送る事は縁起が悪いとされている)

4.匂坂,更迭を陸軍大臣に具申した.
動画39:11前後.39:57

5.告知="さんずい"を知る(汚職を知る)(警察・検察用語での"汚職"とは、隠語で"さんずい"と云う.)
後に匂坂は満州に転勤を命ぜられる.

※上記の事柄に続き,軍部の暴走であるとする為に,1944年には画策されていたと思われる,宮城事件(1945年)が発生する.


(浩="さんずい"に告げる)汚職を告げる
※私の名前と"親の名前"には"浩"が入る.
※皇太子は"浩宮(ひろのみや)"と云う.
※私の親の方が,皇太子より年上である.
※愛子内親王は"敬宮(としのみや)"と云う.
※私の母親の名前には"敬"が入る.

二二六事件の事件現場に向かう途中の近衛師団の写真
二二六事件で二月二十九日に戒厳司令部から出された近衛師団に対する投降を促すビラ
※226事件の現場に向かう途中の近衛師団の写真と,戒厳司令部から出された近衛師団に対する投降を促すビラ

---関連事項---


東久邇宮稔彦王:元皇族(旧宮家)
多羅間俊彦:元皇族(旧宮家) ブラジル

秋篠宮:東アフリカ訪問=三井物産シェールガス公務
メキシコ訪問=三井物産関連公務
ブラジル訪問=三井物産ガス・インフラ関連公務
天皇陛下:インド訪問時の晩餐会にて仏教について触れられる(インドにはチベット亡命政府もある.)

伊藤忠:米シェール事業から撤退,保有株を1ドルで売却
(伊藤忠のみならず他の企業も損失計上)

※高円宮様と三笠宮様に関しては,『オリンピック誘致』がありますが,
オリンピックが決定した際に,『復興に力を入れた"鹿島建設"と"大手ゼネコン"にインフラを』と政府が見解を出していましたね?
この時,高円宮承子女王と鹿島建設の御曹司(重役の子息だろうか?)との,お付き合いの噂も散見されていました.
鹿島さんではなくとも,ゼネコン関連の御曹司との縁を作りに行ったと考える事もできますね.
オリンピックで公共事業で雇用と景気を・・・は,5年先にどうなっている事であろうか.


※カシマに関しては他の項目で詳細を記述しておりますので,そちらを御覧頂きたく思います.

二二六事件を報じる大阪朝日新聞社の写真(秩父宮帰京)
※二二六事件を報じる大阪朝日新聞社の当時の紙面の写真(秩父宮,青森から帰京)

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秋篠宮眞子内親王(眞子さま)ご婚約と二股保険(恋愛心理学応用テクニック)

【秋篠宮家が行う身内を使うスケープゴート工作と誤魔化し工作の証拠】にも記述しましたが,
秋篠宮眞子内親王は,昨年9月に御婚約されている旨の報告を周囲にお話されたようです.

 この際に,周辺では噂が広まり,渦中の男性との間柄をインターネットで検索する方が急増しました.
現時点では,未公開となっているようですが,恐らくは今年発表となる事でしょう.
(今年発表とならないのであれば,時間稼ぎの為の工作の一環であると思われます)〔この項目の記述時期-2015年〕

 検索数を見たら判るとおり,「彼氏」ではなく「婚約」で検索されています.
人は検索する際に,第一情報を元に極めてストレートに検索しますので,
2014年の9月頃に「婚約」と云う情報が広まった事を意味します.(2012年7月〜9月にかけても同様の検索数上昇があった.留学前に上昇する.)
したがって,二人の関係性を示す結果が,数字となって表れた事になります.

また,「二人は決められたお友達」として,とある事を誤魔化す為に9月に意図して検索数を増加させた場合も同様であり,
結果として,お付き合いしている(していた)事を誤魔化す為に,検索数を増加させる事によって,
根本的な事柄を誤魔化してしまおうと云う意図が発生している事を意味する検索結果となります.

 例えば,渦中の男性とは何も無いと云う風に誤魔化したい場合,
渦中の男性との話を意図的に作り上げ,渦中の男性は「ダミー」と云う形にしてしまおうと云う事ができます.

 これにより,渦中の男性との関係が終わった後に,新たに関わりを持ちたい男性が居る場合,
その男性に近づいた後に,渦中の男性は「ダミー」の役割だとして,新しく近づきたい男性に誤認識を起こさせる事ができます.
要するに,根本的な事柄を誤魔化す為に,更なる誤魔化し工作を行うと云う事になります.

実際は,渦中の男性とお付き合いしていても,渦中の男性を「ダミー」と位置づけておく事で,
お付き合いを継続できると云うメリットも発生する事になります.

 何故ならば,新しく近づきたい男性には「ダミー」として認識させておく事ができるので,
実際は渦中の男性と付き合っていても,「ダミーであって付き合っていない」と思わせ安心させる事ができるからです.

新しい男性を,「Aさん」:渦中の男性を,「Bさん」とした場合,
「Aさんと,この間会った事を誤魔化す為に,Bさんと会ったの」と云う具合に認識させる事ができます.

これにより,「Aさん」を確保しつつ「Bさん」との関係も継続できる事になります.(あちこちをキープできる)
具体例を提示すると,「結婚相手のAさん」と「彼氏のBさん」を分けて,結婚するまでは自由に振舞う事ができると云う事です.

また,学生時代は「決められたお友達」しか周りにいなかったと云う情報を意図して流す事により,
当時の交友関係をあいまいにしてしまおうとの工作も見られます.(週刊誌や同学内からの話など)
具体例ですと,佳子内親王入学の後には,周りの学生は,「学生に扮した若い警備」・「決められたお友達」といった情報の拡散に見ることができます.


[心理学を応用した2股3股4股の進行状況]

ちなみに,眞子さまの初体験(ロストバージン)は『小学生の時』である.

 お相手はなんと,当時の許婚か彼氏? とのこと.
ただ,その許婚の男性の他にも二人ほど絡みがあったそうで,
聞こえはよいが「トリプルスタンダード」,所謂「三股」の状態が,2003年の時(11歳)には有ったとの確定情報である.

 だから,学習院大学には進学せず,ICU大学に入学となった経緯があるのだ.
それは,小学生の頃から,良く知っている男性達とは別の学校に行きたくもなるだろう.

 ただ,それだけで話が済む分けではない.
なぜなら,小学生の時から性的な接触を堪能されているのだから,やはり“虫が騒ぐ”.

学習院からの男性は『Aグループ』
ICUの男性は『Bグループ』
その他の男性は『Cグループ』

 といった具合に男性との交友を堪能されてきたのである.
この期に及んでも「トリプルスタンダード」をやめる事ができないそうだ・・・.
恋愛に於けるA-B-X理論考察(共通認識の敵)参考文献を参考にされたい.
 ある意味で『政略的な』・・・.
いや,『性略的な』と言った方がしっくり来るだろう.
そんなこんなで,ICU大学の彼が『処女ゲット』と,国民に対する処女であると云うイメージ形成をおこなったのだ.
にわかには信じ難いかもしれないが,これが現実の話である.

そんな事があり,触れられたらマズイ話は,
大学時代で印象操作を行い,封印しようとしている.と云う事だ.

 世の中には『表向きの顔』と『裏側の顔』がある人は沢山居るが,
これ程の“顔”をお持ちの方達は早々居ないだろう.

 また,秋篠宮家にO脚の血は入っていない.にも拘らず,長女がO脚なのは?(紀子様は出産してからO脚である)
幼少期に性的虐待を受けている少女を見つける際には,O脚か否かを見る事もある.
なぜならば,行為時に膝に負担が掛かるから,成長期は関節や骨格が固まりやすい.

 したがって,足を閉じて滑走するスキーをやらされている.(三笠宮の薦めだそうだ)
但しお嬢様の場合は,虐待ではなく個人的な趣味嗜好の類である事は言うまでもない.
これは,※宮様スキー大会(札幌・旭川富良野)の関連と,歴史の捏造を引き継ぎさせる目的もある.(一石二鳥との考え方)

 学習院かいわいの一部では有名な話であるようだが,週刊誌にも出てこない話である.
それは,週刊誌も書けない話だろうと納得して頂けた事だろうと思う.
※許婚がいる御家柄とはそういうものでもある.これが現実である.(結婚相手と彼氏とは別と云う考え方)

※2011年‐2012年に御両親が記者から渦中の男性について聞かれた際,
「私達の青春時代を思い出します(婚約していた)」と会見しており,世界中に,「二人は婚約している」と云う事を公開しております.
それが2014年9月にはっきりと数字となって表れたと云う事になります.

次の項目では,何故,婚約しているのか・渦中の男性には『どの様な政略的な意味があるのか』について述べてゆきます.


【追記情報:2018.07.06(2016+2017も追記したがデータが飛んでいる為,再掲)】

 これらの話に関してですが,眞子さまは,2012年6月から小室圭さんと付き合っていたと云うのにこれです・・・.
英国内の銀行系(金利操作で問題になった)で働いていて,フットサルのチームにいた人です.
だから,わざわざ小室氏の話題でフットサルをアピールして誤魔化そうとしている事実があるわけです.


 これらの事柄は,その男性がTwitterをやっていたから特定できた事実です.
まだTwitterをやっているでしょうか?

 そもそも,2012年の留学先で『良い相手を探して来い』と秋篠宮文仁親王が言っていたんですよね.(週刊誌報道)
にも拘らず小室圭 氏を投入したのは,これらが内部で露呈したからです.
交際を認めていたなら『良い相手を探して来い』とか,そんな事言わないですよね?

この矛盾点を明確に説明できる事が,これらの事です.

 あとは,人物像のすげ替えで,『銀行系の人物』やら『二股』やらを誤魔化しにかかったって事です.(現状=結果論です)
これが眞子さまの本当の姿です.
これらを皇室や宮内庁ぐるみで“この国の為”と云う所に話を集約し,誤魔化そうと必死なのです.

※皇后陛下(美智子さま)と紀子さまが危惧している事は,これらの事実が世間に知れ渡る事でもあるわけです.(宮内庁発表の“雑音”声明文)

小室圭 氏の二股疑惑が出てきたのは,眞子さまの男性との関係に関する話を挿げ替える為だった訳です.(事実,小室圭 氏も二股をしていた様ですが)
ですから,『銀行系』『サッカー』『二股』といった具合に,人物像のすげ替えをひた繰り返してきている訳です.

《※皆様,皇室以外で見た事ありますか? 自分の娘の男遊びを,親族ぐるみで正当化しようとする人達を・・・.》


【眞子様と小室圭さんと山守さんの三角関係】

 ICU大学時代,山守さんも小室さんも同じスキー部員だったとの話が週刊誌にて報道されていた.
そのスキー部に,眞子様も居た事実があります.
少ない人数のスキー部内で,眞子様は,男を取っ替え引っ換えしていた事実があります.
しかも,小室さんに乗り換えた後も,山守さんも居るスキー部で活動を継続していた事実があるわけです.

 2011年,週刊誌にて,眞子様と山守さんが布団の上で寄り添っている写真が報道されました.
2012年には,記者会見の場に於いて,2人の関係を質問された紀子さまは,
『私達の学生時代を思い出します.うちの娘は爽やかな青春を送っております.』
上記の回答をしております.

 しかしながら,眞子様と小室圭さんは,2012年から付き合っていると話をしております.
したがって,上述した,「スキー部内で男を取っ替え引っ換えしている」事実が鮮明となるわけであります.
よって,「小室圭さんに眞子様が騙されている」と云う風潮は,あまりにもおかしいと云う事に気が付きます.
どこが『爽やかな青春』なのでしょうか??

 2012年の留学中に英国で知り合ったアジア人や日本人とも関係を持っているのも眞子様です.
その時期,既に小室さんと付き合っていた事実が鮮明となっております.

 また,美智子様は,孫である眞子さまの男漁りの結果に心を痛めているのではなく,
それらの話を出している世論に心を痛めていらっしゃるようでして,
孫の酷さに愕然とするどころか『“雑音”声明文』を宮内庁から発表するありさまです.
皇室を擁護したいなら,男漁りの数々を正当化できる方法を全国民で考えてあげては如何か,と思う次第であります.

※これら眞子様の異性関係に関する趣味嗜好の何処が,『この国の為』として正当化できると云うのでしょうか!?
国際的な問題を,自分の娘の男遊びの趣味嗜好を正当化する為に利用している事実があるわけであります.
したがって,眞子様の異性関係について,このように記述する必要がある訳であります.
即ち,プライバシーや人権を盾に言論を弾圧する事は,絶対に許されない事となる訳である.

※宮内庁職員や警備を担う警察官は,この様な皇族の為に職務を遂行している事に誇りを持ちましょう!!
(私ならば御先祖様に顔向けできなくなりますが…)


※心理学応用テクニックと"複数の男性との関係維持"について
■歌会始の儀(林ありて"下陰")
■秋篠宮眞子内親王殿下発表の歌と,その意味
■佳子さまの婚約相手と身内で話をスリ変える(林)
■皇族発表の私を貶す和歌
上記を御読み下さい.

恋愛に於けるA-B-X理論考察(共通認識の敵)参考文献
日本福祉大学福祉社会開発研究所『日本福祉大学研究紀要−現代と文化』
第130 号 2014 年9 月
友人関係の進展過程におけるパーソナリティの類似性認知 および一致・不一致事象の変化について(※PDFファイルです)
著者:吉原 智恵子

眞子さまの婚約相手と結婚相手のストック要員と、眞子さまの彼氏や元彼関係の写真(イメージ画像)

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秋篠宮妃紀子と皇太子妃雅子に隠された本当の意味と
眞子様や佳子様の婚約や結婚相手と三笠宮

 青森を強調する小和田家の墓と川嶋家の分骨,北海道の三笠市と三笠宮家,
道東の"ハマナス(皇太子妃のお印)"と,"知床世界遺産登録"と"オシンコシンの滝"
(島流しになった平家が流れ着きアイヌにその話が残ったとする仮説),

 この事柄と,古事記記載の蝦夷地へ島流しとなった平家の話.
(東北が蝦夷地と言われるが,この状況は,明治から始まっているので,北海道を蝦夷地とみる)

 道央(西沿岸部が道央)と石狩の"ハマナス"と西沿岸部の旧家の家紋(笹・竹),
戊辰戦争の絡み(明治維新・張作霖爆殺事件・満州事変)から来る誤魔化しの為の政略結婚.

 三笠市開拓の三重県出身者であり,三重県出身者が集まるのは富良野である.
ようするに三笠から富良野開墾に行った三重県出身者に視線逸らしを行っている.(秋篠宮の富良野への公務・旅行)
札幌の琴似兵村(伊達藩出身者も居た)※注:PDFファイル に居た私の先祖を隠す為に,
旭川方面の開拓藩である伊達藩所領地への視点逸らし.(富良野)

北海道開拓(蝦夷地)と入植した藩の分布図:北海道観光入門『行政編』の写真(藩の分布)


 これに付随する,川嶋家が仕組んだ謀略と,それを誤魔化す為の政略的な結婚.
『富山県の守山氏を隠す為』の,『愛知県名古屋市守山』の話と,
『愛知県の赤十字病院に勤務する父を持つ秋篠宮長女の結婚相手』.

『出雲大社との仲直り結婚』と云う意味を全面に押し出した『高円宮の結婚』と,『奈良県秋篠から取ったと云う秋篠宮』.
古事記に記述されている『奈良県から天皇一行が大阪-名古屋に行き現地勢力と対峙した話』.
この奈良県(秋篠)と愛知県名古屋守山(奈良〜大阪)の話を利用した『富山県守山からの視点逸らし』.
(私が述べているのは,富山県高岡瑞龍寺ではなく,富山県"瑞龍山(瑞龍寺)"の方ですが,天皇家は公務を利用し,高岡瑞龍寺に視点を逸らしています)

※私の曽祖父は現在の夕張・三笠を農地開拓し,札幌開拓に入ってきた.
三笠・夕張は,元々は炭鉱で始まった村ではない.(私の家と三笠市・三笠宮)

現在の状況を見れば判るとおり,天皇家が嵌められているのではなく,天皇家自らが謀略を組んでいる現状である.
いわば,軍部の責任に集約したのと同じ理論で,現在は政府・外務省・宮内庁・等々に責任を集約しようとしているのである.

これまでの事を御読み頂ければ分るとおり,

『世界中が山守さんとの結婚を祝福しています』

と云う事になります.
ここまで謀略を行ったのだから,山守さん以外との結婚は許されないと云う意味での『祝福』となります.(国際的視点です)
これが,世界的な圧力と流れである事が判ります.

※北海道と皇室の動きに関する明確なる相関性に疑問を持たれる方も多い事と思われます.
下記の『※A:仁和寺宮』の項目を御読み頂きますと御理解して頂ける事と存じます.

※A:仁和寺宮(小松宮-伏見宮)蝦夷地(北海道)開拓と第二次世界大戦の謀略《公文書 解説》


※政略的に必要な"複数の男性"との関係を維持している証明
■歌会始の儀(林ありて"下陰")
■秋篠宮眞子内親王殿下発表の歌と,その意味
■佳子さまの婚約相手と身内で話をスリ変える(林)
■皇族発表の私を貶す和歌
■政略的に必要な男性を複数維持する心理テクニック
上記を御読み下さい.

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秋篠宮家(紀子さま眞子さま佳子さま)の公務と矛盾した会見と歴史の捏造

 天皇家は公務を行われているが,特に目立つのが『海外公務』
即ち,『皇室外交』であろう.

 秋篠宮文仁親王ご一家は,『自分達は受身の公務ですから』と云う事を述べられてきた.
このような発言は,誕生日の会見や,結婚記念日の会見など,多岐にわたる.

 その上で,今一度,秋篠宮様の述べられてきた発言を順を追って分析してゆくと,
全ての事柄に関し,整合性が取れず,論理破綻を起こしている状態である事がわかる.

判り易いよう,氷山の一角を記述してゆく.

 皇室外交や国内公務に於いて,歴史の捏造の為の動きが明確に出ている.
ただ,皇室外交と云う海外公務を行っておきながらも,不都合が生じた際には,
"宮務官の逮捕"と同様,誰かに責任を擦り付ける事が常となっている.

 具体例を示すと,"海外で皇室外交"と云う海外公務を行った際に,相手国の重役から
『観光で来たのですか?』と聞かれたそうである.

 この話を,世界中が見ている国内での記者会見で平然と秋篠宮ご夫妻が述べた挙句,
『自分達は受身の公務ですから』と云う事を常に言ってきた.

 ここで外務省や宮内庁に責任転嫁をしておきながらも,
ご自身が良い格好をする為であろうか,
『うちの娘には,せっかく頂いた公務だから選り好みするなと言っております』
と云う矛盾した発言を,会見にて,国民や世界中に向け言ってきた事実がある.

したがって,はっきり分かる事柄は,以下の"3つ"となる.

1:公務は選べる.
2:公務は受身で選べない.
3:皇族全員で謀略を遂行している.

 上記のように,矛盾した事を平然と世界中に向け披露している.
当然,これらの事柄は,一般人の私でも判る事なのであるから,世界中に分析されているだろうと思う.

 その他であると,記憶に新しい事柄として,歴史的人物との関係にまで至る.
それは,秋篠宮佳子内親王(佳子さま)が,
"ケネディ家の御子息と家族ぐるみのお付き合いをされている"との報道がされていた事である.

 しかし,これだけ歴史の捏造を遂行し,矛盾に満ちた発言や行動を取り続けて来たのであるから,
単なる家族ぐるみのお付き合いと云う"爽やかな報道"ではないだろう.

 秋篠宮家もとより天皇家と日本政府は,国際社会に対し,云わば喧嘩を売ってきた言動行動が其処にある以上,
ケネディ暗殺事件で有名なケネディ家と関係を持つと云う事は,

『私たちが死んだらアメリカに殺されたと思って下さい』

と云うアピールと保険掛けをおこなったと視る以外にない.

 それも,佳子内親王(佳子さま)とケネディ家の御子息と個人的に知り合ったのではなく,
"外務省が引き合わせた"と云うネットを利用した情報の流布がある以上,
この話を公表していること事態が,『保険掛け』の要素であると云う事が明確となる.

 また,秋篠宮紀子殿下(紀子さま)の発言が週刊誌に掲載されたが,その発言内容とは,
『私は将来皇后になる人です・庶民なんて・将来の天皇(悠仁親王が居る家なんです』と云うものである.

 秋篠宮紀子殿下(紀子さま)の話が本当ならば,自身の方が皇太子妃雅子殿下(雅子様)よりも皇后に相応しく,
将来の天皇がいる自分の家こそが天皇皇后両陛下となるに相応しいと思想していると云う事であろう.

 また,『子供は親の背中を見て育つ』と云う考えから分析すれば,
『自分(秋篠宮紀子が皇后で,夫(秋篠宮文仁が天皇』と云う状態が相応しいとの御考えであろう.

これ以外であるならば,
『皇太子が秋篠宮よりも先に死ぬか,天皇としての責務を果たせなくなり退位する』
と云う確信が秋篠宮ご一家(秋篠宮紀子にはあると云う事になる.

 また,あえてこの話を週刊誌に書かせる事によって,身内(天皇家内部での仲間割れを防ぐ目的も見えてくる.
心理学的には,都合が悪い事柄は,否定する発言よりも肯定した発言をとる方が,相手自ら否定的に捉える.

〔例〕
警察:お前怪しいな!泥棒しただろ!
犯人:あー!さっきね!オレオレ!俺,泥棒!笑

 この様な言動を敢えて取る事で,全体からの疑念を,全体自らが払拭(誤認)するように,
誤った解釈を引き起こす事ができる.
※ちなみに,秋篠宮紀子殿下(紀子さま)は"心理学を勉強している"との事である.

したがって,実際に普段から秋篠宮紀子殿下(紀子さま)は自分が皇后になる事を考えていると云う証明となる.

 恐らく皇太子殿下や,その他の皇族・関係者に対しては,
『ネット上でも対立していると云う工作をおこなっていますから,世間の目を逸らす目的で週刊誌に書かせましょう』
とでも言ったのだろう.
そうでもしなければ,秋篠宮家の本心が露呈し,身内での対立に繋がるからだ.

 さらに,今後の事としては天皇や皇后といった,高齢の皇族も多い.
したがって,この様に,秋篠宮家のような皇族のみが次世代となるのであるから,何かに付けて,
『次世代の皇族の結束力固めが必要な時なのよ』などと云う頭の中に花が咲いている者しか居ないと云う証明でもあろう.
〔はじめに〕でも記述したが,EXILEを即位記念式典に呼び,喜んでいるレベルだから仕方が無い.(社会問題や国民性すら分かっていない)

お遊びでは済まない事であると云う自覚がまるで無いようだ.


【秋篠宮眞子(眞子さまが博物館へ就職した裏の意味】

 秋篠宮眞子内親王(眞子さま)が博物館学を学び,現在は博物館へ就職されているそうだ.
博物館といえば,北海道大学植物園博物館に展示されている『羆の剥製』があるが,
この剥製は,『丘珠羆事件の羆』であり,"明治天皇が御覧になられた"羆の剥製である.

 これらの事柄を分析してゆくと,さらなる歴史の捏造と,自己正当化の為の保険掛けが明確となってくる.
千葉県我孫子市に,"鳥の博物館"がある.
これに絡み,博物館で動いた際には,北方領土=クリル諸島に生息する鳥である,『エトピリカ』に絡む事となる.

 これに絡めば,ロシアと北方領土(クリル諸島)問題が解決した際には,秋篠宮眞子(眞子さま)がヒーローとなる事ができ,
道東の方面でアイヌとの結びつきで明治政府の謀略を隠蔽する事もできる.

 その他ならば,シャクシャインの戦い(函館と,戊辰戦争(函館絡みで,
伊達家や会津の方向性で,明治政府から続く歴史の捏造(世界大戦の戦争責任を隠蔽工作する事ができる.)

 万が一,都合が悪くなったら丘珠羆事件と明治政府の謀略を,秋篠宮眞子(眞子さま)が暴き,
北海道にて発生している冤罪事件や,道庁・北海道警察本部爆破事件を解決したヒーローになろうと云う魂胆が見える.

 さらに,稲葉事件の舞台である小樽には,アイヌが儀式を行っていた地がある.
この事は,小樽博物館にて出土品の解説などと共に見る事ができる.

 そのうえ,オショロとは,『貴重な・珍しい』と云う意味合いのアイヌ語が語源であり,
魚では『オショロコマ』と云う魚が北海道に生息していると云う事柄もある.
そのうえ,天皇陛下は魚類学者でもあるので,天皇を保護する保険掛けの意味合いをも含む事となる.

 明治時代から保険掛けや自己正当化の行い方が,まるで変わっていない事が判る一例ともなっている.
要するに,どちらに転んでも,自分達はヒーローになりたいと云う御考えのようである.


【関連事項と国際動向】
1.米国,高速鉄道の事故(運転士は事故前後の記憶が無い)
2.インドネシア,鉄道の発注を中国へ
3.英国,原発の発注を中国へ
4.日本人米国留学生の交通事故
5.英国,博物館学やるなら英国でやれとのアナウンス
6.ロシア,航空機事故(321便)
7.ウクライナ,ガスプロム社とロシアと欧州の繋がり
8.福島の物産展を海外で
9.チベット,ダライラマ14世を札幌へ
10.話は通っているはずの安保反対運動に対する米国の怖い発言(注目しているが"日本の内政の問題ですから")
11.アフリカの開発と自衛隊の陸地測量部隊
12.国際的情報共有網から蚊帳の外の日本
13.自己保身に明け暮れる,名がある一族
14.オリンピックが日本に決まった訳
15.王族がメディアに出てくるようになった理由
16.日本大手通信検索事業社が米国での回線事業を蹴られた訳とアリババ・日本財閥の関係
17.米国でのシェールオイル事業から日本財閥が追い出されている現状
18.米・中・英が"狩り作戦"を遂行している眞の目的と最終警告(古から伝わる狐の特性は,眉唾)

これらが,日本が行っている事柄の結果である.

 ユダヤの金融資本が悪いと云う考えは,日本が戦争責任逃れの為に『歴史捏造』を繰り返す為に作られたものである事は述べてきたが,
そもそも,日本と云う国は,ナチスドイツと連盟していた国である.

ナチスドイツと日本の集合写真(歴史的写真)
秋篠宮文仁(初代ビートル改)カスタム車両の写真
写真⇒ナチスと日本の歴史写真

※ちなみに,秋篠宮文仁親王殿下は,『ナチスドイツが製作を指揮した初代ビートル』に乗っていた.
車としては良い車であるが,立場上,それが意味する事は大きい.
尚,このビートルの購入を勧めたのが『天皇陛下の娘である清子内親王(黒田清子さん)の夫であり,文人親王の学友』でもある.

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眞子様と彬子様‐富士急様と山守様‐婚約と結婚‐皇室と政府の裏工作と印象操作

この項目に関しましては,今まで記述してきた事柄との明確なる相関性を指摘できる例を挙げてゆきたいと思う.

 男性との御交際に関しても,トリプルスタンダードの眞子様(天皇家)であるが,
大変恐縮であるが,何故,清子内親王の結婚相手が,なかなか見つからない事態に発展したのか?
想像するに容易い事柄を下記にて述べてゆきたいと思う.

 先に解説から始めようと思う.
まずは,写真〔1〕について.
写真〔1〕は,国民に浸透している『天空の城ラピュタ』のワンシーンにある,
『パズーとシータの鳩に餌やり(トランペット)』で「鳩に群らがわれる」のイメージを使った一枚となる.

“白い服”と“鳩”,後ろで男性が『参ったな〜』と頭に手を当てている写真となる.
日清製粉が協賛となっている,ジブリのイメージを思い切り使ったイメージ形成手法と見る事ができます.
天空の城ラピュタでシータが鳩に群らがわれるシーンの画像
紀宮清子内親王(princess sayako)黒田清子さん結婚前の写真


 お次は,写真〔2〕について.
2013年か2014年に,眞子様が,伊勢神宮への参拝をされた時の写真である.
『白い服と逆光』で,『光が透ける柔らかき木漏れ日』をイメージした写真となる.

 具体的なイメージとしては,『学校の教室に差し込む柔らかき日の光・木漏れ日』といった所であろうか.
この手法は,『学校・学園物のアニメやドラマ』などで,"純粋無垢なイメージの描写"を描く際に,よく利用されているものである.
具体的な描写としては,"学園物の青春ラブストーリー"など,純粋な恋愛劇を描く際に多用されている物である事と思われる.

秋篠宮眞子(princess mako)眞子さまが伊勢神宮に参拝した時の写真


 したがって,写真〔1(鳩とラピュタ)〕:写真〔2(木漏れ日のアニメ)〕につきましては,
どちらの写真も『純粋無垢』をテーマとした写真となる事が判ります.(清子内親王の時と似通っております)

 この他でありますと,写真〔3(アナと雪の女王)〕と云う事柄がある.
これは,撮影者の真意が見えてくる写真であると私は思う.
真意とは,個人的には《ディズニー映画のシンデレラ》だと思うが,皆様は如何思われるだろうか.

1.写真〔1〕⇒http://i.imgur.com/rvpPDii.jpg(鳩とラピュタ)

2.写真〔2〕⇒http://i.imgur.com/Q1fdmO3.jpg(木漏れ日)

3.写真〔3〕⇒http://i.imgur.com/MvehWiv.jpg(アナと雪の女王)


 何故,この様な撮影手法と国民に対するイメージ形成を行わなければならなくなっているのか.
それは,私が今まで述べてきたような事柄が事実有りますので,
これらイメージを総合的に払拭する必要性が出てきている為であると私は思う.

 宮内庁としましても,『皇后陛下:美智子様』と『作家・俳優・右翼:三島由紀夫』の噂を気にされているようでありまして,
イメージの一新と,払拭を試みている為であると思われます.

 つきましては,上述した事柄を払拭する為の一端も含めた,下記の"3つ"の事柄に直結してくるかと思う.
1:『三島由紀夫と"演劇・映画・右翼"』
2:『野村秋介と"演劇・映画・右翼"』
3:『大学の彼氏(山守凌平)と"演劇・劇団・ネット右翼"』
(二度ある事が三度有ったら困るといった所でしょうか)

 また,眞子様は,ICU(国際基督教大学)を,ご卒業された際に,『今後は生活水準の向上を目指します』との事を会見にて述べられておりました.
生活水準とは,現代では,夫(旦那)が築き上げるのが通常の事となっているかと思われます.

 したがって,これに於いては,結婚の先延ばしを,お考えとの"国民向けの公表"である事が判る.
万が一,山守凌平との御結婚を破棄しなければならなくなった際に,その他の結婚相手の確保をも含める必要性が有るが為に,
トリプルスタンダードの公表を,眞子様がされたと云う事を,窺い知る事ができる会見と云う事となるのである.

三笠宮彬子女王と秋篠宮眞子内親王と富士急の御子息と山守凌平の相関性(宮様スキー大会)

 三笠宮彬子女王についてであるが,お名前には『彬子』と云う漢字があてられている.
つまり,結果論から記述する事となるが,『林に逆さんずい=さんづくり』である.

 "さんずい"は,汚職を意味する検察用語でもあり,
秋篠宮様の御嬢様の結婚相手と噂されている富士急ハイランドの曽祖父の名は『林さん(元:満州鉄道総裁)』である.

 しかし,彬子女王や瑤子女王が生誕された時にはまだ,方針が固まっていなかったようである.
したがって,秋篠宮家が創設され,眞子内親王(眞子さま)を誕生させる事が決まるまで,方針は固まっていなかったと思われる.

 したがって,眞子内親王(眞子さま)が産まれる時期に合わせて,富士急ハイランドの御子息を誕生させた事が判る.
よって,眞子内親王(眞子さま)を主軸とした歴史の捏造が行われている現状があり,
当時は保険掛けとして用意されていた,眞子内親王(眞子さま)の"山守凌平さん"が,大学からの彼氏であり,結婚相手である状態となった.

 しかし,浩宮(皇太子)は"サンズイにツゲル(告)"である.
これぞ正に,ダブルスタンダードと言わずして何であろうか.

 それどころか,『彬子』と云う名の意味合いを破棄したのが,
その父親であらせられる三笠宮寛仁親王と皇后陛下の美智子様である.

『満州事変に始まる先の大戦をもう一度よく学び直し・・・』と云う天皇陛下の御言葉に対し皇后陛下は,
『岸と云う字を歳時記に見ず』+『来し方(岸方)に元問う文の林ありてその下陰に幾度いこいし』
と云う"和歌"を歌会始にて発表されている.

 即ち,山守凌平(ウ冠に寸+平を凌駕する・凌辱する)の意味合いが決定した事となる.
山に瓦を干す(岸+安倍+山守)の案に皇后は反対している.と云う意味合いを自ら棄却した事が判る.

 ようするに,『満州事変に始まる先の大戦をもう一度学び直す=張作霖爆殺事件〜2.26事件〜明治維新』
と云う保険掛けの意味合いを破棄した事となる.

 さらに,宮様スキー大会にて,旭川(富良野=三重県からの入植者)と札幌(丘珠神社)と云うダブルスタンダードの姿勢もある.
この大会に秋篠宮杯が無いのは,目立ちたくないのと,保険掛けのダブルスタンダードであろう.

 彬子女王の父親であらせられる三笠宮寛仁親王は,2008年頃に,自らの娘の名の意味合いを破棄し,山守に賭けた事となる.
山守の案を発表しなかった時の為に,娘である瑤子女王が日本赤十字社に勤めた.

なぜならば,保険掛け(山守+赤十字)の要素を有耶無耶にする為の日本赤十字社勤務だからであろう.

 この様にして,今までの事柄は消せない事実(結果)であり,保険掛けのおこない方が露呈したのである.
したがって,これらの事柄(過去の行動言動)事態が結果となる.


全日本スキー連盟(明治天皇崩御の日7月30日に内閣府より公益財団法人の認定がなされる)


尚,上記画像は,『全日本スキー連盟』の概要を画像キャプチャしたものである.
全日本スキー連盟は,「宮様スキー大会」を運営・協賛している「北海道スキー連盟・札幌スキー連盟」の上部団体である.
御覧頂くと分かるとおり,『2013年7月30日に“内閣府”から公益財団法人として認可を受けている.(北海道スキー連盟も同日認可)』

ちなみに,《明治天皇が崩御した日もまた,“7月30日”》である.
即ち,私が
1.『【仁和寺宮(小松宮彰仁親王‐伏見宮)と蝦夷地開拓(北海道)の暗号公文書(開拓使日誌)‐《明治維新》】』

2.『【天皇家と北海道】秋篠宮紀子様と皇太子妃雅子様に隠された意味(結婚相手と三笠宮家)】』

上記2項目にて述べている,北海道及び,スキーと云うスポーツを利用した,“歴史の捏造”
及び“隠蔽工作”に繋がってくる可能性が高い事柄の一つとして挙げる事ができるものである.
これらの事柄の相関性及び,確率論から導き出せば,7月30日に内閣府から認可されたのは必然の事柄となる.


※尚,私は,スキー連盟に直接電話を入れ,7月30日に内閣府より認定を受けたのか否かの確認を行った所,
間違いなく7月30日に認定を受けたとの事であり,
公益財団法人として“実務を開始したのが8月1日”との事である.(証明可能)

さて,『宮様スキー大会』に関連している皇族は何人居るだろうか?


 また,三笠宮寛仁親王は対談形式の会見(コラム)にて,
『うちの娘は,ああ見えてモテるんだ』と言われていたが,
この様な発言をされた年代から考えても,現在の様に,降嫁されていない事は,全くの予想外・想定外であったようである.

 その一方で,秋篠宮様の女性宮家を欲する行動は,娘である眞子内親王(眞子さま)に総裁職を譲っている事でもはっきり解る.
また,宮号は名字ではない為,秋篠宮様の御嬢様が結婚しても公表する義務が無い.(相手に迷惑が・時期を見て公表等)

 では,三笠宮家・高円宮家・皇太子家はどういう状況であろうか?
日本が英国で開催させた『福島の物産展』に顔を出したのは,秋篠宮眞子内親王(眞子さま)である.

 福島県産の流通品目は現在,安全である事と思うが,2011年当時の環境や報道を見ても判るように,
現在の基準値以上の物が流通していた事も事実であろう.

 したがって,現在は安全な品目であっても,将来的に何らかの健康懸念が出た際には,
生産者に対する,ある種の『非情理な矛先が向かう事』も安易に予測できる.

 にも拘らず,福島の物産展に私的に出席されたと云う事は,"官僚や関連組織"に対してのアピールと云う他無いだろう.
したがって,先述した,六次産業化と輸出機構に関連するアピール(経産省と内閣府)である事が明確に分かる.

 尚,チェルノブイリ原発事故は現在,事故から30年(2016年)である.
2026年には,事故から40年となる.
2036年で,50年となり,世界の平均寿命より短い寿命の算出統計が出た時点で,深刻な問題を引き起こす事は必至であろう.

 タバコよりも害は少ないとの報告書があるが,これについては,読んで字の如く,そのまま当時の予測を出しているにすぎない.
三笠宮寛仁親王を見ても判るとおり,タバコは20〜30年で健康を害する可能性が高い.
したがって,仮に戦後100年を契機に戦後レジームからの脱却を日本の指針としていたとしても,その様な時間は無い事が判る.

 ただし,その一方で,秋篠宮様は,『農家さんや漁師さんの風評被害を純粋に払拭したくて・・・』と良い訳ができる状態にある.
(事実上,矛盾する説明となるが,国民に対しての説明だけを考えるならば,自らに向く矛先の分散にはなるかもしれない)

※六次産業化とオリンピックと官僚の天下り先を確保する事業

政府機関である農林水産省と外務省や経済産業省が推進する食べて応援の広告

 皇太子殿下が出席されている“世界水フォーラム”の関係から見ても,
"福島原発周辺の海洋汚染"は改善しようが無い事実であろう.(実際に政府としての見解で発言している)

 あくまでも,主観論ではあるが,竹田は,秋篠宮家以外の皇族で,ある種の出汁を摂り,秋篠宮様に還元するのが常態化している(いた)ように見える.
ご皇族に関連する方が,とあるコラムにて,真っ先に健康被害の懸念を発表した事からも,誰の為に動いているのか判る一例となっている.

 例えば,三笠宮様に関しては,彬子女王や瑤子女王が靖国神社に参拝されている事からも分かるように,
保守勢力(日本で言うところの右翼等)の受け皿の役割を果たしているが,ネット右翼などの主張で未だ強いのが,"放射脳"といった,
将来の健康に関する懸念を抱く方達を否定する際に用いる造語が広まっている事が見受けられる点である.

 しかしながら,万が一にも将来的に健康被害が露見された際には,現在の保守勢力の受け皿と云うよりは,
懸念が現実となった事に対する不信感の矛先が向けられる対象となる事が見えてくるのである.

 また,突拍子も無い事を言うようであるが,やはり竹田氏も男性である.
少ない皇族の中で万が一結婚相手を選ぶとなれば,若い女性が居る秋篠宮家を選ぶ事かと思う.

 皇族関連で報道された大麻についてであるが,大麻に関する現在の日本の立ち位置は,
安倍晋三 氏の夫人である,安倍昭恵 氏のtwitterによって立ち位置が見える.(大麻で町興し)
厚労省に於いては,医療用として医薬品の認可の絡みもある.(カンナビノイド製剤:THC製剤=がん患者や人免疫不全患者に対する処方)

 国内だけでも,表面的に,これだけ有るのだ.
国際全体を総合した相関性を,冷静かつ客観的に分析すれば,現状が判るかと思う.

 世の中を見たらわかる通り,女性が一番売れる時期は『22歳』までである.(芸能やキャバクラの世界を見れば一目瞭然であろう)
合法の範囲で言えば,18歳〜22歳までが売れる時期となる.

 これを過ぎたら,お客が付いていないキャストは,パブかスナックへも降りられない.
行く先は,風俗か真面目に働くかの二択であろう.

 何故,仮面少女は,若い女性を起用しているのか?
それは,商品価値がある(芸能),売れ時を起用しているからである.

 2026年に愛子内親王(愛子様“敬宮”)は,25歳となっており,
仮にスキー関連を秋篠宮眞子内親王(眞子さま)から愛子内親王(愛子様“敬宮”)にスライドしても,
『女性が一番輝いている年齢を過ぎている』状態となっている.

この状態にて,札幌オリンピックと云う話を出しているは如何なものだろうか?

 私に対し,秋篠宮家の長女である『眞子さま』を主軸に据えた工作を行っているが,
上述した事柄について,はたして理解されているのであろうか?

 したがって,竹田さんに関しましては,仮面少女を自らプロデュースしている訳では無いと云う可能性も見えてくる.
適当な表現が見つからないが,所謂,名義貸しかと思われる.

仮に名を貸しているとした際には,これではプロデューサーの顔に泥塗っていると言う他無いと,私は思う.


 例えば,『ダイエットして女を磨いて可愛くなってやる!!』
と云う,ある種の啖呵があるが,これ自体,美容業界の宣伝戦略である事は言うまでも無い.

 努力する事は良い事であり,女性は何歳になっても女性である.
しかし,現実を直視すると,そこに存在するのは,"美容整形業界の規模"であり,
『努力して可愛くなるならば,芸能人は整形しない』と云う事でもある.
『蓼食う虫も好き好き』『十人十色』と云う言葉が存在するが,如何なものであろうかと私は思う.

 私は,この様な事を言えた顔では無いが,現実と云うものは,ある種残酷であり,物事の道理であると思っている.
したがって,上述したような事柄が有る以上,心苦しいが,述べさせて頂いたしだいである.


高円宮承子さまの許婚‐彼氏と婚約と結婚‐秋篠宮眞子さま(1997年or1999年)

 これは,私"実態を知る者"が小学生の時であるが,1997年or1999年の話である.
なにぶん,古い話であるが故に,私の記憶も朧であるが,記述してゆきたい.

 1997年or1999年の春頃であったが,私が通っていた学校での事である.
私の学校の付近にとある政党の方が暮らしているのだが,何時限目かまでは忘れてしまったが,
授業の合間に休憩時間と云うのがあった.

 この休憩時間に,私の同級生が窓から外を見て何やら騒いでいたのである.
そんな事もあり,私が4階の窓から一緒になって外を見ると,
その政党の方の御自宅の敷地内の縁側にて,自分とさほど変わらないと思しき年齢の男の子と女の子が,重なるように縁側に横になり動いていた.

 初めは,何をしているのか分からなかったのであるが,同級生との会話の中でようやく察しがついた.
そう,性的な行為を行っていたのである.

 これは教師に言わなければと思い,同級生と話したが,やはり小学生(思春期)である.
「いや,こんな事を言ったら俺達が騒がれるんじゃないか?」と云う話が主導し,その時は話を出さずにいた.

 翌日,同じように窓から,その御自宅の庭を見ていたのであるが,その時にも同じように行為の真っ最中だった.
そこで私は,教師にその事を話したのだが,この後,大きな動きが出る事となった.

 教師にその旨を伝えた所,「うちの生徒じゃないよね!?もう学校の休み期間中じゃ無いよ!?」と私に訊いて来た.
私は,誰なのか分からないが,確かに同じ年代だと伝えたところ,血相を変えて職員室に向かった女性教師.

 これから1時間経過した次の授業の休憩時間中に,先程の女性教師と,もう一人の女性教師に私は呼び出された.
そのまま外に連れて行かれたのだが,そこに居たのは,不機嫌そうに女性教諭にきつい言動をとっている中年の男性であった.

 私の姿を,その中年男性が認識した時点から,中年男性の態度は軟化した.
『きみ,どこの窓から見えたんだい?』と優しそうに話しかけてきたその中年男性.
そう.この中年男性が,とある政党の家主である.

 私は,自分が見ていた窓を指し示し,「あそこの窓から見ました」と答えた所,
その中年男性は,「何かの見間違いじゃないのかい?」と私に言ってきたのであるが,
見間違いではない事は確実であるので,「間違いなく見ました」と返答した.

 その直後,中年男性は女性教師に対して,
中年男性:『今,本州の方に住んでいる親戚の子供達が遊びに来ているんですよ〜.学校が休み中でして.笑』
と説明し始めた.

中年男性:『北海道とは休みの時期が違うんでしたよね?笑』
中年男性:『確か教育制度と休み期間中の振り分けが各地域だったかな?確か決まっていたはずで!笑』
中年男性:『いや〜,先生達も,他の地域と休みの期間が違うと大変でしょう!?集会とかの日程で結構話題になってますよね〜!笑』
中年男性:『私も,休み期間は全国統一した方が良いと思っていまして,今度議会に提案してみようと思いますよ!笑』
この様な会話を,先程の剣幕は何処に行ったのか?と云う程,元気に笑顔で話し出したのである.

 この時点で,女性教師は何かを悟ったのだろう,
「うちの生徒じゃないんですよね?」と,怪訝な表情と声で訊いたのである.
「子供が見たと言っている話は本当ですか!?」と,切り込んだ話を中年男性にし始めた.

 この時,中年男性と女性教師は,
中年男性:『いやー.子供は多感な時期ですから,何かの見間違いじゃないですかね!?』
中年男性:『起きた後に,ラヂオ体操でもやっていたんじゃないですか?』
中年男性:『ストレッチかもしれません!スポーツやっているものですから!』
中年男性:『それに,親戚の子供と"お友達"は中学生…だったかな?』
女性教師:『中学生って・・・.』
中年男性:『あ…いや,高校生だったかな??』
中年男性:『まあ,いずれにしても,もう大人ですし,お相手の親御さんとの関係もあっての事ですから』
といった,やり取りとなったのである.

 このように,《親戚からお友達,そして家同士の交流と,本人同士の話しがついている》と,会話に激的な変化があったのである.
したがって,女性教師は,政党の中年男性に,事の詳細を,たたみ掛ける様に質問していたのであるが,
この時から,やはり不都合があったのだろう.中年男性が当初のような剣幕で話し始めたのである.

中年男性:『第一に,人の庭の中を覗くとはおかしいんじゃないか!?』
中年男性:『人の庭の中が見えるような所に窓がある事がおかしいんだ!!』
中年男性:『議会で報告して窓を塞いでもらう!!』
中年男性:『お宅の学校でも,まずは何か策を講じるのが当然だろ!!』
中年男性:『子供の嘘だって有りえるだろ!!』
女性教師:『子供が嘘をついていると言うのですか!?』
と云うやり取りであったが,態度は変わらずであった.

 この時点で,私は学校内に連れて行かれ,授業に戻った.
この時,女性教師は,他の女性教師と,
『用務員さんに話をして窓を塞いでもらおうか?』
との会話をしていた.

 翌日,私が学校に行くと,女性教師から呼び出され,窓の所まで連れて行かれた.
女性教師:『実態を知る者くん.どこの窓から見えたの??』
女性教師:『ここの窓??え〜?窓にいっぱいフィルム貼ってあるから見えないよね??見えないよ!?』
と云う事を言ってきたのである.
私は,この窓から見ていたと言ったが一向に聞き入れず.

 ここで,他の女性教師が出てきた.
他の教師:『子供が見たと言っているのに,無かった事にするのはどうなの!?』
女性教師:『この子の為にも,それが一番でしょう!?』
他の教師:『まあ,確かにそうだけど・・・』
女性教師:『だから,何も見なかったよね?見なかったんだよ?あまり話しないでね?』
といった状態で,「他言無用」で終わったのである.

 しかし,これから多少の期間を経て,とある転校生の女の子が私のクラスにやってきた.
名前は《高円寺か高円宮》と紹介された.
担任の教師が,女の子の紹介で,女の子に対して,
担任の教師:『コウエングウ?タカソノグウ?珍しい苗字だけれども,読み方これで良いのかな?』
転校生:『どっちでもいいですよ』
担任の教師:『コウエンちゃんか,タカソノちゃん.って呼んであげてね!』
担任の教師:『いま,お父さんが,こちらに出張で来ていているそうです!』
担任の教師:『普段は皆と違う学校にいて,一般の子供達とも触れ合わせたいと云う事で来ているからね!』
担任の教師:『少しの期間一緒に御勉強しましょうね!?仲良くしてあげてね!』
と云う紹介があった.

 この一定期間,私は普段と変わらずに生活していたのであるが,
私が,この転校生に話し掛けた時に,同級生が私に対して言った事がある.
同級生:『あまり話しかけない方が良いよ?子供作る事しているらしいから…』

 一瞬,戸惑ったが,この時,転校生が私に対して,
転校生:『私,嫌われているから話しかけない方が良いよ?皆に嫌われるよ?』
と言われたのである.
それから,私は関わりを持たなくなった.

 後の期間,2週間程度であろうか,この転校生が居たのだが,この期間中に,
転校生の女の子が,私のクラスにいる同級生の女の子の家に遊びに行ったと云う事で少々騒ぎがあったらしい.

 転校生が同級生の家に行った際,『紅茶やケーキも出ないの?』と同級生に訊いたらしい.
色々と話を聞いていると,結構な御家柄の御嬢様らしく,
普段いる学校の同級生や,周りの友人宅は,どこもこういった,"御もてなしが"普通の環境だそうだ.

それどころか,
転校生:『自分の周りは皆,彼氏とかと性的な行為をしているよ?皆遅れてない??』
転校生:『私は父親とも関係あるんだ』
この様な事を話していたそうだ.

 当然,転校生が遊びに来た同級生宅の親御さんは驚いたらしく,"役所の児童福祉課"や"保健所"に連絡を入れたそうだが,
対応策に関して返ってくる返答は一貫して同じだったと云う.
役所職員:『皇室の事でありますから,こちらでは対応できません.宮内庁に電話して下さい.』
役所職員:『皇室の事ですから,何かの儀式かもしれませんので,対応できません.』
と云う返答であったと言うのだ.

 そう,この転校生は,クラスの紹介では皇族と云う事に一切触れていなかったが,
同級生宅にて,自分は皇族であると云う事を明かした上で,上述した話をしていたと云う事である.
それは役所の職員も対応できかねるだろう事と,今になれば思う.

 私がこの様な"一連の騒動"と"話をしない方が良い"と云う関連性を知ったのは,
転校生が居なくなった後に行われてた,授業参観の日に親が集まって話をしているのを小耳に挟んだからである.

 ようするに,とある政党の庭の中での出来事から少しして,転校生は突然やって来た.
数週間で転校生が居なくなるまでの間に,同級生宅にて騒動があり,役所や保健所に連絡を入れた.

 しかし,転校生は皇族であったが為に,役所も保健所も手を出せなかった.
後にすぐ,転校生は学校から居なくなった.と云う事である.

 いままで記述してきた,"実態を知る者を利用したスケープゴート"は,
1997年or1999年の時点に於いて,既に発生している.と云う事である.

 即ち,一般の市立小学校との休み期間の誤差を利用し,誤差の期間だけ転校してきて居なくなった.
それも,《許婚か彼氏と云う事柄と,父親(高円宮憲仁親王)との性的な関係》を,《実態を知る者と歴史の捏造にかこつけて》,
誤魔化しと自己正当化を行い続けている現状の発端,それが1997年or1999年であると言える.

 残念な事に,ごく短期間の出来事であったが為に,写真等の記録などは無いが,事実である事に変わりは無い.
状況証拠等で整合性が取れるので,私は誰もが閲覧できるネット上に事実説明を公表・告発している現状があるのだ.

 この後も,今まで私が記述してきたように,
《歴史の捏造にかこつけた男遊びの誤魔化しと自己正当化》が,ひた繰り返されているのである.
但し,この事柄のみを見ていると,あたかも“高円宮承子(承子さま)”に関する許婚や彼氏と男遊びを誤魔化す為であるかのように見える.

 しかし,今までの経過を時系列順に並べて分析すると,“高円宮承子(承子さま)”だけではなく,
他の女性皇族である,《眞子さま・絢子さま・佳子さま》の,
《歴史の捏造にかこつけた男遊びの誤魔化しと自己正当化》が,ひた繰り返されている事が分かる.

 ようするに,天皇家では,《歴史の捏造にかこつけた男遊びの誤魔化しと自己正当化》は,
“1997年or1999年”から常態化していると云う事である.
したがって,これらに関連するスケープゴート事件として有名なのは《プチエンジェル事件》であったり,
《稲葉事件(北海道)》北海道警裏金事件であったりするのである.

 この国の為,皇室の為に,『彼氏や許婚や男遊び』を行っているのではなく,
《歴史の捏造にかこつけた男遊びの誤魔化しと自己正当化》が,現実である.

 したがって,警察組織や情報機関,皇族に関連する団体や国民は,
《歴史の捏造にかこつけた男遊びの誤魔化しと自己正当化》の為に利用されてきている事がはっきりとした.

〔鶏が先か卵が先か〕と云う水掛け論にもならないのである.

※プチエンジェル事件と高円宮・秋篠宮
高円宮承子(承子さま)と絢子さまと典子さまが、三笠宮嵩仁親王100歳の誕生祝をおこなっている時の写真
高円宮久子(久子さま)と承子さまと典子さまと絢子さまと憲仁親王像を囲んで家族写真


■ここだけ表示


プチエンジェル事件との関連性

 なぜ,プチエンジェル事件と云う事件が起きたのか,その真相を御存知でしょうか?
プチエンジェル事件とは,2003年に発覚した“小学生児童買春組織の名称”であります.

 発覚後,時期概要に関する警察の発表は二転三転・・・.
顧客リストに“大物政治家”や“医者・弁護士”などのエリートがズラリ・・・.

犯人は,きわめて不審な「自殺」を遂げている等など,異常な事態に発展していた“未解決事件”であります.

 当時,ポロリと出てきた話の中に,
ご皇族の「高円宮憲仁親王(2001年逝去)」の名前もありました.

 おや?これは何かがあるぞ??と思い,そこで詳しく調べてみた.
その詳細と,事件の成り行きを説明てゆく.

 事件に繋がる“裏側”の事実.
基礎知識として,『プチエンジェル事件とは?』を御読み頂ければと思います.
その後に,下記を読み進めて頂くと,事の真相が見えてくるかと思います.

■プチエンジェル事件とは?
⇒wikipedia:プチエンジェル事件とは?

※プチエンジェル事件と高円宮・秋篠宮


【眞子様の男性遍歴(彼氏)と,その経過】

ちなみに,眞子さまの初体験(ロストバージン)は『小学生の時』であるようだ.

 お相手はなんと,当時の許婚か彼氏? とのこと.
ただ,その許婚の男性の他にも二人ほど絡みがあったそうで,
聞こえはよいが「トリプルスタンダード」,所謂「三股」の状態が,2003年の時(11歳)には有ったとの確定情報である.

 だから,学習院大学には進学せず,ICU大学に入学となった経緯があるのだ.
それは,小学生の頃から,良く知っている男性達とは別の学校に行きたくもなるだろう.

 ただ,それだけで話が済む分けではない.
なぜなら,小学生の時から性的な接触を堪能されているのだから,やはり“虫が騒ぐ”.

学習院からの男性は『Aグループ』
ICUの男性は『Bグループ』
その他の男性は『Cグループ』
※秋篠宮眞子内親王(眞子さま)ご婚約と二股保険(恋愛心理学応用テクニック
 といった具合に男性との交友を堪能されてきたのである.
この期に及んでも「トリプルスタンダード」をやめる事ができないそうだ.

 ある意味で『政略的な』・・・.
いや,『性略的な』と言った方がしっくり来るだろう.
そんなこんなで,ICU大学の彼が『処女ゲット』と,国民に対する処女であると云うイメージ形成をおこなったのだ.
にわかには信じ難いかもしれないが,これが現実の話である.

 そんな事があり,触れられたらマズイ話は,
大学時代で印象操作を行い,封印しようとしている.と云う事であろう.

 世の中には『表向きの顔』と『裏側の顔』がある人は沢山居るが,
これ程の“顔”をお持ちの方達は早々居ないだろう.

 また,秋篠宮家にO脚の血は入っていない.にも拘らず,長女がO脚なのは?(紀子様は出産してからO脚である)
幼少期に性的虐待を受けている少女を見つける際には,O脚か否かを見る事もある.
なぜならば,行為時に膝に負担が掛かるから,成長期は関節や骨格が固まりやすい.(視線逸らしのミスリードの可能性も考慮したい)

 したがって,足を閉じて滑走するスキーをやらされている.(三笠宮寛仁親王の薦めだそうだ)
但し,お嬢様の場合は,虐待ではなく個人的な趣味嗜好の類である事は言うまでもない.
これは,※宮様スキー大会(札幌・旭川富良野)の関連と,歴史の捏造を引き継ぎさせる目的もある.(一石二鳥との考え方)

 学習院かいわいの一部では有名な話であるようだが,週刊誌にも出てこない話である.
それは,週刊誌も書けない話だろうと納得して頂けた事だろうと思う.


【彬子さま出席のスキー大会会場で爆発音 パイプ持った男を取り押さえ聴取】

 6日午前10時15分ごろ、札幌市清田区真栄の白旗山競技場で、
三笠宮家の彬子さまが出席されて開かれた「宮様スキー大会」の関連イベント中に爆発音がした。
北海道警は現場で金属製の筒を持っていた男が「自分がやった」と話したため、身柄を確保し爆発音との関係を調べている。
爆発音は彬子さまが挨拶などをされた直後に起きた。参加者を含め、けが人などはなかった。

 道警によると、金属製の筒は長さ40〜50センチ、直径3〜4センチで、爆発音がするよう仕掛けが施されており、
爆発音と関連があれば、火薬類取締法違反などの可能性がある。
男は聴取に意味の分からない答えをしており、道警は思想的背景などはないとみて任意で捜査を続ける方針。

 道警や関係者によると、当時は市民参加のパレードが始まった直後で「ドン」と云う音が1回した。
彬子さまは挨拶を終えて貴賓室に戻られる途中で、男との距離は十数メートルだった。会場には他に参加者や大会関係者ら数百人がいたと云う。

 大会のスケジュールに変更はなく、彬子さまも予定通り別の会場に移動された。
宮様スキー大会は3〜6日、札幌市内の複数の会場で開催された。

■産経ニュース
⇒彬子さま出席のスキー大会会場で爆発音 パイプ持った男を取り押さえ聴取

宮様スキー大会で爆発音(破裂音)の犯人の写真(画像‐容疑者‐白旗山にて)

3月6日に白旗山スキー場で開催されていた、『宮様スキー大会国際競技会』の競技種目のうち、三笠宮彬子さま御出席の『宮様スキーパレード』で大きな破裂音がした事件で、
「札幌市東区在住の無職、伊藤和浩容疑者(伊藤和浩被告)30歳」を、「火薬類取締法違反(無許可製造・消費)≒(無免許製造・無免許消費)≒(無許可製造・無許可消費)」の容疑で起訴しました。
男は犯行の動機について意味不明な供述をしているとの事ですが、弊サイトに記述している事が伊藤和浩容疑者(teda wakou)が述べている事であります。
(2016年8月25日現在,まだ起訴されていませんが,起訴確定であろう為,本人が独断で,上記の予測記事を追加しています.)

※下記に私が記述してきた,自身に関する被害との相関性に関する粗筋年表を記述する.

【粗筋年表と裏工作の動向】

 公安警察上がりの侍従が愛子様(敬宮)を虐める,やんちゃな同級生の給食に向精神薬を入れたらどうか?
と提案したそうである.(2009年:警察組織が異常であり,警察組織が腐敗している為だと云う意味合い付け)

以下,年表(粗筋).

1.2002年:勤務先に秋篠宮を名乗る人物が来る.

2.2003年:お嬢様(眞子さま)の男遊び始まる.同級生以外の許嫁がいて,他に彼氏が学習院に2人いる状態(秋篠宮眞子)
("実態を知る者",許婚と彼氏がいる女に会わされる+勤務先に警察を名乗る連中が来る.未成年者に対する性犯罪の聞き込み)
※私には一切聞いてこなかったうえ,捜査(表向き)も逮捕もなかったが,上司にお前何やったと聞かれる.

3.2003年:7月30日,勤務先にスーツ姿の複数人が来て,
『ようやく見つけた.明治天皇って知ってる?今日何の日か知ってる?明治天皇が死んだ日だよ?』と云う事を私に対して言ってきた.

4.2004年:私の原付バイクを販売した相手に,黄色い初代ワゴンRを薦められ,購入する.(紅葉山公園にて引き受け)

5.2005年:秋篠宮家で悠仁親王を妊娠.(2回,自称:秋篠宮眞子に会わされる)

6.2006年:秋篠宮眞子に会わされる.(3回ほど自称に会わされている)

7.2006年:悠仁親王出産.(1986年+1946年に合わせる為)

8.2006年:在特会の走りであるネット右翼が皇室保護運動を始める.(日本会議や清和会などが母体)

9.2007年:在特会結成.(自称:秋篠宮眞子に会わされる)

10.2008年:レディースクリニックに居合わせる(祖母が不自然な死に方をする)

11.2008年:祖父が亡くなる(儀仗兵:近衛兵)

12.2009年:不自然なバイク事故と車の事故により殺されそうになる(2001年・2005年・2007年・2009年・2010年)

13.2010年:右翼活動をさせられる

14.2011年:私が被災地に行く時期(7月)に合わせ,秋篠宮眞子が男性との馴れ初め作りの為に被災地入りする(スケープゴートに使われた)

15.2012年:秋篠宮眞子が,私の周りにて彼氏とのデートを徹底して行っている事に気が付く
(私を利用した保険掛けのポイント作り.後程,この事に気がついた)

16.2012年:右翼活動を辞める

17.2012年:告発開始

18.2013年:告発継続

19.2014年:告発継続(札幌連続ガスボンベ爆発事件が起こる)

20.2015年:告発継続

21.2016年:告発継続(3月6日,白旗山スキー場の宮様スキー大会にて事件を起こす)

22.2016年11月1日:3月6日の告発事件に於いて,検察庁へ出頭命令が下り,同庁内に於いて精神指定保険医及び札幌市福祉課担当職員により『記述してある内容及び述べている事柄の全てが妄想である』との鑑定が下されると同時に,「精神福祉に関する法律;第29条を乱用され」“措置入院(強制入院)”とされる

23.2017年3月17日:約五ヵ月間にも及ぶ身体5点拘束から措置入院解除となり,精神科の隔離室から開放.(宮様スキー大会が終了するまでは措置解除はしないとの話があった.すなわち,医療的な必要性ではなく,行政(政府)及び医師の個人的な思惑である事がわかる.ちなみに,措置入院及び身体拘束は,その必要性がなくなった時点で速やかに解除する指針が通達されている.)
上記年表に誤記載がありましたので訂正します。(2017.04.20)
上記年表に,2項追加しました。(2017.09.30)


宮様スキー大会の破裂音事件で犯人の私が犯行直前に撮影した写真


 本来,2003年の時点で秋篠宮の長女,眞子様の浮気癖と性的な接触を誤魔化したかったのであろうが,
2003年では,あの為でこの為でと云う言い訳が国内外に対しできない.

 したがって,2006年(1946年と1986年に合わせ)に悠仁親王を誕生させ,意味合いを持たせようとした.
また,2009年の時点に於いて,山守凌平と云う人物を秋篠宮眞子の同級生にする事が決まり,
名前に由来する歴史の捏造からの脱却を国際社会にアピールしながらも,それ以前の男遊び等(彼氏など)を山守凌平に集約するに至っている.
山守凌平がtwitterにておこなった,『処女ゲット』と云う発言にて分かるように,国民に対する『イメージ形成の為の宣伝工作』をおこなっている.

自身の馴れ初めや楽しい青春の為に,人様の人生を潰しておきながら,
『国の為にもなるし,山守凌平に注目を集める事もできるし,一石二鳥でしょう?』
『うちの娘(眞子様)は決められた相手と国の為に付き合っているんだ!楽しくやって何が悪い!?』
『あとから都合が悪くなったら,山守は,あの為でこの為でと言えるじゃないか!』
『この為に幾つもの保険掛けをおこなって来ているじゃないか!!(5スタンダード)』

この様な事柄が明確に見えている.

※私は,2011年まで秋篠宮眞子と云う人物を知らなかった.

※私に,ある種の負い目を負わせる事により,話を出せなくしようと云う動きが明確化している.
しかし,私は人生を潰され,事件を起こしている以上,負い目などは存在しない.(国際的問題であり,内政の問題では済まない)

さらに,負い目を負わせると云う口実の元に,私の人生を崩壊させる事に関する"行楽的行動=異常快楽=シナリオ作成"に出ている事がわかる.
これにより,その他関連に対し,見せしめの要素をも含ませ,皇室に対する恐怖感を与えようとまで考えているようだ.

※恐怖感を感じるならば,清子内親王の結婚候補者は逃げずに,結婚を承諾していた事であろう.
したがって,恐怖感よりも,気持ち悪さが先行していると云う事が明確に判る.

※秋篠宮の長女である眞子内親王(眞子さま)の男遊びと政略結婚相手探しの為に,歴史の捏造を利用し誤魔化しに走ったと云う事が判る.
国民や,その他団体が,国の為ではなく,秋篠宮眞子の男遊びを誤魔化す為に利用されている事が分る.

※秋篠宮家の教育方針としては,『佳子さまは,高校時代にも彼氏がいた』と云う事柄から判断できる.
私の主観的意見ではあるが,『彼氏=男遊び』ではないかと思う.
何故ならば,結婚する意思すら其処には介在していないのであるから,
是即ち,男遊びであると思うに至る.(恋愛有りきの青春)

※これだけの事柄がありながらも,政府・天皇家は国際社会に裏工作や捏造が通用していると思っているようであるから,私は驚きを隠せない.

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北海道の江ノ島海岸と眞子様結婚の秘密(笹川良一と象の花子)


 昨今,日本国内に於いて,慶事の報が世間を馳せている.
どの様な慶事かと云えば,改めて述べさせて頂く必要も無いとは思うが,
弊サイトで御紹介させて頂いている,秋篠宮家の御長女である『眞子内親王(眞子さま)と,小室圭さん(湘南 江の島 海の王子)ご婚約』の報である.

 2016年7月,とある週刊誌に掲載されたデートの報道に端を発する形で,
御相手共々,世間に公表された慶事である.

 週刊誌に掲載された報道内容に関する詳細については,そちらを御覧頂きたいと思うが,
差支えが無い範囲で概要を述べると,御二人が神奈川県に電車でデートに行かれた際に,
電車内で撮影された,寄り添い歓談する御二人の写真である.

 現在では御婚約会見が開かれ,世間に御披露目となっている事柄であるが,
報道された当時は驚かれた方もいらしたかもしれない.

 実は,弊サイトに於いて分析すると判る事柄が多々あるのだが,週刊誌に掲載される3ヶ月ほど前から,横浜からのアクセスが目に見えて多くなっていた.

 要するに,「眞子さまがデートをされている」と,いう目撃が,
「目撃者のストレートな表現による検索結果に現れた」と,いう事である.
分析方法については,記述すると長くなってしまう為,詳細は省かせて頂きたく思う.

 実は,さかのぼる事2年前の2016年4月頃から,同様の表現方法による検索結果が見受けられた.
それは,「大阪」「福岡」「京都」「名古屋」「金沢」「栃木」といった地からである.
上述した地に於いて"何があったのか"は,知らないが,検索傾向が同様である事には留意したい所である.


 前置きが長くなってしまったが,この項目のタイトルとした,
【北海道の江ノ島海岸と眞子様結婚の秘密(笹川良一と象の花子)】
上記についての詳細,即ち本題に入ろうかと思う.

 秋篠宮家の御長女が御婚約されたが,お相手は,『湘南 江の島 海の王子』も勤めた方との事である.
"湘南 江の島"とは,島が存在する訳では無いとの事であるが,実在する地名である事には,他ならない.

 江の島とは,はたして湘南のみに存在するのかと云えば,そうではない.
タイトルのまま,"北海道の島牧郡島牧村"にも"江ノ島"は実在している.
こちらは,アイヌと松前藩が関連している土地であるとの事だ.

 さて,"江ノ島"と"江の島"と云う"エノシマ"は,全国に2ヶ所あると云う事なのだが,
実に不思議なもので,"江ノ島"に関しては,私の両親や,私が幼少期の頃から御世話になっている地なのである.

 島牧郡は素晴らしい自然に恵まれている極めて優れた観光地でもある.
例えば,「江ノ島海岸」は,積丹ブルーと評される色にグリーンがさらに深まった独特な色と,
まるで映画のセットかと思うほどに瑪瑙などが散見される,色彩豊かな玉砂利の海岸で有名である.

その他には龍神伝説がある「賀老の滝=がろうのたき」や,「宮内温泉=ぐうないおんせん」がある.

 「宮内温泉」には,有名な話があるそうで調べてみたのだが,
何か違和感を感じるような気分となったので記述してゆく.

 「宮内温泉」に関する歴史の中で,「ゾウの花子」が湯治を行ったとの事である.
ゾウの花子は,1964年にタイのバンコクから日本の子供達の為に,
京都市の動物園に贈って下さったゾウであるとの事.

 その後に,札幌市にある円山動物園に,1966年,お引越しを行い,1967年の旭川動物園開園と同時に旭川にお引越しとなったそうである.

 しかしながら,残念な事にゾウの花子は越冬中に足が病気になってしまい,足が曲がらなくなってしまったそうだ.
したがって,一般公開できないと判断され,1968年,安楽死をさせる為に,札幌真駒内の開拓地に住んでいた北海剥製標本社の信田修治郎に売却されたそうである.

 この時,ゾウの花子を購入した信田修治郎は,治療できると考え,
安楽死をさせられ北海道大学に納められる予定である"ゾウの花子"の面倒を見る事としたそうだ.
その結果,なんとゾウの花子は再び歩けるまでに回復したそうである.

 これらの話がマスコミに取り上げられ,全国で人気が出て,
"ゾウの花子の会"と云う全国組織が設立されたとの事である.
しかしながら,1970年,「旭川冬祭り」に出演した際に骨折してしまい,立つ事さえできなくなってしまったそうだ.

 その為,1970年8月から,長万部町(おしゃまんべ ちょう)の二股ラヂウム温泉で湯治する事となった.
ところが,温泉は冬期間閉鎖となる為に,同年11月,「宮内温泉」に移り,浴槽付きの"花子のお宿"と云う小屋を建て,長期間,湯治の為に面倒を看てもらう事となった.

 ゾウの花子は,朝の7時から晩の4時まで健康診断や食事,歩行訓練を行い就寝すると云う湯治生活を送っていたそうだ.
この時の宮内温泉湯治滞在中に,"ゾウの花子の会"の招きにて,パラグアイ大使御一家や,茨城県議会一行が訪れる等,かなり人気であったそうだ.
この時期の関東地区花子後援会会長は,衆議院議員であった,"三ツ林弥太郎"との事である.

 1972年には,“偶然”,宮内温泉を訪れた"笹川良一"が,ゾウの花子の姿を見て感嘆し,
日本顕彰会から信田修治郎が社会福祉貢献者として表彰されたそうである.

 1975年,ゾウの花子は宮内温泉を離れ,その後は内地(本州)を旅して回ったとの事.
5年後の1980年,ゾウの花子は募金で集まったお金を元に,飼主である信田修治郎と共にパラグアイに移住し,
パラグアイで,その生涯を終えたそうである.

 パラグアイでもゾウの花子は人気があったらしく,「パラグアイ日経ジャーナル創刊号」にて,
"花子南米の地を歩け-念願のパラグアイ移住-日本の子供たちの夢と希望を背にして"と云う記事を表紙として取り上げたそうだ.

 以上が,タイトルである「笹川良一と象の花子」に関する概要である.
そう,笹川良一といえば,言わずと知れた“右翼の大物”であるが,その笹川良一が,影で関わっているのである.
“偶然”訪れたとの事だが,はたして偶然なのだろうか・・・?

なんとも,「江ノ島」と「江の島」,「島牧」と「笹川良一」,「秋篠宮」と「北海道」と云う『点と点が線で結べてしまう』のである.(秋篠宮の海外公務先も御覧頂きたい.眞子さまがパラグアイに公務で行く等がある.)

統一教会系の国際勝共連合は,安倍政権,即ち自民党清和会の大きな支持母体の一つである.
(自民党系と腹心の関係である.)

 昨今,安倍政権と皇室の対立が取り沙汰されているが,対立していると云う構図から明確に逸れる事柄(矛盾)の一つが,この項目で述べてきた,秋篠宮家の“江ノ島”と云う慶事である.

秋篠宮家が,このタイミングで(2010年頃から),あからさまに国際勝共連合(統一教会)へ近づく意味(意図)は何であろうか??


【眞子様と小室圭さんと山守さんの三角関係】

 ICU大学時代,山守さんも小室さんも同じスキー部員だったとの話が週刊誌にて報道されていた.
そのスキー部に,眞子様も居た事実があります.
少ない人数のスキー部内で,眞子様は,男を取っ替え引っ換えしていた事実があります.
しかも,小室さんに乗り換えた後も,山守さんも居るスキー部で活動を継続していた事実があるわけです.

 2011年,週刊誌にて,眞子様と山守さんが布団の上で寄り添っている写真が報道されました.
2012年には,記者会見の場に於いて,2人の関係を質問された紀子さまは,
『私達の学生時代を思い出します.うちの娘は爽やかな青春を送っております.』
上記の回答をしております.

 しかしながら,眞子様と小室圭さんは,2012年から付き合っていると話をしております.
したがって,上述した,「スキー部内で男を取っ替え引っ換えしている」事実が鮮明となるわけであります.
よって,「小室圭さんに眞子様が騙されている」と云う風潮は,あまりにもおかしいと云う事に気が付きます.
どこが『爽やかな青春』なのでしょうか??

 2012年の留学中に英国で知り合ったアジア人や日本人とも関係を持っているのも眞子様です.
その時期,既に小室さんと付き合っていた事実が鮮明となっております.

 また,美智子様は,孫である眞子さまの男漁りの結果に心を痛めているのではなく,
それらの話を出している世論に心を痛めていらっしゃるようでして,
孫の酷さに愕然とするどころか『“雑音”声明文』を宮内庁から発表するありさまです.
皇室を擁護したいなら,男漁りの数々を正当化できる方法を全国民で考えてあげては如何か,と思う次第であります.

※これら眞子様の異性関係に関する趣味嗜好の何処が,『この国の為』として正当化できると云うのでしょうか!?
国際的な問題を,自分の娘の男遊びの趣味嗜好を正当化する為に利用している事実があるわけであります.
したがって,眞子様の異性関係について,このように記述する必要がある訳であります.
即ち,プライバシーや人権を盾に言論を弾圧する事は,絶対に許されない事となる訳である.

※宮内庁職員や警備を担う警察官・官僚の皆様は,この様な皇族の為に職務を遂行している事に誇りを持ちましょう!!(私ならば御先祖様に顔向けできなくなりますが….)


※〔統一教会 とは?〕‐Wikipedia

※〔国際勝共連合 とは?〕‐Wikipedia

※〔笹川良一 とは?〕‐Wikipedia


〜〜〜 笹川良一と日本財団(テレビCM) 〜〜〜


 その他,少々引っかかる点もある.

 江ノ島がある島牧には"栄"と云う第125代天皇の御印である"栄"と云う地名もある.
その栄に於いては,栄漁港と云う場所に於いて,札幌と島牧を結ぶ非常に残念な事件(他殺と自殺)があった事がある.(一家心中との事だが・・・)
事件とは関係ないかもしれないが,栄と云う地には2007年だったか2008年の事で少々引っ掛かる点が個人的にある. 詳細についての記述は,慶事と云う事もあり,現在は控えさせて頂きたく思う.


さて,これらの話は,私の『関係妄想』なのだろうか?
私は,統合失調症の関係妄想として,医師及び行政にこれらの話を否定され,2016年11月1日から5ヵ月半もの間,
精神福祉法第29条を乱用され,『強制入院』させられていた.
突然,体を押さえ付けられた挙句,麻酔薬を注射され,意識が無い状態で5点拘束され,目が覚めると5点拘束と云う状態にされていたのだ.
その状態を政府は知りながら黙っていたのであるから,政府のお墨付き『強制入院』と云う事だろう.
国際的な問題に,更なる問題を作り出したとの自覚が無いようである.

 この日本と云う国の人口1億2000万と云う数字をベースとした確率論で述べれば,偶然や関連妄想ではない事が,安易にお判り頂ける事と思う.
天皇家(秋篠宮)と実態を知る者の関係(川嶋紀子と満州事変‐宮城事件と近衛兵)に記述した,「平成の天皇と私の祖父の関連性」のみに焦点を絞っても,確率論で述べる事ができるほどであろう.

その他に,最低でも,
1.秋篠宮妃紀子と皇太子妃雅子に隠された本当の意味と眞子様や佳子様の婚約や結婚相手と三笠宮

2.秋篠宮家と"実態を知る者"の関係(秋篠宮家と満州事変)【錦 舟】の画像

3.2・26事件の勾坂暗号と暗号通話記録、天皇家と財閥と政府が利用した近衛師団に繋がる宮城事件(陸軍軍法会議秘話)

4.眞子様と彬子様‐富士急様と山守様‐婚約と結婚‐皇室と政府の裏工作と印象操作

5.札幌市北区屯田ガスボンベ連続爆破テロ事件(警察に受け取り拒否された映像)

上記〔1〜5〕のような事柄が関連してくるのである.
お読み頂ければ,私が先に述べさせて頂いた『確率論と必然性』を,ご理解して頂ける事と思う.

 なぜ私が,このようなサイトを立ち上げ,服役や報復も覚悟の上で,「宮様スキー大会)」に於いて事件を起こしてまで告発しようと考えていたのか.
その理由を知る術は,弊サイトを閲覧して頂く他は,もう無くなってしまっているのが実状だ.
即ち,日本国憲法に明記されている"言論の自由"を行使する他に無いのが現状である.


現在,弊サイトを閲覧して下さっている皆々様に対し,心より御礼を申し上げさせて頂きたい.

また,この度の御婚約に関し,心より祝福の意を表したい.


2014年、江の島海岸にてアメマス1


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【外務省・内閣府・官邸】満州事変に始まる第二次世界大戦か?【電話確認】


【1】‐〔表面的な分析と検証・確認〕

 この項目では,1931年に発生した「満州事変」が,「第二次世界大戦の発端」であるのか否かについて,
私が,日本政府に電話確認を取った際に伺った見解を含めて,現在の日本の歴史認識が,どのような状況であるのかについて記述してゆく.

 弊サイトは2013年1月頃にも開設した.(経緯についての詳細は,〔はじめに〕を閲覧して頂きたく思う.)
その時から弊サイト名には,「満州事変」と付けているが,私は決して「満州事変が第二次世界大戦の発端である」とは断定していない.
むしろ,第二次世界大戦に至る発端は,「明治維新の付近である」,との分析を明示している.

 例えば,明治時代に「仁和寺宮」が「蝦夷地開拓に関する公文書」を残しているが,
この公文書を分析してゆくと,明確なる意志を見る事ができるからである.

 どのような意志が見えるのかと云えば,
1.『軍に関しての金策』

2.『仁和寺宮が指揮を執る旨』

3.『アイヌを利用する旨』

4.『平家プロジェクトに関する動向』

5.『蝦夷地(北海道)を重要な土地と定めて開拓する事』
などであるが,詳細については,「仁和寺宮の暗号文書(公文書)」の項を,閲覧して頂きたく思う.
即ち,第二次世界大戦に突き進んで行く“謀略”が,明治維新の付近に於いて既に生じている.と云う事である.
 明治維新の付近に遡る事ができる,その過程に於いて,重慶爆撃も忘れてはならない事であるが,
1928年に発生した「張作霖爆殺事件」や,1936年に発生した「2.26事件」,
1945年にポツダム宣言受託を受けて発生した「宮城事件(※A)」などがある.

 要するに,少なくとも,1931年に生じた満州事変の三年前である1928年に,張作霖爆殺事件が発生している,と云う点を無視して,
1931年に生じた満州事変が,第二次世界大戦の発端であるとは言い切れないであろうし,
また,世界地図を見た際には,日本としては,蝦夷地(北海道)が,ソ連への侵攻から欧州圏への覇権の拡大に欠かせない地であると同時に,
日本の国土への他国の侵攻,即ち本州への攻撃の緩衝地帯として地政学的にも重要な土地であろう.と云う事に繋がる.

 したがって,先述した,"仁和寺宮の公文書"に,何かしらの意味合いが在った所で驚く事は無いだろう.
よって,公文書を分析し,仁和寺宮と云う皇族が蝦夷地に抱く展望を分析するに至ったしだいであり,
その結果,導き出されたものが,「明治維新の付近に日本の謀略がある」と云う事である.

 以上,この項目に於いて,極めて表面的な一連の流れを説明させて頂いた.

(※A)
宮城事件に関しては,2.26事件によって作られた,
"軍部の暴走である"と云う保険掛けを明確化する為の保険掛けであると云う意味合いで分析している.

【外務省・内閣府・官邸】満州事変に始まる第二次世界大戦か?【電話確認】


【2】‐〔第二次世界大戦の発端と政府の見解〕

 先述した,【1】‐〔表面的な分析と検証・確認〕にて記述した,日本政府の見解について述べてゆく.

 第二次世界大戦が終戦を迎えた1945年から数えて70年と云う節目の年である,平成27年1月1日に,
天皇陛下が御言葉を,お読みになられた事は,記憶に新しい事と思う.

 この時に,お読みになられた御言葉に関して,政府が用意した御言葉であるのか,
天皇陛下が御作りになられた御言葉であるのか,一般市民である私には判らないので,政府に直接確認を取ったしだいである.

 天皇陛下が,お読みになられた御言葉の一文には,
『本年は終戦から70年と云う節目の年に当たります.多くの人々が亡くなった戦争でした.
各戦場で亡くなった人々,広島,長崎の原爆,東京を始めとする各都市の爆撃などにより亡くなった人々の数は誠に多いものでした.
この機会に,満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び,今後の日本のあり方を考えていくことが,今,極めて大切なことだと思っています.』

上記に記述させて頂いた内容である.

 また,戦後70年談話として,政府≒安倍首相が平成27年8月に公表した内容には,平成に入ってから初めて『満州事変』と云う文言が盛り込まれた.
したがって,私は,「第二次世界大戦は満州事変が発端であるのか.」について,《外務省・内閣府・首相官邸》に確認を取った次第である.

 結果論から記述するが,いずれの政府機関も一様に,
『満州事変が第二次世界大戦の発端であるとは認識(断定)していない.』
との話をしている.

 飽く迄も,天皇陛下の御言葉は,天皇陛下の御言葉であって,そのままの意味で受け取って頂いた方が良いとの御回答を頂いた.
そのうえで,政府としては,先述した『満州事変が第二次世界大戦の発端であるとは認識(断定)していない.』との話に帰結した状況となった.

 以上の事柄を簡略し,記述すると以下の1〜2である.
1.満州事変が第二次世界大戦の発端であるとの認識は天皇陛下の認識である

2.政府としては第二次世界大戦の発端は認識(断定)していない

上記のように,天皇陛下の御言葉とは相反した内容となっている.

 しかしながら,これまでの政府の動きや,現状に於いての政府の動きについて分析してゆくと,
2012年末頃から報道されている"御皇族と政府の対立"に関して,事実,対立しているのか否かについて疑問が生じるしだいである.
『いかような疑問が生じているのか?』については,弊サイトに記述してある内容を全て御読み頂いた上で,
"客観性と可能性と確率論"を以って検証して頂ければ,上述した疑問点を御理解して頂ける事と思う.


以下に,政府に直接電話をし,確認を取った際の記録を掲載する.


〜【外務省】第二次世界大戦の発端は何か?【電話応対】《その@〜E》〜


1.〔You Tube:外務省‐その@〕https://www.youtube.com/watch?v=CPbOOFqrOfk

2.〔You Tube:外務省‐そのA〕https://www.youtube.com/watch?v=YxXs7z-Eu38

3.〔You Tube:外務省‐そのB〕https://www.youtube.com/watch?v=SIDGKD5emHc

4.〔You Tube:外務省‐そのC〕https://www.youtube.com/watch?v=lo8e8wzdQPQ

5.〔You Tube:外務省‐そのD〕https://www.youtube.com/watch?v=m0q8W803buc

6.〔You Tube:外務省‐そのE〕https://www.youtube.com/watch?v=1wrs9Kl4LdA

〜【内閣府(内閣官房副長官補室)】第二次世界大戦の発端は何か?【電話確認】《その@〜D》 〜


1.〔You Tube:内閣府‐その@〕https://www.youtube.com/watch?v=xL93Qgb4OO0

2.〔You Tube:内閣府‐そのA〕https://www.youtube.com/watch?v=TlTTlynGXw0

3.〔You Tube:内閣府‐そのB〕https://www.youtube.com/watch?v=yM1OhoPqq8c

4.〔You Tube:内閣府‐そのC〕https://www.youtube.com/watch?v=8AgThtZrcVo

5.〔You Tube:内閣府‐そのD〕https://www.youtube.com/watch?v=Q-IDaLup3Sw

〜【首相官邸(内閣総理大臣官邸)】第二次世界大戦の発端は何か? 70年談話【電話確認】 〜


1.〔You Tube:首相官邸‐その@〕https://www.youtube.com/watch?v=vxViiSB-QFM

※弊サイトの案内 1.秋篠宮家と"実態を知る者"の関係(秋篠宮家と満州事変)

2.仁和寺宮(小松宮彰仁親王‐伏見宮)と蝦夷地開拓(北海道)の暗号公文書(開拓使日誌)‐《明治維新》

3.広島と長崎に原爆を投下された理由と明治維新‐天皇家と平家と織田信長と豊臣秀吉

4.秋篠宮家の思惑と川嶋家の誤魔化し(異性関係清算と責任逃れの謀略;佳子さまの婚約と眞子さまの婚約)

5.眞子様と彬子様:富士急様と山守様:婚約と結婚:皇室と政府の裏工作と印象操作

6.秋篠宮家(紀子さま眞子さま佳子さま)の公務と矛盾した会見と歴史の捏造

7.北海道の江ノ島海岸と眞子様結婚の秘密(笹川良一と象の花子)

8.天皇家の秋篠宮家と統一教会(自民党清和会)と在特会の繋がり(自作自演)

9.天皇家と財閥と政府が利用した近衛師団に繋がる宮城事件(陸軍軍法会議秘話)
上記を御読み下さい.

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三船殉難事件‐実態を知る者が札幌在住の乗船者から聞いた話(政府の謀略)


[三船殉難事件(三船遭難事件)]

 三船殉難事件(さんせんじゅんなんじけん)とは,
第二次世界大戦末期(日本の降伏文書への調印予告,および軍隊への停戦命令布告後)の1945年(昭和20年)8月22日,
北海道留萌沖の海上にて,樺太からの引揚者を乗せた日本の引揚船3隻(小笠原丸・第二号新興丸・泰東丸)が,
ソ連軍の潜水艦による攻撃を受け,小笠原丸と泰東丸が沈没し,『1,708名以上が犠牲となった事件』を指す.
三船遭難事件とも呼ばれ,現在に至っても尚,《未解決・未解明な事件》である.

※三船殉難事件:小笠原丸、第二号新興丸、泰東丸

三船殉難事件(樺太引揚船:サハリン引揚船)の小笠原丸の写真(画像)
※小笠原丸の写真

[1]

 私が乗船者から直接聞いた話を記述したい.
この方は現在80歳間近であり,一流の職人である.

 当時,この方は小学生程であった.
樺太に一家で住んでいたそうで,終戦時に樺太からの引揚船に乗っていたと聞いている.

 引揚の際,船上の甲板に兄弟と居たそうで,どこからともなく現れた舟により『機銃掃射』を受けたと聞いた.(狙って打っていれば機銃照射であろう)
この際に,耳の横を機銃の弾丸がかすめ,鼓膜が破れたと聞いている.

 この方は,兄弟を守る為に覆い被さりその場に伏せたそうだ.
勇気ある行動があり,幸運にも被弾する事無く帰ってくる事ができたようである.
この際,甲板上には他の乗船者も居たそうで,複数人が機銃掃射の犠牲となったと聞いている.

 この方が乗船した舟は,機銃掃射は受けたものの,沈没する事無く航行したと云う事である.
戦後からそれなりの時間が経過している為,この方が話をして下さった事と,三舟殉難事件とを比較した際に相違する点が一つある.

 それは,『引揚船は"2隻"であって』と云う事である.
当時,引揚船に乗船する時間が違った為に,不幸中の幸いであろう,撃沈された船には乗船しなかったと云う事である.

 ここで一つ,公表されている情報と,明確なる違いを示す『重要な話』を記述したい.
当時,この船に乗っていた引揚者の中には,"軍人も居た"と云う事である.

 したがって,浮上してきた潜水艦が,どこの国籍の潜水艦であるのかを見分ける事ができる可能性がある.
私が聞いた話では,この男性が乗っていた引揚船に対し機銃掃射を行った潜水艦は,『日本軍の船』だと云う話が船内で広まっていたと云う事である.

 したがって,話を聞いた当時の状況を分析してゆくと, 1.『潜水艦は浮上し,機銃掃射をしている為に目撃されている』
2.『軍人も多数乗船している船内では,日本軍が機銃掃射をしてきたと云う話が出ている』
3.『この男性の鼓膜が破れたのは,「引揚船が機銃照射を始めた為である.」と云う事も言っている.』
上記の点である.
※この男性は,引き揚げ船に設置されている機銃近くに居たそうだ.(鼓膜が破れたのは,この発砲によるとの話も聞いている)

 したがって,日本軍が自国の引揚船に対して危害を与えると云う事は,何らかの理由があったからであろう事が見えてくる.
では,どの様な理由があり,自国の引揚船に危害を加えたのか,この点を分析してゆくと,
『樺太』:サハリン(樺太)
『満州』:満州国概況
『真岡郵便局事件』:終戦直後に電話交換手が集団自決
上記に結び付いてくる事となる.

 まず第一に,満州では芥子が栽培されていたと云う事,なにより芥子を流す事により資金を調達していたと云う事である.
アヘンのルートはどこであったのか,樺太と北海道が担っていた役割は,どのようなものであったのかと云う事である.

 次いで,満州にて謀略が発生した『張作霖爆殺事件』や『満州事変』は明治時代であると云うこと.
明治維新から領土拡大と覇権の拡大を行い,『第二次世界大戦を引き起こした』と云う事である.
この時期に,ソ連に近づくと同時に,ソ連をも踏み台にしようとした事が見えてくる.

 第二次世界大戦に突入する際,日本は,ソ連含め数カ国の重役と合い話をしている事も重要なポイントとなってくるだろう.
また,『芥子坊主が分泌する乳白色の液』から生成されるモルヒネには強力な鎮痛作用があり,戦地では負傷兵の治療に使われたのは周知の事だろう.
したがって,戦争の下準備としての満州での芥子栽培があった事も指摘できるだろう.

 では,大量の芥子を栽培していたにも拘らず,日本軍は戦時中にモルヒネが不足した事態は,どのように説明する事ができるのかを述べたい.
極めて単純な話となるが,満州で栽培されていた芥子は,外貨獲得の為であり,
『戦場にて使用する事は想定していなかった』のではないだろうかと云う事が見えてくる.

さらに,満州と樺太はソ連(ロシア)に近接するので,欧州諸国に攻め入る際には重要な地点となってくる事が見えてくる.

 要するに,芥子をロシアに流し,外貨を獲得すると同時にロシアを嵌め込み,
本当の目的である欧州侵攻に備えたのではないかと云う事が見えてくるのである.
満州と樺太を丸で囲った際には,ソ連侵攻の際に挟み撃ちとできる地理的関係にある事が見えてくるのではないだろうか.

 したがって,満州と樺太を基点とし,満州鉄道と,ソ連の既設鉄道を繋ぐ事ができ,
『欧州圏に及ぶ国土の拡大と覇権を手にする事を前提とした戦略的な土地であった』と,とらえる事ができるであろう.
この事から,ソ連にモルヒネを供給し,時期が来たらソ連を統治し,世界を統治すると云う日本の構想が見えてくる事となるのである.

以上の事から『満州』と『樺太』の関連性を指摘できる事となるのである.


[2]

 それでは,『三船殉難事件』と『真岡郵便局事件』の繋がりは,どの様な事柄をもって指摘できるのか,以下に纏めてゆく.
先述した,『樺太と満州』を繋ぐ鍵は『モルヒネ』である事を考慮したうえで考えると,実に単純であり,
欧州侵攻とソ連統治の謀略が露呈する事を防ぐ為に,『樺太の引揚者』が乗った船を撃沈したと云う事が見えてくるのである.

 おそらくは,引揚者の中に重要な人物が乗っていたであろう事に間違いないであろう.(乗船者が未だに不明.)
また,『真岡郵便局事件』で自決した稚内の電話交換手は,樺太と北海道・日本本土を繋ぐ重要な役割を担っていたと見る事ができ,
樺太からの電話を繋いでいた事から,
『重要な人物の名前』が連絡を取る為に電話を掛けた記録を知っている『重要な証人』となる事は明白であろう.
したがって,『真岡郵便局事件』の交換手は自決させられたと考えるのが一番腑に落ちる結論となるのである.

以上の事を以って,『満州』『樺太』『真岡郵便局事件』の繋がりを説明する事ができる.

 更にこの事は,現代で発生した『稲葉事件』にも繋がりがみえてくるだろう.
稲葉事件:北海道警裏金事件(ロシアと旭川と富良野と留萌.)


※私,"実態を知る者"の曽祖父である『三次朗』の妹は,第二次世界大戦中に,
『軍部関連の電話交換手業務に就いていた』そうである.(真岡郵便局では無いと思われる.)
この曽祖父の妹は,終戦後数年の時を経て,『病死』した.

私の家系には,若くして『交通事故死や病死』といった,『不自然な死』が目立つ.
私が,これまでに述べてきた事により,"実態を知る者"は,天皇家;政府の謀略の的となっている事は,以上の事から見ても説明できるだろう.

※2013年4月と本年(2015年4月),同様の事を,『まとめNAVER』と『ここと同様のサイト』にて,これだけの情報を公開したが,この時も『削除』された.
今回再び,これを記述し公開したが,再び『政府の圧力により企業が動かされ』削除されるのだろうか?


〔※重要事項(追記日:2018.10.28)〕

 尚,上述した乗船者及び,その家族に対し,日本の情報機関である公安警察等が接触を図った場合,
乗船者が話している実体験を,自国にとって都合が良いように歪曲しようと云う事になるであろう.

 日本(外務省等)がロシアに対して抗議声明を行ってきている事自体が不条理となる可能性すら出てくる.
したがって,日本にとって不都合となる話を潰す為に公安警察等が接触していると云う事となるからである.

 即ち,私が乗船者から聞いている話が変わった場合に,公安警察等が接触していたのであれば,
『歴史を捏造する為に,公安等が接触していた.』と云う事となるからである.

 例え,公安警察等が,「歴史を捏造しようと云う意図は無かった.」と言った所で,
“情報機関”と云う性質上,捏造の意図が無いと云う事はありえないからである.

 さらに,北海道警察の特徴として挙げられる事柄に,『でっち上げによる手柄作り』が,実際に行われたと云う前科がある.
要するに,“内政の問題”と“国際的問題”を理解できていないが為に,『稲葉事件や北海道警察裏金事件』が発生しているのである.

 即ち,私に対して懇意にして下さっている方や,その家族に対しての「三船殉難事件の真相隠蔽工作」が発生した場合,
極めて重大なる《国際的問題》を作り出したと云う事となるのだ.

 したがって,「歴史を捏造する意図は無かった.」と述べた所で,
乗船者や,その家族に接触した時点で「真相隠蔽工作」を行い始めていると「国際社会はみなす」事となる.
情報機関である以上,「乗船者とは知らなかった」は通用しない.

 国際的問題と云う重大な事を理解できない連中が関わっている以上,更なる重大な問題が生じる事が必至となっているのだ.
これらの話は,私の妄想では済まされない.

 何故ならば,統計学の範疇となる確率論で述べた際に,これら一連の事柄は『必然的事由』となるからである.
妄想で済まそうと云う,実にやましく浅ましい考え方で事に当たって来た事は,“死”を意味する事となるであろう.
作り出した国際的問題の“示しを付ける為”には当然の事となる.

 北海道警察がいかようにして『でっち上げによる手柄作り』を行っているのかについては,
下記《※公安の尾行監視について》にて,その詳細を述べているので,そちらを御覧頂きたく思う.

尚,私がこの事柄を追記したのには理由がある.
公安警察等が既に,私を徹底監視・徹底尾行しているからである.
これらの事柄に関しても御一読願いたく思う.


※公安の尾行監視について:公安警察関係者≒宮内庁関係筋からのリーク情報と久保哲彦(社会的信用毀損工作)


※これを記述している私は,現在29歳となった.
依然として,政府から国家犯罪の被害を受けている.(2015)

※これらを記述している私は,現在32歳となった.
依然として,政府から国家犯罪の被害を受けている.(2018)


■ここだけ表示


公安関係者≒宮内庁関係筋からのリーク情報(眞子さま・佳子さまに関する)と
私の社会的信用毀損工作と危険行為


[1]

 私の周りに勝手に付いて来る≪公安関係者≒宮内庁関係筋≫から聴いた話ですと,(勝手に来て勝手に話している)
『秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)』は『函館の方にも頻繁に遊びに来ている』との事です.(デートか戊辰戦争絡みを取り込みか誤魔化しか.)

2014年の話であるのか,2013年の話であるのかは分りませんが,
神社のお祭りで男性と会った話であったり,田植祭の関係で庭師に剪定に入ってもらった話であったり,
例の彼とは続いている話であったり,秋篠宮眞子内親王殿下の個人情報を,私の周りに来た際には,詳しく話しております.
公安関係者及び宮内庁関係者ないし秋篠宮眞子内親王の友人関連であろう.極めて不快であり非常識な言動と行動を私の周りでとっている.

※しかし,【実態を知る者の周辺事情と秋篠宮(眞子様;佳子様)と佳子様;眞子様の交友関係と誤魔化し工作(スケープゴート+インターネット工作) 】に記述したとおり,二重三重に上塗りして誤魔化すと云う裏工作の手法から見ると,
似た方を敢えて派遣し,2014年以前の事を誤魔化しにかかっている可能性も高いだろう.

[私,周辺の血筋(同期=その兄弟;姉弟)]

伊達政宗の子孫;石田三成の子孫
楠木成正の子孫;真田幸村の子孫
坂本竜馬の子孫(確認不能);平家と云うデッチ上げ(実態を知る者);...etcである.

具体的に挙げると,以上の血筋の者が多い事にも注視すべきである.

公安関係者≒宮内庁関係者が実態を知る者の周辺で信用失墜工作を行う


[2]

 私の周りでは,2012年頃から一気に,公安含め(秋篠宮の周辺人物も),二〜三人一組の連中が,複数で無茶苦茶をやってあるいております.
事件に巻き込もうとするデッチ上げ(脅迫であろう),飲食店での嫌がらせ,
運転中にニヤつきながら対向車線からハミ出してきて,正面衝突するぞと云う危険行為や,
どこか,ご飯を食べに行きたいと,こちらを向いての催促的な囁き(私の尾行とスケープゴートの為だろう),私の個人情報を極めて大きな声で話す.

その他,挙げだしたら限が有りません.
この様に,冗談では済まない事を,外出した際には毎回行ってきております.

 ましてや,同一人物を様々な場所で見ておりますので,尾行・先回りをしての組織的な行動である事は明らかです.
初めて行く場所にもかかわらず,同一人物が既にその店に居り,私の顔を確認すると同時に,公共の場であるにも拘らず,無茶苦茶な事を行っております.

店の評判が悪くなるような事を行い,面白がっているのが現状です(無茶苦茶やるのが格好良いと思っているようだ.)
そして,その大半が,20歳〜25歳位までの若い連中です(40〜50歳の大の大人も複数おります.)

 特に,2014年中は酷いものでした.(例:2014年7月21日午前2時,ラーメン定食屋にて.)
三人組の中に女性がいる場合(髪の毛が,広げた扇子の様にギザギザなウェーブ状),
リーダー的存在の男性(眼鏡の,お坊ちゃん)は,男ばかりの三人組で動いている時以上に調子に乗り,
私を直接からかうべく,非常識な行動と言動を繰り返しております(〔はじめに〕・EXILEと悪影響・EXILEと若者心理で,述べた状態そのままです.)

 何故か,上から下まで,私の周りを意図してウロ付く連中は,極めて精神年齢が低いです.
このような事は,年をおうごとに激化しております.
私を,「友達か何かと勘違いしているのではないか」と思う程です.
他人である事を分かっていないようです.

『他人=知り合い.』『知り合い=友達.』:『友達=付き合っている.』
そういうレベルの低い連中であろうと,つくづく思わされております.
まさに,秋篠宮家絡みの集団は「類は友を呼ぶ」『同じ穴の狢(色々な意味で)』だと思いつつ観賞させて頂いております.

※【天皇家の秋篠宮家と統一教会(自民党清和会)と在特会の繋がり.(自作自演)】)で記述したとおり,私は地震学をやっておりました.
2013年11月中頃には,新収日本地震年表に記載されていない隠れた古地震を探し出す為に図書館に通っておりましたが,
図書館まで付いて来ての嫌がらせも酷いものでした.

 結果,図書館を利用させて頂く際に,この様な非常識な連中が付いてきては,他の来館者に迷惑をかける状況である為,
私は古地震の調査を辞めざるをえない状況となりました.

原則として飲食禁止の館内で,私の隣に座ってノートパソコンを触りながら,おもむろにコカ・コーラをがぶ飲みし,大きなゲップをこれ見よがしに排泄し,
こちらを見てニヤニヤしながらすぐに居なくなる30代半〜40代前半のスーツ姿の細身フレームの眼鏡をかけた男性,等々です.

私が,よく利用させて頂いている飲食店の方が,
『お兄さん,最近不自然な3人組が来るようになって・・・』
『中年の3人組と若い三人組の2グループなんだがな・・・』
この様な具合で私に話して下さいました.

 私は,このお店にて,自身の詳細を話した事もありませんし,飲食店の方も聞いてこないのですが,私に話をしてくると云う事は,
相当,目に余る失礼な言動でもとったのでしょう.
おそらくは,私の情報を聞き出そうと,情報提供の協力と,関係の醸成を試みたと思われます.(公安か公調と思われる)

公安関係者≒宮内庁関係者が実態を知る者の周辺で信用失墜と嫌がらせの工作活動を行う

※これらの,『公安≒宮内庁関係者』の連中の中には(公安だけではなく秋篠宮の周辺人物),
秋篠宮眞子の現状を話してくれている方達が居るおかげで,この様に,暴露するのに役立っている現状もあります.
(話している内容を検証すると,嘘の中に本当の話を混ぜて話している事が判明している.)

※全ては公安が行っている事であると思い込ませたい意味合いも見られます.
この人の頭は,おかしくなっていると周辺に思い込ませる意味合いもある事でしょう.
このようにして,私は現在も,天皇家及び政府から弾圧されております.

 以上の事柄は,戦争責任の所在に直結する話であります.
このようにして,責任を逃れる為,歴史を歪曲する為に裏工作を行ってきた者,全員が『戦後に発生した国際的戦争犯罪者』です.
責任の所在を有耶無耶にする為の裏工作,政略的な事柄,デッチ上げ,全ては行ってはならない事であります.

 このような一連の裏工作から判るとおり,事の重大性を理解しておらず,真摯な姿勢が無い.
したがって,天皇家及び,日本政府は,国際的にも信用性が無くなったといえます.
企業が海外に進出し,事業を成功させるのとは異なる性質をもつ『戦争責任の所在』であるにも拘らず,
「結果さえ出せばこう言えるじゃないか」
「だからあれでこれで,この為だったんだ」
このような考え方に至っている事は明白であります.
※(1+2=3と2+1=3は,視覚的に同じ3であっても,個々の数字が持つ性質は,全く異なると云う事を理解していない.)
 この事柄に関する結果は,この30年と云う期間に,どの様な裏工作を行い,どの様な姿勢で事に当たって来たかです.
したがって,"結果"は出ております.

30年と云う期間で,裏工作を行い続けたと云う結果です.
日本がどの様な動きを見せるのか,世界中がつぶさに見てきたと云う事です.

『あれですから,これですから,ですからあの為でこの為で,実はああでこうで,だって,でも.』
これらは一切通用しません.

【世界的な問題と,円高を用いた経済的な圧力と明確なサイン(天皇家;政府が行っている事と秋篠宮紀子殿下(川嶋家)関連) 】で述べた様に,
世界中が指摘し始めている事が明確になっているからです.

にも拘らず,天皇家と政府は欧米が悪いと云うアンカリングを次世代を見据えたうえで国民に行っているのですから,
とてつもない禍根を作り出していると云う事になるでしょう.
私が記述してきた事は,思想的なものではなく,思想の枠を超えた"国際的問題"についてです.

何故ならば,秋篠宮家と"実態を知る者"の関係(秋篠宮家と満州事変)に記述してあるとおり,私自身がデッチ上げの被害に遭っているからであります.

 現在,国内だけの事後処理(自己正当化)や,警察組織の国家犯罪が露呈しないようにするが為に,
『“これらの話を知らない・調べていない私の両親”』などに対し,
『公安の連中が接触(電話を掛けて内情を探る等)』し,「私の周辺,即ち外堀から固めると云う裏工作を私の周りで徹底的に行い始めております.」
(着信履歴と証言が明確なる証拠となります.)

 尚,私の両親等を取り込む方法として,「言っている事の意味が分からないですよね? 当たり前ですよ.そういう病気なんですから.」
このように,『統合失調症の息子さんが心配だ』と云う口実を全面的に主張し,親身なっている警察組織を演じて協力者にしております.
(精神指定保健医も同様の手口を使用していた.)


【2018年8月4日の18時〜20時まで,丘珠空港横の緑地公園駐車場にて】


 天皇皇后両陛下が利尻島から札幌へ戻ってくる際,私は,丘珠空港横にある丘珠空港緑地に居た.
午後18時,私が駐車場へ戻ると,警察官が8名ほど詰め寄ってきた.
『これ,おたくの車!?なんでこんな物を張ってるんだ!?』
この様に私に接触してきた相手は『公安1課』の連中であった.
北海道警察 公安1課 課長補佐 久保哲彦 警部
久保哲彦 警部(北海道警察警備部公安1課長補佐)

 尚この際,『久保哲彦:北海道警察本部;警備部公安1課課長補佐(札幌西署警備課長)(名寄警察署 交通課長‐外事課付け)』から,
《精神病の薬を飲め》と言われ続けた.(侮辱であろう)
《『小松宮 公文書』←で検索!!》これが書いてあるA4紙を車に張っていただけにも拘らずである.
職質と云う形態であるが,車両内の検査や所持品の検査すら無しである.
即ち,職務質問の体をなしていない職権の濫用であろう.


※尚,公安1課の連中は,翌日8月5日の15時頃まで(天皇皇后が千歳から離陸するまで),
私の『自宅の真横に警察車両を停めて監視(自宅軟禁)』をしていていた.《近隣住民への印象操作以外に考えようが無い》
(尚,行動を制限させるべく言動を直接言われている.(出かける時はどこに行くか言え・お前の横を付いて歩く)
(自宅軟禁に関する国際的定義からすると,軟禁と言わざるを得ない.証明可能)

天皇皇后(天皇陛下と美智子様)札幌飛行場(丘珠空港)に専用機で
北海道警察警備部公安1課課長補佐 久保哲彦 警部が言いがかりを付けた車載の紙

 車の所有者を照会し,『共産党担当の公安1課』が来ている.
しかし,私自身,共産党員でもなければ,私の家族にすら共産党員は居ない.
したがって,虚偽の報告書及び,共産党員であると云うデッチ上げが存在する可能性が極めて高い.
※ちなみに,2017年3月17日の時点で,私は統合失調症ではない旨の診断書が,担当医師から出されております.
ここまで行うには理由が有る筈であり,その理由に関しては,これまでに記述してきている事柄がある訳でありましょう.


【※特別公務員(司法警察官)の動向に関して】
捜査記録ないし,警備実施(危険人物監視)に関する報告書が北海道警察に有る筈だ.
報告書等が存在しない場合,私の手元にある画像データ及び録画・録音記録との整合性が取れない事となるであろう.
即ち,違法捜査に関する証拠を隠蔽・隠滅している事を指摘できる事となる.
尚,報告書が存在する場合,違法捜査に関する証拠が北海道警察に存在する事となる.

国際社会の皆様に於かれましては,日本政府が作り上げた,都合が良い話に騙されないで頂きたいと思っております.

警察組織含め,日本の情報機関や政府は《予知能力者》ではありません.
したがって,情報機関のみならず,政府と皇室が中枢となり主導している歴史の捏造であると云う事になります.


【一年間の公安の動き(動向)】

 一年間の内,公安関係が顕著な動きする時期を記述する.
Googleアドワーズを用いて,一年間の内に検索される,公安関係に結び付く,
検索キーワードの月間検索数(検索ボリューム:12ヶ月)を調べ,公安の動向を調査した.
(検索対象語句:"公安")(月間検索ボリューム2013年11月〜2015年2月迄の統計)

 上記の事を調べる事により,1年間のうち,公安関係の事件の摘発報道と,それに連動する検索数の相関関係を導き出す事ができる.
これにより,公安関係者が意図しているデッチ上げを含む事件の摘発時期と,事件の発生状況を明確にでき,
公安事案の発生頻度と,公安が行っているデッチ上げの目的を指摘できる結果となる.

 まず,新年度である4月に検索数が急増する.(60500回検索有り)キーワード:"公安"
4月(60500回):5月(40500回):6月(18100回):7月(14800回):8月(14800回):9月(12100回)
10月(22200回):11月(27100回):12月(9900回):1月(14800回):2月(18100回):3月(14800回)

 上記の月別検索件数を見てみると分るとおり,新年度である4月に,キーワードである"公安"の検索数が飛び抜けている事が分る.
これは,公安事案の発生と,公安関係者の活動との相関性を示す事であり,事件は,何を目的にして発生させられているのかを指摘できる結果となる.
(その他のキーワードに於いても同様に指摘する事ができるが,検索数の多い物を今回は使用した)

下記に,上述したデータとの一連の相関関係を,年を通し,月別に説明してゆきたい.


【公安事案の自作自演の予定表(分析結果)】

4月(新年度の為,予算の獲得と存在意義の為,大きな事件を発生させる)
5月(4月の余韻を受け,検索件数が減少しつつもハイレベルを保つ)
6月(4月〜5月の功績の為,アピール活動を停止する)
7月(活動の沈静化と下準備:事件の企画)
8月(活動の沈静化と下準備:事件の企画)
9月(活動の沈静化と下準備:事件の企画)"企画が完成する"
10月(年末に向け企画の実行)
11月(企画の実行が過激さを増す)"企画の遂行完了"
12月(年末の為,活動を停止する)
1月(年度末に向け,予算の獲得と存在意義の為に大きな事件を企画する)(年初に当たり,活動の再開と事件の企画)
2月(年度末に向け,予算の獲得と存在意義の為に大きな事件を企画する)
3月(活動の継続と,予算の獲得と存在意義の為に大きな事件の企画)"大きな事件の企画の完成"
4月(新年度の為,予算の獲得と存在意義の為,大きな事件を発生させる)

以上の事から分るとおり,治安維持機関としての体を成していない事が判る.
このデッチ上げ体質(自作自演体質)は,張作霖爆殺事件や満州事変の流れを,そのまま引き継いでいる以外に無い.


【北海道警察が組織的に作り出した“国際的問題”】

 尚,北海道警察は2003年11月と2004年7月に,私が勤務していた職場に来ている.
この時期は,「北海道警察裏金事件」及び「稲葉事件」に関する告発等が出ていた時期である.

 即ち,警察組織体が,組織の正当化及び自身の必要性を作り出そうと云う意図のもとに,
私に対する組織的な違法行為に及びだしている事も判別できる.

 したがって,私が2016年3月に事件を起こした事柄及び,2010年10月下旬に保守系団体のデモに参加させられた事柄を端緒とし,
組織的な尾行及び監視が始まったとは言えない.

 尚,稲葉事件によってロシア人船員が協力者に仕立て上げられた挙句,
拳銃の密輸を行った罪で懲役判決を受け,2年間の服役をさせられていた事案に関し,
裁判所は,再審請求を受け入れ,再審を行った.

 この際,検察側は求刑を完全に放棄し,ロジア人の男性に対して裁判所は『完全無罪』の判決を出している.
即ち,北海道警察は,2国間の国交問題に発展する事柄ですら理解できていない事が明確に存在すると指摘できる.

 したがって,私に対し現在も警察組織が行っている『組織的行為』は,
「多国間問題」を既に作り出した. と云う事を理解できないでいるが為に現在も行われていると云う事になる.
 即ち,『警察法2条』に明記されている
「国民の生命及び財産を守り,国交間の問題に発展する事を未然に防ぐ事及び国益を損なう事を防ぐ事が警察の役目である.」
旨と真逆の事を行っている事が判る.
 よって,これらの事柄が露呈する事を防ぐ為に私に対し組織的な動きを出し続けたとしても,
これらは内政の問題にはなり得ず,更なる国際的な問題を作り出している事に他ならない.
日本の捜査機関が大規模に汚職を行っていた事案に関する衝撃は,国内のみならず,国際社会全体が受けた事であろう.

 したがって,現在もさる事ながら,これからも国際社会は,警察組織を,『大規模な汚職に関する研究対象として監視』している事は必至であろう.
よって,日本国籍を有している以前に,国際社会の民衆のうちの一人である私に対する,これらの事柄は,国際的な問題と既になっている事が明確となる.

 国際社会が再び,日本に対して経済的な制裁を水面下で発効した際には,短期的に数十兆の損害となり,
中長期的な損害としては,日本のGDPをゆうに上回る事となる.
BOJが行っている,非伝統的な資産買入れプログラムによって,現在,BOJは世界中の中央銀行の中で資産額が第1位となっている.
BOJが保有している資産に対する損害のみで考えても,その規模は極めて深刻な問題となるに値する.

 尚,国際社会は,日本から流出した資産で経済的損害を埋める事が可能である事から,日本に対する経済制裁の発効に伴う損害は実質無いといえる.
したがって,北海道警察は,『警察法2条』に明記されている事の,真逆の事を行っていると云う事が判るのである.

《謝って済む問題ではない.》


※関連事案:札幌連続ガスボンベ爆発テロ事件の真相と公安(名須川早苗 服役囚 懲役18年)


※重要:【外交事案】未解決・三船殉難事件の重要証言者に対する工作活動


※信じ難いかと思われますが,全て本当の話となります.
事実を不実とし,言論弾圧を行うと,国際社会が牙を向く事になると推測できます.
庶民は,日本人だけで構成されている訳ではなく,国際社会の全員が庶民であります.
まして,このグローバルな社会,且つ先進国としての地位を与えられている日本ならば尚の事でありましょう.
何故,日本国憲法に『表現の自由(言論の自由)』が“戦後”に盛り込まれたのかを考えると,安易に理解でき得る事でありましょう.


【GHQが把握しているであろう近衛兵の名簿と私の関連性:2018.12.19再掲】

 尚,第二次世界大戦時に第125代天皇(当時皇太子明仁)となる人物の近衛兵(儀仗兵)は全国で200人のみである.
したがって,敗戦後にGHQの統治下に入った際,GHQは200人と云う極めて少数の兵を把握している事となるであろう.

 即ち,1/200(人)に私の祖父が居る訳であるのだから,私の存在を世界中の国々が把握している事となるのは必至であろう.
したがって,現在も繰り返されている,私に対する国家犯罪及び裏工作の数々にも,各国は監視している事であろうと思う.

 よって,ここに記述している事実及び,その外,未だ記述していない事柄に関し,世界中が知る事となる日は近い.
これらの事は,内政の問題では済まず,『国際的に重要かつ深刻な問題』である.

 戦争を忘れさせ,解決済みの問題であると云う考え方を国民への教育にて植え付け,
日本政府にとって都合が悪い,内側からの疑念や議論が出ないようにする政策(国民骨抜き政策)を進めているが,
現在は,インターネットにて海外の新聞や論調を安易に取得する事ができる世の中である.

 したがって,戦争は遠い昔の話であり,国際社会は,既に日本を許していると思ったら大間違いである事は,
国際情勢等を分析でき得る,通常の思考回路が備わっていれば理解できる事であろう.
上述した事柄は,2015年及び2016年及び2017年にも記述したが,弊サイトから記述内容が消えている為,再掲する.


〔追補〕

 私は2016年の事件以後,祖父が儀仗兵であった事自体が『統合失調症の妄想である』とされている.
したがって,行政機関及び精神保健指定医は妄想として考えているが故に,自傷・他害の恐れが無い私に対し,
強制入院と云う極めて深刻なる人権侵害を平然と行った事実が其処に存在している.

 ちなみに私は,検察庁へ来た行政の人物及び指定医とのやり取りを全て録音している.
即ち,安易に自傷・他害の恐れが無い事を証明できる状態である事を述べておく.

 尚,行政側及び指定医側の双方とも,録音を了承しているやり取りが録音内容に存在する為,
録音する事柄に関しては,何ら問題とはならない事を述べておく.

※上記事柄に関し,弁護士会の幹部(元会長職)含め複数の弁護士と面会し,
当該事由に関する国家賠償請求開始の相談を2017年におこなった.
しかしながら,面会した弁護士全員に私は断られている.

 この時,秋篠宮家の長女の結婚相手である小室圭 氏が,弁護士事務所で勤務している報道は未だ無かった時であるが,
多数の弁護士との会食に秋篠宮家の長女を同席させる等していた事実が存在する為,弁護士会では既に有名であった可能性が高い.

 したがって,弁護士が断る理由として,上記の事が根底に無いと断言できる者は居ない筈である.
この事柄に関し,とてつもない憶測を呼ぶ事は必至であろう.

 即ち,秋篠宮家(皇室)と小室家の御結婚を心より祝福させて頂きたく思う次第である.
政府及び皇族が“自分達で撒いた種”である. したがって,実に御似合いの慶事である.

以上.


※上記項目:第125代天皇(皇太子明仁)の近衛兵‐軍人名簿とGHQ

ここで公開・公表している話は,氷山の一角であります.

《これらの事柄は,謝罪や金如きで済む問題ではない. 国際的に極めて重大な問題である.》


以上,告発内容となります.

https://sites.google.com/site/kimitujyouhou/?overridemobile=true

69. 中川隆[-10653] koaQ7Jey 2019年4月23日 20:51:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1414] 報告

1 :牛の刻参り:2016/06/13(月) 00:52:09.04 ID:???.net

【週刊誌も書けない衝撃の事実】秋篠宮家の長女“眞子さま” ロストバージンは“小学生”★

 “眞子さま”に衝撃の新事実が発覚。
なんと、ロストバージンは『小学生の時』だそうだ。

 お相手はなんと、当時の許嫁の男性とのこと。
ただ、その許嫁の男性の他にも二人ほど絡みがあったそうで、
聞こえはよいが「トリプルスタンダード」、所謂「三股」の状態が、2003年の時(11歳)には有ったとの確定情報である。

 だから、学習院大学には進学せず、ICU大学に入学となった経緯があるのだ。
そりゃ、小学生の頃から、よく知っている男性達とは別の学校に行きたくもなるだろう。

 ただ、それだけで話が済む分けない。
なぜなら、小学生の時から性的な接触を堪能されているのだから、やはり“虫が騒ぐ”。

学習院からの男性は『Aグループ』
ICUの男性は『Bグループ』
その他の男性は『Cグループ』

 といった具合に男性との交友を堪能されてきたのである。
この期に及んでも「トリプルスタンダード」をやめる事ができないそうだ・・・。
ある意味で『政略的な』・・・。
いや、『性略的な』と言った方がしっくり来るだろう。

そんなこんなで、ICU大学の彼が『処女ゲット』と、国民に対するイメージ形成をおこなったのだ。
にわかには信じ難いかもしれないが、これが現実の話である。

 そんな事があり、触れられたらマズイ話は、
大学時代で印象操作を行い、封印しようとしている。という事なんだ。

 世の中には『表向きの顔』と『裏側の顔』がある人は沢山居るが、
これ程の“顔”をお持ちの方達は早々居ないだろう。

学習院かいわいの一部では有名な話だが、週刊誌にも出てこない話である。
そりゃ、週刊誌も書けない話だろうと納得して頂けた事だろうと思う。

※この情報元は、学習院にも関わりがあり、実際にお嬢様と関わった男性である。
http://ai.2ch.sc/test/read.cgi/student/1465746729/l50
https://carpenter.5ch.net/test/read.cgi/liveplus/1466334157/


▲△▽▼


秋篠宮眞子さま御婚約と三股保険(恋愛心理学悪用テクニック)
https://sites.google.com/site/kimitujyouhou/36


【概要;心理学を応用した,A氏・B氏・AB氏のキープ手法】


【秋篠宮家が行う身内を使うスケープゴート工作と誤魔化し工作の証拠】
https://sites.google.com/site/kimitujyouhou/24


にも記述しましたが,
秋篠宮眞子内親王は,昨年9月に御婚約されている旨の報告を周囲にお話されたようです.

 この際に,周辺では噂が広まり,渦中の男性との間柄をインターネットで検索する方が急増しました.
現時点では,未公開となっているようですが,恐らくは今年発表となる事でしょう.
(今年発表とならないのであれば,時間稼ぎの為の工作の一環であると思われます.)〔この項目の記述時期-2015年〕

 検索数を見たら判るとおり,「彼氏」ではなく「婚約」で検索されています.
人は検索する際に,第一情報を元に極めてストレートに検索しますので,
2014年の9月頃に「婚約」という情報が広まった事を意味します.(2012年7月〜9月にかけても同様の検索数上昇があった.留学前に上昇する.)
したがって,二人の関係性を示す結果が,数字となって表れた事になります.

 また,「二人は決められたお友達」として,とある事を誤魔化す為に9月に意図して検索数を増加させた場合も同様であり,
結果として,お付き合いしている(していた)事を誤魔化す為に,検索数を増加させる事によって,
根本的な事柄を誤魔化してしまおうという意図が発生している事を意味する検索結果となります.

 例えば,渦中の男性とは何も無いという風に誤魔化したい場合,
渦中の男性との話を意図的に作り上げ,渦中の男性は「ダミー」という形にしてしまおうという事ができます.

 これにより,渦中の男性との関係が終わった後に,新たに関わりを持ちたい男性が居る場合,
その男性に近づいた後に,渦中の男性は「ダミー」の役割だとして,新しく近づきたい男性に誤認識を起こさせる事ができるのです.
要するに,根本的な事柄を誤魔化す為に,更なる誤魔化し工作を行うという事になります.

 実際は,渦中の男性とお付き合いしていても,渦中の男性を「ダミー」と位置づけておく事で,
お付き合いを継続できるというメリットも発生する事になります.
何故ならば,新しく近づきたい男性には「ダミー」として認識させておく事ができるので,
実際は渦中の男性と付き合っていても,「ダミーであって付き合っていない」と思わせ安心させる事ができるからです.

 新しい男性を,「Aさん」:渦中の男性を,「Bさん」
とした場合,「Aさんと,この間会った事を誤魔化す為に,Bさんと会ったの」という具合に認識させる事ができます.

 これにより,「Aさん」を確保しつつ「Bさん」との関係も継続できる事になります.(あちこちをキープできる)
具体例を提示すると,「結婚相手のAさん」と「彼氏のBさん」を分けて,結婚するまでは自由に振舞う事ができるという事です.

 また,学生時代は「決められたお友達」しか周りにいなかったという情報を意図して流す事により,
当時の交友関係をあいまいにしてしまおうとの工作も見られます.(週刊誌や同学内からの話など)
具体例ですと,佳子内親王入学の後には,周りの学生は,「学生に扮した若い警備」・「決められたお友達」といった情報の拡散に見ることができます.


【心理学を悪用した2股3股4股の進行状況】

ちなみに,眞子さまの初体験(ロストバージン)は『小学生の時』である.

 お相手はなんと,当時の許婚か彼氏? とのこと.
ただ,その許嫁の男性の他にも二人ほど絡みがあったそうで,
聞こえはよいが「トリプルスタンダード」,所謂「三股」の状態が,2003年の時(11歳)には有ったとの確定情報である.

 だから,学習院大学には進学せず,ICU大学に入学となった経緯があるのだ.
それは,小学生の頃から,良く知っている男性達とは別の学校に行きたくもなるだろう.

 ただ,それだけで話が済む分けではない.
なぜなら,小学生の時から性的な接触を堪能されているのだから,やはり“虫が騒ぐ”.

学習院からの男性は『Aグループ』
ICUの男性は『Bグループ』
その他の男性は『Cグループ』

 といった具合に男性との交友を堪能されてきたのである.
この期に及んでも「トリプルスタンダード」をやめる事ができないそうだ・・・.
恋愛に於けるA-B-X理論考察(共通認識の敵)参考文献を参考にされたい.
 ある意味で『政略的な』・・・.
いや,『性略的な』と言った方がしっくり来るだろう.
そんなこんなで,ICU大学の彼が『処女ゲット』と,国民に対する処女であるというイメージ形成をおこなったのだ.
にわかには信じ難いかもしれないが,これが現実の話である.

そんな事があり,触れられたらマズイ話は,
大学時代で印象操作を行い,封印しようとしている.という事だ.

 世の中には『表向きの顔』と『裏側の顔』がある人は沢山居るが,
これ程の“顔”をお持ちの方達は早々居ないだろう.

 また,秋篠宮家にO脚の血は入っていない.にも拘らず,長女がO脚なのは?(紀子様は出産してからO脚である)
幼少期に性的虐待を受けている少女を見つける際には,O脚か否かを見る事もある.
なぜならば,行為時に膝に負担が掛かるから,成長期は関節や骨格が固まりやすい.

 したがって,足を閉じて滑走するスキーをやらされている.(三笠宮の薦めだそうだ)
但しお嬢様の場合は,虐待ではなく個人的な趣味嗜好の類である事は言うまでもない.
これは,※宮様スキー大会(札幌・旭川富良野)の関連と,歴史の捏造を引き継ぎさせる目的もある.(一石二鳥との考え方)

 学習院かいわいの一部では有名な話であるようだが,週刊誌にも出てこない話である.
それは,週刊誌も書けない話だろう.と納得して頂けた事だろうと思う.
※許婚のいる御家柄とはそういうものでもある.これが現実である.(結婚相手と彼氏とは別という考え方)

 2011年‐2012年に御両親が記者から渦中の男性について聞かれた際,
「私達の青春時代を思い出します(婚約していた)」と会見しており,世界中に,「二人は婚約している」という事を公開しております.
それが2014年9月にはっきりと数字となって表れたという事になります.

後程,なぜ婚約しているのか・渦中の男性には『どの様な政略的な意味があるのか』について述べてゆきます.


【追記情報:2018.07.06(2016+2017も追記したがデータが飛んでいる為,再掲)】

 これらの話に関してですが,眞子さまは,2012年6月から小室圭さんと付き合っていたというのにこれです・・・.
英国内の銀行系(金利操作で問題になった)で働いていて,フットサルのチームにいた人です.
だから,わざわざ小室氏の話題でフットサルをアピールして誤魔化そうとしている事実があるわけです.


 これらの事柄は,その男性がTwitterをやっていたから特定できた事実です.
まだTwitterをやっているでしょうか?

 そもそも,2012年の留学先で『良い相手を探して来い』と秋篠宮文仁親王が言っていたんですよね.(週刊誌報道)
にも拘らず小室圭 氏を投入したのは,これらが内部で露呈したからです.
交際を認めていたなら『良い相手を探して来い』とか,そんな事言わないですよね?

この矛盾点を明確に説明できる事が,これらの事です.

 あとは,人物像のすげ替えで,『銀行系の人物』やら『二股』やらを誤魔化しにかかったって事です.(現状=結果論です)
これが眞子さまの本当の姿です.
これらを皇室や宮内庁ぐるみで“この国の為”と,いう所に話を集約し,誤魔化そうと必死なのです.

※皇后陛下(美智子さま)と紀子さまが危惧している事は,これらの事実が世間に知れ渡る事でもあるわけです.(宮内庁発表の“雑音”声明文)

小室圭 氏の二股疑惑が出てきたのは,眞子さまの男性との関係に関する話を挿げ替える為だった訳です.(事実,小室圭 氏も二股をしていた様ですが)
ですから,『銀行系』『サッカー』『二股』といった具合に,人物像のすげ替えをひた繰り返してきている訳です.

《※皆様,皇室以外で見た事ありますか? 自分の娘の男遊びを,親族ぐるみで正当化しようとする人達を・・・.》


【眞子様と小室圭さんと山守さんの三角関係】

 ICU大学時代,山守さんも小室さんも同じスキー部員だったとの話が週刊誌にて報道されていた.
そのスキー部に,眞子様も居た事実があります.
少ない人数のスキー部内で,眞子様は,男を取っ替え引っ換えしていた事実があります.
しかも,小室さんに乗り換えた後も,山守さんも居るスキー部で活動を継続していた事実があるわけです.

 2011年,週刊誌にて,眞子様と山守さんが布団の上で寄り添っている写真が報道されました.
2012年には,記者会見の場に於いて,2人の関係を質問された紀子さまは,
『私達の学生時代を思い出します.うちの娘は爽やかな青春を送っております.』
上記の回答をしております.

 しかしながら,眞子様と小室圭さんは,2012年から付き合っていると話をしております.
したがって,上述した,「スキー部内で男を取っ替え引っ換えしている」事実が鮮明となるわけであります.

 よって,「小室圭さんに眞子様が騙されている」という風潮は,あまりにもおかしいという事に気が付きます.
これのどこが『爽やかな青春』なのでしょうか??(現代の皇室の価値観では爽やかな青春という事なのでしょう.)

 2012年の留学中に英国で知り合ったアジア人や日本人とも関係を持っているのも眞子様です.
その時期,既に小室さんと付き合っていた事実が鮮明となっております.

 また,美智子様は,孫である眞子さまの男漁りの結果に心を痛めているのではなく,
それらの話を出している世論に心を痛めていらっしゃるようでして,
孫の酷さに愕然とするどころか『“雑音”声明文』を宮内庁から発表するありさまです.
皇室を擁護したいなら,男漁りの数々を正当化できる方法を全国民で考えてあげては如何か,と思う次第であります.

※これら眞子様の異性関係に関する趣味嗜好の何処が,『この国の為』として正当化できるというのでしょうか!?
国際的な問題を,自分の娘の男遊びの趣味嗜好を正当化する為に利用している事実があるわけであります.
したがって,眞子様の異性関係について,このように記述する必要がある訳であります.
即ち,プライバシーや人権を盾に言論を弾圧する事は,絶対に許されない事となる訳である.

※宮内庁職員や警備を担う警察官は,この様な皇族の為に職務を遂行している事に誇りを持ちましょう!!
(私ならば御先祖様に顔向けできなくなりますが…)
https://sites.google.com/site/kimitujyouhou/36


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眞子様と彬子様‐富士急と山守氏‐婚約と結婚【皇室の裏工作と印象操作】
https://sites.google.com/site/kimitujyouhou/akishinonomiyamako41


この項目に関しては,今まで記述してきた事柄との明確なる相関性を指摘できる例を挙げてゆきたいと思う.

 男性との御交際に関しても,トリプルスタンダードの眞子様(天皇家)であるが,
大変恐縮ではあるが,何故,清子内親王の結婚相手が,なかなか見つからない事態に発展したのか?
想像するに容易い事柄を下記にて述べてゆきたいと思う.

 先に解説から始めようと思う.
まずは,写真〔1〕について.
写真〔1〕は,国民に浸透している『天空の城ラピュタ』のワンシーンにある,
『パズーとシータの鳩に餌やり(トランペット)』で「鳩に群らがわれる」のイメージを使った一枚となる.

“白い服”と“鳩”,後ろで男性が『参ったな〜』と頭に手を当てている写真となる.
日清製粉が協賛となっている,ジブリのイメージを思い切り使ったイメージ形成手法と見る事ができます.
天空の城ラピュタでシータが鳩に群らがわれる
紀宮清子内親王(princess sayako)結婚前


 お次は,写真〔2〕について.
2013年であろうか,2014年であろうか,眞子様が,伊勢神宮への参拝をされた時の写真である.
『白い服と逆光』で,『光が透ける柔らかき木漏れ日』をイメージした写真となる.

 具体的なイメージとしては,『学校の教室に差し込む柔らかき日の光・木漏れ日』といった所であろうか.
この手法は,『学校・学園物のアニメやドラマ』などで,"純粋無垢なイメージの描写"を描く際に,よく利用されているものである.
具体的な描写としては,"学園物の青春ラブストーリー"など,純粋な恋愛劇を描く際に多用されている手法である事と思われる.

秋篠宮眞子内親王(princess mako)伊勢神宮参拝


 したがって,写真〔1(鳩とラピュタ)〕:写真〔2(木漏れ日のアニメ)〕につきましては,
どちらの写真も『純粋無垢』をテーマとした写真となる事が判ります.(清子内親王の時と似通っております)

 この他でありますと,写真〔3(アナと雪の女王)〕という事柄がある.
これは,撮影者の真意が見えてくる写真であると私は思う.
真意とは,個人的には《ディズニー映画のシンデレラ》だと思うが,皆様は,如何思われるだろうか.

1.写真〔1〕⇒http://i.imgur.com/rvpPDii.jpg(鳩とラピュタ)

2.写真〔2〕⇒http://i.imgur.com/Q1fdmO3.jpg(木漏れ日)

3.写真〔3〕⇒http://i.imgur.com/MvehWiv.jpg(アナと雪の女王)


 何故,この様な撮影手法と国民に対するイメージ形成を行わなければならなくなっているのか.
それは,私が今まで述べてきたような事柄が事実,有りますので,
これらイメージを,総合的に払拭する必要性が出てきている為である.と私は思う.

 宮内庁としましても,『皇后陛下:美智子様』と『作家・俳優・右翼:三島由紀夫』の噂を気にされているようでありまして,
イメージの一新と,払拭を試みている為であると思われます.

 つきましては,上述した事柄を払拭する為の一端も含めた,下記の"3つ"の事柄に直結してくるかと思う.

1:『三島由紀夫と"演劇・映画・右翼"』
2:『野村秋介と"演劇・映画・右翼"』
3:『大学の彼氏(山守凌平)と"演劇・劇団・ネット右翼"』
(二度ある事が三度有ったら困るといった所でしょうか)

 また,眞子様は,ICU(国際基督教大学)を,ご卒業された際に,『今後は生活水準の向上を目指します』との事を会見にて述べられておりました.
生活水準とは,現代では,夫(旦那)が築き上げるのが通常の事となっているかと思われます.

 したがって,これに於いては,結婚の先延ばしを,お考えとの"国民向けの公表"である事が判る.
万が一,山守凌平との御結婚を破棄しなければならなくなった際に,その他の結婚相手の確保をも含める必要性が有るが為に,
トリプルスタンダードの公表を,眞子様がされたという事を,窺い知る事ができる会見,という事となるのである.


【宮内庁が行った眞子様の被災地ボランティアに関する報道とイメージ操作】

[1]
 未曾有の災害,東日本大震災から早くも5年.
様々な方達が被災地にてボランティア活動をされておりました.
実は,その被災地に秋篠宮家のご長女である眞子内親王(眞子さま)が入られておりました.

 そう,この時,2011年7月は,避難所生活が続き,仮設住宅もまだ,さほど出来ていない時.
様々な方達がボランティアをされておりましたが,被災地である東北はまさに『お葬式会場さながら』・・・.
親・兄弟・姉妹・祖父母・友人・同僚を亡くし,悲しみが広がり,行方不明者の数も増える一方・・・.

 そんな中,眞子内親王(眞子さま)は被災地入り,“満面の笑顔”でボランティア活動を満喫されておりました.
信じ難い事でありますが,いわば,よそ様が途方に暮れているお葬式会場で“満面の笑顔”・・・.
御皇室というのは,いつから被災地を踏み台にして自身の付加価値を創造するようになったのでしょうか?

 もし,貴方が被災者となった場合に,“満面の笑顔”で“ボランティア活動を満喫”している方達が居たら?
“素晴らしい自分”を,演出する為・売名の為に被災地入りしていたら?
貴方は,どう思い,どのようにボランティアを見る事になるでしょうか?

 この事は,御皇室のみに限った事ではなく,いつ被災者とも分からない私達自身も,
被災地での振舞いを,よく考える必要があるのではないでしょうか?

眞子内親王(眞子さま)に至りましては,この他にも,渦中の彼達との馴れ初め作りのボランティアもされております.

 なぜ,宮内庁が,複数のボランティア活動の内,『女性ばかりのボランティア団体での活動』を,
必死に宣伝するに至ったのか,言わずもがな見えてくる事かと思われます.

 また,《お忍びでボランティア》と言っておりますが,“お忍び”とは公表される事ではないはずです.
したがって,お忍びと言う言葉を利用した印象操作と,自身の付加価値創り,
そして,馴れ初め創りの為のボランティア活動である事が分かります.

 そのうえで,ボランティア活動をしている際の動画を見て下さい.
博物館の公務等と同様,展示物を上目遣いで覗き込むように見ている眞子内親王(眞子さま)や佳子内親王(佳子さま)の姿を見る事ができます.

 ようするに,被災地の子供を,博物館の公務等と同様に,自らを引き立てる為の物として捉え,
自身が一番可愛く見えるようにアピールし,撮影と公表を行っている事が分かります.

今,この記事を御覧下さっている貴方は,この事実を,どの様に受け止めますか?

秋篠宮眞子内親王(眞子さま)被災地で子供にボランティア 秋篠宮眞子内親王(眞子さま)被災地で子供にボランティア
秋篠宮佳子(佳子さま)博物館の公務


皇族の眞子さま被災地で満面の笑顔でボランティア活動

[2]
 これまでの経過を元に,仮説では有るが公表されている事柄を元に分析してみた.
数年前,眞子様が被災地にてボランティアをされたニュースが出ておりました.
この際,自身を『まこC』と呼んで貰っていたそうです.

“マコC”とは,学習院時代からの"あだ名"だそうでありまして,
報道での説明では,"ちゃん"の"C"であると大々的に宣伝しておりました.

 しかし,国民に対し,そこまでのイメージ形成をするとは何かあると思い調べました所,
やはり,今までの経過の通りの事柄を見受ける事ができますので,記述してゆきたい.

 俗に,『A・B・C』というと,男女の関係を表すものでありますが,
事実,この"あだ名"である"マコC"には,同級生から付けられた早熟な由来があったようです.

 当時,許婚やお付き合い等,家柄とも言えるような状態にあった御嬢様.
特に,富士急ハイランドの御子息とは同期でありまして,家族ぐるみのお付き合いがあるそうです.

 富士急ハイランドのご子息の曽祖父は,『元:満州鉄道総裁』の『林さん』がおります.
ここに明確なる相関性がある事が分かりました.

 要するに,お祭りなどで有名な『お囃子(おはやし)』とは,
すなわち,『尺八』や『横笛』などがありまして,日本には古くから『性的な意味合いの隠語』として根付いております.

 学習院界隈では一部のみが知っているようでして,疑惑を兼ねた渾名がついた経緯があるように見えます.
したがって,眞子様に付けられた『隠語を兼ねた渾名』それが,『マコC』である事が見えてきました.
これも,学習院大学には進学できない御事情である"可能性"は,御察し頂けたかと思われます.

※しかし,上記はあくまでも仮説であり,誤分析を行わせる為の,ミスリードである可能性も考慮したい.

※また,『林さん(富士急ハイランドの御子息)』に関する相関性と,これらを利用した男性関係の誤魔化しについては,下記に記述する.


【三笠宮彬子女王と秋篠宮眞子内親王(眞子さま)と,富士急ハイランドの御子息と,山守凌平の相関性】

 三笠宮彬子女王についてであるが,お名前には『彬子』という漢字があてられている.
つまり,結果論から記述する事となるが,『林に逆さんずい=さんづくり』である.

 "さんずい"は,汚職を意味する検察用語でもあり,
秋篠宮様の御嬢様の結婚相手と噂されている富士急ハイランドの曽祖父の名は『林さん(元:満州鉄道総裁)』である.

 しかし,彬子女王や瑤子女王が生誕された時にはまだ,方針が固まっていなかったようである.
したがって,秋篠宮家が創設され,眞子内親王(眞子さま)を誕生させる事が決まるまで,方針は固まっていなかったと思われる.

 したがって,眞子内親王(眞子さま)が産まれる時期に合わせて,富士急ハイランドの御子息を誕生させた事が判る.
よって,眞子内親王(眞子さま)を主軸とした歴史の捏造が行われている現状があり,
当時は保険掛けとして用意されていた,眞子内親王(眞子さま)の"山守凌平さん"が,大学からの彼氏であり,結婚相手である状態となった.

 しかし,浩宮(皇太子)は"サンズイにツゲル(告)"である.
これぞ正に,ダブルスタンダードと言わずして何であろうか.

 それどころか,『彬子』という名の意味合いを破棄したのが,
その父親であらせられる三笠宮寛仁親王と皇后陛下の美智子様である.

『満州事変に始まるこの戦争をもう一度よく学び直し・・・』という天皇陛下の御言葉に対し皇后陛下は,
『岸という字を歳時記に見ず』+『来し方(岸方)に元問う文の林ありてその下陰に幾度いこいし』
という"和歌"を歌会始にて発表されている.

 すなわち,山守凌平(ウ冠に寸+平を凌駕する・凌辱する)の意味合いが決定した事となる.
山に瓦を干す(岸+安倍+山守)の案に皇后は反対している.という意味合いを自ら棄却した事が判る.

 ようするに,『満州事変に始まるこの戦争をもう一度学び直す=張作霖爆殺事件〜2.26事件〜明治維新』
という保険掛けの意味合いを破棄した事となる.

 さらに,宮様スキー大会にて,旭川(富良野=三重県からの入植者)と札幌(丘珠神社)というダブルスタンダードの姿勢もある.
この大会に秋篠宮杯が無いのは,目立ちたくないのと,保険掛けのダブルスタンダードであろう.

 彬子女王の父親であらせられる三笠宮寛仁親王は,2008年頃に,自らの娘の名の意味合いを破棄し,山守に賭けた事となる.
山守の案を発表しなかった時の為に,娘である瑤子女王が日本赤十字社に勤めた.

なぜならば,保険掛け(山守+赤十字)の要素を有耶無耶にする為の日本赤十字社勤務だからであろう.

 この様にして,今までの事柄は消せない事実(結果)であり,保険掛けのおこない方が露呈したのである.
したがって,これらの事柄(過去の行動言動)事態が結果となる.


全日本スキー連盟(明治天皇崩御の日7月30日に内閣府より公益財団法人の認定がなされる)


尚,上記画像は,『全日本スキー連盟』の概要を画像キャプチャしたものである.
全日本スキー連盟は,「宮様スキー大会」を運営・協賛している「北海道スキー連盟・札幌スキー連盟」の上部団体である.
御覧頂くと分かるとおり,『2013年7月30日に“内閣府”から公益財団法人として認可を受けている.(北海道スキー連盟も同日認可)』

ちなみに,《明治天皇が崩御した日もまた,“7月30日”》である.
即ち,私が

1.『【仁和寺宮(小松宮彰仁親王‐伏見宮)と蝦夷地開拓(北海道)の暗号公文書(開拓使日誌)‐《明治維新》】』

2.『【天皇家と北海道】秋篠宮紀子様と皇太子妃雅子様に隠された意味(結婚相手と三笠宮家)】』

上記2項目にて述べている,北海道及び,スキーと云うスポーツを利用した,“歴史の捏造”
及び“隠蔽工作”に繋がってくる可能性が極めて高い事柄の一つとして挙げる事ができるものである.
これらの事柄の相関性及び,確率論から導き出せば,7月30日に内閣府から認可されたのは必然の事柄となる.


※尚,私は,スキー連盟に直接電話を入れ,7月30日に内閣府より認定を受けたのか否かの確認を行った所,
間違いなく7月30日に認定を受けたとの事であり,
公益財団法人として“実務を開始したのが8月1日”との事である.(証明可能)

さて,『宮様スキー大会』に関連している皇族は何人居るだろうか?


 三笠宮寛仁親王は対談形式の会見(コラム)にて,

『うちの娘は,ああ見えてモテるんだ』と言われていたが,
この様な発言をされた年代から考えても,現在の様に,降嫁されていない事は,全くの予想外・想定外であったようである.

 その一方で,秋篠宮様の女性宮家を欲する行動は,娘である眞子内親王(眞子さま)に総裁職を譲っている事でもはっきり解る.
また,宮号は名字ではない為,秋篠宮様の御嬢様が結婚しても公表する義務が無い.(相手に迷惑が・時期を見て公表等)

 では,三笠宮家・高円宮家・皇太子家はどういう状況であろうか?
日本が英国で開催させた『福島の物産展』に顔を出したのは,秋篠宮眞子内親王(眞子さま)である.

 福島県産の流通品目は現在,安全である事と思うが,2011年当時の環境や報道を見ても判るように,
現在の基準値以上の物が流通していた事も事実であろう.

 したがって,現在は安全な品目であっても,将来的に何らかの健康懸念が出た際には,
生産者に対する,ある種の非情理な矛先が向かう事も安易に予測できる.

 にも拘らず,福島の物産展に私的に出席されたという事は,"官僚や関連組織"に対してのアピールという他無いだろう.
したがって,先述した,六次産業化と輸出機構に関連するアピール(経産省と内閣府)である事が明確に分かる.

 尚,チェルノブイリ原発事故は現在,事故から30年(2016年)である.
2026年には,事故から40年となる.
2036年で,50年となり,世界の平均寿命より短い寿命の算出統計が出た時点で,深刻な問題を引き起こす事は必至であろう.

 タバコよりも害は少ないとの報告書があるが,これについては,読んで字の如く,そのまま当時の予測を出しているにすぎない.
三笠宮寛仁親王を見ても判るとおり,タバコは20〜30年で健康を害する可能性が高い.
したがって,仮に戦後100年を契機に戦後レジームからの脱却を日本の指針としていたとしても,その様な時間は無い事が判る.

 ただし,その一方で,秋篠宮様は,『農家さんや漁師さんの風評被害を純粋に払拭したくて・・・』と良い訳ができる状態にある.
(事実上,矛盾する説明となるが,国民に対しての説明だけを考えるならば,自らに向く矛先の分散にはなるかもしれない)

※六次産業化とオリンピックと官僚の天下り先を確保する事業

政府機関である農林水産省と外務省と経済産業省が推進する食べて応援の広告


 皇太子殿下が出席されている“世界水フォーラム”の関係から見ても,
"福島原発周辺の海洋汚染"は改善しようが無い事実であろう.(実際に政府としての見解で発言している)

 あくまでも,主観論ではあるが,竹田 氏は,秋篠宮家以外の皇族で,ある種の出汁を摂り,秋篠宮様に還元するのが常態化している(いた)ように見える.
ご皇族に関連する方が,とあるコラムにて,真っ先に健康被害の懸念を発表した事からも,誰の為に動いているのか判る一例となっている.

 例えば,三笠宮様に関しては,彬子女王や瑤子女王が靖国神社に参拝されている事からも分かるように,
保守勢力(日本で言うところの右翼等)の受け皿の役割を果たしているが,ネット右翼などの主張で未だ強いのが,"放射脳"といった,
将来の健康に関する懸念を抱く方達を否定する際に用いる造語が広まっている事が見受けられる点である.

 しかしながら,万が一にも将来的に健康被害が露見された際には,現在の保守勢力の受け皿というよりは,
懸念が現実となった事に対する不信感の矛先が向けられる対象となる事が見えてくるのである.

 また,突拍子も無い事を言うようであるが,やはり竹田氏も男性である.
少ない皇族の中で万が一結婚相手を選ぶとなれば,若い女性が居る秋篠宮家を選ぶ事かと思う.

 皇族関連で報道された大麻についてであるが,大麻に関する現在の日本の立ち位置は,
安倍晋三 氏の夫人である,安倍昭恵 氏のtwitterによって立ち位置が見える.(大麻で町興し)
厚労省に於いては,医療用として医薬品の認可の絡みもある.(カンナビノイド製剤:THC製剤=がん患者や人免疫不全患者に対する処方)

 国内だけでも,表面的に,これだけ有るのだ.
国際全体を総合した相関性を,冷静かつ客観的に分析すれば,現状が判るかと思う.

 世の中を見たらわかる通り,女性が一番売れる時期は『22歳』までである.(芸能やキャバクラの世界を見れば一目瞭然であろう)
合法の範囲で言えば,18歳〜22歳までが売れる時期となる.

 これを過ぎたら,お客が付いていないキャストは,パブかスナックへも降りられない.
行く先は,風俗か真面目に働くかの二択であろう.

 何故,仮面少女は,若い女性を起用しているのか?
それは,商品価値がある(芸能),売れ時を起用しているからである.

 2026年に愛子内親王(愛子様)は,25歳となっており,
仮にスキー関連を秋篠宮眞子内親王(眞子さま)から愛子内親王(愛子様)にスライドしても,
『女性が一番輝いている年齢を過ぎている』状態となっている.

この状態にて,札幌オリンピックという話を出しているは如何なものだろうか?

 私に対し,秋篠宮家の長女である『眞子さま』を主軸に据えた工作を行っているが,
上述した事柄について,はたして理解されているのであろうか?

 したがって,竹田 氏に関しましては,仮面少女を自らプロデュースしている訳では無いという可能性も見えてくる.
適当な表現が見つからないが,所謂,名義貸しかと思われる.

仮に名を貸しているとした際には,これではプロデューサーの顔に泥塗っていると言う他無いと,私は思う.


 例えば,『ダイエットして女を磨いて可愛くなってやる!!』
という,ある種の啖呵があるが,これ自体,美容業界の宣伝戦略である事は言うまでも無い.

 努力する事は良い事であり,女性は何歳になっても女性である.
しかし,現実を直視すると,そこに存在するのは,"美容整形業界の規模"であり,
『努力して可愛くなるならば,芸能人は整形しない』という事でもある.
『蓼食う虫も好き好き』『十人十色』という言葉が存在するが,如何なものであろうかと私は思う.

 私は,この様な事を言えた顔では無いが,現実というものは,ある種残酷であり,物事の道理であると思っている.
したがって,上述したような事柄が有る以上,心苦しいが,述べさせて頂いたしだいである.


【プチエンジェル事件との関連性】

 なぜ,プチエンジェル事件という事件が起きたのか,その真相を御存知でしょうか?
プチエンジェル事件とは,2003年に発覚した“小学生児童買春組織の名称”であります.

 発覚後,時期概要に関する警察の発表は二転三転・・・.
顧客リストに“大物政治家”や“医者・弁護士”などのエリートがズラリ・・・.

犯人は,きわめて不審な「自殺」を遂げている等など,異常な事態に発展していた“未解決事件”であります.

 当時,ポロリと出てきた話の中に,
ご皇族の「高円宮憲仁親王(2001年逝去)」の名前もありました.

 おや?これは何かがあるぞ??と思い,そこで詳しく調べてみた.
その詳細と,事件の成り行きを説明てゆく.

 事件に繋がる“裏側”の事実.
基礎知識として,『プチエンジェル事件とは?』を御読み頂ければと思います.
その後に,下記を読み進めて頂くと,事の真相が見えてくるかと思います.

■プチエンジェル事件とは?
⇒wikipedia:プチエンジェル事件とは?


【眞子様の男性遍歴(彼氏)と,その経過】

ちなみに,眞子さまの初体験(ロストバージン)は『小学生の時』であるようだ.

 お相手はなんと,当時の許婚か彼氏? とのこと.
ただ,その許婚の男性の他にも二人ほど絡みがあったそうで,
聞こえはよいが「トリプルスタンダード」,所謂「三股」の状態が,2003年の時(11歳)には有ったとの確定情報である.

 だから,学習院大学には進学せず,ICU大学に入学となった経緯があるのだ.
それは,小学生の頃から,良く知っている男性達とは別の学校に行きたくもなるだろう.

 ただ,それだけで話が済む分けではない.
なぜなら,小学生の時から性的な接触を堪能されているのだから,やはり“虫が騒ぐ”.

学習院からの男性は『Aグループ』
ICUの男性は『Bグループ』
その他の男性は『Cグループ』
※秋篠宮眞子内親王(眞子さま)ご婚約と保険(恋愛心理学応用テクニック
 といった具合に男性との交友を堪能されてきたのである.
この期に及んでも「トリプルスタンダード」をやめる事ができないそうだ.

 ある意味で『政略的な』・・・.
いや,『性略的な』と言った方がしっくり来るだろう.
そんなこんなで,ICU大学の彼が『処女ゲット』と,国民に対する処女であるというイメージ形成をおこなったのだ.
にわかには信じ難いかもしれないが,これが現実の話である.

 そんな事があり,触れられたらマズイ話は,
大学時代で印象操作を行い,封印しようとしている.という事であろう.

 世の中には『表向きの顔』と『裏側の顔』がある人は沢山居るが,
これ程の“顔”をお持ちの方達は早々居ないだろう.

 また,秋篠宮家にO脚の血は入っていない.にも拘らず,長女がO脚なのは?(紀子様は出産してからO脚である)
幼少期に性的虐待を受けている少女を見つける際には,O脚か否かを見る事もある.
なぜならば,行為時に膝に負担が掛かるから,成長期は関節や骨格が固まりやすい.(視線逸らしのミスリードの可能性も考慮したい)

 したがって,足を閉じて滑走するスキーをやらされている.(三笠宮寛仁親王の薦めだそうだ)
但しお嬢様の場合は,虐待ではなく個人的な趣味嗜好の類である事は言うまでもない.
これは,※宮様スキー大会(札幌・旭川富良野)の関連と,歴史の捏造を引き継ぎさせる目的もある.(一石二鳥との考え方)

 学習院かいわいの一部では有名な話であるようだが,週刊誌にも出てこない話である.
それは,週刊誌も書けない話だろうと納得して頂けた事だろうと思う.


【彬子さま出席のスキー大会会場で爆発音 パイプ持った男を取り押さえ聴取】

 6日午前10時15分ごろ、札幌市清田区真栄の白旗山競技場で、三笠宮家の彬子さまが出席されて開かれた「宮様スキー大会」の関連イベント中に爆発音がした。
北海道警は現場で金属製の筒を持っていた男が「自分がやった」と話したため、身柄を確保し爆発音との関係を調べている。
爆発音は彬子さまが挨拶などをされた直後に起きた。参加者を含め、けが人などはなかった。

 道警によると、金属製の筒は長さ40〜50センチ、直径3〜4センチで、爆発音がするよう仕掛けが施されており、
爆発音と関連があれば、火薬類取締法違反などの可能性がある。
男は聴取に意味の分からない答えをしており、道警は思想的背景などはないとみて任意で捜査を続ける方針。

 道警や関係者によると、当時は市民参加のパレードが始まった直後で「ドン」という音が1回した。
彬子さまは挨拶を終えて貴賓室に戻られる途中で、男との距離は十数メートルだった。会場には他に参加者や大会関係者ら数百人がいたという。

 大会のスケジュールに変更はなく、彬子さまも予定通り別の会場に移動された。
宮様スキー大会は3〜6日、札幌市内の複数の会場で開催された。

■産経ニュース
⇒彬子さま出席のスキー大会会場で爆発音 パイプ持った男を取り押さえ聴取

宮様スキー大会で爆発音(破裂音)の犯人の写真(画像‐容疑者‐白旗山にて)

3月6日に白旗山スキー場で開催されていた、『宮様スキー大会国際競技会』の競技種目のうち、三笠宮彬子さま御出席の『宮様スキーパレード』で大きな破裂音がした事件で、
「札幌市東区在住の無職、伊藤和浩容疑者(伊藤和浩被告)30歳」を、「火薬類取締法違反(無許可製造・消費)≒(無免許製造・無免許消費)≒(無許可製造・無許可消費)」の容疑で起訴しました。
男は犯行の動機について意味不明な供述をしているとの事ですが、弊サイトに記述している事が伊藤和浩容疑者(teda wakou)が述べている事であります。
(2016年8月25日現在,まだ起訴されていませんが,起訴確定であろう為,本人が独断で,上記の予測記事を追加しています.)

※下記に私が記述してきた,自身に関する被害との相関性に関する粗筋年表を記述する.


【粗筋年表と裏工作の動向】

 『警察上がりの侍従が愛子様(敬宮)を虐める,やんちゃな同級生の給食に向精神薬を入れたらどうか?』
と“皇太子(浩宮)に提案した”旨の報道があったそうだ.(2009年:警察組織が異常であり,警察組織が腐敗している為だと云う保険掛け)

以下,年表(粗筋).

1.2002年:勤務先に秋篠宮を名乗る人物が来る.

2.2003年:お嬢様(眞子さま)の男遊び始まる.同級生以外の許嫁がいて,他に彼氏が学習院に2人いる状態(秋篠宮眞子)
("実態を知る者",許婚と彼氏がいる女に会わされる+勤務先に警察を名乗る連中が来る.未成年者に対する性犯罪の聞き込み)
※私には一切聞いてこなかったうえ,捜査(表向き)も逮捕もなかったが,上司にお前何やったと聞かれる.

3.2003年:7月30日,勤務先にスーツ姿の複数人が来て,
『ようやく見つけた.明治天皇って知ってる?今日何の日か知ってる?明治天皇が死んだ日だよ?』という事を私に対して言ってきた.

4.2004年:私の原付バイクを販売した相手に,黄色い初代ワゴンRを薦められ,購入する.(紅葉山公園にて引き受け)

5.2005年:秋篠宮家で悠仁親王を妊娠.(2回,自称:秋篠宮眞子に会わされる)

6.2006年:秋篠宮眞子に会わされる.(3回ほど自称に会わされている)

7.2006年:悠仁親王出産.(1986年+1946年に合わせる為)

8.2006年:在特会の走りであるネット右翼が皇室保護運動を始める.(日本会議や清和会などが母体)

9.2007年:在特会結成.(自称:秋篠宮眞子に会わされる)

10.2008年:レディースクリニックに居合わせる(祖母が不自然な死に方をする)

11.2008年:祖父が亡くなる(儀仗兵:近衛兵)

12.2009年:不自然なバイク事故と車の事故により殺されそうになる(2001年・2005年・2007年・2009年・2010年)

13.2010年:右翼活動をさせられる

14.2011年:私が被災地に行く時期(7月)に合わせ,秋篠宮眞子が男性との馴れ初め作りの為に被災地入りする(スケープゴートに使われた)

15.2012年:秋篠宮眞子が,私の周りにて彼氏とのデートを徹底して行っている事に気が付く
(私を利用した保険掛けのポイント作り.後程,この事に気がついた)

16.2012年:右翼活動を辞める

17.2012年:告発開始

18.2013年:告発継続

19.2014年:告発継続(札幌連続ガスボンベ爆発事件が起こる)

20.2015年:告発継続

21.2016年:告発継続(3月6日,白旗山スキー場の宮様スキー大会にて事件を起こす)

22.2016年11月1日:3月6日の告発事件に於いて,検察庁へ出頭命令が下り,同庁内に於いて精神指定保険医及び札幌市福祉課担当職員により『記述してある内容及び述べている事柄の全てが妄想である』との鑑定が下されると同時に,「精神福祉に関する法律;第29条を乱用され」“措置入院(強制入院)”とされる

23.2017年3月17日:約五ヵ月間にも及ぶ身体5点拘束から措置入院解除となり,精神科の隔離室から開放.(宮様スキー大会が終了するまでは措置解除はしないとの話があった.すなわち,医療的な必要性ではなく,行政(政府)及び医師の個人的な思惑である事がわかる.ちなみに,措置入院及び身体拘束は,その必要性がなくなった時点で速やかに解除する指針が通達されている.)
上記年表に誤記載がありましたので訂正します。(2017.04.20)
上記年表に,2項追加しました。(2017.09.30)

 本来,2003年の時点で秋篠宮の長女,眞子様の浮気癖と性的な接触を誤魔化したかったのであろうが,
2003年では,あの為でこの為でという言い訳が国内外に対しできない.

 したがって,2006年(1946年と1986年に合わせ)に悠仁親王を誕生させ,意味合いを持たせようとした.
また,2009年の時点に於いて,山守凌平という人物を秋篠宮眞子の同級生にする事が決まり,
名前に由来する歴史の捏造からの脱却を国際社会にアピールしながらも,それ以前の男遊び等(彼氏など)を山守凌平に集約するに至っている.
山守凌平がtwitterにておこなった,『処女ゲット』という発言にて分かるように,国民に対する『イメージ形成の為の宣伝工作』をおこなっている.

自身の馴れ初めや楽しい青春の為に,人様の人生を潰しておきながら,
『国の為にもなるし,山守凌平に注目を集める事もできるし,一石二鳥でしょう?』
『うちの娘(眞子様)は決められた相手と国の為に付き合っているんだ!楽しくやって何が悪い!?』
『あとから都合が悪くなったら,山守は,あの為でこの為でと言えるじゃないか!』
『この為に幾つもの保険掛けをおこなって来ているじゃないか!!(5スタンダード)』

この様な事柄が明確に見えている.

※私は,2011年まで秋篠宮眞子という人物を知らなかった.

※私に,ある種の負い目を負わせる事により,話を出せなくしようという動きが明確化している.
しかし,私は人生を潰され,事件を起こしている以上,負い目などは存在しない.(国際的問題であり,内政の問題では済まない)
さらに,負い目を負わせるという口実の元に,私の人生を崩壊させる事に関する"行楽的行動=異常快楽=シナリオ作成"に出ている事がわかる.
これにより,その他関連に対し,見せしめの要素をも含ませ,皇室に対する恐怖感を与えようとまで考えているようだ.

※恐怖感を感じるならば,清子内親王の結婚候補者は逃げずに,結婚を承諾していた事であろう.
したがって,恐怖感よりも,気持ち悪さが先行しているという事が明確に判る.

※秋篠宮の長女である眞子内親王(眞子さま)の男遊びと政略結婚相手探しの為に,歴史の捏造を利用し誤魔化しに走ったという事が判る.
国民や,その他団体が,国の為ではなく,秋篠宮眞子の男遊びを誤魔化す為に利用されている事が分る.

※秋篠宮家の教育方針としては,『佳子さまは,高校時代にも彼氏がいた』という事柄から判断できる.
私の主観的意見ではあるが,『彼氏=男遊び』ではないかと思う.
何故ならば,結婚する意思すら其処には介在していないのであるから,
是即ち,男遊びであると思うに至る.(恋愛有りきの青春)

※これだけの事柄がありながらも,政府・天皇家は国際社会に裏工作や捏造が通用していると思っているようであるから,私は驚きを隠せない.


宮様スキー大会の破裂音事件で犯人の私が犯行直前に撮影した写真
※上記写真は宮様スキー大会の破裂音事件で犯人の私が犯行直前に撮影した写真である.
https://sites.google.com/site/kimitujyouhou/akishinonomiyamako41

70. 中川隆[-10654] koaQ7Jey 2019年4月23日 22:41:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1413] 報告

都市伝説


プチエンジェル事件と高円宮|秋篠宮の縁談と異性関係で遊んだ清算‐伊藤華奈さん殺人事件の真相(スケープゴート殺人)
https://sites.google.com/site/kimitujyouhou/13

【厚別区女性殺人事件】
朝日新聞社:厚別区女性殺人事件

[1]

伊藤華奈さん
⇒画像(1)
⇒画像(2)
※歯列矯正の形跡がある.


特徴は右耳のピアス(開耳の一致)
⇒ピアス画像(1)
⇒ピアス画像(2)
2014年6月28日-29日,秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)と思われる女性の有力な目撃情報あり.(目の下に特徴的なソバカスあり.)
秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)は,耳タブが繋がっていないが,伊藤華奈さんは繋がっている.
耳タブの繋がっていない女性は,2014年6月28日-29日に,札幌で目撃(有力な目撃情報)している女性と瓜二つである.


[2]

秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま).公務日程.
公務日程(1)
公務日程(2)
6月27日夕方〜30日夜までの3日間,公務は休みである.
また,7月3日夕方〜7日明朝までの3日間もまた,公務が休みである.(未確定情報であるが札幌入りしたとの情報あり.)

右から二番目の写真.秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)と瓜二つである.
⇒右から二番目を参照


秋篠宮眞子内親王殿下(眞子さま)
⇒画像(眞子さま)
その他の比較写真は,Googleにて画像検索して下さい.
※幼少期に歯列矯正している.

※殺害の容疑者となっている,錦野昌行であるが,2006年,札幌にて秋篠宮眞子内親王殿下(眞子様)と遊んでいるとの有力な情報がある.
(WEB上で知り合ったとの情報・自殺した10月6日は伊勢神宮式年遷宮があった日にちである.)
秋篠宮眞子内親王殿下(眞子様)は札幌が遊び場となっているようである.
したがって,伊藤華奈さんと容疑者との関係は,秋篠宮眞子内親王殿下(眞子様)と錦野昌行の交友を誤魔化す為の,スケープゴート殺人事件と見る事ができる.
これがもっとも有力である.

※2012年,伊藤華奈さんの写真が,出会い系サイトの『Mコミュ』の厚別区に投稿されていたのは確認できている.(本人による投稿か否かの確認はできていない.)
(関連会社の裁判記録をあたれば日付から導き出せる事も存在する.)

※裁判所発表資料(PDF):「着うた・出会い掲示板運営‐〔第3世界〕裁判(081823)」


[3]

■この事件の加害者の写真は誰に似ているだろうか?
⇒長崎県佐世保児童殺人事件
⇒参考画像(加害者として出回っている画像)
⇒参考画像(眞子さま)

■この事件の地域と家族構成は?
⇒和歌山県高野山児童殺人事件
※家族構成の遺伝子:X-X-Y(長女・次女・容疑者)

■この事件の当事者と皇族との関係は?⇒秋篠宮家の宮務官(ハプニングバー)

■名前で画像検索(google画像)
⇒このサイトに書かれている名前で検索
ご本人様であろうか?そっくりさんであろうか?(秋篠宮眞子内親王殿下?)
⇒ご本人様?

■高円宮絢子女王殿下?
⇒プライベート写真の流出?
⇒比較用の画像(高円宮絢子女王)1
⇒比較用の画像(高円宮絢子女王)2

※プチエンジェル事件と天皇家についてですが,
正確には,女性皇族の遊びと,女性皇族を使ったハニートラップ.
そのトラップと,身内同士の性行為,男遊びを誤魔化す為のプチエンジェル事件という事になります.
ちなみに,奈良県には『秋篠』という苗字が大勢おります.
したがって,『秋篠宮』が奈良県で遊んでも,誤魔化し易いという利点もあります.
昔から,秋篠宮眞子内親王の遊び場となっていると考えられます.
以上で,皇族とスケープゴートとの関連性が見えてくる事となります.


〔未流出画像(プライベート)とプチエンジェル事件に絡む人物〕

眞子さま:未流出画像⇒画像1(眞子さま)
眞子さま:既流出画像⇒画像2(眞子さま)
眞子さま:未流出画像⇒画像3(眞子さま)
絢子さま:未流出画像⇒画像4(絢子さま)
絢子さま:既存の画像⇒画像5(絢子さま)


【プチエンジェル事件との関連性】

 なぜ,プチエンジェル事件という事件が起きたのか,その真相を御存知でしょうか?
プチエンジェル事件とは,2003年に発覚した“小学生児童買春組織の名称”であります.

 発覚後,時期概要に関する警察の発表は二転三転・・・.
顧客リストに“大物政治家”や“医者・弁護士”などのエリートがズラリ・・・.

犯人は,きわめて不審な「自殺」を遂げている等など,異常な事態に発展していた“未解決事件”であります.

 当時,ポロリと出てきた話の中に,
ご皇族の「高円宮憲仁親王(2001年逝去)」の名前もありました.

 おや?これは何かがあるぞ??と思い,そこで詳しく調べてみた.
その詳細と,事件の成り行きを説明てゆく.

 事件に繋がる“裏側”の事実.
基礎知識として,『プチエンジェル事件とは?』を御読み頂ければと思います.
その後に,下記を読み進めて頂くと,事の真相が見えてくるかと思います.

■プチエンジェル事件とは?
⇒wikipedia:プチエンジェル事件とは?

プチエンジェル事件(赤坂と渋谷にて小学生児童買春事案)


【眞子様の男性遍歴(彼氏)と,その経過】

ちなみに,眞子さまの初体験(ロストバージン)は『小学生の時』であるようだ.

 お相手はなんと,当時の許婚か彼氏? とのこと.
ただ,その許嫁の男性の他にも二人ほど絡みがあったそうで,
聞こえはよいが「トリプルスタンダード」,所謂「三股」の状態が,2003年の時(11歳)には有ったとの確定情報である.

 だから,学習院大学には進学せず,ICU大学に入学となった経緯があるのだ.
それは,小学生の頃から,良く知っている男性達とは別の学校に行きたくもなるだろう.

 ただ,それだけで話が済む分けではない.
なぜなら,小学生の時から性的な接触を堪能されているのだから,やはり“虫が騒ぐ”.

学習院からの男性は『Aグループ』
ICUの男性は『Bグループ』
その他の男性は『Cグループ』
※秋篠宮眞子内親王(眞子さま)ご婚約と保険(恋愛心理学応用テクニック)
 といった具合に男性との交友を堪能されてきたのである.
この期に及んでも「トリプルスタンダード」をやめる事ができないそうだ.

 ある意味で『政略的な』・・・.
いや,『性略的な』と言った方がしっくり来るだろう.
そんなこんなで,ICU大学の彼が『処女ゲット』と,国民に対する処女であるというイメージ形成をおこなったのだ.
にわかには信じ難いかもしれないが,これが現実の話である.

 そんな事があり,触れられたらマズイ話は,
大学時代で印象操作を行い,封印しようとしている.という事であろう.

 世の中には『表向きの顔』と『裏側の顔』がある人は沢山居るが,
これ程の“顔”をお持ちの方達は早々居ないだろう.

 また,秋篠宮家にO脚の血は入っていない.にも拘らず,長女がO脚なのは?(紀子様は出産してからO脚である)
幼少期に性的虐待を受けている少女を見つける際には,O脚か否かを見る事もある.
なぜならば,行為時に膝に負担が掛かるから,成長期は関節や骨格が固まりやすい.(視線逸らしのミスリードの可能性も考慮したい)

 したがって,足を閉じて滑走するスキーをやらされている.(三笠宮寛仁親王の薦めだそうだ)
但しお嬢様の場合は,虐待ではなく個人的な趣味嗜好の類である事は言うまでもない.
これは,※宮様スキー大会(札幌・旭川富良野)の関連と,歴史の捏造を引き継ぎさせる目的もある.(一石二鳥との考え方)

 学習院かいわいの一部では有名な話であるようだが,週刊誌にも出てこない話である.
これは,週刊誌では書けない話だろうと納得して頂けた事だろうと思う.


【プチエンジェル事件と高円宮承子(承子さま)・秋篠宮眞子(眞子さま)】

《パパだ〜い好き!!》という動画が世の中に存在する.

 実はこの動画,高円宮憲仁親王殿下と秋篠宮文仁親王殿下が映っている.
秋篠宮眞子内親王(眞子さま)か高円宮承子女王(承子さま)と,高円宮憲仁親王殿下と秋篠宮文仁親王殿下の3人での行為が映っているのです.
お嬢さんは,5年生くらいでしょうか.

 赤い絨毯がひかれ,奥にキングサイズのベッドがある,パッと見で40〜50畳の部屋で,
高円宮憲仁親王殿下と秋篠宮文仁親王殿下自身がビデオカメラにて撮影しているものです.
この時,高円宮憲仁親王殿下が秋篠宮眞子内親王(眞子さま)か高円宮承子女王(承子さま)に『パパのこと好き!?』と訊き,
それに対して『パパだ〜いすき!!』と言っている姿が映っております.

この一言が動画のタイトルとして使用され,流出しているという事になります.

 よって,この動画の流出をうけ,児童ポルノ単純所持が違法となった経緯があります.(拡散防止策)
この動画が流出した際に,スケープゴートとして起こされた事件が, かの有名な『プチエンジェル事件』です.

 一時期,世間を賑わせた『ファイル共有ソフト』ですが,
実は先述した流出動画を保有している人物を探す為に作られた物だったわけです.
したがって,現状,動画の保有者が特定されている為,単純所持での捜査という形での証拠隠滅に動いている経緯が有るわけです.
この様な事があり,流出元となった高円宮憲仁親王殿下が亡くなった可能性が高いのです.


※高円宮憲仁親王殿下は,『伯家神道‐立川流』に心酔していた可能性も無いとは言えないだろう.
後白河天皇と後醍醐天皇は伯家神道立川流に熱心であったとの話もある.
(後述する後白河天皇・後醍醐天皇の項も参照の事)

※皇族の許婚と彼氏と結婚と男遊び(歴史の捏造を利用した誤魔化し工作)
https://sites.google.com/site/kimitujyouhou/akishinonomiyamako41

https://sites.google.com/site/kimitujyouhou/13

71. 中川隆[-10583] koaQ7Jey 2019年4月27日 10:14:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1493] 報告

06 4月 天皇が行う「大嘗祭」はまさに悪魔崇拝そのものです。



ある読者の方から、天皇の行う儀式「大嘗祭」が悪魔崇拝そのものであるとのメールをいただきました。 (上の画像は「大嘗祭」の一場面)

「大嘗祭」というのは、新しい天皇が即位した後、一番最初に行う「収穫祭」のことです。

○大嘗祭 – Wikipedia

その読者の方の話によると、1990年に発刊された「噂の真相」という雑誌に、この「大嘗祭」についての詳細が書かれてあったとのことで、早速、その雑誌のコピーを送っていただきました。

で、今回はその雑誌の記事をそのままここに掲載します。

これまでこのブログを長く読んできて下さった方なら、以下の記事を読めば「大嘗祭」が悪魔崇拝そのものであることがすぐにお分かりいただけることと思います。

また、このブログを余り読んでいない方にとっても、以下の記事を読めば、天皇がいかに頭のおかしな人物であり、「大嘗祭」がいかに税金のムダ使いであるかがお分かりいただけると思います。(実際、この「大嘗祭」のために税金を使うことは違憲であるとの説もあるそうです。)

なお、以下のリンク記事を読んでいただけば、この「大嘗祭」が悪魔崇拝に他ならないことをさらに具体的に理解できることと思います。

○〈閲覧注意〉チベットは悪魔崇拝の聖地です。

○〈閲覧注意〉日本の密教もまた悪魔崇拝そのものです。

○この世の神はとかく悪魔だらけ。ヨガ、アセンション、アガルタ関連の話には要注意です。

○神社仏閣に潜む悪魔たち。またはアガルタから悪魔のメッセージを伝える人たち。

−−−−−−−−−−−−−−−−

■神秘のヴェールに覆われた大嘗祭における秘儀の真相

1989 年、昭和天皇の死で凍りついたメディア状況の中で、「自粛ムード」を批判し、その空虚な実態を暴き続けた『噂の真相』が、翌年、明仁天皇の即位に際して天皇家最大の秘密である「大嘗祭」に迫った。

編集部が未だこれを超える天皇論は存在しないと自負する慧眼の批判研究。


■秘儀を否定する宮内庁の異例の見解

皇室の公的行事として強行することが決定されたのみで、中身については一貫して秘密裡に準備進行されていた天皇明仁の大嘗祭、その式次第がこの10月19日、宮内庁より公表された。

延々4 時間にも及ぶ記者会見を関いて発表された儀式の概容は、ひとことでいえば、予想通り登極令を焼き直しにした神道色まるだしの中身、という表現で十分なものだろう。それよりもこの会見で注目されたのは、記者の質問を受ける形で宮内庁幹部が大嘗祭における〈秘儀〉の存在を正式に否定したことの方である。

「特別の秘儀はなく、天皇が神前で読みる御告文にもそのような思想はない」

かねてより国会答弁等では〈秘儀〉に対する否定的見解をのべたこともある宮内庁だが、マスコミに対して、しかも具体的な根拠を提示する形で「ない」と断言したのはきわめて異例といえるだろう。

これは言い換えれば、宮内庁が直接的に対応せざるをえないほど、「秘儀の存在」がある種のリアリティをもって語られはじめていることの裏返しに他ならない。

実際、昭和天皇の死去以降、まず、宗教学、民俗学、歴史学といったアカデミズムからのアプローチが盛んになり、大嘗祭が近づくにつれて、及び腰ながらも〈秘儀〉を活字にするマスコミも登場するようになった。また、海外のメディアまでがこの〈秘儀〉に強い関心を示しはじめている。

そして何より、我々の問で、様々な風説がまことしやかに流布しはじめているのだ。日く、

「天皇は大嘗祭で窓きものがついたようにトランス状態になる」

「深夜、大嘗宮の中で女性と性的な行為をするらしい」

「昭和天皇のミイラと一緒に寝る儀式がある」

「稲穂に天皇が精液をかける儀式が大嘗祭の骨子だ」

■霊魂が新天皇に付着する!?

単なる無責任なデマ、としか思えないこれらの風説は、あながち無根拠というわけでもない。むしろ、ある種の本質をいいあてているとさえいえる部分もあるのだ。

大嘗祭の中心儀礼は大嘗宮に建てられた悠紀殿・主基殿の閉ざされた内陣に、夕刻から朝にかけて新天皇が引き縫ってとり行う儀式である。

この中で行われている儀式として明らかになっているのは、秋にとれた穀物を皇祖である天照大神に供え、共にこれを食べる〈福鋲供進の儀〉以外にない。

これをうのみにすれば、大嘗祭は毎年秋に行われる新嘗祭と全く同一の内容、つまりは瑞穂の国・稲作国家の祭紀王たる天皇による単なる収穫儀礼、ということになる。

しかし、にもかかわらず、大嘗祭は天皇としての神格を継承させる一世一代の儀式なのだ。加えて、大嘗祭では新嘗祭の約三倍以上もの長時間にわたって新天皇が悠紀殿・主基殿両殿内陣に引きこもることになっている。だとすれば新嘗祭と同一の中身のはずがない。

神との〈共食〉以外に何か儀式が隠されているのではないか、そんな疑惑が大嘗祭に関して浮かびあがってくるのも当然のことだろう。

そして着目されたのが、内陣の構造、だ。両殿内部には天皇と神の席がしつらえられており、ここで対座して〈共食〉をすることになっている。

ところが、これが中心儀礼の割には部屋全体から見ると片隅に追いやられており、内陣の中心・大部分を占めるのは八重畳の寝座、つまりベッドなのだ。

そしてこのべッドを使って〈秘儀〉が行われている、というのが最も有力な説として浮上してきた。

この〈寝具の秘儀〉を最初に指摘したのはご存知のように民俗学者・折口信夫である。

折口は講演「大嘗祭の本義」で寝具を天孫降臨神話でニニギノミコトがくるまって地上に降り立ったとされる〈マドコオフスマ〉に見たて、このベッドの布団に天皇がくるまる儀式の存在を唱えたのである。

さらに折口がこの〈マドコオフスマの儀〉に必要不可欠な要素として提示したのが、〈天皇霊〉の存在だ。

大嘗祭で布団にくるまっている聞に〈天皇霊〉が天皇の肉体に付着し、そのことによってはじめて完全な天皇になる、というのである。

つまり、天皇の肉体は霊魂の容れ物にすぎず、大嘗祭は霊魂が新天皇の肉体を借りて復活する、神性の継承儀式であると主張したのだ。

(註: この〈天皇霊〉とはすなわち悪魔のことなのでしょうか。)

前述の「トランス状態」の風説は、この〈天皇霊〉が付着する時間を指している、といえなくもない。

実際、狂信的な神道家の間では天皇の霊能力なるものが本気で信じられているらしく、例えば、昭和の大嘗祭で福岡が主基斎田に勅定、された際、すべての祭事をとりしきったといわれる古神道家・川面凡児などは天皇が大嘗祭はおろか、毎日朝夕に「イメ」なるトランス状態に陥るといっている。

(註: 要するに、毎日、悪魔と交信しているというわけです。)

天皇の霊魂がたえず霊界と現界を往来し天皇は霊界をも統治しているという説である。

さすがにここまでマッドな説になると、まともにとりあげられることはないが、本質的には〈天皇霊〉論もこの種の奇説と同一なのだ。

そして、儀式の意味づけを行った折口の意図とは全く関係なく、〈天皇霊〉の存在そのものが、今や神道界では常識となっているという。

(註: 天皇がこの世で最大の霊力を持っているとの疑いは、私もこれまで何度も書いてきました。例えばこちら。私はこの折口氏のことは全く知りませんでしたが、彼と同じことを類推せざるを得ない幾つもの状況証拠があちこちから見付かっていたわけです。)

■新天皇は前天皇の死体と同衾か

(註: 同衾とは一緒に寝ること。つまり、前の天皇の死体(ミイラ)といっしょに寝るという儀式があるとのこと。)


折口の〈マドコオフスマ〉〈天皇霊〉を深化発展させる形で、その後〈秘儀〉に関する様々な考察が登場した。

〈先帝同衾〉説もそのひとつである。他ならぬ折口信夫自身が「大嘗祭の本義」講演の翌年、「古代人の思考の基礎」と題された講演でこの説を開陳している。

折口によれば、古代には生死を明確にする意識がなく、平安期でも「生きてゐるのか、死んでゐるのか、はっきりわからなかった」。

生き返るのか、別の肉体に魂が移るのかを判別する必要があったのだ。そこでもとの天皇霊のついていた肉体(=先帝の死体)と新しく霊のつくべき肉体(=新天皇)を「一つ会で覆うて」復活のための儀式を行ったのだという。

その後、生死の区分が明確化してくるにつれて二つの肉体を別々の場所に置くようになる。

もともとは一つしかなかったと思われる大嘗宮主殿が悠紀殿と主基殿に分かれてくるのはそのためで、片方に前天皇の死体を置き、もう一方に新天皇が入る。

表は別々となるが趣旨は同様で、復活とそれを果たせない場合は〈天皇霊〉の移動が行われる、というのが折口の唱える説の概容だ。

この〈先帝同衾〉説は当時からかなり広範に流布されていたらしく、折口以外にも「天照大神の死骸(いったいそんなもの、がどこにあるんだろうか?)と同衾する」といった説を唱える神道家もいたという。

現代でもこの〈先帝同衾〉を支持する学者は多く、谷川健一、山折哲雄など、民俗学・宗教学もこの説に立っている。ことに山折は比較王権の視座から、フランスやダライ・ラマの場合にも同様の例があったとし、〈先帝同衾〉説を補強している。

(註: 出ましたね。ダライ・ラマといえば「チベット仏教」、「チベット仏教」といえば悪魔教です。)

もっとも、物理的に考えれば、〈崩御〉からかなりの時間を経過している大嘗祭で前天皇の死骸と共寝する、というのは不可能に近い。

折口〈先帝同衾〉説を真正面から継承しているひとりである歴史学者の洞富雄も、これは模擬儀礼であるとしている。寝座の側に靴をおいてあるのもそのためで、前天皇、が寝座に績たわっていると想定して行われる儀式、というわけだ。では、前出の「ミイラ」の風説はやや飛躍しすぎ、なのだろうか。

しかし、一方ではこの〈先帝同衾〉が大嘗祭ではなく、〈崩御〉の直後に実際に行われているのではないか、との噂もある。この〈先帝同衾〉に直接的なイメージを与えているのが、〈残〉の儀礼である。

天武天皇の時には二年二カ月にも及んだと記録されている、この儀式は復活儀礼としての性格が色濃く漂っており、昭和天皇の〈崩御〉の際も、〈殖宮の儀〉として死後13日目から40 日目までの長期にわたってとり行われた。

むしろ大嘗祭よりも、この聞に実際に前天皇の死骸と寝る秘密の風習が、天皇家には残っているのではないか、というのだ。

(註: 実はミイラと「密教」も密接な関係があります。詳しくは後にご説明します。)

■大嘗祭の本質は性的行為なのか。

〈マドコオフスマ〉の延長線上に浮かびあがるもうひとつの〈秘儀〉説に(聖婚儀礼)がある。〈聖婚〉というのはもってまわったいい方であり、要するに大嘗祭で天皇による性的行為がおこなわれる、というものだ。
 
大嘗宮正殿の中にまで入れる人間はきわめて限定されている。そのしつらえを見ると、御座(天皇の席)と神座をのぞけば、関白の座と宮王の座、そして数人の采女の座しかない。

しかも内障にまで入れるのは天皇と采女の代表ひとりで、残りの人間は外陣にとどまることになっている。

そして内陣と外陣はカーテンによってさえぎられている。大嘗祭とは、また、男女が二人きりで夜をすごす儀式でもあるわけだ。

この采女を性行為の相手として見るのが、歴史学者の岡田精司らである。采女とは「宮中で炊事・食事などをつかさどった女官、大化以前は地方の一家族の子女から選んで奉」(岩波古語辞典〉られた女性である。

つまり、子女と性交することで、豪族に服従を誓わせた服属儀礼との説だ。

同じく采女を性行為の対象として見る西郷信網は、その根拠として「国造が新任の日に、神官の采女と称して百姓の女と婚」したという「淫風」が平安初期まで続いていたことをあげている。

一方、性的行為の相手を神だとする説もある。穀神に擬せられた王と穀母神に扮した花嫁が交わり、豊穣を祈るという習慣が古代オリエントをはじめ、日本以外でも広くおこなわれていることは、文化人類学の成果としてすでに明らかにされているところだ。

(註: この古代オリエントで行われた儀式のことを「悪魔崇拝」と呼びます。)

吉本隆明も神の代理としての女性と「性行為」を行うことで〈対幻想〉を〈共同幻想〉として同致させようとする模擬行為と見ている。

いずれにしても、大嘗祭がある種の性的な意味合いをおびている、とする研究は少なくない。実をいえば、折口信夫もまた、性交儀礼の存在を示唆しているのだ。

(註: チベット仏教でも密教でも、本物の女性と性交する儀式と、空想で性交をする儀式と両方行いますね。詳しくはこちらとこちら。なので、この説がかなり信憑性の高いものであることが分かります。)

しかし、同じ折口の「天皇霊」論がいたるところで紹介・引用されているにもかかわらず、この部分は完全に黙殺されている。そして、たしかに折口の展開した説は、マスコミやアカデミズムが黙殺せざるを得ないほど大胆なものだった。

折口が性行為を示す場所として推定したのは自らが着目した悠紀殿・主基殿内陣の寝座ではなく、両殿の北にある廻立殿だった。

天皇は両殿に引き箆もる儀式の前に、ここで「小忌の湯」という湯を使い、体を清めることになっている。つまりシモジモ風にいえば風呂場だ。

そして「西官記」「江家次第」等にはここで天皇が〈天羽衣〉をまとっているという記述が登場する。折口はこの〈天羽衣〉があろうことかフンドシであるとし、廻立殿の儀ではじめてこれを解き、性の解放をするという。

そして、フンドシを解くのが、丹波から送りこまれた処女であり、天皇はこの処女と性交する、と説くのである。

(註: 結局、悪魔教はいつもこういう性的なところに行き着きます。ちなみに、「丹波」とは以下の地域を指します。)



いったい何が学説的根拠となっているかは不明だが、ある神道研究家の一人はこんな感想をもらす。

「天皇の儀式では中心の儀礼よりも、その直前の儀礼が全体の本質をあらわしていることが多い。即位礼の本質を賢所大前の儀が表わしているように。そういう意味では廻立殿の儀が性交儀礼としての大嘗祭の性格をあらわしている可能性はあるだろう」

■宮内庁〈秘儀〉否定の舞台裏

霊魂、性、血……。様々な〈秘儀〉に関する論考の多くは、結局、折口をその出発点としている。折口が講演「大嘗祭の本義」を発表したのは昭和の大嘗祭を2 カ月後に控えた、昭和3 年9 月のことである。

この年は同時に、治安維持法の最高刑が十年から死刑へ改められた年であり、「三・一五事件」と呼ばれる共産党への大弾圧も行われた。

そんな中で、かくも異様な儀式の存在を暴いた説が放置されていたのはいったい何故か。いや、取締の対象とならなかっただけではない。折口の説はその後、国家神道推進の中心人物によって堂々と紹介されてもいる。

近代神道の創始者であり、内務省神社局考証課長でもあった宮地直二が東大の神道講座で「天皇霊」論を講義したのである。

これは、つまり、〈秘儀〉説が現人神という明治憲法下の天皇制にとって都合の悪いものではなかった、という事実を意味している。むしろ、国家体制にある種のイデオロギー基礎として歓迎され、積極的に流布されたのだ。

(註: 要するに、実際に天皇はこのような怪しげな儀式を行っていたし、神道家たちはその儀式を行うことを誇りに思っていたわけです。だからこそ、この儀式について人前で堂々と講義していたわけでしょう。)

事実、〈天皇霊〉論をはじめとする〈秘儀〉に関するあらゆる考察は、天皇に神性を与えるという意味においても、ミステリアスな部分を増幅させるという意味においても、有効に機能してきたのは確かなのである。

ところが、平成の大嘗祭に際して、宮内庁はこの〈秘儀〉の存在を全面否定した。〈秘儀〉だけならまだしも、大嘗祭は「穀物が豊かに実りますように、との祈願が中心で「天皇が神と一体化するという儀式ではない」とその神性をも完全否定したのである。

かつては小学校の教科書にさえ〈大神と天皇とが御一体になりあそばす御神事〉 と明記されていたものと全く同一の儀式を、である。

このことは大嘗祭の準備が本格的に始まろうとしていた昨年秋、宮内庁で行われたある人事と無関係ではない。大嘗祭の祭杷をつかさとるのは天皇家の私的使用人である掌典職だが、中でも最も古く、中心人物と考えられていた永田忠興掌典補が更迭されたのだ。

永田はまた、掌典職の中でも最も強硬な伝統墨守派で、ことあるごとに政府・宮内庁の妥協的な動きと衝突してきた人物でもあった。

「右派ジャーナリズムに宮内庁批判の情報をリークし続けていたのもこの永田さんだといわれてますね。ただ、宮中祭紀については最も詳しい人物だったし、今回の大嘗祭も永田さんがとりしきると考えられていた。

〈秘儀〉の有無についても天皇以外に知っている人間がいるとすれば、彼ぐらいだったかもしれない。その永田さんを更迭した、というのは政府・宮内庁が象徴天皇制の下で大嘗祭の性格を変える必要がある、と考えたためだろう」(宮内庁詰め記者)

(註: さすがに現代においては、こんな淫乱かつ醜悪な儀式を行っているということを世間に知られるのはマズイと思ったのでしょう。)

そして永田の後任として新たに外部から送り込まれたのが、鎌田純一祭杷課長である。

国学院出身で祭紀学の学者でもある鎌田は、永田とはうってかわってきわめて柔軟な人物といわれる。

今回の大嘗祭はすべて、この人物を中心に本来の掌典とは別の、学者・研究者を中心とした委嘱の掌典によるプロジェクトチームによって準備進行されているという。そして、前述の記者会見では鎌田自身が根拠をあげて〈秘儀〉を否定したのである。

おそらくこうした動きは、現在の自民党政府の天皇制に対する位置づけの延長線上にあるのだろう。

現政権は戦前天皇制復活を単純にめざしているわけではない。もちろん、そういう勢力が存在していることは確かだが、主流はむしろ、女性誌による皇族の芸能人化などを利用しながら国際化社会と象徴制に対応しうる形で天皇制を維持・強化していこうという方針だと思われる。

事実、中曽根内閣時代に当時の官房長官・後藤田正晴を中心にして、こうした路線は確認されており、答察官僚出身の藤森昭一を宮内庁長官にすえ、侍従職の大半を官僚出身者にぎりかえるなど、皇室を政府のコントロール下に置く作業が着々と進められてきた。

そしてこれまでの代替り儀式は時代に対応した形で、操作を加えながら極めて巧妙かつソフトに行なわれてきたといっていいだろう。いわば、今回の大嘗祭はその集大成なのだ。

■神社本庁による操作とある論文

しかし、常に右派勢力からの圧力にさらされてきた宮内庁がここまで〈神性〉否定を明言できたのは、最近になってスイ星のごとくあらわれた若手学者の存在に負うところが大きい。

国学院大学助教授・岡田壮司(前山山・岡田精司とは別人)がその人で、まさに神道界本流に位置する新進気鋭の研究者である。

岡田は昨年からいくつかの論文を発表、折口の〈マドコオフスマ〉〈寝具の儀〉〈天皇霊〉論をすべて根拠のないものと断じ、完全否定した。

さらには大嘗祭で天皇が「霊威を享受する」とはしながらも、神と一体化することはない、とその神性付与すらも一蹴したのである。

右翼民族派がよく黙っているものだ。それはともかく、あらゆる分野でほぼ定説となっていた折口の論考を真っ向から否定した論文はこれがはじめてといえる。

しかも、それは「天皇霊」の存在が常識化している神道界から、中でも折口が祖と呼ばれる国学院神道から出てきたのである。大嘗祭を研究する若手歴史学者はその辺の事情をこう語る。

「岡田さんの登場は完全にターニングポイントとなった。論旨自体はたいしたことはないが、神道界からああも完全否定されるとね。

学説的には今はもう〈秘儀〉がどんどん否定される方向に向かいはじめている」

たしかに、最近も〈秘儀〉否定のイデオローグとしてマスコミにも登場し、宮内庁見解に格好のお墨付きを与える形となっている。

おそらく、岡田の出現は偶然ではないだろう。それは、神道界本流、つまり神社本庁全体の意志だ、と見る向きも少なくない。

岡田がはじめて折口説を否定するとく短い論文を吋国学院雑誌』に掲載したのは昨年の夏のことである。この直後、神社本庁の前統理であり、今も神道界に大きな影響力を持つといわれる桜井勝之進が岡田を呼び、二人が会談したという情報がある。

つまり、この席で桜井は岡田にバックアップを約束し、岡田はその意を受けてさらに大きな論文・単行本等を発表、反折口説のイデオローグとして本格的に活動を開始したのではないかと推定されるのだ。

事実、桜井はこの問、岡田論文を補強するような発言を神社本庁関係の一肩書をあえて使わずに何度かおこなっている。

それにしても、戦前の天皇制復活を目論み、常に「伝統墨守」を叫んできた極右団体・神社本庁までが大嘗祭における神性継承的性格を否定しはじめたのはなぜだろうか。

「戦前は有効だった折口説も、現代では逆に作用しかねない、との政治的判断でしょう。怪奇な儀式として反対勢力の攻撃材料にされたり、海外メディアの好奇の目に閲されたりということになりかねない。

神道というのは何よりカタチを重視しますからね。形式さえ伝統に則っていれば、意味づけで後退してもいい、との判断です」(神社本庁関係者)

しかも、神社本庁は公式には何ら神性継承の〈秘儀〉を否定してはいない。無名の若手学者をプロパガンダに使うことで、自らは陰に隠れたまま、〈秘儀〉説安二時的に隠蔽しようとしているだけなのだ。

そして、宮内庁の〈秘儀〉否定もまた、神社本庁・桜井勝之進の働きかけによるものともいわれている。

また、やはり国学院で教鞭もとっている掌典・鎌田純一が岡田を招き、勉強会を開いたとの未確認情報もある。いずれにしても、一連の〈秘儀〉否定の流れは、神社本庁|岡田壮司宮内庁の巧妙な連携プレーであることはほぼ間違いないところだろう。

つまり、天皇護持勢力がこぞってある穫の操作をしなければ、現在の環境下でこの大嘗祭を強行することは難しい、と判断したのかもしれない。そして彼らは何よりも、天皇制というカタチの延命をとりあえず優先させたのだろう。

(註: これだけの情報化社会になった今、「大嘗祭」の内容をすべて公にしてしまうと、この儀式が「悪魔崇拝」そのものであることに気付く人が出てくるのではないか、と懸念したわけでしょう。そして、実際に私たちがそれに気付いてしまいました。)

■明仁天皇は〈秘儀〉を行うのか!?

では、こうした体制下で行われる天皇明仁の大嘗祭にはもはや〈秘儀〉など存在しないのだろうか。たしかに、無個性な平成の新天皇とおどろおどろしい〈秘儀〉は結びつかないし、天皇自身が式の簡略化を望んでいるとの情報もある。

(註: この世にはそのように表面だけを見て物事を判断する脳天気な人がいます。このブログでも、そんなコメントを書いてくる人が何人かいました。)

また、そもそも〈秘儀〉があったとしても、すでに平安期において形骸化しているだろう、との見方が一般的だ。

しかし、その一方ではこんな説もある。在野の神道研究家が語る。

「大嘗祭によらず、天皇家には一世一代の秘事口伝があるというのは常識です。つまり、第三者を介さず、天皇から天皇へと直接伝えられる送り事がある。

セックスの処理、密教秘伝の出産コントロール法などもそのひとつといわれています。その中にはおそらく大嘗祭における〈秘儀〉も含まれているはず」

(註: 天皇がルシファーを召喚するプロであり、その奥義を代々継承しているのではないか、との記事を私もずっと前から書いてきました。例えばこちら)

さらに興味深いのは宮内庁が〈秘儀〉否定の記者会見を聞いた時の出来事である。折口信夫が「フンドシを解くことで天皇が性交に向かう」とした廻立殿の小思の湯の儀について、ある新聞記者からの質問に、宮内庁は「お湯を使う、ということ以外は一切いえない」とつっぱねたのだという。

悠紀殿・主基殿の儀についてはかなり詳細に根拠を示し、〈秘儀〉を否定した宮内庁の一変した態度を考えると、小忌の湯の儀にある種の性交儀礼の名残りが残っている可能性はあるのかもしれない。

(註: そこまでつっばねると、かえって誰もが怪しく思うしかありませんよね。)

しかし、結論めいたことをいえば〈秘儀〉の有無というのはさして大きい問題ではないのではないか。仮に〈秘儀〉があったとしてもそれは神の偽装にすぎず、収穫儀礼であったとしても農耕民族の祖という偽装にすぎない。

神聖祝される神社の洞内部が実はカラツポであるように、そもそも大嘗祭には中身などない。あるのは、どのようにでも語ることのできる、カタチだけだ。

(註: これはこの記者の完全な間違いですね。悪魔崇拝者たちはこれらの儀式を通して、本気で「悪魔」にお祈りを捧げているはずですから。)

それゆえに時の国家権力や時代状況によって〈大神と御一体になりあそばす御神事〉にも〈国民の平和を祈念する行事〉にもなりうる。今は否定されている折口〈天皇霊〉論が再復活する可能性も十分に残されているのだ。

これは〈大元帥〉にも〈一家でテニスに興じるマイホームパパ〉にもなりうる天皇制の本質でもある。かつてロラン・バルトは天皇制を〈空虚な中心〉と呼び、柄谷行人は〈ゼロ記号〉にたとえた。そして天皇制は〈ゼロ〉であるがゆえにしぶとく生き永らえ、しかも時の権力の有効なイデオロギー装置となってきたのである。

問題は、大嘗祭に宗教色があるかないか(あるにきまってる)、内廷費か宮廷費か(どちらも国民の税金なのだ)ではない。この恐るべき〈ゼロ〉に我々がどう対処していくかの主体性こそが問われているのである。

(註: ゼロならば本当にゼロにしてほしいものです。天皇制を今すぐ廃止してください。それこそが今の日本にとって最も必要な政策であると私は考えます。)

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折口氏の学説が本当であるということは、このブログの読者の方ならばすぐにお分かりいただけることと思います。

何せ、「チベット仏教」や「密教」で行われる儀式と、この「大嘗祭」で行われる儀式はとてもよく似ています。

なぜ似ているのかというと、これらの宗教がどれも悪魔崇拝だからです。悪魔崇拝という同じ一つのカルトが、「チベット仏教」「密教」「神道」という別々の仮面をかぶっているに過ぎないのです。

で、「チベット仏教」や「密教」では、こういった儀式を本当に行っているわけですから、「天皇」もまたこのような儀式を行っていたとしても何ら不思議ではありません。

また、「現天皇」が「先帝(前の天皇)」のミイラと一緒に寝るという儀式も、あり得ないことではありません。なぜなら悪魔教である「密教」とミイラとは切っても切り離せない関係にあるからです。

実は「密教」にはミイラ仏(即身仏)というものがあります。

ミイラ仏とは、断食しながら死ぬまでお経を唱えつづけてミイラとなった僧侶たちのことで、そのミイラを仏として奉っている寺院がこの日本には各地にあります。以下がそのミイラ仏の数々です。

○知られざる日本のミイラ信仰…永き苦行の末の『即身仏』という驚異 – NAVER まとめ

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この僧侶たちはミイラになるために、自ら「漆(うるし)」を飲みながらお経を唱え、自分の体を防腐処理していたそうです。

「漆」は毒物なので、これは完全な自殺行為にあたるわけですが、そんな悪魔的な所業を「密教」では尊い行いと見なされていたわけです。本当に「密教」はどこからどこまでも悪魔的です。

しかも、こんなただの骸骨を神のように崇めるわけですから、まさに狂気の沙汰としか言いようがありません。

このように悪魔崇拝者たちはミイラを神のように崇めるところがあるので、同じ悪魔崇拝者である「天皇」が「先帝(前の天皇)」のミイラと一緒に寝る、という儀式を行っていたとしても何ら不思議ではないのです。

しかし、こんな気違い沙汰を行う「天皇」が、かつての日本では神のように崇められていたわけですし、今でも「日本会議」や「神社本庁」といった極右団体が、この「天皇」を再び神として担ぎ上げようとしています。本当にあり得ないことです。

○日本の裏社会のエージェントが目指す道はただ一つ。国家神道の復活です。

我々庶民としては、「天皇」が日本(ひいては世界)の頂点に立っていてほしくはありませんので、彼らのそんな下らない計画がいち早く頓挫することを願うばかりです。


○こちらの記事もどうぞ
•天皇がどこからどう見ても悪魔崇拝者であるという証拠。
•日本の裏社会のエージェントが目指す道はただ一つ。国家神道の復活です。
•アルバート・パイクが予言した第三次世界大戦について。
•悪魔のバフォメットと長崎の平和祈念像とアメリカ初代大統領のジョージ・ワシントン像とが同じポーズをしている理由。
•教皇派=太陰暦=月の王国。天皇派=太陽暦=太陽の王国。世界の構造がますますシンプルに見えてきました。
•徳川家康が行った鎖国とキリスト教禁教令の本当の意味。果たして徳川家康は悪魔崇拝者だったのか。
•地下鉄丸の内線とGHQと徳川家康とエリザベス女王とイエズス会の奇妙なつながり。東京の地下には教皇派の秘密施設も眠っている。

8 Comments


@joe
Posted at 00:45h, 07 4月

RAPT様

記事の更新、ご苦労様です。
実は、わたしの祖父が折口信夫の弟子だったので
ちょっとびっくりしました。

さて文中、RAPTさんが
>(註: この古代オリエントで行われた儀式のことを「悪魔崇拝」と呼びます。)
と書かれておられますが、こんなサイトを見つけましたので
貼らせて頂きます。
http://kurodakango.web.fc2.com/02.html

>三笠宮殿下は「皇室の祖先はオリエ ントにある」と考えて
と考えておられるということですから、そういうことなのでしょうね。

失礼いたしました。


アモリフェラ
Posted at 09:42h, 07 4月

お疲れ様です。「やっぱりね」という感想でした。学研 Books Esoterica 『神道の本』 に(P.144)「大嘗祭の謎」という項目があります。 そこ、ちょっと引用します。
…大嘗祭は、内容的には前儀、本儀、後儀と分けられる。その中で本儀は大嘗祭の悠紀殿、主基殿で天皇みずからがとり行う神事で、神饌を捧げ、ともに食し、その間に天皇の礼拝、御告文などの奏上などがある。ところが、公式の記録のほとんどが、天皇の所作について、なぜか避けるかのように詳しく触れていない。
…折口の考えはこうだ。…真床追衾とは、物忌みの最中に外の光を避けるためにかぶるものであり、それを取り除いたときに、完全な天皇となる。つまり、忌み籠る日嗣の皇子に天皇霊が入って、完全な天皇となる。肉体には生死があるが、この肉体を充足する魂は常に不変不滅の存在であり、たとえ肉体は変わっても、この魂が入るとまた同一の天皇となる。天皇霊はただ一つであり、それを持つ者が日の御子、すなわち天皇であると考えたのだ。(引用終わります。)
要するに、八重畳=真床追衾というのは、せまい部屋で、亡くなった先の天皇の魂を受け継ぐ儀式をやることですが、内容は秘密なのだと。その儀式では采女(うぬめ)の献上など性的行為なんかもやるらしいことが書かれています。それにしても、あの無責任男の「昭和天皇」の魂をそっくりそのまま受け継いだ人物(神?)が、今上天皇なわけで…。おんなじ魂なら、きっとまたおんなじ事をやるに違いないと思うのは私だけでしょうか。ヤバイです。
「真床追衾」という四文字熟語、同じ布団で寝るとでもいう意味なのでしょうか?同じ布団で寝ると、魂が転移して「完全な天皇となる」というのも気味悪いですね。戦争狂で守銭奴だった昭和天皇と同一の魂ですよ、また同じことを繰り返さないでほしいですね!!
戦争だけは阻止せねば、と思うこのごろです。upありがとうございます。


ショコラ
Posted at 11:39h, 07 4月

今回はコメント少ないですね。
ということでちょっと長めですが失礼します。

上の記事でちょっと気になったのが、私が住んでいる秋田がその大嘗祭りの悠紀というのに選ばれていたことです。
あと風説とはいえ、稲穂に天皇が精液を・・・というのは、このブログで知った密教の儀式以来の衝撃です。
秋田では夏に竿灯祭りという稲の豊作を祈ったお祭りがあり、今年は東北六魂祭という、東北6県のお祭りを一堂に開催するお祭りが秋田であります。(5月30日・31日)
震災後からはじまったお祭りのようですが、私としては、このお祭りが被災者の方たちのためになるとはあまり思えません。
しかも去年は山形、今年は秋田と、被災地ではない場所での開催。

それから、去年は国民文化祭というのが秋田で行われ、皇太子も来県していました。
知事に、22年前の減塩運動のことを聞いたとの一場面があったとのニュースがありました。
秋田は、癌がもっとも多い県ということで、減塩が盛んに叫ばれてきました。
これが平成の初めの頃です。
で、みなさんの今の秋田のイメージはどうでしょうか?
そうです。自殺率ワースト1の県です。

減塩をしすぎるとどうなるかは、ネットで調べればすぐに出てきます。
簡単に言うと、やる気が湧いてこなくなり「うつ」になるのです。
ですから秋田ではうつ患者が異常に多く、そこから自殺につながっているのです。

県民性でしょうか、ほとんどの中高年の方は真剣に減塩をしています。
だから、この皇太子の質問は、なんとなく悪魔の質問のように聞こえてくるわけです。

どっちにしても「がん」か「うつ」になるシステムですから。

あと余談ですが、ずっと前に県の職員が知事の代わりに天皇に宛てたお手紙(国体か何かのとき)の中で「悪天候」と打とうとして、間違って「悪天皇」と打ってしまい、上司のチェックもないまま出したそうで処分されていました。
その職員は確信犯だったのでは?と今となっては思ってしまいます(笑)。


五輪の書
Posted at 12:08h, 07 4月

近代の天皇の血筋とあり方を精査すればなぜ右翼等がマンセイするのかわかりますよね。敬称が必要なのでしょうか。全て繋がっているのです。一方向からだけでは理解出来ないですね。政治も経済も医療も宗教もすべて俯瞰して見ることですね。目を瞑って象をいろんな人が一箇所触っているようなもんです。


yum
Posted at 13:46h, 07 4月

おかげさまで、繋がりというものが色々見えて来ている今日この頃です。
そして、ミイラと言えば。
子どもの頃、母親がいとこと私を連れて、上野にある国立博物館でやっていたエジプト展(?)に連れて行ってくれた事がありました。
その時は突然行こうと思ったらしく、時間が遅くなり、観ている途中で閉館の時間が来てしまいました。
ちょうどガラス張りの箱の中の横たわっているミイラの前で、館内の証明が突然落とされたので、今もその時の事が印象深く、そこだけ憶えているぐらいです。
当時は自から興味を持っていた事ではなかったですし。
まだ人も他にもいたりで、もちろん真っ暗になってしまった訳ではなかったのですが、
そんな事から「ちょうどミイラの前でねー。」と思い出話になってしまいました。
ミイラなんて不気味であまり見たくなかったから、帰ることになってちょうど良かったのですが。
ー個人的な話を長々とすみません・・・。
即身成仏された方のミイラを見て、エジプト展のミイラと重なってしまいました。
やはり不気味ですね。こんなお寺には正直行きたくないです。個人的には。
最近は、他のお寺に行くのもどうかなと。
お正月に都内のお寺での祈祷に、たまたま時間があったので参加していただいた御札。
この頃はどうしようかと。お返しに行こうと考えているぐらいです。
その宗派を考えてしまったことからなのですが。
色々と知る事は神社仏閣には営業妨害になってしまうでしょうが、
だからと言って、そのままいつまでもこの時代、同じ自分ではありません。
考えているから、こちらのブログにも出合えましたし。
それがこの時代です。

また、以前動画でフルフォード氏が、「日本はイスラエルからの影響がある」という話に「いや、むしろエジプトからの影響の方が多いと聞いている」と言っていた場面があったのですが、どなたから聞いたのかは知りませんが、やっぱり日本ということから、天皇家もそっちの流れからの諸々の儀式がある所とー。
今回の記事を読みながら、神道とはそういう世界なのだと あらためて思わされました。

そして、大嘗祭で調べていると、飛鳥昭雄氏の話なども出て来たのですが、飛鳥氏はアマテラス、イコールイエス・キリストという見解をお持ちのようですね。
自分には、そこがそうじゃないと思えるから、その説を受け入れるものでありませんが、
大嘗祭の最奥義について、 「イエス・キリストの死と復活を自らなぞることにより、人間としての皇太子は死に、天皇として復活する。これが最奥義である。」と色々語った最後に主張されていました。(るいネットより)
でも、それなら、アマテラス イコール ルシファーが、イエス・キリストにすり替わっている話としか思えません。

いずれにしろ、大嘗祭というのはやはり何かよく分からない行事ですね。


ネメシス
Posted at 00:57h, 09 4月

ショコラさんの「今回はコメント少ないですね」を受けて。

というか、今回のこの記事に於ける記述は決定的というか、
ぐうの音も出ないというのが本当の所ではないでしょうか。
こういったオカルトの分野にはまったく疎い僕のようなド素人ですら、
「こりゃ、『悪魔崇拝』の儀式、そのものじゃん!(笑)」と
一瞬にして納得出来る内容ですもん。

ラプトさんも仰る様に、今までこのブログ内で明らかにされてきた
チベット仏教の教義やら、密教の灌頂における儀式との共通点が
素人目にも明らかです。

今まで、別に半信半疑という訳ではないのですが、
ここのブログ記事を読みながら一方では圧倒されつつも、
もう片方では今までの感情に後ろ髪を引かれる思いも
正直、少なからずはあったのですが、
今回の、この儀式についての記述を読み、吹っ切れました。

今までは知り合いなどと皇室関係の話題を話すときも、
ごく自然と「敬語」を使ってきたのですが、
(これは対話の相手の感情にも気を使ってということもありますが)
この記事を読んだ後では、正直、
「こんな連中に何でわざわざ『敬語』を使わなければならんの?」とすら
思い始めてしまった自分が居ます。


ショコラ
Posted at 12:07h, 09 4月

ネメシスさん

同感です。

話が世界や宇宙規模のことになると、どうしても現実味が薄れてきますが、
このように本当に身近なところで悪魔崇拝的なことが行われていると現実味が湧いてきますね。

なので、私も身近で感じたことで何か気づきがあれば、ある程度精査してコメントしていきたいと思います。


縄文人救済委員会
Posted at 21:01h, 26 11月

 最近発売された以下の本に、古代の洞窟で太鼓などを叩き、暗闇の状態も利用して、人をトランス状態にさせる儀式?が行われていたと書かれています。
 そして、このトランス状態になると、いくつかの原始的な幾何学的模様が視覚できるそうです。その模様の種類の中には、うずまき、格子(おそらく十字)が含まれています。太陽崇拝(悪魔崇拝)はここから来てるとすれば、この宗教の起源はもはや人類が文字を発明した時期からある、と言えるかもしれません。
 またこの本には他に、古代のシャーマンが頭がくっ付いたままの動物の毛皮を身にまとっていた、とも書かれています。これは人と獣の合体=5+6=11なのでしょうか?

最古の文字なのか? 氷河期の洞窟に残された32の記号の謎を解く | ジェネビーブ ボン・ペッツィンガー, Genevieve von Petzinger, 櫻井 祐子 |本 | 通販 | Amazon
https://www.amazon.co.jp/dp/4163905596

72. 中川隆[-10577] koaQ7Jey 2019年4月27日 10:26:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1499] 報告
プチエンジェル事件と新嘗祭 2019-04-26
RURIKO‏ @ruriko305503 より
https://ameblo.jp/michael-1001/entry-12456927692.html


プチエンジェル事件の顧客名簿に

皇太子の名前があったと昔から言われていましたが

、最近、載っていたのは秋篠宮と高円宮だった

という情報が飛び交っています。

令和天皇が児童売春していた事実は

マズイので、秋篠宮にすり替える工作か?

それとも皇室内の紛争か?

上級国民秋篠宮殿下に「児童買春」疑惑 

プチエンジェル事件への関与

https://rondan.net/20668

小学生女児達が監禁された事件現場は

赤坂のマンションなのに、

途中から全マスコミが渋谷と報道。

赤坂という地名はまずかった?

皇太子の東宮御所も、秋篠宮邸も、

高円宮邸も、赤坂御用地内にあります。←ご近所!!

RURIKO‏ @ruriko305503 1

RURIKO Retweeted Yahoo!ニュース


#プチエンジェル とは、

小学生から高校生までの児童売春専門の店でしたが

、経営者を変えて今でも同じような店はあるでしょう。

政治家などの支配者層はペドフィリア(小児性愛)が

多いと世界的にも言われています。

#イルミナティ カトリック聖職者の性的虐待もニュースに

pencil‏ @pencil19937 より

Replying to @pencil19937 @RothschildBoJ


【プチエンジェル事件】

この事件の建物は小沢一郎の

資金管理団体「陸山会」が所有。

https://newsmatomedia.com/petit-angel

顧客リストには医者、弁護士、政治家、皇太子の名前も。

https://www.google.com/amp/s/naruzu3.exblog.jp/amp/29341158

事件後、犯人が自殺。

この事件の取材をしていた人物は殺害されている。

何か隠そうとしてるとしか思えない。

pencil‏ @pencil19937 より


小沢一郎は皇太子妃と近い関係にあるので顧客リストに載っていてもおかしくない。 今年皇太子が天皇に即位しますが、即位後に行う儀式「大嘗祭」が悪魔崇拝儀式なのでローマ法王などだけではなく、天皇も悪魔崇拝をしていることが分かる。この事件は天皇家絡みの可能性大

小沢は橋本徹、稲盛和夫と仲が良く

この二人はどちらも「生長の家」という宗教団体の信者であり

小沢辰男という人物は小沢一郎が結成した

新生党というのに参加している

小沢辰男は「生長の家」から出来ている

日本会議を支援する会の発起人

すべては「生長の家」に繋がる。
https://ameblo.jp/michael-1001/entry-12456927692.html

73. 中川隆[-10577] koaQ7Jey 2019年4月27日 12:23:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1499] 報告

知ってはいけない真実 _ 阿修羅掲示板でアクセスを禁止されているサイト
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/377.html


『RAPT 新・貴方に天国から降り注がれる音楽を 』

へのリンクを貼るとコメントできなくなります:

『RAPT 天皇が行う「大嘗祭」はまさに悪魔崇拝そのものです。』

を読みたければ Google 検索して下さい


74. 中川隆[-10573] koaQ7Jey 2019年4月27日 13:23:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1503] 報告
プチエンジェル事件と大嘗祭(悪魔崇拝)
https://twitter.com/pencil19937/status/1091658902326800385

pencil‏ @pencil19937 3:25 - 2019年2月2日
彼らのやっている事は悪魔崇拝です。過去にローマ法王とエリザベス女王が5万人にわたって性的幼児虐待、人身売買、幼児虐殺、そして幼児を食べていたことがわかっている。

プチエンジェル事件はこれを日本でも行われている事を裏付けるような事件。


pencil‏ @pencil19937 · 2月2日
【プチエンジェル事件】

この事件の建物は小沢一郎の資金管理団体「陸山会」が所有。
https://newsmatomedia.com/petit-angel

顧客リストには医者、弁護士、政治家、皇太子の名前も。
https://www.google.com/amp/s/naruzu3.exblog.jp/amp/29341158

事件後、犯人が自殺。この事件の取材をしていた人物は殺害されている。何か隠そうとしてるとしか思えない。


pencil‏ @pencil19937 · 2月2日
小沢一郎は皇太子妃と近い関係にあるので顧客リストに載っていてもおかしくない。
今年皇太子が天皇に即位しますが、即位後に行う儀式「大嘗祭」が悪魔崇拝儀式なのでローマ法王などだけではなく、天皇も悪魔崇拝をしていることが分かる。この事件は天皇家絡みの可能性大


かこちゃん‏ @j6bENMZvGajJaiH · 2月3日
闇の都合の悪いことは何でも小沢・皇太子妃に転嫁する清和会。警察が現場に乗り込んだら秋篠宮がいたが皇宮警察が連れ去ったと読んだことがある。いい加減にして!


だいわピュアラブ‏ @daiwaryu1121 · 4月14日
プチエンジェル事件の真相を書きました。
プチエンジェル事件で有名な未成年少女売春クラブプチエンジェルの少女に会いました。プチエンジェルの仕切りはやはり住吉会でした。 https://daiwaryu1121.com/post-5959/

https://twitter.com/pencil19937/status/1091658902326800385

75. 中川隆[-10572] koaQ7Jey 2019年4月27日 16:08:50 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1504] 報告

天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

76. 中川隆[-10574] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:20:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1502] 報告
天皇が行う大嘗祭(悪魔崇拝)のルーツ _ 2


『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』/工藤隆インタビュー
http://www.chuko.co.jp/shinsho/portal/103442.html


長江流域の少数民族イ(彝)族の女性(左)と著者 中国四川省美姑(メイグー)大涼山地区の以作(イーヅオ)村にて。(1997年3月17日、撮影・工藤綾子)


『大嘗祭―天皇制と日本文化の源流』
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD%E2%80%95%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%88%B6%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E6%BA%90%E6%B5%81-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B7%A5%E8%97%A4-%E9%9A%86/dp/4121024621


を刊行した工藤隆さん。いま話題になっている「大嘗祭」とは、どんな儀式なのか、どのような特徴と歴史があるのか、伺いました。


――大嘗祭とはそもそもどういった儀式でしょうか。


工藤:大嘗祭は、天皇が即位した後に一度だけ行う大規模な新嘗(にいなめ)祭のことです。新天皇は、まず神器(じんぎ)を渡されて践祚(せんそ、即位)し、少しあいだを置いて即位の礼を行い、践祚の半年〜1年半後くらいに大嘗祭を行います。新嘗祭は、伊勢神宮のアマテラスオオミカミに新稲を捧げるとともに天皇もそれを食する毎年冬至ごろの祭りでした。

しかし、このような毎年の新嘗祭が、天皇位継承儀礼の一連の流れの最後の部分に組み込まれたのは、600年代末の天武・持統天皇のころだったようです。それ以前のニイナメ儀礼がどのような性格のものだったのかについては、よくわかっていません。『古事記』『日本書紀』の神話や『万葉集』の東歌(あずまうた)などによれば、新嘗祭の主役は〈女〉だったらしく、また東南アジアの水田稲作儀礼の文化人類学的報告によると、やはり稲収穫儀礼の主役は〈女〉でした。これらのことを手がかりに、ニイナメ儀礼の起源に迫っていけば、結果として大嘗祭の起源も見えてくることになるでしょう。

――それでは大嘗祭という祭りの特徴はなんでしょうか。


工藤:「祭り」には、限られた当事者だけがかかわる「秘儀」の部分と、地域の人々も参加して行われる「公開」の部分とがあります。普通、「祭り」というと、御輿担ぎや、山車(だし)の引き回しなど、地域の人々が参加して賑やかに行われる「公開」の部分がイメージされます。しかし、大嘗祭の最も重要な部分は「秘儀」にあたりますので、一般人には公開されません。その「秘儀」の部分は、大嘗祭を進行させている関係者および新天皇しか知ることができません。しかも、大嘗祭が行われる大嘗殿の中での具体的な所作は、天皇自身でさえも口外することが許されません。

そのため私たちは、平安時代の儀式書や、江戸時代に桜町天皇のときに復活した大嘗祭について国学者が書き残して公開した史料(閉門の罰を受けた)などを参考にして、推測するのがせいぜいです。それらによれば、大嘗殿の中では、新天皇は、神社で神主が神に供え物をして拝礼しているのと同じようなことをしていたらしいと推測されます。

しかし、大嘗殿の中には、中央にベッド状のものが置いてあるのですが、伊勢神宮のアマテラスオオミカミの座もあり、天皇はそのアマテラスの座に面して座って供え物を捧げます。このとき、中央のベッド状のものは使用されないのです。
ということは、中央のベッド状のものは、古くからの稲の祭りであるニイナメ儀礼の残影であり、本来は、つまり弥生時代にまでさかのぼれば、稲の神がこのベッドにやって来ていたと考えられます。

600年代末の天武・持統天皇のころに本格的に制度が整えられはじめたと思われる大嘗祭は、伊勢神宮の神事形式を援用しつつも、それとは別に、弥生時代に起源を持つ水田稲作儀礼であるニイナメ儀礼の痕跡も、中央のベッド状のものとして取り込んだと考えられます。その名残りが今でも大嘗祭に残っているのです。

また、大嘗殿内の「秘儀」の直前までの式次第の部分は、ある程度平安時代の儀式書に記述されています。それによると、そのなかで最も重視されているのは稲と、その稲から造られる神酒(みき)と、それらに密接にかかわる「造酒児」(サカツコ、「造酒童女」とも書く)1人を筆頭とする6名の女性たちです。

これらの儀式書から見える大嘗祭は、奈良・平安時代に形式化が進み、また洗練度を高めたものの記録ですから、縄文・弥生時代にまでさかのぼる原型的なニイナメ儀礼からは大きな変質を経ていると思われます。しかし、そのような平安朝大嘗祭でも、特に稲、神酒と、それらにかかわるサカツコを筆頭とする女性たちが重要な存在であったことは、原型的なニイナメ儀礼の残影として重要です。

このように、古いニイナメ儀礼の痕跡を残していることが大嘗祭の大きな特徴だと言えます。

――これまでも大嘗祭についていろいろなアプローチの本が刊行されたと思いますが、本書の特徴はなんでしょうか。


工藤:大嘗祭は、ニイナメ儀礼としての誕生から、天皇位継承儀礼の一角に組み込まれて現代に至るまでの間に、かたちをいろいろと変えてきました。大きく分けると次の4つの段階があったと考えられます。

@大嘗祭の原型(弥生時代のニイナメ儀礼)のあり方
A男王たちが覇権を争った古墳時代のあり方
B600年代末ごろの大嘗祭整備開始期のあり方(初期大嘗祭)
C700年代以後の、式次第が完成して固定化される平安時代のあり方

このうちの@とAの、弥生時代から古墳時代くらいまでのあり方、すなわち大嘗祭の原型を中心に論じているのが本書の特徴です。従来の大嘗祭論は、そのほとんどすべてがC700年代以後の、式次第が完成して固定化された平安時代のあり方を論じるものでした。それは、平安時代の『儀式』『延喜式』という漢文で書かれた儀式書の記述の範囲内での正確さを求めるのが、文献証拠に基づく学問的手法としては堅実かつ安全なものと思われていたからです。

しかし、平安朝の儀式書からは、まずB600年代末ごろの初期大嘗祭の形がわかりません。ましてや、@とAの弥生時代から古墳時代くらいまでのあり方を論じるためには、文字記録がまったくないのですから、文化人類学や日本民俗学の事例を手がかりにして論じていくことが必要になります。

私は、大嘗祭の本質・原型・源に迫るための切り札は、この文化人類学・日本民俗学の報告に基づくモデル理論だと判断しましたので、本書ではそれを、@その原型(弥生時代のニイナメ儀礼)のあり方に迫る部分で活用しました。この点が本書独自の特徴でしょう。


――それでは、そのモデル理論についてくわしくお聞かせ下さい。


工藤:伝統的な国文学の世界では、文化人類学の現地調査報告を取り入れることにとても消極的です。つまり、日本列島の外の地域の民俗資料にまで視界を広げることに消極的です。

しかし、『古事記』『日本書紀』『万葉集』が登場する700年代以前には、仮に弥生時代以来と限定しても千数百年の、無文字文化の時代があったのです。その時代の文化状況がどうなっていたのかを考えるには、特にアジア全域の文化人類学の報告を手がかりにして、日本列島民族の儀礼形態を推測するモデル理論に頼るのは当然のことなのです。

多くの国文学者が傾倒している折口信夫(おりくちしのぶ)を純粋ヤマト文化主義者だと思っている人が多いようですが、実は彼は、柳田国男との対談で「私などの対象になるものは、時代がさかのぼっていくことが多いので、エスノロジーと協力しなければならぬ」(1950年、第二柳田国男対談集『民俗学について』筑摩叢書、1965年)と述べています。

日本の民俗芸能のほとんどは、その始まりは中世か近世です。出雲神楽・備中神楽・高千穂神楽などいわゆる「神代(じんだい)神楽」も、内容こそアメノイワヤト神話など『古事記』に素材をとっていますが、実は中世・近世に始まったものであり、どんなに古く見たとしても平安時代くらいまでしかさかのぼれません。

折口が、新野(にいの)の雪祭り、愛知の花祭り、坂部(さかんべ)の冬祭り、下伊那の霜月祭りといった奥深い山村の祭りに古代的なものを感じ取ったことは有名ですが、実はそれらの祭りが形成されたのは、ヤマト国家が形成されて数百年を経たあとの、中世・近世期でした。

折口自身も、それらでイメージされる古代像よりもっと古い源にまでさかのぼるには、「エスノロジー」(文化人類学=民族学)の報告の助けが必要だと感じていたのです。そこで彼は、沖縄本島、また石垣島など八重山地域にまで足を延ばし、日本本土の内側の祭り・民俗だけをモデルとする限界を突破しようとしました。彼は、大正10年(1921)、大正12年(1923)、昭和10年(1935)の計3回、沖縄を訪問しました。当時の沖縄調査は、時間のかかる船旅であり、現地でも移動や日常生活でかなりの困難があったと思われます。

また折口は、当時は日本領だった台湾にも行きました。しかし、アジア全域の少数民族文化の調査は、国際情勢、交通・通信網の未発達そのほかさまざまな時代の制約があったので、折口は実現できませんでした。もし折口が現代に壮年期を生きていたら、おそらく彼はアジア辺境の少数民族の村にまで足を踏み入れたことでしょう。

現在は、個人でも中国辺境の少数民族の村に民俗調査で入れる時代になりました。航空機、車、通信手段が発達し、また日本の経済力伸長のおかげで調査経費の工面も楽になりました。今や、日本の古代文学を始原から考えようとする発生論的古代像は、折口が時代の制約ゆえに実現できなかったこと、つまり「エスノロジーと協力」することで得られる、より高度な水準を目指す段階に入りました。

私も折口と同じように、日本国内の民俗行事を見歩いたのち、石垣島・西表島も含めて、沖縄全域の祭りを訪問しました。そのようななかで、沖縄の先の長江(揚子江)流域に、原型的な文化を伝えている多数の民族が存在することを知り、1994年以来、中国雲南省を中心としてアジア各地の少数民族文化の現地調査に踏み出しました。これらの調査からは、日々の生活と密着し祭式のなかで歌われている“生きている神話”の実例や、実際に配偶者や恋人を得るという実用の目的で行われている“生きている歌垣”にも触れることができました。それらの素材をモデルにして、『古事記』の古層や、歌垣の原型を想定できたのです。

――そのような研究をされてきたなかで、とくに本書執筆にさいしての御苦労がありましたらお聞かせ下さい。


工藤:このように、20年以上にわたる少数民族文化の調査から、大嘗祭の原型をとらえようとしたのですが、ここで本当の意味での「執筆の苦労」が登場しました。というのは、日本列島に流入したジャポニカ米や水田稲作技術の源が長江以南地域だとはわかったのですが、肝腎のその地域の少数民族の稲作儀礼に、〈女〉が主役の水田稲作儀礼の典型的な事例が残っていなかったからです。『古事記』『日本書紀』『万葉集』などの伝承や、また東南アジアの水田稲作儀礼のように、主役を〈女〉が務める稲収穫儀礼の実例に出会えなかったのです。ハニ族のように、田から稲を刈り取ってきて家の中の先祖棚に供えるところまではその家の主婦が務めていても、そのあとの宴席となると男戸主が主役になってしまうのです。

そこで、女性原理濃厚な長江以南地域の在来の文化に、北方から南下してきた男性原理の漢族文化が重なって、〈女〉が主役の前段と〈男〉が主役の後段という二重構成になったという分析にたどり着きました。そうすると、日本古代の弥生時代にもすでに、縄文時代以来の女性原理が濃厚な基盤の上に、男性原理が濃厚な文化が重なったと考えることができました。のちの大嘗祭においても、前段は女性であるサカツコが主役、後段の大嘗殿の中では原則として男性である天皇が主役という二段構成になっていることも、同じような意味であると理解してよいのでしょう。


――日本古代の文化も、二重構成になっていたのですね。


サミュエル・ハンチントンが、世界をキリスト教圏、イスラム教圏、東方正教圏(ロシア)、仏教圏、中国、そして日本と分けたうえで、「文化と文明の観点からすると、日本は孤立した国家である」と述べています(『文明の衝突と21世紀の日本』集英社新書、2000年)。また同書で、「日本が特徴的なのは、最初に近代化に成功した最も重要な非西欧の国家でありながら、西欧化しなかったという点である」とも述べています。

日本がそのような位置づけになったのは、私は、日本文化の基層が長江以南地域の少数民族文化と共通しているからだと考えています。これらの少数民族文化には、以下のような3つの特徴があります。

まず、その宗教は、教祖、教典、教義、教団、布教活動の揃った本格宗教でなく、自然と密着した精霊信仰(アニミズム)とそれを基盤にした原始呪術(シャーマニズム)が中心になっていることです。仮に本格宗教が流入しても、アニミズム、シャーマニズムの側に引き寄せて変形させてしまっています。

第二に、その少数民族の持つ世界観が、自然と密着したアニミズム、シャーマニズムを背景にした神話世界を中心に据えていることです。

第三に、その集団・民族は、〈国家〉樹立を目指さず、仮に〈国家〉らしきものを作っても弱小であることです。

長江以南の少数民族文化は、国家を作らず、あるいは作ったとしても弱小であっただけでなく陸続きでもあったために漢族の侵攻によって国家を維持することが出来ませんでした。いっぽうで古代日本は、大陸とのあいだに海の防護壁があったおかげで、大陸国家からの直接の侵略を受けませんでした。しかし、国家の樹立や運営の実用的かつリアリズム型の知識だけはその大陸国家から学ぶことができました。その結果、それらとは逆方向の、もともと持っていたアニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質も濃厚に残すことになったのです。

日本は、この、リアリズム型の知識と、それとは逆の方向性の文化資質を抱え込んで、およそ1400年間、〈国家〉としての体裁を維持して21世紀の現代にまで至っています。このとき、アニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質は、ほとんどDNAのように現代日本文化の基層として生き続けています。この点が、「西欧化しなかった」(ハンチントン)という指摘の意味でしょう。

――来たるべき次代の大嘗祭にさいして、わたしたちはどういったところに注目するとよいでしょうか。


工藤:1868年の明治新政府の登場によって、日本の社会制度には大きな変化が生じました。天皇制については、「大日本帝国憲法」が「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」としたように、天武天皇のように武力王でもあった初期天皇制の時代に歴史を逆戻しする一方で、天皇の呪術王的側面では、女性神職を廃止するなど卑弥呼以来の女性性の部分は排除しました。明治天皇には、富国強兵政策のなかで、武力王・軍事王の姿が求められたのです。そのような潮流のなかで、それまで重要視されていたサカツコという童女も明治天皇の大嘗祭では廃止され、大正・昭和・平成の大嘗祭でも復活しませんでした。

しかし、このサカツコは、『古事記』『日本書紀』神話の中でニイナメ儀礼を行っているアマテラスオオミカミやカムアタカシツヒメ(どちらも女神)、巫術の女王卑弥呼、そして、長江以南アジアの〈女〉が主役の水田稲作儀礼などの残影と考えてよい存在です。簡略化された形ででもよいですから、次回の大嘗祭ではサカツコの復活を望みたいと思います。

もう一つ、大嘗祭の行われる旧暦11月下旬は、新暦では冬至のころにあたります。この時期は、季節的な衰弱・仮死の冬から復活し、春を引き寄せようとする鎮魂祭が行われる時期でもありました。この自然界の生命力復活の祭祀に、収穫された稲(稲の仮の死)からの翌年の稲の子の誕生の儀礼が重ね合わされ、そこにさらに新天皇復活の祭祀が重なって、大嘗祭が形成されたのでしょう。

ということは、この祭りは冬至のころすなわち新暦では12月下旬に行われないと、自然界の生命力復活という大きな呪的目的が見えにくくなるのです。旧暦の11月を新暦の11月にそのまま移したために、季節感に1か月余のズレが出てしまったのです。
ということで、できるならば、大嘗祭の期日を新暦の12月下旬(冬至のころ)に移すとよいのです。それができないのならば、想像力で、きょうは実は太陽の力が最も弱まる冬至のころで、暗くて寒い冬の極みなのだと時間をずらして、大嘗祭の報道に接するとよいでしょう。


――最後に若い人たちへのメッセージがありましたらお聞かせください。


工藤:21世紀の日本にも、その基層には、アニミズム・シャーマニズム・神話的世界観や、歌垣文化圏の恋歌文化といった文化資質が、濃厚に生き続けています。このような文化資質は、西欧的な近代化を基準とすれば、“後れた文化”という印象を受けるでしょう。しかし、西欧的近代化には大きな副作用があります。その最大のものが自然破壊です。

1700年代のイギリスでの産業革命以後、資本主義経済が地球規模に広がり、21世紀の現在では、発展途上国を含めて全世界でGDP(国内総生産)を競い合う時代になりました。地球環境の汚染と、地球財の消尽が加速度的な勢いで進行しています。そのうえ、核兵器や原子力発電所の登場によって、地球の生活環境の全体が一気に崩壊に向かう可能性さえ見えてきました。
このようなときにこそ、日本の基層文化であるアニミズム系文化が、そのような生存環境崩壊の流れに対して、ブレーキ役を果たすでしょう。アニミズム系文化には、自然と共に生きる思想があります。生態系を重視するエコロジー思想とも通じていますし、またアニミズム系文化の節度ある欲望の感覚は、「GDPはほどほどに」という抑制された生産・経済活動の可能性を示唆するでしょう。

またアニミズム系文化は、近代合理主義が取りこぼしがちな人間存在の曖昧領域を許容し、寛容さを示す心性も持っています。また神話が示す世界は、人々の空想力を豊かに展開させてくれますし、恋歌文化の伝統は、潤いのある感性を育てます。そして、縄文文化に典型的なように、女性原理が強いので平和志向も強いのです。
そのうえ、日本文化には、島国文化・ムラ社会性という特性もあり、そこには、人と人の和をたいせつにする助け合い精神や寛容の精神のような得がたい美徳があります。

ただし、これらの文化資質は、近代合理主義を基準とすれば、たしかに国際政治の現場などにおいて現実的思考を取りにくいという側面もあります。そこで、近代合理主義の側のリアリズム的思考もしっかり取り入れて、その弱点を補う必要はあります。
日本は、古代に、〈国家〉を目指さない少数民族文化の特徴を持っていたにもかかわらず〈国家〉を樹立し、それを21世紀の現代にまで維持してきています。古代国家形成期の経験を生かして、明治期の近代化にも成功しました。したがって、その歴史体験から得られた知恵も動員して、今後とも、アニミズム系文化の伝統と近代文明を融合させるべく、模索を続けていくことが必要です。

最後に付け加えます。私が20歳のころ(1962年)は、まだ1945年までの、軍国主義ファシズムと結びついた天皇制に対する嫌悪感が、教養人一般の感情に強く残っていました。その結果、天皇存在そのものはもちろん、天皇と密接な関係を持つ『古事記』や伊勢神宮に対しても同じような反感と違和感をいだく教養人が多かったのです。

しかし、敗戦後の新憲法で、天皇から武力王(軍事王)・政治王としての側面が除かれました。残ったのは、アニミズム系の祭祀・行事・和歌などの継承者としての文化王的側面です。したがって、敗戦後72年を経た現在では、天皇・『古事記』・伊勢神宮に親しみを感じることが、そのまま右翼的な国粋主義思想や、偏狭な愛国主義に向かうのではない道が見えてきています。アニミズム系文化を継承しているそれらは、エコロジー思想にも通じる、地球規模の文化遺産としての普遍性を持っています。そのような文化特質が、かなりの高水準で達成されつつある西欧的近代化と併存している点にこそ、21世紀日本の独自性があるのです。

最近、若い人たちが、伊勢神宮など神域とされるようなところを指して「パワースポット」と言ったりしているようです。それは、それらの地域に凝縮されている、縄文・弥生時代以来の、人間生存の原型的生命力のようなものを感受しているからでしょう。私たち人間の生存の原点を見つめようとしているという意味で、それはとてもよいことです。ただし、その感性を過剰な神秘主義や偏狭な愛国主義に向かわせないような、心のしなやかさを持ち続けてほしいと思います。
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77. 中川隆[-10569] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:36:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1507] 報告

大嘗祭の本義 折口信夫
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     一

最初には、演題を「民俗学より見たる大嘗祭」として見たが、其では、大嘗祭が軽い意義になりはせぬか、と心配して、其で「大嘗祭の本義」とした。

題目が甚、神道家らしく、何か神道の宣伝めいた様なきらひがあるが、実は今までの神道家の考へ方では、大嘗祭はよく訣らぬ。民俗学の立場から、此を明らかにして見たい。

此処で申して置かねばならぬのは、私の話が、或は不謹慎の様に受け取られる部分があるかも知れない、といふ事である。だが、話は明白にせぬと何も訣らぬ。話を明白にするのが、却つて其を慕ふ事にもなり、ほんとうの愛情が表れる事にもなる。或は、吾々祖先の生活上の陰事カクレゴト、ひいては、古代の宮廷の陰事をも外へ出す様になるかも知れぬが、其が却つて、国の古さ・家の古さをしのぶ事になる。単なる末梢的な事で、憤慨する様な事のない様にして頂き度い。国家を愛し、宮廷を敬ふ熱情に於ては、私は人にまけぬつもりである。

     二

まづ「にへまつり」の事から話して見る。「にへ」は、神又は天皇陛下の召し上り物、といふ事である。調理した食物の事をいふので、「いけにへ」とはちがふ。生贄イケニヘとは、生ナマのまゝで置いて、何時でも奉る事の出来る様に、生イけてある贄の事である。動物、植物を通じていふ。

只今の神道家では、にへといへば、生ナマなものをも含めて言ふが、にへといふ以上は、調理したものを言ふのである。御意の儘に、何時でも調理して差し上げます、といつて、お目にかけておくのが、生贄イケニヘである。ほんとうは食べられる物を差し上げるのが、当り前である。生物ナマモノを差し上げるのは、本式ではない。この贄の事から出発して、大嘗祭の話に這入りたい。

大嘗祭は、古くはおほむべまつりと言うて居る。おほんべ即、大嘗に就ては、次の新嘗・大嘗の処で話す事にして、此処では、まづまつりの語源を調べて見る事にする。此まつりといふ語がよく訣らぬと、上代の文献を見ても、解決のつかぬ事が多い。

まつりごととは、政といふ事ではなく、朝廷の公事全体を斥して言ふ。譬へば、食国政・御命購政などゝ言ふし、平安朝になつても、検非違使庁の着駄チヤクダの政などいふ例もある。着駄チヤクダといふのは、首枷クビカセを著ける義で、謂はゞ、庁の行事始めと言つた形のものである。ともかくも、まつり・まつりごとは、其用語例から見ると、昔から為来シキタりある行事、といふ意味に用ゐられて居る。

私は、まつる・またすといふ言葉は、対句をなして居て、自ら為る事をまつると謂ひ、人をして為さしむる事をば、またすと謂ふのであると見て居る。日本紀を見ても、遣又は令といふ字をまたすと訓ませて居る。

一体、まつるといふ語には、服従の意味がある。まつらふも同様である。上の者の命令通りに執り行ふことがまつるで、人をしてやらせるのをまたすといふ。人に物を奉る事をまたすといふのだ、と考へる人もあるが、よくない。人をしてまつらしむる事、此がまたすと謂ふのである。させる・してやらせる、此がまたすである。
日本の太古の考へでは、此国の為事は、すべて天つ国の為事を、其まゝ行つて居るのであつて、神事以外には、何もない。此国に行はれる事は、天つ神の命令によつて行つて居るので、つまり、此天つ神の命令を伝へ、又命令どほり執り行うて居る事をば、まつるといふのである。

処が後には、少し意味が変化して、命令通りに執行いたしました、と神に復奏する事をも、まつるといふ様になつた。古典に用ゐられて居る「祭り」といふ言葉の意味は此で、即御命令によつてとり行ひました処が、かくのごとく出来上りました、と報告する、神事の事を謂ふのである。

まつりは、多くは、言葉によつて行はれる。即、仰せ通りに致しましたら、此様に出来上りました、と言つた風に言ふのである。此処から段々と「申す」といふ意味に変つて来る。そして、復奏する事をも「申す」といふ様になり、其内容も亦、まつるの本義に、近づく様になつて来た。

まをすとは、上の者が理会をして呉れる様に、為向ける事であり、又衷情を訴へて、上の者に、理会と同情とをして貰ひ、自分の願ひを、相手に容れて貰ふ事である。こひまをす(申請)などいふ語も、此処から出て来たのだ。此様に、大体に於ては「申す」と「まつる」とは、意義は違ふが、内容に於て、似通つた所がある。此点は又、後に言ふ事にする。

     三

日本の天子様は、太古からどういふ意味で、尊位にあらせられるか。古い文献を見ると、天子様は食国ヲスクニのまつりごとをして居らせられる事になつて居る。だから天孫は、天つ神の命によつて、此土地へ来られ、其御委任の為事をしに来らせられた御方である。

天子様が、すめらみこととしての為事は、此国の田の生ナり物を、お作りになる事であつた。天つ神のまたしをお受けして、降臨なされて、田をお作りになり、秋になるとまつりをして、田の成り物を、天つ神のお目にかける。此が食国ヲスクニのまつりごとである。

食ヲすといふのは、食クふの敬語である。今では、食ヲすを食クふの古語の様に思うて居るが、さうではない。食国ヲスクニとは、召し上りなされる物を作る国、といふ事である。後の、治ヲサめる国といふ考へも、此処から出てゐる。食ヲすから治ヲサめる、といふ語が出た事は、疑ひのない事である。天照大神と御同胞でいらせられる処の、月読命の治めて居られる国が、夜の食国ヲスクニといふ事になつて居る。此場合は、神の治ヲサめる国の中で、夜のものといふ意味で、食すは、前とは異つた意味で用ゐられて居る。どうして、かう違ふかと謂ふと、日本の古代には、口で伝承せられたものが多いから、説話者の言語情調や、語感の違ひによつて、意味が分れて行くのである。此は民間伝承の、極めて自然の形であつて、古事記と日本紀とでは、おなじ様な話に用ゐられてゐる、おなじ言葉でも、其意味は異つて来て居る。時代を経る事が永く、語り伝へる人も亦、多かつたので、かうした事実があるのである。

さて、食国ヲスクニをまつる事が天子様の本来の職務で、それを命令したのは、天つ神である。古事記・日本紀では、此神を天照大神として居る。此点は、歴史上の事実と信仰上の事実とが、矛盾して居る。歴史上では、幾代もの永い間、天子様は一系で治めていらつしやる。信仰上では、昔も今も同様で、天つ神の代理者として、此土地を治めておいでになる。此土地を御自分の領土になさる、といふ様な事や、領土拡張の事などは、信仰上では、御考へなさらない。天子様は、神の言葉を此国にお伝へなさる為に、お出でになつたのである。此意味がかはつて、神に申し上げる報告の意味が、出たのである。

吾々の考へでは、働かなければ結果が得られない、と訣つて居るが、昔は、神の威力ある詞を精霊に言ひ聞かせると、詞の威力で、言ふ通りの結果を生じて来る、と信じて居た。此土地の精霊は、神の詞を伝へられると、其とほりにせねばならぬのである。貴い方が、神の詞を伝へると、其通りの結果を生じたのである。此が、まつるといふ事で、又食国ヲスクニのまつりごとである。

私は、祭政一致といふ事は、まつりごとが先で、其まつりごとの結果の報告祭が、まつりであると考へて居る。祭りは、第二義的なものである。神又は天子様の仰せを伝へる事が、第一義である。処が、天子様は、天つ神の詞を伝へるし、又天子様のお詞を伝へ申す人がある。そして又、此天子様の代理者の詞を伝へる人がある。かうして段々、上から下へ、と伝へる人がある。此天子様のお詞を伝へる人をまつりごと人といふ。日本紀には、大夫・宰等の文字が宛てゝある。此大夫や宰は、高い位置の官吏ではないのに、何故まつりごと人などいふ、尊い名称で呼ばれるか。此は、前に言うた様に、段々下へ/\と行くからである。かうした人々の事を、御言持ミコトモチといふ。此意味で、天子様も御言持である。即、神の詞を伝達する、といふ意味である。

神の代理をする人は、神と同様で、威力も同様である。譬へば、神ながらの道などいふ語は、天子様の為さるゝ事すべてを、斥して言ふのであつて、決して神道といふ事ではない。天子様は、神ながらの方で、神と同様といふ事である。神ながらは、信仰上の語であつて、道徳上の語ではない。此意味に於て、天子様のお言葉は、即、神の御言葉である。日本の昔の信仰では、みこともちの思想が、幾つも重なつて行つて、時代が進むと、下の者も上の者も同様だ、と考へて来た。そして鎌倉時代から、下尅上の風も生じた。日本の古来の信仰に、支那の易緯の考へ方を習合させて、下尅上と言うたのである。此話は、幾らしても限りのない事であるが、申さねば、贄祭りのほんとうの意味が知れないから、述べたのである。

古い時代のまつりごとは、穀物をよく稔らせる事で、其報告祭がまつりである事は、前にも述べた。此意味に於て、天子様が人を諸国に遣して、穀物がよく出来る様にせしむるのが、食国の政である。処が穀物は、一年に一度稔るのである。其報告をするのは、自ら一年の終りである。即、祭りを行ふ事が、一年の終りを意味する事になる。此報告祭が、一番大切な行事である。此信仰の行事を、大嘗祭オホムベマツリと言ふのである。

此処で考へる事は、大嘗と、新嘗との区別である。新嘗といふのは、毎年、新穀が収穫されてから行はれるのを言ひ、大嘗とは、天子様御一代に、一度行はれるのを言ふのである。処が「嘗」といふ字を宛てたのは、支那に似た行事があつて、それで当てたのである。新嘗の用語例を蒐めて考へて見ると、新穀を召し上るのを、新なめとは言へない。なめるといふ事には、召食メシアガるの意味はない。日本紀の古い註を見ると、にはなひといふ事が見えて居る。万葉集にも、にふなみといふ言葉があり、其他にへなみと書かれた処もある。

今でも、庄内地方の百姓の家では、秋の末の或一日だけ、庭で縄を綯なひ、其が済むと、家に這入る。此を行ふには、庭へ竈を造つて、其日一日は、庭で暮すらしい。日本紀の古註に見える庭なひと言ふのは、其であらう。此事は、考へて見ると、一種の精進で、禁慾生活を意味するのである。だが、庭で縄を絢ふから、庭なひだとしてはいけない。此には、何かの意味があつて、庭で縄を綯ふのであらう。
にはなひ・にふなみ・にひなめ・にへなみ、――此四つの用語例を考へて見ると、にへ・には・にふは、贄と同語根である事が訣る。此四つの言葉は、にへのいみといふことで「のいみ」といふことが「なめ」となつたのである。発音から見ても、極近いのである。結局此は、五穀が成熟した後の、贄として神に奉る時の、物忌み・精進の生活である事を意味するのであらう。新しく生つたものを、神に進める為の物忌み、と言ふ事になるのである。神様の召し上りものが、にへであることは、前にも言うた通りであるが、同時に、天子様の召し上りものも亦、にへである。さうすると、新嘗の大きな行事であるから、大にひなめといひ、それからおほんべとなつたことが訣る。

此大嘗と新嘗とは、どちらが先かは問題であるが、大嘗は、新嘗の大きなものといふ意味ではなくて、或は大は、壮大なる・神秘なるの意味を表す敬語かも知れぬ。此方が或は、本義かも知れぬ。普通には、大嘗は天皇御一代に一度、と考へられて居るが、古代ではすべて、大嘗であつて、新嘗・大嘗の区別は、無かつたのである。何故かと言ふと、毎年宮中で行はれる事は、尠くとも御代初めに、行はれる事の繰り返しに過ぎない、といふ古代の信仰から考へられるのである。御代初めに一度やられた事を、毎年繰り返さぬと、気が済まぬのであつた、と見るべきである。其が新嘗である。新嘗のみではなく、宮中の行事には、御代初めに、一度行へば済む事を、毎年繰り返す例がある。だから、名称こそ新嘗・大嘗といへ、其源は同一なものである。

此新嘗には、生物ナマモノのみを奉るのではなく、料理した物をも奉る。其前には長い/\物忌みが行はれる。単に、神秘な穀物を煮て差し上げる、といふのみの行事ではない。民間には、其物忌みの例が残つて居る。常陸風土記を見ると、祖神ミオヤガミが訪ねて行つて、富士で宿らうとすると、富士の神は、新粟ワセの初嘗ニヒナメで、物忌みに籠つて居るから、お宿は出来ない、と謝絶した。そこで祖神は、筑波岳で宿止ヤドメを乞うた処が、筑波の神は、今夜は新嘗をして居るが、祖神であるから、おとめ申します、といつて、食物を出して、敬拝祇ツヽシミツカヘ承つた、とある。此話は、新嘗の夜の、物忌みの事を物語つたものである。此話で見る様に、昔は、新嘗の夜は、神が来たのである。

猶、万葉集巻十四に、

にほとりの 葛飾早稲カツシカワセをにへすとも、そのかなしきを、外トに立てめやも
誰ぞ。此家ヤの戸おそぶる。にふなみに、わが夫セをやりて、斎イハふ此戸を

新嘗の夜の、物忌みの有様の見えて居る歌である。此歌などは、もう神の来る事が忘れられて、たゞの男女関係の歌のやうに見えるが、猶、神が来たといふ原義が見えて居る。神の来たのが、愛人が来るやうに考へられて来たのだ。ところが、この新嘗に似た行事が、まだ他にもある。其は神嘗祭である。そこで、神嘗祭の話に移る。

     四

神嘗祭・神今食・相嘗祭、此三つは新嘗祭に似て居る。だから、まづ神嘗祭から話を進めて見る。これは、新嘗祭と相対して行はれた祭りであつて、九月に行はれる。伊勢の神宮に早稲ワセの走穂ハツホを奉る祭りであると考へられて居る。天子様の新嘗に先立つて行はれる。此より前の六月と十二月とにも同様な行事が行はれる。神今食といふのが其である。此神今食を、或人々は「かむいまけ」と読んで、新米を奉るのだとして居るが、十二月の方はともかくも、六月には、まだどの様にしても、新米は出来ないから、此説は同意出来かねる。猶、神今食に奉るものは、早稲の初穂ではなくて、古米を奉るのであらう、と私は考へて居る。

だが、従来、神今食と、神嘗と、新嘗とは、区別が判然して居ない。私は、新米を奉るのと、古米を奉るのとの違ひであらう、と考へて居る。何故かと言ふと、神今食の直前に行はれるのに、月次祭がある。此は、六月と十二月とに行はれる。つまり、一年を二つに分けて、行うたのである。此事は、平安朝に見えて居る。この月次祭の後、直に、つゞいて行はれるのが、神今食である。月次祭の時は、日本中の大きな社の神々が、天子様の許に集まつて来る。その集まつて来た神々に、天子様が、物を食べさせて、おかへし申すのが、神今食である。

一年に二度行ふといふのは、大切な祭りは、一年を二期に分けてする習慣が出来てからの事である。つまり、夏の終りを年の終りと考へ、又、年の終りの冬毎に神が来る。其神に御馳走して帰すのが、神今食である。此は、よく考へて見ると、新嘗を二つに分けて、日をちがへて行つた、といふ事になる。月次祭は、新嘗祭の変化したもので、新嘗祭を行ふ中に、変態な習慣が行はれ出したのである、と考へられる。

神嘗祭とは、諸国から奉つた処の、早稲の走穂ハツホを、宮廷で整理して置かれて、九月になつてから、伊勢の大神に奉られることである。諸国から、初穂を朝廷へ奉る使を、のさきのつかひといふ。荷前使と書くのである。古くから神嘗祭と言うたか、どうか。或は、新嘗といふ支那訳が出来てから後に、神の新嘗といふ意味から、神嘗と言うたのかも知れぬ。ともかくも、神嘗祭は、前に言うた相嘗祭と、関聯させて話さねばならぬ。

諸国から稲穂を奉るのは、鎮魂式と関係があるから、此処で話して置く。諸国から稲穂を奉るのは、宮廷並びに、宮廷の神に服従を誓ふ意味なのである。日本では、稲穂は神である。其には、魂がついて居る。国々の魂がついて居る。魂の内容は、富・寿命・健康等である。諸国から米を差し上げるのは、此等の魂を差し上げる事になる故に、絶対服従といふ事になる。米の魂が身に入ると強くなり、寿命が延び、富が増すのである。そして、此魂たる米を差し上げることを、みつぎといふ。たゞつぎといふ事もある。

かうして、諸国から差し上げた稲穂を、天子様は、御自分で召食メシアガらぬ先に、上の方かたで居られる処の伊勢の大神に奉られる。奉り物は、料理した御飯と、料理せない稲の穂のまゝのを二通り、はざ木にかけて、差し上げる。此をかけぢからといふ。かうして、諸国から到来した米を、天子様が自ら、伊勢の大神に差し上げるのは、祖神に魂を差し上げる事になり、即服従を誓はれる事になるのである。

かうした関係は、民間にもある。本家・中本家・小本家といつた風に分れて居る家では、各の家で、子分を持つて居る。其子分が小本家へ奉つた物を、小本家では中本家へ、中本家では、小本家から奉つたものと、自分の子分の奉つたものとを一処にして、大本家へ差し上げる。此場合には、到来物だから差し上げます、と言うて奉るのである。かうして子方から、次第に、上へ差し上げて行く。すると、献上物としての威力は、其効力を増し、且強くなる。此は信仰上の事実であつた。

上述の様な次第で、神嘗と新嘗とは、大分違つたものである。新嘗は、後にこそ刈り上げ祭りの様になつて居るが、ほんとうは、神の命令に依つて行つた、農事の報告であり、神嘗は、諸国から宮廷へ奉つた稲穂を整理して、更に、伊勢大神宮へ奉る行事である。処が、諸国から奉つた稲の魂を、天子様が更に、上位の神に奉られる行事は、他にもある。即、相嘗祭で、十一月の中の卯の日に行はれる。卯の日が二度しかない時は、上の卯の日に行はれる。新嘗祭よりは、一まはり先の卯の日に行はれるのである。此時は、宮廷から畿内の近辺の大きな社に、稲穂を供へる。此が、相嘗祭である。又、天子様のお血筋や、外戚の陵墓にも奉る。此を荷前ノサキといふ。

約言すると、地方から、宮廷へ奉る処の稲の初穂を、九月に入つて、伊勢へ奉るのを神嘗といひ、其他の神々又は、大きな社に奉るのを相嘗と言ひ、陵墓に奉るのを荷前ノサキと言ふのである。何れも、新嘗祭と前後して行はれたのである。本来は、神に奉るのは相嘗と云ひ、其以下の神で、而も天子様の尊敬する神、又は、天子様の御血つゞきの方に差し上げるのを荷前、と言うたのである。

此等の行事が済んだ後で、新嘗祭が行はれたのだ。新嘗祭は正式には、十二月の中の卯の日に行はれたのである。此処で問題となるのは、卯の日といふ干支を用ゐる事が、果して、古代からあつたかどうか、と言ふ事である。現在知り得る範囲では、日を数へる事よりは、干支を数へる暦法の方が古い、と云へよう。尠くも、支那の古い暦法を伝へた漢人種や、朝鮮人種が、天孫民族と同時に、或はそれ以前に、渡来して居た事は事実である。

新嘗祭其他、すべての行事をするのに、干支に依つて定められる以前は、占ひによつてきめた。此がいつの間にか、干支に依つて、定められるやうになつたのである。かうして日を定めて、十一月の中の卯の日、又は、下の卯の日に、新嘗祭をするのである。此を秋の祭りといふ。

延喜式の祝詞を見ると、大和の龍田の風神祭祝詞がある。此は、五穀の稔る事を祈り、さて稔ると、斯様々々に出来ました、と言うて、秋祭りをして、五穀を奉るのである。此処の秋祭りといふのは、四季でいふ「秋」ではなくて、新嘗祭といふ意味であつて、農事に関係ある語である。処が、相嘗祭は、龍田風神祭の詞の中には、見えては居ないが、古から無かつたとは見られない。中世から、何かの原因で絶えた、と見るべきである。

祝詞の、秋祭りに就て考へて見ても、新嘗、又は相嘗は、今の暦法上の秋ではない。だが、其を秋祭り、と古くから言うて居る処を見ると、秋に就ての考へ方が、昔と今とでは差異があつたのであらう。事実、地方の秋祭りは、早稲の刈り上げ前に行はれるのであつて、晩稲の刈り上げが済んでからやるのは、正式の秋祭りではなくて、其は家々の祭りである。何故、斯うして家々即、地方では、早く秋祭りをするか、と言ふと、朝廷へ奉る荷前ノサキの使と同時に、国々の神の祭りをする為である。朝廷の新嘗祭と前後して、諸国で神に差し上げる。此が秋祭りの始めである。もう一つ、後の理由であるが、稲の花の散つた後が大切だから、やるのである。

此二つの考へが一つになつて、今の秋祭りが行はれるのである。だから、今民間に行はれて居る秋祭りは、ほんとうの秋祭りとしてのものではなくて、寧、家々の祭りと見てよろしい。社の祭りではないのである。新嘗祭と同様なものが、ほんとうの秋祭りである。田舎の秋祭りは、新嘗祭よりも、早く行はれる。新嘗を中心にして考へると、少しく変だが、認容出来ぬ事はない。前に挙げた処の「にほどりの」と言ふ歌にしても、其地方で勝手に、祭りを行うた処から、出来た歌で、宮廷よりは先に、行つた消息が窺はれる。

宮廷の新嘗祭は、日本中の稲の総括りの様なものである。秋祭りには、前述の意味と、もう一つは、冬祭りともいふべき程の意味とがある。さて、秋祭りが、同時に冬祭りに当るのに、どうして冬祭りと言はぬかといへば、其は、秋祭りには、祭りの最古い意味があるが、冬祭りは、少し意味が違つて居るからである。

     五

私の考へでは、一夜の中に、秋祭り・冬祭り・春祭りが、続いて行はれたものであつて、歳の窮キハマつた日の宵の中に、秋祭りが行はれ、夜中に冬祭りが行はれ、明け方に春祭りが行はれるのである。

そして、続いて、初春の行事が行はれる、といふ順序である。此が後に、太陰暦が輸入せられてから、秋・冬・春といふ暦法上の秋・冬・春が当て篏められて、秋祭り・冬祭り・春祭りとなり、更に其中へ夏祭りが、割り込んで来たものと思ふ。

冬祭りとは何かと言ふと、歳、窮つた時期に、神がやつて来て、今年の出来たものを受けて、報告を聞き、家の主人の齢を祝福し、健康の寿ぎをする所の、祭りを言ふのである。古い書物を見ると、秋祭りの晩には、尊い方がやつて来られた事が、書いてある。神の来られた事を忘れた後には、自分よりも身分の高い人を頼んで、来て貰つて居る。後世の宴席に、又は祭事に当つて、正客の習慣は、遠い昔に、其起原のある事が知れる。即、秋祭りとは、主人より遠来の神に、田畑の成績の報告をする事である。そして冬祭りとは、此秋祭りが済んで、客神マレビトが主人の為に、生命の寿ぎと、健康の祝福とをする事である。同席で行はれても、両者の間には、区別は明らかにある。

此処で「冬」といふ言葉を考へて見る。ふゆは、殖ゆで、分裂する事・分れる事・枝が出る事などいふ意味が、古典に用ゐられてゐる。枝の如く分れて出るものを、取扱ふ行事が、冬の祭りである。ふゆは、又古くは、ふると同じであつた。元来、ふるといふ事は、衝突する事であるが、古くは、密着するといふ意味である。此処から「触れる」といふ意味も出て来る。

日本の古代の考へでは、或時期に、魂が人間の身体に、附着しに来る時があつた。此時期が冬であつた。歳、窮つた時に、外から来る魂を呼んで、身体へ附着させる、謂はゞ、魂の切り替へを行ふ時期が、冬であつた。吾々の祖先の信仰から言ふと、人間の威力の根元は魂で、此強い魂を附けると、人間は威力を生じ、精力を増すのである。

此魂は、外から来るもので、西洋で謂ふ処のまなあである。此魂が来て附着する事を、日本ではふるといふ。そして、魂の附着を司る人々があつた。毎年、冬になると、此魂を呼んで附着させる。すると春から、新しい力を生じて活動する。今から考へると、一生に只一度つければよい訣だが、不安に感じたのでもあらう。毎年繰り返した。新嘗を毎年、繰り返すのと同じ信仰で、魂は毎年、蘇生するものだ、との考へである。此復活の信仰は、日本の古代には、強いものであつた。

古代信仰に於ける冬祭りは、外来魂を身に附けるのだから、ふるまつりである。処が後には、此信仰が少し変化して、外来魂が身に附くと同時に、此魂は、元が減らずに分割する、と考へて来た。此意味が、第二義のふゆまつりである。

日本紀の敏達天皇の条を見ると、天皇霊といふ語が見えて居る。此は、天子様としての威力の根元の魂といふ事で、此魂を附けると、天子様としての威力が生ずる。此が、冬祭りである。処が後には、或時期に於て、此魂は分割するのだ、と考へ出して来た。そして分割の魂は、人々に分けてやつた。此分割の一つ/\の魂は、着物を以てしるしとした。一衣一魂として、年の暮に、天子様は、親しく近い人々に、着物を分配してやられた。此を御衣配といふ。天子様以下の人に於ても、やはり、家々の氏ノ上の魂は分割する。其を衣に附けて分配した。此を衣配キヌクバりというた。此が近世まで続いて、武家時代になつても、召し使ひに為着シキせを呉れるといふ習慣があつた。

此魂の分割、衣分配の信仰は、冬祭りの第二義である。此祭りの事を鎮魂式といふのである。たまふり、又はみたまふりといふ。後世になると、たましづめといふ。たましづめといふのは、人間の魂が或時期に於て、游離し易くなるから、其を防ぐ為と、又既に、游離した魂を落ちつかせる為で、此考へ方は、後のものである。支那にも、此に似た行事があつて、鎮魂と謂うて居た処から、日本のたまふりをも鎮魂と訳したのである。その大元は、外来魂を身に附ける事が、第一義。更に、分割の魂を、人々の内身へ入れてやる事。此が、第二義。そして、鎮魂を意味するのが、第三義である。

此鎮魂の行事は、非常に重大なもので、宮廷では、十一月中に、日を卜ひ定めて行うた。処が、たまふりの祭りの中にも、もう一つ違つた祭りがある。それは、魂を附着する、といふ意味の理会が変つて、目下の者が、自分の主人又は、長上の人に服従を誓ふ為に、自分の魂の主要なものを、相手の長上なり、主人なりに献上して了ふといふ祭りである。それで主人或は、目上の人は、元来の自分の魂と、目下が持つて来て奉つた魂とを合せて持つ事になるから、上位の人となる。此行事がやはり、天子様の御代初めに行はれた。其が又、新嘗の如く、毎年繰り返される事になつた。此行事も亦、みたまふりの一の意味である。

上述の如く、生きて居る人が、自分の魂の大部分を、長上に奉る事をみつぎといひ、目下が献つた数多の魂と、元来天子様の持つて居られる魂とを一処にして、其を分割して臣下が頂くのをば、みたまのふゆといふ。そして、此為の行事即、祭りの事をみたまのふゆ祭りといふ。結局冬祭りは、魂分割の祭りで、年の暮には、此魂の切り替へに関する行事が、いろ/\と行はれた。後世になると、年に二度、盆と年の暮れとに行はれた。更に其が、盆と正月とに行はれる事になつた。

元来、冬祭りと秋祭りとは、引続いて一日の中に行はれたのであつたが、漸次分れて来て、秋祭りを十一月、冬祭りを十二月に行ふ様になつた。かうなつて来てからは、十一月に行はれるのをば鎮魂祭といひ、十二月に行はれるのを、普通には御神楽といひ、内侍所の御神楽ともいふ。此二つは共に、鎮魂祭である。十一月の方の祭りは、元来日本にあるみたまふりの祭りで、十二月の方のは、後に、宮中へ這入つて来た処の鎮魂ミタマシヅメの祭りである。

天子様に、下から魂を差し上げる時期は、大体に於て、冬の祭りと一定して居つたが、後には、春行はれることになつた。併し、処によると、違つた時期にも差し上げた。此は、国や家によつて、違つてゐるのである。譬へば、出雲の国造家では、国造の代替りには、其年と、其年の翌年と、引続いて二度、京都へ出て来て、天子様に魂を奉る儀式をした。

     六

前にも言うた通り、宮廷の鎮魂式には、三通りある。

一、猿女の鎮魂  鈿女の鎮魂法の事をいふ。高天原伝来のもの。
二、物部の鎮魂  物部氏に伝来されて居る処の石ノ上鎮魂法。
三、安曇の鎮魂  奈良朝の少し前、宮廷へ這入つた、と見るべき鎮魂法。


此三つの中、猿女鎮魂と、石ノ上鎮魂とは、合体して了うた。最後に這入つた処の、阿曇アヅミの鎮魂式は、海人部の者が取扱つたもので、此は、特殊な面白味があつたので、日本元来のみたまふりとは異つた待遇を受けて、十二月に行はれる事になつた。古来の日本流のがみたまふりで、阿曇のは、たましづめの意義が、主なる要素をなして居る。外来魂を身に附けるのが、古い意義の、日本伝来のみたまふりで、魂の発散を防止し、且既に、発散した魂をして、鎮まらせる。此が、阿曇のたましづめ即、御神楽である。

とにかく、鎮魂式といふのは、群臣から天子様に、魂を差し上げる事だ、とわかればよい。同時に、冬というても、時代によつては、十月の事でもあり、十一月の事でもあり、又十二月の事でもあつた、といふ事を承知してかゝらねばならぬ。

此鎮魂を行ふと、天子様はえらくなる。併し、かうした行事を毎年やるのは、どうした事か。一代に一度やれば、よろしいのであるが、昔の人は、魂は一年間活動すると、もう疲れて役に立たなくなる、と考へて居たから、毎年やるのである。毎年々々、新しく復活して来ねばならぬ、と考へて居つたからである。

恐れ多い事であるが、昔は、天子様の御身体は、魂の容れ物である、と考へられて居た。天子様の御身体の事を、すめみまのみことと申し上げて居た。みまは本来、肉体を申し上げる名称で、御身体といふ事である。尊い御子孫の意味であるとされたのは、後の考へ方である。すめは、神聖を表す詞で、すめ神のすめと同様である。すめ神と申す神様は、何も別に、皇室に関係のある神と申す意味ではない。単に、神聖といふ意味である。此非常な敬語が、天子様や皇族の方を専、申し上げる様になつて来たのである。此すめみまの命に、天皇霊が這入つて、そこで、天子様はえらい御方となられるのである。其を奈良朝頃の合理観から考へて、尊い御子孫、という風に解釈して来て居るが、ほんとうは、御身体といふ事である。魂の這入る御身体といふ事である。

此すめみまの命である御身体即、肉体は、生死があるが、此肉体を充す処の魂は、終始一貫して不変である。故に譬ひ、肉体は変つても、此魂が這入ると、全く同一な天子様となるのである。出雲の国造家では、親が死ぬと、喪がなくて、直に其子が立つて、国造となる。肉体の死によつて、国造たる魂は、何の変化も受けないのである。

天子様に於ても、同様である。天皇魂は、唯一つである。此魂を持つて居られる御方の事を、日の神子ミコといふ。そして、此日の神子ミコとなるべき御方の事を、日つぎのみこといふ。日つぎの皇子とは、皇太子と限定された方を申し上げる語ではない。天子様御一代には、日つぎのみこ様は、幾人もお在りなされる。そして、皇太子様の事をば、みこのみことと申し上げたのである。

天子様が崩御なされて、次の天子様がお立ちになる間に、おほみものおもひ(大喪)といふのがある。此時期は、日本に於ては、日つぎのみこの中のお一方が、日の御子(天子様)となる為の資格を完成する時、と見る事が出来る。祝詞や、古い文章を見ると、「天のみかげ・日のみかげ」などゝいふ詞がある。此詞は普通には、天子様のお家の屋根の意味だ、と云はれて居るが、宮殿の奥深い所といふ事である。そこに、天子様はおいでになるのである。此は、天日に身体を当てると、魂が駄目になる、といふ信仰である。天子様となる為の資格を完成するには、外の日に身体をさらしてはならない。先帝が崩御なされて、次帝が天子としての資格を得る為には、此物忌みをせねばならぬ。此物忌みの期間を斥して、喪といふのである。喪と書くのは、支那風を模倣しての事で、日本のは「裳」或は「襲」であらうと思ふ。

大嘗祭の時の、悠紀・主基両殿の中には、ちやんと御寝所が設けられてあつて、蓐・衾がある。褥を置いて、掛け布団や、枕も備へられてある。此は、日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、此御寝所に引き籠つて、深い御物忌みをなされる場所である。実に、重大なる鎮魂ミタマフリの行事である。此処に設けられて居る衾は、魂が身体へ這入るまで、引籠つて居る為のものである。裳といふのは、裾を長く引いたもので、今の様な短いものゝみをいうては居ない。敷裳などゝいうて、着物の形に造つて置いたのもある。此期間中を「喪」といふのである。

或人は、此お寝床の事を、先帝の亡き御身体の形だといふが、其はよくない。死人を忌む古代信仰から見ても、よろしくない。猶亦、或人は、此が高御座だといふが、此もよくない。高御座に枕を置いたり、布団をおく筈はない。高御座は、天子様がお立ちになつて、祝詞を申される場所であつて、決してお寝になる場所ではない。此処では、何も、ものを仰せあらせないから、高御座と考へる事は出来ぬ。
古代日本の考へ方によれば、血統上では、先帝から今上天皇が、皇位を継承した事になるが、信仰上からは、先帝も今上も皆同一で、等しく天照大神の御孫で居られる。御身体は御一代毎に変るが、魂は不変である。すめみまの命といふ詞は、決して、天照大神の末の子孫の方々といふ意味ではなく、御孫といふ事である。天照大神との御関係は、ににぎの尊も、神武天皇も、今上天皇も同一である。

此重大な復活鎮魂が、毎年繰り返されるので、神今食・新嘗祭にも、褥が設けられたりする事になる。大嘗祭と、同一な様式で設けられる。復活を完全にせられる為である。日本紀の神代の巻を見ると、此布団の事を、真床襲衾マドコオフスマと申して居る。彼のににぎの尊が天降りせられる時には、此を被つて居られた。此真床襲衾マドコオフスマこそ、大嘗祭の褥裳を考へるよすがともなり、皇太子ヒツギノミコの物忌みの生活を考へるよすがともなる。物忌みの期間中、外の日を避ける為にかぶるものが、真床襲衾である。此を取り除いた時に、完全な天子様となるのである。此は、日本紀の話であるが、此を毎年の行事でいへば、新嘗祭が済んだ後、直に鎮魂祭が行はれ、其がすんで、元旦の四方拝朝賀式が行はれる。だが此は、元は、一夜の中に一続きに行はれたもので、秋祭りの新嘗祭と、冬祭りの鎮魂祭即、真床襲衾から出て来られ、やがて高御座にお昇りなされて、仰せ言を下される。此らの事は元来、一続きに行はれたのであるが、暦法の変化で、分離して行はれる様になつたのである。

日嗣ぎの皇子ミコが、日の皇子(天子様)におなりなされると、天子様としての仰せ言が下る。すると、群臣は天子様に対して、寿言ヨゴトを申し上げる。寿言の正確な意味は、齢を祝福申し上げる、といふ処にある。すめみまの命の御身体に、天子霊が完全に這入つてから、群臣が寿言を申すのだ。寿言を申すのは即、魂を天子様に献上する意味である。群臣等は、自分の魂の根源を、天子様に差し上げて了ふのだ。此程、完全無欠な服従の誓ひは、日本には無い。寿言を申し上げると、其語について、魂は天子様の御身に附くのである。

天子様は倭を治めるには、倭の魂を御身体に、お附けにならなければならない。譬へば、にぎはやひの命が、ながすね彦の方に居た間は、神武天皇は戦にお負けなされた。処が、此にぎはやひの命が、ながすね彦を放れて、神武天皇についたので、長髓彦はけもなく負けた。此話の中のにぎはやひの命は、即、倭の魂である。此魂を身に附けたものが、倭を治める資格を得た事になる。

此大和の魂を取扱つたのは、物部氏である。ものとは、魂といふ事で、平安朝になると、幽霊だの鬼だのとされて居る。万葉集には、鬼の字を、ものといふ語にあてゝ居る。物部氏は、天子様の御身体に、此倭を治める魂を、附着せしむる行事をした。此が、猿女鎮魂以外に、石イソノ上カミの鎮魂がある所以である。

此処で、猿女の鎮魂式を考へて見る。さうすると、日本人の生死観がよく訣る。元来、日本の古い信仰では、生と死との区別は、不明瞭なものであつた。人が死んでも、魂をよび戻せば生きかへる、と思うてゐた。そして、どうしても魂がかへらぬとあきらめるまでは、略ほぼ一年間かゝつた。此一年の間は、生死不明の時期で、古い文献を見ると、殯宮モガリノミヤ、又はあらきの宮と言うて居るが、此は此魂を附着せしめようとして居る間の、信仰行事を斥していふのである。御陵を造つて居る間が殯宮だ、といふ考へは、後の考へ方で、支那の考へが這入つて来て居る。
殯宮の間に於ける天子様を、大行天皇と申上げて居る。此も亦、支那流の考へが混つて居る。此期間中は、生死不明であると共に、日つぎの皇子が、裳(襲)に籠つて居られる期間である。

猿女鎮魂の起原ともいふべきは、天ノ岩戸の一条の話である。天照大神は、天ノ岩戸に籠られた。そして、天ノ鈿女命は、盛んなる鎮魂術をやつた。それで、一度発散した天照大神の魂は、戻つて来て、大神は復活した。魂を附着せしむるといふ事は、直に死を意味するものとはならない。此処から考へても、あの大嘗祭の時の蓐の行事が、真に死骸だと考へる事は出来ぬ。

此蓐の行事の、毎年繰り返されるのが、神今食・新嘗祭などの蓐である。蓐に籠る度数が、多ければ多いだけ、威力を増す、といふ考へである。こんな考へ方からして、天子様は、御一代の間に、毎年新嘗をせられて復活されるのである。そして、毎年復活して、新しい威力ある御身体を以て、高御座にお昇りなされて、祝詞を下されるのである。

     七

此処で春の祭りの話をする。春の祭りは、大嘗祭と、即位式と、四方拝と、もう一つ朝賀式とを兼ねたもので、正月の元日から三日の間に行はれるのである。

大宝令――詳しくは養老令――を見ると、五つの詔書々式が残つて居る。其中の主なものは二つで、此は、外国に対しての詔書々式で、他の三つは、国内に対してのものである。此は、大・中・小の三つに分れて居るが、大体から見て、内・外は対をなして居るもの、と見る事が出来る。

内国に対する詔書中、大きな事に用ゐられる書式は、最初の書き出しの言葉に、

明神御大八洲天皇詔旨アキツミカミトオホヤシマグニシロシメススメラガオホミコト……咸聞モロ/\キコシメセトノル

といふ詞を、此書式の詔書のはじめに、据ゑねばならぬ。次に、外国即、朝鮮に対しての詔書には、同じく養老令を見ると、大八洲天皇詔旨の代りに、御宇日本天皇詔旨と書いて居る。(「高御座」参照。全集第二巻)

斯くの如く、国内に対しては大八洲天皇といひ、外国には御宇日本天皇といふのである。そして此言葉を唱へられる場合は、初春か、又は、即位式の時である。此点から見ても、即位式と、初春とは同一である、といふ事がわかる。

其意味は、大八洲は皆私のものだ、といふ意味である。そして、御宇日本天皇といふのは、此言葉を受ける人は、皆日本の天子様の人民になつて了ふ、といふ信仰上の言葉である。支那に対しては、言へなかつた。朝鮮にのみ用ゐられた。朝鮮の任那の国をば、内屯倉ウチミヤケとよんで居つた。うちみやけは、朝廷の御料を収めて置く処といふ意味である。

初春の詔書の全体の意味は、即位式の詔書の意味と、全く同一である。内屯倉ウチミヤケは、天子様の御言葉の勢力が及んだ証拠で、此大八洲天皇とか、御宇日本天皇とかいふ言葉を聞くと、もう、人々の心も身も、天子様のものになつて了ふ。後にこそ、大八洲・御宇日本と分けて用ゐられて居るが、語の及ぶ効力は同一で、其間に、少しの距たりも無かつたのであらう。即、此語の及ぶ範囲が、天子様の御領土といふ事になる。

日本歴史で、知り得る限りでは、大和国の山辺郡の大倭村が、やまとの本地であつたらしい。其が次第に拡がつて、今吾々の考へて居る程の、広さになつたのであらう。猶日本紀によつて、仮説を樹てゝ見れば、日本の宮廷は、或時期の間、筑紫の方面に栄えられた事を伝へて居る。筑紫の山門ヤマト郡の名称が、神武天皇の大和に入られたのと同時に、ついて来た名称とも考へられる。とにかく、何故に、全国到る所をやまとと言うたかといふと、前に言うた通り、明神御大八洲天皇詔書……咸聞といふ、言葉の勢力が及ぶ範囲、といふ意味である。この信仰を度外視しては、何故に日本全体をやまとと言うたか、といふ事は訣らぬ。戦争で領土が拡まつた、といふ考へのみでは、説明は出来ぬ。

又、続日本紀を見ると、天子様は、御代初めに、何か仰せ言を下される時に、大倭根子何々天皇、と最初に言ひ出される。古事記にも、日本紀にもある。「根子」の古い例は、山背根子・難波根子等である。根子は、神主・君主といふ事である。昔は、神主は即、君主であつた。大倭根子といふと、大倭の地方全体の神事を司る人即、君主といふことになるのである。後には、日本全体の祭主、即君主との意味になつて来た。かうした天子様のお言葉も、古い時代は、口頭で言はれたが、奈良朝頃から、文書に書いてやられる事が行はれた。此を宣命といふ。此宣命が、飛鳥ノ宮の末頃からは、文書の形式が定まる様になり、天皇御即位の年の、春の初めには、必、宣命をお下しなされた。後になつて、御即位の式と、朝賀の式とが分れても、両方共に、仰せられるお言葉は、似たものである。

宮廷の儀式をみると、春の儀式と、即位式と沢山、似た処がある。昔から、即位式と、大嘗祭とは同じだ、といふ学者は、沢山ある。昔は必、同一な者であつたと思ふ。そして、此式が春行はれるものだ、と考へられる様になつた。

さて、春といふ語の本義が、不明である。草木の芽が発する事を「はる」といふ処から言ふのだ、と言はれて居るが、ほんとうの事は訣らぬ。其他、いろ/\と言はれて居るが、不明である。そして、春といふ用語例の、古い処も訣らぬ。何にしても、はるかす・はるく・はるなど考へて見ると、開けるといふ意味があるらしい。

今此処で、民間の春の行事からして、宮廷の春の行事を考へて見る事にする。俳句の歳事記を見ると、逆簑岡見といふ事がある。此は、大晦日の夜、簑を逆に着て、小高い所へ上つて四方を見ると、来年一年の村の吉凶・五穀の豊凶等、万事が見えるといふのである。此風習は、春の前に当つて、山の尾根伝ひに、村を祝福しに来た、神のあつた事を語るものである。

日本では、簑は、人間でないしるしに着るものである。処が、百姓は簑を着るが、此は、五月の神事の風習が便利だから、其神事の風を真似て了うたのである。すさのをの命は、千位置戸を負はせられて、爪をぬかれ、髪を抜かれ、涙も唾も痰も皆とられて、為方が無いから、青草を束ねて簑として、下つたと言うて居るし、奈良朝以前の風習と思ふが、簑を着て人の家に這入ると、這入つた人から、科料を取るといふ事もある。此は、簑は神の着るもので、神が来ると、祓へをしなければならぬから、其入費を科するのである。簑について神が来るので、簑を着て来る人から、入費をとるのである。今でも、民間には、人の家へ簑を着て行く時は、必、外でぬいで這入れ、というて居る。

又、前の岡見の話に還るが、高い山から、里に近い岡の上に神が来て、村人の為に、来年の様子を言うてくれた。此は、大晦日の夜から、明け方にかけてのことである。此風が替つて、今度は里人が神になつて、簑をきて、岡へ上つて行つた。こんな習慣が固定して出来たのである。神のやつてくれたのを、人間がやる様になり、神の祝福の語からして、人間がやつて見ても訣る、といふ風に変つて来たものである。

考へて見ると、ににぎの尊も、山の尾根伝ひに、降臨されて居る。一体、日本へ来られた神々は、皆高い所から、山の尾根伝ひに下つて来られて居る。此信仰上の事実が、今でも国々村々には、ざらに残つて居る。

処で、春といふのは、吾々の生活を原始的な状態に戻さうとする時であつて、其には、除夜の晩から初春にかけて、原始風な信仰行事が、繰り返される事になつて居る。つまり、原始時代に一度あつた事を毎年、春に繰り返すのである。古代の考へでは、暦も一年限りであつた。国の一番始めと、春とは同一である、との信仰である。此事からして、天子様が初春に仰せられる御言葉は、神代の昔、ににぎの尊が仰せられた言葉と、同一である。又、真床襲衾を被られ、其をはねのけて起たれた神事、そして、日の皇子となられた事など、其がつまり、代々の天子様が行はせられる、初春の行事の姿となつて居るのである。

     八

元旦の詔詞は、後には書かれて居るが、元は、天子様御自分で、口づから仰せ出されたものである。だからして、天子様の御言葉は、神の言葉と同一である。神の詞の伝達である。此言葉の事を祝詞ノリトといふ。今神主の唱へる祝詞は、此神の言葉を天子様が伝達する、といふ意味の変化したものである。

のるといふのは、上から下へ命令する事である。上から下へ言ひ下された言葉によつて、すべての行動は規定される。法・憲・制等の文字に相当する意義を持つて居る。祝詞は正式には、天ツ祝詞ノ太祝詞といふのである。のりとは、のりを発する場所の事で、神座の事である。而して、此神座で発する言葉が、祝詞である。「天つ祝詞の太祝詞ごと」とは、神秘な壮大崇高な場所で下された御言葉、といふ事である。此尊い神座の事を高御座といふ。

高御座とは、天上の日神の居られる場所と、同一な高い場所といふ意味である。だから、祝詞を唱へる所は、どこでも高御座となる。そんなら、御即位式の時に昇られる高御座は、何を意味するかといへば、前述の様に、天が下の神秘な場所、天上と同一な価値を持つて居る所、といふ意味である。天子様の領土の事を天が下、天子様の御家の事を天のみかどなどいふのは、天上の日の神の居られる処と、同一な価値を持つて居る処、といふ意味である。みかどといふ語が後には、天子様の版図の事にもなるのは、此意味であり、後には、天子様の事をも申し上げる様になつて来て居る。

高御座で下される詞は、天上のそれと全く同一となる。だから、地上は天上になる。天子様は、天上の神となる。かうして、時も、人も、所も、詞も、皆元へかへる。不思議な事に、天上にある土地の名が、其々地上にもある。天の安河原は、天上の土地の名であるが、近江の国にもある。天上に高市タケチがあるかと思へば、倭にも高市郡がある。天上から降つて来た土地だなどいふ伝説も、かうした信仰から出たのである。

天子様は、申すまでもなく、倭の神主であらせられて、神事が多い故に、常に御物忌みをせられなければならぬ。殆ど一年中祭りをして居らせられねばならぬ。此は、信濃の国の諏訪の神主に見ても知れる様に、年中祭りに忙殺されて居る。天子様は、日本中の神事の総元締めで、中々やりきれない。そこで、日本には中臣といふ御言詔持ミコトモチが出来た。此中臣は、天子様と群臣との中間に居て、天子様の御言葉を、群臣に伝達する職のものである。

それから、天子様と、神との中間に在るものを、中天皇ナカツスメラミコトといふ。万葉集には、中皇命と出してある。此中皇命の役に立つものは、多くは、皇女或は后などである。

中臣は主として、天子様の御言葉を伝達するのが、為事であつた。元来なら、天子様が申されるはずの祝詞をも、中臣が代理で申すのだ。だから後には、中臣の詞が、祝詞と云はれる事になつた。今ある祝詞は、平安朝の延喜年間に書きとられたものである。平安朝には、斯様に、固定して居たのであらう。其前には、常に詞章が変化して居た、と見るべきである。後には、中臣の家一軒に定まつて了ひ、且、次第に勢力を得て来た。此は御言葉伝達ミコトモチの職をつとめたからである。

今ある祝詞は、一般に古いものとされて居るが、実は古い種の上に、新しい表現法が加はつて居る。神代ながらのものは無い。奈良朝又は平安朝頃の手加減が加はつて居る。古い姿のまゝでは、訣らなかつたのである。時代々々で理会し易い様に、変へて了ふ。又、故意になさずとも、口伝の間に、自ら誤りが生ずる。祝詞の中では、何の事か訣らなくなつて、手のつけようのなかつたと思はれる部分が、古いものである。天つ神の言葉とされて居るのを、天子様が高御座で唱へられるのが、古い意味の祝詞である。中臣の手に移つてからは、祝詞の価値は下つて了うた。

奈良朝の少し前頃から、地方の神々が、朝廷から良い待遇を受けて居る。平安朝では、地方の神々に、位を授けて居る。朝廷の神は別として、それ以外の地方神は、精霊の成り上りで、天子様よりは、位が下の筈である。だから、天子様から位を授けられるのも、尤な事である。併し、位を授けられてからは、漸次地位が高くなつて来て、遂には天子様と同じ程の位のものにも考へられて来た。其で地方神に申される言葉が、対等の言葉づかひで申される様になつて来た。処が、伊勢の天照大神に対しては、天子様の方が、下位に立たれて居る。だから、天子様が伊勢の大神に申される御言葉は、元来寿言ヨゴトの性質のものである。だが、延喜式では、前者も後者も等しく、祝詞と称して居る。

かうした訣で、祝詞には、今日から見れば、種々の意味があるが、ほんとうは天子様が、高御座で仰せ出されるのが、祝詞である。祝詞の中では、春の初めのが、一番大切である。古くは、大嘗祭の後に、天子様の即位式があつた。昔は、即位式といつて、別にあつた訣ではない。真床襲衾からお出になられて、祝詞を唱へられると、即、春となるのである。

元来、大嘗祭と、即位式と、朝賀の式とは、一続きである。其間に於て、四方拝といふのは、元来は、天子様が高御座から、臣下や神に対して、お言葉を下される事を斥して、言うたのであつたが、後に、支那の道教の考への影響を受けて、天子四方を拝すといふ様になつて了うた。

     九

此処で大嘗祭に奏上される寿詞に就て言うて見る。

寿詞とは服従を誓ふ時に、即、自分の守り魂を奉る時に、唱へる言葉である。此は国々に伝はつて居る物語と、同様なものである。後には変化して、宮廷と自分等の氏々、又は、国々との関係の、初めを説く様になつた。其で、宮中に仕へて居る役人等は、自分の職業の本縁・来歴を説く物語を申し上げる。朝廷に直接に、仕へて居る役人のみでなく、地方官・豪族の首長、又、氏々の長なども、地方を又は、氏々を代表して、寿詞を申し上げる。此事は、近世まで、初春の行事に、其儀を留めて居る。一年に二度行はれたらしい様子も、盆の行事に、其名残りが見えて居る。今日民間でも、初春に「おめでたう」といふのは、おめでたく今年一年間いらせられまする様に、といふ寿詞の最大事な部分が、単純化されたものである。此を言ふのが、即、服従を誓ふ所以である。

処が、初代から、朝廷に仕へて来た人々の寿詞と、国々で申し上げる寿詞とは、性質が違うて居る。初代からのものは、自分の職業の神聖なる所以と、来歴とを説くし、国々のは、天子様に服従した来歴・関係を物語るのである。譬へば、天孫降臨の時に、ににぎの尊がつれて来られた、五ノ伴ノ緒の子孫等の申される寿詞は、古いものであるが、朝廷と国々との関係を申し上げる物語は、新しい寿詞である。此寿詞をば、大嘗祭・即位式・元旦此三つの場合に申されるのである。後には、春と大嘗祭との二度、代表者で、間に合せる事になつた。

元旦の朝賀の式に、天子様が祝詞を下される式は、奈良朝には既に、陰に隠れて了うて、群臣が寿詞を申し上げに出る式のみとなつた。此は、物部とか、蘇我とか、大伴とかいふ、高い氏の代表者が出て、申し上げるのであつた。処が、大嘗祭の時には、中臣氏が代表して、寿詞を申し上げるのである。即、自分の家の職業を申し、天寿を祝福して、百官を代表するのである。同時に、諸国の寿詞が奉られるが、此諸国の寿詞の話は、後に言ふ事にして、此処では、中臣の寿詞の話をする。
後世では、大嘗祭の第二日目の辰の日の卯の刻に、中臣ノ天神ノ寿詞を奏上する。天子様は、此より少しまへに、悠紀殿へ御出御になり、つゞいて皇太子・群臣が着座する。そこへ神祇官の中臣が、榊の枝を笏に取り添へて、南門から這入つて、定座に着いて、寿詞を申し上げる。即位式にも、全く此と同様な事を行ふ。此から見ても、即位式と大嘗祭とは同一であると言へる。

では、中臣ノ天神ノ寿詞とは何かといふと、全く中臣の寿詞で、天つ神の寿詞ではない。元来、この寿詞は、藤原頼長の台記の中に書きとられたのが、残つたものである。康治元年に、近衛天皇が、即位式を挙げられた時に用ゐられたのを、書きとつたものである。実に、偶然な幸ひであつた。

寿詞の大体の意味は、次の如くである。

中臣の遠つみ祖である処のあめのこやねの命、皇御孫尊にお仕へ申してあめのおしくもねの命をして、二上山に登らしめて、其処で、天神にお尋ね申さしめられるには、皇御孫尊に差し上げる御膳の水は、如何致したらよろしうございますか、と申された。すると、天神の教へ諭されるには、其は、人間界の水と、天上の水とを一処にして、差し上げねばならぬ。あめのおしくもねの命は又、お尋ねした。然らば、其を得るには、如何致したらよろしうございますか、と問ふと、天神は、玉串をお授けになつて、言はるゝ事に、此玉串を地上に立てゝ、夕日の時から、朝日の照り栄える時まで、天つ祝詞と太祝詞を申せ。かく申せば、その祝詞の効力に依つて、直に兆象が顕れる。そして若蒜が五百個、篁の如く生える。そこを掘つて見ると、天の八井が湧く。その水をとつて奉れ、と教へられた。だから、此をおあがりなさいませといふ。

つまり、中臣としての聖職の歴史を申し上げるのである。此縁故・来歴によつて、悠紀・主基の地方の米に、天つ水をまぜて、御飯を炊き、お酒をこしらへて、天皇に差し上げる。此をお召しあがりなされると、天子様は健康を増し、弥栄えに栄えられるのである。

中臣家は、水の事を司る家筋である。だから、天子様の御湯殿にも、仕へる。そこからして、后が出る事にもなる。つまり中臣は、水の魂を天子様に差し上げる聖職の家である。言ひ換へれば、中臣の家は、水の魂によつて生活して居る家筋である。其故、水の魂を、天子様に差し上げるといふ事は、自分の魂を差し上げる事になる。中臣は、群臣を代表して居るから、他の臣たちのも、此意味で、各々の家筋の魂を天子様に奉る事になる。昔は、神事と家系とは、切り離す事の出来ぬ、深い/\関係があつたのである。

譬へば、大伴家にしても、本来は、宮廷の御門を守つた家筋である。一体「伴」といふのは、何にてもあれ、宮廷に属して居るものをいふ語であつて、大伴は御門の番人である。記・紀を見ると、門の神をば、大苫部と言うて居る処がある。大苫部と大伴部とはおなじで、門をお預りして居る役人といふ事である。後世は、かういふ職の役人も増して来て、物部の家筋の者も、御門の番人となつて来た。そこで、門部の発達をも見る様になつた。平安朝では、大伴は単に、伴というて居る。

大嘗祭の時に、悠紀・主基の御殿の垣を守る為に、伴部の人と、門部の人とが出る。此は両者同一な役を勤めるが、元来は、異つた系統の者である。此等の御門の番人は、元来は或呪言を以て、外来の悪い魂を退けたのである。此等の家筋の頭をば、伴造と云ひ、其部下の者をば、伴部又は部曲というて居る。此頭即、伴造は、種々あるが、神主の地位に居たのであつた。神主たる職業を以て、天子様に仕へて居た。此者達が、後には官吏化して、近衛・衛門・兵衛等の職が出来た。此等は、大伴部・門部・物部等が、元来の家筋を離れて、官吏化して出来たものである。平安朝にはもう、むちやくちやになつて、庭掃きの者に至るまで「殿守の伴のみやつこ」などゝ言ふ様になつて了うた。だが、大嘗祭の時には、昔の形を復活して、大伴部・門部・物部等の人々の代表を、官人から任命して、御門警衛の任に用ゐられた。

     一〇

次には、大嘗祭の時の、御所の警衛の話をして見る。

一体、物部といふ語には、固有名詞としての意味と、普通名詞としての意味とがある。八十物部(八十武夫)といふ様に、此部に属する者は、沢山あつた。物部も、其中の一つである。広く言へば、魂を追ひ退けたり、ひつつけたりする処の部曲が、物部である。大伴が代表者となつたのは、大倭の魂を取り扱つたからである。大嘗祭の時に、物部の任務が重大視されるのも、此故である。物部氏が、本流は亡びたが、石イソノ上カミ氏が栄えてゐて、大嘗祭の時に、大切な御門の固めをした。門の処に、楯と矛とを樹てゝ、外敵を差し止める事をした。此楯を立てゝ、宮廷を守る事を歌つたのが、万葉集巻一に出てゐる。

健男マスラヲの鞆トモの音すなり。物部モノノフの大臣オホマヘツギミ楯立つらしも(元明天皇御製)

此歌に和せられたのが、

我が大君。物な思ほし。尊神スメガミのつぎて給へる君なけなくに(御名部皇女)

此御製は、大嘗祭の時に、物部の首長が、楯を立てる儀式をしてゐる様子を歌はれた、即興の歌である。和せられた方のは、天皇が何か考へて居られるを見てとつて「何もそんなに、お考へなさらずとも、いゝではありませんか。あなた様は、尊い神様が、順次にお立てになつた所の、尊い御方ですもの」との意である。

大嘗祭などの重大な儀式に当つて、楯を立てるのは、悪い魂が邪魔をすると、それを物部が追ひ払ふ為である。口では、呪言を唱へて、追ひ払ふ事をするが、具体的には、此楯を立てる。又、矛をも振り、弓をも鳴らす。かうして、宮廷の御門を固めるのみではなくて、海道四方の関所を固めた。日本の三関といはれて居る所の逢坂・不破・鈴鹿などは、何れも固められた。全く宮殿の御門を固めるのと同一な考へからやるのである。

さて、大嘗宮は、柴垣の中に、悠紀・主基の二殿を拵へてあつて、南北に門がある。天子様は、まづ悠紀殿へ出御なされて、其所の式をすませ、次に主基殿へお出でなされる。古来の習慣から見ると、悠紀殿が主で、主基殿は第二義の様である。すきは、次といふ意だと言はれて居る。悠紀のゆは斎む・いむなどの意のゆで、きは何か訣らぬ。そして、ゆき・すきとなぜ二つこしらへるのか、其も訣らぬ。だが、大体に於て、推定は出来る。

日本全国を二つに分けて、代表者として、二国を撰定し、其二国から、大嘗祭に必要な品物をすべて、持つて来させて、この二殿で、天子様が御祭りをなされる。昔は或は、宮廷の領分の国の数だけ、悠紀・主基に相当する御殿を建てたものかも知れぬ。そして、天子様が大きなお祭りをせられたのかも知れぬ。そして、此御祭りの中に、いろ/\の信仰行事が取り込まれて来て、天子様の復活祭をも行はれる様になつたのであらうと思ふ。

天子様は、悠紀・主基の二殿の中に、御蓐を設けられるのは、何時の頃からか、よく考へて見ると、何も左様な褥の設けられねばならぬ、といふ理由はない。悠紀殿・主基殿の二个所で、復活なされる必要はない。大嘗宮の外に、復活式をせられる場所がなければならぬ。悠紀殿・主基殿へ出御なさるのは、新嘗を御うけなされる為であらう。

大嘗祭の時には、廻立殿をお建てになるが、恐らく此が、天子様の御物忌みの為の御殿ではなかつたか、と考へられる。此宮でなされる復活の行事が、何時の間にか、悠紀・主基の両殿の方へも移つて行つて、幾度も此復活の式をなさる様になつたのであらう。次に、風俗と語部の話をして見たい。

     一一

昔は、大嘗祭の時には、ゆき・すき二国からして、風俗歌が奉られた。平安朝の頃は、其国の古歌を用ゐて居た。後には、其国から出た、古い歌人の歌を用ゐる事になつた。後には、都の歌人が代表して歌を作る様になつた。

此風俗歌は、短歌の形式であつて、国風クニフリの歌をいふのである。此国ふりの歌は、其国の寿詞に等しい内容と見てよろしい。国ふりのふりは、たまふりのふりで、国ふりの歌を奉るといふ事は、天子様に其国の魂を差し上げて、天寿を祝福し、合せて服従を誓ふ所以である。

ふりは、※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)にもいひ、歌にもいふ。ふりといふと、此二つを意味するのである。歌をうたつて居ると、天子様に、其歌の中の魂がつき、※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)を舞つて居ると、其※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)の中の魂が、天子様に附着する。諸国の稲の魂を、天子様に附着せしめる時に、※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)や歌をやる。すると、其稲の魂が、天子様の御身体に附着する。

此魂ふりの歌を、いつでも天子様に申し上げる。其が宮中に残つたのが、記紀のふりの歌である。今残つて居るのは、短い長歌の形をして居る。国風の歌の出発は、呪詞と同様に、諸国の寿詞中から、分裂して出来たもので、つまり、長い呪言中のえきすの部分である。長い物語即、呪言を唱へずとも、此部分だけ唱へると、効果が同様だ、といふ考へである。大嘗祭の歌は、平安朝になると、全く短歌の形になつてゐる。

大嘗祭には、かうして、ふりの歌が奉られて居るが、一方、卯の日の行事を見ると、諸国から、語部が出て来て、諸国の物語を申し上げて居る。平安朝には、七个国の語部が出て来て居る。

美濃  八人    丹波  二人    丹後  二人    但馬  七人
因幡  三人    出雲  四人    淡路  二人

皆で、廿八人である。昔から、此だけであつたかどうか、其は訣らぬ。又、此だけの国が、特別な関係があつての事か、其も訣らぬ。恐らく、或時に行はれた先例があつて、其に倣つて、やつた事であらう。其が又、一つの例を作つて、延喜式には、かう定まつて居たと考へればよい。平安朝以前には、此よりも多くの国々から出たのか、或は、此等の国々が、代表して出たのか、其辺の事もよく訣らぬ。

何処の国にも、語部の後と見るべきものはあるが、正しく其職は伝はらない。語部は、祝詞・寿詞を語るものゝ他に、歴史を語るものもある。奈良朝を中心として、一時は栄えたが、やがては、衰へて了うた。大嘗祭の時に出て来る語部は、ふりの歌の本縁を語るのである。歌には又※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)が附いて居るから、此歌の説明をすると、其由来の古さも感ぜられる。随つて、其歌の来歴も明らかになり、歴史づけられるのである。かうした訣で、大嘗祭には、語部は、歌の説明に来たのである。語部も、もう此辺になると、末期のもので、此から後は、どうなつたかよく訣らぬ。鎌倉や室町の頃になると、もう全く、わからなくなつててゐる。さて、国風の歌は奉らなくなつても、語部は出て来て居る。そして、風俗歌を出したのは、悠紀・主基二国だけである。

此国風の中で、一種特別なものが、東歌であつて、即すなはち東の風俗である。不思議な事に、此東の歌や※(「にんべん+舞」、第4水準2-3-4)は、大嘗祭には参加しない。此は、東の国は大嘗祭が固定して了うて後に、天子様の領分になつた国であるからである。東がまだ、日本の国と考へられないうちに、大嘗祭は、日本の生活古典として、固定して了うて居たのだ。吉野の国栖や、薩摩の隼人が歌を奏するのに、東だけがやらぬといふのは、東が新しく領土となつたといふ証拠である。平安朝になつてから、何かの機会にやつと、宮中に奉られたのである。尤此より先に、万葉集には既に、東歌が採られて居る。古今集には、勿論ある。そして東遊び(寿楽)も、宮中へ這入つて居る。此は、何かの儀式の時に、東歌や、東遊びが、宮中で行はれ出したのに違ひない。

東歌が、どんな時に、宮中に這入つたか、略目当てはつく。此は、東の諸国から、荷前の使が行く時に、宮廷で奏したのであらう。即、東の国の稲の魂を持つて行つて、服従を誓うた時の歌が、東歌である。只、大嘗祭が行はれる時期と、東の国で、荷前を奉る時期とが、合つて居た為であらう。

平安朝に入つてから、風俗といへば、主として、悠紀・主基二国のものと考へられては居るが、其は、此二地方が注意にのぼり易く、且繰り返される場合が、多かつた為である。だが、東遊中の風俗歌は、主として、東の国のものが残つて居る処を見ると、風俗といふのは、何も悠紀・主基二国のものと限つて居つたわけでもない。寧、風俗歌は、東が主だと信ぜられて居つたと思はれる。

悠紀・主基の国では、稲穂を中心として、すべての行事が行はれる。稲穂は、神様の取り扱ひを受けて居る。其役員には、男・女共に定められる。女の方では、郡領の娘が造酒子サカツコに定められる。造酒子サカツコは、地位の高い巫女である。男の方は、稲実の君が定められる。此で、酒と米との役人が出来た訣である。――昔の考へでは、酒と米との間に、劃然とした区別はなかつた――それから、造酒子サカツコの下には、酒波さかなみが一人、篩粉コフルヒが一人、共造アヒツクリが二人、多明ためつ酒波が一人あるが、此等は皆、酒に関する巫女である。男子の方は、稲実の君の外に、灰焼一人、採薪四人が定められる。猶、歌女二十人、其他、いろ/\の役割りが定められる。然も、酒の事に仕へるのみかと思ふと、さうではない。山へ行つて、薪や御用の木を伐る時に、一番先に斧を入れたり、又野原へいつて、御用の茅を刈るのも、造酒子サカツコの為事であつた。

此人々は、時期が来ると、稲を積んで都へ上り、土地を選んで、そこへ斎庭を作る。後世は大抵、北野につくられた。そして大嘗祭の前に、大嘗宮へ運んで来る。つまり、此等の人々は、稲の魂を守つて都へ上り、其で酒もこしらへ、御飯も焚きして、其を天子様の御身体に入れる、といふ信仰上の行事を行うた。

稲の魂は、神の考へが生ずる、一時代前の考へ方である。外来魂の考へである。此魂を身につけると、健康になり、農業に関する、すべての権力を得ることにもなる。大嘗祭の中へ、稲穂を入れる時には、警蹕の声をかける。警蹕は、神又は天子様の時でないと、かけない。そして、警蹕のかけ方で、何処の国、何処の誰といふ事が訣つた位である。

警蹕の意味は「尊い神が来た。悪い者よ。そこをどけ」といふ事である。此で見ても、稲穂が大切な尊いものであつた事が知れる。此稲魂の事をば、うかのみたまといふ。うかはうけで、召食メシアガリものといふ事で、酒の方に近い語である。

悠紀・主基の二个国は、何時頃から定められたか訣らぬが、近代は、亀卜で定められる。昔は、何かの方法があつたのであらう。延喜式で見ても、御幣について上る国を以て、其とする様だ。これを国郡卜定と言うて居る。だが、悠紀・主基の国といふのは、大抵、朝廷の近くの国である。そして、東は悠紀・西は主基とされる。御殿もやはり、此様にこしらへる。つまり、大倭朝廷を中心として、其進路の前後を示したのであらう。或は、往き・過ぎの意かも知れぬ。ともかく、悠紀は大和の東南、主基は西北に当つて居る。此二国が定まる前は、新嘗屋が沢山造られて、其をば、天子様は一々廻つて御覧なされた事と思ふ。

悠紀殿・主基殿は、おなじ囲ひの中にあつて、両殿の界は、目隠しだけである。後世は、立蔀を立てゝ拵へられた。立蔀というても、椎の青葉で立てられたもので、此は、昔の青柴垣の形である。南北に御門がある。御殿は、黒木を用ゐる。黒木といふのは、今考へる様に、皮のついたまゝの木といふ事ではなくて、皮をむいて、火に焼いた木の事である。かうすると、強いのである。昔は京都の近くの八瀬の里から、宮殿の材木を奉つた。此を八瀬の黒木というた。後世には、売り物として、市へも出した。此黒木を出すのが、八瀬の人々の職業であつた。とにかく、此は、神秘な山人の奉る木で、此の黒木で造つた御殿の周囲に、青柴垣を拵へたのである。

かうして、尊いお方の御殿を拵へるのに、青柴垣を以てした事は、垂仁記のほむちわけの命の話にも見えて居る。

故、出雲に到りまして、大神を拝み訖ヲへて、還りのぼります時に、肥河の中に黒樔橋クロキノスバシを作り、仮宮を仕へ奉りて、坐マさしめき。こゝに、出雲国造の祖、名は岐比佐都美キヒサツミ、青葉ノ山を餝カザりて、其河下に立てゝ、大御食献らんとする時に、其子詔りたまひつらく、此川下に、青葉の山なせるは、山と見えて、山にあらず。若ケタシ、出雲の石※イハクマ[#「石+囘」、209-14]の曾宮ソノミヤに坐す、葦原色許男アシハラシコヲ大神を以て斎イツく祝ハフリが、大庭か、と問ひ賜ひき。こゝに、御伴につかはさえたる王等、聞き歓び、見喜びて、御子をば、檳榔アヂマサの長穂の宮に坐マせまつりて、駅使を貢上りき。

此話は、ほむちわけの命をして、青葉の山を拵へて、国造の岐比佐都美がお迎へしようとしたのである。即、青葉の山は、尊いお方をお迎へする時の御殿に当るもので、恐らく大嘗祭の青葉の垣と、関係のあるものであらう。かの大嘗祭の垣に、椎の若葉を挿すのも、神迎への様式であらう。尊い天つ神にも、天子様にも、かうするのである。

此、青葉の垣は、北野の斎場では、標の山として立てられる。此は平安朝にはへうのやまと発音されて居るが、其は誤つて音読したからである。本来はしめのやまで、神のしめる標シルシの山といふ事である。神様を此標の山に乗せて、北野から引いて来て、悠紀・主基の御宮にお据ゑ申す。標の山は神の目じるしとしてのものである。だが後には此標の山は、どうなつて了うたかわからぬ。

併し、此標の山の形のものは、近世まで、祭りの時は引き出す。屋台とか、山車ダシとか、お船とかいふ様なものは、此標の山の名残りの形と見る事が出来る。松本の青山様も、此様式のものであらう。

先に引いた垂仁記のは、古い形のものであらう。此が常に、尊い神や、人をお迎へする時に造られたのであつて、大嘗祭にも注意せられたのである。後世、祭りとして、一番「標の山」が用ゐられたのは、夏祭りの標本なる、祇園の祭りである。祇園祭りといふのは、ほんとうは、田植ゑのさなぶりの祭りで、田の神に振舞ひをする祭りであつて、本来は農村の祭りであつた。其が、だん/\と農村から出て、道教の考へと一処になり、怨霊の祟りの考へと一つになつて、御霊の信仰が強くなつた。京都などでは、殊に此考へが盛んになつて、五个処に御霊様を祀つて、御霊会を行ひ、神を慰め、悪事をやめて貰つたのである。こんな風で、後には、悪い事を防ぐ神と信じられて来て、其が仏教と習合して、牛頭天王様であると考へて来たのである。そして、其牛頭天王の垂跡が、すさのをの命だといふ様になつた。すさのをの命は、農業の神だから、直に一処にして了うたのだ。此時も「山」を出し、其山を中心として、祭りを行ふのである。こんな風で、後には、夏祭りには、鉾や山が行はれるやうになつた。

次に天子様の御禊の話をして見る。

     一二

大嘗祭の用意として、十一月は全体、物忌みの月である。これを散斎と言うて居る。其中で、大嘗祭の前二日と、其当日とをば、殊に、致斎と呼ぶ。散斎は割合に自由な物忌みといふ事で、穢れた事や、神事上の絆れた問題には与らない、といふ程の意味である。致斎の方は、昔は絶対な物忌みであつたらうが、令の規定以来、少しく軽くなり、十月の末日と定められて、山城の京都では、加茂川の某地点で、御禊を行はせられた。かうした御禊は、伊勢の斎宮・加茂の斎院を定められる時も、予めなされる。天子様・斎宮・斎院の御禊は、同一な格式でなされる。平安朝になると、音読してごけいと言うて居るが、古くは、みそぎと言うて居る。

此所で、少しく、みそぎ(禊)とはらへ(祓)との区別をいうて見る事にする。
祓へといふのは、穢れ又は、慎しむべき事を冒した場合、又は彼方からして、穢れや慎しむべき事がやつて来て、此方に触れた時に、其を贖ふ為に、自分の持つて居るものを提供して、其穢れを祓ふ事である。神は、此贖ひ物を受けて、其穢れを清めて呉れるのである。元来、祓へは、神事に与る人が、左様にして呉れるから、他動風なものである。自分からするのならはらひであるが、はらへと他動風に昔からいうて居る。

次に、みそぎといふのは、神事に与る為の用意として、予め、身心を浄めておくことである。家でも、神の来べき時には浄める。謂はゞ、みそぎは、家でも身体でも、神に接する為の資格を得る方法である。後世の神道家は、吉事祓へ・悪事祓へと対照して言ふが、元来、吉事に祓へはない筈である。吉事をまつため、迎ふる為の行事は、禊ぎである。其に対して、祓へは悪事を前提として行はれるものである。謂はゞ、祓へは後世の刑罰に当るものである。

宮廷で大祓へというて居られるのは、実は禊ぎであつて、平安朝の初期から、間違うて居る。だが、まづ罪といふ事を考へて見る。大祓へのうちに、祓ふべき罪・穢れ即、神に対して、慎しむべき事を罪といふ。其中で「天つ罪」といふのは、天上の罪といふ事で、普通にはすさのをの尊が、天上で冒した罪を斥していふ。それから此国で慎しまねばならぬ罪を「国つ罪」といふ。国つ罪の中には、勿論慎しまなければならぬ事のあるのは勿論だが、又さうでなく、何でも無い様なのがある。譬へば、這ふ虫の禍罪ワザハヒ・たかつどりの禍、かういふのがある。此は、鳥や蛇が家に這入つて来たのは、此家が、神の家になつたといふ標で、其故に慎しまねばならぬ、といふ意味である。

奈良朝の頃でも、此禊ぎと祓へとを混用して、両方とも慎しみ、と考へて居る。祓へは、贖罪として、祭りの費用を出す行事であるし、禊ぎはよい事を待ち迎へる為に、予め家又は、身心を清浄に、美しくする行事である。

日本古来の信仰からいふと、一度呪言を唱へると、何でも新しくなる。それで、新嘗祭の新室も、一言呪言を唱へて、其で、新室と信じきつて居つた。其事が、大嘗祭にも行はれ、また米を食べる神今食の時にも行はれる。其を宮廷では、大殿祭といふ。此は、祭りの行はれる前の日の夜明け方に、仮装した神人が、宮廷を浄めて廻る。家を浄める為である。そして其後で、祭りが行はれる。此清浄になつた家、即大殿へ、神様がお出でになると、天子様は御一処に、此処で御飯をおあがりなされる。凡て神様の来られるお祭りは、神様に振舞ふといふ事が、行事の中心になつて居るものである。

大殿祭は、大嘗祭の時にもあるのであるが、此は、悠紀殿・主基殿が出来ると、直に早く行はれる故に、隠れて見えないのである。此大殿祭の間、天子様は御身浄めの為に、御湯殿へ御這入りになつて居られる。つまり、天子様は、禊ぎをして居られる訣である。

神の祭りの時に、一番初めに出て来る人は、御馳走を享けられる神ではなくて、御殿を浄める為の神人である。此浄めの為に来る人々を、平安朝の考へでは、山人だとされて居る。山人は、山の神に仕へる神人である。本来は山の神が自ら来て、御殿を清めて呉れた、と考へて居るのである。此清浄にされた御殿へ客人神マレビトカミが来て、天子様と御一処に、御飯を召し上るのである。此御殿を清める時の詞を、延喜式によれば、大殿祭祝詞というて居る。

ほかひといふのは、祝福すること、又は其詞、或は動作などをくるめていふのである。此言葉を祝詞というたのは、平安朝の事で、元来は鎮詞イハヒゴト、又は鎮護詞イハヒゴトなどゝいふべき詞である。其語の性質から見ても、仲間の親分が、子分に申し聞かせ、又は相談する様な物言ひぶりである。「かうだから、お互ひに、かうしようぞ」といふ意味が、主要な部分である。上から下への、のるではない。
かうして見ると、山の神は、土地の精霊の代理者で、同じ仲間の者同志である、其精霊の代理者が、精霊を鎮まらせるのである。さて、此いはひごとが済んだ後で、本式な祭りが行はれるのである。

大嘗祭の時は、大殿祭は既に済んで居るので、卯の日には、其行事が見えないが、お湯へお這入りになる事は、屡行はれる。本来は、此湯へ這入つて居られる時に於て、一方では、御殿のほかひが行はれて居るのである。大嘗宮は、紫宸殿の前で、南に建てられる。東には廻立殿が造られる。そして、紫宸殿から廻立殿への出御は、廊下を渡つてなされる。

廻立殿といふのは、悠紀・主基両殿へお出でになる御用意の為に、設けられた御殿で、いはゞ祭事の為に、お籠りになる御殿である。

此御殿の名称が、何の故に廻立殿とよばれるか、其は訣らぬ。そして、此廻立殿の御儀式は、外部からは、一切訣らぬものにされて居る。廻立殿は、東西五間、南北三間の御殿である。西側三間を、天子様の居られる所とし、東側二間は、竹の簀子にしてある。此所が、茶の湯所となつて居るが、なにか、忌斎の場所らしい。天子様は、大嘗祭の卯の日の儀式にも、始終、この廻立殿へ出御なされる。そして、御湯をお使ひなされる。此処で、此お湯のお話をする事にする。

     一三

湯は斎ユに通ずる音で、古く湯といつたのが、果して、今の吾々の云ふ所の温いものかどうか、一寸疑問である。斎川水といふ事もあつて、此は、天子様の御身体をお浄めになる水で、用水でも、池でも、泉でも、何でも左様にいふのである。だから、斎川といふのは、御禊に使ふ水をいふ事である。此斎川水が段々と変化して、終には湯にまでなつた、と見るべきである。

日本の古い信仰では、初春には、温い水が遠い国から、此国土へ湧き流れて来る、と信じて居つた。そして事実、日本には温泉が多い。こんな事からして、いづる湯についても、神秘な考へを持つて居つた。温泉は、常世の国から、地下を通つて来た温い水で、禊ぎには理想的なもので、そこで、斎川水ユカハミヅとして尊重されたものである。又さうでなくとも、斎川水は温いと信じて居つた。こんな風な信仰から、禊ぎには、温い水を用ゐる様になつた。だから古い書物に、湯とあつても、其は、今日の吾々の考へて居る温湯である、と直ぐに、極めつける事は出来ぬ。

藤原の宮から奈良・飛鳥の宮にかけては、天子様が時々、湯に行かれたり、温泉を求められたりした事が、記・紀・万葉集などには、非常に多く出てゐる。此温泉へ旅行せられるのは、今日の吾々の様に、たゞの遊山や避暑ではなく、御禊の信仰の考へから見ねばならぬ。とにかく、以上いうた様な信仰から、宮廷の斎川水の考へは、温い湯と変つたので、又其を直にゆと申す事になつた。此湯に這入られると、尊い方となられるのである。日本にある処の、天の羽衣伝説は、此禊ぎと深い関係を持つて居る話である。天上から降つた処女が、天の羽衣を脱いで、湯に這入つたら、人間になつてしまつた。又、天の羽衣を奪ふと、人間になる。かういふ筋の話は沢山あるが、此天女の羽衣の話の源をなすものは、丹波の天の真名井マナヰの、七人の天つ処女の伝説である。

天の真名井の話で見ると、七人の天女の中で、羽衣を奪はれた一人の娘が、後には、伊勢の外宮の豊受大神となられた。此七人の天つ処女の縁故で、丹波からは、八処女が、宮廷へも、伊勢へも出て来て、禊ぎの事に奉仕する。不思議なのは、禊ぎに奉仕する処女が、其尊い方の后となられる、習慣の見えて居ることである。だから、或時期の間は、丹波氏の娘が、宮廷へ仕へて、后となつて居る。さうでなくとも、丹波氏の娘の形式をとつて、后となつて居る。

先に申した所の、天の羽衣を脱いだから人間になつて了うた、といふのは誤りで、脱げば、物忌みから解放されたのだから、神人とならねばならぬ筈だ。御禊をせられた尊い方は神であり、羽衣をぬがれた処女は、或任務を果たす為の、巫女である。巫女は神に仕へる、最高な女である。

此処で、話をずつと、後世へ引き下げて言うて見る。汚い話のやうであるが、今より二百年前までは、御湯へ這入る時に、湯具・褌などは、締めたまゝ這入つた。ほんとうは、湯に行く時は、褌を二筋持つて行つた。一筋は締めて居り、一筋は這入る時に締め換へて這入る為の用意である。何の為に、締め換へて這入るのか。此は、陰所を見せては恥づかしい、といふ考へからでは、決してない。

元来、褌即、下紐は、物忌みの為のものである。民間では、褌をするのは、一人前の男になつた時のしるしだと言はれて居る。十五歳になると、褌を締めて、若衆宿へ仲間入りの挨拶に行く。此行事の事を、袴着というて居る。此が、女の方だと、裳着といふ。正式には、男女共に、二回ある筈だ。

第一回は、村の子どもとなる為で、五六歳頃にやる。平安朝頃の貴族たちの仲間でも、やかましく行はれた。源氏物語など見ても、書いてある。次のは、をとこ・をとめになる為の行事としてゞある。我々は、二度の行事をすまさぬと、一人前の男女には、なれなかつたのである。今日では略して、一回だけしか行はぬが、ほんとうは、二回あつた。第一回の時には、お宮参詣マヰリをして、それで子どもになつて、村の小さな神に仕へる資格を得る。子どもが、道祖神のお祭りをするのは、何処にでもある。二回目がすむと、村の産土の神に仕へる資格を得る。此二度の袴着を終つたものを、をとこ・をとめといふ。ふんどしはじめ・ゆもじはじめがすむと、立派な一人前の男女になる。だから、一人前の男女になつてから、初めて褌を締める、ゆもじをするといふのではない。男女になる前提の行事として、此事が行はれるのである。

此物忌みの褌を締めて居る間は、極端なる禁欲生活をせねばならぬ。禁欲というても、今日の我々の考へる様な、鍛錬風な生活ではない。神秘なる霊力をして発散させぬ為の禁欲である。処が或期間、禁欲生活をすると、解放の時が来る。すると、極めて自由になる。此処で初めて、性の解放がある。さうして、此紐を解いて、物忌みから解放されるのが、湯の中である。即、斎川水ユカハミヅの中である。天子様の場合には此湯の中の行事の、一切の御用をつとめるのが、処女である。天の羽衣をおぬがせ申し上げるのが、処女の為事なのである。そして羽衣をおとりのけなさると、ほんとうの霊力を具へた、尊いお方となる。解放されて、初めて、神格が生ずるのである。

昔から、湯の信仰に就ては、わりあひに考へられて居なかつたが、今考へて見ると、不思議な事が多い。譬へば、御湯殿腹などいふ子どもゝある。そして、お湯殿腹の子、というて重んぜられた、傾向がある。さうかと思ふと、又、垢掻き女に子どもが出来るのは当然だ、とも云はれて居る。此等の事は、日本の昔の産湯の話をして見ると、判然として来る。

一体昔は、今の世の乳母の役をする者が、四人あつた。大湯坐オホユヱ・若湯坐ワカユヱ・飯嚼イヒガミ・乳母である。此大湯坐は、主として、産児に産湯をつかはせる役目をする者、つまり湯の中へ、御子をお据ゑ申す役目なのである。若湯坐も同様である。乳母は、乳をのませる者、飯がみは、飯や食物を嚼んで、口うつしに呉れる者である。

まづ御子が産れると、其御子をば、豪族に附托して、養育せしめる。昔でいふと、其家筋を壬生氏といふ。壬生氏は、壬生部といふ団体の宰領である。

此話で名高いのは、反正天皇がお産れになつた時、天皇の為に、河内の丹比氏が、壬生部となつて、御育て申し上げた。其で、丹比の壬生部氏といふのである。御子が生れると、此氏の者の中から、四人の養育係が選定せられる。前にいうた所の、大湯坐・若湯坐は、高い身分の者から出る。大湯坐はつまり、水の神として、禊ぎの御世話をする役目である。御子がお産れになつた時に行はれるのが、第一回の禊ぎである。

此禊ぎをおさせ申して居る一方に於て、氏の上は、天つ寿詞を申して居る。水の魂をして、天子様となるべき尊いお方におつけ申すのだ。水中の女神が出て来て、お子様のお身体に、水の魂をおつけ申して、お育て申す儀式である。だから、壬生部の事を、入部ニフベとも書いて居る。「入」は水に潜る事であつて、水中に這入る事である。それから、大湯坐は主で、若湯坐は附き添への役である。

此第一回の禊ぎの形を、天子様は、毎年初春におやりなされる。生れ替つて、復活する、といふ信仰である。大湯坐は、年をとつた女で、若湯坐は、年の若い者がつとめる。それから事実に徴して見ると、大湯坐は、天子様の后となるし、若湯坐は、皇子の后となる傾きが見えて居る。飛鳥以前の后は、天子様の御家の禊ぎの行事に、奉仕した女がなつた。丹比氏は、元来禊ぎの事を司つた家筋で、宮廷及び伊勢のお宮へ、八処女を奉つて居る。此八処女は、五節の舞姫に関係があるが、其事は後に言ふ事にする。

     一四

日本の昔の語に、天つ罪・国つ罪といふ並立した語のある事は、前に述べた。其天つ罪とは、すさのをの命が、天上で犯された罪で、其罪が此国土にも伝はつて、すべて農業に関する罪とされて居る。つまり、田のなり物を邪魔するのが、此国でいふ処の天つ罪である、とされて居る。だが今では、罪といふ語が、余りに新しい意味の罪悪観念に這入り過ぎて居る様である。天つゝみのつみの語原は、他に無くてはならぬ。

万葉集を見ると、雨障・霖禁・霖忌など書いて、あまつゝみとよませて居る。

あまつゝみ常する君は、久方の きのふの雨に こりにけんかも(巻四)

此歌は、いつも雨つゝみをしてゐるあなたは、昨日の雨で外出が出来ずに、懲りた事でせう、といふ意だとされて居るが、実は男、女の禁欲生活をして居る意味の罪である。

猶、此事を考へるのに、手がゝりとなるのは、景行記に見える次の話である。景行天皇が、美濃の国造の祖神、大根王の娘、兄媛・弟媛を、皇子大碓命をして召し上げさせられた時、大碓命は、媛二人を我ものとしてしまひ、他の娘を奉つた。そこで、天子様はお憤りなされて「つねに、長眼ナガメを経ヘしめ、又婚メしもせず、惚モノオモはしめたまひき」とある。普通には、此ながめのめは男女相合ふ機会の事を言ふから、其間を長く経る事をば、長目を経るといふのだとしてゐる。だが、此ながめは、霖禁に関係がありさうだ。

さて、此ながめ・ながむといふ言葉の意味は、平安朝頃になると、「ぼんやりして何も思はず」といふ位な風になつて居る。もう一つ伊勢物語の例を挙げると、

起きもせず、寝もせで夜をあかしては、春のものとて、ながめくらしつ

此等のながめは長雨で、長雨のふりつゞ頃の、物忌みから出た言葉であらうと思はれる。長雨の物忌み、即、雨のふりつゞくころの、慎しみから出た言葉であらうと思ふ。

かうして考へて来ると、天つ罪は、天上の罪ではない。本義は、五月の田植ゑ時の慎しみ、即、雨つゝみ(雨障・霖禁)である。今でも、処によると、田植ゑ時に夫婦共寝せぬ地方がある。田植ゑの頃は、一年中で一番、長雨のふりつゞく時期であつて、此間は、村の男女は、すつかりと神事関係になつて了うて、男は神、女は巫女となるのである。

四月の頃、女は山に籠つて成女戒を受け、躑躅の花をかざして下りて来て、今年の早処女をつとめる。此は、田植ゑの神事に与る巫女の資格で、田植ゑの終るまで処女の生活をする。此処で考ふべきは、処女生活といふ事であるが、此には三通りあつた。一つはほんとうの処女、此はまだ男を持つた事のない女(一)。次に或期間のみ男に逢はぬ女、即、或期間だけ処女生活をする女(二)。次は床退サりをした女、即、或年齢に達すると、女は夫を去つて、処女生活に入る信仰があつたが、さういふ様な女(三)。此床退りの女は、其以後の生活は、神に仕へるのである。後世のお室様といふのは、此の事をいふのだ。平安朝には床退りした女は、尼となつて仏事に入り、処女生活をしたのである。

さて女は、五月の田植ゑの済むまでは、男を近づけない。男の方でも女に触れない。此期間は男女共に、袴や裳に標を附けて、会ふ事をしない。此間の事をながめをふるといふのである。一軒の家に同居して居ても、会はない。前の、景行天皇の話の、媛をして、長眼を経しめたまふといふのは、媛にお顔を見せながら、霖雨中放つて置いて、性欲的の苦しみをなさしめたといふ事である。其が固定してながめとなり、性欲的な憂鬱からして、ぼんやりして居る事を表す語になつたのである。

平安朝になつてからのながめは、美しい意味に替つて来て了うたので、根本は、性欲的の憂鬱の状態を言ひ表す語である。

五月の物忌みが雨つゝみで、此が天つ罪となるには、すさのをの命が元来、田の神で、其犯された罪を一処にして了うたのだ。すさのをの命は、仏教では牛頭天王にされて居る。悪い方の田の神である。其悪い方の田の神を祀つて、いたづらせぬ様に守つてもらふ所から出た、信仰である。悪い神も祀られると、よい事をするといふ考へ方である。さて、此すさのをの命に対する慎しみが、天つ罪である。其がちようど雨の時の慎しみと、同じ時期に当つて居る。

神は普通には、夜出現するが、田植ゑ時には、昼間出て来る。夏祭り神事の中心は、昼間行はれる。昼間、田を植ゑて居ると、神が来て田を囃してくれる。後世では、田植ゑの前後にのみ囃しをするが、本来は植ゑて居る最中に、囃すのである。後には、囃す田も固定して、はやし田といふ名も出て来て居る。又、田植ゑの初めに囃して、其で、後やらぬ様になつた所もある。此囃しに来る神は、仮装して出て来る。此仮装がやがて、田舞ひを生む。そして田舞ひが、猿楽と合体して、田楽が出来る。男女共に顔を隠して、神の形になつて居る。五月の田植ゑの時は、昼は勿論、夜も神が廻つて歩いて居るから、男女相逢ふことは出来ぬ。だが、さなぶりの時から自由になつて、男女の語ひは許される。

此所で、不思議な誤解が一つある。其は神事が始まれば、物忌みは無い訣であるが、其がある事である。播磨風土記を見ると、田植ゑ女を大勢でかまつて、隠し所を断ち切つたといふ話がある。だから、雨つゝみといふのは、田植ゑの始まる前の、物忌みである事が知れる。其が、いつか田植ゑの済むまで続くものだ、と考へられて来たのである。此は、男の資格を得る為の褌が、いつか褌するのが男の資格だ、と考へられて来たのと、同一である。

ふんどしは、ふもだし・ほだし・しりがひ・おもがひ・とりがひなどゝ同一なもので、又たぶさき・たぶさくなどいふ語も、同一である。たぶさくとは、またふさぐといふ事で、着物の後の方の裾を、股をくゞらして前の方に引き上げて、猿股みたいにする事で、子どもの遊戯にも、今日は廿五日の尻たくり、といつて、此形をする。元来は、人間のふんどしも、馬のふもだしも同一任務のもので、或霊力を発散させぬやうに、制御しておくものである。そして、物忌みの期間が済むと、取り避けるものである。事実朝廷の行事に見ても、物忌みの後、湯殿の中で、天の羽衣をとり外して、そこで神格を得て自由になられ、性欲も解放されて、女に触れても、穢れではない様になられる。

先にもいうたが、大湯坐・若湯坐などが、御子を育てゝ行く間に、湯の中で、若い御子の着物をとりさけて、まづ其御子に触れられるのは、若湯坐である。大湯坐は、前述の如く、御子の父君につかへる。

此みづのをひもを解くと同時に、ほんとうの神格になる。そして、第一に媾あはれるのが、此紐をといた女である。さうして、其人が后になるのである。だが此事は、もう奈良の頃は忘れられて了ひ、此行事以後、御子を育てる所の、乳母の役になつた。さうして、若い乳母即、子守りである人が、お育て申した方の妻となる。其証拠は、うがやふきあへずの尊が、御叔母玉依姫と御夫婦になられた、とあるのをみても訣る。元来、めのとといふ言葉は、妻の弟といふ事で、乳母の弟が、妻になつた事を意味してゐるのである。

不思議な事に、后になられる御方は、水の神の娘、又は水の神に関係の深い女である。かの丹波氏の家筋も、水の神に深い関係を持つて居る。世が下つてからは、丹波氏の資格を以て、藤原氏が禊ぎを司る事になり、其家から后が出た。

一体御湯殿は、平常でも、非常に重ぜられて居た。「御湯殿の上の日記」も、平安朝からのものではあらうが、女の手になつたもので、断篇ながら、参考にはなる。此で見ても、湯棚・湯桁は、神秘な行事の行はれた所である事が、察せられるのである。即、湯棚には天子様の瑞ミヅの緒紐ヲヒモを解く女が居て、天子様の天の羽衣、即ふもだしを解くのである。

話を元へ戻して、大嘗祭第一回に天子様が湯へお這入りになるのは、紫宸殿の近くで行はれるのかと思ふが、正式には廻立殿で行はれたのである。平安朝には既に、行はれなくなつて了うたらうが、太古は必、行はれたのである。此問題は、天の羽衣の話と関係がある。天人の話の天の羽衣と同一で、飛行の衣とする話は、逆に考へられて了うたからである。天子様の、天の羽衣をおぬがせ申し奉るのが、八処女のすべき勤めである。今では、廻立殿から大嘗宮へ行く道に敷かれてある布の事を、天の羽衣と称へて居るが、其は何かの間違ひである。或は、羽衣ではなくて、葉莚ハゴモといふのであらう。此は、延喜式にも、見えて居る。葉莚は、天子様が、お通りなされる時に敷いて、通られると、直に後から巻いて行くものである。其を今では、新しく道を拵へた形であると言うて居る。一寸合理風でほんとうらしいが、やはり誤りである。

天子様はかくして、悠紀殿・主基殿へ行かれるが、其間に、折々お湯にお這入りになられる。とにかく、日本の后の出る根本は、水の神の女で、御子をして、神秘な者にする為事を、司る所から出て居るのである。
次に直会の事をいうて見る。

     一五

直会は、直り合ふ事だと云はれて居るが、字は当て字で、当てになるまい。元来なほるといふ語は、直日の神の「直」と関係のある語で、間違ひのあつた時に、匡正してくれる神が、直日の神だから、延喜式にある所の、天子様の食事の時につかへる最姫・次姫の事から考へて見ねばならぬ。天子様が食事をせられる時に、此最姫・次姫は「とがありともなほびたまへ……」といふ呪言を唱へる。此は、よし、手落ちがあつたとしても、天子様の召し上り物には間違ひのない様に、といふ意味のとなへ言である。普通には、座をかへてものする時に、なほると言うて居る。此は或は、二度食事をする事から出た解釈かも知れぬ。大嘗祭の行事に見ても、一度食事をせられてから、座を易へて、もう一度、自由な態度でお召し上りなされる。此が直らひの式である。つまり、ゆつたりと寛いだ式である。そして、其席上へ出る神も亦、直日の神と言はれて居る。平安朝に入つてからは、直日の神といふのは、宴会の神、又は遊芸の神となつて居るのも、此考へから出たのである。

大嘗祭の直会の時には、大和舞ひが行はれ、田舞ひが行はれ、舞姫の舞ひも行はれる。そして、すべての人は、今までの厳重な物忌みから、開放される。直会ナホラヒは、一口に言へば、精進落ちともいへる。だが、精進とは、仏教の考へから、魚を食はぬ事を斥していふが、本来は、禁欲生活・物忌み生活を言うた語である。
昔は、正式な祭りが済んでも、猶、神が居られた。そして、祭りの後で、豊かな気分で宴席に臨んで、くだけた饗応を享けて帰られたのである。肆宴トヨノアカリ(豊明楽)といふのは、此行事をいふのである。とよのあかりとは、酒を飲んで、真赤な顔になるからだといふが、ほんとうは、よく訣らぬ。ともかく、とよのあかりのうちに、神を満足させて帰す、といふのが本義であらう。

大嘗祭に来られる神は、どんなお方か、よく訣らぬ。天子様は、神を招く主人でいらつしやると同時に、饗宴をなされる神である。つまり、客であり、又神主でもある。神の為事を行ふ人であると同時に、神その者でもある。だから、極点は解らぬ。結局、お一人でお二役つとめなされる様なものである。

他の家々でいふと、新嘗祭の時には、主人よりも格式の上の人を招いて、客になつてもらふ。此は其昔、尊い神が来られた形を見せて居るのである。

次に、五節の舞ひの話をして見る。五節といふのは、五節イツヨの舞ひを舞うたから言うたのではあるまいか。五節イツヨの舞ひは、天子様の寿命を祝福する舞ひで、天子様の禊ぎの時に、竹で御身の丈を計つて、御身の長さだけの処へ標シルシをつける。此を節折ヨヲリと言ふ。折ヲリは繰り返すといふ事で、竹で幾度も/\、繰り返して計る。かうする事は亦、天子様の魂の事と関係がある。平安朝頃までの信仰によると、天子様の魂には、荒世の魂・和世の魂と言うて、二つあつたのである。其で、天子様の御身の丈を竹で計るにも、二度計つたのである。竹で計つて着物を拵へて、其着物を、節折ヨヲリの式に与つた人々に、分配なされる。あらよの御衣ミソ・にぎよの御衣ミソといふのが、此である。

かう考へて来ると、五節の舞ひの時も、実は天子様の御身の丈を、五度繰り返して計つたのではなからうか。さうして、其行事に出る女が、五節の舞姫といふのであつたらうと思はれる。そして五節に出る女は、天子様の食事の事に与つた女である。すると、供饌に与つた女が、衣を進め、節折もし、舞ひも舞うたのである。舞ひを舞ふといふのは、みたまふり(鎮魂)の意味のもので、他の意味ではなかつた事と思ふ。

古く、神服女カムハトリメの舞ひといふ事も見えて居る。此は、着物を取扱ふ女の舞ひといふ事で、後の五節の舞ひと同一である。だから五節舞も神服女舞も同一で、正式には八人で舞うたのだらうと思ふ。神の八処女の事は、前にもいうた。
五節の舞姫の仕へる所を、五節の帳台といふ。そして、五節の帳台の試みといふ事が行はれる。此は、舞姫をして、天子様が、女にせしめる行事である。平安朝頃のものを見ると、舞姫が、何とかかとかいうて、言ひ騒がれて居るのも、此帳台の試みの考へから見ねば訣らぬ。

五節の舞ひがすむと、其後に悠紀・主基両殿の式の名残りとして、国風クニフリの奏歌が行はれる。各其国の国司が、歌人や歌姫を引きつれて行つて、やるのだ。そして、其後に、忌みを落す舞ひがある。此を解斎舞といふ。此がすむと、凡て此祭りに与つた人・神が、皆散らばる形になる。其時も、式に与つた人たちは、お酒や御飯を頂く。それから各人は、忌服をぬいで、散会する。散会の時は、男も女も乱舞して、躍り狂うて帰る。

一体宴会の時は、二度目の食事をすませて、最後の食事の時に、主人側から舞姫が出で、客人側からは、いろ/\の持ち芸が出る。つまり、此は主人に答へる形である。うたげは、打ち上げといふ事で、盛んに手を拍つてやる事である。此乱舞の時に、巡の舞ひというて、正座の客から次第に、下位の客に廻つて行つてやる。

此中に、一つ面白いのは、家の精霊が出て舞ふ形のものがある。滑稽な風をしてやる。此は、今見ても、地方の神社の祭りの時に、滑稽な踊りをするが、皆此精霊の舞ひから出て居るのである。今の民間の宴会は、神事の直会ナホラヒ以後の形をとつてやつて居るのである。

此処で一寸、附け加へて置く。天子様をもてなす役は、藤原氏がやつた。藤原氏の家は、宴会に使用する道具を、大事にして居る。朱器・台盤は、藤原氏の家長が、大切に保存して伝へて居る。此は、藤原氏は、朝廷に仕へて、祭りのある時は、神をもてなす役をして居たからである。客人マレビトをもてなすに大切なのは、道具である。其道具を預つて居るのが、藤原氏であつた。今日でも、民間に、椀貸伝説はいくらも残つて居る。

私は、直会と宴会とを同一だ、とは思はぬ。宴会の方は、客人側が主人に替つて、大いに騒いだものと考へる。大嘗祭に於ける客人の式も、三段に考へられる。

一、供饌の式
二、直会の式
三、宴会ウタゲの式

かうなると思ふ。
たゞ、此間に於て、客が主人になり、主人が客になり、主人か客か訣らぬ様な場合が多い。其は、長い間に於て、其時代々々で、祭りが合理化されて、其に又、種々の説明が加へられて、今日の如くに変化したからである。

ともかくも、大嘗祭は、平安朝に固定して、今日に及んだもの故、神代その儘、そつくりのものとは考へられない。吾々は、其変化のうちに、隠れて居る所を見たいものである。

以上、長々と話しはしたが、極荒筋のものである。今年の十一月に行はれる大嘗祭は、宮内省の方々も緊張して、出来るだけ古の形をとる、といつて居られるから、有り難い大嘗祭を拝める事と思ふ。

大分話が混み入つて、味のない、雑然たるものに終つてしまうた。だが、私の考へは、大体申したつもりである。


底本:「折口信夫全集 3」中央公論社
   1995(平成7)年4月10日初版発行
※「昭和三年講演筆記」の記載が底本題名下にあり。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000933/files/18411_27474.html

78. 中川隆[-10566] koaQ7Jey 2019年4月27日 17:49:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1510] 報告

「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く 2019/03/01


平成の大嘗祭で皇居・東御苑に造営された大嘗宮(共同通信社)© SHOGAKUKAN Inc. 提供平成の大嘗祭で皇居・東御苑に造営された大嘗宮(共同通信社)

 新天皇即位後に行う一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)。天皇が新穀を天照大神や祖先に供え、五穀豊穣と国の平安を願う祭祀だが、大嘗宮の最奥部で何が行われるのかは秘されている。謎の多い祭祀の根源を探っていくと、日本人のアイデンティティの核があると大東文化大学名誉教授の工藤隆氏は指摘する。

 * * *

 新天皇が即位した後に行われる大嘗祭は不思議な儀式である。
 
 昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御すると、同日に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)が新天皇に渡される「剣璽等承継の儀」が執り行われ、天皇位が継承された。次いで翌平成2年(1990年)11月12日に天皇が皇位についたことを内外に広く知らす「即位の礼」が行われた。この「剣璽等承継の儀」と「即位の礼」によって“法的”“政治的”な手続きは完了している。にもかかわらず、11月22日、23日には大嘗祭が行われた。なぜ行う必要があるのか。そこに大嘗祭の本質が潜んでいる。

◆「同衾説」「性的解放説」

 国家祭祀としての大嘗祭は600年代末の天武天皇、持統天皇のときに整備が始まった。それまで伝承されてきた儀式を昇華させ、国家の最重要祭祀に位置づけた。戦乱や天皇家の経済的窮乏によって中断した時期もあったが、現在まで続いている。

 祭儀について具体的な記述がある最古のものは『儀式』(別名『貞観儀式』*1)や『延喜式』(*2)だ。それらを紐解くと「造酒児(さかつこ)」と呼ばれる童女が主役の前半と、大嘗祭当日に天皇が主役となる後半との二部構成になっていることがわかる。

【*1 平安時代前期の貞観14年(872)以降に編纂されたとされる宮廷儀式書。】

【*2 延喜5年(905)に醍醐天皇の命で編纂を開始、延長5年(927)に完成。律令の細則がまとめられている。】

 天皇が大嘗宮の最奥部で何を行っているかは「秘事」とされてきたので詳細は記されていない。そのため、これまで大胆な推測、空想がなされてきた。民俗学者の折口信夫が唱えた、新天皇が先天皇の遺体とともに寝具の中に入るという説や、処女との性的解放という説などだ。これらに影響されて、妄想に近いような極論も世間に出始めたため、宮内庁は平成2年の大嘗祭直前に記者会見で「天皇が神格を得る秘儀というものはない」「天皇は寝床に触れることすらありません」と否定するコメントを出さざるを得なかった。では、最奥部では何が行われているのか。

 11世紀末から12世紀初頭にまとめられた『江家次第』(*3)には少し具体的な記述がある。

【*3 関白・藤原師通が大江匡房にまとめさせた朝廷の儀式、行事の解説書。】

 それによれば、最奥部に入れるのは天皇と采女(うねめ。女官)2人だけで、采女は神事執行の補助役である。天皇は神座に種々の「御食(みけ)」を供え、神酒(みき)を注ぐなどしたうえで、「頗(すこぶ)る頭を低く下げ手を拍(う)ち唯(おお)と称(い)ってそれを執(と)り、飯(いい)をすすめる」。このように平安後期の時点で、天皇は神社の神主のような所作しかしていない。詳細は口伝であり、秘事であるため、文献に記されていない秘儀がある可能性はある。しかし、大嘗祭の本質、原型、源に直結するような秘儀は平安朝の時点ですでに消滅するか変質していて、実態は『江家次第』の記述に近かったのではないか。

 では、大嘗祭の本質、源はどのようなものか。注目すべきは前述の造酒児だ。

◆ヤマト的なるもの

 童女が務める造酒児は、大嘗祭の前半部分で、稲と稲から造る神酒とともに最も重視されている。大嘗祭に使う稲穂を一番に抜き、大嘗宮用の木も初めに伐り、酒造りのため米を最初につく。主役は女性である。

 遡れば、『古事記』『日本書紀』の神代伝承の中で、稲作儀礼を行っているのも天照大神、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)という女神だ。これは初期段階での稲の収穫儀礼を担ったのが女性だったことを反映していると推測される。


 実は、中国の長江以南地域と東南アジアの稲の収穫儀礼には、女性が主役であるものが多い。

 たとえばマレー半島セランゴール地方では巫女が田に出かけてあらかじめ選定された稲を収め取る。この「母」とされた稲から「米児」(稲の子)が生まれるとされ、人間の女性の出産と重ね合わせている。また、インドシナ半島では稲の魂に仕える女性が初めに種蒔きをし、最初に新穀を家に入れ、一番にそれを食べる。さらに中国雲南省のハニ族などの少数民族では稲の魂は女性であるとされ、その管理は女性が行うなど、女性が執り行う収穫儀礼が多い。

 初期段階の農業の主たる担い手は女性であり、収穫儀礼の主役も女性であった。水田稲作技術の伝来とともに、収穫儀礼も日本に伝わったのではないか。政治を司るのは男性でも、儀礼の主役は女性だった。

『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある卑弥呼についての記述もそのことを窺(うかが)わせる。呪術的儀礼は卑弥呼が担当し、行政は弟が担当したとあり、二重構造の統治システムだった。

 女性が主役の稲作儀礼の精神は200年代の卑弥呼の時代から300年代の空白の時代、400年代の大王(おおきみ)の時代を経て継承され、天武・持統天皇の時代に皇位継承の祭祀として大嘗祭に昇華した。造酒児は弥生時代の稲作儀礼の残形と言えるのだ。

 ではなぜ、天武・持統天皇は大嘗祭を整備したのか。当時、日本は先進国・中国から先端の文化、知識を輸入して古代なりの近代化を推し進め、律令国家としての体裁を整えつつあった。しかし外来文化を積極的に取り入れつつも、「ヤマト的なるもの」もないがしろにはしなかった。

 大嘗祭が整備される以前にも新天皇(大王)の即位儀礼自体は存在していた。『日本書紀』には「璽(みしるし)」「鏡」「剣」などが新天皇に渡されたことが記されている。これは現代の「剣璽等承継の儀」「即位の礼」に相当する“法的”手続きにあたり、中国の模倣だ。

 剣や鏡で武力王、行政王としての権威を高めただけでは“法的”正統性はあっても、「ヤマトの王」としてのアイデンティティを担保できないと考えたのではないか。

 女性が主役の、アニミズム系の呪術的儀式である前半部分を持つ大嘗祭は「ヤマト的なるもの」の結晶であり、ヤマトの王であることの証として必要だったのだ。そしてそれは日本人が暗黙のうちに理解している「天皇が天皇であることの最も根源的な理由」であり、「日本とは何か」というアイデンティティの核をなしている。

◆造酒児を消した明治政府

 明治になって「女性の稲作儀礼」を象徴する造酒児は大嘗祭から姿を消す。

 富国強兵を推進した明治政府は武人としての天皇像を求めた。それまで公家や女官に囲まれて暮らし、お歯黒を塗り、頬紅、口紅をつけて御簾の向こう側にいた天皇は、欧州風の皇帝姿になった。ほとんどの女官が免職となり、かわりに薩長の武人が天皇を取り囲むようになる。同時期に全国の神社で女性神職が廃止された。そして大嘗祭で重要な造酒児も消えた。女性原理を体現する存在は邪魔だったのではないか。

 残念なのは戦後、象徴天皇制となってからも造酒児が復活していないことだ。平成期の大嘗祭でもその姿は見られなかった。新憲法では、武力王・行政王の側面は取り除かれたのだから、今こそ女性原理濃厚な文化王の側面を強調すべきだ。できるなら今年の大嘗祭で復活させることが望ましい。

 秋篠宮殿下は昨年11月、誕生日を前に開かれた記者会見で大嘗祭について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」「できる範囲で、言ってみれば身の丈に合った形で行うのが、本来の姿」と述べられた。その都度建てて破却する大嘗宮を使わずに神嘉殿で代用し、天皇家の私費にあたる「内廷会計」で賄うべきとの案を宮内庁にしめされていたという。


 前回の大嘗祭では、皇室の公的活動費である「宮廷費」から約22億円が使われ、当時、「政教分離に反する」という批判があったため、そのことに配慮されたのだろう。

 しかし、日本人とは何なのかというアイデンティティの核である、アニミズム系文化を守るためなのだから、国費でしっかり行うべきだ。しっかりやるというのはたくさんの予算をかけるという意味ではない。時代にあわせて、大嘗祭の施設の一部を簡略化するなどの工夫はあってよい。しかし、自然と共生するアニミズム系文化の結晶という中枢、最重要な部分は変えるべきではない。(談)

※SAPIO2019年4月号
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%E3%80%8C%E5%A4%A7%E5%98%97%E7%A5%AD%E3%80%8D%E3%81%A7%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AF%E3%81%A9%E3%82%93%E3%81%AA%E7%A7%98%E5%84%80%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%AE%E3%81%8B%E3%80%81%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%AE%E4%BE%8B%E3%81%8B%E3%82%89%E7%B4%90%E8%A7%A3%E3%81%8F/ar-BBUdNGb#page=2

79. 中川隆[-10562] koaQ7Jey 2019年4月27日 18:01:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1514] 報告

2019.03.01 SAPIO
「大嘗祭」で天皇はどんな秘儀をするのか、過去の例から紐解く
https://www.news-postseven.com/archives/20190301_872104.html


新天皇即位後に行う一代一度の大嘗祭(だいじょうさい)。天皇が新穀を天照大神(あまてらすおおみかみ)や祖先に供え、五穀豊穣と国の平安を願う祭祀だが、大嘗宮の最奥部で何が行われるのかは秘されている。謎の多い祭祀の根源を探っていくと、日本人のアイデンティティの核があると大東文化大学名誉教授の工藤隆氏は指摘する。

 * * *
 新天皇が即位した後に行われる大嘗祭は不思議な儀式である。
 
 昭和64年(1989年)1月7日に昭和天皇が崩御すると、同日に天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)、そして御璽(ぎょじ)・国璽(こくじ)が新天皇に渡される「剣璽等承継の儀」が執り行われ、天皇位が継承された。次いで翌平成2年(1990年)11月12日に天皇が皇位についたことを内外に広く知らす「即位の礼」が行われた。この「剣璽等承継の儀」と「即位の礼」によって“法的”“政治的”な手続きは完了している。にもかかわらず、11月22日、23日には大嘗祭が行われた。なぜ行う必要があるのか。そこに大嘗祭の本質が潜んでいる。

◆「同衾説」「性的解放説」

 国家祭祀としての大嘗祭は600年代末の天武天皇、持統天皇のときに整備が始まった。それまで伝承されてきた儀式を昇華させ、国家の最重要祭祀に位置づけた。戦乱や天皇家の経済的窮乏によって中断した時期もあったが、現在まで続いている。

 祭儀について具体的な記述がある最古のものは『儀式』(別名『貞観儀式』*1)や『延喜式』(*2)だ。それらを紐解くと「造酒児(さかつこ)」と呼ばれる童女が主役の前半と、大嘗祭当日に天皇が主役となる後半との二部構成になっていることがわかる。

【*1 平安時代前期の貞観14年(872)以降に編纂されたとされる宮廷儀式書。】

【*2 延喜5年(905)に醍醐天皇の命で編纂を開始、延長5年(927)に完成。律令の細則がまとめられている。】


天皇が大嘗宮の最奥部で何を行っているかは「秘事」とされてきたので詳細は記されていない。そのため、これまで大胆な推測、空想がなされてきた。民俗学者の折口信夫が唱えた、新天皇が先天皇の遺体とともに寝具の中に入るという説や、処女との性的解放という説などだ。これらに影響されて、妄想に近いような極論も世間に出始めたため、宮内庁は平成2年の大嘗祭直前に記者会見で「天皇が神格を得る秘儀というものはない」「天皇は寝床に触れることすらありません」と否定するコメントを出さざるを得なかった。では、最奥部では何が行われているのか。

 11世紀末から12世紀初頭にまとめられた『江家次第』(*3)には少し具体的な記述がある。

【*3 関白・藤原師通が大江匡房にまとめさせた朝廷の儀式、行事の解説書。】

 それによれば、最奥部に入れるのは天皇と采女(うねめ。女官)2人だけで、采女は神事執行の補助役である。天皇は神座に種々の「御食(みけ)」を供え、神酒(みき)を注ぐなどしたうえで、「頗(すこぶ)る頭を低く下げ手を拍(う)ち唯(おお)と称(い)ってそれを執(と)り、飯(いい)をすすめる」。このように平安後期の時点で、天皇は神社の神主のような所作しかしていない。詳細は口伝であり、秘事であるため、文献に記されていない秘儀がある可能性はある。しかし、大嘗祭の本質、原型、源に直結するような秘儀は平安朝の時点ですでに消滅するか変質していて、実態は『江家次第』の記述に近かったのではないか。

 では、大嘗祭の本質、源はどのようなものか。注目すべきは前述の造酒児だ。

◆ヤマト的なるもの

 童女が務める造酒児は、大嘗祭の前半部分で、稲と稲から造る神酒とともに最も重視されている。大嘗祭に使う稲穂を一番に抜き、大嘗宮用の木も初めに伐り、酒造りのため米を最初につく。主役は女性である。

 遡れば、『古事記』『日本書紀』の神代伝承の中で、稲作儀礼を行っているのも天照大神、神吾田鹿葦津姫(かむあたかしつひめ)という女神だ。これは初期段階での稲の収穫儀礼を担ったのが女性だったことを反映していると推測される。


 実は、中国の長江以南地域と東南アジアの稲の収穫儀礼には、女性が主役であるものが多い。

 たとえばマレー半島セランゴール地方では巫女が田に出かけてあらかじめ選定された稲を収め取る。この「母」とされた稲から「米児」(稲の子)が生まれるとされ、人間の女性の出産と重ね合わせている。また、インドシナ半島では稲の魂に仕える女性が初めに種蒔きをし、最初に新穀を家に入れ、一番にそれを食べる。さらに中国雲南省のハニ族などの少数民族では稲の魂は女性であるとされ、その管理は女性が行うなど、女性が執り行う収穫儀礼が多い。

 初期段階の農業の主たる担い手は女性であり、収穫儀礼の主役も女性であった。水田稲作技術の伝来とともに、収穫儀礼も日本に伝わったのではないか。政治を司るのは男性でも、儀礼の主役は女性だった。

『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる魏志倭人伝)にある卑弥呼についての記述もそのことを窺(うかが)わせる。呪術的儀礼は卑弥呼が担当し、行政は弟が担当したとあり、二重構造の統治システムだった。

 女性が主役の稲作儀礼の精神は200年代の卑弥呼の時代から300年代の空白の時代、400年代の大王(おおきみ)の時代を経て継承され、天武・持統天皇の時代に皇位継承の祭祀として大嘗祭に昇華した。造酒児は弥生時代の稲作儀礼の残形と言えるのだ。

 ではなぜ、天武・持統天皇は大嘗祭を整備したのか。当時、日本は先進国・中国から先端の文化、知識を輸入して古代なりの近代化を推し進め、律令国家としての体裁を整えつつあった。しかし外来文化を積極的に取り入れつつも、「ヤマト的なるもの」もないがしろにはしなかった。

 大嘗祭が整備される以前にも新天皇(大王)の即位儀礼自体は存在していた。『日本書紀』には「璽(みしるし)」「鏡」「剣」などが新天皇に渡されたことが記されている。これは現代の「剣璽等承継の儀」「即位の礼」に相当する“法的”手続きにあたり、中国の模倣だ。

 剣や鏡で武力王、行政王としての権威を高めただけでは“法的”正統性はあっても、「ヤマトの王」としてのアイデンティティを担保できないと考えたのではないか。

 女性が主役の、アニミズム系の呪術的儀式である前半部分を持つ大嘗祭は「ヤマト的なるもの」の結晶であり、ヤマトの王であることの証として必要だったのだ。そしてそれは日本人が暗黙のうちに理解している「天皇が天皇であることの最も根源的な理由」であり、「日本とは何か」というアイデンティティの核をなしている。

◆造酒児を消した明治政府

 明治になって「女性の稲作儀礼」を象徴する造酒児は大嘗祭から姿を消す。

 富国強兵を推進した明治政府は武人としての天皇像を求めた。それまで公家や女官に囲まれて暮らし、お歯黒を塗り、頬紅、口紅をつけて御簾の向こう側にいた天皇は、欧州風の皇帝姿になった。ほとんどの女官が免職となり、かわりに薩長の武人が天皇を取り囲むようになる。同時期に全国の神社で女性神職が廃止された。そして大嘗祭で重要な造酒児も消えた。女性原理を体現する存在は邪魔だったのではないか。

 残念なのは戦後、象徴天皇制となってからも造酒児が復活していないことだ。平成期の大嘗祭でもその姿は見られなかった。新憲法では、武力王・行政王の側面は取り除かれたのだから、今こそ女性原理濃厚な文化王の側面を強調すべきだ。できるなら今年の大嘗祭で復活させることが望ましい。

 秋篠宮殿下は昨年11月、誕生日を前に開かれた記者会見で大嘗祭について、「宗教色が強いものを国費で賄うことが適当かどうか」「できる範囲で、言ってみれば身の丈に合った形で行うのが、本来の姿」と述べられた。その都度建てて破却する大嘗宮を使わずに神嘉殿で代用し、天皇家の私費にあたる「内廷会計」で賄うべきとの案を宮内庁にしめされていたという。


前回の大嘗祭では、皇室の公的活動費である「宮廷費」から約22億円が使われ、当時、「政教分離に反する」という批判があったため、そのことに配慮されたのだろう。

 しかし、日本人とは何なのかというアイデンティティの核である、アニミズム系文化を守るためなのだから、国費でしっかり行うべきだ。しっかりやるというのはたくさんの予算をかけるという意味ではない。時代にあわせて、大嘗祭の施設の一部を簡略化するなどの工夫はあってよい。しかし、自然と共生するアニミズム系文化の結晶という中枢、最重要な部分は変えるべきではない。(談)

【PROFILE】工藤隆●1942年栃木県生まれ。東京大学経済学部卒、早稲田大学大学院文学研究科修士課程修了、同博士課程単位取得退学。大東文化大学文学部日本文学科講師・助教授・教授を経て、現職。著書に『大嘗祭――天皇制と日本文化の源流』(中公新書)などがある。

※SAPIO2019年4月号
https://www.news-postseven.com/archives/20190301_872104.html

80. 中川隆[-10559] koaQ7Jey 2019年4月27日 18:20:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1517] 報告

諏訪春雄通信 27 「大嘗祭」
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm

 今回のテーマは「大嘗祭」です。

 神話時代が終わって、日本は現実の国家経営に乗りだしてゆきます。統一国家の形態をととのえたのは4世紀から7世紀にかけてのころ、中国の隋・唐の王朝制度をとりいれて律令国家の制度を整備したのは7世紀末から8世紀初頭といわれています。

 これ以前、これ以降の国家としての日本の歴史は、中国の北方原理と南方原理の摂取と融合・葛藤のなかに展開してゆきます。その両原理は、また、日本の王権の歴史的展開を解明する重要な鍵にもなります。

 日本の天皇制永続の秘密をあきらかにするという本通信テーマの独自な視点の一つをあらかじめ提示しておくなら、じつは、この《中国の北方原理と南方原理の融合・葛藤として日本の天皇制をかんがえる》ということにあるのです。

 両原理は、一方が優越することもあれば、拮抗することもあり、また対立もしながら、日本の歴史をつくってゆきます。現時点で両原理はつぎのように対比されます。


北方原理  天の信仰   雑穀の思想  男神信仰   多元的  秩序への志向  
南方原理  太陽の信仰  米の思想   女神信仰   一元的  融和への志向

 これらの特性がどのようにあらわれて日本の国家と天皇の歴史を織りなしてゆくかをこれからあきらかにしてゆきます。

 大嘗祭は、天皇の即位後、最初に挙行する大きな規模の新嘗祭です。大嘗祭をおこなうことによってあたらしい天皇としての資格をもつことできるのですから、即位式でもあります。この大嘗祭をテーマにとりあげて、北方原理、南方原理を検討します。

 大嘗祭の文献上の初出は、『日本書紀』の天武天皇2年(673)12月の記事に「大嘗(おおにえ)」とある記事です。式の進行がよくわかるのは、平安時代にはいってからで、『貞観儀式』『延喜式』『江家次第』などの有職故実の書に記載があります。

 4月の悠紀国(ゆきのくに)、主基国(すきのくに)の選定からはじまって、11月の午の日の豊明節会(とよあかりのせちえ、天皇と臣下の饗宴)まで、半年にわたる行事の中心をしめるのは、11月の卯の日におこなわれる大嘗宮の祭りです。

 大嘗宮は、大嘗祭のためにあらたにたてられた黒木造りの建築物で、東西に悠紀殿、主基殿、廻立殿(かいりゅうでん)という三つの建物がつくられ、外部を柴垣でかこみます。

 外部からうかがい知れない秘密の祭りであるために、のちにみるように種々の推測説がだされていますが、基本の骨組みは、天皇の、廻立殿における《湯浴み》、悠紀殿・主基殿における《聖餐》、《就寝》という三つの行事に還元されます。この三つは、日本の各地の民俗行事にふつうにみられる儀礼であって、その一つ一つには、なんの不思議も神秘もありません。

 《湯浴み》は禊ぎです。水、海水または湯によって心身をきよめることで、祭りをおこなう当事者がけがれをさけるための行為です。

 この禊ぎが火の浄化力とむすびついたものが湯立てです。湯立ては、祭りの場の中央にしつらえられた釜で湯をわかし、笹の葉などにその湯をつけて、あつまってきた参加者たちにあびせるかたちをとるのがふつうです。

 この形式の儀礼は各地の民間神楽に一般的にそなわっている行事です。愛知、静岡、長野の3県をながれる天竜川ぞいに演じられる花祭りには、生まれ清まりと称して、すべてこの湯立ての儀礼をつたえていますし、また、暮れから新春にかけておこなわれる湯立て神楽とよばれる行事も、おなじ儀礼を祭りの中心にすえています。

 《聖餐》は、神と人との共食ですが、大嘗宮では、天皇と天皇の祖先の霊であるアマテラスとの共食です。

 天皇が一世一代の即位式として挙行する湯立てと聖餐が、日本人の民俗行事と共通して、特殊なものではないということをのべました。ここまでなら、数は多くありませんが、日本の民俗学者のなかにも指摘する人がいます(真弓常忠『日本の祭りと大嘗祭』朱鷺書房・1990年、森田悌編『天皇の祭り 村の祭り』新人物往来社・1994年)。

 しかし、この通信で、とくに私が強調したいことは、この二つの儀礼の由来が中国の南方にあるということです。

 稲魂信仰と祖霊信仰が結合した新嘗の祭りが、中国の長江南方の少数民族社会でおこなわれていることについては、この通信の15、18などで報告しました。

諏訪春雄通信 15
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa15.htm

諏訪春雄通信 18
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa18.htm

ミャオ族の人たちは日本の新嘗にあたる祭りを《喫新節》といい、ハニ族の人たちは《フォシージャー新嘗祭》とよんでいます。いずれも、新穀を祖霊、穀霊および天神にそなえたのちに共食する儀礼です。

 中国でも一般的に祭りにさいして清めの火と水が重要な役割を演じていることについて、以前、私は日本・韓国・中国の事例について詳細に検討したことがあります(「中世祭祀の構造―道教・別祭・花祭りー」『日中比較芸能史』吉川弘文館・1994年)。

 日本の新春の若水汲みという民俗行事は水に生命更新の力をみとめる信仰です。この習俗が中国南方の稲作民族社会にひろく分布していることは、大林太良氏の報告があります(『正月の来た道』小学館・1992年)。水に清めの力をみとめ、祭りにさいして禊ぎに使用するのは、この若水汲みと共通する水への信仰にもとづきます。

 《就寝》は篭りです。記録によると、大嘗宮の悠紀と主基のあいだに寝具が用意されてありました。この寝具にくるまって天皇はお休みになるものとみられますが、しかし、この就寝の儀礼については、注目される説がこれまでに提出されています。整理するとつぎの4つです。
1.亡くなられた先帝と新帝との共寝
2.新帝と采女(うねめ)との聖婚
3.死者をほうむる喪屋
4.新生児のための産屋

 4つの説ともに新帝に新生の活力、それは天皇霊とよばれることの多い天子の霊力を付与することを目的にするという点では、ほぼ一致していますが、具体的な儀礼順序や性格規定で、以上のような対立があります。

1の説は、折口信夫(「剣と玉と」昭和7年、「上代葬儀の精神」昭和9年)、堀岡文吉氏(『国体起源の神話学的研究』培風館・1929年)などがとなえています。折口の「剣と玉」から引用します。


 古代には死と生とがあきらかに決らなかったので、死ぬものならば生きかえり、死んだものならば他の身体にたましいが宿ると考えて、もとの天皇霊の著いていた聖躬と新しくたましいの著く為の御身体と二つ、一つ衾で覆って置いて盛んに鎮魂術をする。この重大な鎮魂の行事中、真床襲衾と言う布団の中に篭って物忌みをなされるのである。

2の説をもっとも強力に主張しているのは岡田精司氏です(『古代王権の祭祀と神話』塙書房・1970年)。岡田氏は、新嘗祭には、服属儀礼の一環として、天皇と采女とのあいだに同衾がおこなわれたと推定しています。氏は、大嘗祭は新嘗祭の延長とかんがえ、マドコオスフスマは、これにつつまれて祖神と一体化した天皇と、国々の神の資格をもって奉仕する采女との神婚がおこなわれた衾の遺物であろうとします。

 岡田説の根底には、折口信夫の神の嫁という考えがあります。日本の古代、男性の君主と女性の巫女がたすけあって国をおさめていた時代がありました。君主の身近にある女性が神の嫁となって神意をききわけ、それを君主につたえて政治の方向を決定しました。

 巫女は、地方豪族が服属のあかしとして自己の子女を朝廷にさしだしたものでした。彼女たちは、出身の国々の神につかえる巫女の資格をもち、彼女たちが朝廷につかえることは、国々の神が朝廷に服従することを意味していました。采女は、祭りのさいには、神の生活にはいる天皇に奉仕し、神の嫁として、天皇と神聖な結婚をとげることがあったと、折口は説きました(「宮廷儀礼の民俗学的考察」)。

 この折口の説を支持するような事例が『日本書紀』などに記載されていることは事実です。神の嫁という折口の論はそれなりの有効な射程距離をもっていますが、しかし、それを大嘗祭に適用することについては、反対意見のほうが圧倒的に優勢です。

 その一人、谷川健一氏は諸種の資料を引用して、采女は、推古・皇極・斎明とつづいた女帝の成立によって地位を低下させ、天武天皇以降は、後宮十二司の最下位に所属したと主張します。「大嘗祭という一世一代の由々しい盛儀における采女の役割は、神膳をととのえる以外にはあり得ない」というのが谷川氏の断定です(『大嘗祭の成立』小学館・1990年)。したがうべき見解です。

 3の喪屋説は1の説とかかわる論です。この3の説を強力に主張する谷川氏(前掲書)は、南島のモガリの習俗を論拠に、先帝の死にさいして死者が完全に死者になりきるまえに、死者と共寝して、その活力をうけつぐ儀礼が、喪屋としての大嘗宮でおこなわれたといいます。モガリの習俗が日本の古代におこなわれていたことは確実ですから、谷川説は就寝儀礼の本質をついた説といえます。

 しかし、3の裳屋説と4の産屋説は、じつは相互に補完しあう説なのです。産屋説は、折口信夫がはじめにとなえ、いったんすてたのちに、晩年また採用した説でした(「大嘗祭の本義」昭和3年)。大嘗宮の悠紀、主基の両殿に布団がしかれ、枕もそなえられているのは、「日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、御寝所に引き篭って、深い御物忌みをなさる場所である。実に重大なる鎮魂の行事である」とのべています。

 おなじ考えは、西郷信綱『古事記研究』(未来社・1973年)にもみることができます。マドコオスフスマの儀礼は、子宮の羊膜につつまれた胎児の状態にもどり、新生児として誕生しようとする模擬行為であったといいます。

 就寝の儀礼は民俗の死生観をあらわしています。民俗では、死と生は連続または循環として意識されます。死んでよみがえる擬死再生の儀礼がおこなわれる場所が大嘗宮であるといえます。それは稲の種子が大地におちて死に、あたらしい生命を得てよみがえる《篭りの精神》の儀礼化でもあります。

 大嘗祭の就寝の儀礼がモガリとウブヤの複合した性格をもっているとすれば、その習俗もまた中国の南方にもとめることができます。

 1993年の4月から5月にかけて、私たちは中国の東海沿岸、ジョウ泗列島、舟山列島の現地調査をおこなったことがあります。その調査報告は『中国東海の文化と日本』(勉誠社・1993年)として刊行されています。

 そのなかですでにのべたことですが、この地方一帯にお墓を二度つくる複葬がおこなわれています。死者がでると、その死骸を、住まいの近くの田畑などに仮の埋葬の墓(殯廓とよんでいます)をつくっておき、1年または3年が経過した時点で、山の傾斜地などに里のほうにむけて永久的な墓をつくって埋葬しなおします。

 日本の古代のモガリや近畿地方などにおこなわれている両墓制の起源もまた江南にあったことをしめす調査結果です。それが農耕民に顕著な篭りの精神と結合したものが、大嘗宮の就寝儀礼なのです。

 このようにみてきますと、大嘗宮での行事は明確に中国の南方原理をしめしていますが、しかし、全体としての大嘗祭は大嘗宮以外の行事もおこなわれており、大きく、

  A 大嘗宮での天皇一人の儀礼
  B 宮中における天皇と群臣の饗宴(豊楽院の節会、最後の豊明の節会)

と二分されます。

 Bは一種の新帝にたいする服属の儀式であり、そこでは悠紀・主基の両国から献上された貢物が分配されます。悠紀・主基の両国は天皇の統治する日本国の象徴であり、Bはあきらかに新しい天皇とそれに仕える臣下の秩序を確定する北方の原理に支配されています。

 このようにみてきますと、大嘗祭は、結局、北方原理の外枠に核心としての南方原理がつつみこまれた儀礼であると規定できます。この構造は、日本の王権構造全体の象徴でもあります。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm

81. 中川隆[-10551] koaQ7Jey 2019年4月28日 07:06:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1529] 報告

諏訪春雄通信 29
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 年度末の学校行事が一段落し、ようやく時間的なゆとりも出来ました。そこで、収集してあった中国の神話資料の整理と読み直しをすこしずつはじめました。日本神話とかかわりのある新しい資料が続々と出てきています。

 以前、この通信の24で、

《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa24.htm

という、私の研究の基本態度を説明しました。新しい資料を補足することによって、この研究姿勢に誤りはないという確信をますますつよめています。

 まだ完全な整理がおわっていませんので、結果が出次第、この通信で概要を報告しましょう。

 今回は「天皇と祭祀」というテーマでお話しします。これも大きな問題ですので、数回にわたって、この通信でとりあげる必要がありそうです。

 前回の通信の最後に、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったと申しました。まず、この結論にたいして説明をくわえます。

 通信27で「大嘗祭」をとりあげました。

諏訪春雄通信 27
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm


そこで説明しましたように、大嘗祭の中心行事である大嘗宮での祭りは天皇一人の儀礼であって、女官がその他が奉仕するにしても脇役にすぎず、祭りを進行させる神主はとくにいません。天皇自身が神と直接に接触する祭祀主体=シャーマンです。

 この大嘗祭のほかにも、天皇自身が祭祀主体となる祭りは、宮中行事に数多く存在します。

 奈良時代の養老2年(718)に古代法を集成して編纂された法令集が養老律令です。奈良時代から平安時代にかけての日本国家の基本法でした。そのなかで、国家祭祀を規定した
 「神祇令」には、全部で13の祭祀があげられています。


祈年祭  鎮花祭  神衣祭  三枝祭  大忌祭  風神祭  月次祭  鎮火祭
道饗祭  神嘗祭  相嘗祭  鎮魂祭  新嘗祭(大嘗祭)

 「神祇令」の冒頭の第1条には「およそ天神、地祇は、神祇官が神祇令の規定にしたがって祭れ」とあって、13種の祭りを執行するのは、「神祇官」であって、天皇の名は出てきません。

 このことから天皇は国家祭祀に関与していないという結論を出すことはできません。神祇官は祭祀を管轄する行政官であって神主ではないからです。

 わかりやすい例でいえば、文部科学省の役人は教育の管轄はするが教師ではありません。学校の現場で児童に接触するのは教師です。おなじように、祭りで神に接触したのは天皇でした。

 このあたりの事情は、通信27の「大嘗祭」についての記述をお読みいただければわかります。大嘗祭は、天皇一代一度の大祭であって、例年は神嘗祭として執行されます。その神嘗祭は「神祇令」の規定によれば、神祇官が管轄しますが、実際に祭りの主体者として神と接触するのは天皇です。同様の事情がほかの12種の祭祀にもあてはまります。

 国家的規模の祭りの祭祀主体は天皇であって、神祇官は儀式の管轄者、あるいは代理人にすぎなかったという事実をほかの方法で説明してみましょう(丸山裕美子「天皇祭祀の変容」『日本の歴史8 古代天皇制を考える』講談社・2001年)。

 前掲13の祭祀には、新嘗祭(大嘗祭)のように、天皇が関与したことのあきらかな


月次祭  鎮魂祭  新嘗祭

などのほかに、天皇が直接には関与していない多くの祭祀があります。つまり地方の神社で祭りをおこない、そこに天皇が参加していないものです。

 しかし、そうした祭りでも、中央の神祇官から幣帛つまり供物がわけあたえられます。こうした資格をもつ神社を官幣大社といいます。天皇の参加しない国家祭祀でも、官幣大社でいとなまれます。

 その分与式(班幣)はつぎのように進行します。上京した神主(祝部ほうり)たちは、宮中神祇官の役所前の広場に集合します。大臣以下の役人たちが参列するなかで、神祇官の中臣氏がつぎのような内容の祝詞を奏上します。


 あつまってきた神主・祝部らよ、皆聞きなさい。高天原にいらっしゃいます、スメラミコトがむつまじく親しむ男女皇祖神のご命令にしたがって天神・地祇としてまつる神々の前に申しあげます。今年の二月、ゆたかな収穫をたまわりますように皇孫のスメラミコトが珍しく尊い供え物を、朝日がみごとに輝きのぼるときに祝詞を奏上して、奉ります。

 大宝2年(702)2月に実施された祈年祭の祝詞です。この例からもあきらかなように、国家祭祀の正当性は、高天原の神々の子孫である天皇が奉る供物によって保証されるとともに、天皇は供物をとおして、自身直接に参加しない祭祀の主体者となっているのです。

 この祝詞のなかに天皇ということばは出てきません。和語でとなえられる祝詞に漢語の天皇が出てこないことは当然とかんがえられるかも知れませんが、天皇にあたることばとして「皇」と「皇御孫命」という漢語は出てきます。これは「すめら」、「すめみまのみこと」とよまれています。その基本に「すめらみこと」が祭祀用語として存在したとかんがえます。

 「神祇令」は中国の唐代の祭祀を規定した「祀令」を参照して成立したといわれています。しかし、根本精神は日本流に変更がくわえられています。それは天皇が国家祭祀の主宰者であるという観念です。

 天皇は祭祀王であるという観念は7世紀から8世紀にかけて、日本が国家体制をととのえていったときに、為政者によって周到に準備され、律令にもとりいれられましたが、それだけにとどまらず、『古事記』や『日本書紀』のような編纂物のなかにも布石されています。

 一例を『日本書紀』の第10代崇神天皇の記事にとります。

1.天神地祇に祈願する。
2.天照大神・倭大国魂の二神を宮中にまつる。
3.八百万の神々を神浅茅原に招いて占いをする。
4.お祈りした夜の夢に大物主神があらわれ、大物主神をまつる。
5.八十万の神々をまつる。
6.夢中の神の教えのままに墨坂神・大坂神をまつる。
7.鏡をまつる。

 崇神天皇については各種の説がこれまでに提出されています。


事実上の初代天皇である。
三輪王朝の創始者である。
騎馬民族系の渡来王である。
『魏志倭人伝』の卑弥呼をたすけた男弟である。

 複雑な性格をもった天皇であったことが推測されますが、いずれにしても祭祀王であったことは『日本書紀』の以上の記載からあきらかです。

 天皇が祭祀王としての性格をもつようになった過程については、大きく三つの考え方が成立します。

A.天皇ははじめから祭祀王としての本質をそなえていた。
B.巫女王の時代から男性祭祀王の時代に推移した。
C.男女の祭祀王ははじめから並存していた。

 この問題を解決するためには、巫女王、女帝、斎王、後宮などについて検討する必要があります。次回以降、これらの課題を解明してゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm



▲△▽▼

天皇が行う祭祀(悪魔崇拝)のルーツ

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10

82. 中川隆[-10316] koaQ7Jey 2019年5月04日 11:54:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1775] 報告

秋篠宮の悪行として流布してるのはすべて高円宮と外務省創価グループが流したデマ。
最近のマスコミ・ネットでの秋篠宮家叩きは雅子と小和田家、外務省創価グループがやっている可能性が高い。どうしても愛子を天皇にしたいんだな。

創価学会はネット・マスコミを通してデマを拡散するから始末が悪いんだ。

自殺に見せ掛けた殺しは 創価学会 のお家芸だから、秋篠宮家での三件の不審死も創価ヤクザがやった可能性が有るね。 秋篠宮家をうさん臭く思わせたかったんだろうね


秋篠宮がプチエンジェル事件の顧客名簿に載っていたとか
宮内庁が秋篠宮が眞子と近親相姦している「パパだーいすき」という動画を探しているとか

の話も秋篠宮家を うさん臭く思わせようとしてでっち上げた話でしょう。

昔、皇太子妃候補 No.1 だった柏原芳恵がバイブレーター所持していたというデマを流した のも外務省創価グループだと言われているしね。

要するに、CIA と創価学会は

どうしても愛子を天皇にしたい、
秋篠宮家を うさん臭く思わせたい

のでしょうね。


高円宮様はもともと外務省と関係の深い人。宮家といえど台所事情は楽じゃなかったから仕事もしていた。だから小和田恒が取り込みやすかった。しょせん世間知らずの宮様なんて、海千山千にかかったらちょろいもの。

小和田恒氏と鳥取久子さん(高円宮久子)の噂は?高円宮様は国民と皇室の架け橋などと言っていたけど、基金集めでは色々黒い噂もあった。高円宮様がお亡くなりになってからは秋篠夫妻の誹謗中傷が止んだ。

高円宮様は一見気さくそうに見えて 実は最も階級意識の強い人だったらしい。紀子様のご実家をバカにしきっていた。高円宮様は皇太子には媚びて 秋篠宮様のことは悪口言いまくっていた。

承子さんの成人コメントでも紀子妃懐妊については無視だった。高円宮様が紀子様を貶める発言を広めていた。あることないことまで噂を言いふらしていた。高円宮様がお亡くなりになってから、あきらかに流れが変わった。(小和田家親族や学会がらみの擁護派からの古い捏造話の蒸し返し以外はなくなった)

83. 中川隆[-10322] koaQ7Jey 2019年5月04日 12:15:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1769] 報告
右翼は雅子皇后ののさばる皇室を本心で崇拝するのだろうか。

雅子は皇室の信仰には意図して逆らっている
皇室祭祀をほぼすべてさぼる
昨年14回あった皇室祭祀のうち13回はさぼった

4月30日午前中に「退位礼当日皇霊殿神殿に奉告の儀」などの宮中祭祀が行われた。
秋篠宮家の方々など皇族の方々がお集まりになっている様子がTVで報道された。
雅子は首に負担がかかるとかの理由で「居所で遥拝」されたと新聞に書かれていた。

自分の宗教(創価学会)と合わないから立ち合いを拒絶したんだろう。
右翼の中には天皇の最大の役割は「皇室祭祀」だと断言する者もいた。

日頃皇室が第一と主張する右翼はこの皇后をどう擁護するのだろ。
この皇后をのさばらせる天皇と皇室、宮内庁をどう擁護するのだろ。
見解を聞きたいものである。
http://www.asyura2.com/19/senkyo260/msg/397.html

84. 中川隆[-10386] koaQ7Jey 2019年5月05日 05:49:49 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1705] 報告
2018.08.09
雅子妃|Y氏からの手紙 国民が知っておくべき、皇太子妃の恐るべき家系
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2016/11/22/2016112620161126000000/

下記は拙ブログの知人Y氏がご自分が持っている情報を譲ってくれたものです。上手く編集することを条件に記事化をOKしてくれました。下記編集後の情報です。

雅子さんの「いとこ」が関西の精神病院に入れられていて、見捨てられている状態だそう。そこで働いていた人からのリークです。一方的リークで、いとことはどちらの? とか病院名とかは聞いてないのですが・・・・

小和田のほうでしょうか、キチガイの家系・・・・

江頭のほうも自殺者を出してますけどねえ・・・・

小和田に弟だったか、いたような。
双子の妹の節子さんも頭をやられてるし、雅子さんも変、愛子さんはどのレベルか。
入内にあたって、家系も調べてないのが異常ですね。

皇室は畜生腹も嫌うはずなのに?

男子が誕生していない「女腹」だということも、ひっかかてないのですよね。男関係も。黒人との子を堕胎した・・・は、引退した皇室番記者経由で耳にしたことがあります。

過去の男二人までもが、殺害されているのも、彼女の持つ禍々しい運命が引き寄せるのでしょうね。殺されたのは、アフリカに飛ばされた奥参事官? だったかな。雅子の不倫相手と言われてますが。

中国系アメリカ人デビッド・カオは黒人の少年たちに殺されていますね。彼でしたっけ、雅子さんのセミヌード写真を持っているとされていたのは。


≪私のコメント≫

雅子肥―従兄弟―関西―精神病院―放置プレイの話は、かなり前に拙ブログへ、全く同じ事実を書き込んでくれた人がいるので、この情報は固いと思います。小和田の方でしょう。恒は上下に男兄弟が多いです。

【江頭の方の自殺者】は、私の知る限りでは、評論家の江藤淳【戸籍名は江頭淳夫】だと思います。江藤淳は、雅子の祖父の江頭豊の甥です。雅子の母の小和田優美子(旧姓江頭)は従兄弟になります。東京生まれで、東京育ちの江藤はある時期に、自分のルーツが知りたくなり、佐賀の祖先の地にたどりつき、精神にとてつもない衝撃を受けて帰京しました。これは、彼が文章で残していることです。

★要は江頭家は昔からの部落地区に住む部落民だったのです。これでわかりましたね、雅子肥の父、小和田恒は【戸籍乗っ取りの成りすまし朝鮮人】で、母親の【江頭は部落民】だったんですよ。
http://akimasa-fushimi.sakura.ne.jp/wp/2016/11/22/2016112620161126000000/

85. 中川隆[-10375] koaQ7Jey 2019年5月05日 11:14:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1716] 報告

最近のマスコミ・ネットでの秋篠宮家叩きは雅子と小和田家、外務省創価グループがやっている可能性が高いですね。どうしても愛子を天皇にしたいのでしょう。

因みに、秋篠宮の悪行として流布してるのはすべて高円宮と外務省創価グループが流したデマの様です。

創価学会はネット・マスコミを通してデマを拡散するので始末が悪いんですね。

自殺に見せ掛けた殺しは 創価学会 のお家芸なので、秋篠宮家付き職員の三件の不審死も創価ヤクザがやった可能性が有ります。 秋篠宮家をうさん臭く思わせたかったんでしょう。


紀子様の堕胎説や、川嶋教授の怒鳴り込み説なども創価ともう一つ、自分の上にある秋篠宮家を憎んでいた高円宮家が名誉会長を務めていたワールドメイトの信者が手分けして広めたデマです。

堕胎など医師の守秘義務を破ってもらす医療関係者が、全国津津浦浦に隈なく存在しているあり得なさを考えてみればよいのです。やれどこそこの院長が言っていた、婦長がここだけの話として教えてくれた、などなど冷静に考えてみればあり得ないことを信じ込まされている人達がいます。

創価大学の学生には、「東宮夫妻お出まし」のための歓迎サクラ要員募集記事がHPに載っていました。(スクショと共に記事にしました)。毎度報道されるお迎えの集団が本物なら、動員の必要はないでしょうに。

創価婦人部は複数名が一組となって電車の中で、周りに聞こえる程度のひそひそ話で「ねえ、聞いた?」「紀子さまってば」「秋篠宮殿下って実はね」として、秋篠宮家の貶め作戦を行って来ました。
同じ女たちが、別の電車で同じ芝居をしている所を目撃したというコメントを、コメ欄にかつて頂きました。

秋篠宮がプチエンジェル事件の顧客名簿に載っていたとか
宮内庁が秋篠宮が眞子と近親相姦している「パパだーいすき」という動画を探しているとか

の話も秋篠宮家を うさん臭く思わせようとしてでっち上げた話でしょう。

昔、皇太子妃候補 No.1 だった柏原芳恵がバイブレーター所持していたというデマを流した のも外務省創価グループだと言われているしね。

要するに、CIA と創価学会は

どうしても愛子を天皇にしたい、
秋篠宮家を うさん臭く思わせたい

のでしょうね。

しかし、今上天皇が精神薄弱、雅子皇后は精神異常
こんなんで皇室はこれからどうなるのでしょうね? :

小和田家は、雅子さまの外務省時代の不倫も、その近い家系に精神病院に入院したきりの精神病者がいることも隠して、入内させていますね。

大阪の病院に、雅子妃のいとこ様が見舞客もなく、打ち捨てられた形で長期入院中。双子の妹、節子さんも精神の不調が伝えられ、また雅子妃は時折、ギャーッと叫ばれていること、

「雅子さまがお 具合が悪い時は、国民に見せられないお姿になる」

と、至近にいた人物に言われています

86. 中川隆[-10407] koaQ7Jey 2019年5月08日 17:18:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1691] 報告

私が学生の時だが、友人は、

[美智子妃殿下は皇太子が知的障害があるので、それに絶望して自殺未遂を二回した]

と言い張っていたよ。


[皇太子(今上天皇)は知的障害なのは公然の秘密]と言っていたな。

理由は[近親婚]を繰り返したから。

___

匿名 より: 2019年5月8日 4:47 PM

ガールズちゃんねる からの引用

35624. 匿名 2019/05/07(火) 17:51:11

知り合いがかなり中の仕事していたんだけど

上皇はまるで会話が成り立たないので
美智子さん頼みだったみたい

それで窓口が全部美智子になり
牛耳られたし女帝と化した
https://rondan.net/21900

87. 中川隆[-10378] koaQ7Jey 2019年5月09日 08:25:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1720] 報告


東宮のこわい噂話
http://yamanokoyama.blog.fc2.com/blog-entry-266.html

【祝 雅子様オランダ行き】秋篠宮家のお噂809

215 :名無しさん@お腹いっぱい。:2013/05/03(金) 21:17:48.33

569 名前:名無しさん@13周年[sage] 投稿日:2013/05/03(金) 21:02:26.88 ID:9SiDKlcQ0
雅子さんの母親・小和田優美子さんも精神科の入院歴があるそうだ。

▼ 571 名前:名無しさん@13周年[] 投稿日:2013/05/03(金) 21:04:17.60 ID:CCAGX/PK0
>>569
妹も精神科の通院歴があるはず

▼ 573 名前:名無しさん@13周年[] 投稿日:2013/05/03(金) 21:06:24.08 ID:EJdYHeWQ0
>>569
ちょっとアレなのはDNAなんですか?
雅子様〜愛子様と続きちょっと不思議でした

▼ 577 名前:名無しさん@13周年[] 投稿日:2013/05/03(金) 21:07:42.99 ID:ah+yKCqDO
>>569
マジ?
なんでそんなキチガイの血をひく女を入内させたんだ?
普通、それくらいは事前に調べるだろ
香淳皇后も、入内前に、
色盲の家系じゃないか、と難癖つけられたんだよな
結局、それは島津の血をひく良子女王を貶めるための、
長州出身の某政治家の陰謀だったんだが。

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niteru 20140525-66
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無題 Name 名無し 14/05/20(火)23:42 ID:x0lND8QM No.1052229
選ぶ男はカンキリ似ばかり
ファザコンかと思ったが、血の繋がりがないとすれば・・・まさか・・・ね
… 無題 Name 名無し 14/05/21(水)09:08 ID:nl9Ep4FI No.1052299
かの国の血なら当たり前

… 無題 Name 名無し 14/05/21(水)10:14 ID:g9Ev6oPI No.1052312
つまりは、小和田恆が雅子の男の一人ということですか

…ありえますね
…、ありえる
優美子の発狂はそのせいだったのか?
優美子は精神病院の入院歴がある
… 無題 Name 名無し 14/05/21(水)13:14 ID:67iQu91E No.1052359
缶切りと、なんて普通の他人であってもキモすぎて御免こうむる。 
国民の想像を超えた腐りきった世界があるのかもね、
雅子とオワダニ周辺には。
人間以下の連中だから。

… 無題 Name 名無し 14/05/21(水)13:53 ID:g9Ev6oPI No.1052374
まったく、心の清らかな日本人には測り知れない

こんな東宮一家に使われる税金を払うのは
御免こうむる

死んで欲しい、それだけ
東宮一家、しねよ、東宮一家!

… 無題 Name 名無し 14/05/21(水)22:29 ID:o.DSbwDQ No.1052572
嫌だわ。

… 無題 Name 名無し 14/05/22(木)09:03 ID:lFyQ261s No.1052731
なんみょー

… 無題 Name 名無し 14/05/22(木)09:56 ID:/TzQe7MU No.1052759
自分は、愛子の障害が分かった軽井沢別荘に籠城した時に
雅子は大作の娘だと聞かされたのではないかと
思ってる。それからキチガイへの道まっしぐら。

… 無題 Name 名無し 14/05/22(木)10:42 ID:lFyQ261s No.1052788
うーむ
犬作もちょい斜視がはいってる
そんなところまで
よだれ愛子にそっくりだ

… 無題 Name 名無し 14/05/22(木)13:25 ID:nZTOuAcs No.1052833
雙葉を中退させてアメリカに行った頃からプロジェクトは実行されていたんだね。
外務省は婿養子多発で、姓はそのままだけど金持ちお嬢を
嫁にする習慣あるとこ。出自コンプのジジンなら
自分の実の娘じゃない子でも我慢できたんだろうね。
幼少期、双子に比べて雅子がいい加減に扱われていたことは
服装を見れば明らかだけど
こういう理由だったわけね。

それにしても、小和田家はおぞましい

… 無題 Name 名無し 14/05/22(木)14:21 ID:Ag17RWyU No.1052883
雙葉を中退してのアメリカ行きは・・・中絶のためと聞いているけど。
… 無題 Name 名無し 14/05/22(木)14:21 ID:lFyQ261s No.1052884
それを紀子さまにスライド

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板の噂話しです〜〜

・旗振りカルト団体のつながり
・雅子の異常行動
(納得してしまうのが怖い)

自分に似ている人がいたら・・・見たく無いな

「場所が確定出来ない横断歩道」を探していて

腕 肩 が・・・・ アホですね  カチカチやっていたら〜〜

肩は痛いし 指はつるし〜〜〜

お返事、遅れます。。。ごめんなさい  自己管理できてない!
(ご心配頂きありがとうございます。医者から頂いた湿布20枚
貼ったら・・・寒いの・・・でもッ 効果ありました!)

人の事だから いっぱい言えますがね。 ふふ

もうすぐナルさんの 「指」 見られます!!
(見世物?)

http://yamanokoyama.blog.fc2.com/blog-entry-266.html

88. 中川隆[-10287] koaQ7Jey 2019年5月20日 18:34:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2049] 報告

新嘗祭のルーツ

諏訪春雄通信 854回 (2019年5月6日更新)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html

X 奄美の祭祀に見る女性と男性

動かぬ神・動く神に対応するお練りと神アシャギ

沖縄・奄美の行事には踊り手が移動するお練りと祭場を固定する神アシャギの二形態がある。奄美のショッチョガマでも、以前は、前の晩に青年男女が日暮れを待ち、仮装して、太鼓を打ち、三味線を弾いて歌を掛合い、八月踊りをして家々を回るケブリ(家)踊りと称するお練りが夜を徹して行なわれたという。(『おきなわの祭り』)

なぜ祭りの行事に二形態があるのか。神が動かぬ段階では、人間のほうが神の鎮まる聖所を拝んで廻った。お練りの起源である。神のほうで動く段階が到来したときに、人間のほうで祭場を用意して神々の来訪を待ち受けた。神アシャギの起源である。

ショッチョガマ・平瀬マンカイから見えてくるもの

@ 渡瀬ラインで区切られる日本列島の北部温帯地方と対比される南部の亜熱帯地方の民俗行事の本質。

A 大陸の行事を継承した旧暦七月の盆行事とは異なる西域起源の八月正月の豊作祈願と合体した祖霊祭祀の実態。

B あらゆる他界観念の基層にある海への信仰。

C 漁業と農業という二大生業の融合した各種行事。

D オナリ神信仰に代表される女性中心社会から男性優位社会へと推移する過渡期の様相。

E 動かぬ神から動く神へという信仰の変化の実相。

以上の六点を通して、本土日本ではすでに失われた民俗信仰と行事の存在が実感される。

東北大災害の復興を通して明らかになった《祭りや芸能が地域を団結させる》ということ、余った時間と経済力で祭りや芸能を演じるのではなく、祭りや芸能が地域を活性化させ、生活の余力を生むのだという事実が、現在の沖縄・奄美の祭りや芸能からもはっきりみてとれる。


 Y 日本の女帝


邪馬台国 卑弥呼

倭人は帯方の東南大海の中にあり。山島に依りて国邑をなす旧百余国漢の時朝見する者あり。今使訳通ずる所三十国郡より倭に至るには海岸に循って水行し、韓国をへて、あるいは南し、東し、その北岸狗邪韓国に至る七千余里。

その国、本また男子を以て王となり住まること七、八十年。倭国乱れ相攻伐すること歴年乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大なるも夫婿なく男弟あり。佐けて国を治む王となりしより以来見るある者少なく婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり。飲食を給し辞を伝え居処に出入す。宮室楼観城柵厳かに設け常に人有りて兵を持して守衛す。(「魏志倭人伝」)

邪馬台国の卑弥呼は中国で三世紀ごろに編纂された歴史書『三国志』のなかの『魏志倭人伝』の上掲の記事による。しかし、その史実については議論があり、なかにはその存在自体を疑う説すらある。

たとえば、田中英道氏は『邪馬台国は存在しなかった』(勉誠出版、2019年)で、

邪馬台国も卑弥呼も『魏志倭人伝』以外に記録がない、

邪馬台国も卑弥呼も蔑称である、

『魏志倭人伝』は伝聞をもとに構成された物語である、

日本に卑弥呼を祀った神社が存在しない、ただ一つ存在する神社は昭和57年に建立された、

などの多くの理由をあげて、存在否定論を展開している。

 たしかに、『魏志倭人伝』の記述通りの固有名詞を持つ国や女王が存在したか、どうかには疑問がのこるが、このような国の制度があったことは信じられる。

 日本の女帝とヒメ・ヒコ制 
 

日本の古代に姉妹と兄弟が祭事と政治を分担する統治形態ヒメ・ヒコ制が存在した。地名∔ヒメと地名∔ヒコの名の男女が分担する。

『古事記』・『日本書紀』・『風土記』などには宇佐地方(豊国)にウサツヒコとウサツヒメ、阿蘇地方にアソツヒコとアソツヒメ、加佐地方(丹後国)にカサヒコとカサヒメ、伊賀国にイガツヒメとイガツヒコ、芸都(きつ)地方(常陸国)にキツビコとキツビメがいたことを伝えている。また『播磨国風土記』では各地でヒメ神とヒコ神が一対で統治したことを伝えている。

その史実を反映して、日本の各地に百社近くヒメ・ヒコで一対となる神社がのこされている。これらをすべて虚構と片付けることはできない。

 


このヒメ・ヒコ制の根底には東南アジアから東アジア一帯に広まる姉妹の霊性が兄弟を守護するオナリ神信仰がある。

沖縄にオ(ヲ)ナリ神とよばれる、兄弟を主語する姉妹の霊力に対する信仰がある。はやく伊波普猷(いはふゆう)が『をなり神の島』(楽浪書院一九三八年)で、柳田国男が『妹の力』(創元社、一九四〇年)で論じた問題であった。

オナリは、奄美、沖縄、宮古、八重山の諸地域で、兄弟から姉妹をさすことばである。姉妹から兄弟をさすときはエケリという。

オナリ神は呪詛にも力を発揮するが、多くは兄弟が危機に陥ったときに守護してくれる。航海や戦争に出発の際、姉妹は守護のしるしとして、手ぬぐいや毛髪を持たせ、兄弟が危機に陥ったときに、姉妹の霊は白鳥になって現地に飛ぶという。

姉妹は兄弟に対して霊力で守護し、他方、兄弟は姉妹に対し、日常生活で守護の役割を果たす。しかも、家族のレベルを超えたさまざまな上位の祭祀集団にもこの関係をみることができる。根神(ニーガミ)と根人(ニーッチュ)、ノロと按司(アジ)などとよばれる地域の信仰関係、聞得大君(きこえおおきみ)と王などの王権の信仰関係である。

この信仰の源流については、東南アジアに求める説が有力である。オナリ神を最初に学問の課題として体系化した柳田国男は、オナリ神の源流を日本の外に求めることはしなかったのであるが、柳田の影響下に、戦後、この問題に取り組んだ社会人類学者の馬淵東一は、東南アジアとの関係を強調した。(「沖縄先島のオナリ神」『日本民俗学』一九五五年)

さらに、馬淵の教え子の社会人類学者の鍵谷明子氏は長期のインドネシア調査を続け、その成果を『インドネシアの魔女』(学生社、一九九六年)としてまとめた。鍵谷氏は、インドネシアの小スンバ列島のなかのサブ島、ライジュア島という二つの島を二十年近く毎年訪れ、沖縄のオナリ神信仰と一致する信仰を発見した。この二つの島では、兄弟が遠い旅に出るとき、必ず姉妹に知らせ、姉妹はイカットとよばれる手織りのかすりの布を贈る。このイカットには、兄弟を守る強力な霊力があると信じられている。

馬淵・鍵谷両氏の研究によって、オナリ神信仰の源流は、確定したように思われていた。


しかし、と私は考える。日本の古代神話でも、イザナギ・イザナミの国生み神話、天地分離神話、海幸彦・山幸彦神話などの王権神話の重要なものが、東南アジア起源として説明されていたが、私は、二〇〇五年に角川書店から刊行した『角川選書 日本王権神話と中国南方神話』で、これらの神話の原型が中国長江流域の少数民族神話にあることを、多くの実例をあげて明らかにした。同じことが、オナリ神についてもいえるのではないか。

東南アジアに、日本の神話や習俗と類似するものがのこっているのは、多くの場合、中国大陸から左右対称にせり出していったものの、末端残留現象として説明できるのである。

オナリ神信仰をアジア起源とすると、説明のつかないことがある。

沖縄のオナリ神信仰と相似の信仰が本土日本のヒメ・ヒコ制である。もしオナリ神が東南アジア起源なら、本土のヒメ・ヒコ制も東南アジア起源となるのであろうか。

ヒメ・ヒコ制は、すでに説明したように、兄弟と姉妹が政治と神事を分担する統治の形態である。一般に、「地名+ヒメ」と「地名+ヒコ」の名を持つ男女が、一対となって、その地域を支配する原始的な王権のあり方であった。具体例は、『日本書紀』神武天皇即位前紀のウサの国の祖先ウサツヒコとウサツヒメを始め、日本の古代にかなりの数拾い出すことができる。その原型は、卑弥呼とその弟の関係にまでたどり着くことができる。あきらかにオナリ神信仰に一致する。

ヒメ・ヒコ制は女性の霊力に対する信仰である。このような信仰は、中国南部に過去もいまも広がって存在する。

女性が霊力を持つと信じられる理由の一つは、神がかりによる特殊な予知能力を身につけているからである。憑霊型の女性シャーマンである。日本の古代の女王であった卑弥呼、壱与、神功皇后、飯豊女王の四名ともにあきらかに憑霊型の女性シャーマンであった。長江流域には、神が巫女の身体に宿るシャーマニズムの憑霊型が盛んであり、日本の古代の巫女の女王の源流は、長江流域に存在する可能性が考えられるのである。

このようにのべてくれば、邪馬台国や卑弥呼が単なる中国歴史書の著者が創りあげた架空の物語などでないことは明らかである。古代日本に実在した国家制度の正確な記述である。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html


諏訪春雄通信 855回 (2019年5月13日更新) 
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Y 日本の女帝


倭人=越人の習俗

「倭人伝」とあるように、邪馬台国は倭人が創った国であった。倭人の故郷は長江流域である。倭人はまた越人(えつじん)とよばれたこともあり、さまざまなきっかけで朝鮮半島南部、日本、台湾、ベトナムなどに、居住地域を広げていった。

従って、彼らの習俗や信仰は長江流域から、彼らが伝えたものと断定することができる。『魏志倭人伝』が記す邪馬台国の倭人の習俗は、魚を獲る生活、すぐれた航海術、刺青(いれずみ)、断髪、蛇や竜に対する信仰、貫頭(かんとう)衣(い)(すっぽりかぶり頭だけ出す袋型の衣装)、歌垣(うたがき)や妻問い婚、一夫多妻制などであった。これらはすべて、長江流域に広がって住み、古代越人の子孫といわれる少数民族社会に、かつて存在したか、現在も見ることのできる習俗である。

長江南部の女性巫女

ヒメ・ヒコ制は女性の霊力に対する信仰である。このような信仰は、中国南部に過去もいまも広がって存在する。

女性が霊力を持つと信じられる理由の一つは、神がかりによる特殊な予知能力を身につけているからである。憑霊型の女性シャーマンである。日本の古代の女王であった卑弥呼、壱与(いよ)、神功皇后、飯豊(いいとよ)女王の四名ともにあきらかに憑霊型の女性シャーマンであった。長江流域には、神が巫女の身体に宿るシャーマニズムの憑霊型が盛んであり、日本の古代の巫女の女王の源流は、長江流域に存在する可能性が強い。

神功皇后  『古事記』『日本書紀』

一例として神功皇后をみる。

『古事記』仲哀天皇の箇所に次のようにある。

皇后の息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)は、昔、仲哀天皇が西国巡幸なさった時に神がかりをなさった。天皇が筑紫の香椎の宮においでになって熊襲を討とうとなさった時、天皇は神を招き寄せるためにお琴をお弾きになり、武内宿禰大臣は神託を受ける庭にいて、神のお告げを求めた。すると皇后が神がかりして神の言葉を告げられた。

また『日本書紀』仲哀天皇八年九月には

 天皇熊襲征討を群臣に相談された時に神が皇后に乗りうつって神託がある。

とあり、同書神宮皇后摂政前紀九年三月には

 皇后神主となり、武内宿禰に琴を弾かせ、中臣烏賊津使臣(なかとみのいかつのおみ)を審神者(さにわ)にして、神の声を聴く。

とあり、同書神宮皇后摂政前紀九年十二月一書には

 皇后、琴を弾き、神がかりして託宣する。

と記述されている。これらの記事によると、神功皇后は自ら神がかりして託宣を告げるシャーマンである。しかし、『日本書紀』神功皇后摂政前紀九年三月には「神主」とあって祭司でもあった。祭司とシャーマンの区別のなかったことがあきらかである。

稲作民族の女神信仰

チワン族の神話では、人類を生んだ母神は洛甲(らくこう)とよばれる母神である。布洛陀(ふらくだ)とよばれる男神と結婚し、分業して地と天を創った。

リー族では、大地の神を女神(地母)とみなし、毎年の田のすき返しの際に、細心の注意を払って地母を祀っている。また稲魂は稲(とうこう)と稲母(とうぼ)とよばれる夫婦神である。シャーマンには、道公(どうこう)、娘母(ろうぼ)、老人という三種のよび方があり、娘母は女巫のほかに男巫をもこの名でよんでいる。長江流域の男巫が女装する例が多いこととともに、稲作地帯のシャーマニズムが本来は女性の役割であったことに関わる現象である。

トウチャ族では、むかし、混沌から天地を造成したのは、張古佬(ちょうころう)、李古佬(りころう)という二柱の神であった。しかし、この神々も人間を創ることはできず、人間を創ったのは衣羅娘娘(いらろうろう)という女神であった。五穀の神は五穀娘娘とよばれる女神で、五穀を天上からもたらし、農耕を人間に教えた神であった。巫師たちは自分たちを「梯瑪(ていま)」とよぶ。馬死族の神女という意味で、馬は彼らのトーテム(信仰対象)である。

イ族は、収穫後の陰暦十月上旬に、大地の神である地母を祀る地母祭を行なう。地母は大地とイ族の人々、とくに女性の健康を管理している。地母祭は女性の祭りであって、男性が参加することは許されない。参加する女性たちは、三日まえから身を浄める潔斎に入り、男性と別居し、沐浴して祭りを行なう。

また、長江流域でシャーマンの主体を占めていたのは女性であり、男性が関与するようになっても、名称に女性の名を残したり、女装したりする。

中国南部の女性霊力の信仰としてとくに注目されるのが媽姐(まそ)信仰である。媽姐は海上の神、航海の女神であり、その信仰は、中国東海沿岸に始まって、台湾、シンガポール、インドネシア、沖縄にまで広がっている。

媽姐信仰は沖縄のオナリ神信仰とよく似ている。航海に出る男性への女性霊力の加護などの点では相互の交流も推定されるが、オナリ神信仰ほど古く遡ることはできない。十世紀後半に福建省に実在していた巫女の伝承が膨らんだものといわれている。

媽姐信仰自体は新しいが、このような女神信仰の誕生した背景には、中国南部から東海沿岸にかけて広く流布していた航海女神信仰の存在があった。いずれも、航海の安全や豊漁の女神であることに共通性がある。次のような神々である。(川村湊『補陀落』作品社、二〇〇三年)

 

日本  神功皇后 ハナゲ観音 宗像(むなかた)三神 沖ノ島女神 マリア観音 白山比(はくさんひめ) 

韓国  ヨンドン・ハルモニ パリ公主 

中国  媽姐

大嘗祭の本質

大嘗祭の構成は大きく次の二部から成立する。 

A 大嘗宮での新天皇の儀礼 B 宮中での天皇と群臣の饗宴 

Aは女神アマテラスの霊を身につけ、地方の女神を支配する儀礼である。

新天皇の廻立殿の湯浴み、悠紀殿の聖餐・就寝、廻立殿に戻り、主基殿で、悠紀殿と同じことを行う。

湯浴み(禊ぎ)と聖餐(共食)は通常の祭りに同じ。

就寝については以下の四つの説がこれまでに提出されている。

1 亡き先帝と新帝との共寝 折口信夫・堀岡文吉

2 新帝と采女との聖婚 岡田精司

3 死者を葬る喪屋 谷川健一

4 新生児のための産屋 折口信夫・西郷信綱

Bは男性の俗権力の継承である。 

悠紀(東方)・主基(西方)両殿は日本国の象徴であり、全体として南方原理が核心をなし外枠は北方原理で包む儀礼が大嘗祭である。
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諏訪春雄通信 856回 (2019年5月20日更新)
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 Y 日本の女帝



ハニ族新嘗祭フォシージャー 



日本の新嘗祭、大嘗祭に類似する太陽、稲魂が結合した祖霊の祭祀は中国南部の少数民族社会に行なわれている。私の調査した具体例をあげる。まず、ハニ族である。この祭りは次のような特色を備えている。



1 家の祭である。

新嘗の時には家族全員で新穀を食べる。その際、客を招かず、家族以外の人には食べさせない例が多い。また新穀を収めた穀倉は他人に見せようとはしない。



2 女性が主宰する祭である。

 調査した60余の村の内、11の村が「新嘗」は女性家長が主宰すると答えた。男性が主宰すると答えた村は2例であった。



3 新嘗儀礼の中心にあるのは穀霊(稲魂)信仰である。

田畑にいる穀霊を家の中に迎え入れ祖先棚あるいは穀物蔵で休息してもらう。新穀を祖霊、穀霊および天神に供え共食する。新穀を食することは穀霊を食べることに他ならないという観念が今日も残されている。



4 穀霊信仰と祖霊信仰とが結合している。

田畑から迎え入れられた穀霊は祖先棚に安置される。この祖先棚の移動や新設は新嘗の日に行わなければならない。



5 穀霊を保護しているのは聖樹である。

穀霊信仰と聖樹崇拝とは結合している。

 

ハニ族最大の祭は、田植前に行なわれる聖樹祭(アマトゥ)である。稲魂を庇護する天神が聖樹を伝わって降臨すると考えられている。聖樹は村建ての時、村のセンターとして選ばれるものであるが、西双版納(シーサバンナ)では各家で聖樹をもつ村があった。

次はトン族である。



トン族の神嘗祭ジィ・ササセ(聖母祭)



三年ごとの正月一日に小さな祭り、五年ごとの正月一日に大祭がある。聖母は先祖の女神薩歳であり、稲、太陽と三位一体。日本のアマテラスに一致する。儀礼は次のような順序で展開する。



⓵ 聖母を迎える儀礼。

巫師の家の天井裏の祭壇に祀られる聖母の前で祭り開催の許しを乞い、降臨した神霊を鳥竿に載せて村人の待つ広場に移す。聖母のご神体は古傘。



⓶ 聖母と村人の合体。

広場の祭壇に稲束、魚、酒が供えられていて、顔を黒布で覆った八人の男性が巫師の祈祷で神がかりとなって稲束をむさぼり食べる。



B ガ・ゲン。 芦笙舞(ろしょうまい)。

長老を先頭に男性若者が歌舞を演じる。



C ドゥーエィ。男女掛合の歌舞。



この祭りの基本構造は、太陽神、稲魂、女神の三位一体の祖先神を迎え、神と子孫が一体となって稲を共食し、賛美と感謝の歌舞ののち、神を送り返すことにある。


Z 女性演技





アジアの女巫芸能



越南(ベトナム)河内安腐12号の安寿廟。ここで演じられた母道とよばれるシャーマン儀礼である。母道は主役の女性が神前で多様な役柄を演じる。女性はもちろん、男性にも扮する。そのために各種の小道具、武具の類がおいてある。変身は布のなかで介添えが手伝って行われる。神前に用意された幾通りもの衣装を着替え、依りつくものの種類と性格を踊りと演技で表現する。それにつれて男性たちの演奏する音楽も変化する。一つの役が終わるとタバコを吸ってトランスを表現して変身する。



母道はベトナムの祖先神了幸母神を信仰する巫女集団をさしたが、のちに芸能化した。神前で衣装も着替え、歴史上の人物、老若男女の各種の役を、演じてゆく。その演技と舞踊は洗練されていて、人気のスターには追っかけもつく。複数の女性が出演し、休憩時間には菓子も場内に配られる。


この地には、ベトナム人がふかく信仰している女神了幸(柳杏とも記す)聖母の生まれ故郷で、墓がある。歴史上の実在とされる一方、中国道教の最高神玉帝の恋人とも娘とも信じられている。民族の祖先の女神でしかも歴史上の実在とも信じられている点は、日本の皇室の祖先神アマテラスとも通じる。母道は了幸聖母を信仰する巫女の祭祀芸能である。しかし、芸能化が進み世間的に成功した女性が、経費を自分で負担し、神社に奉納する。神がかりすることもないし、神のことばを伝えるえることもない。祭祀の形はとっても、彼女は俳優でもあり、スターでもある。一番の役が終ると頭から布をかぶって変身の過程に入る。狭い幽暗の場所に籠ってての再生である。身体に新しい神がやどり、彼女はその神になりきる。しかし、トランスに入っているわけではなく、すべては意識的に整序されている。



ハノイ市内で見学したベトナムの伝統演劇「嘲戯」。洗練された所作、歌舞、せりふで、時代の政治権力や腐敗した宗教権威などを痛烈に風刺する。使用されている言語は現代ベトナム語にかなり近いという。女性中心の構成で男性はもっぱら道化役でやりこめられる。市内のホテルの一室のようなせまい場所で演じられ、観客席は日本の能舞台と同じく三方から舞台をかこんでいた。楽器は、大太鼓、小太鼓、笛、銅鑼、弦楽器など。演技を終えた役者が楽屋に引っ込むことなく、舞台奥に並んで座って、合唱に加わり、次の出番を待つのも、日本の能舞台に似ている。シャーマニズムの祭祀儀礼から演劇が誕生・進化したという観点に立つと、この演出法は、中国各地やベトナムで見た、神仏(トランス、仮面)、サニワ、音楽、介添えなどの各役を巫師が交代でつとめる儀礼形態に従っていた。



ベトナムとの国境の町、広西チワン族自治区の南山村のチワン族の女巫李鳳招(当時44歳)。チワン語でメバ(女仙)とよばれる。3年の巫病にかかって、巫となる。妹がサニワで、よりつく神は男女さまざまであるが、神名は不明という。商売人たちがベトナムの国境を越える私的なルートがあり、彼女は、かなり自由にベトナムに入って、巫業を行なっている。鈴を鳴らし、弦を弾くうちに神がかりし、鈴を振りながら踊りだした。音楽が、神をまねく依代の一種であることを実感させられた。音にのって神は出現する。



浙江省奉化市桐照郷尹家村の巫女。共産政権下、巫は迷信として存在しないはずであるが、事実は、民衆に浸透して大きな影響力をふるっている。人口300人のこの村には、僮聖とよぶ男巫が一名、巫婆とよぶ女巫が11名もいた。その一人、もっとも評判の高い巫婆が写真の程桃意41歳。結婚して子どもが2名いる。29歳で神の招きの巫病にかかり、全身脱毛し食事も喉を通らない苦しみを体験して、33歳で巫女となった。巫女となってから7年あまりのあいだに5万人もの信者が、病の治療、占いなどに訪れたという。彼女は信者の願いを9割がた満足させ、活き神仙、活き菩薩と呼ばれた。多くの巫女は、タバコ、または線香の煙を吸ってトランスに入るが、彼女の場合、口のなかで「神よ、わが身に宿り給え」ととなえるだけで、あくびをしはじめ、蒼白となって憑依状態になる。託宣は、直接、彼女の口から告げられるが、紙に詩や文字を書いて伝えられることもある。神が去るときもグオゥと奇声を発してあくびをする。



湖南省麻陽苗族自治県の苗族女シャーマン 

 私の友人のトン族の民俗学者林河氏が占ってもらう。その後私も占ってもらったが勝手がちがったらしく的中率は3割くらい。

 覆面を脱いで占いの結果をのべる。
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89. 中川隆[-9094] koaQ7Jey 2019年7月14日 08:00:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3596] 報告
天皇家は推古朝以降 江戸時代までずっと仏教徒だった


廃仏毀釈について - 内田樹の研究室 2019-05-29
http://blog.tatsuru.com/2019/05/29_0925.html


 昨日の寺子屋ゼミで「廃仏毀釈」についての発表があった。いくつかコメントをしたので、備忘のためにここに書き留めておく。

 神仏分離・廃仏毀釈というのは不可解な歴史的事件である。すごく変な話なのである。歴史の教科書では「合理的な説明」がよくなされているが(水戸学が流行していた。明治政府が欧米列強に伍するためにキリスト教に対抗して国家神道を体系化するために行った。江戸時代の寺檀制度に増長した僧侶の堕落のせいで民心の仏教から離反していた・・・などなど)、どうも腑に落ちない。

 神仏習合というのはそれ以前にすでに1300年の伝統のあるほとんど土着した日本の宗教的伝統である。それを明治政府の発令した一篇の政令によって人々が軽々と捨てられたということがまず「変」である。この人たちにとって、千年を超える宗教的伝統というのはそんなに軽いものだったのか?

 神仏分離令の発令は慶應四年(1868年)である。「五畿七道諸国に布告」して、「往古ニ立帰リ」「普ク天下之諸神社、神主、禰宜、祝、神部ニ至迄、向後右神祇官附属ニ被仰渡候」という祭政一致の方針が示される。

 次に神社に対して「僧形ニテ別当或ハ社僧抔ト相唱ヘ候輩ハ復飾被仰出候」という命令が発された。社僧とは神社に勤める僧侶であり、別当は寺院と神社が一体化した神宮寺の責任者である僧のことである。この人たちに「復飾」(還俗)して、神職に奉仕するように命じたのである。

 驚くべきは、この命令に対して全国の社僧・別当たちが特段の抵抗もなく従ったということである。「長いものには巻かれろ」という処世術が宗教界に徹底していたのか、それとも「神と仏といい ただ水波の隔てにて」という血肉化した神仏習合マインドのせいで寺で読経しようと神社で祝詞を上げようと、同じことだということだったのか、私にはわからない。

 そのあと仏像をご神体としていた神社に対しては仏像仏具仏典の類を「早々ニ取除」くことを命じた神仏判別令が出された。

 それまで神宮寺の多くでは仏像をご神体に祀っていたのである。

 この「特段の抵抗もなく」というのが不思議なのである。

 ありうる説明としては、神仏分離の当初の意図が「宗教の近代化」であり、すべての制度が「近代化されねばならぬ」ということについて明治初年の民衆たちも「まあ、公方さんもいなくなっちゃったし、なんかそういう潮目みたい」というふうに感じ取っていたからだ、ということがありうるかも知れない。歴史の滔々たる流れに逆らっても仕方がないんじゃないの、と。それくらいの歴史感覚は一般民衆にもあったのかも知れない(わからないけど)。

 ターゲットになったのは寺院だけではない。最初に発令されたのは六部、虚無僧、山伏、梓巫女、憑祈祷、狐下しなどの「前近代」的な遊行の宗教者の禁止だった。加持祈祷、オカルト、ノマド的宗教者が「まず」禁止された。そういう「前近代的な宗教のかたち」の徹底排除が近代国家の心理的基礎づけに必要だったと明治政府が判断したのである。

 だから、そのあと明治40年代になると、今度は神社合祀令が出て、「前近代的な神道」が排除されることになる。これについては南方熊楠がはげしい反対運動を展開したので、記憶されている人もいると思うけれど、全国20万社のうち7万社が廃されるというすさまじい「神社整理」であった。

 神道の国家統制を実施するためには、神社を公費で運営する必要がある。しかし、神社の数が多すぎて管理コストがカバーできない。だから小さい神社は(氏子たちがどれほど信仰していようと、どのような貴重な祭祀や芸能が伝えられていようと)、コスト削減のために統廃合するという政府の態度のうちに「神道に対する敬意」を見ることはむずかしいだろう。

 だから、国家神道というのは別にある種の宗教性の価値が高騰したということではなく、端的に「宗教的なものを政治的利用価値だけをものさしにして格付けした」ということに過ぎないのだと思う。
 
 もう一つあまり指摘されないことに天皇家はもともと仏教徒だという事実がある。

 京都東山の真言宗泉涌寺は13世紀に四条天皇の葬儀が行われて以来、天皇家の菩提寺に近い機能を果たしていた。江戸時代の歴代天皇皇后は後水尾天皇から孝明天皇まで全員が泉涌寺に葬られている。当然歴代天皇の位牌もここにあり、僧たちが読経してその菩提を弔っている。明治天皇の父である孝明天皇の葬儀は仏式で行われている。今でも歴代天皇の祥月命日には、皇室を代理して宮内庁京都事務所が参拝している。

 だから、天皇制=国家神道という図式が成立するのは、慶應四年の神仏分離令からさきの敗戦までの77年に過ぎないということになる。日本の天皇制の全歴史のうちの77年だけである。それを126代の歴代天皇がすべて神道の祭主であったと信じている人あるいは信じているふりをしている人が天皇制の支持者・反対者のいずれにも多い。これは天皇制という制度の複雑さを捨象して、問題をシンプルで、ハンドルしやすいものにしようとする態度の現れだと私は思う。

 つねづね申し上げている通り、複雑なものは複雑なまま扱うのが知的に誠実な態度だと私は思っている。複雑な仕組みをわかりやすい図式に縮減して、敵味方に分かれて罵り合うのは知的には不毛なことである。それよりは、素直に「なんだか一筋縄ではゆかぬものだ」と認めて、いったん理非正邪の判定を「かっこに入れて」、ほんとうのところは歴史的事件として何が起きたのか、ほんとうのところその歴史的事件の意味は何であるのかについて冷静に問うということが必要ではないのか。

 廃仏毀釈について腑に落ちないもう一つのことは、熱狂的な廃仏運動はかなり短期間で終息し、やがて寺院が再興され、人々が寺院に参詣するようになったということである。廃仏毀釈運動は慶應四年に始まり、明治三年にピークを迎え、明治九年にはほぼ収まった。なんで、そんなにあっさり終わってしまったのか。

 1300年続いた神仏習合という宗教的伝統をほとんど一夜にして弊履の如くに捨て去った熱狂が10年も続かなかった。この非対称性がよくわからない。それほどまでに仏教の檀家制度が憎く、僧侶の腐敗が許し難いものであったら、あるいは明治政府の宗教統制が厳格なものだったら、10年で廃仏運動が「収まる」わけがない。でも、あっさり終わってしまって、誰もその話をしなくなった。

 だから、今の日本人は「神仏習合」についても「神仏分離」についても、よく知らない。

 習合という宗教現象は他の宗教でもあることだから、理解はできる。けれども、それを一度暴力的に分離してみたら、さしたる抵抗もなく実現され、にもかかわらず数年でなんとなくそれも尻すぼみになり、それから100年経ってまたじりじりと神仏習合に戻っているという現象はうまく説明ができない。

 私が毎年参拝している羽黒山はもともと神仏習合で、本尊は聖観音菩薩だったが、神仏分離で山上の仏像仏具は捨てられ、ご本尊はご神体に入れ替えられた。そのときに酒田の篤志家が棄てられたり、焼かれたりした仏像を拾い集めて、自宅の蔵に保存していた。それを最近になって「もともと羽黒山のものだから」というのでその子孫が返却を申し出てきた。羽黒山はそれを嘉納して、二年ほど前に「千仏堂」という建物を本堂の横に立てて、数百体の仏像を安置している。神社の中に寺院があるという神仏習合の「ふつうのかたち」に戻ってきたのである。

 この神仏習合の「復古」趨勢に対してはいずれファナティックな神道系の政治組織から「やめろ」という攻撃が始まる可能性があると私は予想している。そのときにわれわれは明治初年に神仏分離をドライブしたイデオロギーと心性の現代における「アヴァター」を見ることができるかも知れない。

 「廃仏毀釈」に付随したさまざまな事件のうち、記憶しておいてよいトリビアがあるので、それを最後に列挙して話を終えたいい。

(1)廃仏毀釈にもっともはげしく抵抗したのは浄土真宗であった。県内のほぼすべての寺院が廃寺となった鹿児島でも、浄土真宗だけは廃仏の運動が下火になるやたちまち全県に布教を行い、廃寺の再建に取り組んだ。江戸時代に真宗門徒が弾圧されたときに「隠れ念仏」活動をしていた「抵抗の伝統」が生き残っていたのであろう。

(2)最も苛烈な廃仏運動を指揮した一人は、松本の知藩事であった戸田光則。戸田は将軍家の血筋を引き、松平姓と葵の家紋を許された親藩だったが、戊辰戦争が始まってから、勤王か佐幕か最後まで迷った末、新政府軍が中山道を通過する時点でようやく腹をくくって新政府についた。この日和見主義に対する新政府からの不信を解消するために戸田は廃仏毀釈に異常な熱意を示したのである。彼はまず戸田家の菩提寺を破壊するところから始めたのである。

(3)もう一人は京都府知事だった槇村正直。長州藩士で木戸孝允に重用された人物である。京都の文化的伝統にまったく関心がなかった槇村はきわめて熱心に廃仏運動に取り組んだ。まず神仏習合の祇園社感神院を八坂神社に改組し、本地仏の薬師如来を撤去。北野天満宮は北野神社に改名され、境内の寺院はすべて撤去解体された。彼は五山の送り火も地蔵盆も盆踊りも禁止したのである。それがどういう経緯で、どういう言い訳で復活したのか、誰か知っていたら教えて欲しい。

(4)興福寺は廃仏運動の被害がもっとも大きかった寺である。興福寺は春日大社と一体化していたが、分離され仏像仏具教典が棄てられた。五重塔も民間に売却され、金属だけを取り出すために買い主が火をかけようとしたが、延焼をおそれた近所の住人に制止されたおかげで焼けずに残った。いまは国宝である阿修羅像も運慶作とされる無著・世親像も金堂の床にうち捨てられていた。その惨状については、前に釈先生と興福寺に聖地巡礼に参ったときに詳しく伺った。

(5)伊勢には御師(おし・おんし)と呼ばれる「宗教者兼観光案内人」のような人がいた。自分の家を宿坊として参拝者を宿泊させ、聖地を案内し、伊勢暦や神札を売り、加持祈祷も行った。御師の職業的な特徴はそれぞれが自分の「檀那」を有していたことである。江戸時代には伊勢に御師2000人がいて、宿坊600軒があった。当時の伊勢詣では年間300万人、檀那総数は400万軒。

 という話を読んで、羽黒山伏のことを思い出した。羽黒山もかつては山伏が営む宿坊が300軒あり、それぞれの宿坊には「檀那」となる人々がいた。農閑期になるとその町村の人たちが「講」をつくって、連れ立って羽黒を訪れ、山伏の先達で三山で修験場を訪れ行をおこない、遊びながら故郷に帰った。羽黒に雪が降り山に登れなくなると、山伏たちは里に下りてその「檀家」を巡歴して、加持祈祷を行い、お札を売った。伊勢御師と同じである。

 あるときは定住する信者のもとを移動する宗教者が訪れ、あるときは定住する宗教者のもとを移動する信者が(聖地巡礼と観光旅行を兼ねて)訪れる。このような宗教と観光、行と娯楽の癒合したかたちは、前近代の日本に広く見られたようで、出雲大社、富士山、熊野などにも御師がいて、各地の檀那たちと密接な「師檀関係」を結んでいた。

 慶應四年の神仏分離令では山伏と御師がまっさきに弾圧の対象となった。羽黒山伏は宿坊が10分の1になったけれど、いまも残っているが、伊勢御師は明治初年に途絶えた。いったい、神仏分離令は何を圧殺しようとしたのかがここからよく知られる。

*神仏分離についての上の記述は

『仏教抹殺 なぜ明治維新は寺院を破壊したのか』(鵜飼秀徳、文春新書)、『神々の明治維新』(安丸良夫、岩波新書)、
『廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち 廃仏毀釈百年―虐げられつづけた仏たち 』佐伯恵達、みやざき文庫)

に多くのご教示を得たものであることを謝意とともに記しておく。
http://blog.tatsuru.com/2019/05/29_0925.html

90. 中川隆[-14900] koaQ7Jey 2019年11月15日 12:20:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1992] 報告
「大嘗祭」の秘密の儀式とは! 新天皇が寝座のある部屋に一晩こもり…秋篠宮は“宗教色”の強さを指摘し国費支出に異議
https://lite-ra.com/2019/11/post-5090.html


2019.11.14 「大嘗祭」に秘密の儀式が!新天皇が寝座のある部屋に一晩こもり… リテラ

    
    平成の大嘗祭(神社本庁HPより)


 本日14日から15日にかけて、天皇の代替わり儀式のなかで最重視される「大嘗祭」が行われる。大嘗祭は、代替わりした天皇が初めて行う「一世一度」の新嘗祭。その内容の多くは非公開で行われるが、これまでの研究から、その実態は一連の代替わり儀式のなかでもとりわけ宗教色が強いことがわかっている。

 だが、国民主権や政教分離の原則に反する大嘗祭の問題に、安倍政権はまったく触れぬまま進めてきた。いや、テレビなどのマスコミも表層的な解説でお茶を濁すばかりで、正面から大嘗祭を論じることはほとんどない。

 だとすれば、本サイトがその本質をあらためて伝えておく必要があるだろう。

 まず言っておかねばならないことは、大嘗祭の実相は単なる「豊作を祝う農耕儀礼」ではなく、明らかな「宗教儀式」である、ということだ。

 明治新政府がクーデターで幕府を倒した後、日本の政治支配層は「世界で唯一の天皇を中心とした神の国」という思想を国家神道として体系化し、国民支配の基盤にした。その流れで、天皇神格化と国家神道を徹底するために旧皇室典範と登極令をつくり、それまで国民の知らないところでこじんまりと行われていた皇室祭祀を大々的に執り行うようになった。つまり、大嘗祭を大きくクローズアップすること自体が、政治権力の作り上げる「祭政一致」のイメージ装置であったのだ。明治以来の日本政府は、皇室の宗教性を表に出すことで国民の支配に利用したわけである。

 しかも、だ。大嘗祭は、新たな天皇が皇祖神とされる天照大神(アマテラスオオミカミ)らに穀物を供え、新天皇自らも口にすることで豊穣と国民の安寧を祈る儀式と説明され、半年以上前から当日にかけて、多岐にわたる儀礼が執り行われる。だが、そのなかには具体的な内容がまったく明かされていない儀式がある。

 それが、これまでの大嘗祭研究で注目されてきた、霊的・性的な意味合いをもつ“秘密の儀式=秘儀”の存在である。

 本祭の夜、新天皇が大嘗宮の悠紀殿および主基殿に籠ってなされる儀式のことだ。一般参列者はもちろん報道関係も完全にシャットアウトされたなか、天皇は11月14日夕方から翌15日未明まで、ふたつの殿の内陣に合計8時間にわたって引きこもる。

 このとき、新天皇は供えた新稲をアマテラスと一緒に食す〈共食〉の儀を行うと説明されるが、この共食の儀は、悠紀殿と主基殿で二度繰り返されることを除けば、毎年の新嘗祭と同じだ。しかし、それではどうして大嘗祭が特別な皇位継承儀礼であるかの説明がつかない。

 そして着目されたのが、内陣の構造だ。両殿内部には天皇と神の席がしつらえられており、ここで対座して〈共食〉をすることになっている。ところが、これが中心儀礼の割には部屋全体から見ると片隅に追いやられており、内陣の中心・大部分を占めるのは八重畳(やえだたみ)の寝座なのだ。そしてこの寝座を使って〈秘儀〉が行われている、というのが最も有力な説として浮上してきたのである。

 言っておくが、寝座を使った秘儀の存在は、都市伝説として語られているわけではない。神道や歴史学の分野でも本格的に議論されてきたものだ。その先鞭をつけたのが、民俗学の権威で、戦前は国家神道の強化にも多大な影響を与えた折口信夫である。

 折口は大嘗祭がおこなわれた昭和3年の前後にかけて、自身の天皇論と大嘗祭に関する論考を積み上げていった。それらのテーマを総合的にまとめたのが、昭和5年に発表された「大嘗祭の本義」だ。折口はこのなかで、寝具を天孫降臨神話で瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)がくるまって地上に降り立ったとされる「真床覆衾(マドコオフスマ)」に見立て、天皇が布団にくるまる儀式の存在を唱えた。

■折口信夫が指摘した「前天皇との同衾」「性の解放」の儀式の存在

 折口がこの見立てに不可欠な要素として持ち出したのが、「天皇霊」という概念だ。折口によれば、〈天子様の御身体は、魂の容れ物〉であり、天皇はその魂(「天皇霊」)を受け入れることで完全な天皇として「復活」する。すなわち折口は、天皇の権威をほかならぬ「万世一系」の「血筋」ではなく、「肉体を入れ替えて復活をとげる霊魂」という超越的存在の継承によって説明しようとしたのだ。

 折口は「真床覆衾(マドコオフスマ)」「天皇霊」に付随して、「先帝同衾」という説も唱えている。これは前天皇の亡骸と新天皇の肉体というふたつの〈御身体〉を〈一つの衾で覆うて〉、復活のための儀式を行ったというものだ。折口によれば、古代には生死を明確にする意識がなく、平安期でも生死がはっきりしなかったので、「天皇霊」が前の身体に戻るか別の身体に移るかを確認する必要があった。そのための「同衾」だという。

 折口の説はその後、発展されるかたちで、さまざまな論考を生み出した。その一つが「聖婚儀礼」だ。あけすけにいえば、大嘗祭の夜、天皇による性行為が行われるという説である。

 大嘗宮の悠紀・主基両殿に入ることが許される人間は極めて限られる。その内構造は大きく二つにわかれており、御座と神座がある内陣(「室」という)には、天皇以外に「采女(うねめ)」という身の回りの世話をする女官の代表ひとりしか入れない。日本史学者の岡田精司氏らは、この采女を性行為の相手と見た。地方豪族から貢上された采女と「聖婚」することで服従を誓わせる儀礼があったのでないかと推定したのである。

 また、折口は、悠紀・主基両殿以外での性的な儀式の存在を指摘している。大嘗祭において、天皇は悠紀・主基両殿に籠る前に、廻立殿という併設の殿舎で「大忌の御湯」「小忌の御湯」と呼ばれる二度の沐浴=聖水儀礼を行うことで「穢れ」を払うという。史料によれば、この沐浴時に天皇は「天羽衣」を着用したというのだが、折口は〈元来、褌即、下紐は、物忌みの為のものである〉などとして、なんと、天羽衣とフンドシを結びつけた。そして〈物忌みの褌を締めて居る間〉は〈神秘たる霊力をして発散させぬ為〉の〈極端なる禁欲生活〉だとし、その〈解放の時〉が〈性の解放〉であると見立て、こう続けている。

〈天子様の場合には此湯の中の行事の、一切の御用をつとめるのが、処女である。天の羽衣をおぬがせ申し上げるのが、処女の為事なのである。そして羽衣をおとりのけさると、ほんとうの霊力を具へた、尊いお方となる。解放されて、初めて、神格が生じるのである。〉(「大嘗祭の本義」)

■平成の大嘗祭でも秘密のうちに執り行われた主紀殿、悠紀殿の儀

 ちなみに、御所には「内掌典」と呼ばれる処女の巫女がおり、その内掌典がこの「大忌の御湯」「小忌の御湯」に立ち会うとされてきた(実際、昭和天皇の代には、本当に若い頃からずっと俗世界と関係を絶った4人の女性が御所に住んでいたが、その後、交代制になった)。

 しかも、ここで指摘しておかなければならないのは、かくも異様な儀式の存在を述べた折口の説を当時、当局が容認していたという事実だ。前述したように、折口が前後に天皇論・大嘗祭論を展開した昭和3年は、大嘗祭の実施年であったと同時に、治安維持法の最高刑が死刑へ改められた年であり、「三・一五事件」と呼ばれる共産党への大弾圧も行われた。

 ところが、折口の説は取締の対象とならなかっただけではなく、当時、国家神道推進の中心人物によって堂々と紹介されてもいる。近代神道の創始者であり、内務省神社局考証課長でもあった宮地直二が東大の神道講座で「天皇霊」論を講義したのである。

 もちろん、大嘗祭に、折口らの主張する秘儀があったとしても、途中からは、実際に性的行為や前天皇との同衾が行われていたわけではなく、模擬儀礼として行われているだけという可能性が高い。

 また、民主主義下で初めて行われた平成の大嘗祭では、海外メディアが秘儀をめぐる報道を繰り広げたことを政府が憂慮。わざわざ宮内庁が事前に会見で「(大嘗祭に)特別な秘儀はなく、特別な御告文にもそのような思想はない」と否定した(ただし、折口が性的儀式の存在を指摘した「大忌の御湯」「小忌の御湯」の儀については、会見で具体的内容について質問がとんだものの、宮内庁は説明を拒否している)。

 しかし、その平成の大嘗祭にしても、大正や昭和の大嘗祭とまったく同じように、長時間、徹底して秘密裏に執り行われたことは事実だ。

■秋篠宮は大嘗祭の“宗教色”を指摘し、国費でまかなうことに疑義

 平成の大嘗祭を取材した元朝日新聞皇室担当記者でジャーナリストの岩井克己氏は、当時のことを〈午後五時過ぎから午後九時過ぎまで約四時間にわたって天皇の悠紀殿の儀が行われたが、殿内での天皇の「秘儀」はもちろん、廻廊を歩む姿も諸役の動きも全く見えない。奏されたという神楽歌など楽部の奏楽もほとんど聞こえず、ただひたすらじっと座って寒さを我慢しただけで終わった〉と振り返っている(「選択」2014年1月号)。

 今回も、殿内での儀式は当然のように非公開にされている。政府は大嘗祭を「国事行為」ではなく「皇室の行事」と位置付けることでお茶を濁すと同時に「公的性格がある」という二枚舌を使う。その費用は宮廷費つまり公費から支出されることにかわりはなく、大嘗祭だけで約24億4000万円が費やされる予定だ。

 むしろ、その宗教性と国民主権・民主主義の“本質的な不和”については、現在の皇室のほうが自覚的ですらある。昨年、秋篠宮文仁親王は誕生日に際した記者会見で、「宗教色が強いものを国費でまかなうことが適当かどうか」などと公に疑義を呈した。

「大嘗祭については、これは皇室の行事として行われるものですし、ある意味の宗教色が強いものになります。私はその宗教色が強いものについて、それを国費で賄うことが適当かどうか、これは平成の時の大嘗祭の時にもそうするべきではないという立場だったわけですけれども、そのころはうんと若かったですし、多少意見を言ったぐらいですけれども。今回も結局、その時を踏襲することになったわけですね。もうそれは決まっているわけです。ただ、私として、やはりこのすっきりしない感じというのは、今でも持っています」

 だが、宮内庁は「聞く耳を持たなかった」という。秋篠宮文仁親王は記者会見で「そのことは私は非常に残念なことだったなと思っています」とまで踏み込んでいたが、結局、安倍政権は皇室が懸念する「宗教色の強い皇室行事」をなし崩し的に、事実上の国家行事にしてしまった。

 いずれにしても、大嘗祭の宗教性は明らかにもかかわらず、なし崩し的に本番を迎えようとしている。大嘗祭をめぐる国民主権と民主主義、そして政教分離の原則の議論は深まらないままだ。政治権力が天皇と皇室を国家神道に組み入れることで国民を支配した、明治から終戦までの大日本帝国。この国の政府と有権者は、いったい、いつまで“戦中”を引きずるつもりなのだろうか。

91. 中川隆[-16151] koaQ7Jey 2021年7月19日 18:59:05 : a9KMys6j82 : RE9WUkNHM2x0dGs=[14] 報告
【ゆっくり解説】小室圭と眞子さまの肉体関係はあった!?行為に及んだ場所に全国民大激怒!?
2021/07/02





【目次】
0:00 オープニング
1:02 眞子様とは?
2:07 眞子様の御成婚が国民から祝福されていない理由は、K室Kの母にアリ
3:52 婚前の性行為はOK?
4:44 天皇家の性行為のしきたり
7:42 天皇家はどこでヤる?
8:44 K室Kの性癖
9:47 まとめ&エンディング

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