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コーランとハディース(預言者ムハンマドの言行録)
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/907.html
投稿者 中川隆 日時 2017 年 12 月 09 日 19:31:24: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 狂った宗教 イスラム教 _ 頭がおかしいのは中国人と朝鮮人だけではない 投稿者 中川隆 日時 2012 年 9 月 15 日 19:12:32)


聖クルアーンとハディース _ コーランとハディース(預言者ムハンマドの言行録)
http://islamjp.com/library/quranhadith.htm


一、序言

 四十才に達した頃、ムハムマド(彼の上に平安あれ)はその正直さと親切心により、出生地メッカの住民に信頼され広く愛されていた。愛する妻子に囲まれた楽しく恵まれた生活ではあった。そこにはしかし、心の焦だちが一抹の影を落していた。人生と宇宙の神秘について悩み、多神教徒の下劣な慣習と偶像崇拝、同族の一般的木道徳と堕落などにうんざりしていたのだ。そこで彼はメッカに近いヒーラの洞穴にこもるようになった。ある夜のこと、一人の天使が出現し「読め」と命じた。おそれおののいた彼は「読むことができません」と答えるが、天使はまだ「読め」と云う。同じ答えを返すと天使は彼を強く抱き、そして云った。

 読め、創造したまえる方なんじの主のみ名によって。一凝血(ぎょうけつ)から、人間をつくりたもうた。読め、なんじの主は、こよなく尊貴であられ、筆によって教えたもう方。何も知らなかった人間に、教えたまえる方であられる。(聖コラーン九六章一1五節)

 この言葉を最初として、西暦六一○年に預言者ムハムマド(かれに平安あれ)に対する聖クルアーンの啓示が始まったのである。神の啓示は、彼が預言者として生き、西暦六三二年に世を去るまでの二十三年間にわたって続き、次の節で終っている。

 われは今日ここに、なんじらに対するわが恵みを全うし、なんじらのための教えとして、イスラームを選んだのである。(聖コラーン五章三節)

 この最初から最後までの神の啓示は、一冊の本となり、世界の歴史に基本的かつ重大な影響を与えてきたのである。他のいかなる本も、これほど多くの人々にこれほど永い年月にわたって、人間の基本的な疑念すなわち「人生の目的とは何か」「人生の目的を達成するために人はどのように生きればよいか」などの質問に対して、これほど明解な回答を与えてはいない。クルアーンは神の恵みの究極の表明であり、基本的な導きと根本的な知恵を美しく表わす神の言葉である。


二、クルアーンの編纂と出版

現在使われているクルアーンが最初の原本と完全同一のものであることに疑問の余地はない。イスラーム教徒に限らず、すべてのまじめな学者は今日のコラーンが十世紀前の、ムハンマドが実践し人々に教示した教典そのものであることを確認している。この点はいくつかの観察によって解明できよう。

(1)預言者ムハンマド(彼に平安あれ)は、天使ガブリエルのもたらす啓示を完全に記憶するまで復誦させられ、その啓示の挿入個所を明示された、と語っている。コラーンの章節の配列は、啓示の時期とは関係なく、神の定めた順序に従っている。

(2)預言者は読み書きができなかったので、神の啓示を受けるとすぐ、読み書きのできる教友に記述させた。筆記者が読み返し、預言者の校正を受け、預言者の指示によって啓示は所定の個所におさまったのである。

(3)預言者の時代、一般のアラビア人は文盲ではあったが、同時に大変な文学愛好家でもあった。詩や物語や文学的表現を暗記し、家族や友人の集いにおいて吟唱したり、広く一般のコンテストに発表するのが常であった。同様、教友たちは神の言葉コラーンを暗記し、自分で又はグループで朗唱することに喜びを感じていたのである。(全世界で何百万冊ものコラーンが印刷されている今日でさえ、多くの人がそれを暗誦することに喜ぴを感じている。

 預言者ムハンマドの存命中にクルアーンの全章を暗記していた教友は五人いた。ムアダ・イブン・ジャバル、イバダ・イブン・アルサマット、ウバイ・イブン・カーブ、アブー・アイユーブ及びアブー・ダルダである。

(4)預言者の死後(西暦六三二年)、教友の一人オマルは初代のカリフ、アブー・バクルにクルアーンを一冊にまとめることの急務なることを説いた。そこでアブー・バクルは啓示の主任筆記者であったザイド・ビル・サビットに、クルアーンの全章を集めるように命じた。準備が整ったとき、クルアーンを一冊にまとめるための監修委員会が作られ、ムダール族(預言者の出身コライシュ族もこの支流である)の発音に従うよう指示された。それはクルアーンがムダール語で啓示されたからである。この基本テキストは、クルアーンの全章をそらんじていた五人を含めた多くの教友たちに校正され、完全であると認められた。そして、預言者の未亡人であるオマールの娘ハフサがこれを保管した。

(5)第二代カリフのオマルは、イスラーム圏全土にわたってクルアーンを教えるための多くの学校を設立した。ダマスカスのモスクで教鞭をとったアブー・ダルダは、一人で一六○○人の生徒をもっていたと云われている。カリフは各地区の司令官に対して、クルアーン全章を暗記している者を教師として採用するため、メディナヘと派遣するように命じた。これに対しイラクの司令官サアド・イプン・ワカスは、自分の軍団にはそのような者が三百人もいると回答している。

(6)第三代カリフオスマンの時代になり、クルアーンの発音が辺境の地で、持にアラブ以外の入信者により一部変形されていることが報告された。オスマンはただちに行動を起した。博学の教友たちの意見を聞き、ザイド・ビン・サピットを含む四人の委員会を設け事態の処理に当らせた。当時使われていたクルアーンはすべて回収され、ハフサの保管していたクルアーンの原本の写しと取りかえ、ムハンマド自身の読誦と同一のコライッシュ語で読誦することに決った。コラーンをたやすく読んだり吟唱するために後世になって挿入された正字法の記号は別として、現在印刷されているコラーンは、オスマンとムハンマドの教友たちが西暦六五一年に定めた章節の文字と全く同じである。これらの事実からみて、多くの学者はコラーンを預言者ムハンマドが書きとめさせ、そしてまとめた通りであると結論している。クルアーンには何物も加えられず、何物も削除されず、そしていかなる歪曲もなされていない。それは歴史的な記録であり、たしかにクルアーンの純粋性は神そのものによって誓約されているのである。

 まことにわれこそは、その訓戒を下し、必ずそれを守護する(聖コラーンー五章九節)


三、コラーンの章と節の数

 聖コラーンは一一四の章にわかれており、そのうちの八五章はメッカで、二八章はメディナで聖預言者に啓示されたものである。最も短い章(一○三、一○八及び一一○章)は、それぞれ三節づつ、一番長い章(二章)は二八六節にわかれ、全刊を通しての節数は六二三九節である。


四、クルアーンの中の証言

 聖クルアーンにはその発生、目的及び形式について述べたところも多い。これらを抜枠すると次の通りである。

(1)神の経典(キターブルラー)、神のみ言葉(カラームルラー)、神託(アッズィクルル・ハキーム)そして規範(アル・フルカーン)とみられている聖クルアーンは、神聖で信頼できる精霊、すなわち天使ガブリエルが預言者ムハンマドにアラビア語で伝えた神の言葉である。

まことにこれは、よろず世の主からの啓示である。忠誠真実な精霊が、それを持って下り、なんじの心に下された、それでなんじは警告者であろう。明りょうなアラビア語で下されたのである。(聖クルアーンニ六章一九二〜一九五節)
言え「聖霊が真理をもって、なんじの主から啓示をもたらして来たのほ、信仰するものを強固にするためであり、またムスリムたちへの導きであり吉報である」(聖クルアーンー六章一○二節)

 われは、アラビア語のクルアーンを下した、おそらくなんじらは理解するであろう。(聖クルアーンー二章二節)

(2)神託は平易な言葉で伝えられている。

 まことにわれは、理解(と記憶)のためにクルアーンを容易にした、たれかさとされる者があるか。(聖クルアーン五四章一七節)
 われはクルアーンを、なんじの舌にまことに容易にした、おそらくかれらは、さとされるであろう。(聖クルアーン四四章五八節)

(3)クルアーンは神のみ言葉であるから、いかなる部分も真似て作ることはできない。

 もしなんじらが、わがしもべ〈ムハンマド〉に下した啓示を疑うならば、それに類する一章を作ってみよ。もしなんじらが真実なら、アッラー以外のなんじらの証人を呼べ。もし、なんじらができないならば、いやできるわけもないのだが、それならば、人間と石を燃料とする火獄を恐れよ。(聖クルアーンニ章二三〜二四節)

 クルアーンの章の中には、わずか三節しかないものもあることを留意しなくてはならない。聖預言者ムハンマドと同時代の人々の中には、アラビア語と文学の大家として知られた人たちがあって、この挑戦に答えようと努力したのだが、その内容と表現力においてクルアーン同様のものをわずか数節さえ作り得なかったのである。

(4)現在我々が読んでいるクルアーンは、預言者ムハンマドが受けたものと、全く同じものである。神はクルアーンの純粋性を守ることを自らに課している。

 まことわれこそは、その訓戒を下し、必ずそれを守護する。(聖クルアーンー五章九節)

 虚偽は、それ(クルアーン)の、前からも後ろからも、近づくことはできぬ。それは、英明な方・賛美すべき方からの啓示である。(聖クルアーン四一章四二節)

(5)クルアーンは、その内容が首尾一貫しでいて、どの部分も互いに矛盾する事は決してない。そして多くの事が明確に解説してある。

 アルラーはこよなき美しい教示を、互いに似ている種々の立場で繰り返し、経典として啓示したもうた。(聖クルアーン三九章二三節)

 これは少しも曲ったところのない、アラビア語のクルアーンである、おそらくかれらは最終の悪結果からその身を守るであろう。(聖クルアーン 三九章二八節)

 かれらが、なんじ(ムハンマド)に対して出すどんな質問でも、われが真実と最上の解釈を啓示せぬものはない。(聖クルアーン ニ五章三三節)

(6)クルアーンは全人類に向って述べられたものであり、神と人間に対する神の目的について、人々の心を啓発している。すなわち、クルアーンは人生において正しい道を求めている人びとに対する現世での導きであり、また来世への喜ぴの福音である。

 まことにこれこそは、よろず世への教訓にほかならない、それはなんじらのうちたれでも、直き道を歩みたいと望む者のためのものである。(聖クルアーン 八一章二七1二八節)

 それこそは、疑念の余地のない経典であり、その中には、主を畏(おそ)れる者たちへの導きがある。(聖クルアーン ニ章二節)

 われがなんじに経典を下したのは、ただかれらの争っていることについて解明するためであり、信仰する者に対する、導きと慈悲である。(聖クルアーン ー六章六四節)

 われがなんじに下した経典は、なんじが人ぴとを暗黒から光明に、‐−かれらの主のお許しによって−−偉大な賛美さるべき方の道に、連れてくるためで、(聖クルアーン 十四章一節)


五、コラーンの読み方

 神は次のように言っている。

  われが経典を授けた者、それを読むべき心得どうり読む者。これらの者は、クルアーンを信ずる。それを拒む者、これらは失敗者である。(聖クルアーン ニ章一二一節)

 クルアーンが、ムハンマドに対し二十三年間の永い間にわたって、一度に少しづつ啓示されたものであることを思えば、コラーンは一度に少しづつ読むものであり、この少しづつ読むということが、人ぴとにクルアーンヘの同化と、そしてもし必要ならば実際の行動を求めることになる。預言者も彼の教友たちに、そのような読み方をするように命じている。

 クルアーン研究のこのやり方は、クルアーンはバイブルと似たようなものであるという誤解をもってクルアーンに接する西欧人の読者に対し、特に必要なことである。しかし、それは事実ではない。クルアーンは歴史書でも伝記でも、また単なる名言集でもない。確かにクルアーンは、現在の旧、新約聖書や他の宗教の経典を含めて、人間の書いたいかなる書物とも異質のものである。クルアーンは、将来のあらゆる時代にわたって、人間の行動の導きとなるために、人間に与えられた神のみ言葉である。クルアーンの基本的目的は、神そのものと人間に対する神の目的に関して人ぴとを正しく導き教えることにあり、それは人生の基本的な原理をいろいろなやり方で説明し、繰り返し、そして明示することである。クルアーンの方式は、神の作品すなわち大自然と比較することができる。自然は繰り返すものであり、そして無限の変化をもっている。クルアーンも同じように無限の変化をもっている。自然は神の創造物であり、コラーンは神のみ言葉である。神は次のように言っている。

 たとえ、地上のすべての木がペンであって、また海がインクで、そのほかに七つの海をそれにさし添えても、アッラーのおことばは、書き尽くすことはできぬ。まことにアッラーは、偉力者・英明者であられる。(聖クルアーン 三一章二七節)

 自然現象を深く研究すればするほど、驚くべき事が数多く発見される。同様にクルアーンを深く研究すればするほど、宇宙と人間についての知識が増し、クルアーンの中に含まれている意義の大きさに驚かされるのである。


六、クルアーンの意義

 クルアーンの基本的目的は、宇宙と人間世界における神の支配力への認識を、人々の心に呼ぴ起こすことである。過去に存在したもの、現在あるもの、又は将来神が存在させるすべてのものは、神アッラーの支配から逃れることはできない。人間はこの広大な宇宙の中で、神の信託者にすぎないのであって、人間がこの世に創造された目的は、神を崇拝するためである。

 神を崇拝することは、信仰の行をするために、日常生活の活動を止めることではない。我々の行為は、もし神の下された則に従って良い意志をもってなされたものであれば、それはすべて神の崇拝である。人間それぞれの究極の責任は、神へのものであって、人はすベて神の恵み、すなわち、生命そのもの、能力、才能、知識、時間、資産及ぴ与えられたすぺてのものを、いかように使ったかを問われよう。現世での命にはかぎりがあるが、この生命は来世での無限の生命が作られる基盤なのである。このように現世での生命は極めて重要なものであり、決してそれを無駄に費してはならない。

 そこでクルアーンは人生の全分野にわたる基本原理を述べ、人間ば神から期待されている生き方を教えられている。クルアーンに盛り込まれているこれらの基本原理は、個人的人生についてだけでなく、人間と人間、集団と集団との関係をすべて網羅している。現世でのすぐれた生き方は、来世での成功への必要条件である。それゆえクルアーンは、真実のための真撃な観察、思索、調査及び追求、他人への奉仕、すべてに対する正義の追求、地球上のすべての人びとの平和を目的としたすぐれた行為と行動のために専念することを人ぴとに求めている。クルアーンは、人間は地上で神の代権者であり、人はその事実に基づいて行動しなくてはならないと言う。クルアーンは他人への隷属状態から自らを解放し、欲望を制御し、出生、財産、社会的地位や出身地などの虚栄にとらわれず、現世での神の代権者(カリフ)にふさわしい真の威厳と知恵を身につけるよう説いている。この最終目的を達成するためには、神の真実性への意識が心の奥底に深く刻み込まれなくてはならない。神へ対して神への特別の畏敬の念を表明する行為、すなわち礼拝(サラート)、斎戒(サウム)、巡礼(ハッジ)及び喜捨(ザカート)を命じている。−−そしてこれらの務めは、我々人間の所有するすべてのものが神のためのものであり、又我々は神に帰依すべきものであることを、我々の心に呼び起こすためのものである。

七、コラーンからの抜粋

 言え、かれはアッラー、唯一者であられる。アルラーは、自存者であられ、かれは産みたまわず、また産れたまわぬ、かれに比べ得る、何ものもない。(聖クルアーン 一一二章一〜四節)

 アッラー、かれのほかに神なく、永生者・自存者であられる。仮睡も熟睡も、かれをとらえることはできない。天にあり地にあるよろずのものは、かれの有(もの)である。かれの許しなくして、たれが、かれのみもとで執り成すことができよう。かれは人びとの、前のことも後のことをも知りたもう。かれの御意にかなったことのほか、かれらはかれのみ知識について、何も会得するところはないのである。かれの玉座は、あまねく天と地をおおうて広がり、これを守って、疲れも覚えたまわぬ。かれは至高者・至大者であられる。(聖クルアーン ニ章二五五節)

 かれが、土からなんじをつくりたまえるは、かれのしるしの一つである。見よ、その後、なんじら人間は地上に散らばる。またかれが、なんじら自身からなんじらのために配偶をつくりたまえるは、かれのしるしの一つである。なんじらはかれらによって慰安を得、なんじらの間に愛と惜けの念をうえつけたもう。まことにその中には、反省する者への種々のしるしがある。またかれが、諸天と大地を創造したまいなんじらの言語と、はだ色が異なっているのほ、かれのしるしの一つである。まことにその中には、知識ある者への種々のしるしがある。(聖クルアーン 三○章二○〜二二節)

 天にあり、また地にあるよろずのものは、アルラーの栄光をたたえまつる、かれは至高の王者・神聖者・偉力者・英明者であられる。かれこそは文盲の者の間に、かれらのうちからみ使いを上げ、しるしを復唱してかれらを清め、経典と英知を教えたもうた方であられる。まことにかれらは、以前は明らかに過誤のうちにいた。またかれらのうち他のものにも恩恵を賜う、これらは、まだかれらに仲間入りしておらぬ。かれは、偉力者。英明者であられる。これがアッラーの恩恵である、かれのみ心にかなう者にこれを賜う。まことにアッラーは、最高の恩賜の主であられる。(聖クルアーン 六二章一〜四節)

(2)「人間」

 人間が存在せぬ長い期間はなかったか。まことにわれは混合された一精滴から人間をつくった、かれを試みるためである。それでわれは聴覚をかれに授けた。われは、かれに道を示した、かれが感謝するか忘恩であるか(はかれの意思いかんによる)。(聖クルアーン 七六章一〜三節)

 意にかなった好きなものは、人間の目には美しく見える、婦女・むすこ・蓄積された財宝・金や銀・血統の正しい焼印をおした馬・家畜やよく耕された田畑。これらほ、現世の生活の享楽である。だがアッラーのおそばこそは、こよなき安息所である。(聖クルアーン 三章十四節)

 人間は、努力したことのほかには、何ものも得ることはできぬ、(聖クルアーン 五三章二一九節)

 かれこそはなんじらを、地上におけるかれの代理者となされ、またある者を他よりも、位階を高めたもう方であられる、それは与えたもうものによって、なんじらを試みるためである。なんじの主は懲罰に神速である。まことにかれは寛容者・慈悲者であられる。(聖クルアーン 六章一六五節)

(3)「正義」

 順境においてもまた逆境にあっても、主の賜物を(慈善のために)心よく使う者、怒りをおさえて、人ぴとを寛容する者、まことにアッラーは、善い行いをなす者をめでたもう。(聖クルアーン 三章一三四節)

 なんじら信仰する者よ、証言には、アッラーのため公正を堅持する者であれ、たとえなんじら自身のため、または両親や近親のためでも。かれが富者でも、また貧者であっても公正であれ、アッラーはなんじらよりも双方にとって最高の守護者であられる。(聖クルアーン 四章一三五節)

 (礼拝のときに)なんじらの顔を、東または西に向けるのが正しいことではない。およそアッラーに正しく仕えるとは、アッラーと最後の審判の日、諸天使と諸聖典と預言者を信じ、かれを愛するためにその財産を、近親・孤児・困窮者・旅路にある者・物請いや奴隷や解放のために費やし、礼拝(サラート)の務めを守り、定めの喜捨(ザカート)をなし、約束したときはその約束を果す。また困難と逆境と非常時に際しては、よく耐え忍ぷ者、これらの者こそ信仰する者、真に主を畏れる者である。(聖クルアーン ニ章一七七節)

(4)「神への祈願」

 アッラーをたたえ奉る、よろず世の養育の主、仁慈・慈悲の主、審判の日の執権の主。あなたにのみわたしたちは仕え、あなたにのみわたしたちはお助けをこいねがう。わたしたちを直き道に導きたまえ、あなたが怒りたもうた者、また踏み迷った者で与く、あなたが、恵みを垂れたまいし者の道に導きたまえ。(聖クルアーン 一章二〜七節)

 「主よ、わたしたちがもし志れたり、あやまちをおかすことがあっても、とがめないで下さい。主よ、わたしたち以前の者に負わされたような重荷を、わたしたちに負わさないで下さい。主よわたしたちの力で、かなわぬものを、になわせないで下さい。わたしたちの罪障を消滅なされ、わたしたちを許し、わたしたちに慈悲をたれたまえ。あなたこそわたしたちの愛護者であられます。不信心の衆に対し、わたしたちを助けたまえ」。(聖クルアーン ニ章二八四〜二八六節)


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一、スンナとハディースの意義
http://islamjp.com/library/quranhadith2.htm


 ”スンナ”と云うアラビア語は”慣行”の意味である。これについてクルアーンは次のように述べている。

 アッラーの慣行には、何の変更もないことを、なんじらはさとるであろう。(聖クルアーン三三章六二節)

 ”ハディース”とは”云われたこと”とか”報告”とかいう意味で、起こったことの一部または全部ということである。一般的な使い方としては、この二つの言葉は預言者ムハンマドの慣行と生活の仕方(スンナ)と、かれが実行し発言したことの記録(ハディース)を指す。

 スンナは、実際には預言者ムハンマドの預言者としての活動の一部で、教友たちに守られてきた実践行為を指す。預言者の任務と無関係な私的又は偶発的行為は含まれない。したがって、ムスリム(イスラーム教徒)が礼拝の前にウドゥ(水を使った小浄)をしたり、礼拝の順序などはスンナの一例であるが、メディナ市に住んだり駱駝に乗ったりするのは、スンナではない。預言者ムハンマドは人々が行うべき行為(スンナ)とそうでないものを区別していた。そしてスンナは観察や模倣、又は指示によって人から人へと伝えられたものである。

 ハディースは、預言者が云ったり実行したこと、又は他の者の言動に対する預言者の反応を、言葉で伝えた報告又は口伝の言行録である。スンナ(預言者の慣行記録)がハディース(預言者の言行記録)に言及されていない場合もあり、又もちろん何百というハディース(例えぱ預言者の教友たちの善行と神の特質などについてのもの)はスンナには含まれていない。預言者が何か云ったり行動した事を見聞した教友は、それを他の人に伝え、さらにそれを聞いた人は次々と他の人ぴとに伝えた。後世になって、多くのハディース(複数の場合アラビア語で正確にはアハーディース)が編纂されたとき、その一つ一つは伝承者によって、例えば「神の使徒はこのように云われたとオマル・ビン・アル・クハタプが云ったのをCが聞き、それをまたCからBが聞いたとAが云っている…」という具合で、本文がその後にくる。このようなやり方で、これらのハディースを編集した人たちは、預言者について報告された事実だけでなく、それを文字で書きつけたものも集めた。ハディースはすべてその伝承者と同時に、それを裏づける内容が伴わなくてはならない。現代では権威あるハディースの教典が多く印刷されていて、広くこれを求めることができるから、継続伝承者については何も気をつかわずにハディースを引用することができる。

二、スンナとハディースの重要性

 偉大な人物が死んだとき、その人の生き方や事業について、知りたいと思うのが一般感情であろう。このため生前つき合いのあった家族や親戚、友人、共同経営者、知人、あるいは遠くから一度見ただけと云うような人でさえ、故人に関して何らかの報告をするものである。預言者ムハムンドの場合、かれの言動を報告することは、人びとの興味を満足させたり歴史的記録を残すためだけでなく、次の世代のイスラーム教徒の宗教実践のための法的根拠として必要であった。ムスリム(イスラーム教徒)にとって従うべき模範であり、人ぴとの間の審判者、又神の勧告の解説者としての預言者の立場は、クルアーンの各節に明らかにされている。

 まことにアッラーのみ使いには、アッラーと終末の日を切望し、アッラーを多く唱念する者にとり、立派な模範がある。(聖クルアーン 三三章二一節)

 み使いに従う者は、まさにアルラーに従う者である。(聖クルアーン 四章八十節)
 み使いは正義を人ぴとに命じ、邪悪をかれらに禁ずる、また一切のよい清いものを合法となし、悪い汚れたものを禁戒とする。(聖クルアーン 七章一五七節)

 われがなんじにこの訓戒を下したのは、人ぴとに対して下されたものを、なんじに解明させるためである、かれらはおそらく反省するであろう。(聖クルアーン ー六章四四節)

 このようにまず第一にクルアーンが、そして次にスンナが、イスラーム法(シャリーア)の基本であることが明らかとなる。このことは預言者の教友たち、すべてのイスラーム法学者、そしてそれらの後継者であるすべてのムスリム(イスラーム教徒)世代が確認している。


三、ハディースの教典

 イスラームのはじめから、教友たちは預言者を模範とし、その道を歩むためかれの言行を学ぷのに懸命であった。

 預言者の死後、イスラームの力が遠隔の地まで拡がったとき、新しく入信した者たちは同じように預言者についてすべての事を知り、かれを模範にしようと強く願っていた。教友たちは新しい信者たちから預言者について熱心に質問され、時がたつにつれ預言者に関する多くの資料が広く一般信者の間に知れわたった。それが人ぴとの口からロヘと広く伝えられるようになり、ある人たちは自分たちが使う目的で小さな言行録を作った。これらはまだ本とは呼べない程のものだったが、その内容は後に作られた本に加えられた。いくつかの本は預言者の生涯(シーラ)について書いてあったが、これらの本の作者たちは、ハディースの教典に必要な正確な調査と記録を用意しなかった。これらの伝記書の目的は、預言者の生涯の物語りを述べることであったが、ハディースの教典の主目的は審判者、法律家、法律学者、そして一般にはイスラーム教徒すべてに参考資料を提供することにあった。参考書が内容と基準の厳格さにおいて伝記書と異なることは自明の理であろう。この基準については次の第四節で述ぺることにするが、最も権威あるハディースの教典は次の二つである。


一、ポハリー(イスラーム暦一九四〜二五六年)のサヒーハ

二、ムスリム(同二○二〜二六一年)のサヒーハ

 さらに次の四冊も権威あるものと認められており、前期の二冊を加えて「六冊の正統ハディース」と呼ばれている。

三、アブー・ダーウード(イスラーム暦二○二〜二七五年)
四、ティルミズィー(同二七九年没)
五、ナサーイー(同二一五〜三○三年)
六、イブン・マージヤ(同二○九1二七三年)

 この「六冊の正統ハディース」を含めて、すべてのハディース集は編集者の独自の判断により作成されたものであって、学会とか何らかの組織のカで作られたものではない。これは、イスラームにはそのようなものに対して権威を与える組織など存在しないからである。

 すべてのハディースは厳しく調べられ、イスラーム社会で容認されて、始めて権威あるものとして認められたのである。他のハディースの書同様、ボハリーやムスリムにもこの方法が適用された。


四、ハディースの正当性の基準

 預言者ムハムマドについての膨大な言い伝えや記録の正当性を判定するため、特定の基準が定められている。例えばポハリーは、サヒーハの編纂に当って六○万もの話を集めたが、わずか七、二七五だけを取り入れ、又かれのスンナには五○万の話の中から四、八○○だけ採用したと語っている。もっとも、六○万の話とは云っても、そのすべてが違った話ではない。先にも述べたように、それぞれのハディースには二つの部分がある。すなわち、@伝承者のつながり(イスナード)、Aその内容(マトゥン)である。それゆえ集められた話の中で、同じ内容のものについて三人の違った伝承者がいたら、それが三つのハディースと数えられたのである。このように、重複したものがあったとしても、とにかく莫大な数の話が著名な伝承学者(ムハディスィン)の手によって棄却されたことは確かである。かくして、ハディース学(イルムル・ハディース)として知られる研究が徐々に発達していき、それぞれの逸話の真実性を判定するために、次の基準が採用された。

 伝承者の第一の原則は、多くの伝承者のつながり(イスナード)が、最終的にはその事を預言者から直接自分で見聞したという人までさかのぽっていること。第二に、その伝承のつながりの中で、各人の真実性、人となり、その行動、記憶力の正確さ、見聞したことへの理解力、人格の信頼性、教養の有無などの点について、充分に調査確認してあること。何千人という多くの伝承学者(ムハディスィン)たちが、聖預言者の言行を伝えた人たちの生涯についてのあらゆる情報を、一生をかけて集めたが、そのたゆまざる調査の結果、正確な伝記文学(イスマ・アル・リジャール)が非常に発達し、これを通じ人びとはハディースの中に書かれている少なくとも十万人の人たちの生涯について知ることができる。預言者の言動に関する報告(及びその通報者たち)をこのように厳しく審査した理由はきわめて明白であり、審査の基準についてはクルアーンに次のように述べられている。

 信仰する者よ、もしよこしまな者が、情報をなんじにもたらしたならば、それを慎重に検討せよ。(聖クルアーン 四九章六節)

 伝承者の人柄の真実性と信頼性がはっきりした後で、次の原則が通報された内容の信憑性に向けられた。一つの伝承を信用できないと決めるための基準は次の通りである。


(1)クルアーン、スンナ又は健全なハディースに反しているもの

(2)預言者について馬鹿げたことが書かれているもの

(3)一般に良く知られている証拠と相反するもの

(4)これまでに観察されている事実と違っているもの

(5)もしそのような事実が現実にあったのなら、何百人という多くの人ぴとがそれを見聞きしたはずであるのに、実際にはただ一人だけがそれを報告しているようなもの

(6)あまりにも低級な言葉が使われているもの

(7)未来の事について、特定の日時を挙げて予言してある事項

(8)小さい過ちに対し、過重な懲罰について述べてあるもの

(9)些紬な行為に対する過大な報酬について述べてあるもの


 これらの基準はすべて、預言者の教友たちの前例に基づいて定められたものである。例えば、オマルのカリフ時代にファーティマ・ビン・グアイスという一人の女性が、オマルに対して、「わたしの夫がわたしを離婚したとき、預言者はわたしの夫に対して、私の離婚手当を払うように命じられませんでした」と告げたが、カリフのオマルは「記憶がはっきりしているかどうかわからない一人の女性の言葉だけで、神の経典や預言者のスンナを離れるわげにはいかない」と去った。さらにイプン・オマルに基づく伝承を聞いたとき、アーイシャはそれを認めず、「なんじやなんじの伝達者は嘘を云わないが、人には時として誤解もある」と言った。


五、ハディースの分類

 ハディースは普通次の三つのグループに分けられている。

(1)サヒーハ(確度優秀)
(2)ハサン(確度良好)
(3)ダイーフ(疑わしい)又はサキーム(不確実)

 ボハリーとムスリムの編纂したハディースはすべて、サヒーハであるとされている。又ボハリーとムスリムが集めたものでなくても、この二人の伝承学者の一方か、又は双方が定めた条件を満したものもサヒーハとされる。ハサンとされるハディースは、その出典の根拠がよく知られており、伝達者(イスナード)が信頼できる人として人びとに知られており、また伝達された話をほとんどの学者が認め、法学者・裁判官そして法律家が使用したものである。ハディース・ハサンは、法律学のイスラーム方式での法的決定の有効な根拠として認められているものであり、一方ダイーフのハディースはそうではない。しかし、ダイーフと呼ばれるハディースのすべてが拒否されるわけでもない。ダイーフの中でも、人びとに善行をなすようにすすめたものとか、ある事件の附随事件について語っているものは採用される場合もあり得る。アブー・ダーウードは、自分が扱った何かの事を明示するのに、他に何も資料がないとさは、しばしばダイーフを使用している。

 ダイーフにはいろいろの等級があり、その中には必要に応じて使えるものとか、伝承者が中間で不明になっているものとか、あるいは不正に報告されたり、又は全くの作り話であったりするものがある。

 これ以外に数多くの伝承を表わすのに使う特別の名称もある。すなわち、ガーリブ(ハディースの中ではほとんど使われていない言葉を使ってあるもの)、マウクーフ(伝承者−イスナード−が教友の一人のところで止って、それ以上預言者の実際の言行まで達していないもの)などである。


六、ハデイースの内容

 ハディースの主題は広範囲にわたり、導きを必要とするほとんどすべての問題を扱っている。ボハリーはかれのサヒーハを九七巻に分けている。

三巻は啓示の初期、信仰と知識に関するもの。

三十巻は斎戒沐浴、礼拝、喜捨、巡礼及び断食に関するもの。

二十二巻は商売、受託者の地位、顧用及び法的事項に関するもの。

三巻はジハード(神の道のために努力警闘すること)及ぴズィンミー(非イスラーム教徒に関する件)について。

一巻は万物の創造に関するもの。

四巻は預言者とその教友たちの善性に関するもの。

一巻は預言者のメディナでの生涯。

二巻は聖コラーンの各章の注釈。

三巻は婚姻、離婚及び家族の取り扱い方に関するもの。

二十六巻は食料、飲料、衣服、日常の作法、誓約など多くの事項に関するもの。

 ボハリーのサヒーハ第九六巻は、クルアーンとスンナを信奉することの重要性を強調しており、最後の巻は内容が長く、神の唯一性を扱っている。


七、ハディースからの抜粋

(1)信仰

 信仰には七十以上の分野があり、その最高のものは「アッラーの他に神はなし」と言明することであり、最下位のものは「道から危険な物を取り徐く」というものである。又、謙譲の念も信仰の一つの分野である。真のイスラーム教徒とは、その言動から他のイスラーム教徒が安全である、という人のことである。

 アブー・フライラは次のことを報告している。一人のアラピア人が預言者の許に来て、「私が天国に昇るためには、どんな行為をすればよいのか教えて下さい」と云った。それを聞くと預言者は、「アッラーに仕え、かれと同列に何ものも配してはならない。定めの礼拝を行い、義務としての喜捨を支払い、そしてラマダーンには断食をせよ」と答えた。アラピア人は「み手の中にわが魂を所有される方に誓って、わたしはそこに何ものも加えず、又そこから欠落しない」と言明した。そして、アラビア人が立ち去って行ったとき、預言者は「天国へ行く人を見たいと思う者があれば、この人を見るがよい」と云った。

 わたしが宗教に関して何か指示したならば、それに従いなさい。しかし、私の意見として何か云った場合、私はただ一人の人間にすぎない。わたしが死んだ後、諸君に二つのものを遺すであろう。もし諸君がそれを確実に守るならば、正しい道からそれることはない。一つは聖クルアーンであり、もう一つはわたしのスンナである。

(2)知識

 二通りの人だけをうらやんでもよい。すなわち、神から財を与えられて、それを正しいことに消費する者と、神から知恵を与えられそれに基づいて行動し、それを人びとに教える者である。

 知識を求めて出た者は、帰りつくまで神の道にある。

 諸君が知っている以外の、わたしの言行録については注意せよ。わたしについて虚偽を伝える者は、間違いなく地獄に堕ちる。

 諸君の中で、最も善良で偉大なる者は、聖クルアーンを学び、それを他の人ぴとに教える者である。

(3)礼拝

 イブン・マスウードは次のように云っている。わたしが「どのような行為が神に一番めでられることでしょうか」と預言者にたずねたら「正しい時刻での礼拝である」と預言者は答えられた。その次は何でしょうかと聞くと「両親への孝行である」と云われました。わたしがさらに、その次は何でしょうかと聞くと「神の道に努力することである」と預言者は答えられた。

 人と不信心との間にあるものは、礼拝の放棄である。

(4)中庸の道

 神のみ心に最もかなった行為とは、例えわずかな事であっても、規則正しくなされたことである。

 自分で実行できる行為を選ぴなさい。神は決して疲れることはないが、あなた方は疲れるからである。

(5)仕事

 神の命ずることを遵守し、正しく正直な収入を得ることは、人としての第一の務めである。


 

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コメント
 
1. 中川隆[-5760] koaQ7Jey 2017年12月09日 19:33:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

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