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因果応報
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投稿者 お天道様はお見通し 日時 2018 年 9 月 25 日 18:22:25: I6W6mAZ85McLw gqiTVpO5l2yCzYKojKmSyoK1
 


因果応報 東海アマブログ




 古代宗教、わけても古代インド仏教の教えの根幹にある原理が「因果応報」である。
 初期の教典であるスッタニパータには、因縁=縁起と果報を中心に書かれているが。すなわち、この世の原理が因果応報であることを示している。


 原因があって、結果がある。あらゆる事物現象は、原因と結果の連綿とした必然の流れのなかに存在している。
 すべては必然であり、因と果しか存在しない。因果の法則を見極めることが「知る」ということである。


 私が、六十数年の人生を俯瞰し、決算してみても、あらゆる記憶、経験の抽象に現れる真理こそ「因果応報」である。
 もっとも、私は、若い頃から弁証法に関心をもって読みあさり、精神が分裂しそうになるほど夢中になって、宇宙の根源法則を知ろうとした。
 たまたま、弁証法によって見いだした根源法則と、釈迦の言葉が同じであったにすぎない。


 釈迦以来、仏教における真理探究者が得られる結論は、すべて因果応報であり、すなわち人生は「与えたものが還ってくる」という真理である。
 弁証法哲学者が見いだした結論だって、ほぼ同じようなものだ。一緒にならなければ宇宙の根源法則であるはずがないのだ。


 因果応報という大真理の本当の理由を考えると、我々が現実=実在であると信じている対象的世界は、本当は、心の生み出した幻に過ぎないかもしれない、という疑問に行き当たる。


 宜保愛子や江原啓之が示してくれた霊界の真相も、結局、霊界が心の作用である想念の世界であり、意思が結実する世界であるとし、すなわち、実は何もかも、心の生み出した幻の実在であることを知るのである。


 それじゃ、心の作用は、いったい、どこから生まれるのか? 物質的肉体としての脳の作用だろうが! とチャチャを入れたくなるのは当然だが、誰も、このあたりのメカニズムを語ってくれない。
 「我思う、ゆえに我あり」とデカルトが決めつけるのみである。
 デカルトも、物質的実在が正義と考える唯物論者であった。


 観念論者であるヘーゲルは、宇宙生成の原理に「イデー」=絶対精神という抽象を持ってきた。
 宇宙の始まりに「意思」=絶対精神があったというのである。意思によって物質的実在が成立した。なんとなく、これは旧約聖書の創世記のために書かれたような気もする。


 このあたりの理屈になると、毎晩、私が1時間程度で書いてるようなブログの中身を飛び越えて、山の中に入って一ヶ月も断食しながら思索を続けて見いだすべき真理を書かねばならないのだが、あいにく、そんなヒマはない。
 まずは、最初に意思があったという奇っ怪な真理を素直に受け入れておかないと、本当に書きたい因果応報の意味も書けないことになる。でなければ、霊界の存在を説明できないのだ。


 この世にも霊界にも、絶対的存在など皆無であり、存在するのは想念であり、ただ意思によってリアルな物質世界が成立し、制御されて持続する。
 死ねば、人は物質的肉体の束縛を離れて自由自在に思うところにゆくことができる。


 死ななくとも、千日回峰行の四無行(9日間断水断食不眠不臥)を行っている行者の意識は肉体を離れて彷徨い歩くのだという。
 酒井雄哉は、アメリカの都市の上空を飛行して、屋根の形もはっきりと見えたと語っている。


 先日他界した実父も、死ぬ半月ほど前、関西の寺にいる姉の夢に出てきて、自分が彼岸前に死ぬことを語り、死後、再び来て葬儀の礼を言っていったという。
 実は、私も、若い頃から幽体離脱を何度も経験しているから、こうしたことが夢物語でなく、リアルな現実として、よく分かるのだ。


 物質的存在でない、精神的存在として、意思を伝え、物質界を俯瞰することができるなら、論理的必然として。間違いなく我々は想念の世界に生きていると断定してもよい。
 もし、それが事実なら、いったい何のために? どんな理由で、そんなことになっていいるのだ?


 そこで、冒頭の「因果応報」の本当の意味に立ち返る。


 この世界は、自分の心が生み出した幻であり、茶番であり、精神的演劇なのである。ある原因を与えれば相応の結果が生み出され物質化するのであるから、この世界における行幸も幸運も、あらゆる喜びも、悪行も、不幸も、悲しみも何もかも、自分の心が作り出したものである。


 こうした因果の流れは、「カルマ」とも呼ばれている。我々のやること、なすこと、あらゆる人生の局面は、自分の心が作り出した幻想=妄想にすぎないが、なぜ、そんな世界を作り出すかという理由については、「カルマ」が深く関係している。


 我々の人生は、決して、今ある人生だけでなく、数万年にわたる数百数千の過去生と関係しているとも言われる。
 誰でもたくさんの人生経験を抱えている。新しい人生の理由は、過去生でのカルマ=因縁を解消して、より合理的な人生観を確認するためである。


 ヘーゲル 「人は[合理性]を根拠として、螺旋状に上昇してイデーに近づき、やがて同化してゆく。」


 人生の目的は絶対精神=神に近づき、同化することだという。次々に過去生のカルマを克服するための新しい人生を作り出し、すべてのカルマが解消し、絶対精神に同化するとき、人の個性、存在は存在理由を失って消えてゆく。


 相当抽象的な文章になってしまったが、私が本当に書きたかったことは、因果応報であり、それは、あらゆる運命を自分自身が生み出しているという本質である。


 人生とは、与えたものが還ってくるプロセス。 江原啓之


 他人に与えたものしか還ってこない。
 もの凄く有能な超大金持ちが、若者たちを低賃金と過酷な重労働で搾取し、自分のあらゆる欲望を満たす成功者となったなら、彼には、何が還ってくるのだろう。


 たぶん、憎悪と妬み、人間不信、苦悩、ということになるだろう。それを他人に与え続けた人生なのだから、還ってくるものは憎悪しかない。
 つまり、人々の憎悪、苦痛、不幸、貧乏の苦しみを成功者は背負って、誰からも嫌われる孤独のなかで死んでゆかねばならない。
 その行き先を「地獄」と呼んでいる。


 これが「因果応報」の本当の意味である。
 彼は、利己主義的成功によって負った巨大なカルマを、来生に解消しなければならないが、それも苦難に満ちた遠い遠い地獄の道になるだろう。


 これに対して、貧しくとも人に愛を与え続けた優しい心根の人は、どうなるのだろう?
 その人が笑顔で接してくれて、周囲のあらゆる人々が癒やされ、優しさと温かさが社会全体に伝播してゆくような人生。


 そんな人を、人々は強く求め、魅入られ、愛し、いつでも自分の近くにいてほしいと願い、みんなの人生の模範となって、社会をより住みやすいものに変えてゆく大きな光になる。


 これも因果応報である。



 

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コメント
1. 中川隆[-13520] koaQ7Jey 2018年9月25日 18:46:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18814] 報告
釈迦の教えを完全に誤解してるね

因果応報というのはバラモン教の教えであって、カースト制を正当化する為の教えだよ。


釈迦はカースト制を否定する理論を考えた思想家だから、因果応報なんか認める訳ないんだよ。

専門家の解説を引用しておくから、どこが間違いか確認してね:


『仏教の思想1』業について(梅原猛)


 業をどう見るか

 この問いに答えるのは「業」の思想のように私は思います。仏教がただ慈悲の思想につきるものであるならば、それはどうしてこのような危機における思想として有効でありえましょうか。仏教は一方で、慈悲を強調しながら、他方、人間の深い煩悩の世界を凝視しています。

 そのような点で、「業」の思想は、今後仏教の現代的意味を考えるとき、たいへん重要な思想であると思うのです。この業の思想の深さについて、私は最近やっと気づいたばかりであり、いつか稿を改めて論じたいと思います。ここでは簡単に触れるだけにとどめるよりしかたがないと思います。

業の思想が、例の十二因縁の思想と深いつながりを持っていることは確かであります。十二因縁とはなんでしょうか。その点、増谷先生のくわしい説明がありますので、ここではくわしく触れる

必要がないかと思います。

 木村泰賢氏によれば、十二因縁の解釈には、三つの解釈の仕方があるというのであります。第一は論理的な解釈、つまり十二因縁、無明から老死までの十二因縁を、論理的範疇として考える考え方であります。第二は、それを心理的あるいは倫理的、現代の哲学用語を使えば、実存的に解釈する道であります。つまり、老や死を、苦と思うことの原因を、渇愛と無明に求める、これが十二因縁の意味であるという解釈であります。それから第三に、十二因縁を実在的に、宇宙的生の発展のあり方を述べたものであるという説があります。つまり、無明から存在するものは発生し、行識を通り、最後に人間が出て老死が生じたという解釈であります。

 このうち、のちの仏教において、とくに部派仏教において有力になったのは、第三の実在的な因果の考え方であったようです。因果はまさに生命の理法を示したものというわけです。しかもその因果が、道徳の問題と結合するとき、善因善果、悪因悪果、三世の因果という考え方が生まれます。

われわれが長い間、因果の概念で知っていたのは、このような因果概念でありました。私は子どものころ、縁日に見世物を見に行きましたが、そこにはロクロ首の女や熊女などがいました。このロクロ女や熊女は親の因果が子に報いて、このような片輪者になったといわれました。明治以前までわれわれ日本人はよいことがあると、先祖のおかげでといって喜び、悪いことがあると、親の因果と思ってあきらめたものでした。

 因果の概念には宿命論的ひびきがあります。そこには、おのれの運命への諦めがあります。そして同時に、このような現世の運不運を、人間の理解できない前世の因縁と結びつけることによって、仏教は、はなはだしく、理性の正しい行使を傷つけます。因果の概念は、まさに、日本人を諦観にしばりつけるとともに、日本人の理性をマヒさせた最大の元凶のようでした。

 長い間、仏教は因果の概念をつかって、民衆に道徳を教えましたが、その概念の拡張解釈は、人問に諦観を与えるとともに、人間理性の正しい行使を妨げることに役立ったようです。近代の精神は、このような因果因縁の概念を否定することから生じるのであります。近代的理性にとって、このような因果因縁の概念こそ、まさに仏教のインチキ性を証明するものと映ったにちがいありません。

 このような因果因縁の概念は、まさに仏教の恥部であったわけです。明治以後、日本の仏教学者が、仏教の束縛を離れて、ヨーロッパから、直接に釈迦仏教を研究する方法を学びとったとき、彼らは、彼らが従来釈迦の教説と思っている仏教が、実は釈迦の仏教でもなんでもなく、はるか後代において、釈迦の名にかこつけて作られた経典編集者の思想にすぎないことを知ってビックリしたものでありました。

そればかりか、釈迦以来、二千何百年という年月は、同じことばの意味をも、まったく変えてしまったようでありました。釈迦の十二因縁の思想は、どうやら、因縁・因果の名でもって、われわれの現実に知られていた思想とまったく別な思想のようでありました。因縁の思想を釈迦それ自身において考える必要があります。明治以来の根本仏教と解する原始仏教の研究は、結局この因縁の概念、因果の概念を明らかにすることにあったといってよいかもしれません。因縁をあの伝統的な汚名から解放すること、それほあたかも、文明開化の時代の文化人に不評となった仏教を、その迷信の汚名から解放するかのような意味をもっていました。


 因縁の論理的解釈

 このうち、論理的解釈はもっとも近代的解釈のようであります。このような解釈の代表が、宇井伯寿氏の『十二因縁の解釈−縁起説の意義−』と和辻哲郎氏の『原始仏教の実践哲学』であるといわれます。じつは、この解釈には、すでに先例があり、新カント派の哲学者マックス.ワレーザーが、『原始仏教の哲学的基礎』という本を書き論理的解釈の先鞭をつけたといいます。

ワレーザーの本を私は読んでいませんので、はっきりしたことは申しかねますが、日本においてこのような理解がはなばなしく、出てきたときは、まさに新カント学派の全盛時代であったことに注意する必要があります。新カント学派は、ヴィンデルバントやリッケルトに代表されるカント復興運動でありますが、それは、当時ドイツに広がったカント以後の非合理主義的な思想に反対して、カントの合理主義に帰れという運動でありました。いわば、それは小市民の合理主義を代表するものでありましょうが、なんでもドイツ哲学を最高の真理として学ぶ日本の哲学者のサル真似主義が大正デモクラシー運動と結びつき、日本の哲学者はほとんど新カント派の哲学者になりました。このとき秀才の文献学的仏教学者宇井伯寿氏と、秀才哲学者和辻氏のみごとな理性主義的仏教解釈が生まれたのです。

 新カント派は非合理主義、人間の本質を非合理な意志や感情におく非合理主義に深いにくしみをもっていました。そして彼らが、もっともきらったのはショウペンハウエルでした。なぜなら、ショウペンハウエルは、彼らの尊敬する師カントを非合理主義のほうにねじまげたからです。

 ところがまさに仏教は、とくに原始仏教は、従来ショウペンハウエルの見地で見られていたわけです。ショウペンハウエルは、世界を動かしているものを、近代哲学の伝統に反して、理性として考えず、盲目の意志として考えます。われわれの生命を支配する盲目の意志、この盲目の意志は、必然的に人間を苦悩におとしいれます。意志の世界は必然的に苦の世界であります。この苦の世界から、人間を救い出す必要かあります。そのためには、この意志を否定すること、我の意志を否定することが必要であるとショウぺンハウエルは考えます。ショウぺンハウエルは、釈迦の思想中に、このような意志否定の哲学を見て驚くわけです。ショウぺンハウエルは、釈迦の涅槃をこのような意志否定の境地として解釈します。

 ショウぺンハウエルの弟子、ドイッセンは、この師の思想に啓発されて、仏教の研究を志します。

つまりヨーロッパは、ショウぺンハウエル思想によって、仏教を発見するわけです。そして、西洋の仏教学をそのまま学んだ明治以前の日本の仏教学も、またショウぺンハウエルから仏教を見ていたわけです。仏教学者姉崎正治氏は、ショウぺンハウエルの『意志と現識としての世界』の訳者でありますし、木村泰賢氏もショウぺンハウエルに大きな影響を受けています。

 ヨーロッパの哲学、ドイツの哲学がショウぺンハウエルから抜け出そうとしていたのです。ドイツの哲学、とくに現在流行しているドイツの流行哲学を最高の哲学と無邪気に思っている日本の哲学者が、このような風潮により、仏教解釈においても、ショウぺンハウエルを抜け出て、カントに帰ろうとしたのは当然であります。そこから和辻氏の解釈が出てまいります。和辻氏の解釈は、死の解釈において、その本質をむき出しています。死は彼によれはVergehenすることです。つまり過ぎてゆくことであります。死ははたして単なる過ぎてゆくことでありましょうか。

ここで、釈迦の人間の苦悩を語ったかの偉大なる教説が、論理的範疇(はんちゅう)論に化するのです。ハイデッガーはExistenzialistat実存範疇ということばを作っています。それは実存的人間存在を表わす範疇であり、それはKategorie論理的範疇とまったく違うというのです。退屈や不安はエキジステンチアリテートに属しますが、カテゴリーには属しません。和辻氏はまさに、ここで一つの誤謬を犯したのです。それは実存範噂に属することを、論理的範疇の意味に解釈したという誤謬です。宗教的不安なしに仏教を見たすぐれた文献学者宇井氏が、そのような誤謬を犯したのは当然かもしれません。和辻氏は、この宇井氏の解釈を哲学的に根拠づけたわけです。まことに才気あるさっそうたる誤謬であります。

 従来から私は和辻氏に対して、きびしすぎる批判をくだしてきましたが、別に和辻氏に恨みがあるわけではありません。私は和辻氏を、むしろ私どもの仕事の先輩として、尊敬すらしています。

しかし私は、和辻氏の青年時代はまだヨーロッパの最先端の哲学に真理そのものが住んでいるという幻想を脱却することができなかったのではないかと思うのです。

 十二因縁を論理的に解釈すること、それはまさに仏教の合理化であり、近代化であるようでありました、この因縁という仏教の汚点のように見える思想を、長い間の不名誉から救うすばらしい行為のようでありました。しかし、因果・因縁を論理的カテゴリーとして解釈して、いったいどういう利益があるというのでしょう。われわれはそこに、ただ、不明確に語られたカント哲学を見るだけであります。釈迦の思想を不明瞭に語られたカント哲学としてみることは、はたして釈迦にとって名誉でありましょうか。当時のインテリの目からみれば、それは名誉なことであったのでしょう

が、いかんながら、釈迦の十二因縁を、論理的カテゴリーとして解釈することは、まったくの誤解のようであります。

 因縁の実存的解釈

 このような解釈より、さきに述べた木村氏の第二の解釈のほうが、ほるかに正しい解釈であると思います。つまり釈迦は、やはり生病老死の原因を求めるのです。どうして人間の世界に苦があるか、世界の苦の原因は何か。そしてその原因をわれわれの心の中にある渇愛と無明に求めます。渇愛は欲望を欲望の側から、無明はむしろ知の側からそれがわれわれの知をくらませるものとしてとらえるわけです。つまりこの老死の苦の原因が、渇愛または無明、すなわち盲目の意志というわけです。このような解釈はショウペンハウエル的ですが、同時に、明治時代の日本の原始仏教研究家の多くの意見です。私はこの見方は一応正しいのではないかと思います。

 人間には苦がある。苦の原因は何か。渇愛あるいは無明。この渇愛、無明を滅ぼせ。このような苦の原因の追求と、同時に苦の滅びに関する追求、それはけっして論理的追求ではなく実存的追求といわれるべきものと思います。釈迦の思想は実存的なものであります。したがって、このような実存的な釈迦は論理的な解釈よりはるかに正しさをもちます。

 人間における渇愛と無明の深さ、のちの仏教はそれを煩悩といいます。そして仏教はじっとおのれの心の姿を見ているところがあります。暗い闇の心の凝視、それが仏教に、キリスト教以上の深みを与える思想的特質なのです。ヨーロッパの哲学では、人間を理性的自我としてとらえます。しかし、人間は理性的自我に尽きません。人間の中には深い煩悩の相がありノます。無明は無知と違います。無知は知らない心ですが、無明は知っていても止められない心であります。このような心、深い煩悩の心の考察は、ヨーロッパにおいて、ショウペンハウエル以後においてはじめて自覚に上されました。近代的な無意識の発見者フロイドは、ショウペンハウエルとニーチェから思想的示唆を得たというわけです。このように煩悩の世界、無明の世界は西洋において、ショウペンハウエル以来の哲学の一潮流にすぎないのですが、仏教ではこの間題が思想の中心問題となります。闇の煩悩の凝視、そこに仏教思想の深さがあります。

 このように解された十二因縁の説は、はなはだ倫理的にして、しかも実存的な説であります。死の苦の原因は、無明渇愛にある、その渇愛無明を捨てたまえ。

 このような十二因縁の見方は、はなはだ倫理的、実存的であります。たしかにこの理解は仏教理解の解釈として実存的であります。まさにこれこそすぐれた十二因縁の解釈であるといえます。

 しかし、はたして十二因縁はこのような意味に尽きるでしょうか。木村泰賢氏は、十二因縁はこのような意味には尽きない、そこには実在する生命の発展過程を、時間的に説明するという面もあると言うのです。たとえば、無明行識の識といわれるものは、受胎の状態に比せられます。つまり十二因縁はすべての存在するものが発生し、老死を生み出すまでの時間的契機を明らかにしたものだと言うのです。

 このような実在的生命観は、因果理解に、道徳的要求が加わった場合、あの善因善果、悪因悪果の説すなわち、よい行為にはよい結果が伴い、悪い行為には悪い結果が伴うという考え方が生じます。しかしこのような縁起の概念をとる仏教学者は現代では少ないようです。むしろ、それは宗派を代表する古い仏教学者の意見に多いようです。木村泰賢氏は、第二の実存的な思想が因果概念にあることを認めながら、同時に、実在的な因果概念も仏教においては無視できない思想であると言われます。


 人類の業

 私はこの第二のいわば、倫理的、あるいは心理的、あるいは実存的な因果理解は、たしかに近代的な正しい因縁概念の理解と思いますが、それはいささか不十分なのではないかと思うようになりました。なぜなら、そこではあくまで個人の存在が問題の中心でありました。実存は、むしろ個人に尽きています。

したがって、十二因縁の否定は、個人の内面のみでよいわけです。けれど、はたして、原始仏教は現代哲学のように個人中心主義的でしょうか。あるいほ、はたして因果関係に、個人を越えて拡大されることはないでしょうか。個人は個人を越えた因果関係によってしばられない、それはむしろ、近代的個人主義の立場の前提です。しかしはたしてそうでしょうか、親の因果ははたして、子に報いないでしょうか。祖先のしわざがわれわれの滅びの原因になることがまったくないのでしょうか。われわれが何万年の間になってきた運命によって、われわれが左右されることははたしてよいのでしょうか。われわれが本能という名で呼んでいる能力、これはやはりわれわれが祖先から伝えた一つの潜在能力ではないでしょうか。われわれの祖先がわれわれに投げかけた運命に、われわれが支配を受けることはないのでしょうか。

 私はやはり、因縁の問題を単なる倫理的、心理的、あるいは実存的問題に限定するのは正しい解釈ではないのではないかと思います。やはり、人間が、自己を越えた因果、いってみれば、普遍なる宇宙の生命発生以来の運命の支配を受けているという考えが、十二因縁の思想の中にあるように思うのです。

こういう宇宙発生以来の生命の無意識の支配力を「業」というのでありましょう。仏教ではこのような業を認めますが、仏教では自己を業のままに流させるのではなく、業からの脱出をはかるのであります。業にまとわれるかぎり、人間は永遠に苦の世界に坤吟します。この菅の世界、永遠の輪廻(りんね)の世界をまぬがれるには、因果のくさびを切る必要があります。人類が発生以来、になっている重い煩悩の鎖の環を切り取ること、ここに仏教の教説があるわけです。



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2. 中川隆[-13522] koaQ7Jey 2018年9月25日 18:56:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18817] 報告

六道輪廻について
 
 世に広まっている誤解に、釈尊は「六道輪廻」から解脱することを説いた、つまり生まれ変わりからの解放を説いたというものがあります。

しかし実は「輪廻」も「解脱」も元来、古代インドの支配階級だったバラモンの考えで、それらを含む思想が釈尊と同じころに『ウパニシャッド』という文献にまとめられてきますが、それは釈尊のとられる考え方ではありません。 それどころか、それらを批判していったのが釈尊でした。


 そもそも釈尊の当時は、正統的なバラモン思想に対抗する一連の革新的思想家が出てきた時代です。

かれらは沙門(しゃもん=努力する人)と呼ばれ、釈尊もその中の一人でした。

釈尊の師であったといわれるアーラーラ・カーラーマやウッダカ・ラーマプッタもそうですし、ジャイナ教の始祖ヴァルダマーナなど、「六十二見九十五種」という言葉もあるように、何十何百もの方々がさまざまな教えを説いていたといわれています。

 その中にも生まれ変わりを否定する人はたくさんいたのですが、釈尊がそれを否定した仕方はきわめて簡単です。 生まれ変わりという考えは、われわれが常住不変・永遠不滅の「我」(霊魂のようなもの)を持つということを前提としますが、釈尊はそのような「我」はないと言われたのです。

 趙樸初『仏教入門』(法蔵館)の記述にしたがえば、釈尊はわれわれも含め生き物はすべて、さまざまな物質的要素(地・水・火・風・空)と心理的要素(感覚器官・感覚・印象・思惟・判断力など)の集合体であり、しかもそれらすべての要素が一瞬ごとに生滅・変動していると考えました。

そうであれば、そこには輪廻の主体となる不変の「我」はどこにも見いだすことができないということです。これが「無我」といわれる考え方です。

 ただし、釈尊が冷静に学問的に研究した結果、そういう結論に達したのかどうかは微妙です。むしろ、輪廻という考えを否定するという動機にしたがってそう考えたと見ることもできます。

 というのも、ここは非常に大事な点ですが、釈尊を含む革新的思想家たちがバラモンの教えを批判するのは、それがバラモン支配の社会を支えるための教え(今ふうに言えばイデオロギー)だったからです。

たとえば、輪廻という考えは厳然としてカースト制を支える教えとしてあります。

つまり、現在バラモンであるものは前世によい行いをしたからであり、反対にシュードラにあるものは、前世でわるい行いをしたからであり、来世でよい境遇に生まれたければ善いことをせよというわけですが、その善悪の基準とは、つねにカースト制を含む社会が存続するのに都合のいいものです。

善を行ない悪を行うまいとして道徳を守れば守るほど、一方では安逸を貪り、他方ではいかに努力しようとも悲惨な状況から抜け出すことの出来ない階層が存在するという状況が続くわけです。

 これだけでも皮肉ですが、しかも、悲惨な状況にある者は、その状況を自分の前世の行いからくる運命のように受け入れて生きていくしかないと思いこんでしまうという点で、二重に悲惨なのです。

要するに、輪廻は身分差別には当然の理由があるんだという「こじつけ」として機能していたと考えることができます。

 ですから、釈尊が輪廻を否定し「四姓平等」(四姓とは、バラモン:司祭者・クシャトリヤ:王族・ヴァイシヤ:庶民・シュードラ:隷民)を表明したということは、「カースト制度を正当化しようとするいかなる考えかたも許さない」ということを意味したわけですから、カースト制と闘う態度を明確にしたということができます。

 しかし、残念ながら世間には、釈尊が輪廻を説いたというたぐいの仏教入門書が少なくありません。

しかし逆に言えば、その本が輪廻を釈尊が説いたもののように言っているかどうかは、その本が信用できるかどうかの一つの指標になるのではないでしょうか。
http://www2.big.or.jp/~yba/QandA/98_10_21.html



[18初期非表示理由]:担当:混乱したコメント多数により全部処理

3. 中川隆[-13524] koaQ7Jey 2018年9月25日 19:13:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18820] 報告

スッタ・ニパータは釈迦の本当の教えなのか?


仏教学を学ぶ者にとって、釈迦が、神の存在や霊魂の不滅性の是非を説かなかったことは、初歩中の初歩であるのだろう。そして、多くの仏教本には、釈迦は、人間にとって知ることのできない形而上学的諸問題については、それを問うても解答の出ないものであり、釈迦は、それらをことごとく捨て去ったと書かれている。(無記説)

ところで、最古の経典『スッタ・ニパータ』に登場する釈迦は、「無執着説」を説きながら、一方では、「輪廻からの解脱」ということを言う。最初から、霊魂の不死性を肯定も否定もしなかった仏陀が、一体、何故に、再び「輪廻」という言葉を持ち出してくるのだろうか?

これらのことは、『スッタ・ニパータ』を読んだときから、どうしても、私の頭から離れなかった疑問点であった。そして、もともと、本経典は、別々の時代に書かれた別の経典から編集されたものであり、全く別のものとして仏教を誤解釈した釈迦弟子が、仏陀の言葉として書き記したものであるのだろうか?

あるいは、釈迦は最初から輪廻を信じていて、これらは、何かの点によって繋がっているものであるのだろうか? それとも、それらはナーガールジュナ(龍樹)が言うような「勝義諦」と「世俗諦」なのだろうか?

実を言うと、先日、由緒ある曹洞宗のお寺に、日本を代表する仏教学者である奈良康明先生の講演会があり、話が終わった後に、個人的に、これらの質問をもって行ったところ、お寺の奥にあった小部屋に、先生から直々に案内され、一対一で、先生からの、これらに関する解答を頂いたのでした。

『釈迦は無我説を説き、霊魂の不滅性は説かなかった。

しかし、当時の一般民衆のほとんどが輪廻思想を信じていて、釈迦は霊魂の不滅性を否定はしなかった。霊魂の不滅性を否定したなら、托鉢で飯も食えなくなっただろうし、それを信じる者には、その道で行きなさい、といった感じだった。

だから、スッタ・ニパータのは矛盾はない。』


その日の夜に、仕事が終わった後に、スリランカ出身の友人B氏と、これらについて、さらに深い部分にまで及んで話し合ったところ、まったく別の説が浮かび上がってきた。

その彼の説はこうである。

『当時のインドでは、ほとんどの人が輪廻を信じていて、釈迦は輪廻からの解脱に挑んだ。その到達点は梵我一如のそれと同じであり、ニルヴァーナに至った釈迦には輪廻それ自体が無くなってしまった。

それゆえに、神(ブラフマン)の領域にまで達した釈迦にとってはアートマンは輪廻することが無くなったために、霊魂は不滅ではなくなった。』


しかし、B氏の説はバラモン教や梵我一如とその到達点ばかりではなく、それに至る道までもが同じではないのか?

一体、釈迦の仏教は梵我一如であったのだろうか?

いや、そんなはずはないだろう。釈迦の仏教が梵我一如の達人であったのなら、仏教は仏教である意味は喪失してしまうことになるのだろう。

私は、仏教のニルヴァーナの境地とバラモン教の境地とは、同一のものであることはB氏の意見と一致するが、釈迦の山頂に登る手法は、梵我一如のそれとは異なっていたのではないのかと思っている。

そして、「釈迦は霊魂の不滅説を説かなかった(否定も肯定もしなかったという意味)。

しかし、当時、霊魂の不滅性を信じる多くの一般民衆に対しては、霊魂の不滅性を否定はしなかった。」

という奈良先生の説に、私は賛同している。

もしかしたら、修行のレベルに合わせて釈迦は説法をされたのであろう。(対機説法)
http://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/47870614.html

無我説と輪廻転生説との矛盾について

  最近、タイのブッダダーサという比丘について知った。 このブッダダーサという比丘は、「釈迦は輪廻転生説は説いていない」と主張しているという。
 それ以外にも、伝統的なタイの僧侶であるプラ・ティップパリンヤーによれば、ブッダダーサ比丘は、三宝(仏・法・僧)は涅槃への到達を妨げるヒマラヤのようなものであるとし、また、経典にある「一切智」の意味を「ブッダがすべてを知っていること」ではないと唱えているそうである。

私のスリランカ人の友人の話によれば、かつて、スリランカに、このブッダダーサ比丘と同じように、「釈迦は輪廻転生は説いていない」と主張する比丘がいたらしく、その比丘は、ラジオ番組にまで出演して、それ以外のところでも、そのことを何度も説いたところ、マーハー・サンガというところから、ついには破門されてしまったそうである。

 ここで、ブッダダーサ比丘の注目すべき言葉を、いくつか抜粋してみることにする。

 『いかなる宗教の経典も後世の付加を必ず含んでおり、我々の三蔵も例外ではない。』

 『釈尊が亡くなられた日から(仏教の中に)腫瘍は休みなく広がりつづけ、今日に至るまであらゆる方向に拡大しており、今や非常に大きなものになっている。』

 『再生は行為(業)をするたびに起こり、その再生は、行為(業)の瞬間に自動的に起こる。世間で一般に考えられているように死後にやってくる再生(生まれ変わり)を待つ必要はない。

人が考え行動する時、心は、欲望と執着の力によって自動的に変化し、縁起の法則に従ってすぐさま生まれることになる。再生するために肉体の死を待つ必要はない。

この真理は、仏教の真の教えとして、(すなわち)生まれ変わるべき我(Atman)は無いと説く本来の初期仏教の核心の原理として、認識されねばならない。

死後の再生という考えがどのようにして仏教に忍び込んだのか、説明することはむずかしいし、我々はそんなことに拘らう必要はない。』

 釈迦が、アートマン(霊魂)の不滅説を説かなかったことは、仏教を知っている者なら、誰もが知っているだろう。 しかし、釈迦以降の仏教の多くは、時を経るごとに、教団が組織化し、多くの在家信者を取り込んでいったことにより、必然的に、輪廻転生説を説かなければならなかったために、アートマン(霊魂)ではない、アートマンとは別の、何らかの輪廻の主体を想定しなければならなかったのだと思うのである。

 そして、そこで、考案されたのが、まさに、「業」(カルマ)を主体とする輪廻転生説であったと思うのだ。

 とは言っても、無我説と輪廻説とは、明らかに矛盾する。 そもそも、古代インドの業思想とは、アートマンに付随して起こるものであり、アートマンなしに、業が、業のみで単独に輪廻するのであれば、、それは誰のものだか分からない業(カルマ)となるのではないのか?

 話は戻るが、東南アジア一帯に広まる上座部仏教は、元々はインドから伝わった、スリランカの上座部大寺派を起源とするものである。(事実、現存するパーリ三蔵は、スリランカの上座部大寺派が伝持するものである。)

 そして、現存する上座部仏教が、釈迦は、輪廻転生の主体たるアートマンを斥けているにも拘わらず、アートマンとは別の、輪廻の主体を想定することは、私の推測では、他でもない、パーリ三蔵の中に存在する、成仏伝承の「三種の名知」の中の第一の名知である「過去の生涯を想起する知」というものに、起源を有しているものであるのではないのかと思っている。

 そして、成仏伝承の「三種の名知」の中の第一の名知である「過去の生涯を想起する知」というものは、スリランカにおいて、ブッダゴーサ以前に、増広されたものではないということは明白であるから、その起源は、インド本土に遡らなければならないのだと、私は思っている。 ちなみに、説一切有部などが、おびただしい経典の改ざんや増広をおこなっていたことは、知られていることである。

 それ以前に、「ブッダの言葉」の曲解や加増は、もしかしたら、第一結集以降に、教団が拡大するにしたがって、顕著になっていった可能性も否定できないだろう。
http://blogs.yahoo.co.jp/dyhkr486/folder/1815573.html


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4. 2018年9月25日 19:38:04 : 5j1V7fpXvc : MX2W@d65rWw[1] 報告
二種の人種がいるということだな。方や教義で雁字搦めにしないと統制がままならない人々。理屈で雁字搦めになっている人種だ。これは頭の作用である。
日本は古来、スピリチュアルの理解そのものによって人々は意識高く生きていた。
だから迷う事無く、怖れることも無く、不要な教義も当前なく、全てを悟って生きていた。それが心の作用である。
心が先で、頭は二の次である。これを踏まえて、またそれらを総じて心の学問が語られねばなら無い。
既に真実の歴史は開示されてあるので、それを踏まえてそれぞれどう生きるか考える選択の時代に移行している。

5. 中川隆[-13527] koaQ7Jey 2018年9月29日 03:40:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18889] 報告

日蓮が活躍した鎌倉時代、震災、水害などが頻発し、世が荒れた時代といえます。そんな中で

「それ浄土というも、地獄というも、外には候わず、ただ我らが胸の間にあり。
これを悟るを仏という、これに迷うを凡夫という」

と日蓮は記しました。

現世を穢土としてみるのではなく、現世を寂土とすることをめざしたのが、日蓮です。
http://www.asyura2.com/18/hasan128/msg/626.html

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6. 2018年10月07日 18:39:55 : imf801LpCA : KNUNKvDsBfI[400] 報告
公正世界の誤謬
https://www.reddit.com/r/KIBEN/comments/7cen30/

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