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日本を操る赤い糸〜田中上奏文・ゾルゲ・ニューディーラー等 第8章 ハル・ノートにスターリンの謀略
http://www.asyura2.com/13/senkyo152/msg/387.html
投稿者 会員番号4153番 日時 2013 年 8 月 11 日 17:54:38: 8rnauVNerwl2s
 

(回答先: 日本を操る赤い糸〜田中上奏文・ゾルゲ・ニューディーラー等 第7章 尾崎秀美と「敗戦革命」の謀略 投稿者 会員番号4153番 日時 2013 年 8 月 11 日 17:52:29)


「ほそかわ・かずひこの<オピニオン・サイト>」から
http://homepage2.nifty.com/khosokawa/opinion07b.htm

第8章 ハル・ノートにスターリンの謀略

日米戦争について、近年二つの重大な新事実が明らかになっています。一つは、米国は日本の真珠湾攻撃の前に日本本土爆撃計画を立てており、その計画を推進したロークリン・カリーは、ソ連のスパイだったこと。もう一つは、ハリー・デクスター・ホワイトも、ソ連の諜報組織と関係があり、ハル・ノートの原案はホワイトがソ連の指示に従って起草したものだったこと。これらの二つです。特に、ハル・ノートに関する関与は重大です。

◆ハル・ノートに対する「不戦必勝」の道

カリーとホワイトは、時代を代表するエコノミストでした。共にケインズ主義者でした。カリーはニューディール第2期に、左派色の強い経済政策をデザインした「ケインズ革命」の立役者でした。ホワイトは戦後、ブレトンウッズ協定を立案し、英国代表のケインズと渡り合い、米国主導による戦後の世界通貨金融システムを構築した人物で、経済学の入門書にも載っているほどです。かくも優秀抜群なる米政府高官が、スターリンの世界共産化の謀略に関与していたとすれば、驚きです。
そこで、ハル・ノートとその背後のソ連の謀略、そして対米戦争を回避しえた道について、以下に書くことにします。
まず私は、日米開戦の引き金となったとされるハル・ノートに対しては、「即、交渉打ち切り、対米開戦」ではない「別の道」があったと考えています。昭和10年代の日本は「厳正中立・不戦必勝」の策 (注1)をとるべきだったという考えです。そして、それゆえ、私は大東亜戦争肯定論ではなく、いわば大東亜戦争本来不要論です。
日本側は、ハル・ノートをつきつけられた時、撤退すべしという中国には満州を含むと受け留めました。この受け留めによって、ハル・ノートは事実上の最終通告と理解され、日本の指導層は対米決戦へと決断しました。しかし、ハル・ノートは、満州を撤退の範囲に含むか否か明示していないのですから、この点を問いただして、外交交渉を続けるべきでした。
ハル・ノートに関して、私の知る限り、傾聴すべき意見を表明している方に、小室直樹氏、日下公人氏、片岡鉄哉氏がいます。
まず小室直樹氏、日下公人氏の共著『太平洋戦争、こうすれば勝てた』(講談社、1995)から要点を引用します。

小室:戦争をしない方法の「一番簡単なのは、ハル・ノートを突き付けられた時に『はい、承知しました』って言ってしまえばよかった。そうすれば戦争をする必要は無かった」
日下:「実行はズルズル将来へ伸ばせばいいんだから」
小室:「ハル・ノートには日程はついていなかったんだから」。「国際法の無理解」のため「ハル・ノートを理解できなかったから日本は対米戦争に突入した」
日下:「ハル・ノートの内容を世界に公開すべきでした」

大変、示唆に富んだ意見だと思います。これをさらに推し進めた意見が、片岡鉄哉氏の意見です。
片岡氏は、フーバー研究所員、元筑波大学教授。戦後日本外交史の国際的な権威です。上記産経新聞の報道を受けて書いた雑誌論文で片岡氏は、概略、次のように論じています。(『アメリカに真珠湾を非難する資格はない!』 月刊誌『正論』平成11年10月号)

大東亜戦争についてーー「クローゼビッツの戦争論に、戦争の第一原則というのがある。ひらったくいうと、戦争とは勝つためにはなんでもするものだというのである。しかし日本政府はそれを理解していなかったようである。日本にとって勝つとは、戦争を回避することだった。そのために政府は手段を選んではならなかった。名誉ある不戦を求めて手段を選んではならなかった。
日本政府が真珠湾への決定を下したのは、アメリカ政府が最後通牒で、理不尽な要求をしてきたからである。日本が受け入れるはずのない要求をしてきた。ただし、アメリカ政府はこれを最後通牒と呼ぶことを避けた。事実上の最後通牒を最後通牒と呼ぶのを避けることで、日本を先制攻撃に追い込んだのである。しかしそれだったら日本政府は、その最後通牒の内容を暴露すべきだった。ルーズベルトが、ハワイの司令官にも、誰にも知らせないで、最後通牒を出した事実を暴露すべきであった。…
 夏から秋にかけて、共和党はルーズベルトが戦争を求めている理由の一つを薄々感じ取っていた。32年に当選して以来、彼はあらゆる手段で大恐慌と闘ってみたが、失敗していた。…あとは戦争しかない、という実感が空気としてあったのである。…
 日本が名誉ある不戦をとるとすれば、彼らに頼る以外なかった。彼らに、FDRが最後通牒をだしたことを知らせるべきだった。それも単に知らせるだけでは足りない。ルーズベルトは真珠湾攻撃を両院議員総会で発表して、メディア・イヴェントにしたが、あれくらいの派手なことをやって、誰が戦争を求めているのかを、全世界に印象付けるべきだった。…」

小室・日下・片岡各氏が述べるような、極めて高度な外交を、果たして、当時の日本の政府が展開できたかどうかは、疑問を感じる方も多いでしょう。しかし、「ハル・ノート」への対応は、「即、交渉打ち切り、対米決戦」のみではなく、米ソの謀略に乗らない道が、一つの可能性としてあったことは、ご理解いただけるでしょう。実際、ハル・ノートを突きつけられてから開戦までの11日間、挑発に乗らず、あくまで戦争を避けるべきだという意見が、指導層の一部からは出されたのです。しかし、指導層の多くは、クラウゼヴィッツ流の西洋白人戦法を信奉していたため、東洋・孫子流の「戦わずして勝つ」最高の戦略があることを理解できなかったのでしょう。

◆H・D・ホワイトに関する疑惑

日米戦争によって、戦後、漁夫の利を得たのが、スターリンでした。彼は、かなり早くから日米戦争謀略を構想していたようです。アメリカのW・ビュリット駐ソ大使は早くも昭和10年(1935)7月19日に「アメリカを日本との戦争に引き込むのがソ連政府の心からの願望」だと米国に知らせていたのです。昭和10年つまり1935年とは、ルーズベルトが大統領に当選した年です。スターリンは策謀の一環として、ルーズベルト政権の高官の中にスパイをつくり、彼等を使って、ルーズベルトを操り、日米を戦わせようとしたのだろうと思います。
そして、この線上に浮かび上がってくるソ連への重要な協力者の一人が、H・D・ホワイトだったのです。当時、彼は財務省のエリートでした。ルーズベルト大統領に強い影響力を持つ財界の大物・財務長官モーゲンソーの右腕であり、頭脳でした。ホワイトの書いたものは、そのままモーゲンソーが署名し、モーゲンソーの文書として大統領に提案されたといいます。
戦後、IMFの理事長という要職にあったホワイトに疑惑が起こりました。昭和23年(1948)7月です。共産党の女性スパイであることを告白したエリザベス・ベントレイが、下院の非米活動委員会で、「ホワイトはワシントンの共産党エリート分子の一人だ」と証言したのです。ホワイトは、自ら同委員会に出席し、委員の質問に逐一答え、自分は共産党員だったことはないし、いかなる反米活動に従事したこともないと誓いました。ところが、それから2週間もたたずに、ホワイトは自分の農場で死亡しました。死因は心臓発作とされています。当時、スパイの容疑をかけられた者たちが、次々に自殺したり、亡命したりしたので、ホワイトの死は謎を残しました。
彼の死後も疑惑は続き、以前に共産党員だったウイタカー・チェンバースが、ホワイトは、戦争中ソ連のスパイ網の一員であったと証言しました。しかし、ベントレイやチェンバースの証言以外に、ホワイトを安全保障違反に問える証拠は何も出ませんでした。
彼の死後、50年近くたって、元ソ連NKVD(内務人民委員部、KGBの前身)工作員であるビタリー・グリゴリエッチ・パブロフが、ホワイトに関する証言を行いました。彼は、ホワイトに接触し、ホワイトがハル・ノートの母体となる文書を書くに当たって参考にするようメモを見せたといいます。ホワイトを利用した作戦は、彼の名にちなんで「雪」作戦と呼ばれたことがわかりました。
平成9年(1997)、パブロフは、NHKのインタビューに応じて、当時の事情を明かしました。パブロフは、ホワイトに見せたメモには、「関東軍はソ連に一定の警戒心と脅威をもたらしていた。ですから、一部の警察力のみを残してこの軍隊を撤兵させることが、日本にとっても適切であると考えさせるような」内容があったことを示唆しています。「われわれの目的は、極東のソ連地域を日本の攻撃と侵攻の可能性から守り、安全にすることでした」とパブロフは語っています。この点こそ、尾崎秀美とゾルゲが、最も力を注いだところでした。ソ連からすれば、日本とアメリカの両方に働きかけて、日本軍の北進を阻止する工作を行っていたことになります。
パブロフは、日米を戦わせるという考えは「まったく考えになかった」と述べています。しかし、これは疑ってみる必要があります。最高指導者のスターリン、またはパブロフの上司であるベリヤが、工作員のパブロフに世界革命戦略の全体像を明らかにしていたとは、考えにくいからです。パブロフよりはるかに優秀な尾崎秀美は、日本を米英と戦争させ、「敗戦革命」を起こすという戦略の実行を自己の使命としていました。彼の行動と証言を見れば、スターリンが日米戦争を強く望み、日本と米国の両方の指導層に工作をしていた可能性は十分あるのです。

◆スターリンが日米を戦わせようとした理由

ではスターリンは、なぜ日米を戦わせようとしたのでしょうか。この理由は、これから歴史家や戦略論の専門家によって本格的に分析されていくことでしょう。浅学を顧みず、私は、現時点で、主な理由として以下の4点が挙げられるだろうと考えています。

(1)スターリンは日本を米国の力をもって叩くことにより、満州・朝鮮を奪い、また中国の共産化を実現しようとした。中国共産党は、スターリンの指示を受けて、日本軍と国民党軍を戦わせ、両者の弱ったところで、共産化を成し遂げるという革命戦略を実行していた。(昭和12年〔1937〕のろ溝橋事件以後の一連の謀略など) 米国による対日戦争は、アジアにおける共産勢力を援護するものとなると謀ったのだろう。

(2)さらに対米・対中戦争で弱ったところで、日本を共産化することを目標とした。スターリンは、日本革命を、世界の共産化における最大の課題としていた。日本の「国際共産党日本支部」(=日本共産党)に対してのみ、他国の支部には見られないほど多数のテーゼ(運動方針)を指示していた。ソ連軍の「日本解放」の際には、日本共産党がスターリンの手先・傀儡となるよう育成したのだろう。(実際、米軍の日本占領の際に、その成果が現れた)

(3)スターリンは、昭和15年9月に日独伊三国軍事同盟を結んだ、日本がドイツと協同して、対ソ攻撃を行うことをおそれた。日本軍部では、北進論(=対ソ)と南進論(=対米英)の両方面の作戦計画が拮抗していた。結局、昭和16年10月のゾルゲ事件によって、明るみに出たように、日本人スパイの尾崎秀美は、日本の「敗戦革命」をめざして、コミンテルンのドイツ人スパイ・ゾルゲに協力し、日本軍を北進から南進へと方針転換させた。これによってソ連は挟撃を免れ、ドイツの侵攻から九死に一生を得た。同時に、日本を南進させたことにより、スターリンは日本を米英と戦わせる道に誘導したのだろう。
 
(4)特に昭和16年6月からのヒトラーの侵攻に圧倒され、危機にあったスターリンは、米国を第2次大戦に参戦させ、米国をドイツと戦わせようと謀った。大統領選挙で、大戦に参加しないことを公約していたルーズベルトを、対独参戦させることは、スターリンにとって死活をかけた課題となった。そこで彼は、米国の対日開戦が対独参戦のきっかけとなるように画策したのだろう。ルーズベルト自身、対独参戦を行う口実を得るために、日本を挑発し、日本から仕掛けさせようとした。この点、スターリンとルーズベルトの目的は一致していた。スターリンは、ルーズベルトを刺激して対日工作を促進したとも見られる。

私は、昭和戦前期、1930年代〜40年代の世界において、最高の戦略家かつ最凶の謀略家は、スターリンだったと思います。

◆独ソ戦の情勢を見て「別の道」へ

さて、上記のような理由で、日米を戦わせようとするスターリンは、諜報員を用いて、アメリカ政府高官であるホワイトに、日本に対して強硬な要求をつきつける文書の起草を指示したと考えられます。ホワイトの書いた原案は、財務長官モーゲンソー案として提出され(1941年11月17日)、それをもとに検討がされました。この過程では、内容が段階的に変更され、最終的に成案なったのが、ハル・ノートです。その完成は、手交前日の昭和16年11月26日でした。
ハル・ノートの解釈で最大のポイントとなったのは、アメリカが日本に軍隊の撤退を求める範囲に満州国を含むのか否かでした。成案寸前の案では、中国と満州は別とされ、撤退範囲に満州は含まれていませんでした。しかし、最後の数日の間に、単に中国というだけで、満州を含むか否かが明示されない表現に変えられました。一体この変更がどういう理由で行われたのかは、まだ解明されていません。ハル自身の考えなのか、ルーズベルトの指示なのか、はたまたスターリンの意思を受けたソ連のスパイによる働きかけがあったのか、まだ真相はわかりません。
ホワイトの関与についていえば、彼の原案は幾度かの変更を加えられているので、成案なったハル・ノートは、ホワイトが書いたものとはいえません。しかし、ハル・ノートが、日本を対米開戦に追い込んだことを考えると、所期の目的は達成されたといえるでしょう。
いずれにせよ、日本側は、ハル・ノートをつきつけられた時、撤退すべしという中国には満州を含むと受け留めました。この受け留めによって、ハル・ノートは事実上の最終通告と理解され、日本の指導層は対米決戦へと決断しました。しかし、ハル・ノートは、満州を撤退の範囲に含むか否か明示していないのですから、この点を問いただして、外交交渉を続けるべきだったのです。
それと同時に、日本政府がこの時、独ソ戦について正確な情勢判断をしていれば、「不戦必勝」の道を受け入れることは可能だったと、私は考えます。
その説明に代えて、再び、小室+日下共著『太平洋戦争、こうすれば勝てた』から要点を引用します。

日下: 「昭和16年の11月26日にハル・ノートが出た頃、ソ連に攻め込んでいたドイツ軍の進撃が、モスクワの前面50キロというところで停止したんです。そのことは、大本営もわかっている。ただ、大本営は『この冬が明けて来年春になれば、また攻撃再開でモスクワは落ちる』と考えていた。
 『本当に大本営はそう思っていたんですか』って瀬島さん(=龍三、元大本営参謀)に聞いたら、『思っていた』と。
 その頃、『これでドイツはもうダメだ』という駐在記者レポートが各地から来ていた。イギリスにいた吉田茂(大使、のちの首相)も、ダメだと見ていた。それなのに、ベルリンからのだけ信用した。そりゃあ、ベルリンの大島浩(大使)はヒットラーに懐柔されちゃっているから、いいことしかいわない。それを信じたのです。…
 瀬島さんに聞いたんです。『もしもドイツがこれでストップだと判断したら、それでも日本は12月8日の開戦をやりましたか』って。そうしたら『日下さん、絶対そんなことありません。私はあの時、大本営の参謀本部の作戦課にいたけれど、ドイツの勝利が前提でみんな浮き足立ったのであって、ドイツ・ストップと聞いたなら全員『やめ』です。それでも日本だけやると言う人なんかいません。その空気は、私はよく知っています』と」

再び、こうした歴史を繰り返さないように、歴史の検証を深め、その教訓を、今日に生かしたいものだと思います。(ページの頭へ)

参考資料
・対米戦争を始めなければ、日本は全く別の道を行くことができました。
 詳しくは以下をお読み下さい。
 「大東亜戦争は戦う必要がなかった」
・須藤眞志著『ハル・ノートを書いた男〜日米開戦外交と「雪」作戦』
(文春新書)

※第二次世界大戦と日本の戦前戦後政治、日本のスパイ勢力と左翼
 

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