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チェルノブイリ
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/355.html
投稿者 おどろき 日時 2016 年 4 月 28 日 13:14:15: cdMQTlXL/iMSs gqiCx4Lrgqs
 

チェルノブイリで ひとの 住まなくなった 地域に
たくさんの 種類の 動物が どんどん ふえて
パラダイスの ように なってる という

うれしい はなしだなあ
ごたごたした にんげんの 世界を はなれて
パラダイスの ような チェルノブイリに
ひっこしたく なっちゃう

たくさんの 種類の 動物たちと ともに
のびのび くらす なんて
どんなに たのしい だろうと 思っちゃうよなあ

天地自然の いのちの おおきな 流れの
なかで その ゆたかさと ともに
いまを いきていく
そこに みちたりた よろこびが あるんだよな
いのちの よろこびだよな

自分が 生きるとか 死ぬとかを こえて
いきても しんでも ひとつづきの
いのちの よろこび というものが あるんだ

やっぱり 人間の やってきた 文明は
決定的に まちがってたんだ

世界は 戦いじゃ ないんだよ
いきのこり 競争じゃ ないんだよ

にんげんの そんな ゆがんだ おもいこみで
進化論 なんて ものを でっちあげ
動物 植物の すべてを その ゆがんだ
ものがたりの なかで 見てしまっている

だけど そんな ゆがんだ おもいこみは
にんげん ほんらいの ものじゃ ないんだよな
だから ゆがんでるって ことは
だれにでも わかってる

にんげんを ゆがんだ おもいこみに とじこめる
ための 殺し文句が
にんげんは パラダイスから 追放された
罪ぶかい ものだ
という おしえこみ なんだ

おおくの ひとたちが こんな 殺し文句に
やられちゃってる みたいだけど
日本人は そうでも ないのが ありがたいよな
だから にほんじんの なかで
せかいは たたかいだ
せかいは いきのこり 競争だ
という ような 考えが ひろがって きても
まだ まだ うわっつら なんだ
ねっこには ゆがんだものを ゆがんでると 感じる
あたりまえの 感覚が のこってる

その あたりまえの 感覚を のびのび させれば
ひとは だれでも パラダイスに
いま すぐに はいって いけるんじゃ ないかなあ
べつに チェルノブイリに ひっこさなくても ね

いのちの よろこび という パラダイスは
じぶんの みのまわりに あるんだろうな
ひとを だまし とじこめる ための
でっちあげや 教えこみから はなれれば
見えて くるんだ

そして にんげん ほんらいの 文明
縄文の 文明が
あっちでも こっちでも よみがえる
という はなしに なるんだよな

おれの ばあいは ぽんせんどう しゅじん
ひら かなざえもんの 暮らし
という ものがたりを やることで
縄文 文明の よみがえりを
体験したい という こと なんだろうな

チェルノブイリで ゆたかな いのちの つながりが
よみがえった みたいに
おれの みのまわりでも ゆたかな つながりを
見つけだして いきたいよな

チェルノブイリの はなしを きいて
うれしかったのは
せかいの おおきな いのちの ながれに
じぶんの いのちを とけこませ ひとつに していく
よろこびを 感じた から なんだろうけど

もうひとつ よろこびが あると 思うんだ
それは じぶんの カラーを だしていく
こと なんだ

たとえば チェルノブイリに ひっこしたと して
そこで おれは どんな カラーを だして いくのか
あるいは ぽんせん堂 ひら かなざえもん として
どんな カラーを だして いくのか

じぶんの なかから わきだしてくる
おのずからの うごきで やっていくしか
ないんだけど
その おのずからの うごきを のびのびと
させたいよな

あかく さくのは けしの はな
しろく さくのは ゆりの はな
どう さきゃ いいのさ この わたし

だったっけ そんな うたが あったけど
じぶんの なかの おのずからの うごきを
のびのび させる ことで
どう さきゃ いいのかが 見えて くるし
じっさいに 花が さきはじめるんだ

それには じぶんの まわりの
おおきな いのちと つながり ひとつになる
よろこびが かんじん なんだろうな
この よろこびの なかで おれの なかの
おのずからの うごきが
のびのび するんじゃないかなあ

せかいは 競争だ 戦いだ なんて
思ってるのとは まるで 反対 だよな
進化論も そうなんだ
戦いの なかに 進化が ある
なんて いうのは まるで うそっぱち なんだ

たたかいも しんかも そんな ものは うそなんだ
たたかい じゃ なくて
せかいと つながり とけあうことで
しんか じゃ なくて
それぞれの カラーを だしていく
というのが ほんらいの 文明 なんだ

―――――
書いて いるうちに こんな はなしに
なっちゃうけど
ほんとうは ふるい ものは わすれて
あたらしい せかいに はいって いって
そこで どう さきゃ いいのさ このわたし
という ことで
じぶんの カラーを おもいっきり
おもてに だして いければ いいんだけどね

いま おれは あまり のびのび してないんだと
思うんだ
ふるい ものに しばられてるし
まだ まだ 疲れが のこってる

だから チェルノブイリの はなし なんかを
聞くと ふるい世界を わすれて 今すぐ
ひっこしたく なっちゃったり するんだよな

こんな ところから ぬけだして
ほんとうに のびのび したいよなあ
そうすれば おれの パラダイスが みえてくる
おれの カラーが みえてくる
おれの チェルノブイリが みえてくる
なんて おもうんだけどね


●●手作り玄米ポンせん 食べてみませんか●●
―――――
ひらがな にほんごで
ものを かんがえ かくのは
おもしろいなあ
ひとあじ ちがった かんがえかたが
できそうで やめられないよな
… ぽんせん堂 主人
…  ひら かなざえもん

(この記事の原文は、ひらがなにほんごです)
―――――
 

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コメント
 
1. アーリエル[13] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月28日 16:42:24 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[99]
>平 仮名冴門さま

人の本質はいつまでも子供であると私は思います。
そこに大人ぶった威厳が加わると、とんでもないことが起こってしまうというだけです。
私は進化論という学問もまた面白いと思います。
ただしそれをどう利用するかは別問題だということです。

大人であらねばならないという考え方は主に、危険視することと向き合ったときに起こります。つまりその本質は防御膜、鎧、覆い隠してしまうもの、それらに類する価値観を示します。

本来、人の生き方にはなんら間違ったことなど起こりません。
何をしてもよい、ただしかし、それらが人々を制圧することになってはならないだけです。

起きたことに対して、それが単に望ましいか、そうでないかを見極めることは実に簡単なことなのですから。

人々もそのようにして自然のほかの動植物たちと同じく、
望ましい事柄にだけ目を向けて進化していけるはずです。

自然の法則性から意図的に乖離されていると判断する人間の場合は、
自然な進化を促す法則作用を間接的に利用しています。
それは、価値観、心の働きを採用することによって得ています。
つまり、フィルターを通して、一旦ばらばらにした物事を改めて自分たちの価値観に解釈を置き換えて組み立て直すということをやっているわけです。
よって、そこでは当然、いかに純粋な心のあり方を保つことができるかが大事になってきます。

たとえば苦痛に耐えることが大人である、といった価値観があるとします。
本来なら、単に苦痛の原因を解消すれば、避けられる痛みを、
徒に大人っぽさを演出するためだけにわざわざ我慢し続けるということをしてしまいます。
その結果、頑張った大人の証だとして、
体に不要な病気の原因を溜め込むことにもつながるのです。

これは心の痛みを持つことで、罪悪感を無くそうとすることによる自傷行為も同じです。これは幼いときから、善悪の概念を押し付けられた子供に多く見られます。
つまり熱心な宗教活動家に多く見られるものでもあります。

子供もまた周囲の評価がそこに集まると理解すると、そうした部分を真似します。

よって、人の生き方とは何かを求めるなら、ただただ純真な心を持つ子供にのみそれを理解することができるとい言えると思います。
または、純粋な動物のたたずまいに習うほうが大きいといえるかもしれません。

現代においても子供たちは、そうして大人が発する道義的な物言い、つまり、
大人大人した価値観の中にもみくちゃにされているのが現状だと思いますが、
そこで自身の本質的な生命の躍動を生き方にマッチさせることができなくなれば、
すぐに自律神経の失調を引き起こします。

本質的な生命の躍動、喜びの流れをせき止められれば、当然頻繁に起こりうるもので、
それは頭での理解が肌感覚の理解をかき乱しているせいでもあるでしょう。

そしてその混乱は人々から表情を奪います。
無表情になるほどに、感情的に蓄積された混乱は、表面的な行動として外に現れてしまいます。

人々から笑顔が消えれば、とんでもないことが起こるということです。
人間からその本質的な生命の躍動と切り離すような措置はすべきではありません。

危なげなく子を育てたいと思うのであれば、自然な性質を不審に思うのはやめて、
喜びとその楽しみを共感する力を伸ばすために、ただその流れの方向性を与えてやればよいだけです。

つまり、今やっていることが肌の感覚に望ましいと伝えられているかどうかをきちんと問い、感覚的に理解させるのです。それが正しいこととマッチすることだと認識させるのです。

大人は頭で理解するもののみに心を奪われて、体裁だけを気にし、
一般的な価値観にのみ沿って、間違っていると判断できることには、
ただ制限を与えればよいとだけ考えるようになっています。
そこに正しいといえることはありません。

自然界あらゆるものに対して人間独自の価値観を採用し、
そのように人間ご都合主義に振舞っている現状を見直すことは急務の課題です。

本来、子供は夢中になれるものを見つけたら、あとはわき目も振らずまい進します。

子供たちが何かをするのは、誰かの笑顔のためであり、それは大人の価値観や尺度で否定したり介入することはできません。
そのエネルギーをきちんと誰もが肌感覚で理解することが大事です。
このことはとてつもなく重要なことです。

私たちも本質は子供たち同様にいつまでも純真で無垢なままの存在として存在します。
子供たちはそれを見極めています。ですから無理せず、楽しんでいきたいものですね。


2. 2016年4月29日 08:04:16 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[62]
折しも、沖縄民が先住民(縄文人)か否かで、国連と日本政府の間で
摩擦が起きてきているようですね。
まあ、元々の琉球人が先住民族であることには疑いようもありませんが、
そののち入ってきたもの(中国だろうがフィリピンだろうが朝鮮だろうが
台湾だろうが日本本土民だろうがアメリカ人だろうがそれらのミックスだろうが

元々の琉球民族に共鳴して平和裏に合流した結果ならば全て原住民、ってことで)

今、私の身の回りに起きている事実について少し。

音楽(作詞作曲編曲演奏)を通して知り合った仲間同士
(それぞれ絵描きその他芸術家や職人、作家や役者や写真家カメラマン監督、
プログラマーや演出家やプロデューサーやマネージャー等、色々兼ねていることが
多い、それ以外の趣味も多彩・・広い意味での芸能家又は表現家・・・
アマ、セミプロ、元or現プロ問わず)。

一度何かでなぁなぁで響きあったような縁が出来ると(その子供同士などは、
必ずと言っていいほど、親と似たような才能を受け継いでいたりする。
当たり前のように表現センスが備わっているし、親と何らかの葛藤があっても、
結局そっくり受け継いだような表現を少なくとも一部は生業にしてたりする)。

結果、付き合っているうちに50代を超えた辺りから、同業者同士、類業者同士が、
国籍や思想に関わらず血縁を超えた、親類同士以上の関係になっていたりします。
何かのきっかけで会合すると、事実上の、欧米で言うところのFamily Reunion
になってしまう。昔、ラジニーシという聖者が言っていた言葉に、
beyond small familyみたいな、一種のコミュニズムとも取れる概念が
あったのですが、気付いたら自然とそんなものが形成されていたりする。

不思議だけど出会う前から知り合ってた者同士

って、本当に在るんだね。


3. 2016年4月29日 08:56:52 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[63]
その、表現者同士(極最近では、学者や文化人、政治家、財界人にもその輪が
広がりつつあるのですが、有名無名問わず・・・)

>02さんがおっしゃるように、響きあいの共通項は、
子供を自然に育む
或いは子供=(躾を通すと≠)自然
と観たうえでの、生命(生存権) > 人権 ≩ 通用的価値観 ≱ ↓↓↓金
みたいな感性の共通項が在る気がする。

私夫婦は、日本国憲法に従い、親はその権利を支える義務はあるが、
子供には学校に通う権利のみがあるという認識があったので、
義務教育期間に「学校に行きたいときは行って、行きたくない時には
行かなくてもいいんだよ」
と二人の娘に言って育ててきたが、その結果、二人とも堂々と自分の気持ちに
従い、学校に通った期間がそれぞれのタイミングに応じて通常の
三分の一から五分の一位になった。

結果として、二人とも多くの友人や恋人や後見者を得て、一般より高い
社会性、仕事の評価、才能の発見、人望や人気を得てきている。
家族を含む周辺との関係も、適切な距離感含め良好です。

その結果を理解できるタイプなら、どんな層の人(左右問わず)とでも交流できるが、
そうじゃないタイプ、例えば人生とは金(出し抜きあいや競争のみ)、
みたいなタイプだと、どんな層とも(左右問わず)交流できない、というか、
次元に断層(災厄の元)が生じかねないのでなるべく関わらないように努めるしかない。


4. 2016年4月29日 09:22:34 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[64]
あ、>02 は、>01さんの、間違いでした。。

なんか、気を付けてないと境界線が曖昧になってきちゃってるみたい、、
失礼しました🙏


5. 2016年4月29日 12:19:03 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[69]
不登校といっても、親が子供(ひいては己自身)を恥じていなければ、
ごく短期、一般的に数日程度の充電(葛藤、自我形成)期間
(その期間も親は見守りつつ放置)を除けば、子供は活発に外に出て、
同世代を軸としつつも、相手を見極め、赤ちゃんから老人まで、フラットな
感覚で両性の友人を見出しては、浅く深く関わりを築いてゆく。

意図した以上の展開に、親の方が目を丸くしたり、感動に痺れてしまったり
するほど。ほんとだよ?

なんて豊かなんだろう!


6. 2016年4月29日 12:41:22 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[70]
↑そう、赤ちゃんから老人まではおろか、動植物ともだ!
さらに、動植物(ついでに乗り物メカも)に対する知識も、舌を巻くほど。
事実、一人は成人してすぐ、学芸員になったほどだ。
もう一人は、割とスーパーアスリート。


不登校=ひきこもりという思い込みは、捨てるべきだよ全国の親御さん(笑)

親は信頼して見守り、必要とされたとき
寄り添ってあげられればれば十分。もちろん、厳しさと言う愛情を
求められることもあるから、見極める目も必要だけど、
楽しく関わってれば、子供の方がそのときを教えてくれるよ。安心だね。


7. アーリエル[15] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月29日 15:15:55 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[101]
>2

ご無沙汰してます・・ですかね。

いま、あらゆる社会の枠組み、価値観の見直し、建て直しが生まれているのではないでしょうか。
義務教育なんてものは必要ないと思いますね。
社会に出る前段階の子供たちの社会生活の場としてみても、
今の大人の社会同様に、暗くゆがんだ社会性もまた、
そのまま生き写しであるようにも感じます。周囲の大人を見て育つのですから、当然だといえますが。

私がもし現在不登校中の子供を育てている親なら、自分の子供の感性と自分で選んだ人生にただ惚れ惚れするかもしれない。

その上できちんと学校で何がしたかったのか聞いてあげることが必要かもしれない。
その子供もまた自分の理解度を頼りに生きている。
そして自分の持つ価値観を確かめようとしている。
またそこに自分らしさを得ようとしている。周囲に合わせようともしている。
けれどもそれでいて、その子は周囲とのずれや温度差を確信している。
息苦しさを覚えている。そして自分の世界を閉じてしまいそうにもなっている。
どれほどの強さを秘めた子かと思う。
ならば、もっとその価値観を活かせる世界に飛び出して生きてみるのが私は正解だと思う。
義務教育の現場など、振り返ってみてどの程度のものかと思う。

私はその力、つまり子供の感性は世界全体にとっての自浄的作用であると信じている。
現社会はその声を大事にしていない。金枠からはみ出すものは無視され隠されてしまおうとする。
その現状をいつまでも放置しておくわけにはいかないと感じる。


8. 2016年4月29日 23:22:33 : q4INVYXins : 486zRafwMt0[6]
チェルノブイリについて言えば、未だに高濃度の放射能汚染に悩まされ近隣の住民は放射能障害で苦しんでいます。人間と寿命が10年以下の動物とでは被曝条件が同じではないのですよ。

>>02

新参者を排除した既得権者の馴れ合いなど気持ちが悪いだけです。あなたたちが世間で好き勝手できるのは権勢があるからで才能があるわけではない。あななたちの支えになっているマリーアントワネットが首を刎ねられたらあなたたちの天下はお終いです。ウソだと思うならその才能が何の権勢もない外国で通用するかどうか試してみたらいい。


9. 2016年4月30日 06:41:20 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[71]
07 エアリアル様。

お久しぶり、ということでいいと思います。
電気料金未払いの停電があってから、またIDが変わるようになっちゃいました(笑)

>08さん、

誰も何の後ろ盾ももっていませんよ。資本家も要りません。
信じられないでしょうが。。


10. 2016年4月30日 06:57:14 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[72]
仲間と言うのは、自分も含め、殆どが無産階級ですね。
極貧に近い生活を送っている者もそれなりにいる。
たまにお金持ちがいても、手弁当で社会奉仕活動や改革運動を
するようなタイプ。でもなければ、仲間入りもできません。


でも、みんな、どんな人生の中でも、楽しみ方を心得ている。
一つの共通項として、芸術性や技能頭脳の他に、一定のサイキック性が
備わっているものが多い。

特定の宗教に嵌っているような者は、皆無に等しいですが。

それに、国際的にも十分通用している。


11. 2016年4月30日 07:57:39 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[73]
ついでだけど。
仲間内に、
「武術家、武芸家」を兼ねている者も多い。

12. 2016年4月30日 08:42:03 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[74]
>07
しかし、私は一足飛びに「義務教育なんてものは必要ない」
とは言い切れない。

人間の自然権という原則の元では、確かに学校教育というのは
弊害のほうが多いのであるが、
世界に「貧富の差」が厳然と横たわり、また親に成る者もその時点で
充分に成熟していない以上、また世界を見渡せば、まだまだ学校にすら
通わせられない貧困の方がメインとなっている以上、

親に子を学校に通わせる義務を課す
というのは、最大の良心であり、恩恵であると言わざるを得ない。
特に日本国憲法は、燦然たる光を放っていると思える所以でもある。

BIが普通に成る世の中(それは、政治家や官僚含めた大人社会自身が夢から覚め、
純真さを保った真っ当な成長を遂げなければ実現不可)にでもならないかぎり、
つまり格差自体が解消される方向に流れない限り、最大の良心のモデルとしての
世界的シンクタンク及び、各先進国の「平和と公平を理想とする憲法」に
参照するしかない。

学校とは、国連と同じ位の必要悪であり、かつ現状に於ける善意の
最高峰であるとも言える。
個々の知恵を用いて、かつ意識的にそれをどう活用し、確信を実践できるか。

今は兎に角、個々の知恵を絞り、無理なく擦り合わせていくしかない。

とはいえ自分は、一々難しく考えたり落胆している訳でもないけどね。


13. 2016年4月30日 08:57:21 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[75]
子供は、本能的に「学習」を求める。動物ですら。
「学習権」は(ホントは大人もだけど)絶対に外せない根本的原理。

無論、学校が学習権を提供する全てなわけない。
なくても学習はできる。が、

個々の興味や能力に応じた、バラエティーに富んだ選択肢を提供することが出来る、
実に便利な公共機関だ。受験制度の方が問題だ。
単純に貧富や無理な努力に関係なく、もっと開かれればいい。


14. 2016年4月30日 11:21:44 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[76]
08さん、色々首を傾げてしまったのだが、まず、天下ってなんだ?
チェルノブイリでの動物天下と同列??
そこにマリー・アントワネットがどう関係してくるの?


ただ、響きあいや交流のある、血縁を超えた場が地味に存在しているだけ。

生きにくい世の中のぎりぎりで生息する、自然発生フィールドというか、
自己形成場というものもある、金のあるなしに関わらず豊かさがある、
という事実を言ったまで。

特権も特設シェルターもない、大災害や原発事故や、
頭上に原爆落ちてきたら皆同じ運命の条件下だよ。

その中でどう人生を全うしたいのか、っつう話だよ。


15. アーリエル[18] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月30日 14:41:43 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[104]
>8
業界の後ろ盾のことをいっているのですかね?
それとは違いますが、どんなサークルであってもそこであった仲間は不思議と縁が深いといった感慨は確かに私にもあります。

>おねいさんへ
>義務教育に関して

「必要ない」とする部分とはあなたの意見に寄り添います。
それは、制度そのものに対していっているわけではないからです。

教育とはそれを受ける側をさして「与えられるもの」としますが、
自ら進んで吸収していく中で実質的な学びとは得られるものですよね。

「選択肢」がないとする部分では「義務」であり、
それ以外は選択肢があるとしますが、自由度がないと感じるのは間違いないと思います。
選択教科を選ぶということに対しても、やはり自由度は著しく低いと思います。

未来に何をしたいかがまず彼らに明確なビジョンとしてなければ、
そこにただありていの教科を並べても、何も身につくはずはありません。

はっきりいえば、教師という職のあり方が問われるのです。
そうした彼らにとってふさわしい存在としての役割が必要だと思います。

ただ教科内容を叩き込むだけのつながりでは抵抗が生まれるだけです。

すべて「義務」という言葉に問題は凝縮されているように感じます。
時に情操教育にとってもさまざまな弊害となる資質をもそこにはらんでいるといえるでしょう。

つまり、押しつけがましい国の教育基準となるもの自体、彼らを差別的な生き物に変える性質わもつのです。そうしたものはあるべきではないと私は思います。
まずは彼ら独自に自分たちに何が必要かを見極める目を持たせ、それを建設的な方向へと教育者であるものが促し、そのまま伸ばしてやれるということがふさわしい教育であると私は理解しています。

そのことをまず先に伝えて、あなたの意見に全般同意する旨もここに伝えます。

aerial


16. 2016年5月01日 07:07:51 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[78]
ああ、業界ね。成程。

実際仲間の中には、かつて業界のお世話になったことがある者も
少なくはないが、大抵は嫌気がさしたり、あてにならないことが分かって
自ら抜け出してきた者ばかりだ。不況の波で切られた者もいる。

表現の場を提供してくれている、その辺の小さなライブハウスやギャラリーや、
ミニコミ雑誌(当然日銭稼ぎ程度)まで、「業界」じゃん、みたいに言われたら、
返す言葉もありませんね。幽閉されてた頃のマリー・アントワネットの
ブランド力さえ通用しない。昔はまだよかったなぁ、みたいな思いは、
それぞれに多少なりとも存在しているかもしれませんけども。

教育論その他については、何教を、どんな経典を一番信仰しているか問われれば即、
「日本国憲法信者・・・いや、オタクかも!」と答えられるほど惚れ込んで
いるので(勿論誰にも押し付けたり押し売りする気はありません、ただ、
読んだことないのに反発するなら、まずは虚心坦懐にて読んでみて!と言いたい)
単純分子なおねいさんwということで、また項を改めたいと思います。

ま、それとは別に、人類の進化というもっと基本的なテーマがあるとは思いますが
「義務」という言葉を聞いただけで心身ががちんがちんに固まってしまう、
人の「クセ」みたいなものも、ゆっくりとほぐしていきたいと思っています。


17. 2016年5月01日 07:46:47 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[79]
義務教育(の、本来の定義。即ち子供自身が学校に通う義務はない、あくまで
「権利」のみだが、大人《保護者》には、貧しさ等どんな理由があろうとも、
子供の学校に通う意思をバックアップする「義務」がある。その実現の為にも
国は、公共の開かれた学校制度を、ほぼ無償で提供しなければならない。
いい?ここ。国つまり官僚や政治家が「教育の場をすべての子供たちの利益の
為に提供するという、最も重い義務」を課されているということ!)が必要ないではなく、

大勢の大人に憲法内容を解する頭が足りてない現状では
学校は「必要悪」として不可欠になっている、と言いたいわけ(笑)
国連も同じ。
というか、現日本国憲法は、国連憲章よりもずっと高い地点に視座を据えていると観ずる。


18. 2016年5月01日 07:57:31 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[80]
シンプルに、義務(責任)は大人(親)に。
権利(自由)は子供(未来)に。

19. 2016年5月01日 08:47:45 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[81]
まあ、ルソーの自然法概念などを参照してみてもそうなんだけど、
要は今ある材料(制限も含め)を、いかに創意工夫しつつ、活用できるかなんだ。

日本国憲法以前に、明文化されたあらゆる宗教の経典、
ヒンデュー教、仏教、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教etc,.

以前に、教えはあらゆる自然界、宇宙の中に不立文字として存在していた。

そのエッセンスを、如何に感じてきたのか。
生活に即してきたのか。命に照らし合わせてきたのか。

問われているのは、それだけ。

千と千尋アニメのテーマソングじゃないが、「いつも何度でも」を、
振り返ってみるのが面白いんじゃないかしらん。

おどろきさんのスレには、いつも新鮮な「おどろき感」を禁じ得ない。


20. 2016年5月01日 09:19:10 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[82]
と、ここまで書いてトイレから帰った瞬間、

「わーーーっ!
じゃ、日本国憲法によれば要するにワイらはガキ共の下僕ちゅう事やあらへんか!?
アカン。絶対にアカン」

みたいなガキ大人(権力者?)の声が頭に響いてきた。

あたしゃこう言い返したw

うん。
まさに大人ならガキの使いや。ほんでええ(にっこり)。


21. アーリエル[21] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月01日 14:36:12 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[109]
まぁ、ともかく、これからの世代(子供たち)が自分たちの理解をもって、
社会を変えていくと思いますし、そこには当然私たちも頼まれれば加勢したいと考えますが、
自分たちの世代で得たことだけを押し付けることはやめたいと考えます。

→義務感への抵抗とはそのような押し付けに対して身構えることにより生まれますが、
それは裏を返せば、期待に答えなければならないという思いの表れです。

よって、そこには単に、「逃げるな、けれど戦うひつようもない」とだけ伝えればよいと考えます。

ただ、自分が正しいと思うことのみを行動に起こせばそれでいいと思っています。

社会を俯瞰することで問題視することにぶつかっても、
そこから建設的な議論へむけては、常に希望観測を含めた見解を導いていきたいところです。

本質的には自然の秩序性とは、環境保全、全体のバランスを保つ働きであるということと理解できますが、
その働きを人間社会に当てはめて考えれば、当然義務感という言葉の性質は、
不自然な様相を示すものと感じられます。
もちろん、人間がそれを採用してみようと決めたわけですから、そこに一旦は従ってみることに異論はありません。
けれど、そこで新たにどういう結論が生まれるかは別の話ですので、
一度できたものだからというだけで、改善の余地があるのにもかかわらず、それを押し通すだけということには異を唱えます。

それは安保法案に対しても同様のことが言えるのであり、それが全体にとって芳しくない結果を招くものだと感じる時点で、それはすぐにでも改善されるべきものです。

つまり、義務というものについても、法案といったものに関しても、権限といったものがそこに付随してきます。

言葉に重圧が掛けられていると感じられるというのは、そこに、
自然にあってしかるはずの柔軟性というものが欠けているのです。

千と千尋を言うのであれば、劇中のサイン(契約/盟約)といった実際は何の効力もないものに人々は(自ら)魔法を掛けられて縛られていくというシーンがそれです。

脱線しますが、私は安保法案は災害の緊急性にのみ対応する、限定的なものとして必要性を感じますが、もちろん全体として反対する立場のものです。
戦争は人災であり、それを回避するには別の方法があるのであり、そのことを無視することにつながるものだと考えるからです。
天災による被災も人災による被災も、そこには緊急対策が必要ですが、現行の法案がその働きを阻害するものであるというのは考えられません。
あるに越したことはないという考えももてません。

今回の安保法案に関しては、その適用範囲のあいまいさが問題視できる部分であるわけですが、人々の間にある認識のズレをついたもので、その隙間をついて、権力の横暴性が見え隠れしているということには単純に薄気味悪いといった感覚を得ています。

人々がどう存在するかに対しては、全体の人々、社会全体が責任を持つことになります。
ですから、一部の権力機構だけに物事が単純に動かされてしまうというあり方は全体に問われてしかるべきです。

話を戻せば、基本人々は、そうした不自然な要素の一切を必要とせずとも、
きちんとその本能を発揮するものだということを今後学んでいく機会に恵まれていくと考えており、私もまたわずかでも及ばずながら、そこに携わりたいと考えます。

自然に習えば、「全体性としての人々」とは、上も下もなく自然に触れ合い、
常に誰かとの均一的なバランスの兼ね合いを感じる中にて、
自らその場に必要とするものを互いに補い合う、そうした働きを示していくことのできる存在であると考えます。そして現行の社会性がそれを単に阻害しているとも考えています。

ですから、義務という法的な権限の下に、特定の個人に限定して責任の一切を付与し、
そこに絶対的な義務と称する働きを与えるだけというのは、
この自然な法則性への解釈を限定したものに変えてしまっているだけになると思っているのです。

子供時分には、そうした解釈まで理解できないとするのでしょうが、
当然そのための教育とはそうして社会全体でまかなっていかなくてはなりません。

赤ん坊のときは、もちろん周囲の大人の保護を利用するほかないのですが、
現在の大人の解釈とは、単にその限定された期間で得た「保護の必要性」というものを
子供の扱い方全般に拡大(延長)して適用しているのであって、
その認識を少し変えて、もっと実質的な教育理念をもって、
子供たちには自然な価値観というもの、単なる宗教的、
また道義的な価値観や善悪の倫理観を押し付けるだけではなく、
方法としてもっと自然の感性に触れさせ、そこに理解できるものをともに見つけ出してあげるという作業が必要かと思います。

そこにあるのは”義務”と呼ぶようなものではなく、
理性の外側に意味される「自然な役割」という様相であると思います。

そうしたことから教育とは、教鞭をとるものが大人ぶる環境を作ることではなく、
単に親元や周囲から愛情が注がれる環境を作りもすればよいということになるはずですが、
ある意味、大人たちの用意した枠組みを外れて、
勝手に社会性を吸収して子供たちは育つのですから、
これまでの人間的理解が想像で作り上げた価値観をいますぐはずしても、
たいした差はないと考えます。

現行の社会におけるあらゆる事業の成立は、本質的な生命倫理を破壊しつくした上に存在しますから、
その逆も当然生まれることになるだろうと思います。

けれどもそれらを分解しても、すぐに必要なものは新たに組み立てられるとも理解しますし、
自然に沿った考えの下に沿うのですから、時間もかからず、スピーディに物事は進んでいくでしょう。

現在のように、すべてが法の言葉の権限の基に、
あらゆる活動の自由性が制限されているというのは、
私は真の自立のための教育から、大人も子供も、
目を逸らし続けることにしかなっていないと考えています。

単に事件を起こした子供を刑法の低年齢科へ適用するか否か、
というような貧しい人間的感性をさらけ出す話題にしかならないというのは、
如何に現行の社会性が歪んでしまっているかを如実に示すものだと理解します。


22. 2016年5月02日 08:36:11 : tMurolje3U : Bzob1FVbBLM[1]
エートスかよ

23. 2016年5月03日 09:10:30 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[87]
>22様

なかなかいい視点ですね。

だがエートスは、倫理の押し付けです。

しかしここでの対話は、おどろきさんの示したテーマ含め、
その押しつけ論の対極にあると気づきませんか?

恐らく、おどろきさんのおっしゃっていることは、不可抗力に
対する、最後の抵抗、いわば人生の終盤に差し掛かった者、既に若い時分より
己の身体の衰えも含め、そろそろどう人生を完結させるべきか、という視点に
敢えて立ち返ったうえでの、「新たな自然観の拡大」というテーマ、
つまり諦めや絶望を並べ立てたところで、次世代には何も残せないじゃないか!
だったら、どう余生を明るく高らかに生きるべきか、それをできる限り
ポジテイブに伝えうるか、
自然や極限状況なるものとの直対話を果たせるのでは、という思いであるとv。

要するに、洗脳して子供や若いお母さんから、
放射能汚染から「逃げる、避ける」を禁止したり、

原発を諦めて受け入れるべき、みたいなお仕着せの権威とは対極に立って、

子供の未来に対してどんな大人の都合も押し付けもあってはならないと。

恐らく、おどろきさんも、アーリエルさんも、基本その立場。勿論私も。

少なくとも私は、エートスが出てきたころから、ずっと反エートスの立場で
福島から子供連れて逃げてきたお母さんらとも組んだ、
イベントに参加、開催してきてもいます。

>21
アーリエル様。賛同します。
でも、色んな誤解を招きやすいテーマだと思います。


24. 2016年5月03日 09:42:50 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[88]
でも、22さんの一言が現れたことで、改めて気が引き締まりましたが、
とても難しい状況なのです、実際は。

その哲学的論点を、どう分かり易く伝えるべきか、なんとなく右へ倣え的
ムードを超えるべくどう幅広くプレゼン、コミュニケートすべきか。

かつて、エートスの如何わしさを伝えようとミュージカルやライブ
(反TPPイベントでもやってみましたw)を披露しましたが、結局、
所詮数百人単位でのミニイベントに始終。。
以上にはなかなか広まらず。

でも、まぁやらないよりまし、という思いを、
その数百人(及びその市民と一緒に携わった有名政治家や文化人)は、
明確に共有していました。
もっとしてほしいのは山々ですが。


25. 2016年5月03日 09:45:35 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[89]
24 訂正 最後行

もっとして⇒もっと知って


26. 2016年5月03日 10:50:48 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[90]
>21
「逃げるな、でも戦う必要はない」

これは、「原発、原爆」
以外の全てに対しては言えることです。

事実私はそう子供に言って育ててきました。が、


原発原爆、そしてそれに類することに対しては、

「まず逃げろ。そして戦え」と。。

その結果生き延びられたなら、
「核も含め全自然界及び全宇宙のことばに従え」

と。


27. 2016年5月05日 03:35:43 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[92]
安保法案を災害の緊急性にのみ対応する限定的なものに対する必要性
>>

という見解には、実は大いに異議を呈したい。

「緊急事態条項」にエクスキューズを与えることに繋がるからだ。

こんなものは何の役にも立たないどころか、ドサクサに紛れた
開戦口実と人権(及び健全な市民生活)への縛りを用意するだけだからだ。

災害時、東日本「原発震災」の時の、菅直人の全脳力を駆使した対応、
一見偶然性に頼っているように見えるが、宇宙からの適材適所だろう、

トップの頭が回ったおかげで、ベスト・フロム・ワースト、
死地に光、最悪からの希望の余地つまり少なくとも即滅びないレベルで、
済んだわけだ。

実に想定外=「俊敏さに於ける超法規的対応」と自然に相成ったわけだ。

ところがどうだ。安倍の熊本大分震災、川内原発対応。

頭の回らない坊ちゃん政権の中では緊急事態条項など、機能しない
どころか、ワーストフロムワースト馬鹿フロム馬鹿、つまり能無しギャンブル
でしかないことを、その場で証明しているではないか。

安倍のお陰など(反面教訓以外には)一切ないよ。
全ては現場の機転や努力、ボランティアの厚意やその誠意に伴う運、
のお陰で何とか保っている、というのが現状だ。

法律や憲法を弄る以前に、時宜に相応しい、最高、いや、最低限のリーダーを
擁しているかどうかで、国全体、いや世界全ての運命が変わってしまう。

それとも、いっそあの時滅んでおれば良かったというような、傍観ウヨっぽい
不毛でふざけた投影的激情論に収めたいのか。

災害も、戦争も。


28. 2016年5月05日 04:55:15 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[95]
「限定的」という言葉に込められた、
「ケツの穴の小ささ、卑怯さ、チンケさ」よ!
こんな武士道に悖る言い草でやり逃げしようって根性の中に

どんなミタマやハラが宿るというのかね?w

全面的、恒久的。

戦争放棄、武力廃棄。
じねん天然に即す在。

なんと雄々しく、麗しく、
清々しい。裸一貫の、魂の勝負を超えた魂と云ふ神。


29. 2016年5月06日 12:40:44 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[98]
「限定的」という言葉と同列なのが「想定外」。
ウマいw(=ケチな)やり逃げ擁護用語だな。。

屁っ!


30. アーリエル[29] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月06日 16:50:44 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[119]
>27

あなたの議論の意図するところは理解しています。

しかし、危惧、懸念が先にたてば、冷静な判断を欠くことでしょう。

人々に「求められているもの」が明確に理解できるのならば、
その必要性は実現化にむけて議論されるものであるでしよう。それは当然の話です。

今回出てきた問題の山は、長らく鬱積してきた、
この国の国民性を現す、精神性の土台をなしてきたものであるはずです。


そこにおいて必要な議論をきちんと終えたとき、
28で書かれた後半の部分が実現に向けて運び出すこととなるはずです。

そこにおいて議論となるものとは、変えていく必要性あるものは変え、
その必要性のないものに関しては変えなくてもいいとするだけの話です。

当たり前にそのスタンスで物事を見ていけば、ただよいだけのことでしょう。


もちろん、いつ、どのようにしてそれら「必要性」が、
多くの人々に観念的に刷り込まれてきたかについては言及する余地が十分に有ります。


ですが、本質部分においては、国民ひとりひとりにその事に対する立場を表明し、意見する責任(権利)はあるものです。


一連の問題の要点となる部分とは、件の懸念となる部分であり、
それは安保法改正という名目の元に、切り分けられるべきものとそうでないものとが混在したままにされているというところでしょう。


この時点において、われわれは、それらをまず明確に、それぞれ個別の案件(別件)として認識し、
それぞれに細部にわたって結論づけるべきもの、という考えを持つことです。


そのことで、以後複雑化する議論に歯止めをかけるべきだと考えます。


どれも一緒くたに、単に政党を支持するかしないかのみに収束する話で決めるべきことではなく、
それぞれの法案はこれこれの理由で、賛成か、また反対かと議論されるべきです。


今回の一件は、このことで人々に改めて、政治のあり方を大きく問うためのきっかけを与えて、
そしてまたそのことで国民もまたそこにあり方が問われることになるのだと思っています。

つまり、ここまで回避し続けてきた議論がこの国の人々にはあるのだと思います。


>限定的な賛成


そこにあるのは、「それ以外ペケ」ですから、全体としてペケだと伝えているものですし、
無視できない認識にまでノーを突きつけることはしない、と伝えたまでです。

確か、政府発行したという小冊子には、記載されている災害時の緊急性の一例として、
事例を挙げて、被災現場における緊急車両優先を法令化する、
といったものがあったことに由来するのですが、
そもそも、”その程度のこと”(つまり誰もが当たり前に認識すること)をわざわざ
罰則付きの人権拘束といった公的権限なるものをつけてまで法令化の義務を
「推進すべきものか」という議論もほしいところです。

そこでの結論には人々が、「自分達という存在をどのように見ているのか」、
そこにある人々の「変わらない価値観」もまた明らかにされるでしょう。


そのほかでいえば、たとえば、
ガソリン燃料や電気使用の制約を一時的に人々に課すといったこともそこに含まれてあるでしょうか。

憶測をも持ち出して、考えられる「事例への対処」に対しては、
こちらも憶測で対処するほかありません。

そもそも「すべては権限のもと法令化すべし」といった趣旨には賛同できません。
議案として論じる必要性として、必ずその法令化がついてくるというのは異常です。

つまり、どんなものでも、一度決まったからといって、変えられないとする議論を当てはめることはできません。

それが人々の必要性に反して、望まれてないものならば、いつの時点でも、
常にその改訂版を作成すればよいだけの話です。

もし安保法が、「刀狩」のような意図的な悪法であることがわかったならば、その時点で、
人々はその「必要性」という正当な改憲理由にのっとって、速やかに改善すればよいだけです。


そもそもが、今のわれわれに必要なのものとは、
法案による人的権限の拘束性といったものではないのです。

それらをいったん皆無にする必要性すら感じるということです。

まずは自身の心というものが一方的な価値観に汚染されていないかを見極め、
それら観念的制約の枠組みから自身を取り外してみることによって、
素直な認識とクリーンな心を取り戻すということです。

そこでは、戦争というものがどれだけ人間性を失った中に行われるものかを理解できるはずです。

われわれも子供達に習ってそうあるべきですが、あらゆるものは、
一度決まったら、何が有ってもそこに人々は服役しなければならない、
変えてはならないとする考えや主張自体こそが、理解できないものだと知ることです。

このたび改めて理解したことは、政権は常に集団的対立の構図を利用しているということで、
ここには集団性を利用した単純化された政治的論法があることをわれわれに教えています。

そこではできるだけ争点を単純にすることだけが大事とされるようです。

政権側から見れば人々を「対立させることによって」、
彼らに何かしらの正当性と推進力を常に「与えてくれる」存在であることが理解できます。

私は以前から言っていますが、
政治とはいざこざのある中に生まれはしません。

今現在の政治の舞台での対立構造は、そのまま国民性を分断するためにしか働きません。

国民も含めて、そこには人のおろかさがあると思っています。
彼らの権力抗争に利用されることにしかなっていないのですから。


改憲派と護憲派の争いといった単純な図式のなかに人々は取り込まれ、
ただいたずらに対立感情を煽られるだけになっていてよいのでしょうか。


そこに煽られるだけでいれば、それは図らずも、政権与党側に加担するにも等しい行動となります。


護憲派とされる人々に対して、改憲理由の不透明さに対する嫌疑があります。
そこにに直接かかるのは、
「変えなくてもいいものを無理やり変えようとする必死さ」です。


その不思議さを感じるところに政府への不信が大きく働くのですから、
そこを明らかにしようとすればよいだけです。

報ステは見てなかったのですが、聞くところによると、
古館氏のときにでていた私も好きな木村草太氏がでていたそうで、
下記のように発言されたとの事。
  ↓
<<「デモに参加している人の主張には、いろいろあるが、戦争に行きたくないというだけではなく、世界の平和に貢献する方法は憲法9条を生かして実現するという考え方もあるということ。」木村氏>>

  ↑
私もまさにそのとおり、と同意します。彼は見ていてとてもすがすがしい。


私の素直な私見とするところは、法案の法的権限の有無、その効力以前に、
人々に大事とする守り抜くべきものとは、「自分達の手で平和を実現しようとする」という意思だけであり、
その手立てとなるのはそれぞれの自身の心のあり方だけです。

私は人類というものがいまだ心を育てている途中の段階であると理解します。

人々の心というものが、真には、法的根拠そのものとして働き、
あらゆるシーンが自発的に人々の心を育てる現場だと理解するまでに成長することを望んでいます。

新たにその心をはぐくむための保障整備が生まれればよいだけです。

そこで人々は自分達のコミュニティを保護し維持するための、
新たな人間的な価値観を確立していく知恵を持つと理解しています。


そうして考えれば、単に憲法9条が平和憲法だとみなして、
それのみを維持する必要性を感じて、そこを境に争うことしかできない、というのもおかしな話です。

それだけが頼りであるかのように振舞う姿もまた、
そこ(28)で言われるような感想が割り当てられることになるかと思います。


考えることは、法的権限といった拘束性に対し、
「絶対的に服従してしまわねばならない」と考えること自体、思考停止であるのであって、
それはそこで著しく社会性を失うと予測することによる精神的な怯え、
そして冷静さを欠くことによる激情の現れも、そこへの反発心によるものなのでしょうが、
そもそもそうした”権限の法的根拠を許す”(権限を認める)こと自体、
私はどうにも理解できないことに思えるのです。

何らそこに認めるべき自分の否など認められないのですから当然です。
国民はなべてみなそうあるべきだ、とする考えに持っていこうと、
あらゆる解釈や手段に出ること自体がいかがわしいのです。


実際は法性と心は一体のものです。政治とはそこから発生しているものです。

社会とは人々のために有るのです。

何らかの災害時のおりに、われわれの社会性とは機能すべきかどうかは人々にかかっています。

政府が一任されるべきものでは有りません。

普段から、われわれひとりひとりのこころであらゆるすべての面が機能しているべきであるのは当然のことです。

現実的に、人々が必要とする緊急時における対策というものに対して、
人々がしっかりと明確に議論していくことは大事です。


31. アーリエル[30] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月06日 17:50:35 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[120]
>26
>誤解

単一的な価値観のみに埋没する時には気づけなかったことも、
目新しい価値観に触れることで、考えを新たにするきっかけも生まれます。
できるだけ私はそうして新たな意識の呼び水ともなりうるものだけをここに書こうとしています。

そこで誤解が生まれることは必然だという気がします。

既存の考えや価値観に対して「対立する構図」を読み取る限りにおいては、
「どちらか一方への押し付け」と受け取られるのは当然のことだからです。

しかしながらそこは慎重に通過することになるでしょう。
敢えて長い間懐疑的なままであったとしても、
一度引っかかった疑問点は容易に見過ごされることはないのですから、
いずれ反復されることになります。

どうした価値観も優劣はなく、それぞれに利用すべき価値のあるものです。
どの時点においても、それぞれが新しいものを手にするかどうかは、
自発的な判断に一任されているということであって、
一方からかけられた圧力などによって、自然な理解など促されはしないのですし、
それぞれの「存在」の根本的な価値とは、
どれかひとつの人間的な価値基準だけに選定されるものではないのですから、
それぞれのタイミングで、自分の必要とするものをそれぞれは得ているということになります。

人間は自身の存在の”場”にあらゆる概念を持ち込んで、
その概念上で価値という認識を得ようとしているにすぎません。

大事なのはその上でそれぞれ自分はどうありたいかということだけです。
他者の批判だけに終始する間は、そこに自分がなく、
ゆえにそこに抱えている自分の価値観というものに、ただ流されているというだけの話です。


32. 2016年5月07日 07:57:21 : 1mJ3j6k7SM : @PwWjaUljjg[1]
言多きはババアの厚化粧の如し。

33. アーリエル[32] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月07日 16:28:41 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[122]
>32

あなた御自身はその真逆であるとでも主張したい口ぶりですが、
単に矢面に立たず、何の自尊心もないで、批判だけは一人前という人間にしかおもえません。

いかがですか?


34. 2016年5月09日 08:06:44 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[112]
うー・・・ん。。

なんかスレでは妙な混乱が起きてきてるみたいだが、
こっちではかまびすしい議論や何やらは、一切生じていないに等しい。

例えば(地味板だから敢えて分かり易く書くが、多くの政治関係者文化人含めて、
M宅Y平とかY本T郎等も既に意図せざる縁の仲間であり、彼らは比較的9条GHQ発案説
なのだが、その件含め、家行ったり飲み交わしたりもしてるんだが、楽しく
議論はしつつも全く喧嘩はない。此方は海外も含む学者文化人仲間のコミュ含め、
憲法記念日の報道ステーション説〈実は自分らも偶々直接その報道に関与〉を、
細かく調べ上げ提示する『とある運動』を展開しつつあるのだが、それを介して、
元極左テロリストや、元極右テロリストとの縁まで含め、直近の先祖まで含めた、
不思議で自然な縁の流れの内なんだ、、なんか、最近日本国憲法、とりわけ
9条関係ワクワクするよね、位で大同一致、ゆる仲間w)神宮や寺社も含む
(私の親戚や祖先がクエーカー教徒だったことも関係するかw)タテの縁、
を軸として起きて来ている、と、とりま白状すっかw

なんちてなストーリーテラーでちた💛


35. 2016年5月09日 08:25:35 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[113]
厚化粧といえば、年食ってからというもの、シャメ撮られることが多いんで
外出時は色白ハレーションが起きないように、スッピンで色付きリップだけ、が
殆どになった。でもないと、元々濃い顔で映りキモくなる恐れあり、だからw

そうです。スッピンに自信あり!(とハッタリかます以外やっていけなくなったw=_=)


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