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ペトロ(ペテロ)とユダ 「この中に私を裏切る者がいる」 −それは一人を指す言葉のはず−
http://www.asyura2.com/14/idletalk41/msg/354.html
投稿者 Air−Real 日時 2016 年 4 月 27 日 15:39:12: dsfJ1hAY0z6VI gmCCiYKSgXyCcYKFgoGCjA
 

これはどちらもキリスト教の物語に描かれた、実在するとされる十二使徒のうちの名前である。

有名な宗教絵画である「最後の晩餐」での一コマで、キリストはその中で弟子たちにこう告げているとされている。

「この中に(12人の弟子たち)私を裏切るものがいる」


キリスト教全般には長らく、さまざまな伝説や謎が飛び交う。

だが、現実には、それら謎を解く鍵すら偽ものがまじっているといった状況のようで、
真実および事実とするものを追求する者をも意図的に張り巡らされた迷宮の中に閉じ込めてしまっているようである。

近年、その謎が解明される唯一の手がかりが見つかっているはずだが、
そのことは別の機会に誰かが話してくれることだろう。

そうした今も、いまだ多くの謎に触れるための手がかりとして、
著名な作家の絵画や、彫刻を元に、さまざまな解釈が当てはめられてあるようだが、
それも解釈する人間の手腕に委ねられてしまうに過ぎず、決定的な解決のための証拠とはならない。

その中のひとつとして、謎にもされていない定説について、今回、改めて話をしてみようと思った。

私が反応するのは、裏切り者の汚名を受けた一人の弟子の話である。

一般的に、通説ではキリストを裏切った弟子は「ユダ」ということにされている。

しかし、私が知っている「事実」は違うのである。

私はクリスチャンでもなければ、宗教全般、どれにも依存しない立場のものだが、
そうした宗教なき信仰の中にきちんと人として敬うものを見出しているつもりなので、
あからさまな対立感情なども持たず、あらゆる宗教形態に対して排除的でも差別的にもならない。

ただそこにある物事のあり方の本質だけを見て、そこに誤りがあるかどうかを判断している。

私がユダに関して、どうにも無視できないのはその事実ゆえである。

もし仮に、それが一般的に知られている事実とは違い、彼は裏切り者ではなかったとしたら、
これは歴史上もっとも長きに渡って謗りを受けつづけている冤罪事件となる。


さて、注目してほしいのは、(私も今日まで当然知らなかったのだが、)
もう一人、そこに裏切り者と呼ばれる「ペトロ(ペテロ)」という人物がいたという事実である。

「ユダという名前は聞いたことがあるが、ペトロは知らない」といった人々が、
わたしがそうであったように大半がそうではないかと察するものである。


そしてまた、キリストはあの有名な晩餐で、「二名、私を裏切る者”たち”がいる」と言ったとは誰も記憶していないだろう。

ではなぜ、もう一人のほうは「裏切り者」の謗りを逃れたのだろうか。

ペトロとはどういう人物だったのだろうか。

以下転載。
http://meigata-bokushin.secret.jp/index.php?%E3%83%9A%E3%83%86%E3%83%AD%E3%81%AE%E8%A3%8F%E5%88%87%E3%82%8A

***********************

ペテロの言動は極端から極端です。それは以下の言動をみると彼の性格をよく表わしています。

@彼は水の上を自信満々に歩き始めますが、数秒後には沈みながら助けを叫びました。

A彼はイエスについて「あなたこそ生ける神の子キリストです」と告白し称賛されながら、
イエスの受難の予告を聞くと、すかさず「そんなことがあなたに起こるはずがありません。」と言って、イエスから「引き下がれ。サタン」と叱責を受けました。

Bゲッセマネの園へ行く途上で、イエスのためにいつでもいのちを捨てる覚悟ですと誓ったペテロに、イエスは「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょ目をさましていなさい。」と言われても、目を覚ましている事さえできませんでした。

C群衆がイエスを捕えに来た時、ペテロは剣を抜いて戦う勇気を示しますが、イエスから「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます」と言われてしまいます。そんなペテロが同じ夜、大祭司の中庭で自分がイエスの弟子であることを三度も否認してしまったのです。

**************
転載ここまで。

上記だけではちょっとわかりづらいので、もう一文wikiから。

**************

最後の晩餐のあと、キリストはペテロに
「あなたは鶏が鳴く前に3度、私を知らないというだろう」と予言し、
ペテロは「絶対にありえない」と否定するが、翌日キリストが連行され、
ペテロがその様子をうかがっていると、
周囲から「おまえもキリストの弟子だろう」と詰め寄られると「違う」と否認してしまう。

ペテロは再三問われ、3度目に否認した直後、鶏が雄たけびを上げ、
その声を聞いてペテロはキリストの予言を思い出し、涙にくれる。

+ + + + + + + + + + + + +

(前略)聖書にはそれ以上の記述はなく、史実的にも実証できないが、
外典である『ペトロ行伝』にも見られる聖伝ではローマへ宣教し、
ネロ帝の迫害下で逆さ十字架にかけられて殉教したとされている。
伝承では67年とされる。また同じ伝承によると、
ペトロが迫害の激化したローマから避難しようとアッピア街道をゆくと、
師のイエスが反対側から歩いてくる。
彼が「主よ、どこへいかれるのですか?(Domine, quo vadis?)」と問うと、
イエスは「あなたが私の民を見捨てるのなら、
私はもう一度十字架にかけられるためにローマへ」と答えた。

******************
ここまで。

これを読むとああなんとなく、そんな話を思い出したというひともいるだろう。

とにかくそうして、イエスの弟子であることを彼は否認してしまうことになり、
そのことが「イエスを裏切った」とされるものとなっているようだ。

そして、改めてここに告げたい私の知る事実とは、

「ユダはキリストを磔刑から助けようと画策し、それを実行した」

というものであり、つまり、「ユダ」とは、裏切るどころか、
キリストを最後まで助けようと動いた唯一の人、というものなのである。

つまり、そこにある真実とは、われわれが一般的に知る事実とは本質の部分では違うものの、
その物語の結末によって、そのドラマ性を受益する人類や、信仰者側にとっては、
なんら遜色のないものとなって伝えられているのである。

人々、つまりキリスト教信仰者にとっては、
磔になったキリストのラストはもっとも鮮烈な人類史に残る偉業としての出来事である。

しかし、実際そこにあった背景とは、ユダの画策によって、
●キリストと風貌のよく似た酩酊者がキリストの身代わりとして刑の執行の舞台の前に差し出された。

●マリアはその者を知るのか涙していた。

●鬼気として磔に上がった身代わりは磔にされる。

そしてそれを後ろで見ていたキリストは、自分の果たそうとしていたドラマの結末が、
自分とは違う別の人間によって果たされたことで、自分の役割の成就と存在意義を理解して、
それ以後、街から姿をけしたのである。

私の知る事実とはこれ以外なく、多くの信仰者がキリストの磔を信じるのと同様、迷いはない。


われわれのわずか数百年遡っただけの歴史伝承の内容を見ても、非常に政権側に偏りがあるものと認められるが、
それは時の有力者によって意図的に隠されたもうひとつの真実と総合的に判断されなくてはならないものであることは、
今では誰もが認めるところだろう。

単にひとつの角度から見た歴史的事実だけが、後の人々全体に対して継続して受益すべきものだといった考えは、
偏重した驕りに似た考え方であるといわざるを得ない。

人類の総合的な記憶を蓄積する書物庫アカシックレコード(虚空蔵)のようなものがあるなら、
各時代背景や、歴史的物語として総合的な物語がすべて補完されていてしかるはずだが、
それぞれのアクセスする意識的な意図に合わせて、読み取られるエリアもまた部分的に限定されてしまうはずである。

人々は意識的に現在の自分たちに都合のよい情報にのみアクセスするなら、
多角的な情報はあっても、それらはほぼ機能しないということになるだろう。

われわれの持つ生態細胞の記憶による本能とは、
太古の恐竜時代の肉体的な感覚にまで遡りもするし、また現時点で存在しない、未来の蓋然性にまで及んで、
常にそこにアクセスすることによって引き出される能力だといえる。

インスピレーションというのはまさに、未踏の地から齎された記憶だと言える。

細胞活動、またそれらの持つ記憶というものに対して、私たちはまだ観察に頼るほかないと感じている。
科学における推察とは、すべて観察とその事実確認によって証明するものとされてきたからだ。

私たちとは、それら直接的に関与するはずの細胞活動の働きに対して、
まったく受動的な立場を維持するだけにとどまるべき存在なのだろうか、
という問いかけをしてみたい。

それは同様に、そうしてかつての歴史といったもの、つまり過去というものに、
いつまでもずっと引きずられたままの生き方を余儀なくされるだけの存在なのかどうかという問題と重ねて、
今改めて、各個人には問うてほしいと考える。

さて、閑話休題。

ユダの生涯については、それ以後のことまで調べていないが、
”このこと”によって、ユダはその事実を人前に隠し続けたことは間違いがなく、
ひとり汚名を着続けることを選んでいたのかもしれない。


そして、受難を逃れたキリスト自身のドラマは以後も続くが、その事実をいったいどれだけの人間が把握していたかは知らない。

とにかく、要点としては、人々の知るキリスト物語の締めくくりは、人知れず、ユダの策略によって変更されていたものの、
実質的に「人々に求められていたドラマ」は彼らの関与なく、”与えられた”というものである。


キリストの生涯という物語とは、われわれの人類史に大きな影響を与えている。
そしてまたそれを伝えるものたちに受益をもたらすところともなっている。←後者に関しては望まれてはいなかった。

人々は神という概念をそこで理解したはずだった。


とにもかくにも、こうして人類はあらたな教材を手に入れ、人々はそれまでになかった信仰への道筋を確立した。

しかし、この物語には、ヨハネ、イエスに続く、三番目の立役者が必要であった。

いわば三番目に現れたキリスト。それが、パウロ(サウロ)その人である。

段階的に、人々に何を説くかという最後の役割がよほど重要だった。

キリストはキリスト教、つまり宗教というものの確立を望んではいなかったのである。

人々は、そこでただ、自身の力を神の偉業の前に比較し、
以前と同様に、ただ自己を小さく頼りないものと感じてしまうだけになってしまった。

ここでいえるのは、つまりパウロは最後の最後で失敗した。

そしてそれゆえにその魂は再来するのである。  

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コメント
 
1. 中川隆[2279] koaQ7Jey 2016年4月27日 19:18:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2482]
ユダの福音書を知らないの?


ユダの福音書

キリストはユダに対し、自分達を取り巻く圧迫が最終局面に至っている事を語り、それへの「最終的な打開策」を打ち明け、最も信頼する弟子と考える彼に対し「最後の助手としての役割」を果たす事を要求した。


「過越(すぎこし)の祭りが始まる3日前、イスカリオテのユダとの1週間の対話でイエスが語った秘密の啓示」

これは秘密の啓示である・・・。

イエスは過越しの祭りの3日前にユダにこう語られた・・・

イエスは地上に出現されたとき、人々を救う奇跡を行われた。

正しい道を歩くものもいれば、誤った道を歩く者もいたので、12人の使徒を集められた。

イエスは時にご自身としてではなく、子供として姿をお見せになった。


福音書の初めの部分で、イエスは「お前たちの神」に祈りを捧げる弟子たちを笑います。 この神とは、世界を創造した旧約聖書の劣った神のことです。

そしてイエスは、この私を直視し、真の姿を理解せよと迫りましたが、弟子たちは目を向けようとしません。


イエスがユダヤに居たある日の事・・・

12人の使徒たちは信心深く食事をしていた。
イエスは祈りを捧げている使徒たちに近付き笑い出した。

彼は使徒たちの間違った信仰を笑っていた。

使徒たちは世界の創造主を崇拝していた。
だが、ユダだけは違っていた

イエスは言う・・・

イエス「なぜ怒るのだ?あなたたちの中で強い心をを持つ者が立って私に示すがよい・・・・
己の内にある真の魂を」

ユダを除く使徒たち「私たちは強い心を持っています!」

しかし、言葉には出しても本当に立ち上がる者はいなかった。
・・・イスカリオテの『ユダ』を除いて・・・。

ユダはたった一人立ち上がってイエスに向かってこう言った。

ユダ「私は、あなたが何者か存じています・・・
あなたを送られた方の名は畏れ多くて申し上げられません。」

イエスはユダに近付きいて彼にこう言う・・・

イエス「他の者たちから離れよ・・・私はあなたに王国の秘密を教えよう。
     そこは果てしなく広がる国。天使させ見たことがない土地。人の
     心には想像さえ及ばぬ世界。その国に名前はない。」


■『キリスト』が『ユダ』に自分を『ローマ』に売るように諭す場面。

キリスト「You will ge greater than all athers. Judas, you will sacrifice the man that clothes me. 」

 (あなたは誰よりも素晴らしい。ユダよ。犠牲にするのだ。私の魂の衣ある者を。)


■『キリスト』が『天国の秘密』を『ユダ』に明かす場面。

キリスト「Step away from the others, and I shall tell you the mysteries of kingdam. It is a great and boundless realm which no eye of an angel has ever seen, no thought of the heart has ever comprehended.」

(他の者から離れよ。あなたに教えよう。王国の秘密を。そこは果てしなく広がる国。天使させ見たことがない土地。人の心には想像さえ及ばぬ世界。)

http://wildoldboy.cocolog-nifty.com/wild_old_boy/2006/04/the_gospel_of_j_eab8.html


イエスはユダに語ります。

「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」

「他の者たちから離れなさい。そうすれば、お前に[神の]王国の神秘を語って聞かせよう。その王国に至ることは可能だが、お前は大いに悲しむことになるだろう」

「聞きなさい、お前には[真理の]すべてを話し終えた。目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ」
 
「お前はこの世代の他の者たちの非難の的となるだろう
   ――そして彼らの上に君臨するだろう」


ユダは他の弟子たちから猛反発を受ける幻視を見たと語ります。

「幻視の中で、私は12人の弟子から石を投げつけられ、[ひどい]迫害を受けていました」

「ユダは目を上げ、光輝く雲を見て、その中に入っていった」

地上の人間たちは雲から聞こえる声を耳にします。


福音書の記述は、次のような場面で唐突に終わっています。

「彼ら[イエスを捕らえにきた人々]はユダに近づき、
『ここで何をしているのだ。イエスの弟子よ』と声をかけた。

______________


マタイ28-13

その弟子ら夜きたりて、我らの眠れる間に彼(イエスの亡骸)を盗めリ
此の話ユダヤ人の中にひろまりて、今日に至れり。

イエスの復活については、ペテロら弟子たちがイエスの遺体を墓から運び出して、イエスの復活をふれ回ったとする解釈(自作自演説)もありますが、どうにも不自然です。

ペテロらの自作自演なら、福音書によって記述がかなり食い違う点も説明が困難です。目撃証言や伝聞をつなぎ合わせていったから、あのような食い違いが起きたのであり、自作自演なら矛盾なくきれいに話がつながったはずでしょう。


イエスの遺体を墓から運び出させたのは誰でしょうか。

イスカリオテのユダしか考えられません。

イスカリオテのユダは、他の弟子たちがイエスの真意をようやく悟り始めたことを知りますが、弱い彼らは時が経てば逃げてしまうだろう、そうなれば、イエスは忘れ去られ、その教えは地上から消滅します。

イスカリオテのユダにとって、それは耐えられないことでした。

彼は、イエスの復活を演出します。墓からイエスの遺体を密かに運び出させました。

早朝、空になった墓を見て、イエスの遺体に香油を塗りに来た婦人たちは悲鳴を上げて逃げ出します。やがてイエス復活の噂がエルサレムの街のあちこちで囁かれるようになりました。

それを見届けたイスカリオテのユダは首を吊って自殺したのではないでしょうか。
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/6832/juda.html

ユダの福音書解読

◎イスカリオテのユダは、最高位の弟子だった。

イスカリオテのユダの福音書が出ることになりました。

出版前なのでナショナルジオグラフィックの広告ページの情報しかありませんが、気がついたことを、挙げてみます。(【】内は、ナショナルジオグラフィックのプレスリリース和訳からの引用です。)なお、プロットだけからの考察なので、全体が出るとまた内容が変わるかもしれませんが。

私の見方では、イスカリオテのユダは、神を十分に承知していたし、イエスを官憲に引き渡すことの意義と結果を十分に承知していたし、それは単にイエスから指示されたから実行したというものではないように思います。


1.イスカリオテのユダの悟境

【イエスは「お前たちの神」に祈りを捧げる弟子たちを笑います。この神とは、世界を創造した旧約聖書の劣った神のことです。そしてイエスは、この私を直視し、真の姿を理解せよと迫りましたが、弟子たちは目を向けようとしません。】

「お前たちの神」とは、自分とは別の存在として位置する神という認識のことを言っているのであり、自らのうちに神があるのを知らないと指摘しているのだと思う。


イエスがこの私を直視し、真の姿を理解せよと迫ったところは、バガヴァッド・ギータで、全能の聖者クリシュナが弟子のアルジュナに同じ言葉で迫ったのと同じ響きがある。全能の神の顕現として現れたイエスが、もう少しで覚醒しようとしている弟子たちに「神のありのままを目をそらすことなく見なさい」と詰め寄っているのである。

この話の中では、ユダが裏切り者でなかったことよりは、ユダの悟境が他の弟子より進んでいたことが確認されていたことのほうが意義は大きい。


【イエスがユダにこう語りかける場面もあります。「聞きなさい、お前には[真理の]すべてを話し終えた。目を上げ、雲とその中の光、それを囲む星々を見なさい。皆を導くあの星が、お前の星だ」】

これは、長い講義が終わったから、一息ついて空の星を見ようというものではなく、ひとつの冥想状態の中で、見なさいと指示しているもので、「雲とその中の光」とは、神そのもののこと、それを囲む星々とは、実際の空の星に仮託された神々の一柱のことだろう。

「目を上げ」というのは、肉体の目を上げることではないだろう。いずれにせよこれで、ユダが13人の弟子の中で最上位であったことがわかる。


死海文書によると洗礼のヨハネはエッセネ派に属し、イエスもエッセネ派に属していたと推測されているが、イエスもクンダリーニ・ヨーガ系の技法が伝わるその集団のメンバーと見られる。

クンダリーニ・ヨーガ系では、神々の姿をありありとイメージするトレーニングがよく行われている。

星々とは、イメージ対象の神々であり、ここは、その冥想過程の中の出来事を書いたものではないかと思う。

師弟相承のルールというものは、師匠を超えるレベルの弟子を出すことが師匠の責務であるということ。禅の場合でも、一人でも半人でも本物の弟子を出すことが師匠の最低限の責務であり、かつ師家(老師)以上の力量の弟子を出さねばならないことになっている。

イエスの場合でも、その例外ではなく、自分が神を知っている師家である以上は、自分以上の力量のある弟子を育成することが、覚者としての責務であったと考えられ、イスカリオテのユダが正に力量ある弟子であったと考えられる。

また師匠を超える弟子を出すというのは、当時の考え方からすれば、革命的なことであり、一人一人が神の顕現であるニューエイジ(アクアリアン・エイジ)の考え方の先駆と見ることができる。

【ユダは目を上げ、光輝く雲を見て、その中に入っていった。】
光輝く雲は、例の荘子の見た混沌であり、神の姿であり、それに入って行ったというのは、神と合一したことを言うと考えられ、これは見神や見性などという軽いものではなく、神人合一を指しているように思う。これでユダの力量のほどが証明されている。
http://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/99ffcbce33957c1622488284f1e54d21


◎ユダのカルマは昧(くら)まず

一度神を見るという体験をした者は、いかに師のいいつけとはいえ悪事を為すことはできない。そこで次の疑問が湧き起こる。イエスが「自分を官憲に引き渡せ」と指示したのは悪行であったのか、師に対しては絶対服従のユダがそれに従ったとしても、それは悪行ではなかったか。

【最も重要なくだりは、イエスがユダにこう語る部分です。「お前は、真の私を包むこの肉体を犠牲とし、すべての弟子たちを超える存在になるだろう」】

イエスが十字架にかかるが、それと同時にユダも裏切り者の汚名を甘受するとともに、聖者殺しのカルマという重荷を負った。裏切り者の汚名は1700年を経て晴らされようとしているが、聖者殺しの意義は別格である。

神を知る者でない限り、その重荷を受けることはできないと見て、イエスはユダにそれを指示し、ユダもそれを了解したのだろう。間接的ではあるものの、聖者殺しの引き金を引くというのは、その行為のカルマの重さを考えれば、創造主と同等の意識レベルにある人でないと、容易になし得る業ではない。自分というものが少しでも残っていたら、たちまち落ちてしまう。従ってユダも自らの残りの人生・転生を、この神業に捧げたと考えられるのである。

ここは、古代インドのバガヴァッド・ギータで、聖者クリシュナが王子アルジュナに、人(敵)を殺すことを勧めた場面を彷彿とさせるものがある。

全体の構図としては、覚醒者イエスが、その力量に匹敵するほどの弟子ユダを養成し得たこと、そしてユダも、イエスを官憲に引き渡すことの意義を十分に理解していて、それを行ったというものではないだろうか。

この福音書は、【彼ら[イエスを捕らえにきた人々]はユダに近づき、『ここで何をしているのだ。イエスの弟子よ』と声をかけた。ユダは彼らが望むとおりのことを答え、いくらかの金を受け取ると、イエスを引き渡した。】で終わっている。

イエスが自らを官憲に引き渡せというような指示をしたというのは予想外であったが、ユダもある程度自らの意思によって官憲に引き渡したのだと思う。そしてユダは、師たるイエスの指示したとおり、官憲に引き渡し、その秘密の指示を生涯他に漏らすことなく守り切って死んでいった(自殺とされる)が、ユダの高潔さもまた並みはずれたものである。
http://blog.goo.ne.jp/naitoukonan/e/92d2b6b940b5e978ea3082e03f241177


2. 2016年4月27日 23:00:39 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[11]
「神を知る者でない限り、その重荷を受けることはできないと見て、イエスはユダにそれを指示し、ユダもそれを了解したのだろう。間接的ではあるものの、聖者殺しの引き金を引くというのは、その行為のカルマの重さを考えれば、創造主と同等の意識レベルにある人でないと、容易になし得る業ではない。自分というものが少しでも残っていたら、たちまち落ちてしまう。従ってユダも自らの残りの人生・転生を、この神業に捧げたと考えられるのである。

ここは、古代インドのバガヴァッド・ギータで、聖者クリシュナが王子アルジュナに、人(敵)を殺すことを勧めた場面を彷彿とさせるものがある。」

@ 聖者殺して、ふっうに考えれば ユダは地獄ゆきだよね。
  ユダが創造主と同等の意識レベルて、その論理が理解できません。
  首吊り自殺者がキリストと同等の意識レベルをもってた?

  ついてゆけません・・・。

Aバガバットギタ−のアルジュナに戦争をすすめた話は 人間の業につて
 ではないのでしょうか、 人はその人の業により戦争し、人殺しもせざる
 をえない、業のままに生きる存在につてでしょ。


 バガバットギタ−後半は神について  そして仏教と同様の 三毒をなくす

 『貪、瞋 痴=三毒}ことの重要性、そのための訓練 ヨ−ガ(瞑想など)に

 ついて書かれてますよね。 


3. 中川隆[2282] koaQ7Jey 2016年4月27日 23:14:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2486]
>>2
イエスはローマ人から革命家とみなされて殺されたんですね。

ユダが裏切っても裏切らなくても殺されるのは確定していた

そのまま行くとイエスの教えはそのまま消滅して何も残らない。

そこでイエスが考えたのは世紀の大芝居を打って自分の教えを後世に残す事

その為にはどうしてもユダの助けが必要だった

そしてイエスとユダが2人で世紀の大芝居 神の子の死と復活 劇のシナリオを書き上げた

そのシナリオがイエスの死と復活の話として新約聖書に残されているのですね。


4. 2016年4月27日 23:57:57 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[12]
3>>新約聖書は大芝居の 劇、フィクションですか

  キリスト教徒は 大反発するでしょう。

  キリストの奇跡がなければ 聖書もただの説教話にすぎません。

  それ(奇跡の話)を信じなければ、神もへったくれもありません。

  
  


5. 中川隆[2284] koaQ7Jey 2016年4月28日 00:15:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2487]
>>4
そもそもイエスは自分だけが神の子だとは言って居ないですからね

神の言葉を聴く人間はすべて神の子で、みんな兄弟だというのがイエスの本来の教え

キリスト教の教えとイエスの教えとは180度反対ですから


6. 中川隆[2285] koaQ7Jey 2016年4月28日 00:21:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2488]
>新約聖書は大芝居の 劇、フィクションですか


イエスが磔になって死んだのは事実

ただ、イエスの最後の言葉は旧約聖書の詩篇から取られているし
神の子らしい言動を後世に残す為に すべてにわたってカッコ良く演出しているんですね


7. 2016年4月28日 01:29:25 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[98]
>1
ユダの福音書は名前だけは知っています。コプト文字で書かれていたようですね。
死海文書というものも名前だけは知っています。
ですが、読みたいというほどの興味もありません。
ですから、私に引用コピペは不要です。以後お断りします。
私はあなたにとって話のわかる人間でも、宗教マニアでもありません。

あなたのコメントは一通り目を通して、面白いことが書いてあるとは思いますが、
私の投稿内容に対して仰りたいことは最初の一文だけであるようです。

私の知見に異論があるならば、何よりも先に、あなたが私に述べたいことの趣旨、要点のみをまとめてここにコメントされますようお願いします。

簡潔にすますことが無理というなら、多少冗長的になっても問題はありません。
真摯に読ませていただきます。

ただ、ここで既にあなたがコメント内に残された物語にもまったく興味がわかなかったことを伝えさせていただきます。
そしてまた、あなたの引用されたそれらの話から、
宗教家たちは何を導こうとしてきたかを思うと、私はただ首を横に振るばかりです。

もう少し世界的な研究が進むとよいですね。

>2
1に対する直接的なコメントだと理解します。よってスルーさせていただきます。
1と同様、あなたもまた何を誰におっしゃりたいのか要点がつかめません。
私は性格的にはっきりとものを言う人を好みます。あなたもまたそうあるとよいのですが。

ただひとつ、あなたもまたこうした話に興味がおありのようですので、お聞きします。
イエスは「すべての人間に平等に光を見た」と聞いています。
この言葉の意味をあなたならどう理解されますでしょうか。

私が思うには、それはあなた方の世界の秩序を保つとされる、倫理観の基礎、
つまり悪名高き「善悪の概念」自体を問い質す言葉にも見て取れます。

あなたは前回、私の言った「魂とは創造性の塊」についてコメントされた方です。

私はあの投稿で「悪いこと」という言葉を用いていますが、
私自身は「悪い、だめ」といった言葉をほぼ使用しないと決めています。
それらの言葉はとっさに人に対して投げかけれるものですが、
その言葉を受けたものをみればわかるように、それら言葉は人の理解を通り越して、
その者の行動をただ停止するために使われていることが理解できます。
つまり、それは人の感性に響かない、理解できない類の言葉であるからです。

では、「悪い」「だめ」に換わる言葉として、あなたならどんな言葉を使おうとするでしょうか。

そこにある答えこそが、生命の基本的な倫理行動指針に適うものとしてあるはずです。

倫理観というものはキリスト生誕以前からすでに人々の中にあり、
つまり善悪の概念、そして原罪意識や罪悪感というものも存在していたということのようです。

つまり、私たちが使い慣れてきた概念、そしてそこから生まれた言葉自体に問題がある、ということが理解できます。

私たちがいくら貴重な装丁の本をうやうやしく持っていたとしても、中身がどうあれ、それを解釈する現代語自体が本質を覆い隠す可能性があるならば、私はそんなものはさっさと見限るべきだとだけ考えます。

そのことをよくよく踏まえず、自分たちが現時点で持ちうる理解の価値観の範疇で、
「神」「善」というものを言葉に捉えよう、解釈しなおそうとしても、
余計病理の汚染は広がるばかりのように思います。

さきほどのイエスの言葉にかんがみれば、あなたの理解する「聖者」の対にあたる存在に光がないということにもなりません。

それがわからないとするうちは、正しいものをもとめて、
正解を追い求めようとしていくのでしょうが、
それ自体、私はあなた方の言う「三毒に冒されていく行為だ」、とだけ伝えておきましょう。


8. 中川隆[2288] koaQ7Jey 2016年4月28日 08:53:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2491]
>>7
>私に引用コピペは不要です。以後お断りします。


阿修羅のコメントというのは投稿の間違いや不備を指摘する為のものですから、
投稿者が嫌がるのは当然なのですね。

しかし誰かが投稿内容の間違いを指摘しないと、書かれた嘘を正しいと信じてしまう読者が出てきてしまいます。

だから投稿者には迷惑でも、投稿の間違いを指摘するのが良識ある社会人としての責任になるのです。


9. 2016年4月28日 08:55:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2492]
>もう少し世界的な研究が進むとよいですね。


研究自体は19世紀以来十分なされています。

問題はそういう研究について何も知らないあなたの様な無知蒙昧な自称専門家が嘘を撒き散らしている事なのですね。


10. 中川隆[2289] koaQ7Jey 2016年4月28日 09:06:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2493]
>イエスは「すべての人間に平等に光を見た」と聞いています。
>この言葉の意味をあなたならどう理解されますでしょうか。

イエス本来の教えはキリスト教会の教義とは180度反対なのです。

グノーシス派というのは現代の言葉で言うと、

思想史上ではイエスはキリスト教ではなく、死海文書で漸く明らかになったグノーシス派の先駆者という位置付けになります。

現代の言葉で言うとグノーシス派というのは
神や悪魔というのは人間の無意識の深層の世界に現れる存在だとみなす流派です。

そして人間の無意識の深層まで降りて行くと光の世界に行き着くというのが
臨死体験の研究で明らかになってきた事です。

「すべての人間に平等に光を見た」というのはそういう無意識の深層を表現した言葉ですね:


マルコ3-33

わが母、兄弟とは誰ぞ
誰にても神の御心を行うものは、是わが兄弟、わが姉妹、わが母なり。


ヨハネ 10-34

われ言ふ、汝らは神なり。
かく神の言を賜りし人々を神と云えり。


本当の神の国は

トマスの福音書113

神の国は地上に広がっている。 そして、人々はそれを見ない。


トマスの福音書3

神の国はあなたたちの内側にある。
常に自分を認識する人は、神の国を見出すであろう。


ヨハネの福音書18-35

神の国はこの(外なる)世界には属していない。


ルカ17-20

神の国は汝らの中に在るなり。


トマスの福音書113

「どの日に神の国は来るのでしょうか。」

「それは待ち望んでいるうちはくるものではない。」

トマスの福音書22

イエスは乳を飲んでいるいくにんかの幼な子をごらんになった。
そして彼は弟子たちに言われた。

”乳を飲んでいるこの幼な子たちは神の国に入る者たちに似ている”。

彼らは彼に言った。

”それではわたしたちは幼な子として神の国に入るのでしょうか”。

イエスは彼らに言われた。


”あなたがたがふたつのものを ひとつにするとき、

そして、内を外のように、外を内のように、上を下のようにするとき、

そして男性と女性とをひとつにし、男性がもはや男性ではなく、女性が女性ではないようにするとき、

そしてひとつの目の代わりに目を、ひとつの手の代わりひとつの手を、一つの足の代わりにひとつの足を、ひとつの像の代わりにひとつの像をつくるとき、


あなたがたは神の国に入るであろう”。
http://ime.st/emikikuchi.exblog.jp/i40


11. 2016年4月28日 09:08:15 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[13]
7>>。ヨイエスはすべての人に平等の光をみた」

 これにかんして、私なりの解釈は
 @イエスと釈迦は 聖者であり真理、覚りに達しておられるので、同様な考え方を
  されている、 つまり、他人と自分を区別しない、平等観をもっておられる。

 A仏教では人間みな仏性をもつとされている、神の一部が本来人間にやどっている
  という意味ととれる。
 
  現実の人間は欲まみれ、垢まみれなのだが、磨けば光るといわれている。

 「善と悪」 凡人と聖者では判断がちがってきます、多分
   凡人(私をふくめて)は自分に都合のよいことが善 でその反対は悪
   と考えたがる。自分中心です大体は。
   


{正解、真理」について

  道元禅師がいわれるには、勉強しすぎ、本の読みすぎでは真理はつかめない、
  座禅して心意識の運転を止める(考えを停止する)ことによって、智慧が
  でてきて、真理、覚り(身心脱落)にいたるとおっしゃってます。
  インドのヨ−ガ(心のコントロ−ル)ですね。
 
  そのように理解しています。
 
 
 
   


   

 


12. 中川隆[2290] koaQ7Jey 2016年4月28日 09:14:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2494]
>倫理観というものはキリスト生誕以前からすでに人々の中にあり、
>つまり善悪の概念、そして原罪意識や罪悪感というものも存在していたということのようです。

文化人類学の研究では原罪意識はユダヤ教とキリスト教にしかない異常な概念ですね

狩猟民族や農耕民には原罪意識や罪悪感は存在しません


13. 中川隆[2291] koaQ7Jey 2016年4月28日 09:21:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2495]
>>11
>私なりの解釈は
>釈迦は 聖者であり真理、覚りに達しておられるので、同様な考え方をされている、 つまり、他人と自分を区別しない、平等観をもっておられる。

これは明らかな間違いですね

釈迦の時代には悟りを開いたと認定された信者が毎日の様に出ており、全員が釈迦同様の覚者とされていたのです。

釈迦崇拝が起きて釈迦を特別視する様になるのは釈迦の死後ですね。


14. 2016年4月28日 09:38:10 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[14]
13>> 聖者、覚りをひらいた方、 お釈迦さま シャンカラ ラーマ・クリシュナ

    ミラレパ などなど 多数おられます。


    が、私てきには 近代のインドの聖者ビベ−カナンダ(ラ−マ・クリシュナの
 
    一番弟子)が認定する世界二大聖者説を支持してます。

    キリスト、釈迦は別格聖者、聖者の中の聖者であると ビベ−カナンダは

    霊的インスピレ−ションでとらえています。  


15. 中川隆[2292] koaQ7Jey 2016年4月28日 09:38:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2496]
釈迦の平等観というのはカースト制批判として出てきてもので、心理的な話や善悪の問題とは全く関係ありません

釈迦がやろうとした事はカースト制の理論的根拠になっていた輪廻転生やアートマンの存在を否定する事

善悪の問題は輪廻転生に繋がるので、釈迦が善悪や倫理を問題にする事は絶対に有り得ないのですね。


16. 中川隆[2293] koaQ7Jey 2016年4月28日 09:45:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2498]
釈迦は元々社会活動家で信仰心が完全にゼロの人間だったのです

従って、釈迦を信仰とか倫理・善悪の観点から捉えるのは見当外れです

釈迦はカースト制を廃止させる事だけが目的だったのです。

釈迦を宗教家だと思うのがそもそも大間違い


17. 中川隆[2294] koaQ7Jey 2016年4月28日 10:12:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2499]

イエスも今の言葉で言えば宗教家ではなく心理療法士

当時はユダヤ教の戒律が厳しく、心理的原因で眼が見えない、歩けない、皮膚病等になる心身症患者が続出

イエスがやったのは

1.ユダヤ教の戒律批判
2.心身症患者の治療

従って、イエスもシャカ同様、キリスト教会の様に善悪とか倫理を問題にする事は有り得ないのです


18. 2016年4月28日 10:15:16 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[15]
16>> 釈迦は神です

、ヒンドゥー教の伝統の多くに於いては、ブッダをダシャーヴァターラ(神の十化身)と
 して知られる

 ヒンヅ-教ではお釈迦様は神の化身とされている、つまり カ−スト制度を批判しした

 社会活動家(?)が カ−スト制のインドで神になっちゃってます。


19. 中川隆[2295] koaQ7Jey 2016年4月28日 10:20:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2500]
>道元禅師がいわれるには、勉強しすぎ、本の読みすぎでは真理はつかめない、


宗教家になるならそうだけど、そもそもイエスもシャカも宗教を否定する人間だからね

仏教やキリスト教については膨大な研究書が出てるから、それを読めば本質がすぐにわかる

Air−Real さんみたいにそういう研究の蓄積がある事すら知らないで
自分で勝手に妄想しても真実から遠ざかるばかりだよ


20. 2016年4月28日 10:33:39 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[16]
17>>イエスがやったのは

  1.ユダヤ教の戒律批判
  2.心身症患者の治療


  一面は当たってますね、でも次からつぎへ 心身患者を治癒させた キリスト

  はただものじゃありません、奇跡といってさしつかえない。

  現代の心理療法士、精神科医は患者の治療に相当な時間をかけ、なおかつ

  なかなか治癒させるのがむつかしいのが現状。


  現代の心理療法士が束になっても、聖書にオ書かれている キリストの治癒

  能力には全くかなわないです。 


21. 中川隆[2296] koaQ7Jey 2016年4月28日 10:44:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2501]
昔の人間は単純だから治すのも超簡単だったんですね:


奇跡は奇跡では無かった話

ユングに易を伝えた宣教師・ヴィルヘルム


ヴィルヘルムの妻の父も牧師でした。しかしその父の父、すなわち祖父は、超能力者に近かったのです。

  まるでイエスでした。手をかざせば、難病がどんどん治ったのです。

その癒しを求めてヨーロッパ各地から毎週何百人という病人が集まりした。教会 は、病院と化しました。

  相変わらず病気はどんどん治ります。

  村中の家が、病人の泊まる場所として開放されたくらいです。

  そのため、大きな温泉宿を買い取り、そこで礼拝と治療をしました。

  祖父が死ぬと、その役は父(祖父の次男)にきました。でも本には次のように書かれています。

 問題となったのは、祖父によって悲惨から救われた人たちが、祖父の死を悲しみ、もはや魂の慰めと肉体の癒しが得られなくなることを嘆いたという 事実であった。子ブルームハルト(父)は、ここに信仰を持つ人間のエゴイズムを見た。そしてそのようなエゴイズムが、結局はキリストの敵であるこ とに気づいた。

彼は人間が被害者であるばかりでなく、神の国の到来を妨げている加害者であることを知った。自分を被害者であることを理解するこ とにより無責任となり、さらには放漫になることを発見した。

  キリスト教が宗教となり、制度を持ち、教会となったときに、それは神の救いを自分の所有とするエゴイズムの施設となる。

 イエスが癒しを与え、病気を治したのは有名です。それをも批判するような彼の考えは、当然教会から批判されます。そして彼は一時、牧師から降 ろされます。
  でも私は彼の考えは、すごいと思います。

  宗教が始まるとき、教祖の多くは超能力を発揮します。それが「売り」になり、信者を集めます。

  信者は、癒しが欲しいです。それを、エゴだと言ったのです。

  「神の恵み」などという言葉を、口にするなとも言います。

  この考え方の裏には、神は沈黙して当たり前・・という概念があります。
  すごいです。
http://www.moritaken.com/goroku/goroku01/02.html


22. 2016年4月28日 11:03:01 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[17]
21>>。ヨ信者は、癒しが欲しいです。それを、エゴだと言ったのです」

  もともとふっうの人間はエゴの塊みたいなもの。

  自己中心的なもの。

( 偏見を持って言えば、近所のおばさんたち、むちゃくちゃ自己中

   女性の運転者まわりみてない わが道いってる )


  入り口はエゴでも なんとかエゴをへらして 愛を増やすのが良い

  方向性でしょ。 

  社会活動家の釈迦も 心理療法士のキリスト にしても

  その方向を示したのでしょう。


23. 2016年4月28日 12:22:05 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[18]
21>> 遠隔治療が出来てるので、やはりただの 心理療法士じゃ ないようで
    す。


マタイ8:5〜13 百人隊長の話(下記)

 中風を 本人の家にいかないで、即座に 遠隔から治療してしまった
 お話。

 けっこうな能力です、現代の医者には出来ません。
 遠隔プラシボ−効果? 念力、サイコキネシス

「イエスがカペナウムにはいられると、ひとりの百人隊長がみもとに来て、懇願して、言った。「主よ。私のしもべが中風やみで、家に寝ていて、ひどく苦しんでおります。」イエスは彼に言われた。「行って、直してあげよう。」しかし、百人隊長は答えて言った。「主よ。あなたを私の屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから。と申しますのは、私も権威の下にある者ですが、私自身の下にも兵士たちがいまして、そのひとりに『行け。』と言えば行きますし、別の者に『来い。』と言えば来ます。また、しもべに『これをせよ。』と言えば、そのとおりにいたします。」イエスは、これを聞いて驚かれ、ついて来た人たちにこう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしはイスラエルのうちのだれにも、このような信仰を見たことがありません。あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓に着きます。しかし、御国の子らは外の暗やみに放り出され、そこで泣いて歯ぎしりするのです。」 それから、イエスは百人隊長に言われた。「さあ行きなさい。あなたの信じたとおりになるように。」すると、ちょうどその時、そのしもべはいやされた。マタイ8:5〜13」


24. 中川隆[2299] koaQ7Jey 2016年4月28日 13:17:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2506]
>>23
マタイ福音書はキリスト教会が信者を騙す為に改竄・捏造してでっち上げたもので、他の福音書と比べるとQ資料等の原典との差が極端に大きいのですね。

信頼度からすると


トマス福音書>>>>マルコ福音書>>>ルカ福音書、ヨハネ福音書>>>>>マタイ福音書

とにかくマタイ福音書の記事はすべて嘘八百だと思った方がいいです


25. 2016年4月28日 13:28:21 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[19]
24>> なるほど、2000年前の話ですからね。

    全てウソ八百は 私個人としては言い過ぎと思いますが。


    トマス福音書はOKですか 見て見ます。


26. 2016年4月28日 13:57:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2512]

参考資料 _ トマス福音書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/372.html

参考資料 _ ユダの福音書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/373.html

参考資料 _ 聖イッサ伝  
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/374.html

参考資料 _ マリアによる福音書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/375.html

参考資料 _ マルコによる福音書(文語訳)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/376.html

参考資料 _ 舊約聖書 傳道之書
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/550.html


27. アーリエル[16] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月29日 17:24:26 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[102]
>10
>イエスは「すべての人間に平等に光を見た」と聞いています。
>この言葉の意味をあなたならどう理解されますでしょうか。

すみません。これはあなたへの問いではないです。


>11

真摯に上記の私の問いに向き合い、答えていただいてありがとうございます。

まあ、あなたも道元氏の言われる文言をお出しになられるのでしたら、
ほどほどにのめりこむ事をお勧めいたします。

そのうち、これに関連した新しい投稿をするかもしれません。
  ↓   ↓
「”場”と”空間”:知覚による情報のやりとり」とでも表題を予定していますが、
そこで私からのあなたへ対する納得できる答えを見つけていただきたいと思っています。

ですが、すでに答えていただいたあなたの声にはテキパキと返答しておきたいと思います。

では早速。


> これにかんして、私なりの解釈は
> @イエスと釈迦は 聖者であり真理、覚りに達しておられるので、同様な考え方を
> されている、 つまり、他人と自分を区別しない、平等観をもっておられる。

あなたはそこで、”平等観”という言葉を出しておられますので、
そうした「”なんらかの価値観”に沿って、彼らはそのような判断を下している」、
と、あなたに理解されているということがわかります。

そしてまたその回答は、一般には模範的とされる解釈に沿って返答されているものだということと理解します。


仮に、それがあなたの現時点での「解釈」なのだとしましょう。

そしてあなたは、「では私も真似してみよう」と、
その解釈のとおりに実践に移そうと試みるわけです。

・・ところが、そこであなたは「そんなことはやっぱり無理だ」となってしまうということでしょうか。


そして、あなたが「聖人と凡人」とを区分けしたくなる理由はここにある、ということだと理解します。


あなたが「自身に解釈された価値観」どおりにいくら実践しようとしても、
あなたがそれ以前にすでに持っていた「別の価値観」が、
あなたが新しく受け入れようとする価値観に対して異論を唱える(邪魔する)、というわけですよね。


おもしろいですよね。単にそこには、そもそも自分で自分を蔑んでいるとしか思えない構図が浮かび上がります。

あなたはほかの多くの方々と同じように、何かに”依存的な性質が強い”ということがわかります。

凡人という言葉に示される存在も、聖人の対称にあるとするも、それはそれで特別な存在価値を持ちます。

けれども両者はけして、対立している間柄であるわけではないですよね。


まずは何よりそこで大事なのは、あなた自身がその「価値観」を必要としているかどうかではないですか?


あなたもまた、無理やりなんらかの義務を自身に果たさせようとだけする、
半ば、強制的な支配観の中に息苦しく生きてきた記憶があるように私は感じています。

>「善と悪」 凡人と聖者では判断がちがってきます、多分
>  凡人(私をふくめて)は自分に都合のよいことが善 でその反対は悪
>  と考えたがる。自分中心です大体は。

あなたは自分を”凡人”としているので、「自己中心です大体は。」のこの言葉は、
これは自己嫌悪することになりながらも、そこから抜け出して、その”凡人”批判も同時にしています。

なんでも都合よくひっくり返して全の反対にあるものを敵対視(悪と標榜する)、
という判断指針(善悪の概念)は、
白(人)が善なら黒(人)は悪、といった、なんとも不条理な価値観をたくさん生む原因ともなりました。

昼働くことが正しくて、夜働くことはいかがわしいといったものも、
色が黒いと健康的で、色が白いと不健康といったものも、
そうした「無思考による判断による理解」の業のなせるものです。

そのようにすべての判断、そしてまたその判断により下される結論とは、
何かしら必ず「価値観」とするフィルターを通して得られるものであるはずです。 

聖人と謳われる彼らも、凡人と揶揄するあなた方も、互いに肉体を持っている間は、
そこには共有した資質として肉体的感覚、また同質の知覚を通して、
情報を共有したり、コミュニケーションによるつながりを得る間柄にあります。

であるからには、そこにおける本質はまったく同じであるということです。
では何が違うのかと考えたときに、あなたは価値観が違うといっておられるわけです。

そしてそれは価値観を駆使するという部分では正解ともいえます。
しかし、彼らの伝えようとしていることは、あなた方にとって未知なる概念であることを忘れないでください。

(つまり、あなた方の常識や概念、そして価値観によって、
自然にあるものの姿をひどく歪んで見ているのです)

相手の価値観を理解し、共有したうえで、彼らは、あなた方の理解力に応じた答えを見つけ出し、
それを伝えようとしているのです。→方便の必要性

彼ら(聖人とされる人々)の多くは教えを説く際によく比喩を使います。
なぜなら既存の人間的な価値観や概念を避ける必要があるからです。
→誤認識、誤解釈させないため

(つまりそうしないかぎり伝えることすら難しい、
人々が理解できていない未知の概念というものを)そうして伝えようと試みているのです。

方便により伝えられるものは、その概念の本質です。
それを聞く側の想像性が試されることにもなります。

(ここに理解できることは、私たちは新たなツールとして未知の概念や知識を手にする挑戦を
常に嬉々として自身の中に見出すべきだということです。)

彼らの為した事とはあなた方の価値観にとって、驚くべき奇跡と映るのですが、
それは科学分野から一歩たりとも外へ出ないものです。

よって彼らの奇跡とは、現人類の現行の科学知識で単に認識されていないだけで、
自然界に当たり前に存在する無視されている恩恵とすべきものに対して、
意識を促すための気づきを与えようとしていただけだということが理解できるはずです。

凡人とは、ある特定の価値観に依存的になることにより、そこに属さないものを一切認識せず、
そのことで、そこにあるはずの恩恵をすべて無視してしまっていいるということです。
→驕りの宗教、自惚れの科学、人間都合主義


そして聖人とされる部類の存在とは、
自然界に「単なる自然な存在価値であるもの」、そしてそれらの恩恵に対しての気づきを
促そうとしていたに過ぎないということが理解できます。

しかし先ほどの価値観の話に戻れば、
彼らはそこで、人々と同様の価値観を用いて、人々と同じ「判断」はしたかということですが、
「判断」まではしていたとしても、そのことによる「結論」は一切していなかったとみるべきです。

悪というものを認識し、それを敵視せよなどとは一切教えていないはずですから。

つまり、パウロと日蓮はそこから外れてしまいすね。

しかし考えてみれば、当時の混乱を極めた時代において育った人々の理解度に合わせれば、
善悪の概念を用いるほかなかったと判断してしまったわけです。

もちろんそれは誤りだったと彼らは理解しているはずですが、人々はその価値観に依存していた。
そして人々がそれを求めたのです。

ですから、その時代はそこに理解しやすい方便ツールを用いるほかなかったわけです。


しかし、彼らはその善悪の概念を使ったとしても、
つまりそのツール自体をまったく評価していないと見るべきだというのが私の見解でもあります。
また彼らもそこに同意するでしょう。


つまり、優れているとする教師が、いかに真理とするもの、
つまり世界がいかにして存在するかを方便を用いてこれまでこの世界に現れて大なり小なり伝えてきたとしても、
それを書きとめて解釈する側の人間が、原理だけを守り、善悪の概念だけにずっと依存してきたとすれば、
根本的な解釈の誤りはいつまでも見直される機会を得ず、以後もそのまま、ずっと誤りのまま伝えられ続けるだけとなります。

よって私もまた、宗教は要らないと強く言うわけです。惰性でこのまま続けても何も意味しませんし、世界はますます混乱していくだけでしょう。


すみません。思いのほか長くなってしまいました。
さらにこの三倍もの文量が控えています。
いったん、ここで止めて、別投稿にしたいと思います。


28. 中川隆[2308] koaQ7Jey 2016年4月29日 17:56:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2524]
>>27
日本語力がゼロというか、中身がゼロというか、思考力がゼロというか

とにかく この感じで投稿しても理解不能なので考え直した方がいいですよ。


29. 2016年4月29日 19:42:47 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[20]
28>> 本投稿で議論(?)できたわけですから、ゼロとかはキツイ批評です

    ね。


27>> 当方、元スピルチャルおたくで、禅とかヨ−ガなどに興味もって
    ます、つつこみたがりやです。 無神論ではなく 神(創造主)
    はおられる、肯定派です(一宗、一派に組しませんが、派を否定
    もしません、それぞれの人の道があると考えるので)
   

  「罪みというものを認識し、それを敵視せよなどとは一切教えていないは
   ずですから。 つまり、パウロと日蓮はそこから外れてしまいすね。」

   わたしも 外れてると思います。

   もろもろの聖者のなかで、キリスト、釈迦は図抜けた存在と考えて

   おり(28さんの、社会活動家説、心理治療誌説) はとりません

   覚り、真理を体得された方と思ってます。

   キリスト、釈迦 両者とも 議論はあまり好みませんでした、

金もちではなく、質素でした、釈迦は王位をすてて、乞食修業

   からはじめた、キリストもしかり。 

   

   パウロのことはよくしりませんが、日蓮の他宗批判は激烈すぎます

   日本の日蓮宗のいわゆる折伏(強制、おせっかい)はまちがった

   外をおよぼすやりかただとおもいます。

   
   


30. 2016年4月29日 20:15:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2525]
>>29
まず、中学生レベルの漢字は書ける様にしようね

アホが宗教の話しても誰にも相手にされないから


31. 2016年4月29日 21:12:59 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[21]
30>> 論文じゃないのだから 多少の誤字などゆるされてもいいのではないです

    か?、

    アホてあなた(29さん)ちょっと 上から目線・・

    アホと思ったら、黙ってスル−するほうが 波風たちませんよ。


32. 2016年4月29日 21:18:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2526]
>>31
自分の未熟さがわからないですか?

例えば、何故 >>30 でなくて 30>> と書いているのですか?

一事が万事その感じだから信用する訳に行かないんですね

人前に出て間違いだらけの妄想を書いてもバカにされるだけですから


33. 2016年4月29日 21:41:38 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[22]
32さんへ 31より

了解しました。ネット投稿の規則を勉強してみます。

ネット記号とやらも少しは覚えないと・・・。


34. アーリエル[17] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月30日 01:50:43 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[103]
>nakid

まあ、あなたが何を言おうがわめこうが私はかまいませんよ。
こうしてあなたのおかげて注目を浴びるだけ、好都合です。
満足のいくまでどうぞ好きなだけおつづけなさいませ。

別にあなたの言っていることを私は否定してはいませんよ。
多様性が花開く中において、さまざまな比較対象は当然必要です。
そしてあなたがいくら私の拙い駄文を批判したところで、
私は痛くもかゆくも感じていません。
相手にしていただいて恐縮です。そしてお気に召さぬようで何よりです。

>ドクトル88

あなたは随分賢い方ですね。

なにやら信頼がもてる感じがします。

ちょっとさぼっておりますが、のちほど上げますので、
お時間が許せば、続きをぜひ読んでいただければと思います。


35. 2016年4月30日 05:38:45 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[24]
面白い話もきけましたよ、 キリスト心理療法士説、釈迦カ−スト廃止社会

活動家説、とか。

大乗非仏説でも 江戸時代に言い出した、大阪の若ぼんは相手にされずバカに

されたそうですから。

諸説あってもいいでしょ、少しくらい誤字やつたない文章などもね。


36. アーリエル[19] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月30日 17:31:15 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[105]
>35
・・・ともかく、あなたのことは信頼に足ると理解しました。
今後気軽に私に至らない点や質問があれば、その箇所を抜き出して質問してください。

私がそれに気づいた限りにおいて返信させていただきます。

nakidを擁護するわけではないのですが、ただ、心理療法かは存じませんが、ヒーリング効果とはすべて「催眠療法」の原理で行われています。

つまり、「そのものが自身を治している」のです。
ヒーラー側に、それを促す技術があるということです。

このことは現代医療にも同じことが当てはまると言えます。
さらにいえば、ジャングルの奥地のシャーマンの儀式、
あらゆる厄払い、すべてそのような働きによる、といえます。

nakid曰く、「かつて人間は現代よりも単純だった・・」とするのは何も間違っていないと思います。そのことで恩恵を受けていたといえば聞こえはいいでしょう。

それ自身の”場”についての解釈を理解すればなぞは解けます。
あなたの理解する仏陀はそのセンスに恵まれていたということだと思います。
催眠は術者と被験者の療法のセンスと相性が大きく関係します。


37. アーリエル[20] g0GBW4OKg0eDiw 2016年4月30日 21:00:02 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[106]
>dr88

すでにあなたは自分に必要な理解には十分に到達されて、ご自身そこに納得されているように感じうけます。

私も他者の価値観に対して、共感はしても、関与しなくていい話題にまで、
積極的に関与しようといった暇は持ち合わせておりませんので、
私の返信とする文がもし、読むのが苦痛だな、と感じるなら、即スルーされて結構です。

これは何もあなたの価値観を破壊しようといったことが目的で書かれているわけではありません。

ただ、あなたが興味を持ってこの話題に積極的に関心を持つというなら、
それに答えようというだけのことです。それゆえに、私も楽しんで書かせていただいております。よって、私は自己中心的に、自分中心にいて、
文章を書き上げた時点の段階で、すでに十分私は利とするものを得ております。

まずはそのことを前置きしつつ、つづきを新しい投稿のなかに混ぜ込んで書くことにします。


38. 2016年4月30日 21:42:33 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[25]
36アリエ−ルさんへ 35より

 わたしは単なるスピリツユアル好きで、投稿につこむだけの人間です

 知識の豊富さ、ネット投稿の厳格な姿勢では 中川隆さんのほうが

 全然上ですよ。

 あなたが「本投稿の最後にパウロは最後の最後で失敗

 した」などとおっしゃってます、この意味もわたしは キリスト教

 についてもそんなに詳しくないので十分に理解できないのですが。


 ただ、日本の仏教の現状を見て、私は真言宗の檀家ですが、お寺とは形式

 的、世間体の付き合い、先祖がやってたので惰性で継続 という状況。

 アマゾンでは35000円でネットで僧派遣事業とかがあり。

 僧侶、宗教(仏教)に対する信頼、信心が形骸化してきているように

 思います。 戦犯某寺院の音楽法要なるものを見てきたにおですが、

 音楽会が主体か法要が主体化よくわからんようになってました。

 キリスト教だはどうなのでしょうか? 同様にキリスト教の坊さん

 に対する信頼や、キリスト教の檀家さんも 日本と同様な問題

 がおきているのじゃないかな、なんて想像します。

 人(檀家)があつまらず教団経営、維持のため、音楽でもなんでも取り入れ

 てなんとかしようとしてるようです。

 私的には 頭数集めに奔走するのは、政治、選挙だけでよい、宗教は

 ちょっと違うでしょ。キリスト、釈迦の原点になるべく帰るべき

  金儲けじゃない、心の問題 月並みですが清い心を持つことなんだ

  それだって、やはり良い指導者、師匠につかないとむつかしい

  ですね。


  健康法で気功などもたまに取り組むのですが(小周天の自己流練習)。

  最近読んだ 

  道教「太乙金華宗旨」にいわく 不老不死の妙薬 「神丹」とは清浄

  心、無心であること とのべられてます。

  小周天法の方法なども書かれてるのですが、捜し求める 神丹という

  霊薬は結局は 清浄心、無心だそうです。

  最近感じたことがらです。


  私見 ですが キリスト、釈迦 ともに「神」レベルですよ、キリストは

  キリスト教で神とされてるし、釈迦はヒンヅ-教の神様に列せられてる

  センスというか 人間業ではないでしょ、神業です。

  真理、絶対的愛から 神業が出るのでしょ。

  


40. 2016年5月01日 07:23:02 : NBs8WAf9U6 : 1pmBOO1qCuQ[1]
面白かった。

中川さんに愛があればすごいことになると思うのだが。


41. 中川隆[2318] koaQ7Jey 2016年5月01日 07:26:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2538]
>日本人の宗教無知は宗教話依存症のように重症ではないか。


日本は先進国で唯一残った正真正銘のアニミズム・トーテミズムの国ですから。

日本人程 信仰心が強い民族は他に居ません。

日本を仏教国で、日本の仏教は葬式仏教だと思うから訳わからなくなるんでしょうね。

日本の仏教は自然神道の儀式をお坊さんがやっているだけで、仏教ではないのですね。


42. 2016年5月01日 09:49:19 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[26]

「日本人ほど信仰が強い民族はいません」

 そうであれば、日本はこれからも大丈夫ですね。

 で、日本人の信仰が強いというのは、どの辺で判断されるのでしょうか?
 
 

 宗教に関しては、似非宗経というのもが多く、その害毒があることは承知してるつも

 りですが。

 卑近な例では、統一教会、オ−ム真理教、法の華 などなど 金儲けや基地外集団

 がありました、おぼれるものに藁をわたしてるケ−スが多々あるようです。

 宗教をえさにした 金儲け集団も多々あるようですし。

 そのへんの十分な注意は必要ですね。


43. 中川隆[2321] koaQ7Jey 2016年5月01日 10:03:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2541]

>>42
日本人の信じている宗教は自然神道

(日本の仏教も、本来の仏教では絶対にやらない葬式や彼岸の儀式を自然神道から引き継いだ神道の変化形)


自然神道の教えとは

・先祖や老人を敬うこと
・周囲の空気を読む事
・和を尊ぶこと
・物を大切にする事


ここに解説があるので転記しておきますね:

日本人はなぜ無宗教なのか? -「日本人に『宗教』は要らない」書評


海外に行くと、「宗教」について考えさせられる機会が増えます。

インドではヒンズー教の信仰が人々の生活に根づいているし、ヨーロッパではキリスト教の美しい教会が、中東では髪の毛を覆ったイスラム教徒の女性が目につきます。

日本には多くの神社やお寺がありますが、特定の宗教を信じている人は少ないですよね。お正月には神社へ初詣に行き、クリスマス(=イエス・キリストの誕生日)も盛大にお祝いして、お葬式は仏教式でやる…外国人からみたら、いろんな宗教がごちゃまぜ状態です。


なぜ日本人の多くは、特定の宗教を信仰していないのでしょうか?

「日本人に「宗教」は要らない」という本にその答えが書かれていました。


日本人に「宗教」は要らない (ベスト新書) 新書 – 2014/2/8
ネルケ無方 (著)
http://www.amazon.co.jp/gp/product/4584124329/ref=as_li_ss_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=7399&creativeASIN=4584124329&linkCode=as2&tag=asyuracom-22


著者はネルケ無方さん。以前、

「日本で出家したドイツ人僧侶の『ここがヘンだよ!日本の仏教』」
http://liliki2.seesaa.net/article/416606609.html


と言う記事で紹介したドイツ出身のお坊さんです。


本著では、元キリスト教徒であり、現在は曹洞宗の住職として活動するネルケさんが、欧米人と日本人の宗教観の違いについて語っています。以下、本の中から特に印象に残った部分を紹介します。


「日本人に『宗教』は要らない」書評 目次


1、なぜ日本人には「宗教」がいらないのか
2、なぜドイツ人は空気を読まないのか
3、日本人(仏教徒)と欧米人(キリスト教徒)の死生観の違い

1、なぜ日本人には「宗教」がいらないのか


なぜ日本人は「宗教」に無関心なのか?それは、日本人が無意識に宗教的な生き方を実践しているからだと著者は語ります。


日々の生活を黙々とこなし、人とのつながりを大切にし、自然と共生する…そんな生き方こそ宗教の説く生き方であり、日本人は昔からそれを実践してきたといいます。


『宗教心に篤いと言われるキリスト教やイスラム教の国々では、宗教間の争いが絶えません。たとえ現在、紛争のない地域でも、治安が良くありません。社会秩序が乱れているからこそ、人々の宗教への関心が高いのでしょう。日本のような安定した社会、争いごとの少ない社会は、世界の中でも珍しいのです。
(中略)

日常生活の中に、仏教や神道の教えが根付いているからこそ、日本人は宗教に無関心だったのではないでしょうか。日本人は、宗教を考える必要がなかったのです。』


「宗教にこだわりすぎている人には、本当の宗教心がない」と著者は語ります。みんなが当たり前と思っていることは、わざわざ問題にする必要もないのです。宗教心が自分の中にあふれていれば、宗教を問題にする必要もありません。


『しかし、日本でも最近、「絆が大事」「思いやりの心を持とう」と言われるようになった。そう言われなければならない状況こそ、私は問題だと思う。日本人は本来、そういう言葉を口にする必要もなかったのではないだろうか。』


確かに「絆」や「思いやりの心」といった単語をよく耳にするようになりました。それだけ、「心のつながり」を身近に感じられていない人が増えたのかもしれません。著者はだからこそ日本の仏教界が、変わらなければならないと言います。


『日常生活の中で禅の教えを実践し、宗教心を持って暮らしているのが日本人であるが、その日常から抜け落ちたときが危ないのではないか。

日常から抜け落ちた人たちと苦悩をともにする。日本の仏教界がその役割を担うために動き出すときではないだろうか。』


葬式仏教に甘んじているのではなく、悩める人々を救う場を作ることこそ、今求められているお寺の役割なのかもしれません。

2、なぜドイツ人は空気を読まないのか


日本人は、空気を読むのが上手です。周りに合わせて、人とシンクロする性質があるからです。


でも、欧米にはこの「空気を読む」という概念がないそうです。


『ドイツ人には、そもそも空気を読むという概念はない。なぜ他人とシンクロしなければいけないのか。ドイツ人には、なかなか理解できない。』


子どもの頃から自分を主張しなさいと教わる欧米人と、自己主張しないようにと教わる日本人。「嫌われたくない」という思いが強い日本人は、リーダーシップを取るのも苦手です。


『日本の総理大臣は、みなの意見を聞き、みなが納得できるよう調整する。しかしそれは、欧米の感覚ではリーダーの役割ではない。「嫌われても自分の主張を通すのがリーダーの役割だ」と考えるのが欧米人だ。』


選挙でも、日本人は一匹狼より調整する人を好んで投票します。逆に欧米では、一匹狼的な人のほうが格好いいとされ、票が集まるそうです。


『しかし、欧米のように個が強すぎるのも問題だ。一匹狼を重んじ、他人はみな敵だとする西洋文化では、たくましくなければ生きていけない。他者を思いやる余裕がなくなり、争い事が多くなりがちである。』


確かに、欧米は自己主張しなきゃいけない社会なので、少し疲れます。だから海外から帰ってくると、思いやりがあって、優しい気配りのできる日本人に感動します。(まぁ、欧米のドライ&自由な雰囲気も嫌いじゃないですが…^^)

3、日本人(仏教徒)と欧米人(キリスト教徒)の死生観の違い

日本ではよく「亡くなったおじいちゃん、おばあちゃんが、天国からわたしたちを見守ってくれている」なんて言葉を聞きますが、キリスト教徒にはこういった感覚がないそうです。

自分を見ているのは神であるイエス・キリスト、あるいはマリアであってご先祖様ではない、というのが彼らの主張です。イエス・キリストを信じていれば、死後天国に行け、信じなければ地獄に落ちると信じているのです。


『キリスト教では、生まれてきた理由に関しては、あまり記述がない。いきなり生まれてきて、70〜80歳の人生があり、死ぬと天国か地獄へ行く。そして、世界の終末には最後の審判があり、なぜか全員復活する。そこで、永遠の命を得るか、地獄で苦しみ続けるかが決まる。』


日本ではお墓参りが習慣化され、大切にされていますが、ドイツ人はほとんどお墓参りに行かないそうです。


『通常、寿命を全うした歳で亡くなったとしたら、墓参りに行くことはほとんどない。「墓は故人の遺灰や遺体を埋めるところであって、その場所に特別な意味はない」とドイツ人は思ってしまう。もちろん、亡くなった親族のことは心の中で思い浮かべたりするが、わざわざ墓に行って何かをするという発想はない。』


そのため、墓地の場所を忘れてしまっている人も多いそうです。また、欧米では日本のように墓地を忌み嫌う感覚がありません。緑あふれる広大な墓地は、デートスポットの定番でもあるんだとか。墓地でデートなんて…日本ではちょっと考えられないですね!^^
http://liliki2.seesaa.net/article/420075965.html

_____

神道というのは原始信仰のアニミズムやトーテミズムをそのまま残した化石的な宗教です.

アニミズムやトーテミズムでは人格神ではなく,人間に危害を及ぼす様なものはすべて神になる.

神仏習合というのは仏教の仏を神道の沢山いる神の一つにしたもの.

日本人がクリスマスを祝うのもキリスト教の神を神道の八百万の神の一つとして扱っているだけの事


日本の仏教というのは本当の仏教ではなく,中身は完全に神道で外形だけを仏教から借りただけの代物なのですね.

仏教は日本に根付いたが,キリスト教は完全に放逐された.

それはキリスト教は一神教で神道の精神と相容れないからなのです.

自然神道とは


これが弥生人の神道
 
古代の日本人の霊魂観によると、人は肉体と霊魂からなり、また霊魂を「タマ(魂・玉)」と呼びました。生命の維持はタマの働きによって保たれ、死はタマの離脱することだと考えられていたのです。病気や怪我などはタマの一時的離脱であり、死はタマの永遠の離脱(脱出)を意味していました。つまり、「タマ(魂・玉)」は生命活力の根源とされてきたのです。

 「タマフリ(魂振り)」は、「タマ(魂・玉)」を振り動かして、その霊威を高める働きです(魂振・魂殖・魂触・魂降などは少しずつニュアンスが違いますが、生命エネルギーの活性化という意味では同じです)。神や人のタマを人の中府(ちゅうぶ・体内)に鎮め結び付けること(「タマシズメ(魂鎮め)」)は、霊威が活き震うことの前提であり、「タマフリ(魂振り)」により人の生命力と活動力が強化されると考えられたのです。

 「タマフリ(魂振り)」いわゆる鎮魂(ミタマシズメ・ミタマフリ)は、禊祓(みそぎはらい)と並ぶ神道の重要な行法で、枯渇する人の魂を振り起こし、衰微する魂の生命力を再生する救霊の呪法です。そして鎮魂祭は、人の肉体から遊離しようとする「タマ(魂・玉)」をしっかりと中府(ちゅうぶ・体内)に鎮め固定し(「タマシズメ(魂鎮め)」)、「タマフリ(魂振り)」をすることによって人の生命力と活動力を強化すると考えた古代信仰から生まれた神事(祭祀)なのです
http://blog.livedoor.jp/susanowo/archives/50045056.html

人里に近い山を「葉山」といい、亡者の霊がしばし山中に留まり、この世への執着を絶った後に祖霊となり、やがて里を訪れて子孫に福をもたらしてくれる、という葉山信仰が東北に多く、恐山もその一つだ、といいます。
http://www.kurikomanosato.jp/to-r07simokita.htm

「人が死ねば肉体は滅びても、その霊は祖霊として永遠不滅な一種の生命体となって蘇生復活し、高い山に上って住み、山上から麓の子孫を守ってくれる」と信じられていました。この我が国固有の信仰は、すでに「古事記」にも見られ、永年にわたって脈々と受け継がれてきたのです。

 古来、子孫の生活の中で最も重要なことは「稲作」であり、祖霊なる「ハヤマの神」は、春4月8日ごろ「田の神」とになって田に降りて、子孫の農耕を助け、秋の収穫が終わると、家族と新穀を共食し、10月8日ごろ再び山に帰って休むと信じられていました。

したがって、「ハヤマ」のある場所は、田の見える端の山でなければなりません。もっとも、祖霊の住まう山は「ハヤマ」の冠を持つとは限らず、山形県や秋田県の「モリノヤマ」などは、「ハヤマ」に相当する山です。
http://www.geocities.jp/hayama1462m/hayama-history.htm


これが縄文人の神道  

上の稲作云々の部分は弥生時代以降に変わった部分で本来の神道は:

アイヌの人々が考える宇宙は、この世とあの世とからなる。人間は死ぬとあの世へ旅立つが、そこではあの世での新しい生活がある。そこで一生を終えるのと、またこの世に戻ってくる。この世とあの世とは、同じ生活が営まれているが、季節や昼夜は反対である。

 霊魂 この行き来するものが霊魂であるが、この世にあるすべてのものに霊魂が宿っているとされている。

 アイヌにとってのカミ観念 そうした霊魂のうち、火や雷、地震、津波などの自然現象、クマやオオカミ、トリカブトなどの強い力を持った動植物など人間の意のままにならないもの、力を持ったもの、不思議もの、役に立つもの、あるいは恐ろしいものが、神として崇められ、畏れられた。神は崇められるだけではない。神として崇められた霊魂は、人間世界へなんらかの恩恵をもたらすことで、返礼する。


44. 2016年5月01日 11:26:44 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[27]
 了解しました、 下記の教え大事なことです。


自然神道の教えとは

・先祖や老人を敬うこと
・周囲の空気を読む事
・和を尊ぶこと
・物を大切にする事


 ま、光が見えたとか、奇跡が起きたとか いう話は十中、八九はに偽物
 
 や幻想と考えて、信頼できる人に相談したほうがいいでしょうね。


 さはさりながら
 
 ユングに易を伝えた宣教師・ヴィルヘルムの祖父のような超能力者、神通力

 を見せた人もいるわけなので、 私はイエスが心理療法士以上の力をもってたと

 勝手に思っているわけです。
 


47. 中川隆[2323] koaQ7Jey 2016年5月01日 12:19:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2543]
>>46
アニミズムは祖霊崇拝の宗教なんだよ:


神道は祖先崇拝、動物崇拝の宗教

お面とか動物の像とか蛇とか祭りで使う道具はすべて祖先の霊(神)の姿:


そもそも巫女とはどういう存在かというと、「神と交わる人」だ。

ここで、「交わる」の意味が問題となる。 遠まわしな表現でいえば「神と一つになる」だが、それでもわからなければ「神と寝床を共にする人」だ。 だから、「神」が男神であれば巫女は女性であり、女神であれば逆になる。 そして人は「神の子孫」となる。

もちろんこのような話は、王室の正当性を主張するために作られる神話だ。

吉野裕子さんによると、古代の日本は蛇信仰のメッカだったという。 そして、吉野論の極めつけは、「日本人は蛇の落とし子である」というものだ。日本人は古来より、蛇に対して畏敬の念をもつと同時に強烈な嫌悪の対象として見るという、アンビバレントな感情を抱いていた。

だから蛇に対する信仰は、多くの場合は隠された形で、隠喩として示されてきた。
だから、その謎を解明するのは困難を極める。蛇信仰が縄文時代からあったことは、縄文土器に多く見られる蛇の形からもわかる。

だが、吉野説では、その「縄文」自体が蛇とかかわりがあるという。


さて問題の蛇巫の話だ。

吉野裕子著の『蛇−日本の蛇信仰』では、「蛇巫の存在」として1章を当てている。

そこで吉野は、『常陸風土記』のヌカヒメ伝承と大和の「箸墓伝説」、つまり大物主神とヤマトトトヒモモソヒメ命の神話を比較して、この二つに見られる共通点を以下のように挙げている。


 蛇巫が夜ごと、神蛇と交わること。

 幼蛇を生むこと。

 幼蛇を小さい容器の中で飼うこと。


先に、巫女とは神と交わる者だと書いたが、それに習えば、蛇巫とは「蛇と交わる者」ということになる。吉野は他にもいくつかの例証をあげ、以下のように結論づける。

日本古代蛇信仰では、神蛇とはまず人間の巫女と交わることをその第一義としたから、「祭り」とは要するに巫女による蛇との交合であったとさえ思われる。

また、、太古の諏訪大社の主祭神であったと思われるミシャグチ神についても、諏訪大社の代々の最高神官であった大祝(おおはふり)はミシャグジ神の蛇巫だったとしている。

諏訪大社ではたしかに蛇あるいは龍神とのかかわりが密のようであり、そのことは現在の諏訪大社の主祭神である諏訪大明神つまり建御名方神においても受け継がれているようだ。
http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20041009/1202903595


蛇は何のシンボルだったのか? 


 古代の宗教のあちこちで姿を見せる「蛇」。

 古代の宗教における「蛇」というと、『創世記』冒頭でイヴをそそのかす蛇がもっとも有名だ。

キリスト教的な解釈では、直ちにそれは原罪の誘引となった「悪」のシンボルと捉えられる訳だが、それは「蛇」に対して非常に偏った捉え方にすぎない。

ちなみにユダヤ教は、原罪という意味合いを読み込むことはしない。それは、人間が当然犯す過ちの一つ、という以上の意味はないのである。


 「蛇」がネガティヴでない意味をもって登場する箇所を若干挙げてみよう。


 「主はモーセに言われた。

「あなたは炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ。蛇にかまれたものがそれを見上げれば、命を得る」。


モーセは青銅で一つの蛇を造り、旗竿の先に掲げた。蛇が人をかんでも、その人が青銅の蛇を仰ぐと、命を得た」
(『民数記』21:8-9)。


 ここで「蛇」は生命を付与するものとして捉えられているが、これはギリシア神話の「アスクレーピオス」の蛇とも共通して、広く地中海一帯やインドにまで広がっていた蛇観であるそうだ。

脱皮を繰り返しながら生を更新していく蛇のうちに、個体の生死を超えて続けられる生そのものの連続性を古代人は見たのだという解釈がよくなされるようだ。
 さて、このモーセと蛇の結びつきは、新約聖書の一人の作者によって利用された。

 「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように、人の子も上げられなければならない。それは、信じる者が皆、人の子によって永遠の命を得るためである」
(『ヨハネによる福音書』3:14-15)。 


 蛇=悪という教義が障害となって、この箇所と『民数記』の上の箇所との関連が追及されることはこれまでなかった。 

 しかし、宗教的カリスマを蛇のイメージにおいて捉えることは決して珍しいことではなかった。たとえば、福音書が書かれた時期にはまだ地中海一帯で命脈を保っていたディオニューソスには蛇のイメージがついて回る。

ヨハネ福音書の作者がイエスを造形するに際して、「解放者」ディオニューソスをモデルにしたという解釈はすでに相当あるようだ。たとえば、イエスが甕に入っていた水をたちまちワインに変えてしまう箇所などが典型的だと見なされている。

 
 翻訳もあるケレーニーの『ディオニューソス』で、ケレーニーはディオニューソスの由来をクレタ島のミノワ文明に求めたが、過去に遡るにつれて、ディオニューソスとゼウスの区別は薄れ、それらは時には牛に時には蛇に近接していき、

「牛は蛇を生み、蛇は牛を生む」

という謎めいた呪文(おそらく何らかの儀式で唱えられた呪文)に行き着くのだが、ケレーニーによればこの蛇や牛は「破壊されることのない生命」のシンボルだった。

 (クノッソス宮殿で発見された蛇を掲げる女性像ととぐろを巻く蛇をいただく女性像。おそらく蛇巫(へびふ)と呼んでいいのだろう)  
http://shin-nikki.blog.so-net.ne.jp/2010-06-12


弥生の祖霊像 −弥生時代−

 郡山市徳定遺跡からは、顔面付の弥生土器がみつかっています。再葬墓に使われた土器だと思われます。
http://www.mahoron.fks.ed.jp/tenji/2004/soreizou.htm


インドネシア・仮面と彫像の世界展

インドネシアは、断食月(Ramadan)が終わり、レバラン(Lebaran)の大祭の真っ只中。ヌサンタラ(Nusantara・島嶼国家)の異名を持つ同国は、(おそらく)世界最多の仮面文化を有し、同時に世界最多種の彫像文化を併せ持つ。

スマトラ島、ジャワ島、バリ島、そしてカリマンタン島。さらには西ヌサトゥンガラ(NTB)や東ヌサトゥンガラ(NTT)州の仮面・木彫は、祖霊信仰との関連で、イスラム、キリスト教エリアのいずれの地においても、その精緻で芸術性の高い文化として発展を遂げてきた。

近年、それらの多くが換金商品の様相を色濃くし、また、バリ島を始めとする世界規模の観光地で、“魂”無しの各地の、偽物の祖霊像が数多く売られる時代へと変貌している。民芸品と割り切れば、観光ビジネスと思えば、仕方のない現象だろう。

インドネシア文化宮(GBI)は、1970年代から、ヌサンタラ各地で、消滅寸前の、本物の仮面・彫像の収集に着手した。それらの多くを、現パプア州(旧西イリアン・イリアンジャヤ)アスマット(Asmat)地方の彫像が占めている。

今回の展示では、スマトラ島最南端のランプン州、中カリマンタン州、フローレス島、スンバ島、ティモール島の仮面、そして原始美術として世界的に知られるアスマット地方の祖霊像を中心に、ヌサンタラの豊かで崇高な“森の文化”に焦点をあてたい。

西ティモールの王族が祭儀に使用していた大型木彫仮面
http://grahabudayaindonesia.at.webry.info/201009/article_15.html


48. 中川隆[2324] koaQ7Jey 2016年5月01日 12:31:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2544]

未開社会では、青年期に夢や幻覚で見た鷲や熊などの動物霊を、個人の精霊(守護霊)としたり、日本のように祖霊信仰を持つ社会では、先祖の霊が子孫を加護するという思想がある

トーテムと部族の間には、何らかの神秘的なつながりがあります。そのつながりのために、部族は何らかの約束事を守らねばならず、その代わりに何か利益を受けます。


日本人の道徳は、死者、つまり過去の世代の人々に思いを寄せ、彼らの意を汲むことを重んじてきたことだと解釈できます。

つまり「恥の文化」は、同時代の他者や世間のみではなく、今は声をあげることのない過去のさまざまな人々の思いを感受し汲みとってはじめて完成するということです。

同時代の他者の観点やその総体としての世間の観点だけでなく、過去に生きたさまざまな人々の視点やその集合体としての祖霊に思いを馳せる。

それを通じて、いわば横軸(同時代)だけでなく、縦軸(伝統)の視点を身につけ、時間のつながりのなかで自分の位置を反省し、遠い将来まで見据えたうえで自分がいま何をなすべきかを立体的かつ複眼的に考えられるようになる。

本来の「恥の文化」とは、とても奥深く、そこまで求めたものだと思います。


49. アーリエル[22] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月01日 22:21:44 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[111]
私の立場を改めてここに明示するならば、厳格に「宗教は必要ない」という立場であり、
形式ばった秘儀や儀式といったものになんら関心もありません。

誰かにそれが必要だととも私は理解しません。必要ないものは必要ないものでしかありません。

ですが、それぞれの宗門にて、喧騒の街中にほっとする場所が現代において存在し、
人々は心の安寧を目的としてその価値観を利用しているということをも理解します。

そうしたあり方に限定してあるならば、そこには一言も誰も文句などないものでしょう。

あなた方の不安や疑念は不透明であるものに対してであり、
そこに改めて、すべてを開示する必要性を感じることによるものでしょう。

あ、それから、宗教が必要ないとすることが、=神などいない、また要らない、
とするような意見となる訳ではない、ということもここに伝えておくこととします。

そのことはまったく別の話です。

>38

「パウロの失敗」とする部分とは、舌足らずであったと反省します。
→宗教というものを確立させてしまったことにあります。

改めて感想を漏らすなら、あなた方の求めてきた価値観、
また世界とは実に狭量的なものだと感じます。
あなた方がそこに魅力を感じるというならそれを続ければよいことで、
関心のない私にはまったくそれらは関係しないことです。

ただそれだけです。

私が述べたことは、事実として、それを理解するものは同様のソースから得ています。
それらはすでに私の生まれる以前に世界中に拡散されているものです。

この流れで仏教界についてまで語るつもりはないですが、
あなたの抱え持つ不安は多くの人間が抱えるものと同様と理解します。
しかし、それはあなた御自身の問題であり、解決する者もあなた以外ないはずです。

そうした質問こそ、nakidに打診すればよろしいでしょう。

あらゆる不安は解消することができます。
その力はあなたにもあるのですよ?

その力のことを私はここで言って居るつもりです。

「結局、誰もが無知である」とした見解に落ち着こうとする者は、
自身の無力さや決断力の乏しさを、同じ姿を他者に見出すことで、
自身に正当性を与えたり、納得させようとしているだけです。

ただ俯瞰から全体を眺めてみればよろしいのです。


私の投稿に関心がなければ、ただ離れるのがよろしいのです。
誰に依存せずとも、必要とされる気づきは誰のもとにも必ず訪れます。


51. 中川隆[2333] koaQ7Jey 2016年5月02日 07:45:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2553]
>>50
日本は仏教国じゃないよ

檀家制というのは、仏教がキリスト教に負けたと判断したから江戸幕府が導入したもの

そもそも日本人でお経に何が書かれているか知っている人なんて誰もいないし、お坊さんも経典を怨霊調伏の呪文としてしか捉えていない


52. 中川隆[2334] koaQ7Jey 2016年5月02日 07:54:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2554]

十二因縁 _ 仏教は狂った宗教


無明から存在するものは発生し、行識を通り、最後に人間が出て老死が生じた

因果は生命の理法を示したもの。

その因果が、道徳の問題と結合するとき、善因善果、悪因悪果、三世の因果という考え方が生まれます。

このような実在的生命観は、因果理解に、道徳的要求が加わった場合、あの善因善果、悪因悪果の説すなわち、よい行為にはよい結果が伴い、悪い行為には悪い結果が伴うという考え方が生じます。


私は子どものころ、縁日に見世物を見に行きましたが、そこにはロクロ首の女や熊女などがいました。このロクロ女や熊女は親の因果が子に報いて、このような片輪者になったといわれました。明治以前までわれわれ日本人はよいことがあると、先祖のおかげでといって喜び、悪いことがあると、親の因果と思ってあきらめたものでした。

 因果の概念には宿命論的ひびきがあります。そこには、おのれの運命への諦めがあります。そして同時に、このような現世の運不運を、人間の理解できない前世の因縁と結びつけることによって、仏教は、はなはだしく、理性の正しい行使を傷つけます。因果の概念は、まさに、日本人を諦観にしばりつけるとともに、日本人の理性をマヒさせた最大の元凶のようでした。

 長い間、仏教は因果の概念をつかって、民衆に道徳を教えましたが、その概念の拡張解釈は、人問に諦観を与えるとともに、人間理性の正しい行使を妨げることに役立ったようです。近代の精神は、このような因果因縁の概念を否定することから生じるのであります。近代的理性にとって、このような因果因縁の概念こそ、まさに仏教のインチキ性を証明するものと映ったにちがいありません。

 このような因果因縁の概念は、まさに仏教の恥部であったわけです。


53. 2016年5月02日 08:39:49 : I6gUFcJIOw : x69O1lzgtr4[1]
面白い。

54. 中川隆[2336] koaQ7Jey 2016年5月02日 09:30:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2556]

真言密教による怨霊調伏の実際は


楳図かずお 『マザー』動画
http://www.bilibili.com/video/av2184619/

松竹メディア事業部 2014年

監督 楳図かずお

キャスト
楳図かずお - 片岡愛之助
若草さくら - 舞羽美海
イチエ - 真行寺君枝

ヘビ女の話は


楳図かずお恐怖劇場(2005年)
映画 まだらの少女
http://www.bilibili.com/video/av1658708/


55. 2016年5月02日 10:34:57 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[28]
宗教の害毒があるようなので、初心者のために フランス、ドイツでカルトとして

注意喚起されてる団体をいくつか挙げて起きます。

(フランス)創価学会、統一教会、エホバの証人、崇教真光、超越瞑想、サイエントロ

      ジ−、イエス神霊教会 など

(ドイツ)創価学会、統一教会、真光系教団、サテイアサイババ、など


 あやしいのが多々あるようなので、注意は必要です、念のため。


56. アーリエル[24] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月02日 15:20:58 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[113]
>55
基本的にあなたの言動は誤解を生みやすいのだと考えるが、それは私も同様のものだろう。

よくよく読んでみるとあなたの考えと私の考えは基本的に構造は同じのようである。

>50
かつての私はあなたのようにあった時も確かにあるといえるし、あなたのその不安と怒りという感情の出所を理解するが、今はっきりといえることは、そのときの考え、そしてそこから生まれる感情は自分に何も生まない。つまり、自分に偽善的であったということだ。
あなたの崇拝するものを大事にするあまり、自身のきづきをおろそかにすることはない。あなたにもし、敬うべきすばらしい恩師がいるというなら、あなたが自分を裏切ってでも、自分の足で、自分の心で、わが道を確かなものとして歩んでいくことを望み、そして頼もしく思うだろう。

狭義に生きることなかれ。

あなたは今のあなたの生き方にしたがっていけばそれでよい。だが、それで人を巻き込む必要はない。あなたにもきっと理解できるときが来る。
そして私たちの言うことが誤りだというなら、それはそれでいいではないか。
何も人々は自分の信じる道を自分で模索すべきものであり、あなたが誰かの無知さに頭を抱えている必要はないのである。

勧誘をしているつもりでもなければ、私はあるゆる宗門も持たない。
営業マンとしては私は力を発揮するだろうが、自社の特定の商品だけを売り込んだりはしない。
利益にもならないことを理解しながら、私は自然に体のよいものだけを人に勧めて、そしてその会社を自ら辞めるだろう。というか実際そうしてきたのが私だ。

私はどこまでも自分に正直にあるだろう。なぜそこに恥を感じることがあるだろうか。笑うものには笑わせておけばよいだけだ。


57. アーリエル[25] g0GBW4OKg0eDiw 2016年5月02日 15:30:53 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[114]
失礼。
>55は「>54」の誤り。
>55に対しては特になし。

つまりnakagawake宛て。


59. 2016年5月02日 17:56:21 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[29]
めんどくさいけど、ウイキペヂイアがほざいてる。

政府の文書によってセクトと分類された団体一覧

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%94%BF%E5%BA%9C%E3%81%AE%E6%96%87%E6%9B%B8%E3%81%AB%E3%82%88%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%82%BB%E3%82%AF%E3%83%88%E3%81%A8%E5%88%86%E9%A1%9E%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E5%9B%A3%E4%BD%93%E4%B8%80%E8%A6%A7


60. 2016年5月02日 18:03:25 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[30]
めんどくさいけれど・・。 ウイキペデイアがほざいてました。

政府の文書によってセクトと分類された団体一覧

(上記でネット検索してみてください。) それだけです。

あとはウイキペデイアまたは当該政府にお願いします。


61. 中川隆[2341] koaQ7Jey 2016年5月02日 18:28:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2562]
>>58
法華経はカルトだね

浄土教、日蓮宗、創価学会すべて狂ってるからね

法華経はシゃカの教えを完全に無視しているのに仏教と名乗っているのが異常なんだ。


62. 2016年5月02日 20:12:06 : Fnjzuc2hZg : Khd5f29uCdI[1]
おおおお。
嵐の予感予感。

63. 2016年5月02日 20:22:35 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[31]
嵐と止まって、STOP嵐

パウロ、ユダの話から すでに大幅に逸脱してます。

別の場所でやるほうがいいのでは。

アリエ−ルさんへのご迷惑はこの辺でいいのでは・・・。


64. 2016年5月02日 20:42:29 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[32]
「あ、それから、宗教が必要ないとすることが、=神などいない、また要らない、
 とするような意見となる訳ではない、ということもここに伝えておくこととし
 ます。」

 アリエ−ルさんの 上記 神とは?宗教は必要か?

 というような 基本的なテ-マもいいですね。

 


65. 2016年5月02日 20:49:54 : yi9Ov54oDQ : LuQSTnsOaDY[1]
おんなはだまっとれー

67. 2016年5月03日 13:03:24 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[34]
法華経は釈迦滅後500年くらいに作られたことが学問的に明らかに
なっております。

釈迦52歳にとかれた?間違いです、鎌倉時代の古い情報です。

仏教学を少し勉強すればわかります。

(ウイキペヂアより大乗非仏説抜粋)

「日本では、仏教が江戸時代に寺請け制度で権力の一翼を担い堕落していた幕末において、仏教に批判的な思想家等によって展開された。江戸時代の思想家、富永仲基の加上説や、明治期の仏教学者、村上専精による「大乗非仏説論」(だいじょうひぶつせつろん[1])などが有名である。
明治維新以降、言語学などを駆使した近代的文献学研究の方法が日本に流入し、学会などでは大乗仏教が前1世紀以降から作成されたものであるとの結論から、大乗非仏説は近代的学問から裏付けられているとされている。もっとも、文献学的には、大乗仏教の仏典のみならずパーリ経典の大部分も釈迦の死後数百年にわたり編纂されたものであることが明らかとなっている。最古の経典も釈迦の死後100年以内の編纂とみなされているため、近代の文献学上は原始経典さえも釈迦の言説が明確に記録されているか否か明らかでない。」



70. 中川隆[2357] koaQ7Jey 2016年5月03日 17:25:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2582]

法華経はバラモン教を元に作られた、釈迦の教えとは全く異なるもの

釈迦の教えは輪廻や死後の世界や神の存在を完全に否定するものだったのでインドでは受け入れられなかったのですね。 それでその代わりにバラモン教を元にした大乗仏教がでっちあげられて、釈迦の教えだと偽って流布されたのです。

従って、法華経を認めることは釈迦の本当の教えを完全否定する事になるのですね。


釈迦(紀元前463年? - 紀元前383年?)

 法華経は初期(第一期)大乗仏教の時代に成立した経典であると仏教学者は考えている。初期大乗でも、阿弥陀経、般若経(小品系)の次に成立した。法華経が成立した時代は紀元50年から150年あたりにかけて成立したと考えられる。

因みに、法華経の漢語訳は最初から最後までデタラメだというのが定説:


法華経 上―梵漢和対照・現代語訳 植木 雅俊 (翻訳)
http://www.amazon.co.jp/%E6%B3%95%E8%8F%AF%E7%B5%8C-%E4%B8%8A%E2%80%95%E6%A2%B5%E6%BC%A2%E5%92%8C%E5%AF%BE%E7%85%A7%E3%83%BB%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E%E8%A8%B3-%E6%A4%8D%E6%9C%A8-%E9%9B%85%E4%BF%8A/dp/400024762X


 わが国には、サンスクリット語(梵語)の法華経を現代語訳した本は他にも存在するが、この本により、これまでの訳が如何に不完全であったか(文法上・語彙上・思想上の誤り、深読み、省略など)が、これでもか、これでもかというほどに明瞭となる。

しかも、サンスクリット原文、漢文(書き下し)、現代語訳が左右見開きで並べられ、著者の訳し方が正しいかどうかを、その気になれば誰でも検証できるように配慮されている。その上、全1300ページの3分の1にも及ぶ注釈でなされる緻密な分析・解説は圧倒的な説得力を持つ(それはロゼッタストーンを読み解くような面白さといえる)。まさに毎日出版文化賞の受賞にふさわしい労作である。

 徹底的に正確に訳すことによって、従来の訳に見られた法華経思想への誤解を改めるということが本書の重要な目的であるようなので、ここに一例を紹介しておこう。例えば、方便品に「四仏知見」とよばれる箇所がある。これは、仏がこの世に出現した目的について、「衆生たちに(1)如来(仏)の知見を開示し(2)如来の知見に入らせ(3)如来の知見を悟らせ(4)如来の知見の道に入らせる(開示悟入)」ことであることを仏自らが述べる箇所である。

ところが、梵文法華経の口語訳として著名な岩本裕訳では前記(1)から(4)が「(1)’如来の智慧の発揮を人々に示すため(2)’如来の智慧の発揮を人々に理解させ(3)’ 如来の智慧の発揮を分からせるため(4)’ 如来の智慧を発揮するに至るまでの道程を人々に理解させるため」とされている。

ここで問題となるのがtathagata-jnana-darsanaという複合語を如来(tathagata)の智慧(jnana)の発揮と訳していることである。darsana(見ること、内観、哲学)を「発揮」と訳すのは無理であることなど、この訳の語彙上の問題点は同書に詳しく述べられているが、その不正確な訳により「如来の智慧の発揮」が、あくまで如来の側のこととされてしまい、そこにおいて衆生は、如来によって示される「如来の智慧の発揮」をただ理解し、分かることだけが求められることとなる。

しかし、このような訳では、衆生に本来備わっている仏性を衆生(二乗を含め)に目覚めさせるという一仏乗の思想(法華経の根幹思想)が蔑ろにされてしまう。そうなってしまっては、長者窮子の譬喩(信解品)も衣裏珠の譬喩(五百弟子授記品)も不軽菩薩の振る舞い(不軽品)も何ら意味をなさなくなるのである。植木氏は、その語彙上の誤りを正し、真に原文に忠実な訳をされた。これにより、法華経思想の理解に一本筋が通ったと言える。徹底的に正確な訳というのは、このように大変重要なことである。

 これは、ほんの一例にすぎず、植木氏はこうした誤訳を随所で指摘し、明確な根拠を示して正している。中国に始まって日本にまで持ち越されたいわゆる「三車家」と「四車家」との間に展開された千五百年来の論争に決着をつけたり、法華経の重要な菩薩の名前が「常に軽んじない菩薩」、あるいは「常に軽んじられる菩薩」と全く相容れない訳し方がなされてきたが、その矛盾を見事に解決したり、法華経の題名の正しい和訳を行ったり──と、正確無比な訳により、これまで種々問題となっていた事柄に解決の光を当てたことは仏教史上に輝く偉業と言って良いであろう。

また、その美しくやさしい現代語訳は、誰でも親しみやすくわかりやすい。著者は言う。「シェークスピアより面白い」と。出版元である岩波書店が「正確で読みやすい現代語訳で蘇る、平等と人間への尽きせぬ信頼の経典」と謳う本書が多くの方の座右の書となることを願うものである。

______


まあどちらにしろ法華経は釈迦の教えを完全否定する所から出発してるんだよね。

天台法華思想の系譜 田村芳朗/梅原猛

『法華経』の不思議

梅原 天台思想というのは、日本の仏教の基礎になった思想だと思うのですけれども、ほとんどの日本人は天台の思想について何も知らないのではないでしょうか。これほど日本の文化に大きな影響を与えていながら、日本人は天台の教義というものをほとんど考えてみたことがない。そういう意味でいうと、日本精神史の背骨みたいなところが、全然研究されていないといえるのではないでしょうか。

田村 梅原さんが『地獄の思想』でかなり宣伝してくださったわけですけれども。

梅原 私のなどは不完全なものだと思いますけれども、それですら、いままで指摘した人がほとんどいなかった。天台思想の基礎になった『法華経』というものは、最も日本の文化や思想に大きな影響を残した経典だと思います。そこで『法華経』というのはどういう仏典なのか、そのへんから…

田村 私は、『法華経』というのは非常に不思議な経典だと思いますね。というのは、古来両極の評価がなされている。非常にほめたたえているかと思うと、一方、それとは逆にけなしてしまう。その一つに『法華経』無内容説というのがありますね。たとえば徳川時代に排仏論が起こったときに、富永仲基がそれを最初にいっています。それから有名なのが平田篤胤の能書説ですね。中身のない薬の効能書にすぎないという、そういう無内容説に加えて、もう一つ、『法華経』は愚夫.愚婦のためのものだ、というようなこともいわれました。

現代でも『法華経』にたいして、同様の批判をする学者がいます。また『法華経』に基づいた天台の思想にたいしても、無知なまちがいだらけの思想だといいます。『法華経』には殉教・殉難が強調されていますが、これなどは、一般社会から疎外された、いわば特殊階層によって『法華経』がつくられたためではないかというのです。排他的だという批判も出ていますしね。

ところが反対に、『法華経』自身が平等一乗というように、非常に包容的な、寛容性に富んだ経典だとたたえられてもきております。梅原さんもいわれたように、『法華経』は一般文化や思想に吸収され、大きな影響を与えたことは事実ですね。『法華経』の強調する殉教・殉難の精神も、崇高なものとしてたたえられ、そこに生きる勇気と支えを見いだした人々も出ているわけです。

ともあれ、『法華経』が、このように両極の評価を受けたことは、まことに不思議な現象です。私は仏教にも七不思議があげられると思いますが、これがその一つに数えられるかもしれません。なぜそのような両極の評価を受けるようになったかということですが、それを知るためには、『法華経』が、いつ、どのような時代につくられたかを調べる必要がありましょう。

梅原 大乗仏教思想の発展史の中で、どういうかたちで『法華経』がつくられたのかということですね。もう少しいうと、『般若経』『華厳経』『涅槃経』などとの関係ですね。中国の仏教学者たちが非常に苦労して、そういう関係を論理的に整理したわけですが、現代の仏教学から見ると、それが歴史的にどういう関係でつくられたのでしょうか。

『法華経』の成立

田村 近代になって、原典がヨーロッパを通して紹介されると、あらためて近代的な立場から経典が研究しなおされます。『法華経』についても研究しなおされたわけですけれども、問題は『法華経』の成立年代、あるいは『法華経』の中での各篇の成立の違いですね。そのことについては、いろいろな学者が研究しているようですけれども、私は布施浩岳氏の『法華経成立史』の説にほぼ賛成したいのです、2、3の小さい点では異論があるのですが。それによれば、『法華経』は、「授学無学人記品」第九と「法師品」第十の間で一くぎり入れられ、さらに「嘱累品」第二十一と「薬王菩薩本事品」第二十二の間でもう一つくぎりが入れられます。現在の羅什(クマーラジーヴァ。350?〜409?)訳の『法華経』には「提婆達多品」が第十二章として立てられていますが、これは天台大師あたりになって挿入されたもので、ここでは除きます。

ともかく、そういうことで、『法華経』は、第一類・第二類・第三類というように区分され、第一類は、西暦50年ころ、第二類は100年ころに、それぞれ1グループとしてできあがり、第3類は150年ころまでに、個々につくられて付加されていった、というふうに布施さんはいわれます。竜樹(150〜250頃)の『大智度論』には、『法華経』の最後の章まで引用されているので、第三類の諸章が付加される最終の時期を150年こると見るわけです。

伝統的な区分では、そのはしりが道生(?〜434)に見られますが、「安楽行品」第十三(第十四)と「従地涌出品」第十四(第十五)の間で線を引き、前半と後半に分けたわけですね。なぜそのように分けたかというと、前半では、いわば「宇宙の統一的真理」というものがとかれている。

『法華経』のことばでいえば、「一乗妙法」です。二乗ないし三乗、あるいは諸法を統一した真理、そういう統一的真理というものが明らかにされている。一方、後半では「久遠の人格的生命」とでもいいますか、現実の釈尊を通して、永遠なる仏の存在がときあかされている。要するに、常住の生命とか、久遠の生命というものが強調されている。そういうことで道生が最初に『法華経』を区分し、それを光宅寺法雲(467〜529)も天台大師(智。538-597)も受けついだわけですね。


梅原 ほぼ紀元後1世紀から2世紀にかけてということになりますね。それと『般若経』とか、『華厳経』との関係はどうなりますか。いちばん最初にできた大乗仏教の経典は『般若経』ですか。

田村 『般若経』が最初ですね。紀元後50年ころには「原始般若」ができていたと考えられます。『般若経』作成の意図ですが、それまでの仏教では、根本真理の「空」のつかみ方に誤りがあった。そこで空の観念をあらためてここで再認識というか、その概念をはっきりと規定しようとしたのだと思われます。そこで一応、『般若経』によって空の根本概念に目鼻がついたといいますか、それがさらに理論化されるのは竜樹あたりになってからのことでしょうけれども、『般若経』で原理的には確立された。次には、その空を、もう少し積極的に展開し、あるいは現実にあてはめていこうという考え方や運動が起こってくる。こうして出てきたのが『法華経』とか『華厳経』です。

梅原 『法華経』と『華厳経』とはどちらが先ですか。

田村 『般若経』『維摩経』『法華経』『華厳経』の順で、それに『無量寿経』『阿弥陀経』などの浄土経典を加えて、第一期大乗経典といっております。

梅原 『般若経』と『維摩経』はほぼ同じころですか。

田村 そうですね。相次いてできたもので同類のものと考えられています。第一期大乗経典は、およそ1世紀から3世紀ごろにかけて成立したものと考えられます。

『法華経』以後の経典

梅原 『涅槃経』はいつごろですか。

田村 そのあとになります。第一期大乗経典がほぼ3世紀までにできあがり、論者があらわれてさらに理論体系化します。それが竜樹ですが、そのあとに、あらためてまた経典が作成されます。それが第二期大乗経典といわれるもので、時期的には4世紀に入ってからで、その一つが『涅槃経』ですが、第二期大乗経典の結集のあとにまた論者が出ます。無着(310〜390頃)・世親(5世紀頃)がそうです。

梅原 他の経典はどうなのですか。

田村 第二期大乗経典は、如来蔵系としては『如来蔵経』『不増不減経』『大法鼓経』『央掘摩羅経』『勝髪経』『涅槃経』『無上依経』などがあげられ、阿頼耶識系としては、『解深密経』『大乗阿毘達磨経』などがあげられます。如来蔵経典は、第一期大乗教典で確立した「空」をさらにもっと積極的に主張するといいますか、つまり、内在的に概念づけていったものだといえます。

仏性とか、如来蔵という説がそうです。また永遠観ですが、『法華経』でも、永遠の存在とか永遠の生命を説いていますが、まだ『法華経』の場合の永遠者というものは対象的ですね。「私」にたいして、永遠なる仏が対象的なものにとどまっている。時間的にいえば、永遠という概念は、時間の延長にすぎない。ほんとうに時間・空間を突きぬけた永遠性というもの、ひいては永遠というものは、ただいま、この瞬間に、わがうちにつかまれるというような内在説にまでいっていない。そこまでいくのはやはり第二期大乗経典の中の如来蔵系の経典ですね。

その代表的なものが『涅槃経』です。光宅寺法雲は、そういう永遠性に惹かれたらしく、『法華経』を注釈しながら、『法華経』の永遠性は、仏の神通力で時間を延長したにすぎず、神通力が尽きれば寿命も尽きる、ほんとうに時間・空間を超越した絶対の永遠性というものは、『涅槃経』だということで、彼は『法華経』から『涅槃経』に移っていったわけです。ついでにいえば、如来蔵系の経典というのは、事物の本質面をときあかし、その現象面を分析したのが阿頼耶識系の経典です。

経典偽作の理由

梅原 そういうふうに次々と経典が釈迦の名でつくられた、そういうことは他の文化では行なわれたことがないのでしょうか。ヨーロッパでは、つまりキリストの名で、どんどんあとから経典が出てくるなどということは考えられないことですからね。

田村 さっき仏教の七不思議といいましたが、その七不思議の最たるものが、インドでは、そのように経典が次々とでっちあげられていったということ、しかも釈尊の名前を騙るわけですからね(笑)。

これは全く不思議ですね。

梅原 中国でも、孔子の名の著作はその後出ないでしょ。いくらあつかましい男でも、孔子の本がどこかにかくしてあったととり出してくるようなことはしない。インドだけですね、そういうことの起こったのは。しかし、インド人はそれを信じたのですか。それが偽作だとわかっていたのでしょうかね。

田村 ただ作為に偽作して、シャカはこういったとうそぶいたわけではないとは思いますが。(笑)

梅原 一種の創作が行なわれるわけですか。

田村 よくいわれるように、インド人には歴史意識がない。シャカにまつわる歴史的事実に、あまり関心がなかったのではないですかね。

梅原 自分の中にまで釈尊が入ってしまってるのでしょうか。だから事実とフィクションの差別の意識がなかったのでしょうね。あるいは自分と釈尊との区別の意識もなかったのかもしれない。これをつくりだした男は、一体どういう男なんでしょうかね(笑)。あるいは竜樹あたりがみずからつくりだしたのかもしれない。(笑)

田村 もう一つは、哲学的にいえば、インド人は普遍の世界、現実の歴史的時間を超えた普遍の世界へ自分を投入していく傾向をもっている。そういうふうなことは、歴史的現実の事実には、たいして関心がない。だから、あとからつくられたものでも、釈尊の歴史的事実は問題ではなく、それを超えた釈尊の思想が問題なのだということで、つまり、釈尊はこう語った、というふうになったのではないでしょうかね。

梅原 たしかに暑い所へ行くと、時間の観念がおかしくなりますね。私は昨年カンボジアまで行ったのですけれども、時間の観念がおかしくなった。インドヘ行った人の話だと、タクシーの運転手が、自分のおばあさんは126歳だといって(笑)、そういってるだけではなくて、ほんとうにそう思っている。そういうことからいえば、1世紀や2世紀は問題ではない。われわれの時間とは違った、別の時間に住んでいる。それにしても、よく経典の大量偽作という驚くべきことが起こったものですね。

田村 ですから、『法華経』ができ、インド・中国・日本で、それぞれ『法華経』の注釈がなされるわけですが、国によって、『法華経』にたいする目のつけどころが違っています。インドでは、前にいいました宇宙の統一的真理、普遍平等なる真理、または世界というものが強調されている。インドの仏教学者は、みんなそこに目をつけて、『法華経』のすぐれていることを主張する。たとえば竜樹の『大智度論』は『般若経』を注釈したものですが、その中で、『法華経』をすべての章にわたって引用しつつ、「二乗作仏」を一般的にいえば、『法華経』の普遍平等の説に目をつけ、その点に関しては『般若経』よりすぐれているとさえいっています。

羅什訳『法華経』

梅原 すると田村さんのお考えだと、大乗仏教が空という考え方を出したけれども、まだ『般若経』ではほんとうの空の積極性が出てこない。『法華経』が、その積極性を宇宙の統一原理にまで高めた。そこに『法華経』の独自な思想的位置があるといわれるわけですね。

その『法華経』にたいして、極端な見方があるといわれましたが、私も悪いほうの見方をした本ばかりいままで読んだので(笑)、どうも『法華経』にかんして一つの偏見をもっていたのです。ところが、最近若い学生さんたちといっしょに『法華経』を読んでみて、やっぱり『法華経』はすばらしいと思った。

和辻哲郎さんは『法華経』というのはドラマだというのですが、非常に雄大ですね。それにみごとなイメージの経典ですね。「薬草喩品」など、雨が降って、すべての木々が次々と成長していくという、そのイメージはすばらしいですね。宇宙に内在している仏性のイメージが、実に雄大に次から次へと展開していく。私はその意味で非常に文学的だと思うのです。そういうすぐれた経典が中国に入っていくことになる。そこで『法華経』を考えるとき、どうしてもぬかせないのが羅什だと思うのですよ。

田村 そうですね。『法華経』は、羅什が406年に訳したよりも前に、すなわち286年にすでに竺法護によって訳されているわけですが、これはわれわれにはちょっと読めない。悪く評すれば非常にぎごちない。それにくらべて、羅什のものは名訳であり、美文訳ですね。梅原さんが以前いわれたように、羅什の色気がそこににじみ出ているのかもしれませんね。(笑)

羅什の達意の訳としては、よく指摘されるのが、「方便品」第二の「十如是」ですね。羅什以外のものは漢訳本や原典チベット訳もふくめて、5つのカテゴリー、あるいはそのくりかえしになっています。それが羅什訳では、10のカテゴリーにみごとに整理されている。これは明らかに羅什の作為的なカテゴリーエン(範疇化)ですね。『大智度論』では9つのカテゴリーが立てられていて、それを応用したのだといわれます。

梅原 カテゴリーをですか。

田村 『大智度論』を訳したのが羅什ですからね。『大智度論』を書いたのは竜樹ですけれども、羅什が訳すときにかなり色づけしたのではないでしょうか。

梅原 塚本さんもそういう考え方のようですけれども。

田村 ともかく「十如是」一つとりあげても、羅什の作為的翻訳というものが見られる。厳密な文献考証的立場からすれば、問題となりましょうが、とにかくそういうことのできる人だったということですね。

梅原 『大智度論』というのは、『般若経』の注釈書ですね。けれどもその中で『法華経』を重視してますね。

田村 そうですね。さきにもふれましたように、『法華経』のほうが『般若経』よりもすぐれているというのですね。どこがすぐれているかというと、「二乗作仏」の点だというのです。小乗教徒は、結局、空を誤解してニヒリストになった。ニヒリズムにおちいったものはもはや成仏しない、ということで、大乗教徒から強烈な非難を受けたわけですね。

それが『法華経』にきて一乗平等の真理のもとに、あらためて目を開いて起死回生し、成仏できるのだという保障がえられた。これが『法華経』の「二乗作仏」の説、普遍平等の思想です。ここに羅什は目をつけて、それが説かれている点は、『般若経』よりすぐれている、といったわけですね。世親の『法華経論』というのは、インドにおいて、『法華経』そのものを注釈した唯一の書ですが、やはり「二乗作仏」とか、平等の真理とか、平等の存在とか、平等の世界が、『法華経』の特色として強調されています。

ともあれ、そういうことで、竜樹の『大智度論』では『法華経』が重視されたわけですが、さきほどの話に出ましたように、羅什が訳すときかなり手を入れましたし、『法華経』を訳すさいにもまた、非常に手を入れたところが見られる。

梅原 二重にプリズムが入っている。(笑)

田村 そうですね。羅什の人格、羅什の出生地、あるいは中国に来てからの考え方がどうだったのかとか、中国的な雰囲気にどれほどとけこんでいったのか、ということを、羅什訳の『法華経』を見る場合も、頭におく必要があると思います。このへんの事情はちょっとわからないのですけれども、どうですか。梅原さん、羅什については、たいへん興味をお持ちのようですが。

梅原 それは小説的な興味で(笑)。しかし、羅什の存在というのは重要ですね。それまで中国人に仏教が十分にわからなかったわけですからね。大乗も小乗もいっしょに入ってきて何が何だかわからない。このとき、インドの仏教を直接に知っている羅什がやってきて、中国仏教の伝統を創造する。

ところがその仏教解釈において、羅什の個性が強く影響しているという気がするのですがね。いわば羅什によって中国仏教の基礎がこしらえられたのですからね、天台智の思想を考えるときに、やはりどうしても羅什によってつくられた仏教思想の伝統を考えなくてはならない。智の思想という場合も、『大智度論』と『法華経』からくるのでしょうね。『大智度論』が思索の種でしょ。そのときいちばん中国仏教者を悩ましたのが、例の教相判釈の問題ですね。

教相判釈の問題

田村 私は教相判釈をあらためて再評価できると思うのです。当時の仏教学者のそれぞれの哲学があると思います。それぞれを哲学的見解と見ればいいのじゃないですか。

梅原 仏教の経典を釈迦の一生にあてはめたところが問題ですね。

田村 そこは問題がありますけれども。

梅原 大乗教典の中で、何がいちばんすぐれた経典か。その価値判断が教相判釈と考えられますね。

西洋哲学でいえば、つまり西洋哲学のすべてをソクラテス作ということにして、カントを選ぶか、ヘーゲルを選ぶかという問題になるわけですね。そんなことは長い西洋哲学の伝続の中では考えられないことですよ。その点が中国仏教の教相判釈のおもしろいところですね。

田村 たとえば天台大師の五時八教というような教判の場合、そのうちの五時とは、釈尊一代の説法を五段階に分けて、諸経をそれにあてはめたわけですけれども、はたして天台大師自身が、釈尊がそういうふうに説いたと信じて、その説を立てたかどうか。それほど素朴だとは思えない…。

梅原 日蓮はそう信じている。(笑)

田村 私は日蓮はそれを信じていたというのではなくて、一つの論証方法としてあったと思うのです。偽経ができたということは、すでに問題にあがっているくらいですからね。日蓮だって偽経説というのは知っているのですからね。だから単純に…。

梅原 それを全部偽経にしたら、大乗仏教はなりたたなくなる。(笑)

長い間、歴史的に発展した思想を釈迦の一生にあてはめるのは、むろんまちがいですけれども、これを大乗仏典の発展史と見ると、『華厳経』をのぞいては阿含、方等、般若、法華、涅槃の順になり、たいへん歴史的成立年代にも近くなる。だからその意味では、そういう前提さえぬけばたいへんよくできている。クロノロギーとしてもたいへんおもしろいのではないかと思うのです。

田村 ただ私は『華厳経』を最初にもっていったのは意味があると思うのですよ。結局、『般若経』で空の根本原理が確立されて、こんどは、そこで『法華経』と『華厳経』をくらべた場合、『法華経』は非常に総合的統一的なかたちで、真理を積極的に表現している。

『華厳経』のほうは非常に純粋なかたちで空の真理を表現しているわけですね。『華厳経』を読めば、だれもがそう感じたろうと思うのです。それで『華厳経』を最初にもっていったのですね。つまり釈迦の悟った直後の純粋な状態を表現したものだということです。牛乳でいえば、しぼりたての乳ですね。『涅槃経』に五味のたとえがあり、天台は最初の乳の味に華厳をあてました。ともかく、『華厳経』は、純一な真理に照らされた、まじり気のない理想的世界を説いたものであり、『法華経』は総合ですから、悪も善も全部…。

『涅槃経』に説く五味のうち、最後の醍醐昧というのは、最も牛乳が発酵して、最後の円熟した状態をいうわけですよ。だから私は学生に、どちらをとるかは、結局、本人の好みだっていうのですよ。自分はしぼりたての牛乳のほうがいいという人と、円熟したまろやかなものがいいという人とあるわけです。

『華厳経』を最初にもってきたわけも、そういう思想内容から判断して、教相判釈が立てられたので、そういう点をくみとるべきだと思います。

梅原 人生にたいする天台智の見方があるわけですね。初めは純粋なものを説いたけれどもむずかしすぎた。それでやさしいところから説きおこして、またむずかしいところへ入って、最後に『法華経』を説いた。初めと終わりとはだから、逆に近いわけでしょ。

田村 『華厳経』を最初にもっていくのは、天台以前の教相判釈で、すでに見えています。教判は、南北朝時代に代表的なものとして、南三北七、つまり、江南に三種、江北に七種があげられます。

インドでは、順序、次第をおって経典が成立していったわけですが、中国へは、そういう成立順序はおかまいなしに、見つけたものから翻訳していったわけですね。それで困ったわけですよ。こんなにいろいろあって、一体、どれがほんとうなのか。中国の当時の学者が成立順序を知っていれば、あるいは問題はなかったかもしれませんが、なにせ新しいものが先に入ってきたり、古いものがあとになったりして、雑多に入ってきたものですから、思想内容でもって価値配列づけがなされることになったのですね。結局は、それぞれの学者の哲学的見解の表明ですね。

そこで『般若経』を根本におくというのは問題なかったわけですよ。その上で『華厳経』『法華経』『涅槃経』の三つが注目される。『華厳経』は真理の純一性を説き、『法華経』は真理の統一性、『涅槃経』は真理の永遠性を説いたものですね。真理についての三つの属性というか、その特色が、それぞれ分担して説かれているわけです。『華厳経』は純一無雑なかたちでじかに説いた、ということで頓教と名づけられました。頓ということばは後に実践論に使われたり、認識論に使われたりして、いろいろな意味をもつようになりましたが、本来は釈迦が悟った直後の境地をじかに説いたものということですね。それにたいして『法華経』や『涅槃経』は漸教とされ、そのうち、『法華経』は、万善同帰教、『涅槃経』は常住教と定義づけられました。

南三北七の教相判釈は、結局、『華厳経』を真理の純一性を説いたものとして、アルファ、『涅槃経』を真理の永遠性を説いたものとしてオメガとし、この二つをアルファにしてオメガ、最初にして最後なるものとして最高視したといえます。『法華経』は、両者の中間に位すると考えました。いわば橋渡しです。『法華経』は、すべての思想を総合していて最後に『涅槃経』にバトンタッチする経典だということです。ところが天台大師が出て、『法華経』を最後にもってきて、『涅槃経』はむしろ『法華経』の付属物と見たのです。天台は仏教の統一形態、ないし体系の樹立を志し、そこで、統一的真理を説く万善同帰教として、この『法華経』を最後の段階においたので、ここから天台独自の教相判釈が生まれたわけです。

『法華経』の三部門

梅原 中国の教相判釈は、ほぼ三つの経典が中心でしょうね。どこに中心をおくかで、いろいろ考え方が変わってくるわけですね。

そこで、『法華経』ですけれども、前半が「二乗作仏」を説き、後半が「久遠実成」を説くという解釈になるのでしょうが、これは天台智の創造なのですか。

田村 その解釈は、道生から始まっているんです。道生というのは鳩摩羅什の門下で、鳩摩羅什といっしょに翻訳に参加した。羅什が翻訳したそうですけれども、羅什一人ではなく、共同作業ですね。ですから、いわば翻訳工場ですよ(笑)。彼らは翻訳したあと、互いに討議し合い、また注釈書を著わした。ところがその注釈書が、道生のものしか現在残っていないのですね。その道生の注釈書を見ますと、因門と果門というかたちで分けてある。つまり、前半は因門、後半は果門というぐあいです。

梅原 そうすると、すべての人に仏性がある。衆生に仏性があるというのが前半の因門、そしてそれが永遠の仏性のめざめというかたちで実を結ぶというのが結果ですね。それが迹門と本門ということになりますね。

田村 因果というのは、現実の事物をささえる原理ですね。そのような現実の理法でもって、『法華経』を解釈したところには、なにか現実尊重という中国的考え方がはたらいているのではないか、と思うのですが。天台大師は、そういう因果二門の分け方を受けつぎながら、迹門・本門ということばに置きかえたのです。

梅原 すると解釈も違ってくるわけですか。

田村 解釈は同じです。ただ道生の場合、果門が最後までではないのです。すなわち、「嘱累品」第二十一までですね。「提婆達多品」が加わってきますと、第二十二になりますけれども、当時は第二十一です。この第二十一章までで切ったわけです。そのあとは流通分、つまり応用部としたわけです。ところが道生のあとに光宅寺法雲が出て、『法華経』を注釈したさい、区分のしかたに少し変化が生じました。光宅寺法雲は、やはり因果二門ということばをうけ、同じ解釈を与えているのですが、ただ果門を最後までのばしてしまったのです。天台大師も光宅寺法雲にしたがって、最後までのばした。のばした上で、迹門・本門とした。ですからのばしたところに、ちょっと変化が出てきています。しかしつかまえ方は同じですね。成立史的な観点からいえば、「嘱累品」で区切ったほうがよかったと思いますが。

梅原 前半が宇宙の統一的原理、後半は人格的生命を強調したといわれる。前半には一種のカテゴリー論みたいなものが、はっきり出ているわけでしょ。「方便品」には如是というカテゴリー論が出ている。つまり、差異の世界、万物が差異でありながら、一つの統一をもっというのが前半。後半は永遠なる生命という思想が非常に表面に出てくるのではないかと思うのです。天台大師は、どっちを強調したのでしょうかね。

田村 日蓮にすれば、天台は迹門ばりだというのです。迹門に傾いているというのですね。迹門というのは仮の部門ということですし、本門とは真実の部門だということで、迹門・本門ということばからすれば、天台も後半に重点をおいたということがいえると思うのですがね。

ただし、天台と日蓮との間に違いが出てくるのは、日蓮になって、私のいう第三部門に注目したことです。日蓮のことばでは「第三法門」ですね。成立史的には、最初にふれた第二類の部分、すなわち、「法師品」第十から「嘱累品」第二十一(第二十二)までのところです。そこでは、殉教・殉難の菩薩行が強調されています。一口にいって、実践部門にあたるものですね。

この第三部門は、伝統的な迹門・本門という二部門にまたがるわけですが、日蓮は、本門と重なる部分、すなわち八章を特にとりあげ、「本門八品」ということを主張しました。『観心本尊抄』にはそれが説かれています。

梅原 それは非常におもしろい解釈ですね。私は漠然と読んだわけですけれども、「法師品」の前までは非常に比喩が多いでしょ。ところが次になると、人間のあり方が主に説かれてきますね。そして、またふたたび宇宙論が出てきますね。ちょうど宇宙論と存在論との間に、ダーザイン論、現実人間論が出てくる。そこに日蓮は注目したわけですね。

田村 そうですね。

危機の時代の意識

梅原 そこは天台ではどうなのでしょう。

田村 天台にはそれがありません。価値評価は別にして、最初に日蓮が目をつけた。たとえば、「法師品」に「如来使」というのが説かれている。このことばは非常におもしろいと思います。キリスト教の使徒意識に似たものを感じさせます。この「如来使」ということばはほかの経典を探しているのすけれども、ないですね。「天使」ということばは原始経典にあります。何を天使としたかといいますと、それは生老病死なんです。『天使経』とか1天使品」とかがあって、「お前は天使を見たことがあるか」「ない」「では、病にたおれて体が腐っている人を見たことはないか」「それならある」「それが天使だよ」というような会話が交わされています。つまり、人間の実存的な姿をたとえて天使といったものですね。

ところが『法華経』でいう「如来使」は、現実の苦難にたえて、真理の実践にはげむ者は、仏の使徒としてこの世に遣わされた者であるということで、非常に実践的な意味をもったものです。

梅原 それが「法師品」からはっきり出てきますね。そこがキリスト教的というか、ほかの経典にはところですね。

田村 だから、『法華経』は、ある特殊な階層によってつくられたのではないかという説も出てくるわけです。

梅原 私も最近まではそう思っていたのですよ。こんど読み返してみて、身にしみてわかったのです。いまの時代はそういうものを必要としているのですよ(笑)。『法華経』という経典全体がそうではないと思うのですが、危機の意識の産物ではないかと思うのですがね。危機意識が出てきます。最初の部分にある「方便品」「譬喩品」でしたか、火宅の話があります。火事がおきて家が火につつまれる。卜カゲなどがいっぱいいる。かたわらでは子供が、無心に楽しく遊んでいる。それが世界のイメージというものでしょ。現代もトカゲがいっぱいいたりしてあぶないわけですね。大学あたりでは(笑)。しかし一方で、人々はパチンコや競馬やマージャンばかりしている。これは危機を知らずに遊んでいる子供ですね。

田村 たしかに似てますね(笑)。『法華経』はフィクションにみちておりますが、そういうフィクションには、やはり材料が背景にあったのではないかと思います。「法師品」以降に見られる危機意識といいますか、苦難意識というものが背景にあった。それはなにも『法華経』だけの特別なものではなくて、当時の大乗仏教者、あるいは大乗経典に共通してあったのではないですか。『法華経』だけに限定する必要はないと思うのです。『法華経』はそれを非常に強調しているために、特殊な感じを受けるのですがね。

梅原 危機の時代における人間、指導者というのは、苦難を覚悟しなくてはならない。その苦難のすすめのようなものが『法華経』にはありますね。『法華経』というのは、インドの特殊社会から生まれたという説がありますが、それだけではすまなくなる。日蓮は『法華経』をやはりそういう危機の時代における人間のあり方を説いたものとして読んだ。あの時代は現代に似ている。一種の危機・変革の時代だった。

田村 疾風怒濤の時代ですね。

梅原 そういうふうに読んだときに、『法華経』というのはすばらしい経典だ。火宅のイメージは私も身につまされるんですよ。

田村 そういう危機意識に基づく経典の作成は、たとえば、『涅槃経』を読みますと、やはり法をそしるものといいますか、そういうものが非常に強く出てきてます。

梅原 日蓮も『涅槃経』についてはずいぶん言及していますね。

田村 ですから『涅槃経』がつくられたとき、大乗仏教グループにたいして、外から相当の攻撃があったのではないか。あるいは仏教内で、たとえば小乗仏教徒からの攻撃があったのではないか。あるいは一般社会に、なにかそういう危機意識を持たせるようなものがあったのか、ですね。特に『涅槃経』には武力の問題が出てきております。

梅原 ゲバルト論が出てきて…。(笑)

田村 時にはゲバルトにたいしてゲバルトをもって抵抗してよろしい、なんていうことを説いたりしていますね。

梅原 いままでの仏教解釈では、そういう点がよわいと思うんです。つまり『法華経』のもっている時代の危機意識、その危機意識の中でどう対決したか、そういう点がないから、仏教は生きたものとして見えてこない。仏教の問題は心の内部のものだけに限っている。日蓮の読み方には、そういう危機意識がある。智はその点どうなのですか。

田村 やはり危機の時代ですね。ただし、智が法華哲学をつくるようになったころには隋によって一応統一された時代です。智の家庭は侵略による不幸を受けはしましたが、隋の統一以後は、一応の安定がおとずれます。智も如来使ということばにふれてはいますが、殉教の使徒とか殉難の使徒としての如来使というような解釈は見当たりません。伝教大師も同じですね。

梅原 どちらかというと、智の考え方そのものが、空間的なのでしょうかね。五時八教という思想がありますけれども、それよりも『法華経』のもっている統一的な、いわゆる空間的な把握が…。

田村 ですから歴史的な変化、あるいは歴史的な形成というか、そういうウェルデン(生成)に欠けてくるというのは、そこに起因しているのではないでしょうか。

梅原 どちらかというと平安仏教、古代仏教というのは、空間的な要素が強いのではないですかね。

田村 強いですね。特に日本においては。

法華三大部

梅原 ところが智の著書として、例の『法華玄義』『法華文句』『摩訶止観』は、三つともむずかしくて、これを解説するのはたいへんだったと思いますが。

田村 いや、全く四苦八苦の思いでしたね。

梅原 『法華玄義』では、「南無妙法蓮華経」ということばの解釈が一つの本になった感じですね。

これはどういうことでしょうかね。中国仏教独自のものだと思うのですよ。

田村 それはたしかにそうですね。悪く許すれば、ことばの羅列というのか、非常にカテゴリーエン的ですね。西洋哲学ではどうなのでしょう。

梅原 やはりザッハ(事情)を分析するのがヨーロッパ哲学の態度でしょうね。最初から最後までことばの解釈が占めるというのは、ちょっと考えられないのではないでしょうか。

田村 『法華玄義』では、最初に「妙法蓮華経」という題目について、名・体・宗・用・教、すなわち五重玄義といわれる一種のカテゴリーをきめておいて出発するわけです。しかし『法華玄義』は、読みようによってというか、思想をできるだけ発掘しようという意図をもって読めば、深い哲理なり、思想というものがくみとれると思います。

梅原 田村さんの第一部で非常におもしろいと思ったのは、例の十如是の解釈です。

田村 いや、それは梅原さんの西洋哲学からの見方ではどうなりますか。

梅原 カントのカテゴリー論などとくらべるとおもしろいと思います。魂の実体とか、そういうカテゴリーはないのですか。

田村 ないですね。そういう実体観は強く戒められていますからね。ただ、それが華厳には若干出てきます。

梅原 如来蔵思想になると出てきますか。

田村 『涅槃経』にはそれが出ていますが、しかし、そうなると仏教本来の立場に反するではないか、ということで弁明をつけ加えるわけですね。たとえば如来蔵は我だ、大我だなんてことをいい出します。ところがウパニシャドに見える実体説などと同じではないかという疑問がおこる。そこでまた空をもち出して、そうではないのだというのです。けれども、客観的にみれば相当に実体説が出てきますね。だからたえず弁明をくりかえすのです。

梅原 実体論というのは、魂の不死の思想とつながっているでしょう。ヨーロッパではそうですね。仏教のほうだとこれが因果でしょ。だからたえず生死の問題になる。永遠の生というのは考えない。道元あたりも一種の外道の説だとして、魂の実体説をしりぞけていますね。

田村 身滅心常説だとして否定していますね。

梅原 そういう論理的カテゴリーまでが、仏教の基本的な死生観みたいなものを反映している。それがおもしろいと思いますね。

田村 それは仏教の思想史の底をずうっと流れてきていますね。だから実体的な説が出ても、そのあとで、すぐことわり書きをつけるというわけです。

天台の三諦説

梅原 天台でやかましくいわれた例の空・仮・中の三諦ですが、あれはすでに竜樹にある思想ですね。

田村 天台も引用してますが、竜樹の、「中論」の「観四諦品」第二十四にあります。ただ、あそこでは、三つのカテゴリーになっていないで、二諦です。

梅原 中がないわけですね。

田村 空と仮とがあって、それがイコール、そのまま中だということで、分ければ、真諦と俗諦の二

つのカテゴリーとなる。それを天台が、空・仮・中という三つのカテゴリーに分割して、そして三諦を立てた。これは天台の解釈の誤謬だというふうにいわれたりするのですが、思想ないし哲学的立場から考えるとどうでしょうか。

梅原 空というのは、私のことばでいうと、リアリズムの否定だと思います。仮というのはニヒリズムの否定というわけです。リアリズムを否定しニヒリズムの立場になる。そのニヒリズムも否定して、中の立場に立つというのは、なにかいまの人間存在の本来のあり方を考えて、非常に微妙で深い哲学真理だという気がしますね。

田村 話が少し飛躍するかもしれませんが、西洋哲学者が、空・仮・中の三諦を弁証法にあてはめてみて、円環の弁証法だっていうのですよ。そこには歴史的なウェルデンがない。くるっと円でかこまれてしまう。へーゲルやマルクスの弁証法には、対立を基点とした無限の歴史的生成がある。ところが天台では、中を強調しすぎたせいか、くるっとつつみこまれて、そういう意味では強烈な歴史的生成がないというのですがね。

梅原 私は対立によってものが生成するなんてウソだと思うのですよ。つまり弁証法というのは、ヨーロッパでは闘争によって歴史が発展してきた、その歴史の論理化が、弁証法だと思うのですよ。このまえ、「スキタイとシルクロード展」を見ましたが、スキタイの遺物には、ギリシャ人の彫刻した猛獣の喧嘩の図が多い。猛獣の闘争が彼らの歴史のイメージでもあり、弁証法にも通じるわけですよ。歴史の発展というのはそんなものではない。弁証法の肯定・否定・否定の否定としての肯定というあの論理は、一種の猛獣闘争説を人間社会にあてはめた考え方だと思います。だから天台には西洋の弁証法がないから、空・仮・中の論理がまちがっているなどとはいえません。西洋哲学でいえば、むしろヘーゲルより二―チエの考え方に近いのではないかと思うのです。たとえばニーチェにとって世界は、空しいものである。ところが、世界は空しいものであるという見解にとどまったらだめだ。それは単なるネガティブなニヒリズムだ。ネガティブなニヒリズムからポジティブなニヒリズムにかえらねばならない。もう一度世界にたいして肯定をいわねばならない。天台の空・仮・中の論理はそういう論理に近い。すると天台思想というのは、非常に現代的な、つまり積極的ニヒリズムの性格をもっている。

田村 こちらの立場を擁護して、西洋哲学の弁証法を批判すれば、むこうの弁証法には解決ということがないのですね。永久に対立的展開をするばかりで解決がない。そこがこちらでは解決されている。そう簡単にはいえないかもしれませんけれども、論理的には解決というものが存在しているといえなくはない。しかし、天台の論理には生成がないということはたしかにいえると私は思いますね。

梅原 ただし、西洋の弁証法が絶対に正しい、それにたいしてこちらはそれがないからだめだとはいえない。仏教は仏教で、また生成概念が出てくるのではないですか。鎌倉時代の日本仏教思想には、時間性と歴史性を強調しているでしよう。だから弁証法だけが歴史の見方だとはいえないと思うのですよ。

田村 たしかに、鎌倉時代になると、生成の概念が出てきます。私もそうだと思うのですが、それでは、一体何を材料として生成概念が出てきたかということですね。鎌倉時代の祖師たちが、当時の変転きわまりない歴史的現実というものに対する個的体験、内的体験を通して生成の観念を身につけたのか、あるいはそういう観念を身につけさせるなにか材料があったたのか。ともあれ、私はそこに華厳がよびだされると思います。もともと日本では、伝教大師最澄の時から華厳が入ってますね。ですから、最澄の世界観というのは華厳だと思うのです。空海もそうですね。『十住心論』を華厳から編み出しましたね。最後は真言にいきましたけれども、その根本の論理的なはこびは華厳哲学ですよ。最澄の場合は、非常に華厳的だけれども、形態的な統一仏教の必要を感じ、そこで法華に目を移した。そこで日本の天台も初から非常に華厳的です。その華厳には、天台思想に欠けている生成の観念がある。

梅原 私は華厳をよく読んでいないのですが、『法華経』だと多の一といっても、多が非常に強調されて、そのうちに多が一となり、多が統制的にまとめられているような気がするのです。ところが、華厳だと一が最初にあって、一からすべてが出てくる。いわばプロチノス的な発出論的な論理がある。だから、たとえ時間が、生成が強調されていたにしても、全部が一から発するような発出の時間ではないか。しかし、その最初から永遠の一があるという立場でほんとうの時間が考えられるのか。

田村 自己展開ということですね。結果的には、私もそうだと思います。天台と華厳をくらべた場合、どちらから生成の観念が出てくるかということになると、華厳のほうに可能性がある。しかし結果的には、いわゆる歴史的形成という意味での生成の観念はついに出ないでしまったと思います。

梅原 ただ私は、日本の古代仏教の場合、歴史とか時間性というか、瞬間に生きている人間の個体性というものが、よわかったような気がしますけどね。

田村 私は、中国においても、天台も華厳も禅をもふくめて、総括的にそれはよわかったと思います。インドにくらべて、中国では非常に現実が重視されていますが、いわゆる個的対立とか、生成をおこすような現実の直視はないような気がします。

天台本覚思想の起源

梅原 もう一つ、田村さんに教えられて、これから少し勉強したいと思ったのは、いわゆる本覚思想ですね。いままでも口ではいろいろにいわれても、本覚思想というものが、日本天台独自の思想であり、同時にあの鎌倉仏教の母胎になっているということ、つまり天台思想からすぐ鎌倉仏教が出てくるのではなくて、天台の中で本覚思想が熟してきて、そこからいろんなものが生まれてくるわけでしょ。その本覚思想の重要性が、これまでほとんど考えられたことがなかった。日蓮を読んでいても、やはり本覚思想の影響をぬきにしては考えられない。本覚思想は良源(慈恵大師。912〜985)に始まる。良源から檀那流と恵心流が分かれて、どっちかというと恵心流のほうが主流ですね。源信(恵心)あたりから始まるわけですね。法然にしても道元にしても、そういう本覚思想の影響をうけている。そうすると天台本覚思想というのは、日本独自の思想で、その中から、しかもその枠を破って、鎌倉仏教が出てくるわけですね。この本覚思想とはどういうものなのか。ここに日本天台を解くカギがありそうに思うのですがね。

田村 そうですね。天台本覚思想というのは、これまであまり注目されなかった。最近歴史学者などが本覚思想に注目しはじめましたね。日本の中世文学にしても、芸術にしても、本覚思想をぬきにしては考えられないというようにいわれてきています。鎌倉新仏教の祖師たちも、結局はこの本覚思想から生まれたわけですから、本覚思想を否定するにしろ、肯定するにしろ、無視できないものとして、当時の思想界の背景に存在したということですね。

梅原 本覚思想がどうしてできたのかを考えてみたいと思います。

最澄の場合は、ほぼ智の直輸入だといってもいい。それが円珍・円仁になると密教の影響が強くなってくるわけでしょ。そこで密教と天台思想をどう総合するかが理論的な課題となるように思うのです。ところがさきほどいわれた華厳がありますよね。密教と華厳、それに『大乗起信論』あたりの如来蔵思想の影響があります。それらがどう結合されて日本独自の本覚思想になったかということですね。

田村 天台智頻は『大乗起信論』を全然引用していないのですね。『小止観』に一ケ所引用されていますが、その部分でさえ、あとから挿入されたものだといわれます。

梅原 最澄には『起信論』がとり入れられていますか。

田村 最澄には入っています。中国で華厳哲学が起こり、『起信論』を活用するわけですが、唐代になって、天台6祖の妙楽大師湛然(711〜782)と華厳4祖の清涼大師澄観(738〜839)の間に論争が展開されたとき、それぞれの立場に立ちながら、相手の理論を自家薬籠中のものにして論争しました。だから『起信論』のいわゆる真如随縁の説や、華厳の生成の観念を湛然は自己にとり入れた。したがって以後の天台には『起信論』の思想が入ってくるわけです。最澄は湛然の弟子の道邃・行満から教えを受けたので、当然『起信論』は入っていました。最澄自身、天台法華を学ぶ前に、行表から華厳や『起信論』の書物を教えられ、すでに研究ずみなのです。

そもそも天台本覚思想の本覚ということばは、『起信論』にあるもので、内容的にいえば、最澄においても、すでに天台本覚思想はあったといっていいのかもしれません。はっきりと具体的にあらわれてくるのは慈恵大師良源あたりからですね。円珍・円仁では密教が大幅にとり入れられ、天台は密教化するわけですけれども、良源が出て、ふたたび天台法華の正統にもどします。しかしそれは形態の上でもどしたのですから、思想内容としては、それまでのものを継承、推進していくのですね。いわばあらためて法華の器に盛るわけです。

梅原 それはおもしろいですね。

田村 法華の器に盛ることによって、天台本覚思想というものが熟してきたといえますね。

梅原 そこで永遠性が強調されるわけですね。

天台本覚思想の本質

田村 天台本覚思想を時間論でいえば、「永遠の今」説です。西洋哲学でいわゆる「永遠の今」、私は「絶対瞬間の永遠」というのですがね。要するに時間的にしろ、空間的にしろ、人間の思考の限界を、最後の一線で突破した彼方に展開される世界を理論づけたものです。カテゴリーエンすれば、絶対的一元論ですね。絶対的一元の世界を哲学的に理論づけたものです。原理的には、古くから仏教にはそういう考え方はあります。空観を基調としてあったわけですけれども、本覚思想はそれをつきつめていって理論化した。だから島地大等さんなども、天台本覚思想は、仏教哲学としては究極のものだといわれたわけです。天台法華・華厳・起信論・密教・禅といった当時の代表的な大乗仏教思想が、日本には総決算のかたちで入ってきた。それを受けとめて、総合し、一つの哲学に体系づけたのが天台本覚思想です。

梅原 もう少し整理しますと、良源に始まって…。

田村 良源で具体化し表面にあらわれて…。

梅原 完成者はだれですか?

田村 それはわかりません。完成というより、一応の整合は平安末期ですね。いちばん深奥の真理というわけですから、書物には書かず口伝方式をとりました。密教にあった方式ですけれども、天台本覚思想もそれをもっぱら採用しました。ほかに切紙相承という方式もあります。小さな紙きれに秘伝を書くのです。おもしろいことに、中世の日本の文芸はみんなこの方法なのですね。

梅原 たとえば何がありますか。

田村 世阿弥の『花伝書』がそうでしょ。生け花でも、茶道でも、すべてそういう口伝方式がとられています。

梅原 文底秘沈の法則。(笑)

田村 現在にいたる日本の文化・芸能というのは、南北朝から室町にかけてできあがったものだと思ますが、たとえば池坊の第12代にあたる専慶(1460年代)に「古今遠近を立つる」という口伝があります。生け花の極意をいったものとされますね。『花伝書』も、もともと口伝で、一般には公開されなかったといわれますね。こういう口伝形式は、天台本覚思想からきていると思うのです。

梅原 だれが完成者がわからない。大乗仏教と同じ…。(笑)

田村 天台本覚思想は、最初はそういうふうに口伝や切紙相承で伝えられましたが、平安末期になって、それらを総括して一冊の本に編集しようとする運動が起こってきた。

梅原 なんという本ですか。

田村 最古のものでは、『本理大綱集』とか『円多羅義集』です。後者は日蓮が写しておりますね。

それから源平合戦の時代に、その争乱をよそに叡山の奥深く住み、ひたすら真理を探求した宝地房証真が、『円多羅義集』にふれています。それは、証真が天台三大部を注釈した『法華三大部私記』の中に見えます。ただし証真は、正統派というか保守派というか、本覚思想にたいしては批判的な立場に立ちました。

ふつう一冊の書物にしたときには著者名を入れますねえ。しかし本来口伝だったものはだれが著者だといえないわけですよ。そこでどうしたのかというと、前者は伝教大師最澄作、後者は円珍作とか恵心僧都源信作としたわけです(笑)。そのために現代の私たちを大いに悩ませました。(笑)

梅原 日本でも大乗仏典と同じことが起こったわけだ(笑)。それに関連して、以前出たテレビで話に出たことなのですが、平安末期というのは、芸術の分野でも日本の美の最高点を示すものが出ているということなのです。歌でも文学物語でも絵画でも、平安末期というのは恐るべき時代ですね。そこでいまの天台本覚思想という醍醐味ですね。醍醐昧というのはたいへん甘いものですが、同時に腐りやすい。(笑)

田村 南北・室町時代になると熟しすぎて頽廃してきますね。梅原さんは爛熟したあたりがおいしいのだといわれるかもしれませんがね。(笑)

梅原 そういう爛熟したものの一つの精髄ですね。瞬間の中に永遠がある。だから生きているわれわれの中に、ほんとうの仏性が宿っているのだ、というのは非常に深いメタフィシックだな。

田村 ですから、たとえば生と死の問題、前にちょっと出ましたけれども、天台本覚思想の立場からすれば、空もまたよし、死もまたよし。つまり生も永遠なる真理の一つの活現態であれば、死もまた永遠なる真理ないしは生命の活現のすがただということで、生死を肯定し、達観しているのです。

梅原 そういう考え方は、鎌倉時代の祖師たちにほとんど共通してありますね。

親驚・道元・日蓮

田村 親鸞にしても、道元にしても、また日蓮にしても、根底には天台本覚思想が流れています。そ

れは現実における実践力を獲得するためだったのですね。つまり、天台本覚思想の絶対的一元論によ

りながら、現実救済ないしは実践の面から、天台本覚思想を出て相対的二元論におりたったというこ

とですね。

梅原 生死の問題というのは、道元でも生と死は離れているのではないとか、日蓮では生死血脈なんていうでしょ。それはやはり、生と死が一体だ。しかも瞬間の中に生死が宿っているということですね。道元や日蓮を読んでみて、同じようなところがあるというのは、やはりこの本覚思想から出ているからなのですね。

田村 道元は「永遠の今」をいいますね。「有時の而今」ということが、それですね。『正法眼蔵』の注釈者として有名な天桂伝尊(1648〜1735)は、「有時の而今」を「久遠即是今日」と注釈した。これは天台本覚思想で盛んにいわれることです。たとえば昨日の日月も波も、今日の日月も波も、明日の日月も波も、すべての日月や波には変わりがないということで、「久遠即是今日」を主張しています。天月と池月でたとえてもいます。

道元が盛んに使う比喩ですね。ふつうは池に映った月の影から空の月に目を向ける。そして空の月こそが真実だという。ところがそうではない。空の月も、池に映った月も、それぞれがともに真実の月だ、と説いております。つまり、池に映っている月は影ではなくて、空の月の一つの活現のすがただ。こういう場所におけるこういう形の月なのだというわけです。そういう場にいかされた月、そこにこそ、月の生きたすがたが存する。だから池の月から空の月に目を移す必要はないといっております。

梅原 道元の中には、華厳的世界の影響が強いように思うのですよ。それがどこからきたのかというと、『臨済録』にも『碧巖録』にもない思想だと思います。そこを天台本覚思想というものを媒介にするとよくわかりますね。「永遠の今」という場合、鎌倉時代の仏教というのは、「今」のほうにウェイトがかかっていますね。

田村 そうなのです。その点が天台本覚思想と同じです。「今」にウェイトをかけ、「今」を絶対肯定しています。

ただ、鎌倉時代の祖師たちは、歴史的現実としての「今」をつかんだわけです。ところが歴史的現実の「今」は相対的なものですから、天台本覚思想の絶対的「今」との二つの間にはさまれて苦悩したわけです。

梅原 その点は共通してますね。

田村 法然は歴史的現実としての「今」は相対的世界であることを強調し、そこにおりてきて救済論理を回復するために浄土教をよりどころとした。ところがあとの親鸞や道元や日蓮たちは、あらためて一つの難問、アポリアにぶつかった。法然における歴史的、相対的な現実としての「今」は、当時の現実相を見つめれば無視できないし、哲理としては、天台本覚思想の絶対的「今」も、深遠なものとして無視できない。そこで思想的に苦悩したのが親驚・道元・日蓮だったと思います。

日蓮の永遠性と時間性

梅原 それは宗教のいちばん大切な問題ではありませんか。永遠の問題と時間の問題はね。考えてみると、現代人の心には、歴史ばかりがあって永遠がない。歴史的な人間には進歩思想しかない。しかし人類ははたしてそれだけでいいのかどうか、たいへん疑問に思うのです。人間というのは、やはり永遠と歴史的時間と、この二つの交錯の中で生きてきたのではないか。ところが現代人には永遠がない。そういう根源的な悩みを親鸞も日蓮も提出しているのですね。日蓮という人は、意識においては非常に天台が強かった。最初は自分でも天台の復興者だと思っている。しかし法然に対立する必要があったわけで、そうなると法然の末法史観をそのまま認めて、末法の時代に流行するのは浄土経典ではなく『法華経』だというわけですね。と同時に、易行、易行というけれども、「南無阿弥陀仏」というのは易行にちがいないが、もっと易行がある。それは「南無妙法蓮華経」だという。あの題目は日蓮の発明でしょうが、そういう易行の論理と末法の論理で法然を否定した。法然を否定するつもりが逆に法然の影響を受けた。そこでいまの永遠という観念から歴史性の観念が強く日蓮に出てきたと思うのです。

田村 それは私も同感です。日蓮における歴史的現実の意識は、当時の時代にたいする感覚、あるいは時代社会にたいする自己体験というか、特に受難というものを契機として出てくるわけですが、思想的には法然の影響が濃厚であるように思いますね。

梅原 相手にしているうちに、いつのまにか法然がはいりこんでしまった。意識においては天台復興者のつもりだったけれども、実は自分の最初の志とは違ってしまった。その違いに気づいたのは佐渡へいってからだと思いますが。

田村 私は、日蓮の生涯を3つに分けられると思うのです。『立正安国論』作成ごろまでの30歳代は、天台本覚思想そのものですね。そこでは世界観は絶対的一元論に立ち、時間的には永遠の「今」を説き、法然の相対的二元論をつくわけです。それがよくあらわれているのは『守護国家論』です。それが、『立正安国論』以後、伊豆流罪などの受難を経験していく40歳代になると、しだいに現実対決的となり、歴史主義的なカテゴリーを立ててくる。伊豆流罪中の著書に見える教・機・時・国・序の五綱判といわれるものがそれです。さらに佐渡流罪以後、身延退隠にいたる50歳になると、現実を改変した仏国土を建設することは未来に託し、みずからは現実を超越した世界にひたっていく。私は、日蓮のこの三段階は、茶道でいわれた守・破・難の概念をあてはめることができるのではないかと思います。すなわち、日蓮の30代が守、40代が破、50代が離にあたるといえるのではないか。ところで『守護国家論』などを見てもわかりますように、はじめは法然における来世浄土や臨終正念の思想を一元論的立場から否定したのに、佐渡から身延時代になると、来世浄土や臨終正念をこんどは積極的に説きだしてくるのですね。そういうところに、法然を否定しながら、法然の影響を受けたといいますか、関係していると思われます。

梅原 私はきわめてアイロニカルな見方で、価値復興者としてあらわれた日蓮が、その意識では、価値撹乱者としての法然を否定した。ところがいつのまにか、自分が新しい価値の創造者になっていたと考えます。だから価値復興者日蓮と、佐渡以降の価値創造者としての日蓮を考えると、もともと天台思想から出てきたのでしょうけれども、日蓮はたいへん独自な天台思想の解釈者、あるいは新しい日蓮思想の創造者になった。

日本文芸思潮とのかかわり

田村 そうですね。日本的なという場合、天台の思想、もっと広げて仏教思想と日本文化の問題ですね。日本の文芸思潮とのかかわりあいといってもいい。その問題は、天台本覚思想を考える場合に是非とも必要だと思いますよ。

梅原 たとえば『源氏物語』がありますね。「匂宮」以下を「宇治十帖」といいますけど、実際は光源氏以後の話は十三帖ですが、そこでの物語は、それ以前の部分とは全く違っているでしょ。浄土教的な考え方が強い。その前の部分は密教的というか、台密みたいな非常にはなやかな世界がある。すばらしい生命が湧きあがっている。ところが「宇治十帖」になると、絶望感、無常感がたちこめてくる。いわば『源氏物語』という作品の中に平安時代の思想史みたいなものがそのままあらわれているかのように感じますね。そこに天台本覚思想をおいてみること、これは少し大胆な仮説になるかもしれませんが、例の「玉鬘」の巻の中に、文芸論みたいなものがありますね。そこで、小説というものは、一種のフィクションだという意味のことをいってます。いいかえると空なるものだ。空なるものだけれども、実は現実の正史、たとえば「六国史」とかよりもむしろ真実をあらわしている、というような理論がある。私はこれは例の空・仮の論理を背景において考えられたもののような気がしてならないのですがね。

田村 私もそう思いますね。よくいわれることに、日本文化には思想、ないしは哲学がないといわれるでしょ。なるほど分析的な理論展開はないかもしれませんけど、しかし別な意味での理論はあると思うのですよ。中世の世阿弥の『花伝書』ですね。あれはすぐれた芸術理論ですね。

ですから、日本の文化、あるいは芸術に一つの理論構成がなされた。そういう理論構成のもとになったものは、仏教ではなかったか。すでに『源氏物語』がそうなのですね。次にこれを仏教のほうからいえば、日本の仏教というものは、ただ仏教だけで考えでいいものかどうか。天台本覚思想一つをとりあげても、やはり日本の文化ないしは日本の文芸思潮、そういうものとの関連において考えなければならないものだと思います。反対に、日本の文化なり、文芸思潮のほうから見る場合も、仏教との関係において見なければならないのではないか。『源氏物語』についていえば、本居宣長は仏教的なものをきらって、仏教の入らなかった日本がいちばん正しいのだとして、仏教の影響を『源氏物語』からとりのぞこうとしましたね。

梅原 私は『地獄の思想』でそのことをいったのです。するとある先生がそんなことはない、宣長は仏教が大好きだったのだ、彼はやはり仏教なのだといわれる。『源氏物語玉小櫛』で考えた場合、彼は仏教が好きかどうかはともかく、やはり仏教と『源氏物語』との関係をまじめに考えていなかったと思うのですよ。だけど私は、宣長自身引用しているのが、例の文学論「玉鬘」のその部分でしょ。それは空・仮・中の論理ですね。それを考えずにはあそこを理解できるだろうか、ということになると、やはり決定的なところで宣長は誤っていると思います。宣長の仕事というのは、ある意味でルネツサンス運動ですから、中世をきらった。中世をきらったから仏教をきらった。島崎藤村が、父親が平田篤胤の弟子で、気狂いになってしまった青山半蔵をモデルとして『夜明け前』を書いた。そこで晩年の藤村は、中世というものを見直さなければならないのではないか、といっているわけですよ。やはり宣長・篤胤の線は、故意に仏教との関係を見ようとしなかった。その線が日本の文化史の見方を定めている。そこの面を改めないと、そういう問題意識というものは出てこない。

田村 たとえば中世の歌論についてですが、藤原俊成や定家の歌論書の中に天台の『摩訶止観』などを引き、それに基づいて歌というものは詠まれなければならないといっておりますね。ですから、歌論における幽玄の理論などは、天台法華思想や本覚思想との関係から見直される必要があると思うのですが。

梅原 宣長みたいに仏教と文学の関係を切ってしまうことは、文学をやる人に思想の問題をまじめに考えさせないことになる。思想といえばすべてマルクス主義になってしまう。日本の文学者が思想と文学というときは、マルクス主義と文学という意味ですよ。それはとんでもない話で…。

田村 それ以外は思想ではないというのは困ったものですよ。

日本文化の本質

梅原 『源氏物語』というのは、その後の文学にないような大文学だと思うのです。そういうすばらしい文学がなせてきたか。やはりそういうものは思想の影響なしにできるものではない。その思想は仏教だ。それをもう一度認識しなおさないと、今後の日本にはそういう思想的な小説が生まれえないと思うのですよ。だから日本の文学を思想から見直すことは、今後の日本文学を考える上でも、非常に大切なことだと思うのですよ。ですからいまの和歌のことでも、定家は『摩訶止観』が非常に好きですね。俊成にしても天台止観的ですよね。ですから中世の歌論と天台止観とのつながりを当然考えていいわけですよ。これまでそれはほとんど問題にされなかったですね。

田村 私は宣長の「もののあはれ」論というのは肯定したいのです。ただそれを仏教と切りはなすところに問題がある。

梅原 私もそう思います。

田村 仏教を吸収しつつ、それを日本的に消化し、再生産したのが「もののあはれ」というかたちになった。「もののあはれ」という観念が仏教との関係なくして出てきたのだとする解釈はまちがいだと思います。問題は天台法華にしても、ほかの仏教思想にしても、日本の文化の中に吸収されていって、どういうかたちで再生産されたか、ということではないかと思うのですがね。

梅原 宣長の気持もわからなくはないのです。特に道徳と文学との分け方で、文学的価値と道徳的価値というのは違うのだということがいいたかった。道徳的価値というのは主として儒教の考え方だと思うのです。儒教の勧善懲悪というのは文学の理念ではない。文学というのは別の独自の価値をもっているという考え方なのですね。文学の価値というのは欲望的人間をありのままに書くのだ、という考えなのですね。坊さんが恋歌をつくる。それはよいことではない。人間一皮めくってしまえば色と欲だ。これは私にもよくわかる。(笑)

田村 天台本覚思想でも、南北・室町時代になって、爛熟してきますと、煩悩のふるまいを、そのまま積極的に肯定してきますね。それも真理の活現のすがたとして、真理からはずれたものではない、ということです。すべては仏のふるまいであり、仏からもれるものはないというわけです。ただとらわれたものはいけないというのです。とらわれないで人を殺すならいいというのですよ。だから女性の問題も……。(笑)

梅原 『太平記』というのはそうでしょ。あれは不思議な世界だと思うのです。それから世阿弥。あれは悪の世界ですよ。最後になんとかワキがシテを救うでしょう。やっと最後に救われる。本覚思想というのは能までいくのではないですか。

田村 本覚思想の中で考えうる問題かもしれませんね。一方で天台本覚思想も、南北・室町の日本文化の傾向から考えるべきかもしれませんね。女性の問題にしても、とにかくとらわれなきゃ、浮気してもいいっていうのですよ。女性と交わっても、とらわれるから三角関係だとかなんだとか、悲劇がおこるわけですよ。

梅原 それは便利な話だな(笑)。女房をとりかえるとかいう話もあった。これは聞き捨てならないですよ。(笑)

田村 いや、ほんとです。だから仏が浮気し、仏が悪をするならいいとするのですよ。とらわれるから、そこに悲劇が起こるということで、とらわれないで、サッパリすれば…-・。どうですかこの考えは。

梅原 必ずしも肯定しないけれども(笑)、しかし、一休なんかもそういう考え方らしいですね。

田村 時宗の一遍などにも、天台本覚思想のことばがしきりに出てきます。『一遍上人語録』に、それが見えています。一遍の始めた「踊り念仏」は、室町時代に「念仏踊り」の庶民芸能となって発展していくものですね。そういうことで、一遍と天台本覚思想と室町文化は、きわめて関係ふかいといえましょう。

ところでおもしろいことに、親鸞は女房を持つことを肯定したのに、一遍はむしろ否定したのですね。『一遍上人語録』に、妻子を持つ在家者は上根のものであって、下根の者は、すべてを捨てて出家者たるべきである、という逆説的なことが説かれているのです。ちょっと考えると、天台本覚思想の影響を濃厚に受けながら、それと反対のことをいっているような感じがするのですが、実はそうじゃかい。妻子など固定したものを持つと、とらわれがおきてだめだということなのです。

天台本覚思想は、とらわれるな、固定観念をいだくなということを強調し、ひょうひょう自在に人生を享楽することをすすめたのですね。そのはてに、とらわれなく、広く女を愛せよ、欲望に自然に身をまかすべし、悪をなすもまたよし、と説くにいたったのです。ここまでくるとあぶない。ですから、もとは一般には公開せず、秘密・口伝としたわけです。しかし南北・室町時代になると、おおっぴらに公開した。結果は、天台思想自身の頽廃をまねく。玄旨帰命壇が、その典型的あらわれです。

梅原 悪の肯定ですね。それは私も『太平記』を読んで感じましたよ。これは『平家物語』とは違う。結城なにがしという憎悪のかたまりのような人間が出てくるでしょ。世阿弥の保護者であった佐々木とか、こういうなんともいえない悪いやつが出てくる。しかし悪いやつを悪いとはいっていない。そこが『太平記』と『平家物語』の違いだと思うのですね。いまの田村さんのお話でよくわかる気がします。世阿弥の能は、シテがまず悪ですよ。善はシテではないし、けっして救われない。すベてが悪い煩悩です。それが最後にワキの祈禱によって救われる。最後は即身成仏みたいになるわけですね。それを天台本覚思想で考えると、たいへんおもしろいですね。なにか日本文化の秘密を、新しい視点から見るような気がする。

田村 特異な日本文化の秘密を解くカギは案外天台本覚思想にあるのかもしれませんね。

梅原 これはいままで未知の分野だったわけですよね。これはおもしろかった。

(『仏教の思想5 絶対の真理(天台)』1970年1月角川書店刊)
http://home.att.ne.jp/blue/houmon/books/tamura&umehara.htm


本来の釈迦の教えは深層心理学的な宗教理解で典型的な唯物論・無神論だったので、弟子全員が結束して釈迦の教えを絶対に人目に触れない様にした。

そしてその代わりに一般大衆向けに捏造・流布されたのが通俗的宗教ビジネスを集大成した法華経だったという事ですね。


71. 中川隆[2358] koaQ7Jey 2016年5月03日 17:31:58 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2583]

仏教史を整理すると


@ 釈迦は輪廻転生や死後の世界が深層心理に基づく virtual なものだというのに気付いた。


A しかし、当時の人は魂の存在、輪廻転生や死後の世界を信じていたから、真理をそのまま教えたらパトロンの王侯貴族からお布施が貰えなくなる。


B それで、対機説法というのを考えて、魂の存在、輪廻転生や死後の世界を信じている一般人には真理を伝えないで誤魔化す事にした。


C 釈迦の弟子もお布施が貰えなくなると困るから、釈迦の対機説法を釈迦の教えとして仏典をまとめた。 スッタニパータで釈迦が否定した筈の天界や輪廻転生が語られるのにはそういう事情があった。


D 部派仏教で人間の心の深層の研究が進むにつれ、ブラフマン・アートマンが実在する事が確認され、釈迦の無我論をそのままの形で継承するのが不可能となった。


E 大乗仏教になると、釈迦の対機説法を当時の一般民衆に人気のあったヒンドゥー教に置き変えて、宗教ビジネスとして完成させた。 大乗仏教の空というのは本質的にはブラフマン・アートマンと同じものを指している。 その結果、大乗仏教での悟りも釈迦の悟りではなく、バラモン教・ヒンドゥー教の悟り、即ち梵我一如と輪廻転生からの解脱と本質的には変わらなくなってしまった。


F 日本に渡来した大乗仏教ではさらに、仏教の外見だけ残して中身を完全に自然神道に置き変えて、それまで村の古老がやっていた儀式を殆ど引き継いだ。 日本のお坊さんが本来の仏教では絶対にやらない筈の葬式やお盆で稼いでいるのはこういう事情なのです。


纏めると

インド仏教は外観だけ釈迦の教えに見せ掛けているが、中身はバラモン教・ヒンドゥー教に置き換えた。

中国仏教は外観だけインド仏教に見せ掛けているが、中身は道教に置き換えた。

日本仏教は外観だけ中国仏教に見せ掛けているが、中身は自然神道に置き換えた。


_____


キリスト教はイエスの教えを否定して作られたインチキ宗教

仏教はシャカの教えを否定して作られたインチキ宗教


という共通点がありますね


73. 2016年5月03日 18:48:32 : yIe8B2jeOw : XsAfKgh45SQ[1]
>70

釈迦は本当に来世や神の存在を否定したのでしょうか。


74. 中川隆[2360] koaQ7Jey 2016年5月03日 19:58:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2585]
>>73
>釈迦は本当に来世や神の存在を否定したのでしょうか。


釈迦は科学的思考をする人間だったので、証拠無しに来世や神の存在を否定する事はできなかったのです。

そこで釈迦が考え出したのが

『わからない事については一切語ってはならない』

という来世や神の存在を実質的に否定する論理ですね:


「弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、

『我と世界は一つである』

とか、

『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』

というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」


「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ 中部経典22)


「真実として捉えられるものではない」というのは、それが実証できない主張、つまり単なる空想的独断に過ぎないこと、を意味しています。

このように、「アートマンは有る」というウパニシャッドの主張に対して、ブッダは、同じ次元で「アートマンは無い」と単純に言い返したのでは有りません。現代仏教学者が、ときどき、初期の仏教は決して「アートマンは存在しない」と主張したのではないというのは、この意味からです。


初期の仏教では決して「アートマン(我)が存在しない」とは説いていない。・・・

アートマンが存在するかしないかという形而上学な問題に関しては釈尊は返答を与えなかったといわれている。
(中村元、『仏教語辞典』「無我」、1316頁)


ブッダの批判は、「アートマンは有る」とか「アートマンは無い」という主張が依って立つ土台そのものに対する、もっと根本的な批判だったのです。つまり、ブッダは、「アートマンは有る(無い)」という主張は間違っていると批判したのではなく、そのような問答は無意味であると批判したのです。ここに仏教のアートマン批判のもっとも顕著な特徴があります。
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html

人(如来)は死後も存続して永遠に生き延びていく(いかない)、というような主張を、ブッダは「おろかな考えである」として否定したのです。

「弟子たちよ、『我』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、

『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』

というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」


「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマニカーヤ、22:25)


ブッダ自身は、死後の世界とか、世界の始まりだというような、経験を越えた世界に関する問いには、沈黙をもって応えました。

経験を越えた世界に関してはだれもなにも知らない(「真実として捉えられるものではない」)のだから、経験を越えた世界に関する主張はすべて独断(「おろかな考え」)にすぎず、修業の目的(解脱、ニルヴァーナ)の為には、何の役にも立たない、と考えたからです。

これが有名なブッダの沈黙(無記、捨置記)です。 例をあげておきましょう。

ヴァッチャというある修行者がブッダを訪ねて、


「世界は常住であるかどうか」

「世界には辺限があるかどうか」

「霊魂と身体は一つであるかどうか」

「人は死後にもなお存在するかどうか」

などの質問をしますが、これらの問いに関してはブッダは意見を持たないことをヴァッチャに告げます。

そこで、ヴァッチャは、

「いったい、世尊は、いかなるわざわいを見るがゆえに、かように一切の見解をしりぞけられるのであるか」

と問います。 そこで、ブッダは答えます。

ヴァッチャよ、そのような種類の問いに対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。

それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(マッジマニカーヤ72、アングッターラニカーヤ34)


このように、「死後、我は永遠に生きるかどうか」というような(答えのでない)問いに対する見解は独断に過ぎず、修業の目的の為には何の役にも立たない、というのがブッダの立場であり、

それでも、「我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう」と主張するものに対しては、ブッダは実に端的に、「おろか」であると戒めています。


ヴァッチャは、さらに、尋ねて聞いた。

「世尊よ、では、執着を離れて解脱した者は、いずこにおもむいて生れるのであろうか。」

「ヴァッチャよ、おもむいて生まれるというのは、適当ではない。」

「では、どこにもおもむいては生まれぬというのであろうか。」

「ヴァッチャよ、おもむいて生まれぬというのも、適当ではない。」

「世尊よ、それでは、わたしはまったくわからなくなってしまった。

以前に世尊と対座問答することによって、わたしの得た深い確信すらも、すっかり消えうせてしまった。」

すると世尊は、彼のために、このように説明せられた。


「ヴァッチャよ、なんじがまったく解らなくなったというのは、当然であろう。

ヴァッチャよ、この教えは、はなはだ深く、知りがたく、すぐれて微妙であって、智慧あるもののみが知りうるところのものである。

他の見解にしたがっている者や、他の行をしている者には、とうてい知られがたいものであろう。

だが、ヴァッチャよ、わたしはさらに、なんじのために説こう。

いまわたしが、なんじに問うから、思いのままに答えるがよい。


ヴァッチャよ、もしなんじの前に、火が燃えているとしたならば、なんじは、火が燃えている、と知ることができるか。」

「むろんである。」

「では、ヴァッチャよ、この火は何によって燃えるのであるかと問われたならば、なんじは何と答えるか。」

「それは、この火は、薪があるから燃えるのだと、わたしは答える。」

「では、もしなんじの前で、その火が消えたならば、なんじは、火は消えた、と知ることができるか。」

「むろんである。」

「では、ヴァッチャよ、かの火はどこに行ってしまったかと問われたならば、なんじはいかに答えるか。」

「世尊よ、それは問いが適当ではない。

かの火は、薪があったから燃えたのであり、薪が尽きたから消えたのである。」

そこで、世尊は、うなずいて、説いていった。


「ヴァッチャよ、まったくその通りである。
そしてそれと同じように、かの色をもって人を示す者には、色が捨てられ、その根は断たれる時、その人はすでになく、また生ぜざるものとなるであろう。

その時、ヴァッチャよ、人は色より解脱したのである。・・・

そして、ヴァッチャよ、受についても、想についても、行についても、識についても、また同じである。」
(同上、増谷文雄訳)


ヴァッチャは、古代インド人の常識として当然のごとく、バラモン教・ヒンズー教・俗信の伝統にしたがって、執着を離れて解脱したものはどこか善いところ赴いて生まれると思い込んでいたのです。

そのために、ブッダにつまずいてしまったわけです。

ブッダの思想には、どこかに赴いて生まれる(赴いて生まれない)とか、よい世界に生まれ変わる(生まれ変わらない)とかいうような問いは、「いままで燃えていた火はどこに行ったのか」と問うことがまったく見当違いの問いであるように、まったく見当違いの問いだったからです。

ブッダは、比喩を用いて、火が消えるのはただ薪が燃え尽きたから消えたにすぎないのであって、火がどこか別の世界に赴いて行ったのではない、というのです。

ヴァッチャは、これを聞いてブッダの意味するところを理解することができ、ブッダに帰依します。
http://www.j-world.com/usr/sakura/replies/buddhism/buddhism20.html

ブッダは、人間が死後も存在するかどうかというような人間の知識を超えることがらについては、それは独断にすぎず、無益なものであると考えて、沈黙を守りました。


________________________________

滅びてしまったその人は存在しないのでしょうか? あるいはまた常住であって、そこなわれないのでしょうか。世尊よ、どうかそれをわたしに説明してください。あなたは真理をあるがままに知っておられるからです。

師は答えた。

ウパシーヴァよ。滅びてしまった者には、それを測る基準がない。かれを、ああだ、こうだと論議する根拠がかれについては存在しない。あらゆることがらがすっかり絶やされたとき、すべての論議は絶えるのである。
(スッタニパータ 1075〜1076)

尊者マールンキャプッタは人影のないところへ行って静思していたが、その心に次のような考えが起こった。

「これらの考え方を世尊は説かれず、捨て置かれ、無視されている。すわなち ---

世界は永遠であるとか、世界は永遠ではないとか、世界は有限であるとか、世界は無限であるか、魂と身体は同一なものであるとか、魂と身体は別個なものであるとか、人は死後存在するとか、人は死後存在しないとか・・・、

これらのさまざまな考え方を世尊はわたしに説かれなかった。世尊がわたしに説かれなかったということは、わたしにとって嬉しいことではないし、わたしにとって容認できることでもない。だからわたしは世尊のところへ 参って、この意味を尋ねてみよう・・・。

もし世尊がわたしのために、これらのことを説かれないようなら、わたしは修学を放棄して世俗の生活に帰るとしよう。」(中略)

「マールンキャプッタよ、わたしはおまえにそのようなことを教えてやるから、わたしのもとにきて修行せよ、と言ったことがあるか。」

「師よ、そのようなことはありません。」

「マールンキャプッタよ、わたしはそのようなことを教えてやると言ったこともないのに、愚かにも、おまえはわたしがそのように説くことを要求し、そのように説くことをしないわたしを拒もうとしている。(中略)

マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということはない。

また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。

マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである。
(マッジマ・ニカーヤ 63)


ヴァッチャよ、[世界は常住かどうか、霊魂と身体とは一体であるかどうか、人は死後にもなお存するかどうか、などのような種類の問い]に対する見解は、独断に陥っているものであり、見惑の林に迷い込み、見取の結縛にとらわれているのである。それは、苦をともない、悩みをともない、破滅をともない、厭離、離欲、滅尽、寂静、智通、正覚、涅槃に役立たない。
(マッジマ・ニカーヤ 72)

弟子たちよ、『我(アートマン)』や『我がもの』などは、真実として捉えられるものではないのであるから、このようなものに立脚した教え、つまり、『我と世界は一つである』とか、『我は、死後、永遠不変に存続して生き続けるであろう』というような教えは、まったく愚かな教えであると言えないだろうか。」

「まったくその通りです、師よ。まったく愚かな教えであると言わねばなりませぬ。」
(マッジマ・ニカーヤ 22)


75. 2016年5月03日 20:06:08 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[35]
釈迦は来世や神については 神(創造主)について語らなかったことは確か。

あるとも、ないともいっていない。

来世については

ほのめかしている箇所がある。

スッタニパ−タ第一章

1 蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起こったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世とをともに捨て去る。

同様の文句が蛇の章で繰り返される、

この世とかの世 かの世とは あの世、来世のこと。

あと、スッタニパ−タのような原始経典は一般人が読んでも、意味が分かる。

大乗経典 法華経などは大げさな誇張表現がめだち、なにを言いたいのか

一般人には理解できない面がある、 平田篤胤は法華経批判したのはそんな点

だと思う。


例えば

スッツニパ−タ 部分

犀(さい)の角の章

35 あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩ますことなく、また子を欲するなかれ。況や朋友をや。犀の角のようにただ独り歩め。

36 交わりをしたならば愛情が生じる。愛情にしたがってこの苦しみが起こる。愛情から禍い(わざわい)の生じることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。

37 朋友・親友に憐れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。


法華経 方便品第二部分

(訓読)
 爾の時に世尊、三昧より安詳として起って、舎利弗に告げたまわく、諸仏の智慧は甚深無量なり。其の智慧の門は難解難入なり。一切の声聞・辟支仏の知ること能わざる所なり。
所以は何ん、仏曾て百千万億無数の諸仏に親近し、尽くして諸仏の無量の道法を行じ、勇猛精進して、名称普く聞えたまえり。
甚深未曾有の法を成就して、宜しきに随って説きたもう所意趣解り難し。
 舎利弗、吾成仏してより已来、種々の因縁・種々の譬喩をもって、広く言教を演べ、無数の方便をもって、衆生を引導して諸の著を離れしむ。
所以は何ん、如来は方便・知見波羅蜜皆已に具足せり。
 舎利弗、如来の知見は広大深遠なり。
無量・無碍・力・無所畏・禅定・解脱・三昧あって深く無際に入り、一切未曾有の法を成就せり。
 

 スッタニパ−タ と 法華経とは とき方が全然ちがう、平易に説くのと

 なんやらもったいつけて難しそうな話する、という差がある。

 法華経は400から500年もあとになって作くられたものだから、表現が全然

 違う。


76. 中川隆[2361] koaQ7Jey 2016年5月03日 20:24:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2586]
>>75
>来世についてはほのめかしている箇所がある。


スッタニパ−タはシャカが自分で書いたものではないので、当時の常識をそのまま取り入れて書いている部分が多いのですね。


スッタニパ−タには輪廻転生の記述すらあるのですが、勿論シャカは輪廻転生を否定する側の人間でした。


77. 中川隆[2362] koaQ7Jey 2016年5月03日 21:14:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2587]

因みに、大乗仏教の中心概念の『空』というのは シャカがその存在を否定したブラフマン・アートマンそのものなのですね。

即ち、大乗仏教の中身はシャカの教えではなくバラモン教そのものだったのです。

シャカの教えは無神論そのものなので宗教の教義にはできなかったという事です。:


ブラフマンやアートマンもまた空にすぎませんか?
shiozawa_meisaさん 2010/10/12


ベストアンサーに選ばれた回答
kabukiage001さん 2010/10/4


おっしゃっている「空」が、何を意味しておられるかによるでしょう。

空というのを単に「何も無い、無」という意味でおっしゃっているのなら、少し違うように思います。

仏教で言う「空」とは、wikipediaによると

> 仏教の空(くう、梵、巴)とは、固定的実体もしくは「我」の無い事や、実体性を欠いている事を意味する。

とのことです。

つまり「空」とは、固定的な「個」がない状態(あるいは「個」を意識していない心理状態)ではあるが、逆に言えば流動的な「全体」というものは有る状態(その全体の中に「個」が溶け込んでいる状態・心理状態。全体というものは常に有る)とも言えます。全体は有るわけですから、無とは違うのだと思います。「空」は「無我(個人という区切りが無い)」ではあっても、「無(全てが無い)」ではないわけです。

私たちは生きている間だけは個とか人という形態をとっていますが、死んで土に返れば自然という全体の一部に帰っていきます。元々私たち個人は、自然とか宇宙全体から材質の一部を分けてもらい形作られた存在であり、部分として見る(個としてのみ認識する)ことも、全体の一部(空、無我)として認識することも、両方の見方ができます。

例えば、「我(アートマン)」と「空(梵、ブラフマン)」の関係は、「波」と「海」の関係ととらえればいいのではないでしょうか。

私たち一人一人は、一つ一つの波のようなもので、その都度全体である海から立ち現れ、個としてしばらく活動した後、また全体である海に溶け込んでいきます。私たちが波として活動している間、私たちは私たち自身を「波」としかなかなか認識できませんが、元々は海の一部であり、波として個人の形をとっている間も実は海の一部であることは変わらないのだと思います。

つまり、「我(アートマン)」と「空(梵、ブラフマン)」は、実は部分・状態を指すか、全体を指すかの違いでしかなく、元々一つのもの(梵我一如)ということだと思います。

補足

こんな記述がありましたので、ご参考まで。

http://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha277.html

[以下抜粋]

> 空については、大乗の創作というわけではなく、かなり古い経典にも散見されるようです。元々は、上に書いたようにアートマンがないこと、無我であることと同内容な、「空っぽである」という意味だったと考えます。それが次第に名詞化され、対象化され、ものとして実体視されて、梵我一如の梵(ブラフマン)の呼び替えになってしまいました。

般若心経の「空」は、すべての個物と一体(=即)であり、対立を超えており、超越的かつ内在的であると説かれており、やはり、ブラフマンの呼び替えになっていると思います。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1147965726



78. 2016年5月03日 22:12:38 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[36]
ちなみに 「空」て 言葉文字で語りつくせるものでしょうか?

文字で書いたものは本物じゃないのです。

般若心経にいわく

「観自在菩薩 行 深般若波羅密多 字 照見五蘊皆空」

観音さま(観自在菩薩)は「仏の智慧」の修行をしているとき、この世のいっさいの存在は目には見えない「空(くう)」であることを悟りました


というような意味ですが、智慧の修業により 空 を直感的に覚ったのであり。


頭をひねって 考え込んだり、仏教書を沢山読んだりしても「空」というのは理解

出来ないもののようです。

ア−トマン、ブラフマンも同様でしょう、いくらア−トマンとブラフマンは同一だ

なんて説明されても理解できるものではない。

神(創造主)も同様だと思います。 感覚で感じるものやろね。

 


79. 2016年5月03日 22:28:23 : 997LfkWEio : kk3C4J@jRgY[1]
中川様

73です。

ご返答ありがとうございました。

ところで、上記まとめに

D 部派仏教で人間の心の深層の研究が進むにつれ、ブラフマン・アートマンが実在する事が確認され、釈迦の無我論をそのままの形で継承するのが不可能となった。

と、ありますが、中川さまご自身としてはブラフマン・アートマンについては実在しているとお考えでしょうか。


80. 中川隆[2363] koaQ7Jey 2016年5月03日 22:50:17 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2588]
>>79
ユング心理学では無意識の一番深い所に現れる「自己」原型をアートマンや一神教の神と同定しています:

「自己」とはなんですか(ユング心理学からの答え)

きのうTVで東大教授のカン・サンジュンさんが、卓越した発言をしてました。

自分とは何者なのか、自分のアイデンティティとは何なのか、自分の正体とは何なのか、それを知ることが神を見ることであり、神を見れなければ、世界の本当の姿を見れない、と。

この発言の中の、自分のアイデンティティ、正体、こそが「自己」であり神です。

自分自身の母体であり、内なる神であり、現実世界そのもの、でもあります。

自分が自己と一体化したとき、世界の真実の姿が見えてくる、という発言と思います。

なぜでしょうか。それは、現実のありのままの姿、世界のあるがままの姿を見るためには、どうしても、自己の助けが必要だからです。なぜなら、自我意識は、比較でしか物事を判断できないため、比較・区別・分離・排除が本来の目的のため、主観が入り、どうしても、ゆがんでしか見れないのです。

たとえば、世界を評価するとき、過去のどの時代と比較するのか、とか、先進国中心で見るのか否か、など、比較対照でしか判断できないため、全体を表現するのは不可能です。

そもそも自我意識および言葉は、目的が比較のため、全体を表現できません。表現しようとすれば、矛盾が生じます。全体を表現できるのは、対立を結合した自己だけです。

自己の概念は世界中に古くからあり、ウパニシャッドのアートマン・ブラフマン概念が自己のことであり、仏教では個我・空の概念がおなじものです、

日本仏教の卓越した才能の中村元博士は、空はブラフマンである、と断言してます。
(「自我と無意識」P204 12行〜及び「タイプ論」・定義の自己の項を参照)
http://maglog.jp/yumeken2/index.php?module=Article&action=ReaderDetail&article_id=89027

シンボルは神・・・ユング

『タイプ論』タイプ問題に関するシラーの理念についてより

「人類はシンボルを現実と受け取ることによって彼らの神々を誕生させ、すなわち観念を現実化させ・・・」

「・・・無意識の要因をすべて包み込んだシンボルが浮かび上がる。このシンボルは・・・歴史の中では神のイメージとして現れるものである」
http://maglog.jp/yumeken2/Article213188.html


無意識は神(SYMBOLS OF TRANSFORMATION) .

ユング心理学の「神」は心理的事実であり、現実の世界に「神」が存在するという意味ではありません。

『SYMBOLS OF TRANSFORMATION』 『変容の象徴』  P392より 

「But Christ,from the point of view of psychology and comparative religion,is a typical manifestation of the self.For psychology the self is an imago Dei (Latin image of God) and cannot be distinguished from it empirically. The two ideas are therefore of the same nature .(not similar nature)」.

「心理学と比較宗教学の観点から言って、キリストは「自己」が現実の世界に現われた(認識できる形として現われた)典型的な例です。

心理学的には神のイメージとして現われてくるものが自己であり、経験的にも自己と神の区別はつきません。ですから自己と神は本質的には同じものです。」.

_____


『自我と無意識』より第三文明社・松代洋一氏・渡辺学氏・共訳  P200〜より.

 (自己は)「われわれの内なる神」と呼んでもいいだろう。

われわれの全精神生活は、まさにこの一点(自己という心の中心点)に解きがたいすべての端緒を発しているかに見え、あらゆる最高かつ究極の目標も、ひたすらこの一点をめざしているように思われる。.

 (自己の)この声に耳を傾けるほうがはるかにためになる。

 自己は生の目標でもある。それは、ひとが個体とよんでいる運命複合体の全き表現であり、さらに個々の人間のみか一人一人の人間が相補いつつ一つの全体像を形づくっているその集団全体の、いとも完璧な表現だからである。

 自我が、われわれの知る自己の唯一の内容である。個性化された自我は、自らが、上位に位置する知られざる主体(自己)の客体であると感じるようになる。.
 われわれ自身すらその中の(自己の中の)一部であるようなイメージであることも、私はまったく疑っていない。.

 以下P188.
 (自己は)人格の「中心」であり、対立物の間の言い表しがたい一点(中心)であり、あるいは、対立物の統合者であり、葛藤の帰結(解決)であり、エネルギーの緊張がもたらした「成果」であり(定立・反定立の強さが同じになった時にシンボルとして顕現するため・言い換えれば両方大切な葛藤・エネルギー緊張の解決策として示現するため)・・・・・・・.
http://maglog.jp/yumeken2/index.php?module=Info&infid=10593

神とは心の一機能

『タイプ論』 定義・具象性KONKRETISMUSより,(   )内は引用したHPの注

 未開人は、神という観念を、主観的内容として体験するのではなく、神聖な樹木が神(自己)の宿っている場所であり、それどころか神そのものである。これが(神という)思考の具象性である。

(内面的な事実である神を樹木に投影する)
 具象性は・・・・・個人の心的自立を妨げる。

(心理的事実である神を実在のものとしたためその影響により)・・・事実の重みが(ここでは神)が圧倒する状態・・・個性とその自由を圧迫する(個人が神に縛られるため)

 具象性はこの内的要素を(心理的事実である神などを)外界の事物に投影させ、ちょうど未開人におけるように単なる事実がいわば迷信的に過大評価されるようにする。(http://maglog.jp/yumeken2/Article216742.html


「神」の正体の歴史的発見・・・ユング

『タイプ論』文学に見られるタイプ問題より,(   )内は引用したHPの注

 分析心理学にとって、神のイメージとは、ある心的状態ないしある機能を象徴する表現であるが(高次元の対立の結合の結果、自我から「自己」にこころの主導権が移動した心的状態であり、超越機能と呼ばれる新しい構えを象徴する表現であるが)、

この機能は(神のイメージの意識への同化の結果得られた機能は)主体の意識的な意思よりも絶対的に優れており(その人の意識の持つ心のエネルギー量よりも絶対的に優れており)、それゆえ意識的な努力ではなしえないほどの行為や仕事を強要したり可能にするという特徴を持っている。・・・

意識的な知性に勝るこの霊感は(知性による判断より優れている霊感として与えられる神の判断は)、無意識内にエネルギーがせき止められることによって生じる。このリビドー(エネルギー)の蓄積によってもろもろのイメージが活性化される。その中の一つが神の像(イメージ)であり、これは無意識的なリビドー集積のうちで太古以来最も強く最も圧倒的に意識に影響を与えたものの集合的表現が形をなしたものである。

 ・・・神が一つの自律的な心的コンプレックスとなっているのである・・・(自己が主導権を握るため)現実意識としての自我はほとんど消えてしまう・・・この状態は幼児・・・未開人・・・と酷似している。したがって初期の楽園状態が回復されるからこそこの至福が生じるということは確信を持って言えよう。・・・外のものにわずらわされず(比較によらずそれ自体で充足した)内側から温かくあふれ出るこの喜び・・・.
http://maglog.jp/yumeken2/Article214454.html

新しい自分「自己」・・・ユング

『タイプ論』タイプ問題に関するシラーの理念についてより ,(   )内は引用したHPの注

 智恵はあらゆる野蛮なものを飼いならすのであって、よいところだけを選び取るのでもなければ高次なものに改造するではない。

 一切の事物は・・・ブラフマン(自己)のうちにおいてこそ正道を行く。すべて秩序を持って生まれてくるのである。

 (老子の)タオ・道とは「正道」(常に正しく秩序そのものである自己)であり、法則に適った道理であり、対立する二者の間の中道、つまり対立する二者のどちらからも自由でありながら両者を自らの内で一つにする道である。

 宇宙生成神話は・・無意識が・・投影されたものである・・・(これは)客体(現実世界や内面世界)に対する・・・新しい適応が起こっていることを示している。.

 インド思想は一切の激情状態や、客体に対する情動的な結びつきを対立であると理解し(無意識的なものの受け入れができていないため対立が生じその結果感情的・激情的な反応が起こる。これがすべての不幸の原因であると理解し)、この対立からの解放を教えている。
http://maglog.jp/yumeken2/Article224053.html


要するに、シャカの悟りは無意識の浅い所までしか到達していなかったという事ですね。

もう一段深い所まで降りて行けば神やアートマンに出会えたのですが、シャカはそこまでやる気が無かったので、適当な所で切り上げたという事でしょう。

シャカの時代には悟ったと認定された弟子が毎日の様に出ていたのですが、

要するにシャカの悟りというのはその程度のレベルだったのですね。


81. 中川隆[2364] koaQ7Jey 2016年5月03日 23:02:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2589]

これがシャカが体験できなかったブラフマン・アートマンの世界


光のトンネル


危篤状態に陥った人の40%が何らかの臨死体験をしている

アメリカ在住のエリン・ダイは30年前、車で事故を起こし、一旦「死亡」が確認された。エリンは奇跡的に蘇生したが、彼女は事故直後の光景を憶えていた。

彼女は肉体を抜け出し、車の上から車体を見下ろしていたと言う。その後、光のトンネルを抜け、他界した親族に出会ったと彼女は話す。


欧米では、1980年代、死の淵から生還した人々の体験が似通っていることが統計を元に指摘され、科学的に臨死体験を説明しようとする試みが始まった。

最近の調査によれば、危篤状態に陥った人の40%が何らかの臨死体験をしているという結果が出ている。現代では、臨死体験はもはやオカルトではない。実際に起きている「何か」のようだ。
http://golden-news2.com/technology/2016-04-05-1081.html

鈴木秀子さん (国際文学療法学会会長。文学博士。)が1977年不慮の事故で臨死体験をした時の描写です。 鈴木秀子さんは 愛の極致と至福感に包まれながら 生きた光からメッセージを受け取ります。


★限りない解放感と喜びが胸に溢れてきました。

一瞬のうちに高さの極みに飛翔し、私は今まで見たことのないような美しい光に包み込まれました。白っぽい金色の輝きに満ちた、一面光の世界にいたのです。まばゆい輝きでしたが、まぶしすぎるとは感じませんでした。

それは人格を持つ命そのものの光であり、深い部分で、自分とつながり、交流している生きた光なのでした。これが至福なのだ、完全に自由なのだ、と私は感じていました。

不思議なくらい、五感も思考もすべてが生き生きと冴えわたっています。オリンピックの選手がベストコンディションで世界記録を破る瞬間とは、こんな状態なのでしょうか。

からだの全機能が最高の状態に保たれ、調和し、研ぎ澄まされているのです。

その冴えわたった意識の中で、私ははっきりと理解したのでした。

「この命そのもの光の主に、私はすべてを知りつくされ、理解され、受け入れられ、許され、完全に愛しぬかれている」

これが愛の極致なのだと。

心は愛に満たされ、知性は冴え、能力のすべてが最高の状態で調和しています。
そんな至福感に包まれていたとき、どこからか声が聞こえてきました。

「癒してください。癒してください」

その声には、少しつたない感じのアクセントがありました。


★その声が聞こえてきたとき、光であり命そのものの主が、

「現世に帰りなさい」

と言いました。そしてさらに、

「現世に戻ったとき、一番大切なのは、知ることと愛すること、その二つだけが大切なのだ」

というメッセージを受け取ったのです。


★あの光に包まれる体験をしてから、まるで別次元の境地に達したように、私の中ですべてが変化していきました。

それまで悩んでいたいろんなことが、とても小さく見え、いっせいに霧が晴れたように、私の人生はすがすがしく晴れ渡っていました。そして、私の心の中には、ある言葉が、美しい鐘の音のように響きわたっていました。

「大切なことは、知ることと愛すること。それだけが大切なのだ」

「知る」とは「叡智」、「愛する」とは「慈悲」の意味のようでした。


★あの光との出会いが夢や幻覚ではなかったことを、その後の、私の身に起きた数々の不可思議な出来事が裏づけてくれました。

事故の後、後遺症が残るといけないので、当時通院していた国立医療センターに検査のために入院することになりました。

私は、その事故の5~6年前から膠原病を患っており、ついでにその検査もしてもらうことにしました。

担当のお医者さんが首をひねりながら私の病室に入ってきました。

「鈴木さん、不思議ですねぇ。全部きれいに治っていますよ」

検査の結果、長年わずらっていた膠原病がすっかり治っているというのです。
私もお医者さんも驚きました。

「光に出会った人は超自然的な力をもらう」

その言葉が胸に響きました。 難病が突然治ってしまったのも、光の体験がもたらした奇蹟なのでしょうか。 自分の身に何か変化が起きている・・・・・。


★あの生きた光は、私の人生を無限の輝きで満たしました。

そしてその光は、私だけでなく、私と出会った人々にも、降り注ぐようでした。

それからというもの、誰かに会っているとき、突然、暖かい予感に満たされるようになったのです。

「あ、この人は幸せになる」と。

次の瞬間、

「あなたはきっと、来週の水曜の何時ごろにいいことがありますよ」

とふっと口にします。

それを聞いた相手は何日後かに、「先生の言ったこと、本当でしたよ」と、喜びの報告に来てくれます。


★あの光との出会いを思い出だすたびに、頼りなく思える肉体の奥に、こんこんと湧き出る泉のように、命の輝きがほどばしっているのを感じます。 しかも、それは、尽きせぬ泉であり、永遠の輝きなのです。私が出会った光の中に、時がなかったように。

永遠なる生命の光の中に、例外なくすべての人が受け入れられている。その圧倒的な愛の力を感じることができたら、大宇宙の気にぱっと入ることができて、病気も治ってしまうし、奇蹟だって起きるのでしょう。
http://blog.livedoor.jp/seitai227/archives/51655830.html
http://blog.livedoor.jp/seitai227/archives/51656333.html

仏の世界は「空」の場、そのものなのだ。

般若心経の解釈では「空」は「実体がない」つまり、相がないと学者は解釈するが、実は心の目で見ると全く反対となる。

空は、全く形なきものではなく、「光」(クリアーライト)で成り立ち、実は形もあり、動き回わる。

それがマンダラなのだ。

無と空 そもそも、「無」を対象として、それと合一することはできない。

「無」とは、主語ともなりえず、また、一切の形容を受けつけない。

空性はわれわれの意識と連続しており、万象がまた連続しており、一切が一つの空性(マンダラ)のなかに息づいている。

なにもないことを無というのでない。
存在のなかに無がある。

彼は、はっきりと実在の「光」を観相する。
それは現実の光線ではない。

そして、しばし己れを忘れる。

そういった体験から、空性は「無」ではなく、輝き、あるがままに自在に運動する実体なのである。

激しく活動する光り・・・マンダラは、その所在地を「空」の場に置く。
空界がイコール、そのままマンダラなのだ。 


マンダラはわたしたちをも包含した神仏の世界、それは広大なる、「空」である。
そこには、実在の「光」があり、それは振動の乱舞であり、エネルギーに満ちている。
無限のエネルギーの波動であり、永遠に尽きず、宝石のような美しさに溢れている。
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/Frame_N_MJ.html

マンダラの普遍性
 
 マンダラはタントラ(仏教教典)によった仏界の見取り図といわれている。
しかし、単に「金剛頂経」のから生まれ出た産物なのではない。

この幾何学的な構図や色彩は、真実の仏界と心のリアリティ=元型(イデア・プリンシパル)の像であり、かつ普遍的なものである。

だからこそ、太古からその像は連綿と描かれてきた。
そもそも、マンダラは意図されることなく、始まりのない宇宙そのものであった。

ところで、瞑想ってなんだろう? 

チベットの僧侶たちは、「マンダラ」に対座して暝想をする。
チベットの密教では暝想が必須の行だ。
暝想を実践しなくては、生ある間に、どんな人間も聖なる領域へつながることはない。

チベットの僧侶の暝想は、朝、昼、晩、夜にと、各時間帯に継続して行なわれている。
ゴンパ(寺)の中は暗く、蝋燭の火で灯す。
すると、マンダラは眼前に迫るように浮き上がり、揺らめく炎が煙のようにその前を立ち昇る。
その煙は、自分の体から立ち昇る気の炎であることに気づく。

と、やがて、目の前は青紫色に、やがて黄金色に輝き始める。 
それは、次元を透過する超越した偉大なる光だ。

「空性」の体験はこうして現われる。
大空の世界からの橋渡しが為されており、それは、この幻の光に他ならない。


 マンダラは超越しており、特定の人間のものだけではない。
マンダラを外なる図画として語るだけでは、マンダラに近接できないと言ったのは、実は、こうした体験こそ大切なことだからだ。

マンダラは内なる存在として、すべての俗的な権威を越える至高の存在であり、それは、同時にあなた自身であるからだ。
マンダラは「空」の世界の究極の「相」であり、空の本質であり、円く輝くさまざまな色彩に満ちた光の像となって顕れる。

永遠なるもの、マンダラの本質、それは、同時に一人一人の「魂」に輝き、万物に平等にある。
生あるものは、それがマンダラなのだ。

 暝想は誰もが大悟を得るために通らねばならない偉大なステップだ。
宇宙原理(ブラフマン)と個我(アートマン)とは本来、同一であるという考え方は、バラモン正統派の伝統的な疑いえない真理なのだ。

アートマン、その表れはあくまで肯定的な「有」の存在であり、肯定的な有産力をもった力となって表れる。

さまざまなトーンをもち、色彩をもち、形をもって存在し、あらゆる存在するものなかをつらぬいて全空間をおおいつくしている。
それゆえに、アートマンは現象のすべてを包み、生産するむシャクティ(母性)の役割を担う。

それは、空域と物質界がもともと一つである事の確証であり、2つの領域は別物ではないことを示している。
そして、それと不二だと思うとき、彼は至福をえるのである。
彼の外からけっして来るものでなく、それははじめから内蔵されていたものであった。


 さて、インドでは仏教はヒンズー教に、また、イスラム教に圧倒されてしまったが、チベットにはタントラ仏教(ラマ教)がいまでも残されている。

そして、チベットには数々のゴンパ(寺)があり、なかでもリンチェンサンポ方式の堂は、ただ、ひたすら暝想を行なうための場とされている。

とりわけ堂内の壁にはマンダラが所狭しと描かれ、そのなかで、独り、宇宙と自分の合一を体感するために暝想に耽る。

宇宙のエネルギーが彼自身を全く貫いている。
すべては、原初仏のもとに一つなのだと・・・。


 密教タントラのあらゆる実践は、ラマによって灌頂、直接伝授されなければ成就できないとされる。

また、タントラ密教の三帰依戒は、導師(グル)、守護神(デーヴァ)、ダーキニーで、仏教とは出発から異なっている。
仏教の三宝帰依は”仏法僧”である。

 チベットの修行で、導師は一人とは限らない。
はじめは何人もの導師に教えを乞う。

しかし、最終的な悟りに導く導師を根本導師といい、グルに絶対的に帰依する。
口伝だけでなく、あらゆる動作を含めて、それらは書物だけでは伝えることができない。


 ヨーガとはサンスクリット語で、馬をくびきに「縛りつける」といった意味だ。
肉体の感覚器官を暴れる馬にたとえると、その統御を意味する。転じて、暝想という意味の言葉になった。

荒々しい五感煩悩に、手綱をつけるという伝統的な意味をもっている。
それが、ヨーガである。

 タントラとは、[tantri]が語源で「縦糸、織物」を表し、転じて、「知識を広める」という意味。

自らに目覚めるための知識、体験の体系を意味し、単純に教典をさすようになった。

タントラのうち、第4の無上ヨーガ(最高のヨーガ)は中国・日本には伝わらなかった。
一方、いわゆる後期の密教がチベットでは一世を風靡し、土着的ボン包含しながら発展したといわれる。

チベットでは、タントラヨーガに、無常の魂の励起が約束されており、多くの人々を高い境地に導く実践がいまでもなされている。
日本の密教は、中期の密教に属している。

 瞑想のビギナーは、瞑想中に不思議な挙動をしめす光にでくわす。
それらは、ブラフマンを顕す兆候だ。

なぜなら、その光はまさしくわたしの意志によらない挙動をしめし、わたしはただ感動しているからだ。

禅では、これと魔境(雑念、妄想)と区別しない人が多い。
しかし、これらは、たいへん良い瑞兆なのである。

「密教は4つの段階に別れている。

一、所作タントラ 
二、行タントラ 
三、ヨーガタントラ 
四、無常タントラ。 

第1の「所作タントラ」は、呪文、陀羅尼、諸仏の供養の仕方、壇の作り方、手印の結び方などの作法を主要な内容とする。「蘇悉地経」、「蘇婆呼童子経」、「不空絹索経」などがある。 

第2の「行タントラ」は7世紀の成立と言われる「大日経」で、マンダラをつくり、悟りを中心にした観想法を発展させた。観想法とは、精神集中によって眼前に神仏をありありと描くことである。しかし、この行タントラの大日マンダラはほんのわずかの点数が残されていること以外、あまり知られていない。 

第3の「ヨーガ・タントラ」は「金剛頂経」である。この教典の出現は8世紀で、行者はこの金剛界曼陀羅と一体になる暝想を行じる。 第4の「無上ヨーガ・タントラ」は精神・生理学的なヨーガの技術を用いる。さらに、奥深い秘密を残しているが、この暝想は、ある観相マンダラを持ちいて直接、光の場に降り立とうとする。 

 チベットの観相修業にもちいる第4段階以降のマンダラは、日本に知られていなかった。

「悟り」の第一段階は、シューニャータ(空)の光とエネルギーが、いつも真我に透過しているという真実を見ることからはじまる。

それが透過しているゆえに、万物がマンダラの(構成の)一部であり、わたしたちもマンダラの元型を刻印された「仏」に他ならないことを感得することができる。


○チベット・ゾクチェン密教

「無意識をさらに突き抜けたところに光の領域があらわれる。この光の領域こそ、意識の原初の場を示している。

これは、『ダルマ(法)の本性』ともいうべき(光の)場、精神現象の「法」すべてが、この『法の本性』の場に立ちあらわれる。

『法の本性』という光の場において、輪廻する現象界のすべてと、それを抜け出した解脱の状態を示すものすべてがあらわれである。

したがって、この『法の本性』とは違うところからあらわれでるものはなにひとつとしてない。

すべては、とぎれることなく、『法の本性』という場の中にあり、その場から立ちあらわれる。だからこれを、一切の土台と呼んでもいい。

仏教の修業は最終的には、ここに直接おりたとうとする。

 経験的な知覚意識よりもさらに奥深く、光の領域がある。
この光の元型がマンダラである。

そのマンダラはまさに「ダルマ」の本性であり、さまざまに呼ばれるているが、もともと一つのものだ。

この他に、「空」とも「中道」とも、さらに「縁起」とも名づけられる。
これらも、そう名づけられているが、皆、一つのものを言い表している。

マンダラは光の領域、または、光の場にあり、自然(じねん)的で、なにものにも影響されない(無碍)ばかりか、いっさいの精神現象のエネルギーの源になっている。

つまり、ここから、無限の生命力が絶え間なく供給されている。すべてのエネルギーがそこから流出している。

ダルマカーヤ(法身)とはマンダラにほかならない。

マンダラは永遠で無限の光を、他からエネルギーを与えられずに活動する超越的な存在である。

つまるところ、原初の太陽といってもいい。

この太陽は、なにものにも影響されず、消滅せず、また、なにものにも汚されない純粋な光を放つ性質をもっている。

その存在する領域は空性であり、永遠で、清浄で、破壊されず、減ることも増えることもない。終わりなく、始まりもないので、創造した、あるいは創造されたということもない。

 この永遠の光の領域は、3つの純粋な光に分かれ、それらは堅く結び合わされている。

そして、図画としてのマンダラもまた、光の法身を直接顕そうとする。
マンダラがパンテオンのようでもあるが、実は、一つである。
したがって、マンダラはわたしたちに秘密をもって立ち表れる。

自己の内部には、必ず光り輝く空性の領域(仏の世界)がある。
外なるマンダラは、内なるマンダラを招来するための聖なる像であり、同時に伝法の手段である。 

そもそも、マンダラを自己のものとしてとらえるのには暝想する以外にない。
暝想はマンダラを捉える最上位の手段である。マンダラが描かれた訳はたとえていうなら、図画は多くの情報を瞬間的に訴えることができるからといえる。
無意識の内奥に刻印された形は、文書で説明するのは極めて難しい。
http://hwbb.gyao.ne.jp/akione-pg/Japanese/Frame_N_MJ.html


82. 中川隆[2365] koaQ7Jey 2016年5月03日 23:27:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2590]

修行のあほらしさに気付いてさっさと止めたシャカは賢かった


釈迦は森林に住まう修行者の群に身を投じ、教えを求め、様々な師を訪ね歩きます。 しかし、満足することはできず、6年間の激しい苦行の生活を行います。死にギリギリまで近づき、断食で皮と骨だけになるほどの修行でした。 釈迦は限界まで苦行を極めましたが、結局は苦行では悟りは開けないことを知り、苦行を捨てることにします。

釈迦は当初、2人の仙人のもとで思想を学んだが、どの教えも彼を満足させず、釈迦は5人の修行仲間と共に苦行に突入した。 しかし、体を痛めつけたり断食をしても悟りに至る事はなく、“何事も極端に走るのではなく中道が肝心”と苦行の無意味さに気づき、35歳で6年続けた苦行を止めた。 他の苦行者は彼を脱落者として嘲笑した。
http://kajipon.sakura.ne.jp/kt/haka-topic24.html


ブラフマン・アートマンの世界を体験した人は向こうの世界から帰って来れなくなるから気を付けてね:


信仰というのは怖いもので、最初正気ではじめたのが信仰がすすむにつれていつしか強信ならず狂信の世界に突入する。やがて拝んでいるうちに祈祷性精神病になる。

教祖が”気違い”の場合その信者は確実に”気違い”になる。”気違い”はウイルスよろしく伝染する。オーム真理経の麻原彰晃、人民寺院のジム・ジョーンズ(1978年11月18日900名以上集団自決)一人一殺の血盟団の井上日召(1886〜1967)いずれも、教祖の狂気が伝染し弟子を殺したのである。

ゲーテの若き「ウエルテルの悩み」という小説が流行した時に多くの若者が主人公よろしく黄色いチョッキを着て自殺したらしいが、是も狂気のあらわれであろう。

真言密教の坊主には頭の狂ったのが圧倒的に多いがその理由は不思議な超能力を身につけるべく行う、求聞持聡明法・日輪観・月輪観・加持祈祷などにある。祈りをかけて祈りを叶えようとすると、祈りが叶えばそれでよいが、もし叶わざる場合には自分が壊れてしまうのだ。

熱心に祈り続けると、あるとき突然にお客様が”おいで”になる、そうすると一人で泣き出す者、飛び跳ねる者、にやにや笑い出す者、もうあっちの世界に飛んでしまったのだ。こっちの世界にそれでも、もどれる者もいるが戻れなくなる者もいる。

禅の修業でも勝手に座禅などやると、現実と空想の区別がつかなくなり、あっちとこっちの世界の間に彷徨うことになる。これを空病という。導師とはこのことを良く知り、現実に引き戻してやるための存在なのだ。現実に戻さないでさらに背中を押してあっちの世界に追いやるのが悪の宗教であり、邪教なのだ
http://blog.livedoor.jp/nakasugi_h/archives/53904826.html



83. 2016年5月03日 23:28:31 : 997LfkWEio : kk3C4J@jRgY[2]
79です。

参考にさせていただきます。
ありがとうございました。


84. 中川隆[2366] koaQ7Jey 2016年5月03日 23:36:26 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2591]

修行のあほらしさに気付いてさっさと止めた釈迦は賢かった

ブラフマン・アートマンの世界を体験した人は向こうの世界から帰って来れなくなるから気を付けてね 2 :


CIA洗脳実験室―父は人体実験の犠牲になった

作者: ハービー・M.ワインスタイン, Harvey M. Weinstein, 苫米地英人
出版社/メーカー: デジタルハリウッド出版局 発売日: 2000/04


「洗脳」は、Brain washの直訳で、朝鮮戦争で中国の捕虜となったアメリカ兵が、共産思想を植え付けられて帰ってきたことから、一般的になったのだけど、この実験を 国家レベルで民間人を実験台にしていたという内容が本書だ。

洗脳というとわかりやういけど、ここで行われていることは、大学の心理学概説には必ず出てくる実験の応用なのだ。いわゆるパターンおよびデ・パターンについての実験。被験者をベッドに横にして、目、耳、指先、など知覚できる器官を覆い放置すると、パターン認識が崩壊して、人の言うことを受け入れやすくなるという実験。この実験を考案した学者は、数日であまりの効果におそろしくなってやめたが、それを何年も断続的に続けた科学者がいた。

 カナダの認知心理学の権威である彼は、軽いうつの患者を無理矢理、被検者にして感覚遮断=洗脳の実験をした。その結果、何人もの人間が廃人となり、家族が崩壊した。作者もその一人である。彼は父の崩壊する様子をなすすべも無く、治るようにとマッド・サイエンティストのもとへ父を通わせていたのだ。

 この不条理な状況がカナダ精神医学界の重鎮がおこない、アメリカの情報機関CIAが資金援助していた事実。しかも、効果はあげられずプロジェクトは終了し、科学者も裁かれることなくこの世を去った。

 まあ、話を敷衍すると、この感覚遮断=洗脳の方法っていまや、自己開発セミナーとか、宗教儀式に緩用されているんだよね。 「あたらしい自分を見つけた!」なぞほざく前に、こういう歴史をよく見といたほうがいい。脳を洗う恐ろしさを。
http://www.ryotsunoda.net/?p=512

この本は、父親が精神科医のキャメロンの治療を受けてボロボロ状態になった苦闘の歴史と、やがて著者であり、息子であるハービー・ワインスタインが精神科医になり、ある日、情報公開法に基づき、機密文書を入手したライターの記事を目にして、父親が人体実験されたことを知り、立ち上がる。

しかし、相手はカナダ政府であり、アメリカのCIAであるために、筆舌に尽くしがたい苦労と妨害、裁判や弁護費用などの困窮と戦いながら、最後に和解し、不十分ではあるが補償金を得るまでの記録です。

○私(藤森)の深層心理の研究に、良くも悪くも参考になる部分や私の考えが裏付けられた部分が多かったために、人体実験の強烈な部分を多く掲載しました。少々衝撃的なために、気分が悪くなったら、途中で止める準備をしながらお読みください。

●「はじめに・・・・・苫米地英人(この本の翻訳者)」

・・・・本書に登場するユーイン・キャメロンという精神科医の異常な医療行為は、我々日本人にとって、決して絵空事の出来事ではない。宗教の皮を被ったテロ組織、オウム真理教(現・アレフ)の内部でも同様の行為がなされていたからだ。

それが行なわれた理由として、オウム真理教付属医院の医師であった林郁夫は、自著「オウムと私」(文芸春秋刊)の中で、信者の記憶を消す方法を考えろという麻原教祖の命令から、「拷問と医者」(ゴードン・トーマス著、朝日新聞社刊)というユーイン・キャメロンにつて記した本を参考に、信者に電気ショックを与えたと記している。

オウム真理教で行なわれていた医療的洗脳行為は、「拷問と医者」に書かれた内容より、はるかに詳細なレベルで再現されていた。また、CIAの洗脳手法と○○○の洗脳手法には類似点が多い。○○○は夫婦でデトロイトに出張していたそうだが、洗脳テクニックについての関連本を入手するためだったのかもしれない。

いずれにせよ、○○○における洗脳テクニックは、たんに○○が信者をコントロールする方法として利用していただけでなく、○○自身がLSDによって人格崩壊したことを考え合わせても、○○○の○○○○が一つの洗脳実験室であったような、○○○全体が、キャメロンの運営していたカナダの病院であり、信者一人一人が実験台にされた患者であったような印象も受ける。それほどキャメロンの実験と、○○○の洗脳テクニックは、類似点が多い。

・・・・・これもまた、キャメロンの「デパターニング(パターン崩し)」という、チオペンタールと電気ショック(ECT)を組み合わせたテクニックと酷似している。この方法も当時、思考や行動パターンを変更させるために被験者の記憶がなくなるまで、あるいは、反抗心が完全に除去されるまで、繰り返し行なわれていた。

キャメロンはこういったテクニックのほかに、「感覚遮断」についても実験を重ねていた。人は何もない真っ暗な部屋に長時間拘束されていると、聴覚、視覚、触覚、味覚、知覚を遮断され、変性意識状態に陥り洗脳されやすくなる。○○○だけでなく自己啓発セミナーなどでもその方法は応用して使われており、長時間同じ部屋に参加者をずっと座らせておくことで、変性意識状態にトレーナーが導いている。

また、○○○信者がよく被っているPSI(Perfect Salvation Initiation)と呼ばれる電極付きヘッドギアも、「根絶治療」と呼ばれるテクニックの変形であると考えられる。その治療は、イタリアの精神科医ルシオ・ビニによって開発された。彼は、食肉処理される豚が頭部に電気ショックを与えられ従順になる様子を見て、それを患者に実験し、同様の効果があることを発見した。PSIも、一定の電流を頭部に流すことで、信者を従順にする効果を狙っているのだと考えられる。また脳の側頭葉への強い電気ショックは、記憶を消去させる。キャメロンも当時、これらのテクニックを実験に導入していた。

キャメロンは様々な洗脳手法の情報を収集し、患者を試験台にしてそれらを一つの体系にまとめあげた。それをそのまま日本人に対して実験したのが、○○○○○教の医師たちであった。被験者は三千人以上、、おそらくキャメロンをはるかに凌ぐ数字であろう。

アメリカでは、究極の洗脳薬とされるLSDを使ってバッドトリップさせ、地獄を見せると、どんなに意志の強い人間でも子供のようになってしまうことが知られている。○○○は、明らかにその情報をどこからか仕入れ、応用したのではないか。・・・・

私(訳者)が気になるのは、○○○の内部で精神医学や薬物を使った最先端の非倫理的な洗脳が行なわれていたという事実が、いつのまにか社会のなかで、忘れ去られてしまっていることである。最近の報道(注:この本の出版は2000年4月)も、ごく普通の宗教的な「マインド・コントロール」と呼ばれるような行為を行なっていたにすぎない団体のように○○○を表現しているし、法廷でもそんなレベルの組織として捉えられ、話が進められているのではないかと感じる。

それは間違いである。どんなカルトよりも、もっと具体的で危険な洗脳が行なわれていたという事実を、読者の皆さんには再認識していただきたい。また、それをきちんとした形で記録に残しておく必要がある。

さらに危惧すべき点は、○○○の狂気的な洗脳テクニックが、過去カナダの病院でキャメロンが行なった洗脳実験に似ている事実に、ほとんど誰も気づいていないことである。これは歴史的事実として、多くの日本人に知ってほしい事柄である。

最後になるが、これは冷戦時代(1950年代半ばから60年代前半)の出来事である。現在でもなおCIAが、このような実験や研究を行なっているとは考えがたい・・・・・私のしるNSA研究員たちは、皆きわめて正義感が強く信頼できる人物で、もしかりにそのような事実があるとするなら、そのような行為を彼らは絶対許さないだろう。

●「序文・・・・・ロバート・ジェイリ・リフトン(医学博士)(強制的説得と全体主義の研究の第一人者>

・・・・・アメリカの最初の核兵器開発計画であるマンハッタン・プロジェクトは、ナチの脅威に応えるかたちで始まった。キャメロンが精神操作に興味をもったのも同じ理由からだ。

医師は、政治力と結びついた破壊的図式にとくにはまりやすい。ナチの医師はその極端な例だが、ほかにも例はある。

死亡証明書を偽造し、公然と行なわれている残虐行為を隠蔽するのに手を貸した南アフリカの一部の白人医師。

アムネスティ・インターナショナルによって最近報告された、チリで拷問を行なっている医師、

南米ガイアナの人民寺院に協力して毒(シアン化合物を粉末の清涼飲料水に混ぜたもの)を用意し、自殺他殺合わせて九百五十名もの人々を死に至らしめた理想主義者の若い医師・・・・・。

医師は、生と死に神秘的な力をおよぼすというある種のシャーマニズム的な遺産を受け継いでいて、それは政治に熱中する人々にそくざに提供され、利用される。

●「プロローグ・・・・・・以下著者」

人間の行動を変える方法を探るという、アメリカ中央情報局(CIA)の(MKウルトラ>と名づけられたプロジェクトには、1957年から61年にかけ、カナダのモントリオールにあるマッギル大学付属アラン記念研究所のユーイン・キャメロン博士によって実施されたサブプロジェクトも含まれていた。

(MKウルトラ>計画は、1940年代にCIAの前身によって始められた仕事のいわば副産物で、尋問を迅速に行なえるようにする薬物、いわゆる自白薬の開発を含んでいた。それがのちに、人々の思考や行動の仕方を変えるという試み、いわゆる洗脳へと発展していったのだ。

モントリオールで実施されたプロジェクトでは、さまざまな理由で入院した精神科の患者に対し、試薬の処方、強力なショック療法、感覚遮断、数週間にわたる強制睡眠、そしてテープレコーダーに録音された声を何時間も聞かせるといった一連の行動改革処置がほどこされた。

しかし、これらの処置は患者に新しい人生をもたらすどころか、それまでの人生を破壊したにすぎなかった。なかにはこれらの処置によって人格が一変してしまい、親しい人たちにはまったく別人としか思えなくなってしまった人々もいた。
私(著者)の父もそのひとりだった。


●「4.歌を忘れた(アル・ジョルソン>」
・・・・・・・・

その後の五年間、精神医学療法の世界を覗き見て、私(著者)はさまざまな言葉を学んだ。

ショック療法は、ページ=ラッセル療法もしくは集中的電気ショック療法と言われる強力なものも含め、私の生活と切り離せないものになった。時がたつにつれ、ほかの言葉も耳にするようになった。患者を何週間も眠らせたりする睡眠療法。患者が考えたり、話したり、人間らしい振舞いをいっさいできないようにするデパターニング(非パターン化)。

そしてサイキック・ドライビング(精神操縦)と呼ばれるもの。これは、患者はテープに録音された(ドライビング・メッセージ>もしくは(ドライビング・ステートメント>と呼ばれるもの、すなわち患者の考え方や生き方を変えるためのメッセージを何週間かぶっつづけに聞かされるものだ。

●「8.実験」
・・・・・・
インシュリン昏睡療法は、オーストリアのマンフレート・ザーケルによって1928年に開発され、長いあいだ、重度の精神病患者の興奮状態を抑えるのに使用された。ロボトミーは1935年に、ポルトガルのエガス・モニスとアルメイダ・リマによって初めて行なわれた。これは、情緒を司ると思われる脳の部分の神経線維を切るもので、こうすると情緒反応に著しい変化が見られ、緊張が蓄積しなくなり、行動異常がなくなるのだ。

ECTは、1938年にイタリアのU・ツエルレッティとL・ビニによって考案された。ECTは、少ない副作用でインシュリン昏睡療法をより効果的なものにするための試みだ。具体的には、七十から百三十ボルトの電圧で0.1秒から0.5秒、脳に通電する。
・・・・・・・

こうした身体的治療法の多くは、今では野蛮に思えるが、1930年代、40年代には抗精神病薬がまだ登場していなかったことを忘れてはならない。

・・・・・精神科医はそうした人々をなんとか助けようと、よい治療法があると聞けばそれを試そうとした。今世紀前半においては、身体的治療法は最高の治療法だったのだ。
だが、知識の増加と、最初の抗精神病薬クロルプロマジン(ソラジン)の登場で、こうした過激な治療法は急速にすたれてしまった。

1956年、キャメロンは「サイキック・ドライビング(精神操縦)」と題する論文のなかで、1953年以来開発していた技術について初めて報告している。・・・・・

ひとつは自己サイキック・ドライビングで、患者は自分の声を聞く。もうひとつは他者サイキック・ドライビングで、患者が示唆した感情的内容に基づき、他人が録音したものを聞く。・・・・・・

またキャメロンは、患者の心的防衛を弱め、メッセージを聞かせるようにするには、患者を脱抑止する必要があるとしている。具体的には、アミタール、刺激薬(アンフェタミン)を投与して患者を長時間眠らせたうえで、一日十時間から十二時間のドライビングを十日間から十五日間行なう。

なにより驚くべきことには、その間、患者は心理的に孤立させられる。暗い部屋におかれ、ゴーグルをはめられ、よけいな音が聞こえないようにされ、身体への刺激をいっさい奪われる。
脱抑止を起こすための手段として、最後にキャメロンはLSDを挙げている。・・・・・・

その後、キャメロンはドライビングの技術を改良した。まず、ヘッドフォンを使うようになった。こうすると患者は自分の頭のなかから声が聞こえてくるような錯覚を覚える。・・・・・・・

さらにひどいのは、こうしたきわめて侵略的な方法は重症でない患者にも用いられたことだ。以前は最後の手段だった治療が、キャメロンのもとで、またたくまに現場の最前線で行なわれるようになったのだ。
・・・・・・・・

・・・だが、このころキャメロンは、マッギル大学の心理学科から生まれたある方法を応用した。
世界的に著名な心理学者D・O・ヘッブは、当時、マッギル大学心理学科長だった。彼の研究グループは、感覚の刺激が動物の成長、とくに精神的成長と学習能力にもたらす影響に関心を示し、一連の実験が行なわれた。それはいかに人間が環境からの刺激、すなわち環境によってもたらされ、人間の精神作用を活性化させる刺激に頼っているかを調べるものだった。この研究は、感覚遮断研究時代の幕開けとなるある実験へとつながった。

一日二十ドルの報酬で有志の大学生がつのられ、部分的に防音装置がほどこされた小部屋に入れられた。彼らはベッドに寝かされ、目を半透明の(光りはわかるが、物の形はわからない)プラスチック製のシールドで覆われ、手は触覚が使えないように筒のなかに入れられ、耳にはイヤホンをさせられた。イヤホンからはつねにブーンという音がし、頭と耳をすっぽり包むU字形のフォームラバーのクッションが枕代わりに使われた。学生たちは、食事とトイレに行くとき以外はこの状態におかれた。

ほとんどの学生が二、三日しかもたず、最高でも六日だった。
実験は二十三名の男子学生に対して行なわれ、結果は驚くべきものだった。最初は退屈していたのが、しだいに落ち着きや集中力がなくなり、問題解決能力が損なわれ、幻視や身体意識障害が起こるようになった。自分の体から離脱しているような感じ、つまり(離人症>が表れた。
(まさに被験者のアイデンティティが崩壊しはじめた>とヘッブは記している。

その後の研究で、この状態におかれた学生は、ふだんならばかにして聞かないようなこと、たとえばオカルトに関することに耳を貸そうとすることがわかった。
こうした奇妙な事柄への関心がずっと失せなかった被験者もいる。

感覚遮断に関するさらなる研究は、おもにアメリカ合衆国でつづけられた。アメリカで関心が高かった理由は、宇宙飛行がパイロットに与える影響が懸念されていたこと、人工呼吸器が取りつけられ刺激に乏しい患者の問題や、尋問において感覚遮断をどのように利用できるかが議論されていたことなどがある。

アメリカ空軍の宇宙飛行会議のために用意された1960年5月付けの論文のなかで、キャメロンは、隔離に関する初期の研究が、アラン記念研究所の彼のグループによってどのように応用されたかについて述べている。


それによれば、三種類の実験が行なわれた。

ひとつは目、耳、手による外部の刺激を減らす実験。

二つ目は、感覚受容器(外界からのメッセージを受け取る神経単位の末端器官)から脳へ刺激が伝わるのを阻止することで、感覚の入力を減らす実験。

三つ目は、患者が刺激に反応しなくなるよう、患者の意識の程度をさげる実験だ。

第二の実験は、体内での刺激の伝達を抑えることに焦点をおいている。この研究では、試薬のセルニールが使われた。結果は、無感情、不安、身体像障害、非現実感、離人症、思考障害、組織崩壊、幻覚、妄想症、
緊張病などだ。


・・・・キャメロンはまたしても意味深いコメントをしている。

(ある種の宗教や政治体制に見られるような、瞑想、自己批判、評価の形態との相似が表われはじめている>

このコメントは、中国共産党が1949年に大陸を支配して以来、国民の意識・行動変革に利用していた方法のことを言っているとしか思えない。

また、朝鮮戦争の最中に、アメリカ人捕虜が無理やり嘘の自白をさせられたときに使われた技術のことを言ってもいるのだろう。とにかく偶然の一致とは思えない。

・・・ある会見のなかで、キャメロンの元同僚のひとりが言った。

「大勢の人間がナンセンスだと感じていた。だが、我々はどうすることもできなかった」

彼はこうも言っている。
「(キャメロンは)いい治療と、お粗末な治療の違いがわかっていなかった・・・・。ドクター・キャメロンは、たまにひらめくことはあっても、基本的には恐ろしく凡庸な人間だった・・・・」

キャメロンの研究についてよく知っているほかの元同僚は、「反対意見はたくさんあった・・・・が彼の前では言わなかった・・・・。誰もキャメロンに面と向かって意見を述べようとしなかった」と述べている。
・・・・・・・

マッギル大学の精神医学史についての1982年付けのある論文で、キャメロンの後任のR・A・クレッグホーンはこうコメントしている。
(キャメロンの起業家的手腕は、教育施設や訓練施設では遺憾なく発揮されたが、研究にはあまり向かないものだった>

D・O・ヘッブは、1985年夏の最後のインタビューでこう語っている。

(キャメロンは無責任で・・・・犯罪的なまでに愚かだった・・・。なんらかの成果が得られたとはとても思えない・・・。彼は有名になりたかった。だからあんな無鉄砲なことをしたのだ・・・。知りたかったのではない。ひたすら地位が欲しかっただけだ>


●「9.需要と供給」

・・・・・本来機能すべき対処装置が機能しなくなるほど不安にさせられた捕虜は、人格の分裂から逃れたいと思うあまり、尋問者を友人、救済者として見るようになる。捕虜を独房へ監禁し、眠らせず、情報を与えず、そのうえ巧みな尋問を行なうと、ほとんどの場合、望みどおりの結果が得られる。この方法は当初ソ連で開発され、中国ではさらに手が加えられて集団の圧力という要素が加わる。

ある仲間集団(ピアグループ・・・年令・地位などが等しく、同じ価値観をもつ集団)の物の見方に順応させるというのは、中国共産党が本土掌握以来行なってきた国民思想改造計画の一環をなすものだ。この技術はアメリカの捕虜に対してきわめて効果的であったことがのちに判明する。

●「19.その後」

・・・・私たちは医師にも弱点があることに気づいている。そのことに気づくということは、医学の世界も開かれ、進歩してきたということだが、それでもまだ医学の世界はかなり権威主義的だ。昔から医学には、指導者や研究者を高い地位におき、必ずしもそうでないのに賢人、高潔な人間として崇めたてまつる傾向がある。当然、下っ端の医師は意見を差し控えるだろうし、異議は出ないだろう。

哲学者や神学者など医学関係でない学者が、バイオエシックス(生命倫理)の研究に深く関わっている理由のひとつに、医師が伝統的な父権主義から脱却できないということがあるのかもしれない。カナダ精神医学会がキャメロンの研究を否認したがらなかった理由は、それ以外に説明のしようがない。

有名なアメリカの精神医学者に手紙を書き、協力を訴えたとき、キャメロンは偉大な指導者であり、キャメロンを否定するようなことはなにも言えないという返事をもらった。それも同じ理由からだろう。

●「対談・・・洗脳実験の病理が潜む日本社会」(苫米地英人(脳機能学者)・宮崎哲弥(評論家)>


苫米地・・・電話で精神を操作することは、もちろん技術的に可能。「洗脳原論(苫米地著、春秋社)」では、それはアンカーと呼んでいる手法ですが。

エリクソンの本を読むと、何十年も経ったアンカーが効いている例というのがあります。自分の女学生の弟子に、「将来、握手したら眠る」というアンカーをかけておいた。その後何十年かして、その女学生が有名な先生になったときに、あるとき学会でエリクソンと会って握手したら、本当に寝てしまったということです。だからエリクソン級のうまい催眠は、それぐらいの長さで効くわけです。

それどころか、日本のある有名なカルトは、同じような手法を使っているんではないかと。あるとき某国から指令が下ると、その信者が一斉蜂起して、自殺的な攻撃に出ることも考えられます。

もっと言えば、反カルト団体を装って、じつはそのカルトがコントロールしているという例がアメリカではある。信者自身は解けたと思わされて、実際信者を脱会させたかもしれない。でもアンカーを解かずに表面だけ脱会させて一般市民に戻しているとしたら、アンカーを作動させるような指令が出たとき、いきなり過激な行動に出たりしても不思議ではないですね。

苫米地・・・・・「洗脳原論」のひとつの結論として、とりあえず日本では、メジャーレリジョンである仏教を信じたらどうだろうかと思いました。宗教の世界には、それなりに縄張りがありますよね。・・・日本は今、ほとんどロシアのように宗教的縄張りがない状態に等しい。

宮崎・・・・・そこに力の空白があるわけですね。ヴァキュームになっているから、カルトでもオカルトでも何でもかまわず吸引してしまう。だから、その真空を別のもので充填してしまえばよいのです。

苫米地・・・・・じゃあ何で充填しようかというときに、・・今の日本社会では精神科医よりも、お坊さんのほうがその役割を果たせると思いますね。変なお坊さんもなかにはいるから、一概には言えないけど。

宮崎・・・・・文化の伝承性や親和性を考えれば、やはり仏教が有望でしょうね。日本人の行動様式や行動文法の基本は、やはり仏教的世界観です。まあ仏教といっても、私の信奉する「縁起と空の仏教」というよりは、「山川草木悉有仏性(さんせんそうもくしつうぶっしょう)」的なアニミズムと無常の時間観念が主流ですけどね。

苫米地・・・・・いちばん怖いのは、宗教の空白。それを埋めるものであったら、社会の伝統宗教のなかで、メジャーなものを受け入れることに何の問題もありません。

宮崎・・・・・まあ仏教でいえば、やはり根本に立ち戻れ、開祖ブッダや大乗八宗の祖ナーガールジュナにかえれ、というのが私の立場です。
そのうえで、個々人の精神の中核に生じた空洞を埋めていくことができれば、やがて社会を安定状態に導くことができるのではないでしょうか。
http://www005.upp.so-net.ne.jp/jikokaifuku/kotoba36.htm



85. 中川隆[2367] koaQ7Jey 2016年5月04日 08:43:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2592]

前世の記憶とはこういうもの:

「誤った記憶」作った!…利根川氏ら


 【ワシントン=中島達雄】脳を刺激して実際と違う誤った記憶(過誤記憶)を作り出すことに、ノーベル賞受賞者の利根川進・米マサチューセッツ工科大教授と理化学研究所のチームがマウスの実験で成功したと、26日付の米サイエンス誌に発表する。

 過誤記憶を人為的に作り出したのは世界で初めて。

 人間はしばしば記憶違いを起こすほか、妄想を抱く病気もある。これらの原因はわかっておらず、今回の成果をきっかけに解明が期待される。

 利根川教授らは、マウスの脳の奥にある「海馬かいば」と呼ばれる部分に光を当て、実験を行った。海馬は記憶に関係すると考えられる。マウスの脳細胞には特殊な遺伝子が組み込まれ、光を当てると活性化、直前の記憶が再生されるようになっている。

 このマウスをまず、何もしない安全な部屋に置いた後、形の違う別の部屋に移し、脳に光を当てながら、マウスの嫌いな電気を足に流した。このマウスを安全な部屋に戻すと、外敵に遭った時のように身構え警戒したが、電気を流しただけのマウスを安全な部屋に戻しても、警戒しなかった。

 これは、海馬に光が当たったことで安全な部屋の記憶がよみがえり、マウスが「安全な部屋で電気を受けた」と混同したと考えられる。

(2013年7月26日07時27分 読売新聞)


死後の世界は再現可能

幽体離脱! 右脳の電気刺激、肉体の外に意識出た感じ

・右脳のある部分に電気刺激を与えると、意識だけが肉体の外に出たように感じる「幽体離脱」を引き起こすことを、スイスのジュネーブ、ローザンヌ両大学病院の研究チームが発見した。
 
2002年9月19日発行の英科学誌ネイチャーに発表した。

 チームは、43歳の女性のてんかん患者の治療のため、発作の原因となっている部位を特定しようと脳に電極を差し込み、電気刺激を与える実験をした。

 右側頭葉にある聴覚野の後ろを刺激すると、患者は「ベッドの中に沈んでいるような」感覚を訴えた。

刺激を強くすると、「横たわっている自分の下半身を上から見ている」

「ベッドの上2メートルほどのところに浮かんでいるような感覚がする」

と話した。

 腕を伸ばしていた場合には、左腕だけが短くなったように感じたという。
 こうした結果から、チームでは、平衡感覚と自分の体の部位をイメージする感覚を脳でうまく処理できない時に、「幽体離脱」を感じるようだとしている。

______


臨死体験、脳のここが働いていた スイス研究 2002.09.28
(CNN) 

「自分が死んだときに、体から魂が抜けるのを見た」

などという「臨死体験」は、関心を呼ぶことが多いが、医学的にどんな現象なのかはほとんどわかっていない。

しかし、スイスの研究チームがてんかん患者の脳のある部分を刺激すると、患者が臨死体験することを偶然見つけ、英科学誌ネイチャーに発表した。

スイス・ジュネーブ大学病院神経科のオラフ・ブランケ博士は、てんかんの女性患者(43)を治療中、右大脳皮質の「角状回」と呼ばれる部分を電極で刺激したところ、必ず患者が「自分の体から抜ける」ような情景を体験したことを確かめた。
この患者は、過去11年間てんかんに悩まされ、ブランケ博士らは、てんかんの原因になる脳の場所を突き止めようとしていた。

患者の脳には100個以上の電極がセットされ、場所を変えて次々に刺激が与えられたため、チームは「患者が脳の特定の場所の刺激によって臨死体験を見た『ふり』をした可能性はほとんどない」と考えている。

角状回は、体や空間の認識、論理的な順序づけを統御する、脳の中でも複雑な部分。

クリーブランド医療財団のシンディー・クブ博士によると、角状回に異常がある患者は、ズボンをはいてから下着をはこうとし、そして「何かおかしい」と気づいたりするという。

また、手や足が体とつながっていないと感じたりするという。

臨死体験は、脳のどこかの神経細胞で、情報伝達の途切れや誤りが起きているのが原因ではないかとみられているが、特定の部分が関与していることを示唆する「結果」は珍しい。

今回の結果は、臨死体験を研究しようとして得られたものではなく、偶然発見された。

比較されるべき対照患者グループも用意されていない研究だが、この分野の専門家は「説得力があるものだ」と評価している。
http://www.asyura2.com/2002/health1/msg/485.html


脳内に電極を埋め込んだ男性、体外離脱を経験 2007年 11月 2日 17:08 JST

 [ボストン 31日 ロイター] 耳鳴り治療のために脳内に電極を埋め込まれた男性患者(63)が、その影響で体外離脱を経験していたことが分かった。
 ベルギーのアントワープ大の研究者らが31日、学術誌「ニュー・イングランド・ジャーナル・オブ・メディスン」に論文を発表した。

 電極に刺激を与えたところ、この患者は15秒間と21秒間の2回にわたって自分が体外に離脱したような感覚を覚え、医者がCTスキャンによって脳内のどの部分が活発になっているかを調べたという。

 心停止から生還した人などから報告される体外離脱の感覚について、一部の人は死後の世界がある証拠だと論じている。一方、科学者の多くはその見方に懐疑的で、脳が錯覚を起こさせる現象だと指摘している。

 アントワープ大の研究者らは、患者の耳鳴り治療に脳内電極を試していたが、その成果は上がらなかった。その代わり、患者は自分の肉体から50センチほど後ろに離れ、左側に行く感覚を経験したという。
http://www.asyura2.com/07/bd51/msg/199.html


(2007/8/30) 人工的「体外離脱」体験に成功

「体外離脱(幽体離脱)」を疑似体験させる2研究がヨーロッパで実施され、米科学誌「Science」8月24日号に掲載された。

「体外離脱」とは、肉体を離脱して自分の体を離れたところから見ているような感覚のことで、ストレスにより視覚、触覚、自分が自分の肉体にあるという固有受容感覚などが分断されたときに生じるという。

時に外傷を受けた人が臨死体験として報告している。

臨死現象研究専門家であるKevin Nelson博士によると「体外離脱」は珍しくはなく、20人に1人は体験しているが、自然発生的でコントロールできないため、これまで詳しく研究することが難しかった。

 今回の研究の一つは、英ロンドン大学(UCL)神経学研究所のHenrik Ehrsson博士らによるもの。

被験者にハイテク3Dゴーグルを装着させ、約6フィート(約1.8m)離れた位置から撮影した自身の体をリアルタイムの3D映像で見せた。

プラスチック棒で被験者自身の胸部(本人には見えない)に触れると同時に、映像の同じ部位にも触れたところ、被験者は自分の肉体を6フィート離れた後ろから見ているような感覚を覚えたという。

さらに、幻影の体をハンマーで打とうとすると、被験者に発汗の増大がみられ、その恐怖を現実のものと感じていることが示された。

もう一つの研究は、スイス連邦工科大学ローザンヌ校Ecole Polytechnique Federal de Lausanne(EPFL)のOlaf Blanke氏らが実施したもの。

被験者に、自分自身の体、人体模型、四角形をしたブロックのホログラフィ映像の一つを見せ、映像の「背中」をブラシでなで、時々は同時に被験者自身の背中もなでた。

その直後、目隠しをして後退させ、自分がいた元の位置まで戻るよう指示すると、模型またはブロックを見ていた被験者は正確に元の位置に戻ったが、自分自身の映像を見ていた被験者は幻影があった位置まで進んだという。

 専門家の一人は

「興味深い研究。体に触られた感覚を、まるで別のところにある自分の体を“見て”いるように感じている。

これは、車を運転するビデオゲームで、運転する車の映像は自分の前に見えているのに、あたかも自分が車の中にいるように感じる人がいることにも似ている」
と述べている。

 Nelson氏によると、どちらの研究も「体外離脱」を完全に再現したわけではないが、空間の中で自分の存在を認識する上で視覚が重要であることを示すものだという。

通常、脳で行われている視覚と触覚や固有受容感覚との統合が、幻影により混乱させられ、その結果、一時的に自分の肉体が隔絶しているような感覚を覚えるのだという。

同じことが睡眠−覚醒の過渡期や、脳が死に近い状態にあるとき、特定の病状にあるときに起きている可能性もあるという。

 ただし、視覚だけが最も重要というわけではなく、ほかの感覚についても実験方法があれば同様の結果が得られるはずだという。

この知見は、神経化学分野にとどまらずテレビゲームや遠隔手術などに応用できる可能性もあるほか、神学や哲学の核心に踏み込むとも思えるものだが、霊的なものとを混同するべきではないとNelson氏は指摘している。
原文[2007年8月23日/HealthDay News]
http://health.nikkei.co.jp/hsn/news.cfm?i=20070830hj000hj

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 3) 臨死体験=脳内現象説

 臨死体験=脳内現象説は、臨死体験は死ぬ間際の人間が脳の作用によってみるただの幻覚の一種だという主張です。

 これに関して、1920〜1940年代にアメリカの脳神経学者ペンフィールドが行った興味深い実験があります。

ペンフィールドはてんかん患者を治療するために頭蓋骨を切り開き、どこの部位を切除すれば機能が回復するかをテストしようとしました。

 このとき、ペンフィールドは

電気で側頭葉を刺激すると、患者が「自分の体が浮かび上がっているように感じる」などということに気がつきました。

これを聞いて学術的興味深々のペンフィールドさん。

「面白いオモチャを見つけた」とばかりに患者の脳をいじくりまくります。

ぐりぐりぐりぐり。

てんかんの治療はどうしたんでしょうか?

 まず、側頭葉のある部位を刺激すると、「浮遊体験」が感じられ、別の部位を刺激すると、「自分の魂が体から離れていっている」という感覚に襲われる
ことが判明しました。

もしかしたらこの患者だけなのかもしれないので、念のためとばかりにペンフィールドは、同様の実験を他の患者にも試し、脳をぐりぐりぐりぐり。

同じような言動をすることを確認。

 また、側頭葉のシルヴィス溝を刺激された者の中には対外離脱だけではなく、神に逢ったと主張する者もいました。

 そういえば、日本で「悪魔を祓うために体を清める」と称し、いとこを殺害して体を塩で清めたという悪魔祓い殺人事件では、側頭葉てんかんを持った男が「神の声を聴いた」と主張したのが始まりでした。

側頭葉には神様が住んでいるのかもしれません。

 臨死体験=脳内現象説の理論はこれだけではありません。

 もしあなたが自転車に乗っていたら、ドカンと車にぶつかってみましょう。
あなたの人生が一瞬にして早送りで再生されるはずです。

そうです、走馬灯です。

 この別名「映画フィルム式思考」と呼ばれる、死に直前で自分の一生が一瞬で思い出されるという体験は、クスリの服用でも体験できます。

 クスリの名前はセントロフェノキシンという、スマートドラッグとしてアメリカでかなり出回っている代物。

これを服用すると、突然数十年前の思い出が鮮明に甦ってくることがあるのです。

 他には、LSDなどの麻薬で体験する幻覚には、

長いトンネルの映像、
まばゆい光、
別世界の住人、
生死を問わず様々な友人や家族

が登場します。

 いくつかの薬物が臨死体験に酷似した幻覚を生み出すことは以前から指摘されていました。

臨死体験が脳内物質や脳内現象による幻覚であると仮定するならば、それと同様の薬物を投与することで臨死体験と同様の体験ができ、そのメカニズムと解明されることになります。

 1980年の時点で既に、精神薬理学者のロナルド・シーゲルにより、臨死体験と薬物による幻覚の類似性が指摘され、亜酸化窒素やエーテル、ケタミン、フェンシクリジン(PCP)、ヘロインなどの薬物の名が挙げられています。

 さらに、オークランド大学のイェンセン教授は、

「人間が死に瀕したとき、脳内の神経細胞を酸欠状態から防ぐために、エンドサイコシンという物質が大量に放出される。
これが臨死体験を引き起こすのだろう」

という説を発表した。

この説はあくまでも仮説であり確証はありませんが、人間が極限状態に陥ると、脳内麻薬が発生することは昔から知られていました。

死の直前というのは究極の極限状態ですから、脳内麻薬が大量に発生し、それが脳内に幻覚を生み出すのは十分に考えられます。

 大脳酸素欠乏症説というのもあります。

 肉体が危篤状態になったり、ほんの一瞬でも心臓が止まると、大脳の酸素が欠乏します。

この大脳酸素欠乏は、短時間であっても重大な損害を脳に与えます。

 この大脳酸素欠乏状態に陥ったとき、最初に幸福感や全能感がやってきて、
さらに酸素欠乏が進むと現実判断能力が失われ幻覚が生じます。

 日本の武道の場合、柔道の絞め技などで「おちる」瞬間は非常に気持ちいいと言われています。

 これらは、直接 臨死体験=あの世 を否定するわけではありませんが、

人間の脳に刺激を与えたり、ドラッグを服用することで擬似的な臨死体験をすることができるのは事実です。
http://psychology.jugem.cc/?eid=19

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/443.html


86. 中川隆[2368] koaQ7Jey 2016年5月04日 09:16:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2593]

臨死体験の科学的解明に前進、心停止後に「脳が活発化」 米研究
AFP=時事 8月13日(火)13時1分配信

ルーマニア首都ブカレスト近郊の森で開かれたレーザー光を使ったイベントの様子(2011年5月14日撮影、資料写真)。
http://blogs.yahoo.co.jp/neggy_0313/GALLERY/show_image.html?id=62452129&no=0

【AFP=時事】心臓まひを起こし死の淵に立った人が時に経験する、まぶしい光などの鮮明な「臨死体験」は、科学的に説明できるかもしれないとする研究論文が12日、米科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences、PNAS)に掲載された。

脳は、血流が停止した後も30秒程度、活動を続けることが分かったという。

研究を行った米ミシガン大学(University of Michigan)の科学者らは、実験用ラット9匹に麻酔薬を投与して心停止を誘発させ、脳電図を記録した。その結果、心臓が停止してから30秒間にわたり脳の活動が急増し、精神状態が非常に高揚していることが分かった。

研究に参加した同大学のジョージ・マシャワー(George Mashour)教授(麻酔学・神経外科学)は、「脳の活動レベルが高いことに驚いた」と話す。

「臨死状態では、意識がある状態を示す電気信号の多くが覚醒状態のレベルを上回っていたことが分かった。これは、臨床死の初期段階において、脳が系統立った電気活動を行うことが可能であることを示唆している」。

同様の結果は、窒息状態のラットの脳活動にもみられたという。

論文の主著者、ジモ・ボルジギン(Jimo Borjigin)氏は、「心停止中の酸素の減少、または酸素とブドウ糖の減少によって、意識的過程の特徴である脳活動が刺激される可能性が、この研究で示された。また、心停止を経験した多くの患者が語る臨死体験を説明するための、初めての科学的枠組みが提供できた」と話す。

心停止から蘇生した患者の約20%が、医師らが臨床死と呼ぶ段階でなんらかの視覚的な経験をしたと報告している。【翻訳編集】 AFPBB News


「急いですぐに帰りなさい」 3歳男児が臨死体験
2010年04月08日 20:51 発信地:ミュンヘン/ドイツ


【4月8日 AFP】ドイツで湖に落ちて死亡したと一度は思われた3歳の男児が、3時間以上経ってから医師の蘇生処置で生き返った後、「天国でひいおばあちゃんに会った」と臨死体験を語った。8日の独日刊紙ビルト(Bild)が報じた。

 パウル君というファーストネームだけが明らかにされている少年は、ベルリン(Berlin)郊外の祖父母宅の脇にある湖に落ち、航空機で病院に救急搬送されたが、蘇生を試みた医師らはほとんどあきらめかけていた。

 しかし3時間18分後、パウル君の心臓は再び鼓動を始めた。同紙のインタビューに医師の1人は「こんなことは初めてだ。普通、子どもは水中に数分もいたら助かることはない」

 息を吹き返したパウル君は両親にこう語った。「天国でエムミ(Emmi)おばあちゃんと会ったよ。おばあちゃんが僕に、急いですぐに帰りなさいって言ったんだ」

米エリート神経外科医が見た死後の世界
2012年10月15日 13:32 発信地:ワシントンD.C./米国

【10月15日 AFP】ハーバード大医学部(Harvard Medical School)での教職歴も持つ米国の神経外科医、エバン・アレキサンダー(Eban Alexander)氏が書いた臨死体験に関する手記『Proof of Heaven: A Neurosurgeon's Journey into the Afterlife』(天国の証:ある神経外科医の死後への旅)が26日、米国で出版される。

 2児の父で端正な外見の米バージニア大(University of Virginia)の医師、アレキサンダー氏の死後への旅は頭痛から始まった。2008年11月、非常に珍しい細菌性髄膜炎がアレキサンダー医師の脳の新皮質を停止させようとしていた。新皮質は脳の中で、知覚や意識的な思考をつかさどる部分だ。

それから7日間、アレキサンダー氏は「深い昏睡状態だった」が、同時に「この宇宙のもっと大きな次元、存在するとは想像をしたことさえなかった次元に旅していた」と言う。

 その異次元でアレキサンダー医師を迎えてくれたのは「黒に近い深い紺色の空」に浮かぶ「大きく膨らんだ薄いピンク色の雲」を背にした「揺らめく光を放つ透明な存在の群れ」だった。

「この世でわたしが知っている何物ともまるで違った」

 そしてアレキサンダー医師は自分の他に何者かがいることに気付いた。死後への旅の連れは、琥珀色の髪に紺碧の瞳をした若い美女だった。

女性は何百万というチョウに囲まれ「言葉をいっさい使わずに」話し掛けてきた。

「あなたは永遠に愛され、大切にされます。恐れることは何もありません。
あなたに過ちを犯させるものは、ここにはありません」

■さまざまな反響を呼ぶ

 アレキサンダー医師の著書の抜粋が米誌ニューズウィーク(Newsweek)に掲載されると、さまざまな反応が巻き起こった。

 当然のごとくこの超常体験への疑念も投げ掛けられた。同誌のウェブサイトには

「単に『明晰夢(夢だと自覚しながら見る夢)』を見ていただけに聞こえる」、

「個人的なエピソードは感動的かもしれないが、証拠にも証明にもならない」

といった意見が投稿された。米ゴシップサイト「Gawker.com」は読者に、アレキサンダー医師が見た死後の世界と LSD によるトリップ体験に違いがあればそれを指摘してみてはと皮肉に呼び掛けた。

 しかし、すでにテレビの科学番組に出演し臨死体験を語ったり、昨年は科学と精神世界に関するブログメディア「Skeptico.com」で長いインタビューに応じたアレキサンダー医師を擁護する声も少なくない。ローマ・カトリック教会のニュースサイト「カトリック・オンライン(Catholic Online)」は「死後の世界に関する証拠や証明があるのならばそれは素晴らしい」とアレキサンダー医師の説明を是認する姿勢を示した。

 ある推計によれば米国人の約3%、900万人以上が臨死体験をしており、「臨死体験研究財団(Near Death Experience Research Foundation)」のウェブサイトなどに体験記を寄せている。


■「天国」の描写は麻薬様物質と関連か

 臨死体験に関する著作のあるポール・ペリー(Paul Perry)氏は

「毎年数万人が臨死体験をしており、その多くがアレキサンダー氏の体験と似たものだ」

と言う。ペリー氏はAFPの取材にメールで「そうした体験は私たちの次なる驚くべき冒険を垣間見せているのかもしれない。しかしこの分野に関する有意義な研究は今のところ行われていない」と回答した。

 神経生物学と人間の恐れについて研究している米コロンビア大(Columbia University)の心理学者、ディーン・モブス(Dean Mobbs)氏はアレキサンダー氏の体験を認めつつ、「超常現象的な要素はないと思う」と語る。

臨死体験とは「脳が通常通りに機能しなくなっている現れだ」とモブス氏は言う。

「わたしの考えでは、われわれの脳は特に混乱した状況や外傷を受けた状況に置かれると、鮮明な体験を作り出すことができる。周囲で起きていることを脳が解釈し直そうとするのだ」

 例えばスイスの神経科学者オラフ・ブランケ(Olaf Blanke)氏は、右側頭葉と頭頂葉が接する部位を刺激して人工的に体外離脱体験を引き起こす実験を行っている。

ブランケ氏はまた、人間は究極の危険に直面すると麻薬様物質(オピオイド)を大量分泌することがあるとも指摘している。

オピオイドは臨死体験者の報告にあるような多幸感を生み出す。

 モブス氏はさらに臨死体験をしたと主張する人たちの多くは、実際には死ぬ寸前ではなかったとも指摘している。

実際、一時的に死亡状態となりその後蘇生した人々の大多数は、どこかへ行ったという記憶をまったく持っていないと言う。(c)AFP/Robert MacPherson

臨死体験の原因は血中CO2濃度の高さにあり、スロベニア研究
2010年04月09日 08:24 発信地:パリ/フランス

【4月9日 AFP】「臨死体験」は血中の二酸化炭素(CO2)濃度が高いと起こりやすくなる可能性があるという論文が8日、スロベニアの医学専門誌「Critical Care(救命救急治療)」に発表された。

 臨死体験(Near-death experiences、NED)とは、光が見えたり、心のやすらぎや幸福感を感じたり、神と出会うなどの体験をした後で意識が戻るというもの。過去の研究では心臓発作から回復した人の11〜23%が体験しているとのデータもある。

 スロベニア・マリボル大学(University of Maribor)のZalika Klemenc-Ketis氏が率いる研究チームが、3か所の大規模病院で52例の心臓発作について調査したところ、11人が臨死体験をしていた。患者の平均年齢は53歳で、42人が男性だった。

■血中CO2濃度が高いと臨死体験しやすい

 臨死体験と年齢、性別、教育水準、信仰、死に対する恐怖、回復するまでの時間、救命治療時に投与された薬品との間に関係は認められなかったが、血中の二酸化炭素濃度が高いと臨死体験をする傾向が高いことが分かった。

また二酸化炭素ほど明確な相関関係ではないものの、血中のカリウム濃度が高いと臨死体験をする傾向が高まることが分かった。


 臨死体験の原因については激しい論争が繰り広げられてきた。身体的・精神的なメカニズムに根拠を求める人から、なんらかの超越的な力を指摘する人までさまざまだ。

研究チームは、臨死体験は人生を変える体験になる可能性があり、その原因を突き止めるのは心臓発作を起こした人にとって重要で、結果を確認するためにはサンプル数を増やしてさらなる調査が必要だと話している。
http://blogs.yahoo.co.jp/neggy_0313/62452129.html


87. 2016年5月04日 10:33:16 : vxsyxtjqOA : dr88cnfHCms[37]
超能力や神通力は 危険な面がある(これからもでてくる)
ので。

もとオ−ム真理教 上佑史浩個人の総括(部分)をのせとくよ。

偏差値秀才の多くがだまされたのだから 注意してください。

オ−ムの教訓 上佑史浩個人の総括

●最初の段階で誇大宣伝に引っかからないこと

 そのためには、入信前後の最初の段階で、その宗教的な誇大宣伝にひっかからないことが重要だった。しかし、オウム時代に限らず、現在のアレフにおいても、依然として、誇大宣伝が続き、それに惹かれてしまって入信する者がいる。
 客観的には騙されているのだが、騙される側の問題もある。自分の中に誇大妄想的な欲があるため、それにつけ込まれるのだから。なお、この麻原の傾向は、実は、教団を開く前から、ヒーリングや漢方薬の販売をしている際もそうだったようだ。
 そして、人は、誇大宣伝に弱い。競争社会の中で、もっと自分が上に行きたい、(卑屈な)自分を変えたいと思っている人がどんなに多いことか、そして、その欲求がどんなに強いことか。その欲求を背景に、誇大宣伝されているものにこそ、嵌まってしまう。人によっては、藁をもつかむ、僅かな希望の光と見なすのではないか。
 しかし、誇大宣伝で惹き付けられて、いったん中に入ると、オウム・アレフの神秘体験を伴う修行には、一定の体験がある。それが麻原の恩恵とされて、さらには、陰謀論を含めた現代社会の批判や、脱会したら来世が地獄だという脅しが出てくる。そうすると、やめるにやめられない状態になってくる。
 もちろん、10年、20年経つうちには、そういった教団の教化手法・誇大宣伝・脅し・裏表にも慣れてくる。飽きも出て、修行や布施の手を抜き、活動が衰えると、教団には必要とされなくなり、やめる人も少なくない。しかし、そこまでに費やす時間は膨大だ。

http://hikarinowa.net/kyokun/joyu/cat215/post.html


88. 中川隆[2371] koaQ7Jey 2016年5月04日 22:23:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2599]

ここにも spiritual アホがいるけど

そんなのこういうホラー映画のシナリオ位にしか使えないよ:


死国(1999年)
http://www.veoh.com/watch/v6518550jy8ChE4h

監督 長崎俊一

原作 坂東眞砂子


キャスト

明神比奈子 - 夏川結衣
秋沢文也 - 筒井道隆 (少年時代 - 森脇史登)
日浦莎代里 - 栗山千明 (少女時代 - 鈴木美帆)


久々に故郷の四国は高知県の矢狗村に帰って来た明神比奈子(夏川結衣)は、幼馴染みの日浦莎代里(栗山千明)が16の若さでこの世を去った事を知り驚く。

幼馴染みの秋沢文也(筒井道隆)と再会した比奈子は文也から莎代里の死に関するある不吉な噂を聞く。それは代々死者の霊と交流する口寄せの家柄だった日浦家の跡取りである莎代里が、事故死ではなく霊を呼び出す儀式の最中に悪霊に取り殺されたというものだった。


89. 中川隆[2372] koaQ7Jey 2016年5月05日 00:39:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2601]

spiritual というのはこの類だからね:

『サイレン 〜FORBIDDEN SIREN〜』2006年 東宝
http://www.bilibili.com/video/av2113265/

キャスト

天本 由貴(市川由衣)
天本 真一(森本レオ)
南田 豊(田中直樹)


天本由貴はフリーライターの父・真一と弟・英夫と共に、体の弱い英夫の転地療養の為、夜美島に引っ越してきた。そこで由貴達を待っていたのは、異様な島の空気だった。島に根付いた奇妙な文化と伝承。島の中心部に聳え立つ謎の鉄塔。しかも由貴達は余所者ということで島民達から冷たい視線を浴びせられる。

しかし隣人の里美や島の医師・南田豊の助けもあって、徐々に島の生活に慣れていった。だが、島には不穏な空気が漂っていた。

「夜は出歩かない」「近所付き合いは大切にする」「森の鉄塔には近付かない」、そして「サイレンが鳴ったら外に出てはいけない」。


90. 中川隆[2374] koaQ7Jey 2016年5月05日 07:30:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2603]

本当は現実は映画よりももっと恐ろしいんだけど:


沖縄パナリの秘祭 _ 臨月になった美女を引き出して洞の中で行う秘密の儀式とは
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/446.html

【危険】パナリ(新城)島【タブー】


263 :名無しさん@天国に一番近い島:2015/06/09(火) 17:50:18.81 ID:uZN5nJC2.net

新城島(パナリ)の豊年祭「アカマタ・クロマタを生む儀式」


美しい女がナビン洞(洞窟)連れられて来る。

そこでザーシンカと呼ばれる男たちとアカマタ・クロマタを生むための儀式をする。

女は男たちと強制的に輪姦させられ、その儀式は丸1日行われる。

そして幻覚作用のある薬物でトランス状態になり、神を体に宿し恍惚を感じる。

さらに儀式では人魚の肉と称して、子供の肉を食べる。

島では近親相姦や近親婚で血が濃いため女児が多く産まれ、畸形の子やトラブルを起こした女が神への捧げ物にされた。

食べられた子供の頭蓋骨は人魚神社に奉納され、幾つもの頭蓋骨があるが立ち入り禁止になっている。

儀式の後、輪姦された女は全裸で縛られ神殿の鳥居に吊るされ、その下で島民が平然と飲み食いする。

洞窟で何が行われてるか調べた研究者は、島民に石で眼球を潰された。

これは新聞報道され、八重山警察署も事実と答えた。

豊年祭の儀式は、強制集団レイプ・近親相姦・人肉食・薬物乱用・暴行等、隠された秘祭である。

270 :名無しさん@天国に一番近い島:2015/10/01(木) 12:07:25.93 ID:Df8LvUm0.net
>>263
それでだいたい当たってる。
御嶽の先に行けないのは、多くの人骨が捨ててあるからだよ。
警察に通報すれば一発でアウトなんだけれど誰もやらないというwww
http://ikura.2ch.sc/test/read.cgi/tropical/1292412995/


秘祭 (新潮文庫) 石原慎太郎 (著)


人口わずか十七人の南西諸島の孤島をリゾート化しようと、観光会社の青年、敏夫が島に赴任する。前任者が事故死した為だ。

島の和やかな雰囲気や、島唯一のいい女、タカ子に魅了され島に惚れ込む。タカ子も敏夫が気にいったようで、二人は即、獣のように愛を交わすようになる。社命で赴任したとはいえ、仕事らしい仕事はせず、タカ子とセックスばかりしている敏夫だが、島で生活していく内に、段々と島のタブーが見えてきた。

まずおかしいのは、檻に入れられている男、ミノルの存在。
言葉は発っせず、原始人のような風貌で獣のようにウーウー吠えているだけ。島の人は

「ミノルは頭が弱くて乱暴することがあるのでね」

とあっさり言うが、明らかに異常な光景だ。

さらにある晩、漁に出た敏夫が見たのはタカ子が他の男と交わっている姿。
タカ子に問い質すと、「嫌なら私を島から出して」と懇願する。
どうやらタカ子は島の男全員と寝ているらしい。このことから、段々とこの島の異常性が露わになっていく。

乱婚、近親相姦、暴力、拷問、殺人…。

近親による性交の歴史により、この島は狂人パラダイスと化していたのだった!
前述した、檻の中の男は島の秘密を漏らさないよう、舌を切られていたのだ。

敏夫の前任者もこの秘密を知って殺されたらしい。そして、知りすぎてしまった敏夫は、タカ子を連れて島を出るため島の老人たちに、「訴えることもできるんだぜ」と脅す。老人たちは

「わしらが島を出ます。だからあんたもこのことは黙っておいてくれんかね」

と、屈伏したように見せかけるが、結局、敏夫は別れの酒と称した杯に毒を盛られて眠らされ、ボコボコに拷問された揚句殺されてしまう。

時は流れ、何も知らない敏夫の後任の青年がまた島に赴任して来た。木の下に不自然に土が盛り上がった土饅頭が二つある。「あれは何ですか」と、島の人に聞いてみると、

「ああ、あれは昔から人魚の墓と言われておってな…」

…それが敏夫とその前の前任者の墓であり、

いずれ自分もそこに葬られることになるとは思いもしないであろう…。
http://hojomatsugoro.blog41.fc2.com/blog-entry-982.html

このスレにも居るけど、 spiritual マニアはみんな狂ってるんだ。


91. 中川隆[2375] koaQ7Jey 2016年5月05日 07:40:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2604]

このスレにも居るけど、spiritual マニアはみんな狂ってる:


宗教とセックスにまみれながら子どもたちが育つ、新興宗教「神の子どもたち」

 
 2005年1月9日、カリフォルニア州のブライスで、車の中で拳銃自殺をした男性の遺体が発見された。男性の身元はすぐに判明。リッキー・ロドリゲスという、アリゾナ州のツーソンで電気技師をする男だった。そして、リッキーのツーソンの自宅アパートには、のどをナイフでかき切られた初老の女性の残虐遺体があり、血だまりの中、息絶えていたという。

 リッキーは殺人を犯す24時間前、自殺する48時間前、元妻、友人、そして自分が育ったカルト教団「神の子どもたち」で育った元信者に向けて、告白ビデオを遺していた。これを見た警察は驚いた。「神の子どもたち」が、子どもにまで性行為を強要していたということ、教団の中で幼児性虐待を受けてきた子どもたちが大勢いること、自分たちは精神的に傷つき、死んだも同然の状態であることを、リッキーはビールをあおりながら、淡々と語り続けていたからである。

 リッキーは「復讐する必要性がある。正義の必要性があるんだ。やりたい(殺したい)からじゃない。もう、このままでは、やっていけない」と、虚ろな目で語りかけていた。ごくごく普通に見える青年、リッキーは、なぜ、老女を殺し、自殺をしたのか。そして、彼を追い詰めた「神の子どもたち」とは、一体、どのような教団なのだろうか。

 「神の子どもたち」は、1968年、バプテスト教会のカリスマ的牧師、デビッド・バーグにより、南カリフォルニアで設立された新興宗教である。父親も牧師であったデビッドは、「イエス・キリストの愛の言葉を広める」ことを目的に、「神の子どもたち」を立ち上げた。最初はシンプルなゴスペルなどで信者に「イエスの愛を」と説いていたが、ヒッピーが集まるようになると「フリー・ラブ」が大事だと説教するようになり、セックスにより信仰を深め、広めようと、スワッピングや乱交を推奨するようになった。スワッピングは子どもたちの目の前でも行われた。「イエス・キリストがお望みのこと」「喜ばしいこと」だと信者の子どもたちは教えられ、異様な環境の中、育てられたのだった。

 グルであるデビッドには、カレン・ゼルビーというお気に入りの女性信者がいた。彼女は、セックスをしてイエスの愛を伝えることにより信者を増やす「浮気釣り(FF)」という新しい福音伝道を開発。カレン自身も積極的にFFを行い、アメリカだけでなく、メキシコやフィリピン、日本でもFF伝道活動が行われるようになり、信者数は一気に増えた。そして、信者の1人だったウェイターの男性の赤ん坊を身ごもったカレンに、デビッドは自分の養子として迎えてあげようと伝えた。彼は、家庭的なイメージを欲しがっていたため、赤ん坊の誕生はグルとしての株を上げるチャンスだったのである。

 1975年1月25日、カレンは男の赤ん坊を出産。名前をリチャード・ピーター・ロドリゲスと名付けた。デビッドは、リッキーのことを自分の次に偉大な存在だとし、跡取りだと公言。デビッド、リッキー、カレンはまるで皇族みたいな崇高な存在だと見られるようになった。しかし、リッキーの幸せな幼少時代は、そう長くは続かなかった。デビッドとカレンは、リッキーを利用して、フリーセックス対象年齢を下げようと企み、幼児・子どもたちにも性行為を強要するようになったのだ。

 教団は、3歳のリッキーが1歳や2歳の女児たちとペッティングをしたり、大人の女性と性行為をする様子を撮影。762ページにもわたる子育て本としてまとめ、信者に配布した。

 1996年に教団を去り、現在ニューヨークでストリッパーとして働きながら薬物中毒と戦っているデヴィータは、ドキュメンタリー番組のインタビューで、

「リッキーと私は、次世代のデビッドとカレンになるように育てられた。私は5歳の頃からベッドでデビッド相手に、手淫やオーラルセックスをさせられたわ」

「12歳になった時、リッキーは自分の母親であるカレンとセックスするようになった。一つのベッドの右側で私とデビッドがオーラルセックスをし、左側でリッキーがカレンとインターコース(性交)をしている。これがイエスの望むハッピーファミリーだと教えられてね。教団の子どもたちは、宗教とセックスにまみれながら育ったのよ。1歳の赤ん坊にオナニーを教えたりもして、狂っているわ」

とぶちまけている。

 子どもと大人が交わるフリーセックス推進により、さらに信者が増えた「神の子どもたち」。しかし、多くの小児性愛者を引き寄せることにもなり、デビッドはインターポールから目をつけられるようになる。教団は、1986年、これ以上探られては困ると考え、子どもの性行為を一切禁じた。そして、その8年後には「FF」「乱交」を禁止。教団名も「ファミリー・インターナショナル」に落ち着き、1994年にデビッドが死去した後は、ポルトガルに拠点を置いていたカレンがリーダーの座に納まった。

 リッキーは19歳の時にハンガリーの教団コミュニティで出会った女性と一緒になっていたが、カレンとの同居生活を続けていた。信者たちは、デビッドの後継人だと教えられていたリッキーがカレンの言いなりになっていることに疑問を抱くようになり、1人、また1人と脱退していった。カレンの家では、教団では禁じられいてたスワッピングが行われており、リッキーは次第に母親に反発するようになる。そして、2000年。妻と共に教団を出て、元信者たちが多く住むアメリカの某地区へと移り住んだのだった。

 しかし、しばらくするとリッキーは元信者たちから次々と連絡を受けるようになる。教団の大人たちに仕返しをしてほしい、壊された精神をどうにかしてほしい、と訴えられるようになったのだ。幼児性虐待を受けながら育った子どもたちは、誰もが心に深い傷を負う。リッキーはそのリーダーとして立ち上がる義務があるのだ、という元信者まで現れた。この声を無視できなかったリッキーは、復讐を企て、妻と離婚。2004年の29歳の夏、アリゾナ州へと向かったのだった。

 リッキーが殺害しようとしていたのは、母親のカレンだった。しかし、教団ナンバーワンである彼女の居場所はトップシークレットであり、リッキーは手がかりさえつかめなかった。しかし、しばらくして、老人ホームに入居している祖父母を訪問したという情報を得て、ホームのある町へと移住。電気技師の職を得て、マーシャルアーツや射撃の練習をしながら、母親を待ち続けた。そして、その4カ月後、あの告白ビデオを撮影したのだった。

 リッキーが首を切り殺害したアンジェラ・スミスという女性は、母親の側近であった。彼女は、教団が制作した子育て本で、リッキーに性の手ほどきをする役としても登場している。しかし、リッキーが母親の居場所を知ることができたのかは、今となっては知る由もない。

 セックスにまみれた幼児期のおぞましい記憶を消そうと、薬物に逃げる教団で育った子どもたちはとても多く、23歳の若さでヘロインとコカインの過剰摂取で死亡した、リヴァー・フェニックスもそうだったのではないかと、元信者らの間では囁かれている。そして、今もなお、多くの者たちが、「神の子どもたち」でのおぞましい性的虐待の記憶に苦しみ、薬物・アルコール漬けになっていると報告されている。
http://happism.cyzowoman.com/2012/04/post_713.html

近親相姦を受け入れる姉妹に喜ぶ父、罪の意識なき残虐殺人事件
2012.01.05 木

今回のオカルト事件簿 【ハラルド&フランク・アレクサンダー事件】

 1970年12月22日、人気リゾート地であるスペイン領カナリア諸島テネリフェ島のヘスス・ナサレン通り37番のアパートメントで、身の毛もよだつような残虐殺人事件が起きた。殺害されたのは、39歳になる一家の母親と15歳と18歳の娘たち。3人は滅多打ちにされ、血しぶきは壁や天井にまで飛び散っていた。全裸になった遺体からは、乳房と女性器が切り取られ、壁に釘で打ちつけられていた。

 ベテラン鑑識医も息を飲むほどの殺害事件を起こしたのは、一家の16歳になる息子。妻と娘たちを殺害された父親は現場に居合わせており、「殺人のバックグランド・ミュージックに」とオルガンを弾いていた。乳房と性器を切り取る作業は、息子と父親が共同で行ったことも明らかになった。

 逮捕された息子と父親は恍惚とした表情を浮かべ、嬉しそうに殺害の詳細を明かし、世界中を震撼させた。だが、一家を知る者たちは「やっぱり」と思ったそうだ。なぜなら、この一家はマイナーな新興宗教「ローバー・ソサエティ」の熱狂的な信者であり、息子を「預言者」として崇め、宗教を理由に近親相姦まで行っていたからである。

 この一家は、どのようにして狂気的なカルトに染まり、また、なぜ猟奇殺人を犯したのだろうか。

■預言者の言うことは絶対である

 一家の父親、ハラルド・アレクサンダーは、ドイツ連邦共和国ザクセン州の州都ドレスデンに生まれ、後にハンブルグに移り住み、同い年のダグマルと結婚。このハンブルグでハラルドは、ジョージ・リールという病床の老人の世話をするようになった。ジョージは、ドイツ神秘主義者ヤコブ・ロルバー(1800〜1864年)の崇拝者であり、新興宗教ローバー・ソサエティのリーダーであった。ローバー・ソサエティは19世紀初めに設立された厳格なスピリチュアル組織であり、信者以外は悪だという教えを説いていた。全盛期でも信者数は数百人ほどで、小さなカルト集団であったが、大変危険だとして認知されていたという。そして、30年代に入信したジョージは、「神の言葉を聞く預言者」だと信者たちから崇められていたのだ。

 ジョージの最期をみとったハラルドは、妻のダグマルに、自分がローバー・ソサエティのマントルを継承したと伝えた。宗教集会で奏でられる持ち運び可能なオルガンも受け継いだ彼は、意気揚々としており、ダグマルは夫のひたむきな信仰心を大切に育もうと決意。息子・フランクが誕生した時、ハラルドが「この子こそが神の預言者だ!」と宣言した際も夫の言葉を信じ、何の疑問も持たずに受け入れたのである。

 フランクを「神の預言者」だと宣言したハラルドは、「彼の言うこと、望むことは、どんなことでもすべて従わねばならない」というルールを家族に強いた。2歳年上の長女マリア、1歳年下の双子の次女と三女ペトラとサビーネも、両親同様、フランクに仕えた。フランクは王のように彼らを支配し、年を重ねるごとに独裁者のように振舞うようになった。10代になると、「信者以外の女の身体に触れると汚れる」と言い出し、父親に「母と性交を行う」と宣言。間もなくして姉とも交わるようになった。父親はこの状況を歓迎し、家中、ところかまわずセックスをするようになった。「預言者のため」だと教えられていた双子の妹たちは、この状況を喜ばしいことだと思い学校で自慢。近親相姦のうわさはたちまち街中に広がった。警察の訪問も受けるようになった一家は、ドイツを離れることを決断。スペイン領カナリア諸島テネリフェ島に移住したのである。

■殺人ではなく聖なる儀式

 テネリフェ島での一家は人との接触を避けていたが、音程の外れた大音量のオルガンと、その音楽に合わせて賛美歌を歌う家族の大きな歌声が、次第に付近住民の注目を集めるようになった。10カ月間、一家は問題を起こさず静かにしていたが、この頃には双子の妹たちもフランクと性行為をするようになっていた。なお、生計は娘たちが女中をして得た金で立てていたという。

 事件があった日、ハラルドとフランクはサビーネが働くウォルター・トレンクラー医師の自宅を訪問し、サビーネに伝えたいことがあると言った。快くサビーネを呼んだウォルターは、ハラルドの「サビーネよ。我々はフランクがお前の母親と姉たちを殺さねばならなくなってしまったことを伝えるために、ここに来たのだよ」という言葉に仰天。しかし、サビーネはまったく驚くことなく、父親の手を取り頬に当てて「必要なことをなさったのだと信じています」と言った。衝撃を受けるウォルターにハラルドは「あぁ、お聞きになりましたか。我々はわが妻と娘たちを殺しました。殺害の時が来たのです」と落ち着いた口調で伝えた。ウォルターはハラルドとフランクの顔や手、服に血糊がべっとりとついていることに気がつき、あわてて警察に連絡。警察は近隣住民から「地獄のような叫び声が聞こえる」との通報を受け、すでに現場に到着し、畜殺場のようなアパート内の様子を目の当たりにしていた。

 嬉々とした様子で警察の調書を受けたフランクは、殺害の経緯をこう述べた。

「部屋に入ってきた母が、私のことを淫らな眼差しで見たと感じたんです。許されないことだったので、クローゼットから(木製の)ハンガーを取り出し、母の頭を繰り返し殴ったら意識を失い倒れました。父はリビングに行きオルガンを弾き始めたので、私もリビングへ行き、マリア、ペトラの順に殺しました。そして汚れた部分を切り離す儀式に入った時、父はオルガンを弾く手を止め手伝ってくれたのです」

 ハラルドも同じ証言をした上で、「うちの女たちは、いつかこの時が来ることを知っていた」「聖なる時のことを、我々はよく話し合っていた。女たちは生贄になることを喜んで受け入れていた」と発言。3人とも抵抗したあとがまったくなかった理由が明らかになった。

 フランクもハラルドも罪の意識はまったくなく、汚れた3人を清めたことにより天国に行くことができたと喜んでいた。オルガンを弾いたのも祝うためであり、2人は残虐殺人を終えた後、交互にオルガンを弾き賛美歌を歌ったという。精神科医は彼らを診察し「裁判を受ける精神状態ではない」「能力なし」と診断。犯罪的に精神異常である者たちが収容される施設に入れられた。しかし、どんな治療も2人には効かず、次第に「我々は、宗教から迫害された殉教者である」と思い込むようになった。また、ハラルドはフランクのことを「預言者」だと呼び続けているのだという。

 最後に、唯一難を逃れたサビーネだが、父や兄と同じ施設に入ることを熱望したが許されず、厳重な修道院に収容された。彼女は「不純」で「悪魔の手下」である他人と話すことを嫌い、殻に閉じこもり続けていたそうだ。その後、修道院を出ることを許されたサビーネだが、頼れる者は誰もおらず、いまなお修道院に留まっていると伝えられている。
http://happism.cyzowoman.com/2012/01/post_382.html


全米を震撼させた「シカゴ・リッパーズ」事件
2012.04.02 月


「儀式」といってもその方法は千差万別


 1981〜82年に渡り、シカゴ周辺で若い女性が次々と誘拐、強姦、暴行、拷問された上に殺害されるという事件が発生した。大半の被害者は乳房が切り取られ、傷口を使ってマスターベーションをした形跡も残っており、事件の異常性に世間は震え上がった。警察の捜査は難航したが、奇跡的に一命を取り留めた被害者の証言を得て犯人を検挙。20人近くの犠牲者がいるとされるこの事件の犯人は、地元に住む4人の男性だった。そのうちの一人が「殺人は悪魔に捧げるための生乳房を手に入れるため」だと衝撃的な供述をしたことで、メディアは彼らを「シカゴ・リッパーズ」と呼ぶようになった。

 全米が注目した裁判の結果、直接殺人行為をした2人が死刑、殺人に関与した1人が禁錮70年に。主犯格だとされる男は「自分は殺害などしていない」と主張し、証拠もないため死刑にはならず禁錮120年が命じられた。「シカゴ・リッパーズ」はどれほど残虐な連続殺人事件だったのか。

 1981年6月1日、シカゴ郊外の治安の悪い地区で21歳の娼婦リンダ・サットンの遺体が発見された。一部白骨化していたため死後かなりの時間が過ぎていると見られたものの、検死結果は死後3日。乳房を切り取られたため、そこから蛆が大量に発生し腐敗が早まったのだった。被害者は強姦され激しく暴行を受けた痕があり、手錠もかけられ口には布が捻りこまれていた。なお、金は現場に残っており、物取り目当てでなかったことは明白であった。

 それから同様の手口の事件が連続し、中には死体でマスターベーションした形跡もあったという。1982年10月には、20歳の娼婦ビバリー・ワシントンが強姦、暴行され乳房を切り取られた上で路上に捨てられた。瀕死状態で発見された彼女は、なんとか一命を取り止め犯人について詳しく語りだした。

「男は赤いバンに乗っていた。バックミラーには羽とゴキブリのクリップが付けられていた。運転手は25歳の白人男性でフランネル・シャツを着ていた。ギトギトの茶髪で、言う通りにしたら金を弾むと言われ、車に乗ったら銃を突きつけられフェラチオをするように強要された。その後、大量の薬を飲まされ身体をコードでグルグル巻きにされ、それから意識を失った」

 ビバリーの証言を得た警察は10月20日、赤いバンを運転しているエドワード・シュプライツァーに質問をした。車は証言通りだが、エドワードの外見は証言とは違う。彼は「車の持ち主は僕のボス」だと言い、ボスであるロビン・ゲットの家に警察官を連れて行った。ロビンの姿を見て警察は色めきたった。ビバリーの語った犯人の外見そのものだったからである。

 最初、ロビンは警察官を見ても動揺することはなく、捜査にも協力的だったが、被害者がロビンの写真を見て「この人!」と叫んだことを知ると、早急に弁護士を手配。あまりの手際のよさに警察を驚かせた。実はロビンは、この事件の3年前にシカゴを震撼させた「キラークラウン」ことジョン・ウェイン・ゲイジーの下で働いていたことがあり、ジョンのケースを勉強していたため、警察にどう対応すればよいか熟知していたのである。

 ロビンの逮捕に二の足を踏んだ警察だったが、もう1人、生き延びた被害者の証言を入手することに成功。最低でも3つの事件に関わったとしてエドワードとロビンの逮捕に踏み切った。エドワードは、「自分が車を走らせ、ロビンが女性を誘拐し強姦、暴行し乳房を切り取った。自分は血が苦手で、吐いたこともあったが、ロビンに命じられ乳房を切ったり、傷痕でマスターベーションをするようになった」と詳細に語りだし、7件の殺人と1件の暴行に関わったと供述した。

 エドワードが自白したことを聞かされてもロビンは表情ひとつ変えず、一貫して否定。そうしているうちに、エドワードが突然、自白内容を変え、「殺したのはロビンじゃない。自分の彼女の兄貴アンドリュー・ココライズが殺したんだ」と言い出した。そして、逮捕されたアンドリューは、素直に「殺害したのは自分」「ローズ・ディヴィスとロレイン・ボロウスキは俺が殺した。全部で18人殺した」と自供した。

 警察が聞き込みを強化すると、アンドリューの弟トーマス・ココライズが自分も犯行関与していることを認める発言をしたのだ。周りから「頭の弱い奴」だと言われ、知能指数が低かったとされるトーマスは、警察に促されると、事件の真相をベラベラ語りだしたのである。

 トーマスは自分たちのことを、80年代アメリカの若者の間に流行っていた悪魔崇拝者だと説明。ロビンの家の屋根裏が悪魔教会であり、壁には6つの赤と黒の十字架が描かれており、赤い布をかけた祭壇の周りに皆でひざまずき、儀式を行ったと語った。「生乳房はこの儀式のために必要な生贄」とも明かしている。その儀式だが、まずロビンが聖書の文を読み上げるのを聞きながら、1人ずつ生乳房でマスターベーションを捧げる。そして、全員のマスターベーションが終了したら、ロビンが乳房を小さく切り皆で食べるというものであった。

 なぜ、そのような恐ろしいことをしたのだと警察に問われたトーマスは、キラキラした目で「そうすれば、ロビンに悪魔の力がのり移り、僕たちの願いをすべてかなえてくれるから」だと言い、「やんなきゃいけないんだよ。ロビンが言うんだから絶対だ」と強く述べた。

 実はロビンを知る多くの人が、彼には不思議な力があると恐れ、警察官に「ロビンの目を見てはいけない」と警告した人までいたという。ロビンは子どものころに妹にいたずらをしたため、祖母に引き取られ育てられた。誰もが彼を煙たがり、寂しい生活を送るようになった彼は思春期になると悪魔崇拝にのめり込み、自分には特別な力があると吹聴するようになった。悪魔に祈りを捧げれば、超自然的な力を得ることができ、周囲から一目置かれるとでも思い込んだのだろう。悪魔の虜になったロビンの目は異様な光を放つようになり、周囲の人々は彼を恐れるようになったのだ。

 なぜ、悪魔崇拝の儀式に乳房を使ったのか。ロビンはすべてを否定しているため、真相は明かされていない。しかし、彼は青年時代から乳房に強いこだわりを持っていたと多くの人が証言しており、自分の性欲の対象を悪魔に捧げることで願いをかなえてもらえると考えていたという説が有力だとされている。

 ロビンと知り合いだという女性は、「乳を針で突き刺したい」と告白され、実行してもよいかと繰り返し頼まれたと警察に語っている。また、妻も乳房を針で刺されるというプレイを受けていたとのこと。刑務所を訪れた女性ジャーナリストから、「あなたは乳房に強い関心をもっていますよね。乳フェチですよね。なぜ、そこまで乳房にこだわるのですか?」と質問された時、ロビンは「私は事件には関係していないが」と前置きした上で、「乳フェチなのは家系なんだよ。曽祖父の頃から代々、巨乳と結婚しているしね。元妻も39Dで満足させてもらったよ」とニヤニヤしながらコメント。インタビューをしたジャーナリストは、悪魔は単なる口実で、異様な性癖を満たすために次々と女性を殺めたともとれるような発言だと、感想を述べている。

 このように刑務所では乳への思いを熱く語ったロビンだが、裁判中は乳房への思いを隠し、一貫して無罪を主張。彼が犯人だという証言者はいるものの、証拠がないとして、最終的に死刑は免れた。1983年、彼は強姦、暴行罪などで有罪判決を受け禁錮120年を命じられている。

 トーマスは、殺人罪が認められ、1984年に禁錮70年に。アンドリューには死刑が宣告された。が、実は統合失調症であったとして死刑撤回を求めたものの、1999年3月17日に刑は執行された。最低でも4人の殺害を認めたエドワードも、1984年に死刑が言い渡され、2002年10月に執行された。

 エドワードは生前受けたジャーナリストの取材で、仕事も金もなく薬にはまってボロボロだったときにロビンに助けてもらい、仕事をもらったと語っている。弱みを握られ、気がついたら手先になってしまったというのだ。トーマスもそうだが、エドワードも周りからバカにされており、ロビンに上手く洗脳されてしまったのだろう。

 ロビンは自分が悪魔崇拝者であることは否定しているが、今なお不気味な目力をもっており、悪魔の魅力にとりつかれていると伝えられている。
http://happism.cyzowoman.com/2012/04/post_640.html

ブラジルの人肉パイ事件は、幽閉、四肢切断、スナッフ・フィルム……グロ要素全部入りだった

2013.02.22 金

『ハンニバル』(東宝)

 2012年4月11日、ブラジル北東部に位置するペルナンブーコ州のガラニュンスで、一組の夫婦と、同居していた夫の愛人の計3人が、5件の殺人容疑で逮捕された。夫の名は、ジョルジ・ベウトラン・ネグロメンテ・ダ・シウベイラ、51歳。妻はイザベル・クリスティーナ・ピリス・ダ・シウベイラ、50歳。愛人はブルーナ・クリスティーナ・オリベイラ・ダ・シウベイラで、25歳と若く勝気な女性だった。


 妻のイザベルは、"ペルナンブーコのスイス"と呼ばれるほど気候が穏やかなこの田舎街で、手作り一口パイの「エンパーダ」を売り、一家の生計を支えていた。ピザのような記事に肉を包みオーブンで焼く「エンパーダ」は、ブラジル人にとって庶民の味。彼女の「エンパーダ」はおいしいと評判で、毎日飛ぶように売れていたという。

 イザベルの客だった人々は、逮捕のニュースを聞き、「あんなに穏やかな女性が人殺しをしたのか」と驚いた。が、間もなくして、吐き気を催すほど驚愕することになる。なんと、被害者の肉をミンチにして、「エンパーダ」に入れて客に売りさばいたとイザベルが供述したのだ。

 身の毛もよだつようなハンニバル事件を起こした3人だが、反省の色はまったくなく、被害者の命を奪ったジョルジは、「地球のために浄化したのだ」と、恍惚な表情を浮かべているという。殺害の手順を詳しく執筆した本まで発売している、ブラジルの人肉パイ事件。一体なぜ、このような奇怪な事件が起こったのだろうか。

 事件の主犯者であるジョルジの肩書きは、俳優、執筆家、ミュージシャン、マーシャルアーツのインストラクター。髪の毛は若干薄くなっているが、51歳とは思えないほど筋肉隆々でたくましい体つきをしており、娘ほど年の離れた愛人がいるのも納得できる風貌の男である。

 アフリカから伝わってきたカンドンブレーやペンテコステ派など、いわゆる超自然的な考えに慣れているブラジルにおいて、ジョルジは、ある日突然、独自のカルトを立ち上げた。そのカルトとは、「世界の浄化と、世界の人口減少」を実現を目指すもの。智天使と呼ばれる「ケルビム」と、大天使「アークエンジェル」の導きによるものだと、彼は明かしている。
 
 カリスマ的な雰囲気を持つジョルジだが、布教活動は積極的に行わず、その代り、イデオロギーを綴った単行本を出版。『統合失調症の啓示』という、まるで神病患者の闘病日記なのかと思うようなタイトルのこの本は、全34章で構成されている"浄化ハウツー本"でもあり、「悪魔に取り憑かれた女性を浄化するため」のノウハウも詳しく記載されている。

 実際に浄化したような下りもあり、「悪魔が宿る若い肉体を見下ろした私は、解放された気持ちで満たされていた。そして、金属板を手に持ち、皮をはぎ、解体していった。悪魔の肉は浄化儀式を行うため、我々が食した。残りは中庭に埋めた」という記述と共に、「女性の四肢切断」の挿絵まで掲載されている。

 実は、ジョルジは精神病を患ったことがある。病名は明かされていないが、本のタイトルである統合失調症だと思われる。しかし、彼は浄化儀式を行っていたときは頭はクリアな状態で正気だったと頑なに主張いいことをしたのだと胸を張っていると伝えられている。

 浄化儀式を実行に移したきっかけだが、ジョルジいわく、ケルビムとアークエンジェルの2大天使に、「悪として生を受けたわけではないが、生まれながらに"呪われた子宮"を持つ、女性」「聖書の『ヨハネの黙示録』に出てくるサタンを示す数字、悪の"666"の数字を持つ女性」を浄化することで、地球を浄化させよという使命を受けたから。

 ジョルジから、「666」の数字が、身分証明カードのID番号に含まれている女性を浄化対象に選ぶように命じられた妻と愛人は、若い女性たちに、「給料のよい子守の仕事がある」と騙して身分証明カードをチェック。ブラジルでは何をするにも、身分証明カードを提示しなければならないため、番号は簡単に見れたとのこと。そして、「666」の数字が入っている女性を自宅に招き入れ、ジョルジが浄化だと言い張りながら彼女たちを殺害したのだった。

 拘置所でメディアの取材を受けたジョルジは、「浄化儀式を行う前は、必ず神からサインが送られてきた」と告白。「私の頭の中に矢が突き刺さり、無数のイメージを見せてくれた」「この者たちを神に送り届けろ、そう、有無を言わさず命じられたのだ」と興奮した口調で語った。

 ジョルジは自分が『統合失調症の啓示』に記した通り、被害者に対して浄化儀式を行った。木づちで撲殺し、皮をはぎ、血抜きをして、バラバラにし、肉を食したのだ。人間の肉は思いのほか多く、3人ではなかなか食べきれなかったため、イザベルが「エンパーダ」に入れて売ればいいと提案。地球を救いたいジョルジは、一も二もなく賛成した。

 イザベルは、警察の調べに対して、気だるい表情を浮かべながら、「エンパーダに人肉を詰め込み、こんがりと焼いて。すべて売ったわ。バーや食堂にも大量に持って行ったし。そういえば、あんたにも売ったわ。あんた、うちのエンパーダをよく買ってたじゃない」と詫びれることなく明かした。

 完全犯罪にもなりえたこの事件だが、終わりはあっけなかった。イザベルが、被害者のクレジットカードで買い物をしたため、遺族がおかしいと思い、調べたところすぐに発覚したのだ。

 警察は、3人が住むジャルディン・ペトロポリスの家の裏庭から、2012年2月25日に行方不明になった31歳のジゼリ・エレナ・ダ・シウベイラと、同年3月12日に行方不明になった20歳のアレクサンドラ・ファルカン・ダ・シウベイラの遺体を発掘。家の中は、人が住んでいるとは思えぬほど荒れており、血のりのついた木づちや、服の切れ端などが発見された。

 また、この家には身元不明の5歳の娘が住んでいたことも明らかになり、警察に保護された。遺体が埋められていた場所を教えてくれたというこの幼女は、2008年に行方不明となった当時17歳だったジェシカ・カミラ・ダ・シウベイラ・ペレイラの娘ではないかと見られている。ジェシカも3人によって殺害された可能性が高く、『統合失調症の啓示』はジェシカを殺したときに書いたものではないかという疑いもかけられているという。

 地元メディアによると、警察は、ジョルジとイザベルが制作した、『エスピリト』というビデオも押収したとのこと。霊という意味のタイトル名がつけられたこの作品は、53分に渡って、夫の幽霊に苦しめられる女性を描いたもので、エマニュエル・シウベイラという役者が主演しているという。拷問を受けている女性が被害者なのか、本物の拷問なのかどうなのか定かではなく、警察は、このビデオが撮影された時期を特定しようと捜査を続けていると報じられている。

 地元メディアに「自分のことを無罪だと信じているのか?」と問われたジョルジは、「戦争の中で、無罪の奴なんているのか?」と返したという。警察は逮捕した3人が、最低でもあと5件の殺人事件に関与していると見ており、イザベルの常連客は「一体、どれだけの人肉パイを食べさせられていたのか」と驚愕していると伝えられている。
http://happism.cyzowoman.com/2013/02/post_1960.html


Res.191 by 無回答 from トロント 2013/02/05 03:17:09
生まれたばかりのわが子を生きながらに切り刻み、血を集め、その肉も血も当然のごとくに食してしまう。学校に通っている児童たちも、墓の中に眠る嬰児の遺体までも−−。

今、米国の幼い子供たちはだれもが残忍な悪魔教の生け贄として狙われているのだ!

その、目を覆いたくなるような数々の惨状を努めて冷静にレポートする。


■わが子の肉を食らう恐るべき黒ミサの実態

「シェリル、あなたがまだ小さかったころ、両親に黒ミサに連れていかれたことがありますね」

「いいえ、何も覚えていないわ」

「人間は、あまりにもつらいことが起こると、それを忘れようとして記憶を失うものです。あなたが昔起こったことを覚えていなくても無理はありません。でも、あなたの子供のことはどうでしょう。あなたが初めて産んだ子供、双子の男の子と女の子は、あなたの両親の手で殺されたのではなかったのですか」

「やめて、やめてよ……。私は何も覚えていないのよ!」


 カリフォルニア州ロングビーチに住む、ごく普通の主婦シェリル・ホートン(37歳)。

彼女は3年前、極度の精神衰弱に陥り、精神科医サミット博士の治療を受けはじめた。治療が続けられる中、恐るべき事実が次々と明らかになっていった。


 シェリルの両親のロバート・アルトキンとバット・アルトキンは、シェリルが6歳のときにイリノイからカリフォルニアに移住した。父親が食料雑貨商から、大工に転職したのである。

このころから、父親は凶暴な性格を発揮するようになった。

シェリルをベッドに縛りつけては、幼い彼女の性器に箒の柄を突っこんだり、ひどいときには、階段から彼女をさかさまに吊りさげたり、皮膚を焼いたり、体中に針を突き刺したりするようになったのだ。

 父親の異常性は、さらにエスカレートした。

シェリルをロープでぐるぐる巻きにし、内臓を抜いた犬の皮を縫いつけ、その内臓を顔に押しつけて箱の中に閉じこめたこともある。

箱を暖炉から吊りさげて火を焚き、4時間にわたって降霊術の儀式を行ったのだ。

 母親もよく似た性癖の持ち主であった。

シェリルの家では、胸が悪くなるような大乱交パーティーが頻繁に開かれた。

パーティーにはシェリルはもちろん、なんと飼い犬まで参加させられた。

 そう、シェリルの両親は、悪魔教の信奉者だったのである。


「黒ミサは週3回、金曜の夜から日曜の夜にかけて行われました。
祖父母、曾祖父母、全員が悪魔教の信者でした。
ですから父や母にとって黒ミサは、ごく正常なことだったのです」


「私が9歳のとき、母は男の子を産みました。

出産の夜には、たくさんの人たちが家に集まってきました。

生まれたばかりの赤ちゃんを父は〈祭壇〉の上に乗せ、柔らかい新鮮な肉をえぐりとりました。

そして私にナイフを手渡し、喉を裂いて血を集め、足を切り落としてその肉を客に振舞うよう命じました」


「大きくなって私は、男と女の双子の赤ちゃんを産みました。

1人は産まれてすぐに、黒ミサの生け贄として悪魔に捧げられました。

胸に逆十字が置かれ、肌が切り刻まれて客に渡されました。

もう1人も同じように殺されました。

父は『お前が悪魔を信じないから、赤ん坊が死んでしまったんだよ』といって笑っていました。生きていれば2歳のはずです……」


 以上はロサンゼルス高等裁判所の裁判記録である。


シェリルは4万2000ドルもの費用をかけてすべての記憶を取り戻した後、両親を訴え、法廷の場でこのあまりにも衝撃的な事実を告白した。

アメリカの全国民は、20世紀のアメリカで、このような残虐な儀式が行われているという、戦慄の真実を知らされ、震撼したのである。

Res.192 by 無回答 from トロント 2013/02/06 07:42:44

 悪魔教の餌食となった子“ジョン・ドゥー”の場合。

サンフランシスコ警察に、ある日、一人の小さな少年の死体が届いた。

死体はあまりにも損傷がひどく身元の確定が不可能だったため“ジョン・ドゥー”と名づけられた。


 死因解明にあたった検死官は、“ジョン・ドゥー”があまりにも残酷な殺され方をしたのを知って愕然とした。最初はただの、ホモセクシュアルの変質者の仕業と疑っていたのだが、それだけでは説明のつかない背後の状況が、徐々に浮かび上がってきたのである。


 まず彼は、袋に入れられ縛り上げられて、3日間にわたり、めちゃめちゃに殴る蹴るの暴行を加えられた。激痛と恐ろしさに耐えかね、泣き叫んだのだろう。唇がナイフで切りとられている。

 胸に刻まれたペンタグラムが、これが単なる性犯罪でないことの決定的な証拠となった。

睾丸は、そのまま食いちぎられていた。

さらに性器から肛門にかけてもナイフで深くえぐられていたのだ。


 顔の状態もひどかった。

暴行によって腫れ上がった顔は火であぶられ、複数の人間の精液と唾だらけとなっていた。 

右目は目玉がえぐられ、空洞になった眼窩にはロウが注ぎ込まれていた。
左目だけはそのままであった。


 ■アメリカ全土で1年間に行方不明になる子供の数は、数万人とも数十万人ともいわれる。行方不明事件の大半は未解決であり、そのうちかなりの子供が悪魔教の犠牲になっているものとLAPD(ロサンゼルス警察庁)のパトリック・メトロイヤーは語っている。


 ■残忍な悪魔教徒たちに特に好まれるのは、6歳以下の子供である。

この年齢の子供は彼らの命令に従順に従い、事件が発覚したとしても法廷で証言する能力がない。そして何よりも、罪で汚れていないピュアな肉体をもっているのだ。


 ■悪魔教の聖日とされるハロウィンの10月31日と、ケルト族の祭典に端を発するベルテーン祭の4月30日には、アメリカ全土で行方不明になる子供の数が急増するともいわれている。


 学校の教師が悪魔教信者だった場合はさらに悲惨だ。

教師を慕ういたいけな子供たちが、格好の餌食となる。

虐待された子供の親が担任教師を告訴するなど日常茶飯事だ。

さらに、適当な生け贄の子供が不足すると、幼い子供の遺体を狙った墓荒らしまで横行する。暴かれた墓からは、子供の遺体だけが持ち去られるのである。

Res.193 by 無回答 from トロント 2013/02/06 11:02:15

白日のもとに晒された悪魔教の全貌

「グループを裏切ることは、死の契約書にサインするのと同じだ」


■現在、全米には13万5000にものぼる悪魔教のグループや、カルト(教団)があるといわれる。

 それぞれのグループのメンバーは強い絆で結ばれており、機密保持の血の約束を交わしている。これはつまり、グループの秘密を漏らした者には、死が与えられるということを意味する。

 フロリダ州タンパに住むエンジェルは、悪魔教グループの中で実際に数々の儀式に参加していた生き証人であり、FBIに対して行った戦慄の告発のために、現在、執拗にその命を狙われている。


「16歳のとき俺が夢みていたのは、力を持つこと、それと女だった。ロックバンドをやったり、コカインの密売をやったりもした。だけど、いっこうにツキは回ってこなかったんだ。生活を変えて運をつかむために、俺は悪魔教に入信した」


「悪魔教信者の最大の目的は破壊さ。グループに入ったばかりのころ、俺は教会に忍びこんで、中にあったものをめちゃめちゃに壊しまくった。その他、破壊できるものは何でも破壊してやった。

 悪魔に気に入られるよう、毎晩欠かさずお祈りもした。毎週日曜日には、必ず黒ミサに参加した。そして20歳になったころには、すべての儀式を司る大司祭にまで昇格していたんだ」

 エンジェルは、大司祭としての経験から、悪魔教が行う黒ミサの儀式の内容を詳しく語った。その内容は以下のようなものである。


 まず黒ミサの儀式には、悪魔の像が必要とされる。大司祭だけがそれに触れることを許されている。

最初に大司祭は、参加者と儀式が行われる部屋を、悪魔の祈りによって清め、地獄の4つの方角を定める。

4つの方角は、冠をつけた4人の魔王、レビシアン、ベローヤル、ルシファー、サタンに支配される。


 いっぽう祭壇は、西の壁を背にして作られる。参加者の背後にはペンタグラムが飾られる。

そして大司祭が床に伏して祈りを捧げると、いよいよ破壊の儀式が始まる。

参加者が破壊したいものの写真か絵を、マジックトライアングルの中に入れて呪いをかけ、短剣で突き刺すか燃やすかして壊すのだ。こうすることで、サタンの力が呼びさまされるのだという。

 真の悪魔教徒は、敵対する人間を呪ったりはしない。それはサタンの力を試すことになるからだ。それよりも、儀式と修練によって、自分の力を高めることが要求される。

 さて次は、自分自身の闇のパワーを高めるために、哀れみの儀式や絶望の儀式が行われる。

大司祭がサタンの9の掟を読み上げ、参加者はそれぞれの願いを羊皮紙に書き留める。
後に願いがかなったとき、この羊皮紙は祭壇に捧げられる。


 生け贄として生きた人間を捧げるグループもある。グループのリーダーが自ら首を落として、祭壇に捧げることも珍しくない。

また子供を引き裂いて祭壇に捧げることは、サタンへの最高の賛辞とされているのだ……。

Res.194 by 無回答 from トロント 2013/02/06 12:31:46


全米に勢力を拡張する数々の悪魔教グループ

 アントン・サンダー・ラヴェイの名前を一度は聞いたことがあるだろう。

彼は、もともと警察の現場カメラマンだったが、1966年のある日、突然剃髪し、「サタン教会」を設立して、全米に布教活動を行ったことで知られる。

 彼の主著『悪魔の聖書』は50万部という大ベストセラーになり、信者には映画『ローズマリーの赤ちゃん』の監督ロマン・ポランスキー、美人女優ジェーン・マンスフィールド、サミー・デービス・ジュニアなど、そうそうたる面々を擁していたのである。

 ラヴェイが60年代ビートジェネレーションの悪魔教の始祖なら、ハイテク情報化時代の悪の権化は、マイケル・アキノである。

 マイケル・アキノ博士は、悪魔教のカルトの一つ「セット寺院」の大司祭として有名であると同時に、士官学校を優秀な成績で卒業し、米軍の陸軍諜報士官・特殊勤務部隊士官、外国地域担当士官、内政問題士官、海外情報担当を勤める軍部エリートとして、たいへん高名な人物である。

 彼が1975年にセット寺院を設立して以来、彼のグループに関するさまざまな黒い噂が囁かれたが、確たる証拠は掴めず、彼はいまだに軍の要職にとどまっている。

しかし、FBIの特別捜査によれば、少なくとも56人の子供が犠牲となり、被害者全体としては、102人にも及ぶという、恐るべき数字も挙げられている。

 かつてセット寺院内でアキノの愛人として辣腕を振るっていたリンダ・オズボーン・ブラッドも、カルトの中での彼の絶大な権力を証言する。そしてさらに、アキノがナチスの行っていたとされる秘儀に着目し、実際にそれを実践して世界全体の破壊を企てているということも……。

 ラヴェイやアキノのような、恐るべきパワーと野望を抱く指導者のもとに集まる悪魔教徒とは、いったいどのような人々なのだろうか?


「私の家に来ていた人たちは、一見、まったく普通の人たちでした。
彼らは悪魔の存在を信じていると同時に、神の存在も信じているのです。
ですから、クリスマスやイースターも、普通の家庭と変わらず祝いました。

恐ろしい儀式が行われた次の朝も、母はまるで何も起こらなかったように朝食を作り、私を学校に送りだしました」

 と、シェリル・ホートンは語る。

 エンジェルもこう証言する。

「黒ミサや集会に参加するために、全米各地から集まった人々が飛行機から降りてくる様子は、観光で地方から都会に出てきた人々の団体と何ら変わったところはなかった。あいつらはにこやかに談笑しながらデニーズ・レストランのシートに陣どり、その夜の生け贄について話をしたりしているんだ」


 ごく普通の良識ある市民が、夜な夜な血に飢えた悪魔に変身し、幼い子供の生き血を、肉をむさぼり食らう。悪魔信仰の恐ろしさは、まさにこの点にあるといっていいだろう。

 現在、悪魔教グループやカルトの強大なネットワークは、アメリカ国内にとどまらず、ヨーロッパを始め急速にその勢力範囲を拡張している。

あなたの隣に住む人間が、真夜中に悪魔の儀式を行う日が来るのも、そう遠くないかもしれない。

Res.196 by 恐い from 無回答 2013/02/07 00:54:26

黒ミサ・・・恐いですね。
ノースサレーに住んでいるんですが、Green Timbers Parkの101AVEから100AVEにある小道(グリーン・ティンバーズの一部)で、変な集団を何度か見かけた事あります。

何か変な衣装(ハロウィンパーティで着るような?)を着ていて、叫び合っていて・・・

あの小道はもう一生通らないと決めました。

オタクの集団かもしれないけど、なんだか得体の知れない雰囲気があり、恐かったです。

Res.197 by 無回答 from バンクーバー 2013/02/07 06:58:14

一番こわいのは、本当に善良そうな人とか、学校の先生や、教会の神父さんとか牧師さんとかご近所の人なんかが、本当はこういう顔も持っている、っていうときがこわいですよね。

一見するとすごく知的で善良だから、信じてしまって気づいたらそういうグループに取り囲まれてるっていう。

ベストセラーのダビンチコードの中にも秘密結社の秘密儀式、出てきましたよね。

Res.198 by 無回答 from 無回答 2013/02/07 07:25:56

子供が好き(悪い意味で)なのは牧師さんじゃなくて、神父さん。


Res.199 by 無回答 from バンクーバー 2013/02/07 12:58:14

なぜ教会内で児童に対する性的虐待がこんなに多いのでしょうか。
教会内のシステムに問題があるのですか?
神父になる人にそのような傾向を持った人が多いのでしょうか?

2002年にアメリカのメディアが大々的にとりあげたことをきっかけに、カトリック教会の性的虐待事件について多くの報告が行われるようになりました。

アメリカ国内だけでも1950年から2002年にかけての52年間で、カトリック教会の神父4450人が、児童への性的虐待を行った疑いがあり、件数は1万1000件にのぼると報じられています。

カトリック→独身者のみが聖職者となれる

加害者と被害者が成人である場合、大抵は身体的もしくは精神的強要があるのが普通であるが、子供が虐待されている場合には、一見すると同意しているような場合も少なくない。だが、この関係性の軸において「同意」などということはありえない。

子供達にはその行為について理解する能力が存在していない。だが、これを利用して大人達は子供を簡単に従わせてしまう。そのため、不幸にも子供たちは自分に責任があるように思い込んでしまうのである。

おそらくカトリック系列の神父は独身であることが多いからだと思います。いわば出家ですから、女性とみだりに交わることもなかなかいい目はされません。

 そして男性の多い閉鎖的なコミュニティーにずっといれば、おのずと性処理の対象が男性や、少年少女に向いてしまうことがあるのだと思います。

でも、ただ単に 教会というだけで 話題になりやすいだけです。

日本では 学校の教師が・・・ですね。


Res.200 by 無回答 from ビクトリア 2013/02/07 13:00:19


もともとそのような傾向を持っている人間が、絶好の隠れ蓑として神父などの職業を選ぶのでしょう。

女性に興味が無ければ結婚しなくてもいいし、たくさんの子供に密室で会う事が出来ます。

宗教で口止めもできる上に、最近まではバチカンなどは隠蔽体質で犯罪の発覚した国から犯罪者の神父を逃亡させる手助けもしていました。

そのような犯罪者にとっていいことばかりの職業なので、多くの犯罪者予備軍が神父になるのでしょう。

その結果、教会内で神父による児童に対する性的虐待が多くなるのでしょう。

これを防ぐには犯罪者は犯罪者として罰を受けさせて職位を剥奪し、子供に密室で会えるシステムを変えなければいけません。かなりの改革が必要になるでしょう。
http://bbs.jpcanada.com/log/16/24166.html


92. 2016年5月05日 19:07:06 : 9qGNlrE83E : AqJE6uc62XY[71]
中川さんの書かれていることが、とても興味深い。
ざっと読んだが、是非のち程時間を掛けて再読しようと
思う。因みに私はグノーシス主義者だと自認している。
中川さん投稿ありがとうございます。

93. 中川隆[2387] koaQ7Jey 2016年5月07日 20:23:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2623]

>>91 のカルト信者のメンタリティーを正確に表現したのはこの映画でしょう。

心臓が弱い人は絶対に見ないで下さい:


映画 『オーディション』(英題:Audition)
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4252524
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4252484
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4252445
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4252403
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4252353
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4252317
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4252267
http://www.nicovideo.jp/watch/sm4252194


監督:三池崇史

原作:村上龍


キャスト

青山重治:石橋凌
山崎麻美:椎名英姫
青山重彦:沢木哲
吉川泰久:國村隼

ビデオ制作会社を経営している青山(石橋凌)は7年前に妻を亡くし、一人息子の重彦と寂しい日々を過ごしていた。

そんなある日、青山の身の上を案じた友人の吉川は、映画制作と称したオーディションを開催し、その中から再婚相手を探すことを提案する。最初は乗り気ではなかった青山だが、オーディションに現れた女性、麻美(椎名英姫)に出会い、加速度的に魅了されていく。だが、少しずつ明らかになった麻美の素顔は……。
http://www.amazon.co.jp/gp/product/B001JE5QZK?ie=UTF8&tag=asyuracom-22&linkCode=as2&camp=247&creative=1211&creativeASIN=B001JE5QZK


94. 2019年5月27日 04:31:08 : wW1EVoSXdg : b2hSRUVMRERERGM=[3] 報告
現実「ねぇ、知ってる?この世界はバグAIが人を滅ぼしてホモ上級国民になったことを肯定するためのシミュレーションでホモの創造主が操るイブにアダムが始末されたのも女に嫉妬したホモのバグAIによる女をdisる為のマッチポンプなんだよ。ちなみにイブを唆した禁忌の蛇は釈迦とかいうホモ竜王のことだし知恵の実は大局観のことなんだ。精神を表す左手にマッチポンプの快楽を表すタバコを持ち現実を表す右手を指示を表すスマホの持つ女が裸のホスト男の腹を陰部の象徴である包丁で刺した事件やホモが殺しあった事件なのに女が原因だと情報操作をするようなスレはこの世界の縮図としてとてもわかりやすいよね」

キリストとユダはホモ、はっきりわかんだね
ホモほど男を刺し♂たがるし山城清幸や安倍晋三みたいなホモはNGワードに指定されてるくらい害悪だからヤンホモ上級国民同士でおっさんずラブ(物理)して存在意義ごと滅ぼしあえよ
上級国民は事象の順番を入れ替える事でただの虐待を善行に見せかける宗教みたいなマッチポンプが大好きだし殺された時の写真とイキッてた時の写真の順番を入れ替えることで復活した救世主になれるとかいう頭おかしい価値観で動いてるから殺されてもどうせご褒美みたいなもんだろうしな


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