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『心という道具の遣い方』を知ることの重要性
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投稿者 Air−Real 日時 2016 年 8 月 01 日 18:16:35: dsfJ1hAY0z6VI gmCCiYKSgXyCcYKFgoGCjA
 

(回答先: 言葉としての、絶対真理のひとつ、わかっちゃった!? 投稿者 お天道様はお見通し 日時 2016 年 7 月 31 日 21:34:39)

正直そうした風潮に安易に乗りたいとは、わたくしは思いません。
それもまた真実とするものとは異なり、歪曲された解釈を単純化した符号でしかないもののように思います。

反発心とするものをただくすぐることになるだけならば、それはそこに既にある対立の溝を深めるためのエネルギーしかないでしょう。

つまりその解釈もまた、あなたの一時の不満の捌け口により生まれた都合的解釈であり、同様の感情に揺れ動く人々へ対する煽りでしかないものです。これは何も感情的に対立した批判ではありません。冷静な客観的視点と理解してほしく思います。

私もまたそうした真理的理解に至らない者である癖に、口うるさい小言ばかりをいうようで大変失礼をしている気持ちもありますが、そうした考えはすでに大衆化されつつあって、それもまた人々の不満を煽り、煽られるがままにそこに乗じた人々が数をただ増やすようにして一般化されていくだけのものではと考えるのです。

そうして人々の感情に流されるようにして生まれた道理や道義的見解が必ずしも、望み期待された正しさにつながらないことは、冷静に見れば、ほとんどの人が理解できることであるはずです。

単純な符号が、眠れる大衆に対して功を奏するというなら、より本質的に目覚めを促す、その考えとは対照的な考えなり、価値観を提示することのほうが大事なのではないでしょうか。

人々が単純にも常にエネルギーの浪費行為、つまり有限とするエネルギーの消費行為にしか意識が向かないとするのは、意識的なエネルギーの捉え方に由来することだと思っています。

エネルギーは有限だとするわれわれに一般化された物理的見地による意識的な作用により、身体もまたその意識に準じた限定的な利用経路しか探り当てることしかできなていないのです。

あなたは幸運なことに、普通一般の価値観を飛び越えた感性をお持ちであると理解します。真剣に物事に正対しようとしておられる方だとお見受けします。ですが、ここでおっしゃるようなことはあなたの期待する深い理解にいたるものとしては見ることはできません。


単純に物事を掴みとることが真理に近づくことで大事というなら、私は希望を持って、
いまだ人はただ、「道具の使い方」がろくにできていないだけであると理解したいと思います。

人間の『心』もまた道具です。人の世の乱れは、そのあらゆる『道具の誤用』が目立っているということだと理解します。

つまり本来われわれの必要とする道具とは、破壊行為を主たる目的にしたものではなく、ただ健全と建設的な用途に向けてだけ存在するものだと考えています。知識とはその正しい道具の使い方と一体であり、そこにわれわれの心もまた育み、使われるものであるです。
新しいものが生まれれば、単に古いものはそこに姿を隠していくだけのことであるはずです。

これは、言行一致ならぬ『知行一致(陽明学)』、「知る」ことは「行い」と一体のものでなくてはならない、という考えです。
こうした考えはわたくしも独自的、または必然的に学ぶことになったもので、他人の受け売りをそのまま信じているということではありません。

そこに、心(意)とは人の建設的な意識の使い方によって輝きを見るものだということをただ知るだけです。


このことは、ただ耐えておとなしく我慢すればよいというような、昔ながらの押し付け的な説教を現代においてただ繰り返すといったものではありません。


人々は社会において、この『心』の使い方の本来の使い方、その重要さにいまこそ気づくべきです。

対面を気にする事で生まれる、差別視的要素が如何にして自分の中に広がりを持って生まれているのかを自ら問いたださなくてはなりません。

それらが期待と裏腹の、真逆の心の使い方、つまり『心の誤用』を生み出していることに気づき、そのことが如何にその人間の本質を覆い隠すものとなっていないのかどうかです。

人々は何か恐れを見るようにして、自分の本心から遠ざかろうとしています。
そこに対して、いまだ逃避を繰り返し、意識の眼が向いていない状況にあるのだと言えます。

その要因として、人々は過去に、自分たちが受け入れた価値観の前に挫折を繰り返し、そのことで起こる社会的な事象から自身の心が蹂躙されると感じることを何度も屈辱的に経験してきたということが挙げられます。
そこでは、恥の概念だけが大きく成長してきたということです。

われわれはそうした心の働きを自ら閉じ込めてしまうような、定められた人間的価値観というものに、みずから、がんじがらめに自身を縛り付けているのです。

それは自然な感性の発露を抑制し、敢えて不活性な怒りという溜め込んだ感情、または欲情のエネルギーの発散、解放の際にしか自らのエネルギーを感じ、活用できていないということです。しかもそうしたものは不自然であるために不活性で持続しない、石油のようなエネルギーの使い方しかできません。

つまり決まりきった価値観によってただ闇雲に感情の動きを不自然に制することは、自然で自由で活発な生命のエネルギーの働きを常に制限、抑制し、閉じ込めるものとして作用するだけなのです。

われわれの心の使い方とは、意識的エネルギーの使い方(現実とは自らの創造性を駆使して生まれているという真理を知ること)を理解するためにあるものだというのが私の理解するところです。

それは、本能の性質をただ縛るものでなく、その中で、人間として必要なことはそのまま生かし、建設的な望ましいエネルギーの取り出し方、洗練された使い方を理解することにあります。それが悟りといえるものであるような気がします。

対して自ら望まないこと、云わば不要なものと決別することができないのはなぜかも知ることとなります。
不要とするものと始終向き合って、対立して離れられないことほど、不要で無益で無駄なことはないはずです。それこそ不要なのです。

自己の意識を制限しないこととは、ただ自己の必要性に従うことだけであるのであり、それが抑圧されたエネルギーを溜め込まないことであるといえます。よって自己中心的といった言葉の誤解釈によって起こるような、懸念される犯罪心理など、当然不要で、そうした学びの中では、なんら不安な心理とはただただ不要なものでしかないのです。

何か正しいことがあるのだと信じたい、とする考えの歪さほど、不要なものをただいたずらに自身の心中に巻き起こします。

われわれはそれらこれまでの人間的態様、不自然な意識の有り様を踏まえて、本来の自然な感性にしたがって、新しい社会的要素を基盤、またその基礎から作り上げる必要があります。

われわれはこれまで、そうした人間的に普遍化するとみた価値観のもとで、頭に理解されるだけの『人間的な生き方』を生み出すことだけを余儀なくされてきました。そこに専念してきた人の一本気なあり方を単純に正しさとして理解の定着を見たことに、ひとつのわれわれに必要な学びも確かにあったと思っています。

しかし、そこには同時的に、本来生命に付随するはずの、本能に即した身体の健全さも失われてだけいったということになります。
当然、以降、人々は価値観というものに振りまわされ、限定されたエネルギーの使い方だけをそこに学ぶことにもなっていきました。
それは期せずして、自身が限定的なエネルギーの解釈それ自体に身動きが取れないように閉じ込められてしまうということになります。

そこでは当然、肉体より上位であるはずの意識(心)の使い方も必然的に不自然なものとなります。

そこからは終わりを見ることなく、坂道を転落していくように人の意識は同じ毎日をただ繰り返すように同じ精神的場所へ縛り付けられていくはずです。

ゆえに、われわれは過去から連綿と変わらず、いまだ本質的な部分で、苦しみもがきつづけているのです。

これは、その苦しみとするものをただ敵視し向かい合い、それでいて遠ざけることだけといった逃避の為に意識的なエネルギーを(不活性なものに転換して)費やしてきたということができます。


あらゆる「道具」がろくに使えないとする状況を招いているのは、この「心(意識)」の使い方の誤用にあると見ます。よってそれは改善することは可能です。


過去にはそのことをすでに理解していた人々がいたことを存じ上げておりますが、今日ではそれもついぞ途絶えて、人々はそこから再び、ただ古い認識から何か限られた糧だけを汲み上げるようにして、常に何かと対峙し、そしてまた逃れるようにだけして、この現代まで生き延びてきたことのように感じています。

そこでは、残念ながら、より簡単にそうした苦しみから逃れる方法、そのことだけを享楽と理解し疑うことなく、ただ癒しと救いを自身の意識の外側とする架空の隔離空間へと見出してきたというわけです。

そうした意識の遣い方による働きが世界中で起きつづけているということは間違いなく言えると思います。

そうした意識が、われわれの物理体系をどう維持し、支えているのか、意識的な影響とはゼロではないのです、というより、多大な影響を与えています。そしてそれはどちらが先ということではなしに、われわれ自身に対して同時に起こしている、ということが言えます。

敢えて理解されない事を前提に言うなら、制限され、閉鎖的なわれわれの物理体系とは、われわれの意識の参画によるものです。

われわれの意識はまた、それぞれ個人の人体内だけに留まり影響するものではなく、自由なエネルギーの流れの中に組み込まれています。
われわれの物理的見地によるところにて知る、閉鎖的な空間体系、物理的枠組みとは、そうした意識の成り立ち、発生的根拠を要因として作り出され、維持されているということと理解しています。


われわれ人間の存在とするもっとも中心に軸としてあるのは『心(意識)』で、人類にはいまだその存在意義すらよくつかめておらず、よってもちろん使い方などわかってはいないものです。つまりあらゆるものは使い方次第である、という言葉を頭で理解するには至っても、肝心なその働き、作用をどのように使うべきか、そこへ対する意識的飛躍が阻まれているのです。

すべては自身が生んでいることへの気づきだけが必要です。

よってわれわれは自己の感性を改めて感覚的に捉えなおす必要があると思っています。

われわれが馴染んだ人造的で機械的な価値観は、われわれをただ分解して成り立つものとしか認識することができません。

われわれはひとつのものなのです。すべては愛すべき存在の片割れであり、存在の大いなる働きの一部を担っています。
その意識が必要なのです。


私が何よりいま、大切なこととして思うのは、私たちは社会において、素直に良いものに感動し心を開く、という、心を育む環境を得ることです。

そうした根本的な気づきがまったく足りていないことにより、社会を自分たちの想いの力で生かすことができていない、ということと知るからです。

つまり人は人前で自分の本心を覆い隠すように、常に自身に働きかけているということです。

それは人々の脳裏に、”そうすることが自分の身を守ることに繋がる”といったような観念的な理解が常に優位性を保つように支配的な価値観が社会に蔓延しているからです。

本当の心の遣い方ができていなければ、人は外部の価値観にただ流されるだけになります。

道具の使い方を知るということは、道具を愛するということが基本です。

それができていなければ、体の使い方、意識、または感性の使い方、お金の使い方、すべてに「できていない」と言えます。

感情や想いとするものに人が引きずられやすいのは、それは、自分の心の置き方、つまり心意(意識)の遣い方によるものです。

そこに何より重きを置くということを通して、人の感性をただ開くという、そのための知恵が私たちには必要なのです。

これはわれわれの物理的知見であるところの科学的な論法や、理論的な考え方では解釈に至らない部分であると思いますが、ともかく、意識が先で物質(形)は後です。

意識あるものに形がのります。

われわれの手にした知見による解釈が正しかろうが間違っていようが、われわれがそこに理解し定めた運動法則に従うということは、意識的にわれわれはそこに乗ろうとすることなのです。

そのことによって、その物理的視野を手にし、なんらかの形で自分たちの生活、または経験、気づきを得るために役立てようとします。
そのこと自体なんら間違っているということではありませんが、気づいたならば、改善、または望ましいと理解する方向へと切り換えることが必要なはずです。

作られた出来合いの流れにただ乗るのではなく、より具体的に自己の性質に、自らの意識になじむように物事を作っていけばよいだけです。

われわれは意識そのものです。

何もないところに閉鎖的な物理体系による空間を作り上げて、それを維持しているのもわれわれです。

そこに限定された能力をもってわれわれが存在するのも、われわれが限定的な価値観にいまだ乗っているからです。

そうした場もまた、より自由なエネルギーの流れがその背景に広がりを持って存在します。

われわれの意識と連動した意識の永遠無限性は同じひとつの背景に存在できるものです。


私の方に至らないことがあるとお思いであれば、それもまた直に言葉にして返してくだされば結構です。それもまた私にとって何にも変えがたい価値を秘めるものとしてありがたくただ感じ取りたいと願っています。  

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コメント
 
1. 2016年8月05日 08:16:48 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[279]
フレミングによれば
物理力(力点)支点(バランス力、磁力)作用点(心?結果の分散?力)と、既に看破
されているのだが。

てか、「心」ただの作用でこそあれ道具なんかじゃあり得ないし。つか、
道具としての使い道もない。道具いうなら、心と云うより、「思想」。

そもそも、真理に於いては結果としての分岐作用に過ぎない、フワフワ幽霊みたいな
「心」なんぞ基より要らないよ。


因みに、思想>力学とマインド(物心)<力学については、一応分けて観る必要がある。


2. 2016年8月05日 08:29:30 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[280]
つまり、思想ならまだしも(自然と個を超えた)は力学(というよりその制限枠)
に影響をもたらしうるが、
浮遊するのみの「個の心」は、力学を曲げる(これは妄想だがw)はおろか、
なんらの影響にも能わず。

道具というよりは、唯の処分に困るガラクタに過ぎない、だね。


3. 2016年8月05日 08:37:21 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[281]
こういうこと言ってると、時たま私を「サイコパス」扱いするもんが
出てくるんだが・・・

ま、一緒にすんな、って感じ。。


4. 2016年8月05日 08:52:49 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[282]
幽霊なんかに例えずとも、

刻々と姿を変える「雲」は捉えることができない。

「雲」が空気中の窒素水素酸素二酸化炭素その他気体元素及び気流で
(もしかしてプラズマも?w)構成されていると看破したところで、或いは移ろい行く
それの一瞬の姿を捉え写真に映し出したところで、、

雲の実体を捕まえたことにはならない。

心とて、同様。

故に、だからこそ、こころも雲も、美しい、

言えるのだ。


5. 2016年8月05日 09:10:47 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[283]
あ、と。
ヘリウムの存在忘れるとこだった(とアヒル声、。笑)。

遊びでハーモニーの気体に期待は要らないよねえ。


6. 2016年8月05日 13:50:53 : 9sYxGpTMNs : S1aZy@7yl@8[1]
投稿者さんと>1から>5のコメントさんに何ら矛盾はないだろw
こころの定義が違うだけ
思想てのは唯識的に言う六識(脳)が作り出した道具だわ
これをもって七識(潜在意識)のガラクタをお掃除すんだわ
畢竟、道具もお掃除されるガラクタもエゴの派生物てこと。
つまり総称してこころなんだわ
役目終えたら道具も始末せんとなww

7. 2016年8月06日 06:23:14 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[285]
>06
その通りです。当然いつかは、耐用年数を超えれば「思想」という道具も
始末されます。唯の心に戻るのだから。
上のスレにも書いた、いつかはエネルギーも只になる、
という道理と同じく。

しかし、個に属する「心」という実体なきものは、そもそも道具たりえない、
むしろ、道具を使って除去しなければならない障害(崖崩れ等の自然災害の結果、
道を塞いだ岩の如く)でしかあり得ない。


8. 2016年8月06日 06:27:10 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[286]
定義というよりは、総合性やスパン認識の違いでしょうね。

9. 2016年8月06日 06:51:51 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[287]
因みに私は、首尾一貫していないものを、
「思想」とは呼ばない。

例えば昨今を賑わす「日本会議」のように、
思惑がずれるもの、既に論理破綻をきたしたものは、思想というより、
個々の感情的思惑(心)の寄せ集め、長く続く不況や311などで、
ぽっかり空いた心の穴を埋めるための思い付きナンチャッテ思想の類である。

それに引き換え、寿命は尽きかけてはいるがマルクス主義などは、
立派な思想と呼べるものではあろう。
なんといっても世界的で、一世紀半以上続いているものである。


10. フリエネが大正解[341] g3SDioNHg2yCqpHlkLOJ8A 2016年8月06日 08:03:33 : hCLYTRayTQ : V2e5aAlaSmo[3]
競争社会、しごきや体罰、博打は、今すぐ廃棄廃絶すべきで
そんのもんはこの地球上にはいらない!!!!!
そんなもんが欲しいのなら今すぐとっととこの地球上から出て行け!!!!!!!!!!!!
もう無条件で、本格フリエネ装置を、科学の知識がなくてもできるように
作り方を、ぜーんぶオープンソースで公開してクレヨン!!!!!


11. 2016年8月09日 09:12:58 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[288]
>10 フリエネさん、、

仰りたいことは解ります、というかまさしくご尤も。
で有れど、生きている間の成果を焦り、欲すれば欲するほど、敵に塩を送る結果に
なってしまうのです(痛し痒しもいいところ)、、。

つまりは自身の生前死後含め信頼込みで、長い(魂の)生存スパンに、
賭けて見る他ありません。
ですのでどうかごゆるりと、その信念を保ち、後代へ信頼を委ねるべし、
生きている間は、どうぞ無理のない範囲の啓蒙活動を続けて参られば、と。

(とは言え、あなたが生きている間に、貴方の立ち上げた革命が同胞を得て
実らないとは限らない)!というか、本音言えば、頼んます!!(つまり、その
公約掲げてあなたが本気で立候補するのであれば、必ず投票します)。

でも娑婆には、色々と、ね・・・・・、、、


12. 2016年8月09日 09:18:04 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[289]
つまり、他人に頼らずフリエネさん自らが立候補するのであれば一票。

13. 2016年8月28日 16:44:20 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[295]
>6
心そのものとは無限性を根拠としている。

一方、「価値観」の根拠となる思想概念というものは、視線を無限性を解く方向にではなく、限定されていく方向へと投げかける。ここに直線を結ぶ方向性の対立が見られる。これは無限性の中では意味を持たない。

このマスト(限定)的な思索を生む考え方は、心の使い方により生まれたものだといえるが、それをわたしは誤用だと述べている。つまり心そのものではない。

わたしは「意識的な心」そのものの「使い方」に言及しているのであり、心の誤用によって何が生まれたかを人々が知る今だからこそ、そこにやがて芽吹くものもあるだろうと期待しているといっているのである。

われわれは生身の人間として存在するが、そのわれわれはその肉体という道具と一体化して存在する。

しかし人々は、この肉体という道具の奥深さをまったく理解していない。それは心の使い方がわかっていないからである。よって使い捨てのカイロのように考え、如何に硬くしないかだけを考えて、硬くなったらあとはただそこから離れることばかりを考えている。それはくだらない知識や思想、懲り固まった価値観というものがそう判断させるのである。

だからまともに立つことも、よって歩くこともままならないということになる。
現代の大半の人は自身の体の使い方をわずかもわかっていない。自らを苦しめることしか学んでいない。

それは心についても同じで、道具というものは使いこなそうと向き合うことでやがて自身と一体化させるまでにいたる。そのとき、道具、そしてそれを扱うものはよい働きを見せるのである。しかし、あくまでそこには、そのものの心(意識)の使い方が表れているというだけである。

これは「痛みというものは、その痛みから離れることを教えるために存在する」というように、意識、心の使い方によって自らにだけでなく、周囲のすべてにその影響を投げかけることとなる。それは目に見える行為として存在する以前にすでにそうあるのである。あくまで、心としての意識の使い方は自然とともに一体となって存在する。
まず己がそうでなくてはならない。
道具をいつくしみ、その体が動きたい方向に解き放ち、動かしてやるには、無限性の自然と向き合う開かれた心ができている必要がある。不安なき心。恐れなき心である。これは思想やくだらぬ価値観によって、体がそうした畏怖の対象と対峙して、そこから意識が離せなくなってしまうということとは違う。その真逆である。集中して固まってしまうことではなく、ひとつのことに没入してしまわないように、物事をひとつの価値観にて捉えないように、「集中しないということに集中する」といったことである。
心の対応が無限性に集中して開かれていることによって、道具もまたそこで自然といい働きをするということである。

価値観や思想は自分が自由になるのをただ阻害するだろう。
人間は、そうして心の誤用によって生まれた副産物を通して、かなり迂回して必要なものが何かを知ったのである。副産物と嫉妬や羨望、所有欲、戦争といったものである。

苦しみや痛みといった経験、そこで自分にとって不要なものが何かを知ったなら、速やかにそこから立ち去ればよい。
それができないのは思想やくだらぬ価値観に雁字搦めにされているからだ。

そしてまた、人々は心という道具をそのように扱うことを知ることで、新しいもっとより自然な感性にちなんだ社会を作ることができる。
わたしはそこに期待するといっているのである。
そしてまたその方策の基礎となるものは私の中にある。

話をしたところで何の役にも立たない話をするつもりはない。
私の話したいこととは、彷徨うか様酔うだけの飲んだくれた人間の話と一緒のものではない。
(イースタンユースの歌詞より引用)


14. 2016年8月31日 11:15:03 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[322]
私は道具だからという理由だけで、一々後生大事に慈しんだりしない。
道具(やそのメイカー)のクオリティ如何によるが、一般的に100円ショップで買った道具が
いかにお役立ちだろうが(普通、その類はハードユースすればする程
寿命短し)なので、壊れればハイ有難う、さようなら合掌、ポイ、である。

その方が、百均道具に対しては礼儀に適っているからだ。

私は心であれ思想であれ、そのクオリティ(質、実用性、耐久性)を挙げる。

価値観=思想、だから道具なんていう定義は、二次元的レッテル張りに
他ならない。

「思想」とは汎用性が高い、大勢が金を払う価値を見いだす、
つまり一般的な定義としての「心」
と比べれば、遥かに実用性耐久性共に優れたアート、職人技。

なんでピカソやガウディが、優れていると評されているのか、だ。


15. 2016年8月31日 11:26:58 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[323]
繰り返しいうが、日本会議の右翼思想?w
だか何だかは、私の定義では思想の内ではない。

だからと云って、一応敬意はあるものの、別にマルキシストでも何でもない。

ウヨが威張ったところでせいぜい百均の「ナンチャッテ匠の鋏」程度のもんじゃ。


16. 2016年9月02日 03:45:19 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[324]
貴方の云う無限性とは、誰か何か(の権利、命、存在etc,.)を侵害することも含めた、
「何でもアリ」性

の事だ。

それこそ今、「日本会議」らが現状、現在行っている、という。

無限の侵害、無限の投影、無限の破壊、、、
過去傷ついた誰それのプライドの挽回の為には、

どんな無茶苦茶でもオール万歳!ということかね?


17. 2016年9月03日 05:51:17 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[327]
貴方は、「心」という薄利多売(つまりせいぜい百均)道具に、
自然な感性に因んだ社会、ということへの、「期待」があると云う。

いかんせん、唯の「商売道具」。

その営み自体を否定するべくもないが、そもそも「期待」こそが眉唾なのだ。

期待とは(たまに、つまり本人の意志として真に望んだものである場合、
に限るがその者の高い目標へのエール以外)、
「不自然且つ無理な一方的な他者への願望即ち圧力」と、訳されるべきもの。


18. 2016年9月03日 06:07:46 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[328]
更に、個の肉体とは、神様が一方通行で使って良しの「道具」でこそあれ、
「個の心」に宿る或いは属した道具とするには、余りにも高スペック過ぎる。

自身の肉体を、心(自我)が使役するなど、あり得ようか。

肉体心含め、あなたのマスターは、「あなた」ではない。


19. 2016年9月03日 06:25:43 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[329]
私の心も私の肉体も私のものでも、当然あなたのものでも、ない。

20. 2016年9月04日 00:11:30 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[296]
>6

あわせて書いておかなければならないことは、「わたし」という”存在”を何と定義するかはとりわけ重要であるということ。

我々は「肉体」という「ツール」と一体化して生まれているように思えるが、それらはあくまで、道具と「道具を使う立場」とに別れて存在する。

それは「心」とて同様。

それは一方、”我々とは個別に存在する「個体」の寄せ集めとして存在する”のか、それとも「そう見ることができるが実はちがう」のかに関心を寄せ、できれば自分の頭で考えてほしいということである。

今の人々が自分たちを何かしらの出来損ないのように捉える事からすべてははじまっているからである。

「それぞれはすべて全体の一部分をなしているに過ぎない」と捉え方を受け入れることが果たしてできるかどうかということ。

この捉え方の違いは意識的なスタンスの違いになる。変化を期待したいということ。
その違いは両極といえるほど大きいものであるがゆえにこのことは重要である。

人間的な価値観の発想の出発点としてあるのは、自分をいつまでも「ひどく無能で小さなもの」と見ることにある。つまりあらゆる分離の溝に囲まれて「わたし」とは存在するのだという「思いこみ」にある。

これは「思う」のだから「思い込み」である。しかし、これを事実だとしているところに難点があるのだということ。

一切の思い込みを捨てるということから始めるべきである。我々は捨てるということができない。だから拾うものもない。

人間的な価値観によるこれら思い込みは低俗でばかげた発想しか生まない。それらは劣等感、感情的ないざこざに発展する。差別を生み、それらを乗り越えようとする正義、努力、哀れみ(永遠に抜け出せない差別)をも生む。人間的な価値観とはそうした思い込みのガラクタの山だ。

なんらそうした括りに縛られないというところからスタートするかしなければ、私の言っていることはわからない。そして心の使い方も。

物質的な体の使い方に長けている者とは、その道具と”一体化”している者をさす。逆に、思想的な存在を示す者は常にそうした道具から一定の距離を置いている。継続した魂の輪廻の間にそうした癖を身につける。どちらもバランスが取れているとはいえない。

みずからを意識的な存在としてみる機会に出会ったとき、肉体や心と「わたし」の関係とは、あくまで「ツール」と「使う立場」としての関係にて存在するということを理解すべき。
そこでは逆に、「私」という意識的な存在を分離した一個体の塊として見ることのほうが難しいだろう。このことは、肉体的な制約から抜け落ちたとき、誰もが気づくこと。そこで自分を自身で縛っていたということも丸分かりとなる。そこで、さまざまな人間的価値観、思い込みなどによって自分をそうした観念体系と同体化させ、わざわざ社会的な概念などにいちいち参照し、定義された存在として「私たらしめよう」としてきたにすぎないことがわかるだろう。「私は社会人である」「私は母親である」というように。しかし、そんなことはなにも死んでからでなくとも、今ここで解っていてよいことだ。

心の使い方を知る、とは、そうした観念的なものに没入してしまわないためのものである。そこであくまで自分を道具を使う立場と自覚し、その本質を見失うことのないようにするということである。他社もまたそのようにみなすということである。
「思いやりをもとう」などと偽善でばかげた価値観に踊らされれば、ACの宣伝同様場か同然となる。そこに進歩発展はない。

よって自分の心を馬鹿にするものは自分を馬鹿にするも同然であり、当然他者を蔑視し続けるも同じ。その逆もしかり。そうなれば、そこにあらゆる解決の糸口は永遠に閉ざされる。

思想などの価値観や観念的な縛りにほだされ感情的な自己の態度に自身がのっとられれば、そこに「道具を使う立場としての自分」など存在しないということになる。つまり「道具に使われる馬鹿」となる。ここは実に馬鹿が多い。小突いても気づかないようならもうそれは手遅れだからかまっても仕方ない。

「道具を使う立場」は、その過程で「道具に使われる立場」に降格してしまうということだ。「馬鹿とハサミは使いよう」という言葉にもあるとおり、特定の観念のとりことして足並みそろえていいように円卓上の思想のドラマの駒として使われるようになる。

「心」とは育むべき「器」である。勘違いすべきでないのは、心とは、”特定の思想に依存などしない”のであるということだ。

水がめ同様、中身が濁り腐ったら、それはただ常に川の水、泉の水で洗い流して清い状態にすればよいだけである。そしてその水とは鑑賞するためにあるのではなく、人を潤すものである。常にすがすがしく一定に潤った状態を維持していれば、その心は人の社会を潤した状態するための方策を教えてくれることだろう。

つまりそれは「ツール」としてみて、当然使い方しだいで、格別最高のものにも最低のものにもなるということである。そして、その扱い方を知ることで、自己的存在として成長するということである。よって心とは敬意と感謝によってあらゆるものと一体となるべくして存在するツールである。すなわちそれ自体、私自身にも感謝できるのである。
ただ、どこにいたとしても、そこを礼拝の場所として定め、自己の存在そのものに敬意を込め、頭を下げ、感謝しつくすことでである。


21. 2016年9月05日 08:22:53 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[330]
自らの支えとして、思想を抱き続けてもなんら問題ない。

右翼思想だろうが左翼思想だろうが唯物科学思想だろうが唯心宗教思想だろうがetc,.

それが固定観念、囚われとなった瞬間、完全に貝のごとくシャットアウトして
己自身の「心」に引きこもらない限り、
つまり、真っ当に社会<(and/or)全てのいのちと関わり直面する勇気を、
自らの内外のどこか、何かが絶やさぬ限り、
いつか「必ず」その思想(子宮内の卵膜にも似た)態が、
叩き壊されるor自然消滅する瞬間が来るからだ。

今は恐怖かもしれないが、唯の快感を超える「絶頂」の本体を、必ず識ることとなる。アーリエルさんは「我」誘導なので話にならん。

彼は心優しく、貴方/貴女を必要としているが、

私は心冷たく、あんたがた何ぞ要らない。寧ろ邪魔。だから、当然、
私を信じる必要などないさ・冷笑哄笑💙

アーリエルを信じた方がとりまお得なのは間違いないw

(大体ネット通しての初縁がなんだっつのwが、私見だが・笑)

あなた自身を選ぶかアーリエル某に導かれるかは、あなた次第。

なれど、アーリエル氏に導かれた方が、容易く幸福をゲットできるかも知れないね。

これ以上は特に言うことはなし、😊


以上です、ばい(笑)


22. 2016年9月05日 10:29:45 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[331]
詐欺師め〆

💎


23. 2016年9月05日 10:40:00 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[332]
要するに、私アーリエルさんに完敗しました。

今まで色々申し訳ありませんでした、あいさよおなら🎈


24. 2016年9月15日 19:21:11 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[298]
ある意味ではここに及ぼすほぼすべての情報は罪無き詐欺師の戯言だ。無知をいいことに誤情報を垂れ流し、混沌とした世界で互いを傷つけあい、そこに派生する泡を啜って生きている。
しかしながら、そうした情報過多の世界においてもそれら情報による影響というものは、自分自身で作り上げているのである。
それぞれ受け手に自身に対する責任の一切があるということだ。

よって教育とは、それぞれに自身を育て上げようという気概を持つことを先に伝え知らさねばならない。外からもたらされる情報を自らの感覚を用いて咀嚼することができなければ、それら知識に術理のすべてを理解することはできない。自らの感覚、器の使い方を養うことが何より自分を生かすための基本となる。
わたしは私の述べたいことを素直に述べるまでであり、それをどう利用しようとそこにはコミットしない。当たり前のことである。大事なことは摂理を学ぶ姿勢と眼にある。
既存の規範を如何に表面的に保つかということが重要なのではない。それを伝えるのみである。
そして人を傷つけてまで自分を守ろうとするより傷をつけられたほうが楽でよい。傷つくことなど恐れていても仕方ない。その恐れだけで人は死ぬ。傷などすぐ癒える。ばかげた算段だ。
自分の傷がいくらでも癒えないとするのは他者を癒そうとしないからである。


25. 2016年9月16日 03:36:10 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[337]
貴方は先ず、苦境にあり救われていないと感じていると「想定される」者に、
救いの道を示し、導いてしんぜようと何らかの期待を持たす。

だが。真剣に耳を傾けてみれど言ってる事は「自らを救えるものは唯己のみ」。

自らの内に尋ねれば、或いは聖書でもコーランでもトーラでも仏典でも、
はたまた神社の由来や能書きでも本気で読んでみればすぐ分かるような事を、
わざわざ婉曲に、そして宗教や精神世界リーダー的テクニックを駆使して、
わざわざ難しく且つ一見雅に例えながら「迷える子羊という役割」サイドを
引きずり回すことにて無理矢理成り立たせる訳だ。

特に高い意識は必要とされない。相互の獏とした孤独感、という裏打ちがあれば、
十分「おのが妄想を実現させる為の資金を作る」口実となる。
邪魔が入れば、己の不足分や目論見を投影すればいいだけの、「安し易し」
の、詐欺ビジネスだ。ま、よくある新興宗教やセミナー業界的洗脳テク(笑)


煎じ詰めればアーリエルさんは、
私があなたを救うことは出来ないが、自分にしか自分を救えない
という事実を教えてやったのだから、
その分のお代をよこせと言っているようなものだ。

寂しいからと言ってもお互い様なんだろう・・・
まぁ、引っかかる方も引っかかる方だがね。

それでも最後まで皆楽しいというなら、別に止めないケド。


26. 2016年9月16日 04:03:25 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[338]
因みに、私の存在で他者が癒されている(勿論その他者とはお互い様)事を、
十二分に感じ取っているのに、何故この上他者を「癒そう」などと
思い得るのか。全く要らん世話だ。

貴方がその成立に割って入り強いて傷つけるとか破壊する(つまり殴って撫でれば
同じ事、のようなマッチポンプ)、を試みないかぎり、安泰なわけだ。

殆どの者が(一見問題を抱えていそうに見えても)、そうだ。


27. 2016年9月16日 04:12:20 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[339]
>26
訂正 >殆どの者


>>貴方と、同病の輩は別とする。


28. 2016年9月16日 04:50:30 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[340]
>24の、後段を見直して思ったが。。


私は比較的教育を軽視する者だが、ひょっとして貴方は私を標榜しておらぬのかw?

ただし、
「その恐れだけで人は死ぬ」のくだりは、笑止千万(まさに笑い死に、に値する程
「馬鹿らしい」)。

その恐れだけで死ぬる者が貴方なのか、若しくは唯貴方の相手になる者の体なのか、、

いずれにせよ、「範疇外」だ。

・・・とまれ気付かないかな?
一旦却下した上でここまで書いた理由が、
「我の事情に非ず」で、あることに。

つまり、「私の問題ではない」


29. 2016年9月16日 22:06:17 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[301]
なるほど、あなたのお考えだ。お好きにしたらよいではないですか。ご自分の考えを持つことが大事なのですから、ご自分の考えを大事にされてください。

そうまでして守りたいものなど私には何もありません。あなたは私より数段上の高級な考えをお持ちのようで何よりです。そのために、私より守りたいもので満たされており、心配で不安で仕方ないとでもいうのでしょうかね。
少々あなたの申されている言葉が私の知っている言葉と違ってわからない部分も正直あるのですが、あなたが勝ちにこだわっているということはわかりました。

あなたが私に勝つことにこだわるとするなら、私はこの回であなたとの交流を切ることにします。あなたの所有欲を満たせるものが私にあるというならそれをお譲りしましょう。
喜んでいただきたいのですが、ほしいものがあるならそれをあなたにプレゼントしましょうと言っているのです。
そして私に敗者というレッテルを貼ればよろしい。お好きにすることです。

そうされたところで私は痛くもかゆくも、目減りするものも何もなく、私もこれで楽になれるというものです。

あなた自身よく気づいていないようですが、なぜあなたが私に噛付こうとするのか。ここでその理由も少しは理解されることを望みます。単純にあなたが正しく、私は間違っていると判断できる規範を私は所有したいと思いませんので、その判断はあなたにお任せするということです。

あなたが私に苦しみを与えたいとするなら、そのようになさればよろしく、そこで何かをつかむこともあるでしょう。

人の想いは尊重できるもの。しかし、いつその想いが人を救うことになるのか。また苦しめているのか。私はそこに関心があります。
あなたはきっと理解しておられるのでしょうね。

とりあえず、今のあなたの思いをあなたもまた尊重するしかないでしょう。それが正しいとも間違ったものだとも誰が言えようか。あなたはあなたらしくまずその思いにしたがってそのように生きればよいだけですし、私はそこになんら関わりはありません。


30. 2016年9月16日 22:41:40 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[302]
細かい部分はあるとして、すべて私の言葉として、私の本心だと理解すればそれでいいでしょう。私の言葉に撤回する部分はありません。つじつまが合わないとすれば、それはそのまま受け止められればよろしい。

私はこの言葉で商売などはしていない。受け取るものが自分の責任で持って自分のために利用されればよろしい。

私の言葉を上回るものを自分の中に生み、作られればよろしいだけです。それを望んで発しています。


31. 2016年9月16日 23:47:25 : q931E3NW4E : Xao0gDyXwoc[305]
もし私の言葉に疑問を感じ、何を言わんとしているかを考え悩み、堂々巡りするというならば、そこで自分はどうしたいのかを考える、いい契機となることを望む。自分に向き合ってさえいれば、必要な答えとは必ず出るものである。苦しみにこそ感謝することだ。何かを嫌悪し、遠ざけていれば、あなたは痛みとともにあり続ける。

わたし自身、ここに書き残した言葉を振り返ってみても、正しく記せているとは思わないし、不本意ながら伝えたい真意を隠してしまう言葉の言い回しのおかしさや、誤字や脱字も発見する。その時点その時点で、私は過去の自分ををふり返ることはしない。得るものはないからだ。常に考えは前進している。よってその場で新たに、よりまとまった言葉が出ることを自分に期待する。

私の言葉を好んでくれる方もまたそのようにあってほしいと願うし、そこで私以上のひらめきを掴んでくれる事を願う。そうした人の出現を願って書くのである。
私は学習塾の先生などではないし、そのような存在にはなりたくなく、また、それで生計を立てたいなどと思ったこともない。純粋に私は人にとって大切なことを考えてほしい。それはすでに答えの出たとする、決まりきった規範の写し書きではない。

なんらかのきっかけとして存在する。たったそれだけの関係性が築かれもすればいい。それで私は十分自分という存在に満足できる。

逆に言葉だけを鵜呑みにして、自分の考えとしてもてないでいることを憂う。それ以上を自分で考えることを放棄し、他人の言葉をなんら疑問に思うこともなく、反芻も咀嚼もしない。そうしたことには憂いを覚える。

かといってわたしはいたずらに言葉だけをおいて、そこに堂々巡りをさせるという目的でここに出没しているのではない。そうして悩ませることだけを目的としているわけではない。真意を伝えて去るつもりでおり、しかしながらその真意は一字一句言葉として脳内に収めることで理解に至るといったものではないのである。

それはこのあとに控えている投稿でも同じことだろう。それでもあなた方には不十分なものに映るかもしれない。それでも私の伝えたいところを私は自分の言葉で書くのみである。



32. 2016年9月19日 09:33:55 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[341]
貴方はついにいじけてしまった。
だがそれを、だれも望んでないよ?

ただ、いじけてみるのも良いことだ。そのいじけマインドと、
付き合いきる勇気があるのであれば。

勝ち負け(価値撒け)の世界に縛られていたのは、貴方だろうが。

自己への常なる客観性が大事だ。

よかろう。

思想というのも集合的心(思い)が凝り固まったものに過ぎない。
その「上位」は、存在する。
だが、一般的心(主にmind, emotion)、の持つ意味は、「モノ」と同定である。

先ず人は物に「我心」を投影し、そして更に「他者」にそれを投影する。

それが水平(平面)次元での堂々巡りということだ。

上の貴方のレスを、そっくりお返しすると共に、
言い切らせて下さい。

貴方は、実際のところ、とても生真面目な存在である、と。

そして、その事実のみが貴方の真価であると。
そこについてだけは、他に貴方を嗤う者が仮に多数を占めようが、

私は決してわらったりなどしないし、できない。


33. 2016年9月19日 09:50:59 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[342]
唯の例えだが、
「右手に剣、左手にコーラン(魂)」。

即ち貴方を切るも守るも、アッラー次第なり。 。 。


34. 2016年10月25日 04:00:12 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[373]
責任とはただ、予測或いは知った上で言動(行為、カルマ)を起こし生じた結果を、
自らの積極的関与を認め、受け止め対処する覚悟と器のことである。

診断医や外科医は日々責任との勝負である。何せ人の命がかかっている。


そこで一番無責任な者の代表が、今の我が国の総理だ。

伊方原発に何かあれば責任をとれる(どうせ自分が生きてる内にでかい事故なんて
起こるわけないし―w 的いつもの言いっぱなしイージー判断だ)そうだが。


35. 2016年10月25日 04:25:43 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[374]
34共に24へのレスだが、
受け手自身に一切の責任があると言う論理は危険だよ。

東電の原発事故の責任が、国家の誤誘導した宣伝を真に受けて原発電力の恩恵(?)
を受けてきた国民全員にあるというのと同じ論理。
大人になっても学ばない、或いは騙されたほうにも責任があるといっても、
結果からでも学べるんだから、あって精々数分の一(荷担の度合い、
小泉純一郎や菅直人他転向政治家、原発開発や研究や従事を担った上での反原発派等々)、から元より反原発に近い分(無論無垢にして真っ先に被害を受けるような小児、赤子は純粋な被害者として除外)だけの国民全員分の一程度。

現推進派や利益授受者は100%の責任を負う。当然首が掛かる。

責任の所在を他に求めてうろつくと、半可通の小出ガーみたいな、敢えて誤解の
擦り付け者が出てくるのだが、擦り付ければ擦り付けるほど荷担分は増えるものだ。


36. 2016年10月25日 04:43:45 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[375]
あと、傷などすぐに癒える、バカげた・・・

とおっしゃるなら、容赦なく傷つけさせて貰うね、
尊厳だと思い込んでいる、唯の過敏なプライド程度なら。


37. 2016年10月25日 05:00:01 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[376]
それと、私が書いた文章に対し「あなた方」といった複数形に問うのは、
止めてほしい。

何故なら、私のIDでのレスは、私が個人としての全責任を以って、
主に個人としての「貴方」に宛てて書いたものであるからだ。


38. 2016年10月25日 05:57:38 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[377]
畢竟、純粋な鬱状態には、何も悪いことはない。

余計な世間体や観念など容れず、必要十分なだけの「悲しみ、苦しみ」に、
ひとり浸れば良い、だけの話だ。

神を本気で信じてやまず救いを求めるならば、誰にも損なわれないそのヘイブンは、
必ず与えられる。乃至、嫌でも常に気付きの「そこ、今の」にある。

他人の評価を気にして鬱状態を否定し突っぱね圧する(ツッパる)ことを、
「抑鬱」という。

闇あっての光かな

「抑鬱性人格障害」
ほぼ全てのパーソナリティシンドロームがそこに依拠しているのだが、
それをただ「甘受」したときに初めて

いのちのすべてがひびきわたるんだ。

鬱を抑圧せず、「老い死に悲しみ苦しみの神であるところの、鬱様」に
いのちを只管「謳歌」させなさい。


39. 2016年10月25日 06:22:37 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[378]
今一度、貴方に聴いてほしい曲。

ハレルヤ、レナード・コーエンver.
https://www.youtube.com/watch?v=YrLk4vdY28Q

そして、この度ノーベル文学賞を授与されたボブ・ディランの全ても。


40. 2016年10月25日 07:18:49 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[379]
因みに、上に挙げた楽曲が意味するところは、
実は世界は「愛と結びの真理で出来ている」という、まさしく
"冷たい"「女帝慈悲ルール」で成り立っていることをうたった、
実にシビアな「聖」なる歌である。

41. 2016年10月25日 07:24:54 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[380]
のっけから、
音楽の事をなんも分かってない癖に、偉そうなことを言う自称「王者」が
いたもんだ、っつうね。。。

42. 2016年10月25日 07:43:01 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[381]
これ、父に捨てられた母により大切に育てられた息子が、
父の所業を偵察し観じた上で母の立場に立ち正義を誓ったという、

明らかな「復讐」を込めた聖なる「福音曲」だな。。


43. 2016年10月25日 07:55:53 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[382]
息子目線で母の立場を謳った曲ということ。
わかるかい?

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