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投稿者 烏滸の者 日時 2016 年 2 月 03 日 03:00:19: hk3SORw2nEVEw iUef9YLMjtI
 

柄谷行人「憲法9条の今日的意義」(2016年1月23日講演のテキスト起こし)



柄谷行人 「憲法9条の今日的意義」 市民連合 基調講演 2016.1.23(PlaceUniversity)


[0:35] 今日は憲法9条について話しますが、その前に一ついっておきたいことがあります。昨年の九月、ソウルの延世(ヨンセ)大学であった「平和に関する国際会議」で講演しました。そのときにじつは憲法9条について話したんですが、今日話したいのはその会議で聞いたことがらです。その会議では、私が話す前に延世大学の国際政治学の文(ムン)教授が講演しまして、その最後にこういうことをいった。日本では最近若い人たちが盛んにデモをやっていてすばらしい。それに引きかえ韓国では若者は政治活動をしない。将来を考えると暗澹たる気持ちがすると。そういって講演を締めくくったわけです。去年の九月半ばですからまだ日本のデモの余韻が残っていたころです。私は彼の発言を聞いて驚きました。それまで私は、日本にはないけど韓国にはデモがある、とくに学生のデモがあるとずっと思っていた。よりにもよって韓国人から日本のデモのことで、今後に希望があると賞賛された。「お前にそれをいわれたくないよ」といういい方がありますけど、悪いときに使うものなんですけど、誉められているのにそういいたくなった。


[2:30] にわかに信じられないので、その後いろんな人に意見を聞きました。するとこういうことがわかりました。むろん韓国にはデモがあります。大いにある。まだ火炎瓶を投げているといっています。あまり報道されないけど。しかしそれは主として労働者のデモであって、学生がデモをしなくなったというのは事実のようです。理由は就職が大変だからです。その一方で、私は一人の学生から深刻な相談を受けました。彼は、軍隊に行きたくない。しかし、そのためには亡命するほかないと言うんです。日本でも、徴兵忌避をしているので韓国に帰れないという韓国人の若者に会ったことがあります。彼らは日本の若者とは根本的に違った条件に置かれています。そのような話を聞くと、日本に憲法9条があるということを実感します。ともあれ、日本に若者のデモが起こっていることに感銘を受けた人が外国にいた。私はそれをよろこばしく思いました。


[4:10] 私は2002年イラク戦争のころから日本になぜデモがないのかを考えてきました。デモが必要だと。だから2011年福島の原発事故とともに大きなデモが起こったとき、こういいました。デモなどで社会が変わるかという人たちがいる。しかしデモで社会は確実に変わる。なぜならデモをすれば、日本は人がデモをする社会に変わるからだと。確かに韓国の教授は日本がデモをする社会になったということを認めたわけです。私のみるところそれまで日本では、デモは手段であると見なされていました。一つには革命のための手段です。そのために過激なデモが追求されていた。もう一つは選挙のための手段だという考えです。デモによって人々に意見を訴える、選挙でそれを実現すると。この二つの考えが、日本でデモをだめにしてきたと思います。前の方のははっきりしています。過激なデモがあったために普通の人はデモに行かなくなったという歴史的な事実があるからです。ただ、後者については考えられていないと思うんです。しかし、じつは今起こっているのはそれと繋がる問題です。昨年の夏にあったデモをつぎの選挙に有効に生かそうとする。それはよいです。しかし、ここで忘れてもらいたくない問題があります。それは、デモはけっして選挙のための手段ではない、選挙あるいは政党政治に従属するようなものではないということです。


[6:28] 私は以前デモについて考えた時、つぎのようなことに気づきました。日本語ではデモは集会と区別されています。しかし英語でいうと、デモを表すいい方はいろいろありますが、正式にはassemblyです。それは日本語で「集会」と訳されています。だからデモも集会もassemblyなんですね。日本の憲法21条には「集会、結社、表現の自由」というのがありますけれども、「デモの自由」がない。だからかつては「デモの自由」を「表現の自由」から根拠づけるような論がありましたけど、単純な誤解です。デモはassemblyである。だから「集会の自由」が「デモの自由」を意味しているわけです。ちなみに憲法21条にある「結社の自由」という表現、これはわからないものです。これは英語でいうとassociationの自由なんです。「結社」というとほとんどの人は秘密結社ぐらいしか思い浮かばないんです。associationというのはどこにでもあるものです。小学校に行けばあります。PTAのAだから。親と教師のassociationなんですよ。つまり非常にありふれた言葉です。日本語でいえばassemblyというのは寄合です。どの村や町にも寄合がありました。今もあると思います、所によっては。それが元になるわけです。西洋ではそういう寄合が議会にもなったわけです。だから議会はassemblyというんです。寄合です。つまり議会とデモは親戚のようなものですね。たとえば、ルソーが『社会契約論』で「権力は民衆のassemblyを嫌う」と書いている。その場合、assemblyというのは議会というよりも集会・デモという意味だと思います。歴史的には絶対王政に対するassemblyですね。集会・デモがだんだんと大きくなって議会として承認されるようになったわけです。その意味で議会の起源はデモ・集会なんですね。またルソーはこういっています。人民は集会に来たときにだけ主権者として行動しうると。人民という主権者は個々人ではないんです。個々人が集会をしたときに登場するものです。そこにルソーがいう「一般意思」も存在してるわけです。個々人を集めた総和ではありません。その集会において「一般意思」が存在する。だからルソーは同時代の議会制が発達したイギリスにかんしてこういっています。イギリスの人民は自由だと思っているが、それは大まちがいだ。彼らが自由なのは議員を選挙するあいだだけのことで、議員が選ばれるやいなや、イギリス人は奴隷となり、無に帰してしまうと。またルソーはこうもいっています。代表者という考えは近世のものである。それは封建政治に由来していると。つまり、代表制議会には主権者としての人民はいません。代表者は封建制における領主のようなものです。そのことは現在の日本の代議士をみるとよくわかります。安倍首相を初め、彼らの多くは何代にもわたる世襲です。徳川時代の方が養子制があったから今よりはましです。こんな議会に主権者として人民が存在するはずがない。それが存在するのはもう一つのassemblyすなわちデモ・集会においてです。


[11:25] 議会がまったく人民主権に反するかというと、そうではありません。議会もデモ・集会というassemblyを反映するかぎり、そのかぎりで人民主権的であるということができます。たとえば、選挙によって決まったことをデモで変えてしまうのは民主主義に反するという類の発言をした政治家がいました。これは民主主義が何であるかを考えたことがないんだと思うんです。選挙で決めたことをデモで修正することがありうるときに人民主権ということができるんです。反原発の国会前デモ・集会、またそれ以後の国会前デモ・集会では、おもしろい現象がありました。それは国会の前だったからいえるんですけど、二つのassemblyが直面したということです。デモと議会。デモの側から国会に行くことはないですが、国会の側からデモに挨拶に来ている。政治家が来ました。なぜならば、デモが本当のassemblyだからです。一方、一昨年台湾のひまわり革命では、デモの方が国会に行きました。それによってむしろデモこそ本来のassemblyであるということを示したわけです。先日彼らは選挙で勝ちました。しかし、あれはデモの延長だと思います。またそうでないと今後だめになります。したがって、われわれはデモ・集会をたんなる手段と見なしてはいけない。そこに主権者としての人民がいるというわけですから。それは数の問題ではありません。デモ・集会が原点である。そのことを私は再確認しておきたいと思います。


[13:47] 私の今日の講演は「憲法9条の今日的意義」という題になっていますが、これは私が決めたものではありません。気がつくとそうなっていた。もちろん憲法9条に普遍的な意義があることはまちがいありません。たとえば憲法9条は、カントの『永遠平和のために』、あるいは『世界史的市民的立場からみた人類の普遍史の構想』というものから来ています。カントの理念は第一次大戦後、1920年の国際連盟として結実しました。1928年には戦争を違法化する「パリ不戦条約」が作られた。憲法9条はそれを受けつぐものです。事実英語版でみると憲法9条にはその中から取られた表現が残っています。しかし、私は今日そのことについて語ることはしません。みなさんは憲法9条の普遍的意義を再確認して、それによって改憲を阻止する力としようと考えておられるかもしれませんが、じつは私はその必要はないと思っているんです。というのは、改憲がなされることはないと思っているからです。今日はその話をしたい。むしろそこに普遍的な意義があると思います。


[15:16] 日本の戦後憲法は、9条においていくつもの謎があります。第一に、世界史的に異例のこのような条項が戦後日本の憲法にあるのはなぜかということです。第二に、それがあるにもかかわらず実行されていないのはなぜかということです。たとえば自衛隊があり、米軍基地も多数存在しています。第三に、もし実行しないのであればふつうは法を変えるはずですが、9条はまだ残されているのはなぜかということです。まず第三の謎から考えてみましょう。そうすれば第二、第一の謎も解けると思うからです。自衛隊や米軍基地などは、憲法9条の解釈によって肯定されています。また、集団的自衛権、これは軍事同盟の別名です。そういうものも可能だという解釈改憲もなされています。しかし、憲法9条を変えるということはけっしてなされないのです。なぜそうしないのでしょうか。むろん、それを公然と提起すれば選挙で負けてしまうからです。では、なぜ負けてしまうのか。人々が憲法9条を支持するのは戦争への深い反省があるからだという見方がありますが、私はそれを疑います。たとえ敗戦後にそのような気持ちがあったとしても、それで憲法9条のようなものができるわけがない。事実、それができたのは占領軍が命じたからです。また、憲法9条が人々の戦争体験にもとづいているのだとしたら、それを持たない人が大多数になれば消えてしまうでしょう。実際、そうなるのではないかと護憲論者は懸念しています。ではなぜ9条が今も残り、また人々はそれを守ろうとするのでしょうか。護憲論者は、それは自分らが戦争の経験を伝え、また憲法9条の重要さを訴えてきたからだというでしょう。が、それは疑わしい。


[17:35] ここで問題をその反対の側から、つまり憲法9条を廃棄したいと考えている側からみてみたいと思います。彼らは60年にわたってこれを廃棄しようとしてきたができなかった。なぜなのでしょうか。彼らは、それは国民の多くが左翼知識人に洗脳されているからだと考えます。しかしこれは端的にまちがいです。左翼は元来憲法9条に賛成ではなかったからです。たとえば1946年6月26日新憲法を審議する帝国議会、野坂参三共産党議員は、戦争には正しい戦争とそうでない戦争がある。侵略された国が祖国を守るための戦争は正しいのではないかと述べました。これは左翼にとってはふつうの見方であって、後の新左翼においても同じです。その中には赤軍派がいたからですか、新左翼の多くは後に護憲派に転じました。しかし、彼らが意見を変えたことを非難する資格は保守派にはありません。たとえば首班の吉田茂首相は、野坂参三の質問に対してこう答えたんです。近年の戦争の多くは国家防衛権の名において行なわれたることは顕著なる事実であります。故に正当防衛権を認めることが戦争を誘発するゆえんであると思うのでありますと。さらに朝鮮戦争でアメリカから再軍備を迫られたとき、彼はそれを拒絶していった。再軍備など愚の骨頂であり、痴人の夢であると書いています。こんなことをいう保守派が今……いないと思います。今や彼らは憲法9条の解釈で集団的自衛権、軍事同盟を正当防衛権としています。要するに保守派が意見を変えたわけです。ところが彼らは憲法9条を廃棄しようとはしない。なぜか。たんにそうすることができないからです。もしそれが選挙で争点となるならば、大敗するのは確実です。したがって、彼らはごまかしながらやっていくほかない。改憲を目論んで60年余りたったというのにまだできないんですね。それはなぜか。彼ら自身にとっても謎のはずです。その謎を解明しようとせずに、左翼政党、進歩的文化人、知識人のせいにする。それは自分の無力、無理解を棚上げすることです。憲法9条が執拗に残ってきたのは、それを人々が意識的に守ってきたからではありません。もしそうであればとうに消えていたでしょう。人間の意志などは気紛れで脆弱なものです。9条はゆえに無意識の問題なのです。


[21:06] 無意識というと一般に、意識されていないという程度の意味で理解されています。あるいは潜在意識と同一視されています。たとえば宣伝などで無意識、潜在意識に働きかけるサブリミナル効果を狙うことがあります。先ほどもいわれたように何べんも繰り返していると人はだんだんと受けとるようになるんだとかそういう意味です。しかし、フロイトはそのようなものを前意識と呼んで、無意識とは区別したんです。ただフロイトがいう無意識にも二つの種類があります。一つはエスというもので、「それ」ということで、名づけようのないものを指しているわけです。もう一つは超自我です。私の考えでは、憲法9条は超自我のようなものです。このような無意識の超自我は、意識とは異なって、説得や宣伝によって操作することができないものです。現に保守派の60年以上にわたる努力は徒労に終わっています。いくら彼らが9条は非現実的な理想主義であると訴えたところで無駄です。9条は無意識の次元に根ざすものだから、説得不可能なんです。意識的な次元であれば説得はできますけど。ただし、このことを理解していないのは護憲派も同様です。憲法9条は、護憲派が啓蒙することによって続いてきたのではありません。9条は護憲派によって守られているのではない。その逆に護憲派こそ憲法9条によって守られている。私はそれを皮肉でいっているわけではありません。ただたんに安心してよいといっているんです。そしてその上で何をすべきか、何をなしうるかを考え直してほしいのです。


[23:34] 私は戦後日本に生まれた憲法にかんして、フロイトのいう超自我という概念を導入して考えようとしました。これはたんに心理学の応用ではありません。フロイトが超自我について考えるようになったことは、深く戦争の問題と関連しているのです。それについて少し述べておきたいと思います。フロイトは第一次大戦後に、あることがきっかけで無意識にかんする考えを根本的に変えたんです。それを境にして前期フロイトと後期フロイトに区別できると思います。前期のフロイトの考えでは、無意識が欲望を満たそうとする快感原則と、それを満たすことがもたらす危険を避けるために抑制しようとする現実原則がある。現実原則というのは、いうならば社会の規範です。親を通して子どもに刷り込まれる。それが無意識において人を規制する、あるいは検閲するわけです。フロイトの『夢判断』はそのような考えにもとづいて書かれています。しかし、この考えは新しいものではあるのですが、ある意味では常識的なものです。たとえば、人間は思うままに欲望を満たすわけにはいかない。だからそれを現実原則によって抑制しないといけない。したがって社会的文化的な規範に従うことになる。それが成熟することである。だけど、同時にときにはそれから解放されないといけない。たとえば祭りや戦争になると、それが解放されるというわけです。実際、フロイトは第一次大戦の中で戦争についてはむしろ肯定的でした。そしてまた戦争が終われば自然に元に戻ると考えていました。彼の考えが変わったのは戦後です。しかし、それは彼自身が戦争を経験したことによるのではありません。


[26:09] 彼の考えを変えたのは、戦後に戦争神経症に苦しむ患者に出会ったことです。彼らにとって、戦争はしだいに消え去るどころではなかったわけですね。毎晩戦争の夢を見て飛び起きていたのだから。このような反復強迫は何なのか、何によるのか。フロイトはそれを考えた。そして彼は、快感原則と現実原則というような二元性の底に死の欲動、あるいはその派生物である攻撃欲動を見出した。フロイトはこう考えました。患者らの反復強迫は、戦争期に外に向けられていた攻撃欲動が戦後に内に向けられることによって生じたのだと。フロイトが超自我という概念を提起したのはその後です。それに似たものは以前からあります。それは現実原則を担う無意識の検閲官なるものです。が、それは社会的規範が親を通して子どもに内面化されて生じたものです。つまりそれは外から来るものです。それに対して超自我はいわば内部から来る。なぜならば当人の死の欲動、攻撃欲動に根ざしているからです。フロイトのこのような考えの展開は、狭義の精神分析よりもむしろ彼の文化論においてより明快に示されていると思います。後期フロイトの考えを典型的に示すのは、1930年に書いた『文化の中の居心地悪さ』という論文です。ここでフロイトは、超自我は個人だけではなく集団にもあるといいます。というよりもむしろ、超自我は集団の方により顕著にあらわれると書いています。そしてこの超自我の集団的現れの一形態が文化だというわけです。その意味で、私は戦後の日本に生まれた憲法9条を超自我としてみるのがふさわしいと思います。いい換えれば、意識ではなく無意識の問題として。たとえばフロイトは、強迫神経症の患者は外からみると罪責感に苦しんでいるようにみえるけれども、当の本人はそれについて何も意識していない、ということを指摘しました。それでフロイトはそれを「無意識的罪悪感」と呼びました。


[29:19] 日本人が憲法9条に拘るのはそれと似ています。それは一種の強迫神経症であり、「無意識的罪悪感」を示すものです。くり返すと、日本人に戦争に対する罪悪感があるとしても、それは意識的なものではないということです。憲法9条は人々が罪悪感を抱いたから作られたのではないし、過去の行動への反省意識を強めることによって維持されてきたものでもありません。もしそれが意識的な反省によるものであったなら、9条はとうの昔に廃棄されていたでしょう。なぜなら意識を変えるのはたやすいことだからです。教育、宣伝その他で世論を変えることはできます。それなのに9条が変えられないのはなぜでしょうか。そこで改憲派は、教育、宣伝が不足しているからだと思ったり、護憲派の教育、宣伝が強いからだと考える。逆に護憲派は、改憲派の宣伝工作にいつも怯えている。そういう光景がずっと続いてきたわけです。憲法9条には戦争を忌避する強い倫理的な意志があります。しかし、それは意識的あるいは自発的に出てきたものではありません。9条は明らかに占領軍の強制によるものなのです。だから真に自主的な憲法を新たに作ろうという人たちが戦後にはずっといたし、今もいます。しかし、憲法9条が強制されたものだということと、日本人がそれを自主的に受け入れたということとは矛盾しないのです。私のみるところ、フロイトの言葉はその疑問に答えていると思います。


[31:20] 「人は通常、倫理的な要求が最初にあり、欲動の断念がその結果として生まれると考えがちである。しかしそれでは、倫理性の由来が不明なままである。実際にはその反対に進行するように思われる。最初の欲動の断念は、外部の力によって強制されたものであり、欲動の断念が初めて倫理性を生み出し、これが良心というかたちで表現され、欲動の断念をさらに求めるのである。」


[31:58] フロイトのこの考えはべつに憲法について書いたものではないんですが 憲法9条が生じた過程をじつにうまく示していると思います。というのは、憲法9条は外部の力、つまり占領軍の指令によって生まれたわけです。にもかかわらず、それは日本人の無意識に深く定着した。なぜか。まず外部の力による戦争(攻撃性)の断念がある。それが良心を生み出して、それが戦争の断念をいっそう求めることになったわけです。だから憲法9条は自発的な意志によってできたのではない。外部からの押しつけによるものですが、だからこそそれはその後に深く定着したのです。それはもし人々の意志によるものであれば成立しなかったし、たとえ成立してもとうに廃棄されていたと思います。


[32:56] ところで、個人の無意識の場合は精神分析医が対話を通してアクセスできるかもしれませんが、集団の場合はそうはいきません。しかし、選挙、国民投票になると、それはある程度出てきます。もちろんそのような認識はありませんが、経験的にそれがわかっている。だから改憲をねらう政党、政治家はいざとなると憲法9条を争点からひっこめます。そして選挙の後でまた改憲を唱える。それをくり返してきたわけです。このような集団的無意識は総選挙や国民投票を通す以外に察知しえないのかといえば、そうではありません。私はそれを知る方法があると思います。無作為抽出(ランダムサンプリング)による世論調査がそうです。このやり方は、戦後アメリカの占領政策の一環として導入したものなんです。彼らは日本の民主化には世論調査が必要だと考えた。しかも彼らが導入したのが統計学の理論にもとづいたランダムサンプリングによる調査です。それはアメリカでもまだ実行されていなかったものなんです。それが日本で実行された。1948年朝日新聞が行なった世論調査が最初のものだといわれています。ある意味でこのような世論調査は、憲法9条と類似する点があります。それはどちらも占領軍がアメリカでもやっていないことを日本でやろうとしたから。さらにもう一つの類似点は、占領軍が日本の統治のために持ち込んだそれらのものが、占領軍にとって裏目に出たことです。たとえば、朝鮮戦争が始まったときにマッカーサーは憲法9条を作ったことを後悔したと思います。彼はそこで吉田茂に再軍備、したがって憲法の改正を要請したわけです。吉田はそれをすげなく断った。それについて吉田は回想録でこう書いています。まず、日本は再軍備のための資金を持たない。それが第一の理由である。第二に、国民思想の実情から言って、再軍備の背景たるべき心理的基盤が全く失われている。第三に、理由なき戦争に駆り立てられた国民にとって、敗戦の傷跡が幾つも残っておって、その処理の未だ終らざるものが多いと。このいい方をみますと吉田が妙に「心理的基盤」だとか「敗戦の傷跡」だとかいうのはなぜか。おそらく彼は世論調査の結果を知っていたのではないかと思います。彼はこう考えた。もしここで再軍備をしたらたいへんな反対運動が起こり、内閣が壊れるどころか革命騒ぎになってしまう。おそらく彼はそれをマッカーサーにいったにちがいない。ただ、吉田茂はマッカーサーの要求に従って警察予備隊を作りました。米軍が朝鮮半島に向かった後の安全保障のためという名目です。とはいえ、吉田はあくまで憲法改正は退けた。警察予備隊が保安隊、自衛隊と発展していった段階でも、それらは「戦力」ではないといい張って、憲法9条の改正の必要を否定したんです。これはある意味で9条の解釈改憲のようなものです。以来、9条の文面を変えないままに、それに相反するような軍備拡大がなされ続けてきたわけです。


[37:17] ここで世論と選挙の関係について一言述べておきます。結論からいうと、選挙は集団的無意識としての世論を表すものにはなりえません。なぜならば争点が曖昧なうえ、投票率も概して低く、投票者の地域や年齢などの割合にも偏りがあるからです。ただ選挙を通して憲法9条を改正しようとする場合、最後に国民投票を行う必要があります。国民投票も何らかの操作や策動は可能だから、世論を十分に反映するものとはいえませんが、争点がはっきりしているので、投票率も高く、無意識が前面に出てきます。ゆえに国民投票では負けてしまいます。選挙で勝っても国民投票で敗北すれば、政権は致命的なダメージを受けます。解釈改憲すら維持できなくなってしまう可能性がある。むろん選挙でも9条改定を唯一の争点としたなら大敗すると思います。だから政府自民党は普段は9条の改定を唱えているにもかかわらず、選挙となるとけっして憲法9条を争点にはしないんです。今後も同じです。


[38:47] なお、世論を知るということでは、ランダムサンプリングによる世論調査の方がもっと的確だと思います。しかし、その場合は質問のし方に注意しないといけないんです。たとえば「憲法9条をどう思うか」というような質問はだめなんですよ、漠然としているから。「憲法9条を廃棄するかどうか」と確定して問わないといけない。とにかく質問を適切にすることが肝心です。なにしろ問うている相手は個々人の意識ごときではなくて、無意識さまなんですから。ついでにいうと、現在やられているような電話によるやり方はランダムサンプリングにならないと思います。電話を持っていない人は除外されてしまいます。とくに最近の若者は携帯しか持ってないからできないんです。これではランダムな抽出にはなりません。だから面接しないといけないんですが、金がかかるのでやらない。要するに私がいいたいのは、憲法9条が無意識の超自我であるということは、心理的な憶測ではなくて、統計学的に裏づけられるものだということです。


[40:20] 最後に一言。現在世界中で戦争の危機が迫っていることはまちがいありません。どの国もこの危機のもとにあり、それぞれに対策を講じています。そしてそれが他国に影響し、相互的に敵対心が増幅される。その中で日本で優勢になってきたのは、米国との軍事同盟(集団的自衛権)を確立するという案です。それは戦争が切迫した現状のもとではリアリスティックな対応であるようにみえます。しかし、逆に各国のリアリスティックな対応のせいで、思いがけないかたちで世界戦争に巻き込まれてしまう蓋然性が高い
のです。第一次大戦はまさにそういうものでした。ヨーロッパの地域的な紛争、オーストリアとセルビアの紛争が、軍事同盟の国際的ネットワークによって日本も参加するような世界戦争に展開していったわけです。日本の場合は日英同盟があったからです。またその第一次大戦の結果として国際連盟が生まれ、戦争を違法とする「不戦条約」が成立しました。日本の憲法9条がその「不戦条約」に負うことは先にも言いましたけど、国際連盟から脱退し、かつ「不戦条約」を踏みにじったのは実はドイツと日本なのです。どちらもそのようなカント的理念を嘲笑して、自国の安全をリアリスティックに確保しようとしたわけです。その結果が第二次大戦です。したがって、防衛のための集団的軍事同盟は何ら平和を保障するものではない。


[42:27] しかし、今もそれがリアリスティックなやり方だと考えられています。そして日本人がそれを実現するためには何としても非現実的な憲法9条を廃棄しなければならないということになります。しかし、彼らはそう望んでもできません。60年以上にわたって憲法9条を廃棄しようとしてきたのに、それを実現できなかったのです。今保守派の中枢部は、なぜ改憲できないのかわからないながら、たぶん改憲をあきらめているのだと思います。もちろんいつも改憲を口にします。しかし、それを実現できるとは考えていない。そのかわりに議会で多数派となって安保法案のような法律を作ることや、また今後に憲法に緊急事態条項を加えるなどで、9条を無力化する方法をとろうと画策しています。これは国会では通っても国民投票では確実に却下されますから、やらないでしょう。要するに安倍政権は、9条があっても戦争ができるような体制を作ろうとしているわけです。


[43:40] ゆえに護憲派は9条がなくなってしまうのではないかということを恐れる必要はまったくありません。問題はむしろ護憲派のあいだに改憲を恐れるあまり9条の条文さえ保持できればよいと考えるふしがあることです。かたちの上でのみ9条を守るだけなら、9条があっても何でもできるような体制になってしまいます。それが今後に起こりうることです。その意味で私は憲法9条の改定を恐れてはいけないといいたい。彼らには正々堂々と憲法9条を変えたらどうかといえばいいんです。ぜひ国民投票をやりましょう。べつに3分の2の議席を取らなくても、一緒にやりましょうといって、全員賛成に回ってもいいんですよ、国民投票にしようと。これは冗談。


[44:44] だから注意すべきことは、彼らが憲法9条を変えることなくさまざまな手口で戦争を行える体制を作ってしまうことです。今後に日本が戦争に巻き込まれることは大いにありえます。あるいはそのような危機をあえて作り出して憲法改正をはかるということもありえるでしょう。しかし、そのあげくにどうなるかといえば、いずれ高すぎる代償を払って憲法9条を再び取り戻すことになるだけです。そんなことは現在からみても明白です。したがって、戦争の危機が身近に迫る時期においてもっともリアリスティックなやり方は、一般に非現実的と目されている憲法9条を掲げ、それを文字通り実行することです。9条を実行することは、おそらく日本人ができる唯一の普遍的かつ強力な行為です。それが今日の演題にあるように「憲法9条の今日的意義」です。


[投稿者コメント]


この文章は、2016年1月23日に東京都北区で行われた市民連合主催のシンポジウム「2016年をどう戦い抜くか」における柄谷行人の基調講演を、投稿者がテキストに起こしたものです。シンポジウムを企画実行してくれた市民連合および参加者、YouTube動画をあげてくれたPlaceUniversityに感謝します。
段落頭に付した数字は、動画の再生時間です。聞き取りやタイプなどで間違いがあったらご容赦ください。
なお、『世界 2015年9月号』(岩波書店)には「反復強迫としての平和」という題でほぼ同趣旨の文章が掲載されています。
 

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