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イスラム教は改革が必要:アボット前豪首相、「政教分離の概念がない」「近代化の必要がある」と挑発
http://www.asyura2.com/15/kokusai12/msg/153.html
投稿者 あっしら 日時 2015 年 12 月 19 日 03:51:24: Mo7ApAlflbQ6s
 


 アボット氏に誰がもっともらしいことを教えたのかしらないが、彼は、本質的なことが理解できていない。

 阿修羅でも勘違いしている人を散見するが、民主主義や自由主義的個人を尊ぶ人権などの近代政治思想も、イスラムと同じように普遍的なものではなく、イスラムとは切り口が違い呼称も違う歴史規定的な国家や社会に関する“宗教”(体系的な世界観や価値観)である。

 「政教分離」と言うことは、善し悪しはともかく、その世界観価値観体系の対象範囲が狭いということである。

 歴史限定的で地理的特定性も帯びた思想でしかない価値観を歴史超越的・普遍的・人類共通などと仰々しい修辞で語ってきたのが欧米諸国の恥知らずな政治家や学者である。

 イスラムに対する「政教分離の概念がない」という批判には、共同体性を思想的に破壊したうえに擬似的共同体である国家とそこに属する個人を分断してしまった近代思想のほうが、諸個人間に闘争と対立をもたらす危険な“宗教”と反論することもできる。

 そのような危険性がこれまで大きな問題として露呈しなかったのは、欧米諸国支配層が他の地域から吸い上げている経済的利益を自国内でも循環させることで相対的に“豊か”な国家社会を維持してきたからである。

 本当は、そのために繰り広げられたWW1やWW2などの悲惨な戦争というかたちで近代思想の危険性が激しく露呈しているのだが、それさえ、近代思想的ゴマカシの説明で騙され見過ごされてきた。

 そして今、アボット氏的な考えを背景に、偽テロまで駆使した煽りに支えられながら「対イスラム戦争」が進行している。

 21世紀の今、欧米支配層の経済的利益の源泉が変わったこともあり、欧米諸国ではその“豊かさ”の持続性が揺らいでおり、属する人々も、これまでのような国家と世界のあり方がほんとうに望ましいものなのかと疑念を抱くようになっている。

 「対イスラム戦争」は、日本を含む先進諸国で支配層と一般国民との利害対立が先鋭になっていく歴史段階で行われていることにも注意しなければならない。


※関連参照投稿

「ロシア軍Su24M撃墜をめぐる虚実と目的[参考]:「テロとの戦い」の名目で進められる国際大連合による“イスラム改革”」
http://www.asyura2.com/15/kokusai11/msg/823.html

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[Voice]イスラム教は改革が必要

 「イスラム教は改革が必要だ」。オーストラリアのアボット前首相=写真はAP=が今月15日にシドニーでの人質立てこもり事件から1年を迎えるのを前に、イスラム教に関して活発に発言している。過激派によるテロなどを踏まえ「イスラム教の内部に大きな問題があるのは否定できない」と主張。「政教分離の概念がない」「近代化の必要がある」などと述べ、波紋を広げている。

 地元紙への寄稿では「我々の文化は、神の名の下に殺人を正当化する文化よりも明らかに優れている」との持論を展開した。「全ての文化は平等ではない」と述べるなど、多文化主義を掲げる豪州の理念にかかわる発言も飛び出した。これに対し、ターンブル首相は直接の批判は避けつつも「大多数のイスラム教徒は我々と同様に過激派に衝撃を受けている」と事態の沈静化を図っている。

(シドニー=高橋香織)

[日経新聞12月12日朝刊P.6]

 

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コメント
 
1. 2015年12月20日 00:32:50 : clMGREmYcI : 7kUg4Qjkjhc[1]
イスラム共同体というのは、以下のようなシャリア法が支配する共同体だと思うが、「危険な“宗教”」下にある日本人にはかなり窮屈な社会ではないだろうか。それに、7世紀を背景にしたコーランとスンナが根本原理で憲法として扱われていては、いくら一生懸命解釈したところで危険な近代政治思想を背景にした外部からの影響を咀嚼できない。

(シャリア法)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%A2
https://en.wikipedia.org/wiki/Sharia
(ムタワ)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8B%A7%E5%96%84%E6%87%B2%E6%82%AA%E5%A7%94%E5%93%A1%E4%BC%9A
https://en.wikipedia.org/wiki/Committee_for_the_Promotion_of_Virtue_and_the_Prevention_of_Vice_(Saudi_Arabia)

基本的に中世の宗教のままであるイスラム教(キリスト教も中世では多分今のイスラムのようなものであったと思われる。)をそのまま尊重するというのは、アマゾンの少数部族を保護するように、近代から隔離し、イスラムは近代とかかわらない、近代もイスラムとかかわらないとするしかないのではないか。但し、そうするには、いささかサイズが大きすぎるが。

いずれにしても、人権概念のない中世のような社会を、共同体とそこに属する個人が統合されいるとしてそのまま容認するというのは、やはりアマゾンの少数部族の共同体は、それはそれで機能しているので人権概念、自由主義といった近代で毒さないでおこうというようなものである。

国家、共同体とは独立した、国家、共同体からの自由、人権概念は、共同体を崩壊させる危険概念だからイスラムの人々には与えない方がいいのだろうか?


2. 晴れ間[909] kLCC6orU 2015年12月20日 20:17:06 : xni5yVaf3k : Fxfse0RTtHo[31]
あっしら氏というのは奇矯な人なのであろうか。以前より、日本の極右政治家安倍晋三を「リベラル」などと持ち上げていたが、リベラルの定義について幾度質問してもシラーッとして答えなかった。かと思えば、かなり時間(2-3年以上か?) が経ってから、唐突に、通常の政治学やジャーナリズムで用いられている概念ではなく、自分は「皮肉」のつもりで使っているなどという言い訳をしたりもした。「皮肉」なら「皮肉」と誰にでも分かるような文脈で用いるべきなのであるが、そうではなかった。健忘症かと思われるほどに時宜を失して、取って付けたような弁明であった。もちろん、あっしら氏の投稿の文脈から判断するところ、皮肉でも何でもなく、あっしら氏自身の主観的願望の発露であるとしか判断できないような、客観性も何もない、下らない「言い訳」でしかなかったことは明らかだ。(これについて、あっしら氏が「陰謀脳」でしかないことを認識している者にとっては、問うこと自体が無駄骨であることは自明のことであろうが、まだ認識不足であるうちは、無駄骨を折るのもやむを得ないことであった。)

今回また、あっしら氏は、「近代」や「普遍主義」について、一般的な、つまり長期(少なくとも1-2世紀以上)にわたり知識界や言論界において議論され、推考されてきた概念を「手前勝手に」破棄して、あっしら氏個人の見解でしかないものとの「すり替え」を行っている。あっしら氏には、先人の苦労や努力や苦闘への「尊敬」はもちろん一遍の「配慮」すらない。基本的に、あっしら氏には「謙虚さ」が欠けている。
万人の前で批評や意見の表明を行う場合には、「自明の理」とされていることへの配慮がなければならない。それとは異なる意見を表明する場合、あるいは「定義の変更」を行う場合には、それなりの「仁義を切る」(万人ないし公衆に分かりやすく説明する)ことが必要であり、而して、その後にパラダイム転換を図ればよい。しかし、あっしら氏の場合には、身勝手な「陰謀脳解釈」であるために、残念ながら衆目の認めるパラダイム転換にはならないのである。

本スレッドにおいては、あっしら氏の以下の文章が、氏の「独善的解釈」を端的に示している。曰く、
【以下、引用】
>阿修羅でも勘違いしている人を散見するが、民主主義や自由主義的個人を尊ぶ人権などの近代政治思想も、イスラムと同じように普遍的なものではなく、イスラムとは切り口が違い呼称も違う歴史規定的な国家や社会に関する“宗教”(体系的な世界観や価値観)である。
【引用、終わり】

即ち、「近代政治思想も、(イスラムと同じように)普遍的なものではなく、“宗教”(体系的な世界観や価値観)である」という、あっしら氏独自の「説」である。

あっしら氏は、「民主主義」や「人権」という近代の政治社会思想を、イスラムのような「宗教」と同列に置いて、普遍性のない "宗教" に過ぎない、と断じているのである。
(同氏のことであるから、また2-3年後には、一般に言う「宗教」ではなく「皮肉」のつもりで言ったのだ、という言い訳をしてくるかもしれない。)

日本語というのは、思想や理念を表現する場合には、語彙の少ない言語である、とつくづく思う。
イスラムも含め、特定の「聖なるもの」を信仰するのが「宗教」la culte (カルト) である。それに対して、民主主義や人権といった「普遍的価値」les valeurs universelles を擁護することは「信念」la conviction ではあっても、宗教的な意味での「崇拝」ではない。
(もちろん、歴史的にはそれが未だ確立しない原生期においては「崇拝」や「憧れ」に近い時期はあった。「共和政信仰」という言葉が歴史的に存在したほどである。現に、フランスのパンテオンについて「共和国の寺院」などという表現が今でもなされることがある。しかしそれはあくまでも「歴史的な表現」に過ぎないのであって、今でもフランス人が「民主主義」や「人権」を(本来の)宗教のように「信仰」しているわけでは全くない。「民主主義」や「人権」は、人類の「普遍的価値」として多くの人々の「賛同」を得ている、多くの人がそれに「確信」を持っている、という意味でしかない。

イスラムのような宗教と、近代市民社会が理想とする「普遍的価値」との最大の、根本的な違いは、前者(イスラム等) が「批判」を全く受け付けない、過去の(中世的な) 変化し得ない価値体系ないし世界観であるのに対し、後者は、絶えず「自己批判」と「他者からの批判」に晒されており、変化と進化が可能なことである。
人権や平等という言葉を考えればよい。西洋は植民地化に際し、西洋近代の理念を用いることもあった。植民地で、自由や平等の語で奴隷制を廃止することもあった。逆に、土地の伝統的な共有制を廃し、私有制を導入して現地住民から土地を奪うこともあった。
しかし同時に、西洋自身も、自由や平等の理念によって、植民地支配自体を批判された。非植民地化ないし脱植民地化もまた、自由や平等という普遍的価値によって行われたのだ。「自由」や「平等」のために、植民地放棄を余儀なくされたのだ。「価値が普遍的である」「人類の普遍的価値」というのは、こういう意味に於いてなのだ。
一方にとっての「自由」が他方にとっての「不自由」や「不平等」であることは往々にしてある。(それどころか、大抵の場合はそうだ。) しかし被抑圧者の側が「自由」や「平等」によって、その不自由状態、不平等状態に異議申し立てを行い、戦争(独立闘争等) を含むあらゆる方法で闘い、彼我の力関係を変えることはできるし、実際にそうできてきた。だからこその「普遍化的価値」なのだ。これらの価値は、歴史的文脈において、現実の諸条件に応じて、絶えず改変され進化されていくが故に「普遍的」であり得るのだ。

それに対し、イスラムのような宗教には、「歴史を変える力」はない。西洋の植民地化に対しても、帝国主義や新植民地主義に対しても、昨今の新自由主義的グローバリズムに対しても、イスラムのような宗教では闘えない。闘えないからこその、「絶望的な無差別テロ」なのである。
それらと闘うには、宗教ではなく、自由や平等といった「普遍的価値」を武器として用いるしかない。貧者や被抑圧者にとっての「自由と平等」を前面に押し立てるしかない。自分たちを隷属状態、奴隷状態に置いている「不自由」で「不平等な」体制やシステムに対する抗議と異議申し立てである。


あっしら氏は、近代市民社会の普遍的価値について、「欧米諸国の恥知らずな政治家や学者」が「普遍的・人類共通などと仰々しい修辞で語ってきた」ところの「歴史限定的で地理的特定性も帯びた思想でしかない」と、偏狭にも切り捨てる。
【以下、引用】
> 歴史限定的で地理的特定性も帯びた思想でしかない価値観を歴史超越的・普遍的・人類共通などと仰々しい修辞で語ってきたのが欧米諸国の恥知らずな政治家や学者である。
【引用、終わり】

では、あっしら氏に問うが、普遍的価値ではないなら、いったい何を武器として、現在の世界体制における不平等や不自由と戦うのか。あっしら氏は、普遍的価値とは異なる対案を持っているのか。偉そうに語るからには、氏は何らかの対案を持っているのかもしれない。ならば、それを開陳してほしい。もちろん、イスラム過激派が常套手段としている「無差別テロ」や、あっしら氏とそのお仲間が愛してやまない「陰謀論」は、全く有害無益であるが故に除外して、答えてほしいと思う。

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あっしら氏の第一次大戦、第二次大戦についての見解も、いつもの通り、氏独自の、つまり一般的知見とは無関係な個人的解釈に過ぎず、客観性は全くない。
>そのために繰り広げられたWW1やWW2などの悲惨な戦争というかたちで近代思想の危険性が激しく露呈しているのだが、・・・

「近代思想の危険性」が20世紀の二つの大戦で露呈された、というのは、どういう意味なのだろうか?
全体の文脈から判断するところ、「民主主義」や「人権」といった「近代政治思想」が二つの大戦の原因になった、というのだろうか。それなら、ここでもまた、あっしら氏の見解は「誤り」であり、無茶な立論である。
いうまでもなく、二つの大戦は、典型的な「帝国主義戦争」(領土分捕り合いの戦争) である。「民主主義」や「人権」といった近代政治思想が「帝国主義」を惹起したというのは、まれに見る珍妙な理論だ。
第二次大戦は、帝国主義戦争であると同時に、民主主義を行う余裕のある先発帝国主義国と、民主主義が弱く全体主義に依拠した後発帝国主義国との間で戦われることにより、民主主義対全体主義の闘いという側面を持っていた。そして全体主義諸国が負け、「民主主義」諸国が勝利した。
その継続が、今日に至る第二次大戦後の世界の体制である。欧州はEUにより欧州内部では戦争を防止する体制を(曲がりなりにも) 作り上げたが、極東(日中韓) では未だに戦争状態が続いている。(EUは、今日の文脈では新自由主義的な体制の側面を有しているが、その初発においてはドイツ軍国主義を押さえ込む体制として出発した。)
あっしら氏の思考には透明性と一貫性が不在であるのだが、氏の歴史修正主義者・安倍晋三への評価とも併せて、第三者にもわかり安く説明してほしいと思う。(少なくとも私には、論理性の欠如した氏の主張は理解できない。)

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> 偽テロまで駆使した煽りに支えられながら「対イスラム戦争」が進行している。

⇒ あっしら氏の言う「偽テロ」も、「対イスラム戦争」も、私には理解不能。
何が「偽テロ」なのか、何が「対イスラム戦争」なのか。
今年になってフランスで複数回起きたテロも、その他の地域でのテロも、「リアルなテロ」であって、虚構ではない。リアルな、現実のテロに対して、「偽」と形容する理由は何なのか。単に、氏の「陰謀脳」がそういう幻覚を生じさせているのか。
⇒ 氏の言う「対イスラム戦争」には「イスラム批判」も含まれるのか。もしそうなら、宗教批判は「言論の自由」「表見の自由」「思想信条の自由」、一言で言えば大文字の「自由」に属することであるから、私は大いに賛同する。

もちろん、私は「陰謀論的解釈」には同意しないし、興味もない。また、ダイナモのような「イスラム教徒を傷つけてはいけない」という感傷論にも与しない。


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本スレッドは、あっしら氏の「個人的解釈」が前面にしゃしゃり出ることにより、元記事であるアボット豪首相の主張(「イスラム教は改革が必要」「政教分離の概念がない」「近代化の必要がある」) が脇に押し遣られている。
アボット氏の見解については、「イスラムへの理解不足」の一言で片付けられる、と私は考える。
イスラムは「改革不可能」な宗教なのである。同じ一神教、しかも神を同一にする兄弟宗教であるユダヤ教及びキリスト教と、イスラムとでは、根本的な違いがある。ユダヤ教とキリスト教の聖典が、神話や伝承、太古の賢者たちの思想、使徒の口伝といった「人間」の思想を書き表したものであるのに対し、イスラムの聖典(コーラン)は「神の言葉」なのである。(少なくとも、そうであるとされている。) 人間の言葉であれば、否定も変更も可能であり、宗教改革も可能であったろう。しかしイスラムのように、ひとたび「神の言葉」として提示されると、それを変更することは人間には許されない。人間は、ひたすら神に服従することが求められる。それに背くことも、疑問を持つことも許されない。異教徒や不信心者だけでなく、背教者や離教者も、死をもって罰される。それが、コーランに明文化されたイスラムの掟なのである。この点は、どなたも重々承知されたい。絶対的な神には、服従するか、黙って去るか、しかない。正面から抵抗すれば「ジハード」と称して殺される。
イスラム世界以外にも生きる「世界」を持つ極少数者たち(一般に欧州にも足場を持つ知識人) であれば、(亡命も視野に入れて)自由に行動することは可能であろう。しかしそうでない大多数の者たちには、掟から逃れることは不可能である。

=======================================================
昔、私はマクシム・ロダンソンの講演を聴いたことがある。そのときロダンソンは、エジプト人の知識人の中には「神の存在を信じない」と内心思っている人がいる、と語った。(内心思っているだけであって、公然と口外するのではない。)
その後、アルジェリア等における激しい内戦(同国ではサラフィストによるテロで20万人が死亡、行方不明者は数知れず、亡命者も多数) を経て、アルジェリア等では知識人の間でイスラム離れも起きている。最近も、アルジェリアの保守派のテレビ局で、ある作家が「自分は神を信じない、預言者も信じない」と発言してして話題になった。勇気ある「カミングアウト」である。その動きは今後も続くであろう。
IS(ダーイシュ)の蛮行により、イスラムの反動性と野蛮性について、世界中の人々の知るところとなった。「あれは本当のイスラムではない」などと言ったところで、ジハード(異教徒は改宗しない限り殺戮するという実践)は、コーランに明記されたムスリムの義務である。幸い、ソーシャル・メディア・ネットワークの発達によって、若い人々は独自に情報を入手する機会を得られるようになった。私の手元にも、「アルジェリアの無神論者たち」とか「ヴェールを被らない自由な女たち」などといった表題のフェイスブックのページが幾つもある。暇な折りにはそれらを覗いて、自らの「自由」のために闘っている人たちから勇気をもらいたい、と思うこの頃である。
こうした「自由」は普遍主義の概念である。「西洋」の押しつけではない。「元ムスリム」を含め、人間的に自由に生きたいと思う人々が、自ら選び取った思想である。普遍的価値は「西洋」の押しつけだと言って、反動的なイスラムを持ち上げるのは、良識ある人間のすることではない。


3. 晴れ間[911] kLCC6orU 2015年12月23日 12:11:43 : xni5yVaf3k : Fxfse0RTtHo[33]
>>2

イスラムが改革不可能な宗教である、と述べた点について、追加説明。

言うまでもなく、イスラムには、キリスト教や仏教等における「聖職者層」や「僧侶集団」が存在しない。つまり、宗教教団としての意思統一や教理の変更・改革が不可能なのである。キリスト教においては、「○○公会議」等を開いて「正統教理」を定めたり、派生的に「分裂」や「異端」を生み出すことも可能であったし、いくつもの宗教改革が行われ得た。
ところが、イスラムは、神の言葉であるコーランが絶対であり、それに背くことは許されない。異を唱える集団も生まれ得ない。
イスラムで言うスンニ派とシーア派の対立も、教理上の対立から生まれたものではなく、預言者ムハンマドの家系内、遺族間での、単なる財産争いが原因だと言われている。
イスラムではコーランが絶対である以上、イスラム原理主義を批判できる勢力は、イスラム内部には存在しない。ここにイスラムが、永遠に7世紀から進化できない理由がある。

なお、以上の点について、私はフランスの新聞等のジャーナリストの記述を参照している。(日本語の本は読んでいないので、日本ではどういう説明がされているか、知らない。)


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