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年収1200万円から路上生活へ、介護離職で転落した男性(ダイヤモンド・オンライン)
http://www.asyura2.com/16/hasan111/msg/195.html
投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 7 月 22 日 09:14:40: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

年収1200万円から路上生活へ、介護離職で転落した男性
http://diamond.jp/articles/-/96312
2016年7月22日 みわよしこ [フリーランス・ライター] ダイヤモンド・オンライン


貧困と介護が一つの家庭に重なった場合、その負担は想像を絶するものとなる。さらに、家族介護が貧困をもたらすこともある。高収入サラリーマンも例外ではない。


■「介護心中のニュースは、あえて避ける」
 介護離職から生活保護を経験した男性



介護は高収入の人の生活をも一変させる可能性がある


 前回は、2015年11月に埼玉県で起こった、高齢の両親と40代の娘の入水心中未遂事件について、「なぜ、一家は公的制度に助けを求められなかったのか?」という側面から検証した。


 この一家は、両親の介護・医療を含めて、「生き延びる」ために生活保護を必要とする状況にあり、しかも極めて差し迫った状況にあった。そのことは自治体も理解しており、迅速に対応した。ところが、生活保護の開始決定を迅速に行うために行われた調査が、皮肉にも心中の引き金となった。調査の4日後、遅くともその10日後には行われる保護開始を待たずして、一家は入水心中を実行。80代の母親・70代の父親が溺死した。死にきれなかった娘は逮捕され、2016年6月23日、懲役4年の実刑判決を受けた。


 今回と次回は、「介護離職」と生活保護を経験した高野昭博さん(61歳)の、経験・思い・考えを紹介する予定だ。


 高野さんは「介護離職」をきっかけとして、生活困窮状態に陥り、住まいを失い、路上生活者となった。その後、生活保護を経験し、現在は生活困窮者に対する相談業務で生計を立てている。週6日の勤務の様子を語る高野さんからは、「働かないと生きられないから働いている」という悲壮さは全く感じられない。相談業務は時に苦労も多いものだが、苦労について話しながらも、高野さんは「動いてないと、おかしくなっちゃう」と楽しそうである。自身については「根っから楽天的なんです」という。


 まず、2015年11月の親子心中事件について、高野さんはどのような思いを抱いているだだろうか?


「正直なところ、『本人しか分からない』ことだと思います。実は、この事件の報道は、あまり読んでいないんです。『知っておくべきなのかもしれない』とは思うのですが、あえて、避けていました」(高野さん)


 高野さんは、高校を卒業した後、流通大手に就職した。ステータスの象徴とされるその企業で、高野さんは販売に従事していたが、ほどなく企画など重要な職務を任されるようになった。高野さんの仕事ぶり・能力・実績は高く評価されており、昇進も順調だった。30歳で主任・33歳で係長・38歳で課長。その企業の平均的な大卒よりはやや遅い年齢ではあるが、高卒で入社した人が30代で課長になるということは、業種を問わず、大手企業では驚嘆されるべきことである。評価は報酬にも反映され、年収は最大で1200万円に達していた。しかし2000年、45歳のとき、高野さんは介護のための退職を余儀なくされることとなった。


■退職か? 過労死か?
 介護との両立がありえない「企業戦士」生活



高野昭博(たかの・あきひろ)さん
1955年、東京都生まれ。埼玉県で育ち、現在も埼玉県に在住。現在はNPO等で、生活困窮者支援業務に従事。趣味はスポーツ・音楽鑑賞・旅行。大切にしている言葉は「明鏡止水」


 高野さんは1955年、東京で生まれ、8歳の時、家族とともに埼玉県に転居し、就職後も両親とともに埼玉県で生活していた。介護は「するつもりでいた」という。


 職場で知り合った女性と、結婚を前提に付き合っていた時期もある。互いに裏も表も見て、「この人なら大丈夫」と確信していた。しかし、結婚には至らなかった。


「結婚したら、両親と別居することになります。当時は両親とも元気だったんですが、『老後、どうなってしまうんだろう?』と考えました。まだ介護保険はなく、住んでいた地域には、高齢者の介護に関する制度が特にありませんでしたから」(高野さん)


 結婚すれば、両親も、親しい関係の誰もかも、「嫁が介護を」と期待するだろう。


「両親は口には出しませんでしたが、『結婚したら、息子の妻が自分たちを介護するんだろう』という雰囲気でした。それもあって、結婚を断念しました」(高野さん)


 そして、両親の介護は現実の問題となった。


「課長になって間もなかった38歳か39歳のとき、母親の介護が必要になってきたんです。もともと身体が弱くて、寝たり起きたりだったのですが、起きていられないことが増え、自分でできないことが増えてきた感じでした。でも、まだ認知症はなくて、頭はしっかりしていました」(高野さん)


 介護保険制度は、まだ存在していなかった。既に退職していた父親と高野さんが、母親の介護を担うことになった。会社は、最初のころは「大変だね」と理解を示していたものの、長時間残業が難しい高野さんに対する職場の目は、徐々に冷たいものへと変わっていった。冷ややかな視線や態度を示され、「あなたの代わりはいくらでもいる」と言われ、さらに職場に自分の席がない状況になったという。


 母親の介護が必要になる以前、高野さんの生活は、どのようなものだったのだろうか?


「管理職になると、8時より前に職場に入り、23時か24時に職場を出る生活でした。家に帰ったら、寝るだけでした」(高野さん)


 計算してみると、1年あたりの労働時間は、約4000時間になる。休日や勤務時間が定まっている場合の過労死危険ラインは年間2880時間、変則勤務の場合は年間2400時間だ。オフィスと販売現場の両方にいた高野さんは、変則勤務と見るべきだろう。


「過労死、多かったですよ。食事中に倒れてそのまま死んだ同僚もいました。通勤の帰りがけ、ふらついていてホームから転落して電車に轢かれて死んだ人も、交通事故に遭って死んだ人も。もともと血圧が高かった人がストレスの高い仕事のために外出して、任務遂行直後に倒れて亡くなったこともあります」(高野さん)


 ドリンク剤の「24時間戦えますか」というCMソングが流行していた時期、まさに「24時間戦っている」に近い状況にある企業戦士たちが実在していたわけである。


「精神的に追いつめられて、うつ状態になる人も多かったです。厳しい状況でした」(高野さん)


 高野さん自身は?


「ストレスが溜まっていたとき、追いつめられた気持ちになり、オフィスで書類をぶん投げたことはありました。でも、私は開き直るのが速いんです。楽天的な性格が幸いしたのかもしれません」(高野さん)


■公的介護支援もなく、職場の理解もなく
 「介護離職」へ


 出産・育児は、自分の意志で「やらない」という選択をすることも可能である。しかし親の介護は、実際にやるかやらないかは別として、存命の親がいれば必ず持ち上がる問題である。「育児・介護休業法」が成立し、介護のための有給休暇が一応は制度化されたのは、1995年であったが、雇用主の努力規定であった。義務化されたのは2010年(従業員100人以下の事業所に対しては2012年)であるが、何度かの大改正を経た現在も、事業主に対する罰則はない。被雇用者の苦情・あるいは紛争に発展した場合の調停等の仕組みが設けられ、勧告に従わなかった事業主に対する「これが処罰?」と首を傾げたくなるほど軽い制裁措置が盛り込まれているだけだ。


 高野さんが39歳で母親の介護に直面した1994年は、バブル崩壊直後。新卒の就職が「氷河期」と呼ばれ始めた時期でもある。もちろん、既に正社員としてキャリアを積んでいた社員に対しても、バブル崩壊の影響は大きなものだった。高野さんの当時の勤務先の企業体力を活かせば、バブル期なら「これを機会に、社として介護支援を充実させて、優秀な人材を採用しやすく」という配慮ができたかもしれない。しかし、安定経営が困難になっていた時期には、文字通り「無い袖は振れない」だっただろう。


 それでも、ある程度は父親が母親の介護に当たれていた時期の高野さんは、自身も母親の介護を担いつつ、ギリギリの職業生活を、ギリギリの時間のやりくりとともに継続できていた。


「でも、介護と仕事の両立は、がんで父親が入院してから難しくなりました」(高野さん)


 1999年5月、進行がんが発見された父親は東京の病院に入院し、8月に手術した。手術後も容体は良好でなく、同じ病院での療養生活が続いた。転院先が見つからなかったからである。


 高野さんの勤務中、埼玉県の住まいでは、認知症の症状の現れていた母親が、一人で時間を過ごしていた。


「訪問販売に引っかかって、いろいろと高価なものを買ってしまい、クーリングオフもできず支払ったりしたこともあります。徘徊もありました。行方不明になって捜索願を出したこともあります。近所の方から『施設の方が良いのでは?』というアドバイスもありましたが、母親が『ここから離れたくない』というので」(高野さん)


 借家ではあったが、約40年にわたって暮らし続けていた「我が家」であった。


 住まいにいる母親の介護、病院にいる父親への対応をしながらの職業生活に、高野さんが限界を感じていたころ、勤務先では早期退職者の募集が始まった。


「人件費削減のため、1万人を超えていた社員を2000人減らすことになり、早期退職者の募集が始まったんです。退職金の上積みもあったので、退職することにしました」(高野さん)


 退職金は1200万円。


「『減らさずに働いていたら、なんとかなるだろう』と思いました。楽観的過ぎました。『世の中甘くない』と後で気づきました」(高野さん)


■日々の介護に経済状況の悪化
 ついに住宅喪失、そして路上生活へ


 退職の翌月、父親は他界した。間もなく、母親は脳梗塞で倒れ、寝たきりになった。


「介護と両立できる仕事を探していました。でも、そうすると仕事の選択肢がないんです。なので、とりあえず、定時の仕事に入ることにしました」(高野さん)


 2000年2月、高野さんはスポーツ店に再就職した。高野さんは、もともとスキーの指導員資格を持つスポーツマンで、スポーツの知識やスポーツ用品業界との人脈が豊富だった。流通大手に在職中は、スポーツ店の海外スキーツアーに同行したこともある。そういったことも評価されての再就職だった。年収は500万円。担当業務は、スキーウェアの仕入れだった。


「年齢的には、そこそこか、ちょっと良いか、というところでしょう。社長が介護に理解を示し、私は早めに帰れるように配慮されていました。助かりました」


「ほぼ定時の仕事でした。終わったら速攻で家に帰り、母親に食べさせて着替えさせて、でした。一番大変なのは入浴でしたね。自分は抵抗なかったですけど、母親は大いに抵抗あったようです」(高野さん)


 しかし5年後、不況に襲われた会社は、人員削減をせざるを得なくなった。


「高年齢者から退職させられたわけですが、私は最後まで残してもらえました。前職の経験と蓄積があって、その会社でもずっと、スキーウェアの仕入れをしていたわけですが、若い人から見ると『なんであの人だけ残っているの』となるわけです。それで、辞めました」(高野さん)


 その後も高野さんは、とにもかくにも「働く」を手放さなかった。年齢とともに厳しくなる求職状況の中、アルバイトなど不安定な雇用や、200万円以下までの年収激減も厭わず、高野さんは「働きながらの介護」を続けた。


「働くことは、ずっと続けていました。動いてないと、おかしくなっちゃうんです」(高野さん)


 2008年、母親が86歳で亡くなった時、高野さんの経済状況は「どん底」(高野さん談)。約100万円の質素な葬式は辛うじて営めたが、納骨は費用が足りないためできなかった。


 借家の家賃も払えなくなったことから住居を喪失した高野さんは、母親の遺骨と、母親とともに愛した茶トラのオス猫を抱いて、公園で生活する路上生活者となった。


 次回は、高野さんが路上生活を脱却し、生活保護で暮らし始め、就労自立へと戻っていく過程を、高野さん自身の老後の見通しとともに紹介する予定である。


「ゼイタクではないけれど、心楽しく、不安少なく生きていける老後」が、もしも生活保護によらず実現できるのであれば、何によって実現できるのだろうか?

 

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