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今度は3歳児に暴力! 戸塚ヨットスクールの“体罰教育”を支持する石原慎太郎ら右派論客のグロテスクな狙い(リテラ)
http://www.asyura2.com/16/senkyo214/msg/715.html
投稿者 赤かぶ 日時 2016 年 10 月 21 日 13:20:05: igsppGRN/E9PQ kNSCqYLU
 

                石原慎太郎公式サイトより


今度は3歳児に暴力! 戸塚ヨットスクールの“体罰教育”を支持する石原慎太郎ら右派論客のグロテスクな狙い
http://lite-ra.com/2016/10/post-2636.html
2016.10.21. 戸塚宏の“体罰”を支持する右派の狙い リテラ


 あの戸塚ヨットスクール(愛知県知多郡美浜町)が、にわかにネットで物議を醸している。きっかけは、東海地方の夕方のローカルニュース番組『みんなのニュース One』(東海テレビ)が9月28日の放送で、戸塚ヨットスクールが行っている3〜10歳の児童を対象にした合宿の模様に密着したことだ。

 もともと、校内暴力や非行青少年、不登校などが社会問題となった1980年前後、体罰も辞さない「スパルタ教育」により、子どもたちを「訓練」「更生」するとして脚光を浴びた、戸塚ヨットスクール。だが、80〜82年の間に、過酷な「訓練」中に2名が死亡、2名が合宿の帰りに船から飛び降りて行方不明となった。

 このいわゆる「戸塚ヨットスクール事件」で、戸塚宏校長やコーチらが逮捕、傷害致死などで起訴された。2002年、最高裁は「常態的に暴行を加えるような訓練に正当性は認められない」とした高裁判決を支持し、戸塚氏の上告を棄却。懲役6年の実刑判決が確定した。06年4月、刑期を終えた戸塚氏はスクールの校長に復帰し、活動を続けている。

「体罰のことを私は『相手の進歩を目的とした有形力の行使』であると定義しています。相手の進歩が目的なのだから、体罰は悪ではない」(「正論」08年10月号/産経新聞社)

 出所後も持論を曲げていない戸塚氏だが、今回、東海テレビが密着した特集VTRのなかでも、男児(4歳)を背後から抱きかかえて海に放り投げたり、男児(3歳)の頭や顔を手で叩く模様が映されていた。その放送の一部がネットニュースに取り上げられ「幼児虐待だ!」と批判の声が上がり、ツイッターを中心に、管轄の役所や警察署に「通報」する動きが出てきたのである。

 当然だろう。そもそも、体罰に教育的効果はなく負の感情や憎悪の連鎖しか生まない、というのは教育学の常識だが、その暴力を3〜10歳の児童に向けるというのは、体験がトラウマになってPTSDを引き起こす危険性まではらんでいる。また「進歩が目的」などというのも、抵抗できない者に対して暴力を行使する側の身勝手な論理でしかなく、まさにトンデモとしか言いようがない。

 しかし、こうした「体罰上等」「スパルタ教育」は、なにも戸塚氏だけに突出した話ではないのだ。むしろ、この国の保守言論人やタカ派政治家のなかには、戸塚氏のトンデモ理論を支持し、体罰肯定を声高に語る人間が山ほどいるのである。

 その代表格が、石原慎太郎元東京都知事だろう。1983年の戸塚氏逮捕直前には「文藝春秋」で対談し、「戸塚さんがやっていることは、あるべき正当な教育やしつけの一番の真髄なんだね」と絶賛。拘留、刑期中、出所後も一貫して擁護し続け、現在も戸塚氏と個人的親交が厚く、「戸塚ヨットスクールを支援する会」の会長も務めている。なにより石原氏は、戸塚ヨットスクールが脚光をあびる前から“体罰肯定派”の急先鋒だった。1969年に出版してベストセラーになった『スパルタ教育 強い子どもに育てる本』(光文社)には、それこそ戸塚氏も顔負けのトンデモ体罰論が展開されている。

「子どもをなぐることを恐れるな」「暴力の尊厳を教えよ」「いじめっこに育てよ」「子どもに、戦争は悪いことだと教えるな」。さらには、今回の戸塚宏の行動を彷彿とさせるこんな一節まであった。

〈子どもは、幼ければ幼いほどなぐらなくてはならぬ。なぐることで親は、はじめて親の意思を直裁に、なんの飾りもなく子どもに伝えることができる。〉

 同じく、極右政党・次世代の党(現・日本のこころを大切にする党)の同志であった元航空幕僚長の田母神俊雄も、戸塚氏の熱心な支持者の一人だ。2010年には『それでも、体罰は必要だ!』(ワック)という戸塚氏との対談本も上梓。そこで田母神氏は、現代に必要な「教育改革」として「『体罰』をOKにしたら、問題児の八割は良くなる」と主張する戸塚氏と意気投合、ふたりで“日本の武士道は世界最高だ”と称揚しつつ、得意げにこう述べている。

「体罰は絶対にいかんなんて、子どもたちにとっては大変不幸な環境ですよ」
「子どもを絶対に殴らないというのは、日本は絶対に先制攻撃はしないという発想と同じなんですね」

 さらに、戸塚氏が顧問兼支部長を務める「体罰の会」という体罰復活を主張する団体があるが、この会にもズラリと保守言論人が顔を並べている。会長は加瀬英明氏、役員には宮崎正弘氏、西村幸祐氏、水島聡氏などなど。さらにあの日本会議会長の田久保忠衛杏林大学名誉教授も顧問を務めている。田久保氏は、09年の「『教育における体罰を考える』シンポジウム」での講演で、「学校教育法を『体罰を加えることができる』と書き換えるべき。戦後、社会全体がゆるんでいる。こういうとき体罰が必要」と主張している(産経新聞09年7月6日付)。

 また、戸塚氏を直接支持していなくても、体罰肯定論者は山ほどいる。数々の人種差別やトンデモ発言で知られる作家の曽野綾子も「体罰はすべてダメ、ということになった時から、教育は狂って来てしまった」(「週刊ポスト」1996年12月6日号/小学館)、「体罰も幼い時は当然だ。体罰は一種の世代間の会話だということを大人は忘れてしまっている」(同2002年2月1日号)と“体罰は教育になる”が持論だ。

 もちろん、現役政治家のなかにも“体罰肯定派”はたくさんいる。とりわけ指摘しておきたいのが、安倍内閣の前文科相である馳浩衆院議員と文科副大臣・義家弘介衆院議員だ。ともに元教員の経験があり、文科行政のツートップまで上り詰めた両人だが、過去に雑誌の対談で、「一週間に一本くらいは竹刀が折れていましたよ」(馳氏)、「いじめの指導で放課後四時間教室から(生徒を)出さなかった」(義家氏)などと過去の“体罰自慢”を披露していた(「正論」08年6月号)。

 ちなみに、義家氏に関しては実際、教育界全体における“体罰禁止の見直し”を提言した過去まである。第一次安倍政権下の06年、首相の肝いりでスタートした教育再生会議は、その第一次報告(07年1月)に「体罰の基準見直し」を盛り込んでいた。実は、その提言を行ったのが、当時、教育再生会議の担当室長だった義家氏だ。「現状では教師は毅然とした指導ができない。両手両足を縛って『戦ってください』と言うのは無責任だ」として、1948年の法務省(当時)による「生徒に対する体罰禁止」の通達の見直しを訴えていたのである。

 このように挙げていけばキリがないが、ではなぜ保守言論人や右派政治家は体罰肯定派だらけなのか。それは、彼らがもっともらしく語っている「子どもの教育のため」とか「殴ることが愛情だ」とか、そういう話ではまったくない。

 たとえばそれは、体罰肯定論の親玉的存在として長らく世論に悪影響を及ぼしてきた石原氏の自分の息子たちへの教育を見れば明らかだろう。

「週刊ポスト」12年1月13日号のなかで、プロインタビュアーの吉田豪氏から前述の『スパルタ教育』について、「戸塚さんがあれだけ叩かれたわけじゃないですか。(石原さんへの)批判も多かったんじゃないか」と聞かれ、石原氏はこんなことをポロリと漏らしているのだ。

「多かったですよ。子供は殴れと書いたから。ただ、そう書いたかもしれないけど、俺はあんまり殴ったことないんだよな(笑)」

 実際、息子の良純も後年、テレビで「うちではスパルタ親父じゃなかったですけどね」と笑いながら語っているし、それどころか、石原は息子たちをタクシーで学校に通わせていたという逸話まである。

 つまり、連中は自分の子どもには甘やかし放題で、他人の子どもにだけ「体罰」を与えろ、とわめいているのだ。これが「教育」や「愛情」のためなわけがない。

 では、なぜ彼らは体罰を叫ぶのか。それは、力のある者にひたすら従順になり、自由や権利を口にしない国民をつくりだすためだ。

 事実、先に触れた田母神氏と戸塚氏の対談本のなかで、二人はこんなトンデモなアイデアを出し合い、盛り上がっていた。

〈戸塚 具体論をいえば、集団生活体験法のような法律をつくるのがいいでしょうね。
 田母神 それができれば、理想的ですね。
 戸塚 いちばんいいのは、小学校を全寮制にすることだと思います。先生は遠くから見守りながら、たとえば正しいイジメ方を教えていくんです。イジメられたら強くなりますから、イジメをなくしたらいけません。(中略)
 田母神 私の子ども時代の環境を再現させるわけですね。実現すれば、子どもたちにとってすばらしい環境となることは確実ですよ。
 戸塚 それともうひとつは、夏休みをもっとうまく利用する手があります。夏休みに、男の子なら自衛隊、女の子なら宝塚のようなところに合宿させるんです。そして、いわゆる通常の勉強は禁止する。こういう団体生活を行わせると、あれが得する、損するというような現象はなくなっていきます。〉

 石原氏も同様だ。前述の「文藝春秋」1983年8月号での対談のなかでなんともグロテスクな本音を語っていた。戸塚氏が、

「子供に対する扱いが、『子供は駄目なもんだ』ということで、日本はずっと戦前まで押し通してきたんです。戦後になって、急に子供の人権を認め始めたわけですね。その結果まずくなったんです。日本が二千年続けてきたことを、この三十年間だけ破っちまったんです。それでどうのこうのとか言っても、いまのほうが間違っとるのに決まっているんですね。どう考えても、人間がそれほど進歩しているとは思えないわけです」
「戦前の人が軍隊でとことんしごかれて、とんでもない実力を発揮できるすばらしい人間が、たくさんでき上がっているわけです」

 などと持論を展開すると、石原氏は全面肯定して、たとえばこう述べていた。

「戸塚さんは政治家にかわって、実にいいことを言ってくれているので、感謝しなければならないけど、安全保障条約が防衛の主体になっている国家、民族は、憲法に対する姿勢も子弟の教育でも他力本願になるんですよ」

 ようするに、彼らの体罰肯定論の延長線上にあるのは、戦後民主主義の否定であり、軍国主義教育復活なのだ。国の言うことに黙って従う国民をつくり、再び国のために国民が命を投げ出すような体制をつくりだすこと。それが目的なのである。

 教育の混乱に乗じて、再び大きくなっている体罰肯定論だが、こんなものに決して騙されてはならない。

(都築光太郎)

 

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コメント
 
1. 人間になりたい[160] kGyK1ILJgsiC6IK9gqI 2016年10月21日 17:44:09 : vew34TeHNk : O3QpYgKaGX8[162]

教育の基本は、人間を作ることである。ここで指摘された人たちは教育の基本を身につけることに失敗した同じ類の人たちである。人間ではないので、この人たちに「人間のクズ」などと言えば褒め言葉になってしまうような人たちである。
人間とは、子供の行動規範である自己愛から脱却して隣人愛を社会的行動規範の根底として受入れた人のことである。社会は動物として生きることができなくなった人類が、生存のために人間として生きる場として構築したものである。
それは自然環境に上書きされたバーチャル空間であり、その中に国家や統治機構、経済、文化、伝統、教育などの社会システムが組み込まれている。したがって社会内における行動はすべて人間性が要求される。
彼らにはそれができないので、その不利益を避けるために極力人間のフリをするが、そのためには常に嘘を吐き続け、教育や政治、時には右翼を装い皇室を利用してまでも、自分を正当化しなければならないのである。
石原慎太郎や稲田朋美の行動をみればすぐに分かることだが、エラそうなことを口では言うが、彼らは言行不一致で、無責任で、臆病者である。他者には平気で苦役を強いるが、自分がそれを受入れることはない。他者には体罰を奨めるが自分の息子にはやらない。他者には血を流す覚悟を強要するが、自分の子供には拒否する。自分にとって損か得かがこの人たちの行動規範である。
子供にしつけは必要であり、状況に応じて時には体罰のようなものが必要になることもある。体罰も人間がやればしつけになるが、人間のフリをする人がやるといじめになる。人間の行為は子供のためにやるが、人間のフリをする人の行為は自己愛の強制であり、自分のためにやるからである。人間のフリをする人の愛国心は偏狭なナショナリズムになる。人間のフリをする人のボランティアは売名である。
この国の政治的対立は、右か左かとか、与党か野党かとかなどということではない。人間と人間のフリをする人たちの対立が本質である。
 
 

2. 2016年10月21日 20:33:03 : sGblDOf0UM : JXQA5P6IRkc[1]
バカな右派や保守派に見られる体罰は日本の伝統という誤った観念に基づく思い込みを糾さずして、真に日本の伝統を見直す機会は永久に失われれるだけだ。

まず子供に体罰は必要という考え方は明治期に入ってきたキリスト教文化の影響であり、日本には我々が当たり前だと思い込んでいた子供を叩いたりお灸をすえたりして言うことを聞かせた躾という文化は微塵もなく、江戸時代やそれ以前から子供に対して言葉で言って聞かせることはあっても、親が子に手を出したり鞭で叩くというようなことはなかった。

武士の子も町民の子も、農民の子も押しなべて子供には甘く、溺愛に近い可愛がり方をしていたのが普通だった。
戦前の日本でも小学校教育の場で先生が生徒に手を上げるといった体罰行為は本当に少なく、学校の教師がビンタや拳で子供を殴ることが普通だと思ってきたのは戦争が終わり、復員兵が教師として学校に入るようになってからである。
なぜなら復員兵は総じて軍隊で鉄拳制裁やシゴキを経験しており、その名残を学校に持ち込んだのが躾となって受け継がれたので、体罰が躾と認知されたのは戦後のことである。

そして復員兵といっても日本陸軍は体罰を禁止しており(ただし戦争が長引いて駐留が続くにつれ、兵隊間で私的制裁が横行した。長期駐留で上官の不満が下士官に行くイジメでありこれがイメージになっているが基本的に体罰は禁止されている)、主にイギリス式の海軍のほうが鉄拳制裁などの体罰が許されていたので、海軍上がりの教師は子供たちにとって恐怖の対象であった。
このように日本旧来の教育や子育てには、子供を叩くという発想は無縁である。
今日、我々が日本古来の普通の慣習だと思っていることも、実は近代に入って西洋から輸入化された思想や制度だということを、右派や保守派こそが見つめなおしてみるべきだろう。

それができない右派や保守はどんなゴタクを並べても、ただのクズだということで事足りる。
日本のことを語る資格はない。


3. 2016年10月22日 00:21:51 : xQoZn42Pr2 : 2ydlNWODHRI[1170]
こんなアホな施設まだあったんだ

4. 2016年10月22日 04:55:30 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[370]
>02さんに同意。

乳児死亡率も高かった時代に、どれ程無事の生まれてきた子供を、玉のように
慈しみ育てたことか。

ただ、封建時代故の弊害、いくら働けど十分な実入りも無く、やさぐれて
飲んだくれた親父が、女房や子供(或いは親兄弟)に手をあげる、
幸先を案じた父母が、子供にも手をかけて一家心中を図る、
又は子供が増えすぎて食い扶持に困った挙句の泣く泣くの間引き、など。。

全く折檻、暴力や子殺しの悲劇がなかったわけではない。

とは言え、それが通常の2000年来の親子関係だの、教育観だの。有り得ない。

鬼子母神信仰とか、やむにやまれぬ動機で子に手をかけた(或いは色んな理由で、
人の道を外さざるを得なかった)者も救うという、慈悲深い仏教信仰も
ありましたが、寺社ともに、子供を折檻するのが真の教育などという、
狂った教えを説くものは、山賊や人攫い人切り、或いは狂気に染まった権力者相手
専門に商売をしていた魔道、邪教の徒(つまり全くの裏社会)以外に、宗教に於いても
存在していなかった(つまり需要が低かった)。

まぁ一部、皇族、公家や武家のお家騒動(後宮絡み含め)としては、
跡目争いとしての親族、子殺しなどが歴史の中で頻発したのも事実でしょうが。。

となると、今の政権とは何ぞや・・・

ゾクッ :;(´﹏`);:


5. 2016年10月22日 05:01:09 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[371]
04追加

あ、確か農村の(姥捨てはともかく)間引きについては、封建制江戸時代より、
明治以降の方がずっとひどかったと、どこかで読んだ記憶がある。


6. 2016年10月22日 05:34:50 : D1hJR9DOkE : MZNgGRRxULs[372]
戦前に於いては極々例外といっていいようなケースを、さも当然の
一般常識が如く敷衍して言い立てる戦後の自称偉い人達って・・・

可哀想に相当戦中のPTSDが癒えてない、どころか悪化。
多分死んでも成仏できない悪鬼に取りつかれた末期の精神癌に侵されたる連中だ。
人にはおろか、恐らく仏の法力を以てしてでも一朝一夕には済度できない愚であろう。

くわばらくわばら。


7. 2016年10月22日 14:46:46 : IJjjrLkBu1 : Tp0IihGPIW0[1124]
  まさに戦前回帰現象であろうか。
   戦時の軍参謀と日本政府が結託した大政翼賛構造で、軍の暴走をチェックするシステムを政府が放棄したために、戦略も無しに「勝つまで戦争をやり続ける」という戦争ギャンブルに突入、遂に外圧によってしか、国として軍の暴走を止められなかったのである。
   この間、軍隊はひとつの宇宙となり、そこでは敵と遭遇する前に部隊内での凄惨な上級兵による下級兵への虐待といえる状況があったが、しごき、と称して繰り広げられたため合法化するも、むしろそのストレスが末端兵を襲っていたことが知れるのであり、結局は、銃も馬も食糧の補充も無い中で、思考力を失った部隊は突撃、玉砕と、狂気の世界に入り、自滅して行ったのであろう。
   動物の世界でも、幼児に対しての躾けはあるが、いわば甘噛み、というものであり、骨が折れたり脳震盪を起こして気絶させる、溺れさせる可能性など、生存条件が危うくなるほどの体罰は到底加えない。当然ながら、それは種の絶滅を意味するものであることを、動物の方が良く知っているのである。
   さて、石原や戸塚が人間の繁殖に危惧を抱いた宇宙の使者か何かであれば兎も角、そういう事は有り得ない以上、幼児を生存の危機に晒す「躾け」が生命体の法則に逆らうものであることくらいは、感性として持っていなければならない。
   また、幼児の成長のためというより、幼児を所有物とした親の意識を変えるためのコンサルタントが行われているようであり、これは、幼児は顧客とはなり得ない事を承知し、専ら親を消費者として見たビジネスである。
   以前のヨットスクールは、青少年の育成のためなどと理由付けしつつ、何人も合法的に死の淵に誘ったようだが、今度は、ドッグスクールならぬ、幼児躾けスクールとしての親向けの新ビジネスを考え付いたのであろう。
   子供の教育に自信の無い親に目を付けた、三歳児の知能を持つと言われるドッグスクール状態であるが、ドッグスクールとて、対象にやたらに恐怖感を与えれば心を通わせることは絶対に出来ないことを、トレーナーは知っている筈だ。
   ましてや、成長期に筋肉や神経の成長を妨げるような過酷な躾けは、上手く説明も出来ない幼児に対しては、ドッグスクールよりも過酷であろう。
   犬ならば尻尾を巻いて萎縮し、懐くどころの騒ぎではないが、人間の幼児の場合はひたすら親を頼るしか無い手前、どんな躾けであろうと幼児は受け入れる他は無いのである。
   親としての感性を忘れ、動物でさえ甘噛みにして生存条件の危うくなるほどの躾けをしないにも拘わらず、「親の躾け」ビジネスに我が子を材料として委ねてしまうような日本の国柄というのも問題だが、戸塚と石原が共同で始めたような、子供では無く親向けの躾け教室は、相変わらずの、殺人も合法的なら世間が許す、といった前提で行っているとしか思えない、未必の故意である。
   重傷、重体者が出るなど、取り返しが付かなくなる前では遅い。
   シリアルキラーを疑っても間違いでは無く、国会で問題にすべきである。   

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