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溝口健二 祇園の姉妹 (松竹 1936年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/158.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 14 日 08:52:23: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 昔の日本映画は熱かった _ 溝口健二 赤線地帯 (大映 1956年) 投稿者 中川隆 日時 2019 年 1 月 13 日 19:10:41)


祇園の姉妹 (松竹 1936年)


監督 溝口健二

脚本 依田義賢

撮影 三木稔

配給 松竹キネマ

公開 1936年10月15日

動画
https://www.nicovideo.jp/search/%E7%A5%87%E5%9C%92%E3%81%AE%E5%A7%89%E5%A6%B9?ref=watch_html5


キャスト

おもちゃ(芸妓):山田五十鈴

梅吉(芸妓):梅村蓉子

古沢新兵衛(木綿問屋):志賀迺家辨慶

おえみ(古沢の妻):久野和子

定吉(古沢の番頭):林家染之助
おはん(定吉の妻):三枡源女
工藤三五郎(呉服屋):進藤英太郎
おまさ(工藤の妻):いわま櫻子
木村保(工藤の番頭):深見泰三
聚楽堂(骨董屋):大倉文男
梅龍(芸妓):葵令子
お千代(扇家の女将):滝沢静子
立花(運転手):橘光造
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%87%E5%9C%92%E3%81%AE%E5%A7%89%E5%A6%B9


祇園の姉妹:溝口健二の世界
続壺齋閑話 (2013年8月21日 18:04)


溝口健二は生涯にわたって、男に踏みつけにされながらも健気に生きていく女たちを描き続けたが、その作風にとってターニングポイントとなったのが、「浪華悲歌」とこの「祇園の姉妹」である。溝口は、浪華悲歌では、父や兄の犠牲となって身を崩していく一人の少女をリアルに描いたのだったが、この作品では、祇園の芸妓姉妹の生きざまを描いている。芸妓であるから、もとより男の弄びものには違いないが、それでもやはり人間であることにも違いはない。では、芸妓でありながら人間らしく生きるのは不可能ごとなのか。そんな思いを込めて、溝口はこの映画の中でも、男に翻弄される女たちの生き方を描いているのである。

主人公は、祇園の芸妓である梅吉(梅村蓉子)、おもちゃ(山田五十鈴)の姉妹。彼女らは、芸妓のうちでも格下らしく、しがない暮らしをしている。姉の方はそんな境遇に満足しているが、妹の方は満足しない。金持ちの旦那を見つけて、何一つ不自由のない楽な生活がしてみたい。つまらぬ男の言いなりになって、あくせくするのはまっぴらだ。男なんてワテらの敵やさかい、そいつらをだまして金を巻き上げるのは理に適っている、と女学校出の知恵を働かせながら言うのである。そんな妹を姉は、そんなこというたら世間に顔向けでけへん、と諌めるのだが、妹の方は、世間がワテらを人間らしく扱うてくれたか、といって反発するのである。


姉には馴染みの旦那、古沢(志賀迺家辨慶)がいるのだが、その旦那の店が倒産する。この映画は、倒産した店が売りに出され、商品が競売にかけられるシーンから始まるのだ。倒産した責任を女房から追及され、さんざん罵られた古沢は、腹を立てて家を飛び出し、姉妹の住んでいる家に居候にやってくる。そんな古沢を姉の方は受け入れるのだが、妹の方はとんでもないことだと思う。そこで女だてらに知恵を絞って一計を弄する。この落ちぶれ旦那を適当に追い出して、もっと甲斐性のある旦那を姉に世話しようというのだ。


妹は自分のところに足しげく通ってくる呉服屋の番頭をたぶらかして、上等の着物を姉のために拵える。それでもって姉の値打ちを上げようというのだ。一方、古沢の昔馴染みである骨董屋をたぶらかして、金を出させ、その金の一部を古沢にやって、この路銀をもってどこへなりと行ってくれという。それが姉の意思だと聞かされた古沢は、仕方なく出ていく。古沢が居なくなったことを知った姉は、古沢のことを水臭いと言うのだが、そんな姉のところに、骨董屋が口説きにやって来たりする。


一方、番頭が商品を横流ししていることを察した呉服屋の主人(新藤栄太郎)が、姉妹の家に乗り込んでくる。しかし応対に出たおもちゃの色仕掛けにあって、すっかり鼻の下を長くしてしまう。ミイラ取りがミイラになったというやつだ。この場面が非常に面白い。おもちゃは、呉服屋に向かって「おぶーを、さしあげます」といいながら、ちゃぶ台のところに尻を持って行って、呉服屋を差し招く。そしてビールの栓をスポンと抜く。すっかりうれしくなった呉服屋は、そもそもの用事のことなどすっかり忘れて、おもちゃの色仕掛けに夢中になってしまう。


この場面では、「おぶー」とは飲み物と云う意味で使われているらしい。しかし、違う場面では、姉の梅吉が男に向かって「ぶぶ」といいながらお茶を差しだしている。この「ぶぶ」なら、東京地方の若い人も、今でも言っているのではないか。


さて、おもちゃは呉服屋をたぶらかして、まんまと自分の旦那になってもらう。洒落た服を着て、小遣にも不自由しなくなる。男をだましていい生活をするのが女の甲斐性だとするおもちゃの信念が順調に実現しつつあるようだ。


しかし、順調に進んでいた歯車の動きが、ちょっとしたことで狂いだす。品物を横流ししていたことで主人から謹慎を命じられていた呉服屋の番頭が、おもちゃに会いたくなって、姉妹の家に訪ねてくるのだ。その途中、かつて古沢の店の番頭だった男と出会い、古沢がいまでは番頭のやっている店に居候をしていることを聞かされ、そのことを梅吉に話す。びっくりした梅吉は、番頭を残して一人飛び出して行ってしまう。そこへ、おもちゃを連れた呉服屋がやってきて、番頭を厳しくなじり、クビだと云い渡す。そこで、腹を立てた番頭は、呉服屋の女房に旦那の浮気をあらいざらい暴露するとともに、おもちゃにも復讐してやろうと考えるのである。


なお、番頭が主人の不始末を女房に言いつけるのは、この主人が婿養子だということを暗示しているのだろう。倒産した木綿問屋の古沢もやはり婿養子だった。彼は養子としての責任が果せなかったために、家を出て梅吉の世話になるしか道がなかったわけだ。


画面が飛んで、おもちゃのもとに一人の男が訪ねてくる。御座敷から声がかかったので、迎えに来たというのだ。すっかり信用したおもちゃは、ちょっと待っておくれやす、といって鏡を前に身支度をする。その化粧をするシーンが何ともいえず色気がある。この映画のなかでもっとも印象に残るシーンだ。鏡を覗き込みながら、鬘を被り、鬢のあたりを櫛の先で整えるところなどは、日本の女の色気を集約したような感じをさせる。この演技をしたときの山田五十鈴はまだ二十歳になっていなかったのだが、それでもこれだけの色気を感じさせるというのはたいしたものだ。もっとも、この時に彼女は既に出産の経験があったそうだから、今日の女性とは比較できないかもしれないが。


車に乗せられるやいなや、おもちゃは騙されていることを思い知る。車は座敷があるという方向とは別の方向を目指して走っているからだ。そのうち、一人の男が助手席から顔を出しておもちゃを罵る。その男とは、おもちゃに食い物にされた呉服屋の番頭だ。


場面は飛んで、姉の梅吉の所に、おもちゃが大けがをして病院に担ぎ込まれたという知らせが入る。姉が病院に駆けつけてみると、処置が終わったところらしく、おもちゃが看護婦におんぶされて現れる。おもちゃは、なんでこんな目にあわされなあかんね、といってさかんに叫んでいる。男たちにタクシーの外へ放り出され、大怪我をさせられたというのだ。そんなおもちゃに、梅吉はいい加減にせいといって諭すのだが、おもちゃは「ワテはこんなことくらいで男に負けてへん」といって強がるのだ。


おもちゃは、男からこっぴどい目に合わされたわけだが、姉の梅吉の方も男(古沢)に捨てられる。義絶された女房から許してもらったのだ。こんな次第で、この姉妹は二人揃って男からひどい目に合わされるわけである。それでも姉の方は、男をうらもうとはしない。そんな姉を妹はふがいないと思う。姉は世間体を気にするが、妹の方は、世間がいったい何してくれた、というわけだ。


この映画のラストシーンは、浪華悲歌とは違って、山田五十鈴は颯爽と歩いてはいないが、それは怪我をして歩けないからだ。怪我が治って歩けるようになったら、きっと颯爽と歩いて男どもを見下してやる。そんな心意気が、山田五十鈴の表情からは伝わってくる。


なおこの映画は、現在見られるバージョンでは69分という長さであるが、本来は90分以上あったそうだ。どの部分が脱落したのかについては良くわからぬが、大筋は貫かれているようである。現在のバージョンでも十分鑑賞に耐える。
http://blog2.hix05.com/2013/08/post-627.html


▲△▽▼


『祇園の姉妹/Sisters of the Gion(1936年)』〜溝口健二監督の女性ハードボイルド・和風ノワール映画


フィルム・ノワール及びハードボイルド映画というと1941年の『マルタの鷹』を起源とすることが多いようですが、それに遡る事5年前の昭和11年の日本において女性を主人公としたハードボイルド映画が存在していたことをご存知でしょうか?。それが今回ご紹介する1936年製作『祇園の姉妹』という山田五十鈴主演の溝口健二監督作品です。

一般的には男性に翻弄される芸妓の悲喜劇的人間模様を描いた作品として扱れているかと思いますが(まぁ、その通りなのですが)、この映画は山田五十鈴がファム・ファタールとして欲望に駆られた男性達を翻弄するフィルム・ノワールであり、『マルタの鷹』のハンフリー・ボガートやダシール・ハメットの『血の収穫』やその翻案である黒澤明の『用心棒』の主人公のように状況を常に自分の都合の良いように誘導してリアルタイムに物語が改変されていくのを楽しむハードボイルド映画でもあるのです。


✱溝口健二に関して

溝口は1898年(明治31年)の東京生まれ。大工の父親の元に三人姉弟の真ん中生まれで、若い頃は絵師に弟子入りしたり洋画を学んだり浅草オペラや落語や講談、外国・日本文学に耽溺したそうです。1920年に俳優志願(!)で日活向島撮影所に出入りするうちに助監督になり、1923年に監督デビューしています(以上wiki情報ですが前々回扱ったフリッツ・ラングやエイゼンシュタイン同様、建築関連の家に生まれて後に美術に興味を持って映画界入りというのが偶然といえども時代性というか共通していて興味深いです)

溝口というと日本映画界を代表するトップクラスの巨匠であり、ゴダール(※)から最近のマーティン・スコセッシの『沈黙‐サイレンス‐』に至るまで世界的な映画作家に直接的な影響を与え続けている監督です。

生涯に86本(溝口健二監督作品リストを参照)もの作品を撮っていますが、その初期作品は残念な事に現存するものが少なく、現在ではで36本しか残っていません(ですので失われた作品に関しては淀川さんの「映画は語る」のような本を読んで激しく嫉妬するしか現状なす術はありません)。

この作品に関しても本来は95分の上映時間のうち、69分しか見る事が出来ません。しかしながら現存するこの69分の映画のどこのカットを切っても、溝口の斬新な才能と美学とこだわりの執念が溢れ出す圧倒的な強度を持った傑作と呼ぶにふさわしい映画だという事が分かります。

<(※)溝口のお墓参りをするゴダール(1966年)。好きな監督を三人と聞かれて「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」と答えた話は有名>

✱祇園の姉妹/Sisters of the Gion

まずこの映画にはそのファースト・カットから驚かされます。軽快なオープニングタイトルバックの音楽とは裏腹に事業に失敗した木綿問屋の”古沢”はんの家財道具が競売にかけられている殺伐とした光景が、まるで絵巻物のような滑らかな横スクロールの移動撮影(及びパン)でその日本家屋の中を現実の部屋の中を隅々まで見渡すかのようなパノラミックな長廻しによって捉えられます。

この冒頭のシーンだけでももう何か只ならぬ異様な溝口時空の映画空間に引き込まれてしまいます。

そしてこの溝口のお家芸ともいえる長廻しに関してですが筈見恒夫との芸談においてこれは人間の心理を盛り上げていきたいから、ああいう手法を自然に選んだのだと以下のように語っています(*1)。

一つの構図の動きの中で人間の心理が盛り上がってくる。そいつをカットして、ポツンと切るのが惜しくなるんだ。そのまま押せるだけ押していきたい。それが、ああいう手法になったんで、特に意識したり、奇をてらったりしたわけじゃない。

この言葉は非常に興味深いです。まるで現実と虚構(つまり映画)の区別のつかない偏執狂的に凝り性な映画狂人が現実に嫉妬して、自身の映画の中に人間そのものを閉じ込めて再現しようと虚構を限りなく現実に近づけようとする映画的欲望の結果が溝口時空の正体という風に僕には思えるからです。

そして官僚的なお仕事的にワンシーンをワンカットで撮るというのではなく、人間の心理でカットの長さが決まるという事も溝口の映画を見れば納得できる特徴です。

さて、映画の方ですが、”嫁入り道具が売られるとは思いもしなんだ”と愚痴る奥方を尻目に”わしはおまえと一緒に国に帰らへんでぇ”と外に飛び出て祇園の色町に向かう”古沢”はんですが、この日本家屋のセットから切り替わる京都のロケーションがまた素晴らしいです。

細い京都の裏通りを縦の構図に捉え、花と番茶売りの掛け声が聞こえたり、着物姿の通行人とすれ違ったりする薄暗い路地の通りをスポット的にあたる陽の日差しと建物の影の中を通り抜けて移動するのがなんとも和風ノワールな雰囲気です。

そしてこの映画の魅力はなんといっても芸妓姉妹の妹役で”おもちゃ”という役名を演じる当時19歳の山田五十鈴です。まずは彼女の登場シーンが素晴らしいです。

あくびをしながらシュミーズ姿で京都弁を喋りながら歯磨きしたり髪をとかしたり、化粧をしたり服を着たり牛乳を飲んだりという日常芝居をするという一度見たら忘れる事が出来ない強烈な印象を残すシーンで登場します。

そして破産した”古沢”はんを居候させると言い出した義理を重んじる姉とは対照的に「男はんちゅう男はんはみんなわてらの仇(かたき)や、にっくいにっくい敵や!それこそわてら、男はんちゅうのをひどい目にあわせたってもええのや、いいや、あわしちゃる!」というなんかタランティーノの登場人物みたいにすぐにでもキルビルしそうなバイオレンスなセリフを早口の京都弁でまくし立てるのです。

いやーしびれますね。カッコいいです。これホントに1936年の映画?という感じのハードボイルドなモダンガールぶりです。彼女は傾向主義的とも言われている悲劇的なラストに至るまでこの苛烈でハードボイルドなヒロインを演じます。


しかもさらにこのバイオレントでハードボイルドでファム・ファタールなヒロインが口八丁手八丁で男をたぶらかすのがさらにこの映画の喜劇的ともいえる側面の面白さで、山田五十鈴のコメディエンヌぶりと溝口演出の巧みさを存分に堪能できます。

中でも何回みても笑ってしまうのが、呉服屋の旦那が奉公人の”木村”はんが”おもちゃ”に貢いだ反物を取り返そうと諫めに乗り込んできたのが、話を聞くうちに徐々に彼女に懐柔されてしまうシーンです。

最初玄関近くに座っていたのが「こっちきて一杯どうどす。茶茶(ぶぶ)がわりどすさかいに。それにだぁれもいやしませんし。」といってビールを差し出されて部屋の奥の長火鉢のところに誘導され、いつの間にか羽織を脱がされ、家着の丹前まで着せられて挙げ句の果てには”おもちゃ”のパトロンにされてしまうという抱腹絶倒のシーンです。

このシーンは山田五十鈴の京都弁の妙もさることながら、玄関先から部屋の奥まで自在に収縮する溝口時空の空間設計も素晴らしいです。


といった感じで生き生きとした京都弁と役者の演技、入念に設計された日本家屋内の空間演出とそれに対比されるように開放的でみずみずしい屋外のロケーションとノワールな路地裏、とどれをとっても素晴らしい映画です。

さすが公開時のキネ旬1位及び1959年の「日本映画60年を代表する最高作品ベストテン」において第2位に選ばれた作品です。しかしそういう歴史的な一時点の評価が意味を成さないほどまでに溝口と山田五十鈴が作り出した映画空間が時空を超えて今現在のこの時空に迫ってくるというのがこの映画の時代を超えた魅力です。
http://callmesnake1997.hatenablog.com/entry/SistersoftheGion


溝口健二は極左のマルキストだったのでヨーロッパの映画人に人気が有るのですね。

 

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