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石井輝男 ゲンセンカン主人 (1993年)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/278.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 3 月 03 日 13:17:32: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 山田勇男 蒸発旅日記 (2003年) _ つげ義春は何故まともな映画化ができないのか? 投稿者 中川隆 日時 2019 年 3 月 02 日 21:19:18)


石井輝男 ゲンセンカン主人 (1993年)

作品構成

第1話 李さん一家
第2話 紅い花
第3話 ゲンセンカン主人
第4話 池袋百点会


監督 石井輝男
原作 つげ義春
脚本 石井輝男
撮影 石井浩一
音楽 鏑木創
美術 丸山裕司、 藤木光次
製作年 1993年
配給 シネセゾン


動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%80%8E%E6%9D%8E%E3%81%95%E3%82%93%E4%B8%80%E5%AE%B6%E3%80%8F%E3%80%8E%E7%B4%85%E3%81%84%E8%8A%B1%E3%80%8F%E6%98%A0%E7%94%BB%E3%80%8C%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%B3%E4%B8%BB%E4%BA%BA%E3%80%8D%E3%82%88%E3%82%8A1993%E5%B9%B4%E7%9F%B3%E4%BA%95%E8%BC%9D%E7%94%B7


ゲンセンカン主人(つげ義春) 冒頭 石井輝男
https://www.youtube.com/watch?v=1R_wU-HW80g

ゲンセンカン主人
https://www.youtube.com/watch?v=ixNhHXWwVCk

ゲンセンカン主人(つげ義春) 風呂場シーン 石井輝男
http://d.hatena.ne.jp/video/youtube/m44PQIpNe38
https://www.youtube.com/watch?v=m44PQIpNe38

▲△▽▼

出演

主人公:(津部、ゲンセンカン主人) 佐野史郎
李さん:横山あきお
李さんの奥さん:中上ちか
ゲンセンカンの女将:水木薫
ゲンセンカンの老女中:大方斐沙子
伊守:川崎麻世
ランボウの福子:岡田奈々
営業部長の須山:きたろう
北冬書房の男:高野慎三
つげ義春一家:つげ義春、藤原マキ、つげ正助

『網走番外地』などで知られる石井輝男監督により、1993年に『ゲンセンカン主人』のタイトルで映画化される。

佐野史郎がつげをモデルにした津部役で主演し、表題作の他『李さん一家』『紅い花』『池袋百点会』など4話からなるオムニバス映画である。

『李さん一家』の横山あきお、『池袋百点会』の岡田奈々など、キャストも原作のイメージにピッタリ重なるものだった。つげ義春夫婦が特別出演しているのも話題となった。

なお、『ゲンセンカン主人』に登場する幟が立ち並び、ロウソクの燈るほの暗い浴場は、今神温泉をイメージしたものといわれる。

この作品での印象的なシーンのほとんどが、伊豆で撮影されている[5]。


映画のストーリー

第一話『李さん一家』
売れない漫画家・津部は貧困の果て片田舎に只同然でアバラ家を借り、自給自足の生活を送っていた。そんなところへ鳥語を話す李さんといううらぶれた中年男が現れ、いつの間にか妻と二人の子供ともども津部の家の二階に住みこんでしまうのだった。


第二話『紅い花』
渓流釣りの名所にやって来た津部は小さな峠の茶屋を一人で守る幼い娘サヨコに出会う。そんなサヨコにちょっかいを出す幼な友だちのマサジ。彼と共にヤマメ釣りの穴場へ出かけた津部は上々の成果を上げ戻ろうとするが、清流の中で腰に流れを浸したサヨコを見つける。彼女の股間からは、真っ赤な花が幾つも流れを染めて下っていった。


第三話『ゲンセンカン主人』
旅に出た津部はどことなく懐かしいひなびた温泉にたどり着く。老人ばかりが目立つその町で、宿を紹介してくれた老婆からゲンセンカンの主人に瓜二つだと驚かれる。その男はゲンセンカンに泊まり、女主人と陰獣のごとく交わり、いつの間にかその主人に収まったという。


第四話『池袋百点会』
昭和三四年、貧困のどん底にいた津部の唯一の楽しみは喫茶店ランボーに行き、美人ウェイトレス福子に会うこと。だが福子は仲間の伊守の恋人だった。さて、いよいよ生活に窮した津部たちは、伊守の提案で“池袋百点会”というタウン誌を作りその広告でひと儲けしようとする。だがスポンサーは集まらず、おまけに営業マンとして雇った須山は、予約金を着服して逃げ、伊守も福子を残し女房のもとへ帰ってしまう。


 

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コメント
1. 中川隆[-11736] koaQ7Jey 2019年3月03日 13:25:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[247] 報告

つげ義春's ゲンセンカン主人 summarized in English
https://www.youtube.com/watch?v=IVyUfXuKx78

ゲンセンカン主人
http://www.nicovideo.jp/watch/sm18437054

ゲンセンカン主人の宿 湯宿温泉 大滝屋
https://www.youtube.com/watch?v=pac6uB7nJOw
http://www.dailymotion.com/video/x19u3ps_%E6%B9%AF%E5%AE%BF%E6%B8%A9%E6%B3%89-%E3%81%A4%E3%81%92%E7%BE%A9%E6%98%A5-%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%B3%E4%B8%BB%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%AE%BF-%E5%A4%A7%E6%BB%9D%E5%B1%8B_travel

混浴の道標 ゆけむり写真館 _ 湯宿温泉 湯本館
http://www.konyokutomonokai.com/gunmaken/yumotokan.html

混浴 MACHICOの温泉入浴記 湯宿温泉 『湯本館』
http://machico.doorblog.jp/archives/34305707.html#more

湯宿温泉 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B9%AF%E5%AE%BF%E6%B8%A9%E6%B3%89

群馬県 みなかみ町 7月の景色 ダイジェスト版 湯宿温泉
https://www.youtube.com/watch?v=8RQ5PGCKkiU

【HD 5.1ch】 群馬 湯宿温泉ドライブ
https://www.youtube.com/watch?v=qBQNSwjjJ7s

湯宿温泉・・・清水国明さんの熱い熱いは、本当だったW・・・竹の湯入浴
https://www.youtube.com/watch?v=qaGfYfQdiY0

2. 中川隆[-11735] koaQ7Jey 2019年3月03日 13:29:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[248] 報告

ゲンセンカン主人は、つげ義春が1968年、『ガロ』に発表した短編漫画作品。
『ねじ式』とほぼ同時期に発表された、つげの代表作の一つ[1]。

夢の世界を描いた『ねじ式』に対して、本作は前世や因果、輪廻など仏教的なモチーフを前面に押し出した、一種の恐怖漫画であり幻想漫画でもあり全体にほの暗い色調に貫かれている。また、極めて日本的な物語を描きながら、つげがかつて愛読したエドガー・アラン・ポオの影響をもうかがわせる不思議な味わいを持っている。

本作の主人公は、つげ義春の自画像に近いリアルな劇画風キャラクターとして描かれるが、主人公のキャラクターはコマによって左右非対称になったり、表情が変わったりと目まぐるしい変化を見せる。しかし、その変化はかえってこの作品のテーマである自己否定の不安感を際立たせる結果となった。この人物像は以後、『やなぎ屋主人』や『退屈な部屋』など作者をモデルにしたと思われるキャラクターへと受け継がれていくこととなる。

1967年は水木プロの仕事を手伝っていたころで、仕事量が増え腱鞘炎を患う。同年秋に単独で東北を大旅行、旅と湯治場に強く惹かれる。1968年(昭和43年)2月には群馬県の湯宿温泉を訪れ、本作品のもとになる体験をし、同年7月に発表。1969年、つげは『アサヒグラフ』の取材で大崎紀夫、北井一夫と再び湯宿温泉、法師温泉などを訪問するほど湯宿温泉を気にいっていた[1][2]。

その後の時代の変化に対応する形で、作品の表現は初出時と微妙に変化した。特にヒロインの女将さんの障害を指摘する台詞部分(おし、つんぼ)は差別にあたると判断、小学館などその後、出版された作品集では全面的に書き改められたが(「耳と口が不自由らしいですね」への置き換え)、それによって初版のもつ効果は著しく損なわれた。

『ねじ式』同様、この作品も後年多くの表現者によって引用、パロディ化が試みられた。また、コマいっぱいに台詞を描く手法は、江口寿史や鴨川つばめなどのギャグ漫画家にしばしば引用されている。本作の場合、絵の特異さも勿論だが、台詞の異常さが際立っている。その原因の一つとして、女主人公であるゲンセンカンのおかみさんが、聾唖者であるという特殊な設定により、その発する言葉が『ギョホギョホ』『グフグフ』などおよそ会話として成立しない事情が上げられる。そうしたこの作品の持つ特殊性が後の作家たちに絶大な影響を与えた。


あらすじ

主人公は温泉地を訪れ、駄菓子屋に立ち寄る[3]。駄菓子屋の店主は、この温泉地にあるゲンセンカンという旅館の主人である男が、本作の主人公に瓜二つであると述べ、その男がゲンセンカンの主人になったいきさつを主人公に語って聞かせる[3]。それは次のような話である。

男は、主人公と同じように駄菓子屋を訪ね、ゲンセンカンに宿泊した[3]。その夜、男がゲンセンカンの浴場に入ると、そこには独身であるゲンセンカンの女将が先に入浴しており、男は女将に対して、暴力的に性交渉を誘う[3]。男の意を察した女将は部屋に男を招き入れる[3]。その後、男はゲンセンカンの主人となった[3]。

この話を聞いた主人公は、自身もゲンセンカンに泊まろうとする[3]。


舞台

老婆が駄菓子をしゃぶりおはじきをして遊ぶ、老婆しかいない町は、前年につげ義春が旅をした群馬県の湯宿温泉がモデルになっている。

湯宿温泉は上州街道から少し外れた旧・三国街道に面した宿場町であり、旅館も5, 6軒しかなく源泉かけ流しの共同浴場が複数あるばかりの目立たない温泉である。

タイトルの『ゲンセンカン』はおそらく「源泉館」を意味するのであろうが、着想の元になった旅館は「大滝屋旅館」である。

そこでつげは強烈な体験をする。泊まった部屋は傾き、襖越しに老婆のお経が聴こえ、宿泊客も老人ばかりで、自分自身が人生の落ちこぼれ、敗残者のように感じ、またそれが自分に似合っているようで切ない気持ちになったのだという。また、この大滝屋の混浴の浴室で作品の浴場でおかみさんを襲うシーンの元になる原体験をする。

混浴に入るのをためらい、人のいなくなったのを見計らい一人で入り脱衣をしているときに中年の女が不意に入ってきて手早く衣服を脱ぎ全裸になり、体を二つ折りにし、つげに向かって腰を高く向けた際に偶然、中年女の女性器が丸見えになってしまう。まだ若く独身であったつげは大変なショックを受ける。二人で無言で湯に浸かりながら、体がゾクゾク震えたのだという。「そのときのショックが『ゲンセンカン主人』の入浴シーンを発想させたのでした。」(『夜行』No.12 1983年)とのちに述懐する。

つげはこの旅の時、ひなびた宿場町の風情に孤独の境地を味わい、世捨て人になりたいと強く願ったというが、この時つげが宿泊した旅館も共同浴場もすっかり新装されて、今や往時の面影を求めるのは難しい。ただし石畳の道は今も残っていて、夜更けに人気のない道を靴音を響かせながら歩くと、漫画の世界に迷いこんだような感覚に襲われる。


大滝屋旅館

その後大滝屋旅館は新築され、つげが宿泊した頃とは全く異なった鉄筋コンクリートの近代的な温泉旅館に変貌しているため、当時の面影を求めて訪問しても無駄である。しかしながら、現在も湯治場としての機能を残し、低価格で宿泊できる。

ユング派の横山博は「『ゲンセンカン主人』と『もっきり屋の少女』-つげ義春の引き裂かれた女性イメージ」と題する論文で『ゲンセンカン主人』を例に挙げ、 つげの赤面恐怖症を統合失調症の前駆症状ないしは近縁領域と捉え、つげが少年期にエリク・H・エリクソンのいう「基本的信頼」の欠如やマイケル・バリントの「基底欠損」にさらされざるを得なかったことでユング的にいう「母親原型」に守られた形での幼児・子供原型を生き切れなかったとみている。

これはつげの母が生活に追われ、つげに対し母性を与えるだけの余裕がなく、つげの著作からは兄への愛情は語られるが、母への愛情は語られていないことなどから推測して、満たされなかった母性への強い渇望があり、それが現代人が持つ不安とともに『ねじ式』に描かれることとなったとし、つげは「所定めぬ異邦人(エトランゼ)」なのだという。

多くの人が持つ安心感を持つことができる逗留場所である場所や母性がつげには得られなかったことが、彼が近代化に取り残され既視感を伴うような辺鄙な温泉場へ赴くことで地域の共同体からこれまでに渇望しても得られなかった「母なるもの」を体験する。

また、『ゲンセンカン主人』のラストシーンの2人のそっくりな男の遭遇は精神病理学的には「ドッペルゲンガー」に酷似しているという見方を示した。自分自身の分身と出会うとき、周囲は嵐になる。内面の不安、恐怖の外部空間への投影がラストシーンだという[4]。

裏の話

『アサヒグラフ』1969年2月14日号のインタビューの中でつげは、作品を描いている際に、常にもう1本別の物語が並行して存在することを打ちあけている。本当はそちらの方が好きなのだが、どうしても作品化できない。覚書には何十本もストーリーを持っているが、大半が消えてしまう。従って、本当は多作家のはずなのだが、と告白。『ゲンセンカン主人』の裏話については、こう語っている[2]。

小さな村がある。今しも村は祭りでにぎわっている。お面をかぶった村男たちが通りを踊り歩いている。

それを暗い家の中からじっと眺めている少女がいる。夜が来る。静まり返った村。

広場で一人面を付け踊り狂う者がある。あの少女だ。
やがて少女は夜の郊外へまっすぐに伸びる道を踊りながら進んでいき、宙に浮きあがると、漆黒の空の中へと消えてゆく[2]。


これを作品化できなかった理由については、「技量のせい、いや漫画ではもう描ききれない何かがあるんです」とだけ語った。つげは、この作品を発表した直後の8月から、長い断筆期間に入る[2]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%AB%E3%83%B3%E4%B8%BB%E4%BA%BA

3. 中川隆[-11734] koaQ7Jey 2019年3月03日 13:46:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[249] 報告

3 : 列島縦断名無しさん : 01/10/17 21:40 ID:cxy5mxXE [2回発言]

ゲンセンカンってどこにありますかね?


5 : 2 : 01/10/17 22:54 ID:/ATxpC1Q [1回発言]
>>3
残念ながら、ゲンセンカンは存在しない。 しかし、モデルとなった旅館は存在する。

資料によると、 つげ義春氏は、昭和43年の取材旅行の際、群馬県湯宿温泉の大滝屋旅館に宿泊し、ここで「ゲンセンカン主人」の発想を得たらしい。

大滝屋旅館は、4年前(1997)の時点ではまだ営業しており、つげ氏が宿泊した当時の面影が、そのまま残されていたとのこと。 恐らく現在も、変わらぬ姿のまま営業しているものと思われる・・・。

詳しくは、

つげ義春 幻想紀行 単行本 – 1998/1 権藤 晋 (著)
5 「ゲンセンカン主人」之章
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%A4%E3%81%92%E7%BE%A9%E6%98%A5-%E5%B9%BB%E6%83%B3%E7%B4%80%E8%A1%8C-%E6%A8%A9%E8%97%A4-%E6%99%8B/dp/4651700772


を読んでみてほしい。


339 : ピョンちゃん : 03/10/14 02:22 ID:Y1sAHHYM [2回発言]

湯宿について。

初めて訪れたのは10年程前の真冬のことです。。 思わぬ大雪に立ち往生し、仕方なく探した近くの宿が大滝屋旅館でした。 古い木造の大きな建物で、雪に埋もれた様はとても つげ的でした。

汚れたコタツ、ショボい食事、薄っぺらい布団、隣の音が筒抜けの障子。
とても生活感たっぷりで感激しました。
確か一泊二食四千円ほどだったと思います。

川を渡った橋のたもとに小さな本屋があって埃にまみれた本棚を物色してたら、パノラマ文庫でしたっけ?

昔の文庫版の「赤い花」が出版当時のまま並んでました。 誰も買う人もなく何年も何年も並んでいたんでしょう。すっかり日に焼けてました。 もちろん当時の定価で買いましたよ。

大滝屋旅館は現在改装して新しくなってます。 今年の初夏に10年振りに訪れてニュー大滝屋を見て愕然としました。 本屋も廃業してました。

賑やかな猿ヶ京温泉に隠れて、ひっそりとした湯宿は今も風情のある良い温泉街なのですが、昔の大滝屋を知っている身としては魅力も半減というか…。

16 : 列島縦断名無しさん : 01/10/25 02:00 ID:3LOzU/Dv [4回発言]

つげの絵は、事実より30年は古びて見えるんだよ
だまされないで

彼が撮ってきた資料の写真と漫画を見比べればわかる

それが味なんだけれども


25 : 列島縦断名無しさん : 01/10/27 17:50 ID:ykli7YjH [1回発言]

つげは昭和初期や大正時代に深い愛着があるらしい。
本人が言ってた。


56 : 列島縦断名無しさん : 02/01/21 22:04 ID:a4UMtg0H [1回発言]

つげ漫画と「混浴」は切っても切り離せない。
ああ、彼が旅路の頃はまだまだ荒らされていない素朴な混浴が日本にはイパーイあったんだ(T−T)


140 : 列島縦断名無しさん : 02/09/27 23:59 ID:kzJCCYd+ [1回発言]

つげ義春は、人から忘れられたような場所ばかりを探そうとする。
町はずれの古い神社、町工場の裏の空地、ドブ川、河原、土手あるいは鉱泉宿、東北の寒々とした漁港、信州の山奥の峠、過疎の村、車も通らないような昔の宿場町。 あげていくときりがない。

つげ義春が歩く場所、描く場所は、大半がそうした目立たない、隠れ里のようなところである。普通なら、なんの魅力もないところである。 それが、つげ義春によって描かれ、語られると小さな桃源郷のような、懐かしく暖かい特別の場所になる。それはいわば、つげ義春によって発見された、やるせなく、物哀しくも、詩情あふれる場所になる。その意味では、つげ義春は風景の発見者である。

つげ義春の旅はどこかうらぶれた「落魄の詩情」である。


89 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/03/07(土) 00:49:54 ID:???

ゲンセンカン主人のラストはもう1ページあったけど省いた、
西瓜酒の最後の説明は無い方が不思議な味の作品になった、
などとつげさんが言ってることからして各々意味はあるんだろうけど
説明したら消えてしまうような雰囲気を意味よりも大切にしてるんだと思うよ


42 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/03/04(水) 09:40:51 ID:???

俺はあんまり頭良くないし、つげ作品に限らず理屈ではなく雰囲気を楽しむタイプなんで、
ゲンセンカンのラストは偽りと堕落に満ちた安逸な生活を楽しむ主人公を、もう一人の自分が
厳しい現実に連れ戻しに来たとか適当に考えてるけど

こういう作品は読者の数だけ答えがあっても良いし、下手に作者が「正解」とか披露しちゃうと
つまらなくなるよね

45 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/03/04(水) 21:09:58 ID:???

ゲンセンカンはドッペルゲンガー?との遭遇で、何が起こるか解らない怖さを感じさせつつ終わるのがイイ。


378 : 列島縦断名無しさん : 04/01/10 09:09 ID:OS0Y5Hww [3回発言]

ドッペルゲンガー(ゲンゲル)は、芥川龍之介が、その作品「二つの手紙」に書いています。ただ、彼が見たというのは、嘘で、進歩派を気取りたかっただけと普通、解釈されています。

分身を見ると死ぬ、といわれています。心身の疲労の極にあるということでしょうか。
男は分身体験、女は多重人格というように、現れるらしいです。

87 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/03/06(金) 23:46:57 ID:???

たぶん、ゲンセンカンの旦那は自分でも知らないうちに能力に目覚めたんだと思う。
隣の世界と自分の世界を同時に存在させるような、そんな能力。


49 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/03/04(水) 23:07:31 ID:???

うん、どのつげ作品も曖昧な夢のふわふわ感を楽しめるんだけどゲンセンカンだけはどうしても何かもやもやしてたんだ
>>42さんの考え方が自分的にはしっくりきたお


106 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/03/09(月) 00:47:31 ID:???

「そんなことをしたらえらいことになるよ」

「もしあんたが行ったら」

「もしあんたがゲンセンカンに行ったら・・・・・」

老婆たちは何を恐れているのでしょうか?


107 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/03/09(月) 01:35:01 ID:???

参考になるのかどうか分からないけど楳図と中沢新一の対談より抜粋


楳:僕、あらわになったときに無くなっちゃうのはホラーと宗教だと思うので。

中:でも、楳図さんはそれをあらわにしちゃおうとしてるわけですよね。

楳:でも、あらわにはなんないんですよね。

中:いつも最後にはベールがかかっていますね。

楳:ホラーって、"だからどうだった"という結末は、絶対に無いですよね。
 それがホラーの仕組みなんだけど、宗教の元の考え方と同じような気がしますね。

中:真理は薄いベールの向こう側に見てなくちゃいけない。
 ベールを取った瞬間に哲学者は哲学者でなくなるという、そういう神話がありますよね。
 だから、宗教とホラーっていうのは、ベールをめくろうとしちゃう人に近いですね。

楳:一生懸命めくってるんだけど、やっぱり見えてこない。

中:規定するともうベールになってしまうんですよね。
 恐怖も絵に描いた瞬間にベールですよね。


108 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/03/09(月) 02:02:06 ID:???

念のため、ゲンセンカン主人がホラーだとは言わないよ
ただ作劇の手法はこの対談で語られてることにかなり近いんじゃないかな?

ちなみにつげさんは1968年の対談でねじ式について
「現実的には決して体験できないような恐怖というものを描いてみたかった。」
でも「それ(恐怖)だけが中心ではないんです。」と発言している。

760 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/10/03(土) 11:11:02 ID:???

図書館に行ったら、旅行の棚につげ義春の温泉本みたいなのがあった。
つげ氏が過去に行きまくってスケッチしまくった温泉絵や漫画と、実際舞台になった
温泉地の写真に、つげ氏のコメントがのってるコンセプトで、なかなか読ませた。

しかしつげ氏ほど温泉にまつわる漫画描いた人いないんじゃないか?知らんけど。
ほんっとに好きなんだなぁ。ってのが、スケッチのタッチに滲み出てるわ
巻末の解説に、とある温泉地に行ったらものすごい拓けてて、店やらバイカーが
山ほどいてガッカリした、なんて書いてあってクスッとしたり。わかります。
寂れた叙情が好きなんですよね。そこにひそむ影のような陰湿エロスも。

物理的に裸になる土地ですもんね。山間谷間にあるせいか、常識でははかれない
不思議なことがまかり通ってしまってそうな怖さもある…そういう昔ながらの、
決して大声でハシャぐような観光地ではない温泉地が好きなんですな。

あーやっぱ革新的じゃね。一体他の誰がゲンセンカンみたいな話を描けるというのか
あの感じ、あの土地だけ異質な感じをどう表現すればいいのか…
そうかと思えば、フツーに明るいノンビリした、でもそんなには人気のいない土地で
とある旅行者が旅館に泊まって温泉入ってそこのジっさんと色々しゃべって
特に事件が起きるわけでもなく旅行者は帰る、ただそれだけの話をなぜこうも
じっくり読ませてしまうのか。謎だ、謎すぎる。

つげ氏の感覚が好きなのだ、としか言い様がない…もっと何かあるはずなのに
言葉にならねェ。

780 :愛蔵版名無しさん[sage]:2009/10/10(土) 06:24:56 ID:???

つげさんてもてるんだよね、多分。人見知りが激しく赤面症としつつ、
蒸発旅日記だっけ?読んでると、手紙をくれたファンの人と結婚しよう、
とか、少々の欠点は目をつむるとか、でもあまりブスでも困るけど、
などといったことは気にしてるけど、自分が振られると言うことは想定していない。

でも自信家とかそういうのも感じられなくて、もてるんだけどその自覚がない人。
ごく自然に女性は寄ってくるものだということが無意識のうちに前提として
あるって感じがする。
http://www.logsoku.com/r/2ch.net/rcomic/1235475558/

貧困旅行記 (新潮文庫) 文庫 – 1995/3/29 つげ義春(著)
http://www.amazon.co.jp/%E8%B2%A7%E5%9B%B0%E6%97%85%E8%A1%8C%E8%A8%98-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%81%A4%E3%81%92-%E7%BE%A9%E6%98%A5/dp/4101328129%3FSubscriptionId%3D175BC0N2BCT0X4DAZG82%26tag%3Damebablog-a663272-22%26linkCode%3Dxm2%26camp%3D2025%26creative%3D165953%26creativeASIN%3D4101328129


この『貧困旅行記』は、漫画ではなくエッセイ。
昭和40〜50年代の鄙びた温泉をめぐる放浪記なんだわ。
当時のボロ宿やら、廃墟かとおもえるような温泉地などが写真も交えて描かれていて、温泉好き、旅好きであれば わけのわからないエロ漫画よりも、はるかに楽しめると思える作品。

その『貧困旅行記』に、湯宿について書いた章があってね。
要約すれば、つげ先生は、初めての湯宿温泉について次のように語っているの。

殺風景な街道の町、古びて傾きかけたような家の多い貧しい町。
車も通れないような細い路地に、人の姿はなく陽もささない。
わずかに宿場らしさは残っているが、温泉らしさはまったくない。
この町は時間が止まってしまったようだ。

路地の奥にとった宿では、自炊場の隅にボロ布の固まりがあると思ったら老婆だった。

「なんでこんな所に来てしまったのか、もう少しましな宿はなかったものか・・。」

と後悔してすぐに、「いや、どこも同じ様な宿ばかりだ」と言い切っている。
遊ぶ場も散歩する環境もなく、床の中で寒空に響く火の用心の拍子木の音を聞いていると寂寥とした気持ちが胸に迫り、人生の果てに来てしまったような絶望的な気持ちになった。

・・と散々に酷評しているのに、なぜかその後何度もここ湯宿を訪れている。
実はそうとう気に入ったのでありましょう(爆)。

この時の宿の名前は書いてないんだけど

隣室との境のふすまがボロボロに破れぴったりと閉じない。
そこから絶えず数珠の音、呪文のような読経の声が聞こえてくる。
線香の臭いも漂ってくる・・・。

と、『ゲンセンカンしゅじん』の描写と酷似する状況が語られている。


この時のボロ宿が、実は大滝屋だったのかなぁ?

このエッセイを書いたのは、初めて湯宿を訪れてから14年後のことで
その6年前『常盤屋』に宿泊したときの想いでも書かれている。


知人を同伴したら『これでも温泉地ですか?絶望的ですね・・」と言われたこと。

でも宿泊費2500円。

これは当時の相場の半額で それを知った知人は「もうここから帰らない」と興奮したことなど。

貧乏人にも違和感を与えず馴染めて慰められる。
湯宿の温泉は貧乏に特効がある・・と喜んだそうだ。
そしてこの年は、『湯宿の草分け 湯本館』に泊まったとある。

昨日ご紹介した『湯本館』が出てきて、おじゃる☆も一気に高揚だ!!ピース
湯宿でもっとも大きい宿で、大浴場の混浴円形風呂が名物だ・・とある!

なんと!!つげ義春はあのおじゃる☆も浸かった混浴風呂に実際に入っていたのだ!ヽ(^。^)ノ

しかも、湯本館は立派過ぎて寂寥感も侘しさもなく無く失望したそうなのだ(爆)。

おじゃる☆が、レトロ感があって、つげワールドを体感できるお宿と感じた湯本館は つげ先生が訪れた当時は、新しくて立派で・・先生にとってはつまらないお宿だったのだ。

30年、40年という時間を経過してなお、同じ浴槽の同じ湯に浸かる事の出来る幸せ。

それを知ってしまったら、しつこいと言われようと、ドン引きされようと今日もこの『つげワールド』について書かずにはいられなくなったのだ。ヽ(`Д´)ノ

だから今日は文章もちょっと、エッセイ風なのだ(爆)。

当時の円形風呂は女性に大人気で、女性はみんな女湯に入らず混浴に入った。
つげ義春は混浴が嫌いで、男湯を探したが宿の主から

「男湯なんか作っても、どうせ女が入り込むから無駄なんだ」

と言われたそうだ(爆)。


そういう事をいうと群馬の女が誤解されるからやめてくれぇ〜〜。・゚・(ノд`)・゚・。
おじゃる☆は混浴は嫌いです!!!


そういえば、昨日の漫画のページで客が「ぼくは混浴は嫌なのに・・」と言っている。
これもつげ先生の本音を語っていたのね。

それで・・・はい、やっと今日ご紹介の温泉の出番が来ました。(*^_^*)

それで仕方なく先生は、外の共同浴場へ出かけるの。
共同浴場は混浴は厳しく禁止されているので、つげ先生も安心。

当時から木造の素朴な共同浴場が4つあったそうで、これも現在と一緒です。

そんな4つの共同浴場の中でおじゃる☆が唯一お邪魔した事があるのがこちら

『窪湯』


湯宿の共同浴場は、鍵を持っている地元の方とお宿で鍵を借りられる宿泊者は比較的自由に利用することができるんだけど
外来者が利用できるのは、午後4時から9時まで。
その時間帯だけ、施錠が外されるの。

脱衣所は共同浴場らしい棚だけのシンプルなスタイル。
しかし・・・これは綺麗だわぁ〜。
趣のある木造ではあるけれど、近年建て替えられたばかりと思われ。
少なくともこの建物は、つげ先生は入られてないわね(^_^;)。


利用者は、維持管理費として100円以上の謝意をお願いいたしますm(__)m


お邪魔した時には、年配の地元の先客さんがいらっしゃったので、熱めながらもすぐに入れる湯温になっていました。

聞けば、埼玉から田舎暮らしにあこがれて引っ越してきたんだって。
毎日温泉に入れるところ・・ということで湯宿に決められたのだとか。

あぁ〜〜〜、そういう自由な生き方、憧れちゃいます!!


湯気抜きのある高い屋根。
窪湯の脇には薬師如来さまがおわします。
ありがたや。お坊さん

みなさんも、つげ義春の世界を訪れてみませんか?
つげ義春は日本中の温泉を旅しています。
http://ameblo.jp/naruru8854/theme9-10072871347.html#main

湯宿温泉は、つげ義春も好んで訪れたと言う程の、とても寂れた場末なイメージがある温泉地です。
三国街道沿う絶好の場所で、共同浴場も4箇所あり、旅館も数軒立ち並んでいるのですが、不思議なくらいに活気が無く、妙にひっそりとしています。
http://jake.cc/onsen/gunma/yujuku-yumoto/yujuku-yumoto.html


この日もおじゃる☆たちと入れ違いに足元のおぼつかないほどの
おじいちゃんとおばあちゃんのカップルが来ました。

若者は・・・絶対来ないな・・・。( ̄ー ̄)ニヤリ
おじゃる☆ 2011-02-07
http://ameblo.jp/naruru8854/entry-10792248708.html#main


数年前、僕も、つげ義春ワールドに憧れて、湯宿の共同浴場、行きましたよ!
最初に行った時は、秋だったので、お湯は、熱めながら、いい感じでした。
でも、その次の年、夏に行ったら、熱くて、熱くて、とても入れません

百円払ったのに、諦めて帰りました。
夏はダメです(笑)
ジョナサン 2011-02-09
http://ameblo.jp/naruru8854/entry-10794555829.html#main

4. 中川隆[-11733] koaQ7Jey 2019年3月03日 13:47:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[250] 報告

ドッペルゲンガー(独: Doppelgänger)とは、自分自身の姿を自分で見る幻覚の一種で、「自己像幻視」とも呼ばれる現象である。

自分とそっくりの姿をした分身。第2の自我、生霊の類。同じ人物が同時に別の場所(複数の場合もある)に姿を現す現象を指すこともある(第三者が目撃するのも含む)

医学においては、自分の姿を見る現象(症状)は「autoscopy」と呼ばれる(日本語で「自己像幻視」)。

自己像幻視は純粋に視覚のみに現れる現象であり、たいていは短時間で消える。

現れる自己像は自分の姿勢や動きを真似する鏡像であり、独自のアイデンティティや意図は持たない。しかし、まれな例としてホートスコピー(heautoscopy)と呼ばれる自身を真似ない自己像が見えたり、アイデンティティをもった自己像と相互交流する症例も報告されている。ホートスコピーとの交流は友好的なものより敵対的なことのほうが多い。

例えばスイス・チューリッヒ大学のピーター・ブルッガー博士などの研究によると、脳の側頭葉と頭頂葉の境界領域(側頭頭頂接合部)に脳腫瘍ができた患者が自己像幻視を見るケースが多いという。

この脳の領域は、ボディーイメージを司ると考えられており、機能が損なわれると、自己の肉体の認識上の感覚を失い、あたかも肉体とは別の「もう一人の自分」が存在するかのように錯覚することがあると言われている。

また、自己像幻視の症例のうちのかなりの数が統合失調症と関係している可能性があり、患者は暗示に反応して自己像幻視を経験することがある。

しかし、上述の仮説や解釈で説明のつくものとつかないものがある。「第三者によって目撃されるドッペルゲンガー」(たとえば数十名によって繰り返し目撃されたエミリー・サジェなどの事例)は、上述の脳の機能障害では説明できないケースである。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%89%E3%83%83%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B2%E3%83%B3%E3%82%AC%E3%83%BC

ドッペルゲンガーにあったら死ぬ原因


ドッペルゲンガーを見てしまった人の末路は悲惨で、たいていは死を迎えます。
これに対処できる有効な手段は、残念なことにないようです。

ある場合は自分自身を見てしまったショックで、心臓麻痺を起こして即死します。

またある場合は、数日から1年以内に徐々に体調をくずし、あるいは精神に支障をきたして死を迎えます。

自分の精神が蝕まれていくことに耐えられず、自殺する人もいます。

死をもたらすドッペルゲンガーは、普通本人にしか見えないので、はたからはその男(不思議なことに、女性がドッペルゲンガーを見たという報告は、あまり聞きません)が弱っていく理由がわかりません。

男のほうも、自分の気が狂ったと思われることを恐れて、なかなか人に話そうとはしません。後で日記や書き置きが発見され、人はその真相を知るわけです。


ではなぜドッペルゲンガーを見たものは死ななければならないのでしょうか?

ドッペルゲンガーと似て非なるものに、特殊な変身能力を備えた化け物や、魔術によるまやかし(幻術)があります。

これには直接的に相手を殺す能力はありませんが、本人がドッペルゲンガーを見たと思いこんでしまえば似たような効果があるでしょう。すなわち自分はもうすぐ死ぬのだと思い、ふさぎこんでいるうちに、本当に体調をくずしてしまうのです。

解決策としては、敵の正体をあばいて、見たものがドッペルゲンガーではなかったのだと納得させるしかないでしょう。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q129644917

“生き霊”との、意外なご対面
      ――幽霊は単に脳が想像している錯覚なのであろうか?――   
     


  幽霊などというものが存在するのであろうか?

スイスの神経科学者は、幽霊を見る人々のなかには、実際には「自分の全身の幻」を体験しているかもしれないと確信している。

         エドワード マッツァ記者(7月6日)

  あなたは今までに幽霊を見たことがあるか?

幽霊の存在(プレゼンス)を「感じた」ことがあるか?
あなたの“生き霊”が、あなたについて回ったことがあるか?
今までに、ほんのわずかな時間、体外離脱を経験したことがあるか?

しかし、これらは超自然的な経験ではないかもしれない。
だからといって、あなたの頭がおかしいことを意味しているわけでもない。

スイスのチューリッヒ大学病院の神経科医ピーター・ブラッガーによれば、手足を切断した後に「幻肢」を経験する人たちと同様の事情で、幽霊を体験する人たちは自分の「全身の幻」の存在を体験している可能性があるという。

これは脳損傷によっても起こされ得る・だが激しい感情も「幽霊」体験を起こすきっかけになりうると、彼は ABCNEWS.com に語った。

ロイター通信によれば、 ブラッガー の 「生き霊」(ドッペルゲンガー) 理論についての記事は『ニューサイエンティスト』誌 の次号に掲載される予定だ。

「多くの健康な人々は、はっきりとした脳損傷がないのに、幽霊体験をしている」

と ブラッガー は語る。

「つまり普通の脳であっても、自分自身が行為の主体となっている“距離をおいた行為”の対象に、容易に騙[だま]されることはありうる」。


  問題は脳にあったのだ。

  こうした「幽霊」は頭頂葉の損傷の結果、経験しうる。頭頂葉は、自分の身体と、身体を取り巻く周辺空間との識別を助ける働きをしているが、「正常な脳」であっても強烈な恐れや悲しみや陶酔感の結果、「幽霊」的幻覚を生み出してしまう可能性があるのだと、ブラッガーは語る。

彼はそうした例として「自動書記」現象を挙げている。

「自動書記」とは、見えない何者かが自分の手を動かして“あの世からのメッセージ”を書き付けるという現象だ。 

「自分の手が自分の脳に従っていない、と感じられる状況が生じた場合、脳は、そうした手の運動を合理的に解釈するための便法として、なんらかの幻をデッチ上げてしまう可能性が高いのだ」

と彼は言う。

「脳損傷の場合には、こうした“非合理な結論”すなわち“誤った解釈”が発動される閾値が下がってしまい、“誤った解釈”がひんぱんに出てくることになる」

というのだ。

他の研究でもこの仮説は立証されている。

つまり手や足を切断された患者は、すでになくなった手足がまだそこにあるかのような幻を経験するし、そればかりか、神経学的に考えて「あるはずのない」手足の痛みまで感じてしまう現象が、しばしば観察される。


見えない 「生き霊」

   ブラッガーらの研究チームが出会ったエピソードをひとつ紹介しておこう。

彼らは世界的に有名な8人の登山家に面接調査を行なった。

この登山家たちは、いずれも酸素供給なしで2万7000フィートの高さまで登ったことがある。

登山家たちはしばしば「見えない実在」の出現を感じ、ときには体外離脱経験もしたという。

これも同じ症状なのだ、と ブラッガーは語る。

彼はこれを「見えない生き霊」(インヴィジブル・ドッペルゲンガー) 」と呼んでいる。

ブラッガー は「幻肢」体験をしている患者を治療するために使われてきた「バーチャル・リアリティーボックス」と似た道具を使って、この仮説を実証できると考えている。

「実験で再現できるのは、単なるシミュレーションだけれども、薬物を使わずに実体験さながらの現象を作り出すことが可能だろう」

と彼は言う。

この実験では、何台かのビデオカメラと仮想体験メガネ(ヴァーチャルリアリティ・グラス)を被験者に装着することで、被験者の真横に自分の“生き霊”が座っている実感を作り出すことが可能だという。

「幽霊は錯覚である」と ブラッガーは言う。
「しかしその錯覚の仕組みは、まだ未解明」というわけだ。

おそらく、バーチャル・リアリティーボックスのような先端テクノロジーを用いれば、「幽霊」や「妖怪」や「生き霊」をめぐる長年のミステリーは解明できるであろう。
http://www.asyura2.com/sora/bd8/msg/272.html

5. 中川隆[-11730] koaQ7Jey 2019年3月03日 19:35:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[253] 報告


石井輝男 ねじ式 (1998年)


監督 石井輝男
原作 つげ義春
脚色 石井輝男
撮影 角井孝博
音楽 瀬川憲一
美術 松浦孝行
公開 1998年7月18日

動画(韓国語)
https://www.youtube.com/watch?v=1xZb3ZCDZbA
https://www.youtube.com/watch?v=p_AVfla_rvs&list=PLjwvwi69k_J2hPeRsGLyfI9DczGe3ItvV

▲△▽▼


売れない貸本漫画家の青年、ツベ(浅野忠信)が貧困と虚無感から逃れるように、あてもない放浪の旅に出る様子を描く。主人公のツベの足取りを追う放浪記的な形式を取っており、『ねじ式』や『もっきり屋の少女』『やなぎ屋主人』など複数の作品を映像化したオムニバス作品である。

基本的に原作に忠実な作りになっており、『ねじ式』の街の看板や『もっきり屋の少女』の居酒屋内の貼り紙など、細部も丁寧に再現されている。

『やなぎ屋主人』の作中で言及される映画『網走番外地』の監督、石井輝男が自ら『やなぎ屋主人』を制作するという点でも話題になった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%AD%E3%81%98%E5%BC%8F


キャスト

ツベ 浅野忠信
国子 藤谷美紀
木本 金山一彦
家主 丹波哲郎
金太郎飴売り 清川虹子
看護婦 藤森夕子
もっきり屋の少女(コバヤシチヨジ)つぐみ
やなぎ屋の娘 藤田むつみ
ヌードの女 青葉みか
駅員 砂塚秀夫
女医 水木薫
村の飲み客 杉作J太郎
娘の母 三輪禮子
ロイド眼鏡の男 原マスミ
セパード(小次郎)広崎哲也
寮の住人 神戸顕一
狐面の少年 西川直希
舞踏 アスベスト館

▲△▽▼

映画のストーリー

売れない貸本漫画家のツベは、どん底生活の果てに遂に内縁の妻の国子と離れて暮らすことになる。国子は世田谷にある会社の寮の賄婦として住み込みで働くようになり、ツベは知り合いの木本のアパートに転がり込む。ところが、ツベは国子が浮気をしているのではないかと心配でならない。

そんなある日、彼は国子が別の男の子供をはらんでいることを聞かされ、ショックで自殺を図るのだった。木本のお陰で一命を取りとめたツベは、その後、放浪の生活と妄想に浸る日々を送るようになる。

一銭五厘で買われてきたという山里の寂れた居酒屋の娘・チヨジとの出会い、ヌード小屋通い、ふしだらな一夜を共にした女が営む、海辺にある大衆食堂へ、そして海に入ったツベはメメクラゲに左腕を噛まれてしまう。

パックリと開いた傷口を押さえ、医者を探すツベ。しかし、探し歩けど見つかるのは目医者ばかり。やがて、彼は金太郎飴を売る母親らしき老婆との出会いを経て、漸くひとりの女医を見つけ手術をしてもらう。だが、外科が専門外の彼女はツベの傷口にねじを取り付けてしまうのだった。以来、左腕のねじを締めるとツベの腕は痺れるようになる。


6. 中川隆[-11729] koaQ7Jey 2019年3月03日 20:11:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[254] 報告

 [映画]ねじ式(1998)より もっきりやの少女 動画
https://ceron.jp/url/www.youtube.com/watch?v=p_AVfla_rvs

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