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「万世一系」の虚妄 _ 日本はなぜ「万世一系」を必要としたか
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/411.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 5 月 09 日 14:32:37: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか? 投稿者 中川隆 日時 2018 年 12 月 18 日 15:33:49)


「万世一系」の虚妄 _ 日本はなぜ「万世一系」を必要としたか

2013-05-05
「万世一系」の虚妄
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130505/1367721385

天皇といえば、枕詞のようについてくる形容が「万世一系」。

ある種の人々にとって、天皇家が「万世一系」であることは、何物にも代えがたい至上の価値であり、日本という国を、他国より優れた特別な存在にするものであるらしい。

…バカじゃなかろうか。

当たり前だが、親から生まれて来なかった人間はいない。

皇族であろうがなかろうが、また日本人であろうがなかろうが、人間である以上、誰でも親、その親と辿っていけば、必ず悠久の過去の人類発祥までたどり着く。途中一世代どころか一瞬でも断絶があれば、その人間はいま生きてはいない。人間であれば誰でも、現生人類の誕生以来約25万年と言われる歴史の中を、連綿と命を受け継いで来たのだ。その中で、高々2千年程前のある男が祖先だと称する一族だけが「万世一系」で尊いなどということがあるわけがない。そんなものを崇め奉るのは愚の骨頂である。

「万世一系」など下らぬ妄想。

以上、終わり。

…ということにしてもいいのだが、せっかくなのでもう少しこれに関連する言説を見てみることにする。

一口に「万世一系」と言っても、その考え方は一つではないようだ。中でもとりわけバカバカしいのはこれあたりだろうか。

平沼赳夫オフィシャルホームページ:(強調部は引用者による)


 つまり、男系継承とは「男性天皇が血統の出発点であること」を意味し、反対に女系継承とは「女性から始まる継承」をいう。愛子内親王が天皇となり、その配偶者が皇族でないかぎり、その子が天皇になると「女系継承」が始まるのである。

 「万世一系」というと本家の血筋が永遠に続くことと誤解する人がいるが、それでは「真の一系」にはならないのだ。時には分家からも継承者が現れ、男系で継承が維持されていくことが「万世一系」の本質的意味である。

 飛鳥より遥かに時代をさかのぼった第16代仁徳天皇の男系血筋は、約80年後の武烈天皇(25)で血統が途絶えたため、家系をさかのぼって分家の男系子孫を見つけだし、継体天皇(26)が誕生したという例もある。

 では次にこの男系継承を遺伝子学的に見てみよう。

 人間の男性の染色体はXYであるのに対して、女性のそれはXXであり、それぞれ46対ある。男女が結婚して男の子ができた場合、母の23対のX染色体と父の23対のY染色体をもらう。女の子の場合は、母の23対の×染色体と父の23対のX染色体をもらう。よって男系の子孫にのみにオリジナルのY染色体が引き継がれ、女系の子孫には引き継がれない。女系では「皇統」が護持されないのである。(参考図参照)

 つまり、皇位が男系継承で引き継がれていく限り、男性天皇には間違いなく初代神武天皇のY因子が継承されるのに対し、女性天皇ではY因子の保持は約束されないのである。

 男系継承を護持することは、神武天皇だけでなく、更に遡って二二ギノミコトのオリジナルのY因子を継承することにもなり、このY因子こそ「皇位継承」の必要要件であり「万世一系」の本当の意昧なのである。

平沼によると、「万世一系」の本質とは、天皇家の父から息子へと受け継がれていくY染色体上の遺伝子のことなのだそうだ。代々の天皇(天皇にはなれなかった傍系の男も含む)の肉体は、単なる遺伝子を運搬するための器に過ぎず、息子に「Y因子」を受渡してしまえばもう用済みなのである。もちろん、個々の天皇の人格などどうでもいいわけだ。なんだか、利己的遺伝子仮説の出来の悪い焼き直しみたいな話だ。

これほど歴代天皇を侮辱した言説もないのではなかろうか。

ついでに指摘しておくと、古事記に名前が出てくる各地の豪族のうち、88%は「皇系」、つまり何代目かの天皇の子孫ということになっている。平沼の言うように「Y因子」さえ受け継いでいればいいのなら、男系で続いてさえいれば、そうした豪族たちの誰がどんな手段で天皇になっても構わないことになる。とんだ「万世一系」もあったものだ。

より穏当というか、一般的な説は、日本では歴史の初めから王朝の交代がなく、同じ王統がずっと続いているから「万世一系」だ、というものだ。

しかし、こちらの説も極めて怪しい。

例えば、平沼も言及している武烈(25代)から継体(26代)への代替わりなど、まず王朝交代と見て間違いない。

武烈には子がなく、次の天皇となった継体は、古事記によれば応神天皇(15代)の五世の孫、日本書紀によれば六世の孫、とされている。確かに一応過去の天皇の子孫ということになってはいるが、これほど世代の隔絶した継承は異常だ。それは、以下の系譜と比べてみれば分かる。


桓武天皇

葛原親王1

高見王2

平高望3

平良持4

平将門5

平将門は桓武天皇の五世の孫。継体が天皇になったというのは、平将門が天皇になったのと同じようなものなのだ。

しかも、三国(現在の福井県坂井郡付近)の出身とされている継体の、応神以来の系譜は、古事記にも日本書紀にも書かれていない。(日本書紀は父の名のみ記載。)


 これは記紀の編者が、それらを知らなかったためではなく、それらを書くことが必ずしも名誉とならない、そういう事情を配慮したからではないであろうか。なぜなら、それらの人名は、北志賀(滋賀県)や三国(福井県)の諸豪族にとって、同僚や時として下僚に当る人物として熟知されていた人名だったであろうから。

 このように考えてみると、継体即位の問題性、さらに不法性、それを疑うことは困難なのではなかろうか。

という古田武彦氏の推測(『古代は輝いていた』2)は妥当なものと思われる。実際、応神―継体間の系譜は、鎌倉末期に書かれた日本書紀の注釈書「釈日本紀」に、今では失われた「上宮記」という史書からの引用という形で記載されている。上宮記は7世紀頃に成立したと考えられており、古事記・日本書紀より古い。当然、記紀の編者が知らなかったはずはないのだ。

要するに、武烈死後の混乱に乗じて、出自もはっきりしない、しかし武力や経済力は十分に備えた地方の大豪族が大和に進出してきて次の天皇となったのだ。「万世一系」説に毒されていない常識では、これを王朝交代と呼ぶ。
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130505/1367721385



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日本はなぜ「万世一系」を必要としたか
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130602/1370174878


歴代天皇のいわゆる「万世一系」について、真に問わなければならない問題とは何か?

それは、「万世一系」の定義とか、それは事実かどうか、といったことではなく、なぜ天皇は「万世一系」ということになっていなければならないのか、そもそもなぜそんなものが必要だったのか、という問題だと私は考えている。

「万世一系」の天皇を戴く大和民族の一員であることにしか自尊感情の源泉を見いだせないある種の人々(「特定日本人」とでも呼ぶべきか?w)は、幾多の王朝が興亡を繰り返した中国と比較することで自国の優位性を言いたがる。

なので、ここでも中国との比較を通してこの問題を考えてみることにしよう。

■ 疑問1

前回の記事では、武烈―継体間の王統断絶を取り上げた。ここで、日本書紀は、前王朝最後の王武烈を、悪逆非道の暴君として描き出している。


武烈2年: 妊婦の腹を割いて胎児を見た。

武烈3年: 人の生爪を抜き、その手で芋を掘らせた。

武烈4年: 人の頭髪を抜き、木の頂に登らせ、その木を切り倒して、

      登らせた者が落ちて死ぬのを楽しんだ。

武烈5年: 人を池の水を流す樋に伏せ入らせ、外に流れ出てきたところを

      三叉の矛で刺し殺して楽しんだ。

武烈7年: 人を木に登らせておき、弓で射落として笑った。

武烈8年: 女を裸にして板の上に据え、馬を引いてきて交尾させた。

      そして女の性器が濡れていれば殺し、濡れていなければ官婢とした。

これとよく似た例が、中国の史書にも見られる。有名なのは殷に亡ぼされた夏王朝最後の王「桀」、そして周に亡ぼされた殷王朝最後の王「紂」に関する暴虐記事だろう。

『史記』夏本紀34:


桀、徳に務めずして百姓を武傷す。百姓堪えず。

『史記』殷本紀29-30:


(紂は)酒を好み淫を楽しみ、婦人を嬖(へい)す。

妲己(だっき)を愛し、妲己の言に是れ従ふ。

賦税(ふぜい)を厚くして以て鹿台(ろくだい)の銭を実たし、而して鉅橋(きょきょう)の粟(あわ)を盈(み)つ。

(人々を)大いに最(あつ)め沙丘に楽戯す。

酒を以て池と為し、肉を懸けて林と為し、男女をして裸(ら)し其の間に相ひ逐(お)はしめ、長夜の飲を為す。


武烈紀の暴虐記事は、これら中国の先例に倣ったものと思われる。

こうした記事の内容が本当だったのかどうか、それは分からない。しかし、確実に言えるのは、前王朝に取って代わった新権力者にとって、先王の暴虐を宣伝するのは、自らの権力奪取の正当性を主張する上で大変役に立つ、ということだ。

殷の湯王や周の武王と、継体はよく似た立場にいたといえる。ではなぜ、湯王や武王が堂々と新王朝の樹立を宣言したのに対して、継体はあたかも穏当に武烈の後を継いだかのように振舞ったのだろうか?

別の言い方をすれば、継体から始まる新王朝の正史である日本書紀は、なぜ継体を自王朝の始祖として描かず、神武以来の王朝がそのまま継続したかのように描いているのだろうか?

■ 疑問2

武王が樹立した周王朝は、その後しだいに衰退し、やがて形式的な権威を担うだけの有名無実の存在となっていった。鎌倉時代以降、実質的権力を失い、衰退していった京都朝廷とよく似ている。

両者の違いは、周王朝が数百年続いた後、最終的に秦に滅ぼされたのに対して、京都朝廷は曲がりなりにも近代に至るまで存続したことだ。

何がこの両者の運命を分けたのだろうか?

■ 答え

周王朝を廃した秦の始皇帝は、泰山で「封禅の儀」を行い、天と地を祭って、中国全土を統治する皇帝としての自らの権威を誇示した。

この例が示すように、古来中国には「天」の思想がある。そもそも王や皇帝とは、天の命令(天命)を受けて、「天子」として天下を統治するものなのだ。

だから、皇帝が徳を失い、天子にふさわしい存在でなくなれば、他の者が代わって天命を受け、新たな天子となることができる。桀のように、「徳に務めず」民を虐待するような権力者は、倒されても仕方がないとされるのだ。

これが、天命が革(あらたま)ること、すなわち「革命」である。

一方の日本はどうだろうか。

日本には、権力の正当性を主張するための基準となる、このような普遍的原理がない。記紀神話を通して見ても、地上の権力者にその権力の正統性を与える根拠は、天照大神が自らの孫ニニギに対して言ったという言葉、


葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是(これ)、吾が子孫の王たるべき地なり。爾(いまし)皇孫、就(い)でまして治(しら)せ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまのひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きはま)り無けむ。

―いわゆる「天壌無窮の神勅」(日本書紀 神代下 第九段)―しかない。

ちなみにこの「神勅」、いかに荘重な漢文調で飾って見せたところで、中身を見れば、自分の子孫だけが可愛いという身内びいきの塊みたいなものであって、そこには普遍性のカケラもない。

このように、権力の正統性を支える普遍的原理がなく、頼れる権威が天照の子孫とされる一族の血筋だけとなれば、どうしても天皇には(内実はどうあれ)「万世一系」でいてもらわなければならないことになる。

この国で新興の実力者が権力の頂点に立つには、継体のように王朝内での順当な継承を偽装するか、そうでなければ天皇から権力の行使を委託される(例えば「征夷大将軍」として)という形式を取るしかなかった。だから、天皇家はいくら落ちぶれても、とりあえず権威を示すそれらしい儀式を行える程度の状態で存続を許された、というよりむしろ、存続させられてきたのである。

結論。天皇が「万世一系」ということになっているのは、日本には権力の正統性を支える基盤としての普遍的原理がなく、権威として頼れるものが神の子孫だという天皇家の血筋しかなかったからである。


※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』(岩波文庫 1994年)による。
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130602/1370174878

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仲哀→応神も王朝交代
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/08/24/122313

記事《「万世一系」の虚妄》の中で、武烈(25代)から継体(26代)への代替わりが王朝交代に他ならないことを説明した。しかし、明治以来常識化されてきた「万世一系」を否定する反例はこれだけではない。

次は、仲哀(14代)から応神(15代)への代替わりを見てみよう。

仲哀は、実に奇妙な死に方をしている。

古事記(仲哀記):


 その太后息長帯日売の命(オキナガタラシヒメノミコト=神功皇后)は、当時神帰よせしたまひき。かれ天皇筑紫の詞志比かしひの宮にましまして熊曾の国を撃たむとしたまふ時に、天皇御琴を控ひかして、建内タケシウチの宿禰の大臣沙庭さにはに居て、神の命を請ひまつりき。ここに太后、神帰よせして、言教へ覚さとし詔りたまひつらくは、「西の方に国あり。金・銀を本はじめて、目の炎耀かかやく種々の珍宝その国に多さはなるを、吾あれ今その国を帰よせ賜はむ」と詔りたまひつ。ここに天皇、答へ白したまはく、「高き地に登りて西の方を見れば、国土くには見えず、ただ大海のみあり」と白して、詐いつわりせす神と思ほして、御琴を押し退けて、控ひきたまはず、黙もだしたましき。ここにその神いたく忿いかりて、詔りたまはく、「およそこの天の下は、汝いましの知らすべき国にあらず、汝は一道ひとみちに向ひたまへ(=黄泉の国へ行ってしまえ)」と詔りたまひき。ここに建内の宿禰の大臣白さく、「恐かしこし、我が天皇。なほその大御琴あそばせ」とまをす。ここにややにその御琴を取り依せて、なまなまに(=しぶしぶ)控ひきいます。かれ、幾久いくだもあらずて、御琴の音聞えずなりぬ。すなはち火を挙げて見まつれば、既に崩かむあがりたまひつ。

仲哀は、西方の国(新羅)を与えてやろうという神の言葉を信じなかったために、神罰を受けて死んだというのである。このとき本当は何があったのか。伊藤浩士氏がブログで次のように書いているが、私も同感である。


仲哀天皇と神功皇后と竹内宿禰は熊襲征伐のために筑紫にきていて、そこで神功皇后が新羅を攻めると言い出します。仲哀天皇は反対します。仲哀天皇と神功皇后、竹内宿禰の3人だけがいて、気が付くと神の罰が当たって仲哀天皇が死んでいたと記されています。ふつうに考えれば、神功皇后と竹内宿禰の共謀による殺害です。

このとき、仲哀は軍を率いて九州まで遠征していた。仲哀には既に別の后(大中津比売の命)との間に香坂かごさかの王、忍熊おしくまの王という二人の息子がいたのだが、この遠征には同行していない。建内以外の有力な臣下もついてきていない。暗殺には絶好のシチュエーションと言っていいだろう。

そしてこの「神」は、香坂・忍熊を押しのけて、息長帯日売が産む子を次の天皇にする、と決めてしまうのである。

古事記(仲哀記):


また建内の宿禰沙庭に居て、神の命みことを請ひまつりき。ここに教へ覚したまふ状、つぶさに先の日の如くありて、「およそこの国は、汝命いましみことの御腹にます御子の知らさむ国なり」とのりたまひき。ここに建内の宿禰白さく、「恐し、我が大神、その神の御腹にます御子は、何の子ぞも」とまをせぱ、答へて詔りたまはく、「男子なり」とのりたまひき。ここにつぶさに請ひまつらく、「今かく言教へたまふ大神は、その御名を知らまくほし」とまをししかぱ、答へ詔りたまはく、「こは天照らす大神の御心なり。また底筒の男そこつつのを、中筒の男なかつつのを、上筒の男うはつつのを三柱の大神なり。この時にその三柱の大神の御名は顕したまへり。

天照大神の神意だ、というわけだが、それを聞いたのは建内宿禰だけなのだから、要するに建内がそう決めた、ということである。

この後、息長帯日売はいわゆる「神功皇后の三韓征伐」(それが征伐などと呼べる代物でないことは別途書く予定)を行い、九州に帰ってきてから息子を産む。これが後の応神天皇である。この応神の出生についても、不可解なエピソードが書かれている。

古事記(仲哀記):


かれその政(三韓征伐のこと)いまだ寛をへざる間に、懐妊ませるが、産れまさむとしつ。すなはち御腹を鎮いはひたまはむとして、石を取らして、御裳みもの腰に纏まかして、竺紫つくしの国に渡りましてぞ、その御子は生あれましつる。かれその御子の生れましし地に号なづけて、宇美といふ。またその御裳に纏かしし石は、筑紫の国の伊斗いとの村にあり。

「三韓征伐」が終わらないうちに子どもが産まれそうになってしまったため、石を腰紐にはさんで押さえ、神に祈って出産を遅らせたというのである。これも普通に考えれば、応神の出生が仲哀の子とするにはあまりに遅すぎたため、つじつまを合わせるための説話を創作したのである。

では応神の父親は誰か? 史料的根拠には欠けるが、建内宿禰とするのが最も自然ではないだろうか。

そして、息長帯日売と建内は九州から大和に攻め上り、忍熊王の軍を破ってこれを滅ぼしてしまう。(香坂王はその前に事故死。)もちろん、「万世一系」説に毒されていない常識では、これを王朝交代と呼ぶ。

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/08/24/122313


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「神功皇后の三韓征伐」という大嘘
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/09/09/204858

仲哀(14代)から応神(15代)への代替わりが、単なる代替わりではなく王朝交代であったことについては既に説明した。このとき、仲哀の九州遠征に同行せず大和に残っていた息子たちを滅ぼして権力を奪ったのが、神功皇后こと息長帯日売(オキナガタラシヒメ)と建内宿禰(タケシウチノスクネ)である。

そして神功皇后といえば、いわゆる「三韓征伐」が必ずセットとなって語られる。

この「三韓征伐」とは実際にはどんな事件だったのか。まず、古事記の記述を見てみよう。


 かれつぶさに教へ覚したまへる如くに、軍を整へ、船双なめて、度り幸でます時に、海原の魚ども、大きも小きも、悉に御船を負ひて渡りき。ここに順風おひかぜいたく起り、御船浪のまにまにゆきつ。かれその御船の波瀾なみ、新羅の国に押し騰あがりて、既に国半なからまで到りき。ここにその国王、畏おぢ惶かしこみて奏まをして言まをさく、「今よ後、天皇の命のまにまに、御馬甘みまかひとして、年の毎に船双めて船腹乾さず、棹楫さをかぢ乾さず、天地のむた、退しぞきなく仕へまつらむ」とまをしき。かれここを以ちて、新羅の国をぱ、御馬甘と定めたまひ、百済の国をぱ、渡わたの屯家みやけと定めたまひき。ここにその御杖を新羅の国主の門に衝き立てたまひ、すなはち墨江すみのえの大神の荒御魂あらみたまを、国守ります神と祭り鎮めて還り渡りたまひき。

しかし、これは果たして「征伐」などと呼べるものだろうか。神功が軍船を整えて新羅に行ったら、一戦も交えることなく、向こうが勝手に恐れをなして降伏してしまったというのだ。(日本書紀にもほぼ同じ内容の説話が記されているが、こちらは新羅だけでなく、接触すらしていない高句麗と百済まで降伏してしまったことになっている。)こんなことはあり得ない。

いや、実際この後、新羅は日本に朝貢しているではないか、と言う人がいるかもしれない。しかし、記紀に朝貢記事があるからといって、それが服属の証拠にはならないのだ。古田武彦氏が次のように指摘している[1]。


わたしは『記・紀』を見る場合、つぎの二つの原則を大前提とする。

(1) 『記・紀』は、天皇家中心の「大義名分」に貫かれた本である。

(2) したがって『記・紀』は古来の伝承に対して、天皇家に「有利」に改削・新加(新しく付加)することはあっても、「不利」に加削することはない。

まず、(1)について説明しよう。

すでに前の本で詳しくのべたように、“天皇家は永遠の昔から、この日本列島の中心の存在だったのだ”という「大義名分」が『記・紀』を貫いている。それは「歴史事実の実証」以前の、いわば「観念」としての大前提なのである。それは国内問題だけではない。たとえば、


  冬十月に、呉国、高麗国、並に朝貢す。    〈仁徳紀五十八年〉

  夏四月に、呉国、使を遣して貢献す。      〈雄略紀六年〉


とあるように、中国(や高麗)との通交さえ、あちらが日本の天皇家に臣従し、朝貢してきたように書いてあるのだ。だから、これは「朝貢」の事実を示す記事ではない。『記・紀』の大義名分に立った筆法なのである。

中国の皇帝が「東夷」の蛮族と見なしていた日本に朝貢してくるはずがないことは、常識として理解できるだろう。

つまり、記紀の「三韓征伐」記事が示しているのは、神功が新羅を訪問して王と交渉し、このときから近畿天皇家と新羅との間の国交が始まった、という出来事なのだ。これは新羅との国交開始に関する説話なのである[2]。新羅王が服従を誓ったとか、新羅の国を「御馬甘」に定めたとかいうのは、魚たちが神功の船を背負って海を渡った、船が波に乗って新羅の中央部まで押し上がった、などと書いてあるのと同じ、何も知らない国内人民向けのほら話に過ぎない。

しかし、ではなぜ、新羅との国交が必要だったのか?

ここで、そもそも神功と建内は、仲哀の熊襲征伐に従って九州まで来ていたことを思い出していただきたい。仲哀をうまく始末したのはいいが、次は大和に戻って仲哀の息子たちを討ち滅ぼさなければ自分たちに未来はない。しかし、まだ熊襲との戦争は続いているのだ。こちらの事情が変わったからといって、簡単に敵に背を向けて帰るわけにはいかない。追撃を避けるには、熊襲との和平、最低でも休戦が必要だ。

日本書紀では、神功を通じて仲哀に新羅征伐を勧めた「神」は、次のように語っている。


時に、神有まして、皇后に託かかりて誨おしへまつりて曰はく、「天皇、何ぞ熊襲の服まつろはざることを憂へたまふ。是これ、膂宍そししの空国むなくにぞ。豈あに、兵を挙げて伐つに足らむや。玆この国に愈まさりて宝有る国、警たとへば処女をとめの睩まよびきの如くにして、津に向へる国有り。眼炎まかかやく金・銀・彩色、多さはに其の国に在り。是を衾たくぶすま新羅国しらきのくにと謂いふ。若もし能よく吾を祭りたまはば、曾かつて刃に血ちぬらずして、其の国必ず自おのづから服まつろひしたがひなむ。復また、熊襲も為服まつろひなむ。

自分を良く祭れば新羅は従い、また熊襲も自ら従うだろう、と言っているのだ。この両者の間には何らかの強い結びつきがあり、新羅との友好は熊襲との関係改善にもつながることを示唆している。

だから神功は、熊襲との戦争状態を終わらせて大和での権力奪取に集中するため、熊襲のバックに控えている新羅との友好関係を確立しようと海を渡ったのである。それは、「征伐」とは正反対の、友好を求める外交交渉だったのだ。

[1] 古田武彦 『盗まれた神話』 朝日文庫 1994年 P.63-64
[2] 古田武彦 『古代は輝いていた(2)』 朝日新聞社 1985年 P.131

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。
※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(二)』(岩波文庫 1994年)に基き、一部変更・補足している。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2014/09/09/204858


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皇位継承


7世紀末までの皇位継承を《古事記》《日本書紀》によってみると,

16代の仁徳天皇まではほとんどが父子間の直系相続であり,

仁徳以後持統までは,父子間相続6,母子間1,兄弟間10,姉弟間2,叔父・甥間1,夫婦間2,三親等以上をへだてた相続3の計25例で,兄弟相続が多い。

応神・仁徳を境として,皇位継承の原則に大きな変化が起こっているように見える。
しかし,父子直系相続は7世紀末以降の天皇の目ざした皇位継承法であり,兄弟相続は日本固有の継承法であることからすると,応神以前の直系相続は記紀編纂の過程で作為された可能性が強い。

また,記紀にみえる天皇の名称をみると,

7,8,9代の孝霊,孝元,開化と41,42,43,44代の持統,文武,元明,元正はヤマトネコ,

10,11代の崇神,垂仁はイリヒコ,

12,13,14代の景行,成務,仲哀と34,35代の舒明,皇極はタラシヒコ(メ),

15,17,18代の応神,履中,反正と38代の天智はワケ,

27,28,29代の安閑,宣化,欽明はクニオシ


という称をもつというように時期により特色があり,それらを検討すると

7〜9代の名称は持統以下の名称を手本に,
12〜14代の名称は舒明,皇極の名称を手本にして作られた

と推定される。

これに加えて記紀には9代までの天皇の事績については神武以外ほとんど所伝がないこと,10代の崇神が初代の天皇を意味する所知初国(はつくにしらす)天皇の称号をもつことなどから,9代までの天皇の実在性は疑われている。

10代以後も,皇居や陵墓の所在地や称号の変化などから,10〜12代の天皇は大和を根拠としていたが,15〜25代の天皇は河内平野を主要な根拠地とする別系統の天皇ではないかとして,前者を三輪政権(初期大和政権),後者を河内政権と呼ぶ説もある。

同様に26代の継体以後の天皇もそれまでとは別系統の天皇とする説もある。

これらの説に従えば,古代の皇位継承は,10代の崇神以後2度断絶したが,6世紀中葉以降に,万世一系の思想により崇神からはじまる一系統の系譜にまとめ,さらに崇神以前の系譜をつぎ足したということになる。

しかしこれも一つの解釈ないし仮説であって,古代の皇位継承にはなお多くの疑問が残っている。
→王朝交替論
[直木 孝次郎]

皇嗣の冊定

大化以前の皇位継承については,天皇が任意に選定したとする中田薫の選定相続説,天皇が神意により卜定したとする滝川政次郎の卜定相続説,末子相続から兄弟相続への移行を説く白鳥清の兄弟継承説,あるいは大兄(おおえ)(同腹中の長子)からその兄弟,ついで大兄の子の順に継承反復したとする井上光貞の大兄相続説などがある。

そして天智朝に至り,中国より継受した嫡長子相続主義にもとづく皇位継承法が定められたとも説かれている。

しかし爾後の実例に徴すると,皇嗣の選定は,嫡系男子の優位を認めながらも,天皇(あるいは上皇)の勅定するところであり,明治の皇室典範制定以前は,立太子の詔において初めて皇嗣を冊定するのを本則とした。

ただ立太子の儀はときに省略された例も少なくなく,ことに室町時代から江戸初期にかけて中絶したが,霊元天皇がこれを再興するに当たり,立太子に先立ち朝仁親王(東山天皇)を儲君(ちよくん)に治定したのが例となって,明治の嘉仁親王(大正天皇)の立太子に至るまで,儲君治定が実質的な皇嗣冊立を意味した。

皇位継承の資格

皇位継承者は,いうまでもなく皇親に限られる。

推古天皇をはじめ皇后から皇位を継いだ例も数例あるが,皇曾孫の皇極,皇孫の元正以外の女帝はみな皇女である。

継嗣令に〈女帝子〉の語が見えるから,令制では女帝の存在を公認しており,江戸中期の後桜町まで10代8女帝が生まれたが,いずれも中継ぎ的色彩が濃く,やはり皇男子の継承が本則であったとすべきであろう。

平安・鎌倉時代には,いったん臣籍に降下したのち,さらに皇籍に復した例が数例あり,そのうち光孝の皇子定省(宇多)は皇位にのぼったが,やはり変則であろう。

皇位継承の原因

上古の皇位継承は,天皇が没することによって行われたが,645年(大化1)皇極が孝徳に皇位を譲って譲位の例を開いてからは,明治まで87代中(北朝天皇を除く)56代の天皇が譲位によって皇位を継いだ。

天皇譲位の場合には,皇嗣が禅(ゆずり)を受けて直ちに践祚(せんそ)するのを常例としたが,天皇が没した場合には,没時と践祚との間に時日を要した例も多く,ことに上古においては数年月を経ることもあった。

また鎌倉時代以後は,皇嗣の選定について朝廷と幕府の間の交渉に日時を要した場合も数例ある。

なお斉明の皇太子中大兄(天智天皇),天武の皇后鸕野讃良(持統天皇)は,天皇没後,皇位につかずに数年にわたり執政したが,これを〈称制(しようせい)〉といった。

81代安徳が平氏に擁されて西海に幸した後,京都において後鳥羽が践祚し,1年余にわたって2人の天皇が存立し,また96代後醍醐の譲位否認のもとで光厳が践祚し,爾後50余年にわたって南北両朝が併存対立した。

また天皇がいったん譲位したのち,再び皇位についたことが2度あり,これを重祚(ちようそ)という。

35代皇極が重祚して37代斉明となり,46代孝謙が重祚して48代称徳となったのがそれで,ともに女帝にして,特殊な政情によるものである。
https://japanknowledge.com/introduction/keyword.html?i=128  

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ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書) – 2010/11/20
吉村 武彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/ヤマト王権〈シリーズ-日本古代史-2〉-岩波新書-吉村/dp/4004312728/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

内容紹介
日本列島にはじめて成立した統一国家、ヤマト王権。その始まりはいつだったのか。最初の「天皇」は誰なのか。王宮や王墓の変遷は何を物語るのか──。『魏志倭人伝』等の中国の正史や金石文ほか、貴重な同時代資料に残された足跡を徹底的にたどりつつ、ひろく東アジア全域の動きを視野に、多くの謎を残す時代の実像に肉迫する。(全6巻)


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉村/武彦
1945年朝鮮大邱生まれ、京都・大阪育ち。1968年東京大学文学部国史学専修課程卒業、同大大学院国史学専攻博士課程中退。現在、明治大学文学部教授。専攻は日本古代史

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
古墳期の一元的・集権的な世界観から脱却せよ! 2019年2月16日


 本書のシリーズAは、@が弥生期、Bが飛鳥期なので、古墳期を範囲としており、日本列島で、7世紀後半から、律令制を本格的に導入した、中央政府の起源を、ヤマト王権とし、それが分権社会から集権社会へと、移行していった過程を、主に文献学から解説しています。

 したがって、本書では、考古学による、畿内以外の地域の状況は、ほとんど取り上げられていませんが、だからといって、日中の古代歴史書も、正当に史料批判されているとはいえず、ヤマト王権の初期から、大和中心の一元的な世界に偏重しており、現在でも、それが通説化しています。

 しかし、実際の古墳期は、もっと多元的な世界だったので、ここでは、異説を取り上げることで、本書にも問題点が、多々あることを、指摘しておきます。


○倭奴国(p.5-7)

 「後漢書倭伝」で、57年に、後漢の光武帝(初代)へ朝貢し、金印を授与されたのは、倭の奴国ではなく、倭奴国で、それは、「旧唐書倭国伝」に、倭国は、古(いにしえ)の倭奴国なり、「新唐書日本伝」に、日本は、古の倭奴なり、とあるからです。

 また、金印も、漢の委(わ)の奴(な)の国王ではなく、漢の委奴の国王、「隋書俀国伝」で、後漢の安帝(6代)の時代(106〜125年)に、使者を派遣・朝貢したのは、俀奴国、「後漢書倭伝」で、107年に、倭国王の帥升等が、安帝に奴隷160人を献上しているので、倭国=倭奴国=委奴国=俀奴国です。

 そうなると、金印の委奴国は、伊都(いと)国よりも、倭奴国の人偏を省略とみるのが適当で、「魏志倭人伝」には、倭の30ヶ国の他にも、倭種(倭人)の国があり、それらと区別するためか、中国は、匈奴と対照的に、「倭奴」の呼称にしたとも推測でき、57年・107年の後漢朝貢ともに、倭国です。


○邪馬壱国・壱与(p.12、23)と邪馬壱国九州説(p.13-17)

 3世紀後半成立の「魏志倭人伝」では、邪馬壱(旧字は壹)国と壱与でしたが、5世紀前半成立の「後漢書倭伝」では、邪馬台(旧字は臺)国に改変され、7世紀前半成立の「梁書倭国伝」では、なぜか祁馬台国となっています。

 7世紀半ば成立の「隋書俀国伝」では、邪靡堆(やまたい)=邪馬台、7世紀半ば成立の「北史倭国伝」では、邪摩堆=邪馬台と、踏襲されており、本書では、10世紀後半成立の「魏志」の抜粋が収録された「太平御覧」も、邪馬台国のようなので、「後漢書倭伝」で、改変されています。

 一方、壱与は、「後漢書倭伝」「隋書俀国伝」には、記事がなく、「梁書倭国伝」「北史倭国伝」で、台与に改変され、邪馬台国に改変された時期とズレており、どちらか本当かは、不明なので、勝手に改変すべきでなく、正確には、邪馬壱国・壱与です(「隋書俀国伝」を「隋書倭国伝」とすべきでないのと同様)。

 邪馬壱国=近畿(大和)説は、方位の東を南に書き誤ったとしていますが、魏は、倭に派兵しており、方位は、進軍・補給に大切なうえ、万一記載ミスなら、「魏志倭人伝」より後世に成立した「後漢書倭伝」で、狗奴国の方位を訂正・距離を追加した際に、そこも訂正してもよいはずではないでしょうか。

 邪馬壱国=九州説は、帯方郡〜邪馬壱国間を1万2000余里、帯方郡〜伊都国間を1万500余里、伊都国〜邪馬壱国間を1500里以内(対馬国〜壱岐国間の約1.5倍)としており、それを論破しないまま、はるか後世の15世紀初めの地図を持ち出し、邪馬壱国=近畿(大和)説を採用するのは、不充分といえます。


○銅鏡の価値(p.21)

 中国の銅鏡は元々、官営工房で製造されていましたが、やがて政権の庇護がなくなったため、工房が、自立するようになり、後漢末期の2世紀終りには、すでに民間工房の量産品が、中国市場に流通していたので、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、銅鏡の価値が、しだいに低下していました。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは、畿内が、政治の中心になったからではなく、価値の低下を認知していた九州北部が、輸入品を畿内へ、率先して販売した可能性があります。

 「魏志倭人伝」では、238年に、魏皇帝が、倭の卑弥呼へ、紺色地に曲線模様の錦3匹・まだらの花の細密模様の毛織物5張・白絹50匹・金8両・五尺刀2口・銅鏡100枚・真珠+鉛丹各々50斤を授与しており、銅鏡100枚は、五尺刀2口よりも後ろの記載なので、価値があまり高くないともいえます。

 銅鏡100枚は、魏の政権が、複数の民間工房に発注したとみられ、古墳期の銅鏡は、有力者から配布(下賜)されるよりも、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)で、大量入手したと推測できます。


○初代・10代と欠史八代の実在性(p.35-41)
 一書も含めた、記紀神話での、1〜10代の天皇の妻の出身は、次の通りです。

・神武(初代):日向(阿多、紀・記)、神の子孫(紀・記)*
・綏靖(2代):磯城(県主・ハエの妹=紀1・記)、春日(紀2)、神の子孫(紀本)*
・安寧(3代):磯城(県主・ハエの娘=紀1・記)、春日(大間、紀2)、神の子孫(紀本)*
・懿徳(4代):磯城2(県主・ハエの弟イテの娘=紀1、紀2)、皇族(紀本)*
・孝昭(5代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、大和(紀2)、葛城(尾張、紀本・記)*
・孝安(6代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、十市(紀2)、皇族(紀本)*
・孝霊(7代):磯城(紀本)*、十市(紀2・記)、春日(紀1・記)、皇族2(紀本×2・記×2)
・孝元(8代):河内(紀・記)、穂積(物部)氏2(紀×2・記×2)*
・開化(9代):葛城(記)、丹波(紀・記)、穂積(物部)氏(紀・記)*、和珥(丸邇)氏(紀・記)
・崇神(10代):紀伊(紀・記)、葛城(尾張、紀・記)、皇族(記)*

※紀本:日本書紀本文、紀1:日本書紀一書第一、紀2:日本書紀一書第二、記:古事記、*:皇后

 ここで注目すべきは、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(尾張は、高尾張邑=葛城邑なので)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、この間は、親子世代での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、この間は、兄弟世代での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の親子間の皇位継承や、100歳以上の超長寿・神武天皇(初代)即位以降の年代も、捏造でしょう。

 初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇(10代)も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 よって、2〜9代が、もし、非実在なら、妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明でき、超長寿や特異な名前・事績がないだけで、全否定は、できません。

 崇神天皇は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還しているので、実際には、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、開拓で、流通ネットワークを全国展開した一方、4世紀前半の統治範囲は、大和の周辺地域までとみられます。

 神武天皇は、その始祖なので、編纂の際に、「天下」と装飾され、初代・10代ともに、「はじめてこの国を統治した天皇」と潤色されただけではないでしょうか。
 履中天皇(17代)以後は、旧天皇即位から新天皇即位までの平均が12年で、仁徳天皇(16代)以前は、超長寿なので、仮に、それらの天皇が全員実在し、在位期間を12年/人、履中天皇即位を400年とすれば、神武天皇即位は、196年(2世紀終り)、崇神天皇即位は、304年(4世紀初め)となります。

 崇神天皇の4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期で、筆者が主張する、初期ヤマト王権の4世紀前半とも、ほぼ符合し、神武天皇の2世紀終りは、大和に銅鏡が集中するようになる(漢鏡8期の2・3段階)直前で、大型古墳が大和に出現する直前の時期で、始祖にふさわしいともいえます。

 孝元・開化の2天皇(8・9代)は、それぞれ280年・292年即位と算定でき、河内・丹波出身の妻がいて、3世紀後半に、畿内が、鉄器の出土数で、はじめて九州を逆転したので、それぞれ瀬戸内海側・日本海側の、輸入用の交易ルートを開拓したとも、結び付けられます。

 各天皇の実在性は、疑問視されますが、この程度の人数がいた可能性があり、実際には、親子間でなく、兄弟間での皇位継承が、主流だったと導き出せます。


○日中で古代歴史書での食い違い

 これは、あまり取り上げられていませんが、「日本書紀」神功皇后(14-15代の間)の時代の記事で、「魏志倭人伝」から、人名等を引用したにもかかわらず、次のように、ことごとく食い違っています。

「魏志倭人伝」→「日本書紀」
・238年:倭の使者の難升米・帯方郡長官の劉夏→239年:難斗米・ケ夏
・240年:帯方郡長官の使者の建中校尉の梯儁→建忠校尉の梯携
・243年:倭の使者の伊声耆・掖邪拘→伊声者・掖耶約

 また、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 さらに、「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで筑紫城、神武天皇から大和州へ移住したとあります。

 「宋史日本国伝」では、献上された年代記には、初代がアメノミナカヌシ、23代(訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 それらから、倭国は、九州北部の筑紫政権が中心で、畿内の大和政権は当初、倭国の圏外だったのが、朝鮮半島への派兵で、各地の政権が協力するようになり、白村江の合戦(663年)での大敗後の戦後処理をきっかけに、倭国から日本国へと改号し、大和政権が中心になった、とする説があります。

 これによれば、「魏志倭人伝」と「宋書倭国伝」の倭の五王は、すべて筑紫政権の記事で(邪馬壱国=九州北部説、倭の五王=九州王朝説)、大和政権は、「日本書紀」で、故意に人名等を、一部改変することで、筑紫政権の史実を乗っ取ったとみることもできます。

 記紀神話で、神武天皇は、日向から進出しているので、大和政権の始祖(初代)は、筑紫政権と無関係といえますが、中国には、神武天皇が、筑紫から大和へ進出したように、改変しており、権威・権力が、倭から日本へと、スムーズに受け継いだように見せ掛け、正統性を担保したとも読み取れます。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1LZN9HINXSIGN?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp


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天武天皇以前の皇位継承は兄弟間相続で、沢山いる皇子の中で最も有能な皇子しか天皇になれなかったのです。
それが白村江の戦いで負けて唐の属国になってから、唐の律令制や儒教的な父子相続制を取り入れたのです:

天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ (NHKブックス) – 2015/10/22
中村 修也 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E6%9C%9D%E3%81%A8%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2-%E5%94%90%E3%81%AE%E6%94%AF%E9%85%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%B8-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E4%BF%AE%E4%B9%9F/dp/4140912359?ref=pf_vv_at_pdctrvw_dp

内容紹介

古代日本に存在した、もう一つの「占領」

663年の「白村江の戦い」に敗れた日本は、唐の再攻撃に備えて防衛態勢を整備し、その後は律令国家建設へ邁進したと言われている。だが、それは本当なのか? 本書は、唐の羈縻政策を軸に展開した当時の東アジア情勢を踏まえつつ、中国・朝鮮側の史料との比較から『日本書紀』を再検証し、これまでの通説に挑む力作。唐の支配体制が、その後の律令国家体制とどのように結びついていったのかを鮮やかに描く。

内容(「BOOK」データベースより)

古代東アジアに起こった一大戦役・白村江の戦。通説では、唐・新羅連合軍に敗れた日本は以後、唐の律令に学び、国家体制を整備していったと言われる。だが、この通説は果たして本当か?敗戦国の日本が、唐の支配を全く受けずに友好関係を保つことが可能だったのか?本書は、中国・朝鮮側の史料、最新の考古学の知見、古今東西の「戦争」における常識など、多角的な視点から『日本書紀』を再解釈。白村江後に出現した唐の日本「支配」の実態、さらに、それがのちの律令国家建設に与えた影響を鮮やかに描く。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
中村/修也
1959年、和歌山県生まれ。1989年、筑波大学大学院歴史・人類学研究科博士課程単位取得修了。博士(文学)。現在、文教大学教育学部教授

カスタマーレビュー

hira
 筆者は、近代のアジア太平洋戦争で、日本が大敗した後、GHQに占領され、再建を指導された経験から、古代の白村江の合戦で、倭+百済遺民が大敗した後を、想像すべきだとし、通説を批判、異説を展開しています。

 異説では、まず、663年の白村江の合戦で、倭+百済遺民が、唐+新羅に大敗後、唐が、九州にも進出し、朝鮮式山城(やまじろ)・水城(みずき)や防(防御地)・烽(ノロシ台)を設置、後世の大宰府の位置には、筑紫都督府も設置し、占領統治するつもりだったと主張されています。

 それは、唐の6度の来日時期の664〜672年の間に、それらが整備されているうえ、唐が、大量の人員を、朝鮮半島から日本列島へと、送り込んだからで、そうなると、それらは、唐や新羅の侵攻を防御する施設でないことがわかります。

 また、667年の近江・大津京への遷都は、大和政権の前方拠点の難波・河内と後方拠点の大和から引き離す、唐の強制で、両拠点の中間の山頂の高安城(たかやすのき)は、唐が、両拠点を監視するためとみられます。

 そのうえ、670年の庚午年籍(こうごねんじゃく)・671年の近江令は、戸籍を作成することで、公正・円滑に徴税でき、671年の水時計(漏刻)の設置は、官僚の勤務管理に有効で、いずれも唐が、直接持ち込んだとみれば、納得できます。

 さらに、唐が、百済の王子の扶余隆を、熊津都督に利用したように、671年の大友皇子の後継も、唐の傀儡政権で、唐の日本列島撤退直後の、672年の壬申の乱での大海人皇子の政権奪取は、その転換とも受け取れ、689年の飛鳥浄御原令は、当時頻繁に通交していた新羅と、唐の制度を折衷したようです。

 朝鮮半島では、642年に、百済は、高句麗と同盟し、新羅を攻撃、新羅は、西部40余城を奪取され、劣勢から、643年に、唐に援軍を要請しましたが、反応なく、647年に、政権の内乱が発生しましたが、鎮圧し、ようやく、648年に、唐と同盟できましたが、654年に、北部30余城も奪取されています。

 そののち、唐は、高句麗を挟み撃ちにするため、660年に、新羅と連携し、百済を滅亡させると、倭は、百済復興のため、援軍を渡海しましたが、663年に、白村江の合戦で大敗、唐は、668年に、新羅と連携し、高句麗も滅亡させ、百済に熊津都督府を、高句麗に安東都護府を設置し、占領統治しました。

 ところが、唐は、新羅も、鶏林州都督府を設置し、統治しようとしたので、670年から、新羅が、唐に反抗・交戦し、唐は、それを鎮圧できず、朝鮮半島の戦況が悪化したので、672年に、日本列島から撤退すると、同年に、壬申の乱が勃発、唐は、676年に、朝鮮半島からも撤退させられています。

 唐は、同盟国の新羅でさえ、鶏林州都督府を設置したので、敗戦国の倭に、筑紫都督府を設置するのも、当然だったでしょう。

 なお、盗作だと酷評しているレビューも、一部あり、学者間のルールは、遵守すべきですが、そもそも史料が、わずかしかない日本古代史では、異説といっても、類似する傾向にあり、それが先行研究に無知だっただけで、異説の積み重ねが、通説になるので、既説か新説かのみに固執するのは、不毛です。

 古代日本の制度・技術・文化も、たかが、中国発祥・朝鮮経由と一蹴することもできますが、されど、独自に変容・洗練されたので、盗作ではなく、固有と位置づけられるので、それと同様、読者は、新説の「藤原鎌足」の12ページ?と、既説の細密な本書の、違いを楽しめばよいのではないでしょうか。

 ところで、「隋書倭国伝」で、600年に、妻子のいる倭王のアメ・タリシヒコ・アホケミが、隋に使者を派遣していますが、女帝の推古天皇(33代)と一致せず、「旧唐書日本伝」で、日本国は倭国の別種とあるので、推古天皇を大和政権、タリシヒコを筑紫政権(倭)とする説(九州王朝説)があります。

 他にも、「日本書紀」と「隋書倭国伝」「隋書」で、冠位12階と内官12等の序列や、遣唐使の訪問年が、食い違っており、「日本書紀」では、608年に帰国した遣隋使の小野妹子が、隋の国書を百済で奪い取られたのに免罪で、「隋書倭国伝」では、九州の地名しか登場せず、不自然です。

 私は、個人的に、九州王朝説(古田武彦)を、本書の説と組み合わせ、白村江の合戦には、大和政権配下の全国各地の豪族達が、参戦したのではなく、各々自立しつつ、相互交流していた、大和政権・筑紫政権等が、協力して参戦したとみています。

 4世紀半ばには、高句麗の南下で、馬韓の諸国が百済、辰韓の諸国が新羅に結束した一方、弁韓は、6世紀半ばまで、諸国(伽耶諸国)のままで滅亡したように、日本列島でも、外圧が強い九州(筑紫政権)、中くらいの近畿(大和政権)、弱い東国と、諸国の結束の度合に差があったでしょう。

 そして、白村江の合戦での疲弊が、九州で比較的大きく、近畿で中くらい、東国で小さかったうえ、合戦後の唐の占領統治も、九州で比較的強く、近畿で中くらい、東国で弱かったと推測できます。

 なので、唐が日本列島から撤退すると、壬申の乱で、反乱軍は、戦力が温存されていた東国を味方に引き入れられたので、大和政権の中枢を一掃できたうえ、新生大和政権は、かなり疲弊していた筑紫政権等も併合でき、国号を日本に改称したのではないでしょうか。
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儒教の長子相続制度


東アジア伝統社会における女性の相続と財産分与に関する研究
東京外国語大学外国語学部 教授 吉田 ゆり子 2008年8月

 本研究は、16−19世紀における日本・中国・韓国の伝統社会における家の継承と財産分与の同質性と差異性を比較検討することを通して、東アジア伝統社会の比較研究の基盤を構築し、三国相互の歴史認識の深化に寄与することを目的として、次の韓国・中国・日本の6人の研究者によって行われた。文叔子(韓国国史編纂委員会研究員)・鄭肯植(ソウル大学副教授)・李長利(中国社会科学院近代史研究所教授)・大口勇次郎(お茶の水女子大学名誉教授)・臼井佐知子(東京外国語大学教授)・吉田ゆり子(同 教授)。

 これまで、日本史研究においては、女性の社会的地位の変化を考察する視点から、家督相続の際に女子が排除されてゆく過程が明らかにされ、その歴史的要因を解明するために、多様な仮説が提示されてきた。具体的にいうと、南北朝時代まで女性も分割相続の対象となったが、戦国時代には女性の一生の間だけとの限定を受けた一期分(いちごぶん)となり、ついに江戸時代には全く排除されることになる。このような過程をたどるのは、武家社会において軍役を負担できない女性が「家」の当主となることができないためではないかとの仮説が示されている。しかし、武家以外の百姓・町人の家においても江戸時代には女性が家の相続から排除されることから、これを説明するために、儒教的な観念の浸透によって、女性の社会的な地位が低下したためではないかとみる見解も示されている。

 そこで、日本社会の家意識や女性に対する通念を解明するためにも、伝統的には儒教圏としてくくられる中国・韓国・日本の歴史的な事実を比較し、その共通点・差異性を明らかにする必要があると考えていた。他方、韓国において、歴史学の分野で朝鮮時代の家族史を精力的に追求してきた文叔子氏も、韓国史の立場から同様の問題意識を共有していることを知り、本研究グループを立ち上げるに至った。なお、従来日本でおこなわれてきた比較研究は、韓国と日本の相続の類似性の指摘や、中国から影響が及ぼされた女性に対する教訓書(「女大学」や「女実語教」など)の研究にとどまり、三国の相続と財産分与を正面から比較する研究は行われていなかった。

 研究の進め方は以下のとおりである。まず、それぞれの国で発表されてきた本研究課題に関わる著書や研究論文のリストを作成した。このリストをみると、三国それぞれには研究がみられるものの、言語の壁があるため、相互にその研究成果を享受できていない状況がより明確になった。

 次に、2007年12月22日に、共同研究者6人が東京で直接同じテーブルについて、それぞれの国で行われてきた本研究課題に関する研究状況を紹介し、さらに具体的な素材をもとに研究報告を行う機会をもった。この研究会においては、韓国・中国人留学生による逐次通訳をつけ、相互に直接意見交換を行った。その結果、次のような論点が提示され、新たな知見を得ることができた。


 (1)相続のありかたとその歴史的変遷:韓国の両班と日本の武士・百姓の家では、17世紀頃に、分割相続から単独相続に移行するが、中国においては分割相続を維持している。その歴史的要因として考えられるのは、韓国・日本とも土地の分割による経済的基盤の零細化を防ぐためと考えられる。但し、中国でも耕作の対象となる耕地は狭いため、分割が進むと土地は細分化するが、実際には「小作料」を分割するため、分割が可能である。あるいは、生産力の乏しい地域では、被相続人に未開墾地を与える場合もある。

 (2)被相続人の性別:韓国と中国では、歴史的に女性が相続したことはない。それは、韓国と中国では、周代に「礼記」の規定で、女性が祭祀をおこなうことはできないと規定されていたためである。なぜ、周代にそのような規程がつくられたのか、明らかではない。日本では武家の時代となってから当初(12世紀末-13世紀ころ)女性も分割相続を受けていたが、15世紀ころから女性一代限り(一期分)となり、近世には相続から排除された。これに関しては、家業・家産・家督の三者のあり方を考慮に入れなければならない。

 (3)「養子」制度について:日本の養子制度は東アジアの中でも特殊といわれ、異姓養子もとることが知られている。韓国と中国では、同姓の中でも「派」と呼ばれるさらに限られた一族の中で、同世代の者から養子をとる。

 (4)三国相互の影響のしかた:中国の「礼記」の考え方が韓国に影響して、女性が戸主(戸長)となれない現実が生まれた。その時期は、17世紀ころであり、それ以降、韓国では儒教的なイデオロギーが強化され、現実の問題から発生した均分相続から単独相続へとの流れの中で、女性が相続から排除されてゆくことになる。韓国では植民地時代に、日本の明治民法の影響を受けて、「戸主」が法制化された。

 (5)今後の課題:相続形態の変化は、婚姻形態(妻問婚から嫁入婚へ)の変更も伴うため、婚姻形態の変化を視野に入れるべきである。韓国の場合、「家業」という観念を想定しがたい。中国の場合、とくにエリート層を想定しておらず、庶民を含めて考えた。但し、地域差は考慮すべきである。今回の研究会では、それぞれの国の伝統社会における相続と財産分与の歴史的事実を相互に確認することができた。しかし、なぜそれぞれの歴史的事実が発生したのか、その説明において不十分な点がいまだ存在した。また、それぞれの社会制度の違い、身分・階層のあり方の違いも考慮に入れるべきである。但し、東アジア社会を考える時、「儒教的伝統」として同質性を唱えることが往々にしてなされるが、本研究テーマに即してみると、必ずしも「儒教的」な要素では説明できず、その前提として存続のための「現実的・実利的」な要素が根底に存在し、その上でイデオロギー的な意義付けが「儒教」によってなされていたと考えた方がいいというは通しを持った。

 以上、6人の共同研究者による小規模な研究会は、大きなシンポジウムでは得られないたいへん有意義な成果を得ることができた。ただ、今回の研究会では、これまでの研究状況の紹介という面が強く、それぞれの具体的な素材をもとにした検討結果を議論するには至っていない。そこで、言語の壁を乗り越えて、相互に具体的な歴史事象に基づいた考察を行うためにも、これまで発表されてきた主要論文を相互に読み合い理解した上で、再度研究会を開くことが必要であると考え、その第一歩として、韓国語で発表されている共同研究者の論考を日本語に翻訳する作業を開始し、文叔子「朝鮮前期無子女亡妻財産の相続をめぐる訴訟事例」、鄭肯植「弱き者よ、汝の名は……―女性法史の一断面―」を訳出した。今後は、さらに対象地域を広げ、東南アジア・南アジア地域を研究者を含めた形で、今後も研究を継続してゆく。
https://www.suntory.co.jp/sfnd/research/detail/200740.html


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朝鮮の男系養子制度

朝鮮も中国の男系養子制度を丸パクリしただけあって、ガッチガチの男系血統主義の国です。

朝鮮人は男系血統を守ることに厳格なため、いとこ同士の結婚を認めている日本人の結婚を「ケモノに近い野蛮人の結婚」と言って忌み嫌っていたそうです。

そして朝鮮では

・直系女性の分家を認めず、
・同じ男系血統の中からは妾すら選ばず、
・女性は男性の家に入るのが原則なので「婿養子」という観念すらなかった

そうです。

朝鮮の男系養子制度の中でもっとも恐ろしいのは、

・孫も養子として同じ男系血統の中から迎える
・「死後養子」といって夫の死後妻が夫の血統の中から養子を迎える

慣習があることです。こうなると日本人が入りこむ余地はまったくありません。

・男系の男子なきときは、同血族から男系の養子を迎え、たとえ直系の女子あるも、これを嫁に出し、他家より嫁を迎える

・族譜がちがう、姓が異なる赤の他人は養子にしないという鉄則により、血族関係なきものは養子としなかった

・養子だけでなく孫も血族中からむかえる場合もあった

・朝鮮では女は分家できない

・朝鮮では死後養子が認められている。死後養子とは子のない夫婦の夫が死亡したあとで妻が男系男子の血族を養子にする朝鮮の風習

・朝鮮の姓は男系の血族を表示するものであり、それは家ではなく人に付いたものである

・創氏改名で氏の設定と同時に内地式に改名したものも多い。例:金山.香川等(戸籍簿には朝鮮の姓を明記してある)

・朝鮮では男系男子を絶やさぬため蓄妾の風習があり、本妻と妾が本宅に同居する場合もある

・朝鮮では子は親に絶対服従する

・朝鮮では忠(天皇への忠誠)よりも孝(両親への孝行)が重視される

・朝鮮では一家の家計は夫が管理する

・朝鮮では妾にする女ですら男系血統からは選ばない

・本貫(ほんがん)とは祖先が住んでいた土地と姓を記したもの

・朝鮮では本貫で男系血統が同じであることを確認する

・朝鮮人は日本人の近親結婚を軽蔑している

・朝鮮の婚姻は女が男の家に入るを原則とするため、朝鮮には婿養子、入夫等の習慣がない

・朝鮮では女系は他人であって一家ではない
https://tainichihate.blog.fc2.com/blog-entry-555.html


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参考
『フランスの王位継承ルール』
2012年 4月15日 日本国際フォーラム副理事長 平林 博
https://www.jfir.or.jp/j/article/hirabayashi/120415.html


 皇位継承のあり方特に「女性宮家」創設の是非について、徐々に議論が沸騰し始めた。天皇制の維持のために皇位継承権を持つ皇族の数を十分に確保することが命題である。そのために、女性皇族が民間人と結婚しても降嫁せずに「女性宮家」を創設することを新たに認めるか、あるいは、男子継承の原則を守り、例外的にのみ男系女性天皇を認めるという古来の伝統を尊重するか、大きく言えば二つの見解に分かれる。

 そこで、かつてのフランス王家の王位継承の原則と実践ぶりを紹介してみたい。ただし、これは、国情の異なるかつてのフランス王国の王位継承原則を、現在の日本の天皇制に適用すべしとするものではないことを断っておきたい。

 フランスは、ヨーロッパ最古で最長の王国を誇った。傑出した国王も出た。第4代クローヴィス(在位481−511年)はフランスの基礎を築き、第19代シャルルマーニュ(大帝、独語読みではカール大帝、在位768−814年)は西ヨーロッパを統一してローマ法王からローマ皇帝の称号を受け、第63代ルイ14世(太陽王、在位1643−1715年)は、ヨーロッパに君臨した。

 フランス王国は、428年の創設以来ほぼ1420年間、1848年に王制が廃止されるまで、嫡出の男子(正式の王妃から生まれた男子)による王位継承のルールを一貫した。フランク族のサリー支族のサリカ法が、女性に不動産の相続を認めず、従って、女王も女系継承も認めなかったことに由来する、重みのある伝統・習慣であった。

 また、多くの国王が愛妾を抱え、子を産ませたが、彼女たちの子(庶子)は男子であっても王位継承権は認められなかった。

 これは、王位継承を巡って王妃と愛妾、嫡出の男子と庶子の男子が争って、王制を揺るがすこと回避する知恵であったと思われる。愛妾の中には、単なる愛人以上の公認の愛妾(Maitresse Royale)と呼ばれた愛妾もいた。例えば、ジャンヌダルクが王位継承に押し上げたシャルル7世の愛妾アニェス・ソレル夫人は、その第1号である。ルイ14世の愛妾マントノン夫人、ルイ15世の愛妾ポンパドール夫人は特に有名である。ルイ14世の王妃マリー・テレーズが亡くなった後、愛妾マントノン夫人は事実上の王妃として扱われた。しかし、公認の愛妾といえども、国王の母になる資格はなかった。

 王位を継承すべき嫡出の男子がないと、その都度系図を何代もさかのぼり、最も近い傍系の子孫たる嫡出の男子に王位を継承させた。

 フランスの王朝は、ゲルマン民族の1派であるフランク族が現在のベルギー南部からフランス北部に進出し、紀元428年にクロディオンがメロヴィンガ王朝を興したことに始まる。

 第4代国王クローヴィスは当時勢いを増しつつあったキリスト教に帰依し、それを利用しながらフランスの基礎をつくった。メロヴィンガ王朝、次のカロリンガ王朝、さらにカペー王朝の三王朝は、血統的には別である。その後のヴァロワ王朝次いでブルボン王朝は、カペー王朝から続く血統であり、1848年革命によって第69代国王ルイ・フィリップが廃位されるまで続いた。

 メロヴィンガ王朝の最後の王たちが弱体化すると、世襲的に宰相(宮宰)の地位を継いできた家が小ペパンの代になった752年、ついに同王朝最後の王を廃し、カロリンガ王朝を打ち立てた。

 カロリンガ王朝は、二代目のシャルルマーニュ大帝の時代に頂点を迎えたが、その死後は3王国に分裂し、一つがフランス王家を継承した。987年、カロリンガ王朝最後の王が亡くなると、重臣達はパリ北方のサンリスに集まり、互選によって、ユーグ・カペーを第33代国王に戴いた。ユーグ・カペーは、遠くシャルルマーニュ大帝から女系の血をひいていたが、サリカ法からすると自動的には王位を継承できないのであった。

 カペー王朝は、1328年、第47代シャルル4世が死ぬと、嫡出の男子がいなかったために、第43代フィィップ(美男王)の弟の嫡男でヴァロア家を継いでいたフィリップが王位について、第48代フィリップ6世となった。

 このヴァロア王朝は、1483年、第54代シャルル8世が嫡出の男子がいないまま事故で亡くなったため、再度、王位継承問題に直面した。118年前に亡くなった第50代シャルル5世まで系図をさかのぼり、その次男ルイの血筋であるヴァロア・オルレアン家から第55代ルイ12世が誕生した。このルイ12世も嫡男がないままに亡くなると、また系図をさかのぼって、上記の第50代シャルル5世の次男ルイのもう一つの血統であるヴァロア・アングレーム家の曾孫フランソワを第56代フランソワ1世として王位に就かせた。そのあと、ヴァロア・アングレーム家からは4人の国王が出るが、第60代アンリ3世が嫡男のないままに暗殺されると、ついにヴァロア王朝は終焉した。

 この頃には、もはや近い血筋の嫡出の男子はいなかった。そこで、遠く13世紀終わりまでさかのぼり、第41代ルイ9世(聖王ルイ)の血をひいた傍系ブルボン家に国王を求めた。

 ブルボン家は、中部フランスのブルボン地方の領主であったが、アンリ3世の治世に、当時のブルボン家の総領アンリはアンリ3世の妹マルグリーテと結婚していた。血統的にも偉大な国王であった聖王ルイの血を引き、かつヴァロア王家の王女を娶っていたアンリ・ド・ブルボンは、最も王位に近かった。

 彼は即位して第61代アンリ4世となり、ブルボン王朝が始まった。ブルボン王朝は、1789年のフランス革命による王制の廃止と第65代ルイ16世の死刑によっていったん途絶える。しかし、ナポレオン皇帝がワーテルローで敗れると、1814年に王政は復古した。ルイ16世の弟2人が、順番に第67代ルイ18世、第68代シャルル10世として即位した。ルイ16世の長男は夭折し、次男はルイ16世の処刑の2年後に10歳で牢獄内で父を追ったが、反革命派はこの悲劇の王太子をルイ17世と称した。

 シャルル10世が1830年の革命で失脚すると、嫡出の男子はそれ以前に死んでいたため、系図を約90年もさかのぼったルイ13世の次男(ルイ14世の弟)が興したオルレアン公爵家に王を求めた。こうして、ルイ13世から数えて7代目に当たるルイ・フィリップが第69代国王とし即位した。

 ルイ・フィリップ国王が1848年革命によって廃位させられると、さしものフランス王制も終わりを遂げた。フランスは、以後、再び王政に復帰することはなく、第2共和政、第2帝政、第3共和政、第4共和政、そして現在の第5共和制と続く。

 ヨーロッパの王室や神聖ローマ帝国では、女王や女帝が出たことがあるが、フランス王家だけは男子継承、しかも嫡出の男子の継承であり、庶子には王位に就かせなかったのであった。

 ルイ・フィィップ国王の子孫は連綿と続き、現在のパリ伯爵アンリに続いている。
 パリ伯爵とは、筆者の在仏大使時代にお付き合いしたが、途中からフランス公爵も名乗るようになった。彼と周りを囲む王党派は、今でも王政復古の夢を捨てきれないでいる。

https://www.jfir.or.jp/j/article/hirabayashi/120415.html

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参考
ハプスブルク家家督継承問題

 18世紀、再びハプスブルク家は家督の相続問題が懸念された。カール6世に男子継承者が無かったからである。

そこでカール6世はプラグマティッシェ=ザンクティオン(国事詔書)を出し、ハプスブルク家の領土不可分と長子相続の原則、長子が死去した場合は女子にも相続権を与える、という相続原則を他の領邦諸国にも認めさせた。

それによってカール6世の長女マリア=テレジアがハプスブルク家家督を相続したが、それに対してプロイセン国王フリードリヒ2世、バイエルン公、フランス国王ルイ15世などはその継承を認めず、オーストリア継承戦争(1740〜48年)が起こり、帝位は一時バイエルンのヴィッテルスバッハ家のカール7世に移った。

オーストリアは敗れ、プロイセンにシュレジェンの割譲を認めたが、マリア=テレジアの家督継承とその夫フランツ1世(ロートリンゲン公)の神聖ローマ皇帝は承認された。なお、これで男系ロートリンゲン家に移ったので、ハプスブルク=ロートリンゲン朝(1745〜1806)と言う。
https://www.y-history.net/appendix/wh0601-095.html


 

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コメント
1. 中川隆[-10360] koaQ7Jey 2019年5月10日 18:29:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1744] 報告


2019-05-04
紀元前の中国農民ですら喝破していた血統の無意味さを理解できない日本人
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/05/04/213333

マスコミが煽る「令和」「令和」の奉祝ムードに流されて、何一つ解決していないこの社会の問題をあっさりスルーする「普通の日本人」たち。実際、世界的に見ても、支配層にとってこれほど「ちょろい」民族は珍しいだろう。

■ 皇室が最古の王朝だから日本はすごい?w

そんな彼らが「日本は特別ですごい国(だから日本人のオレもそれだけですごい)」と考える根拠は、世界一長く続く《とされる》天皇家の血統であるらしい。


future-of-japan.xyz


皇室は、現存する最古の王朝であり、
現存する唯一の皇帝であり、
現存するただ一つの神話をバックボーンに持つ血統です。

神話によると2675年前に
初代の神武天皇が即位され、
現在でなんと125代目になります。

さらに、男系で継承されており、
家系図で父親を辿っていくと
初代神武天皇に行き当たります。

これほど長く1つの系譜で続いている
王朝というのは世界のどこにもありません。

世界で最も歴史の古い王家の血脈を今に伝える
文化的にも価値の高い存在なのです。


まあ、そもそもこれ自体が嘘なのだが。


「万世一系」とか言うが、天皇家に限らずいま生きている人間は、誰でも太古の昔から親から子へと連綿と命をつないで生きてきたではないか。そのどこに違いがあるというのか。

■ 王侯将相いずくんぞ種あらんや

こんなことは、人権や平等の概念を学んだ現代人だけでなく、古代の中国農民ですら理解していた。

秦末の農民反乱である「陳勝・呉広の乱」(紀元前209-208年)で、貧農出身の反乱軍リーダー陳勝は「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という言葉を残している。これは「国王や諸侯、将軍や丞相などといっても、そのような人種が最初からいたわけではない」という意味であり、身分や血統を否定して人間の平等を主張したものだ[1]。実際、陳勝自身は反乱に失敗したが、次の漢帝国を樹立した劉邦も村役人レベルの庶民の出身だった。

それ以前に、中国古代の伝説的帝王である堯ぎょう舜しゅん禹う三代には血縁関係はなく、禅譲により帝位が受け継がれたとされている。堯舜禹が実在したかどうかは不明だが、重要なのは、統治者の地位は血統ではなく、最も徳の高い(人格・能力の優れた)人物に受け継がれるべきだというその思想だ。このような徳治思想を含む堯舜禹の伝説は、既に春秋時代末(前5世紀頃)には成立していたと考えられている。

日本の「愛国者」様たちは、古代からこのような思想を持っていた中国を引き合いに出して、「万世一系」の天皇陛下がいる我が国はすごいとかイキっているのだから、もう笑うしかない。

■ 天皇陛下にさゝぐる言葉

中国人の思想など認め(たく)ない、と言うのなら、こちらはどうか。敗戦から2年半ほど後に作家・坂口安吾が書いた「天皇陛下にさゝぐる言葉」だ。[2]


 人間の値打というものは、実質的なものだ。天皇という虚名によって、人間そのものゝ真実の尊敬をうけることはできないもので、天皇陛下が生物学者として真に偉大であるならば、生物学者として偉大なのであり、天皇ということゝは関係がない。況いわんや、生物学者としてさのみではないが、天皇の素人芸としては、というような意味の過大評価は、哀れ、まずしい話である。

 天皇というものに、実際の尊厳のあるべきイワレはないのである。日本に残る一番古い家柄、そして過去に日本を支配した名門である、ということの外に意味はなく、古い家柄といっても系譜的に辿りうるというだけで、人間誰しも、たゞ系図をもたないだけで、類人猿からこのかた、みんな同じだけ古い家柄であることは論をまたない。

 名門の子供には優秀な人物が現れ易い、というのは嘘で、過去の日本が、名門の子供を優秀にした、つまり、近衛とか木戸という子供は、すぐ貴族院議員となり、日本の枢機にたずさわり、やがて総理大臣にもなるような仕組みで、それが日本の今日の貧困をまねいた原因であった。つまり、実質なきものが自然に枢機を握る仕組みであったのだ。

日本人は、敗戦という実物教育で学んだこの当然の理を、もうすっかり忘れたのだろうか。

[1] 世界史の窓 「陳勝・呉広の乱」
[2] 坂口安吾 「天皇陛下にさゝぐる言葉」 青空文庫
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/05/04/213333

2. 中川隆[-10361] koaQ7Jey 2019年5月10日 19:02:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1743] 報告

2016-02-27 「建国記念の日はなに天皇が即位した日?」 正解は「そんな天皇はいない」
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/02/27/215256

「しらべぇ」というサイトが、今年の「建国記念の日」に、「【悲報】7割の国民が『建国記念日に即位した天皇』を知らない」という記事を掲載した。


しらべぇ編集部が全国の男女1331人に「建国記念の日はなに天皇が即位した日?」と調査を行ったところ、もっとも多かったのが明治天皇で40.4%。以下、その他が28.8%、昭和天皇が20.4%、大正天皇が7.2%、今上(平成)天皇が3.2%と続いた。(略)じつはこのアンケート、ひっかけ問題である。正解はその他に含まれていたのだ。

(略)

じつは建国記念日は神武天皇の即位日が由来となっている。神武天皇は日本神話の登場人物であり、古事記や日本書紀で初代の天皇とされている。

その即位日である旧暦紀元前660年1月1日を、明治に入ってから新暦に換算、1967年(昭和42年)に制定されたというわけ。

紀元前660年の旧暦1月1日に神武天皇が即位し、それを新暦に換算すると2月11日に当たるから、この日が「建国記念の日」になったと言うわけだが、この話は少なくとも二重におかしい。

まず、神武の即位に関する日本書紀の記述は、次のとおりである[1]。


辛酉かのととり年の春正月の庚辰かのえたつの朔ついたちに、天皇、橿原宮かしはらのみやに即帝位あまつひつぎしろしめす。是歳を天皇の元年とす。

「辛酉」は60年に1回やってくるので、これだけではいつのことか分からない。そこで、ずっと後の、年代の確定できる時点から出発して、歴代天皇の在位年数などを手がかりに時代を遡り、紀元前660年にあたる「辛酉」に辿り着いたわけだ。

だが、日本書紀に記された初期の天皇たちの在位年数は、まったく信用できない。それは次の表を見れば明らかだろう。

天皇 在位年数 死亡年齢
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/02/27/215256

神武をはじめ、古代ではおよそあり得ない長寿の天皇が連続している。死亡時の年齢が信用できないとなれば、当然在位年数も信用できない。つまり、神武が即位したとされている「辛酉」年が紀元前660年だとは考えられないのだ。年が違うのだから、「春正月の庚辰の朔」が新暦の2月11日に当たるとする根拠もないことになる。

第二に、私は記紀に「神武天皇」として説話が記載されている人物は実在した歴史上の人物(弥生後期、3世紀頃の人)と考えているが、しかしその人物は到底「天皇」などと呼べるような存在ではなかった。こちらの記事にも書いたとおり、後に「神武」という諡号を贈られることになるこのイワレビコという男は、九州から出てきて近畿に侵入し、血みどろの殺戮戦を繰り広げたあげく、ようやく奈良盆地の一角に拠点を確保した一豪族に過ぎない。客観的に見れば、「天皇」どころか「王」と呼ぶのさえ無理である。後の近畿天皇家の祖先に当たる人物ではあったとしても、この男自身は「天皇」などではあり得ず、従って「即位」などしているはずがないのだ。

これは、次の事例と比べてみれば分かりやすい。

中国最初の皇帝である秦の始皇帝は、列国を滅ぼして中国全土を統一して初めて「始皇帝」を名乗った。それ以前の彼は単なる「秦王政」である。また、彼は秦国の初代でもない。始皇帝は紀元前3世紀の人だが、諸侯の一つとしての秦国の始まりは前8世紀の襄公、更にその祖先は初めて秦の地に領地を得た前10世紀頃の非子までたどれるという。

要するに、後に日本を支配した大和朝廷の祖先だからといってイワレビコを初代の「天皇」だなどと言うのは、非子を最初の中国皇帝だと言うのと同程度のこじつけ、極端な誇張なのだ。仰々しい記紀の記述は、大和朝廷絶対化のイデオロギーに基づく歴史の捏造、古代的歴史修正主義と言ってもいい。

まあ、客観的に見れば、実質的に「天皇」と呼んでいいのは、坂上田村麻呂の遠征によって初めて東北地方まで支配を広げた桓武(50代)あたりからだろう。

「建国記念の日」が、「神武天皇が即位した」とされている日(紀元前660年の2月11日)に由来しているのは事実だが、神武は「天皇」などではなかったし、従って「即位」もしていない。さらに、神武紀の言う「辛酉年」は紀元前660年ではないので「春正月の庚辰の朔」を新暦2月11日とする根拠もない。要するに、すべてが架空の作り事なのだ。だから、「建国記念の日はなに天皇が即位した日?」という問いへの正解は、「そんな天皇はいない」なのである。

[1] 坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』 岩波文庫 1994年 P.240
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/02/27/215256



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2013-02-11 神武って何した人?
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130211/1360564621


今日は「建国記念の日」。敗戦までの「紀元節」の名前だけ変えて価値中立性を装った、戦後日本の偽装記念日の一つである。

紀元節が2月11日なのは、日本書紀で神武が「辛酉年春正月 庚辰朔」(辛酉の年の1月1日)に即位したと書かれており、これが西暦紀元前660年の2月11日に当たると、明治初期に机上の計算をしたためだ。

では、天皇家の初代であり、建国の祖とされるこの神武なる人物はいったいどんなことをした人なのだろうか。

テキストは『古事記』、ガイドに古田武彦『盗まれた神話』『古代は輝いていた』を使って、具体的に見てみよう。

(「神武天皇」というのは後代になってつけられた諡号で、生きていたときの名は「神倭伊波礼毘古(カム・ヤマト・イワレビコ)」ほか、いろいろな名があるのだが、ここでは「神武」で統一する。)

さて、古事記の「神武記」は、いきなり神武とその兄(五瀬)との謀議シーンから始まる。


神倭伊波礼毘古の命、その同母兄五瀬の命と二柱、高千穂の宮にましまして議りたまはく、「いづれの地にまさば、天の下の政を平けく聞しめさむ。なほ東のかたに、行かむ」とのりたまひて、すなはち日向より発たして、筑紫に幸行でましき。

青年だった五瀬と神武は、このまま九州の高千穂の地にいても自分たちの思うようにならない、つまり将来の展望が開けないから、東方に新たな支配地を得ようと、侵略行を決意するわけです。


かれ豊国の宇沙うさに到りましし時に、その土人くにびと名は宇沙都比古うさつひこ、宇沙都比売うさつひめ二人、足一騰あしひとつあがりの宮を作りて、大御饗おほみあへ献りき。其地より遷移りまして、竺紫の岡田の宮に一年ましましき。またその国より上り幸でまして、阿岐の国の多祁理たけりの宮に七年ましましき。またその国よ遷り上り幸でまして、吉備の高島の宮に八年ましましき。

決意はしたものの、大王でも何でもない五瀬と神武には、いきなり大遠征を行えるような力はない。そこで、十数年かけて九州や瀬戸内海各地の豪族たちからの支援を獲得し、徐々に実力を蓄えていきます。


かれその国より上り行でます時に、浪速なみはやの渡を経て、青雲の白肩の津に泊てたまひき。この時に、登美とみの那賀須泥毘古ながすねびこ、軍を興して、待ち向へて戦ふ。ここに、御船に入れたる楯を取りて、下り立ちたまひき。かれ其地に号けて楯津たてづといふ。今には日下くさかの蓼津たでづといふ。ここに登美毘古と戦ひたまひし時に、五瀬の命、御手に登美毘古が病矢串いたやぐしを負はしき。かれここに詔りたまはく、「吾は日の神の御子として、日に向ひて戦ふこと良はず。かれ賎奴が痛手を負ひつ。今よは行き廻りて、日を背に負ひて撃たむ」と、期ちぎりたまひて、南の方より廻り幸でます時に、血沼ちぬの海に到りて、その御手の血を洗ひたまひき。かれ血沼の海といふ。其地より廻り幸でまして、紀の国の男をの水門みなとに到りまして、詔りたまはく、「賎奴が手を負ひてや、命すぎなむ」と男建おたけびして崩りましき。かれその水門に名づけて男の水門といふ。陵みはかは紀の国の竈山かまやまにあり。

そしていよいよ近畿(河内国)に突入。しかし、当然この地は無主の地などではありません。長らくこの地を統治してきたナガスネビコとの戦闘になります。

結果、おそらく侵略軍の総大将だったであろう五瀬は矢を受けて重傷を負い、死んでしまいます。大敗です。

ナガスネビコと正面から戦っても勝てないと覚った神武は作戦を変更。大きく紀伊半島を迂回し、背後にあたる熊野方面から奈良盆地への侵入を図ります。また、敵方に内通者を作り、その手引きで相手を陥れたり、和平を装って騙し討ちにする、といった手口を駆使していきます。


かれここに宇陀に、兄宇迦斯えうかし弟宇迦斯おとうかしと二人あり。(略)ここに兄宇迦斯、(略)「待ち撃たむ」といひて、軍を聚あつめしかども、軍をえ聚めざりしかぱ、仕へまつらむと欺陽いつはりて、大殿を作りて、その殿内に押機おしを作りて待つ時に、弟宇迦斯まづまゐ向へて、拝みてまをさく、「僕が兄兄宇迦斯、天つ神の御子の使を射返し、待ち攻めむとして軍を聚むれども、え聚めざれぱ、殿を作り、その内に押機を張りて、待ち取らむとす、かれまゐ向へて顕はしまをす」とまをしき。ここに大伴の連等が祖道の臣の命、久米の直等が祖大久米の命二人、兄宇迦斯を召びて、罵言のりていはく、「伊いが作り仕へまつれる大殿内には、おれまづ入りて、その仕へまつらむとする状を明し白せ」といひて、横刀たちの手上握り、矛ゆけ矢刺して、追ひ入るる時に、すなはちおのが作れる押に打たれて死にき。ここに控ひき出して斬り散はふりき。かれ其地を宇陀の血原といふ。然してその弟宇迦斯が献れる大饗をぱ、悉にその御軍みいくさに賜ひき。

奈良県宇陀郡の豪族エウカシは、その弟オトウカシの裏切りを利用して惨殺。


其地より幸行でまして、忍坂おさかの大室に到りたまふ時に、尾ある土雲八十建やそたけるその室にありて待ちいなる。かれここに天つ神の御子の命もちて、御饗を八十建に賜ひき。ここに八十建に充てて、八十膳夫かしわでを設けて、人ごとに刀佩けてその膳夫どもに、誨をしへたまはく、「歌を聞かば、一時共もろともに斬れ」とののりたまひき。かれその土雲を打たむとすることを明して歌よみしたまひしく、

 忍坂の 大室屋に
 人多さはに来入り居り。
 人多に 入り居りとも、
 みつみつし 久米の子が、
 頭椎くぶつつい 石椎いしつついもち
 撃ちてしやまむ。
 みつみつし久米の子らが、
 頭椎い 石椎いもち
 今撃たぱ善らし。

かく歌ひて、刀を抜きて、一時に打ち殺しつ。

奈良県桜井市忍坂では、和解の宴会をするからと言ってその地の族長たちを集めておいて、給仕に化けた兵隊に合図して一斉に斬り殺させる。


かれかくのごと、荒ぶる神どもを言向け和し、伏まつろはぬ人どもを退け撥はらひて、畝火の白梼原かしはらの宮にましまして、天の下治らしめしき。

このように、何の道理もなくいきなり軍を率いて他人様の土地に侵入し、血みどろの殺戮を繰り広げた末に、奈良県橿原市付近に拠点を築き、周辺一帯を支配する豪族となったわけです。

もちろん、実態としては奈良盆地の一部を支配しているだけであっても、記紀のイデオロギーによれば、それは「天の下治らしめしき」ということになります。

いやぁ、実に立派な初代天皇ですね。

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)による。
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130211/1360564621



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2016-04-12 神武天皇没後2600年式年祭という差別の祭典
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/04/12/220842

4月3日、奈良県橿原市の「神武天皇陵」で、神武の没後2600年を祭るという宮中祭祀「式年祭」が行われ、当代天皇・皇后もこれに参列した。

朝日新聞(4/3):


 奈良県を訪問中の天皇、皇后両陛下は3日、初代天皇とされる神武天皇の没後2600年にあたり、橿原市の神武天皇山陵に参拝した。天皇家の行事「宮中祭祀(さいし)」の一つで、秋篠宮ご夫妻も同行。皇太子ご夫妻は両陛下の名代として、皇居・宮中三殿の皇霊殿に参拝した。

産経新聞(4/3):


 初代天皇である神武天皇の式年祭が、大正5年以来100年ぶりに行われた。皇祖の命日に御霊を慰める式年祭は、宮中祭祀(さいし)の中でも「大祭」に位置付けられる重要な儀式。天皇、皇后両陛下は大正天皇、貞明皇后の前例にならい、奈良県橿原市の神武天皇陵まで赴き、厳かに拝礼された。

(略)

神武天皇 (略)日本書紀によると、太子となって九州から東遷し、大和を平定。紀元前660年に橿原宮で即位し、初代天皇となった。紀元前584年に127歳で崩御したとされる。(略)

後に「神武」という漢風諡号を贈られたこの男が何者で、何をしたのかについては、既に何度か書いてきた。
•神武って何した人?
•神武は結局ナガスネビコには勝てなかった
•「建国記念の日はなに天皇が即位した日?」 正解は「そんな天皇はいない」
•GoogleMapで「欠史八代」を歩く

かいつまんで言えば、弥生後期(3世紀頃)、地元九州では大した出世の望めない傍流の血筋だった男が手勢を率いて近畿に攻め込み、血みどろの殺戮戦を繰り広げたあげく、かろうじて奈良盆地の一角(橿原市付近)に拠点を築き、周辺一帯(せいぜい10キロ四方程度)を支配する地方豪族となり、大和の人々の怨嗟と憎悪に取り囲まれながらそこで死んだ。これが、同時代頃にはサノ、ワカミケヌ、ヒコホホデミ、イワレビコなどと呼ばれていたこの男の実像である。時代も何百年も違うので「没後2600年」などお笑い種だし、そもそも神武は「天皇」などと呼べるような存在ではなかった。

しかし、この「式年祭」なるものの愚劣さはそれだけにとどまらない。祭祀の場となった「神武天皇陵」自体、問題大ありなのだ。

まず、神武の埋葬地について、記紀はそれぞれ次のように記載している。

古事記(神武記):


およそこの神倭伊波礼毘古の天皇、御年壹佰參拾漆137歳、御陵は畝火山の北の方白檮かしの尾の上にあり。

日本書紀(神武紀):


七十有六年の春三月の甲午の朔甲辰に、天皇、橿原宮に崩りましぬ。時に年一百二十七歳。

明年の秋九月の乙卯の朔丙寅に、畝傍山東北陵に葬りまつる。

この埋葬地が具体的にどこだったのかは、既に室町時代頃には分からなくなっていた。いったん、元禄期に四条村の福塚と呼ばれていた高さ3mほどの塚が神武稜とされたが、位置的に「畝傍山東北陵」と言うには離れすぎていることから後に否定され、候補地として次の二箇所が残った。
1.畝傍山の東北山麓に位置する丸山古墳

2.畝傍山山麓から北東に300mほど離れた小字ミサンザイ(別名神武田じぶでん)


畝傍山と両者の位置関係は次のようになる[1]。


丸山は畝傍山の北側に張り出した尾根のほとりにあり、「畝火山の北の方白檮の尾の上」という古事記の記述に良く適合し、日本書紀の言う「畝傍山東北陵」という呼称にもふさわしい。実際、ここが神武陵の候補地としては最有力だったのだが、幕末の文久2(1862)年、こちらではなく、田の中に孤立した小塚であるミサンザイのほうが神武陵と決定された。その理由は、次のようなものだった[2]。


 問題となるのは,神武陵の候補地の丸山が被差別部落である洞に隣接していたことである。鈴木良が採集した言い伝えによると,神武陵探索の勅使を迎えるのに,200余戸の部落を「ムシロ」で囲い,部落の上手に一夜づくりの新道をつくったという(「天皇制と部落差別」) 。また陵墓の治定(決定)に発言力をもった国学者の谷森善臣は,朝廷に提出した「神武天皇御陵考」(『谷森家旧蔵関係史料』上,宮内庁書陵部所蔵,谷函249号)のなかで,

   然るに洞村之穢多治兵衛と申者,威霊なる地之由虚言申者有之ニ付き,
   近年神武帝殯殿之跡抔と申立候儀も出来候得共難心得儀ニ御座候

 「洞村の穢多治兵衛」という者が,丸山を「威霊なる地」であると虚言していると,治定にもっとも影響力のあった谷森は非難している。最有力地の丸山は,洞部落に隣接するゆえに,排除されたのである。

かくして神武陵は、差別ゆえに神武の埋葬地ではない可能性の高いミサンザイに誤って決定された。

いや、これは単なる「誤り」ではないのかもしれない。この「文久の治定」に約半世紀先立って儒学者蒲生君平(1768-1813)が行った天皇陵調査で、洞村について「相傳つたうるに、その民故もと神武陵の守戸しくなり。凡およそ守陵の戸はみな賎種。本もと罪隷をもって没入したる者は郷に歯ならばず」と報告されていた[3]。このことを、神武陵の治定に関わるほどの学者たちはみな知っていたはずである。彼らは、墓守集団としての洞村を従える丸山こそが神武陵に違いないと薄々感じていながら、被差別部落に隣接する古墳を天皇陵とすることを嫌って、あえてミサンザイを選んだのではないか。

ちなみに、この洞村は、後にさらなる悲劇に見舞われる。「神武御陵兆域※1ヲ眼下ニ見ルノ地位ニアリテ恐懼ニ堪ヘサルコト」[4]という理由で、1917年から20年にかけて強制的に移転させられたのである。この事件を小説『橋のない川』で描いた住井すゑは、次のように語っている[5]。


住井 あのう部落の移転なんかはね許されることじゃないですよね。

古田 ええ、ほんとほんと。

住井 その神武天皇の御陵にしたのが明治。出来上がったのが明治四年でしょ。それで大正の始めになって部落がそこにいるのは畏れ多いからって強制立ち退き食わすんですから、そんならそこに御陵作らなければいいんですよね。ところが大正になるともうみな忘れちゃって、昔っからその御陵はそこにあって部落は後で住んだような話に変わってんですよね。そいで強制立ち退きさされて近鉄の沿線にもう乞食小屋みたいに何百戸か住んでたわけです。今まあそれなりの家を建てて住んでますけどね。

  しばし沈黙


洞村は、丸山を「眼下に見る」位置にあるわけではない。部落差別の結果、間違った場所に神武陵が作られ、今度はそれを見下ろす位置に部落があるのはけしからんといって移転させられたわけである。いま、旧洞村は、丸山古墳とともに、「神武天皇陵」の周囲に人工的に作られた深い森の中に埋もれている。


                   神武天皇陵付近 -- Google Mapより


「天皇」などではなかった一地方豪族の墓を、差別ゆえに間違った場所に仰々しくでっち上げ、差別ゆえに墓守の民をその住処から追い払い、デタラメな年代比定に基いて「没後2600年」と称する祭祀を行う。まさに、天皇制というものの愚劣さを象徴する差別の祭典である。

【2016/4/17追記】
『皇陵史稿』という、洞村強制移転のほんの数年前の1913年に出版された天皇陵問題の研究書がある。
この本の中で著者は、洞村についてこう書いている[6]。重大な内容なので、全文引用する。


畝傍山は、なつかしい山である。
理屈は知らず、唯何となく、恋しく、懐つかしい「何事のおはしますかは知らねども」である。
理屈から云へば、畝傍山は何でも無いものかも知れん、畝傍山の宮居、畝傍山の御陵、と云ふのも、畝傍山を目安に取つただげて、畝傍山それ自身は何でも無かつたかも知れん。
が、かやうな切つても血の出ん、冷酷な、三百的な理屈は、此聖祖開国の地に、適用したく無い「畝傍山みればかしこし」と、宣長の吟じたのは、誠に国民の代表的讃嘆の言葉であると思ふ、吾等は、窮天極地、此山の尊厳を持続して、以て天壌無窮に、日東大帝国開創の記念としたいと思ふ。
驚く可し。神地、聖蹟、この畝傍山は、甚しく、無上、極点の汚辱を受けて居る。
知るや、知らずや、政府も、人民も、平気な顔で澄まして居る。
事実は、こうである。
畝傍山の一角、しかも神武御陵に面した山脚に、御陵に面して、新平民の墓がある、それが古いのでは無い、今現に埋葬しつつある、しかもそれが土葬で、新平民の醜骸はそのまま此神山に埋められ、霊土の中に、爛れ、腐れ、そして千萬世に白骨を残すのである。
士臺、神山と、御陵との間に、新平民の一団を住はせるのが、不都合此上なきに、之に許して、神山の一部を埋葬地となすは、事ここに到りて言語同断なり。
聖蹟図志には、此穢多村、戸数百二十と記す、五十余年にして、今や殆ど倍数に達す、こんな速度で進行したら、今に霊山と、御陵との間は、穢多の家で充填され、そして醜骸は、おひおひ霊山の全部を侵蝕する。
              (予が大和紀行中の一節)

学者でさえこれほど露骨な内容を書くのである。当時、被差別部落がどれほどの侮辱と蔑みに晒されていたかがよく分かる。洞村が強制移転させられたとき、特にこの墓地は、「一片の骨さえも残してはならない」と徹底的に掘り返された[7]という。

[6] 後藤秀穂 『皇陵史稿』 木本事務所 1913年 P.198
[7] まれびと 「おおくぼまちづくり館と洞村跡地」
【追記終り】

※1 墓域のこと。
[1] 高木博志 『近代における神話的古代の創造』 京都大学人文科学研究所 人文学報 2000年3月 P.19
[2] 高木 P.23
[3] 蒲生君平 『山陵志』 1803年または1822年
[4] 高木 P.33
[5] 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 『天皇陵の真相』 三一新書 1994年 P.73
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/04/12/220842


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神武は結局ナガスネビコには勝てなかった
http://vergil.hateblo.jp/entry/2015/11/07/161559

先日、TLにこういうツイートが流れてきた。兄の五瀬とともに九州からやってきたイワレビコ(神武)が近畿に侵入したとき、最大の敵として立ちふさがった(トミノ)ナガスネビコ(記:登美能那賀須泥毘古 紀:長髄彦)についての話である。

天孫饒速日命を奉じて神武天皇の東征に抵抗した大和の豪族長髄彦は、神武側に寝返った饒速日に殺されてしまう。饒速日は河内の石切劔箭神社に祀られているが、生駒山中腹にある上之社の境内地が、昭和末期の近鉄新生駒トンネル工事の落盤で大陥没(続


国譲り神話にしろ「天つ神」以前からあった日本の信仰を「国つ神」と呼び変え、ルーツも実は天つ神にあったかのように語り、歓迎されながら受け入れられたように語ってるだけには見れる。そう考えるとキリスト教による異教の悪魔化や聖人信仰に取り入れての布教とさして変わりはしない。


確かに、日本書紀には、ニギハヤヒ(記:邇藝速日 紀:饒速日)がナガスネビコを殺して神武に降ったと書かれている。

日本書紀(神武即位前紀):


饒速日命、本より天神あまつかみ慇懃ねむごろにしたまはくは、唯天孫のみかといふことを知れり。且また夫かの長髄彦の禀性ひととなり愎佷いすかしまにもとりて(ねじけていて)、教ふるに天人きみたみの際あひだを以てすべからざることを見て、乃ち殺しつ。其の衆もろびとを帥ひきゐて帰順まつろふ。天皇、素もとより饒速日命は、是天より降れりといふことを聞しめせり。而して今果して忠効を立つ。則ち褒ほめて寵めぐみたまふ。此物部氏の遠祖なり。


しかし、古事記ではだいぶ様子が違っているのだ。

古事記(神武記):


 然ありて後に、登美毘古を撃ちたまはむとする時、歌よみしたまひしく、

  みつみつし 久米の子らが

  粟生あはふには 臭韮かみち一茎もと、

  そねが茎 そね芽繋ぎて

  撃ちてしやまむ。(歌謡番号12)

 また、歌よみしたまひしく、

  みつみつし 久米の子らが

  垣下に 植ゑし山淑はじかみ、

  口ひひく 吾は忘れじ。

  撃ちてしやまむ。(歌謡番号13)

 また、歌よみしたまひしく、

  神風の 伊勢の海の

  大石に はひもとほろふ

  細螺しただみの、いはひもとほり

  撃ちてしやまむ。(歌謡番号14)

(別の豪族兄師木えしき弟師木おとしきについての歌謡 -- 略)

 かれここに邇藝速日の命まゐ赴むきて、天つ神の御子にまをさく、「天つ神の御子天降りましぬと聞きしかば、追ひてまゐ降り来つ」とまをして、天つ瑞しるしを献りて仕へまつりき。かれ邇藝速日の命、登美毘古が妹登美夜毘売とみやびめに娶ひて生める子、宇摩志麻遅うましまぢの命。こは物部の連、穂積の臣、婇臣が祖なり。かれかくのごと、荒ぶる神どもを言向け和し、伏まつろはぬ人どもを退そけ撥はらひて、畝火うねびの白檮原かしはらの宮にましまして、天の下治らしめしき。

「撃ちたまはむとする時」というのは、これから戦いを始めようとする時、である。登美毘古(ナガスネビコ)との開戦を前に「撃ちてしやまむ」と歌って盛んに気勢を上げているわけだが、そこからいきなり、戦いの描写もなく、「勝った」も「殺した」もなく、ニギハヤヒの帰順の話になっている。これはどういうことなのか。

普通に考えれば、それは「勝てなかったから」だろう[1]。


 その三が、もっとも重要だ。冒頭に「将撃登美毘古之時」とあり、「対、登美毘古戦」の開始前の歌だ。そしてその後の歌はない。つまり、「勝利の歌」もしくは「勝利後の歌」を欠いているのである。地の文でも、「登美毘古を斃した」とは記していないのだ。これは何を意味するか。

 わたしには、その答えは一つだと思われる。「神武は敗けた」、あるいは「勝てなかった」のだ。なぜなら、実際は勝ったのに、その事実をカットする、あるいは書き忘れる、そんな史書があるだろうか。ありはしない。『古事記』が天皇家側の史書である以上、これは不可避の判断である。

 歌の問題も同じだ。もしこれが後代の「造作」、もしくは挿入なら、なぜ勝利の歌を偽作、もしくは偽入しなかったのだろう。簡単なことだ。勝利前の歌は作れても、勝利後の歌は作れない。そんな不器用な「造作」者、あるいは半端な「挿入」者など、わたしには想像できない。

 以上の考察の意味するところ、それは何か。神武は大和盆地に侵入した。それには確かに成功した。しかし、外部(大和盆地外)の勢力たる登美の長髄彦たちには勝ちえなかった。これがありていな状況だ。したがって、

   故、此の如く、荒ぶる神等を言向け平和し、伏はぬ人等を退け撥ひ、

   畝火の白檮原の宮に坐して、天の下を治らしき。(『古事記』神武記)

という、有名な一文も、この盆地内の支配を宣言したものにすぎなかったのである。

仮に神武がナガスネビコを倒していたなら、神武は河内をはじめとするナガスネビコの支配領域を手に入れていたはずである。しかし実際には、神武どころかその後も8代にわたって近畿天皇家は奈良盆地外に勢力を広げることができなかった。この点から見ても、神武がナガスネビコに勝てなかったのは明らかだろう。ニギハヤヒがナガスネビコを殺して投降したという日本書紀の記述は、神武の事蹟を誇張するために付加された作り話なのだ。

ちなみに、ニギハヤヒに関する記述は、これ以外にも古事記と日本書紀とで大きな違いがある。日本書紀では、まずニギハヤヒが先に天降り、ナガスネビコはこれに臣従していたことになっている。

日本書紀(神武即位前紀):


 時に長髄彦、乃ち行人つかひを遣して、天皇に曰さく、「嘗むかし、天神の子有ましまして、天磐船に乗りて、天より降り止いでませり。号なづけて櫛玉饒速日命(略)と曰す。是吾が妹三炊屋媛みかしきやひめ(略)を娶りて、遂に児息みこ有り。(略)故かれ、吾、饒速日命を以て、君として奉つかへまつる。夫それ天神の子、豈あに両種ふたはしら有まさむや。奈何いかにぞ更に天神の子と称なのりて、人の地くにを奪はむ。吾心に推おしはかるに、未必為信いつはりならむ」とまうす。

一方古事記では、上で引用したとおり、ニギハヤヒが「天降った」のは神武より後で、またナガスネビコがこれに臣従したという記述もない。恐らくニギハヤヒは神武と違ってナガスネビコと敵対せず、妻と土地を与えられて共存していたのだろう。記紀ともにニギハヤヒが神武に帰順したことになっているのは、その子孫である物部氏などの有力豪族を天皇家に結びつけるために、先祖の代から天皇家に仕えていたことにしたのではないだろうか。

[1] 古田武彦 『古代は輝いていた(2) 日本列島の大王たち』 朝日新聞社 1985年 P.27

※本記事中に引用した古事記の読み下し文は、武田祐吉訳注・中村啓信補訂解説 『新訂 古事記』(角川文庫 1987年)に基き、一部変更・補足している。

※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』(岩波文庫 1994年)に基き、一部変更・補足している。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2015/11/07/161559


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ではこの機会に「神武天皇の偉業」wを振り返ってみようか
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/11/03/091039

「文化の日(=日本国憲法公布の日)」である今日11月3日をかつての「明治節」に戻したい反動議員たちが集会を開いたそうだ。民の生活を良くするための努力は何一つしないくせに、旧大日本帝国の正当化にだけは実に熱心だ。このような者たちを国会議員でいさせておくことこそ国家的損失、税金の無駄使いというものだろう。

中でも我らが防衛大臣、稲田朋美氏の発言は傑作である。(朝日新聞 11/2)


 稲田朋美防衛相も「神武天皇の偉業に立ち戻り、日本のよき伝統を守りながら改革を進めるのが明治維新の精神だった。その精神を取り戻すべく、心を一つに頑張りたい」と語った。

 
「神武天皇の偉業」ww

私は、後に「神武」と呼ばれることになる人物は3世紀頃に実在したと考えているが、この男がやったことは、『古事記』を素直に読み解けば以下のとおりである。

1.野心だけは満々だが九州では出世の望めない傍系の兄弟が、
2.各地の豪族たちから支援を獲得して軍勢を整え、大阪湾から近畿に突入
3.しかし待ち受けていたナガスネビコに敗れて総大将の兄は討ち死に
4.生き残った弟(神武)が紀伊半島を迂回して熊野方面から奈良盆地に侵入
5.だまし討ちと虐殺を繰り返したあげく、ようやく奈良盆地の一角を占拠
6.しかし結局そこから一歩も出られず、大和の人々の憎悪に囲まれたまま、一地方豪族として死んだ

もちろん、天皇に即位したなどというのは、後世の作り話である。


21世紀にもなって、いまだにこんなものを「偉業」だの「日本のよき伝統」だのと妄想する者たちが政権を握っているのだから、なんとも恐ろしい。
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/11/03/091039



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初期天皇家の引っ越し事情w
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/02/11/122452

今日は紀元前660年のこの日に「神武天皇」が即位したという大嘘を根拠に明治クーデター政権が勝手に決めた「建国記念の日」なので、神武と初期天皇家に関するデタラメを一通り指摘しておくことにしよう。

■ 「神武天皇」などいなかった

まず初代の「神武」。

私は、記紀の神武説話のもととなった歴史上の人物は恐らく実在した(3世紀頃)と考えているが、この男は到底「天皇」などと呼べる存在ではなかった。記紀の説話を皇国史観イデオロギーに囚われずに読めば、この男は軍勢を引き連れて九州から近畿に攻め込み、血みどろの殺戮戦を繰り広げたあげく、ようやく奈良盆地の一角に拠点を確保した侵入者に過ぎない。

支配領域の広さから言っても、この男は当時の近畿にたくさんいた地方豪族の一人に過ぎず、天皇に「即位」したなどというのは大嘘である。


ついでに言うと、「神武」というのは後世になってつけられた諡おくりな(漢風諡号)であり、当時こんな名で呼ばれていたわけではない。本来の名前は「サヌ」だろう。

要約するとこんな感じだ。

1.野心だけは満々だが九州では出世の望めない傍系の兄弟が、
2.各地の豪族たちから支援を獲得して軍勢を整え、大阪湾から近畿に突入
3.しかし待ち構えていたナガスネビコに敗れて総大将の兄(イツセ)は討ち死に
4.生き残った弟(サヌ)が紀伊半島を迂回して熊野方面から奈良盆地に侵入
5.だまし討ちと虐殺を繰り返したあげく、ようやく奈良盆地の一角を占拠
6.しかし結局そこから一歩も出られず、大和の人々の憎悪に囲まれたまま、一地方豪族として死んだ


■ 初期天皇家の「非常に規模の小さな歴史」

サヌに続く8代の「天皇」については、ほとんど説話が伝えられていないが、各「天皇」がどこに拠点(宮)を置き、どこに葬られたかについては記紀に記載があるので、そこから彼らの足跡を辿ることができる。

この点に関して、評論家・哲学者の山田宗睦氏が興味深いことを述べている。戦前の皇国史観教育を受けて育った氏は、教えられたことをそのまま信じていたが、大学に入って『古事記』を手に実際に各「天皇」の「都」の地を訪ね歩いたところ、初期天皇家の歴史が「非常に規模の小さな」ものだったことに気がついたというのだ。[1]


山田 皇紀二千六百年のようなことに対して私は当時中学生だけれども、受けていた教育が教育だから何も疑問は持たなかったね。(略)神武天皇は実在していたと思っているし、綏靖・安寧全部いて、万世一系で昭和天皇まで来ているんだということも信じていた。(略)昭和18年10月に京都大学に入った時から、古事記を手にして古事記に書いてある通りに歩いて行くわけね。
林 そういう点では非常に身近かに古事記・日本書紀はマスターしているわけですね。
山田 そうだ。本当にあったことだと思っているから、初代の神武天皇から始めて次の天皇はどこへ都したのか、どこそこと書いてあるのを見てそこへ行ってね、なんだ、ほんのちょっとこの部落から次の部落へ、都を遷したなんて、こんな……。
林 (笑)。
山田 自分で歩いてみて初めてね、なんていうか非常に規模の小さな歴史なんだっていうことが、分かる。大学へ入ってもまだ書いた通り信じているわけだから、それが実際にそうやって歩いてみることで崩れていくわけですよ。
林 うーん。
山田 ああいうのはどういう体験かなあ。古事記そのものじゃなくて、古事記を読んで作られた天皇制イデオロギーを教えられているわけでしょう。だから古事記を読むことによってかえって習ったのとは違うじゃないか、という意識が出るわけですよ。何で女を奪い合って天皇がケンカをするんだとかね、何かそういうことが疑問になって出てくる。イデオロギーのこわさというか、古事記に書いてあることとも違うことを建て前として教えられていたのが、旧制高校で古事記を読んで少し違うんじゃないかと思いだす。そして京都大学へ入って、古事記を持って歩いてみたら、何だ日本の歴史ってのは何か引越し位の、都を遷したなんてのと違うじゃないかというふうに思い始めた。
一同 (笑)。

では、実際にその歴史の規模を確認してみよう。

サヌ(神武)からオホヤマトタラシヒコクニオシヒト(孝安)までの各「天皇」の「宮」の位置は、『古事記』[2]によれば次のようになる。


代 名前 宮 比定地(奈良県)


1 サヌ(神武) 畝火(うねび)の白檮原(かしはら)の宮 橿原市畝傍山東南

2 カムヌマカワミミ(綏靖) 葛城(かづらき)の高岡(たかをか)の宮 御所市森脇

3 シキツヒコタマテミ(安寧) 片塩(かたしほ)の浮穴(うきあな)の宮 大和高田市三倉堂付近

4 オホヤマトヒコスキトモ(懿徳) 軽(かる)の境丘(さかひをか)の宮 橿原市大軽町見瀬付近

5 ミマツヒコカヱシネ(孝昭) 葛城(かづらき)の掖上(わきがみ)の宮 御所市池之内付近

6 オホヤマトタラシヒコクニオシヒト(孝安) 葛城(かづらき)の室(むろ)の秋津島(あきつしま)の宮 御所市室


■ Google Mapで根拠地の移動を確認してみる

これをGoogle Map上にプロットしてみると、各世代ごとの根拠地の移動は次のようになる。


http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/02/11/122452


サヌ(神武)→ カムヌマカワミミ(綏靖)

カムヌマカワミミ(綏靖)→ シキツヒコタマテミ(安寧)

シキツヒコタマテミ(安寧)→ オホヤマトヒコスキトモ(懿徳)

オホヤマトヒコスキトモ(懿徳)→ ミマツヒコカヱシネ(孝昭)

ミマツヒコカヱシネ(孝昭)→ オホヤマトタラシヒコクニオシヒト(孝安)

全体をまとめてみても、縦横7〜8キロ程度の範囲を行ったり来たりしているだけである。

山田氏の言うとおり、ナントカ天皇が「◯◯の宮にましまして、天の下治しらしめしき」などと大仰に書かれている初期天皇家の歴史が、実際にはいかに規模の小さいものだったかがよく分かる。

[1] 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 『天皇陵の真相』 三一書房 1994年 P.132-133
[2] 武田祐吉・中村啓信 『新訂 古事記』 角川文庫 1982年 P.83-89
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/02/11/122452



▲△▽▼


大和には天皇家より古い「万世一系」の家があった
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/04/16/100219

「神武天皇陵」問題の記事でも引用した住井すゑ氏と古田武彦氏の対談本の中に、非常に面白いエピソードが書かれている[1]。


古田 そうですか。いやァあのね、私吉野でね、古事記に案内した人出て来ますね、あの子孫だっていう材木問屋の社長さんいましてね、額にかけて非常に自慢しとられた。ところでその後帰って来てからね、私のところへ知らぬある人から手紙が来まして、その人は京都大学の工学部へ入ったんだけど、例の学園闘争かなんかでね、途中でやめて材木会社に入ったと。そして木材の買付けで吉野へ行ったと。そしてある農家の家に泊ったと。でその農家の主人と酒飲んで話してるうちにその農家の主人が泣き始めるわけ、なんでかというたら「私の先祖は神武天皇が入って来た時に特に撃退してこれを食い止めた家なんだ」と、「そういうことをね、近所は皆知っとるよ、だからもう本当にね、戦争中はつらかった」と。

住井 はあァ。

古田 あれは逆賊の家や。それが敗戦になってやっとほっとしたけど、今でもつらい、と言ってね酒飲んでさめざめと泣くんだそうですよ。もう徹夜で語ってくれたそうです。ところがね、その聞いた方の人は、神武天皇は架空だと思ってるわけ、津田左右吉のあれで。だから、何この人言ってんだろうと思うてね……。

住井 ワハハハ……。

古田 私の本『盗まれた神話』というのを読んだわけです。そしてさっきのような神武はリアルだというのを読んでね、ああそうかと、それならあのおやっさんの気持もわかる、というんで私に調査に行ってほしいというお手紙をいただいたんです。だからなんか、そういうね、大和っていうのはいまだにそういうの生き残ってるんですね。

住井 残ってますね、ええ。

この農家のご先祖は、外来の侵略者であるイワレビコ(神武)たちと戦い、愛する郷土の土地と人々を守ったわけである。実際、古事記を見ると、吉野は神武の侵入経路上に名は出てくるが、神武が橿原に拠点を築いた後は地名として出てこない。次に「吉野」が現れるのは、ずっと後の応神天皇(15代)の時代である。少なくとも神武から数世代の初期の頃は、吉野はまだ近畿天皇家の支配領域には入っていなかったと思われる。

近畿天皇家の始祖は神武と言われているが、実際には仲哀(14代)→応神(15代)、武烈(25代)→継体(26代)と王朝交替を繰り返しており、実態としては決して「万世一系」などとは言えない。一方、この農家のご先祖は、はるか昔から大和に根付いて暮らし、侵略者神武と戦って郷土を守り、その後もずっとこの土地で代を重ねてきた。これこそが、誇るべき真の「万世一系」ではないだろうか。

[1] 住井すゑ・古田武彦・山田宗睦 『天皇陵の真相』 三一新書 1994年 P.91-93
http://vergil.hateblo.jp/entry/2016/04/16/100219


3. 中川隆[-10362] koaQ7Jey 2019年5月10日 19:25:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1742] 報告

日本の歴史はその始まりから嘘だらけ


公的記録を改ざんし、あるいは捏造するという手口自体はもっとはるかに古く、この国の歴史の黎明期から始まっている。

現存する日本最古の歴史書である古事記は712年、次の日本書紀は720年に成立している。ほぼ同時代に二種類の史書が作られた理由が不明である上、古事記は後の史書にその成立が記載されていないことから偽書説が唱えられたこともあるが、現在ではほぼ否定されている。

この古事記と日本書紀の内容は、全体としてはよく似ているが、いくつか重大な違いがある。

たとえば、景行天皇ことオホタラシヒコオシロワケ(12代)の九州大遠征。日本書紀によれば、景行は軍を率いて九州に渡り、ほぼ時計回りに九州を一周しながら多くの敵を打ち破る大遠征を行っている。日本書紀の記載のとおりなら、このときヤマト王権は初めて九州全土を支配下に収めたことになり、まさに赫々たる大戦果と言える。

図版出典:[6]

ところが、景行のこの重大な事績が、古事記には一切現れないのだ。古事記に出てくる景行の事績といえば、「田部たべを定め、また東あづまの淡あはの水門みなとを定め、また膳かしはでの大伴部おほともべを定め、また倭やまとの屯家みやけを定めたまひ、また坂手さかての池を作りて、すなはちその堤に竹を値ゑしめたまひき」という程度でしかない[7]。池を作って竹を植えたなど、どう考えても九州大遠征より優先して書くべきことではないだろう。

これは一体どういうことなのか。古田武彦氏が説明するとおり、実際に行われた大遠征を天皇家の史書である古事記が無視することなどあり得ない以上、日本書紀が話をでっち上げた(あるいは天皇家以外の史書から剽窃した)と考えるしかない[8]。


 (六)一番肝要の点、それはこの華麗な景行の九州大遠征譚が『古事記』に全く出現しないことである。これは記紀間の大矛盾だ。

 以上、この矛盾をいかに解くべきか。その根本は(六)にある。記紀いずれが原形、いずれが改変形か、という問題である。これに対するわたしの基本の立場は次のようだ。“記紀ともに、近畿天皇家内の成立である以上、天皇家にとって有利に加削することはあっても、不利に加削することはありえない”――この公理だ。

 そして右の有利、不利とは、もってまわった考察や、一部のインテりにのみ通じるような、うがった見方の類からではなく、万人に通ずる明々白々たる印象にもとづくものでなければならぬ。

 このような立場から見るとき、問題の景行の九州大遠征譚が、近畿天皇家にとって赫々たる大勝利譚であり、光栄ある大親征譚の形をとっていることは、疑いを容れない。

 これを記載した『書紀』の方が原形であるとすると、『古事記』の作者(伝承者・記録者等)がこれを削除したこととなる。これは先の公理によってみると、ありうることではない。

 これに対して『古事記』の方が原形とした場合、『書紀』はこれを付加・挿入したこととなろう。この方が、先の公理から見ると、ありうるケースである。

 以上の吟味によってみれば、景行の九州大遠征譚は、他からの挿入によるもの、そのように見なすほかはないのである。

この他にも、ヤマトタケルことヲウス(景行の子)による東北地方の蝦夷征伐、神功皇后ことオキナガタラシヒメ(14代仲哀の妻の一人)による九州筑後での征伐など、古事記には現れず日本書紀にだけ書かれている征伐譚が存在する。

私は、古事記は日本書紀の「ボツになった試作品」だと考えている。なぜボツになったかといえば、天皇家の支配を正当化するための嘘の程度が足りず、当時の権力者を満足させることができなかったからだろう。

千数百年の時を経ても、時の権力者の都合に合わせて記録を改ざんし、あるいは継ぎ合わせて辻褄を合わせる官僚たちの心根は大して変わっていないのではないか。まさに骨絡みの嘘つき体質と言うしかない。


[6] 古田武彦 『古代は輝いていた(2)』 朝日新聞社 1985年 P.118
[7] 武田祐吉訳注 『新訂 古事記』 角川文庫 1987年 P.110
[8] 古田 P.120-121
http://vergil.hateblo.jp/entry/2018/05/04/222222

4. 中川隆[-10304] koaQ7Jey 2019年5月12日 14:26:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1807] 報告

国際派日本人養成講座
No.1113 皇位継承危機の乗り越え方 〜 ご先祖様の叡智に学ぶ 2019/05/12
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201905/article_2.html


 126代の皇位継承の歴史で何度となくあった危機を、ご先祖様たちはいかに乗り越えてきたのか。


■1.いよいよ限られた皇位継承者

 先帝陛下の御譲位から新帝陛下の御即位まで恙(つつが)なく進められたのは大慶至極であるが、その過程で一つだけ気にかかった事があった。5月1日午前10時半から行われた「剣璽(けんじ)等承継の儀」では皇位継承資格のある成人皇族として立ち会いされたのが、秋篠宮殿下と常陸宮殿下のお二方だけだった事だ。

 常陸宮殿下は83歳のご高齢、秋篠宮殿下は御年53歳で新帝陛下と5歳しか違わないため、数十年後の皇位継承を考えると、実質的な皇位継承者としては現在12歳の悠仁(ひさひと)親王のみということになる。

 悠仁親王の学校の机にナイフが置かれた事件も、皇位継承者が極端に少ない、という事実が背景にあるのだろう。また、共産党の志位委員長が、急に女性天皇・女系天皇・女性宮家の議論を訴え始めたというのも、これがきっかけだろう。

 議論をするのは自由だが、その際には皇位継承の歴史事実を十分踏まえる必要がある。すでに126代にも及ぶ皇室の歴史を見れば、男系男子の皇位継承者が不在の危機は3度あり、その危機を乗り越えるための叡智もすでに用意されているからだ。

 いずれのケースも相当な遠縁から男系男子を猶子(親族からの養子)として迎え入れ、場合によっては先帝陛下の皇女や姉妹を皇后とする、という方法である。

 ちなみに、男系とは父親を遡(さかのぼ)っていくと初代・神武天皇に行き着くという事である。皇女が皇族以外の配偶者と男子をもうけても、それは女系男子であって皇位継承権はない。


■2.5代・70年ほど前に分かれた宮家から猶子として迎えられた光格天皇

 3事例のうち最も新しいケースは、明治維新の100年ほど前、江戸時代中期の第118代・後桃園天皇(御在位1770-1779年)がわずか22歳で御在位のまま崩御された時のことである。

 皇女として欣子(よしこ)内親王が遺されたが、女性天皇にはならず、閑院宮家の第6皇子で9歳の師仁(もろひと)親王が後桃園天皇の末期の猶子として迎え入れられ、急遽、即位された。これが光格天皇である。そして欣子(よしこ)内親王を皇后とされている。

 閑院宮家とは5代前の東山天皇から宝永7(1710)年に別れた宮家である。すなわち、後桃園天皇の崩御時から見れば、5代、70年ほど前に分かれた宮家の3代目の子孫が皇位を継がれたことになる。この光格天皇はその後、37年間も御在位になり、直系として仁孝天皇、孝明天皇、明治天皇から新帝陛下まで続く近代皇室の祖となられた。

 光格天皇は遠い血筋から突然、即位された故か、天皇としての在り方を深く修養された。御在位中に天明の飢饉が起きた時は、一向に動かない幕府に民の救済を訴えられている。

 身のかひは何を祈らず朝な夕な民安かれと思うばかりぞ
(自分のことで何も祈ることはない。朝な夕なに民安くあれと思うばかりである)

 光格天皇の御製(御歌)である。無為無策の幕府と、ひたすらに「民安かれ」を祈る天皇との鮮烈なコントラストから、後に明治維新として結実する尊皇倒幕の大きなうねりが始まっていった。(拙著『日本人として知っておきたい皇室の祈り」[a])

 今回の先帝陛下の御譲位は光格天皇以来、200年ぶりと言われたが、126代の皇室の歴史から見れば、わずか7代前の事である。そして皇位継承者を遠縁の宮家から猶子として迎え入れる、という方法がとられたのも、ほぼ同時代の、皇室の歴史から見ればごく最近のことであった。


■3.10代・100年も前に分かれた系統から即位した継体天皇

 先帝が皇女しか遺されなかった場合に、相当の遠縁であっても男系男子を次代天皇にお迎えし、その皇女を皇后にするという方法は、さらに1200年ほども前の、第25代武烈天皇から第26代継体天皇への継承からヒントを得たものだろう。

 武烈天皇の在位は『日本書紀』によれば西暦498年から506年。わずか18歳で崩御し、お世継ぎはいなかった。大連(おおむらじ、朝廷最高官)の大伴金村(かなむら)は群臣と諮って、応神天皇5世の末裔を越前から迎えて、継体天皇とした。応神天皇は第15代、西暦400年頃の天皇であるから、継体天皇は10代、100年ほども前に分かれた家系の子孫である。

 継体天皇が皇位に就いたのは57歳で、武烈天皇の姉妹、手白香皇女を40歳ほどの年齢の差があったにも関わらず皇后に迎え、皇位の安定を図っている。このお二人から、やがて推古天皇や聖徳太子、舒明天皇などと皇統が続いていく。

 現代の歴史研究では、継体天皇がそれまでの皇室と血縁関係のない「新王朝」だ、などと諸説取り沙汰されているが、『記紀』には「応神天皇5世の末裔」とされており、これを明確に否定しうる事実も見つかっておらず、古来からその通りに信じられてきた。

 我々のご先祖様が、「応神天皇5世の末裔」という説明で継体天皇の皇位継承の正統性を受け入れてきた、という歴史事実は重要である。直系直近の皇女よりも、はるか遠縁でも男系男子が皇位につくべき、という明確な原則が、以上の119代光格天皇、25代継体天皇のお二方の事例から窺われるのである。


■4.3代前・35年ほど前に分かれた宮家から猶子となった後花園天皇

 なお、このお二方は先帝の皇女、あるいは姉妹を皇后として迎えられたが、そのような直系の女性がいながらも皇后とされずに、遠縁の男系男子が皇位に就かれた天皇がもうお一方ある。

 南北朝合一後の第100代後小松天皇の皇子、第101代称光天皇は28歳の若さで崩御され、二人の皇女を遺されたが、男性の皇嗣は無かった。そこで9歳の伏見宮家彦仁親王が後小松天皇の猶子として迎えられて102代後花園天皇として即位された。後小松天皇は北朝では第6代であり、伏見宮家はその3代前の北朝第3代崇高天皇から別れた宮家である。

 光格天皇は5代・70年ほど前、継体天皇は10代・100年ほど前に分かれた家系から即位されたのに対し、後花園天皇は3代・35年ほど前に分かれた家系から迎えられた。この程度なら、人々の記憶も残っており、直系の皇女を皇后として迎え入れる必要もなかったのかも知れない。

 この方も、遠縁から即位された故か、君徳の涵養に努められ、飢民の流亡を座視して遊興に耽り続ける第8代将軍・足利義政に怠惰や奢侈を戒める漢詩を送るなど、「近来の聖主」と称えられた。(『国史大事典』)

 いずれにせよ、我々の先祖は、この3回の危機に際して、たとえ皇女がいても女性天皇とはせず、相当な遠縁でも男系男子を猶子として迎え入れて皇室を維持してきたのである。これが126代の皇統をお守りしてきた我らが御先祖様の叡智であった。


■5.二種類の女性天皇

 それでは歴史上、8人10代(お二方が二度即位されている)の女性天皇はなぜ生まれたのか。それは主に、次の2つの理由から「中継ぎ」として即位されたのである。

・先帝が崩御または退位された際に、幼い皇子が成人するまでの中継ぎとして・・・第41代持統天皇、第43代元明天皇、第44代元正天皇、第109代明正天皇、第117代後桜町天皇。

・先帝が崩御または退位された際に、有力後継候補が複数いて、すぐには決められない場合に、元皇后などのお立場による中継ぎとして・・・第33代推古天皇、第35代皇極天皇(重祚されて第37代斉明天皇)

 上記、7人8代の女性天皇の場合は、いずれも男系男子の後継者に皇位を譲る事が明確であり、その時期を待つための中継ぎであった。したがって、これらの女性天皇の御存在も男系男子の皇統を守るための智慧であった。

 唯一、異なる事例が、第46代孝謙天皇(重祚して第48代称徳天皇)である。第45代聖武天皇と光明皇后の皇女として生まれたが皇子の早世により、国史上初の、そして最後の女性皇太子となった。父帝崩御の後、即位してから、天武天皇の孫である第47代淳仁天皇に譲位した。ここまでは良かったが、両者の不和から兵乱が起こり、淳仁天皇は廃されて、淡路島に流された。

 第48代称徳天皇として重祚すると、看病僧・道鏡は天皇の寵愛を良いことに、宇佐八幡神の託宣と詐って皇位を狙った。この皇統史上最悪の危機を阻止したのが和気清麻呂だった。清麻呂は後に「勤皇の忠臣」として称賛され、またこの失敗からだろう、本格的な女性天皇は二度と擁立される事はなかった。

 ただ、孝謙・称徳天皇も含め、すべての女性天皇は、先帝の皇后として寡婦、あるいは生涯未婚のままで、御在位時に配偶者はいなかった。したがって女系のお世継ぎが生まれる可能性はまったくなかった。

 これに「皇女が皇族外の男性と結婚すると皇族から外れる」というルールを合わせ考えると、男系でない男子を皇族には入れない、という原則が見てとれる。女性は一般国民からでも皇族に入ることができ、皇后にもなれる。しかし、男性は完全にシャットアウトされているのである。

 これは道鏡のような野望を持つ男性を、万が一にも皇族に入れないための叡智であろう。昨今伝えられる眞子女王と小室圭氏の結婚騒動は、女性天皇論議への天の警告でもあるようだ。


■6.皇位継承の史実を整理してみれば

 以上を整理してみると、皇位継承の危機の際に、次の3つの方法が採用された。

1)「猶子」:直系の男系男子が不在の場合、たとえ皇女がいても、遠縁の男系男子を猶子として皇位継承・・・3事例とも継承成功。
2)「中継ぎ女性天皇」:後継の皇子が幼少、または有力候補が複数いて、すぐには決められない場合の女性天皇による中継ぎ・・・7事例とも継承成功。
3)「本格的女性天皇」:皇女が本格的な女性天皇として即位・・・1事例のみ。皇統最悪の危機を招く。

 これだけの史実を見れば、3)「本格的女性天皇」を理性的に是認しうる人間がいるとは思えない。いるとすれば、密かに「天皇制」廃止を目指して、確信犯的に3)を主張する輩であろう。もともと「天皇制」を否定していた共産党が、突然、女性天皇を議論しよう、などと言い出したのは、この戦略であると疑わざるを得ない。

 注目すべきは、上記の3つのいずれにおいても、「男系」そのものは完全に守られてきたことである。126代の一度たりとも.男女を問わず男系でない人間が皇位についた例はない。何故に、我々の先祖はこれほどまでに男系にこだわってきたのか?

 ここで筆者が思い起こすのは、「理性の限界」と「死者の民主主義」という二つの言葉である。「理性の限界」とは、多くの知識人が支持した共産主義が、一億人とも呼ばれる犠牲者を出した失敗からも明らかであろう。その失敗から目をそらして、未だに共産党と名のっている人々がいることも「理性の限界」の一例である。

 伝統や習慣の意義を合理的に説明できないからと言って否定するのは、自らの理性の限界を弁えない、近代人特有の理性過信である。「男女平等」などという観念から「男系の維持」を否定するのも、その一種である。

 限界ある理性を補うのが「死者の民主主義」である。男系の維持は、ほぼ2千年に及ぶ我らが御先祖様が選択してきた結果である。おそらくこれが一因となって、126代もの安定した皇位継承をもたらし、それによって中国や西洋に比べれば、我が国民ははるかに平和な、幸福な歴史を過ごしてきた。

 長い歴史を経た皇室制度などに関わる政治的決定は、我々現世代の限られた理性だけでなく、過去の皇室制度を支えてきた無数の御先祖様、すなわち「死者」たちの経験と叡智と意思に耳を傾けなければならない。これが「死者の民主主義」が示す道である。

 そして御先祖様たちがうまく解決できた問題に関しては、遠慮なくその叡智を拝借し、失敗したやり方に関してはその経験を生かさねばならない。皇位継承の問題に関しては、猶子という成功した叡智に学び、失敗しかけた本格的女性天皇の道は避ける、というのが、賢明な国民のとるべき道であろう。

「男系」へのこだわりも、猶子の智慧で維持できるのだし、そのディメリットも歴史上、一向に現れていないのだから、わざわざこの伝統を崩さねばならない合理的理由もない。


■7.皇位継承者の極端な現象は占領軍の遺制

 現代において、ご先祖様の猶子の叡智を活用して皇位継承者を増やす方法として、小堀桂一郎・東大名誉教授が次のようにまとめた提案が最も現実的だろう。

__________
・・・今後、結婚される女王様方の御配偶が、血統の上で皇統につながっており、且つ、それがなるべく近い過去に於いて、そのつながりが証示できる様な方であれば、その御当人でなくとも、その次の世代の男子(母方の血筋からしても、皇室の血を引いておられることが明らかなのであるから)が、皇位継承権を保有されることは、系譜の論理から言つて、道理に適(かな)つたものになる。[1, p54]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ここで言う「血統の上で皇統につながって」いる方とは、昭和22(1947)年10月14日付けで占領軍から皇籍離脱を命ぜられた旧11宮家ご出身の方々となろう。戦後の新しい皇室典範が施行されたのは、この5か月程前の5月3日であり、11宮家はそれまでの間、新皇室典範のもとでも皇籍に属しておられた。それを日本国家国民の意思とは関係なく、占領軍の指令で離脱を強制されたのである。[2, p152]

 現在の皇位継承者の極端な減少は、この占領軍の皇室弱体化政策によるものであり、憲法と同様、戦後体制の一環である。したがって、2千年の我がご先祖様の叡智に従って、これを是正していくことは現世代の責務であろう。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. 伊勢雅臣『日本人として知っておきたい 皇室の祈り』、育鵬社、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594079032/japanonthegl0-22/
アマゾン「メディアと社会」「ジャーナリズム」カテゴリー 1位(H30/2/1調べ)
万民の幸せを願う皇室の祈りこそ、日本人の利他心の源泉。

b. JOG(416) 万世一系のY染色体〜「女性天皇問題」は歴史の知恵に学べ
 我が国の歴史は、すでに解答を用意している。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog416.html

c. JOG(462) 皇位継承 〜 聖なる義務の世襲
 国家の中心には、ひたすら国民の安寧と国家の繁栄を祈り続ける方が必要である。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h18/jog462.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 小堀桂一郎『象徴天皇考』★★★、明成社、H31
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4905410541/japanontheg01-22/

2. 小堀桂一郎『皇位の正統性について―「万世一系の皇祚」理解のために』明成社、H18
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4944219466/japanontheg01-22/


https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201905/article_2.html

5. 中川隆[-10303] koaQ7Jey 2019年5月12日 20:00:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1809] 報告

NHKスペシャル『日本人と天皇』 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=NHK%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB++%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%A8%E5%A4%A9%E7%9A%87


▲△▽▼

改元特番でNHKだけが伝えた”不都合な真実”
水島宏明 | 上智大学教授・元日本テレビ「NNNドキュメント」ディレクター
5/1(水) 17:22
https://news.yahoo.co.jp/byline/mizushimahiroaki/20190501-00124418/


「日本の象徴天皇制は自然消滅する」

 ショッキングな表現でそう語っているのは改元の前夜に放送された「NHKスペシャル」に登場した古川貞二郎・元官房副長官だ。今のままでは象徴天皇制は存続し続けるかどうかわからないと警告する。番組を見ると、象徴天皇制で初めてとなる「生前退位・即位」という大きな出来事を前にして、政権の中枢にいた人物でさえ強い危機感を露わにしていることがわかる。その危機感が国民の間であまり知られていないように思う。この「NHKスペシャル」が問いかけた内容は後でくわしく述べるが、他の番組は「お祝いムード」一色で、肝心な”不都合な真実”がまったくと言っていいほど報道されていないのだ。

「5,4、3,2、1・・・令和、おめでとう!」 

 

 2019年(=平成31年)4月30日から翌日となる2019年(=令和元年)5月1日にかけて、テレビ番組は”改元”の話題一色である。連休中の人々があちこちに集まって、再び正月がやってきたようなお祝い騒ぎを繰り返している。テレビはこうしたお祭りが本当に好きで便乗して盛り上げているような感じさえある。

30日は「平成」の時代を、節目となる事件や災害、トピックスの映像とともに振り返り、そこに前天皇・皇后両陛下(現上皇・上皇后両陛下)がいかに被災地の人々らに寄り添い、「象徴としての天皇」のあり方を模索して来られたのかなどについて時間をさいて伝えていた。

 筆者は、30日夕方、テレビ各社が中継した前天皇陛下の退位のセレモニー「退位礼正殿の儀」の様子を見ていた。最後まで「象徴としての私」という言葉で「象徴」としての天皇のあり方に最後まで向き合ってきた思いをにじませていたのが強く印象に残った。立場は違っても同じ時代を生きてきた「人間の思い」が通じたように感じられて、心を揺さぶられた。

 翌1日昼、皇太子から天皇に即位されたばかりの新しい天皇陛下が「即位後朝見の儀」でお言葉で「象徴としての責務を果たす」と決意を述べられた。

一連の儀式や改元にあたっては「象徴」こそ鍵となる言葉である。

 この両日、「ニュース番組」でも通常よりも番組時間を拡大して特別編成の態勢になっていた。当然、「象徴」としての天皇のあり方についても視聴者に示唆を与えたり、現状の問題を提起したりするような報道が行われるだろうと想像していた。天皇を中心とする皇室の行儀がこれほど連続して生中継という形で長時間報道されることはかつてないからだ。

 冷静に考えれば、前天皇陛下がこれほど強調され、それを引き継いだ今の天皇陛下も口にされた「象徴」としての天皇の役割について、突っ込んで議論することがニュースなどの報道番組には求められているはずだ。

 ところがこの点で「象徴」に正面から切り込む番組は民放にはなかった。

 各局のテレビ番組を見ていると、役割・機能としての「天皇」や「皇后」と、現存する前「天皇陛下」や前「皇后陛下」があまり明確に区別されず、丁寧な言葉づかいばかり意識して不必要な敬語が乱用されている印象を受けた。

 一方で、ほとんどの民放局の報道番組が触れていなかったのが、皇位継承での「女性天皇」や「女系天皇」の可能性をめぐる議論である。

 

「象徴」とは何をする仕事なのかを真正面から追求して取材力を発揮したのが、NHKスペシャル「日本人と天皇」だ。

 「天皇」も役割としての天皇としての意味で大半をつかっていた。

 冒頭のナレーションはこう始まる。


「東京の光の海に囲まれた夜の皇居。今から4時間後に新たな天皇が即位します。これから行われる一連の儀式。天皇の知られざる伝統の姿が現れます。それは神と向き合い祈る姿です。」

 鎌倉時代から江戸時代までの即位の時に行われてきた神道と仏教の儀式も明らかにされる。そこには天皇と神と仏を一体にするサンスクリット語の呪文「ボロン」も明らかにされる。

4月30日放送のNHKスペシャル「日本人と天皇」から
4月30日放送のNHKスペシャル「日本人と天皇」から

 このように番組では天皇が行う宗教的な儀式などを撮影した映像をふんだんにつかって天皇の宗教行事の歴史的や経緯や変化などを伝えていた。

 その上で、番組の圧巻な部分は、「皇位継承」についての取材である。

 戦前の皇室典範も戦後の皇室典範も「男系男子」(男親の系譜で生まれる男子)を天皇継承の条件と定めている。これまでの歴史では女性の天皇がいた時も、「男系」(父親か祖父などが男性)の天皇であって女系はいなかった。

 この問題をめぐる取材が非常に深い。

 戦後に新しい憲法が発布されて、天皇は「象徴」という立場になり、宮家も11が廃止されて51人が皇族から民間人に身分が変わった。この

 取材班は、新憲法が発布された日に三笠宮崇仁親王(昭和天皇の末弟)が皇室典範の草案を審議していた枢密院に提出した皇室典範改正をめぐる意見書を掘り起こしたが、そこで三笠宮は以下のように書いている。


「今や婦人代議士も出るし、将来、女の大臣が出るのは必定であって、その時代になれば今一度、女帝の問題も再検討」するのは当然だと。

 進歩的な思考の持ち主だった三笠宮は、天皇にも基本的人権を認めて、場合によって「譲位」という選択肢を与えるべきとも書き残していた。

 けっきょく、三笠宮の意見書は枢密院で検討された形跡がなかったが、その後、小泉政権で「女性天皇」「女系天皇」の問題が検討の対象になる。

 平成13年(2001年)、当時の皇太子ご夫妻(現天皇皇后両陛下)に女子(愛子さま)が生まれたことで平成17年(2005年)、小泉政権で皇室典範に関する有識者会議が発足して、10ヶ月間、委員はいろいろな資料を元にして議論を進めたという。その中で委員が知った意外な事実があったという。

 これまでの125代におよぶ天皇のうち、約半分が「側室」(第2夫人、第3夫人など)の子と見られているという。戦後は「側室」という制度はない。過去400年間では側室の子どもではない天皇は109代の明正天皇、124代の昭和天皇、125代の前天皇(今の上皇陛下)の3人のみで、側室の制度がない現在においては「男系」の伝統の維持は難しいという声が多くの委員が認識したという。

 けっきょく、この有識者会議では男女の区別なく「直系の長子(天皇の最初の子ども)を優先する」という最終報告を出し、翌年(平成18年=2001年)、政府は「女性天皇」「女系天皇」の容認に舵を切った。

 

 ところがこの動きに猛反発したのが男系の伝統を重視する人たちだったと、2006年3月に日本会議が行った「皇室の伝統を守る1万人大会」

の映像が登場する。日本会議の関係者の映像がNHKスペシャルのような正統派ドキュメンタリー枠で登場するのはかなり珍しいが、NHKのスタッフは今回、番組制作にあたってこうした団体も正面から取材して放送している。

 当時の平岩赳夫衆議院議員(日本会議国会議員懇談会会長=当時)は演説で以下のように語っている。


「連帯と125代万世一系で、男系を守ってこられたご家系というのは日本のご皇室をおいて他にはありません。守らなければならない伝統や文化は断固守っていかねばならない」

 さらに國學院大學名誉教授の大原康男さんもインタビューで「女系はいまだかつてない、まったく別の王朝が生まれること」などと説明するが、けっきょく2006年秋に秋篠宮ご夫妻に長男の悠仁さまが誕生したことで棚上げとなって議論が見送られた。

 だが、有識者会議の委員の一人だった元官房副長官の古川貞二郎さんが以下のような言葉を述べるのである。

4月30日のNHKスペシャル「日本人と天皇」での古川貞二郎氏のインタビュー
4月30日のNHKスペシャル「日本人と天皇」での古川貞二郎氏のインタビュー

 


「私はね、不本意ながら、本当に日本の象徴天皇制は自然消滅するのね、そういう言葉は使いたくないけれど、そういう可能性が高いんじゃないかというふうに心配しますですね。これは。というのはお一人。いずれ悠仁親王殿下おひとりになられる。

 本当に国民が理解し支持するという案で、この象徴天皇制を継承する議論をし、取り組みをしないと、私は後生に非常に悔いを残すことになりはしないだろうか、というふうに思いますね」

 確かに、これまで125代の天皇のうち、側室から生まれていない天皇が3人しかないのであれば、側室という制度がなくなった以上、「女性天皇」を認め、「女系天皇」を認めない限りは、古川氏の言う通りで「自然消滅」してしまう可能性が高い。

 「男系」を維持すべきと訴えてきた(日本会議系の)人たちは「ある案」に期待を寄せていると、番組で紹介している。

 それは旧宮家の子孫を皇族に復帰させることで、男系が続く家の男子が女性皇族と結婚するか、皇族の養子になってもらう、という案だという。いずれにせよ、本人にその意思がなければ実現できないため、NHKの番組取材班は旧宮家の人たちに「質問状」を送って、皇族に復帰する気持ちがあるかどうかを尋ねたところ、全員が「この件はコメントをさし控えたい」という反応だった。

 番組では「仮に復帰する意思があったとしても皇室典範の改正は必要」とナレーションで説明。

 「女系」に反対する急先鋒だった平沼赳夫元衆議院議員にもインタビューしている。


(平沼赳夫元議員)

「やっぱり悠仁親王に男の子がたくさん将来お生まれになることが望ましい。」

(ディレクター」

「一般の我々にしても、女の子がずっと生まれるというのはある。天皇家だけ例外があるのかというとそれも・・・」」

(平沼、しばらく無言で考えた後で)

「誰も結論は出ないでしょうけどじっと待つしかないな。それを信じながら」

 右派の大物議員で現政権にも少なからぬ影響力を与える人物でさえ「じっと待つ」「信じる」という他にこれという妙案がないという。

 そうであればこそ、100年先、200年先でも継続するような仕組みを国民全体でどうやってつくるのか議論することが必要なテーマであるはずだ。

 この番組の最後は、戦後すぐに皇室典範に「女性天皇」「女系天皇」の余地を検討すべきだと提言していた三笠宮崇仁親王の晩年の声が登場する。2004年にNHKのラジオ番組に出演した時の肉声だ。


「女帝自体も大変だし、けれども今度は一般の人が配偶者になるということはこれは大変で、戦後、華族制度がなくなりまして、華族制度をなくすということは、いわば、天皇制の外堀を埋められたようなこと・・・。今になって考えますとね、だから女帝になっても、配偶者になる方がいないんじゃないかと思うんですね。今の日本人では・・・。今はマスコミが騒ぎすぎますねえ。あれだと本当に将来もそういう立場になるという人もおじけづくだろうし・・・。

理屈では当然、女帝であってもしかるべきだけれども、

現実問題としては、果たしてそれがどうなるのか。女帝おひとりで終わっちゃうのも困りますしね、

これはともかく大きな問題だと思いますね」

 三笠宮は皇室の行く末を案じながら、3年前に100歳でこの世を去った。

 この部分の音声には前天皇ご一家の家族写真の映像が挿入されている。

 現天皇の長女・愛子さまの他に秋篠宮ご夫妻(現皇嗣・皇嗣妃ご夫妻)の長女眞子さまや次女の佳子さまも写っている写真。眞子さまとかつて婚約を発表した小室圭さんをめぐる報道を思い出してみても、確かに将来、女帝が誕生するにしても、その配偶者になる人が現れるものだろうかと想像してみる。改めて三笠宮の慧眼には恐れ入るほかない。

 三笠宮が考えていた「持続可能性がある象徴天皇制」ということを考えると、現状ではあまりに課題が多いということをこの番組で突きつけられた気がする。

 「お祝いムード」一色に染まったテレビ番組が圧倒的に多い中で、このNHKスペシャルは長い目で見た「象徴天皇」のあり方を国民に訴える非常にすぐれたドキュメンタリー番組だったと思う。

 番組の最後のナレーションはこう終わっている。筆者自身の経験でも番組の最後のナレーションは制作者がそれこそ全身全霊をかけて書き上げるものだ。


「長い歴史の中で、伝統を受け継ぐそれぞれの時代の日本人の姿を反映した天皇をめぐる課題に、主権者である私たちはどう向き合っていくのか。新たな天皇に何を期待し、どのような時代をともに作っていくのか。その問いとともに、令和がまもなく始まります。」

 生前退位の儀式の後にNHKが放送したドキュメンタリーが突きつける課題はとても重い。お祝いムードに浮かれてばかりいるのではいけない。象徴天皇制をどうつくっていくかは、私たち一人ひとりの国民の意識なのだと訴えている言葉だ。日本人が「象徴天皇」について考えるこの数日、どうあるのが望ましいのかじっくり考えるべきだろう。
https://news.yahoo.co.jp/byline/mizushimahiroaki/20190501-00124418/

6. 中川隆[-10302] koaQ7Jey 2019年5月12日 20:10:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1810] 報告

天皇は「男系」でなければならないと頑迷に言い張る人々の本音 2019-05-12
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/05/12/174357


■ 「万世一系」断絶の危機w

平成天皇明仁アキヒトから令和天皇徳仁ナルヒト(もちろんここではわざとこう呼んでいる)への代替わりに伴って、天皇位の継承に関する議論がかまびすしい。

ポイントは、皇室典範を変えて「女性天皇」や「女系天皇(女性天皇とその配偶者との間の子が天皇になること)」を認めるかどうかだ。


昭和二十二年法律第三号
皇室典範
https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=322AC0000000003

第一章 皇位継承

第一条 皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。
第二条 皇位は、左の順序により、皇族に、これを伝える。
 一 皇長子
 二 皇長孫
 三 その他の皇長子の子孫
 四 皇次子及びその子孫
 五 その他の皇子孫
 六 皇兄弟及びその子孫
 七 皇伯叔父及びその子孫

○2 前項各号の皇族がないときは、皇位は、それ以上で、最近親の系統の皇族に、これを伝える。

○3 前二項の場合においては、長系を先にし、同等内では、長を先にする。
https://elaws.e-gov.go.jp/search/elawsSearch/elaws_search/lsg0500/detail?lawId=322AC0000000003

この規定のままだと、現時点で若い皇位継承権者は弟秋篠宮の息子悠仁(12歳)しかいないため、悠仁に将来男子が生まれなければ継承権者はいなくなる。「万世一系」断絶の危機というわけだ。

そもそも、仮に「神武」以来王朝交代がなかったというフィクション(大嘘だが)を信じるとしても、歴代天皇の約半数が側室の子であり、過去400年では側室の子でない天皇は明正(109代)、昭和(124代)、平成(125代)の三人と男子のいない現天皇だけというのだから、側室制度を復活でもさせない限り「男系」の維持は困難だろう。

 平成13年(2001年)、当時の皇太子ご夫妻(現天皇皇后両陛下)に女子(愛子さま)が生まれたことで平成17年(2005年)、小泉政権で皇室典範に関する有識者会議が発足して、10ヶ月間、委員はいろいろな資料を元にして議論を進めたという。その中で委員が知った意外な事実があったという。

 これまでの125代におよぶ天皇のうち、約半分が「側室」(第2夫人、第3夫人など)の子と見られているという。

戦後は「側室」という制度はない。

過去400年間では側室の子どもではない天皇は109代の明正天皇、124代の昭和天皇、125代の前天皇(今の上皇陛下)の3人のみで、側室の制度がない現在においては「男系」の伝統の維持は難しいという声が多くの委員が認識したという。

 けっきょく、この有識者会議では男女の区別なく「直系の長子(天皇の最初の子ども)を優先する」という最終報告を出し、翌年(平成18年=2001年)、政府は「女性天皇」「女系天皇」の容認に舵を切った。

■ 神武のY染色体が重要、という珍説

ところが、「皇統」存続のためにどうしても必要なはずの「女性天皇」「女系天皇」を断固として認めない人たちがいる。日本会議やそれにつながる極右文化人たちだ。

なぜ「女性」「女系」ではダメなのか。その「科学的」根拠として持ち出されているのが、「神武天皇のY染色体」という怪しげな代物だ。

日本会議国会議員懇談会長の平沼赳夫元衆院議員がこんなことを書いている。


平沼赳夫オフィシャルホームページ
https://web.archive.org/web/20160306215902/http://www.hiranuma.org/new/note/note20051122_2.html#04

つまり、男系継承とは「男性天皇が血統の出発点であること」を意味し、反対に女系継承とは「女性から始まる継承」をいう。愛子内親王が天皇となり、その配偶者が皇族でないかぎり、その子が天皇になると「女系継承」が始まるのである。

 「万世一系」というと本家の血筋が永遠に続くことと誤解する人がいるが、それでは「真の一系」にはならないのだ。時には分家からも継承者が現れ、男系で継承が維持されていくことが「万世一系」の本質的意味である。

 飛鳥より遥かに時代をさかのぼった第16代仁徳天皇の男系血筋は、約80年後の武烈天皇(25)で血統が途絶えたため、家系をさかのぼって分家の男系子孫を見つけだし、継体天皇(26)が誕生したという例もある。


 では次にこの男系継承を遺伝子学的に見てみよう。

 人間の男性の染色体はXYであるのに対して、女性のそれはXXであり、それぞれ46対ある。男女が結婚して男の子ができた場合、母の23対のX染色体と父の23対のY染色体をもらう。女の子の場合は、母の23対の×染色体と父の23対のX染色体をもらう。よって男系の子孫にのみにオリジナルのY染色体が引き継がれ、女系の子孫には引き継がれない。女系では「皇統」が護持されないのである。(参考図参照)

 つまり、皇位が男系継承で引き継がれていく限り、男性天皇には間違いなく初代神武天皇のY因子が継承されるのに対し、女性天皇ではY因子の保持は約束されないのである。

 男系継承を護持することは、神武天皇だけでなく、更に遡って二二ギノミコトのオリジナルのY因子を継承することにもなり、このY因子こそ「皇位継承」の必要要件であり「万世一系」の本当の意昧なのである。
https://web.archive.org/web/20160306215902/http://www.hiranuma.org/new/note/note20051122_2.html#04

これはどこから突っ込めばいいか困惑するほど穴だらけの珍説だが、とりあえず疑問点を列挙してみると…


•Y染色体の何が重要なのかが不明

Y染色体は男系でしか伝わらないというが、Y染色体の何が「皇統」にとって重要なのか、その理由が何も示されていない。ちなみに、Y染色体の遺伝上の役割としては、性の決定以外にこれといったものは知られていないようだ。


•今の天皇と神武のY染色体が同じという保証はない

Y染色体は比較的変異を起こしやすいことが知られている。仮に「万世一系」神話を信じるとしても、125代も前の先祖のY染色体が現在までそのまま伝わっている保証はない。


•そもそも「皇祖」は女神である天照大神なのに、なぜY染色体を重視するのか?

平成天皇が退位という重大事にあたって伊勢神宮に報告のため参拝したことが示すように、天皇家の権威の源泉は「皇祖」である天照大神にある。しかし、周知のとおり天照は女神なのだからY染色体などあるはずもない。「万世一系」というならむしろ、天照から女系でだけ伝わっているはずのミトコンドリアDNAのほうが重要ではないのか。


•Y染色体が伝わっていればいいのなら、皇位継承順など無意味

天皇になる資格が神武から伝わるY染色体だというのなら、系譜を男系で辿っていって歴代天皇の誰かにたどり着く男であれば誰が天皇になっても構わないはずで、今の天皇一族に限る必要もない。

ちなみに、古事記・日本書紀には、なんとか天皇の子の誰それはなんとかの臣おみの祖、といった記述がやたらと出てくる。ならば、今の天皇家とは血縁関係のない、そうした豪族たちの末裔の誰かが天皇になってもまったく構わないはずだ。


■ 本音は単なる男尊女卑の差別意識

というわけでボロボロのY染色体説だが、日本会議のような極右がなぜこんな珍説にこだわるのか? 

実は、彼らの本音を渡部昇一が暴露してくれている。(「WiLL」2016年9月号)


 皇室の継承は、

@「種」(タネ)の尊さ、
A神話時代から地続きである

──この二つが最も重要です。

 歴史的には女帝も存在しましたが、妊娠する可能性のない方、生涯独身を誓った方のみが皇位に就きました。種が違うと困るからです。

たとえば、イネやヒエ、ムギなどの種は、どの田圃に植えても育ちます。種は変わりません。しかし、畑にはセイタカアワダチソウの種が飛んできて育つことがあります。畑では種が変わってしますので。


___


つまり、女の腹など借り物(畑)で、そこにまく男親の「種」こそが重要、というわけだ。何のことはない、バリバリの男尊女卑思想による女性差別である。

Y染色体がどうこうというのは、この差別に科学的根拠があるかのように装うための道具に過ぎない。ダーウィンの進化論(自然淘汰説)を悪用して搾取や人種差別を正当化しようとした社会ダーウィニズムと同じパターンだ。

ちなみに、天皇制自体に反対の私の立場からすれば、女系天皇が認められようが認められまいがどうでもよい。むしろ、男系に執着したあげく後継者がいなくなって天皇家が断絶するほうが望ましいくらいだ。

というわけで、(この件に関してだけは)日本会議ガンバレww

http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/05/12/174357

7. 中川隆[-10471] koaQ7Jey 2019年5月14日 16:10:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1819] 報告

No.1113 皇位継承危機の乗り越え方 〜 ご先祖様の叡智に学ぶ 2019/05/12 07:56
http://blog.jog-net.jp/201905/article_2.html


 126代の皇位継承の歴史で何度となくあった危機を、ご先祖様たちはいかに乗り越えてきたのか。

■1.いよいよ限られた皇位継承者

 先帝陛下の御譲位から新帝陛下の御即位まで恙(つつが)なく進められたのは大慶至極であるが、その過程で一つだけ気にかかった事があった。5月1日午前10時半から行われた「剣璽(けんじ)等承継の儀」では皇位継承資格のある成人皇族として立ち会いされたのが、秋篠宮殿下と常陸宮殿下のお二方だけだった事だ。

 常陸宮殿下は83歳のご高齢、秋篠宮殿下は御年53歳で新帝陛下と5歳しか違わないため、数十年後の皇位継承を考えると、実質的な皇位継承者としては現在12歳の悠仁(ひさひと)親王のみということになる。

 悠仁親王の学校の机にナイフが置かれた事件も、皇位継承者が極端に少ない、という事実が背景にあるのだろう。また、共産党の志位委員長が、急に女性天皇・女系天皇・女性宮家の議論を訴え始めたというのも、これがきっかけだろう。

 議論をするのは自由だが、その際には皇位継承の歴史事実を十分踏まえる必要がある。すでに126代にも及ぶ皇室の歴史を見れば、男系男子の皇位継承者が不在の危機は3度あり、その危機を乗り越えるための叡智もすでに用意されているからだ。

 いずれのケースも相当な遠縁から男系男子を猶子(親族からの養子)として迎え入れ、場合によっては先帝陛下の皇女や姉妹を皇后とする、という方法である。

 ちなみに、男系とは父親を遡(さかのぼ)っていくと初代・神武天皇に行き着くという事である。皇女が皇族以外の配偶者と男子をもうけても、それは女系男子であって皇位継承権はない。

■2.5代・70年ほど前に分かれた宮家から猶子として迎えられた光格天皇

 3事例のうち最も新しいケースは、明治維新の100年ほど前、江戸時代中期の第118代・後桃園天皇(御在位1770-1779年)がわずか22歳で御在位のまま崩御された時のことである。

 皇女として欣子(よしこ)内親王が遺されたが、女性天皇にはならず、閑院宮家の第6皇子で9歳の師仁(もろひと)親王が後桃園天皇の末期の猶子として迎え入れられ、急遽、即位された。これが光格天皇である。そして欣子(よしこ)内親王を皇后とされている。

 閑院宮家とは5代前の東山天皇から宝永7(1710)年に別れた宮家である。すなわち、後桃園天皇の崩御時から見れば、5代、70年ほど前に分かれた宮家の3代目の子孫が皇位を継がれたことになる。この光格天皇はその後、37年間も御在位になり、直系として仁孝天皇、孝明天皇、明治天皇から新帝陛下まで続く近代皇室の祖となられた。

 光格天皇は遠い血筋から突然、即位された故か、天皇としての在り方を深く修養された。御在位中に天明の飢饉が起きた時は、一向に動かない幕府に民の救済を訴えられている。

 身のかひは何を祈らず朝な夕な民安かれと思うばかりぞ
(自分のことで何も祈ることはない。朝な夕なに民安くあれと思うばかりである)

 光格天皇の御製(御歌)である。無為無策の幕府と、ひたすらに「民安かれ」を祈る天皇との鮮烈なコントラストから、後に明治維新として結実する尊皇倒幕の大きなうねりが始まっていった。(拙著『日本人として知っておきたい皇室の祈り」[a])

 今回の先帝陛下の御譲位は光格天皇以来、200年ぶりと言われたが、126代の皇室の歴史から見れば、わずか7代前の事である。そして皇位継承者を遠縁の宮家から猶子として迎え入れる、という方法がとられたのも、ほぼ同時代の、皇室の歴史から見ればごく最近のことであった。


■3.10代・100年も前に分かれた系統から即位した継体天皇

 先帝が皇女しか遺されなかった場合に、相当の遠縁であっても男系男子を次代天皇にお迎えし、その皇女を皇后にするという方法は、さらに1200年ほども前の、第25代武烈天皇から第26代継体天皇への継承からヒントを得たものだろう。

 武烈天皇の在位は『日本書紀』によれば西暦498年から506年。わずか18歳で崩御し、お世継ぎはいなかった。大連(おおむらじ、朝廷最高官)の大伴金村(かなむら)は群臣と諮って、応神天皇5世の末裔を越前から迎えて、継体天皇とした。応神天皇は第15代、西暦400年頃の天皇であるから、継体天皇は10代、100年ほども前に分かれた家系の子孫である。

 継体天皇が皇位に就いたのは57歳で、武烈天皇の姉妹、手白香皇女を40歳ほどの年齢の差があったにも関わらず皇后に迎え、皇位の安定を図っている。このお二人から、やがて推古天皇や聖徳太子、舒明天皇などと皇統が続いていく。

 現代の歴史研究では、継体天皇がそれまでの皇室と血縁関係のない「新王朝」だ、などと諸説取り沙汰されているが、『記紀』には「応神天皇5世の末裔」とされており、これを明確に否定しうる事実も見つかっておらず、古来からその通りに信じられてきた。

 我々のご先祖様が、「応神天皇5世の末裔」という説明で継体天皇の皇位継承の正統性を受け入れてきた、という歴史事実は重要である。直系直近の皇女よりも、はるか遠縁でも男系男子が皇位につくべき、という明確な原則が、以上の119代光格天皇、25代継体天皇のお二方の事例から窺われるのである。


■4.3代前・35年ほど前に分かれた宮家から猶子となった後花園天皇

 なお、このお二方は先帝の皇女、あるいは姉妹を皇后として迎えられたが、そのような直系の女性がいながらも皇后とされずに、遠縁の男系男子が皇位に就かれた天皇がもうお一方ある。

 南北朝合一後の第100代後小松天皇の皇子、第101代称光天皇は28歳の若さで崩御され、二人の皇女を遺されたが、男性の皇嗣は無かった。そこで9歳の伏見宮家彦仁親王が後小松天皇の猶子として迎えられて102代後花園天皇として即位された。後小松天皇は北朝では第6代であり、伏見宮家はその3代前の北朝第3代崇高天皇から別れた宮家である。

 光格天皇は5代・70年ほど前、継体天皇は10代・100年ほど前に分かれた家系から即位されたのに対し、後花園天皇は3代・35年ほど前に分かれた家系から迎えられた。この程度なら、人々の記憶も残っており、直系の皇女を皇后として迎え入れる必要もなかったのかも知れない。

 この方も、遠縁から即位された故か、君徳の涵養に努められ、飢民の流亡を座視して遊興に耽り続ける第8代将軍・足利義政に怠惰や奢侈を戒める漢詩を送るなど、「近来の聖主」と称えられた。(『国史大事典』)

 いずれにせよ、我々の先祖は、この3回の危機に際して、たとえ皇女がいても女性天皇とはせず、相当な遠縁でも男系男子を猶子として迎え入れて皇室を維持してきたのである。これが126代の皇統をお守りしてきた我らが御先祖様の叡智であった。


■5.二種類の女性天皇

 それでは歴史上、8人10代(お二方が二度即位されている)の女性天皇はなぜ生まれたのか。それは主に、次の2つの理由から「中継ぎ」として即位されたのである。

・先帝が崩御または退位された際に、幼い皇子が成人するまでの中継ぎとして・・・第41代持統天皇、第43代元明天皇、第44代元正天皇、第109代明正天皇、第117代後桜町天皇。

・先帝が崩御または退位された際に、有力後継候補が複数いて、すぐには決められない場合に、元皇后などのお立場による中継ぎとして・・・第33代推古天皇、第35代皇極天皇(重祚されて第37代斉明天皇)

 上記、7人8代の女性天皇の場合は、いずれも男系男子の後継者に皇位を譲る事が明確であり、その時期を待つための中継ぎであった。したがって、これらの女性天皇の御存在も男系男子の皇統を守るための智慧であった。

 唯一、異なる事例が、第46代孝謙天皇(重祚して第48代称徳天皇)である。第45代聖武天皇と光明皇后の皇女として生まれたが皇子の早世により、国史上初の、そして最後の女性皇太子となった。父帝崩御の後、即位してから、天武天皇の孫である第47代淳仁天皇に譲位した。ここまでは良かったが、両者の不和から兵乱が起こり、淳仁天皇は廃されて、淡路島に流された。

 第48代称徳天皇として重祚すると、看病僧・道鏡は天皇の寵愛を良いことに、宇佐八幡神の託宣と詐って皇位を狙った。この皇統史上最悪の危機を阻止したのが和気清麻呂だった。清麻呂は後に「勤皇の忠臣」として称賛され、またこの失敗からだろう、本格的な女性天皇は二度と擁立される事はなかった。

 ただ、孝謙・称徳天皇も含め、すべての女性天皇は、先帝の皇后として寡婦、あるいは生涯未婚のままで、御在位時に配偶者はいなかった。したがって女系のお世継ぎが生まれる可能性はまったくなかった。

 これに「皇女が皇族外の男性と結婚すると皇族から外れる」というルールを合わせ考えると、男系でない男子を皇族には入れない、という原則が見てとれる。女性は一般国民からでも皇族に入ることができ、皇后にもなれる。しかし、男性は完全にシャットアウトされているのである。

 これは道鏡のような野望を持つ男性を、万が一にも皇族に入れないための叡智であろう。昨今伝えられる眞子女王と小室圭氏の結婚騒動は、女性天皇論議への天の警告でもあるようだ。


■6.皇位継承の史実を整理してみれば

 以上を整理してみると、皇位継承の危機の際に、次の3つの方法が採用された。

1)「猶子」:直系の男系男子が不在の場合、たとえ皇女がいても、遠縁の男系男子を猶子として皇位継承・・・3事例とも継承成功。
2)「中継ぎ女性天皇」:後継の皇子が幼少、または有力候補が複数いて、すぐには決められない場合の女性天皇による中継ぎ・・・7事例とも継承成功。
3)「本格的女性天皇」:皇女が本格的な女性天皇として即位・・・1事例のみ。皇統最悪の危機を招く。

 これだけの史実を見れば、3)「本格的女性天皇」を理性的に是認しうる人間がいるとは思えない。いるとすれば、密かに「天皇制」廃止を目指して、確信犯的に3)を主張する輩であろう。もともと「天皇制」を否定していた共産党が、突然、女性天皇を議論しよう、などと言い出したのは、この戦略であると疑わざるを得ない。

 注目すべきは、上記の3つのいずれにおいても、「男系」そのものは完全に守られてきたことである。126代の一度たりとも.男女を問わず男系でない人間が皇位についた例はない。何故に、我々の先祖はこれほどまでに男系にこだわってきたのか?

 ここで筆者が思い起こすのは、「理性の限界」と「死者の民主主義」という二つの言葉である。「理性の限界」とは、多くの知識人が支持した共産主義が、一億人とも呼ばれる犠牲者を出した失敗からも明らかであろう。その失敗から目をそらして、未だに共産党と名のっている人々がいることも「理性の限界」の一例である。

 伝統や習慣の意義を合理的に説明できないからと言って否定するのは、自らの理性の限界を弁えない、近代人特有の理性過信である。「男女平等」などという観念から「男系の維持」を否定するのも、その一種である。

 限界ある理性を補うのが「死者の民主主義」である。男系の維持は、ほぼ2千年に及ぶ我らが御先祖様が選択してきた結果である。おそらくこれが一因となって、126代もの安定した皇位継承をもたらし、それによって中国や西洋に比べれば、我が国民ははるかに平和な、幸福な歴史を過ごしてきた。

 長い歴史を経た皇室制度などに関わる政治的決定は、我々現世代の限られた理性だけでなく、過去の皇室制度を支えてきた無数の御先祖様、すなわち「死者」たちの経験と叡智と意思に耳を傾けなければならない。これが「死者の民主主義」が示す道である。

 そして御先祖様たちがうまく解決できた問題に関しては、遠慮なくその叡智を拝借し、失敗したやり方に関してはその経験を生かさねばならない。皇位継承の問題に関しては、猶子という成功した叡智に学び、失敗しかけた本格的女性天皇の道は避ける、というのが、賢明な国民のとるべき道であろう。

「男系」へのこだわりも、猶子の智慧で維持できるのだし、そのディメリットも歴史上、一向に現れていないのだから、わざわざこの伝統を崩さねばならない合理的理由もない。


■7.皇位継承者の極端な現象は占領軍の遺制

 現代において、ご先祖様の猶子の叡智を活用して皇位継承者を増やす方法として、小堀桂一郎・東大名誉教授が次のようにまとめた提案が最も現実的だろう。

__________
・・・今後、結婚される女王様方の御配偶が、血統の上で皇統につながっており、且つ、それがなるべく近い過去に於いて、そのつながりが証示できる様な方であれば、その御当人でなくとも、その次の世代の男子(母方の血筋からしても、皇室の血を引いておられることが明らかなのであるから)が、皇位継承権を保有されることは、系譜の論理から言つて、道理に適(かな)つたものになる。[1, p54]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 ここで言う「血統の上で皇統につながって」いる方とは、昭和22(1947)年10月14日付けで占領軍から皇籍離脱を命ぜられた旧11宮家ご出身の方々となろう。戦後の新しい皇室典範が施行されたのは、この5か月程前の5月3日であり、11宮家はそれまでの間、新皇室典範のもとでも皇籍に属しておられた。それを日本国家国民の意思とは関係なく、占領軍の指令で離脱を強制されたのである。[2, p152]

 現在の皇位継承者の極端な減少は、この占領軍の皇室弱体化政策によるものであり、憲法と同様、戦後体制の一環である。したがって、2千年の我がご先祖様の叡智に従って、これを是正していくことは現世代の責務であろう。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. 伊勢雅臣『日本人として知っておきたい 皇室の祈り』、育鵬社、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594079032/japanonthegl0-22/
アマゾン「メディアと社会」「ジャーナリズム」カテゴリー 1位(H30/2/1調べ)
万民の幸せを願う皇室の祈りこそ、日本人の利他心の源泉。

b. JOG(416) 万世一系のY染色体〜「女性天皇問題」は歴史の知恵に学べ
 我が国の歴史は、すでに解答を用意している。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h17/jog416.html

c. JOG(462) 皇位継承 〜 聖なる義務の世襲
 国家の中心には、ひたすら国民の安寧と国家の繁栄を祈り続ける方が必要である。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h18/jog462.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 小堀桂一郎『象徴天皇考』★★★、明成社、H31
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4905410541/japanontheg01-22/

2. 小堀桂一郎『皇位の正統性について―「万世一系の皇祚」理解のために』明成社、H18
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4944219466/japanontheg01-22/

http://blog.jog-net.jp/201905/article_2.html

8. 中川隆[-10451] koaQ7Jey 2019年5月15日 16:58:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1843] 報告

男系天皇正統論について(1)2006年01月16日
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/d748938fcb5169511aaf24101d5e8d43#comment-list

女性天皇・女系天皇に反対する意見をよく見かける。

問題点を私なりに整理すると、「血の幻想」と「女性差別」という二点あると思う。

 1 血の幻想
皇族に男子の後継者がいない現状をこのままにしておくと、男系が途絶えてしまう。
そこで男系天皇論者は、旧宮家を皇族として復帰させるべきだと主張する。
しかし、旧宮家は平成天皇とはあまりにも血縁関係が遠すぎる。

三笠宮諮mは、継体天皇、後花園天皇、光格天皇がかなり離れた傍系から天皇になっているから、旧宮家を皇族に復帰させることは問題がないと言う。
これは誤りである。

継体天皇は応神天皇の五世の孫とされているが、実際のところはよくわかっていない。
妻が仁賢天皇の娘、武烈天皇の妹ということで天皇になっているわけだから、継体天皇以降は女系ということになる。
後花園天皇の場合は8親等と離れているようだが、北朝の崇光天皇のひ孫である。
光格天皇も東山天皇のひ孫であり、先代の後桃園天皇の一人娘を妻にしているから、女系とも言える。
いずれも天皇との血縁関係がそれほど遠いわけではない。

かりに三笠宮諮mに息子がいたら大正天皇のひ孫になるから、その息子は現皇太子とは7親等ということになる。
ところが、旧宮家はすべて伏見宮家の分家で、伏見宮家は初代(1351〜1416)が崇光天皇の息子なのである。
今までこれほど男系の血縁関係が離れているのに天皇になった人はいない。

だったら、南朝の末裔だという熊沢天皇だっていいじゃないかという話になる。
ずっと以前、鹿児島の知り合いから、明治天皇の落とし胤が近所にいるという話を聞いた。
本当かどうか知らないが、血の濃さを言うなら明治天皇の落とし胤が天皇になってもおかしくない。
しかし、DNA鑑定で明治天皇と血縁関係があるとわかったとしても、多くの人はそういった人が天皇になることはいやだと思う。
血よりもイメージなのであって、神武天皇のDNAが問題なのではない。

血というのは幻想である。
我が家は300年続いていると自慢する人がいる。
途中、養子をもらって血のつながりは切れていても、気にせず、血縁で長年続いてきた由緒ある家なんだという幻想を持っている。

こういう家信仰の総本家が天皇家である。
家信仰が血となり肉となっている私たちは、天皇家は万世一系なんだ、純粋さを保ってもらいたいという幻想を抱いているにすぎない。
こうした血の幻想が女性への差別を生んでいる。

 2 女性差別
もともと日本は母系社会だったのに、父系になったのは中国の影響である。
中国では伝統的に、男子がいなければ家は絶え、先祖祭祀をしてもらえなくなるので、死者は苦しむと考えてきた。
日本でも跡が絶えた家は「無縁」と言われ、気にする人もいる。
養子はダメなのかというと、日本人はそんな杓子定規なことは言わない。
とにかく家が続けばいいという考えである。
日本人はそういういい意味でのいい加減さがあるが、中国人の場合、そうはいかないらしい。

「風の旅人」という雑誌に、李小明「永遠の魂―中国、カトリック教の村―」という文章がある。
これがなかなか面白い。
現在、中国には約1000万人のカトリック信者がいる。
中華人民共和国になってからずっと弾圧され、今は緩和政策がなされているといっても圧力があることには変わりない。
中国政府が抑圧政策をとっていたため、カトリック信者のほとんどは田舎で暮らしている。
陝西省のカトリック信者の住むある村の話。

ここに300を越えるカトリック教徒の家族、そのほとんどが、捨て子を養子にしている。捨て子のほとんどは女の子であり、もし男の子であるならば、障害者であることが多い。


70年代の終わり以降中国は一人っ子政策を採用してきた。中国では伝統的に、健康な男の子がいなければその家系は途絶えるとされており、生まれてくる赤ちゃんが女の子や障害を持った男の子であると、赤ちゃんを捨ててしまう。
近隣の村人は、カトリック教徒なら必ず子供を育ててくれると知っており、わざわざ教会の前に子供を捨てる。

男系にこだわるあまり自分の子供ですら捨ててしまう中国のことを、男系天皇論の人は笑えない。
女系天皇反対の人は、女は中継ぎにすぎないと公言し、女性を切り捨てているのである。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/d748938fcb5169511aaf24101d5e8d43#comment-list

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男系天皇正統論について(2)2006年01月17日
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/2201f76480cab631b9a50777561adff8


女系天皇を否定することは女性差別につながるということについて、三点をあげてみました。

 @子供がいない妻、男子がいない妻
家の跡取りである男の子を産めない女性は肩身の狭い思いをさせられている。
有吉佐和子『紀ノ川』の主人公、花の最初に産まれた子は男だったが、二番目は娘だった。
産声をあげて生まれ出たのは敬策(花の夫)の期待を裏切って女児であった。

「女かい」
敬策は、いたく失望した。
「また産みますよし」
「あたり前や」

昭和天皇に女の子が産まれるたびに、「また女か」という声があちこちでささやかれたかもしれない。

佐々部清『四日間の奇蹟』の女主人公は、代々続いている由緒ある旅館の跡取りと恋愛し、結婚するが、子供ができない。
「うちは何代も続いているのに」という皮肉に耐えきれず、愛する夫と別れてしまう。
「嫁して三年、子なきは去る」ということで、まあ何と大時代な話よと思った。
しかし、男系天皇でなければと言っている人は、「嫁して三年」派である。

週刊誌に雅子パッシングが毎週のように出ていている。
「週刊文春」の今週号に次のような記事があった。
むずかる愛子さまを連れて…
雅子さま「2時間47分中座」
天皇ご一家が 天皇誕生日 夕食会で待ちぼうけ

宮内庁の誰かが記者に漏らしたんだろうが、それにしても「2時間47分」を誰が測ったのか、こまめな人である。
どこの家庭にもあるこんな内輪話を書かれたんじゃ、さすがにかわいそうに思う。
まわりにいる者を信用できなくなるのは当然である。

それと不思議なのは、「週刊文春」は保守派なのに、雅子さま叩きの厳しい記事が毎週のように載っていることだ。
実は「週刊文春」は天皇制の崩壊をたくらんでいるとしたら面白いのだが。

皇太子夫妻は、家と家族とのどちらを大切なのかと迫られ、家族を選ぼうとしているように思う。
「私より公」、つまり自分のことより家を大切にしろというのが「週刊文春」らの保守派の言い分なのかもしれない。

皇族というのはある種の被差別民だと思う。
「週刊新潮」の今週号にはこんな記事が。

・「公務欠席」「私事出席」で顰蹙を買った「雅子妃のワガママ」

・気に入らないと「ポイ捨て」愛子さまは大丈夫?

なんていう惹句。

こりゃなんじゃ、跡継ぎを産めない嫁をいびって追い出そうとしているのかと、勘ぐりたくなった。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/2201f76480cab631b9a50777561adff8


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男系天皇正統論について(3)2006年01月19日
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/93716e8c1e9c24148fd856f7ca5ca569


女系天皇を否定することは女性差別につながるということの続きです。

 A側室
男系を保つためには側室がいなくては無理だから、側室制度の復活を主張する人が出てきたりする。
一般人は子供ができなければ妻を追い出したわけだが、身分の高い人は側室という便利なものがある。
男系天皇を守ってきたのは側室のおかげである。

歴代天皇のうち半数は庶出だそうだ。
明治天皇は5人の女に15人の子供を産ませている。
孝明天皇の身辺には17人の女性がいて、6人子供が生まれたが、成人したのは明治天皇1人だけ。

大宅壮一『実録・天皇記』によると、大正天皇の直宮を除く宮家の創立者の全員が妾腹である。
そして、その11人のうち6人の母親は某女となっている。
母親の名前を記録にとどめる必要はないと考えられていた。
「腹は借り物」という考えなのである。
母親の血筋はあまり問われず、父系の血統だけが問題にされる。

『実録・天皇記』にこんなことが書いてある。
大沢雅五郎という儒者が、中国のこととして「古は天子に三夫人、九嬪、二十七世婦、八十一御妻相備わり」とあるのに、孝明天皇は17人の女性しかいないので、「恐れながら匹夫に均しき御姿にて実にもったいなき御事」と嘆いている。

ところが、大正天皇には側室はいない。
長子が庶出だった場合、後継者問題が生じるからというので、伊藤博文が側室を入れさせなかったと、浅見雅男『皇太子婚約解消事件』にある。
大正天皇の場合は、男子が4人も生まれたから問題はなかったにしても、昭和天皇は女子が続き、側室を入れることを進言されても拒んだ。

長い間続いてきた側室という「伝統」が変えられたのである。
それなのに今さら「昔のように『側室』を置くという手もあります。私は大賛成ですが、国内外共に今の世相からは少々難しいかと思います」なんてことを言う三笠宮寛仁の神経には驚く。

藤原正彦は「週刊ポスト」に「女系天皇容認は日本の品格を破壊する」なんて品格のない題の文章を載せているのだが、皇太子に妾を持てと勧める三笠宮寛仁の発言は品格があるかどうか聞きたいものだ。
ついでに悪口を言うと、藤原正彦は、伝統を尊ぶ風土から美が生まれ、天才が輩出する、天才が輩出することが世界から尊敬される品格ある国家の重要な指標である、イギリスがこれに当てはまる、いったことを書いている。
それにしても、イギリスの皇室は世界から尊敬される品格があると、藤原正彦は考えているらしいが、近年、品格が破壊されているように感じる。

B宮中祭祀
なぜ男系天皇だと伝統を守ることになるが、女系になったら伝統が破壊されるのか。
私にはどうも納得できなかった。
ところが、「Speak Easy 社会」というブログの「後櫻町天皇の苦労と宮中祭祀の問題」という記事を教えていただき、ああ、なるほど、と納得した。
天皇は宮中祭祀を行う。
これは神事である。
以下引用。

天皇陛下は、神事を行う存在、つまり祭祀主、神主の親玉だということです。
原則男子継承、そして絶対男系継承の本当の理由はここにあるのに違いありません。(略)
女性は、まず原理的に大嘗祭や新嘗祭の祭り主となることに問題があり、できるだけ避けるべきです。
それに加えて、生理という問題があります。
月のさわりの間、女性は、神事にかかわることは厳禁されてきました。
従って、神事と生理とが重なったら延期するしかないのですが、元日とか新嘗祭と生理が重なったら中止するしかありません。

なるほど、血のケガレがあるから女はダメなのか。
たしかにケガレを忌むのは日本の伝統である。

ちなみに、皇室の祭祀の多くは明治以降に作られたものである。
だから、後桜町天皇が現在、宮中で行われている祭祀をすべて行っていたわけではない。

ニキ・カーロ『スタンドアップ』という映画は、鉱山で働く女性が職場の男性たちからセクハラを受け、裁判に訴える話である。
鉱山は男の職場なのに女たちが入ってきて男の仕事を奪った、というので男たちは嫌がらせをする。
女系天皇反対論と似ていると思った。
とは言っても、『スタンドアップ』を見て私自身、女が出しゃばらなければこんなことは起きなかったのに、と思ったのも事実である。

天皇家の後継者問題を解決する一番いい方法は、皇太子、秋篠宮が離婚して、若い女性と再婚することだと思う。
おそらく国民の多くは仕方ないと納得するだろう。
https://blog.goo.ne.jp/a1214/e/93716e8c1e9c24148fd856f7ca5ca569

9. 中川隆[-10452] koaQ7Jey 2019年5月16日 17:19:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1846] 報告

女性天皇が禁止に至った経緯 最盛期は2人に1人が女性だった

聖徳太子は女性天皇の下で活躍した


画像引用:https://gqjapan.jp/uploads/media/2016/05/30/prince-shotoku.jpg


2人に1人が女性天皇の時代もあった

新天皇が即位して再び女性宮家や女性天皇の議論が活発化しています。

現在は男性のみ天皇になれると規定されているが、かつては女性も普通に即位していました。

もっとも多かった頃は即位した天皇の2人に一人が女性だった時代もあり、女性天皇ブームと言えるほどでした。




ある時期から女性天皇が消えた理由は、極めて評判が悪い女性天皇がいたため、「女性は天皇に向いていない」という考えが広まったためでした。

日本では公式に即位した女性天皇は8人で、西暦593年から1770年まで約1100年間に渡って即位しています。

この中の第33代推古天皇から48代称徳天皇まで、推定西暦600年頃から764年まで、女性天皇が特に多かった。


この間即位した16回のうち8回が女性、重祚(何度も即位する事)が2回あったので人数としては6人が女性だった。

その前にも22代の後に飯豊天皇、14代の後に神功皇后が天皇として政治を行ったが、まだ天皇は男性に限るとされていたので正式な即位はしていない。

女性天皇が正式に即位した最初の例は推古天皇で、有名な聖徳太子が皇太子として実際の政治を行った。


33代推古天皇の父は29代欽明天皇で、この間に男子である兄らが即位し、夫の33代敏達天皇が崩御していた。

弟の32代崇峻天皇は蘇我馬子に暗殺されてしまい、蘇我馬子に請われて史上初めて女性天皇として即位した。

推古天皇は甥の聖徳太子を皇太子とし、仏教導入や十七条の憲法、遣隋使の派遣など輝かしい実績を挙げた。


推古天皇と聖徳太子の大成功で女性天皇の全盛期を迎え、35代皇極天皇(斉明天皇)が即位した。

女性天皇が禁止になったきっかけ

皇極天皇は34代舒明天皇の妻で、この頃から「夫から妻」という代替わりが普通になっていった。

皇極天皇の息子は中大兄皇子で、唐と新羅相手に「白村江の戦い」を行い、敗れはしたがこの時から日本は大陸中国と永遠のライバルになった。

皇極天皇の時代に中大兄皇子は「大化の改新」を断行し、部族的な集合体だった日本列島は天皇を中心とした中央集権国家に変貌していく。


こうして女性天皇は優秀な摂政や皇太子を働かせることで華々しい成果を挙げたが、次第に問題点も明らかになってきた。

問題の一つ目は女性は自分が生んだ子供しか後継ぎがいないので、結婚しなかったり子供を産まなければ子孫が絶えてしまう。

2つ目の問題は好悪の情や好き嫌いが激しく、人のえり好みをしたりえこひいきが酷かった。


自分が好きな男性だけを周囲に集めてクラブかサロンのようにしてしまい、嫌いな人は一切近づけない。

こうした問題が一気に噴き出したのが46代孝謙天皇(称徳天皇)の時でした。

父の聖武天皇には男子の子がなく、一人娘として女性皇太子になり、31歳の時に父から譲位されて孝謙天皇となった。


孝謙天皇は結婚せず子供もなかったが、後継者争いには口を出し親戚筋にあたる淳仁天皇に一度は譲位した。

上皇になってからむしろ女帝として振舞うようになり、清国の西太后のような存在に変わっていった。

やがて淳仁天皇は孝謙天皇のお気に入りではなくなってしまい、取り巻きの一団にクーデターを起こさせ、自らが再び称徳天皇として即位した。


御所は混乱を極めたが称徳天皇は取り巻きに「お気に入りの男子」だけを集めて政治を行い、嫌いな者を遠ざけた。

称徳天皇は「いじめ」も大好きで、嫌いな者を「下女」や「鈍い」のような意味の名前に改名させたという。

これ以降御所では「女性天皇はタブー」になり、江戸時代に一人即位しただけとなっている。


孝謙天皇の評判がもう少しマシであったら、今も女性天皇が続いていたかも知れなかった。
http://www.thutmosev.com/archives/79785999.html

10. 中川隆[-10311] koaQ7Jey 2019年5月20日 05:45:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2016] 報告

匿名 より: 2019年5月20日 3:13 AM

男系継承できたのは側室制度があったから。

戦後臣籍降下した11宮家はすでに5宮家は断絶し、旧伏見宮家も現当主には女子しかおらず断絶の危機。

旧賀陽宮家も6人の男子のうち後継者に恵まれたのは1人だけ、旧久邇宮は現当主の60代の二人の息子さんには子供がおらず、旧朝香宮も現当主の40代の一人息子さんも子なし。

旧竹田宮家と旧東久邇宮家には数人の男子がいるけどこれからも確実に男系継承できる保証はどこにもない。竹田氏はその事実を隠している。

水間氏の120人の名簿も実にくせもので、男系後継者のいない60代、70代までいれているから、亡くなられた方もいるから今現在は100人もいないぐらいだと思う。

名簿の最上位の華園家はお嬢さん一人しかいないし、梶野家も後継男子はいなかったはず。

はっきり言って、側室制度がない限りいつ、どの段階で女系継承を認めるかということだと思う。
https://rondan.net/22688

11. 中川隆[-10234] koaQ7Jey 2019年5月22日 18:21:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2105] 報告

2019-05-21
「記録の国」中国に「前王朝の痕跡を根こそぎ消してきた」と難癖をつけるネトウヨさんの蛮勇
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/05/21/221649

■ 中国では各王朝が前代の正史を編纂してきたのだが…

何度教え諭されても、入れ替わり立ち替わり、ドヤ顔でこういうことを言い出すネトウヨさんが現れる。

msmnia @msmnia
民族が替わり、前王朝の痕跡を根こそぎ消してきた近隣諸国に「歴史ガー」とか「反省ガー」とか言われる筋合いなんてこれっぽっちもないと思う。そしてこの世界最古の国家の背骨こそが皇統であるという歴史だけは日本人全てが共有すべきファクトなのだ。
7:00 - 2019年5月15日


弥栄瑞穂 @Shooting_Water
この人、日本が「前の戦争の時に記録という記録を破棄しまくり、現代においても都合の悪い記録を政権が破棄しまくってる」中で「王朝が倒れた時に次の王朝が歴史書を書き始められるだけの記録をたんまり残しておく」中国に何ケンカ売ってるの。

kizitora @anyatoraneko
前王朝首都を落としたらまっさきに公文書を保全し、高級官僚候補者を最初に歴史編纂室に配置する、歴史至上主義とすら言われる民族ですよ。
民主主義になった民国や、共産主義になった中国共産党ですら膨大な時間人員をかけて「清史」を編纂する国。共産党版清史は近日三千万字のものを公開予定。
23:46 - 2019年5月15日

中国の各王朝が前王朝の痕跡を根こそぎ消してきたのなら、歴代各王朝の正史はどうやって書かれてきたのだろうか。子どもでもわかりそうな当たり前の話だ。

冒頭のツイートで使われている画像は、世界史対照年表(吉川弘文館)の日本の部分だけを赤一線で塗り潰した粗雑な代物だ。「世界最古の国家」どころか、他の国と同じレベルで時代を区切れば、現在の日本国が成立したのは、連合国への無条件降伏により大日本帝国という旧体制が崩壊し日本国憲法に基づく国家となった1947年、わずか72年前のことである。

■ 前王朝の痕跡を根こそぎ消してきたのは大和朝廷

ちなみに、古代にまでさかのぼっても、「前王朝の痕跡を根こそぎ消して」きたのは中国や韓国ではなく、むしろ日本のほうだ。

大和朝廷が編纂した最古の正史である日本書紀の神代紀には、やたらと「一書」という表現が現れる。例えばその冒頭部分は次のようになっている。


神代上

【本文】古いにしへに天地未だ剖わかれず、陰陽分れざりしとき、混沌まろかれたること鶏子とりのこの如くして、溟Aほのかにして牙きざしを含めり。(略)時に、天地の中に一物ひとつのもの生なれり。状かたち葦牙あしかびの如し。便すなはち神と化為なる。国常立尊と号まうす。次に国狭槌尊。(略)

【一書第一】一書あるふみに曰いはく、天地初めて判わかるるときに、一物虚中そらのなかに在り。状貌かたち言ひ難し。其の中に自づからに化生なりいづる神有います。国常立尊と号す。亦あるいは国底立尊と曰す。次に国狭槌尊。亦は国狭立尊と曰まうす。(略)

【一書第二】一書に曰はく、古に国稚いしく地稚しき時に、譬たとえば浮膏うかぶるあぶらの猶ごとくして漂蕩ただよへり。時に、国の中に物生れり。状葦牙の柚ぬけ出でたるが如し。此に因りて化生づる神有す。可美葦牙彦舅尊と号す。次に国常立尊。次に国狭槌尊。(略)

【一書第三】一書に曰はく、天地混まろかれ成る時に、始めて神人有す。可美葦牙彦勇尊と号す。次に国底立尊。(略)

【一書第四】一書に曰はく、天地初めて判るるときに、始めて倶ともに生なりいづる神有す。国常立尊と号す。次に国狭槌尊。又曰はく、高天原に所生あれます神の名を、天御中主尊と曰す。次に高皇産霊尊。次に神皇産霊尊。

【一書第五】一書に曰はく、天地未だ生らざる時に、譬へば海上に浮べる雲の根係る所無きが猶し。其の中に一物生れり。葦牙の初めて泥ひぢの中に生でたるが如し。便ち人と化為る。国常立尊と号す。

【一書第六】一書に曰はく、天地初めて判るるときに、物有り。葦牙の若ごとくして、空の中に生れり。此に因りて化る神を、天常立尊と号す。次に可美葦牙彦勇尊。又物有り。浮膏の若くして、空の中に生れり。此に因りて化る神を、国常立尊と号す。

このように、各段ごとにいくつもの「一書」から文章が引用されている。その数をまとめると次のようになる。[1]

段 内容 一書の数

一 天地未剖 6
二 神生み 2
三 神世七代 1
四 国生み(大八洲国) 10
五 天照たちの誕生 11
六 二神の誓約 3
七 スサノオの追放 3
八 大蛇退治 6
九 天孫降臨 8
十 海幸山幸 4
十一 神武兄弟の系譜 4
計 58


ここからは、次のことがわかる。

まず、日本書紀に先行して、既に複数の史書が成立していたこと。次に、そもそも「一書」などという名の史書はありえないので、日本書紀はこれらの史書の書名を隠しているということ。

そして、これらの「一書」は、神代紀に続く神武紀(神武ことサヌの近畿侵入以降)の段階になると、突然その姿を消してしまう。

これらの「一書」は、みな神話だけを記載していたのだろうか。

そんなはずはない。日本書紀それ自体と同様に、これらの史書も、神話に続いて、そこで語られた神々の血を引く「正当な王者の系譜」とその「輝かしい物語」を記していたはずだ。その部分を「一書に曰く…」として引用しないのは、そこで語られている系譜が近畿天皇家のそれではないからだろう。

要するに、近畿天皇家こそが、先行する王朝の痕跡を根こそぎ消して、残された史書から都合のいい部分だけを剽窃していたのだ。

「この世界最古の国家の背骨こそが皇統」とかいうお話は、「日本人全てが共有すべきファクト」どころか、日本最古のフェイクと言うべきだろう。

[1] 古田武彦 『古代は輝いていた(3)』 朝日新聞社 1985年 P79-80

※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』(岩波文庫 1994年)に基き、一部変更・補足している。

http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/05/21/221649

12. 中川隆[-10179] koaQ7Jey 2019年5月24日 07:03:28 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2162] 報告
愛子を天皇にして、結婚までさせると女系天皇になるんだ

愛子が黒人と結婚したらその婿はニグロ王朝の始祖になる
愛子がホッテントットと結婚したらその婿はホッテントット王朝の始祖になる
愛子が中国人と結婚したらその婿はチャンコロ王朝の始祖になる
愛子が在日と結婚したらその婿はチョン王朝の始祖になる

という話だ。 その婿は実質的には新王朝の始祖だ


「万世一系」自体が嘘で、しかも愛子の婿が準天皇になるんなら、もう天皇制なんか意味ないんだよ


天皇はチョンなんだから祖国の韓国に引き取ってもらって、毎日 日本の戦争犯罪をチョンに詫びてもらうのが一番いい

血統書付きの犬をそこらへんの雑種犬と交尾させて、
生まれた小犬にも血はちゃんと繋がっていると主張しても
その小犬が由緒正しい血統の犬だとは誰も認めない

オバマ大統領は白人と黒人のハーフだけど、みんなニグロだと思ってるだろ。

同じ様に、愛子が在日と結婚してハーフの皇太子ができたら、みんな その皇太子をチョンだとしか思わない

チョンを天皇として崇める日本人も、チョンの天皇の為に天皇陛下万歳と言って特攻する日本人もいない

天皇制はチョンの皇太子が生まれた時点で終わりになる

13. 中川隆[-10161] koaQ7Jey 2019年5月25日 12:28:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2186] 報告

民間男性を皇族にせず天皇制を続ける方法 5/25
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190525-00028756-president-soci&p=1


多くのヨーロッパの諸王国が女系継承を容認したのに対し、フランスはたびたび代をさかのぼって遠縁をたどってでも、男系継承を守り続けた――1594年2月27日のアンリ4世(図中央)の戴冠式(写真=Roger-Viollet/アフロ)

https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190525-00028756-president-soci.view-000


日本の皇位継承をめぐって、「女性天皇」のあり方が議論になっています。女系の継承を認めた場合、野心家の民間人男性が「婿」として皇統を乗っ取る恐れがあります。皇室典範が定める「男系男子継承」を続ける方法はないのでしょうか。著述家の宇山卓栄氏は「側室が現実的でない今、そのヒントはヨーロッパ史にある」と指摘します――。

■「側室」の制度がなかったヨーロッパ

 新しい天皇陛下が即位され、新しい元号・令和が始まりました。皇室への国民の関心が改めて高まるとともに、皇位継承に関する報道も増え、注目が集まっています。

 現在、わが国では、皇室典範の規定により、男系男子にしか皇位継承を認めていません。しかし、男系男子の皇位継承者を永続的に多数、維持することは容易ではないため、男系男子以外にも皇位継承権を認めるかどうかという議論がなされています。本稿では、そのような議論をいったん脇に置き、男系男子継承がそもそも持続可能なものなのかどうかを、多数の王室が存在したヨーロッパの歴史から考えていきたいと思います。

 「男系継承者の維持が難しいのは側室が置かれなくなったからだ」とする見解があります(日本の皇室では明治天皇の時代まで側室が置かれていましたが、それ以降は置かれていません)。この見解は正しいのですが、それだけが理由で継承者維持の困難さが生じているわけではありません。というのは、側室がいなくとも、男系男子の継承が長期間続いた例があるからです。フランス王室です。

 ヨーロッパの王候貴族は側室を持たず、公妾を持ちました。側室と公妾が決定的に違う点は、その子が地位や財産などの継承権を持つか持たないかです。側室の生んだ子は継承権を与えられたのに対し、ヨーロッパの公妾の生んだ子は王の正式な子として扱われず、王位継承権や財産相続権も認められません(王から爵位を授かって、一貴族となるのが通例でした)。

 ちなみに、公妾は公式な地位であり、フランス王ルイ14世の公妾マントノン夫人、ルイ15世の公妾ポンパドゥール夫人に代表されるように、王のブレーンとして、外交や人事、学芸の振興などに深く関わりました。公妾は単なる王の愛人ではなく、宮廷の政治や文化を支える廷臣でした。ルイ14世の王后マリー・テレーズの亡き後、マントノン夫人は事実上の王后として振る舞いました。


■女系継承を認めた結果「乗っ取り」が多発

 アジア各国では側室制があったために、皇帝や王に何十人も子供がいるのは普通でした。皇帝や王自身が健康でありさえすれば、男系子孫をいくらでも残すことができ、継承者が途絶えることはありませんでした。側室制によって、男系子孫を絶やさないようにしたことは貴族や武家も同じです。

 これに対してヨーロッパでは、前述のように公妾の子に王位継承権が認められなかったため、王統の継承は、皇后・王后の出産にかかっていました。当然、后によっては子供ができなかったり、女子しか生まれなかったりということがたびたび起こります。そういう状況で男系継承にこだわれば、王統は断絶してしまいます。そこでやむなく、女系継承を認めて王統の継承の安定を図ったのです。

 しかし、女系継承を認めた結果、ヨーロッパ各国の王室では、婚姻政策による王位乗っ取りのようなことが頻発しました。有名な例が、ハプスブルク家の積極的な婚姻政策です。1496年、スペイン王女フアナはハプスブルク家の皇子フィリップと結婚しました。2人の間にできた長男が、カール5世(スペイン名:カルロス1世)です。

 スペイン王国に男子の跡継ぎがなかったため、カール5世はスペイン王位を母フアナから相続します。こうして、ハプスブルク家は合法的にスペイン王国を「乗っ取った」のです。同様の手法でハプスブルグ家は諸国を乗っ取り、現在のオーストリア、ドイツ、オランダ、ベルギー、スペインに相当する、広大な領土を有する大帝国を築き上げました。

■フランスはなぜ男系継承を維持できたか

 そうした婚姻政策が横行する中でも、フランス王室は男系男子の王位継承を800年以上も維持しました。987年にユーグ・カペーがフランス王位に就いてから、フランス革命で1793年にルイ16世が処刑されるまでの期間です。その後1814年からの復古王政で即位したルイ18世、その後を継いだシャルル10世もブルボン家の男系、7月王政で擁立された国王ルイ・フィリップも、ブルボン家の支流であるオルレアン家(ルイ14世の弟フィリップの子孫)の血筋でした。

 1848年の二月革命によってルイ・フィリップは廃位され、イギリスに亡命。フランス王政はここで終わりました。とはいえ、フランス王統の男系男子の血筋は今日まで続いており、現在はオルレアン家の当主であるジャン・ドルレアンが、名目上のフランス国王ジャン4世となっています。つまり、王家の「血の継承」が1000年以上も続いていることになります。

フランス王室が男系継承を維持できた最大の理由は、直系子孫にこだわらず、遠縁の男系子孫にも王位継承権を広げたからです。フランス王室も嫡出の男子が途絶えることがあり、その度に代をさかのぼって王家の血を引く遠縁の男系子孫を連れて来て、王位を継がせました。

 たとえば、カペー王朝は1328年に直系の男子が途絶えると、2代さかのぼった王の次男(ヴァロワ家)の嫡男をフィリップ6世としました。シャルル8世が1498年、嫡男を残さず逝去すると、やはり、4代さかのぼった王の次男(ヴァロワ・オルレアン家)の嫡孫がルイ12世に。ルイ12世も1515年、嫡男を残さず逝去したため、2代さかのぼった公爵の次男(ヴァロワ・アングレーム家)の嫡孫がフランソワ1世となりました。

 1589年、アンリ3世が暗殺され、彼に子がなかったため、ヴァロワ朝は断絶します。この時には約300年さかのぼり、聖王ルイ9世の血統につながるブルボン家のアンリ・ド・ブルボンがアンリ4世となり、ブルボン王朝を開きました。このブルボン王朝から、17世紀に太陽王ルイ14世が出ます。

 このように、フランス王室はカペー朝を開いたユーグ・カペーの男系子孫たちが、脈々と王位を継承しました。つまり、本家のカペー王家、分家のヴァロワ家とブルボン家の血筋により、男系継承を維持したのです。この例からも、側室制がない場合、男系継承の維持のためには、世代をさかのぼって分家から男系子孫を継承者に据えるという方式が有効であることがわかります。

■「女性天皇」と「女系天皇」の大きな違い

 現在日本の皇室をめぐっては、とくに女性の天皇即位を認めるかどうかでさまざまな議論がなされています。その場合、一代限りの「女性天皇」を認めるのか、その女性天皇と民間人の夫の子にも皇位継承権を認める「女系天皇」までを是とするのかでは、皇位継承における意味が全く異なります。「女系天皇」までを是とした場合、ハプスブルグ家の婚姻政策のような、あるいは野心家の民間人男性による、皇統の「乗っ取り」の可能性を開くことにもなりかねません。

 日本の歴史にはかつて8人の女性天皇が登場しましたが、これらの女性天皇はすべて、男性天皇の子、あるいは男性天皇の男系の孫・ひ孫などの「男系の女性天皇」でした。「女系天皇」は存在せず、今日に至るまで天皇家は男系を離れたことがありません。

 天皇家は民間女性を皇后などに迎えて皇族にすることはあっても、民間男性を皇族にしたことはありません。民間の男性は皇族になれないのです。つまり、男系継承とは女性を排除する制度ではなく、むしろ皇族/王族外の男性を排除し、「王朝の交代」を防ぐ制度なのです。

■「フランス方式」を検討する意義はある

 1000年にわたる男系継承を可能にしてきたフランス方式を、直ちに現在の皇室に当てはめることは困難かもしれません。文化や伝統の違いに加え、時代環境の差もあります。昔の后は現在ほど公務に追われることなく、出産に専念できましたし、フランス王室では、男子が産まれない王后と離縁し、再婚することもできました。いずれも、現在の日本の皇室にとって現実的ではありません。

 それでも、今後の皇位継承を考えるうえで、フランス方式を検討してみる意義はあると思います。具体的には、戦後、皇籍離脱した旧皇族の皇籍復帰により、男系の皇位継承権者の範囲を広げるという措置になります。復活する宮家が2〜3あれば十分かと思われます。「そもそも男系継承にこだわるべきではない」とする論者にとっては意味がないかもしれませんが、男系継承を維持するべきと考える人にとっては、最も妥当な措置であるのは言うまでもありません。

 一方で、疑問の声もあります。臣籍降下(皇籍から離れ一般人となること)されたかつての宮家の人々はこれまで、われわれと同じように「俗人」として過ごしてきました。それにもかかわらず、ある日を境に皇族や皇位継承者になるということに、国民の理解が得られるのかどうか。ひとたび俗人となった人が皇族となって、崇敬されるのか。もし皇位継承者にふさわしくないような人物が含まれていたら、どうするのか――。こうした観点から、無理に男系継承にこだわることは天皇制をかえって危うくするという、女系継承容認の立場からの批判も根強くあります。

 女系継承容認論を含め、どのような措置も百点満点とはいえず、またどのような制度改変にも困難や障害がつきまといます。であるならば、フランス方式も一つの選択肢として、より多くの国民の理解を得られる皇位継承制度を築くための議論を積み重ねていけばよいのではないでしょうか。
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190525-00028756-president-soci&p=1

14. 中川隆[-8915] koaQ7Jey 2019年8月01日 08:10:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3809] 報告

2019年05月12日 神武天皇のY染色体
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_21.html

 皇位継承にさいして男系維持派がY染色体を根拠とすることについては、すでに11年半近く前(2007年11月)に当ブログで述べましたが(関連記事)、今でも男系維持派がY染色体を根拠とすることもあり、一部?の界隈ではすっかり定着したようです。この問題について当時も今も思うのは、皇位継承のような物語性の強い社会的合意事項に安易に自然科学の概念を持ち込むべきではない、ということです。重要なのは、少なくとも6世紀半ば以降、皇位(大王位)が男系で継承されてきた、という社会的合意(前近代において、その社会の範囲は広くなかったでしょうが)であり、それは自然科学の概念とは馴染まない、と思います。

 男系継承においてY染色体を根拠にしてしまうと、生物学的確実性が要求されるわけで、どこかで「間違い」が起きた場合、それ以降の天皇の正統性が損なわれることになります。もちろん、現実には宮中においてそうした「間違い」が生じる危険性はかなり低いとは思います。ただ、皇位(大王位)の男系継承が6世紀半ば以降としても、すでに1400年以上経過しているわけで、どこかで1回「間違い」が起きた可能性は無視できるほど低いものではないと思います。

 この問題でよく言及されるのは『源氏物語』でしょうが、これはあくまでも創作であり、じっさいに「間違い」が起きた根拠にはできませんし、そうした「間違い」が起きる危険性はかなり低かったのかもしれません。ただ、皇后に仕えて後宮の事情に精通していただろう紫式部が『源氏物語』でわざわざ「間違い」を取り入れたのは、ある程度以上の現実性があったからではないか、とも考えられます。もっとも、『源氏物語』での「間違い」の結果でも、「初代天皇」と生物学的に父系でつながっていない天皇が即位したわけではありませんが。具体的な「間違い」ではありませんが、状況証拠的な事例としては、江戸時代初期の猪熊事件があります。

 現実の「間違い」としては、崇光天皇の皇太子に立てられた直仁親王が、公式には花園院の息子とされていたのに、実は光厳院の息子だった、という事例があります(佐伯智広『皇位継承の中世史 血統をめぐる政治と内乱』P179〜180)。直仁親王が崇光天皇の皇太子に立てられたのは光厳院の意向で、花園院の甥の光厳院が親王時代に世話になった叔父に報いた、という美談として当時は受け取られたかもしれませんが、裏にはそうした事情があったわけです。なお、光厳院は院政を継続するために、直仁親王を皇太子に立てるさいに養子としています。もちろん、直仁親王が光厳院の実子だったのか否か、DNA鑑定がされたはずもなく断定できるわけではありませんが、少なくとも光厳院は直仁親王が実子だと確信していました。もっとも、直仁親王の事例にしても、『源氏物語』と同じく、初代天皇」と生物学的に父系でつながっていない男性が天皇に即位する予定だったわけではありませんが。なお直仁親王は、正平一統により皇太子を廃され即位できず、その子孫が即位することもありませんでした。

 持統天皇以降には火葬された天皇も多く、また飛鳥時代以前には天皇(大王)の陵墓も確実ではない場合がほとんどで、そもそも天皇陵とされている古墳の調査には制約が大きいので、天皇(大王)だったかもしれない人物のDNA解析は実質的に不可能です。また、仮にほぼ天皇と間違いない遺骸のDNA解析が技術的には可能だとしても、じっさいに解析して現代の皇族と比較するようなことを宮内庁、さらには政府が許可するとも思えません。その意味で、Y染色体を根拠とする男系維持派も、その多くは、実質的にDNA解析は不可能だと考えて、無責任にY染色体を根拠としているのでしょう。しかし上述したように、皇位の父系継承の根拠としてY染色体を持ち出せば、生物学的確実性が要求されるわけで、女系容認派や天皇制廃止派に付け入る隙を与えるだけの愚行だと思います。少なくとも6世紀以降の皇位継承が男系を大前提としていたことは明らかで、そのさいに重要なのは、あくまでも皇位継承者が「初代天皇」と男系でつながっているという社会的認知であり、Y染色体を持ち出す必要はまったくないばかりか、有害でしかありません。何よりも、Y染色体を根拠とすれば過去の女性天皇の正統性が損なわれるわけで、父系で「初代天皇」とつながっている、という社会的合意があれば充分でしょう。

 少なくとも6世紀以降の皇位継承が男系を大前提としていたことは、例外がないことからも明らかです。称徳→光仁・称光→後花園・後桃園→光格といった事例のように、前天皇とは血縁関係の遠い人物が即位したことは歴史上何度かありますが、いずれにしても男系で皇統につながっています。また、皇后の在り様からも、8世紀初頭においてすでに、皇位継承が男系に限定されていた、と窺えます。皇后の条件は令においてとくに規定されていませんが(これは、天皇について令で規定されていないことと通じると思います)、妃の条件が内親王であることと、藤原氏出身の光明子を皇后に立てるさいの聖武天皇の勅の歯切れがきわめて悪いことから、皇后には皇族(内親王)が想定されていた、と考えるのが妥当でしょう。これは、6〜7世紀には皇后(大后)の即位が珍しくなかったからだと思います。その意味で、光明子が皇后に立てられたのは画期であり、これ以降、皇后が即位することはなくなります。皇族でなくとも皇后に立てられるという先例ができた以上、皇后を即位させるという選択肢がなくなったのでしょう。

 藤原氏が皇后を次々と輩出し、天皇の外戚となることで権力を掌握したことも、男系での皇位継承を大前提とする体制に順応したと解釈すべきだと思います。藤原氏はあくまでも、娘を天皇もしくは皇位継承の有力者の「正妃」とすることで権力を掌握しようとしたのであって、自身が即位しようという具体的な動きは確認されていません。また、藤原氏出身の女性を母とする天皇は奈良時代以降多いのですが、これを母系的観点から解釈することは無理筋だと思います。藤原氏自身も父系的な氏族であり、藤原氏の娘は基本的に母系ではなく父系により高貴な出自を保証されているからです。

 もちろん、古代に限らず、日本において母方も財産やそれに基づく政治的地位に大きく貢献していますが、それは現生人類(Homo sapiens)において普遍的な、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続ける、という特徴に由来するのだと思います。こうした特徴が人類社会を重層的に組織化した、との観点は重要だと思います(関連記事)。その意味で、古代日本社会を双系的と解釈する見解には一定以上の妥当性があると思います。しかし、少なくとも皇族(王族)や有力氏族は6世紀半ば以降に父系的構造を形成して維持しており、母方も重要だからと言って母系的とは言えないでしょう。支配層の母系継承かもしれない事例としては、9世紀〜12世紀の北アメリカ大陸のプエブロボニート(Pueblo Bonito)遺跡が挙げられていますが(関連記事)、それは古代日本の皇族・有力氏族の地位・財産継承とは大きく異なります。

 そもそも、人類は父系的な社会から現在のような多様な社会構造を築いた、と私は考えています(関連記事)。人類社会において父系的な継承が多いのは、それが長く基準だったからで、「唯物史観」での想定とはまったく異なり、農耕開始以降に初めて出現したわけではない、というわけです。現代および記録上の人類社会では、父系的とは言えないような社会構造も見られます。それはアフリカから世界中への拡散を可能とした現生人類の柔軟性に起因し、「未開社会」に父系的ではなさそうな事例があることは、人類の「原始社会」が母系的だったことの証拠にはならない、と私は考えています。そもそも、「未開社会」も「文明社会」と同じ時間を過ごしてきたのであり、過去の社会構造を維持しているとは限らない、という視点を忘れるべきではないでしょう。人類におけるこうした社会構造の柔軟性をもたらしたのは、上述したように、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続ける、という特徴に由来すると思います。少なくとも現生人類にはこの特徴が顕著に発達していますが、それはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など他系統の人類にもある程度以上共通している可能性もあるとは思います。

 最後に話を皇位継承に戻すと、現在の規定において皇位継承が危機に瀕していることは、この問題に関心のある人が等しく認めているでしょう。それでも解決策の検討が具体的に進展しないのは、悠仁親王の存在が大きいと思います。しかし、現行の規定でも数十年後の皇位継承を可能とするには、もはや悠仁親王が男子を儲けるしかなく、それに期待すると言ってしまうような政治家はあまりにも無責任で(関連記事)、政治家失格と言うべきでしょう。これも、政治家をはじめとして有力者には50代後半以上が多く、悠仁親王の結婚と子供が本格的に問題になる頃にはすでに死んでいるか、現役ではないからだと思います。これは解決困難な問題の先送りに他ならず、多くの解決困難な問題を抱える現代日本社会の弱点ですが、現代日本社会でとくに深刻というわけではなく、人類社会に普遍的な事象だと思います。とくに皇位継承問題は、政治家にとって票になりにくい上に、どのような解決策でも影響力があり声の大きな複数の著名人に批判されることになるので、政治家が先送りにしたいという心情はよく理解できます。

 正直なところ、1980年代に小学校高学年だった頃から近年までずっと天皇制廃止論者だった私としては、このまま男系維持派に大きな声を挙げ続けてもらい、天皇制が自然に消滅してほしい、とさえ考えたくなりますが、近年では天皇制廃止論にやや否定的になったので、天皇制の自然消滅を強く願っているわけではありません。なお、小学校高学年から天皇制廃止論者だった私は、当然のごとく改憲を支持しており、日本国憲法第9条も改正して軍隊の保有を明記すべきだ、とずっと考えてきました。これは今でも変わりませんが、少数派の改憲論だという自覚は小学生の頃からあったので、ネットでの匿名での発言以外では、誰かに打ち明けたことはありません。

 現状では、皇位継承の長期的な安定性を確保するには、男系維持の立場からの旧宮家の男性の皇族への復帰か、まだ若い女性皇族がいるうちに女系継承も認めるかのどちらかしかないと思います。皇位継承が長期にわたって男系を大前提としてきたことは間違いありませんが、誕生時には皇族ではなかった男性が即位した事例(醍醐天皇)もあるとはいえ、父系では600年以上さかのぼらないと天皇にたどりつかない人物が、即位はもちろん皇族に復帰することもあまりにも異例の事態で、正直なところ、国民の理解が得られるのか、はなはだ疑問です。少なくとも現時点では、女系継承の方が国民の圧倒的に多くの支持を得られそうです。しかしこれも、愛子内親王への国民の期待によるところが大きく、旧宮家の男性で、人格・知性・体力・容貌に優れた人物がいれば、旧宮家の皇族復帰が国民の圧倒的支持を得られるようになるのではないか、と思います。

 私は、男系による皇位継承は長期にわたって大前提ではあったものの、天皇(大王)の本質としては、時代の変化に柔軟に対応して存続してきたことの方が重要だと思うので、日本が今後属すべき社会の価値観という観点からも、若い女性皇族がまだ複数いるうちに女系継承を認めるべきだと思います。ただ、政府、とくに現在の安倍晋三内閣がそう決断するのは、支持基盤の問題もあって難しいでしょうから、このまま女性皇族が結婚により次々と皇族を離れていき、悠仁親王に息子が期待できないような状況になってやっと、皇室典範の改正により旧宮家の男性の皇族復帰が検討されるようになるのではないか、と予想しています。まあそれでも、天皇制廃止よりはましなのかな、と最近では考えています。
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_21.html

15. 中川隆[-8914] koaQ7Jey 2019年8月01日 08:11:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3810] 報告

2019年07月20日
石浦章一『王家の遺伝子 DNAが解き明かした世界史の謎』
https://sicambre.at.webry.info/201907/article_41.html


 川端裕人著、海部陽介監修で、講談社ブルーバックスの一冊として、講談社から2019年6月に刊行されました。


https://www.amazon.co.jp/%E7%8E%8B%E5%AE%B6%E3%81%AE%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90-DNA%E3%81%8C%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%97%E3%81%9F%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%8F%B2%E3%81%AE%E8%AC%8E-%E3%83%96%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%90%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E7%9F%B3%E6%B5%A6-%E7%AB%A0%E4%B8%80/dp/4065166144


本書はおもに王族を対象として、DNA解析により解明された世界史上の著名人の「謎」を取り上げています。具体的には、リチャード3世、ツタンカーメン、ジョージ3世、ラムセス3世、トーマス・ジェファーソンです。本書の主題からして、醜聞めいた内容になることは避けられないのですが、遺伝の仕組みや親子鑑定やゲノム編集についての基礎的な解説も充実しており、著名人を取り上げることで一般層を惹きつけ、最新科学を分かりやすく解説するという、一般向け科学書として王道的な構成になっていると思います。

 本書で取り上げられているのはヨーロッパとエジプトとアメリカ合衆国の人物で、古代DNA研究で中心的役割を果たしてきた、ヨーロッパとアメリカ合衆国の研究者たちの関心を反映しているように思います。本書の想定読者はほとんど日本人でしょうし、著者も日本人ということもあってか、日本人の起源や壬申の乱の頃の王族(皇族)も取り上げられていますが、詳しくはありません。この分野の研究では、日本はヨーロッパやアメリカ合衆国と比較して大きく遅れているので、仕方のないところではあります。

 しかし、本書で取り上げられているトーマス・ジェファーソンの子孫をめぐる醜聞を読むと、日本で同様の研究が進められたとしても、一般に公表するのはかなり難しいだろうな、とも思います。本書は、ジェファーソンの父系子孫と自認していた一族が、じっさいには違っており、それが公表をめぐっての醜聞になったことを取り上げています。またイギリスにおいて、プランタジネット朝に始まる父系一族において、サマーセット家ではどこかで家系とは異なる父系が入っている、と推測されています。

 日本では現在も、1400〜1500年以上に及ぶ父系による皇位(王位)継承が続いており、系図上は明確に父系で皇族とつながっている民間の男性も、旧宮家や一部の旧摂関家にいます。したがって、系図と生物学的な父系が一致するのか、確認することも可能ですが、それを公表することに大きな反発があることは容易に想像できます。ましてや、現在の皇族と比較して系図の正確さを検証し、公表することはできないでしょう。旧宮家や一部の旧摂関家出身の男性と男性皇族との間で、父系が一致するのならばまだしも、仮に大きな違いが明らかになれば、大騒動になることは間違いありません。その意味でも、皇位継承の根拠として、安易に「神武天皇のY染色体」を持ち出すべきではない、と思います(関連記事)。


参考文献:
石浦章一(2019)『王家の遺伝子 DNAが解き明かした世界史の謎』(講談社)

https://sicambre.at.webry.info/201907/article_41.html

16. 中川隆[-15196] koaQ7Jey 2019年12月07日 18:39:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2261] 報告

2019年12月07日
皇位男系継承を「日本の存亡に関わる問題」とする竹内久美子氏の認識はある意味で正しい
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_12.html


 「皇統の男系男子継承の深い意味」と題する竹内久美子氏の記事が公開され、それなりに話題になっているというか、嘲笑されているようです。とくに嘲笑の対象になっているのは、皇位継承を「日本の存亡に関わる問題」としているところのようですが、竹内氏の認識はある意味で正しいと思います。似たような認識として、「女系(他系)継承を認めたら、日本は、終わります」という発言を最近取り上げたので(関連記事)、かなり重なってしまうのですが、改めて私見を整理するとともに、竹内氏の他の見解にも言及します。

 竹内氏は、女系天皇を認めれば「異質の王朝」を生むとして、男系男子による皇統の継承は、日本国の存亡に関わる問題である、との認識を示しています。似たような認識の「女系(他系)継承を認めたら、日本は、終わります」という発言も含めて嘲笑する人は多いでしょうが、重要な論点が含まれており、一笑に付すようなものではない、と私は考えています。たとえば、網野善彦『日本の歴史第00巻 「日本」とは何か』(講談社、2000年)では、「日本」はヤマトを中心に成立した国家の国号で、王朝名だと指摘されています(P333)。また網野氏はかつて、一部の支配者が決めた「日本」という国号は国民の総意で変えられると述べて、日本が嫌いなら日本から出ていけ、という手紙・葉書が届いたそうです(同書P94)。

 現在の女性皇族が「(天皇の男系子孫ではない)民間人」と結婚し、その子供が天皇に即位した場合、これを「王朝交替」と解釈することは、人類史、とくにヨーロッパ史的観点からは無理のない定義と言えるでしょう。日本も含まれる漢字文化圏でも、後周のように異なる男系でも同一王朝という事例もあり、異なる男系での君主継承が王朝交替の第一義的条件ではないとしても、実質的には男系の交替と王朝交替がおおむね一致しています。また漢字文化圏では、王朝が替われば国号も変わります。

 このように、異なる文化圏の概念の組み合わせという側面もあり、強引なところも否定できませんが、「日本」という国号を王朝名、それまでとは異なる男系の天皇が誕生すれば「王朝交替」と考えれば、皇位男系継承を「日本の存亡に関わる問題」とする竹内氏の発言や、「女系(他系)継承を認めたら、日本は、終わります」という発言に見られる認識は一笑に付すようなものではない、と私は考えています。日本は、漢字文化圏的枠組みでは少なくとも6世紀以降「王朝交替」はなかったと言えるので(関連記事)、漢字文化圏としては異例の長さで同じ国号が続いたことから(漢字表記で正式に「日本」とされたのは8世紀初頭)、「日本」はもう地理的名称として定着した感もありますが、原理的には変えられるものなのだ、と気づく契機になり得るという点で、皇位男系継承を「日本の存亡に関わる問題」とする竹内氏の認識は嘲笑されるべきではない、と私は考えています。

 もっとも、仮に今後日本で天皇制が廃止されたり、皇位の女系継承が容認され、女性皇族と天皇の男系子孫ではない夫との間の子供が即位したりするようなことがあっても、すでに定着した「日本」という国号を変える必要はまったくないと思いますし、もしそういう運動が起きたとしても、すでに長く定着した国号で愛着があるので、私は反対します。網野善彦氏は、「日本」は王朝名だと強調し、「日本」という枠組みで「(日本)列島」史を把握することに否定的ですが、そもそも「政治的」ではない「中立的な」地理的名称が世界にどれだけあるのかと考えれば、「アジア」や「朝鮮半島」や「中国大陸」という地名を採用しておきながら、ことさら「日本」を標的にすることには疑問が残ります。なお、網野氏は天皇号と日本国号の画期性を強調しますが、これにも疑問が残ります(関連記事)。

 ただ、竹内氏が皇位男系継承の根拠として、Y染色体の継承を挙げていることにはまったく同意できません。なお、竹内氏は「Yについては交差が起きず、父から息子へ、そのまた息子へといった男系で継承している限りまったく薄まることがない」と述べていますが、竹内氏は以前Twitterにて、Y染色体にも短いながら組換え領域があると述べていたように記憶しているので、この発言は一般読者向けに簡略化した説明なのでしょう。まあ、とても褒められたことではありませんが。

 それはさておき、皇位継承が話題になった小泉内閣の頃より、皇位男系継承の根拠としてY染色体を挙げるのは地雷に他ならない、と指摘されてきたように思うのですが、今年(2019年)久しぶりに天皇の生前退位があったためか、皇位継承問題への関心が高まる中で、Y染色体に基づく皇位男系継承論がネットでは支持を集めつつあるように思われるのは気がかりです。率直に言って、皇位男系継承支持者で、その根拠としてY染色体を持ち出す人は大間抜けだと思います。

 その最大の理由は、皇位継承のほとんどの期間において父子関係が遺伝的に保証されていたわけではない、ということです。つまり、系図上の父親と生物学的な父親とが異なっている(ペア外父性)可能性がある、というわけです。もちろん、現実には宮中においてそうした「間違い」が生じる危険性はかなり低いとは思います。ただ、皇位(大王位)の男系継承が6世紀半ば以降としても、すでに1400年以上経過しているわけで、どこかで1回「間違い」が起きた可能性は無視できるほど低いものではないと思います。

 この問題でよく言及されるのは『源氏物語』でしょうが、これはあくまでも創作であり、じっさいに「間違い」が起きた根拠にはできませんし、そうした「間違い」が起きる危険性はかなり低かったのかもしれません。ただ、皇后に仕えて後宮の事情に精通していただろう紫式部が『源氏物語』でわざわざ「間違い」を取り入れたのは、ある程度以上の現実性があったからではないか、とも考えられます。もっとも、『源氏物語』での「間違い」の結果でも、「初代天皇」と生物学的に父系でつながっていない天皇が即位したわけではありませんが。じっさい、「間違い」が起きていた可能性の高い事例も指摘されており、『源氏物語』の設定を単なる空想とも言い難いでしょう。

 それは、崇光天皇の皇太子に立てられた直仁親王が、公式には花園院の息子とされていたのに、実は光厳院の息子だった、という事例です(佐伯智広『皇位継承の中世史 血統をめぐる政治と内乱』P179〜180)。直仁親王が崇光天皇の皇太子に立てられたのは光厳院の意向で、花園院の甥の光厳院が親王時代に世話になった叔父に報いた、という美談として当時は受け取られたかもしれませんが、裏にはそうした事情があったわけです。なお、光厳院は院政を継続するために、直仁親王を皇太子に立てるさいに養子としています。もちろん、直仁親王が光厳院の実子だったのか否か、DNA鑑定がされたはずもなく断定できるわけではありませんが、少なくとも光厳院は直仁親王が実子だと確信していました。もっとも、直仁親王の事例にしても、『源氏物語』と同じく、「初代天皇」と生物学的に父系でつながっていない男性が天皇に即位する予定だったわけではありませんが。直仁親王は正平一統により皇太子を廃され即位できず、その子孫が即位することもありませんでした。

 具体的な「間違い」ではありませんが、状況証拠的な事例としては、江戸時代初期の猪熊事件があります。どの程度の確率で皇室において「間違い」があったのか、推定できる根拠はほぼ皆無ですが、14〜20世紀のネーデルラントの事例では、人口密度および社会階層がペア外父性率と相関している、と報告されています(関連記事)。人口密度が高く、社会階層が低いいほどペア外父性率は高い、というわけです。逆に、人口密度が低く、社会階層が高いとペア外父性率は低くなります。人口密度の低い地域の中流〜上流階級のペア外父性率は0.4〜0.5%と推定されています。

 皇室は、上流階級でもさらに特殊ではあるものの、人口密度の高い場所に居住し続けているという点や、直仁親王や猪熊事件の事例からは、ペア外父性率が0.4〜0.5%以上でも不思議ではないでしょう。仮に0.4%という割合を採用し、継体「天皇」を始祖と仮定した場合、今上天皇は北畠親房の云う「まことの継体(父系直系なので天皇ではない皇族も含みますが、この点に関しては議論もあるようです)」では54世(数え間違えているかもしれませんが)で、53回の父子継承となりますから、始祖とずっと父系でつながっている確率は約81%です。ペア外父性率が1%だった場合は、始祖とずっと父系でつながっている確率は約59%となります。もっとも、直仁親王の事例のように、ペア外父性でも皇族もしくは臣籍降下の氏族だった場合は、「初代天皇」のY染色体が継承されていることになるので、じっさいには確率はもっと上がるでしょうが。まあ、上述のように皇族におけるペア外父性率を推定するデータが皆無に近い状況ですから、まったく参考にならないお遊び程度の計算でしかありませんが。

 実際問題としては、持統天皇以降には火葬された天皇も多く、また飛鳥時代以前には天皇(大王)の陵墓も確実ではない場合がほとんどで、そもそも天皇陵とされている古墳の調査には制約が大きいので、天皇(大王)だったかもしれない人物のDNA解析は実質的に不可能です。また、仮にほぼ天皇と間違いない遺骸のDNA解析が技術的には可能だとしても、じっさいに解析して現代の皇族と比較するようなことを宮内庁、さらには政府が許可するとも思えません。その意味で、Y染色体を根拠とする皇位継承男系維持派も、その多くは、実質的にDNA解析は不可能だと考えて、無責任にY染色体を根拠としているのでしょう。しかし、皇位男系継承の根拠としてY染色体を持ち出せば、生物学的確実性が要求されるわけで、女系容認派や天皇制廃止派に付け入る隙を与えるだけの愚行だと思います。竹内氏は皇位男系継承の根拠としてY染色体を提示した草分け的な人物の一人だったようですから、愚論と言われて不満なのは当然かもしれません。

 少なくとも6世紀以降の皇位継承が男系を大前提としていたことは、例外がないことからも明らかです。称徳→光仁・称光→後花園・後桃園→光格といった事例のように、前天皇とは血縁関係の遠い人物が即位したことは歴史上何度かありますが、いずれにしても男系で皇統につながっています。また、皇后の在り様からも、8世紀初頭においてすでに、皇位継承が男系に限定されていた、と窺えます。皇后の条件は令においてとくに規定されていませんが(これは、天皇について令で規定されていないことと通じると思います)、妃の条件が内親王であることと、藤原氏出身の光明子を皇后に立てるさいの聖武天皇の勅の歯切れがきわめて悪いことから、皇后には皇族(内親王)が想定されていた、と考えるのが妥当でしょう。これは、6〜7世紀には皇后(大后)の即位が珍しくなかったからだと思います。その意味で、光明子が皇后に立てられたのは画期であり、これ以降、皇后が即位することはなくなります。皇族でなくとも皇后に立てられるという先例ができた以上、皇后を即位させるという選択肢がなくなったのでしょう。前近代において、皇位継承が男系であることは明文化されていないと思いますが、それは皇位男系継承が大前提・常識だったからと思います。

 皇位継承の根拠をY染色体とする言説は、女系容認派や天皇制廃止派に付け入る隙を与えるだけの愚行だと思いますが、それ以上の問題に発展しかねません。今後、男系維持派の大半?が主張するような、旧宮家の男系男子の皇族復帰にさいして(皇別摂家の男系子孫の皇族復帰を主張する人は、私の観測範囲では皆無に近いようです)、Y染色体根拠論に基づくと、Y染色体DNAの検査が必要となるからです。仮に、現在の男性皇族と旧宮家の男系男子とでY染色体ハプログループ(YHg)が大きく異なっていた場合(たとえば、YHg-DとYHg-O)、どちらが「正統」なのか、という点をめぐって議論になり、皇室の権威を傷つけてしまうことになりかねません。じっさい、外国の事例ですが、プランタジネット朝に始まる父系一族において、サマーセット家ではどこかで家系図とは異なる父系が入っている、と推測されています(関連記事)。今後、皇族が減少するなか、旧宮家の男系男子を皇族に復帰させるとしても、DNA検査は必要ない、と私は考えています。

 ただ、皇位男系継承維持派がY染色体を根拠として持ち出したことは理解もできます。現代日本社会において、皇位継承を男系に限定する根拠として、伝統だけを挙げても日本人の広い理解を得られない、との危機感が皇位男系継承維持派にはあるのでしょう。そこで、「科学的根拠」たるY染色体が提示されたわけですが、「科学的根拠」を採用してしまうところが、伝統維持や保守を自任していても、いかにも近代的だなあ、と思います。皇位男系継承派の中に、皇族における一夫多妻制を提案する人がほとんどいないことも、現代日本社会においてヨーロッパ発の近代がいかに深く浸透したのかを示しています。

 皇位男系継承維持派には保守主義者を自任している人が多いでしょうが、保守主義の本質の一つとして、(1000年以上にわたる)伝統宗教も含めて長きにわたる伝統・慣行は深い叡智に基づいているかもしれないので、安易に変革・廃止してはならない、という自制があると思います。その意味で、皇位男系継承維持派は、日本人の広範な支持を得るためには、男系継承がいかなる叡智に基づくのか説明しなければならなかった、と私は考えています。しかし実際には、少なからぬ人がY染色体論という「科学的根拠」に飛びついてしまい、これは皇位男系継承維持派の知的怠慢だと思います。まあ、上述のようにY染色体を根拠とする皇位男系継承維持論議は「科学的根拠」になるどころか、地雷でしかないのですが。

 少なからぬ皇位男系継承維持派は、男系継承をきわめて価値のあるものと主張しますが、高貴な地位の男系継承自体は、人類史において普遍的です。それが日本のように短くとも1400年以上という事例はきわめて例外的としても、たとえばフランスでは、革命期からナポレオン期を除いて、800年以上にわたってユーグ・カペー(Hugues Capet)の男系子孫が王位を継承しました。男系継承は人類進化と深く関連しており、その意味でも、何らかの叡智に基づいている可能性はあるかもしれません。ただ、私程度の見識では、説得力のある見解の提示はできませんが。

 私が男系継承と人類進化との深い関連を想定しているのは、人類はずっと父系に傾いた社会を形成していた、と考えているからです。現代人(Homo sapiens)も含む現生霊長類では母系社会の方が優勢ですが、現代人も含まれるその下位区分の現生類人猿(ヒト上科)では、現代人の一部を除いて非母系社会を形成します。これは、人類社会が、少なくとも現生類人猿との最終共通祖先の段階では、非母系社会を形成していた、と強く示唆します。さらに、現代人と最近縁の現生系統であるチンパンジー属(チンパンジーおよびボノボ)は父系社会を形成し、次に近縁な現生系統であるゴリラ属は、非単系もしくは無系と区分すべきかもしれませんが、一部の社会においては父親と息子が共存して配偶者を分け合い、互いに独占的な配偶関係を保ちながら集団を維持するという、父系的社会を形成しています(関連記事)。

 おそらく、現代人・チンパンジー属・ゴリラ属の最終共通祖先の時点で、父系にやや傾いた無系社会が形成されており、チンパンジー属系統ではその後に明確な父系社会が形成されたのだと思います。人類系統においても、現生人類ではない絶滅人類で父系社会を示唆する証拠が得られています(関連記事)。人類系統においては、父系に強く傾きつつも、所属集団を変えても出生集団への帰属意識を持ち続けるような双系的社会(関連記事)がじょじょに形成され、さらに配偶行動が柔軟になっていき、母系に傾いた社会も出現したのだと思います。おそらく人類史において、母系に傾いた社会の形成は父系に傾いた社会の出現よりもずっと新しいと思います。ただ、そうした変化が現生人類の形成過程と関連しているのか、それともさらにさかのぼるのか、現時点では不明ですし、将来も確証を得るのはきわめて困難でしょう。

 この観点からは、藤原氏が皇后を次々と輩出し、天皇の外戚となることで権力を掌握したことも、双系的社会に基づき、男系での皇位継承を大前提とする体制に順応したと解釈すべきで、母系社会であった証拠にはならない、と思います。藤原氏はあくまでも、娘を天皇もしくは皇位継承の有力者の「正妃」とすることで権力を掌握しようとしたのであって、自身が即位しようという具体的な動きは確認されていません。藤原氏出身の女性を母とする天皇は奈良時代以降多いのですが、これを母系的観点から解釈することも無理筋だと思います。藤原氏自身も父系的な氏族であり、藤原氏の娘は基本的に母系ではなく父系により高貴な出自を保証されているからです。なお、竹内氏は、「皇統の男系男子による継承は、かつては藤原氏などの国内の権力を排除するという意味があった」と述べていますが、父系継承が人類史において普遍的だったことを反映しているだけだと思います。じっさい、古代日本も双系的な社会だったので、藤原氏は娘を天皇(や皇太子)に嫁がせて権力を獲得(分掌と言うべきでしょうが)していったわけで、「藤原氏などの国内の権力を排除」できていませんし、その意図もなかった、と考えるべきでしょう。

 支配層の母系継承かもしれない事例としては、9〜12世紀の北アメリカ大陸のプエブロボニート(Pueblo Bonito)遺跡が挙げられていますが(関連記事)、それは古代日本の皇族・有力氏族の地位・財産継承とは大きく異なります。現在の通説のように、古代日本社会は基本的に双系的だったのでしょうが、それは現生人類の特徴でもあり、古代日本を母系社会から父系社会への過渡期と解釈するのは的外れでしょうし、そもそも人類社会は母系制から始まり、社会的発展により「原始的な」母系制から父系制へと移行する、という社会発展モデル自体が根本的に間違っているのでしょう。

 人類社会において父系(男系)的な継承が多いのは、それが長く基準だったからで、俗流唯物史観での想定とはまったく異なり、農耕開始以降に初めて出現したわけではない、というわけです。その意味で、確かに現代および記録上の人類社会では、父系的とは言えないような社会構造も見られるものの、それはアフリカから世界中への拡散を可能とした現生人類の柔軟性に起因し、「未開社会」に父系的ではなさそうな事例があることは、人類の「原始社会」が母系的だったことの証拠にはならない、と私は考えています。そもそも、「未開社会」も「文明社会」と同じ時間を過ごしてきたのであり、過去の社会構造を維持しているとは限らない、という視点を忘れるべきではないでしょう。

 たとえば、日本でもすっかり有名になったヤノマミ集団は、テレビ番組などで「1万年以上、独自の文化・風習を守り続けている」と紹介されてきましたが、アマゾン地域は先コロンブス期において大規模に開発されており(関連記事)、ヤノマミの祖先集団もかつては現在とは大きく異なる社会を構成していたかもしれません。そうだとすると、1万年以上前の祖先集団の文化・風習をどの程度継承しているのか、疑問です。また、現代の「未開社会」は、完新世の農耕・牧畜社会、さらに産業革命以降の近代社会の圧迫を受けてきたわけで、更新世にはそうした社会は存在しなかった、という視点も重要となるでしょう。

 もちろん、長く基準だったからといって、それが「本質的」とは限りませんし、何よりも、仮に「本質的」あるいは「生得的」・「自然」だから守らねばならないと主張するならば、自然主義的誤謬に他なりません。現生人類は、双系的社会を築いたように、柔軟な行動を示す霊長類の中でも、きわめて柔軟性の高い種です。これは、『暴力の人類史』などでも指摘されているように(関連記事)、現生人類には相反するような複数の生得的性質と、状況に応じて行動を変えるような高度な認知能力が備わっているからでしょう。もちろん、他の動物にもそれは当てはまり、それ故に気候変動も含めて短期的および長期的な環境変化を生き延びてきたのでしょうが、現生人類ではそうした特徴がとくに強く発達したのだと思います。

 その意味で、皇位男系継承維持派からも一夫多妻制の提案すら躊躇われるような、すっかりヨーロッパ発の近代が浸透してしまった現代日本社会において、あくまでも皇位男系継承維持に拘るならば、単に伝統と主張したり、もっと突っ込んで、長きにわたる伝統・慣行は深い叡智に基づいているかもしれないので、安易に変革・廃止してはならない、と主張したりしても、それだけで広く支持を集めることは難しいでしょう。じっさい、そうした見解を述べる人もいましたが、あまり支持を集めていないように見えます。そのため、現生人類のさまざまな生得的性質と社会状況を踏まえた、説得力のある根拠(叡智)の提示が要求され、少なからぬ皇位男系継承維持派にとって、それがY染色体だったのでしょうが、上述のようにそれは地雷に他ならず、伝統だけを主張しておいた方がまだましだったように思います。その意味で、Y染色体を皇位男系継承維持の根拠とする人々は、(本心を隠した天皇制廃止論者や女系容認論者でなければ)大間抜けだと思います。

 なお、皇族が父系では「縄文人」系統との認識も見られますが、その確証はまだ得られていない、と言うべきでしょう(関連記事)。ただ、皇族が一部で言われている現代日本人では多数派のYHg-D1a2a(旧D1b1)である可能性は低くないように思います。YHg-D1a2(旧D1b)は「縄文人」由来と考えられており(関連記事)、現代日本人のうち本州・四国・九州を中心とする「本土」集団における「縄文人」の遺伝的影響は10〜20%程度と推定されているのに(関連記事)、YHg-D1a2の割合は35.34%になるからです。皇族に連なる父系集団は、武士になるなどして地方で父系を拡大する機会に恵まれていたましたから、ゲノム規模では弥生時代以降の渡来集団の影響力が圧倒的に高いとしても、皇族が父系では「縄文人」系統だとすると、「縄文人」系統のYHg-D1a2の強い影響力を説明できる、というわけです。ただ、皇族が本当にYHg-D1a2aか、まだ確証は得られていないでしょうし、何よりも、「縄文人」ではYHg-D1a2aはまだ確認されておらず、YHg-D1a2b(旧D1b2)しか確認されていません(関連記事)。これは、YHg-D1a2aが弥生時代以降に日本列島に到来した可能性を示唆します。ただ、YHgが分類されている「縄文人」はいずれも東日本の個体なので、西日本の「縄文人」がYHg-D1a2aで、皇族がその父系に属する可能性もじゅうぶんある、と思います。
https://sicambre.at.webry.info/201912/article_12.html

17. 中川隆[-15143] koaQ7Jey 2019年12月14日 09:43:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2196] 報告
【我那覇真子「おおきなわ」#100】
竹内久美子〜伝統と科学、皇統はなぜ男系継承でなければならないのか?[桜R1/12/13]

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