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日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/102.html
投稿者 中川隆 日時 2018 年 12 月 18 日 15:33:49: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとしているクリスチャンでグローバリストの天皇一族 _ 天皇は何人で何処から来たのか?

現時点でわかっている事を纏めると

日本は多民族国家で

陸稲は焼き畑農耕と一緒に縄文中期に長江から九州に伝わった

水田は弥生初期に長江から北九州に伝わった

弥生人は九州に移住した少数の長江の男が縄文女性を現地妻として作った混血児の子孫

漢民族系日本人は弥生時代後期に北九州に植民市を作り、朝鮮と交易を行った。

弥生時代後期から昭和までずっと連続して朝鮮から長江系及び漢民族系渡来人が流入し続けた

信仰対象によってどの民族かが簡単に判別できます:

縄文人
蛇信仰、巨木・磐座に神が降りる、死んだら円錐形の山からあの世に上がる

長江人
鳥信仰、集落の入り口に鳥居を設ける

朝鮮からの漢民族系渡来人
中国鏡を神体とする太陽信仰

詳細は


日本人のガラパゴス的民族性の起源 0-0. 日本人の源流考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1
http://garapagos.hotcom-cafe.com/


稲の来た道論争
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku368.htm

稲作の渡来(稲作はどこから来たか?)
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku359.htm

4.呉の国と日本・稲作の渡来
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku358.htm#04

縄文時代に長江から九州に伝えられた照葉樹林帯文化
https://dankai.akimasa21.net/east-asian-evergreen-forest-culture/

遡る縄文稲作の年代
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_01jyoumonninasaku.html

長江人が九州に移住して作った吉野ヶ里遺跡の鳥居と鳥信仰
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

朝鮮を追われた天皇家が日本に移住して作った伊都国・邪馬台国での鏡信仰
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

▲△▽▼

朝鮮と日本の神話の類似性
上田正昭 京都大学名誉教授(2002年1月26日 講演記録より)

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。


 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。


 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html

▲△▽▼


高天原故地碑

高天原故地碑(たかまがはらこちひ)は、大韓民国慶尚北道高霊郡の加耶大学校内にある石碑。日本神話の天津神が住む高天原は、ここであると記されている。


慶尚北道 高霊郡 地図
https://map.konest.com/daddr/4783034032


高天原は実在の地域を反映しているとする説は古くから存在し、第二次大戦後は主としてアマチュア研究家によって朝鮮半島説も唱えられることがあった。当初その比定地とされたのは、戦前から一部の研究家によってスサノオが立ち寄ったという新羅のソシモリの候補とされた、『冬のソナタ』のロケ地として知られる江原道春川市であって、慶尚北道高霊郡ではなかった。


春川に代わって名乗りをあげたのが高霊郡であった。加耶大学校の李慶煕総長がこの説の主唱者で、1999年6月28日に「高天原故地」と記された石碑が建立された。


李慶煕の主張


この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2010年10月)


李慶煕総長の主張によると

高皇産霊尊は、高と霊の字が含まれるので、高霊郡で誕生した[1]。

東国與地勝覧に書かれている伽耶の天神夷毗訶の次男伊珍阿豉(イジンアシ)はイザナミと発音が似ている。そのため、伊珍阿豉はイザナミである。

任那の任は現代の韓国語で「主人」「母」を意味する。そのため、任那は『主人の国』や『母なる国』を意味する。

高千穂の添山(そおりやま)は韓国の首都ソウルと発音が似ている。そのため、添山はソウルを指す。


と、いうことだそうである。

これらの主張は、2001年に訪韓した筑波大学の馬渕和夫名誉教授らの賛同を得ている。このとき、馬渕教授は李総長の主催する学会で「朝鮮民族が日本を征服し大和王朝を建てた」と発表している[2]。


脚注
1.^ 以下、特に論評はしない。
2.^ 『韓国 堕落の2000年史―日本に大差をつけられた理由』 加耶大学校客員教授 崔基鎬 著
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F%E6%95%85%E5%9C%B0%E7%A2%91

▲△▽▼


10. 2013年7月13日 17:47:40 : WUs3UH3xVg
天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、
として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。
例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような
盛り土である事は知られています。
古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。
終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。
当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、
それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。


日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。
日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。
現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の
小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である
ために容易に近づく事は出来ないだろう、同行した当時KCIA局員の話としては、
そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。

38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、
仮にこの付近が関連する村であると、南だけではなく北とも天皇は接点を持つ
可能性が浮かび上がります。

(私の直感として、天皇と北の接点が存在した場合に拉致問題と関係して
いなければ良いなあ、と思うのですが、、、、、気にしすぎでしょうかね)

こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで
爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。

天皇が戦争とどう関わったかについては、総括することは必要だという考えは
理解しますが、
戦前の体制や、戦後の状況からいっても、昭和の時代、平成一桁の時代において
戦争経験者が多く存在する時代ですし、
天皇制や天皇と戦争との関連を法的に取り扱う事は、容易ではない
といえるでしょう。

そうした意味では、棄却理由は無理があるとはいえ裁判所が天皇の戦争との関わり
以外に出自等歴史的タブーに絡み、歴史に挑戦するというのも難しいので、
棄却は無理も無いといえるでしょう。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html

▲△▽▼


昔、三宅さんから聞いた話 2012-11-16

あのころは、三宅さんに、竹村健一さん、飯島清さんが、


テレビで活躍中だった。

空港まで車で三宅さんを迎えに行った。

高速道路を走りながら車中で、


昭和天皇の話になった。


三宅さんが、日本史の江上波夫さんから聞いた話だと。

あの騎馬民族説の江上さんですね。


そう。

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、


昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?
A:朝鮮半島だと思う。
Q:どうしてそう思われますか?
A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。

と答えられたと。


三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、


もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。


現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。


昭和天皇ゆかりの話をしたかったようだ。

いま、あのときの顔を思い出しています。

三宅さん、歯切れのいい話で、


日本の左傾化に歯止めを掛けていた。


やすらかにお眠りくださいますように。
https://blog.goo.ne.jp/akirakasan/e/a6f887959603d8e10b513314716d3643
 

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コメント
1. 中川隆[-13751] koaQ7Jey 2018年12月18日 16:23:54 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告
馬渕睦夫さんが明らかにしていますが


左翼=リベラル=グローバリズム=ユダヤ
=国際金融資本、軍産複合体、ネオコン、CIA、FBI、マスコミ、中国共産党、天皇一族、日本の官僚
=マクロン、メルケル、ヒラリー・クリントン、オバマ、ボリス・エリツィン、小泉純一郎、竹中平蔵、小沢一郎、橋下徹、枝野幸男、日本の護憲派・反原発派・反安倍勢力


右翼・民族主義=反リベラル=反グローバリズム=反ユダヤ
=プーチン、チェ・ゲバラ、カストロ、J.F.ケネディ、トランプ、サダム・フセイン、カダフィ、アサド、ウゴ・チャベス、 ロドリゴ・ドゥテルテ、田中角栄、安倍晋三、日本共産党


太平洋戦争も朝鮮戦争も東西冷戦もすべてユダヤ資本のヤラセだった


なんですね。


安倍晋三は調整型の政治家で権力基盤が弱く、IQ も随分と低いので、官僚や自民党のグローバリストに引き摺られているのですが、本来はプーチンやトランプと同じナショナリストなのです



▲△▽▼

馬渕睦夫『グローバリストが恐れる日本の底力』
◉講演「新嘗のこころ」第2部(グローバリズムとは共産主義である) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=YoH3GG3WiAc&index=2&list=PL7MaEu9i584cGqauRwWXCapXVTxom8dDT

▲△▽▼

「古事記に学ぶ日本のこころ」 馬渕睦夫 〜天と地を結ぶ日本人の力〜 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=xcQ1sp6fV2g


2018/12/01 に公開

いつもの馬渕大使とは一味違う、ライブ感あふれるメッセージ!
物質欲、金銭欲で支配されるグローバリズム的な生き方を、私たちは祓い除け、伝統的な日本人の生き方を取り戻す必要があるのではないでしょうか。世界の人々もそこに注目しています!
そして、グローバリズムとナショナリズムを共存させる知恵とは何か?日本人の力が問われています。
 

【日いづる国より】馬渕睦夫、フィデル・カストロと日本人の幸福論[桜H27-5-8] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=eoq6pRXoBBA&app=desktop

2015/05/08 に公開

日本の伝統と文化を尊重し、真に国益を考える数多くの志士達が、自らが国政に臨むことで日本再生に懸けようと奮起している。その志と問題提起を、じっくりとお聞きしていく対談番組。偉大な作曲家にして真の愛国者・すぎやまこういちによるプロデュースでお送りします。

聞き手:中山恭子(参議院議員)・すぎやまこういち(作曲家)
ゲスト:馬渕睦夫(元駐ウクライナ兼モルドバ大使)

▲△▽▼


アメリカは日本へのキリスト教布教には失敗したが、戦争犯罪者という原罪を植え付けるのには成功した

【日いづる国より】馬渕睦夫、現代の「三国干渉」を打破せよ![桜H27-5-1] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=YxGqLyB3rmQ


2015/05/01 に公開

日本の伝統と文化を尊重し、真に国益を考える数多くの志士達が、自らが国政に臨むことで日本再生に懸けようと奮起している。その志と問題提起を、じっくりとお聞きしていく対談番組。偉大な作曲家にして真の愛国者・すぎやまこういちによるプロデュースでお送りします。

聞き手:中山恭子(参議院議員)・すぎやまこういち(作曲家)
ゲスト:馬渕睦夫(元ウクライナ兼モルドバ大使)


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ノンフィクション作家・河添恵子#4-1
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」前編・グローバリスト&共産主義勢力 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z7syO3BhDdQ

ノンフィクション作家・河添恵子#4-2
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」後編・北朝鮮問題の行方 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z4Ot9KiWPV8

収録日:2018年4月25日


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deep state と中国共産党

河添恵子#8-1 ゲスト:馬渕睦夫★リアルに存在するスパイ&工作員の実態 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=ukhGim45GB0


河添恵子#8-2 ゲスト:馬渕睦夫★ディープステートが支配する世界 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Pxqk80onq6I

収録日:2018年9月11日

"ディープステート"
この世界を操り、歴史を作ってきたとされる影の政府、真の実力者、アメリカの"奥の院"の存在が明らかに・・・。

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【平成30年 新春特別対談】馬渕睦夫氏に聞く[桜H30-1-2] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=UiH6n-vvsnI&app=desktop


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馬渕睦夫×水島総 「世界を統治する者との最終戦争が始まる!」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=L06Zs03T2D0


▲△▽▼


【秋の特別対談】馬渕睦夫氏と語る - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=BU4nkKMmVfo&app=desktop


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平成30年・春の特別対談「世界は現在(いま)」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=F7PsBGGmEE4&app=desktop


▲△▽▼


【大道無門】馬渕睦夫と国難の正体を暴く[桜H25-5-24] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Rl7oyG4ebwk&app=desktop

2013/05/24 に公開

司会:渡部昇一(上智大学名誉教授)
ゲスト:馬渕睦夫(元駐ウクライナ大使)


東西冷戦も朝鮮戦争もユダヤ金融資本が仕組んだヤラセだった
ユダヤ金融資本がヤラセの冷戦体制を終わらせようとしたケネディを暗殺した


【馬渕睦夫】ケネディを暗殺したのは誰か〜トランプ大統領の真実 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=iATaiNPdMJw


2018/11/03 に公開
【馬渕睦夫】ケネディを暗殺したのは誰か〜トランプ大統領の真実


▲△▽▼

ひとりがたり馬渕睦夫 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PL7MaEu9i584fGdp78r27h-eH0rmWLioEC

2018/06/22 に公開
待望の馬渕睦夫大使の新番組がスタート!激動する世界、今の日本に必要なのは何か?どんな危機が訪れているのか?マスメディアでは伝えられない世界の真実と、馬渕睦夫の「眼」をお届けいたします。



2. 中川隆[-13750] koaQ7Jey 2018年12月18日 16:48:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

神道や日本古来の文化を憎んでいた天皇一族


カトリック教徒になろうとした昭和天皇


「昭和天皇実録」を読む (岩波新書)

昨年公開された『昭和天皇実録』は、あまり新事実がないという評判だったので興味がなかったのだが、本書を読んで驚いたのは、戦後に昭和天皇がカトリックに改宗しようと考えていた事実だ。1948年には次期ローマ法王とされていたスペルマン枢機卿と面会し、改宗について相談している(当時は単なる儀礼的訪問と発表された)。

これは天皇が「現人神」だとするとありえない話で、靖国神社もカトリック教会に改造しなければいけない。しかし天皇はそういう矛盾を気にかける様子もなく、「こういう戦争になったのは宗教心が足りなかったからだ」と述懐している。つまり彼も、国家神道なんて宗教とは思っていなかったわけだ。

これは退位問題ともからんでいた。天皇自身は退位したいと考えていたようだが、皇太子が未成年なので摂政を立てざるをえない。しかしそれはむずかしいので、天皇は改宗して国家神道を捨て、戦争責任に決着をつけようと考えたらしい。今でも日本の「保守派」には天皇制=国家神道=靖国神社と信じている人が多いが、天皇は信じていなかったのだ。
http://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51969028.html


昭和天皇の発言記録(1946・4〜6)ホイットニー文書


昭和天皇 神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要する。


この文書は、昭和天皇ヒロヒトが占領軍司令部に対し表明した見解の要約が全編にわたり記された、「極秘」扱いの、英文三頁以上にわたるメモランダムである。

1946年4月から6月の間に、東京駐在の国務省員によって作成され、マッカーサーの腹心であったコートニー・ホイットニーの私物として保管された後、1970年代前半にヴァージニア州ノーフォークのマッカーサー記念館に寄贈され、1978年に機密解除されている。


ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】

二、三週間前に占領が長く続くべきであるとの希望を述べた根拠を説明したい。日本人の心には未だ封建制の残滓が多く残っており、それを眼こそぎにするには長い時間がかかるだろうと感じている。

日本人は全体として、自己の民主化に必要な教育に欠けており、さらに真の宗教心にも欠けており、そのため一方の極端から他方の極端へと揺れやすい。日本人の封建的特徴の一つは、進んで人に従おうとする性格にあり、日本人はアメリカ人のように自分で考える訓練を受けていない。

徳川政権は、民は指導者に従うべきであり、そのため忠誠心以外はいかなる道理も与えられてはならない、という論理のうえに築かれていた。かくして、平均的な日本人は、自分で考えることにおいて昔からの障害に直面している。かなり闇雲に従うという本能によって、現在、日本人はアメリカ的な考えを受け容れようと熱心に努力しているが、例えば労働者の状況を見れば、彼らは自分本位に権利ばかりに注意を集中し、本分と義務について考えていない。

この理由は、ある程度、長年の日本人の思考と態度における氏族性に求められる。日本人が藩に分割されていた時代は、完全には終っていない。平均的日本人は、自分の親戚はその利益を追求すべき友人とみなし、他の人間はその利益を考慮するに値しない敵と考えている。

日本人の間には宗教心が欠如している。私は神道を宗教とは考えていない。

それは儀式に過ぎず、合衆国では甚だ過大評価されてきたと考えている。

しかし、たいていの神道信者は超保守的で、彼らと、神道と超国家主義を同一視していた復員兵とその他の者は、しっかりと結びつく傾向を持っているので、依然として危険な面がある。

政府は、信教の自由に関する命令を厳守する立場にあり、現在彼らを取り締まる手段を持っていないために、こうした状況は危険だ。神道を奉じる分子とその同調者は反米的なので警戒を要すると考えている。

以上のようなことから、私は今は日本人のもつ美点を述べている場合ではなく、むしろその欠点を考える時だと感じている。

私は、マッカーサー元帥と元帥の行っていることにたいへん大きな感銘を受けている。また、対日理事会におけるアメリカの態度にとても感謝し、それが安定効果を持つと感じている。

しかし、私は今、この国の労働状況をかなり憂慮している。日本の労働者は、物事を真似する事において、義務を等閑にして自分の権利を利己的に追求しやすく 、米国のストライキから有害な影響を受けるので、米国の炭坑ストが速やかに解決するよう希望している。

自分の治世に与えられた名前 ―昭和、啓発された平和― も今となっては皮肉なように思えるが、自分はその名称を保持することを望み、真に「煌く平和」の治世となるのを確実にするまでは、生き長らえたいと切に願っている。

私は鈴木(貫太郎)提督の被った損失に心を痛めている。鈴木は、降伏準備のための内閣を率いるよう私が命じたのであり、海軍の恩給ばかりでなく、それは理解できるにしても、文官としての恩給までも失った。

彼は侍従長を長く勤め、そして降伏準備の任務をよくこなした。彼の提督という階級と戦時の首相という地位が追放に該当するのは当然としても、彼は、皇室に仕えていた地位の恩給の受け取りも現在停止されている。私は、鈴木提督個人のためだけでなく、このような価値剥奪が日本人に理解されず、占領軍の利益にも日本自身の利益にもならない反米感情をつくり出すという理由から、不安を募らせている。
http://zenkyoto68.tripod.com/CourtneyWhitney1.htm
http://nueq.exblog.jp/20875307/

▲△▽▼

美智子さまは皇族を全員クリスチャンにさせる使命を与えられていた

やっぱり!! 正田家とGHQの癒着。美智子さま入内を仕組んだGHQ 2016年3月11日
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/b176c669206cae06cadf0d41f5530ed5

今回の記事は、何かあった時のために先の稿と共に、それぞれできる形で永久保存扱いにしておいたほうがよいかもしれません。

皇后陛下とGHQとの癒着の根っこが明らかになりました。

現代の日本における、あらゆる国家弱体化・破壊要素は全て、在日さえ含めてGHQ発です。皇后陛下はGHQ施策の極めて具体的な体現者です。


◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

↑ 国会で美智子さんの出自と、成婚の陰謀、そして皇太子(今上)の不出来ぶりが、厳しく追求された極めつけの史料です。

◆なんと、社会党が支援していた美智子さま

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/113f75c1f2919bd0cc381ceee34452c1

◆皇后陛下は「アカ」でした

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/c1d3f5e7a9593118391c92ad90752bac


かねてより、拙ブログでは正田美智子さんの入内がGHQによる、日本/皇室弱体化施策の一環であることを、推論として検証してきました。

また、余剰小麦粉を敗戦国日本に売りつけたい希望がGHQにあり、そのために日清製粉と結びついたことも。

GHQが日本弱体化のためにプロテスタントとカトリック問わず、キリスト教をそのツールに使ったことは事実です。

そういう意味で、カトリック背景でまた実家が粉を扱い、また一説には「ある出自」の美智子様は、満点以上のお后候補ではありました。これ以上望めぬ日本と皇室弱体化・破壊の尖兵候補ではありました。

彼らの狙いは実に正しく、美智子さまは皇室内の伝統を次から次に破壊、現在は天皇陛下を率いた女帝として、 愛子さまを皇太子の次の、皇位継承権者として女性天皇の擁立を強く主張、天皇陛下もそれに従っていらっしゃいます。

他に、朝鮮式挨拶コンスふうの宮中導入、お手振りを天皇より高い位置で、肩並べて歩かれ時には天皇より先に立って歩かれ、天皇陛下が語っていらっしゃる間の低頭廃止を、徐々に巧妙に。また控えめながら自らの思想の披瀝。

日の丸と君が代忌避。自衛隊の制服嫌悪、ということは自衛隊の否定。GHQ憲法ともいうべき現憲法の擁護者であり、GHQメンバーや、一条の会という憲法護持の左翼者との親交他。


20150203.館林の日清製粉ミュージアムと正田記念館内外部CX-535
https://www.youtube.com/watch?v=CA9Nht0Bo30


こちらに正田家と、GHQ派遣のアップルトン女史との密着ぶりが残っています。
女史は館林の正田家をわざわざ訪れています。


当時の敗戦国の国民である日本人が、GHQ関係者を「自宅招待」というのは凄いことでしょう。

正田家は、商売人なので関係はないとはいえ、当時愛国者は軒並みGHQから追放されていた時代です。

外務省内でも、愛国者は追われるか隅に押しやられ、GHQの意向通りに反日を貫く者が出世していた時です。雅子妃の実父小和田恒氏がその筆頭格ですね。

雅子妃の背景を知るにつけ、なぜこのような頭も性格も悪い皮膚病持ちの出自も清らかではないお方が入内を?(おまけに身内に精神病者がいるのに)と不可解だったのですが、結局GHQという大きな潮流の中の、美智子さまから雅子様への系譜と捉えると、クリアに視えて来るものがあります。因縁めくことには、お二方とも日本人の健康破壊に関与した第一第二水俣病に、つながっていらっしゃいます。現代では日清製粉の遺伝子組み換え小麦粉が、日本人の健康破壊。皇后は敗戦時から今まで、日本人の健康破壊者とご縁があります。


野田醤油の工場を訪れたアップルトン女史。右端は日本醤油協会会長・正田文右衛門氏(1948年8月)

正田文右衛門は、正田醤油の創業者です。文右衛門も日本人としては相当に高身長。正田一族、それと母の冨美さんも当時としては図抜けた背の高さ、兄妹共に。ただ一人美智子さんだけが小柄。(当時の日本人としては、 平均ですが正田の中では、一人だけ極端に小さい)


日本本来のものである醤油から、小麦粉への新たな進出。
敗戦国から戦勝国アメリカへの擦り寄りが日清製粉です。

美智子様の入内直前に、国会でその入内ぶりの不可解な動きを追求されています。その一つが新平民、つまり部落出身ということの ほのめかしです。拙ブログではその点は断定していず、保留状態です。

ただ、正田家が新平民ではなくても、母方はどうでしょうね。
正田家が、部落と密着した存在であったことは事実。

美術館には正田家の、家系図まで麗々しく掲げられています。

1873 明治6年12月
・正田文右衛門(三代)醤油醸造創業 ※1

1891 明治24年7月
・帳簿組織を改め複式簿記を採用

1900 明治33年1月
・合名会社正田文右衛門商店設立

1908 明治41年10月
・正田式麦煎機特許取得

1910 明治43年2月
・正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社


この年譜で目を引くのは、「正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社」

「正田稲荷神社」とは?

これは稲荷神社ではなく、白山神社ではなかったかと思うのですが?

なぜ稲荷と書くのでしょう? 白山神社は、部落の人々の信仰対象でした。
(信仰者即穢多非人というわけではありません。)

「目車町」は、皇后を部落の出として書いた被差別部落出身作家の上原善広氏によれば非差別地区だということです。


⇒ 調べました


http://www.shoda.co.jp/knowledg/bunkazai.htm

正田醤油は明治6年(1873年)今から140年前に創業いたしました。
また、正田家が群馬県館林市のこの地に移住してきたのはそれ以前のことで、300年程ここにいることになります。

そのためか、この敷地の中には醤油業をはじめる前のもの、例えば文政11年(1828年)に建てたという『正田稲荷神社』、現在は『正田記念館』として現在にいたるまでの資料が陳列されております嘉永6年(1853年)に建てられた店舗、そして江戸末期にたてられた文書蔵などがあります。これらは全て登録有形文化財に指定されていますが、古いものはなるたけ壊さずに残しておこうという気持ちは以前よりございました。


【正田稲荷神社】
もともと目車町(現・栄町)の鎮守であったが、明治43年(1910年)に正田家が目車町より譲り受けた。

以後、正田稲荷神社として栄町および当社の守護神として祀られている。例祭は2月の初午である。御社と本殿からなり、御社の創建は館林城築城天文元年(1532年)以前といわれるが定かでない。文政11年(1828年)、安政6年(1859年)の2度の再建を経て今日に至る。

・・・・・・・・・・・・ここまで

画像二枚目の神社さんがネットでは「白山神社」として、認識されている祠だと思われますが、いったいなぜ稲荷が白山神社に変貌?

仮説が一つあるとすれば、目車という被差別部落にあった神社さんの移転なので、穢多非人という人たちに多く信仰されていた白山神社さんと勘違いされた?

念のため、白山神社さんの ご神体を調べましたがお狐さんではありません。

更に白山神社は全国に散らばっていますが、そこが全部被差別部落だということではありません。穢多非人の人たちだけの信仰対象でもありません、念のため。

由緒正しいお家柄なら、なぜわざわざ穢多非人村に越していらしたのか?
醤油製造に穢多非人を使った?

しかし「正田神社」と呼ばれるほどの厚き稲荷信仰のお家が、一族根こそぎカトリックに改宗?

何か不穏な気がするのは考えすぎでしょうか。

・・・・・・と書いて、ふと思い出したのですが・・・・


先入観を与えるといけないので、この画像を見て見える人だけどうぞ。
更にオカルト的な話が嫌な人や認めない人は、スルーして下さい。


皇后陛下に現れた数少ない・・・・・皇太子夫妻に比べると少ない・・・・
霊画像に、霊眼が多少ある人が見えるのは、



九尾の狐です。

誰でも視える形ではなく、視える人だけに限定で、むしろよかったです。
わかりやすいと、合成とか気のせいとか言われてうざったらしいので。
なぜ皇后に狐? と霊写真に気づいた時には不思議だったのですが、
お狐信仰のお家でしたか・・・・。
皇后に憑いた霊体の、九尾の狐は瞋恚(怒り)の形相ですが・・・・・。

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/41d4caf989f1ec33423082307330b824

とはいえ、BBの霊眼もさしてあてになるレベルではないので、視える知人に再チェックしていただいたら・・・


こんな感じで、美智子さまの背後にいるそう。BBはこんなに判然と視えるわけではありません。
帽子のデザインも、狐っぽいのは偶然でもないのかもしれません。

霊眼のある知人が更に示してくれたのは、皇后陛下の内面がこういうふうである、と。


一説に半島出自だとも言われる小和田家のように下賤なことはしない・・・・のが正田家だと長いこと言われてきましたが・・・・


もっと下品でした。

美智子さまのご両親様の胸像でございます・・・・


日清製粉会社の歴史を展示している「製粉ミユージアム」内に展示。何の事はない、皇后陛下を間接的にCMガールとして、日清製粉の宣伝ですね。

普通、妻の銅像まで置きませんが。日清製粉にとっては夫妻の娘が皇后陛下だってことで、莫大なメリットです。

こういうところからも商売人の娘は本来、忌避されたのでしょう。
小和田は小和田で、娘の入内を最大限に活用、外務省機密費流用疑惑は不問にされるし、とうとうハーグの判事にまで上り詰めました。

◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

こちらの記事で、国会で正田美智子さんの素性に関して今では考えられないほどの肉薄ぶりで追求、またカトリック(キリスト教徒)たちがよってたかって美智子さんを入内させた「陰謀」について、また皇太子(今上陛下)の不出来ぶりを、仮借ないまでに述べた平井義一議員。

以前も調べたのですが、不可解なほどのその後の動きが解らないのです。

http://www.wikiwand.com/zh-yue/%E7%AC%AC25%E5%B1%86%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%9C%BE%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B8%BD%E9%81%B8%E8%88%89

若くして(34歳)福岡4区でトップ当選の実力と人望と人気。その後も当選すること、5期。第28回(1958年5月)でもトップ。これほどの政治家の、写真すら残っていない、気味の悪さ。美智子さん入内1959年の翌年に落選しています。
5期連続当選のベテラン議員が。


中央が平井義一氏。


1958年 皇室会議で満場一致で正田美智子皇太子妃に決定。これも実は奇妙な話。

国会にすら知られずまずアメリカで発表され、名だたる皇族は全て正田美智子入内に反対していたのが、いきなり賛成派に。昭和天皇の賛成の一言により、とされていますが その昭和天皇はいまだGHQの呪縛の中にあられました。


1959年2月 国会で平井義一議員が正田美智子入内の胡乱さと出自を問い詰める。

その2ヶ月後の1959年、正田美智子入内。

その翌年の総選挙で、今まで5期落選したことのなかった平井義一落選。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E7%BE%A9%E4%B8%80_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)


平井 義一(ひらい ぎいち、1913年3月 – 没年不明)は、日本の政治家。元衆議院議員(5期)Wikiより

国会議員を5期務め、第4次吉田内閣で郵政政務次官に就任、横綱審議委員、日本プロレス協会長などの、華やかなポジションにいた人物の没年が不明?・・・・。

没年不明は行方不明とほぼ同義ではないのですか?

気色の悪い・・・・。⇒ コメント欄に・・・・ご存命だそうです。Wikiの「没年不明」記述はなぜに?

⇒更にコメ欄に。衆議院の広報課に訊いたら、平成19年9月6日にご逝去。

平井議員とは違う意味で、履歴の一部がすっぽり消されているのは、美智子さん入内に直接動いたカトリック神父、ジョセフ・フロジャックです。

足跡はかなり詳しくWiki他にまとめがあるのに、部落布教のために群馬は館林に向かい、そこで布教していた事実だけ全部、過去から抜き取られ、なかったことになっています。

ご本人が著した書物まで焚書されたら、ジョセフ・フロジャック神父が美智子さんの父方祖母、正田きぬさんを一番目の布教者として、それから次々に正田一家をカトリックに改宗させたことも、 「なかったこと」にさせられるのかもしれません。

正田家とGHQの癒着、それにからんだ美智子さんの入内について発信し始めたのは、ひょっとして拙ブログが始発だったかもしれませんが(始発信は誰でもいいのですが)これまで推論の域を出なかったことが更に今回の記事で一歩進めたかもしれません。


朝鮮髪飾り ペッシテンギ


国連女子差別撤廃委が女性天皇を認めよ、そのために皇室典範改正をと、言ってきましたが、もともと現行の皇室典範も戦前のそれから様変わりしたのはGHQ関与だと思います。憲法をいじった彼らが皇室典範放置はないですね。

それまでは皇太子が不出来であったり人望が無かったり、ふさわしからぬ行為がった時は、長男であろうと排除、ふさわしい人物が天皇になっていました。

皇后も目論む女系天皇は論外ですが、どんなアホでも長男なら即位というのも、考えてみればGHQのやりそうなことです。当時の皇太子(今上)はさんざん、GHQによる恫喝と洗脳教育で自虐史観左翼に仕立てていたので、そのまま即位させないと、計画が成就しないわけです。


いまだ日本を敵国としてみなす「敵国条項」のある反日国連とその事務総長、潘基文と癒着している皇太子。そのさぼり妻は国連大学通学には熱心で、 個室が与えられたほど。またその父はGHQの意向に忠実で、要するに反日姿勢で出世階段を駆け上がっています。妹も国連関係。

池田 (小和田)礼子国際連合職員、国連ユニセフ駐日事務所(東京事務所)副代表などを歴任。

そして、売国の宮高円宮の長女と同じく、あの中抜き日本ユニセフに母親と妹が関与。小和田は真っ黒。反日一家です。出自はほぼ間違いなく半島。

そして国連といえば美智子皇后の盟友、ブサヨフェミの緒方貞子。

皇后の、女性宮家の創設で皇后の助っ人をし、一方ですでに在日という難民に苦しめられている日本に、更に難民受け入れを迫る左翼女がいます。

皇后陛下が主張なさり、天皇陛下がそれに追随なさっている「皇太子の系譜の女性天皇」を立てたら、皇統に朝鮮人の血が入り込みます。
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/b176c669206cae06cadf0d41f5530ed5


▲△▽▼


“佳子さまICU志望”で考えた 皇室とキリスト教はどんな関係? 2014.10.30
https://dot.asahi.com/wa/2014102900074.html?page=1

米国へホームステイに出発する佳子さま(2013年8月) (写真:読売新聞社代表撮影) (c)朝日新聞社 

 秋篠宮家の次女、佳子さま(19)が学習院大学を辞め、AO入試に挑んだことで話題の国際基督教大学(ICU)。結果はまだ公表されていないが、迎えるためにはやはり大学側も、入念に準備するのだろう。

 ところでなぜ、佳子さまと眞子さまの姉妹は、キリスト教精神に基づく大学を選んだのか。天皇は天照大神の子孫とされ、一切の神儀祭事は神道にのっとって実施されている。だが、皇室とキリスト教の関係を調べると、公開されたばかりの「昭和天皇実録」に興味深い記述がいくつか見受けられる。

 まずクリスマスにプレゼントを贈る習慣は、1904年の日露戦争のころにすでに皇室にあった。戦後、A級戦犯が処刑された1948年ごろには、昭和天皇は多くのキリスト教徒と接し、定期的に聖書の講義も受けていたと記されている。

 また、実録ではこんなエピソードを伝えている。皇太子(いまの天皇陛下)が結婚する際、皇太子妃(美智子さま)がミッション系の聖心女子大出身だったことから、「ある皇族の一人がキリスト教に興味を持ったのは皇太子妃の影響」と聞いた昭和天皇が美智子さまに「皇室においてキリスト教の話はしないように」と叱責したというのだ。実はこれらは当時の雑誌が書き立てた噂話で、昭和天皇は「事実でないし、心に思ったことさえなかった」と伝えるよう側近に命じたと実録は記している。

 京都産業大学の所功名誉教授(日本法制文化史)が解説する。

「皇室とキリスト教の関係を、狭い宗教の観点から考えると事実を読み違えるでしょう。明治以降、欧米からさまざまなことを学びながら近代化してきた中で、キリスト教もひとつの西洋文化として、柔軟に受け入れてきたのです」

 その流れは現代まで脈々と続き、眞子さまと佳子さまがICUを目指すことになったのは、何の不思議もないことなのだ。そんな歴史と伝統を受け継ぎながら、学習院という皇室の「殻」を破った佳子さまの新たな青春のスタートが待たれる。

※週刊朝日  2014年11月7日号より抜粋
https://dot.asahi.com/wa/2014102900074.html?page=1


3. 中川隆[-13749] koaQ7Jey 2018年12月18日 17:09:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告
皇室の人の大部分がクリスチャンです。


皇后陛下がクリスチャンであることは有名

ですが・・それだけでなく・・・。

天皇皇后両陛下をはじめ皇族の大部分。

皇室職員の大部分。

・・・がクリスチャンであることは公然の

秘密です。


皇后陛下および宮妃(宮家の奥様)は全員

クリスチャンです。


・皇后陛下・・(旧姓)正田美智子さま

 カトリックの名門正田家(日清製粉)

 から。


・常陸宮妃・・(同)津軽華子さま

 青森の津軽家(旧大名)から。

 津軽家の藩校は現在ミッションスクール (東奥義塾・・プロテスタント)。


・三笠宮妃・・(同)麻生信子さま

 九州のカトリックの名門麻生家から

 麻生セメント。


・高円宮妃・・(同)鳥取久子さま

 四国の鳥取家から。

 おそらく聖公会だとおもいます。


歴代侍従長の多くはクリスチャン。

現職女官長井上和子氏など皇室職員の大部

分がクリスチャン・・・・。


個人名は多すぎて書ききれません。


参考のサイトは上記以外多数あります。


 


http://www5e.biglobe.ne.jp/~BCM27946/

日本キリスト教女性史


津田梅子・・津田塾大学創始者

市川房枝・・国会議員、婦人運動家

・・・・・

・・などなど・・非常に多数。


http://www.yahoo.co.jp/

Yahoo! JAPAN


URLはダミー
http://q.hatena.ne.jp/1138821235

4. 中川隆[-13748] koaQ7Jey 2018年12月18日 17:28:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

皇室一家の宗教に関して気になる噂がある。なんと、天皇陛下と皇后陛下はキリスト教信者であるらしい。

それなのに皇室の神事を執り行っているという。しかも、ローマ法王はこの件を許可してるという。また、皇太子と雅子様も自らの宗教を明らかにしていないが、噂ではキリスト教という話だ。

皇太子はかねてから国事である行事を変えたいと言っている。神事をやりたくないのだろう。日本の皇室なのに、すっかりキリスト教にのっとられてしまったようだ。
http://homepage3.nifty.com/nonu/g02koe.htm

5. 中川隆[-13747] koaQ7Jey 2018年12月18日 17:41:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

戦前の天皇一族は JPモルガンと、戦後はロックフェラー家と大の仲良し


天皇家と国際金融資本との関係

日本にもアメリカ軍の恒久的な軍事基地がいくつもあるが、これは中国やロシアを締め上げるための出撃基地。明治時代から日本はダーイッシュと同じように、アングロ-シオニストの傭兵として扱われてきた。

例外はアメリカでウォール街と対立していたニューディール派がホワイトハウスの主導権を握っていた期間だけだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201709250000/

2017.08.26
94年前の9月1日に起こった関東大震災は虐殺事件を引き起こし、日本をJPモルガンの属国にした

8月も終わり、9月を迎えようとしている。

1923年9月1日、日本にとって大きな節目になる出来事が起こった。相模湾を震源とする巨大地震が関東地方を襲い、10万5000名以上の死者/行方不明者を出し、その損害総額は55億から100億円に達したのだ。

震災対策の責任者は朝鮮の独立運動を弾圧したコンビ、水野錬太郎内相と赤池濃警視総監だった。震災当日の夕方、赤池総監は東京衛戍(えいじゅ)司令官の森山守成近衛師団長に軍隊の出動を要請、罷災地一帯に戒厳令を布くべきだと水野内相に進言しているが、その頃、「社会主義者や朝鮮人の放火が多い」、「朝鮮人が来襲して放火した」といった流言蜚語が飛び交いはじめ、翌日の夜に警視庁は全国へ「不定鮮人取締」を打電した。

そうした中、朝鮮人や社会主義者が虐殺され、千駄ヶ谷では伊藤圀夫という日本人が朝鮮人に間違われて殺されそうになる。伊藤圀夫はその後「千駄ヶ谷のコリアン」をもじり、千田是也と名乗るようになった。アナーキストの大杉栄が妻の伊藤野枝や甥の橘宗一とともに憲兵大尉の甘粕正彦に殺されたのもこの時だ。この虐殺には治安当局が関係している疑いがあり、その意味でもこの時の犠牲者を追悼するという姿勢を東京都知事は見せてきた。それを止めるという意味は対外的にも重い。

震災後、山本権兵衛内閣の井上準之助蔵相は銀行や企業を救済するために債務の支払いを1カ月猶予し、「震災手形割引損失補償令」を公布している。すでに銀行が割り引いていた手形のうち、震災で決済ができなくなったものは日本銀行が再割引して銀行を救済するという内容だった。

震災手形で日銀の損失が1億円を超えた場合は政府が補償することも決められたが、銀行は地震に関係のない不良貸付、不良手形をも再割引したために手形の総額は4億3000万円を上回る額になり、1926年末でも2億円を上回る額の震災手形が残った。しかもこの当時、銀行の貸出総額の4割から7割が回収不能の状態だ。

復興に必要な資金を調達するため、日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガン。この金融機関の総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、大番頭として銀行業務を指揮していたのはトーマス・ラモントだ。このラモントは3億円の外債発行を引き受け、それ以降、JPモルガンは日本に対して多額の融資を行うことになる。

この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。ラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求めていたが、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。そのときの大蔵大臣が井上だ。

金解禁(金本位制への復帰)の結果、1932年1月までに総額4億4500万円の金が日本から流出、景気は悪化して失業者が急増、農村では娘が売られるなど一般民衆には耐え難い痛みをもたらすことになる。そうした政策の責任者である井上は「適者生存」、つまり強者総取りを信奉、失業対策に消極的で労働争議を激化させることになる。こうした社会的弱者を切り捨てる政府の政策に不満を持つ人間は増えていった。

1932年にはアメリカでも大きな出来事が引き起こされている。巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトがウォール街を後ろ盾とする現職のハーバート・フーバーを選挙で破ったのだ。

フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた。利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

このフーバーは1932年、駐日大使としてジョセフ・グルーを選び、日本へ送り込んだ。この人物のいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻。またグルーが結婚していたアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后である。

グルーの皇室人脈をそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

そうした人脈を持つグルーだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

当時、アメリカの大統領就任式は3月に行われていた。その前、2月15日にルーズベルトはフロリダ州マイアミで開かれた集会で狙撃事件に巻き込まれている。ジュゼッペ・ザンガラなる人物が32口径のリボルバーから5発の弾丸を発射、ルーズベルトの隣にいたシカゴのアントン・セルマック市長に弾丸が命中して市長は死亡した。

群衆の中、しかも不安定な足場から撃ったので手元が狂い、次期大統領を外した可能性があり、本来なら事件の背景を徹底的に調査する必要があるのだが、真相は明らかにされなかった。ザンガラは3月20日に処刑されてしまったのである。

そして1934年、名誉勲章を2度授与された伝説的な軍人、海兵隊のスメドレー・バトラー退役少将がアメリカ下院の「非米活動特別委員会」でウォール街の大物たちによるクーデター計画を明らかにしている。少将の知り合いでクーデター派を取材したジャーナリストのポール・フレンチは、クーデター派が「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」と語っていたと議会で証言している。

バトラーに接触してきた人物はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領を健康問題で攻撃し、フランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」のような50万名規模の組織を編成して大統領をすげ替えることにしていたという。クーデター計画と並行する形で、ニューディール政策に反対する民主党の議員は「アメリカ自由連盟」を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だった。

それに対し、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら自分は50万人以上を動かして対抗するとバトラーは応じた。内戦を覚悟するように警告したわけだ。そうしたこともあり、クーデターは実行されていない。クーデターを計画したとされた人々は誤解だと弁明、非米活動特別委員会はそれ以上の調査は行われず、メディアもこの事件を追及していない。捜査当局も動かなかった。

言うまでもなくジョセフ・グルーは第2次世界大戦後にジャパンロビーの中心的な存在となり、日本で進んでいた民主化の流れを断ち切り、天皇制官僚国家を継続させている。大戦前、思想弾圧の中心になった思想検察や特高警察の人脈は戦後も生き残った。これが「戦後レジーム」の実態であり、「戦前レジーム」とはウォール街の属国になることを意味している。そうした意味で、安倍晋三の言動は矛盾していない。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201708260000/


2017.10.21
選挙だけで国の行く末を変えることはできず、事態が悪化してきたことを過去の出来事は教えている

投票日が近づいているが、選挙だけで国の行く末を決められるとは言えない。「自由と民主主義の国」だと宣伝されているアメリカでは事実上、選択肢は民主党と共和党という大差のない政党だけ。この2党に属さない大統領が誕生する可能性があったのは2000年の選挙だが、このときは最有力候補と言われていたジョン・F・ケネディ・ジュニアが1999年7月16日に不可解な飛行機事故で死亡している。

より露骨な形で排除されそうになったり、排除された大統領も存在する。例えば、ウォール街と対立関係にあったニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトが1932年の選挙で大統領に選ばれると、33年から34年にかけてウォール街の大物たちはクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将が議会で証言、記録に残っている。金融資本、巨大鉄鋼会社、情報機関や軍の好戦派、イスラエルなど少なからぬ敵がいたジョン・F・ケネディは1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されている。

日本の場合、明治維新からイギリスやアメリカの強い影響下にある。アメリカの巨大金融機関JPモルガンが日本に君臨するようにあったのは関東大震災から。1932年にはウォール街の影響下にあったハーバート・フーバー大統領がジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻のいとこ、ジョセフ・グルーを大使として日本へ送り込んできた。

このグルーが結婚したアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代を日本で過ごしている。その際、華族女学校(女子学習院)へ通っているのだが、そこで九条節子、後の貞明皇后と親しくなったと言われている。

グルーは松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)のだが、個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、その翌年6月に離日する直前には岸信介とゴルフをしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)

言うまでもなく、岸信介の孫が安倍晋三。安倍は「戦前レジーム」を復活させたいようだが、その体制とはウォール街に支配された天皇制官僚国家だ。ニューディール派が実権を握った期間だけ、この構図が崩れた。

第2次世界大戦後の日本を形作る司令塔的な役割を果たしたグループが存在する。ジャパン・ロビーだが、その中心にいた人物がジョセフ・グルー。アメリカのハリー・トルーマン政権ががあわてて作った現行憲法の第1条は天皇制存続の宣言で、「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く」とある。「神聖にして侵すべからざる存在」から「象徴」へタグは取り替えられたものの、その本質に根本的な変化はなかった。

日本が降伏した直後はアメリカの影響力が圧倒的に強かったが、時間を経るに従って日本の戦争責任を追及するであろう国の影響が強まってくることが予想された。当然、天皇の戦争責任が問われることになる。その前に「禊ぎ」を済ませる必要がある。日本国憲法にしろ、東京裁判にしろ、「天皇制」の存続が重要な目的だったのだろう。

比較的日本に寛容だったと思われるアメリカ軍の内部にも厳しい意見はあった。そのターゲットのひとつが靖国神社。朝日ソノラマが1973年に出した『マッカーサーの涙/ブルーノ・ビッテル神父にきく』によると、GHQ/SCAP(連合国軍最高司令官総司令部)では多数派の将校が靖国神社の焼却を主張していた。それをブルーノ・ビッテル(ビッター)の働きかけで阻止したというのだ。(朝日ソノラマ編集部『マッカーサーの涙』朝日ソノラマ、1973年)

このビッターはカトリックの聖職者で、ニューヨークのフランシス・スペルマン枢機卿の高弟だとされている。ジョバンニ・モンティニ(後のローマ教皇パウロ六世)を除くと、この枢機卿はCIAと教皇庁を結ぶ最も重要な人物。ビッターもCIAにつながっている可能性は高い。

1953年秋にリチャード・ニクソン副大統領が来日、バンク・オブ・アメリカ東京支店のA・ムーア副支店長を大使館官邸に呼びつけ、「厳重な帳簿検査と細かい工作指示を与えた」と伝えられている。この席にビッターもいたという。ドワイト・アイゼンハワー大統領がニクソンを副大統領に選んだ理由は、ニクソンが闇資金を動かしていたからだと言われている。

そのビッターはニクソンと会談した2カ月後、霊友会の闇ドル事件にからんで逮捕されてしまう。外遊した同会の小谷喜美会長に対し、法律に違反して5000ドルを仲介した容疑だったが、ビッターが逮捕されたときに押収された書類はふたりのアメリカ人が警視庁から持ち去り、闇ドルに関する捜査は打ち切りになってしまう。秘密裏に犬養健法相が指揮権を発動したと言われている。

日本では天皇制官僚国家という型を壊すことは許されない。「左翼」とか「リベラル」というタグをつけていても、この型から抜け出さなければ許される。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201710200000/

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2017.11.08
祖父の岸信介の真似をしたのか安倍首相はトランプ米大統領とゴルフをしたが、岸はウォール街一派

安倍晋三首相とドナルド・トランプ米大統領は11月5日、プロゴルファーの松山英樹を引き連れて越谷市のゴルフ場でプレーしたようだ。

安倍首相が敬愛しているという祖父の岸信介もゴルフが好きだったようで、ハワイの真珠湾を日本軍が奇襲攻撃した翌年の1942年に岸は駐日大使だったジョセフ・グルーをゴルフに誘い、敗戦後の57年に首相としてアメリカを訪問した際にはドワイト・アイゼンハワー大統領、通訳の松本滝蔵、そしてプレスコット・ブッシュ上院議員とゴルフをしている。言うまでもなく、プレスコットはジョージ・H・W・ブッシュの父親、ジョージ・W・ブッシュの祖父にあたる。

本ブログでは何度も書いてきたが、グルーは1932年、ハーバート・フーバー大統領が任期最後の年に大使として日本へ送り込んでいる。グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、グルー本人はモルガン人脈の中核グループにいたと言えるだろう。その人脈の中心には巨大金融機関のJPモルガンがあり、この金融機関は1923年にあった関東大震災の復興資金を調達したことから日本に大きな影響を及ぼすようになった。

また、グルーの妻であるアリス・ペリーは幕末に「黒船」で日本にやって来たマシュー・ペリー提督の末裔で、少女時代には日本で生活、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そのときに親しくなった友人のひとりが九条節子、後の貞明皇后(大正天皇の妻)だという。

グルーを日本へ送り込んだフーバーはスタンフォード大学を卒業してから鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルド系の鉱山で働き、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に見込まれて出世、大統領になった人物だ。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

1932年の大統領選挙でもJPモルガンをはじめとするウォール街の住人はフーバーを支援していたが、ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトに敗れてしまう。このグループは巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を拡大するという政策を打ち出し、植民地やファシズムにも反対していた。ウォール街とは対立関係にある人物が大統領に選ばれたわけである。そこで日米従属関係が揺らぐ。

その当時、大統領就任式は3月に行われていたが、その前の月にルーズベルトはマイアミで銃撃事件に巻き込まれている。大統領に就任した後にはウォール街のクーデター計画が待ち受けていた。

ウォール街のクーデター派はイタリア、ドイツ、フランスのファシスト団体の活動に注目し、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」を研究、改憲して別の政府を設立するわけでなく、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の仕事を引き継ぐというシナリオだったという。クーデターを成功させるため、ウォール街の勢力は名誉勲章を2度授与され、人望が厚かった海兵隊のスメドリー・バトラー退役少将を抱き込みにかかるのだが、失敗してしまう。

計画に反発した少将はクーデター計画をジャーナリストのポール・フレンチに話し、そのフレンチは1934年9月にクーデター派を取材している。その時、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があると聞かされたと語っている。

それに対し、バトラー少将はクーデター派に対し、「ファシズムの臭いがする何かを支持する兵士を50万人集めるなら、私は50万人以上を集めて打ち負かす」と宣言、内戦を覚悟するように伝えている。(“Statement of Congressional Committee on Un-American Activities, Made by John W. McCormack, Chairman, and Samuel Dickstein, Vice Chairman, Sitting asa Subcommittee” / ”Investigation of Nazi Propaganda Activities and Investigation of Certain Other Propaganda Activities,” Public Hearings, Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, December 29, 1934)

その際、クーデター派は新聞を使い、「大統領の健康が悪化しているというキャンペーンを始めるつもりだ。そうすれば、彼を見て愚かなアメリカ人民はすぐに信じ込むに違いない。」とも話していたとしている。ルーズベルトは1945年4月、ドイツが降伏する直前に急死してウォール街がホワイトハウスで主導権を奪還した。その際、ルーズベルト大統領には健康に問題があったと宣伝された。

こうしたアメリカの権力バランスの変化は日本の占領政策にも影響、「逆コース」が推進される。その中心で活動していたのが1948年6月に設立されたACJ(アメリカ対日協議会)、いわゆるジャパン・ロビーである。そのACJの中心的な存在だったのがジョセフ・グルーにほかならない。

ACJはウォール街が創設した破壊工作(テロ)機関のOPCとも人脈が重なっているが、そのOPCはアレン・ダレスの腹心だったフランク・ウィズナーが率いていた。ちなみに、ふたりともウォール街の弁護士だ。

OPCの東アジアにおける拠点は上海に設置されたが、49年1月に解放軍が北京へ無血入城、5月には上海を支配下におき、10月には中華人民共和国が成立するという展開になったことから日本へ移動している。日本では6カ所に拠点を作ったが、その中心は厚木基地に置かれた。(Stephen Endicott & Edward Hagerman, “The United States and Biological Warfare”, Indiana University Press, 1998)その1949年に日本では国鉄を舞台とした怪事件が相次ぐ。つまり、7月5日から6日にかけての下山事件、7月15日の三鷹事件、そして8月17日の松川事件である。そして1950年6月に朝鮮半島で戦争が勃発する。朝鮮戦争だ。

この戦争でアメリカのSAC(戦略空軍総司令部)は63万5000トンの爆弾を投下したと言われている。大戦中、アメリカ軍が日本へ投下した爆弾は約16万トンであり、その凄まじさがわかるだろう。1948年から57年までSACの司令官を務め、日本での空爆も指揮しいたカーティス・ルメイは朝鮮戦争の3年間で人口の20%を殺したと認めている。

その後、ルメイやアレン・ダレスを含むアメリカの好戦派はロシアに対する先制核攻撃を計画、1957年に作成したドロップショット作戦では300発の核爆弾をソ連の100都市で使い、工業生産能力の85%を破壊する予定になっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)

​テキサス大学のジェームズ・ガルブレイス教授によると​、ルメイを含む好戦派は1963年の終わりに奇襲攻撃を実行する予定にしていた。その頃になれば、先制核攻撃に必要なICBMを準備できると見通していたのだ。この計画に強く反対し、好戦派と激しく対立したジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日に暗殺された。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201711080000/

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76年前の日本軍による真珠湾攻撃の原因を米国の制裁に求めるなら朝鮮に対する制裁も反対すべき

今から76年前、1941年12月7日の午前7時48分(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃した。ここは海岸が遠浅で攻撃が技術的に難しく、守りの堅い軍港。非常識とまでは言えないだろうが、攻撃のリスクは高い。それを厳しい訓練でクリアしたということだ。

アメリカ政府の対日制裁でやむなく攻撃した、あるいはアメリカ側は事前に攻撃を知っていたと主張する人がいるが、日本軍は実際に攻撃している。つまりアメリカによる偽旗作戦ではない。

日本に対する制裁には歴史的な背景がある。1872年の琉球併合から74年の台湾派兵、75年にはソウルへ至る水路の要衝である江華(カンファ)島へ軍艦(雲揚)を送り込んで挑発、日清戦争、日露戦争を経て東アジア侵略を本格化、米英の利権と衝突して対日制裁になるわけだ。こうした制裁が軍事行動を誘発すると考えている人は、例えば朝鮮に対する制裁にも反対しているのだろう。そうでなければ矛盾だ。あるいは朝鮮に圧力を加え、戦争を誘発したいと考えているのだろうか?

明治維新から1932年までの日本はイギリスとアメリカというアングロ・サクソン系の国に従属、その手先として動いた側面がある。明治維新はイギリスの思惑と違って内戦が早い段階で終結、徳川時代の人脈が生きていたので完全な属国にはならなかったが、大きな影響下に置かれたことは間違いない。

ここでいうアメリカとはウォール街を意味する。1923年9月1日に相模湾を震源とする巨大地震、つまり関東大震災が発生、復興に必要な資金を調達するために日本政府は外債の発行を決断、それを引き受けることになったのがJPモルガンだ。

この金融機関の総帥はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアだが、大番頭として銀行業務を指揮していたのはトーマス・ラモント。このラモントは3億円の外債発行を引き受け、それ以降、JPモルガンは日本に対して多額の融資を行うことになる。

この巨大金融機関と最も強く結びついていた日本人のひとりが井上準之助。1920年に対中国借款の交渉をした際にこの巨大金融機関と親しくなったという。ラモントは日本に対して緊縮財政と金本位制への復帰を求めていたが、その要求を浜口雄幸内閣は1930年1月に実行する。そのときの大蔵大臣が井上だ。

この政権が進めた政策はレッセ-フェール、つまり新自由主義的なもので、その責任者で「適者生存」を信じるある井上は失業対策に消極的。その結果、貧富の差を拡大させて街には失業者が溢れて労働争議を激化させ、農村では娘が売られると行った事態になった。一般民衆に耐え難い痛みをもたらすことになったわけだ。

当然のことながら、アメリカでもJPモルガンを中心とするウォール街の住人は強い影響力を持ち、1929年に大統領となったハーバート・フーバーもそのひとり。フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた人物で、利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街と結びついたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)

ところが、1932年の大統領選挙でフーバーは負けてしまう。当選したのは巨大企業の活動を制限し、労働者の権利を認めるという政策を掲げるニューディール派のフランクリン・ルーズベルトだ。大きな力を持っていたとはいえ、今に比べるとアメリカ支配層の力はまだ小さく、選挙で主導権を奪われることもありえた。

このフーバーはホワイトハウスを去る少し前、1932年にJPモルガンと関係の深いジョセフ・グルーを駐日大使として日本へ送り込んだ。なお、この年に井上準之助は血盟団のメンバーに暗殺されている。

グルーのいとこにあたるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥の妻で、グルーが結婚していたアリス・ペリーは少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通っている。そこで親しくなったひとりが九条節子、後の貞明皇后だという。

グルーの皇室人脈はそれだけでなく、松平恒雄宮内大臣、徳川宗家の当主だった徳川家達公爵、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らにもつながっていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)

こうした人脈を持つグルーが日本軍の動向に関する機密情報を入手していても不思議ではないが、このグルーとルーズベルト大統領との関係が良好だったとは言えない。情報がきちんと伝えられていたかどうか疑問があるが、JPモルガンへは詳しく伝達されていただろう。

グルーが大使として日本へ来る前年、1931年に日本軍の奉天独立守備隊に所属する河本末守中尉らが南満州鉄道の線路を爆破、いわゆる「満州事変」を引き起こした。この偽旗作戦を指揮していたのは石原莞爾や板垣征四郎だ。1932年には「満州国」の樹立を宣言するのだが、この年にアメリカでは風向きが変わっていた。本来なら日本はその変化に対応する必要があったのだが、そのまま進む。そして1937年7月の盧溝橋事件を利用して日本は中国に対する本格的な戦争を開始、同年12月に南京で虐殺事件を引き起こしたのだ。そして1939年5月にはソ連へ侵略しようと試みてノモンハン事件を起こし、惨敗した。

本ブログで何度か指摘したように、このソ連侵攻作戦はアングロ・サクソンの長期戦略に合致している。その作戦が失敗したことから南へ向かい、米英の利権と衝突するわけだ。ドイツ軍がソ連に対する大規模な軍事侵攻、いわゆるバルバロッサ作戦を開始したのはその2年後、1941年6月のことだ。

この作戦でドイツは軍の主力を投入したが、ドイツ軍の首脳は西部戦線防衛のために大軍を配備するべきだと主張、反対している。日本が真珠湾を攻撃する前で、アメリカは参戦していないが、それでもイギリスがその気になれば、西側からドイツを容易に攻略することができるからだ。この反対意見を退けたのはアドルフ・ヒトラー。この非常識な「判断」との関連で注目されているのがヒトラーの側近だったルドルフ・ヘスの動きだということも本ブログでも指摘した。1941年5月10日にヘスは単身飛行機でスコットランドへ飛んでいるのだ。

ドイツ軍は1941年7月にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫り、42年8月にスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まった。ここまではドイツ軍が圧倒的に優勢だったが、1942年11月にソ連軍が猛反撃を開始、ドイツ軍25万人を完全に包囲して43年1月に生き残ったドイツの将兵9万1000名は降伏する。主力を失ったドイツ軍の敗北はこの時点で決定的だ。

その4カ月後、1943年5月に米英両国はワシントンDCで会談して善後策を協議、7月にアメリカ軍はイギリス軍と共にシチリア島に上陸した。ハスキー計画だ。このとき、アメリカ軍はマフィアと手を組んでいる。9月にはイタリア本土を占領、イタリアは無条件降伏した。ハリウッド映画で有名になったオーバーロード(ノルマンディー上陸)作戦は1944年6月になってからのことである。ノルマンディー上陸作戦の結果、ドイツ軍が負けたと思い込んでいる人も少なくないようだが、これはハリウッドによる洗脳の効果を証明している。

その一方、スターリングラードでドイツ軍が壊滅した後にアレン・ダレスなどアメリカ支配層はフランクリン・ルーズベルト大統領には無断でナチスの幹部たちと接触を始めている。例えば、1942年の冬にナチ親衛隊はアメリカとの単独講和への道を探るために密使をOSSのダレスの下へ派遣、ドイツ降伏が目前に迫った45年初頭にダレスたちはハインリッヒ・ヒムラーの側近だった親衛隊の高官、カール・ウルフに隠れ家を提供、さらに北イタリアにおけるドイツ将兵の降伏についての秘密会談が行われている。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995 / Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)イタリアとスイスとの国境近くでウルフがパルチザンに拘束された際にはダレスが部下を派遣して救出している。(Eri Lichtblau, “The Nazis Next Door,” Houghton Mifflin Harcourt, 2014)

ドイツは1945年5月に降伏しているが、その前の月にルーズベルト大統領は急死、ホワイトハウスの主導権をウォール街が奪還した。副大統領から昇格したハリー・トルーマンはルーズベルトとの関係が希薄。トルーマンのスポンサーだったアブラハム・フェインバーグはシオニスト団体へ法律に違反して武器を提供し、後にイスラエルの核兵器開発を資金面から支えた富豪のひとりとして知られている。
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関東大震災でウォール街の影響下に入った日本(その2)


 本ブログでは何度も書いてきたが、ルーズベルトが大統領に就任するとJPモルガンをはじめとするウォール街の勢力がクーデターを計画する。スメドリー・バトラー海兵隊少将によると、1934年の夏に「コミュニズムの脅威」を訴える人物が訪ねてきた。


 その訪問者はJPモルガンと関係が深く、いわばウォール街からの使者。ドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスのクロワ・ド・フ(火の十字軍)の戦術を参考にしてルーズベルト政権を倒そうとしていた。彼らのシナリオによると、新聞を利用して大統領をプロパガンダで攻撃し、50万名規模の組織を編成して恫喝、大統領をすげ替えることにしていたという。


 バトラーの知り合いだったジャーナリスト、ポール・フレンチはクーデター派を取材、「コミュニズムから国家を守るため、ファシスト政府が必要だ」という発言を引き出している。


 バトラーとフレンチは1934年にアメリカ下院の「非米活動特別委員会」で証言し、モルガン財閥につながる人物がファシズム体制の樹立を目指すクーデターを計画していることを明らかにした。ウォール街の手先は民主党の内部にもいて、「アメリカ自由連盟」なる組織を設立している。活動資金の出所はデュポンや「右翼実業家」だったという。


 バトラー少将は計画の内容を聞き出した上でクーデターへの参加を拒否、50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分はそれ以上を動員して対抗すると告げる。ルーズベルト政権を倒そうとすれば内戦を覚悟しろ、というわけである。


 クーデター派の内部にはバトラーへ声をかけることに反対する人もいたようだが、この軍人は名誉勲章を2度授与された伝説的な人物で、軍隊内で信望が厚く、クーデターを成功させるためには引き込む必要があった。


 1935年にはニューディール派以上のウォール街を批判していたヒューイ・ロング上院議員が暗殺されている。彼は当初、ルーズベルト政権を支持していたが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になることをウォール街が恐れたことは想像に難くない。ロングが大統領になれなくても、ニューディール派の政策を庶民の側へ引っ張ることは明らかだった。


 一方、日本ではウォール街とつながっていた人物が殺されている。ひとりは1930年に銃撃されて翌年に死亡した浜口雄幸、32年には血盟団が井上準之助と団琢磨を暗殺、また五・一五事件も実行された。団はアメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者で、アメリカの支配層と太いパイプがあった。


 1932年にアメリカ大使として来日したジョセフ・グルーのいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりモルガン財閥総帥の妻で、自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。日本の皇室はウォール街と深く結びついていたとも言える。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 ルーズベルト政権と対立関係にあったJPモルガンは関東大震災から戦後に至るまで日本に大きな影響力を維持していた。大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。(了)
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米巨大資本に従属する日本人エリートが破壊する日本(その3)

 明治維新から後の日本を支配している人びとはアングロ・サクソン、つまりイギリスやアメリカの支配層と密接な関係にある。19世紀後半からアングロ・サクソンは日本を中国侵略の拠点と見なしてきたのだ。


 その頃、イギリスは中国(清)との貿易赤字に苦しんでいた。そこでイギリスは麻薬のアヘンを清に売りつけ、それを清が取り締まると戦争を仕掛けた。1840年から42年までのアヘン戦争や56年から60年にかけてのアロー戦争(第2次アヘン戦争)である。この戦争でイギリスは勝利、広州、厦門、福州、寧波、上海の開港とイギリス人の居住、香港の割譲、賠償金やイギリス軍の遠征費用などの支払いなどを中国に認めさせた。


 しかし、これらの戦争は基本的に海で行われ、イギリス軍は内陸部を占領できなかった。それだけの戦力がなかったのだ。海上封鎖はできても中国を占領することは不可能。そこで日本に目をつけ、日本はイギリスの思惑通りに大陸を侵略していく。勿論、イギリスやその後継者であるアメリカの支配層(巨大資本)の利益に反することを日本が行えば「制裁」されることになる。


 イギリスは他国を侵略するため、傭兵を使ったり第3国に攻撃させたりする。例えば、インドを支配するためにセポイ(シパーヒー)と呼ばれる傭兵を使い、アラビア半島ではカルトのひとつであるワッハーブ派を支配が支配するサウジアラビアなる国を樹立させ、パレスチナにイスラエルを建国させている。


 このイギリスを日本へ行き入れたのが長州と薩摩。イギリスを後ろ盾とする両国は徳川体制の打倒に成功、明治体制(カルト的天皇制官僚国家)へ移行していく。


 このイギリスの主体は金融界、いわゆるシティ。1923年の関東大震災で日本政府は復興資金の調達をアメリカのJPモルガンに頼るが、この銀行の歴史をたどるとシティ、より具体的に言うとロスチャイルドへ行き着く。アメリカの金融界はウォール街とも呼ばれるが、そのウォール街でJPモルガンは中心的な立場にあった。


 このウォール街を震撼させる出来事が1932年に起こる。この年に行われた大統領選挙でニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。ニューディール派は巨大企業の活動を規制し、労働者の権利を認め、ファシズムに反対するという看板を掲げていた。巨大企業の金儲けを優先させ、労働者から権利を奪い、ファシズムを支援するウォール街とは考え方が正反対だった。圧倒的な資金力を持つウォール街の候補、現職のハーバート・フーバーが敗北したのは、言うまでもなく、それだけ庶民のウォール街への反発が強かったからだ。


 1933年から34年にかけてウォール街はニューディール政権を倒すためにクーデターを計画、この計画はスメドリー・バトラー海兵隊少将によって阻止された。こうしたことは本ブログで繰り返し書いてきたとおり。庶民の反発はニューディール派より巨大資本に批判的だったヒューイ・ロング上院議員への人気につながるのだが、このロングは1935年に暗殺された。


 ロングは当初、ルーズベルト政権を支持していたのだが、ニューディール政策は貧困対策として不十分だと考え、1933年6月に袂を分かつ。ロングは純資産税を考えていたという。ロングが大統領になったなら、ウォール街を含む支配層は大きなダメージを受けることになり、内戦を覚悟でクーデターを実行することになっただろう。


 そうしたウォール街の強い影響を受けていたのが関東大震災以降の日本。JPモルガンと最も親しかった日本人は井上準之助だった。アメリカのマサチューセッツ工科大学で学んだ三井財閥の最高指導者、団琢磨もアメリカ支配層と強く結びついていた。このふたりは1932年、血盟団によって暗殺された。


 この年、駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと関係が深い。つまり、彼のいとこ、ジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニアの妻で、グルー自身の妻であるアリス・グルーは大正(嘉仁)天皇の妻、貞明皇后と少女時代からの友だち。大戦前からグルーは日本の皇室に太いパイプを持っていた。


 グルーの人脈には松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、樺山愛輔伯爵、吉田茂、牧野伸顕伯爵、幣原喜重郎男爵らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。


 1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしたという。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 第2次世界大戦後、グルーはジャパン・ロビーの中心人物として活動して日本をコントロールすることになる。グルーと親しかった岸信介。その孫にあたる安倍晋三が戦前レジームへの回帰を目指すのは、日本をウォール街の属国にしたいからだろう。


 それに対し、ロシアと中国は関係を強めている。ドナルド・トランプ政権は軍事的にロシアを脅しているが、それに対し、プーチン政権は9月11日から15日にかけてウラル山脈の東で30万人が参加する大規模な演習ボストーク18を実施。​その演習に中国軍は3200名を参加させている​。経済面で手を差し伸べる一方、軍事的な準備も怠らない。


 明治維新から日本の支配層はシティやウォール街、つまりアングロ・サクソンの支配層に従属することで自らの権力と富を得てきた。そうした従属関係が日本経済を窮地に追い込んでいる。この矛盾に日本の支配システムがいつまで耐えられるだろうか?(了)
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2018.09.21 自民党総裁選という茶番

 自民党の次期総裁を決める同党国会議員による投票が9月20日に行われ、安倍晋三首相が石破茂を破って3選が決まったという。茶番としか言い様がない。安倍に限らないが、日本の総理大臣は基本的にアメリカ支配層の傀儡にすぎず、彼らの意向に反する人物が選ばれれば強制的に排除される。安倍も石破もそうした類いの人間ではない。


 アメリカ支配層の戦略は国内におけるファシズム化と国外における侵略。本ブログでは何度も書いてきたが、アメリカの巨大金融資本は遅くとも1933年の段階でアメリカにファシズム政権を樹立させようとしていた。そこで、1932年の大統領選挙で勝利したフランクリン・ルーズベルトを排除するためにクーデターを計画、これはスメドリー・バトラー海兵隊少将の告発で明るみに出ている。


 ウォール街からナチス政権下のドイツへ資金が流れていたことも知られているが、そうしたパイプ役のひとりがジョージ・ヒューバート・ウォーカー。ロナルド・レーガン政権での副大統領を経て1989年に大統領となるジョージ・H・W・ブッシュの母方の祖父にあたる。


 アメリカの好戦派がソ連に対する先制核攻撃を作成した1950年代、彼らは地下政府を編成する準備をしている。「アイゼンハワー10」と呼ばれる人びとによって権限を地下政府へ与えることになっていたのだ。


 その延長線上にFEMA、そしてCOGがある。COGは緊急事態の際に政府を存続させることを目的とした計画で、ロナルド・レーガン大統領が1982年に出したNSDD55で承認され、88年に出された大統領令12656によってその対象は「国家安全保障上の緊急事態」へ変更された。(Andrew Cockburn, “Rumsfeld”, Scribner, 2007)


 1991年12月にソ連が消滅するとネオコンはアメリカが唯一の超大国にあったと認識、92年2月には国防総省のDPG草案という形で世界制覇プランを作成する。旧ソ連圏だけでなく西ヨーロッパ、東アジアなどの潜在的なライバルを潰し、膨大な資源を抱える西南アジアを支配しようとしている。中でも中国が警戒され、東アジア重視が打ち出された。


 このDPG草案が作成された当時の国防長官はリチャード・チェイニーだが、作成の中心になったのは国防次官だったポール・ウォルフォウィッツ。そこで、ウォルフォウィッツ・ドクトリンとも呼ばれている。この長官と次官はネオコンのコンビで、2001年に始まるジョージ・W・ブッシュ政権ではそれぞれ副大統領と国防副長官を務めた。


 唯一の超大国になったアメリカは国連を尊重する必要はないとネオコンは考え、単独行動主義を打ち出す。アメリカの属国である日本に対しても国連無視を強制、1995年2月に「東アジア戦略報告(ナイ・レポート)」が作成されてから日本はアメリカの戦争マシーンに組み込まれていった。日本人を侵略戦争の手先として利用しようというわけだ。勿論、その延長線上に安倍内閣は存在する。


 安倍は「戦後レジーム」を嫌悪、「戦前レジーム」へ回帰しようとしているらしいが、この両レジームは基本的に同じ。戦後レジームとは民主主義を装った戦前レジーム。関東大震災以降、日本はJPモルガンを中心とするウォール街の影響下にあり、その構図は戦後も続いている。JPモルガンが敵対関係にあったニューディール派のルーズベルト政権は1933年から45年4月まで続くが、この期間は日本の支配者にとって厳しい時代だった。


 1932年に駐日大使として日本へ来たジョセフ・グルーはJPモルガンと極めて関係が深い。いとこであるジェーン・グルーはジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガン総帥の妻なのだ。


 グルーは皇室とも深いパイプを持っていた。結婚相手のアリス・ペリー・グルーの曾祖父の弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリー。ジェーン自身は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通い、そこで後の貞明皇后と親しくなったという。


 グルーの人脈には松平恒雄、徳川家達、秩父宮雍仁、近衛文麿、樺山愛輔、吉田茂、牧野伸顕、幣原喜重郎らが含まれていたが、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。


 松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在、離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われてプレーしている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)


 安倍晋三が目指す戦前レジームとはアメリカの巨大金融資本が日本を支配する体制にほかならない。彼がアメリカ支配層に従属しているのは当然なのだ。戦前レジームへの回帰とアメリカ支配層への従属は何も矛盾していない。これを矛盾だと考える人がいるとするならば、その人は歴史を見誤っているのだ。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/201809210000/


天皇家の蓄財(2.26事件の真の闇/補遺)2007年02月23日 | Weblog

 2・26事件について書いたときに、若干皇室の資産に触れた。

 皇室の蓄財に関して、『神々の軍隊』(濱田政彦著)ではこう書かれている。

 「戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産は少なく見積もっても約16億円であるという。だが、宮内庁のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外へ隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であるともいわれている。

皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金(後の東京銀行)、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾りとるほどに皇室は豊かになるということになる。」

 戦前の天皇家と国家、あるいは天皇家と資本家の関係がこれで言い尽くされているであろう。天皇は昭和の大戦争に深く関与した。戦争責任はある。いかにユダヤから仕掛けられた戦争であろうとも、大企業、大銀行はみんな戦争経済へと誘導したのであって、その大株主であった天皇が戦争を指導したのだから、責任なしとは言えない。私は先の戦争に関して連合国に謝る理由はないと思うが、天皇に戦争の責任は重大だったと思う。

先の引用にもあるように、天皇家と日本郵船は明治期から深い仲にあった。日本郵船の大株主は天皇と三菱財閥であった。当時は海外渡航といえば船舶しかなく、日本郵船は日本貿易の命綱である。この日本郵船が大量の移民をアメリカに送り込んだ(数十万人といわれる)し、また大量の若い女性を海外に運んだのである(娼婦にするためである!)。

 日本郵船だけでなく、天皇は大阪郵船の大株主でもあり、これを使って、日本は手に入れた外地へ、人間や物資を運ばせ、莫大な利益をあげさせた。

 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』(成甲書房)によれば、福沢諭吉は「賎業婦人(娼婦)の海外出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」と主張している。外貨稼ぎに日本の女性を使えと言ったのであるから、どこが「天は人の下に人をつくらず」だ! 

つまり諭吉は、娼婦の海外輸出は天皇と三菱に利益もたらすから「得策だ」と平然と言ったのである。だから諭吉はユダヤ・フリーメースンの会員だったのだ。慶應義塾とは日本資本主義と天皇を支える私立の重要な学校であった。財界人を多く輩出したのは慶應義塾や官製の東京帝国大学であった。

 そこを出た財界のトップたちは、記述のように、2・26事件を影で操り、そこから一気に戦争経済へ主導し、政府要職にも就くなどして日本を大戦争とその果ての破局へと導くのである。

 鬼塚英昭氏の『天皇のロザリオ』には、戦前の皇室が銀行支配も徹底していたことを書いている。皇室は日本銀行の47% の株を所持していた。だから紙片を発行し、公定歩合を調整するたびに、莫大な利益が皇室に流れた、とある。日銀は発足当初からユダヤ国際金融資本の日本支店であるから、これでいかに天皇家とユダヤ資本が深い関係かがわかるだろう。

 さらに鬼塚氏は天皇とアヘンの関係も暴露している。

 「同じ手口(米国に移民を送って儲けた話)を皇室と三菱は考えた。ペルシャ(イラン)からのアヘンの輸入であった。皇室と三菱は三井も仲間に入れることにした。三井を入れなければ内乱が起こる可能性があったからだ。三井と三菱は隔年でアヘンをペルシャから入れ、朝鮮に送り込んだ。満州という国家はこのアヘンの金でできた。

 天皇一族はこの利益を守るために秘密組織をつくった。厚生省という組織に、天皇は木戸幸一(後に内大臣)を入れ、アヘン政策を推進させた。1938(昭和13)年12月に興亜院がつくられ、アヘン政策を統括した。日本でもケシ栽培をし、朝鮮にほうり込んだ。中国でも熱河省でケシ栽培をした。この利益も皇室の財産の形成に大きく貢献した。 

 多くの(ほとんどと言うべきか)軍人たちが、三菱と三井のアヘンの利益の一部をもらって遊興にあけくれた。」

 天皇も、財閥も、軍人も、アヘンという恥ずべき巨悪に手を染め、巨利を得ては遊興に使うために、戦争を次々に仕掛けたのだった。このゆえをもって、天皇はついに終生、中国と朝鮮には足を踏み入れることができなかった。ちなみに沖縄も、天皇は自らの助命と引き換えに、米軍の永久使用を提供したので、これまたついに沖縄を行幸することはできなかった。

 さて、再び『神々の軍隊』の続きである。

 「皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、なかでも国際決済銀行、通称バーゼルクラブは、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣ではなく、すべてを金塊で決算する銀行であった。

 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃すよう指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に“洗浄”されたが、その際皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは秘密裏にナチスに戦争協力したので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。」

 昭和天皇は大東亜戦争中、宮中に大本営を置いて陸海軍の下僚参謀を指揮して作戦を実行した。それの実態が連合軍にバレれば自分も戦犯として処刑されるという恐怖と、せっかく築いた莫大な資産が取り上げられることを心配したのだ(むろん実態は連合国は承知していた)。だから彼は、資産をスイスや南米の銀行に預けた。海軍の潜水艦を私的に使ってアルゼンチンに金塊を避難することまでやった。

 そして進駐軍がくると、マッカーサーに卑屈に叩頭し、朕はキリスト教徒になってもいい、日本をカソリックの国にしてもよいと申し出た。宮中の女性を東京裁判のキーナン検事に提供して歓心を買い、戦争中の陸軍軍人の内輪情報を(田中隆吉を使って)チクっては責任を全部東条らに押しつけて、彼らが絞首刑になるよう誘導した。みんな、自分の命乞いのため、そして資産保全のためである。
 
 小林良彰の『日本財閥の政策』は、鈴木大拙と出光の関係を書いたときに紹介したが、こんなことも書いている。

 「中島知久平(中島飛行機 ゼロ戦の製造で有名)は、陸軍が(支那事変で)未だ戦線を黄河あたりにまででとどめようとしているとき、閣僚の一人として漢口まで行かねばならないと主張した。もっとも大胆に(中国戦線)拡大を唱えたのは、鐘紡社長津田信吾である。

彼は中国との全面戦争とともに、イギリスとの戦争を説いた。彼の強硬論は鐘紡の高利益の基礎に外地会社の多角経営があり、これを積極的に中国領内に拡大する希望を持ったこと、(中略)中国国内に原材料基地を見出さねばならぬという因果関係からくるものであろう。」

 中島知久平が閣僚になって戦争を主張したように、また王子製紙社長の藤原銀治郎は、海軍顧問、商工大臣、国務大臣。軍需大臣を歴任し、その地位を利用して戦争でしこたま儲けたクチである。

 戦後、自民党の大物議員で60年安保時に外相を務めた藤山愛一郎も戦前、大日本製糖社長として、戦争を煽った人物である。彼は台湾での製糖事業を一手に握っていたが、さらに南方と中国南部に製糖工場を広げるべき軍部と結託した人間である。

 こうした三井.三菱以外の中小財閥も、積極的に戦争経済を推進しようと図ったのである。それを最も喜んだのはこれらの会社の大株主だった天皇であった。

 こうして見てきたように、天皇は莫大な蓄財を行うために、財閥と組んで国民を売りとばし、戦争を仕掛けて国民を殺してきた。責任はすべて軍人と国民とに押し付けた。血も涙もない、とはこのことではなかろうか。

 終戦後、彼は「人間宣言」のあと、全国を巡幸して歩いた。その映像は今も残る。敗戦で打ちひしがれた国民を激励すると称して(膨大な予算を使って)行幸したときの姿は、わざと古着にすり減ったクツを履いて、軍部に騙された気の毒な天皇という哀愁を演出してみせたのだった。

彼は1901年生まれだから、巡幸のころはまだ40代後半なのに、わざと猫背にして60歳くらいの老人のように見せているように、映像や写真からは伺える。何を説明しても「あ、そう」と答えたことは有名になったが、これも自分は戦争を指揮したりしない、言われるがままの人間だったという印象を与えるためだろう。

戦前には絶対に大衆の前に姿を晒さなかった彼が、大衆に向けてソフト帽子をふりふり、愛想笑いを浮かべて「平和天皇」を演じてみせたことは、戦犯から除外してもらうための進駐軍へのポーズでもあったし、見事に国民をも騙すことにも成功したのであった。

 戦後もついにマッカーサーをも騙しきって、資産を守った天皇が、なんで古着にボロ靴なのか。その心根の深奥をわれわれ国民は知るべきであろう。
http://web.archive.org/web/20100212091907/http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/b2add89dad958852f4994fb54f0874b0


最近、古本屋で購入した

「自伝的戦後史」著者 羽仁五郎
https://www.amazon.co.jp/%E8%87%AA%E4%BC%9D%E7%9A%84%E6%88%A6%E5%BE%8C%E5%8F%B2-%E4%B8%8A-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E7%BE%BD%E4%BB%81-%E4%BA%94%E9%83%8E/dp/4061340913


の帯にも

「日本の天皇は戦前3億円ぐらいだった財産を、戦争が終わってみたら300億円ぐらいにしていた」

とあります。


▲△▽▼


天皇家は戦争中に何をしていたのか
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8120443.html


先日から、

「歴史の真相と大麻の正体」内海聡 著 三五館 刊
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%AE%E7%9C%9F%E7%9B%B8%E3%81%A8%E3%80%81%E5%A4%A7%E9%BA%BB%E3%81%AE%E6%AD%A3%E4%BD%93-%E5%86%85%E6%B5%B7-%E8%81%A1/dp/4883206289

という本を読んでいて、その本は私が大麻というものが世界に及ぼしてきた事実を、私が知らない見解で記してあるかもしれない、という期待から読んでいると記してきました。

2そしてこの本は、第一部:歴史の真相 第二部:大麻の正体 に分かれていて、私は第二部の大麻の正体を読むことが一番の目的で読んでいるのですが、その前の第一部の歴史の真相のところで気になることがあったので、先日2回ほどそのことについて書かせて頂きました。ですがまた、その第一部の歴史の真相のところで気になったところがあったのでそのことについて記したいと思います。ではますは「歴史の真相と大麻の正体」からその部分を引用します。

(引用開始)

タイトル:「原爆を落とされてもしょうがない」

商船三井の共同経営者は、天皇家とCIAの日本作戦部長のマクスウェル・クライマンであった。そして天皇家が大東亜戦争時に蓄財した金はナチスのヒトラーの口座に隠されていた。ヒトラーはじつは隠れユダヤ人であることは有名だが、そのヒトラーとともに戦争ビジネスをやっていたのはだれかを考えねばならない。


天皇家の蓄財1

天皇が「原爆を落とされてもしょうがない」と発言したことが知られるが、広島、長崎に原爆が落ちた時も、天皇家はどうやって自分の資産を維持するかに腐心していた。この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃がした蓄財は累計で5〜10億ドルにのぼるとしている。天皇家の蓄財に関しては濱田政彦著 「神々の軍隊」(三五館)などが詳しい。

(引用終わり)

これは大東亜戦争時、日本の多くの兵隊が海外に行き、命をかけて戦って死に、東京大空襲など、日本の津々浦々で行われた大空襲で多くの日本国民が命を亡くした最中に、昭和天皇が皇室の資産をいかに守ることに腐心していたかを記した文になります。

この引用文の最後に、

「天皇家の蓄財に関しては

濱田政彦 著 「神々の軍隊」(三五館)
https://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E3%80%85%E3%81%AE%E8%BB%8D%E9%9A%8A%E2%80%95%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB%E3%80%81%E3%81%82%E3%82%8B%E3%81%84%E3%81%AF%E5%9B%BD%E9%9A%9B%E9%87%91%E8%9E%8D%E8%B3%87%E6%9C%AC%E3%81%AE%E9%97%87-%E6%B5%9C%E7%94%B0-%E6%94%BF%E5%BD%A6/dp/4883202119


などが詳しい」とあります。では、その「神々の軍隊」には天皇家の蓄財についてどのように書かれているのか、以下にその部分を引用したいと思います。


(引用開始)


@ 戦前、皇室には予算として年額450万円が国家予算から計上されていたが、一説によれば天皇の総資産天皇家の蓄財3は、最も控えめに見積もっても約16億円であるという。だが、宮内省のこの数字は嘘で、本当の資産総額は、海外に隠した資産を含めれば、信じ難いような天文学的金額であると言われている。皇室予算だけではこのような金額を貯蓄することは不可能であるが、当時皇室は横浜正金、興銀、三井、三菱ほか、満鉄、台湾銀行、東洋拓殖、王子製紙、台湾製糖、関東電気、日本郵船等、大銀行、大企業の大株主であり、その配当総計は莫大なものであった。すなわち、これら企業・銀行の盛衰は、そのまま皇室に影響を及ぼすわけである。こうなると戦争で、財界が植民地から搾り取るほどに皇室は豊かになるということになる。


A 2.26事件で天皇が、まっ先に事件が日本経済に与える影響を心配したのは当然であろう。「朕が信頼する重臣」とは、財界の代理人たちであるからその怒りは天皇にとっては、しごく正統な怒りであったのだ。


B 財界のトップたちは、2.26事件後の大勢翼賛、国家総動員体制の下、政府の要職に就いて日本を破局へと導いた。一例を挙げれば王子製紙の藤原銀治郎は、海軍省顧問、産業設備営団総裁、商工大臣、国務大臣、軍需大臣を歴任し、戦争経済に貢献している。


C 皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、中でも国際決済銀行、通称"バーゼルクラブ"は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣でなく、すべてを金塊で決済する銀行であった。


D 内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に"洗浄"されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。


E 価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。


F 大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠され天皇家の蓄財4ている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。


(引用終わり)※数字は私の書き込みによる。

ではこの引用文についてまとめ及び気になることを書いていきたいと思います。

まず@段落のところですが、

・戦前に天皇家は天文学的な金額を蓄財していた。

・天皇家は横浜正金、興銀、三井、三菱ほか、多くの銀行、財閥の大株主であり、その利益が莫大であった。

・銀行、財閥は当時、戦争経済で儲けていて戦争を続けさせ、植民地政策のもとで利益を上げていて、それによって株価が上がり結果、天皇家の資産は莫大なものになっていった。


A段落目で、「2.26事件で天皇が、まっ先に事件が日本経済に与える影響を心配したのは当然であろう。「朕が信頼する重臣」とは、財界の代理人たちであるからその怒りは天皇にとっては、しごく正統な怒りであったのだ。」とありますが、当時上述したように戦争を遂行すればするほど銀行、財閥などは儲かり結果、天皇家も儲かっていたわけですからその財閥が日本の軍隊に入り込んで、戦争を遂行するように仕向けていたわけです。だから2.26事件で純粋に心から日本の未来を憂いた青年将校が起こした2.26事件が起こったときも昭和天皇は、「天皇家がカネ儲けできなくなる」という理由で2.26事件そして青年将校に対して怒りを覚えたのです。

B段落目

上述したとおりのことが書かれています。「一例を挙げれば王子製紙の藤原銀治郎は、海軍省顧問、産業設備営団総裁、商工大臣、国務大臣、軍需大臣を歴任し、戦争経済に貢献している」、ということです。

C段落目

天皇家は資産を海外でモルガン商会(ユダヤ系財閥)を通して蓄財していて、天皇に近い重臣たちもそのおこぼれに預かり、儲けていたということです。そして天皇家とバチカン、‘バーゼルクラブ’などはグルになってカネ儲けしていたことを示唆しています。

D段落目

田布施2ここではまとめというよりは、文中の、「内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。」の中の「昭和19年」に焦点を当てたいと思います。というのはこの昭和19年に天皇家の資産の蓄財において大きな変化あったからです。では、昭和19年(1944年)に何があったのか。そのことが先日も引用させて頂いた

「日本のいちばん醜い日」鬼塚英昭 著 成甲書房 刊
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E3%81%84%E3%81%A1%E3%81%B0%E3%82%93%E9%86%9C%E3%81%84%E6%97%A5-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862169


に書かれていましたので以下に引用します。

(引用開始)

(前略)シーグレーブ夫妻の「ヤマト・ダイナスティ」の中に次のような一節がある。

「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分も含んでいなかった。天皇家は日本一の大地主で、ほとんどは徳川幕府が崩壊したときに天皇家にもたらされた(明治維新後に獲得したものがほとんどである:引用者注)。まさしく当時の日本の大地主であったのだ。もちろん、ヒロヒトの自己申告の中には、本土や海外の隠匿された財宝は含まれていない。SCAPの審査員が、この審査をパスさせたのであるが、彼は不機嫌そうに記したのだ。「正確さという面では、この部門では問題外とされた」

占領が終わり、日本人の専門家が天皇の財産を再計算した。その中には皇居や御用邸の不動産、工芸美術品などは計算外としたが、それでも660億円を超えていた。」

私はこのシーグレーブの本を読み、納得した。それは天皇と男爵住吉門左衛門が特殊な関係にあったがゆえであると思ったのである。天皇家の御料地のほとんどが住友財閥の力で移動し、売却されたのである。1944年、住友林業の所有地が莫大に増加するのである。

「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分を含んでいなかった」とシーグレーブが書いているのは事実である。紙幅の都合上、これ以上は書かないが、私は明治から戦前までの御料地獲得に執念を燃やす田布施一族の歴史を追求してきた。そして、この帝国秘密探偵社の資料とシーグレーブの本を読み合わせ、納得した。(後略)

(引用終わり)

昭和天皇の側近であった木戸幸一(木戸孝允の孫)が天皇家の財産を海外に逃がすよう指示した金額は(当時の貨幣価値で)660億円。だがその660億円もの大金であるにもかかわらずそこには天皇家が所有する御料地すなわち皇居や日本各地にある御用邸の土地や御料林は含まれていない。

そして、「裕仁は1944年に材木の蓄えで大もうけしたはずだが、御料林の価値も御料地の値上がり分を含んで天皇家の蓄財2いなかった」とあるように昭和天皇ヒロヒトは1944年に大もうけをした。しかもそれが、前述したように、天皇家が当時結託していた大財閥の一つである住友財閥の住友林業であったわけです。

この事実は私は日本人として絶対に忘れてはいけない事実であると考えます。なぜか? 1944年といったら日本の兵隊の方々が海外に出て、命をかけて、玉粋覚悟で、時には「天皇陛下バンザーイ」と叫んで、心から日本のため、と思いながら死んでいきました。また、日本国内では、多くの日本人が数千人否、数万人否、数十万人否、数百万人もの日本人が空襲で死にました。そのさなかに天皇家は大財閥と結託して、日本国民のことなど露ほどにも頭になく、蓄財に励んでいたからです。この事実は‘戦争とは何か’、‘天皇家とは何か’という疑問を見事に解き明かしています。

E段落目はそのまま抜粋します。

「価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。」

ここで「さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。」とあります。この‘南米’というところに注目すべきと考えます。その理由は次の7段落目に記されています。

F段落目

「大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠されている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。」

この段落では大戦末期から戦後に至る南米地域の状況について書かれています。なぜ南米地域にナチスの残党は逃走したのか?なぜ南米なのか?そしてヒットラーも実は戦争末期に自殺したのではなく、アルゼンチンに逃走した、という説があります。そして私がこの段落を読んで気になったのは第2次世界大戦後、この南米地域の各国がハンガリー系ユダヤ人であるミルトン・フリードマンが唱えたシカゴ経済学(大企業ボロ儲け経済学)を信奉したシカゴ・ボーイズといわれる連中に乗り込まれ、その国の政治・経済を乗っ取られ、結果その国の経済市場が欧米系の大企業に乗っ取られた、という事実です。アルゼンチンやチリやホンジュラスなどがそうです。

そしてその事実と引用文の、「そして南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けている」という記述が関係していると思います。ですがここではこのことについてこれ以上記しません。ただ関係していると思われる、とだけ記させて頂きます。
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8120443.html

天皇家は戦争中に何をしていたのか A
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8123592.html


先日、太平洋戦争中における天皇家の蓄財に記させて頂きました。戦争中に天皇家が日本の土地を買い占めて戦争で多くの日本人が死んでいくさ中に蓄財に励んでいてそれも莫大に儲けていたことや、そもそも天皇家は当時の多くの大財閥、銀行などの大株主で、戦争が長引けば長引くほど植民地における大財閥の事業拡大、生産増産、戦争資金の需要増大による銀行、大企業の株価高騰で大儲けしていたことなどについて記しました。

今日はその天皇家の蓄財について違った面から考察し、記していきたいと思います。では、まずはそのことについて詳しく記してある、先日も引用した「日本のいちばん醜い日」 鬼塚英昭 著 成甲書房 刊  からの引用から始めたいと思います。

(引用開始)

(前略)アメリカは公式には日本への石油の輸出を禁止した。しかし、アメリカ国籍の船、または日本国籍の船によるものが禁止されただけであった。あの太平洋戦争田布施2中も秘密ルートでアメリカの石油、重要な原料(タングステン、四塩化エチル等)が日本へ送られた。

これが戦争の本当の姿なのだ。昭和天皇はこのからくりを知っていたが、近衛首相や木戸幸一内大臣に秘密にしていた。

あの国際赤十字社のシステムは、戦傷者を救うためにつくられたのではない。国際金融同盟の連中が、商売(=戦争)をスムーズに長きにわたって続けるためにつくられたのである。太平洋の委任統治諸島で密かに石油や重要物資が日本の赤十字の船に移される。この船は攻撃できないという国際条約ができているので、安心して石油や重要物資を日本は購入できた。(後略)

(引用終わり)

前回は戦争時においてその、戦争することによって派生する日本の植民地事業において三井、三菱、住友などの財閥、銀行などが大儲けし、結果天皇家も大儲けする、ということについて記させて頂きました。ですがこの引用文は戦争から派生する要素ではなく、戦争そのものが天皇家を儲けさせていたことを記す内容となっています。

あの、戦前に日本への制裁としてABCD(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)包囲網が1941年に敷かれてアメリカから石油の輸入が途絶え、日本は窮地に追い込まれた、と我々は学校の歴史の授業で教わってきました。だが、実際には「赤十字」という看板を掲げた船で石油が輸入されていた。その赤十字は実は戦傷者の傷を治したり命を救うために設立されたのではなく、戦争を‘スムーズ’に長引かせるために国際金融同盟の連中がつくり上げたものだった。つまり戦者が簡単に死んでしまっては戦争がすぐに終わってしまい、国際金融同盟の連中やそれに纏わる財閥、銀行そして天皇家もカネ儲けができなくなる。だから赤十字を設立して、兵隊の傷の治療をし、延命させ、再度戦場に送り込む、ために赤十字がつくられたということです。

では次に同著から上の引用文に続く、その石油購入の資金についての記述を以下に引用します。

(引用開始)

では、あの大戦中、その莫大な支払い代金はどうしたのか、という問題が出てくる。この代金の主なものは、ア天皇家の蓄財5ジア支配の途中で略奪した、金、銀、プラチナ等の貴金属である。その一部は日本へ持ち帰り(赤十字のマークをつけた船で)、マルフクという金貨に鋳造する。これを現地に送り、食料等の必要物資の現地での購入にあてる。残りの金塊や宝石類は、スイスの国際決済銀行(BIS)に送る。ここで貴金属をドルまたはスイス・フランにし、迂回経路で必要物資の支払いにあてる。残ったドルやスイス・フランは、国際決済銀行か、同一系統のスイス国立銀行の秘密口座に入っていく。かくて、戦争が長引けば長引くほどに天皇一族と、秘密裏に天皇一族を支えた財閥の資産は天文学的に増えていった。

(引用終わり)

日本に石油はなかったが中国侵略などで強奪した金・銀・プラチナを代金の支払いにあてた。その一部が天皇家の資産となった。つまり戦争で金・銀・プラチナなどの貴金属を強奪すればするほど天皇家は儲かるということです。ではさらにこの引用文に続く記述を引用したいと思います。

(引用開始)

近衛文麿首相は幾度も天皇に戦争の中止を訴えた。天皇一族は日清戦争、日露戦争を通じて多額の賠償金を得て、その一部をスイスの銀行に入れることで逆に彼らから弱みを握られた。ルーズヴェルトは借金漬けで弱みを握られていた。チャーチルしかり。スターリンは過去の悪行のほぼ全データを握られ、彼ら国際金融資本家たちを‘ご主人様’と呼んでいた。フルシチョフ元首相の「フルシチョフ回想録」にそのことが克明に書かれている。明治、大正と続く皇室のスキャンダルを彼らはすべて記録していた。スイスの秘密口座もスキャンダルの種になりえた。ここに、近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある。

(引用終わり)

この引用文は世界を支配する、本当の仕組みを示唆する記述となっています。ルーズヴェルト、チャーチルというときのアメリカ大統領とイギリス首相が借金漬けで、ロシアのスターリンは悪行のほぼ全データを握られ、国際金融資本家たちに弱みを握られていた、と非常に興味深いことが書かれています。ではここでこの3人のうちの1人であるチャーチルのそのあたりについて同じ鬼塚氏の「20世紀のファウスト」成甲書房 刊 という著作に詳しく書いてあるので以下に引用します。

(引用開始)

(前略)1938年3月下旬、第2次世界大戦勃発の1年前、チャーチルは借金のために田舎の別荘を売りに出そうとしていた。ロスチャイルドから依頼を受けた金融業者サーケインズ5・ヘンリー・ストラコッシュが借金の肩代わりを申し入れた。チャーチルは受けた。そしてそのとき、一つの条件を受け入れることになる。金のないチャーチルはヴィクトリア地区の汚らわしいモルペス・マンションに住んでいた。その過去をみることにしよう。

1928年当時、チャーチルは第一次世界大戦の回顧録「世界の危機」の続編を執筆していた。アスター卿の「タイムズ」から2000ポンドの前払い印税を支払ってもらった。これとは別に世界各国での連載を含めての5,000ポンド以上が彼の懐に入っていた。しかし、彼は貧乏のどん底にあった。ウォール街での株投資で大損失をしていたからだ。このことはすでに書いた。

ユダヤ王ロスチャイルド一族のバーナード・バルークはチャーチルにアメリカ講演旅行をやらせ、1万ポンドの保証をしてやった。それでも借金は返せず、バルークに特別に用立ててもらった。彼はユダヤ王ロスチャイルドの御用新聞「デイリー・メール」のビーヴァルック卿と特別契約を結び、8,000ポンド近い原稿料を得ていた。だがそれでも彼の経済的困窮は、別荘を売り払う段階までいったのである。

しかしチャーチルは海軍大臣、首相へとなっていく。政治家になれば収入は極端に減る。では誰が、何の目的のためにチャーチルの借金を返してやったのだろうか。ここまで書けば答えは書かなずもがなであろう。1939年3月、チェンバレン首相は海軍大臣にチャーチルを迎えなければならなくなる。チャーチルは1914年8月に海軍省に入っている。

海軍大臣になると、チャーチルはルーズヴェルト大統領に手紙を出した。2人は数多くの手紙をやりとりをする。一海軍大臣がアメリカ大統領と、どうして秘密のルートで手紙の交換が出来るのであろうか。この2人は「黒い犬」で、ユダヤ王ロスチャイルドから長い長い鎖の手綱で引っ張られていることを考えれば納得がいくのである。

チャーチルの人気は上昇していく。なぜか。チェンバレン首相の宥和政策に公然と抗議しだしたからである。ヒトラーがポーランド領ダイツィヒの割譲を要求した。チャーチルはヒトラーと闘えと叫びだした。黒い貴族の新聞は、戦争を煽りだした。1938年9月30日、イギリスとフランスは宥和政策をとり、侵略されたチェコを犠牲にして、ヒトラーと現状維持の協定を結んだ。この宥和政策は後にヒトラーによるポーランド侵攻により破られ、第2次世界大戦へと拡大していく。(後略)

(引用終わり)

チャーチルはウォール街での株投資で大損し、借金漬けになっていた。本を書いても借金は返せず、別荘まで天皇家の蓄財6売り払わざるをえないとこまで落ちぶれていて、ヴィクトリア地区の汚いマンション暮しをしていた。そこにユダヤ王ロスチャイルドの回し者バーナード・バルークが大戦が始まる1年前にきて、‘一つの条件’をのまされた。その条件とは・・・・上に書いてあるとおりです。首相になって第二次世界大戦を引き起こす、という条件です。

つまりユダヤ王ロスチャイルドなどの国際金融同盟の連中は、弱みをもっている人間をピックアップし、金を渡し、もちろん恫喝もし、操るということです。このことは世界中で起こっており、日本でも頻繁に起こされていて、政治家のスキャンダル暴露はその一つです。‘女を抱かせる’というハニー・トラップも含めて。

そして天皇家にも、スキャンダルは多々あり、そのことが国際金融同盟の天皇家支配に繋がっているということです。ゆえに「近衛首相の忠告を無視して太平洋戦争に突入しなければならなかった日本の悲劇の源がある」と著者の鬼塚氏は書いているのです。

そして先の引用文にさらに続く文章ではその戦争時におけるマネー・ゲームの様相が記されていました。以下に引用します。

(引用開始)

この国際決済銀行を舞台にして、戦争は続けられたのである。日本銀行と横浜正金銀行の大株主は天皇であった。天皇は、二人の役員(それ以外に事務局員たちも)をこの国際決済銀行に送り、取引をさせていたのである。天皇の代理人の役員が金儲けに奔走する場面がハイアムの「国際金融同盟」の中に書かれている。

「1942年夏、フランス政府の閣僚であり、ナチス占領下のパリにある民間銀行のヴォルムス銀行の役員であるピエール・プシューは、イブ・ブレアール・ド・ボアサンジューとBISで会合を持った。プシューはボアサンジューにドワイト・D・アイゼンハワー大将が北アフリカに侵攻する作戦を計画中であると語った。彼はこの情報を友人であるヴィシー駐在のアメリカ国務省代表のロバート・マーフィーから手に入れたのである。ボアサンジューはクルト・フォン・シュレーダーにこの情報を伝えた。シュレーダーと他のドイツ人の銀行家たちは直ちに、フランスの取引銀行と同調して、九〇億フランの金貨をBIS経由でアルジェに搬送した。ドイツの敗北を予測して、ドルの為替差損でボロ儲けを狙ったのである。ナチスの協力者たちはほとんど一晩で、自分たちの持ち金を三億五千万ドルから五億二五百万ドルまで増やしたのだった。この取引に関しては、BISのトーマス・H・マッキトリック、ヘルマン・シュミッツ、ミエル・プール、そして日本人役員たちも共謀に加担していた。この取引の別の協力者でナチス最高司令部にいる他の幹部たちに、この秘密を漏らしたものがいた。この男はバチカンの諜報活動グループに所属する工作員だった。この情報は1946年6月21日にオットー・アーベッツがアメリカ政府担当者に宣誓供述したことで明らかになった。」

この一文は、「戦争とは何か」を如実に示している。戦争は国家間の利害、憎悪の衝突から起こるものだけではなく、巨大なマネー・ゲームでもある。ヒトラーもスターリンも、それを知り尽くしていた。ルーズヴェルトとチャーチルはマネー・ゲームをさせられていたのである。天皇が仕掛けた南進策は、巨大なマネー・ゲームの創造であった。

この面を考察しないから、私たちの日本史は欺瞞だらけのエセ日本史となっている。天皇とその一族は、三井、三菱、住友らの財閥と組んでマネー・ゲームをしていたのである。それゆえ、国際決済銀行に日本銀行と横浜正金銀行が参加したわけである。この銀行に加入していなければ、中国本土に攻め込む力さえなかったのである。ひと度、この銀行に加入してから天皇とその一族は、国際金融のグループ、主としてロスチャイルド財閥の手に落ちていったのである。ドイツのアフリカでの敗北を見こして、日本の役員たちも、スイスという黒い貴族たちの巣窟でマネー・ゲームに興じ、天皇のために金を稼ぐのである。戦争がいちばん金の儲かるゲームであることを天皇ヒロヒトほど知りつくした人物は日本にいなかったし、これからも登場しないだろう。(後略)

(引用終わり)

このように‘戦争’とは国と国の間で行われる利益の収奪、憎悪だけでなく、国際金融同盟の連中がカネ儲けするために引き起こされるということです。否、その方が多いのです。

ところで前回記した私の文で引用させて頂いた「神々の軍隊」濱田政彦 著 三五館 刊 の文の最後に、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない」と記してありましたが、私はこの一文に強く違和感を覚えました。本当にそうか? と。

ではここで上に引用させていただいた本の著者である鬼塚氏の他の著作の一つである、

「天皇のロザリオ」成甲書房 刊
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E7%9A%87%E3%81%AE%E3%83%AD%E3%82%B6%E3%83%AA%E3%82%AA-%E4%B8%8A%E5%B7%BB-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%AD%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%88%E6%95%99%E5%9B%BD%E5%8C%96%E3%81%AE%E7%AD%96%E8%AC%80-%E9%AC%BC%E5%A1%9A-%E8%8B%B1%E6%98%AD/dp/4880862002


からこの一文についての鬼塚氏の見解が書いてある部分を抜粋してこの文を終わりたいと思います。

(引用開始)

(前略)日本の作家で井上清の名を挙げた。2000年に濱田政彦の「神々の軍隊」が出た。この本の中で濱田は天皇の秘密資金について触れている。引用する。私のこれまでのストーリーを追認するものである。

天皇家の蓄財3「 皇室は蓄えた資産をモルガン商会を通して海外で運用していたが、金塊、プラチナ、銀塊などがスイス、バチカン、スウェーデンの銀行に預けられていた。さらに取り巻きの重臣たちもそれに倣って同商会に接触し、そのおこぼれに預かっていた。中立国スイスには敵対する国の銀行家同士が仲良く机を並べて仕事をしている奇妙な現象が見られるが、中でも国際決済銀行、通称"バーゼルクラブ"は、世界の超富豪が秘密口座を持つ銀行で、治外法権的な存在であった。同行は不安定な紙幣でなく、すべてを金塊で決済する銀行であった。


内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような皇室財産を海外に逃がすように指示した。皇室財産は中立国であるスイスの銀行に移され、そこできれいな通貨に"洗浄"されたが、その際に皇室財産は、敵対国にばれぬようナチスの資産という形で処理された。スイスは極秘裏にナチスに協力していたので、ナチスの名のほうが安全だったわけである。


価値の高い資産である金塊(どこから手に入れたのであろうか?)の一部については、国際金融資本と密接な関係にある華僑(日本軍はユダヤ商人とならんで老練な華僑によって、中国問題で苦しめられた)に売却して外国通貨に換え、スイスにある皇室の口座に入れた。さらにその一部はナチスの資産逃亡の手口を倣って、潜水艦によって秘かに南米アルゼンチンに移送された。


大戦末期、ナチスの残党は、親ナチの南仏、スペイン、ポルトガルを経て、潜水艦でナチスの資産が隠されている南米(アルゼンチン、チリ)に大挙して逃走した。そして天皇家の蓄財7南米各地に拠点置き、戦後も世界の反共団体に援助をあたえ、世界政治に隠然たる影響を及ぼし続けているが、このナチスの隠し資産には天文学的な量の金塊が含まれていた。これらはアルゼンチン、チリを経て、さらに南極に移送されたというが、皇室が潜水艦でアルゼンチンに金塊を移送したというのは、想像以上にナチスコネクションと日本の関係が深いことを示唆するものである。加えて言えば、バチカンがナチスに戦争協力したことが近年明らかになってきているが、皇室とバチカン、そしてバチカンとフリーメーソンの関係をたどっていくと、世界的な闇が明らかになってくると思われる。おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。

M資金の闇は深い・・・・。」

濱田政彦の書いていることは間違いない。ただし、「おそらく戦後の皇室がえらく貧乏に見えるのは、その資産を戦後の復興に使ったからなのかも知れない。」には全く賛成できない。私は、昭和天皇が戦後も、マニングの書いているように蓄財作戦に熱中したと思っている。天皇家の秘密資金の一部がM資金となり、多くの人びとを悩ませたのである。

マーク・ゲインの「ニッポン日記」
https://www.amazon.co.jp/%E3%83%8B%E3%83%83%E3%83%9D%E3%83%B3%E6%97%A5%E8%A8%98-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E5%AD%A6%E8%8A%B8%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%9E%E3%83%BC%E3%82%AF-%E3%82%B2%E3%82%A4%E3%83%B3/dp/4480084282


には天皇の財産について詳しく書かれている。だがここではすべて省略する。初版本で書かれていることが再版本では省略されているとのみ書く。1946年3月24日、マーク・ゲインは天皇の埼玉行幸を描いている。

大麻3「天皇はただ一人で正食をとった。天皇以外の我々は、冷たい飯と悪臭鼻をつく大根の漬物と、その紡績会社から出された刺身の小片を口に押し込んだ。窓からみると、女工たちが列をなして並んでいたので話をしようと思って戸外に出た。彼女らははずかしそうにクスクス笑うだけで誰も答えてくれそうになかった。が、とにかく彼女等は「十五歳」 ---- 最低就労年齢 ---- で、1日9時間半働き、一日三円乃至五円支払われていることを聞き出した。そこへ天皇が出て来たので、彼女等は最敬礼をし、支配人の号令一下、万歳を唱えた。それから彼女等の専制君主をみようと首を伸ばすのであった。」

当時の女性の日給は1日9時間半働いて1日3三円ないし五円。1945年8月15日から約半年たっているので
、インフレが進んだ後だから半年前はもっと安い。たぶん一円から三円であろう。

計算機を手にして、当時の天皇がどれくらいの金を持っていて、海外の秘密口座に入れたかを計算されよ。そうすれば、その金額の天文学的金額がクローズアップされる。

それでは読者にヒントを一つ与えよう。1945年10月にGHQが発表した皇室財産の内容は書いた。「土地・建物・木材・現金・有価証券(美術品・宝石は含まない)は三十七億二千万円」。

木下道雄の(元侍従長の)「側近日記」
https://www.amazon.co.jp/%E5%81%B4%E8%BF%91%E6%97%A5%E8%AA%8C-%E6%9C%A8%E4%B8%8B-%E9%81%93%E9%9B%84/dp/4163442103


が昭和天皇の死去の翌年の1990年に出版された。この本の解説は伊藤隆(当時東大教授)であった。彼は次のように書いている。

「ところで戦争直後の天皇家の財産は37億5千万円だった。日銀物価価格統計により現在の貨幣価値の311倍で換算すると7,912億円である。」

この数字の10倍近くをスイスの銀行に送り込んで終戦工作に天皇は入ったのである。敗戦前の国家予算は100天皇家の蓄財8億円を切っていた。天皇は自らの生命を守るためと、このスイスの秘密預金を維持し、さらに増やすために戦後工作に入るのである。天皇の「キリスト教入信」対策は、この2つの大事なものを守りぬくべく実行された。国民は依然として雑草のような民草であった。

これが大東亜戦争を天皇が仕掛けた第一の原因だと分かるだろう。

それでもあなたは、天皇陛下にむかって「天皇陛下バンザーイ」と叫ぶのであろうか。それとも広田弘毅(私の注:終戦前の首相経験者の1人)のように「天皇陛下マンザーイ」と叫ぶのであろうか。

(引用終わり)

ということです。戦前も戦後も天皇家は全く貧乏なんかではないのです。そしてこの天皇を安倍晋三は今の象徴から戦前の元首にしようとしています。明治維新後、伊藤博文が大室寅之祐を明治天皇に仕立て上げ、元首にしたように。その狙いは....... 皆さんもう、お分かりですよね?
http://blog.livedoor.jp/shiderz402-seikei/archives/8123592.html


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6. 中川隆[-13746] koaQ7Jey 2018年12月18日 17:45:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

戦前の天皇一族は JPモルガンと、戦後はロックフェラー家と大の仲良し _ 2


天皇家は国際金融資本のエージェント

宮内庁のホームページに、天皇皇后両陛下がロックフェラーの自宅でロックフェラー家との晩餐会を行っていることが記載されている


(平成6年)天皇皇后両陛下のアメリカ合衆国御訪問について

6月16日(木)ロックフェラー家との晩餐会(ロックフェラー邸)
http://www.kunaicho.go.jp/activity/gonittei/01/gaikoku/h06america/eev-h06-america.html

天皇という力の正体とは?〜ロックフェラーと手を結んだ昭和天皇〜


天皇財閥は、日本株式会社の長として、戦後も変わることなく勢力を維持し続けてきました。

エリート官僚上がりの首相達が、アメリカの意向にそった政治を行ってきたことは、周知の事実ですが、その礎を築いてきたのが、実は昭和天皇とのことです。昭和天皇は、戦後間もなく、ロックフェラー一族との絆を深め、政界にその影響力を及ぼしていたようです。

引き続き、『天皇財閥 皇室による経済支配の構造』から抜粋→転載します。

◆属国・日本の指導者を管理する要員

日本は戦後、こぞってアメリカの軍門に降った。これが戦勝国と敗戦国の関係であり、当然のことであった。同時にそれは日本国の「国策」でもあったのだろう。そのことは、昭和天皇みずから範を示すかのように、息子である皇太子(今上天皇)に、アメリカからの家庭教師をつけたことをみても分かる。「ヴァイニング夫人」と呼ばれたエリザベス・ヴァイニング(1902−1999)である。

ヴァイニング夫人は終戦直後から4年間、英語家庭教師及び学習院講師として皇太子の教育にあたった。熱心なクェーカー教徒であった。敗戦国の君主が、皇太子に、戦勝国からの家庭教師をつけるということは、完全にその国に従属したことを示している。最も、これはアメリカから押し付けられたのではなく、昭和天皇みずからの提案であったとヴァイニング夫人は述べている。

日本滞在時の回想録『皇太子の窓』で、彼女は次のように書いている。

「アメリカ人び家庭教師」というのは、占領軍から押し付けられたのだというような推測がしばしば行われているが、これくらい事実に反するものはない。「アメリカ人の家庭教師」というは天皇御自身が思いつかれたのである。皇太子の教育を委任されている人々とご相談になることさえなく、御自分から進んで申し出られたのであって、まったく先例のないことであった。(『皇太子の窓』31ページ)

では、どのようにしてヴァイニング夫人が選ばれたのか。『皇太子の窓』の記載に寄れば、昭和21年(1946)に訪日したアメリカ教育使節団が皇居を訪れた際に、団長のジョージ・ストダード博士に向って、昭和天皇が皇太子の家庭教師をひとり、世話してもらえないかと声をかけたのが、きっかけだったという。

アメリカ教育使節団とは、日本に民主教育を植え付けることを目的とした使節団である。その報告書「アメリカ教育使節団報告書」は、戦後の日本民主教育の大綱であり、いまだに適用され続けている文書である。戦後の「教育勅語」といってよい。

アメリカ教育使節団はマッカーサーの連合軍総司令部からの要請によって招致された団体であり、日本の軍国主義的教育を一掃する目的があった。もっとはっきり言えば、日本人がこれ以上、アメリカに逆らえないように「洗脳」するのが目的であった。この報告書は『アメリカ教育使節団報告書』として講談社から文庫で出版されており、使節団の全員の名前が記載されている。その中には、当然のように「ロックフェラー財団」の名前も見える。

ロックフェラー財団やフォード財団といったアメリカの「財界」は、戦後の日本に対して「フィランソロピー」、つまり慈善事業として巨額の資金を投入している。このことは『戦後日米関係とフィランソロピー』に詳しい。ただし、それは純粋に善意によるものではなく、長期的な「投資」だった。つまり、日本が今後良好な市場になるように、反米的な教育をしないように、下地をつくっていたのである。

こうして背景を探っていけば、昭和天皇がアメリカの政財界、特にアメリカ最大の財閥であるロックフェラー一族に対して、自らの皇太子の教育を任せたことの意味が分かるだろう。ヴァイニング夫人は、属国の指導者を管理するための要員なのである。

一国のトップの行動は、下々の者たちにも影響を与えるだろう。お上のやることを、下々のものはみな真似をするのである。日本の支配階級が、ほぼ例外なく、アメリカべったりであるのは、このような理由があるのである。

◆天皇財閥最後の総帥、昭和天皇

昭和天皇は、天皇財閥の最後の総帥であった。

昭和50年(1975)に、昭和天皇はアメリカを訪問している。ホワイトハウスで開かれた、フォード大統領夫妻主催の晩餐会で行った、有名な「私が深く悲しみとする、あの不幸な戦争」というスピーチが、日米両国民の胸を打ったというエピソードとして長く語り継がれている。

そして、そのスピーチは「暖かい好意と援助の手をさしのべられたことに対し、貴国民に直接感謝の言葉を申し述べる」と続く。これは、戦後の「天皇外交」により、直接アメリカ財界の代表者であったダレスと談判して今後の日本の体制をつくったのが、昭和天皇であったことを考えれば、みずから決断した事業に対する振り返りであっただろう。

昭和天皇はアメリカ滞在中の10月5日、ニューヨークではロックフェラー三世(1906−1978)邸を訪問している。そして翌日の6日には、ロックフェラー三世主催のジャパンハウスでのレセプションに参加した。

ロックフェラー邸訪問は、大統領との会見などと同じ公式行事ではない。そのために日曜日が選ばれている。このアメリカ訪問の目的、最も重要な目的はこの「非公式行事」にある。それが、ロックフェラー邸訪問であった。朝日新聞社の『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』に収められた隋行記には次のように記されている。


4日夕、ニューヨークのケネディ空港に着き,宿舎ウォルドルフ・アストリア・タワーズに入られた天皇、皇后両陛下は、明けて5日、ご滞米中最初の日曜日を楽しまれた。朝、散歩に出られたセントラルパークでは、待ち受けていた中学生達の日本語のコーラスの輪に囲まれ、お二人とも相好をくずされた。お昼は郊外のロックフェラー家に招待され、投手のロックフェラー三世、弟のロックフェラー副大統領から、家族的なもてなしを受けられた。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』89ページ)


ロックフェラー邸では、チェイス・マンハッタン銀行頭取のデイビッド・ロックフェラー氏が「皇居のそばにウチの銀行の東京支店があるからご利用下さい」と申し出たのを「預金ですか、貸し出しですか?」とユーモラスに切り返された。(『天皇のアメリカ ご訪米記念写真集』92ページ)

昭和天皇は、戦前期の天皇財閥の総帥であった。そして戦後の日本においても「象徴」として、「法人」として、日本経済の中枢に存在し続けていた。その天皇が、アメリカを代表する財閥の、統治の党首であるロックフェラー三世(現在の党首は、三世の息子の四世ジェイ・ロックフェラー上院議員)と親しく会っているのである。

おそらく、天皇とロックフェラー三世は初対面ではない。

そのことは、状況証拠から明らかである。それは、昭和26年(1951)の「天皇・ダレス会見」時に、ダレスといっしょに来日したのが、ほかならぬロックフェラー三世だったからである。

ジャーナリスト、松本重治の『昭和史への一証言』はこのように伝えている。


その年(引用者註:1951年)、ジョン・F・ダレスはサンフランシスコ講和条約を結ぶためのアメリカと駆使として日本にやってきますが、その時、ジョン・ロックフェラー三世を連れてきたのです。それはダレスなりの考えがあってのことでした。(中略)日米の文化交流ができないだろうかというわけで、ロックフェラーを連れてきたのです。ロックフェラー自身も、同じ考え方をしていました。(『昭和史への一証言』236ページ)

天皇とロックフェラー三世は、朝鮮戦争さなかの1951年に東京で会っていただろう。そして、ロックフェラー財閥の代理人であるダレスとともに、今後の日本の行方を決定したのである。

昭和天皇は、その返礼のために、四半世紀を経てロックフェラーを訪れた。それは、日本とアメリカを代表する、大財閥の党首同士による約束だったのだろう。
http://www.kanekashi.com/blog/2015/06/4231.html

7. 中川隆[-13745] koaQ7Jey 2018年12月18日 18:08:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

天皇一族は売春業者、未成年の日本女性が天皇家の金蔓だった


 19世紀初頭、世界帝国を建設しようと考えた英国はアジアに対し、アヘン=麻薬を売り、アジア人に英国に対する抵抗心を喪失させ、アヘン売買の利益でアジアを支配するための兵器を買う戦略を採用する。

英国のアヘン売買の中心となったのが、銀行ジャーディン・マセソンであった。マセソンは、英国がインドでアヘンを買い付ける資金を提供し、中国、日本にアヘンを運搬する船の建設費を出し、アヘンの売り上げはマセソンの銀行口座に振り込まれ、その資金で中国、日本を攻める兵器が購入された。兵器の代金は、マセソンの銀行口座で決済された。

マセソン、中国では香港に香港上海銀行(現在の中国の中央銀行)を支店として置き、日本では東京に日本銀行=日銀を支店として創立した。日本政府の井上馨、渋沢栄一に「命令」し、ノウハウを教え、日本銀行を創立させたのは、麻薬銀行マセソンのアレクサンドラ・シャンドである。

日本の中央銀行、日銀は麻薬銀行として創立された。しかし中国と違い、日本では麻薬は売れなかった。


困ったマセソンは、福沢諭吉と天皇に相談し、日本人女性を誘拐し「売春婦」として海外に「販売」する事にした。


貧しい農村の女性には海外で豊かな生活が出来るとダマシ、良家の娘達には洋裁学校を紹介するとダマシ、天皇と三菱財閥は日本人女性を「売春婦」として、海外に売り飛ばした。

天皇と三菱の経営する船会社、日本郵船がダマサレタ女性達を売春婦として海外に運んだ。大部分が処女であった日本人女性達は、船の中で「売春婦」として教育するため、英国人水夫達に毎日、強姦輪姦された。これは天皇の「命令」である。

天皇がダマシ、売春婦として海外に売り飛ばした日本人女性の数は、50万人を超える。大くの女性は、20歳代で梅毒等の性病で死に、または刃物で自分の喉を突き刺して自殺した。

天皇一族の財産はこうして作られた。

http://alternativereport1.seesaa.net/article/50371493.html


高校教科書『新詳説・日本史』の一節から引用する。


「日本の商社活動が活発となり、横浜正金銀行が積極的な貿易金融を行った。(略)また、海運業奨励政策によって、日本郵船会社などの手で、次々と遠洋航路がひらかれていった。(注)日本郵船会社は、三菱会社と半官半民の共同運輸会社との合併によって1885年に設立され、1893年にはボンベイ航路、1899年にはヨーロッパ、アメリカ、オーストラリアへの各航路がひらいた。」

日本郵船の大株主は天皇家と三菱財閥であった。
アメリカへ大量の移民を運んだのは、この日本郵船の船であった。

<中略>

天皇家と日本郵船の深い関係は、明治時代から続いていた。
この会社の船で娼婦たちが海外に「進出」させられた。
詳しくは山田盟子の『ウサギたちが渡った断魂橋』に書かれている。


日本の偉人中の偉人と評価の高い福沢諭吉は、


「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」

(『福沢諭吉全集』第十五巻)と主張した。


娼婦を送り出す船会社が、天皇家と三菱に大いなる利益をもたらすということを計算したうえでの「得策なれ」の主張であった。


「至尊の位と至強の力を一に合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」


福沢諭吉の思想は当時の天皇家に迎えられた。


至尊の位(天皇)と至強の力(三菱)を一に合して、日本郵船は発展していった。日露戦争後、アメリカ移民が増えていった。1908年ごろには、約十万人の移民がアメリカにいた。

1901年、共産主義者の片山潜は、小冊子『渡米案内』を発行した。一週間に二千部売れるほどの当時では大ベストセラーとなった。 片山は、アメリカでの移民生活をベタほめした。日露戦争のころ、アメリカに行くのに約二百五十円の大金が要った。現在、日本に密入国しようとする中国人が、中国マフィア(蛇頭)に支払うくらいの金額だった。
やっとアメリカに渡ったものの、新聞や雑誌や『渡米案内』の甘言広告とは違い、辛酸の極みの生活が移民を待っていた。


男たちは鉄路の重労働やタマネギ畑で働かされ、女たちのほとんどは娼婦の館にほうり込まれた。


このときの莫大な金は、福沢が言う「至尊の位と至強の力」すなわち、皇室と三菱の懐に入った。

片山潜は、天皇が支配(大株主)する横浜正金銀行(旧東京銀行の前身)から金を貰って生活していた。当時の日本共産党幹部たちが、ニューヨーク、ロンドン、モスクワと流れていったが、そのほとんどの金は、この銀行が出したのである。元社会党委員長鈴木茂三郎もこの銀行から金を貰った一人である。

http://d.hatena.ne.jp/rainbowring-abe/20060825


1885年、天皇一族と三菱財閥で日本初の船舶会社


日本郵船が創立される。

明治維新により富国強兵の道を歩み始めた日本は、欧米からあらゆる兵器を購入し続けていたが、欧米への支払いに当てる資金が日本には無かった。

そこで福沢諭吉は、


「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」


という指示を天皇に与える。賤業婦人つまり売春婦として日本人女性を海外に「輸出、 売却」し、兵器購入資金を作るというプランであり、天皇一族はこのプランに飛び付き実行する。

(福沢諭吉全集 第15巻)


1900年初頭から天皇の命令の下、

「海外に行けば良い仕事があり、豊かな生活が出来る」


という宣伝が日本全国で大々的に行われた。

日本の健全な家庭に育った当時の若い女性達は天皇の言葉を信じた。

天皇一族によりだまされ「売春婦として欧米に販売された」日本人女性の数は数十万人。

大部分は健全な家庭に育った若い女性達であり、天皇は「健全な女性を売春婦」として「売却」する事で、欧米の売春業者から女性1人あたり数千円、当時普通の会社員で
あれば10数年分の給与を手に入れていた。

その金額が数十万人分=莫大な資金がこの天皇一族のサギ行為、女性の人身売買により天皇一族に転がり込んだ。 その資金の一部は戦争のための兵器購入に当てられたが、
大部分は天皇の「個人財産」として「蓄財」された。

天皇一族は自分の金儲けのために、健全な若い日本人女性をだまし、売春婦として欧米に「売却」して来た。

天皇一族は欧米の売春業者とタイアップした日本の売春業者であった。

天皇により経営される日本郵船により、欧米に「売却」された日本人女性は、1人残らず現地に着くと即座に売春宿に「連行」され監禁された。そして売春を強制された。

初めての外国であり、逃げ場も助けてくれる相手もいない。
数十万人の日本人女性が、天皇によって売春を強制された。

これが従軍慰安婦の原型である。


日本郵船の共同経営者三菱財閥もこの売春業で巨大化した。
この莫大な富を生む売春業に参加させてもらったお礼に、三菱財閥は昭和天皇の結婚後の新居を、全額三菱財閥の出資で建設する。

渋谷区下渋谷の第一御領地の「花御殿」が昭和天皇の新婚の住居であり、それは数十万人の日本人女性を「売春婦として販売した」利益で、三菱の天皇に対する「売春業参加のお礼」として建設された。

(山田盟子「ウサギたちが渡った断魂橋」 新日本出版社)。


また天皇が大株主であった船舶会社商船三井も天皇と協力し、同一の「売春婦・輸出事業」に従事する。 こうして日本人女性の「販売業者」として天皇一族が蓄積した財産は、第二次大戦後日本に進駐してきた

米軍GHQの財務調査官により調査され、当時の金額で1億ドルを超えると記録されている。

国民に対しては「自分は神」であるとしていた天皇は、女性の人身売買で金儲けし、また日清戦争、日露戦争で中国、ロシアから得た賠償金を自分の私財として「着服」していた。

戦争中全ての日本人は餓死寸前の中、軍需工場で「無給」で重労働を行っていた。
そうした重労働と日本人男性=軍人の死によって戦争によって得られた賠償金を、国民のためでなく自分の私的財産として天皇は着服し、密かに蓄財していた。

また日本軍が朝鮮、中国に侵略し、朝鮮人、中国人を殺害し略奪した貴金属は、天皇の経営する日本郵船によって日本に運び込まれ、日銀の地下金庫にある天皇専用の「黄金の壷」という巨大な壷に蓄財された。

中国、朝鮮から略奪された貴金属、そして賠償金=侵略戦争 は天皇の個人的蓄財のために行われていた。

この問題を調査したエドワード・ベアは、「天皇一族は金銭ギャングである」と吐き棄てるように語っている。

(エドワード・ベア「天皇裕仁」 駐文社)


1945年、日本の敗戦が決定的になると、天皇一族はこの蓄財を米国に「取られる」事に恐怖を感じ、海外に蓄財を「逃し」始める。

天皇の個人銀行でもあった横浜正金銀行を通じて、スイスに850万ポンド、ラテンアメリカに1004万ポンド等、広島、長崎に原爆が落とされ死傷者が苦しんでいる最中、天皇は自分の蓄財を海外に次々と逃がす事に専念する。この問題を調査したマーク・ゲインは、海外に天皇が逃した蓄財は累計で5〜10億ドルに上るとしている。

(マーク・ゲイン「ニッポン日記」 筑摩書房)。


広島、長崎に原爆が落とされ膨大な死傷者が出、戦後日本をどのように再出発させるかを考えなくてはならない時期に、天皇はひたすら自分の蓄財を守るため数百回に及ぶ海外送金を繰り返していた。

日銀の地下金庫からは、莫大な金塊と貴金属が日本郵船により運び出され、アルゼンチンの銀行そしてスイス銀行まで遠路運搬されていた。

中国では日本に逃げ戻るための船舶が無く、逃げ遅れた日本人女性が中国各地で多数強姦殺人され子供が殺害されている最中、天皇は貴重な船舶を独占し、自分の金塊を遠路
アルゼンチン、スイス等に運び出していた。

天皇が自分の蓄財だけしか頭に無く、日本人の事など何も考えていない事は明白である。

(ポール・マニング「米従軍記者が見た昭和天皇」マルジュ社)。


なお天皇が第二次大戦中「売春婦輸出業」を行っていた商船三井の共同経営者が、CIA(当時はOSS)の対・日本作戦部長マクスウェル・クライマンであるのは何故なのか?

敵国のCIA対・日本作戦部長と「仲良く」天皇が「売春婦輸出業」を行っている=天皇はCIA工作員であったのか?

天皇は戦後、このスイス銀行に預けた金塊を担保に資金を借り、CIAが事実上創立した不動産業者=森ビルと共に、港区の不動産を次々に買収し、またハイテク産業に投資し、莫大な蓄財をさらに莫大に膨れ上げさせて行く。
天皇は神でも「象徴」でもなく単なる金儲け主義の金融ビジネスマンである。

そしてここでも「何故か」CIAと天皇は「共同経営者」である。

天皇は、1940年代初頭からスイス銀行に少しずつ蓄財を「移し」始めるが、ヨーロッパにおいてナチス・ヒトラーが虐殺したユダヤ人から奪った貴金属を管理していたのもスイス銀行であった。

天皇はヒトラーに請願し、ナチス・ヒトラーの口座の中に「天皇裕仁」のセクションを作ってもらい、そこに天皇一族の蓄財を隠していた。

天皇とヒトラーはスイス銀行の秘密口座を「共有」する略奪ビジネスのパートナーであり、ナチスと天皇は一体であった。

(アダム・レボー 「ヒトラーの秘密銀行」 


ベストセラーズ・・また濱田政彦「神々の軍隊」 三五館)。


1924年、米国は「排日移民法」という法律を成立させる。
日米関係はまだ険悪ではなく、日本から余りに多数の若い女性が「売春婦」として米国に「輸入」されてくる事が社会問題化し、それを禁止した法律であった。


天皇自身の発言を記録した「昭和天皇独白録」

(藤原彰「徹底検証・昭和天皇独白録」 大月書店)の「大東亜戦争の原因」=日米戦争の原因の項目に、1946年3月18日の天皇の発言として以下の言葉がある。


「米国のカリフォルニア州への移民拒否については、日本を憤慨させるに十分なものであった。」

この発言は日米戦争の原因についての天皇自身の発言である。

日本人女性をだまし、売春婦として米国に「売却」する天皇の売春ビジネス=移民を米国が禁止した、それに憤慨激怒し米国と戦争を始めたと天皇自身が独白しているのである。

天皇一族は神でも「象徴」でも無く、人間のクズの集団である。

追記・・例え殺されても自分の命と引き換えに真実を語るのがジャーナリストの仕事である。

天皇に欺かれ売春婦にさせられた数十万人の日本人女性達の無念の人生のために、誰かが真実を語らなければならない。

http://www5.diary.ne.jp/logdisp.cgi?user=521727&log=20070607


人身売買と近代日本の成立 


自国女性を海外に売るのが「ロイヤルビジネス」だった


「からゆきさん」と呼ばれたどちらかといえば普通の「娘の身売り」の陰には、さらに悪質な詐欺的人身売買が、国策として、天皇のロイヤルビジネスとして、白人商人と連携して組織的に、国策会社日本郵船(=三菱)により、大々的に行われていた。

そして、その人身売買こそが、日本資本主義の原初的蓄積過程だった。

つまり、近代日本国家は自国女を売って成立した。


「オルタナティブ通信」などを通じて知るようになったこの事実ですが、まとまった知識を持った人をTwitterで見つけました。

http://twitter.com/urashima2


戦前の日本は民族差別に反対してたとか言ってる方がいまだに多いが、実際のところは人身売買する上で邪魔だったというのが大きな理由のようだ。そもそもアメリカが排日移民法を作らざるを得なかったのは日本からあまりに膨大な日本人女性が売られてきたからにほかならない。


戦前の日本が差別を許さないとか、プロパガンダにもならない妄想…。

世界最大の賤業婦人(売春婦)輸出大国だったのに。

それも騙して海外へ連れ出すという極悪非道ぶり。


いわゆる「からゆきさん」なんてハイカラな名称付けられているのが、それ。

ジャパゆきさんは自分の意志でオーディション受けて、どういう場所で働くか承知で来るかも知れない、からゆきさんの大半は国策として騙された人や誘拐・拉致同然に連れだされた方々なのでまるっきり違う。


からゆきさんと言っても中国だけじゃない。

世界中に貨物船の片隅に押し込められ売られており、明治から昭和にかけて、その数は30万人以上とも言われている。

戦争責任を追求する大手マスコミでさえ、からゆきさんについては非情に及び腰。

理由はロイヤル・ビジネスだから。


おもに日本郵船=三菱と組んでいるが、三菱といえば岩崎弥太郎。

岩崎といえば龍馬。龍馬といえばグラバー。

グラバーといえば武器商人…ってな具合に背後は真っ黒の助。

そもそも武器を買うための資金として人身売買をはじめた。


グラバーといえばマセソン商会の元社員で代理人。

マセソンといえばアヘン商人。

ようするに茶を買うためアヘンを売るのが、武器を買うために女性を売る…にかわっただけ。

長州ファイブを留学させたのもマセソン商会。

岩崎=長州閥=天皇家は一蓮托生でアヘン・武器商とつるんでた。


騙して日本人女性を売った金で武器を買う。

その両方でピンハネすればボロ儲け。


三菱財閥が巨大化した最大の理由が人身売買…

などとは歴史の教科書や社史にも出てくるわけない。


人身売買であげた利益で武器を買い、それで戦争を行っては国民を虫けらのように死なせた。そういうビジネスを明治以来一貫して下衆なアヘン・武器商人と結託しながらやってきた。宗教も人種も違う連中を奴隷貿易するでもなく、自国の同胞女性を詐欺まがいに海外へ大量に売り飛ばすという豪快なことをしていた日本。


さうがの毛唐も

「オーマイガッツ!

ジャップのやつ正気の沙汰とは思えない。

オークレイジー」

なんて驚いたことだろう。


そういう背景により、クレージーなジャップによる人身売買を阻止するため、アメリカは排日移民法をつくってくれた。それを、差別だとかいうのだから凄い。


戦争の原因について


「カリフォルニア州への移民拒否については、 日本を憤慨させるに十分なものであった」

とは裕仁天皇のお言葉。これが戦争の原因なのだというから素晴らしい。


戦前の国策による人身売買の実態を隠蔽するため「からゆきさん」と混同されるようにイメージの偽装転換が巧妙になされている。実際はからゆきさんなんてレベルをこえた国策の人身売買が壮大なスケールで行わていた。


本来の「からゆきさん」なんてのは九州の貧しい農村部の女性が女衒に連れられアジアの娼館で働くというものだが、日本郵船とかがやってたのは基本的に詐欺。


「海外で教養を身につけよう」

「あこがれのアメリカで働こう」


なんてかんじで良家の子女から寒村にいたるまで処女を集めた。


私もこのブログで、アメリカの人身売買報告書が日本に異常に厳しいことを人種差別ではないかと批判したことがありましたが、見当違いだったかもしれません。

彼らは当然ながらこういう過去の事実を知っている。この件の被害者は日本人であり、欧米商人も関与していたので、あえて言挙げはしないが、日本国がこういう体質をもっているということには留意している。このような過去の犯罪行為について、日本人がほとんど知らされておらず日本国内に批判も反省もないことも見ている。

普通に「人身売買を防止する」という観点から見て、日本が要警戒国になるのは当然ですね。


これから必然的に貧しくなっていく日本ですが、日本女性は日本国家および天皇一族を警戒したほうが良いといえます。同時に、従軍慰安婦問題や南京強姦事件で騒いでくれる近隣国の人々に感謝しなければならない。被害者が日本人だけなら、誰も騒がず、語ろうとする者は口封じをされ、そんな過去はなかったことになります。

天皇と三菱とが一体になり、外国商人と連携して、国策でこのような犯罪行為を行った歴史が「なかったこと」にされている。何の反省もない。

このままでは、日本国家にカネが必要なときにはまた同じことが繰り返されることになるでしょう。


日本国=天皇=三菱等、

はその成立時から人身売買マフィアであり、芯から腐っていると言えます。初めから腐っているものはどうしようもありません。「日本の解体」が是非必要です。

http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/


あめゆきさんの歌、山田わか


 日系アメリカ人の歴史の本を読んでいた時に、

「アメリカの日本人の嚆矢(はじまり)は日本人売春婦」

という記述に出会って、愕然としたことがある。


 コロラドに、江戸時代の日本人売春婦の墓標が残されているそうだが、日米和親条約(1853年)が締結される以前の話である。日本から、アメリカに直接に向かうことができなかったので、アジアを経由して、密航者としてアメリカに渡ったらしい。

 この女性たちの歴史の発掘に尽力されたのが、サンフランシスコの日本語協会の石崎五郎さん(UCデイビス校の獣医学の教授、故人)だった。石崎さんは、そうした女性の存在を不憫に思われたようだ。 中国や東南アジアに渡ったからゆきさんのことは、森崎和江や山崎朋子の著作で知ってはいたが、そうした事実が、このアメリカでもあったのだ。


 明治の新聞ダイジェストを読んでいた時に、オーストラリア行きの船の船倉で、日本人売春婦が窒息死体となって発見されたという記事を目にしたことがあるが、日本人売春婦は、オーストラリアにも、密航させられていたようだ。 十九世紀末のアジアに渡った日本人売春婦を意味する”からゆきさん”という言葉から、山崎朋子(ノンフィクション作家)が、”あめゆきさん”という言葉を作り、「あめゆきさんの歌:山田わかの数奇なる生涯」という本を書いたのが、1978年。

 プラムさんに、山田わかが働いていた場所を訊ねられた私は、シアトル時代の山田わかの手掛かりを求めて、この本を読み返した。 この本の記述とシアトル旧日本人街明細図から、20世紀初頭に、彼女が白人相手の売春婦として働いていた場所が分かった。

現在のシアトル・アジア人街のあるインターナショナル・ディストリクトの一角だ。 私自身、以前、インターナショナル・ディストリクトを訪れた時に、山田わかはどこで働かされていたのだろうと、漠然とした疑問をもちながら、同地域を歩いていたのだが、今回、キング・ストリートと5番街の角のアロハ・ハウス(現在は別のお店になっている)で働いていたことが分かった。


 1906年に、26歳で日本に帰国した山田わかは、近所に住んでいたことから平塚らいてふと知遇を得て、青鞜に参加。『朝日新聞』の人生相談の回答者になって、アメリカ帰りの女流評論家として成功した。


 アメリカの図書館で、私は、戦前に発行された山田わかの本を2冊、見掛けたことがあるし、サンフランシスコで、彼女の夫となった山田嘉吉の教える英語塾で山田わかに出会ったことがあるという人から話を訊いたこともある。 私が渡米した頃には、ヤングさんと呼ばれた日系一世の若手がまだ、生きていたのだ。ヤングさんは、英語の勉強のために、サンフランシスコの山田嘉吉の英語塾に通ったようだ。

 山田わかのシアトル時代の記述については、サンフランシスコで発行された『あめりか新聞』(1937年)のオリジナルをUCLAのライブラリー(special collections library)で読んだこともあるし、山崎朋子が出会ったリン(林)司書から、直接、お話を聞いたこともある。リンさんは、UCLAのアジア関係の生き字引のような方だったが、1990年代の前半に退職された。

第二次世界大戦後、山田わかが心血を注いだ仕事に、売春婦の更生施設の建設、運営があった。 売春婦から更生して家庭人となった彼女だからこそ、更生が、いかに大切であるかということを知っていたのであろう。

 私は、アメリカに住む日本人のことをリサーチしている理由の一つに、日本人は、アメリカから何を学ぶのだろか、ということがある。山田わかの場合は、不屈の向上心だったのではないだろうか。

http://plaza.rakuten.co.jp/katiebooks/diary/200408240000/

昔アメリカで、ハロウィーンに英語もできないくせに白人様の真似をして調子こいていた馬鹿な日本人留学生が射殺された事件がありました。しかし、アメリカ白人がやったことなので日本人は怒りません。その因縁のハロウィーンを、やがて日本人たちはアメリカ白人と一緒になって馬鹿騒ぎして祝うようになりました。

だいたい日本人に同胞意識などない。自分が白人様にでも引き立てられれば、黄色人種の同胞なんてクソみたいなものです。日本人で出世して偉くなる人はみんなそう思っています。


天皇のロイヤルビジネスは、日本人の素人女性を騙して、日本郵船の貨物船に乗せて海外に性奴隷として売り、外貨を稼ぐというものでした。


日露戦争などの戦費もそれで出した。

同胞の日本人女でさえ騙して奴隷にして、船内で白人船員に強姦させて売春婦教育し、外国の売春宿に平気で売る事をしてきた日本人なので、朝鮮人従軍慰安婦の強制連行や戦地や日本軍進駐先(前記事のタイにも進駐していた)での住民強姦など朝飯前のことです。

(そんなことを否定したり事実を争ったりする方がどうにかしています)。


日本はもともとそういう麗しい国なのです。なので、マトモな人間なら、日本人であれ外国人であれ、「反日」になるのが自然です。
http://kuantan-bin-ibrahim.blogspot.com/

8. 中川隆[-13744] koaQ7Jey 2018年12月18日 18:13:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

天皇一族は売春業者、未成年の日本女性が天皇家の金蔓だった _ 2


こんな女に誰がした(パンパン編)__天皇陛下を恨んでね

終戦わずか2週間後「東京の慰安婦」は米軍のいけにえにされた 「次から次へ、体じゅう痛くて…」
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56962

2018.08.15 貴志 謙介 元NHKディレクター・プロデューサー 現代ビジネス
ようやく見えた「戦後ゼロ年」の真実

今年も8月15日がめぐってきた。だが、73年前の敗戦をめぐる記憶は日々確実に薄れている。

とりわけ記憶の劣化が著しいのは、敗戦直後の一年間、いわゆる「戦後ゼロ年」であろう。みじめな焼け跡暮らし、占領の屈辱、飢え、虚脱感、思い出したくもないヤミ買い。高度成長という威勢の良い華やかなサクセス・ストーリーの陰で、暗い役回りを押し付けられたせいかもしれない。

だがもっと本質的なことは、敗戦直後の時代には、その時代を経験した人であっても知ることのできなかった秘密がたくさんあるということだ。

占領軍は、情報をコントロールしていることを悟られないような巧妙なやり方で検閲をおこない、メディアを支配する情報戦を仕組んでいた。その結果、占領政策にとって都合の悪い出来事や情報は隠されたまま、いわばブラックホールのなかへ姿を消してしまった。

「戦後社会の原点」とみなされる時代であるにもかかわらず、多くの真実が欠落し、核心がぼやけたまま風化してしまったのである。

ところがここへ来て、思いがけず、戦後ゼロ年をめぐる新しい視野がもたらされようとしている。原動力のひとつは、機密資料の公開である。たとえば、2007年に機密解除された10万ページのCIA文書があり、150万点に達するGHQの検閲記録がある。A級戦犯に対するIPS(国際検察局)の尋問記録やアメリカ戦略爆撃調査団の調査報告も公開された。

こうした極秘文書を多くの証言とつきあわせていくと、驚くべき真実が続々と浮かび上がってくる。まず、時計の針を敗戦から3日後の1945年8月17日にあわせてみよう。

日本政府がつくった「性の防波堤」

この日、組閣された東久邇内閣の国務大臣に就任した近衛文麿がなによりも急いだことは何だったか。

実は近衛は入閣直後、ただちに警視総監の坂信弥を呼びつけ、米軍相手の売春施設を作るよう要請したのである。

40万人の占領軍上陸を2週間後に控え、日本の戦争指導者がもっとも恐れたことは、兵士による性犯罪であった。そして「性の防波堤」と位置づけられたのが、「国策売春組織」、すなわち「特殊慰安施設協会(RAA)」であった。

RAAをめぐる公式記録『R・A・A協会沿革誌』はこう述べている。

〈R・A・A協会が、その使命を忠実に達成する為、真先に開業したのは慰安所である。進駐軍将兵にとって、何よりも先ず慰安すべき面はセックスの満足であった〉

電光石火のごとく霞が関が動いた。外務省・内務省・大蔵省・運輸省・東京都・警視庁など、主要官庁がこぞって協力。座長役を務めたのは、大蔵省の主税局長・池田勇人(のちの首相)である。池田の号令で大蔵省がポンと3300万円を出す。現在の価格に換算すれば10億円を超える。

占領が始まる前に、政権の中枢にいた政治家や軍人、そして官僚が何を置いても、外国の軍隊による性暴力にこれほど強い恐怖感を抱いたのは、なぜだろう。国家が主導した売春施設を準備した警視総監・坂信弥は、内務省の資料のなかでこう証言している。

「東久邇さんは南京に入城されたときの日本の兵隊のしたことを覚えておられる。(略)それで、アメリカにやられたら大変だろうなという頭はあっただろうと思います」(大霞会編『続内務省外史』、地方財務協会)

軍国主義者がおびえていたのは、結局のところ、来るべき占領軍の蛮行というよりも、鏡に映った己の姿、日本軍の影だったのではあるまいか。

「からだじゅうが痛くて…」

8月28日、午前9時、RAAの幹部20名が皇居前広場に集合した。『R・A・A協会沿革誌』によれば、ここで全員が宮城に向かい宣誓式を行ったという。宣誓の主旨はこうである。

〈(RAA協会は)戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の難事業を課せらる。(略)『昭和のお吉』幾千人かの人柱の上に、狂瀾を阻む防波堤を築き、(略)「国体護持に挺身せんとするに他ならざることを重ねて直言し、以て声明となす〉

敗戦国であるドイツやイタリア、あるいはソ連に占領された東ヨーロッパの国々にも、占領軍を相手にする売春婦は大勢いた。しかし、国家が号令を発して、莫大な予算を投じ、官僚がプロジェクトを組み、「国体護持」のために女性を犠牲にするという“理想”を高らかに掲げた国はほかにない。

8月27日、RAAは、占領軍の上陸地点に近い品川の大森海岸に「慰安所第一号」として、「小町園」を開店した。ポツダム宣言の受諾からわずか2週間しかたっていない。

50人の女性、それも大半はシロウトの女性が送り込まれ、10畳、20畳の大部屋をカーテンや屏風で仕切り、30ほどの部屋が作られた。待ちかねたように、米兵がどっと押し寄せ、障子や襖を蹴破って、土足のまま押し入ってくる。女たちは恐怖のどん底へ投げ込まれた。

「恐怖におびえるまもなく、兵隊が入ってくるなり私を抱くと、しびれるほど唇を吸う。(略)入れ替わりに、つぎの兵隊がくる。(略)つぎからつぎへと抱いては送り、送っては抱き、(略)からだじゅうが痛くて……。」(『東京闇市興亡史』より)


RAAが横須賀に設けた慰安施設「安浦ハウス」(米軍資料)

女とみると、手あたりしだい

『R・A・A協会沿革誌』によれば、小町園を皮切りに、立川「キャバレー富士」、調布「調布園」、福生「福生営業所」、北多摩「ニューキャッスル」、築地「宮川」、人形町「花家」、向島「迎賓館大蔵」、若林「R・A・Aクラブ」が次々とオープン。

東京だけで33か所。従業員は450人。ダンサー2000人。350人の「慰安婦」。ひとりの女性が最高で一日60人を相手にした、との証言もある。


銀座松坂屋近くにRAAがつくったキャバレー“Oasis of Ginza”(Photo by gettyimages)

一方、RAAの幹部連中は何をしていたか。戦前に吉原で遊郭を経営していた経歴を持つRAA営業所長・岡本清次の談。

「RAAの仕事は国家の肝煎りですから、国から給料もらっているような身分でした。基本給千百円、手当て千百円の計二千二百円というのは、当時としてはそうとうな高給取り」

「食事のほうは、米兵からの土産もあったし、なにしろ警視庁から食券がきていましたから。(略)兵隊がもってくる牛肉は、ブ厚くてスキヤキにするとほんとうにうまかった」

当時、警視総監であった坂は、「RAAがあったおかげで占領軍兵士による強姦事件はほとんどなかった」と主張している。しかし、近年公開された米軍の極秘資料は、それがまぎれもなく“虚偽の申告”であり、実態はむしろ逆であったことを示唆している。

米兵による暴行事件は、8月30日にはじまり、RAAの営業によっても止むことがなかった。1945年11月中に発生した米兵の犯罪は、婦女暴行、強姦、盗み、おどし、たかりなど、554件に達している。報道が禁止されていたゆえ、一般に知られなかっただけなのである。

特に強姦事件や強盗事件が多かったのは、小町園に近い大森海岸であった。売春婦の紹介業を務めていた菅原道雄は、その理由をこう証言している。

「大森で、強盗・強姦事件が頻繁におきたのも慰安所と関係ありますね。タバコや洋服を『金にかえてくれ』といってくるヤツが多かったし、それもないヤツは強盗をしてまで女を抱く金を得ようとする。慰安所にはGIが行列をなしていてあぶれちゃうヤツがでるんですよ。そうなると、手あたりしだい、女とみると襲いかかるのです。

夜の八時ころだったでしょうか。大森から大森海岸へ行くまっ暗な道で女の人の悲鳴をきいたことがあります。たぶん素人の人でしょうが強姦されていたんです。私は一目散に逃げましたよ。だって、アメちゃんは刃物をもってましたからね」

RAAの組織と人脈から、占領終了後、赤線や基地売春が生まれた。国家がつくりだした巨大売春施設こそ、戦後の売春産業の源泉であったのである。

いまも残る「東京ブラックホール」

戦後ゼロ年のブラックホールに迷い込んだのは、国家の「いけにえ」となった女性ばかりではない。占領下の東京には、いたるところに、ブラックホールが存在していた。

あらたに発掘された映像からも、その痕跡がみつかる。たとえば、東京湾から引き揚げられた大量の金塊の映像。数兆円にもおよぶ日本軍の隠匿物資の一部である。もとはといえば、本土決戦のために軍が国民から徴用した物資であり、こうした莫大な財産は国民には返還されず、高級軍人や官僚など特権階級に横領されて、ヤミ市に横流しされていたのである。

戦後ゼロ年、飢餓やインフレは、戦争中より深刻だった。もし、隠匿物資が国民を救うために使われていたら、どれほど多くの戦災者が救われていたことだろう。

人々を苦しめた敗戦直後の地獄は、物資の隠匿に狂奔したエリートの不正によってもたらされたのである。その事実を、私たちの記憶のなかに、あらためて刻み込んでおかなくてはならない。

膨大なCIA文書から、戦後ゼロ年にどのような権力構造が生まれていたかを知ることもできる。たとえば、占領軍は、表向きは「日本を民主化し、軍国主義者を追放する」政策を推進したが、裏では大本営の参謀を戦犯の訴追から外し、対ソ諜報戦の手先にしていた。

米軍の諜報機関に囲い込まれた軍や特務機関の残党は、アメリカの後ろ盾を利用して密輸や謀略を重ね、密かに影響力を拡大していく。軍国主義の残党、ヤミ成金、官僚や政治家を問わず、占領軍に深く食い込んだ者だけが権力を確保し、利権を得た。

こうして戦後ゼロ年を出発点として、アメリカの秘密工作に積極的に協力した日本の支配層との合作で「世界最大の親米国家ニッポン」が造られていく。そのときできあがった権力構造のDNAは、いまも日本を支配している。

戦後ゼロ年は、戦前のしがらみを断ち切った年ではなく、むしろそれを温存し、戦争を推進した旧支配層を取り込んで、アメリカの国益に沿った日本社会の改造が開始された年だったのである。

『戦後ゼロ年 東京ブラックホール』という本では、いままで視界から失われていた闇を見つめ、わたしたちの記憶の欠落を埋めていくことを試みた。復元された戦後ゼロ年の姿を現在の日本と重ね合わせれば、いまの日本を呪縛する仕掛けも見えてくるにちがいない。
https://gendai.ismedia.jp/articles/-/56962

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こんな女に誰がした(パンパン編)__天皇陛下を恨んでね

 『新日本女性に告ぐ!
 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳まで。宿舎、被服、食糧当方支給。』


 敗戦直後の昭和20年8月22日、この広告が新聞などに張り出される。「新日本女性に告ぐ!」などと勇ましいことを書いているが、これは単なる事務員の募集の求人広告ではない。

 この前日、近衛文麿国務相が「婦女子を性に飢えた占領軍兵士から守る」という狙いのもと「特殊慰安施設協会(RAA)」の設置を決めた。上の広告はこの施設で占領軍相手の売春をする女性を集めるものであった。大抵の女性は、はじめからこれがただの事務の仕事ではないことは気付いていたようだが、中にはやはり単なる事務の仕事だと思って応募してくるものや、慰安とは「歌でも歌えばいい」と思って応募してきた良家の子女もいたと言う。

 この売春施設の目的は性のハケ口を設けることによって、占領軍がレイプ事件などを起こさないためにという「性の防波堤」とも言うべきものであった。が、実際は占領軍によるレイプ事件は日常茶飯事であった。

 さてRAAであるが、東京の大森を皮切りに各地に作られ全盛期にはそこで働く「パンパン」と呼ばれた女性は7万人を数えるようになった。しかしその後占領軍兵士が持ち込んだ性病が蔓延し、GHQは21年3月10日慰安所への兵士の立ち入りを禁止し、RAAは崩壊する。パンパンの彼女たちの多くは私娼となって街で客を求めるようになる。

 そのころ吉原はというと、戦時中に東京大空襲で焼け野原になるも政府の援助によってすぐに復興。そして終戦を迎えると、前述のRAAの慰安施設となる。

 GHQは占領軍のRAAの立ち入りを禁止すると同時に、日本政府に対して公娼廃止を求める。日本政府はこれを受けて公娼を廃止するが、実際は特殊飲食街を指定しその地域内での売春行為は取り締まらないようになった。これが「赤線」の始まりである。

 赤線地帯は吉原や新宿二丁目など戦前は貸座敷があったところが指定され、風俗営業取締法(以下風営法)によって「カフェー喫茶」などが営業されていた。この「カフェー喫茶」であるが、もちろん「喫茶」といってもただ単にお茶を飲むのではない。かつて花魁として働いていた女性が今度は女給という呼称で売春をしていたのである。その後赤線は朝鮮戦争の特需景気により営業する店が急増した。そのころの泊まりの料金は1000〜3000円。

 赤線が一応風営法というかたちで許可をとっていたのに対し、その許可を取らないで売春行為をしていたのが青線である。青線は表向き料理屋の形をとっているが客と交渉が成立したときは店を閉め売春をする。青線のほうが基本的に価格は安く、比較的所得・階層の低い人が利用していたと言う。

 しかし、赤線・青線地帯もやがて崩壊する。昭和33年4月1日売春防止法(以下売防法)が施行される。これはこれまで黙認してきた売春行為を禁止するものであった。なぜこの次期に売防法が公布・施行されたのか。それは日本が国連に加盟するためである。国連は昭和24年「人身売買及び売春行為の搾取禁止のための条約」を決議しており、国連に加盟するためには娼婦をなくすことが必要であったからである。

 売防法について、赤線で働いていた女性は猛反対していた。もし赤線がなくなれば彼女達は生きる術を失うことになる。政府は何も生活の保障や仕事の斡旋などはしてくれない。東京では「東京都女子従業員組合連合会」を結成し、売防法に反対するビラまきなどを行った。

 しかしながら売防法は施行され、そして吉原をはじめとする赤線地帯は消えていったのである。職を失った女性たちは、厚生施設に通い手に職をつけようとした者もいたが、白線・黒線と呼ばれる結婚相談所の形をとった売春組織で働く者もいたし、それ以外の性風俗で働く者もいた。 
http://www.hit-press.jp/column/shakai/shakai26.html


赤線地帯 溝口健二監督 撮影・宮川一夫

出演者 若尾文子
三益愛子
町田博子
京マチ子
木暮実千代
http://www.youtube.com/watch?v=vBE4favGFZw&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=0&playnext=1
http://www.youtube.com/watch?v=CnfoMLE1uvc&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=1
http://www.youtube.com/watch?v=CsE9BH31D0c&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=2

http://www.youtube.com/watch?v=K_bfxPVbEZs&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=3
http://www.youtube.com/watch?v=oo54ArDnCxc&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=4
http://www.youtube.com/watch?v=9ZFbsOfFqiA&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=5

http://www.youtube.com/watch?v=zCBAQZWKGQM&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=6
http://www.youtube.com/watch?v=sdeSrCGqrvI&feature=PlayList&p=5F47B09163B9438D&index=7

「戦争が終わってアメリカさんが来たら、素人さんを守ってくれ、防波堤になってくれなんて、いーい調子でおだてられちまってね」というセリフ!

映画のラスト。初めて吉原の店に出る生娘の少女が、ようやくのことで男を誘う呼び声を出すが、すぐに柱の陰に隠れてしまう。

彼女は、これから男に体を売って生きていかなければならない。その未来の始まりが映画の終わりだ。何という終わり方!

また、それが溝口監督の映画の最後のシーンになった
http://bojingles.blog3.fc2.com/blog-entry-682.html


記録映画「赤線」  官許遊郭の実態
http://www.youtube.com/watch?v=WOZEV7sh_TU&feature=related

赤線
http://www.youtube.com/watch?v=Czjvt2wB3Z8

記録映画『赤線』・ネオンきらめく吉原 1958
http://www.youtube.com/watch?v=w3b6A9fxSE0&feature=related

記録映画『赤線』・東京パレス(小岩) 1958
http://www.youtube.com/watch?v=tM45aDtaU-4&feature=related

記録映画『赤線』・洲崎パラダイス 1958
http://www.youtube.com/watch?v=I9iF39c-Hdk&feature=related

怒れる占領軍を親日家に変えたこの手腕__昭和天皇は偉大だった


昭和天皇は主席検事キーナンに戦争の責任は全部東条ら陸軍軍人におっかぶせるからよろしく、との意向を女を抱かせることで狙った(?)。女優・原節子がマッカーサーに提供されたという噂は、噂ではあるが、当時から根強くあったのは有名である。おそらくそういう悲劇が多数あったのだろう。http://blog.goo.ne.jp/hienkouhou/e/bd61d9d5c3085df3fddc6adf68c4c7d2


田中隆吉は、すぐに、主席検事キーナンに親しいボディーガードとなった。二人は、両者に共通するフランス語を使い、田中はバーボンをあたかも「特級酒」ように楽しむことを覚えた。田中が出版した回顧録によれば、キーナンは田中を日本暮らしのガイドのように使った。

もし、キーナンが女性関係を望んだ時は、彼はただ会話に「Je suis fort. (私は強い)」 とだけ言えば、田中は電話をかけてその段取りをととのえた。

実際、田中は何事にも明るく、靴を脱ぐのを嫌うキーナンが、靴のまま畳の間に入り込んでも問題を起こさないような、そんなくつろぎの場をも手配した。キーナンは、アメリカ人将校と日本の上流婦人との間の関係を良しとしていなかった。彼はよく言った。

「私もちょっとしたあそびは好きだが、素人に手を出したりはしない。それはよくない。」
http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_4.htm


マッカーサーの部下職員の宿泊所として徴用された旧東京記者クラブでは、22人のメイドと電話交換手が、夜、そうした職員の部屋で過ごしているところを発見された。占領後半年までに、少なく見積もっても、半分以上のアメリカ軍将校たちが日本人の愛人を持つと見られていた。

 10月、幣原内閣が発足しようとする頃、特殊慰安協会はその供給について、下士官と将校を分離し、50万人の占領軍全体がすべて同じように魅力的なサービスが受けるのは難しいと強調し始めた。そしてその日より、下士官には下級のホステスバーが、兵卒には「ウィロウ・ラン」となり、上等な老舗旅館は将校向けとなった。つまり、もはやだれもが十分に満足しえるものではなくなっていた。

みごとな庭園を持つ豪奢な別荘の幾つかにはアメリカ式浴室が設けられ、そして人々の視界からは消えた。米軍士官にもっとも人気のあったのは、東京中心部のネオン街にある、招待客のみを受け入れる、プライベートクラブだった。

 そうしたクラブの筆頭が「大安」で、裕仁の弟、海軍大佐の高松宮の親友、安藤明が経営しており、戦時に便乗して暴利を稼いできていた。

トラック運送あるいは建設業界のボスとして、最初の占領軍の着陸に際し、厚木基地のまたたくうちの修復工事を成し遂げて名を売っていたのが安藤だった。

そのクラブ「大安」では、米軍の高級将校に、活発で英語の話せる貴婦人を紹介し、夜ごと、その記念にと、御木本の真珠のネックレスが贈呈されていた。

彼の気前の良い商風は、幾度も彼を倒産の崖淵に追い込んでいたが、地下商売で大当たりを上げては再起していた。そして最後に短期の刑務所暮らしをした後は、引退して安楽な生活を楽しんだ。

 そうしたクラブとは別に、内閣官房楢橋渡や東久邇元首相の別荘では、極めて興味深い享楽が繰り広げられていた。東久邇のパーティーの様は余り記録に残されていないが、楢橋のそれは、見るからに露骨な誘惑そのもので、今日。老いたアメリカ人将軍たちが当時を思い出して顔を赤らめるものとなっている。

楢橋は熱海に別荘をもっていた。熱海の入江や山々、そして名高い温泉やホステスたちと、当地はその持ち味をあえて強調する必要もなく、かつ、楢橋は名うてのもてなし上手だった。その裕福な弁護士は、戦争中、北京で最大かつ最も儲けの良い情報収集源ホテル〔北京飯店〕を経営していた。

その彼の部下の鳥尾〔鶴代〕子爵夫人が、コトニー・ウィットニー准将に仕える将官〔民政局次長チャールス・ケーディス〕の愛人となった。ウィットニーは、連合軍最高司令部民政局を動かし、日本の法制改革の草案作りをしていた。その元ホテル経営者の楢橋は、自分と自分の「貴婦人」たちが、最後にはウィットニーの部下たちすべてを「とりこ」にするだろうと豪語していた。

 性的わいろに加えて、さらに特異な投資機会も存在していた。

マッカーサーの会計担当ハロルド・R・・ルース大佐は、占領軍将兵たちは、毎月、支払われる給料より800万ドルも余計に故国に送金をしているとの報告を行った。

日本人が中国から略奪してきた数々の骨董品は、日本産の秘蔵品とともに、米国へ送られる雑のうの中に入れられていた。

天皇の叔父、東久邇宮自身も骨董業を手がけ、後になって、要職にあるアメリカ軍士官たちに安売りし過ぎて破産したと、よく語っていた。http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_1.htm


8月15日の降伏の日、近衛宮は警視庁長官、伴信也を呼んで言った。「我々は日本の娘たちを守らなければならない。特に君にはそれを理解してもらいたい」。用意周到な中産階級の人々は、女たちを山中に隠れさせ、いざという時のために青酸カリ剤を持たせていた。

スラム街には、貞淑であろうとする権利も、国を思って自ら愛国者であろうと考える暇すらも与えられたことのない数千人の女たちが残されていた。今や、そうした女たちの出番であった。

伴長官は、東京の主要な娯楽業界――旅館、レストラン、麻雀荘、お茶屋、バー、売春宿など――の代表を招集した。

8月23日、こうしたお歴々によって、連合軍下士官のための「特殊慰安施設協会」が設立された。この団体は、勧業銀行による二百万ドル相当の株発行を資本とし、その株券は天皇の友人たちに販売された。数週間のうちに、同協会は、東京で33個所、地方で5個所、そして二つの婦人専門病院での事業を始めた。 

また同協会の別事業として、東京下町にあった軍需品工場がホテルに改造された。刀を鍬に作り直す事業などより、はるかに儲かるビジネスだった。

後にこの施設が最終的に廃止されるまでに、 「ウイロー・ラン」 と呼ばれたその工場は、250人の女たちによる生産ラインを持ち、一日に平均3,750人の兵士たちを受け入れるという生産高をあげた。

 特殊慰安施設協会とその付属組織は、 「一年一円」衆と称して天皇に仕える工業界人団体によって支援され成長した。

この団体は、化学、海運業界の重鎮であり、過去十ヶ月、和平派に属し、木戸内大臣と幾度も会談を重ねてきた、山下太郎によって組織、統率されていた。山下とその賛同者は、二億円、およそ1,400万ドルの基金を集め、天皇に献上した。

この贈呈が、その受け入れに木戸内大臣が二日を要したところからみて、何らかの見返りが要求されていたことが伺える。


 山下と 「一年一円」衆が引き受けた仕事のうち、最も難しかったものは、マッカーサー及びその側近との間の連絡業務であった。

宮中のご婦人たちの助言によれば、無能な国内警察による通訳用務が放棄され、外国語に通じたそうした国際経験ある婦人たちがそれを代行するようになれば、連合軍司令部との関係ははるかに円滑になる、というものであった。そこで、パリやロンドンに暮らしたことのある王妃や侯爵夫人たちの一団は、米国での良好なコネを持つビジネスマンの一団と協力し合うことに同意した。折角の貯蓄も目減りして見る影もない戦争未亡人には、新しい着物を買うための資金も用意された。名家の別荘は、その品格と遊興施設の程度によってランク付けされた。西洋の首都で見られるようなものをまねて、会員制のクラブが作られた。

裕福な才女たちのグループは名うての芸者を招き、男たちをもてなす芸に取り組んだ。

 日本は、マッカーサーが自分の兵隊たちに予測していた気の緩みにつけ込むための準備を万全に整えていた。和平派の特殊慰安施設協会は、まさしくその目的のために、国をあげての娼婦力を動員していた。

最初に米軍の機動部隊が東京に到着し、所定の兵営や工場に収まり、そこに検問所を設置した時より、兵員たちは、幾台ものトラックに満載されてきた女たちが検問所前で下車して準備が整い、通訳から「特殊慰安施設協会からの御挨拶です」と説明されてびっくり仰天した。

この最初の進呈は受け取りを拒絶され、そのトラック満載の贈り物は未開封のまま返品された。だが数週間のうちに、それが日本側の騙し打ちではないと判ると、アメリカ人たちはそれに打ち解け始めた。そしてすぐににマッカーサーは、「広がっていると報じられる占領軍メンバーと不品行な日本女性との間の乱れた関係に大きな懸念と深い困惑」を表すこととなった。

 戦前、日本の売春婦は、その小柄さ、その恥じない快楽主義、そして彼女たちの自尊と誠実さを込めた甘美なサービスで、国際的な評判を得ていた。

彼女たちは、主要都市の街外れにある、壁で囲まれ、飾り立てられた街区に住み、働いていた。その最も著名なものは、東京の吉原で、きらめく提灯とごった返す小路を持つ40エーカー〔16万m2〕ほどの治安の良い一画を形成し、金張りの龍と朱塗りの門、着飾った客引きや曲芸師と砂糖菓子売り、格子を通して垣間見える池や庭と縁側や格子窓の向こうの女たちといった、集積された東洋の魅惑と悪徳の場であった。

 空襲を生き延びたそうした女たちは、首都圏全体に霧散していた。少しでも英語が話せるものは、特殊慰安施設協会に雇われ、郊外の古びた宿屋や、同協会が下町に作ったキャバレーや売春宿で、そのサービスを提供するのを待ち構えていた。

アメリカ人による需要は、ついには、横浜の「ビック・ティッツ〔「大きなおっぱい」の意〕・バー」や。東京の「ハード・オン〔「勃起した」の意〕・カフェ」のような目立った歓楽場所を生みだし、占領が始まって1ヶ月も経たない時点で、歓迎されるとみられる所では、目立たないようにながら、あたかも偶然を装い、そうした女たちが商売を始めていた。

 米兵のうちには、まるで麻薬の幻覚であるかのような、そうした初期の出来事を経験したものがいる。日本の地方で、武器の隠し場所を捜索していた元第8軍団の軍曹が、1945年10月末のある日の経験を述べている。


 彼と同僚は、その日、東京の東方にある小さな海辺の町のほこりっぽい広場に、彼らの乗るジープを止めた。そこで彼らが、昼食のためにK号携帯糧食を開こうとしていた時、シルクハットを被り、黒く盛装した一人の紳士がやってきて、たどたどしい英語で、粗末な場所だがその屋根の下で、食事を摂ったらいかがかと申し出てきた。彼は、ジープの後方バンパーに立ち、海を見下ろす崖の上へと、砂利道を案内した。竹藪の前で車を止めさせ、崖の淵にある、古い宿屋へと小道を下った。

その玄関では、着物を着た四人の麗しい娘が、彼らの靴を脱がせ、二階の、漆塗りの食卓の置かれた畳敷きの部屋へと通した。座布団が差しだされ、ふすまが開けられると、素晴らしい景色がそこに広がり、眼下では波が磯に砕け散っていた。女中が、K号携帯糧食に加えるべく、ビール、おひつに入ったほかほかのご飯、数々の前菜を持って入ってきた。娘たちは、間違った英語をにぎやかにしゃべり、はしを使って米兵たちにそれを食べさせた。そして、指やマッチ棒やビール瓶をもちいた接客ゲーム――言葉を超越した遊び――を彼らに教えた。とっくり入りの燗のついた酒も出され、それを杯で飲んだ。

やがて、食事と歓談に満腹したところで、娘たちが言った。「お風呂に入りましょう」。

 折り返した階段を下りて、崖下のほら穴状の部屋へと案内された。その岩の床はおだやかに傾斜し、一方の壁は海に向かった開口部だった。その床の中央に、タイル張りの湯気をあげる浴槽があった。

娘たちは着物を取り、男たちの服を脱がせ始めた。娘たちは、手おけで火傷しそうなその熱いお湯を自らあびた。その行為は繰り返され、兵士たちは大喜びしてそれをまねた。皆がそうして洗い終わった時、娘たちは浴槽の中に身を沈めた。男たちは、それに従い、その40度を越える熱いお湯に体を入れ、ゆっくりと首までつかったが、火傷はしないようだった。彼女たちは、兵士たちの顔を手ぬぐいでふいて、女中が運んできたビールを小さなグラスで飲ませた。遠くでは、崖の影が、海面の上に長く延びていた。

 皆がよく浸かった頃、女中が清潔な木綿の浴衣を持ってきて、男たちはそれを着て、その帯を前で結び、その結び目を背に回すことを教わった。そして娘たちは、彼らを、二階の個室へと案内した。そこでは、畳の床の上に厚い布団が敷かれ、またしても、ビールが幾本か、食膳の上に並べられていた。

一人の娘が、「アメリカ風の愛し方をして」と、軍曹に手を巻きつけながら言った。軍曹は、一瞬息をのみ、圧倒され、夢中となって、そして、それを拒むには自分が余りに誇らしくなっているのを感じていた。

翌朝、彼は一人で眼を覚ました。隣の部屋の仲間を起こし、そのぜいたくな遊びの代金を請求された場合を心配して、彼らの手持ちの金をかき集めた。

女中がお茶とご飯をもってきた。朝食の後、彼らは、その黒の盛装の男にそれでよいかを尋ねた。その男は、その代金は、一人につき、煙草二箱で結構と言った。玄関では、昨夜の相手をしてくれた娘たちが、靴べらを手にして待っており、満面の笑みをうかべて礼をして、彼らが帰途につくのを見送った。


 そのような、初期の接触がもたらした体験や物語は、親密関係無しといった公式占領政策をアメリカのMPによって徹底させることを不可能にした。ジャングルで闘ってきた精鋭部隊が、すべて「米国内」に帰還し終わるまでに、そうした女たちは、米国人宿泊所や定期的な一掃取締についてのあらましを知っていた。

連合軍隊員によって占められたかつての日本軍兵舎や武器改造工場は、消灯時ともなると、ヒールの音や漂う香水の香り、溜息や何かのきしみ音などが響く、不可思議な時間帯となった。http://www.retirementaustralia.net/rk_tr_emperor_13_3_1.htm


「米軍の本隊がまもなく到着する。宿舎は内村旅館である。

どのくらいの期間滞在するかわからないが、
署長は米軍から知覧の町民を守るようにとの中央の命令を受けている。

一番怖いのは婦女暴行であるが、これについては各方面の協力を得て、
彼らに当てがう女たちを確保した。

その女たちは、いわゆる慰安婦である。
 (赤羽礼子 石井宏著「ホタル帰る」草思社p188)

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 .'fi,;゙l;ヒ  : : ;:  :":・lll゙l,.'l・!°   |
   ゙'!,,,い:    ,‐ .,!.gl,,|i,,j,,\  .,l 私のせいで多くの女性が犠牲になった?
    .”゙l   /゜,,,,,lwew-ii,, ゝ ,l゙
     ll,  ゜,,l゙`:;,,,,l,ll,,、.゚ト.,,i   あ、そう! だから何?
    ,,,i'llr゚''ri,,,,,_ : :   : : _,r°
  ,,,iilllli,゙h,、`゚゙゙゙lllllllllilllllll"】 


米兵は日本の「慰安婦」を常用していた

エリック・タルマッジ
AP通信 2007年4月25日18時44分

http://c.fc2.com/imgsa/http%3A%2F%2Fblog-imgs-13.fc2.com%2Fr%2Fe%2Fd%2Fredfox2667%2F51064_640x480.jpg/

この日付のない写真は横須賀市によって公開された。東京の南に位置する横須賀の安浦遊郭前に集まる米水兵。日本の降伏後米兵に売春を提供するために日本側によって設置された多くの慰安所の一つ(提供:AP通信/横須賀市)

【AP通信:東京】 第二次大戦中、軍のために女性を奴隷化した日本の忌まわしい行いには、余り知られていない続編がある。降伏後日本は米兵に対しての同様な「慰安婦」を提供したのである。米占領当局の黙認の下に。

 これまで英訳されてなかったものを含むAP通信の史料再調査は、女性が売春を強要されていると言う内部報告に関わらず、米当局が公的な売春システムを許可していたことを明らかにした。またアメリカ側は、日本が戦時中に占領したアジア諸国で女性に残忍な扱いをしていた事も熟知していた。

 1946年春にダグラス・マッカーサー司令官が売春宿を閉鎖させたが、それまでに何万人もの女性が安値で米軍相手の売春婦として雇われていた。1945年8月に米軍の日本進駐を期に多くの売春宿が営業を開始した事が記録には書かれている。

 東京の東北に位置する茨城県警の公式記録には「遺憾ながら、我々警察は占領軍のために慰安所を設けなければならなかった。それが経験豊富な女性の特別任務であったのは、一般の女性や少女を守るための防波堤とする目的であった」とある。

 日本の降伏と占領に関して協議するため日本の代表団がフィリピンに発つ前日の1945年8月18日に、内務省の指令があった。茨城県警は直ちに準備に取りかかったが、丁度良い施設は独身警察官の寮であり、それはすぐに売春慰安所に模様替えされた。20人の慰安婦と共に海軍施設から寝具が運び込まれた。慰安所は9月20日に営業を開始した。


売春宿は大繁盛
http://c.fc2.com/imgsa/http%3A%2F%2Fblog-imgs-13.fc2.com%2Fr%2Fe%2Fd%2Fredfox2667%2F2007050102564097_1.jpg/


記録には「慰安所が開設されて以降予想通りに大繁盛だった。慰安婦たちは...昨日の敵に自らを売ることに抵抗があり、言語や人種の違いなど彼女達にも最初は大きな戸惑いがあった。しかし彼女達は高額の賃金を受け取り、徐々にその仕事を受け入れるようになった」と書かれている。

 政府の財源で運営された「保養慰安協会」(RAA) の援助の下に、警察と東京の業者は売春宿のネットワークを設立した。1945年8月28日、東京の南隣の厚木へ進駐軍の先行隊が到着、その日の夕暮れまでに軍は最初の売春宿を見つけることになる。

 RAAの情報課長だった鏑木清一氏は「私はRAA幹部と共にそこに急いで向かったが、路上に500-600人の米兵が列を作っているのを見て驚いた。アメリカの自治警察が兵達をコントロール出来ない状態だった」と1972年の回想録でそう書いている。

 警察と民間によって運営されていたとしても、このシステムは戦時中の海外の日本軍によって設立された慰安所を手本にしている。

 鏑木氏はまた「進駐軍の兵は前払いでチケットとコンドームを与えられた」と書いている。最初のRAAの売春宿「小町園 - The Babe Garden」は当初38人の売春婦だったが、必要に迫られててすぐさま100人に増員した。女性一人当たりが一日に15-60人を相手にした。

 アメリカ人の歴史学者ジョン・ダウアー氏の著書『敗北を抱きしめて 第二次大戦後の日本』によると、売春婦との一回が15円で、タバコ一箱の半額であり、「突然の高需要のために売春宿の運営者は、認可された売春婦でない女性をやむなく公募した」とある。

 戦争で身内を失った小町園の滝田ナツエさん (当時19) は、事務職募集広告で応募したが、空いてる唯一の職が慰安婦であると言われ、仕事につくように説得された。1952年の占領終了後に出版された鏑木氏の回想録によると、滝田さんは売春宿開業の数日後に列車に身を投げたとのことだ。「最悪の犠牲者は...『新日本女性』の広告に応募して来た、未経験の女性であった」とダウアー氏は書いている。

 鏑木氏によると、1945年の末までに35万人の米軍が日本に駐留し、米兵のためにRAAは最高時7万人の売春婦を雇っていたとある。そのためにそこに日本人以外の慰安婦が海外から来たと言う説があるが、それに関する明確な証拠はない。

 広島歴史研究所の田中利幸教授は、鏑木氏の提示した数字は根拠に乏しいとしているが、RAAはそのごく一部であり、公式記録に載っていない民間売春業者の数は更に多いであろうとしている。田中氏が発見した記録によると、米駐留軍幹部は、進駐軍の相手をする慰安婦のためにペニシリンを日本政府に提供し、RAAの売春宿のそばに予防施設を作り、兵隊達に使用を許可したとある。

 旧日本軍のための慰安婦と、進駐軍のために募集された慰安婦の類似性を駐留軍幹部は見過ごさなかった。GHQ衛生福祉厚生部のヒュー・マクドナルド上級士官の1945年12月6日の回想録によると、日本の慰安婦はしばしば強要されていたことを米進駐軍は把握していたと言う。「貧困の極致の両親に促され少女は契約を無理強いされた。時には自ら進んで家族のために犠牲になったとあるが、しかしながらそれは情報提供者の主観であり、かつてよりは一般的ではなくなったにせよ、都市部では少女の奴隷化の習慣はまだ存在している」と書いている。


RAAの崩壊

 従軍牧師達の苦情と、売春宿の発覚が米国に帰国後の進駐軍に不名誉となる懸念から、1946年3月25日、マッカーサーは全ての売春宿や慰安所その他の売春所への立ち入り禁止を指令し、間もなくRAAは解散した。

 マッカーサーの主な心配事はモラルの問題ではなかった。田中氏によると、進駐軍の米兵の1/4以上がその時点までに性病に感染していたとのことだ。「全国規模の立ち入り禁止令は、15万人以上の日本人女性を突然失職させた」と田中氏は2002年の性奴隷に関する著書でそのように書いている。元慰安婦の大半が兵士相手の違法ビジネスを続けたが、その多くが性病を持ち貧困であったとある。
http://redfox2667.blog111.fc2.com/?mode=m&no=2


 アメリカの朝鮮戦争時における慰安婦施設について

 朝鮮戦争が始まると横浜、大阪(のち奈良)、小倉の三カ所に日本人女性の売春婦(慰安婦)を集めた米軍管理の「センター」を設置した。

朝鮮の戦場から一定期間毎に交代で米軍の兵隊が送られてきた。
 (中川八洋「歴史を偽造する朝鮮」徳間書店p225) 
http://www.tamanegiya.com/iannfudoitu18.5.302.html


「国体護持」へ国策売春

『新日本女性に告ぐ!
 戦後処理の国家的緊急施設の一端として、駐屯軍慰安の大事業に参加する新日本女性の率先協力を求む。女事務員募集。年齢十八歳以上二十五歳まで。宿舎、被服、食糧当方支給。』


 敗戦直後の昭和20年8月22日、この広告が新聞などに張り出される。「新日本女性に告ぐ!」などと勇ましいことを書いているが、これは単なる事務員の募集の求人広告ではない。


 この前日、近衛文麿国務相が「婦女子を性に飢えた占領軍兵士から守る」という狙いのもと「特殊慰安施設協会(RAA)」の設置を決めた。上の広告はこの施設で占領軍相手の売春をする女性を集めるものであった。大抵の女性は、はじめからこれがただの事務の仕事ではないことは気付いていたようだが、中にはやはり単なる事務の仕事だと思って応募してくるものや、慰安とは「歌でも歌えばいい」と思って応募してきた良家の子女もいたと言う。
 http://www.hit-press.jp/column/shakai/shakai26.html


 1945年8月18日、俗に言う終戦の日の三日後、内務省警保局長は進駐軍用に慰安施設を整備するように全国に無電を発した。9月4日には内務省保安課長も同様の命令を出している。内務省警保局というのは今日で言う警察庁のような物であり、全国の警察の元締めである。

「これを受けて各警察は慰安所の設置や慰安婦確保に奔走する。その模様を詳述しているのが『神奈川県警察史』だ。それによると空襲で焼けた花街に女性は残っておらず、警察が業者に公務乗車証明書を発給し、疎開先を回って勧誘させた。また、慰安所の布団や衣類、化粧品、消毒薬などの手配や運搬には、直接警察官が携わったという。」
とある。

 東京では警視総監坂信弥が指示して売春業者と飲食店経営者に「特殊慰安施設協会」を作らせ対応したという。この特殊慰安施設協会には、後に吉原などのソープランド経営者に連なる者達が沢山いたという。更に当時の大蔵省主計局長池田勇人(後の総理大臣)が日本勧業銀行に指示を出して資金を提供した。

「警察と大蔵省がバックの国策事業ゆえ、協会は堂々と新聞広告まで出して慰安婦を募っている。」

「進駐軍売春作戦の発案者とされる坂は、国務大臣近衛文麿から国体護持のために婦女子対策をと指示され、慰安所設置を決めたと生前語っている」
のである。占領下では米兵による強姦事件なども多かったために、反米感情が爆発して折角天皇制を存続させることに成功したのにそれが元の木阿弥となることを未然に防ぐためである。花街の女性を強姦に対する防波堤とした訳だ。

 で、特殊慰安施設協会に参加した売春業者達が戦時中に何をしていたかというと、当然の話であるが大日本帝国陸海軍の将兵相手に商売をしていた訳である。つまり従軍慰安婦=戦時性奴隷の手配に手を染めていたものも多数いた。

米軍相手に政府機関が売春婦を斡旋するという政策を取った背景には、日本軍将兵の間に強姦事件によって性病が蔓延したり占領地での人心掌握に支障が出ないように配慮した経験が生かされていた。

実際には日本軍の士気やモラルは非常に劣悪で、強姦殺人は日常茶飯事であった。毎日のこの記事だけでは従軍慰安婦=戦時性奴隷に日本政府や軍部が関わっていたことに対する状況証拠でしかないが、軍人に女性をあてがうという発想が、当時の日本人の感覚として極々普通の物であったことが分かるだろう。 
http://rounin40.cocolog-nifty.com/attenborow/2007/08/post_cfe5.html


「江東区女性軍」強制連行……。
「本土決戦が叫ばれた昭和二十年(一九四五年)に、国土防衛軍である「江東区女性軍」の編成にくりこまれた女性青年団埼玉第一中隊の百三人は、終戦の日に帰してもらえなかった。

「耐えがたきを耐えて、全日本婦人の楯となるべき……」

 と、お上が手早くつくった「国際親善協会RAA」(占領軍慰安婦)のうち、都内の四カ所に強制連行され、やみくもに米軍との交接を強いられた。
 そのことは埼玉らず、広島の女子青年団、そして川崎のM軍軍需工場など、他地区にも多くみられた。
 当時−−天皇のために捧げてたてまつると、血の宣紙を捧げてあった娘たちは、

「血書を捧げた君たちの忠誠を、天はみそなわしたもうたものであろう。君たちでなければ、日本人の操を、進駐軍の手から守り通すことはできない」

 占領軍慰安婦の持ちかけがお上からだされたのは敗戦直後の八月二十一日、RAAの誕生とともに二十六日には慰安婦の徴募がなされ、二十八日はRAAが宮城前で誓詞をなし、同日は厚木進駐の米兵に横浜の小町園が開所した。
 RAA発表による占領軍慰安婦は、昭和二十年十一月まで二万人、最盛期七万、閉鎖時の昭和二十一年(一九四六年)三月二十七日、五万五千であり、閉鎖は性病兵が増えたという米軍側の主張によった。」


横須賀……。

「横須賀に上陸した兵は、バイラーと呼ばれる客引きに案内された。−略−
 街は建物のかげ、ボートの中、神社、学校、いたるところで性行為が見られた。
「外人が船に乗ってくるから、パンパンがよってくる。横須賀へ来た船の着くところをこわした方がいい」(『日本の売春問題』神崎清)」

子どもたちが目撃して、作文にしている……。
−−小泉はこんな環境で育ったのだろうか?

自己責任は小泉政権のスローガンでしたね。直接は関係ですが……。

「閉鎖までの慰安所料金は、ショートで百円、オールナイトで三百円であり、RAAは充分にもうかっていた。政府融資の国策事業なのに、慰安婦たちからは部屋代、食費、衣裳、雑品、化粧品などと、昔からの廓のしきたりをむしろ越えるほど取り上げ、揚句の果てに、病気や怪我も、慰安婦の自己払いであった。」


閣議より前に、業者たちを集めたという。
「前述の慰安婦指令は、閣議よりも四日も早く、広尾小学校の警視庁保安課より出されてたのだ。高橋保安課長と大竹風紀係長らが、さっそく業者を集めてかたりかけた。」


調布、三鷹……。
「RAAの仕事では、立石は黒人用慰安所とされた。
 調布の日本楽器の建物は「調布園」として、九月十日に慰安婦三十人で開店し、三鷹はキャバレー慰安所として、ニューキャッスルが開所した。」

「娘を売る光景」
「人売は昭和二十三、四、五年と、売春婦に売られたが一番多いとされている(労働省婦人少年局の調査による)。」

http://blog.goo.ne.jp/ryuzou42/e/0b9d55f0b563f7420ee0432b3a409d22


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三ミ| |:::|        /⌒ / ̄ ̄ | : ::::::::::|  
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   ノ .| |:::|  _/   /   /  |:. :.:.:.:.:.:.:|


確かに売春婦ですが一般の女性を米兵によるレイプから守るためでもありました。
進駐軍がモラルがあったから日本は幸せだったというのはGHQの報道管制のたまもの
白人は昔から現地の女性をレイプし生まれた混血児をその植民地の支配層にするという政策を取り続けていました
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1430857764


進駐軍犯罪史

 読売新聞の調べによる昭和32年の国内10大ニュースのトップはジラード事件。これはちゃんとした世論調査に基くものなので、当時の国民が最も関心を示したニュースが直接、反映されるものだ。ジラードとは進駐軍の兵士の名前である。ジラード事件とは進駐軍の兵士が村議夫人を射殺したという事件であった。
 
 進駐軍犯罪といえば大規模なものでは松本清張が「黒地の絵」で描いた、小倉の黒人兵大量脱走劇に伴う地域住民への大規模なレイプ、暴力沙汰がある。昭和25年7/11、およそ160人の黒人兵による祗園祭の日の犯罪事件は進駐軍によって厳重な報道規制が行われ、事件をうかがわせるような記事は当時の在京各紙にはまるで見えない。結局、この事件は7/15に進駐軍による鎮圧で市街戦となるまで続いた。この市街戦についても徹底した報道規制が行われた。
 
 昭和20年8/15から昭和27年4/28の平和条約発効までの間、日本はアメリカ進駐軍の支配下にあった。この間、都内での進駐軍犯罪被害の届出は318件、全国では2万5500件であったが、この数字は「氷山の一角」とされていた。なぜなら進駐軍犯罪被害の届出は非常に困難だったので、実際の犯罪被害は届出件数の数倍はあったのではないかと当時の人の生活感覚では感じられていたのである。
 
 進駐軍犯罪被害で役所に届出を出すと、まず加害者が本当に進駐軍という証明書を要求される。さらに市町村長の証明書、警察の証明書正副5通を要求され、少しでも不備があれば受理されない。これをようやく揃えて、やっと届出が受理される。その数字が全国で2万5500件であった。つまり届け出なかった、書類に不備がありつき返された、揉み消されたなどの犯罪被害の件数は2万5500件の中には入っていないのである。
 
 届出が受理されても、その審理は粗末なものだった。子供が酔っ払いのアメリカ兵のジープに轢殺された母は被害届をようやくCID(陸軍犯罪調査部)に受理されるも、何の連絡もなく放置され、呼び出されて「裁判でお前が負けた」と言い渡されて終わり。裁判があったのかなかったのか、あったとしたらどんな審理がされたのか何も伝えられないというシロモノだった。さらには仕事帰りにアメリカ兵にジープに拉致されて走行中に道に飛び降りて死んだ娘は「身元不明の売春婦」として処理され、家族が訴え出てもまともにとりあってもらえぬという酷さ。他にも道路を横断しているのが誰の目にも明らかなのに、アメリカ兵の運転するトラックがスピードを落さずにそのままその歩いて道を渡っている日本人をひき殺すという事もあった。あるいは突然、理由なくアメリカ兵に射殺されたり、道を歩いていて殴り殺されたり、強姦されたりなどの犯罪被害は総計3万4000件と言われたが、うち2万件は泣き寝入りしたとされている。
 
 終戦直後、進駐軍の到着に備えて政府は婦女子に警戒を呼びかけてはいた。「婦女子は淫らな服装をせぬこと、また人前で胸をあらはにしたりすることは禁物である。外國軍人が『ハロー』とか『ヘイ』とかあるいは片言まじりの日本語で呼びかけても、婦女子は相手にならず避くること」。
 
 しかしアメリカ兵によるレイプ事件は昭和20年8/30、占領部隊の日本上陸第1日目にすでに発生している。これはワシントンの米政府機関が保管していた当時の日本の内務省警保局「米兵の不法行為」に記載されており、8/30午後1時30分には神奈川の横須賀市旭町で車運転手の家にアメリカ兵2人が押し入り、留守番をしていた運転手の妻(36)と長女(17)をピストルを手にレイプした事件が起きている。このアメリカ兵2人は午前11時30分に件の家を下見しており、中に女性しかいないのを確認して犯行に及んだのだった。また同日午後6時には横須賀市の鎮守府正門にあったガラス商の家で、女中(34)が1人で留守番をしていたところをアメリカ兵2人にレイプされている。アメリカ兵は交互に見張りに立ってレイプしたという。
 
 アメリカ兵の上陸したところにレイプ事件あり。9/1にはアメリカ兵による日本人女性レイプは房総に飛び火した。千葉の安房郡の漁村の漁師の家に3人のアメリカ兵が押し入って、出征中に戦死した漁師の息子の妻(28)が留守番中に輪姦されたのをはじめ、同じ村では押し入ったアメリカ兵4人のうちの1人が別の漁師の妻(36)をレイプする事件が起きた。同日午後6時には横浜市中区でアメリカ兵2人と日本人2人に連れ出された女中(24)が野毛山自然園の中の米軍宿舎でアメリカ兵27人に輪姦される事件が起きている。この女中は翌日、意識不明となっているのを元の家へと送り返されている。
 
 アメリカ兵の理不尽な暴力の被害に遭ったのは女性ばかりではない。9/15午後10時30分には川崎市木月の国民酒場で、店主の田中(47)と長男(16)が酔ったアメリカ兵3人によって射殺される事件が起きている。特に深い理由もなくアメリカ兵に突然、射殺されて泣き寝入りという実例となる事件であるが、こうした事件はほとんどが表沙汰となる事はなかったのである。
 
 アメリカ兵による犯罪が公に報じられたのは、9/9に事もあろうに葉山の御用邸に乱入して略奪の限りを尽くしたというニュースが最後であった。9/10よりGHQの報道管制が始まったため、それ以降は進駐軍のレイプ、強盗、暴行殺人などの犯罪は全く報じられず、こうした犯罪に対しては日本警察も手が出せないという状態が続いた。政府は性の防波堤としてRAA(特殊慰安施設協会=進駐軍相手の売春公社)を設置したが、当の進駐軍から廃止にされて街頭には米兵相手のパンパン(売春婦)が溢れるようになった。こうしたパンパンは蔑視の対象にされたが、米兵の一般婦女子への際限ないレイプへ歯止めをかけた功績は大きい。
 
 このようにしてアメリカ兵による犯罪はどんな些細な事件でも新聞での報道は厳禁とされたので、総じて日本人のアメリカ進駐軍への感情は悪くはなっていない。占領中のアメリカ進駐軍犯罪には損害賠償法令がなかったため、日本独立後の昭和31年5/22、進駐軍被害者連盟が結成されて政府に補償とそれまで報道が控えられていたアメリカ兵の犯罪事実の公表へ向けて活動するなどとした。
 
 ジラード事件は昭和32年であるから進駐軍犯罪への報道はタブーではなくなっていたものの、日本の裁判管轄権が進駐軍には通用しないという構図が日本国民の前にさらされてこうした事が反米感情などに火をつける事となっていく。
 
 1/30の事であった。アメリカ軍の群馬県相馬ヶ原演習場はアメリカ軍が演習中には立ち入り禁止区域となっていて、それを破った者には刑事特別法による懲役1年以下、罰金2000円以下という罰則規定まであった。しかしこの相馬ヶ原は地元住民らが地べたに落ちている銃弾の薬莢を拾って生計の足しとするのが慣わしで、この日も相馬村議の妻、坂井なか(46)が仲間らと薬莢拾いのために相馬ヶ原に立ち入っていた。
 
 なかと一緒にいた男性(30)ら5人の証言によれば、なかは米兵に追われて逃げる最中に突然、撃たれてそのまま絶命した。この事件は当初、伏せられていたものの、2/2に5人の目撃者の中から社会党の茜ヶ久保重光衆院議員に相談を持ちかけた者があり、一気に政治問題化していく。一般の国民が事件の概要を知ったのは2/3の新聞報道によってであった。
 
 なかを撃った米兵は第1騎兵師団第8連隊第2大隊のウィリアム・S・ジラード特務三等兵(21)で、なかには2発銃弾を浴びせていた事も判明。1発目が外れて2発目を発射したというから、事故などではなく完全な確信犯である事は明らかであった。
 
 事件が表に出されて慌てたアメリカ進駐軍は2/4、熊谷の籠原キャンプの憲兵隊から群馬県警へジラードが事件を自供したと報告、その後、ジラードは地裁に告発されたものの、日米行政協定がネックとなってジラードは公務中なので裁判権はアメリカにあるというアメリカ軍の主張に押し切られそうになる。日本の反米感情の激化を恐れたアメリカが結局は裁判権不行使という裏技で、ようやく日本側の手でジラードは起訴された。これが5/18である。アメリカではジラードの日本への身柄引き渡しを認めないよう訴訟が起こされ、7/11にアメリカ最高裁によってようやく日本での裁判権が認定された。11/19に前橋地裁は傷害致死で懲役3年、執行猶予4年の判決を下し、控訴されずに12/6、ジラードはアメリカへ帰国して事件は日本国民に割り切れない感情を残したまま幕を下ろした。
 
 ジラードがなかを撃つ前にも別の弾拾いの住民に向けて発砲していた事や、なかと小野関英治に「パパサン大丈夫、ママサン大丈夫」と話しかけて近くの壕を指して「ママサン、タクサンネ」と言っていた事が明らかになったのは公判によってであった。ジラードは発砲時にはビクター・ニール・ニクル特務三等兵と一緒におり、最初は小野関に向けて空砲を発砲、続けて「ゲラルヒヤ」となかを誘い、逃げたところを背中から撃っていた。さらになかが倒れた後、ジラードはなかに近寄って触っており、なかを殺害した事は認識していたものと思われた。
 
 ジラードは7/5に日本人女性と結婚、帰国の際には同伴しており、味噌樽を土産にアメリカに持ち帰った。昭和33年4月にオタワのジラード邸を訪問した松田ふみ子によれば、ジラード邸はペンキが剥げ落ちて板は腐って2間きりの狭い家だったが、当時、日本では珍しいテレビ、電気冷蔵庫、ガスレンジが完備していた。ジラードは帰国後、工場で荷物運びをしていたが失業し、妻のハルは英語が下手なのでジラードと意思疎通が出来ず、さらに5ヶ月でわずか5ドル(1800円)しか貯金がたまらない事もあり日本に手紙も出せない状態だったという。
 
 相馬ヶ原は榛名山の南側に広がる原野で大正9年に陸軍の演習場となり、周辺住民の薬莢拾いはその頃から軍に黙認された「権利」であった。周辺住民の土地を一部強制収容して演習場にしたため、周辺住民の生計の足しのための薬莢拾いについて陸軍でもとやかく言えなかったのである。演習場は戦後はアメリカ進駐軍に接収されたが、旧日本陸軍時代と違って実弾射撃で農家の萱などに被害が出るようになり、戦前よりかえって周辺住民の生活は圧迫されてしまう。
 
 相馬村の上新田地区では地域住民全員が薬莢拾いを主な収入源としており、桃井村住民と合わせ3、400人が薬莢拾いを行っていた。1日に2、3貫(7.5キロから11キロ)を拾い、週に1度来る鉄くず屋に1貫(3.75キロ)を7、800円で売り、いい稼ぎとなっていた。月平均で1人あたま2万円の収入となったという。勢い、薬莢拾いにも熱が入り、演習の最中に演習場の中に立ち入ったり、演習場の中に穴を掘って潜み、演習中の砲弾の爆発を待つ者までいた。こんな事をすれば生命の危険にさらされるのは無理もなく、1月には砲弾の破片で薬莢拾いの住民に死者が出ている。アメリカ軍側では再三にわたって危険だからと地域住民の演習場立ち入り規制を日本側に求めていたが、地域住民は送検されても過去に起訴された事はなかった。
 
 薬莢拾いは相馬ヶ原だけの風習ではなく、演習場のある地域ではどこでも行われていた普通の事であった。静岡の御殿場にあるアメリカ軍の東富士演習場の狐塚でも昭和31年9/7午前7時30分に地元の農婦(31)が演習中のアメリカ兵に撃たれて重傷を負っている。農婦が立ち入り禁止区域にいた事から農婦側の過失として事件は処理されていたが、ジラード事件では被害者女性が死んでしまった事や社会党が政治問題化した事から一気に国民の反米感情に火をつける事となったのである。ところが相馬村ではジラード事件調査に訪れた社会党県議団には非協力的な姿勢で、今回の騒動で薬莢拾いの「特権」が奪われる事を村民らは恐れていた事も当時の報道には記されている。事件後も相馬ヶ原では地域住民ら100人が毎日、薬莢拾いを続けていた。
 
 ジラードがなぜ薬莢拾いの村議夫人を撃ったのかは、演習の最中に手袋をはめてまだ熱い薬莢を拾ったりする地元住民らの姿をジラードの所属する部隊の中でどのように感じてどういう話題にしていたかがわかれば、その理由のいくばくかが見えてきそうな気はする。禁止された区域に立ち入ってくるのだから非は向こうにあるという意識がジラードの中にはなかったか。或いは薬莢拾いの地元住民だって家に戻れば人並みの暮らしをする普通の人間であるというところまでジラードの意識が思い及ばなかったか。
 
 このジラード事件で日本の対米世論が硬化する最中の昭和32年8/2午後3時、茨城の那珂湊市前浜の県道で工員の北条清(24)が母親のはる(63)を自転車に乗せて走行中、突然、低空飛行の飛行機が2人に接触してはるは胴体を真っ二つにされ即死、清は重傷を負った。この飛行機の正体はアメリカ軍水戸補助飛行場から飛来したL22型連絡機で、2人は尾翼に引っかけられたのだった。
 
 目撃者の男性(35)の証言によれば、アメリカ軍機は機首を落として畑すれすれに飛んできてそこで曲がりかけた後、再び地面すれすれを超低空飛行、尾翼を芋畑でバウンドさせて上昇する最中に2人を引っかけたのだという。2人は阿字ヶ浦に向かう途中であった。
 
 このアメリカ軍機を操縦していたのはジョン・L・ゴードン中尉(27)、ほかに下士官も同乗していたとされる。現場に飛来する直前にこのアメリカ軍機は近くの海水浴場でも低空飛行をして海水浴客が驚くさまを楽しんでいるかのようだったというから、故意に危険な飛行をしていたのは明らかであった。しかしアメリカ軍側は異常気流で操縦不能になったための事故と主張、茨城県警ではこのアメリカ軍側の主張を斥けて8/8、ゴードンを書類送検としたが8/21には不起訴となっている。
 
 ゴードンはなぜ危険な低空飛行をしたのか?実は類似の事件は戦前にもあった。操縦士が無意味な低空飛行を地上に人がいる場所で試みて、飛行機に人を引っかけて死なせてしまう事件である。昭和2年10/21、東京の芝区愛宕小学校で運動会が行われている最中、下志津飛行学校生徒の操縦する飛行機が低空飛行をして校庭の小学生のうち3人が引っかけられて1人が死亡した。この件では操縦士は後に不時着を試みたなどと弁明している。ゴードンの例も、この飛行学校生徒の例も、自らの操縦の腕を得意がっていたのではないか。衆人環視の場所で低空飛行を繰り返して地上の人たちが騒いだり驚くのを面白がる、そういう心理から危険極まりない行為に及んだのではないか。
 
 ジラード事件、低空飛行殺傷のゴードンの事件の記憶さめやらぬ昭和33年9/7午後2時、西武線下りの飯能行き列車が埼玉の狭山市入間川ジョンソン基地内の武蔵藤沢−稲荷山公園間を走行中、1両目に銃弾が飛び込み、乗客の武蔵野音大絃楽科1年の宮村祥之(21)の背中に命中、午後3時に運ばれた基地内の病院で死亡した。列車を撃ったのはジョンソン基地憲兵隊臨時勤務のピーター・E・ロングブリー三等航空兵(19)で、「空射ちの練習をしていたところ実弾が入っているのを忘れて撃った」としたがすぐさまアメリカ軍に逮捕された。
 
 宮村は母子家庭で、母は郷里の熊本の荒尾で日雇人夫をしながら女手一つで宮村を育て、音楽家を夢見ていた息子を東京の大学へと進ませていた。宮村は昭和30年に上京、初めは東洋音楽短大に通っていた。事件の直前にはコントラバスのバイトが見つかり、母に仕送りをもう受けなくても大丈夫と連絡があったばかりであったという。
 
 アメリカ軍では当初、公務中の出来事で事故だとしたものの、いくら空射ちのつもりだったと主張しても列車に向けて発砲したのでは言い逃れのしようがなく、公務時間中の出来事ではあるが列車を撃ったのは公務とは到底認められないという見解を出した。早速埼玉県警はロングブリーを書類送検、昭和34年5/11に地裁で禁固10ヶ月の判決が出ている。
 
 アメリカ進駐軍がらみの事件ではこうして全国的な話題になった事件以外にも無数の犯罪が起きているが、それらは公にされる事は稀であった。昭和34年4月には青森の上北郡六ヶ所村で三沢基地の米軍機が訓練に際して爆弾を誤って落としていく事が頻繁となり、東京でも報道されている。六ヶ所村は米軍三沢基地の天ヶ森演習場と高瀬川を隔てた場所にあり、以前より米軍機が爆弾を誤って落としていたが、およそ3ヶ月に1発の割合だったので特に問題化していなかった。3ヶ月に1発のレベルでは報道すらされていなかったという事で当時はこの手の米軍の無法ぶりが基地の近くでは日常的だった事がわかる。
 
 しかし昭和33年9月より米軍ジェット機の練習用爆弾が昭和34年4月までに六ヶ所村に30発落下しており、うち10発は民家から2、30メートル以内の場所で爆発していた。米軍機の速度が向上して爆弾を標的に当てにくくなり誤爆しやすくなったらしい。昭和33年12月には125キロ爆弾が六ヶ所村倉内の農家の近くに落下し馬小屋に穴が開いて山火事となったほか、昭和34年3月下旬には農作業中の男性の3、4メートルの場所に爆弾が落ちて男性は気絶、さらに3/20、同じ男性の水田に爆弾が落下し爆発して5、6メートル四方の穴が開く出来事があった。米軍は模擬爆弾なので大丈夫だなどと説明していたが、死傷者が出ないのが不思議なほどであった。六ヶ所村では米軍機が爆弾を落とす標識を海上にするように陳情していた。
 
 昭和35年3/10午前10時、沖縄の伊江島の伊江村の米軍演習場の立ち入り禁止区域で弾拾いをしていた農業の島袋武盛(20)と大城敏一(19)が、米空軍ジェット機から機関砲で砲撃されて島袋は右足を銃創貫通、大城は右腕切断という重傷を負った。米軍演習場での弾拾いは沖縄に限らず内地でも付近の農民の「特権」として暗黙の了解事項になっており、伊江島ではそのための信号旗を持って農民は弾拾いをしていたが砲撃されたのだった。
 
 昭和36年11/20午後3時30分には茨城の那珂湊市釈迦町の旅館など民家8軒が、アメリカ軍水戸射撃場からの機関砲弾13発を浴びた。米軍機の誤射によるもので、旅館では窓ガラスが撃ちぬかれて座布団に直径20センチ、長さ75センチの砲弾が突き刺さっていた。ほかにも家の中や庭先などに被弾しており、旅館の女将は寝ていたら音がして、座布団や畳から煙が出ていたという。過去にも被弾事件は200件起きていた。
 
 昭和37年5/5午前3時30分、神奈川の横須賀市汐入町巡査派出所に私服の米兵5人が酔って市民を暴行していると通報があり巡査2人が駆けつけたが、うち遠藤寛巡査(37)が米兵1人に蹴られ倒れそうになったので警棒で押し返したところ、警棒を奪われたのでピストルで威嚇しながら交番へと連れて行こうとした。しかし50メートルの途中で遠藤巡査は5人の米兵に組み伏せられ、奪われたピストルで頭と右腕を撃ち抜かれて死亡、犯人の米兵はそのまま逃走した。午後7時30分、在日米海軍は20歳4人、19歳1人の二等水兵が遠藤巡査殺害の際の5人であったと発表、いずれも横須賀港に入港していたLST(戦車揚陸艦)トモグリー号の乗員で、裁判は日本で行われるとされた。
 
 昭和39年7/20午前1時30分には静岡の御殿場市中畑の米海兵隊キャンプ・フジで近所の農家の妹、勝又(45)が立ち番中の米兵に小銃で下腹部を撃たれ死亡する事件があった。この女性は酔っており、うずくまっていて米兵の日本語、英語の呼びかけに答えなかった。3回呼んでも返事がない時は撃ってもいいという管理規則だった。この女性は独身で知恵遅れ、酔うと放浪癖があったという。アメリカ軍は撃った兵士は不明であるとし、また公務中なので裁判管轄権はアメリカにあるとした。この事件については報道はなされたものの、ジラード事件と違って社会問題化せず、実際に事件自体について知らない人がほとんどである。
 
 昭和47年9/20午後には沖縄の米海兵隊基地キャンプハンセンで、米海兵隊第4師団第3大隊のジェームス・S・ベンジャミン上等兵(25)の部屋で靴を磨いていた基地従業員の栄野川盛勇(37)にベンジャミンが10ドル紙幣が消えたと難癖を付けて口論となり、ベンジャミンがライフル銃で栄野川を射殺した事件があった。9/21に警察庁がベンジャミンは公務中ではないと見解を出してアメリカ軍に犯人引き渡しを要求したが、アメリカ軍は公務中として応じなかった。9/22、インガソル米駐日大使は1次裁判権は日本にあるとし、在沖縄米海兵隊基地司令部もベンジャミンは公務中ではなかったと認め、9/23午後11時50分、沖縄県警はベンジャミンを書類送検した。10/3、ようやくベンジャミンの身柄は日本に渡されて殺人罪での起訴となった。しかしその後、ベンジャミンには心神喪失で無罪の判決が出ている。

http://www.geocities.jp/showahistory/history04/32c.html


占領時、米軍も「慰安婦」調達を許可 

【ワシントン=古森義久】終戦直後の日本国内で占領米軍の許可により売春施設が多数、開かれ、日本人「慰安婦」数万人が米軍に性の奉仕をして、その中には強制された女性もいたことが米側にいまになって伝えられ、米議会下院に慰安婦問題で日本を糾弾する決議案を出したマイク・ホンダ議員は4日、議会調査局に調査を依頼した。しかし同議員は戦争中の日本の慰安婦は旧日本軍が政策として一様に拘束し、強制した女性ばかりだった点が米軍用慰安婦とは異なると述べた。

 AP通信の4日の報道によると、終戦直後の1945年9月、日本当局が占領米軍からの許可で東京都内などに多数の米軍用の売春施設を開き、合計数万人の日本人「慰安婦」が雇用、あるいは徴用されたことを証する日本側書類が明るみに出て、ホンダ議員は米軍用慰安婦に関して米軍自体がどんな役割を果たしたかなどの調査を議会調査局に依頼したという。

 AP通信は4月26日、東京発で米占領軍が進駐直後、日本の政府や旧軍当局に売春婦の調達や売春施設の開設を許可した一連の日本語書類が発見されたと報じ、その内容として(1)1945年8月末から9月にかけ、米軍の命令を受けて日本政府の内務省などが東京はじめ茨城県などの地方自治体に「慰安婦」集めを指示し、合計7万人以上の女性が売春に従事した(2)米軍当局はそれら女性の一部は強制徴用されたという報告があることを知りながら、慰安所開設を認め、連日連夜、米軍将兵が詰めかけることを許した−と報道した。同報道はこの米軍慰安所にかかわって当時の日本側関係者数人を実名で紹介し、その談話をも引用した。しかしこれら日本の米軍用慰安所は連合軍最高司令官のマッカーサー元帥の命令で1946年3月末には閉鎖されたという。

 日本側でも終戦直後に米軍から売春施設開設を許可されたことについては旧日本軍が米軍進駐受け入れの準備組織として結成した「有末機関」のメンバーたちの証言が残っている。
(19/05/06 03:21)
http://tamezou.at.webry.info/200705/article_1.html


1945年9月28日、進駐軍は都衛生課に慰安施設の開設を要求した
『占領秘録』 中公文庫 住本利男著

坂信弥氏の話

それから婦女子の問題は内閣でも非常に心配した。私は内閣に呼ばれ近衛公から

『日本の娘を守ってくれ、この問題は一部長に任せず君が先になってやるように』

と言われた。一般の婦女子を守るために防波堤を築くことも考えました。慰安施設を作り、そうしたところで働く女性を集める。こう言う矢面に立とうという人があったればこそ、あとの若い人たちが救われたのだと思う。

なにしろ、米軍が進駐したその晩に、早くも左官級の人々がジープを飛ばして東京にきた。そして丸の内警察署を警視庁と間違えてか、入ってきて、女を世話しろという。そういうものはないと答えると、あの辺に大勢いるではないかといって、日比谷辺りを歩いている女の人たちを指さした。あれは良家の子女だといって納得させるのに骨が折れたようだった。

良家の子女が間違われる心配は多かったのです。

とにかく警視庁で、この際国民のためになるならという人を集め、向島や大森などに設備をした。それからすぐに特殊慰安施設協会(RAA)というものが料亭SやYの主人達によって作られ、資金は三百万円を勧銀から借り出して経営したわけです。


ペニシリン 東京へ

都衛生課が一番はじめに受けた命令は、「女」の問題だった。

九月二十八日に総司令部に来い、というので、与謝野博士がでかけてゆくと、軍医総監のところへつれてゆかれた。総監は、大きな東京の地図を前にしていて、女の問題を持ち出したのだった。その時に公衆福祉局長のサムス准将(当時は大佐)に紹介され、それから同氏との交渉がはじまった。

赤坂は焼けてしまい、新橋は休業、柳橋はない、という有様で、都内の花柳界で残っていたのは五ヶ所きりだった。それに特飲街が十七ヶ所あったが、博士は先方の要求で進駐軍用としての割ふりをやった。

葭町は将校用とか、向島はなに、というふうに決めたのだが一番困ったのは黒人兵の割当てであった。与謝野博士は、業者からやみ打ちをうける覚悟で、五、六ヶ所を考えて相談した。初めは女たちも泣いて嫌がったようだが、黒人兵のほうからすれば、日本人は「白人」の部類に入る。だから女に対しては親切をきわめ、サーヴィスにつとめたものだった。それでニ、三日すると、黒人兵大歓迎ということになり、博士も心配していただけにホッとしたものである。
その時の命令は、

「都知事の責任において進駐軍の兵隊を性病にかからせてはならない。だから都の責任で検診を厳重にやるように・・・」

ということだった。週一回の検診では不足だという。「花柳病予防法」というものがあったが、それではやれないので、すぐに「性病予防規則」を作り、花柳界、特飲街、それから「特殊慰安施設協会」(RAA)などに検診や治療をやったのである。もっとも都側は、日本には治療するにも薬がない、完全に命令を履行するため薬をもらいたい、と申し出た。その結果、ダイヤジンやペニシリン、梅毒のマハルゾールの三種の薬品が大量に与えられたのであった。ただその代償として女から治療費などをとってはならぬ、無料でやれ、ということだった。

こうして、進駐軍用に、焼け残った都内の花柳界、特飲街が割りあてられてしまい、日本人用はたった一つ特飲街の千住があるだけだった。

引揚者や家族を疎開させた単身者が多かったので、風紀上何か問題が起きはしないかと心配されたのだが、事故も起こらなかった。ニ、三ヶ月後には千住だけでなく、ニ、三の場所もよいことになったが、こんどは、日本人の客があまり歓迎されない、という妙な現象が起こった。

翌年の四月ごろになると、進駐軍兵士で性病にかかるものが多くなってきた。これが理由で、総司令部は全部の花柳界を「立ち入り禁止」(オフ・リミット)にしてしまった。

病気のことも原因だが、花柳界のことが米国の新聞特派員によって本国に報道されたため、兵士の母親や家族では大問題となったからであった。我々の師弟が、そういういかがわしい特飲街に行っているのは怪しからん、という非難がサムス准将のところへ殺到したものだった。花柳病は実際はそんなに多くはなく、むしろ減っていたのだが、これを口実にして、サムス准将は政策の切りかえをやったのである。


「パンパン」の発生

占領下にできた新しい社会現象は「パンパン」であろう。軍隊の後には女が行進する、ということは歴史が語る事実である。進駐してから形もかわり、場所も移ったが、いつも軍隊の後を追っていた。
米国の軍人や軍属などが日本に落とす金は一億八千五百万ドルといわれるが、「パンパン」のかせぐドルは、その半ばに達するだろうという。

パンパンの発生は二十一年の夏頃であった。最初は立川、東京市内の日本劇場の周り、有楽町などで、数も五百人ぐらいだったが、そえがまたたく間に二千人、三千人になろうという有様だった。「パンパン・ガール」は健康診断を受けないから性病の罹患率が高くなってきた、と言うので、進駐軍の方が困ってしまった。

東京都が性病予防規則をつくった時、厚生省は、自治体だけでああいう規則をつくるのはけしからん、というので叱ったことがあった。しかし、都側は進駐軍から命ぜられたから仕方がない、という立場をとっていた。与謝野課長はハーグの陸戦法規に、「出先官憲は占領軍の命令を守らなければならない」と書いてあるのを見て、厚生省に説明し、そこで初めて厚生省は、花柳行予防特例によって、全国府県知事の責任で検診をやることにした。占領軍当局は、進駐軍を相手とするダンスホールのダンサー、ビャホールの従業員まで検診をやれ、といいだした。ダンサーも気の毒だったが、ビヤホールの従業婦などは、年少の人たちが多くて、ひどい飛ばっちりを受けたものだと、関係者は言っている。

特例の規定にしたがって、検診をしたものは、写真入のカードを持たせたが、これを思っていれば安全、というわけで、ヤミ屋がカードを売り出すような始末となった。そこで進駐軍はカード制はだめだといいだし、特例はすぐに廃止するわけにも行かないので、「申合せ」で発行を中止してしまった。

「パンパン」に対しては無検診だからというので進駐軍は一斉検挙を日本側に申し入れた。日比谷にあった憲兵司令官とか軍医関係のものがやればよかったのだが、東京には十一の憲兵分隊があり、分隊では下士官が命令し、警察官が協力して逮捕したものだから、場合によっては行きすぎもあった。とうのは何人捕まえたという報告を出さなくてはならなかったので、数をあげようとする傾向があった。

社会的な問題となったのは、東上線大山駅で、電車をとめて、乗っていた若い女たちを全部引っ張った事件だった。日本の警察官がついていたのだから、これはそうじゃない、といえばよかったのだし、またその意見もきけばよかったのだが、先方は日本の警察はヤミ取引があるのではないかと疑う。それで商売女でないことが判っていながら、みすみす吉原病院に送るというようなことがあった。病院のほうは、きたものは検査する義務を持っていたから、送られて来たものはすべて検査した。普通のお嬢さんがそうした目にあうことはしばしばだった。警視庁に、負けたとはいえ日本は法治国家ではないか、という抗議がいくたびかきた。


与謝野光氏の話

「我々のほうは進駐軍の命令にしたがった、国際公法によってやったのだとい理屈はある。しかし、これはやり方の問題で、やはり警官が弱かった。私は、なるべく前によく聞きただせ、といっておいたし、幾人かは帰しもしたけれど、ひどい目にあった人が相当あったと思う。米軍は自分の国の兵隊を守ることに急なため、日本の女性に迷惑をかけることになった。

進駐軍が性病を持ち込んだこともあったろう。しかし特に悪性のものもでなかった。むしろ米兵から、どこで遊んだら病気になったというような報告が多かったので、日本側は信用されず、米軍の軍医が直接検診に乗り出したこともある。

たとえば日本橋のどこで、目が黒いとか、背丈がどのくらいだが、というだけで名前も判らない。これを探すのは容易ではなかった。

 『パンパン狩り』は、狩り込みを先方がやってこちらが検診するというやり方だったが、後に、二十六年の九月からは、先方が検挙するのはやめて、日本側でやることになった。総司令部の公安課から、日本の法務府検務局長に対して、今後は日本でやること、ただし今までの成績を落とすようなことがあったら、責任者を即刻クビにする、という強い命令がでた。検務局長と警視庁、それに私が総司令部によばれて、依頼をうけた。しかしどうして検挙するかが問題だった。私のほうでやるには性病予防法の第十一条でやるほかない。

第十一条というのは、常習売淫の疑いあるものは、地方長官が検診の命令を出すことができる、というものでした。私は検務局長に対し、私のほうでやれといっても、第十一条は検診の命令で、検挙してもよいとは書いていないがいいのか、と聞いたものです。いいからやってくれ、というので警視庁は暴力で妨害するものを防ぐために『売春班』をつくった。ところで警察のほうは、検挙すると調書をとらなくてはならない。事務手続きが厄介で、そうしないと人権蹂躙になる。とにかく、今でも周一回、警視庁、私のほう、それから混成の三種類でやっていますが、私たちのほうはやめたいのです。

おかしなことに総司令部も二つに意見が分かれていた。公衆衛生局と憲兵司令官は病気をなくしたいといって我々に強く要求してくるが、法務局のアップルトン検務局長は、私をよびつけて、

『怪しからん、人権蹂躙ではないか。君は連れて行く権限は無い。第十一条は禁止命令で、lつれていく権限は書いていない。文化国家のやるべきことではない。また常習淫売というのは、一回だけではだめで、二回以上行わなければなりたたない。しかも現行犯だけをつかまえること、また検診命令も即刻出頭なんていう命令ではいけない。四十八時間のうちに出頭するように命じ、納得ずくでやれ』というのだが、四十八時間内に出頭しろといっても、来るものではないのです。

検務局長の意見に従っていても、たとえば立川基地などの現地の司令官は軍人なのだから、こちらのいうことなどはききはしません。週一回やらない限り、『立入禁止』(オフ・リミット)にするという。業者などは、これをやられると困るので、我々のほうになんとかやってくれ、といってくる。占領下では先方の命令でやられたのだが、独立したこれからは、法律的な根拠がなければやれないのであって、法の改正を厚生省などに要望してもなかなか実現しないのです。

性病が増えたように思う人が多いが、戦前に比べるとぐんと減っています。性病についての統計は今までは発表してはいけないというので公にされていないが、減少しています。東京だけをみても終戦当時に比べて四分の一位に減っている。これからもますます減ると思います。パンパンのよな野放しのものも減っているのです。初め彼女らの罹病率は60パーセントくらいだったが、今は10−15パーセントくらい。まして花柳界は減っている。いずれにしろ、占領行政のうちで、我々公衆衛生に関係した部門は一番めぐまれていたといえましょう。積極的に援助を受け、総司令部が先にたってやってくれたので、業績は大いにあがったのでした。」
http://urara225.iza.ne.jp/blog/entry/203155/


堕ちた大和撫子たち

 パンパンが街を闊歩する

 アメリカ軍が進駐して来て、大方の兵隊は市民には危害を加えないということが分かってくると、ようやく街も落ち着きを取り戻し、市民の表情にも安心感が現れ始めた。

 この頃、パンパンという言葉が流行った。パンパンというのは、進駐軍の兵士を相手にして、春を売る日本女性のことである。これには、オンリーというのがあって、兵隊の中でも上級階級専属で、このクラスになると住居も与えられ、いわゆるダンナから手当てをもらい、アメリカの、当時の一般の日本人がとても手にすることの出来ない衣食物を供与されて、贅沢な生活をしていた。

そうでない、不特定多数の下級の兵士を相手にするクラスの彼女らは、街角に立ってアメリカ兵の袖を引いていた。当時は、小倉には米軍の24師団が駐屯していたので、街にはアメリカ兵が多く、商売相手には事欠かなかったらしい。小倉の真ん中を流れる紫川にかかる常盤橋(当時)のたもとには、夜になると彼女たちがズラリと並んでいたものである。

 彼女たちの化粧や服装は、完全にアメリカナイズされていた。今なら普通と言えるかも知れないが、当時、人々は目をみはった。茶色に染めた髪、真赤な口紅、ピンクや紫などの手足の爪、肩をあらわにしたドレス、踵の高いカラフルなハイヒール、どれをとっても昨日まで、「撃ちてし止まむ」と化粧気もなく、耐乏生活に耐えていたモンペ姿の日本女性だとは思えなかった。

 人々は「大和撫子も堕ちたもんよ」と眉をひそめた。しかし、中には「あれらのおかげで、普通の家庭の娘が、アメ公(アメリカ兵の蔑称)どもに悪さをされなくて済んでるんだから」とそれなりの評価をする大人もいたが、ほとんどは陰で「パン助」と言って白い目でみていた。

 しかし、彼女たちは、そんな視線を尻目に、ハイヒールの音を響かせて、アメリカ兵の片腕にすがって街を闊歩した。それは夜だけでなかった。昼間も堂々としていた。敗戦という現実に心身ともに打ちひしがれた市民のなかにあって、彼女たちだけが生き生きとしていた。

 パンパンの語源は定かでないそうである。英語のpompom(これは性交という意味があるそうだが)が基になったという説もあるし、単純にペンペンという三味線の音、つまり芸者を意味しているというのもあったりする。しかし、広辞苑には原語不詳とあるが、「第二次大戦後の日本で、街娼、売春婦のことを指した」とある。

 私は、最初に彼女たちを目の当たりに見た時にはとても驚いた。それまで接してきた女性と言えば、母であり、姉、近所のおばさんたち、学校の教師などの通常の女性であったから、まるで異国人を見る思いがしたものである。しかし、それにはすぐに慣れた。彼女たちは、戦後の風俗となって、一時期世間に定着していた。

 確かに売春というのは、道徳的ではない。しかし、終戦を境に、彼女たちは自分の女体を武器にして、それまで鬼畜と喧伝されてきたアメリカの兵士といち早く関わり、その持てる金やモノを吸い取って、人々が一夜にして変わった混乱の中で、空腹を抱えて打ちひしがれている時に、図太く生きていた。大人たちは、彼女たちを口では軽蔑していながら、心のどこかで羨望していた。一見しただけで、その服装や持ち物が違っていた。物資の豊富なアメリカがそこにあったのである。

 常盤橋の両側には、靴磨きが多く並んで客待ちをしていた。中には、戦災孤児と言われた少年もいたが、戦闘帽を目深に被った白衣の傷痍軍人も多くいた。その中には義手を着けた人もいて、椅子に座って客が片方づつ履いたまま磨き台に載せる靴をかがみ込んで器用に磨いている。客のほとんどは、アメリカ兵や彼らと手を組んで歩くパンパンたちであった。日本の大人たちには、金を払って靴を磨かせる余裕などなかったということだ。

 あの白衣の傷痍軍人たちは、昨日まで誇り高き天皇陛下の軍隊として、日の丸の下で、聖戦完遂に命を賭けて鬼畜アメリカ兵と戦っていたに違いない。それが今日はその元敵兵の足元に膝を屈して靴磨きをせねばならないように、一夜にして世の中が変貌してしまった、ということだ。同時に私は、少年の幼い心情ではあったかも知れないが、そのアメリカ兵が磨き終わり、交替して椅子に座ったパンパンが、その元軍人の鼻先に足に履いたままの真っ赤なハイヒールを突き出して磨かせる光景に、何かしら義憤めいたものを覚えたものである。

 彼女は、普通では手に入らない洋モク(当時、憧憬を込めて外国のタバコをこう呼んだ)を、チュウインガムを噛みながら紅い唇に咥えてくゆらし、隣のアメリカ兵と何やら片言の英語を交わしながら、時にキャッ、キャッと甲高い笑い声を発している。その靴磨きは、下を向いたまま、黙々と彼女の靴を磨いている。私は、こんな光景に出くわす度に、なんだかこのような元軍人が可哀想で、同国人にいささかの遠慮もなく、思いやりを示さないそのパンパンが心から嫌いになった。
http://enjoynaming.cocolog-nifty.com/sudou34/2008/11/post-f3d2.html


パンパン狩り

性病が蔓延したため、強制検査のために街娼の狩込みを強化する警察やMP。有病者は強制入院させられる。池袋でもよく行われた西口闇市での取締りの光景。

RAA慰安所(米兵相手の慰安施設)や花柳街・特殊飲食街では GHQの要請で米兵を性病から保護するため 公娼や私娼に強制検診が行われていた 公娼制度廃止でRAAの慰安婦たちが何の補償もなく解雇されると 街娼(戦後自然発生)が急増 性病罹患数も増え
 強制検査のために「パンパン(米兵相手の街娼)狩り」が行われるようになる
http://com-support.co.jp/war_and_peace/after_johoku-daikusyu/index7.html


パンパンの狩り込みは、昭和二十一年(一九四六年)一月二十八日から東京ではじまった。GHQの要請でだが、占領軍の性病防止のためといえた。

京都は昭和二十三年の検挙者は二千四百二十二名であった。年齢は大正生まれが七十八名、昭和生まれがほとんどで、彼女のように十九歳から二十四歳ぐらいまでが百三十六名と一番多かった。(国家地方警察本部防犯課の資料による)


昭和21年、パンパンの一斉手入れ。こんな女に誰がした?

昭和21年の朝日新聞に、品川駅付近のホテルに出没する売春婦、いわゆるパンパンの一斉取り締りが報じられているそうです。

全部で300人が検挙されたが年齢は16歳から38歳までいた。けっこう若いじゃんと思われるかもしれません。暮らしに困って売春をなさる方の中には、恐ろしいほどの年配の方もいます。 専業は少なく、官庁や会社の事務職の者も混ざっていた。 参考資料によれば、「ダンサー、女給」など、売春業に手を染めやすい方々もおいでですが、「女工や会社の事務職、公務員」など、いわゆる堅気の女性もいたらしい。

300人のうち、性病にかかっていた者が60人いた。2割ほどの確率で病気をもらって帰るのでしょうか。当時、一番恐れられていたのは梅毒です。HIVと比べれば可愛い病気かもしれません。

「どうせ日本は負けたのだから、私たちが好きなことをするのは勝手だ」と取調べで煙草を吸う女もいた。
http://blog.q-q.jp/200702/article_17.html

9. 中川隆[-13743] koaQ7Jey 2018年12月18日 19:59:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

日本をアメリカの植民地にして貰った天皇一族


東京を囲むように米軍基地がある。

横須賀に海軍もある。
東京に敵は攻めて来るか?
なら、東京周辺は、何のために?

天皇家を守るために、又ク-デタ-を心配して駐屯しているのだそうだ。
天皇一族は軍人によるクーデターや革命を極度の恐れているので、日本軍を持たないで米軍に皇居の近くに駐留して天皇一族を守ってもらいたいのですね。


▲△▽▼

山崎行太郎ブログ『毒蛇山荘日記』
「昭和天皇とダレスと吉田茂」

戦後の「日米安保条約」は、どのような政治政策過程を経て決定したのか?昭和天皇と吉田茂は必ずしも同じではなかった。米軍基地の無条件延長を主張していたのは、米国側のダレスであり、日本側でそれを主張していたのは、吉田茂ではなく、昭和天皇であった。

吉田茂が、サンフランシスコ行きを逡巡していたのは、「安保条約調印式」に出たくなかったからだ。しかし、吉田茂の態度が一変する。昭和天皇との「謁見」である。昭和天皇は、吉田茂を呼びつけ、厳しく説教したと思われる。

「米軍基地無条件延長」と「沖縄切り捨て」を主張する昭和天皇の「リアリズム」を、今の時点でどう評価するか、なかなか、単純な問題ではない。大問題であろう。
http://yamazakikoutarou.hateblo.jp/

▲△▽▼

(通称)沖縄メッセージ

(昭和天皇がマッカーサー元帥に宛てた「米軍による長期沖縄占領継続を依頼するメッセージ」)
http://www.geocities.jp/warera_tikyujin/law_war/okinawa_message.html


 ■ (参考) (通称)沖縄メッセージ(昭和天皇のマッカーサー元帥に宛てた「米軍による沖縄占領状態を長期間継続させることを依頼するメッセージ」)


 1947年9月に、昭和天皇は米軍が沖縄や琉球列島のその他の島に米軍が占領状態を50年間より更にもっと長期間継続させることを希望する天皇の考えを示し、当時、天皇の御用掛であった寺崎英成が占領軍の政治顧問のシーボルトの事務所を訪れて考えを伝え、ワシントンのマッカーサー元帥にその内容を送ってもらうように依頼したものである。  その文章の記録が残されている。


 しかし、1946年11月には日本国憲法が公布され、既に象徴天皇が確定し、天皇は政治的な権力を行使できない立場になっていたのであるが、それにも拘わらず、政府を通さずに、個人の利益のために直接アメリカ側に政策要望を出していたことになる。


 ワシントンで公文章の公開となったものが沖縄県の公文書館にコピーとして保存されている。(注)  その内容は次のようなものである。

 筆者の意訳で概要説明する。
 1947年9月20付けのシーボルトからマッカーサー元帥宛の文章を、シーボルトがワシントンの国務長官宛に「将来の琉球列島に関する天皇の考え」と題して、1947年9月22日付けで至急の封書に同封して送っている。


 尚、この後に寺崎が10月3日にシーボルトに会った際に、シーボルトは、陸軍省の意見として、沖縄をアメリカが自由にするとし、国務省の意見は定まっていないことを伝えている内容が書かれている。 (「寺崎御用掛日記」(寺崎英成、マリコ・テラサキ・ミラー著)文藝春秋 )

(シーボルトがワシントンの国務長官に宛てた手紙の内容)
                                              1947年9月22日

標題:将来の琉球列島に関する天皇の考え


  国務長官宛

  拝啓

   私は、1947年9月20日付けのマッカーサー元帥に宛てた私の説明のコピーを同封致しております。そのコピーの内容は、
  天皇のアドバイザーである寺崎が、彼の要望で私のオフィスを訪れてきて、彼と話した内容の要旨を記録したものです。
   その内容は、日本の天皇は、沖縄や琉球列島のその他の島々へのアメリカ合衆国による軍事的占領を継続することを
  希望しており、その要望は、疑うべくもなく、天皇自身にとって大いに利することになることに基づくものであるという
  ことがわかるのである。天皇は、また、これらの島々の米軍による占領の継続が、長期間の賃借契約の方式によること
  を思い描いている。天皇の意見によると、それによって、日本国民は、きっと、アメリカ合衆国には下心がないと納得
  するようになり、アメリカ合衆国が軍事の目的のために占領することを喜んで受け容れることになるであろう。という
  ことである。
  
                                                     敬具


                                                W.J.シーボルト


(シーボルトがワシントンの国務長官に宛てた手紙に同封したメモ内容)
                                              1947年9月20日


  マッカーサー元帥宛のメモ

   天皇の顧問の寺崎英成が、将来の沖縄に関しての天皇の構想を私(シーボルト)に伝えるため訪れた。
   寺崎は、天皇が米国が沖縄や琉球列島の島に軍事占領を継続することを希望していると述べた。 
   天皇の考えは、そのような占領は、米国にとっても有益であり、日本にも防護をもたらすことになるだろうというもの。 
   天皇は、そのような行動は、広く日本国民に受け入れられると感じている。国民の間では、ロシアの脅威があり、また、
  占領が終わった後に、左翼や右翼のグループの台頭もあり、かれらが事変を起こしかねないし、それをロシアが日本の
  内政干渉のために利用する可能性もある。 
   天皇が更に考えるには、沖縄の占領(他の島の占領も必要かもしれない)が、日本の主権は残した状態で、25年や50年間、
  いや、更に長期間の賃借の形態に基づくものになるであろうということである。
   天皇は、このような占領政策によって、日本人にアメリカが琉球列島に関して恒久的な意図が無いように思わせるので
  あり、他の国、例えば、特にソ連や中国が同様な権利を要求することをそれによって止めさせることになるという。
   手続きに関して寺崎が思うには、沖縄や琉球列島内の他の島における軍事基地の権利獲得については、日本と連合国の
  講和条約の一部にする方法よりも、むしろ日米間の二国間の条約によるべきであるとする。
   寺崎が思うには、連合国との講和条約の一部にする場合は、かなり強制的な平和条約の様相になることが察しられ、将来、
  日本人のことを同情的に解するなど危機的になるだろうと。

                                                W.J.シーボルト






83. 中川隆[-7550] koaQ7Jey 2017年5月21日 22:42:00: b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

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《 昭和天皇とマッカーサーと日米安全保障条約 》
講和条約後の日米同盟という名の巧妙な占領政策の継続。日本全国基地化とアメリカの治外法権、米軍優先の軍事訓練と日本国民への人権侵害が現在も強硬に実施される日米の取極め。昭和天皇が天皇制の護持を目論んだ所産であると言えよう。アメリカの奴隷であり続ける日本の防衛・外務官僚、それを国民に押し付ける自民党政権。

原因となった日米戦争。連合国の勝利、敗戦後の日本における連合国による占領。アメリカを除く連合国は、日本の政治及び軍事の最高総覧者である昭和天皇を裁判において責任を問うべきであると主張。 その流れを、連合国占領軍の最高司令官であるダグラス・マッカーサー元帥及びワシントンは天皇制の存続を目論み、その絶対的な権力者である昭和天皇の戦争責任の訴追免除を取り計らい、日本の軍備の解体を行い、天皇制を維持するために象徴天皇を確定させる日本国憲法を早急に策定させた。

アメリカは、日本をソ連や中華の共産圏勢力の思想が太平洋の諸島への感化するのを防止するため、及び武力により太平洋の島々やアメリカへの攻撃を防御するための西太平洋の最前線の砦とし、極東からフィリピン、オーストラリアに至る軍事面の防衛ラインを構想していて、戦後の武器の機動性と破壊力を総合的に捉えて、日本全土にわたって機動的な米軍基地化が必要であるとした。

マッカーサーと連合国による占領体制から日米安全保障条約による米国単独の占領下へ移行させ、先に記述した日本全土の米軍基地化及び治外法権、自由な軍事活動と米軍の優先を確立させ、日本が米国に協力と服従することとの引き換えに、天皇の戦争責任の免責や講和条約締結後も内外からの天皇の排斥に繋がりかねない天皇が脅威と感じる勢力から昭和天皇及び天皇制を米軍が守ることを利用して、かけがえの無い日本を、日本が永続的に米国の奴隷となるように両者で協議し決定したものであることは疑いの無い事実であろう。 但し、日本国民には表面的には疑問を抱かせないように細心の注意を日米が策を講じることになる。

昭和天皇が己を守るために当時の天皇大権を行使して米国と協議するように吉田総理に命じたであろう。

昭和天皇と天皇制護持、戦争責任免除と引き換えに日本国の米軍基地化を日米安全保障条約本体とは別の取極めや覚書での調印であったのだろうと推測される。1951年9月及び1952年2月の調印など。

戦後すぐに、昭和天皇や側近とアメリカ側との間で、これらの対応や戦後の占領統治などに関して画策がなされたと推察される。

昭和天皇は、マッカーサー元帥に対し、日本の独立後に連合国が占領の駐留を解除して退去した後に、別途にアメリカとの二国間協定による米軍のほぼ無期限の日本駐留(日本占領の誤魔化し)を日本から申し出たことを米国が了承して日本全国に米軍基地を継続させて軍隊を駐留させる仕組みを構築し、外部からの共産勢力のみならず、周辺国に刺激された日本国民が目覚めて天皇制を排除する勢が勃興しないようにして昭和天皇を護持する保障を与えたのである。旧日米安保条約の内乱条項であることは想像に難くない。

旧日米安保条約や日米間の行政協定や種々の覚書、交換文章などによる取極めを初めとして、その後の新たな協定や条約への改定においても、米軍が必要な取極めは、表立って載せない事項としていつでも自由に定めて調印することができる。

この日米安保条約は、アメリカ政府が日本の内政に関与・影響を行使できる保障を与えたと言ってもよい。

戦後60年以上経過しており、東西ベルリンの壁も崩壊し、ソ連も崩壊している現在において、21世紀においてもアメリカは日本の巧妙に単独占領体制を継続させているのです。更に、一般的に政治に無関心な日本国民からアメリカを敵対視されないように狡猾に、巧妙に、アメリカの軍事体制に組み込まれた日本軍の人的兵力規模の拡大や武器装備の配備を増加することを求めてきているのです。

アメリカの言いなりに、日本の一般国民の人的・物的なアメリカ軍への協力体制について、既に法制化されている。 後は、憲法改正を行い、現日本国憲法の9条の戦争放棄を削除すること及び日本軍の保有を位置づければ、国連の集団的自衛権というものを行使することが実現可能となり、日米安保条約、周辺事態法、日米物品供与などの取極めによって、アメリカが周辺事態と判断すれば、日本は中南米や中東、アフリカなどの国々でのアメリカと共同で戦争を行うことを拒否できないことになる。日・米共同軍は、アメリカ合衆国の最高司令官の指揮統率下に入ることになる。

おめでとう日本国民の諸君。新日本国憲法がアメリカのために機能することになったから、これで、安全保障面、米軍に関わる周辺事態のときは、現在の米軍の基地以外に、日本のどこでも基地を設定できる根拠に基づき軍事活動の制限なき自由が保障されているのです。アメリカが非常事態だと宣言すれば、この場合には、民間の日本人でも、私有の物資や土地、建物、必要な機械・部品・装置などの軍による徴用や一般人の人的協力についても要求に絶対応じなければならないことが既に法的に定まっています。それに反対の人は、アラブの春の如く、実力で徹底抗戦するしかないでしょう。この場合には、日本軍が国民を弾圧する事態に発展することでしょう。独裁政治への変貌が完成した記念となる瞬間です。

日本は本当の民主主義の国家にはなっておらず、アメリカの圧力には逆らえないで逆に国民を無視し、且つ官僚利権を奪われることに対しては狡猾に術策を講じて利権を守り通し、国民はその官僚に支配される構造の社会から脱出できない。

そのうち日本は、一握りのアメリカに隷属し権力を行使できる立場の族が、軍事大国として積極的に平和目的と称して武力行使に及ぶ道に故意に日本を誘導し、天皇大権からアメリカ国大統領大権のもと、この国家の政策に逆らう国民思想はすべて取り締まれる法律を制定し、また憲法解釈とやらを悪用して、北朝鮮と同じ国民総動員をかけて強い日本を世界に訴える未来になるであろう。 国民が官僚・政府・日本軍の暴走を止めない限りは。

かつて、国連決議による承認を得ることが出来ずにアメリカがイラクを攻撃する戦争を、小泉元総理が日本国として根拠を調べずにアメリカの言いなりに応じて2003年3月20日に支持を表明した。また、その後イラクへの自衛隊派遣を断行しても誰も止めなかった事実からして、日本は第二次世界大戦の教訓を直ぐに忘れ去り、容易に過去の同じ過ちを繰り返し、集団的自衛権を行使した戦争に加担することがほぼ確実視される中で権力を有する政権・軍隊を誰が止めることができるであろうか?

日本国の天皇制や日米安全保障条約、政治制度などについて、日本国民は、それらを国民自身によって改革することが求められているのである。
http://www.geocities.jp/warera_tikyujin/emperor/japan_emperor.html


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April 29, 2017

天皇メッセージ発見者・進藤栄一氏に聞く 「苛烈な現実 今も」 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース

http://ift.tt/2oRPQmn

「天皇メッセージは、1947年9月に宮内庁御用掛の寺崎英成が米国側に伝えたものを米本国に送った報告電文で、昭和天皇がすすんで沖縄を米国に差し出すという内容だった。昭和天皇の侍従長を務めた入江相政の日記でも裏付けられた。昭和天皇実録でも確認されている」

―当時の背景は。

「まだ占領軍内で沖縄をどうするか意見が分かれていた。軍事化を進めて共産主義の対抗基地に使うというタカ派と、日本の民主化を進めることが平和構築につながるとするハト派が拮抗(きっこう)していた。そこへ天皇メッセージが出て来て、それを軸に占領軍内での沖縄の位置付けが反共拠点として要塞(ようさい)化すべきだというものへと明確化していった。それが天皇メッセージの歴史的意義だ」

「さらに翌48年2月に寺崎が2度目の天皇メッセージを届ける。その中で『南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、それに可能なら台湾を含め』て反共防衛線をつくるべきだと提言する。最も恐るべきは日本の共産主義化だと。これは戦前以来の発想だった」

―沖縄は日本から切り離され米施政権下を経て72年に日本に復帰した。だが米軍基地の集中は変わらず、基地の自由使用など“軍事占領”ともいえる実態は今も続いている。

「沖縄が日本に復帰した後も米軍基地は残り、逆に強化されている。これは天皇メッセージに始まる沖縄の苛烈な現実の帰結だ」
https://kuantan.me/2017/04/29/april-29-2017-at-0501am/



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天皇メッセージ


「天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」GHQシーボルト外交局長

「屈辱の日」と天皇メッセージ 沖縄切り捨て、差別の原点 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース

http://ift.tt/2pi9jiJ

ソ連侵攻の防衛線に 昭和天皇 48年、2度目のメッセージ

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効してから28日で65年となった。敗戦後、連合国軍の占領下にあった日本は条約発効で独立を果たしたが、沖縄や奄美は日本から切り離された。その原点は昭和天皇が米側に対し「25年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した天皇メッセージだ。

米政府側が終戦直後に日本の占領政策を策定するさなかの1947年9月、沖縄の米軍占領継続の希望を伝えた昭和天皇の沖縄メッセージに加えて、翌48年2月に2度目の“天皇メッセージ”といえる考えが天皇側から米軍側に伝えられていた。皇室と連合国軍総司令部(GHQ)との連絡係を務めた宮内府御用掛の寺崎英成氏が、ソ連の侵攻に備え「琉球」を含む日本列島からフィリピンを防衛前線とする考えを米側に伝達していた。

共産主義国家による侵攻を懸念し、反共の観点から「日本」を守るとりでとして沖縄の軍事基地化を提案し、さらに「日本」の防衛を米軍に委ねるという施策を積極的に展開していた「天皇外交」の姿が浮かび上がる。

寺崎氏は、GHQのウィリアム・シーボルト外交局長に対し「南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、そして可能ならば台湾を米国の最前線地域として選ぶ」のが現実的施策だとする考えを米側に伝えた。

寺崎氏の提案を受けシーボルト氏は、米本国への電文で「寺崎氏の個人的見解を示しているにとどまらず、天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」と説明し、天皇側の意向を反映したものだとの認識を示した。
https://kuantan.me/2017/04/30/april-30-2017-at-1210pm/

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「新天皇の最初の国賓がトランプ大統領」という報道の持つ意味
http://kenpo9.com/archives/4519
2018-12-05 天木直人のブログ ※文中、「省っ長天皇」を「象徴天皇」に修正


 きょうの各紙が一斉に報じた。

 皇太子さまが来年5月1日に新しい天皇に即位し、最初に迎える国賓がトランプ米大統領になる方向になったと。

 これはもちろん安倍政権が意図的に流した情報だ。

 そしてトランプ大統領を最初の国賓として招待する事は安倍首相が自ら決めた事だ。

 この事は何を意味するのか。

 その答えは、紹介した「日米安保体制史」(吉次公介著 岩波新書)の中にある。

 「日米安保体制史」の本の中に繰り返し出てくる驚きの史実は昭和天皇こそ日米安保体制を最も強く望んだ人だったということだ。

 私は、昭和天皇が吉田茂に対し、早く日米安保条約を締結せよと急がしたことを豊下楢彦氏の著書を通して知っていた。

 また、沖縄処分の事や、在日米軍の必要性をマッカーサーに訴え、逆にマッカーサーから憲法9条の重要を指摘されたという事も公開情報で知っていた。

 しかし、そのような昭和天皇の日米安保重視の発言は、他にもここまで多く存在していたのだ。

 その事を私は「日米安保体制史」で知って驚いた。

 平和憲法が出来た直後ならいざ知らず、それから何十年たっても、日米安保重視の政治的発言を昭和天皇は繰り返していたのだ。

 その天皇陛下を反面教師として今上天皇は憲法9条遵守の立場を貫かれた。

 そして来年の5月1日からは、文字どおり戦後世代の皇太子が即位される。

 その皇太子が真っ先に迎える国賓が米国の大統領なのである。

 賢明な読者ならもうお分かりだろう。

 文字通り戦後世代の新しい天皇を象徴天皇として戴く新しい時代の日本もまた、日米関係を最重要視する日本になるということだ。

 その事を、米国に伝え、みずからの国民に対してはそういう事だと思わせる。

 まさしくこれが安倍首相の、新天皇が迎える最初の国賓はトランプ米大統領でなくてはならないという、意思だ。

 それを知ってメディアが流したとすれば、メディアもまた日米安保最優先ということだ。

 それに気づかずに流したとすればメディア失格だ。

 どちらにしても、「新天皇の最初の国賓がトランプ大統領」という報道の持つ意味は深刻である(了)


トランプ氏、新天皇と来年5〜6月会見へ 外国首脳で初
https://digital.asahi.com/articles/ASLD37RPGLD3UTFK01Y.html
2018年12月4日03時00分 朝日新聞


 日米両政府は、来年6月末に大阪での開催を予定する主要20カ国・地域首脳会議(G20サミット)の前に、米国のトランプ大統領を国賓待遇として日本に招く方向で調整に入った。皇太子さまが来年5月1日に新しい天皇に即位するため、トランプ氏が最初に会見する外国首脳になる見通しだ。

 政権幹部が明らかにした。ブエノスアイレスでのG20サミットにあわせた先月30日の日米首脳会談で、トランプ氏は新しい天皇陛下との会見について「大変光栄に思う」と述べたという。会談冒頭でもトランプ氏は「日本に招待され天皇の素晴らしい行事を心待ちにしている」と語った。

 来日の時期は、皇太子さまが即位する5月1日から大阪でのG20がある6月28、29日までの間で調整。トランプ氏は新天皇と会見し、安倍晋三首相とも会談する方向だ。G20でも改めて来日することになり、米国大統領が短期間に連続して来日するのは極めて異例という。

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天皇メッセージ

「天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」GHQシーボルト外交局長

「屈辱の日」と天皇メッセージ 沖縄切り捨て、差別の原点 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース

http://ift.tt/2pi9jiJ

ソ連侵攻の防衛線に 昭和天皇 48年、2度目のメッセージ

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効してから28日で65年となった。敗戦後、連合国軍の占領下にあった日本は条約発効で独立を果たしたが、沖縄や奄美は日本から切り離された。その原点は昭和天皇が米側に対し「25年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した天皇メッセージだ。

米政府側が終戦直後に日本の占領政策を策定するさなかの1947年9月、沖縄の米軍占領継続の希望を伝えた昭和天皇の沖縄メッセージに加えて、翌48年2月に2度目の“天皇メッセージ”といえる考えが天皇側から米軍側に伝えられていた。皇室と連合国軍総司令部(GHQ)との連絡係を務めた宮内府御用掛の寺崎英成氏が、ソ連の侵攻に備え「琉球」を含む日本列島からフィリピンを防衛前線とする考えを米側に伝達していた。

共産主義国家による侵攻を懸念し、反共の観点から「日本」を守るとりでとして沖縄の軍事基地化を提案し、さらに「日本」の防衛を米軍に委ねるという施策を積極的に展開していた「天皇外交」の姿が浮かび上がる。

寺崎氏は、GHQのウィリアム・シーボルト外交局長に対し「南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、そして可能ならば台湾を米国の最前線地域として選ぶ」のが現実的施策だとする考えを米側に伝えた。

寺崎氏の提案を受けシーボルト氏は、米本国への電文で「寺崎氏の個人的見解を示しているにとどまらず、天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」と説明し、天皇側の意向を反映したものだとの認識を示した。
https://kuantan.me/2017/04/30/april-30-2017-at-1210pm/


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2017年11月16日
斎藤隆夫衆議院議員の反軍演説(全文) 斎藤隆夫「支那事変処理に関する質問演説」。二・二六事件日米開戦と天皇とイルミナティの戦争責任。
http://fanblogs.jp/kokochan/archive/55/0


昭和天皇に戦争責任はありますよね

2.26事件の時、天皇陛下が激怒して軍に鎮圧命令を出した事は
ただのお飾りではなく統帥権があったということではないか

それならば日米開戦の責任もある
し、敗戦の責任もあるな

来日中のトランプ米大統領が日本に向かう途中のハワイで3日、大統領のツイッターのアカウントで「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」と投稿した。1941年に旧日本軍の奇襲で始まった太平洋戦争で、米国が唱えた合言葉だ。

北朝鮮のミサイルがハワイに向くことを踏まえて76年前の「奇襲」を北朝鮮情勢に読み替え、注意喚起する意図があったとの見方もあるという。


特別編 『昭和天皇独白録』 にみる 日米開戦の責任者たち
http://www1.odn.ne.jp/~ceg94520/mumyouan/mumyouS05c.html

講義のポイント


アメリカが抹殺した理由は?

デビッド・バーガミニ(David Bergamini 1928〜1983)は、アメリカでベストセラーになった1971年の著書『天皇の陰謀』の日本語版序文(ただし1983年発行の新書版のみ)で、「私はこの著作のせいで文筆活動を絶たれることになった」と書いている。この序文は、非常に重要だが、誰も指摘していない。バーガミニを抹殺するために、200〜500万ドルの賄賂・監視料が使われた。日本政府から出た資金ではない。エドウィン・ライシャワー駐日大使(妻は松方正義の孫・松方ハル)を中心とする米国エリート勢力だった。また、アメリカの主だった学者は、揃ってバーガミニをインチキ扱いしている(日本研究の権威だったライシャワーの影響力によるものだろう)。

バーガミニ本人は、昭和天皇・裕仁の戦争責任を暴いたつもりだった。したがって、日本から非難を受けることは想定していたが、祖国アメリカから称賛はされても、まさか攻撃を受けるとは思っていなかった。その結果、バーガミニは、愛国心を喪失したと書いている。

どうして天皇のことを暴くと、アメリカ国内の勢力から攻撃を受けるのか? それは、裕仁がイルミナティの養成したロボットであり、ザビエル以来の日本破壊の計画を完成する重要な役割を担っていたからである。裕仁は「平和を愛したが軍部に押し切られた無力な天皇」でなければならなかった。

二・二六の決起趣意書の真意は理解されているのか?

川島義之(陸軍大将)が裕仁の前で読み上げた二・二六の決起趣意書(北一輝が手を入れたという)をバーガミニは「外政上の紛争から手を引き、内政改革と日本の伝統保持に傾けるよう天皇に求めたもの」と評価している。これは妥当な解釈である。農村は困窮していた。本庄侍従武官長、陸軍中枢部も決起将校たちに同調的だった。日本の書籍やマスコミで一般的に理解されているものとは乖離がある。

今でも、官僚、政治家、企業が悪いと言われているが、基本的にはそれと同じ趣旨で、庶民の観点に立っている。決起将校たちは、天皇が庶民の味方だという根本的な勘違いしていた。庶民の味方であるわけがない裕仁は、徹底鎮圧を指示した。木戸幸一(きど・こういち、1889〜1977年。長州藩の木戸孝允=桂小五郎が大叔父)も徹底鎮圧を勧めた。

396年計画 1549.8.15-1945.8.15

こうして一般民衆を敵視し、権力者に操縦されるだけの天皇ロボットの歴史は、ザビエル来日の昔にまで遡る。ザビエルは、1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日)に、現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。

日本を訪問したザビエルは、「日本人は危険な存在である、最後の一人まで抹殺しなければならない」とイエズス会の本部に報告した。鎖国を経て、ペリーがやってきて、孝明天皇が暗殺されて以来、日本は麻痺状態。それ以降の天皇・日本政府はイルミナティの檻の中の実験動物のようなもの。

イルミナティは薩摩藩、長州藩に浸透した。西郷隆盛はイルミナティの傀儡になることを拒否したため、西南戦争で抹殺された。孝明天皇の暗殺、明治天皇のすり替えを経て、大正天皇の頃には、イルミナティの宮中浸透は完成していた。大正天皇も昭和天皇も、そうした環境で育ち、日本をイギリスやアメリカのような国家にすることを夢見ていた。

明治天皇は薩長の傀儡だった。間接的にはイルミナティの傀儡とも言えるが、それでも、少年時代は日本人として育っていたため、簡単には染まらなかった。西郷を殺すことにも本心では反対していた。それで死後に西郷の名誉回復もしている。日清戦争にも反対していたが、明治天皇の意志に反して、行われた。だから、明治天皇を単なるイルミナティの傀儡、国賊と言うべきではない。

大正天皇の不発クーデタ。大正天皇は精神を病んでいたといわれるが、西園寺は自分が仕えた4代(孝明〜昭和)の中で最も知性に優れていたと語っている。大正天皇はナポレオン、アレクサンダー大王を理想として日本を改造したかった。議会は廃止して天皇独裁にしたいと思っていた。日露戦争で莫大な外債を抱えていた。議会が予算を承認しないと困る。陸軍・海軍を増強して「帝国」にしたいのに障害になる。その天皇の考えに山県有朋は衝突した。

裕仁は大正天皇が不発に終わったクーデタを実行しようとした。立花隆の『天皇と東大』によると、上杉憲法学は議会の撲滅を主張していた。議会を大政翼賛会とし、日本を破壊するための軍国主義体制を整えるように「宮中」から指示をしていたのが裕仁である。日本を戦争に導くため、戦争反対派(皇道派)を一掃する「きっかけ」として利用されたのが二・二六事件だった。

イルミナティが日本を完全に抹殺するためには、自滅の軍事力を築く必要があった。そうしてイルミナティの軍隊で占領する必要があった。遠くイギリスから軍隊を派遣することはできない。ではどうやって抹殺したのか? エージェントを養成し、西洋のような国を目指すように仕向け、大きな軍隊を作り、戦争を起こさせて、自滅させるのだ。良識ある官僚、政治家、軍人ならば、そんなことは反対する。英米、中国、ソ連と世界のすべてを敵にするような戦争をするわけがない。その反対を押し切るためのエージェントが天皇だった。英米の言いなりになるアホをトップに据える必要があった。その仕掛けが、絶対的天皇主義。それが完成したのが二・二六の後。二・二六事件までは陸軍の圧倒的多数は中国大陸での戦争に反対していた。中国に100万の軍隊を展開しながら、太平洋でアメリカと戦うのは、自滅の戦争であることが子供でもわかる状態だった。だが、それに反対するのは、天皇が許さない。そういった仕組みが二・二六で完成した。

中国への戦争に反対していた真崎大将を二・二六事件の「黒幕」だとして刑務所に閉じ込めている間に、統制派は中国との戦争に火をつけた(1937年の盧溝橋事件)。こうして最後にイルミナティの日本滅亡計画(敗戦革命)を完了させるため、アメリカを相手に戦わせたのが「太平洋戦争(Pacific War=平和の戦争)」である。近年になって公開された米国政府文書により、アメリカがわざと真珠湾攻撃に日本を誘い出したことは明かになっている。開戦時、日本側では、内大臣の木戸幸一が中国からの撤兵反対、米国との対戦を主張して、米国の謀略に合わせていた。たが、木戸というより裕仁だ。近衛はその逆だった。終戦の半年前の昭和19年2月には「近衛上奏文」(「一億玉砕」はレーニンの「敗戦革命論」のための詞)で戦争に導いてきた軍人たち(共産主義に染まっていた)の一掃を勧めているが、裕仁はこれを無視し、特攻隊、本土空襲、原爆投下をまねいている。

太平洋戦争は、1941年12月8日(カトリックでは聖母の無原罪の御宿りの祭日)の真珠湾攻撃に始まり、1945年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日。ザビエルの上陸記念日)の「終戦の詔勅(玉音放送)」で終わった。

裕仁の売国奴ぶりは終戦後も続く。吉田茂は、日米講和条約が成立すれば米軍は撤退するものだと思っていた。ところが、吉田茂の知らないところで昭和天皇が裏取引し、ダレス(ロックフェラー財団の有力者)と秘密交渉、米軍が無期限に日本に駐留することにさせた。沖縄は半永久的に米国の領土として認めるといったことをダレスに言っている。

「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」

皇道派の支持者だった山口富永(ひさなが)さんが昭和19年に陸軍に入隊するとき、真崎大将を訪ねて聞いた。「いま日本に天皇陛下はおられるのでしょうか?」 それに真崎大将は「226の将校もそれを嘆いて死んでいった」と答えている。その真崎大将も、宮中(裕仁)に抵抗することはできなかった。真崎大将の死後、その長男が裕仁の通訳を30年も務めた。この天皇の呪縛を超えない限り、日本人に未来はない。


以下は、この講義の全編の文字起こしである。

70年以上に亘って日本国民に対して絶対的に隠蔽され続けてきた
2・26事件の真相、全面開示

太田龍

(週刊日本新聞)

2008年1月25日 日本義塾公開講義

バーガミニ『天皇の陰謀』の「新版への序文」に埋もれていた衝撃の事実

バーガミニの『天皇の陰謀』、最初の上下2巻の版じゃなくて、1983年に出た新書版・全7巻の第一巻の巻頭にバーガミニが「新版への序文」というのを書いている。このバーガミニの新版への序文は、私の判断では大変重要なんですけど、私の知る限りバーガミニの新版への序文を読んでその重要性に気がついて、ちゃんとコメントする、意見を発表するというか、注意を喚起するというか、そういう事をした人を私は誰も知りません。多分誰もやってないんじゃないですか。すごく重要ですよ。


バーガミニの全二巻本も今はとても手に入りにくい。新書版は更に手に入りにくい。この新書版は、私がよく読んだらかなり無断で削除してます、全二巻本からね。あんまり良い本でもない、熱心に読まれないかもしれないけども、バーガミニの「新版への序文」は新書版しか載ってないです。ほとんどまともに読まれてないんじゃないかと思う。それでコピーして差し上げたんです。

今日は「二・二六事件の真相の全体開示」ということをお話しします。ここにバーガミニの後編の32頁のコピーがあるでしょう。二・二六の青年将校達の決起趣意書がそのまま載せてあります。この決起趣意書というのは、バーガミニの本に説明してありますけど、青年将校の主な人達が自分で文章を作成したんでしょう。それを北一輝のところへ持っていったら、北一輝が文章に手を入れて、メリハリの効く語呂にしたと書いてあります。決起趣意書をお読みになったことありますか?

川島陸軍大臣が昭和天皇に謁見して天皇の前で決起趣意書を、青年将校はこういう趣旨で決起したようですと読み上げるわけですよ。読み上げたら裕仁がどう考えたかという事をバーガミニが書いています。

私が決起趣意書を読み上げてみます。これはすごく難しい字を使っていて、今の日本人にはサラサラなんて読めなくなっていると思うんです。私も一か所読めない字があります。辞典を引いて来ればよかったんですけど一か所は読めない字があります。意味はわかりますけれど。読んでみますね。

謹んで惟(おもんみ)るに我が神洲たるゆえんは、万世一系たる天皇陛下御統帥の下に、挙国一体生々化育(せいせいかいく)を遂げ、ついに八紘一宇を完うするの国体に存す。この国体の尊厳秀絶は、天祖肇国神武建国より明治維新を経てますます体制を整へ、今やまさに万方に向って開顕進展を遂ぐべきの秋なり。

しかるに頃來、遂に不逞凶悪の徒、簇出(そうしゅつ)して、私心我慾を恣(ほしいまま)にし、至尊絶対の尊厳を藐視(びょうし)し僭上(せんじょう)これ働き、万民の生々化育を阻害して塗炭の疾苦を呻吟(しんぎん)せしめ、したがって外侮外患(がいぶがいかん)、日を追うて激化す。

いわゆる元老、重臣、軍閥、財閥、官僚、政党等は、この国体破壞の元凶なり、ロンドン軍縮条約ならびに教育総監更迭における統帥権干犯、至尊兵馬大権の僭竊(せんせつ)を図りたる三月事件あるいは学匪、共匪、大逆教団等の、利害あい結んで陰謀至らざるなき等は最も著しき事例にて、その滔天(とうてん)の罪悪は流血憤怒、真に譬(たと)えがたきところなり。中岡、佐郷屋、血盟団の先駆捨身、五・一五事件の噴騰、相沢中佐の閃発となる、まことに故なきにあらず。しかも幾度か頸血を濺ぎ来たって今なお、いささかも懺悔反省なく、しかも依然として私権自欲におって・・・苟且(こうしょ)(これが分かんないんですねぇ、苟も且つっていうんですね)偸安(とうあん)を事とせり。露支英米との間、一触即発して祖宗遺垂のこの神洲を一擲(いってき)破滅に堕せしむるは火を睹(み)るよりも明かなり。

内外真に重大危急、今にして国体破壊の不義不臣を誅戮(ちゅうりく)し、稜威をさえぎり、御維新を阻止し来れる奸賊を芟除(さんじょ)するに非ずして皇謨(こうぼ)を一空せん。あたかも第一師団出動の大命煥発せられ、年来御維新翼贊を誓ひ殉死捨身の奉公を期し来りし帝都衞戍(えいじゅ)の我等同志は、まさに万里征途に上らんとしてしかも顧みて内の亡状に憂心転々禁ずる能はず。

君側の奸臣、軍賊を斬所(ざんじょ)して、彼の中枢を粉碎するは、我等の任として能く爲すべし。臣子たり股肱たるの絶対道を、今にして尽くさずんば、破滅沈淪を飜すに由なし。ここに同憂同志機を一にして蹶起し、奸賊を誅滅して大義を正し、国体の擁護開顕に肝腦をつくし、もって神洲赤子の微衷を献ぜんとす。皇祖皇宗の神霊、ねがわくば照覧冥助を垂れたまわんことを。

昭和十一年二月二十六日

っていうんですね。ここにバーガミニが説明してます。裕仁は黙ったままその趣意書に耳を傾けた、その激烈な言葉と軍人精神の勇敢な見せかけの背後に裕仁は彼の好戦的な全政策への完全な否認を読み取ることができた。ベールをかけた腹話的な言い方で反乱者たちは裕仁に請うてこれ以上の外征上の紛争の危険から手を引き、彼の勢力を内政改革と日本の伝統的な大和魂の保持に傾けるように求めていた、という風にバーガミニは説明しているんです。

バーガミニは、二・二六の決起趣意書と、それを裕仁が聞いてどう考えたかという事について、このように説明しているんですけど、こういう説明は、今まで日本人は全く聞いたことはないですよ。バーガミニの評価、説明は大変妥当な、非常に当たり前の説明だと私は思うんですね。

しかし、裕仁はそういう風に考えたけど、川島陸軍大臣、本庄侍従武官長、その他陸軍の中枢将官のほとんどは、こういう青年将校の決起に完全に同調、共鳴というか同情というか支持というか、そういう風な気分だったわけですね。そのことをバーガミニは事実に即してちゃんと説明しています。しかし、日本で今まで出版されている、公表されている、あるいはテレビ、その他等で言われている説明とは甚だしくギャップがあるわけですよ。それで、問題がどこにあるかをまず明確に設定しないとダメですよ。

これはバーガミニの英語の巻の上巻です。上巻と下巻があって、全一巻本というのもあります。日本の翻訳は1973年に出た、いいだもも訳の上下二巻、約1100頁少しなりますかね。バーガミニの本は、日本語で出たものとしてはもちろん、その前の英語で出たものとしても、明治以降の日本の歴史、とりわけ大正天皇以降、大正11年に裕仁が摂政になって以降、昭和天皇が日本の国家の中枢を握ったわけです。その昭和天皇の歴史の真相について、バーガミニの本が初めてそれを明らかに光を当てたんですよ。

この本がアメリカで出たら、凄い大ベストセラーになって色々な人が非常に高く評価した書評を書いたりしてるんです。ところが! これはよく熟読してくださいね。短い文章でしょう。83年の新版、新版というのは日本語の新書版が出るのでその序文を寄せたわけです。驚くべきことが書いてあります。

「天皇の陰謀が物書きとしての私の経歴をお終いにしてしまった」と言ってるんですよ。

これはビックリしませんか? 非常に私はビックリしましたよ、それを初めて知って。

この本が出た1971年以来、大ベストセラーになったんです。良く調べると、なんとこのバーガミニという人はアメリカの大学を出た後、ローズ奨学生になってオックスフォードに入学してます。ローズ奨学生のオックスフォード卒業生ですよ。これは欧米ではとてつもないエリートです。インサイダーの候補です。そういう人が、自分は日本に非常に縁が深いので昭和天皇の歴史を中心とした日本史を書いてみようという訳で、アメリカの有力な権力層から日本の多くのインサイダーへの紹介状を貰って、インタビューしたりして、本もたくさん買って、京都に住んで、京都の学生・卒業生とかを助手にして、非常に詳しい調査をして、日本のインサイダー、元将軍、元なんとかという人たちのインタビューをしたりして書いた本ですよ。これは凄い本だということで前途洋々かと思うと、とんでもない。この本を出したおかげで、自分の物書きとしての経歴がおしまいになったって言ってるんです。

内輪に見積もっても200万〜500万ドル。今のドルではなくて1970年代だからもう少し価値があったんじゃないでしょうか。200万〜500万ドルが、私を押さえつけておく賄賂ないしは監視料として使われたって言うんですよ。奇妙奇天烈な話じゃないですか? いかなる手段によるにせよ、その勘定、つまりお金は日本政府からは出ていないって言うんです。じゃあ誰がそのお金を出したんですか?

「とりわけエドウィン・O・ライシャワーが、私を押しつぶす大きな蝿叩きを作るために手を貸した」って言うんですよ。ライシャワーは、気の赴くままに合衆国の大学に与える贈り物を持っていたし、日本での訓練期間中に彼に借りを作ったCIAの手の者達の中核の献身を受けていたって言うんです。つまり、ライシャワーを中心とする、アメリカのまさしく権力エリートが、バーガーミニを著述家として葬り去るために全力を尽くしたわけです。賄賂ないし監視料というのは、バーガーミニの著述家としての活動の全てに渡って完全に抹殺するように米国の権力が総力を挙げて襲いかかったんですよ。奇妙奇天烈な話じゃあないですか?

本を5冊書いたけどね、出版社に持って行くと、すかさずその出版社に手がまわって、その賄賂ってわけで、これだけ金をやるからバーガーミニの本は出すな、どうのこうのって訳ですよ。アメリカの日本問題専門家は全部ライシャワーの息がかかってますからね。ライシャワーが命令して「あいつはもう一切相手にするな」って言うわけです。

そんな風にして、彼はあっという間に物書きから転落していくわけですよ。そうしてね、いまの私はマイクロコンピューターを売ったり、コンピューターのプログラムを作ったりすることで身を立てておりますって言うことになっちゃった。そして、彼は「私の愛国心は幻滅に帰した」、つまり、アメリカは自分の祖国と思っていたがとんでもない、自分が1冊の本を書いたが為に、アメリカという国家は自分に襲いかかって、自分を叩き潰そうと、もう叩き潰してしまった。愛国心ってのものは無くなったと、そう言ってますよ。

これは実に驚くべき序文ですよ。バーガーミニの本は、日本の天皇を中心とする体制にとっては、絶対あってはならない本だと考えるのは当然ですよ。ところが、日本ではなく、アメリカの国家権力そのものが、バーガーミニに襲いかかった。それはこの本が、米国つまりイルミナティにとって虎の尾を踏んだ、絶対隠蔽すべきタブー、隠蔽すべき秘密を、バーガーミニが白日の下にさらけ出してしまう。そういう悪い事をした、犯罪を犯したという評価ではないかと。従って、そういう扱いを彼は受けるわけですよ。

いいだももさんが翻訳者ですけど、いいだももさんがね、このバーガーミニの新版の序文を高く評価して、何かコメントしたかどうか、私は調べてないけど、少なくとも私は知りませんよ。

それで、アイリス・チャンという人が、すごく悪名をつけられてしまったTHE RAPE OF NANKING という本、アメリカで出たら日本の天皇教狂信者達が一斉に襲いかかって、あれはとてつもない出鱈目だインチキだ悪書だって言ってすごく悪評が充満して、一般の日本人はそういう悪評だけ耳に入っていて、本物の本は全く知らないっていうことが続いて、最近10年後に日本語訳が出ましたね。その日本語訳を読んだら、そのバーガーミニの本がいろいろ引用されてます。しかし、アイリス・チャンも、アメリカでも高名な偉い学者達はみんな、バーガーミニの本を否定してるっていう風に言ってるんです。だから、普通の人は理解不可能です。


何故そうなるのか? 日本の天皇教信者と日本の国家権力とその他、それに類する御用作者・御用学者・その他が、バーガーミニを否定するのは当然でしょう。しかし、なんでアメリカの権力がバーガーミニを葬り去ろうとするのですか。この本は全くのインチキだって否定するんですか。それはまさしく、昭和天皇が単に日本的存在であるだけではなくて、イルミナティ、サタニスト世界権力によって育成された、極めて有能な重要な貴重な傀儡である、イルミナティ、サタニスト世界権力の道具として裕仁は機能したし、ずっとこの本が出た当時もそうだし、今に至るまでそうである、ということの明確な証拠であると私は思います。そう評価することで、バーガーミニの本の重要性と、今それを再評価して日本人がちゃんと勉強する、消化することを始めるべき緊急な必要性があることが証明されると思います。

裕仁は別のことを考えていた

それで、私が読み上げた「蹶起趣意書」については、侍従武官長も、陸軍大将も、他の軍事参議官(まだ予備役になっていない現役の陸軍大将の全部か一部が天皇の軍事顧問の役割を果たすよう設定された職務。軍事参議官会議とは昭和天皇の諮問に答える)も、将官クラスも、ごく少数の非常に突拍子もないへんてこりんな軍人以外の、当時の日本の軍人・将校のほとんどが、この蹶起趣意書にすごく共感したわけです。

当時の日本の人口の6〜7割は農民ですけど、その農民は、第一次大戦後の軍が入ってきて、それから昭和4年(1929年)の世界経済大恐慌の前後からずっと続いてる、日本の経済恐慌の結果、農村は生きることも、死ぬこともできない様な塗炭の苦しみを味わってるわけですよ。兵隊はそういうところから出てくるんですから、将校はそれをひしひしと感じてるわけですよ。だから、多かれ少なかれ趣意書に書かれていることは、天皇の重臣などを殺したというのは、私利私欲、私的目的の為ではなく、こういう趣旨を掲げて、何とか変えてもらいたいと決起した志を酌むべきではないか、少なくとも天皇はその志を酌んで名誉を与えてもらいたいというのが、当時の(海軍は別ですけど)陸軍の首脳層のほぼ全員一致の考えです。

それでも、裕仁は全然問題にしないわけです。全然別の考えなんです。

バーガミニは、二・二六が起きた後、裕仁は単身、厳密に言えば一人じゃないですね、裕仁のそばにいた木戸幸一は、そのころ内大臣府秘書官長だった。二・二六で内大臣の斉藤実が殺されたでしょう。そのあと(1940年から)木戸幸一が内大臣になった。しかし木戸幸一1人じゃない。裕仁(昭和天皇)の摂政時代から、「十一会」という私的な結社を主宰してるんですよ、昭和天皇の顧問団。しかし、バーガーミニは、昭和天皇は単独で自分の考えを強行突破して、あらゆる反対、異論を押し潰して、いくつもの政治決戦に最終的に勝利したと評価してます。

それは全く正当な評価です。日本人は、そんな話はいまだかつて聴いたことがないですからね。だからね、それは非常に衝撃的な評価ですけど、バーガミニの本を最初から読んでいくと、当然そうなるとわかる。

薩摩と長州の宮中掌握

二・二六事件の当事者、関係者をあげていくと11項目ぐらいになる。決起趣意書については先程お話しました。二・二六事件の主役として、表面に出てくるのは4つの勢力なんです。昭和天皇、陸軍の北進派、陸軍の南進派、決起青年将校団の4つです。しかし現象面として挙げていくと、そう言えるという事であって、その現象では物事の本質は見えてこない。本質は何か、さかのぼって突き詰めていくと、落合莞爾さんが吉薗(よしぞの)周蔵〔上原勇作陸軍元帥の私的特務をしていた人物〕の手記について、今ニューリーダーに連載していることの画期的な意味、今まで日本人が全く知らされていない、気がついていない、極めて重要な根源的な近代日本の状況を知る為の要素があります。私も落合さんの連載を読んでいて気がついたんですけど、そもそも孝明天皇を弑逆(暗殺)した主役が長州なんです。公家の一部(岩倉、三条など)が共同謀議して実行したんでしょう。ところが、薩摩が長州と共同歩調をとらないと、それはうまくいかないんですよ。薩摩が孝明天皇を弑逆して大室寅之祐を天皇にすり替えて、イルミナティの傀儡として全く偽者の天皇をでっちあげて、それを本物の天皇として日本人に見せかけて、日本人をずっと騙して、その真相を絶対に秘密にする、そういうシステムを作る上に、薩摩と長州がその二つの主役だった事を私は既に色々なところで言ってます。

しかし薩摩は西郷隆盛が主たる人物。西郷隆盛は、イルミナティのコントロール下で彼らの傀儡となって日本を支配するというような生き方には、究極的にNOと言ったんです。NOと言ったのでフリーメーソンがイルミナティに西郷隆盛の排除を命令したんです。長州と薩摩も彼らの傀儡に対して。それが西南戦争です。西郷さんと一緒に薩摩の武士の約半分は殺されました。残った半分はどうなったかというと、そのすぐ後に大久保も殺されて、その為に、薩摩の力が弱くなって長州のひとり天下のように思われるわけです。

ところが、実はそうでもないんですね。その事を落合さんがずっと調べていって、重要な事実を発見しました。薩摩は英国と戦争をやって、長州は4カ国と戦争をやって、敗北したら掌を返すようにイルミナティの家来になるわけですよ。薩摩も長州も。そして薩摩藩は有能な青年武士をフリーメーソンのグラバーの手引きで英国に留学させた。長州ファイブと英国では言うようですが、その中の一人が伊藤博文です。それから井上(馨)。伊藤と井上は明治時代ずっとペアで日本を支配する。その他、その長州ファイブが、フリーメイソンと、フリーメーソンを上回る直系の長州政権内の決定的なワンワールドの支持の元に動く。これについては加治将一という人の本に割と詳しく書いてある。ところが薩摩も長州とほとんど同時に何人かの青年武士をロンドンに留学させている。そのほうもワンワールド・フリーメーソンに会っただろうと加治って人も言ってます。

しかし、落合っていう人が言うのには、西郷軍(西郷さんの陣営)が完全に潰された後、薩摩は長州に対して弱体化したかというと、そうではないんですね。西郷、大久保、吉井友実〔よしい・ともざね、1828〜1891年。西郷、大久保と同等クラスで、薩摩藩のナンバー3。フランスに留学してワンワールド・フリーメイソンに加入し、明治初期から宮中に入っていた。西郷、大久保なき後、ワンワールドの代理人として宮中を掌握〕の3人が主要な指導的人物と言われていて、その吉井というのが明治になって留学してフリーメーソンに加盟したと落合さんは言ってる。陸軍に入るけど留学して、そして宮中に入る。つまり、ワンワールド、フリーメーソンは宮中を完全に掌握する事を重要な政治課題として設定したと私は思います。

それから、松方正義〔まつかた・まさよし、1835〜1924年。薩摩藩。金融を掌握〕は有名な財政家・金融家ですけど、これもワンワールドでロスチャイルド直系の子分だと言ってます。従って薩摩はワンワールドを通じて西郷さん一派が完全に消えた後も金融を押さえ、宮中を押さえる。そういう風にしてワンワールドは長州の陸軍、薩摩の金融・宮中の勢力が二本立て、両建てで日本をコントロールしたと、私が要約するとなります。

これは私は気がつかなかった。その後、高島鞆之助〔たかしま・とものすけ、1844〜1916年〕という長州(薩摩の言い間違え)の有望というか有能な武士が、陸軍中将になるけど、やはり宮中に入るんです。高島鞆之助もヨーロッパに留学してフリーメーソンに加盟したと言うんです。薩摩の吉井と高島が、普通の歴史には全く出てこないけど、長州の陸軍、官僚と並んで同時にワンワールド、フリーメーソンの日本支配の極めて重要な陣営として機能してる、という事なんです。

私がここで何を言いたいかと言うと、大室寅之祐を擦り替えて天皇にはした。当然、京都で継続してきた日本の朝廷、天皇の系統とはまるで別物ですけど、別物であるにも関わらず、継続した天皇家の正統であると日本人に思わせないといけません。これは非常に難しい仕事ですよ。代々ずっと続いた天皇の正統な継承者であるというふうに日本国民に思わせるように、パフォーマンスというか、フリというか、演技というか、そういう風に作ると同時に、裏のほうでは国民に全く知られないところで宮中はワンワールドの司令通り忠実に動くように演出しなければならない。これは途轍もない難しい仕事ですよ。そういう場に際したのが、吉井と高島。薩摩の非常に有力な武士団の実力者です。

という事を、上原勇作〔うえはら・ゆうさく、1856〜1933年。薩摩藩。山県有朋と同時代の陸軍大将。吉井、高島のひいきで出世。やはりワンワールド〕を調べていた落合莞爾が気がついたという訳なんですね。そういう風に見ると今問題になってる事が凄くよく解る。そうして宮中を握るでしょう。そうすると出てきた現象はどうなるかというと、皇族の男子は全員原則として軍人になるべしというような規則にするんです。軍というのは、陸軍か海軍かのどちらか。従ってバーガミニは、明治、大正、昭和と皇族の表をずっと作って、追って行くわけです。驚いた事に日本には皇族がどうなっているかについて詳しい情報は全くない。変な話だが、わざとそうしてる。そこを調べて行くと、皇族の男子の軍人というのが、陸軍軍人、海軍軍人、ものすごくたくさんいる。そんな事は孝明天皇までの日本の天皇の伝統には存在しないです。

明治天皇がそんな事を考え出して、こういう風にしようなんて事はあり得ない。ワンワールドの司令を受けた宮中を完全に支配する力を得た、吉井、高島、そういう薩摩の藩閥勢力によって宮中がそういう風に作り変えられていった訳ですよ。陸軍軍人、海軍軍人らの皇族は、当然の事ながら英国、フランス、プロシア(ドイツ)、その他ヨーロッパの王室、陸軍・海軍の軍人のシステムをそっくり同じ様なものを作るわけですよ。
:引用終了

昭和天皇裕仁は、明確に戦争責任があるのに、その責任を逃れて平然としていた愚劣な「人間のクズ」です
戦前の礼装をまとった昭和天皇裕仁(ひろひと)。 彼は一旦戦争が始まると、結構好戦的で、かつ優柔不断だったようです。それも一因となり、大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)は早期終結の機会を逸しました。
結果、日本人で310万人、海外も含めれば、1000万人以上の兵士と一般市民が死に追いやられました。
彼が平和主義者であったというのは、後年の巧みな演出、作り話です。
敗戦直後、日本各地を視察する昭和天皇裕仁。決して謝罪して回ったわけではありません。
晩年の昭和天皇裕仁。 意図してか、「あっそう」としか発声しない、脳天気なボケ爺さんぶりを発揮。
八月はどうしても、戦争と昭和天皇裕仁(ひろひと)について考えさせられます。

先の大東亜戦争(アジア・太平洋戦争)について、憲法上(形式的面はあったにせよ)最高責任者の地位にあったにもかかわらず、同氏は何の痛痒も感じていなかったようです(例えば: http://ameblo.jp/hirai-h/entry-11323724860.html )。 大正天皇のように知的障害があったのならともかく、彼にそうした病歴はありません。

終戦後、占領政策上 天皇を生かして利用する方が得策との米国政府の判断をいいことに、裕仁は政治的責任はおろか道義的責任すらとらず、さらに説明責任さえ果たさず、平然とのうのうと生き延びました。唾棄すべき無責任男、「人間のクズ」です。       
極東国際軍事裁判(東京裁判)の結果、東條英機はじめ政治家・軍人7名が絞首刑となりましたが、最も処刑されるべきは裕仁であるはずでした。ところが実際は上述のように米国の都合で不起訴となり命拾いしたのです。
(こうした一連のことが、日本社会の無責任体質を助長する一因になったと言えます。)

実は、この男の評価をめぐっては、小学5年生の時、クラス担任の中年男性教師と大論争しました。 その教師が天皇を敬愛していたからなのか、世間の菊タブーを恐れての忠告だったのか、いずれにせよ天皇や皇室についての批評はやめろという指導でした。
     
しかしその指導にだけは、今も決して従うつもりはありません。
※ なお。昭和天皇裕仁については、月刊誌「文藝春秋」に、評論家で慶應大学教授の福田和也が連載記事を書いています(これまで85回)。 私とは全く主張が異なりますが、そちらもぜひ参照されるとことをお薦めします。(10月号からは「文藝春秋」のWeb版での連載になるようです。
             
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二・二六事件
二・二六事件(ににろくじけん、にいにいろくじけん)は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、皇道派の影響を受けた陸軍青年将校らが1,483名の下士官兵を率いて起こした日本のクーデター未遂事件である。
この事件の結果岡田内閣が総辞職し、後継の廣田内閣が思想犯保護観察法を成立させた。
陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら(陸軍幼年学校・旧制中学校から陸軍士官学校に進み任官した、20歳代の隊附の現役大尉・中尉・少尉達)は、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、農村の困窮が収束すると考えていた。彼らはこの考えのもと、1936年(昭和11年)2月26日未明に決起する。
決起将校らは歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、近衛歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊等の部隊中の一部を指揮して、岡田啓介内閣総理大臣、鈴木貫太郎侍従長、斎藤實内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監、牧野伸顕前内大臣を襲撃、総理大臣官邸、警視庁、内務大臣官邸、陸軍省、参謀本部、陸軍大臣官邸、東京朝日新聞を占拠した。
そのうえで、彼らは陸軍首脳部を経由して昭和天皇に昭和維新を訴えたが、天皇はこれを拒否。天皇の意を汲んだ陸軍と政府は彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意し、包囲して投降を呼びかけた。叛乱将校たちは下士官兵を原隊に復帰させ、一部は自決したが、大半の将校は投降して法廷闘争を図った。しかし、事件の首謀者達は銃殺刑に処された。
事件後しばらくは「不祥事件(ふしょうじけん)」「帝都不祥事件(ていとふしょうじけん)」[3]とも呼ばれていた。
算用数字で226事件、2・26事件[4]とも書かれる。
森友問題の原点 安倍・松井・籠池を結びつけた団体の正体
森友学園事件と二・二六事件

 報道によれば、今月一〇日、学校法人「森友学園」の籠池泰典理事長が、豊中市内の塚本幼稚園で記者会見をおこない、大阪府に対して「瑞穂の国記念小学院」の認可申請を取り下げたことなどを明らかにしたという。
 ほぼ、「完全撤退」と言える。これを聞いた関係の役人は、さぞかし、安堵の胸をなでおろしたことであろう。
 ところで、インターネット上の「The Huffington Post」(三月一〇日二〇時四七分更新、吉野太一郎さん執筆)によれば、この会見の中で、籠池泰典理事長は、次のような歴史観を示したという。

○先の大戦前の二・二六事件の将校のことを思いました。ああ、国家のために殉ずる気持ちで頑張ってきた人たちが、指導部に抹殺された。
○勝者にはいい印象、敗者には悪い印象が与えられます。ただ一〇〇年たてばひっくり返ることがあろうかと思います。

 ここで、籠池理事長は、みずからを「二・二六事件の将校」に擬している。すなわち、国家のためを思ってとった行動が、はからずも国家の「指導部」によってとがめられ、ついに抹殺されることになった存在として、みずからを捉えたのである。
 では、籠池理事長は、みずからの抹殺を指示した「指導部」として、いったい、「誰」を想定していたのだろうか。
 二・二六事件の際、叛乱軍の討伐を命じたのは昭和天皇であり、その決意を支えたのは、木戸幸一内大臣秘書官長、湯浅倉平〈クラヘイ〉宮内大臣、広幡忠隆侍従次長という三人による協議だったという(斎藤実内大臣は死亡)。端的に言えば、昭和天皇と、木戸内大臣秘書官長、湯浅宮内大臣、広幡侍従次長、このメンバーが、叛乱軍の討伐を決定した「指導部」であった。
 このとき、天皇の周辺にいた、本庄繁侍従官長、伏見宮博恭〈ヒロヤス〉軍令部総長、香椎浩平戒厳司令官は、いずれも皇道派の軍人であったが、天皇の決意を変えることはできなかった。
 さて、今回、籠池理事長の抹殺を決意し、実行した「指導部」は、誰だったのだろうか。常識的に考えれば、安倍晋三首相ということになるだろう。
 しかし、安倍首相は、もともとは籠池理事長のシンパだったとされる。その夫人は、一時、「瑞穂の国記念小学院」の名誉校長の地位にあった。安倍首相の役回りは、二・二六事件でいえば、「黒幕」と目されながらも、最後は、青年将校らを見捨てた真崎甚三郎大将に近い。籠池理事長抹殺の司令塔は、やはり、安倍首相とは別のところに存在したと見るべきだろう。
 もちろん、「真相」はわからない。だからこそ、会見の場にいた記者には、聞いてほしかったと思う。「あなたを抹殺した指導部として、あなたは、いったい、誰を想定していますか」と。
「二・二六事件」 日本を震撼させた日を写真で振り返る
1936年2月26日早朝、陸軍の青年将校に率いられた約1500人の反乱部隊が決起して首相官邸などを襲撃した。日本列島を震撼させたクーデター未遂事件の模様を写真で振り返った。
第二次世界大戦資料館
「ソ連との問題は極力重大化させないように努めたいと考えます。かかる難題は、様々に形を変えて連日引き起こされているようですが、多くは丸く収まるでしょう。我々の明日の事業達成を阻むただ一つの障害、それは今日の我々の疑心暗鬼です。」=フランクリン・ルーズヴェルト(「チャーチル宛の手紙」より、ポーランド問題について=
オラドゥールの虐殺(1944年6月10日)

破壊された村
写真はwikipediaより転載。
 1944年6月10日に、ドイツ占領下のフランス・リムーザン地方リモージュ市の北西約20kmにあるオラドゥール・シュル・グラヌ(Oradour-sur-grane)村で、ナチス武装親衛隊によって起こされた村民虐殺事件。 1944年6月6日、連合軍のノルマンディー上陸作戦の進行に連動する形で、フランス・レジスタンスのドイツ軍に対する妨害活動が盛んになっていた。その中で、参謀本部からノルマンディーへの移動を命じられた武装親衛隊第2装甲師団「ダス・ライヒ」は、この妨害活動に悩まされていた。
 6月10日早朝に、ドイツ人高級将校がオラドゥール村のレジスタンス組織(マキ)にとらえられたようであり、またオラドゥール村の住民のほぼ全てがマキに関係しているというフランス人の密告を受けた。
 SS少佐オットー・ディークマンに率いられた第1連隊「デア・フューラー(総統)」第1大隊120名は、同日オラドゥール村を包囲し、身分証の確認という口実で村民を村中心部の広場に集めた。例外を除いて全ての村人642人は数カ所に分けられ、無惨にも殺害された。虐殺の生存者は、村に兵が現れてすぐに逃げ出した20名ほどの集団を除き、6名のみであった。殺害の後は、徹底的に村の建物を破壊した。
 戦後、シャルル・ド・ゴールフランス大統領は、ナチス占領の残虐さを後世に残すため、オラドゥール村を再建せず、廃墟のまま保存することを決めた。
 ちなみに、オラドゥールの虐殺には第二次世界大戦にドイツに併合されていたフランスのアルザス地方出身の兵(アレマン人)も含まれていた。この兵士たちは1953年に軍事裁判にかけられたが、紆余曲折をへて2月19日、フランス議会において全てのアレマン人を恩赦とする決定がなされ、即座に釈放された。

第二次世界大戦とは?
(2002.10.29作成)
(2003.07.06手直)
(2006.05.06手直)
(2008.03.01追加)
〜とりあえず、思いついたことを書きます、随時必要に応じて手直していく予定です〜
 第二次世界大戦とは、文字通り全世界を巻き込んだ大戦争で、期間的に言えば、1939年9月1日のドイツのポーランド侵攻に対し、同年9月3日に英仏が対独宣戦布告をした日から、ヨーロッパでは、1945年5月8日のドイツ降伏文書発効、アジアでは1945年9月2日の降伏文書調印(即日発効)(戦闘については、1945年8月15日のポツダム宣言を受諾する旨の昭和天皇の国民向けラジオ放送(いわゆる玉音放送)でほぼ終了(ちなみに連合国への受諾回答は前日8月14日)。)までを指します。
 この大戦では世界の49カ国が戦闘に参加、合わせて動員兵力 1億1000万人という未曾有の規模でありました。
 いままでの戦争とはいろいろな点で大きく違い、大きく分けて、

1.戦闘員より、非戦闘員(民間人)の死者が同等または多かったこと。(ある推計では軍人戦死者2700万人、民間人死者2500万人)
2.原子爆弾という究極の大量破壊兵器を生み出したこと。
3.総力戦であり、一方の国が徹底的に破壊されない限り戦争が終結しなかったこと。
4.第一次世界大戦のような経済的利害の衝突だけではなく、第二次世界大戦は、民族、イデオロギーの衝突でもあり、これが民族迫害という悲劇をもたらしたこと。

などが上げられます。
特に、1.について詳細に言えば、死者数だけを見れば、総数は5000万人から6000万人にのぼり、主なものだけをピックアップして見ても、目を覆うばかりです。

ソ連人 1000万人〜2000万人
中国人 注) 1000万人以上
ユダヤ人 600万人
ポーランド人 500〜600万人
ドイツ人 450万人
日本人
(1937年7月からの数) 310万人
アメリカ人 30万人
イギリス連邦 60万人
フィリピン 110万人
インドシナ 200万人
インドネシア 200万人
注)この戦死者は、政治的な思惑から毎年ごとに大幅な上方修正がなされ、また中共内戦の被害者も含まれる可能性が高いので、実際の正確な数字は不明である。

 また、重要なことはこの第二次世界大戦は、ヒトラーという誇大妄想にとりつかれた野心家が一人で引き起こしたまさしく「我が闘争」であったことです。
(文責 館長)

(参考)日米開戦時の日米国力比較

●新庄大佐による1941(昭和16)年の日米国力分析結果
物  品 アメリカ 日米比率
鉄鋼生産量 9,500万トン 1:24
石油精製量 1億1,000万バレル 1:80
石炭生産量 5億トン 1:12
電力 1,800万キロワット 1:4.5
アルミ生産量 85万トン 1:8
航空機生産機数 12万機 1:8
自動車生産台数 620万台 1:50
船舶保有数 1,000万トン 1:1.5
工場労働者数 3,400万人 1:5 出典:開戦通告はなぜ遅れたか:斉藤充功、新潮新書

●石油関連数値日米比較(1941(昭和16)年)
日本 米国 日米比率
原油生産量(万バレル/日) 0.52 383.6 1:738
人造石油生産量(万バレル/日) 0.33 - -
石油精製能力(万バレル/日) 9.04 465.8 1:52
原油処理量(万バレル/日) 4.93 389 1:79
液体燃料在庫量(万バレル/年) 4,300 3億3,500 1:7.8
精油所1日1人当精製量(バレル) 4 53 1:13 出典:米国戦略爆撃調査団石油報告
さいとう‐たかお〔‐たかを〕【斎藤隆夫】

[1870〜1949]政治家。兵庫の生まれ。憲政会・民政党に所属。二・二六事件直後の粛軍演説などで軍を批判、昭和15年(1940)議会から除名された。第二次大戦後は進歩党の結成に参加、第一次吉田・片山両内閣で国務相。
斎藤隆夫衆議院議員の反軍演説(全文)
斎藤隆夫「支那事変処理に関する質問演説」
http://royallibrary.sakura.ne.jp/ww2/text/hangun_2.html

いわゆる「斎藤隆夫の反軍演説」


※斎藤隆夫の「反軍演説」を下記のサイトより、再録させて頂いた。これは、私のための検索の便である。
http://blechmusik.xrea.jp/d/saito/s01/
※引用元は上記である。
※このサイトは、貴重な一次資料を丹念に収集・整理した、きわめて優れたサイトである。
※以下、サイト本文である。


はじめに

国会図書館のウェブサイトで、1940-02-02(昭和15年)に行われた、「支那事変処理に関する質問演説」(いわゆる「反軍演説」)が、公開されています。

4-10 反軍演説 | 史料にみる日本の近代
インターネット上には、いわゆる「反軍演説」のテキストがいくつかアップロードされていますが、ここでは独自に上のページの画像から文字起こしをしてみました。ですので、他のウェブサイトと記述が異なる箇所があります。「云ふ」を「云う」に書き換える、段落を独自に増やしたり箇条書きを導入するなどして文を読みやすくする、などなど手を加えた箇所があります。

なお、『斎藤隆夫政治論集 ― 斎藤隆夫遺稿』では、「支那事変処理を中心とした質問演説」とのタイトルが付けられていますが、衆議院議事速記録の表記の方を採用しました。また、同書掲載文では強調線と強調点が記されていますが、同様に採用していません。


1940年(昭和15年)2月2日

国務大臣の演説に対する斎藤君の質疑

第01段落
支那事変が勃発しましてからすでに二年有半を過ぎまして、内外の情勢は益々重大を加えて居るのであります、此の秋に当りまして一月十四日、而も議会開会後に於きまして阿部内閣が辞職して、現内閣が成立し、組閣二週間の後において初めて此の議会に臨まるることに相成ったのであります、総理大臣を首めとして、閣僚諸君の御苦心を十分に御察しすると共に、国家の為に切に御健在を祈る者であります。

第02段落

米内首相は組閣匆々天下に向って、現内閣の政策を発表せられたのでありまして、吾々は新聞紙を通じて、之を承知致して居るのであります、併し其の政策と称するものは、唯僅に題目を並べたに過ぎないのでありまして、諸般の政策は此の帝国議会に於て陳述すると附加えてあります、それ故に昨日の御演説を拝聴致したのでありまするが、相変らず抽象的の大要に過ぎないのでありまして、之に依って、国政に対する現内閣の抱負経綸を知ることは勿論出来ない、併しながら私は今日此の場合に於て、是等の問題、即ち

第一は支那事変の処理、
第二は国際問題、
第三は国内問題、

是等の三問題全部を通じて質問を致す時間の持合せもありませぬから、此の中の中心問題でありまする所の支那事変の処理、之に付て私の卑見を述べつつ、主として総理大臣の御意見を求めて見たいのであります。

支那事変の処理は申すまでもなく非常に重大なる問題であります、今日我国の政治問題として是以上重大なる所の問題はない、のみならず今日の内外政治は何れも支那事変を中心として、此の周囲に動いて居るのである、それ故に吾々は申すに及ばず、全国民の聴かんとする所も固より茲にあるのであります、

一体支那事変はどうなるものであるか、
何時済むのであるか、
何時まで続くものであるか、
政府は支那事変を処理すると声明して居るが、如何に之を処理せんとするのであるか、

国民は聴かんと欲して聴くことが出来ず、此の議会を通じて聴くことが出来得ると期待せない者は恐らくー人もないであろうと思う、曩に近衛内閣は事変を起しながら其の結末を見ずして退却をした、平沼内閣は御承知の通りである、阿部内閣に至って初めて事変処理の為に邁進するとは声明したものの、国民の前には事変処理の片鱗をも示さずして総辞職してしまった、現内閣に至って初めて此の問題をこの議会を通して国民の前に曝け出す所の機会に到来したのであります、

是に於て私は総理大臣に向って極めて率直に御尋をするのである、支那事変を処理すると言わるるのであるが、

其の処理せらるる範囲は如何なるものであるか、
其の内容は如何なるものであるか、
私が聴かんとする所は茲に在るのであります、

私の見る所を直言致しまするならば、元来今回の事変に付きましては、当初支那側は申すに及ばず、我が日本に於きましても確に見込違いがあったに相違ないのであります、即ち我国より見まするならば、其の初めは所謂現地解決、事変不拡大の方針を立てられたのでありまするが、其の方針は支那側の挑戦行為に依って立どころに裏切られ、其後事変は日に月に拡大し、躍進に躍進を重ねて遂に今日の現状を見るに至ったのであります、支那側の見込違い、是は言うを要しないのであります、

此処にご参考の為に引用すべき文書があります、是は昨年十二月十三日、内閣情報部より発行せられたる所の週報でありまするが、此の中に「支那事変を解決するもの」と題して支那派遣軍総司令部報道部長の名を以て一の論文が掲載せられて居るのである、此の中に如何なることが現われて居るかと見ると、

「 抑々此の戦争は、支那人、殊に蒋介石の日本に対する認識不足と、其の日本の実力誤算から出発し、又日本の支那に対する研究不足と認識不足とに依って始められ、又深められて来た」
云々と記載されてある、即ち此の度の事変は支那が日本に対する所の認識不足、又日本が支那に対する所の認識不足、此の二つの原因に依って始められ、又是が深められたものに相違ない、

併しながら翻って考えて見ますると、仮令此の認識不足なしと雖も、日支両国の間に於きましては早晩一大事変か起こらざるを得ない其の禍根が、何れの所にか隠れて居った、其の機運が熟して居った、それが彼の北支の一角蘆溝橋に於ける支那側の不法射撃、此の事実に触れて外部に爆発したに過ぎないのでありまして、是は仕方がない、所謂運命であります、両国間に蟠る所の運命でありますから、是は仕方がない、

併しながらその後事変は益々進展して、彼我の勢力並に勝敗の決も明になりました以上は、成べく速に此の事変を収拾する、そうして出来るならば再び斯の如き事変が起らないように、日支両国の間に横わる一切の禍根を斐除して、以て和平克復を促進することは独り日本の政治家の責任であるのみならず、実に支那の政治家の責任であると私は思うのであります、

唯問題はどうして是等の禍根を取除くことが出来るか、どうしたならば将来の安全を保障することが出来るか、吾々は支那の立場を考うるとともに、主として日本の立場を考えねばならぬのである、

そこで先づ第一に吾々が支那事変の処理を考うるに当りましては、寸時も忘れてならぬものがあるのであります、それは何であるか、外の事ではない、此の事変を遂行するに当りまして、過去二年有半の長きに亘って我が国家国民が払いたる所の絶大なる犠牲であるのてあります、即ち此の間に於きまして我が国民が払いたる所の犠牲、即ち遠くは海を越えて彼の地に転戦する所の百万二百万の将兵諸士を初めとして、近くは之を後援する所の国民が払いたる生命、自由、財産其の他一切の犠牲は、此の壇上におきまして如何なる人の口舌を以てするも、其の万分の一をも尽すことは出来ないのであります。

(拍手)

而も是等の犠牲は今日を以て終りを告げるのではない、将来久しきに亘る、今後幾年に亘るかということは、今日何人と雖も予言することが出来ない状態にあるのであります、実に此の度の事変は、名は事変と称するけれども、其の実は戦争である、而も建国以来未だ曾て経験せざる所の大戦争であります、随て其の犠牲の大なると共に、其の戦果に至っても亦実に驚くべきものがある、昨日も此の議場に於て陸軍大臣の御話がありました通り、今日の現状を以て見まするならば、我軍の占領地域は実に日本全土の二倍以上に跨って居るのであります、而して是等の占領は如何にして為されたものであるか、何れも忠勇義烈なる我が皇軍死闘の結果である、即ち是が為には、十万の将兵は戦場に屍を埋めて居るでありましょう、之に幾倍する数十万の将兵は、悼ましく戦傷に苦しんで居るでありましょう、百万の皇軍は今なお戦場に留まって、有ゆる苦難と闘って居るに相違ない、斯くして得られたる所の此の戦果、斯くして現われたる所の此の事実、之を眼中に置かずしては、何人と雖も事変処理を論ずる資格はない。

(「ヒヤヒヤ」拍手)

諸君も御承知の如く、我国は曾て四十余年前に支那と戦った、三十余年前に露西亜と戦った、是等の戦は何れも国運を賭したる戦いであったに相違はございませぬが、今回の戦と比べまするならば、其の規模の大なること、其の犠牲の大なること、日を同じくして語るべきものではない、然るに是等の戦は、如何なる条件を以て、和平克復を見るに至ったかと云うことは、歴史が之を明記して居りまするから、茲に述べる必要はない、

それ故に之を過去の歴史に鑑み、又之を東亜における大日本帝国の将来に鑑み、之を基礎として、以て事変処理の内容を充実するにあらざれば、出征の将士は言うに及ばず、日本全国民は断じて之を承知するものではない。

(「ヒヤヒヤ」拍手)

政府に於て其の用意があるかないか、私が問わんとする所は茲にあるのであります、米内首相は事変処理に付ては、既に確乎不動の方針が定められて居る、斯く声明せられて居るのでありまするが、其の方針とは何であるか、所謂近衛声明なるものであるに相違ない、即ち一昨年十二月二十二日に発表せられた所の近衛声明、是が事変処理に関する不動の方針であることは、申すまでもないことであります、

所が私は元来此の近衛声明なるものに向っては、聊か疑いを抱いて居るのであります、此の際誤解を防ぐが為に御断りをしておきます、きっぱりと御断りをして置きまするが、私は今俄に近衛声明に反対をする者ではない、さりとて賛成をする者でもない、賛成をするか反対をするかは、政府の説明を聴いて、然る後に於て考える積りであります。

(拍手)

今日は質問であります、質問は読んで字のごとく疑いを質すのである、それ故に此の考えをもってご聴取を願いたいのであります、近衛声明の中にはどう云うことが含まれて居るかと言いますると、大体五つの事柄が示されて居るのであります、

其の一つは支那の独立主権を尊重すると云うことである、
第二は領土を要求しない、償金を要求しないということである、
第三は経済関係に付ては、日本は経済上の独占をやらないと云うことである、
第四は支那に於ける第三国の権益に付ては、之を制限せよと云う如きことを支那政府には要求しない、
第五は防共地域である所の内蒙附近を取除く其の他の地域より、日本軍を撤兵すると云うことであります、

此の五つが近衛声明に含まれて居る所の要項である、而して此の声明はただ日本のみに対する声明でなければ、又支那のみに対する声明でもない、実に全世界に対する所の声明でありまするから、如何なることがあっても之を変更することが出来るものではない、絶対に是は変更を許さないのである、

若し苟且にも之を変更するが如きことがありますならば、我国の国際的信用は全く地に墜ちてしまうのであります、唯そればかりではない、ご承知の如く彼の汪兆銘氏、同氏は此の近衛声明に呼応して立ち上ったのである、即ち此の近衛声明を本として、和平救国の旗を押し立てて、新政権の樹立に向って進んで来て居るのである、其の後同氏は屡々声明書を発表して居りまするが、此の声明書を見ますると、徹頭徹尾近衛声明を文字通り、額面通りに解釈をして居るのである、即ち同氏が屡々発表しました所の声明書、此の声明書に現われて居る所の文句を、其の儘取って来て総合しますると、こういうことになるのであります、

近衛声明の如くであったならば支那に取っては別に不利益はない、日本は此の声明によって全く侵略主義を放棄したのである、日本は是まで侵略主義を執って居ったが、近衛声明に依って侵略主義を放棄したのであると言うて居る、日本が侵略主義を放棄したと云うことは、即ち軍事上に於ては征服を図らず、経済に於ては独占を考えないと云うことである、

斯くの如く日本が戦争中に於て反省したる以上は、中国も亦深く自ら反省する所があって、一日も速に和平を実現せねばならぬ、

而して斯くの如き和平は絶対に平等の立場に於て結ばねばならぬ、戦勝者が戦敗者に対する態度はー切放棄すべきである、随って和平条件は決して支那国家の独立自由を害するものではないから、何人と雖も和平の実現を拒むことは出来ない、

声明書に現われて居りまする所の文句を其の儘取って来て総合すると、斯くの如きものになるのである、そうして此の声明を発表して爾来一年有余の間、和平運動の為に進んで来て居るのであります、それですから御承知の通り支那民衆、蒋介石一派よりは実に言うに堪えざる所の攻撃を受け迫害せられ、身を挺して和平運動の為に進軍して来て居るのであります、

それ故に同氏の立場から見れば、徹頭徹尾此の声明をば裏切ることは出来ない、若しこれを裏切るか如きことかありましたならば、和平運動、延いては新政権の樹立は根本から崩壊せられてしまうのである、

是に於て私は政府に向って御尋ねをするのである、支那事変処理の範囲と内容は如何なるものであるか、重ねて申しまするが、

支那の独立主権は完全に尊重する、
支那の独立主権を完全に尊重する以上は、将来支那の内外政治に向っては苟且にも干渉がましきことは出来ない、若し干渉がましきことを為したならば、支那の独立主権は立ちどころに侵害せられるのである、

領土は取らない、償金はとらない、
支那事変の為にどれだけ日本の国費を費やしたかと云うことは私は能く分りませぬ、併しながら唯軍費として吾々が此の議会において協賛を致しましたものだけでも、今年度までに約百二十億円、来年度の軍費を合算致しますると約百七十億円、是から先どれだけの額に上るかは分らない、二百億になるか三百億になるか、それ以上になるか一切分らない、それ等の軍費に付ては一厘一毛と雖も支那から取ることは出来ない、悉く日本国民の負担となる、日本国民の将来を苦しめるに相違ない、

また経済開発に付ては、決して日本のみが独占をしない、
支那の経済開発と云うことが叫ばれて居りまするが、是も日本だけが独占をすべきものではない、

第三国権益を制限するが如きことは支那政府に向っては要求しない、
是まで我国の政治家は国民の前に何と叫んで居ったか、此の度の支那事変は、支那より欧米列国の勢力を駆逐する、欧米列国の植民地状態、第三国から搾取せられて居る所の支那を解放して、之を支那人の手に戻すのであると叫んで居ったのでありますが、是は近衛声明とは全然矛盾する所の一場の空言であったと云うことに相成るのであります、

其の他占領地域より日本軍全部を撤兵すると云うのである、
残る所に何があるか、それが私には分らないのであります、殊に日本軍の撤兵に付いては、汪兆銘氏が如何なることを言うて居るかと云うと、第一次声明の中に斯う云うことが現われている、

近衛声明において特別重要なる点は日本軍の支那からの撤兵である、そうして其の撤兵は全部が急速に且つ有ゆる方面に於て一斉に行われねばならぬということである。即ち撤兵は、全部が急速にあらゆる方面に於て一斉に行われねばならぬと云うことである、唯提案せられたる所の日支防共協定の存続期間に限って、日本軍の駐屯すべき所謂特定地区は唯内蒙の付近のみに制限せられなければならない、

斯様に汪兆銘氏は声明して居りまするが、之を近衛声明と対照しますると、少しも間違いはないのであります、然る以上は是より新政権を対手に和平工作を為すに当りましては、

支那の占領区域から日本軍を撤退する、
北支の一角、内蒙附近を取除きたる其の他の全占領地域より日本軍全部を撤退する、

過去二年有半の長きに亘って、内には全国民の後援の下に、外に於ては我が皇軍が悪戦苦闘して進軍しました所の此の占領地域より日本軍全部を撤退すると云うことである、是が近衛声明の趣旨でありますか、政府は此の趣旨を其の儘実行する積りでありますか、是が私は聴きたいのであります、総理大臣は言うに及ばず、軍部大臣に於ても此の点に付て御説明を煩わして置きたい。
第03段落

次に事変処理に付ては東亜の新秩序建設と云うことが繰り返されて居ります、此の言葉は昨日以来此の議場においてもどれだけ繰り返されているか分らない、

元来此の言葉は事変の初めにはなかったのでありますが、事変後約一年半の後、即ち一昨年十一月三日近衛内閣の声明によって初めて現われた所の言葉であるのであります、東亜の新秩序建設と云うことはどういうことであるか、昨日外務大臣の御言葉にもあったように思いますが、近頃新秩序建設と云うことはこの東洋に於てばかりではない、欧羅巴に於ても数年来此の言葉が現われて居るのであります、

併しながら欧羅巴に於ける新秩序の建設と云うものは、詰り持たざる国が持てる国に向って領土の分割を要求する、即ち一種の国際的共産主義の如きものでありますが、其の後の実情を見ますると全然反対である、随分持てる所の大国が持たざる所の小弱国を圧迫する、迫害する、併呑する、一種の弱肉強食である、茲に至って欧羅巴に於ける新秩序建設の意味は全く支離滅裂、実に乱暴極まるものであります、

併し欧羅巴のことはどうでも宜い、欧羅巴に於ける新秩序の建設などは、吾々に於て顧る必要はない、此の東亜に於ける新秩序建設の内容は如何なるものがあるか、是も近衛声明及び之に呼応したる所の汪兆銘氏の声明を対照してみますると、新秩序建設には確かに三つの事柄が含んで居る、それは何であるか、

第一は善隣友好と云うことである、
第二は共同防共である、
第三は経済提携であります、

是が是までの公文書に現われて居る所の新秩序建設の内容でありまするが、政府の見る所も之に相違ないのであるか、新秩序建設と云うことが朝野の間において屡々謳われて居るのでありまするが、其の新秩序建設の実体は以上述べたる三つのことに過ぎないのであるか、尚お此の外に何ものがあるのであるか、なければ宜しい、あるならばそれを聴きたい、あっても言えないと言わるるならばそれでも宜しい、兎に角是ほど広く、是ほど強く高調せられている所の戦争の目的であり犠牲の目的である所の東亜新秩序建設の実体は、政府の見る所は何であるか、これを承って置けば宜しいのであります。
第04段落

之に関連して御尋ねをしておきたいことがある、此処に昨年十二月十一日附を以て発表せられたる東亜新秩序答申案要旨というものがある、是は興亜院に於て委員会を設けて審議せられたる所の其の答申案であります、之を見ますると云うと、吾々には中々難しくて分らない文句が大分並べてある、即ち

皇道的至上命令、
「うしはく」に非ずして「しらす」ことを以て本義とすることは我が皇道の根本原則、
支那王道の理想、
八紘一宇の皇謨、

中々是は難かしくして精神講話のように聞えるのでありまして、私共実際政治に頭を突込んで居る者には中々理解し難いのであります。

(拍手)

併しそれは別と致しまして、近頃になって東亜新秩序建設の原理原則とか、精神的基礎とか称するものを、特に委員会までも設けて研究しなくてはならぬと云うことは一体どう云うことであるか、東亜新秩序建設は此の大戦争、此の大犠牲の目的であるのでございます、然るに此の犠牲、戦争の目的である所の東亜新秩序建設が、事変以来約一年半の後に於て初めて現われ、更に一年の後に於て特に委員会までも設けて、其の原理、原則、精神的基礎を研究しなくてはならぬと云うことは、私共においてはどうも受取れないのであります、

(拍手)

此の点は総理大臣に限らず、興亜院の総裁で宜しいのでありますからして、何故興亜院に於ては特に委員会までも設けて、斯う云うことの研究に着手せられたのであるか、之を聴いて置きたいのであります、

昭和十五年二月三日付官報号外衆議院議事速記録第五号第四十三頁
 第二段第十九行第五字目以下削除の部分左の如し

第05段落

私は是より一歩を進めまして少し私の議論を交えつつ政府の所信を聴いてみたい、政府に於ては斯ういうことを云われるに相違ない、又歴代の政府も言うて居る、何であるか、

此の度の戦争は是までの戦争と全く性質が違うのである、此の度の戦争に当っては、政府は飽くまでも所謂小乗的見地を離れて、大乗的の見地に立って、大所高所より此の東亜の形勢を達観して居る、そうして何ごとも道義的基礎の上に立って国際正義を楯とし、所謂八紘一宇の精神を以て東洋永遠の平和、延いて世界の平和を確立するがために戦って居るのである、故に眼前の利益などは少しも顧る所ではない、是が即ち聖戦である、神聖なる所の戦いであるという所以である、

斯様な考えを持つて居らるるか分らない、現に近衛声明の中には確に此の意味が現われ居るのであります、其の言は洵に壮大である、その理想は高遠であります、併しながら斯くの如き高遠なる理想が、過去現在及び将来国家競争の実際と一致するものであるか否やと云うことに付ては、延いて考えねばならぬのであります。

(拍手)

苟も国家の運命を担うて立つ所の実際政治家たる者は、唯徒に理想に囚わるることなく、国家競争の現実に即して国策を立つるにあらざれば、国家の将来を誤ることがあるのであります。

(拍手)

現実に即せざる所の国策は真の国策にあらずして一種の空想であります、先ず第一に東洋永遠の平和、世界永遠の平和、是は望ましきことではありまするが、実際是が実現するものであるか否やと云うことに付ては、お互に考えねばならぬことである、古来何れの時代に於きましても平和論や平和運動の止むことはない、宗教家は申すに及ばず、各国の政治家等も口を開けば世界の平和を唱える、又平和論の前には何人と雖も真正面からして反対は出来ないのであります、併しながら世界の平和などが実際得られるものであるか、是は中々難しいことであります、

私共は断じて得られないと思って居る、十年や二十年の平和は得られるか知れませぬが、五十年百年の平和すら得られない、歴史家の記述する所に依りますると、過去三十五世紀、三千四百幾十年の間に於て、世界平和の時代は僅に二百幾十年、残りの三千二百幾十年は戦争の時代であると言うて居る、斯くの如く過去の歴史は戦争を以て覆われて居る、将来の歴史は平和を以て満たさるべしと何人が断言することが出来るか

(拍手)

のみならず御承知の通りに近世文明科学の発達に依りまして、空間的に世界の縮小したること実に驚くべきものである、之を千年前の世界に比較するまでもなく、百年前の世界に比較するまでもなく、五十年前の世界に比較しましても、実に別世界の感が起こらざるを得ないのである、此の縮小せられたる世界に於て、数多の民族、数多の国家が対立して居る、其の上人口は増加する、生存競争は愈々激しくなって来る、民族と民族との間、国家と国家との間に競争が起らざるを得ない、而して国家間の争いの最後のものが戦争でありまする以上は、此の世界に於て国家が対立して居りまする以上は、戦争の絶ゆる時はない、平和論や平和運動が何時しか雲散霧消するのは是は已むを得ない次第であります、

若し之を疑われるのでありますならば、最近五十年間に於ける東洋の歴史を見ましょう、先程申上げました通りに、我国は曾て支那と戦った、其の時於ても東洋永遠の平和が唱えられたのである、次に露西亜と戦った、其の時にも東洋永遠の平和が唱えられたのである、又平和を目的として戦後の条約も締結せられたのてありまするが、平和が得られましたか、得られないではないか、平和が得られないからして今回の日支事変も起こって来たのである、

又眼を転じて欧羅巴の近状を見ようではありませぬか、御承知の通りに二十幾年前に欧羅巴はあの通りの大戦争をやった、五箇年の間国を挙げて戦った、戦争の結果はどうなったか、敗けた国は言うに及ばず、勝った国と雖も徹頭徹尾得失相償わない、其の苦き経験に顧みて、戦争などはやるものでない、凡そ世の中に於て戦争ほど馬鹿らしいものはない、それ故に未来永久、此の地球上からして戦争を絶滅する、其の目的、其の理想をもって国際連盟を作った、我が日本も五大強国のーとして之に調印して居るのであります、平和は得られましたか、国際連盟の殿堂はどうなって居るか、民族の発展欲、国家の発展欲は、紙上の条約などで以て抑制することが出来るものでない、十年経ち、二十年経つ間に於て又もや戦争熱が勃興して来る、欧羅巴の現状は活きた教訓を吾々の前に示して居るのであります、

或者は言うて居る、此の度の戦争は「ベルサイユ」条約が因である、「ベルサイユ」条約に於て独逸に向って苛酷なる所の条件を課したから、其の反動として今回の戦争が起こったのであると斯う言うて居る、一応の理窟であるに相違ない、併しなから「ベルサイユ」条約がなかったならば戦争は起こらなかったと誰が断言することか出来るか、第一次欧羅巴戦争の前に於きましては「ベルサイユ」条約はなかったのてありますけれども、戦争は起こったのである、

即ち人間の欲望には限りがない、民族の欲望にも限りがない、国家の欲望にも限りがない、屈したるものは伸びんとする、伸びたものは更に伸びんとする、茲に国家競争が激化するのであります、尚お之を疑う者があるならば、更に遡って過去数千年の歴史を見ましょう、世界の歴史は全く戦争の歴史である、現在世界の歴史から…

(発言する者多し)

(議長 「静粛に」)

戦争を取り除いたならば、残る何物があるか。

(「君のような自由主義者が多いからだ」と呼ぶ者あり)

そうしてーたび戦争が起こりましたならば、最早問題は正邪曲直の争いではない、是非善悪の争いではない、徹頭徹尾力の争いであります、強弱の争いである、強者が弱者を征服する、これが戦争である、正義が不正義を贋懲する、これが戦争という意味ではない、先程申しました第一次欧羅巴戦争に当りましても、随分正義争いが起こったのであります、独逸を中心とする所の同盟側、英吉利を中心とする所の連合側、何れも正義は我に在りと叫んだのでありますが、戦争の結果はどうなったか、正義が勝って不正義が敗けたのでありますか、そうではないのでありましょう、正義や不正義は何処かへ飛んで行って、詰まり同盟側の力が尽き果てたからして投げ出したに過ぎないのであります、今回の戦争に当りましても相変らず正義論を闘わして居りますが、此の正義論の価値は知るべきのみであります、詰まり力の伴わざる所の正義は弾なき大砲と同じことである。

(拍手)

羊の正義論は狼の前には三文の値打もない、欧羅巴の現状は幾多の実例を吾々の前に示して居るのであります、

斯くの如き事態でありますから、国家競争は道理の競争ではない、正邪曲直の競争でもない徹頭徹尾力の競争である。

(拍手)

世にそうでないと言う者があるならばそれは偽りであります、偽善であります、吾々は偽善を排斥する、飽くまでも偽善を排斥して、以て国家競争の真髄を掴まねばならぬ、国家競争の真髄は何であるか、曰く生存競争である、優勝劣敗である、適者生存である、適者即ち強者の生存であります、強者が興って弱者が亡びる、過去数千年の歴史はそれである、未来永遠の歴史も亦それでなくてはならないのであります。

(拍手)

此の歴史上の事実を基礎として、吾々が国家競争に向うに当りましては、徹頭徹尾自国本位であらねばならぬ、自国の力を養成し、自国の力を強化する、是より外に国家の向うべき途はないのであります。

(拍手)
第06段落

彼の欧米の基督教国、之を見ようではありませぬか、彼等は……

(「もう宜い」「要点要点」と呼び、其の他発言する者多し)

(議長「静粛に願います」)

彼等は内にあっては十字架の前に頭を下げて居りますけれども、一たび国際問題に直面致しますと、基督の慈善博愛は蹴散らかされてしまって、弱肉強食の修羅道に向って猛進をする、是が即ち人類の歴史であり、奪うことの出来ない現実であるのであります、

此の現実を無視して、唯徒に聖戦の美名に隠れて、国民的犠牲を閑却し、曰く国際正義、曰く道義外交、曰く共存共栄、曰く世界の平和、斯くの如き雲を掴むような文字を列べ立てて、そうして千載一遇の機会を逸し、国家百年の大計を誤るようなことかありましたならば

(小田栄君「要点を言え、要点を」と呼び、其の他発言する者多し)

(議長「静粛に願います、小田君に注意致します」)

現在の政治家は死しても其の罪を滅ぼすことは出来ない。私は此の考えを以て近衛声明を静に検討して居るのであります、即ち之を過去数千年の歴史に照し、又之を国家競争の現実に照して…

(発言する者多し)

(議長「静粛に願います」)

彼の近衛声明なるものが、果して事変を処理するに付て最善を尽したるものであるかないか、振古未曽有の犠牲を払いたる此の事変を処理するに適当なるものであるかないか、東亜に於ける日本帝国の大基礎を確立し、日支両国の間の禍根を一掃し、以て将来の安全を保持するに付て適当なるものであるかないか、之を疑う者は決して私一人ではない。

(拍手)

苟も国家の将来を憂うる者は、必ずや私と感を同じくして居るであろうと思う、それ故に近衛声明を以て確乎不動の方針なりと声明し、之を以て事変処理に向わんとする現在の政府は、私が以上述べたる論旨に対し逐一説明を加えて、以て国民の疑惑を一掃する責任があるのであります。

(拍手)

第07段落

私は更に進んで重慶政府と、近く現われんとする所の新政府との関係に付て御尋を致したいのであります、昨年八月阿部内閣が成立致しました当時に於ては、汪兆銘氏を首班とする所の新政府は、今にも現われんとするが如き噂が立てられたのてありますが、それが段々と延引して今日に至って居るのである、併し聞く所に依れば、愈々近く其の成立を見んとするのでありますから、是は日支両国の為に洵に慶賀に堪えないことであります、我国は曩に蒋政権を撃滅するまでは断じて戈を収めない、国民政府を対手にしては一切の和平工作をやらないと宣言して居る、然る以上は新に生るる所の新政府、之を援けて以て和平調整を為さねばならぬ、之に付ては誰一人として反対する者はないのであります、

併しながら退いて考えて見ますると、一体此の新政府はどれだけの力を持って現われるのであるか、是が私共には分らないのであります、申すまでもなく苟も国際間に於て、又国際法上に於て、政府として立ちまする以上は、内に向っては国内を統治する所の実力を備え、外に向っては国際義務を履行する所の能力を有する、此の内外両方面の条件を兼備するものにあらざれば、政府として立つことも出来ねば、政府として之を承認することも出来ない筈であります、其の実力とは何であるか、即ち兵力であります、軍隊の力であります、如何に法制を整えても、如何に政治機構を打建てても、又如何に文章口舌に巧みでありましても、兵力を有せざる政府の威令が行わるる訳がない、殊に之を支那歴朝創業の跡に顧みましても、旧王朝を滅して新王朝を創業する、旧政権を倒して新政権を建設する者は、悉く武人であります、即ち兵馬の間に天下の権を握らざる者はないのである、

彼の孫逸仙が革命事案に向って精力を傾倒したに拘らず、其の業が成らず志を得ずして終に最期を遂げたのは何が故であるか、詰り彼が武人にあらず、武力を有しなかったからであります、之に反して彼の後輩でありまする所の蒋介石が、一時なりとも支那を統一したのは何が故であるか、彼は武人であって武力を有しておったからであります、殊に近頃支那の形勢を見渡しますると云うと、我軍の占領地域であり、同時に新政権の統轄地域である所に於てすら、匪賊は横行する、敗残兵は出没する、国内の治安すら完全に維持することが出来ない、加うるに新政府と絶対相容れざる所の彼の重慶政府を撃滅するにあらざれば、新政府の基礎は決して確立するものではない、それ故に新しき政府を打建てる第一の条件は、何といっても兵力でありまするが、将に現われんとする所の新政府には其の力があるのであるのであるか、ないのであるか、之に付て御説明を煩わしたいと思うのであります。
第08段落

次に新政府が現われましたならば、我国は何としても之を承認せざるを得ないのであります、之を承認すると同時に此の新政府の発展に向っては、極力之を支持せねばならぬのである、支持すべきことを既に声明せられて居る以上は、此の声明を何処までも履行しなければならない、即ち是が為には政治上に於ても、軍事上に於ても、又経済上に於ても、其の他有ゆる犠牲を払って此の新政府を援けねばならぬのである、そうして新政府を援けて将来名実共に完全なる独立政府とした其の後に於て、我国との関係が極めて円満に持続せらるるものであるかないか、是も大切なる問題であるのであります、私共は決して新政府を疑う者ではない、殊に汪兆銘氏を首めとして、身を挺して和平救国の為に奮闘して居る所のあの支那の政治家諸氏に対しては、衷心より敬意を払う者であります。

併しながら、国の異なるに従って国民性にも違いがある、是は仕方がない、現に汪兆銘氏は一昨年の暮に重慶脱出以来、屡々声明書を発表して、蒋介石に向って和平勧告をしたのであります、併しながら蒋介石は之を一蹴して顧みない、そこで昨年の七月には断然として蒋介石に向って絶縁状を送って居る、然るにも拘らずつい最近一月の十六日でありまするか、それこそ辞を卑くし、言葉を厚くして蒋介石に向って停戦講和の通電をやって居る、是は支那の政治家に於て初めて出来ることでありまして、吾々日本の政治家に於ては想像も及ばないことである、それ故に新政府を援助することは宜しいが、新政府の将来に向って決して盲目であってはならない、之に付て総理大臣はどう云う考えを持って居られるのであるか、之を一つ承って置きたいのであります。
第09段落


次に新政府が出来た後に於て重慶政府との関係はどうなるものであるか、之に付きましては前内閣の阿部首相は新聞を通じて、斯う云う意見を述べて居らるるのであります、即ち新政権が出来たならば、新政権は重慶政府に向って働き掛けるであろう、新政権樹立の趣旨が徹底したならば、重慶政府も一緒になって和平救国の途に就くであろう、斯う云う意見を述べて居られるのであります、是は決して前阿部首相一人の意見ではない、今日政府の要人の中には、確に此の意見を持って居る人があるのであります、是が私には分り兼ねるのである、新政権と重慶政府、どう考えても是が将来一致するものであるとは思えないのであります、なぜに一致しないか、御承知の通りに重慶政府は徹頭徹尾容共抗日を以て其の指導精神と為し、之を基として長期抗戦を企てて居るのである、然るに之に反して新政府は反共親日をもって指導精神と為し、之を以て新政府の樹立に向って進んでいるのである、

此の氷炭相容れざる二つのものがどうして一緒になることが出来るか、私共に於てはどうも是は想像が付かない、是は唯理窟ばかりの問題ではなくして、支那の現状を見ましても斯様なことは到底想像することが出来ないのである、殊に先程申しましたように、蒋介石を徹底的に撃滅するにあらざれば断じて戈を収めない、此の鉄の如き方針が確立して、之を以て有ゆる作戦計画が立てられて居るべき筈であるのであります、先程引用致しました所の此の文書の中に於きましても、確に其の意味は現われて居るのである、即ち

重慶政府が出来た所が蒋介石は決して兜を脱がない、重慶政府が屈服しない限りは日本軍は飽くまでも重慶討伐に向って進軍するのである、汪兆銘は日本の重慶討伐に便乗して戦うのである、

是が軍部の方針であるに相違ないのであります、然るに前内閣の首相及び政府の要人は彼の如き気楽なる考を持って居る、支那事変処理の根本方針に付て政府と軍部との間に於て何か意見の相違があるらしくも思えるのであります、是は前内閣のやったことでありまして、現内閣のやったことではないのてありまするが、併し支那事変の処理に付ては前内閣の方針を踏襲すると言われた所の現内閣の総理大臣は、之に付ても相当のお考えがあるには相違ないと思いまするから、此の点も併せて伺って置きたいのであります。

第10段落

次に重慶政府に対する方針、重ねて申しまするが、蒋政権を撃滅するにあらざれば断じて戈は収めない、蒋介石の政府を対手としては一切の和平工作はやらない、この方針は動かすべからざるものでありまするが、其の後蒋介石は敗戦に次ぐに敗戦をもってして、今日は重慶の奥地に逃込んで、一地方政権と堕して居るとはいうものの、今尚お大軍を擁して長期抗戦を豪語し、有ゆる作戦計画をして居るように見受けられるのであります、固より之に付ては我方に於きましても確乎不抜の方針が立てられて居るに相違ありませぬが、併し前途のことは是は測り知ることが出来ない、然るに一方に於ては何処までも新政権を支持せねばならぬ、有ゆる犠牲を払って之を支持せねばならぬ、即ち一方に於ては蒋介石討伐、他の一方に於ては新政権の援助、我国は是より此の二つの重荷を担うて進んで行かなければならぬのでありますが、是が我が国力と対照して如何なる関係を持って居るものであるか、私共決して悲観するものではない、悲観するものではないが、是が人的関係の上に於て、物的関係の上に於て、又財政経済の関係に於て如何なるものてあるかと云うことは、全国民が聴かんとする所であると思うのであります。

(拍手)

それ故に此の点に付きましては総理大臣は申すに及ばず、関係大臣に於て出来得る限りの説明を与えられたい、吾々は固より言えないことを聴こうとするのではない、外交上、軍事上、其の他経済財政の関係に於きましても、言えないことがあることは能く承知して居るのでありますから、言えないことを聴かんとするのではない、此の議場に於て言えるだけの程度に於て、成べく詳しく御説明を願いたいと思うのであります。

最後に支那全体を対象として、今後の形勢に付て政府の意見を聴いて置きたいことがある、申すまでもなく支那は非常な大国であります、其の面積に於きましても日本全土の十五倍に上って居る、五億に近い人口を有して居る、我国の占領地域が日本全土の二倍半であると致しますならば、まだ十二倍半の領土が支那に残されて居るのであります、此の広大なる所の領土に加うるに、之に相当する所の人口を以てして、之を統轄する所の力を有する者でなければ、支那の将来を担って立つことは出来ない、近く現われんとする所の新政府は是だけの力があるのであるか、私共如何に贔屓目に見ましても、此新政府に是だけの力があるとはどうも思えないのであります、

そうするとどうなるのでありますか、若し蒋介石を撃滅することが出来ないとするならば、是は最早問題でない、縦し之を撃滅することが出来たとしても、其の後はどうなる、新政府に於て支那を統一する所の力があるのでありますか、あると言わるるならば其の理由を私は承って置きたい、若し其の確信がないとせらるるならば、支那の将来はどうなるか、各所に於て政権が分立して、互に軋轢して摩擦を起す、新秩序の建設も何もあったものではないのであります。

(拍手)

そうして斯くの如き状態が支那に起るのは何が基であるかと云うと、詰まり蒋政権を対手にしては一切の和平工作をやらない、即ち一昨年の一月十六日、近衛内閣に依って声明せられました所の爾来国民政府を対手にせず、之に原因して居るものではないかと思うが、政府の所見は如何であるか。

而して若し今後此の方針を固く守って進みますならば、表面に於ても裏面に於ても、公式非公式を問わず、一切重慶政府を対手としてはならないのである、又我国が之を対手とすることが出来ないのみならず、近く現われんとする所の新政権も、断じて重慶政府を対手にすることは出来ない筈なのであります、我が日本は対手にしはしないが、新政府は之を対手にしても宜いと云うことは、是は言われない、なぜならば新政府に対しては日本は干渉はしないが指導するのである、即ち新政府に対して日本は指導的立場に立って居るのでありまするから、若し新政府が重慶政府に向って何か交渉の途を開くと仮定致しまするならば、是は誰が見た所が日本の指導に基づくものに相違ないと思う、又思われても仕方がないのであります、そうすると支那の将来はどうなるものでありますか、何時まで経っても此の現状をば精算することは出来ないと思われるのでありまするが、政府は此の点に付てどう云う御考えを持って居られるのでありますか、是も併せて伺いたいのであります。

(拍手)
第11段落

私の質問は大体以上を以て終りを告げるのでありまするが、最後に於て一言を残して、併せて政府の所信を質しておきたいことかある、改めて申すまでもござりませぬが、支那事変は実に建国以来の大事件であります、建国以来二千六百年、此の間に於て我国は幾度か外国と事を構えたことはありまするけれども、今回の事変の如く其の規模の広大なるもの、其の犠牲の大なるものはないのであります、随て此の事変が如何に処理せられ、如何に解決せらるるかと云うことは、実に我が日本帝国の興廃の岐るる所であります、事変以来今日に至るまで吾々は言わねばならぬこと、論ぜねばならぬことは沢山あるのでありまするが、是は言わない、是は論じないのであります、吾々は今日に及んで一切の過去を語らない、又過去を語る余裕もないのであります、一切の過去を葬り去って、成べく速に、成べく有利有効に事変を処理し、解決したい、是が全国民の偽りなき希望であると同時に、政府として執らねばならぬ所の重大なる責任であるのであります。

(拍手)

歴代の政府は国民に向って頻りに精神運動を始めて居る、精神運動は極めて大切でありまするが、精神運動だけで事変の解決は出来ないのである、況や此の精神運動が国民の間にどれだけ徹底して居るかと云うことに付ては、此の際政府としても考え直さねばならぬことがあるのではないか。

(拍手)

例えば国民精神総動員なるものがあります、この国費多端の際に当って、随分巨額の費用を投じて居るのでありまするが、一体是は何を為して居るのであるかは私共には分らない。

(拍手)

此の大事変を前に控えて居りながら、此の事変の目的は何処にあるかと云うことすらまだ普く国民の間には徹底して居らないようである。

([ヒヤヒヤ』拍手)

聞く所に依れば、何時ぞや或る有名な老政治家が、演説会場に於て聴衆に向って今度の戦争の目的は分らない、何の為に戦争をして居るのであるか自分には分らない、諸君は分って居るのであるか、分って居るならば聴かして呉れと言うた所が、満場の聴衆一人として答える者がなかったと云うのである。

(笑声)

此処が即ち政府として最も注意をせねばならぬ点であるのである、殊に…

(「注意しろ」「議長」と呼ぶ者あり)

(議長「静粛に願います」)

国民精神に極めて重大なる関係を持って居るものであって、歴代の政府が忘れて居る所の幾多の事柄があるのであります、例えば戦争に対する所の国民の犠牲であります、何時れの時に方りましても戦時に当って国民の犠牲は、決して公平なるものではないのであります、即ち一方に於ては戦場に於て生命を犠牲に供する、或は戦傷を負う、然らざるまでも悪戦苦闘して有ゆる苦艱に耐える百万二百万の軍隊がある、又仮令戦場の外に居りましても、戦時経済の打撃を受けて、是までの職業を失って社会の裏面に蹴落される者もどれだけあるか分らない、然るに一方を見ますると云うと、此の戦時経済の波に乗って所謂殷賑産業なるものが勃興する、或は「インフレーション」の影響を受けて一攫千金は愚か、実に莫大なる暴利を獲得して、目に余る所の生活状態を曝け出す者もどれだけあるか分らない。

(拍手)

戦時に当っては已むを得ないことではありますけれども、政府の局に在る者は出来得る限り此の不公平を調節せねばならぬのであります、

然るに此の不公平なる所の事実を前に置きながら、国民に向って精神運動をやる、国民に向って緊張せよ忍耐せよと迫る、国民は緊張するに相違ない、忍耐するに相違ない、併しながら国民に向って犠牲を要求するばかりが政府の能事ではない。

(拍手)

是と同時に政府自身に於ても真剣になり、真面目になって、以て国事に当らねばならぬのではありませぬか。

(「ヒヤヒヤ」拍手)

然るに歴代の政府は何を為したか、事変以来歴代の政府は何をなしたか。

(「政党は何をした」[黙って聞け」と呼ぶ者あり)

二年有半の間において三たび内閣が辞職をする、政局の安定すら得られない、斯う云うことでどうして此の国難に当ることが出来るのであるか、畢竟するに政府の首脳部に責任観念が欠けて居る。

(拍手)

身を以て国に尽す所の熱力が足らないからであります、畏多くも組閣の大命を拝しながら、立憲の大義を忘れ、国論の趨勢を無視し、国民的基礎を有せず、国政に対して何らの経験もない、而も其の器にあらざる者を拾い集めて弱体内閣を組織する、国民的支持を欠いて居るから、何事に付ても自己の所信を断行する所の決心もなければ勇気もない、姑息倫安一日を弥縫する所の政治をやる、失敗するのは当り前であります。

(拍手)

斯う云うことを繰返して居る間に於て事変は益々進んで来る、内外の情勢は愈々逼迫して来る、是が現時の状態であるのではありませぬか、之をどうするか、如何に始末をするか、朝野の政治家が考えねばならぬ所は茲に在るのであります、

吾々は遡って先輩政治家の跡を追想して見る必要がある、日清戦争はどうであるか、日清戦争は伊藤内閣に於て始められて伊藤内閣に於て解決した、日露戦争は桂内閣に於て始められて桂内閣が解決した、当時日比谷の焼打事件まで起りましたけれども、桂公は一身に国家の責任を背負うて、此の事変を解決して然る後に身を退かれたのであります、伊藤公と云い、桂公と云い、国に尽す所の先輩政治家は斯くの如きものである、然るに事変以来の内閣は何であるか、外に於ては十万の将兵が殖れて居るに拘わらず、内に於て此の事変の始末を付けなければならぬ所の内閣、出る内閣も出る内閣も輔弼の重責を誤って辞職をする、内閣は辞職をすれば責任は済むかは知れませぬが、事変は解決はしない、護国の英霊は蘇らないのであります。

(拍手)

私は現内閣が歴代内閣の失政を繰返すこと勿かれと要求をしたいのであります、

事変以来我が国民は実に従順であります、言論の圧迫に遭って国民的意思、国民的感情をも披瀝することが出来ない、殊に近年中央地方を通じて、全国に弥漫して居ります所の彼の官僚政治の弊害には、悲憤の涙を流しながらも黙々として政府の命令に服従する、政府の統制に服従するのは何が為であるか、一つは国を愛する為であります、又一つは政府が適当に事変を解決して呉れるであろう、之を期待して居るが為である、

然るに若し一朝此の期待が裏切らるることがあったならばどうであるか、国民心理に及ぼす影響は実に容易ならざるものがある。

(拍手)

而も此の事が、国民が選挙し国民を代表し、国民的勢力を中心として解決せらるるならば尚お忍ぶべしと雖も、事実全く反対の場合が起ったとしたならば、国民は実に失望のどん底に蹴落されるのであります、国を率いる所の政治家は茲に目を着けなければならぬ、

繰り返して申しまするが、事変処理は有ゆる政治問題を超越する所の極めて重大なる所の問題であるのであります、内外の政治は悉く支那事変を中心として動いて居る、現に此の議会に現われて来まする所の予算でも増税でも、其他有ゆる法律案は何れも直接間接に事変と関係を持たないものはないでありましょう、それ故に其の中心でありまする所の支那事変は如何に処理せらるるものであるか、其の処理せらるる内容は如何なるものであるか、是が相当に分らない間は、議会の審議も進めることが出来ない筈なのである、私が政府に向って質問する趣旨は茲にあるのでありまするから、総理大臣は唯私の質問に答えるばかりではなく、尚お進んで積極的に支那事変処理に関する所の一切の抱負経綸を披瀝して、此の議会を通して全国民の理解を求められることを要求するのである。

(拍手)

私の質問はこれをもって終りと致します。

(拍手)

(発言する者あり)

(議長「野溝君に御注意致します」)

12(国務大臣米内光政君登壇)
国務大臣(米内光政君)お答致します

支那事変処理に関する帝国の方針は確乎不動のものであります。政府はこの方針に向って邁進せんとするものてあります。戦争と平和に関するご意見は能く拝聴致しました。以下具体的問題についてお答を致します。

支那側の新中央政府に関する帝国の態度は如何、こういうご質問であります。汪精衝氏を中心とする新中央政府は、東亜新秩序建設につきまして、帝国政府と同じ考えを持っておりますから、帝国と致しましては、新政府が真に実力あり、かつ国交調整の能力あるものであるということを期待致しまして、その成立発展を極力援助せんとするものであります。

(拍手)

その次に新政府樹立後、これと重慶政権との関係は如何というご質問でありまするが、新政府が出来上りまして、差当り重慶政府と対立関係となるということは、やむを得ないものと考えておりまするが、重慶政府が翻意解体致しまして新政府の傘下に入ることを期待するものであります。

次に国内問題でありまするが、政府は東亜新秩序建設の使命を全うせんがために、鞏固なる決意のもとに手段を尽して断乎時局の解決を期している次第であります。この興亜の大事案を完成しまするためには、労務、物資、資金の各方面に亘りまして、戦時体制を強化整備致しまして、国家の総力を挙げて、本問題処理のために総合集中することが肝要でありまして、これがために真に挙国一致、不抜の信念に基づきまする国民の理解と協力とを得ることが必要であると存ずるのであります

(拍手)
http://fanblogs.jp/kokochan/archive/55/0

10. 中川隆[-13742] koaQ7Jey 2018年12月18日 20:15:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

日本をアメリカの植民地にして貰った天皇一族 _ 2


2012-09-08 吉田茂は“マッカーサーのペット”だった


吉田茂は戦前から米国のある筋(奥の院)と密通していたと言われている。太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941年9月6日の「帝国国策遂行要領」に関するいわゆる「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂だった。


ベストセラー「戦後史の正体」の著者・孫崎 亨氏がNHKドラマ「負けて勝つ~戦後を創った男・吉田茂」(9月7日よりスタート。午後9時~10時13分・連続5回)の正しい見方を伝授している。


(引用、ここから)
孫崎 享 2012年9月7日 - 15:05

吉田茂:NHKドラマ吉田茂の「負けて勝つ」。
本当か!

歴史を見れば、吉田茂、本質従米以外の何者でもない。

今日日本の政治の醜さの原型は吉田首相に。
占領下米国隷従の吉田首相が独立後も政権を担ったのが日本の悲劇。
かつ池田勇人等、吉田学校とか言ってその後の政治家も継承。

米国隷属の権化を英雄に仕立てようとするNHKドラマは何を意図?
番組偶然でない。

野田首相はTPPやオスプレイ等で全くの隷属。
その時期にこの番組。

という訳で、見る時の手引き書を作成


 @占領軍の性格を正確に伝えているか。

  降伏文書は「日本はポツダム宣言実施のため、連合国総司令官に要求された全命令を出し行動とる事を約束する」、


 A吉田首相の基本姿勢は

  『鯉はまな板の上にのせられてからは、庖丁をあてられてもびくともしない。あの調子』。

  それを知らせているか。


 Bマッカーサーは

  「軍事占領は、一方はドレイになり、他方はその主人の役を演じ始める

と述べ、吉田を含め日本側をドレイに見てたことを知らせているか


 C吉田茂はGHQの情報部門の代表者ウィロビーの宿舎に夜こそこそ出かけ指示を仰いでいたことを報じているか、


 D占領直後、米国は日本の経済を徹底的に破壊する姿勢を示したが、その時吉田はどうしていたか、


 E米国の対日政策が変更したのは冷戦が深刻化し、米国が日本利用決定し対日経済政策変更、これを単に吉田の業績としてないか、


 F吉田首相の最大の問題は安全保障で日米安保条約に署名したこと。


ダレスは

「我々が望むだけの軍隊を、望む場所に、望む期間だけ駐留させる権利を確保する、それが米国の目標」。

 吉田首相はこれにどう抵抗したか、

またダレスは米紙に

「米国は日本を守る義務をもっていない。」

と書いているが、これに吉田首相はどう対応したか」

皮肉なことにNHK放映、「戦後史の正体」ベストセラーになる真っ最中。

「戦後史の正体」の多くの読者は「この番組何」と厳しい評価を下すだろう。
(引用、ここまで)

“マッカーサーのペット”だった吉田茂をなぜ、今、あらためて英雄扱いするのか。その背後には米国政府をも動かす“奥の院”の存在があることを私たちは知るべきなのだ。

 そもそも、吉田茂は戦前から米国のある筋(奥の院)と密通していたと言われている。太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941年9月6日の「帝国国策遂行要領」に関するいわゆる「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂だった。

 吉田茂の出自を見れば、この男が“奥の院=ロスチャイルド”と繋がっていることが分かる。

 吉田は1878年(明治11年)、土佐自由党草分けの一人、竹内綱の五男として東京に生まれた。幼児に横浜の富裕な貿易商、吉田健三の養子となり、東京帝国 大学政治科を卒業後、外務省に入省した。大久保利通の次男、牧野伸顕伯爵の長女、雪子と結婚。天津総領事、奉天総領事、イタリア大使、イギリス大使を歴任 した。

 養父・吉田健三とは何者か?ここがポイントなのだ。

吉田健三は英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店長に就任。
日本政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績をあげた。

ジャーディン・マセソン商会は国際巨大財閥ロスチャイルド系であり、設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。


 富豪であった健三の急死後、わずか11歳の吉田茂に50万円(現在の六十億円に相当)もの莫大な遺産が残される。吉田茂の妻は牧野伸顕伯爵の長女・雪子。

 雪子は米国駐日大使ジョゼフ・グルーの妻アリス・ペリー・グルーとは幼馴染みであり、アリスから世界経済や政治についてレクチャーを受けていた。

実はアリスはペーリ提督の末裔にあたる。このアリスから雪子をはじめ昭和天皇の母である九条節子と秩父宮妃でもある鍋島伸子の娘3人はロスチャイルド=モルガンの情操教育=洗脳教育を受けていた。

アリスの母の旧姓はキャボット。
黒人奴隷売買と麻薬売買で富を築いた悪名高きキャポット一族である。


 吉田茂は妻の雪子を通じてロスチャイルド=モルガンに寵愛され、出世街道を上昇していく。ちなみに雪子は麻生太郎元首相の祖母である。

 前述の通り、吉田茂は“日本最大の売国奴”だった。米国にとっては最も便利な男だった。その功績で、トルーマン米大統領とマッカーサーの決定で戦後最長の長期政権の首相になったことは言うまでもない。
 
 NHKドラマ「負けて勝つ」はまさか吉田茂が“売国奴”だったことなど触れるわけがないだろう。5回にわたるドラマは最も重要であり真実である部分を隠蔽するに違いない。この点を凝視する必要がある。

 ところで、吉田茂の身長は155センチ。かなりの小柄だ。主演の渡辺謙は何と184センチという長身だから、このことをとっても“嘘”なのだ。今の若者にとっては吉田茂が小男だったことなどは知る由もないから、イメージのギャップもない。それを良いことにマッカーサーにひけをとらない長身の吉田茂を視聴者に印象づけようとしている。

 解散総選挙が視野に入りつつある今、保守本流と言われてきた吉田茂を持ち上げるドラマが放送されることに違和感を感じなければならない。
http://ameblo.jp/parody/entry-11349418084.html


▲△▽▼


吉田茂側近(辰巳栄一元陸軍中将)がCIAに情報を提供 早大教授が米公文書発見
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/212.html
http://www.chunichi.co.jp/s/article/2009100301000210.html

吉田茂側近がCIAに情報を提供 早大教授が米公文書発見

 吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)が、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれ、自衛隊や内閣調査室の創設にかかわる内部情報を提供していたことを示す資料を3日までに、有馬哲夫早大教授(メディア研究)が米国立公文書館で発見した。日本の再軍備をめぐり、吉田元首相の側近までも巻き込んだ米国側の対日情報工作の一端を示しており、戦後の裏面史に光を当てる貴重な発見だ。

 有馬教授は同館で発見したCIAのコードネーム表、辰巳氏ら旧軍人に関する文書などを総合的に分析。「より強力な軍隊と情報機関の創設を願っていた旧軍人の辰巳氏は、外交交渉で日本に再軍備を迫っていた米国にCIAを通じて情報を流すことで、米国が吉田首相に軽武装路線からの転換を迫ることを期待していた」と指摘している。

 CIAの辰巳氏に関するファイル(52〜57年)では、辰巳氏は実名のほか「首相に近い情報提供者」「首相の助言者」「POLESTAR―5」とさまざまな名称で呼ばれ、「保安隊の人選」「自衛隊」「内閣調査室」などの「情報をCIAに与えた」と記されていた。

 辰巳氏は占領期、旧軍人による反共工作組織「河辺機関」の一員で、連合国軍総司令部(GHQ)の了解の下、新たな軍隊と情報機関の立案に参画していた。吉田は首相就任後、「河辺機関」のほとんどの旧軍人を遠ざける一方、辰巳氏を信頼し、50年の警察予備隊の幹部人選などを任せた。
(共同)

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原爆を投下される迄 日本が頑張った訳

第二次世界大戦中、昭和天皇ヒロヒトは、敵国の戦争省最高幹部であるドレイパーから兵器を大量に輸入し、日本軍に高額で売り付け、利益をスイス銀行に蓄財していた。

 天皇とドレイパーは、兵器密売の共同事業者として、兵器販売促進のため日米戦争を行っていた。

 戦後、来日したドレイパーが最初に行った事は、天皇への兵器密売の「売掛金=未払い代金の回収」であった(この点は、天皇の側近であった渡辺武の「渡辺武日記 対占領軍交渉秘録」東洋経済新報社を参照)。

 戦争末期、ドレイパーは、天皇が無条件降伏を申し出ると同時に、「戦争犯罪人として自分を処刑しないで欲しい」と命乞いをした事に対し、天皇の命の保証と戦後における天皇制度の維持を確約し、それと引き換えに、日本に原爆を投下し終えるまで無条件降伏を承認しない、という条件を出した。

天皇は広島・長崎への原爆投下を事前に承認し、それと引き換えに、自分の命と地位の延命を手に入れた。天皇は、自分1人が助かり、それと引き換えに、広島、長崎の市民の皆殺しを喜んで承諾した。

 これが、「同業者、兵器密売企業の共同経営者」天皇とドレイパーの密約である。
http://alternativereport1.seesaa.net/


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昭和天皇に入れ知恵した(?)ジョセフ・グルーの正体

アメリカのジョセフ・グルーは1941年日米開戦までの駐日大使であったが、在任中10年間の間に牧野伸顕、吉田茂、樺山愛輔らと深く関わって、牧野らから御前会議の内容や日本政府の極秘事項をスパイさせていた。白洲次郎もその一味である。

 ジョセフ・グルーは、外交史ではよく平和主義者で、戦争末期には天皇制を認めて早期に終戦を図るべき努力したとなっているが、大ウソである。
 以下は、おおむね鬼塚英昭氏の『原爆の秘密(国外編)』(成甲書房)から教わったものだ。

 グルーはアメリカのモルガン財閥の血族の一人である。つまりモルガン財閥が対日工作のために送り込んだエージェントであった。戦争に反対した平和主義者とは、アメリカの走狗となり果てていた当時の(今も)マスゴミによって宣伝された顔なのである。鬼塚氏はグルーを、トルーマン大統領に代わってから実質的な国務長官として、原爆投下に向けてスティムソン陸軍長官と共同歩調をとったえげつない人物として描いている。
 
 鬼塚氏によれば、原爆は国際金融資本グループが第二次世界大戦後の世界で、核兵器で大儲けをする計画でなされた実験であったと述べている。それが長崎に投下されたプルトニウム爆弾であった。広島に投下されたウラン型の原子爆弾はとうに完成していたが、プルトニウムでの原爆は完成に時間がかかった。だからプルトニウム爆弾が完成するまで日本が降伏しないように指示をだしたのはグルーであり、それを日本側の吉田茂、牧野伸顕、樺山愛輔ら(おそらく海軍の米内光政も)に伝える役割を担ったのが白洲次郎であった。

 憲兵隊もそれを掴んでいて、吉田茂とその反戦グループの意味で彼らを「ヨハンセン・グループ」と呼んだ。ヨハンセン・グループは、アメリカのユダヤ国際金融勢力の意を受けたグルーの指示で日本の降伏を引き延ばしていた。
 鬼塚氏は、白洲次郎を「スティムソン陸軍長官(原爆の責任者)とヨハンセンに操られた“プリンシプルのない男”」と称している。

 白洲次郎の父・文平は綿貿易商「白洲商店」を興して巨万の富を築いた人物である。明治時代にハーヴァード大学を卒業しているから、このときすでにイルミナティあるいはユダヤ財閥と関係を持った(工作員となった)はずである。後にドイツのボンに学んだ折、白洲の妻となる正子の父・樺山愛輔と面識を得たということになっているが、次郎も正子も幼少のころから(イルミナティによって)結婚させられる手筈が整っていたと思われる。

 次郎はケンブリッジ大に留学する。学者を目指したとされるがウソだろう。神戸でチンピラやっていて、英国に行っても高級車を乗り回すしか能がない男が学問だなんて笑わせるんじゃない。イルミナティの工作員として教育されるためにケンブリッジ大学に呼ばれたと見るべきであろう。白洲次郎も本格的にイルミナティに取り込まれて、終世ドレイ的契約を交わしたのであろう。
 そのうち親元の「白洲商店」が昭和2年の金融恐慌で倒産して帰国せざるを得なくなる。一方で樺山愛輔も金融恐慌のあおりで理事をしていた十五銀行が閉鎖に追い込まれる。そのせいで米国に留学していた娘の正子も帰国させられ、そこで次郎と正子が出会ったことにされて、結婚に至るのだ。

 次郎はいきなり日本水産の取締に就任する。これも誰かの手が働いたのだろう。鯨油の輸出に携わり、以後毎年、イギリスに赴く。ロンドンでは駐英大使・吉田茂と親交を深め、日本大使館の2階が定宿となる。いくら知り合いだからといっても、吉田が白洲を日本大使館に住まわせてやるとは…。ここにもイルミナティ関連の工作が効いているのだ。

 白洲次郎は日水時代に、近衞文麿の政策ブレーンも務め始める。ゾルゲ事件のあの尾崎秀実とともに、だ。いったい実業家とは名ばかりで、政治の勉強をしたわけでもなく、政治家を目指したわけでもない遊び人の男が、どうして近衛文麿首相の側近に食い込んでいけたというのか。白洲は情報を収集しては米英の工作機関に渡し、また指示を受けて近衛首相を操作したと思われる。日本を泥沼の支那事変に没入させ、勝算のない日米戦争に引き込まれたのは、直接的には白洲らの工作によるのである。

 ソ連の工作員だった朝日新聞の記者、尾崎秀実はゾルゲ事件に連座して死刑になったが、おそらく同じような工作を担当していた米英側の工作員・白洲次郎は生き延びて、さらに戦後GHQの手先まで務めたのである。アメリカ側が戦時中に白洲に手を出すなと日本の官憲に厳命した可能性はある。それは白洲も尾崎も同じイルミナティの手先であったが、戦後は冷戦構造を演出しなければならなかったから、イルミナティとしては日本をアメリカの統治下におくので、ソ連系の尾崎は邪魔になったのだろう。尾崎は日米戦を実現させた意味で、勲一等ではあったが、アメリカ系スパイの白洲と組んでいたことがわかれば、まずいからではなかったか。

 ちなみに朝日新聞は、尾崎秀実を「信念の記者」と今もって褒めている。朝日のコラムニスト早野透がそう言っている。尾崎がスパイとして日本を支那事変の泥沼に陥れる工作に加担し、やがては敗戦直前にソ連軍に侵入させて多くの満州・朝鮮にいた日本人を陵辱させた、その人でなし尾崎を朝日は絶賛する。
 
 鬼塚氏は『原爆の秘密(国外編)』で「白洲次郎は米英のための、具体的に書くならば、スティムソン、グルー、ウォーバーグたちのためのエージェントの仕事をし続けていたのである。原爆産業のエージェントであったといえよう」と書いている。
 鬼塚氏はよく調べたと思うが、しょせん戦争はすべてユダヤ・イルミナティが仕組む八百長であることが十分わかっていない。八百長には演出家も俳優も必要なだけで、白洲はただの小間使いである。

 Wikipedia にはこうある。

 1950(昭和25)年、講和問題で池田勇人蔵相・宮澤喜一蔵相秘書官と共に渡米しジョン・フォスター・ダレスと会談、平和条約の準備を開始した。

 1951(昭和26)年9月、サンフランシスコ講和会議に全権団顧問として随行する。この時、首席全権であった吉田首相の受諾演説の原稿に手を入れ英語から毛筆による日本語に書き直し、奄美諸島、琉球諸島(沖縄)並びに小笠原諸島等の施政権返還を内容に入れさせた。昭和27年(1952年)11月19日から昭和29年(1954年)12月9日まで外務省顧問を務めた。

 よく言うわ。講和交渉もサンフランシスコ条約も、本来、政治家でもない白洲ごときが口をだせるものではない。全部イルミナティの指示によって白州がお目付役となって随行したにすぎまい。まるで最近の小泉劇場を演出した秘書官みたいだ。

 鬼塚英昭氏は『原爆の秘密』で、日本の敗戦時のポツダム宣言受諾「黙殺」と原爆投下がセットになっていると述べている。これはポツダム宣言が出た直後に、ときの総理・鈴木寛太郎が「黙殺」という言葉を使い、そのため米英国民世論が激昂し、それを受けてトルーマンが原爆投下を決断したとされる一連の動きに関してである。

 鈴木首相が「黙殺」と言ったから、原爆投下の正義、口実が確保されたということになっている。これは、スティムソン陸軍長官からヨハンセン・グループに「黙殺」という言葉を使えと指示が行き、それを受けて鈴木首相が「黙殺」と言わされたのだ、という。

 その「黙殺」という言葉を当時の同盟通信社が「ignore」と訳して世界に発信した。つまりわざわざ人騒がせな刺激的な言葉を選んで、アメリカに原爆投下の口実を与えるよう工作したのである。
 
 その同盟通信社はヨハンセン・グループの樺山愛輔の父・資輔が設立したものであった。樺山愛輔が天皇の意向を受けて「ignore」と訳して返事としたと、鬼塚氏は説いている。そこに樺山の娘婿の白洲次郎が一枚かんでいるかもしれない、と。

 白洲次郎は日本に原爆を投下させる役割を担った悪魔というべきチンピラでしかない。
http://home-and-human-navi.blog.ocn.ne.jp/genki100/cat5132966/index.html


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日本の軍事力が壊滅状態に追いこまれ、敗戦がすでに決定的であったときに、米軍が機雷による海上封鎖で日本全土を飢餓状態に追いこむ必要がなぜあったのか。

なぜ米軍は軍事施設や軍需工場は温存して、一般市民を焼き殺す作戦を計画的に強行したのか。

こうした疑問は、戦地に兵隊として動員され生死の境をくぐって帰還した体験者のいまわしい記憶とも響きあい、「あの戦争はいったいなんだったのか」の問題意識をともなって論議が発展している

攻撃の対象は日本の一般民であって、軍部ではなかった

 制海権、制空権を確保したアメリカは潜水艦による日本の輸送船をことごとく撃沈する方針をとると同時に、マリアナ基地からB29による日本本土への空襲を開始。45年3月10日の東京大空襲を皮切りに、大阪、名古屋などの大都市から全土の中小都市あわせて94都市の家屋・家財を焼き払い、広島・長崎への原爆投下を頂点に70万人を殺傷した。さらに、機雷1万1000個を日本の主要湾岸に投下し、内航・外航の大小の船舶をことごとく撃沈、日本国民を徹底的に飢餓状態に追いこむ作戦を強行するにいたった。

 アメリカの攻撃の対象は、「戦争の勝敗を決めるのは軍人ではなく、国民全体が“この戦争は負けだ”と思わないかぎり戦いは終わらない」という米軍将校の訓辞に見るように、すでに日本の軍部ではなく、無辜(こ)の非戦斗の人民大衆であった。人民を抑えつけなければ占領支配ができないという意味であった。


 昭和天皇にとっては「国体護持」だけが狙いで,アメリカが原爆を投下してくれた事にも感謝していた

 天皇制政府は、ただみずからの支配的地位の温存、「国体護持」だけを求めて、人民の革命的な決起を恐れつづけ、アメリカに民族的な利益をすべて売り渡し、人民が肉体的、気力のうえでへとへとに疲れはてることを願っていた。この点でアメリカの支配層と利害が完全に一致していた。

この時期、日本から和平打診の情報がアメリカの新聞で報道され、沖縄戦のさなかの5月には降服の打診がおこなわれたが、アメリカ政府が公式に拒否した事実も明らかにされている。

 当時、アメリカにとっては、なによりも戦後のソ連の影響力を排除し、日本を単独占領支配すること、そのために日本の人民の反米的要素、革命的な気力を喪失させることが最大の眼目となっていた。45年2月のヤルタ会談で、ドイツ敗北後の3カ月後にソ連が参戦することが約束されたことは、アメリカ支配層がそれまでに計画的に日本を制圧することを至上命令とした。そのために、原爆の開発と日本への投下計画「マンハッタン計画」をおしすすめ、広島・長崎への投下を強行したのである。


昭和天皇は、ただみずからの支配的地位の温存、「国体護持」だけを求めて、人民の革命的な決起を恐れつづけ、アメリカに民族的な利益をすべて売り渡し、人民が肉体的、気力のうえでへとへとに疲れはてることを願っていた。この点でアメリカの支配層と利害が完全に一致していた。

アメリカはその理由として、「日本の軍国的国家主義の根絶」と「自由主義傾向の奨励」をあげ、これに反対するものは、反動的であるかのように宣伝。なによりもまず、原爆の被害にかんする資料を、医学資料から日本人が撮影した記録映画、写真にいたるまでことごとく没収して持ち去り、それにかんする報道をいっさい禁止し、天皇制軍国主義を上回る検閲をおこなった。

 プレスコードの「禁止項目」には、「占領軍・占領政策・アメリカ批判」「占領軍将兵と日本人女性との親密な関係描写」「左翼宣伝」などとともに、「飢餓の誇張」などがあり、高度の機密兵器である機雷投下についてふれることは御法度とされた。

 これには新聞・雑誌・刊行物、放送、演劇脚本・映画・紙芝居・幻灯など、言論・文化のあらゆるものが対象とされ、一般市民の手紙・葉書などの郵便物、電報・電話の傍受にいたるまで徹底したものであった。しかも、「民主主義」のたてまえから「検閲が知られるようなことが絶対にないように、それを暗示することもふくめて、残してはならない」ことまで指示。違反したものには、沖縄送りなどのきびしい刑罰を設定していたことも、明らかとなっている。

 日本の商業マスコミ、「共産党」中央指導部、社会民主主義の政治勢力はおしなべて、こうした占領政策を賛美し、人民が戦争体験の真実を語ることを抑圧する支配構造が形成されてきた。この構図は今日まで生きて作用してきたといえる。
http://www.h5.dion.ne.jp/~chosyu/okasinasennsoudaltuta.htm

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1945年8月6日の広島への原爆投下、8月9日の長崎への原爆投下とソ連の対日宣戦布告に直面し、海軍大臣米内光政大将は、1945年8月12日、次のように語った。

「私は言葉は不適当と思うが原子爆弾やソ連の参戦は或る意味では天佑だ。国内情勢で戦を止めると云うことを出さなくても済む。私がかねてから時局収拾を主張する理由は敵の攻撃が恐ろしいのでもないし原子爆弾やソ連参戦でもない。一に国内情勢の憂慮すべき事態が主である。従って今日その国内情勢[国民の厭戦気分の蔓延と政府・軍首脳への反感]を表面に出さなく収拾が出来ると云うのは寧ろ幸いである。」(『海軍大将米内光政覚書』:ビックス『昭和天皇』講談社学術文庫 引用)

原爆投下が、昭和天皇の終戦の聖断をもたらしたのではない。敗北続きの軍、国難・生活難に陥れた日本の指導者たちへの国民の反感という世論が、共産主義革命・国体変革という未曾有卯の危機を予感させた。日本の指導者たちは、広島・長崎への原爆投下を、終戦(降伏)する口実としたが、核兵器の恐ろしさや戦後世界の核戦略は理解できなかった。

ソ連は、国体・天皇に敵対する共産主義者の集まりであり、ドイツを打倒した強大な軍事力が日本に向けば、日本は占領され,国体も変革されるであろう。このようなソ連による国体変革の脅威を目前にして、米国への降伏、国体護持を請うたのが、終戦の聖断である。
http://suyap.exblog.jp/5842042


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・ロスチャイルド財閥を中心とする国際金融同盟は、原子力に注目し、これに莫大な資金を投資し、ウラン鉱の買収を大戦中に始めていた。原爆の実験はそのために是非とも必要だった。日本がその標的にされた。スティムソン陸軍長官が(このことを)6月8日直前に天皇宛の文書でヨハンセン・グループのルートで送ったとみられる。P511

・あれだけの大惨事を見て、米内海軍大臣は“天佑”だと叫んだのである。天皇も「終戦の詔書」の中で一回触れたが、それからは一言も非難の声をあげなかった。その時だけが例外ではない。P521


・日本にとって、天皇にとって都合のよいことが原爆投下によってもたらされた。

天皇はこの直後に、アメリカから“天皇制護持”の約束を与えられていることだ。

そして、御前会議を開き、ポッダム宣言受諾を決定する。

間違いなく、原爆投下と交換条件である。

アメリカは、アメリカ国内よりも日本での非難を恐れていたと思う。…国際金融同盟の連中は、「さすが、スティムソン、よくやってくれた!」と快哉をあげたことであろう。「これで日本は、永遠に俺たちの奴隷の国になったぞ」と。P522

・天皇は原爆についての知識、投下の日、その場所を前もって知っていたはずである。ではどうして8月6日なのか。それは、この日までに、スイスの赤十字経由で天皇の貯蓄が無事処理をつけられる見通しがたったからである。

 この広島の原爆で、第二総軍の司令部の数々の建物は壊滅し、多数の死傷者が出たのである。8月6日8時ごろに、多数の第二総軍の参謀や将校が集まっていた。そこに原爆が落ちたというわけである。この日、間違いなく、第二総軍の全員は、8時ごろに集まって会議か、あるいは演習の準備に入っていた。ほとんどの第二総軍の人々は死に、あるいは傷ついていたのである。
ひとり、畑元帥のみが、この総司令部に行っていないのである。P524-528
http://www.asyura2.com/07/dispute27/msg/230.html


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21、マサチューセッツエ大教授のジョン・Dダワーは米国の公文書館で天皇ヒロヒトの発言を見出した。

@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。

A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。

ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。

http://www.snsi-j.jp/boards/sirogane/152.html


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天皇の原爆しょうがない発言

昭和天皇の原爆しょうがない発言について、当時の新聞にもしっかりと縮刷版に載っていたのだが、ここではそれを「ママオコシ」で文字おこしした内容を示す。これは、現在発売中の鬼塚英昭氏の『日本のいちばん醜い日』に引用された、松浦総三という作家の『松浦総三の仕事』という本からの引用である。この記者会見の模様はユーチューブに動画も何個か落ちている。

この会見の場で、

「エ・・・・エ・・・・エ・・・・投下された、ことに対しては、エ・・・・・、エ・・・・こういう戦争中で、あることですから、どうも、エー、広島・・・・市民に対しては、気の毒で、あるが、やむをえないことと私は思っています」

と昭和天皇はコメントし、いきなり話題を変えて、「テレビは観ておりますが、放送会社の競争が激しく・・・」という意味不明のコメントを発して、原爆コメントを吹っ飛ばしている。
http://www.asyura2.com/07/senkyo40/msg/744.html

11. 中川隆[-13741] koaQ7Jey 2018年12月18日 20:25:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

日本人の反乱に恐れおののいていた天皇家の人々

梨本宮伊都子妃の日記

梨本宮伊都子妃の日記が死後発表された。梨本宮伊都子妃は昭和51年まで生き、死後、この日記は発表された。よく発表したもんだと思う。プライベートに書き綴ったものを遺族が発表したのだ。ここまで書いていたら普通なら発表しない。あるいは、この部分は省略するか、あるいは発表する前に破り捨ててしまうか。それをしなかったのは大変な勇気だと思う。


伊都子妃が、「日本ももうだめだ」と考えたのが昭和33年11月27日だ。その4ヶ月前、その皇太子さまも、絶望的な気持ちになっていた。「おことば」はこうだ。

 『昭和33年7月14日。
 きみ、きっと、これが僕の運命だね。
 明仁皇太子』

 どんな運命かというと、「暗殺される運命」だ。島田の「解説」には、こうある。

 『この日、イラク国王ファイサル二世は、軍部のクーデターと民衆の蜂起により暗殺された。ご学友の橋本明氏がたまたま御所に招かれていて、一緒にお茶を飲んでいると、侍従から報告があったという。

 「皇太子はその瞬間、蒼白になり、手にしていた紅茶が入った茶碗を膝の上に落として、数秒だったが、口をおききになれなかった」が、自分を取り戻してこう発言されたそうだ。まだ美智子妃の実家、正田家が婚約を固辞していた頃だ。二十二才で暗殺された国王の不幸を他人事とは思えなかったのだろう』


(3)「浩宮の代で最後になるのだろうか」と悲しいおことばを

 昭和33年というのは、1958年だ。60年安保闘争の直前だ。左翼の力が強かった時だ。「天皇制打倒!」を叫ぶ人々も多くいた。そうした日本の風潮も知っていたのだ。そこにイラク国王の暗殺の報だ。

 しかし、ご学友が遊びに来てる時にわざわざ、こんな事を報告するなんて、侍従もおかしい。島田はさらにこう続けている。

 『のちに、戦後初の国賓として来日し、鴨猟で接待したエチオピア皇帝ハイレ・セラシェも亡くなり、イランのホメイニ革命によりパーレビ王朝も打倒され、アジアからは続々、王制が消えてゆく。

 長男浩宮が生まれると、明仁皇太子は学友たちに「浩宮の代で最後になるのだろうか」といったという』
http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Gaien/2207/2005/shuchou0822.html

12. 中川隆[-13737] koaQ7Jey 2018年12月18日 22:33:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

天皇一族は自分達が日本人だとは思っていない


2001年12月23日の天皇誕生日の前の12月17日、宮中で記者会見があった。記者クラブが7つ質問している。その中の一つが

「来年はワールドカップで日韓共催でやる。天皇はどう思われるか」

という質問に

「自分の先祖である桓武天皇の生母高野新笠は百済武寧王の子孫であった。
韓国とのゆかりを感じます」

と語られたわけです。私にもすぐ朝日新聞社からコメント依頼がきました。私が感動したのは、人物の交流が皇室を含めてあったのだけれども

「不幸な関係があったということも忘れてはなりません」

とちゃんと言っておられる点ですね。そこがあまり報道されてないんです。

 私は朝日のコメント依頼に「そこが大事だ。それを書いてくれなければコメントしない」と申し上げたのです。1月16日、京都新聞には載りませんでしたが、共同通信が後追いの記事を出しました。なるほどと思ったのは「誕生日の記者会見くらいは自分の言葉で言わせてほしい」と言われたそうです。宮内庁のチェックはなかったようですね。宮内庁は大慌てになったということを1月16日の共同通信配信で知りました。私はその日、松江に行っていまして、山陰中央新報で知りました。実はこれは、神話の問題とも関係があります。


桓武天皇のお母さんの高野新笠は、勅撰の歴史書である『続日本紀』が明記するとおり武寧王の子孫ですが、延暦8年12月に亡くなります。お葬式は正月にあった。葬ったのは大枝の沓掛にある旧山陰道の右手の山の中腹。そこに高野新笠のお墓があります。階段を登らないと行けません。延暦9年1月にお葬式をしている。

『続日本紀』に新笠の伝記が書いてある。どういう人だったかということを書いて百済の神話を書いている。そこに書いてあるものを読むと

高句麗の建国神話と百済の建国神話が同じであったことがわかります。今、残念ながら朝鮮人民民主主義共和国と大韓民国は分断されていますが、百済の建国の神話と高句麗の建国神話は同じです。在日の皆さんが自分の祖国の神話も知らずにいるというのでは残念です。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。


と答えられたと。
https://blog.goo.ne.jp/akirakasan/e/a6f887959603d8e10b513314716d3643

13. 中川隆[-13716] koaQ7Jey 2018年12月19日 17:33:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

天皇は日本人ではない
天皇一族や畿内の渡来人は奈良時代まで百済語で会話していた


百済が日本にもたらしたもの〜文化でなく言語にその本質があるのではないか
 

日本語は百済語と近接しているという説は多い。

ブログ「日本語と韓国語は同系語」
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-3a69-1.html


という中から信憑性のある部分を紹介します。

>飛鳥〜平安時代頃、日本には各地域の方言の外に「宮廷語」があった。

「宮廷語」も日本全体から見れば、宮廷という限られた区域の方言である。

『万葉集』『記紀』はこの「宮廷語」によって書かれ、作者は漢字を自在にあやつることができる宮廷の知識層、朝廷にかかわって働くエリートであった。

大和朝廷で働いていた人たちの生活の本拠地は「飛鳥」で、『続日本紀』『姓氏録』によれば、飛鳥地方の住民の80〜90%は朝鮮人であったという

飛鳥地方を中心に活躍していた聖徳太子は蘇我氏(朝鮮人―当時の実質天皇)の一族で、妻も蘇我氏の人である。

日本で最初に建てられた寺院「飛鳥寺」は蘇我氏の氏寺で創立者は蘇我馬子である。

明日香村にある日本最大級の横穴式古墳「石舞台古墳」の埋葬者は蘇我馬子ではないかとされている。有名な「高松塚古墳」は明日香村にあり、中に描かれた彩色壁画の婦人像の着衣は古代朝鮮人の服装そのままである。

なぜ「飛鳥地方で使われていた言葉は朝鮮語(主に百済語)であった」と言われているか、下記に列挙した研究者の言葉を見れば一層その信憑性に気づくのではないだろうか。


※「飛鳥における政治の実権は蘇我氏(朝鮮人)の掌中にあった。このころの天皇とは蘇我氏のことである。」 (亀井勝一郎他)

※「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であ
った。宮中では百済語が使われていた。古事記・日本書紀は百済の学者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。
(金容雲 日韓文化交流会議の韓国側代表)

※ 日本書紀は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合がいいように整理されている。 (上田正昭らの対談集)

※ 飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)

※ 平安時代までの日本文化は外国のもの。日本の王朝文化は百済と同じ。
(司馬遼太郎・丸谷才一 他)

※ 朝鮮半島からのエリート集団の集中的移住が宮廷文学を開花させた。
(国弘三恵)

※ 唐への留学僧は百済人であった。当時の僧侶の言葉は百済語であった。
(金達寿 司馬遼太郎 上田正昭らとの対談集)

※ 日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、白村江の戦いの敗北で渡来した百済人。『日本』という国号をつくったのも百済人。(文定昌)


司馬遼太郎は「平安時代までの日本の文化は外国のもの、日本らしくなったのは鎌倉時代になってから」と述べている。

「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は国を追われ、王族・高官などのエリートがたくさん倭国へ亡命した。

故国を失い百済再興の夢を倭国に託した百済人は、奈良時代に「日本」という国号を作り、倭国の文化を根底から変える著しい日本文化の礎石を「飛鳥」に置いたのである。

従って、「百済の王朝語」が「飛鳥王朝の宮廷語」になり、雨後の竹の子のように生まれた「宮廷文学」の言葉は、それ以後の多くの知識層の文学作品の言葉として使われ、結果的に江戸・明治・大正・昭和の学問・文学などの用語として日本全国に広がって行った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上抜粋ーーーーー

これらを読むに付け、日本の宮廷、天皇、王朝を語る際に「百済」という朝鮮半島から消えてなくなった国家が大きく影響している事が判る。

それを日本土着のものに取り戻すのに鎌倉時代までの400年かかっている。
しかし再び明治以降、この百済の復興が天皇を担ぎ上げる事によって為された。

百済王朝が日本に亡命してまだ1300年しか経っていない。

この影響は日本語という言葉の中に浸透しただけでなく日本人の気質や一つに成り切れない民族の核心部にまだ残っているのではないか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=314004


▲△▽▼


7世紀までに韓半島から日本列島に流入してきた人々は、それぞれグループごとに中国語の方言を話していたと考えられる。
方言と言っても、現代の福建人・潮州人・客家人・広東人・海南人がたがいに話が通じないのと同様、秦人・漢人・高句麗人・百済人・新羅人の間ではたがいに話が通じなかっただろう。
 日本列島の雑多な種族たちは、新羅に併呑されて独立と自由を失わないために、倭国王家の天智天皇のもとに結集して、日本国を作りあげる。

中国語を国語とすることは危険であった。新羅の公用語が中国語だから、別の途を選ばねばならなかった。

それは漢字で綴った中国語の文語を下敷きにして、その一語一語に、意味が対応する倭語を探しだしてきて置き換える、対応する倭語がなければ、倭語らしい言葉を考案して、それに漢語と同じ意味をむりやり持たせる、というやり方である。これが日本語の誕生であった。


 柿本人麿から山上憶良まで、半世紀の間にはじまった国語の開発は、情緒を表現する韻文の詩歌に関する限り目覚ましく成功したが、」より実用的・論理的な散文の文体の開発は、百年たってもなかなか成功しなかった。

 紀貫之の時代から百年をへて、11世紀の初めに紫式部の「源氏物語」が現れてもまだ、散文の文体の開発が完了したとは言えない。日本語の散文の開発がおくれた根本の原因は、漢文から出発したからである。

 結局、19世紀になって、文法構造のはっきりしたヨーロッパ語(ことに英語)を基礎として、あらためて現代日本語が開発されてから、散文の文体が確定することになった。


【出典】「日本史の誕生〜千三百年前の外圧が日本を作った」岡田英弘/弓立社‘94年  
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/706.html

14. 中川隆[-13713] koaQ7Jey 2018年12月19日 18:41:34 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

日本に渡来してから一貫して日本人と日本古来の文化を滅ぼそうとした天皇一族


日本の支配階級になった漢民族は選民思想が強く、日本人を人間だと思っていなかった

6:名無しさん@涙目です。(WiMAX):2011/10/28(金) 18:06:18.76 ID:RNVRwNQp0

貴族遊びまくり庶民餓死しまくり
貴族が牛車で呑気におでかけする脇道には死体がゴーロゴロ


17:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:13:14.61 ID:j5KVDQzL0
>>6
あいつら死体が道に落ちてたらソッコーで家に帰って清めするだろ


28:名無しさん@涙目です。(東京都):2011/10/28(金) 18:15:52.73 ID:+z8ty5Br0

平安時代は和歌とか紫式部とかのほほんとした平和なイメージだけど あれは貴族の話。
一般市民は餓死しまくりで路上に死体が転がっていて政治機能はマヒだから次の時代に武家社会が到来した


37:名無しさん@涙目です。(アラバマ州):2011/10/28(金) 18:20:58.16 ID:T8Am9NQl0

藤原家の奴とか大体和歌詠んでは天皇や上皇にゴマすってるだけで何にもしてないよな


45:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:23:39.06 ID:j5KVDQzL0
>>37
あいつら道端に猫の死骸がありましたとかで仕事休むからな
自分とこの荘園管理以外仕事してないな
http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/ojyuken/1331048080/

▲△▽▼


収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族 _ 朝鮮から渡って来た華僑は日本の支配階級となったが…

暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族


射殺された清少納言の実兄、不正のかぎりを尽くして私腹を肥やす受領……。

藤原道長や藤原行成の日記に書かれていたのは、王朝貴族たちの犯罪と暴力だった!
 
風雅で優美なイメージの裏側に隠蔽されてきた衝撃の実態。

平安時代には支配階級・特権階級である貴族たちが、庶民から収奪の限りを尽くし、暴走に次ぐ暴走を重ねている。


『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)
「序 清少納言の実兄、白昼の平安京にて射殺される」
「結 清少納言、源頼光の四天王に殺されそうになる」
「あとがき」

から要約する。


現代日本人がイメージする王朝貴族は、和歌や音楽や恋愛に人生の喜びを見出す繊細な人々であり、血が流れるのを見たら気絶するような気の弱い人々である。

このような王朝貴族のイメージを形成してきた情報源は『源氏物語』や『枕草子』に代表される一群の文学作品である。

紫式部や清少納言の作品に親しむ人々にとって、王朝貴族社会は犯罪や暴力とは縁のない、風雅で優美な世界である。

しかし、疑いのない事実として、王朝貴族が諸々の犯罪行為に手を染め、数々の暴力沙汰を起こしていた。王朝貴族の犯罪行為も数々の暴力沙汰も、王朝時代には当たり前の日常茶飯事だったのである。

その証拠は、藤原道長や藤原行成といった上級貴族たちの日記である。

彼らの日記を紐解けば、王朝貴族が犯罪や暴力に関与していたことは否定のしようがない。

1017年の藤原道長の日記『御堂関白記』によると、清少納言の実兄清原致信が騎馬武者の一団の襲撃を受けて殺されている。 清原致信は王朝貴族の一人であり、朝廷に仕える中級官人であった。大宰府の三等官である大宰少監を務めていた。そして、清少納言の実兄である清原致信が襲撃され殺されたのは、それに先立って、致信自身が人殺しをしていたからである。

清原致信を殺したのは、源頼親の武士団であり、致信殺害は源頼親が命じたものである。
そして、源頼親は王朝貴族たちから「人を殺すことを得意としている」と見られていた。一方で、源頼親は淡路守や右馬頭といった官職を帯びる中級官人であり、王朝貴族であった。

同時に、大江山の酒呑童子を退治したことで知られる源頼光の弟であり、「大和源氏」と呼ばれる武士団の祖でもあった。王朝貴族の一員でありながら自ら強力な武士団を率いていた、「軍事貴族」と呼ばれる存在だったのである。

その軍事貴族の源頼親が、配下の武士たちに命じて清原致信を殺害したのは、仲間の当麻為頼の仇を討つためであった。当麻為頼が清原致信によって殺されていたからである。

ところが、当麻為頼殺害の真の首謀者は清原致信ではなく、その背後にいた。清原致信が仕える藤原保昌であろう。

丹後守として丹後国に赴任した藤原保昌は、悪名高い王朝時代の受領国司たちの一人だった。しかも丹後守の他に日向守・肥後守・大和守・摂津守などをも歴任した保昌は、その貪欲さと悪辣さとで知られる受領を代表する存在であった。

藤原保昌が1017年の清原致信殺害事件に先立って大和守の任にあった。従って、藤原保昌の朗等であった清原致信は、大和国において大和守保昌の汚い欲望を満たすことに勤しんだこともあっただろう。

当時、大和守の住人であった当麻為頼は保昌にとって邪魔な存在であり、保昌が為頼の抹殺という汚れ仕事を致信に押しつけたものと想像される。

清原致信殺害の首謀者であった源頼親は、配下の武士たちに致信を殺させたことが露見したため、それまで帯びていた淡路守および右馬頭の官職を取り上げられたが、当時の朝廷は、これ以上には頼親を罰しようとはしなかった。つまり、致信の殺害を謀った頼親は、ただ官職を失うだけで済んだ。しかも、1017年に淡路守と右馬頭を罷免された頼親も、1024年には、新たに伊勢守を拝命し、続けて大和守と信濃守を務めている。

さらに真の黒幕である藤原保昌に至っては、致信が殺されても、馴染みの朗等の一人を失っただけで、1020年あたりに丹後守に任命され、その後、大和守を経て、摂津守に任命されている。

それにしても、人を殺すという凶悪な犯罪行為が、王朝貴族にとっては、いかに身近なものであったことか。

王朝貴族の世界とは、悪事を働いた者が臆面もなく暮らすような、悪徳に満ちた世界だったのである。

この事例は、王朝貴族の悪だくみの氷山の一角にすぎない。

当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

清少納言の実兄である清原致信殺害事件の真相は、次のように理解される。

1013年頃、大和守に任命された藤原保昌は、同国の豪族たちから少しでも多くの財を巻き上げようとして、不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領といった不正行為の数々に手を染めていた。

だが、そんな藤原保昌に歯向かったのが、大和国の当麻為頼である。

地元の有力豪族として大和守藤原保昌との確執を深めた当麻為頼は、藤原保昌の配下によって消される。保昌から当麻為頼殺害という汚れ仕事を任されたのが、保昌の朗等であった前大宰少監清原致信であった。清少納言の実兄である致信は、藤原保昌が大和国で財を成すことを助けるため、保昌の命じるままに為頼の始末を実行した。

しかし、清原致信が藤原保昌から与えられた汚れ仕事は、為頼抹殺だけではなかっただろう。藤原保昌が企図した不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領などの実行にあたったのは、藤原保昌の朗等たちだったはずであり、その中には(清少納言の実兄)清原致信がいたに違いない。

清少納言が『枕草子』に描いた王朝貴族社会の豊かさは、悪徳受領たちが地方諸国において不正行為を用いて築き上げた汚れた富によって支えられたものだったのである。

それだけではない。試験制度の弊害は枚挙に暇がないが、試験制度(官人採用試験)は平安時代には既に整えられていた。


宮中での取っ組み合いの喧嘩、従者の殴殺。
果ては邸宅建設のために平安京を破壊するなど、優雅な王朝時代のはずが、貴族たちはやりたい放題の暴れぶり。当時の記録をもとに貴族たちの意外な素顔を探り出した意欲作。

『殴り合う貴族たち〜平安朝裏源氏物語』繁田信一著 柏書房刊

序 素行の悪い光源氏たち
藤原道長、官人採用試験の試験官を拉致して圧力をかける」

によると、


988年当時、23歳の権中納言の藤原道長が、従者たちに命じて、式部少輔橘淑信という貴族を拉致させた。

橘淑信は式部省という官司の次官であった。式部省とは官人の採用や評価を職掌とする官司であり、この頃の橘淑信には官人採用試験の試験官の職務が与えられていた。当時、家柄のぱっとしない者にとっては、式部省の官人採用試験で好成績を残すことが、出世のための重要な足がかりとなった。

ところが、藤原道長は、自身が懇意にしている受験者の試験結果に手心を加えさせようと、試験官に脅しをかけた。この受験者を何とか官人にしようとする道長の身勝手な思惑の犠牲となったのが、官人採用試験の試験官式部少輔橘淑信であった。

この事件は瞬く間に世間の知るところとなり、この一件を伝え聞いた人々は、嘆きの吐息を洩らしたという。

庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたのである。


これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。
おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにあるからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/05/002556.html


暴走の源流=平安貴族2 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた

国府を焼く平忠常の乱 


前回の記事(暴走の源流=平安貴族1 収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族)
では、

●庶民からの収奪と云い、試験験制度と云い、現在の特権階級の暴走の原型は平安時代に出来上がっていたこと。

●これから、平安貴族の不当課税・不当徴収・恐喝・詐欺・公費横領、さらには殺人やその隠蔽をはじめとする暴走の実態を紹介し、平安時代の支配構造を明らかにしてゆく。おそらく、現代日本の支配構造(特権階級の暴走)に繋がる源流がそこにある。

ということを提起しました。


今回記事では、

●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めていきます。


 『王朝貴族の悪だくみ』(柏書房 繁田信一)「第2章 公共事業費を横領し尽くす」から要約します。 


@収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族から生命を狙われていた。

1007年の7月1日、鎮西の大宰府において大隅守菅野重忠が殺されるという事件が起きた。

歴史書の『日本紀略』によれば、重忠を殺したのは、大宰大監大蔵種材の息子の大蔵光高であった。その光高が、重忠を弓矢で射殺したのである。 こうして生命を落とした大隅守重忠は「王朝貴族」と呼ばれる人々の一人であった。彼は、受領国司として鎮西に下向した王朝貴族だったのである。従って、その重忠が非業の最期を遂げたという話は、当時の貴族層の人々に大きな衝撃を与えたことだろう。

大隈守菅野重忠を射殺した大蔵光高の父親は、1019年の「刀伊の入寇」の折に異国の賊徒を相手に奮戦するように、鎮西の軍事貴族の一人であった。しかも、大宰府の三等官である大宰大監を務めたことから見て、鎮西において相当に有力な軍事貴族であったらしい。その彼を「豪族」と呼ばずに「軍事貴族」と呼ぶのは、彼が従五位下以上の位階を持つ厳密な意味での貴族の一人だったことが推測されるからに他ならない。

ただし、大蔵種材という実在の軍事貴族は、おそらく、大隈国の有力者だったのだろう。また種材の一族は、大隅国内の権益を守るため、ときとして同国の受領国司である大隅守と衝突しなければならなかったに違いない。そして、歴代の大隅守たちの中で最も激しく種材の一族と対立したのが、寛弘4年に種材の息子によって射殺された菅野重忠だったのではないだろうか。

このように、一条天皇が玉座にあった1007年、わが国の西の辺境である鎮西において、大隅守が大隅国の軍事貴族によって殺害されるという事件が起きていたわけだが、これは、けっして希有な出来事ではなかった。

例えば、一条天皇の曾祖父にあたる醍醐天皇の治世にも、かつて本朝の東の辺境であった上野国において、同国の豪族たちが上野介を殺すという事件が起きていた。

そして1002年の年末もしくは、その翌年の年頭には、平維良という下総国の軍事貴族が、下総守の公邸である下総守館に焼き討ちをかけていたらしい。『百錬抄』という歴史書によれば、長保五年二月八日の公卿会議において、「平維良が下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国府および下総守館に火を放ったうえに下総国の公有財産を掠奪したこと」が議題にされているのである。

受領国司の生命を狙って守館に焼き討ちをかけるという事件は、鎮西の軍事貴族よって引き起こされている。すなわち、一条天皇の息子の後一条天皇が帝位にあった長元2年(1029)の春もしくは夏、大隅国を活動拠点とする従5位下平兼光などとともに、大隅国府や大隅守館などを襲撃して火を放ったのである。この一件でも、大隅守自身は難を逃れていたようだが、『小右記』によれば、国府・守館に攻め込んだ季基・兼元の一党は、その場に居合わせた人々を殺戮しつつ、大隅国の国有財産を掠奪したらしい。


A地元の王朝貴族(受領)は、地元の豪族から恨まれていた。その証拠として
 「尾張国郡司百姓等解」という文章があります。


■「尾張国郡司百姓等解」

永祚元年(989)の2月5日および同6日、両日の公卿会議における議題の一つは、「尾張国の百姓などが朝廷に尾張守藤原元命の違法行為を告発したこと」であった。 尾張守元命は、任国の百姓たちからのみならず、国守を助けて働くべき郡司たちからまでも、その罷免を強く望まれていたことになろう。そして、尾張国の百姓たちと歩調を合わせて朝廷に尾張守の交替を求めた尾張国の郡司たちというのは、尾張国内の各郡の統治にあたる地元出身の地方官人たちである以前に、それぞれの郡内に地盤を持つ古くからの豪族達であった。
 
ここで朝廷に尾張守元命の更迭を要求したとされている「尾張国の百姓」というのは、映画「七人の侍」やテレビドラマ「水戸黄門」に登場するような、汗と泥にまみれて朝から晩まで働き続けながらも食うや食わずの生活を送らねばならないという、貧しく憐れな農民ではない。むしろ、そうした無力な農民たちを自在に使役することによって広大な田地から膨大な収益を上げようとしていた、才覚ある農業経営者として理解されるべきであろう。王朝貴族が「尾張国の百姓」と呼んだのは、尾張国において豪族のような立場にあった人々であり、あるいは、尾張国の豪族そのものとみなされるべき人々であった。

尾張守元命の罷免を望む尾張国の百姓達は、元命の行った31種類もの違法行為を書き連ねた解を、元命の頭越しに朝廷に提出したのである。そして、その嘆願書あるいは告訴状こそが、われわれが「尾張国郡司百姓等解」や「尾張国解文」などの名称で聞き知っている文書に他ならない。

その嘆願書なり告発状なりに示されているは、郡司あるいは百姓として尾張国に根を張っていた大勢の豪族達の総意なのである。


■5種類の悪行

「尾張国郡司百姓等解」の冒頭に置かれたのは、文書の表題の役割を果たす次のような一文であった。この嘆願書もしくは告発状を朝廷に提出したのが尾張国の郡司と百姓とであるということは、ここに改めて確認されよう。

「尾張国の郡司および百姓が解を提出して朝廷によるお裁きをお願い致します。」
「願わくば、ご裁断くださいませ。当国の国守である藤原元命殿は、本年を含む3カ年の間、税の名目で物品を奪い盗るという違法を行うとともに、暴力を用いた脱法を行いましたが、それらの違法行為や脱法行為は、合わせて31ヶ条にも及びます。これが本状の趣旨です。

そこで、尾張国の郡司や百姓が数え上げる尾張守元命の不正は、おおむね、以下の5つに分類されよう。

A.不当課税および不当徴税(9ヶ条)
B.恐喝およびさ詐欺(3ヶ条)
C.公費横領(10ヶ条)
D.恐喝および詐欺の黙認(4ヶ条)
E.その他(4ヶ条)
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002566.html


暴走の源流=平安貴族3 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?


任国に赴く受領(因幡堂縁起) 

前回の記事(暴走の源流=平安貴族2 収奪の限りを尽くした王朝貴族は、地元の豪族達から生命を狙われていた)
では、


●当時の受領たちは、さまざまな不正行為によって多大は財を獲得していた。彼らは、不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領など、考えつく限りの不正を行った。それにとどまらず、私利私欲のために不正を働く受領たちは、自らの不正行為が露見することを防がんとして、口封じのために殺人をも躊躇しなかった。

ということについて、事例を紹介して追求を深めました。

この地元の受領たちが恨まれていた証拠として、「尾張国郡司百姓等解」という書物が残っています。今日はこの書物に綴られている悪行の数々について具体的な中身を紹介していきます。


■悪用された公的融資制度

[第1条]公的融資の利息を名目とした不当な増税を行った。

 王朝時代、尾張国をはじめとする地方諸国の政府=国府は、われわれ現代人には少し奇異なもの見えるような公的融資を行っていた。それは、毎年の春先、国内の百姓=農業経営者たちに対して一年間の農業経営の元資となる米を貸しつけるというものであり、また、その年の冬、新たに収穫された米の中から元本と三割ほどの利率と利息とを回収するというものであった。

こうして公的な融資は、表面上、国府による農業振興策に見えるのではないだろうか。しかし、これは借り手の意志を無視した強制的な融資であった。つまり、農業経営に携わる百姓達は、たとえ経営の元資に困っていなくとも、毎年、必ずや国府から融資を受けなければならなかったのである。そしてこの融資をまったく無意味に受けた百姓であっても、融資を受けた以上、絶対に利息を払わなければならなかった。当然豊富な元資を持つ百姓にしてみれば、右の公的融資の制度は、迷惑なものでしかなかっただろう。

 結局、王朝時代の国府が行っていた公的融資は、農業振興策であるどころか、融資の体裁を借りた課税でしかなかった。当時の百姓たちは、正規の税を納めさせられた上に、公的融資に対する利息を名目とする不可解な税の納付をも義務づけられていたのである。

 986年に着任した尾張守藤原元命は、こうした従来よりの規定を平然と無視したという。988年までの3ヶ年に合計で2万1500石を超える額の強制融資を追加して、百姓たちから6400石以上もの米を利息として取り立てたのである。

 ちなみに、こうして元命が尾張国の百姓たちから巻き上げた米6400石は王朝時代の大半の人々にとって、一生を費やしても稼ぎ出し得ないほどの巨富であった。当時一般的な雑役に従事する労働者は、朝から晩まで働いても、一升(0.01石)もしくは二升(0.02石)ほどの米しか手にできなかったのである。そんな庶民層の人々にしてみれば、6400石というのは、数百年分から千数百年分の年収に等しい額であった。

■着服のための増税

 尾張国の富を吸い上げられるだけ吸い上げるつもりであった元命は、本来的な課税制度をも、存分に悪用したのである。

[第2条]課税対象ではない田地からも税を取り立てた。

 当然のことながら、本来は徴収されないはずの税は、徴収された後、国府の財政に組み込まれることもなければ、朝廷に上納されることもなかった。非課税のはずの田地から不当に徴収された税の行き先は、言うまでもなく、尾張守元命の懐であったろう。


[第3条]朝廷の許可を得ずに税率を大幅に引き上げた。

 違法な税率を用いて百姓達から税を取り立てた尾張守は、けっして藤原元命だけではない。王朝時代の尾張国においては、法定に倍する税率での課税が慣例化してしまっていたようなのである。だが、そんな尾張国に生きる百姓たちも、元命が986年に新しく採用した税率には、さすがに憤慨せずにはいられなかった。というのも、元命の提示した新税率が1町につき21.6石というあまりにも高いものだったからである。それは従来の違法税率の1.8倍から2.4倍の税率であり、法定税率と比較すれば4.8倍にもなる高すぎるほどに高い税率であった。


[第4条]着服するためにまったく名目の立たない税を取り立てた。

 一町につき8.4石というのは、尾張守元命が任国の百姓たちに臨時で課した特別税の税率である。これが本来の税の法定税率の2倍に近い高い税率であることは、ことさらに言うまでもないだろうが、この高税率の特別税は、一片の正当性もないまったく違法なものであった。すなわち、この税は、ただたんに元命の懐を温めるためだけに課されたものだったのである。


[第5条]前3条の不正によって毎年のように5万石を超す不当な利益を上げた。

 15万石というと、王朝時代の一般的な労働者の2万年分の年収を上回る額である。それは、当時の庶民層の人々にとって、まったく現実感のない数字であったかもしれない。だが、確かな現実として、尾張国の百姓達は3年間の間にそれだけの富を尾張守元命によって巻き上げられていたのである。

■公務としての掠奪


[第6条]絹織物の公定価格を不正に改変して事実上の増税を行った。

尾張国の百姓たちが負っていた税には、2.4町の田地について一疋(0.67メートル×15.56メートル)の絹織物を納めるというものもあった。そしてこの税の税率は、田地一町につき米2石というものとして理解されていた。


[第14条]絹織物を納付する期限を不当に早めた上に乱暴な取り立てをした。

 尾張守に就任した藤原元命には、任国の百姓の都合など、まったく考慮するに値しないものであったらしい。元命が絹織物の取り立てを開始したのは、毎年、いまだ多くの田地において田植が完了していなかったであろう5月中旬だったのである。それまでより半月以上も早く絹織物が徴収されはじめるようになったことは、尾張国の百姓たちをひどく困惑させたことだろう。

 しかも、尾張守元命による絹織物の徴収は、実に乱暴なものであった。元命の配下の徴税使は、その郎等や従者を百姓たちの家宅に踏み込ませ、徴収するべき絹織物の他、めぼしい物品の全てを、手当たり次第に奪い去ったというのである。これでは強盗団の掠奪と何ら変わるところがあるまい。いや、強盗よりも始末が悪かったかもしれない。というのは、あくまで公務を遂行していることになっていた徴税使たちには、手向かう者があった場合、尾張守元命の名のもとに容赦のない刑罰を与えることも可能だったからである。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/06/002571.html


暴走の源流=平安貴族4 

収奪の限りを尽くした王朝貴族は、どんな悪行を働いてきたのか?(第2回)


今回も、引き続き古文書から平安貴族の実態を暴きます!

以下引用は、繁田信一氏「王朝貴族の悪だくみ〜清少納言危機一髪〜」からです。


●熱心な取り立て

藤原元命のような悪徳受領は、ときとして、あたかも謹厳な国司であるかのような顔をすることもあった。

〔第八条〕過去の未納分の税を無関係な郡司や百姓から不当に取り立てた。

元命が尾張守を拝命した当時、どこの国の国府の帳簿を見ても、ずいぶんと昔の国司たちが取り立て損ねた税が、累積しつつ繰り越され続けているものであった。が、当時の朝廷は、そうした税を徴収することを、すでに締めていたらしい。そうした意味では、過去の未納分の税というのは、あくまでも帳符上の数字にすぎなかったのである。

そう、税の徴収が大好きな尾張守元命は、すでに時効を迎えたものとして扱われていた過去の未納分の税をも、かなりの熱意を持って完璧に取り立てようとしたのであった。

つまりその時点で尾張国内に住んでいた郡司や百姓が、まったく理不尽にも、かなり以前に赤の他人が滞納した税を負わされたのである。「尾張国郡司百姓等解」 によれば、このときの徴税もまた、掠奪さながらに実行されたらしい。


〔第十五条〕課税対象でない作物にも税を課した。

しかし、貪欲な元命は、そうした非課税の作物にさえ、徴税の手を延ばした。尾張何の隅々から、麦や豆をも容赦なく取り立てたのである。

そして、もちろん、任期中に多量の漆をせしめておくことも忘れなかった。彼の治めた尾張国には、上質の漆を産出することで知られる丹羽郡があったのである。


●不払いを決め込む受領国司

王朝時代の受領国司は、税として徴収した米を財源として、さまざまな物品の買い上げを行った。

というのも、任国にて調達した多様な物品を朝廷に上納することもまた、当時の受領たちが帯びていた重安な任務の一つだったからである。

 だが、尾張守藤原元命のような悪徳受領は、そうした公務としての買い上げの際にさえ、私腹を肥やさんとして、あまりにもえげつない不正を働いたのであった。

                                     
[第七条] 買い上げの名目で種々の物品を騙し盗った

元命が尾張守として尾張国において買い上げたのは、絹織物・麻織物・漆・油・苧麻・染料・綿といった品々である。そして、これらの物品を生産して元命に売ったのは、尾張国の百姓たちだったわけだが、その百姓たちの不満は、元命が物品を不当に安く買い上げたことにあった。そうした不公正な買い上が尾張国の百姓たちにもたらした損失は、絹織物に関してだけでも、数千疋にも及んでいたという。

貸しつけというかたちで元命のために絹織物を用立てた百姓の中には、その貸しっけを踏み倒された者もあった。


〔第九条〕借り入れの名目で大量の絹織物を騙し盗った

この絹織物の借り入れに関して、元命が一瞬でも返済の意思を持ったことがあったとは思えない。おそらく、ここでの借財は、当の元命にとって、返済するつもりなど初めからまったくない、事実上の接収だったのだろう。彼が、彼が借り入れの名目で集めた絹織物の総量は、一二一二疋にも及んでいたという。

尾張守元命が踏み倒した借り入れの総額は、当時の庶民層の人々にとって、八〇〇年分ほどもの年収に相当するものだったようだ。

ちなみに、こうした不正によって元命のもとに番えられた富を都に運び上げたのは、運送業をも営む百姓たちであったが、そうした百姓たちは、ここでもひどい目に遭っていた。


[第二十二条]物品の運送に雇った人々に不当に安い賃金しか支払わなかった


どうやら、貪欲な元命は、払うべき運賃の四割弱ほどしか払わなかったらしいのである。


●救民策の完全な放棄

 さて、尾張守藤原元命が悪辣な受領国司であったことは、ここまでに見てきたところからも、すでに十分に明らかであろう。しかし、元命の行った悪事を数え上げる「尾張国郡司百姓等解」は、まだまだこれでは終わらない。尾張国の郡司や百姓は、元命による公費横領の数々をも、かなり強い口調で弾劾しているのである。


〔第十条〕 貧民救済に充てる費用の全てを着服した

〔第十三条〕灌漑施設補修費および災害対策費の全てを着服した

地方諸国の漑漑施設の補修は、当時、受領国司たちに期待されていた重安な役割の一つであった。

また、それは、当の受領たちにとっても、切実な意味を持つ事業であったろう。任国から少しでも多くの利益を上げたかった彼らは、それぞれの任国の農業力を維持あるいは強化するため、ある程度漑施設を整えておかねばならなかったはずなのである。

しかし、王朝時代を代表する悪徳受領として知られる尾張守元命は、潅漑施設補修費および災害対策費として計上されていた六〇〇石余りの米の全てを、何のためらいもなく横領したという。


●食い尽くされた公共事業費

尾張守藤原元命が任国において横領した公共事業費は、灌漑施設補修費や災害対策費だけではない。

〔第十一条〕公的な連絡網を維持するための費用の全てを着服した。

〔第十二条〕公有の馬の飼育費および購入費の全てを着服した。


「駅」と呼ばれる施設を置いていた。そして、朝廷から諸国への命令や諸国から朝廷への報告は、駅から駅へと運ばれるかたちで、ほぼ確実に伝達されていたのである。
それぞれの駅には、多数の馬が用意されていた。駅ごとに馬を替えながら情報や使者を選ぶというのが、王朝時代の国家的な連絡網としての駅の制度であった。

また、その広域連絡網の結節点であった諸国の駅は、それぞれの国を治める受領国司の責任において維持されることになつていた。つまり、諸国に下った受領は、駅を維持するために、一定の規模の財源を確保しなければならなかったのである。

 しかし、尾張守藤原元命の場合、そうしたことに意を砕くことはなく、むしろ、駅のために支出するべき費用を丸ごと自分の懐に入れていたらしい。

そして、その尻拭いをさせられたのは、尾張国の郡司たちであったという。尾張国を治めていた三ケ年の問、同国の駅の全ては、同国の郡司たちの私財によって維持されていたのである。

しかも、これと同様の不正は、水上交通網の整備を巡っても行われていた。


   任地に赴く受領


●罰あたりな横領

〔第二十四条〕国分尼寺の再建に充てられるべき費用の全てを着服した。

王朝時代の受領国司たちは、国分寺や国分尼寺を存続させることに意を用いねばならなかった。要するに国分寺・国分尼寺の修理や改築などは、受領の責任において行われなければならなかったのである。

 ところが、尾張国の受領国司となった藤原元命は、任国の国分尼寺が火災によって失われていたにもかかわらず、けっして同寺の再建に必要な費用を支出しようとはしなかった。いや、それどころか、国分尼寺再建費に充てられるべきであった米九〇〇石に相当する財を、悪びれることなく自分のものにしてしまっていたのである。

〔第二十五条〕国分寺の僧および国分尼寺の尼への公的な布施の全てを着服した。
ここで元命が横領したとされる布施の総額は、六〇〇石強にもなったというが、それは、本来、国分寺あるいは国分尼寺において仏法を行う僧尼の生活費となるべき財であった。


●給料未払い

こうして、多様な名目の公共事業費を着服し尽した藤原元命であったが、そんな悪徳受領の元命は大胆にも、彼以外の尾張国司たちの給料にまで手を出していた。


〔第二十条〕掾(じょう)、目(さかん)、史生(ししょう)など下級国司の給料を全て着服した。

諸国の国司としては、長官である守と次官である介との下に、文書の作成や管理などに当たる国府の書記官のような官職もあった。これら国司の給料というのは、諸国の国府が行なう公的融資の利息を財源として支払われることになっていた。しかし、尾張国では、元命がその大半を横領し、結果として、下級国司には給料はほとんど支払われていなかった。


〔第二十一条〕国府に勤務する国司以外の人々の給料の全てを着服した。


「尾張国郡司百姓等解」が国府関係者の給料に関する不正をも糾弾しているのは、右の二カ条に見える横領によって損害を被った下級国司や国府職員の多くが、毛張国諸郡の郡司を兼任する人々だったからに他ならない。つまり、ここにおいてもまた、元命によって少なからぬ財を巻き上げられたのは、尾張国の郡司たちだったのである。 


以上は、役職を利用した横領や着服ですが、次の文を見ると、配下の者を使って、直接略奪を働いていたようです。こうなると完全なギャングです。


●受領に仕える野獣たち

王朝時代の受領国司にとっては、連れ下った子弟・郎等・従者こそが、任国における悪辣な蓄財活動の実行委員であった。尾張守藤原元命、彼の子弟や郎党や従者は、尾張国の郡司や百姓から財を巻き上げるため、元気に横暴の限りを尽くし続けた。


[第十六条]徴税使が人々に贅沢な接待や土産を強要するのを黙認した。

[第二十七条]子弟や郎等が郡司や百姓から物品を脅し取るのを黙認した。

[第二十八条]息子が馬を持つ人々から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。

[第二十九条]子弟や郎等が郡司や百姓から私的に不当な税を取り立てるのを黙認した。


 尾張守藤琴冗命の徴税便を務めたのは、当然、元命が都から連れ下った子弟や郎等や従者であった。そして、この連中は、公務にかこつけて頻繁に尾張国内の村々を訪れては、接待や土産などの名目で、郡司や百姓から多くの財を脅し盗っていた。「尾張同郡司百姓等解」によれば、そうして奪われた尾張国の冨は、数千石にも及んだらしい。

また、尾張守の威光を振りかざす元命の子弟や郎党は、尾張国の人々のもとに何か欲しいものがあれば、とにかく何でも奪い去ったという。これを「尾張同郡司百姓等解」は。「民の物を奪ひては、則ち京洛の家に運ぶ」と訴え、また、「日に見る好物は乞ひ取らざる莫く、耳に閃く珍財は使を放ちてしひ取る」と弾じる。

そして、尾張国の郡司や百姓による元命の手下たちについての総合的な評価は、おおよそ次のようなものであった。「尾張守殿の子弟や郎等の様子は、辺境に住む野蛮人と異なるところがなく、むしろ、山犬や狼のような野獣に近いほどです」。


●隠匿された法令

藤原元命が尾張守の任にあった三ケ年の間、尾張国の人々が悩まされ続けたことの一つは、ありにも頻繁に都への物品の移送に駆り出されることであった。

[第二十三条] 物品の還送のために国内の人夫や荷馬を動員することが不当に多かった。

[第二十六条]任地の大半を都の自宅で過ごして郡司や百姓からの陳情機会を奪った。

都からそう遠くない国々を預かる受領の場合、任国の支配を郎等たちに任せて、自身は多くの時間を住み慣れた都で過ごしていたのであった。

〔第三十条〕 官人身分の悪人たちを積極的に国内に連れ込んだ。


尾張守元命が下向の折に任国へと連れ込んだのは、位階や官職を持つ宮人であり、中級貴族層あるいは下級貴族層に属する人々であった。当然、彼らは、それなりに身元の確かな者たちであったろう。だが、この連中こそが、尾張守に仕える野獣の如き郎等たちの主力となったのであった.

[第三十一条]受領国司に都合の悪い新規の法令を発布しなかった。


●幸運な悪徳受領

さて、以上に「尾張国都司百姓等解」 の内容を少し詳しく見てきたわけだが、これによって明らかになったように、尾張守藤原元命がその任国において犯した罪は、あまりにも大きなものであった。

数々の悪行が尾張国にもたらした損失は、経済的なものだけを見ても、十七万数千石にもなっていたのである。それは、王朝時代において、一般労働者の二万数千年分の年収に匹敵する額であった。そして、国司の権力を振りかざして欲望のままに犯行を重ねた悪徳受領は、989年の四月五日、ついに尾張守を罷免されることになる。

右に見た『小右記』の一節に明らかなように、元命を失職に追い込んだのは、「尾張国都司百姓等解」あるいは「尾張国解文」として知られる一過の文番であった。朝廷に元命の更迭を決断させたのは、この嘆願書もしくは告発状だったのである。そして、件の「尾張国郡司百姓等解」を朝廷に提出したのは、当然のことながら、尾張国に暮らす郡司たちや百姓たちであった。

とすると、受領ぶりを遺憾なく発揮した尾張守藤原元命は、尾張国に地般を持つ豪族たちからひどく憎まれていたということになろう。そう、元命の更迭を願って「尾張国郡司百姓等解」を作成した尾張河の郡司たちや百姓たちというのは、要するに、同国に根を張る新旧の豪族たちだのである。

このことからすれば、現実には罷免されるだけですんだ尾張守元命も、ことによっては、任国の豪族たちの手により、むごたらしく血祭りに上げられていたかもしれないのである。

すでに幾つかの事例を紹介したように、受領国司たちが任国の軍事費族や豪族に生命を狙われるというのは、王朝時代において、まったく珍しいことではなかった。激しく憎まれていた尾張守元命ならば、彼に恨みを持つ豪族たちに襲撃されて血塗れの最期を迎えていたとしても、それは、実に似つかわしいことであろう。


・・・・以上が平安時代の貴族の実態です。これでも日本人か?もうこれ以上の悪は居ないだろう・・・と思うくらいですね。

でも上には上が、もっと悪い奴が居たようです。「尾張国郡司百姓等解文」という告発文により藤原元命は解任されたのですが、もっとあくどい奴は、このように告発されないように、事前に手を廻して押さえつけていたようです。次回紹介します。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002574.html


暴走の源流=平安貴族5 

自分の都合の悪いことを隠蔽、口封じする貴族たち


前回までの記事は、貴族たちが行ったありえないほどのえげつない収奪についてまとめました。
 
平安貴族たちの悪行はこれだけに止まりません。
 
今回は自分達の都合が悪いことを隠蔽、口封じしまくった貴族たちについてまとめます。
 
『王朝貴族の悪だくみ―清少納言、危機一髪』より抜粋引用します。
  
  『餓鬼草子』に描かれている貴族の食事
 
  『餓鬼草子』に描かれている庶民の様子

 
○告発者の親兄弟を皆殺しにした『藤原文信』

尾張国の豪族たちが「尾張国郡司百姓等解(おわりのくにぐんじひゃくしょうらげ)」を通じて朝廷に強く求めたのは、要するに、悪徳受領の罷免であった。そして、この国司更迭の請願は、あっさりと聞き届けられることとなった。すなわち、「尾張国郡司百姓等解」によって尾張守藤原元命(おわりのかみふじわらのもとなが)の度を越した悪辣せを知った朝廷が、永祚元年(九八九)の四月五日、元命に代わる新たな尾張守を任命したのである。

そして尾張国の豪族たちは、藤原元命の追放を成し遂げた後、その成功に味をしめてか、朝廷に受領国司の解任を要求することを繰り返すようになる。

 
 ところが、現存する史料を見る限り、藤原元命の後任の尾張守については、朝廷によって罷免されたという事実もなければ、尾張国の豪族たちから退任を要求されたという事実もない。どうやら、元命の次の尾張守は、その任を無事に務めおおせたようなのである。

そして、その藤原元命の後任の尾張守というのは、藤原実資の『小右記』の藤原文信であった。
  
尾張国の豪族は藤原元命の悪行に怒りを示し、「尾張国郡司百姓等解」を作成し、朝廷に罷免を求め、見事成功。それ以来、受領国司の解任要求を朝廷に繰り返すようになります。

しかし、元命の後任の藤原文信は地方豪族ではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪だったようです。
 


 だが、この事実は、文信が善良な受領国司であったことを示すとは限らない。また、尾張国の豪族たちが文信に好感を抱いていたことを示すとも限らない。任国の豪族たちから明白なかたちで拒絶されることのなかった尾張守文信は、ことによると、尾張国の郡司や百姓にとって、現に彼らの働きかけによって尾張守の職を追われた元命や経国などよりも、はるかに厄介な受領だったかもしれないのである。もしかすると、文信というのは、地方豪族などではまったく手も足も出ないほど飛び抜けて凶悪な受領だったのではないだろうか。

というのもこの藤原文信という中級貴族には、恐ろしい前科があったからに他ならない。実は、かつて筑後守の任にあった頃の文信は、自身に不都合な筑後国の住人を抹殺しようとしたうえ、その筑後国人の親兄弟を皆殺しにしていたのである。

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朝廷が藤原文信を尾張守に任命したのは、永祚元年四月五日のことであったが、その直前となる同月一日、当の文信が暴漢に襲われて頭部に傷を負うという事件が起きていた。

そして、永祚元年四月六日の『小右記』には、次のような記述が残されている。

「藤原文信を負傷させた安倍正国(あべのまさくに)が、伊賀国の以忠(もちただ)という名前の追捕使によって捕獲されたらしい。

そこで、検非違使の右衛門尉藤原惟風(うえもんのじょうふじわらこれかぜ)が、伊賀国追捕使以忠から正国の身柄を引き取ったところ、件(くだん)の正国は、両手の指を切断されたうえ、脚をへし折られていたらしい。また、その文信襲撃事件の犯人と見られる男は、鎮西(ちんざい)において文信に父母・兄弟・姉妹を殺されたことから、その報復をしようと、文信が隙を見せるのを待っていたらしい」。

 こうして検非違使が安倍正国の身柄を確保したことで都の人々の前に明らかにされたところによれば、前筑後守藤原文信が正国に生命を狙われねばならなかったのは、かつて文信が正国の家族を殺害していたためであった。検非違使が正国の口より「鎮西において文信に父母・兄弟・姉妹を殺された」との供述を引き出したことから見て、また、正国がたった一人で家族の仇を討とうとしていたらしいことから見て、筑後守であった頃の文信は、その任国において、正国の家族を皆殺しにしていたにちがいない。

 
このように、藤原文信は安倍正国の家族を皆殺しにし、そのあだ討ちに来た正国自身も返り討ちにし殺してしまいます。しかも、両手の指を切断し、脚をへし折るという残虐なやり方で、、、

この凶暴さに地方豪族もびびってしまい、文信が朝廷に受領の任期を伸ばす要請を出しても止めることができず、長期間受領を勤めることができたようです。
  

文信の筑後守の任期は、本来、天元四年正月の四年後の正月となるはずであった。

文信が受領としてその任国から富を吸い上げ得る期間は、正規のかたちで正月に任命された受領の場合に比して、ほとんど一年間も短くなってしまうはずだったのである。

 だが、これに納得できなかった文信は、彼の筑後守としての任期を天元五年正月からの四年間とするよう、文章を通じて朝廷に願い出たのであった。そうして少しでも長く受領国司の任にあり続けようとするのは、当時の中級貴族層の人々にとって、あまりにも当たり前のことであったろう。

そして、『小右記』によれば、文信から上げられた申請が朝廷において検討されたのは、天元五年、の二月二十五日のことであったが、この新任の筑後守の切実な願いは、すんなりと承認されたものと思われる。


 
○自分の横領を知った盗人の口を封じる『伯耆守』
 

王朝時代の人物と思しき橘経国(たちばなのつねくに)は、伯耆守(ほうきのかみ)の任にあった頃、国府の倉庫に忍び込んだ盗人を、捕らえた途端に処刑したことがあった。その盗人は、四十歳ほどの男であったが、身形もよく肌の色も白かったというから、おそらくは、伯耆国に地盤を持つ新旧の豪族たちの一人だったのだろう。そして、そんな人物が盗みなどに手を染めたのは、折からの飢饉のため、食べるものがまったく手に入らなかったからであったという。
      
しかし、王朝時代のこととはいえ、ただの盗人が死刑に処されるというのは、尋常なことではない。そもそも、当時の朝廷の方に従えば、わが国の臣民を死刑に処し得たのは、日本の国の主である天皇だけであり、天皇の名代として諸国を治めるにすぎない受領たちは、その任国の住人に対してさえ、独自の判断で死刑を科してはならないはずであった。

 それにもかかわらず、伯耆守経国が盗人の処刑を強行したのは、『今昔物語集』によれば、「後の聞こえも有り」という事情を鑑みてのことであったらしい。つまり、同様の犯罪の再発を防ぐため、敢えて盗みの罪を犯した程度の罪人に死刑を科したというのである。

 だが、『今昔物語集』が語るのは、経国の本音ではあるまい。

 というのは、伯耆国府の倉庫に忍び込んだ盗人が、そこには何もないことを目撃していたからである。これは、『今昔物語集』も認める事実であるが、国府の倉庫が空になっていたというのは、受領国司が国府の財を横領していたことの動かぬ証拠であろう。そして、そんな重大な証拠を握ってしまった盗人を、悪徳受領が放置するはずはなかったのである。
 
当然、筑後守藤原文信も、国府の倉庫に入った盗人を生かしてはおけなかっただろう。また、その盗人が倉庫の中で見たことを彼の家族に話したとすれば、盗人本人のみならず、その家族までもが、文信に生命を狙われることになったにちがいない。そして、安倍正国の家族が皆殺しにされた理由は、もしかすると、こんなところにあったのかもしれない。

 
前稿でまとめたように、当時の貴族達は横領を当たり前のように行っていました。そのため、倉庫が空になったのだと思いますが、それを知ったものは口封じのため容赦なく殺されたようです。
 
藤原文信が安倍正国に命を狙われたのもこんなやりとりがあったからかもしれません。
 
 
○殺人を隠蔽する『常陸介』 

 ところで、王朝時代において、受領国司が任国の住人を殺害するというのは、少しも珍しいことではなかった。いや、むしろ、当時の受領たちについては、殺人の常習犯であったと見ておいた方がいいようにさえ思われる。

 しかも、自分の犯した殺人の罪を姑息に隠蔽しようとするのが、王朝時代の受領たちの常であった

常陸国(ひたちこく)において同国に住む公侯有常(きみこのありつね)が殺害されたのは、万寿元年(一〇二四) のことである。そして、その頃に常陸介(ひたちのすけ)として常陸国の受領国司であった平維衡(たいらのこれひら)が朝廷に報告したところによると、有常の生命を奪ったのは、常陸国住人の公侯有材(つねもと)であった。
 ここに登場する公侯有常と公侯常材とは、それぞれの氏名から推測されるように、おそらく、かなり近い親類であったろう。 

しかし、常陸介維衡によれば、そんな二人の間でおきてしまったのは、あろうことか、生命のやりとりであった。つまり、万寿元年に常陸国で起きた殺人事件は、同国の責任者として事件の捜査を指揮した維衡の言うところ、親類間のいざこざが激化した末の悲劇だったのである。
 
だが、万寿二年の三月、都の貴族社会の人々は上の殺人事件に関して、それまでに得ていたのとは全く異なる情報を与えられることになる。
 
 同月二十六日の『小右記』から知られるように、前年より公侯有常殺害事件の犯人と見なされていた公侯常材が、みずから朝廷に出頭したうえで、有常の最後について「国司の為に殺される」と証言したためであった。

結論から言えば、有常殺害事件に関する事実は、常材が捨て身で告発した通りであった。
すなわち、同年七月二十一日の『小右記』によると、維衡の後任の常陸介となった藤原信通(のぶみち)が、朝廷の指示に従って事件の捜査をやり直したところ、かつて犯人断定の決め手とされた被害者の妻の証言は、維衡によって捏造されたものだったのであり、また、そうして常材を殺人犯に仕立て上げた維衡こそが、有常殺害の真犯人だったのである。

 
常陸介は自分に都合の悪い人間を殺しておきながら、それを他の人間、しかも親縁に罪をなすりつける
 
○書生に帳簿を改ざんさせ口封じのために殺した悪徳受領『日向守』
 

 地方諸国の国府に勤める下級事務職員として「書生(しょせい)」と呼ばれた人々も、その本来の姿は、それぞれの国に根づいた豪族であった。それゆえ、任国の豪族たちから富を吸い上げようとする悪徳受領にしてみれば、公式には彼の下僚ということになっている書生たちも、けっして信頼できる部下などではあり得なかっただろう。いや、それどころか、現に国府の事務処理に携わっていた如くに読み書きに長じていた書生たちは、いつ受領国司の不正を告発しないとも限らない、どうにも厄介な存在であったにちがいない。

 一方、その書生たちの側でも、任国で蓄財に励むことしか考えていない悪徳受領に対しては、けっして気を許すわけにはいかなかったはずである。とくに、何らかの事情で受領国司の不正行為に手を貸してしまった書生ともなれば、不正の露見を未然に防ごうとする悪辣な上司に消されてしまわないよう、つねに警戒していなければならなかったことだろう。

 そして、実際のところ、日向国の国府に勤務していた一人の書生が、若くして生命を落とさねばならなかったのは、強いられてのこととはいえ、悪徳受領である日向守(ひゅうがのかみ)の不正の片棒を担いでしまったがゆえのことであった。

 その日向守某が手を染めていた不正の多くは、おそらく、「尾張国郡司百姓等解」が弾劾する違法行為や脱法行為と同じものであったろう。すなわち、問題の日向守もまた、尾張守藤原元命と同様、さまざまな機会に不当課税・不当徴税・恐喝・詐欺・公費横領といった悪事を働き、郡司や百姓として任国に暮らす豪族たちから、多くの財を巻き上げていたと考えられるのである。

 それにもかかわらず、この日向守の場合、受領国司としての任期を全うすることができたわけだが、任期満了を迎えた日向守某は、後任者の下向を待つ間、それまでに多くの不正が行われてきた痕跡を消し去ることに余念がなかった。すなわち、自身の行った不正が次の日向守によって暴かれることのないよう、何か辻褄の合わないところのある書類を徹底的に洗い出し、それらを全て整合性のあるものへと書き直していったのである。当然、それは、かなり根気の要る作業であったろう。

 そして、この困難な隠蔽作業のために重用されたのが、かねてより日向国府に出仕していた一人の書生であった。機転が利くうえに字も上手かったという彼は、国府の一室に監禁され、二十日ほどもの間、書類を改竄する作業を続けさせられたのである。


もちろん、切れ者であった書生は、自身が悪事に関与していることに気づいていた。が、日向守某の従者たちに厳しく監視されていたため、逃亡することもかなわず、命じられるままに偽装書類の作成を続けるしかなかったという。

 しかも、こうして意に反して不正行為に荷担することになった書生は、その役割を終えるや、彼に不正への関与を強いた悪徳受領の勝手な都合により、あっさりと殺されてしまう。『今昔物語集』巻第二十九第二十六の「日向守口口□□の書生を殺す語」という話によれば、書類の改竄を完了した日のうちに、日向守某の郎等に射殺されたのであった。

日向守某が私利私欲のためにまったく非のない書生の生命をを奪ったというのが、正真正銘の史実であったとすれば、やはり、『今昔物語集』の編者としては、「日向守□□□□」の氏名を明かすわけにはいかなかったにちがいない。

 
このように、平安貴族達は自分の都合の悪いことを隠蔽、口封じしまくっていたようです。
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2013/07/002575.html

うーん、漢民族は中国でも、日本に来ても えげつなさは変わらないですね。

15. 中川隆[-13672] koaQ7Jey 2018年12月21日 07:50:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告
>>8 に追記


赤線地帯 溝口健二監督 撮影・宮川一夫

出演者
若尾文子
三益愛子
町田博子
京マチ子
木暮実千代

動画
https://www.youtube.com/watch?v=YNClfL0k_1s

16. 中川隆[-13395] koaQ7Jey 2018年12月27日 21:38:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

皇室関係の噂は皇位継承に絡んでいるので嘘やデマが多いですね。
もし事実だったとしても、宮内庁が必死に揉み消し工作をするので、真偽の判定が難しいのです。

▲△▽▼


皇室に関する嘘やデマの有名な例


メディアが触れない「天皇家」の闇。
「皇太子徳仁親王」と「秋篠宮文仁親王」は「平成天皇」の子供ではありません。
Posted on 2018年6月23日
http://kawata2018.com/2018-06-23/

今回はいろいろとうわさの絶えない天皇家について書こうと思います。

ネット上で調べ物をしていますと、天皇家についての情報があふれています。

「天皇」は「悪魔崇拝者」である。

この衝撃的な事実が「RAPT BLOG」によって暴露されて以降、「天皇」は悪人だという認識がますます高まっていきました。

そしてついには「生前退位」まですることとなりました。


○RAPT BLOG-天皇がどこからどう見ても悪魔崇拝者であるという証拠。


○RAPT BLOG-天皇が行う「大嘗祭」はまさに悪魔崇拝そのものです。


○RAPT BLOG-天皇家が悪魔崇拝に関わっているとしか思えない幾つかの理由。


生前退位に伴い、今後の「天皇家」では跡継ぎなどの問題が山積しています。

その中でタイトルに書いたような「皇族」たちのいろいろなうわさがネット上に流れています。

一般庶民からすると、とてもおどろくようなことです。

実子としておおやけに登場している「皇族」がまさかの「他人」だなんて。

調べを進めていくうちに、かれらにとってはそのような一般的な感覚が欠如するしかない世界で生きていることがわかりました。

昔から日本の「貴族社会」では「一夫多妻制」があたりまえでした。

「天皇家」の「一夫多妻制度(女官制度)」は、なんと「昭和天皇」が廃止するまでつづきました。

そのため、「天皇」は正妻とは別の女性、「女官」たちと性的な関係を持つのがあたりまえだったのです。

世の中では性の乱れが激しくなっていますが、「天皇家」先祖代々乱れているのがあたりまえだったようです。

——————————————————-(以下転載)

明治天皇も大正天皇も正妻の子ではない
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/773.html


明治・大正天皇には正妻のほかに側室がいた

◆ミカドと女官 菊のカーテンの向こう側 小田部雄次

http://www.netpro.ne.jp/~takumi-m/book/258-mikado_jokan.htm(リンク切れ)

皇室典範の第1条に、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と、うたわれているので、天皇の血族の男性しか天皇になれない。天皇制は前近代のものだから、現代社会にはなじまない。

近代社会に天皇家を生き延びさせるために、1夫1婦制を取り入れて、側室制度を廃止した。しかし、そのツケは大きく残っている。昭和天皇だった裕仁が側室制度を廃止したことは、もっと注目されて良い。

裕仁の戦争責任が、あるとかないとか云々される。

もちろん彼に責任があったのは当然で、軍部に踊らされたというのは、天皇家を存続させるための責任逃れである。

彼は日本国の裕仁ではなく、天皇家の裕仁だったから、太平洋戦争に負けたときの最大の関心事は、わが国の存立ではなく、天皇家の存続だったろう。

何もできない天皇を装っているが、裕仁は皇室制度をさかんにいじっている。

女官についても、周囲の反対を押し切って、制度改革を行っている。

女官とは、天皇家の女中さんではない。天皇のセックスの相手のことである。

 明治天皇や大正天皇には、多くのセックス相手がいた。

建前上は、ある位以上の女官しか、セックスに誘ってはいけなかったが、女性の色香に迷うには男の常である。

しかも、子供を産ませることが奨励されていれば、天皇たちは気軽に女性に手をだした。

明治天皇も大正天皇も、正妻の子供ではない。

明治天皇と一条美子の結婚には法的規定はなく、美子が入内して「女御宣下」(天皇の寝所に侍する高位の女官であるという内輪の命令)があったのみであった。

今日「古式ゆかしい」と伝えられる賢所大前での神前結婚の定式は嘉仁親王(=大正天皇)と節子の結婚以後に定まったものである。

皇室婚嫁令のみならず、近代天皇制を支えた法令の多くは明治以後に制定されたものである。P69

明治以降、天皇制を確立するために、さまざまな手段が講じられた。

とりわけ皇位の継承には、細心の注意がはらわれた。

それが側室制度で、天皇たちは多くの女性とセックスをし、多くの子供を出産させた。しかし、その多くは小さいときに死んでしまい、なかなか育たなかった。

ちなみに、昭和天皇の裕仁は、正妻・節子の子供であるが、節子は16歳で裕仁を出産している。

つまり、大正天皇は15歳の節子とセックスをした。

15歳とは、今日の中学3年生である。中学生のセックスを、世の親たちは奨励するだろうか。天皇にとってはセックスが可能なら、相手の年齢など、どうでもよかった。

天皇と肉体関係をもったことにより、女官の発言力が高まり、隠然とした権力を手にすることもあった。

また、天皇の生母であれば、発言力もました。大正天皇の母親である柳原愛子は、大きな影響力を持ったらしいし、「魔女」といわれた今城誼子は、裕仁の妻=良子をつうじて、さまざまに影響力を行使したという。
女官は、おおくが華族の娘から選ばれたが、例外もいた。

華族出身ではない女官で異色なのは、岸田俊子と下田歌子であろう。

俊子と歌子は近代の女官のなかでも特異な存在であったが、俊子と歌子の女官辞任後の生き方はまったく対照的であった。P78

大正天皇の正妻だった節子は、裕仁、雍仁(秩父宮)、宣仁(高松宮)、祟仁(三笠宮)をつぎつぎと出産した。

多くは成人まで育たないのであるが、4人とも無事に成人した。

大正天皇は、病弱だったことも手伝って、節子以外の女性とのあいだには、子供を残さなかった。

そうした事実を受けて、昭和天皇である裕仁は、側室制度を廃止した。

女官がセックスの相手をしなければ、彼女たちは住み込みの必要がない。

裕仁は1夫1婦制をとると同時に、宮内大臣だった牧野伸顕の反対にもかかわらず、女官を住み込みから通勤制に変えた。つぎつぎと宮中の改革を進めた裕仁が、国政にだけ無関心だったとは思えない。

おそらく軍部の動向も、きちんと掌握していたに違いない。

それは2.26事件の時の、彼の発言を見てもわかる。

天皇のセックス相手以外にも、女官は必要だった。

それは乳人とよばれる女性、つまり人工栄養のなかった時代、授乳をする女性である。

当時(=昭和初期)、軍部や右翼が政治的に台頭し、牧野や一木ら天皇機関説派とよばれる宮中側近を攻撃する動きが強まっていた。

なかでも、平沼騏一郎枢密院副議長は宮中側近の地位を狙っていたが、その右翼的な傾向が元老西園寺らに忌避されており、平沼は現職の宮中側近を攻撃することでその野望を遂げようとしていた。

こうした政治的策謀の渦に乳人選定が巻き込まれたといえる。P184

選挙以外で選ばれた者を、政治権力の座につけることは、決して良いことはない。

どんなに名君であろうとも、身分制の害悪からは逃れられない。

血統にもとづく天皇制は、悪い制度である。またそこに使える女官たちにも、彼女たちの人生に悪い影響しか残さない。

天皇制は、近代的な制度にはなりえない。たとえ男の子が産まれても、時代遅れの天皇制は呻吟を続けるであろう。(2002.12.13)
http://www.asyura2.com/0403/bd35/msg/773.html

——————————————————-(転載ここまで)

なんと「明治天皇」も「大正天皇」も正妻の子ではないのです。

そして「大正天皇」は中学生と同年代の「正妻」と性的関係を持っています。

現代では考えられませんし、立派な犯罪です。

このような「天皇家」のタブーをテーマに映画を作っている映画監督もいるようです。

○渡辺文樹-Wikipedia

——————————————————-(以下こちらから転載)


今朝発売の日本一汚れた週刊新潮に渡辺監督へのインタビューが掲載されてた。

新潮に取り上げられたということは、いよいよ大騒動に発展なのか?

『天皇伝説』は天皇家の血を巡る物語です。

オレは10年以上前から、万世一系とは言うものの、実は天皇家は血がつながっていないのではないかと思っていました。

それを確かめるべく旧皇族などに話を聞いてみたところ、やはり天皇家の血筋は続いてきたわけではない、という確信を得たのです。

映画の組み立てとしてはあくまでもフィクションという形を取り、アクションシーンなどの娯楽要素も盛り込んでいます。

映画のあらすじ

主人公の渡辺は米軍で働いた経験のある男。内縁の妻を殺したとの濡れ衣を着せられて逮捕される。

渡辺は脱獄し、無実を証明すべく、事件の真相を追究。

そしてM資金と呼ばれる秘密資金の存在を突き止めた渡辺はそのルーツを探るため、天皇家の血脈の謎に迫る……

天皇家の問題は、映画の中で渡辺が明らかにした事実という形で挿入されています。

その事実とはまず、明治天皇が16歳の時に別人にすり替えられていること。出来が悪かったため、騎兵隊の幼年兵として活躍していた大室寅之祐という青年と取り替えられてしまったのです。

オレは寅之祐の生家周辺で聞き込みを行った。そして、子孫にあたるおばあさんから、寅之祐が幼少期に明治天皇になったと聞いたのです。おばあさんから唾液をもらってDNA鑑定したんですが、今の皇族のDNA配列に非常に似ていることが明らかになりました。

大正天皇の4人の子は皆、貞明皇后の不倫の末に生まれた子です。

まず、昭和天皇は貞明皇后と、西園寺公望の養子である毛利八郎との間に生まれた子。

秩父宮、高松宮の父親が誰なのかは分かりませんが、大正天皇でないことは間違いない。

三笠宮の父親はDNAで調べると、中川宮の第5皇子である多嘉王です。

昭和天皇もまた子種がありませんでした。

平成天皇の父親は、三笠宮です。また、秋篠宮も平成天皇の子供ではありません。

美智子皇后と入江相政・元侍従長の間の子なのです。

つまり、秋篠宮には皇室の血は一切入っていないのです。

渡辺監督が饒舌に話すトンデモ内容であるが、もしホントウなら一部のトンデモ保守の間で騒がれている「悠仁」さまを天皇にすることで男系天皇の伝統を守る、というのは跡形もなく崩れ去る。

なんせ秋篠宮家には皇室の血が一滴も入っていないのだから……。

また毛利八郎については、こんなの見つけた↓

鬼塚英昭は、昭和天皇の実父は西園寺八郎であるとする(母はもちろん貞明皇后)。

ゾルゲ事件の尾崎秀実に情報を流していた西園寺公一は八郎の息子である。西園寺八郎は、もと毛利八郎で、西園寺公望の娘・新と結婚し婿入りした。大正天皇と同級。

もし、西園寺八郎が昭和天皇の実父だとすれば(わたしは確信しているが)、ゾルゲ事件で政府の秘密書類を盗み出し、尾崎秀実に渡していた公一と昭和天皇の父親は同じである。

すなわち、秩父宮、高松宮、三笠宮よりは皇統に近い兄弟となる。(同前p423)


——————————————————-(転載ここまで)

この人物は「一水会」の「鈴木邦男」ともかかわりがあるため、あやしげな人物ではありますが、このような映画の題材にまでなってしまうほど「皇室」の闇はスキャンダラスで深いです。

上記の「インタビュー」内で語られていますが、「秋篠宮文仁親王」には一滴も「皇族」の血が入っていないといううわさが流れています。

このような情報が流れるのは、「皇太子」と「秋篠宮」の争いゆえだと考えられます。

以下のような報道もよく目にするようになりました。


○眞子さま「婚約延期」で「皇太子vs秋篠宮」代理戦争(1)「母親だけの問題じゃない」


○眞子さま「婚約延期」で「皇太子vs秋篠宮」代理戦争(2)「得体が知れない」との声も


○眞子さま「婚約延期」で「皇太子vs秋篠宮」代理戦争(3)お相手の醜聞を広める理由


たがいに「工作員」を利用して悪口やスキャンダルを垂れ流している状態です。

読むだけで心がすさみそうなひどい悪口もたくさん書かれています。

以下のような系図も掲載されていました。

この系図によると「皇太子」さえも「平成天皇」と「美智子皇后」の実子ではないということがわかります。

——————————————————-(以下こちらから転載)

島原出身と云う女性店主が【和田迪子ミチコを検索してご覧?】と云う、徳川に殲滅された島原の乱、明治維新で徳川が殲滅されたと思っていたが、天皇家に根強く張り巡らされて健在な江戸時代のネットワーク、その強さに驚愕した、と言う。

明治維新後の天皇家が、徳川家、前田家、冷泉家などの系譜だとわかった。

浩宮➡︎徳川恒孝(嫡流)と和田迪子(前田家の血筋)

秋篠宮➡︎入江侍従長(冷泉家)と美智子妃

正田家は江戸時代徳川家の墓守(満徳寺)、美智子妃の母親は多久聖廟の娘

浩宮の娘【愛子】➡︎浩宮の種を清朝の康熙帝の血筋を引く女性に(雅子妃無関係)

万世一系では無さそうだ


——————————————————-(転載ここまで)


じっさいにいくつもの画像を見くらべてみたのですが、「皇族」それぞれに「影武者」が存在するようですので、もはやだれが本物なのかわからない状態です。


○皇太子の影武者@@徳仁親王の影武者疑惑、皇太子は少なくとも4人いる


それぞれが権力者の血筋の子供たちで、養子というかたちで「天皇家」に入り込み、その家の権力を保持しているのです。

皇太子の父親とうわさされている「徳川恒孝」は「徳川家」の当主です。

◯徳川恒孝ーWikipedia

「養子」や「影武者」という話まででてくるなら、「天皇家」は「家族」ではなく、うそで塗りかためられたただの「権力の集合体」です。

国民の税金をむさぼっている「日本の象徴」が「嘘で塗り固められた集団」というのは何ともゆるしがたいことです。

「RAPT BLOG」をとおして、日本の「イルミナティ」たちは「養子縁組」を繰り返し、戸籍上は家族だとしても、じつは血のつながりがない、というひとたちがたくさん存在することを知りました。

幼少期に養子に出されて、さらに結婚時に婿養子となり、2回も苗字が変わっているひともよく発見します。

そのため「○○は○○の子供ではない!」ということが一般庶民にとってはおどろくようなことでも、かれら「イルミナティ」にとってはごくふつうのことなのです。

実子ではなく、妾の子、という情報がふつうに出てきます。

しかし世の中にその事実が出まわれば、その風習が一変して「スキャンダル」となるのです。

そのような情報をたがいに暴露しては蹴落としあっているのです。

そんな争いのさなかにいる「秋篠宮文仁親王」の本当の父親は皇室の「侍従長」をつとめた「入江相政」という人物です。

<入江相政>

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https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E6%B1%9F%E7%9B%B8%E6%94%BF

入江 相政(いりえ すけまさ、1905年(明治38年)6月29日 – 1985年(昭和60年)9月29日)は、日本の官僚、歌人・随筆家である。

昭和天皇の侍従・侍従長を長く務めた。

従二位勲一等旭日大綬章、勲一等瑞宝章、紺綬褒章・賞杯。

堂上華族の入江家出身。歌人・柳原白蓮の甥であり、元岩崎勝商事社長・岩崎勝太郎は相政の義弟にあたる。

柳原前光の孫である。

1985年(昭和60年)9月26日、同年10月1日付の侍従長退任を控え宮内記者会とお別れの会見。

同年9月29日午後、自宅で意識を失っているところを家人に発見される。

同日午後1時31分、搬送された慶應義塾大学病院(東京都新宿区信濃町)で、虚血性心不全により死去。享年81。勲一等旭日大綬章を受章、従二位を追贈される。

—–

吹上御所で入江の訃報を聞いた昭和天皇は「……えらく突然だったね」と言った。夕方、侍従があらためて報告した時は、窓に面した椅子に掛けて、振り向かずに「そうか」とだけ述べ、雨に濡れる吹上の庭を見つめていた。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%A5%E6%B1%9F%E7%9B%B8%E6%94%BF

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写真を見くらべるといかがでしょうか。

顔のパーツ、特に特徴的な「鼻」は似ていますね。

とくに若いころのひげをはやした姿は似ています。


かれと「美智子皇后」について以下のように書いているひともいました。

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正田美智子さん=現在の美智子皇后は聖心女子学院を卒業されている。

聖心女子学院はお嬢様が通うミッション系(キリスト教系)の学校である。

聖心女子大学文学部外国語外国文学科(英文学)を首席で卒業とある。

家柄や家系図を10代以上遡り、犯罪者・精神異常者・障害者・学歴・成績等を調べて問題が無いとされた家なのだから当然なのかもしれない…

現在の宮内庁に勤める女子の多くは首にロザリオか十字架かは知らないが架けてるらしい…
私如きが入れる訳ではないし、見たのでもないので何とも言えないが、ある人のブログにはそのように書いてあった。

如何に天皇や周りが美智子皇后に気を使っているかが解るような話しに、何となく納得してしまう私です。
庶民からの入皇室に皇族からの反発
やイジメが有ったのは想像に難くない。

(香淳皇后や柳原白蓮等)

そりゃ〜利権をよそ者に取られたくないわな(笑)

しかし、活発で勝ち気な性格だったとされる美智子様は、泣いて堪える人ではない。

巻き返しを計ったのである。そのパートナーに選ばれたのが、後に侍従長となった入江相政(すけまさ)である。

公務員の定年は60歳であるが、彼が80歳まで侍従長を勤めれたわけは、美智子様の浮気相手であり、秋篠宮文仁(紀子さんの旦那)の父親だからだと言う噂はかなり良く知られているようである。

現在の皇太子までは血筋が保てるかもしれないが、その次が問題なわけですよね?
だって、事実なら完全に血筋が違うんだから…

秋篠宮文仁が皇太子になり、現在9歳くらいの子供悠仁が次期天皇になるなら…

だから女系天皇論なんかが出てくるわけよ…

この問題は他の所でまた書くとして、イマサラ何を言ってるんだ!なんだけどね(笑)

美智子さんは3人の子供を産んだ事になっている…

徳仁・文仁・清子である。

しかし実際に産んだのは、浮気相手の子供秋篠宮文仁だけだとこの人は言っている。

参考ブログ


根拠として、性格・体格・鼻の形をあげている。

簡単に言えば、皇室の血筋を絶やさない為なら何でもアリなのだろう。

借り腹・浮気公認・子供の入れ替え・強姦・乱交…

だから表向きは近親相姦で血が濃くなっても異常者が出ないのだね。納得(笑)


——————————————————-(転載ここまで)


「入江相政」と「美智子皇后」には大きな共通点があります。

「美智子皇后」は「正田家」出身です。

「正田家」はクリスチャンの家系として知られています。

その「正田家」をクリスチャンに改宗させたのが「フロジャック牧師」という人物です。

「フロジャック牧師」は「入江相政」と深いかかわりがあり、さらには「皇室」から庇護を受けた重要人物です。

——————————————————-(以下こちらから転載)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF


ヨゼフ・マリウス・シャルル・フロジャック(Joseph Marius Charles Flaujac、1886年3月31日 – 1959年12月12日)はパリ外国宣教会所属のフランス人宣教師である。

1909年(明治42年)に来日し、結核患者及びその家族のための総合的な福祉施設を目指して活動し、東京における社会福祉活動に大きな足跡を残した。

<行幸啓の様子>

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%82%BC%E3%83%95%E3%83%BB%E3%83%95%E3%83%AD%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%83%E3%82%AF
——————————————————-(転載ここまで)

「正田家」を伝道した宣教師が「皇室」にも深くかかわるようになったのです。

<<正田家 家族写真>

——————————————————-(以下こちらから転載)


■弁慶のような荒法師ことフロジャック神父

木下道雄は侍従次長を辞めた後、敬虔なカトリック信徒になっていた。

洗礼を与えたのはヨゼフ・フロジャック神父である。

財団法人慈生会の設立者として知られるフランス人神父のフロジャック神父は、一九〇九(明治四二)年に来日、戦前から乳児院、結核療養施設、診療所などを建てて社会事業に貢献していた。日本語巧みで胸まで伸びた真っ白いヒゲが特徴だった。

木下は、幼友達の妹がフロジャック神父の下で働いていた関係で、噂だけは聞いていた。

村から村へと布教の旅を続ける神父が、足に大きな裂傷を負った際、近くの農家から針と糸を借りて、自分で縫い合わせたという話を聞いて、「フランス人にも、こんな弁慶のような荒法師がいるのかと、一種の親しみを感じた」と語っている。

この親しみとともに、フロジャック神父の名前が木下の記憶に刻まれた。

宮内省総務課長時代、陛下からの推奨金推薦先として財団法人慈生会の前身にあたる「ベタニアの家」の名前があがり、木下の記憶によれば、三二(昭和七)年の暮れに弁慶の元を訪ねる。

ここで二人は初めて出会い、事業も評価され、フロジャック神父には推奨金五千円が与えられることになる。

本格的に二人がかかわり出すのは、侍従次長時代の四五(昭和二十)年十一月二五日、この日の夜にフロジャック神父は木下宅を訪れ、戦災の傷跡残る上野駅周辺の浮浪者救済のための診療施設開設と関東に酪農を主体とするトラピスト施設の必要性を説いた。

木下の日記にも「共に予の共鳴する所なり。考慮を約す」とある。

木下は早速その翌日の宮内省事務調査会でフロジャック提案を披露して、宮内省の協力を取り付けた。

 しかも、那須の名前は早くも十一月二九日に登場し、木下退官直後の四六(昭和二一)年七月には木下の斡旋で那須御料地約三百町歩が貸し下げられることが決まる。

フロジャック神父は貸し下げられた川西御料地六〇町歩を「聖ヨゼフの山」、奥まった道上下の御料地を「聖マリアの山」と名づけて、早速開墾が開始され、引揚者、復員兵の受け入れを始める。

この地には那須診療所、林間学校宿舎、精神薄弱児のための光星学園(現マ・メゾン光星)などが次々とつくられていく。

この御料地貸し下げの背景を見ておこう。

木下によれば、フロジャック提案を昭和天皇に話したところ、昭和天皇より「助けてあげなさい」と言われ、それがきっかけで林野庁との話し合いもつき、貸し下げることになり、成績によってはこれを払い下げることまで決まったとしている。

興味深いのは一九三四(昭和九)年に侍従となり、侍従次長、侍従長として半世紀余にわたって側近を務め、宮中生活最後の休日に急死した入江相政もフロジャック神父と交流していた。

この入江もクリスチャンだったとする説もあるが、現時点では事実かどうか確認できていない。

『入江相政日記』(朝日文庫)にヨゼフ神父として登場するのは、四六(昭和二一)年三月十九日この時入江はフロジャック神父と会食している。

 木下と入江の口利きもあっただろうが、昭和天皇も積極的に支援したことは間違いない。これを順に追っていこう。

フロジャック神父は四六(昭和二一)年十二月十九日に天皇皇后両陛下に進講する。カトリック宣教師が単独で拝謁したのはこの時初めてと言われている。

この時、入江日記にはフロジャック神父が「大変色々申上げて面白かつた」とある。

四七(昭和二二)年九月二日に木下道雄が拝謁しているが、おそらくこの直後に行われる両陛下の那須巡行の件でお願いでもしたのだろう。

 五日後の九月七日、入江日記には「夕狩の慈生会に行く。フロージヤアク老が大変な元気で何かと案内してくれる。例によつて愉快といつたらない。」と書かれている。

 翌九月八日にも両陛下は慈生会を訪れている。

フロジャック神父は、進駐軍やフランス大使館員や大工を一人ずつ引き合わせた後、「私は日本人以上の愛国心を持つて居ります。

一生懸命に致しまして必ず立派な国に再建致します、云々」と語る。

入江はこの時の様子を「フランス人らしい上品なユーモアの連続で非常にお楽しませした」と書き記した。

四八(昭和二三)年もフロジャック神父は二度にわたって両陛下に拝謁し、この年には高松宮、三笠宮も慈生会施設の視察を行っている。つまり、皇室あげてフロジャックの事業を後押ししていたのである。

■弁慶神父「会心の傑作」とは

皇太子の結婚の儀が行われたのは五九(昭和三四)年四月十日、その年の十二月十二日、フロジャック神父は帰天。

「わたしは貧しいひとびとの友であった。

わたしの葬式は貧しい人にふさわしいものにして欲しい。花は一切ご遠慮したい。

思召しがあったら貧しいひとびとに与えていただきたい」との遺言を残した。フロジャック神父には勲四等瑞宝章が贈られ、昭和天皇より祭資料を賜る。

この年、衰弱激しいフロジャック神父の身を気遣う見舞客はあとを断たなかった。

その中には、軽井沢のテニスコートで天皇皇后両陛下の「初めての出会い」の瞬間を写真におさめたカトリック信徒の田中耕太郎最高裁長官もいた。

そして、三〇年来にわたってフロジャック神父の事業を援助し続けてきた正田きぬの姿も当然あった。

フロジャック神父は、この年皇太子妃になったばかりの正田きぬの孫への心やりと永年の援助に対する感謝の気持ちから、こう語りかけた。

美智子さんも大変だろうね、わたしも天国で祈っているよ、美智子さんによろしくね

 これが何を意味するのかは、木下が一番よく知っている。その翌年一九六〇(昭和三五)年七月二日、朝日新聞社講堂では「フロジャック神父を偲ぶ集い」が行われた。

この時壇上には、すでに敬虔なカトリック信徒になっていた木下道雄の姿があった。

この時の木下の「フロジャック神父を思う」と題する記念講話は、『フロジャック神父の生涯』(五十嵐茂雄、緑地社)におさめられている。その四二五ページから引いておきたい。

神父には、この時代のことが、余程なつかしいらしく、晩年になって、いろいろな思い出話をうかがいましたが、そのうちで上州館林に於ける活動は、神父の布教生活中の会心の傑作と自分でも思っておられたようです。

皇太子殿下御婚約のよきしらせを耳にされたときの神父の心中は、定めしけいけんな祈りと感謝と期待との熱きものがあったのではないかと思います。

 「神父」とは当然フロジャック神父、「この時代」とあるのはフロジャック神父が水戸を拠点に日本伝道を始めた頃を意味する。そして、「会心の傑作」が「皇太子殿下御婚約のよきしらせ」につながっていく。

フロジャック神父は関東の山野を歩きまわって布教していた。

文中にあるように上州館林へ行ったのもこの頃である。

上州館林と言えば、美智子皇后の実家があったところ。つまり、上州館林の正田家にカトリックの信仰の種をまいたのもフロジャック神父だった。

 一九二七(昭和二)年、東京関口教会で美智子皇后の祖母である正田きぬはフロジャック神父の手から洗礼を受けて敬虔なカトリック信徒になっていた。

このきぬと美智子皇后の祖父・正田貞一郎(日清製粉創業者)、それに叔母・正田郁子の告別式はいずれも 千代田区 麹町の聖イグナチオ教会で営まれた。

また、母・登美子も聖路加国際病院で臨終洗礼を受け、妹の安西恵美子も洗礼を受けている(『美智子皇后と雅子妃』福田和也、文藝春秋他参照)。

 弁慶が皇室とカトリックの縁結びを務めていた。

明治維新以後、神道界や仏教界にフロジャック神父のような弁慶が存在していたなら、やはり歴史は大きく変わっていただろう。

『フロジャック神父の生涯』のとびら裏にはこんな言葉が飾られている。

最後の握手皆様によろしくとみ声細く

    仰せありしも悲しき思ひ出

                正田きぬ


——————————————————-(転載ここまで)


じつは「皇室」は「カトリック教徒」で固められている、と語るひともいます。

——————————————————-(以下こちらから転載)


そもそも皇室はキリスト教なのですよ

まず、意外なところから説明しますと、皇室神事に携わっている式部職(雅楽奏者など)は渡来豪族の「秦氏(秦河勝)」の末裔(東儀家など)が代々務めていますが、彼らは皆クリスチャンです。

つまり皇室神事はクリスチャンたちが仕切っているのです。

彼らの先祖秦河勝はユダヤ系の血を引く景教徒(古代東方キリスト教徒)だったようです。

そのこと(ルーツが原始キリスト教であること)は一族で代々伝わってきたようです。

現在、皇室神事の式部職クリスチャンたちは都内の名門教会数か所に分散して属しています。

また、上記の式部職だけでなく、皇室職員・皇室メンバーの大部分がクリスチャンであることは公然の秘密なのです。

歴代の宮内大臣(宮内庁長官)、侍従長、書稜部長など各種部門の長などがクリスチャンであることは公開情報としても有名です。

次に、中世(戦国時代)にキリシタン大名として歴史に名を残した領主たちの末裔が現在はクリスチャンとして皇室の要職に就いています(例:前田利家の末裔で前田家当主の人など)。

さらに、近世では幕末の大名の「最後の藩主」たちには禁教令が解ける以前に熱心なキリスト教信仰を始めていた大名が多く、廃藩置県の後は皇室に入って要職に就いています(三田藩の九鬼氏など)。

昭和天皇の即位後初代の侍従長珍田伯爵は元外務次官でかつメソジスト派の牧師でもありました。

その他の歴代侍従長もクリスチャンが多いです。

女官長に至ってはこの40年以上クリスチャン・リレー状態です。田島宮内庁長官、宇佐美宮内庁長官などもクリスチャンでした。

そして現在は、たとえば、現職の川島侍従長はカトリックで、国際機関で活躍のカトリック重鎮の緒方貞子氏といとこ同士、渡邊前侍従長は聖公会クリスチャンで明治元勲の大山巌元帥の末裔。

で、皇室へ嫁ぐお嫁さんはキリスト教系の名家からというのが不文律になっているようです。

(美智子皇后:カトリック名門の正田家、雅子妃殿下:妹たちはいづれもカトリックの洗礼を受けている、三笠宮信子妃殿下:カトリック名門の麻生家で麻生前総理の妹・・などなど)

で、再度古代に目を向けると、秦河勝は伊勢神宮をはじめ皇室ゆかりの神社の多くの創建にも関わっていますので、皇室神道は古代東方キリスト教がオリジナルであると推定できます、古代東方キリスト教とキリスト教発祥の地の連絡は中世に途絶えているので、皇室メンバーは西方キリスト教(カトリックなど)の人を次々に迎え入れているというのが明治以降の状況であると思います。

よって、結論は皇室は「日本で最も濃くて長い歴史を持つキリスト教信仰の家」であり、秋篠宮眞子さまが国際基督教大学にご入学なさることは「あまりにも自然なこと」だと推定できるということです。

——————————————————-(転載ここまで)


ちなみに上記に書かれている「キリスト教」というのは、本来のただしい「キリスト教」ではなく、悪魔崇拝者によって乗っとられてしまった、にせものの「キリスト教」です。

「RAPT BLOG」では「キリスト教」が悪魔崇拝者によって乗っとられた経緯について詳細に書かれています。

○キリスト教は悪魔崇拝者によって内部から破壊された。その歴史の詳細について。


○キリスト教プロテスタントも悪魔崇拝者に乗っ取られている可能性大です。「日本基督教団」は在日・反日勢力と同一体でした。


「天皇」は年間たくさんの「神道儀式」をおこないますが、じつはクリスチャン(カトリック教徒)で固められているというのです。

表向きは「クリスチャン」だとしても裏の顔は「悪魔崇拝者」です。

かれらは「権力」「名声」さえ自分の手元に入るなら、悪魔をも拝み、他人の子も利用する。

「フロジャック」という人物が「皇室」に入り込んだのも、権力獲得の手段の一環だったのではないでしょうか。

「正田美智子」が「皇后」としてのし上がることができたのも、このような宗教的な背景もかかわっているのです。

今回「皇太子」や「秋篠宮」が実子ではないといううわさの裏には「悪魔崇拝」と権力争いが渦巻いていることがわかりました。

「皇太子」に権力を保持させたい勢力と、「秋篠宮」に権力を握らせたい勢力が存在するのです。

いずれにせよ、このようなひとたちがいつまでも「国の象徴」であってはなりません。

今後さらに調べを進めて書いていきたいと思います。
http://kawata2018.com/2018-06-23/

17. 中川隆[-13383] koaQ7Jey 2018年12月28日 09:51:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

マッカーサーが仕掛けた戦慄の時限装置【BPnet】
http://www.nikkeibp.co.jp/article/column/20091124/197024/

皇太子明仁の誕生日になぜA級戦犯が処刑されたのか? 2009年11月25日

 昭和23年12月23日零時1分30秒、死刑執行開始……皇太子明仁の誕生日に、なぜA級戦犯7人は処刑されたのか? 

僕が20年間あたためてきたテーマについて書き下ろした新刊『ジミーの誕生日 アメリカが天皇明仁に刻んだ「死の暗号」』(文藝春秋、税込1500円)が、11月25日に発売された。

子爵夫人による「ジミーの誕生日の件、心配です」とは何か

構想20年、猪瀬直樹氏による渾身の書き下ろし。

謎めいた一文「ジミーの誕生日の件、心配です」と記された日記から、マッカーサーが天皇明仁に仕掛けた「死の暗号」を読み解いていく 

僕の仕事場に届いた一通の手紙から、ストーリーは始まる。

手紙の送り主は、「祖母の日記」に書かれた一文が気になる。

昭和23年12月7日の日付で止まっているその日記は、「ジミーの誕生日の件、心配です」という文章で終わっている。

祖母は美貌と奔放さで社交界に知られた子爵夫人。

送り主の女性の父親は、皇太子明仁のご学友だった。

 じつは、ジミーとは皇太子明仁のことである。

ジミーという呼び名は、連合国軍による日本占領後、学習院に赴任したアメリカ人の英語教師エリザベス・バイニング夫人が、英語の授業をはじめるにあたり同級生の全員にニックネームをつけたとき、皇太子に「あなたはジミー」と言ったからだ。

 「バイニング夫人が英語教師として赴任した際、皇太子明仁は学習院中等科の1年生、まだ12歳だった。

日本語の太郎、次郎と同じで、アルファベット順にアダム、ビリー……、とニックネームをつけた。

『今日からジミー』と呼ばれた皇太子明仁は『ノー、アイアム・クラウンプリンス』と即座に答えた。

 バイニング夫人は『そうです。あなたはプリンス・アキヒトです』と、同意して言った。

どんな反応をするかと注視しながら、決然と強い調子でつづけた。

同級生も、固唾をのんだ。

 『それがあなたのほんとうの名前です。

けれどもこのクラスでは英語の名前がつくことになっているのです。

このクラスではあなたの名前はジミーです』と言い切り、皇太子明仁は照れながら微笑んだ。

生徒たちも一瞬にしてほぐれた」

(『ジミーの誕生日』より)

18. 中川隆[-13382] koaQ7Jey 2018年12月28日 10:00:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

ジミーの誕生日 アメリカが天皇明仁に刻んだ「死の暗号」 – 2009/11/25
猪瀬 直樹 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%B8%E3%83%9F%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F%E6%97%A5-%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E3%81%8C%E5%A4%A9%E7%9A%87%E6%98%8E%E4%BB%81%E3%81%AB%E5%88%BB%E3%82%93%E3%81%A0%E3%80%8C%E6%AD%BB%E3%81%AE%E6%9A%97%E5%8F%B7%E3%80%8D-%E7%8C%AA%E7%80%AC-%E7%9B%B4%E6%A8%B9/dp/4163721304

カスタマーレビュー

水の助
「戦後」はいかにして始まったのか、が伺い知れる本。2010年4月20日


敗戦の混乱期。
いかに日本を統治するか。
GHQ、アメリア、ソ連、日本軍部、皇族…。
さまざまな視点で「その後の日本」の
シナリオが描かれます。

特に興味深かったのは、
戦争責任を誰に負わせるかで、
連合軍の中で意見が分かれていたこと。

マッカーサーの狙いは、
統治のために昭和天皇退位を回避し、
「身代わり」として東条を戦犯として挙げる。
(天皇退位を目論んでいた国もあった)

その象徴として、
昭和天皇の誕生日に、
東条英機らに絞首刑であることを宣告し、
皇太子(現・天皇)の誕生日に死刑を執行します。

そして今、12月23日は天皇誕生日なり、
戦犯が死刑執行された日としては、
話題になることは少ないと感じます。
おめでたい日に、戦争の話をしなくても…
そんな空気があるのではないでしょうか。
マッカーサーはそこまで見通していた。
言い方アレですが、
見事な戦後統治だ、と思ってしまいました。

一歩間違えば、
戦後日本もイラクのような惨状に
なっていたのかもしれないのですから。
(平和と復興を得た変わりに、
 多くの物を失ったと思う人もいるかもしませんが)

19. 中川隆[-13381] koaQ7Jey 2018年12月28日 10:15:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

マッカーサーはユダヤ国際金融資本が日本と中国を共産化しようとしてマッカーサーに指示を与えていた事に全然気付かないで、単にアメリカに負けたサル人間の日本人に対する懲罰をしていると思い込んでいたアホですね:


馬渕睦夫 deep state の世界を語る


馬渕睦夫さんが明らかにしていますが


左翼=リベラル=グローバリズム=親ユダヤ
=国際金融資本、軍産複合体、ネオコン、CIA、FBI、マスコミ、ソ連共産党、中国共産党、天皇一族、日本の官僚
=マクロン、メルケル、ヒラリー・クリントン、オバマ、レーニン、スターリン、ボリス・エリツィン、小泉純一郎、竹中平蔵、小沢一郎、橋下徹、枝野幸男、日本の護憲派・反原発派・反安倍勢力


右翼・民族主義=反リベラル=反グローバリズム=反ユダヤ
=プーチン、チェ・ゲバラ、カストロ、J.F.ケネディ、トランプ、ヒトラー、サダム・フセイン、カダフィ、アサド、ウゴ・チャベス、 ロドリゴ・ドゥテルテ、田中角栄、安倍晋三、日本共産党

なんですね。



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アメリカは日本へのキリスト教布教には失敗したが、戦争犯罪者という原罪を植え付けるのには成功した

【日いづる国より】馬渕睦夫、現代の「三国干渉」を打破せよ![桜H27-5-1] - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=YxGqLyB3rmQ


ロシア革命も毛沢東の中国支配も東西冷戦も朝鮮戦争もすべてユダヤ金融資本が仕組んだヤラセだった:

【大道無門】馬渕睦夫と国難の正体を暴く[桜H25-5-24] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Rl7oyG4ebwk&app=desktop

2013/05/24 に公開

司会:渡部昇一(上智大学名誉教授)
ゲスト:馬渕睦夫(元駐ウクライナ大使)

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ひとりがたり馬渕睦夫 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PL7MaEu9i584fGdp78r27h-eH0rmWLioEC

2018/06/22 に公開
待望の馬渕睦夫大使の新番組がスタート!激動する世界、今の日本に必要なのは何か?どんな危機が訪れているのか?マスメディアでは伝えられない世界の真実と、馬渕睦夫の「眼」をお届けいたします。



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GHQに君臨した"マッカーサー"の愚将ぶり
http://blogos.com/article/242547/?p=1

連合国軍総司令部(GHQ)のトップとして、戦後の日本で「王」のように振る舞ったダグラス・マッカーサー。だが、1950年に勃発した朝鮮戦争ではまったく役に立たず、軍人としての適性を疑わせるほどだった。「朝鮮半島に原爆投下を主張」に匹敵する“能なし司令官”のエピソードを紹介しよう――。


前線視察のため金浦飛行場に到着、米軍第24師団の兵士を閲兵するマッカーサー国連軍最高司令官(韓国/写真=時事通信フォト)


■仁川上陸作戦で形勢を逆転したが

朝鮮戦争において米韓側の軍隊の指揮をとったのは、連合軍総司令官ダグラス・マッカーサーでした。この戦争の中でマッカーサーが原爆の使用を主張し、トルーマン大統領から反対されて総司令官を解任されたことは有名です。

しかし、原爆使用の問題以前に、マッカーサーは総司令官としての適性に欠ける人物であり、解任されるべくして解任された「能なし司令官」と言えます。

彼が指揮するGHQは、第二次世界大戦後の日本に対する占領統治の主体でした。当時の占領政策を考えるうえでも、マッカーサーの人間性についてはよく知っておいたほうがよいでしょう。

1950年6月25日、北朝鮮が38度線を越えて侵攻を開始してから1週間後の7月2日、ようやくアメリカ軍は半島に本格介入しはじめます。本格介入したとはいえ、アメリカ軍は朝鮮半島南端の釜山近郊まで、北朝鮮軍に追い詰められました。そこでなんとか踏みとどまり、反転攻勢を掛けていきます。

マッカーサーは9月15日、ソウル近郊の仁川(現在の仁川国際空港がある付近です)から米軍部隊を奇襲的に上陸させ、北朝鮮軍の補給路を断つ「仁川上陸作戦」に成功。以後、米軍側にはイギリス軍なども参画し、国連軍が編成されました。国連軍は9月28日、ソウルを奪還しました。

直前まで日本に逃亡する計画すら立てていた李承晩大統領は一転、「北進統一」を掲げ、強気の攻勢を主張しはじめました。マッカーサーも、北朝鮮をつぶしての半島統一を考えており、両者の思惑は一致しました。

■「中国の介入はない」という思い込み

しかし、半島統一に向けた軍事行動に際し、マッカーサーはトルーマン大統領から、ある条件をつけられていました。「ソ連や中国が半島に介入するようなことがあれば、北進はダメだ」というのがそれです。ソ連や中国を相手にアジアで大戦争をする気は、トルーマンにはありませんでした。

この点についてマッカーサーは、「ソ連は言うまでもなく、中国の介入の可能性はない」と、トルーマンに答えています。

一方、中国の周恩来首相は「(アメリカの)帝国主義的な領土侵犯を許さない」と警告を発しており、この段階で、中国の軍事介入(義勇軍という形で)の準備はかなり進んでいました。状況を少し、調査すればわかることであったにも関わらず、マッカーサーは自らの偏った心象にのみ頼り、「介入はない」と大見得を切りました。

マッカーサーらは中国軍の侵攻が間もなくはじまることに全く気付かず、北部一帯に補給線も確保しないまま、前線をむやみに拡大させました。アメリカ国務省からは、中朝国境付近では中国・ソ連を刺激することのないよう、韓国軍以外は展開させるなと指令が出ていましたが、マッカーサーはこれを無視しています。

10月20日、平壌を制圧し、マッカーサーは得意満面、平壌の空港に降り立ちます。厚木飛行場に降り立った時のように写真を撮らせ、自分を英雄の如く見せるワンパターンな猿芝居がまた演じられたのです。ただ、この時は一言、気の利いたせりふが付いていました。

“Where is Kim Buck Tooth?”

(出っ歯の金日成の出迎えはないのか?)

■ボスの意を「忖度」し、敵を過小評価した部下

アメリカではマッカーサーを喝采する声が沸き起こります。彼のような「英雄」に対し、中国軍介入の可能性やその作戦について異議を申し立てることもはばかられました。アメリカ軍はマッカーサーを崇拝する若い将校たちで固められていました。マッカーサーが「中国軍の介入はない」としたために、中国軍の動きについての情報はマッカーサーに上げられませんでした。

中国はアメリカとの前面衝突を避けるために、朝鮮への派遣軍を正規の「人民解放軍」とせず、私的な「義勇軍」としました。「義勇軍」はソ連から支給された最新鋭の武器で武装し、100万人規模の強大な軍隊でした。

毛沢東の側近であった彭徳懐が率いる「義勇軍」の先発隊30万人は10月19日、ひそかに中朝国境を流れる鴨緑江を渡ります。30万もの軍隊でしたが、マッカーサーには「3万」という報告が上げられます。マッカーサーの意を「忖度」した将校たちが、兵力を下方修正して報告したのです。

マッカーサーは東京で指揮を執っていました。平壌にやって来た時も、日帰りで東京に戻り、現地の詳細な状況を把握していませんでした。自らは東京や横浜の高級ホテルに宿泊し、食事のたびに料理にケチを付けていたようです。

マッカーサーは国境を渡った中国「義勇軍」が「3万」であると聞いて安心し、意に介しませんでした。あくまでも、「中国は本格介入しない」が絶対的前提であったのです。この誤った認識が、英雄気取りのマッカーサーを追い詰めていくことになります。

1948年11月1日、中国「義勇軍」の大部隊が前線のアメリカ軍・国連軍に、突如猛攻を仕掛けてきます。アメリカ軍はパニックに陥り、各部隊を壊滅させられながら、撤退していきます。

■プライドの高さと功名心で罠に落ちる

この時、中国「義勇軍」は撤退するアメリカ軍を追撃せず、すぐに軍を引き上げます。司令官の彭徳懐は「誇り高き」マッカーサーが復讐心に燃えて、必ず報復してくると読んでいました。彭徳懐はアメリカ軍を待ち伏せ、返り討ちにする戦略を立てていました。彭徳懐ら中国「義勇軍」は、国民党軍や日本軍との長く苦しい戦いを数多く経験し、戦い方を熟知していたのです。

体勢を立て直したアメリカ軍は、哀れにも彭徳懐の読み通り、中朝国境付近に陣取る中国「義勇軍」をめがけて突進して来ました。国境付近は山岳地帯の入り組んだ地形で、大軍は身動きが取れません。そのことをマッカーサーに進言する部下もいましたが、マッカーサーは自分の名誉を回復することに躍起になり、聞く耳を持ちませんでした。

マッカーサーは「人の話に耳を傾けることができない人間だった」と、多くの将校が証言しています。会議でも延々と自分一人がまくし立てるのみで、他の者に発言させなかったといいます。彼の副官を努めていたこともあるドワイト・アイゼンハワー(後に第34代大統領)などは、「マッカーサーの自己顕示欲には嫌気がさす」と言っています。

中国「義勇軍」の大軍は、罠にはまったアメリカ軍を包囲し、一斉攻撃を加えます。犠牲者が次々と出はじめ、撤退をはじめるアメリカ軍でしたが、マッカーサーは「前進せよ」と命令しています。

このマッカーサーの命令のため、アメリカ軍は退路をほとんど確保できず、中国「義勇軍」の餌食になりました。こうして、「アメリカ陸軍史上最大の敗走」が展開されることになります。ちなみに韓国軍は、国境付近で中国「義勇軍」と戦う前からおじけづき、われ先にと逃げています。

マッカーサーは自らの失態が招いた「最大の敗走」の事実を隠すため、国境付近に出した偵察部隊が中国軍により攻撃を受けたという虚偽の報告をしています。

度重なる失態でもはや引っ込みがつかなくなったマッカーサーは、中国「義勇軍」の補給ルートになっている中国東北部に、「原爆を50発落とせ」という主張をはじめることになります。この続きは、次回くわしく掘り下げます。
http://blogos.com/article/242547/?p=1  



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日本共産党はマッカーサーが創設した
http://www.thutmosev.com/archives/71957109.html#more


マッカーサーのこうした写真は全部ヤラセで、俳優のように何度もポーズを取っては撮り直した
引用:http://learnlearn.net/Historie,religion,kunst/res/Default/ESS_PasteBitmap02329.png


マッカーサーの歪んだ人格

連合軍総司令官として日本に乗り込んできたダグラス・マッカーサーには多くの知られていない逸話があり、その一つは事実上「日本共産党」の創設者だという事です。

日本共産党と名乗る団体は戦前から存在し、日本をソ連の植民地にするため活動していたが、非合法テロ組織という位置づけでした。

日本の統治者として君臨したマッカーサーには人格上の欠陥があり、『ニセ写真』作りを趣味にしていた。

         

硫黄島に米国旗を立てる写真とか、マッカーサーがフィリピンの海岸に上陸した写真などは全部”やらせ写真”でした。

マッカーサーは映画監督のように戦場で写真や動画撮影を指示し、気に入った構図で自分がヒーローに見えるように報道させていました。

厚木飛行場の輸送機からコーンパイプを咥えて降りてくる写真も、専属カメラマンに映画撮影のように撮影させました。


この時日本軍は武装解除されていたが、襲われるのではないかという恐怖心から、マッカーサーは小便を漏らしていました。

日本に到着してからも彼は、あらゆる写真で自分が格好良く見えるように撮影するため、専属の撮影スタッフを周囲に置いていました。

昭和天皇とマッカーサーが面会した有名な写真があり、マッカーサーは作業服のような軍服のズボンに手を突っ込んでいます。


正装ではなく平服で、胸のボタンを全部止めず、身体を斜めにして立っていたのも計算しつくした『構図』でした。

昭和天皇が自分よりかなり背が低いのが目立つように、昭和天皇を直立不動にさせ、自分がくつろいでいるように撮らせました。

当時新聞を統制していたのはGHQなので、新聞に掲載する写真も記事も、GHQが決めていました。


「マッカーサーが日本の支配者であって、天皇はこれほどみすぼらしい」と日本人に見せ付けて天皇を貶める目的でした。


GHQは何の根拠で日本を占領していたのか

マッカーサーについて70年間一度も議論されず、タブーになっている事は、実は正式な資格が無いのに日本を統治していたという事実です。

マッカーサーは連合軍司令長官だったが、一体何ゆえに日本の支配者となったのか、この根拠が曖昧なままなのです。

日本が1945年8月15日に停戦したとき「ポツダム宣言を受諾し、占領地を放棄する」と言いましたが、アメリカが日本本土を占領して良いとは誰も言っていません。


アメリカ大統領や国連事務総長、あるいは国連安保理が任命したからと言って「だから何?」という事です。

降伏したら占領されるのが当たり前という主張もあるが、それなら日本はロシアを占領できるし、朝鮮や中国の占領は正しかった事になります。

1945年9月2日に東京湾の米戦艦ミズーリ上で、連合国各国と日本代表団が日本の降伏文書に署名調印しました。


文書には連合国軍最高司令官の指示に基づき、日本政府は日本軍と日本国民を従わせると書かれているが日本占領には触れていない。

8月15日の玉音放送でも、9月2日の降伏文書でも連合軍が日本を占領できるとは書かれていない。

日本軍の武装解除については書かれているが、連合軍の日本占領には、天皇や他の誰も合意していない。


マッカーサーが小便を漏らしながら厚木飛行場に降りたのは8月30日、連合軍先遣隊が厚木に到着し武装解除したのは8月28日だった。

9月2日に降伏文書に調印し、9月15日にGHQ本部が日比谷に設置され、GHQによる日本統治が始まった。

だがマッカーサーは武装解除までは良いとして、一体どのような条約や合意に基づいて「日本占領」をしたのだろうか。


この写真も自分は立派に見え、天皇は「みすぼらしい小男」に見えるよう計算されている
mig


日本国憲法はアルバイトに書かせ脅迫して成立させた

法的根拠がないのに一介の軍人が日本を占領して独裁者になった事が、その後の日本の70年に大きな悪影響を与えた。

例えばマッカーサーは日本政府に憲法改正を命令し、政府が帝国憲法の改正案を示すと、これを拒絶して独自の憲法を創作させました。

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に命じて適当な憲法草案を書かせて、日本政府に無断で新聞に発表しました。


東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣は新憲法が非民主的だとして辞職し、マッカーサーは「もう一度東京を空襲してやろうか」と言って議会を脅迫しました。

日本人は新聞に書いてあるからには日本政府が作ったのだろうと思い込んだが、実際にはマッカーサーがアルバイトに書かせた落書きでした。

東京大学などの法学者もこのやり方に怒り、新憲法反対の立場を取ったが、GHQは反対するものを「戦争犯罪人」として逮捕していきました。


新憲法に反対するものは戦犯になり処刑されるか刑務所に入れられると分かり、反対する人間は居なくなりました。

こうしてできたのが現在の「日本国憲法」であり、日本人は一切関わっていないし、民主主義とは正反対の経緯で成立しました。

マッカーサーが日本を統治するために優遇したのが共産主義者で、特に逮捕歴がある共産主義者を好んで重用しました。


GHQを創設するとすぐに、共産主義者や反政府主義者を釈放させ、労働組合や政党を結成させました。

こうして誕生したのが日本共産党と日本社会党で、事実上GHQが合法化し創設したのです。

マッカーサーの意図は日本の「犯罪者」である天皇や旧時代の権力者に対抗させるため、反政府主義者に力を持たせる事でした。


マッカーサーの共産党優遇

マッカーサー自身は共産主義者ではなかったが、それ以上に日本の「右翼」を嫌っていたので、共産主義者を重用しました。

GHQは主要な新聞社に共産主義者を雇用するよう圧力を掛け、応じなければ事実上活動できなくしました。

こうして日本の新聞社やNHKの上層部は共産主義者や戦前の逮捕者、反政府主義者になり、今日まで続いています。


マスコミだけではなく銀行や企業にもこうした圧力が掛けられ、自動車で有名な「日産」などは特に酷かったとされている。

日産は戦前には三菱や三井以上の最大の財閥だったが、戦争に協力したとしてほとんど解体されました。

自動車生産も認められなかったが、朝鮮戦争勃発で軍事生産が必要になり、共産主義者を経営に参加させる条件でようやく認められました。


こうしたGHQの共産党優遇は1948年まで続いたが、1949年になると米ソ冷戦が始まり、米本国は日本を再軍備させる方針に突然変わりました。

その変化は急激なもので、それまで日本人をわざと飢えさせては笑いものにして楽しんだり、なるべく日本経済が破綻するように仕向けていました。

ところが1949年のある日から、本国は「日本軍を再結成させろ」「日本の産業を立て直せ」と命令してきました。


マッカーサーは最初本国からの指示を無視していたが結局従わざるを得なくなり、1950年には朝鮮戦争が勃発しました。

マッカーサーの間違いは誰の目にも明らかになり、その後アメリカは何度も日本軍を再建しようとしては、日本政府と対立する事になります。

この後日本ではマッカーサーの後遺症で反日カルト政党が大ブームになり、今も日本を破壊するために”日々努力”しているようです。


マッカーサーの占領下では日本を貶めたり日本を破壊する事が正しいとされ、日本の為に貢献する人は戦犯や右翼と決め付けられました。

マスコミは全てGHQの統制下にあったので「日本国民はマッカーサー様を心から慕っています」などの気持ち悪い記事が量産された。

北朝鮮の新聞が金正恩を褒めるのと同じで、これほど気持ち悪い事はない。


そして当時GHQの為に報道していた新聞やテレビは、当時の本当の事を決して話そうとしない。




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醜い戦後 終戦後とはどんな世界だった?

空襲でホームレスになり上野駅に避難した人達
引用:http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/3/d/3df4faa4-s.jpg


アメリカはわざと日本人を飢えさせた

テレビや映画や小説では「戦後」は美しいものの同義語で語られていて、まるで理想郷のように描かれている。

そこでは貧しいながらも人々は協力して生き、戦後の復興をなしとげたとされている。

またGHQは困窮した日本人に食料を支給して助け、民主主義を与えたとも言われている。

          
こうした物語は映画やドラマの中だけで十分であり、事実とは程遠いか、正反対だった。

GHQは日本人に食料を与えるどころか奪い取ってわざと飢えさせて、日本人を従わせる手段に用いていた。

戦争前後は食糧難だったのはよく知られているが、戦時中に日本国内で(朝鮮台湾でも)飢えて亡くなった人や、その危険はなかった。


都会の人は空襲で疎開したが、農村には食べるものがあり、十分ではなかったが飢餓状態などではなかった。

それが戦争が終わって平和になり、アメリカ軍が占領したら食料が足りなくなり、「来年は1000万人が食糧不足で亡くなる」と総理大臣が警告する事態になった。

多くの要因があるが最大のものはアメリカ合衆国自体で、戦争の報復としてわざと日本人を飢えさせていました。


占領軍による妨害で日本は食糧の輸入ができなくさせられ、生産活動も制限され、経済破綻しました。

農業も経済の一部なので、国が経済破綻すると農業生産が停止して、食糧不足に陥ります。

終戦の昭和20年から昭和25年まで、日本はほとんどの工業生産を禁止され、前近代社会になりました。


経済破綻するように仕向けた

戦前から存在する設備を更新することは出来ず、農業生産に支障を来たし、外地に出兵した男達は中々帰ってきませんでした。

「戦争が終わって平和になった」と書いたが、そのこと自体が日本経済を破綻させる原因を作り出しました。

戦争中はあらゆる兵器をフル生産していたが、それが8月15日を境に全面停止になり、一切の生産活動が停止した。


困った日本政府は紙幣を印刷して「金融緩和」したが、激しいインフレを引き起こしました。

物を生産していないのにお金だけばらまいたからだが、当時の日本政府は他にどうする事もできなかった。

あらゆる工場が全て操業停止、鉄道は空襲で破壊しつくされ交通網が分断され、労働者たる男達は外地に居るか戦犯として逮捕されていた。


空襲によって東京など都市部の多くの人は家を失ってホームレスになっていて、路上や公園などで生活していました。

この頃アメリカ本国では、日本人のこうした窮状を伝えては「楽しんでいた」のが分かっています。

自分たちが倒した敵が飢えて苦しんでいるのを見て面白がっていたのが、本当の戦後の世界でした。


一例として占領軍は広島や長崎の被爆者を診療したが、治療をせずに「治療するふり」をして、どのように悪化するか観察しました。

生産活動が禁止され輸入も禁止されているので、復興が進まずホームレスが溢れているのも、無論そうなるように仕向けていました。

さらに占領軍は日本人同士が憎み会うように、心を破壊する政策を実行していました。


アメリカは日本人の食料を絞り上げた上で、自分の手で少し援助した。
援助を受け取った人達はアメリカに感謝し日本を憎むよう仕向けられた。
enjo
引用:http://blog.nihon-syakai.net/blog/wp-content/uploads/img2011/enjo.jpg


美しくない戦後

NHKというラジオ放送局(当時唯一のラジオ)で「真相はこうだ」という日本軍や戦前の日本の暴露番組を放送させました。

内容は日本軍がいかにアジア人や欧米人に酷い事をしたかという物だったが、内容は全て嘘だったのが分かっています。

だが当時の日本人はこうした「真相」を信じ、日本人同士で憎みあったり攻撃するようになりました。


愚かなことに「こんな酷い日本を倒してくれて有難う」「原爆を投下してくれて感謝します」とアメリカ軍に感謝する連中すら大勢居た。

人々は最初アメリカ軍を鬼畜だと思っていたが、食料を恵んでくれるので、感謝するようになっていった。

実は占領軍はわざと食料を絞り、日本人を飢えさせてから、犬を手なずけるように「餌」を与えていきました。


学校では子供たちに「日本は悪の国」「アメリカは正義の国」と教え込み、拒否する教師は戦犯として逮捕しました。

じゅうたん爆撃や原爆で数百万人が犠牲になり、本来なら犯人であるアメリカ人を憎むべき所なのだが、次第に日本のせいだと思い込むようになった。

終戦時に外地には日本軍数百万人が存在したが、ソ連や中華民国の捕虜になった日本兵は、洗脳した順番から帰国を許された。


集団学習や反省、謝罪(今日使われるような軽い意味ではない)などで日本は悪の国と教え込み、拒否したものは永遠に帰国できなかった。

アメリカ軍の捕虜になると多少ましだったが、戦犯として裁かれ、やはり徹底して「日本は悪の国」と教え込んだ。

こうして「日本に原爆を落としてくれて有難う」などと言う日本人が大量生産され、この人達が現在の左翼になっていきます。


この状況が1948年まで続き、1950年に朝鮮戦争が勃発して、急にアメリカは日本の工業力や日本軍の軍事力を必要とするようになります。

ここから日本側の発言力が強まって復興へと繋がっていくのだが、戦後数年間の占領が長く日本を蝕むことになります。
http://www.thutmosev.com/archives/72011631.html



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2017年05月04日
安倍首相、2020年まで憲法改正表明 日本国憲法の暗黒面

マッカーサーは尿漏れしながらタラップを降り、独裁者になった
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引用:http://blogs.c.yimg.jp/res/blog-fa-95/naojyi/folder/1134515/20/15427020/img_0


憲法改正の日程

安倍首相は憲法記念日の5月3日、憲法改正推進のフォーラムにビデオメッセージを寄せて改憲を訴えました。

首相はメッセージで、新憲法が2020年に施行されるようにしたいと具体的な年限を示した。

また憲法9条について、自衛隊の存在が明記されるように追加し、位置づけを明確にしたいと語った。


自民党総裁の任期は3年で2回まで続けて就任できるので2018年までだったが、3回に延長されたので2021年9月まで可能になった。

日本国総理大臣には期限がないので、理論上は自民党の総裁でなくなっても、総理を続けることは出来る。

改正には衆議院参議院が別々に3分の2以上の賛成を得た上で、国民投票で過半数の賛成を得る必要がある。


国民投票の過半数は憲法の日本語で定義されておらず、護憲派は有権者の過半数だと主張していたが、これだと絶対に憲法改正はできない。

日本国憲法は英語で書いた文章を日本語に翻訳したので英語の原文が存在し、一応「日本語から翻訳した」事にしている。

GHQの原文では「投票者の過半数」と書かれているので、日本人の半分しか投票に行かなくても改正可能だという解釈になった。


2020年に改正憲法施行とすると1年前には国民投票が必要で、その1年前には衆参両院の法案審議を始める必要がある。

その前に改正憲法の条文を明確に決定して国民に示す必要があり、2017年か遅くとも2018年には示されなくてはならない。

2012年に自民党から示された憲法改正案は、はっきり言えば稚拙の印象があり、架空戦記小説に似ている。


日本国憲法の根本的矛盾

2012年自民党案は改正内容が多岐に渡っていて、個別の議論だけで数年を要し、その間に政権が交代したら白紙になってしまう。

緊急に必要なのは「戦争の権利」あるいはもっと穏やかに「自衛権の明記」、それと憲法改正手続きの簡素化の2点だけです。

衆参両院でそれぞれ3分の2が必要なのは、当時のアメリカ軍が日本を敵国と見なしていたため、憲法を改正できないようにしたのです。


世界のどの国でも多数決の原則に基づいて議会の過半数で改正できるのが当たり前で、両院それぞれの3分の2としているのは全世界で日本だけです。

この制度では衆議院で100%の議員が改正賛成でも、参議院の3分の1の議員が反対したら憲法改正はできません。

少数意見が通り多数意見が排除される仕組みで、こういう制度を「独裁政治」と言います。


なぜ独裁を奨励するのかといえば、日本国憲法が成立した1946年の日本は、1人の軍人が全ての権限を握る「独裁国家」だったからです。

この軍人とは東条英機ではなく米軍人のダグラス・マッカーサーで、公式な資格がないのに勝手に憲法を作って議会に承認させました。

誰もこれを指摘しないので自分で書くが、マッカーサーは連合軍総司令官で、トルーマン大統領から日本占領を命じられた。


だが一体何故、「ただのアメリカ軍人」が日本を占領して議会や政府に命令し、憲法を勝手に作り変える権限を。アメリカ大統領が与えるのだろうか?

連合国(=国連)が任命したというが、日本は国連加盟国ではないので、そいつらに指図される筋合いがない。

1945年8月に日本が受け入れたのはポツダム宣言だけであって、米軍の日本占領に合意しても居ない。

トルーマン大統領は「天皇の処遇」「憲法を自由に作る」「戦争裁判を開く」などの権限を与えたが、なぜアメリカ大統領にこうした権利があると考えるのかも謎です。


独裁者になった尿漏れ男

1945年8月28日、帝国海軍厚木飛行場に米軍第一陣が到着し、8月30日にマッカーサーがパイプを咥えて降り立った。

マッカーサーは写真にはこだわりがあり、硫黄島の有名な写真や、厚木に降り立った写真など、すべて演出させた「やらせ写真」でした。

厚木の輸送機から降りるマッカーサーは、日本軍人から襲撃される恐怖から、尿を漏らしながらタラップを降りました。


マッカーサーは開戦時にフィリピンにいたが、部下を置き去りに逃げ出し、沖縄や本土では民間人への空襲を命令した、そんな人間でした。

マッカーサーは軍事法廷や天皇の処罰などをチラつかせながら憲法(帝国憲法)改正を命じ、帝国議会は現行憲法(帝国憲法)の改正案を示した。

1945年(昭和20年)10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、日本側はマッカーサーの命令を拒否し、時間を掛けて改正すると回答しました。


1946年1月、日本政府はGHQに憲法改正案を提出したが、GHQは却下し独自の憲法を作成する事にした。

特にマッカーサーを激怒させたのが天皇の身分を存続させる点で、彼は天皇を「犯罪者」として定義させたがった。

イラクやアルカイダの首謀者をアメリカは犯罪者と定義したが、あれと同じ事を日本でもやりたかったようです。


脅迫で可決した日本国憲法

マッカーサーはGHQのアルバイト職員に、7日間でで英語の憲法草案を書かせ、日本語に翻訳して新聞社に直接掲載させた。

GHQによる憲法発表が先であって、国会議員や総理大臣は新聞を読んで初めて「GHQ憲法」の存在を知らされた。

ここで駆け引きに使われたのが「昭和天皇処遇と戦争再開」で、GHQ側は公然と、「議会が承認しないならもう一度空襲してやる」と言ったそうです。


ここで日本の国会議員らは、もう一度アメリカと玉砕戦争をするか、それともGHQ憲法を承認するかの二者択一を迫られました、

GHQ憲法は3月7日に発表され、1946年8月24日に衆議院可決、10月6日に貴族院(後の参議院)でも圧倒的多数で可決成立した。

若干の審議と修正がおこなわれたものの、1946年の時点では昭和天皇を初めとして大半の政治家や有力者が、戦犯として裁判に掛けられる恐れがあった。

東京裁判はアメリカ軍側の証拠や証人だけが採用され、被告側の証人や証拠は一切認めないので、最初から有罪が確定していたイカサマ裁判でした。


例えば東京大学(当時唯一の最高学府で最高権威)はGHQ憲法は違法だと主張していたが、GHQは教授らを連行して戦争裁判に掛けると脅迫した。

東大は新憲法容認に立場を変えて「憲法学」という珍妙な学問を考案し、以来日本国憲法を擁護している。

日本国憲法はその成立過程において、民主的な手続きを一切経ておらず、憲法自体が無効だと考えられるが、安倍首相はあくまで正式な改正手続きを踏みたいようです。

リサイクルも良いが、ゴミはゴミ箱に捨てるべきでは無いだろうか。
http://www.thutmosev.com/archives/70762817.html




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2016年08月19日
日本国憲法を作ったのは軍隊のアルバイト
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html

マッカーサーはやらせ写真を作るのが大好きで、こういう写真を撮らせてはマスコミに掲載させた。

http://livedoor.blogimg.jp/aps5232/imgs/c/8/c8d8b55f.jpg


日米両国の高官が「日本国憲法を作ったのは我が国だ」と主張している。


日本国憲法の珍論争

日本国憲法を作ったのは誰かという珍論争が日米の政府当局者で勃発し、互いに牽制している。

8月15日に大統領候補ヒラリークリントンの応援演説をした、副大統領のバイデンが次のように発言した。

「日本が核兵器を持てないように、我々が日本の憲法を書いたのを、トランプ候補は知らないのではないか」


この前に対立候補のトランプは様々なヒラリー批判や民主党批判をしていて、その中に次のような演説があった。

「日本には米軍駐留陽を負担してもらう。あるいは米軍に頼らず核武装して自分で守ってもらう」という趣旨の発言だった。

バイデンはトランプへの反論として、日本が核武装出来ないことを指摘し、そうなるように我々が憲法を作ったと話した。


実際はどうかというと、日本国憲法に核武装を禁止した条文はないし、軍隊の保有も軍事行動も禁止するとは書かれていない。

「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。」

「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」


「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」と憲法に書いてあるのに陸海空軍が存在するのは周知の事実で、これは次の理由による。

『国権の発動たる戦争』は先制攻撃『武力による威嚇又は武力の行使』は侵略戦争という意味で書かれていた英語の日本語訳だとされている。

国の主権者による戦争の禁止、恫喝行為と武力行使禁止、それらを行うための軍事力禁止と書かれています。


終戦後に軍事政権樹立した日本

ひっくり返すと侵略戦争や先制攻撃以外の戦争は認められているし、軍事力による反撃も、核保有も禁止していません。

集団的自衛権もミサイル防衛も、安保法制も、もちろんどこにも禁止とは書いてありません。

バイデン副大統領の発言の半分は誤解ですが、もう半分の「我々が憲法を作った」の部分はどうでしょうか。


英語の原文があり、それを日本語に訳したから「変な日本語」になっているのですが、そもそも英語の原文が存在するのが奇妙です。

時間を追って経緯を見るために1945年(昭和20年)8月15日に戻ってみます。

8月30日に帝国海軍厚木飛行場にマッカーサーが降り立って、パイプを咥えた有名な写真を撮ったが、このポーズはやらせだった。


マッカーサーという男はこういう記念写真が大好きで、硫黄島に旗を立てる写真などを作っては見せびらかしていた。

それはともかく10月4日、マッカーサーは日本政府に憲法改正を命令したが、軍による独裁には従わないとして東久邇宮内閣は総辞職しました。

マッカーサーは連合軍という軍隊の司令官にすぎず、日本政府や議会に命令する立場に無いのに、勝手に軍事政権を作った事になる。


日本側はマッカーサーの命令を拒否し、憲法調査会を組織して、時間を掛けて改正すると回答しました。

1945年11月に憲法改正のための委員会が発足し、1946年1月にGHQに提出しました。

日本側の案は現行憲法(帝国憲法)に米国の要望を取り入れて改正する案だったが、マッカーサーは拒絶しました。


アルバイトに適当な憲法を書かせて「拒否するなら何発でも原爆を落す」と議員らを脅迫した。


軍事政権が作った憲法

マッカーサーは民政局長のコートニー・ホイットニーに憲法作成を命令し、ホイットニーはアルバイト職員らに草案を書かせた。

こうして約7日間で書き上げたのが「日本国憲法」の原文の英語版でした。

当時日本の新聞はGHQの支配下にあったので、マッカーサーは日本政府に伝える前に、勝手に新聞で発表してしまいました。


先に日本政府に伝えるとまたゴネだして、内容を変更したり無効になると考えたからでした。

日本の国会議員らは新聞を読んで初めて憲法の内容を知り、激怒して絶対反対の態度を取りました。

するとマッカーサーは「新憲法を承認しなければもう一度戦争だ、原爆をまた落す」と言って脅迫しました。


東京大学などの法学者は新憲法を違法だと言い、反対の態度を取ったが、これも「認めなければ戦犯にしてやる」と脅迫して認めさせました。

当時マッカーサーはA級戦犯、B級戦犯などランク付けし、連合軍に反抗的な公務員や学者らを逮捕しては処刑していました。

GHQを恐れた東京大学は「憲法学」という学問を作り、日本国憲法は日本国民が作ったと言い出しました。


これが今日に残っている「憲法学」で、マッカーサーが「戦犯になるか憲法を認めるか」と脅迫して作らせた学問です。

GHQ支配下の新聞、NHKはこぞって「国民が新憲法を作った」という嘘の報道を繰り返し、やがて嘘の方が事実として広まりました。

帝国議会は「もういちど原爆を落とされたいか」と脅迫され、ほとんど審議せず新憲法を承認しました。


新憲法は「国民が作った」という宣伝の後で、1947年(昭和22年)5月3日に施行され、今日に至っている。

これを誰が作ったと考えるかはその人の考え次第だが、少なくとも日本の総理大臣や国会議員はまったく関与していない
http://thutmose.blog.jp/archives/65117879.html




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NHKスペシャル 戦後ゼロ年 東京ブラックホール 1945−1946 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%88%A6%E5%BE%8C%E3%82%BC%E3%83%AD%E5%B9%B4+%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%83%E3%82%AF%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%AB+1945%EF%BC%8D1946


初回放送 2017年8月20日(日) 午後9時00分〜9時59分

終戦直後の東京を記録した鮮明な映像が、次々に発掘されている。さらには、極秘扱いだった10万ページに及ぶCIA文書が情報公開法によって続々と公開され、敗戦直後の東京をめぐる新たな真実が明るみに出てきた。浮かび上がってきたのは、ヒト・モノ・カネをブラックホールのようにのみ込んでふくれあがる東京の姿。

焼け跡に最初に出現したブラックホールは「闇市」だった。日本軍や米軍のヤミ物資が大量に横流しされ、大金を手にした野心家が、新しいビジネスを興す。六本木や銀座には、治外法権の「東京租界」が生まれた。占領軍を慰安するショービジネスから、戦後の大衆文化を担う人材が生まれた。

連合軍による占領からはじまった戦後ゼロ年の東京。それは、今の東京を生み出した原点である。俳優の山田孝之が、21世紀の若者にふんし、時空を超えて当時のフィルムの中に入り込み、東京ゼロ年を追体験していく。それは、まもなくオリンピックを迎える東京の足下を照らし出す、確かな道しるべとなるはずである。




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朝鮮戦争は八百長だった

ノンフィクション作家・河添恵子#4-1
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」前編・グローバリスト&共産主義勢力 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z7syO3BhDdQ


ノンフィクション作家・河添恵子#4-2
「馬渕睦夫氏と語る最新世界情勢」後編・北朝鮮問題の行方 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=Z4Ot9KiWPV8


収録日:2018年4月25日


今回はゲストに馬渕睦夫氏(元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使)をお招きし、2018年の世界情勢を語っていただきました。馬渕氏曰く「今、世界は100年に1度の地殻変動」が起こっています。

アメリカ、中国、北朝鮮問題を中心に、マスメディアでは得られることがない、最先端の世界の見方がここにあります。この100年、世界はいかに作られてきたのか、どうぞしっかり掴んでください!


ゲスト馬渕睦夫氏の後半!北朝鮮問題の行方を中心に、朝鮮戦争の真実・そして終焉、グローバル勢力の影響下にあるNHK、世界の反ロシア・反プーチンの動き、マレーシア・マハティール首相の反中国、金融や企業スキャンダルに潜む外資企業の動き、テロに無自覚な日本、求められる日本国民の自衛・・・等、初対談となった今回、両先生も手応えをつかんだご様子。


<ゲスト>
馬渕睦夫(まぶち むつお)1946年1月21日生まれ
吉備国際大学客員教授 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使 
1946年京都府生まれ 世界情勢を視る眼差しは超一級品


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ノンフィクション作家、河添恵子さんの番組が林原チャンネルで配信中!中国問題の専門家として知られる河添さんの、実はそれだけじゃ無い!本当の姿をお届けします。
「中国のことは好きでも嫌いでもなく、私はただ、ありのままの中国を見ているだけ・・・」
決してブレることなく燃え上がる、ノンフィクション作家としての河添恵子魂をどうぞキャッチしてください!


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2018年12月14日
日産の本当の問題は政府の過干渉 GHQからフランスまで


プリンス自動車乗っ取りに成功した日産は、人気車を利用しプリンス社員は下請けや派遣のように扱った

今同じことをルノーにやられている


画像引用:https://pbs.twimg.com/media/C9nhPEGVwAAasKg.jpg

日産はなぜ混乱するのか

日産のゴーン逮捕から企業統治問題が発生し、フランス国営化するか独立かということになっています。

最初に国営化をしかけたのはフランスのマクロン大統領で、今後半年以内に国営化の手続きをするつもりだった。

ゴーンは当初反対していたものの、自分の地位の保証と引き換えに、ルノー日産国有化に合意しました。


こうしたタイミングで日産が東京地検に告発して逮捕した事は、やはり関係があると推測します。

ところで日産は90年代に経営破綻してルノーが買収したが、どうしてこうなったのでしょうか。

1991年から98年にかけて確かに日本は不況だったが、他の自動車メーカーは破綻していません。


有名な逸話として日産では社長や経営陣にモデルチェンジの決定権がなく、工場長が決めていました。

座間工場など有力な工場長は労働組合幹部を兼ねていて、労働組合の合意がないとモデルチェンジできませんでした。

日産マーチは8年間モデルチェンジしないと労組と約束し、他の車も老朽化したまま放置されました。


トヨタは4年ごとにモデルチェンジしていたのに日産は6年か8年ごとなので、その差は販売に現れました。

こうして日産はホンダにも抜かれて国内3位メーカーになり、海外でも売れず経営破綻に至りました。

日産の労働組合が強大な力を持つに至ったのは、GHQ(連合軍総司令部)の命令で、日本軍に協力した懲罰でした。


各国政府が都合よく日産を利用した

日産は戦前満州や朝鮮の軍事輸送に深くかかわり、陸軍の軍用車の大半を生産していました。

GHQはこれを問題視して財閥解体したうえに、自動車の生産を禁止しました。

禁止しただけでなくGHQは日産を「戦犯企業」と定義し、戦前の逮捕者や共産党員、在日韓国人を経営に参加させるよう強要しました。


この強要は戦前軍部に協力した朝日新聞などの新聞にも行われ、日本の新聞は共産党員や左翼活動家らが支配することになりました。

日産の自動車生産は数年後に許されたがトヨタと大差がついていて、本格的に再開されたのは1950年の朝鮮戦争以降でした。

皮肉なことに米軍は朝鮮での戦争協力を日本に依頼して、日産にも軍事協力を求めてきました。


戦前は日本軍べったりだったが、戦後も米軍の軍事企業として再開を許されたのです。

朝鮮戦争は終わったが続いて高度成長時代になり、日産の自動車生産は順調に増えました。


ここで襲い掛かったのはオートバイや自動車メーカーの乱立で、日本政府はメーカー統合を強要しました。


GHQは日産労組や幹部に共産党や左翼活動家を採用させ、大混乱に陥れた

GHQが指名した人物なので日産は絶対に解雇できない


1953_Nissan_Labor_Dispute
引用:http://agora-web.jp/cms/wp-content/uploads/2017/07/1953_Nissan_Labor_Dispute.jpg

フランス対日本になった理由

スカイラインなどを生産していたプリンス自動車を日産が吸収合併したのが、これが後に禍根となった。

プリンス側は対等合併と聞いていたのに実際は合併すると日産側の社員が威張り散らし、プリンス社員は解雇されたり苛めで辞めされられた。

日産はスカイラインという美味しいブランドだけを利用し、GTRなどの人気車を生み出しました。


このプリンス統合も労組や経営陣に激しい対立を生み、経営破綻につながっています。

1990年に日本はバブル崩壊し車の売れ行きが急減、日産が得意とした若者向けスポーツカーは全滅しました。

ここでまた日本政府とフランス政府がちょっかいを出してルノーに買収させ、事実上ルノーの子会社になりました。


ルノーは実は日産以上のダメ会社で、フランス政府は手を焼いて「日産とくっつけて国営化しよう」と考えました。

これがマクロンのルノー日産三菱国営化で、工場も本社も日本から奪い取ってやると宣言していました。

いわば日本への宣戦布告であり、日本側はゴーン逮捕という「真珠湾攻撃」で報復しました。


ここまで見てきて日産を混乱させている本当の原因は、戦前から続いている政府の過干渉だと考えられます。
http://www.thutmosev.com/archives/78424019.html

20. 中川隆[-13380] koaQ7Jey 2018年12月28日 10:40:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

ユダヤ国際金融資本と GHQ は日本を共産化しようとして農地改革と人為的インフレ生成・金融封鎖を行った


フランクリン・ルーズベルト大統領やニューディール派は親共産主義だったので、戦後の日本を階級か無い疑似共産社会にしようと計画していた。


それで平等主義的な日本国憲法を制定、

農地改革で地主の土地を取り上げて貧民にタダ同然で分配、
貧民が土地を買う金を出せる様に人為的なインフレを起こし
預金封鎖で資産家の資産を取り上げた

戦後の人為的なインフレはそういう背景で起こされた


 


株も不動産も奪われる! 預金封鎖よりも怖い「財産税」の傾向と対策=東条雅彦 2016年9月25日
http://www.mag2.com/p/money/23235

メルマガのQ&Aコーナーで「過去に不動産や株式に資産課税が実施された事例がありましたか?」という質問を受けました。「はい、あります!」……それは日本です。

以前に解説したキプロスの預金封鎖では銀行預金だけが対象でしたが、我が国で起きた1946年の預金封鎖・財産税では、株式も不動産もあらゆる資産が課税の対象となりました。

本稿では、できるだけ歴史的・客観的な事実をベースに、様々な諸事情で新聞、テレビ、他メディアでは積極的に報道しにくい領域に踏み込んでいきます。特に財産税の課税手順については、どこよりもわかりやすく解説したつもりです。2013年に発生したキプロスの預金封鎖との違いに注意しながら、読み進めてください。


一体いくら奪われる? 資産課税の手順を知り危機を乗り越えよ

預金封鎖、2つの目的

預金封鎖の目的は、「資産課税」と「取り付け騒ぎを起こさせないこと」の2つです。2013年のキプロスの預金封鎖では、10万ユーロより多い預金が没収されました。

もし預金封鎖の情報が事前に漏れると、取り付け騒ぎが発生します。

銀行の経営者は少しの現金を手元に置いておけば、十分だということを知っています。預金残高の一定比率の金額しか保有していなくて、この比率を「預金準備率」と呼びます。

預金準備率は預金の種類や金額によって様々ですが、概ね1%程度です。残りの資金は企業への貸し付けや債券や株式への投資に回しています。そのため、大勢の人々が一気に預金の引き出しをしようとすると(取り付け騒ぎが起きると)、その銀行は倒産してしまいます。

預金封鎖の情報が事前に漏れて、国民全員が一気に銀行に押し寄せて、預金を引き出そうとすると、その国の銀行が全て破綻するリスクがあるのです。取り付け騒ぎになる前に、預金封鎖を実施しなければいけません。


銀行休業日が危ない

キプロスでは2013年3月16日に預金封鎖が発表されました。この日は土曜日で銀行は営業していません。預金封鎖の発表は土曜日、日曜日、祝日など、銀行の窓口が営業していないタイミングを狙います。

土日に営業している銀行でも、現金の取り扱いはどこも行っていません。365日、休みなしで銀行に営業を許可している国はありません(営業時間が最も長いと言われている米国でも、日曜日はお休みです)。どの国も過去の歴史から、預金封鎖・資産課税に備えて、銀行には休業日が必要であることを知っているからです。


日本でも1946年に預金封鎖が実施された!

1946年2月17日、日本で預金封鎖、新円切り替えが実施されました。政府が発表したのは、前日の2月16日土曜日でした。

キプロス預金封鎖と同じで、やはり銀行の窓口が休んでいる時に発表されます。繰り返しになりますが、事前に情報が漏れて取り付け騒ぎが起こると全てが水の泡です。

1946年の日本の預金封鎖も、2013年のキプロスと同様、事前に情報が漏れずに実施できた、預金封鎖の成功例となりました。

預金封鎖では引き出しが完全にできなくなるのではなく、引き出し額を大幅に制限されました。銀行預金からの新円での引き出し可能な月額は、世帯主で300円、世帯員は1人各100円でした。

預金封鎖と呼ぶより、「出金制限」と言う方が実態に沿っています。

1946年の国家公務員大卒初任給が540円だったので、現在の貨幣価値に換算すると、世帯主が11万円前後、世帯員が1人各4万円弱まで引き出せました。

そして、封鎖預金中に引き出されたお金は全て「新円」でした。このとき、1946年3月3日からは「旧円」の市場流通を停止すると、同時に発表されていました。

これが「新円切り替え」と呼ばれる政策で、その目的は市場でのお金の流通量を制限して、急激なインフレを抑止するためだとされていました。

ところが、国民は逆に3月3日までに旧円を使い切ろうとしたために、インフレが加速してしまいました。

インフレを抑制するという意味では、預金封鎖&新円切り替えは大失敗でした。しかし、実は、この預金封鎖の目的はインフレ抑制ではなかったことが明かされたのです。

69年後に明かされた預金封鎖「真の目的」とは?

2015年2月16日、NHKの報道番組「ニュースウオッチ9」にて、「『預金封鎖』もうひとつのねらい」という特集が組まれました。(※参考動画 – YouTube)

放送では、当時の大蔵大臣である渋沢敬三氏と、大蔵官僚である福田赳夫氏(後、総理大臣)の証言記録が公開されました。

福田氏:「通貨の封鎖は、大臣のお考えではインフレーションが急激に進みつつあるということで、ずっと早くから考えていられたのでございますか?」

渋沢大臣:「いや、そうではない。財産税の必要からきたんだ。まったく財産税を課税する必要からだった」

証言記録では、「インフレを抑制させるためですか?」という質問に対して、渋沢大臣は「そうではない(インフレ抑制ではない)」と明確に否定しています。

しかし、当時、政府は国民に向けてインフレ抑制のためだと説明していました。やむを得ないことですが、こういうことは往々にして起こります。

財産税を課税するには出金制限(預金封鎖)が必須だった

日本では1944年、日本国債の発行残高が国内総生産の2倍に達したために、償還が不可能となっていました。

1945年に第二次世界大戦が終わり、その翌年の1946年、政府は最後の手段、資産課税(財産税)で国債を償還する(借金を返済する)しか方法がなかったのです。

今、日本では「国債は国の借金ではなく政府の借金である」「国民は政府の債務者ではなく債権者だ」と主張する論者もいます。

残念ながら、それは俗論です。

政府が財政破綻した場合、国内の個人も法人も、政府に対して請求権はありません。一方、政府は国内の個人、法人への徴税権を持っています。このことは日本だけではなく全世界共通のことなので、俗論に惑わされずに、正確に把握しておくことが重要です。

結局、この預金封鎖(出金制限)は1948年6月まで続きました。2年以上も出金制限が続いたのです。銀行預金から出金を制限することが極めて重要でした。

1946年2月17日から約2週間後の3月3日に財産税が実施されます。それは、1946年3月3日午前0時における個人の財産全額を対象に課税するというものでした。

財産全額なので、銀行預金だけではなく、株式、不動産、ゴールド(金)等も含まれます。

3月3日午前0時において、政府が把握できる国民の銀行預金を減らさないため、預金封鎖をして、出金制限をかけておく必要があったのです。

月額あたり世帯主で300円、世帯員1人につき100円までの出金制限は、当時「500円生活」と呼ばれていたそうです。500円は現在の貨幣価値で25万円前後です。

一見、十分な金額に見えますが、インフレが急激に進行しており、当時の生活はかなり厳しい状況になりました(1946年の物価上昇率は300%強でした)。

いくら奪われたのか?「最高税率90%」財産税の中身

財産税の税額は次の通りです。

<財産税 当時の課税価格と税率>

課税価格 税率
10万円超-11万円以下 25%
11万円超-12万円以下 30%
12万円超-13万円以下 35%
13万円超-15万円以下 40%
15万円超-17万円以下 45%
17万円超-20万円以下 50%
20万円超-30万円以下 55%
30万円超-50万円以下 60%
50万円超-100万円以下 65%
100万円超-150万円以下 70%
150万円超-300万円以下 75%
300万円超-500万円以下 80%
500万円超-1,500万円以下 85%
1,500万円超 90%

「ええーっ、1500万円を持っていたら、85%も取られちゃうの?」とビックリしてしまった人もいるでしょう。ところが、この財産税には2つの誤解があります。
1.上記の課税価格は当時の資産価値であり、今の価値とはまったく異なる
2.各段階でスライスされた資産に対して課税される

つまり実際には、1500万円を超えた金額に90%、500万円を超えた金額に85%、300万円を超えた金額に75%…というように、段階的に課税されました。

上記の課税価格のままでは、当時の状況が少しイメージにくいので、これを現在の価値に換算して説明していきましょう。

当時の財産税を現在の価値に換算すると

終戦直後は激しいインフレに見舞われており、1946年の貨幣価値を現在の価値に換算する際に何を基準にすべきかには諸説あります。

1946年の大卒初任給は400〜500円程度なので、今の大卒初任給20万円から計算すると、400〜500倍ぐらいの物価上昇が発生しています(計算しやすいように本稿では500倍を採用します)。

当時の財産税を現在の価値になおすと、次のようなイメージになります。

<現在の価値に置き換えた課税価格と税率>

課税価格 税率
5000万円超-5500万円以下 25%
5500万円超-6000万円以下 30%
6000万円超-6500万円以下 35%
6500万円超-7500万円以下 40%
7500万円超-8500万円以下 45%
8500万円超-1億円以下 50%
1億円超-1億5000万円以下 55%
1億5000万円超-2億5000万円以下 60%
2億5000万円超-5億円以下 65%
5億円超-7億5000万円以下 70%
7億5000万円超-15億円以下 75%
15億円超-25億円以下 80%
25億円超-75億円以下 85%
75億円超 90%

次ページではこの表を元に、さらに詳しく資産課税の手順を説明します。

資産課税の流れ

財産税は、次の手順で確定されました。

<Step1>

各個人が保有する資産額(銀行預金、株式、不動産、ゴールド等)を合算する。この金額を課税対象価格とする。一緒に住んでいる家族全員の課税対象価格を合計する。

<Step2>

合計の課税対象価格に応じて、段階的に上記の税率を適用する。

【具体例】
父の資産額:4,200万円、母の資産額:1,800万円、合計の資産額(=これが課税対象価格となる)が6000万円だった場合:

5000万円×25%=1,250万円
1000万円×30%=300万円

課税対象価格6000万円に対する財産税額は、1,550万円となります。

<Step3>

Step2で算出された財産税額を、家族の保有資産額に応じて按分して各個人が納税する。

【具体例】
父の資産額:4,200万円 按分率70%
母の資産額:1,800万円 按分率30%

財産税額1,550万円×70%=1,085万円…父の財産税額
財産税額1,550万円×30%=465万円…母の財産税額

このように、財産税のポイントは「同居家族の資産を合算して、後で各個人に按分する」という点にあります。現在の価値では最低ボーダーラインが5000万円ほどとなりますが、同居家族の合計資産額がこの金額に達していれば、課税されていたのです。


キプロスと日本、預金封鎖の共通点と相違点

キプロスの預金封鎖との相違点を探っていくと、我が国で起きた預金封鎖がより鮮明にイメージできるようになります。

<共通点>

いずれのケースでも、少額預金者は保護された。
キプロス:10万ユーロ(当時のレートで約1130万円)未満の資産には課税されなかった。
日本:現在の価値で5000万円未満の資産には課税されなかった。

<相違点>

キプロス:資産課税の対象は銀行預金だけだった(株式、不動産等は関係なし)。
日本:銀行預金だけではなく、不動産、株式、ゴールド(金)等の資産も対象になった。また、個人毎の資産ではなく、同居家族の合計資産が対象になった。

日本の国債は「内国債だから安心」という俗論に要注意!

日本政府の負債は、1941年3月の310億円から、1946年3月には2,020億円に膨張しました。当時のGDPの2倍を超えたあたりで、事実上のデフォルトとなったのです。

現在の政府財務残高対GDP比は、230%を超えています。戦後の状況と今の状況は、とても似通っていると言えます。

キプロスの場合、EUとIMFから10億ユーロの支援が約束されていたため、銀行預金のレイヤーを侵食するだけで済みました。

銀行預金は資産額の査定が簡単で、最も浸食されやすいレイヤーです。このレイヤーに多額のポジションを取っていると、被害が大きくなります。

内国債を抱えて財政破綻に向かう場合、対外的な支援者がいないことが、逆にデメリットになりえます。1946年に起きた日本の預金封鎖&資産課税では、銀行預金のレイヤーだけではカバーできませんでした。

対外的な支援者がいない場合、銀行預金レイヤーを突き破って、純資産レイヤー(株式、不動産、ゴールド)まで侵食されてしまうという見本になってしまったのです。

「日本の国債は内国債だから安心」というのは俗論です。むしろ逆で、ギリギリまで財政ファイナンスができるため、政府の負債額が大きくなって、ダメージも増幅される側面があることを忘れてはなりません。
http://www.mag2.com/p/money/23235  




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戦争体験者は、敗戦後はアメリカの占領の下で、「さらにひどい食糧難」を経験したことを語っている。
コメの遅配、欠配が続き、どこの家庭でも買い出しに出て、「闇米」を手に入れなければ食べていけない状況が続いたのは、いうまでもなくアメリカの占領政策によるものであった。


 ▼マッカーサーは、GHQに到着してすぐの1945(昭和20)年9月22日、「日本は産業、通商、軍事その他いかなる部門においても、完全に壊滅の状態にある。食糧供給はほとんど止まり、破局寸前の状況にある。日本が犯した罪に対する懲罰は、始まったばかりであり、長く厳しいものになるであろう」と公言し、懲罰としてこの様な状態を強いる意図を隠さなかった。GHQが貿易を全面的に禁止したことは、日本人の食糧事情を戦前の水準以下におしとどめるためでもあった。

 ▼名古屋に駐留した米第25師団長モラン少将は「連合国軍の日本占領を成功させる手段としては、まず日本の食糧不足を利用し、当面は食糧を封鎖して、日本人の抵抗意欲の抑止を第一目標とする。つまり、食糧攻めにすることだ」とのべた(中西薫著『名古屋戦乱物語』)。

 ▼モランはさらに、「(日本の)軍国主義体制を崩壊させ、武装解除が完了した段階で、徐々に米国の余剰農産物を活用し、無償・有償援助を実施して日本人に恩義を感じさせる。それまではたとえ日本農業の米麦が増産されたとしても、配給量を増加する許可を絶対に日本政府に与えてはならない」と訓示していた。名古屋では、熱田造兵廠に備蓄されていた大量の古米、小麦がすべて没収された。それは日本国内の食料難に供するのではなく、「損害賠償物資」として国外に流された。

 ▼GHQは、「闇米が出回るから、遅配・欠配が続く」などといって、買い出し列車に警察官を乗り込ませるなど、「闇米」の徹底的な取り締まりとともに、直接ジープで農家に乗りこみ、強制的に供出させることまでやった。


[戦後余剰農作物を日本に押しつけ]

 ▼こうしたなかで1946(昭和21)年、元大統領フーバーが食糧事情調査団として来日。予定どおり「食糧援助」への布石を打った。そしてこの年11月30日「ララ物資」第一便としてミルク・衣類・薬品など450トンが横浜港に到着した(写真あり:学校給食用の脱脂粉乳などの「ララ物資」第一便の歓迎に動員された横浜の子供たち)。戦後、学校給食に使われた脱脂粉乳はこの「ララ物資」によるものであった。

 ▼マッカーサーは「経済的扼殺」の成果を踏まえて、1947年2月23日、「飢餓は社会不安、混乱、暴動を生み出すに違いない。国民はどんなに邪悪な思想だろうが、食べ物を与えてくれるものに、安易に走るのだ」と「食糧援助」を本国に要請した。

 ▼こうして11月6日、「アメリカに感謝いたしましょう」と放出された輸入食糧の多くは、もともと家畜飼料で栄養値に劣るコーリャンやトウモロコシであった。それはアメリカでの市場買付け価格の二倍の高値で日本国民に押しつけられたが、「我慢して食べてもたちまち胃腸をこわす」という悪質なものであった。

 ▼「米価審議会委員」「食品流通審議会委員」などを歴任した岸康彦氏は著書『食と農の戦後史』のなかで、「フーバーは単なる慈善のために食糧援助に力を入れたわけではない。第一次大戦後、米国は大量の余剰小麦を抱え込んだ。食糧援助は飢餓救済と合わせて、米国の倉庫から、余剰小麦をへらして国際市況の低落を防ぐこと、さらには共産主義の浸透に対する防壁として農産物を利用することも狙っていた」と指摘している。

 ▼国会での感謝決議をおこなって受け入れたこれらの「援助物資」は、ガリオア・エロア基金という「見返資金制度」によるものであった。それは、物資に相当する金額を日本側が積み立てて、その30%は在日米軍基地の費用にあてるなど、資金の運用はすべてアメリカの許可を必要とした。

 ▼アメリカはそのうえに1953年、「ガリオア・エロア返済」を日本政府に要求した。そして60年「安保改訂」後の1962年、「日本はアメリカの妾(めかけ)みたいなものだから、だんなのご機嫌をとるのは当然だ」と放言した池田勇人が首相となって、4億9000万ドルの返済を実行したという屈辱的な事実も消し去ることはできない。
http://electronic-journal.seesaa.net/article/252217217.html



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戦後の日本のインフレは戦時中の借金とは何の関係もない

米軍に国土を焼け野原にされ、供給能力が極端に落ち込んだ1946年の日本であってさえ、物価が6倍「程度」のインフレでしかなかったのだ。

 当時の我が国の供給能力は、戦前と比較して実に2割の水準にまで落ち込んだと考えられている。供給能力の8割を喪失してさえ、インフレ率が500%程度で済むわけだから、日本国の生産力や技術、さらには「人材」の蓄積は凄まじい限りだ。


戦後、物が不足したのは米軍が意図的に物資を市場に出さなかったから。

別に需要が生産量より多かったからではないですね。


戦争体験者は、敗戦後はアメリカの占領の下で、「さらにひどい食糧難」を経験したと語っている。

コメの遅配、欠配が続き、どこの家庭でも買い出しに出て、「闇米」を手に入れなければ食べていけない状況が続いたのは、アメリカの占領政策によるもの。

終戦直後は大したインフレは起きなかった。

円がその後安くなったのはアメリカの命令で戦時国債を踏み倒す為に意図的に紙幣をそれまでの何十倍も発行したからだ

アメリカが日銀にやらせたのは、それまでの 1円札を100円札に名称変更して、戦時国債の額面だけは昔と同じままにしておいた。


戦後の農地解放と同じで、アメリカは地主の金を貧農・小作人に再分配させる為に円の額面を変えたんだ。 だからハイパーインフレとは全く違う。
その結果、農民はすべて自民党支持層になって日本が共産化する可能性がなくなったたんだ。

ドイツやジンバブエのハイパーインフレとは中身が全然違うよ


因みに、日本が一億総中流、世界で一番成功した社会主義国と言われる様になったのは

・GHQ の農地改革で富農の土地をインフレ前に強制買い取り、小作農にインフレ後にインフレ前の金額と同額(タダ同然)で売ってその金額だけ売主に渡した

・意図的なインフレと預金封鎖で富裕層の預金を没収


が原因

要するに、日本を共産化させない為にブルジョアジーの持つ農地と銀行預金・国債を没収してプロレタリアートに再分配したんだ

一億総中流の無階級社会になったらもう共産革命を起こす必要がなくなるからね

損したのは預金を没収された資産家と農地改革で農地を昔の地価と同じ額面のままインフレで安くなった新円札で売らされた大地主だけ

農地を地主からタダ同然で買わせて貰った小作人は一気に土地持ちの資産家になって、それ以降自民党とアメリカの支持者になった

それが自民党一党独裁が今迄ずっと続いた理由



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戦後のインフレと言われているのはアメリカの指示で戦時国債を返さなくても良くする為に、意図的に円の価値を下げて、借金の額面だけ据え置いただけの話
デノミの逆をやって資産家の財産を取上げたんだ

インフレは供給より需要が大きい場合にしか起きない
日銀がいくら金融緩和しても株式市場や海外投資に廻るだけで物価は上がらない


そもそも日本は常に供給過剰な国でハイパーインフレになった事は一度もない

ハイパーインフレーションとはフィリップ・ケーガンにより、「インフレ率が毎月50%を超えること」と定義されている。毎月のインフレ率50%が継続すると、一年後には物価が130倍に上昇することになる。すなわち、インフレ率13000%である。


戦後の日本は確かにインフレ率が高まったが、別にハイパーインフレになどなっていない。

米軍に国土を焼け野原にされ、供給能力が極端に落ち込んだ1946年の日本であってさえ、物価が6倍「程度」のインフレでしかなかったのだ。

戦後、物が不足したのは米軍が意図的に物資を市場に出さなかったから。

別に需要が生産量より多かったからではない。

戦時中も終戦後しばらくも大したインフレにならなかったんだから、農業が再開されれば食料不足は有り得ない、

従って戦後のインフレはアメリカが意図的に作った偽りのインフレという事

元々日本は供給能力が高かったから輸入と上手く組み合わせればインフレになる訳ないんだよ

米軍は食料の流通と配給制度を破壊した上で、ララ物資という食料を配給し、アメリカに恩義を感じさせる政策をとったんだよ。

GHQは小麦や脱脂粉乳などのアメリカの余剰農産物を大量に日本に輸出したかったので、日本の農業を壊滅させる占領政策を取ったんだ。
それが農家には食料が有り余っていたにもかかわらず餓死者が出た理由

 東京の小売物価は、全国平均と比べて高く推移する傾向があった。その東京の小売物価指数で見てさえ、1946年のピーク時のインフレ率は500%「程度」に過ぎない。




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米国の食糧輸出戦略
(1)、ガリオア、エロア、ララ援助
ちなみに敗戦後の小学校では、昭和二十一年(1946年)十二月から、米国産の脱脂粉乳を中心とする学校給食が始まりました。

それが米国産小麦粉から作るパンを主食とする完全給食になったのは、大都市では昭和二十五年(1950年)二月からで、全国の都市部では翌年二月からでした。

この給食はガリオア = GARIOA(Government Account for Relief In Occupied Areas)占領地救済資金、及びエロア = EROA(Economic Rehabilitation in Occupied Areas)占領地経済復興基金、からの援助プログラムによる米国産の小麦の払い下げを受けて発足したもので、ガリオア援助には食糧以外にも原綿、肥料、燃料、医薬品もふくまれていました。

日本に対する援助はこれ以外に国連が管理したララ=LARA(Licensed Agency for Relief of Asia)アジア救済機関による援助があり、これにより米国産の粉ミルクが日本全国の小学校児童に配給されました。

ガリオアによる援助は昭和二十三年(1948年)にエロア援助に吸収されましたが、基金の性格、その目的(米国における余剰農産物の処理)から、本来占領地域に対する無償援助の「はず」でした。


(2)、だまし、と脅し(Bluff)の手法

これは欧州に対する対共産主義政策の一環としての無償援助であるマーシャル・プラン(注:1)に対応したもので、日本に対しても当初は無償援助と言っておきながらサンフランシスコ講和条約締結を前に、昭和23年(1948年)1月に米国政府が突然総額二十億ドル(注:2、当時の為替レートで七千二百億円)の援助の立て替え代金(?)を請求したので、日本政府は「寝耳に水」と驚きました。


無償援助ではなく有償でもない、貸与したとする口実を米国は考えついたのです。

品質、鮮度が商品価値を左右する農産物について、大量の現物貸与などという話はこれまで聞いたことがありません。

しかも日本政府はそれまで援助は無償であると信じていて、占領中には国会で「米国の援助に対する感謝決議」までして来たのです。


もし仮に貸与であるとするならば、政府間の貸借契約書があるはずですが、そのような書類は存在しませんでした。

また小麦や脱脂粉乳の援助が有償、つまり売買契約に基づくものであるならば、その売買契約書が存在し、売買金額(トン当たりいくら、または総額いくら)が当然その契約書に記載されているはずです。


ところがガリオア、エロア援助に関する公文書には売買契約に関する文書やそれに関する条項がなく、金額の記載も全くありませんでした。

値段も決めずに何千億円もの品物を買う愚か者など、たとえ占領下でもいるはずがありません。

日本は米国から詐欺に遭ったのです。


最初に巨額な金額を要求して交渉相手をひるませるブラフ(Bluff、脅し)と呼ばれる交渉テクニックは、アメリカでは弁護士の常套手段です。

相手をひるませて交渉の主導権を握り、次に要求を少し減額して譲歩の姿勢を相手に示し、交渉解決に誠意のあるような振りをするのです。


それにより交渉を有利に進め、最後には目的とした金額を相手に支払わせる、とする戦術です。

交渉は難航しましたが、昭和三十七年(1962年)一月に、米国が援助の経緯を勘案した結果、当初請求した金額を定石通りに四億九千万ドル(千七百六十四億円)に減額して交渉成立に誠意を示した(?)ので、日本は十五年の年賦での返済に応じることとなり、後にはそれを完済し解決しました。


かなり減額したように思えますが、それまでに日本は占領に要する経費である終戦処理費として、五十億ドルもの大金を占領軍の為に支出したのです。

あたかも刑務所の看守の給料を、囚人が負担したようなものです。

その一方でマーシャル・プランによる経済援助を受けたヨーロッパの国々で、債務(?)返済に応じた国はありませんでしたが、アメリカ政府は赤子の手をひねるが如く簡単に、支払い義務の無い大金を日本から巻き上げました。

(3)、パン食導入計画、その影響

昭和二十九年(1954年)には学校給食法が国会を通過し、「小麦の粉食形態を基本とした学校給食の普及拡大をはかること」が明文化されて、米作地帯の農村までもコッペパンによる学校給食の普及が進められました。

当時米国の小麦栽培農家連盟の資金で作られた、パン食普及協議会が作成した小冊子「学校給食とパン」には、


コメを食べていると身体が弱く、頭が悪くなり、ガンや脳溢血になり易い
と書かれていました。

実は米国からの農産物援助には米を主食とする日本人を、子供の頃からパン食に慣れさせて、自国産小麦の輸出を図るアメリカ政府の遠大な戦略があったのです。

敗戦後の学校給食のパン食で育った子供が増加、成長し、親になるにつれて、日本人の食生活にも次第にパン食が普及して、その計画は見事に成功しました。


昭和三十九年(1964年)にマクガバン上院議員が米国上院に提出した報告書によると

米国がスポンサーとなった学校給食プログラムによって、日本の子供達が米国のミルクとパンを好むようになり、日本が米国農産物の最大の顧客となった

と書かれています。


具体的には米国産小麦の日本への輸入量は昭和二十八年度(1953年)の百六十八万トンから、昭和三十九年度(1964年)には三百五十九万トンと二倍以上に増加しました。

それ以来パン食が普及するのに伴い主食である米の需要が次第に減少して行き、米の生産過剰の状態が長年続いています。

その結果政府が保有する米の在庫や備蓄については、適正備蓄量百六十万トンのところ、平成十二年度では二倍近い二百八十万トンにも達していて、食糧倉庫には古米(生産後一年以上経過したもの)、古々米(二年前以上経過したもので、長期保存のために味が落ち、米飯には使用されず、せんべいなどの加工用や家畜のエサに振り向ける)が溢れています。

それにもかかわらず日本は米国をはじめ、オーストラリア、カナダから、毎年六百万トンを超える小麦を輸入していて世界最大の小麦輸入国となっていますが、その小麦の七割は米国産です。

つまり米国は自分のカネではなく、日本人の税金を使ってパン食普及の確固たる基盤を日本に作り上げて、大量の小麦の、しかも恒久的輸出先を確保したのです。


(4)、食糧自給率の低下

その後、昭和三十一年(1956年)には「米国余剰農産物に関する日米協定」を結ばせ、農産物輸入義務化により、大きな市場を米国農業に提供しました。

それ以来日本は米国にとって農産物の最大の輸出先となりましたが、その結果、主食の米離れが進み、日本の農業は衰退し、食糧自給率の試算を始めた昭和三十五年度(1960年)の七十九パーセントから、平成十四年度(2002年)ではカロリー換算で四十パーセントまで低下しています。

これほど低い自給率の国は フランスの百三十五パーセント、米国の百二十五パーセントなどに比べて先進国では日本だけですが、小麦をはじめ、牛肉、大豆など食糧に関する限り、日本は米国の「五十一番目の州」になり下がったと言えます。
http://homepage3.nifty.com/yoshihito/hp-1.htm




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「アメリカ小麦戦略」と日本人の食生活 – 2003/2 鈴木 猛夫 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E3%82%A2%E3%83%A1%E3%83%AA%E3%82%AB%E5%B0%8F%E9%BA%A6%E6%88%A6%E7%95%A5%E3%80%8D%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E9%A3%9F%E7%94%9F%E6%B4%BB-%E9%88%B4%E6%9C%A8-%E7%8C%9B%E5%A4%AB/dp/4894343231

より抜粋


■昭和20年代(1945年〜)---アメリカで農産物の過剰生産、過剰在庫

 戦後日本人の食生活が急速に欧米化した裏にはアメリカの存在があった。
アメリカは昭和20年代、小麦、大豆等の過剰生産、過剰在庫が深刻化し、その余剰農産物のはけ口として標的にされたのが日本である。


■昭和29年(1954年)---余剰農産物処理法(PL480)成立。

 昭和29年、アメリカは余剰農産物処理法 (PL480)を成立させ、日本に対する農産物輸出作戦に官民挙げて本格的に乗り出した。

当時の日本側栄養関係者も欧米流の栄養学、食生活の普及、定着が必要だとしてパン、畜産物、油脂類などの普及を意図した「栄養改善運動」に取り組み、日米共同の食生活改善運動が推進された。


■アメリカ小麦戦略

 活動資金の多くがアメリカ側から提供されたが、そのことは当時も今もタブーとして長く伏されてきた。 

これを一般に「アメリカ小麦戦略」という。


■昭和30〜40年代(1955〜1975年)---フライパン運動、学校給食など

 パンの原料である強力小麦は日本では産出できず、日本人がパン食を始めれば永久的に日本はアメリカのお得意になる。

戦前まで少なかった油料理を普及させるためにフライパン運動を展開し、油の必要性を強調する栄養指導が熱心に行なわれた。

トウモロコシ、大豆は家畜のエサであると同時に油の原料でもある。
余剰農産物処理の観点から欠かせない重要な戦略であった。

学校給食ではパンとミルクが無償援助され、子供のうちから洋食嗜好の下地を作ることにも成功した。


■昭和52年(1977年)マクガバンレポート(アメリカは気が付いた)

 アメリカ合衆国政府は1977年に

『ガン、心臓病、脳卒中などの現代病は食生活の間違いで起こる"食源病"である』(マクガバンレポート)

と解明して、欧米型の食生活の改善を促した。

欧米型とは、脂肪と動物性たん白質、砂糖の過剰摂取。ビタミン・ミネラルや食物繊維の減少のこと。


■食料自給率たった四割

 「アメリカ小麦戦略」の成功で、小麦、大豆、トウモロコシの九割以上がアメリカをはじめとする輸入品。
食糧自給率は四割以下で先進国中最低。


■問題は命にかかわる

 ここまでは、食生活が変わった〜。美味しい食べ物のバリエーションが拡がった〜。程度の認識でいいかもしれない。

しかし、問題は・・・別にある。


■子供が糖尿病にかかり、アレルギー疾患が蔓延している

 問題は、欧米型食生活にともなって病気もまた欧米型となり、日本人の健康状態が非常に懸念される状況になってきたことである。

戦前まで少なかったガン、糖尿病、動脈硬化、心臓病、痛風などのいわゆる欧米型疾患は子供にまで広がり、アトピー、花粉症、喘息などのアレルギー疾患も増加の一途である。

糖尿病は予備軍を含めて1620万人にのぼり糖尿病に子供が苦しむという前代未聞の事態になってしまった。痛風患者も予備軍を含めて560万人とも言われる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=124643&g=132107





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真珠湾アリゾナ記念館での安倍総理の演説

総理は米国の寛容さを示すエピソードとして、終戦直後の食料援助に言及している。本文は
「日本が見渡す限りの焼け野原、貧しさのどん底の中で苦しんでいた時、食べるもの、着るものを惜しみなく送ってくれたのは、米国であり、アメリカ国民でありました」

である。

終戦直後の米国の援助物資はララ物資(LaRa・・Licensed Agencies for Relief in Asia(アジア救援公認団体))と呼ばれている。これによって命を助けられた日本人は多数いる。またこのララ物資が発端となり学校給食が始まったという話がある。


日本人は、長い間、ララ物資を100パーセント米国民の自主的な善意の援助と思っていた。しかしこの裏には浅野七之助氏という日系米国人の大きな働きがあった。浅野氏は岩手・盛岡出身のジャーナリスト(サンフランシスコ邦字紙「日米時報」を発刊)である。氏は終戦直後の日本の惨状にいたたまれず、「日本難民救済会」を設立し日系人に声を掛け祖国日本に救援物資を送ることに奔走した(ブラジルの日系人からも寄付を募った)。

浅野氏は、食料などの援助品を米軍に掛け合い日本に送ってもらったのである。戦後間もない頃の日本人は、これを米国の善意のプレゼントと勘違いしていた。たしかにその後、金額的に見てもララ物資は大きくなりとても日系人の寄付だけではとうてい賄えないものになっている。おそらく米国の援助部分が大きくなったと思われる。しかしララ物資の先鞭をつけたのはこの浅野七之助氏という事実を忘れてはいけない。

この話は決して米国民の寛容さを否定するものではない。米国民の対日感情が非常に悪かった時代に、米軍が日本に援助物資を届けてくれたことはむしろ画期的なことである。むろん日系ではない米国人の大きな協力もあった。ただララ物資の裏に浅野氏等の日系人の働きがあったことは戦後長い間伏せられていた。安倍総理の演説を聞き、この話を思い出したしだいである。
http://www.adpweb.com/eco/




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日本の農地改革

一般的には1947年(昭和22年)、GHQの指揮の下、日本政府によって行われた農地の所有制度の改革を指す。

もともと日本の官僚の間には農村の疲弊を除くために地主制度を解体する案はもとよりあったが、財界人や皇族・華族といった地主層の抵抗が強く実施できなかったものをGHQの威を借りて実現したといえる。

1945年(昭和20年)12月9日、GHQの最高司令官マッカーサーは日本政府にSCAPIN-411「農地改革に関する覚書」を送り、「数世紀にわたる封建的圧制の下、日本農民を奴隷化してきた経済的桎梏を打破する」ことを指示した。これ以前に日本政府により国会に提案されていた第一次農地改革法はこの後GHQに拒否され、日本政府はGHQの指示により、より徹底的な第二次農地改革法を作成、同法は1946年(昭和21年)10月に成立した。

この法律の下、以下の農地は政府が強制的に安値で買い上げ、実際に耕作していた小作人に売り渡された。

不在地主の小作地の全て

在村地主の小作地のうち、北海道では4町歩、都府県では1町歩を超える全小作地
所有地の合計が北海道で12町歩、都府県で3町歩を超える場合の小作地等

また、小作料の物納が禁止(金納化)され、農地の移動には農地委員会の承認が必要とされた。

農地の買収・譲渡は1947年(昭和22年)から1950年(昭和25年)までに行われ、最終的に193万町歩の農地が、延237万人の地主から買収され、延475万人の小作人に売り渡された。

しかも、当時の急激なインフレーションと相まって、農民(元小作人)が支払う土地代金と元地主に支払われる買上金はその価値が大幅に下落し、実質的にタダ同然で譲渡されたに等しかった。

譲渡された小作地は、1945年(昭和20年)11月現在の小作地(236万町歩)の8割に達し、農地に占める小作地の割合は、46%から10%に激減し、耕地の半分以上が小作地である農家の割合も約半数から1割程度まで減少した。

この結果、戦前日本の農村を特徴づけていた地主制度は完全に崩壊し、戦後日本の農村は自作農がほとんどとなった。

このため、農地改革はGHQによる戦後改革のうち最も成功した改革といわれることがある。

一方で、水田、畑作地の解放は実施されたが、林野解放が行われなかったことから、不徹底であったとされる。

この農地改革を巡っては、施行されたばかりの日本国憲法の第29条3項(財産権の保障)に反するとして、一部の地主が正当な価格での買取を求め訴訟を起こしたが、第29条3項で言う正当な補償とは、市場価格とは異なるという解釈がされ請求は棄却された。

また、この農地改革は当事者によればナチス・ドイツの世襲農場法も範とした反共政策として意図されており、政府や GHQ もその勢力拡大を警戒していた日本共産党の力を大幅に削ぐことになった。

従来、賃金労働者と並んで共産党の主要な支持層であった水田および畑作地の小作人の大部分が自作農、つまり土地資本を私有財産として持つようになり、その多くが保守系政党に取り込まれたためである

(当時の共産主義諸政党の政策方針では集団化(農地は自給用の田畑のみがコルホーズの協同組合経営として認められ、残りはソフホーズとして国有化され、農業従事者は国から土地を借りて耕作するという形)を目指していたため)。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E5%9C%B0%E6%94%B9%E9%9D%A9



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旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

Jcoffee さんの株式投資日誌に面白い記事がありました。
旧華族没落の引き金を引いた財産税の話です。

(2003/2/17) 華族の話

1869年(明治2年)、維新政府は大名の支配する土地と人民を朝廷に奉還させます(版籍奉還)。何の代償もなく、大名が手放すはずはありません。大名には、軍事力があります。


大名と藩士の主従の関係をどう断ち切ったか?

つまり、300諸侯といわれた大名を華族として特権を与え、藩士を士族として遇することにより、維新政府は封建身分制度の解消に成功します。
華族は、近代日本の黎明期に、こうして誕生したのです。


5摂家などの公家も同時に、華族に叙せられます。

1884年(明治17年)に、華族に対し、公・侯・伯・子・男の5つの爵位が与えられます。

当時、最高位の公爵は、徳川家、島津家(2人)、毛利家の4人だけでした。
加賀100万石の前田家は、侯爵にすぎません。薩長の藩閥政治の影響でしょう。


この年に注目されるのが、明治維新の立役者が新華族になったことです。

伊藤博文、山県有朋、黒田清隆、松方正義、井上馨、西郷従道、大山巌などは、伯爵に叙せられました。

旧華族は、新参者の新華族を嫌い、対立したそうです。

学習院は、昔は、華族学校といって、皇族と華族の子供を教育する学校でした。平民でも、財閥の子供は、特別に入学が認められました。

侯爵と伯爵は、皇族とともに、貴族院の終身議員の地位が保証されていました。伯・子・男爵についても、一度議員に選出されると、7年間は解散がありません。

華族は、80年間、日本の上流社会を形成してきたのです。
そして、玉音放送・・・太平洋戦争が終結。

1948年5月、日本国憲法の制定とともに、華族制度は廃止されます。
しかし、多くの華族を苦しめ没落させた、政府の施策は、華族制度廃止のニ年前に断行されました。

1947年(昭和21年)11月、戦後の財政の行き詰まりを打開するため、GHQの指導に基づき、政府は、「財産税法」を制定して、財産税が徴収されることとなります。
財産税は、10万円以上(今の価値に直すと約5000万円以上)の財産を保有する個人に課せられ、税率は次のとおりでした。


財産税の税率

財産額 税率
10万円を超える金額 5%
11万円を超える金額 30%
12万円を超える金額 35%
13万円を超える金額 40%
15万円を超える金額 45%
17万円を超える金額 50%
20万円を超える金額 55%
30万円を超える金額 60%
50万円を超える金額 65%
100万円を超える金額 70%
150万円を超える金額 75%
300万円を超える金額 80%
500万円を超える金額 85%
1500万円を超える金額 90%


すなわち、膨大な資産を持っていた華族達は、全財産の90%近くを税金として支払う必要がありました。戦後の混乱期とはいえ、個人財産の約9割を取上げる累進課税は、過酷だと思います。

現金で支払うか、物納するか、利息を払って延納するか?
広大な屋敷、別荘、土地、先祖伝来の絵画、掛け軸などの骨董品を直ぐに換金することは出来ません。

多くのケースで、財産が物納されました。
物納された骨董品の買い手は、日本国内には、いません。
国宝級の美術品が、海外に流出していきました。

このとき延納を選び土地を温存し、ドッジデフレ時代の資金繰りを凌いだ華族は、土地価格の高騰で大金持ちとして、生き残れたそうです。

1948年春に発表された財産税の納税番付のトップは、天皇家です。
37億4300万円を納め、残りの財産は、国有財産になりました。

秩父宮、高松宮、三笠宮を除く、11家51人の皇族が財産税を支払った上に皇籍を離脱します。彼らに対しては、わずかの一時金が、支払われますが、直ぐに底をつきます。

ある内親王は、鶏を飼い、卵の生産・販売をしたり、プラステック加工の内職をして、元軍人で失業中の夫を助けたそうです。

皇族でさえ、この状況です。多くの華族が、この瞬間に致命的な打撃を受けて、没落し、路頭に迷います。

1950年1月、絶世の美女といわれた伯爵令嬢・堀田英子さんが、戦後の成金・小佐野賢治さん(国際興業社主)と結婚します。結納金は、なんと400万円。財産税がなかったら、二人は結ばれなかったと思います。

◆◆華族達を犠牲にした財産税は、日本の財政再建と復興に役に立ちました。◆◆
http://www.asyura.com/2003/hasan22/msg/288.html

21. 中川隆[-13308] koaQ7Jey 2018年12月30日 13:40:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

昭和天皇が GPモルガンの手先のスパイでなかったら太平洋戦争は勝っていた


大東亜戦争で真に反省すべき事『大東亜戦争 日本は「勝利の方程式」を持っていた!』2018/12/22
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201812/article_6.html


「勝てる戦争をなぜ負けたのか」という反省をしていないので、我々は当時の弱点を今もひきずっている。


■1.開戦直前に正式に採択された「勝てる戦略」があった。

 大東亜戦争に関する自虐史観には、次の二つの側面がある。

 1)「世界を侵略した悪い戦争」
 2) 何十倍もの国力を持つアメリカと戦って「勝てるはずのない愚かな戦争」

 このうち、1)の「悪い戦争」のウソはアメリカの共和党系の歴史学者や政治家により明らかにされつつあり、特にスターリンが日米を戦わせて漁夫の利をさらった史実が近年の秘密文書の公開などでも裏付けられてきた。[a]

 もう一つ、2)の「勝てるはずのない愚かな戦争」という見方に関しても、歴史文書の解明が進み、それが捏造された自虐史観であることが分かってきた。最近、出版された茂木弘道(もてき・ひろみち)氏の『大東亜戦争 日本は「勝利の方程式」を持っていた!』[1]は、この点を史実で明らかにした労作である。

 それも歴史の後智恵から「こうすれば勝てた」という「タラ・レバ」論ではなく、開戦直前に大本営政府連絡会議で正式に採択された国家戦略があった、というのである。

 茂木氏は、日本がこの戦略をそのまま実行していたら、十二分に勝てた(といっても、アメリカを征服するのではなく、日本の自存自衛とアジア諸国の独立を勝ち得て、有利な停戦に持ち込む)戦略であることを史実をもとに論証している。

 しかも、なぜ、この戦略が実行されなかったのかも、史実を通じて分析している。そこから出てくるのは、なぜ勝てる戦いをみすみす負けてしまったのか、という真の反省である。その真の反省が行われていない事から、当時の弱点を現代日本も引き摺っている。


■2.開戦前は日本の戦力が優勢だった

 まず戦略の前提として、開戦前の日米の戦力を比較しておこう。[1, p89、一部弊誌にて簡略化] 日本に比べて、米国太平洋側、および米国全体の優劣を○×で表しておく。

        日本    米国    米国
           (太平洋側) (大西洋側を含む合計)
  戦艦    10    11○   17○
  空母    10     3×    7×
  巡洋艦   38    32×   37×
  駆逐艦  112    84×  172○
  潜水艦   65    30×  111○
  航空機 4800     ?  5500○

 戦艦数では若干負けていたが、翌年完成する大和、武蔵を含めれば米国の太平洋側戦力は上回っていた。空母、巡洋艦では日本は米国全体に対しても優勢だった。駆逐艦、潜水艦でも米国の太平洋側戦力は凌駕していた。

 航空機数では日本は米国全体の87%。数は多少劣勢だが、零戦の性能ははるかに米軍機を上回っていた。開戦劈頭のフィリピン攻撃では、台湾から渡洋攻撃した零戦34機を2倍近い米戦闘機群が包囲して大空中戦が展開されたが、米軍機44機が撃墜されたのに対し、零戦の損害は1機のみであった。

 米国が工業力をフル回転させて大艦隊、大航空戦力を投入できたのは開戦2年目以降であるから、当初2年ほどは、日本が質だけでなく、量的にも米軍を凌駕していたのである。

 このデータから見れば、日本が米国相手に「勝てるはずのない愚かな戦い」をした、という見方は事実に悖(もと)る事が分かる。開戦2年以内に勝負をつければ、日本が日露戦争のように優勢のまま停戦に持ち込む、という可能性は十二分にあった。そして、実際にそれを目指した戦略が立てられていたのである。


■3.「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」

 開戦直前の昭和16(1941)年11月15日、大本営政府連絡会議は「対米英蘭蒋戦争終末促進に関する腹案」を採択した。アメリカ、イギリス、オランダ、蒋介石政権に対する戦争の「終末を促進」するための戦略案である。当時気鋭の経済学者たちを動員して各国の抗戦力調査を行い、それに基づいて立案された戦略であった。

 その冒頭の方針が、すべてを語っている。()の数字は説明のために弊誌で挿入したものである。また、かな、漢字などは読みやすく変えている。正確な原文は[1]を見ていただきたい。

__________
方針1 (1)速やかに極東における米英蘭の根拠を転覆して自存自衛を確立するとともに、(2)更に積極措置により蒋政権の屈服を促進し、(3)独伊と提携してまず英の屈服を図り、(4)米の継戦意志を喪失せしむるに勉む。[1, p47]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 (1)の「極東における米英蘭の根拠を転覆して自存自衛を確立」とは、当時のわが国はABCD(米英中蘭)包囲網で資源輸入を絶たれ、国家の生存を脅かされていたからである。そこで日本は、開戦劈頭、電撃的な攻勢によりマレーシア、インドネシアなど南方資源地帯を確保した。

 特に石油に関しては、昭和17年2月、陸軍空挺部隊の活躍でインドネシアのパレンバン石油基地を無傷で確保できた。当時の日本の年間石油必要量およそ4百万トンに対して、年産約3百万トンの石油が確保でき、さらに技術者の努力により、これを6百万トンにまで拡大できた。こうして、(1)「極東における米英蘭の根拠を転覆して自存自衛を確立」する戦略は、見事に達成されたのである。


■4.「英米の主力艦は、もはやインド洋にも太平洋にもいない」

 (2)の「蒋政権の屈服」と(3)の「英の屈服」の鍵がインド洋にあった。まず、米英から蒋介石政権への軍事援助物資は、大西洋からアフリカ喜望峰を回ってインド洋を北上し、インドのカルカッタ港などから中国大陸の奥地に逃げ込んだ蒋介石政権に送られていた。

 インド洋の制海権はどうだったのか。開戦直後のシンガポールを拠点とするイギリスの不沈艦プリンス・オブ・ウェールズとレパルスは日本の航空戦隊の爆撃と魚雷攻撃により沈められていた[b]。

 イギリスのチャーチル首相はこの報告にショックを受けて、「英米の主力艦は、もはやインド洋にも太平洋にもいない。・・・このひろびろとした海域のいたるところで、日本は主導権を握ったのだ」と書いている。

 チャーチルの言うように、インド洋で日本は「主導権」を握る事ができた。112隻の駆逐艦や65隻の潜水艦の相当部分をインド洋に投入すれば、蒋介石政権への軍事物資を積んだ輸送船を次々と沈めて、その「屈服」を実現することは容易だったろう。

 そうすれば、蒋介石は日本との講和に応じたはずだ。もともと日本は中国大陸に領土的野心があったわけではない。蒋介石が英米の支援をあてにして、和平交渉に応じないからこそ、孫文の門下で蒋介石の先輩格にあたる汪兆銘に政権を樹立させていた[c]。英米からの支援が途絶えれば、蒋介石も膝を屈して汪兆銘との連立政権に参加し、中国戦線も終結していたろう。


■5.ドイツの懇請

 (3)の「英の屈服」もインド洋が鍵だった。というのは、英国はインドやオーストラリア、ニュージーランドからの食料や資源の輸入に頼っており、インド洋を抑えれば、イギリス経済の息の根を止めることができるからである。

 さらに、ロンメル将軍率いるドイツ・イタリア軍はアフリカ北岸をスエズ運河に向かって進撃していた。スエズ運河を抑えればイギリスへの中東の石油供給をストップできる。さらに東進すれば、中東の油田そのものが手に入る。

 スエズ運河を守っているイギリス軍を支援していたのはアメリカで、その援助物資はアフリカ東岸を伝ってインド洋を北上していた。これも日本軍がインド洋を抑えていれば、止めることができる。実際に昭和17(1942)年3月27日の日独伊混合専門委員会でドイツは日本に次の懇請をしている。

__________
 日本海軍がこの際、独伊のエジプト侵攻に策応し、アフリカ東岸を北上する敵側の補給動脈を撃滅する作戦を実施するよう、特別の配慮を望む。[1, p121]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 実際には、日本海軍はこの懇請を無視したので、アメリカは「アフリカ東岸を北上する補給動脈」を通じて最新鋭のM4戦車300両と自走砲100門を送る事ができ、これが決め手となってロンメル将軍は退却を余儀なくされたのである。ドイツからみれは、日本はなんと頼りにならない同盟国かと地団駄を踏んだ事だろう。


■6.米英の悲鳴

 インド洋の制海権の戦略的重要性は、ドイツのみならず、米英もも気づいていた。アメリカのマーシャル参謀長もこう悲鳴を上げている。

__________
 ドイツのロンメル将軍やクライスト(JOG注:ドイツの名将)が中東からやってくる。中東の全域がドイツとイタリアに制圧される。東から日本軍がやってきてインド洋が制圧されそうだ。アメリカとしては打つ手がないではないか。[1, p123]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 チャーチルもルーズベルト大統領あての書簡で、こう書いている。

__________
 今、日本がセイロン島と東部インドからさらに西部インドへ前進してくれば対抗できない。蒋介石支援ルート、ペルシャ湾経由の石油ルートやソ連支援ルートが遮断される。[1, p123]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

「ソ連支援ルート」とは、アメリカの軍事物資がこれまたインド洋を通り、インドやイランを経由してソ連に送られていたのである。その量たるや、航空機1万4700機と、日本の零戦の全生産量に匹敵した。それ以外に戦車7千両、トラック37万台、食料448万トンなどのおよそ半分がインド洋経由だった。これらを止めれば、ソ連はドイツの攻勢に屈服していただろう。

 そうすれば、ドイツ軍は全勢力を対英戦線に投入できることになり、英国の運命は風前の灯(ともしび)だった。実にドイツの勝利の足を引っ張ったのは日本軍がインド洋を無視したことであった。


■7.「インドの独立を刺激す」

 チャーチルが恐れた「日本がセイロン島と東部インドからさらに西部インドへ前進してくれば」という作戦は、ごく一部だが実施された。昭和17(1942)年4月、南雲機動部隊がセイロンのコロンボを空襲して基地施設に損害を与え、付近の洋上で重巡2隻を撃沈、さらに西岸のツリンコマリ基地を空襲して大打撃を与え、小型空母ハーミスを撃沈した。

 この頃にはマレーシア、シンガポールの英軍から離脱したインド兵たちを日本軍が組織化して、シンガポールで4万5千人からなるインド国民軍が発足していた[d]。5月にはインド独立運動の指導者スバス・チャンドラ・ボースが東京で東條英機首相と会見し、インドに向けて独立を呼びかけるラジオ放送を行っていた。[e]

 ボース率いるインド国民軍をセイロンからインドに上陸させていれば、全インドが立ち上がって即座に英軍を追い出したろう。実際に「腹案」では、「英の屈服」のための「要領」の一つに「インドの独立を刺激す」を含めている。

 東南アジアとインドの植民地を失い、オーストラリア、ニュージーランドからの資源食料輸入が途絶え、中東の油田も失ったら、イギリスも屈服せざるを得ないだろう。日本はイギリスの命綱を断ち切る力を持っていた。チャーチルの悲鳴も当然であった。


■8.なぜこの「腹案」が実行できなかったのか

 中国もイギリスも「屈服」したら、自ずから「(4)米の継戦意志を喪失せしむる」が実現したろう。もともとルーズベルト大統領は「海外のいかなる戦争に巻き込まれることもない」事を選挙公約として当選したのである。それほど、米国民は遠くはなれたアジアやヨーロッパでの戦争に巻き込まれることを嫌っていた。

 そのためにルーズベルトは苦心して、日本を経済的に追いつめ、真珠湾攻撃という最初の一発を撃たせて、米国を「裏口からドイツとの戦争に巻き込んだ」(共和党下院リーダー、ハミルトン・フィッシュ議員)のである[e]。

 日本がこの「腹案」をきちんと実行していれば、蒋介石政権とイギリスが「屈服」し、そうなればアメリカも継戦意志を失って、適当なところで日本の優勢のうちに「戦争終末」を迎える事ができた可能性が高い。

 しかし、現実の大東亜戦争は、この「腹案」から大きく逸脱して、真珠湾攻撃で米国民を激昂させ、さらにミッドウェーやガダルカナルなど、戦略的にほとんど価値のない戦線で日本軍は消耗していったのである。

 なぜ、大本営で正式採択され、しかもドイツが懇請し、英米指導者が恐れたこの「腹案」を実行できなかったのか。茂木氏は著書の後半で、この分析を行っている。読者には、ぜひ直接、氏の著書にあたって、この問題を考えていただきたいと思う。

 一つだけ種明かしをすると、真珠湾攻撃であまりにも鮮やかな戦果を上げたので、さらに米国を痛めつけて米国民の志気を喪失させよう、という方向に走ってしまった事が挙げられる。やられたらかえってファイトを燃やすという米国民の気質も、また米国の工業力も無視した空想的戦略だった。

 経済学者たちの冷静な分析の結果から引き出された現実的な戦略を無視して、何の裏付けもない空想的な戦略に走る。これは現在の9条教と同じ非合理な精神構造ではないか。「勝てるはずのない愚かな戦争」という自虐史観に目くらましされて、真の反省をしていないので、我々はこの非合理的精神構造から抜け出せないのである。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(951) ルーズベルト大統領が播いた「竜の歯」 〜 日米戦争、冷戦、そして共産中国
 共産主義者に操られたルーズベルト大統領が、日本を開戦に追い込み、ソ連を護り育て、世界に戦争の危機をばらまいた。
http://blog.jog-net.jp/201605/article_4.html

b. JOG(270 もう一つの開戦 〜 マレー沖海戦での英国艦隊撃滅
 大東亜戦争開戦劈頭、英国の不沈艦に日本海軍航空部隊が襲いかかった。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h14/jog270.html

c. JOG(140) 汪兆銘〜革命未だ成功せず
 売国奴の汚名を着ても、汪兆銘は日中和平に賭けた。中国の国民の幸せのために。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h12/jog140.html

d. JOG(508) インド独立に賭けた男たち(上)〜 シンガポールへ
 誠心誠意、インド投降兵に尽くす国塚少尉の姿に、彼らは共に戦う事を決意した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog508.html

e. JOG(509) インド独立に賭けた男たち(下)〜 デリーへ
 チャンドラ・ボースとインド国民軍の戦いが、インド国民の自由独立への思いに火を灯した。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h19/jog509.html

f. JOG(096) ルーズベルトの愚行
 対独参戦のために、米国を日本との戦争に巻き込んだ。
http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogbd_h11_2/jog096.html


■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 茂木弘道『大東亜戦争 日本は「勝利の方程式」を持っていた! ―実際的シミュレーションで証明する日本の必勝戦略』★★★、ハート出版、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4802400713/japanontheg01-22/


https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201812/article_6.html

22. 中川隆[-13307] koaQ7Jey 2018年12月30日 13:46:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

昭和天皇が JPモルガンの手先のスパイでなかったら太平洋戦争は勝っていた _ 2


日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」

太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941.9.6の「帝国国策遂行要領」に関する所謂「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂。
元自民党総裁選=麻生太郎の祖父。

また吉田茂元首相の再軍備問題のブレーンだった辰巳栄一元陸軍中将(1895〜1988年)も、米中央情報局(CIA)に「POLESTAR―5」のコードネーム(暗号名)で呼ばれていた。


アメリカから昭和天皇への指示は国務大臣、グルーによって日本の吉田、牧野、樺山、白州のヨハンセングループを通じ貞明皇后に伝わっていた。

____


アメリカはアジアを侵略した日本を懲らしめるため、そして国民が好戦的であるから原爆投下をして戦争を終わらせ、いく百万の人命を救ったと、みずからを平和主義者であるかのように宣伝してきた。

だが実際は、日本を侵略し、単独で占領して属国にする計画を、ずっと以前から持っており、それを実現するチャンスと見なして緻密な計画を持って望んだ戦争であった。日本支配にあたっては、天皇を傀儡(かいらい)とする政府をつくることも計画していたし、戦時中も天皇や皇族を攻撃してはならないという命令を米軍将兵に厳守させていた。それは天皇側にも知らされており、近衛文麿や吉田茂などはその線で動いていた。東京大空襲でも皇居は攻撃されていない。

アメリカの国立公文書館で発見された「米国陸軍軍事情報部真理作戦課『日本プラン』」

日本プラン」は1941(昭和16)年12月、すなわち日本軍の真珠湾攻撃の直後に作成が開始されたもので、「天皇を平和の象徴(シンボル)として利用する」戦略が明記されていた。すべての戦争責任を、「軍部」に押しつけて天皇を免罪し、「象徴天皇制」のもとで日本を占領支配するという計画を立てていた。1942(昭和17)年5月には「皇室に対するすべての攻撃は避けられなければならない」とする「英米共同指針計画」を出し、皇居への爆撃の禁止命令を厳格に実施させた。戦後駐日大使となったライシャワーはその当時、「日米戦争勝利後の“ヒロヒトを中心とした傀儡(かいらい)政権”」を提言し、「天皇は100万の軍隊駐留に匹敵する」と主張していた。

三井、三菱、住友、安田の4大財閥は、太平洋戦争中の4年間に重工業においては全国投資額に占める割合を18・0%から32・4%にふやし、金融では25・2%から49・7%へと急膨張を遂げており、「三菱は戦争のたびに大きくなった」と三菱電機社長はのべている。

___


ホイットニー文書【以下がヒロヒトの発言記録(1946・4〜6)】

@ 天皇は「日本人の心にはいまだに封建制の残澤がたくさん残っている。それも根こそぎにするには長い時間がかかるから占領は短かすぎない方がいい」といった。

A「神道を奉じる分子とその同調書は反米的だから警戒を要する」といった、というものである。


ヒロヒトの発言は決して日本国の象徴たるものにふさわしいといえない。まさに偽帝の言というべきである。
http://zenkyoto68.tripod.com/CourtneyWhitney1.htm
http://nueq.exblog.jp/20875307/


天皇メッセージ

「天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」GHQシーボルト外交局長

「屈辱の日」と天皇メッセージ 沖縄切り捨て、差別の原点 – 琉球新報 – 沖縄の新聞、地域のニュース

http://ift.tt/2pi9jiJ

ソ連侵攻の防衛線に 昭和天皇 48年、2度目のメッセージ

1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効してから28日で65年となった。敗戦後、連合国軍の占領下にあった日本は条約発効で独立を果たしたが、沖縄や奄美は日本から切り離された。その原点は昭和天皇が米側に対し「25年から50年、あるいはそれ以上」沖縄を米国に貸し出す方針を示した天皇メッセージだ。

米政府側が終戦直後に日本の占領政策を策定するさなかの1947年9月、沖縄の米軍占領継続の希望を伝えた昭和天皇の沖縄メッセージに加えて、翌48年2月に2度目の“天皇メッセージ”といえる考えが天皇側から米軍側に伝えられていた。皇室と連合国軍総司令部(GHQ)との連絡係を務めた宮内府御用掛の寺崎英成氏が、ソ連の侵攻に備え「琉球」を含む日本列島からフィリピンを防衛前線とする考えを米側に伝達していた。

共産主義国家による侵攻を懸念し、反共の観点から「日本」を守るとりでとして沖縄の軍事基地化を提案し、さらに「日本」の防衛を米軍に委ねるという施策を積極的に展開していた「天皇外交」の姿が浮かび上がる。

寺崎氏は、GHQのウィリアム・シーボルト外交局長に対し「南朝鮮、日本、琉球、フィリピン、そして可能ならば台湾を米国の最前線地域として選ぶ」のが現実的施策だとする考えを米側に伝えた。

寺崎氏の提案を受けシーボルト氏は、米本国への電文で「寺崎氏の個人的見解を示しているにとどまらず、天皇を含む多くの有力な皇族との議論に基づくものと考える理由がある」と説明し、天皇側の意向を反映したものだとの認識を示した。
https://kuantan.me/2017/04/30/april-30-2017-at-1210pm/

23. 中川隆[-13272] koaQ7Jey 2019年1月01日 08:30:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22210] 報告

 【日本人慰安婦の話〜橋下“維新の会”は聞け 美輪明宏】(2013年6月のライブドアニュースより)

 今日はですね、橋下さんが発言しちゃって問題になっております、従軍慰安婦問題。
あれは若い方はトンチンカンで、何の話だか全然お分かりにならないんじゃないかと思いますね。10代後半20代30代の方なども。

 従軍慰安婦というのは半世紀以上前の第2次大戦の戦争中のお話でしょう。メディアは終戦記念日に近くなると、爆撃でやられた話とか、そういった人たちを取材した話ができますでしょう。

 でも従軍慰安婦の人たちは直に話を聞けないんですよね。

 韓国と中国の従軍慰安婦の人ばかりが取り上げられますけれども、日本人の従軍慰安婦の人たちもいたんですよ。いっぱいいたんです。

 でも日本人慰安婦たちは何故取り上げないのかといったら、その人たちが、もう酷い目に遭ったんですね。

 まず、私が何故そんなことを知っているかと言いますと、終戦後にその人たちが満州、つまり今の中国から引き揚げてきたんですね。

 引き揚げてきて私、長崎でございましょう。長崎には丸山遊郭という有名な、女郎さん遊女たちがいて売春する、そういう街があったんですね。
坂本龍馬なども遊んでいたような有名な所ですね、日本の3大遊郭という。

 これが、戦争中にカフェやバーも遊郭もみんな閉店させられて全部が商売営業停止になったんですよ。そしてその人たちは行き場が無くなったんですね。

 どういう人たちが遊女になっているかというと、人身売買が当たり前の時代でしたから、貧しい農家の娘さんたちが、自分が売られていけばお父さんもお母さんも弟たちも飢え死にしないで済むからといって、女衒(ぜげん)と言われる人買いに連れられて遊郭に身を売られていったんですね。

 一家の犠牲になっている貧しいお嬢さんたちが多かったんです。

 閉鎖されて行き場が無くなった時に、軍の出先機関で大政翼賛会という組織があったんです。

 そこの人に「満州に良い仕事があるぞ」と声をかけられ、カフェとか遊郭があるから、そっちへ行って稼げばいいということで、そして喜んでそちらへ行ってみたらなんと、話が違って従軍慰安婦だったというんですね。

 従軍慰安婦の人たちは、軍に従うと書いてあって第一線を付いて周るんですね。
そして筵(むしろ)みたいなものを敷いて、コーリャンという麦よりももっと不味(まず)い穀物で作った真っ黒いおにぎりですけれど、私も長崎で食べたことがありますけれど、食べられた物じゃないです。

 それを枕元に置いて食べながら、表には兵隊たちが木札をもってズラリと並んで、それを一人ひとり(セックスの)相手をして。

 そして敵が来たら身を守るためといって銃の練習をさせられて、敵が押し寄せてきますでしょう、馬賊とか匪賊(ひぞく)とか。そうすると兵隊と一緒に戦うんですって。

 戦って流れ弾に当たって死んだら、今度は日本婦人がそういうことをしていたというと恥になるからといって、モンペやなにかを脱がして支那服に着替えさせられて、そして放り出されるんですって。

 そして埋めてももらえない。焼いてももらえない。野ざらし、雨ざらし。山犬の食い荒らすままになっていて。

 終戦後に引き揚げてくるときに、まず軍人の将校たちと家族がトラックに乗って逃げて、自分たちは置いてきぼりになったんですって。

 他の移民団、開拓団の人たちと一緒になって、命からがら引き揚げてきて村に帰ったら、村の恥さらしとか面汚しとか言われて。

 そして家へ帰ったら、自分はお父さんお母さん、一家のために売られて行ったのに、「お前のやっていたことが世間様に知られたら、家の恥になる、出て行ってくれ。」と。

 だから、みんな自分が従軍慰安婦だったというのを隠しているんですよ。

 だから日本人の従軍慰安婦は一人も出てきませんでしょう。そういう事情があるんですね。

24. 中川隆[-13216] koaQ7Jey 2019年1月04日 07:47:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22219] 報告
昭和天皇もマッカーサーも
アメリカと中共・北朝鮮・ソ連が同盟関係に有るのに全然気付かなかった

馬渕睦夫 米国がつくった中華人民共和国


[馬渕睦夫さん][今一度歴史を学び直す] 1-7
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=ORy-CvwklVA&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop

[馬渕睦夫さん ] [今一度歴史を学び直す] 1-7 (付属動画)
米国がつくった中華人民共和国 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=iQBSmzvY6xY&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&index=2&app=desktop

[馬渕睦夫さん] [今一度歴史を学び直す] 2-7
米国が仕組んだ朝鮮戦争 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=jsDal9CuLfo&index=3&list=PLSdGrK6XTr5iYvuiF_2TQaKUPeOMoJiPT&app=desktop


2018/03/18 に公開
[今一度歴史を学び直す] 1/7 米国がつくった中華人民共和国
馬渕睦夫さん 元駐ウクライナ大使兼モルドバ大使

一部引用:「国難の正体」馬渕睦夫著

25. 中川隆[-11964] koaQ7Jey 2019年2月22日 07:22:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[10] 報告

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26. 中川隆[-11938] koaQ7Jey 2019年2月22日 18:46:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[36] 報告

皇室が GHQ に洗脳されて東京裁判史観・自虐史観を持つ様になった経緯


反日「部落の輪」か 雅子さま入内 2015/12/9
https://blogs.yahoo.co.jp/wood72046/36951533.html


BBの覚醒記録さんより転載します。

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/d6f72bd3542021db465fc1ee0e2edb80


まず小和田恒氏「ごときが」という言い方も、

当日小和田氏の出版記念パーティに出席したメンツを見れば、

妥当ではないでしょうか。

イメージ 1


*1994年9月 小和田国連大使の出版記念パーティー。

7日、帝国ホテルで行われた小和田国連大使の出版記念パーティー。

政・官・財界などから、

福田赳夫、宮沢喜一、瀬島龍三氏をはじめとする

約二百五十名が出席する華麗な会となった。

弱小出版社からたかだか2千部を出したに過ぎない自著(部数から推して自費出版の可能性?)のパーティを帝国ホテルで開く・・・・・・田舎趣味。

本人は華やかな場が嫌い、とのたまってますが、

それなら何も出版記念パーティなど開かなければよいわけだし、

招待状を元総理2名に出す如きことは、控えれば良いだけでしょうに。

田舎者の屈折した、目立ち好みだと思います。

いやいや、いやと舞台から去りながら、

でも首はスポットライトのほうに突き出してる、みたいな?

「目立ちたくない人」がこの恥ずかしい立て札放置?


イメージ 2

放置どころか、令夫人が「これじゃあ、お墓みたい」とクレームをつけて、
大きく作り変えさせたのですってよ。

たった2千部で帝国ホテル!!

今、出版に詳しい知人に問い合わせたらやはり、自費出版っぽいとのこと。
コミケの壁サークル(コミケの大手)なら、5千部出るって笑ってました。
それも1日間で。3日間で万を刷りますって。


イメージ 3


http://www.amazon.co.jp/%E5%8F%82%E7%94%BB%E3%81%8B%E3%82%89%E5%89%B5%E9%80%A0%E3%81%B8%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%A4%96%E4%BA%A4%E3%81%AE%E7%9B%AE%E6%8C%87%E3%81%99%E3%82%82%E3%81%AE-%E5%B0%8F%E5%92%8C%E7%94%B0-%E6%81%92/dp/4924831107


¥566 より 14 中古品の出品

¥ 5,033 より 1 新品

カスタマーレビュー皆無。

コミケに敗けた皇太子妃父。

礼子さんが、お得意の自作自演で褒めてあげればよいのにねえ。
(自著を、Amazonのビックレビューで、自分で褒めまくり、

その時自らの洗礼名を使って、ばれちゃった事件があるのです)


宮沢喜一、福田赳夫、そして本人。このメンツで何が解りますか?


共通キーワードは「売国奴」

そして「部落」ではないでしょうか。

                    宮沢喜一


イメージ 4


内閣官房長官時代には、歴史教科書の検定基準に「 近隣諸国条項 」を設けさせ「中韓の感情を害してはいけない」という基準を作り、中韓2国の意向に沿った

『日本を貶めるために創作した自虐史』でないと

教科書検定で合格させないようにした。


内閣総理大臣になってからは、 《 朝日新聞のねつ造記事 》 にのっかり

『 従軍慰安婦 』の存在と『 日本軍による強制 』を認め、韓国で謝罪。


河野洋平官房長官と共謀、「 河野談話 」を発表させ、

世界に向かって「日本は悪い国」と宣言した。


ちなみに、皇太子の考える新たな天皇の姿とは

「国連大使のような仕事をする」です。

売国官吏、小和田恒氏の影響を受けての愚かしいご発言です。

影響というより考える能力がないので、口走っただけ。

国連大使のような仕事をする皇太子や天皇って、どんなのですか?
天皇家の視座はあくまでも、日本でございます。


ローマ法王と肩を並べることの出来るのは世界でもエリザベス女王と

天皇陛下のみであり、その天皇陛下に訪れて頂くことで、

支那は天安門における非人道的行為に対する

世界からのバッシングを緩和させることに成功したのです。

福田赳夫は、やはり媚中で「雅子ちゃんを皇太子妃にする」と

雅子妃の少女期から口にしていた男です。部落出身者の権勢広げか?

小和田夫妻は、福田赳夫の子分であり、

妻の優美子さんは高円宮と通じていました。

お膳立ては整っていたわけです。


イメージ 5

父子で、影に日向に東宮にひっつき虫でコントロール。

イメージ 6


ごく最近の福田康夫の言葉。

「中央日報
http://japanese.joins.com/article/386/209386.html?servcode=A00§code=A10
日本の福田康夫元首相は「韓日関係は離婚できない夫婦のような特殊関係」としながら「相手に対する配慮と信頼、 忍耐力が必要だ」と話した。

・・・・・・・

気色悪いこと言う売国奴でしょう? 国交断絶とまで国民は願い始めているのに。あの韓国に「配慮と信頼」ってw 忍耐は70年間たっぷりさせて頂きました。
こういう手合が総理をやっていたとはね。

こんな韓国ヨイショの父子が

小和田と密着していた事実を忘れないようにしましょう。

美智子さまと雅子さまの入内共通項は、

いずれもマスコミ先行で情報が漏れ、というより意図的に漏らされ

既成事実化されたこと。

美智子さまの時は、海外にまずリークするという手段が取られました。

「ニューズウィーク」当時の日本はアメリカさまの雑誌で言うことですから、

一もニもなく信じこみ、いつの間にか既成事実化。

初の民間からの入内という驚天動地も、

アメリカでまず報道されることで緩和されました。

それ以降の、ミッチー・ブームとやら、

今思えば韓流と同じで仕込みの構造が見え見えです。

反日に転じたマスコミがこぞって皇族を芸能人化。

人気という名のもとに、格を果てしなく落としていきます。

某ワイドショーの方に聞いた言葉。「昔、雅子さんのお母さんって、すごかった。

週刊誌のグラビアで女優の裏に雅子さんが載っているとねじ込む。

雅子を女優ごときの裏にして、貶めないでくださいませ、と。

そして、皇太子妃を、女優、ホステスなどと同等に扱わないでくださいませ、と。

女優とホステスが、優美子さんの中では同格の賤業らしいけど、

雅子さんがあれ上品なの?」

「女優もホステスも努力と才能で自力で懸命に生きてるじゃないの。

たった20メートルしか歩かない皇太子妃と比べたら、

女優とホステスが怒るんじゃないの?」


イメージ 7

イメージ 8

皇室会議の議長である岸信介が、

内閣総理である岸信介に通知する形式ですね。

思えば日本の半世紀に及ぶ、これが悪夢の始まりだったのです。

安倍晋三皇室会議議長の名で、廃太子廃妃の通知を

安倍晋三内閣総理宛てに出して頂きたいものですね。

内部で強固な反対論者が多数いたのに、

皇室会議ではあっさり全員一致という不可解も、美智子さま雅子さま共通でした。いえ不可解ではなく、双方ある勢力により初めから仕組まれていた成婚であり、

テニスコートでの出会いも、どこぞのレセプションでの出会いも

フィクションだった、ということです。

雅子さまは、フランスの地方都市コルマールで皇太子と同宿しています。

レセプションで出会ったとされる、遙か以前にです。

はっきり言えば密罠仕掛けなんじゃないですか?


イメージ 9


皇太子妃決定の報道が出る前から、

あちこち出回った小和田雅子嬢絶賛記事の不可解。

抱き合わせでさりげなく、小和田恒氏の持ち上げも。

なんだかねー。

何もかもが嘘。でっち上げ。誰かが書いたシナリオ通りに、

美智子さまと雅子さま、希代の皇室伝統壊し妃たちは宮中に仕込まれました。

お二人共に結局は、GHQの流れに現れた異人(エイリアン)なのだと思います。

正田家、小和田家と皇室からの打診を辞退したり、渋ったりしていますが、

娘を好条件で売りつけるための駆け引きです。「ストラグル」w
いずれも買い手のほうの息子たちが目の色変えて夢中ということを

心得ていての、駆け引き策謀です。

でも双方背後に組織がついていての入内なので、

どのみち決定事項に等しいことでした。

正田は娘が15歳の時からエリート富裕狙いの男が集まるパーテイに出して

婚活させていた家、小和田家では福田赳夫元総理の頃から入内に虎視眈々、

高円宮家ともそのためにつるんでいます。

もっとも雅子さんのほうには、結婚を意識した相手(自民党代議士)がいたので、個人的には渋る気持ちがあったかもしれず、その為に「来てやった」意識は

強いかもしれません。国民には全く関係のない、

迷惑千万な来てやった意識ですが。

実態は異常なまでに上昇志向、権力欲の強い父親に「売り飛ばされた」のです。父親には、娘を使ってのし上がった藤原道長が

理想像としてあったかと思われます。

江頭某という芸人が、雅子妃の母方江頭と縁戚関係だというのが事実なら、

雅子妃の母方実家・江頭家は被差別部落の出です。同じ佐賀の出身。

江頭某が、かつて東郷健という市民運動家の家で

「オレは部落出身者だ」とカミングアウトしたのを、その場にいた人が聞き、

拙ブログ主はその方から個人的に証言を得ています。

その方に失礼ながら幾つも質問を重ね、

その証言の信憑性を確信するに至りました。

筆名江藤淳(評論家 本名江頭)は江頭家について調査しますが、

“手明鑓(てあきやり)”という平時は無役、戦時に槍や具足を携えての身分と

推定しますが、確定的家系図と資料は皆無です。

鮮人と多分ハーフの布袋寅泰を登場時のBGMとして使ったり、

パチンコ業界とも密なので、ある想像をしますが、決定的資料はありません。

某暴露系雑誌の記者に、江頭某が身の上を語ったら

「そんなもの、とても書けません」と言われたいう逸話。

暴露系雑誌に「書けない」といわしめる内容とは、皇室以外に何かあるでしょうか。雑誌名は失念しましたが、拾おうと思えばソースは見つけられます。

時間がないので、さぼります、ごめんなさい。

Wikiにあるはずなので、興味のある方はどうぞ。

ちなみに、江頭某というタレントは佐賀県の出身ですが、

むろん雅子妃の母方江頭も佐賀。

面白いことに、皇后陛下の母上も佐賀の副島家なんです。
いったい、どういう因縁なのか。

副島家も、江頭家も確たる家系図は存在していません。

初代宮内庁長官が「副島は、興信所ではなくもっと調査の必要があった」と、

書き記しているのは、どういう意味なのでしょうね。

おそらく、そういう意味なのではないかと、想像していますが。

在日は在日を地下水脈で実にあっさり嗅ぎ分け、裏でコミュニティを形成します。思うに、部落もそうなのではないですか? 

被差別部落への差別がいいとは思わないし、

部落だからどう・・・・と短絡はしません。

けれど、暴力団の6割が部落、3割が朝鮮人、

日本人は1割というごとき現実はあるわけです。

在日利権と同様に部落利権も巨大です。

副島家が佐賀で家系図不詳ということと、

同次元に考査しなければならないのは、群馬正田家の家系図でしょう。

拙ブログの読者間では意見が二分されていて、

部落説、名家説と両方ありブログ主はいまだ結論を出し得ないでいます。

仮に白山神社と、部落エリアに実家があったことを論拠に

「そうだ」と仮定するなら、部落円環がきれいに閉じますけどね・・・・・。

念のため再度申しますが、部落だからどう、ということではないのです。
そのお血筋にあるからいけない、と短絡もしていません。

皇族に部落の血が混じるのも厭いません。

朝鮮人は困りますが。

ただ、言動に不審がある場合出自を探ると半島であったり、

部落であったりすることは多いと言わざるを得ません。


天皇皇后、東宮擁護の頭脳硬直・思考停止連中が判で押したように言う、

皇室はいかなる理由があろうと批評してはならぬという言い方も

理解は出来るのです。それは正しい。

皇室の権威を保つには、守られなければならぬ鉄則です。

但し、皇居の中の人々が最小限の則を保ってくださることを

前提での了解事項です。

外れる人がいるからこそあった、廃太子の制度です。

日本弱体化を目的になされたGHQの政策は、

祭祀を「天皇の私的行為」としてランク下げを行い、

その弊害が日々現れて、終戦後この方現在に至ります。

祭祀や神事を軽んじる皇太子の誕生、忌避する姿勢すら見せる妃殿下の出現。いずれも、GHQの皇室弱体化施策の結実というべきでしょう。

竹田某なる者は皇太子の祈りが真剣である、とのたまいますが、

真剣な皇太子が両陛下の剣璽動座による伊勢参内の時

スキーに一家で遊びに出掛けますか?
お慎みの日に遊びほうけていますか?
大震災の命日に御所でお楽しみ会を開きますか?


さて皇室典範です。


*第三條  皇嗣に、拐~若しくは身体の不治の重患があり、

又は重大な事故があるときは、皇室会議の議により、

前條に定める順序に從つて、皇位継承の順序を変えることができる。

重大な事故に該当する要素はあると思いますけどね・・・。

しかし、皇室会議の委員長である時の総理は、

誰も皇室問題には手を触れたくありません。

触れれば命取りになりかねない、デリケートな問題だからです。

まして時の総理が売国政権の者である時は、放置です。


現在の両陛下、皇太子と皇太子妃殿下のありようは、皇室解体、

日本国の国体の弱体化には、いたって都合のいいお方たちです。

例の朝鮮カルト教団が東宮夫妻に肩入れし、秋篠宮ご夫妻に関わるデマを

流していることからしても皇太子夫妻は反日勢力にとって都合よいのです。

また利用しやすい存在であることは、反日韓国の要人潘基文(パン・ギムン)、

韓 昇洙(ハン・スンス)らの皇太子への接触と交流で解ります。

皇太子も進んで彼らや小和田恒氏の喜ぶことをやります。

人民解放軍少将であり、習近平の妻である彭 麗媛(ほう れいえん、

ポン・リーユアン)への接触。

創価イベントへの出席。池田大作の息子との食事会など。

それでも、擁護連中は現実を見ようとはせず、

皇室批判をするは不敬という原則論に縛られて自らに盲目を強いています。

皇太子と反日潘基文を結びつけたのは小和田恒氏です。

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今や雅子妃入内以来20年間の居座りで、小和田王朝完成。
以外に頭が悪く使えない皇室弱体化乗っ取り要員ではありましたが、

居座ることで小和田反日王朝が宮中に完成しました。

天皇陛下にタイで「謝罪させた」のが小和田恒氏。

河野談話の影の人物、また「韓日」ワールド・カップの影の推進者でもあります。


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イメージ 12


なんで、嫁ぐ数日前の小和田家に北朝鮮の金正日の花が飾られているのかと、拙ブログでは執拗に問い続けています。

仮説の域は出ませんが、江頭が部落なら小和田は北朝鮮ですか?
あくまでも「もし、そうだったら」雅子妃は朝鮮と部落との掛け合わせで、

鳩山幸さんと同じような境遇です。


擁護派は(ひょっとしたら)朝鮮人の即位を認めるのでしょうか。

その論調の拙さからして、「皇室は批判すること能わず」であるなら、

皇室の定義を述べよ、その定義に逆らう者でも皇族と呼べるのか。

皇族の資格を有せぬ者すら、

批判してはならぬというロジックによって成り立つ典拠を述べよ、

と突き詰めても答える能力は有してはいないように見受けます。

論というのは美称なのであって、擁護派の語彙はいかにも貧しく、

ツイッターで呟くか、語彙乏しい連中が寄り集まった掲示板で

主語述語すら定かならぬ、未熟な日本語で数行書きつけるのがせいぜい。

こちらでも、理路整い語彙も備えた反論なら来なさい、

お相手しますと言っているのに、ちょろちょろと嫌がらせが来る程度。

擁護論にロゴス化出来るほどの根拠が無いからです。

東宮夫妻という擁護に実は値しない方たちの擁護は、

しょせん数行が限度だということなのでしょう。

小和田雅子という、記者を指さし恫喝し、

差し出された名刺を記者の前で破り捨て、

また自らを撮ったカメラマンを追いかけ胸ぐらをつかんで

フィルムを廃棄させるごとき荒いヤンキーもどきの気性の女性、

婚約寸前の男性がいた女性、つまり非処女、堕胎の噂さえ根強くあります、

というより・・・・元皇室担当記者から具体的なことを聞いています。

学歴職歴共に著しい疑惑を指摘されている女性が、

一歩皇居の敷居をまたいだだけで皇族となれるのか、なれるなら

そのロジックはいかなる言語で構成され得るのか、答える能力もない者たち、

それが擁護派の頭脳と教養のレベルです。

この酷いアトピー肌も、露出の多い夜会服を考えれば妃失格だと思いますね。


*ここに雅子さんのアトピーの画像があるのですが、

こちらでは、反映されませんので、

転載元様の記事をご覧下さい。


イメージ 13

婚姻により単に皇族という「地位」を得ただけで、そ

の内実が反日性を著しく帯びて、皇室と日本の国体を蔑ろに、

毀損する存在になっていたら、それらをお守りする事こそが反皇室、

反日本となるという論理も理解できぬ痴呆の群れが擁護派です。

雅子妃とその背後の小和田家、それにひきずられる皇太子殿下というのは、

前代未聞の異常な存在たちです。

「自虐史観左翼」小和田恒氏が仕切る東宮。


*ここでも、画像があるのですが、反映出来ないので、

転載元様の画像をご覧下さい。m(_ _)m


何やら老舗の批判論者につきまとい、またこちらのコメ欄にも

犬の立ちションよろしく、短文訪問で数行の批判文をひっかけて行く、

稚拙な擁護論者もいますが、現在までおびただしい時間と費やして、

皇太子と皇太子妃がいかに、皇族という名に値しないか、そ

れ以前に人間としてどうなのか、膨大に記事を積み上げ、提示してきました。

ツイッターの数行で批判した気になるとは笑止です。

語彙とロジックに対しては、語彙とロジックで向き合いなさい、

と申し上げておきます。

焦眉の急は、反日であると言わざるを得ない

皇太子と皇太子妃との廃太子廃妃です。

東宮夫妻は、皇室と国家に害を与える存在になりつつあられます。

皇太子に天皇に即位されたら、韓国に趣き「皇室と朝鮮との濃い関わり」など

述べられ謝罪などされかねず、そうしたら一巻の終わりです。

あり得ない? いいえ、反日左翼勢力が天皇を政治利用可能なのは、

天安門事件以降の天皇皇后両陛下の中国訪問が現実にありました。

訪れても何の効果もなかった、どころか天安門事件への目眩ましの役割を

天皇皇后両陛下が押し付けられた格好です。

こうした状況に加え、皇太子殿下は皇太子妃の実父小和田恒氏の自虐史観にどっぷりと影響を受け、またその手引きで反日韓国人代表、

潘基文や韓昇洙と接触していますから「売る気まんまん」です。

両陛下の支那行きは、教科書の「近隣条項」を作った反日宮沢喜一元首相の

政権下で企まれ、小和田雅子嬢入内は、あたかもそのどさくさにまぎれての

ゴリ押しが見て取れることに留意してください。

そして以後の日本を傷つけ苦しめ続ける河野談話の発表も、

この宮沢政権下であったことに注目。


イメージ 14

「雅子さま」にヘコヘコする、宮沢喜一元総理。

そして河野談話発表に寄与した、時の外務事務次官は誰あろう小和田恒氏であることを、腹に叩き込んでください。天皇陛下訪中に寄与したことも。

池田大作の外遊に便宜をはかったことも。

その「反日左翼男」の娘がなぜ入内出来たのですか?


雅子妃の父親 小和田恒氏の反日思想

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/813fa021b780fc44dc3b10f0ea7a4eec

皇陛下に国辱謝罪させた「皇室使い」の国賊/小和田恒 【保存・拡散希望】

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/ec86f08a22b5d6d8c431e44bd6a4c7b5

小和田恒氏を喚問せよ 【拡散希望】

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/0d31e664a65cd09bcd2a054bd2635040


雅子さま入内を素直に喜んだこともありました・・・・(遠い眼差し)

雅子さん入内は、天皇皇后両陛下の訪中に尽力のあった

小和田恒氏への論功行賞であったという見方があります。

(全ての要因ではありません。

他に福田赳夫元総理、そして無論高円宮の暗躍あっての入内です。

小和田優美子氏は福田家、高円宮家と双方へ通じていることに留意)

小和田氏の自虐反日的思想と言い、昭和天皇の反対と言い、

あり得べからざる入内の影には謀略あり。

福田赳夫元首相(媚中)が、雅子さんの少女期に「雅子ちゃんは、

将来皇太子妃にする」と言い放った逸話は有名。

小和田氏は福田元総理の秘書。伏線は昔からあったわけです。

小和田優美子氏は帯に「福」の字を染め抜くほど、福田氏には忠誠を誓った人。

そして高円宮久子妃とも旧知。


マンデラ元南アフリカ大統領の逝去に際して,

追悼式御参列のため南アフリカ共和国へ出向いた皇太子に付き添ったのが、

誰あろう福田赳夫の息子福田康夫(親中)元総理大臣です。

更につながりましたね。

点と点を結べば現れる「売国の輪」。部落の輪。


「韓日ワールドカップ」は、世界のサッカー界にとっても

日本単独開催にすべきでしたが、

ここでも暗躍したのが高円宮と小和田恒氏です。


ちなみに、その天安門広場に弾圧粛清側の人民軍少将としていたのが、

皇太子が自らの意志で会ったと指摘されている彭 麗媛で、

皇太子のこの行動は内閣には無断、反日韓国要人たちとの接触と併せて、

民間なら公安の追尾がつくほどの、反日色の強い行動です。

池田大作関連のイベントに出席なさったことと併せて、ご本人にその反日性を

自覚するだけの知力がおありなのかどうか、そこが心許ない点です。


擁護の連中は、反日行動が皇太子であるゆえに許される、

という論理の根拠を示しなさい。

潘基文と韓昇洙に操られ水の総裁として国費を使い、

国連を訪れ続けている皇太子。

これは昨年の画像ですが、一国の皇太子への扱いではありません。

粗末な部屋で、お座なりなレセプション。

スペインを訪問したときも、どうでもよさげな扱いが露骨でしたね。

海外のほうが正直に、「次期が誰か」を知っています。


*ここの画像もこちらでは、反映されませんので、

転載元様をご覧下さい。


皇太子を取り込むことに腐心している潘基文は名うての反日です。

【韓国】潘基文 国連内で「反日ビラ」ばら撒き

反日国連


https://www.youtube.com/watch?v=pYtsgvEtmSg


あの気色悪い売国怪物、小沢一郎がなぜ国連を愛していたのか。
大反日組織だからですよ。そことパイプのある小和田恒とは何者なのか。
国連には雅子妃の妹も噛んでいたはず。

*池田 礼子は、 国際機関職員であり、

皇太子徳仁親王妃雅子の実妹として知られる。

国際連合職員、国連ユニセフ駐日事務所(東京事務所)副代表などを歴任。

反日組織国連と国連大学に入り浸る皇太子とその妃。

次期大統領候補、超反日・潘基文がなぜ、皇太子と親密なのか。

皇太子妃の母親、小和田優美子氏と

日本ユニセフとの関わりも看過できません。

なにゆえ、池田大作と密着のアグネス・チャンを看板とする
組織に皇太子妃の実母と妹がからむのか。

こちらにはまた半島利権の宮家高円宮家の承子さんが、就職して
ここでもまた、いかがわしいひとかたまりをなしています。
日本ユニセフは鳩山由紀夫の母方祖母が創設者です。
小和田家の関わるところ、朝鮮中国の気配が色濃いのはなぜ。


大体韓国と支那に褒められるって、鳩山や村山富市と同列売国奴。

・・・・・あ、天皇陛下皇后陛下も韓国から絶賛なんでしたっけ。 http://blogimg.goo.ne.jp/img_emoji/m_0162.gif

イメージ 15

長年、妃をやっているというのに、

浅く腰をずらしてから立つという知恵すら身につかぬままの粗末な脳。

痩せこけた脳に引き比べ体は膨満。


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年間1700万円、「式服費」の名目で受け取っているのに、
一体、そのお金、何にお使い?

雅子さまの「学歴」の底上げはだいぶ知られてきましたが、

小和田恒氏も疑惑のお方ではあります。


小和田恒氏修士論文盗難事件


本人が語った(要旨)


ケンブリッジ大学が賞をくれて、その上で博士号コースを続けていた3年目。

ケンブリツジを離れる頃には論文をほとんど書き上げていたけど、

もう少しいいものにして、それから提出したいと思った。

そこで、日本に戻ってから仕上げようと決めた。

いずれにしろ私は(日本)政府から派遣された身で、そ

の時はもう日本に戻らなければならなかったから。

当時は全て船便で送らなければならない時代だったから、

私も自分の物を船便で送ったら港でトランクが1つ紛失。

それには服や本などと一緒に大事な学位論文の原稿が入っていた。

トランクは二度と見つからず、

ゆえに私は博士号を取る機会を失ってしまったのです。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・ここまで

あのー、船便って現代でも紛失ありますよ。飛行機でさえトランク紛失はあります。大切な学術論文を「衣類と一緒に」トランクに入れます?

 普通、肌身離さず自分で持って帰りませんか?

 だって、船便到着が遅いのですもの。

論文を仕上げる時間がなくなっちゃいますから。

普通、自分の手で持ち帰ると思います。・・・・・それを船便で盗られた、ねえ。

雅子さまも、国民のお金でオックスフォードに派遣されて、

単位取れずにお帰りになったのでしたね。

はいはい、はい。あ、天皇も落第。皇太子は政治学科に入る学力なし。
あーあ、多いですね。賢くないお方たち。


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祓い給い 清め給え

機能不全に陥って久しい東宮。皇太子と皇太子妃の廃太子・廃妃を望みます。
秋篠宮殿下妃殿下への移譲を。

◆宮内庁へ意見

information@kunaicho.go.jp<information@kunaicho.go.jp

電話:03-3213-1111

◆廃太子・廃妃への要望 

内閣官房

http://www.cas.go.jp/goiken.html

首相官邸

http://www.kantei.go.jp/jp/iken.html


拙ブログでは秋篠宮殿下支持の表明として、

ナマズのイラストの入ったグッズを身につける運動を提案しています。


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でれでれ草さま、製作。


年賀状などにもどうぞ。


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今日は雅子妃の誕生日として、今年一年、病気の身の上で、いかに

公務に励んでいたかとワイドショーでやっておりましたが、

公務に励んでおられたのは、秋篠宮様御一家であります。

病気なのに、スキーや、遊びは、元気に出来るって

一体どんな病気なのでしょうか。

支那からの大気汚染が北海道にもきているようで、

そちらも何とかして欲しいものです。

https://blogs.yahoo.co.jp/wood72046/36951533.html

▲△▽▼

雅子妃の父親 小和田恒氏の反日思想 2015-01-22
https://ameblo.jp/iofc-chiba-bbqa/entry-11978145149.html


「日本の外交は、東京裁判を背負っているハンディキャップ外交である」

外交に関しては「ひざまずき外交」と評されるように、中韓には膝を屈して接しなければならないとする、要は「日本は悪い国だ」を前提に、中国にも韓国にも対せよ、と。

上記の言葉に見られるように、間接的とはいえ、東京裁判の肯定者であり、それは天皇陛下と皇室との否定論者を意味するのだということが、どういうものか、案外知られていません。
雅子妃はむろんのこと、その言動から推して皇太子が多大の影響を受けていると思われるのに、あまたある東宮批判論、擁護論にこの視点が抜け落ちています。

第一、このような思想を家長が持つ家の娘が、よくまあ宮中に招じ入れられたものだと、宮内庁の、と言っていいのかどうか、関わった人々の迂闊さに驚くばかりです。
通常ならあり得ないのです。はっきり言えば反日思想家の娘を皇室に入れるなどと。

おまけに母方は、極悪な企業犯罪会社、チッソに連なっているのですから、あり得ない環境のダブルです。いや、小和田氏の家系が当主金吉に至る、わずか3代前にしか遡れない不明朗な家系であるということを加えれば、トリプルに、お后候補には絶対に成り得ない条件が揃っています。

それが強引に入内に至ったということを、まずなぜなのか怪しまねばなりません。

韓国利権べったりの高円宮と、小和田氏との結託により、その「陰謀」はなされた、と今までに複数回述べてきたとおりです。そして、そこに某カルト系の宗教団体が2つ、からみつつ、ひとつのカルトは、明瞭に朝鮮半島系カルトです。なぜ半島の気配がつきまとうのか、そこも怪しむべきでしょう。秋篠宮家への捏造による悪評が、2つのカルト教団を母体にばらまかれたという事実とともに。

枝葉を広げると際限もなくなるので、小和田恒氏の思想に戻り、そこに絞り込みます。(他の要素に関しては、今まで過去記事で膨大に述べて来ました)事実を直視できない人たちは、何を述べても避けるのですが、小和田氏の思想などは、どう勘違いしようもない「論」なのですから、これは視線をそむける訳にはいかないのではないですか?

事後法による訴訟の提起など、非常に不当な要素が多い裁判である東京裁判(極東国際軍事裁判)の肯定者であるということは、天皇否定、皇室否定の人物だということです。東京裁判自体が、つづめれば天皇の戦争責任を追求して、処刑にするかしないかの裁判だったのですから、その裁判を「よしとする」思想の持ち主に、少なくとも天皇と皇室への崇敬はないでしょう。皇太子をくん呼ばわりでの婿扱いは、まさにそこに由来しているでしょう。

市ヶ谷の陸軍士官学校講堂で東京裁判は開かれました。一般的な説明によれば「The International Military Tribunal for the Far East」は、第二次世界大戦で日本が降伏した後、連合国軍が「戦争犯罪人」として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の裁判である、と規定されます。

この「犯罪者の」最大の責任者が天皇ではないか、という裁判であったわけです。こういう裁判を肯定し受け入れる小和田氏がいかなる思想の持ち主か、それは理解できるでしょうか。

東京裁判は戦勝国の一方的裁判であり、イギリス、アメリカ、中華民国、フランス、オランダ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、ソ連の9か国が参加。
これらの国による一方的吊し上げですね。これにイギリス領インド帝国と、アメリカ領フィリピンの2地域を参加させたのは、「日本によるアジアへの侵略」という「罪状」を正当化させる目的です。

こういうでっち上げ裁判ともいうべき裁判を肯定する小和田恒氏の思想の、うろんさを知ってください。

昭和天皇の訴追に熱心であったのは、オーストラリアとイギリスです。

天皇陛下が犯罪者として裁かれなかったのは、天皇無罪ということではなく、連合国最高司令官のダグラス・マッカーサーが「日本統治にあたり必要な存在である」。要するに使えると踏んだからに過ぎません。

繰り返します。小和田恒氏は天皇陛下が罪人として吊るされる可能性もあった裁判を、間接的にながらよしと肯定している人なのです。非常に乱暴に簡潔に言うと、東京裁判の肯定者こそが、朝日新聞や民主党員などを代表とする、自虐史観の系譜に連なる者達であり、反日左翼です。
小和田恒氏もそうなのです。これを見落としてはなりません。

経緯は割愛しますが、天皇を訴追に至らせないための工作は、裁判開廷の半年前から行われていました。

結果的に天皇陛下は「無罪」となったものの、裁判が天皇のみならず、皇太子(今上陛下)まで視野に含んでのそれであったことは、拙ブログで「東京裁判」をテーマにシリーズで書き継いだものがあるので、そちらをご覧ください。

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/afbc2ae8f4a799fb1bc04df4ae9bb526

1つだけエピソードを抜き出すなら、

7人の絞首刑判決を受けたものへの刑の執行は、12月23日午前0時1分30秒より行われ、同35分に終了しました。この日は当時皇太子だった継宮明仁親王(今上天皇)の15歳の誕生日(現天皇誕生日)でした。時計の針が1分ぴくりと動いて皇太子の誕生日当日になった瞬間、でっちあげられた「戦犯」の首にロープがまかれ吊るされたのです。恫喝ですね。お前もヘタしたら、吊るされていたのだぞ、という。罪人であることを忘れるな、という暗喩です。

今上天皇を巻き込みながら、昭和天皇のお命まで断崖絶壁に追い詰めたのが東京裁判です。小和田恒氏がこの裁判を肯定しているということを、忘れてはなりません。すなわち本来は反日、反天皇、反皇室の立場なのです。


裁判それ自体がアンフェアなものであり、日本のあの戦争が自衛のためのやむを得ぬ戦争であったという見方が有力説として浮上していることを付記しておきます。インドのパール判事はおろか、当の関わったアメリカ人からさえ強い疑義と抗議が出されている裁判を肯定する日本人など、日本人の風上にも置けません。

雅子妃の実父である小和田恒氏の反日思想について、十分ではないとはいえ、踏み入って記述したのは今回が初めてですが、その小和田恒氏の思想の色濃い配下にあるのが、皇太子と雅子妃であると拙ブログではずっと説明しています。
お二人の言動を逐一上げつつ、それが持つ反日性についても考察を重ねて来ましたので、興味があれば過去記事の累積があります。
拙ブログでは皇太子を「反日皇太子」と呼ぶことに、もはやためらいはありません。
その言動を追えばそう呼ばざるを得ないのです。ご本人が自覚していようといまいと。
見事に中韓カルトと三者の包囲網を受け、ご本人はそれぞれの工作員たちと接触なさっています。

反日・潘基文の求めに応じ、反日体質の国連に出向き、粗略な扱いを受けながら、「天皇を訪韓させ謝罪させる」ことを主張する韓昇洙・元韓国首相(首相として初の竹島不法上陸者)と親しく食事。

創価学会イベント出席と共に日本には出回らない写真。(池田大作氏の息子と共に出た創価イベントは聖教新聞で報道されて日本国民の知るところとなった)

擁護派の定番に「週刊誌の記事などあてにはならない」というのがありますが、これに関しては2つの反駁があります。
では週刊誌の記事を抜き取っても残るある現実をきちんと見ているか?(上記の事実としての写真や聖教新聞掲載の写真その他)
週刊誌の記事も名誉毀損という訴訟と常に向き合いながら書かれているので、そうそう捏造記事を書き放題というわけにはいかないが、その点をどう考えるのでしょうか。

雅子妃も父親の影響下にありますが、至近では、東宮に訪ねてきた沖縄の子らには顔も見せず、OECD東北スクールへは参加。
被災地にこれまで3度もドタキャンを食らわせた妃が、被災地から都内にやって来た
子供たちに会って、被災地訪問を怠っていることをごまかす、実に卑しい心根の
行動ですが、このOECDじたいに小和田恒氏が噛んでいるのです。1988年(昭和63年)にOECD政府代表部大使を勤めていました。
オランダの公務にも小和田氏が暗躍していたのは、もはや知られている所です。
雅子妃の学歴、職歴にも常に小和田氏の「手」が動いています。思考を停止させないで、冷静に調べて欲しい所です。客観的な資料を拾える事象なのですから。

反日思想の持ち主である小和田氏はいかなる目的で、娘を本来はアンチである
皇室に入れたのか、そこにすべての問題点が集約されてあります。

以上の文脈からは逸れますが、最後に一言、皇太子と皇太子妃の背後に揺曳している韓国とカルト教団の存在に、国民は早く気づいて欲しいと願っています。
中国も習近平の奥方を早々と送り込んで、皇太子は引き合わされていますが・・・。
中国は無論そうですが、韓国も韓国と密着した某カルトも工作という点にかけては実に深謀遠慮で長期を見据えたシナリオを書きます。

たとえば創*大学に迎えた初の中国人留学生が、現在の駐日本中国大使です。
先を見据えての留学生受け入れであったと思います。結果的に配下であった中国人が日本大使になった。いや大使にした、というべきかもしれません。外務省にも随分昔から、カルト教団の名誉会長の息のかかった学会員は送り込まれ、その勢力を年々に拡大しています。
小和田氏がそんな中、いかなる立ち位置にあったかわかりませんがカルト教団名誉会長の外遊に際して便宜をはかり問題視されています。また雅子妃が、外務省内カルトグループとの接触、付き合いがあることは事実です。

日本国の毀損に基本に常に韓国と、それと密着したカルト教団の存在があることを
知る人は多いのですが、皇室と結びついたとたん思考と視力が飛ぶらしく、
現状を理解できない、見えない人がいまだ多いのです。
およそ考えられる限り、ありとあらゆるジャンルに入り込んでいる彼らが、
皇室だけを除外するかどうか、考えてみればよいのです。ある意味、
最も押さえたいところでしょうに。

反日国連事務総長・潘基文と小和田恒氏

【備考】 外務省の中韓への、弱腰体質の基幹を作った小和田恒氏。

http://wiki.livedoor.jp/dosukono/d/%C6%FC%CB%DC%A5%CF%A5%F3%A5%C7%A5%A3%A5%AD%A5%E3%A5%C3%A5%D7%CF%C0

雅子妃の父・小和田恒氏が外務省時代に唱えていた主張。「ハンディキャップ国家論」ともいう。その定義については、論者によって微妙に評価が分かれるが、平和維持活動などに、軍事力を用いた、いわゆる「一人前の活動」をしてはいけない、という面では共通している。特定アジアへの「土下座外交」の基礎をなすものだとして、保守派の論者からは厳しく批判されている。

以下の文献に詳しい。

JIS+2D21『靖国問題と中国』屋山太郎、岡崎久彦(海竜社)167〜169ページより抜粋

「(前略)福田康夫氏と谷垣禎一氏は外交の最大テーマとして『日中の異常な関係の正常化』をあげている。『異常な関係』とは何か。日本の首相が靖国神社を参拝するかぎり、『首脳会談を行わない』と中国側が頑張っている状態こそ異常というほかない。これは『たった一つのことが気に入らないといって首脳会談に応じないのは異常だ』と小泉首相が言っている通りだ。国際的常識では『他国の神社参拝を自国の外交関係の中心部分にする国は全世界でも例がない』(米中経済安保調査委員会ラリー・ウォーツェル委員長=産経新聞2006年5月13日付)と見るほうが自然だろう。

 中国の側に理があるという非常識を日本国民に植えつけてきたのは、田中内閣以後の親中派議員と外務官僚だ。中国に対する贖罪意識に加えて、日中条約締結後にはじめたODA援助がらみの利権が親中派議員を激増させた。

 一方で外務省主流も親中派に傾き、チャイナスクールが跳梁跋扈した。小和田恒元外務次官、元国連大使(現国際司法裁判事)が『日本ハンディキャップ論』を唱えたのは有名だ。日本はハンディを背負っているのだから一人前の行動や発言をしてはいけない、との暴論である。

 次官、駐米大使、外務省顧問を歴任した栗山尚一宮内庁参与は『日本は永遠に謝罪し続けなければならない』という主旨の大論文を月刊誌『外交フォーラム』に連載(2006年1・2月)した。

 栗山氏によれば、首相が靖国参拝をやめても、ガス田、尖閣諸島、国連安保理常任理事国などすべての懸案問題で中国の譲歩は期待できないが、それでも謝れという。そもそも何も得ることが期待できない方針を『政策』と呼べるのだろうか。

 こと中国のことになると、急に風向きを気にする政・官・学・財界の諸氏の姿勢は不可解といわざるをえない。」

JIS+2D22『渡部亮次郎のエッセイ集』

外務官僚の背骨

一連の外務省不祥事件は、そろそろ判決が出はじめる一方で鈴木宗男事件はまだまだ尾をひいている。その中で北朝鮮からの集団脱国者対応や不審船引き揚げなど当面の外交問題についての我が外務官僚閣下らのお粗末は、批判する方が疲れてしまうくらい続く。どうしてこんな体たらくになってしまったのか。どうもその底には、皇太子妃殿下の父たる元外務事務次官・小和田恒の「ハンディキャップ国家論」の甘えと驕りが横たわっている。

(中略)

小和田恒という人は、超エリートといわれるが、政界に知られるようになったのは若くして福田赳夫首相の秘書官になってからだが、なぜか省内に人望は無い。仕事に厳しすぎるという以外に何かありそうだが、官僚の口はいまだに固い。その小和田が外務事務次官時代(1991年8月~93年8月)時代に展開して、未だに外務省員を支配しているのが、「ハンディキャップ国家論」である。日本は他の大国と違って、憲法9条の平和規定が厳然としてある。仮にPKOなどの国際貢献でそれがハンディキャップとなっても、最大限尊重すべきで、あくまでも憲法の許される範囲内で、世界に貢献すべきだ、という論である。

 この論は次の事務次官斎藤邦彦(のちに駐アメリカ大使、国際協力事業団総裁)にも追認され、今日も外務省無気力の允許状になっている。そこには敗戦の結果として押し付けられた憲法であるとか、軍隊は外交の手段として用いるべきではない、という敗戦・無能力国家を厳として是認するばかりで、国民を奮い立たせるとかの精神はひとかけらもない。あるものはゼニだから、これさえ出しておけば、他から文句をいわれることはないから いいじゃないか、と言っているに過ぎない。国家の誇りなんかとっくの昔に棄ててしまった逆乞食の驕りである。

 中国大使・阿南は陸軍大臣の倅であることを、何かと隠そうとするらしい。一種のハンディキャップ大使に自ら陥っていると言えるかもしれない。しかし、大使は事務官ではない。国家を代表して駐在しているのだから、社交もさることながら、外交に徹するべきだ。言う事も言わないでいる方が友好だと考えているとしたら、本当にハンディキャップ外交のハンディキャップ大使になってしまうだろう。

 中国は、綿の中に針を潜ませた外交をする国である。昨今の核戦力の増強ぶりと靖国問題を中心とする対日攻勢を見るまでも無く、日本との間に単なる友好のみを考えているとは絶対考えられない。靖国と国民を乖離させ、国民をして「国のために死ぬことは馬鹿らしいことだ」と思わせて防衛意識を低下させ、やがて日本を属国にする際、好都合にすることを狙っているとしか思えない。それをただただ「友好」の二文字だけで事なかれを決め込むとは、なんとも情けない。

 アメリカもクリントン時代の対中国政策をがらりと変えて国益を守ろうしている。その時に我が外務省のみが、チャイナ・スクールにまかせた中日友好万歳だけで国を操縦していけるとは、どうしても考えられない。

http://p-www.iwate-pu.ac.jp/~tokuhisa/watanabe/wat...

JIS+2D23平成14年06月06日 第154回通常国会 衆議院 憲法調査会国際社会における日本のあり方に関する調査小委員会

4号


○田久保参考人 田久保(編者注;田久保忠衛氏)でございます。

 本日は、かかる権威ある会議にお招きいただきまして、大変ありがとう存じます。

 私の専門は国際情勢と外交防衛でございまして、その見地からいろいろ申し上げてみたいと思うのでございます。四十年近く在野の評論家生活をやってまいりましたので、勝手なことを申し上げて、あるいは皆様の御不興を買うかもわかりませんが、何とぞ御容赦いただきたいと思います。

(中略)

  湾岸戦争で衝撃を受けたか受けないかでございますが、私は、政府は受けていなかったんじゃないか、特に、中心たるべき官庁の外務省は受けていなかったんではないかというふうに考えているわけでございます。

 当時、九三年でございますから、湾岸戦争の二年後でございます。小和田外務次官が現役でございまして、東京芸大の平山郁夫先生と「プレジデント」で対談をしたわけでございます。平山先生が、小和田さん、あなた、外務次官だから、日本の今後行くべき方向はどうなの、どういうふうに考えるの、こういう質問に対して小和田さんは、三つあります。一つは、戦争に敗れた直後の日本で、清く、貧しく、美しく生きていくので、国際貢献なんか考えなくていい、こういうことです。このアジアの小国の地位に甘んじていいんだ、余り他の国とかかずらいたくない、こういうお考えであります。

 その直前に、小沢さんの普通の国論というのがジャーナリズムでわっともてはやされて、これに対して小和田さん、ちょっと曲解しておられるんじゃないかなと思ったんですが、政治、経済、軍事、軍事だけがバランスがとれてない、これを経済に見合った軍事力にする。経済に見合った軍事力にするというと、これは世界第二位のGNPを持った日本は、とんでもないことにならざるを得ない。小沢さんが言っているのはそんなことじゃなくて、非常に単純な、一般大衆がわかるように、普通の国がやっていることをやれっつうの、こういう言い方ですね、あの日本改造論の中に出てくる表現は。大して意味を持たない。ただし、小和田さんは、これはバランスをとった国になれ、こういう意味だと。

 三つ目の選択は、軍事の貢献はやはりだめなんだ、そのかわり、その他の面で日本はほかの国よりももっとやるんだ、こういうことでございます。例えば、軍事が出せない。ほかの国が軍事力を出して百億ドル出していれば、こっちの方は軍事を出さない、軍事面での貢献をしないかわりに三百億ドル、四百億ドル、こういうふうに出すんだというお考えのようでございます。

 第一、自分の国がハンディキャップ国家などと言うことは、私はいいのかねという疑問を持つわけでございます。それから、そういう第三の生き方というのは、湾岸戦争で余り通用しなくなったんじゃないかなというのが私の考えでございましたので、これは愕然としたというふうに私は申し上げなければいけないと思います。

 この直後に斉藤邦彦さんが外務次官になられて、駐米大使におなりになるときだったですか、日本プレスセンターで会見というか講演をやられて、一問一答をやられた。そこで、小和田先輩が言われたハンディキャップ国家論を私は正しいと思いますということおっしゃっているわけでございます。ここまでくると、これはこういうことで突っ込んでいくとどういうことになるのかなという私は心配を持っているわけでございます。

 (後略)

http://kokkai.ndl.go.jp/cgi-bin/KENSAKU/swk_dispdo...

http://www.nishiokanji.jp/blog/

西尾幹二氏のインターネット日録

『『週刊新潮』(2月23日号)

「『雅子妃』をスポイルした『小和田恒』国際司法裁判所判事」という題の記事を書きました。週刊誌をお読みになった方が多いかもしれませんが、お読みになっていない方のためにここに掲示します』


すでに渡部昇一上智大名誉教授による指摘などから、小和田氏が典型的な戦後左翼思想の持ち主であるという国会答弁などでの事例紹介によりビックリしていたのであるが、『評論家の西尾幹二氏(76)は、小和田氏を「皇室とは余りにそりが合わない人格」と分析するのだ。』と西尾氏も週刊新潮で発表された由である。

そこにはそうした結論に至った経緯が述べられている。
『 私は今度、小和田氏の雑誌対談やインタビュー記事など資料9編を読んでみた。そこから浮かび上がるのは、アメリカ占領下の日本無力化政策にいかなる疑問も不安も抱かなかった、既成権力にひたすら従順で用心深い小心な一官僚の姿である。』

『 小和田氏が、日本は過去の自分の行動のゆえに国際社会の中で「ハンディギャップ国家」だと言い立てていることはよく知られている。中韓両国に永久に謝罪しつづけなければならない国という意味であろう。1985年11月8日の衆議院外務委員会で土井たか子氏の質問に答えて、小和田氏は東京裁判においてわが国は中国に対する侵略戦争を行った、これが「平和に対する罪」である、サンフランシスコ平和条約第十一条において日本は「裁判を受諾する」と言っている以上、「裁判の内容をそういうものとして受けとめる、承認するということでございます」と答弁しているが、これは百パーセント解釈の間違いである。』

と指摘しておられるが、渡部名誉教授もだいぶ前からこの小和田氏の答弁を問題視されていた。

西尾氏は100%解釈の間違いの理由を述べた後、
『要するに小和田氏はその師・横田喜三郎氏と同様に、何が何でもあの戦争で日本を一方的に、永久に、悪者にしたい歴史観の持ち主なのだ』と指摘されている。

『傲慢で権威主義者

 1990年に湾岸戦争が起こり、翌年、小和田氏は外務事務次官になった。審議官時代から、氏は自衛隊の派遣に反対の立場をとっていた。彼の非武装平和主義は湾岸戦争で破産したはずだった。櫻井よしこ氏から対談で、日本人は人も出さない、汗もかかないという国際世論からの批判があるが、と問い詰められても彼は何も答えられない。ドイツがNATO地域外に派兵できるように基本法を改正する件に触れて、「日本の場合は、まだそういう状況まではきていない」と彼はしきりに客観情勢を語ることで弁解する。だが、「そういう状況」をつくらないできたのは小和田氏たちではなかったか。櫻井氏に追い詰められ、「日本という非常に調和的な社会の中で、できるだけ事を荒だてないで処理したい」と思わず三流官僚のホンネを口に出して、私は笑った』などとも書かれている。

『理想を持たない空想的人格は決して現実と戦わない。戦わないから傷つくこともない。用心深く周囲を見渡して生き、世渡りだけを考える。ドイツ語にStreber(立身出世主義者、がっつき屋)という蔑視語があるが、小和田氏のことを考えると私はいつもこの言葉を思い出す』

『自分の国を悪者にしてこうべを垂れて平和とか言っている方が、胸を張り外国と戦って生きるより楽なのである。そういう人は本質的に謙虚ではなく、身近な人に対しては傲慢で、国内的にはとかく権威主義者である』

『皇后陛下のご実家の正田家は、自家とのへだたりを良く理解し、皇室に対し身を慎み、美智子様のご父君は実業世界の禍いが皇室に及んではいけないと身を退き、ご両親もご兄弟も私的に交わることをできるだけ抑制した。一方、小和田恒氏はさっそく国際司法裁判所の判事になった。私はそのとき雑誌で違和感を表明した。小和田氏は領土問題などの国際紛争のトラブルが皇室に及ぶことを恐れないのだろうか。雅子妃の妹さんたちがまるで皇族の一員のような顔で振舞い、妃殿下が皇族としての必要な席には欠席なさるのに、妹たち一家と頻繁に会っているさまは外交官小和田氏の人格と無関係だといえるだろうか』などなど結局師の横田喜三郎教授の思想に無批判に権威主義的に染まりきった小和田氏の人格のなせる技ではないかとの指摘であり同感を禁じ得ない。いやはや、恐れ入った皇室とは正反対のお人なりなのであり、この点が天皇も無理して雅子妃を迎えるべく外務省高官たちに打診されたりした過去があるだけにご心痛の極みにあられるものと拝察するのである。

正田家と小和田家とはかくも別格の思想の違いがあるのである。

小和田恒氏の反日思想の師、横田喜三郎氏について。


http://ja.wikipedia.org/wiki/


ハーグ国際裁判所は、竹島(独島)をめぐる日韓の争いの場になる可能性のあるところ。
それが現実になった時、この方は皇室に与える影響を考えていません。
裁判所への就任は明らかに皇室(雅子妃)の威光。よく居座っていられると思いますね。
高齢で延々と。巷間噂されるようにお金に困っているのでしょうか?頻繁に日本と往復しながら、東宮に入り浸る。浅ましく見苦しくはないでしょうか。

下記における講演で小和田氏は「日本だけを考えず、クローバリゼーションを考えよ」と主張しています。皇太子と雅子妃にも、こう炊きつけているのでしょうか。

https://ameblo.jp/iofc-chiba-bbqa/entry-11978145149.html



▲△▽▼

美智子さまが どうしても雅子様を皇太子妃にしなければならなかった理由

2016年03月10日
やっぱり!! 正田家とGHQの癒着。美智子さま入内を仕組んだGHQ
http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1983268.html


こちらに正田家と、GHQ派遣のアップルトン女史との密着ぶりが
残っています。女史は館林の正田家をわざわざ訪れています。

正田家は、商売人なので関係はないとはいえ、当時愛国者は軒並みGHQから
追放されていた時代です。外務省内でも、愛国者は追われるか隅に押しやられ、GHQの意向通りに反日を貫く者が出世していた時です。雅子妃の実父小和田恒氏がその筆頭格ですね。


雅子妃の背景を知るにつけ、なぜこのような頭も性格も悪い皮膚病持ちの出自も清らかではないお方が入内を?(おまけに身内に精神病者がいるのに)と不可解だったのですが、結局GHQという大きな潮流の中の、美智子さまから雅子様への系譜と捉えると、クリアに視えて来るものがあります。


BBの覚醒記録。さんのサイトより
http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/b176c669206cae06cadf0d41f5530ed5

<転載開始>

今回の記事は、何かあった時のために先の稿と共に、それぞれできる形で
永久保存扱いにしておいたほうがよいかもしれません。皇后陛下とGHQとの
癒着の根っこが明らかになりました。現代の日本における、あらゆる国家弱体化・破壊要素は全て、在日さえ含めてGHQ発です。皇后陛下はGHQ施策の
極めて具体的な体現者です。


要保存◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

↑ 国会で美智子さんの出自と、成婚の陰謀、そして皇太子(今上)の不出来ぶりが、厳しく追求された極めつけの史料です。

要保存◆なんと、社会党が支援していた美智子さま 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/113f75c1f2919bd0cc381ceee34452c1

要保存◆皇后陛下は「アカ」でした 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/c1d3f5e7a9593118391c92ad90752bac


かねてより、拙ブログでは正田美智子さんの入内がGHQによる、日本/皇室
弱体化施策の一環であることを、推論として検証してきました。

また、余剰小麦粉を敗戦国日本に売りつけたい希望がGHQにあり、そのために
日清製粉と結びついたことも。

GHQが日本弱体化のためにプロテスタントとカトリック問わず、キリスト教を
そのツールに使ったことは事実です。

そういう意味で、カトリック背景でまた実家が粉を扱い、また一説には「ある出自」の美智子様は、満点以上のお后候補ではありました。これ以上望めぬ日本と皇室弱体化・破壊の尖兵候補ではありました。

彼らの狙いは実に正しく、美智子さまは皇室内の伝統を
次から次に破壊、現在は天皇陛下を率いた女帝として、
愛子さまを皇太子の次の、皇位継承権者として女性天皇の
擁立を強く主張、天皇陛下もそれに従っていらっしゃいます。

他に、朝鮮式挨拶コンスふうの宮中導入、お手振りを天皇より
高い位置で、肩並べて歩かれ時には天皇より先に立って
歩かれ、天皇陛下が語っていらっしゃる間の
低頭廃止を、徐々に巧妙に。また控えめながら自らの思想の披瀝。

日の丸と君が代忌避。自衛隊の制服嫌悪、ということは
自衛隊の否定。GHQ憲法ともいうべき現憲法の擁護者であり、
GHQメンバーや、一条の会という憲法護持の左翼者との
親交他。


20150203.館林の日清製粉ミュージアムと正田記念館内外部CX-535


こちらに正田家と、GHQ派遣のアップルトン女史との密着ぶりが
残っています。女史は館林の正田家をわざわざ訪れています。


当時の敗戦国の国民である日本人が、GHQ関係者を「自宅招待」というのは凄いことでしょう。

正田家は、商売人なので関係はないとはいえ、当時愛国者は軒並みGHQから
追放されていた時代です。
外務省内でも、愛国者は追われるか隅に押しやられ、GHQの意向通りに
反日を貫く者が出世していた時です。雅子妃の実父小和田恒氏がその筆頭格ですね。

雅子妃の背景を知るにつけ、なぜこのような頭も性格も悪い皮膚病持ちの出自も清らかではないお方が入内を?(おまけに身内に精神病者がいるのに)と不可解だったのですが、結局GHQという大きな潮流の中の、美智子さまから雅子様への系譜と捉えると、クリアに視えて来るものがあります。因縁めくことには、お二方とも日本人の健康破壊に関与した第一第二水俣病に、つながっていらっしゃいます。現代では日清製粉の遺伝子組み換え小麦粉が、日本人の健康破壊。皇后は敗戦時から今まで、日本人の健康破壊者とご縁があります。


野田醤油の工場を訪れたアップルトン女史。右端は日本醤油協会会長・正田文右衛門氏(1948年8月)

正田文右衛門は、正田醤油の創業者です。文右衛門も日本人としては
相当に高身長。正田一族、それと母の冨美さんも当時としては図抜けた背の高さ、兄妹共に。ただ一人美智子さんだけが小柄。(当時の日本人としては、
平均ですが正田の中では、一人だけ極端に小さい)

日本本来のものである醤油から、小麦粉への新たな進出。
敗戦国から戦勝国アメリカへの擦り寄りが日清製粉です。

美智子様の入内直前に、国会でその入内ぶりの不可解な動きを
追求されています。その一つが新平民、つまり部落出身ということの
ほのめかしです。拙ブログではその点は断定していず、保留状態です。
ただ、正田家が新平民ではなくても、母方はどうでしょうね。
正田家が、部落と密着した存在であったことは事実。

美術館には正田家の、家系図まで麗々しく掲げられています。

1873 明治6年12月
・正田文右衛門(三代)醤油醸造創業 ※1
1891 明治24年7月
・帳簿組織を改め複式簿記を採用
1900 明治33年1月
・合名会社正田文右衛門商店設立
1908 明治41年10月
・正田式麦煎機特許取得
1910 明治43年2月
・正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社

この年譜で目を引くのは、「正田稲荷神社を目車町より譲り受け敷地内に遷社」

「正田稲荷神社」とは?

これは稲荷神社ではなく、白山神社ではなかったかと思うのですが?
なぜ稲荷と書くのでしょう? 白山神社は、部落の人々の信仰対象でした。
(信仰者即穢多非人というわけではありません。)

「目車町」は、皇后を部落の出として書いた被差別部落出身作家の上原善広氏によれば非差別地区だということです。


⇒ 調べました


h ttp://www.shoda.co.jp/knowledg/bunkazai.htm

正田醤油は明治6年(1873年)今から140年前に創業いたしました。また、正田家が群馬県館林市のこの地に移住してきたのはそれ以前のことで、300年程ここにいることになります。
 そのためか、この敷地の中には醤油業をはじめる前のもの、例えば文政11年(1828年)に建てたという『正田稲荷神社』、現在は『正田記念館』として現在にいたるまでの資料が陳列されております嘉永6年(1853年)に建てられた店舗、そして江戸末期にたてられた文書蔵などがあります。これらは全て登録有形文化財に指定されていますが、古いものはなるたけ壊さずに残しておこうという気持ちは以前よりございました。

【正田稲荷神社】
 もともと目車町(現・栄町)の鎮守であったが、明治43年(1910年)に正田家が目車町より譲り受けた。
  以後、正田稲荷神社として栄町および当社の守護神として祀られている。例祭は2月の初午である。御社と本殿からなり、御社の創建は館林城築城天文元年(1532年)以前といわれるが定かでない。文政11年(1828年)、安政6年(1859年)の2度の再建を経て今日に至る。

  ・・・・・・・・・・・・ここまで

画像二枚目の神社さんがネットでは「白山神社」として、認識されている
祠だと思われますが、いったいなぜ稲荷が白山神社に変貌?

仮説が一つあるとすれば、目車という被差別部落にあった神社さんの
移転なので、穢多非人という人たちに多く信仰されていた
白山神社さんと勘違いされた? 

念のため、白山神社さんの ご神体を調べましたがお狐さんではありません。

更に白山神社は全国に散らばっていますが、そこが全部被差別部落だという
ことではありません。穢多非人の人たちだけの信仰対象でもありません、念のため。

由緒正しいお家柄なら、なぜわざわざ穢多非人村に越していらしたのか?
醤油製造に穢多非人を使った?

しかし「正田神社」と呼ばれるほどの厚き稲荷信仰のお家が、一族根こそぎカトリックに改宗?
何か不穏な気がするのは考えすぎでしょうか。

・・・・・・と書いて、ふと思い出したのですが・・・・


先入観を与えるといけないので、この画像を見て見える人だけどうぞ。
更にオカルト的な話が嫌な人や認めない人は、スルーして下さい。

皇后陛下に現れた数少ない・・・・・皇太子夫妻に比べると少ない・・・・
霊画像に、霊眼が多少ある人が見えるのは、



九尾の狐です。

誰でも視える形ではなく、視える人だけに限定で、むしろよかったです。
わかりやすいと、合成とか気のせいとか言われてうざったらしいので。
なぜ皇后に狐? と霊写真に気づいた時には不思議だったのですが、
お狐信仰のお家でしたか・・・・。
皇后に憑いた霊体の、九尾の狐は瞋恚(怒り)の形相ですが・・・・・。

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/41d4caf989f1ec33423082307330b824

とはいえ、BBの霊眼もさしてあてになるレベルではないので、視える知人に
再チェックしていただいたら・・・


こんな感じで、美智子さまの背後にいるそう。BBはこんなに判然と視えるわけではありません。
帽子のデザインも、狐っぽいのは偶然でもないのかもしれません。

霊眼のある知人が更に示してくれたのは、皇后陛下の内面が
こういうふうである、と。

一説に半島出自だとも言われる小和田家のように下賤なことはしない・・・・のが正田家だと長いこと言われてきましたが・・・・


もっと下品でした。

美智子さまのご両親様の胸像でございます・・・・


日清製粉会社の歴史を展示している「製粉ミユージアム」内に展示。何の事はない、皇后陛下を間接的にCMガールとして、日清製粉の宣伝ですね。
普通、妻の銅像まで置きませんが。日清製粉にとっては夫妻の
娘が皇后陛下だってことで、莫大なメリットです。
こういうところからも商売人の娘は本来、忌避されたのでしょう。
小和田は小和田で、娘の入内を最大限に活用、外務省機密費流用疑惑は
不問にされるし、とうとうハーグの判事にまで上り詰めました。

◆元正田美智子さん、あなた一体何者? 成婚国会承知せず、アメリカで発表された不可解 《転載ご自由に》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/3d31f7ba1c00eea5fe7e0163cfec3a76

こちらの記事で、国会で正田美智子さんの素性に関して今では考えられないほどの肉薄ぶりで追求、またカトリック(キリスト教徒)たちがよってたかって美智子さんを入内させた「陰謀」について、また皇太子(今上陛下)の不出来ぶりを、仮借ないまでに述べた平井義一議員。

以前も調べたのですが、不可解なほどのその後の動きが解らないのです。


http://www.wikiwand.com/zh-yue/%E7%AC%AC25%E5%B1%86%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%9C%BE%E8%AD%B0%E9%99%A2%E8%AD%B0%E5%93%A1%E7%B8%BD%E9%81%B8%E8%88%89

若くして(34歳)福岡4区でトップ当選の実力と人望と人気。その後も当選すること、5期。第28回(1958年5月)でもトップ。これほどの政治家の、写真すら残っていない、気味の悪さ。美智子さん入内1959年の翌年に落選しています。
5期連続当選のベテラン議員が。


中央が平井義一氏。


1958年 皇室会議で満場一致で正田美智子皇太子妃に決定。これも実は奇妙な話。
国会にすら知られずまずアメリカで発表され、名だたる皇族は全て正田美智子入内に反対していたのが、いきなり賛成派に。昭和天皇の賛成の一言により、とされていますが
その昭和天皇はいまだGHQの呪縛の中にあられました。


1959年2月 国会で平井義一議員が正田美智子入内の胡乱さと出自を問い詰める。

その2ヶ月後の1959年、正田美智子入内。

その翌年の総選挙で、今まで5期落選したことのなかった平井義一落選。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E4%BA%95%E7%BE%A9%E4%B8%80_(%E6%94%BF%E6%B2%BB%E5%AE%B6)


平井 義一(ひらい ぎいち、1913年3月 - 没年不明)は、日本の政治家。元衆議院議員(5期)Wikiより

国会議員を5期務め、第4次吉田内閣で郵政政務次官に就任、横綱審議委員、日本プロレス協会長などの、華やかなポジションにいた人物の没年が不明?・・・・。

没年不明は行方不明とほぼ同義ではないのですか?
気色の悪い・・・・。⇒ コメント欄に・・・・ご存命だそうです。Wikiの「没年不明」記述はなぜに?

⇒更にコメ欄に。衆議院の広報課に訊いたら、平成19年9月6日にご逝去。

平井議員とは違う意味で、履歴の一部がすっぽり消されているのは、
美智子さん入内に直接動いたカトリック神父、ジョセフ・フロジャックです。
足跡はかなり詳しくWiki他にまとめがあるのに、部落布教のために
群馬は館林に向かい、そこで布教していた事実だけ全部、
過去から抜き取られ、なかったことになっています。

ご本人が著した書物まで焚書されたら、ジョセフ・フロジャック神父が
美智子さんの父方祖母、正田きぬさんを一番目の布教者として、
それから次々に正田一家をカトリックに改宗させたことも、
「なかったこと」にさせられるのかもしれません。

正田家とGHQの癒着、それにからんだ美智子さんの入内について
発信し始めたのは、ひょっとして拙ブログが始発だったかもしれませんが
(始発信は誰でもいいのですが)これまで推論の域を出なかったことが
更に今回の記事で一歩進めたかもしれません。

朝鮮髪飾り ペッシテンギ

国連女子差別撤廃委が女性天皇を認めよ、そのために皇室典範改正をと、言ってきましたが、もともと現行の皇室典範も戦前のそれから様変わりしたのはGHQ関与だと思います。憲法をいじった彼らが皇室典範放置はないですね。

それまでは皇太子が不出来であったり人望が無かったり、ふさわしからぬ行為があった時は、長男であろうと排除、ふさわしい人物が天皇になっていました。
皇后も目論む女系天皇は論外ですが、どんなアホでも長男なら即位というのも、考えてみればGHQのやりそうなことです。当時の皇太子(今上)はさんざん、GHQによる恫喝と洗脳教育で自虐史観左翼に仕立てていたので、そのまま
即位させないと、計画が成就しないわけです。


いまだ日本を敵国としてみなす「敵国条項」のある反日国連とその事務総長、
潘基文と癒着している皇太子。そのさぼり妻は国連大学通学には熱心で、
個室が与えられたほど。またその父はGHQの意向に忠実で、要するに
反日姿勢で出世階段を駆け上がっています。妹も国連関係。

池田 (小和田)礼子国際連合職員、国連ユニセフ駐日事務所(東京事務所)副代表などを歴任。
そして、売国の宮高円宮の長女と同じく、あの中抜き日本ユニセフに
母親と妹が関与。小和田は真っ黒。反日一家です。出自はほぼ間違いなく半島。


そして国連といえば美智子皇后の盟友、ブサヨフェミの緒方貞子。
皇后の、女性宮家の創設で皇后の助っ人をし、一方で
すでに在日という難民に苦しめられている日本に、更に
難民受け入れを迫る左翼女がいます。

皇后陛下が主張なさり、天皇陛下がそれに追随なさっている
「皇太子の系譜の女性天皇」を立てたら、皇統に朝鮮人の血が
入り込みます。

以下はBB参考過去記事です

◆皇后陛下の“実家”日清製粉という売国企業  《転載ご自由に》


http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/5c63283c17c5264c4a373df1e9eccd11

◆資料  皇后陛下、その精神を形作った生い立ちと環境

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/7c9cffa819831b24bbfbd63d9f8eb57b

◆ついに小和田家【出自】の秘密 《水間氏の意向により全文掲載条件でネット転載可》

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/77810d5d792b9b41f51b837fb20648db

◆天皇陛下に国辱謝罪させた「皇室使い」の国賊/小和田恒 【保存・拡散希望】

http://blog.goo.ne.jp/inoribito_001/e/ec86f08a22b5d6d8c431e44bd6a4c7b5

http://blog.livedoor.jp/genkimaru1/archives/1983268.html

27. 中川隆[-11753] koaQ7Jey 2019年3月02日 07:16:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[228] 報告
2013年02月18日
◆ 伏見宮で男系維持は不可能

 (旧宮家再興で)男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。しかしそれは不可能だ。そこで得られるY染色体は、天皇家のY染色体ではなく、間男のY染色体である。

 ──
 
 男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。たとえば、安倍首相がそうだ。

 《 「女性宮家」白紙に=安倍首相 》
 安倍晋三首相は8日夜のBSフジの番組で、野田前政権が検討した「女性宮家」構想について、「皇統の継承は男系でつないでいくと皇室典範に書いてあり、女性宮家はそういう役割を担うことができない」と指摘した。その上で「もう一度じっくりと見直しをしていかなければならない」と述べ、白紙に戻す考えを示した。
( → 時事通信 2013/02/09 )


 ここで、男系維持というのは、具体的には、旧宮家再興、つまり、伏見宮の系統を復活させることを意味する。

 では、伏見宮の系統とは、何か? 具体的には、次の系統だ。

  → 伏見宮系図
http://www.eonet.ne.jp/~yanaken/miyasama/keizu2.htm


 この系図を見ると、興味深いことに気づく。

  ・ 現存する男子は、非常にたくさんいる。
  ・ 現存する男子は、すべて邦家親王の子孫である。
  ・ 邦家親王は、息子の数が多かった。
  ・ 邦家親王の子孫も、代々、男子が多かった。
  ・ 邦家親王の父である貞敬親王は、女子が多かった。 女子も男子も多かった。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。


伏見宮邦家親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

伏見宮貞敬親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%95%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B


  
 以上をまとめると、次のようになる。

 「伏見家は、貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。ところが、その子である邦家 貞敬親王は、息子の数が多かった。また、その子孫も、代々、子孫が多かった」
 
 つまり、Y染色体の傾向から言うと、次の二つに分類される。

  ・ 貞敬親王以前 よりも前 …… 代々、男子が少なかった
  ・ 邦家 貞敬親王以後 …… 代々、男子が多かった

 このように、Y染色体の傾向がまったくといっていいほど正反対である。このことは、「Y染色体は代々引き継がれる」ということと矛盾する。

 一方、次の事実がある。

 「現在の皇室の系統は、代々、男子の数が少なかった」

 このことは、現存の皇室の顔ぶれを見るだけでもわかる。

  → 皇室の構成図 - 宮内庁
http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/koseizu.html

 
 浩宮・礼宮の世代では、男子が2名で、女子が5名(皇籍離脱した紀宮を含めれば6名)だ。

 その次の世代では、男子が1名で、女子が3名だ。

 また、大正天皇は、本人がもともと虚弱だった。

 明治天皇は、十分に健康な男子をもうけることができなかった。第1皇子は死産。第2皇子は11歳で夭折。第3皇子は大正天皇だが、虚弱体質だった。また、第1皇女は死産。第2皇女は11歳で夭折。その他、第10皇女までいたのだが、やたらと女だらけで、健康な男子は一人も産まれなかった。(子女の数が多いのは側室がいたから。
→ Wikipedia )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E7.9A.87.E5.AD.90.E5.A5.B3


 ──

 以上をまとめると、次のように言える。

  ・ 現在の天皇の系統は、代々、男子の数が少ない。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前の伏見宮も、代々、男子の数が少ない。
  ・ 邦家 貞敬親王以後の伏見宮は、代々、男子の数が多い。

 このことから、次のように推定できる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった」

 一方、生物学的に、次の事実がある。

 「突然変異というものは、ほとんどが、不利な形質を帯びる。有利な突然変異というものは、百万回に1回、または、それ以下である。ごく稀な例外を除いて、有利な突然変異というものは起こらない」

 この二つを合わせて考えると、次の結論となる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった。しかるに、それは突然変異ではなかった」

 このことから得られる結論は、一つだけだ。

 「邦家 貞敬親王のY染色体は、天皇家の代々続くY染色体ではなくて、外部からもたらされたものである」

 要するに、そのY染色体は、邦家 貞敬親王の親のY染色体ではなく、邦家 貞敬親王の親の間男のY染色体なのだ。(推定)

 そして、そのY染色体が、現在の伏見宮家に広範にひろがっている。つまり、伏見宮家のY染色体はすべて、邦家 貞敬親王の親(貞敬 邦ョ親王)の間男のY染色体なのだ。

 そして、安倍首相の言うように、伏見宮家から天皇を出すとしたら、それは、天皇の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということではなくて、間男の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということなのである。

 つまり、日本の天皇は、間男の子孫に乗っ取られてしまうわけだ。

 ──

 ここまで読んで、疑問に思う人がいるだろう。次のように。

 「宮家ともあろうものが、間男の存在を許すはずがない。宮家の妻があっさりと不倫をするはずがない。また、その機会もなかったはずだ」

 これはその通り。にもかかわらず、現実には間男がいた。とすれば、論理的には、次の結論しかありえない。

 「間男の存在は、宮家の当主(貞敬 邦ョ親王)の公認の下でなされた」

 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王には、どうしても間男の子を生ませる必要があった」
 
 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王は、自分には男子ができなかった。このままでは次の世代で宮家廃絶とならざるを得ない。そこで、宮家廃絶を防ぐために、自分の息子ではない男子を、自分の息子であると偽った」

 このように考えると、それの裏付けとなりそうな事実が見つかる。

 (1) 貞敬親王は、1776年に生まれて、1811年に結婚した。
 (2) その子である邦家親王は、1802年に生まれた。
 (3) 邦家親王は、1817年に、光格天皇の猶子となり親王宣下を受けた。

 つまり、貞敬親王は 1811年に結婚したが、次世代に当たる邦家親王は、正妻の子ではなくて、結婚の9年前に生まれた子である。その邦家親王は、当初は(親王宣下を受けていないので)親王の地位を得ていなかった。15歳のときになって(つまり父親が結婚してから6年もたってから)親王の地位を得た。そのとき、父親である貞敬親王は、41歳になっていた。

 このような経緯は、かなり異例である。

 
 では、どうしてこういうことになったのか? もっとも有力な説は、次のことだろう。

 「貞敬親王は、35歳のときに結婚して、多くの女子をもうけたが、男子はできなかった。そこで男子が生まれない場合を考慮して、他の男の息子である邦家親王を(本当は自分の子ではないのに)自分の子であると偽って、親王宣下を受けさせた。

 そのまま年数がたったが、女子ができるだけで、もう一人の男子はどうしてもできなかった。

 そのあと、邦家親王に万一の事態が起こった場合に備えて、第2皇子としての守脩親王を(親王宣下のもとで)息子にした。ただしこちらは、邦家親王とは父親が異なるので、Y染色体は虚弱であり、男子を残すことはできなかった」

 ──
     ※ 以下が正しい。

 なお、もう一つ、別の仮説もある。それは、その一世代前に間男がいた、という仮説だ。

 そもそも、貞敬親王の父親である邦頼親王は、1733年に誕生し、1787年に 54歳で結婚した。その息子である貞敬親王は、父が 43歳のときに誕生したことになる。父が未婚の状態で。

 これもまたかなり不自然だ。とすれば、貞敬親王そのものが、邦頼親王の息子ではない可能性も、十分にある。(邦頼親王に間男がいて、その間男の息子が貞敬親王だ、というわけ。)

 もしそうだとすると、貞敬親王の息子である邦家親王は、間男の息子の、そのまた間男の息子だ、ということになる。(ニセ嫡出子の、そのまたニセ嫡出子。)


《 公式の歴史 》 
   邦頼親王 ── 貞敬親王 ── 邦家親王 ── 男子多数

《 裏の歴史 》 
   邦頼親王 ……(断絶)
    間男  ── 貞敬親王 ……(断絶)
           間男  ── 邦家親王 ── 男子多数
 

 ともあれ、こうして、最後には間男のY染色体から、「男子多数」が誕生した。それが今の伏見宮家の、多数の男子である。

 そして、安倍首相の方針に従えば、そこから将来の天皇が誕生することになる。つまり、間男の系統が、日本の天皇の血統となるのである。


 [ 付記1 ]

 上記の話を読んで、右翼が「けしからん! 皇室を冒涜している!」と思うかもしれないが、勘違いしないでほしい。

 そもそも、伏見宮家は、正統的な皇室ではない。傍系の宮家にすぎない。傍系の宮家を冒涜したとしても、それは正統的な皇室を冒涜したことにはならない。
 また、私は心情的に、皇室を冒涜したいわけじゃない。むしろ、正統的な皇室の純粋性を守るために、間男の血統がまぎれこむことを阻止しているのだ。
 私の言説に反対する人々は、天皇家が間男に乗っ取られることを目的とする人々であり、北朝鮮のスパイだろう。


 [ 付記2 ]
 本項の見解を、「ただの仮説だろう」と見なす人もいるだろう。
 なるほど、現段階では、ただの仮説にすぎない。しかし、これは実証可能な仮説だ。実証するためには、次のことをすればいい。

 「現在の皇室の男子(浩宮・礼宮・天皇など)のY染色体と、伏見宮家の男子のY染色体を、DNA検査する。Y染色体のハプロタイプを調べることによって、同一の系統かどうかを確認する」
 
 つまり、DNA検査をすれば、伏見宮家の男子が、皇室の系統を引くか、間男の系統を引くかが、はっきりとする。
 特に、次のようになる可能性が大きい。

 「伏見宮家の男子は、いずれも同一の系統に属するが、現在の皇室の系統とはまったく異なる」

 この場合には、次のように結論できる。

 「伏見宮家の男子は、邦家親王(または貞敬親王)の段階で、外部の男子の血統(Y染色体)に乗っ取られた」

 こういう結論が出る可能性が高い。
 
 それゆえ、DNA検査をすることを、私としてはお勧めする。そのことによって、次のことが判明するはずだ。

 「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」

 ま、このことが判明したら、大スキャンダルになる。だから、実際には、この DNA 検査はなされないだろう。逆に言えば、この DNA 検査がなされないことで、「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」ということが、暗黙裏に信じられるのである。
( ※ 状況証拠はたっぷりだ。それが本項に記してある。)
  
 ついでだが、私の説に反対する人は、やはり、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。検査をすれば、伏見宮家が皇室の正当な後継者であることを、証明できるだろう。(もしそれが事実であれば、の話だが。)……だから、それが事実であると信じる人は、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。


   
 [ 付記3 ]
 伏見宮家の人々自身が、皇室への復帰を いやがっているそうだ。孫引きで引用しよう。

 男系維持派は、これまで旧皇族を復帰させるだ何だ言いながら、その男系男子の候補を挙げなかった。4人いるというヤツが多かったが、誰ひとり、誰なのかを言わなかった。

 そんな中、しびれを切らした週刊新潮が、候補として8人の男系男子を挙げた。竹田家から皇室評論家で有名な竹田恒泰(36)とプロゲーマーの竹田恒昭(32)の2名、賀陽家から16歳と14歳の2名、東久邇家から当主系の2歳男子1名、次男家系の4歳と2歳の2名、三男系の8歳1名である。

 賀陽家と東久邇家の人たちは、自分の子供が候補になることについてどうかと訊かれ、「とんでもない話だ」と答えている。

 当たり前の話だ。そもそも、候補である本人たちの意見もなしに、周りの外野がごちゃごちゃ言うことの方がおかしい。
( → 転載ブログ )


 [ 付記4 ]
 本項の裏付けとなる傍証が、もう一つ見つかった。つぎのことだ。

 「邦家親王は、1802年に誕生して、15歳のとき(1817年)に親王宣下を受けたが、1816年には 14歳にしてすでに第1子をもうけている」

 これはきわめて異例なことだ。その親も祖父もかなり高齢になってから子供をもうけたのに、邦家親王はまだ中学生と言っていいぐらいの時期において子供をもうけた。しかも、その後で、親王宣下を受けている。

 ここから推測すれば、次のようになる。

 「邦家親王は、男子をもうける能力があることが証明・確認されたあとで、親王宣下を受けて、皇室に入った」

 親の貞敬親王としては、自分の代で宮家が廃絶することを何よりも恐れていたのだろう。とはいえ、何か対策をしても、次の世代で廃絶するのでは、元も子もない。そこで、次の世代がさらに次の世代を埋めることを確認したあとで、次の世代である邦家親王を自分の子として扱うことにしたのだろう。

 こう考えれば、14歳で第1子をもうけたという(やや)不自然さも納得できる。そもそも、伏見宮は、皇室の直系ではないし、そこから天皇が出るわけでもない。なのにどうしてそれほどにも若いときから淫乱な道を息子に取らせたのかと言えば、宮家廃絶の恐怖が強かったからなのだろう。貞敬親王は、自分には男子ができなかったがゆえに、息子にした邦家親王には、14歳のときから多くの側室を与えて、淫乱な道に進ませたのだろう。多くの美女をはべらせて。
http://openblog.seesaa.net/article/435849777.html

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