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韓国人と縄文人のルーツ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/427.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 5 月 14 日 06:55:58: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 天皇一族の様な一重瞼・奥二重瞼は華北に居た漢民族にしかみられない 投稿者 中川隆 日時 2018 年 12 月 18 日 21:06:02)


韓国人と縄文人のルーツ


韓国人のルーツは? 北方界でない混血南方系
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版] 2017年02月02日
https://s.japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=225352

韓民族のルーツはどこだろうか。人類・考古学界の一部は、韓民族がアルタイ山脈から出発しモンゴルと満州原野を通って韓半島(朝鮮半島)に入ってきた北方民族だと推定している。これらの地域の人々の言語・風習・顔つきなどと共通点が多いというのがその根拠だった。

だが、科学界の判断は違う。2日、蔚山(ウルサン)科学技術院(UNIST)ゲノム研究所によると、韓民族は3万〜4万年前に東南アジア〜中国東部海岸を経て極東地方に流入して北方人になった南方系狩猟採取人と、新石器時代が始まった1万年前に同じルートで入ってきた南方系農耕民族の血が混ざって形成された。2009年、UNISTは韓民族が東南アジアから北東に移動した南方系の巨大な流れに属しているとサイエンス誌に発表したことがあったが、今回これをより具体化した。

その始まりはロシア・ウラジオストクからやや北の『悪魔の門(Devil’s Gate)』という名称の洞窟から見つかった7700年前の20代と40代女性の頭蓋骨だった。

この地域は韓国の歴史において、旧高句麗・東夫餘・沃沮だった場所だ。ゲノム研究所はスーパーコンピュータを利用してこの頭蓋骨の遺伝子を解読・分析した。

DNA分析の結果、「悪魔の門」の洞窟人は3万〜4万年前に現地に定着した南方系人で、韓国人のように褐色の瞳と凹型の前歯(shovel−shaped incisor)をつくる遺伝子を持っていたと発表された。また、彼らは現代の東アジア人の典型的な遺伝特性を有していた。牛乳が消化できない、高血圧に弱く体臭があまりない、乾いた耳あかが出るなどの遺伝子が代表的だ。この洞窟人は現在近くに住むウルチ(Ulchi)族の先祖と考えられている。周辺の原住民を除けば、現代人のうちでは韓国人が彼らに近い遺伝子を持っていることが判明した。彼らのミトコンドリアDNAの種類も、韓国人が主に持っているものと同じだった。

同研究所のパク・ジョンファ所長は「ミトコンドリアDNAの種類が同じだということは母系が同じであることを意味する」とし「2つの人類間の時間的な開きを考慮しても、遺伝子が非常に似通っていると言え、悪魔の門の洞窟人は韓国人の先祖とほぼ同じだと言える」と述べた。

だが、悪魔の門の洞窟人の遺伝子が韓民族のそれとすべて一致したわけではない。研究陣は正確な韓国人の民族ルーツと構成を計算するために、悪魔の門の洞窟人と現存する東アジア地域50カ所余りの人種に対する遺伝子比較を行った。その結果、悪魔の門の洞窟に住んでいた古代人と、現代ベトナムおよび台湾で孤立している原住民の遺伝子を融合したところ、韓国人の遺伝子を最もよく表していた。時代と生存方式が異なる二つの南方系列の融合だったことを発見した瞬間だった。

だが、現代韓民族の遺伝的構成は1万年前の農耕時代の南方系アジア人にはるかに近い。狩猟採集や遊牧をしていた極東地方の狩猟採取人に比べて、稲作をしていた南方系民族が多くの子供を産みスピーディーに拡散したためだというのがその理由だ。実際、狩猟採集を中心に生活していた過去の極東地方部族たちの現在の人口は多くても数十万人以上にはならない。

パク所長は「巨大な東アジア人の流れの中で、技術発達によって、小さな幹の民族が生じて混ざり合いながら韓民族が形成されたものと推定できる」と説明した。UNISTの研究は国際学術誌「Science Advances(サイエンス・アドバンシズ)」1日付(米国現地時間)に発表された。
https://s.japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=225352


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韓国人のルーツは「悪魔の洞窟で暮らした新石器人」=研究発表にネットから疑問噴出=「標本2つで出した結論」「おしりの蒙古斑はなに?」
Record china:2017年2月5日
https://www.recordchina.co.jp/b162581-s0-c30-d0127.html


2日、UNISTゲノム研究所は、朝鮮民族は3〜4万年前に東南アジアから極東地方に流れ込み北方人となった南方系狩猟採集民と、1万年前に同経路で入ってきた南方系農耕民族の血が混ざって形成されたと発表した。写真はロシア・ウラジオストク
https://www.recordchina.co.jp/b162581-s0-c30-d0127.html


2017年2月2日、韓国・中央日報によると、蔚山(ウルサン)科学技術院(UNIST)ゲノム研究所は国際学術誌「Science Advances」で、韓民族(=朝鮮民族)は、3〜4万年前に東南アジアから中国東部の海岸を経て極東地方に流れ込み、北方人となった南方系の狩猟採集民と、新石器時代が始まった1万年前に同じ経路で入ってきた南方系の農耕民族の血が混ざって形成されたと発表した。

これまで人類・考古学界の一部では、言語・風習・容姿などの共通点が多いことから、朝鮮民族がアルタイ山脈に始まり、モンゴルと満州の原野を越えて朝鮮半島に入ってきた北方民族であると推定されてきた。

しかし科学界の判断は違っており、2009年、UNISTは国際学術誌「Science」に「朝鮮民族が東南アジアから北東へ移動した南方系の巨大な流れに属している」と発表、今回の発表はこれをさらに具体化したことになる。

その手がかりは、ロシア・ウラジオストクの上方にある沿海地方の「悪魔の門(Devil’s Gate)」という名の洞窟で発見された7700年前の20代と40代の女性の頭蓋骨にあった。ここは韓国の歴史上、かつての高句麗・東夫余(ふよ)・沃沮(よくそ)の地と言われている。ゲノム研究所がスーパーコンピュータを利用してこの頭がい骨のゲノムを解読・分析したところ、悪魔の門の洞窟人は3〜4万年前に現地に定着した南方系人で、韓国人のように茶色い目とシャベル型切歯(shovel-shaped incisor)の遺伝子を持っていたことが明らかになった。また彼らは、牛乳を消化できない遺伝変異や、高血圧に弱い遺伝子、体臭が少ない遺伝子、耳たぶの薄い遺伝子など、現代の東アジア人の典型的な遺伝特性も持っていたという。悪魔の門の洞窟人は近くに住む「ウルチ(Ulchi)」族の先祖とされており、近くの原住民を除く現代人の中では韓国人がこれと近いことが判明した。

UNISTゲノム研究所のパク・ジョンファ所長は「ミトコンドリアDNAの種類が同じであるということは、母系が同じであるということを意味する。長い時間差を考慮しても2つの人類の遺伝子は非常に近く、悪魔の洞窟人は韓国人の祖先とほぼ同じだと言える」と話している。

これを受け韓国ネットユーザーからは、研究方法に関連して「偶然洞窟にたどり着いたのかもしれないし、サンプル2つは少なすぎ」「標本2つの結論か。もっと多い標本が必要な研究じゃない?」というコメントや、「でも、言語は北方系のモンゴル語じゃん。これはなんで?」「おしりにある蒙古斑はなに?」というコメント、「つまり、ウィー・アー・ザ・ワールドってことね。ということは、今後科学がもっと発達したら数十万年前まで研究できるから、また北方系になる可能性もあるわけだ」「朝鮮民族は単一民族ってよく言うけど、これはギャグ」など、異論や疑問を唱えるコメントが多く寄せられている。(翻訳・編集/松村)
https://www.recordchina.co.jp/b162581-s0-c30-d0127.html


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悪魔の門
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E9%96%80


悪魔の門(あくまのもん、Devil’s Gate)は、ロシアウラジオストクの上方にあるアムール川流域の沿海地方(プリモルスキー地方)で確認されている洞窟である[1]。

この洞窟で、朝鮮民族の祖先にあたるウルチ族(Ulchi)といわれる少数民族の人骨が見つかっている[1]。別称、チェルーヴィーヴォロタ洞窟(Chertovy Vorota Cave、血まみれの門の洞窟)。

1.^ また彼らは、牛乳を消化できない遺伝変異や、高血圧に弱い遺伝子、体臭が少ない遺伝子、耳たぶの薄い遺伝子など、現代の東アジア人の典型的な遺伝特性も持っていた


パク・ジョンファ蔚山科学技術院(UNIST)ゲノム研究所長(生命科学部教授)が率いるイギリス・ロシア・ドイツの国際共同研究チームは1日、「中朝国境・豆満江の北にあるロシア・アムール川流域の悪魔の門で発見された7700年前の人類のゲノムを解読した」と明らかにした[1]。

2017年2月2日の韓国中央日報によると、蔚山科学技術院(UNIST)ゲノム研究所の国際学術誌「Science Advances」で、韓民族(朝鮮民族)は、3〜4万年前に東南アジアから中国東部の海岸を経て極東地方に流れ込み、「北方人となった南方系の狩猟採集民」と、新石器時代が始まった1万年前に同じ経路で入ってきた「南方系の農耕民族」の血が混ざって形成されたと発表した[1]。

今まで人類・考古学界の一部では、民族的な風貌などの共通点から、韓国人はアルタイ山脈に始まり、モンゴルと満州の原野を超えて朝鮮半島に移住した北方民族であると推定されてきたが、現在の進歩した科学界の判断は違っており、2009年、UNISTは国際学術誌「Science」に「朝鮮民族が東南アジアから北東へ移動した南方系の巨大な流れに属している」と発表、今回の発表はこれをさらに具体化したことになる[1]。


悪魔の門の洞窟人

韓国人のルーツといえるDNAが、ロシア・ウラジオストクのアムール川流域にある「悪魔の門の洞窟」で7700年前の20代と40代の女性の頭蓋骨から発見された[2]。ここは韓国の歴史上、かつての高句麗・東夫余(ふよ)・沃沮(よくそ)の地と言われている[2]。

ゲノム研究所がスーパーコンピュータで、この頭蓋骨の遺伝子を解読・分析したところ、悪魔の門の洞窟人は3〜4万年前に現地に定着した南方系人で、韓国人に特徴な茶色い目とシャベル型切歯(shovel-shaped incisor)の遺伝子を持っていることが証明された[注 1][2]。悪魔の門の洞窟人は近くに住む「ウルチ族」の先祖とされており、近くの原住民を除く現代人の中では韓国人がこれと近いことが判明した[2]。

UNISTゲノム研究所のパク・ジョンファ所長は「ミトコンドリアDNAの種類が同じであるということは、母系が同じであるということを意味する[2]。長い時間差を考慮しても2つの人類の遺伝子は非常に近く、悪魔の洞窟人は韓国人の祖先とほぼ同じだと言える」と話している[2]。。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E9%96%80


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縄文人のすべての遺伝情報を初めて解読 2019年5月13日
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20190513/amp/k10011914561000.html

縄文人の成り立ちを調べたところ、遺伝情報のおよそ10%が現代の日本人に引き継がれているほか、縄文人の祖先は旧石器時代の3万8000年前から1万8000年前に、大陸に住む人たちから分岐したと考えられるということです。

台湾の先住民や韓国人、それに極東ロシアのウルチと呼ばれる人々など、東アジア沿岸の南北に広い範囲の人たちと遺伝的に近いことも分かったとしています。


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およそ3800年前の縄文人のすべての遺伝情報を初めて解読できたと、国立科学博物館などのグループが発表しました。

瞳が茶色で酒に強いといった体の特徴が推定できるほか、東アジア沿岸の南北に広い範囲の人たちと遺伝的に近いことが分かり、日本人の起源の解明などにつながると期待されます。

遺伝情報を解読したのは、国立科学博物館や国立遺伝学研究所など国内の7つの研究機関で作るグループです。

グループは、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘されたおよそ3800年前の縄文人の女性の臼歯から核DNAを抽出し、最先端の装置を作って詳しく分析しました。

その結果、DNAの保存状態が極めてよく、30億対の塩基配列すべての遺伝情報を解読することができたということです。

この遺伝情報から女性の体の特徴を推定したところ、皮膚の色は濃く、髪は細く巻き毛、瞳は茶色で酒に強いほか、耳垢は湿っていることなどが分かりました。

また、北極圏に住む人に多く見られる、脂肪分が多い食べ物を代謝するのに有利に働く遺伝子の変異も見つかり、狩りや漁を中心とした生活の様子が裏付けられたとしています。

さらに、この女性の遺伝情報をもとに、縄文人の成り立ちを調べたところ、遺伝情報のおよそ10%が現代の日本人に引き継がれているほか、縄文人の祖先は旧石器時代の3万8000年前から1万8000年前に、大陸に住む人たちから分岐したと考えられるということです。

台湾の先住民や韓国人、それに極東ロシアのウルチと呼ばれる人々など、東アジア沿岸の南北に広い範囲の人たちと遺伝的に近いことも分かったとしています。

古代人の遺伝情報の分析は、ここ10年余りで急速に進展し、ほかの縄文人でも研究が進められていますが、グループによりますと、すべてを高い精度で解読したのは世界で初めてだということです。

国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長は「今後、古代人の遺伝子研究が飛躍的に進むと期待できる。遺伝情報を公開して、日本人の起源を解明したり、日本人に多く見られる病気がいつから発症するようになったのかなど、さまざまな研究に役立ててほしい」と話しています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20190513/amp/k10011914561000.html


縄文人の起源、2〜4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析 2019/5/13
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/

国立科学博物館の神沢秀明研究員らは13日、縄文人の全ゲノム(遺伝情報)を解析し、縄文人が大陸の集団からわかれた時期が今から約2万〜4万年前とみられることがわかったと発表した。日本人の祖先がどこから来たのかといった謎に迫る貴重なデータとなる。詳細を5月末にも学術誌で発表する。

国立遺伝学研究所や東京大学などと共同で、礼文島(北海道)の船泊遺跡で発掘された縄文人女性の人骨の歯からDNAを取り出して解析した。最先端の解析装置を使い、現代人のゲノム解析と同じ精度でDNA上の配列を特定した。

特定した配列を東アジアで現在暮らす人々の配列と比べた結果、縄文人の祖先となる集団が東アジアの大陸に残った集団からわかれた時期が約3万8000年前から1万8000年前であることがわかった。

縄文人は日本列島に約1万6000年前から3000年前まで暮らしていたと考えられている。3000年前以降は大陸から新たに弥生人が渡来し、日本列島に住む人々の多くで縄文人と弥生人以降のゲノムが交わったことがこれまで知られていた。

今回の解析では、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なることもわかった。

東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。

ゲノム情報からは船泊遺跡で発掘された女性がアルコールに強い体質であったことや、脂肪を代謝しにくくなる遺伝子の変異を持っていたことなどもわかった。現代人の様々な疾患について、今回の縄文人のゲノムから説明できる可能性があるという。

古代の人類のゲノムを解析する試みは欧米を中心にネアンデルタール人などで進んできた。縄文人の全ゲノムが読まれたことで、アフリカで生まれた人類集団がどのように東アジアの各地に広がったか研究の進展が期待される。

今後、研究チームはさらにデータの解析を進める。配列を公開して海外の研究機関との共同研究も検討していく。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/


 

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コメント
1. 中川隆[-10508] koaQ7Jey 2019年5月14日 06:59:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1779] 報告

縄文人の遺伝子は肉食向き ゲノム解析で狩猟生活裏付け 2019.5.13
https://www.sankei.com/life/news/190513/lif1905130030-n1.html

ゲノム解析に基づき復元された縄文女性の顔の像

 縄文人は現代の日本人と比べ肉や魚を消化しやすい遺伝子を持ち、遺伝的な多様性は低いことがゲノム(全遺伝情報)の解析で分かった。国立科学博物館などの研究チームが13日、発表した。縄文人が狩猟や漁労を中心に小集団で生活していたことが遺伝情報からも裏付けられた。

 チームは北海道・礼文島の船泊遺跡で出土した3500〜3800年前の縄文女性の歯から採取したDNAを分析。その結果、肉など高脂肪食の消化を効率的に助けるタンパク質を作るよう遺伝子が変異していることが分かった。アザラシなど肉食が中心の北極圏のエスキモーに多くみられる現象で、現代の日本人にはみられないという。

 また、ゲノムの多様性が低い状態が旧石器時代から約5万年にわたり続いていたことも判明。小集団で生活していたことを示すもので、獲物を求め移動を繰り返す縄文人の生活を反映しているらしい。

 このほか日本人全体ではゲノムの10%、アイヌ民族ではゲノムの70%が縄文人に由来することが分かった。また、縄文人は1万8000年〜3万8000年前に大陸民族から遺伝的に分かれたことも判明した。

 国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長は「縄文人の特性がかなり分かってきた。今後は日本人の成り立ちとの関わりも解き明かしたい」と話している。

 この縄文女性は40〜50歳代で身長140センチ台、瞳は茶色で毛髪が細く縮れアルコールに強かったことなどが既に判明している。チームは昨年、顔の像を復元し、さらに詳しく調べていた。
https://www.sankei.com/life/news/190513/lif1905130030-n1.html

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人類史「ゲノムでわかる時代に」
縄文人の姿遺伝子で再現 2018/12/14
https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/feature/CO036740/20181221-OYTAT50007/

 年間企画「平成時代〜DNAの30年」最終部となる第4部は、遺伝子研究で活躍する各分野の専門家にその最前線や将来像などを聞く。初回は、古代人の骨に残されたDNAから人類史を解き明かす神澤秀明・国立科学博物館人類研究部研究員(33)だ。

「船泊のDNA解析がうまくいったのは、根気と『骨運』が良かったおかげ」と話す神澤さん(茨城県つくば市で)「船泊のDNA解析がうまくいったのは、根気と『骨運』が良かったおかげ」と話す神澤さん(茨城県つくば市で)


 東京・上野の国立科学博物館で、今年3月に公開された約3800年前の縄文人女性の顔(粘土像)は、少し風変わりだった。

 茶色い目。シミの目立つ、濃い色の肌。細く縮れた髪の毛。まるで見てきたようなこれらの特徴はすべて、昨年解読された縄文人女性の遺伝子データを基にした、国内初の復顔だった。

 「血液型はA型で、耳あかは湿り気があり、もしお酒があるなら強い女性だった。ここまで突き止められたことには自分も驚いた」

 女性は1998年、日本列島の北端にある礼文れぶん島(北海道礼文町)の船泊ふなどまり遺跡で骨が発掘された。骨の形などから高齢の女性とまでは推定され、その後は札幌医科大で長く保管されていた。


 ■□■


 2000年代後半、遺伝子を高速で読み取る装置「次世代シーケンサー」が普及し、ごく微量のDNAも解析可能になった。ただDNAは歳月を経ると分解するため、古代人の骨から採れる保証はない。

 「特に日本のような高温多湿な環境では分解しやすい。船泊は日本列島にある遺跡の中で最も寒く、DNAが残りやすいと目を付けた」。3年前に研究に着手。下あごの骨から抜いた臼歯の中を丁寧に削った試料を使って、試行錯誤を重ねながら解析した。

 その結果、現代人とほぼ同じ高い精度で、全遺伝情報(ゲノム)の99%を解読することに成功した。世界でもトップクラスの成果だ。

 この女性に特有の遺伝子の変異を調べると、脂肪をあまり代謝しない体質とわかった。現代では脂肪からエネルギーを採れないと低血糖などの病気になりかねない体質だが、脂肪が多いアシカなどを狩猟していた船泊の縄文人は、極端な高脂肪食でも健康を保てるように適応した可能性が高いという。

 「これまで想像するしかなかった祖先の本来の姿に加えて、どのような能力を持ち、どのような生活を送っていたのかまで、ゲノムでわかる時代になった」


 ■□■


 生物の高校教師を目指して大学に進んだ。4年生だった08年、古代人のDNA解析を紹介する1冊の入門書に出会う。

 「日本人の起源を自分で解明できたら面白い。人類の歴史にDNAから切り込める可能性に、魅力を感じた」。大学院に進み、古代のDNA解析が先行する海外の論文を読んで手法を学びながら技量を磨いた。

 DNA解析の進歩で、何人ぐらいの集団で暮らしていたのか、どこの地域から渡ってきたのかもわかるようになったという。だが大陸から離れた列島に暮らす日本人のルーツにたどり着くには、日本に残っているDNAだけでは不十分だ。

 「東アジアに広げて解析すれば、稲作などの文化がどのように伝わってきたのかも見えるだろう」。古代史の扉を開く夢は、まだ始まったばかりだ。


 ◇古代人解析から新種発見


 古代人のDNA解析は、2010年に目覚ましい成果が相次いだ。ドイツなどの研究チームは絶滅した旧人・ネアンデルタール人のDNA情報を公開し、現生人類と混血していることを示した。アフリカから6万年前には移動を始めたとされる我々の祖先との間に、子どもを作っていたことになる。

 南シベリアのデニソワ洞穴で見つかった3万〜5万年前の指などの骨は、新種の旧人と判明。全身骨格はなく、DNA解析で“発見”された初の人類で「デニソワ人」と命名された。現在のパプアニューギニアなどに住む人にDNAの一部が残っており、東アジア全体で暮らしていたらしい。

 日本でも三貫地さんがんじ貝塚(福島県)、伊川津いかわづ貝塚(愛知県)などから出た縄文人の骨の解析が進んでいる。


 ◇言語に関わる発見楽しみ


 アフリカで誕生したとされる人類は猿人、原人、旧人を経て現生人類(新人)になったと、学校で習った記憶がある。現生人類以外の人類は絶滅したが、DNA解析で判明した旧人と現生人類との混血は、現生人類の進化が複雑だったことを示している。絶滅した古代人類の能力を、私たちはDNAを通じて手に入れた可能性もある。

 言語の習得に必要とされる遺伝子のルーツが解明されれば、人類がいつどこで言語を獲得したのか、わかるかもしれないという。どんな新発見が広がるか、楽しみだ。(冬木晶)
https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/feature/CO036740/20181221-OYTAT50007/

2. 中川隆[-10473] koaQ7Jey 2019年5月14日 12:02:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1816] 報告

韓国人とベトナム・台湾人の遺伝的祖先はほぼ同じ 2017-02-03
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/26416.html

UNISTなどロシア極東地方の7700年前の古代人の骨、ゲノム分析
 
南方系アジア人、北方系の代替の代わりに融合し遺伝性を持続 
「征服などで古代人遺伝の痕跡が消えた西ユーラシアとは異なる」

ロシア極東の「悪魔の門洞窟」で発見された7700年前の古代人遺骨=蔚山科学技術院提供//ハンギョレ新聞社

 現代韓国人は、ベトナム・台湾など南方とロシア極東地方に住んでいた北方の古代人の遺伝の特性をいずれも受け継いでいることが明らかになった。

 蔚山(ウルサン)科学技術院(UNIST)ゲノム研究所は1日、「イギリス、ロシア、ドイツなどの研究チームと共同で、豆満江(トゥマンガン)上部のロシア極東地方の『悪魔の門洞窟』(Devil's Gate Cave)で発見された7700年前の人間の骨のゲノムを分析した結果、韓国人を含む現代東アジア人は先祖の遺伝的痕跡を持ち続けてきたことが分かった」と明らかにした。

 研究チームの論文はオンライン科学ジャーナル「サイエンス・アドバンシス」2日付(現地時間)に掲載された。悪魔の門洞窟は1973年、高句麗・東扶余・沃沮が位置した場所で発掘され、そこで新石器時代の人間と判明された何躯かの骨が発掘された。研究チームが悪魔の門洞窟人と現存するアジアの数十の民族(ethnic groups)のゲノムの変異を比較してみたところ、洞窟人とベトナムおよび台湾で孤立していた原住民のゲノムを融合した時、現代韓国人の遺伝変異が最もよく表現された。つまり韓国人の遺伝的祖先はベトナム・台湾など南方の古代人と北方の古代人にいずれも接しているということだ。

 ゲノム研究所のパク・ジョンファ所長(生命科学部教授)は「現代西ユーラシア人は、ここ数千年間の多くの人口移動、征服、戦争などで古代狩猟採取人の遺伝的痕跡はほとんど消えた。一方、東アジア現代人は祖先の遺伝的遺産を受け継いだことが明らかになった」と話した。悪魔の門洞窟人は韓国人のように褐色の瞳とシャベル状の前歯を持ち、牛乳をよく消化できず、高血圧に弱く、体臭が少ない遺伝子であるなど、現代東アジア人の典型的な遺伝特性を持っている。東アジア人は遺伝的に「単一民族」であるということだ。

 パク教授は「数万年前に東アジアの狩猟採取人はロシア北方まで進出し、アジア全域に広がって北方系を形成した。そして1万年余り前、南中国系の人々が本格的な農耕社会を構成し、急速に膨張した。しかし、西ユーラシアとは異なり南方系が北方系を代替せず、二つの系列が混合を遂げた。南方系の拡散が北方系より遥かに大きく、現代人の遺伝特性には南方系の影響が大きく現れる」と説明した。

 悪魔の門洞窟人は、近くに住む現代のウルチ族と遺伝的に最も近く、彼らの先祖であると推定されるが、これらの原住民を除外すれば現代人の中で韓国人がこの洞窟人と一番近いゲノムを有するものと分析された。研究を主導したチョン・ソンウォン研究員は「悪魔の門洞窟人のミトコンドリアゲノムの種類が韓国人とほぼ同じであり、洞窟人は韓国人の先祖とほぼ同じだといえる」と話した。ミトコンドリア遺伝子は母親から子に母系血統を通じてのみ伝達され、祖先を追跡するのに役立つ。

イ・グンヨン、オ・チョルウ先任記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/26416.html

3. 中川隆[-10460] koaQ7Jey 2019年5月14日 17:56:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1831] 報告

平成31年5月13日 独立行政法人 国立科学博物館
高精度縄文人ゲノム の概要
http://www.kahaku.go.jp/procedure/press/pdf/150678.pdf
4. 中川隆[-9353] koaQ7Jey 2019年6月22日 19:36:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3133] 報告

【我那覇真子「おおきなわ」#74】
長浜浩明〜韓国人とは遠縁だった!遺伝子から探る日本人のルーツ[桜R1-6-21] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7CPxmCGtjR0

▲△▽▼

「最新の縄文分析で今明かされる、沖縄のルーツと日本の建国」古代史研究家・長浜浩明氏 2018.02.11 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8q-ZXmoPa-Y


2018/02/11 に公開

沖縄の大本は、縄文時代から九州の人々と同じ先祖を持ち、それは遺伝子、言語から明らかです。また、皇室の大本は沖縄方面からやってきたのであり、神武東征は史実なのです。(長浜浩明氏)

皇紀2678年(平成30年)2月11日(日・祝)
『日本の建国を記念する沖縄県民の集い』記念講演


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因みに、日本人の核DNAの 90% は渡来系で、縄文系は僅か10% です

5. 中川隆[-9298] koaQ7Jey 2019年6月24日 20:00:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3192] 報告
長浜浩明氏の嘘は amazon のカスタマーレビューでも指摘されていますね:

古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)

内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3




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長浜浩明の―神武天皇即位は紀元前70年だった! は間違い

長浜浩明は神武東征が河内潟の時代だと主張していますが、河内湖Tの時代が正しい:


河内湖の名残
http://feynmanino.watson.jp/5697_kawachi2.html


邪馬台国とはなんぞや?(43) - altairposeidonのブログ

・古大阪平野の時代:約2万年前
・古河内平野の時代:約9000年前
・河内湾Iの時代:約7000年〜6000年前
・河内湾IIの時代:約5000年〜4000年前
・河内潟の時代:約3000年〜2000年前(BC1050年〜BC50年)
・河内湖Iの時代:約1800年〜1600年前(AD150年から350年)
・河内湖IIの時代〜大阪平野I・IIの時代:約1600年前以降
http://altairposeidon.hatenablog.com/entry/2018/10/11/000000

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霊(ひ)の国の古事記論54  若御毛沼命の河内湖通過(「神武東征」)時期について
http://hinakoku.blog100.fc2.com/blog-entry-70.html

1.「神武東征」か?

御毛沼命と若御毛沼命(後の神倭伊波礼琵古(磐余彦)命、8世紀に神武天皇と諡(おくりな))兄弟のいわゆる「神武東征」については、史実説と虚構説に分かれ、史実説については、記紀史実説(薩摩半島の山幸彦の子孫の征服説)と邪馬台国東征説・東遷説が見られる。

私の説(『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』、ブログ「霊の国の古事記論」)は、「薩摩半島の山幸彦(山人:やまと)の子孫の傭兵部隊の仕官を求めての移動説」であり、「若御毛沼命実在・東征否定説(傭兵隊移動説)」という「おおむね真実、一部虚偽」という第3の説である。


御毛沼命・若御毛沼命兄弟の移動は「東征」か「傭兵隊の移動」か?


 
 なお、第10代崇神天皇以前、第15代応神天皇以前、第26代継体天皇以前の3つの天皇非存在説についての検討はいずれまとめたいが、私の記紀判断の基準に照らし、神話時代を含めた登場人物については、実在人物をモデルに創作されたアマテラスを除き、ほぼ実在していた人物と考える。

 


2.神話時代の年代論について 

 皇国史観は神武即位を「BC660年」としたが、那珂通世は「AD元年」、久米邦武は「AD6年」、とし、高木修三氏は『紀年を解読する』(2000年)において「BC29年」、長浜浩明氏は『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』(2012年)において「BC70年」とした。

 これらに対して、記紀の年代分析において初めて統計的に科学的分析を行ったのは、安本美典氏である(図参照)。氏は古代の天皇、中世・近世の将軍、中国・西洋の王の在位年数から、古代大王の平均在位年数を約10年とし、神武即位を「AD271年頃」とする統計的な推定を行った。

 30〜40代天皇の即位年の直線回帰による私の追試では「AD277年」であり、私はこの安本説を全面的に支持する。


30〜40代天皇の即位年の直線回帰によるスサノオ大神・大国主神16代の即位年の予測


 なお、この記紀年代の統計的分析において、安本氏はアマテラスより前の王について検討されていないが、私は古事記神話が始祖としている天御中主までの分析を進めた。

 詳しくは前著『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』を参照いただきたいが、結論だけを述べると、AD57年の「委奴国王」の遣使、107年の「倭王師升」の遣使、「100余国を7〜80年支配した王朝」、146〜189年頃の「倭国大乱」、100余国のうちの30国をまとめた「卑弥呼」の238年の遣使、弟王との後継者争いで共立された「壱与」の266年の遣使との照合性について検討を行い、「委奴国王」はスサノオ、「倭王師升」は淤美豆奴(オミズヌ)、「100余国を7〜80年支配した王朝」はスサノオ・大国主王朝7代」、「倭国大乱」は大国主の後継者争い、「卑弥呼」はアマテラスと考える。


3.「神武東征」の時期について

 統計的な分析による安本氏の神武即位「AD271年頃説」(私は「AD277年頃」説)について、物証の裏付けはないのであろうか?

 その鍵となるのは、記紀に描かれた若御毛沼らの行動である。その記述は次の通りである。

@古事記:「その国(注:吉備国)より遷り上り幸(い)でましし時、亀の甲に乗りて、釣りしつつ打ち羽挙あげて来る人に、速水門(はすひのと)で遇(あ)ひき。・・・故、その国より上り行でましし時、浪速(なみはや)の渡を経て、青雲の白肩津(しらかたのつ)に泊(は)てたまひき」

A日本書紀:「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ。因りて、名付けて浪速国とす。亦浪花と言う。今、難波というは、訛れるなり。三月の丁卯の朔丙子(十日)、遡流而上りて、径(ただ)に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」

 この「速水門」「浪速の渡」「はやき潮」「遡流而上りて」「草香邑の青雲の白肩津」の記述がその時期を特定する鍵となる。


(1) 「速水門」はどこか?

 古事記の「速水門」は吉備出発後の記述であり、考えられるのは備讃瀬戸か明石海峡であるが、備讃瀬戸には「門」と呼べるような狭い海峡はなく、潮流も緩やかで、地形・海流の両方からみて「速水門」と呼べるような場所はない。「速水門」は幅4kmで両側の山が迫って「門」にふさわしく、潮流の早い明石海峡とみて間違いない。

 古田武彦氏は『古代は輝いていたU』において、明石海峡は「平穏、清明の海」とし、「速水門」に相応しいのは鳴門海峡としているが、これは全くの事実誤認である。四季、何十回と明石海峡を小さな渡し船で渡った私の経験でいえば、明石海峡の潮流は早い。


海上保安庁 六区豆知識「海の流れについて」


 海上保安庁のデータでみると、最大潮流は鳴門海峡10.5ノット、明石海峡6.7ノットであり、備讃瀬戸の3.4ノット、播磨灘の0.4〜0.5ノット、大阪湾の0.3〜0.5ノットと較べると、明石海峡を「速水門」と見るべきである。

 一方、日本書紀は「速水門」を筑紫の宇佐への途中に置いているので、豊予海峡(最大6ノット)になる。しかしながら、豊予海峡は14kmと広く、「門」と言えるような地形ではない。

 また、黒潮に洗われる笠沙半島を拠点にした隼人族(海幸彦)が豊予海峡を越えるのは苦もなかった筈であり、海岸沿いに行けば日向から宇佐、岡水門へと移動するのに迷うこともない。水先案内人を頼む必要があったとは思えない。

 舟で豊予海峡説(最大6ノット)や関門海峡(同9ノット)を越えるのは大変と思われるかも知れないが、下げ潮に乗れば楽々である。私は船折瀬戸(同9ノット=時速17q、村上水軍の根拠地の大島と伯方島の間の瀬戸)を潮流に乗って小型ヨットとカヌーで下ったことがあるが、広い海を早い潮流に乗って移動するのは、狭い川の急流を下るのと較べて何の危険もない。10〜20人乗りの丸木舟の舷側に板を張った重心の重い当時の舟なら、これらの海峡を通過するのに案内人は必要ない。仮に、どうしても下げ潮での通過が怖いなら、潮待ちして、12時間ごとの満潮時か干潮時の停潮期に渡ればよいがそんなことをする海洋民はいないであろう。

 奈良盆地にいて海を知らない日本書紀の編集者達は、若御毛沼たちが未知の海に東征の冒険に乗り出したことを印象づけるために、地形も潮流も舟も知らず、「速水門」を明石海峡から豊予海峡に変えたと見てよい。


(2) 「遡流而上りて」はいつの時代か

 若御毛沼らは2月11日(3月上旬)に吉備をたち、「速水門」を経て、「浪速の渡」を通り、3月10日に「白肩津」に着いたというのであるが、それは史実であろうか、史実ならいつの時代であろうか。孫引きデータで不安ではあるが、以下、検討したい(いずれ、原データにあたりたい)。

 前述の古田武彦氏の『古代は輝いていたU』によれば、弥生・古墳期(約1800〜1600年前:執筆当時から計算しなおすとAD185〜385年)頃の大阪には河内湖があり、若御毛沼らはこの河内湖を舟で進み、「白肩津」に着いたとしている。

 長浜浩明氏の『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』にはさらに詳しい図が紹介されているので、その図とHP「水都大阪」のデータを参考にさせていただくと、河内潟・河内湖・河内平野は、次の4つの時代に区分される。


A 河内潟時代(BC1050〜50):湾口が広い、海水湾の時代

B 河内湖汽水湖時代(BC50〜AD150):干潮時には湖水の水が海に流れ、満潮時には海水が侵入する汽水湖の時代

C 河内湖淡水湖時代(河内湖1の時代、AD150〜350):湾口が狭まって海水の流入がない淡水湖の時代

D 陸地化時代(AD350〜):陸地化が進む時代


 日本書紀は「遡流而上りて、径(ただ)に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」としているが、それはどの時代のことであろうか?

 まず、河内潟時代(BC1050〜50)は、河内潟は満潮時も干潮時も海水が満ちており、広い流路で外海と内海は結ばれ、「遡流而上りて」はありえない。


AD185〜385頃の河内湖(古田武彦著『古代は輝いていたU』)


BC1050〜50の河内潟(長浜浩明著『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』)

          
 AD150〜350年頃の河内湖T(前同)


 5世紀以降の大阪平野(HP「水都大阪」より)


 次の、河内湖汽水湖時代(BC50〜AD150)は、「浪速(なみはや)の渡」のあたりで湾口は狭まり、満潮時には上げ潮が湖内に流入し、干潮時には下げ潮が湖内から流出する。

 想定される当時の「河内湖」より大きさがやや小さい浜名湖(日本1の汽水湖)でみると、上げ潮の速さは2ノット(1m/s)、下げ潮は3〜4ノット(1.5〜2.0m/s)で、その潮流の範囲は湾口からわずかに前後それぞれ1qほどの狭い範囲である(伊東啓勝他「インレット周辺の流況特性把握調査」(『水路 第154号』より)。

 この下げ潮の3〜4ノット(1.5〜2.0m/s)というと、軽いカヌーの中速であり、この程度の流れなら簡単に漕ぎ上ることができる。カヌーや競技用ボートが高速で8〜10ノット(4.0〜5.0m/s)程度、26人の漕ぎ手のペーロン船が9ノット(4.5m/s)程度とされているから、汽水湖の下げ潮に逆らっても、特に苦労することもなく遡ることができる。私は琵琶湖の水がただ1カ所流れ出る瀬田川(流速は確かめられなかった)をエイトで何度も往復したことがあるが、軽い性能のいい競技艇ではゆっくり漕いでも楽に流れの速い瀬田川を遡ることができた。

 ただ、浜名湖には流入する大きな川はないのに対し、河内湖には滋賀・丹波・京都・奈良の広範囲な流域から水を集める淀川や木津川、大和川などから流入しており、若御毛沼たちが漕ぎ上ったのが冬の渇水期とはいえ、大阪湾への流出口の水流は浜名湖よりはかなり早かったに違いない。

 若御毛沼らが10〜20人ほどの重い準構造船(丸木舟の舷側に板を張って高くしたもの)を「遡流而上りて」漕ぎ上るとなると、その通過時期はAD150〜350年の河内湖淡水湖時代とみて間違いない。

彼らには急流の浪速の渡を漕ぎ上ったことが強く印象に残り、「遡流而上りて」と伝わった可能性が高い。

 繰り返しになるが、大阪湾と河内潟が広い湾口でつながっていた河内潟時代や、上げ潮のある汽水湖時代には、「遡流而上りて」という表現はでてこないであろう。


(3) 「草香邑の白肩津」はどこか?

 「草香邑の白肩津」については、生駒山麓の日下町を当てる説が多いが、私はそこから2.3qほど下った「枚岡」を比定する。「7」を「しち」「ひち」と発音する例などからみて、「しらかた津」は「ひらかた津」の可能性が高く、この地を奈良の登美・春日への最短距離の奈良街道が通っていたことからみても、白肩津は「枚岡」の湖岸にあった港(津)の可能性が高い。

 その時代は生駒山麓の陸地化が進んだ河内湖淡水湖時代(AD150〜350)ではありえない。その時代が河内湖汽水湖時代(BC50〜AD150)であることは、「白肩津」からも裏付けられる。

 完全に陸地化した後の8世紀の記紀作者が、「浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊てたまひき」「遡流而上りて、径に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」というような文章を創作することができないことは言うまでもない。これらの記述には、8世紀の記紀作者が知ることのできない「秘密の暴露」が見られる。

 以上、「速水門」「はやき潮」、「浪速の渡」「遡流而上りて」「白肩津」という記紀の記述は後世の創作ではなく、若御毛沼らがAD150〜350年の河内湖T時代にこの地にきた実際の体験であることが明らかである。

これは、安本氏の統計的分析による神武即位「AD271年頃説」(私は「AD277年頃」説)を裏付けている。

いわゆる「神武東征」は、卑弥呼時代より後になり、神武即位「BC660年説」「BC70年説」「BC29年説」「AD元年説」「AD6年説」は全て成立しない。


4.「浪速国」の地名由来について

 日本書紀の「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ。因りて、名付けて浪速国とす。亦浪花と言う。今、難波というは、訛れるなり」という若御毛沼による地名命名説話は、記紀や風土記の天皇命名地名の怪しさを示している。

 日本書紀の編集者は古事記の「速水門」=明石海峡を豊後水道に置き換えたために、その代わりに明石海峡を「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ」とし、若御毛沼が「名付けて浪速国とす」としたが、明石は播磨の地であり、この地を浪速と名づけることはありえない。そもそも古事記は「浪速(なみはや)の渡」という地名を載せており、若御毛沼らがこの地に来る以前から、「浪速」「難波碕」の地名があったことは明らかである。

 なお、私は安本美典氏の北九州から奈良盆地への「地名ワンセット東遷」の指摘は重要と考えるが、九州の地名を持ってきた人々は、もっと前のスサノオ・大国主一族であると考える。「地名ワンセット東遷」を「神武東遷」の証拠とすることはできない。

 若御毛沼らの「東征」より先にこの地に「浪速」地名があったことが、それを証明している。


5.「草香邑の白肩津」の由来について

 前述のように「白肩(しらかた)津」は「枚潟(ひらかた)津」であったと私は考えるが、「枚潟」というと、関西の人は淀川を遡った「枚方」と考え、「牧」の当て字から「牧場」のイメージを持つかも知れない。

 しかし、「草香邑の白肩津」となると、「日下(くさか)」の南にある「枚岡」の麓の「枚潟」(平潟)にあった「津」(港)とみて間違いない。この地に、河内国一之宮の枚岡神社があることと、奈良街道が通っていたことからみて、河内湖時代にはこの地が重要な拠点港であったことが明らかである。

 大国主を「国譲り」させて後継者となった「天穂日神」の子の「天日名鳥命、天夷鳥命、武日照命」が「天比良鳥命」とも言われることからみて、「枚=比良」は「日名(夷、日)」と同じであった可能性がある。「はら(腹、原)」「あちら、こちら」の「ら(羅)」は、「はな(鼻)」「ひな(女性の性器=霊(ひ)の宿る所)」などの「な(那、奈)」と同じく、「場所、土地」を示すからである。

 記紀によれば、「ひ=日=霊(祖先霊)」であることから考えると、「比良」は「霊羅」で「霊(ひ)の降り立つ聖地」という意味になる。「天日名鳥命」が「出雲祝神」とも呼ばれていることから考えると、この「枚潟(ひらかた)津」は出雲族の祖先霊(磐霊(いわひ):磐座(いわくら)に宿る祖先霊)を祀る聖地であった可能性が高い。

 若御毛沼らを傭兵として受け入れず、追い返した「長髄彦(ながすね)彦」が「登美能那賀須泥毘古」と書かれていることをみると、「長髄彦(ながすね)彦」(森浩一氏は「長洲根彦」説)はこの地から生駒山を越えた登美にかけて支配した王であり、この地はその交易と祖先霊信仰の拠点であった可能性が高い。

 さらに、「草香邑」は現在、「日下(くさか)」の地名として残っているが、出雲市の日下には、出雲国風土記に登場する古社の「久佐加神社」があり、「草香邑」はこの地からきた出雲族の居住地であった可能性が高い。枚岡神社の所在地が「東大阪市出雲井町」であることや、「青雲の白肩津」という記紀の記述と合わせて考えると、この地が大国主の子孫の王の拠点であったことは確実であろう。

6.「亀に乗ったサヲネツ彦」のいわゆる「神話的表現」について
 古事記には、早水門で「亀の甲に乗りて、釣りしつつ打ち羽挙げて来る人に遇(あ)ひき」に会った、という印象的な記述が見られる。

 この記述から、「神武東征は、亀に乗った浦島太郎伝説をもとに作られた」というような結論を導き出すことはできるであろうか?


 まず「亀の甲に乗りて」は次のような現実的な解釈が可能である。

 第1の仮説は、「亀の形のような幅広型の舟に乗って釣りをしていた漁師」の伝承が、「亀の甲に乗りて」に変わった可能性である。

 第2の仮説は、「亀の甲羅のような板舟(幅広のサーフボード)に乗って釣りをしていた漁師」の伝承が、「亀の甲に乗りて」に変わった可能性である。

 第3の仮説は、「桶の舟(たらい舟)に乗って釣りをしていた漁師」の伝承の「桶」が「瓶(かめ)」に変わり、さらに「亀」に変わって、「亀の甲に乗りて」となって伝わった可能性である。「桶から瓶」、「瓶から亀」への「伝言ゲーム」ミスである。

「浦島太郎伝説をもとにした創作説」が成立するためには、この3つの説を否定しなければならない。

 さらに、「打ち羽挙げて来る人」(打羽挙来人)がある。まず亀に乗って竜宮城に行き来した「浦島太郎伝説引用説」ではこの部分は説明が付かない。しかしながら実際の舟を想定すると、「打羽」は帆船の「帆」となり、合理的な解釈が可能である。「うちわ・うちは(団扇)」の語源は「打ち羽」とされており(『日本語源大辞典』)、この風を起こす道具は風を受ける道具でもある。

 「サオネツ彦」は浦島太郎のように亀に乗った人ではなく、帆を張った「亀型の幅広舟」か「板舟」、「たらい舟」に乗った漁師の可能性が高い。それは、九州沿岸に見られる舟ではなかったために印象深く言い伝えられたものと考えられる。

 若御毛沼兄弟らは、浦島太郎のような空想的な神話上の人物ではなく、釣りをしていた漁師に若御毛沼らが「汝は海道を知るや」と、「浪速の渡」から「白肩津」への水路の案内を頼んだとみるのが妥当である。


7.「神武東遷」について

 以上の検討結果をまとめると、「若御毛沼傭兵部隊東遷」について、次の事実が明らかである。

@ 「浪速の渡」「遡流而上りて」「白肩之津」の記述は、8世紀の記紀編集者の創作ではなく、河内湖淡水湖時代(河内湖1の時代:AD150〜350)の印象的な体験談である。

A 若御毛沼による「浪速国」の地名由来は、日本書紀編集者の創作である。

B 「草香邑の青雲の白肩之津」の地名は、この地の王が出雲の大国主の子孫の可能性が高いことを示している。

C 「亀に乗ったサヲネツ彦」は「浦島太郎伝説」を元にした後世の創作ではなく、実際の印象的な体験談(伝承の過程で変容した可能性が高い)である。


8.神武東遷時期の確定は「邪馬台国畿内説」を否定する

 以上の検討により、若御毛沼傭兵部隊の奈良盆地への移動は「AD271年頃」(私はAD277年頃)より少し前となり、神武即位「BC660年説」「BC70年説」「BC29年説」「AD元年説」「AD6年説」は全て成立しない。
 この結果は大きい。

 邪馬台国畿内説の崩壊である。卑弥呼(248年頃死亡)の時代より、少し後の271〜277年頃に「神武傭兵部隊の東遷」があったことが証明されるからである。

 神武より8〜14代後の倭迹迹日百襲(ヤマトトトヒモモソ)姫(第7代孝霊天皇の皇女)や倭姫(第 11代垂仁天皇の皇女)、神功皇后(14代仲哀天皇の皇后)を卑弥呼(248年頃死亡)とする畿内説の全面崩壊である。

古事記によれば、天照大御神からオシホミミ命―ニニギ命―ホホデミ命―ウガヤフキアエズ命―若御毛沼命(神武)と続くが、アマテラスは「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で生まれ、ニニギ命・ホホデミ命・ウガヤフキアエズ命は薩摩半島の笠沙で死んでいる。アマテラスは大和とは無縁である。

 なお、言うまでもないが、記紀神話創作説や2〜9代天皇の「欠史8代説」を採用するなら、天照大御神や倭迹迹日百襲(ヤマトトトヒモモソ)姫、倭姫などを歴史上の人物として論ずることがそもそもナンセンスである。記紀からアマテラスだけを「つまみ喰い」するような行儀の悪い考古学者やそれをもてはやす朝日・NHKなどのマスコミ人がいることは、この国の知性の崩壊状況を示しているといわざるをえない。  141019 帆人(日向 勤)
http://hinakoku.blog100.fc2.com/blog-entry-70.html

6. 中川隆[-8482] koaQ7Jey 2019年9月09日 07:52:26 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4295] 報告
2019年09月09日
Y染色体ハプログループDの改訂

 恥ずかしながら、3ヶ月近く前(2019年6月19日)に遺伝子系譜学国際協会(ISOGG)がY染色体ハプログループ(YHg)Dの分類を改訂していた、と先週(2019年9月第2週)知りました。YHg-Dは世界でも珍しく、日本人の「特異性」の遺伝的根拠として、「愛国的な」人々がよく言及しているように思います。そのため、現代日本社会ではYHg-Dへの注目度が高いようで、このYHg-Dの改訂も「愛国的な」人々の一部の間では割と早くから知られていたようです。

 具体的な改訂点ですが、現代日本人で多数派のYHg- D1b1がD1a2aに変更されています。「縄文人」で確認されているD1b2はD1a2bに変更されています。なお「縄文人」では、現代日本人で多数派のD1a2a(旧D1b1)はまだ確認されていません(関連記事)。これは、現代日本人のD1a2aが弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した可能性を示唆します(関連記事)。もちろん、現時点では東日本の「縄文人」でしかYHgは確認されていないので、今後西日本の「縄文人」でD1a2aが確認される可能性は低くないでしょう。しかし現時点では、現代日本人のD1a2aが「縄文人」ではなく弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団に由来する、という想定も有力な仮説の一つとして扱われるべきだと思います。なお、チベットで多数派のD1a2はD1a1bに、フィリピンで見られるD2はD1bに変更されています。

 このように変更された理由は、今年6月10日に公開された研究(Haber et al., 2019B)で、じゅうらいはYHg-DE*とされていたナイジェリア人の系統が、YHg-D0と新たに分類されたためだと思います。新たに提唱された分類名なので、既存の分類名を優先して整合的な分類とするため、D0と提唱された系統はD2にされたのだと思います。この研究は、じゅうらいのYHg-Dの名称を変更せずにすむように、D0という分類名を提案したので、そのままにしておけばよいのではないか、とも思うのですが、門外漢の私が的外れなことを言っているだけかもしれませんので、抗議するつもりも、否定してじゅうらいの分類名を使い続けるつもりもありません。


参考文献:
Haber M. et al.(2019B): A Rare Deep-Rooting D0 African Y-Chromosomal Haplogroup and Its Implications for the Expansion of Modern Humans out of Africa. Genetics, 212, 4, 1241-1248.
https://doi.org/10.1534/genetics.119.302368

https://sicambre.at.webry.info/201909/article_24.html

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日本人のガラパゴス的民族性の起源 Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 ツリー
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-1.htm

日本人のガラパゴス的民族性の起源 mtDNAハプロタイプ 2019年5月取得ツリー増補版
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-1.htm

日本人のガラパゴス的民族性の起源 2018/10/18 日本人の源流考 v1.6
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

7. 中川隆[-11124] koaQ7Jey 2019年9月30日 12:08:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1696] 報告


日本人のガラパゴス的民族性の起源 2019/9/29
0-2. 日本人の源流考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2


v,1.7  しばらく古人類学の情報収集をさぼっていたら、新しいDNA分析技術が登場し、歯の化石からDNA解析ができるようになっていました。 記事「1-19.メラネシア人のデニソワ人度」を調査の中で、縄文人の中の海洋性ハンターの姿がより理解できる知見がありましたので、Rev.Upしました。

0.はじめに

  当ガラパゴス史観が、Y-DNAとmtDNAの分化のツリー調査を進めて行く中で、ホモサピエンスの歴史自身をもう少し深堀したい疑問が生じてきました。

・何故、ホモサピエンス始祖亜型のY-DNA「A」やY-DNA「B」はその後現代にいたるまで狩猟採集の原始生活から前進せず、 ホモエレクトスの生活レベルのままだったのか?

・出アフリカを決行した結果、分化した古代4亜型の中でY-DNA「D」、Y-DNA「E」やY-DNA「C」などの、 オーストラリア、ニューギニアやアンダマン諸島、アフリカなどの僻地に残った集団も、 現代に至るまで何故「A」,「B」同様、狩猟採集から抜け出せなかったのか?

・彼らは本当にホモサピエンスになっていたのだろうか?我々解剖学的現代人類はアフリカ大陸で ホモサピエンスに進化してから出アフリカしたと思い込んでいるが、もしかすると出アフリカ後に、 ネアンデルタール人との遭遇で現代型に進化したのではないか?

1.ネアンデルタール人の出アフリカから始まったようだ。

  ネアンデルタール人は、ホモサピエンスの亜種か異種と議論されています。 最新の知見では、80万年前頃にホモエレクトスから、ネアンデルタール人とホモサピエンスの共通の祖先と考えられる草創期のネアンデルタール人 (旧ホモハイデルベルゲンシス)が出現し、60万年ぐらい前には出アフリカし、先輩人類としてユーラシア大陸に拡がったらく、 そして40万年前頃にネアンデルタール人の東アジア型のデニソワ人が地方型として分化し、 ホモサピエンスと交雑し出アジアしてメラネシアに拡がったようなのです。

  注:ホモエレクトスの進化型古人類と思われていたホモハイデルベルゲンシスが最新技術による遺伝子解析の結果、 草創期のネアンデルタール人と判明しました。このためネアンデルタール人の出現が、 ホモハイデルベルゲンシスの出現年代とされていた80万年前頃に一気に遡りました。

  注:デニソワ人はあくまでネアンデルタール人に包含されるというのが極最新の見解のようです。

  そして草創期の原ホモサピエンスは50万年前頃には既に出現していて、30万年前頃にホモサピエンス最古のコイサン集団の祖先が出現し、 その後何度も出アフリカを行っていたが、6-7万年前頃の最後の出アフリカが、 我々を含む解剖学的現代人類(Anatomically Modern Human)を形成したようです。 そしてネアンデルタール人は、10-3万年前頃にホモサピエンスと各地で交雑し、3万年前ぐらいには絶滅した、という見解になっています。

この2種類の人類種の分類の見解は研究者によって異なり、亜種扱いの場合は、

  ホモ・サピエンス・サピエンス<===>ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスと分類され、 あくまで別種と考える場合は、

  ホモ・サピエンス<=========>ホモ・ネアンデルターレンシスと分類されます。

  しかし最新の技術は、現代人類の遺伝子の2−4%はネアンデルタール人から受け継いでいることを解明しました。 東アジア人の比率が最も高く、次にヨーロッパ人で、東南アジア人は意外に低いそうです。 その後、現生人類の先祖が、スタンフォード大学の研究では2000人程度の規模で、出アフリカしユーラシアに拡がるまでに、 ネアンデルタール人の歴史は既に60万年程度は経過しており、 その間にネアンデルタール人はユーラシア各地で亜種に近いぐらい分化していたと考えられ、 アジアで発掘されたデニソワ人はネアンデルタール人の東アジア型と考えられ始めています。 しかも研究ではデニソワ人の遺伝子がメラネシア人に6%も受け継がれている、ことまで判明しています。

  またネアンデルタール人にはホモサピエンスの遺伝子が20%も含まれていた、と言う報告まであります。

  これはつまり現代人類は既にある程度の高度な文化を築き上げていたネアンデルタール人との亜種/異種間交雑の結果、 進化の爆発が起こり現ホモサピエンスとして完成したのではないかと考えるのが妥当なのではないかと思われます。

  また大きなトピックスとして、解剖学的現代人類のY-DNA分化ツリーにネアンデルタール人とデニソワ人の亜型がとうとう組み込まれました。 一方、ネアンデルタール人とデニソワ人のmtDNAは解剖学的現代人類には受け継がれていないことも判明しました。
  つまり、ネアンデルタール人、デニソワ人と解剖学的現代人類はY-DNAで完全に直列で繋がっている、と言うことになりますが、 女系を表すmtDNAでは断絶している、と言うことになります。

  ネアンデルタール人とホモサピエンスは異種か亜種かという問題に対し、ネアンデルタール人のY-DNAの変異型も特定され ホモサピエンスのツリーとつながったということは、少なくとも異種ではないという結論になります。 あえて言えば、ネアンデルタール人とデニソワ人の男性はホモサピエンスの男性と亜種ほどの違いもなく、 「頑丈型」と「華奢型」の違い程度に過ぎないため交配しても子孫を残せた、ということになります。

  一方女性に関しては異なり、進化は女性から始まると考えられるため、ネアンデルタール人とデニソワ人の女性はホモサピエンスの女性とは 異種ぐらい異なる進化段階になってしまっていたのでしょう、だからホモサピエンスの男性とネアンデルタール人とデニソワ人の女性の組み合わせでは 子孫が残らなかったのだろうと欧米の研究者は考えているようです。

いやはや遺伝子解析の技術の進歩は目覚ましいものですね。当ガラパゴス史観がRNAとリボソームの研究をしていたころとは 全く時代が変わっています。

2.原ホモサピエンスから現ホモサピエンスへ脱皮したのではないか!

  我々現代人(解剖学的現代類)の祖先は、共通の祖先である草創期のネアンデルタール人からネアンデルタール人が先に進化し 出アフリカした後も進化に出遅れアフリカ大陸に残存していた草創期のネアンデルタール人の中で、 50万年前頃にとうとう草創期のホモサピエンスが出現し、30万年前頃には原ホモサピエンスであるコイサン集団が出現したようです。

  しかも出アフリカは20数万年前頃には既に行われ遺跡が発掘されています。 また最近の発掘調査では、10万年前ごろにはすでにレバント地域に移動していたらしく、8万年前頃には中国南部に到達していたと報告されています。 以前の5−6万年前頃に最終出アフリカしたのではないかという見解が、今は6-7万年頃と遡ってきているのは 今後まだまだ新しい研究報告がある予兆と思われます。

  いずれにせよ、80万年前に現れた草創期のネアンデルタール人(旧ホモハイデルベルゲンシス)が共通の祖先となり、 60万年前頃にネアンデルタール人が先に出アフリカし、50万年前頃に原ホモサピエンスが現れたのだろうと考えられる。

  最新のY-DNAツリーは、

Y-DNA「Adam」からY-DNA「A0000」(デニソワ人)が分化し、
Y-DNA「A000」(ネアンデルタール人)が分化し、
Y-DNA「A00」(コイサン集団)が分化し、更に「A0」、「A」と分化が進み、
Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分化し、
Y-DNA「BT」がY-DNA「B」とY-DNA「CT」に分化しましたが、

  この「A」と「B」は原ホモサピエンスの始祖亜型と考えられます。

Y-DNA「CT」が出アフリカし、Y-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分化しました。
  これは中近東あたりで先住ネアンデルタール人との交雑の結果と考えられます。
  この「C」、「D」、「E」 は古代性を強く残した狩猟採集民として、近年まで残ってきました。

  注:デニソワ人がネアンデルタール人の地方型として分岐したのは40万年前頃と解析されていますが、 解剖学的現代人類に組み込まれたネアンデルタール人の遺伝子はもう少し後年の集団からと考えられているようです。

 つまりY-DNA「A」と「B」はホモサピエンスではあるが完成形ではない原ホモサピエンスと言っても良いかもしれません。

 西欧列強が世界中を植民地化するべく搾取活動を続けているときにわかったことは、 アフリカ大陸やニューギニア・オーストラリアやアンダマン島の先住民は、 何万年もの間、古代のままの非常に素朴な狩猟採集民の文化レベルにとどまっていた、ということでした。

  研究調査からかなり高度な文化・技術レベルに達していたと判ってきているネアンデルタール人と比べると、 分類学的な現代人類/ホモサピエンスに進化したというだけではホモ・エレクトスとさほど変わらない文化レベルだったという証明でしょう。 つまり脳容積がホモエレクトスより大きくなったり、会話が出きるようになったレベルでは、同時代のネアンデルタール人より華奢な、 しかし可能性は秘めている後発人類に過ぎなかったようです(しかし体毛は薄くなり、前頭葉が発達し、見た目は多少現代人類的ですが)。

  では一体、なぜ解剖学的現代人類は現代につながるような文明を興すほど進化できたのだろうか?大きな疑問です。 一部の王国を築いた集団を除いた、古ネイティブ・アフリカンは大航海時代になっても、狩猟採集民でしかなかったのです。 その後西欧列強と出会わなければ、今でも狩猟採集のままのはずです。

  このことは、文明と言うものを構築するレベルに達するにはホモサピエンスになったというだけではなく、 何か決定的なブレークスルーのファクターがあったはずです。

  ネアンデルタール人と原ホモサピエンスの亜種間交配の結果、進化の爆発が起こったと推測するのが今のところ最も妥当です。

  出アフリカした先輩人類のネアンデルタール人と交雑し、ネアンデルタール人がすでに獲得していた先進文化を一気に取り込むことに成功し、 恐らく人口増加率(繁殖力)が圧倒的に高い原ホモサピエンスの中にネアンデルタール人が自然吸収される形で統合化されたのが 完成形の現ホモサピエンスと考えるのが最も妥当性が高いのです。 (この繁殖力の高さが解剖学的現代人類の勝ち残った理由なのではないか、想像を逞しくすると、交配の結果得た後天的な獲得形質かもしれません。)

  もし出アフリカせずネアンデルタール人とも出会わずアフリカの中に留まっていたら、 人類は相変わらず19世紀ごろのサン族やピグミー族のように素朴な狩猟採集段階に留まっているだろうと容易に推測できますが、 北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 ホモサピエンスが出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。 つまりホモサピエンスが出アフリカし狩猟採集文化から脱し、現代文明にまで至ったのは必然だったということかもしれませんね。

注: 記事「18-4. ホモサピエンスとは人類学上何者なのか」
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-24,17-8,18-4.htm#18-4

で触れたように、最新の研究で、ネアンデルタール人とデニソワ人の Y-DNAの変異型が同定され、恐らく80万年前頃と考えられるようになったY-DNA「Adam」に続き、デニソワ人とネアンデルタール人が 分化のツリー上に配置されるようになったのですが

(「1-1. Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 ツリー」を参照ください)、

http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-1.htm

注: 一方mtDNAツリーでは、デニソワ人とネアンデルタール人のmtDNA変異型は全く検出されず、 おそらくデニソワ人女性とネアンデルタール人女性とサピエンス男性との交配では恐らく子孫ができなかったか、出来ても 生殖能力が無かったのだろう、と欧米の研究者は考えています。

  これはサピエンスとネアンデルタール人の男性は「華奢型(きゃしゃ型)」と「頑丈型」の違いくらいしかなく、亜種ほどの違いもなく、 せいぜい地方型の違いくらいで同種であったと考えるほうが最も合理的です。一方進化は女性から始まるので、ネアンデルタール人の女性と サピエンスの女性は異種と言ってよいほど分化し、子孫を残せなかったのだろうと推測できます。

   3.日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子集団:Y-DNA「D」と「C」
  注:実はまだ残っている疑問があります。古代性を近代まで残していた古代遺伝子Y-DNA「C」、「D」、「E」は現ホモサピエンスの段階に 至っておらず、原ホモサピエンスに留まっていたのではないか、そしてY-DNA「F」がインド亜大陸周辺でネアンデルタール人やデニソワ人と交雑し、 やっと現ホモサピエンスの段階に進化したのではないかという疑問です。これは極めて大胆な推測ですが、 これに関する知見、否定する知見はまだ全く報告されていません。

  Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。

  移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 始祖亜型である原ホモサピエンスの先住民の中に入り込み、始祖亜型Y-DNA「A」と「B」のネイティヴ・アフリカン集団の中に 古代亜型Y-DNA「E」の遺伝子が混在するようになっています。

  注:アフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」がアナトリア、中近東から南下してきて、更に新しい集団として 現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部を形成しています。

  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのでしょう。

  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至りました。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのでしょう。

  一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、 そこから北上し現在の中国大陸に到達した。 その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し 現代までJarawa族やOnge族などの絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきています。 Y-DNA「D」は基本的に古代性の強い狩猟採集民と考えてよく、日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いないです。

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人(アジアにいたのは恐らくデニソワ人か?)と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できます。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えてよいでしょう。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸内で拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族、Lani族やDani族などニューギニアの先住民集団やオーストラリア・アボリジニ集団、 つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っています。 そして5万年前にはオーストラリアに到達していた集団の遺跡から回遊魚のマグロの骨が東海大学らの調査により発見され、 Y-DNA「C」は沿岸を船で移動できる海洋性ハンター集団だったと考えられます。 従ってサフール大陸に到達したY-DNA「C」集団は更にそのまま船で海に漕ぎ出し、ポリネシア全土に拡大していったようです。 ポリネシアのY-DNAの主要亜型として検出されるY-DNA「C」は、実は縄文の海洋性ハンターY-DNA「C」と同じ亜型です。 日本列島で検出される、海洋性ハンター遺伝子Y-DNA「C」亜型は、現代ポリネシア人と同じ先祖から分離したことになります。

注:一部の日本人の持つ海洋性気質は、このポリネシア人と共通の祖先から受け継いだ気質と言っても差し支えないでしょう。

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大しました。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われます。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大です。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのです。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔です。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できます。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となったようです。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられます。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのでしょう。

  日本の民話とチベットの民話には共通性がかなりありますが、これらはY-DNA「D」が伝えてきた民話と考えて差し支えないでしょう。

  しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていません。 どうやら途絶えてしまった可能性が高い、もともと海洋性の遺伝子なので、内陸の高地は居住適地ではなかったのかもしれません。。 いやもしかすると火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高い。そしてY-DNA「D」のようにチベット高原のような高高地に適応できず 途絶えてしまったのかもしれないですね。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」が そのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 サハリンや北海道に留まった集団は古代アイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。
  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような 移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。 最も頻度が高いのはTanana族である、約40%もの頻度を持つ。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、 大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。

4.長江文明系稲作農耕文化民の到来

  さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

  古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した現代遺伝子亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、 Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分化しインダス文明を興し、後にドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。 Y-DNA「T」からは後のジェファーソン大統領が出自している。

  Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「K2a(NO)」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。 このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く70-80%も残されており、テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。

  しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子は Y-DNA「R1a」,「R1b」,「J2」などに変貌している為、東アジア起源の面影は全くない。 唯一タタール人に若干の面影が残っているが、今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も40%以上も残っている。やはり移動性の強い遺伝子のようだ。

  さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている事は研究者の周知である。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えない(当史観は環境適応はあくまで「適応」で 「進化」とは違うと考えるが、ラマルクの後天的獲得形質論も進化論といわれるので、進化の一部ということにします。 (余談ですが、人類(動物)は体毛が減少する方向に進んでいるので、実は禿頭/ハゲ頭も「進化形態」である事は間違いない。)

  この東北アジア起源のY-DNA「O」は雑穀栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。

  一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」(旧「O2a」)と「O1b2」(旧「O2b」)が分化し稲作農耕は発展したようだ。 このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

  長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し江南から更にベトナムへ南下し、 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 ほぼ純系のY-DNA「O1b1」が残っているのはニコバル諸島 (Y-DNA「D*」が残るアンダマン諸島の南に続く島嶼でスマトラ島の北に位置する)のShompen族で100%の頻度である。

  また南インドのドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、 越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。 カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、ドラヴィダ民族(特にタミール人)に 長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、その結果、学習院大学の大野教授が 日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となったが、 こんな遠くまで稲作農耕民が逃げてきたことを間接証明した功績は大きい。

  一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。 この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州族で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州族の14%は、満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い(恐らく起源は同一集団)要因となっている。 北朝鮮はツングース系遺伝子の分布が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。 過去の箕子朝鮮や衛氏朝鮮が朝鮮族の起源かどうかは全く分かっていないが、呉系稲作農耕民が起源の一つであることは間違いないだろう。

  長江流域の呉越の時代の少し前に江南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、インド亜大陸でY-DNA「O1a」はほとんど検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは台湾のほとんどの先住民、フィリピンの先住民となんと日本の岡山県である。

  岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として 混在して来たのか単独で来たのか?岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は 楚系文化の名残と推測可能で、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。 台湾やフィリピンの先住民の民話を重点的に学術調査するとわかるような気がしますが。

5.黄河文明系武装侵攻集団の到来

  狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島での中国王朝出先機関内の生き残りの戦いに敗れ逃れてきたのが、 Y-DNA「O2」(旧「O3」)を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、 長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「郡」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

  朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ追い出される形で日本列島に逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でも、また黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。
  この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていた戦闘要員としてのツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」であろう。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など 朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた騎馬を好む好戦的な集団と推測できる。

  この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の朝鮮半島の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由である。

  一方、韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」,Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」,「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。

  一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 特有の征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。

6.簡易まとめ

  日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、 一方過去の武士団や維新前後の武士や軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 日本人を構成するもともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。


  日本人の3つの源流は、

  ・日本列島の中で約1万年以上純粋培養されてきた大多数の素朴な狩猟採集民と少数のハンターの縄文系、

  ・中国大陸から僻地の日本列島にたどり着き、集団の和で結束する水田稲作農耕民の弥生系、

  ・朝鮮半島を追い出された、征服欲出世欲旺盛な大王系/武士団系の武装侵攻集団系、


  個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの古代遺伝子(縄文系、しかも女系遺伝するmtDNAでは何と約67%が 縄文系のmtDNA「M」系なのです。)が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。 もしこの縄文系遺伝子がなければ、日本列島と朝鮮半島及び中国はほとんど同一の文化圏と言って差し支えないでしょう。 それだけ縄文系遺伝子がもたらした日本列島の基層精神文化は、 日本人にとって世界に冠たる独特の国民性を支える守るべき大切な資産なのです。

7.後記

  これまで独立した亜型として扱われてきた近代亜型のY-DNA「L」,「M」,「N」,「O」,「P」,「Q」,「R」,「S」,「T」は、 現在、再び統合されてY-DNA「K」の子亜型Y-DNA「K1」とY-DNA「K2」の更に子亜型(孫亜型)として再分類される模様です。 つまり独立名をつける亜型群として扱うほど「違いが無い」ということなのです。

  ところがこのY-DNA「K」は、我々極東の代表Y-DNA「O」や西欧の代表Y-DNA「R」や南北ネイティヴアメリカンの Y-DNA「Q」等が含まれているのです。とても遺伝子が近いとは思えないのです。では何故これほど外観も行動様式も異なるのだろうか?

  これらの亜型群は、何十万年の歴史でユーラシア大陸の各地で亜種に近いほど分化していたと考えられている ネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNA亜型を受け継いだだけの可能性も十分にあるのです。 西欧と極東であまりにも異なる外観や行動様式などの違いの原因を亜種間の接触に求めるのは荒唐無稽とは言えないでしょう。

  何しろネアンデルタール人もデニソワ人もホモサピエンスも元をただせばホモエレクトス出身で当然Y-DNAもmtDNAも 遺伝子が繋がっているのだから。Y-DNAではホモサピエンス、ネアンデルタール人やデニソワ人は既に1つのツリーに統合され始めています。 しかし、mtDNAは母系の断絶が確認されていて、ホモサピエンスとは繋がっていません。もしネアンデルタール人との接触がもっと遅く、 ネアンデルタール人男性の分化も進んでしまっていたら、Y-DNAの断絶もあったかもしれません。

8.余談

  (極めて余談ですが、北方系極東人の多くは寒冷地適応や黄砂適応を受け、フラット顔になってはいますが、 中国で発掘される古代人骨はほとんどコーカソイド顔であり、フラット顔は後天的獲得形質であることは研究者達が認めています。 日本人にはこの後天的獲得形質を獲得してから日本列島に渡ってきた集団が多かったことを示しています。 日本人の胴長短足は、高身長の弥生系と武装侵攻系の上半身と小柄な縄文の下半身の交雑の結果に過ぎず、日本人に意外に多い反っ歯や受け口も 弥生系の細身の顎に縄文系のがっしり歯列が収まりきらず前に出てしまっただけであり、親知らずは逆に出られなかっただけです。

  また日本人固有の古代的なホスピタリティは、縄文系である古代亜型Y-DNA「D」と「C」(合計で日本人男性の出現頻度約45%を占める) 及びmtDNA「M」(合計で日本人全体の約67%を占める)の固有の特質であり、近代亜型群の特質ではありません。 つまり特に日本人と他の民族との違いのほとんどは、この縄文系遺伝子の伝えてきた極めて古代的な、 狩猟採集民やハンター民の持つ行動様式や思考回路のもたらす結果に帰することは疑いようがありません。

  もし、天孫族や武士団族が朝鮮半島から負け組として追い出されてこなければ、日本列島は徳川時代の高度な文化もなく、 当時世界最大の都市だった江戸もなく、容易に西欧列強の植民地になっていたでしょう。つまり極めて残念なことですが、 日本人の世界に冠たる高度な技術力や文化性は、日本列島の3重遺伝子構造を構成する遺伝子の中で最後にやってきた Y-DNA「O2」(旧O3)がもたらしてきたものなのです、中国や韓国と支配階級が同じY-DNA「O2」遺伝子なのに結果が異なってきたのは、 常に外敵との抗争や侵略に脅かされ、技術や文化の熟成が近代までに確立「出来なかったか/出来たか」の違いなのでしょう。)

9.時代の趨勢

  3.3 Y-DNA「R1b」に書いた文章を復誦します。

  極めて明らかなことは、国・国民が先進的になるには純系民族では無理なのです。辺境民化してしまいエネルギーが低すぎるのですが、 競う共存遺伝子の種類が多ければ多いほど集団エネルギーが高くなり、国の活性度が上がり、覇権に向かうのです。 アジアの中で唯一近代化に成功した日本は縄文系−弥生系(長江文明系)−武装侵攻系(黄河文明系)が交雑し、 武装侵攻系が核になり集団エネルギーを一気に高め、一時はジャパンアズNo1と覇権を握るかもしれないほどの勢いを手に入れました。

  しかし日本が高止まりしてしまった間に中国が、日本以上の複雑な遺伝子ミックスにより集団エネルギーを高め、近代化らしきものに成功し 対外的には日本に取って替わりアジアの覇権を握ったように見えるレベルに達しました。しかし国民一人当たりの生産性があまりにも低く、 日本の1/4以下程度しかなく真の覇者には恐らく永久になれないでしょう。

  その中国も恐らく近いうちに日本同様高止まりするでしょうが、東アジアには日本、中国に代わる国はもはや存在しません。 南アジアのインドはロシアのスラブ系と同じインド・ヨーロッパ系遺伝子が支配する国ですが、中国同様あまりに国民一人あたりの 生産性が低すぎ日本の1/20程度しかなく覇権には届かないでしょう。

  当分の間はY-DNA「R1b」のアメリカとY-DNA「O2」(旧「O3」)の中国が覇権争いを続けるでしょうが、中国も日本もアメリカに 対する輸出で生産性を上げてきたので、アメリカにとって代わることは逆に自滅に向かうためまず不可能でしょう。

  非常に残念ですが、現代世界の構図は、世界の警察官であり輸入超大国のアメリカが太陽として中心に存在し、世界中から生産物を 買いまくり、そのおかげでアメリカの周りに各国が衛星のように回っていられるだけなのです。 水星、金星はEU諸国、地球は日本、火星はロシア、木星が中国、土星がインドという感じでしょうか。

v.1.6  国立遺伝学研究所教授で著名研究者の斎藤成也氏が、2017年10月に核-DNA解析でたどる「日本人の源流」本を出版しました。 その中でやっと海の民にも焦点が当たり、当ガラパゴス史観の「縄文人の一部は海のハンター」史観が 間違ってはいないかもしれない雰囲気になって来ました。 そろそろ時機到来の様相になって来ましたのでガラパゴス史観を総括し、日本人の源流考をまとめてみました。 これはY-DNA及びmtDNAの論文104編を読み込みメタアナリシスした結果得た、アブダクション(推論)です。 追加の着想がまとまる都度書き足します。

  枝葉末節は切り捨て太幹のみに特化して組み立てていますので、異論・興味のある方は、 当史観が集めた論文や、その後に発表されている新しい論文をじっくり読んで是非御自分で源流考を組み立ててみてください。

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飛躍しすぎほぼ空想談

  このコラムの項目2で「北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。」と書いたのですが、 布団に入ってウトウトし始めた時に、突然、”空想の語り部”が降臨してきて グチュグチュと御託言を言い残していったので、忘れないうちに書き留めます。

  何故、ヒトを含む類人猿の進化ツリー前半のギボン(テナガザル)やオランウータンは(東南)アジアにしか棲息しておらず、 進化ツリー後半のゴリラやチンパンジーはアフリカにしか棲息していないのか?

  ヒトがアフリカで発祥したのはチンパンジーとの共通の祖先がアフリカにしかいなかったからなのは極めて明白ですが、 では何故共通の祖先はアジアにはいなかったのか?何故アフリカにしかいなかったのか? この疑問に関する納得できる説明を探してみたのですが、今のところ全く見つかってはいません。

  今のところの進化ツリーでは進化の後半で、ゴリラの祖先になった類人猿はアジアからアフリカに大移動をしたことになります。 要するに、ヒトの遠い源郷はアジアだったから、人は出アフリカしてユーラシア大陸を東に進んだと言うことになります。 つまりサケやウナギが戻ってくるのと一緒で、源郷戻りが遺伝子に埋め込まれているのではないか!? では逆に、なぜ類人猿はアジアからアフリカに移動をしたのか?も依然、極めて大きな謎です。

  とにかく解剖学的現代ヒト族は宿命に導かれ出アフリカし、中東あたりで先輩ヒト族の中東型ネアンデルタール人と交雑し分化し、 インド洋の沿岸に沿って東のアジアを目指し大移動を決行し、古代遺伝子Y-DNA「C」と「D」はアジアに到達しそこで棲息をしてきたわけです。 ところが別の古代遺伝子Y-DNA「E」は、せっかく出アフリカしたにも関わらずまたアフリカに出戻ってしまった。 ということはアフリカに進むことも遺伝子に組み込まれているのかもしれない。

  では残りの古代遺伝子Y-DNA「F」は、なぜインド亜大陸に留まり全新興遺伝子の親遺伝子となったのだろうか? アフリカ大陸でヒト族がチンパンジーとの共通の祖先から分化したように、インド亜大陸で新興遺伝子の共通の祖先の古代遺伝子「F」から 分化したのでしょう、それを実行した最も考えられる要因はアジア型ネアンデルタール人との交雑でしょう。

  インド亜大陸はアフリカ大陸と同様の、進化や分化を後押しするパワーがあるのではないか?誰か研究してくれませんかね!!!!!。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

8. 中川隆[-14808] koaQ7Jey 2019年11月21日 17:40:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1891] 報告

2019年11月21日
朝鮮の貧困は日本統治以前から 日本が貧しくしたという嘘

現実の李氏朝鮮は貧しく遅れていた


引用:http://blog-imgs-60-origin.fc2.com/2/c/h/2chmatomeyaruo/20130711130206_4_1.jpg


韓国が「日本に併合されなければ、先進国だった」「併合前は大国だった」などと学校で教えている。

だが実際の朝鮮は日本が併合する千年も前から、ずっと貧しかった。


朝鮮族のルーツ

現在朝鮮半島に住んでいる「朝鮮人」あるいは「韓民族」と呼ぶ人達は、実は最近になって半島に移住してきた人たちです。


この事は考古学などでは良く知られているが、韓国政府と北朝鮮政府が否定しているので、一般には知らない人が多い。


韓国政府は韓民族が最初の人類であり、韓半島で進化したなどの主張をしている。

最近移住したと言っても2000年以上前の事で、中国で秦の始皇帝や三国志の曹操、劉備玄徳らの時代のことでした。

戦乱の絶えなかった大陸本土では朝鮮族は弱小民族で、強者から押し出されるように大陸から追い出されました。


現在の北朝鮮と国境を接する中国東部には、朝鮮族の中国人が大勢住んでいますが、元々はあの辺りに住んでいました。

朝鮮族の中には、移住せず元の場所に留まった人が大勢居たのが分かります。

この移住を『偉大なる韓帝国が半島を支配下に置いた』と韓国の学者は説明しているが、とてもそんな事ではなく難民でした。


大陸の戦火で焼け出された難民が、着の身着のままで半島に何万人も歩いてきたのです。

難民の中には船に乗って日本列島まで移住した人も居たと考えられます。

こうした移住者の違いによって古代半島は多くの国に分割されていました。


移住朝鮮人が国を作り始めたのが三韓時代と呼ばれる、起源1世紀から5世紀の頃でした。

その後、新羅、百済、高句麗の時代が7世紀まで続いた。

660年から668年にかけて、新羅は唐の軍隊によって敵対する百済と高句麗を滅ぼして朝鮮を統一した。


朝鮮半島で最初の統一国家は、朝鮮人ではなく唐が作ったのだが、これは『アメリカの初代大統領は毛沢東』だったというくらいの茶番でした。

新羅は滅亡するまで唐に従属し続け、この間の約300年間で、中国の皇帝が朝鮮族の主人であるという関係が固定された。

朝鮮国家は最初から中国の属国として誕生し、現在まで一度も抜け出せた事が無い。


理想の李氏朝鮮、貴族と庶民の落差は酷かった
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引用:http://stat.ameba.jp/user_images/20130921/07/sea-sky-z/a9/08/j/o0500043612690632922.jpg

圧倒的な貧困

古代朝鮮の時代から日韓併合まで、日本と朝鮮は何度か戦争をしてきたが、日本側は常に単独だったのに対し、朝鮮側は常に中国軍や蒙古軍と徒党を組みました。

徒党を組むのは有利になるが、勝っても負けても中国の朝鮮支配が強化されていきました。

新羅、高麗、(李氏)朝鮮とあっという間に千年以上が経ち、日本には黒船がやってきて明治維新が起きたが、半島は昔と変わらず中国の顔色だけを伺っていた。


14世紀から20世紀まで続いた朝鮮は俗に李氏朝鮮と呼ぶが、北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)と区別するためで正式にはただの『朝鮮』です。

李氏朝鮮は明、清以外の国とほとんどと交易をせず、鎖国していた。

この時代中国(明、清)も鎖国をしていたし日本も鎖国していたのでそれほど異常では無い。


中国の人口は4億人(清国末期)に達し、日本の人口は江戸末期に4200万人だったが、朝鮮は600万人台だった。

現代の半島の南北合計人口が日本の半分なのを考えると、本来なら朝鮮半島には2000万人居ないとおかしい。


朝鮮は同時代の日本や清と比べても、著しく発展が遅れていたのが分かります。


朝鮮住民は常に貧困と飢餓の中で生きており、文明などと言える状態ではなかった。

こうなった原因は朝鮮王だった李氏が中国皇帝の顔色だけを伺い、国内を豊かにしなかった為です。
むしろ国が豊かになればクーデターが起きるとして、わざと国を貧しくしました。


朝鮮は文化が発展する事も無く、朝鮮人の9割以上が文盲で、貴族以外は文字を使っていませんでした。

ハングル文字は李氏朝鮮で使用されておらず、日本が占領してから文盲の朝鮮人のために普及させました。


李氏朝鮮末期には銀板写真が発明されていて、多数の写真が撮影されている。


そこに写されている光景は、同時代の清国や日本と比較するまでもなく、アマゾンの未開人と大差ない生活ぶりです。

衣服、履物、住居など全てで大差があり、むしろ平安時代以前の日本がこうだったかと思うほどです。
http://www.thutmosev.com/archives/30282820.html

9. 中川隆[-13112] koaQ7Jey 2020年4月02日 12:19:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1794] 報告
関東人と関西人は遺伝子から違う?日本人は8つの遺伝的グループに分かれているという研究 2020/03/31
https://nazology.net/archives/55425


私たち日本人は8つの遺伝的な亜集団にわかれていることがわかった/Credit:Nature Communications
point

日本人は8つの遺伝的に異なる亜集団にわかれている
地域的な遺伝差は身長や薬の効き目に影響する
8つの亜集団の全てが沖縄にルーツを置いている

これまでの研究によって、人種間の遺伝子には少なくない違いがあることが明らかになってきました。

熱さへの耐性、寒さへの耐性、渇きへの耐性、低酸素環境への耐性など、様々です。

医薬品の効き目などもその一つであり、人種によってかなり効果が異なることが明らかになりつつあります。

しかし最近の研究により、同じ国に住む同じ民族でも、地域によって薬の効き目などが異なることがわかってきました。
そのような地域差は文化に由来するものだと考えられてきましたが、十分な科学的根拠は存在しませんでした。

そのため今回、日本人の研究者によって国内における、大規模な地域間の遺伝子の差が調べられることになりました。

予想が正しければ、地域間の遺伝子差は(人種程ではないにしても)身体的な差にも大きく影響しているはずです。

ただ地域差は人種差に比べて違いがわずかであり、これまでのような人間の認識力だけでは区別できません。分析にあたってはAIによる機械学習を応用することになりました。

その結果、日本人は遺伝的に8種類に及ぶ多様な遺伝的グループに分かれていることが判明しました。

日本人は思ってたよりずっと、単一ではないようです。
研究内容は大阪大学の坂上沙織氏らによってまとめられ、3月26日に権威ある学術雑誌「nature/communications」に掲載されました。

Dimensionality reduction reveals fine-scale structure in the Japanese population with consequences for polygenic risk prediction
https://www.nature.com/articles/s41467-020-15194-z

AIによって判明した8つのグループ

関東人と関西人は微妙に遺伝的に異なっているが、沖縄人との違いはさらに際立っている/Credit:Nature Communications

私たち人類はアフリカで誕生した後に、地球上の様々な場所に移住し、その地域にあわせた遺伝的特質を獲得してきました。
そのため、ある人種に効果があった薬が別の人種では効果が薄い、ということが少なくない頻度で起こりました。

しかし近年になって、日本の中でも薬の効果が地域によって僅かに異なることがわかってきました。

これまでは、そのような些細な地域間の医療効果の差は、主に食文化をはじめとした文化的な要因のためとされてきました。

ですが今回、17万人にもおよぶ遺伝データを、AIによる機械学習を応用して調べた結果、同じ日本人の中にも8つの異なる亜集団が存在すると判明したのです。
またこれらの差を二次元の画像に落とし込んで可視化した結果、九州と北海道の一部、及び沖縄の方々の遺伝子が、特にユニークな遺伝子集団を築いていることが判明しました。

地域的な遺伝差が身長差と同じ比率で影響を与えている/Credit:Nature Communications

さらに遺伝的な差が身体においてどのように影響するかを測定した結果、遺伝的な地域差が平均身長の地域差とも一致することがわかりました。
地域の遺伝子の差は確かに僅かですが、それでも身長差のような明白な違いをもたらしていたのです。

このことから、疾患リスク及び薬の効き目の違いが必ずしも、文化的な影響に支配されているのではなく、地域ごとの遺伝的な差にも影響されていることが示唆されました。

日本人の起源解明:8つのグループが全て沖縄の島々に濃縮されていた

沖縄人の詳細な分析を行った結果、8つのグループ全ての遺伝痕跡が内包されていた/Credit:Nature Communications
また、さらに詳細な分析を沖縄グループに対して行った結果、8つのグループの全てが、沖縄の島々に濃縮されていることがわかりました。
これは日本人の8つのグループ全てが、何らかのルーツを沖縄に持つことを示唆します。

これは既存の説、つまり、まず縄文人が南アジアを経由して日本に入り、その後、弥生人が入って全国に拡散したとの説と矛盾しません。
私たち日本人は複数のルーツと、その後の遺伝的な適応の結果、さらに複数の亜集団にわかれていきました。

これらの遺伝的な差は、地域に住む人々の気質にも影響している可能性があります。

関東人と関西人のノリが合わなかったり、旅先でアウェーになったりするのも、遺伝子の違いによる気質差が混じっているのかもしれませんね。

https://nazology.net/archives/55425

10. 中川隆[-13243] koaQ7Jey 2020年4月10日 15:24:57 : sfbpU46eAE : ZG5QWVdwY0dyRG8=[-6] 報告
2020年04月10日
太田博樹「縄文人骨ゲノム解析から見えてきた東ユーラシア大陸へのホモ・サピエンスの拡散」
https://sicambre.at.webry.info/202004/article_14.html


 本論文は、文部科学省科学研究費補助金(新学術領域研究)2016-2020年度「パレオアジア文化史学」(領域番号1802)計画研究B02「アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 29)に所収されています。公式サイトにて本論文をPDFファイルで読めます(P25-29)。この他にも興味深そうな論文があるので、今後読んでいくつもりです。

 本論文は、ユーラシア東部への現生人類(Homo sapiens)の拡散についての概説です。ユーラシア東部集団のゲノム解析では、アフリカからヒマラヤ山脈以南の経路(南方経路)での東方への拡散が推測されています。一方、考古学では北方経路の存在も強く示されており、その痕跡と考えられる遺物は北海道でも発見されています。日本列島で最古となる確実な後期旧石器時代の石器は38000年前頃までさかのぼり、シベリア中央部バイカル湖周辺を起源とすると考えられる細石刃は、北海道では25000年前頃、本州では2万年前頃のものが発見されています。

 しかし、日本列島の後期旧石器時代の遺跡からは、土壌の問題もあってほとんど古人骨が見つかっていません。一方、16000年前頃以降(開始の年代には議論があります)から始まる縄文文化の担い手たる「縄文人」は、後期旧石器時代から日本列島に住んでいた人々の直接の子孫で、最終氷期の終焉とともにユーラシア東部大陸部の人類集団から孤立した、と考えられています。「縄文人」が後期旧石器時代人の直接的子孫とは確証されていませんし、日本列島における旧石器時代の古人骨がほとんど見つかっていないため、今後も検証は困難かもしれません。しかし、「縄文人」遺骸は多数発見されており、「縄文人」ゲノム解析はユーラシア東部における現生人類の移住史に、重要な情報を与えると期待できる、と本論文は指摘します。

 本論文は、愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」個体(IK002)のゲノム解析結果(関連記事)を取り上げ、「縄文人」が後期旧石器時代人の子孫なのか、北方経路でユーラシア東端に到達した人々の遺伝的影響が検出されるのか、検証しています。IK002と現代および過去のユーラシア東部集団のゲノムデータの比較に基づく系統樹では、シベリア南部中央のバイカル湖近くのマリタ(Mal'ta)遺跡(関連記事)とアジア南東部のホアビン文化(Hòabìnhian)集団が分岐した後、ホアビン文化集団のすぐ内側で、4万年前頃となる田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)人(関連記事)が分岐し、ネパールの少数民族であるクスンダ(Kusunda)人その後でさらにその後でIK002が分岐します。現代アジア東部集団および北東部(シベリア東部)集団とアメリカ大陸先住民集団は、さらにその内側で分岐します。つまり、IK002のみならず、現代のユーラシア東部集団およびアメリカ大陸先住民集団は南方経路で東進してきた早期現生人類集団のゲノムを主に継承しており、アジア南東部集団と分岐した後に分化していった集団と明らかになりました。

 IK002と現代および過去のユーラシア東部集団との間の遺伝子流動については、マリタ集団からは、現代アジア北東部(シベリア東部)集団への遺伝子流動が有意に示されたものの、現代アジア東部および南東部集団とIK002へは有意に検出されませんでした。つまり、現代アジア東部および南東部集団とIK002には、北方経路の遺伝的影響は検出されなかったわけです。

 これらの知見からまず言えるのは、IK002の祖先は南方経路でユーラシア東部に拡散してきた、ということです。ただ、他の「縄文人」個体については、詳しく調べていかないと不明です。「縄文人」でIK002並かそれ以上に高品質なゲノム配列が得られているのは、他に北海道の礼文島の船泊遺跡で発見された2個体(関連記事)ですが、ともにIK002とひじょうによく似ています。今後は、西日本の「縄文人」のゲノムデータが待ち望まれます。次に、IK002は北方経路集団の遺伝的影響は確認されていないものの、他の個体のゲノム解読では遺伝子流動の痕跡が検出されるかもしれない、と本論文は指摘します。また本論文は、K002の祖先は南方経路でユーラシア東部に拡散してきたものの、日本列島への移住経路については南方からとは限らず(南方経路でユーラシア東部に拡散してきた集団がアジア東部で北上し、日本列島へは北海道から南下してきた可能性など)、今後日本列島内の多様な地域の「縄文人」のゲノム解析の必要がある、と指摘します。


参考文献:
太田博樹(2020)「縄文人骨ゲノム解析から見えてきた東ユーラシア大陸へのホモ・サピエンスの拡散」『パレオアジア文化史学:アジア新人文化形成プロセスの総合的研究2019年度研究報告書(PaleoAsia Project Series 29)』P25-29

https://sicambre.at.webry.info/202004/article_14.html

11. 中川隆[-12938] koaQ7Jey 2020年4月26日 14:01:06 : 5CEfqga4ww : UkcuTlRaeVJXSGc=[1] 報告


403名無しさん@お腹いっぱい。2020/04/23(木) 22:47:50.11ID:ehopAHaY

縄文土器は済州島や釜山でも見つかってる


404名無しさん@お腹いっぱい。2020/04/24(金) 00:55:27.63ID:Odi8XIYY

半島の縄文土器は日本からの搬入土器ばかりで在地産の縄文土器がない

406名無しさん@お腹いっぱい。2020/04/24(金) 01:26:07.49ID:B/zT/otA

>縄文土器は済州島や釜山でも見つかってる

交流?あっったみたいだけど
駆逐されちゃってるよなw

遺構が縄文末期から途絶えてるw

416名無しさん@お腹いっぱい。2020/04/26(日) 11:03:21.54ID:kl33qXE2
>>403
鬼界噴火を皮切りに縄文人は手付かずの漁場を求めて沖縄、山陰、朝鮮半島まで進出した

轟A式→鬼界噴火→轟B式

鬼界カルデラ後(縄文前期)の主な轟B式土器分布
https://i.imgur.com/Nny4FfS.png

https://i.imgur.com/FV4TVw4.png


熊本県の宇土市の轟貝塚では、アカホヤの層の下から轟A式土器、上から轟B式土器という、同じ系統の土器が見つかる

これは、轟貝塚の住人が鬼界カルデラの爆発で全滅しなかった事、火砕流が宇土市周辺にまで達しなかった事を意味する。

轟貝塚は有明海に突き出た宇土半島にあるが、周辺の人々は、火山灰の被害から逃れるため、轟B式とともに、海へ進出した。

轟B式土器は、熊本・長崎県の九州本土の海岸地帯だけでなく、五島列島・壱岐・対馬などの離島でも広く見つかる。

火砕流の被害から回復すると、屋久島・種子島を含む鹿児島にも分布を広げる。また、朝鮮南岸・山陰・瀬戸内でも出土する。

さらに、長崎県平戸市の、つぐめのはな遺跡では、捕鯨のための銛(もり)と思われる石器が、轟B式土器の頃から作られる。

また、轟B式土器が出土する長崎県の大村湾の伊木力遺跡では、外洋航海可能な縄文前期の丸木舟の船底が見つかっている。

415名無しさん@お腹いっぱい。2020/04/25(土) 23:41:55.22ID:6n/BbQJq

【古代】「日本人の起源」探るゲノム 縄文・弥生の「二重構造」に新説 「現代日本人と渡来系弥生人は遺伝的によく似ている」
https://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1587822038/

12. 中川隆[-12932] koaQ7Jey 2020年4月26日 21:10:10 : YvLw5HeiWD : aXpvOTQ3M1hieWM=[5] 報告


ハイテクが拓く古代研究(下)「日本人の起源」探るゲノム 縄文・弥生の「二重構造」に新説
2020/4/22付│日本経済新聞 朝刊

ハイテクが拓く古代研究(下)「日本人の起源」探るゲノム縄文人や弥生人のゲノム(全遺伝情報)の解読を通じて「日本人」の成り立ちを探る研究が進んでいる。国立遺伝学研究所(静岡県三島www.nikkei.com

縄文人や弥生人のゲノム(全遺伝情報)の解読を通じて「日本人」の成り立ちを探る研究が進んでいる。国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の斎藤成也教授を代表に、2018年度に始まったプロジェクト「ヤポネシアゲノム」はその一つだ。

遺伝学者、人類学者に加え、考古学者や言語学者も参加している。「沖縄で見つかっている旧石器時代の人々と縄文早期以降の縄文人は、DNA的には1万1千年前で途切れていると分かったのはほんの数年前。そのミッシングリンク(進化の欠落部分)には考古学者としても興味がある」。考古学的解析班を率いる国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎教授は話す。

古代人のゲノム分析は細胞の小器官ミトコンドリア内のDNA解析から始まった。この手法では母方の遺伝情報しか分からないが、10年代以降、細胞に1つしかない核のDNA分析が可能となった。

「縄文人は遺伝的には現代の世界ではどこにもいない特異な集団」と語るのは国立科学博物館(東京・台東)の篠田謙一副館長。ヤポネシアゲノムでは古代人ゲノム解析班を率いており、鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡から出土した弥生後期(1〜2世紀)の人骨のDNA分析を考古班とともに進めた。「縄文系、朝鮮半島・中国大陸からの渡来系と、様々なタイプが埋葬されていた」という。

長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡から出土した弥生後期(1世紀ごろ)の人骨も分析。長崎県周辺にいた「西北九州弥生人」は縄文人直系と考えられていたが、渡来系弥生人との間で混血がかなり進んでいた人たちもいることも明らかにした。「日本列島全体では、混血は弥生時代(紀元前10世紀〜3世紀)で終わったのではなく、古墳時代(3〜7世紀)まで1500年ほど続いたと考えられる」と篠田氏。

プロジェクトの季刊誌「ヤポネシアン」の2020年3月号には、国立科学博物館の神沢秀明研究員による「クラウドファンディングによる古代出雲人DNAの解析」という文章が載った。出雲市の猪目(いのめ)洞窟遺跡の古墳時代とみられる層から出土した人骨を、18年12月から斎藤氏と解析した経緯を紹介するものだ。

調査は出雲出身者で構成する「東京いずもふるさと会」が研究費を負担する形式で進められた。解析の結果、人骨は「現代本土日本人よりも僅かであるが統計的に有意に縄文的であることが明らかになった」と記す。

「日本人」の成り立ちは「二重構造モデル」が定説とされる。最初に日本列島に住みついた人々が採集狩猟中心の縄文人を形成した。弥生時代に渡来した人々が九州に水田稲作を伝え、それが「列島中央部」に広がり、この間に縄文人の子孫と混血を繰り返す。一方、列島の南と北には縄文人の遺伝子を色濃く残す人々がいるとの見方だ。

この説を踏まえ、斎藤氏が打ち出したのは「うちなる二重構造」という仮説。「列島中央部」をいま東海道・山陽新幹線が走る地域とそれ以外に分け、「日本人」の源流を探るものだ。「朝鮮半島に近い出雲に住む人々が、東北などと同様、縄文人の遺伝子を色濃く受け継いでいるとしたら、いわゆる『弥生人』に2種類あったのではないか」と斎藤氏は話す。

「DNAでみると現代日本人と渡来系弥生人は遺伝的によく似ている。DNA分析では親族関係の特定もできるので、縄文・弥生社会の解明につなげたい」と藤尾氏は学際研究に期待を寄せる。
https://note.com/xanqo_10post_jgo/n/ncab79b2a8356

13. 2020年6月15日 06:22:18 : 0r09roS7zM : bG0uSVpyLjZtM2M=[1] 報告
2020年06月15日
現代人および古代人のゲノムデータから推測される朝鮮人の起源
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_19.html


 現代人および古代人のゲノムデータから推測される朝鮮人の起源に関する研究(Kim et al., 2020)が公表されました。なお、以下では「朝鮮人」で統一しますが、おそらく本論文のデータの全ては、朝鮮民主主義人民共和国ではなく、大韓民国の人々からのものと思われます。その意味では「韓国人」で統一する方が妥当かもしれませんが、本論文は「民族」の起源と形成過程を主題としているので、区分するのではなく、「朝鮮人」で統一します。

 アジア東部現代人の祖先集団は、他の非アフリカ系現代人の祖先集団と共通のボトルネック(瓶首効果)を、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の頃に経てきた、と推測されています。しかし、アジア東部の各現代人集団の遺伝的構造は、まだ詳細に解明されたとは言えないでしょう。朝鮮人はアルタイ語族に分類され、アジア北東部では日本人と同じです(と本論文は指摘しますが、この言語分類には異論が多いでしょう)。現在、合計で約8000万人以上の朝鮮民族が存在します(朝鮮半島南部の大韓民国に約5100万人、朝鮮半島北部の朝鮮民主主義人民共和国に約2500万人、朝鮮半島外に約700万人)。

 朝鮮人の起源については、いくつかの仮説が提示されています。朝鮮人で主流のY染色体ハプログループ(YHg)O1b2(SRY465)は、朝鮮人の祖先が新石器時代と青銅器時代(3450〜2350年前頃)の中国北部集団と関連していた、と示唆します。一方、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)は、朝鮮人がひじょうに典型的なアジア東部人型であることを示します。以前の研究では、朝鮮人は深刻なボトルネックを経ておらず、おもに2つの遺伝的構成を示す、と明らかになっています。一方は中国と強く関連していますが、もう一方はさほど明確ではありません。これまで、朝鮮人の正確な遺伝的構成は、現代と古代のゲノムデータを利用したゲノム規模では行なわれていませんでした。

 朝鮮半島の旧石器時代石器群は、全谷里遺跡を代表とする石英製の握斧(ハンドアックス)を含む大型石器を特徴とするアシューリアン(Acheulian)類似石器群、石刃素材の剥片尖頭器石器群、細石刃石器群に大きく3区分できます(関連記事)。朝鮮半島における人類の痕跡は60万〜40万年前頃までさかのぼります。しかし、酸性土壌の朝鮮半島では人類遺骸は乏しく、朝鮮人の起源と形成過程の解明に重要となる古代遺伝データを得るのは困難です。そのため、朝鮮半島に近い、ロシア極東沿岸地域の「悪魔の門(Devil’s Gate)」遺跡で発見された9400〜7200年前頃の人類遺骸(関連記事)や、北京の南西56kmにある 田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の人類遺骸(関連記事)などの遺伝データが利用されます。本論文は、最近公表されたアジア南東部の新石器時代から鉄器時代にかけての古代ゲノムデータ(関連記事)を用いて、朝鮮人の遺伝的構成を解明します。

 現代人では、朝鮮人88人と、世界中の208人のゲノムデータが比較されました。内訳は、アフリカ13人、アメリカ大陸4人、ヨーロッパ26人、オセアニア7人、アジア中央部5人、アジア東部43人、アジア北部31人、アジア南東部36人、アジア西部22人、アジア南東部21人です。さらに、アジア東部6人とアジア南東部9人が追加されました。古代ゲノムは115人分が比較対象とされました。その内訳は、ヨーロッパとロシア全域では、更新世狩猟採集民4人、完新世狩猟採集民13人、前期新石器時代20人、中期新石器時代10人、後期銅器時代10人、後期新石器時代9人、前期青銅器時代20人、中期青銅器時代4人、後期青銅器時代2人、鉄器時代12人で、その他には、田园遺跡1人、悪魔の門遺跡2人、新石器時代から鉄器時代のアジア南東部8人です。


●朝鮮人の遺伝的構造

 本論文はまず、現代人を8ハプロタイプパターンに分類します。それは、アフリカ、アジア西部、ヨーロッパ、アジア南部、シベリア西部、シベリア東部、アジア東部aおよびbです。これはおおむね地理的関係を反映しています。アジア東部aには朝鮮人と中国人と日本人とアジア南東部のオーストロアジア語族が、アジア東部bにはアジア南東部のいくつかの少数民族が含まれます。朝鮮人はアジア東部bに表されるアジア東部集団のほとんど均一なクレード(単系統群)を形成し、その近縁な集団はシベリア東部とアジア東部aです。

 ADMIXTURE分析では、ソース集団の設定により遺伝的系統は異なってきますが、K=10では、朝鮮人はシベリア東部系統(38%)とアジア東部a/b系統(62%)の混合としてモデル化されます。アジア東部b集団間で混合率を比較すると、朝鮮人および日本人集団はひじょうに類似した混合率を示します。中国人も朝鮮人および日本人と類似した遺伝的構成を示しますが、混合率は地域により異なります。全体的に見て、遺伝的混合事象はまず朝鮮半島と日本列島外のアジア南東部および中国で起きた、と推測されます。また、そうした最近の遺伝的混合は広範な現象で、過去4000年の農耕・経済・技術的発展に起因する拡大により、アジア東部全域で同時に発生した可能性があります。


●悪魔の門遺跡個体群から朝鮮人への遺伝子流動

 外群f3統計では、4万年前頃の田园個体が、現代のシベリア東西およびアジア東部b集団と、ヨーロッパやアジア西部および南部のような他地域集団よりも多くのアレル(対立遺伝子)を共有する、と明らかになりました。これは、田园個体がユーラシア東部およびアジア東部系統の基底的な遺伝的構成であることを示唆します。現代のシベリア東部およびアジア東部b集団は、古代アジア南東部・悪魔の門遺跡・ユーラシア中央部草原地帯の青銅器時代〜鉄器時代個体群と、有意な遺伝的類似性を示します。

 これらの遺伝的類似性に基づき、古代人および現代人集団と共有される田园個体の派生的アレルとの比較により、朝鮮人の遺伝的起源が推定されました。田园個体はどの現代人集団よりもアジア南東部古代人と多くの派生的アレルを共有しており、アジア南東部古代人は田园個体系統に直接的に由来する、と示唆されます。新石器時代の悪魔の門遺跡2個体と現代のシベリア東部およびアジア東部a/b集団は、類似した田园個体系統の量を示します。これは、朝鮮半島北部に近い悪魔の門遺跡個体群が、他の遺伝的構成と混合される可能性を示唆します。

 さらに、田园個体系統は、古代草原地帯個体群よりもシベリア東西およびアジア東部b集団の方と、顕著に高水準の遺伝的類似性を有しています。これは、古代草原地帯個体群が他の遺伝的構成から形成された可能性を示唆します。アジア南東部古代人における田园個体との遺伝的類似性は、最古となるベトナムのマンバク(Man Bac)遺跡個体で最も高く、経時的にやや減少していきます。これは、古代アジア南東部個体群が、経時的に追加の遺伝的構成を受け取った、と示唆します。

 田园個体のゲノムは、現代人ではアジア南東部よりもシベリア東部の方と遺伝的類似性の水準が高い、と明らかになりました。しかし、アジア東部b集団のうち朝鮮人と日本人と中国南部人集団は、田园個体の派生的アレルをシベリア東部集団と類似した水準で示し、田园個体系統とは均等の距離となります。これは、悪魔の門遺跡個体群とシベリア東部現代人といくつかのアジア東部b集団が、経時的に類似した遺伝的影響を受け、田园個体系統から分離して以降は単一のクレードだったと予想されることを示唆します。これらの分析により、基底部田园個体系統は、新石器時代もしくはその前に分離し、それぞれ現代朝鮮人に影響を及ぼした、と明らかになります。


●朝鮮人を構成する古代の遺伝子流動

 田园個体系統から古代人および現代人集団への遺伝子流動に基づき、新石器時代個体群ゲノムが、朝鮮人もしくはアジア東部集団の系統に独立して寄与したか、第二の遺伝子流動が起きた、と仮定されました。まず、新石器時代の悪魔の門遺跡2個体の系統から朝鮮人とアジア東部集団への遺伝子流動が調査され、悪魔の門遺跡2個体はベトナムの新石器時代マンバク遺跡個体よりも、現代シベリア東部およびアジア東部b集団のほとんどの方と、多くの派生的アレルを共有する、と示されました。

 悪魔の門遺跡2個体のゲノムから、これらの現代人集団は、オーストロアジア語族の祖先と考えられるタイのバーンチエン(Ban Chiang)遺跡やカンボジアのヴァトコムヌー(Vat Komnou)遺跡の個体群と遺伝的関係は等しい、と観察されます。さらに、ミャンマーの後期新石器時代〜青銅器時代となるオアカイエ(Oakaie)遺跡およびベトナムの青銅器時代のヌイナプ(Nui Nap)遺跡個体群からアジア東部集団への地域的な遺伝的移行が観察されます。朝鮮人と日本人といくつかの中国人や極東ロシア人のようなシベリア東部およびアジア東部b集団は、オアカイエ遺跡およびヌイナプ遺跡古代人と比較して、悪魔の門遺跡個体群系統からの優勢な遺伝的寄与を示します。

 これは、現代のアジア東部a/b集団で観察される地域的な遺伝的差異が、アジア南東部における青銅器時代から鉄器時代にかけての新たな遺伝的流入に影響を受けた、と示唆します。また、ベトナムの新石器時代マンバク遺跡個体は、アジア南東部青銅器時代個体群もしくは草原地帯古代人よりも、現代シベリア東部およびアジア東部b集団と派生的アレルを多く共有しています。これは、新石器時代マンバク遺跡個体系統が、現代シベリア東部およびアジア東部b集団の基底部系統だったことを示唆します。

 マンバク遺跡個体から悪魔の門遺跡2個体と現代シベリア東部およびアジア東部b集団への遺伝的浮動は観察されませんでした。また、草原地帯古代人の遺伝的系統の分析では、現代シベリア東部およびアジア東部b集団と古代アジア南東部人は、草原地帯古代人と遺伝的に等距離と推定されます。このパターンは以前の研究と一致します。これは、草原地帯古代人と現代アジア東部集団との間の遺伝的混合を支持しますが、その経緯と混合事象の回数は不明です。

 また、マンバク遺跡個体系統から、ヴァトコムヌーといくつかのアジア東部b集団(アジア南東部および中国南部)の遺伝的分岐に関する最初の証拠も観察されました。これは、こうした集団がアジア東部に遺伝的影響を与えた集団だった、という見解を支持します。現代朝鮮人の遺伝的構成について複数のパターンが検証され、悪魔の門遺跡2個体系統とアジア南東部古代人系統の組み合わせは、前者とアジア南東部現代人系統の組み合わせよりもよく説明できます。より具体的には、カンボジア鉄器時代のヴァトコムヌー遺跡個体系統で、それに続くのがベトナム青銅器時代のヌイナプ遺跡個体系統です。

 現代朝鮮人と最も遺伝的類似性が高いのは現代日本人で、中国南部の現代人は、現代ベトナム人よりも現代朝鮮人との遺伝的類似性が高い、と示されます。これは、中国南部の遺伝的構成が、ヴァトコムヌー遺跡やヌイナプ遺跡個体系統との混合後に、朝鮮人へと移入されたことを示唆します。これらの証拠は、悪魔の門遺跡2個体とマンバク遺跡個体系統を有する集団が、新石器時代までにアジア東部bおよびシベリア東部地域全体で混合し、それはおそらく気候変化と障壁を伴っていた、という結論を支持します。青銅器時代の後、ヴァトコムヌー遺跡やヌイナプ遺跡個体系統の混合系統が朝鮮半島へと移住し、それは急速な文化的・技術的発展に起因します。


●朝鮮人の単系統ハプロタイプ分析

 現代朝鮮人のYHg(標本数55人)の割合は、O1b2が29%、O2が42%で、Oが圧倒的に優位です。次に多いのが18%となるYHg-Cです。YHg-Cはシベリアで広範になに見られますが、YHg-Oはアジア南東部および東部に分布しています。YHgからは、朝鮮人男性の南北二重起源が強く示唆されます。

 mtHgはYHgよりも複雑な遺伝的歴史を反映しているようです。最も頻度の高いmtHgはD(34%)で、それにM(12%)やB(10%)やG(9%)やA(9%)などが続きます。現代朝鮮人で12%を占めるmtHg-B/Rは田园個体系統で見られ、アジア東部系統を表します。mtHg-N/Y/AおよびDは悪魔の門遺跡2個体および現代シベリア人とともにクラスタ化し、ユーラシア系統を表します。mtHg-Aはユーラシア草原地帯中央部の中期青銅器時代のオクネヴォ(Okunevo)文化関連集団で見られます。mtHg-G/C/Zはシベリア人とベトナム青銅器時代ヌイナプ遺跡個体で見られ、ヌイナプ遺跡個体系統の起源は不明です。mtHg-Cはオクネヴォ文化関連集団において高頻度で見られます。mtHg-MおよびFはアジア東部集団とともにクラスタ化することで、南方からの移動の波を説明します。オーストロアジア語族と考えられる、ベトナムのマンバク遺跡およびタイのバーンチエン遺跡の個体群は、mtHg-Mでともにクラスタ化します。これは、mtHg-Mのその後の拡大が、オーストロアジア語族集団の拡大と関連している可能性を示唆します。mtHgの分析は、朝鮮半島への南北多様な地域からの継続的な遺伝的影響を示唆します。


●まとめ

 現代人および古代人のゲノムとの比較により、現代朝鮮人はシベリア東部とアジア東部に由来する二重の遺伝的構成を有する、と示されます。現時点での古代ゲノムデータを参照すると、現代朝鮮人の遺伝的構成は、ロシア極東新石器時代の悪魔の門遺跡2個体系統とカンボジアの鉄器時代ヴァトコムヌー個体系統と関連する古代中国南部系統の混合として最適にモデル化できます。これは現代漢人および日本人も同様で、マンバク遺跡個体関連系統(70%)と悪魔の門遺跡個体関連系統(30%)の混合としてモデル化され、その形成過程は本論文の図5で示されています。

画像
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 本論文の分析は、新石器時代の主要な2創始者系統である、悪魔の門遺跡2個体系統と田园個体系統との、シベリア東部とアジア東部における新石器時代までの長く漸進的な混合を示唆します。現代朝鮮人も含めてアジア東部現代人の亜集団は、おそらくその後の青銅器時代における地域的な遺伝的移行により確立しました。現代朝鮮人の形成は、特有の孤立事象もしくは移住というよりもむしろ、アジア東部で起きた大きな集団拡大とそれに続く混合事象の一部として把握されます。こうした最近の急速な拡大と混合は、他のアジア東部および南東部集団にも一般的なモデルとなれるかもしれません。


 以上、本論文の内容をざっと見てきました。現代朝鮮人の起源と形成過程に関する包括的な研究結果を示した本論文は、今後の研究でも参照されるでしょう。ただ、やはり朝鮮半島古代人のゲノムデータに基づいていないことは問題で、土壌の問題やよりDNAの保存に適した朝鮮半島北部のデータの利用が困難だろうという事情など、仕方のないところもあるとはいえ、今後の大きな課題になると思います。また、漢人・朝鮮人・日本人に代表されるアジア東部現代人集団の起源として、現代人にはほとんど遺伝的影響を残していないと推測されている田园個体を起源系統としてモデル化したこともやや問題でしょう。これは、アジア東部も含めてユーラシア東部の古代ゲノム研究が、ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていることに起因するので、仕方ないところが多分にあるとは思います。ただ、最近になってアジア東部の古代ゲノム研究が大きく進展しており(関連記事)、それらも踏まえて、朝鮮人の起源と形成過程に関する研究も近いうちに大きく更新されるのではないか、と予想しています。

 現時点では、現代朝鮮人の形成過程に関して、田园個体系統と悪魔の門遺跡2個体系統とを起源とするのではなく、アジア東部を北部(新石器時代華北集団)系統と南部(新石器時代華南集団)系統に区分し、両者の混合によるアジア東部現代人集団の形成を想定する方が妥当なのかな、と思います。また、アジア東部に関しては、北東部との関係でさらに複数系統(黄河地域と西遼河地域とアムール川地域)が想定されるでしょう。アジア東部系統は、ユーラシア東部系統でも北方系統に分類され、ユーラシア東部系統でも南方系統は、アジア東部沿岸地域の早期集団、たとえば「縄文人」に大きな遺伝的影響を残した、と推測されます(関連記事)。このように起源系統の想定が異なれば、また違った現代朝鮮人の形成過程が見えてくるはずで、それは上記の本論文の図とはかなり違って見えるかもしれません。最近になって、日本も含まれるアジア東部の古代ゲノム研究が大きく進展しつつあるように思われるので、今後がひじょうに楽しみです。


参考文献:
Kim J. et al.(2020): The Origin and Composition of Korean Ethnicity Analyzed by Ancient and Present-Day Genome Sequences. Genome Biology and Evolution, 12, 5, 553–565.
https://doi.org/10.1093/gbe/evaa062


https://sicambre.at.webry.info/202006/article_19.html  

14. 中川隆[-11966] koaQ7Jey 2020年8月03日 09:24:03 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[6] 報告
朝鮮の無文土器時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

朝鮮の無文土器時代の開始は朝鮮における水稲作の開始時期とほぼ一致する。このことから、朝鮮に長江文明由来の水稲作をもたらした人々が、無文土器文化の担い手であった可能性が考えられる。

崎谷満はY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)系統が長江文明の担い手だとしており、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東半島、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている[1] 。

このことから、朝鮮に無文土器文化をもたらした人々はO1b2系統に属していたことが考えられる[1]。O1b2系統は現在の朝鮮民族に20〜40%ほど観察されている[2][3]。

言語系統

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。[4][5][6][7][8]

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。[7][9] 一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。[5]

無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、表面に模様を持たない様式(無文土器)であることから命名された。

農耕が始まるとともに、社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮、衛氏朝鮮と重なる。朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。

葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や甕棺墓が見出されている。


無文土器時代は櫛目文土器時代に続く時代である。

紀元前2000年から1500年頃、北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化では、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現している。

前期

前期は紀元前1500年から850年頃とされる。農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。農耕にはまだ石器が用いられた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が営まれた。住居には竈が複数ある場合もあり、多世帯が同居していたと思われる。 後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。紀元前900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竈ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。

支石墓、副葬品の朱塗り土器、石剣など無文土器時代を通して続く宗教・葬制上の特徴はこの時代に生まれた。


中期

中期は紀元前850年から550年頃とされる。農業の規模が大きくなり、社会の階級と争いが生じたと考えられる。南部では水田が作られたとする仮説もあるが、陸稲と水稲が雑交している点や水田と確定出来るだけの要素が未だに発見されていない為、定説とはなっていない。 数百軒からなる大規模な集落が出現した。また青銅器が出現し、工芸品の生産や支配者による分配も行われるようになった。

中期無文土器文化は、中部の遺跡名から松菊里文化( ソングンニ)とも呼ばれ、中部で主に発展した。南部へ行くほど異なった要素が増える。

中期後半(紀元前700-550年頃)には青銅器が副葬品として現れた。青銅器は中国東北部に由来すると思われるが、この時期には朝鮮半島中部でも製作が始まっていた。

中期無文土器時代後半の墓には特に大規模なものがある。南岸部は北中部と様式を異にし、多数の支石墓が造られた。一部からは青銅器、翡翠、石剣、朱塗り土器などの副葬品が見出されている。

無文土器文化は農耕文化の始まりであるが、無文土器文化時代を通じて陸稲作はあったものの主要な作物ではなかった。現在までに渤海北部沿岸では当時の水田遺構が見出されていないことから、水田稲作がこの時代に伝わっていたとしても大陸沿いでなく黄海を越えてもたらされた可能性が大きい(日本の水田稲作とは伝播経路が異なる)。北部では大麦・小麦・雑穀などが栽培された。

後期
後期は紀元前550年から300年頃とされる。環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。特に丘陵地や河川沿いに人口が集中している。集落数は前の時代より減っており、少数の集落への集住が進んだと考えられる。

弥生文化の開始が無文土器文化に影響を与えた可能性もある。特に北部九州では無文土器、支石墓や甕棺墓など、朝鮮半島南部の文化と直接結び付けられる要素が多数見つかっている。これは無文土器時代前期に当たると考えられる。

無文土器時代の終末期には鉄器が出現する。これより後の鉄器時代になると、住居には北方から大陸沿いに伝わったオンドル用の炉(ko:아궁이)が現れる。また中期に北方から伝わった琵琶形銅剣(遼寧式銅剣)の影響の下に細形銅剣(ko:세형동검)が作られ始めた。

終末

普通、無文土器時代の終末は鉄器の出現に置かれるが、土器様式の連続性を重視して紀元前後までを含める説もある。しかし、紀元前300年頃から青銅器が広範囲に普及する。鉄器もこの時期を境に、朝鮮半島南部へも普及していく。このような技術・社会の変化を重視するならば、無文土器時代をこの時期までとするのが適切である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

15. 中川隆[-11944] koaQ7Jey 2020年8月05日 10:09:58 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[15] 報告

Japan considered from the hypothesis of farmer/ language spread
https://www.academia.edu/43005029/Japan_considered_from_the_hypothesis_of_farmer_language_spread?email_work_card=title

北九州玄界湾地域への稲作の導入(図1)周りから紀元前1000年は弥生時代の始まりです。
ウェットライス技術はムムンによって導入されました(「素焼き(訳者注:Mumun、無紋)」)朝鮮半島南部からの比較的早い時期の文化移民。
紀元前1000年半島のムムン時代(紀元前1500年から300年)。
これらの移民は弥生ではなく、ムムンでした。


▲△▽▼

弥生時代の世界情勢 朝鮮半島

弥生時代は、朝鮮半島の無文土器時代(青銅器時代〜初期鉄器時代)から原三国時代に相当します。朝鮮半島では紀元前1500年頃中国大陸より農耕が伝わり、紀元前700年頃には青銅器が、弥生時代が始まる紀元前300年頃には鉄器が伝わり普及しました。後期の無文土器は日本列島でも北部九州地方をはじめとする弥生時代の遺跡から数多く出土しており、弥生時代の稲作農耕や金属文化の流入に朝鮮半島からの人々が関わったことを示唆しています。 吉野ヶ里遺跡でも、朝鮮系の無文土器が多数出土しています。

図:無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代

写真:朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)

鉄器の普及、特に鉄製農具の普及は生産力を増大させ、やがて半島内に幾つかの部族国家が並立するようになりました。弥生時代後期末の日本列島の様子も記述されている魏書東夷伝には、この頃、朝鮮半島に次のような部族国家があったことが記されています。

・高句麗(現 中国遼寧省・吉林省・北朝鮮北部)
・東沃沮(現 北朝鮮咸鏡北道一帯)
・(朝鮮半島中東部)
・馬韓・辰韓・弁韓(朝鮮半島南部)

これらのうち、朝鮮半島南部の辰韓は鉄を産出し、倭人も鉄を求めて辰韓と交易していことが描かれています。この時代の朝鮮半島の状況は弥生時代の日本列島を考える上で中国大陸と同様、非常に重要です。

http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

16. 中川隆[-11943] koaQ7Jey 2020年8月05日 10:11:32 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[16] 報告
神澤 秀明 2019年6月
韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析
https://researchmap.jp/hk-k/misc/21287393

『韓国で、釜山・加徳島の獐項遺跡の人骨(6,300年前:BC4,300年)の核DNA分析を行った結果、縄文人的と判明した。』
とのホットな(学会内部)情報が伝えられた。(2019/11/24)
この情報が、どんな内容で何時 公表されるかに 関心がある。分子生物学者の発表なら早期に期待できるが..


上記の核DNA分析結果は、「韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析」2019/06 で諭文名は検索できるが、
内容は、韓国文化財研究院の論文集でのみ公開されており、日本国内の公共図書館(国会図書館、国立科学博物館、山梨大学)には所蔵されていない。
推察するに、韓国の新石器人骨が縄文人的であったため、韓国国内で広く公表することを控えているように思われる。
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm


▲△▽▼


土井ヶ浜弥生人 最終更新: 2019年03月30日
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD

形質は北方新モンゴロイド。

弥生時代の北部九州・山口に分布していた弥生人。頭蓋骨の形質的に純粋な大陸系渡来人だと見られていたが
最新の核ゲノム解析により、少なくとも北部九州弥生人は実は縄文人の遺伝子を受け継いでいることが判明し*1、その割合は東京周辺の現代日本人と同じ1〜2割程度である。

縄文人に近い形質を持つ西北九州弥生人と互いに混血していたようである。
また朝鮮半島南部に進出していた縄文人との混血を経た渡来系弥生人の集団だった可能性もある。
また土井ヶ浜弥生人の居住地域からも西北九州弥生人型の頭蓋骨が発見されており*2、
弥生時代初期段階の縄文系弥生人社会と土井ヶ浜弥生人社会は対立関係になかったと考えられる。

水稲稲作や鉄器を日本に最初にもたらした集団だと考えられている。

核ゲノム解析の結果、現代大和民族のほとんどはこの土井ヶ浜・北部九州弥生人の遺伝子に近いクラスタに属していると判明した。
便宜上、この項目では北部九州弥生人も土井ヶ浜弥生人としているが、厳密には北部九州と土井ヶ浜では微妙に違いがある。
現代日本人の頭蓋骨は土井ヶ浜弥生人より北部九州弥生に近い。

形質

頭型は基本的には短頭(頭の前後が短い)だが中頭も多い。
高顔でのっぺりとした起伏のない顔立ち。
胴長短足で顔が大きく寒冷地適応をしていた。
歯が大きく、噛み合わせは鋏状咬合。
縄文人に比べると比較的身長が高く男で165cm程度。
酒に弱い(ALDH2不活性型・失活型)。
体毛が薄く、髭がほとんど生えない。
髪は直毛。
華奢で骨細な体格。体格に関しては縄文でも北方黄色人種でもないようだ。
唇は薄い。口は小さい。
目は切れ長で小さい。
風習的抜歯を行うなど縄文人の文化風俗も取り入れていたようだ。


土井ヶ浜弥生人の復元図。

*1 : 安徳台遺跡
*2 : 土井ヶ浜・701号人骨
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD

17. 中川隆[-11942] koaQ7Jey 2020年8月05日 10:16:12 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[17] 報告
弥生人DNAで明らかになった日本人と 半島人の起源 ー朝鮮半島に渡った縄文人ー
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm

(追加 2019/11/26)
『韓国で、釜山・加徳島の?項遺跡の人骨(6,300年前:BC4,300年)の核DNA分析を行った結果、縄文人的と判明した。』
とのホットな(学会内)情報が伝えられた。(2019/11/24)


九州が握る日本人の謎 古賀英毅
2020/3/13 11:00
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/591652/

国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。
「この人たちが渡来したとするならば、混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。
時期は縄文時代まっただ中の6千年前。
渡来はあったとしても混血は必ずしも必要ないということになる。

18. 中川隆[-5071] koaQ7Jey 2021年7月09日 07:26:42 : MMSUDjOWSU : MHAzRzVjV3poUVk=[5] 報告
雑記帳
2021年06月29日
西北九州弥生人の遺伝的な特徴
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_29.html
 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、西北九州「弥生人(弥生文化関連個体)」の遺伝的な特徴に関する研究(篠田他., 2019)が報道されました。最近、「弥生人」の遺伝的構成に関するやり取りを見かけたこともあり、「弥生人」の遺伝学的側面の基本文献となる本論文を取り上げるとともに、本論文刊行後の研究にも言及します。

 弥生時代は、日本列島に本格的な水田稲作がもたらされ、在来の「縄文人」と稲作を持ち込んだ主体と考えられるアジア東部本土(大陸部)から到来した人々との混血が始まる時期とされています。そのため、この時期の日本列島には在来集団と大陸から渡来した集団の双方が存在した、と考えられています。形質人類学的な研究から、最初に渡来系集団が侵入した九州ではその情況を反映して、渡来系集団と在来の「縄文人」の系統である西北九州の「弥生人」が存在し、さらに独特の形質を持つ南九州の「弥生人」が暮らしていた、と指摘されています。しかし、各集団の関係や、その後の混血の状況については、依然として多くが不明です。

 長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡では、2個体の弥生時代人骨(成人女性の下本山2号と成人男性の下本山3号)が出土しています。放射性炭素年代測定法による較正年代では2001〜1931年前頃と推定されています。この遺跡は西北九州「弥生人」の居住地域にあり、出土した人骨の形質も「高顔傾向が見られる点に留意しなければならない」と指摘されつつも、全体的には北部九州の「渡来系弥生人」よりは縄文時代の人々と類似する、との結論が提示されています。つまり、下本山岩陰遺跡の弥生時代の2個体は、形質の面からは他の西北九州の弥生時代の人々と同じく、「縄文人」の系統を引く集団の構成員と判断されます。

 本論文は、次世代シークエンサ(NextGeneration Sequencer、NGS)を用いて核DNA を分析し、この問題の解決を目指します。核ゲノムは両親から継承されるので、遺伝的に異なる集団からの遺伝子の寄与についての情報を得られます。2010 年以降、NGSは古代人遺骸のDNA分析に用いられるようになり、得られた核ゲノムの情報は、分析された標本の由来や形質に関して、以前の方法では得られなかった精度の高い推定が可能になっています。日本でも北海道の礼文島の船泊遺跡(関連記事)や愛知県田原市伊川津町の貝塚(関連記事)で発見された「縄文人」の核ゲノムが解析されており、その系統的位置についての情報が得られるようになっています。アジア東部本土から稲作農耕民が最初に侵入したとされる北部九州地域の情況を知ることは、現代日本人の成立を知る上で重要な知見となります。その意味でも西北九州「弥生人」の核ゲノム解析は重要です。


●DNA解析結果

 性染色体のDNAのリード数から、下本山2号は女性、下本山3号は男性と判定されました。下本山3号のY染色体ハプログループ(YHg)はOの可能性が高い、と推定されましたが、それ以上の下位区分はできませんでした。ミトコンドリアDNA(mtDNA)の系統解析では、同一の石棺に合葬された上記の2 体のうち、2号女性のmtDNAハプログループ(mtHg)はM7a1a4、3号男性はD4a1で、前者は典型的な「縄文人」の系統、後者は「渡来系弥生人」の系統のmtHgと判明しています。この異なる2つのmtHgが同一の遺跡、しかも同じ石棺墓に埋葬されていたことは、2号と3号が夫婦関係にあることともに、在来の縄文系集団と弥生時代以降の渡来系集団との混合が始まっていることを予想させますが、母系遺伝のmtHgのデータだけでは、その程度について結論を提示することは困難です。

 そこで、核ゲノムデータでの分析が行なわれました。1KG(1000人ゲノム計画)およびSGDP(サイモン図ゲノム多様性計画)のデータとの比較の結果、下本山2号および3号(以下、両者をまとめての分析では下本山弥生人と表記します)は主成分分析ではともに、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」人と縄文人との間に位置します。日本列島の本土とアイヌと沖縄人という3集団との比較でも、下本山弥生人は本土および沖縄集団とアイヌ集団との間に位置し、アイヌ集団の一部とは重なっています。

 外群f3統計(ムブティ人;検証集団X、下本山弥生人)で集団間の遺伝的類似性を比較すると、下本山弥生人は伊川津縄文人や船泊縄文人と最も多く遺伝的浮動を共有し、両者と遺伝的に近い集団と示されました。また、その次に近いのは日本列島の3人類集団で、これは主成分分析の結果と一致します。f4統計(ムブティ人、船泊縄文人;下本山弥生人、検証集団X)でも、下本山弥生人は現代のどの集団よりも縄文人との遺伝的類似性を示しました。また、有意ではないものの、下本山弥生人は船泊縄文人よりも伊川津縄文人の方と遺伝的に近い傾向を示し、外群f3統計の結果とも一致します。

 次に、f4統計(ムブティ人、検証集団X;下本山弥生人、船泊縄文人)で、下本山弥生人に弥生時代以降のアジア東部本土からの渡来系の遺伝的要素が含まれるのか、検証されました。その結果、有意ではないものの、下本山弥生人は船泊縄文人と比較してアジア東部本土集団との遺伝的類似性を示す傾向が確認されました。最後に、弥生時代以降のアジア東部本土からの渡来系要素が下本山弥生人と現代日本人のどちらに多く含まれるのか検討するため、f4統計(ムブティ人、検証集団X;下本山弥生人、現代日本人)が実行され、現代日本人がアジア東部本土か集団との遺伝的類似性が有意に高い、と示されました。


●考察

 上述のように、下本山3号はYHg-Oで、それ以上の下位区分はできませんでしたが、これは渡来系弥生人に由来する、と推測されます。下本山3号はmtHg-D4aで、父系でも母系でも弥生時代以降にアジア東部本土から到来した系統と考えられます。しかし、核ゲノム解析では、下本山3号も縄文人系の遺伝子を有していると示され、在来の縄文集団と弥生時代以降のアジア東部本土からの渡来系集団の双方に由来するゲノムを有している、と明らかになりました。同様に、縄文人系のmtHg-M7a1a4を有していた下本山2 号女性人骨も、核ゲノム解析からは渡来系弥生人に由来すると考えられる遺伝子も有している、と示されました。このような集団内に異なる系統の遺伝子が混在している状況をmtDNAやY染色体DNAの情報で明らかにするには、同一の遺跡から出土した多数の標本を分析する必要があります。しかし、わずかな個体を解析するだけでも混血の状況を明らかにできる核ゲノム解析は、得られる標本が少ない遺跡の解析にはとくに有効であることを示しています。

 日本列島の人類集団の形質は、縄文時代から弥生時代にかけて大きく変化したことが知られており、弥生時代は現代日本人の成立を考える上で重要な時期です。この形質の移行期の九州には、出自の異なる3集団が存在した、と指摘されています。そのうち、西北九州弥生人の顔面部の形態は、低顔性が強く、眉間から眉上弓へかけての高まりが著明で、鼻根部は深く陥没します。男性の身長は160cm以下とやや低く、四肢骨の比率でも、四肢骨の末端が比較的長い縄文人と共通した特徴を有しています。その形態学的な特徴をまとめた研究では、四肢骨の形状に古墳時代の人々につながる特徴も認められていますが、西北九州弥生人は人骨形質と考古学的所見を合わせて、「縄文人の継続であって、新しい種族の影響を受けたとは考えにくい」との結論が提示されています。西北九州弥生人の歯の形態に関する研究でも、北部九州弥生人が縄文人および西北九州弥生人と比較して大きな歯を有し、縄文人と西北九州弥生人との間にはほとんど有意差がなかったことを見いだしており、西北九州弥生人は縄文人の系統の集団である、との結論を提示しています。

 下本山岩陰遺跡は1970 年に発掘されており、以前の研究で西北九州弥生人の遺跡分布の範疇として指摘された地域内に位置します。下本山岩陰遺跡の人骨形態に関する研究では、箱式石棺に埋葬されていた2 号と3 号骨は、縄文人と共通する低顔、凹凸のある鼻根部の周辺形態、四角い眼窩などの特徴を備えている、と報告されています。したがって形態学的な研究からは、下本山岩陰遺跡人骨は縄文人の形質を強く残した西北九州の弥生人集団に含まれる、と判断されます。

 一方、これまで紀元前3世紀から紀元後3世紀までの約600年間と考えられてきた弥生時代の年代幅は、大きく修正されつつあります。21世紀になっての高精度の炭素14 年代法による年代研究の結果、水田稲作が始まったのは、当時考えられていた紀元前5 世紀ごろではなく、約500年古い紀元前10世紀までさかのぼる可能性がある、と指摘されました。ただ、弥生時代の開始年代については議論が続いています(関連記事)。弥生時代が従来の想定よりも長期間に渡る可能性の提示から、この時代における集団の形質の変化についても、千年を超える時間範囲を念頭において考える必要があります。こうした情況において、九州の弥生集団を系統の異なる集団として固定的に把握することが適切なのか、改めて検討する必要があります。

 人骨の試料的な制約もあって、これまで弥生時代における形質の変化を追う研究は困難でした。しかし、高精度の核ゲノム解析が可能になったことで、これまで渡来系や在来系の集団と位置づけられていた弥生人も、時間の中で変化していくものとして把握することが可能となりました。本論文の分析では、下本山弥生人の遺伝的な特徴は、いずれも縄文人と現代の本土日本人の中間に位置する、と明らかになりました。また、下本山弥生人が船泊縄文人よりも伊川津縄文人に近い傾向を示したことから、地理的に近い縄文人が混血に寄与した可能性も示されました。

 主成分分析では下本山弥生人とアイヌの一部の個体が重なっていますが、これは一部のアイヌが本土日本人と混血することで類似の位置にいると考えられ、集団として互いが直接的に関係するわけではない、と推測されます。下本山弥生人は、放射性炭素年代法により弥生時代後期に属すると推測されているので、本論文の結果から、弥生時代末には西北九州地域でも在来の縄文集団と渡来系集団の混血がかなり進んでいた、と示唆されます。形態学的な研究では縄文人系と把握される集団でも、ゲノムの解析では混血が進んでいる、と明らかになったわけです。古代核ゲノム解析により、形態の変化からは定量的には把握できなかった縄文時代から弥生時代への移行の状況の解明が可能であることも示されました。

 本論文の最重要点は、九州の弥生社会が祖先を異にするいくつかの系統に分かれていたという図式から、弥生時代の状況を誤って解釈する可能性を示したことにあります。少なくとも、渡来系弥生人集団と西北九州の弥生人集団の間には、形態学的な研究が予想するよりもはるかに大規模な混血があり、双方は弥生時代の全期間にわたって明確に分離した集団ではなかった、と考えられます。ただ、その交雑の状況は、地域・遺跡ごとにさまざまだった可能性があり、本論文の分析から西北九州弥生人の遺伝的な性格を代表させることはできません。しかし、西北九州弥生人という集団は固定的なものではなく、時代とともに変化していった流動性のあるものだった、と把握する視点は重要でしょう。渡来集団が長い時間をかけて在来集団を取り込んでいったと考えれば、形態学的な研究が定義している渡来系弥生人と西北九州弥生人は、混血の程度の地理的・時間的な違いを固定化して見ているだけである、との解釈も成り立ちます。

 本論文は、1ヶ所の遺跡のわずか2個体を分析したものなので、この結果をそのまま九州全体の弥生時代の状況に演繹することは困難です。しかし、解析個体を増やしていくことで、古代核ゲノム解析は、九州における縄文時代から弥生時代にかけての集団の変遷について、更に詳細なシナリオを描くことになるはずです。日本列島本土では、弥生時代の幕開けとともにアジア東部本土から稲作農耕を行なう集団が渡来し、在来集団と混血していくことで現在につながる集団が形成されていきました。北部九州は、その渡来が最初に始まった地域であり、この地域での混血の状況を明らかにすることは、その後の日本列島での集団形成史を知るための重要な知見を提供します。幸いなことに、北部九州地域は、先人の努力により相当数の渡来系弥生人と西北九州弥生人の人骨が発掘され、保管されています。これらの人骨の核ゲノム解析を進めることで、日本人成立のシナリオは更に精緻なものになるはずです。


 以上、本論文についてざっと見てきました。弥生人の核ゲノム解析はまだ始まったばかりで、本論文が強調するように、少ない事例から時空間的に広範囲の状況を安易に推測してはならないでしょう。弥生時代の人類遺骸の核ゲノム解析では、渡来系弥生人とされている福岡県那珂川市の安徳台遺跡で発見された1個体は現代日本人の範疇に収まり、東北地方の弥生人男性は遺伝的に縄文人の範疇に収まる、と指摘されています(関連記事)。弥生時代の日本列島の人々の遺伝的構成は、縄文人とアジア東部本土集団の間で時空間的に大きな変動幅が見られるのではないか、と予想されます。日本列島の人類史において、弥生時代が最も遺伝的異質性の高い期間だった可能性も考えられます。

 本論文刊行後の研究では、縄文人はユーラシア東部内陸部南方祖先系統(56%)ユーラシア東部沿岸部祖先系統(44%)の混合として、現代本土日本人は縄文人(8%)と青銅器時代西遼河集団(92%)の混合としてモデル化でき、黄河流域新石器時代農耕民集団の直接的な遺伝的影響は無視できるほど低い、と推測されています(関連記事)。九州の縄文時代早期の人類遺骸のDNA解析からは、縄文人が時空間的に広範囲にわたって遺伝的にはかなり均質だった可能性も示唆されています(関連記事)。まだ縄文人と弥生人の核ゲノムデータは少なく、現代日本人の形成過程には不明なところが少なくありません。関東地方に関しては古墳時代における人類集団の遺伝的構成の大きな変化の可能性が(関連記事)、現代日本人の都道府県単位の遺伝的構造からは、古墳時代以降における近畿地方へのアジア東部本土からの移住の影響の可能性(関連記事)が示唆されているように、現代日本人の形成過程においては地域差と年代差も大きいと予想され、その解明には、時空間的により広範囲の古代人の核ゲノムデータが必要となります。


参考文献:
篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019)「西北九州弥生人の遺伝的な特徴―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』119巻1号P25-43
https://doi.org/10.1537/asj.1904231


https://sicambre.at.webry.info/202106/article_29.html


▲△▽▼


雑記帳 2021年07月09日
佐賀県唐津市大友遺跡の弥生時代早期人骨の核DNA分析
https://sicambre.at.webry.info/202107/article_9.html

 本論文(神澤他.,2021)は、「新学術領域研究(研究領域提案型)計画研究B01【調査研究活動報告2019年度(1)】考古学データによるヤポネシア人の歴史の解明」の研究成果の一環となります。同じ著者たちによる長崎県佐世保市下本山岩陰遺跡の弥生時代の人類遺骸のDNA解析結果を報告した研究を当ブログで取り上げたさい(関連記事)、コメントで佐賀県唐津市大友遺跡の弥生時代人骨の核DNA分析に関する研究を教えていただき、調べてみたところ『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集に本論文が所収されていると分かったので、購入しました。他にも興味深い論文が多く掲載されているので、今後当ブログ取り上げていく予定です。

 本論文は、佐賀県唐津市呼子町大友の玄界灘に面した砂丘上に位置する大友遺跡の第5次調査で発見された、弥生時代人骨の核DNA解析結果を報告しています。大友遺跡では、1968〜1980年にかけての4次の調査、1999年の第5次調査と2000年の第6次調査により、それぞれ100個体以上と28個体と22個体の人類遺骸が発見されました。これら人類遺骸の副葬品の分析から、年代は弥生時代早期〜古墳時代初期と推測されています。大友遺跡は、朝鮮半島由来の支石墓をはじめとして、さまざまな様式の埋葬施設があることで知られています。大友遺跡の人類遺骸の特徴は、支石墓人骨を中心に「縄文人(縄文文化関連個体)」と共通する形質および抜歯風習を有する西北九州型とされています。これに関して、在来集団が朝鮮半島の墓制だけ取り入れたか、現時点では朝鮮半島の弥生時代相当期の人類遺骸が少なく判断困難ではあるものの、墓制の保守性・伝統性重視の観点から、被葬者はアジア東部大陸部起源だった、との見解があります。

 大友遺跡の人類遺骸の由来の解明は、日本人、とくに本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」集団の成立過程の考察において重要です。日本人の成立に関して形態学的研究では、弥生時代にアジア東部大陸部から朝鮮半島経由で九州北部に到来した多数の「渡来人」が在地の縄文系と集団と混合して成立したという、「二重構造説」が提唱されています。しかし、二重構造説が依拠した人類遺骸の年代は弥生時代中期以降が大半で、最重要である縄文時代〜弥生時代の移行期における人類遺骸を解析の対象としてないことに要注意です。その後、二重構造説は現代人や古代人を対象としたDNA研究からも支持されており、現代「本土」日本人の成立の大枠を説目しています。

 日本列島の古代DNA研究は1990年頃から始まり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)が分析対象とされてきました。mtDNAは細胞内に数百コピー存在するので、核DNAよりも解析が容易です。mtDNAでは、蓄積した変異に基づいたハプログループという分類体系が確立しています。mtDNAハプログループ(mtHg)は、人類拡散の過程で集団に共有されたり、新規に形成されていったりするので、その分布調査により、古代から現代における人類集団の移住と拡散の歴史を解明できます。

 ただ、これまでの分析では既存のmtHgに基づいてmtDNAの一部領域のみを分析しているので、情報量が限られています。また、mtDNAは母系遺伝なので、男系の情報が欠落します。さらに、「縄文人」と「渡来系弥生人」の混血度合といった定量的分析では誤差も多く必ずしも有効な手段ではないなど、複数の点で課題がありました。この状況は、2010年から次世代シーケンサー(NGS)が古代DNA研究でも利用されるようになったことで、大きく変化しました。NGSにより古代人遺骸のDNAの網羅的分析が可能になり、mtDNAよりもはるかに多くの情報を有する核DNAの解析が可能になりました。mtDNAに関しても、新規のmtHgや個体特異的な変異の検出も可能となりました。そうした解析から描かれる集団成立史の想定は、以前よりも精緻なものとなっています。

 これまでの形態学的研究から、西北九州「弥生人」は「縄文人」系統の集団と考えられてきました。しかし、上述の下本山岩陰遺跡の弥生時代人類遺骸2個体のDNA解析結果から、縄文系と「渡来系弥生人」双方のDNAが示され、両系統の混血がかなり進んでいた、と明らかになりました(関連記事)。しかし、混血の地理的・時期的な変遷はまだ不明なので、本山岩陰遺跡の弥生時代人類遺骸2個体のDNA解析結果から、西北九州の弥生時代の人類の遺伝的構成について結論づけるのは時期尚早です。そこで本論文は、大友遺跡の弥生時代早期の人類遺骸の核DNA解析結果を報告し、西北九州の弥生時代の人類の遺伝的構成に新たな知見を加えます。


●DNA解析

 本論文がDNA解析の対象とした人類遺骸は、側頭骨が残存する個体のうち、オオツタノハ貝製腕輪を装着した5次8号支石墓の熟年女性(以下、大友8号)です。年代は弥生時代早期で、支石墓の下部構造は土壙墓です。側頭骨錐体部はDNAの保存状態が良好な部位とされます。大友8号は、X染色体とY染色体にマップしたリード数の比から女性と判断され、これは人骨の形態学的所見と一致します。大友8号のmtHgはM7a1a6です。大友8号は、一塩基多型データに基づいて、主成分分析でアジア東部の現代人および古代人と比較されました。アジア東部大陸部の集団は、北から南にかけて、集団ごとにクラスタを形成しながら中央付近で左右方向に連続的に分布しました。日本列島本土現代人は上方に離れてクラスタを形成し、さらに上方に縄文人が位置しています。この分布は、縄文人がアジア東部で遺伝的に特異的な集団であることに加えて、日本列島本土現代人が縄文人由来の遺伝要素を受け継いでいる、と示します。弥生時代早期の西北九州弥生人型である大友8号は、縄文人の分布範囲内となり、アジア東部大陸部や日本列島本土現代人から大きく離れています。一方、同じく西北九州弥生人とされる弥生時代末期の本山岩陰遺跡の2個体は、縄文人と日本列島本土現代人の間に位置します。


●考察

 大友遺跡出土人骨は、形態学的には典型的な西北九州弥生人型で、縄文人と共通する形質を有することから、その遺伝的背景と由来が注目されます。大友8号は、土圧などによる歪みが強く計測されていないものの、形質的には著しい低顔傾向など縄文人的な特徴が指摘されています。大友8号のmtHgはM7a1a6で、縄文人に典型的なmtHgです。南西諸島の古代人のmtDNA分析(本書に所収されている別論文、今後当ブログで取り上げる予定です)から、南西諸島集団のmtHg-M7aは下位区分では九州以北の古代人や日本列島本土現代人集団とも異なる、と明らかになっており、大友8号のmtHg-M7aは本土集団と共通します。大友8号の副葬品は南海産のオオツタノハ貝製腕輪ですが、遺伝的に母系では南西諸島集団からの影響は見られません。

 核DNAを用いた主成分分析では、大友8号は縄文人クラスタの範疇に収まり、大陸系集団との混血の影響は見られませんでした。これは人骨の形態的特徴と矛盾しません。支石墓は朝鮮半島に起源がある墓制なので、(1)土着住民が朝鮮半島の墓制を取り入れたか、(2)朝鮮半島で支石墓を墓制とする集団に起源がある、と考えられます。(2)では、朝鮮半島にも西北九州弥生人のように人々がいたのか、問題となります。現時点では人骨の形態学的証拠は乏しいものの、韓国釜山市の加徳島の獐項(ジャンハン)遺跡の6300年前頃の2個体の核DNAが解析されており、現代韓国人よりも縄文人的と明らかになっています(関連記事)。しかし、獐項遺跡の2個体の縄文人的な遺伝的構成の割合は日本列島本土現代人と同程度かそれ以下で、西北九州弥生人である大友8号や下本山岩陰遺跡の弥生人2個体とは遺伝的に大きく異なります。これらの知見を踏まえると現時点では、朝鮮半島に西北九州弥生人と遺伝的に同質の集団を想定するよりも、西北九州在来集団が朝鮮半島の墓制を取り入れた、と想定する方が妥当なようです。

 西北九州弥生人の中でも、早期の大友8号とは異なり、末期の下本山岩陰遺跡の2個体は渡来集団との混血がかなり進んでいます。これを地域差と年代差のどちらと解釈すべきなのか、現時点の限定的データからは明らかではありません。大友遺跡人類遺骸の同位体分析による食性分析では、時代が下るとともに、当初の漁撈依存から穀物依存の度合が高まる、と明らかになっています。大友遺跡の古墳時代初期の人類遺骸の中では、1個体だけ九州北部弥生人との強い類似性が示され、渡来系弥生人の流入の可能性が指摘されています。これらの知見から、西北九州弥生人でも、時期的・地理的に差はありつつ混血が進んだと考えられますが、今後、同時期の朝鮮半島南部および九州北部集団の古代人のDNA分析を継続することで、その実態がより精緻なものになる、と期待されます。


 以上、本論文についてざっと見てきました。弥生時代の人類遺骸の核ゲノム解析では、渡来系弥生人とされている福岡県那珂川市の安徳台遺跡で発見された1個体は現代日本人の範疇に収まり、東北地方の弥生人男性は遺伝的に縄文人の範疇に収まる、と指摘されています(関連記事)。弥生時代早期の九州の大友8号も遺伝的に縄文人の範疇に収まる、と明らかになったことで、改めて弥生時代の人類集団の遺伝的異質性の高さが示されたように思います。日本列島の人類史において、弥生時代が最も遺伝的異質性の高い期間だったかもしれません。

 その形態から縄文人的と評価されてきた西北九州弥生人のうち、早期の大友8号は核DNAの解析で既知の縄文人の範囲に収まりますが、末期の下本山岩陰遺跡の2個体は、縄文人と日本列島本土現代人集団との間に位置し、縄文人系集団と弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団との混合集団だった、と示唆されます。本論文が指摘するように、これが地域差と年代差のどちらを反映しているのか、現時点では不明ですが、いずれにしても、弥生時代にはアジア東部大陸部に最も近い西北九州でも、遺伝的には縄文人そのものの集団が早期に存在し、末期においても、日本列島本土現代人集団よりもずっと縄文人の遺伝的影響の強い個体が存在したことになり、弥生時代の日本列島本土ではまだ縄文人の遺伝的影響が根強く残っていた、と示唆されます。

 日本列島本土人類集団の遺伝的構成が、縄文人的なものからアジア東部大陸部現代人的なものに近づく過程は弥生時代もしくは縄文時代晩期に始まって長期にわたり、地域・年代差が大きかった、と推測されます。今後、時空間的に広範囲の古代DNA研究が進むことで、日本列島本土現代人集団の形成過程がより明らかになっていくと期待されます。アジア東部の古代DNA研究も進んでおり(関連記事)、縄文人や弥生時代以降に日本列島に到来したアジア東部集団の形成過程、さらには弥生時代以降に日本列島に到来したアジア東部集団にどのような年代差と地域差があるのか、といった問題の解明も今後進んでいきそうです。

 また本論文は、縄文人の遺伝的構成が長期にわたってかなり均質だった可能性を改めて示します。最近、佐賀市の東名貝塚遺跡で発見された縄文時代早期の人類遺骸の核DNAが解析され、既知の縄文人の範疇に収まる、と明らかになりました(関連記事)。形態学的分析から、縄文人が長期にわたって遺伝的に一定以上均質であることは予想されていましたが(関連記事)、縄文時代早期と弥生時代早期の西北九州の個体から縄文時代後期の北海道の個体(関連記事)まで遺伝的に古代および現代の人類集団と比較して緊密なまとまりを示すとなると、縄文人は長期にわたって広範囲に遺伝的には均質だった可能性が高そうです。

 最近、中国南部の広西チワン族自治区の隆林洞窟(Longlin Cave)で発見された11000年前頃の1個体(隆林個体)が、未知の遺伝的構成だと明らかになりました(関連記事)。未知の遺伝的構成とはいっても、出アフリカ現生人類(Homo sapiens)ユーラシア東部集団の範疇に収まり、その中では他の古代人および現代人と比較して異質の遺伝的構成というわけで、縄文人と位置づけが似ています。おそらく、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)の前後でユーラシア東部に拡散してきた現生人類集団は各地で孤立して遺伝的に分化していき、固有の遺伝的構成を形成していったのではないか、と推測されます。そうした集団の中には、隆林個体的集団のように絶滅したものや、縄文人のように一部の現代人に遺伝的影響を残したものもいたのでしょう。孤立性の高い日本列島において、縄文人は長期にわたって独自の遺伝的構成を維持し続けた、と推測されます。

 上述の韓国釜山市の加徳島の獐項遺跡の6300年前頃の2個体の事例からも、縄文人が日本列島から朝鮮半島に渡海したか、縄文人的な遺伝的構成の集団が日本列島だけではなく朝鮮半島南部にも存在した、と考えられます。しかし、縄文時代の日本列島と同時代の朝鮮半島の文化的交流は限定的で、対馬海峡で文化的に区分される、と指摘されています(関連記事)。その意味で、もちろん文化と遺伝を安易に同一視できないとはいえ、縄文時代と同時期の朝鮮半島において縄文人的な遺伝的構成の集団が大きな影響を有したとは考えにくく、縄文人が日本列島から朝鮮半島へと渡海しても、その影響は限定的で、獐項遺跡の6300年前頃の2個体も、その後の朝鮮半島や日本列島の人類集団に遺伝的影響を残さなかった可能性もじゅうぶんあるとは思います。弥生時代には、遺伝的にアジア東部大陸部の現代人集団と類似して縄文人とは大きく異なる集団が、大陸部から改めて到来したのではないか、と現時点では想定していますが、今後の古代DNA研究の進展により、大きな修正が必要になるかもしれません。ユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れていたユーラシア東部の古代DNA研究も最近になって目覚ましく発展しており、今後の研究の進展が楽しみです。


参考文献:
神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021)「佐賀県唐津市大友遺跡第5次調査出土弥生人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P385-393


https://sicambre.at.webry.info/202107/article_9.html

19. 中川隆[-12513] koaQ7Jey 2023年6月10日 18:29:57 : c1nXr8h1zq : bkNRM0hZOFlub1E=[11] 報告
<■702行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳
2023年06月07日
考古学的観点からの日本語と朝鮮語の起源
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_7.html

 考古学的観点から日本語と朝鮮語の起源を検証した研究(Miyamoto., 2022)が公表されました。本論文は考古学的観点から、アジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大の様相を検証しています。本論文は、日本語祖語と朝鮮語祖語の起源はマンチュリア(満洲)南部にあり、朝鮮半島には朝鮮語祖語よりも日本語祖語の方が早く流入し、その後で朝鮮半島に流入した朝鮮語祖語が日本語祖語をじょじょに駆逐し、一方で日本語祖語は弥生時代早期に日本列島に流入し、「縄文語」をじょじょに駆逐した、と推測しています。この記事では今後の参照のため、当ブログで取り上げていない本論文の引用文献も最後に記載します。「日本語」と「日琉語族」を適切に訳し分けた自信はないので、混乱があるかもしれませんが、本論文の趣旨からすると、まだ日本語と琉球諸語が分岐する前を主要な対象としているので、「日琉語族」と訳すべきところが多いかもしれません。また、考古学用語については、定訳があるのに変な訳語になっているものも少なくないかもしれません。近年の古代ゲノム研究と本論文の知見を合わせて、そのうちアジア東部の古代史をまとめよう、と考えています。以下、敬称は省略します。


●要約

 言語学的観点から、日本語祖語と朝鮮語祖語は、マンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分かれた、と想定されています。年代順では日本語祖語が朝鮮語祖語よりも先に到来した、という言語学的見解が意味するのは、日本語祖語がまず朝鮮半島に入り、そこから紀元前9世紀頃となる弥生時代早期に日本列島へと拡大した一方で、朝鮮半島南部における朝鮮語祖語の到来は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化と関連している、ということです。同じ土器製作技術を共有する偏堡(Pianpu)文化と無文(Mumun)文化と弥生文化の系譜は、日本語祖語の拡大を示唆します。

 一方、移民が遼東半島から朝鮮半島へと移動し、粘土帯土器文化を確立しました。この人口移動は恐らく、燕(Yan)国が東方へ領土を拡大する中での、社会および政治的理由に起因しました。粘土帯土器文化の朝鮮語祖語は後に朝鮮半島へと拡大し、次第に日本語祖語を追い払っていき、朝鮮語の前身となりました。本論文では、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を検証し、とくに土器様式と土器製作技術の系譜に焦点を当てます。


●近年の研究動向

 先史時代における言語拡散がヒトの移住を伴う農耕の拡大と関連している、との見解は、コリン・レンフルー(Colin Renfrew)により初めて提唱されたよく知られた仮説であり(Renfrew1987)、インド・ヨーロッパ語族の拡大は農耕の拡散を伴っていた、と示唆されています。レンフルーは、故地がアナトリア半島南部中央にあった農耕民が、紀元前7000〜紀元前6500年頃までにギリシアへと拡大した、と論証しました。この拡散は、農耕民がヨーロッパへと到達し、インド・ヨーロッパ語族の下位群を形成するまで続きました【現在では、後期新石器時代〜青銅器時代にポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からヨーロッパへと拡散した集団がインド・ヨーロッパ語族をもたらした、との見解が有力です(関連記事)】。レンフルーはさらに、移住してきた農耕民と在来の中石器時代の人々との間の3000年以上にわたる交流も論証しました。インド・ヨーロッパ語族がギリシアへ拡大した紀元前7000年頃から、ブリテン諸島へ拡大した紀元前4000年頃にかけてです(Renfrew1987、Reference Renfrew1999)。この仮説は「農耕・言語拡散仮説」と呼ばれることが多く、農耕余剰から生じた人口増加と結びついています。

 ピーター・ベルウッド(Peter Bellwood)も、アジア東部において同様に農耕の拡大は言語の拡大と関連している、と仮定しました(Bellwood2005)。この仮説によると、シナ・チベット語族は黄河中流域において雑穀に基づく農耕とともに起源がある一方で、長江中流地における稲作に基づく農耕民と関連するミャオ・ヤオ(Hmong-Mien)語族はアジア南東部へと移動し、オーストロアジア語族を形成しました。さらに、中国南部で稲作農耕を行なっていた人々が話していたタイ・チワン諸語は、アジア南東部でオーストロアジア語族の一部へと発展しました。さらに、オーストロネシア人は台湾からインドネシアとオセアニアへと南方へ拡大しました。

 一方で、以下の5語族は伝統的に、「アルタイ諸語」と分類されており、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です。近年では、「トランスユーラシア語族」という用語がこれら5語族の記述に使われてきており、地理的には、東方では太平洋、西方ではバルト海と黒海と地中海まで広がっている巨大な語族を指します(Robbeets and Savelyev2020)。ユハ・ヤンフネン(Juha Janhunen)は、トランスユーラシア語族の故地は現在のモンゴル東部とマンチュリア南部と朝鮮半島に位置している、と提案しました(Janhunen and Karttunen2010)。マーティン・ロベーツ(Martine Robbeets)も、トランスユーラシア語族の拡散の背後にある原動力として、レンフルーやベルウッドなどの農耕拡散仮説を支持しています(Robbeets2020)。ロベーツは、大日本語族が遼東半島で話されており、朝鮮半島を経由して稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた、と主張しました(Robbeets2020)。

 著者【宮本一夫、以下、著者で統一します】は対照的に、日本語祖語が朝鮮半島南部から稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた一方で、遼東半島から朝鮮半島への日本語祖語の拡大は稲作農耕の拡大と関係していなかった、と提案しました(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。李濤(Tao Li)も、トランスユーラシア語族祖語、とくにツングース語族祖語の拡散の背後にある原動力としての農耕拡散仮説を批判しました。李濤は、トランスユーラシア語族祖語の拡散における農耕拡散仮説について、考古学的証拠には不確実性と限界がある、と主張しました(Li2020)。李濤も、ロシア極東への雑穀農耕の拡大とツングース語族祖語との間のつながりを示唆しました。(Li et al., 2020、Hudson and Robbeets2020)。

 最近、マーク・ハドソン(Mark J. Hudson)とマーティン・ロベーツは、遼東地区から朝鮮半島への大朝鮮語族祖語の拡大は、朝鮮半島中期新石器時代の紀元前3500年頃における雑穀農耕の拡大と関連していた、と提案しました(Hudson and Robbeets2020)。しかし、金壮錫(Jangsuk Kim)と朴辰浩(Jinho Park)は、雑穀の導入は新石器時代朝鮮半島の櫛目文(Chulmun)物質文化に影響を及ぼさなかったようであり、新石器時代における中国北東部(遼西および遼東地区)と朝鮮半島の土器様式は明確に異なっている、と述べました(Kim and Park2020)。

 著者も、先史時代のアジア北東部には農耕発展の4段階があった、と仮定しました(Miyamoto2014、Miyamoto2015a、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。第1段階は、紀元前3300年頃となる、マンチュリア南部から朝鮮半島およびロシア極東への雑穀農耕の拡大を含んでいました。第2段階は、紀元前2400年頃となる山東半島から遼東半島への水田稲作の拡大でした。第3段階は、石庖丁と平型凸刃石斧(flat plano-convex stone adze)を含む新たな磨製石器と関連する、灌漑農耕の拡大でした。第3段階には、湿田(イネ)と乾田(雑穀やコムギなど)で構成される第三の農耕体系の導入がありました。この灌漑農耕も、山東省から遼東半島を通って朝鮮半島へと紀元前1500年頃に広がりました。最後に、第4段階は、日本の九州北部への灌漑農耕の拡大を含んでおり、紀元前9世紀頃に始まります(宮本., 2018)。アジア北東部における農耕拡大の4段階の発展過程に関するこの理論は、一部の農耕民が気候状態の寒冷化によりもたらされた人口圧に起因して、穀物を栽培するために、狩猟採集民社会の土地に移動し、穀物を栽培した、という理由に基づいています。

 本論文で著者は、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を再検証し、とくに土器様式の系譜と製作技術に焦点を当てます。農耕の拡大は、朝鮮半島南部から九州北部への農耕の拡大を除いて、必ずしも日本語祖語と朝鮮語祖語の拡散と関連していなかった、と著者は提案します(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。


●日琉語族と朝鮮語の研究史

 日琉語族と朝鮮語はアルタイ諸語に分類される、とみなす言語学者もいます(Ruhlen1987)。編年体系では、これらは比較的浅い言語であり、日琉語族と朝鮮語は大ツングース語族から分岐した、というわけです(Unger2009)。朝鮮語と日本語との間の背後にある言語学的相互作用は、日琉語族(日琉語族祖語)がまだ朝鮮半島の一部で話されている時に起きました(Janhunen2005)。高句麗の地名データからは、日琉語族と同語族の言語が朝鮮半島で話されていた、と示唆されます。さらに、紀元後8世紀以前の地名に含まれる日本語起源の地名は通常、鴨緑江(Yalu River)の中央部および北部地域、とくに高句麗地区に分布しています(Endo2021)。したがって、日琉語族は元々朝鮮半島で用いられていた、と仮定されていますが、朝鮮半島南端の人々の一部だけが日琉語族を話していた、と示唆した学者もいます。

 李濤と長谷川寿一は、日本語の59の言語変種から得られた語彙データに基づくベイズ系統分析を用いて、日本語祖語の祖語について2182年前頃と推定しました(Lee and Hasegawa2011)。日本語は朝鮮半島で話されていたので、日本語は朝鮮半島の無文文化と日本列島の弥生文化の両方で話されていた、と考えられています(Whitman2011)。さらに、文献学者は、日本語が人口拡散を通じて弥生時代最初期において朝鮮半島から日本列島へと拡大した、と考えています(Whitman2011、Vovin2013、Unger2014、Hudson et al., 2020)。したがって恐らく、日本語は紀元前9世紀頃から紀元後3世紀頃までの弥生時代に、日本列島で話されていたのでしょう。

 マーシャル・アンガー(Marshall Unger)は、日本語祖語と朝鮮語祖語もその1系統である大ツングース語族の故地が山東省から遼寧省に至る渤海湾周辺地域だったならば、ツングース語族祖語話者が北方と北東、最終的にはシベリア東部へと移動した一方で、朝鮮語祖語話者は分岐してマンチュリア南部へと移動したことを意味する、と提案しました。マーシャル・アンガーは、日本語祖語話者が水田稲作の知識を朝鮮半島へともたらし、朝鮮語話者は朝鮮半島へと移動し、日本語祖語話者を追い払った、とも結論づけました(Unger2014)。朝鮮語は細形短剣(朝鮮式短剣)文化の出現とともに、遼寧省から朝鮮半島へと広がった、と考えられています(Whitman2011)。

 マーティン・ロベーツなどは、雑穀農耕の拡大とともに、大日本語祖語が遼東半島から朝鮮半島に至る地域で紀元前3500〜紀元前1500年頃に話されていた、と仮定します。日本語祖語は半島日本語(Para-Japonic)から分岐し、九州へと拡大して紀元前900年頃に農耕を伴う弥生文化になりました(Robbeets et al., 2020)。マーティン・ロベーツの解釈は、日本語と朝鮮語の祖先話者が紀元前四千年紀に渤海沿岸と遼東半島にいた可能性を示唆しています。マーティン・ロベーツはベイズ推定を用いて、日本語と朝鮮語が紀元前1847年頃に分岐した、と示唆しています(Robbeets, and Bouckaert., 2018)。朝鮮半島南部の新羅は、その言語が中世および現在の朝鮮語の直接の祖型で、全ての先行言語を遅くとも紀元後7世紀までには置換しました。

 日本語祖語と朝鮮語祖語に関する言語学的研究によると恐らく、日本語祖語は朝鮮半島で話されており、朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部においてトランスユーラシア語族から分岐し、朝鮮半島へと拡大したのでしょう。日本語祖語は恐らく、稲作農耕とともに弥生時代に日本列島へと拡大したものの、日本語中央方言(Central Japanese)が紀元後4世紀〜紀元後7世紀となる古墳時代と飛鳥時代に古朝鮮語(恐らくは百済語)から強い影響を受けた、と示唆する言語理論が存在します(Unger2009)。これは、弥生文化の開始が朝鮮半島南部の無文文化に強い影響を受け、この地域からの一部の移民が九州北部へと移動した、と考えられているからです(Miyamoto2014、Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Hudson et al., 2020)。日本語祖語が弥生文化の開始期に移民とともに朝鮮半島南部から九州北部へと広がったならば、日本語祖語は無文文化の人々により話されていた、と推測できます。


●考古学的文脈における言語の拡散に関する問題

 九州北部の「縄文人」と「弥生人」の形質人類学的差異はひじょうに明確で、九州北部の「弥生人」は大陸部の(無文文化)の人々と身体が類似しています(中橋., 1989、Hudson et al., 2020)。朝鮮半島南部からの移民が九州北部において先住の「縄文人」と混合し、その結果生まれた「弥生人」は、次第にこの地域で優勢になりました(田中・小澤., 2001)。紀元前9世紀〜紀元前6世紀となる弥生文化の早期には、これらの人々は灌漑農耕の一形態である水田で稲を栽培していました。これらの人々は、新たな石庖丁などの新たな磨製農耕石器、支石墓などの埋葬慣行、朝鮮半島南部の無文文化に属する壺様式である、壺(necked jar)や祖型板付壺土器など様々な土器様式を発展させました。さらに、環状集落と木棺埋葬が夜臼式2期に出現しました。

 九州北部における縄文文化と弥生文化の移行期は3段階に区分でき、縄文時代晩期黒川期から、板付式土器の出現をもたらした弥生時代早期板付1式までとなります(表1)。弥生時代早期の夜臼式1期となる弥生文化の出現は、宇木汲田貝塚で発見された炭化したイネ粒に基づいて、紀元前9世紀〜紀元前8世紀頃となる較正年代で紀元前842〜806年頃(4点の標本の中央値データ)と年代測定されています(宮本., 2018)。これらの段階は、朝鮮半島南部の無文文化からの移民と、九州北部の「縄文人」との間の遺伝的混合過程を表している、と考えられています(田中・小澤., 2001)。以下は本論文の表1です。
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 縄文時代黒川期の紀元前13世紀〜紀元前11世紀頃の寒冷化の最初の期間(宮本., 2017)に、朝鮮半島南部と九州北部との間に短期間の接触があります。田中良之は、朝鮮半島のコンヨル(Konyol)式土器を模倣した黒川式土器の縁の下の点の並びや、貫川遺跡で見つかった石庖丁などの考古学的証拠に基づいて、一部の移民が黒川期に朝鮮半島南部から九州北部へと到来した、と提案しました(田中., 1991)。これは、紀元前1200年頃のより寒冷な気候条件とも関連しています(宮本., 2017)。土器の走査電子顕微鏡(Scanning Electron Microscope、略してSEM)ケイ素分析から得られた証拠により示唆されているように、イネはこれ以前ではなくとも、恐らくはこの時点までに九州に広がっていました。

 黒川式縄文土器は、瀬戸内東部(内海地域もしくは近畿)地域に起源があり、九州北部へと次第に西方へ広がった(縁帯無文土器文化とは異なる)帯文深鉢(banded deep bowl)の拡大を通じてしだいに夜臼式土器へと変わっていき、縄文時代晩期の黒式土器を弥生時代早期の夜臼式土器に置換しました。夜臼式土器は2種類の連続で構成されます。それは、縄文土器様式に基づく深鉢と、無文文化に基づく壺です(Miyamoto2016、宮本., 2017)。夜臼式1期(紀元前9世紀〜紀元前8世紀)と夜臼式2期(紀元前7世紀〜紀元前6世紀)には、無文文化が朝鮮半島の異なる2ヶ所から拡大しました。夜臼式1期には、南江(Namgang River)から唐津と糸島平野まで広がり、夜臼式2期には、ナグトンガン川(Nagtonggang River)から福岡平野にまで広がりました(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。夜臼式2期は、その最初の場所である福岡平野の板付式土器(弥生時代前期)の発達に先行します。したがって、紀元前6世紀〜紀元前5世紀頃には、無文土器に影響を受けた板付式壺が、夜臼式期の縄文土器の深鉢を置換しました。以下では、「移行」期は夜臼式1期および2期を指します。夜臼式は水田稲作の存在のため弥生時代と見なされていますが、完全にそろった弥生文化は板付1式まで固定されませんでした。九州北部における縄文時代と弥生時代早期との間の移行期は、推定300年間です(宮本., 2017)。

 土器の様式と系譜だけではなく、土器製作技術も、弥生時代と縄文時代では異なります。夜臼式1期無文土器文化の影響を通じて壺が追加されましたが、縄文土器の深鉢が縄文時代と弥生時代の移行期には依然として使われていました。板付式壺は弥生時代前期の板付式1期に確立しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。この時点で、土器製作技術は全体的に、縄文時代から変化しました(家根., 1984、家根., 1997、三阪., 2014)。縄文土器に用いられた比較的薄い粘土の平塊(slab)とは対照的に、弥生土器の製作には比較的に広い粘土の平塊が用いられました(図1)。弥生土器の平塊は、その前の平塊の外面に付着されますが、縄文土器の平塊は土器の内面に重ねて付着されました。弥生土器の表面は、木片の端を用いて滑らかにされていましたが、縄文時代晩期にはこの作業を行なうために貝殻が用いられました(図1)。弥生土器は地上にてさほど精巧ではない粘土窯で焼成されましたが、縄文土器は野外で焼成されました(小林他., 2000)。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、縄文土器と弥生土器との間に明確に存在しました。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、無文土器から採用されました。土器製作の新技術が、無文文化により最初に影響を受けた夜臼式ではなく、縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式で完全に確立されたのは、興味深いことです。縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式土器は、最終的には新たな土器製作技術の4特性から構成されました。以下は本論文の図1です。
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 縄文時代から弥生時代への移行では、土器様式を超えたさせなる文化的変化も明らかです(表1)。水田や新様式の土器や新形態の磨製石器が、黒川期後の夜臼1期の福岡平野で見つかっています(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Fujio2021)。その後、環濠集落が夜臼式2期に確立しました。木棺のような新たな埋葬習慣が、夜臼式2期と板付式1期の頃に始まりました(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。文化的特性は、夜臼式1期と夜臼式2期の期間に経時的に追加されました。支石墓は夜臼式1期には確立していませんでしたが、その分布は九州北西部を含む唐津と糸島平野に集中していました。しかし、木棺が朝鮮半島から福岡平野にもたらされ、次に夜臼式2期に福岡平野から他地域へと広がりました。副葬品として木棺には磨製石器短剣が伴いました。支石墓と木棺との間の導入と分布の時期の違いは、朝鮮半島での磨製石器短剣の種類による分布地域の違いとともに、朝鮮半島からの文化の二重起源を示唆します(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。したがって、弥生文化は無文文化の二重拡散で確立しました(表1)。板付1式の時までに、灌漑農耕社会が形成されました(宮本., 2017、Fujio2021)。

 弥生文化の確立とともに、板付式土器が生まれたことは、日本列島における独立した農耕社会の発展を意味しました。九州北部における弥生文化の新たな農耕民は瀬戸内海と近畿地方に移動し、そこでは新たな農耕民と先住の「縄文人」が再び混合しました。考古学的証拠は、土地の無文文化と対応する日本語祖語文化が朝鮮半島南部から九州北部へとどのように広がったのか、という問題への答えを提供します。前節では、黒川期に九州北部にイネがどのように広がったのか、水田を伴う稲作は夜臼式期にどのように急増へと広がったのか、説明されました。無文文化に影響を受けた支石墓や磨製石器や土器様式を含む文化的変化が、夜臼式1期に出現しました。したがって、定義上、弥生文化は紀元前9世紀〜紀元前8世紀となる夜臼式1期に始まった、と言うことができます。

 したがって、この知見から、日本語祖語は夜臼式1期に無文文化からの移民とともに九州北部へと広がった、と言うことができますか?無文文化に影響を受けた壺など新たな土器の種類は、九州北部において夜臼式1期に出現しました。しかし、夜臼式1期における多数の新たな種類の壺や他の縄文様式の土器壺は、縄文土器の製作技術を用いて製作されました。無文土器文化と同じ土器製作技術を用いて製作された、壺や板付式壺を含めて弥生式土器は、板付1式期に出現し、その年代は紀元前6世紀〜紀元前5世紀です(宮本., 2018)。著者の見解は、日本語祖語がこの時点で九州北部において「縄文語」を置換した、というものです。

 「縄文人」は夜臼式1期に、栽培穀物保存のための壺と調理用の縄文式深鉢を製作した少数の無文文化移民とともに、九州北部に移住しました(田中・小澤., 2001)。こうした人々は、縄文土器製作技術を用いて、農耕生活のために無文文化の壺を模倣した、と考えられています。しかし、板付1式期には無文文化の土器様式と製作技術が変化しました著者は、「縄文人」が九州北部で「縄文語」を置換した日本語祖語を介して、新たな土器様式と製作技術を教えられたのではないか、と提案します。その後、弥生時代前期には、新たな板付式土器様式と製作技術が福岡平野を中心とする九州北部から、九州北西部と瀬戸内海地域と近畿地域を含む西日本にまで広がりました。この場合、一般的には「縄文人」の子孫とされる九州北西部の「弥生人」でさえ、板付式土器がそうであるように、同じ弥生土器を製作できた、と注目するのは興味深いことです。

 形質人類学的分析は、九州北西部の「弥生人」に属する人骨を、「縄文人」と同じと同定してきました(中橋., 1989)。最近のDNA研究では、紀元後1〜紀元後2世紀の弥生時代末と年代測定された九州北西部の長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体では、「縄文人」と「渡来系弥生人」両方のゲノムを有している、と示されています(篠田他., 2019、関連記事)。しかし、別のDNA研究では、九州北西部の佐賀県唐津市大友遺跡の初期「弥生人」は依然として「縄文人」だった、と示唆されています(神澤他., 2021、関連記事)。九州北西部の初期「弥生人」は遺伝的に無文文化人と異なりますが、無文文化の土器製作技術に基づいて弥生土器を製作できました。これは、九州北西部の初期「弥生人」が、日本語祖語を介して、弥生土器の製作技術について学ぶことができたからです。


●日本語祖語の拡散理論についての考古学的説明

 日本語祖語が弥生文化の開始において九州北部へと拡大し、板付1式期に「縄文語」を完全に置換した、との仮説が正しければ、問わねばならない問題は、どのようにどこから、無文土器文化に相当する日本語祖語文化が朝鮮半島に入ったのか、ということです。この問題を解決するため、初期農耕の拡大とは無関係な文化的接触を説明する、土器製作技術への焦点が選択されます。

 弥生土器と朝鮮半島南部の無文土器との間には、おもに以下の4点の特性の観点で、同じ土器製作技術が存在しました。それは、(a)広い粘土平塊、(b)その前の平塊の外面に付着する平塊、(c)木片の端で土器表面を滑らかにすること、(d)地面であまり精巧ではない粘土窯での焼成です。朝鮮半島南部の無文土器文化は、初期と前期と後期の3段階に区分されます(表2)。初期は、縁帯(band-rim)土器により特徴づけられ、前期はガラクドン(Garakdon)様式とコンヨル様式、つまりヘウナムリ(Heunamri)式と駅三洞(Yeoksamdong)式の土器により示され、後期はヒュアムリ(Hyuamri)式と松菊里(Songgunni)式で構成されます。以下は本論文の表2です。
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 三阪一徳は、朝鮮半島の新石器時代土器と無文土器との間の土器製作技術を分析しました(Misaka2012)。その分析によると、土器製作技術における4点の特性は、初期から後期まで無文土器文化を通じて見られました(図2)。対照的に、新石器時代土器の製作技術にはそうした4点の特性がありません。新石器時代土器と無文土器との間のそうした違いは、縄文土器と弥生土器との間に存在したものと同じです。この場合、初期の土器である縁帯土器は、系譜的に他地域の土器から広がったに違いありません。土器のSEMケイ素分析から、朝鮮半島における稲作は無文文化土器初期の縁帯土器期に始まった、と示唆されます(Son et al., 2010)。金壮錫と朴辰浩は、稲作農耕民の移住は中国北東部から朝鮮半島への言語拡散をもたらした、と示唆しました(Kim, and Park., 2020)。したがって、無文土器の製作様式がどのようには最初に始まったのか、注意を払う必要があります。以下は本論文の図2です。
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 朝鮮半島南部における最初の無文土器は、紀元前1500年頃以降の最初期無文土器文化における縁帯土器です。縁帯土器は、朝鮮半島北部〜中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)土器と関連している、と考えられており(Ahn J2010、Bae2010)、それは、土器の模様と他の側面では家屋計画の類似性のためです。したがって、ゴングウィリ式土器は、最初期の無文土器の縁帯土器と関連している、と考えられています。無文文化は朝鮮半島南部に起源があるものの(Miyamoto2016、宮本., 2017)、比較的広い粘土平塊、外側から付着される粘土平塊、木片の端で滑らかにされることや粗放的な粘土窯での焼成など、無文土器の土器製作技術の起源は新石器時代櫛目文土器では確認されませんでした。

 朝鮮半島北西部では、マンチュリアの遼東地区における偏堡文化の影響(図3-3)が、ナムケヨン(Namkyeong)の櫛目文土器と結びつき、無文文化におけるパエングニ(Paengni)式土器を形成しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。偏堡文化は、前期と中期と後期の3段階に区分されます(Chen and Chen1992)。偏堡文化の初期(図3-1〜3)は、土器編年によると、遼西地区の東側に分布しています。しかし、シャオズフシャン(Shaozhushan)文化の中期層の呉家村(Wujiacun)期は、偏堡文化の分布の周辺に位置する遼東地区に分布します(図3-4)。偏堡文化の中期および後期は呉家村期文化を置換し、遼東地区と朝鮮半島北西部に広がりました(図3-5)。偏堡文化は朝鮮半島北西部の櫛目文土器に影響を与え、櫛目文土器の系列に壺の新様式を加えました。以下は本論文の図3です。
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 偏堡文化により影響を受けた壺(図3-3)は、朝鮮半島西部における新石器時代末期の櫛目文土器ナムケヨン1および2式で構成されます。この事象は、紀元前2400年頃のアジア北東部における農耕化の第二段階とも一致しました(図4)。対照的に、朝鮮半島北部〜中央部では、偏堡文化の影響(図3-1および2)は、鴨緑江中流と上流のシムグウィリ(Simgwiri)遺跡の1号住居で、ゴングウィリ式土器を生み出しました(図4)。このゴングウィリ式土器は、朝鮮半島南部では無文土器の最初期の縁帯土器へと発展しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。以下は本論文の図4です。
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 日本人の学者により1941年に発掘された、遼東半島の上馬石(Shangmashi)貝塚で発見された土器の製作技術に焦点が当てられました(Miyamoto2015b)。分析結果は、以下のような土器製作技術の4点の特性の存在を示します。それは、(a)比較的広い粘土平塊を用いての平塊製作、(b)内面ではなく外面への粘土平塊の付着、(c)木端で滑らかにすること、(d)地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。土器製作技術のこれらの4点の特徴が、新石器時代から前期鉄器時代までの編年体系で偏堡文化期にのみ限られているのは、たいへん興味深いことです(表3)。木端で粘土表面を滑らかにすることは、偏堡文化ではひじょうに多く見られます。偏堡文化における、木端で粘土表面を滑らかにすることと、あまり精巧ではない粘土窯を用いての焼成技術も、上馬石遺跡を除いて他の遺跡でも認められます。これらの結果から、偏堡文化はゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文土器文化における新たな土器製作技術の出現とつながっている、と示唆されます(図4)。以下は本論文の表3です。
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 朝鮮半島の無文土器は、隣接地域の土器様式が、偏堡文化によるこれらの地域への拡散過程と影響を介して、偏堡文化の土器様式へと変化した時に確立しました。したがって、偏堡文化土器で用いられた新たな土器製作技術は、ゴングウィリ式土器への偏堡文化の影響を介して無文土器へともたらされました。このように、土器製作技術の観点で同じ4点の特性を有する土器様式が、朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して、遼東半島の偏堡文化から朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました。そこから、朝鮮半島南部の無文文化と同じ4点の特性を有するこの土器様式が、西日本の弥生文化に広がりました。これら4点の特性を有する同じ系譜の土器様式の拡大は、言語、つまり日本語祖語を媒介しての同じ情報の広がりを示唆します(図5-1)。以下は本論文の図5です。
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 しかし、偏堡文化と縁帯土器との間のこれら土器様式の変化は、約1000年の長い時間を要し、無文土器文化の始まりは朝鮮半島南部で紀元前1500年頃でした。この頃に、磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がりました。したがって、朝鮮半島南部における無文土器文化の確立は、二重の状況で構成されました。それは、アジア北東部における農耕化の第2段階の偏堡文化などを基盤に形成されたものの、アジア北東部農耕化の第3段階における生計活動の変化により確立しました。

 日琉語族はどこに起源があったのでしょうか?日琉語族は稲作農耕の影響により彩られていませんでした。日琉語族にはイネに特化した語彙が含まれていなかった、と考えられています(Whitman2011)。日琉語族にイネに特化した語彙がなかった理由は、日琉語族の起源が恐らくは遼西東部にあったからです。雑穀農耕を伴う初期偏堡文化は、おもに遼西地区東部に分布しています(図3-4)。土器製作技術の分析から、無文土器は偏堡文化に由来した、と示唆されるので(Miyamoto2016)、日琉語族も偏堡文化に起源があった、と提案されます(図5-1)。

 無文文化はその後、紀元前1500年頃に、山東半島から遼東半島を経た稲作農耕社会により影響を受けましたが、無文文化集団は日本語祖語を話し続けた、と考えられます。これは、アジア北東部における農耕化の第3段階でのことです。日琉語族が同じ頃にアジア北東部における農耕化の第4段階での稲作拡大と同じ頃に無文文化経由で九州北部へと広がったならば、縄文時代と弥生時代との間の移行は、伝統的な「縄文語」と日琉語族との間の言語における移行と同じである、と提案できます。このように、少数の無文文化の人々が九州北部へと移住し、「縄文人」と混合した場合、日琉語族も九州北部へと拡大した、と考えられます。さらに、九州北部における在来の「縄文語」と日琉語族との間の移行は、夜臼式土器1期から板付1式土器期への土器様式における移行と同じくらいの時間を要した、と推測されます。「縄文語」は、上述のように人々が無文文化集団により話されていた日琉語族で新たな土器技術を学んだので、同じ過程を経て日琉語族により置換された、とも考えられます。


●朝鮮語祖語の拡散の論についての考古学的説明

 上馬石貝塚遺跡の分析(Miyamoto2015b)も、土器様式が紀元前千年紀半ばに変化したことを示唆します。紀元前6世紀〜紀元前5世紀となる尹家村(Yinjiacun)文化青銅器時代の長首壺(Long-necked pot)と粘土縁壺(clay-rimmed jar)は、遼西地域から遼東地域にかけて分布していました。この新たな土器は遼東半島から朝鮮半島南部へと到来し、初期鉄器時代の粘土帯土器へと発展して、遼東半島の人々が朝鮮半島へと南方へ移住したことを示します(Miyamoto2016、宮本., 2017)。

 移民が遼東半島から朝鮮半島へと移住し、粘土帯土器文化を確立した理由は、より寒冷な気候条件だったからではありませんでした。むしろ、好まれる理論は、北京地域に位置する燕国が燕山(Yanshan)山脈を越えて東方へ侵入したので、当時の社会における社会的および政治的要因だった、というものです(宮本., 2017、宮本., 2020)。燕は遼西地区東部の首長と政治的に接触し、紀元前6世紀と紀元前5世紀には燕国の覇権を押し付けました。尹家村文化第2期における遼西東部から遼東半島への人々の東方への移動は、遼東半島から朝鮮半島への別の移住の契機となりました。この過程で、尹家村文化第2期は朝鮮半島へと広がり、紀元前5世紀頃となる青銅製細形短剣を含む、粘土帯土器文化の確立につながりました。この時点で、農耕集落は考古学的記録から消えました(Ahn2010)。遼西東部に起源があるこの粘土帯土器文化は、明確には水田稲作とは関連していないものの、雑穀およびコムギ農耕と関連しています。

 一方、マーク・ハドソンとマーティン・ロベーツは、朝鮮語大語族祖語は日本語祖語の前に遼東半島から朝鮮半島へ雑穀農耕とともに紀元前3500年頃に拡大した、と主張しました(Hudson, and Robbeets., 2020)。しかし、櫛目文土器と農耕用石器を有する雑穀農耕は、紀元前3500年頃に盛上文(Yunggimun)土器文化に代わって、朝鮮半島の北西部と中西部から南部へと広がりました(Miyamoto2014、宮本., 2017)。農耕用石器を伴う雑穀農耕は、紀元前五千年紀に遼西から遼東半島および朝鮮半島西部へと広がりました(Li et al., 2020)。さらに、土器様式は小珠山(Xiaozhushan)文化火葬土器を有する遼東半島と櫛目文土器を有する朝鮮半島との間で明確に異なります(Kim, and Park., 2020)。したがって、遼東半島から朝鮮半島への言語拡散の理論が、紀元前四千年紀における朝鮮半島南部への農耕用石器を伴う櫛目文土器の拡大と考古学的に関連していた、と考えるのは困難です。

 朝鮮語がこの移住とともに朝鮮半島へと広がり、細形短剣文化を形成した、と考えられています(Whitman2011)。遼西東部地区から朝鮮半島へのこの文化的影響は、中国の戦国時代における燕国によりもたらされた継続的な領土の脅威のため逃げてきた人々を伴う、朝鮮語祖語の拡大を示唆します(宮本., 2017、宮本., 2020)。この文化は、マンチュリアの遼東地区の涼泉(Liangquan)文化もしくは尹家村文化第2期に起源があり、拡大しました。初期鉄器時代は朝鮮語の広がりと関連しているので、朝鮮語の起源地も遼東地区東部にあった、と仮定されます(図5-2)。粘土帯土器文化は、三国時代へと直接的に変わっていく先三国時代文化期に、類似の形態へと発展しました。三国時代の新羅の言語は、確実に朝鮮語です(Robbeets2020)。したがって、朝鮮語祖語は粘土帯土器文化期に話されていました。粘土帯土器文化は、系譜的に無文文化とつながりませんでした。

 このように、日本語祖語は粘土帯土器文化初期に朝鮮語祖語により置換された、と推測されます。日本語祖語は朝鮮半島で話されており、弥生文化の開始期に日本列島へと広がりました。一つの言語の別の言語への置換は、朝鮮語祖語が中国北東部から朝鮮半島へと朝鮮前期鉄器時代に広がった、というマーシャル・アンガーの見解と一致します(Unger2014)。一方、金壮錫と朴辰浩は、朝鮮語祖語が細形短剣とともに入ってきた、というジョン・ホイットマン(John Whitman)の提案(Whitman2011)に疑問を呈しています(Kim, and Park., 2020)。遼寧式短剣を有する中国北東部の遼西および遼東の粘土帯土器文化は、細形短剣が独自に発展した朝鮮半島へ拡大しました(宮本., 2020)。その後、粘土帯土器文化は、中国の燕国と先三国時代となる漢代の楽浪(Lelang)郡より影響受けて、鉄器を製作しました。したがって、粘土帯土器文化の人々が三国の直接的な祖先で、朝鮮語祖語を話していた、との仮定が合理的です


●まとめ

 言語学的研究では、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、と示唆されています(Unger2014、Robbeets et al., 2020)。日本語祖語はまずマンチュリア南部から朝鮮半島へと、次に弥生文化の開始期に九州北部へと広がりました。朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部から朝鮮半島へと広がり、次第に日本語祖語を追い払いました。

 偏堡文化と無文文化と弥生文化の土器は、さまざまな年代にわたって相互に系譜的に関連している、と提案されており、とくに、以下の4点の特性を示す、同じ土器製作技術があります。それは、広い粘土平塊、その前の平塊の外面に付着させる平塊、木片の端で土器表面を滑らかにすること、地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。これらの同じ土器製作技術は、言語を介して継承された、と考えられています。これが、偏堡文化と無文文化と弥生文化の系譜系列が日本語祖語の拡大を示唆している理由です。したがって、偏堡文化の日本語祖語は紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました(図5-1)。

 日本語祖語は灌漑稲作農耕の拡大とともに紀元前9世紀に九州北部に到達し、紀元前6世紀〜紀元前5世紀の九州北部の板付式土器期に「縄文語」を完全に置換しました。過程として、この言語置換は約300年間にわたって起きました。この場合、人々はその遺伝的構成の観点では必ずしも変化しませんでした。板付式土器を伴う日本語祖語話者は福岡平野から到来して西日本へと移住し、西日本では弥生時代前期に日本語がしだいに在来の「縄文語」を置換しました(図5-1)。紀元前3世紀頃に始まる弥生時代中期の跡には、弥生文化は東日本に依然として存在していた縄文土器伝統とは急速に異なっていきました。それにも関わらず、日本語祖語は紀元後2世紀〜紀元後3世紀となる弥生時代後期から古墳時代の開始までに、これらの地域で在来の「縄文語」をじょじょに置換していった、と考えられています。

 紀元前6世紀と紀元前5世紀に、中国の東周時代(春秋時代)の燕国は、燕山山脈を越えてその領域を拡大し、遼西地区において首長に政治的に影響を及ぼしました。この時から、尹家村文化第2期の移民が紀元前5世紀に遼西東部から遼東を経て朝鮮半島へと向かい、そこで粘土帯土器を確立しました。粘土帯土器自体は、遼東半島の紀元前二千年紀の双砣子(Shuangtuozi)文化期の第2および第3段階に始まりました。遼西東部から朝鮮半島南部への粘土帯土器の広がりは、朝鮮語祖語の経路を示唆します(図5-2)。

 日本語祖語と朝鮮語祖語両方の故地は考古学的証拠に基づくと同じで、両者は近い語族です。しかし、アジア北東部における両言語間の拡散の時間的違いは約1000年で、両言語の広がりは、九州北部の弥生時代開始期におけるアジア北東部の農耕の4番目の拡大を除いて、農耕の人口拡散とは無関係でした。考古学的説明に基づく日本語祖語と朝鮮語祖語のこの拡散仮説は、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、という言語学的仮説(Unger2014、Robbeets et al., 2020)を必ずしも妨げません。むしろ、拡散仮説は言語学的仮説を支持します。


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https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_7.html

20. 中川隆[-9835] koaQ7Jey 2024年7月17日 17:13:57 : 1VVh4ysaKo : c2U0NnFkY0x1SG8=[5] 報告
<■373行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳
2024年07月17日
夏家店上層文化の人類集団の遺伝的多様性
https://sicambre.seesaa.net/article/202407article_17.html

 現在の中国の北東部地域における青銅器時代人類集団の遺伝的多様性を報告した研究(Zhu et al., 2024)が公表されました。本論文は、西遼河(West Liao River、略してWLR)地域南部の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化関連の1個体のゲノムデータを報告しています。この個体は、中華人民共和国内モンゴル自治区チーフォン(Chifeng)市カラチン・バナー(Harqin Banner)のヨンフェン(Yongfeng)県牛家営子(Niujiayingzi)鎮マジアジシャン(Majiazishan)村で発見され、アムール川(Amur River、略してAR)集団的な祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)の割合が高い西遼河西部の夏家店上層文化関連個体群とは異なり、黄河(Yellow River、略してYR)流域の後期新石器時代集団的な祖先系統でゲノムが完全にモデル化できます。この遺伝的構成の違いは、西部では牧畜が、南部では雑穀農耕が行なわれるという、生業の違いはと対応しています。

 ただ、西遼河南部の夏家店上層文化については、まだ1個体しかゲノムデータが報告されていないので、断定的に一般化はできません。しかし、本論文は日本人起源論との関連でたいへん注目される分析結果を提示しており、日本人起源論との関わりについては最後に「私見」の項目で述べます。なお、時代区分の略称は次の通りで、新石器時代(Neolithic、略してN)、前期新石器時代(Early Neolithic、略してEN)、中期新石器時代(Middle Neolithic、略してMN)、後期新石器時代(Late Neolithic、略してLN)、青銅器時代(Bronze Age、略してBA)、後期青銅器時代〜鉄器時代(Late Bronze Age to Iron Age、略してLBIA)、鉄器時代(Iron Age、略してIA)です。


●要約

 西遼河および黄河流域は、中国北部における雑穀農耕の二大中心地です。浮遊分析と遺跡の空間分布の結果から、農耕と牧畜という二つの異なる生存戦略が西遼河の南部と北部でそれぞれ採用されていた、と示唆されます。西遼河西部地域の古代の人口集団の先行研究は、青銅器時代の夏家店上層文化における牧畜経済と黄河農耕民との遺伝的類似性低下との間の相関を示唆しました。しかし、西遼河南部の人口史は、おもに古代人の遺伝的データの不足のため不明です。

 本論文は、夏家店上層文化と関連する後期青銅器時代の西遼河南部地域のマジアジシャン遺跡の古代の1個体のゲノムデータを報告します。西遼河西部の個体群とは異なり、この個体の祖先系統は完全に後期新石器時代黄河農耕民に由来します。夏家店上層文化の古代の人口集団の遺伝的構造が見つかり、これは西遼河の西部と南部の生計戦略の違いと一致します。気候悪化は、西遼河の西部と南部にそれぞれ異なる集団、つまり西部ではアムール川からの遊牧民集団が、南部では黄河からの農耕民集団が居住することにつながりました。


●研究史

 近東の肥沃な三日月地帯からアメリカ大陸やさらにその先まで、農耕の出現と拡大はヒトの歴史と文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使わないことにしていますが、この記事では「civilization」の訳語として使います】の発展に顕著な影響を及ぼしました。雑穀はアジア東部北方で何千年にもわたって主食で、最初は黄河下流域で早くも紀元前9000年頃に利用され、その後、黄河中流〜下流および西遼河地域で少なくとも紀元前6000年頃までには広く栽培されていました。一方で、中期新石器時代には、おもに安定した雑穀生産のため複雑な社会がおもに黄河および西遼河地域で出現し、それは人口増加と文化的革新につながりました。雑穀農耕のこの拡大では、中国北部では黄河および西遼河地域、と中国南東部の方では台湾、中国南西部では四川盆地が、アジア東部における乾燥地農耕の起源と拡大にとって重要な地域と認識されています。

 西遼河地域にはとくに、前期新石器時代から後期青銅器時代にかけての興隆窪(Xinglongwa)文化や趙宝溝(Zhaobaogou)文化や紅山(Hongshan)文化や小河沿(Xiaoheyan)文化や夏家店下層(Lower Xiajiadian)文化など、連続的な雑穀農耕関連文化があります。この文化的過程では、主要な生計戦略が「低水準」の食糧生産から充分に発展した穀物栽培へと変わり、新石器時代においては、動物の消費への依存が減少し、キビやアワの消費が増加しました。興味深いことに、雑穀農耕が主要だったことを特徴とする夏家店下層文化の後に、西遼河地域の西部では畜産が重要な役割を取り戻しました。前期青銅器時代の夏家店下層文化と比較して、夏家店上層文化における「文明」と農耕の水準は、後期青銅器時代における気候の悪化と関連して明らかに低下しました【本論文のこの評価が妥当なのかは、判断を保留します】。この生計の変容に関して、アムール川の狩猟採集民からの遊牧【遊牧を行なっていれば、狩猟採集も同時に行なっているとしても、一般的には狩猟採集民とは呼ばれないように思いますが】が、気候による食糧不足のため、後期青銅器時代における西遼河人口集団の生活様式に影響を及ぼした、と推測されています。対照的に、夏家店上層文化人口集団はじっさい、西遼河地域へと移住したアムール川関連狩猟採集民集団である、との推測もあります。

 以前の遺伝学的研究(Ning et al., 2020)では、前期新石器時代(紀元前5520〜紀元前5320年頃)から鉄器時代(鮮卑、紀元前50〜紀元後250年頃)までの、アムール川人口集団の長期の遺伝的安定性が見つかりました。具体的には、後期新石器時代西遼河人口集団(WLR_LN、夏家店下層文化)は、中期新石器時代西遼河人口集団(WLR_MN、紅山文化)よりも、雑穀農耕の黄河人口集団の方と高い遺伝的類似性がある、と観察されました。それと比較して、部分的な牧畜青銅器時代西遼河人口集団(WLR_BA、夏家店上層文化)は、WLR_LNと比較して、黄河人口集団との遺伝的類似性が低く、このWLR_BAに含まれる外れ値(outlier、略してo)個体(WLR_BA_o)には、アムール川集団とクレード(単系統群)を形成する遺伝的特性がありました。その研究(Ning et al., 2020)は、経時的な西遼河人口集団における遺伝的特性の頻繁な変化と生計戦略の変化との間にはつながりがあることを示唆し、それは第二の仮定【夏家店上層文化人口集団は西遼河地域へと移住したアムール川関連狩猟採集民集団】を裏づけます。

 しかし、西遼河の南部の古代人のゲノムデータが必要なためこれまで、青銅器時代西遼河地域人口集団の遺伝的特性の包括的理解が妨げられています。本論文では、夏家店上層文化と関連する放射性炭素年代測定結果が得られている、マジアジシャン遺跡の古代人1個体のゲノム規模データが報告されます。マジアジシャン遺跡は、WLR_BAとWLR_BA_oが発見された竜頭山(Longtoushan)遺跡の南方約100kmの、中華人民共和国内モンゴル自治区チーフォン市カラチン・バナーのヨンフェン県牛家営子鎮のマジアジシャン村の近くに位置しています。この新たに報告された1個体(標本識別番号はDSQM2、集団分類表示はWLR_BA_o2)は、先行研究(Ning et al., 2020)で報告された青銅器時代西遼河の両人口集団(WLR_BAとWLR_BA_o)と異なる遺伝的特性を有しているものの、こうが農耕民と密接に関連している、と分かり、これまで検出されていなかった西遼河地域の遺伝的特性を示唆しています。


●標本と手法

 マジアジシャン遺跡(図1)の古代人の標本1点から、歯が収集されました。1点の人骨標本が加速器質量分析法(accelerator mass spectrometry、略してAMS)で年代測定され、非較正年代が得られました。放射性炭素(¹⁴C)年代は、OxCal第4.4.2版およびIntCal20較正曲線を用いて較正されました。古代DNAの信頼性は、脱アミノ化パターンから評価されました。標本DSQM2の遺伝的性別は、X染色体とY染色体のゲノム網羅率が常染色体と比較されました(Fu et al., 2016)。この場合、男性ではX染色体の網羅率は常染色体の網羅率の約半分となり、女性ではほぼ同じとなります。Y染色体では、男性の網羅率は常染色体の半分に、女性の網羅率はゼロとなります。標本DSQM2のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)も決定されました。標本DSQM2の遺伝的データは、他のデータ(Damgaard et al., 2018、Sikora et al., 2019、Jeong et al., 2020、Ning et al., 2020、Yang et al., 2020)と統合されました。124万SNPヶ所の一塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism、略してSNP)で、遺伝的関係が調べられ、1親等もしくは2親等の関係にある2点以上の標本では、既知の古代および現代の人口集団のデータと統合するさいに、網羅率のより高い標本が下流分析に含められました。以下は本論文の図1です。
画像

 主成分分析(principal component analysis、略してPCA)では、現代人集団を用いて主成分(PC)が計算され、古代人標本が上位2構成要素に投影されました。PCの計算には、470607ヶ所のSNPが用いられました。ADMIXTURE分析では、220388ヶ所のSNPを用いて、教師なし分析が実行され、2〜10のK(系統構成要素数)が検証されました。f統計では、f₄形式(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、X)のf₄統計が実行されました。標本DSQM2から黄河とアムール川と西遼河の人口集団Xを区別できる参照人口集団を見つけるため、参照としてアジア東部のさまざまな人口集団が用いられました。現時点での解像度を考えると、人口集団Xのすべてのf₄結果の有意ではないZ得点からは、人口集団X がWLR_BA_o2と密接な遺伝的関係を有する、示唆されます。混合モデル化はqpAdm第810版を用いて実行され、標本が1〜3のあり得る供給源の組み合わせとしてモデル化され、潜在的供給源として選択されなかった人口集団は外群に追加されました。


●分析結果

 標本DSQM2の非較正の直接的な放射性炭素年代は、夏家店上層文化と関連しています。標本DSQM2のmtDNA汚染率は2%未満と推定されました。標本DSQM2のmtDNAハプログループ(mtHg)はD4jで、その性別は男性でした。2点のSNP一覧、つまり、アフィメトリクス(Affymetrix)社「ヒト起源(Human Origins、略してHO)」とイルミナ(Illumina)社「124万」標本(Fu et al., 2015、Haak et al., 2015、Mathieson et al., 2015)を用いて、標本DSQM2の疑似半数体データが生成されました。それぞれのSNP一覧で、79460ヶ所と154754ヶ所が得られました。次に、これらのデータはさらなる分析のため、以前に刊行された古代人および現代人のゲノムデータ(Damgaard et al., 2018、Jeong et al., 2020、Ning et al., 2020、Yang et al., 2020、Wang et al., 2021)と統合されました。


●WLR_BA_o2の全体的なゲノム構造

 WLR_BA_o2の全体的な遺伝的構造を調べるため、まずさまざまなアジア東部人集団でのPCAが実行されました(図2)。PCAの結果では、WLR_BA_o2と西遼河地域の他の古代の個体群は、黄河集団とアムール川集団との間に投影されました。WLR_BA_o2は、後期新石器時代〜鉄器時代集団(YR_LNとYR_LBIA)の最も近くに投影されたWLR_LNとクラスタ化します(まとまります)が、WLR_MNとWLR_BAはアムール川集団およびWLR_BA_oに向かって、完全にアムール川集団とクラスタ化します(図2)。同様の結果は外群f₃分析で観察でき、WLR_BA_o2は黄河集団とクラスタ化し、WLR_MNとWLR_BAはともにクラスタ化し、次に黄河集団とクラスタ化しとます。対照的に、WLR_BA_oはAR_鮮卑_IAとクラスタ化し、古代アジア北部(Ancient North Asian、略してANA)集団との高い遺伝的類似性を示します。以下は本論文の図2です。
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 モデルに基づく教師なしADMIXTURE分析では、ユーラシア草原地帯人口集団で最大化する青色の構成要素と、ANA人口集団で最大化される黄色の構成要素と、アジア南東部(Southeast Asia、略してSEA)で最大化される橙色の構成要素が観察されました(図3A)。WLR_BA_o2はYR_LNおよびYR_LBIAと類似した遺伝的特性を有し、黄河集団とクラスタ化しており、WLR_LNとWLR_BAはWLR_BA_o2と比較してANA関連祖先系統をより多く有していますが、WLR_BA_oはANA集団と一致しました。まとめると、これらの結果は、後期新石器時代黄河農耕民とのWLR_BA_o2の密接な遺伝的類似性を示唆しています。以下は本論文の図3です。
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●銅器時代の西遼河地域における遺伝的多様性を示すWLR_BA_o2のゲノム特性

 WLR_BA_o2と黄河(YR)およびアムール川(AR)および西遼河(WLR)の集団との間の遺伝的差異を定量化するため、f₄形式(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、YR/AR/WLR)のf₄統計で始めて、WLR_BA_o2の遺伝的特性がこれら3集団(YR/AR/WLR)と直接的に比較され、ここでの参照はアジア東部およびユーラシア草原地帯の95の現代および古代の人口集団を含む参照人口集団の一式です。WLR_BA_o2はYR集団のほとんどに対して有意でないZ得点、つまり、YR上流_LNを除くf₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、YR集団)の範囲(−3.11 < Z < 2.50)と、AR集団のほとんどに対する有意なZ得点、つまりf₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、AR集団)の範囲(−3.27 < Z < 5.52)を示す、と観察されました。WLR_BA_o2はYR_LNと最も密接な遺伝的類似性を示し、つまり、f₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、YR_LN)の範囲(−2.24 < Z < 1.65)です。

 西遼河地域に焦点を当てると、中期新石器時代西遼河人口集団(WLR_MN)と比較して、WLR_BA_o2はSEA祖先系統とより高い遺伝的類似性を、ANA祖先系統とより低い遺伝的類似性を示し、つまり、f₄(ムブティ人、SEA;WLR_BA_o2、WLR_MN)のZ得点が−2.13と、f₄(ムブティ人、ANA;WLR_BA_o2、WLR_MN)のZ得点が3.71超です。この場合、SEAは台湾先住民のアミ人(Ami)、ANAはモンゴル_N_北方によってそれぞれ表されます。WLR_BA_o2はWLR_LNおよびWLR_BAと比較して有意ではないZ得点を示し、つまり、f₄(ムブティ人、参照;WLR_BA_o2、WLR_LN/WLR_BA)の範囲(−2.637 < Z < 2.349)です。しかし、f₄(ムブティ人、SEA;WLR_BA_o2、WLR_LN/WLR_BA)のほとんどの負の値範囲(−0.124 < Z < −1.340)との、わずかにより高いSEAとの遺伝的類似性を依然として観察できます。最後に、f₄(ムブティ人、SEA;WLR_BA_o2、WLR_BA_o)のZ得点−3.18とf₄(ムブティ人、ANA;WLR_BA_o2、WLR_BA_o)のZ得点5.05として示されるWLR_BA_oと比較して、SEA集団とのより高い遺伝的類似性と、ANA集団とのより低い遺伝的類似性を観察できます。

 次に、qpAdm混合モデル化を用いて、青銅器時代WLR集団の祖先系統の割合が調べられました。黄河とアムール川と西遼河の3集団を用いて、WLR_BAとWLR_BA_oとWLR_BA_o2がモデル化されました(図4)。その結果、これら3集団の構成間で明確な区別が見つかりました。具体的には、WLR_BA_oはAR_EN祖先系統が93.8〜100%と残りの黄河集団祖先系統でモデル化でき、WLR_BA_o2は黄河集団に100%由来するものとしてモデル化できます。対照的に、WLR_BAは黄河集団からの祖先系統57.6〜61.1%と残りのAR_ENもしくはハミンマンガ(Haminmangha、略してHMMH)遺跡個体(HMMH_MN)の祖先系統でモデル化されました。一般的に、青銅器時代の3集団(WLR_BAとWLR_BA_oとWLR_BA_o2)の組成では有意な違いが観察され、これは青銅器時代西遼河集団の遺伝的多様性を示唆しています。以下は本論文の図4です。
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●考察

 西遼河は、内モンゴル自治区チーフォン市のヘシグテン(Keshiketeng、Hexigten)鎮の南西部から始まります。西遼河は、遼河へと合流し、最終的には渤海へと注ぐ前に、シラムレン(Xilamulun、Xar Moron、西拉木倫河)川や白岔(Baicha)川や紹浪(Shaolang)川や老哈(Laoha)川などいくつかの上流の支流と合流します。西遼河領域(北緯41度17分〜45度41分、東経116度21分〜123度43分)は面積が13万km²にわたり、中国北東部に位置しています。西遼河流域は、内モンゴル高原と松遼(Songliao)平原との間の移行帯に位置しています。この地域は、中華「文明」の発祥地の一つです。興隆窪文化と紅山文化と夏家店文化の繁栄は、中華「文明」の起源に重要な意味を有しています。興隆溝(Xinglonggou)遺跡に代表される興隆窪文化は、主要な作物としてキビとモロコシで乾燥地農耕活動を始めて、それは中国北部における乾燥地のうこうの重要な起源のひとつと考えられています。遼寧省の牛河梁(Niuheliang)遺跡に代表される紅山文化と遼寧省の二道井子(Erdaojingzi)遺跡に代表される夏家店文化も、中華「文明」の起源に顕著な影響を及ぼした、と考えられており、恐らくはそれぞれ、中原「文明」の起源の一つでした。西遼河流域の典型的な青銅器時代文化として、夏家店文化は1960年代に、内モンゴル自治区チーフォン市ソンシャン(Songshan)地区に位置する夏家店遺跡の発掘に因んで命名され、夏家店下層文化と夏家店上層文化の2種類が含まれます。

 この地域は、雑穀農耕民と畜産を行なっている人々の交差点に位置しています。以前の学際的研究では、局所的な人口集団の生計戦略は気候変化とともに変わる、と分かりました。先行研究(Ning et al., 2020)は古代ゲノムの観点からこうした結論を裏づけ、遺伝学的変化を気候変動による人口移動と関連づけています。しかし、その研究(Ning et al., 2020)で報告された古代人の全個体はホルチン砂丘原(Horqin Dunefield)の北側に由来し、おもに畜産生計戦略と関連する西遼河の西部地域における人口集団の遺伝的特性を表しています。浮遊を通じての植物遺骸の回収と遺跡の空間分布から、異なる生計戦略が西遼河の西部地域と南部地域で採用されていたかもしれない、と示唆されます。しかし、後期青銅器時代におけるホルチン砂丘原の南側の人口集団の遺伝的特性は不明なままなので、この地域におけるゲノム特性の包括的理解が妨げられていました。

 本論文では、先行研究(Ning et al., 2020)で報告されたホルチン砂丘原の北側の個体群とは明確に異なる、YR_LNとを形成する遺伝的祖先系統を有する青銅器時代のホルチン砂丘原の南側の1個体が報告されました。これは、西遼河南部地域における農耕活動が西部地域より相対的に強い、という以前の調査結果とも一致します。西遼河西部地域は比較的標高が高く南部地域より気温が低くなり、キビやモロコシに基づく広範な農耕活動に適していません。したがって、西遼河西部地域の人々は、ウシやヒツジの飼育など、畜産活動により従事しなければならなかったでしょう。気候悪化により遊牧民人口集団はアムール川から南方へと移動し、西遼河の西部に居住しましたが、黄河から到来したおもに農耕に従事していた人口集団は依然として、西遼河の南部の広範な地域に居住していました。

 本論文は概して、後期青銅器時代の西遼河地域のホルチン砂丘原の南側の古代人1個体を報告し、この個体は先行研究で報告された個体群とは異なるゲノム祖先系統を有しており、遺伝的多様性の存在を示唆し、ある程度は、西遼河地域における遺伝的構造の知識を向上させます。この違いは、ヒトの移動における気候悪化に起因した可能性が高そうです。本論文は、この結論が不充分な標本規模に制約されており、この地域におけるさらなる考古学的研究が必要であることを認識しています。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、青銅器時代の西遼河地域の夏家店上層文化集団における、生業の違いに起因する遺伝的差異の可能性を示しており、ゲノムデータが得られている西遼河地域南部の夏家店上層文化集団はまだ1個体だけてなので、断定はできませんが、夏家店上層文化集団において生業の違いに対応した遺伝的構成の違いがあった可能性は高そうです。こうした遺伝的構成の違いは、気候悪化とともに、後期新石器時代〜青銅器時代にかけて、アムール川地域から西遼河地域西部への人口移動があったためと考えられます。

 アジア北東部人類集団の遺伝的構造は地理を反映して、アムール川地域と黄河地域を対極として、西遼河地域がその中間に位置しますが、黄河地域や西遼河地域では完新世に人類集団の遺伝的構成がかなり変容したようで(Ning et al., 2020)、これは、アムール川地域において少なくとも14000年前頃までさかのぼるかもしれない、人類集団の長期の遺伝的安定性(Mao et al., 2021)とは対照的なようです。また、黄河地域と西遼河地域の人類集団の遺伝的構成の変容には違いがあり、西遼河地域集団は、アムール川地域集団的な祖先系統と黄河地域集団的祖先系統の割合の変化が反映され、黄河地域集団では、黄河流域での後期新石器時代以降における稲作農耕の痕跡の増加とともに、前期新石器時代華南集団的な祖先系統(Yang et al., 2020)の割合が高まります(Ning et al., 2020)。

 冒頭で述べたように、本論文は日本人起源論との関連でも注目されます。学際的な先行研究(Robbeets et al., 2021)では、弥生時代以降の日本列島の人類集団のゲノムが、高い割合の夏家店上層文化集団関連祖先系統でモデル化されています。しかし、この見解に対して、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化集団関連祖先系統と夏家店上層文化集団関連祖先系統は朝鮮半島および日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、夏家店上層文化個体関連祖先系統を選択的に割り当てられた集団は、夏家店上層文化集団関連祖先系統の代わりに紅山文化集団関連祖先系統でも説明できる、との批判があります(Tian et al., 2022)。

 さらに、こうした弥生時代以降の日本列島の人類集団の主要な祖先系統を夏家店上層文化集団関連祖先系統で一様にモデル化するのではなく、弥生時代と古墳時代とで、日本列島の人類集団のゲノムに占める主要な祖先系統には違いがあり、弥生時代にまず夏家店上層文化集団関連祖先系統のようなアジア北東部祖先系統が日本列島に到来し、古墳時代以降に黄河流域集団関連祖先系統のようなアジア東部祖先系統が日本列島に到来した、との見解も提示されています(Cooke et al., 2021)。これは、「縄文人」関連祖先系統と弥生時代以降の大陸から到来した一様な祖先系統との遺伝的混合により本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」現代人集団のゲノムが形成された、とする従来の二重構造説に対して、三重構造説とも言えそうで、現代日本人の大規模で高品質なゲノムデータを分析したその後の研究(Liu et al., 2024)でも、三重構造説と整合的な結果が得られました。

 しかし、この三重構造説(Cooke et al., 2021)は、弥生時代集団を長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体のみに代表させている点で問題があるように思われます。それは、「縄文人」関連祖先系統の割合が現代「本土」日本人集団と同じくらい低い(つまり、アジア北東部とアジア東部を区別するのかはともかく、大陸部アジア東部的な祖先系統の割合が高い)弥生時代の個体が下本山岩陰遺跡の2個体よりも前に存在するからです(Robbeets et al., 2021)。そのため、三重構造説では、「縄文人」関連祖先系統との推定混合年代は、アジア東部祖先系統(1748±175年前)よりもアジア北東部祖先系統(3448±825年前)の方が早いとはいえ、単純に、弥生時代に日本列島に到来したのが夏家店上層文化集団関連祖先系統的なアジア北東部祖先系統で、古墳時代に日本列島に到来したのが、黄河流域集団関連祖先系統とは、現時点で断定できないように思います。

 重要なのは、弥生時代以降の日本列島の人類集団のゲノムが、高い割合の夏家店上層文化集団関連祖先系統や黄河流域集団関連祖先系統でモデル化できるとしても、夏家店上層文化集団や後期新石器時代以降の黄河流域集団が現代日本人の直接的な祖先集団と証明されたわけではなく、あくまでもそうした遺伝的構成要素でモデル化できるにすぎないことです。そこで注目されるのが本論文の知見で、青銅器時代の西遼河地域の夏家店上層文化において、アジア北東部祖先系統の割合の高い集団と、アジア東部祖先系統でゲノムを完全にモデル化できる集団が共存していたことから、西遼河地域およびその周辺地域を含めて黄河流域より北方のアジア北東部が、後期新石器時代〜青銅器時代にかけてそうした状況だった可能性は高いように思います。つまり、日本列島への到来で、アジア東部祖先系統が(古墳時代よりも早くても)アジア北東部祖先系統より遅かったとしても、それは黄河流域からの直接的な到来ではなく、直接的な起源は西遼河地域およびその周辺地域にあり、朝鮮半島を経由したのではないか、というわけです。

 日本列島にアジア北東部祖先系統やアジア東部祖先系統をもたらした集団が、いつどこからどのように日本列島に到来したのかは現時点で不明と言うべきで、そのより確かな推測には日本列島とユーラシア東部大陸部の時空間的にさらに広範囲のゲノムデータが必要になるでしょう。おそらく、完新世において日本列島だけではなく朝鮮半島でも人類集団の遺伝的構成のかなりの変容があったのでしょう。朝鮮半島南岸では、中期新石器時代に日本列島「本土」現代人集団のゲノムと似たような割合の「縄文人」関連祖先系統とアジア東部および北東部祖先系統でモデル化できる個体が存在しますが(Robbeets et al., 2021)、これら朝鮮半島南岸中期新石器時代個体群により表される集団が、本当に「縄文人」を祖先に有しているのかはまだ断定できませんし(関連記事)、日本列島「本土」現代人集団における「縄文人」由来のゲノム領域の断片化の程度を考えると、そうした集団が日本列島「本土」現代人集団の主要な祖先である可能性はきわめて低そうです(藤尾.,2023)。

 日本列島と朝鮮半島の両地域では、現代人のような遺伝的構成は紀元前千年紀以降に形成された可能性が高いように思います。また、そうした形成過程では複数の多方向の移動があった可能性は高そうで、単純化には注意すべきでしょう。おそらく日本列島には、縄文時代晩期以降、まずアムール川地域集団関連祖先系統を高い割合で有する集団が、その後で弥生時代のある段階以降に黄河地域集団関連祖先系統を高い割合で有する集団が到来し、複雑な混合過程を経て日本列島「本土」現代人集団の遺伝的構成が形成されたように思います。この間、日本列島「本土」の人類集団の遺伝的構成は、とくに弥生時代にはかなり不均一だったようで(藤尾.,2023)、日本列島「本土」における人類集団の遺伝的構成の形成過程を、時空間的に広範にわたって一様に解釈してはならないでしょう。
https://sicambre.seesaa.net/article/202407article_17.html

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