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ネトウヨ一般に共通する特性
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/634.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 9 月 20 日 06:30:33: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口 投稿者 中川隆 日時 2019 年 2 月 05 日 11:48:55)


悪口とヘイト・スピーチの区別がつかない人たち
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/09/19/234305


ネトウヨ一般に共通する特性として、

•勉強しない
•何度誤りを指摘されても頑として認めない
•とっくに否定された妄説を何度でも持ち出してくる
•議論の前提となる概念に「オレ様定義」を振り回すため会話が成り立たない
•無知なのにいつも上から目線
•中身が何であれ最後に言い返した方が勝ちだと思っている(いわゆる「論破」w)
•やっぱり勉強しない

といったものがあるわけだが、こちらの記事に、その典型とも言うべきコメントがついた。


朝鮮人へのヘイトが規制の対象で日本人や日本国の象徴に対するヘイトが「表現の自由」という論拠を教えてください。
常識的に考えれば両方規制の対象のはずですが?
あなたが別のところで宣ってる「日の丸も旭日旗も糞」なんて言葉はヘイトそのものですよね。
あなたが大好きな中国で国旗は糞なんて言ったら刑法犯になりますが?
あなたの所属するセクトの常識を世間のまともな人に押し付けないでください。はっきり言ってこのブログこそ一番の糞です。

日本国内において「日本人や日本国の象徴に対するヘイト」などというものが成立するわけがない。そんなものは「表現の自由」ではなく「形容矛盾」というのだ。

どうせこのコメ主は理解しようとしないだろうが、一応その根拠を説明しておこう。

ヘイト・スピーチ及びヘイト・クライムに関する研究は、アメリカでの公民権運動(アフリカ系の人々に対する差別の撤廃を求める運動)の流れを継承する形で進められ、1980年代頃からその定義が明確化されてきた。[1]


 代表的論者のチャールズ・ローレンスは、ヘイト・スピーチを「人種的烙印の一形態としての攻撃」であり、標的とされた集団が「取るに足りない価値しか持たない」というメッセージ、「言葉による平手打ち」だと表現している。またブライアン・レヴィンは、ヘイト・スピーチは、それ自体が「言葉の暴力であると同時に、物理的暴力を誘引する点で、単なる「表現」を超える危険性を有すると指摘、ヘイト・スピーチと暴力の関係を、「人種的偏見、偏見による行為、差別、暴力行為、ジェノサイド」の五段階の「憎悪のピラミッド」で説明している。

 このように、ヘイト・クライムもヘイト・スピーチもこの憎悪ピラミッドの中に位置づけられ、人種、民族、性などのマイノリティに対する差別に基づく攻撃を指している。このような経緯から、マイノリティに対する差別であり攻撃であるという両者の本質は共通するが、「ヘイト・クライム」は主要に有形力を伴う犯罪、「ヘイト・スピーチ」は有形力を伴わない言動による暴力を指す。(略)

差別に基づく言葉の暴力であるヘイト・スピーチが攻撃対象とする「マイノリティ」は、一般的に、

1.一国においてその他の住民より数的に劣勢な集団で、
2.非支配的な立場にあり、
3.他の住民と異なった民族的、宗教的または言語的特徴を有し、
4.自己の文化、伝統、宗教または言語を保持することに対して、連帯意識を黙示的であるにせよ示しているもの

とされている。また、この中でも特に重要な要素とされるのが2の「非支配的な立場」だ。[2]

この定義に照らしてみれば、同じ日本国内での少数者であっても、例えば在日コリアンが典型的なマイノリティであるのに対して、要件2が当てはまらない(むしろ特権的存在である)駐留米兵がマイノリティでないのは明らかだろう。

なお、ヘイト・スピーチがマジョリティ間での単なる悪口や罵詈雑言とは決定的に異なる悪質なものであるのは、それが社会における重層的な差別構造の一環としてなされるがゆえに、攻撃対象とされたマイノリティに重大な精神的ダメージを与えるものだからだ。そのダメージがどのようなものであるかは、差別者集団「在特会」が京都朝鮮第一初級学校に押しかけて拡声器でヘイトを浴びせかけた襲撃事件の例などから知ることができる。[3]


 ヘイト・スピーチは、このような差別構造の一部としてなされるからこそ、その一瞬の言葉による攻撃のみならず、幾世代にもわたる社会全体からの差別と暴力の恐怖、苦痛をよみがえらせるが故に、また、今後も自分にそして次世代の子どもたちに対しても一生繰り返されるかもしれない絶望を伴うが故に、マイノリティの心身に極めて深刻な害悪をもたらす。

(略)

社会心理学者クレイグ・ヘンダーソンは、被害者に共通する心理的影響を、

@継続する感情的苦悩、
A自信喪失、
B逸脱感情(自分は「普通」とは違っておりマイノリティであるから狙われたという自己認識)、
C自分を責める、

などを具体的に挙げている。

 京都朝鮮第一初級学校の事件における被害は、中村一成のルポで明らかにされた(略)夜尿や夜泣きがはじまった子や、廃品回収の拡声器の音に「ザイトク来た!怖い!」と泣きじゃくる子、現在も一人では外出できない子がいる。また、校門前にかけつけた保護者の一人である金尚均氏(龍谷大学法科大学院教授)は、「人間じゃない」と面罵され、言葉を失った。本名ではなく日本名(通名)で通った日本の小学校で「チョンコ」と差別された過去に引き戻され、努力して積み上げてきた自己肯定感が一挙に奪われたという。

 金尚均氏の苦悩は、現在朝鮮学校に通う子どもたちも負わされている。(略)大阪、京都など各種の自治体による調査結果によれば日本の小学校に通う在日朝鮮人の子どものうち八割から九割は、日本名を名乗っている。自らの国籍、民族そして名前をどう名乗るかという葛藤を日常的に子どもの頃から背負わされているのである。このような構造的な差別の中で、その属性を無価値と罵倒するヘイト・スピーチは、どれだけ子どもたちの心をえぐるだろう。

例のコメ主はこんなこと↓も書いているが、日本社会の問題を論じているのに中国在住日本人など持ち出してどうするのか。また、「グローバルなインターネット」などと言っても、日本語でやりとりされるネット空間では日本人が圧倒的なマジョリティであり、それは現実の日本社会と変わらない。(むしろ、自称「普通の日本人」がはびこっているだけ更に悪い。)現実を一切踏まえずに書き散らされる屁理屈など無意味だ。


人の言葉を借りなきゃヘイトが何かもまともに説明できないんですか?ww
要するに威気高にネトウヨを叩くvergilさんは実は何も分かってないってことですね。
って言うか、自分に都合の悪い意見をヘイト呼ばわりして言論弾圧を図っているだけですね。まさしく左翼の本性です。
念のため日本では日本人が多数派だからヘイトにならないってんなら明らかに間違いです。そんなもん相対的だからです。
例えば中国に居住している日本人は中国ではマイノリティだしヘイト被害の対象です。日本国内でも局所的には在日のほうが日本人より多い場所もあります。グローバルなインターネットで他者に明らかな憎悪表現するならそれは間違いなくヘイトスピーチです。なのでここはヘイトブログ、それもかなり悪質なヘイトブログです。

ところで、細々と個人ブログを書いているだけの私に、どうやったら「言論弾圧」などできるのか。そんな方法があるなら教えて欲しいくらいだww

[1] 師岡康子 『ヘイト・スピーチとは何か』 岩波新書 2013年 P.39-40
[2] 同 P.40-41
[3] 同 P.53-54
http://vergil.hateblo.jp/entry/2019/09/19/234305  

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コメント
1. 中川隆[-10928] koaQ7Jey 2019年10月13日 11:49:52 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1907] 報告
嫌韓の構造 - 内田樹の研究室 2019-10-13
http://blog.tatsuru.com/2019/10/13_0715.html

 今月号(2019年11月号)の『潮』に「嫌韓言説の構造」について一文を寄せた。もう出てだいぶ経つからブログに採録する。前半はこれまで書いたことの繰り返しなので、途中から。


 (前略)日韓の対立を煽る仰々しい大見出しが週刊誌や月刊誌の表紙に印刷される状況が続いている。記事そのものを読む人は数十万でも、新聞広告や電車の中吊り広告を目にする人はその何十倍にもなる。これらの広告は「今の日本では『こういうこと』を言っても構わない」という印象を刷り込んでいる。同型的な言葉づかいが繰り返されるほど「嫌韓を語ることが日本の常識である」という心証が形成されてゆく。

 私はテレビを観ないので伝聞情報だが、民放のワイドショーや情報番組でも、連日韓国についてのニュースが長時間放映され、韓国を口汚く罵るコメンテーターがさまざまな番組で重用されているという。

 だが、仮にも「隣国と断交も辞さず」というような危険な言葉を口にするのであれば、メディアも発言者も、それなりのリスクを背負う覚悟を持つべきだと思う。


「これはできるだけ多くの日本人に周知させるべき知見である」と本気で信じているならば、「ネットで炎上」くらいのことで謝罪すべきではない。

「国交断絶が国益を最大化する唯一の政策だ」と信じているなら、謝罪も釈明も要らない、そう言い続ければいい。

「50万人の在日コリアンが日本から出てゆく方が国益にかなう」と本気で信じているなら、そう言い続ければいい。

職を賭しても、社会的制裁を受けても、それでも言い続けねばならないと思うなら、言えばいい。そういう言葉のせいで失われるものがあり、傷つく人がおり、恐怖を感じる人がいても、それでも「韓国と縁を切ることが日本のためだ」と本気で思っているなら、謝罪も釈明もするな。

『新潮45』のときにも言ってが、非常識で、挑発的で、攻撃的な言葉をあえて発信するなら、編集者も書き手もそれなりのリスクを負うべきである。

『新潮45』では新潮社の社長名で「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられ」という指摘がなされた。編集者はこれに一言の反論もせず、事実上の廃刊を受け入れた。

 だが、それでいいのか。仮にも自分の責任で公にした文章である。自分自身と書き手の名誉を守るために、編集長は社長に辞表を叩きつけて、「新潮社の偏見と認識不足と戦う」と宣言すべきだったのではないか。だが、彼らはそうしなかった。ということは、それらの言説は彼が「職を賭しても伝えたいこと」ではなかったということである。身体を張って、身銭を切ってでも「言いたいこと」なら言えばいい。社長に一喝されたら引っ込めるくらいの言葉なら、はじめから言わない方がいい。

 だが、今の日本のメディアで行き交っている嫌韓言説の大半は「言っても今なら処罰されなさそうだから」というぼんやりした期待のうちに口にされている。だから、処罰のリスクがあったら、たちまち撤回して、謝罪するということが起きる。そして、そのような覚悟を持たない人々のまき散らす嫌韓言説によって、現実の日韓関係は後戻りできないほどに傷ついている。

 政府の対韓国強硬姿勢とそれに追随した嫌韓言説のせいで、韓国人観光客は激減した。韓国人観光客は日本全体では前年同月比で48%減である。九州や対馬の観光事業は壊滅的な打撃を受けた。日本製品の不買運動も始まった。日本車の販売台数は57%減、食料品は40%減、日本産ビールに至っては97%減を記録した。日本政府が外交的カードのつもりで切った半導体原料の輸出規制は、韓国国内での原材料調達システムへの切り替えを後押ししただけで、日本企業はたいせつな顧客を失って終わった。

 実体経済へのこの負の影響について、政府もメディアも一言の弁明もしていない。韓国市場に依存するようなビジネスモデルを採択した事業者たちの「自己責任」だと言ってつっぱねるつもりだろうか。

 嫌韓言説を私はきわめて危険なものだと思っているけれども、それは「覚悟がないまま発信されている」とか「実体経済に影響が出ている」ということだけに基づくものではない。わが国の安寧を損ないかねない「病的なもの」をそこに感知するからである。

 嫌韓言説は表向きは「政治的メッセージ」として発信されている。自分たちの言葉は国益を最大化するために発されているという「愛国的言い訳」がまず用意されている。

 だが、「失われた国益」については先に上げたようなデータがすでにあるが、嫌韓言説によって「日本が得たもの」については誰からも教えられた覚えがない。誰でもいい、誰か「嫌韓のおかげで「現に『こんなにいいこと』があった」という実例を知っているなら、ぜひ教えて欲しい。海外メディアを徴する限り、日本政府の対韓政策によって東アジアの地政学的安定が崩れることを危惧する声はあっても、「よくやった」という言葉は見たことがない。

 さて、国益増大のためでなく、国威発揚にためでもないとしたら、いったいそれは何のための言葉なのか。

「金儲けのためだ」という言い訳が次に出て来る。

「読みたいという人がいるから『心にもないこと』を書き飛ばしているのだ。リアルでクールな需要供給の原理に従ってしていることについて、『覚悟』だの『国益』だの、大人げない批判はやめてくれ」と。これが言い訳の第二層である。

 本気で書いているわけじゃない。金になるから書いているんだ。そう言うと、批判をかわせることを彼らは知っているのである。

 私たちは「どうしてそんなことをするんだ」と問い詰めたときに、「金のため」と答えられると「なんだ、金のためだったのか」とあっさり追及の手を止めてしまう。「そうか、金のためか。だったら、しかたがない。誰もみんな金のために生きているんだから」という妙なもの分かりのよさをみんな発揮して、一気に批判のテンションを下げてしまうのである。

「金のために」というのはある意味最強の「言い訳」である。これは「誤解されかねないことを書いたことを謝罪する」という言い訳とよく似ている。

「誤解」なら、悪いのは「書き手の意図を誤解した読者」である。読解力の低い読者に責任が転嫁され、書き手は免罪される。

「金のため」も言い訳の構造は同じである。ジャンクな商品を欲しがる消費者がいるから、こちらもジャンクな商品を売っているのだ。悪いのは「欲しがる方」ではないのか、と。

「金のため」であることを誇示するために、発信者は意図的な「手抜き」を行う。

 売れ筋の嫌韓言説をもとに「嫌韓テンプレート」を作って、それをなぞって書くのである。新味のない論理、手垢のついた語法、定型的な比喩、何度も孫引きされたデータ、そういう「ありもの」だけで文章を綴ると、そこには「固有名を持った書き手がどこにもいない文章」が現れる。

 以前、担当だった若い女性編集者が「おじさん週刊誌」に転属になったことがあった。「記事書くの、大変でしょう」と同情したら、「簡単ですよ」と言われた。「おじさん読者が喜びそうな書き方のテンプレート」というものがあるのだと言う。それに合わせて書けば、「おじさんが書いたような文章」が出来上がると言われて、びっくりした。そこには厳密な意味での「書き手」がもはや存在しない。テンプレートやアルゴリズムのような「作文機能」だけがあって、それが人間のような顔をして文章を製造しているのである。

「出版人としての覚悟があるのか」と私が力んでみても、薄笑いでかわされるのはそのせいなのである。「職を賭して言いたいこと」なんか彼らにははじめからなかったのである。

「自分が言いたいことでもない言葉」のために、なぜに職を賭したり、社会的制裁を受けなければならないのか? 「文句があれば謝るからさ、いつまでもうるさく言うなよ」と彼らがしかめっ面をするのもなるほど当然なのである。書いたのは「定型文を量産する」テンプレートで、読むのは「誤解する読者」なんだから、「文責を負う人間」なんかどこにもいなくて当然である。
 
 と「種明かし」をされたところで嫌韓言説をこれ以上批判する意欲が失せてしまう。でも、それがこの「金のため」という第二層の言い訳のねらいなのである。「金のため」は隠された本音から私たちの目を逸らすための目くらましなのである。

 嫌韓言説の一番奥にあるほんとうの動機は「おのれの反社会的な攻撃性・暴力性を解発して、誰かを深く傷つけたい」という本源的な攻撃性である。

「ふだんなら決して許されないふるまいが今だけは許される」という条件を与えられると、いきなり暴力的・破壊的になってしまう人間がこの世の中には一定数いる。ふだんは法律や常識や人の目や「お天道さま」の監視を意識して、抑制しているけれども、ある種の「無法状態」に置かれると、暴力性を発動することを抑制できない人間がいる。

 私たちの親の世代の戦中派の人々は戦争のときにそれを知った。ふだんは気のいいおじさんや内気な若者が「今は何をしても処罰されない」という環境に投じられると、略奪し、強姦し、殺すことをためらわないという実例を見たのである。戦中派の人たちは、人間は時にとてつもなく暴力的で残酷になれるということを経験的に知っていた。

 私も60年代の終わりから70年代の初めに、はるかに小さなスケールだが似たことを経験したことがある。大学当局の管理が及ばない、あるいは警察が入ってこないという「保証」があるときに、一部の学生たちがどれほど破壊的・暴力的になれるのか、私はこの目で見た。

 最初に驚かされたのは三里塚の空港反対闘争に参加したときに、学生たちが無賃乗車したことである。数百人が一気に改札口を通ったのだから、駅員には阻止しようがない。切符を買っていた私が驚いていたら、年長の活動家が笑いながら、「資本主義企業から搾取されたものを奪還するのだ」という政治的言い訳を口にした。

 しかし、降りた千葉の小さな駅で、屋台のおでん屋のおでんを学生たちが勝手に食べ出したのには驚いた。「やめろよ」と私は制止したが、学生たちはげらげら笑って立ち去った。おでん屋は別に資本家ではない。ただの貧しい労働者である。その生計を脅かす権利は誰にもない。でも、学生たちは「衆を恃んで」別に食べたくもないおでんを盗んだ。今なら盗みをしても処罰されないという条件が与えられると、盗む人間がいる。それもたくさんいる、ということをそのとき知った。

 学生運動の渦中で多くの者が傷つき、殺されたが、手を下した学生たちにも、その人を傷つけなければならない特段の事情があったわけではない。ただ、政治的な大義名分(「反革命に鉄槌を下す」)があり、今なら処罰されないという保証があったので、見知らぬ学生の頭を鉄パイプで殴りつけたり、太ももに五寸釘を打ち込んだりしたのである。その学生たちはそののち大学を出て、ふつうのサラリーマンになった。今ごろはもう年金生活者だろう。

 私はこういう人たちを心底「怖い」と思っている。こういう人たちを「大義名分があり、何をしても処罰されない」という環境に決して置くべきではないと思っている。だから、できるだけ法律や常識や世間の目が働いていて、「何をしても処罰されない」という環境が出現しないように久しく気配りしてきたのである。

 嫌韓言説に対して私が「怒り」よりもむしろ「恐怖」を感じる理由はそこにある。今なら、韓国政府と韓国民を批判するという大義名分さえ立てば、どんなに下品で暴力的な言葉を口にしても、どんな無根拠な暴言でも許され、処罰されることがない。人々はしだいにそう思い始めている。だが、「処罰されない」という保証があれば、要らないものを盗み、ゆきずりのものを壊し、恨みもない人間を傷つけるということが平気でできる人間を私たちの社会は一定数抱え込んでいるという事実を忘れてもらっては困る。その数は皆さんがたが想像しているよりはるかに多いのである。

 嫌韓言説をドライブしている人たちは固有名において、オリジナルな政治的知見を述べたいわけではない。その人が口を噤んだら、もう誰も彼に代わって言う人がいない言葉を語っているわけではない。彼が口を噤んでも、誰か他の人が一言一句同じことを繰り返すことができるような言葉ばかり語っていることからもそれは知れる。

 彼らは金が欲しいわけでもない。「金のためだ」と仮に言ったとしても、それは本音ではない。そう言うと、みんなが「安心」するから、それ以上の追及を止めるから、そう言っているだけである。

 彼らがほんとうにしたいことは他の人がたいせつにしているものを、意味もなく盗んだり、壊したり、傷つけたりすることである。そして、そのような邪悪な衝動に動かされているということに本人も気づいていない。

 いずれ、嫌韓ブームが去れば、彼らはまた「ふつうの人」に戻って、韓国のことなど何も口にしなくなるだろう。そもそもどうして自分があれほど熱心に韓国のことを罵倒していたのか、その理由すら思い出せまい。彼らは別に韓国に用事があったわけではないからだ。中国大陸に攻め入った兵士たちが個人的に中国人に恨みや憎しみがあったわけではないのと同じである。

「大義名分」と「処罰されない」という条件に自動的に反応する人たちがいる。同じ条件が別の国や集団やあるいは個人を相手に成立したら、そういう人たちは同じことを繰り返すだろう。

 日本には言論・表現の自由がある。だが、それはすべての人々にはひとしく極論や暴論を述べる権利があるとことと解してはならない。言論の自由を行使することを通じて対話的で豊かな言論の場を創出しようと願っている人もいるし、言論の自由をもっぱら人を傷つけ、人を恐怖させ、たいせつなものを踏みにじるために道具的に利用する人もいる。そして、残念ながら、その二者を識別できる外形的な指標はない。「ふつうのおじさん」がいつ「非道な刑吏」に変貌するかは事前には予測がつかないのである。私たちにできることは、法律と常識と世間の目と「お天道さま」にきちんと機能してもらって、「今なら何をしても処罰されない」と思い込む人間の出現をできる限り先送りすることだけである。
http://blog.tatsuru.com/2019/10/13_0715.html  

2. 中川隆[-10924] koaQ7Jey 2019年10月13日 12:08:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1911] 報告


サンデー毎日「嫌韓言説について」 - 内田樹の研究室 2019-09-24
http://blog.tatsuru.com/2019/09/24_0939.html

嫌韓言説について『サンデー毎日』に寄稿した。言いたいことはだいたい前にブログの『週刊ポスト問題について』で書いた。紙数を多めにもらったので、そこでは書ききれなかったことを書き足した。だから、最初の方はほぼブログ記事のままである。二重投稿するなというご意見もあると思うが、ブログに書いたものは「原稿」ではないのだからその辺はご勘弁願いたい。

『週刊ポスト』9月13日号が「『嫌韓』ではなく『断韓』だ 厄介な隣人にサヨウナラ 韓国なんて要らない」という挑発的なタイトルの下に韓国批判記事を掲載した。新聞広告が出るとすぐに批判の声が上がった。同誌にリレーコラム連載中の作家の深沢潮さんはご両親が在日韓国人だが、執筆拒否を宣言した。続いて、韓国籍である作家の柳美里さんも「日本で暮らす韓国・朝鮮籍の子どもたち、日本国籍を有しているが朝鮮半島にルーツを持つ人たちが、この新聞広告を目にして何を感じるか、想像してみなかったのだろうか?」と批判した。私もお二人に続いて「僕は今後小学館の仕事はしないことにしました」とツイッターに投稿した。

 本音を言うと、そんなこと書いてもほとんど無意味だろうと思っていた。『週刊ポスト』編集部にしてみれば、はじめから「炎上上等」で広告を打ったはずだからである。炎上すれば、話題になって部数が伸びる。ネットでの批判も最初のうちは「広告のうちだ」と編集部では手を叩いていたことだろう。

 所詮は「蟷螂の斧」である。私ごとき三文文士が「小学館とは仕事をしない」と言っても、先方は痛くも痒くもない。もう10年以上小学館の仕事はしていないし、今もしていない。これからする予定もない。そんな物書き風情が「もう仕事をしない」と言ってみせても、小学館の売り上げには何の影響もあるまい。

 ところが、意外なことに、その後、版元の小学館から謝罪文が出された。

「多くのご意見、ご批判」を受けたことを踏まえて、一部の記事が「誤解を広めかねず、配慮に欠けて」いたことを「お詫び」し、「真摯に受け止めて参ります」とあっさり兜を脱いだのである。

 取材の電話がそれからうるさく鳴り出した。どこにもだいたい同じことを述べた。今回は多めの紙数を頂いたので、私見をもう少し詳しく語りたいと思う。

 私が『週刊ポスト』編集部にまず申し上げたいのは「あなたがたには出版人としての矜持はないのか?」ということである。

 以前『新潮45』の騒ぎの時にも同じことを書いた。あえて世間の良識に反するような「政治的に正しくない」発言をなす時には、それなりの覚悟を以て臨むべきと私は思う。人を怒らせ、傷つける可能性のある文章を書くときは、それを読んで怒り、傷ついた人たちからの憎しみや恨みは執筆したもの、出版したものが引き受けるしかない。それが物書きとしての「筋の通し方」だと思う。その覚悟がないのならはじめから「そういうこと」は書かない方がいい。

『新潮45』のときには、社長名で「あまりに常識を逸脱した偏見と認識不足に満ちた表現が見受けられ」という指摘がなされたが、これに対して編集長は一言の反論もしなかった。それはおかしいだろう。仮にも編集長が自分の責任で公にした文章である。ならば、自分自身のプロとしての誇りと彼が寄稿依頼した書き手たちの名誉を守るためにも、編集長は辞表を懐にして、記者会見を開き、「新潮社の偏見と認識不足と戦う」と宣言すべきだったと私は思う。でも、彼はそうしなかった。編集部の誰もそうしなかった。黙したまま休刊を受け入れた。

 済んだことを掘り起こして、傷口に塩を擦り込むようなことはしたくないが、それでもこれが出版人としての矜持を欠いた態度だったということは何度でも言っておかなければならない。それなりに現場の経験を積んできたはずの編集者たちが示したこのモラルハザードに私は今の日本のメディアの著しい劣化の徴候を見る。

 なぜ彼らはこうも簡単に謝罪するのか? 理由は簡単である。別にそれらの言葉は彼らが「職を賭してでも言いたいこと」ではなかったからである。

 たとえどれほど人を怒らせようとも、泣かせようとも、傷つけようとも、これだけは言っておかなければならない、ここで黙っていては「ことの筋目が通らない」とほんとうに思っているのなら、人は職を賭しても語る。でも、今回の記事はそういうものではなかった。炎上することを予期しておきながら、その規模が想定外に広がると、あわてて謝罪した。ということは、これらの記事は編集者たちが「職を賭しても言いたいこと」ではなかったということである。

 私が「あなたがたには出版人としての矜持はないのか?」という強い言葉を使ったのは、それゆえである。「職を賭してでも言いたいわけではないこと」を言うために、この週刊誌は多くの人を恐れさせ、不快にし、社会の分断に掉さし、隣国との外交関係を傷つけることを気にしなかった。「ぜひ言いたいというわけでもないこと」をあえて口にして、人の気持ちを踏みにじった。

 彼らがほんとうに韓国と断交することが国益にかなうと信じているなら、謝ることはない。これからもずっと「断交しろ」と言い続ければいい。日本国内にいる49万8千人の在日コリアンを「この国に自分たちの居場所はないのではないか」という不安に陥れることが日本社会をより良きものにするために必須の措置だと信じているなら、謝ることはない。これからも「日本から出ていけ」と言い続ければいい。でも、『週刊ポスト』は謝罪した。もちろん、本気の謝罪ではないことはでもわかっている。来週からもまた少し遠回しな言い方で同じような記事を書き続けるだろう。だが、それなら今回も謝るべきではない。編集長は堂々と記者会見をして、「社名に泥を塗っても、職を失っても、これだけは言っておきたいから言ったのだ」と広言すればいい。拍手喝采してくれる人もきっといただろう。だが、彼らはその支援を待つことなく、尻尾を巻いた。

「書くなら覚悟をもって書け」という私の考えに同意してくれる人は残念ながら出版界には少ないと思う。おおかたの出版人は鼻先で笑うことだろう。

「何を青臭いことを言ってるんですか。そういう記事を読みたいという読者がいるから、記事を書いてるだけですよ。ただの需要と供給の話です。出版人の矜持だ覚悟だって、内田さん、なんか出版に幻想持ってませんか?」と、たぶんそう言われるだろう。

 数年前にある週刊誌が党派的にかなり偏った政治記事を掲げたことがあった。その週刊誌からインタビューを申し込まれたので、「あんな記事を書く週刊誌とは仕事をしない」と断ったら、苦笑いされた。「あんなこと、われわれが本気で書いてると思ってるんですか? ああいうことを書くと売れるから、『心にもないこと』を書いているんです」と「大人の事情」を説明してくれた。それを聴いて、私はさらに怒りが募った。

 これらの記事は、「これは私の言いたいことです」と固有名において誓言する書き手が存在しない文章である。誰もその「文責」を引き受ける人がいない言葉が印刷され、何十万もの読者がそれを読む。そして、「そういう考え方」が広く流通する。

「フランスにおける反ユダヤ主義」は私の研究テーマの一つだったが、研究を通じて骨身にしみた教訓は「発言の責任を取る人間がどこにも存在しない妄想やデマでも、強い現実変成力を持つことができる」という歴史的事実であった。だから、私は空語や妄想を軽んじない。

 けれども、私に「裏の事情」を話してくれたフレンドリーな編集者は自分たちが流布している「空語」の現実的な影響力については特に何も考えていないようであった。適当に書き飛ばした「空語」を読んで、それを現実だと「誤解」するのは読解力の足りない読者の責任であって、書いた側には責任がないと思っていたらしい。

 厄介な話だが、このような考え方にも実は一定の理論的根拠はある。「あらゆるテクストは多様な解釈に開かれており、テクストを一意的に解釈する権利は誰にも(書き手自身にも)ない」というのはロラン・バルト以来のテクスト理論の中核的なテーゼだったからである。

 今回の『週刊ポスト』も、謝罪していたのは、「誤解を広め」かねないことについてであり、「間違ったことを書いた」ことについてではない。「テクストの最終的な意味を確定するのは読者たちであり、筆者ではない」というポストモダンの尖ったテクスト理論はここでは書き手の責任を空洞化するために功利的に活用されていたのである。学知というのは、こういうふうに劣化するものだということを私は知った。

 どれほど「ジャンク」な商品でも、それを「欲しい」という消費者がいる限り、その流通を妨害してはならないというのは市場経済の基本ルールの一つである。アメリカには「学位工場(degree mill)」というものがある。貸しビルのオフィスに電話とパソコンがあるだけの、実体のない「大学」だが、金を払えば、学位記を発行してくれる。学問的には無価値な学位だが、それでも「欲しい」という人がいる。だから商売になる。アメリカにはこれを禁じる法律がない。売り手も買い手もそれが「ジャンクな商品」だということをわきまえた上で売り買いしているのである。「大人の商売」である。だから、市場原理に従えば、空語や妄想を読みたいという人がいる限り、妄想や空語を売ることも適法だということになる。

 私はこういう「原理主義的」な考え方を好まない。たとえ理屈ではそうでも、いくらなんでも非常識だと思う。もちろん、「それは非常識だ」と私が言っても、「お前の言う『常識』とはいつ公認されて、どの地域において『常識』なんだ? どれだけの一般性があるんだ?」と切り立てられると絶句する他ない。しかし、私はここで絶句するということが「常識の手柄」だと思っている。常識に基づいて革命を起こしたり、テロをしたり、人を収容所に監禁したりすることはできない。「そんなの非常識」だからである。

 常識は強制力を持たない、弱い知見である。控えめな抑止効果はあるが、それ以上の力を持たない。けれども、そういう言葉がいまのメディアには一番足りないのではないか。

 こういう問題が起きると「表現の自由を侵すな」という原理主義的な反論を語る人がいる(今回もぞろぞろ出て来た)。だが、「ヘイトも、差別も、犯罪教唆も、言論の自由」だというようなことを言う方々は別に「表現の自由」が譲れない基本的人権だと思ってそう言っているわけではない。そのことは肝に銘じておいた方がいい。

「表現の自由」という言葉は一つだけれど、それを「手段」として功利的に使う人たちと「目的」として掲げている人たちでは、同じ言葉でも奥行きや広がりが違う。

「表現の自由」を口にする人たちが「表現の自由があらゆる領域で保障されるような社会を構築するため」にその原理を掲げるなら、私はそれを支持する。いまここにおける「限定的な表現の自由」の行使が、未来の「より包括的な表現の自由」の実現をめざすものであるなら、私はそれを支持する。

 だが、自分たちの政治的信念を宣布する上で便宜的に「表現の自由」論を口にする人については、彼らに「表現の自由」を認めることを私は留保する。もし彼らがその言論を通じて実現をめざしているのが、異物を排除し、多様性を認めず、単一のイデオロギーで統制された「純血主義」的社会であるなら、私は彼らが「表現の自由」を口にするのはそもそも「ことの筋目が通らない」と思うからである。

 もちろん私は一介の私人であるから、法律や暴力を以て彼らを黙らせることはできない。私にできるのは「この人たちの言うことに耳を貸してはいけない」とぼそぼそ言うだけである。

 いま日本のメディアには非常識な言説が瀰漫している。だが、これを止めさせる合法的な根拠はいまのところない。たとえ法律を作っても、その網の目をくぐりぬけて、非常識な言説はこれからも流布し続けるだろう。私たちにできるのは「それはいくらなんでも非常識ではないか」とか「それではことの筋目が通るまい」というような生活者の常識によって空論や妄想の暴走を抑止することだけである。そのような常識が通じる範囲を少しずつ押し広げることだけである。
http://blog.tatsuru.com/2019/09/24_0939.html

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