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チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html
投稿者 中川隆 日時 2019 年 2 月 05 日 11:48:55: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


チャンネル桜の常連 西岡力の悪質な詐欺の手口


西岡力 - YouTube動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E5%8A%9B

【Front Japan 桜】西岡力 - YouTube 動画
https://www.google.co.jp/search?hl=ja&source=hp&ei=ePdYXKf8J4r58QWkxL9o&q=%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E6%A1%9C+%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E5%8A%9B&btnK=Google+%E6%A4%9C%E7%B4%A2&oq=%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB%E6%A1%9C+%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E5%8A%9B&gs_l=psy-ab.3..0i30.2188.5483..5738...0.0..0.122.358.0j3......0....2j1..gws-wiz.....0.QcYJ-7bHNxs


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従軍慰安婦問題で詐欺師 西岡力と櫻井よしこが流した悪質な嘘とデマ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/133.html

朝鮮や中国からの徴用工が日本の職場でバタバタと死んでいった理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/134.html

日本のアホ右翼は太平洋戦争はアジアを植民地支配から解放する為にやったというデマを流しているが…
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/157.html

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2018.12.09
【トンデモ】保守による徴用工問題の否定論
(西岡力「朝鮮人戦時動員に関する統計的分析」『歴史認識問題研究』2, 2018.3)
https://rondan.net/740


Contents

1 はじめに
2 やはり朝日新聞の陰謀
3 「強制連行」と「徴用」
4 「8割は自らの意志で出稼ぎ」だから「強制連行」ではないという謎理論
5 まとめ


はじめに

燻っていた徴用工問題について、とうとう韓国大法院(最高裁)が新日鉄住金(旧新日本製鉄)に賠償命令を下しました。今後、個人が日本企業に対して賠償請求する動きが加速するでしょう。

もちろん日本無罪を主張する保守にとってこれほどの屈辱はないわけで、早速、SNS上では日韓断交などを声高に叫ぶ輩が沸いています。議論は個人請求権の問題にとどまらず、徴用工への人格攻撃にまで発展していることは誠に残念なことです。しかし本当に日本の国益を考えるならば、隣国と仲良くすべきなのは明らかです。奇妙なプライドを捨てて良好な信頼関係を築いてさえいれば、このような事態にはならなかったでしょう。

このような動きのなか今回紹介したいのは、2018年3月に『歴史認識問題研究』という学術風雑誌の第2号に掲載された西岡力「朝鮮人戦時動員に関する統計的分析」という論文風文章です。

この『歴史認識問題研究』という雑誌は保守系論調を発表するる傾向が強く、執筆者の西岡力氏も慰安婦問題などで日本無罪論を主張する論客の一人として知られます。

保守というのは不思議な生き物で、保守であれば必ず慰安婦問題も日本無罪論、そしてこの徴用工問題も一様に否定します。そして興味深いことに、慰安婦問題否定論の理論と、この徴用工問題否定論には共通点が見出せます。その点を中心に今回は、本論文の「はじめに」と「第一章 統計から見た朝鮮人「強制連行」説の破綻」を検討していきたいと思います。

やはり朝日新聞の陰謀

慰安婦問題の裏に朝日新聞の陰謀を主張している筆者の西岡氏は、この徴用工問題も朝日新聞が元凶だと冒頭部で宣言します。


韓国の文在寅大統領が2017年8月17日の記者会見で、いわゆる徴用工問題について「強制徴用された者個人が、三菱などをはじめとする相手の会社に対して持つ民事上の権利はそのまま残っている」として、1965年の協定で解決しているという従来の韓国政府の見解を覆した。これに他して日本政府は即時に抗議したし、日本のマスコミも一斉に批判した。歴史問題で韓国に同情的な朝日新聞も、欲18日の社説で「未来志向的な日本との関係を真剣に目指すなら、もっと思慮深い言動に徹するべきだ」と、文大統領を責めた。
しかし、実は文発言はわが国の一部政治家や外務官僚、そして朝日新聞などが誘発したものだった。文大統領は同年8月15日の演説で、以下のように述べている。
〈この間、日本の多くの政治家と知識人が両国間の過去と日本の責任を直視しようという努力をしてきました。その努力が日韓関係の未来的内的な発展に寄与してきました。こうした歴史認識が日本の国内政治の状況によって変わらないようにしなければなりません。〉
文大統領は、河野洋平元外相や朝日新聞らが行ってきた「事実を調べずにまず謝罪し人道的立場という理屈をつけてカネを払う」という対韓謝罪路線を高く評価し、筆者らや産経新聞、そして安倍晋三政権などが「事実に基づき、言うべきことは言う」という対韓是々非々路線を適していることを、非難しているのだ。

朝日新聞は社説で文大統領の徴用工発言を責めているのに、この発言の裏には朝日新聞がいるという謎理論です。しかもその根拠とされる文大統領の8月15日演説では「日本の多くの政治家と知識人が両国間の過去と日本の責任を直視しようという努力をしてきました」と言っているだけで、朝日新聞のことなど一言も言及していません。にもかかわらず、想像力たくましい西岡氏は、「河野洋平元外相・朝日新聞vs筆者ら・産経新聞・倍晋三政権」という有りもしない対立構造を一方的に提示します。しかも後者の立場を「事実に基づき、言うべきことは言う」という対韓是々非々路線と評価しています。ということは、慰安婦問題は事実に基づいて安倍首相は謝罪したということになるのですが、この矛盾に気付いておられるのでしょうか?


「強制連行」と「徴用」


ところで慰安婦問題を論じるうえで、それが「強制連行」であったのかどうかが大きな焦点となります。もちろんこの徴用工問題でも、その連行が強制であったのかどうかが重大な論点となります。

そして当然、保守論客である西岡氏は「強制連行」ではなく「戦時動員」であり、その労働も決して「奴隷労働」ではなかったと主張します。そしてその根拠は、「強制連行」ならば家族と離散しているはずであるが、彼らは家族を連れて日本に移動してきたこと、らしいです。

しかしこの主張は苦しいものです。「徴用」の「徴」の字は「呼び出す」「召し出す」の意味ですから、「自由意思に基づいて応募した」という意味にはなりません。

したがって「徴用」は「強制連行」の意味でも理解し得ます。ただし「強制連行」といっても、「首輪や足枷をつけて連行された」という意味だけに直結するわけではありません。たとえば赤紙によって「徴兵」されたとしても、その人は憲兵に取り押さえられて無理やり徴兵検査や戦場に連行されていくわけではないのと同様です。当時、赤紙配達員は「おめでとうございます」といって赤紙を届けていたそうです。本人はたとえ行きたくなくても、社会的圧力に屈して、自らの意思でそこに行かなければならないのです(喜んで戦地に行った人も少なからずいたようですが)。まして、当時朝鮮半島は植民地支配されており、その宗主国の意向に基づく徴用であったことも重要でしょう。

このような言葉の問題は従軍慰安婦問題をめぐっても確認されます。たとえば、その英訳は「Sex slave」なのか「Comfort woman」なのかという問題です。後者「Comfort woman」がより直訳なのですが、それではその重大性が伝わらないということで前者「Sex slave」の訳語が選ばれる場合もあります。しかし「Sex slave」(性奴隷)という語は意味が強すぎるきらいもあるため、この語が本当に相応しいかどうか非常に難しい問題です。もちろん保守は慰安婦は売春婦で自由意思があったから「Sex slave」(性奴隷)は全くないと主張するのであり、非保守は人権や人道上の問題を考えれば「Sex slave」(性奴隷)が相応しいと主張するわけです。

この様な言葉の選択をめぐる争いは、その問題の全体をイメージ付ける上で極めて重要なのですが、本筋の議論を措いて、時として言葉遊びになってしまってしまう場合もあるように思えます。

「8割は自らの意志で出稼ぎ」だから「強制連行」ではないという謎理論

また西岡氏は、@終戦時の在日朝鮮人人口の八割が出稼ぎ目的で日本に来ていたこと、A植民地時代の朝鮮で人口が増加したことや、B朝鮮からの不法渡航者が強制送還されていたことなどを根拠に「強制連行」を否定していますが、この主張にはやや問題があります。

まず、@「終戦時の在日朝鮮人人口の八割が出稼ぎ目的で日本に来ていた」ですが、これは明らかにオカシナ主張です。というのも「在日朝鮮人の全てが徴用工として来たわけないこと」は当然の前提です。そして、西岡氏自らが、終戦時の日本内地朝鮮人人口うち二割が動員現場(徴用先)にいたことを統計的に指摘しています。つまり、その二割の人々が今回の徴用工問題の焦点となっているのであり、その他の八割が焦点になっているわけではないのです。このオカシナ主張は、従軍慰安婦問題を論じるときに、「自らの意志で売春婦になった」論にも共通するものです。

そして、A「植民地時代の朝鮮で人口が増加した」、B「朝鮮からの不法渡航者が強制送還されていた」の問題も同様に、徴用された方々の人権とは全く無関係の話です。いくらそうだったからと言って、徴用された人がいるという事実には全く関係のないことです。こういうのを議論のすり替えというのです。日本な朝鮮半島に投資していたから、日本に侵略意思は無かった論とよく似ています。

まとめ

このように西岡氏の徴用工問題否定論は、従軍慰安婦問題否定論と非常に論旨がよく似ています。
1徴用工問題の裏に「朝日新聞」の存在を勝手に錯綜。(⇒慰安婦問題は「朝日新聞」の報道によって生まれた)

2「徴用」であるにも関わらず、言葉遊びで「強制連行」性を否定。(⇒慰安婦は売春婦のこと、性奴隷じゃないから「強制連行」性はない。)
3「在日朝鮮人の八割が出稼ぎで日本に来た」「不法渡航者は強制送還した」と言って話をすり替えて、残り二割の徴用工問題を矮小化。(⇒「あいつらは売春婦で金儲けのために慰安婦になった」「ルール違反で呼び寄せられた慰安婦を親元に返した」)

というようにまとめられるでしょう。また別の論文・記事では、徴用工の待遇について「貯金もできた!」「幸せだった!」という論調も他で見られますが、それもまた「慰安婦は高給取りだった!」と同じ理論です。恐るべき理論の一致と見るべきか。

徴用工がどれだけ悲惨であったのかは「花岡事件」を調べればよく解りますし、中国人徴用工四万人のうち七千人が亡くなった事実からも明らかでしょう。


(野添憲治『企業の戦争責任』社会評論社, 2009を参照)
https://www.amazon.co.jp/%E4%BC%81%E6%A5%AD%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E2%80%95%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%BC%B7%E5%88%B6%E9%80%A3%E8%A1%8C%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%A0%B4%E3%81%8B%E3%82%89-%E9%87%8E%E6%B7%BB-%E6%86%B2%E6%B2%BB/dp/4784513345

*なお私個人の見解としては、「今になって韓国が突然方針転換して個人請求権を認めた」という点については、今後の日韓関係の行く末を考えるうえで憂慮すべき問題であり、その妥当性などについて種々に再検討する必要があると思います。しかし、だからといって徴用工を個人攻撃して、徴用工問題を矮小化するという保守の議論には賛同できません。
https://rondan.net/740
 

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コメント
1. 中川隆[-12422] koaQ7Jey 2019年2月05日 12:01:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

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2. 中川隆[-12417] koaQ7Jey 2019年2月05日 13:47:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

花岡事件 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B2%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

花岡事件(はなおかじけん)は、1945年6月30日に秋田県北秋田郡花岡町(現・大館市)の花岡鉱山で中国人労務者が蜂起し、日本人を殺害し、その後鎮圧された事件[1]。戦後、過酷な労働環境について損害賠償請求裁判が提訴された。

日中戦争の長期化と太平洋戦争の開始にともない、日本国内の労働力不足は深刻化し、政府は産業界の要請を受け、1942年(昭和17年)11月27日に「国民動員計画」の「重筋労働部門」の労働力として中国人を内地移入させることを定めた「華人労務者内地移入に関する件」を閣議決定した[2]。試験移入を行なった後、「一九四四年国家動員計画需要数」に捕虜を含む中国人労務者3万人の動員計画が盛り込まれた。

鉱山労働力が不足した戦争末期には、花岡川の改修工事などを請負った鹿島組により1944年7月以降に現地移入した中国人は986人に上り、1945年6月までにうち137人が死亡した。中国人労働者は過酷な労働条件に耐えきれず、1945年6月30日夜、国民党将校耿諄の指揮のもと800人が蜂起し、日本人補導員4人などを殺害し逃亡を図った。しかし7月1日、憲兵、警察、警防団の出動により、釈迦内村(現・大館市)の獅子ヶ森に籠っていた多数の労働者も捕らえられ拷問などを受け、総計419人が死亡した。死体は10日間放置された後、花岡鉱業所の朝鮮人たちの手で3つの大きな穴が掘られ、埋められた。この後も状況に変化は無く、7月に100人、8月に49人、9月に68人、10月に51人が死亡した[3]。終戦後の10月7日、アメリカ軍が欧米人捕虜の解放のため花岡を訪れた際、棺桶から手足がはみ出ている中国人の死体を発見した。外務省管理局は『華人労務者就労事情調査報告』において、死因については彼等の虚弱体質などによるものとして、過酷な労働条件が死因ではないと主張しているが、終戦後に彼等を手当てした高橋実医師によれば、彼等が帰国するまでの約2か月の間、一人の死者も出なかったという[4]。

1946年9月11日の秋田裁判判決では蜂起を指導した事件の首謀者に有罪判決が下されたが、アメリカ軍による横浜軍事裁判では、第七分所(秋田県花岡 藤田組花岡鉱業所)から11名が裁判にかけられ、1948年3月1日に鹿島組関係者の4名と大館警察署の2名の計6名に有罪判決が下され、そのうち鹿島組の3名が絞首刑の判決を受けた後、終身刑等へ減刑されている。


損害賠償訴訟とその後

1985年8月、当時、蜂起を指導した事件の首謀者である耿諄は、外信を紹介する『参考消息』で、花岡事件40周年の慰霊祭が行われたことを知った。その後耿は来日したが、当時の鹿島組(現鹿島建設)が「一切の責任はない、中国労工は募集によって来た契約労働者である、賃金は毎月支給した、遺族に救済金も出している、国際BC級裁判は間違った裁判である」と主張していることを知り、鹿島と再び闘う意志を持った。1989年、耿は公開書簡として、鹿島に以下の要求を行った。

・鹿島が心から謝罪すること

・鹿島が大館と北京に「花岡殉難烈士記念館」を設立し、後世の教育施設とすること

・受難者に対するしかるべき賠償をすること


1990年1月より、新美隆、田中宏、華僑の林伯耀を代理人として、鹿島との交渉が始まった。7月5日の共同発表[5]では、鹿島が花岡事件は強制連行・労働に起因する歴史的事実として認め、「企業としても責任が有ると認識し、当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する」と明記された。

しかし、鹿島はその後、

・「謝罪」は「遺憾」の意味である(残念に思うが、謝る気はないという意味)。

・記念館の設立は絶対に認めない。

・賠償は認められない、供養料として1億円以下を出すことはあり得る。日中共同声明で中国側の賠償請求権は放棄されている。


と主張し、実質的には責任はないという見解を示した。1995年耿諄ら11名は、中国政府が個人による賠償請求を「阻止も干渉もしない」と容認姿勢を見せたことから、鹿島に損害賠償を求めて提訴した(弁護団長:新美隆)。要求内容は、耿が最初に要求した三条件であった。

耿諄らは中国におり、また高齢であることから頻繁な来日出廷は困難だったので、実際は新美、田中、林が原告の主導権を握った。1997年、東京地方裁判所は訴追期間の20年を経過しており、時効であるとして訴えを棄却した。原告は東京高等裁判所に控訴したが、原告となった元作業員らの証人尋問は行われず、新村正人裁判長は和解を勧告した。


和解

2000年11月29日に東京高裁で和解が成立。被告の鹿島側が5億円を「花岡平和友好基金」として積み立て救済することで決着が図られた。和解の内容は、以下の通りである。

1.当事者双方は、1990年7月5日の「共同発表」を再確認する。ただし、被控訴人(被告。鹿島のこと)は、右「共同発表」は被控訴人の法的責任を認める趣旨のものではない旨主張し、控訴人らはこれを了承した。

2.鹿島は問題解決のため、利害関係人中国紅十字会に5億円を信託し、中国紅十字会は利害関係人として和解に参加する。

3.信託金は、日中友好の観点に立ち、花岡鉱山現場受難者の慰霊及び追悼、受難者及び遺族らの生活支援、日中の歴史研究その他の活動経費に充てる。

4.和解は、花岡事件について全ての未解決問題の解決を図るものである。受難者や遺族らは、今後国内外において一切の請求権を放棄する。原告以外の第三者より、鹿島へ花岡事件に関して賠償請求が行われた場合、中国紅十字会と原告は、責任を持って解決し、鹿島に何らの負担をさせないことを約束する。


この和解は、成立直後から日本の戦後補償を実現していく上で「画期的」なものとする報道が多かったが、野田正彰の取材によれば、この和解は弁護団側の独断によるもので、原告の本意ではなかったという。耿は、鹿島の謝罪を絶対条件とし、記念館の建設も希望、賠償額は譲歩してもよいと、田中らに意見した。耿は、和解の受け入れを迫る新美らに、負けても損害はないことを確認した上で「和解を受け入れなければ負けるというなら負けよう、負けても妥協せず、踏みとどまるならば道義的には勝利したことになり、百年後(暗に死後を意味する)も彼等の罪業を暴く権利がある」と意見し、和解には同意しないが黙認するという態度を取った。

しかし、新美らは和解を急ぎ、鹿島の出す金は賠償金ではないことも法的責任を認めないことも伏せ、和解の正文は伝えられなかった。耿は和解の内容を知ると「騙された」と怒り、耿など原告・遺族の一部は「献金」の受け取りを断ったという。また、2001年8月には「屈辱的和解」に反対する声明を出した。耿にとってこの結果は全面敗訴に他ならず、その上謝罪のない金を受け取ることは侮辱でしかなかったのである。

野田がこのことを毎日新聞[6]に寄稿すると、田中と林は野田に会いたいと人を介して伝え、会談した。田中は「直前に北京に出向いて骨子を示し、耿諄さんらの了承を得た」と主張し、林も「耿諄はすっかり英雄になったつもりでいる」と耿を批判した。さらに「耿諄は中山寮で人を殺しており、苦しんでいるはずだ」「耿諄はすっかり痴呆化しているそうだ」とも述べたという。野田は「田中らは負けて何も得られないよりも、どこかで妥協しカネを貰っていくのが幸せなのだ」と確信して疑わず、その結果原告の思いを軽視したと批判している。これらの野田の主張に対して、田中は同じく『世界』に「花岡和解の事実と経過を贈る」とする文章を寄稿し「野田は和解の基本的な事実経過について誤解しており、和解条項について原告団の了解を得ている」と反論した。

中国紅十字会に信託された補償金

その後「花岡平和友好基金」として中国紅十字会に信託された5億円は被害者本人やその遺族に支払われたが、千龍網が報じたところによると、補償金を受け取ったのは全被害者のうち半数の500人程度で、受け取った額も当初支払いが予定されていた額の半額程度だったという。中国紅十字会は基金の残高や用途について発表しておらず、中国国内では「基金の半分は中国紅十字会が自らの手数料として差し引いた」との見方もある[7]。中国紅十字会はこれを否定しているが、花岡事件を描いた著書『尊厳』の著者である李旻は「中間で巨額の資金が消え、金はどこに行ったか誰も知らない」と指摘している。


日本政府に対する訴訟

その後、花岡事件などに関連して、当時花岡鉱山などで強制労働に従事していた中国人の元労働者とその遺族らが、日本政府に対し計約7,150万円の支払いを求める訴訟を、2015年6月26日に大阪地方裁判所に起こした。同事件に絡んで日本政府を訴えるのは初のケースとなる。原告らは「中国人を拉致・連行し、強制労働に従事させた上、戦後も事実の隠蔽を続けた」と主張。また、劣悪な労働条件などが事件の背景として存在するにもかかわらず、憲兵などが拷問・弾圧を加えたとも主張している[8]。

2019年1月29日、大阪地方裁判所(酒井良介裁判長)で判決があり、請求を棄却した[9]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E5%B2%A1%E4%BA%8B%E4%BB%B6

▲△▽▼


花岡事件の証言
http://kisarazu.org/?page_id=62

戦時後期におきた花岡事件、日本人が知らなくてはならない昭和史の貴重な証言だと考え、抜粋して掲載しました。

著書には花岡事件に関わった人たちの戦後が書かれていますが、「本当の昭和史」編纂にあたって、なにより事件の被害者の証言に重点を置きました。

日本は本当に戦後が終わったのでしょうか?

歴史を正しく検証して、後世に伝える努力を全ての日本人に期待します。

前文省略〜

1971年9月5日、9月にはいった北海道は、すでに秋の気配が濃くなっていた。札幌市にある小さな中華料理店「北京飯店」の二階の一室に差し込んでくる暮れ時の陽にも、秋のおとずれがひそんでいた。

 この日の朝から、李振平・林樹森・劉智渠さんの三人から、わたしは話を聞いていた。三人とも太平洋戦争中の1944年に中国で日本軍に捕えられ、日本に強制連行されて秋田県の花岡鉱山で働かされたが、敗戦後は花岡事件の裁判の証人として日本に残され、そのまま日本に永住している人たちであった。花岡事件の起きた秋田県に生まれ、十年ほど前から強制連行されてきた中国人や花岡事件を調べてきたわたしは、その生き残りである三人をようやくの思いで探しあてて、林さんのお店の一室で話を聞いていた。

 振平さんも樹森さんも智渠さんも、温和な、礼義の正しい人たちであった。たどたどしい日本語で、二十数年前の記憶をさぐりながら話してくれた。しかし、次第に話が進んで花岡鉱山での強制労働に移り、日本人の補導員にささいなことから殴られ、蹴られて、仲間たちが次々と死んでいく場面になると、三人の目に涙がひかり、こぶしでテーブルを叩きながら語りつづけた。口調が激しくなってくると、中国の言葉になったが、語りつづける三人には聞き取りをしているわたしのことは眼中になくなり、二十数年前のいまわしい記憶をえぐり出してくるように語りつづけた。

 三人の話の一つ一つが、日本や日本人に突きつけている戦争責任の刃であった。わたしは三人の話の重さをからだで感じながら、ふと、二十数年前の一つの記憶を思い出していた。

 三人が強制連行されてきた花岡鉱山と同じ秋田県北の小さな村に、わたしは1935年に生まれた。太平洋戦争がはじまった1941年に国民学校へ入学し、敗戦の年は五年生であった。田植が終わってまもないある日、中国人の俘虜たちが花岡鉱山で暴動を起こして、わたしの村の山奥にも逃げてきたという話が、村中に伝えられた。花岡鉱山とわたしの村との間には、幾重にも重なった山と深い谷とがあるのに、それを越えて逃げてきたのだった。逃亡してきた俘虜たちは、山菜取りに行った娘を焼いて食ったとか、山奥の農家から牛や馬などを盗んで食っているという話も伝わり、村の人びとは恐怖にふるえあがった。

 日中は村中の男たちが動員されて、カマや竹ヤリなどを持って山狩りに歩き、夜になると山から集落に通じている道々にたき火をして夜警がついた。家々では竹ヤリを何本もつくり、食事の時は障子に立て、野良仕事に出る時は持って歩いた。寝る時は枕元に竹ヤリやナタなどを置き、いざという時にはいつでも手に持てるようにした。暗くなると外出する人もなく、空襲に備えて薄暗くした電灯の下に集まり、息を殺したようにひっそりとしながら夜を過ごした。

 こうして恐怖の日が三日ほどすぎて、山奥の炭焼き小屋にひそんでいた二人の俘虜が捕えられた。その晩は竹ヤリもナタも土間に置かれ、村中は喜びに湧いた。

 その翌日、捕えた俘虜を見に来いという知らせが役場からきたので、わたしの分校でも五年生以上の児童が、六キロも離れた本村まで見に行った。役場前の焼けつくような土の上に坐らされている中国人は、大勢の人が囲んでいるのでよく見えなかった。じりじりと照りつける太陽の下で、両手をうしろにして縛られている裸の上半身が、人垣が揺れるたびに見えた。かつかつガツガツに痩せたからだをおおっている肌の色は、人の肌には見えないほど汚れていた。

 「チャンコロのバカヤロー」
 「ぶっ殺してしまエー」

 周囲の人垣から、さかんに罵声がとんでいた。中国人は日本の敵であり、日本人を殺して食った鬼のような人間だということを頭から信じていたわたしたちは、先生の号令に合わせて、「チャンコロの人殺し」と叫びながら、中国人を囲んでいる人垣の外を、何度も何度も廻った……。

激した口調で語っている三人の前で、二十数年前の記憶を思い出しながら、「わたしも加害者だったのだ」と、胸が痛んだ。三人のそばにいることが耐えられなくなり、部屋からとび出していきたい衝動にかられた。「お前は聞き取りという第三者みたいなことをやっているが、それでいいと思っているのか」と、自身を責め立てられてならなかった。 

この日の一日にわたる聞き取りのあとも、聞き洩らした部分や不足な点を聞くために、何ども札幌に三人を訪ねた。この間に日中国交回復も行われたが、その時の三人の喜びようはたいへんなものであった。

しかし、それと同時に、中国での日本軍の戦争処理はもちろんのこと、日本国内での戦争処理にも頬っかむりをつづけている政府に対する三人の怒りは、非常に強かった。国と国との国交は回復したが、それを支える一人ひとりの両国民のつながりが回復する根になるのは、自分たちが過去に犯してきた行為に、ちゃんと後始末をつけるのが第一だという意味のことを、三人からきびしい口調で言われた。まったくそのとおりである。私は言葉もなくうなだれるよりなかった。

花岡事件が起きた大館市の人々のなかにも、「あれは戦争が生み落とした事件であり、いまさらそんなことを掘り出してなんになる」という空気が非常に強い。私はここ十年ほどの間に、何十回となく現地に足を運んできたが、この事件に取り組んだ当初も現在も、その空気はほとんど変わっていない。むしろ、この傾向が強くさえなってきている。というのは、なんらかの形で中国人の強制労働や花岡事件に関係のあった人たちが、地元の政界や実業界などのトップに立っている人が多くなっているために、「臭いものには蓋」式になっているのである。また、あの忌わしい事件には触れたくないと思っている人や、秋田県の恥だと考えている人も多く、わたしも直接に、あるいは間接に、「花岡事件をいじくりまわしていると、君の将来にとってプラスにならない」と、何度も注意された。

この著の中心をなしている三人の話は、三人の生き方の強さ、戦争のむごたらしさと同時に、わたしたち日本人に、戦争責任とは何か、人間が生きるとは何かということを、日常の生活感覚のなかで「問い」かけている。その「問われ方」は、人によってさまざまであろうが、問われたからといって、すぐに答えなくともいい。なによりもまず、三人の話の事実に「問われてほしい」という願いを込めてまとめている。

著者 野添憲治   1975年

中国人強制連行の証言記録

前文中略

東条英機内閣決定事項
昭和17年11月27日 華人労働者内地移入に関する閣議決定
昭和18年4月〜11月 華北労務者内地移入実施要項にて試験移入
昭和19年2月28日 華人労務者内地移入の促進に関する件、時間会議決定

「労工狩り」の実態

 次官会議で「華人労務者内地移入ノ促進二関スル件」が決定したことによって、中国人労務者の移入が本格化していくのだが、現地で労務者を集めるのを「労工狩り」といった。しかし、実際には、中国内で労働者を集める労工狩りは、軍部の手によって日中戦争のころから大々的におこなわれていた。とくに、北支方面軍司令官の多田駿が、1940年8月から10月にかけて八路軍との大戦で大損害を受けて首になり、1941年に岡村寧次が司令官となって、三光政策〈殺光(殺しっくす)、焼光(焼きつくす)、略光(うばいっくす)〉を実施するようになってから、いっそう苛酷をきわめるようになった。

 1941年8月下旬から9月初旬にかけて、中国華北の山東省博山西方地区で北支那方面軍一二軍の手で実行された博西作戦の労工狩りは、次のようなものであった。

真夜中の一二時、たたき起こされた私たちは、『こんどの作戦は、土百姓どもを一人残さず全部つかまえるんだ』という中隊長池田中尉の怒号のもとに、重い足を引きずりながら歩きつづけ、ようやく夜が明けたころ、風一つなく朝餉の煙が真っ直ぐに立つ、平和で静かな二百余戸の部落の近くに中隊は停止した。しばらくして分隊長松下伍長が、小隊長のところから帰ってくるなりいった。

 『オイツ、出発だ。部落にはいったら、片っぱしから老百姓(中国での農民の俗称)をとっ捕まえるんだ。いいか・・・。』というが早いか、道に半分あまり倒れている高梁の幹を、ブキブキ踏み倒し、部落に向かって歩き出した。

 分隊が部落にはいると、静かであった村が、カタカタ、ドンドン、バタクバタリ、ガチャンガチャンと、急に暴風でも来たように、一瞬にして嵐に化した」
※大木伸治「労工狩り」『三光−日本人の中国における戦争犯の告白』(光文社刊所収)

 こうして日本軍は、中国人の男を見つけるとかたっぱしから捕え、中国の東北地方や華北の鉱山、港湾荷役、軍事基地に連行して働かせていた。また、労工狩りで捕えられた中国人のなかには、初年兵の度胸試しの材料にされて、殺されていった人も多かった。

 中国での人狩り作戦は、二つの目的を持っていた。一つは、人狩りによって捕えた中国人を労務者として使う一方、奪った食糧は日本軍が現地補供として食べていた。もう一つは、日本軍の勢力の薄い地区を無人無物に近い状態にして、中国の抗戦の主体である八路軍を弱体化させる、という目的を持っていた。それだけに、1942年の閣議で中国労務者の内地移入が決められると、それを錦の御旗として労工狩りは激化していった。

 しかし、なんの罪もない中国の民衆が、暴風のような一瞬の労工狩り作戦に襲われ、夫や息子を奪われ、妻子を強姦や足蹴で痛めつけられ、食糧を持ち去られるうえに家まで焼き払われるのは、悲惨そのものであった。さきに引用した博西作戦の労工狩りは、次のようにつづいている。

 私たちは、隣の家の中を、つぎつぎと手当たりしだいにひっくりかえして見たが、ここでも、四十すぎと思われる女と、七、八歳の男の子が、隅のほうにちぢこまっていた。あせった私たちは、庭の隅まで、置いてあるものは全部放り投げた。奇麗に丸め、積み重ねた高梁を、半分あまり銃剣で突き倒していた時、私は手に異様なものを感じた。

 『おいツ、阿部、何かいるぞー』半ば後足で、おそるおそる、そっと高梁の束をかきわけた。一ツニツ三ツ目のとき、『アッ』私と阿部は後に一歩飛びさがった。そこには、日焼けした真っ黒な顔に、何か強い決心でもしているかのように、唇を噛みしめた四十歳(ぐらい)の男がうずまっていた。手に何も持っていない老百姓風と見た私は、おどろいて後にさがった姿勢をとり直すと、『コノ野良ッ。ビックリさせやがる。オイッ、阿部ッ、こいつは民兵かも知れんぞツ』と、いきなりグルグル巻きに縛りつけた。

手当たりしだいに引っ掻き回す暴行を、不安気にジッと見ていた先刻の女は、『快走々々』(早く歩け)と蹴り飛ばされ、罵倒されながら引きずられて行くこの姿を見ると、地面に頭を押しつけ、『老百姓老百姓大人々々』と声をあげて泣きながら、何か哀願している。子供は、銃剣の恐しさも忘れて、男の足にしがみついて、言葉のわからない私でも、この母子が何を訴えているのかわかった。『コンチクショウッ。こいつがこの野良を隠したんだッ。助けてくれなんてもってのほかだッ』

 私は、泥靴で女の肩から首筋を力まかせに踏みつけた。しかし、女は、『大人々々』と、何度も何度も頭をさげて泣いて哀願していたが、最後にもうどうにもならない。と見たのか、這うように家の中にはいって行くと、ボロ布に包んだ煎餅を両手で抱え、だいじそうに持ってくると、男の腰紐にくくりつけようとしがみついた。

 私たちはこれを見ると、『このあまツ、嘗めやがって。チェッ、人間並みに人の前でいちゃつきやがってツ』女の手より布包みをもぎとると、私は、『こんな本の葉っぱみたいなものを食っていやがるのかツ』と地べたに叩きつけ、軍靴で蹴り飛ばした。楊柳の葉がまじった煎餅がほうぼうに散った。子供を抱えるように、踏みつぶされた煎餅を、両手で地に伏し抱いている女の目から落ちる大きな涙は、ポタリポタリと煎餅の上に落ちている。

 『大人々々』土にまみれた煎餅を寄せ集め、哀願する女は、ジッと奥歯を噛みしめ、足にすがる子供をじっと見つめ、何か言っている男の顔を見ては、声をあげて涙を流していた。白酎の小ガメを片手に、先刻の婦人をいままで強姦していた小川が、のっそりはいって来た。

 『何をしているんだツ』キョロリとあたりを見回した。

 『ハア、こいつを連れて行こうとしたら、しがみついて離れないんです』私は、子供を殴りつけながら小川に言った。

 『馬鹿野良ッ。大の男が二人もかかって何をしているんだッ。手前ら嘗められているんだッ。そのガキも連れて行けッ。背のうぐらいはかつげるだろう』

 男にしがみついている子供の襟首を、わし掴みに表に引きずり出した。

 『大人々々、小孫(子供)、老百姓』と、気が狂ったように女は絶叫して、子供の足にしがみつこうとした。

 『ええい。うるさいアマだッ』私は阿部といっしょに女の横腹を銃床でドーンと突きあげた。

 こうして部落の隅々から、畑の中から荒らしまわった私たちは、十二時すぎ、部落の一角に中隊が集合した。腰の曲がった老人から子供まで150余名の老百姓が、取り囲んだ銃剣の中に坐らせられている」(大木伸治「労工狩り」『三光』)

 このような労工狩りは、日本の軍隊の手で中国のあらゆる所でくり返されていた。そのなかでもとくに労工狩りがひどかったのは、1942年9月から12月にかけて山東省でおこなわれた二一軍作戦であった。この時は大包囲作戦(うさぎ狩り作戦とも言った)という戦法をとり、包囲の網をだんだんと縮めていき、そのなかにいるものは敵兵であろうと住民であろうと、全部を捕虜にするというものだった。このうさぎ狩り作戦は、次のようにして実施された。

 「その作戦には、中国には真鐘の洗面器が多いのですが、その洗面器を持って、兵隊の銃を肩にかついで洗面器を叩いて歩き、それで海岸線や鉄道沿線に向って押したわけです。洗面器を叩いて一里歩くところもあるし、二里のところもあるし、それで部隊のぽうぽうで火が燃えるわけですよ。部落から部落をずっと押して行って、一八歳から四五歳までの男を全部集める。それと山羊、牛、豚、真鐘類を全部集めるわけです。部落民にそれを全部持たして一定の地域に集合させるわけです。

 そこに軍のトラックがきて、山羊は山羊、真鐘は真鐘、人員は人員でまと砂て連れていくのです。つまり戦闘が目的ではなく、物資掠奪と人員の徴発が目的なんです。これを10月から12月の末まで二ヵ月やったわけです。その集めた人はどうなったかというと、青島に相当大きい体育場があるわけですが、集めた男を収容したんです。しかし、そこに入りきれないで、第一公園の競馬場に入れたわけです。その数は何千だか何万だかわからんのです。それが青島から船でどっちに行ったのかわからないのですよ。花岡鉱山で中国人の捕虜が死んだということをきいたんですが、その人達は実際は捕虜じやないわけですよ。実際は捕虜でもなければ八路軍でもない農民ですよ」(大野貞美「真相」1958年6月号)

その後も日本軍は、「一九秋山東作戦」(昭和一九年秋山東省での作戦の意味)、「二〇春山東作戦」を次々とおこなって、大々的な労工狩りをしていった。逃げる者や反抗する者は射殺するように命令されていたので、収容所に引致される前に殺害された人も多かった。次の証言もそのことをよく示している。

 うさぎ狩りで捕えられた中国人はうしろ手に縛られ、「われわれの自動車隊のトラックによって運ばれた。まがり角やなにかの所で、トラックの速度がにぶると、彼らのうちのあるものは脱走を企てた。だが、彼らがトラックからとびおりてかけだせば、すぐトラックの上から日本車の機関銃や小銃にねらいうちされ、死んでいった」(元独立自動車第六四大隊の一下士官の証言)

 こうして狩り集められた中国人は、青島捕虜収容所をはじめ、済南・石門・大同・北京・郁鄙・徐州・塘浩の収容所に集められた。このうち青島と塘活は日本への乗船地なので、他の収容所にいれられた人たちも、日本に連行される時はこの二つのどれかに集結された。どれも北支那方面軍が直接に管理する収容所で、所長には軍人がなり、門には日本軍の衛兵所があり、着剣した兵隊が守っていた。収容所の周囲は電流を通じた鉄条網で囲んであるほか、さらにトーチカで囲み、二人の兵隊が絶えず巡回していた。運よく生きたまま収容所にいれられても、日本車に捕えられた瞬間から、中国人の生命はないも同様であった。しかも、その捕虜収容所の生活がまた、たいへんなものであった。

当時、第五九師団の陸軍伍長だった五十嵐基久は、済南捕虜収容所の模様を次のように証言している。

 「収容所の中には土間にアンペラがしいてあり、捕虜にされた中国人たちはそこに寝おきしていた。寝具はなく、暖房も全くなかった。中国人の医者と称する者がいたが、病気になっても、殆どほうっておいた。

伝染病らしくなれば病舎という物置小屋のようなところに隔離した。死ねば穴に投ぜられた。中国人たちを収容所の外に出すようなことはほとんどなかった」また、日鉄鉱業釜石鉱業所の出張員が中国人を連行してくるために青島収容所に行った時の模様を、「バラック建てで40〜50坪のところに700〜800名をおしこみ、暖、冷の処置なく疲労と寒気のため病人続出、その中より死亡者多数が出ていた」と語っている。50坪の小屋に800人が収容されていると、どんなにすくなく見ても一坪に16である。すし詰めにしないと、収容できるものではない。

 捕虜収容所に集められた中国人は、日本へ連行される直前に、財団法人華北労工協会・日華労務協会・国民政府機関・華北運輸公司・福日華工会社などの、強制連行を代行している統制機関に渡された。そのあと日本政府は、厚生省が指定した全国135事業所とのあいだに、「供出」と「使用」の契約書をとりかわしている。中国から乗船した数は3万8935人だが、「外務省報告書」によると、死亡者は次のようになっている。

 日本に上陸するまでの船内で564人が死亡し、さらに上陸後に、135事業所へ到着するまでのあいだに、248入が死亡している。各事業所に到着したのは3万8213人であった。連行される途中でもいかにひどい取扱いをしたかは、死亡したこの数字からだけでも知ることができる。

 しかも、どうにか各地の事業所に到着することができた中国人たちも、日本の企業や日本人の残虐非道な扱いのなかで、次々と犠牲となっていった。敗戦後の1945年12月7日に集団送還がされるまでに、事業場内死亡5,999人、集団送還後死亡19人の合計6,830人もの中国人が殺されている。乗船した総数3万8,935人にたいし6,830人が死亡しており、死亡者の比率は17・5%にあたる。しかも、そのうちの4,000柱近い遺骨がまだ日本全土に散らばっているほか、約500入を越すと推定されている日本に
残った中国人は、いま、各地でひっそりとこの世に生きていると見られている。

 これが中国人強制連行のあらましだが、中国人労務者を導入した135事業所のなかでも、秋田県北にある同和鉱業花岡鉱業所の工事を請負っていた、鹿島組(現在の鹿島建設)花岡出張所に連行されてきた中国人の死亡者がとびぬけて多いのである。三回にわたって花岡鉱山に連行されてきた986人のうち、死亡者が418入と、他の事業所に比べると、比較にならないほどの高率なのである。もう一つは、3万8,935人の中国人を連行して、6,830人も死亡させながら、不充分な形でも敗戦後に裁きがおこなわれたのは、花岡鉱山の鹿島組関係者だけだったことである。花岡鉱山でだけなぜ裁判が実施されたのかであるが、日本が敗戦となる約一ヵ月半ほど前の1945年6月30日の夜に、あまりにも少ない食糧や補導員たちの虐待に中国人が蜂起したからであった。蜂起の後処理が残虐をきわめ、数日間のうちに100人近い死亡者を出
したほか、蜂起の指導者たち13人は秋田市の監獄に押送され、国防保安法第十六条による戦時騒擾殺人罪で、無期懲役などの判決を受けたのだった。

 だが、敗戦後に日本へ駐留した米軍によって、今度は花岡鉱山の鹿島組関係者が逮捕され、米第八軍軍事法廷は、三人の補導員に絞首刑、鹿島組花岡出張所長に終身刑、大館警察署長と巡査部長には重労働二十年の判決を下した。だが、1953年頃にどの人も仮出所して責任はあいまいになったほか、連合軍裁判では、もっとも責任が重いはずの鹿島組社長をはじめとする日本建設工業会に所属する各社の最高責任者、華北労工協会などの労務統制機関の責任者、鹿島組の労務員、蜂起して山の中に逃げこんだ中国人を竹ヤリなどで殺した在郷軍人・青年団員・警防団員などは、裁判からはずされてその責任を問われることがなかったのである。

 花岡鉱山に連行された中国人の中から、裁判の証人として23人が送還されずに日本へ残された。しかし、裁判が終っても中国に帰らずに、そのまま日本にとどまった方が4人いる。北海道の札幌市にいる李振平(旧李光栄)・林樹森(旧劉当路)・劉智渠(旧劉沢)の三氏と、大阪にいる宮耀光氏の四氏であったが、1973年9月に林樹森氏が亡くなっているので、現存者は三氏である。 

    この記録は、宮氏を除いた三氏からの聞き書きが主体となってつくられている。


中国から花岡鉱山へ

「戦争と花岡鉱山」

 花岡鉱山は秋田と青森の県境にひろがる鉱山地帯にある、中規模のヤマでみる・この鉱山がその姿をあらわしたのは、他の鉱山にくらべると遅く、1885年に地元の人によって発見されてからだった。その後、鉱主も何度かかわったり、採掘が中止になったり、また再開されるという歴史を繰り返して、1915年に合名会社藤田組に経営が移った。その翌年から新しい鉱床が続々と発見されて大鉱山に成長し、1944年には花岡鉱業所として独立している。

 花岡鉱山は鉄道から距離的に近いうえに、良質の銅・鉛・亜鉛などを産出するので、採算のとれる鉱山として知られていたが、日中戦争がはじまったころから、軍需産業として生産が拡大されていった。太平洋戦争に突入すると、いっそう大幅な生産が要求されるようになり、1942年には花岡鉱山そのものが軍需工場に指定されて、月産3万トンから5万トンの生産が義務づけられ、増産につぐ増産がつづけられていった。

 だが、設備の不備、機械の不足、施設の老朽化などによって、産出量はなかなか伸びなかった。しかし、生産目標の達成は軍部からの至上命令であり、それがまた企業の利益とも結びついていたため、目標達成のために大量の人力を投入しなければならなかった。花岡鉱業所に残されている資料によると、鉱山の稼働員数は戦争が激化してくるにつれて、表1(下の「花岡鉱業所稼働工程表図」にも見られるように増大していった。とくに、最大の労働力を擁した1944年前後には、1万3,000人もの稼働人員を数えることができた。


◆その当時の稼働人員の内訳をみると、次のようになっている。

直轄人4,500人
朝鮮人4,500人(延べ人員)
徴用工
 挺身隊300〜400人
 勤奉隊300〜400人
 学徒隊300人
俘虜米人(英豪人含む)300人(最大の時は480人)
華人徴用工(東亜寮)298
諸負業者人夫 1,500人

となっている。鉱山労働者以外の人たちが、いかに多く鉱山労働に狩り出されていたかがわかる。

 さらに戦争が激化してくるにつれて、鉱山労働者も兵役につくようになったほか、怪我や病気などで入坑できなくなった坑夫の補充ができないために、労働力不足はいっそう深刻になっていった。そのため、徴用工の名目で国内から
狩りだされた寡婦・娘・少年たちまでが鉱山に動員され、15歳前後の少年たちや、20歳前後の娘たちまでが、坑内での地下労働を強制されるようになった。花岡鉱山ではこのように労需に追われて生産をあげるという形で、厖大な利益を確保している鉱山経営からすると、日本人も朝鮮人も働く道具の一つにすぎないことを、この事実は語っている。

 七ツ館事件後も、花岡鉱山では乱掘をつづけたが、いくつかの坑道の上を流れている花岡川の流れを変更しないと、七ツ館坑以外でもいつまた陥落が発生し、落盤や浸水などによって、発掘が中止されかねない事態になっていた。この危険を取りのぞくには、花岡川の流れを大幅に変更する必要があり、鉱山では水路変更計画を立案した。しかし、この水路変更の工事が火急を要することはわかっていても、増産に追われるだけで精一杯の花岡鉱山の手では、工事をおこなうのはムリな状態であった。そこで、鉱山採掘の一部を請負っている鹿島組に、この水路変更の工事を請負わせることになったが、鹿島組にしても新規の工事に労務者を集めてくることは不可能であった。この時に鹿島組で目をつけたのが、日本への連行が本決まりになった中国人労務者を使用することだった。

 鹿島組花岡出張所が、敗戦後に外務省へ提出した「華人労務者就労顛末報告」のなかで、その経過を次のように説明している。

 「工事を緊急きわまる短期間内に完成しようとしたため、大量の労務者を必要とし、その獲得に努力したが、時あたかも国運をかける大東亜戦争中期から後期におよび、日本人、朝鮮人労務者の充員はまったく至難の状態にあり、この唯一の解決策として昭和17年11月27日、日本政府決定による『華人労務者内地移入二関スル件』にもとづいて、華人労務者の急きょ移入就労をはかり、可及的速やかに工事竣工を期そうとした。そしてこの導入方針として、本社ならびに受け入れ事業場においてしばしば移入方針ならびに対策にかんする打合会を開き、内務、外務、厚生、軍需など関係各省の指示、指導事項にもとづいて慎重かつ万全を期し、統制団体である日本土木統制組合の援助と斡旋をうけ、現地供出機関である華北労工協会との契約諸項を遵守履行しようとつとめた」

 この報告書は全体にわたってあまりにもそらぞらしく、しかも責任のがれに終始した書き方をしているが、ともかく強制連行されてきた中国人は、こうして花岡鉱山の鹿島組花岡出張所に収容されて働くことが決まったのだった。


〜証言


李振平 
1921年に河北省河間県に生まれる。小学校卒業後に三年間ほど農業を手伝ったあと、人民解放義勇軍に入ったが、日本車に捕えられ、花岡鉱山に強制連行される。花岡鉱山では第一中隊第二小隊長として強制労働に従事。蜂起の時は主謀者のI人となり、秋田刑務所に入れられるが、敗戦後は裁判の証人として日本に残る。中国代表部で衛兵の仕事をしたあと、東京や横浜などを転々と仕事をかえて移り住み、1956年に札幌に移る。札幌でも職をいくつかかえたあと、中国貿易輸出入の会社をつくり、現在はその社長をしている。

妻のほかに一男一女の子どもがある。


林樹森 
1917年に河北省寧普県に生まれる。小学校卒業後、会社勤めをしながら医者になる勉強をつづけ、やがて人民解放義勇軍に身を投じて医療の仕事に従事中に日本軍に捕えられ、花岡鉱山に強制連行され、看護班の仕事をした。敗戦後は病人の看護のために日本へ残り、そのまま裁判の証人となり、のちに中国代表部の衛兵の仕事をする。代表部を1953年にでてすぐに札幌に渡り、数々の仕事を転々とかえたあと、食堂を営む。1973年9月のある日、病苦と食堂の経営不振から服毒して自殺を図ったが、発見が早く助かるが、
9月26日に肝臓疾患に急性肺炎を併発して死亡。なお、知人たちがカネを出しあって、1973年の暮れにははじめて中国に行くことが決まっており、ふるさとの中国では二歳の時に生き別れた長男が、三十年ぶりの再会を待っていた矢先の死であった。死後には妻と中学二年生を頭に三人の子どもが残された。


 劉智渠 
1920年に河北省薪県郡均鎮に生まれる。小学校卒業後は。家業の農業に従事。十七歳で人民解放義勇軍に入る。一時、家に帰って農業をやり、二十歳の時に再び解放義勇軍に入り、日本軍に捕えられて、花岡鉱山に連行される。花岡鉱山では看護班に所属し、敗戦後は裁判の証人として日本に残る。1964年10月に札幌に渡り、小さな屋台店から商売の仕事に入り、現在は新山観光株式会社の社長をしている。1951年に中国人俘虜犠牲者善後委員会が発行した「花岡事件」は氏のロ述によるもので、もっとも早く花岡事件の全貌を伝えた貴重な記録である。妻と一男一女がある。


李 
わたしね、1921年7月15日に河北省河間県に生まれたが、小さい時のこと、あまり覚えていないからね。小学校に入って終わったのが16歳の時で、中学校に行くつもりだったけど、もう日本の兵隊が毎日来るから、とても学校に歩いてられないでしょ。わたしだけでなく、ほとんどの子どもたち、そのために学校にいくのやめた。わたしの家、普通の農家だったので、農業の仕事手伝っていたが、一ヵ月のうちの半分は逃げていた。日本兵が襲ってきて、逃げなくてはダメだから、仕事にならないの。それでも三年くらいは農業の手
伝いしていたが、日本兵の来るの、だんだん多くなって、まったく仕事にならなくなってしまったさ。


 林 
日本兵、襲ってくるでしょ。逃げおくれて殺されたり、捕えられて連れていかれた同じ年ごろの人、かなりいたさ。
 李 友だち殺されたり、肉親を殺された人など、多かった。どうせ、毎日逃げとるでしょ。若い時だし、戦いしないとどうしようもないので、戦うこと決めた。いちばん最初に入ったのは人民解放義勇軍で、賀竜の部隊であった。それからゲリラになって、あっちこっち転戦して歩いたが、その間に、わたしたちの部隊のなかで、何百人も死んでしまった。ゲリラの戦いは、苦労ばかり多い。村に行くと、日本兵に見つかるから、行けないでしょ。夜中にこそっと行っても、村の人たちみんな逃げていない。家に残ったもの、日本兵来てみんな徴発して、なんにもない。腹減ってくると、ドロ水飲むね。死んだ人の上を、靴で踏みつけて歩く時もあるさ。ベトナム人の苦しみ、自分の体験とおしてよくわかる。戦争ひどいよ。

 林 
中国に来た日本兵、悪いの人多いよ。わたしの村に日本兵襲ってきたとき、妊娠している女の人を、何人もの日本兵が追いかけた。妊娠している人よく走れないよ。すぐつかまって、中国人も見てる前で、何人もの日本兵が強姦する。それ終わると、銃の先についた剣で妊娠した女の腹裂いて、赤子とりだすと、銃の先に刺して振りまわして、みんなで笑ってる。

日本兵、犬畜生より悪いね。あんなことばかりした日本兵、日本に帰ってきて、自分の家庭に入って、どんな顔して生きとるのか思うと、こわい感じするね。


 李
 1941年の春、わたしたちのゲリラ部隊、日本車に包囲された。包囲された距離、だんだん狭くなってくる。そのとき、わたしたちの部隊、鉄砲のタマも満足になく、武器も使えなくて、一週間でみんなつかまってしまった。あのとき、だいぶつかまった。つかまった人どれくらいだったかは、あっちこっち連れていかれて一緒でなかったので、よくわからない。一ヵ所にまとめられて、収容所まで歩くとき、何十人、何百人かがひと組になって連れていかれ、あっちこっちの収容所に入れられた。あのとき捕えられた人のなかで、中国の
東北の炭鉱に連れていかれた人も、だいぶいた。わたしと一緒に、石家荘の収容所に連れてこられたのは、十数人だったが、日本に連れてこられたのはわたしひとりだけね。石家荘の収容所には、1,000人くらいの人、つかまって入っていた。収容所は、日本軍が管理してた。わたしらいる時、収容所から逃げたの二人いたが、一人はすぐに銃で撃たれたね。一人は逃げたが、まもなく捕えられて収容所に連れてくると、みんなの見てる前で殴られたり、蹴られたりして、殺されたね。見せつけね。日本に連れてこられる時、石家荘の収容所の生活あまりひどく、みんなからだ弱っていた。からだ悪い状態のまま、日本に連れてこられた。 自分で立って歩けないような、からだの弱っている人ばかり、日本に来たさ。


 林
 わたしも石家荘の収容所に二ヵ月半ほどいたが、あそこでみんなからだ痛めた。食べもの悪く水も満足にないから、みんな栄養不良になったわけね。

李 収容所の食べもの、コウリャンのご飯と、醤油少し入ったスープだけね。それも一日に二回だけで、野菜や塩など、ぜんぜんないからね。あのとき、わたしたちなぜからだ悪くなったかといえば、河北省の人、コウリャンは少し食べることあるが、ご飯として食べたことないわけね。コウリャンは、アルコールの精がほとんどでしょ。コウリャンのご飯食べると、大便が出ないの。便所に行って、箸のようなものでえぐると、ポロポロ出てくるわけね。

 河北省では、コウリャンは豚の食べるもの。食べるもの少ないし、食べたものもこうだから、だんだんとからだ悪くなってくるの。そのうちにからだ弱ってきて、歩くこともできなくなってきた。一ヵ月以上も、歩けないでいた。石家荘に二ヵ月ばかりいて、わたしは這いながら、京の収容所に行く汽車に乗ったよ。


林 
北京の収容所で、わたしは李さんと一緒になったわけね。


李 
収容所の中じゃ、わからなかったけどね。石家荘から北京に行くとき、貨物の汽車に乗せられた。逃げられんように、有蓋車に乗せられて、戸を閉めてカギをするから、中にいる人、空気とれないの。あのとき、ちょうど六月の暑い時で、みんな縛られて、貨車の中に投げ込まれたでしょ。ひとつの貨車に25人も入ればいっぱいになるのに、100人以上も投げ込まれたでしょ。みんな豚みたいに、からだの上にからだのせていた。空気あまり入ってこないから、汽車が走ると、板目の狭いすき間からもれてくるわずかな空気に、鼻や口を押しつけてのみこんだね。おなかの方すくのはもちろん苦しいが、水いちばんほしいね。みんな縛られて、水ほしい、水ほしいって、声たてて泣くね。誰か小便あったら、それ自分で飲みたい気持になるの。その苦しみといったら、いまでも忘れられない……。北京の収容所に着いたら、ここはアワのご飯ね。アワのご飯は、河北省の人食べ馴れているし、消化もいいし、ここにIヵ月くらいいたら、どうにか立って歩けるようになった。やはり、栄養不良
で、みんなからだ悪くしてしまったわけね。ちょっと食べものよくなると、すぐ元気になるのだから、食べものがどんなに悪いか、わかるわけね。


中国での林さん

林 
わたしは1,917年に、河北省寧普県に生まれた。自分の家の先祖、みな医者だったが、わたしは、小学校でた16歳のとき、会社に入って働いたの。その会社の空気が、どうもわたしの性に合わない。その会社にあんまりいないで、やめて家に帰って、いろいろ考えてみた。うちの先祖はみな医者だから、わたしも医者になること考えて、こんどは北京に行くと、北京大学の医学部に入って、漢方薬の勉強した。ここで三年ばかり勉強してから、またくにに帰ってきたが、親は医者よりも商人になれと言った。二十歳すぎてから、また会社
に入った。その会社は、日本の綿会社の出張所であった。この会社に一年とちょっといたが、人いった頃は仕事なかなか盛んで、忙しかったね。


劉 
蘆溝橋事件の起きる前は、日本兵来ても、それほど悪いことしなかったね。悪いことやったけど、あんまりでなかった。この事件起きて、中国と日本と戦ってから、もうダメね。日本兵、中国人見つけると、殺して歩くという状態になったからね。
林 わたしね、蘆溝橋事件が起きるまで、綿会社に働いていた。この事件あって、中日戦争はじまったでしょ。そしたら、日本の兵隊毎日まわってくるさ。綿は綿花からとって、日本に輸出していた。戦争はじまって、輸出もできなくなった。会社にいても、仕事ぜんぜんないでしょ。いてもいなくても同じなので、会社やめてさ、また自分の家に帰ったの。家にいると仕事ないから、これからどういうふうに生きるか考えた。わたしの先祖、みんな医者でしょ。北京で医者の勉強したので、その方面で進もうと考えた。本買って読んだり、近所
の医者のところに住込みのようにして働きにいったりして、医者の勉強した。二十五歳のころになると、ようやく病人を診れるようになったさ。ところが、日に日に戦争ひどくなって、田舎の村にも日本兵が朝早くからやってくるさ。逃げれば危ないし、逃げなくとも危ないでしょ。もうどうにもならないさ。村の中にいて、落ち着いて暮らせなくなった。そのとき、考えたね。わたしの先祖や家族で、軍隊に入っている人、ひとりもいない。これではダメだと考えて、わたしは軍隊に入ることにしたさ。戦わないと自分たちの国、守れないからね。ほんとの軍隊ではないけど、八路軍の下に民兵みたいなものあるので、わたしはそこに入ったさ。わたしは軍服も着てないし、鉄砲も持ってないし、大きなカバン持って歩いていた。カバンの中にはいろいろな薬や、注射器など入れていた。そのころ、ゲリラの部隊の人が病気したり、怪我したりすると、あっちの村、こっちの村と、分散して農家にあずかるさ。その村の責任ある人のところに行き、病人のいる農家に行くさ。わたしは病人をみて、治療するさ。わたしがゲリラの部隊に入ったのは、こういう仕事するためだったからね。毎日のように、あっちこっちとまわって、病人をみて歩いたさ。



 わたしはゲリラの部隊にいたから、銃持って戦ったがね。食べもの少ないし、病気になったり、怪我する人も多かったさ。そういう人と一緒だと、戦えないし、逃げられないし、村の農家に頼んで置いていくからね。林さん、その人たちのことみていたわけね。



 日本兵は毎日、ひどいことばかりやってたさ。いまでも忘れられないこと、いっぱいあるよ。ある日の早い朝、昼はあぶないから、わたしは隣の村へ、まだ暗いうちに出発した。わたしが村を出てまもなく、日本兵はわたしのいた村を包囲した。日本兵は一軒一軒の農家襲って、食べものやニワトリなど、片っぱしから奪って車に積む。それから、女の人見つけると、片っぱしから一カ所に集めて、着物を全部はぎとって裸にした。四十人以上もの女の人たちに銃剣向けて、裸の踊りさせるね。まわりに集まった日本兵、その踊り見て、やんやとはやしたてる。恥ずかしさに負けた女の人たち、そばを流れてる川に、走ってとび込んでいく。川を流れていく女たちに、日本兵は鉄砲うってみんな殺したさ。わたし、高い木にのぼってかくれ、その様子見ていたが、あまりのひどさに、涙もでなかった。中国人はこんなこと、決してやらないよ。



 日本兵は男の人と同じに、抵抗もできない女や子ども、それに年寄りも手当たり次第に殺したし、蹴ったりしてかたわにしたからね。戦場になった中国の人たち、いくら被害受けたかわからないよ。



 村を襲う日本兵、まだ人が寝ているような、朝早くにやってくること多いさ。二回目に襲われた時は、山奥の農家にいた。その時は日本兵来たのに早く気がつき、自転車に乗って逃げたが、鉄砲どんどんうってくるので、自転車タマだらけになった。着ていた服にも、タマ当たったね。からだにタマ当たらなかったから、なんとか逃げることできた。だが、三回目の時はもうダメね。日本兵が来たのに気づいた時は、もう村が囲まれていたから、逃げるにも逃げられない。そのまま捕えられたのが、ゲリラに入って五ヵ月目のことさ。わたしは兵士だから仕方ないが、村の家には、兵士でない普通の人たくさんいるよ。日本兵来たとき、「わたし兵士じゃない、民間人だ」と叫んだ人も、みんな捕えられた。日本兵から見ると農民か、普通の民間人か、兵士なのか、よくわからないよ。それに、日本兵は働く人つかまえにくるのだから、男の人とみれば、八歳ごろの子どもでも、六十歳を越した年寄りでも、片っぱしから引っぱっていくのだからね。



 あとでわかったのだが、彼ら日本兵の目的は、人狩りだったからね。



 日本兵につかまった人、みんな広場に集められたさ。どの人も、着のみ着のままで、なんにも持ってないね。みんな広場の土の上に、坐らされたさ。日本兵の偉い人が、何かさかんに言ってるけど、何を言ってるのかぜんぜんわからないの。わたしそれを見ながら、あの人は何を言ってるかわからないけど、いいことではないと考えたよ。実際にそうなったが、わたしにはその時、妻と二歳になる子どもがいたの。もうどうなっても仕方ないさ、と覚悟はしてるけど、やはり心残るね。偉い人の話が終わって、しばらくたってから、向こうの農家の庭先に、土の固まりがあるでしょ。日本兵がその土くれ拾って、坐っている人の上になげるでしょ。その土くれ頭に当たった人をナワで縛り、トラックのそばに連れていって乗せるの。最初はなにやっているのかわからず、おかしかったけど、この土くれが頭に当たったらたいへんね。抵抗なんかできないまま、トラックに乗せられて、連れていかれるのさ。わたしの頭に土くれ当たった時は、目の前が真っ暗になった。トラックに人がいっぱい乗ると、
土くれなげるのやめて、トラックは走ったさ。それから石家荘の収容所に連れていかれて、トラックからぞろぞろ落とされたさ。



 石家荘の収容所に入ったら、みんな同じね。普通の民間人も、八路軍も、蒋介石の兵士もいる。年は八歳ごろの子どもから、上は七〇歳近い老人もいたさ。


林 
わたしの入った石家荘の収容所は、テント張りになっていた。建物の収容所には、つかまった人がいっぱいいて、人りきれないのでテント張ったらしいが、テントは雨露防ぐだけで、まわりには何にもないの。わたしらはここに連れていかれると、着ているもの全部ぬがされてしまったさ。逃走するの防ぐために、裸にしたわけね。夜になっても、土間にアンペラも敷かないし、空いた場所には小便や痰、吐いたものや下痢したものが散らばっているので、横になることもできないさ。食べるものも、一日に二回だけね。コウリャンの飯が小さな碗にもられて、一つだけ配られるの。腹へるし、寒いし、疲れはでてくるし、このまま死ぬんじゃないかと、何回も思ったね。


李 
わたしは建物の中で寝たよ。蒲団はないが、板の上にちゃんと寝たからね。同じ収容所でも、違ってたわけね。


林 
テントの中でも、飢えと疲れと寒さで、死ぬ人多かったよ。夜が明けると、日本兵が巡視にまわってくるさ。地面に横になってる人あれば、軍靴で蹴ったり、棒で殴ったりするね。生きてる人は、それでビックリして立ち上がるけど、死んだ人は動かないからね。死んだ人があると、そばの人に死体かつがせて、収容所のうしろの方に運んでいくわけね。わたしも二回、死んだ人運んでいったが、そこに大きな穴が掘ってあって、穴が死体でいっぱいになると、上に土かぶせるの。野良犬が夜中にその死体を掘りにきて、人間の骨をバリバリと音させて食ってる音、よく聞こえた。石家荘の収容所は、まるで地獄だったさ。


李 
テントの収容所のご飯、どうだったか。


林 
コウリャンの飯と、醤油が少し入って、ニラの刻んだのちょっと浮かんでいるスープだけ。李さんたちと同じね。コウリャン飯食べると、大便でないから、みんな苦しんだ。これでからだ悪くした人、多いね。あとで北京の収容所に行ったら、アワのご飯ね。これは自分たちもよく食べるから、おいしく食べた。これで、わたしもからだよくなったさ。

中国での劉さん

劉 
わたしの生まれたの、河北省蘇県郡均鎮で、1920年のことね。河北省には工業ないから、どの家も農家ね。わずかより土地ないから、中国でももっとも貧乏な地方さ。つくったものは、半年くらいあるかどうか。あと食べるものないから、働かなければならないけど、働く仕事もあまりないよ。小麦の刈る時と、秋の収穫の時に、土地を多く持ってる農家に、日給で働きに行くの。一年に三ヵ月くらいより、働くことできないよ。働いても、食事代くらいのものさ。1937年、数えで一七歳のとき、ゲリラ戦はじまり、わたしも参加した。その当時の中国では、百姓の金持たち、みんなライフルあるからね。10万人とか20万人に警察ひとりよりいないから、治安の維持できないでしょ。畠いくら持っていれば、ライフルー丁持っている義務あったの。そのライフルぜんぶ出して、カネのある人はカネ出して、人あれば人出して、協力して抗日するのやったの。指導者は遠くから来て、わたしたち組織された。武器あまりないから、わたしたちのような少年、なんにも持ってないさ。腕章だけしか持ってないからね。もう少しよくなれば、手榴弾持っているだけさ。はじめのころ、まだ日本の軍隊いなかったが、そのうちに北京方面からやってきた。わたしたち、あまり戦争の訓練受けてないから、日本兵来たら、山の中に逃げた。こんど、日本兵ビラまいたの。手榴弾とピストルを持っていなければ、許されて自分の家に帰れる、過去は問わないということ、ビラに書いてあるの。わたしなんにも持ってないから、こんど家に戻って、また農業やったの。こんな人、多かったよ。だけど、まだゲリラとつながりあるでしょ。わたし少年だから、目立たないけど、大人では恨みのある人、日本兵に密告されるでしょ。日本兵すぐ来て、調べもしないで首を斬る。多くの人、こうして殺された。二十歳のとき、百姓の仕事やめて、またゲリラに入った。八路軍もかなり組織されていたから、わたしも三ヵ月の訓練受けた。それから選ばれた人、また三ヵ月の訓練受けた。わたし生まれてはじめて、学校に入ったよ。この時はじめて、抗日の思想教えられたね。わたし、物心ついてから、安心して寝たことないよ。


李 
わたしたちの少年時代、いつも何かに襲われてる感じで、ピクピクしていた。


劉 
訓練終わってから、ゲリラになって、日本兵と戦ったさ。1944年の4月のことね。まだ朝の暗いうちに、わたしたち4人、隊長の命令受けて、河北定県の停車場に行ったの。今晩おこなわれることになっている、敵の鉄道破壊に備えて、土地の情勢をさぐりに行ったわけね。鉄道のまわり調べていると、突然、銃声がしたの。わたしたち、すぐに逃げようとしたけど、15、6人が射撃しながら進んできた。わたしたちも応戦したけど、すぐ弾丸なくなって、捕えられたの。この部隊、偽政府(汪精衛政権)の鉄道護路隊の中国人ね。二人の日本兵いて、指導していた。こんど、両手うしろに縛られて、汽車に乗せられた。わたしの着いたの、石門俘虜収容所ね。日本の将校と通訳に訊問されて、何回もピンクやゲンコツ貰ったけど、わたし、訓練受けた組織の一人だから、殺されると思った。訊問終わると、全部着物ぬがされて、裸にされて、テントの中に入れられたの。わたしの入ったテントの中、真っ裸の人、1,000人ぐらいもしゃがんでいるよ。しゃがみつづけていると、足とか腰痛くなるでしょ。少しでも動くと、監視の日本兵走ってきて、梶棒で叩くの。夜になっても、横になることできないの。着物つけてないし、土でしょ。横になりたくともできないさ。夜になると、テントのなか、夜風が吹き抜けるので、寒いの。ひと晩中、ふるえていた。眠ると、このまま死んでしまう気持ね。眼閉じたり、開いたり、眠つたのか、眠らないのか、自分でもわからないね。



 石門収容所の食べ物、どうだったか。


劉 
林さんたちと同じよ。コウリャン飯で、一人に小さな碗で一つ。二口か三口食べると、もうおしまいね。腹なでても、どこにご飯人ったか、ぜんぜんわからない。これが、一日に二回だけでしょ。こんど、水もないの。1,000人もいるテントに、水はひと桶よりこないでしょ。分けることできないくらい、少ないからね。日本戦争に負けるまで、飲み水で苦しんだね。わたしのいたテントの中でも、たくさんの人死んだ。死んだ人たちの顔、いまでもちゃんと思い出せるね。5月に入ってから、わたしたちに着物渡されたの。その着物きる
と、収容所の庭に集められたでしょ。日本人の将校、「こんど、特別な恩典で、お前たちを北京の西苑更生隊に送ることになった。一日も早く、真人間になれ」と叫んでるの。このことの意味、通訳でわかったのだけど、すぐ汽車に乗せられた。この車、荷物とかカマス運搬する有蓋車だから、窓もなければ、坐席もないの。手をうしろに縛られて100人ほど乗ると、貨車の戸閉められて、外からカギかけられるでしょ。李さんの場合と同じね。空気人ってこないでしょ。その貨車に、一昼夜くらい乗ったけど、食べ物も水も、一回も配られないの。

飢えはなんとか我慢できるけど、喉の渇き、とても我慢できないの、水ほしい、水ほしい、と狂い出しそうになった。わたしの乗ってた車で、一人窒息で死んだ。西苑更生隊に着くと、こんどは建物の中に入れられたの。石門収容所みたいにテントでないから、坐ったり、横になることもできたね。


李 
食べる物どうだった……。


劉 
トウモロコシのお粥、一日に二回配られるの。量少ないけど、コウリャンのご飯よりいいよ。ここで嬉しかったこと、水いくらでも飲めたことね。構内に溝あって、山の上から、水どんどん流れてくるの。毎日、その水飲むことできるの。この水のおかげで、どれくらいの入、助かったかわからないね。ここでも、たくさんの人死んだ。日本兵に殴られて死ぬ人もあったし、食べ物少いから、からだ弱いの人、すぐ病気になるの。病気になると、隔離室に送られるの。隔離室に入ったら、もう終わりね。元気になってもどってきた人、わたし見たことない。隔離室に行くと、底が引き出し式になった、大きな棺桶おいてあるの。この棺桶、一度に十数人の屍体入るね。亡くなると、次々にその棺桶に入れて、一杯になると、わたしたちにそれかつがせるの。遠くに運んでいくと、深い穴掘ってあるの。その上に棺桶おいて、引き出しを引くと、屍体が穴の中に落ちるようになっているの。その上に土かぶせて、次に運んだ時に、その上にまた屍体落としてくるわけね。たくさんの人死んで、部屋の中、広い感じになっていくでしょ。すると、また新しい人たち、どっとやってきた。そうだ、西苑にいた時のことで、いまでも忘れることできないのある。ある日、わたしたち昼食していると、広場に集まれと命令きたでしょ。外に出ると、広場の真ん中に国旗立てる旗竿あって、裸にされた一人の中国人、縛られているの。通訳の説明だと、屍体運んで行った途中に逃げて、捕えられたもので、これから処刑するというの。歩兵銃を持った一小隊来ると、銃の先に、銃剣つけていた。こんど、二人の兵隊、隊長の命令で、銃剣つき出して、縛られた人に突撃していったでしょ。からだに二本の銃剣ささった時の叫び声、いまでも聞こえるよ。それ終わると、死んだ人のからだに、二人の兵隊が組になって、次々と突撃していくの。一小隊みんな突き終わると、縛られた人のからだ、めちゃくちゃになっていたさ。殺された人たちのこと思うと、いまでも胸痛いよ。

地獄のような貨物船

李 
北京の収容所に二ヵ月ばかりいて、それから青島の収容所に運ばれた。この間に、多くの人死んだよ。青島に三日ほどいてから、こんど船に乗せられたけど、船に乗る前は、どこに連れていくとも、ぜんぜん知らされなかった。船に乗せられて、どこに連れていかれるのか考えると、覚悟していても、不安で仕方なかったさ。船に乗るのことはじめてだから、不安も大きいわけね。


林 
わたしはね、北京の収容所から汽車に乗せられて青島に着いたけど、収容所には一泊だけで、船に乗せられた。どこに連れていかれるのか、誰も知らないからね。船に乗るとき、日本の兵隊が銃持って、両側についていたさ。逃げられるといけないからね。このとき、一緒に船に乗った人、確か300人と聞いた。


劉 
わたしたち、西苑にいた人には、日本に連れていくと、はっきり言ったよ。七月の中ごろのことね。わたしたちに着物渡して、広場に集めたでしょ。そこで、「君たち、日本に送って土工の仕事させる」と、日本の将校言ったよ。こんど、日本に行くこと選ばれた人たち汽車に乗せられたでしょ。めずらしく客車だったけど、どの出入口にも日本の兵隊ついて、きらきら光る銃剣持っているさ。きらきらの光る銃剣見るたびに、殺された人のこと思い出して、胸が痛いよ。途中、日本兵の油断見て、一人の中国人、窓からとび出して逃げたの。
それ見た日本兵、めちゃくちゃに銃うったけど、命中したかどうか、汽車そのまま走ったからわからない。青島収容所に一泊して、次の日、船に乗せられた。この船、日本に行く船と、わたしわかっていた。                       


李 
わたし知らないから、どこに連れていくのか、ぜんぜんわからないよ。みんなうしろ手になわで縛られて、日本の兵隊、銃剣持って両側に並んでいるあいだ通って、船に乗ったの、七月中旬ごろのことね。船に乗ったら、また汽車の中と同じ状態よ。わたしたち乗った船、石炭運ぶ貨物船でしょ。石炭いっぱい積んでいて、わたしたちその石炭の上に乗せられた。船に乗るとなわとかれたけど、七月ごろの黄海のなか、もう真夏でしょ。石炭のつまった船倉に入れられて、しかも頭の上に、厚い鉄の蓋してあるから、暑いったらないよ。まる
でセイロの中みたいに暑い。


林 
石炭の上に坐ると、鉄の蓋までのあいだ、いくらもないね。背の高い人、頭つくくらいの高さよ。それに、陸が見える間は、逃げられるといけないから、鉄の蓋しまったままでしょ。甲板の上にも出さないの。それでもね、水入れてよこすとき、ちょっと蓋あけた時に、船倉からとびだして、海にとびこんだ人あったけど、助かったかどうかね。陸から、だいぶ離れた様子だったからね。


李 
船の中、水ないでよ。食糧も、わたしたち食べるもの、ぜんぜんないでしょ。持ってきたトウモロコシの粉あっても、船倉の中、水も火もないから、マントウつくることできないの。結局、わずかに配られる水と、粉をまぜて固め、ボロボロのマントウみたいなものつくって、一つ一つ配給した。生のマントウ、少しずつちぎって食べたけど、これ食べると、いっそう水飲みたくなるの。喉から胸にかけて、渇きで、火ついたみたいに痛むの。


林 
水一日、たった一回より配給ないでしょ。その水でマントウつくるから、一人にひと口かふた口より渡らない状態よ。        


李 
日本の船員きて、船のなか、水たくさんないから、みんな我慢して、少しずつ飲んでくれと言われた。だけど、船倉のなか、セイロの中に入ってるみたいに暑いでしょ。我慢のできない人、大勢いて泣いとるよ。泣いてもしようがないけど、苦しければ泣くね。泣いても声だけで、涙でてこないよ。あのとき、船の中に一週間ばかりいたけど、死ぬような毎日ね。


劉 
港から船でた二日目の晩に、鉄の蓋あけてくれて、甲板に出ることできた時あったの。港から遠くなって、逃げることできないと考えたわけね。海にとび込んでも、死ぬだけのこと、誰の目にもはっきりしているからね。そのとき、誰か小さいバケツ見つけて、みんなのズボンのひもはずしてつなぎ、長くして海の水汲んだね。みんなでその水飲んだけど、黄海の水、にがくて、辛くて飲めないの。口に入れて、ちょっと飲んだけど、みんな吐いたよ。それでも、水ほしい人、うんと飲んだけど、その人たち、後でもっと苦しんだよ。口の中や喉かきむしって、苦しがったね。

李 
わたしたちの乗った船、沖縄にひと晩とまったね。船のどこか壊れたの、修理する音したけど、アメリカの飛行機の空襲あって、船停泊しても、わたしたちのこと、甲板に出さないの。日本軍、勝っていることばかり聞いてたから、アメリカの飛行機の空襲見て、わたしたちびっくりしたね。


林 
確か、琉球にも、ひと晩ぐらい停泊したね。アメリカの飛行機きて、船進めることできないわけね。五日目から、船の中の水なくなったといって、水ぜんぜんくれないさ。石炭むれて、船倉の中の空気、まるでストーブの中に顔入れてるみたいに苦しいさ。船の中の生活、収容所の生活より、もっともっと苦しい。からだ弱ってるの人多いから、船に酔う人多いでしょ。便所あっても、行くことできないから、石炭の上にやるでしょ。その匂いもひどいよ。

劉 
船の中での生活、ほんとに苦しかったね。食べる物いっぱいあっても、船倉の中で、船酔いひどいから、食べたかどうかわからないね。


李 
わたしたちの乗った船、だいたい一週間で、目本の下関に着いたね。船降りるとき、ちゃんと歩けるの人、そんなにいないよ。食べるもの少ないし、水ぜんぜんないでしょ。それに、最後の二目くらい、歩くこともできないから、足立たないの。船降りると、整列して点呼やったけど、300人乗ってきたのが、297人になっていたよ。一人はトラックで青島の収容所から、船に運ばれる間に逃げて、射たれて死んだでしょ。一人は海にとび込んだし、一人は病気で死んだね。病死した人、そのまま海に投げられて、終わりになったさ。


林 
点呼終わると、日本軍の命令で、ボロボロの服着てるの、ぜんぶぬいで棄てたさ。それから風呂に入って、全身消毒された。いい服配給になって、それ着た。わたしたち下関に着いた晩、ここに泊まったけど、ご飯も水もぜんぜんこないの。


李 
日本は魚の国でしょ。日本に着くと、うんと魚食べられると思ってたけど、水も渡してくれないよ。次の日ね、おにぎり二つくれたの。何日も食べてないから、みんなそのおにぎり、呑みこんでしまった人多いよ。下関から花岡まで、四日間も汽車に乗っていたけど、この間にもらったの、駅の弁当一つだけね。木の弁当箱まで、バリバリ食べたいような気持ね。あのときの297人の人たち、五十歳以上の人たち20人くらい、一六歳より少ない少年が6入ぐらいでしよ。あとの人はみんな、二十代から三十代の青壮年たちでしよ。いちばん腹の減る年ごろに、四日の間に駅の弁当一つで、水もなんにもないから、おなかすいて気違いのようになるの。あたりまえのことね。


林 
わたしたち乗せられた汽車、有蓋車でしょ。その貨車の中に押し込められカギかけられるから、中に空気入ってこないの。中国で乗った時の汽車と同
じね。みんな壁の板張りの、板と板の隙間に口や鼻つけて、空気吸ったよ。でも、汽車とまると、空気人ってこないでしょ。その時は汽車の中、もう地獄のような暑さね。とまった汽車、出発するとき、みんな隙の方に倒れてしまうの。立っていること、ぜんぜんできないくらい、みんな弱っているわけね。


劉 
汽車走ったり、とまったりするけど、わたしたちのこと、貨車の外に出さないでしょ。大便、小便、みんな貨車の中ね。夏の暑い時でしょ。空気あまりないから、その匂いだけでも、からだ弱るね。


李 
花岡に着いたの、汽車に乗って、四日目の昼のことね。貨車のドアあけられても、立って線路に降りることのできる人、何人もいないよ。みんな貨車から線路にころがり落ちたさ。わたしね、貨車から落ちた時に腰打って、息止まったような気持して、しばらく立てなかったさ。するとね、日本の憲兵来て、木刀で突くの。やっと立っても、ふらふらして歩くことできないの。


林 
花岡に着いた日、はっきり覚えてないけど、確か八月八日のことね。わたしたち花岡に着くまで、汽車の中で二人死んだから、花岡に来たの295人ね。よく途中で死なないで、花岡まで来ることできたと、いまでも不思議に思うね。


苛酷な労働の中で(中山寮の中国人)

 中国で捕えられてのちの苦しい収容所生活のあと、貨車、貨物船、貨車と乗り継いでの強制連行の旅が、それこそ死の旅そのものであったことは、前章の三人の話から十分に知ることができる。太平洋戦争も末期に入って、海上や国内の交通は安全を保てなくなってきており、食糧不足もかなり深刻になってきていた。それにしても、真夏に、立っていることもできないほど多くの中国人を貨車の中に押し込めたまま、不足している食べ物はともかくとして、ふんだんにある空気や水さえ十分にあたえようとしなかった。貨物船で下関に着いてから花岡鉱山に到着する四日の間に、中国人たちが口にすることができた食べ物は、駅弁一つにすぎなかった。しかも、食べ物もあたえないでカツカツにやせ細った中国人を花岡鉱山に連行して、水路変更工事という大規模な土木工事をやらせようというのだから、たいへんなことであった1944年8月8日に花岡鉱山に連行されてきた第一次の295人の中国人たちは、鉱山の近くにある姥沢につくられた寮に収容された。その寮は鉱山町から三キロほど離れており、かなり急な勾配の山道を登らなければならなかった。寮の名は中山寮といったが、中山寮の建っている場所からは、民家が一軒も見えなかったし、鉱山町からも中山寮は見えなかった。日本人の目から中国人を隔離すると同時に、中国人からも日本人を隔離していた。

 中山寮は三棟の建物から成り立っていた。寮の中は汽車のように真ん中が通路で、両側が板を敷いた座席と寝床の兼用で、上下の二段となっていた。板間の上に坐ると、背の高い人は頭がつかえるほど低かった。中央に石油ランプが一つ下がって、ほの白い光で殺風景な部屋を照らしていた。もう一棟の片側には、食堂、炊事場、事務所、補導員の宿直室、倉庫などが並んでいた。

 二棟の大きな建物から少し離れたところに、重病人を収容する部屋のほかに、遺骨安置室と看護人のいる看護棟が建っていた。この看護棟の近くに死体焼き場があったが、後になってたくさんの人が死ぬようになると、死体を焼く木や、遺骨を入れる木箱の支度ができなくなったので、穴を掘って埋めるようになった。そのため、中山寮の近くにある山の中腹は、人を埋めた穴が並んで鉢巻き状となり、それが鉱山町からもはっきりと見えた。のちにこの山は、地元の人たちから鉢巻き山とよばれるようになり、恐怖の目で見られるようになった。

花岡鉱山に連行された中国人たちの一日は、ようやく朝が明けたばかりの山間で鳴り響く軍用ラッパの音ではじまった。ラッパの音で目が覚めると、板の間に坐った。着たきりなので着替える必要はないし、布団は一枚も配られなかったので、たたむ仕事もなかった。顔を洗う手拭も歯ブラシもないので、坐ったまま大きなあくびを二、三回やり、上げた手をおろした拍子に目を何度かこすり、それから顔を二、三回なでると、朝の準備は終わった。

 ようやく朝の陽がさしてきたころ、食事が配られた。朝食は昨晩の食事と同じに、味もあまりついてない煮たフキ1本と、饅頭が一つだけであった。みんなは呑み込むようにして食べた。

 食事が終わると、中山寮の前に整列した。伊勢寮長代理や現場の補導員たちも集まり、東京の宮城に向って遥拝した。それが終わると、伊勢寮長代理の訓話がはじまった。

「みんなはじめて花岡に来だのだから、特別待遇として最初の一週間だけ休憩をあたえるが、その後は本格的な作業に入ってもらう。だが、この一週間も遊んでいるのはもったいないから、寮の整理をする以外の人は、山を開墾して畑をつくることにする。この仕事も大東亜建設に尽す義務のひとつだから、なまけたりしないで精いっぱいに働け……」

 訓話は通訳から伝えられた。その後で、全員の編成がおこなわれた。全員を1大隊とし、その下に中隊を置き、中隊の下に小隊を置いた。小隊の中では、10人の班編成をした。最初は三中隊、9小隊に分けられたが、1945年に入って第二次と第三次とが連行されてきてからは、4中隊、12小隊に分けられた。最初の編成を図で示すと、下図のようになる。

 大隊長には耿諄がなったほか、副隊長には羅世英、書記には劉玉卿、軍需長には任鳳岐、看護長には劉玉林が任命された。また、中隊長には李克金、張金亭、王成林が任命されたし、小隊にもそれぞれ小隊長が置かれた。林樹森と劉智渠は看護班に所属していたし、李振平は第二小隊長であった。

 また、鹿島組花岡出張所と、中山寮とに勤務して、直接に中国人たちを扱った日本人は、次の人たちであった。(なお、年齢は全部が1944年8月現在である)


鹿島組花岡出張所

所長は河野正敏(40)で、中山寮長も兼ねていたが、中山寮に出向くことはあまりなく、出張所にいることが多かった。河野の下に労務課長の柴田三郎(45)、労務係の高久兼松、佐藤勇蔵、配給係の塚田亀夫などのほかに、女子事務員も合めて約20人前後の人たちが勤務していた。


中山寮
 もと裁判所の書記であった寮長代理の伊勢知得(40)の下に、庶務が2人、補導員が8人、医務担当が1人いた。しかし、医務担当の高橋豊吉は医師の資格もない元衛生兵で、一日に看護棟に一回顔を出すだけで、あとは中山寮の中にいたが、病人に手をかけることはほとんどなかった。また、鉱山病院の大内正医師は、死亡書を言いなりに書くだけで、病人の治療にあたることはあまりなかったという。

 しかも、伊勢と庶務の越後谷義勇、補導員の石川忠助をのぞいた7人は、全員が兵隊経験を持っていた。それも、7人のうちの6人が中国大陸帰りの傷痍軍人であり、中国人に対してもっとも狂暴にふるまったのは、この人たちだったのである。中国の戦場で中国人たちを虫ケラ同様に扱った軍隊生活を、花岡で中国人連行者の上に再現させたのだった。中国帰りの6人は、片言にしても中国語のわかる人たちであった。その6人とは、小畑惣之介(32)、福田金五郎(35)、古谷四郎(25)、長崎辰蔵(30)、猪股清(30)、檜森昌治(35)であった。また、補導員の一人である清水正夫(25)は中国混血で、中国語が非常に上手だった。

この清水もまた、思いっきりに狂暴の牙をふるって、多くの人たちを死に追いやり、中国人からもっとも憎しみの目を向けられた一人であった。三人の会話の中にも出てくるが、軍需長になった任鳳岐はその地位を利用し、それでなくとも少ない食糧の中から、その量をごまかして中国人に食べさせずに、家に帰る補導員に渡したり、自分で売って遊廓に行くなどの行為で憎しみを買い、蜂起の時にはいちばん先に殺された。この二人の例でもわかるように、血のつながる同胞たちを自分の手で痛めつけ、苦しませたということは、今日的問題としても十分に考えたい事実である。

 それに、兵役経験のない越後谷義勇(19)と石川忠助(40)の二人は、あまり中国人をかばいすぎるとして、同僚たちから快く思われていなかった。この二人は、しばしば中国人を助けたり、こっそりとかくれて食べ物などをあたえていた。そのため、蜂起は二人が宿直でない晩を選んで実行されたことでもわかるように、中国人たちから信頼されていた。中国人にたいして狂暴を振わなかったのが、兵役経験のない二人であったことも、さきにあげた事実と同様に、考えたい問題である。

 このほかに、大館警察署長の三浦太一郎、その下にいた特高警察の後藤健三などが、中国人たちを監視するために、毎日のように中山寮や作業現場に来ていた。また、華北労工協会から通訳として派遣されてきていた于傑臣と、同じく華北労工協会から来て本部にいた木村初一などがいた。

こうした状況の中で、第一次連行者の295人は重労働についたのである。特別待遇の一週間がすぎると、本格的な重労働に入った。早朝から数キロも離れた現場に行くと、花岡川の流れを変更する工事に取りかかった。しかし、土木機械は一つもなく、なわで編んだモッコと、スコップやツルハシだけという人の力だけをあてに、岩石の多い平地に幅二丈に深さ三丈の川を掘るのだから、現場で働く中国人にとっては、重労働の連続そのものであった。

 しかも、毎日の食べ物といえば、一回に小さな饅頭一つと、フキかゴボウの煮たのが一本というように、極端に貧しかった。また、衣服も不十分そのもので、雪が降りはじめても、着ているのはシャツ1枚だけであった。また、板間のベッドにはゴザさえも敷いておらず、雪が降りだしてから毛布が一枚だけ配られるという状態だった。

 また、鹿島組補導員たちの残虐な数々の行為は、多くの中国人たちを死に追いやったり、一生不治の怪我をさせたりした。食べ物が悪くてからだが弱っているために、掘った川底から土や石を運び上げることができないといっては梶棒で殴られ、腹が減るので裏山で草を取って食べているのが見つかると、死のリンチを受けるという状態だった。ほとんど毎日のように仲間たちが殴る蹴るの暴行を受けて殺されたり、栄養失調と重労働のために、20歳代の若者たちが次々と看護棟に送り込まれていった。看護棟には医者がくることはなかった  し、薬もひとかけらもあたえられなかったので、林さんの記憶によると、看護棟に入った人で再び丈夫になったのは一人だけで、あとの人たちは死んでいったという。

 1944年夏から1945年の夏にかけてというように、日本の戦局がますます悪化してきた状況下での出来事であり、「戦時中だから仕方なかったのだ」と、中国人たちにたいする行為を弁護する人が、現在でもかなりいる。だが、三回にわたって鹿島組花岡出張所で連行してきた986人のうち、死亡者は418入と多いのにくらべて、同じ場所の同和鉱業花岡鉱業所に連行されてきた298人のうち、死亡者は11人だったことをあわせて考えると、いかに鹿島組の場合がひどかったかがわかる。


食糧を奪う補導員

 敗戦後に民間団体の手で作成された『現地調査報告書』には、次のような話が収録されている。中国人が連行されてきたころに、花岡の役場に勤めていた人は、「すべてのことが軍の秘密だといって役場には知らされず、食糧の配給のことも、県から直接にやられていた。何人きたのか、どうして死んだのか、なんで死んだのかも役所ではわからなかった。食糧はピンハネされていたようで、真っ黒い蕗二本、皮をむかないものと、まん頭一ツわたされていたのを見ました。汪精衛の方からよこされて、鉱山に直接に使われていた人達は、同じ配給であったそうだが、わり合いしっかりしていたから、鹿島組は本当にひどいことをしたものだ」と語っている。

 この話でもわかるように、鹿島組に連行されてきた中国人が、とくに苛酷な扱いを受けたのであった。それは、毎日の重労働と同じように、中国人たちがもっとも苦しめられた食べ物の場合もそうであった。それでなくとも少なく配給される食糧の中から、鹿島組の幹部や中山寮の補導員たちが、自家用として運んでいったり、あるいは大量に売り払って飲み食いのカネにされていたのである。食べ物が少ないために多くの中国人たちが栄養失調となりそれが原因で病気になったり、あるいはからだが弱って仕事ができないといっては、補導員
に殴り殺されていったのである。

 補導員たちの多くは、大館市から中山寮にかよっていたが、戦時中に大館市大町に住んでいた嶋田展代さん(故嶋田普作代議士の長女)は、その当時の記憶を次のように語っている。

 「わたしたちのいた大町の管原さん宅の奥のいちばんいい部屋に、花岡鉱山の鹿島組出張所長をしていた河野正敏さん一家が借りられていました。そこには、立派な防空壕(わたしたちも何度か入りました)があり、それは母から聞いた話によると、朝鮮人(当時は中国人とは言わなかった)がつくったものだそうです。わたしたちはいつも食糧難でしたが、奥の河野さん宅には、見たこともない角砂糖があったり、うどん粉があったり、美しい奥様がいつもきれいにしていらしたのが、まるで別世界のように、わたしには見えました」

 『現地調査報告書』の中でも、蜂起した時に殺された補導員の近所に住んでいる人の話として、「彼らの家では、いつも食糧が豊富であった。われわれのところはますますひどい状況になっていくのに、彼らの食生活はますます豊かになった。彼らが中国人の食べ物をピンハネしているのだと噂されていた。中国人に殺されたと聞いて、近所では、当然だと話しあった」と記録されているのをみても、食糧が補導員の手で勝手に持ち出されており、しかもその量は、近所の噂になるほど多かったのである。

 食べ物だけではなく、毎日の労働についても同じであった。中国人たちがあまりにも少ない食べ物の増加や、労働条件の改善などを要求するたびに、鹿島組ではその報復として、翌日から建設週間というのを計画し、さらに厳しい労働を押しつけてくることがしばしばだった。建設週間に入ると、補導員の指定した普段よりも多い一日の仕事量を達成しない組は、暗くなっても帰寮したり、食事をとったり、休んだりすることが許されず、真夜中までも働かされた。

 目撃者の一人は、「食べものがひどい上に労働の過重は、とても朝鮮人の比ではなかったのです。夏の日の長いころですが、日もすっかり暮れてうすぐらくなってから、ふっと泣き声が耳につく。出てみるとあの人たちです。水路工事に使う長い杉の立木を、二人で、さきっぽとさきっぽをかついでいる。二人とも顔は見えないが、足など火箸みたいにやせている。腹はすいている。木は重い。二人はちょうど四つ五つの子供が泣くように悲しくて泣く時のように、暗がりに木の重みでふらつきながら、こう、声をひいて泣いているのです。すると横についている監督が、これみろとばかりに棍棒でなぐる」と言っている。
(松田解子「花岡鉱山をたずねて」−『新しい世界』より 


 少ない食べ物と、長時間にわたる厳しい労働の中で、多くの人たちが怪我をしたり、あるいは病気になったりして看護棟入りをしたり、仕事ができないといっては、補導員に殴る蹴るの扱いを受けて死んでいった。ある時、看護棟入りをする人や、死亡者が続出することが鹿島組本社の注意をひき、一人の医師が鉱山病院から中山寮に派遣されたことがあった。しかし、この医師は病気の治療にきたのではなく、本当の病気なのか、それとも仮病を使っているのかを検査に来たのだった。答える声にちょっとでも力があったり、歩いたりすることのできる人はみんな仮病と診断され、看護棟から中山寮に移されて補導員に梶棒をくわされてから、強制的に現場へ追い出されていった。

 やがて、花岡鉱山にも冬が訪れ、みぞれの降る季節となり、地面は凍りつくようになった。しかし、秋田の冬がはじめての中国人には、夏シャツの上に一組の作業衣が支給されただけで、目撃者のある坑夫は、「冬でも丸はだかに近いぼろシャツ一枚に、背中に雪よけの菰、足にはぼろわらを巻いて、凍った水に脛から股までひたして働かされていた」と『現地調査報告書』の中で語っている。しかも、寮で寝る時に着る一枚の毛布が渡されたのも、雪が降り出してからのことであり、それまでは板の上に着たきりの姿で横になっていたというから、正気の沙汰ではなかった。厳しい冬が終わりをつげるころになると、約八ヵ月前に295人が花岡鉱山に来たのにその三分の一にあたる90人ほどの人たちが死んでいたほか、再起不能の病人や怪我人が40人近くでていた。働く人が減っていくにつれて、仕事は生き残った人たちの上に重くのしかかるようになった。だが、死んでいく人はますます多くなり、工事を順調にすすめていくことができなくなってきた鹿島組では、再び中国人たちを連行してくる計画をたてた。そして1945年5月に587人、同じく6月4日に98人の中国人たちを、新しく花岡鉱山に連行してきたのだった。


 新しく中国人たちがやってくると、鹿島組の補導員たちはその見せしめとして、何人かの中国人を多くの人たちの面前で殺害していった。しかも、食べ物はいっそう悪くなってきたほか、秋田県労働課の指示によって、これまでよりも朝晩二時間の作業時間の延長を中心とした工事突貫期間が実施された。こうした残虐な仕打ちの中で、多くの中国人たちは、「生きているよりは、死んだ方が楽だ」と考えるようになった。


毎日の死体焼き

 林 
花岡鉱山についた晩、会食するのこと言っていた。なに出るか楽しみにしてたら、夜遅くなってから出たの、イワシー匹と饅頭一つね。寮の中に、わたしたちのご飯つくる人いないでしょ。わたしたちの中から料理つくれる人選んでつくったから、遅くなったの。饅頭ね、うどん粉少しより入ってないの。あとはリンゴのカスとか、ドングリの粉でしょ。あとは知らない草みたいなもの、いっぱい入っている。ふわふわしないから、ぜんぜん饅頭の味しないの。だけど、おなか空いてるから、イワシと饅頭、すぐになくなったさ。イワシの頭も骨も、みんな食べた。大きい骨も、残さないね。


 李 
配給のうどん粉、もともと少ないのに、寮長や補導員たち、その粉家に持っていったり、売って、夜、外へ飲みに歩くか、遊びに行くかするでしょ。もともと少ないもの、こうして取るから、もっと少なくなるわけね。足りない分は、山のドングリの粉とか、リンゴのカスとか、干した草などまぜて、饅頭つくるの。その饅頭も、小さいったらないの。わたしたち、重労働者でしょ。一人で一回に、10個以上も食べられる大きさよ。それがたった一個でしょ。しかも、おなかの空いてる時でも、うどん粉の少ない饅頭固くて、ノドを落ちていかないの。そのままの状態で食べた人もいたけど、わたしはその饅頭ほぐして、おかゆ作るの。昼は現場に出るからそんなことできないが、朝と晩はいつもおかゆにして食べた。おかゆにすると、ノド落ちてゆくね。


 劉 
まったくあの饅頭、人間の食べるものでないの。腹の中に入ったら、30分もすると、下痢になってしまうの。下痢はじまると、足とか手とか腫れてくるさ。その腫れたところ指で押すと、ぽこんとひっこむの。中国でつかまえられた時から、食べものこの状態でしょ。からだ弱ってくるのも、当然のことね。


 李 
花岡に着いた次の日に、班編成やったさ。このこと、鹿島組からの命令ね。耿諄大隊長は、船に乗ったとき、もう決まっていたさ。この人、国民党軍の上尉で、性格弱いところあったけど、なかなかできる人ね。その下に、中隊を全部で四つ作って、中隊長置いたの。

 中隊の下に小隊つくって、それから10人の班にしたの。1中隊の中に3小隊つくったから、全部で12小隊あって、その上に小隊長いるの。1つの班には、班長いるの。このほかに、書記、軍需長、看護長がいて、看護長の下に看護班あって、三人の人いたの。これ、だいたいの班編成ね。わたしは前にも言ったけれど、第一中隊の第二小隊やったの。班編成終わると、鹿島組の人や補導員たち、これからの生活とか仕事のこと、隊長や中隊長とか小隊長を集めて教えたね。わたしたちや小隊長、そのこと班の人たちに伝えるわけね。


 劉 
わたしと林さん、看護班にいたでしょ。花岡に着いて三日間、寮の中やまわり整理したね。寮の前に井戸掘ったり、便所つくるの仕事もした。ほかの人たち、畑つくるの仕事した。こんど、川を掘る仕事に出ると、病人とか怪我人が出てきたね。


 林 
看護班の仕事、病人のひと看護することより、死んだ人を焼くの仕事多かった。人死ぬと、寮のうしろにある山に運んでいくの。それから木集めて焼いて、最初は骨をカメに入れたけど、こんど、だんだん多く死ぬのでカメなくなり、木の箱つくって入れたさ。わたしたちのいる看護班の小屋、寮と少し離れたところにあったでしょ。わたしたちのいる部屋と、働けない重病人のいる部屋があって、その奥に、遺骨の箱置いた安置室あったの。わたし中国で、医者のような仕事したでしょ。それで看護班に入ったけど、薬一つもないし、包帯もないよ。重病の人あっても、怪我した人あっても、水でひやしてやるか、背中とか腹さすってやるだけね。結局、病気になると死ぬだけね。大きな怪我した人も同じさ。高橋という、元衛生兵の医務担当の人いたけど、この人、わたしより病気のこと知らないから、なんにもやらないの。一日に一回だけ、看護室に、「どうした」と、顔を出すだけね。鉱山病院にも、大内正という医者いて、わたしたち中国人のことみることになってたけど、看護室に来て治療に当たったの、一回もないでしょ。死んだ人あると、死亡届を書きにくるだけね。その時も、事務所に来て、補導員から聞いたまま書くだけさ。わたしたちにも聞かない。自分で死体みて、手をふれて調べたこと、一回もないの。一日に何人も死ぬ日つづくと、病院で聞き。ながら、死亡届書いたこともあったさ。病気になる人多いのに、医者もこうでしょ。わたしのほかは、誰も病気のこと知らない。わたし、病気の原因わかっても、薬ないからなんにもしてやれない。死ぬのを待っているだけね。


李 
病気といっても、ほんとの病気の人、少ないよ。食べ物悪いし、少しだけでしょ。普通の日でも、朝6時から晩の6時まで、土方の仕事するでしよ。からだやせてふらふらして、どの人もちょっと強い風吹くと、倒れてしまうよ。足の太さも、腕より細いからね。みんな、栄養失調と寒さからきてる病気ね。だから、倒れて重病室に運ばれると、みんな確実に死ぬわけね。死ぬの日、遅いか、早いだけのことね。重病室に入って、生きのびた人、一人だけね。


 林 
わたしたち中山寮に入った最初のとき、死ぬ人あまりいなかったが、日がたっていくと、死ぬ人多くなってきた。だんだんと、からだ弱まってきたからね。はじめての時は、何日かおきに一人か二人死んでいたが、冬に入ると、一日に二人も三人も死ぬ日あるよ。病気になる人も、だんだんと多くなってくるさ。結局、倒れたらダメよ。これ、李さんの言うとおりね。わたし看護班にいたから、中国人のからだのこと、よくわかるの。少しカゼひいて、現場に出られない状態になって、看護棟に運ばれてくるでしょ。それから三日か四日、長くとも一週間寝ていると、もう終わりさ。ぜったいに死ぬよ。病気になって、仕事に出ないと、それでなくとも量の少ない饅頭の大きさ、また小さくなるの。いくらも食べることできないから、からだもっと弱って、病気に勝てないわけね。


 劉 
それでも夏の間、わたしたち山に登って、よく草食べたさ。昼の休み、いくらかあるでしょ。補導員たちに見つからないように、いろいろな草食べたさ。これで、わたしたちだいぶ助かったね。こんど、雪が降ると、この草食べることできないわけね。雪食べても、腹いっぱいにならないからね。


 李 
食べものこんなに悪くて少ないうえに、中山寮の設備も、ぜんぜんダメだからね。わたしたち花岡鉱山に来たの、8月の半ばのことでしょ。昼は暑いけど、夜はもう寒いからね。わたしたち、日本の気候に馴れてないから、とくに寒いの。寝るところ、上下二段のベッドで、板は敷いとるけど、蒲団も毛布も、一枚もないの。着替えるものも持ってないから、そのままごろっと横になるだけね。腕枕にして寝たの。疲れてるから眠るけど、夜中に寒さに気がついて、何度も何度も目が覚めるの。だから、夜も十分に眠れないからいからだもっと疲れるわけね。


 林 
せめて、アンペラぐらい敷いとるといいけど、それもないからね。中山寮のあるところ、かなり高い山の中腹でしょ。夜になると、冷たい風吹きおろしてくるから、寒いの。羽目板の隙間から、その寒い風入ってくると、からだカタカタふるえてくるの。足縮めて、丸くなって寝ても、寒くて死にそうな思いね。


 劉 
中山寮の中に、風呂もないでしょ。からだ、垢だらけでしょ。カミソリもないから、頭の髪やひげ、のび放題さ。一枚きりの衣服、ぼろぼろでしょ。わたしたちの姿、地獄で難行苦行している亡霊みたいさ。


難儀な川掘り作業

 李 
仕事もきついからね。花岡に来て三日間は、寮の中の片づけや、寮のまわりの整理したでしょ。それから四日間は、特別待遇ということで、土方の仕事に出ないで、山を開墾して、畑づくりの仕事したの。この期間終わると、川を掘る仕事に出ることになったでしょ。朝は五時になると、軍用ラッパ鳴って、起こされるでしょ。寒いし、おなかすいとるから、その前に目覚ましていること多いね。顔洗う水もないし、手拭もないから、朝の仕度は、便所に行くだけさ。朝のご飯は、饅頭一つに、皮のついたままのフキ煮たの一本か、細いゴボ
ウの煮たの一本か出て、もう終わりでしょ。わたしはおかゆに煮て食べたから、時間少しかかったけど、腹いっぱいにならないから、あとは水飲むだけね。その水も、あんまり多く飲んでいるの補導員に見つかると、すぐ棍棒とんでくるから、水もあまり飲めないよ。


 林 
労働するの時間、朝の6時からはじまるでしょ。中山寮から川掘る現場まで、かなり遠いね。わたしたちの看護班も、はじめは病人いないから、土方の仕事に歩いたよ。誰か死ぬ人あると、中山寮に運んできて、焼いたけどね。


 李 
遠いさ。あれ、四キロはあるよ。それに、山の坂道が半分以上あるからね。朝くだっていく時はいいけど、晩に帰る時はたいへんさ。途中で息切れて、何度も休むね。休むの見つかると、補導員の梶棒とんでくるから、息切れそうになっても、なかなか休めないの。仕事は、平たい地面のところ深く掘って、水流してくる川つくることでしょ。仕事のやり方、補導員が大隊長に話して、大隊長から中隊長、それからわたしたち小隊長、それから班長に伝わっていくの。仕事の終わる時間、だいたい午後の6時となってるけど、6時に帰れる人、
何人もいないさ。ひとりが一日働く分として、川を掘る面積、1uずつ割り当てられるの。6時までにその分の仕事終わった人は帰れるけど、その分終わらなかったら、暗くなっても帰れないさ。晩の8時ころまで働く人もいたさ。


 劉 
仕事のできない人、わたしたちの寝るころ、中山寮に帰ってくる人もいた。ふらふらして、寮の中も歩けない状態ね。指でポンと押すと、倒れてしまいそうな歩き方ね。その人、次の朝、また6時に仕事に行くでしょ。何日もしないうちに、看護に運ばれてきて、死んでしまうわけね。ひとり一日に1uの面積掘るの仕事、あまりひどいよ。


 林 
現場で働く人、何班にも分けられたでしょ。一班は10人だから、10u割り当てられるわけね。平たい地面のところ、川に掘るわけだから、石が多いでしょ。その掘った石、川の上に運び上げないといけないけど、力ないから、上に運び上げるの仕事、たいへんさ。何十キロもある大きな石、三人か四人かかっても、上にあげることできないの。途中まで上げて、力なくなって、また川に掘った底に落としてしまうこともあるの。そのこと、補導員に見つかるでしょ。牛の皮の干したムチや、棍棒でもって、上に運べない人たちのこと叩く
の。倒れるとカネのついた軍靴で、倒れてる人のからだ、どんどん踏んで叱るの。こうして殺された人、かなり多いさ。


 李 
もっとひどいのことね、晩の8時か9時までかかっても、10uの割り当てられた分、掘れない班もあるでしょ。遅くなって、坂道ふらふらに登って、中出寮に帰ってきても、こんど夜のご飯減らされるの。その時によって、三分の一に減らされるか、半分に減るかするから、からだぜんぜんダメになるね。働きながら倒れる人、多くなってきたの。倒れて重病室に運ばれると、もう終わりさ。あの時の状態、どの人もガラガラにやせて、歩いてもふらふらだから、大きな石運べないの、当然のことよ。


 林 
わたしね、誰とだったか二人で、遠い山から、長い杉の木かつがされたことあったの。生木の長い木だから、重いでしょ。川掘っているところまで来ないうちに、暗くなってしまったの。足ふらふらして、おなかすいて目まいするでしょ。わたしの相棒倒れたの。すると補導員来て、梶棒で叩くでしょ。泣きながら立ち上かって、また二人でよろよろ運ぶの。夜の8時、現場に着くと、二人ともあと動けないの。補導員の清水が、早く寮に帰れと、また梶棒ふるってくるさ。このとき、もう死んでもいいと思った。わたしの相棒、そのとき清水に腕折られて、一生かたわになったよ。


 李 
補導員のろくでなしは、一つの中隊に二人か三人、一つの小隊長に一人はついているからね。わたしたちを殺すために、補導員がいるようなものさ。


 劉 
わたしたちのからだ、やせ細って、歩くのもふらふらの状態でしょ。ところが補導員、なにを食べてるか知らないが、みんな元気でしょ。その元気な人たち、わたしたちのことカー杯に叩くのだから、たまったものでないよ。補導員たちのからだ、肥ってくるほど、わたしたち死に近づいていくような状態だったさ。


 林 
わたしたち、日本人のことばよくわからないね。補導員に「オーイツ」と呼ばれると、もう叩かれるか、踏みつけられるかでしょ。この叫ぶの聞くと、もうからだ固くなったさ。いまでも補導員たちの叫ぶの声、よくわかるね。


 李 
補導員たち、中国のことばわかるの人多いね。ほとんどの人たち、わたしたちの言うのわかるの。だからわたしたち、あまり文句や悪口、言ったりできないの。そのこと聞こえると、また棍棒とんでくるからね。花岡鉱山の普通の人たちも、補導員と同じ態度の人ほとんどね。わたしたち、寮から現場に行く途中に、鉱山社宅とか、家のそば通って行くでしょ。わたしたちのこと見ると、大きな声出して笑うし、子どもたちは、わたしたちのこと見ると石投げてよこした。助けてくれた人、少しはあったかもわからないが、わたしには一度もなかったね。わたしたち髪ぼうぼうに伸びて、ひょろひょろにやせて、目ぎょろぎょろして、風呂に入ったのこと一度もないから、からだの匂いするからね。きたないお化けか思って近づかないの、あたりまえのことね。


 林 
わたしも民間の人に助けられたこと、一度もないさ。わたしたちと道路で会うと、道路わきまで逃げて、黙って見ていたさ。わたし、いまでも思い出すこと、一つあるの。わたしたち、道路に何か食べられるもの落ちていると、なんでも拾って食べたでしょ。そのこと、補導員見つけると、「こら、犬ども」と叫んで、叩くでしよ。腹減ってるから、食べられそうなものあると、なんでも拾って食べたい気持ね。そのこと毎日見ている人、道路のそばに住んでいる女の人ね。わたしたち通ると、腐ったような食べ物、わざと道路に投げてよこすの。わたしたち、それほしいけど、補導員そのこと見てるから、手出せないでしょ。ひとりの入、我慢できなくて、それ拾って口に入れたら、補導員走ってきて、梶棒で何度も頭とか顔叩いたの。その人、片方の耳から血出して倒れたけど、その入、それから片方の耳聞こえなくなったの。ひどいことする女の人いるね。わたしその時のこと思うと、いまでもその女の人の顔わかるよ。憎いよ。草食べて飢えしのぐ。

 李 
花岡にいた時のわたしたちは、日曜も祭日も、ぜんぜんなかったさ。休んだ日、1944年の大晦日に半日と、1945年の元旦の一日だけね。あとの日、どんなに天気の悪い日でも、仕事に出た。しかも、食べ物悪いうえに、少ないでしょ。どの人も、骨と皮ばかりにやせて、生きた顔してる人、ひとりもいないよ。


 林 
わたしたちほとんどの人、農家の生まれで、小さい時から労働してきたから、働くのこと、なんともないよ。働くのこと、好きな人多いよ。だけど、花岡では、食べる物少しよりくれないで、無理に労働させるでしょ。からだ弱って、歩く力のない人、石運ぶ力のない人あると、棍棒で殴ったり、小突いたりするわけでしょ。これではどうにもならないよ。働くこと好きな人でも、働くことできないよ。


 劉 
中国にいた時も、わたしたち、そんなにいい生活してなかったさ。八路軍に入ってからの生活、苦しかったこと多い。食べ物もいいもの少なかったけど、たくさん食べていたからね。腹いっぱい食べると、力出てくるし、働けるけど、饅頭一つに、ゴボウかフキの煮たの半分か一本では、働く力出てこないのは当然ね。


林 
あんまり腹減ってしようがないから、昼休みの時間になると、補導員のいない時に、そっと山に登って、草を取って食べるの人多いよ。だけど、日本の草のこと、どれ食べられるか、食べられない草か、わたしたちよくわからないでしょ。草食べたあと、腹痛む人もあったし、口から白いアワふいて、山ころげまわって苦しんで死んだ人も、一人か二人あったさ。
そのこと見ても、腹減ってくると、また草食べに行くでしょ。わたしたちの手にはいる食べ物といえば、草とか水よりないからね。


劉 
その草食べるのことも、補導員がいるとダメだからね。草食べているの見つかると、また梶棒で殴られるからね。わたしたち、腹減って苦しんでいること、いちばんよく知っているの、補導員たちでしょ。その補導員たち、わたしたち草食べているの見ると、怒るわけでしょ。どんな気持の人たちか、ぜんぜんわからないよ。


李 
夏の間は、それでも草食べられるからいいが、秋になるとその草も枯れて、食べられないからね。食べる物、どこからも拾うことできなくなるよ。しかも、秋だんだん深くなると、骨と皮ばかりにやせたからだ、寒さいちばんこたえるさ。わたしたちの着てるもの、下関に着いた時にもらった夏用の一重物が、二枚よりないよ。履物も破れてしまって、素足がまる見えさ。雪とか、凍った砂とか、冷たい水とか、いつも入ってくるからね。足は凍傷にかかって、感覚なくなっているよ。手袋なんか、一つもないよ。素手で、凍った土や石、雪つかんで働いたさ。


林 
靴下もぜんぜんないからね。雪降ってから、ワラを少しずつ集めて、貯めておくの。そのワラ貯ってから、履くものつくってはいたさ。このワラの靴はいても、足だけかくせることできるけど、あとはかくせないから、濡れるだけね。秋田の冬、雪が深いでしょ。多い時は、腰までも雪があるさ。その雪の中で、半分も破れた履物の上に、ワラで編んだ靴のようなものはくだけで、仕事に出るのだから、苦しいの当然よ。あの時の凍傷のあと、いまも寒くなると痛むね。この傷のあと痛むと、あのころのこと思うよ。忘れようとしても、わたしのからだ忘れさせてくれないわけね。


 李 
着るものだって、ボロボロの下着の上に、薄くて黒いワイシャツのようなもの、たった一枚でしょ。薄いから、強い風吹くと、肌に風ささってくるね。雪降ってる日だと、からだみんな濡れてるから、とくに寒いさ。冬になってから、セメントの入ってきた紙の袋見つけて、ワイシャツの下にその紙まいて、着た人もいたさ。セメントの袋そんなにないから、あたらない人は、ワラで編んだゴザみたいなもの着てる人もいるさ。わたしも、はじめはセメントの袋見つけて着だけど、紙だから濡れるとすぐ破れるから、俵をゴザのように、自分
で編み直しだの着たさ。強い風の吹く日は、ゴザの上からからだに風をとおしてくるから、寒いよ。ぶるぶるふるえて、働くこともできないさ。わたしたち、まるでドロボウみたいなかっこうしていたさ。吹雪の強い日は、寒くて、唸るような声たてて、泣いとる人多いよ。雪の中で働いていて、倒れると、もうそのまま死んでいること多いね。倒れてから死ぬのじゃなくて、死んでから雪の上に倒れる人多いね。


 林 
死んでいく人、最初からわたしたちの手にかかるさ。わたしと劉さん、看護班にいたからね。花岡に来た最初のころは、一人ひとりていねいに焼いていたし、遺骨入れるカメもあったさ。ところが、だんだん多く死んで、焼く木が不足したり、遺骨入れるカメとか、木箱なくなってきたでしょ。こんど、山に丸い穴掘って、一人ひとり埋めて、だれ死んだかわかるように、本に名前書いて立てたよ。これ、あとで掘ったけど、誰のものかちゃんとわかるさ。こんど、冬になって、病気になる人多くなって、一日かひと晩に、五人も六人も死ぬ日がつづくようになったよ。もっと多くの人、一日かひと晩のうちに死んだこともあったさ。こんな時、わたしたち三人の看護班だけで、死んだ人運んだり、穴掘ったりすること、間に合わないの。土凍ってるから、そんなに穴も掘れないでしょ。わたしたちの中でも、病気の人いたからね。こんど、からだの弱い人、三人か四人、死んだ人運んだり、埋めたりする仕事、専門にやるようになったさ。それでも間に合わないと、わたしたちも手伝うさ。こんど、伊勢寮長代理の命令で、山の中腹に、大きな穴掘ったね。深さもだいぶあるさ。わたしと李さんの二人、戦争終わってから、そこに行ってみたことあるけど、大きな一つの穴に、遺骨掘った人の話聞くと、八十何人が入っていたと言っていた。死んだ人、山の中腹にかついでいくと、その穴に入れて、上の方に土かぶせるのでなく、白い石灰あるでしょ、その石灰まいて終わりさ。次の日に、また死んだ人あると、その上にまた死体入れて、石灰まくわけね。その大きな穴から掘られた人、全部そうして埋めたから、どこの人かわからないよ。三日と
か四日、死んだ人なくて、その穴のところに行かないでいると、犬とか猫とか、いたちが穴の中に入って、人間の屍体、食べていることもあるさ。腕とか足とか、食われてなくなっているところもあるさ。食われて散らばっているもの、誰の腕か足か、もうわからないね。冬になって、雪深くなるでしょ。中腹の穴のところまで、運んでいけないことあるさ。その時は、中山寮のそばに雪の穴掘って、死んだ人その穴に埋めて、あとで雪少なくなってから、穴に運んで埋めたこともあったさ。これ、わたしたち勝手にやったことでなく、鹿島組か補
導員の命令ね。生きとる時も、わたしたち虫ケラのようにされたが、死んでからも同じだったさ。


 李 
冬の寒い時のこと、口で言えない苦しみね。着ているもの少ないし、はいとるもの破れとるでしょ。しかも、仕事は川をつくるのことだから、掘った溝の中に、雪のまざった水、膝まであることもあるさ。着物は、上から下まで、全部濡れとるでしょ。暗くなってから、中山寮に帰るね。手足しびれて、やせた足や手の肌の色、黒いような、死んだ人の色のようになって腫れてるよ。こんな時の手足、どんなに叩かれても、痛くないの。火で、腫れた手足あたためると、こんど痛むの。あまりの痛さに、火にあたって、ヒエヒエ泣いとる人いるよ。濡れた着物つけたまま、火にあたって乾かすでしょ。花岡に来てから、一度も洗ったことないから、乾くと鮫の皮みたいにザラザラしてくるから、ぜんぜんあたたまらないさ。冬がきても、着物つけたまま、あとなんにもないから、ベッドの板の上に横になっているだけでしょ。寒いから、ひと晩中ふるえつづけているさ。次の朝、起きようとしても、足とか手が動かないの。板の上に起きあがって、足や手をだんだんに動かして、歩けるように馴らしていくさ。晩に寝る時、次の朝、生きて目が覚めるのかなと、いつも思ったよ。


 林 
わたしたち看護棟にいること多いから、その苦しみは、李さんたちほどでなかった。食べ物悪い、着るもの少ない、夜も寒くて眠れないのつづけば、病人の多くなるの当然さ。冬になってから、いったん病室に送りこまれてくると、次の朝に死んでること多いさ。からだ弱って弱って、死にそうになってから、病室に来るからね。看護棟には、薬も病入用の食べ物もないから、どうしようもないよ。


劉 
雪がたくさん積ってから、第三中隊の人、二人にかつがれて病室に運ばれてきたことあった。彼のからだ、全身びしよ濡れで、氷のように冷えていたさ。目固く閉じて、人事不省になっているの。補導員に殴られて、ダムの中に落ちた二人が、引き上げられてきたわけね。手足にさわると、氷のように冷たいし、耳にロつけて名前呼んでも、ぜんぜん動かないの。胸のあたりに、小さな温みあって、低い息が聞こえるので、生きてるのこと知らせているわけね。だけど、看護棟に火もないから、お湯もやれないし薬もないでしょ。いろいろ考えたあげく、わたし庭に出て、死んだ人焼くための薪持ってきて、火燃やして、暖めてやろうと思っだの。薪持ってこようとしたら、軍需係の任鳳岐が来て、「薪どこに持っていくのか」言うの。「病人のこと温めるためさ」と言うと、この薪、死人を焼くためのものだから、ダメだというの。任鳳岐の奴、もう中国人の心忘れていたわけね。彼の反対で、薪持ってこれなかったけど、そのとき、怒りが胸いっぱいになって、どうすることもできなかった。その晩のうちに、病人は死んだけど、次の日、彼のからだ温めてやることができなかった薪で、彼の屍体焼いたの。口惜しいので、涙流れて仕方なかったよ。


死人の肉を食べる

李 
正月近くなってから、軍隊用の毛布、一人に一枚配給されたよ。この毛布かぶって寝てから、夜も眠られるようになったね。だけど、外はもっと寒くなってきたでしょ。こんど、配給になった毛布ね、からだから腕、それに足と、研究して上手に巻いて、その上にシャツ着て毛布をかくし、外の仕事に出たよ。これやると、あまり寒くないからね。このこと、補導具に見つかると、大変よ。梶棒とんできたり、蹴られたりするからね。ほとんどの人、毛布巻いたけど、この毛布のおかげで、死なないで助かった人、だいぶあるよ。あの毛布着なかったら、わたしも寒さに負けて、死んでいたかもしれないさ。


林 
わたしたち看護班も、毛布からだに巻いたよ。これで、前に比べると暖かくなったけど、こんど、うんとシラミ出たね。わたしたちに配られた毛布についてきたか、日本軍につかまってから、風呂に入ったこと、ただの一度もないでしょ。着替えるものもないから、からだも着物もアカだらけだからね。自分たちのからだから湧いたのか知らないけど、いっぱいからだについたよ。仕事から帰って、小さい饅頭食べて、お湯腹いっぱいのんで、きょうも生きられたと思っとると、シラミの奴、動き出してくるの。痒くて痒くて、もう黙っていられないの。背中に手入れてかくと、皮膚弱っているから、すぐ傷ついて、血流れるの。腹のあたりに、手入れてかくと、爪の間に、シラミ何匹もはさまってくるよ。一人のからだに、何百匹とついとるから、大変よ。夜中にも痒くて、何度も目が覚めるね。着替えるものないから、シラミのついた着物、洗うこともできないからね。


李 
シラミも、昼間は出ないね。なんにも痒くないの。寒いから、シラミも動かないわけね。


劉 
もう一つある。シラミわたしたちのからだの血吸っても、わたしたちのからだ、昼間は半分死んでるでしよ。感じない、ということもあるね。


林 
シラミたくさん湧いて、間もなく正月になったね。わたしたち、花岡に来たころは、誰も時計持ってる人いないし、中山寮の中に、暦もなかったの。あとでわかったことだけど、わざと暦、寮に置かなかったわけね。最初のうちは、誰もきょうは何日か、知らずにいたね。こんど、病人が出るようになって、死ぬ人たくさん出てくると、死んだ人の死亡報告書かく必要あったから、わたしたちの看護棟にだけ、暦一枚きたね。その暦で、はじめてきょう何日かということ、わかるようになったよ。正月きたことも、その暦でわかったね。


李 
大晦日の晩だったかね。日本に来て、わたしたちはじめて肉食べたの。あの時のうまかったこと、いまでも忘れることできないよ。よく覚えてるよ。


林 
大晦日の日、馬の頭と内臓が、わたしたち中出寮に渡されたわけね。肉のいい部分、鹿島組の人とか、補導員たち家に持っていったさ。わたしたち、その頭と内臓、料理したの。みんなで同じ部屋に集まって、食べたさ。


李 
あとのき、食べ終わってから、部屋の中に集まってる人見たけど、中国から一緒に花岡へ来た295人のうちで、死んだ人が90人ばかり、病気の人が40人ばかりいたね。年寄の人はほとんど死んで、あれは焦補学だったか、ひとりより生きていなかったさ。来年の大晦日の時には、この中から何人の顔見られるか、と誰かが言ったとき、部屋の中の人たち、しんとなったこと、いまでも覚えてるよ。今晩か、あすに死ぬの、殺される人、どの人か誰も知らないからね。自分かもしれないからね。


林 
わたしたち花岡に来てから休んだの、大晦日の午後と、元旦の一日だけね。大晦日は肉食べたけど、元旦になると、もうなんにもごっそうはないさ。いつもの小さな饅頭一つと、ゴボウかフキの煮だの、半分か一本だけだからね。


李 
正月すぎてから、この食べ物では、わたしたちのからだもたない。仕事のするのもムリだから、もっと食べる量、多くしてほしいと、わたしたち何度も、鹿島組の河野所長に要求したさ。鹿島組の事務所、中山寮から少し離れたところにあるの。そこに、大隊長や中隊長などと一緒に行って、河野所長の前に坐って、土に頭つけて、もっと量多くしてくれと頼んだよ。とくに、病人の食べ物、わたしたちと同じ量にしてほしいと頼んだよ。病気になったり、からだ弱くなって働くのことできなくなると、看護棟に入れられるでしょ。働かなくなると、食べ物の量も、半分にされてしまうわけね。半分のものもらってきて、カユにして食べていたでしょ。それでなくても小さい饅頭が、半分になるわけでしょ。病人だから、体力つけなければいけないのに、これでしょ。だから、病人になって看護棟に来る人たち、みんな死んでいくわけね。その病人たちの食べ物、わたしたちの食べるのと、同じ量にしてくれと要求すると、事務所の人たち来て、なに言うかと、わたしたちのこと梶棒で叩いたり、軍靴で踏みつけたりするの。もっと困ったこと、わたしたち、もっと食べる物多くしてほしいと要求に行くと、次の日から何日かのあいだ、饅頭の大きさ、もっと小さくなることね、見せしめに、小さくするわけね。これにはわたしたち、ほんとに困ったよ。


劉 
正月すぎてから、変わったこともう一つあるよ。正月の前の饅頭の中にも、リンゴのカスとかドングリの粉入っていたが、本当のウドン粉も、いくらか入ってたさ。正月すぎると、饅頭の中に、ウドン粉ぜんぜん入っていないさ。リンゴのカスもわずかより入らなくなって、なんだかわからない木の皮の粉など、入っているの。口の中に饅頭入れると、臭くて、砂みたいにザリザリして、固くて、とても食べられたものでないの。こんな食べ物ばかりつづくから、からだの弱い人、年寄の人、栄養ぜんぜんとれないから、どんどん死んでいくよ。冬になって、雪いっぱい積もると、食べ物、どこからも拾えないからね。


李 
からだやせて、腹の減る日つづくと、頭のおかしくなる人出てきたね。からだの弱い人、これに早くかかるよ。真夜中に食べ物のこと叫んで、とび起きる人も出てくるさ。わたしの小隊に、李相子という人いた。この人、からだ非常に弱いから、仕事の現場に、とても連れていかれないの。伊勢寮長代理に何度も頼んで、冬のころから、この人に、死んだ人焼いたり、土に埋めたりする仕事させていた。林さんたち看護班のほかに、そんなことだけする人、三人か四人いたからね。それだけ、死んでいく人多かったわけね。現場か、中山寮で死んだ人あると、裏の山に運んでいくの。木集めて屍体焼いたり、木集められない時、穴掘って埋めたりすること、専門にやっていた。そうした人焼くの仕事する人、わたしたち労働する人たちより、食べ物の量が少ないの。病人よりは、いくらか多いけどね。結局、あの人我慢できなくなったわけね。ある晩、わたし発見したね。寝るところの上に、木でつくった自分の箱持ってるの。わたしはじめは、なんの箱かなと思っていた。いつかの晩、李相子が、その箱の中に手入れて、なにか食べているの見たの。なにを食べているのかな思って、次の日、彼がいない時に、その箱の中、さがしてみたでしょ。箱の中に、焼いた、赤いような肉人っているの。寮の中に、勝手に食べられる肉あるわけないから、なんの肉か、ぜんぜん見当つかないの。最初、これが人間の肉とは、思わなかったさ。彼に、これなんの肉か聞いたの。はじめは、いくら聞いても、言わなかったが、何度も聞いてるうちに、人間の肉であること言ったの。わたしびっくりして、その箱取り上げて、食べないように言ったの。だけど、また何日かすると、また人間の肉持ってきて、食べるの。わたしも、一回は叩いたさ。死んだ人の肉食べるのこと、人間のすることでないと言ってね。それに、死んだの人、もしか伝染病あるかもしれないでしょ。お前は、人間でないと怒ったの。あとで、考えたね。そのころのわたしたち、口の中に入れるものあったら、なんでも入れたい気持ね。そのこと、人間のやることじゃないけど、腹減ってるの状態、もう一年近くつづいとるわけでしょ。その苦しみの気持、わたしにもよくわかるの。腹減ってる時の苦しい状態、いま話しても、わかっ   てもらえないことね。


林 
わたし、人間の肉食べること見たことないが、耿大隊長の言うの、聞いたことあるの。耿大隊長が看護棟に来て、死んだ人を焼きに行く人の中で、缶詰のフタで、屍体の肉とって食べとる人いる、これはいかんと言っていた。李相子のほかにも、かなりの人、人間の肉食べたらしい。


李 
人間の肉食べられてることわかった時、この姿、こんどはわたしの姿になるかもしれないと思った。わたしも、我慢できなくなったら、人間の肉でも何でも、食べる気持になるだろうと思ったの。このこと、あの当時のわたしたちの本当の気持ね。
 


蛮行重ねる補導員

林 
花岡鉱山には、わたしたち中国人のほかに、朝鮮の人と、アメリカの捕虜も来ていること、知ってはいたの。アメリカの人とは、あまり近づかせないようにしていたけど、朝鮮の人とは、仕事のやり方わからないことあると、現場に来て、働きながら教えてくれることあったの。そんな時、昼一緒に食べるの見ると、朝鮮の人、わたしたちよりいいもの食べとるね。わたしたちのように、ひょろひょろにやせていないの。わたしたち、腹減らしているの見て、自分たちの食べ残したものとか、余分な食べ物とか、こっそり持ってきて、補導員の見てない時に、それをくれるの。そんないい人、朝鮮の人の中にも、何人もいたよ。その時の嬉しかったこと、いまでも忘れないよ。どこの国でも、いい人はいるよ。朝鮮の人たちの着てる服も、わたしたちのものより厚いし、いいもの着てるから、寒くないわけね。


李 
そのこと、アメリカ人の場合も同じね。わたしたちと顔合わせること、ほとんどないし、近づかせないようにしていたわけね。わたしたちの中山寮より上の方の、一キロばかり離れたところに寮あって、そこに入っているの知っていたよ。アメリカ人の寮にいる人、どれくらいかよく知らないが、400人くらいはいたね。アメリカの人の食べる物、わたしたちよりずっといいの。わたし、見たことあるの。アメリカ人の食べる物、トラックか馬車で途中まで運んでくるでしょ。それから上は、道路悪いから、わたしたちの寮のすぐ上におろ
して、それからアメリカの人が、上の寮に運んでいくの。おろして運ぶ時に、袋や俵、破れるのがあるでしょ。その破れた穴から、中に入っているもの、こぼれるの。アメリカの人、そのこぼれたの拾って、一生懸命にポケットに入れたり、口に入れるかしとるの、わたし見たの。あれは米でないけど、麦かなにかね。わたしたちより、ずっといいもの食べているさ。わたし、その場所に一度行って、10粒くらい拾って食べたことあるけど、本物の麦かなにかね。味でわかるよ。わたしたち、現場へ働きに行く途中、ときどき働きに出るアメリカ人と、道路ですれ違うことあるの。わたしたち言葉わからないし、話しかけるところ補導具に見つかると、梶棒とんでくるから、誰も話しかけないよ。お互いに顔見たまま、通りすぎるだけね。アメリカ人の場合も、わたしたち中国人より、からだやせていないでしょ。顔色もいいよ。わたしたち中国人だけね。ひょろひょろにやせているの。


 劉 
いちばん悪いの、補導員や鹿島組の人たちね。わたしたちに配給にきたもの、家に持っていくわけね。それでなくとも少ない食べ物、ますます少なくなるわけね。わたしたちと同じ中国人で、軍需長の任鳳岐も悪いの。この人、宿直して次の夕方に家に帰る補導員に、わたしたちにきた配給の中からとったもの、紙とか袋に包んで、渡しているの何回も見たよ。彼だけね、一緒に来た中国人の中で、太っているのは。それでなくとも少ない食べ物の中から、補導員がいいものだけ家に持っていくから、わたしたちの分、ますます少なくなるわけね。あの任鳳岐のろくでなしのために、何人の人、飢えて死んだかわからないよ。だから、彼だけは殺されたの。同胞を売ったから、補導員と同じに、皆の憎しみかっていたわけさ。蜂起のとき彼いちばん先に殺された。殺されるの理由、十分あったさ。同胞を売って、自分だけまるまると太ってること、許されないよ。


 林 
わたしたち、補導員のこと、鬼とか、豚とか、鬼豚とか呼んでいたけど、その鬼のような補導員の中で、二人だけ、わたしたちの味方する人いたよ。一人は越後谷義勇さんね。戦争終わってから、この越後谷さんを、わたしたち札幌に招待したことあるけど、越後谷さんに助けられた人多いね。


 李 
越後谷さんの家、花岡から離れた早口にあったでしょ。宿直にあたらない晩、早口の家に帰るね。次の朝、鉱山に働きに来る時、自分の家から、米とかアワみたいなもの、少し持ってくるの。補導員に見つからんように、服のポケットにかくして持ってくるから、少ないわけね。こんど、わたしたちの仕事の現場で、お湯わかしてるでしょ。その大きな湯わかしの中に、ポケットの米そっと入れて火にかけると、薄いおカユみたいなものできるでしょ。そのおカユみたいなお湯、わたしたちに飲ませてくれるの。ほかの補導員見ても、お湯飲んでるとしか見えないでしょ。越後谷さんが現場に来ない時は、晩に寮の中で、わざとお湯わかして、そのお湯の中に米とかアワとか入れて、わたしたちの寝てるところに持ってきてくれるの。服のポケットに、いろいろな食べ物入れてきて、ほかの補導員のいない時、そっと渡してくれたりしたの。わたしたち、その食べ物で、どんなに助かったかわからないさ。鬼みたいな寮の中の日本人にも、こんないい人もいたね。


 林 
正月の元旦のことね。あの時も、越後谷さん、早口から中山寮まで来たね。自分の家でつくったもち持ってくると、小さく切って、わたしたちに配ったの。寮の中の人多いし、少しより持ってこないから、食べた人少ないけど、その気持ね、嬉しいの。越後谷さんのような人、もっと花岡にいると、蜂起なんかなかったね。だから、蜂起の時も、越後谷さんのこと、殺さないように気を配った。越後谷さん宿直室に泊まっている晩に蜂起すると、暗いから、彼どこにいるかわからないでしょ。間違って殺すと、たいへんということになるからね。だから、彼の泊まっていない晩選んで、蜂起をやったの。補導員とか、鹿島組の日本人だったら、誰でもいいから殺せばいいということではなかったさ。悪いことしない人は、殺したくないという気持は、誰にでもあったの。


 劉 
越後谷さんね。この人、まだ少年でしょ。仕事も、事務所で帳面つけてるのこと多いの。直接に、中国人の働いてる現場に来ること、少ないからね。わたしたちのいた看護棟には、毎日のように来たけどね。この人、まだ若いから、軍隊教育みたいなもの、あまり身につけていなかったわけね。越後谷さんのほかに、補導員の中に、もう一人、いい人いたでしょ。


林 
いたいた、石川ね、石川忠助さんね。この石川さんも、わたしたちのこと、助けてくこと多いよ。越後谷さんみたいに、食べる物持ってくることもあったし、あまり殴ったりしなかったからね。補導員の中で二人だけね、わたしたちのこと考えてくれた人は。あとの人たち、みんな鬼豚だったさ。


 李 
この石川さんも、わたしたちの目の前で、二人の中国人を、殴って殺しだの知ってるょ。石持てないほどからだ弱っている人、梶棒で叩けばそのまま倒れてすぐに死ぬの、あたりまえのことね。それも、頭とか顔とか、どこでも叩くのだから、どうにもならないよ。それでも石川さん、福田とか清水にくらべたら、はるかにいい人ね。


 林 
梶棒で叩く時、めくらめっぽうに、どこでも好き勝手に叩くでしょ。梶棒歯にあたると、みんなバサッと落ちるね。梶棒で頭とか顔叩かれて、痛いでしょ。痛いから、頭とか顔に、手あげるでしょ。こんど、その手を叩くの。どの人も、一本か二本か、みんな指が折れとるよ。ひどいものさ。補導員の中でも、小畑と福田がいちばんひどかったさ。この清水わたしたちと同じ中国人でしょ。父か、母だったか、中国の人ね。それで、中国人に悪いのことするのだから、どうしようもないよ。背の低い小畑、この人いちばん悪い。何十人の人
殺したかわからないよ。寮長代理の伊勢、この人も根性の悪い人ね。ひどいことばかりしたよ。戦後になって、この伊勢と、一度会ったことあるよ。伊勢は大館の市役所の職員になって、立派な服着ていたけど、わたしのこと見ても、なんにも言えないの。下ばっかり見ているね。


 李 
食べ物悪くて、栄養失調が原因で死んだり、補導員に殺されたりした人、春になると100人越していたよ。わたしたちと一緒に花岡に着いた人、295人でしょ。そのうちの三分の一の人、死んでしまったわけね。からだ弱って、看護棟の中にいる人も、30人くらいだったさ。中山寮の中に、あまり人いなくなったよ。からっぽになってきたさ。わたしの小隊の中でも、十何人か死んでいたからね。ところが、冬終わって、雪消えると、川掘るの仕事がほんとにはじまったでしょ。働けるの人、半分くらいよりいないから、生き残った人たちの仕事、ますます多くなるの。雪の中でひと冬生きて、どの人もからだ弱ってきてるでしょ。それに仕事多くなってきたから、たいへんよ。


 劉 
寒いのから、暖かくなってくると、からだ疲れて、ダメになってくるのね。春になって、看護棟に来るの人、多くなってきたからね。新しい中国の人たち、中山寮に連れてこられたの、この時ね。


蜂起する中国人(繰り返される拷問)

 中国人たちが残忍非道な虐待に抗して蜂起したのは、1945年6月30日の深夜のことであるが、それまでに死亡した中国人は、次のとおりであった。

1944年8月8日の第一次連行者295人のうち121人。
1945年5月5日の第二次連行者587人のうち23人。
6月4日の第三次連行者98人のうち4人。

前後三回にわたって連行されてきた980人のうち、140人が死んでいるが、このほかに病気や殴られた怪我で身動きのできないのが約50人、一生不治の怪我をした人が生存者の四分の一くらいにおよぶといわれる状態であった。
    〈このままでいると、みんなが殺されてしまう〉

 中国人たちはせっぱつまった脅迫感におびやかされ、こう考えるようになっていた。敗戦 直後に、花岡鉱山に派遣されて中国人を診断した高橋実医師は、
「もはやかれらは、死か抵抗かのいずれかを選ぶよりほかに道はなくなった。それは、このひとびとがついに奴隷であることにがまんしきれなくなった日”であった」(「ひとつの事実」−『社会評論』 一九四六年七月号)と書いているが、まさにそのとおりであった。こうした状況の中で、蜂起は計画され、実行されたのであった。

 蜂起の計画は、耿大隊長をはじめ、中隊長や小隊長たちの間で、綿密な計画と周到な準備のもとにすすめられた。第二次や第三次連行者たちが洩らした消息、「日本の戦況は日一日と不利になり、空襲も激しさを加えているから、日本本土への上陸作戦も間近い」という情報が、蜂起の計画をいっそう早めた。

 蜂起の計画は、6月30日の晩飯のあとに、耿大隊長から全員に伝えられた。

 「李克金は20人を連れて、事務所の窓口を守る。劉玉卿は30人を連れて、四方の要地に伏兵をおく。これは、補導員の脱出と逃亡を防ぐのだ。李黒成は電話線の切断を担任する。張金亭は20人を連れて、室内に入って敵を殺す。それから張賛武は比較的強壮な同志80人を連れて、米国人俘虜収容所の日本兵を襲撃する。劉錫方は20人の同志を連れて、花岡警察局を襲撃する。看護班の任務は、外で全員が漱起したのを見すまして、直ちに病人を山の上に移すのである。そして最後に、羅士英の監督の下に放火し、中山寮全部を焼き払う。

手を下すのは、深夜、補導員たちの熟睡したのを見てやる。このために今晩は、全員が本当に寝てしまってはならない。仕事を分担された同志たちはすべて鍬をこっそり身辺に隠し敵を殺す武器にする」(劉智渠述・劉永姦・陳苓芳記『花岡事件−日本に俘虜となった一中国人の手記』中国人俘虜犠牲者善後委員会刊)だが、このように綿密な計画をたてたにもかかわらず、待っているのにしびれをきらした張金亭が、まだそれぞれの人が任務の部署につかないうちに、軍需室に入って任鳳岐を殺した。任の悲鳴があまりにも高かったので、補導員の逃亡を防ぐために配置されることになっていた人たちが、まだ寮の中にいるうちに、補導員の宿直室になだれ込んだ。猪股清と檜森昌治の二人は宿直室で殺され、あとは窓を破って逃亡した。そのうち、小畑惣之介と長崎辰蔵は追いつめられて殺されたが、あとの人たちは逃げていった。そして五分もたたないうちに、事件を知らせるサイレンが、深夜の鉱山町に鳴りわたったのである。

 このため、計画の中にあった米軍人俘虜の解放も、花岡警部派出所の攻撃も、中山寮の放火も中止となり、約800人の中国人たちは、われ先にと暗闇の中に逃亡していった。しかも、リーダーもなく、サイレンが高々と鳴り響く暗い夜中に、ひょろひょろにやせた人たちの逃走なだけに、決して早いものではなかった。朝が明けて気がつくと、かなり遠くまで逃げたつもりのものが、花岡鉱山が目の前に見える高さ250メートルほどの岩場の多い獅子ヶ森という山の中腹に、大部分の中国人たちがいたのである。しかも、病人や落伍者たちは、蜂起してから二時間もたたないうちに、寮からそれほど離れていない場所で捕えられた。獅子ヶ森にたてこもらなかった中国人は、山を越した隣の村とか、国道に添って青森県境に逃げるなど、ほとんどの人がバラバラになった。

 花岡鉱山での中国人の蜂起は、大きな衝動をあたえた。その鎮圧のために多くの警官や民間人が集められたが、『秋田県警察史』(下巻)はその状況を次のように記録している。

 「事件発生の7月1日から、平静になった7月6日まで、大館、花輪、扇田、鷹巣、米内沢、ニツ井、能代、青森県大鰐の各警察署で動員した延人員は、警察官494人、警防団7,544人、一般民間人13,654人、計21,692人で、このほか警察部をはじめ県内各署から延536人が取調べなどで動員された。また、秋田、青森各地区憲兵隊、弘前憲兵司令部から延222人、仙台俘虜収容所第七分所(花岡町所在)から警備隊員延25人、秋田地区警備隊から7人が出動した。花岡町における民間団体としては在郷軍人179人、鉱山青年学校延122人、警防団延128人、鉱山警備隊延52人、鉱山男子義勇隊延127人、同女子義勇延140人、鹿島組延724人、秋田士建121人、清水組延155人が出動した」警察の資料によると、延べ24,106人が鎮圧に動員されたのだが、このように厳重に警戒された中で、空腹と疲労で衰弱しきった中国人は次々と捕縛され、花岡鉱山の共楽館という劇場の広場に集められた。しかも、獅子ケ森などで抵抗した十数人の中国人は、日本刀とか竹ヤリなどで殺されたが、殺した人たちというのが警察とか憲兵ではなく、民間人である消防団員や青年団員などであった。

 また、獅子ケ森からさらに遠くへ逃げた人たちも、各町村の消防団員や青年団員などに捕えられて、花岡鉱山に引っぱられてきた。その当時、花岡鉱山に勤めていたある娘さんは、目撃したことをこう語っている。
                  
「小坂線の汽車の中で、二人ずつつながれてくるのをみた。フラフラしているのに、力いっぱい丸太でなぐられていた。本当にかわいそうなものだった。それでもその時、敵の国の人間だと教えられていたから、にくいと思ってみていた」(『現地調査報告書』)また、山奥に逃げ込んで、山狩りされて捕えられた人たちの場合も、悲惨なものであった。隣の早口村の山奥にある山田集落に逃げた中国人の模様を、消防団長は次のように語っている。

「この山田部落にも、五、六人の中国人が山を越えて逃げてきた。警察から、部落に放火するかもしれないから、消防団でつかまえてつれてきてほしいと連絡があり、二人つかまえて花岡の共楽館につれていったが、二人でしばられ、坐らされていたのを目撃した。その二、三日後、山田部落の保滝沢で三人つかまえたが、ヒローコンパイその極に達し、ロもきけない状態であった。中国戦線から復員した若者二人が中国語で話しかけたが、返事もできない状態で、それが気にくわぬと軍靴で顔をふむ、蹴る、殴るをした。この人たちが殴ったためかどうかは知らぬが、とにかく三人とも死んでしまった」(『現地調査報告書』)

 こうして共楽館前に集められた中国人たちは、二人ずつうしろ向きに縛ら
れ、砂利の上に坐らされた。真夏の太陽がジリジリと照りつける炎天下に、水も食べ物もあたえられず、三日三晩にわたって拷問と虐殺がつづけられた。共楽館前の広場での中国人を見た鉱山労働者は「全くフラフラにつかれはててから逃げだしたのだろうから、つかまえられて共楽館前につれてこられただけで、死んでいたものが多かったろう。全部二人ずつ後手にしばられて、坐らされていた。あの暑い時、三日三晩も坐らされ、たたかれたのだから、ただでさえたまったものではない。便所へゆくのも二人つながれたまま、死んだ相手をひきずりながら、みな用を足していた。出る小使はみな血であった。ところが、水ものまされずのどがかわききった彼等は、それに口をつけてのんでいるものもあった。本当に気の毒だ、かわいそうだと思っても、ピストルや剣をつきつけた将校がゴウ然とかまえて、憲兵や警官を指揮しているのを見ると、誰も口にだせるものではなかった。言ったらすぐにやられる。血気の多いものはぶんなぐったり、つついたりした人も沢山あった。あの当時は、あの様な気持にされてしまっていたのだ」と語っている。(『現地調査報告書』)

三日三晩にわたって、残虐非道な拷問を受けて殺された中国人は、113人であった。


敗戦後も重労働続く

 四日目に、花岡派出所の留置場に入れられている主謀者の13人を除いて、再び全員が中山寮に収容された。こんどは、棍棒を待った補導員にかわって、武装した警官が監視にあたるようになった。数日後からは、主食の饅頭に混っているものがいくらか少なくなったほかは、以前と変わらない重労働がつづけられるようになった。この後も、病気で倒れる人や、警官などに殴られて死ぬ人などが、あとをたたなかった。

 その当時、大館警察署長として鎮圧の先頭に立った三浦太一郎は、二七年後にそのことを回顧して、次のように語っている。

 「(蜂起して)つかまえた人たちは、共楽館へ連れていかれました。ところがね、アメーバ赤痢だとか、いろいろな病気をもった連中でしょ。だから、鉱山の慰安施設である共楽館の中に入れるわけにはいかないと鉱山側がしぶるんですな。考えればムリもないが、そのとき私は腹がたった。そうこうしているうちに、警防団が出てきたりして、警備隊とか応援にきた入らが、結局、共楽館に集められたんです。あとで広場に放置したということになってしまったが、二日目からは、食糧もちゃんと与えましたよ。共楽館で拷問が行われたといいますが、そんなことはない。あえいでいる中国人の顔へ水をふきかけてやり、助けてやったりしたものです。横浜のB級裁判では、そんな証言は取り上げられなかった。『敗戦国民が何をいうのか』のひとことで終わりですよ」
(「日本で中国人は何をされたか」−『潮』一九七二年五月号)


 三浦が言うように、中国人にたいして拷問も虐待もなく、食糧もちゃんとあたえられていたとすれば、共楽館前だけで121人の死亡者が出るはずがない、と考えるのが普通であろう。一方、花岡派出所の留置場に入れられた13人のリーダーたちは、一週間にわたって拷問を受けたのちに、秋田市の秋田刑務所に移されたが、その状況を『秋田県警察史』(下巻)では、こう記している。

 「事件発生以来逃亡者の捜査、逮捕に主力を傾注した結果、7月7日にいたり752人を逮捕、謀議参加または殺人実行行為者としてつぎ13人を国防保安第十六条第二項の戦時騒擾殺人罪で送局した。

(筆者注・カッコ内は年齢)
 首魁=耿淳(30)謀議参与=李克金(28)孫道敦(44)張金亭(32)趙書林(36)劉錫財(32)劉玉郡(30)劉玉林(37)殺人=宮耀光(22)李広衛(27)張賛武(23)楷万斌(27)李秀深(23)」

 だが、8月15日に日本が無条件降伏をした二日後の8月17日に、内務省主管防諜委員会から敗戦にともなう「華人労務者ノ取扱」について、関係者に通達が出された。その内容は、中国人の労務を中止し、賃金を払い、衣食を支給し、留置者は即時釈放し、死亡者の遺骨を整理し、送還の準備をせよ。というものであった。

 しかし、こうした通達がとどいても、鹿島組花岡出張所では中国人たちを解放するどころか、敗戦前とまったく同じ状態のままで、強制労働をつづけさせた。鹿島組傘下の死亡者を見ると、八月は49入、9月は68人、10月は51人が死亡している。

 その後、9月2日に日本は連合軍の降伏文書に署名し、長くて暗い戦争は正式に終わった。

日本軍が捕虜にした連合国軍人や抑留者にたいしても、

 一、捕虜と被抑留者を虐待したものの処罰
 二、捕虜と被抑留者にたいする解放、保護、送還
 三、捕虜と被抑留者にかんする報告

の三点をくり入れた「降伏文書」や「連合国最高司令官総司令部一般命令第一号」などが発令され、中国人の強制連行と労役も終わりをつげたにもかかわらず、鹿島組花岡出張所の中国人たちには、戦争状態がつづいていたのだった。

 花岡の中国入たちが日本の敗戦を知ったのは、日本がポツダム宣言を受諾してから1ヵ月半もすぎた9月中旬のことである。ある日、一台の飛行機が花岡の上空に飛んでくると、花岡にある仙台俘虜収容所第七分所のアメリカとオーストラリア人たちに、物資を投下した。

 はじめて日本の敗戦を知った中国人たちは、すぐに仕事をやめて中山寮に帰り、今後の対処の仕方などを検討した。しかし、そこに入ってきた鹿島組の係員は、「仕事に出ないと飯を食べさせない」と威嚇するし、三浦大館署長も寮に入ってくると、「指示を聞かない人は容赦をしない」とおどした。

 中国人たちが敗戦の内容を知ったのは、その翌日に、花岡派出所に留置されていた通訳の于傑臣が釈放されて中山寮にもどってからだった。日本は無条件降伏をしたことや、耿隊長たち一三人は秋田刑務所で無事であることも知らされた。耿隊長たちはすでに死刑にされたと、中国人には知らされていたからだった。

 このことは、秋田刑務所に収容されている13人の場合も同じであった。ポツダム宣言受諾後も日本の敗戦は知らされず、戦争状態がそのままつづいていた。しかし、1945年9月15日に、秋田に進駐する第八先遣隊として、ページ少佐以下の将校たちが山形県の新庄からジープで秋田入りすることが決まったが、その四日前の9月11日に、秋田地方裁判所では、起訴していた13大の中国人に、大急ぎで判決をいいわたしたのである。

 叛乱罪を主張した憲兵隊が解散され、特高もなくなってしまったにもかかわらず、「『戦時』の騒擾殺人罪を、『戦後』に裁判した」(石飛仁『中国人強制連行の記録』太平出版社)のであった。しかも、占領軍が進駐してくることを知って、その直前にあわてたように裁判をしたのである。形式的にしろ、中国人たちの弁護にあたった秋田市弁護士会長は、この時の「法廷は国法の尊厳に輝いていた。わずかに法灯を守りつづけた人たちが、世評をよそに三ヵ月の苦労をつづけて、今日の判決に導いた誠意に慰められた」と、判決後に語ったという。
(赤津益造『花岡暴動』三省堂新書)


 
虫ケラのように殴殺

 林 
新しい中国の人たち来だの、あれは春になってからのことだったね。はじめに600人ばかり来て、それからひと月ばかり遅れて、また100人ばかり来たさ。その人たちみんな入ったから、こんど、中山寮の中狭くなったね。一人分のベッドに、二人も三人も寝るようになったさ。新しく来た人たち、わたしたちみたいにひょろひょろやせてないし、元気な人多いでしょ。それに、中山寮のいろいろなこと、知らない人多いからね。新しい人たち来た時、何人もの人たち、補導員に殴り殺されたよ。見せしめね。


 李 
わたしの小隊に、薛同道という人いたの。この人のからだ大きいから、とくに腹減るわけね。その日も、腹減ってどうしようもないから、仕事の途中に、裏山に登って、青くのびた草食べていたわけね。仕事終わって、寮に帰る点呼とったら、わたしの小隊でひとり足りないわけね。補導員が小畑だから、とくに悪いよ。小畑は、「逃げたに違いない。みんなで探せ」と、山とか田んぼとか探した。そのとき、裏山で草食べてる薛さん見つかったさ。縛って寮の前に連れてくると、新しく花岡に来た人たち集めて、みんな見ている前で、梶棒で叩いたね。頭でも、首でも、背中でも、どんなとこでも、好き勝手に叩くさ。倒れると、こんど踏むわけね。薛さんのからだ、血流れて、腫れてくるの。気失った薛さん、病室に運び込まれて、ひいひいと苦しそうに呻いて、三日後に死んでいったさ。わたし、薛さん死んだ晩、病室から寮に帰ってくると、耿大隊長に言ったね。「わたしたち、このままでは生きられない。生きる方法ないか」と。耿大隊長、黙って首を振るだけのことね。


 林 
からだ弱って、看護棟に運ばれて来た人に、趙老人という人いた。花岡に来た年寄の中で、いちばん長く生きたの、この趙老人ね。この人に、趙青児という息子いて、わたしと同じ看護班にいたの。親子で一緒に、日本軍につかまったわけね。趙老人が息引きとった時、趙青児そばにいて、大声でおんおん泣きだしたさ。そこに、小畑人ってきて、泣いている趙青児のこと足で蹴って、「死ぬやつは死なしておけ。泣くやつあるか」と叫ぶわけね。自分の親死んで、悲しくない人、どこにいるね。日本人の補導員、畜生よりもひどい人ばかりね。
人間の心、ひとかけらも持っていないよ。


 劉 
誰だったか、中国に帰るのことできた人でね、空腹の日つづくから、頭おかしくなったわけね。いつだったか、お昼の時、自分の分の饅頭食べてから、ほかの現場に、食べる物下さいと行ったわけね。そのこと補導員に見つかって、半殺しになったの。叩かれたり、煙草の火つけられたり、レール真っ赤に焼いて、足の間に挾まれたりして、お尻の肉、焼けとけちやったよ。あの人、いまでもお尻の肉ないと思うよ。看護棟に運ばれてきたけど、薬もないから、たいへんさ。傷ひどくなって、もう死ぬ状態になったさ。その時、日本の敗戦の
ことわかって、アメリカのペニシリン手に入ったの。それに、食べ物もよくなったでしょ。あの人、めずらしく助かったわけね。敗戦わかるの、もう一週間おくれていたら、いのちなかったね。この人の助かった理由、第三回目に来た人で、まだあまりからだ弱っていなかったの。わたしたちと同じに来た人だったら、もう助からなかったね。


 李 
新しい中国の人たち来てまもなく、仕事する時間、朝と晩で二時間ほど長くなったでしょ。それに、食べる物悪いから、腹減ってくるの当然さ。腹減って、草食べてるの見つかると、叩いて殺したり、片輪になるほど叩いて怪我させるのだから、ひどいよ。もっとひどいこと、同じ中国人に梶棒で叩かせることね。道路に捨ててあるもの拾って食べたとか、歩きながら道端の草引っぱって食べたとか、理由にならないようなことで、縛って寮に連れてくると、わたしたちを集めるの。一人ひとりに梶棒持たせて、縛ってある人のこと、叩かせるわけね。はじめのうちはいくら言われても、誰だって殴ったりしないでしょ。すると、補導員たち、命令きかないといって、叩かない人たちのこと、殴るの。どんなことされるかわからないし、殴られると痛いから、叩くようになるの。相手が痛くないように、叩こうとするから、力人らないでしょ。そのこと悪いといって、また叩くの。何人かで一人の人を叩いて、気が遠くなって倒れるでしょ。そのこと見ると、補導員たち喜ぶわけね。こんなひどいことないよ。人間のやることじゃないよ。


 林 
見せしめということもあったけど、中国人にそんなことやらせて、喜んでるわけね。叩かれる人もたいへんだが、叩く人もたいへんなわけね。


 李 
一日に一人か二人か、補導員に叩かれて死ぬ人あるよ。怪我して動けない人も、どんどん増えていくね。補導員たち、悪いことした人を叩き倒すと、こんど、わたしたち中隊長や小隊長集めて、「お前たち、教育するの足りない。だから、草食べに歩く。人の捨てたもの、拾って食べるのは、人間のクズだ」と、わたしたちのこと叩くの。死ぬほどは叩かないけど、毎日だからたいへんさ。自分の生きるの、あとIヵ月あるか、ニカ月あるか、そのたびに考えたよ。叩かれた人、すぐに死んでいくから、そのこと、いつ自分の身の上にふりかかってくるかわからないさ。


 林 
叩かれると、すぐ死ぬ人多いよ。気絶して、看護棟に運ばれてくるでしょ。その晩のうちに、血吐いて死ぬ人ほとんどね。どんなにひどい殴られ方したか、これだけでもわかるね。


 劉 
棍棒で殴ったり、殴り殺したりするのこと、寮の中でもあったさ。栄養のある補導員たち、力いっぱい、思いっきり殴るからね。いまくらいの元気あれば、棒で少し叩かれても、死ぬことないよ。栄養失調になって、ようやく息しているの状態で、歩いても空腹でめまいするからね。叩かれて倒れても、わざと倒れたと思うとるから、倒れた人のこと、また叩くから死ぬわけね。だから、1945年の三月ごろになると、一日に五、六人も倒れることあって、蜂起する時は、みんな倒れてしまうの状態だったからね。蜂起したの原因、これ一つね。


 李 
毎日のように誰か殺される日つづいていたとき、劉沢玉も、夜中に食べる物さがしに出たの、見つかったの。寮の前とかうしろに、ちょろちょろの水流れる小さい川、たくさんあるの。その小さい川の中に、小さなカニとか魚がたくさんいるからね。補導員が寝た夜中に、川に行って、それ取って食べるわけね。たくさんの人、夜中に寮から出て、それ取って食べたけど、運悪く、劉さん見つかったわけね。ひと晩、縛られたまま、寮のそとになげられていた。次の朝、わたしたち小隊以上の人、みんな事務所に集められたさ。伊勢が劉さんの罪のこと説明してから、わたしたちに、劉さんのこと殴らせようとしたの。だけど、わたしたち前に、同胞の人殴って、気絶させたことあったでしょ。その時、どんなことあっても、わたしたち殴り殺されても、同胞を殴ることはしまいと、相談して決めていたの。こんど、わたしたちに叩くように、脅迫したり、殴ったりしたけど、誰も叩く人いないでしょ。そのこと悪いといって、劉さんのこと裸にして、六人も七人もかかって、好き勝手に棍棒で叩いたり、靴はいた足で蹴ったり、踏んだりするの。劉さん痛いから、大声あげて、泣きながら机の下に逃げていくでしょ。机の下から引っぱってきて、またどんどん叩くの。気絶するでしょ。バケツに水汲んできて、倒れとる劉さんにかけるで史よ。気がつくでしょ。また、「このヤロウー」と叫んで叩くの。事務所の中、劉さんの大便でたのとか、晩に食べたカニの吐いたのとか、いっぱいちらばったね。もう弱って、立って逃げられないね。それでもまだ叩くから、こんど、転んで逃げるでしょ。からだに大便とか、吐いたのとかつくの。それ、人間のかっこうじゃないね。こんど、清水がね、鉱山で使うレールあるでしょ。そのレール、炊事場のかまどの火で、赤く焼いたの持ってきたの。あの時のこと、いまでもはっきりと覚えとるよ。息もつけないほどになって、倒れとる劉さんの股に、その赤く焼けたレール差し込んだの。劉さん、悲鳴あげて、その赤く焼けたレール、手でよけようとするでしょ。手が黒い煙だして、焼けていくの。焼ける音もするさ。こんど、補導員が何人も寄って、劉さんの手とか足押さえて、股にそのレールあてたの。部屋の中、人の焼けた煙で、いっぱいになったさ。劉さん、こうして殺されたの。わたしたち、そのこと全部見ていた。手助けすると、自分も殺されるかわからないから、誰も黙っていたけど、そのやり方、あまりにもひどいよ。


 林 
苦しい殺され方した劉さんのこと思うと、いまでも涙出るよ。あの朝早く、事務所に来いと、看護棟にいたわたしたちに連絡あったでしょ。わたしと誰か三人か四人か、事務所に行ったでしょ。劉さんの屍体、早く持って行けと叫ばれて、看護棟に運んだけど、もうその時死んでいたよ。めちゃくちゃに殴られて、顔の形もちゃんとわからないくらいにね、殴られて、顔の形、変わっているの。殴られたところとか、レールで焼かれた股とか、血が出たり、ベトベトしているの。もうこれ、人間の姿じゃないよ。病室に入れたでしょ。あまりのひどい仕打ちに、病気とか怪我の人たち、みんな声出して泣いたさ。そこに清水の鬼豚人ってきて、「泣いているの誰だ。早く埋めてしまえ」と、どなって歩くの。その朝のうちに、穴掘って埋めたけど、劉さんの殺され方、いちばんひどいね。


蜂起を計画

 李 
わたしの寝ている部屋、大隊長のすぐ隣なの。劉さんが殺された夜中に、わたし、大隊長のところに、話にいったの。「このままではわたしたち、いつ殺されるかわからない。早く逃げよう」と言ったの。大隊長、このとき覚悟決めたね。これ、蜂起のはじまりなの。わたしたちの蜂起、戦争敗けるの時までのびていたら、もっと多くの人たち殺されていたね。わたしたち、どうせ死ぬか、殺されるかするの、わかっていたさ。朝くると早く起こされ、仕事に出るでしょ。夜は暗くなってから、寮に帰ってくるでしょ。食べ物ぜんぜん悪いから、
立って歩くのもようやくの状態よ。それに、毎日のように、誰か殺されてるでしょ。生きていく気持、ぜんぜんないよ。早く死にたい、死ねばいまより楽になる、そう考えている人ほとんどね。どうせ、遅いか早いか、わたしたち殺される。このまま殺されるのだったら、わたしたちの同胞殺したり、わたしたちを苦しめた奴らを、この手で殺してやれというのが、当時のわたしたちの気持ね。このままにしていると、わたしたちみんな殺されるという気持、どの人にもあったさ。蜂起して、失敗しても、もともとさ。どうせ、一ヵ月か二ヵ月すれば、自分にも殺されるの当たるの、確実でしょ。生き残れる道、一つもないからね。日本まもなく敗けるのわかっていたら、もっと我慢して待っていたよ。中山寮に新聞もラジオも、なんにもないから、戦争どうなっているか、ぜんぜんわからないでしょ。新しく中国から来た人たちの話聞くと、日本の戦争、かなり苦しくなってることわかったけど、一ヵ月半の後に敗戦になるほど敗けてきていること、わたしたちぜんぜんわからないでしよ。死んでもともと、生きるには蜂起するよりほかになかったさ。


 劉 
わたしは看護班にいたから、その蜂起のこと、相談されたことなかったけど、一度でいいから、早く中国に帰りたい気持、誰にもあったね。病室で死んでいく人たちのほとんど、最後に、中国に帰りたいとか、母とか、妻、子どもの名前よんで、息引きとっていったからね。


 李 
いちばん最初に、蜂起の計画を相談したの、大隊長の耿譚でしよ、それに趙樹林、李克金とわたしの四人だったの。みんな劉沢玉の殺されるの見た、中隊長と小隊長たちね。相談するとしても、たいへんよ。昼は、とてもできる相談じやないでしょ。話してるの見つかるだけで、殴られるからね。劉さんの殺された日の晩、仕事から帰って、饅頭一つの夕食終わって寝たでしょ。夜中に、何回か補導員がまわってくるね。そのまわってくるの終わって、次にまわってくるまで、四人で大隊長のところに集まったの。そこで、蜂起すること決めたの。この計画、補導員たちに洩れるとたいへんでしょ。はじめから、多くの人に、話拡げないようにしたの。補導員まわってくるから、あまり長い時間、相談もできないでしょ。ちょっと集まって、相談するでしょ。こんど、便所に立ったふりして、また自分のところにもどって寝るでしょ。そんなこと、ひと晩に何回もやって、だんだんと相談固めていったの。計画かなり固まってから、口の固い人にだけ、またこの計画の話拡げていったの。蜂起の計画に参加したの、8入だったよ。あとの人たち、このことぜんぜん知らないさ。蜂起する晩になってから、全員に知らせたわけね。


 林 
わたしたちに知らされたの、蜂起の晩の9時ころだったからね。はじめはビックリしたけど、みんな、すぐその気になったからね。


 李 
計画の中で、わたしたちどうするか、詳しく決めて、その担当も決めたの。近くに、朝鮮の人たちの入ってる、東亜寮というのあったの。その寮のこと、知っている人多いよ。アメリカ兵のいるところは、知らない人多いね。アメリカ兵いることわかっていたし、だいたいの方角も見当つくが、場所は知らない。最初の計画から、わたしたちだけでなく、東亜寮の朝鮮人やアメリカ兵も解放して、一緒に立ちあがるのこと決めていたの。わたし、中国でゲリラの経験あるでしょ。からだ強くて、ゲリラの経験あるの70入ばかり連れて、東亜寮とかアメリカ兵のいる寮の日本人襲って、武器とりあげて、解放した人たち一緒に連れていく計画だったの。確か劉錫さんだったか、彼は20人くらいの同志連れて、花岡の警察派出所襲って、武器奪うことにしていたの。武器がいくらかあるの、知っていたからね。わたしたちの手に、武器ぜんぜんないでしょ。蜂起しても、武器ないと、なんにもできないでしょ。わたしたちだけで、800入くらいでしょ。それに、朝鮮人が300人くらい、これにアメリカ兵たち入れると、1,300人くらいになると考えたの。これに武器あれば、たいへん力になるという計画だったの。夜中に蜂起して、山の中に逃げるわけね。食糧も倉庫から持っていくから、当分食べられるでしょ。皆で山の中を逃げて、海に出るの。海の港か浜に、ボートか船あったら、それ盗んで乗り、中国に帰りたいと考えたの。それだけわたしたち、中国に帰りたかったの。わたしたち、かなり詳しく計画したよ。宿直室に寝てる補導員を襲う人たち、窓から逃げる人を待ち伏せする人たち、電話の線を切る人など、みんな決めたの。


 劉 
わたしたち看護人に伝えられた仕事、全員が蜂起したの見て、山に病人を運ぶことだったさ。


李 
病気とか怪我の人たち、たくさんいたからね。計画どおりみんなやってから、中山寮に火つけて、焼くことにしていたの。計画できて、実行することになったでしょ。わたしと張金亭さんの二人、その日、仮病使って休んだの。腹痛くて、仕事に出られないといってね。昼の間に、寮の中とか、事務所の様子など、二人で詳しくさぐったの。そしたら、補導員の中でもいちばん悪いの小畑と福田が、その晩は家に帰ることになっていた。それに、わたしたちによくしてくれる越後谷さん、この晩は泊まりに当たっているのわかったの。いい人は、殺されないでしょ。夜中に襲うと、どの人かわからないから、殺してしまうかもしれないからね。計画に参加した人たち、飯場に帰ってきてから、そのこと相談したの。やはり、そのことダメと決まったの。こんど、蜂起のする日、6月30日の深夜に延期したの。誰の気持も同じね。わたしたちによくしてくれた人、殺されないからね。6月30日の日も、わたし仮病使って休んだけど、その日、誰か補導員の一人来て、「お前、仮病使っている」と、寝ている上から、どんどん叩かれたけど、吐くの真似して、寝ていたの。30日の晩、越後谷さんともう一人の石川さんの二人、寮に泊まらないことわかったの。あとの補導員とか通訳たち、みんな寮に泊まることわかったでしょ。この日よりないと、この晩に蜂起すること決めたの。だけど、早く知らせると、どこから洩れるかわからないでしょ。蜂起する直前まで、秘密にしておいたの、いつものように小さい饅頭食べて、みんなでシラミ取りしたりして、寝る時になってから、中隊長や小隊長が自分の部下に、蜂起のこと伝えたの。その時の時間、
もう9時すぎていたと思うよ。


早すぎた蜂起

李 
蜂起のことみんなに伝えてからまもなく、小畑が見回りに来たの。戸開けて入ってくると、大きな足音たてて、部屋のなか回って、出て行ったね。わたし、身動きもしないで黙っていたけど、からだ汗ビッショリさ。蜂起の計画のこと、バレるのじやないか、誰か小畑の前にとび出して、蜂起のこと知らせるのではないかと思って、ピクピクしたよ。それから11時までの時間の長いこと、たいへんよ。からだ疲れてるけど、眼冴えているでしょ。眠ること、とてもできないさ。あまり部屋の外に出ると、あやしまれるから、ダメでしょ。寝ながら、いろいろのこと考えたさ。もう死ぬかもしれないからね。でも、わたしたち中国人に ひどいことばかりした補導員たちに、まもなく復讐するのことできるから、死んでも残念だという気持、あまりなかったね。ただ、一度中国に帰りたいの気持、これ、強かったさ。


林 
わたしのいる看護棟の病人とか、わたしたち看護班が蜂起のこと知ったの、看護長の劉玉林が知らせてくれてからのことね。病気の人たち、劉さんの話、黙って聞いていたね。補導員の奴らに、もっともひどい仕打ちされたの、病人たちだからね。それなのに、自分の手で仕返しのできないこと、残念なわけね。みんなの気持、蜂起うまくいってくれと、祈るようだったさ。蜂起はじまると、みんなで助けあって、山に逃げていくこと、わたしたちにきた命令ね。


劉 
蜂起の計画知らされてから、怪我の人、たいへんだったさ。傷口とか折れた手足とか、ちゃんとしておかないとダメでしょ。だけど、包帯もぜんぜんないでしょ。こんど、わずかに残っている着物さいて、包帯つくったの。だけど、準備してるのこと、補導員に見つかると、たいへんだからね。かくれて、少しずつやったの。


李 
夜中の11時ころ、わたしたちこっそり起きると、それぞれの部署につく人たち、起こして回ったの。どの人もみんな、目だけギョロギョロさせて、目覚ましたまま寝ていたね。自分の担当するの場所、みんな決まっていたけど、もう一度、確認して歩いたの。わたしは蜂起がはじまる前に、中国にいた時にゲリラの経験のある人70人ばかり連れて、東亜寮の近くまで行って、蜂起の起こるの待っている予定だったの。蜂起はじまると、すぐに日本人の監督襲って、朝鮮の人、解放することになっていたでしょ。ところが、わたしたち70人ばかり集まって、東亜寮に向かおうとしていた時、寮の中で、ギャアという大きな男の悲鳴聞こえてきたの。わたし、ビックリして寮の中に入ったでしょ。もう、任鳳岐が殺されているの。張金亭が早まって、事務所とか宿直室の窓口とか、その他の部署にみんながつかないうちに、任の奴を殺してしまったわけね。いま考えると、張の気持もわかるさ。蜂起の時間がくるの、いまかいまかと、居ても立ってもいられない気持ね。それで、我慢できなくて、手を出してしまったわけね。だけど、計画より早く、任が殺されたでしょ。その悲鳴、あまりにも大きかったわけでしょ。寝ている補導員たちに聞こえて、逃げられるとたいへんでしょ。寮の中暗いのに、計画よりも蜂起早まったものだから、みんなあわてたわけね。手にスコップとかツルハシとか持って、勝手に宿直室にとび込んでいったの。だけど、逃げるのに備えて、宿直室の窓の外を囲むことになっていた人たち、まだ部署についていなかったわけね。しかも、宿直室の中、暗いでしょ。誰がどこに寝ているか、ぜんぜんわからないからね。あとでわかったけど、このとき、宿直室の中で殺しだの、檜森と猪股の二人だけね。あとの人たち、みんな窓から逃げたの。それを追いかけて殺したの、長崎と小畑だけさ。あとの補導員たちに、逃げられてしまったわけね。生き残った福田、これいちばん悪いね。清水も助かったさ。いちばん悪いのことした補導員たち、殺せなかったわけね。計画より早く、やってしまったからさ。こんど、それからがたいへんだったさ。逃げた補導員たち、すぐ会社とか、警察に走っていくでしょ。それから大騒ぎになること、わかっていたからね。計画より早くやったために、アメリカ兵とか朝鮮人の解放もダメ、警察を攻撃することもできな
かったし、寮に火つけることも、やれなかったさ。食べ物も、つくる時間なかったからね。最初の計画ちょっと狂っただけで、みんなダメになってしまったの。


林 
わたしたち、中山寮から離れた看護棟にいたでしょ。蜂起のあるの、いまか、いまかと待っていたさ。待っている時間、長いわけね。我慢して、心を落ち着けて、待っていたさ。

夜中になって、寮の方で人の叫ぶ声したでしょ。それからたくさんの人が叫ぶ声とか、ガラスの割れる音とか、板が破れる音とかするね。劉さん、起きあがると、ランプに火つけたでしょ。みんな、起きあがったね。計画だと、補導員たち殺してから、食べ物たくさんつくり、それ食べてから持っていくことだったから、あまりあわてなかったの。時間があるからね。

だけど計画失敗したのこと、知らせてきたでしょ。食べ物つくる時間ない、すぐ山に逃げろと、知らせがきたでしょ。はじめの計画だと、50人ばかりいた病人たち、みんなで手分けして、一緒に連れて行くことだったけど、このことできなくなったわけでしよ。早く逃げないと、警察やってくるというので、起きあがれる人たち、我慢して起きて、病室から出たの。

起きあがって歩けない人たち、入口まで這い出してきたね。這うこともできない人たち、「待ってくれ」「ぼくも連れていってくれ」と、病室の中で叫んでるの。わたしたち何人かの看護人、歩けない人たち助けたり、背負ったりして病室の外に出たけど、重病の人多いでしょ。とても、みんな連れていけないの。寮の人たち、バラバラになって逃げ出していくの、暗い中で見えるでしょ。わたしたちも、気がせくわけね。早く逃げていきたい気持、誰でも同じさ。

計画だと、看護棟にも火つけて、焼くつもりだったの。だけど、動けない重病人たち、病室の中に残っているから、焼くのことできないでしょ。そのままにして、逃げたの。看護棟のそばに、水の流れる小さな川あるさ。その川が流れてくる山に、逃げ出していったの。外は暗いでしょ。どこに逃げていけばいいのか、ぜんぜんわからないからね。


李 
計画失敗したものだから、逃げた補導員たち、すぐ鉱山町に走ったでしょ。寮の中の人たち、まだ半分も逃げないうちに、下の方で警報のサイレン鳴ったり、半鐘鳴ったりするの、聞こえてくるでしょ。鉱山町の中で、電灯とかたいまつの明り、激しく動くの見えるの。

そんなこと見たり、聞いたりすると、早く逃げたいという気持、強くなってくるね。不安も出てくるでしょ。みんな、どこに逃げていくというあてもなく、走り出してしまうわけね。

それに、武器もぜんぜんないでしょ。何人かの人、スコップとかツルハシ持って逃げたけど、それもわずかな人たちね。重いから、走る途中で捨てた人、ほとんどさ。食べる物持った人も、何人かいたけど、それもわずかね。ほとんどの人たち、手ぶらで逃げていったの。暗いから、どこに逃げていけばいいのか、わからないわけね。中山寮からかなり離れたところに、高い山あるの、前から見て知っていたでしょ。暗い中で、その高い山だけ、ちゃんと見えるわけね。その山のかげに逃げれば、遠くまで逃げられると考えていたから、その山に向かって逃げたの。何人か先になって走ると、その後についてみんな走っていくわけね。田んぼとか鉄道とか越えて逃げたその山、岩とか本とかいっぱいあって、ひどいさ。暗いから先見えないし、あわてて逃げるから、岩にぶつかったり、木にぶつかったりして、手からも足からも、血が出るわけね。それでも、ぜんぜん痛いと思わないの。早く遠くへ逃げていきたい気持で、どの人も夢中だからね。この山の名前、後になって聞いたけど、獅子ヶ森というところね。これ覚えたの、ずっと後のことさ。


林 
わたしたち病人と一緒だから、そんなに走れないでしょ。あっちの谷のぼる、こっちの山のぼるでしょ。坂ころがり落ちたり、本にぶつかって倒れる人多いの。だから、長い時間歩くと、みんなバラバラになってしまったさ。病室からいくらか外に出て、あとはそのままという重病の人も、わりに多かったよ。


李 
いま考えると、もっといい逃げ方あったね。いまになると、そのことよくわかるけど、あの時はべつね。獅子ヶ森という山、わたしたち逃げていく目標でなかったけど、どこに逃げていけばいいのかわからないから、見える高い山を目標にしたわけね。はじめに計画した時、どの方角に逃げていくか、ちゃんと決めていたの。だけど、はじめの計画狂ったでしょ。先になって、みんなを引っぱっていく人、いなくなってしまったさ。みんなバラバラに逃げたから、どうにもならないよ。それでも、かなり遠くまで逃げた考えでいたけど、朝が来て、あたり見えてくると、わたしたちたくさんの人がのぼっている山のすぐ下に、家があるわけね。花岡鉱山も、ちょっと遠くの目の前に見えるさ。ぜんぜん遠くに逃げていないわけね。それに、夜明けると、もう警察とか、消防団の人とか、いっぱいの人たち、わたしたちのいる山を取り囲むようにしているのが見えるの。夜、明けると、わたしたちのからだ、もうふらふらね。骨ばかりにやせて、食べ物少ない毎日だったでしょ。そのからだで、ひと晩寝ないで、歩きつづけたわけでしょ。もう、腹の中になんにも入っていないさ。空腹になっても、山の上だから、飲む水もないの。これだから、戦いになっても、どうにもならないよ。山に来た時、もう膝ガクガクして、動けなかったからね。食べ物あったら、もっと遠くへ逃げられたけど、そんなものないから、とても無理ね。戦ってすぐに負けるの、わかっていたの。


拷問の明け暮れ

林 
夜明けても、わたしたち病人と一緒だから、ぜんぜん遠くへ逃げられないわけね。わたしも、看護棟からどれくらい逃げたかな。いくらも離れていなかったさ。朝が明けたころ、警察の人が来て、わたしたち看護班を捕えたね。疲れてるから、戦うのことぜんぜんできないよ。わたしたち捕えられると、二人がひと組に縛られて、トラックに乗せられたさ。病人は逃げることできないから、そのままね。病人たち、山からまた病室に運ばれたの、いつのことかわからないよ。わたしたち乗せたトラック、花岡派出所の近くに、大きな鉱山の劇場あるでしょ。その劇場の前、砂利敷いた広場ね。その広場に降ろされたの。縛られたまま砂利の上に、正座させられたから、足とか嬬痛いよ。この広場に連れてこられたの、わたしとか劉さん、いちばん最初ね。坐らされると、手拭で目かくしされたでしょ。目かくししたの、わたしたちの首、斬り落とすためかな思ったね。その方が、叩き殺されたり、食べ物なくて餓え死にさせられるより、ずっと楽だと思ったさ。こんな苦しいのことイヤだ、早く死にたいと思っていたから、死ぬのこわくなかったさ。


 李 
岩山に集まったの、何人いたかな。少なく見ても、300人はいただろうかね。何力所かに固まっていたけど、どの人も、動けないほど疲れているね。食べる物ぜんぜんないでしょ。太陽高くなってくると、暑いでしょ。みんな、動くこともできないさ。わたしたちのいる岩の山囲んで、警察とか消防団とかの人たち、いっぱいいるの見えるでしょ。人乗せたトラック、どんどん走ってくるでしょ。どうなるのか、だんだん心配になってくるでしょ。朝だいぶ進んでから、警察とか消防団の人たち、いっせいにわたしたちのいる山に登ってき
たね。みんな、鉄砲とか、日本刀とか、竹ヤリとか持っているでしょ。わたしたちの中で、武器持っている人、誰もいないさ。こっちが負けるのこと、確実にわかるからね。それでもわたしたち、鉄砲とか日本刀持って、山登ってくる人たちに、石投げたり、棒きれふったりして戦ったさ。でも、かなわないわけね。鉄砲でうたれたり、日本刀で斬られたりで、何人もの人たち、山の上で殺されたね。こんど、捕えられるでしょ。二人が一組に縄で縛られて、山から下って、花岡の劇場の前まで歩かされたの。トラックに乗せられた人もいたけど、トラックの数少ないから、歩かされた人多いよ。わたしたちのこと見た農家の人とか、鉱山の人たち、石投げてきたり、ツバ吐いてよこしたりするの。なにか大声で言ってるけど、その意味わからないよ。だけど、蜂起のこと、怒っていることだけは確かね。劇場の前に着いたでしょ。ふらふらで、倒れた人もいたよ。こんど、二人一組に、背中合わせに縛られて、砂利の上に坐らされたの。ちょうど、真夏でしょ。食べ物もくれないし、水もないでしょ。目の前ぼんやりして、なんにも見えないほど、ふらふらになったの。でも、二人が一緒に縛られとるでしょ。一人ふらふらすると、二人とも倒れてしまうの。すると、警官とか憲兵が走ってくると、そのこと悪いといって、棍棒で頭とか背中を、パンパンと叩ぐの。二人一緒だから、坐らされても疲れるわけね。それに、一人のひと弱っていると、二人とも倒れるから、叩かれることも多いわけね。


 劉 
昼ころになると、真夏の太陽、ジリジリと照りつけるからね。前の晩、小さい饅頭一つ食べただけで、ひと晩、田んぼの中走ったり、山登ったりしたわけでしょ。もう、誰の腹の中にも、なんにも入っていないさ。しかも、暑い太陽、まともに受けているからね。砂利の上に坐るから、脚が痛むさ。少し動くと、梶棒とんでくるでしょ。地獄よりもひどいところさ。


 林 
いちばん苦しいの、水飲みたいことね。口の中とか喉、ピリピリ痛むよ。「水ほしい」「水ちょうだい」と、何人もの人たち言ったよ。そのこと言うと、何か大声で叫びながら、棍棒とんでくるの。いま考えても、よく生きていたと思うよ。憲兵の中で、ひどい人もいたよ。水飲みたい言うと、桶に水汲んで、わたしたちのそばに持ってくるでしょ。その水、ヒシャクに汲んで、目の前につき出してよこすの。飲みたいでしょ。うしろに縛られている人を引っぱって、顔を近づけていくわけね。すると、その水の入ったヒシャク、だんだん遠くしていくの。こんど、倒れるでしょ。そのこと悪いと、また棍棒とんでくるわけね。最後にその水、目の前の砂利にあけたり、頭にふっかけたりするの。水、頭から顔に伝わって、流れるでしょ。その水、舌を出してなめるの。そのことおかしいといって、みんなで笑うの。あんなことやる人に、人間の心ないよ。日本の人、ひどいことばかりするの多いね。


 李 
劇場の前、引っぱられてきた人で、だんだんいっぱいになってきたでしょ。そのわたしたちのこと見ようと、女の人とか、子どもとか、たくさん来たね。何か大声で叫んで、わたしたちの顔に、ツバ吐いて、帰っていく女の人もいたよ。子どもの中には、わたしたちのいるところに来て、顔とか腕とか、叩いて歩くのもいたよ。遠くから、石投げてよこす女の子どももいるね。わたしたち縛られてるから、そんなことされても、よけることできないよ。黙って、睨みつけているだけね。こんど、二日目になって、生死のあいださまようようになると、睨みつけることもできないさ。されるがままの状態ね。


 林 
砂利の上に、三日二晩も坐らされていたけど、食べ物とか水、ぜんぜんぐれないの。夜になっても、横になって、寝ることもできないの。四日目になって、スイトンみたいなもの、お椀にたった半分だけ出たね。いま考えても、生きていたこと、まったく不思議ね。みんな、疲れと空腹で、ふらふらしているでしょ。倒れる人、多くなるわけね。どうにもならなくなって倒れると、そのこと悪いといって、棍棒で叩かれるから、死ぬ人多くなるわけね。死んでも、そのままにしておくよ。二人一緒に縛られとるうち、一人死んでもそのままにしておくでしょ。わたしの背中に縛られた人、名前も誰かわからないよ。からだの弱い人だったわけね。劇場の前に引っぱられてきた日の夕方、もう死んだよ。死んだ相手のからだ、だんだん固くなってくるでしょ。すると、重くなっていくの。一人でもたいへんなのに、死んだの人ひとり背負っているのだから、苦しいさ。こんど、次の日になると、死んだ人、だんだん臭いしてくるの。重くて、臭いしてきて、どうにもならないよ。こんど、晩になるでしょ。犬とか、猫とか、何匹も集まってくるの。死んだ人の足とか手とか、食べようとするの。食べるもの奪い合って鳴いたり、骨を噛むの音、夜中になると聞こえてくるの。生きてる人にも、かぶりついてくるの。わたしの膝にも、爪かけてきた猫いたけど、追うにしても、声出ないよ。疲れて、からだぜんぜん動かせないさ。わたしは食べられなかったけど、あとで聞くと、食べられた人もいたわけね。地獄よりもひどいところだったさ。


劉 
わたしたちのからだ、裸のような状態だからね。昼は暑いし、こんど、朝方は寒いでしよ。寒くて、からだがカタカタさ。これじゃ、なにをされなくとも、死んでしまうさ。


 李 
わたし、劉さんとか林さんみたいに、劇場の前に坐らされたの、半日くらいのことね。わたしたち捕えられて、連れてこられると、すぐに言ったの。蜂起のこと、わたしたち計画した、わたしたちの手でやった、ほかの人たち関係ない、早く寮に帰してほしいとね。わたしたちリーダー13人、すぐに花岡派出所に連れていかれたさ。ほんとは、計画に参加したの8人ね。だけど、あとの5人、わたしたちのちょっとした不用意のために、リーダーの中に入れられたの。8人はみんな、もう覚悟決めてるからいいけど、あとの5人、泣いてるよ。わたしたち関係ない、殺されるのイヤだと。その人たちの気持、よくわかるね。自分たちで計画したことでないからね。わたしたち、あとでそのこと何回も言ったけど、警察で認めてくれないよ。わたしたち13人のほかに、中心になった人、まだいるかと、ほかの人たち拷問にかけて、聞いたわけね。からだとか、ズボンとかに、いくらか血のついてる人いるでしょ。すると、その人、日本人殺した犯人でないかと、拷問にかけるの。リーダーになった人たち、
必ず殺される、生きられると、誰も思っていないからね。


 林 
病人でも同じだったさ。自分で転んで、傷つけて、血流してる人いるでしょ。その人、補導員のこと殺した人かもしれないと、劇場の中に連れていくの。劇場の中、拷問にかける場所ね。何時間かたって、劇場の中から運ばれてくるでしょ。もう動けないね。病人のひと拷問にかけるのだから、当然ね。劇場の中から、死んで出てくる人もいたね。劇場の中、どんなことあったか知らないけど。


 李 
わたしたち13人、花岡の派出所に入れられたでしよ。こんど、どんな計画して、誰と誰が補導員たち殺したか、詳しく自白させようとしたの。だけど、誰もそのこと、詳しく言わないの。どの人も、わたしたちみんなでやった、あとの人たち、ぜんぜん関係ないと言うだけでしょ。こんど、調べてる警官たち怒ってね。一人ひとり、劇場の中に連れていくの。天井の高い、がらんとした劇場ね。人った時に、とうとうここで殺されるのかと思ったよ。劇場の中に入るでしょ。何人かで、ビンタンくわせるの。わたしたち、立ってもふらふらの状態でしょ。一つビンタンくうと、もうその場に倒れるさ。倒れると、また立だされるでしょ。するとまた、ビンタンとんでくるの。そんなこと、何回もやらされるでしょ。それでも、誰も自白しないでしょ。こんど、長い木の腰掛けあるでしよ。その腰掛けに、仰むけに縛りつけられるの。それから、桶に水汲んできて、口と鼻から注ぎ込むの。苦しくて、息もつけないでしょ。からだ動かそうとしても、縛られとるから、動けないでしょ。「苦しい!」と叫ぼ
うとしても、口とか鼻に水いっぱい入ってるから、声出ないでしょ。また、そんな元気もないから、気を失ってしまうわけね。ところが、気失ってしまうと、こんど、腰掛けを逆さに立てるの。頭が下になるでしょ。すると、からだの中に入った水、こんど、口や鼻から出るでしょ。水出ると、わたしたち息を吹き返すわけね。その時の苦しいこと、とても言えないよ。ひと思いに殺してくれと、何度も叫んだよ。声にならないけどね。息を吹き返すでしょ。すると、また腰掛け水平にして、口と鼻にまた水を注ぎ込むの。気を失うと、また腰掛け逆立てにするでしょ。こんなこと、三回もつづけてやられると、もうダメよ。自分の力で、派出所まで歩いて帰れないよ。リヤカーに乗せて運ばれて、留置場の中に放っぽり出されるの。わたしだけでなく、13人、みんな同じことやらされるでしょ。でも、8人の誰も自白しないでしょ。5人は関係ないから、わたしじゃないと叫ぶだけね。こんど、次の日になると、また、劇場の中に連れていかれるの。こんどまた、なにをされるかわからないから、恐いさ。

 通訳来て、みんな白状しろ、許してやるからと言うでしょ。だけど、ひと口も言わないでしょ。こんど、太い注射器持ってくるの。桶の中の水、その注射器の中にいっぱい入れるでしょ。ハシゴの上に、わたしのからだ縛りつけて、その注射器腹にさして、水を腹の中に入れるの。何度もやると、やせてへこんでる腹、丸くふくらんでくるの。誰か靴のまま腹の上にあがって、腹の上ではねて、ふくれた腹ふむの。すると、口とか耳とか鼻からとか、腹の中の水、ふき出してくるの。その時の苦しいこと、たいへんよ。このこと、四回も五回もやらされるでしょ。それでも、誰も自白しないでしょ。こんど、天井から垂してある針金に、両方の親指縛りつけて、その針金を、上に巻き上げるでしょ。からだ宙吊りになると、こんど、尻でも脚でも、棍棒でめちゃくちゃに殴るの。痛いから、ぶらん、ぶらんと動くでしょ。親指の皮、べろっと抜けて、からだ下に落ちるの。そのとき、ほとんどの人、気絶してしまっているけど、まるで、犬か猫みたいな扱い方されたね。


生き地獄の毎日

 林 
わたしたち共楽館の前の広場に、三日二晩いたけど、食べ物も水も、ぜんぜんないでしょ。一日に一回は、共楽館の中に引っぱられて、お前、暴動に参加したろ、人殺したろと、拷問受けるでしょ。わたしそのこと知らない、わたし関係ないと言っても、信用しないの。嘘つくなと、殴る、蹴るをつづけるわけね。共楽館の中で死んだ人、建て物のわきに運んできて、積んでおくよ。三日の間に死んだ人、何人いたかな。いっぱい積んであったさ。20人くらいはいたね。広場でも死んだ人多いね。昼も夜も、あっちこっちで死ぬよ。昼は死ぬ人わかるけど、暗い時は、誰死んだかわからないよ。朝になって、明るくなると、死んでる人見えてくるの。あっちでも、こっちでも、死んだ人見えるわけね。死んだ人も、そのまま広場に捨てられてあるでしょ。朝になるでしょ。ハエがいっぱい飛んでくるの。死んだ人の口とか目とか、ハエがついて黒くなっているさ。そのハエこんど、生きてるわたしたちの口とか鼻にも、飛んでくるでしょ。わたしたちのこと、死んでいると思っているわけね。いま思うと、ハエも区別つかないほどになっているわけね、生きとる人か、死んだ人か……。それくらい、生きとる人もひどくなっていたわけね。


 李 
わたしたち13人、ひどい拷問受けたけど、殺そうとしなかったね。憲兵とか、警官たち言うに、お前たち日本人殺した、裁判にかけて死刑にする、それまで、殺さないで生かしておく、というようなこと、わたしたちに言うの。わたしたち、日本語よくわからないから。それでも、同じこと何度も言われるから、言ってることの意味、わかってきたけどね。いま考えても、あんなにされて、生きていたの、不思議なくらいね。わたしたち13人、花岡派出所の留置場に一週間ほどいたけど、一日に少ない時で三回、多い時だと五回から六回
も、共楽館の中に引っぱり出されて、いろいろな方法で拷問受けた。わたしたち8人が責任者、わたしたち計画した、日本人も殺したこと、何回もしゃべってあるでしょ。だから警察の人たち、蜂起のこと全部、ちゃんとわかっていたわけね。それでも、留置場から引っぱり出して、殴ったり、叩いたり、水槽の中に水入れて、その水にわたしたちの首つかまえて、入れたりするの。もう、なにも言うことないでしょ。それでも、拷問するわけね。


 林 
わたしたち、砂利の上に坐らされて三日目になると、もう坐っているのことできないさ。みんな、いまにも倒れそうに、ふらふらしているさ。何日も、水もなければ、食べ物もないでしよ。舌も唇も、カサカサして、火がついたように熱いさ。夜中に、小雨があったの。両手縛られてるから、雨掬うことできないでしょ。顔流れてくる雨、舌出してなめるの。その雨のうまいこと。半分死んでいたのが、この雨で生き返ったわけね。わたしだけでなく、この雨で生きのびた人、かなり多いよ。四日目の昼ころ、スイトンみたいなもの、椀に半分配られて、それ食べたでしょ。こんど、スイトン食べてから、中山寮に帰ることになったの。

共楽館から中山寮まで、距離だいぶあるね。それに、坂道多いでしょ。縛られていた縄とかれて、歩けと言われても、立てる人いないよ。石ころの上に、三日二晩も坐ってたわけでしょ。膝とかすねに、大きな傷ついてるの。その傷の中に、砂利とか土とか、いっぱい入っとるでしょ。なんとか立っても、歩くと、こんど傷痛むの。平たいところだと、なんとか立って歩いたけど、坂道になると、とても歩けないでしょ。みんな這ってのぼったけど、膝とかすねの傷、石とか砂にぶつかるから、痛いでしよ。血が流れてくるの。痛いから、黙ってるでしょ。すると、早く歩けと、棍棒とんでくるの。泣いても、声出ないし、涙も出てこないさ。共楽館から寮まで行く途中に、死んだ人もいるよ。四日目に寮にもどって、次の日、わたしたち看護人に、共楽館の広場の屍体、片づけるように命令されたの。だけど、自分で動くこともできない人、ほとんどでしょ。どうやって死んだ人たち、山の上まで運んでくるのことできるね。


 劉 
あのとき、看護長もいないから、わたしと林さん、交渉したね。わたしたちの力で、運んでくることできないと……。このとき、殴らないで、そのことわかってくれたね。そんなこと、花岡に来てからはじめてのことね。それだけ、わたしたちの弱っているの、わかったわけね。こんど、わたしたちに、大きな穴、二つ掘らせたの。わたしたちその時、この大きな穴に、死んだたくさんの同胞たちの屍体埋めるのかな、それとも、わたしたちが殺されて埋められるのかな、と考えたね。穴できて、何日かあとに、朝鮮の人たち、広場から屍体運んでくると、大きな二つの穴に、たくさんの屍体投げ入れて、土かぶせたの。わたしたち看護班の人たち、同胞たちの屍体の上に、土かぶせたの。大きな二つの穴のほかに、小さな穴、もう一つ掘ったの。その穴の中に、任鳳岐をひとりだけ埋めろというの。わたしたちの同胞を食いものにした入、死んだ後も特別の扱いうけること、不満で仕方なかったけど、一人だけ埋めたよ。命令だからね。日本、戦争に負けてから、わたし三回ばかり、花岡鉱山に行ったよ。遺骨のことで行ったのだけど、二回目に行った時、日本の赤十字とか、東京の華僑総会の人たちとも一緒ね。大きな穴二つあって、その穴の中に、まだたくさんの骨残っているの。その骨拾って、水で洗って、干してから箱に入れたけど、これが広場で殺された人たちの骨ね。何日も、水も食べる物もなくて殺され、何十人も一つの穴に投げ込まれて、骨はバラバラに捨てられて、あまりかわいそうで、涙ばかり出たよ。


林 
わたしたち看護班は、次の日から働いたけど、ほかの人たち、二日目から仕事に出たの。仕事に出る朝、みんなを寮の前に集めて、共楽館の前で、わたしたちを拷問する時、指揮をとった三浦署長と、河野所長の訓話あったの。日本の通訳、そのこと、わたしたちに知らせてくれたけど、そのとき、耿太隊長以下13人の主犯たち、すでに死刑になっている、と話あったの。わたしたちそのこと聞いて、ビックリしたの。なかには、鼻すすりあげて泣く人もいたけど、いま考えると、李さんたちまだ、花岡派出所の中にいたわけね。そんな嘘言って、わたしたちのこと、脅したわけね。


劉 
わたしたちは次の日から働いたし、工場で働く人は、二日目から仕事に出だけど、食べ物の量、前よりいくらか多くなったほかは、なんにも変わったことないね。仕事はきついし、補導員のかわりに剣を下げた警官が監督につくようになっても、わたしたちのこと殴るの、前と同じね。蜂起する前より楽になったことぜんぜんないよ。


敗戦後も戦争状態

 李 
わたしたち、花岡派出所に入れられて何日目かな、こんど、通訳の于傑臣も投げ込まれてきたの。このとき、みんなビックリしたさ。夜中になって、見回りの人あまり来なくなってから、みんなで彼に聞いたの。蜂起の状態のことも、わたしたちぜんぜん知らなかったからね。わたしたち殺したの、檜森と猪股が寮の中で、小畑と長崎が寮の外で、あとの補導員たち生きていること知ったの。そのこと聞いて、みんなガックリしたね。こんど、大館警察署の留置場から、両手を前に縛られて、トラックに乗せられたの。どこに連れていかれるのか、ぜんぜん知らされないでしょ。銃殺される場所に連れていかれるのかなと、何度も考えたりしてね。トラックに長い時間乗せられて、大きな町の中とおって、こんどトラックが停まって蹴り落されたけど、そこが秋田刑務所だったの。于は秋田の刑務所に来なかったから、ぜんぶで13人来たわけね。


 林 
蜂起のあと、通訳は日本人がやっていたよ。于傑臣のこと、ぜんぜん見かけなかったから、蜂起のとき、殺されたのかと思ったよ。あとで、留置場から出てきて、わたしたちに日本の敗戦のこと、知らせてくれたけど、戦争終わってからも、いつ中国に帰ったのか知らないよ。わたしたちと、まったくべつに来た人だからね。


 李 
秋田刑務所の中で、わたしたち、一人ひと部屋ね。毎日、取り調べ受けたし、殴られることもあったけど、ご飯は三回あるし、蒲団あるし、ゆっくり眠れるし、刑務所の中、天国だと思ったさ。だけど、刑務所のご飯の量、ぜんぜん少ないの。ご飯の中味、大豆三分の一、麦三分の一、米三分の一ね。ぜんぶ食べても、ふた口か三口でなくなるよ。お腹の中、ぜんぜん感じないわけね。わたし、いつもご飯くるでしょ。こんど、箸で、椀の中の大豆一つ一つとって、数えながら食べるの。お椀の中に大豆、だいたい30粒ほど入っているの。

 大豆食べ終わると、こんどは麦を箸で拾って、これも数えながら食べるの。麦は、だいたい50粒ほど入っているね。大豆と麦食べると、米はいくらもないから、すぐ食べ終わるさ。なんにもすることないから、一日三回、こんな食べ方して、時間をかけていたさ。こんど、独房の中に、小さな窓あるでしょ。その窓見ながら、太陽どこまでくると、三回のご飯のくる時間、わかるようになったの。太陽の動くの見ながら、ご飯まだかなと、そのことばかり考えていたよ。だけど、お椀に半分くらいのご飯だと、すぐにお腹すくでしょ。便所に立ってもいけないよ。立つただけで、もう頭ふらふらするの。刑務所に来て10日ばかりたったある晩、わたし、夢見たの。中国で別れたままの兄弟とか、亡くなった母のことなど、みんな夢の中に出てきたの。刑務所の朝、早いでしょ。六時になると、みんな起きるの。ひとり部屋だけど、隣の人と、話しすることできるの。わたし、朝起きると、夢見たのこと、隣の人に言ったの。兄弟や母たち、夢の中に出てきた、なにか悪いのこと、なければいいがと…。そのあとですぐ、ご飯運ばれてきたの。いつもの日より、ご飯のくる時間早いの。これ、ちょっとおかしい、何事かある、わたしの夢当たったと思ったよ。ご飯食べると、たくさんの人来て、独房の戸のカギとって、わたしたち13人、みんな外に出されたの。ははあ、、、きょうはこのまま銃殺されて、いのちなくなる日かな思った。13人手錠かけられて、トラックに乗せられたの。わたしたち乗ったあとに、おにぎりも積んだの。わたしそれ見て、いよいよほんとだ、人殺すとき、腹いっぱい食べさせて殺すと、わたし聞いていた。いつか死刑にされると思っていたから、べつにこわくないけど、腹いっぱいに食べて殺されるのこと、いい気持と思った。トラックで遠くに運ばれて、人目のつかないところで殺される、そう思ったの。ところが、わたしたち降ろされたの、裁判所の前ね。裁判所の中で、わたしたち13人並んだでしょ。こんど、警察の人来て、わたしたちを片っぱしから殴っていくの。なんで殴られるのか、ぜんぜんわからないよ。裁判官たち、わたしたち殴られるの見ていても、なんにも言わないの。なかには、笑って見ている人もいるよ。この日、第一回の裁判あったわけね。はじめの時に、わたしたち、自分の国の住所とか家族の名前、どうして日本に連れて来られたか、ぜんぶ言ったの。ほんとのこと言って、通訳されるでしょ。わきに立ってる警察の人、嘘つくなと殴るの。嘘でないよ。わたしの言ってること、ほんとのことね。ほんとのこと言うと、殴られるのだから、どうしようもないよ。わたしたち言ったあとで、検事の人かな、わたしたち13人に言ったの。あんたたち、暴動起こした、何人もの日本人殺した、中国人の誰と誰が、日本人の誰を殺した、とちゃんと言うの。ときどき、中国語で通訳してくれるけど、よくわからないよ。でも、聞いてわかっただけでは、みんな嘘のことね。日本人の補導員殺したのことだって、誰がやったのか、わたしたちでもわからないよ。それを、誰と誰がやったことにしているから、おかしいわけね。第一回の裁判あってから、10日くらいたってからのことかな。夜中に、刑務所の上の空、たくさんの飛行機とぶ音聞こえるの。まもなく、すぐ近くで、爆弾の落ちる音とか、機関銃の音とか、聞こえてくるの。わたし中国にいた時、中国解放義勇軍のゲリラしてたわけでしょ。だから、戦争はじまっていること、わかるの。わたしたちにも厚い帽子くばられて、一人ひとりに、銃砲待った憲兵がついたの。戦争で日本が負けてきていること、ぜんぜん知らされていないでしょ。どこの飛行機来ているのか、どうして爆弾落とされているのか、わからないね。だけど、たいへんなことになっていることだけは、わかったね。看守の顔も、憲兵の顔も、ひどく変わっていたからね。その次の日か、二日後のことかな、刑務所の中に吊しているもの持ち去ったり、貼り紙を剥いだりしているの。いま思うと、このとき、日本は戦争に負けていたわけね。そのことかくして、わたしたちに教えてくれないから、日本の人たちなにをやっているのか、不思議だったよ。なにやっているんだろと、隣の人と話したけど、誰もほんとのこと、わからないよ。


 林 
中山寮にいたわたしたちも、同じだったさ。蜂起の時のムリが出たり、食べ物の量、前と同じに少ないから、病人どんどん多くなってくるの。看護棟の中いっぱいになると、寮の中にも、病人の部屋つくったよ。いま考えると、日本が戦争に負けてからも、同じように重労働させられ、食べ物も少ないから、中国人は毎日のように死んでいったさ。日本が戦争に負けてからでもさ……。8月ころから、鹿島組の人とか、警官たちの様子、かなり変わってきたことわかったけど、まさか、日本が戦争に負けたとは、誰も思わないからね。そんな
こと聞くと、殴り殺されることわかっているから、誰も聞かないからね。わたしたち、日本が戦争に負けたことわかったの、9月に入ってからのことだったさ。いつの日だったか、はっきり覚えてないけど、わたしたちの働いている頭の上、すれすれに飛行機とんできたの。それから、落下傘に大きな荷物つけて、いくつも、いくつも落としていったの。その荷物、同じ花岡鉱山に捕虜になってきている、アメリカ兵のものだってことわかったの。もう戦争終わったのこと、そのことでわかったの。それまでは、誰も知らせてくれなかったからね。


 李 
刑務所にいるわたしたちに、暦渡してくれないでしょ。独房にいると、ほかのこと見ることもできないから、きょう何日か、ぜんぜんわからないわけね。飛行機の爆撃あって、刑務所の中の貼り紙剥がされて、だいぶたってから、第二回の裁判開かれたの。このとき、無期懲役は誰と誰、15年の懲役は誰と誰と判決あったけど、わたしたち日本のことば、ぜんぜんわからないでしよ。ときどき、中国語で通訳してくれるけど、よく聞きとれないよ。こんど、刑務所に帰ってから、隣の人と話し合って、その隣の人また隣の人と話し合って、
死刑になったのは誰なのか、無期になったのは誰なのか、確かめ合ったの。耿太隊長一人が死刑で、わたしは確か、15年の懲役だったようだけど、はっきりしないの。このとき、判決あってから、裁判官言うの。この裁判に不服だったら、上告することできる日本の法律ある。上に上告するのこと、いっこうにかまわないと言うの。だけど、わたしたちその方法わからないよ。わたしたち弁護士いるのかどうか、ぜんぜんわからないからね。どうやればできるのか、相談する人もいないからね。


 林 
それ、ことばだけのことね。わたしたち、上にもっていったとしても、勝てるわけないでしょ。だいいち、もっていく方法知らないのだからね。上にもっていっても、簡単に負けるさ。そして、死刑か、懲役ね。


李 
あとで開いたけど、わたしたちの判決あったの、日本が戦争に負けたあとの9月になってからと聞いて、ビックリしたさ。だけど、正直言って、死刑になると思っていたから、15年の懲役と聞いて、軽いと思ったの。


後文省略〜


以上、日本が行った「労工狩り」中国人強制連行の記録よる被害者の証言を終わりますが、野添憲治・著「花岡事件の人たち」には政府と企業戦後処理、などが書かれています。現在を生きる私たちにとっては想像を絶する事件と、戦後処理のみすぼらしさや責任逃れなど、目を覆いたくなる恥ずかしさを覚えます。
http://kisarazu.org/?page_id=62

3. 中川隆[-12412] koaQ7Jey 2019年2月05日 19:43:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

看板を使い分ける西岡力の狙い 2011/11/11
https://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/43537126.html


 怪人二十面相でもあるまいに、時と場合に応じて活動家「救う会」会長、文化人「国際基督教大教授」の看板を使い分け、世論を欺いているのが西岡力さんである。

 北朝鮮に行った事も見た事も無いのに、安明進(元北朝鮮工作員、実は韓国情報部要員)とグルになって北朝鮮に行って見てきた様な嘘をついて家族会を欺き、産経などのマスコミや拉致世論を誘導してきたことは再三指摘したので、今では知る人ぞ知る公知の事となった。

 しかし、西岡さん、反省することを自虐的と心得てか、これまでの嘘について謝罪するどころか、知らぬ顔の半兵衛。手を変え品を変え世論を欺いている。

 拉致問題を人権侵害と憤慨し、家族会に同情している人々の多くは、西岡さんがもともと憲法や人権を軽視する戦前肯定的な国家主義的思想の持ち主であることは知らないだろう。

 知らないままに無意識の中で、拉致問題は「人権侵害」から「主権侵害」へと刷りかえられ、マインドコントロールされている。

 西岡さんの思想をはっきりと示すのが、産経新聞の雑誌『正論』12月号の妄想文「危険水位を超えた『慰安婦』対日謀略」である。

 都合の悪い反対意見を謀略、工作と言い換えて封殺しようとするのは被害妄想症の西岡さんの常套手段だが、同一文でも「韓国が日本統治下の『慰安婦』問題を蒸し返し、これまでになく深刻な状況に陥っている」として、その背景を分析ならぬ妄想している。
 
 周知のように韓国の憲法裁判所は今年8月、「韓国政府が日本に元慰安婦の賠償を請求する外交交渉をしないのは憲法違反」とする判決を下した。それを受けて韓国外交通商部は9月、2国間協議を日本に提起した。

 それに対して西岡さんは「1965年の日韓基本条約に伴う請求権協定で両国間の個人の賠償請求権は消滅している。韓国憲法裁判決は外交上の常識を否定する倒錯した論理」と、身勝手な理屈で噛み付いている。
 
 さらに「事態がここまで悪化したのは、支援団体などが『慰安婦は日本国が強制した性奴隷』という歴史の虚構を国際社会に蔓延させたことが背景にある」とし、持論の「従軍慰安婦は娼婦」を持ち出して、被害妄想的な反論をしている。

 「親北朝鮮左派勢力による息の長い反日・日韓分断謀略工作の結実だ」にいたっては支離滅裂、病気というしかない。

 さらに、「日本が事なかれ的に謝罪を繰り返し、慰安婦強制連行の虚構を放置してきたことが、謀略勢力につけ込む隙を与えてきた。虚構の排除策に早急に取り組むべきだ」と“提言”しているが、所構わず噛み付く狂犬かと、首を傾げたくなる。

 拉致問題で反対意見を「北朝鮮工作員」「反日」と排撃する手法とそっくりである。
 
 今の世の中、妄言は捨てるほどあるが、小賢しい西岡さん、「東京基督教大学教授」の肩書きを使って、「大学教授がそこまで言うのだから、何か根拠があるのだろう」と素朴に信じる人々を取り込もうとしている。

 歴史門外漢らの出鱈目歴史教科書を作った「つくる会」代表の藤岡さんも東大教授の肩書きを使ったから、名刺にもこれからは気をつけなければならない。

 問題は、西岡さんが「救う会」会長の肩書きを隠している、つまり、使い分けていることだ。

 詐欺師でもあるまいに、あれこれ使い分けながら人々をたぶらかすのはいただけない。
 
 拉致問題は人権侵害と憤慨する人々が、「救う会」会長が女性の人権を蹂躙する暴言を吐いていると知ったらどう思うだろうか。反発、黙殺、「拉致問題は主権侵害だから矛盾しない」と肯定する、の三つであろう。

 西岡さんの狙いは最後の肯定派育成であるが、一般的にはそれをマインドコントロールという。

 西岡さんが拉致問題に首を突っ込んだのは人権に関心があったからではなく、持論の国家主義的な主張に使えるネタと判断したからだとの指摘が以前から出されていたが、外れていない。

 捏造情報でも何でも使って拉致問題をこじれさせてきたのは、日朝友好を妨害する政治的な目的と結び付いているとみられる。

 彼らの邪な思惑に振り回され、無為に歳月を費やす愚はもう繰り返してはならない。
https://blogs.yahoo.co.jp/lifeartinstitute/43537126.html

4. 中川隆[-12411] koaQ7Jey 2019年2月05日 20:00:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

なぜ加藤正夫=西岡力氏は、原善四郎氏が関東軍第三課に在籍していた事実を隠した論文を書いたのか
By satophone, on 2016年2月20日
http://satophone.wpblog.jp/?page_id=160


「千田夏光が原善四郎氏とのインタビューを捏造したと言うデマの出所を検証してみる」
http://satophone.wpblog.jp/?page_id=237

では、このデマの出所が、西岡力氏であることを検証してみた。

要約すると「インタビュー捏造」の根拠は、原参謀が関特演時に、実際は関東軍第一課に属していたにも関わらず、第三課で兵站業務を担当していたと原氏が語ったと、千田が書いたと言うことだけ。

実際の千田夏光による原善四郎氏インタビューを読んで確認してほしい。原善四郎氏が、関特演当時、三課ではなく一課の所属であったことはマチガイないと思われるが、わずか一ケ所、一字の間違いである。加藤正夫氏が、このマチガイを根拠に一点突破を図り、千田が原氏にインタビューをしたことをも、ウソと決めつけようとしているのは確かだが、成功しているかどうかは全くの別問題である。

千田が架空のインタビューをでっち上げ、それを自ら加藤氏に認めたと言う内容の箇所は、加藤氏の論文には全くない。それらしいのは、以下の2つの文章である。

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以上のように千田氏が昭和十四年の”慰安婦二万人動員計画”があったと主張する唯一の根拠は、原参謀の証言なのだ。

ただし原参謀の名前を出し、語らせているが、具体的に直接に原氏がはっきり語ったようには書いてはいない。”慰安婦二万人動員計画”にしても、原参謀の口からは、はっきりと断言しているわけではなく、伝聞をまとめたような感じすらする。そこに逃げ道をつくろうとしているのかもしれない。(P54〜55)

千田夏光氏とは一九九二年二回、電話で”関特演”に際しての慰安婦婦動員計画を中心に質問したことがあるが、その時の回答で「慰安婦二万動員計画、には、私の書物(昭和四八年刊)より先の昭和四〇年に武蔵大学教授島田俊彦氏の『関東軍』(中公新書)という本がある。この本の一七六ページに慰安婦二万人動員計画が書かれており、それが私の説の根拠だ」と語っている。つまり千田氏の書物にはタネ本があったということだ。

島田氏の『関東軍』の問題の個所には「原善四郎参謀が兵 隊の欲求度、持ち金、女性の能力等を綿密に計算して、飛行機で朝鮮に出かけ、約一万(予定は二万)の朝鮮女性をかき集めて北満の広野に送り、施設を特設して営業させた、という一幕もあった」と書かれていた。

ただし島田氏のこの本にも、前後の書き方からみて伝聞内容を文章にした感じが強かったため、確かめたいと思って武蔵大学人文学科事務所に照会したが、明治四一年生れの島田氏はすでに故人となっていたというわけだ。千田氏の著書のもう一つの重大なポイントは原参謀が「たまたま関特演のとき兵站担当をやっていました。そう、通称で後方参謀と呼ばれる参謀です。関東軍司令部参謀第三課に属していました。でも当時のことはよく憶えていないのですよ」(一〇三ページ)といったように書いている点である。前述したように原参謀は関東軍司令部第一課参謀であるから、千田氏が実際に原参謀と会見して取材したとすれば「第三課(兵站担当)でした」という書き方にはならないということである。

ということは千田氏が原参謀から直接取材して書いたかどうかの点で疑問ありといわねばならない。原参謀はすでに故人であるので確かめようはないわけだ。(P60)

出典:千田夏光「従軍慰安婦」の重大な誤り/加藤正夫 現代コリア(1993年2・3月号)
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関特演が昭和十四年と書いてるところなどご愛敬だが、加藤氏自身が「原参謀はすでに故人であるので確かめようはないわけだ」と、はっきり書いてある。千田が電話で「捏造を認めた」のなら、それこそ加藤氏ではないが、こんな書き方になるはずがない。インタビューがはっきりと「捏造」であると言われたら、千田も対応のしようがあっただろうが、実際は以上のような曖昧な記述である。これが千田の死後、西岡力氏によって、千田が「インタビューの捏造」を加藤氏に認めたことになるのだから、スゴイ話である。

では、原氏は関東軍第三課に属していたことはなかったのだろうか。これが今回の話題である。加藤氏は時期の明記も注釈もなしに、大見出しでこう書いている。
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原参謀は第三課所属ではない(注:大見出し)

千田氏の”慰安婦二万人動員計画”には次のような問題点をあげることができる。

第一、千田氏の本では、原善四郎参謀について「関特演のとき兵站担当をやっていました。そう、通称で後方参謀と呼ばれる参謀です。関東軍司令部参謀第三課に属していました(一〇三ページ)と書かれているが、筆者が防衛研究所図書館の史料を調べたところ、原氏は昭和一四年八月一日〜一六年一〇月五日の”関特演”の時には、関東軍司令部第一課參謀、一六年一〇月六日〜一七年一月一一日は參謀本部兵站總監部參謀、一八年八月二日〜終戦までは、関東軍司命部第四課(対満政策・内面指導)参謀、つまり軍政面の担当であったことが判明した(「主要部隊長參謀・在職期間等調査表」「陸軍職員表其の一の二=方面軍以上の軍」)。

そこで千田氏の著書での「原氏が関東軍第三課参謀として関特演の際に慰安婦二万人の募集を朝鮮総督府に依頼に行った」との記述は問題となる。原参謀の経歴には関東軍司令部第三課というのはないからだ。(P55)

出典:千田夏光「従軍慰安婦」の重大な誤り/加藤正夫 現代コリア(1993年2・3月号)
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ここで加藤氏は、はっきりと「原参謀の経歴には関東軍司令部第三課というのはないからだ」と書いている。「原参謀は第三課所属ではない」というのは、関特演時に第三課所属ではないので、文書の流れからもセーフとしても、原善四郎氏と原参謀が同一人物なのだから、完全なマチガイである。原氏が関特演の2年前、つまり加藤氏が原氏の経歴として挙げている以前の期間、第三課に属していたことが、文書に記録されているからである。これはある方にメールでご教示頂いたのだが、まあビックリである。

国立公文書館 アジア歴史資料センター 

標題:関東軍司令部将校高等文官職員表 (昭和14年4月10日調)

閲覧するには、検索欄にC13070956100と入力するだけである。原氏は1939年(昭和14年)当時、第三課付の大尉であったことが分かる。原善四郎氏は、第三課に属していたことがあったのだ。しかも、原氏の上司は、驚くべきことに、村上元曹長の千田夏光宛の手紙で、村上氏の上司として言及されている、磯矢伍郎大佐である。

もう一度、整理してみよう。加藤氏がわざわざ防衛研究所の史料によって調べた原氏の経歴は赤字、加藤氏が紹介した以前の原氏の経歴を補足したのが、青字の部分である。ちなみに、一課で関特演時に原氏の上司であったとされる今岡豊氏が、第一課で兵站担当の参謀であったのは、1939(昭和14)年12月1日〜1943(昭和18)年8月2日までである(加藤論文による)。
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1928(昭和3)年 陸軍士官学校卒業(40期)、任官
1938(昭和13)年 陸軍大学校卒業(50期)
1939(昭和14)年(4月10日調べ)関東軍司令部第三課(大尉)

1939(昭和14)年8月1日〜1941(昭和16)年10月5日:関東軍司令部第一課参謀
1941(昭和16)年10月5日〜1942年(昭和17)年1月11日:参謀本部兵站総監部参謀
1943(昭和18)年8月2日〜終戦まで:関東軍司令部第四課(対満政策・内面指導)参謀

出典:千田夏光「従軍慰安婦」の重大な誤り/加藤正夫 現代コリア(1993年2・3月号)(P55)より
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ここで疑問になるのが、加藤氏は、第一課の参謀になる前に原氏が第三課に所属していた事実を、知っていて敢えて書かなかったのだろうかということである。

メールで指摘してくれた方は、「杜撰な調査だ」と慎重な姿勢だが、もちろん杜撰なことはマチガイないのだが、どうもこれは知っていて、敢えて伏せたと考えた方がいいのではないかと思う。

もともと、原氏が関特演当時、第三課ではなく、第一課に所属していた参謀だったと言うのは、加藤論文に登場する、関特演当時の原氏の上司であった、今岡豊氏からの指摘だろうと思われるが、それが現代コリアの西岡氏の耳に入り、記事の構想を立て、実際のアリバイ的な裏付調査を、第三者の加藤氏が担当することになったのだろう。

今岡氏は、関特演時の兵站担当は一課であったと、雄弁に加藤氏に語るが、逆に今岡氏は組織改編の経緯や原氏が三課から異動してきた経緯を知っていたはずである。おそらく、原氏が三課にいたことは、彼らは意図的に知っていて隠したのである。「原善四郎」ではなく、「原参謀」と書けば、確かに第三課に所属したことはないことになるのだ。


【追記1】2016.02.06 ————————————————————–
原氏の経歴については、第四課時代のアヘン取引との関わりを、

旧満州での兵士の慰安所証言集
http://satophone.wpblog.jp/?page_id=1414#furumi

で補足している。こちらも参照されたい。

(追記1.2の日付の方が記事の作成日時より古いのは、旧サイトから引っ越したため、本文を移動した日付が作成日付となっているためである)

【追記2】2016.02.06 ————————————————————–
ウィキペディアの「千田夏光」に以下の記述がある。

『従軍慰安婦正編』の中には原善四郎(関東軍参謀)に面会し、「連行した慰安婦は八千人」との証言を引き出したとの記述がある[3]。しかし、原の軍歴に間違いがあったため『正論』や『諸君!』で面会した事実に相次いで疑問が投げられた[4]。後に、千田は原の軍歴については、原と面会することなく確認しないまま他の書物を引き写したことを認めている[4]

「原と面会することなく確認しないまま他の書物を引き写したことを認めている」という文章の出典[4]として挙げられているのは、(加藤正夫「千田夏光著『従軍慰安婦』の重大な誤り」『現代コリア』1993年2・3月号、p55-6)であるが、加藤氏の論文にそのような記述は一切ない。

【追記3】2016.04.26 ————————————————————–
追記1の補足になるのだが、西岡氏が「原善四郎氏が第三課に属したことがない」と言い切っている文章があった。


ブログの方で書いた今後の予定の四番目の記事
http://satophone.wpblog.jp/?p=1856

で、触れている。

彼は20年以上も、いろいろな場所で、手を変え品を変え、ウソを垂れ流してきたわけである。
http://satophone.wpblog.jp/?page_id=160

5. 中川隆[-12410] koaQ7Jey 2019年2月05日 20:07:08 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

千田夏光が原善四郎氏とのインタビューを捏造したと言うデマの出所を検証してみる
By satophone, on 2016年2月20日
http://satophone.wpblog.jp/?page_id=237


ネット上で、千田夏光が「従軍慰安婦正編」に掲載した、原善四郎関東軍参謀へのインタビューについて、千田が実際にインタビューなどせず、捏造したものだと言う「珍説」が飛び交っている。

ウィキペディアの日本語版では、実際は千田は原参謀に面会してはいない、別の書物の記述をもとにあたかも自分が面会したかのような嘘を書いたと認めたと、つい最近まで書かれていた。

事実無根だ出典を示すべきと言う抗議を受けて、度々消されるのだが、シツコクいつの間にか記述が復活すると言う、滑稽とばかりも言っていられないような状況にある。この文章を書いている時点(2015.11.22)では、復活していないが、放っておいたら、いずれまたデタラメで埋まるだろう(追記:間違いでした。2015.11.22時点でもきっちり記述が残ってます)。

アマゾンの書評も酷い。私はレビューをアマゾンさんで書かせてもらってるのだが、昔は慰安婦問題関係でヘタなことを書くと、有象無象の方々から2chよりヒドイよってたかっての総攻撃を受けたもので、千田の本のレビューなど目も当てられないデマデタラメのオンパレードである。産経新聞などは、既に看板シリーズ記事の「歴史戦」で、千田を吉田清治と同列の人間というレッテルを貼ってしまっている。だが、これだけ無内容な記事を、堂々と掲載する産経ですら、ウィキペディアにも書かれている、この有名なインタビュー捏造「疑惑」については触れていない。さすがに、全国紙では記事にはできないと判断したのだろう。産経もまだ、文春やWILLよりは少しだけマシと言うところか。


ならばこのデマの大元は誰なのだろうか。

最初に千田が本当にインタビューしたのかと言う疑問を呈したのは加藤正夫氏である。

加藤氏はあの西岡力氏が当時編集長をしていた現代コリアに「千田夏光『従軍慰安婦』の重大な誤り(1993年2・3月号)」を発表、以下のような論点で、関特演時の朝鮮人「慰安婦」の大量徴発はなかったと言う主張を展開した。真面目に論じるのもなんなので、テキトーに要約してみるが、以下のような論点である。

(1) 関特演時の関東軍の兵站担当参謀は多忙であり、とても慰安婦集めなどに関っているヒマはない。

(2) 当時の満州では朝鮮人経営の遊郭が、多数営業していたため、改めて「慰安婦」を「調達」する必要はない。

(3) 関特演の際の大量の兵士や軍馬の動員は極秘に準備されたもので、慰安婦集めのような目立つことをするわけがない。

(4) 慰安所建設の予算など記憶がないと、当時の陸軍省の予算担当者(加登川幸太郎氏)と原氏の上司である兵站主任参謀(今岡豊氏)が証言している。

(5) 関特演は二カ月の作戦予定であったので、慰安婦は必要としなかった。

(6) 千田は日債銀(旧朝鮮銀行、現あおぞら銀行)に、総督府の「慰安婦」徴発資料があると主張しているが資料などない。

加藤氏は、以上のように主張し、千田が本当に原氏にインタビューしたのか、島田俊彦「関東軍」をタネ本にして架空のインタビューを本に掲載したのではないかと疑問を呈した。

上記の6つの論点については別項を設けて検討するが、「ではないか」と言う回りくどい言い回しが連発、まあスカスカの論文である。

加藤氏は、結論として千田の主張にはタネ本があったと非難しているのだが、千田は原氏のインタビューのきっかけが島田俊彦氏の「関東軍」であることを、「従軍慰安婦正編」中で公言しているので、単なる言いがかりである。

結局のところ、インタビューがなかったとする根拠はだた一つ。インタビュー中で、千田が原善四郎氏の経歴を、「参謀一課」ではなく、「参謀三課」と書いていたことである。

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千田氏の著書のもう一つの重大なポイントは原参謀が「たまたま関特演のとき兵站担当をやっていました。そう、通称で後方参謀と呼ばれる参謀です。関東軍司令部参謀第三課に属していました。でも当時のことはよく憶えていないのです」(一〇三ページ)といったように書いている点である。

前述したように原参謀は関東軍司令部第一課参謀であるから、千田氏が実際に原参謀と会見して取材したとすれば「第三課(兵站担当)でした」という書き方にはならないという ことである。

ということは千田氏が原参謀から直接取材して書いたかどうかの点で疑問ありといわねばならない。原参謀はすでに故人であるので確かめようはないわけだが。原参謀の直属上官今岡兵站主任も「私も第一課参謀であり、第三課は”教育全般”を行うところで、課長は青木一枝大佐であった」と筆者に証言してくれたので、千田氏が原参謀が語ったという「関東軍第三課参謀で兵站担当であった」という発言はありえないことといわねばならない。(P60〜61)

出典:千田夏光著「従軍慰安婦」の重大な誤り/加藤正夫 現代コリア(1993/2・3号)
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参考までに言うと、インタビュー中、千田が参謀一課を参謀三課と記述しているのは一ケ所だけである。では、原氏は関特演時に、兵站担当の参謀ではなかったのだろうか。それならば確かに話が通らないということになるが、加藤氏は上記の記述の前に以下のように書いている。

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その今岡氏も筆者に「当時の関東軍の組織は第一課が”作戦”、第二課が”情報”、第三課は”教育全般”であった。第一課長は田村義富大佐で、第一課の中に兵站、交通、通信が含まれており、私も第一課の兵站主任であった。私の部下の兵站担当参謀は原善四郎少佐など五名の参謀がいたが、兵站の仕事は作戦準備が主で、作戦軍がいかにすれば十分な作戦ができるかということが最大日標で、莫大な軍需物資を集めて、必要な方面に確実に届けることのために毎日多忙をきわめていた。しかも時間的、地域的にきわめて制約された仕事をしており、作戦第一を考えるのが精一杯であった。原参謀は朝鮮軍との連絡の仕事もあって、朝鮮軍とは平時から密接に連絡し、特に兵站面での連絡は行っていたかもしれないが、朝鮮継督府に慰安婦の件を依頼に行くなどはなかったのではないか。慰安婦二万人動員計画、などは私は聞いていない。一万人の慰安所設備は莫大な予算が必要だが、そのようなものは私は知らない。今聞いてビックリしている」と述べていた。

今岡兵站主任の話から考えても、千田氏の書いていた「慰安婦二万人動員計画」があったとか、後方担当、兵站関係の仕事が、あたかも関特演、で増員された兵隊のための慰安婦集めにあったかのような書かれ方をしている点には大きな疑問がある。(P56)

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文中の今岡氏とは、当時、関東軍参謀一課の兵站主任の今岡豊氏である。その部下の一人に原氏が実際にいたとしたら、何の問題もない。一年前のノモンハン事件の時、参謀三課はまだ兵站(後方)担当だったから、千田の記憶が混乱していただけということだろう。当時は電池で動くテープレコーダーはないし、おそらく手帳片手のインタビューである。間違いなく、原善四郎氏は、関特演時、兵站担当の参謀であった。おまけに、ここでは原氏と朝鮮軍との強い関わりを示す話も出てきている。飛行機で当時の京城に飛ぶことなど、特別なことではなかったと言うことだ。この年は太平洋戦争が開戦した年だが、翌年(1942年)、朝鮮軍は南方軍から依頼を受けて、ビルマに703人の朝鮮人女性を「慰安婦」として送り出している。

引用した文章は、関東軍の兵站担当の参謀は、忙しくて慰安婦集めどころではなかったと言うことを主張するための文章だが、今岡氏の知らない指示が、朝鮮との関わりの深い原氏に出ていたとすればはどうだろうか。「部下」といっても、今岡氏がこまごまとした指示を出す立場にないことは、発言でうかがい知れる。だいたい、今岡氏が千田の本を読んだことがないはずがないのである。加藤氏に「今聞いて」ビックリしているところなど、ヘタな小芝居としか言いようがない。

当時の関東軍の司令官は梅津美治郎である。1938年3月の有名な「軍慰安所従業婦等募集に関する件」(通称副官通牒)が出た時の陸軍次官である。通牒に梅津の印がはっきりと押されているから、梅津が陸軍の慰安所制度創設の時から、その全てを知りうる立場にいたことは疑いない。指示が原氏に出されたとしたら、梅津からだろう。今岡氏を通すかどうかの問題だけである。しかも、当時の朝鮮総督は、自由主義研究会理事の杉本幹夫の証言にあるように、元関東軍司令官の南次郎。朝鮮における徴兵の推進者である。「状況証拠」から言えば、むしろマックロなのだ。

千田は「従軍慰安婦 正編」を出すにあたって、多くの人にインタビューしている。例えば、旧満州の孫呉の軍医の話など、その後の慰安所研究や、同時期に孫呉にいた金井英一郎の証言とも合致する。そもそも、千田のインタビューが架空のものだとしたら、原氏に抗議されているはずである。千田に余計なことを書かれて、多大の迷惑を被ったと主張する、麻生軍医の娘である天児都氏の例もある。当然、天児は千田が麻生軍医と会わずに書いたなどと言うことは言っていない。麻生軍医とは会い、原氏とは会わずに捏造インタビューを書かねばならない理由は、私には考え付かない。

言及されている慰安所の設置に伴う経費については、秦郁彦氏は、虎頭(第四国境守備隊)の本原政雄憲兵の話として、関東軍司令部から「軍特殊慰安所開設ニ関スル件通達」と題した関東軍司令部の公文書が来て、駐屯地司令部は建設資材等の便宜供与を指示されたという証言を紹介している。つまり慰安所の建築費用は現地部隊の負担。別にこれは旧満州に限らない一般的な話である。

ともあれ、上記の加藤氏の記事は、掲載された「現代コリア」自体が、北朝鮮への「帰国事業」に邁進し、その後、日本の嫌韓言論人の先駆けとなった佐藤和己氏が創設した、いわくつきのところだったこともあり、特に何の反響も呼ばなかった。加藤氏の論文と前後し、上杉千年氏の千田批判(被害者女性に総督府の官斡旋の証言がない)が出たが、これも全貌社という、当時は珍しかった完全な「反共」まるだしの出版社から出たため、ほとんど話題にならなかった。

河野談話潰しを公言する、西岡氏の「盟友」である秦郁彦氏も、「慰安婦と戦場の性(1999)」の中で、千田に対する異論の紹介として、下記に引用した文章中、(4)の注記と言う形で、上杉氏の論文、草地貞吾、今岡豊両氏の談話と一緒くたにして加藤の論文に触れているが、内容についての言及すらなく、黙殺と言う態度に近い。しかも、秦氏本人は注釈もなしに、「元関東軍第一課兵站班(班長今岡豊中佐)の原少佐」と千田の原文を修正して書いてしまっている。秦氏ですら単なる誤記であると考えていると言うことだ。

秦氏は「慰安婦と戦場の性(1999)の中では、官斡旋による慰安婦連行と言うそれまでの持論を修正し、身売りか娼妓の慰安婦の鞍替えによるものとしているものの、この時、慰安婦の大量「調達」があったことについては、完全に認めているし、本が出版された同じ年に行われた、千田と秦氏の対談でも、インタビューがなかったと言う話など、まるで出てこない。この頃までは、千田捏造説など、世に広まるような状況では全くなかった。
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この関特演がらみで、多数の朝鮮人慰安婦も動員されたというエピソードが伝わっているが、その真偽をめぐって論争があるので、概略を観察しておきたい。初出の情報源は次の二つである。

「原善四郎参謀が兵隊の欲求度、持ち金、女性の能力等を綿密に計算して、飛行機で朝鮮に出かけ、約一万(予定は二万)の朝鮮女性をかき集めて北満の広野に送り、施設を特設して営業させた、という一幕もあった」(島田俊彦『関東軍』、中公新書、一九六五年、一七六ページ)

「関特演のとき兵站担当をやっていました。はっきり憶えていないが、朝鮮総督府総務局に行き依頼したように思います。それ以後のことは知りません。・・・だが各道に依頼し、各道は各郡へ、各郡は各面にと流していったのではないですか・・・一部に二万人と言われたが、実際に集まったのは八千人ぐらい」(原の千田夏光への談話、千田『従軍慰安婦』正篇、三一新書、一九七八年)

島田、千田の両方とも、出所は元関東軍第一課兵站班(班長今岡豊中佐)の原少佐である点は共通している。そして総督府が行政機構を通じて最末端の面(内地の村に相当)まで割り当てたらしいことから、慰安婦の「官幹旋」ではないか、との推測を生んだ。

しかし、名のりでた百数十人の元慰安婦たちから、この件に該当する申告が出ていないことから、疑問が出た。

また人数についても、兵士の新規増員は三十五万人だから、計画の慰安婦二万人は多すぎる、既に満州で稼業していた女性をふくめた数字ではないか、とも臆測された。それにしても新規増員の女性は何人ぐらいだったのか。

この点について、原参謀の助手役で「命令伝達・通達・配置指示及業者との接触等事務処理」を担当した村上貞夫曹長(のち中尉)は「記憶では三〇〇〇人ぐらいだったと思う。配置表は兵站班事務室の小生のロッカーに秘扱いで保管していたが終戦と共に処分したことと思う」と手記(一九七五年執筆)で回想している。(P97)

出典:慰安婦と戦場の性/秦郁彦 新潮社(1999)
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「村上元曹長の手記」と言うのが、またクセモノで、秦氏はこの手記が1975年に書かれたと記しているだけで、詳細を明示していない。おそらくは千田宛に書かれた村上元曹長の手紙であるが、これについては長くなるので別の機会に回す。

次にこの千田捏造説が復活するのが2002年、中川八洋氏が『歴史を偽造する韓国』の中で千田の批判を展開する。最後の一部のみここで引用し、内容は別に載せた。加藤氏の論文と似たりよったりなので、読んで頂かなくても構わないと思う。関特演時に連行された女性達が、戦地に到着したのが、10月頃だと判明しているので、それだけで半分近くが意味をなさなくなる文章である。全文、掲載しているサイトがあり、コピペすればいいだけなので貼り付けたと言うだけ。一応、こまごまと反論は、今後機会を見て書くつもりであるが、中川氏をよく知らないと言う方は、まだご活躍のようなので、検索して頂ければゲンナリするサイトにすぐ辿りつける。ご参考まで。
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千田夏光が明らかにしなければならない事項が、このほか三つある。第一は、本当に原善四郎にインタビューしたのか。インタビューの録音テープは存在するのか。第二は、「父(面長)」を語った韓国人(正編の111頁)は本当に実在するのか。第三は、これだけの虚偽創作は、個人で発案したのか、それとも背後の組織の命令によるのか。

出典:中川八洋『歴史を偽造する韓国』 徳間書店(2002)
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「それとも背後の組織の命令によるのか」と言うところなど、妄想がスパークしていると言う感じだが、ここでもまだ、「千田にインタビューしたのか」と、疑問形で、中川氏はインタビューが千田の捏造であるとは、断定はしていない。加藤、中川でないとすれば、デマの出所として考えられるのは、水間政憲氏とか、福島瑞穂氏の電話捏造事件の前科のある桜井よしこ氏、西岡力氏くらいだろうか。以下は、手元にあった2007年に出た西岡力氏の文庫本の文章である。西岡氏は、千田の原氏へのインタビューを長々と引用した後、このように記述する。
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このやりとりを読むと、関東軍が朝鮮総督府を使い慰安婦を調達したことは間違いないように錯覚してしまう。しかし、調べていくと、この記述は疑問が多い。千田は原参謀に会わずに、このやりとりを書いたのではないかという疑いがある。歴史教科書研究家の上杉千年氏の論文「『従軍慰安婦を切るーまぼろしの関特演従軍慰安婦二万人徴募要請(月曜評論平成四年九月二十八日号・その要旨が同氏検証従軍慰安婦」・一九九三年に収録されている)や現代史研究家である加藤正夫氏の調査によって、この原参謀証言も、以下のごとく信じるに足らないものであることが判明した。

加藤氏は「文藝春秋」に載った西岡論文を読み、九二年春頃、当時、私が編集長をしていた「現代コリア」編集部にやってきた。戦前生まれの加藤氏は堰を切ったように、慰安婦の軍による強制連行などなかったと語りはじめた。それから何回かお会いしてお話しする中で、原参謀の証言の疑問点を調査することに力を注ぐようになった。

なお秦郁彦は前掲著書「慰安婦と戦場の性」の中で、原参謀の助手役であったという村上貞夫曹長の1975年手記や元憲兵らの証言をもとに、関特演を機に満州でも軍専用の慰安所が開設されたが、朝鮮から楼主に連れられて朝鮮人慰安婦がやってきたのであって、権力による強制連行ではないと見ている。(P83〜84)

出典:よくわかる慰安婦問題 /西岡力 (2007)
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加藤氏の論文が、どういう経緯で出来上がったか、よく分かるというものだ。加藤氏は現代史研究家というが、ネットで検索しても、どういう経歴を持つ人なのか、皆目分からなかったが、なんのことはない、単なる西岡氏の知り合いである。当時、千田が「参謀三課」と書いたことは、原氏の周囲には広く知られていたはずである。加藤氏がわざわざ防衛庁まで原氏の経歴を調べにいって見つけたと言うより、ウワサの確認の役回りを引き受けたということだろう。中川八洋氏の主張と加藤氏の主張の内容も似たり寄ったりなので、実質は中川氏とも親しい西岡氏との合作ということか。だが、西岡氏もここでは「疑いがある」「信じるに足らないものであることが判明した」といった程度の書き方である。

ウィキペディアに書かれたような千田インタビュー捏造確定説は誰が言い始めたのだろうか。ということでネット検索してみたらすぐに引っ掛かった。

朝日・グランデール訴訟を支援する会

これは決定的な証拠だろう。デマの出所は西岡力氏だ(例によって)。「よくわかる慰安婦問題」は下記で引用した本の後に出たものだが、「疑いがある」というようにトーンダウンしているのは、さすがにやばいと思ったのだろう。いや、盟友の秦郁彦氏の本を改めて読んで、断定はマズイと思ったのかもしれない。けど、もう広まっちゃてるからね。どっちみちヤバヤバと思いますよ。
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「従軍慰安婦は日本軍に連行された」と言われたら 西岡力

Q:強制連行をしたという人の証言がありますが?

A:連行した側の証言には、済州島で日本軍と一緒に女性狩りを行ったとする吉田清治証言と千田夏光氏が著書『従軍慰安婦』の中で書いた関東軍参謀・故・原善四郎証言がある。吉田証言は秦郁彦教授の平成四年の現地調査によって信憑性がないことが暴露されたが、その前に平成元年8月14日付の済州新聞は次のようにでたらめだと断言していた。「(吉田の)本に記述されている、城山浦の貝ボタン工場で15?16人を強制徴収したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を裏付け証言する人はほとんどいない。島民たちはでたらめだと一蹴しており、この記録に対する一層の疑問を投げかけている。城山里の住人のチョン・オクタンさん(85歳)は「そんなことはなかった。250余世帯しかない村で15人も徴用していったならば大事件だが(略)当時そんなことはなかった」と断言した」。なお、朝日新聞は昭和57年9月2日、平成4年1月23日、同5月24日に吉田証言を詐しく伝えながら、いまだに訂正記事を出していない。テレビ朝日「朝まで生テレビ」平成5年9月の番組で吉田証言を詳しく伝え、いまだに訂正をしていない。

原参謀証言についても、千田氏は本の中では生前の原参謀に面会して「慰安婦を8000人連行した」ときいたと書いているが、現代史研究家加藤正夫氏が千田氏に原参謀の経歴などの誤りを問いただすと、実際は原参謀に面会してはいない、別の書物の記述をもとにあたかも自分が面会したかのような嘘を書いたと認めた。千田氏が参考にしたという書物にも、原参謀自身の証言は出ておらず、何の根拠もなく原参謀が慰安婦を連行したと書いているだけで史料価値はゼロだ。

出典(といってもコピペだが):「従軍慰安婦は日本軍に連行された」と言われたら 西岡力『韓国・北朝鮮の嘘を見破る』(文春新書)(2006)
——————————————–

うーん、すごいなこりゃ。島田俊彦氏までインチキ学者扱いである。

参考までに、島田俊彦氏はこういう学者です。

https://blogs.yahoo.co.jp/kounodanwawomamoru/65072856.html


まあ、私はヘタレだから、誰かさんのように訴えられたらイヤなので、「捏造」とはクチが裂けても言いませんがね(‘ω’)ノ。
http://satophone.wpblog.jp/?page_id=237

6. 中川隆[-12409] koaQ7Jey 2019年2月05日 20:10:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

2018年11月30日
西岡力3つの大ウソ - 植村裁判資料室
https://sites.google.com/site/uemuraarchives/nishioka201809


「植村記者の記事は捏造」説が崩れた3つの理由

西岡力氏は1992年以来、慰安婦問題で植村隆さんが書いた記事を「重大な誤り」「捏造」と批判・攻撃してきました。しかし法廷で提出された証言や資料により、記事を「捏造」とする主張の論拠がいずれも誤っていることが明らかになっています。西岡氏による「捏造」説と、その誤りについて、以下にポイントを3つ示して説明します。 <甲につく数字は、証拠番号の略記>


ウソその1


西岡氏の主張@

植村氏は「『女子挺身隊』の名のもとで戦場に連行された」と、韓国人元慰安婦・金学順さん本人が語っていない経歴を加えた。

▽「初めて名乗り出た元慰安婦の女性の経歴について『《女子挺身隊》の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた』と書いたのだ。本人が語っていない経歴を勝手に作って書く、これこそ捏造ではないか」(正論2014年10月号=甲5)

▽「植村記者の記事には『挺身隊の名で戦場に連行され』とありますが、挺身隊とは軍需工場などに勤労動員する組織で慰安婦とは全く関係ありません」(週刊文春2014年2月6日号=甲7)

明らかになった事実@ 

金学順さん本人が「私は女子挺身隊だった」「強制的に引っ張って行かれた」と話している。

▽1991年8月14日の金学順さんインタビューについて伝える北海道新聞91年8月18日記事:「初対面のハルモニが『私は女子挺身隊だった』と切り出した」(甲50)

▽91年8月14日、金学順さんが名乗り出た初めての記者会見での発言:「16歳ちょっとすぎたくらいの(私)を引っ張って行って。強制的に。泣いて。出ていくまいと逃げ出したら、捕まって、離してくれないんです」(会見を伝える韓国KBSテレビの映像=甲109、発言の日本語訳=甲110)

▽金さんの会見を報じた翌8月15日付の韓国紙報道:東亜日報「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私」(甲20)、中央日報「私は挺身隊だった」(甲21)。ハンギョレ新聞「私を連れて行った養父も当時、日本軍人にカネももらえず武力で私をそのまま奪われたようでした」(甲67、西岡氏の翻訳=甲67の2)

ウソその2


西岡氏の主張A

金学順さんは「親に身売りされて慰安婦になった」「四十円でキーセンに売られた」と話したのに、植村氏が記事で触れていない。

▽「このとき名乗り出た女性(金学順さん)は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。植村氏はそうした事実に触れずに強制連行があったかのように記事を書いており、捏造記事と言っても過言ではありません」(週刊文春2014年2月6日号=甲7)

▽「その女性が日本政府に対して裁判をおこした訴状を見ると、『四十円でキーセンにうられた』と書いてあったのです。その女性は韓国の新聞のインタビューでも、『自分はキーセンに売られた』と言っていたのです」(明日への選択2007年5月号)

▽「金氏がキーセンとして売られたことも書いていない。…あえて『キーセン』のことを書かないことで、強制連行をより強調したかったのか、誤報というよりも、明らかに捏造である」(中央公論2014年10月号=甲6)

明らかになった事実A

「親に身売りされて慰安婦になった」という表現は、金さんの訴状(甲16)にも、韓国紙の記事(甲67、西岡氏の翻訳=甲67の2)にもない。金さんがキーセン学校に入ったことと慰安婦にされたことは関係ない。

金学順氏は「養父は(日本軍)将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかへ連れさられてしまった」(乙10)、「姉さんと私は別の軍人たちに連行されました。…私たちにそのトラックに乗れと言うので乗らないと言いましたが、両側からさっとかつぎ上げられて乗せられてしまいました」(乙19)と明言しており、「日本軍によって戦場に連行されて慰安婦にされた」ことは明白。

西岡氏は、金さんは「親に身売りされて慰安婦になった」、「四十円でキーセンにうられた」と主張。論拠として、月刊『宝石』の臼杵敬子氏論文(1992年2月号=乙10)と『未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集1』に掲載された金学順氏の証言(乙19)を提出した。しかし、キーセン養成学校に通ったのは14歳の時で、慰安婦にされたのは17歳の時。キーセンと慰安婦にさせられたこととは関係ない。

ウソその3


西岡氏の主張B

義母の裁判を有利にするために記事を書いた。

▽「原告は、韓国人である義母の起こした裁判を有利にする目的で、義母から便宜をもらい、金学順がキーセンに身売りされた事実を意図的に隠し、あたかも金学順が吉田清治証言のような強制連行の被害者であるかのごとく、事実を改ざんして意図的な捏造により記事にした」(『よく分かる慰安婦問題』増補版第3刷=甲3)

▽「原告のリーダーが義理の母であったために、金学順さんの単独インタビューがとれたというカラクリです」(「いわゆる従軍慰安婦について歴史の真実から再考するサイト」=甲4)

明らかになった事実B

植村記者が金学順さんの第一報を書いたときの団体は義母の団体(遺族会)とは関係ない別団体。朝日新聞の第三者委員会報告書(甲64)は、「義母を利する目的」や「捏造」との説を否定している。

 まず植村氏が1991年に金学順さんの情報を聞いたのは義母からではなく当時の朝日新聞ソウル支局長からだった(MILE1991年11月号=甲13、小田川興・元ソウル支局長の陳述書=甲57)。金学順さんの第一報を書いたとき聞き取りをしていた団体は「韓国挺身隊問題対策協議会」で、義母の団体「太平洋戦争犠牲者遺族会」(遺族会)とは関係ない別団体だった(甲9=文芸春秋2015年1月号、義母の梁順任氏の陳述書=甲158)。誤りを指摘され、西岡氏は訂正したとしている(正論15年2月号=甲107、正論15年3月号=甲108)。

朝日新聞の慰安婦報道を検証した第三者委員会は報告書(甲64)で「植村の取材が義母との縁戚関係に頼ったものとは認められないし、同記者が縁戚関係にある者を利する目的で事実をねじ曲げた記事が作成されたともいえない」(42ページ)と書き、「義母を利する記事」との説や、植村記者の記事が捏造であるとの説を明快に否定した。

https://sites.google.com/site/uemuraarchives/nishioka201809

7. 中川隆[-12408] koaQ7Jey 2019年2月05日 20:21:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

2018-09-28
元朝日記者植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める
http://d.hatena.ne.jp/cangael/20180928/1538116722


●朝日を敵視する人たちの理由の一つが従軍慰安婦記事の「捏造」でした。
ところが、ところがです、「捏造」の論拠を「捏造」していたという!!


山崎 雅弘さんがリツイート

toriiyoshiki

@toriiyoshiki 9月26日

朝日新聞の従軍慰安婦についての記事を「捏造」だと非難してきた御本人が、自らの論拠が事実上の「捏造」だったことを認めるに至ったお粗末の顛末。これは裁判記録として残るから、もう言い抜けはできまい。


中島岳志

‏@nakajima1975 9月26日

『朝日』元記者・植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める | 週刊金曜日オンラインhttp://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2018/09/26/antena-332/

f:id:cangael:20180927165203j:image:left

「慰安婦」問題否定派の旗手である麗澤大学客員教授の西岡力氏――。彼の論考や発言は、国家基本問題研究所理事長の櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となり、影響を与え続けてきた。その西岡氏が9月5日に東京地裁で尋問に答えた内容は、彼らに失望と嘆息を与えるかもしれない。西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めたからだ。


西岡氏は、植村氏の記事に対し、『週刊文春』2014年2月6日号で「名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。捏造記事と言っても過言ではありません」とコメントした。


しかし、尋問で「そう訴状に書いてあるのか」と問われると、「記憶違いだった」と間違いを認めた。金さんの記者会見を報じた韓国『ハンギョレ』新聞の記事を著作で引用した際、「私は40円で売られて、キーセンの修業を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」という、元の記事にない文章を書き加えていることを指摘されると、「間違いです」と小声で認めた。


西岡氏はまた、元「慰安婦」の証言集は読んでおりながら、「挺身隊」名目で「慰安婦」にさせられた韓国人女性の証言は「覚えていない」とし、自らの主張と異なる最新の調査・研究結果も読んでいないと答えた。

森達也(映画監督・作家)

‏@MoriTatsuyaInfo

ここまでの展開はさすがに予想できなかった。思想信条は違っても尊敬できる人であってほしいのに、下劣すぎる本質がどんどん顕わになる。


●朝日の植村記者に対しては徹底した人身攻撃がありましたね。それなのに攻撃した側が「捏造」? 


内田樹さんがリツィート

岩上安身

@iwakamiyasumi 9月26日

櫻井よしこにしても、西岡力氏にしても、あれだけ激しい人身攻撃を繰り返し行い、植村氏の人生が変わるほど傷つけてきて、「捏造」でした、すみません、ですむか! 大勢の読者をも騙し、その中には煽動されて植村氏や周辺に脅迫に及ぶもの者まで出たのだ。筆を折れ!掲載媒体は廃刊せよ!

中野昌宏 Masahiro Nakano

@nakano0316

こういう結末。当然ですね。


『朝日』元記者・植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める(週刊金曜日) - Yahoo!ニュース https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180926-00010000-kinyobi-soci … @YahooNewsTopics

22:34 - 2018年9月26日
http://d.hatena.ne.jp/cangael/20180928/1538116722

8. 中川隆[-12407] koaQ7Jey 2019年2月05日 20:24:43 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

2015年01月09日 21時32分 JST
植村隆氏、西岡力「救う会」会長を名誉毀損で提訴 1990年代の慰安婦報道巡り
https://www.huffingtonpost.jp/2015/01/09/uemura-takashi-nishioka-tsutomu_n_6444222.html


北星学園大(札幌市)非常勤講師で元朝日新聞記者の植村隆氏が、西岡力氏と文芸春秋社を相手取り、謝罪広告の掲載や1650万円の損害賠償などを求める訴訟を1月9日、東京地裁に起こした。

「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会」(救う会)会長で東京基督教大(千葉県印西市)教授の西岡力氏による1992年に雑誌「文芸春秋」に発表した記事などで名誉を傷つけられたとして、北星学園大(札幌市)非常勤講師で元朝日新聞記者の植村隆氏が、西岡氏と文芸春秋社を相手取り、謝罪広告の掲載や1650万円の損害賠償などを求める訴訟を1月9日、東京地裁に起こした。

弁護団によると、植村氏は1991年に元慰安婦へのインタビュー記事などを2本掲載。このうち慰安婦を「『女子挺身隊』の名で戦場に連行され」とした部分について、西岡氏が1998年ごろから「捏造」との主張を始め、雑誌「週刊文春」2014年2月6日号で「捏造記事と言っても過言ではありません」とコメントしたことなどが名誉毀損であり、民事上の不法行為にあたるとしている。また、週刊文春については同号で、植村氏の転職が内定していた大学名を掲載し、嫌がらせの電話やメールなどの攻撃を集中させたことがプライバシーの侵害にあたると主張している。神原元弁護士は「植村氏を中傷するメディアはほかにもある。順次訴えていく」としている。

参議院議員会館の支援者集会で発言した植村氏は「高校生の娘の顔写真がネットにさらされ、誹謗中傷が書かれた。長男と同じクラスの同姓の子まで顔写真がさらされた。8月の朝日新聞の検証記事掲載後、週刊誌の記者が自宅に張り付いて盗撮したり、近所に聞き込みをかけた。家族や大学への脅迫は言論ではなく犯罪だ。文春や西岡氏の記事が、結果的に言論テロを誘発した。法的な責任を取って頂きたい。司法の場でも、私が『捏造記者』ではないことを証明したい」と述べた。

9. 中川隆[-12406] koaQ7Jey 2019年2月05日 20:26:39 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

【超悲報】慰安婦問題否定派旗手の西岡力、植村隆裁判で自らの「捏造」を小声で認める
2018年09月27日
http://blog.livedoor.jp/nanyade/archives/12523618.html

1: 名無しさん@涙目です。(やわらか銀行) [ニダ] 2018/09/26(水) 10:52:18.30 ID:PkL/5UQY0 BE:718678614-2BP(1500)

sssp://img.5ch.net/ico/anime_jyorujyu03.gif
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20180926-00010000-kinyobi-soci

「慰安婦」問題否定派の旗手である麗澤大学客員教授の西岡力氏――。彼の論考や発言は、国家基本問題研究所理事長の櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となり、影響を与え続けてきた。
その西岡氏が9月5日に東京地裁で尋問に答えた内容は、彼らに失望と嘆息を与えるかもしれない。西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めたからだ。

 東京地裁では、元「慰安婦」記事を「捏造」と記述され名誉を傷つけられたとして、元『朝日新聞』記者の植村隆・韓国カトリック大学客員教授が西岡氏らを相手取り、損害賠償などを求めた訴訟が2015年1月から続いている。

 植村氏は1991年8月、韓国での「慰安婦」問題に取り組む市民団体への取材やその聞き取り調査に応じた女性(のちに記者会見で名乗り出た金学順さん)の録音テープを聞いてスクープし、同年12月にも証言を記事化した。

 西岡氏は、植村氏の記事に対し、『週刊文春』2014年2月6日号で「名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。捏造記事と言っても過言ではありません」とコメントした。

 しかし、尋問で「そう訴状に書いてあるのか」と問われると、「記憶違いだった」と間違いを認めた。
金さんの記者会見を報じた韓国『ハンギョレ』新聞の記事を著作で引用した際、
「私は40円で売られて、キーセンの修業を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」という、元の記事にない文章を書き加えていることを指摘されると、「間違いです」と小声で認めた。

 西岡氏はまた、元「慰安婦」の証言集は読んでおりながら、「挺身隊」名目で「慰安婦」にさせられた韓国人女性の証言は「覚えていない」とし、自らの主張と異なる最新の調査・研究結果も読んでいないと答えた。

(佐藤和雄・ジャーナリスト、大学非常勤講師、2018年9月14日号)


4: 名無しさん@涙目です。(大阪府) [IT] 2018/09/26(水) 10:54:11.49 ID:LKdluHoH0

ネトウヨこれどーすんの?


5: 名無しさん@涙目です。(関東・甲信越) [TW] 2018/09/26(水) 10:54:22.37 ID:PdlzaaUNO

て…捏造


8: 名無しさん@涙目です。(茸) [AU] 2018/09/26(水) 10:56:36.24 ID:CXTZV/YW0

「買ってはいけない」でお馴染みの週刊金曜日


9: 名無しさん@涙目です。(京都府) [US] 2018/09/26(水) 10:56:57.87 ID:NI8w3FFo0

慰安婦強制とか事実に決まってるじゃん
21世紀になってもAV強要やってるジャップ様やど?


73: 名無しさん@涙目です。(catv?) [RU] 2018/09/26(水) 11:33:59.82 ID:U0lsHSA30

>>9
朝鮮人女衒にだまされたり強制はされたよな。


117: 名無しさん@涙目です。(家) [US] 2018/09/26(水) 12:06:57.92 ID:sYz33jo50

>>73
今の外国人研修制度と同じだよな


155: 名無しさん@涙目です。(神奈川県) [RU] 2018/09/26(水) 12:38:50.04 ID:IGs3i5zT0

>>117
日本人がそうしてるから慰安婦強制もあったなんて根拠が薄弱すぎw
さっさと命令書なり証拠出してくりゃいいのにw


190: 名無しさん@涙目です。(家) [US] 2018/09/26(水) 13:25:17.60 ID:sYz33jo50

>>155
研修生に借金させて連れてこいなんて書類があると思ってんの?


191: 名無しさん@涙目です。(東京都) [US] 2018/09/26(水) 13:31:55.96 ID:zKA4N5OL0

>>190
それについては日本悪くないから言ってもしょうがないね
現地の政府の責任だろ


200: 名無しさん@涙目です。(家) [US] 2018/09/26(水) 14:35:28.78 ID:sYz33jo50

>>191
な、そっくりだろ?


18: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [FR] 2018/09/26(水) 10:59:49.02 ID:dCEj7CrB0

櫻井よしこもほぼ同じ形で間違えを認めたから
ほぼ裁判は負ける
でもネトウヨ的には不当判決で終了するwww
事実に当たることは絶対しないしなwww


19: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [FR] 2018/09/26(水) 11:01:11.30 ID:dCEj7CrB0

結局、西岡も櫻井も朝日バッシングしたかっただけなんだよなw
慰安婦問題をチープなウヨサヨ論争で仕掛けた張本人たち


21: 名無しさん@涙目です。(東京都) [US] 2018/09/26(水) 11:01:54.22 ID:ThB5b3Cx0

ネトウヨがこんなねつ造してるとパヨクなるぞ。


22: 名無しさん@涙目です。(アメリカ合衆国) [CN] 2018/09/26(水) 11:02:14.03 ID:zm5sEAif0

そんなことより植村が韓国の大学教授になってたことが驚き


242: 名無しさん@涙目です。(岡山県) [CN] 2018/09/26(水) 18:12:52.34 ID:K22T2Xjp0

>>22
そういやゆとり教育でおなじみ寺脇研は コリア国際学園だっけか


24: 名無しさん@涙目です。(東京都) [US] 2018/09/26(水) 11:03:13.29 ID:ntc9GOTM0

ネトウヨはこのニュース無視しそう


29: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [FR] 2018/09/26(水) 11:07:05.47 ID:dCEj7CrB0

あとあれだ
宮台が出てるビデオコムニュースでも言ってた
この裁判と吉田清治の話は全然関係ない
金学順の証言記事の裁判だから


36: 名無しさん@涙目です。(兵庫県) [JP] 2018/09/26(水) 11:10:41.01 ID:GmM5SkYg0

西岡って家族会から嘘つき野郎って追い出されてた奴だろ
内ゲバ状態の勝共学者連中を未だに囲ってる保守言論が悪いわ


38: 名無しさん@涙目です。(神奈川県) [US] 2018/09/26(水) 11:11:51.26 ID:YHq5TCGw0

ネトウヨ「それでも西岡先生は正しい」


71: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [US] 2018/09/26(水) 11:30:12.95 ID:JjjB+K8L0

>>38
ネトウヨの基本性質はオウム真理教信者と同じ


43: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [US] 2018/09/26(水) 11:15:14.28 ID:JjjB+K8L0

ネトウヨは詐欺師っていうのがどんどん証明されていくぞこれからも


44: 名無しさん@涙目です。(大阪府) [ニダ] 2018/09/26(水) 11:15:31.47 ID:umkYHZ4n0

慰安婦問題では西岡も桜井よし子も雑魚
朝日を謝罪に追い込んだ橋下にダメージ与えて初めて成果と言える

逆に言うと
パヨクは橋下にダメージ与えられないから
雑魚を相手に必死になってる


50: 名無しさん@涙目です。(家) [US] 2018/09/26(水) 11:20:34.14 ID:WTwOG/UZ0

拉致被害者がらみで売り出して
順調だったのにな
とんだアホやな


66: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [FR] 2018/09/26(水) 11:26:24.97 ID:dCEj7CrB0

国際社会は朝日新聞なんて読んでない
すべて河野談話で有罪認定している
日本政府の正式なコメントでごめんなさいして
なおかつアジア女性基金と日韓合意で悪く無い奴がなんで金払ってるの?まで言われてるしw


76: 名無しさん@涙目です。(神奈川県) [EG] 2018/09/26(水) 11:36:43.03 ID:aM8ufD8B0

櫻井よしこも裁判で嘘こいてたってばれてたじゃん


113: 名無しさん@涙目です。(SB-iPhone) [NL] 2018/09/26(水) 12:05:49.17 ID:ULf1ZJ9O0

平時に外人を奴隷労働させる国が、戦時は強制連行も従軍慰安婦もやってないと言い張れんの?


123: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [FR] 2018/09/26(水) 12:10:34.57 ID:dCEj7CrB0

慰安婦問題は日韓が一番話しがズレてて
欧米政府や欧米メディアのほうがちゃんと捉えている
しかもこの問題はこれで終わらない
現場で問題が起きているのに止めなかったんだから確信犯
その中には日本人女性も被害に合ってた
つまりは日本軍が日本女性も生贄にしてたってことになる
そうすると、今右翼やっている奴ってバカなのか反日なのか?ってなる
非常に楽しみ
右翼が逆賊になるからwwwwwwww


129: 名無しさん@涙目です。(茸) [US] 2018/09/26(水) 12:16:07.36 ID:f4dNB7Ek0

ネトウヨさんさあネットで真実しちゃって結果は捏造だってさ
ほんとに日本の恥だわ


130: 名無しさん@涙目です。(チベット自治区) [IL] 2018/09/26(水) 12:16:42.08 ID:V8Uc8Nz80

こいつか櫻井よしこの極右カルトは捏造しまくってんだな
それに騙されて鉄砲玉にされてるのが馬鹿なネトウヨという構図

この裁判も植村隆記者の完勝だろうな。


157: 名無しさん@涙目です。(庭) [US] 2018/09/26(水) 12:41:20.42 ID:G4yjKaXU0

しかし、こんな人ばかりだね
小林よしのりの戦争論とか、ゴー宣にハマって、5年くらいネトウヨだったけどさ、日本会議やら統一やら、そんなんばっかりだったな
恥ずかしい過去だよ
反省した
小林よしのりは上手く利用されたのか?


189: 名無しさん@涙目です。(家) [US] 2018/09/26(水) 13:23:36.05 ID:7DvP3D350

ネトウヨが心の拠り所ってこんなイカサマな奴ばっかりだろう。
釣られたネトウヨが怒るどころか擁護する救いようの無いアホ。


202: 名無しさん@涙目です。(WiMAX) [US] 2018/09/26(水) 14:38:44.40 ID:AIcjwA7v0

西岡の信頼性が終わっただけで慰安婦問題自体には何の関係もないと思うぞ


277: 名無しさん@涙目です。(庭) [US] 2018/09/26(水) 21:29:27.38 ID:cJ/rvPDM0

今の実習生制度見たら、なんとなく察しがつくと思う。

現地ブローカーが甘言で現地の若者を騙して、借金を負わせて日本に連れてきて、条件と違う仕事をやらせたり、不当にピンハネしてて借金が全然返せないというパターンが増えてる。

日本企業がブローカーを使ってる可能性もある。
もしその場合、何か大きなトラブルがあれば、ブローカーだけでなく日本企業にも責任が出てくる。

戦前の慰安婦も同じだろう。日本軍が朝鮮のゼゲンを使って女性を集めさせた。
慰安所で女性を働かせるのも日本軍の許可が必要だった。

当然、日本軍にも責任は出てくるというわけだ。


287: 名無しさん@涙目です。(庭) [FR] 2018/09/26(水) 22:49:02.24 ID:Aj3asxj/0

慰安婦はいたと日本政府も認めてる。
問題は強制か商取引かのところ。


289: 名無しさん@涙目です。(SB-iPhone) [US] 2018/09/26(水) 22:51:28.39 ID:88S6sG1C0

>>287
強制か商取引かじゃねーし。
国が関与してるかどうかだからな。
業者が犯罪まがいに強制した事件だってあんだからさ。


315: 名無しさん@涙目です。(神奈川県) [EG] 2018/09/27(木) 02:59:51.00 ID:Lp/+ZIU00

小声で認めたってさ こいつら何なのマジでw


317: 名無しさん@涙目です。(関西地方) [US] 2018/09/27(木) 03:13:01.89 ID:LrVDFq5J0

産経の阿比留瑠比も返り討ちにされました


318: 名無しさん@涙目です。(東京都) [US] 2018/09/27(木) 03:18:53.93 ID:3CjjodTO0

これは信用を大きく落としたな。

http://blog.livedoor.jp/nanyade/archives/12523618.html

10. 中川隆[-12405] koaQ7Jey 2019年2月05日 20:45:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

続き


1. 名無しさん
2018年09月27日 16:15
バカウヨは息を吐くように嘘を吐くからな
ほんとどうしようもないわ

2. 名無しの偉人さん
2018年09月27日 16:27
要するに、公的機関が癒着している悪質業者に肝心のところをアウトソーシングして責任回避しているという、今でもよくある構図。ここにメスを入れない限り本質を衝いた議論にはなりえないから、「日本ネトウヨvs.韓国反日愛国者」の論争はズレまくってしまう。

3. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 17:40
旧日本軍の従軍慰安婦問題では、単に女性たちの徴集時に軍が直接的に強制連行したのか否か、という点だけでは無く、
旧日本軍が主体的・主導的に設置・管理などしていた、軍の慰安所において、多くの女性達が、その自由意思を確保されない状況下で、日本の軍人・兵士ら相手の性的業務に使役させられた、という点が、広く問題になっているのであって、
日本で、いわゆる強制否定的なこと言ってる人達って、そういう点に正面から踏む込まず、問題を歪曲化・矮小化しようとしてるんだよな

4. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 18:21
そう言えば植村さんの娘にストーカーして嫌がらせしてたキモいネトウヨが居たよな
本当にネトウヨって人間の屑だね

5. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 18:21
戦前の日本でも悪質なゼゲンが貧しい村にいって、『うちの工場で働けば稼げるよ』等と若い娘達を騙して 売春婦として濃き使うのは決して珍しくはなかったよ。
この場合は給料なんてほとんど貰えなかったし、娘が逃亡したり客の付きが悪かったりしたら 元締からリンチを受けた。ほとんど奴隷状態だった。

日本の支配下だった朝鮮でも 同じようなことをやってたと考えるのが普通だよね。
従軍慰安婦は、日本軍が朝鮮人のゼゲンを使って女性を集めさせたんだから、どうしても日本軍の責任は出てくるよ。


6. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 18:27
つーか、コイツに限らず雑なデマを流す奴って何を考えて調べりゃばれる捏造をするんだ?
最終的に自説の説得力が弱まるだけだろうに。

8. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 18:38
※5
この手の表面だけ日本の責任を追及しつつ、実際は言い訳並べるコメ最近やたら出没してるな

※5とは関係ない話で、民間の悪質な労働と国家が絡んだ慰安婦問題を並べて語って矮小化を図ろうとする奴をたまに見るがガチでクソだと思う
あと、朝鮮の人間も加担してた的な話を出して論点をずらそうとする奴も時々見る

7. 名無しの偉人さん
2018年09月27日 18:38
※6
それはさ、別のコメント欄でも書いたんだが、彼らが本気で客観的事実と整合性のある話をしようとは思ってないからだよ。

彼らのやり口の源流って、ネット普及前夜の「自由主義史観」運動にまで遡れるんだけど、そこでの彼らの主張ってのが、
「歴史は客観的な真実を明らかにすることは不可能。だから、国民統合に役に立つ美しい話をすることに専念すべき。」
って事を露骨に言ってたわけよ。

ちなみに、この運動の提唱者は元バリバリの共産党員な。

9. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 20:44
ちなみに、2017年には強制連行についての新資料が見つかってる。


http://www.sangiin.go.jp/japanese/joho1/kousei/syuisyo/193/meisai/m193164.htm

http://tamutamu2015.web.fc2.com/iannfusiryou2017koubunsyokan.htm

10. ハンJ名無しさん
2018年09月27日 22:47
ネットで真実恐ろしや

11. 名無しの共和国人民
2018年09月28日 00:55
司法で負けまくるネトウヨさんw

12. ハンJ名無しさん
2018年09月28日 05:55
西岡力や櫻井よしこが最悪の売国勢力だということは今や保革問わず常識。

13. ハンJ名無しさん
2018年09月28日 08:33
嘘も百回繰り返せば…は司法の場では通用しなかったんやね

14. ハンJ名無しさん
2018年09月28日 14:36
やっぱり捏造か嘘つき右翼

15. ハンJ名無しさん
2018年09月28日 19:45
※7
いや、自由主義史観は左翼に対する批判から生まれたものだろ。中心になった連中も右翼か左翼からの離脱組がほとんどで共産主義関係ない。
中心となった藤村なんて共産主義関係の人脈に絶縁状みたいな手紙叩きつけてる。

16. ハンJ名無しさん
2018年09月29日 09:31
偏向報道を許さない(笑)ネトウヨガイジさん…
息を吐くように嘘をつくマスゴミ以下のガイジは自分の方だったね(ガッカリ

17. ハンJ名無しさん
2018年09月30日 10:52
業者にやらせたとしても依頼したのは
大日本帝国だから

18. ハンJ名無しさん
2018年10月01日 14:18
仲間内で通じるからと調子にのった末路
溢れでるバカな大学生感

19. 名無し
2018年10月07日 18:42
あの〜、左翼の皆さん、楽しく沸いてるとこ申し訳ないけど、
吉田清治も朝日新聞も「日本軍による慰安婦の強制連行は無かった」って認めてますけど?
http://blog.livedoor.jp/nanyade/archives/12523618.html


従軍慰安婦強制連行の吉田清治証言はやはり事実だった:

経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://masato555.justhpbs.jp/newpage113.html

11. 中川隆[-12403] koaQ7Jey 2019年2月05日 20:50:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

2018年9月27日 西岡氏に批判広がる


本人尋問で重要な証拠の改変や誤りを認めた被告西岡力氏への批判がネット上で広がっている。きっかけは、週刊金曜日が26日に「週刊金曜日オンライン」で公開した記事。「西岡力氏が自らの捏造認める」との見出しで、本人尋問の重要なポイントを報じている。この記事はすぐにYahoo!ニュースに転載され、さらにツイッターで拡散が始まった。ツイッターには、本人尋問を終えて東京地裁を出る西岡氏の姿をとらえた写真も貼りつけられていて、「西岡劇場」の様相を呈している。

『朝日』元記者・植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める | 週刊金曜日オンライン

http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2018/09/26/antena-332/

以下は9月26日午後3時現在の#西岡力についてのタイムラインからの抜粋である。このほかに、中島岳志、平野啓一郎氏らの本文なしリツイートも多数ある。

※抜粋にあたっては、ツイート本文の一部を削ったものもある。
https://twitter.com/search?q=%EF%BC%83%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E5%8A%9B&src=typd

■望月衣塑子

めちゃくちゃである。何の学術的裏付け、根拠もないまま植村氏を批判。結果、植村氏や家族や大学は誹謗中傷、脅迫に晒され続けた。その罪はあまりにも重い
■佐藤 章
この裁判記事によれば西岡力はほとんど捏造じゃないか。自分が捏造しておいて他者を捏造呼ばわりするのは学者として人として失格だろう。恐らくは櫻井よしこもそうだろう。植村隆は捏造などするような人間ではない。西岡と櫻井は、記者会見を開いて謝罪すべきだ。

■masa

慰安婦問題を少しかじったら誰もが知ってる名前だろう。そして、裁判で捏造を認めた、この人物は北朝鮮拉致被害者の「救う会」の会長でもある。では「家族会」は?一緒に多くの集会を開いているだろうから、YouTubeででも確認するとよいかもしれない。

■細かい情報‏

西岡氏はまた、元「慰安婦」の証言集は読んでおりながら、「挺身隊」名目で「慰安婦」にさせられた韓国人女性の証言は「覚えていない」とし、自らの主張と異なる最新の調査・研究結果も読んでいないと答えた。

■まりーべる321

#ヤフコメ が酷いですね。 #ネトウヨ さん達、いい加減にして欲しいです。

■World Peace Productions

#西岡力 本当に学者なのか?恥を知れ嘘つき野郎

■Hiroshi Takahashi

櫻井よしこさんも自分がウソ吐いたのを白状したし、西岡力さんも自分がウソ吐いたの白状したし、阿比留瑠比さんも自分の矛盾をアウェーの植村隆さんに突っ込まれて白旗上げたし、これだけウソ吐きのウソがばれてるのに、ウソを信じたい人たちは目を覚まさないんだよなー。


■佐藤 章‏
植村隆はぼくの昔の同僚だが、捏造などするような人間では決してない。人間である以上細かいミスはあるだろうが、優秀なジャーナリストであることは間違いない。捏造は、櫻井や西岡である。お仲間の杉田や小川のレベル、人間性を見てもよくわかる。
■渡辺輝人
酷いな。歴史修正主義って、日本語だと、修正なんて生易しいものじゃなくて、歴史の意図的改ざんなんだよね。

■ Hiroshi Takahashi

櫻井よし子に続いて右派の連中、ボロボロやんかw。

■想田和弘

シャレにならんな。→『朝日』元記者・植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める

■ソウル・フラワー・ユニオン‏

西岡力。櫻井よしこといい阿比留瑠比といい、嘘をつきまくって結局白旗。汚辱にまみれたカルトの不誠実な人生。

■能川元一

西岡力も櫻井よしこも、実に軽々しく「捏造」という非難を他者に浴びせてきたから、自分たちのミスを「捏造」呼ばわりされても自業自得なんだよね。

■宋 文洲

嘘吐きはウヨの始まり

■m TAKANO‏

植村隆裁判で、事実に基づいた緻密な追求によって櫻井よしこに続いて西岡力も白旗を揚げざるを得ない状況に追い込まれた。いわゆる右派論客こそ捏造だらけであることが、この裁判を通じて明らかにされた。

■北丸雄二

「慰安婦」問題否定派の旗手である麗澤大学客員教授の西岡力、捏造だったって。

■森達也(映画監督・作家)

ここまでの展開はさすがに予想できなかった。思想信条は違っても尊敬できる人であってほしいのに、下劣すぎる本質がどんどん顕わになる。

■tany

<西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めた> って、間違いじゃなくて<嘘をついた>だよね。 櫻井よしこやネトウヨはどうするんだろう。

■hiroshi ono

なんか、最近YuTubeでも歴史改ざんやヘイトまき散らす(自称)保守系ネット番組が相次いで締め出されたり、新潮の雑誌が休刊に追い込まれたり、櫻井よし子や今回の西岡力が裁判で自ら捏造デマ流してたこと認めたり、潮目が変わって来た感じ。日本の自浄作用に期待します。

■西大立目‏

結局「捏造」してるのは朝日叩いてる連中なんですよね。 小川榮太郎とか櫻井よしことか西岡力とか そしてコイツラは未だに「保守論壇誌」だの「産経新聞」だので朝日叩きのお仕事継続中

■デマを生む人信じる人の思考回路研究‏

「慰安婦問題」を否定する人々の拠り所とされてきた西岡力氏の言論。西岡氏は、元朝日新聞記者の植村隆氏の書いた慰安婦記事は捏造だ〜と言い続けてきた。しかし実際は逆で、西岡氏の方が自らの言論に都合よく事実を捏造していたことを東京地裁で認めた。

■you u you

これホントだったら大変なことだと思うんだけど。植村さんを叩いている人達は西岡さんに事実確認したほうがよくない?

■Kawase Takaya

人を嘘つき呼ばわりしていた奴が本当に嘘つきだった。これで事の理非が分からなければ、病膏肓に入るとしか。

■スワローヲタフク

西岡力って、確か「救う会」の会長で、アベのブレーンだよな。まさに、アベ政権に「巣食う会」になりましたとさwww

■河原 淳

櫻井よしこに続いて西岡力もー。 安倍首相を取り巻く右派論客のウソが次々に暴かれている。平然とウソをつき、他人を容赦なく攻撃し排斥する。安倍首相にも通じる。

■akabishi2‏

司会は櫻井よし子。救う会会長は西岡力。植村裁判で実質的に「捏造」を認めた2人が、拉致被害者の運動に深く関わっているのは偶然でもなんでもないことは、普通に考えればわかることなのに、誰もそのことを口にできないし書けないもんなー

■清水 潔‏

おいおい。 西岡氏は、植村氏の記事に対し「名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。捏造記事と言っても過言ではありません」とコメント。 しかし尋問で問われると、「記憶違いだった」と間違いを認めた。

■T−T‏

櫻井よしこも西岡力も裁判でデマを認めて、いま沖縄知事選でデマが飛び交っていると問題になっているけど与党候補からはデマで困っているという声は出ていないということ。

■藤井 太洋

慰安婦=プロの娼婦説の引き金を引いた西岡力が、発端となった記事の捏造を認めたのか。大きな一歩になるな。 そもそも慰安所にはプロも、騙された人も強制連行された人もいたのだろう。だからといって移動の自由がない戦地の慰安所に収容していいわけがないのだ。

■河信基

この男が横田夫妻を操り、拉致問題を10年間拗らせた張本人。廃刊になった新潮45の常識外に偏った常連寄稿者の一人でもある。

■宿坊の掲示板ほぼbot‏

「慰安婦」問題否定派の旗手である西岡力氏。彼の論考や発言は、櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となり、影響を与え続けてきた。その西岡氏が9月5日に東京地裁で尋問に答えた内容は、彼らに失望と嘆息を与えるかもしれない。西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めたからだ

■Veem.atomic‏

朝日新聞の慰安婦問題、結局は捏造ではなくて、捏造だと言ってた西岡力氏が、否定の根拠を捏造(記憶違い)だと裁判で認めた訳だ。 朝日を責めてた人達、これからどうするんだろ? 謝罪するのかな?

■ウツボマン

しかし、安倍応援団、ひどいね。百田尚樹に青山繁晴、櫻井よしこに西岡力。小川榮太郎に山口敬之、竹田恒泰。よくもこれだけのメンバーを集められるもんだ。

■川上 哲夫

元朝日新聞記者・植村隆さんの、元「慰安婦」記事を「捏造」と週刊誌に書いた西岡力の記事こそが【捏造】であったことを本人が認めた。仕方なく認めた

■toriiyoshiki‏

「金曜日」の記事を読んで思うのは、西岡力氏の学者・研究者・言論人としてのモラル崩壊ぶりである。自説を補強するため、新聞記事のありもしない一節をでっち上げるなど、あってはならないこと、人並みの良心さえあればとても考えられないことである。

■toriiyoshiki

朝日新聞の従軍慰安婦についての記事を「捏造」だと非難してきた御本人が、自らの論拠が事実上の「捏造」だったことを認めるに至ったお粗末の顛末。これは裁判記録として残るから、もう言い抜けはできまい。

■ryozanpaku

『植村氏が起こした民事裁判で、西岡力氏は今年9月5日、植村氏を批判する根拠としていた元「慰安婦」の訴状と韓国紙の記事について、そのいずれも引用を誤っていたうえ、自らが記事を改竄していたことを認めた。植村氏の記事が「捏造だ」という主張はもはや根拠を失っている。』 西岡、謝れ!

■Joshua Martin あたま抱え中‏

2014年当時、西岡力に私もすっかり騙されていた。

「名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。」→嘘でした!

「私は40円で売られて、キーセンの修業を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」→加筆捏造でした!

■ウツボマン‏

こんな記事までチェックしてるのに、西岡力と櫻井よしこの嘘がバレたことに対するコメントはまだですか?

■二宮力

西岡力氏が救う会の会長だからな。拉致問題は解決しないよね。させるつもりもないのだろう。

■盛田隆二

「慰安婦」問題否定派の旗手・麗澤大学教授の西岡力氏。氏の論考は櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となってきたが、その西岡氏が『朝日』元記者・植村隆裁判の尋問で、自らの「捏造」を認めた。 ――植村氏の記事を「捏造」呼ばわりした西岡氏が「捏造」していた。

■michi-to‏

西岡力が自らの捏造(従軍慰安婦は日本軍の強制ではなく親に売られたという嘘)を認める。嘘ネタで慰安婦を誹謗した櫻井よしこ、百田。慰安婦に謝れ。

■根村恵介‏

レイプジャーナリスト、捏造記者、ウヨクエンタメ作家、お追従評論家…安倍晋三のまわりはいかがわしい人物だらけ。

■朝守飛阿弥

「「私は40円で売られて、キーセンの修業を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」という、元の記事にない文章を書き加えていることを指摘されると、「間違いです」と小声で認めた」…お粗末。

■名もなき投資家(一般市民)

【「慰安婦」問題否定派の旗手である麗澤大学客員教授の西岡力氏。彼の論考や発言は、国家基本問題研究所理事長の櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となり、影響を与え続けてきた。(略)西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めた】 自称愛国者達の精神的支柱が崩壊

■結城秀二郎‏

慰安婦問題をめぐっては、さきに櫻井よしこ、最近では西岡力。いずれも裁判で敗訴、ねつ造告白。船橋市西図書館は、歴史修正主義の本を、とにかく処分してほしい。差別や偏見まるだしで、公営図書館の歴史書として置くわけにはゆくまいと思われる。

■雪之丞‏

この 西岡力 (拉致被害者救う会会長)とか、杉田水脈(新しい歴史教科書をつくる会理事) を擁護した 藤田信勝(新しい歴史教科書をつくる会副会長) とか、全員歴史歪曲派であることに注目しよう

■双極鑷子‏

「西岡力氏が自らの「捏造」認める」櫻井よし子と同じ、偽証罪の懲役を恐れたんだよね。今の社会なら、デマ屋として今までどおり生きていけるからなあ。

■Tommy‏

「『慰安婦』なんて捏造ダー」系の皆さんが、とても困ったことになってしまった。捏造と主張してきた西岡力が自らの捏造を認めてしまったのだから。とは言え、そういう人達がこれで考え方を変えるとも思えないが

■とも

ダブルスタンダードがダメなのは当たり前、嘘や捏造偽造がダメなのも当たり前、西岡力さんのように自分の主張を有利にするために文章を書き換えるのもダメなのは当たり前、人間を生産性がないなどと切り捨てるのがいけないのも当たり前。意見が違った相手でも思いやりを持つのも当たり前。

■アオイ模型:自宅療養中

「捏造」を主張していた側が「捏造」してたという、ありがちな展開。けど、今後もこれが「事実」として叫ばれ続けるんだろうね

■Noby Lucha Libre‏

西岡力や櫻井よし子や阿比留瑠比などが捏造と主張している内容はそれ自体が捏造。「この人はウソつき」というウソ。だまされた人々は怒りの矛先を不誠実な連中に向けるべきだろう。

■水谷千春

西岡力はあの八木秀次と同じ麗澤大学なのか。知らなかった。

■nitonasuk‏

こんな連中が関与すべき話では無い。繊細な問題だしナショナリズムを背景に解決できる問題でも無い。イデオロギー的に中立な両国の学者が時間をかけ解決すべきだ。

■適菜収。完全bot。

アホくさ。。でも、「捏造」を認めただけ、自称文芸評論家の小川榮太郎よりはマシだよね。

■中野昌宏 Masahiro Nakano‏

こういう結末。当然ですね。

■相原たくや

捏造を認めたということは、詐欺師であることを認めたわけである。全面的な謝罪の上で、筆を折るべきだろう。

■sara-K-HMJ‏

櫻井よしこや西岡力が故意に「親が売った」というデマを吐き被害者を貶めバカウヨがSNS上で蔓延させた。今もそのデマを根拠に被害者攻撃は続いている。安倍晋三や駐米大使もそのデマと同類の発言をしている。コイツラにきっちり責任をとらせろ

■omelette

【「私は40円で売られて,キーセンの修業を何年かして,その後,日本の軍隊のあるところに行きました」という元の記事にない文章を書き加えていることを指摘されると,「間違いです」と小声で認めた。】 元の物に無い文を勝手に作るのは、「間違い」ではなく、「捏造」

■能川元一‏

あの二人はなにか勘違いしたとか筆が滑ったとかであんなこと描いてるわけじゃない。あれは二人の世界観そのものなんだから。櫻井よしこや西岡力があれだけ法廷でド詰めされても「捏造記者」呼ばわりを謝罪もせず撤回もしてないのを見ればわかるじゃん。

■エリン

この 西岡力 って奴のデマに、脊髄反射で共感したのが 櫻井よしこ らであり、加害に加担した罪は大きい。西岡氏は大学教授を辞し、櫻井よしこは物書きとして筆を折るべきだ。

■もぎたてのいとうじん

なんだか、とてもいい加減だね。となると、この人の一部始終、信頼に値しない…と考えるべきじゃないかな。

以下略
http://sasaerukai.blogspot.com/2018/09/blog-post_27.html

12. 中川隆[-12399] koaQ7Jey 2019年2月05日 21:36:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

2018.10.2
右派論壇の一時の勢いに陰り、慰安婦訴訟で「訂正」相次ぐ
次ぐ
山田厚史:デモクラシータイムス同人・元朝日新聞編集委員+ 
https://diamond.jp/articles/-/180999


 旧日本軍による強制はあったのか――。従軍慰安婦を巡る論争は、いま法廷に舞台を移している。

 戦後の歴史観をめぐる「歴史戦」が、論戦から法廷での淡々とした証拠調べ、事実認定へと変わってきた中で、朝日新聞を「記事取り消し」に追い込んだ弾劾の急先鋒だった評論家・ジャーナリストの櫻井よしこ氏や問題の「火付け役」西岡力・麗澤大学客員教授が、逆に裁判で主張の誤りを追及され、不本意な訂正に追い込まれている。

 最近でも、「新潮45」が性的少数者であるLGBTへの差別問題で休刊に追い込まれるなど、右派論壇の勢いに陰りが見える中で、歴史戦も右派は最前線で押し戻され気味だ。

産経、櫻井氏の文章を訂正
“孫引き”だった慰安婦「証言」

 6月4日の産経新聞の看板コラム「美しき勁き国へ」にこんな訂正が載った。

訂正の内容はこうだ。

「平成26年3月3日の当欄に『この女性、金学順氏は後に東京地裁に訴えを起こし、訴状で、14歳で継父に40円で売られ、3年後、17歳の時再び継父に売られたなどと書いている。』とあるのを、『平成3年から4年に発行された雑誌記事、韓国紙の報道によると、この女性、金学順氏は14歳のときに親から養父に40円で売られ、17歳のときその養父によって中国に連れて行かれ慰安婦にされたという。』に訂正します」

 訂正された記事は、櫻井よしこ氏が2014年3月3日の「美しき勁き国へ」に載せた「真実をゆがめる朝日報道」と題する文章だ。

 慰安婦としての過去を証言した金氏を紹介した植村隆・元朝日新聞記者が書いた記事(1991年8月11日)を取り上げ、「捏造を朝日は全社挙げて広げたのである」と断罪した。

 櫻井氏は「この女性、金学順氏は後に東京地裁に訴えを起こし、訴状で、14歳で継父に40円で売られ、3年後、17歳のとき再び継父に売られたなどと書いている。植村氏は彼女が人身売買の犠牲者であるという重要な点を報じず、慰安婦とは無関係の『女子挺身隊』と慰安婦が同じであるかのように報じた」と「美しき勁き国へ」で主張した。

 ところが、「訂正」によると、継父ではなく養父に40円でキーセンにとして売られたことなどという記述は「訴状」ではなく、韓国新聞や日本の雑誌に書かれたことの「孫引き」と櫻井氏は認めた。

 元慰安婦が自ら訴状にしたためたことと、メディアに載った記事の引用では、主張の根拠の重みがまるで違う。

 この「事実誤認」は札幌地裁で進められている民事訴訟で植村氏が指摘した。櫻井氏は法廷後の記者会見で「率直に改めたい」と認めた(2016年4月22日)。

 ところが産経新聞は訂正を渋り、植村氏は17年9月、東京簡裁に調停を申し立てた。裁判所の調停ででやっと産経新聞は訂正に応じたが、櫻井氏が「誤り」を認めてから訂正が出るまで2年近くかかった。

 産経は、この事実誤認を認めたら「歴史戦の敗退」を印象付ける、と憂慮したのだろうか。

「強制連行」に触れず
「人身売買」を主張

 同様の訂正はワック出版が発行する月刊誌「WiLL」(2018年7月号)でも出された。櫻井氏が書いた「朝日は日本の針路を誤らせる」(2014年4月号)の訂正で、産経の正論コラムと同時期にほぼ同じ論評が載った。


櫻井氏は論戦の最前線に立っているが「後ろにいる参謀役は西岡氏」と植村氏側は見ているようだ。札幌での訴訟は櫻井氏と同氏が寄稿した新潮社、ワック社、ダイヤモンド社を訴え、東京地裁では西岡氏と文藝春秋社を訴えた。

 9月5日、東京地裁民事103号法廷で行われた西岡氏に対する被告人本人尋問で、植村氏の代理人、穂積剛弁護士が西岡氏に問いただした。

「あなたは週刊文春2014年3月13日号で、(元慰安婦の金学順さんは)『強制連行されたのではなく、親に身売りされて慰安婦になった』と言っている。貧困のためにキーセンに身売りし、義父に慰安所に連れて行かれたことがポイントになっているが、身売りは14歳の時、慰安所はその3年後。義父に連れていかれた時が大事なポイントではないですか」

 これに対し、西岡氏は「両方とも大事です」と答えた。

 そこで穂積弁護士は、西岡氏が証拠として提出している月刊誌「宝石」(1992年10月号、光文社・すでに休刊)の記事を示し、こう尋ねた。

「ここに『私たちは日本の兵隊に取り囲まれ、将校と養父の間で喧嘩が始まり「おかしいな」と思っていると養父は将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかに連れ去られてしまったのです』として、その後私は慰安所に連れていかれ日本兵の相手をさせられた』という証言が書かれています。義父が売り飛ばしたのではなく日本軍が奪ったのではないですか」

 これに対し西岡氏は「そう書いてあるが、本当かどうか裏付けを取らないとわからない。私はその可能性はかなり小さいと思う」と答えた。

 穂積弁護士が「日本軍が武力で奪ったことことが本質だと思うが、全くあり得ない解釈でしょうか」と、重ねて問うと、西岡氏は「あり得ない解釈とはいえない。当時はそう考えるのが多数派だった」と答えた。

 この証人尋問で、西岡氏は、「軍による強制連行」は多数派の認識だった、と証言したのだ。

 櫻井氏も西岡氏も「養父に慰安婦にされた」ことを、「人身売買であって、強制連行ではない」ことの証拠にしている。しかし両氏がその証拠として提出した雑誌には、養父は駅で日本の将校に脅されて連れさられ、自分たちは日本兵に慰安所に連れて行かれた、と書かれていた。

 西岡氏が証拠とした韓国紙ハンギョレ新聞にも、金学順さんの言葉として「私を連れて行った義父も当時、日本軍人にカネももらえず武力で私をそのまま奪われたようでした」と報じている。

 いずれも「強制連行」を示す記述には触れず、自分の主張に都合のいい箇所だけを摘み食いして、「人身売買」というストーリーを仕立てあげたとも見える展開である。


「宝石」の記事で、金氏が仲間と一緒に日本兵に連行されたと証言していることについて、西岡氏は「裏付けが取れない」と言う。そして「その可能性はかなり小さい」というが、それは西岡氏の勝手な主観だろう。

「強制連行はなかった」という結論が先にあって、自分の歴史観に合う都合のいい事実だけを取りあげるということなら、それは学者としての良心が疑われかねない。

 西岡氏も、櫻井氏と同様に雑誌などの「孫引き」を事実かのように述べた誤りを犯したことを、「記憶違いだった」「私の言葉で要約した」と認めた。そして訂正については「裁判が終わってから必要があれば考える」と述べた。

 だが「率直に改めたい」と潔かった櫻井氏に比べると、往生際の悪さが印象に残った。

「歴史観修正」に注力
朝日元記者を標的に

 東京と札幌で進められている慰安婦問題をめぐる2つの訴訟の争点は同じだ。

(1)慰安婦にされた金氏に対する軍による「連行」の事実はあったのか、(2)「女子挺身隊」という言葉は朝鮮で慰安婦を表す表現として使われていたか、(3)植村氏は義母の裁判を有利にするため記事を書いたのか、である。

 植村氏は西岡氏らから、韓国人である義母が関係する元慰安婦などを支援する団体の運動と絡めて非難された。義母が関係する運動を手助けするため記事を書いた、つまり金氏が親に売られて慰安婦にされたのに、女子挺身隊として戦地に連行されたと捏造したというのだ。

 今回の二つの訴訟は、記事を「捏造」したと名指しされた植村氏が、名誉回復を求め、自身に向けられた憎悪のような攻撃に反撃するために起こしたものだ。

 裁判では、金氏だけでなく軍が関与して慰安婦にされた人たちの事例などが、植村氏側から証拠としていくつも提出されている。

「挺身隊」は、日本では勤労動員などに使われているが、韓国では慰安婦を表す言葉でもあった。

 櫻井氏がキャスターを務めた日本テレビでも「女子挺身隊という名の従軍慰安婦」という番組を放送した(82年3月)。産経新聞も1991年9月3日の紙面で、「第二次世界大戦中『挺身隊』の名のもとに、日本従軍慰安婦として戦場に駆かり出だされた朝鮮人女性たち」と書いている。

 植村氏が金学順さんの証言を書いたのもこのころ。挺身隊という言葉は韓国で慰安婦と同義語だった。


植村氏の義母・梁順任さんは韓国の太平洋戦争犠牲者遺族会の役員をしていた。遺族会は金学順さんが日本政府を訴える賠償請求訴訟を支援したが、植村氏が最初に取材した当時は、金氏との接点はなく、訴訟の動きなどはなかった。

 植村氏が大阪社会部の記者として朝鮮問題に熱心であることを知っていた当時のソウル支局長が、金氏の証言テープがあることを伝え、取材させたと証言している。

 産経に集う右派論壇は、慰安婦問題を「歴史戦」と位置付け、戦後の歴史観の修正に力を注いできた。

 朝日新聞が、「済州島で慰安婦狩りがあった」という吉田清治氏の証言をもとにした82年9月の記事を「事実ではなかった」と取り消したことをきっかけに、「従軍慰安婦などなかった」という歴史修正の動きが力を増した。

 従軍慰安婦は儲かる仕事で、動機はカネだ。「強制連行」だとあおったのは朝日新聞で、歴史をねじ曲げた情報を世界に発信し、日本と日本人を卑しめた――。そんな言説が噴出した。標的が植村記者だった。

 金学順氏は、慰安婦とした初めて名乗り出て、顔をさらし悲劇を語った。生き証人の登場は「歴史修正」を目指す人たちにとって不都合だったのかもしれない。

 金氏は親に売られただけ。キーセンから慰安婦にされたのは養父のカネ儲けのためだ。挺身隊と慰安婦は関係ない。

 訴状に40円で売られたとあるのに、植村氏は記事で触れず、書かれてもいない「女子挺身隊として戦場に連行された」などと加筆した、と集中砲火を受けた。

右翼論壇の「やり過ぎ」
世論のバランス感覚が働く

 それだけではない。「週刊文春」は植村氏が朝日を退職して神戸松蔭女子学院大の教授になる、という情報を察知し「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」という記事を掲載(2014年2月6日号)。この中で西岡氏は植村氏の記事を「捏造記事と言っても過言ではありません」と述べている。

 記事の掲載に際して「週刊文春」は神戸松蔭女子学院大にこんな質問状を送った。

「重大な誤り、あるいは意図的な捏造があり、日本の国際イメージを大きく損なったとの指摘が重ねて提起されています。貴大学は採用にあたってこのような事情を考慮されたのでしょうか」

 この記事が出ると、大学に電話やメールが殺到した。植村氏は事実上の就任辞退を迫られたという。

 記事を書いた元文春記者の竹中明洋氏は東京地裁の証人尋問で「思った以上に反響が大きかった」と述べた。


大学を追われた植村氏には、朝日新聞記者時代から務めていた北海道の北星学園大学非常勤講師として迎えられた職だけが残された。

 竹中記者は「『慰安婦火付け役』朝日新聞記者はお嬢様大学クビで北の大地へ」と追い打ちをかけ、この時も大学に質問状を送り付けた。「大学教員としての適性には問題はないとお考えでしょうか」。

 記事は大学への攻撃に火をつけた。

「貴殿らは我々の度重なる警告にも関わらず、国賊である植村隆の雇用継続を決定した。この決定は、国賊である植村隆による悪辣な捏造行為を肯定するものだ」との書き出しで、学生や教職員に危害が及ぶことを警告する脅迫文書が送られるようになる。

 脅しは家族にまで広がった。長女の写真が実名といっしょにネットにさらされ、「必ず殺す。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。絶対にコロス」などの脅迫文が繰り返し届けられた。

 それから4年がたち、憎悪のごとく吹き荒れた右派論壇の足元で、その主張の根拠が訂正された。裁判の過程で「捏造」は言いがかりであることが明らかにされつつある。

 最近では、力を増す差別的言論に便乗した「新潮45」が杉田水脈議員(自民党)を担いでLGBTに対する不条理な言説で世のひんしゅくを浴びた。

 上滑り気味の右翼論壇の「やり過ぎ」に世論のバランス感覚が働いているようにも見える。時の勢いに乗った右翼の「歴史戦」もまた、押し戻されつつある。

(デモクラシータイムス同人・元朝日新聞編集委員 山田厚史)


13. 中川隆[-12400] koaQ7Jey 2019年2月05日 23:20:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

2018年9月6日
速報!西岡力氏尋問
http://sasaerukai.blogspot.com/2018/09/blog-post_52.html


【東京第13回口頭弁論】札幌に次ぎ東京でも劇的展開


西岡氏、重要な誤りと証言改変を認める

重要部分を削除し、引用には他記述を付加!

280分にわたる本人・証人尋問


次回11月28日に結審

大詰めの植村裁判最終盤。東京の法廷では劇的な展開があった。

東京訴訟の第13回口頭弁論は9月5日、東京地裁で開かれ、原告植村隆氏(元朝日新聞記者)と被告西岡力氏(元東京基督教大学教授)、証人の竹中明洋氏(元週刊文春契約記者)に対する人証調べ(本人および証人の尋問)が行われた。午前10時30分に始まった尋問は、竹中、植村、西岡氏の順に行われ、午後5時過ぎ終了した。

■裁判の核心にかかわる重大事態

西岡氏は、自身の記述に重要な誤りがあることを認め、韓国人元慰安婦・金学順さんの証言の重要な部分を削除したり、韓国紙の引用としてもとの記事にない記述を付け加えたりして「捏造」決めつけの根拠としたことも認めた。いずれも、この裁判の核心にかかわる重大な事態である。先の札幌訴訟・櫻井尋問と同じように、「捏造」決めつけの根拠は完全に崩壊した。植村氏への「名誉毀損」攻撃の違法性は法廷で明白になった。もはや西岡、櫻井両氏の抗弁は成立しないことを、両氏が認めたということである。


尋問後に今後の進行について意見交換と裁判官合議があり、植村弁護団が求めていた2人の証人尋問は不採用となった。このため、次回で審理は終了することになった。次回第14回口頭弁論は11月28日(水)午後2時から同法廷で開かれる。


この日の東京は、前日に関西を直撃した台風21号の余波の強風が吹いたが、初秋の強い日差しの下、最高気温は34度となり、きびしい残暑の1日となった。

裁判所が103号法廷に用意した傍聴席は94席。抽選予定の午前10時10分までに整列した人は84人だった。定員にわずかに満たなかったため抽選は行われず、全員が入廷できた。


午前10時27分、原克也裁判長と2人の裁判官が法廷に入った。弁護団席は植村氏側が14人、西岡氏側は2人が座っている。植村氏側には、中山武敏(団長)、宇都宮健児、黒岩哲彦弁護士や、札幌弁護団の渡辺達生、大賀浩一弁護士の姿もあり、午後には札幌から秀嶋ゆかり、小野寺信勝両弁護士も加わった。

「少し早いですが始めます」と原裁判長が宣言し、証拠に関する弁論手続きを終えて本人尋問が始まった。法廷全体に緊張した空気が張りりつめる中、本人尋問は淡々と進んだ。尋問内容を巡る異議の発出や、裁判長の注意や発言制止はほとんどなかった。午前10時半から午後5時過ぎまで、2回の途中休憩をはさんで尋問は正味4時間40分。東京訴訟では初めての長丁場となった。


■西岡氏、意図的な証言改ざん 

もっとも注目されたのは西岡氏の尋問だった。西岡氏は、植村氏の記事を「捏造」と決めつける根拠としている重要な事実について、訴状に書かれていないことを「訴状に書き」と紹介するなどの記述の誤りを認めた。さらに、穂積剛弁護士の追及により、韓国紙記事からの引用として金さんの証言を記述した論文で、もとの記事にない「40円で売られた」という記述を付け加えていたことを認め、「間違いです。気づいて訂正した」と述べた。さらに金さんの証言のうち、強制連行を裏付ける重要な部分を引用してこなかったことも認めた。「意図的な証言改ざん」ともいうべき記述について、穂積弁護士は「あなたは植村さんに対して、事案の全体像を正確に伝え読者の判断に委ねるべきだった、と批判するが、それは逆にあなたに向けれられるべきだ」と迫った。西岡氏は「批判はあり得るが、(その部分は)必要ないと思って書かなかった」と普通の口調で答えた。無責任で不誠実な答えではないか。廷内はざわつき、「それこそが捏造だ」と声を出す人もいた。


西岡氏は「金学順さんは人身売買によって慰安婦にさせられた」との従来の主張も繰り返し、植村さんの記事については、「いまも捏造だと思っている」とも述べた。植村氏への批判を「事実誤認」から「捏造」へとエスカレートさせた点については、「捏造とは、誤りようのない事実誤認のことを意味する」との新しい解釈を明かし、「私の植村批判は一貫している」と答えた。


■4年前の記憶失った?元文春記者 

吉村功志弁護士による竹中氏の尋問は、同氏が2014年1月と8月に書いた週刊文春の記事の取材意図と社会に与えた影響に絞られた。植村氏の大学教授就任内定(神戸松蔭女子学院大)と非常勤講師継続(北星学園大)にニュース価値があるのか、との問いに竹中氏は、「編集部デスクの指示によるものだった。指示に従うのは当然だった」と答えた。記事の重要な骨格となった秦郁彦氏と西岡氏への談話(コメント)取材の経緯については、「覚えてません」「記憶にありません」と繰り返した。
意味不明の答弁に廷内に失笑がもれる場面もあった。記事中にある「朝日新聞関係者」の発言について、今回提出した陳述書では「朝日新聞とは別のメディアの記者」から聞いた、と書いていることについて説明を求められると、「広い意味での朝日新聞関係者だが、必ずしも社員ではない」などと、しどろもどろな口調で答えていた。
尋問が終わった後、小久保珠美裁判官と原克也裁判長からも、デスクの取材指示の内容や秦、西岡両氏の関連文献を読んだ時期などについて、詳細な質問が飛んでいた。


■「不当なレッテルをはがして」と植村氏

植村氏の尋問は、主尋問を神原弁護士と永田亮弁護士が担当した。神原弁護士は、1991年8月と12月に植村氏が書いた記事について、西岡氏が「捏造」と決めつける根拠(@金さんは「女子挺身隊の名で連行された」とは言っていないA金さんはキーセン学校に通っていたB義母が幹部を務める団体の裁判を有利に進める動機があった、など)への反論を求めた。植村さんは3年8カ月前に提訴して以来、法廷と講演、執筆などで繰り返してきた説明を簡潔にまとめる形で答えた。裁判官席で背をきちんと伸ばし、植村氏の話に聴き入る小久保裁判官の表情が印象的だった。


永田弁護士は植村氏が受けた被害と損害を詳しく語るように求めた。本人、家族、大学への脅迫やいやがらせの実態も、提訴以来同じように語り続けられてきたことだが、植村氏は最近の動きとして、国内の大学教員への公募にはいまも応募しているがすべて書類選考ではねられていることを明かし、「私の生活はずたずたにされ、私の夢は断たれたままだ」と訴えた。

そして最後に裁判官席に向かって、「私は捏造記者ではありません。私は当時、被害者やその支援者団体の人々から聞き取った話を正確に記事にしたに過ぎません。裁判所に提出した証拠資料を精査していただければ、私が捏造記者ではない、ということは明らかだろうと思います。私にかけられた不当なレッテルをはがしてください。そのような判決を望みます」と語りかけた。


■枝葉末節な記憶はない

植村氏への反対尋問は、喜田村洋一弁護士が48分にわたって行った。喜田村弁護士の口調はいつものように静かで穏やか。しかし、声が小さくて聞き取れないこともあり、尋問の冒頭、傍聴席から「マイクの音量を上げるように」との声が飛んだ。

尋問は、植村さんが記事の前文で書いた「女子挺身隊の名で戦場に連行され」と、本文で書いた「(金さんは)だまされて慰安婦にさせられた」とのふたつの記述について、取材で聞いた証言テープの内容の詳細な記憶を含め、同じ質問が行きつ戻りつ、繰り返された。時折、喜田村弁護士の声が苛立ちで震えているように聞こえた。

植村氏は、「先ほどの竹中さんは4年前のことも良く知らないという。私が記事を書いたのは27年前。枝葉末節にかかわる記憶はまったくないが」と答え、記事はテープの聴き取りとその前日の取材、そしてそれまでの取材で得た知見に基づいていることを説明した。尋問の後、裁判官からの質問はなかった。

※尋問の主なやりとりは、続報に掲載します


■プレスセンター報告集会に130人

報告集会は、午後6時から8時過ぎまで日比谷のプレスセンター10階ホールで開かれた。出席者は130人。初めて来場したジャーナリストの姿が目立った。

弁護団報告は、東京の神原、永田、穂積弁護士と札幌の小野寺信勝、渡辺達生弁護士からあった。香山リカ氏と崔善愛氏の対談「慰安婦報道の真実とは」は新崎盛吾氏の司会で行われた。植村氏は、「週刊文春に書いた記事によって(神戸松蔭で)起こったことを、風の便りに聞いた、と言うような(無責任で不誠実な)記者にこんなにも貶められたが、(裁判で)不正確なインチキがぼろぼろ出てきている。まさにオセロゲームみたいに黒いものが一気に白いものになるように、いっしょに闘いましょう」と呼びかけた。
http://sasaerukai.blogspot.com/2018/09/blog-post_52.html

14. 中川隆[-12391] koaQ7Jey 2019年2月06日 08:55:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

「私は捏造記者ではありません」 ー 植村(札幌)訴訟結審
http://article9.jp/wordpress/?p=10720


2018年7月13日 澤藤統一郎の憲法日記

植村隆元朝日新聞記者が、櫻井よしこらを訴えた名誉毀損損害賠償請求訴訟(札幌地裁)が先週の金曜日(7月6日)に結審した。判決言渡は11月9日の予定。原告・弁護団そして支援者は意気軒昂である。

櫻井よしこや西岡力らは、産経や週刊文春、WiLLなどを舞台に、植村隆を「捏造記者」として攻撃した。櫻井や西岡に煽動されたネット右翼が、植村本人だけでなく、その家族や勤務先の北星学園までを標的に攻撃して、大きな社会問題となった。問題とされた植村隆の朝日の記事は、1991年8月のもの。常軌を逸したバッシングというほかはない。

ことは表現の自由やジャーナリズムのありかたにとどまらない。従軍慰安婦をめぐる歴史修正主義の跋扈を許すのか、安倍政権を押し上げた右翼勢力の民族差別やリベラル派勢力への攻撃を默過するのか、という背景をもっている。

私も、同期の友人たちと語らって、植村・北星バッシングへの反撃の声をあげた。そのときの率直な気持は、この社会の動向に、薄気味悪さだけでなく恐ろしさを感じていた。伝えられている、あのマッカーシズムの雰囲気を嗅ぎ取らざるを得なかったのだ。この訴訟、この判決は、この社会の健全さを占うものとしての重みをもっている。

リベラルバネが多少は働いて、いま櫻井よしこや西岡力の影響力は明らかに落ちてきている。判決が、植村ではなく櫻井よしここそが「捏造ジャーナリスト」であることを明らかにするものとなるよう期待したい。

「植村裁判を支える市民の会」が立派なホームページを作っている。
http://sasaerukai.blogspot.com/

そのサイトから、結審(2018年7月6日)の法廷と、2年前3か月の第1回法廷(2016年4月22日)での、原告植村隆渾身の意見陳述を引用しておきたい。

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     結審(2018年7月6日)法廷での意見陳述

今年3月、支援メンバーらの前で、直前に迫った本人尋問の準備をしていました。「なぜ、当該記事を書いたのか」、背景説明をしていました。こんな内容でした。

私は高知の田舎町で、母一人子一人の家で育ちました。豊かな暮らしではありませんでした。小さな町でも、在日朝鮮人や被差別部落の人びとへの理不尽な差別がありました。そんな中で、「自分は立場の弱い人々の側に立とう。決して差別する側に立たない」と決意しました。そして、その延長線上に、慰安婦問題の取材があったと説明していました。

その時です。突然、涙があふれ、止まらなくなり、嗚咽してしまいました。

新聞記者となり、差別のない社会、人権が守られる社会をつくりたいと思って、記事を書いてきました。それがなぜ、こんな理不尽なバッシングにあい、日本での大学教員の道を奪われたのでしょうか。なぜ、娘を殺すという脅迫状まで、送られて来なければならなかったのでしょうか。なぜ、私へのバッシングに北星学園大学の教職員や学生が巻き込まれ、爆破や殺害の予告まで受けなければならなかったのでしょうか。「捏造記者」と言われ、それによって引き起こされた様々な苦難を一気に思い出し、涙がとめどなく流れたのでした。強いストレス体験の後のフラッシュバックだったのかもしれません。

本人尋問が迫るにつれ、悔しさと共に緊張と恐怖感が増してきました。反対尋問では再び、あのバッシングの時のような「悪意」「憎悪」にさらされるだろうと思ったからです。

「そうだ、金学順(キム・ハクスン)さんと一緒に法廷に行こう」と考えました。そして、金学順さんの言葉を書いた紙を背広の内ポケットに入れることにしたのです。

この紙は、私に最初に金学順さんのことを語ってくれた尹貞玉(ユン・ジョンオク)先生の著書の表紙にあった写真付の著者紹介の部分を切り取ったものです。その裏の、白い部分に金学順さんが自分の裁判の際に提出した陳述書の中の言葉を黒いマジックで、「私は日本軍により連行され、『慰安婦』にされ人生そのものを奪われたのです」と書きいれました。

私の受けたバッシング被害など、金さんの苦しみから比べたら、取るに足らないものです。いろんな夢のあった数えで17歳の少女が意に反して戦場に連行され、数多くの日本軍兵士にレイプされ続けたのです。絶望的な状況、悪夢のような日々だったと思います。

そして、私は、こう自分に言い聞かせました。「お前は、『慰安婦にされ人生を奪われた』とその無念を訴えた人の記事を書いただけではないか。それの何が問題なのか。負けるな植村」

金さんの言葉を、胸ポケットに入れて、法廷に臨むと、心が落ち着き、肝が据わりました。

きょうも、金さんの言葉を胸に、意見陳述の席に立っています。

私は、慰安婦としての被害を訴えた金学順さんの思いを伝えただけなのです。

そして「日本の加害の歴史を、日本人として、忘れないようにしよう」と訴えただけなのです。韓国で慰安婦を意味し、日本の新聞報道でも普通に使われていた「挺身隊」という言葉を使って、記事を書いただけです。それなのに、私が記事を捏造したと櫻井よしこさんに繰り返し断定されました。

北海道新聞のソウル特派員だった喜多義憲さんは私の記事が出た4日後、私と同じように「挺身隊」という言葉を使って、ほぼ同じような内容の記事を書きました。記事を書いた当時、私との面識はなく、喜多さんは私の記事を読んでもいなかったのです。喜多さん自身が直接、金学順さんに取材した結果、私と同じような記事を書いた、ということは、私の記事が「捏造」でない、という何よりの証拠ではないでしょうか。その喜多さんは、2月に証人として、この法廷で、櫻井よしこさんが私だけを「捏造」したと決め付けた言説について、「言い掛かり」との認識を示されました。

そして、こうも述べられました。「植村さんと僕はほとんど同じ時期に同じような記事を書いておりました。それで、片方は捏造したと言われ、私は捏造記者と非難する人から見れば不問に付されているような、そういう気持ちで、やっぱりそういう状況を見れば、違うよと言うのが人間であり、ジャーナリストであるという思いが強くいたしました」この言葉に、私は大いに勇気づけられました。

1990年代初期に、産経新聞は、金学順さんに取材し、金学順さんが慰安婦になった経緯について、少なくとも二度にわたって、日本軍の強制連行と書きました。読売新聞は、「『女性挺身隊』として強制連行され」と書きました。

いま産経新聞や読売新聞は、慰安婦の強制連行はなかったと主張する立場にありますが、1990年代の初めに金学順さんのことを書いたこの両新聞の記者たちは、金さんの被害体験をきちんと伝えようと、ジャーナリストとして当たり前のことをしたのだと思います。私は金さんが、慰安婦にさせられた経緯について、「だまされた」と書きました。「だまされ」ようが「強制連行され」ようが、17歳の少女だった金学順さんが意に反して慰安婦にさせられ、日本軍人たちに繰り返しレイプされたことには変わりないのです。彼女が慰安婦にさせられた経緯が重要なのではなく、慰安婦として毎日のように凌辱された行為自体が重大な人権侵害にあたるということです。

しかし、私だけがバッシングを受けました。娘は、「『国賊』植村隆の娘」として名指しされ、「地の果てまで追い詰めて殺す」とまで脅されました。

あのひどいバッシングに巻き込まれた時、娘は17歳でした。それから4年。『殺す』とまで脅迫を受けたのに、娘は、心折れなかった。そのおかげで、私も心折れず、闘い続けられました。私は娘に「ありがとう」と言いたい。娘を誇りに思っています。

被告・櫻井よしこさんは、明らかに朝日新聞記者だった私だけをターゲットに攻撃しています。私への憎悪を掻き立てるような文章を書き続け、それに煽られた無数の人びとがいます。櫻井さんは「慰安婦の強制連行はなかった」という強い「思い込み」があります。その「思い込み」ゆえなのでしょうか。事実を以て、私を批判するのではなく、事実に基づかない形で、私を誹謗中傷していることが、この裁判を通じて明らかになりました。そして誤った事実に基づいた、櫻井さんの言説が広がり、ネット世界で私への憎悪が増幅されたことも判明しました。

「WiLL」の2014年4月号の記事がその典型です。金さんの訴状に書いていない「継父によって40円で売られた」とか「継父によって・・・慰安婦にさせられた」という話で、あたかも金さんが人身売買で慰安婦にされたかのように書き、私に対し、「継父によって人身売買されたという重要な点を報じなかった」「真実を隠して捏造記事を報じた」として、「捏造」記者のレッテルを貼りました。「捏造」の根拠とした「月刊宝石」やハンギョレ新聞の引用でも都合のいい部分だけを抜き出し、金さんが日本軍に強制連行されたという結論の部分は無視していました。

しかし、櫻井さんは、私の指摘を無視できず、2年以上経っていましたが、「WiLL」と産経新聞で訂正を出すまでに追い込まれました。実は、訂正文には新たな間違いが付け加えられていました。金さんが強制連行の被害者でないというのです。日本軍による強制連行という結論をもつ記事に依拠しながらも、その結論の部分を再び無視していました。極めて問題の大きい訂正でしたが、櫻井さんの取材のいい加減さが、白日のもとに晒されたという点では大きな前進だったと思います。支援団体の調べでは、この種の間違いが、産経、「WiLL」を含めて、少なくとも6件確認されています。

提訴以来3年5か月が経ちました。弁護団、支援の方々、様々な方々の支援を受け、勇気をもらって、歩んでまいりました。絶望的な状況から反撃が始まりましたが、「希望の光」が見えてきたことを、実感しています。

そして櫻井よしこさんをはじめとする被告の皆さん、被告の代理人の皆さん。長い審理でしたが、皆様方はいまだに、ご理解されていないことがあると思われます。大事なことなので、ここで、皆様方に、もう一度、大きな声で、訴えたいと思います。

「私は捏造記者ではありません」

裁判所におかれては、私の意見を十分に聞いてくださったことに、感謝しております。公正な判決が下されることを期待しております。

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    第1回法廷(2016年4月22日)での原告意見陳述

■「殺人予告」の恐怖
裁判長、裁判官のみなさま、法廷にいらっしゃる、すべての皆様。知っていただきたいことがあります。17歳の娘を持つ親の元に、「娘を殺す、絶対に殺す」という脅迫状が届いたら、毎日、毎日、どんな思いで暮らさなければならないかということです。そのことを考えるたびに、千枚通しで胸を刺されるような痛みを感じ、くやし涙がこぼれてきます。

私は、2015年2月2日、北星学園大学の事務局から、「学長宛に脅迫状が送られてきた」という連絡を受けました。脅迫状はこういう書き出しでした。

「貴殿らは、我々の度重なる警告にも関わらず、国賊である植村隆の雇用継続を決定した。この決定は、国賊である植村隆による悪辣な捏造行為を肯定するだけでなく、南朝鮮をはじめとする反日勢力の走狗と成り果てたことを意味するものである」

5枚に及ぶ脅迫状は、次の言葉で終わっています。

「『国賊』植村隆の娘である●●●を必ず殺す。期限は設けない。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。地の果てまで追い詰めて殺す。絶対にコロス」

私は、足が震えました。

大学に脅迫状が送られてきたのは2014年5月末以来、これで5回目でした。最初の脅迫状は、私を「捏造記者」と断定し、「なぶり殺しにしてやる」と脅していました。さらに「すぐに辞めさせろ。やらないのであれば、天誅として学生を痛めつけてやる」と書いていました。

娘を殺害する、というのは、5回目の脅迫状が初めてでした。もう娘には隠せませんでした。「お前を殺す、という脅迫状が来ている。警察が警戒を強めている」と伝えました。娘は黙って聞いていました。

娘への攻撃は脅迫だけではありません。2014年8月には、インターネットに顔写真と名前が晒されました。そして、「こいつの父親のせいでどれだけの日本人が苦労したことか。自殺するまで追い込むしかない」と書かれました。こうした書き込みを削除するため、札幌の弁護士たちが、娘の話を聞いてくれました。私には愚痴をこぼさず、明るく振舞っていた娘が、弁護士の前でぽろぽろ涙をこぼすのを見て、私は胸が張り裂ける思いでした。

なぜ、娘がこんな目にあわなければならないのでしょうか。1991年8月11日に私が書いた慰安婦問題の記事への攻撃は、当時生まれてもいなかった高校生の娘まで、標的にしているのです。悔しくてなりません。脅迫事件の犯人は捕まっていません。いつになったら、私たちは、この恐怖から逃れられるのでしょうか。

■私への憎悪をあおる櫻井さん
櫻井よしこさんは、2014年3月3日の産経新聞朝刊第一面の自身のコラムに、「真実ゆがめる朝日報道」との見出しの記事を書いています。このコラムで、櫻井さんは私が91年8月に書いた元従軍慰安婦の記事について、こう記述しています。

「この女性、金学順氏は後に東京地裁に 訴えを起こし、訴状で、14歳で継父に40円で売られ、3年後、17歳のとき再び継父に売られたなどと書いている」。その上で、櫻井さんは「植村氏は彼女が人身売買の犠牲者であるという重要な点を報じ」ていない、と批判しています。しかし、訴状には「40円」の話もありませんし、「再び継父に売られた」とも書かれていません。

櫻井さんは、訴状にないことを付け加え、慰安婦になった経緯を継父が売った人身売買であると決めつけて、読者への印象をあえて操作したのです。これはジャーナリストとして、許されない行為だと思います。

さらに、櫻井さんは、私の記事について、「慰安婦とは無関係の「女子挺身隊」と慰安婦が同じであるかのように報じた。それを朝日は訂正もせず、大々的に紙面化、社説でも取り上げた。捏造を朝日は全社挙げて広げたのである」と断定しています。

櫻井さんは「慰安婦と『女子挺身隊』が無関係」と言い、それを「捏造」の根拠にしていますが、間違っています。当時、韓国では慰安婦のことを「女子挺身隊」と呼んでいたのです。他の日本メディアも同様の表現をしていました。

例えば、櫻井さんがニュースキャスターだった日本テレビでも、「女子挺身隊」という言葉を使っていました。1982年3月1日の新聞各紙のテレビ欄に、日本テレビが「女子てい身隊という名の韓国人従軍慰安婦」というドキュメンタリーを放映すると出ています。

私は、神戸松蔭女子学院大学に教授として一度は採用されました。その大学気付で、私宛に手紙が来ました。「産経ニュース」電子版に掲載された櫻井さんの、そのコラムがプリントされたうえ、手書きで、こう書き込んでいました。

「良心に従って説明して下さい。日本人を貶めた大罪をゆるせません」

手紙は匿名でしたので、誰が送ってきたかわかりません。しかし、内容から見て、櫻井さんのコラムにあおられたものだと思われます。

この神戸の大学には、私の就任取り消しなどを要求するメールが1週間ほどの間に250本も送られてきました。結局、私の教授就任は実現しませんでした。

櫻井さんは、雑誌「WiLL」2014年4月号の「朝日は日本の進路を誤らせる」という論文でも、40円の話が訴状にあるとするなど、産経のコラムと似たような間違いを犯しています。

このように、櫻井さんは、調べれば、すぐに分かることをきちんと調べずに、私の記事を標的にして、「捏造」と決めつけ、私や朝日新聞に対する憎悪をあおっているのです。

その「WiLL」の論文では、私の教員適格性まで問題にしています。「改めて疑問に思う。こんな人物に、果たして学生を教える資格があるのか、と。植村氏は人に教えるより前に、まず自らの捏造について説明する責任があるだろう」

「捏造」とは、事実でないことを事実のようにこしらえること、デッチあげることです。記事が「捏造」と言われることは、新聞記者にとって「死刑判決」に等しいものです。

朝日新聞は、2014年8月の検証記事で、私の記事について「事実のねじ曲げない」と発表しました。しかし、私に対するバッシングや脅迫はなくなるどころか、一層激しさを増しました。北星学園大学に対しても、抗議メールや電話、脅迫状が押し寄せ、対応に追われた教職員は疲弊し、警備費は膨らみました。

北星学園大学がバッシングにあえぎ、苦しんでいた最中、櫻井さんは、私と朝日新聞だけでなく、北星学園大学への批判まで展開しました。

2014年10月23日号の「週刊新潮」の連載コラムで、「朝日は脅迫も自己防衛に使うのか」という見出しを立て、北星学園大学をこう批判しました。「23年間、捏造報道の訂正も説明もせず頬被りを続ける元記者を教壇に立たせ学生に教えさせることが、一体、大学教育のあるべき姿なのか」

同じ2014年10月23日号の「週刊文春」には、「朝日新聞よ、被害者ぶるのはお止めなさい “OB記者脅迫”を錦の御旗にする姑息」との見出しで、櫻井よしこさんと西岡力さんの対談記事が掲載されました。私はこの対談の中の、櫻井さんの言葉に、大きなショックを受けました。

「社会の怒りを掻き立て、暴力的言辞を惹起しているものがあるとすれば、それは朝日や植村氏の姿勢ではないでしょうか」

櫻井さんの発言には極めて大きい影響力があります。この対談記事に反応したインターネットのブログがありました。

「週刊文春の新聞広告に、ようやく納得。もし、私がこの大学の学生の親や祖父母だとしたなら、捏造で大問題になった元記者の事で北星大に電話で問い合わせるとかしそう。実際、心配の電話や、辞めさせてといった電話が多数寄せられている筈で、たまたまその中に脅迫の手紙が入っていたからといって、こんな大騒ぎを起こす方がおかしい。櫻井よしこ氏の言うように、「錦の御旗」にして「捏造問題」を誤魔化すのは止めた方が良い」

私はこのブログを読んで、一層恐怖を感じました。ブログはいまでもネットに残っています。

櫻井さんは、朝日新聞の慰安婦報道を批判し、「朝日新聞を廃刊にすべきだ」とまで訴えています。言論の自由を尊ぶべきジャーナリストにもかかわらず、言葉による暴力をふるっているようです。「社会の怒りを掻き立て、暴力的言辞を惹起している」のは、むしろ、櫻井さん自身の姿勢ではないか、と思っています。

■「判決で、救済を」

「言論には言論で闘え」という批判があります。私は「朝日新聞」の検証記事が出た後、複数のメディアの取材を受け、きちんと説明してきました。また、複数の月刊誌に手記を掲載し、自分の記事が「捏造」ではないことを、根拠を上げて論証しています。にもかかわらず、私の記事が「捏造」であると断定し続ける人がいます。大学や家族への脅迫もやむことがありませんでした。こうした事態を変えるには、「司法の力」が必要です。

脅迫や嫌がらせを受けている現場はすべて札幌です。櫻井さんの「捏造」発言が事実ではない、と札幌で判断されなければ、こうした脅迫や嫌がらせも、根絶できないと思います。

私の記事を「捏造」と決めつけ、繰り返し世間に触れ回っている櫻井さんと、その言説を広く伝えた「週刊新潮」、「週刊ダイヤモンド」、「WiLL」の発行元の責任を、司法の場で問いたいと思います。私の記事が「捏造」でないことを証明したいと思います。

裁判長、裁判官のみなさま。どうか、正しい司法判断によって、「捏造」記者の汚名を晴らしてください。。家族や大学を脅迫から守ってください。そのことは、憲法で保障された個人の表現の自由、学問の自由を守ることにもつながると確信しています。

(2018年7月13日)


▲△▽▼


『朝日』元記者・植村隆裁判で西岡力氏が自らの「捏造」認める
http://www.kinyobi.co.jp/kinyobinews/2018/09/26/antena-332/
佐藤和雄|2018年9月26日10:23AM 週刊金曜日
 
 尋問を終えた西岡力氏。東京・霞ヶ関。(撮影/高波淳)


「慰安婦」問題否定派の旗手である麗澤大学客員教授の西岡力氏――。彼の論考や発言は、国家基本問題研究所理事長の櫻井よしこ氏をはじめ、右派言説の論理的支柱となり、影響を与え続けてきた。その西岡氏が9月5日に東京地裁で尋問に答えた内容は、彼らに失望と嘆息を与えるかもしれない。西岡氏が、いくつかの重要部分について「間違い」を認めたからだ。

東京地裁では、元「慰安婦」記事を「捏造」と記述され名誉を傷つけられたとして、元『朝日新聞』記者の植村隆・韓国カトリック大学客員教授が西岡氏らを相手取り、損害賠償などを求めた訴訟が2015年1月から続いている。

植村氏は1991年8月、韓国での「慰安婦」問題に取り組む市民団体への取材やその聞き取り調査に応じた女性(のちに記者会見で名乗り出た金学順さん)の録音テープを聞いてスクープし、同年12月にも証言を記事化した。

西岡氏は、植村氏の記事に対し、『週刊文春』2014年2月6日号で「名乗り出た女性は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。捏造記事と言っても過言ではありません」とコメントした。

しかし、尋問で「そう訴状に書いてあるのか」と問われると、「記憶違いだった」と間違いを認めた。金さんの記者会見を報じた韓国『ハンギョレ』新聞の記事を著作で引用した際、「私は40円で売られて、キーセンの修業を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」という、元の記事にない文章を書き加えていることを指摘されると、「間違いです」と小声で認めた。

西岡氏はまた、元「慰安婦」の証言集は読んでおりながら、「挺身隊」名目で「慰安婦」にさせられた韓国人女性の証言は「覚えていない」とし、自らの主張と異なる最新の調査・研究結果も読んでいないと答えた。

(佐藤和雄・ジャーナリスト、大学非常勤講師、2018年9月14日号)

15. 中川隆[-12389] koaQ7Jey 2019年2月06日 09:20:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

西岡力 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E5%8A%9B

生誕 1956年4月16日(62歳)

1979年 国際基督教大学卒業[2]
1982年 駐ソウル日本大使館専門調査員( - 1984年)
1983年 筑波大学大学院地域研究科修士課程修了[2]。韓国・延世大学校国際学科に留学。
1984年 現代コリア研究所主任研究員( - 1991年)
1991年 東京基督教大学神学部専任講師
1996年 同助教授
2000年 同学部国際キリスト教学科教授
2008年 同学部国際キリスト教福祉学科(学科名改称)国際キリスト教学専攻教授[3]
2016年 麗澤大学客員教授
2017年 公益財団法人モラロジー研究所歴史研究室室長・教授

人物・活動

田中明に師事する[4]。
現代コリア研究所の発行誌『現代コリア』の編集長を2002年まで務める。

また、1998年4月「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)」の設立に関与。

現在「救う会」の会長を務め、その支部の一つである「北朝鮮に拉致された日本人を救出する東京の会(救う会東京)」の会長も兼任している。


中西輝政、八木秀次、島田洋一、伊藤哲夫と共に安倍晋三のブレーン「五人組」の1人と東京新聞に報じられたこともある(西岡は東京新聞からの取材に「北朝鮮に拉致された日本人を救出するための全国協議会(救う会)」の常任副会長として、安倍氏と共同歩調を取ってきた。ただし、「安倍さんとは救う会の副会長として会うことはあるが、直接ものを聞かれたこともないし、助言をしたこともない。下村博文議員や伊藤さんを介した関係で、決してブレーンではない」と回答している[5])。


朝鮮半島問題・日本人拉致問題に関する言論人・活動家の一人である[6][7][8][9]。


慰安婦問題

吉見義明、高木健一、戸塚悦朗、福島瑞穂などの主張する慰安婦の強制連行には否定的な立ち場をとる。西岡は2007年と2012年に草思社から「よくわかる慰安婦問題」など慰安婦問題に関する書籍を2作品発表し、この中で、慰安婦強制連行の主張をとる弁護士を「事実を歪曲しても日本を非難すればよいという姿勢」などと批判した[10]。

批判された弁護士の高木健一は、名誉を傷つけられたとして、西岡と出版元の草思社に対して出版の差し止めと1000万円の損害賠償を求めて名誉毀損訴訟を東京地裁に起こしたが、1審の東京地裁は2014年2月、「記述の前提事実の重要な部分が真実であるか、または真実と信じたことに相当な理由がある。公益を図る目的で執筆されており、論評の域を逸脱するものではない」として原告の訴えを棄却した。2審の東京高裁も1審を支持した。2015年1月14日、最高裁第二小法定(鬼丸かおる裁判長)は原告側の上告を棄却した。これにより、高木健一の敗訴が確定し、西岡が勝訴した[10][11]。同裁判の勝訴を受けて西岡は「言論には言論でという原則に反する裁判は何とも後味が悪かった」と述べている[11]。

元朝日新聞社記者の植村隆の書いた「(慰安婦が)女子挺身(ていしん)隊の名で連行された」とする記事について、2014年2月6日号の週刊文春の記事中で「名乗り出た女性(金学順)は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている」「捏造記事と言っても過言ではない」と批判した[12][13][14]。これに対し、植村は2015年1月9日、「捏造」と批判され続け、家族や周辺にまで攻撃が及ぶとして、代理人として170人近い弁護士をたて、西岡と出版元の文藝春秋に対して計1650万円の損害賠償などを求める名誉毀損訴訟を東京地裁に起こした[12]。

同訴訟に対して、西岡は、文藝春秋2015年1月号での植村の西岡への反論に再反論しているにもかかわらず、「再反論に答えることなく、突然、民事訴訟を起こしたことには、大いに失望した。言論人であるならば、言論で戦って自分の名誉を守るべきだ」と批判している[11]。また、「言論には言論での原則に則って、ぜひ植村氏と論争を続けたかった」述べ、高木健一との裁判と同じ苦々しい気持ちを植村との裁判でも感じているとしている。そして、「過去に慰安婦問題での日本の責任を問うキャンペーンを行った側が、それを批判してきた学者や言論人に対して名誉毀損で訴えるということが他にも続いている。その背景に何があるのかを考えている」としている[11]。この訴訟については、産経新聞が言論に対しては言論にて反論するのが筋であり、自らに対する批判記事などが脅迫犯罪を招いたとする訴訟理由には首をひねると報道している[15]。

2018年9月5日に行われた上記訴訟の本人尋問で西岡は植村が金学順について書いた記事の「女子挺身隊の名で戦場に連行され」という表現について、「この方は一度も『女子挺身隊の名で』と言っていない。植村氏の記事は誤報で、読者を大きく誤らせるキャンペーンだ」と語ったのに対し植村は「金さん自身、当時の記者会見で『私は挺身隊だった』と述べており、私の記事は誤りではない」と反論した[16]。

また西岡は、証拠として提出された自身の論文の中でハンギョレ新聞の記事を引用した際、金学順について「私は40円で売られて、キーセンの修業を何年かして、その後、日本の軍隊のあるところに行きました」と同紙記事にない表現を付け加えたことについて「間違いです。後で気づいて訂正した」などと誤りがあったことを認めた[16][14]。さらに、「(金が)身売りされ慰安婦になったと訴状に書いた」のは事実かを問われたのに対し、記憶違いだったと答弁、週刊文春記事の間違いを認めた[14]。

著書

単著

『日韓誤解の深淵』(亜紀書房、1992年)ISBN 4750592129
『コリア・タブーを解く』(亜紀書房、1997年)ISBN 4750597031
『闇に挑む!―拉致、飢餓、慰安婦、反日をどう把握するか』(徳間書店、1998年)ISBN 4198909709
『飢餓とミサイル――北朝鮮はこれからどうなるのか』(草思社、1998年)ISBN 479420857X
『暴走する国家・北朝鮮――核ミサイルは防げるのか』(徳間書店、1999年)ISBN 4198911444
『金正日と金大中――南北融和に騙されるな!』(PHP研究所、2000年)ISBN 4569612687
『金正日が仕掛けた「対日大謀略」拉致の真実』(徳間書店、2002年)ISBN 4198615977
『テロ国家・北朝鮮に騙されるな』(PHP研究所、2002年)ISBN 4569624413
『拉致家族との6年戦争――敵は日本にもいた!』(扶桑社、2002年)ISBN 4594038190
『北朝鮮に取り込まれる韓国――いま"隣国"で何が起こっているか』(PHP研究所、2004年)ISBN 4569634680
『日韓「歴史問題」の真実――「朝鮮人強制連行」「慰安婦問題」を捏造したのは誰か』(PHP研究所、2005年)ISBN 4569643167
『韓国分裂――親北左派vs韓米日同盟派の戦い』(扶桑社、2005年)ISBN 4594050166
『北朝鮮の「核」「拉致」は解決できる』(PHP研究所、2006年)ISBN 4569656315
『よくわかる慰安婦問題』(草思社、2007年)ISBN 9784794216014
『文庫よくわかる慰安婦問題増補新版』(草思社、2012年)ISBN 4794219423
『朝日新聞「日本人への大罪」 「慰安婦捏造報道」徹底追及』(悟空出版、2014年)ISBN 978-4908117022
『横田めぐみさんたちを取り戻すのは今しかない』(PHP研究所、2015年)ISBN 978-4569824277
『ゆすり、たかりの国家』(ワック、2017年)ISBN 978-4898317631

共著

西岡力、渡辺利夫、岡崎久彦、小島朋之、田久保忠衛、稲垣武『アジアは油断大敵!―北朝鮮、香港、中国…動乱のシナリオを読む』(PHP研究所、1997年)ISBN 978-4569556796
小川和久、後藤光征、清水美和、重村智計、尹徳敏『北朝鮮問題を整理する5ファイル』(自由国民社、2005年)ISBN 4426121132
平田隆太郎、惠谷治、島田洋一『南・北朝鮮、同時崩壊か?』(東京財団、2007年)ISBN 9784895142878
趙甲済、西岡力『金賢姫からの手紙』(草思社、2009年)ISBN 978-4794217097
中西輝政、西岡力 『なぜニッポンは歴史戦に負け続けるのか』 日本実業出版社、2016年4月。ISBN 978-4-534-05374-9。
マイケル・ヨン、杉田水脈、高橋史朗、西岡力、徳永信一、山岡鉄秀『「慰安婦」謀略戦に立ち向かえ―日本の子供たちを誰が守るのか?』(2017年、明成社)ISBN 978-4905410423

監修

張真晟(著)、川村亜子 (翻訳) 『金王朝「御用詩人」の告白 わが謀略の日々』(文藝春秋、2013年)ISBN 978-4163767109

寄稿

「雑誌『世界』は朝鮮をどう見たか」(含 資料・『世界』朝鮮関係記事)上・中・下『朝鮮研究』日本朝鮮研究所、1980年1月・3月・7月
「日本の新聞が伝えた光州事件」『朝鮮研究』日本朝鮮研究所、1980年8月  など多数
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%B2%A1%E5%8A%9B

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amazon.co.jp 西岡 力作品一覧
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16. 中川隆[-12381] koaQ7Jey 2019年2月06日 12:07:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

2018.12.19
【Hanada, 2019.1号】徴用工問題に対する日本擁護論(櫻井よしこ×西岡力)
https://rondan.net/5043


Contents

1 慰安婦の次は徴用工
2 原告は徴用のはじまる1944年9月以前に募集に応じてきた
3 好待遇だった
4 個人請求権の消滅
5 国家間解決ではなく、国内消費向けの“徴用工”議論


慰安婦の次は徴用工

曲がりなりにも慰安婦問題については最終的・不可逆的に「日韓合意」が交わされてしまったこともあり、日韓歴史戦の焦点は徴用工問題に推移しつつあるように思えます。

徴用工問題にはさほど詳しくないのですが、保守論壇の日本擁護論の基調は、どうも慰安婦問題に対するものと同一のように思えます。つまり徴用工員は、@強制ではなく募集に応募した者であり、A好待遇の職場であり奴隷にのようなものではなく、B既に補償問題は解決済み、という三点が重要に思えます。

保守論壇が朝鮮人慰安婦を「売春婦」呼ばわりして罵倒しても、(韓国は勿論のこと)国際的理解が全く得られないことは明白です。このような言説は国民感情を煽るだけの国内消費向けであり、全く両国問題の解決に結びつきません。徴用工問題についても同じことが言えるのではないでしょうか。

そんなわけで今回紹介したいのは、櫻井よしこ氏と西岡力氏との対談「“徴用工”を焚き付けた反日日本人」(『Hanada』2019.1号)に説かれる、理論の骨子です。

原告は徴用のはじまる1944年9月以前に募集に応じてきた


2018年10月30日に韓国大法院(最高裁)が、新日鉄住金に元徴用工四名に対し四億ウォンの損害賠償支払いを命じる判決を下しました。この対談はそれを受けてのものです。まず原告両者が「徴用」でない点が問題視されます。


櫻井 つまり、原告四人はいずれも徴用の始まる四四年九月以前に、募集に応じて日本に働きに来た労働者だったわけですね。

この理論で日本を弁護することはあまり得策ではありません。これを裏返せば四四年九月以降に「徴用」された者に対しては支払いの義務があると認めなくてはならなくなります。「徴用」という語は、語義的に「強制性」が含意されます。

好待遇だった

また慰安婦が高給取りだった例をあげながら、徴用工員も好待遇で高収入だった点を力説します。


櫻井 企業側の募集に対して官が斡旋する際、該当する職場に行くか行かないかを労働者の自由意思によって決めることができました。納得いかなければ断る自由が彼らにはあった。


西岡 徴用工の待遇も決して悪くありませんでした。……広島の工場で月給百四十円を支給され、新しい寄宿舎にふかふかの布団があり、アワビや柿やみかんを食べながら毎晩酒盛りができた、と記されています。


こういう議論は本当によくないと思います。このような一部の証言だけを取り上げて、さも徴用工員全体が好待遇だったかのように決めつける言説は正しくありません。徴用工員の悲惨な一例は「花岡事件」を調べればよく解りますし、中国人徴用工四万人のうち七千人が亡くなった事実からも明らかでしょう。(野添憲治『企業の戦争責任』社会評論社, 2009を参照)

個人請求権の消滅

このように「強制徴用でなかった」「好待遇だった」の二点は徴用工問題を解決するには明らかに弱い論点であり、国民感情を煽るだけの国内消費向けのものに過ぎません。

一方で、最後の一つ「1965年の日韓請求権協定で、一喝して個人請求問題は解決済み」という理解は、唯一国際的に通用する理論ではないでしょうか。


櫻井 国民即ち個人も、また法人も含めて全ての財産・請求権問題について「完全かつ最終的に解決された」と確認したわけですね。

しかし保守論壇の悪い癖で、余計な一言が多い。


西岡 …日本の資金をまとめて受け取り、…ダムや製鉄所、道路を造り、経済成長に繋げ、韓国国民全員を豊かにしたのです。
櫻井 その結果、「漢江の軌跡」と呼ばれる経済成長を成し遂げたことは周知のとおりです。

日本が払った賠償金のお蔭で韓国の繁栄があるということでしょう。全く余計な一言です。韓国が豊かになったからといって、徴用工員個人の被害者感情が癒せるものではありません。

これとよく似た理論は、日韓併合に関する保守論壇の「日本の投資おかげで韓国は近代化できた」にも確認されます。そしてこのような言説が、韓国の被害者感情を癒すどこか、反日感情を焚き付けてることも言を俟ちません。よって真の国家間解決を目指すなら、このような言説は全く不要です。

国家間解決ではなく、国内消費向けの“徴用工”議論

この後、櫻井よしこ氏と西岡力氏は、徴用工問題を取り組む日本人関係者を「反日」と位置付けたり、韓国はあらゆる分野で異常な事態が起こっているだのと決めつけたり、“徴用工”問題を通して日本人の反韓感情を焚き付けてます。

このように両者の対論は、現実的な徴用工問題の解決を目指したものではなく、韓国に対する不平不満を煽る国内消費向けの議論に過ぎません。つまり、反韓感情を持った日本人に読んでもらうための文章だということです。

何事も被害者感情というものは、一度謝罪・賠償が済めば消えるというものではありません。仮に司法的に償いを果たしたとしても、その後に加害者が傲慢な態度を取っていたならば、元被害者の感情は穏やかではいられないでしょうし、その逆の状況もまた然りです。

せっかく1965年に解決していたはずの徴用工問題が、ここに来て蒸し返される要因の一つには、無意味に国民感情を煽る両国論壇の言説があるように思えます。
https://rondan.net/5043

17. 中川隆[-12360] koaQ7Jey 2019年2月07日 12:18:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

歴史を捏造する反日国家・韓国 (WAC BUNKO 292) – 2019/2/1
西岡 力 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%82%92%E6%8D%8F%E9%80%A0%E3%81%99%E3%82%8B%E5%8F%8D%E6%97%A5%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%83%BB%E9%9F%93%E5%9B%BD-WAC-BUNKO-292-%E8%A5%BF%E5%B2%A1/dp/4898317928/ref=sr_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1549509018&sr=1-1


内容紹介

ウソつきのオンパレード——「徴用工」「慰安婦」「竹島占拠」「レーダー照射」「旭日旗侮辱」……

いまや、この国は余りにも理不尽な「反日革命国家」となった! もはや戦うしかない!

日本人は、韓国の現状を知らなすぎる!

金正恩・北朝鮮との同化を目指す、文在寅・左翼政権の「反日従北民族主義」こそがすべての元凶。その根底にある「階級的反日人種主義」はナチスより酷い。人民裁判的な手法によって、韓国司法と軍部の良識層は壊滅状態。

ウソつきのオンパレード―「徴用工」「慰安婦」「竹島占拠」「レーダー照射」「旭日旗侮辱」…。いまや、この国は余りにも理不尽な「反日革命国家」となった!もはや闘うしかない!

カスタマーレビュー


777 西岡力さんは資料改竄・捏造の常習犯なので、信用できないです 2019年2月5日


チャンネル桜の常連として今も大活躍中の西岡力先生は悪質な資料改竄・捏造の常習犯です
西岡力先生は徴用工問題否定論や従軍慰安婦問題否定論で有名になりましたが、すべて嘘八百の捏造でした。


吉田証言はやっぱり事実だった

朝日新聞は吉田清治さんの強制慰安婦問題でインチキ調査を行った

・官邸から圧力がかかった。

・消費税軽減税率を新聞に適用して欲しかったので、官邸におべっかを使った。

・それで、朝日新聞は吉田清治さんの話が全羅南道でのできごとだったと良く知っていながら、わざわざ済州島だけで聞き取り調査した。

▲△▽▼

慰安婦が本当の事を話さなかった理由

売春婦とその家族を蔑視し差別する儒教社会に生きる朝鮮女性は自分が慰安婦だったと言えない環境にあった。

朝鮮は儒教社会だから慰安婦の姉妹や娘は一生 売春婦以外の仕事はできなくなる

だから元慰安婦だったとわかると一家は路頭に迷う事になる

吉田清治はそういう朝鮮の事情を考慮して意図的に強制連行した日時と場所を変えて書いたんですね。

吉田清治は実際に強制連行した日時と場所を公表しろと何度も言われたけど、元慰安婦の身元がわかって本人や家族が迫害されると困るので、絶対に応じなかったのです。

アホ右翼は知らないみたいですが、吉田清治は済州島の慰安婦狩りの情景は、実際には全羅南道での出来事だったと言っているんですね。

____

そもそも、従軍慰安婦は売春婦として認可されない 13才、14才から働き始めているので売春婦では有り得ないのです。

従軍慰安婦は 13才、14才から慰安所で働き始めている。
18才以下の売春婦は法的に認可されていないから、例え本人や親が承諾していたとしても悪質な法律違反になる。
従って、従軍慰安婦は売春婦ではあり得ない。

いいかげん慰安婦募集の新聞広告を持ち出すことはやめるべき - 法華狼の日記

実際には、日本の歴史学者も以前から従軍慰安婦問題の重要な資料としてあつかっている。韓国政府固有の問題であるかのような主張は、勉強不足と告白しているようなもの。

そして問題は、事実上の拘束であった「前借」だけではない。

両方の広告によく目をこらしてほしい。一方は17歳以上から23歳まで、もう一方は18歳以上から30歳までの年齢を募集している。そう、売春が合法であった当時でも、未成年であれば違法だった。

どうして年齢についての記述を無視できる人がこれほどいるのか、私には理解できない。たとえ当時に未成年売春が合法であったとしても、対外的に誇らしげに見せられる内容でないことは、歴史にくわしくなくても明らかだろう。

____

いいかげん慰安婦募集の新聞広告を持ち出すことはやめるべき
実際には、日本の歴史学者も以前から従軍慰安婦問題の重要な資料としてあつかっている。韓国政府固有の問題であるかのような主張は、勉強不足と告白しているようなもの。

そして問題は、事実上の拘束であった「前借」だけではない。

両方の広告によく目をこらしてほしい。一方は17歳以上から23歳まで、もう一方は18歳以上から30歳までの年齢を募集している。そう、売春が合法であった当時でも、未成年であれば違法だった。

どうして年齢についての記述を無視できる人がこれほどいるのか、私には理解できない。たとえ当時に未成年売春が合法であったとしても、対外的に誇らしげに見せられる内容でないことは、歴史にくわしくなくても明らかだろう。

従軍慰安婦は売春婦か?

日本の戦争責任資料センターの声明では
「未成年の少女の場合、慰安所での使役は強制でなく本人の自由意志による、と主張することは、当時日本が加盟していた婦人・児童の売買禁止に関する国際諸条約に照らしても、困難である」

となっています。 又日本国内から慰安婦を徴募する場合は21歳以上の経験者にかぎるという法律があったと思います。

未成年を慰安婦として渡航されたことが確認できる公文書は、米三機密第353号「支那渡航婦女の取扱に関する件」と「渡支事由証明書等の取寄不能と認められるる対岸地域への渡航者の取扱に関する件」などでした。年齢がそれぞれに「15・16・17歳」と「14・15・16・18歳」になっています。

研究書に収録された元慰安婦の証言データ(1)朝鮮人慰安婦
出典:「日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦」表2−1,4−16,4−19,4−30より全42人43件(文玉珠は2回慰安婦になっている)

注:徴集年は19XX年、徴集形態は尹明淑の記述による(拉致:暴力による連行、就業詐欺:いい仕事があると騙して連れ去るもの、強制は命令された・逆らえなかったなど、徴集地で特記なきはすべて朝鮮。

名前 年齢 年 徴集形態 徴集人 徴集地 慰安所の場所

崔イルレ 15 1931 拉致 軍人 霊岩 満州
陳キョンベン 16 1939 拉致 軍人 狭川 基降(台湾)
鄭学珠 14  1938 拉致 軍人 釜山 ハルピン
文玉珠1 16 1940 拉致 軍人 大邸 東安省(中国)
姜ムジャ 13 1941 拉致 軍人 新馬山 パラオ諸島コロール
林グマ 16 1939 就業詐欺 民間業者 漢口(中国) 漢口(中国)
李相玉 14 1936 就業詐欺 民間業者 京城 パラオ
金春子 16 1939 就業詐欺 民間業者 清津 東安省(中国)
洪愛珍 14 1942 就業詐欺 民間業者 統営 上海
李玉粉 11 1937 誘拐・詐欺 民間業者 蘆山 台湾
金ブンソン 15 1937 就業詐欺 民間業者 漆谷 台湾
金ボットン 15 1941 詐欺・強制 民間業者 梁山 広東

*1朱徳蘭はこういう項目では分類していないが本文中で、日本人警察官により雑益に強制的に徴集された後、毎日性の相手を無理させられる様になったことが記述されている。

▲△▽▼

朝鮮での慰安婦徴集の違法性で議論の余地がないのは、未成年者を徴集したことです。
現在日本で裁判をおこしている9名の元慰安婦達は全員が21歳未満であり、この場合、国際条約によれば、本人が了承したとしても慰安婦とする事は処罰の対象としなければならないはずです。

もちろん、この人達は強制をうけて慰安婦になったと詳細な証言をしています。

慰安婦の徴集のやり方について、間に朝鮮人が介在したことが多かったので、そのような場合は、軍の責任ではないとする意見もありますが、それなら慰安所に到着した時点で娼妓取締規則にあるように本人の自由意志であることを確認し、強制されたり騙されて来た者は、家に帰すべきです。

しかし、そのような事を行った形跡はありません。直接命じてやらせたにしろ、黙認したにしろ、軍の責任で行われたことに違いはありません。

▲△▽▼

『慰安婦』にされた年齢

尹明淑『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』(明石書店、2003年)の表(232、233ページ)から計算した、韓国人元「慰安婦」(43名)の徴集時の年齢は以下のようになります。

11歳  1名
12歳  1名
13歳  1名
14歳  3名
15歳  5名
16歳 16名  ←台湾での公娼の下限年齢*3
17歳  7名  ←朝鮮、満州での公娼下限年齢
18歳  3名  ←日本(内地)での公娼下限年齢
19歳  3名
20歳  -
21歳  1名  ←国際条約*4における成人女性の年齢
22歳  -
23歳  1名
29歳  1名

*「募集年−生誕年」で単純計算しただけなので、実際はこの結果より年齢が1歳下である場合も多いと思われる。
*3:1930年の外務省調査によると、アジアで公娼制度があったのは、日本およびその植民地・統治領、仏領インドシナ、中国(ただし上海など大都市では公娼制度を廃止していく)
*4:『婦人及児童の売買禁止に関する国際条約』

韓国での調査なので、年齢が満年齢ではなく数え年齢の可能性があり、さらに気持ちが重くなりました。
2〜30年前には朝鮮の女はパイパン(無毛症)が多いと言うことがまことしやかに語られることが有りました。
おそらく戦時中に朝鮮ピーと遊んだ人達が広めたのだと思います。何のことはない相手が年端もいかない少女達だったとは。

▲△▽▼

チャンネル桜の常連として今も大活躍中の西岡力先生は悪質な資料改竄・捏造の常習犯です

西岡力先生は徴用工問題否定論や従軍慰安婦問題否定論で有名になりましたが、すべて嘘八百の捏造でした。
西岡力先生の徴用工問題否定論も従軍慰安婦問題否定論と非常に論旨がよく似ています。

1徴用工問題の裏に「朝日新聞」の存在を勝手に錯綜。(⇒慰安婦問題は「朝日新聞」の報道によって生まれた)

2「徴用」であるにも関わらず、言葉遊びで「強制連行」性を否定。(⇒慰安婦は売春婦のこと、性奴隷じゃないから「強制連行」性はない。)

3「在日朝鮮人の八割が出稼ぎで日本に来た」「不法渡航者は強制送還した」と言って話をすり替えて、残り二割の徴用工問題を矮小化。(⇒「あいつらは売春婦で金儲けのために慰安婦になった」「ルール違反で呼び寄せられた慰安婦を親元に返した」)

というようにまとめられるでしょう。また別の論文・記事では、徴用工の待遇について「貯金もできた!」「幸せだった!」という論調も他で見られますが、それもまた「慰安婦は高給取りだった!」と同じ理論です。恐るべき理論の一致と見るべきか。

徴用工がどれだけ悲惨であったのかは「花岡事件」を調べればよく解りますし、中国人徴用工四万人のうち七千人が亡くなった事実からも明らかでしょう。

(野添憲治『企業の戦争責任』社会評論社, 2009を参照)
https://www.amazon.co.jp/%E4%BC%81%E6%A5%AD%E3%81%AE%E6%88%A6%E4%BA%89%E8%B2%AC%E4%BB%BB%E2%80%95%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E4%BA%BA%E5%BC%B7%E5%88%B6%E9%80%A3%E8%A1%8C%E3%81%AE%E7%8F%BE%E5%A0%B4%E3%81%8B%E3%82%89-%E9%87%8E%E6%B7%BB-%E6%86%B2%E6%B2%BB/dp/4784513345

それから、従軍慰安婦は売春婦として認可されない 13才、14才から働き始めているので売春婦では有り得ません。
西岡力先生の悪質な改竄・捏造の手口は元朝日記者植村隆裁判で西岡力先生が自らの「捏造」認めてしまったので、
もう有名になってしまいましたね:

西岡力先生の3つの大ウソ

「植村記者の記事は捏造」説が崩れた3つの理由

西岡力氏は1992年以来、慰安婦問題で植村隆さんが書いた記事を「重大な誤り」「捏造」と批判・攻撃してきました。しかし法廷で提出された証言や資料により、記事を「捏造」とする主張の論拠がいずれも誤っていることが明らかになっています。西岡氏による「捏造」説と、その誤りについて、以下にポイントを3つ示して説明します。 <甲につく数字は、証拠番号の略記>

ウソその1
西岡氏の主張@
植村氏は「『女子挺身隊』の名のもとで戦場に連行された」と、韓国人元慰安婦・金学順さん本人が語っていない経歴を加えた。
▽「初めて名乗り出た元慰安婦の女性の経歴について『《女子挺身隊》の名で戦場に連行され、日本軍人相手に売春行為を強いられた』と書いたのだ。本人が語っていない経歴を勝手に作って書く、これこそ捏造ではないか」(正論2014年10月号=甲5)

▽「植村記者の記事には『挺身隊の名で戦場に連行され』とありますが、挺身隊とは軍需工場などに勤労動員する組織で慰安婦とは全く関係ありません」(週刊文春2014年2月6日号=甲7)

明らかになった事実@ 
金学順さん本人が「私は女子挺身隊だった」「強制的に引っ張って行かれた」と話している。

▽1991年8月14日の金学順さんインタビューについて伝える北海道新聞91年8月18日記事:「初対面のハルモニが『私は女子挺身隊だった』と切り出した」(甲50)

▽91年8月14日、金学順さんが名乗り出た初めての記者会見での発言:「16歳ちょっとすぎたくらいの(私)を引っ張って行って。強制的に。泣いて。出ていくまいと逃げ出したら、捕まって、離してくれないんです」(会見を伝える韓国KBSテレビの映像=甲109、発言の日本語訳=甲110)

▽金さんの会見を報じた翌8月15日付の韓国紙報道:東亜日報「挺身隊慰安婦として苦痛を受けた私」(甲20)、中央日報「私は挺身隊だった」(甲21)。ハンギョレ新聞「私を連れて行った養父も当時、日本軍人にカネももらえず武力で私をそのまま奪われたようでした」(甲67、西岡氏の翻訳=甲67の2)

ウソその2
西岡氏の主張A
金学順さんは「親に身売りされて慰安婦になった」「四十円でキーセンに売られた」と話したのに、植村氏が記事で触れていない。

▽「このとき名乗り出た女性(金学順さん)は親に身売りされて慰安婦になったと訴状に書き、韓国紙の取材にもそう答えている。植村氏はそうした事実に触れずに強制連行があったかのように記事を書いており、捏造記事と言っても過言ではありません」(週刊文春2014年2月6日号=甲7)

▽「その女性が日本政府に対して裁判をおこした訴状を見ると、『四十円でキーセンにうられた』と書いてあったのです。その女性は韓国の新聞のインタビューでも、『自分はキーセンに売られた』と言っていたのです」(明日への選択2007年5月号)

▽「金氏がキーセンとして売られたことも書いていない。…あえて『キーセン』のことを書かないことで、強制連行をより強調したかったのか、誤報というよりも、明らかに捏造である」(中央公論2014年10月号=甲6)

明らかになった事実A

「親に身売りされて慰安婦になった」という表現は、金さんの訴状(甲16)にも、韓国紙の記事(甲67、西岡氏の翻訳=甲67の2)にもない。金さんがキーセン学校に入ったことと慰安婦にされたことは関係ない。

金学順氏は「養父は(日本軍)将校たちに刀で脅され、土下座させられたあと、どこかへ連れさられてしまった」(乙10)、「姉さんと私は別の軍人たちに連行されました。…私たちにそのトラックに乗れと言うので乗らないと言いましたが、両側からさっとかつぎ上げられて乗せられてしまいました」(乙19)と明言しており、「日本軍によって戦場に連行されて慰安婦にされた」ことは明白。

西岡氏は、金さんは「親に身売りされて慰安婦になった」、「四十円でキーセンにうられた」と主張。論拠として、月刊『宝石』の臼杵敬子氏論文(1992年2月号=乙10)と『未来への記憶 アジア「慰安婦」証言集1』に掲載された金学順氏の証言(乙19)を提出した。しかし、キーセン養成学校に通ったのは14歳の時で、慰安婦にされたのは17歳の時。キーセンと慰安婦にさせられたこととは関係ない。

ウソその3
西岡氏の主張B
義母の裁判を有利にするために記事を書いた。

▽「原告は、韓国人である義母の起こした裁判を有利にする目的で、義母から便宜をもらい、金学順がキーセンに身売りされた事実を意図的に隠し、あたかも金学順が吉田清治証言のような強制連行の被害者であるかのごとく、事実を改ざんして意図的な捏造により記事にした」(『よく分かる慰安婦問題』増補版第3刷=甲3)

▽「原告のリーダーが義理の母であったために、金学順さんの単独インタビューがとれたというカラクリです」(「いわゆる従軍慰安婦について歴史の真実から再考するサイト」=甲4)

明らかになった事実B

植村記者が金学順さんの第一報を書いたときの団体は義母の団体(遺族会)とは関係ない別団体。朝日新聞の第三者委員会報告書(甲64)は、「義母を利する目的」や「捏造」との説を否定している。

 まず植村氏が1991年に金学順さんの情報を聞いたのは義母からではなく当時の朝日新聞ソウル支局長からだった(MILE1991年11月号=甲13、小田川興・元ソウル支局長の陳述書=甲57)。金学順さんの第一報を書いたとき聞き取りをしていた団体は「韓国挺身隊問題対策協議会」で、義母の団体「太平洋戦争犠牲者遺族会」(遺族会)とは関係ない別団体だった(甲9=文芸春秋2015年1月号、義母の梁順任氏の陳述書=甲158)。誤りを指摘され、西岡氏は訂正したとしている(正論15年2月号=甲107、正論15年3月号=甲108)。

朝日新聞の慰安婦報道を検証した第三者委員会は報告書(甲64)で「植村の取材が義母との縁戚関係に頼ったものとは認められないし、同記者が縁戚関係にある者を利する目的で事実をねじ曲げた記事が作成されたともいえない」(42ページ)と書き、「義母を利する記事」との説や、植村記者の記事が捏造であるとの説を明快に否定した。

____

因みに、西岡力先生の嘘は植村隆さんとその家族の人生を滅茶苦茶にしてしまいました:

「週刊文春」は植村氏が朝日を退職して神戸松蔭女子学院大の教授になる、という情報を察知し「“慰安婦捏造”朝日新聞記者がお嬢様女子大教授に」という記事を掲載(2014年2月6日号)。この中で西岡氏は植村氏の記事を「捏造記事と言っても過言ではありません」と述べている。

 記事の掲載に際して「週刊文春」は神戸松蔭女子学院大にこんな質問状を送った。

「重大な誤り、あるいは意図的な捏造があり、日本の国際イメージを大きく損なったとの指摘が重ねて提起されています。貴大学は採用にあたってこのような事情を考慮されたのでしょうか」

 この記事が出ると、大学に電話やメールが殺到した。植村氏は事実上の就任辞退を迫られたという。

 記事を書いた元文春記者の竹中明洋氏は東京地裁の証人尋問で「思った以上に反響が大きかった」と述べた。

大学を追われた植村氏には、朝日新聞記者時代から務めていた北海道の北星学園大学非常勤講師として迎えられた職だけが残された。

 竹中記者は「『慰安婦火付け役』朝日新聞記者はお嬢様大学クビで北の大地へ」と追い打ちをかけ、この時も大学に質問状を送り付けた。「大学教員としての適性には問題はないとお考えでしょうか」。
 記事は大学への攻撃に火をつけた。
「貴殿らは我々の度重なる警告にも関わらず、国賊である植村隆の雇用継続を決定した。この決定は、国賊である植村隆による悪辣な捏造行為を肯定するものだ」との書き出しで、学生や教職員に危害が及ぶことを警告する脅迫文書が送られるようになる。

 脅しは家族にまで広がった。長女の写真が実名といっしょにネットにさらされ、「必ず殺す。何年かかっても殺す。何処へ逃げても殺す。絶対にコロス」などの脅迫文が繰り返し届けられた。 

18. 中川隆[-12351] koaQ7Jey 2019年2月08日 07:52:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

よくわかる慰安婦問題 (草思社文庫) – 2012/12/1
西岡 力 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4794219423/ref=sxbs_sxwds-stvp_3?pf_rd_p=07d939bf-cba0-45f8-80e7-ed18c5427340&pd_rd_wg=IHkRb&pf_rd_r=JZXYB49WTTMQKDSZK2SH&pd_rd_i=4794219423&pd_rd_w=ow8jX&pd_rd_r=7b9404af-08a9-4061-90fb-62c623f8ada0&ie=UTF8&qid=1549578932&sr=3


内容(「BOOK」データベースより)

かつて日本は朝鮮半島の女性たちを「強制連行」して「性奴隷」にしていた!?

―九〇年代に突如として巻き起こったこの「慰安婦問題」は、さまざまな検証を経て、真実ではなかったことが明らかにされている。
にもかかわらず、繰り返し日本非難の火の手はあがり、日韓関係の根幹をゆるがす事態にまで発展しつつある。

なぜこのようなことになったのか。そもそも「慰安婦問題」とは何か。
日韓・日朝関係の専門家が問題の核心と真実とを明快に解き明かす

カスタマーレビュー


Amazon カスタマー
2018年裁判でデマ本確定 2018年10月14日
植村隆名誉回復訴訟(2018年9月5日)で、本書の間違いが確定済み。
著者の西岡自身が、重要な証拠記事の改ざんを認めました。


根本
このような本に騙されてはいけません。事実誤認や、紹介されていない証言・証拠多数アリ。2015年3月3日

私はtestimony of grandfather というサイトを書きました根本と申します。
(URLが貼り付けできないようですので検索願います。
戦争で満州へ行っていた祖父の証言サイトです。)

祖父によれば、1940年春ごろのチチハルにはやはり軍専属の慰安所があり、
朝鮮人の女の子が最低でも200人は連れてこられていた、
朝鮮人を集めてくる専門部隊というのがあって、慰安所の設営は業者でなく軍が直接やっていた、

女の子たちはみんな泣いていた、「性奴隷」という表現はそのとおりだし、
日本は朝鮮にはものすごく悪いことをしたんだよ、ということです。
これは100%確実な事実です。祖父が孫にウソの証言をする理由などどこにもありませんから。

この本の内容についてですが、タイトルの通りです。

著者は「強制連行の証拠は無い」などと繰り返し述べていますが、
以下の証言や証拠はどういう扱いになっているのでしょうか?


◆被害者の証言(朝鮮、中国、台湾、フィリピン、インドネシア、オランダ、マレーシア、東ティモール、日本)


・林博史先生のfight for justice というサイトの「証言」のページ参照。(特に「連行一覧」のPDF)

◆加害者(日本兵)の証言、手記
・「日本軍将兵の証言・手記にみる慰安婦強制の実態」
・「従軍慰安婦資料館」

などで検索してみてください。


元日本兵の証言・手記がたくさん載っています。


◆強制連行(軍が慰安婦を強制した事例)の証拠

「東京裁判 慰安婦 強制連行」や「桂林 慰安婦 東京裁判」や
「鈴木啓久 慰安婦 誘拐」や「ビルマ ミッチナ 慰安所 公文書」

などで検索してみてください。

日本軍人は裁判で強制連行を認めていますし、
日本人業者と軍が結託して、人身売買や就業詐欺などにより朝鮮人女性を徴集し、
ビルマのラングーンまで連れて行き、借金のカタに慰安婦業務に束縛したという
アメリカの公文書もあるのです。

この本ではこれらが全く触れられていないのですが、
都合の悪い証言・証拠類は全部無視なんでしょうか?それとも単に知らないだけ?
日本軍がアジア諸国の女性を詐欺・人身売買・誘拐など様々な手段を用いて連行し、
慰安婦(性奴隷)を強制したこと、それは動かせない事実なのです。

他にも、この本には多数の事実誤認や問題点があります。


1、P33、「善意の関与なのだ」
→吉見義明の「従軍慰安婦」(1995年)を読めば当時の経過が詳しく書かれいるが、
この通達が出された1938年ごろにはすでに中国における慰安所の大量設置が始まっていた
(史料多数アリ)。

ということはこの通達は、日本軍人による戦地での強姦が頻発していたこと、
日本軍が自主的に慰安所を大量設置し、それを管理統制し、
慰安婦を大量動員していたことの何よりの証ではないのか。
それを単純に「善意の関与」などと言い切ってしまってよいのかどうか。


2、P35、金学順さんの証言。
→キーセンに売られたのではなく、キーセン学校に売られたと証言している。
卒業後も年齢に足りずキーセンにはなれていない。
その後日本軍に連れて行かれ慰安婦を「強要」された。
つまり本人の意思に反し日本兵との性交を強要されたわけだから、
強制連行でなくとも日本軍の責任は免れない。


3、P50、P60、「権力による強制連行は証明されていないことが分かってきた」
→間違い。上に挙げたように証言も証拠も多数ある。


4、P78、「千田は原参謀に直接インタビューをしていないことを事実上認めたのだ」
→事実誤認。ウソ。

加藤正夫氏の現代コリア1993年2・3月号「千田夏光著『従軍慰安婦』の重大な誤り」
を読んでみても、そんなことはどこにも書かれていない。
この著作はせいぜいが、「疑問ではないか」「なかったということではあるまいか」
などと疑問を呈しているくらいのもの。
第一、千田氏も原氏も生前、このインタビューがあったことを否定などしていない。
(ちなみに、関東軍参謀部第三課兵站班にいた村上貞夫氏は、
関特演のとき集まった朝鮮人女性は三千人くらいだったと証言している)


5、P88、文玉珠さんの証言。
→ビルマのインフレを考慮していない。他の方が書かれている通り。


6、P128、・・・まさにそのとおりだ。
→全然そのとおりではない。証拠がないから事実でないとは限らない。
上に挙げた証言をどう考えるのか。

これだけ色々な国の人の証言すべてがウソということは「有り得ない」。
それに、強制連行の有無は慰安婦問題において中心的な問題ではない。
連行の方法が何であれ、「本人の意思に反して性行為を強要したこと」それが問題なのだ。


7、P136、「慰安婦問題とは突き詰めれば、朝日が主導してきた捏造報道をどうただすか、
ということが焦点になる」
→全く違う。歴史研究も河野談話も、吉田証言には依拠していない。
朝日の誤報とは関係なく、上に挙げた証言や証拠類が沢山ある。

まあ素人の私がざっと読んでもこうなのですから、
専門家が細かく読めばもっともっと誤謬が見つかることでしょう。

全体的に見て筆者は、慰安婦の問題=強制連行があったかなかったか、
というふうに誤解しているようです。
そうではないのです。連行の方法が何であれ、
「本人の意思に反して性行為を強制したこと」それが問題なのです。

筆者は何も問題を理解していませんし、都合の悪い証言・証拠類はすべて無視しています。
歴史の事実を知りたければ、目を背けたくなるような証言や証拠にも
きちんと向き合わなければなりません。このような本に騙されてはいけませんよ。

銭より正義
論破されている内容の繰返し、歴史改竄宣伝 2017年5月15日

既に資料で反証、論破されている内容を恥じもせず繰り返し、この問題の入門者を騙そうという意図。研究のでなく宣伝 本。

チキンハート
歴史学を無視した暴論である 2014年4月14日

「第3章、慰安婦問題のウソ」P87からの「東京で家5軒が買えるほどの貯金」の節にはこう書いてある。

「92年、名乗り出た元慰安婦、文玉珠さんが訪日し、軍事郵便貯金の払い戻し請求を行ったという新聞報道があった。文さんは1942年から44年までビルマで慰安婦生活をしたが、その間に軍人からもらった現金などを現地部隊の軍事郵便局に預けた。・・・・・

その後、・・・92年5月11日に軍事貯金の原簿が発見された

。原簿によると、1943年6月から45年9月まで12回の貯金があり、残高は26145円となっていた。本来ならこの金額の大きさが大ニュースだった。なにしろ当時の26000円である。その頃、5000円あれば東京で家一軒買えたというから、彼女の貯金は家5軒分なのだ。」

という。

しかし、これはビルマの驚異的インフレを考慮しない暴論である。

小林英夫早大教授によると、軍票を乱発したビルマでは驚異的なインフレが起こり、1945年のビルマの物価は、東京と比較すれば1000倍以上に達していた。つまりビルマの2万円は、東京の20円にしかならないのである。ゆえに歴史学者の太田常蔵は「マンダレー失陥後の軍票はほとんど無価値であった」と述べている。(『ビルマにおける日本軍政史研究』)

筆者の西岡力は歴史学者ではないし、こういう事を知らないのだろう。文玉珠さんの通帳の記録では、1945年5月に2万円が振り込まれている。マンダレー失陥から数カ月を経ており、文さんによるとお客となった軍人からチップとして渡されたという。つまり無価値になった軍票をもらったという事である。

そしてこの時期には既に内地では占領地からの貯金はおろせなくなっていた。つまり文さんは文字通り無価値な軍票をもらったのである。家を建てられる訳がない。
どのような論説を書いても自由ではあるが、とても専門家とは言えないと思う。にも関わらず冒頭部分で自分を「専門家」と書いており、思わず苦笑いしてしまう作品である。

改進日歩
根拠を欠く陳腐な内容2012年7月7日

「従軍慰安婦」問題については、日本の一部論評、韓国側の主張が食い違う微妙な問題だ。「従軍」という表現が歴史的な事実として正しいかは大いに議論があるところで、系統だった組織的「犯罪」かどうかは私も疑問に感じている。ただし、それは事実がなかったことは意味せず、当時すでに常態化していたように、日本軍が一元的な指揮命令系統のもとに行動をおこせなかったことを意味しているだけかもしれない。つまり、軍部の人間が「勝手に」あるいは暴走で行ったという事実は可能性のあることである。

慰安婦とする人の証言が必ずしもすべて真実でないことは確かで、記憶違いもあり意図的な錯誤もある。しかし、傍証する資料がないから証言がすべて嘘であるとはいえない。むしろ、戦後史は強制労働などにみるように「基礎的な資料」が残っていないことに根本的な問題が存在するのである。裁判の判例や新聞記事が事実を否定する資料にならないことは言うまでもない。

本書は残念ながら冷静な歴史の検証と吟味に欠け、著者の常の発言である「吉田証言はウソだ」「慰安婦は売春婦だ」「強制連行はなかった」と書き連ねているだけで、新鮮味もないし、歴史を検証する書としての体裁も整えていない。最初に結論ありきの凝り固まった頭脳で感情的に主張を列挙するだけでは、日本の歴史史観の進歩は望めない。

このような書物は読者を興奮せしめる危険な効果もある。本書の「レビュー」のことごとく興奮した書きぶりを見ても、その負の効果は明らかであろう。あるいはそれこそ著者が狙っていることかもしれない。


777
従軍慰安婦は売春婦として認可されない 13才、14才から働き始めているので売春婦では有り得ない 2019年2月6日

従軍慰安婦は 13才、14才から慰安所で働き始めている。
18才以下の売春婦は法的に認可されていないから、例え本人や親が承諾していたとしても悪質な法律違反になる。
従って、従軍慰安婦は売春婦ではあり得ない。

いいかげん慰安婦募集の新聞広告を持ち出すことはやめるべき
実際には、日本の歴史学者も以前から従軍慰安婦問題の重要な資料としてあつかっている。韓国政府固有の問題であるかのような主張は、勉強不足と告白しているようなもの。

そして問題は、事実上の拘束であった「前借」だけではない。

両方の広告によく目をこらしてほしい。一方は17歳以上から23歳まで、もう一方は18歳以上から30歳までの年齢を募集している。そう、売春が合法であった当時でも、未成年であれば違法だった。

どうして年齢についての記述を無視できる人がこれほどいるのか、私には理解できない。たとえ当時に未成年売春が合法であったとしても、対外的に誇らしげに見せられる内容でないことは、歴史にくわしくなくても明らかだろう。

従軍慰安婦は売春婦か?

日本の戦争責任資料センターの声明では
「未成年の少女の場合、慰安所での使役は強制でなく本人の自由意志による、と主張することは、当時日本が加盟していた婦人・児童の売買禁止に関する国際諸条約に照らしても、困難である」

となっています。 又日本国内から慰安婦を徴募する場合は21歳以上の経験者にかぎるという法律があったと思います。

未成年を慰安婦として渡航されたことが確認できる公文書は、米三機密第353号「支那渡航婦女の取扱に関する件」と「渡支事由証明書等の取寄不能と認められるる対岸地域への渡航者の取扱に関する件」などでした。年齢がそれぞれに「15・16・17歳」と「14・15・16・18歳」になっています。

研究書に収録された元慰安婦の証言データ(1)朝鮮人慰安婦
出典:「日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦」表2−1,4−16,4−19,4−30より全42人43件(文玉珠は2回慰安婦になっている)

注:徴集年は19XX年、徴集形態は尹明淑の記述による(拉致:暴力による連行、就業詐欺:いい仕事があると騙して連れ去るもの、強制は命令された・逆らえなかったなど、徴集地で特記なきはすべて朝鮮。

名前 年齢 年 徴集形態 徴集人 徴集地 慰安所の場所

崔イルレ 15 1931 拉致 軍人 霊岩 満州
陳キョンベン 16 1939 拉致 軍人 狭川 基降(台湾)
鄭学珠 14  1938 拉致 軍人 釜山 ハルピン
文玉珠1 16 1940 拉致 軍人 大邸 東安省(中国)
姜ムジャ 13 1941 拉致 軍人 新馬山 パラオ諸島コロール
林グマ 16 1939 就業詐欺 民間業者 漢口(中国) 漢口(中国)
李相玉 14 1936 就業詐欺 民間業者 京城 パラオ
金春子 16 1939 就業詐欺 民間業者 清津 東安省(中国)
洪愛珍 14 1942 就業詐欺 民間業者 統営 上海
李玉粉 11 1937 誘拐・詐欺 民間業者 蘆山 台湾
金ブンソン 15 1937 就業詐欺 民間業者 漆谷 台湾
金ボットン 15 1941 詐欺・強制 民間業者 梁山 広東

*1朱徳蘭はこういう項目では分類していないが本文中で、日本人警察官により雑益に強制的に徴集された後、毎日性の相手を無理させられる様になったことが記述されている。


▲△▽▼


朝鮮での慰安婦徴集の違法性で議論の余地がないのは、未成年者を徴集したことです。
現在日本で裁判をおこしている9名の元慰安婦達は全員が21歳未満であり、この場合、国際条約によれば、本人が了承したとしても慰安婦とする事は処罰の対象としなければならないはずです。

もちろん、この人達は強制をうけて慰安婦になったと詳細な証言をしています。

慰安婦の徴集のやり方について、間に朝鮮人が介在したことが多かったので、そのような場合は、軍の責任ではないとする意見もありますが、それなら慰安所に到着した時点で娼妓取締規則にあるように本人の自由意志であることを確認し、強制されたり騙されて来た者は、家に帰すべきです。

しかし、そのような事を行った形跡はありません。直接命じてやらせたにしろ、黙認したにしろ、軍の責任で行われたことに違いはありません。

▲△▽▼

『慰安婦』にされた年齢

尹明淑『日本の軍隊慰安所制度と朝鮮人軍隊慰安婦』(明石書店、2003年)の表(232、233ページ)から計算した、韓国人元「慰安婦」(43名)の徴集時の年齢は以下のようになります。

11歳  1名
12歳  1名
13歳  1名
14歳  3名
15歳  5名
16歳 16名  ←台湾での公娼の下限年齢*3
17歳  7名  ←朝鮮、満州での公娼下限年齢
18歳  3名  ←日本(内地)での公娼下限年齢
19歳  3名
20歳  -
21歳  1名  ←国際条約*4における成人女性の年齢
22歳  -
23歳  1名
29歳  1名

*「募集年−生誕年」で単純計算しただけなので、実際はこの結果より年齢が1歳下である場合も多いと思われる。

*3:1930年の外務省調査によると、アジアで公娼制度があったのは、日本およびその植民地・統治領、仏領インドシナ、中国(ただし上海など大都市では公娼制度を廃止していく)

*4:『婦人及児童の売買禁止に関する国際条約』

韓国での調査なので、年齢が満年齢ではなく数え年齢の可能性があり、さらに気持ちが重くなりました。

2〜30年前には朝鮮の女はパイパン(無毛症)が多いと言うことがまことしやかに語られることが有りました。

おそらく戦時中に朝鮮ピーと遊んだ人達が広めたのだと思います。何のことはない相手が年端もいかない少女達だったとは。


▲△▽▼


西岡力先生の 慰安婦=売春婦 説 は悪質な嘘でしたが、
慰安婦強制連行の吉田証言も事実だったのが最近わかってきました。

詳細は

経済ジャーナリスト・今田真人「従軍慰安婦・吉田証言否定論を検証するページ」
http://masato555.justhpbs.jp/newpage113.html


に書かれていますが、

朝日新聞は吉田清治さんの強制慰安婦問題でインチキ調査を行った

・官邸から圧力がかかった。

・消費税軽減税率を新聞に適用して欲しかったので、官邸におべっかを使った。

・それで、朝日新聞は吉田清治さんの話が全羅南道でのできごとだったと良く知っていながら、わざわざ済州島だけで聞き取り調査した。


▲△▽▼


慰安婦が本当の事を話さなかった理由

売春婦とその家族を蔑視し差別する儒教社会に生きる朝鮮女性は自分が慰安婦だったと言えない環境にあった。

朝鮮は儒教社会だから慰安婦の姉妹や娘は一生 売春婦以外の仕事はできなくなる

だから元慰安婦だったとわかると一家は路頭に迷う事になる

吉田清治はそういう朝鮮の事情を考慮して意図的に強制連行した日時と場所を変えて書いたんですね。

吉田清治は実際に強制連行した日時と場所を公表しろと何度も言われたけど、元慰安婦の身元がわかって本人や家族が迫害されると困るので、絶対に応じなかったのです。

アホ右翼は知らないみたいですが、吉田清治は済州島の慰安婦狩りの情景は、実際には全羅南道での出来事だったと言っているんですね。

19. 中川隆[-12334] koaQ7Jey 2019年2月08日 15:33:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22234] 報告

amazon の西岡力の本に 777 のペンネームで書評を書いたら、次々に削除されました。

右翼はやる事が えげつないですね。


amazon.co.jp 西岡 力 本
https://www.amazon.co.jp/s/ref=dp_byline_sr_book_1?ie=UTF8&text=%E8%A5%BF%E5%B2%A1+%E5%8A%9B&search-alias=books-jp&field-author=%E8%A5%BF%E5%B2%A1+%E5%8A%9B&sort=relevancerank

20. 2019年3月18日 10:30:20 : LY52bYZiZQ : aXZHNXJYTVV4YVE=[306] 報告
ヴォイスコーナー【山岡鉄秀×中山恭子】日本よ!外務省の官僚よ!
.
新 ch政経
2019/03/17 に公開
https://www.youtube.com/watch?v=pe_eTkfAXNY
21. 中川隆[-11282] koaQ7Jey 2019年3月22日 15:12:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[724] 報告

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 2019-03-20
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html


それぞれの国は自国について、長い時間をかけてそれまで積み上げてきた「国民の物語」を持っています。これは戦争に勝っても負けても手離すことができない。だから、自分たちの戦争経験を、世代を超えて語り継がれる「物語」になんとかして統合しようとした。

 日本人は歴史について都合の悪いことは書かないと指摘されます。それは全くその通りなんです。でも、それは程度の差はあれ、どこの国も同じなんです。戦争をどう総括するかということは、まっすぐに自分たち自身に対する、世代を超えて受け継がれる「評価」に繋がる。だから、大幅に自己評価を切り下げるような「評価」はやはり忌避される。もし敗北や、戦争犯罪についての経験を「国民の物語」に繰り込むことができた国があるとすれば、それは非常に「タフな物語」を作り上げたということです。

 自分たちの国には恥ずべき過去もある。口にできない蛮行も行った。でも、そういったことを含めて、今のこの国があるという、自国についての奥行きのある、厚みのある物語を共有できれば、揺るがない、土台のしっかりとした国ができる。逆に、口当たりの良い、都合のよい話だけを積み重ねて、薄っぺらな物語をつくってしまうと、多くの歴史的事実がその物語に回収できずに、脱落してしまう。でも、物語に回収されなかったからといって、忘却されてしまうわけではありません。抑圧されたものは必ず症状として回帰してくる。これはフロイトの卓見です。押し入れの奥にしまい込んだ死体は、どれほど厳重に梱包しても、そこにしまったことを忘れても、やがて耐えがたい腐臭を発するようになる。

 僕は歴史修正主義という姿勢に対しては非常に批判的なのですけれども、それは、学問的良心云々というより、僕が愛国者だからです。日本がこれからもしっかり存続してほしい。盤石の土台の上に、国の制度を基礎づけたい。僕はそう思っている。そのためには国民にとって都合の悪い話も、体面の悪い話も、どんどん織り込んで、清濁併せ呑める「タフな物語」を立ち上げることが必要だと思う。だから、「南京虐殺はなかった」とか「慰安婦制度に国は関与していない」とかぐずぐず言い訳がましいことを言っているようではだめなんです。過去において、国としてコミットした戦争犯罪がある。戦略上の判断ミスがある。人間として許しがたい非道な行為がある。略奪し、放火し、殺し、強姦した。その事実は事実として認めた上で、なぜそんなことが起きたのか、なぜ市民生活においては穏やかな人物だった人たちが「そんなこと」をするようになったのか、その文脈をきちんと捉えて、どういう信憑が、どういう制度が、どういうイデオロギーが、そのような行為をもたらしたのか、それを解明する必要がある。同じようなことを二度と繰り返さないためには、その作業が不可欠です。そうすることで初めて過去の歴史的事実が「国民の物語」のうちに回収される。「汚点」でも「恥ずべき過去」でも、日の当たるところ、風通しの良いところにさらされていればやがて腐臭を発することを止めて「毒」を失う。

 その逆に、本当にあった出来事を「不都合だから」「体面に関わるから」というような目先の損得で隠蔽し、否認すれば、その毒性はしだいに強まり、やがてその毒が全身に回って、共同体の「壊死」が始まる。


カウンターカルチャーがアメリカの強さ

 なぜアメリカという国は強いのか。それは「国民の物語」の強さに関係していると僕は思っています。戦勝国だって、もちろん戦争経験の総括を誤れば、毒が回る。勝とうが負けようが、戦争をした者たちは、口に出せないような邪悪なこと、非道なことを、さまざま犯してきている。もし戦勝国が「敵は『汚い戦争』を戦ったが、われわれは『きれいな戦争』だけを戦ってきた。だから、われわれの手は白い」というような、薄っぺらな物語を作って、それに安住していたら、戦勝国にも敗戦国と同じような毒が回ります。そして、それがいずれ亡国の一因になる。

 アメリカが「戦勝国としての戦争の総括」にみごとに成功したとは僕は思いません。でも、戦後70年にわたって、軍事力でも経済力でも文化的発信力でも、世界の頂点に君臨しているという事実を見れば、アメリカは戦争の総括において他国よりは手際がよかったとは言えるだろうと思います。

アメリカが超覇権国家たりえたのは、これは僕の全く独断と偏見ですけれども、彼らは「文化的復元力」に恵まれていたからだと思います。カウンターカルチャーの手柄です。

 七〇年代のはじめまで、ベトナム戦争中の日本社会における反米感情は今では想像できないほど激しいものでした。ところが、一九七五年にベトナム戦争が終わると同時に、潮が引くように、この反米・嫌米感情が鎮まった。つい先ほどまで「米帝打倒」と叫んでいた日本の青年たちが一気に親米的になる。この時期に堰を切ったようにアメリカのサブカルチャーが流れ込んできました。若者たちはレイバンのグラスをかけて、ジッポーで煙草の火を点け、リーバイスのジーンズを穿き、サーフィンをした。なぜ日本の若者たちが「政治的な反米」から「文化的な親米」に切り替わることができたのか。それは七〇年代の日本の若者が享受しようとしたのが、アメリカのカウンターカルチャーだったからです。

カウンターカルチャーはアメリカの文化でありながら、反体制・反権力的なものでした。日本の若者たちがベトナム反戦闘争を戦って、機動隊に殴られている時に、アメリカ国内でもベトナム反戦闘争を戦って、警官隊に殴られている若者たちがいた。アメリカ国内にもアメリカ政府の非道をなじり、激しい抵抗を試みた人たちがいた。海外にあってアメリカの世界戦略に反対している人間にとっては、彼らこそがアメリカにおける「取りつく島」であった訳です。つまり、アメリカという国は、国内にそのつどの政権に抗う「反米勢力」を抱えている。ホワイトハウスの権力的な政治に対する異議申し立て、ウォール街の強欲資本主義に対する怒りを、最も果敢にかつカラフルに表明しているのは、アメリカ人自身です。のこの人たちがアメリカにおけるカウンターカルチャーの担い手であり、僕たちは彼らになら共感することができた。僕たちがアメリカ政府に怒っている以上に激しくアメリカ政府に怒っているアメリカ人がいる。まさにそれゆえに僕たちはアメリカの知性と倫理性に最終的には信頼感を抱くことができた。反権力・反体制の分厚い文化を持っていること、これがアメリカの最大の強みだと僕は思います。

 ベトナム戦争が終わると、ベトナムからの帰還兵が精神を病み、暴力衝動を抑制できなくなり、無差別に人を殺すという映画がいくつも作られました。ロバート・デ・ニーロの『タクシードライバー』(一九七六年)がそうですし、『ローリング・サンダー』(一九七七年)もスタローンの『ランボー』(一九八二年)もそうです。アメリカ人はそういう物語を商業映画・娯楽映画として製作し、観客もこれを受け入れた。僕たちはそのことにあまり驚きを感じません。けれども、もし日本でイラク駐留から帰ってきた自衛隊員が精神を病んで、市民を殺しまくるなんていう映画を作ることが可能でしょうか。まず、企画段階で潰されるだろうし、官邸からも防衛省からも激しい抗議があるでしょうし、上映しようとしたら映画館に右翼の街宣車が来て、とても上映できないということになるでしょう。それを考えたら、アメリカのカウンターカルチャーの強さが理解できると思います。彼らはベトナム戦争の直後に、自分たちの政府が強行した政策がアメリカ人自身の精神をどう破壊したかを、娯楽映画として商品化して見せたのです。同じことができる国が世界にいくつあるか、数えてみて欲しいと思います。

 アメリカではこれができる。ハリウッド映画には、大統領が犯人の映画、CIA長官が犯人の映画というような映画も珍しくありません。クリント・イーストウッドの『目撃』(一九九七年)もケヴィン・コスナーの『追い詰められて』(一九八七年)もそうです。警察署長が麻薬のディーラーだった、保安官がゾンビだったというような映画なら掃いて捨てるほどあります。アメリカ映画は、「アメリカの権力者たちがいかに邪悪な存在でありうるか」を、物語を通じて、繰り返し、繰り返し国民に向けてアナウンスし続けている。世界広しといえども、こんなことができる国はアメリカだけです。


歴史上の汚点を供養する

 米ソは冷戦時代には軍事力でも科学技術でも拮抗状態にありましたが、最終的には一気にソ連が崩れて、アメリカが生き残った。最後に国力の差を作り出したのは、カウンターカルチャーの有無だったと僕は思います。自国の統治システムの邪悪さや不条理を批判したり嘲弄したりする表現の自由は、アメリカにはあるけれどもソ連にはなかった。この違いが「復元力」の違いになって出てくる。

どんな国のどんな政府も必ず失策を犯します。「無謬の統治者」というようなものはこの世には存在しません。あらゆる統治者は必ずどこかで失策を犯す。その時に、自分の間違いや失敗を認めず、他罰的な言い訳をして、責任を回避する人間たちが指導する国と、統治者はしばしば失敗するということを織り込み済みで、そこから復元するシステムを持っている国では、どちらが長期的にはリスクを回避できるか。考えるまでもありません。

 もちろん、ソ連や中国にも優れた政治指導者がいました。個人的に見れば、アメリカの大統領よりはるかに知性的にも倫理的にも卓越していた指導者がいた。でも、まさにそうであるがゆえに、体制そのものが「指導者が無謬であることを前提にして」制度設計されてしまった。それがじわじわとこれらの国の国力を損ない、指導者たちを腐敗させていった。中国だって、今は勢いがありますけれど、指導部が「無謬」であるという物語を手離さない限り、早晩ソ連の轍を踏むことになるだろうと僕は思います。

 ヨーロッパでは、イギリスにはいくらか自国の統治者たちを冷笑する、皮肉な文化が残っています。カナダにも。だから、これはアングロサクソンの一つの特性かもしれません。アメリカの国力を支えているのは、自国について「タフな物語」を持っているという事実です。「タフな胃袋」と同じで、何でも取り込める。

アメリカ人は、自国の「恥ずべき過去」を掘り返すことができる。自分たちの祖先がネイティブ・アメリカンの土地を強奪したこと、奴隷たちを収奪することによって産業の基礎を築いたこと。それを口にすることができる。そのような恥ずべき過去を受け入れることができるという「器量の大きさ」において世界を圧倒している。

カウンターカルチャーとメイン・カルチャーの関係は、警察の取り調べの時に出てくる「グッド・コップ」と「バッド・コップ」の二人組みたいなものです。一方が容疑者を怒鳴り散らす、他方がそれをとりなす。一方が襟首をつかんでこづき回すと、他方がまあまあとコーヒーなんか持ってくる。そうすると、気の弱った容疑者は「グッド・コップ」に取りすがって、この人の善意に応えようとして、自分の知っていることをぺらぺらとしゃべりだす。映画ではよく見る光景ですけれど、メインカルチャーとカウンターカルチャー権力と反権力の「分業」というのはそれに似ています。複数の語り口、複数の価値観を操作して、そのつどの現実にフレキシブルに対応してゆく。

 だから、アメリカには「国民の物語」にうまく統合できない、呑み込みにくい歴史的事実が他国と比べると比較的少ない。「押し入れの中の死体」の数がそれほど多くないということです。もちろん、うまく取り込めないものもあります。南北戦争の敗者南部十一州の死者たちへの供養は、僕の見るところ、まだ終わっていない。アメリカ=メキシコ戦争による領土の強奪の歴史もうまく呑み込めていない。アメリカにとって都合の良い話に作り替えられた『アラモ』(1960年)で当座の蓋をしてしまった。この蓋をはずして、もう一度デイビー・クロケットやジム・ボウイーの死体を掘り起こさないといずれ腐臭が耐えがたいものになっている。いや、現代アメリカにおける「メキシコ問題」というのは、遠因をたどれば「アラモ」の物語があまりに薄っぺらだったことに起因していると言ってもよいのではないかと僕は思います。アメリカ=スペイン戦争もそうです。ハワイの併合に関わる陰謀も、フィリピン独立運動の暴力的弾圧も、キューバの支配がもたらした腐敗もそうです。アメリカがうまく呑み込めずにいるせいで、娯楽作品として消費できない歴史的過去はまだいくらもあります。でも、これらもいずれ少しずつ「国民の物語」に回収されてゆくだろうと僕は予測しています。アメリカ人は、統治者が犯した失政や悪政の犠牲者たちを「供養する」ことが結果的には国力を高めることに資するということを経験的に知っているからです。そして、どの陣営であれ、供養されない死者たちは「祟る」ということを、無意識的にでしょうが、信じている。彼らの国のカウンターカルチャーは、「この世の価値」とは別の価値があるという信憑に支えられている。


 淡々と記述し物語ることこそが最大の供養

 僕の父は山形県鶴岡の生まれです。ご存じでしょうか、庄内人たちは西郷隆盛が大好きです。庄内藩は戊辰戦争で最後まで官軍に抵抗して、力戦しました。そして、西郷の率いる薩摩兵の前に降伏した。けれども、西郷は敗軍の人たちを非常に丁重に扱った。死者を弔い、経済的な支援をした。一方、長州藩に屈服した会津藩では全く事情が違います。長州の兵はところが、会津の敗軍の人々を供養しなかった。事実、死者の埋葬さえ許さず、長い間、さらしものにしていた。

 薩摩長州と庄内会津、どちらも同じ官軍・賊軍の関係だったのですが、庄内においては勝者が敗者に一掬の涙を注いだ。すると、恨みが消え、信頼と敬意が生まれた。庄内藩の若者たちの中には、のちに西南戦争の時に、西郷のために鹿児島で戦った者さえいますし、西郷隆盛の談話を録した『南洲遺訓』は庄内藩士が編纂したものです。一方、会津と長州の間には戊辰戦争から150年経った今もまだ深い溝が残ったままです。

 靖国参拝問題が、あれだけもめる一因は靖国神社が官軍の兵士しか弔っていないからです。時の政府に従った死者しか祀られない。東北諸藩の侍たちも国のために戦った。近代日本国家を作り出す苦しみの中で死んでいった。そうい人々については、敵味方の区別なく、等しく供養するというのが日本人としては当然のことだろうと僕は思います。

僕の曽祖父は会津から庄内の内田家に養子に行った人です。曽祖父の親兄弟たちは会津に残って死にました。なぜ、彼らは「近代日本の礎を作るために血を流した人たち」に算入されないのか。供養というのは党派的なものではありません。生きている人間の都合を基準にした論功行賞でなされるべきものではありません。だから、僕は靖国神社というコンセプトそのものに異議があるのです。明治政府の最大の失敗は、戊辰戦争での敗軍の死者たちの供養を怠ったことにあると僕は思っています。反体制・反権力的な人々を含めて、死者たちに対してはその冥福を祈り、呪鎮の儀礼を行う。そのような心性が「タフな物語」を生み出し、統治システムの復元力を担保する。その考えからすれば、「お上」に逆らった者は「非国民」であり、死んでも供養に値しないとした明治政府の狭量から近代日本の蹉跌は始まったと僕は思っています。

「祟る」というのは別に幽霊が出てきて何かするという意味ではありません。国民について物語が薄っぺらで、容量に乏しければ、「本当は何があったのか」という自国の歴史についての吟味ができなくなるということです。端的には、自分たちがかつてどれほど邪悪であり、愚鈍であり、軽率であったかについては「知らないふりをする」ということです。失敗事例をなかったことにすれば、失敗から学ぶことはできません。失敗から学ばない人間は同じ失敗を繰り返す。失敗を生み出した制度や心性は何の吟味もされずに、手つかずのまま残る。ならば、同じ失敗がまた繰り返されるに決まっている。その失敗によって国力が弱まり、国益が失われる、そのことを僕は「祟る」と言っているのです。

 「祟り」を回避するためには適切な供養を行うしかない。そして、最も本質的な供養の行為とは、死者たちがどのように死んだのか、それを仔細に物語ることです。細部にわたって、丁寧に物語ることです。それに尽くされる。

司馬遼太郎は「国民作家」と呼ばれますけれど、このような呼称を賦与された作家は多くありません。それは必ずしも名声ともセールスとも関係がない。司馬が「国民作家」と見なされるのは、近代日本が供養し損なった幕末以来の死者たちを、彼が独力で供養しようとしたからです。その壮図を僕たちは多とする。

司馬遼太郎は幕末動乱の中で死んだ若者たちの肖像をいくつも書きました。坂本龍馬や土方歳三については長編小説を書きました。もっとわずか短い数頁ほどの短編で横顔を描かれただけの死者たちもいます。それは別に何らかの司馬自身の政治的メッセージを伝えたり、歴史の解釈を説いたというより、端的に「肖像を描く」ことをめざしていたと思います。

司馬遼太郎の最終的な野心は、ノモンハン事件を書くことでした。でも、ついに書き上げることができなかった。一九三九年のノモンハン事件とは何だったのか、そこで人々はどのように死んだのか、それを仔細に書くことができれば、死者たちに対してはある程度の供養が果たせると思ったのでしょう。でも、この計画を司馬遼太郎は実現できませんでした。それはノモンハン事件にかかわった軍人たちの中に、一人として司馬が共感できるが人物がいなかったからです。日露戦争を描いた『坂の上の雲』には秋山好古や児玉源太郎や大山巌など魅力的な登場人物が出て来ます。けれども、昭和初年の大日本帝国戦争指導部には司馬をしてその肖像を仔細に書きたく思わせるような人士がもう残っていなかった。これはほんとうに残念なことだったと思います。

「美しい日本」というような空疎な言葉を吐き散らして、自国の歴史を改竄して、厚化粧を施していると、「国民の物語」はどんどん薄っぺらで、ひ弱なものになる。それは個人の場合と同じです。「自分らしさ」についての薄っぺらなイメージを作り上げて、その自画像にうまく当てはまらないような過去の出来事はすべて「なかったこと」にしてしまった人は、現実対応能力を致命的に損なう。だって、会いたくない人が来たら目を合わせない、聴きたくない話には耳を塞ぐんですから。そんな視野狭窄的な人間が現実の変化に適切に対応できるはずがありません。集団の場合も同じです。

国力とは国民たちが「自国は無謬であり、その文明的卓越性ゆえに世界中から畏敬されている」というセルフイメージを持つことで増大するというようなものではありません。逆です。国力とは、よけいな装飾をすべて削り落として言えば、復元力のことです。失敗したときに、どこで自分が間違ったのかをすぐに理解し、正しい解との分岐点にまで立ち戻れる力のことです。国力というのは、軍事力とか経済力とかいう数値で表示されるものではありません。失敗したときに補正できる力のことです。それは数値的には示すことができません。でも、アメリカの「成功」例から僕たちが学ぶことができるのは、しっかりしたカウンターカルチャーを持つ集団は復元力が強いという歴史的教訓です。僕はこの点については「アメリカに学べ」と言いたいのです。
http://blog.tatsuru.com/2019/03/20_1437.html

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