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イランの歴史
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/798.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 1 月 12 日 10:03:25: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

イランの歴史
http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/nichukou/sub/sub_gensya/World/West_Asia/Iran/Iran.htm

  
 イランは、イスラム教シーア派の国。
 民族はペルシャ人で、ペルシャ語を話す。  ※ アラブ人ではない。
 
 
  歴史 
【パーレビ国王の白色革命】

 1918年からイギリスの保護下に入ったが、1925年にパーレビ王朝ができた。
 戦後、イランでは、イギリス系のアングロ=イラニアン石油会社が石油に対する権利を持っていた。 第二次世界大戦後のイランでは、石油利権などをめぐって民族主義の波が押し寄せていた。 

 イラン国民の反英感情は高まり、親英派の首相が暗殺された。  新首相のモサデクは、1951年、石油国有化を図った。  しかし、イランは自分たちで石油産業を経営する力を持っていなかった。 
 
   1953年 … モサデク政権が、アメリカ・イギリスが関与したクーデターで失脚する。
 軍部はモサデク首相を逮捕した。  以後、イランにおけるアメリカの勢力が強く なった。

 アメリカとの結びつきを深めたパーレビ国王は、1963年以降、脱イスラム化と近代化を図る国王主導による「 白色革命 」 を強引に進めた。
 近代化は進んでも、国王側近だけが石油ブームで潤い、バザール商人や農民は生活に苦しんでいた。 そして、それは、国王独裁と支配層の腐敗を招き、国民の不満を募らせていくことになった。
 
 
【イラン革命】
   1978年・・・イラン全土に反国王デモが広がる。
   1979年1月・・・パーレビ国王がイランを出国 し、アメリカに亡命する。
          2月・・・ホメイニ師が、亡命先のフランス・パリから帰国する。

  ホメイニ師とはどんな人物か?

1902年、イランのホメイニで、シーア派聖職者の家に生まれた。
 幼少の頃から神学教育を受けた。 
  1963年、パーレビ国王の近代化路線を非難し、翌年、国外追放を
 命じられた。 父と子を政府の手先に暗殺されたホメイニ師は、
 パーレビ打倒の執念に燃え、1978年には、亡命先のパリから
 反政府運動を指導した。 
 
 ← 左写真  ホメイニ師
 
 
                                                   イラン革命  下写真↓
 ホメイニ師の指導により、パーレビ国王の独裁体制

は倒され、「 イラン王政打倒・近代化強制反対 」 を掲げ
たイスラム共和党( IRP )が設立され、政権を握った。
   1979年4月・・・イラン=イスラム共和国が成立
            する。
 これが、イラン革命で、親米政権が倒された。
        11月・・・テヘランのアメリカ大使館占拠
            事件が起こる。
 ホメイニ師支持の過激派学生が起こしたもので、アメリカに亡命していたパーレビ国王の引渡しを要求した。  
 パーレビ国王を陰で支えていたアメリカとの関係は悪化した。 外交官ら52名のアメリカ大使館の人質が解放されたのは、 444日目の1981年1月20日だった。  
   1980年4月 … アメリカとイランの国交は断絶した。         
 また、パーレビ国王は、1980年7月、失意のうちに亡命先のエジプトで死去した。
         12月・・・ホメイニ師が、イランの最高指導者となる。
 
 
【イラン・イラク戦争】
   1980年9月22日・・・・イラク軍がイランに攻め込む ( イラン・イラク戦争の開始 )。
 イランとイラクは、遠くアラビアンナイトの時代から国境紛争を繰り返していた。
                         イランとイラクの比較  
  イラン
   イラク
 人口 4900万人   公用語はペルシア語
 イスラム教シーア派の国
 1979年の革命以来、厳格なシーア派の戒律による生活
が行われている。 女性は黒衣装に身をつつみ街角で聞こ
える音楽も民族音楽という保守的な国である。
 人口 1500万人   公用語はアラビア語
 イスラム教シーア派とスンニ派が共存

 他のアラブ諸国に比べ、TVアナウンサーなど
女性の社会進出が目立つ。
                                     (注) 上表 ・・・ イラン革命直後の様子である。 
 イラン・イラク戦争の背景には、次のことがある。
1) 国境をめぐる問題
    イランのパーレビ国王は、イラクのフセイン副大統領( 当時 )を強引に譲歩させ、国境に関する協定を結ん
   だ。
      1975年3月・・・・アルジェ協定が成立する。
        [ ペルシャ湾にそそぐシャトルアラブ川のイラン側川岸に引かれていた国境線を、川の中央とした。]
    イラクはこれを不満とした。
      1980年9月17日・・・・フセイン大統領は、アルジェ協定の無効を宣言する。
    こうして、イラクは、シャトルアラブ川を自由に通行する権利を獲得した。
 
2) イラン革命への反発と警戒
    イラクの90%がイスラム教徒で、その60%はシーア派であるが、イラクの支配層はスンニ派である。  
    革命が起こったイランではシーア派を国境としているので、シーア派の多いイラクとしては、革命が自国に
   波及しかねないと考えた。 西欧型近代化をめざしていたイラクのフセインにとって、イスラム革命はじゃまな
   存在であった。

3) ホメイニ師とフセイン大統領の個人的な確執
    ホメイニ師は、イランのパーレビ国王に追放された時、イラクに居を構えていた。  しかし、1978年
  10月、パーレビ国王と和解したフセイン大統領は、ホメイニ師に国外退去を命じた。  こうした経緯から、
  二人の個人的な対立には根深いものがある。
 
 戦況は最初、イラクが優勢であったが、次第に、イランが反撃に転じ、1982年にはイラク領内に侵攻した。
   1982年5月・・・・イランは、ホラムシャハルを奪還し、優勢に転じた。
  テヘランの米国大使館占拠事件でイランと断交したアメリカは、1984年1月、イラクとの外交関係を復活し
 イラクを支援した。 1987年にイランがバスラ東部( イラク領 )に迫ってからは、アメリカは、ペルシア湾への介入を
 強め、イラン軍とたびたび交戦した。  
   1984年・・・・イラク軍は、化学兵器の使用を本格化する。
 イラク軍は、フランスからエグゾセミサイル搭載のシュペール=エタンダール機を導入した。
 
 イラクは、イランの財源を断つため、1984年から、イラン最大の原油積み出し基地・カーグ島周辺のタンカー 
攻撃を本格化し、戦火はペルシア湾まで拡大した。  イランも、対抗上、ホルムズ海峡を封鎖し、イラクを支持
するサウジアラビア、クウェートのタンカーを攻撃した。 
 ペルシア湾のタンカー戦で、当事国の外に戦火が広がり、日本人を含め 300人もの船員が犠牲となった。

 1985年に入ると、都市攻撃が激化し、「死」は戦場だけでなく、民間人が被害に巻き込まれるようになった。
 また、イランでは、 ホメイニ師に鼓舞されて多くの志願兵が戦場に行き、殉教を恐れなかった。 イランでは、
少年・老人から成る志願兵を組織、主力部隊の前を歩き、地雷を突破したこともあるという。
 
 ソ連は国内に5000万人のイスラム教徒をかかえている。  ソ連が最も恐れているのはイスラム革命のソ連国
内への影響であり、イラクを支持している。  近隣のアラブ諸国も、イラン革命の波及を恐れてイラクを援助
し、エジプト・モロッコ・スーダン・アルジェリアから傭兵が、1ヵ月20万円の契約でイラクに雇われた。 財政的
には、サウジアラビアやクウェートがイラクを援助している。 
 イランの石油・天然ガス、ペルシア湾への出入口に位置するイランの地理的重要性、そしてイスラムパワー、
・・・・ イラク支持国も、イランを完全に無視できずイランの動向を見ながらイラクを支援している状態だ。
 
  シリアはアラブ国家ながらイランを支持し続けている。
 
 
【戦争中の権力闘争】
 イラン国内では、イラン革命後、聖職者グループと実務派グループの対立が激しくなった。  革命から2年後、
聖職者グループが実権を握ることになる。 
 
   1981年6月・・・・ホメイニ師はバニサドル大統領を罷免し、全権力を握る。
 バニサドル大統領は、フランスに亡命した。 実務派は武力で対抗し、イランではテロが横行した。
         8月・・・・首相府爆破事件が起こり、ラジャイ大統領、バホナール首相が犠牲となる。
 この混乱と、イラン・イラク戦争の中、次第に実権を握ったのが、聖職者グループの一人・ラフサンジャニ国会
議長である。 
        10月・・・・第3代大統領に、ハメネイ師が就任する。
 
 
【8年目の停戦】
 なぜ戦争は終わらないのか・・・紛争がなかなか解決しない理由はいくつかある。
  1)周辺のアラブ諸国がどちらの勝利も望まないから。
  2) 第3国が武器・物資の輸出で利益を得ているから。
  3)背景に宗教・民族・領土問題など複雑なものがあるから。
 
 長引くイラン・イラン戦争は、さながら武器の見本市である。
 戦争中期になると、両国は新兵器を導入し始めた。 仏製空対艦ミサイル 「 エグゾセ 」 やチリの集束爆弾が
イラクで用いられ、イランも闇で購入した米製戦闘機 F14、南ア製自走砲を戦場で使った。 
   ※チリの集束爆弾・・・・累積債務に悩む南米諸国は、武器を輸出した。 この爆弾はアメリカ製。 アメリカ
  は表だって武器を輸出できないので、チリが輸出している。
 下表のように、両国に武器を提供している国が多く、28ヵ国にのぼるという。    
  イランに武器を売っている国 
  イラクに武器を売っている国 
   両国に売っている国 … アメリカ  ソ連  中国  フランス  イギリス  西ドイツ  ブラジル   
  北朝鮮   シリア   リビア   イスラエル 
  エジプト   チェコスロバキア   クウェート 
  サウジアラビア  アラブ首長国連邦
  
 中国製の戦車どおしが戦場で戦うということもある。  イラン・イラク戦争を通して、イランが購入した武器の
15.4%が中国製、イラクが購入した武器の 9.6%が中国製であるという。 
 犠牲と破壊の中で、死の商人( =先進国の軍事産業/武器の仲介者 )は巨万の富を得て、甘い汁をすって
いる。
 
   1986年2月・・・・イランは、イラクのファオ半島を占領する。
   1987年1月・・・・イランがイラク南部に進撃し、バスラに迫る。
 このバスラ攻防が一つの転換期となった。
 イランは、バスラ占領を果たせず疲弊し、逆にイラクが軍事的にその後優位にたった。
        7月・・・・国連安全保障理事会は、イラン・イラク戦争の即時停戦を求める決議を採択する。
           ・・・・アメリカ艦隊は、ペルシア湾でタンカー護衛作戦を開始する。
 イランとイラクの二国間戦争に、初めて超大国が介入した。  これは、イラン海上部隊には脅威となった。
         9月・・・・デクエヤル国連事務総長は、停戦協議のため、イラン・イラク両国を歴訪する。
 イラクは、イランが受け入れるならという条件つきで受け入れ、イランは、戦争の責任がイラクにあることを明ら
かにすべきであるとし、受け入れを拒否した。  米ソも、利害が一致し、戦争の停止を両国に強く求めるように
なった。  
   1988年4月・・・・イラクは、ファオ半島を奪回する。
 イランは、兵器入手が困難になったことと、動員態勢が弱体化し、大規模作戦が実行できない状態になった。
       7月3日・・・・ペルシャ湾上空で、イラン旅客機をアメリカ海軍イージス艦ビーセンスが撃墜し、269人
             が死亡する。  
        7月18日・・・・イランは、国連の即時停戦決議の受諾を表明する。
 泥沼の8年、この間、イラン・イラク双方で約 100万人の死傷者が出た。
 イランは、毎年国家予算の3分の1を戦費に使っている。  国民は物不足とインフレに悩み、1980年〜
1988年の8年間で通貨の価値は10分の1となった。 
 
 
【『悪魔の詩』】
 1988年、インド人作家・サルマン=ラシュディが著した 『 悪魔の詩 』 という本が国際問題にまで発展した。
   1989年2月・・・・ホメイニ師は、「 『 悪魔の詩 』 の内容はイスラム教を冒涜(ボウトク)している 」 として、
            サルマン=ラシュディ氏に死刑を宣告する。
 ホメイニ師は、彼を暗殺した者に、賞金約 290万ポンド( =6億5000万円 )を与えるとした。 サルマン=ラシ
ュディは英国籍であり、イギリスの警察は彼を特別に保護する態勢をとった。
 西ヨーロッパのキリスト教社会からは、イランへ抗議の声があがり、イギリスの新聞王ロバートマックスウェル氏
は、「 ホメイニ師を文明化させた人物には、 600万ポンド ( =13億3800万円 ) の賞金を提供する 」 とまで
約束した。 キリスト教社会は言論・表現の自由を強く重視し、イスラム教社会へ抗議している。  
   1989年3月・・・・イランは、『 悪魔の詩 』 問題でイギリスと断交する。
 
 
【ホメイニ師死去】
   1989年6月3日・・・・ホメイニ師が死去する。
 ホメイニ師に代わる最高指導者には、大統領のアリ=ハメネイ氏が選出された。
 
 ホメイニ師の葬儀は6月6日、 200万人の大衆と熱狂したホメイニ信者の興奮した雰囲気の中で行われた。
群衆は、ホメイニ師の遺体に少しでも近づこうと押し寄せ、ついに棺の中の遺体を包む布を引き破り、遺体が
地上に転がり落ちるという異常事態に発展し、この騒乱で40人以上が負傷した。 イランのイスラム教徒の伝統
では、死者に触れることは祝福を意味した。 遺体はヘリコプターでホメイニ師の住居に戻され、墓地で埋葬され
た。
        7月・・・・ラフサンジャニ国会議長が、大統領選挙で圧倒的支持を受ける。
 こうして、ホメイニ師亡き後のイランは、最高指導者ハメネイ・大統領ラフサンジャニという 「 国家の顔 」 を
ようやく整えた。 また、憲法の修正も行われ、首相ポストが廃止されて行政権限は大統領に集中された。 両氏
は、経済面で民間資本を活用して、経済の活性化をすすめる方針を打ち出している。

 ( 注 ) イラクでは大統領は行政のトップにすぎず、その上に最高指導者( ハメネイ師 )がいる。
 
 
【ハタミ大統領当選】
   1997年5月 ―― イラン大統領に、ハタミ氏 ( 右写真 ) が当選する。

 ハタミ大統領は現実派で西欧文化の受け入れに寛容な考えを持ち、若者や女
性層に支持された。 大統領就任後も、表現の自由・女性の地位向上・企業の
民営化などの改革開放政策を行い、 『 イスラム教聖職者の支配 』 から 『 法
の支配 』 による民主主義への脱皮を試みている。 
 イランは、同じイスラム教国のサウジアラビアとは違い、タクシーの男女の相乗
りや公園で未婚のカップルが手をつないで歩く光景がみられる。 国民のくらしに
もゆとりが感じられ、食料や家電なども豊富である。 アメリカをはじめ西側の
経済制裁を受けている印象はない。

 
 しかし、民主的な改革によって、厳しい戒律によるイスラム社会の崩壊をおそれる保守派は、改革支持の新
聞・雑誌を発行禁止とし、改革派のリーダーや活動家を逮捕するなど弾圧を続けてきた。 企業の民営化も保守
派の抵抗で進んでいない。 イランでは、選挙で選ばれた大統領や国会議員より、イスラム教の最高指導者を
頂点とする保守派が実権を握っているからだ。 革命指導者ホメイニ師が打ち出した 「 聖職者の統治 」 がハタ
ミ大統領の 「 民主化 」 をはばんでいるといえる。  

   2001年 ―― ハタミ大統領が国民の圧倒的支持を受けて再選される。
 
 
【イラン核問題】
   2002年 … 反体制派が、イランの核開発疑惑を告発する。
 イランは原発や研究施設で利用するといって濃縮ウランを作ったが、加工を続ければ核爆弾も作れるため、アメリカなどは疑った。
 2003年から英独仏が濃縮をやめるように説得し、その後、米中ロが交渉に加わった。
 
   2005年 … アフマディネジャドが大統領になる。
 アフマディネジャド大統領は、アメリカと対決するという考えの持ち主で、中止していた濃縮ウラン の製造を再開した。 2006年3月、国連安保理はイラン
にウランの濃縮停止を求めたが、4月、3.5%の低濃縮ウランの製造に成功したと発表した。 国連安保理は、イランへの最初の制裁決議を採択した。
 イランは 「 人口急増で電気をたくさん使うため原子力発電が必要。 天然ウランには原発の原料となる成分は少ししかないので、燃料を作るには濃縮が
必要。」 と説明している。 しかし、欧米諸国は、燃料ではなく核兵器の製造が目的だと疑い、警戒を強めた。 


【イラン制裁】
   2010年 … イランは、濃縮度20%のウラン燃料製造を開始する。
 1979年のイラン・イスラム革命以来、アメリカはイランに対する制裁措置をとってきた。 イランの核開発問題を
巡り、アメリカをはじめとする諸国および多国籍企業が制裁に協力をし、核開発を続けるイランへの経済制裁は
強まっていった。 制裁内容には次のものがある。
  ● イランからは原油を買わない
  ● イランに対する武器輸出の停止、イランの海外資産凍結
  ● イランに対して石油、天然ガス、石油化学製品に投資することを禁止する
  ● イランの金融機関を国際的な取り引きから締め出している。
       イランではクレジットカードは使用できず、外国人は現金を持ち込まなくてはいけない。

 
 経済制裁により、イラン国民の生活は次第に苦しくなった。 モノ不足、イラン通貨の急落によりインフレが起こ
り、2009年から2013年の4年間で、インフレ率は253%となった。 たまごは、2012年〜2013年の1年間で
価格が2倍になった。 洋服や電化製品は中国産のニセモノが出回っている。 国民もアメリカとの関係改善を望
んでいる人が多い。
 
  <イラン革命前>  イランにあった日本企業数 800社  在留邦人 6000人以上
  <経済制裁続く2012年>   イランにあった日本企業数 31社  在留邦人 161人以上
 
   2013年8月 … ロウハニがイラン大統領に就任する。
 ロウハニ大統領は対話姿勢をアピールし、9月にはアメリカのオバマ大統領と電話で話した。 

 11月には、イランがウラン濃縮活動を制限すること( 濃縮度5%を超えるウラン濃縮の停止など)で意見が一致
し、見返りにアメリカは原油輸出収入42億ドルの資産凍結解除や6ヶ月間は新たな制裁をしないことを合意した。
 
   2015年7月 … イラン核協議が最終合意する。
 ウィーンで協議を続けてきた米英独仏中ロ6ヵ国とイランは、「包括的共同行動計画」で最終合意に達した。

 ( 合意内容 )  

● イランの核開発を大幅に制限する。
  
● 軍事施設への査察を条件付きで受け入れる。
          
● 欧米や国連は原油禁輸や金融取引制限などの制裁を解除していく。
 
   2016年1月 … イランへの経済制裁が解除される。
 イランの石油埋蔵量は世界4位。 制裁解除により、日本企業はイランの石油・天然ガス分野に投資ができるようになるし、人口8000万人のイラクは新たな
消費市場としての期待も大きい。 日本政府もイランへのODAも再開して日本企業の進出を後押しする方針でいる。

 かつて、日本ブランドを信用していたイラン国民も日本企業に注目している

 イランは日本政府に南アザデガン油田の開発を期待している。 日本もこの油田を獲得できれば、日本の原油輸入量の5分の1を獲得できることになる。
http://www.kyoritsu-wu.ac.jp/nichukou/sub/sub_gensya/World/West_Asia/Iran/Iran.htm
 

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コメント
1. 中川隆[-14555] koaQ7Jey 2020年1月14日 19:41:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1480] 報告
人類の歴史刻むイランの貴重な文化遺産 非文明の攻撃発言で脚光 2020年1月14日
https://www.chosyu-journal.jp/kokusai/15347


 アメリカ政府がイラン革命防衛隊の司令官を空爆で殺害したことを契機にして国際的な緊張が高まっている。そのなかでトランプ大統領は、イランの文化遺産を攻撃することも辞さない考えを明らかにした。文化遺産は人類共有財産として国際法で守られており、アメリカとイランは共に、紛争中であっても文化遺産を保護するという国際条約に署名している。文化遺産を標的にした軍事攻撃は、国際法上では戦争犯罪であり、この発言に世界的な批判が起こっている。

 イランには22の世界文化遺産、2つの世界自然遺産がある。その数は世界で10番目に多い。人類最初の文明、メソポタミアと深く関連し、中東ではもっとも文化遺産の数が多い。世界遺産は文化遺産、自然遺産、複合遺産の3つに分類される。とくに文化遺産は、その国の地域またはコミュニティの歴史・伝統・文化を集約した象徴的な存在であり、人類の文化的活動によって生み出された遺産である。一方の自然遺産は、自然風景や動植物の生息地など自然が生み出したもので、文化遺産とは違った意味合いを持っている。イランの文化遺産の数は米国の倍の数があり、ペルシア帝国としての長い年月をかけて人類が形成してきた歴史の重みを感じさせるものだ。イランにどのような文化遺産があるのか、その概要を見てみた。


 イランは西アジアに位置し、北でカスピ海、南でペルシア湾に面し、西でイラク、トルコ、アルメニア、アゼルバイジャン、東でトルクメニスタン、アフガニスタン、パキスタンと国境を接する国である。面積は163万3188平方`bと日本本土の4・5倍もの国土を有している。イラン高原に象徴されるように標高1000bをこえる山地が多く、内陸は乾燥した砂漠が続く荒涼とした土地となっている。しかし過酷な自然環境にもかかわらず、その地理的条件によって古くから通商に開けた地域であり、かつてペルシア帝国が君臨した歴史を記録に留めている。イラン(ペルシア)はシルクロードの十字路に栄えた大帝国で紀元前3000年(4000〜5000年前)から文明が興り、イスラムの中心地となったことから貴重な遺跡が多いと考えられている。奈良時代には中国をとおしてペルシアの物資が運ばれ、東大寺の正倉院にはペルシア起源の美術品や楽器のかずかずが収められるなど、その文化は日本にも影響を与えた。

 隣の国イラクは、今から5500年ほど前、人類最初の文明といわれるメソポタミア文明が興った地域である【地図】。古代四大文明の一つメソポタミア文明は、文字をつくり、家や町をつくり、舟や道路、ダムなどもつくった。名前のメソポタミアという言葉は、ギリシャ語で、「二つの川に挟まれた地」という意味を持っており、チグリス川とユーフラテス川がある。栄養分をたくさん含んだ肥沃な土地で、農作物が良く育ち人人は定住を始めた。しかし洪水が多多起こる地で、干ばつとなるような乾いた土地もあり、ここに住んだネアンデルタール人は、ダムや用水路をつくった。文明が栄えた地は、ほぼ現在のイラクと同じ地域にあたる。そこでは農産物は豊富だったが、文明に必要な金属・石材・木材の多くはイラン高原から供給されており、イランの都市文明はメソポタミア文明と表裏一体で発展した。イランの代表的な文化遺産をいくつか紹介する。

 【ペルセポリス】イランのアケメネス朝は、紀元前559年から紀元前330年まで継続した王朝で、世界遺産のペルセポリスは、アケメネス朝の神殿、宮殿、葬祭殿があったところで、国の栄華を今に伝えている。ペルセポリスは、イラン南部のファールス地方、クーへ・ラフマト(慈悲の山)の麓にあり、ペルシアの首都パサルダカエから約50`離れた地点にある。紀元前522年頃、ダリウス1世が王位につくと同時に着工され、以後3代にわたり約60年の歳月を費やして建設された。

ペルセポリス
 【イスファハーンのイマーム広場】イランのイスファハーンは、イランを代表するイスラム建築のかずかずが集積していることで知られている。イスファハーンは、サファヴィー朝(1501〜1736年)が開いたイスラム都市で、「世界の半分がここにある」とも称されるほどの繁栄を謳歌した。世界遺産の「イマーム(シャー)の広場」にはイランを代表するモスク、バザール、宮殿、また神学校が建っている。

イスファハーンのイマーム広場のモスク
 【ペルシャ式庭園】ペルシャ式庭園は西はスペインから東はインドまで広大な範囲にわたって影響を及ぼした庭園様式で、その歴史は紀元前4000年にまで遡る。現存する庭園のうち、パサルガダエ庭園、エラム庭園、チェヘル・ソトゥーン庭園、ドーラト・アーバード庭園など9つの庭園が2011年、世界文化遺産に登録された。

ペルシャ式庭園
 【ビソトゥーン】先史時代(文字を使用する前の人類の歴史)からメディア王国時代、アケメネス朝時代、ササン朝ペルシア時代、イル・ハン朝時代までの遺跡。なかでも紀元前521年にアケメネス朝の王として即位したダレイオス1世のレリーフと、楔形文字が刻まれた碑銘が重要なものとされている。碑文は3言語で記されており、アケメネス朝時代の歴史的文書で現存する唯一のものとなっている。

 世界遺産に登録されていないものでも、イランの各地に散在する古代集落の丘の中には、新石器時代に始まるものがあり、初期の農耕・牧畜社会が営まれていたことがわかる。そこで出土する土器には、動物の姿をしたものや、ユニークな動物文様を施したものが多く、古代人の高い造形意識が見られる。

先史時代からの王朝や王国の遺跡が残るビソトゥーン

https://www.chosyu-journal.jp/kokusai/15347

2. 中川隆[-14379] koaQ7Jey 2020年1月18日 13:11:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1293] 報告
白色革命


右のサングラスの人物が国王パフラヴィー2世(日本での通称・パーレビ国王)

白色革命(はくしょくかくめい、英: White Revolution、波: انقلاب سفید‎)は、イランの第2代国王(シャーハンシャー)モハンマド・レザー・パフラヴィー(パフラヴィー2世)が、1963年にイランの近代化、西欧化を提唱して発動した広範囲にわたる改革の総称である。白色革命は上(つまり王の命令)からの革命を意味するが、その強引な手法は、旧来の伝統を色濃く残していた当時のイラン社会に大混乱をもたらした。


概要

国王モハンマド・レザーは、米国民主党ケネディー政権による継続的なイランに対する改革要求により、上からの近代化による経済成長を計画。アメリカの支援のもと、農地改革を実施して農民の不満解消に努めると共に、工業化、労働者の待遇改善、女性参政権、教育の向上などの西欧化を推進した。また、イラン国内の資本と支持基盤を地方の地主層から中央のブルジョワジーに移し、近代的な産業社会の現出を試みた。

また、国家の西欧化や、イスラームといった宗教よりもアーリア人に起源をもとめる西洋的ナショナリズムを改革の柱とするなど、世俗的な政策を実施する一方、石油歳入にからんだ利益供与や協調組合制度の導入にも尽力、自らの権力を確固たるものにしようとした。それら1974年に起きたオイルショック後の急速な原油価格の値上げで得た収入をこれらの政策に注ぎ込んだ。

しかし産業基盤の実情を計算に入れず工業化などの近代化政策ばかり先行したため外国から商品を輸入したはいいが港の荷揚げ設備が不備なため船は長い間待機させられた。インフレも急ピッチで進み庶民を苦しめ失業者が増大し貧富の格差が増大した。大規模な汚職も横行しオイルダラーを狙った商社から王室周辺や政府高官へ賄賂攻勢がおこなわれた。文盲率の高かった当時のイランはそもそも近代化の基礎構造を欠いていて改革の恩恵は一部の市民がこうむるにとどまった。石油価格の暴騰で政府には金が有り余り、投資ばかりが先行した。こうした状況で国王はイラン軍の整備を進めアメリカから大量の兵器を購入する。

そしてオイルショック後の急速な原油価格の安定化もあり、1970年代後半に入ると白色革命は破綻した。それに伴い国民の間での経済格差が急速に拡大し、政治への不満も高まりを見せ、皇帝の求心力も急激に低下した。貧富の差が増大し革命の影響は上流中産階級と下層階級との対立、特にリベラルなテクノクラートと厳格で保守的なシーア派宗教指導者との対立を激化させ、これが後に起こるイラン革命の下地となった。

なお、シーア派の宗教学者でありイラン革命の指導者となるホメイニーは、これら一連の諸改革自体には直接反対しなかったものの、これら諸改革に潜むその国王独裁的な性格を熾烈に非難し、結果逮捕され、その後国外追放を余儀なくされている。

改革の成果

国民の識字率の向上 - モハンマド・レザーの即位前は国民の文盲率は95%だったが退位後は50%まで減少した。

農地改革 - 国土の60%を埋める荒野を外国から技師を招いて緑化しようとした。また大地主の土地を買い上げて農民に分け与えたが農民たちは灌漑に必要な資力を持っていなかったため有効に活用できずやむなく都市部に流れ込みスラムを形成した。そのため農業生産高はかえって減少し食糧は輸入するようになった。
教育の振興 - 富裕層の子弟に海外留学を勧めたが、その一部は留学先で反王制派になった。

世俗化 - 女性に選挙権、被選挙権を認めヒジャーブ着用の禁止し一夫一妻制を導入したことから、宗教学者層を中心に非難された。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BD%E8%89%B2%E9%9D%A9%E5%91%BD

3. 2021年6月22日 12:00:02 : PXcKNBzFzE : ZUhaNTZyelVoUGc=[8] 報告
イランをめぐる情勢
2021年06月21日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1532.html

 6月18日に行われたイラン大統領選挙で、反米強硬派、イスラム原理主義で知られるライシ司法長官が当選した。
 ライシは、イランにおける大量殺人鬼(死の委員会)とも評される人物で、体制批判市民5000名以上を司法長官として問答無用で処刑したことで知られる。
  https://wedge.ismedia.jp/articles/-/23314

 ハメネイ師の弟子で、2013年から大統領に就任していた穏健派ロウハニ師の批判勢力筆頭だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%82%A6%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%83%BC

ライシ新大統領経歴
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%92%E3%83%BC%E3%83%A0%E3%83%BB%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%A3%E3%83%BC

ライシの大統領就任に伴って、イランでは国内反体制派に対する弾圧が苛酷化するのは確実で、原理主義を信奉する革命防衛隊が勢いづいて、ペルシア湾周辺で通過船舶に対するテロ活動が激化すると予想されている。
 これが世界的な株安をもたらしている一つの要因ともなっている。

 イランは、中国共産党の最も緊密な友好国であり、核開発も中国の協力によって行われている。
 https://www.sankei.com/world/news/210525/wor2105250010-n1.html

 そのイランで、核開発の拠点となっている原子力発電所に問題が起きていると報道された。
 ブーシェフル原発が技術トラブルで停電 6月 21, 2021
 https://parstoday.com/ja/news/iran-i79494

 イラン原子力庁が広報で、同国南部にあるブーシェフル原子力発電所での技術トラブル発生により、同発電所が一時的に停電して電力供給が完全に停止したことを公表しました。
 この広報では、ブーシェフル原子力発電所の電力供給は技術トラブル解決後、数日の内に復旧されるとしています。
https://twitter.com/parstodayj

https://www.instagram.com/parstodayjapanese/

http://urmedium.com/c/japaneseradio
**********************************************************************
 上のリンクは、イランの保守派メディアなので、中国と同様、正しい情報を掲載する可能性はほとんどない。不都合な情報が隠蔽される国なので、注意する必要がある。

 ブーシェフル原発
  https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%96%E3%83%BC%E3%82%B7%E3%82%A7%E3%83%95%E3%83%AB%E5%8E%9F%E5%AD%90%E5%8A%9B%E7%99%BA%E9%9B%BB%E6%89%80

 上のリンクだけでは「軽水炉」だけで詳細な情報がないが、写真を見る限り大煙突があることから沸騰水型であろう。
 この原発は、イランの軍事用核開発の拠点であり、イスラエルによって攻撃を受けている。
https://jbpress.ismedia.jp/articles/-/65161

 核燃料はウラン235と思われるが、濃縮度が93%と完全に兵器用であり、原発の目的は電力供給を隠れ蓑にした核ミサイル開発であることは確実だ。
 イラクやイランの原発に対しては、イスラエルが破壊を予告してきた。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E3%83%A9%E3%82%AF%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%82%89%E7%88%86%E6%92%83%E4%BA%8B%E4%BB%B6

 ライシ新大統領の強硬政権で、イランがイスラエルを攻撃するための核開発を加速するのは確実なので、今回のトラブルはイスラエルが介入した可能性が非常に大きい。
 イスラエルは、各国の原発に対し、スタクスネットという名のウイルスを感染させることで、安全保障を実現しているともいわれる。
 イランのこれまでの原発トラブルは、すべてイルラエル・モサドによる破壊工作だともいわれている。
 https://wedge.ismedia.jp/articles/-/20151

 イスラエルは米国NSAと共同して、原発命令系統を支配するためのスタクスネットというウイルスを開発し、CIAとモサドが、それを各国の原発に感染させているとエドワード・スノーデンが暴露した。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9%E3%83%8D%E3%83%83%E3%83%88

 https://wired.jp/2012/06/04/confirmed-us-israel-created-stuxnet-lost-control-of-it/

 状況を判断して、今回のイラン・ブーシェフル原発のトラブルも、ライシ大統領就任への警告として、イスラエル・モサドが攻撃を行った可能性が極めて強い。

 今回の大統領選挙も、ホメイニ以来のイスラム独占不正選挙である。
 イランの選挙では、候補者の事前審査が行われるが今回、有力な穏健派・改革派の候補者はいずれも失格とされた。
 審査の基準は年齢が40歳から75歳、学歴は修士以上、イスラム体制に忠実かなど多岐にわたっている。選挙には、592人が立候補を届け出ていたが、理由も明らかにされないまま、最終的には7人に絞り込まれた。
 https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210617/k10013088981000.html

 審査を行うのは、イスラム法学者などでつくる「護憲評議会」。イスラム法学者の任命権を持つ、最高指導者が影響力を持っている組織だ。
 結局、この選挙でも、最初からライシが勝利するよう体よく茶番劇が仕組まれていた。
 反対し民主化を求めるイラン市民に対しては、処刑殺人で答えるというのが保守側の姿勢である。

 この結果、何が起きるかと言えば、イランが、ますます中国共産党にすり寄ること。核兵器開発を強硬に推進すること。国内の人権弾圧をさらに加速することであり、まさに世界戦争の秒針を大きく進めたということになる。
 今後はホルムズ海峡を利用する、アメリカ・イスラエルの友好国である日本も、石油輸送に大きな危険性が上乗せされるのは確実であり、石油に依存する日本産業は大きな打撃を受けることになる。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1532.html

4. 2021年6月23日 11:29:39 : 6pyAPtqAd2 : V2JzMGt3WEFjSkk=[16] 報告
雑記帳 2021年06月23日
イラン大統領選結果
https://sicambre.at.webry.info/202106/article_23.html


 今月(2021年6月)18日に投票が行なわれたイラン大統領選挙で、検事総長や司法府長官などを歴任したエブラヒム・ライシ氏(60歳)が当選しました。得票率は約62%と圧勝でしたが、護憲評議会による事前審査で有力者も含む多くの立候補者が失格となり、少なからぬ国民が冷めていたためか、投票率は1979年のイスラム教体制成立後の大統領選挙では最低となる約48.8%でした。ライシ氏は前回(2017年)の大統領選挙にも立候補し、得票率は38.5%でロハニ大統領に敗れています。穏健派とされるロハニ大統領でも経済制裁解除で目立った成果は挙げられず(アメリカ合衆国では最近まで4年間トランプ政権だったこともありますが)、有力者が失格にならずとも、ライシ氏が勝っていたかもしれません。

 ライシ氏は「反米・保守強硬派」と言われており、以前より有力候補とされていましたが、大統領としての政治手腕はどうでしょうか。ライシ氏は次のイラン最高指導者の有力候補とも言われており、大統領就任はライシ氏に箔をつけるために現最高指導者のハメネイ氏が画策した、との憶測もあります。ライシ氏の勝利を確実にするため、事前審査で有力者も含む多くの立候補者が失格となったのでしょうが、それで少なからぬ国民が冷めたのだとしたら、長期的には体制維持にとって悪影響となるかもしれません。とくに独自の知見を提示できるわけではありませんし、イラン政治を日頃から熱心に追いかけているわけでもありませんが、当ブログを開設してからイラン大統領選を毎回取り上げてきたので、今回も言及しました。なお、過去のイラン大統領選に関する記事は以下の通りです。

2009年
https://sicambre.at.webry.info/200906/article_14.html

2013年
https://sicambre.at.webry.info/201306/article_18.html

2017年
https://sicambre.at.webry.info/201705/article_23.html


https://sicambre.at.webry.info/202106/article_23.html

5. 2021年7月10日 11:31:57 : 6eADMhy2go : UTZqV0FibS5aYmc=[11] 報告
【ゆっくり解説】アメリカとバチバチの国、イランとは?
2021/07/09




6. 中川隆[-13856] koaQ7Jey 2022年2月06日 09:13:17 : K7Ig9SNBnI : aExrL1g5WkdWS0U=[26] 報告
ペルシアの歴史と現代史
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1481.html

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