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ペルシアの歴史と現代史
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投稿者 中川隆 日時 2022 年 2 月 06 日 09:09:54: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 中近東の歴史と現代史 投稿者 中川隆 日時 2020 年 12 月 28 日 13:10:05)

ペルシアの歴史と現代史


雑記帳 2022年02月05日
阿部拓児『アケメネス朝ペルシア 史上初の世界帝国』
https://sicambre.at.webry.info/202202/article_5.html

https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%82%B1%E3%83%A1%E3%83%8D%E3%82%B9%E6%9C%9D%E3%83%9A%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%82%A2-%E5%8F%B2%E4%B8%8A%E5%88%9D%E3%81%AE%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%B8%9D%E5%9B%BD-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-2661-%E9%98%BF%E9%83%A8/dp/4121026616


 中公新書の一冊として、中央公論新社より2021年9月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書はアケメネス(アカイメネス、ハカーマニシュ)朝ペルシアの概説です。ペルシアとは、狭義にはイラン高原南部、現在のイラン共和国ファールス州一帯を指す歴史的地名(ペルシスもしくはパールサ)で、ペルシア人とは、紀元前二千年紀中頃に北方からこの地域に流入・定住したと推測される集団です。広義のペルシアは、ペルシスの地を超えて、ペルシア人たちが支配した領土全てを指します。本書は、アジアを越えてアフリカとヨーロッパまで確実に支配したアケメネス朝ペルシアこそ「史上初の世界帝国」に相応しい、と指摘します。なお本書では、基本的にギリシア語風表記が用いられています。以下、ギリシア風表記と()に対応するペルシア語風表記を記しておきます。アカイメネス/アケメネス(ハカーマニシュ)、キュロス(クル)、カンビュセス(カンブジヤ)、ダレイオス(ダーラヤワウ)、クセルクス(クシャヤールシャン)、アルタクセルクス(アルタクシャサ)。

 アケメネス朝ペルシアの領土的な基盤の大半を築いた初代のキュロス2世(キュロス大王)の出自については、あまり解明されていません。ギリシア語史料により、ペルシアはメディア王国に取って代わった、と一般的には考えられていますが、メディア王国と言えるような実態があったのか、部族連合だったのではないか、といった議論になっているそうです。キュロスがアナトリア半島のギリシア人勢力を支配し、良質な海軍力を得たことで、ペルシアは領土拡大が可能となりました。キュロスは新バビロニアを滅ぼすなど領土を拡大していきますが、この過程で、征服先の文化的・社会的文脈において「救済者」として振る舞い、これは後のペルシアの君主にも継承されます。キュロスはその最期もよく分かっておらず、北方遠征中に戦死したとされますが、確かとは言えないようです。またそもそも、キュロスがペルシア人なのかどうかも議論があるそうです。キュロスの後継者であるカンビュセス2世は、父が死んだと考えられる紀元前530年に即位後、紀元前525年にエジプト征服を試み、成功します。カンビュセスは、ヘロドトス『歴史』では狂気の王とされていますが、同時代史料からはそれが誇張されている可能性も窺えるようです。カンビュセスはエジプトを離れた直後の紀元前522年に没しますが、死因は事故死とも自殺とも言われ、真相は不明です。

 紀元前522年にカンビュセスが没し、同年9月にダレイオス1世が即位するまでの経緯には、史料はあるものの不明な点が多く、ダレイオスは簒奪者とも言われています。ダレイオスは即位後、カンビュセス死後の混乱のなか独立状態にあった有力者たちの「反乱」を鎮圧していき、ペルシア帝国領の平定に成功します。「ベヒストゥーン碑文」によると、ダレイオスとカンビュセスは父系高祖父(テイスペス)を同じくする一族とされますが(テイスペスの父がアケメネス)、キュロスが作成させた碑文には、テイスペスの名はあってもアケメネスの名はなく、アケメネスはダレイオスが自身をキュロスの親族と位置づけるため創造した架空の人物だった、との見解もあります。ダレイオスは血筋の点からは王位の正統性がなかったか、若しくはかなり薄弱だったようですが、即位後にキュロスの2人の娘などキュロスと血縁関係にある女性を娶り、血統的な正当化を図ったようです。またダレイオスはペルシア人貴族とも婚姻関係を構築していき、王権の基盤を固めました。「ベヒストゥーン碑文」からは「真」と「偽」の二元論的世界観が窺え、ゾロアスター教を信仰していたと考えられるものの、そうだとしても、現在知られるようなゾロアスター教とは異なっていた可能性があります。ダレイオスはキュロスとカンビュセスが創始した制度を改良・再整備し、ペルシアの体制を構築していったようです。またダレイオスは新たにペルセポリスに王宮を築きましたが、キュロスの築いたパサルガダイの王宮が廃されたわけではなく、複数の「首都」が併存しました。ダレイオスはキュロスとカンビュセスの築いた帝国をさらに拡大し、インダス川流域まで征服するとともに、北方のスキタイにも遠征しました。

 ダレイオスが紀元前486年に没した後、即位したのは息子のクセルクスでした。上述のようにダレイオスには複数の妻がおり、クセルクスにも後継者の座を争うような強大がいましたが、母がキュロスの娘アトッサだったことにより、後継者争いは激化しなかったようです。クセルクスの治世ではギリシア遠征がよく知られていますが、それはギリシア語史料によるもので、ペルシア由来の史料では言及されていないため、これをアケメネス朝ペルシア史、さらには世界史で位置づけることには困難があります。本書は、ギリシア遠征がペルシア人にとっては成功と考えられていた可能性とともに、ギリシア遠征後にギリシアでは、ペルシアへの憎悪の高まりとともに、以前よりも「ペルシア趣味」が加速したことを指摘します。

 真相は不明ですが、クセルクスは紀元前465年に殺害され、息子のアルタクセルクセス1世が即位します。アルタクセルクセス1世とその息子のダレイオス2世の時代は、エジプトなどでの反乱はあったものの、派手な征服戦争は控えめで、大規模な領土喪失もなかったと考えられることから、本書では円熟期と評価されています。ペルシアとギリシアとの戦いは、クセルクスの死後も続いていましたが、紀元前450年頃にペルシアとアテナイとの間で何らかの和睦が締結されたようです。円熟期に入ったペルシアについては、建国当初からのその宗教的寛容性がよく知られていますが、本書はさまざまな史料と考古学的成果に基づき、ペルシア大王が単純に宗教的に寛容だったわけではないことを指摘します。アルタクセルクセス1世は紀元前424/423年に没し、継承者争いで短命の王が続いた後、息子のダレイオス2世が即位して混乱を収拾します。ダレイオス2世の治世はペロポネソス戦争とほぼ重なり、ペルシアは、支援したスパルタがアテナイに勝ったことにより、ギリシアにおいてパトロン的地位を確立します。

 ダレイオス2世の後継者はその息子のアルタクセルクセス2世で、即位後の弟の反乱を鎮圧しますが、エジプトがその間に独立します。ペルシアはエジプトを失ったものの、ギリシアではパトロン的地位を維持し続けます。しかし、この頃のギリシアでは、ペルシアは衰退した、との言説が見られるようになります。本書は、ペルシアの軍事力はまだ衰えておらず、ペルシアを語っているように装いながらペルシア以外の何かを語る、「オリエンタリズム」の一種として理解すべきと指摘します。また、本書はこうしたギリシアにおけるペルシア観の背景に、ペルシア王位の不安定な世襲とそれへの地方長官の流動的な対応がある、と指摘します。

 アルタクセルクセス2世の後継者として即位したのはアルタクセルクセス3世で、即位にさいして兄弟を多数殺害したと伝わりますが、その詳細は不明です。アルタクセルクセス3世は紀元前343年、ペルシアから独立した後に混乱していたエジプトの再征服に成功します。アルタクセルクセス3世は紀元前338年に没し、末子のアルセス(アルタクセルクセス4世)が即位しますが、すぐに殺害され、ダレイオス3世が紀元前336年に即位します。ダレイオス3世の出自については、王族とも、そうではなかったとも伝えられています。本書は、ダレイオス3世がアルセス殺害の黒幕と推測します。ダレイオス3世の即位後すぐの紀元前334年、マケドニアのアレクサンドロス3世がペルシアに侵攻してきて、ペルシア軍は相次いでマケドニア軍に敗れ、逃走したダレイオス3世は紀元前330年に側近により殺害され、アケメネス朝ペルシアは滅亡します。アケメネス朝時代からヘレニズム時代への連続性を強調する見解では、アレクサンドロス3世が「アケメネス朝最後の王」とも言われます。ただ本書は、アケメネス朝の王権イデオロギーの根幹となる、地上世界におけるアフラマズダ神の代行者という強烈な観念など、アレクサンドロス3世がアケメネス朝から継承しなかったものも多い、と指摘します。

https://sicambre.at.webry.info/202202/article_5.html  

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コメント
1. 2022年2月06日 09:11:13 : K7Ig9SNBnI : aExrL1g5WkdWS0U=[24] 報告
イランの歴史
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/798.html
2. 中川隆[-13857] koaQ7Jey 2022年2月06日 09:12:31 : K7Ig9SNBnI : aExrL1g5WkdWS0U=[25] 報告
人類の歴史刻むイランの貴重な文化遺産 非文明の攻撃発言で脚光 2020年1月14日
https://www.chosyu-journal.jp/kokusai/15347

 アメリカ政府がイラン革命防衛隊の司令官を空爆で殺害したことを契機にして国際的な緊張が高まっている。そのなかでトランプ大統領は、イランの文化遺産を攻撃することも辞さない考えを明らかにした。文化遺産は人類共有財産として国際法で守られており、アメリカとイランは共に、紛争中であっても文化遺産を保護するという国際条約に署名している。文化遺産を標的にした軍事攻撃は、国際法上では戦争犯罪であり、この発言に世界的な批判が起こっている。

 イランには22の世界文化遺産、2つの世界自然遺産がある。その数は世界で10番目に多い。人類最初の文明、メソポタミアと深く関連し、中東ではもっとも文化遺産の数が多い。世界遺産は文化遺産、自然遺産、複合遺産の3つに分類される。とくに文化遺産は、その国の地域またはコミュニティの歴史・伝統・文化を集約した象徴的な存在であり、人類の文化的活動によって生み出された遺産である。一方の自然遺産は、自然風景や動植物の生息地など自然が生み出したもので、文化遺産とは違った意味合いを持っている。イランの文化遺産の数は米国の倍の数があり、ペルシア帝国としての長い年月をかけて人類が形成してきた歴史の重みを感じさせるものだ。イランにどのような文化遺産があるのか、その概要を見てみた。

 イランは西アジアに位置し、北でカスピ海、南でペルシア湾に面し、西でイラク、トルコ、アルメニア、アゼルバイジャン、東でトルクメニスタン、アフガニスタン、パキスタンと国境を接する国である。面積は163万3188平方`bと日本本土の4・5倍もの国土を有している。イラン高原に象徴されるように標高1000bをこえる山地が多く、内陸は乾燥した砂漠が続く荒涼とした土地となっている。しかし過酷な自然環境にもかかわらず、その地理的条件によって古くから通商に開けた地域であり、かつてペルシア帝国が君臨した歴史を記録に留めている。イラン(ペルシア)はシルクロードの十字路に栄えた大帝国で紀元前3000年(4000〜5000年前)から文明が興り、イスラムの中心地となったことから貴重な遺跡が多いと考えられている。奈良時代には中国をとおしてペルシアの物資が運ばれ、東大寺の正倉院にはペルシア起源の美術品や楽器のかずかずが収められるなど、その文化は日本にも影響を与えた。

 隣の国イラクは、今から5500年ほど前、人類最初の文明といわれるメソポタミア文明が興った地域である【地図】。古代四大文明の一つメソポタミア文明は、文字をつくり、家や町をつくり、舟や道路、ダムなどもつくった。名前のメソポタミアという言葉は、ギリシャ語で、「二つの川に挟まれた地」という意味を持っており、チグリス川とユーフラテス川がある。栄養分をたくさん含んだ肥沃な土地で、農作物が良く育ち人人は定住を始めた。しかし洪水が多多起こる地で、干ばつとなるような乾いた土地もあり、ここに住んだネアンデルタール人は、ダムや用水路をつくった。文明が栄えた地は、ほぼ現在のイラクと同じ地域にあたる。そこでは農産物は豊富だったが、文明に必要な金属・石材・木材の多くはイラン高原から供給されており、イランの都市文明はメソポタミア文明と表裏一体で発展した。イランの代表的な文化遺産をいくつか紹介する。

 【ペルセポリス】イランのアケメネス朝は、紀元前559年から紀元前330年まで継続した王朝で、世界遺産のペルセポリスは、アケメネス朝の神殿、宮殿、葬祭殿があったところで、国の栄華を今に伝えている。ペルセポリスは、イラン南部のファールス地方、クーへ・ラフマト(慈悲の山)の麓にあり、ペルシアの首都パサルダカエから約50`離れた地点にある。紀元前522年頃、ダリウス1世が王位につくと同時に着工され、以後3代にわたり約60年の歳月を費やして建設された。
ペルセポリス
 【イスファハーンのイマーム広場】イランのイスファハーンは、イランを代表するイスラム建築のかずかずが集積していることで知られている。イスファハーンは、サファヴィー朝(1501〜1736年)が開いたイスラム都市で、「世界の半分がここにある」とも称されるほどの繁栄を謳歌した。世界遺産の「イマーム(シャー)の広場」にはイランを代表するモスク、バザール、宮殿、また神学校が建っている。
イスファハーンのイマーム広場のモスク
 【ペルシャ式庭園】ペルシャ式庭園は西はスペインから東はインドまで広大な範囲にわたって影響を及ぼした庭園様式で、その歴史は紀元前4000年にまで遡る。現存する庭園のうち、パサルガダエ庭園、エラム庭園、チェヘル・ソトゥーン庭園、ドーラト・アーバード庭園など9つの庭園が2011年、世界文化遺産に登録された。
ペルシャ式庭園
 【ビソトゥーン】先史時代(文字を使用する前の人類の歴史)からメディア王国時代、アケメネス朝時代、ササン朝ペルシア時代、イル・ハン朝時代までの遺跡。なかでも紀元前521年にアケメネス朝の王として即位したダレイオス1世のレリーフと、楔形文字が刻まれた碑銘が重要なものとされている。碑文は3言語で記されており、アケメネス朝時代の歴史的文書で現存する唯一のものとなっている。

 世界遺産に登録されていないものでも、イランの各地に散在する古代集落の丘の中には、新石器時代に始まるものがあり、初期の農耕・牧畜社会が営まれていたことがわかる。そこで出土する土器には、動物の姿をしたものや、ユニークな動物文様を施したものが多く、古代人の高い造形意識が見られる。
先史時代からの王朝や王国の遺跡が残るビソトゥーン

https://www.chosyu-journal.jp/kokusai/15347

3. 2022年2月06日 09:17:35 : K7Ig9SNBnI : aExrL1g5WkdWS0U=[27] 報告
インダス文明を導いた人々の祖先は古代イラン人、古代イラン人の祖先はトルコの北東部に住んでいた民族
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/611.html

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