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内田樹 生きづらさについて考える
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/937.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 26 日 18:02:06: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 比較敗戦論のために - 内田樹の研究室 投稿者 中川隆 日時 2019 年 3 月 22 日 12:42:02)

生きづらさについて考える – 2019/8/24 内田 樹 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A5%E3%82%89%E3%81%95%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B-%E5%86%85%E7%94%B0-%E6%A8%B9/dp/4620325988/ref=sr_1_1?adgrpid=76923437509&gclid=CjwKCAiAy9jyBRA6EiwAeclQhDYtBmgJs8Af6xVKMoRvUXdL9lyrsfxgRtI9yfdinpNQXAr4EzPDohoCy8wQAvD_BwE&hvadid=379183288446&hvdev=c&hvlocphy=1009412&hvnetw=g&hvqmt=b&hvrand=14741751188876810725&hvtargid=aud-758806828536%3Akwd-813400905783&hydadcr=27487_11564624&jp-ad-ap=0&keywords=%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%81%A5%E3%82%89%E3%81%95%E3%81%AB%E3%81%A4%E3%81%84%E3%81%A6%E8%80%83%E3%81%88%E3%82%8B&qid=1582707444&sr=8-1


週刊金曜日インタビュー 2020-02-26
http://blog.tatsuru.com/2020/02/26_1553.html


去年の暮に『週刊金曜日』の植村隆編集長が凱風館までインタビューに来た。植村さんは北星学園大学事件のときに「捏造記者」という無根拠な誹謗中傷を受けて、失職のリスクにさらされたことがあった。そのときに鈴木邦男さんと一緒に植村さんを支える会に加わって支援活動をしたことがある。そのご縁で、植村さんが『週刊金曜日』の編集長に就任したのを機会に神戸まで会いにいらしたのである。

――内田さんの著作『生きづらさについて考える』は、さまざまなメディアで発表されたものをひとつにまとめたものですが、一貫しているものがあると感じました。いま日本が「生きづらい」社会になっていることへの警鐘だと思われますが?
2016年暮れに、米外交問題評議会発行の『フォーリン・アフェアーズ』が、「日本の大学」特集をしたときに、いまの大学に対してどう思うかを、日本の教員や学生にインタビューをしていました。すると、「身動きできない」(trapped)「息苦しい」(suffocationg)「釘付けにされている」(stuck)というような、「身体的」な印象を共通してみんなが語っていた。

僕は、制度の問題より、そういう「身体的」な印象を語った言語のほうが、今の日本社会の実相をよく現していると思うのです。

「生きづらい」とみんなが思っているのは文字通り、「身体的」につらいということなのです。

若い人たちが特に感じているのは「未来が閉じられている」という実感ではないでしょうか。自分が動ける可動域がどんどん制限されていく、職業であっても、居住地であっても、生き方の自由度が下がってきている。

僕自身同じことを感じます。僕に対する批判の多くが自由度を抑制しようとしている。
「大学教授ともあろうものが、何々していいのか?」とか、「哲学者を名乗るのであれば、これくらいのことは知らずしてどうする?」などなど。そちらで勝手に僕が何者であるかを決めて、その枠の中に押し込めようとする。

これは現代日本社会に共通しているように思えます。立場にかかわらず、「いやしくも・・・である以上、・・・であるべきだ」という文型で他人の言動の可動域を限定してくる。

理屈として筋は通っているんです。

でも、そういう文型で埋め尽くされてしまうとこちらは息が詰まる。たしかに批評として切れ味はいいかも知れないけれど、そういう定型句が行き交うせいで集団の知性が活性化するということはありません。

それは体制を批判する人も同じです。「日本社会は・・・であるべきだ」というふうにやはり「あるべき姿」を語る。「いろいろあっていいんじゃないの」とか「まあ、好きにしたらいいよ」というタイプの非統制的なメッセージは左翼的な言説のうちにはまず見ることがない。

萩生田発言の本質

――時代的にはいつ頃からそのようなことを感じるようになりましたか?

90年代の終わりぐらいからでしょうか。「貧すれば鈍す」ということだと思います。
バブルの時代はみんな自分の金儲けに忙しくて、他人の生き方にあれこれ口出しする暇がなかった。こちらとしては気楽な時代でした。でも、バブル崩壊後に「パイの取り合い」が始まった。そのときに「お前に許されたスペースから出るな」という言い方が支配的になった。人の生活空間そのものまで限定する動きが、あらゆる分野で顕著になった。
先日、萩生田光一文科相の「身の丈」発言というのがありましたけれど、あれは今年の流行語大賞かなと思いました。時代の気分を実に的確に言い表しているから。

「身の程を知れ」とか「おのれの分際を知れ」という言葉は僕が子供のころまではよく口にされていたもので。でも、久しく訊かなかった。それが生き返ったのは、世の中が「貧乏くさくなった」ことの証拠なんだと思います。みんなで分割する「パイ」が縮んでいるんだから自分の取り分以上のものを取ろうとするなというわけです。そういう言葉は「パイが大きくなっているとき」には口にされない。ですから、高度成長期以降はほとんど死語になっていました。それがいま甦ってきた。自分の取り分で満足しろ、自分に与えられたステイタスから一歩も出るなというのは「貧しい社会」固有の発想です。


――内田さんがおっしゃった時代のひとつの総仕上げみたいな言葉ですね。

これはイデオロギーではないのです。身体実感を言葉にしただけです。でも、体にかかわる言葉が一番生々しく時代精神というものを露出する。


閉塞の時代

――これはお金がなくなったということだけでしょうか?

それだけではないと思います。貧乏ということで言ったら、僕が育った1950年代の日本の方がはるかに貧しかった。でも、人々は明るかった。


――政治的な影響ですか?

政治とも直接は関係がない。政治もその気分の中にあるからです。気分が先で、制度は気分の変化の帰結なんです。まず気分が変わる。メディアの論調が変わる。それから、政治家の価値観やふるまいが変わる。みんな「時代の空気」に適応しているのです。
だから、政治を変えようと思うなら、政治制度をいじってもしかたがない。時代の気分が変わらないと何も変わらない。

例えば、安倍政権が倒れて、石破茂さんが総理大臣になったからといっても社会は別に明るくはならないと思います。でたらめな縁故政治が多少はなくなるでしょうけれど、石破さんが内閣総理大臣になっても、岸田文雄さんがなったって、あるいは小泉進次郎さんがなっても、日本社会の閉塞感は変わらないと思う。

でも、自民党が政権にあることが閉塞感の理由ではないのです。逆なんです。自民党が抑圧的な政策を行うから社会が閉塞的であるのではなくて、社会が閉塞的になったので、むしろそれが、抑圧的な政策と親和し、それを呼び込んでいる。

いま安倍政権を5割近い人が支持しています。5割近い人が、この時代の空気を自分にとってごく自然なものだと思っているということです。この酸欠状態の中で深く呼吸できていると思っている。彼らは抑圧とか、息苦しさとか、生きづらさとかいうものを、もう感じていない。酸欠状態そのものが自然になっている。この人たちに、「息苦しくないですか?」「どこか穴あけて新鮮な空気を入れないと窒息しますよ」ということを伝えないと危険だと思います。


「対米従属」からの解放

――社会が閉塞的になった要因は何でしょうか?

バブルの崩壊ですよね。バブル期の80年代の日本人は異常なほどの多幸感に満たされていた。あの多幸感は単に「カネがある」からだけではありませんでした。あれは「国家主権をアメリカから買い戻す」という前代未聞のプランを日本人が本気で考えていたからです。

あの頃、戦後40年経って、ついに経済力でアメリカを追い越しそうになった。89年に三菱地所はマンハッタンのロックフェラーセンターを買い、ソニーはコロンビア映画を買いました。摩天楼とハリウッドを買ったんです。それをおよそアメリカ社会にあるもので値札がついているものは何でも買えるということだと日本人は理解した。摩天楼とハリウッドが買えるなら、「国家主権」をカネで買い戻すということだってできないはずはない。対米従属の身分からカネで自己解放を遂げることができないはずはない。そういう破天荒な夢が一瞬その時期の日本人の脳裏をよぎった。

世界史上、国家主権をカネで買い戻した国はありません。だから、これは達成されれば、世界史に残る偉業になった。そのことを日本人はみんな口には出さないまま、漠然とは感じていた。国内の米軍基地にもお引き取り願い、日米地位協定を改定し、主権国家になることが夢ではなくなった。

でも、バブル崩壊と同時にその夢はついえた。それがもたらす無力感は想像以上に深いものでした。国家としての生きる目標が失われたんですから。このあとどうすればいいのか? もう永久に対米従属するしかないのか? 

だからバブルの崩壊というのは、単に株価が下がった、地価が下がったという程度のことではなかったのです。国家目標を見失ってしまったんですから。


韓国に習わない日本

――そのなかで、現在は中国が元気が良い。

日本はそれ以後ひたすら没落しているわけですけれど、中国は劇的な成長を遂げた。
実は韓国もそうなのです。韓国もやはり日本に比べるとはるかに成功している。

韓国の場合は、日本の植民地支配から脱したあと、今度は朝鮮戦争があり、久しく軍事独裁があり、80年代に入って、ようやく市民たちが自力で民主化を達成した。

日本の場合は、戦争に負けて、GHQに与えられた既製品の民主主義ですけれども、韓国の場合は、市民が手作りした、血であがなった民主主義です。そこが日本と決定的に違う。そしてもう一つ違うのは、経済的にも日本より成功していることです。

中国の場合は非民主的な独裁政治と市場経済の組み合わせで成功した。韓国は民主制と市場経済の組み合わせで成功した。この二つの成功モデルがいま日本の目の前にある。日本はこれからどちらのモデルに従うかという二者択一を突きつけられているわけです。
もちろん、民主主義と市場経済の組み合わせである韓国モデルの方が日本にとってははるかに親和性が高い。けれども、いまの自民党政権は、韓国モデルから何かを学ぶ気はない。それよりは中国モデルあるいはシンガポール・モデルに惹きつけられている。どちらも強権的な一党独裁体制で、政府批判をする者は令状なしで逮捕拘禁でき、反権力的なメディアもないし、学生運動も労働運動もない国です。そういう国が経済的には発展している。


――どうして日本は韓国モデルを選ばないのですか?

かつての植民地だからでしょう。一段下に見ていた隣国の成功モデルを模倣することはあまりに屈辱的で耐えられないのでしょう。

「成熟」を阻むモノ


――その独裁的な安倍政権の7年をどう見ていますか?

日本の国力を衰微させた7年間でした。「暗黒の時代」として日本政治史に残ると思います。この7年間で、先進国としてのすべての指標が低下した。経済はもちろんですが、なによりも教育の劣化、学術的な発信力は低下が著しい。科学に関しては、『ネイチャー』が2017年に警鐘を鳴らしています。東アジア第1位の先進科学国だった日本の科学力が21世紀に入って劇的に低下したからです。


――表面的にはノーベル学賞受賞者が続いていますが?

それは30年前の研究成果が今になって評価されているわけで、いまの教育行政が続く限り、遠からずノーベル賞はゼロになります。それは受賞者たちが口々に言っていることです。


――教育の分野ではどのようなことが問題ですか?

市場原理を学校教育に導入したからです。限りある教育資源を「選択と集中」で生産性の高そうなセクターに集約しようとしてきた。

中高一貫教育がそうです。あの制度が子どもたちの成熟をどれほど妨げているかについて、みんなあまりに無自覚過ぎます。12歳から18歳まで、同じ仲間と過ごすというのはある種の「地獄」ですよ。変化し、複雑化し、成熟してゆくことを制度的に阻害されるんですから。

思春期の子どもたちって、日ごとに変化するものじゃないですか。それが6年間同じ仲間たちと、同じような言葉づかい、同じようなふるまいをすることを強いられている。12歳のときにある「キャラ」をあてがわれて、それで集団内部のポジションを決められると、それを18歳まで維持しなければ居場所がなくなる。その「キャラ」を忠実に演じることが「自分らしさ」の発現だとみなされている。

日本は集団主義で、「同質化圧」が強いと言いますけれど、それ以上に「自己同一化圧」の方が強いと思う。「自分探しの旅」とか、「自分らしく生きる」とか、「ベストワンよりオンリーワン」とかいう言葉はどれも「自己同一性を早く決めて、決めたらそこから一歩も出るな」というメッセ―ジを言外に発している。先ほどの「身のほどを知れ」「おのれの分際をわきまえろ」と同じです。その自己限定命令をあたかも成長の目標であるかのように設定している。でも、「自分らしさを貫け」というのは実は「成熟するな」ということと同義なのです。

「成熟」というのは、変化し、複雑化することです。昨日言ったことと全然違うことを言い出す、昨日の語り口と全然違う語り口になる。語彙が変わり、表情が変わり、感情が変わり、ふるまい方が変わってゆく、そういうダイナミックな変化のことです。でも、日本社会は、子どもたちが昨日と別人になること、「よりわかりにくくなる」ことをあらゆる機会に阻止しようとしている。社会そのものが成員たちの市民的成熟を構造的に阻害している。日本人が幼稚化した理由はこの「自己同一性圧」にあると僕は思っています。

「自分らしさ」なんてどうだっていいじゃないですか。大事なことは成熟し、複雑化することです。


権力におもねる司法

――なるほど、教育ではそういう問題がある。では、政治の劣化はどうでしょう。最近では、「桜を見る会」問題で安倍政権はまた居直ったり、証拠隠滅みたいなことをしていますが?

この間、ほとんど司法が動いていないことが深刻だと思います。検察が動いていない。なるほど、検察というのは権力の走狗なんだ、権力者に対しては司法の手は及ばないのだ、ということを日本人の多くは日々実感している。これは「法の支配」「法の下の平等」という法治国家の土台が崩れ始めているということです。すでに日本は近代国家としての体をなしていない。いまの日本国民の統治機構に対する不信感は、南米やアフリカの破綻国家、独裁国家のレベルに近づいていると思います。


――マスメディアに対してはどのように思われていますか?

検察もメディアも同じで、腐っているのは制度ではなく、個人なのです。安倍政権下の7年間では、公的な制度を適切に機能させることよりも、権力者におもねって出世しようとする人間たちが重用されました。公益よりも私利を優先させる人間が公的機関の要路に配された。自分さえよければそれでいい、自分がやりたいことができるのなら、先行き国も、自分の属する組織も、どうなってもいいと思っている人たちがあらゆるセクターで指導層を占めるようになった。それはメディアも同じです。自分が出世して、いい思いをできるのであれば、自分の属する新聞社やテレビ局が先行きどうなっても知らないという人間たちがトップを占めるようになった。


――なかには公共性をなんとか守っていこうとする若いジャーナリストもいると思いますが?

います。僕もそういう人たちと連携して仕事をしています。若いジャーナリストたちは辺野古の番組を作ったり、モリカケ問題を追ったり、れいわ新選組を取材したりしている。でも、彼らが書く記事も彼らが制作したコンテンツも、使われない。紙面に載らない、放映されない。上層部が官邸のご機嫌を伺って、抑え込んでしまう。

山本太郎現象

――そのれいわ新選組の山本太郎ですけれども、内田さん自身は、彼をどう見ていますか?

彼は立派な政治家だと思います。感情の器が大きい。怒りも喜びも共感力も、すごく大きい。怒って泣くし、悲しんで泣くし、困っている人を見ると、共感して泣く。不正への憤りで震える、弱者への共感で震える。あそこまで感情のスケールが大きい政治家は、今の日本にはいないような気がします。

それに彼は全部自分の言葉で話しますね。政治家的定型句を決して使わない。先日、梅田での街宣を見に行きましたけれど、3時間続いた街宣なのに、みんな帰らない。何百人もの人が寒空に立って、3時間聴いている。驚きました。それだけ説得力があるということです。

安倍政権の期限

――そういう状況のなかでの2020年ですが、安倍政権4選の声もあります。

僕は「猫の首に鈴をつけにいく」のは自民党のOBじゃないかと思います。福田康夫とか、山崎拓とか、小泉純一郎とか、亀井静香とか、古賀誠とか、もう現役ではない人たちが、「もう辞めろ」と引導を渡しに行く。これ以上続くと、統治機構への信頼が致命的に傷つくから。

辞任勧告が出ると、党内で「ポスト安倍」の動きが始まる。早ければ、年明けすぐに始まるのではないでしょうか。自民党の先行きを考えたら、このまま安倍政権が続くと、自民党という政党そのものが終わってしまう。

福田さんは一連の公文書の扱いに関しては、相当怒っていると思います。小泉純一郎も「製造責任」がありますし。


批判されない権力者

――内閣支持率がいつまでも高いのはなぜでしょうか?

最大の支持理由は「ほかにいない」からです。それは「この人がいま首相だから」というのと同義です。自分にあてがわれた立場からはずれてはいけない、「分際をわきまえろ」というルールが日本の有権者にも深く内面化されている。だから、「首相は首相であるという事実ゆえに、いつまでも首相であるべきだ」という不思議な推論をする。

権力を持たないものが権力者に逆らうことは「分を知らないふるまい」だとして排撃される。権力の基盤が「現に権力を持っていること」ことなんです。その権力をどのように使っているのか、その適否は副次的なことに過ぎない。

富裕層に対する批判を口にすると、「そういうことは同じくらい稼いでから言え」という批判がすぐに来る。政治家を批判すると、「だったら、自分で選挙に出て政治家になれ」と切り返される。自分の分をわきまえずに、自分がそこにいないポジションの人間を批判するのはルール違反だ、弱者の見苦しい嫉妬だ、と。そういう考え方をする人がほんとうに多い。それが現状肯定につながるわけですけれど、その無力感をなぜかリアリズムだと思い込んでいる。そういう人が日本人の5割いるということですね。


――内田さんの若い時代は違っていましたか?

金持ちだから、学者だから、権力者だからといって、「正味の人間」としてなんぼのものか、ということが人を見るときの基準でした。肩書のような外形的なものには意味がないと思っていました。60年代末の学園紛争って、要するに学生たちが大学の先生に向かって、「あんたら、ずいぶんえらそうにしているけれど、正味の人間として、平場に降りてきて、俺らと対決したときに、俺らを論破できるのか、説得できるのか?」と挑戦したことだったと思うんですよね。そして、実際に「象牙の塔」から引きずり下ろして、差しで議論してみたら、あれほど威張っていた先生たちがみんな腰砕けで、それほど節操もない人間だということがわかった。そういうことです。


――安倍首相はどうでしょう?

あの時代の学生たちの集会につれてきたら、一瞬で論破されてしまうでしょうね。


――しかし現代人は権力には逆らえない。

「分をわきまえろ」「控えおれ」という時代ですからね。江戸時代の身分制みたいな話です。


――日本は江戸時代が再現されている。しかし香港では学生たちがたちあがって、中国共産党と闘おうとしている。

立派だと思います。市民たちが主権的に国を統治したいという意志が、香港でも台湾でも、はっきり表示されている。でも、日本では、89年くらいで政治的な夢を見る時代が終わっている。主権国家なら国民は主権者なのですが、いまの日本は主権国家ではなくて、アメリカの属国なわけです。主権者はホワイトハウスにいるわけですから、日本人には自分たちが主権者だという意識がない。そんな人間に市民革命を起こす力があるはずがないじゃないですか。この政治危機において、国会前のデモに100万人集まらない国ですからね。だから、安倍政権が自民党内部の内紛で退場することはあっても、国民が自力でひきづり降ろすということは難しいと思います。


自己限定からの脱却

――そのような状況下で、わたしたちがするべきことは?

「みんな、それぞれの場所で、創意工夫をしてやってください」ということに尽きますね。僕がとにかく声を大にして言いたいのは、「自分らしい」などという言葉に囚われて、自己限定をし、自由度を下げるような生き方をやめたほうがいい、ということです。「みんな好きにやってください。まわりががたがた言っても気にしないでいいです。」それに尽きますね。「身の丈にあった」「身の程をわきまえろ」などという言葉でどれだけ日本が窮屈になっているのかを反省してもらいたい。


――そのようなやばい状況に気が付き、好きに生きろと?

 僕からのメッセージは「身の程を知るな」、「身の丈を超えろ」ですね。これは小学生から老人にまで言いたい言葉です。「小さくまとまるなよ」と。

http://blog.tatsuru.com/2020/02/26_1553.html
 

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コメント
1. 中川隆[-13326] koaQ7Jey 2020年2月29日 17:31:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[195] 報告
「今さえよければそれでいい」
社会が“サル化”するのは人類が「退化のフェーズ」に入った兆候
内田 樹 2020/02/29
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/「今さえよければそれでいい」社会が“サル化”するのは人類が「退化のフェーズ」に入った兆候/ar-BB10xLno?ocid=ientp


「今さえよければ、自分さえよければ、それでいい」――。

新著『 サル化する世界 』で、利己的で近視眼的なものの見方をする人々が増殖する社会を“サル化”と定義した思想家・内田樹氏が、世界的なモラルハザードを喝破する。

◆◆◆

「今さえよければそれでいい」という発想

――現代社会の趨勢を“サル化”というキーワードで斬った思いは何でしょうか?
内田 “サル化”というのは「今さえよければそれでいい」という発想をすることです。目の前の出来事について、どういう歴史的文脈で形成されたのか、このあとどう変化するのかを広いタイムスパンの中で観察・分析する習慣を持たない人たちのことを“サル”と呼んだのです。

 歴史学的なアプローチも探偵の推理術も同じです。目の前に断片的な情報が散乱している。そこから「何が起きたのか」をいくつかのパターンで考え出し、すべての断片をつなぐことのできるストーリーを選ぶというのが探偵の推理術です。それが論理的思考ということです。でも、今の日本では、政治家も官僚もビジネスマンもメディアも、論理的にものを考える力そのものが急速に衰えた。広々とした歴史的スパンの中で「今」を見るという習慣がなくなった。時間意識が縮減したのです。それが「サル化した社会」です。

「サル化」という言葉は「朝三暮四」の故事から


――確かに社会のさまざまな局面で長期ビジョンが失われ、刹那的な傾向が強まったように思います。

内田 「サル化」という言葉は「朝三暮四」の故事から採りました。サルたちにこれまで給餌していた8つの栃の実を7つに減らすことになったとき、「朝3、夕方4ではどうか」と言ったらサルは怒り出し、「じゃあ、朝4、夕方3は?」と言ったら狂喜した。朝の自分と夕方の自分が同一であるということが仮想できなかったのです。ある程度長い時間を通じて自己同一性を保持できない人を笑ったのです。

 中学の漢文の授業で習ったときは「変な笑い話だ」と思っていたんです。どうして「こんな話」が何千年も語り伝えられるのか、意味がわからなかった。でも、よく考えたら、漢文で習う「守株待兎」も「矛盾」も「鼓腹撃壌」も、全部春秋戦国時代のものですが、本質的に「同じ話」なのです。どれも時間意識が未成熟な人間を笑っている。

適切な時間意識を持たないと人に笑われるぞという “脅し”

「矛盾」の武器商人は、「矛を売っているときの自分」と「盾を売っているときの自分」が同一であるということをうまく想像できない。切り株に偶然ウサギがぶつかったら、次の日から野良仕事を止めてしまった「守株待兎」の農夫には「確率」とか「蓋然性」という概念がなかった。「鼓腹撃壌」では「皇帝の善政のおかげでみんな幸福に暮らしている」と歌う子どもたちと「オレの日常に皇帝は何の関係もない」とうそぶく老人が対比的に扱われていますが、この老人には「因果」という概念がない。「矛盾」も「蓋然性」も「因果」もすべてある程度長い時間を俯瞰する視座に立たないと発生しない概念です。

 これらの逸話が春秋戦国時代に集中しているということは、おそらくその時期に「時間意識が成熟した人間」と「時間意識が未成熟な人間」が混在していたということだと思います。だから、「時間意識が未成熟な人間」を文明化することが社会的急務だった。こういう逸話が集中的に語られたのは、適切な時間意識を持たないと人に笑われるぞという「脅し」によって、人々を教化しようとしたからだと思います。


――有名な故事の数々が、時間意識のトレーニングになっていたというのは驚きです。

内田 時間意識とは「もう消え去った過去」と「まだ到来していない未来」を自分の中に引き受けることです。過去の自分のふるまいの結果として今の自分がある。未来の自分は今の自分の行動の結果を引き受けなければいけない。そういう骨格のはっきりした、ある程度の時間を持ちこたえられるような自己同一性がその時代から要求されるようになった。

 エマニュエル・レヴィナスが「時間とは主体と他者の関係である」という非常にわかりにくい命題を語っていますが、僕たちがそれが「わかりにくい」と思うのは、「時間意識」というものが伸縮するということを忘れているからです。ごく限定的な時間意識しか持たない人間と、広々とした時間意識を持つ人間がいる。

 一神教信仰は信仰者にこの「広々とした時間意識」を要求します。「造物主による創造」という想像を絶するほどの過去と、「メシアによる救済」という想像を絶するほどの未来の間に宙吊りにされている今の自分というものを把握できたものだけが一神教のアイディアを理解できる。そこから人間の知性と倫理性が発動する。そういうアイディアが生まれたのが紀元前1000年から500年くらいのことであり、それが人類史的な特異点(シンギュラリティ)を形成したのだと思います。
現代人が「退化のフェーズ」に入ったことの徴候ではないか

 だから「今だけ、自分だけよければ」という現代人に特徴的な時間意識の縮減は、それから2000年、3000年経って人類が「退化のフェーズ」に入ったことの徴候ではないかと思ったのです。


 ――いまは日々あまりに忙しすぎて、目の前のことにあくせくせざるを得ないという社会環境も大きいと思います。

内田 産業構造の変化のせいだと思います。経済活動が人間的時間を超えた速度で活動し出した。株の売り買いなんかはマイクロセコンド単位で、アルゴリズムが行うわけですから、今の経済活動の基本時間はもう人間的時間ではない。人間の身体感覚や知性が賦活される時間の流れ方ではないのです。

 僕が子供の頃、1950年代はまだ生産者のうち農業従事者人口が50%を占めていました。ですから、経済活動を考量するときの時間単位が「植物的」だった。ですから、学校教育でも、子どもたちの成長は農業のメタファーで語られていました。「種子を撒いて、水と肥料をやって、日に当てて、風水害や病虫害から守ると、収穫期には果実が実る」という言い方で家庭教育も学校教育も語られた。

 子どもたちは「種子」ですし、育ち方はお天道さま頼りですから、先行きどのようなものに結実するか予測できない。キュウリができるのか、トマトができるのかは分からないけれど、きちんと手入れをすれば、この子が持ってる潜在可能性は開花するだろうという、諦観と楽観の入り混じった感情で子どもは育てられた。いくら手入れをしても、さっぱり芽を出さない子については「大器晩成」といって、そのうち何か大きなものに結実するんじゃないかというような気楽なことが言われた(笑)。

かつての植物的な時間の中での子育て

――ゆったりとした植物的な時間の中で子供も育まれていたわけですね。

内田 植物的時間というのは、基本四季のサイクルですからね。のんびりしたものでした。子どもは工場で工業製品を作るように、仕様を決めて、納期を決めて、規格を決めて、全工程を管理したら出て来るものだという考え方をしなかった。親や教師が管理できるのはせいぜい全体の2〜3割であって、8割ぐらいは自然力任せという感覚があった。日光や雨量やイナゴの来襲は人力ではコントロールできませんから。

 人類史のなかで農業が支配的な産業だった時期は長いです。だから、「子育て」についてのプロセスは無意識に農業のメタファーで語られていました。たとえば、ガリ版で刷った学級通信なんてだいたい「めばえ」とか「わかば」とか「みのり」(笑)というようなタイトルだったでしょう。幼稚園のクラス名などもよく植物の名前が使われていた。「うめ組」とか「ひまわり組」とかね。でも、産業構造が変わって、第二次産業が基幹産業になると同時に、工場での工業製品の生産プロセスに準拠したメタファーが用いられるようになった。そういう転換は無意識のうちに行われたので、誰も気づかなかった。


人間は生身の生き物なんであって、缶詰や乾電池じゃない

 今は学期ごとに学習到達目標が数値的に示されて、そこで示された「納期」と「仕様」に合わせて「生産」がなされなければいけないとみんな思っている。まるで自動車やコンピュータを作るように精密な工程管理と製品の質保証がうるさく言われるようになった。教育について語る言葉遣いも工学的になってきた。「シラバス通りの授業をしろ」とか「学士号の質保証」とか「PDCAサイクルを回す」とかいう、どれも工業の用語です。

 それと同時に四季のサイクルを基準にした植物的時間が棄てられて、その代わりに納期と仕様に合わせて工業製品を生産する工学的時間が採用されるようになった。人間では制御できない巨大な自然力が子どもの成長に介入するという考え方そのものが廃棄されて、すべては人工的に管理できるということが前提になった。

 でもね、人間は長らく植物的な時間のなかで子どもを育ててきた。それで何千年かやってきて、うまくいったんです。産業構造が変わったからと言って、教育まで支配的な産業構造に合わせて変える必要なんかないと僕は思います。子どもは植物的時間の中で成長すればいいじゃないですか。人間は生身の生き物なんであって、缶詰や乾電池じゃないんですから。


長期スパンで見たときのドナルド・トランプ

――近年、とみに政治家が平気で嘘をつくようになりました。嘘の答弁を並べ立てたり、フェイクニュースを垂れ流すのもまた時間意識の縮減でしょうか。
内田 Honesty pays in the long runということわざがありますね。「長期的に見れば、正直は引き合う」という意味ですが、それは逆に言えば、「短期的に見れば、嘘は引き合う」ということです。だから時間意識が縮減して、「短期的に見る」ことしかしない人間にとっては「嘘をつくことの方が引き合う」んです。

 ドナルド・トランプは100年単位の長期的なスパンでとらえたら、米国史上でもっとも愚鈍で邪悪な大統領として歴史に名を残すでしょう。長期スパンで見たときに、アメリカの国益を大きく損なった人として世界史に記録されることは確かですが、短期的に見れば大成功している。ファクトチェックによると、就任からすでに1万以上の嘘を重ね、フェイクニュースを垂れ流したことによって成功したわけです。「嘘は引き合う」の最も説得力のある事例です。

アメリカでも日本でも“サル化”が進行している

 約束を守るとか、隣国との信頼関係を構築するのは、短期的にはコストがかかるかも知れませんけれど、長期的には安全保障コスト、外交コストを引き下げることになる。でも、今のアメリカにはそれができない。他国を恫喝して、外交的な危機を煽ったほうが有権者は喜ぶし、兵器産業は儲かる。トランプが今もアメリカ国民の相当数から支持されてるということは、アメリカ人でも“サル化”が進行しているということだと思います。

 日本でも同じです。安倍晋三も嘘に嘘を重ねてきましたけれど、本人はそれほど罪の意識はないと思います。「長期的に見た場合、こんな嘘を言って帳尻は合うのか」という考え方をしない人間にとっては「嘘をつかない」インセンティブはありませんから。世界中が“サル化”しているわけで、日本だけが特別悲惨なわけではないということです。そんなことを言っても何の慰めにもなりませんが。
――嘘が蔓延する一方で、露悪的に暴言を吐いたりヘイト発言をする人が、ある一定層にウケている現象についてはどうご覧になってますか?

内田 暴言を吐く人は昔からいました。でも、そういう「下品な人間」はあまり人前には出てこられなかった。そういうことは人前で言うもんじゃないという常識の抑制がかかっていたし、人前で下品なふるまいをする人間にはそれなりのペナルティが科された。でも、今はネットで匿名で発信できます。実社会で、固有名で発信した場合には相応の社会的制裁を覚悟しなければならないことでも、匿名でなら、責任をとるリスクなしにいくらでも下品になることができる。だから、これまで抑制されてた下品さが噴出してきた。下品な人間の比率そのものは時代によって変わりはしません。別に日本人が全体として下品になったわけじゃなくて、これまで隠れていた下品な人間が可視化されただけなんです。

さっぱり楽しくない「気まずい共生」とは?

――そうした時間意識が社会の分断化をより強めてきたようにも思います。どうしたら互いに溝の深い人々とも同じ共同体を形成することができるのでしょうか。
内田 哲学者のオルテガ・イ・ガセットが言うとおり、「敵と共に共生する、反対者とともに統治する」というのがデモクラシーです。だから公人たる者は反対者たちの意向も代弁して集団の利益を代表するのが仕事であって、自分の支持者の利益を代表するわけではない。それがいまや、デモクラシーというのは多数決のことだというシンプルな理解が支配的になった。選挙結果が51対49だったら、敗けた49についてはまったく配慮する必要がないと公言するような人物が首長になったり議員になったりしてる。彼らは自分が公人であるという自覚がない。自分の支持者を代表しているだけなら、「権力を持った私人」でしかない。

 デモクラシーの原点に立つなら、公人たる者は、自分の個人的な思いは痩せ我慢してでも抑制して、異論と対話して、反対者と共生する作法を学ばなければいけないと思います。それが本書にも書いた「気まずい共生」ということです。「気まずい」わけですから、さっぱり楽しくない。合意形成にもやたら時間がかかる。でも、それがデモクラシーのコストなんです。デモクラシーのコストを引き受ける気がないなら、独裁制か無秩序か、どちらかを選ぶしかない。


https://www.msn.com/ja-jp/news/national/「今さえよければそれでいい」社会が“サル化”するのは人類が「退化のフェーズ」に入った兆候/ar-BB10xLno?ocid=ientp

2. 中川隆[-13886] koaQ7Jey 2020年3月17日 10:39:48 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[995] 報告

『サル化する世界』についてのインタビュー - 内田樹の研究室 2020-03-17
http://blog.tatsuru.com/2020/03/17_0828.html


いくつかのメディアから新刊『サル化する世界』についてのインタビューがあったので、まとめて再録。

「サル化する世界」というタイトルに込めた思いを教えてください。

「サル化」とは、「朝三暮四」に出て来るサルのように、現在の自分と未来の自分の間に自己同一性を保持できない病態のことです。

 もともとヒトは時間意識をゆっくりと拡大することで、他の霊長類から分かれて進化を遂げて来ました。そして、今からおよそ2500年くらい前に、四大文明の発祥地で「世界の起源」と「世界の終わり」という概念を持つところまでたどりつきました。広々とした時間意を持つことができた。そのおかげで人類は宗教を持つことができたし、歴史や物語を持つこともできました。

 中国の春秋戦国時代に「矛盾」「守株待兎」「刻舟求剣」「鼓腹撃壌」といった「時間が経過しても自己は同一的である。自己は同一のつもりでも時間は流れる」ということがうまく理解できない愚者を主題にした説話が集中的に語られています。おそらく、その頃に時間意識についての「シンギュラリティ」があったのでしょう。孔子も荘子も韓非も、その教えに共通しているのは長いタイムスパンの中でものごとの適否を判断できる能力を未開からのテイクオフの条件と見なしていたということです。

 しかし、せっかくこうやって時間意識の拡大によって他の霊長類から分離したにもかかわらず、現代人の時間意識はふたたび縮減し始めています。この「人間以前」に向かうの文明史的退化の徴候を僕は「サル化」と呼んだのです。

過去と未来をふくんだ視点で「今」を考察する力は、なぜ急激に失われてしまったのでしょうか。

 最大の原因は基幹産業が農業から製造業、さらにはより高次の産業に遷移したことだと思います。農業の場合でしたら、人間は植物的な時間に準拠して暮らしていました。農夫は種子をまいている自分と、風水害や病虫害を防いで働いている自分と、収穫している自分が同一の自己であるという確信がないと日々の苦役には耐えられません。でも、いま、最下層の賃労働者は今月の給与をもらっている自分より先の自分にはなかなか同一性を持つことができません。AI導入後に雇用環境がどう変わるかも予測がつかないどころか1月後に仕事があるかどうかさえ分からないんですから、老後に年金や健康保険がどうなっているか予測がつくはずもない。だったら、考えても仕方がない。

 事情は金融商品の売り買いで個人資産を増やしている富裕層も同じです。株式会社は当期利益至上主義ですし、株の取引はマイクロセコンド単位で行われている。だったら、それ以上タイムスパンを広げても意味がない。

 今から10年前にGoogle やAmazonが「こんなふう」になると予測した人はほとんどいませんでした。これらの企業が10年後にどうなっているかもやっぱりわからない。長い時間の流れの中に自分を置いて、何が最善の選択なのかを熟慮するという知的努力は費用対効果が悪いということがいつの間にか身に浸み込んでしまった。
日本社会の劣化は「サル化」の一兆候なのでしょうか。
 
 安倍政権の大臣や官僚たちは「嘘をついても平気」「前後に矛盾のある言明をしても平気」「謝罪しても次の瞬間には忘れている」といった症状を呈しています。どれも時間意識の縮減の徴候です。

 Honesty pays in the long run「長い目で見れば正直は引き合う」ということわざがありますけれど、これは裏返して言えば「短期的に見れば嘘の方が引き合う」ということです(実際にそうだし)。ですから、「長い目で見る」習慣を失った人たちがシステマティックに「嘘つき」になるのは論理的には当然なのです。

 前後の矛盾を指摘されてても平気というのは「矛盾」の武器商人と同じです。彼は「どんな矛も通さない盾」を売っているときの自分と、「どんな盾も貫く矛」を売っているときの自分が同一人物だと思っていないのです。だから「この矛でこの盾を突いたらどうなる?」という問いに当惑したのではなく、その問いの意味そのものが理解できなかったのです。国会答弁で少し前に言ったこととまったく逆のことを平気で言って、「整合していない」と言われても少しも悪びれる様子がないのもそれとほぼ同じだと思います。

日本人の労働生産性は、「1人当り」「時間当たり」ともに先進7カ国中の最下位という状態が続いていますが、日本の組織を活性化し、イノベーションを起こすには何が必要だと思われますか。

 組織を再活性化するなら、管理部門に過大な資源を配分しないことです。今の日本の組織は「価値あるものを創り出すセクター」よりも「人がちゃんと働いているかどうか監視するセクター」の方に権限も情報も資源も集積しています。労働者よりも監督の方が多い現場とか、兵士よりも督戦隊(前線から逃げて来た兵士を射殺する後方部隊)が多い戦場のようなものです。それでは生産性が上がるはずがない。

「管理を最低限にする」「現場に自己裁量権を与える」「成果の短期的な査定を止める」くらいで日本の組織はかなり再活性化するはずです。でも、管理部門の人たちはそう言われても「管理部門の肥大化を適正規模に抑制するための管理部門の増設」くらいしか思いつかないでしょうけど。

 イノベーションというのは未来にぼんやりとした手応えを感じる直感力なしには成立しません。「何だか知らないけれど、この先に『いいこと』がありそうな気がする」という直感に導かれてはじめてあらゆる創造は可能になります。でも、そのためには「この先」に、まだ現実になっていない時間に指先が届かなければなりません。「この先」という言葉に何のリアリティーも感じられない人間に何かを新しく創り出す能力が育つわけがない。

社会が脱サル化するために必要なこととは?

 サル化した人間の特徴は「過去を反省しない」「未来に対して見通しを持たない」ことです。だから、悔恨もないし不安もない。どれほど失敗しても同じ失敗を繰り返すし、「こんなことを続けていたらそのうちたいへんなこと」になるとわかっていても、「こんなこと」を続ける。「前にこれで失敗して手痛い思いをしたこと」も「そのうち起こるかもしれないたいへんなこと」にもリアリティーを感じることができない。

 こんな生きづらい時代ですから、「過去のことは忘れたい 未来のことは考えたくない」と思ってしまうことは止められません。でも、「後悔に苛まれたくない、不安に怯えたくない」という人は、それと同時に、遠い記憶の中を逍遥したり、未来に夢を描いたりすることもあきらめなければならない。それがどれほど多くのものを失うことなのか、それについては少し立ち止まって考えた方がいいと思います。
http://blog.tatsuru.com/2020/03/17_0828.html  

3. 中川隆[-13315] koaQ7Jey 2020年3月25日 18:27:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1589] 報告

「朝鮮新報」のインタビュー - 内田樹の研究室 2020-03-25
http://blog.tatsuru.com/2020/03/25_0749.html


「朝鮮新報」の3月1618日合併号に日韓問題についてのインタビューが掲載された。

 総連系のメディアに取材されたのはこれがはじめてのような気がする。
 紙面では字数が足りなかったので、これはロングヴァージョン。

「厄介な隣人にサヨウナラ」「韓国人という病理」――昨年、雑誌「週刊ポスト」は、記事の中でそのような言葉を並べヘイトスピーチを行った。同胞に対する異常な差別が日本社会にまん延する中、『週刊ポスト』版元の小学館に対し執筆拒否を宣言した思想家の内田樹さんが今、日本社会に対して思うことは。

―在日朝鮮人を取り巻く日本社会の状況に感じることはありますか?

 以前に比べ在日コリアンへの非寛容、差別が公然化してきたという印象があります。第一の原因は安倍政権にあると思います。安倍政権になってからの7年間で「嫌コリア」の機運が政治的に醸成されてきました。

 日本社会の在日コリアンへの差別的感情は戦前から一貫して存在しますが、それが公然化するかどうかはある種の「空気感」で決まります。「差別的なことは口に出してはいけない」という抑制の空気があれば、心で思っていても口にはしない。その抑制が安倍政権下で弱まった。「嫌コリア」言説が目に付くようになってきたのはそのせいです。

 極論やデマゴギーを語る人はいつの時代にもいますが、今の政権下では、そのような「マイナーな極論」を語る人たちがNHKの経営委員になったり、総理と一緒に食事をしたり、あたかも「権威のある人間」のようにメディアに頻繁に登場するようになりました。本来ならば市民的常識によって抑制されるべき非常識な発言が、政権への恐怖や忖度によってまかり通ってしまっている。それが日本社会全体の倫理の劣化をもたらした。

 ただ、これはあくまで潜在的な差別意識が可視化されたというだけのことで、在日コリアンに対する差別感情は見えないかたちで日本社会の中につねに潜在していた。だから、安倍政権が終わったら今ほどは目立たなくはなるでしょうけれど、それでなくなるわけではないと思います。

―様々な問題の中、安倍政権が長期にわたり続いている理由は何でしょうか?


政権のコアな支持層には「権力者は不正を働いても構わない」という道徳的なニヒリズムに侵されている人がいます。彼らは政権が資料を改竄・隠蔽しても、総理大臣が嘘をついても、支持者を税金で供応しても、「それのどこが悪いんだ」と口を尖らせます。不正をしても処罰されない、法の支配に服さないで済むのが権力者の特権ではないか、そういう特権的な立場になるためにこれまで努力してきて、その地位を得たのだから、それに文句を言うのは筋違いだと考えているのです。

 僕の友人がネット上で麻生太郎の批判をしたら「そういうことは自分が財務大臣になってから言え」というリプライが書き込まれました。僕が国政批判をしても「それなら自分が国会議員になれ」というような絡み方をする人がいます。それができないのなら黙っていろと言う。社会的に「成功」している人に対する批判はそれと同じだけ「成功」した人だけに行う資格がある。それが「リアリズム」だと思っている。でも、それは「現状に不満なら、まず現状を受け入れろ」と言っているに等しい。要するに絶対的な現状肯定ということです。

 彼らが安倍総理を支持するのは、「彼が総理大臣だから」です。単なるトートロジーなのですが、それに気がついていない。

―なぜそのような考え方が生まれるのでしょうか?

 気分がいいからじゃないですか。「市民社会をもっと成熟したものにしよう」とか「雇用関係を改善しよう」という願いを実現するには多大な時間と労力が必要です。でも、目の前でそれを語っている人間に「きれいごとを言うな」と罵倒を浴びせ、切って捨てるような批判をすれば、刹那的な快感、全能感が得られる。おのれの社会的上昇に希望が持てない人たちにとって、その一瞬の爽快感が心地よいのなのでしょう。だから、ネット上では、自分よりも知識を持っている人たちや専門家の発言を定型句一つで全否定できると思っている人たちが溢れ返っている。

 大声でセクシズム、レイシズムを叫ぶ人たちも求めているものは同じだと思います。「女なんて」「朝鮮人なんて」というような「言ってはいけないこと」を平気で言える自分は「スゴイ」と思っている。「反道徳的で反社会的であることができる自分」にささやかな権力の手応えを覚えている。

 本来ならば、そのような差別的な言葉は市民たちの規範力によって抑制され、収まってゆくものです。法律で罰するという以前に、「そんな非常識なことを口にするな」という規制が働く。そのためには、市民の一定数が「まっとうな大人」であることが必要です。しかし、今の日本社会には、そのような非常識な言動に対して「いいかげんにしろ!」と一喝できるような大人が少なくなってしまった。

―そのような中で在日朝鮮人も息苦しさを感じているようです。

 日本では、職業や年収な能力で「身の程」が決定され、「その枠から出るな」という禁圧が働いています。「自分が権力者になってから権力を批判しろ」というのは要するに「自分の身のほどを知れ、分際をわきまえろ、身の丈に合わないことをするな」ということです。

 少し前にアメリカの雑誌が日本の大学生にインタビューを行った記事がありましたが、学生たちは今の日本の大学に対する印象をほとんど同じ言葉で答えていました。それは「狭いところに閉じ込められている」「息ができない」「釘付けにされている」という身体的な印象を語る形容詞でした。息苦しさを日本の若者たちは共通に感じている。けれども、そう嘆いている学生たち自身はその生きづらさが「身の程を知れ」という無言の禁圧の結果だということに気づいていない。それどころか、学生たちもまたお互いに「配役されたキャラを演じ続けろ」「らしくないことをするな」というしかたで相互規制を行い、お互いの首を締めている。

 在日コリアンの場合も「在日コリアン」というタグが貼られて、その「役」を演じることを強いられています。そして、どんどん狭いところに押し込められる。「日本に文句があるなら国に帰れ」というのは「財務大臣に文句があるなら財務大臣になれ」というのはまったく同じ論理です。「与えられた社会的枠組みから出るな。嫌なら枠組みを作っている社会そのものから出ていけ」ということです。
 
―この空気を換えるためにはどうすれば良いとお考えですか?

 かつて60年安保闘争で国論が二分したあと、岸信介の後を引き継いだ池田勇人は「所得倍増」と「寛容と忍耐」をスローガンに掲げました。「所得倍増」は政治的意見の違いにかかわらずすべての日本人にとって望ましいことでした。「寛容と忍耐」は同じ社会を構成している中には、共感も理解もしがたい隣人たちも含まれているけれど、それに耐えようと。不愉快な隣人とも"気まずく"共生しよう、と呼びかけた。

 僕はこのスローガンの選択は適切だったと思います。実際に、この路線に従って日本は歴史的な高度成長を遂げたのですから。今の日本は60年安保闘争以後最も深く国民が分断されています。ですから、必要なのはもう一度「寛容と忍耐」を掲げることだと思います。

―昨年、記事中で「韓国なんていらない」などとヘイトスピーチを行った『週刊ポスト』の版元の小学館に対し、執筆拒否を宣言されました。

 小学館のような大きな出版社には、国民の間のコミュニケーションのプラットフォームを形成する社会的な責務があります。小さな出版社でしたら、政治的に偏向した言説を流布することも許されるでしょうけれど、小学館のような規模の出版社は国民間の対話の場を設定することがその社会的責務です。さまざまな論に対話の場を提供することが仕事であって、国民間にあえて分断を持ち込み、国民の一部を排除し迫害するような行為は許されません。小学館にはその社会的責任の自覚がありませんでした。メディアの劣化がここまで進んだことに僕は愕然としています。

―表現の自由についてのお考えは?

 何のための表現の自由なのか? それを考えることが大切だと思います。言論の自由というのは「誰でも好きなことを言っていい。それが虚偽でも、人を傷つけるものでも、人がたいせつにしているものを汚すものでも、何でも表現する権利がある」というような底の抜けた話ではありません。言論の自由が存在する社会は、それが存在しない社会よりも市民が成熟するチャンスが多いから言論の自由は守られなければならないというのが僕の考えです。

 何らかの公的機関や誰か見識にすぐれた「判定者」がいて、その機関なり個人なりが専一的に「表現して良いものと悪いもの」を判定識別するということになったら、市民たちは自分の判断力を高める必要がなくなる。でも、ものごとの良否の判断を他人に委ねてしまった人間はもう決して成熟することができません。

 僕が言論の自由を守ろうとするのは、市民たちの知性的・感性的な成熟を阻害して、幼児のままにとどめおこうとする人たちに抗うためです。市民が全員、おのれの判断を放棄し、上位者にものごとの正否理非の判断を委ねても気にしない幼児であれば、管理はしやすいかもしれませんが、そんな集団は遠からず滅亡します。

 表現の自由というのは単なる原理原則ではなく、具体的な成果をめざす遂行的な装置です。それによって市民たちの成熟を支援し、集団をより強くより豊かなものにするための仕組みです。ですから、何のための表現の自由なのかということを考えもせずに、ただそのつど自分に都合のよいスローガンとして「表現の自由」を引き合いに出す人間も、「お上」に表現の適否の判断を任せろという人間も、僕はひとしく信用しません。

―今後、友好的な関係を築いていくためには何が必要でしょうか?

 日本人の多くが近現代の歴史をほとんど学んでいないということが問題だと思います。朝鮮半島の植民地化とその支配の歴史的事実について多くの日本人は何も知りません。少なくとも江華島条約からあと日韓の150年の歴史に関しては最低限の事実を知る必要があると思います。

 徴用工問題や慰安婦問題などで議論が行われていますが、政治家もメディアも65年の日韓基本条約が議論の起点になっていると言うだけで、それより以前には遡らない。

 でも、はるか以前から解決できなかった問題が65年時点でも解決できずに「棚上げ」されたものがまた蒸し返されたということです。解決できなかった同じ難問だからこそ、間歇的に甦ってくる。それを「解決済みだ」と言い切って終わりというのは単なる歴史についての無知に過ぎません。解決の難しい難問は難問として受け入れて、長い時間をかけて、両国の衆知を集めて議論し続けるしかない。解きがたい問題については、「どうしてこんなに解きがたいのか」というところまで時間を遡るしかありません。

 日韓の歴史的な関わりに関する知識では、平均的には韓国の人のほうがはるかに詳しいと思います。特に最近の韓国映画は光州事件や植民地時代の親日派に関する映画など、自国史の「暗部」を映像化し、物語として国民的に共有しようとしています。

 残念ながら日本ではこのような努力はほとんど見られません。この点では韓国に大きな知的アドバンテージがあります。このまま日本人が自国史の「暗部」から目を背け続けていれば、いずれ日韓の国力には大きな隔たりができることでしょう。国力とは突き詰めて言えば、不都合なことも含めてどれくらい自国の歴史と現実を受け入れることができるか、その器量の大きさのことだからです。

http://blog.tatsuru.com/2020/03/25_0749.html

4. 中川隆[-13203] koaQ7Jey 2020年3月29日 11:05:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1701] 報告
「サル化する日本人」が見抜けない危機の本質 「今」を考察する力はなぜ失われたのか
内田 樹 2020/03/29



© 東洋経済オンライン 現代人は再びサルに退化し始めている……? 思想家の内田樹氏が指摘する「サル化」とは何か、質問に回答してもらった(altmodern/iStock)

日本社会が“サル化”している――。新著『サル化する世界』でそう鋭く指摘するのは思想家の内田樹氏だ。内田氏が言う「サル化」とは何か。コロナ危機に際して考えるべきこととは。編集部からの質問に回答してもらった。

ーー「サル化する世界」という挑発的なタイトルに込めた思いを教えてください。
 「サル」というのは「朝三暮四」のサルのことです。サルが今の自分さえよければそれでよくて、未来の自分にツケを回しても気にならないのは、ある程度以上の時間の長さにわたっては、自己同一性を保持できないからです。

 過去・現在・未来にわたる広々とした時間流の中に自分を位置づけることができない人間には確率、蓋然性、矛盾律、因果といった概念がありません。

「文明史的危機」に際会している

 「矛盾」も「守株待兎」も「刻舟求剣」も「鼓腹撃壌」も、いずれも時間意識が痩せ細った愚者についての物語ですが、おそらく、春秋戦国時代には「そういう人」が身の回りに実際にいたのでしょう。だから、荘子や韓非ら賢者たちは「長いタイムスパンの中でものごとの適否を判断できること」を未開からのテイクオフの条件として人々に教えようとした。

 それから2000年ほど経って、気がついたら、現代人は再びサルに退化し始めていた。この「文明史的危機」に際会して、警鐘を乱打しようと思って、このような挑発的なタイトルを選びました。

 ーー過去と未来をふくんだ視点で「今」を考察する力は、なぜ急激に失われてしまったのでしょうか。

 最大の原因は基幹産業が農業から製造業、さらにはより高次の産業に遷移したことだと思います。農業の場合でしたら、人間は植物的な時間に準拠して暮らしていました。農夫は種子をまいている自分と、風水害や病虫害を防いで働いている自分と、収穫している自分が同一の自己であるという確信がないと日々の苦役には耐えられません。

 でも、いま、最下層の賃労働者は今月の給与をもらっている自分より先の自分には、同一性を持つことができません。だって、1カ月後に自分がどうなっているかさえ予測がつかないから。

 それは富裕層も同じです。株の取引はマイクロセコンド単位で行われている。それ以上タイムスパンを広げても意味がない。企業だってそうです。今から10年前にGoogleやAmazonが「こんなふう」になると予測した人はほとんどいなかった。10年後にどうなるかもわからない。長い時間の流れの中に自分を置いて、何が最善の選択なのかを熟慮するという習慣を現代人は失って久しい。

 ーー近年、日本社会のどんな面に特にサル化の兆候は表れていると思いますか。

 一番わかりやすいのは「うそをつくことについて罪の意識がなくなった」ということです。「Honesty pays in the long run」ということわざがありますけれど、「正直は長い目で見れば引き合う」というのは、「うそをつく方が短期的には引き合う」ということです。短期的な損得だけを考えれば、多くの場合、うそをつくほうが利益が大きい。

その場その場の自己利益を優先

 政治家や官僚たちがすぐばれるうそをつき、前後矛盾することを平気で言い、その矛盾を指摘されても別に困惑する様子もないのは、彼らが「矛盾」の武器商人と同じレベルにまで退化しているからです。

 その場その場において自己利益が最大化することを優先させて、おのれの言明をできるだけ長く維持することには特段の意味を感じない。「約束を守る、一言を重んじる」を英語では「keep one’s word」といいますが、keepする時間の幅がこれほど短縮されるとは、このことわざを考えた人も想像していなかったことでしょう。

 ーーいま一連のコロナ騒動を見ていると、後手後手に場当たり的な対応をする政府から、不足物資を買い占めに走る人々の狂騒まで、まさに“サル化”する日本です。そこにはなにか日本特有の構造的要因もあるのでしょうか。

 日本固有の現象ではないと思います。無能な政府であれば、どこでも対策は後手に回るでしょうし、トイレットペーパーの買い占めも世界のどこでも起きていますから。サル化しているのは日本人だけではないよと言われて安心されても困りますが。

 ーー危機管理に真に必要な知性とは何でしょうか。

 長いタイムスパンの中で、ものごとの理非や適否を判断する習慣のことだと思います。歴史的にものを見る習慣があれば、「危機だ」と騒がれる出来事の多くが「過去に何度も繰り返されていることの新版」であることがわかるはずです。それなら浮足立つ必要はない。どういう文脈で起きて、どう展開するか、だいたいわかるから。

 そうやって「よくある危機」をスクリーニングしておかないと、本当の前代未聞の危機に遭遇したときに、適切に驚くことができません。

 ーー失われた20年のあと、アベノミクスで株価こそ浮上したもの、一向に景況はよくなりません。日本人の労働生産性は、「1人当たり」「時間当たり」ともに先進7カ国中の最下位という状態が続いていますが、日本の組織を活性化するには何が必要だと思われますか。

 管理部門に過大な資源を配分しないことです。今の日本の組織は「価値あるものを創り出すセクター」よりも「人がちゃんと働いているかどうか監視するセクター」のほうに権限も情報も資源も集積しています。労働者よりも監督のほうが多い現場とか、兵士よりも督戦隊(前線から逃げて来た兵士を射殺する後方部隊)が多い戦場のようなものです。それでは生産性が上がるはずがない。

 「管理を最低限にする」「現場に自己裁量権を与える」「成果の短期的な査定をやめる」くらいで日本の組織は一気に活性化します。でも、管理部門の人たちはそう言われても「管理部門の肥大化を適正規模に抑制するための管理部門の増設」くらいしか思いつかないでしょうけど。

 ーー”サル化した人間”にとって代わってAIが社会の中枢を担う日はくると思いますか? AI時代に人が学ぶ意味とは何でしょうか。

 AI時代は「前代未聞」の事態ですから、「こうすれば何とかなる」という正解を知っている人はいません。「こうすれば救われる」と言い立てる人がいても、あまり信用しないほうがいいです。生き延び方は、各自で考えてください。
イエスマンだけで固められた組織

 ーー消費増税の影響もあり、新年度の「国民負担率」は44.6%と過去最高になる見通しです。国民は高い税負担を強いられながらも、人口減少、貧困問題をはじめ、医療・介護・年金といった分野が危機的状況にあるのはなぜだと思われますか。

 平たく言えば、政策を起案し、実施する人たちが「あまり頭がよくない」からです。

 この四半世紀ほど、日本のキャリアパスは「上位者に対する忠誠心」を「業務能力」よりも高く評価することで、円滑な組織マネジメントを実現してきました。お金が潤沢にあるときは、それでよかったのです。組織が「円滑に回る」ことをイノベーションやブレークスルーよりも優先させても、何とかなった。

 でも、こういうイエスマンだけで固められた組織には前例主義と事大主義と事なかれ主義が瀰漫(びまん)しますから、お金がなくなったり、前代未聞の事態に直面すると、「フリーズ」してしまう。

 医療、介護、年金さまざまな制度については「頭のいい人」が画期的な制度改革の提言をこれまでも繰り返ししてきていますけれど、日本の役所はまったく相手にしませんでした。上位者におもねらない人の意見は日本では採用されないんです。
 ーー人口減少社会において、国民的資源を守り、日本人が共同体として生き残るためには何が必要でしょうか。

 とにかく大人の頭数を増やすことですね。最低でも国民の15人に1人くらいが「他の人はどれほど利己的でも、自分1人くらいは公共に配慮しないと……」と思って暮らせば、ずいぶん世の中住みやすくなります。とりあえず道ばたに落ちてる空き缶を拾うとか、妊婦に席を譲ってあげるとかから始めたらいかがでしょうか。

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%ef%bd%a2サル化する日本人%ef%bd%a3が見抜けない危機の本質-%ef%bd%a2今%ef%bd%a3を考察する力はなぜ失われたのか/ar-BB11QE5E?ocid=ientp

5. 中川隆[-13312] koaQ7Jey 2020年4月14日 17:20:16 : TGfzBd95kB : Mmt5aUpoY1RKMEk=[22] 報告
『サル化する世界』 著・内田樹
書評・テレビ評2020年4月14日

 著者は神戸女学院大学名誉教授。著者のいう「サル化」とは、中国の春秋戦国時代(紀元前8世紀から同3世紀)の、宋の説話「朝三暮四」のサルのことだ。

 狙公はサルを何匹も飼っていた。だが、懐具合がさみしくなり、餌代の節約が必要になった。それまでは餌のトチの実を朝四つ、夕方四つ与えていたが、「これからは朝三つ、夕方四つにしたい」と提案した。するとサルたちは激怒した。「では、朝四つ、夕方三つでは?」と聞くと、サルたちは大喜びした。サルたちとは、その場の欲望を優先し、未来に飢えているかもしれない自分を想像できない人たちのことである。

 つまり「サル化」とは当期利益第一主義のことであり、「今だけカネだけ自分だけ」という考え方のことだ。こんなことを続けていればいつか大変なことになるとわかっていながら、大変なことが起きた後の未来を想像することができないまま、刹那的な欲望に抑えがきかない人たちのことだ。公文書を勝手に改竄したり廃棄したりする人たちのことであり、国民の年金を投機に回して溶かしている人たちのことだ。そういう人たちが国の政治・経済・学術・メディアで大きな顔をしている状態を、著者は「サル化する社会」と呼んでいる。

 サル化した社会は、自然災害やパンデミックやテロ・戦争といった国難的事態にきわめて弱い。それは、新型コロナウイルスの蔓延に直面する今が示している。国難的事態に備え、その被害を最小化するために制度設計をしていないからだ。教育や医療、農林水産業や社会保障、公共インフラといった、50年、100年先を見通して国民の生命と財産をいかに守るかというところから考えなければならない分野について、大企業の四半期利益を最優先するような政策を次々とうち出して破壊してきたからだ。

教育も医療も介護も商品化

 本書ではこの問題を、著者の最近の論評や、ジャーナリスト・堤未果氏との対談のなかで深めている。

 教育とは、その社会がこれからも継続して、人々が健康で文化的な生活ができるためにおこなう社会的事業であり、教育の受益者は社会そのものである。ところがこれに市場原理が持ち込まれると、子どもたちは教育という商品を購入する顧客になり、教師個人の教育力が数値で評価され、報償や処罰が用意される。

 文科省は2004年、株式会社立大学という制度を導入した。特区にいくつか大学ができたが、今ではほとんどがつぶれた。高い授業料をとりつついかにして教育コストを減らすかに腐心し、教員を雇わず職員に授業させたり、ビデオを見せて授業の代わりにしたりしたからだ。

 大学の独法化以後、学長のトップダウンが強化され、周囲に無能なイエスマンが集められる一方、アメリカ式の相互評価やPDCAサイクルが持ち込まれ、現場の教員は会議と書類書きに忙殺されて、教育と研究に集中することができなくなった。以前のように「教員は海の物とも山の物ともつかぬ研究を何年も続けることができ、そのなかからノーベル賞級の学術的アウトカムが出る」という状況はなくなり、日本の学術水準の低下は国際的にも話題になっている。

 また、医療はそれを求めるすべての人に分け隔てなく、最高の質の医療を、国民に負担を与えないやり方で、できれば無償で提供することを理想としている。それはアメリカの医学部卒業式で宣誓する「ヒポクラテスの誓い」にも書かれている。だが、これが市場原理主義で壊されている。

 たとえば昨年5月に保険に収載された「キムリア」という白血病の薬は、前後に必要な検査費用や入院費、抗がん剤なども入れると、1回の投与で4000万円をこえる。潜在的患者数1万人といわれるなか、製薬会社は取りっぱぐれのない国保に入ることを利益とし、患者も保険証があれば自己負担数十万円ですむのでそれを望むが、それでは国保が持たない。しかし外資やグローバル製薬企業は続々とその後に続こうと狙っているという。一方、同じ薬で名古屋大学が開発したものは費用が100万円程度ですむので、国産の方が有利なのはまちがいない。

 また、2015年に介護報酬が大幅に引き下げられ、国内の介護事業者が戦後最大の倒産件数を記録したが、その多くを外資が買収し、「五つ星投資商品」といわれる日本の介護分野への参入を狙っているという。

 著者はこのようになっている背景に、日本が主権国家でなく、アメリカの属国に成り下がり、アメリカの国益を優先的に配慮できる人たちが政官財を牛耳っていることがあると指摘している。

サル化した社会の対処法は

 「サル化した社会」、つまり新自由主義は、1980年代からわずか数十年で世界をこれほど痛めつけたのだから、その感染力は新型コロナウイルスどころではない。だが著者によればその対処法はシンプルで、首都圏一極集中を改め、お互い様の精神で支えあう小さなコミュニティをたくさんつくり、食料や教育、医療・介護が循環していくシステムをつくること、またイデオロギーと金もうけを排除して50年、100年先の国のあり方を考えることなどを提案している。

 ただそのためにはみずからサル化を脱して、本来の人間らしさをとり戻すことが不可欠だ。それもこうすればよいというワンパターンの解答ではなく、そこに至るまでの深い思考の過程こそ意味があるのだということを、本書から読みとることができる。


(文藝春秋発行 B6判・326ページ ¥1500+税)
https://www.chosyu-journal.jp/review/16482

6. 中川隆[-13139] koaQ7Jey 2020年4月19日 16:26:02 : 4x46IipBow : YWFUR1V5N3FIaFE=[9] 報告

「無策な安倍政権」をいまだに支持し続ける人がいる理由――内田樹の緊急提言
内田 樹 2020/04/19

 新型コロナウィルス禍への日本政府の対応は「サル化」の一例にすぎない。「今さえよければ」と考える「サル」から脱却し長い目で考える時間意識を取り戻さなければ明日はない。

◆ ◆ ◆

『 サル化する世界 』という本を書きました。こういうタイトルにしたのは、この四半世紀ほどで日本人の考え方がはっきり変わったように思えたからです。といっても、人間が別のものに生まれ変わったとか、新しい段階に至ったということではありません。人間を取り巻く環境が変化し、それを取り込んで人間の意識も変化したということです。最も変化したのは時間意識です。

 僕が生まれた1950年の日本の労働人口の50%は農業従事者でした。人々はそれと気づかずに「農業的な時間」「農事暦」を呼吸して生きていた。朝日とともに起きて、陽が落ちたら眠る。春に種を蒔き、日照りや冷夏や風水害や病虫害を恐れ、無事に秋を迎えたら収穫をことほぐ……。そういう「農業的な時間」の中で生きていました。それが日本人の時間意識の土台をかたちづくっていた。
会社の「あるべき姿」より当期の数字が優先する

 しかし、それから70年経って、産業構造が高次化してゆくにつれて、日本人の時間意識もその時代に支配的な産業構造に適応して変化していった。そして、今はグローバルスケールで展開する金融資本主義の「取引の時間」に人間の方が適応馴化させられている。

 今金融商品の取引は1000分の1秒単位でアルゴリズムが行っています。だから、経営者たちは当期より先のことは考えなくなりました。考えても仕方がないからです。収益が悪化して株価が下がれば先がない。10年後、20年後の会社の「あるべき姿」より当期の数字が優先する。わが社の設立意図は何であったかというようなことは誰も覚えてさえいない。今の企業には過去も未来もないということです。このせわしない時間になじんだ人からは、長いタイムスパンの中でおのれの行動の適否を思量するという習慣そのものが失われた。別に頭が悪くなったとか、人間性が劣化したという話ではありません。時間意識が環境に適応して変わっただけです。1000分の1秒の世界にリアリティーを感じる人間は、もう「農業的な時間」をことの良否を考量する「ものさし」には使わなくなったということです。


「今さえよければ、未来の自分がどうなろうと知ったことか」

 しかし、ごく短いタイムスパンでしかものを考えられないという縮減された時間意識になじんでしまうと、もう人間的成熟ということそのものが望めなくなる。「自己陶冶(とうや)」というのは、長い時間をかけてじっくりと己を熟成させることです。過去を振り返り、未来を遠く望み、今ここで自分は何をなすべきかを熟慮する。もっと成熟した人は「世界の始まり」から「世界の終わり」に至る広漠たる宇宙的な時間の中に身を置くことさえできる。己の一生が一瞬に過ぎないこと、己が踏破できる空間がけし粒ほどのものに過ぎないことを覚知して、そのはかなさ、卑小さの覚知を通じて、自分は今ここで何をなすべきかを考える。それは時間意識が四半期にまで縮減した人には無理な話です。「農業的な時間」さえ実感できない人たちに「宇宙的時間」が実感できるはずもない。ですから、「自己陶冶」という言葉そのものが死語になってしまった。陶器を焼き、金属を鋳造するようなゆったりした時間を経て、しだいに形成されてゆくものとして自分をとらえることがなくなった。

「朝三暮四」の故事が教えるように、縮減した時間意識のうちに生きる人は、「朝方の自分」が「夕方の自分」と同一であるという実感さえない。「今さえよければ、未来の自分がどうなろうと知ったことか」という刹那主義に陥り、「こんなことをいつまでも続けていたらいつかたいへんなことになる」とわかっていても「いつか」にリアリティーを感じられないので「こんなこと」をだらだらと続ける。そういう傾向のことを僕は「サル化」と呼んだのです。


コロナ禍に見る「最悪の事態」を想定しない日本人

 日本の新型コロナウィルス禍への対策のどたばたぶりは「サル化」の好個の例です。危機管理に必要なのは、過去の出来事を記憶する力と未来のリスクを想像する力です。過去の事例を振り返って、同じ失敗を繰り返さないように改めるべき点を改める。未来については「最悪の事態」を想定して、その被害を最小化する手立てを工夫する。「もう過ぎてしまったこと」と「まだ起きていないこと」にありありとしたリアリティーを感じる感受性がないと危機管理はできない。

 しかし、今の日本人はそれができません。過去の失敗のことは忘れて、そこから何も学ばない。不測の事態には備えない。プランAが失敗した場合のプランB、プランCを考えておくということをしない。「参謀本部の立案した作戦がすべて成功したら皇軍大勝利」というノモンハン、インパール以来のメンタリティから何も変わっていません。

「最悪の事態」を想定して、どの場合にどうやって被害を最小化するかという議論を始めると「縁起でもないことをするな」と遮(さえぎ)られる。そんなことを考えると、悲観的になり、意気阻喪するというのです。そして、最悪の事態に備えるという発想そのものが「敗北主義」として退けられる。「敗北主義者が敗北を呼び込むのだ」と嫌われる。僕は武道家ですから最悪の事態に備えるのが習い性ですが、日本社会ではそれが通りません。


コロナは世界各国に配布された「センター試験」

 今回の新型コロナウィルスによるパンデミックは「センター試験」のようなものだと僕は思っています。コロナウィルス禍にどう適切に対応すべきかという「問題」が世界各国に同時に配布された。まだ誰も正解を知らない。条件は同じです。他の問題でしたら、外交でも財政でも教育や医療でも、国ごとに抱える問題は違います。だから、簡単に比較することはできません。でも、このパンデミックは違う。すべての国が同じ条件で適切な対応を求められている。

 そして、アジアでは、今のところ台湾、韓国、中国が感染拡大を阻止することに成功しているらしい。そして、「こうすれば感染拡大は防げる」という教訓を開示した。都市封鎖、感染者の完全隔離、個人情報の開示と徹底的な検査……とそれぞれにやり方は違いますが、とにかくほぼ抑え込んだ。

 でも、日本は何一つ成功していません。世界に「こうすれば、抑えられる」と報告できる成果が一つもない。さいわい日本は深刻な感染爆発に至っていませんけれど、それがどのような防疫政策の「成果」なのかは誰も知らない。検査数を抑えているだけで、実は感染の実態を政府も把握していないのではないかという疑念が海外メディアから呈示されていますが、政府はそれに対して説得力のある説明をしていません。


中韓に学ぶことができない安倍政権

 日韓はほぼ同じ時期に感染が始まりました。韓国は終息に向かっており、「こうすれば大丈夫」という経験知を積み上げています。日本では深刻な感染爆発はまだ起きていないけれど、それを抑止する手立てを講じたからではありません。朝令暮改的な指示を出して「やっている感」を演出しているだけです。国内メディアはそれでもごまかせるでしょうけれども、海外メディアは容赦ありません。

 諸国は先行する成功事例に学ぼうとしています。どこも中国の都市封鎖策に、韓国、台湾が実施した完全隔離・検査体制の充実という成功例を組み合わせた「解答」を真似し始めた。パンデミックについては「カンニング」はありです。真似できる成功事例は何でも真似すればいい。それが人類のためなんですから。

 でも、日本はそれができない。安倍政権のコアな支持層は嫌韓・嫌中言説をまき散らしてきた人たちです。韓国、中国の成功例を真似することは「中韓の風下に立つ」ことであり、安倍政権の支持層にとっては耐え難い屈辱だからです。だから、政府はその支持層に配慮して、「日本独自」の感染防止策を実施しているように見せかけることに懸命になっている。しかし、そんな独創的なアイディアを立てられるような能力は日本政府にはありません。


コロナ対応で明暗分かれたアメリカと中国

 パンデミックという「最悪の事態」に備えて、感染症対策に予算を注ぎ込んでいれば、「日本独自」の防疫策を提言できる体制ができていたかも知れません。しかし、日本社会では「最悪の事態に備える」ことは敗北主義なので、日本版CDC(疾病管理予防センター)もついに作られないままこの事態を迎えてしまったのでした。ですから、コロナウィルス禍が終息した時に、日本は防疫対策では「先進国で最低点」に近い評価を覚悟しなければならないでしょう。でも、それは偶然の不運ではなく、日本人の「最悪の事態に備えない」傾向がもたらした必然的な帰結なのです。

 コロナウィルス禍でトランプ大統領もその危機管理能力の低さを露呈しました。「アメリカ・ファースト」政策によって国際協調に背を向けて来たアメリカですが、今回のコロナ禍でもトランプは「アメリカさえよければそれでいい」という自国第一主義を剥き出しにし、秋の大統領選に備えて支持者へのアピールを優先させ、国際社会に対して指導的メッセージを発信するミッションを放棄しました。
 その一方で、感染対策について経験知を積んだ中国は医療資源を世界各国に送り出しています。感染症が終息した時に、世界の多くの国が「アメリカやヨーロッパの国々が自国第一主義的にふるまっている中で、中国だけが支援の手を差し伸べてくれた」という印象を持つことになると思います。習近平はコロナ禍を通じて「中国は寛大で友好的な大国」だというイメージを世界に宣布することを目指しています。ロシアも積極的に他国に支援を送ることで国際的地位の向上を図っています。政治的意図はクールですが、行為そのものは人道的です。トランプは自分の目先だけのコロナ対応でアメリカがどれほど国際的威信を失ったかに気がついていない。
 それにしても、どうしてこれほど無能無策な政権が40%を超える支持率を維持し続けているのでしょうか。イデオロギー的に安倍政権を支持しているという人は自民党支持層の半分以下だと思います。では、あとの支持者たちは何を支持しているのか。


自分より「上位」の人を批判してはいけないという風潮

 世論調査ではしばしば「他にいないから」というのが支持理由の第1位に挙げられます。それは言い換えると「安倍晋三が総理大臣に適格なのは現に総理大臣だから」というトートロジーに他なりません。

 コラムニストの小田嶋隆さんが、前にツイッターで麻生太郎を批判したことがありました。すると「そういうことは自分が財務大臣になってから言え」というリプライが飛んできたそうです。財務大臣以外に財務大臣の政策や資質の適否について論じる資格はない、と。このロジックは実はこの10年ほど日本社会に広く蔓延しているものです。僕も政治について意見を言うと「だったら自分が国会議員に立候補しろ」というふうに絡んでくる人がいます。国会議員以外は国政について議する資格はないらしい。同じロジックをあちこちで聴きます。ユーチューバーが他の人のコンテンツを批判したら「フォロワーが同じくらいになってから言え」と言われ、ネットで富豪の言動を批判したら「あれくらい金持ちになってから言え」と言われる。権力者や富裕者を批判することは、同レベルの権力者や富裕者だけにしか許されないという不思議な論法が行き交っているのです。自分より「上位」の人間を批判する動機は嫉妬であり、羨望である。そうなりたくてもなれない人間のひがみである。見苦しいから止めろ、と。それは要するに「絶対的な現状肯定」ということです。貧乏人や弱者は「身の程を知れ」「分際をわきまえろ」ということです。
「桜を見る会」のどこが悪いのかと不思議がる人もいる

 そういう言葉を口にするのが、実際にはお金もない、地位もない、社会的弱者であるというのが不可解です。

「桜を見る会」の問題でも、総理大臣が自分の支持者を呼んで税金で接待することのどこが悪いのか、と本気で不思議がっている人がいます。別にいいじゃないか、何が悪いのか? 権力者というのは「何をしても罰されない人」のことではないのか? 法の支配に服しない人のことではないのか? 安倍晋三は権力者なのだから、何をしても罰されないし、法の支配に服さないでいいはずだ。そういうポストに就くために久しく努力してきて、その甲斐あって権力者になったのだから、下々の者にそれを批判する権利はない。批判したかったら自分が安倍晋三のポストに就いてみろ、と。そういうロジックがリアリズムだと本気で信じている。


「身の程を知れ」という“死語”が甦ってきた日本

 僕の少年時代には「身の程を知れ」と言って叱りつける大人がまだあちこちにいました。でも、高度成長期を境にそんなことを言う大人はきれいにいなくなった。当然です。高度成長というのは、国民全員が「身の程知らず」の欲望に焼かれ、「分際を知らず」に枠をはみ出し、「身の丈に合わない」仕事を引き受けて、それによって経済大国に成り上がった時代だからです。国力が向上し、国運に勢いがある時には誰も「身の程」なんか考えやしません。真空管を作っていた町工場がハリウッドの映画会社を買収し、神戸の薬局が世界的スーパーになり、宇部の紳士服店が世界的な衣料メーカーになる時代に「身の程を知れ」というのは死語でした。でも、その死語がまた甦ってきた。それは日本の国力が低下し、国運が衰微してきたことの徴(しるし)です。


現政権が支持されているのは「日本が落ち目だから」

 人間はパイが大きくなっている時には、分配比率を気にしません。自分のパイが前より増えていればそれで満足している。でも、一度パイが縮み始めると態度が一変する。隣の人間の取り分が気になる。いったいどういう基準で分配しているのか、査定基準を開示せよ、格付けのエビデンスを出せというようなことを言い出す。生産性がどうの社会的有用性がどうの成果がどうのとうるさく言い出すのはすべて「貧乏くささ」「けちくささ」の徴候です。「落ち目になった国」に固有の現象です。

 現政権が支持されているのは端的に日本が落ち目だからです。貧乏くさい国では、人々は隣人の「身の程知らず」のふるまいを規制することにはずいぶん熱心だけれども、創意工夫には何の関心も示さなくなる。隣の人間の箸の上げ下ろしにまでうるさく口を出すのは、限られた資源を奪い合うためです。国を豊かにするためではない。

 今は船が沈みかかっている時です。積み荷の分配で議論している暇はありません。この船の船底のどこかに大穴が空いている。それを見つけて、穴を塞ぐのが最優先です。そのための時間はもうあまり残されていません。
(内田 樹/週刊文春 2020年4月9日号)

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/「無策な安倍政権」をいまだに支持し続ける人がいる理由――内田樹の緊急提言/ar-BB12QPTk?ocid=ientp

7. 中川隆[-13027] koaQ7Jey 2020年4月22日 12:21:15 : 13OAtnQgho : d2VxeFFzSXBVMTI=[12] 報告


コロナ後の世界 - 内田樹の研究室 2020-04-22
http://blog.tatsuru.com/2020/04/22_1114.html

『月刊日本』にロングインタビューが掲載された。「コロナ後の世界」について。


■「独裁か、民主主義か」という歴史的分岐点

―― 世界中がコロナ危機の対応に追われています。しかしたとえコロナが収束しても、もはや「元の世界」には戻らないと思います。内田さんはコロナ危機にどんな問題意識を持っていますか。

内田 新型コロナウイルス禍は、これからの世界のあり方を一変させると思います。「コロナ以前」と「コロナ以後」では世界の政治体制や経済体制は別のものになるでしょう。

 最も危惧しているのは、「新型コロナウイルスが民主主義を殺すかもしれない」ということです。こういう危機に際しては民主国家よりも独裁国家の方が適切に対処できるのではないか・・・と人々が思い始めるリスクがある。今回は中国が都市閉鎖や「一夜城」的な病院建設や医療資源の集中という、民主国家ではまず実施できない政策を強権的に下して、結果的に感染の抑制に成功しました。逆に、アメリカはトランプ大統領が秋の大統領選での再選という自己都合を優先させて、感染当初は「まったく問題ない」と言い張って初動に大きく後れを取り、感染が広がり出してからは有権者受けを狙った政策を連発しました。科学的で巨視的な対策を採れなかった。

 この差は、コロナ禍が終息した後の「アメリカの相対的な国威の低下」と「中国の相対的な国威の向上」として帰結すると予測されます。パンデミックを契機に、国際社会における米中のプレゼンスが逆転する。

 中国は新型コロナウイルスの発生源になり、初期段階では情報隠蔽や責任回避など、非民主的体制の脆さを露呈しましたが、党中央が仕切るようになってからは、強権的な手法で一気に感染拡大を抑え込んだ。それだけではなくて、中国は他国の支援に乗り出した。中国はマスクや検査キットや人工呼吸器や防護服などの医療資源の生産拠点です。どの国も喉から手が出るほど欲しがっているものを国内で潤沢に生産できる。このアドバンテージを利用して、習近平は医療支援する側に回った。

 イタリアは3月初旬に医療崩壊の危機に瀕しました。支援を要請しましたがEUの他のメンバーは反応してくれなかった。中国だけが支援を申し出た。人工呼吸器、マスク、防護服を送りました。これでイタリア国民の対中国評価は一気に上がった。知り合いのイタリア人も「いま頼りになるのは中国だけだ」と言っていました。

 もちろん中国も国益優先です。でも、トランプは秋の大統領選までのことしか考えていないけれど、習近平はこれから5年先10年先の地政学的地位を見越して行動している。短期的には「持ち出し」でも、長期的にはこの出費は回収できると見越して支援に動いた。この視野の広さの差がはっきりした。コロナ禍への対応を通じて、中国は国際社会を支える能力も意志もあることを明示し、アメリカは国際社会のリーダーシップを事実上放棄した。コロナ禍との戦いはこれから後も場合によっては1年以上続くかも知れませんが、アメリカがどこかで軌道修正をしないと、これ以後の国際協力体制は中国が指導することになりかねない。

―― 今回、中国の成功と米国の失敗が明らかになった。それが「コロナ以後」の政治体制にもつながってくるわけですね。

内田 そうです。今後、コロナ禍が終息して、危機を総括する段階になったところで、「米中の明暗を分けたのは政治システムの違いではないか」という議論が出て来るはずです。

 米中の政治システムを比較してみると、まず中国は一党独裁で、血みどろの権力闘争に勝ち残った人間がトップになる。実力主義の競争ですから、無能な人間がトップになることはまずない。それに対してアメリカの有権者は必ずしも有能な統治者を求めていない。アレクシス・ド・トクヴィルが洞察した通り、アメリカの有権者は自分たちと知性・徳性において同程度の人間に親近感を覚える。だからトランプのような愚鈍で徳性に欠けた人間が大統領に選ばれるリスクがある。トクヴィルの訪米の時のアメリカ大統領はアンドリュー・ジャクソンでインディアンの虐殺以外に見るべき功績のない凡庸な軍人でしたが、アメリカの有権者は彼を二度大統領に選びました。さいわいなことに、これが中国だったら致命的なことになりますが、アメリカは連邦制と三権分立がしっかり機能しているので、どれほど愚鈍な大統領でも、統治機構に致命的な傷を与えることはできない。

 少なくとも現時点では、アメリカン・デモクラシーよりも、中国的独裁制の方が成功しているように見える。欧州や日本でも、コロナに懲りて、「民主制を制限すべきだ」と言い出す人が必ず出てきます。

 中国はすでに顔認証システムなど網羅的な国民監視システムを開発して、これをアフリカやシンガポールや中南米の独裁国家に輸出しています。国民を監視・管理するシステムにおいて、中国はすでに世界一です。そういう抑圧的な統治機構に親近感を感じる人は自民党にもいますから、彼らは遠からず「中国に学べ」と言い始めるでしょう。

■なぜ安倍政権には危機管理能力がなかったのか

―― そのような大勢のなかで日本の状況はどう見るべきですか。

内田 日本はパンデミックの対応にははっきり失敗したと言ってよいと思います。それがどれくらいの規模の失敗であるかは、最終的な感染者・死者数が確定するまでは言えませんが、やり方を間違えていなければ、死者数ははるかに少なく済んだということになるはずです。

 東アジアでは、ほぼ同時に、中国、台湾、韓国、日本の4か国がコロナ問題に取り組みました。中国はほぼ感染を抑え込みました。台湾と韓国は初動の動きが鮮やかで、すでにピークアウトしました。その中で、日本だけが、感染が広まる前の段階で中国韓国やヨーロッパの情報が入っているというアドバンテージがありながら、検査体制も治療体制も整備しないで、無為のうちに二カ月を空費した。準備の時間的余裕がありながら、それをまったく活用しないまま感染拡大を迎えてしまった。

―― なぜ日本は失敗したのですか。

内田 為政者が無能だったということに尽きます。それは総理会見を見れば一目瞭然です。これだけ危機的状況にあるなかで、安倍首相は官僚の書いた作文を読み上げることしかできない。自分の言葉で、現状を説明し、方針を語り、国民に協力を求めるということができない。

 ドイツのメルケル首相やイギリスのボリス・ジョンソン首相やニューヨークのアンドリュー・クオモ州知事はまことに説得力のあるメッセージを発信しました。それには比すべくもない。

 安倍首相は国会質疑でも、記者会見でも、問いに誠実に回答するということをこれまでしないで来ました。平気で嘘をつき、話をごまかし、平気で食言してきた。一言をこれほど軽んじた政治家を私はこれまで見たことがありません。国難的な状況では決して舵取りを委ねてはならない政治家に私たちは舵取りを委ねてしまった。それがどれほど日本に大きなダメージを与えることになっても、それはこのような人物を7年間も政権の座にとどめておいたわれわれの責任です。

 感染症対策として、やるべきことは一つしかありません。他国の成功例を模倣し、失敗例を回避する、これだけです。日本は感染拡大までタイムラグがありましたから、中国や台湾、韓国の前例に学ぶ時間的余裕はあったんです。しかし、政府はそれをしなかった。

 一つには、東京オリンピックを予定通り開催したいという願望に取り憑かれていたからです。そのために「日本では感染は広がっていない。防疫体制も完璧で、すべてはアンダーコントロールだ」と言い続ける必要があった。だから、検査もしなかったし、感染拡大に備えた医療資源の確保も病床の増設もしなかった。最悪の事態に備えてしまうと最悪の事態を招待するかも知れないから、何もしないことによって最悪の事態の到来を防ごうとしたのです。これは日本人に固有な民族誌的奇習です。気持ちはわからないでもありませんが、そういう呪術的な思考をする人間が近代国家の危機管理に当るべきではない。

 先行する成功事例を学ばなかったもう一つの理由は安倍政権が「イデオロギー政権」だからです。政策の適否よりもイデオロギーへの忠誠心の方を優先させた。だから、たとえ有効であることがわかっていても、中国や韓国や台湾の成功例は模倣したくない。野党も次々と対案を出していますが、それも採用しない。それは成功事例や対案の「内容」とは関係がないのです。「誰」が出した案であるかが問題なのです。ふだん敵視し、見下しているものたちのやることは絶対に模倣しない。国民の生命よりも自分のイデオロギーの無謬性方が優先するのです。こんな馬鹿げた理由で感染拡大を座視した国は世界のどこにもありません。

 安倍政権においては、主観的願望が客観的情勢判断を代行する。「そうであって欲しい」という祈願が自動的に「そうである」という事実として物質化する。安倍首相個人においては、それは日常的な現実なんだと思います。森友・加計・桜を見る会と、どの事案でも、首相が「そんなものはない」と宣告した公文書はいつのまにか消滅するし、首相が「知らない」と誓言したことについては関係者全員が記憶を失う。たぶんその全能感に慣れ切ってしまったのでしょう、「感染は拡大しない。すぐに終息する」と自分が言いさえすれば、それがそのまま現実になると半ば信じてしまった。

 リスクヘッジというのは「丁と半の両方の目に張る」ということです。両方に張るわけですから、片方は外れる。リスクヘッジでは、「準備したけれど、使わなかった資源」が必ず無駄になります。「準備したが使用しなかった資源」のことを経済学では「スラック(余裕、遊び)」と呼びます。スラックのあるシステムは危機耐性が強い。スラックのないシステムは弱い。

 東京五輪については「予定通りに開催される準備」と「五輪が中止されるほどのパンデミックに備えた防疫対策策の準備」の二つを同時並行的に行うというのが常識的なリスクヘッジです。五輪準備と防疫体制のいずれかが「スラック」になる。でも、どちらに転んでも対応できた。

 しかし、安倍政権は「五輪開催」の一点張りに賭けた。それを誰も止めなかった。それは今の日本の政治家や官僚の中にリスクヘッジというアイディアを理解している人間がほとんどいないということです。久しく費用対効果だとか「ジャストインタイム」だとか「在庫ゼロ」だとかいうことばかり言ってきたせいで、「危機に備えるためには、スラックが要る」ということの意味がもう理解できなくなった。

 感染症の場合、専門的な医療器具や病床は、パンデミックが起きないときにはほとんど使い道がありません。だから、「医療資源の効率的な活用」とか「病床稼働率の向上」とかいうことを医療の最優先課題だと思っている政治家や役人は感染症用の医療準備を無駄だと思って、カットします。そして、何年かに一度パンデミックが起きて、ばたばた人が死ぬのを見て、「どうして備えがないんだ?」とびっくりする。

■コロナ危機で中産階級が没落する

―― 日本が失敗したからこそ、独裁化の流れが生まれてくる。どういうことですか。

内田 日本はコロナ対応に失敗しましたが、これはもう起きてしまったことなので、取り返しがつかない。われわれに出来るのは、これからその失敗をどう総括し、どこを補正するかということです。本来なら「愚かな為政者を選んだせいで失敗した。これからはもっと賢い為政者を選びましょう」という簡単な話です。でも、そうはゆかない。

 コロナ終息後、自民党は「憲法のせいで必要な施策が実行できなかった」と総括すると思います。必ずそうします。「コロナ対応に失敗したのは、国民の基本的人権に配慮し過ぎたせいだ」と言って、自分たちの失敗の責任を憲法の瑕疵に転嫁しようとする。右派論壇からは、改憲して非常事態条項を新設せよとか、教育制度を変えて滅私奉公の愛国精神を涵養せよとか言い出す連中が湧いて出て来るでしょう。

 コロナ後には「すべて憲法のせい」「民主制は非効率だ」という言説が必ず湧き出てきます。これとどう立ち向かうか、それがコロナ後の最優先課題だと思います。心あるメディアは今こそ民主主義を守り、言論の自由を守るための論陣を張るべきだと思います。そうしないと、『月刊日本』なんかすぐに発禁ですよ。

―― 安倍政権はコロナ対策だけでなく、国民生活を守る経済政策にも失敗しています。

内田 コロナ禍がもたらした最大の社会的影響は「中間層の没落」が決定づけられたということでしょう。民主主義の土台になるのは「分厚い中産階級」です。しかし、新自由主義的な経済政策によって、世界的に階級の二極化が進み、中産階級がどんどん痩せ細って、貧困化している。

 コロナ禍のもたらす消費の冷え込みで、基礎体力のある大企業は何とか生き残れても、中小企業や自営業の多くは倒産や廃業に追い込まれるでしょう。ささやかながら自立した資本家であった市民たちが、労働以外に売るものを持たない無産階級に没落する。このままゆくと、日本社会は「一握りの富裕層」と「圧倒的多数の貧困層」に二極化する。それは亡国のシナリオです。食い止めようと思うならば、政策的に中産階級を保護するしかありません。

 野党はどこも「厚みのある中産階級を形成して、民主主義を守る」という政治課題については共通しているはずです。ですから、次の選挙では、「中産階級の再興と民主主義」をめざすのか「階層の二極化と独裁」をめざすのか、その選択の選挙だということを可視化する必要があると思います。

―― 中産階級が没落して民主主義が形骸化してしまったら、日本の政治はどういうものになるのですか。

内田 階層の二極化が進行すれば、さらに後進国化すると思います。ネポティズム(縁故主義)がはびこり、わずかな国富を少数の支配階層が排他的に独占するという、これまで開発独裁国や、後進国でしか見られなかったような政体になるだろうと思います。森友問題、加計問題、桜を見る会などの露骨なネポティズム事例を見ると、これは安倍政権の本質だと思います。独裁者とその一族が権力と国富を独占し、そのおこぼれに与ろうとする人々がそのまわりに群がる。そういう近代以前への退行が日本ではすでに始まっている。

■民主主義を遂行する「大人」であれ!

―― 今後、日本でも強権的な国家への誘惑が強まるかもしれませんが、それは亡国への道だという事実を肝に銘じなければならない。

内田 確かに短期的なスパンで見れば、中国のような独裁国家のほうが効率的に運営されているように見えます。民主主義は合意形成に時間がかかるし、作業効率が悪い。でも、長期的には民主的な国家のほうがよいものなんです。

 それは、民主主義は、市民の相当数が「成熟した市民」、つまり「大人」でなければ機能しないシステムだからです。少なくとも市民の7%くらいが「大人」でないと、民主主義的システムは回らない。一定数の「大人」がいないと動かないという民主主義の脆弱性が裏から見ると民主主義の遂行的な強みなんです。民主主義は市民たちに成熟を促します。王政や貴族政はそうではありません。少数の為政者が賢ければ、残りの国民はどれほど愚鈍でも未熟でも構わない。国民が全員「子ども」でも、独裁者ひとりが賢者であれば、国は適切に統治できる。むしろ独裁制では集団成員が「子ども」である方がうまく機能する。だから、独裁制は成員たちの市民的成熟を求めない。「何も考えないでいい」と甘やかす。その結果、自分でものを考える力のない、使い物にならない国民ばかりになって、国力が衰微、国運が尽きる。その点、民主主義は国民に対して「注文が多い」システムなんです。でも、そのおかげで復元力の強い、創造的な政体ができる。

 民主主義が生き延びるために、やることは簡単と言えば簡単なんです。システムとしてはもう出来上がっているんですから。後は「大人」の頭数を増やすことだけです。やることはそれだけです。

―― カミュは有名な小説『ペスト』のなかで、最終的に「ペストを他人に移さない紳士」の存在に希望を見出しています。ここに、いま私たちが何をなすべきかのヒントがあると思います。

内田 『ペスト』では、猛威を振るうペストに対して、市民たち有志が保健隊を組織します。これはナチズムに抵抗したレジスタンスの比喩とされています。いま私たちは新型コロナウイルスという「ペスト」に対抗しながら、同時に独裁化という「ペスト」にも対抗しなければならない。その意味で、『ペスト』は現在日本の危機的状況を寓話的に描いたものとして読むこともできます。

 『ペスト』の中で最も印象的な登場人物の一人は、下級役人のグランです。昼間は役所で働いて、夜は趣味で小説を書いている人物ですが、保健隊を結成したときにまっさきに志願する。役所仕事と執筆活動の合間に献身的に保健隊の活動を引き受け、ペストが終息すると、またなにごともなかったように元の平凡な生活に戻る。おそらくグランは、カミュが実際のレジスタンス活動のなかで出会った勇敢な人々の記憶を素材に造形された人物だと思います。特に英雄的なことをしようと思ったわけではなく、市民の当然の義務として、ひとつ間違えば命を落とすかもしれない危険な仕事に就いた。まるで、電車で老人に席を譲るようなカジュアルさで、レジスタンスの活動に参加した。それがカミュにとっての理想的な市民としての「紳士」だったんだろうと思います。

「紳士」にヒロイズムは要りません。過剰に意気込んだり、使命感に緊張したりすると、気長に戦い続けることができませんから。日常生活を穏やかに過ごしながらでなければ、持続した戦いを続けることはできない。

「コロナ以後」の日本で民主主義を守るためには、私たち一人ひとりが「大人」に、でき得るならば「紳士」にならなけらばならない。私はそう思います。
http://blog.tatsuru.com/2020/04/22_1114.html

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