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内田樹 パンデミックをめぐるインタビュー
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/982.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 5 月 27 日 17:00:08: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 内田樹 生きづらさについて考える 投稿者 中川隆 日時 2020 年 2 月 26 日 18:02:06)

パンデミックをめぐるインタビュー - 内田樹の研究室 2020-05-27
http://blog.tatsuru.com/2020/05/27_0952.html


 プレジデントオンラインという媒体からメールで質問状が送られてきた。それに回答した。プレジデントオンラインでは写真付きで見ることができる。https://president.jp/articles/-/35721こちらは加筆したロング・ヴァージョン。
質問1  コロナ禍のなか「自粛警察」が横行し、いま社会全体が非常に刺々しい雰囲気になっている現状をどうご覧になっていますか。
 
 どういう社会状況でも、「ある大義名分を振りかざすと、ふだんなら許されないような非道なふるまいが許される」という気配を感知すると、他人に対していきなり攻撃的になる人たちがいます。ふだんは法律や、道徳や、常識の「しばり」によって、暴力性を抑止していますが、きっかけが与えられると、攻撃性を解き放つ。そういうことができる人たちを、われわれの集団は一定の比率で含んでいます。そのことのリスクをよく自覚した方がよいと思います。

 今回はたまたま「自粛警察」というかたちで現れましたが、別にどんな名分でもいいのです。それを口実にすれば、他人を罵倒したり、傷つけたり、屈辱感を与えたりできると知ると彼らは動き出します。そういうことをさせない一番いい方法は、法律や規範意識や常識や「お天道様」や「世間の目」を活性化しておいて、そういう人たちに「今なら非道なふるまいをしても処罰されない」と思わせないことです。


2 "正義マン"たちの特徴に、問題の背景にあるシステムへの提言や改善ではなく、個人を叩く傾向が強いのはなぜだと思われますか。

 気質的に攻撃的な人たちは、その攻撃性を解発することが目的で「正義」を掲げているのに過ぎませんから、システムの改善には関心がありません。だから、最も叩きやすい個人、最も弱い個人を探し出して、そこに暴力を集中する。「自粛警察」も公衆衛生には何の関心もありません。感染者をスティグマ化すれば、感染経路不明患者が増えるだけですから、自粛警察というのは存在自体が有害無益なのです。


3 「空気」ひとつでムラ社会的な相互監視が行き渡るのは、日本人に固有な民族誌的奇習なのでしょうか。

 場の空気に流されて思考停止するのは日本人の「特技」です。それがうまく働くと「一億火の玉」となったり「一億総中流」になったり、他国ではなかなか実現できないような斉一的な行動が実現できます。でも、悪く働くと、異論に対する非寛容として現れ、マジョリティへの異議や反論が暴力的に弾圧される。

 今の日本社会の全面的停滞は、マイノリティに対する非寛容がもたらしたものです。その点では、戦時中の日本によく似ています。

4 現政権のコロナ対応は後手後手ですが、なぜこれほどまでに危機管理能力が欠如しているのでしょうか

 感染症は何年かに一度流行すると大きな被害をもたらしますが、それ以外の時期、感染症のための医療資源はすべては「無駄」に見えます。日本では久しく、必要なものは、必要な時に、必要なだけの量を供給して、在庫をゼロにする「ジャストインタイム生産方式」が工程管理の要諦とされていました。そんな風土では「医療資源の余裕(スラック)」の重要性についての理解は広がりません。

5 今回のコロナ禍で露呈したのが、日本の医療システムのスラックの少なさでした。1996年に845カ所にあった保健所は現在469カ所に、同年に9716床あった感染病床は、1869床まで減らされていたことについて、どう思われますか。
 
 日本の医療政策の基本は久しく「医療費を減らすこと」でした。それが最優先だった。一方、感染症対策というのは「いつ来るかわからない危機に備えて、医療資源を十分に備蓄しておく」ことです。できるだけたっぷり「余裕」を見ることです。それが「どうやって医療費を減らすか」という医療政策と整合するはずがない。

 今回の失敗に懲りて人々はしばらくは備蓄の必要を気にするでしょう。けれどもそれも一時的なことだと思います。このあと政府は「今回の感染対策に日本政府は成功を収めた」と総括するはずです。成功した以上、反省すべき点も、改善すべき点もない。そうやってそのうちそっと再び医療費削減路線に戻って、「無駄」を削り始めるはずです。

 ですから、このあと、今の与党が政権を取っている限り、日本ではCDCもできないし、保健所も増えないし、感染症病床も増えないし、医療器具の備蓄も増えません。そして、いずれ次の感染症のときにまた医療崩壊に直面することになる。

6 カミュの『ペスト』には、医師リウ―が「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」と語る場面が出てきます。「僕の場合には、つまり自分の職務を果たすことだと心得ています」と。私たちの社会が医療の現場を守り、コロナを乗り越えるのに一番必要なこととは何でしょうか。

 医療を守るために必要なのは、医療資源は有限であるということをつねに念頭に置くことです。医療崩壊というのは、言葉はおどろおどろしいですけれど、要するに収容できる患者数が医療機関のキャパシティーを超えるという数量的で散文的な事態です。今回はぎりぎり医療崩壊の寸前で食い止めましたけれど、これはほとんど医療従事者のパーソナルな献身的な努力によるものであって、制度の強みではありません。ですから、第二波に備えるためにも、そのような過労死寸前の働き方を医療従事者に要求するシステムは改善しなければならない。最も重要な医療資源は医療に携わる生身の人間なんですから。

7 コロナ後の世界で、超高齢化社会における限られた医療資源をどのように守っていったらよいのでしょうか。
 
 これまでは医療を商品とみなして、それを買えるだけの経済力の人間だけが医療資源を享受できるという市場原理主義的な解が最もフェアな解だと人々は信じてきました。しかし、このやり方では感染症には対応できないことがアメリカでの大規模な感染拡大と10万人に及ぶ死者数が示した。

 アメリカには2750万人の無保険者がいます。彼らは発症しても適切な治療を受けることができずに重症化します。ふつうの疾病でしたら、「金がないで死ぬのは自己責任だ」で済まされるかもしれませんが、感染症ではそうはゆかない。彼らが感染源となれば、感染のリスクが社会を脅かし続けるからです。感染症は全住民が等しく良質な医療を受けない限り対処できない疾病です。ここには市場原理主義は適用できない。

 医療資源が有限である以上、どこかで「線引き」は必要ですが、古来、医療者は「患者の貧富や身分によって医療の内容を変えてはならない」というヒポクラテスの誓いを守っています。今でもアメリカの医学部では卒業式にこの誓言を唱和しているはずです。「線引きをしろ」と命じる現実と「線引きをしてはならない」という誓言の間に齟齬がある。医療者とはこの葛藤に苦しむことをその職務の一部とする人たちです。そのことを患者であるわれわれも理解しなければなりません。

 そんな面倒な話には付き合いたくない、話を簡単にしてくれという人間は医療について口を出す資格はありません。ヒポクラテスがそういう誓いの言葉を医療従事者に言わせたのは、もちろん古代ギリシャにおいても患者の貧富の違いによって診療内容を変える医師がいたからです。その「現実」に対して「誓言」を対置することで、つまり医療者たちを葛藤のうちに巻き込むことによって医療の歴史は始まった。この葛藤に苦しむことを動力として医療は進化した。

 もし、古代ギリシャで「金のある人間だけが医療を受ける。貧乏人には治療を受けない」というシンプルなルールを採用していたら、医療者を養成するための医学教育にも、効果的な治療法の開発にも、保険制度の設計にも、それを実行するインセンティヴがありません。人間は葛藤を通じて、シンプルな解決法がないという苦しい条件の下ではじめて「そんな手があるとは思わなかった新しい解」を見つけて来たのです。有限な医療資源をどう分配するか「わからない」というのは、今に始まった話ではありません。

8 世界の状況を見ていると、ウィルス感染にたいするグローバル社会の脆弱性が浮き彫りになりました。高密度な都市生活、大量な人とモノの行き交いといった現代文明の達成は、今後大きく変容していくのでしょうか。

 今回のパンデミックで、アメリカは重要医療器具や薬品の戦略的備蓄が大幅に不足していることを露呈しました(必要なマスクと呼吸器の1%しか政府は備蓄していませんでした)。台湾と韓国は過去の失敗を教訓として医療器具の備蓄を進めていたために、感染抑制に成功しました。これらの事例から、先進国はどこも医療資源の自給自足の必要を実感しました。アメリカはすでに必要な医療器具医薬品の国産化に舵を切りました。

 同じことはエネルギーや食料などの基幹的な物資すべてについても起こると予測されます。

 国民の生き死ににかかわる物資は金を出しても買えないことがあるという当たり前のことを世界中が改めて確信したわけです。グローバル資本主義はここで一時停止することになると思います。

 都市一極集中というライフスタイルが感染症リスクにきわめて弱いということも今回わかりました。今回リモートワークを実践した多くの人は、自分の仕事のためには別に毎日通勤する必要はなく、そうである以上、わざわざ高い家賃を出して都市に住んでいる必要がないということに気づいたはずです。

 3・11の後に東京から地方への移住者が激増しましたけれど、同じことがポストコロナ期にも起きるものと予測されます。宇沢弘文は日本の場合、総人口の20〜25%が農村人口であることが、社会の安定のために必要だと試算していますけれど、あるいはその数値に近づくのかも知れません。

9 各国が深刻な経済的ダメージを受けることは間違いありませんが、アフターコロナの国際秩序のなかで、資本主義のあり方も変わっていくと思われますか。  
 
 トランプのアメリカは国際社会でリーダーシップをとる意欲がありません。この政策を続けるなら、アメリカに代わって中国がポストコロナ期のキープレイヤーになるでしょう。中国は一帯一路圏を中心に医療支援を通じて友好国作りを進める。中国の超覇権国家化を望まない国々それを妨害しようとする。でも、決定打はどちらにもありません。ですからしばらくは「地政学的な膠着状態」が続くと思います。

 クロスボーダーな人間と商品の行き来が止まるわけですから、グローバル資本主義も長期にわたる低迷を余儀なくされるでしょう。この期間に「プランB」にいち早く切り替えることのできた国が生き残り、旧い成功モデルにしがみついている国は脱落する。
10 もしコロナが資本主義の分岐点だとしたら、経済的不況下でも国民の食や医療を守るうえでどんな社会モデルが考えられるでしょうか。先生のビジョンをお聞かせください。
 
 わかっていることは、人口動態学的事実です。これから日本は超高齢化・超少子化社会に向けて進み続けます。2100年の人口予測は中位推計で4950万人。現在の1億2700万人から7750万人減ります。年間90万人ペースでの人口減です。これで経済成長などということはあり得ません。与えられた条件下で、人々が気分よく暮らせる「小国寡民」の新しい国家モデルを構想するしかない。

 さいわい日本列島は温帯モンスーンの温順な気候にめぐまれ、森が深く、きれいな水が大量に流れ、大気も清浄で、植物相も動物相も多様という自然条件に恵まれています。この自然条件を生かした農林水産業、同じく豊かな自然資源と伝統文化を生かした観光・芸術・エンターテインメント、そして少し前まではアジアトップであった教育と医療、それらを柱とした国造りがこれからの日本の向かう道だ思います。

11 アフターコロナを生きるうえで一番必要な道徳観・倫理観とは何でしょうか。
 未知の状況に投じられたときには、自由度が最大化する・選択肢が最大化するように動くのが基本です。何が正解であるかわからないときには、何が正解であっても自分の選択肢のうちにそれが含まれているように動く。それほどむずかしいことではありません。
 ただ、そのためには、自由である方が/選択肢が多い方が気持ちがいいと感じる身体感覚を具えていなければならない。

 日常的に「不愉快なことに耐えている」「やりたくないことをしている」人が、もしそういう自分を正当化するために「これが人間として当然なのだ・人間のあるべき姿なのだ」と言い聞かせていれば、いずれ致命的なことになるかも知れません。そういう人は危機的な状況に遭遇したときに、「より自由度の低い方、より選択肢の少ない方」に自分から進んで嵌り込んでしまう可能性があるからです。

http://blog.tatsuru.com/2020/05/27_0952.html  

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コメント
1. 中川隆[-12581] koaQ7Jey 2020年5月27日 17:04:24 : YqmpzsoafI : VFRRMlhTUnBLZ3M=[8] 報告

安倍政権の「日本の感染症対策は成功した」を信じてはいけない
空気に流されて思考停止する日本人
内田 樹神戸女学院大学名誉教授、思想家
https://president.jp/articles/-/35721


ついに緊急事態宣言が解除された。日本政府の対応は「成功」といえるのだろうか。新著『サル化する世界』(文藝春秋)を出した思想家の内田樹氏は「日本政府は『成功した』といって、考え方を変えないだろう。だがそれには無理がある。たとえば2100年には日本の人口は4950万人になる。日本人はどこかで考え方を変えなければいけない」という――。

法律や道徳、常識のしばりから解き放たれた人間の攻撃性

——コロナ禍のなか「自粛警察」が横行し、いま社会全体が非常に刺々しい雰囲気になっている現状をどうご覧になっていますか。

思想家の内田樹氏


どういう社会状況でも、「ある大義名分を振りかざすと、ふだんなら許されないような非道なふるまいが許される」という気配を感知すると、他人に対していきなり攻撃的になる人たちがいます。

ふだんは法律や、道徳や、常識の「しばり」によって、暴力性を抑止していますが、きっかけが与えられると、攻撃性を解き放つ。そういうことができる人たちを、われわれの集団は一定の比率で含んでいます。そのことのリスクをよく自覚した方がよいと思います。

今回はたまたま「自粛警察」というかたちで現れました。別にどんな名分でもいいのです。それを口実にすれば、他人を罵倒したり、傷つけたり、屈辱感を与えたりできると知ると彼らは動き出します。

そういうことをさせない一番いい方法は、法律や規範意識や常識や「お天道様」や「世間の目」を活性化しておいて、そういう人たちに「今なら非道なふるまいをしても処罰されない」と思わせないことです。

——“正義マン”たちの特徴に、問題の背景にあるシステムへの提言や改善ではなく、個人を叩く傾向が強いのはなぜでしょう。

気質的に攻撃的な人たちは、その攻撃性を解発することが目的で大義名分を掲げているのに過ぎません。だから、最も叩きやすい個人、最も弱い個人を探し出して、そこに暴力を集中する。

現に、「自粛警察」は感染者をスティグマ化することで、感染者を潜在化させ、感染経路不明患者を増やすだけですから、公衆衛生的に有害無益です。


日本で軽視され続けた「医療資源の余裕」の重要性

——「空気」ひとつでムラ社会的な相互監視が行き渡るのは、日本人に固有な民族誌的奇習なのでしょうか。

場の空気に流されて思考停止するのは日本人の「特技」です。それがうまく働くと「一億火の玉」となったり「一億総中流」になったり、他国ではなかなか実現できないような斉一的な行動が実現できます。

でも、悪く働くと、異論に対する非寛容として現れ、マジョリティへの異議や反論が暴力的に弾圧される。今の日本社会の全面的停滞は、マイノリティに対する非寛容がもたらしたものです。その点では、戦時中の日本によく似ています。

——現政権のコロナ対応は後手後手ですが、なぜこれほどまでに危機管理能力が欠如しているのでしょうか。

感染症は何年かに一度流行すると大きな被害をもたらしますが、それ以外の時期、感染症のための医療資源はすべては「無駄」に見えます。

日本では久しく、必要なものは、必要な時に、必要なだけの量を供給して、在庫をゼロにする「ジャストインタイム生産方式」が工程管理の要諦とされていました。そんな風土で「医療資源の余裕(スラック)」の重要性についての理解が深まるはずがない。

政府は「日本の感染症対策は成功した」と総括する

——今回のコロナ危機で露呈したのが、日本の医療システムのスラックの少なさでした。1996年に845カ所にあった保健所は現在469カ所に、同年に9716床あった感染症病床は、1884床(2020年1月時点)まで減らされていたことについて、どう思われますか。

思想家の内田樹氏


思想家の内田樹氏

日本の医療政策では久しく「医療費を減らすこと」が最優先課題でした。感染症対策というのは「いつ来るかわからない危機に備えて、医療資源を十分に備蓄しておく」ことです。感染症への適切な対策をとることは、「どうやって医療費を減らすか」という医療政策とは原理的に整合しません。

今回の失敗に懲りて人々が医療資源の備蓄を気にするのも一時的なことだと思います。このあと政府は「今回の感染対策に日本政府は成功を収めた」と総括するでしょう。成功した以上、改善すべき点はない。だから、再び医療費削減路線に戻る。

ですから、このあと日本ではCDC(疾病予防管理センター)もできないし、保健所も増えないし、感染症病床も増えないし、医療器具の備蓄も増えません。そして、いずれ次の感染症のときにまた医療崩壊に直面することになる。

医療従事者のパーソナルな努力で持ちこたえた医療現場

——カミュの『ペスト』には、医師リウーが「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」と語る場面が出てきます。「僕の場合には、つまり自分の職務を果たすことだと心得ています」と。私たちの社会が医療の現場を守り、コロナを乗り越えるのに一番必要なこととは何でしょうか。

医療を守るために必要なのは、医療資源は有限であるということをつねに念頭に置くことです。医療崩壊というのは患者数が医療機関のキャパシティーを超えるという数量的なことです。

今回はぎりぎり医療崩壊の寸前で食い止めましたけれど、これは医療従事者のパーソナルな献身的な努力によるものです。でも、そのような過労死寸前の働き方を彼らに恒常的に要求すべきではありません。

——コロナ後の世界で、超高齢化社会における限られた医療資源をどのように守っていったらよいのでしょうか。

4万部突破の話題作、内田樹『サル化する世界』(文藝春秋)


4万部突破の話題作、内田樹『サル化する世界』(文藝春秋)

これまでは医療を商品とみなして、それを買えるだけの経済力を持つ人間だけが医療を受けられるという市場原理主義が最もフェアなソリューションだと人々は思ってきました。しかし、このやり方では感染症には対応できないことがアメリカでの大規模な感染拡大で分かりました。

アメリカには2750万人の無保険者がいます。彼らは発症しても適切な治療を受けることができずに重症化します。ふつうの疾病でしたら、「金がないで死ぬのは自己責任だ」で済まされるかもしれませんが、感染症ではそうはゆかない。

彼らが感染源となって、社会を脅かし続けるからです。感染症は全住民が等しく良質な医療を受けない限り対処できない疾病です。ここには市場原理主義が適用できない。

市場原理主義では感染症には対応できない

医療資源が有限である以上、どこかで「線引き」は必要ですが、古来、医療者は「患者の貧富や身分によって医療の内容を変えてはならない」というヒポクラテスの誓いを守ってきました。

今でもアメリカの医学部では卒業式にこの誓言を唱和しています。「線引きをしろ」と命じる現実と「線引きをしてはならない」という誓言の間には本質的な矛盾があります。医療者にとってこの葛藤に苦しむこともその職務の一部なのです。

その矛盾を今回は感染症が前景化した。われわれも、これからは医療者たちとともに、この葛藤に苦しむことになります。葛藤なんかしたくないから早く単一の解を決めてくれという人間には問題の深さがわかっていないということです。

——世界の状況を見ていると、ウイルス感染にたいするグローバル社会の脆弱性が浮き彫りになりました。高密度な都市生活、大量な人とモノの行き交いといった現代文明の達成は、今後大きく変容していくのでしょうか。

今回のパンデミックで、アメリカは重要医療器具や薬品の戦略的備蓄がまったく不足していることを露呈しました(必要なマスクと呼吸器の1%しか政府は備蓄していませんでした)。台湾と韓国は過去の失敗を教訓として医療器具の備蓄を進めていたために、感染抑制に成功しました。

思想家の内田樹氏


思想家の内田樹氏

これらの事例から、先進国はどこも医療資源の自給自足の必要を実感したと思います。同じことはエネルギーや食料などの基幹的な物資すべてについても起こると予測されます。

「グローバル資本主義はここで一時停止することになる」

国民の生き死ににかかわる物資は金を出しても買えないことがあるという当たり前のことを世界中が改めて確信したわけです。グローバル資本主義はここで一時停止することになると思います。

都市一極集中というライフスタイルが感染症リスクにきわめて弱いということも今回わかりました。今回リモートワークを実践した多くの人は、自分の仕事のためには別に毎日通勤する必要はなく、そうである以上、わざわざ高い家賃を出して都市に住んでいる必要がないということに気づいたはずです。

3.11の後に東京から地方への移住者が激増しましたけれど、同じことがポストコロナ期にも起きるものと予測されます。宇沢弘文は日本の場合、総人口の20〜25%が農村人口であることが、社会の安定のために必要だと試算していますけれど、あるいはその数値に近づくのかも知れません。

——各国が深刻な経済的ダメージを受けることは間違いありませんが、アフターコロナの国際秩序のなかで、資本主義のあり方も変わっていくと思われますか。

アメリカが国際社会でリーダーシップをとる意欲を失ったので、代わって中国がポストコロナ期のキープレイヤーになるでしょう。一帯一路圏を中心に医療支援を通じて友好国作りを進める。中国の超覇権国家化を望まない国々それを妨害しようとする。でも、決定打はどちらにもありません。ですからしばらくは「地政学的な膠着状態」が続くと思います。

クロスボーダーな人間と商品の行き来が止まるわけですから、グローバル資本主義も長期にわたる低迷を余儀なくされるでしょう。この期間に「プランB」にいち早く切り替えることのできた国が生き残り、旧い成功モデルにしがみついている国は脱落する。

「小国寡民」の新しい国家モデルを構想するしかない

——もしコロナ禍が資本主義の分岐点だとしたら、経済的不況下でも国民の食や医療を守るうえでどんな社会モデルが考えられるでしょうか。

わかっていることは、人口動態学的事実です。これから日本は超高齢化・超少子化社会に向けて進み続けます。2100年の人口予測は中位推計で4950万人。現在の1億2700万人から7750万人減ります。年間90万人ペースでの人口減です。これで経済成長などということはあり得ません。与えられた条件下で、人々が気分よく暮らせる「小国寡民」の新しい国家モデルを構想するしかない。

思想家の内田樹氏


思想家の内田樹氏

さいわい日本列島は温帯モンスーンの温順な気候にめぐまれ、森が深く、きれいな水が大量に流れ、大気も清浄で、植物相も動物相も多様という自然条件に恵まれています。この自然条件を生かした農林水産業、同じく豊かな自然資源と伝統文化を生かした観光・芸術・エンターテインメント、そして少し前まではアジアトップであった教育と医療、それらを柱とした国造りがこれからの日本の向かう道だと思います。

——アフターコロナを生きるうえで一番必要な道徳観・倫理観とは何でしょうか。

未知の状況に投じられたときには、自由度が最大化する・選択肢が最大化するように動くのが基本です。何が正解であるかわからないときには、何が正解であっても自分の選択肢のうちにそれが含まれているように動く。それほどむずかしいことではありません。

ただ、そのためには、「自由である方が/選択肢が多い方が気持ちがいい」と感じる身体感覚を具えていなければならない。日常的に「不愉快なことに耐えている」「やりたくないことをしている」人が、もしそういう自分を正当化するために「これが人間としてふつうなのだ」と言い聞かせていれば、危機的な状況で「より自由度の低い方、より選択肢の少ない方」に自分から進んで嵌り込んでしまうリスクがあります。

2. 2020年10月09日 17:48:46 : yrjMIAA0P3 : NDRaMkxRWk5XM2c=[23] 報告
医療費削減の先にある恐怖…アメリカのパンデミックが収束しない理由を内田樹と岩田健太郎が指摘
2020.9.30
https://dot.asahi.com/dot/2020092800042.html?page=1


コロナと生きる (朝日新書)
内田 樹,岩田健太郎
https://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4022950897/asyuracom-22/


 コロナ・パンデミックは、「医療は商品である」という原理の無効性を可視化させた。そう語るのは、思想家の内田樹さんと医師の岩田健太郎さんだ。二人の対談が収められた『コロナと生きる』(朝日新書)から、なぜアメリカのパンデミックは収束しないのか、その背景について紹介する。

【対談相手の岩田健太郎医師の写真はこちら】

*  *  *
■コロナが晒した新自由主義の限界

内田:医療費の増加は、ここ20年ぐらい日本が抱える財政上の最大の問題とされてきました。国家財政を逼迫させているのは医療費である、だから医療費削減を達成することが焦眉の課題なんだと、政府も経済評論家も口を揃えて言い続けてきた。その結果、病床数を減らし、保健所を減らし、医薬品や医療器材の備蓄を減らすことになった。そうやって医療体制が十分に脆弱になったところに、今回のコロナのパンデミックが到来した。どう考えても医療費を削減させながら感染症に対応することはできません。

岩田:そうですね。

内田:国民の健康という点では何のプラスももたらさないはずの医療費削減政策がさしたる国民的な抵抗もなしにこれまですらすらと通って来たのは、新自由主義的な「医療とは商品である」という発想が国民の間に浸み込んでいたからなんじゃないかと僕は思います。医療は市場で金を出して買う商品である。だから、金があれば良質の医療を受けることができるけれど、金がなければ身の丈にあった医療しか受けることができない。不動産や自動車と同じで。そういうふうに考える人がいつの間にか多数派を占めるようになった。だから、「すべての国民が等しく良質の医療を受ける権利がある」と考える人は、今はむしろ少数派になったんじゃないでしょうか。

 金のある人、あるいは社会的有用性の高い人、生産性の高い人は医療を受ける権利があるが、そうでない人の治療のために公金を投じるべきではない。ちゃんとした治療を受けられないのは当人の自己責任だ、という冷たい考え方をする人がほんとうに増えた。一般の疾病でしたら、そういう理屈も通るかもしれませんけれど、感染症にはこれを適用することができない。医療を受けられない人たちが感染源となっていつまでも社会のなかにとどまる限り、感染症は永遠に制御不能だからです。


岩田:まさにアメリカはそのせいで無保険の人々が大量に生まれ、所得が低い人は医療サービスを受けられなくなりました。

内田:アメリカには今、無保険者が2750万人いるそうです。この人たちは病気になってもまともな医療を受けることができない。それで重症化しても、死んでも、「自己責任」でこれまでは済んだかもしれません。でも、感染症ではそうはゆかない。貧しくて治療を受けられない人たちがコロナウイルスに感染して、感染源を形成することになれば、感染症はいつまでも終息しないからです。

「自己責任で医療を受けろ」というルールを押し通せば、社会機能が止まったままになる。感染症は「すべての国民が等しく良質な医療を受ける権利がある」という原理を採用しないと制御不能です。でも、アメリカは「医療は商品である。金がないやつは医療を受けられなくても文句を言うな」という原理でこれまで押し通してきたので、急には方向転換できない。だから未だに感染症拡大を制御できないでいる。これまでの考え方を棄てないと、アメリカのパンデミックは収束しないと思います。

岩田:まさに同感です。

内田:日本の医療費削減のロジックも、アメリカと同じく新自由主義的な発想です。医療行為や医薬品をすべて「マーケットで売り買いされる商品」として扱うようになってきた。だから、「命の選別」という話になったときに、「社会的有用性の多寡」を比較しようというような発言が出てくる。「医療資源は強者に優先配分すべきである」というのは「医療は商品だ」ということの言い換えに過ぎません。でも、そうやって社会的弱者から医療機会を奪ってみても、それはただ公衆衛生的環境を悪化させることにしかならない。

「医療は商品である」という原理そのものの無効性を今回のコロナ・パンデミックははっきり可視化したと思うんです。医療に関しては新自由主義的な発想は適用できないということがよくわかった。それはたぶん他の領域についても同じだと思うんです。グローバル資本主義は「必要なものは、必要なときに、必要なだけ、市場で調達することができる」ということを不可疑の前提に組み上げられたシステムですけれど、今回の各国の医療資源の奪い合いで、いくら必要でも市場で調達できないものがあるという当たり前のことを人々は思い知らされた。ジャストインタイム生産方式とか、「在庫ゼロ」とかいうのがいかに机上の空論に過ぎないか、思い知らされた。医療資源の戦略的備蓄が十分であれば、感染症を早い段階で抑え込むことができる。一方、医療資源を「在庫ゼロ」にして「コストカットができた」と喜んでいると、簡単に医療崩壊が起きる。それで経済が停止したら、「コストカット」で浮いた分なんか一瞬で吹き飛んでしまう。それくらいの損得の算盤は誰でも弾けるはずなんです。


 新しいウイルスによる感染症はこれからも数年おきに必ず起こります。ウイルスから社会を守ろうと思ったら、「医療は商品ではない。すべての人は等しく良質の医療を受ける権利がある」という原理を「世界の常識」として採択するしかない。アメリカの現状を見れば、誰でもそう考えるはずです。

■強硬トランプ、切実ジョンソン

岩田:基本的に僕も内田先生と同じ考えですが、アメリカはトランプ大統領が「失敗してない」って言い張ってますからね(笑)。これで一気に変わるかどうかは、わからないのが正直なところです。

内田:僕はアメリカの医療現場のことは知らないんですけれど、3千万人近い無保険者の人たちというのは、病気になったときにどうしているんですか? まったく受けられないということはないですよね?

岩田:いやもうあの国は、保険がなければ救急車すら呼べないですからね。救急車呼ぶのに無保険だと、日本円に換算して数十万も請求されるんです。実際にコロナに罹った人が街で倒れたのに救急車が呼べず、放置されて感染を広げてしまったケースもありました。

 結局コロナに関しては議会で問題になって、無保険の人たちもちゃんと助けてあげようって話になりました。でも制度が決まったときにはもう時すでに遅しで、感染が蔓延してしまったんです。内田先生がおっしゃるように「貧乏人はほっとけばいい」という姿勢を国が続けると、感染症が起こったときに国民みんなが倒れちゃうんですね。

 アメリカ型の新自由主義に基づく医療と、感染症のパンデミックは、非常に相性が悪いことが今回世界中の人に思い知らされたのは確かです。イタリアもコロナでとても痛い目に遭ってますが、やはりその背景には近年の同国における医療の効率化がありました。おそらく今後、ヨーロッパでは多くの国が医療制度について再考を始めるはずです。

内田:実際にイギリスでは、コロナに感染して入院していたボリス・ジョンソン首相が退院した後に、国民健康保険であるNHS(National Health Service)の効用をほめたたえていましたね。

岩田:はい。あれにはかなり驚きました(笑)。


内田:サッチャーの時代から、イギリス保守党はNHSを目の敵にして、ずっと潰しにかかってきましたからね。ところがジョンソン首相は、自分がコロナに罹ってお世話になったら、急に手のひらを返したように、「NHSのおかげです」と言い始めた(笑)。

岩田:いや〜、あれを見て僕は、「日本の政治家も一回はコロナに罹ったほうがいいんじゃないか」とか一瞬考えかけて、慌てて否定しました(笑)。ボリス・ジョンソンを見ていて、やっぱり病気は身を以て体験すると、考えが変わるんだなとつくづくわかりましたね。

内田:僕はボリス・ジョンソンの「変節」は評価しますよ。「君子豹変す」ですから、いいんです。あれで医療政策についての流れが変わると思います。

岩田:国民皆保険が定着している日本の場合は、アメリカと逆の問題があるんですよね。お金を払わないと救急車が呼べないのがアメリカの病理だとすると、「ちょっとお腹が痛いから、救急車でも呼ぼうか」みたいなモラルハザードが起きているのが日本の難点です。国民皆保険による安くてアクセスしやすい医療が、一部の国民の食い物にされている状況があるんです。

 高級スーパーで買い物すると、会計を終えた商品を店員さんが過剰なまでに包装してくれますよね。患者さんのなかには医療も同じように考えている人がいて、「もっとちゃんと包んでくれ」みたいな過剰な要求を医療者にしてくるんです。これまで日本の医療サービスは、水道の蛇口をひねると水が出てくるように、「受けられて当たり前」と思っている人がほとんどでした。でも本当は、そんなに無尽蔵にリソースがあるわけじゃなく、使い倒せばなくなってしまうことを、国民みんなで認識してほしい。医療に関しては日米ともに極端な方向に行き過ぎてしまったので、将来的に変えていく必要があるでしょうね。

※「山中伸弥教授が『阿倍野の犬』と揶揄…日本の研究分野が世界に劣る理由を内田樹と岩田健太郎が斬る」へつづく

■内田樹(うちだ・たつる)
1950年東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。著書に『私家版・ユダヤ文化論』、『日本辺境論』、『日本習合論』、街場シリーズなど多数。

■岩田健太郎(いわた・けんたろう)
1971年島根県生まれ。神戸大学大学院医学研究科教授。島根医科大学(現・島根大学)卒業。ニューヨーク、北京で医療勤務後、2004年帰国。08年より神戸大学。著書に『新型コロナウイルスの真実』『感染症は実在しない』など多数。

3. 2020年10月09日 17:50:00 : yrjMIAA0P3 : NDRaMkxRWk5XM2c=[24] 報告
山中伸弥教授が「阿倍野の犬」と揶揄…日本の研究分野が世界に劣る理由を内田樹と岩田健太郎が斬る
https://dot.asahi.com/dot/2020100200057.html
2020.10.8 11:30 AERA dot.


 日本の研究分野が世界に遅れを取ることになったのは、「ワンチーム」や「絆」を好み、他人と「ずれる」ことを許さない日本人特有の性質に原因がある。コロナ時代の生き方は、むしろ「ずらす」ことが重要かつ有用だと、思想家の内田樹さんは岩田健太郎さんとの共著『コロナと生きる』(朝日新書)で指摘する。困難な時代だからこそ求められる「生きる」ことに対する価値観とは?

※第1回対談「医療費削減の先にある恐怖…アメリカのパンデミックが収束しない理由を内田樹と岩田健太郎が指摘」よりつづく

*  *  *

■他人とずれてよし

内田:前回の対談で、「誰かが得するなら、みんなで損をしたほうがマシだ」と考える人がいる、というお話をされましたが、そういうふうに「一蓮托生」に持ち込んで、最終的に誰も責任をとらずに終わるというのって、日本人の得意技のような気がしますね。「ワンチーム」とか「絆」とかいう言葉を東京五輪絡みでよく聞かされましたけれど、限られた環境でみんなが生き延びようと思うなら、他人と合わせるんじゃなくて他人と「ずれる」のが基本なんですよね。たぶん岩田先生もそうだと思うけど(笑)、僕もすぐ多数派からはずれる人なんです。生まれてからずっと「樹は変だ」と言われ続けてきた。親にもそう言われたし、先生にも言われたし、友だちにも言われた。とにかくすぐに「浮いちゃう」んです。それでずいぶん叱られたし、いじめられたりもした。

 でも、しかたがないんですよね。「みんなが平気にやれること」が僕にはできないんですから。身体が拒否するので。でも、僕一人が他人と変わったことをしていたからと言って、マジョリティの邪魔をしているわけじゃないんですよ。ただ隅っこにいて、自分がやりたいことをこそこそやっているだけなんだから、放っておいてほしいんですよ。でも、放っておいてくれないんです。必ずそばにやってきて「一人だけ変なことをするのを止めろ」と干渉してくる。どうして、主流派の方たちは「ずれた人」にこれほど不寛容なのだろうと久しく不思議に思ってきたんですけれど、あるときにわかりました。人と違うことをやってる人は査定になじまないからです。

 前にも書いたことですけれど、院生の頃に、フランス文学会でレヴィナスのことについて発表しようと思って指導教官に相談したら、「止めたほうがいい」と言われた。理由を尋ねたら「レヴィナスの研究をしてる人間が他にいないから」って。日本では知られていない哲学者ですから、ご紹介するつもりで学会発表しようと思ったわけですけれど、誰も知らない哲学者について研究発表しても査定対象にならないと言われた。先行研究がいくつもあれば、それと照合して出来不出来について査定ができるけれど、先行研究ゼロの分野だと、発表そのものが「査定不能」とされる。「業績が欲しければ、みんながやっていることをやれ」と諭されました。

 たしかに、そうなんです。ある時期から若手の仏文研究者が19世紀文学に集まるようになったんですけれど、それはその領域に世界的権威の日本人研究者がいたからなんです。その分野なら、研究業績については客観的で厳正な査定が下る。だから、精密な査定を望む秀才たちはその領域に集まってきた。でも、もともと仏文というのは、中世から現代まで、歴史や詩や小説や哲学など、多彩な領域に研究者が「ばらけて」いたんです。みんなが勝手なことをやっていた時代の仏文は面白かったけれど、特定領域に若い研究者が集中するようになってから仏文の空気が一変して、なんだか重苦しくなった。

 結果的に、仏文科に進学してくる学生がいなくなり、仏文科がなくなり、仏文学教員のポストがなくなり、学会そのものが見る影もなく地盤沈下してしまったんですけどね。

岩田:内田先生はその仏文学の衰退の話を、いろんな本でよく書かれていますけど、じつはそれって、日本の学術界全体で起きていることでもあります。ノーベル賞の山中伸弥先生が「阿倍野の犬」という喩え話をよくされるんですけど、「アメリカの犬は頭を叩くとワンと吠えたから、大阪の阿倍野でもアタマを叩くとワンと吠えるかどうか確かめてみよう」みたいな二番煎じの研究が、自然科学分野でもかなり増えているということです。なぜならやはり、査定が簡単だからですよね。論文も書きやすいし、手法も知られているので査読者の覚えもいいんですが、そんな研究には何のイノベーションもありませんよね。

内田:ほんとにね。

岩田:今、大学の運営交付金が毎年1%ずつ削られているなかで、研究者は科研費を獲得するよう、大学側からハッパをかけられています。科研費は「競争的資金」と呼ばれていて、国は「独創的でイノベーティブな研究に交付する」と建前上言うんですが、実際のところ本当にイノベーティブな研究にはほぼ下りないんです。なぜなら役人が査定できないから。

 例えば、iPS細胞で山中先生がノーベル賞をとると、「iPS細胞の研究なら科研費がもらえるぞ!」と、みんなで寄ってたかってiPSの研究を始めるんです。2011年に震災が起きたら、防災対策の研究ばかりに科研費が下りるようになりました。そんなふうに右へならえで、同じテーマの研究ばかりが増えていくんです。

 その間、世界を見渡してみると、iPS細胞って再生医療に使うには効率が悪いことがわかってきたので、最近はES細胞を使うのが主流になってます。ところが日本はiPSに掛け金をオールインしちゃったので、今さら方針転換できないんです。内田先生のお話を聞いて、理系分野もこれからどんどん衰退していって、仏文学の後追いをするのではないかと心配になってきました。

内田:元凶は評価主義なんです。客観的な査定を行い、格付けをして、それにしたがって限りある資源を傾斜配分するという仕組みそのものがすべての学問領域のレベルを引き下げている。

岩田:大学の医学部では、研修医や学生の成績もできる限り計量的に評価するようにしろ、と圧力がかかってます。しかし、医者としてあるべき振る舞いなんて数値化できないですよね。「客観的な評価ができないことは切り捨てていい」と彼らは言いますが、医学生なんてみんな頭がいいし、点取り虫なので、どうすれば高い評価が得られるか簡単に予測できるんです。でも、それで優秀な医者が育つかというと、非常に疑問ですよね。

内田:そのとおりです。

岩田:今、大学では「360度評価」といって、学生を含めたいろんな人に評価をさせる仕組みを導入していますが、これも「とにかく評価をしさえすれば、見えないことが見えてくる」という考えの表れです。しかしスポーツ選手とか、文学者とか、ミュージシャンとか、優れた人ほど評論家の言うことなんて一切無視してますよね。昔、僕は恩師の微生物学者に、「他人の基準で自分の生き方を決めるな。自分の生き方の基準は自分で決めろ」と言われて、実際にそうやって生きています。

4. 中川隆[-10949] koaQ7Jey 2020年10月09日 17:54:56 : yrjMIAA0P3 : NDRaMkxRWk5XM2c=[25] 報告
「素人がコロナを語ると専門家が怒る」という日本は明らかにおかしい
内田 樹,岩田 健太郎 2020/09/23

新型コロナウイルスをめぐって、SNSなどでは「専門家以外は発言すべきでない」という意見が目立つ。それに対して神戸女学院大学名誉教授の内田樹氏と神戸大学大学院医学研究科教授の岩田健太郎氏は「素人といわれている人たちがコロナについてあれやこれや言うのは当然だ」という——。


※本稿は、内田樹・岩田健太郎『コロナと生きる』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

イノベーションは評価主義になじまない

【内田】僕は評価主義とはできるだけ関わりたくないんです。だから、「お前を査定してやる」という人が出てきたら、そっとその場から離れる。そういう人とディベートして、「あなたの意見と僕の意見のどちらが正しいか決着をつけよう」というのが嫌なんです。それだと評価主義の再生産にしかならない。あなたと僕のどちらが賛同者が多いかとか、どちらがSNSのフォロワー数が多いかとか、どちらが社会的地位が高いかとか、それを比較することでそれぞれの意見の理非を決するというふるまいは、それ自体が査定なんです。僕はそれが嫌なんです。

僕は誰とも論争なんかしたくない。ただ、ちょっと言いたいことがあるので言っているだけなんです。みんな僕の意見に賛同しろとも言わないし、意見が違う人に向かって「黙れ」とも言わない。だから、僕のことは放っておいてほしい。隅っこで言いたいことをぼそぼそ言わせてくれよ、と。それだけなんです。

イノベーションというのはそもそも評価主義になじまないんです。その成果の価値を測る「ものさし」がまだ存在しないようなもののことをイノベーションと呼ぶわけですから。だから、学術的なイノベーションをほんとうに支援したいと思ったら、やりたいやつに好きなようにやらせて、「放っておく」のが一番なんですよ。

日本の1億2000万人が全員「コロナ評論家」
【岩田】まったく同感です。うちの娘たちにも事あるごとに、「他人の評価を気にするな」と伝えています。

【内田】人の評価は気にしちゃいけません。ほめられようが、けなされようが、右から左にスルーすればいいんです。ほめられて増長するのも、批判されて落ち込むのも、どちらも意味ないです。「行蔵は我に存す。毀誉は他人の主張」。勝海舟の言うとおりです。出処進退は自分で決めるから、評価はそちらで勝手にやってくれ、と。他人の評価なんかどうでもいいよということは、このコロナ禍でますます確信に至りましたね。

【岩田】今まさに、コロナの分析や予想をめぐって起きていることとも、それは重なります。ネットを見ていると、日本の1億2000万人、世界の70億人が全員コロナ評論家と言ってもいいぐらいじゃないですか。

【内田】そうですね。

素人がコロナを語ると、専門家が怒る
【岩田】みんなコロナについて、何か語らずにはいられない。それぞれコロナのせいで害を被っているんだから、当たり前です。パンデミックって、そういうふうに「全員」に影響を与えるものなので。

ところが素人がコロナについて語ることを、専門家は怒るんですね。「素人のくせに俺たちの専門領域について、デタラメなことを言って」「テレビにまで出やがって」みたいなセリフをよく目にします。テレビの件は、大体テレビに出られない人が言うんですけど(笑)。

フェイスブックを見ていると、僕の業界の人はすごく怒っているんですよ。みんなが評価主義の塊になって、「にわか専門家がテレビで知ったようなことを言うな」みたいなことを本気で書いている。「そんなに頭にくるなら、テレビを観るのやめればいいのに」と思うんですが。

【内田】ほんとに観なきゃいいのにね。それに素人があれこれ言ったっていいじゃないですか。言わせてあげたらいいのに。

日本では「半ちく野郎」とか「半可通」とか「一知半解」とか、「半」という字がつく罵倒の言葉が多いんですよね。中途半端な知識に基づいてものを言う人間を徹底的にバカにする。「よく知らないけど、俺はこんなふうに思うんだよね」と言うと、自称専門家が「黙ってろ、素人は!」と頭ごなしに叱りつける。叱られたら黙る。専門家だけが発言権を持ち、それ以外の者は知らないことについては黙る。自分の経験や知識に基づいて、個人的な意見を述べることは「許されない不作法」ないし「笑うべき愚鈍」と見なされてきた。

素人がアイデアを出すほうが、生産的ではないか
【内田】でも、それっておかしいと思う。半ちくな素人の思いつきがときに思いもかけない創見をもたらすことって実際にあるから。それに僕自身、自慢じゃないけどレヴィナス哲学と合気道以外は、全分野で半ちく野郎なんです(笑)。文学も、映画も、マンガも、能楽も、宗教も、政治も、さまざまな領域でたくさん本を書いていますし、インタビューされたら意見を述べますけれど、どの分野でも専門家というのにはほど遠い。

ただ、「このトピックについては、あんまりよく知らないんですけども、ちょっと意見言ってもいいですか?」って、つい手を挙げたくなるんです。ちょっと何か言いたくなるのは、僕が思っていることを専門家が誰も言わないからです。誰かが先に言ってることなら僕が繰り返す必要ないです。誰も思いつかないようだから、つい手を挙げて言ってみたくなる。別に定説を覆すとか、常識に冷水を浴びせるとか、そんな攻撃的な意図があるわけじゃないんです。ただ、「こういうふうに考えたら、ちょっと面白くないですか?(よう知らんけど)」というだけのことで。でも、そういう「いっちょかみ」に対して専門家たちって、ほんとうに不寛容なんですよね。「素人は隅にいて黙ってろ」って一喝される。

専門家だけが発言できるより、素人が面白がって次々にいろんなアイデアを出したほうが、結果的に学術的にも生産的じゃないかと思うんですけどね。

専門家も慌てて「にわか」で勉強している
【岩田】確かにそうなんです。コロナに関しても今、素人の方から面白いアイデアが出てきています。今朝のニュースで観たんですが、ある学校では熱中症対策とコロナウイルス対策を両立させるために、「子どもたちは傘を差して登校する」ことにしたそうです。日傘で日光が遮られますし、傘を差すことでお互いが近づけなくなるから、ソーシャルディスタンスを保てるんですね。とても面白いアイデアだと感心しましたし、専門家からは出てこない発想だと思いました。

感染症の専門家といっても普段何をやってるかというと、患者さんの検査と薬を出すことがメインの仕事です。だから例えば、「コロナ対策のために、飛行機の空調やエアコンの設定をどうすればいいでしょうか」なんて聞かれても、正確には答えられないんです。航空機内の空調システムまで知悉している専門家は、非常に少数派で、旅行医学という専門分野のさらに細かいエアロメディシンという領域を勉強した人だけです。感染症のプロでもそこまでやっていた人は本当に少数派でしょう。慌てて「にわか」で勉強した人はいると思いますが。

テレビに出ている専門家も、よく知らないことを聞かれたら、慌てて文献を読んでにわか勉強して「10年前から知ってますよ」みたいな顔して言ってる人がほとんどなんですよ(笑)。実際の話、マスクがどれぐらいウイルスを防ぐかといった重要な知識も、前々から勉強してる人はあまりいませんでした。みんな急いで勉強して、にわか専門家として意見を述べているだけなんです。専門家とそうでない人の差は、案外大きくはない。少なくとも、特定のトピックにおいては。

だから、素人といわれている人たちがコロナについてあれやこれや言うのは当然だと思うし、全員がコロナには利害関係があるわけですから、出てきたアイデアは真面目に検討すべきだと僕は思います。

---------- 内田 樹(うちだ・たつる) 神戸女学院大学名誉教授 1950年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒業、東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。著書に『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)『日本辺境論』(新潮新書)、街場シリーズなど多数。 ----------

---------- 岩田 健太郎(いわた・けんたろう) 神戸大学大学院医学研究科教授 1971年島根県生まれ。島根医科大学(現・島根大学)卒業。ニューヨーク、北京で医療勤務後、2004年帰国。08年より神戸大学。著書に『新型コロナウイルスの真実』(ベスト新書)など多数。 ----------

https://www.msn.com/ja-jp/news/opinion/%e7%b4%a0%e4%ba%ba%e3%81%8c%e3%82%b3%e3%83%ad%e3%83%8a%e3%82%92%e8%aa%9e%e3%82%8b%e3%81%a8%e5%b0%82%e9%96%80%e5%ae%b6%e3%81%8c%e6%80%92%e3%82%8b-%e3%81%a8%e3%81%84%e3%81%86%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%af%e6%98%8e%e3%82%89%e3%81%8b%e3%81%ab%e3%81%8a%e3%81%8b%e3%81%97%e3%81%84/ar-BB19k8SY?ocid=ientp

5. 中川隆[-15138] koaQ7Jey 2021年11月24日 13:30:30 : 34RYzVL0Ss : dk5pdEs0MHRvU0E=[29] 報告
内田樹の研究室
http://blog.tatsuru.com/

内田樹 嫌韓の構造
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/664.html

内田樹:全面的な対米従属、アメリカの企業に対する市場開放と、日本の公共財の切り売りさえしておけば政権は延命できる
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/398.html

比較敗戦論のために - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/301.html

民主主義をめざさない社会 - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/971.html

内田樹 生きづらさについて考える
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/647.html

内田樹 事大主義 権力者を批判したければ、まず自分が権力者になれ
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/1024.html 

内田樹 パンデミックをめぐるインタビュー
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/982.html

内田樹 聖者とは何も考えないアホの事
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/980.html

「恥の文化」の力
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/778.html

格差について - 内田樹の研究室
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1133.html

国民国家 対 グローバル資本主義
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/1326.html  

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