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ネットで他人を中傷することはセックスのように気持ちいい ジモティーヤンキーなど地方在住の若者たちの幸福度が極端に低い理由
http://www.asyura2.com/18/social10/msg/136.html
投稿者 うまき 日時 2019 年 3 月 04 日 19:42:31: ufjzQf6660gRM gqSC3IKr
 

ネットで他人を中傷することはセックスのように気持ちいい
[橘玲の日々刻刻]
 最初は、たわいもない話でした。ロックバンドの女性が、親友だった男性ミュージシャンと絶交したとフェイスブックに書き込んだのです。

 きっかけは、そのミュージシャンが知人の女性にひわいな写真を送りつけたとSNSで告発され、ライブ会場から出入り禁止になったことでした。バンドのメンバーは疑惑を否定しましたが、#MeToo(ミートゥー)運動で社会がセクハラにきびしくなっていることもあって、彼女は「ひとりの女性として、彼がしたすべてのことを拒絶する」と書きました。それはたちまち「炎上」へとつながり、ミュージシャンは仕事を失い、アパートを追い出され、別の街に引っ越さざるを得なくなって、人生は過酷なものになりました。

 その後彼女は、ロックバンドのボーカルとして(すこし)有名になりました。すると突然、高校時代の出来事を蒸し返されて大炎上することになります。誰かが女子生徒のヌード写真をSNSにアップし、その写真に対して彼女が辛辣なコメントをしたというのです。

 この「糾弾」はたちまちネットに広まり、彼女は音楽業界から出入り禁止になりました。友だちはみんな離れていき、なにもかも失った彼女は、この世界から消えてしまいたいと思ったといいます。

 10年以上前の「ネットいじめ」を告発したのは若い男で、「彼女がつらい思いをしていることが気にならないのか」と訊かれ、こうこたえています。

「セックスでイッたときみたいに楽しかったよ。あいつのこと? どうだっていいよ。ヒドいことをしたんだから自業自得だろ。生きようが死のうが俺には関係ないね」

 このようにいう男は、幼い頃から親に虐待されていました……。

 立派なことをいうひとは世の中にたくさんいますが、「正義」にとって不都合な真実は、他人をバッシングすると脳内に快楽物質(ドーパミン)が出るようにヒトの脳が「設計」されていることです。脳の画像を撮影すると、復讐を考えたときに活性化する部位は、快楽を感じる部位ときわめて近いことわかりました。道徳的な不正をはたらいた者を「糾弾」すると、セックスと同じような快楽が得られるのです。

 さらに不都合なのは、匿名で道徳的な「糾弾」を執拗につづけるひとには「実生活の幸福感が低い」という共通する特徴があることです。仕事が充実していたり、恋人や家族から愛されていれば、こんなことで「自己実現」する理由がありません。バッシングによって「オルガスム」を得るより、ふつうにセックスしたほうがいいに決まっているのですから。

 このようにして、「非モテ」や「インセル(非自発的な禁欲主義者)」などと呼ばれる集団内でお互いをディスったり、女性やLGBTのようなマイノリティを攻撃して気分よくなろうとする現象が起きました。「モテ(上層カースト)」に所属する男女は、こうした「炎上騒動」を困惑しつつも高見から見物しています。

 ネットの効用は、誰でも自由に自分の意見を主張できるようになったことです。これは素晴らしいことですが、その代償として、世界じゅうで「糾弾」というドラッグを手放せない「正義依存症」のひとたちを大量に生み出したのです。

 ちなみに、これはアメリカで実際に起きた話です。日本ではどうでしょうか?

参考:David Brooks“The Cruelty of Call-Out Culture How not to do social change.”The New York Times Jan,14,2019
『週刊プレイボーイ』2019年2月25日発売号に掲載

橘 玲(たちばな あきら)

橘玲のメルマガ 世の中の仕組みと人生のデザイン 配信中
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない?残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)など。最新刊は、『もっと言ってはいけない』(新潮新書) 。


https://diamond.jp/articles/-/195918


2019年2月28日 橘玲 :作家
“ジモティー”や“ヤンキー”など地方在住の若者たちの幸福度が極端に低い理由とは?
[橘玲の日々刻々]
橘玲のメルマガ 世の中の仕組みと人生のデザイン 配信中
『幸福の資本論』(ダイヤモンド社)では、金融資本(貯金)や人的資本(仕事)が小さくても、「友だち」の強いネットワークに支えられた生き方を「プア充」と定義した。“ジモティー”とか“ヤンキー”などと呼ばれる地方在住の若者がその典型で、ジャーナリストの鈴木大介氏が『最貧困女子』(幻冬舎新書)でこの言葉を使った。

 鈴木氏が紹介するプア充は北関東に住む28歳の女性で、故障寸前の軽自動車でロードサイドの大型店を回り、新品同様の中古ブランド服を買い、モールやホムセン(ホームセンター)のフードコートで友だちとお茶し、100円ショップの惣菜で「ワンコイン(100円)飯」をつくる。肉が食べたくなれば公園でバーベキューセットを借りて、肉屋で働いている高校の友人にカルビ2キロを用意してもらい、イツメン(いつものメンバー)で1人頭1000円のBBQパーティを開催する。

 家賃は月額3万円のワンルーム(トイレはウォシュレットでキッチンはIH)、食費は月1万5000円程度だから、月収10万円程度のアルバイト生活でもなんとか暮らしていける。負担が重いのはガソリン代だが、休みの日はみんなでショッピングモールの駐車場に集まり、1台に乗ってガソリン代割り勘で行きたいところを回るのだという。宮藤官九郎脚本のテレビドラマ「木更津キャッツアイ」で描かれた世界そのままで、彼ら彼女たちの生活は友だちの絆によって成立している――。

 しかし最近になって、「プア充の幸福」を疑問視する調査結果が次々と現われた。といっても、「プア」の女性のなかに幸福度が(高いとはいえないとしても)低くないひとがたくさんいるのはまちがいない。問題は男性で、「プア」だと幸福度が極端に低くなるのだ。

非大卒より大卒の方がポジティブ感情が高い
 日本では社会学者を中心にSSM(社会階層と社会移動全国調査Social Stratification and Social Mobility)、SSP(階層と社会意識全国調査Stratification and Social Psychology)という大規模な社会調査が行なわれており、直近では2015年に実施された。SSMでは仕事、経済状態、資産、親世代や子ども世代との関係などの情報を自宅訪問で訊ね、SSPでは社会的態度(意見や価値観)、社会的活動や頻度などをタブレットPCを用いた技法で集めている。SSP2015の研究代表者である吉川徹氏(大阪大学大学院人間科学研究科教授)によれば、SSMは「現代社会システムの「ハードウェア」」、SSPは「現代日本人の「社会の心」」の実像を知るための調査だ。

 その吉川氏は『日本の分断 切り離される非大卒若者(レッグス)たち』(光文社新書)で、SSPを使って現代日本人の「ポジティブ感情」を比較している。

 ポジティブ感情は、以下の4つの指標で構成されている。

(1) 階層帰属意識 自分が「上層階層」に属していると思うか
(2) 生活満足度 生活全般に満足しているか
(3) 幸福感 現在どの程度幸せか
(4) 主観的自由 「私の生き方は、おもに自分の考えで自由に決められる」と思うか

 そのうえで吉川氏は、男女、年齢、学校歴で現代日本人を8つのカテゴリーに分ける。壮年層は(2015年時点で)40代と50代だった約3305万人(昭和育ち)、若年層は20代と30代だった2720万人(平成育ち)。学校歴は「学歴」ではなく、「大卒」「非大卒(高卒、高校中退など)」で区別している。

 詳細は『日本の分断』を読んでいただきたいが、4つの「ポジティブ感情」の得点を合計し、クループ別に高い順に並べると以下のようになる。

@ 若年大卒女性 52.07
A 壮年大卒男性 51.81
B 壮年大卒女性 51.72
C 若年大卒男性 50.75
D 若年非大卒女性 49.85
E 若年非大卒男性 48.81
F 壮年非大卒女性 48.69
G 壮年非大卒男性 47.94

 ここからすぐに見てとれるのは、以下の3点だ。

(1) 同じグループでは男性より女性の方がポジティブ感情が高い(壮年大卒女性は例外)
(2) 非大卒より大卒の方がポジティブ感情が高い
(3) 壮年より若年層の方がポジティブ感情が高い(若年大卒男性は例外)

 より詳細に見ていくと、若年大卒女性(1位)は「上層意識」「生活満足度」「幸福感」「主観的自由」のすべての指標で得点が高いが、壮年(3位)になると「生活満足度」と「主観的自由」が下がる。

 それに対して若年非大卒女性(5位)は「上層意識」と「主観的自由」はかなり低いものの、「生活満足度」と「幸福度」が高いことで得点が上がっている。これはまさに「プア充」の定義そのものだ。ただし壮年(7位)になると、「生活満足度」と「幸福感」も低くなってしまう。

 若年大卒男性(4位)は、同じ年齢層の大卒女性と比較して「主観的自由」はそれほど変わらないものの、「上層意識」「生活満足度」「幸福感」が低いことで大きく差をつけられている。壮年(2位)になると「上層意識」と「主観的自由」の得点で壮年大卒女性(3位)を逆転する。

 若年非大卒男性(6位)は若者のなかでもっともポジティブ感情の得点が低い。これは、「主観的自由」は高いものの「上層意識」が極端に低く、「生活満足度」や「幸福感」も同年代の非大卒女性よりずっと低いからだ。壮年(8位)になると「主観的自由」の得点まで大きく下がり、ほとんど「ポジティブなもの」がなくなってしまう。

 ここで注意しなければならないのは、ポジティブ感情の変化を年齢によって説明できるわけではないが、だからといって「昭和か平成か」という時代で決まるわけでもないことだ。「若年大卒女性はすべての指標で得点が高いが、壮年になると「主観的自由」がなくなる」ということはできない。だからといって、「平成育ちの大卒女性は「主観的自由」が高く、昭和育ちの大卒女性は低い」ともいえない。どちらの可能性もあるものの、因果関係の分析は慎重に行なわなければならないのだ。

「女性の方が男性より幸福度が高い」
 この調査で意外なのは、「女性の方が男性より幸福度が高い」という結果だろう。周知のように男女の社会的格差を示すジェンダーギャップ指数で日本は世界最底辺の110位で、家庭でも会社でも性役割分業があらゆるところに埋め込まれた「男性優位社会」であると批判されている。それにもかかわらず女性の方が人生を幸福だと感じているのなら、これには説明が必要だ。

 保守派の典型的な主張は、「男は外で働き、女は家庭で育児・家事に専念する」という“伝統的”家族(性役割分業)が女を幸せにしてきた、というものだ。アメリカではトランプ支持の白人女性がリベラルな(民主党的)男女平等を批判して同じ主張をしており、保守的な女性のあいだに一定の支持があることはまちがいない。

 日本(SSP2015)でも、「夫が家事や育児をするのはあたりまえのこと?」の質問に、「そう思わない」と否定的な女性は9.1%、「どちらかといえばそう思わない」(35.9%)を加えた「保守的な価値観」の女性は45%と半分ちかくいる。

 興味深いことに、「日本の男性は家事・育児に非協力」というのが定説になっているにもかかわらず、「保守的な男性」は32.9%と3人に1人しかいない。それに対して、「夫が家事・育児をするのはあたりまえ?」に「そう思う」と答えた男性は19.1%、「どちらかといえばそう思う」は48.0%で、合わせて67.1%が「意識のうえでは」イクメンだ。このデータを素直に解釈すれば、「日本の男は家事・育児を積極的にやりたいと思っているが、女がそれを邪魔している」ということになる。

 ほんとうにそんなことがあるのだろうか。

 さらに興味深いのは、「男性は外で働き、女性は家庭を守るべき?」という質問だ。ここでは、「そう思う」「どちらかといえばそう思う」と答えた「保守的」な男性は26.3%に対して、「保守的」な女性は19%しかいない。その一方で、「女は家を守るべき」という伝統的な価値観に反対な男性は73.6%で、女性は80.9%だ。

 あらためて指摘するまでもないが、これは同じ質問(性役割分業への評価)を肯定形と非定形で訊いただけだから、調査対象者が合理的ならどちらでも回答は同じはずだが、実際には質問の仕方で男女の回答は「逆転」する。

 これについて吉川氏は、性役割分業を肯定するかと訊かれると(男性は外で働き、女性は家庭を守るべき?)8割超の女性は否定的に答えるが、「夫が家事や育児をするのはあたりまえのこと?」では、「男性が(家事という)女性の領域に進出することを受け入れるか?」というように質問を解釈して、半数ちかくが肯定することを躊躇するのだろうと述べている。――それに対して男性は、実際に家事・育児をしているかどうかは別として、どちらの質問も約7割が「性役割分業に反対」という“リベラル”な回答をする。

 同じSSP2015で、「あなたはどの程度幸せですか?」の質問に「幸福」と答えたのは男性67.8%、女性74.0%、「生活全般にどの程度満足していますか?」の質問に「とても満足」「やや満足」と肯定的に答えたのは男性67%、女性74.1%で、現代日本では3人のうち2人超が自分は「幸福で生活に満足」と思っている。これは、「日本社会はどんどん劣化し、日本人はますます不幸になっている」という一部の「知識人」の悲観論(ルサンチマン)への有力な反証になるだろう。現代日本社会は、歴史的にも、世界のなかでも、「全般的には」とてもうまくいっているのだ。

 この質問からも、日本の女性は男性より6.2%多く自分を「幸福」だと思い、7.1%多くいまの生活に「満足」している。これはけっして小さくない差だ。

 ただしここから、保守派の「ジェンダーギャップが大きいほど(性役割分業がはっきりしているほど)女は幸福だ」との主張が正当化されるわけではない。男性より女性の幸福度が高いことは日本だけでなく世界共通で、共働きと共同育児が当たり前になった北欧諸国でも女性の幸福度が下がっているわけではない。

 だがそれでも、「女は社会的に抑圧されているのもかかわらず、男より幸福度・生活満足度が高い」という事実(ファクト)にはなんらかの説明が必要だろう。

男と女では「モテ」の仕組みがちがう
「女性は男性より幸福度が高い」というのは、フェミニストにとってよろこばしいことのはずだが、この事実はずっと無視されてきた。これには理由があって、「幸福なんだからいまのままで(女性が差別されたままで)いいだろう」という男尊女卑の肯定になりかねないからだ。そればかりか、「女性差別などささいな問題で、実際に差別されているのは男性なのだから、男の幸福度を上げるような政策を導入すべきだ」というより「反動的」な主張すら出てきかねない。――実際にこのような主張をする論者もいる(ワレン・ファレル『男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問』作品社)。

 社会的地位の低い女性の幸福度が高いという「パラドクス」はこれまでずっとタブーで、(私の知るかぎり)いまだに決定的な説明はない。そこでここでは、いくつか私見を述べてみたい(あくまでも暫定的な仮説だ)。

 ひとつは男女の性戦略のちがい。かんたんにいうと、男と女では「モテ」の仕組みがちがうのだ。

 進化心理学の標準的な理論では、男は繁殖のためのコストがきわめて低く、女はそのコストがきわめて高いと考える。当然のことながら、費用対効果が異なれば、それに最適化された戦略にも大きなちがいが生じるだろう。

 男は精子をつくるのにほとんどコストがかからないため、自分の遺伝子を後世により多く残すのに最適な性戦略は、「(妊娠可能な)女性がいたら片っ端からセックスする」になる。ユーラシア大陸の大半を征服して巨大なハーレムをつくったチンギス・ハンのように、とてつもない権力を持つ男はとてつもない数の子孫を残すことができる。モンゴル人のじつに4人に1人がチンギス・ハンの「直系の子孫」で、世界の男性(約37億人)の0.5%、すなわち1850万人が“蒼き狼”と男系でつながっているとの研究もある(太田博樹『遺伝人類学入門―チンギス・ハンのDNAは何を語るか』ちくま新書)。

 それに対して女は、いったん妊娠すれば出産まで9カ月かかり、生まれた赤ちゃんは1人では生きていけないから1〜2年の授乳期間が必要になる。この制約によって、生殖可能年齢のあいだに産める子どもの数には限界があるし、出産後も男(夫)からの支援がないと母子ともども生きていけなくなってしまう。この「支援」というのは、旧石器時代を含む人類史の大半では動物の肉などの食料で、農耕社会以降は穀物や金銭に変わった。ここから女性にとっての最適な性戦略は、男性とのあいだで長期的な関係を築くことになる。

 進化論的には、「愛の不条理」とは、男の「乱婚」と女の「純愛」の利害(性戦略)が対立することなのだ。――こうした説明を不愉快に感じるひとはたくさんいるだろうが、これについては進化心理学者が膨大なエビデンス(証拠)を積み上げている。

「現代の進化論」は、「男女の性戦略の対立から、人間社会は一夫多妻にちかい一夫一妻になった」と説明する。甲斐性(経済力)があれば1人の男が何人もの女性を妻(愛人)にできるが、甲斐性がなければせいぜい1人だ。そして男女の数が同数なら(実際には多くの地域で男の方が多い)、小学生でもわかる単純な計算によって、生涯を独身で終える男が大量に生まれることになる。

 こうして男は「モテ」と「非モテ」に分断されるが、女は(「モテ」のレベルは異なるとしても)結婚可能性がずっと高い。男女ともに「ソロ化」が進んだ日本でも、(50歳時点でいちども結婚したことのない)生涯独身率は男性23.4%、女性14.1%(2015年)と大きな差がある。

 恋人もおらず、結婚もできないのなら、幸福度は高くならないだろう。これが男女の幸福度のちがいに反映しているというのが第一の仮説だ。

現代日本社会でもっとも幸福度・生活満足感が低いのは非大卒の男性(ヤンキー/ヤンチャ)
 第二の仮説は最初の説と重複するが、男女で社会的な地位(格差)に対する感じ方が異なると考える。

 サルや類人猿を見ればわかるように、一夫多妻(ゴリラ)や乱婚(チンパンジー)の種ではオスの権力闘争がはげしくなり、明確なヒエラルキーが形成される。動物園のサル山に行けば、素人でもどれがボスザル(アルファオス)か見分けることができるだろう。

 それに対して、メスのヒエラルキーはきわめて判別しにくい。チンパンジーでは、オスのような階級はメスにはないとされていた。それが最近になって、飼育環境や野生でのチンパンジーの詳細な観察によって、グルーミング(毛づくろい)の順位などからメスにもアルファがおり、ゆるやかな階層がつくられていることが判明した。

 このことは、人間社会にも当てはまる。ファミレスなどに男子高校生の集団がいると、そのなかで誰がリーダーかはすぐにわかる。それに対して女子は、ファッションのちがいなどでいくつかのグループができているものの、そのなかで誰がリーダーかを見分けるのは困難だろう。

 これは、(進化論的には)女は男よりパートナー獲得競争がはげしくないことと、欺瞞的な戦略をとる男から身を守るために、女同士の情報ネットワークを発達させる必要があったことから説明される。

「乱婚」を求める男にとって女とより多くセックスするもっとも効果的な戦略は、「純愛」を提供することではなく(これだと1人の女としかつき合えない)、「純愛」の空約束を振りまくことだ。これが(誰もが思い当たる)男の「欺瞞戦略」で、サピエンスは何十万年もこんなことをやってきた。

 しかしこれでは女は踏んだり蹴ったりなので、男の空約束に対抗する武器を手に入れたはずだ。そのひとつが「噂話」で、女集団のなかで「どいつが外面だけのチャラ男か」「イカサマ男はどんな手口を使うのか」の情報交換をすることはものすごく役に立ったのだ。――これは現代日本では「恋バナ」と呼ばれている。

 ここから、男は「階層帰属意識」がモテに直結し、自分が上層か下層かをものすごく気にするのに対して、女は階層をあまり気にしないのではないかと予想できる。そして、SSPにおける若年非大卒男性と女性のちがいは、まさにこの予想に合致している。

 社会学者の橋本健二氏が『アンダークラス 新たな下層階級の出現』(ちくま新書)で指摘するように、現代日本社会においては、非大卒(高卒/高校中退)が下層(アンダークラス)を形成している。非大卒の若い男性は自分の階層を強く意識していて、その結果、幸福度も生活満足感も低い。それに対して若い非大卒女性は、自分がアンダークラスであることを意識してはいるものの、そのことが幸福度や生活満足感の低下には直結しない。だからこそ「プア充」として、それなりに充実した生活を送ることができるのだろう。

 第三の仮説は、これまでの説と両立可能だが、「女性は生得的に男性より幸福度が高い」というものだ。

 近年の脳科学では、「ひとはそれぞれ異なった幸福度の水準を持っている」と考える。幸福度の水準が高いひとは、不幸な目にあってもあまり気にせずすぐに回復するが、幸福度の水準がもともと低いひとは、よいことが起きてもあまり幸福度が上がらない。これは幸福の「個人差」だが、男女による「性差」があったとしても不思議はない――ただし男女の生得的な幸福度のちがいを調べた研究は(たぶん)ない。

「女の幸福度は生得的に男より高い」との仮説は、「日本は性差別的な社会」というフェミニズムの批判とも整合的だ。遺伝的な優位性があるにもかかわらず、壮年大卒女性のポジティブ感情は壮年大卒男性を下回っているのだから、これは前近代的な「おっさん支配」だと考えるほかはない。

 いずれにしても、社会学の大規模調査が明らかにしたのは、現代日本社会でもっとも幸福度・生活満足感が低いのは非大卒の男性だという「事実」だ。この集団は一般に「ヤンキー」と呼ばれていたが、最近では「ヤンチャ」が使われるようになったようだ。

 ということで、次回は「ヤンキー/ヤンチャ」たちがどのような困難を抱えているのかを考えてみたい。

https://diamond.jp/articles/-/195501


男性権力の神話――《男性差別》の可視化と撤廃のための学問 単行本 ? 2014/4/17
ワレン・ファレル (著), 久米 泰介 (翻訳)

内容紹介
男性への性差別の実態を明らかにした、全米30万部のベストセラー。

アメリカを代表する〈男性学〉研究者が、男性も社会の中で差別されているという事実を、様々な具体例やデータによって提示した〈男性研究〉の基本書。世界的なベストセラーとなり、『ワシントン・ポスト』紙において、「新鮮な観点から実世界を見ることを私たちに強いる」と評された。

「生きづらい男性が増え、『男は強い』という考え方が残り続けている日本社会でこそ、この本は必要」――山田昌弘氏(中央大学教授・家族社会学)推薦!

内容(「BOOK」データベースより)
アメリカを代表する“男性学”研究者が、男性も社会の中で差別されているという事実を、様々な具体例やデータによって提示した“男性研究”の基本書。世界的なベストセラーとなり、『ワシントン・ポスト』紙において、「新鮮な観点から実社会を見ることを私たちに強いる」と評された。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
ファレル,ワレン
1942年、アメリカ、ニューヨーク生まれ。ニュージャージー州のモンテクレア州立大学卒業(社会科学)。カリフォルニア大学で修士号(政治学)、ニューヨーク大学で政治学博士号を取得。その後、カリフォルニア大学サンディエゴ校、ブルックリン大学、ジョージタウン大学、ラトガース大学で心理学、社会学、政治学、ジェンダー学についての教鞭をとる。1970年代から、National Organization for Women(NOW、全米女性機構)の役員に三度選出される

久米/泰介
1986年、愛知県生まれ。関西大学社会学部卒業後、ウィスコンシン大学スタウト校で家族学のMS(修士)を取得。専門は社会心理学とジェンダー(男性における)、父親の育児(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


5つ星のうち5.0男性差別を明らかにする良著
2016年4月11日
Amazonで購入
いかに男性が差別されているという事実が隠されているのかを統計や調査による数値にもとづき明らかにしていくものである。

男性が権力を持っているという嘘。
女性はいつも被害者であるという嘘。
男性の犠牲の上で、女性が得ている利益。
仕事上の死亡者の94%が男性であること。
(自分の住んでいる家や家具、食べ物が、どれだけの男性の死の危険や体の欠損や障害のリスクの上で当たり前のように提供されているのか)

また、恋愛における男性が置かれている過酷な状況も説明している。
男性は金銭的負担や心理的な拒絶されるリスクを負って積極的に女性にアプローチしなければならないのに対して、
女性が自分の意思で男性の部屋に行き、酒を飲み、セックスすることに対して「イエス」と口頭で答えていても、
翌日考え直して「レイプされた」として告訴することができる。

フェミニズムが女性の性を神格化し、女性の意思は絶対であるとしてきたことで、男性が過度の負担と人生を破壊されるリスクを負っていることを明らかにしている。

この本は1993年、すなわち今から20年以上前に書かれたものであることが衝撃的である。
アメリカの社会的な潮流は20年遅れて日本にやってくるという。
フェミニズム(女性学)に対抗するマスキュリズム(男性学)の第一人者として、この著作の翻訳者である久米 泰介氏がフェミニズムに汚染された日本社会に風穴を開けてくれると信じたい。
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西南大関
5つ星のうち5.0山田昌弘氏の序文が最悪
2015年5月21日
Amazonで購入
山田昌弘氏の序文が最悪である。この本は男性差別についてかかれた本である。それなのに、「男性が生きにくい社会」とオブラートでくるんでしまい、問題をぼやかそうとしてしまっている。こんなバカ丸出しの裏切り者に序文を書かせてしまったのは、編集者の落ち度であろう。彼の序文は男性差別と一言でも言おうものなら、「そんなことないよ」というデマゴーグが大量に発信されなかったことにされてしまう現代日本を象徴している。本自体はとてもいい本だ。
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θ
ベスト500レビュアー
5つ星のうち5.0反フェミニズムなのではなく、むしろフェミニズムと補完的な視座
2015年5月6日
女性差別についてはさまざまな撤廃運動が存在し、法制度的にも様々な措置が取られている。
本書はそれに対し、あまり表で取りざたされることのない「男性差別」の実態について取り上げる。

我々は「男性=強者」というイメージを持っているがゆえに、男性が差別され弱い立場に立つということは見逃されやすい。
しかし、例えば精神的に極限まで追い詰められている度合いを表す自殺率は男性の方が有意に高く、また路上生活者率も男性の方が圧倒的に多い。
また、工事現場や消防士などの身体に危険を伴う職業も9割以上が男性であり、しかしそれが男性によって担われているという事実は例えば「fireman」という表現が「fireperson」に直されるなど、むしろ隠される傾向にある。
最も顕著なのは軍隊で、戦闘に女性が参加することは皆無であり、死のリスクはすべて男性が負わされる。

また、刑務所収監率、死刑率(判決も執行も)も男性が有意に高い。
上記の戦争の場合も含め、これはしばしば「男性の凶暴性」の論拠として挙げられるが、筆者はむしろ男性が底辺に追いやられて困窮していると見るべきだという。
例えば、ある地域で黒人の犯罪率が高かったとして、それは「黒人が経済的に恵まれないことによる」と捉えられることが普通で「黒人の凶暴性」などと見るのはむしろ黒人差別の証とみなされる。これと同じである。
そして、同一の犯罪を犯しても、男性の方が明らかに刑期が重くなり、また正当防衛等も男性には認められにくく女性は認められやすいことが指摘されている。

男性への負荷のもう一つの要素に経済的支柱となることを要求されるということを挙げている。
これはデート代を誰が持つかというレベルから、家計が苦しいときにだれの責任でだれが無理をしなければならないとみなされるか、といった深刻なレベルまでさまざまに存在する。
そのため男性には「働かない」という選択肢が与えられず、すでに述べたような危険な仕事をせざるを得なくなったり、あるいは追いつめられて自殺してしまうこともある。
そして、このような背景があっても、子供と接する時間が仕事によって取れないと「育児をしない父親」と批判的に見られ、一方で経済的に支えているから「父親の方が権力者」と言われたりする。
これは権力者ではなく、むしろ「嫌々負わされた役割」と見るべきという。

他にも、DVやレイプ被害が男性も相当程度あっていること(しかし我々はそれをほとんど認識しない)、離婚時の親権要求がほとんど通らない一方で養育費負担は負わされること、等々、さまざまな具体例を挙げている。
ただし、これは「反フェミニズム」であるというよりも、男女の役割分担を「強者である男性による抑圧」とみなして攻撃していたフェミニストの姿勢を批判し「男女が共に不利益をこうむるシステム」と見て男女ともによい環境になるような改善を訴えているのであり、これはフェミニズムと補完的な位置にあるといった方がいいであろう。

あえてカウンターの位置にするためにいささか強引な議論もある(ギリシャ神話を引くのは正直論拠にもならないし、事例一つで話を進める部分もあったりする)が、見落としがちな視点を指摘する場所も多く、なかなか新鮮である。
ジェンダーに関心のある人は、むしろフェミニストであればこそ、本書を読むべきだと思う。
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男性・古代遺跡ファン
ベスト500レビュアー
5つ星のうち4.0書かれている内容は正しいが、価格が高い。
2015年10月12日
内容は正しいと思います。社会の中で見落とされがちな男性の弱者についてフォーカスを当てた本。
結局フェミニズム論は男尊女卑論を裏表にしただけで、平等主義とは程遠い物です。よく言われる事ですが、フェミニズム論と男女平等は目指す方向性が明らかに違う。この部分を混同している人が多い。日本は特にその傾向が強いのですが、この本だけでは日本の問題点を検証する事は出来ない。

しかし、参考にはなると思います。また、日本に特有の問題としては、女性の国会議員が少ないという部分はあるかと思われます。しかし、逆に言えば、男尊女卑が成立しているのは国会の中の話だけとも言えます。それは一般社会に特化出来ず、もっと言えば、男性間格差の問題も深刻です。女性に弱者が存在する様に男性にも弱者が存在していて、そういう男性など居ないという前提で議論を進めるのはフェアーじゃない。その点を喚起するだけでも充分意義深い事だと考えます。
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asp3/
5つ星のうち4.0日本語訳版を出すのが遅すぎたがそれでもありがたい一冊
2014年9月6日
本の帯を見る限り、原著は ”The Myth of Male Power” というタイトルで1993年に出版されたようだ。アマゾンでその本を検索したところ、アメリカの出版事情について詳しくは分からないが、何度か再版のような感じのことが行われていたらしいことが分かった。

既に20年以上前に出版された本なのになぜ今頃になって・・・と思った。遅すぎる。もっと早く日本語訳版が出てほしかった。でも、それでも日本語訳版を出版してくれたことはとてもありがたい。今後も外国の
【男性差別問題を扱い、その解消を求めるような書籍】
の日本語訳や、

日本国内・日本人等による
【男性差別問題を採り上げ、その解消を求めるような書籍】
を多く出版して売れてほしいものです。

このレビューを書いた2014年9月6日土曜日の時点では、まだざっとしか読んでおらず、私はこの時点ではこの本に対してのレビューをする資格はないかもしれません。ですがざっと読んだ限りだと、アメリカでの「男性差別」の事例とそれに関連するマスキュリズム的考察が続いていました。 それが本書の大雑把な内容だと捉えていただいてもよいと思います。

ページ数は400ページを超えるうえ、文字も小さめ、文章は英語を訳したもので日本語の感覚からするとまわりくどい(英語の文法・語彙の関係で、英語を訳した文章は独特のまわりくどさがある傾向を感じる)。読むのは大変そうだ。だが、この本は「男性差別」をなくそうという意図が感じられる内容だった。男性の弱者性・被害者性をきちんと認識し、それを男性の責任だけにせず、きちんと男性にかかっている性差別も女性にかかっている性差別もなくそうという意図を感じられた。
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Amazon カスタマー
5つ星のうち5.0Amazon カスタマー
2018年5月26日
本書の浸透、また、示されている現状の認知を期待しております。
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神代晶
5つ星のうち4.0ジェンダー論必須の一冊
2014年5月7日
訳されたのが遅すぎるとも言える、男性差別に関する本。ジェンダーを学ぶ者としては女性差別、セクシュアル・マイノリティに関する本と並ぶ必携の書。ジェンダー論、社会学が専門の者は全員本書を読むべきと言っても過言ではない。

ジェンダー論と言えば、女性やセクシュアル・マイノリティの問題しか語られないことが多いが、男性が犯罪者など悪者にされる偏見、徴兵や犯罪で暴力の対象になっても被害者として認知されにくい問題など、男性差別について論じられている。

日本においても女性専用車両やレディースデーなどといった男性差別が平然と行われ、それが人権侵害だということがほとんど語られずにいるが、多くの人が本書を読んで、本当の意味での性の平等が実現されればと思う。

星を一つ減らした理由は以下の通り。
1.訳されずに省略された個所があること
2.差別の事例ばかりで理論的な考察が乏しかったこと(評者は原著未読のため、原著の省略された部分にはあるかもしれない)
3.山田昌弘氏の推薦文で差別という社会問題を表す語を一切使わずに「生きづらさ」という個人の内面に関する語しか利用していないことが「男性は社会的に差別されているわけではない」という印象を持つようミスリーディングしているように見えること
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https://www.amazon.co.jp/gp/product/4861824737/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4861824737&linkCode=as2&tag=mailmagazin0e-22


アンダークラス (ちくま新書) 新書 ? 2018/12/6
橋本 健二 (著)
内容紹介
就業人口の15%が平均年収186万円。この階級の人々はどのように生きているのか? 若年・中年、女性、高齢者とケースにあわせ、その実態を明らかにする。

内容(「BOOK」データベースより)
非正規労働者のうち、パート主婦、専門・管理職以外の人々は、日本には約九三〇万人いる。その平均年収はわずか一八六万円で、その貧困率は高く、女性ではそれが五割に達している。いじめや不登校といった暗い子ども時代を送った人が多く、健康状態がよくないと自覚する人は四人に一人の割合である。これら「アンダークラス」に属する人びとを、若者・中年、女性、高齢者と、それぞれのケースにわけ、調査データをもとにその実態を明らかにする。今後の日本を見据えるうえで、避けては通れない現実がそこにある。

著者について
1959年生まれ。東京大学教育学部卒。東京大学大学院博士課程修了。静岡大学教員などを経て、現在、早稲田大学人間科学学術院教授。専門は社会学。著書に『階級都市』(ちくま新書)、『新・日本の階級社会』(講談社現代新書)、『「格差」の戦後史』『はじまりの戦後日本』(河出ブックス)、『階級社会』(講談社選書メチエ)などがある。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
橋本/健二
1959年生まれ。東京大学教育学部卒。東京大学大学院博士課程修了。静岡大学教員などを経て、早稲田大学人間科学学術院教授。専門は社会学(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


くくくくままま
ベスト500レビュアー
5つ星のうち4.0原宿暴走事件を本書から読み解けるだろうか?
2019年1月4日
形式: 新書Amazonで購入
 日本に約930万人いるアンダークラス、すなわち「非正規労働者のうち、家計補助的に働いているパート主婦と、非常勤の役員や管理職、資格や技能をもった専門職を除いた残りの人々(p.8)」について、SSM調査など「主に計量的なデータを用いながら(p.13)」その窮状を明らかにし、解決策を探る書。
 冒頭に、アンダークラスの人々の素描がなされる。そこには
「平均年収はわずか一八六万円で、貧困率は三八・七%と高く……仕事の種類は、マニュアル職、販売職、サービス職が多く、その多くがフルタイム並みに働いて……結婚して家族を形成することが難し(く)……暗い子ども時代を送った人が多く……健康状態にも問題(があり)……支えになる人も、少ない(pp.9-10)」
 とあり、著者でなくとも「絶望のアンダークラス(p.128)」と言いたくなる。
 しかも、約283万人存在すると推定される、「アンダークラスと連続する(p.185)」失業者・無業者は「アンダークラス以上に厳しい状況にあることが推察できる(p.190)」という。
 基本的に統計データを分析する書であり、ケーススタディのように読みやすくはない。また、(研究者の書であり、恣意的だったり、「確証バイアス」にとらわれているとは思わないが)「果たして、こういうデータの読み方でいいのかな?」思う箇所がないわけではない。
 例えば、「図表1−2b 首都圏の年収200万円未満世帯比率推定値(p.24)」の地図から「貧困率の高い地域は、外周部、とくにJR線から遠い地域に多い(p.23)」と読み取ることは私にはできなかったし(カラーだったらもう少し見やすかったかもしれない)、「図表8−6 所得再分配と憲法九条改正」の「(4)専業主婦」のグラフ(p.233)から「所得再分配に反対する人ほど、九条改正に賛成する人の比率が高くなっている(p.234)」とも読めない。
 そういった細部はともかく、「……就業可能人口の二割近くにも達する人々が、不安と苦痛に満ちた人生を送るような社会は明らかに病んだ社会(p.214)」であり、「いまあるアンダークラスが、この社会のなかに安定した居場所を確保し、他の人々と同じくらいの満足と幸福を得ることができるようにするという、大きな社会的目標を共有すること(p.245)」がまずは重要であるという著者の主張には賛成。
 しかし、「問題は、そのアッパークラスの人たちが、自分たちが社会のどの位置に属しているのか、いまいちわかっていないこと(p.18)」という阿部彩の指摘(阿部彩/鈴木大介『貧困を救えない国 日本』PHP研究所)を考えると、道は遠いと思わざるを得ない。
 いかにアンダークラスや失業者・無業者の状況を社会的に可視化するかということが課題だろうか。
 その他、気づいたことなど。
1 日本における非正規雇用者の急増を1990年代半ば以降と私は思い込んでいたが、著者によると1980年代以降ということになるようだ。
2 同様に、日本の労働者は1990年代以降、おしなべて貧しくなってきていると私は思っていたが、2005年と2015年を比べたとき「正規労働者に限っては、収入が増加して」、その結果、正規と非正規の「格差はますます拡大している(p.45)」。
3 ガルブレイスが、アメリカのアンダークラスについて、「満ち足りた多数派」対「アンダークラス」という図式を提起しており、「ガルブレイスの描いた米国社会の構造は、日本にも多くの点で共通のものといっていい(p.64)」ということ。
 著者は、2008年の秋葉原通り魔殺傷事件について「……若く貧しい非正規労働者が増加していることが事件の背景にあると論じている現地の報道をみて、『とうとう起こったか』という感慨に襲われた(p.242)」と記す。ちょうど、本書を読んでいる間に、原宿暴走事件が起きた。速断は避けるべきだが、はたしてこの事件も新・階級社会化やアンダークラスの出現・定着を背景としたものなのなのか気になる。
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たつ
5つ星のうち1.0データ分析としては最悪。中身は理解可能
2019年1月12日
形式: 新書
あまりレビューは書いたことないが、
不幸な人を増やさないために書きます。
(なので、アマゾンの購入でもありません。)

一般的なデータ分析可能な人が読むと、この本の論はほとんど成立しないことがすぐにわかると思う。
書いてある結論は正しい可能性があるが、その根拠としているデータ分析に誤り、または思い込みによる勝手な仮定づけが多い。

このような書を恥ずかしげもなく出した筆者とともに、出版担当者も反省してほしい。

一番ひどいと感じたのは、
幸福か、というアンケートに対する論評。
アンケートによる幸福度アップ=実質の不幸度アップ
とした分析は、データ分析として最悪である。

なお根拠は、
この先幸福になれない、と感じている人こそ、
今は幸福だ、と回答して自己を満足させている
という前提だ。
感情論としては理解できるが、この仮説を実証もなしに 前提とすることは
社会科学として許すことはできない。

私見では、このような論が社会に出ること自体が、社会として益を損ねていると思う。
筆者には猛省していただきたい。
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hatayan
5つ星のうち4.0現れてきた「新しい貧困層」
2018年12月16日
形式: 新書
2018年の前著『新・日本の階級社会』で日本の階級像の新しい貧困層として示した「アンダークラス」を詳しく解説。
格差が拡大するなかで、日本にも正規労働者とは明らかに区別できる層が生まれてきたことを統計をもとに解説します。
特に深刻なのは、一家の大黒柱の役割を期待されながらも非正規で働く人々。「フリーター」として1990年代に社会に出た世代が10年後に年金を受け取る年代になると格差がより見える形で現れ、社会保障などの施策にも影響を与えるのではないかと予想します。
格差が生まれるのは自己責任と考える傾向は裕福になるほど強くなりますが、病気や事故などで職を失い窮地に陥る可能性は誰にでもあるものです。当事者であるアンダークラスが格差の縮小と貧困の解消を訴えていくことが、社会的な損失を防ぐ有効な手段であるとします。
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旋歩
5つ星のうち4.0実証とは何か?
2019年1月29日
形式: 新書
他の人のレビューに、古市憲寿の『絶望の国の幸福な若者たち』を前提としている箇所がこの本にあり、実証的な社会学としては問題だと書かれていたが、そもそも幸福や不幸ということを「実証」することは不可能なわけで、個々人の幸福の度合いは程度の問題として受け取るより他ないと思う。
この箇所はわずかな瑕瑾と言えるか言えないかというほどのものでしかない。
「アンダークラス」という階級が厳然と存在することを、データに基づいて明らかにし、提示したことにこそ意味がある。
「アンダークラス」の存在を、当人たちの幸福か不幸かという曖昧な自己認識によって否定することは、それこそ無根拠としか言いようがない。
この本の内容が全く正しいとは思わないが、日本の現状を認識する上では意味のある仕事だと思った。
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https://www.amazon.co.jp/gp/product/4480071873/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4480071873&linkCode=as2&tag=mailmagazin0e-22

自販機で小銭を集める老女に
1万円を渡すことは効果的な慈善と言えるのか?
[橘玲の日々刻々]

 昨年の暮れ、いろいろ用事が立て込んで深夜3時過ぎに仕事場を出て、徒歩で15分ほどの自宅に向かって歩いているときのことだ。私の前を、分厚いオーバーの下に重ね着した小柄な老女がビニールバッグを抱えて歩いていた。自販機があるたびに立ち止まり、釣銭の返却口を一つひとつ調べている。 

 昼間だと人目が気になるから、誰もいないこの時間を選んで、わずかな小銭を手に入れようとしているのだろう。そう思って、見てはならないものと遭遇したときにように目を伏せて老女を追い越したあと、ふと考えた。財布から1万円札を取り出し、いまから引き返してあの老女に渡すべきではないだろうか。

 こうした行動は、経済学的にはじゅうぶん正当化できるように思える。老女が朝までかけて近隣の自販機をすべて回ったとしても、手に入るのはせいぜい100円か200円だろう。それに対して、財布から1万円札が1枚減ったとしても、私がそれを気にする理由はほとんどない。

 お金の効用を考えれば、1万円は老女にとってものすごく大きく、私にとってはそうでもない。だとすれば、お金の価値が小さな側から大きな側に移転することで全体の効用は大きくなるだろう。

 誤解のないようにいっておくと、これは政府による所得の再分配について述べているのではない。私のお金をどのように使おうと私の自由なのだから、1万円札を財布に入れたまま何カ月も持ち歩くより(キャッシュレス化が進んだ東京では現金を使うことはほとんどなくなった)、ずっと有効に活用する機会が目の前にあるのなら、経済合理的な個人はそちらを選択すべきではないのか、という話だ。

 もちろん、老女に現金を渡さなくてもいい理由はいくらでもあるだろう。

 困っているひとは世の中にたくさんいるのだから、誰にお金を渡して誰に渡さないかの基準をどうやって決めるのか。その老女が見知らぬ人間から(それも午前3時に)いきなり1万円札を渡されて、喜ぶかどうかなどわからない。そもそも、そんなことで人助けができると思うことが傲慢で、たんなる自己満足だ……。

 私もこうした理屈をあれこれ思いつき、「まあいいか」と思って家に向かった。

 こんなささいな出来事を思い出したのは、ウィリアム・マッカスキルの『〈効果的な利他主義〉宣言! 慈善活動への科学的アプローチ』(みすず書房)を読んだからだ。原題は“Doing Good Better(よりよく「よいこと」をする)”で、功利主義の立場から、まさにここで述べた問いに答えようとしている。――マッカスキルはオックスフォード大学准教授で、NPO団体のGiving What We Canや80000hoursを運営している。

それでも慈善は正当化できる
 慈善(フィランソロピー)をどう考えるかは、現代の倫理学にとってきわめて重要な課題だ。すこしでも現実を理解している者にとって、「かわいそうなひとがいるから寄付すべきだ」という安易な感情論が成立しないことは当然の前提になっている。

 これまで何度か慈善(よいこと)について書いたことがあるが、どれもよく読まれていることから、読者の関心が高いことがわかる。

「”悲惨な現場”を求めるNGOの活動がアフリカで招いた不都合な真実」では、欧米のひとびとの“善意”によって、アフリカで「両手切り落とし団(カット・ハンド・ギャングズ)」というおぞましい集団が誕生した経緯を述べた。

「”フェアトレード”の不公正な取引が貧しい国の農家をより貧しくしていく」では、「公正(フェア)」の名の下に市場原理を否定することで利権が生まれ、貧しいひとたちがより苦しむことを指摘した。

「2015年までに世界の「絶対的貧困」を半減させるという野心的なプロジェクトはその後どうなったのか?」では、経済学者ジェフリー・サックスがロックグループU2のボノや女優アンジェリーナ・ジョリーを巻き込んで、鳴り物入りではじめた「ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト」が“貧困ポルノ(poverty porn)”と総括されたことを書いた。

 こうした実情を知れば知るほど、「寄付なんてしたってしょうがない」とか、さらに「寄付をしないほうが世界はよくなる」などと考えるのも理解できる。――じつは私もそう思っていた。

 それに対してマッカスキルは、こうした批判を受け入れたうえで、それでも慈善は正当化できるという。

 バングラデシュの経済学者ムハマド・ユヌスは、マイクロクレジット(グラミン銀行)によって途上国の貧困を大きく改善したとしてノーベル平和賞を受賞した。私も、マイクロクレジットにはさまざまな批判はあるものの、一定の成果を出していると考えていた。

 だがマッカスキルはこれを、「証拠の信憑性が低いもっとも痛烈な例のひとつ」だという。「質の高い調査を行なうと、マイクロクレジット・プログラムは所得、消費、健康、教育にほとんど(またはまったく)効果を及ぼしていないことが証明された」のだ。

「マイクロローンは起業ではなく食品や医療といった追加の消費活動にあてられることが多く、ローンの利息は非常に高いのがふつうだ。さらには、長期的な財務の安定を犠牲にして短期的な増収をはかろうという誘惑を生み出し、返済不能な債務に陥ってしまう場合があるのだ。最新の調査によると、マイクロクレジットは平均的には人々の生活をやや向上させるようだが、決してさまざまな成功談が描いているような万能薬とはいえない」

 こうした悲観論を前提として、それでもなお慈善に楽観的になれる理由があると主張するのが、マッカスキルが凡百の「いいひと」とちがうところだ。なぜなら慈善には、ときにものすごい「大当たり」があるから。

慈善プログラムは玉石混交だが、たまに「大当たり」がある
 マイケル・クレマーとレイチェル・グレナスターはともに20代の一時期をケニアで過ごし、アフリカの貧困を改善するのになにができるかを考えてきた。だがハーバード大学やオックスフォード大学で経済学を学んだ2人には、国連のミレニアム・プロジェクトのような「きれいごと」の羅列になんの効果もないことがわかっていた。

 そこで、アフリカの子どもたちを支援するのにどのようなやり方がもっとも効果的なのかを科学的な方法(ランダム化比較試験)で確かめてみることにした。

 クレマーとグレナスターはまず、学校に教科書を配布するプログラムの効果を調べてみた。教科書が充実すれば学習効果が高まると誰もが思うだろうが、実際には成績上位の生徒以外にはなんの効果も及ぼさないことがわかった(配布される教科書は、現地の子どもたちにとってあまりにもレベルが高すぎた)。

 教材を増やしてもダメなら、教員を増やしてはどうだろうか。大半の学校には教師が1人しかおらず、大人数のクラスを受け持っているのだから。だが、1クラスあたりの生徒人数を減らしても目に見える改善はなかった。

 それ以外の「一見よさそう」なアイデアも、ランダム化比較試験では(そのプログラムを実施しない)比較対照群とのあいだに有意なちがいを見出すことはできなかった。

 2人が最後にたどり着いたのは、教育支援とはなんの関係もなさそうなアイデアだった。それは、「腸内寄生虫の駆除」だ。

 このプログラムの特徴は、ものすごく安上がりなことだった。1950年代に開発され、すでに特許切れとなった薬を学校を通じて子どもたちに配布したり、教師が薬を投与したりするだけなのだから。

 もうひとつの特徴は、それにもかかわらず目覚ましい効果があることだ。

 長期欠席はケニアの学校を悩ます慢性的な問題のひとつだが、駆虫によってそれが25%も減少した。治療した子ども1人当たりで出席日数が2週間増え、駆虫プログラムに100ドル費やすたびに全生徒の合計で10年間分に相当する出席日数が増えた。これは、1人の子どもを1日よぶんに学校に行かせるのにたった5セントのコストしかかからないということだ。

 駆虫のメリットは教育だけではなく、子どもたちの健康や経済状態も改善させた。クレマーの同僚たちが10年後の子どもたちの追跡調査を行なったところ、駆虫を受けた子どもたちはそうでない子どもたちに比べて、週の労働時間が3.4時間、収入は2割も多かった。そればかりか、駆虫プログラムはあまりにも効果抜群なので、増加した税収によってコストをまかなうことができた。この慈善活動は、寄付すればするほど「儲かる」のだ。

 ここから、マッカスキルのいう「効果的な利他主義」の意味がわかるだろう。

 慈善プログラムは玉石混交で、なかには寄付なんかしないほうがいいようなヒドいものある。しかしその一方で、寄生虫の駆除のように、ふつうは思いつかないが、「科学的」に検証してみるととんでもなく有効な手法(大当たり)もあるのだ。

 だとしたら「効果的な利他主義者=経済合理的な個人」は、慈善を正しく評価し、自分のお金をもっとも有効に活用できるプログラムに寄付すればいいのだ。

「誰を救って、誰を救わないか」という重い問いに対する回答
 資源が無限にあるのなら、慈善について悩む必要はない。困っているひとすべてに必要な分だけ、お金や食料、薬などを分け与えればいいのだから。

 このように考えると、慈善とは「限られた資源をどのように最適配分すべきか」という経済学的な問題であることがわかる。それはすなわち、「誰を救って、誰を救わないか」という重い問いに答えることでもある。

 医療資源が限られていて、5歳の命と20歳の命のどちらか一方だけしか救えないとしたら、どちらを選ぶべきか? 10人をAIDSから救うのと100人を重い関節炎から救うのでは? 1人の女性をDVから救うのと、1人の子どもを学校に行かせるのではどちらを優先するのか?

 こうした問いにこたえるために、経済学では「質調整生存年(QALY / Quality-adjusted Life Year)が使われる。これは“命を救う(生存させる)”ことと“生活の質(QOL / Quality of Life)のふたつをまとめた指標だ。

 QOL(生活の質)を考慮する必要があるのは、ひとはただ生きながらえていれば、それだけで幸福なわけではないからだ。最期まで家族や友人たちと元気に楽しく過ごせるのなら、多少寿命が短くなってもかまわないと考えるひとはたくさんいるだろう。

 これを簡略化すると、次のようになる。

 あるひとがなんらかの健康上の理由で60歳で死亡するとして、医療技術の進歩で2つの選択肢が与えられた。ひとつは60歳までのQOLを20%向上させ、もうひとつの選択肢は寿命を10年延ばすがQOLは70%に下がる。このどちらが優れているだろうか?

 この問いには、QALYを計算することで回答できる。

 60年間にわたって20%QOLを向上させるのは12QALYだ(60年×20%=12QALY)。それに対して、QOLを70%にして寿命を10年延ばすのは7QALYになる(10年×70%=7QALY)。この両者を比較すれば、寿命を延ばす医療支援よりもQOLを高めることを考えた方がいい。すなわち、財源が限られている場合、ほかの条件がすべて等しいと仮定するなら、QALYが最大になるプログラムに予算を投じるべきなのだ。

 同様に、失業や離婚によって幸福度がどのように変化するかのデータが手に入れば、「幸福調整生存年(WALY / Well-being-adjusted Life Year)を計算できるだろう。慈善の目的は、限られた資源を使ってひとびとを「総体として」より幸福にすることだ。さまざまな慈善プログラムのWALYを比較すれば、費用対効果のもっとも高いプログラムを効率的に発見できるだろう(それと同時に、一見よそうさだけれど現実には災厄しかもたらさないプログラムを排除することができる)。

 この考え方は、個人としての生き方にも応用できる。

 あなたは、欧米や日本のような先進国に「偶然」生まれた幸運を活かして、困難な人生を余儀なくされているひとたちのためになんらかの貢献をしたいと考えている。このとき3つの選択肢があるとしよう。

(1) WALYの高いNPOのスタッフとなって慈善活動に従事する
(2) 高給の仕事についてWALYの高いプログラムに寄付する
(3) 政治家になってWALYに基づいた政策を実現する

 もちろん人生はものすごく複雑だから、どれが正しくてどれがまちがっていると決めることはできない。それでもマッカスキルは、このような「合理的」な思考によって、金融業界に職を得て給与の10%を寄付しようと決めた若者(ローリスク・ローリターン戦略)や、政治家を目指そうとする若者(ハイリスク・ハイリターン戦略)を紹介している。

 高い効果のあるプログラムへの寄付は、確実に「よいこと」につながる。その一方で、政治家として大成できる確率はきわめて低いけれど、もし夢がかなったとしたら、その貢献はとてつもなく大きなものになるだろう。研究者になって「人類を救う」発明をしたり、ベンチャー起業家として「世界を変える」ことを目指すのも同じだ。

マッカスキルが評価する「最高の慈善団体」
 アフリカの貧困、気候変動、動物の権利擁護、アメリカの司法制度改革など、解決しなければならない問題はたくさんある。『〈効果的な利他主義〉宣言!』ではWALYの観点で、どの分野のどの団体が優れているかを評価している。マカッスキルが専門とする貧困問題で効果的な活動をしている団体は以下の5つだ。

(1) ギブダイレクトリー(GiveDirectly) ケニアとウガンダの貧困世帯に条件なしで直接送金を行なっている。

(2) ディベロップメント・メディア・インターナショナル(Development Media International) ブルキナファソの住民に基本的な衛生問題について啓蒙するラジオ番組の制作と運営を行なっている。

(3) 住血吸虫症対策イニシアティブ(SCI / Schistosomiasis Control Initiative) サハラ以南のアフリカ諸国の政府に、学校や自治体を拠点とする駆虫プログラムを実施するための資金を提供。

(4) アゲンスト・マラリア基金(Against Malaria Foundation) サハラ以南のアフリカの貧困世帯に持続性の高い殺虫剤入りの蚊帳を購入し、配布するための資金を提供。

(5) リビング・グッズ(Living Goods) ウガンダで家々を回り、マラリア、下痢、肺炎の治療薬、石鹸、生理用ナプキン、避妊具、ソーラー・ランタン、高効率コンロなどの衛生関連商品を安価で販売したり、健康管理に関するアドバイスを提供したりする地域の衛生推進者たちのネットワークを運営している。

 ここで注意しなければならないのは、マッカスキルが「最高の慈善団体」を挙げていることで、地域は限定されていない。それがサブサハラのアフリカばかりなのは、世界の貧困が特定の地域に集中しているからだ。中国やインド、欧米や日本にも「貧困問題」はもちろんあるだろうが、その解決に1万円寄付するよりも、同じ金額をアフリカの貧困のために寄付した方がはるかに「費用対効果」が高いのだ。

「効果的な利他主義者」としては、自販機で小銭を集める老女に1万円を渡す理由はない
 こうした考え方そのものを拒絶するひともいるだろうが、これを受け入れたうえで、冒頭の私の疑問に戻ってみよう。

「効果的な利他主義者」としては、自販機で小銭を集める老女に1万円を渡す理由はない。彼女は「ゆたかな日本」に生きており、年金や生活保護を受給している可能性が高く、困窮しているとはいえ死に瀕しているわけではない。それに比べてアフリカには、1日100円や200円で暮らさざるを得ず、子どもたちが次々と感染症で死んでいく国がたくさんあるのだ。

 マッカスキルの「効果的な利他主義」への私の疑問は、このように、目の前の不幸に見て見ないふりをする便利な言い訳になるのではないか、というものだ。実際マッカスキルは、(東日本大震災のような)大災害の被災者のために募金することは費用対効果の面で正当化できないと述べている。日本の経済格差も、震災や豪雨や原発災害も、「アフリカに比べればずっとマシ」のひと言でやりすごすことができる。

 もうひとつの疑問は、(これは多くのひとが感じるだろうが)この徹底した功利主義(合理主義)に従うひとがいったいどれほどいるのか、というものだ。

 手に汗して稼いだお金を使う目的は、なんらかの満足感を得るためだ。それが慈善(いいこと)であることもあるだろうが、その場合でも、自分にとってもっとも満足感の高い使い方をするはずだし、そうする権利がある。

「あしながおじさん(おばさん)」になって、貧しい(とはいえアフリカに比べればずっと恵まれている)子どもの教育費用を援助する慈善活動を考えてみよう。このプログラムに寄付すると、子どもから直筆の礼状や写真が送られてきて、将来は援助した子どもを訪ねたり、結婚して子どもができたら訪ねてきてくれるかもしれない(すくなくともそういう場面を想像することはできる)。

 それに対して「最高の慈善団体」に寄付すると、団体からの礼状と追加の寄付を求めるメールが送られてくるだけだ。大半のひとがどちらを選ぶかは考えるまでもないだろう。

 素晴らしい効果が「科学的」に証明されているプロジェクトがあるのなら、ODAなどの資金を使って税金で「寄付」すればいいだけだ。ODAの無駄遣いは強く批判されており、費用対効果をエビデンスベースドで説明できれば有権者も納得するだろう。

 それでも、数少ない「効果的な利他主義者」がいるとしよう。しかしその場合でも、いますぐ寄付しない経済合理的な理由がある。

 あなたが30歳で、一生懸命貯めた貯金が100万円あるとしよう。このお金を「最高の慈善団体」に寄付することもできるが、あなたにはもうひとつ選択肢がある。

 100万円を年利5%で運用すると、10年で163万円、20年で265万円、80歳で死ぬまで50年間運用すれば1147万円だ。

 功利主義的に考えれば、いままさに死のうとしている子どものWALYと、50年後に死の危機にある子どものWALYは等価だ。そう考えれば、あなたはいますぐ寄付するのではなく、そのお金を運用することでWALYを10倍以上にすることができる。

 それにこの戦略には、もうひとつ大きな魅力がある。

 いま100万円寄付してしまえば、あとから後悔してもそのお金は戻ってこない。それに対して死亡時まで寄付を引き延ばせば、その間に思想信条が変わったり、あなた自身が経済的な苦境に陥った場合でも、寄付を取りやめることができる。このように考えれば、功利主義者ほど(いますぐ)寄付しなくなるのではないだろうか。

 とはいえ、これはたんに私がひねくれているだけかもしれない。きわめて刺激的な考え方であることはまちがいないので、あなたがどのように感じるかを知るうえでもぜひ一読を勧めたい。
 

橘 玲(たちばな あきら)

橘玲のメルマガ 世の中の仕組みと人生のデザイン 配信中
作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない?残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)など。最新刊は、『もっと言ってはいけない』(新潮新書) 。
https://diamond.jp/articles/-/194023


〈効果的な利他主義〉宣言!――慈善活動への科学的アプローチ Kindle版
ウィリアム・マッカスキル (著), 千葉敏生 (翻訳)

Social Marketer
5つ星のうち5.0もしあなたが1万円を慈善活動に寄付するなら、そのお金をムダにせず、最も有効に使ってもらうには、どこを選べばよいのか?
2018年12月30日
形式: 単行本Amazonで購入
もしあなたが1万円を慈善活動に寄付するなら、そのお金をムダにせず、最も有効に使ってもらうには、どこを選べばよいのか?
(あるいは、社会に貢献するなら「NGOで働く」「フェアトレード商品を買う」「選挙に行く」といった行動も含め、何をするのがベストか?)

というマニアックな問いに、やたらと定量的な分析で答えている約200ページなのですが・・

・同じ100ドルを寄付するなら?教科書の配布 VS 腸内寄生虫の駆除、ケニアの子ども達の教育にどちらが効果があったのか?
・熱狂的な支持を得て、巨額の資金が投入されたものの、後で「むしろ悪影響だった」と分かった慈善/社会プログラムの事例 ?「プレイポンプ」と「スケアード・ストレート」?
・なぜNGOの財務諸表で、「間接費」(管理費)の比率をチェックするのが、(この本の趣旨からは)全く意味がないのか?
・フェアトレードやエシカル消費は、途上国の発展に本当に役立っているのか?経済学の視点からみると・・
・世界を良くしたいなら、「ソーシャルセクターで働く」のと「稼いで寄付する」のどちらが良い?

などなど、機会費用や期待値、限界効用あるいはランダム化比較試験(A/Bテスト)といった視点で解き明かしていきます。

私はNGO・NPOが寄付を集める「ファンドレイジング」の仕事をしているので、寄付を受け取る団体側への影響を動的or静的に捉えるか?や、寄付する側への幸福度の影響など、それだけじゃないよね!という突っ込みポイントは、個人的にはいくつか浮かびました。
ですが原則的には、寄付されたお金の「費用対効果」を最大化する、というこの考え方には賛同します!

寄付を集める側のマーケティングの視点に経つと、定量的なインパクトというのは、(この本の「功利的な利他主義」の考え方が行き渡らない限り)どこまで効果があるのか・・?というところだったりしますが、インパクトを定量的にご報告して「寄付した良かった」と納得していただくのは、ちゃんとトライしていきたい!と個人的にも思いました。
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Ko ya
5つ星のうち4.0トップギバーって本当はトップtakerなんじゃないか?
2019年2月5日
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利他的なことを算数を使って効率よく行なっていくという考えに感銘しました。
give&takeについて軽く知っている人は絶対読んだ方がいいと思います。
「トップギバーが直感的にしているのってこの本に載っていることなんじゃないかな」って感じたのが僕の一番の感想です。
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yasuji
ベスト500レビュアー
5つ星のうち5.0ケースに応じて善意と幸福の因果関係を見直すべし
2018年11月9日
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 興味深い実例が、善意の行動であっても、その結末が満足できるものであるとは限らないことを教えてくれる。これらの教訓は、本書では取り上げられていないものの、デュエム=クワイン・テーゼの正しさの証明になっている。
 デュエム=クワイン・テーゼとは次のように説明される。従来の実証主義的科学観では、理論はそれに反する実験や観察が見い出されたら、変更しなければならないと考えられてきたが、それぞれの実験や観察結果はネットワーク的に関連し、「場全体」を形成しているので、一つの反証事例が提出されても、理論は変える必要がなくなる(岡本 2012, p.26)。なんだかめちゃくちゃな理論のように思えるが、本書の事例で確認してみよう。

 冒頭に紹介されているケニアの学校の教育改善(テストスコア)の試みで、教科書の配布、フリップチャートの支給、教員の増員を行ったが、目立った効果はなかった。ところが腸内寄生虫を駆除する対策を施したところ、効果抜群であった。このように教育改善の常套手段ではなく、思いもかけない手段が有効だったからといって、教育改善には腸内寄生虫駆除が有効と結論しなくてもよい。これはケニアの学校という教育の「場」のもとでの結論であって、この結論をもってアメリカのカリフォルニアの学校に腸内寄生虫駆除のための薬を持ち込んでも、教育改善の効果がないことは目に見えている。従って従来の方法を変更しなければならないということはないのだ。因果関係はそれぞれの「場」において考察しなければならない。

 注意すべきは、本書の事例の方法が効果的だからといって、それを模倣すれば上手く行くと読んではならない。目的にそってその方法が効果的かどうかを確認すべきだ。こうすれば上手く行くという魔法のような方法はない。こうすべきだという真理もないのだ。
 本書は、因果論でもなく、べき論でもなく、問題に抗して採用する行為の帰結を認識したうえで、その行為の可能性に賭けることを提唱している。これはプラグマティズムの精神そのものである。
 本書は一部の推薦文にあるような、効果的な慈善団体を選ぶための本ではない。自分の善意が本当に役立っていることを知るのは、プライドを獲得することにつながる。本書はそのための指南書である。
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KETAO
5つ星のうち4.0グローバルアジェンダに対する個々人の向き合い方
2018年11月11日
形式: 単行本
貧困や環境破壊などのグローバルアジェンダに対して、個々人としてどう向き合うべきなのか。例えば先進国の医師はアフリカに出向いて疫病と戦うべきなのか、自国で得られる収入を最大限に伸ばし寄付を増やすべきなのか、その場合の寄付先としてどの団体を選ぶべきなのか。

数値を主体とした、いわゆる経済学的アプローチで効用を基準に判断しなければならないというのが著者の主張だ。これを効果的利他主義と呼んでいる。

そこにはQALY(調整生存年)やマイクロモートといったあまり聞きなれないが興味深い指標が組み込まれている。一般的な経済指標と同様に、複雑系に対する限定的なモデリングが腹落ちしがたいが、デザインを中心とした人の欲求・感情を優先する昨今の潮流において、このような視点を得られたことは有難い。

何より多面的な検証が求められる領域だと思うので。
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5つ星のうち5.0ユニセフとかに懐疑的な方
2018年12月1日
形式: 単行本
あなたは正しい。より効果的な慈善活動にコストを集中させるべき。
一人でも多くの方に効果的利他主義を知ってもらい、一人でも多くの命を救いたい。
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https://www.amazon.co.jp/gp/product/B07K1C698T/ref=as_li_tf_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN%EF%BC%9DB07K1C698T&linkCode=as2&tag=mailmagazin0e-22

2018年8月30日 橘玲 :作家
2015年までに世界の「絶対的貧困」を半減させるという
野心的なプロジェクトはその後どうなったのか?
[橘玲の世界投資見聞録]
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 人類社会が新たな千年紀(ミレニアム)を迎えた2000年9月、ニューヨークの国連ミレニアム・サミットで、2015年までに世界の「絶対的貧困」を半減させるという野心的な「ミレニアム開発目標(Millennium Development Goals:MDGs)」が採択された。

 しかし、いったいどうすればこんなことが可能になるのだろうか。「そんなの、ものすごく簡単だよ」といったのが、開発経済学者のジェフリー・サックスだ。2005年に発売された『貧困の終焉――2025年までに世界を変える』はたちまち世界的なベストセラーになった。そこでサックスが唱えたのが「ビッグプッシュ理論」だ。

 ロックグループU2のボノや女優アンジェリーナ・ジョリーが熱心な応援団(広告塔)になったことで大きな話題を集めたが、最近ではサックスの名前を目にすることはほとんどなくなった。あの話はいったいどうなったのだろう。

 そう思ってニナ・ムンク(Nina Munk)の“The Idealist: Jeffrey Sachs and the Quest to End Poverty (イデアリスト:ジェフリー・サックスと「貧困の終焉」の追求)”を読んでみた。

「グローバル経済の敗者」すなわち世界の最貧困層を取材のターゲットに
 著者のムンクは『ニューヨーク・タイムズ』などを経て米誌『バニティ・フェア』で活躍するジャーナリストで、タイムワーナーとAOLの「世紀の合併」の内幕を描いたビジネス・ノンフィクションで注目され、その後はグローバル経済の勝者にして現代の王侯貴族であるヘッジファンド・マネージャーなどを取材した。

 だが彼女は、そうした「金持ちの話」にすぐに飽きてしまったという。そんなときに出会ったのがサックスの『貧困の終焉』で、ムンクは次の取材ターゲットを「グローバル経済の敗者」すなわち世界の最貧困層にすることを思いついた。

 サックスにとっても、ムンクからの取材依頼は渡りに船だった。「ビッグプッシュ理論」を実現するには先進国、とりわけアメリカ社会・政財官界の支持を必要としており、『バニティ・フェア』は大きな影響力をもつ大衆誌だった。こうして両者の利害は一致し、ムンクにはサックスがアフリカで行なうプロジェクトを自由に取材することが認められた。

 ムンクはサックスと一対一で繰り返し長時間インタビューしたほか、「貧困の終焉」を目指すサックスのさまざまな活動にも随伴し、「ミレニアム・ヴィレッジ」と名づけられたアフリカの貧しい2つの村をほぼ5年間にわたって訪れた。

 こうして2013年に満を持して発表したのが“The Idealist”で、文字どおり「理想主義者」のことだ。その徹底した取材は驚嘆すべきもので、欧米で大きな反響を巻き起こし、数々の賞にノミネートされ、フォーブズやブルームバーグ、Amazonなどで「ブック・オブ・ザ・イヤー」の1冊に選ばれたのも当然だろう。

 日本では『貧困の終焉』をはじめサックスの著書の多くが翻訳されているが、残念なことに、その結末を描いた “The Idealist”は日本語になっていない。原書発売から5年を経ていることもあり、今後も翻訳される可能性は低そうなので、ここで概要を紹介してみたい。

「貧困の罠」の本質は初期資本が欠けていること
 絶対的貧困(Extreme Poverty)とは、「人間として最低限の生活(ベーシック・ヒューマン・ニーズ)」が達成されていない状態で、物価の変動を反映させるための何度かの改定を経て、現在は1日1.90ドル(約200円)以下での生活を余儀なくされているひとたちをいう。

 サブサハラ(サハラ砂漠以南)のアフリカは世界でもっとも絶対的貧困の割合が高い地域で、人口のおよそ半分、4億人以上が「最低限の生活」ができない状態に置かれている。なぜこのような理不尽な現状が放置されているのだろうか。そもそもなぜ、ブラックアフリカはこれほど貧しいのか。

 ここで多くのひとは、「奴隷貿易によって搾取されたから」と考えるだろう。もちろんこれは、現在でももっとも説得力のある説明のひとつだが、欧米ではあまり評判がよくない。イギリス、フランスなどアフリカの旧宗主国の白人にとっては過去の傷口に塩をすり込まれるようなものだし、“贖罪”のために莫大は援助(過去50年間に2.3兆ドルとされる)をしたにもかかわらず経済発展にテイクオフできないのは、政治家や官僚の腐敗などアフリカの「自己責任」ではないかとの(感情的な)反論を招き寄せるからだ。

「アフリカ自己責任論」は、誰も公には口にしないものの、「アフリカが発展できないのは人種的に劣っているからだ」という人種主義(レイシズム)を含意している。1970年代まではアフリカ諸国より絶対的貧困率が高かった中国が、わずか30年で「世界2位の経済大国」へと見事に変貌したことが、こうした主張を勢いづかせた。アフリカの経済援助にかかわる白人の専門家のなかでは、これが暗黙の常識になっていることは公然の秘密だ。

 しかしサックスは、「アフリカの貧困は植民地主義時代の“歴史問題”によるものでも、アフリカ人が人種的に劣っているからでもない」というエレガントな説明を提示した。「絶対的貧困に苦しむひとたちは、ゆたかさの階段の最初のステップに足をかけることができない」のだ。

 サックスによれば、アフリカの最貧困地域には満足な医療制度も、社会保障制度も、教育制度もなければ、農業の生産性を高めるための灌漑設備や化学肥料、高収量品種の種子もない。その結果、いくら働いても貧しいままという負の連鎖にはまってしまう。「貧困の罠」の本質は初期資本が欠けていることなのだ。

 最初のステップに足をかけることができなければ、誰も階段を昇ることはできない。これは逆にいえば、一段目に足をかけることができさえすれば、あとは自分で「ゆたかさへの階段」を昇っていけるということだ。これがサックスの「ビッグプッシュ理論」で、「いちどの大規模な援助によって貧しいひとたちを階段の一段目までもち上げれば、彼らは貧困の罠を抜け出せる」と説いた。

 サックスはこれを、「“M word”から“B Word”へ」という。必要なのはMillion(100万ドル)単位ではなくBillion(10億ドル)単位の資金なのだ。

「貧困をなくすための投資には莫大なリターンがある。年間660億ドル(7兆円)を投資すれば800万人の生命を救い、同時に年間3600億ドル(40兆円)の経済的な利益を生み出せる」と、サックスは開発援助関係者の腰が抜けるような数字をあげてみせた。

 この「福音」が欧米のリベラルなひとびとに熱狂的に受け入れられた理由は明白だ。サックスの「ビッグプッシュ理論」が正しいとするならば、最初にちょっと気前のいい援助をするだけで永遠に罪悪感から解放されるのだから。

『貧困の終焉』の成功によってかつてよりずっと大きな注目を手に入れた
 ジェフリー・サックスは1954年にミシガン州デトロイト郊外で高名な弁護士の息子として生まれ、幼少期から“神童”の名をほしいままにした。当然、法律家になるだろうとの両親の期待に反してハーバード大学では経済学を専攻し、弱冠28歳でハーバードのテニュア(終身教授)の資格を取得した。

 サックスの名声を確立したのは、経済学への理論的貢献ではなく華々しい実践によるものだった。

 1985年、南米のボリビアが自由主義経済の導入に舵を切ったとき、31歳のサックスは経済政策顧問として招かれ、大胆な財政改革・市場改革を進言した。財政健全化による失業率の増大などの副作用はともなったものの、これによって1万4000%のハイパーインフレを見事に抑え込んだことでサックスは一躍、開発経済学のスターとなった。新自由主義(ネオリベ)にもとづくサックスの劇薬ともいえる処方性はその後、「ショック・セラピー」と呼ばれるようになる。

 冷戦が崩壊した1989年、サックスは民主化を達成したばかりのポーランドに招かれ、「連帯」指導者の一人で民主ポーランドの初代首相となったマゾヴィエツキの求めに応じてわずか1日で処方箋を書き上げた。この「ショック・セラピー」も、さまざまな弊害をともないながらも、ポーランドが短期間に自由経済に移行するのに大きく貢献したとみなされ、若きサックスの名声は頂点に達した。

 翌1990年、サックスはボリス・エリツィンに招かれ、新自由主義的な経済改革をアドバイスすることになる。だが案に相違して、ロシアは経済発展へのテイクオフに失敗したばかりか、国営企業の無謀な民営化によって「オリガルヒ」と呼ばれる新興財閥が跋扈する異形の経済が誕生し、1998年にはロシア金融危機を起こして財政破綻してしまった。

 それまでの成功に対する嫉妬ややっかみもあるのだろうが、これによって「ショック・セラピー」の伝道師としてのサックスの評判は地に堕ちた。「ミルトン・フリードマンなどの古臭い経済理論を巧みに売り歩くだけのプレゼンテーション屋」と皮肉られるようになったのだ。――ちなみにサックスはロシアでの「失敗」について、急進的な市場改革をエリツィンに指南したディック・チェイニー(ブッシュ政権副大統領)、ロバート・ルービン(クリントン政権財務長官)、ローレンス・サマーズ(同)ではなく自分だけが非難されるのは不当だとムンクに語っている。

 いずれにせよ、新たなミレニアムを迎える頃には、サックスの名声は危機に瀕していた。だが『貧困の終焉』の成功によって、サックスはこの逆境を跳ね返したばかりか、ロックスターやハリウッドのセレブ、さらには国連事務総長(潘基文)まで巻き込んで、かつてよりずっと大きな注目を手に入れることになった。

サックスが始めた「ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト」
 ジェフリー・サックスは、「絶対的な貧困を終わらせることは簡単(easy)」だという。だとすれば、これまで長年、貧困を改善しようとたたかってきた欧米の開発経済学者や貧困救済団体はいったいなにをしてきたのだろうか。

「彼らは最初からやり方を間違えていたのだ。なぜなら“経済学的に無知(economically ignorant)”で“バカ(idiots)だから」

 サックスの理屈ではそうなるほかはないし、実際、巨大なエゴの持ち主で「傲慢」と忌み嫌われたサックスは“良心的”な貧困問題の専門家を面と向かって罵倒した。当然のことながら、主流派の開発経済学者との非難(というか罵詈雑言)の応酬が勃発した(ウィリアム・イースタリー『エコノミスト 南の貧困と闘う』)。

 サックスは、こうした「無理解」と戦うために、なんとしても「ビッグプッシュ理論」の正しさを証明する必要があった。そこで、持ち前の「プレゼンテーション能力」を発揮して慈善団体などから1億2000万ドル(約130億円)もの巨額の資金を集め、アフリカのもっとも貧しい地域にある10の村で大規模な実験を行なうことにした(最大の理解者はジョージ・ソロスで、サックスのプロジェクトに5000万ドルを出資した)。1日の生活費が2ドル以下で暮らすひとたちの村に、1カ所あたり10億円を超える投資をするのだから、まさに「ビッグプッシュ」だ。サックスはこれを、国連のミレニアム・プロジェクトにちなんで「ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト(Millennium Village Project:MVP)」と名づけた。

サックスに魅せられた高学歴で純真な「信者」たち
 エチオピア、ウガンダ、ケニア、タンザニア、マラウィ、ルワンダ、ナイジェリア、ガーナ、マリ、セネガルにつくられたサックスのミレニアム・ヴィレッジのなかから、ジャーナリストのニナ・ムンクは、ケニア北東部でソマリアとの国境近くにあるダートゥ(Dertu)と、ウガンダ南西部の高地にあるルヒーラ(Ruhiira)という村を定点観測に選んだ。

 ダートゥの現地責任者はアーメド・マリ−ム・ムハンマドという40代のソマリ人で、大半のソマリ人と同じくラクダの群れとともに移動する遊牧民の子どもとして生まれたが、幸運にも(もちろん本人の努力もあって)高等教育を受けることができ、国内の農業大学で学位を、留学したベルギーの大学で「乾燥地帯の自然資源の管理」の博士号を取得した。

 ケニアに帰国すれば高級官僚の道が約束されているアーメドが選んだのは、サックスのミレニアム・ヴィレッジだった。自分が幼い頃に経験し、いまも多くの同胞たちが苦しんでいる貧困を終わらせることができるという「偉大なる博士の理想(the Great Professor’s Ideas)」の魅力はそれほど強烈だったのだ。

 ルヒーラの現地責任者は30代半ばのデイヴィッド・シリリで、ウガンダ独立(1962年)後に数学教師の父親と病院の助産婦の母親という新興中流階級の家庭に生まれた。だが幸福な日々はイディ・アミンの独裁によって終わり、社会秩序の混乱と崩壊のなかデイヴィッドの両親は家を捨てて逃れるほかなかった。

 アミンの失脚(1979年)によってその蛮行が欧米で広く知られるようになると、社会福祉団体などからの支援金が送られてくるようになった。デイヴィッドは幸運にもその資金を得て学校に復帰し、10万人の応募者に合格者2000人という難関を突破してウガンダ国立大学に入学、イギリスの大学に留学して農業・森林学の博士号を取得した。その直後にミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクトに参加したのはアーメドと同じだ。

 サックスは2002年にハーバードからコロンビアに移籍していた(コロンビア大学は有名教授であるサックスを招聘するために800万ドル(約9億円)でニューヨーク・マンハッタンに庭付きタウンハウスを用意した)。ミレニア・ビレッジ・プロジェクトの本拠はコロンビア大学内に置かれ、アーメドやデイヴィッドのようなアフリカ生まれの優秀な若者がそれぞれの村の責任者として派遣された。

 彼らは、サックスの「貧困救済教」というカルト宗教に魅せられた高学歴で純真な「信者」たちだった。


アフリカ・マダガスカル       (Photo:?Alt Invest Com)
ミレニアム・ヴィレッジの苦闘
 サックスは、2006〜11年の5年間の「ビッグプッシュ」でミレニアム・ヴィレッジは自立したゆたかな村に変貌すると豪語した。その成功にもとづいて、同じプロジェクトを世界じゅうに広げれば、2025年までに人類の貧困は終焉するのだ。現地責任者であるアーメドやデイヴィッドに与えられた使命は、巨額の資金を有効活用して医療・教育・農業・産業振興のためのインフラを整備することだった。

 彼らの苦闘がニナ・ムンクの『アイデアリスト』の読みどころなのだが、そのすべてを紹介することはできないので、ここでは経緯のみをかんたんにまとめておこう。

 アーメドが担当したダートゥは国家としてはケニアに属しているがもとはソマリ人の遊牧地だった。サックスが集めた資金で病院や学校などを整備したことで街の人口は急速に増え、藁ぶき屋根は真新しいトタン屋根になり、雑貨店やレストランもできて、近隣のなかでももっとも繁栄する村に生まれ変わった。だが問題は、ひとびとを養う産業が存在しないことだった。

 遊牧民にとってはより多くのラクダを保有することがステイタスで、労働は卑しむべきこととされ、農業はもちろん建築などの仕事に従事させることも論外だった。こうしてダートゥは、慈善団体の資金に依存する難民キャンプの様相を呈してきた。村に集まってきた元遊牧民たちは、日がな一日木陰で噂話に興じ、アーメドたちに苦情をいった(支援金で1人1軒の家を建て、国連事務総長が村を訪問し、灌漑のために川の流れを変えるように要求されてアーメドは困惑した)。住民が考えるのは多くの支援金を得ることだけで、世帯単位で食料を配給すると複数の家を登録する者が次々と現われた。

 アーメドは、遊牧民である村人が自立するにはラクダの取引市場をつくるしかないと考えた。2007年夏に行なわれた取引所の開設式にはサックスも参加し、欧米のメディアでも紹介された。これがアーメドにとってもっとも成功した瞬間だったが、それは長くは続かなった。ダートゥは地域の中心から大きく外れており、遊牧民にとってはそこでラクダを売買することになんの魅力もなかったのだ。

 一方、デイヴィッドの担当するウガンダのルヒーラは貧しい農民たちの村で、化学肥料や高収量の種子を無償配布することで収穫を大きく増やすことができた。これは大きな成果として喧伝されたが、デイヴィッドもやはり問題を抱えていた。

 ひとつは水の確保だった。高地にあるルヒーラでは、ひとびとは水を得るためにはるか下の谷まで降りていかなくてはならず、その重労働で1日が終わってしまった。谷から農業用水を安定して汲み上げるには長大なパイプと強力なポンプ、じゅうぶんな燃料がなくてはならない。それは大事業であり、それ以外にも学校や病院などを建設しなくてはならないのだから、村の事業予算を大幅に超えてしまうのだ。

 それでもサックスは、アメリカのパイプ・メーカーと交渉して無償で灌漑のための大量のパイプの提供と、設置に必要な技術者の派遣を同意させた。だが、このパイプをアメリカからウガンダまで船で輸送し、そこから僻地にあるルヒーラに運ぶ方法が問題になった。大型トラックもハイウェイもなく、どのような見積もりでも輸送コストがパイプそのものと同じくらいかかってしまうのだ。

 さらなる難題は、ウガンダの既成のパイプがイギリス仕様なのに対し、提供されるパイプはアメリカ仕様だったことだ。両者を接続するには、いちいちコンバーターをつけなくてはならない。

 このやっかいな事態に対してニューヨークの優秀なスタッフが編み出した解決策は、思いがけないものだった。そもそも、水を汲み上げるのにパイプやポンプが必要不可欠だと思うことが間違っているのだ。現地では伝統的に、悪路の物資の運搬にロバを使っている。だとしたら、なぜ水の運搬にロバを使ってはならないのか。

 こうしてデイヴィッドのところには、大規模な灌漑施設の代わりに8頭のロバが届けられた。

 もうひとつの問題は、このジョークのような話よりずっと深刻だった。トウモロコシの収穫が倍に増えたのはいいが、僻地でマーケットもないため、それを販売する方法がないのだ。その結果、近隣のトウモロコシ価格は暴落し、農民は売却をしぶって自宅や周辺の敷地に積み上げた。農産物を保管する倉庫がないので仕方がないのだが、ネズミが大発生して大半を処分するほかなくなった。

 これを解決するには大規模な保管倉庫をつくるだけでなく、収穫物を都市に運ぶ道路・トラックなどの交通インフラや農産物の取引市場が必要だった。いずれもデイヴィッドに与えられた予算と権限ではどうしようもないことだった。


アフリカ・マダガスカル        (Photo:?Alt Invest Com)
「ミレニアム・ヴィレッジは大失敗」が常識に
 ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクトに選ばれた村ではマラリアの感染率が下がり、出産で死亡する妊婦が減り、子どもたちの教育年数が増えるなど、かなりの成果を達成した。だが当初の5年間を経て、この成長が持続可能かどうかについては大いに疑問があった。プロジェクトの批判派からの辛らつな攻撃だけでなく、アーメドやデイヴィッドなど現地責任者から「資金の流入が止まれば村は崩壊する」との訴えが山のように届いていたからだ。

 こうしてサックスは、当初の計画の修正を余儀なくされた。2011年までの5年間はプロジェクトの「第1フェーズ」で、そこで経済発展に必要なインフラを構築し、2016年までの新たな5年間を「第2フェーズ」として、援助(贈与)ではなく融資(投資)によって野心的な起業家を養成しさまざまなビジネスを軌道に乗せるというのだ。

 だがサックスの奮闘にもかかわらず、第2フェーズの資金集めは順調とはいえなかった。ニナ・ムンクは経験のあるジャーナリストではあるが、開発経済学はまったくの門外漢だった。そんな彼女ですら、プロジェクトは大きな問題を抱えており、そもそもサックスが最初から間違っていたのではないかと疑うようになった。現地とニューヨークの本部との関係は険悪になり、村のなかでも足の引っ張り合いが起こり、サックスの忠実な「信者」だったアーメドは2010年春に解雇されてしまう。「ミレニアム・ヴィレッジは大失敗だ」というのは、援助関係者のあいだでは常識になりつつあった。

 だが私たちは、このプロジェクトの結末を知ることができない。

 2011年夏にアフリカは記録的な干ばつに襲われた。ソマリアの遊牧地は干からび、ラクダは死に絶え、難民たちが国境を越えてケニア側に押し寄せた。難民にはイスラーム原理主義の過激派も混じっており、彼らは白人の援助関係者を殺し、あるいは誘拐して身代金を要求した。ケニアのソマリ地区からは白人はすべて退去し、ムンクもダートゥを二度と訪れることができなくなった。

 同じく、干ばつのためウガンダの政情も混乱をきわめた。首都カンパラにあるミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクトの支部は略奪にあい、デイヴィッドもルヒーラを放棄せざるを得なくなった。

 このようにして、アフリカの「ビッグプッシュ」に投じられた1億2000万ドルの大半(すくなくともダートゥに投資された400〜500万ドルの資金のすべて)は失われてしまった。サックスは、「村は次々と災難に見舞われた。ヨブ記のように」と他人事のように評論するだけで、プロジェクト自体は成功しつつあったと強弁しているが、ミレニアム・ヴィレッジと同程度の経済成長は、経済のグローバル化によってアフリカの他の地域でも達成されている。


アフリカ・マダガスカル         (Photo:?Alt Invest Com)
「“貧困ポルノ”は幕を下ろした」
 サックスが強烈なエゴによって援助関係者からの批判を粉砕し、強引にプロジェクトを進めたとしても、貧困を撲滅するという彼の奮闘がすべて無意味だったということはできない。

 マラリアを媒介する蚊を防ぐための虫よけネットは住友ケミカルが開発したもので、防虫剤を添付することで高い殺虫効果をもっていた。サックスは200万ドル分の虫よけネットを寄贈するよう住友ケミカルを説得したが、これに対して既存の援助関係者から「防虫ネットの市場をつくろうとしてきたこれまでの努力を台無しにする」との強い批判が起きた。

 サックスは、「市場より大切なのはひとびとの生命だ。先進国ではワクチンを無償で接種できるが、これを止めてワクチン市場をつくれというのか」と反論した。かつては市場原理主義的なショック・セラピーの伝道者だったサックスは、こんどは市場原理を否定するようになったのだ。

 中立的な経済学者のなかにも、この論争ではサックスに分があるとする者も多い。「防虫ネットの市場をつくる」という試みも、たいしてうまくいってないからだ。だったら、いますぐただで配ってどんな不利益があるというのか。

 だがこうした数々の論争のなかで、サックスが常に「生命」を盾にとって論敵を非難してきたことは否定できない。ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクトを批判する者は誰であれ、生命より市場(金儲け)を優先しようとしているのだ。

「死につつあるひとたちを放置するのか、そのためになにかしようとするのか、あなたの選択はふたつにひとつだ」とサックスは繰り返し力説した。だが2011年、干ばつでミレニアム・ヴィレッジが崩壊し、過激派組織や暴徒によって村人たちの生命が危機に瀕したとき、サックスはなにもしなかった。――この批判はきびしすぎるかもしれない。だがニナ・ムンクは、これまでのサックスの主張にのっとれば、このようにいうほかないと書く。天に吐いた唾は自分のところに落ちてくるのだ。

 サックスは、「貧困を終わらせるのは簡単だ」との主張で時代の寵児になった。だがすべてが終わったあと、ムンクとの最後のロング・インタビューで、かつては「世界をよりよいものに変えられる」という確信を抱いていたことについて問われ、こう述懐している。

「この不確かな世界ですら、ひとは強い確信をもつことができる。ほんとうのところ、それができうる最善のすべてで、私にとっての“確信”とはそういうものだ」

「それ(ミレニアム・ヴィレッジ・プロジェクト)が最善の最善(the best of the best)であったかどうかを問うことに意味があるとは思わない。それは、私がもっているもののなかで、私にできるベストだった」

 世界金融危機ののち、サックスの関心はアフリカからアメリカの経済格差に移り、「ウォール街を占拠せよ」の集会で強欲を批判し、税制改革、銃規制、ワシントンの空洞化、ユーロ圏の崩壊から地球温暖化問題まで手当たり次第に演説し、寄稿し、tweetしているという。それはまるで、新たに伝道できる「ネタ」を探しているかのようだ。2005年の絶頂期にはサックスを次期アメリカ大統領選の候補者にするという運動も盛り上がったが、その団体もとうに解散された。

 雑誌『エコノミスト』誌は2012年3月、「貧困の終焉」にかけた「ライブエイドの終焉(The End of Live Aid)」という記事を掲載して一連の騒動を総括し、「サックス氏がU2のボーカリスト、ボノなどのセレブととともに繰り広げたロックコンサート風の“貧困ポルノ(poverty porn)”は幕を下ろした」と書いた。

橘 玲(たちばな あきら)

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作家。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ヒット。著書に『「言ってはいけない?残酷すぎる真実』(新潮新書)、『国家破産はこわくない』(講談社+α文庫)、『幸福の「資本」論 -あなたの未来を決める「3つの資本」と「8つの人生パターン」』(ダイヤモンド社刊)、『橘玲の中国私論』の改訂文庫本『言ってはいけない中国の真実』(新潮文庫)など。最新刊は、『朝日ぎらい よりよい世界のためのリベラル進化論』(朝日新書) 。
https://diamond.jp/articles/-/178555



2014年1月23日 橘玲 :作家
”フェアトレード”の不公正な取引が
貧しい国の農家をより貧しくしていく
[橘玲の世界投資見聞録]
?前回は、人道主義者の善意がアフリカの紛争現場でどのような事態を招いているかを告発したリンダ・ポルマンの『クライシス・キャラバン』を紹介した。

参考記事:”悲惨な現場”を求めるNGOの活動がアフリカで招いた不都合な真実

?今回はそこまで深刻な話ではないものの、やはり「善意の裏側」を取材したコナー・ウッドマンの『フェアトレードのおかしな真実』(英治出版)を取り上げてみたい。

フェアトレードの主張は素晴らしいが…
?フェアトレードは、「市場経済は貧しい国や貧しいひとたちを搾取している」として、「公正な取引Fair trade」を企業に求めるアンチ・グローバリズムの運動のことだ。日本ではまだそれほど知られていないが、欧米(とくにイギリス)では「倫理的意識(ethical awareness)」の高まりで広く普及しているのだという。フェアトレード財団だけでなく、レインフォレスト・アライアンス(熱帯雨林保護)、フォレスト・スチュワードシップ・カウンシル(森林保護)、UTZサーティファイド(サスティナブルなコーヒー)など、同様の趣旨で運営されている認証機関はいくつもある。

?フェアトレードの主張は、「アフリカや中南米で、グローバル企業が農家のコーヒーやカカオ豆を不当に安く買い叩いている」というものだ。そのため農家は熱帯雨林を伐採し、それでも生活できず困窮に陥って破産してしまう。この問題を解決するもっとも有効な方法は、貧しい国の農家も労働に対する適正な利益が得られるよう、グローバル企業が「公正な価格」でコーヒーやカカオ豆を購入することだ。そうすれば農家の経営は安定し、無理な農地拡大も必要なくなり、自然もひとびともサスティナブル(持続可能)になるだろう。

?素晴らしい話だが、はたしてほんとうだろうか??そんな疑問を抱いたイギリスのジャーナリスト、コナー・ウッドマンは自分の目でフェアトレードの現場を確かめる旅に出る。

?“フェアトレード先進国”であるイギリスでは、スターバックスやネスレがいち早く倫理的認証を受け、「環境にやさしくない」企業の代名詞だったマクドナルドまでがレインフォレスト・アライアンスの認証マーク付きコーヒーを売っている。キャドバリー社の国民的なチョコレートも、2009年にフェアトレードの認証を受けることになった。


コーヒー農園(ハワイ島で撮影)
?その記者会見に出席したウッドマンは、なんともいえない違和感を持った。そこには「FAB(Fairtrade Association Birmingham)」と白抜きされた黒のTシャツを着た活動家たちが集まっていて、キャドバリー社の社長の発表を聞いて、「目には涙を浮かべ、誇らしげに胸を張り……『すばらしい!』とだれかがさけんだ」のだ。

?活動家の一人は、次のように声高に証言した。

「のんびりコーヒーを飲んだりチョコレートを食べたりしているだけで世界を変えられるなんてだれも思っていなかったけど、どうやらできるみたいだな」

?これって、カルト宗教の集会みたいじゃないか。

名だたる大企業が次々と認証を受ける理由
?フェアトレード財団の2010年時点のホームページには、次のような主張が掲載されていた。

〈コーヒーの価格は、2000年以来記録的な低迷に苦しんでいます。コーヒー豆の生産費よりはるかに低く、世界中のコーヒー農家を危機に陥れています。〉

?しかしこの主張はまったくのデタラメだ。ニューヨーク市場におけるコーヒーの国際価格は2002年以来着実に上昇し、タンザニアで生産されているマイルド・アラビカ豆は2002年の1.32ドル/キロから2011年に5.73ドル/キロまで高騰した。「世界のコーヒー価格に『記録的』なことがあったとすれば、それは記録的な高値だということだ」とウッドマンはいう。

?それに対してフェアトレードが「公正」とする最低価格は2.81ドル/キロで、市場価格の半値以下でしかない。リーマンショック直後の3カ月を除き、市場価格がこの最低価格を下回ったことはなかった。

?これは要するに、「倫理的認証を受ける企業は、フェアトレードの最低価格によって仕入れコストが上がる心配をする必要はまったくなかった」ということだ。市場価格が最低価格を上回っているかぎり、企業の負担は認証されたコーヒーやカカオ豆を購入する際の割増金だけだが、もともとコーヒーやチョコレートにおける原材料比率は高くないので(スターバックスなどはコストの大半が不動産賃料と人件費)、実質的な割増金負担はごくわずかだ。ウッドマンの試算では、キャドバリー社が支払う割増金はミルクチョコ1本につき0.25セントにすぎない。

?これで2005年以降、名だたる大企業が次々と倫理的認証を受けるようになった理由がわかる。

?企業からすれば、ほんのわずかな追加コストで「ひとにも自然にもやさしい企業」というブランドイメージを手にできる。レインフォレスト・アライアンスの認証を受けたことで、マクドナルドのコーヒーの売上げは25%増えたという。「フェアトレードは儲かる」のだ。

フェアトレードによる「不公正」な取引
?しかしそれでも、「フェアトレードによって、農家は価格の最低保障という“保険”に無料で加入できるのだからいいではないか」と思うひともいるだろう。この理屈は正しいのだろうか??そこでウッドマンは、タンザニアのコーヒー農園にフェアトレードの実態を見にいく。

?倫理的認証団体は小規模な農家まで個別に認証しているわけではない。そんなことは物理的に不可能だから、地域ごとに協同組合を設立して、組合が商品の品質を保証したうえで(スターバックスやマクドナルドなどの)大口顧客に販売する。「農家が個別に価格交渉するよりも集団で交渉した方が有利だから」だ。

?ところがウッドマンは、現地で不可解な現実を目にする。

?タンザニア産のコーヒー豆が国際市場で5ドル/キロを上回る史上最高値を記録しているにもかかわらず、フェアトレードに参加する農家が受け取っていたのは1.38ドル/キロだけだったのだ。これはフェアトレードが「公正な価格」とする2.81ドル/キロの半値以下だ。

?なぜこんな「不公正」なことが起こるのだろうか。

?それは協同組合が現地の有力者に支配され、彼らが人件費や管理費などの名目で農家を“搾取”しているからだ。しかしフェアトレードは協同組合がないと事業が継続できないため、こうした不都合な事実に気づいていても目をつぶって放置しているのだという。

?その結果、協同組合を通さず、農家や農場が直接コーヒー豆を販売する試みが始まった。たとえば同じタンザニアの村で、「エシカル・アディクションズ」という団体は3.14ドル/キロで農家からコーヒー豆を購入し、高品質の豆を求める企業に販売している。倫理的認証を受けないことで農家の利益は2倍以上増えたが、こうした動きが広がれば協同組合の利益が失われてしまうため、現地の緊張が高まっている。活動の趣旨とは逆に、フェアトレードが貧しい国の農家をより貧しくしているのだ。


最高級のコーヒー豆が栽培されるジャマイカのブルーマウンテン
世界でもっとも貧しい国の実態
?フェトレードのような倫理的認証団体は、冷酷無比な「グローバル企業」こそが経済格差を生み、貧しい国のひとびとを苦しめているのだと非難する。そこでウッドマンは、世界でもっとも貧しい国のひとつであるコンゴ民主共和国を訪れた。

?ルワンダ内戦の影響でコンゴ東部にフツ族の大規模な難民キャンプが生まれ、その後、ツチ族のルワンダ軍の攻撃で難民キャンプは壊滅した(その経緯は前回述べた)。その結果、フツ族の民兵はコンゴのジャングルに身を隠し、FDLR(ルワンダ解放民主軍)を結成する。FDLRはコンゴ東部を暴力的に支配し、コンゴ人女性や少女たちを誘拐してレイプし、村人たちの四肢を切り落とした。

?このような状況のなかで、農業のできなくなったひとびとは生きるために換金性の高い商品を求めて必死になった。ウッドマンが彼らとともに体験したのは、懐中電灯ひとつで坑道に入り、スズ石を掘り出すことだった。コンゴ東部には良質のスズ鉱山がいくつもあるのだ。

?ただしこの仕事には大きな危険がともなう。

?ウッドマンが潜った坑道はベルギーの企業が開発したものだった。鉱山開発会社は坑道までレールを引き、さまざまな機材を使って採鉱を行なっていた。ただしそれは、コンゴが独立する1960年までのことだ。

?それから50年間、鉱山は放置されてきた。いまではレールは使えなくなってバケツリレーでスズ石を運ぶしかなく、坑道に貯まった水を汲み出すための発電機もない。そのため村人たちは、懐中電灯だけを頼りにいつ崩れるかわからない坑道に入り、素手でスズ石を掘り出すしかないのだ。

?コンゴの村の苦難はグローバル企業が生み出したのではなく、グローバル企業(ベルギーの鉱山開発会社)が撤退したことで始まったのだ。

グローバル企業の合理的な判断が貧しい農家を救っている現実
?本書の最後で、ウッドマンはアフリカ東海岸のコートジボワールに綿農家を訪ねる。

?アフリカでは250万人の農家が1ヘクタール単位の畑を牛を使って耕し、1トンか2トンの綿を収穫している。アメリカの大規模生産者に比べれば微々たる量だが、それを合わせると世界の綿輸出量の20%にもなる。

?コートジボワールは綿の一大産地だが、2002年から04年までの内戦によって国内の綿繰り工場(収穫された綿から種や不純物を取り除く工場)がすべて倒産してしまう。内戦終結後にその工場を落札したのが、シンガポール市場に株式を上場する世界最大手の農業商社のひとつオラムだ。綿相場の上昇によって、オラムはコートジボワールの綿事業に投資する価値があると判断したのだ。

?コートジボワールにおけるオラムの綿事業の責任者は、ジュリー・グリーンという30歳のアメリカ女性だ。ジュリーはアフリカ暮らしが7年目で、最初はNGO職員として学校の建設や水汲みポンプの設営をしてきたが、「活動の進捗のなさにうんざり」して、ジュネーヴでMBAを取得してオラムに移った。

?ジュリーの監督の下で、倒産した工場の稼働率は1年目に70%、2年目以降は100%と劇的に蘇った。しかし変わったのはそれだけではない。

?以前の工場は、基本的な安全面での予算もなくきわめて危険だった。いまはケーブルのまわりにケージが置かれ、火災を起こしたときのための送水ポンプも設置された。もちろん手袋やマスク、ゴーグルなどの安全装備も従業員全員に配布されている。以前はいちど壊れてしまったら、ボスから「残念だったな」といわれてそれで終わりだったのだ。

?だからといって、オラム社がボランティア精神に溢れていたり、CSR(企業の社会的責任)にちからを入れているわけではない。世界じゅうのすべての工場で当たり前のようにやっていることを、コートジボワールでも行なったにすぎない。工場の安全管理は、事業を行なううえでの基本中の基本なのだ。

?オラムはまた、契約する綿農家に高品質の種を無料で配布し、農薬や肥料の費用を無利息で前倒し融資するばかりか、村人たちがトウモロコシを栽培する肥料も余分に渡している。だが管理責任者のジュリーは、これも人道主義とは無関係だという。

?高品質の種を無料で配布するのは、農家に品質の高い綿を栽培させ、サプライチェーンの中に他品種が混入するリスクを軽減するためだ。無利子の前倒し融資は、農家の経営を安定させることで綿の安定供給を図るためだ。農家の食料であるトウモロコシのために肥料を余分に渡すのは、そうしなければ綿用の肥料が転用されてしまうからだ。

?すべては高品質の綿をより多く生産するための合理的な経営判断だとジェリーはいう。「貧しくて飢えている農家を抱えていても、私たちにはいいことは何もありません」

貧困の原因は腐敗した政府にある
「フェアトレードのおかしな真実」をめぐる旅でウッドマンが思い知ったのは、貧困の原因は腐敗した政府であり、権力の崩壊がもたらす内戦や内乱だということだ。それによってグローバル企業が撤退し、仕事を失った現地のひとびとが経済的な苦境に追い込まれる。

?その一方でコートジボワールのオラム社のように、現代のグローバル企業は利益を追求しながらもコンプライアンスにしばられ、社会的な評判を気にしている。そのうえ彼らは投資のためのじゅうぶんな資金を持ち、優秀な人材(それもジュリーのように、ビジネスを通じて社会をよくしたいと考える若者)を抱えている。

?だとしたら「経済格差の元凶」としてグローバル企業を敵視するのではなく、彼らのちからを上手に利用した方がずっといいのではないか――それが、長い旅を終えてウッドマンのたどり着いた結論だ。

?フェアトレードのマークのついたコーヒーを飲んでいるだけでは、世界はなにひとつ変わらないのだ。

<執筆・?橘 玲(たちばな あきら)>

作家。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。「新世紀の資本論」と評された『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。著書に『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術?究極の資産運用編』『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術?至高の銀行・証券編』(以上ダイヤモンド社)などがある。ザイ・オンラインとの共同サイト『橘玲の海外投資の歩き方』にて、お金、投資についての考え方を連載中。

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2014年1月16日 橘玲 :作家
”悲惨な現場”を求めるNGOの活動が
アフリカで招いた不都合な真実
[橘玲の世界投資見聞録]
?ほんとうは昨年末にアップしたかったのだが、遅ればせながら2013年に読んだ本のなかでもっとも印象に残ったリンダ・ポルマンの『クライシス・キャラバン』(東洋経済新報社)を紹介したい。

?著者はオランダのフリージャーナリストで、世界各地の紛争地帯で国連やNGO(非政府組織)の活動を取材している。前著『だから、国連はなにもできない』(アーティストハウス)は、ソマリア、ハイチ、ルワンダ、ボスニアなどの現場から、自国の利害と保身のために国連の安全保障理事会が機能不全に陥っている現状と、PKO(国連の平和維持活動)がなんの役にも立っていないばかりか、現地の状況をさらに悪化させているという実態を描いて大きな反響を呼んだ(安倍政権が唱える「積極的平和主義」を考えるうえでも参考になる)。『クライシス・キャラバン』では、「紛争地における人道援助の真実」という副題が示すように、NGOなどの援助活動がアフリカでどのような事態を招いているかを告発している。

民間人の四肢を切断する反政府組織
?アフリカ西部の大西洋岸に位置するシオラレオネはかつてのイギリス領で、首都フリータウンは、18世紀後半の奴隷廃止運動を背景に、解放された奴隷たちの定住地(自由の町)として開発された。その後はイギリス統治下で大学などの教育制度が整えられ、西アフリカの中心地として発展したが、1961年に独立してからは内戦とクーデターを繰り返すことになる。

?紛争の原因はダイヤモンド鉱山の利権で、貧弱な軍事力しか持たない政府は南アフリカの鉱山開発会社からPMC(民間軍事会社)の派遣を受け、反政府組織RUF(革命統一戦線)と衝突した。RUFを率いたアハメド・フォディ・サンコーはイスラム教徒で、リビアのカダフィ大佐のもとで軍事訓練を受け、ゲリラの支配下にある鉱山から産出したダイヤモンド(ブラッドダイヤモンド)で武器を購入し、1991年から8年間に及ぶ内戦に全土を巻き込んだ。

?RUFは拉致した子どもたちに麻薬と銃を与え、少年兵として戦闘に参加させたが、それと並んで世界を震撼させたのは民間人を襲撃して鉈で手足を切断したことだ。その惨劇は新聞や雑誌に写真入りで報道され、テレビニュースでも何度も放映されたから記憶に残っているひとも多いだろう。

?ところでRUFはなぜ、民間人の四肢を切断したのだろうか。

?ルワンダやボスニア・ヘルツェゴビナのような民族紛争では、敵対する民族を絶滅させようとする「民族浄化(エスニック・クレンジング)」が起こる。これは悲惨な出来事だが、人類史をひも解けばけっして珍しいことではない。旧約聖書を読めばわかるように、ヒトは紀元前の昔から集団を「俺たち」と「奴ら」に分け、「奴ら」を皆殺しにする蛮行をえんえんと繰り返してきた。

?伝統的社会の戦争では、敵の身体の一部を切断するという風習が広く知られている。だがその「身体の一部」とは首のことで、台湾や南太平洋の狩猟採集社会は“首刈り族”と呼ばれていたし、戦国時代の日本でも敵将の首を獲ることが最高の武勲とされていた。それに対して、敵の手や足を切断する風習はどのような伝統的社会でも知られてはいない。

?それではなぜ、アフリカの一部でだけ、それも20世紀末になって、手足の切断が始まったのだろうか。これは一般には、「農作業をできなくしてゲリラ組織に依存させるため」などと説明されるが、これではゲリラ組織の負担は重くなるばかりだ。奴隷として働かせるか、殺害して土地を奪うのならわかるが、四肢のない人間を生かしておいても経済的な利益はなにもないように思われる。

?リンダ・ポルマンは本書でこの謎を解き明かすのだが、その衝撃的な結論を紹介する前に、国際人道援助を行なうNGOとはどういうものかを説明しておく必要がある。

ルワンダ難民は虐殺した当事者たちだった
?1994年に起きたルワンダの虐殺では、多数派のフツ族によって少数派のツチ族が殺害され、100日という短期間にルワンダ国民の約2割、80万人が犠牲になった。第2次世界大戦以降で最悪の惨事のひとつとなったこの事件は、映画『ホテル・ルワンダ』や『ルワンダの涙』によって日本でも広く知られている。

?ルワンダからの難民が集まったもっとも有名なキャンプが、コンゴ民主共和国(当時のザイール)の国境、キブ湖の畔にあるゴマだ。ポルマンは事件直後、この難民キャンプを取材してなんともいいようのない違和感を覚えた。

?ルワンダ虐殺を報じるテレビニュースを観た欧米のひとびとは、鉈で惨殺された死体が道路脇に積み上げられ、川や湖を埋める映像に大きな衝撃を受けた。やがてそれは家財道具を抱えて国境へと逃げ延びるひとびとに変わり、次いでゴマの難民キャンプが大々的に報道された。この一連の流れを見れば、誰もが虐殺の対象となったツチ族のひとたちが難民となって隣国に逃れたと思うだろう(実際、そうして難民化したひとも多かった)。

?だが現実はもっと奇怪で複雑だった。

?フツ族とツチ族は宗主国だったベルギーが統治のために人工的に生み出した民族で、少数派のツチ族を支配民族として優遇したため1962年の独立前から両者の紛争は始まっていた。このときツチ族の一部が隣国のウガンダに逃れ、そこで軍事組織「ルワンダ愛国戦線(RPF)」を組織した。ルワンダでフツ族による虐殺が始まると、その混乱に乗じてRPFは国内に侵攻し、全土を制圧した。その結果、報復を恐れたフツ族の民衆が大挙して国境を越えて難民化することになったのだ。


ヨルダンのアンマン近郊にあるシリアからの難民のキャンプ??(Photo:cAlt Invest Com)
?欧米のひとびとがテレビで見たゴマの難民たちは、ルワンダでツチ族を虐殺した当事者たちだ。彼らが人力車などで運んできた「家財道具」は、皆殺しにしたツチ族の家から強奪したものだった。だがこうした事実はほとんど報じられず、「虐殺→難民→人道の危機」という構図に短絡化されることになる。ニュースの限られた時間では、ここで述べたような複雑な背景を説明できないからだ。視聴者は単純でわかりやすい話を求めているのだ。

?ゴマの難民キャンプの近くには大型輸送機が発着できる仮設滑走路があった。ルワンダの虐殺と、200万人ともいわれる大量の難民の存在が知られるようになると、その現場を取材しようとジャーナリストたちが飛行機に乗ってやってきた(ポルマンのその一人だ)。

?それと同時に、ルワンダ難民を“援助”すべく多くのNGO団体がゴマに殺到した。彼らが人道援助の対象にゴマを選んだのはフツ族を支援したいと考えたからではなく、滑走路があって報道陣がいたからだ。

?NGOの寄付者(ドナー)は、自分が出したお金が有効に使われ、「人道の危機」にあるひとびとが救われる場面を(安全な場所から)確認して満足感を味わいたいと思っている。これは「消費者」として当然の要求だから、批判しても意味がない。

?ドナーから多額の寄付を募ったNGOにとって、難民キャンプの近くに滑走路があるというのはまたとない好条件だ。輸送機をチャーターし、スタッフと援助物資を詰め込めばたちまち「援助」を開始することができる。おまけにそこには欧米のジャーネリストやテレビ局のクルーが待っていて、彼らの活動を報道してくれるのだ。

?虐殺の被害者であるツチ族の難民がどこか別の場所にいたしても、NGOはそんなところには行こうとはしないだろう。援助を開始するまでに何カ月もかかり、おまけに報道もされないのではドナーが納得しないからだ。

?NGOにとっては、援助の対象が虐殺されたツチ族であろうが、虐殺したフツ族であろうがどうでもいいことだ。人道主義の原則は「中立性」(二者のどちらかを優先して協力することはない)「公平性」(純粋に必要に応じて援助を与える)「独立性」(地政学的、軍事的、あるいは他の利害とは無関係である)で、人道の危機にあるひとが目の前にいれば助けるのが当然だとされている。この原則は一見素晴らしいが、どこか偽善的でもある。「あなたのお金で救われたのは、ついこのあいだまでルワンダでツチ族を虐殺していたひとたちです」という事実はけっしてドナーには伝えられないからだ。

NGOの国際人道援助とは…
?ゴマの難民キャンプでポルマンは、NGOが行なう国際人道援助とは、紛争や虐殺などを「商材」にしてドナーから寄付を募り、“よいことをして満足したい”という願望をかなえるビジネスだと気づく。本書のタイトルである「クライシス・キャラバン」とは、 “悲惨な現場”を求めて世界じゅうを転転とするNGOのことをいう。

?ビジネスである以上、成功したNGOは大きな利益を上げることができる。紛争の現場にいる「人道援助コニュニティ」の白人たちは、破壊された町のレストランやバーで毎日のようにパーティを開き、10代の売春婦を膝の上に乗せている。彼らは自分たちが“特別”だと考え、その法外な特権を疑うことはない(国連職員の特権意識はさらに肥大している)。

?こうしたNGOの腐敗も欧米では広く知られていて、その結果、自分個人のNGOを立ち上げるひとたちが増えているという。こうしたNGOは「モンゴ(MONGO)」と呼ばれている。“My Own NGO”の略だ。

?典型的なのはアメリカ南部の教会の敬虔な信者で、彼(彼女)はアフリカの悲惨な現状と堕落したNGOの実態を知って、自ら教会で寄付金を集め現地に赴く。

?しかしここでも、同じ問題が起きる。信者のお金を預かってアフリカまで来たからには、なんらかの成果を出さなければ帰れない。そこで難民キャンプにある病院に行き、手足を失った“かわいそうな子ども”を紹介してもらう。その子どもたちに義手や義足を与えて、喜ぶ姿をビデオや写真に撮るためだ。そのため難民キャンプには、義足ばかり何十本も持っている子どもがいる。そののたびにいくばくかの現金をもらえるから、いい商売になるのだ。

?その後、MONGOたちは手足のない“かわいそうな子ども”をアメリカに連れ帰るようになった。教会のドナーたちの前で、最新型の人工装具をプレゼントするセレモニーを行なうのだ。だが成長期の子供の装具は数年で取り替えなければならず、子どもたちをアフリカに戻せばすぐに役に立たなくなってしまう。

?なかには障害のある子供を養子にしてあちこちの教会を連れ回したり、テレビに出演させたりするMONGOもいる。養子縁組は、字の読めない両親の代わりにシオラレオネの行政府が許可している。賄賂と引き換えに子供を両親から引き離し、NGOに売っているのだ。

?この“誘拐”がなくならないのは、人道援助の証拠を地元に持ち帰ることがきわめて宣伝効果が高いからだ。教会の信者たちは、“かわいそうな子ども”が自由の国アメリカで幸福を手にする姿を目の当たりにして随喜の涙を流すのだ。

?これはシオラレオネだけのことではなく、アフリカ各地で孤児院が大きなビジネスになっている。たとえばリベリアでは、孤児院に住んでいる子どもたちの大半は孤児ではなく両親がいる。国際援助を引き寄せるために、孤児院の所有者によって人買い同然の方法で集められてきたのだ。

?こうした子供たちはアメリカやヨーロッパの養親のもとに送られるが、扱いにくいことがわかると即座に「返品」されてしまう。そうすると別の人権団体が、この「返品」を反人道的だとして抗議活動を行なうのだという――。

NGOの利益の源泉は「悲惨な現場」
?国際人道援助の問題は、それが巨大ビジネスになっていることにある。ビジネスである以上、利益は大きければ大きいほどいい(それを原資により多くのひとを救うことができる)。

?NGOの利益の源泉は「悲惨な現場」だ。そこで彼らは、テレビニュースで“悲惨”に見えるひとたちを追い求め、同じように悲惨な生活をしていても“絵にならない”ひとびとを見捨てる。

?これはそうとうに歪な状況だが、個々のNGOの努力ではどうすることもできない。ドナーから得られるパイ(寄付金)は限られているが、NGOは乱立しており、彼らを批判するMONGOたちも控えている。ドナーが喜んでお金を出すような演出ができないNGOは、競争から脱落して消えていくしかないのだ。

?ところで人道援助が大金の動くビジネスだとしたら、それを受ける側はテントや衣服、食糧だけで満足するだろうか。

?難民というと“かわいそうな一般市民”を思い浮かべるが、ゴマにはフツ族の民兵が相当数紛れ込み、難民キャンプを支配していた。難民を援助するにはまずキャンプに入らなければならないが、支配者である民兵たちはその際、NGOに対して「入場料」を徴収する。それ以外にもさまざまな名目でNGOから金銭を巻き上げ、ルワンダに反攻するための武器弾薬を購入していた。

?もちろん援助のために現金を支払うことは原則として禁止されているが、ここでも負の競争原理が働いている。支配者に現金を払わない真っ当なNGOは肝心の援助活動ができず、ドナーから見捨てられてしまうのだ。

?民兵たちは援助物資を独占し、NGOが支払う給与から“税金”を徴収し、運転手、料理人、清掃人、施設の管理責任者などの仕事を独占した。病院の医師は、朝になるとフツ主義に批判的な患者が消えており、空いたベッドに民兵の家族が寝ていることに気がついた。フツ族の看護師に聞いても、夜中になにが起きたのかはぜったいに口にしなかった。

?1995年末時点で、ゴマにある4つの主要難民キャンプではバー2324軒、レストラン450軒、ショップ590軒、美容室60軒、薬局50店舗、仕立屋30軒、肉屋25軒、鍛冶屋5軒、写真スタジオ4軒、映画館3軒、2軒のホテルと食肉解体場が1カ所あった。これらはすべて、NGOの援助でつくられたものだ。難民たちはNGO関連以外のなんの仕事もしていなかったのだから。

?ゴマの難民キャンプの民兵たちは、「ゴキブリ(ツチ族)を叩きつぶすことは犯罪ではない。衛生手段なのだ!」というラジオ番組をキャンプ内で流し、夜になると国境を越えてルワンダ領内に入り、ツチ族を殺していた。その結果、ツチ族のルワンダ軍がゴマの難民キャンプを攻撃することになり、キャンプはルワンダ軍の支配下に移り、国連軍の監視の下、ルワンダへの“移送”が始まった。

?難民キャンプ解体の様子は、ポルマンの『だから、国連はなにもできない』に臨場感溢れる描写がある。

?国連軍の役割はただ「監視」するだけで、故国への帰還作業はルワンダ軍に任されていた。ルワンダ軍は1000人で、帰還する難民は15万人いた。

?ルワンダ政府は難民が途中で新しいキャンプをつくるのを恐れて、徒歩での移動を許可しなかった。それにもかかわらずルワンダ軍にはトラックがなく、国連軍は移送を手伝うことを許されていない。

?こうした状況にもかかわらず「帰還作戦」は始まった。難民たちは移送を拒否して暴れはじめ、それを見てパニックに陥った政府軍兵士は難民に向かって手榴弾を投げ、迫撃砲を打ち込んだ。こうして、国連軍の目の前で数千人の難民が殺害されることになった。そのときNGOはすべて引き上げており、キャンプには誰も残ってはいなかった(戦闘後、国境なき医師団が45分間だけやってきて、暗くなる前に帰っていった)。

?これが、人道援助の「成果」だ。

「絵」になる悲惨な現場とは…
?NGOの商材は「悲惨な現場」だ。そうすると、援助を受ける立場からすれば、悲惨であればあるほどNGO(クライシス・キャラバン)が集まってきて大きなカネが落ちるということになる。

?では、悲惨な現場とはどういう状況をいうのだろう。

?死体の山はボスニアやルワンダでさんざん報道されてしまった。いまでは欧米の「こころやさしき」ひとたちは、多少の“虐殺”くらいでは驚かなくなった。

?こうして、国際人道援助におけるイノベーションが起こった。敵を殺すのではなく、四肢を切断して生かしておけば、その方がずっとインパクトのある「絵」になるのだ。

?死体には見向きもしなくなったすれっからしの報道カメラマンも、手足のない子どもたちが泣き叫び、地面を這いずり回る場面には殺到する。欧米のメディアで大々的に報道されれば、NGO(クライシス・キャラバン)が大挙してやってくる。このようにして、ドナーの寄付金は子どもたちの四肢を切断した者たちの懐に落ちるのだ。

?本書の最後でリンダ・ポルマンは、シオラレオネの反政府軍RUFのリーダー、マイク・ラミンにインタビューする。

?ラミンは、「すべてが壊され、あんたたちは修復するのにここにいなかった。あんたたちが気にしていたのは、ユーゴスラビアにおける白人の戦争とゴマのキャンプだった。あんたたちはただ我々に戦い続けさせたんだ」と欧米社会を批判する。そして欧米の注目をふたたびシオラレオネに向けさせ、戦争を終わらせるために「両手切り落とし団(カット・ハンド・ギャングズ)」を組織したのだというのだ。

「かつてないほど多くの四肢切断者を見て、はじめてあんたたちは我々の運命に注意を向け始めたんだ」

?罪もないひとたちの手足を無残に切断するのは、NGOからカネをかすめ取ろうと考える者にとってはきわめて「経済合理的」な行動だった。国際人道援助に携わるひとたちは、誰もがこのきわめて不都合な真実に気づいている。

?しかし、ふだんは立派なことばかりいっている彼らは一様に口をつぐみ、ポルマンが『クライスシ・キャラバン』で告発するまで私たちが真実を知ることはなかった。

?一人でも多くのひとに読んでもらいたい、衝撃的なノンフィクションだ。


<執筆・?橘 玲(たちばな あきら)>

作家。「海外投資を楽しむ会」創設メンバーのひとり。2002年、金融小説『マネーロンダリング』(幻冬舎文庫)でデビュー。「新世紀の資本論」と評された『お金持ちになれる黄金の羽根の拾い方』(幻冬舎)が30万部の大ベストセラーに。著書に『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術?究極の資産運用編』『黄金の扉を開ける賢者の海外投資術?至高の銀行・証券編』(以上ダイヤモンド社)などがある。ザイ・オンラインとの共同サイト『橘玲の海外投資の歩き方』にて、お金、投資についての考え方を連載中。

『日本の国家破産に備える資産防衛マニュアル 』


作家・橘玲が贈る、生き残りのための資産運用法!

アベノミクスはその端緒となるのか!? 大胆な金融緩和→国債価格の下落で金利上昇→円安とインフレが進行→国家債務の膨張→財政破綻(国家破産)…。そう遠くない未来に起きるかもしれない日本の"最悪のシナリオ"。その時、私たちはどうなってしまうのか? どうやって資産を生活を守っていくべきなのか? 不確実な未来に対処するため、すべての日本人に向けて書かれた全く新しい資産防衛の処方箋。

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