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関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1055.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 27 日 12:17:05: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: アメリカ軍はなぜ不利なノルマンディに上陸したのか 「戦後」を作った錯覚 投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 26 日 19:52:33)

はる爺
関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。

関東軍第三方面軍情報参謀・少佐・志位正二はKGBのスパイ。日本共産党委員長の志位和夫は甥である。また瀬島龍三中佐、朝枝繫晴中佐、種村佐孝大佐、松村知勝少将、池田純友少佐、橋本欣五郎(参謀本部ロシア班長・中佐)あげたらきりがないが「赤い軍人」「クレムリンの犬」がうごめいていたのです。

帝国陸軍の社会主義化・共産主義化はひどく、敗戦で軍が解体されるやこれら陸軍のエリート将校が大挙して日本共産党に入党している。

今も共産主義で全体主義のC国好きで有名な総合商社伊藤忠の元会長が瀬島である。特務機関の原田統吉から、ソ連の「8月上旬侵攻」の至急電文を握りつぶし、婦女子を含む155万人の一般邦人を置き去りにして、関東軍がさっさと武装解除したのも関東軍の参謀部が、松村知勝や瀬島らのコミュニストに支配されており、日本の婦女子がロシア兵に略奪され、レイプさせることを計画的に実行するためだったのだ。それに反して内蒙古を守る駐蒙軍の司令官だった根本博中将は、武装解除を無視し敵の侵入を阻止するため白兵戦を繰り返し、多くの犠牲を出しながら4万人もの邦人を守り抜きました。日本軍人の鏡です。

https://www.youtube.com/watch?v=wl2sBVCXIG8&lc=Ugym7Hf_aBI_lRokWw54AaABAg.9E3heQvDZCU9E5TXEaKV18  

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コメント
1. 中川隆[-6974] koaQ7Jey 2021年3月02日 10:31:46 : FnXfRqdhm6 : NHdEMUozR20zbHc=[10] 報告
昭和恐慌と子殺し 2021年03月01日
http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1419.html

 大恐慌といえば1929年のニューデール恐慌だが、これが日本に波及した「昭和大恐慌」について語り継がれたものは少ない。我々の世代ですら、何が起きたのか知らない者が多い。

 昭和恐慌とは何か?
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%AD%E5%92%8C%E6%81%90%E6%85%8C

 1930年〜1932年くらいまで続いた昭和最大の不況だが、満州事変による中国侵攻の軍事特需が生まれて事実上収束した。
 しかし、この不況の本質は、台湾・朝鮮を領土化した日本政府が、1930年(昭和5年)の大豊作時に、植民地である台湾・朝鮮から米を大量に輸入したことにより、日本本土の農業が壊滅状態に陥り、農村地方の民衆生活を激しく崩壊させたことにある。

 いったい、何が起きたのか?

syouwakyoukou01.jpg
 


 ニューデール大恐慌は、生糸市場を直撃したので、日本の農村で生糸に依存した生活を行っていた土地では、ほとんど収入が失われ、維新以来最悪の貧苦に見舞われた。

 語り継ぐ戦争 貧しい漁村、子殺しの悲劇 エッセイストの川口祐二さん 2018/08/16
 https://www.youtube.com/watch?v=cH5SMjcYqLo&ab_channel=%E6%9C%9D%E6%97%A5%E6%96%B0%E8%81%9E%E7%A4%BE 

 「三重県の漁村の女房たちは、亭主との間に出来た子供を間引した廉(かど)で、1小隊ほども法廷に立たされた」
 この村のことと違うかな。ピンときました。

 尋常小学生のころ、母に尋ねたんです。学校で学年別に整列すると、僕らは90人いるのに、1年上の31(昭和6)年生まれだけが、半分くらいしかいない。「なんでかな」。すると、母が「実はな……」と教えてくれた。

 貧しい母親たちは、産んだばかりの赤ん坊を殺して油紙に包んで海に流した。それが波で押し返され、見つかった。産婆も関係しており、姉の同級生の母親も摘発された、と姉からも聴いた。

 その前からあったが、31年が不景気のどん底でひどかったらしい。満州事変の年ですね。当時、今と違って魚はとれたが、値段が安く、輸送手段が乏しかった。人力で荷車を引き、半日がかりで伊勢まで運んだそうだ。

 僕は何とも言えない気持ちになった。事件のころ、僕も母のおなかに入っていたわけで、もう半年早く宿っていたら、同じ運命をたどったんだろうか。何しろ僕は7人きょうだいの一番下でしたから。

 農地もわずかしかなく、都会へ働きにいくほか、海外への出稼ぎも多かった。志摩郡に仕事を紹介する会社があり、うちも姉2人と兄の3人がフィリピンへ渡った。看護師になったり、ビール会社で働いたりした。

 一番上の姉は開戦直前、2人の子どもを連れて帰国した。現地では「アメリカと戦争になるらしい」といううわさが流れていたそうだ。大戦末期、残ったその夫や兄は現地召集、2番目の姉も米軍に追われて逃げ惑った。タガログ語ができたので、イモを分けてもらい、生き延びた。

 《嬰児(えいじ)殺し事件》 1933(昭和8)年10月24日付の伊勢新聞などによると、三重県南勢地方の村で摘発され、後に18人に執行猶予付きの有罪判決があった。
 三重県警察史(66年)も「生活上の苦悩から惨忍(ざんにん)な犯行を犯す者も増加した」としてこの事件に触れ、「被疑者三十余名、三十数件の嬰児殺事件を検挙」とある。
*******************************************************************
私が、昭和恐慌における娘の身売りや嬰児殺しの事実を知ったのは、もう半世紀以上前に夢中になって読んだ民俗学者、宮本常一のルポであった。
 宮本は全国の貧しい農漁村を歩いて、直接取材した膨大な民俗学ルポルタージュを遺した。未来社から全集が出ているが、高価なので買えず、私は図書館に通って貪り読んだ。

 今は、その内容を具体的に示すことができないが、鮮明に記憶しているのは、東北地方の農家では、戦後、1960年代くらいまで、子供を育てる見通しが立たないとき、母親が産んだ後の嬰児を川に沈めて死なせるというルポがあったことだ。
 上に挙げた伊勢地方では、戦前の1933年に30余名の嬰児殺しが摘発されているが、東北地方の奥地では、昭和30年代でも、育てられないための子殺しは普通に起きていた。

 昭和恐慌では、生糸だけが唯一の現金手段という地方の村が無数にあって、それが大恐慌で突然ゼロになり、多くの人々が途方に暮れ、子殺しをするしかなかった。
 だから1931年(昭和6年)生まれは、特別に人数が少ないということになった。

 上の説明を補完する出生数推移情報を探したが、昭和恐慌による「子殺し」を示す統計データで分かりやすいものは見つからなかった。全国の大数データに埋もれて、極度に貧しい農村の特異性を示すデータが出てこない。
 しかし、昭和恐慌を題材にした人間ドラマは少なくない。「おしん」は、とりわけ説得力をもって当時の凄惨な現実を教えてくれた。

 現在、「子殺し」は、殺人と同等の扱いとして、事情があっても情け容赦なく犯罪として扱うようになっている。
 
  https://news.yahoo.co.jp/articles/7f4707e3443e4428041c17003ea6837c4a22c775

  https://gendai.ismedia.jp/articles/-/50695

 私は、これもおかしな話だと思う。子殺しをするには、必ず生活が追い詰められたという事情を前提にしている。好き好んで趣味で子殺しをする者は滅多にいないだろう。
 日本政府は、生活に追い詰められた彼らを一切支援せず、新自由主義の「自助努力」だけを押しつけて、子殺しや一家心中に向かう人々に対して、非人情で冷酷極まりない対応を行い、処罰だけ熱心だ。
 こういう思想の連中には、いつか天罰が下ることを望む。

 昭和恐慌で、冷害凶作も重なって、もっとも残酷な被害を受けたのは東北地方だが、秋田県・岩手県などで、その凄惨な状況が記録されている。
 http://www.pref.akita.jp/fpd/rekishi/rekishi-index.htm

 昭和恐慌とあいつぐ凶作で被害を受けた村の実態を「凶作地帯をゆく」(昭和9(1934)年10月26日付け秋田魁新聞)と題する現地レポートには次のように記されている。

 「秋晴れの鳥海は清らかな山姿を、紺碧の空にクッキリ浮かせている。
 しかし、山裾にある町村は、未曾有の凶作に悩み、木の実・草の根、人間の食べられるものは全部刈り取り掘り尽くし、米の一粒だに咽喉を通すことのできぬ飢餓地獄にのたうつ惨状、秋田県由利郡直根村百宅部落のごときは、空飛ぶ鳥類さえ斃死したかと思われ、400名の部落民からは生色がほとんど奪われ、天に号泣し地に哀訴の術も空しく飢え迫る日を待つのみの状態である。(アマ註・由利本荘市直根を調べたが見つからないので集落が消えたようだ)

 同部落は戸数100戸、作付け反別80町歩、これは冷害のためほとんど全滅だ。同分教場には90名の児童を収容しているが、欠食児童は3割に当たる30名、欠席者は非常に多く、1日平均20名、また早引きするものもかなり多い。

 これは家人の働きに出た後の留守居や、でなければ山に入って栗・トチ・山ぶどうなどの木の実、山ゆり・山ごぼう・フキなどの草の根・木の葉を集めるために欠席する。糧食なくして何の教育ぞやの感を深くさせられる。

 垢に汚れたヨレヨレのボロ着にまとった赤児をおんぶして、授業を受ける児童の多いこと、一人泣き出せば又一人、背の赤児はまだしも自分でもママ末に負えなくなって泣き叫ぶ子守りもいる。

 こうした名目ばかりの義務教育を終えて、やっと15,6になると、雀の涙ほどの前借金で丁稚とか酌婦に売り出される。
 生まれ落ちて布団もろくろくないワラの中に育ち、食うや食わずにやっと6年を終えたら、知らぬ他国に涙の生活、彼ら山間奥地の住民は、永劫に光を持たぬ運命を約束されてきた。」

売られゆく娘たち
 凶作が決定的となった昭和9年、県保安課がまとめた娘の身売りの実態によると「父母を兄弟を飢餓線より救うべく、悲しい犠牲となって他国に嫁ぐ悲しき彼女たち」の数は、1万1,182人、前年の4,417人に比べて実に2.7倍にも増加している。
 身売り娘が多かったのは、秋田の米どころと言われる雄勝・平鹿・仙北三郡であった。
 娘の身売りは人道上のこととして、大きな社会的関心を呼び、これを防止しようと身売り防止のポスターを作って広く呼びかけた。
 しかし、小作農民の貧しさの根本的解決がない限り、娘の身売りの根絶は困難であった。
**********************************************************
 引用以上

 私は、この記事を見て憤った。当時、満州事変を境にして、日本軍部は軍備増強に突き進み、太平洋戦争敗戦までの間、現在価値にして、実に4000兆円を超える資金を投じた。その多くが、アヘンやヘロインを諸外国に売りさばいた密売資金だったが。
 東北の悲惨な子殺しや身売りは、そのうち、わずか0.1%でも救援に回せば、瞬時に解決したものだ。

 だが、日本政府・軍部は、日本国民の窮状に背を向けて、戦争への道を突っ走っていた。だから、すでに、この段階で、第二次世界大戦の敗北は必至だったのだ。

 今、コロナ禍で、昨年1月当時の予想からすれば、ちょっと信じられないほど深刻な事態に突き進んでいる。みんな、まだ事態の深刻さを見ていても、それがどれほど恐ろしい、残酷・苛酷な事態を招くのか、ピンときている人が、ほとんどいないのに驚かされる。
 もう、数ヶ月先にも、ワクチンが普及し、事態が収まって元通りに社会が動き始めると勘違いしている人が大半なのだ。

 事実は違う。コロナ禍は、まだ始まったばかりだ。多重感染者が増えれば、ウイルスの突然変異による毒性、感染力が上がり、これまでとは桁違いの被害が出る。
 百年前のスペイン風邪のときがそうだ。
 1918年から始まったといわれるが、最初はたいした症状ではなかったが、二年目の多重感染者が著しい毒性の変異株を生み出し、集落を絨毯爆撃するほどの死者が出始めた。
 当時20億人だった地球人口の全員が感染し、うち一割が死亡した。

 RNAウイルスは、もの凄い変異を繰り返すうちに、毒性を弱めて、一種の「自家中毒」を起こして軽い病気に変わってゆくが、スペイン風邪は4年目にそうなった。
 もっとも激しい毒性の暴風は2〜3年目だ。そのときは健全な免疫を持った屈強な若者や、地の果てのエスキモーまで感染死亡させられた。
 新型コロナ禍は、まだその段階に至っておらず、これから、それがやってくる可能性が大いにある。
 日本政府・厚労省の対応が、あまりに非科学的で、愚かすぎるからだ。

 このままでは、私は昭和恐慌なみの、恐ろしい経済崩壊が避けられないと思う。金が動くには人が動かなければならない。その人が動けないのだから、金が回るはずがない。
 もう、新自由主義などという馬鹿げた迷妄思想の出番ではない。金儲けだけが人間最高の価値と決めつけたフリードマンは、もはや法王とともに地獄に墜ちている。

 変わって、この社会に登場してくる思想は、「共同体」だとくり返し書いている。「金儲け」という利己主義などに何の価値も見いださず、「人の笑顔を食べて生きる」利他主義の価値観の人々が社会の中核を占めるようになる。
 そうでなければ、日本社会は滅亡するしかない。共同体思想だけが、日本の未来を拓いてゆく。

 もしも、人が「共同」を失ったなら、昭和恐慌と同じことが起きると私は思う。もう子供たちを育ててゆけない。かといって新自由主義の政府は、自助だけを要求して、絶対に民衆を助けない。
 すると最期に犠牲になるのは、生まれてくる子供であり、「未来」そのものなのだ。
 昭和恐慌が何をもたらしたのか?
 それは太平洋戦争なのだ。日本人450万人が死亡させられたといわれる、あの戦争だ。
 
 もしも、今のまま未来への適切なビジョンが示せなければ、再び世界戦争に翻弄されるだけだろう。

http://tokaiama.blog69.fc2.com/blog-entry-1419.html

2. 2021年3月06日 15:38:49 : aEPWmwZz6g : ZGV2Z1VubE9GcFE=[8] 報告

戦前の”経済格差”エリート会社員は高収入でモテモテだった
http://www.thutmosev.com/archives/73769851.html


戦前のサラリーマンはこんな恰好で銀座を闊歩していたが、10年後に防空壕で逃げ回る破目になった

引用:http://nakaco.sakura.ne.jp/sblo_files/nakaco/image/kankan5_04.jpg

戦前のサラリーマン社会

戦前というと何もかも暗く陰気で、閉鎖的で人々は困窮していた、と「知識人」たちは言いたがります。

そうしておいた方が自分たちが立派に見えるからそう言うのだが、事実ではないし戦前の人を貶めている。

昭和6年(1931年)頃までの日本では、消費経済や自由主義や平和主義が盛んで、大正デモクラシーと呼ばれています。


昭和5年ごろの世帯平均収入は年800円程で、日本郵船や一流企業の課長クラスは1万円を超えていました。

現在の世帯平均所得は540万円なので、当時の大企業の課長は現在の価値で6,750万円の高所得者でした。

一流企業の中でも三井や三菱はさらに別格で、ある重役の年収は100万円以上、現在の価値で70億円以上だったと記録されています。


するとこうした財閥企業の創業者一族ともなると、一族の収入は年間数百億円にも達していたと推測されます。

当時のアンケートでは女性にもっとも人気がある職業は一流企業のサラリーマンで、次が公務員、医師や弁護士はそれより下でした。

戦前には「サラリーマン」はホワイトカラーの事務職、手が汚れない仕事をしている人を指し、工場作業員は正社員でもサラリーマンではなかった。


油まみれ、泥まみれの作業員に対して、事務職のサラリーマンは女性から見てカッコ良く、おしゃれに映っていたようです。

労働者が日の丸弁当を食べていた時代に、東京のサラリーマンはランチは外で、女子社員を誘って洋食を食べていました。

丸の内のビル街には寿司屋、洋食屋、和食に定食など外食店が所狭しと並び、大変賑わっていたそうです。

儚かった戦前の自由経済

当時のメニューは寿司、カレーライス、丼物、パスタ、パンとコーヒーなどが、現在の価値で1,000円以下でした。

コーヒーと軽食のモーニングのようなのも既に有り、食事の半額の、現在の500円以下程度の値段でした。

都会ではこうした欧米風の暮らしをしていた一方で、9割以上の農村では江戸時代とあまり変わらず、人力と牛馬が日の出から日没後まで重労働していました。


この格差が戦前の日本経済を破綻させた原因であり、東京のおしゃれなサラリーマンはバブルの浮き草のような存在でした。

戦前は凄まじい格差社会で、人件費は安かったがそれ故に経済は脆弱で、米大恐慌が起きると一たまりもありませんでした。

1929年(昭和4年)にNYで大恐慌が起き、1931年(昭和6年)に満州事変が起きてから、日本人の生活は急速に悪化した。


兵士の家族が借金のカタに売られたりしたため動揺し、1936年(昭和11年)には軍部がクーデターを起こし(226事件)日本は軍事独裁に移行しました。

おおまかに言って昭和10年(1935年)から軍事態勢に移行したが、昭和一桁は戦争と無縁の、平和な時代でした。

大正時代から昭和1桁までは自由競争や自由経済、平和主義や共産主義がブームで、現代と似た時代でした。


父親がサラリーマンの家庭は裕福で、子女らもおしゃれな恰好をしていた
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引用:https://stat.ameba.jp/user_images/20140715/18/biz-suitstyle/d1/67/j/o0500050013004042213.jpg

軍事経済はなぜ失敗したか

好景気の時には自由主義はうまく行っていたのだが、米大恐慌で不況になると、軍人の姉妹が人買いに売られる状況になりました。

行き過ぎた自由主義経済の負の部分が表面化し、日本陸軍の若手将校らが決起してクーデターを起こし、民主主義時代は終了しました。

昭和の軍国主義の原点は、大正時代の行き過ぎた自由主義にあり、破綻した経済を軍部が主導して再建しようとしました。


軍部主導の経済は最初はうまく行っていたのだが、大陸への領土拡大と入植によって成長するプランは、上手く行きませんでした。

例えば朝鮮では急速に人口が増えたため、食料や予算が不足して日本から送る有様で、利益どころか日本の負担になりました。

満州国も同様で開発に膨大な投資をしたが、終戦まで何の利益も上げませんでした。


日本軍は「領土さえ増やせば経済は発展する」と考えていたが、現実には増えた領土の人を養うために、国力を浪費しました。

満州を開拓すれば日本の食糧危機は解決すると言っていましたが、逆に満州を開拓し維持するために、日本の資産が使われました。

これが軍人が考えた経済の限界で、最初は上手く行っていたとしても、早期に軍事体制を終わらせるべきでした。

http://www.thutmosev.com/archives/73769851.html

3. 2021年10月02日 15:08:32 : u8uuqDZBrs : WEpjMlNBaVNvL1E=[17] 報告
「戦前に似ている」と危機感も|昭和天皇「拝謁記」 戦争への悔恨|NHK NEWS WEB
https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-symbol-04.html

「拝謁記」には、昭和天皇が、東西冷戦や朝鮮戦争の勃発を背景に国内でも共産主義が勢いを増していく状況を戦争に突き進んでいった時代と重ね合わせて危機感を募らせる様子が記されています。


大学生を青年将校と重ね合わせる
昭和25年7月10日の拝謁では、昭和天皇が「共産党の大学生ニ 動機の純眞なるものがあるとの議論ニ非常ニあぶないので 永田鉄山問題でも動機云々(うんぬん)を口実ニ 刑ニハ処しても 甚しく軽きに失し 又他の場合ニハ動機のよきを口実ニ不問に附した事もあり かゝる風が遂に大平洋戦争(原文ママ)を起す事となつた事故 青年将校と大学生との差だけであつて 危険ハ同じ事だ」と述べたと記され、学生運動に参加する大学生を戦前の青年将校と重ね合わせていたことがうかがえます。

「私は実ニ心配しているのだが…」
また、昭和26年12月9日の拝謁では「所謂(いわゆる)反米思想が一般ニある程度あるは已(や)むを得ぬも それニ乗じて共産のものが共産主義の為に美名を平和とか戦争反対とかいつて色々やるのは困つたものだ、これハ丁度(ちょうど)戦前ニ軍閥者が 忠君愛国といふやうな当時ニあつては一寸 文句のいへぬ事を看板ニして戦争へと かりたてたのと同じであつて誠に困つた事だ」と語ったと記されています。

また、サンフランシスコ平和条約が発効し独立を回復する10日前、昭和27年4月18日の拝謁では、昭和天皇は「私は実ニ心配しているのだが 戦争前の状況といふか、大正末期から昭和の始めへかけての社会の有様と最近ハ非常に似てると思ふ。国会は矢張り其頃と実際少しも変りなく、国家社会より党の事を考へたやうな様子でその言論や実勢力を行ひ、政府側の答弁も責任逃れのやうな事ばかりで慨(なげか)ハしい有様ハ 先つ(さっ)きいつた頃と少しも違いない」と述べ、政治家が党利党略で動き国会で責任逃れの答弁する状況も戦前に似ているという認識を示したことが記されています。

そして、「あの頃ハ 血気ニはやる青年将校を此等の事情が刺戟(しげき)して 段々さはぎを大きくしたが、今はこれがソ連の手ニのせられて共産的ニなるか、又は反動として右翼的の戦前と同じ様なものが出現するか、世相ハ誠ニ私ニは憂慮すべきもので、その前徴は歴々あらはれてると私は思ふ」と語ったと記されています。

そのうえで、「蟻の穴から堤が切れるとか、塵もつもれば山といふ諺がある。今私ハその徴候を充分認める。これは過去の過ちを再びせぬと限らぬ徴候だ。まだ徴候の内ニ手を打たなければ、そして重病ニなつては名医も及ばぬ 今の内ニ警告して何とかすればどうかなると思ふが 時機を失しては駄目だ」と危機感をあらわにしたと記されています。

「国会の有様はどういふ事だらうネ」
独立後回復後の昭和27年5月12日の拝謁では、昭和天皇が「日本では民主主義の抽象的言葉に熱心で、何か気に入らぬことがあるとすぐ反動的といふ言葉を使ふ。丁度軍閥時代に其主張に反するものを‘非国民’とか何とか言ふのと同じだ」と述べたと記されています。


また、その翌月(昭和27年6月24日)の拝謁では、田島長官に「国会の有様はどういふ事だらうネ」と語りかけたうえで、「日本が再建する為ニは 此(この)際ハ挙国一致であるべきだと思ふに、国の前途など少しも考へぬやうな風ニ党利党略ニ専念してるやうに国会の有様は、民主化とか、憲法改正とかいふが、少しも戦前の議会のわるかつた処ハ改まつて居らない。これでは国会政治に失望する人が出るのは当然ともいへるので、それが昔は軍部の抬頭(たいとう)の結果を生んだが、それが軍人が独乙(ドイツ)にだまされたのだと同じ様に今では組織労働者や学生を共産ソヴィエツトが丁度独乙(ドイツ)と同じ立場でやつてる。之では国が亡(ほろ)んでもいゝと 国会は考へてるのかともいひたくなる位だ」と憤りをあらわにしたと記されています。

さらに「議会の現状ニ憤慨した往年の軍の一部、独乙(ドイツ)ー軍閥ー戦争ー敗亡といふやうに 今の国会の有様ニ憤慨して学生、労働者ーソ連ー共産党ー戦争ー敗亡といふ 餘(あま)りに相似的な事ニ目をさまさぬのはどうした事か」と述べ 憤りが収まらない昭和天皇を、田島長官が「陛下は政治上ニは御関係なき御立場故、陛下としてハ何も遊バす事ハ出来ませぬ」となだめると、昭和天皇は「それは分つてるが国がこんな事では亡びるのではないか」と述べたと記されています。

田島長官はこの日の拝謁記に、「何とか、陛下として手を打ちたき御心持と、それは出来ぬ現在の憲法の規定では致し方ないが国の亡びゆく経路を 傍観出来ぬとの御心持を拝して誠に恐懼(きょうく)す」と記しています。

https://www3.nhk.or.jp/news/special/emperor-showa/articles/diary-symbol-04.html

4. 保守や右翼には馬鹿し[15] lduO54LiiUWXg4LJgs2Ubo6tgrU 2023年2月27日 03:28:35 : PCv3jKoaFY : SkxmSXZoTGtEM28=[1] 報告
二・二六事件の映画化 _ 高倉健 吉永小百合『動乱』(1980年東映)
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14090475
5. 中川隆[-12544] koaQ7Jey 2023年5月28日 14:03:42 : 3gN7OKNyzg : YW1mNWtKRGNDeWc=[11] 報告
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雑記帳
2023年05月27日
小野寺史郎『戦後日本の中国観 アジアと近代をめぐる葛藤』
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html

https://www.amazon.co.jp/%E6%88%A6%E5%BE%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E8%A6%B3-%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E3%81%A8%E8%BF%91%E4%BB%A3%E3%82%92%E3%82%81%E3%81%90%E3%82%8B%E8%91%9B%E8%97%A4-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E9%81%B8%E6%9B%B8-122-%E5%B0%8F%E9%87%8E%E5%AF%BA-%E5%8F%B2%E9%83%8E/dp/4121101227


 中公選書の一冊として、中央公論新社より2021年11月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は、日本における中国予測がよく外れる要因として、中華人民共和国の不透明性ばかりではなく、日本社会の中国観も大きいのではないか、との認識から、近現代日本の中国観を検証します。日本の中国観は、その時の日中関係に大きく影響を受け、中国を実態以上に美化したり貶めたりしたのではないか、というわけです。確かに、日本社会の中国観には過大評価も過小評価もあり、適切な評価ができているのかとなると、かなり疑問ではあります。

 本書は、とくに第二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究から、日本の研究者の中国観と論点を検証します。そのさい本書はまず、中国の問題が特殊的なのか他地域とも共通する普遍的なものなのか、という区分を採用します。近代日本の世界認識は大まかに、歴史学とも連動して日本と西洋と東洋(≒中国)という三区分に基づいており、日本と西洋の共通性(普遍性)および日本と東洋の相違性(中国の特殊性)を強調すると「脱亜論」に傾き、日本と東洋の文化的共通性を強調し、西洋「文明【当ブログでは原則として「文明」という用語を使いませんが、この記事では本書からの引用のさいに「文明」と表記します】」の普遍性を否定する立場では、「アジア主義」と親和的になります。ただ本書は、「脱亜論」にしても「アジア主義」にしても、戦前にはアジアにおいて日本が最も「開花」していたことを大前提としていた、と指摘します。

 次に本書は、時間軸による区分を取り上げます。現在に至る中国の歴史的な連続性を強調するか、近代以降の変化をより重視するのか、という観点です。後者については、アヘン戦争、ダイチン・グルン(大清帝国)末の近代化改革、辛亥革命、五四運動、国民党政権の成立、中華人民共和国の成立、改革開放政策の開始など、どれを画期としてより重視するのか、異なります。一般的に、中国の特殊性を重視する場合は中国の歴史的連続性を、中国の普遍的性格を強調する場合は近代以降の変化を重視する傾向が強くなっています。さらに本書は、日本における中国研究に、自国史である日本史(国史)および先進的な西洋に学ぶための西洋史研究との違いがあるのではないか、との観点を提示します。

 本書の主要な対象は二次世界大戦後の日本における中国近現代史研究ですが、その前提として、第二次世界大戦終結までの近代日本における中国観が概観されます。本書の指摘で重要と思われるのは、戦前の日本において主流はあくまでもヨーロッパ化で、東洋史やアジア主義の人々は本質的に非主流派であり、トップエリートに届かなかったか、「非常に変わり者」だった、ということです。そのため、戦前では日中間の問題について、中国を専門としない知識人やジャーナリストの発言機会も多かった、というわけです。大正年間から昭和初期にかけては知識層の間でマルクス主義が一気に強く浸透し、日本の中国観もマルクス主義の影響を強く受けます。もちろん、マルクス主義を前提とする知識層の間でも中国、さらには自国である日本の現状および歴史的過程の認識が異なることもありましたが、ともかく当時の知識層においてマルクス主義は「科学的」とされ、その知的権威は絶大なものでした。これが戦後の日本社会における中国観の重要な前提となります。

 戦後歴史学の特徴は、戦前の日本の国家や社会への批判と反省、西欧近代の理念への関心の高まり(近代主義)、マルクス主義に基づく発展法則の普遍的適用です。ただ本書は、「戦後歴史学」と「戦後中国史学」との間の微妙な違いも指摘します。戦後中国史学では、近代主義で強調された共同体から自立した個人の析出という問題への関心は強くなく、これは進んだ西欧と遅れたアジアという近代主義の構図への反発が強かったからでした。また、大日本帝国の崩壊により、日本とアジアとの直接的関係が弱まったことにより、学界ではアジア研究が再び傍流追いやられた側面もありました。本書は戦後日本における中国研究を、戦前との連続性は強いものの、中華人民共和国の成立という新たな事態を眼前にして研究の刷新が呼びかけられた東洋史、マルクス主義に基づいて現代中国研究と中国史研究の一体化を目指した中国研究(東洋史もマルクス主義の影響を大きく受けるようになりましたが)、独自の立場から両者を批判した竹内好など、アメリカ合衆国の研究手法を導入した現状分析を挙げます。本書は、戦後10年程、程度の差はあれ戦前への反省が共有されていたことなどから、この時点では相互の批判も抑制的だった、と指摘します。

 1955年頃以降、「国民的歴史学運動」の挫折や「昭和史論争」やスターリン批判などを経て、立場の相違に起因する対立や論争が激化していきます。マルクス主義を前提とする側でも、日本共産党と一線を画す「新左翼」が現れます。この時期の中国史研究でとくに問題となったのは、現実と学問との関係の位置づけ、日本における中国研究の意味といった立場性と、ヨーロッパを基準とした「近代主義」的歴史観への批判です。立場の相違に起因する対立や論争では、とくに文化大革命の影響が大きく、これをどう評価するかが立ち位置を大きく規定したところもありました。とくに積極的に文革を支持したことで知られるのは、安藤彦太郎です。一方、文革否定論の立場はさまざまで、日本共産党支持によるものや、現状分析からのものなどがあり、文革の評価をめぐる対立はきわめて深刻でした。ただ本書は、当時の日本で中国研究に直接的には関わらない人々の間では、文革はおおむね異常事態として批判的に評価されており、学生運動への毛沢東思想の影響はひじょうに小さかった、と指摘します。しかし、中国研究では文革支持派が勢力を有し、文革批判派を排除したばかりか、後に文革の実態が明らかになっても、文革支持派のほとんどは沈黙し、明確な総括はなされなかった、と本書は評価します。そのため、この時に排除された文革批判派の多くは、その後も長く被害者意識と(元)文革支持者に対する敵対感情を抱き続けた、というわけです。

 1972年、米中接近に伴って日本も中国への接近を加速し、同年9月には日本と中華人民共和国の国交が成立します。ここから1989年6月4日の天安門事件の頃までは、日中ともに双方への感情が良好でした。ただ、反帝国主義の観点に立っていた日本のマルクス主義系の中国研究者にとっては、根本的な立脚点の喪失を意味した、と本書は評価しています。この時期の中国史研究の大きな特徴は、中華人民共和国成立の衝撃による、共産党と毛沢東の勝利を必然とした中国近現代史観の偏りが批判され、中国共産党の歴史観で低く評価されたり軽視されていたりした事象、たとえば国民党や国民政府の研究の必要性が指摘されたことです。1980年代には、中国が自らの経済的後進性を認め、東側陣営全体の行き詰まりが明らかになっていく中で、中国研究に限らず学問全体でマルクス主義の影響力が急速に失われていきました。この時期には、文革以前に編集が開始されていた史料類の大量刊行の始まりにより、日本の中国研究は実証水準を上昇させるとともに、研究は細分化していきました。

 こうした日中の「蜜月関係」の時代を経て、1989年6月4日の天安門事件以降、日中関係の悪化が見られ、中国が経済的に急成長し、ついには日本を追い抜いて大きな差をつけたことで、日中の立ち位置が近代の大半とは異なる状況となります。天安門事件で中国政府が自国正当化のため独自性を持ち出したことで、一般では中国特殊論が強く主張されたこともありましたが、中国研究では、そうした中国特殊論を批判し、その普遍性を重視する見解が依然として有力でした。またこの時期には、台湾や華僑の研究も発展します。この時期には、中国共産党の体制教義的な歴史観とは大きく異なるような、中国共産党と農村との関係についての実証的研究も進みました。ただ、こうした中華人民共和国史の研究は、中国共産党の政治的正当性に直接的に関わるため、現実の政治情勢から強い影響を受けることになり、習近平政権下では研究への統制が強化され、研究環境は悪化したようです。それとも関連しているのでしょうが、日中関係の悪化とともに中国研究を志望する学生が減少していることも、大きな問題となっています。
https://sicambre.seesaa.net/article/202305article_27.html

6. 2023年9月09日 15:48:10 : hx7jFYq8n2 : NFpXOVVtV1BQWlU=[4] 報告
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及川琢英『関東軍 満洲支配への独走と崩壊』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14148200

満州国の軍隊とはなんだったのか
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14096508

戦前の日本陸軍軍人は共産主義者ばかりだった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14016765

関東軍の中枢は共産主義者の巣窟であった。
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1055.html

2・26事件は共産主義者の青年将校が起こしたクーデターだった
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/222.html

鈴木貞美『満洲国 交錯するナショナリズム』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14104501

瀬島龍三、 統制派、ソ連の対日参戦
2019/09/02
https://www.youtube.com/watch?v=G4aRZQTyoDs&list=PL9DmHG7OZYSauiBXcmysZuMjOSeMWY8Yc&index=5

大東亜共栄圏というのは中国・東南アジアで麻薬を売ってぼろ儲けする体制の事だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006701

日本が朝鮮併合したのも満州や中国を植民地化したのも食料を増産するためだった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006703

飢餓輸出 _ 日本占領下、ベトナムで200万人が餓死
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006700

鬼塚英昭 戦争はすべて八百長 『日本の真相』 - YouTube動画
https://www.youtube.com/watch?v=eUIhcvcSmrA

英米金融資本のエージェントだった戦前の日本は英米の利権を守る為に朝鮮を併合した
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14023519

ディビット・バーガミニ _ 天皇の陰謀 天皇裕仁はかく日本を対西洋戦争に導いた
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/760.html 

明治維新以降、日本はイギリスやアメリカの手先として 動いてきた。
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14058621

ウォール街と戦った共産主義者 ルーズベルト大統領
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14067898

太平洋戦争は共産革命を恐れた昭和天皇が英米支配層と組んで起こした八百長戦争だった
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14016737

昭和天皇を震え上がらせた共産主義の恐怖とは
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/754.html

藤井聡 なぜ、日本は戦争に敗れたのか?
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14139186

みんな大好きな 白洲次郎さんの正体
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14103660

君はアジアを解放する為に立ち上がった昭和天皇のあの雄姿を知っているか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/312.html

昭和天皇が戦争狂になった訳
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/321.html

ジェームズ斉藤 : 日本のゴールド「天皇の金塊」
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14006705

日本のゴールド「天皇の金塊」をジェームズ斉藤が徹底解説! 知られざる日本の財宝、驚愕の金額…米デフォルトと関連
http://www.asyura2.com/21/reki7/msg/392.html

漢民族系朝鮮人の天皇一族による極悪非道の世界侵略の歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14003198

7. 中川隆[-11648] koaQ7Jey 2024年2月11日 13:48:11 : n4p04CquLw : bG9tSjdBTFhRTk0=[4] 報告
戦争中の軍人が実は相手側と通じていた例は過去にもあり、例えば大戦末期の関東軍(中国大陸に出兵した日本軍)の上層部はソ連軍に対し「日本の東半分を与える」という提案をして朝鮮半島の38度線で止まるよう取り引きした

本当にその気があったのか歴史の謎だがソ連軍は真に受けて停止し、その間に米軍を先にソウルに招き入れて米軍対ソ連軍の構図を作り、以降80年近くそのラインは維持されている

また関東軍はあの毛沢東軍と連携して蒋介石の中国軍と戦い、このお蔭て毛沢東軍は世界大戦に巻き込まれず終結後に蒋介石軍を倒す事が出来た
https://www.thutmosev.com/archives/33196.html

8. 中川隆[-11545] koaQ7Jey 2024年2月19日 11:31:59 : Wv38GqTqGc : cVpRZ1o5Y243WVE=[3] 報告
<■75行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
日本人を捨てて逃げた皇軍 終戦後に在住日本人がやらされた事
2024.02.19
https://www.thutmosev.com/archives/78224941mmm.html

満州からの帰国者は被害者なのに加害者扱いされた


引用:http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/007/257/52/N000/000/011/135139922049213111794_IMG_0002_NEW_20121028134020.jpg
ソ連兵に妻や娘を差し出して命乞い

第二次大戦終了後の満州などで、ソ連や中国が日本人に強要していた戦争犯罪があったが世界史のタブーになっていて日本政府も触れようとしない

この問題が特異なのは事件が1945年8月15日つまり終戦後に発生し、被害者の日本人は「加害者」に仕立て上げられた点です

順に説明すると1945年8月、敗戦を確信した関東軍(日本陸軍の満州駐留軍)は大本営の指示を受け密かに全軍を南朝鮮に移動させた

8月9日にソ連軍は満州に侵攻したが、ソ連は勝ち目がないと見て攻撃しなかったので本格戦闘には至らず「日本軍が下がった分だけソ連軍が前進」する戦略を取った

ソ連は独ソ戦に注力したので極東のソ連軍は弱く、満州の日本軍が本気を出せばまだまだ強敵なので日本軍が下がるのを待ったのでした

8月9日に関東軍は満州脱出を開始したが、「我々はソ連軍と最後の決戦に向かう」と在住日本人100万人以上をだまして夜逃げしました

満州国の首都新京では数十万人の日本人居留民がソ連との決戦を信じて涙を流して日の丸の旗を振って送り出したが、実は関東軍は朝鮮半島まで我先に脱走した

関東軍は決戦に行くと在住日本人に信じ込ませる一方で「必ず勝つからその場から動いたり脱出してはならない」と指示し、実はこれは日本人を囮としてソ連軍に襲わせて時間稼ぎをする作戦でした

関東軍に騙された日本人居留民100万人は押し寄せる中国人やソ連兵におそわれ、30万人から50万人が現地でなくなりました

この時残された日本人居留民は中国人やソ連兵に命乞いするために、自分の娘や妻を差し出して「接待」をさせました

特にソ連兵の規律は悪く金目のものや居留民の全てを奪ったので、カメラを没収され終戦後の満州の写真も残されていません

それでも大勢が集まっていた新京では居留民が協力して大きな被害はなかったが、農村や朝鮮半島北部の民間人被害は深刻でした

政府や軍隊を信じるとこういう目に遭う
最悪だったのは満州の荒野を開拓させられた満蒙開拓団で約27万人のうち約8万人が現地で襲われてなくなり、生き残った人も妻や娘を差し出して逃げ帰りました

満蒙開拓団は表向き志願だが実際は強制で、貧しい農村を中心にノルマとして人数を指定し長男は跡継ぎなので次男夫婦が強制的に満州へ移住させられました(小作人の次男が選ばれるのは最初から決まっていた)

関東軍が逃げ出したのは大本営の指示で、大本営と日本軍は満州在住日本人100万人を囮にしてソ連軍を足止めさせ、全員をみごろしにして関東軍だけを本国に帰還させる作戦を建てた

終戦直前の日本は食糧難だったので満州の日本人が帰って来ては困るので現地に捨てて来ることにし、関東軍60万人は本土防衛のために必要なので帰還させることにした

当時兵士の家族も満州に住んでいたので兵士の家族だけを列車に運び、他の在留日本人は列車に乗るのを禁止し移動も禁止した

関東軍の移動が終わると列車が再開し、38度線の南側は日本軍が駐留し規律が守られていたが、日本軍が撤退した北側は無政府状態になった

関東軍が黙って逃げ去ったので満州の日本人はどうしたら良いか分からず、38度線まで逃げれば良いのに途中でとどまった人が多かった

愚かな事に「お昼ご飯を食べたいから」「夜は旅館で寝たいから」のような理由で北朝鮮側で列車を降りた人が相当数いて、降りた人はシベリアの収容所に送られてほとんど亡くなった

北朝鮮側はソ連兵が徐々にやってきて、北朝鮮の人民はきのうまで日本人に従っていたのにロシア人の歓心を買うために日本人を襲撃し始めた

北朝鮮に残った日本人はやはりソ連兵や現地人に命乞いをするため、避難民の中の年頃の娘や自分の妻を差し出しました

現地人も日本人をおそって金品を奪ったり、日本人の娘をさらったりしてソ連兵に差し出し、そのような人間が北朝鮮で権力階層に出世していった

そうしてソ連のお気に入りになった人間が後に北朝鮮で要職を占め、その子孫が現在の金正恩政府でも支配階層として君臨している

ソ連や中国や朝鮮で酷い目に遭って命からがら日本まで逃げ帰った人々は、戦後GHQの方針で「侵略者」と定義され加害者扱いされることになった

このような行為をやらされた人や日本人居留民たちは、被害者であるにもかかわらず加害者のレッテルを貼られることになった

帰還者は故郷に帰ってもGHQの統制によって「侵略者」と石を投げられたり村から追い出されたり、へき地に追いやられたりもした

そして満州に置き去りにされた人々は今も「侵略者」のレッテルを貼られ、政府は日本人の被害に見て見ぬふりをし続けている

https://www.thutmosev.com/archives/78224941mmm.html

9. 中川隆[-10754] koaQ7Jey 2024年5月01日 16:27:46 : LjyKKtK9ds : MXpyRGlvcDAxalk=[13] 報告
茂木誠◆ロシア(ソ連)と日本の隠された歴史、日英同盟の真実◆『日本人が知らない!世界史の原理』対米従属から脱するための歴史講義!
2024/04/30
https://www.youtube.com/watch?v=VfcT5asidbg

<目次>
意外と少ない世界の“独立国家”
ロシアと英国に迫られていた日本(明治〜大正時代)
日英同盟と近代日本の発展(明治〜大正時代)
なぜ日本は米英と敵対するようになったのか?  
日本国内の政府と軍部(陸/海)の対立
日米決戦はなぜハワイから始まったのか ?
日本の陸軍と海軍、何が違ったのか?
天皇と陸軍と革命思想
陸軍と満洲と社会主義
日本の終戦……アメリカに負けるか、ソ連に負けるか
ソ連の対日参戦は周知されていた
ソ連と日本の終戦〜北からの侵攻とシベリア抑留〜

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