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ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1049.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 25 日 16:04:06: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: 昭和天皇はウォール街のエージェントだったので、共産主義者のルーズベルト大統領と対立して対米戦争を起こした 投稿者 中川隆 日時 2020 年 3 月 20 日 13:16:21)


ヨハンセンと呼ばれた男 戦後最大の裏切り者 吉田茂と白洲次郎 伝説はかくつくられる。
日本の闇 / 2013-10-12
https://blog.goo.ne.jp/luca401/e/1ed1a90a7eed19075ee9fdde16116c47

吉田茂の暗号名はヨハンセン その吉田に影のようにつきしたがっていたのが白洲次郎

→ こちら 
 https://6707.teacup.com/gamenotatsujinn/bbs/2152


“マッカーサーのペット”だった吉田茂をなぜ、今、あらためて英雄扱いするのか。その背後には米国政府をも動かす“奥の院”の存在があることを私たちは知るべきなのだ。

そもそも、吉田茂は戦前から米国のある筋(奥の院)と密通していたと言われている。太平洋戦争の前夜に日本の対米英戦争を決定した1941年9月6日の「帝国国策遂行要領」に関するいわゆる「御前会議」の内容を細大漏らさず、敵米国の駐日大使に通報していた、日本最大の売国スパイ=暗号名「ヨハンセン」とは吉田茂だった。

吉田茂の出自を見れば、この男が“奥の院=ロスチャイルド”と繋がっていることが分かる。

吉田は1878年(明治11年)、土佐自由党草分けの一人、竹内綱の五男として東京に生まれた。幼児に横浜の富裕な貿易商、吉田健三の養子となり、東京帝国 大学政治科を卒業後、外務省に入省した。大久保利通の次男、牧野伸顕伯爵の長女、雪子と結婚。天津総領事、奉天総領事、イタリア大使、イギリス大使を歴任 した。

養父・吉田健三とは何者か?ここがポイントなのだ。吉田健三は英国商社・ジャーディン・マセソン商会横浜支店長に就任。日本政府を相手に軍艦や武器、生糸の売買でめざましい業績をあげた。ジャーディン・マセソン商会は国際巨大財閥ロスチャイルド系であり、設立当初の主な業務は、アヘンの密輸と茶のイギリスへの輸出。

富豪であった健三の急死後、わずか11歳の吉田茂に50万円(現在の六十億円に相当)もの莫大な遺産が残される。吉田茂の妻は牧野伸顕伯爵の長女・雪子。

雪子は米国駐日大使ジョゼフ・グルーの妻アリス・ペリー・グルーとは幼馴染みであり、アリスから世界経済や政治についてレクチャーを受けていた。実はアリスはペーリ提督の末裔にあたる。このアリスから雪子をはじめ昭和天皇の母である九条節子と秩父宮妃でもある鍋島伸子の娘3人はロスチャイルド=モルガンの情操教育=洗脳教育を受けていた。アリスの母の旧姓はキャボット。黒人奴隷売買と麻薬売買で富を築いた悪名高きキャポット一族である。

吉田茂は妻の雪子を通じてロスチャイルド=モルガンに寵愛され、出世街道を上昇していく。ちなみに雪子は麻生太郎元首相の祖母である。

前述の通り、吉田茂は“日本最大の売国奴”だった。米国にとっては最も便利な男だった。その功績で、トルーマン米大統領とマッカーサーの決定で戦後最長の長期政権の首相になったことは言うまでもない。

では 白洲次郎とは....

     確かに鼻は日本人離れ

180センチ以上だったそうです。

→ こちら

。白洲次郎という男が非常にもてはやされております。これから白洲次郎という男について語ります。この男を語ると昭和史の闇が見えてきます。白洲商会というのがあって、親爺は繊維問屋をやってて、繊維不況の中で倒産します。小さな会社です。親爺は倒産してどうしたかというと、九州の山の中に掘っ立て小屋を建てて、借金取りから逃れて、そこで一生を終わる男です。ちょうど白洲次郎がケンブリッジ大学に行ってるんですね。倒産します。で白洲次郎はどうしたか。白洲次郎は当時のイギリスのクラッシック・カーを乗り回して盛んに遊びます。なぜそんなことが出来るのか?


白洲次郎を助けた男にジグムント・ウオーバーグというのがいます。これはドイツにロスチャイルド家と並んでウオーバーグ家というのが二大財閥でいます。ロスチャイルド家と一時同じくらいの力がありました。そのウオーバーグ家から息子たちがドイツから、長男と次男が残って、ジークムントという従兄弟がイギリスに渡ります。そしてポールという弟がクーン・ローヴ商会という所へ行って、そこの娘と一緒になります。ポールはFRBを創る男ですね。


ジークムントはS・G・ウオーバーグという金融会社を作り、国際金融システムの一員となるんです。その当時ロスチャイルドと対抗できるくらいの金融家にイギリスでなるわけです。その男が生涯にわたって金もなくなった男に巨大な金を与えてケンブリッジに行かせて、その後も一生大事に育てるわけです。おかしいと思いませんかこれ。僕はねどうもこの男(白洲次郎)は日本人じゃないんじゃないか、ウオーバーグの子どもじゃないかという考えをずっと持っておりました。で、ちょっと前に『1945年占領史』という本が出まして、その本を読みました。徳本栄一郎という人が書いた本で、その中にですね、妙なことを書いてました、結局、彼はホワイトクラブというのがあるんですが、最高権力者、チャーチルとかロスチャイルドとかMI6の長官とかトップクラスの者が入る、イギリスの最高の貴族クラスが入るクラブに出入りしていたと。貧乏人の男で親父が掘っ立て小屋に住んでるのに、どうして彼はできるんだろうと。

そしてまた彼の『1945年占領史』という本を読んでいる時に、ああそういうことかと思いましたね。彼が日本に帰ってきて、ある雑誌社でしょうね、ジャパン・アドヴァタイザーという、『ジャパン・オブザーバー』という雑誌社の編集員になる。そして彼が記事を書いてるすべての記事は、ジョン・シラスと書いてる。そうなんですよ、彼は白洲次郎である前に、ジョン・シラス・ウオーバーグなんですよね。僕はそう思います。だから彼は親爺が掘っ立て小屋を建てて借金から逃げているのに、ずっとクラッシック・カーを乗り回して・・・白洲正子というのが女房なんですけど、白洲次郎のことを盛んに書いてます「白洲次郎はイギリスで最高の暮らしをしていました。クラッシッ・カーを乗り回していました」」と。なぜそれが出来るか。それは間違いなく彼は、僕ははっきりそう思います、彼はジークムント・ウオーバーグの子どもであると。


白洲次郎はユダヤ国際金融同盟の諜報員でありコンプラドールである。戦時中赤紙召集をごまかしてもらい安全地帯に隠れていたくせに、戦後占領期に颯爽と登場するや、吉田茂の私的外務大臣として、あるいは終戦連絡局次長としてその特権を最大限に濫用した男である。商工省の外局にすぎない貿易庁長官でありながら、商工省の大臣・次官に一切関与させず、吉田首相と謀略を練り、外資系企業とくに英国系企業が進出するための抜本改変を敢行した男である。

白洲次郎とは何者か。
吉田茂が戦後台頭すべく画策された秘密工作の全てに関与した男である。2・26の時から抹殺される要人は決定されている。戦後占領期までに昭和天皇と吉田茂の邪魔になる要人はことごとく排除された。この中に山本五十六や近衛文麿が入る。
吉田茂&白洲次郎のコネクションには牛場と松本の他に、寺崎兄弟、奥村勝三、辰巳栄一、中曽根康弘、正力松太郎がいる。寺崎英成と奥村勝三は真珠湾攻撃を騙まし討ちにする工作をした後、戦後になって昭和天皇・マッカーサー会談で通訳として再登場する。このようにコネクションのメンバーは重要な場面でリサイクル活用されている。

白洲がマスコミを賑わせ始めたのは19050年代、吉田内閣の頃だ。前著を書くに当たり当時の記事に一通り目を通してみた。驚いたのはキャラクター・アサッシネーション(人格抹殺)とすらいえる批判の連続だった事だ。「傍若無人」を初め「陰謀家」「吉田内閣宮廷派長官」「ラスプーチン」と言葉が並び、露骨な個人攻撃もあった。半世紀で評価が逆転してしまったのだ。白洲本人が逆転させる謀略を図ったのである。

吉田茂が退場すると白洲次郎も表舞台から消える。
そしてワンマン宰相と風の男の伝説が捏造され『史実』となったのである。

https://blog.goo.ne.jp/luca401/e/1ed1a90a7eed19075ee9fdde16116c47  

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コメント
1. 中川隆[-11155] koaQ7Jey 2020年9月25日 16:16:22 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[31] 報告
ヨハンセン=吉田茂は、日帝が付けたコードネーム、CIAのものではない
2015年11月11日
https://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/c5ef37ee19cfd3c7f5c9757a1a00e846


ネットでは、いか@さま情報が横溢している。

おいらの愚ブログは、価値判断、認識では、かなりキチガイではあるが、事実関係は、案外、まともである。

いや、事実関係だけは、まともにしようと心がけているつもりではある。

なぜなら、キチガイな価値判断、認識だけでは、誰も読まなくなるからである。

もちろん、事実に基づかない「事実」は、ちゃんと、暗示している。

そして、確かな事実を、奇を衒って、表すことがある。読み手のリテラシーを高く見積もっているのだ。

例えば、「石ころの半分は酸素であり、残りの半分以上はシリコンだ」!

そんなおいらの衒奇記事を引用してくれた御方(決して、保守でもなく、ましては、愚ブログのように、ウヨでもない)が、引用していた情報=吉田茂が「CIAのエージェント」;


https://twitter.com/matu923/status/664007377578930177

そして、そのソース;

日本の中のCIAエージェントその1
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=309206&g=132108

そのソース:; http://blog.goo.ne.jp/yamanooyaji0220/e/31b8776d983469bad82ffec40288122b

いや、いや、全然、全くの事実誤認。

コードネーム・「ヨハンセン」は、大日本帝国陸軍の諜報機関が、吉田茂に付けたコードネーム。

CIAとコードネーム・ヨハンセンは、全く、関係ない。

⇒ 愚記事:大磯 「ヨハンセン」邸炎上、参照のこと。

   ⇒ ⇒ wikipediaも参照のこと; ヨハンセングループ

確かに、戦後ぬっぽんは対米従属下にある。 文書公開で、 愚民党 自由民主党は組織的にCIAから資金援助を受けたことがあることが判明している(google)。

でも、吉田茂や岸信介のCIAコードネームは、未だに、確認されていない。

(なお、CIAが名づけ親ではないが、コードネームが公知なのは、彼だ!)

CIAコードネームが確認されている有名人は、正力松太郎、緒方竹虎、賀屋興宣などである;

有馬哲夫、『CIAと戦後日本』より;

https://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/c5ef37ee19cfd3c7f5c9757a1a00e846

2. 中川隆[-11154] koaQ7Jey 2020年9月25日 16:19:49 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[32] 報告
大磯 「ヨハンセン」邸炎上
2009年03月22日
https://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/0b79c0919f23ffee147d1ea6d6925b58


- - 袴を穿いた「ヨハンセン」は、ほんとに太っていた。 小さくもない荷台であるが、その荷台にはみ出るのである。

 生まれて初めての自転車乗りである。 いつ転げるかわからない。油の切れた「チェーン」は「キチキチ」鳴った。それでも鬼の首を取ったかのように愉快である。これからずっとこの自転車が、戦争中における乗用車になった。- -

東輝次、『私は吉田茂のスパイだった』より。

https://www.amazon.co.jp/%E7%A7%81%E3%81%AF%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82%E3%81%AE%E3%82%B9%E3%83%91%E3%82%A4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F%E2%80%95%E3%81%82%E3%82%8B%E8%AC%80%E5%A0%B1%E5%93%A1%E3%81%AE%E6%89%8B%E8%A8%98-%E5%85%89%E4%BA%BA%E7%A4%BENF%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%9D%B1-%E8%BC%9D%E6%AC%A1/dp/4769826001/ref=sr_1_1?ie=UTF8&s=books&qid=1237718251&sr=1-1


■この元スパイの話が本当だとすれば、吉田は67歳にして生まれて初めて自転車に乗ることに挑戦したことになる。「それでも鬼の首を取ったかのように愉快である。」って、目に浮かぶようである。

■Amazon 私は吉田茂のスパイだった―ある謀報員の手記は、いわゆる「陸軍中野学校」出身の東輝次さんという人が、終戦工作をしているだろう吉田を監視するため、書生になりすまし、大磯の吉田に住み込み工作をしていた、という自己記録。

ヨハンセンは陸軍兵務局防衛課がつけた、吉田茂のコードネーム。

■この本によると、東輝次は大礒から吉田が出した手紙をすべて写真に撮り、その上再封印して配送していたといっている。

そして、あの近衛上奏文草稿を軍は落手したと東輝次は回想している。ただし、この『私は吉田茂のスパイだった』にはそこのところが2行しか書いておらず、詳細は全然回想されていない。

吉田は昭和20年4月15日朝、憲兵隊に拘束される。上記の近衛上奏文に関する嫌疑。

吉田は5月31日解放。東輝次は書生をやめる。

▼戦後、東輝次は吉田に会い、工作員であったことを告白。「吉田はしばらくは茫然としていた」。

●火災:旧吉田茂邸、ほぼ全焼…不審火か 神奈川・大磯

 22日午前6時ごろ、神奈川県大磯町西小磯の吉田茂元首相の旧邸が燃えていると119番があった。県警と町消防本部によると、木造2階建て住宅約890平方メートルをほぼ全焼した。午前8時半現在、建物はほぼ焼け落ち、周囲の樹木に火が移り消火活動が続いている。今のところ、けが人の情報はない。建物は普段無人で火の気がないことから、県警は不審火とみて出火原因を調べている。

 県警や町サイトなどによると、今は約3ヘクタールの敷地に総ヒノキ造りの建物と庭園がある。人は住んでいないが、敷地入り口に普段は警備員がいる。

 町郷土資料館のサイトによると、旧吉田邸は吉田茂元首相(1878〜1967年)の養父が1884(明治17)年に別荘を建てたのが始まり。戦後、自邸として使うようになった際、日本芸術院会員だった建築家、吉田勝五十八氏に設計を依頼し建て直した。首相辞任後も元首相が亡くなるまで多くの政財界人が訪れ、戦後政治史の貴重な舞台となった。79年には大平正芳元首相とカーター元米大統領の会談が開かれた。

 県警や町サイトなどによると、元首相の死後69年から西武鉄道(本社・埼玉県所沢市)が所有。県が建物の寄付を受けて県立都市公園として整備する方針。普段は一般公開されておらず、町が開く見学会などで年数回見られる程度だった。22日は午後、県や町などが企画した庭園めぐりで公開予定だったが、火災を受け中止が決まった。【五味香織】

https://blog.goo.ne.jp/ikagenki/e/0b79c0919f23ffee147d1ea6d6925b58

3. 中川隆[-11153] koaQ7Jey 2020年9月25日 16:22:09 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[33] 報告
ヨハンセングループとは、第二次世界大戦末期の日本で活動していた吉田茂(のちの首相)を中心とする戦争終結工作グループ。1945年4月に憲兵隊により検挙・逮捕された。


「ヨハンセン」とは、彼らを監視していた軍部・憲兵隊当局の符丁(暗号)で、このグループの中心と目された吉田茂を意味し、「吉田反戦」(よしだはんせん)の略とされる。このグループは主旨・参加者などが明確な組織として存在していたわけではなく、それゆえ範囲も曖昧である。

経緯
グループの形成
外務省退官(1939年)以降浪々の身であった吉田茂は、1941年12月の日米開戦以前から、「親英米派」として開戦の回避をはかり、開戦後も岳父の牧野伸顕(同じく親英米派の重臣の一人)や元首相の「コーゲン」[1]こと近衛文麿、外務次官時代の上司の「シーザー」こと幣原喜重郎や「ハリス」こと鳩山一郎らと連絡を取り、樺山愛輔(実業家)・原田熊雄(元・西園寺公望秘書)らとともに、東条内閣の倒閣運動や戦争の早期終結を目指す工作を進めていた(さらに米内光政らの海軍「穏健派」までそのネットワークはひろがっていたとされる)。しかし、当然このような動きは陸軍当局・憲兵隊からは反軍部工作(および米英への通牒工作)とみなされ、「ヨハンセングループ」という呼称で牧野・近衛らとともに厳重な監視を受けていた(当時、平河町の吉田本邸および大磯の別邸には男女3名のスパイが潜入し、諜報活動に従事していたが吉田はこれを察知していなかった)。

「近衛上奏文」への関与
1945年に入り敗色濃厚となった戦局を憂慮した昭和天皇が、首相経験者の重臣を次々に参内させるようになると、吉田は近衛文麿の参内を通じて天皇を戦争終結の方向に動かそうと考え、2月12日参内のため上京した近衛との協議の上、いわゆる「近衛上奏文」を作成した。当時、吉田および近衛は陸軍(特に統制派)を「親ソ」とみなしていたため、上奏文はこれ以上の軍部独裁と戦争が続くならば日本が共産主義化するであろうと予測し、「国体護持」のため一刻も早い軍部勢力一掃と戦争の終結を天皇に訴えるものであった。近衛は2月14日参内して天皇に拝謁しこの上奏を行ったが、その前日13日、吉田に上奏文の草稿を示し、牧野伸顕に内容を知らせるため写しを取るよう指示していた。

逮捕、そして釈放
しかしこの「写し」の存在は先述のスパイにより陸軍および憲兵隊当局に筒抜けになっており[2]、4月15日、東部憲兵隊司令部は近衛上奏文の内容流布および陸軍当局の「赤化」中傷などをもって陸軍刑法第99条違反(「造言飛語」罪)とみなし吉田を逮捕、同時に近衛の秘書である殖田俊吉とジャーナリストの「イワン」こと岩淵辰雄も逮捕され、近衛・原田らも取り調べを受けた。大谷敬二郎憲兵隊司令官は吉田らに続いて原田・樺山・小畑敏四郎さらには近衛・牧野の逮捕も狙っていたとされるが、実際には吉田らの逮捕を通じた、体制内「反戦平和派」への恫喝に止まるとみられている。

したがって「造言飛語」罪による吉田らの立件はかなり無理があったため、結局のところ憲兵隊は吉田ら3名の容疑を立証することができず、5月2日、阿南惟幾陸相の裁断により吉田は不起訴処分となった。彼はその後5月25日の空襲で代々木の陸軍刑務所が焼けたため、仮の陸軍刑務所となった八雲小学校に5日ほど収監されたのち釈放された。

歴史的評価
吉田茂は奉天総領事在任時代(1925年〜1927年)に満蒙分離など対中国強硬策を唱えるなど(対米英協調の枠内ではあったが)、必ずしも「反戦的」外交官ではなかったにもかかわらず、第二次世界大戦後、GHQから「穏健派」政治家として高く評価されていたのは、開戦以前の駐日アメリカ大使グルーとの親交のほか、ヨハンセングループ事件による逮捕が大きく作用していたと言われる。

なお、ヨハンセングループによる終戦工作の具体化は「近衛上奏文」作成への関与に止まっているのであり、戦後、吉田の反軍部的側面を強調する吉田支持者と、吉田(および近衛・牧野)らが米英と密通していた(実証のない「陰謀論」である)とする批判者の双方によって、その活動が実体よりも過度に誇張されている面も否定できない。

注釈

^ 当局による暗号名。以下同じ。
^ 陸軍の兵務局と軍務局で逮捕する案を出したが、小磯内閣の杉山元陸軍大臣は署名しなかった。小磯内閣が退陣して鈴木貫太郎内閣になって、阿南惟幾陸軍大臣が署名したという。

参考文献
原彬久 『吉田茂 - 尊皇の政治家 -』岩波新書、2005年 ISBN 4004309719
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%A8%E3%83%8F%E3%83%B3%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97

4. 中川隆[-11152] koaQ7Jey 2020年9月25日 16:41:23 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[34] 報告
吉田茂の外交官時代

当時外交官としての花形は欧米勤務だったが、吉田は入省後20年の多くを中国大陸で過ごしている。中国における吉田は積極論者であり、満州における日本の合法権益を巡っては、しばしば軍部よりも強硬であったとされる[6]。吉田は合法満州権益は実力に訴えてでも守るべきだという強い意見の持ち主で、1927年(昭和2年)後半には、田中首相や陸軍から止められるほどであった。しかし、吉田は、満州権益はあくまで条約に基礎のある合法のもの以外に広げるべきではないという意見であり、満州事件以後もその点で一貫していた[7]。中華民国の奉天総領事時代には東方会議へ参加。政友会の対中強硬論者である森恪と連携し、いわゆる「満蒙分離論」を支持。1928年(昭和3年)、田中義一内閣の下で、森は外務政務次官、吉田は外務次官[2]に就任する[注 2]。

但し外交的には覇権国英米との関係を重視し、この頃第一次世界大戦の敗北から立ち直り、急速に軍事力を強化していたドイツとの接近には常に警戒していたため、岳父・牧野伸顕との関係とともに枢軸派からは「親英米派」とみなされた[注 3]。統計をつかさどる中央統計委員会委員を兼ねた[9][10]。1936年(昭和11年)は、二・二六事件から2か月後に駐イギリス大使となった。大命を拝辞した盟友の近衛文麿から広田への使者を任されて広田内閣で組閣参謀となり、外務大臣・内閣書記官長を予定したが、寺内寿一ら陸軍の反対で叶わなかった。駐英大使としては日英親善を目指すが、極東情勢の悪化の前に無力だった。また、防共協定および日独伊三国同盟にも強硬に反対した。1939年(昭和14年)待命大使となり外交の一線からは退いた。

太平洋戦争(大東亜戦争)開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと頻繁に面会して開戦阻止を目指すが実現せず、開戦後は牧野伸顕、元首相近衛ら重臣グループの連絡役として和平工作に従事(ヨハンセングループ)し、ミッドウェー海戦敗北を和平の好機とみて近衛とともにスイスに赴いて和平へ導く計画を立てるが、その後の日本軍の勝利などにより成功しなかった。

日本の敗色が濃くなると、近衛文麿に殖田俊吉を引き合わせ、後の近衛上奏文につながる終戦策を検討。しかし書生として吉田邸に潜入したスパイ(=東輝次)によって1945年(昭和20年)2月の近衛上奏に協力したことが露見し憲兵隊に拘束される。ただし、同時に拘束された他の者は雑居房だったのに対し、吉田は独房で差し入れ自由という待遇であった(親交のあった阿南惟幾陸相の配慮によるものではないかとされている)[11]。40日あまり後に不起訴・釈放となったが[注 4]、この戦時中の投獄が逆に戦後は幸いし「反軍部」の勲章としてGHQの信用を得ることになったといわれる[11][2]。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%90%89%E7%94%B0%E8%8C%82

5. 中川隆[-11151] koaQ7Jey 2020年9月25日 16:46:16 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[35] 報告
吉田茂はCIAのスパイだった?衝撃的な都市伝説がささやかれる理由


CIAの紋章

吉田茂は、歴代最多である5期も総理大臣を務めた大物政治家です。
とくに敗戦後の日本の主権回復や復興に大きく貢献したと、政治・歴史の専門家からも評されています。

しかし吉田はそのいっぽうで、アメリカの諜報機関「CIA」のスパイだったという都市伝説的なうわさをもつ人物でもあるのです。
その理由となっている話を3つご紹介しましょう。


日本をアメリカの支配下に置こうと画策?
第二次世界大戦で敗戦した日本は、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の占領下に置かれていました。
その状況下で総理大臣になったのが吉田茂です。

GHQに対してひるむことなく、対等にわたりあった吉田はサンフランシスコ講和条約を締結し、「戦争の終結」と「国の主権の回復」を約束させました。
この功績から吉田は、日本を独立国家として復活させた立役者とされています。

しかしサンフランシスコ平和条約が結ばれるのと同時に、ひっそりと締結された条約がもうひとつありました。
日本にアメリカの軍隊が留まることを認める、日米安全保障条約です。

サンフランシスコ講和条約には吉田を含む日本の政治家6名が調印しているのに対し、日米安全保障条約に調印したのは吉田ひとりのみでした。
つまり日米安全保障条約は、吉田が単独で結んだ条約ということになります。
この事実が「吉田はCIAのスパイだったのでは?」といううわさの一端を担っているようです。

日米安全保障条約を結んだことで、アメリカ軍の日本駐留が決定しました。
主権回復後も米軍を配備し、実質的に日本がアメリカの支配下に入るよう、スパイである吉田が画策したと考えられているわけです。

日本の国策を密告?


第二次世界大戦下では、日本やドイツを含む枢軸国側と、アメリカやイギリスを含む連合国軍が衝突した太平洋戦争が起こっています。
太平洋戦争直前の日本とアメリカは外交が上手くいっておらず、アメリカが日本への石油の輸出を全面的に禁止するなど関係が悪化していました。

そのような状況のなか、天皇も出席する「御前会議」がとり行われます。
この会議では、アメリカと関係回復に向けて交渉をすること、そしてその交渉を続ける期限が設定されました。
いっぽうで、期限を過ぎて交渉が決裂した場合は「米英に戦争をしかける」という日本の国策も決定していたのです。

吉田は御前会議での上記の内容を、アメリカの駐日大使であるジョセフ・グルーにくわしく伝えていたとされています。
日本の国家機密をアメリカ側にリークしていたのが事実であれば、吉田がCIAのスパイだと考えてもおかしくはありません。

実際に吉田はCIAとの関係を疑われ、一度逮捕されています。
しかし十分な証拠がなく、1カ月半ほどで釈放となりました。
吉田が本当にアメリカと繋がっていたかはわかりませんが、密通の容疑をかけられたことは事実なのですね。

側近がCIAと接触
総理大臣となった吉田の側近に「辰巳栄一」という人物がいます。
辰巳は陸軍に在籍していて、戦後は吉田の軍事顧問として日本の軍隊の再編制などに尽力しました。

この辰巳栄一がCIAとつながりを持っており、日本の内部情報をCIAに譲渡していたことが2009年に明らかになっています。
米国立公文書館で発見された文書に、辰巳は「POLESTAR-5」というコードネームで呼ばれ、CIAを経由してアメリカに情報を渡したと記されているのです。

辰巳がCIAに流していたのは、おもに自衛隊や内閣情報調査室の創設に関する情報だったといいます。
辰巳は吉田の側近ですから、辰巳が情報提供していることを吉田が知っていたとしても不思議ではありません。

もし情報の譲渡を黙認していたのであれば、吉田がCIAのスパイだったという話も少々リアルに感じられるのではないでしょうか。

日米安全保障条約にひとりで調印したことや、側近がアメリカへの情報提供者であったことから、吉田茂のCIAスパイ説が浮上したようです。
あくまで都市伝説レベルの話ですが、もし日本の総理大臣がCIAのスパイだったのなら、かなりショッキングな事実といえますね。

https://rekisuta.com/present-day/yoshida-shigeru/cia-spy/

6. 中川隆[-11150] koaQ7Jey 2020年9月25日 17:16:29 : H7WhLicYp6 : YkMuUE1FaVhDeXM=[36] 報告
吉田茂逮捕の真相
http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/ootani3.htm#0

  近衛文麿上奏文案  私が憲兵隊に連行されたのは、たしか四月(昭和二十年)中ごろのことであったと憶えている。

 大磯の私宅から連れて行かれる自動車の中で、召喚される原因は、多分前述の秋月翁の潜水艦の一件だろうと想像していた。

 ところが、九段の憲兵隊での取調べは、秋月翁のことには一切触れない。
『二月に近衛公が内奏した詳細な内容を貴殿は承知しているはずだから白状しろ』
というのである。これにはいささか見当が外れた。

 しかし私はこの憲兵隊での取調べでは一切答えないことに吐を決めた。旧憲法ですら、親書の秘密が保証されていたから、内奏文の内容を話す必要はいささかもないと考えた。

 今流でいう黙秘権を行使したわけである。……
 私は当時鈴木貫太郎総理や阿南陸軍大臣とは懇意の間柄であったから、まさか死刑にはせんだろうと多寡をくくっていた。
 阿南君とは陸軍次官時代、その官舎が平河町の私の隣組で、朝の散歩の途中などで良く出会ってやあやあと声をかけあっていたし、私に少からず好意を持っていてくれたようだった。
 九段の憲兵隊の取調べは厳重でも、取扱いは至極丁重だったのは、阿南君の差金であったように思えた。……
 九段の憲兵隊で二週間過した私は、泥棒諸君とともに、今度は代々木の陸軍衛戌監獄に移された。
(新潮社発行、吉田茂著『回想十年』より)

1 吉田茂検挙の影響をおそる

 敵機の空襲に、重苦しく明け暮れていた帝都にも、春は訪れる。
 焼け残った燻しの桜も、ようやく生気をとり戻して、ふつくらとしたつぼみを抱いている。
 お濠端の柳も、その青い芽を、キラキラときれいな水に影をうつしていた。
 「もう、春が来たか」
 思わず、こう独言した私は、椅子から立ち上って、開け放しの窓から初春の空気を胸一杯吸った。
 昭和二十年三月下旬の、ある朝のことである。
 けたたましく電話が鳴る。憲兵副官からだ。
 「司令官がなにか協議かあるそうですから、すぐ、司令官室にお出で下さい」
 憲兵司令官室は、二階東側の奥まったところにある。
 その入口は固く閉ざされて、吉田茂一派の検挙につき、討議が行われたのであった。

「吉田茂を検挙すること自体は、さまで問題ではありませんが、その影響の及ぶところは、まことに重大であることが注意されねばなりません。
 吉田は、岳父牧野伸顕に、近衛上奏をこまかに物語っているようでありますし、またこの事件は、もともと近衛公の言動から発しておりますので、必然に、同公にまで及ばなければ収まらないことも予想されます。
 したがって、吉田を検挙することは、いきおい牧野伯や近衛公に発展することを考えなくてはなりません。
 果して、今の陸軍に、そこまでの決心ができているでしようか。
 東条政権時代、憲兵の行過ぎは、お上(天皇陛下)にも不快に覚えさせられ、かって、東条総理に憲兵の運用について、御注意があったと聞いています。
 憲兵が吉田茂一派を検挙し、取調べの進展につれて、たとえ参考人としてでも、牧野や近衛を訊問するとなれば、それはお上の側近にまで手をつけることになります。
 元来、陸軍といっても中央部のことですが、その中央部の動き方には、重臣方面は、つとに愛想をつかしています。
 恐れ多いことですが、私の判断では、お上も御同様だと仰じます。
 この場合、東京憲兵のこうした動きは、単に憲兵だけの問題ではなく、全陸軍の問題となりましよう。
 また、陸軍が無茶のことをやり出したとして、上層のひんしゅくを買うことは、軍の戦争遂行に大きなマイナスとなることを惧れます。
 そこで私は、陸軍にこうした状勢の見通しにおいても、なお、かつ、これを決行するだけの強い意思があるかどうか。
 さらに、最近における、お上の陸軍に対する御気持といったものを、はっきり見定めておかなくては、この問題は、軽々に取上げることはできません」
 これは、吉田茂検挙についての討議における私の発言要旨である。
 この朝、陸軍省からもたらされた一片の資料、それはあとで明らかになるであろうが、近衛上奏文を、吉田茂が書きとったものの写真数葉を前にして、大城戸(三后)憲兵司令官、石田(乙五郎)憲兵司令部本部長、それに東部憲兵隊司令官だった私の三人が、吉田茂検挙問題の取扱い方を討議したのだった。
 この資料がどこから出たものかは、私はここに公言することをはばかる。ただ陸軍省の入手したものであることはまちがいのないところである。
 そして、陸軍省事務当局は、これによって、吉田茂の検挙を憲兵に要請していたのだった。
 この討議においては、いろいろと議論はあったが、実施部隊長たる私の前述の意見にもとづいて、憲兵司令官自ら、右の二点を陸軍について訊した上、さらに、憲兵としてこれを着手するかどうかを決めることになったのである。
 さて、憲兵司令官が杉山陸軍大臣、梅津参謀総長について糾(ただ)したところ、陸相は、
 「それが何人であろうとも、悪い者をたたくのに躊躇はいらない。真に犯罪の容疑があり、それが陸軍に不利であるというならば、徹底的に追究することになんらの考慮はいらない」
 と、たいへん鼻息の荒いものがあったし、また、
 「たびたびの戦況上奏には、お上は、いつでも将兵の上に思いをかけられ、御嘉尚(ごかしょう)の御言葉をいた
だいている。
 過般の硫黄島の玉砕にしても、陛下は御目に涙をためられ、第一線将兵の忠誠を激賞しておられる。
 決して陸軍に対して悪い御気持など感じておられない」
 ということであった。
 ただ一度、こういうことがあったという。
 「確か、二月頃のことと思うが、参謀総長が上奏にまかり出たときには、陛下の御気色がいつになくお悪いので、総長は恐縮して引き退ったが、なにか陸軍について御不快のことがあっだのではないかと案ぜられたので、帰途杉山陸相に会って、陸軍になにか問題でもあったろうかと訊ねましたが、陸相は何にもないというし、また、その後陸相はしばしば上奏に拝謁していることであるので、もし、何かあったとしたら、必ずその際、お上より御注意をいただいているはずだ。
 それが、何もなかったというのであるから、これは陸軍に関することではなかったのであろう」と。
 さて、陸軍としてこの問題に強い決意をもっているならば、我々としては何も躊躇するところではない。
 そもそも、吉田茂及びその一派の反戦和平策動については、いつかは手を打たねばならぬことであった。
 彼の親英色は身にしみついていたし、この戦争には、はじめから反対だったので、あくまでも非協力態度を一貫していた彼であった。
 後述するように、彼は防諜上、憲兵の要視察人物だったので、その行動にはたえず憲兵の鋭い目が光り、容疑資料もずっと収集されていたのである。
 かくて、我々は、吉田茂一派の検挙を決意したのであったが、私はこの機会に一言つけ加えておきたいことがある。
 それは、この事件を命令し指揮した私は、はじめからこの取扱いに臆病だったということである。
 なぜなれば、私は、いわゆる東条憲兵の、あのきびしい非難のあとをうけて任に就いている。
 「また、憲兵が無暴なことをやりだした」
 「また、陸軍が憲兵を使って弾圧を始めだした」
と、世の人の口に上ることは、いたずらに、この戦争遂行を困難にするものだと、固く信じていたからである。
 だから私は、吉田茂検挙によって、憲兵というよりも陸軍の信を墜してはならないと、強く考えていた。
 何もこの事件を政治的に取扱う気持は毫もないが、この吉田弾圧によって、世の反戦和平派に警告を与えることになれば、それはもはや我々の目的を達したもので、それ以上、あえてこれを徹底して追及することは、いたずらに軍の最後のあがきだとの不評を受けるのみだとしていたのである。
 したがって、この事件の処理が不徹底であることは、十分に自覚しているのである。
 誰れが見ても、竜頭蛇尾の感をもつことであろうが、実はこうした気持が、指揮官たる私につきまとっていたからである。
 なお、梅津参謀総長いうところの、お上の御機嫌が悪かったということは、この事件にまったく関係のないことではなかった。
 ついでながらここに、これを明らかにしておこう。
――もちろん、それはあとでわかったことだったが――。
 二月のある日、参謀総長の上奏のあったのは、実は近衛上奏のあとだったらしい。
 近衛は速やかなる和平を献策し、この場合、赤化せる陸軍の一部とこれに合体する国内潜在共産勢力がもっとも危険であることを進言しているのであるが、この上奏のあと、お上は近衛に対して、
「梅津参謀総長は、陸軍が入手した情報として、もし敗戦ともなれば、アメリカは、日本の皇族を抹殺するであろう。
 したがって国体を護持するため、徹底抗戦より途がないといってきているが、これについてどう思うか」
 との御下問があった。近衛は、
 「それは陸軍の情報のことで、私などがかれこれすべきではないと思いますが、しかし、私には、そうした情報は信じられないものがあります。
 アメリカにも、日本を頬るの士が多くいることでありますし、ことに、かっての駐日大使グルーのごときは、日本では皇室が厳として存在しなければならぬことを、よく知っております。
 これは、私が考えたところでありますが、彼が帰国にあたって、高松宮から御銭別の御下賜品が送られましたとき、グルー夫妻はわが皇室の知遇に、泣いて感激したということであります。
 だから、アメリカにもこうした知日家が存在する限り、かようなことはよもやあるまいと存じます」
と奉答したといわれていた。
 すなわち、こうした近衛公の上奏と、そして御下間奉答のあとに、梅津参謀総長が参内上奏したのであった。
 総長の上奏した情報に御疑問をもたれていた陛下が、近衛公の奉答に御満足であられたと思われるのであるが、その直後に当の総長が拝謁に及んだので、お上の御気色ことのほか険しく遊ばされたものと思われたことであった。
 陸軍首脳部の、このような甘いものの見方は、終戦時における数々の天皇の御言葉によって、明らかにその迂潤(うかつ)さというより、思い上ったうぬぼれを打ちたたかれたわけであった。
 だから、困難な戦争遂行に当って、戦争指導の中枢たる大本営幕僚が天皇陛下の御信任を得ていなかったということは、大きな国の悲劇であったと、つくづく私は思っている。


2 英米に洩れる機密事項

 憲兵が、吉田茂を検挙するに至ったのは、彼が近衛上奏文案を書きとったという一片の資料だけではなかった。
 思えば、彼が我々の視察線に浮び上ったのは、昭和十四年頃からのことである。
 私が、東京憲兵隊の特高課長になったのは、昭和十三年三月だったが、その翌年、つまり十四年の始め、私は国内防諜に関し、一つの指示を与えたことがある。
 それは、その頃、国の秘密事項がよく外国公館に入っている。
 たとえば議会における秘密会において軍の作戦事項が報告されると、その内容は、もう翌日には英米公館で握ってしまっている。
 これはどうも、政治家というか、政治上層部の一部の人々が洩らしているものと察せられたのである。
 だから、私は、この議会会期を通じ、こうした経路を現実につかむことを部下に命じたのであった。
 そこで問題となるのは、いきおい親英米的な政治家、外交官といったところが、着目されることも当然なことといえよう。
 この議会会期中は、外国公館に出入りする政界要人たちが、かなり憲兵偵謀の目標になったはずである。
 そしてこの偵謀では、これらのすっきりした線は出なかったけれども、大体において、人の関係はつかみ得たことであった。
 たとえば、原田熊男男爵や樺山愛輔伯爵のごときも、この線に浮んできた人々であった。
 たしか、昭和十五年一月に米内内閣が誕生したのであったが、この場合、組閣の大命降下はまったく予想もつかぬものだった。
 多くの練達の政治記者も、すっかり的が外れて、大慌てにあわてたものだった。
 ところが、この米内内閣説が、事前にイギリスの『ディリー・メール』紙に載ったとの確実な情報が入手され、しかもそれは確認された。
 こうなってくると、そこには必然に英米との密絡をもつ、しかも重臣層となんらかの脈絡があるものと推断が下された。
 西園寺公の政治秘書として、組閣に暗躍していた原田熊雄男爵のごときは、大きく我々の前に浮び上ってきたのである。
 原田男爵にたいする偵諜は、熱心につづけられていたが、その結果、彼のメモの一部入手に成功した。
 原田男は人も知るように西園寺公の唯一の政治秘書、元老に情報を提供するという意味があったものか、およそ国家のいかなる機関も、彼だけには重要な国家秘密事項が洩らされていた。
 彼は、これを大学ノートに克明にメモしていたのである。
 これが後にいう、いわゆる、原田日記のタネ本になったわけである。
 原田男に対しては、彼の防諜上の容疑について憲兵隊に出頭を命じ、私から厳重に警告を発したこともあるし、また樺山伯に対しても、防諜上、外人との遮断工作までしたことがある。
 ともかく、我々は原田メモの一部を入手したことによって、吉田茂が、近衛公を中心とする各重臣間に暗躍し、一方、大磯別邸におってクレーギー英大使、グルー米大使らと会談している事実も明らかになったので、吉田、原田、樺山らの親英米分子にたいしては、たえず憲兵隊の鋭い目が注がれていたのであった。
 私は、昭和十六年春、東京を去ったけれども、東京憲兵隊外事課は、防諜上の見地から、こうした人々にたいして、ずっと監視の眼を離さなかった。
 吉田茂についていえば、麹町の本宅や、大磯の別宅にも、憲兵の視察網が張られていたのであった。
 東条時代においても、これらの親英米分子に対しては、きびしい視察が行われていたととは、もちろんである。
 下園佐吉という牧野伸顕の秘書が逮捕されたのも東条時代であり、この頃では、大磯あたりは単に吉田のみならず、原田、樺山、池田(成彬)といったところまで、憲兵の眼が冴えていたのだった。
 かくて、吉田茂については、彼が親英外交官だったということから、そしてまた、たえず英米公館の要人や新聞記者と接触して、その行動に防諜上の容疑があったことからして、かれこれ六年の長年月にわたって、我々の視察の対象となっていたのであった。
 もちろん、六年間ぶっ通しで、憲兵が視察していたというのではない。
 時の緩急、間断はあったであろうが、ずっと、我々の要注意視察人物だったというのである。
 そして、それらの要注意行動は克明に記録され、保存されていたのであった。


3 「陸軍赤化」説の横行

 太平洋戦争の末期、すなわち昭和十九年十一月に、私は東京憲兵隊長に任命された。
 私の着任したのは、ちようど十一月二十四日で、その前日には東京近郊に第一回の空襲があり、私は空襲を背負って、もとの古巣にかえってきたようなものだった。
 翌年三月の東京大空襲は、さすがに都民の士気を沈滞させたかに思われた。
 第一この戦争は、我々には、十八年頃からは、もはや勝目はないものと思われていた。
 ただ、いつまで、国民の総力をあげて頑張り通せるかにあった。
 そこでは士気の沈滞は禁物であり、戦意の昂揚が絶対的であらねばならなかった。
 そして、また、国民の戦意を消沈させ、戦争遂行意志を挫折させるような言動、なかんずく軍の不信が流布されて、軍民の団結に隙を与えるような策動は、厳に取締られねばならなかった。これは憲兵本来の任務だった。
 二十年の始め頃から、露骨に、軍の不信が流布され出した。
「このままでは、とうてい勝目はない。
 戦争指導の中枢である陸軍中央部をこのままにしておいては、ジリ貧に陥るのみだ」
「陸軍は赤化している。陸軍幕僚の中にも赤がいるらしい」
「陸軍はすでに、この戦争に自信を失っている。軍の戦争指導層を刷新強力にせざれば、敗戦必至である」
「軍は、本土は絶対安全だと高言したではないか。
 今や我々の本土は、敵機の蹂躙(じゅうりん)に委されている。軍の防空は、なにをしているのだろう」
 等々といったものが、どこからとなく聞えてくる。
 同じようにその頃、私は、クレマンソーの大戦回顧録が、要路の人々に配られていることを知った。
 この書物は、陸軍予備中将の酒井鎬次の翻訳になるもので、上下二冊になっていた。
 なぜ、こうした書物が要路の人々に配られ、かっ、読まれているのか。
 それは、第一次大戦におけるフランス軍の頽勢は、蔽うべくもなかった。
 ところが、老宰相クレマンソー、ひとたぴ出でて陸相を兼ね、その頃士気沈滞し、腐敗乱脈の陸軍省を徹底的に粛正し、刷新せる陣容をもって戦争指導にのり出した。
 このことが、アメリカの参戦と相まってフランス軍の頽勢を挽回し、ついにドイツを打倒して、連合軍を勝利に導いたというのである。
 すなわち、当面する戦争の非勢を一挙に挽回するには、まず、陸軍現中央部を大粛正するより外に道はないといったことを示唆するものであった。
 酒井中将はその頃、近衛一派に属して、彼らと密接な連絡を保っていた。
 彼は召集されて参謀本部付、そして、戦史方面のことをつかさどっていたが、近衛一派の反軍和平派につながりがあるというのだろう。
 たしか二十年の春頃には、突如、召集を解除されたと記憶している。
 さて、私も、この書物をとりよせて読んで見た。
 なるほど、クレマンソーの陸軍粛正における強い意思と、そして、その率先躬行ぶりが克明に書かれており、この時局にはきわめて示唆に富むものだ、と私も思った。
 だが、こうした書物が、ある意図のために要路に配布され、かつ、愛読されるということは、これを逆にいえば、現陸軍中央部の不信を宣伝するものであって、我々はこれに無関心でいられぬものがあった。
 また、その頃、関東軍が赤化しているとか、あるいは、陸軍中央部幕僚に赤の分子がいるとかいった流説が、主として国の政、財界方面に流れていた。
 しかし、流説の根源は、昔からあったものである。
 それは、陸軍における統制経済が社会主義経済だというので、いつも非難を浴びていたものであっだ。
 ことに物動計画に関係する経済幕僚は、いつも中傷をうけていたことであった。
 しかし、当時の陸軍赤化説は、そんなに単純なものではなかった。
 すなわち、それは、陸軍の反対勢力だった重臣方面につよく、とくに近衛一派が原動力だったといってよい。
 近衛公を始め、富田健治、酒井鎬次、吉田茂、小細敏四郎、柳川平助等々の一派が、陸軍の粛正を狙っており、いずれも、現陸軍は赤だとの強い信念をもっていたようだった。
 そして、この陸軍赤化説の一方の火つけ役は、殖田俊吉だった。
 殖田は吉田茂を説き、牧野伸顕を始め、若槻、広田など重臣方面に、軍の赤化を説き回っていたのである。
 その頃、参謀本部のある部長、ソ連通を自認するソ連がえりのこの将官は、さかんにソ連礼讃の言動を吹き回っていた。
 これが以外に部外の反響を生んで、近衛一派の陸軍赤化説の裏書をしたものか、陸軍は赤だとの流説は、上層部にかなり浸透していったのである。
 こうした近衛一派の蠢動、とくに、吉田茂、殖田俊吉らの動きは、私のところではつねに捕捉されていた。
 その近衛上奏に関しても、吉田の関与部面にはすでに見当をつけていた。
 麹町の本宅で、近衛公から上奏内容を聞いて、これをメモしていることも、すでに情報としてわかっていたのである。


4 近衛上奏の内容を流布

 ここで、私は、いわゆる、近衛上奏文なるものに触れておこう。
 それは、昭和二十年二月十四、近衛公が単独上奏した、その内容なるものが、一部に流布されていたことを、我々が問題としたのである。
 その頃、重臣といえども単独上奏は不可能のことであったが、お上を御慰め申上げるという意味で、重臣たちが日を定めて参内し上奏することに、内大臣のところで準備されたらしい。
 近臣といえば、その頃では内閣総理大臣の前歴者であるので、近衛、平沼、米内、岡田、広田、東条らの歴代の首相歴任者、それに牧野伯が、二月の上旬頃から、つぎつぎに御召によって参内し、自己の意見によって、何事でも上奏するといったものであったらしい。
 二月十四日午前中に、近衛公が参内して上奏したが、近衛公には、特に御下問もあり、拝謁時間も一時間以上に及んだということであった。
 その近衛上奏の要点は、

@ 国の内外を通じ、共産革命に進むべきあちゆる条件が成長しつつありて、敗戦必至の今日、これ以上、戦争を継続することは、全く共産党の手にのるものであり、これがため、速かに戦争終結の方途を講ずべきであること。
A 戦争終結の最大の障害は、戦争継続を主導する軍部一部の存在である。
 これを終結前に一掃し、軍部の立直しを実行することが目下の急務であり、日本を救う先決条件である。
 というのに尽きるのであるが、なお、その内容中には、陸軍の一部には共産党に通謀するものがあるし、共産党に利用され、また、利用されうべき環境にあることが独断されており、我々としては、注意を要すべき言説であった。(12項『註』参照)
 だが、我々は、この近衛上奏そのものの内容を問題としたのではなかった。
 これを問題とするならば、近衛公をたちどころに逮捕したであろう。
 我々の問題としたのは、こうした内容の言説が、一部に流布されたことにある。
 そして、それを流布したものが吉田茂一派であったというのである。
 なお、近衛公の上奏に対して、お上がどんだ御意見をお持ちになったかということは知る由もないが、この言上がすんでから、お上は、陸軍の統割については、三笠宮は、阿南がよいというが、自分はよくわからないと仰せられたので、近衛公はきわめて注意深く、
「今の陸軍に反対なものとしては小畑、石原、宇垣あるいは阿南らもございます」
とお答えしたということである。
 近衛の腹の底では、真崎大将をあげるつもりであったが、天皇が真崎にはよいお気持でないことを知っているだけに、近衛は真崎を言上することを憚かって、小畑をあげたにすぎなかったのである。
 だが、近衛公がここに真崎を伏せて小畑を持ち出したことは、はなはだ意味のあることだった。
 その頃小畑は近衛グループに属し、真崎、柳川を起用して陸軍の大粛正を断行しようと画策していた、もっと先熱心な一人だったからである。
 いささか本題から離れるけれども、私はここで、近衛と、いわゆる皇道派との関係を見ておきたいと思う。
 それは、それによって、近衛の陸軍観なる先のをうかがうことができるからである。
 さて、いつ頃から、近衛と皇道派の人々とつながりができたものか。
 それはたぶん、近衛第一次内閣頃からであったと推察されるが、近衛の側近に、かっての皇道派の指導者が接触していたことは忘れられてはならないことである。
 陸軍の派閥――皇道派とか統制派とかは、私の見るところでは、それは二・二六事件以前のものであるが、近衛は、その後もこの陸軍の派閥がずっとつづいているかのごとく考えていたようである。
 二・二六事件の主体をなしたのが皇道派。
 これは事件後の大粛軍によって一応かきとられたが、なお、根は残っている。
 そしてこれを粛正したのが統制派、この統制派がずっとつづいて、陸軍の指導権を握って戦争に至っている。
 したがって、東条大将も統制派なら杉山大将も統制派だと見ていたところに、近衛の陸軍派閥観があった。
 だから、統制派の天下を倒してこれを粛正するには、対立する勢力たる皇道派の起用ということになったのであろうが、これは近衛のはなはだしい錯覚だった。
 陸軍の派閥は、もともと革新に発するもので、国家改造に志ざす革新分子が、皇道派と統制派とに分派(明瞭な形ではないが)して、一時激しい争いを演じたものであったが、それが二・二六事件前の陸軍のあの険わしい時代だったのである。
 だが、二・二六事件による粛軍は、皇道派を全滅すると共に、これと対立した統制派もなくしてしまったのである。
 もはや、こうした革新による派閥観念は、陸軍から消えてしまっていたのである。
 ただ、二・二六事件による粛正を浴びて、すでに在郷におった一部の人々、特に、その当時、皇道派の首脳と見られていた真埼、柳川、小畑といった人々は、自ら称して皇道派といっていたかも知れないが、しかし、こうした人々は、すでに軍の組織にはいなかったのである。
 ところが近衛は、依然として陸軍には派閥が存在し、現指導者が統制派だから、これを粛正するには皇道派を起用するという、きわめて単純なる概念に支配されていたように思う。
 さて、近衛は、政治家としてはまれに見る情報通であった。
 軍部、官僚、政党、財界、右翼、左翼など、およそ国内各層に情報網を持っていた。
 だが、この優れた情報通にも、事、陸軍に関す限り、正しい実態をとらえていなかった。
 それはその根底に、激しい彼の陸軍嫌いがあったからだと私は思う。
 私の見るところ、第一次近衛内閣以来、彼の陸軍中央部に対する数々の辛らつなる批判は、明らかに反軍的存在だったといってよい。
 しかも、この反軍的感情と意識を根底として、彼の陸軍観があった。
 そしてこの陸軍観は、実に近衛上奏の根幹をなしているのである。
 近衛の陸軍観の特徴は二つあった。
 その一は、前述した陸軍の派閥問題であり、さらにもう一つは、陸軍の革新分子は赤だとしていることである。
 共に我々から見れば、いちぢるしい誤認だといわざるを得ないものである。
 さて、近衛上奏文を一読して、当時陸軍を指導していた革新分子なるものが、新官僚や部外の革新分子らと結托し、この戦争を準備し、この戦争を始め、そして終局において、国内共産党革命を志していたかに感じとられるであろう。
 実に、近衛の陸軍観の最大の特徴は、陸軍の革新分子は赤だということであった。
 これは彼の信念にまでなっていたのではなかったかと思う。
 だが、近衛が、
「陸軍の革新分子が赤であったり、また、赤に操られていた。
 しかしその赤は、赤色ロシアにつながりをもつものである」
としていたことは、近衛のいちぢるしい曲解で、軍を知らざるものの誣妄(ふもう)だと私はいいたい。
 昭和十二年の夏、支那事変が始まったが、それは第一次近衛内閣のときだった。
 近衛はこの戦争の早期終結を望み、蒋介石に密使を送ろうとしたが、密使宮崎竜介は神戸で乗船間際に憲兵に捕えられた。
 そして東京に護送されて取調べをうけた。秋山定輔、実川時次郎なども、その一味として捕えられた。
 この逮捕で、近衛の企図は粉砕されてしまった。
 だが、近衛にしてみれば、これは事前に杉山陸相に諒解を得てあるのに、陸軍、特に憲兵があえてこれを阻止したということになれば、憲兵を手先に使った陸軍中央幕僚に疑いをもつことになる。
 そして、この革新幕僚の背後に何者か糸を引くものがあると見たのであろう。
 すなわち、それは速かなる戦争終結を喜ばない一派、戦争をもって国内革新を行おうとする分子の存在を予想したことであろう。
 だが、この予想は私の知る限り、近衛の独断でしかない。
 支那事変は政府の不拡大方針にもかかわらず、戦野はつぎつぎに伸びて、収拾のつかない泥海の中につき進んでしまった。
 これが、誰れの企みで誰れの仕業であったか、近衛にいわすれば、これも一部革新幕僚の企図によるものだというけれども、私は、これに賛成するだけの資料をもたない。
 一体、その頃は、陸軍の政治的にもっとも鼻息の荒いときであり、一部幕僚の政治的放言が、いつも世のひんしゅくを買っていたときであった。
 だから、政府の不拡大方針を非難攻撃した幕僚もいたであろうし、また、戦争は国家の革新のために必要だといった幕僚もいただろう。
 だが、それらは無責任な放言であって、陸軍の一貫した施策でもなければ、また中核幕僚の意向でもなかった。
 このことは、その頃、東京憲兵隊にあって特高警察に任じ、こうした中央幕僚の動静をつぶさに監察していた私の、はっきり言いうることである。
 また、陸軍の革新分子が赤にあやつられているということも、その頃、陸軍の幕僚が左翼出身者を利用していたことは事実であるから、部外者の言として無理もないことであったが、しかし、その頃は、二、三年前のアメリカでのマッカーシー旋風のような思想のあらしが日本にも吹いていた時であるから、玉石混淆、革新分子が赤にされていたことも注意していいだろう。
 私の言いたいことは、かって皇道派といわれた人々、たとえば真崎大将などにしても、口癖のように当時の陸軍中央幕僚を赤だといっていたことである。
 これらの人々は、かっての統制派の流れを汲む人々を、赤だ赤だとけなし、自分たちだけが純国体信者だと自称していたのである。
「統制派は赤だ。統制派は赤の手先に躍らされている」
「二・二六事件決起の将校も、結局は赤に躍らされていたのだ」
 といった言葉は、その頃私も、直接、真崎大将から聞いたものである。
 かってのこの皇道派指導者と近衛の結び付きは、近衛の陸軍観に大きく作用していることは否めない事実であろう。
 要するに、近衛上奏なるもの、特にその根底にある彼の陸軍に対する見解は、彼の独断と幻想に由来するものであって、断じて正しいものでないことを、ここに明らかにしておきたい。


5 逃げ出した自由主義者たち

 それでは、我々は、なぜ、こうしたものが流布されることを恐れたのであったか。
 ここで、私は、あの頃の国内の様相をどう見ていたか、また、当時、なにが我々の仕事であったかを、一通り述べておきたい。
 すなわち、それは吉田検挙の意味するものの解明に外ならないからである。
 東条政権の強力なる圧力を各面にうけていた国民は、東条内閣の退陣によって、なにかしら、ほっとしたものを感じたことであろう。
 そして、東条についで小磯内閣が生れたけれども、もはや、戦争の様相は深刻をきわめ、その前途は暗湛たるものがあった。
 第一線の戦況の悲報は相次いで入るし、国内は到るところ空襲をうけて、荒廃の頂点にあった。
 国民の衣食住、なかでも食生活は、飢餓の一歩手前にあった。
 昔からいわれているように、紙と爆弾は近代戦の特質だった。
 特に、熾烈な爆撃の下、敗戦へと誘導する巧妙な宣伝謀略こそ、我々のもっとも厳戒すべきものであった。
 したがって、国民の戦意の観察といったことは、我々の思想対策上の大きな仕事だった。
 ともかくも、戦争はもう最後の土壇場まできていたのであるから、国民の耐乏、忍苦の戦争生活も、すでにどん底にあった。
 私には、国民の、いわゆる戦争抗堪(こうかん)力といったものも、すでに、底をついているように思われた。
 我々は、かって、国民の国家から受ける重圧というか、犠牲負担というものには一定の限度があり、この限界を超えて国民に圧力を加えることは、国民暴発の動機をなすものと考えていた。
 だが、そこに見た国民は、限りなき底力をもっていた。
 我々は、わが国民の底力の偉大さを十分に知らされたことであった。
 したがって、国民を対象とする国内治安上の杞憂は、はなはだすくなかった。
 我々には、かの第一次大戦におけるドイツ、あるいはロシアの崩壊といった赤色の脅威は存在しなかったし、真に一億の、完全なる戦争への一致した姿のみがあった。
 今日、政治家の一部には、戦時中、いかにこの戦争をやめるために、志士的行動で暗躍していたかというような言辞をもらす人々がいる。
 また、岡田、宇垣、若槻といった人々の回顧録もすでに世に出ているが、これら、かっての国家の重臣だった人々の、この戦争についての述懐なるものを読んで、人はどんな感じをもっていることだろう。
 「わしは、この戦争には反対だった。早く手を打って、平和にすべきだった」
といっているだけで、身を挺して自己の信念に殉じたことがあったであろうか。
 自己の信念に殉じたといえば、今日根っからの自由主義者、平和主義導だったと自任している人々の多くは、その頃、軽井沢や箱根やその他の別荘で、あるいは地方の疎開先で、まったく、戦争の閣外に立って、国民大衆が命をすて、財を失いつつも郷土に踏み止まり、職場を死守したのを、ひややかに眺めていた人たちではなかったか。
 いずれにせよ、空襲の激化につれ、戦争の困難に伴い、この国民にも沈滞の空気の低流することは見逃せなかった。
 わずかにこれを支えているものは、戦争状態における社会的な制圧というか、この戦争にはどうしても負けられないといった国民心理、弱音を吐くことを恥とする社会意識、こういったものに支持されて、国民は歯を喰いしばって堪えていたのだった。
 だから、ひとたび、この意識に変化が起れば、たちまち総崩れになることは見易いことであった。
それは、我々のもっとも警戒すべきことであっだ。
 ここに、我々が反戦、非職、和平思想を重視する理由があったのである。
 実に、国民の戦争遂行への支持点を揺がす、この種の思想策動は、戦時下の警察に任ずるものの、もっとも厳重に警戒すべきものであったのである。
 我々は、こうしたことのために、この種の思想策動の芽生えのある分野に、鋭い観察を加えできた。
 そして、その結果としての一つが吉田茂事件であり、また、これと同じ頃、私が命令し指揮した、帝都における反戦言動者の一斉検挙だったのである。


6 四月十五日、吉田茂検挙さる

「四月十五日、 この日早朝、吉田茂、殖田俊吉、岩淵辰雄等、反戦分子の検挙を発動する。特高警察防諜中佐をしてこれを担当せしむ」
 これは、私の戦時日記にメモするところである。
 特高警察隊長高坂中佐は、十四日午後、野田准尉を長とする張込班を大磯に急派した。
 任務は吉田の在否を確かめると共に、事後の行動を監視するにあった。
 また、木村准尉を長とする検挙班は同日夜半、大磯に到着し、張込班に連絡して警戒に当った。
 なお、彼らの罪状容疑は、軍事上の造言飛語罪であるから思想係に担任させるのが本筋であったが、吉田を中心とする防諜上の偵諜は、過去六ヵ年にわたって、外事課(当昨は防諜中隊)が専念してきたので、あえて外事課に実施させたのである。
 連日の敵機の来襲に、帝都は桜をよそに、戦争を身近かにする都民の落ちつかぬ生活に明け暮れているが、さすがに、東京をちよっと離れた湘南の大磯は、別世界のようなのどかさで、かてて加えて吉野桜は早くも散りはて、例年よりも温かな気温に、牡丹桜が夢のように遠近の山々の緑に点影し、薄もやが低く山辺に立ちこめて、湖の香を乗せくる浜辺には漁舟も見られ、かもめが波間を縫って、一幅の春の朝景色である。
 木村准尉も、しばしは昨夜来の寝不足も忘れ、思わずこの景色に見とれた。
 そして部下たちをちょっと顧みてから、
「よい景色だな!」
と海に向って両手を思い切り上げ、大きな深呼吸ともつかぬあくびをすると、やがて、自分にもいい聞かせるように下腹に力を入れて、
「さあ、御苦労でも一つ頼むぞ」
と一言いうと、急に緊張した態度で、吉田の別宅へと坂道を急ぎ足であがり始めた。
 やがて、木村准尉は、四人の憲兵を門外に待たせると、ツカツカと門のところに身を寄せで、しばらく内部の様子をうかがうようにしてから、ピタリと閉まった門柱を見上げ、もう一度確かめるかのようにしてから、呼鈴を押した。
 耳をすますと、呼鈴の音がかすかに邸内にこだましている。
 突然、ホーーホケキョと、すぐ近くの山端から鴬の声が散る。静かな一瞬だった。
 やがて、カタカタと引きずるような下駄の音を響かせて、女中の姿が近づいてきた。
 准尉は、ちよっと会釈する女中に、おだやかな句調で、簡単に、
 「憲兵隊の者です。ちよっと御主人にお取次ぎ下さい」
 と一枚の名刺を渡した。
 女中は、こんなに朝早くから何事だろうといった、ちよっといぶかし気な様子で、無言で名刺を受取ると、門外にいる私服憲兵たちをチラリと見ながら、准尉を玄関内に招じいれて、固い表情で、
「しばらく御待ち下さい」
と、言残して、そそくさと奥へ姿を消した。
 准尉は、国防服の胸のあたりに手をやって、ポケットのボタンをかけると、ふと何気なく、腕時計に眼をやった。ちようど六時三十分である。
 十分、二十分、さきほど取次ぎに奥へ入ったきりで、女中はなおも顔を見せない。
 しかし、じっと耳を澄ますと、心なしか、邸内の静けさの中にも、なにかしらあわただしい空気が感じとられた。
 飼犬の遠吠えにまじって、家の向うの方から汽車の音がする。
 重い地ひびきと長い鉄のきしむ音から、貨物列車の通過のようである。
 さきほどから、もう二十分以上も時計とにらめっこをしている准尉の表情は、
「もしや逃げたのではあるまいか」
といった一抹の不安、そして、
「玄関先でこんなに待たせるとは怪しからん」
といった、こみ上げてくる怒りが錯綜して、だんだん複雑になってくる。
「もう三十分だ」
 思わず独言が口から出てきた。
 准尉は、もはや焦燥にたまりかねて、もう一度呼鈴を押すか、奥の方へ大声で怒鴨ってやろうかと思った時に、遠く廊下を歩いてくる衣ずれの音が、しずかな空気を伝わって、だんだん近づいてきた。
 やがて、さきほどの女中が顔を出して、
「たいへんお待たせしました。どうぞ」
 と、准尉を応接間へ案内した。今度は待つほどもなく、当の吉田が現われた。
 羽織袴の和服姿に白足袋が、眼に沁みるような、妙に印象的なものがあった。
 准尉のいかにも軍人らしい不動の姿勢の一礼に、軽く会釈した吉田は無表情に向い側の虎の皮の上に、どっかと座った。
 短躯、肥り肉の吉田は、さすが長年の外交官生活で身につけた端然たる姿であったが、彼の特徴のある角張った顔には、持ち前の傲慢さのかげに、明らかに不安の影がかくしきれず、右手に握ったパイプが、かすかにふるえていた。
 准尉は、いくぶん改まった口調で、手短かに、
「これから憲兵隊まで御同行をお願いします」
 と、陸軍刑法第九十九条違反容疑にもとづく東部軍軍法会議発行の勾引状を、吉田の面前に差出した。
 彼は一瞬、明らかに、ギクリとしたこわばった表情をしたが、静かに勾引状を手にとって、ちよっと見てから無言でうなずいた。
 憎悪、不安といった感情を、みずから、ジーッと押ししずめようとでもするかのように、吉田は、なかなか動こうともしない。
 しばし両者は沈黙のうちに対座していたが、そのとき女中がお茶を運んできたので、准尉は、女中が立ち去るのを待って、再び強く、同行する旨を述べると、なおも吉田は、無言のまま立ち上って、
「洋服に着かえるから、ちよっと、待ってくれ給え」
といい残して、隣室へ入った
 やがて、洋服姿の吉田は彼の内妻こりんに送られて、再び准尉の前に姿を現わした。
 ちようど八時半頃であった。
 吉田は門外に出ると四人の憲兵の姿を目ざとく見つけて、その傲岸な顔にちよっと皮肉な笑いを見せたが、スタスタとさきに立って歩き出した。
 大磯駅から車中の人となっても、への宇に口を堅く結んで、終始、半眼で顔を窓外に向け、ほとんど一言も口を開かず、新稿駅から憲兵隊差回しの車でそのまま、九段下の隊司令部へ連行されたのであった。
 検挙班の木村准尉が吉田宅を出ると、ほとんど入れかわるように、今度は前日来、張込みに任じていた野田准尉ら一行が、家宅捜索班として、一名の東部軍法務中尉と共に吉田別宅を訪れたが、捜索の結果は、わずかに吉田が近衛上奏文案を筆写したものの一部を入手したのみで、その他には、なんらの目ぼしい証拠品も発見されずに引き上げたのであった。
 それもそのはずで、木村准尉の来訪に、早くも身辺の危険を察知した吉田は、木村准尉の一行を、二十分間の長きにわたって玄関先で持たせている間に、墨でかいた上奏文案その他の重要書類を、すばやく取りまとめて愛妻こりんの帯の間にかくさせ、あとで焼却させたことが、翌日、麹町の本宅から差入れにきた女中の話によって、はじめて判明したのである。
 吉田は、家宅捜索を必至と見て、むしろ、自分のもっとも信頼するに足る女に預け、これを懐中させておくことが安全と、とっさに考えたものらしく、いかに慧眼の憲兵でも、婦女子の身体検査をあえてするわけはないと思ったのであろう。
 さて、私は、吉田の検挙を決意してから、特高警察隊長に命じて、吉田一派の検挙計画を作成させていたが、その計画は、相当広範囲に及んでいた。それは、
 第一次  吉田茂、殖田俊吉、岩淵辰雄
 第二次  原田熊雄、樺山愛輔、小畑敏四郎、柳川平助、酒井鎬次
 第三次  近衛文麿、牧野伸顕
 といった三段構えであったが、私はとりあえず、第一次捜査のみを承認し、これを発動させたのであった。
 だから、こうした計画はあったが、私は、この事件を牧野、近衛といったところまで持ち込む腹はなかった。
 なぜなら、事件は、もともと、軍事上の造言飛語という単純な犯罪なので、これを、かような大物にまで及ぼすことは、あまりに大がかりに過ぎる。すでに述べたように、いたずらに世の不評を受けるのがおちであるからである。
 だから、私はこの捜査の進行中、重大な変化のない限り、いうところの第三次捜査はやらない方針だったのである。
 その上、これらの第一次捜査の対象となった人々は、すべて陸軍刑法第九十九条違反および軍機保護法違反容疑だった。
 彼らは和平派ではあったが、しかし、彼らが和平に策勤しようと、それは我々の関知するところではなかった。
 なぜなら、彼らが政治家として、この戦争を和平に策動するために研究討議することは、あえて法律的な対象にはならぬし、また、警察としてこれに介入する必要もないことであったからだ。
 では、彼らの犯罪容疑は、具体的にいってどんなことであったか。
 吉田についていえば、つぎの通りであった。

@ 軍事上の造言飛語罪(陸軍刑法第九十九条違反)
  イ 近衛上奏の内容を流布した容疑
  ロ 陸軍はすでに戦争に自信を失い、士気沈滞しありとの反戦言動の流布
  ハ 関東軍は赤化し、陸軍中央部もまた赤の分子に動かされているとの中傷言動
A 軍機保護法違反罪
  関東軍の編成、装備、行動等について探知したるところを他に洩らした容疑


7 確かに私の書いたものだ

 吉田茂に対しては、憲兵隊へ到着の日から取調べが開始された。

 彼の陸軍に対する態度、この戦争の見解および戦争終結に対する態度などの基本的なことから、訊問が始められた。

 取調べは彼を勾引した木村准尉が担当した。
 木村はしばしば、いうように、六年の長きに亘って、終始一貫、吉田一派の親英派を偵探してきた憲兵だったのである。
 さて憲兵の取調べに対し、吉田の態度はどうだったろう。
 彼は、当初、態度も傲慢で、頑強な否認一点ばりだった。物的証拠をつきつけられるまでは、どこまでも否認し通すので、なかなか事件の中枢に入ることが困難で、いつも若い憲兵を手こずらせていた。
 たとえば、殖田俊吉は陸軍の赤化について、吉田にこのように口述したといっていると、殖田調書を読み上げても、頑固に、
「それは殖田のいうことで、俺の知ったことではない」
と、否認をつづけるといった始末である。
 彼が、もっとも心配していたのは、いわゆる近衛上奏を暴露することによって、近衛に検挙の手が伸びることにあったらしく、したがって、近衛上奏にはなんの関係もないと頑強に否認しつづけていた。
 ある夜、とうとう木村准尉は、野田捜索班が入手した、吉田の手記する上奏案の一部を、吉田の面前につきつけて、
「君はこれにも覚えはないというのか、これでも剛情を張り通すつもりか」
と、じっと吉田を睨みつけ、語気も荒くつめよった。
 よもや、こうしたものが憲兵に握られているとは思っていなかったのであろう。
 吉田の傲慢な面貌にも、一瞬、狼狽の色が表われた。
 やがて、不安とも悲しみともつかぬ表情に変っていった。
 なんで木村がこれを見逃すものか、ここぞとばかり、さらに
「覚えがあろう」
と鋭くたたみかけた。
「それは確かに私の書いたものだ」
 あぷら汗をにじませながら、彼はいまいましげにこう答えた。
 吉田はこの憲兵の前に、とうとう兜を脱いでしまったのである。
 それからは、急に、これまでの傲慢な態度を改め、しかも自発的に案外スラスラと自供するようになった。
 終戦後、
「吉田は憲兵隊に行っても最後までがんばった」
と、いったことが伝えられていたが、あれは嘘である。
 確かに、彼の憲兵隊での態度は、当初は傲慢と否認の連続だった。
 しかし、この上奏文の自筆の一部をつきつけられてからは、非常におとなしく、スラスラと一部始終を陳述したというのが本当である。
 私は、こうした捜査には、いつも取調官から調書を提出させて閲読し、これによって指導することにしていたが、この場合も彼らの調書はことごとく精読しており、吉田が罪状を否認し通したという記憶はない。
 彼は最後の調書において、
『私の思慮の足らないために、軍を誹膀し、まことに申訳ないことをしたと思う。
 この点お許しを願いたい。今後は心境を新たにし、この戦争遂行に、一国民として協力して行きたい』
といった意味のことを述べていた。彼の、取調べがおわったときの心境とでもいうべきものであろう。
 なお、今日、巷間の一部では、吉田が愛国的な立場から、和平工作を行った国士のごとく伝えられ、憲兵の不法弾圧によって留置されてからも、どんなむごい責め折檻におっても頑として口を割らず、信念に殉ずる堂々たる態度に終始し、昭和の天野屋利兵衛のようにいわれているののは、彼をあえて英雄視し、憲兵を誹膀せんとする、何者かの作意的な宣伝といわねばなるまい。
 彼が憲兵隊に勾引されたのは決して政治犯ではなく、すでに述べたように軍事に関する造言飛語の流布という純然たる刑事犯だった。いわば、反戦、反軍言動を流布したことによって押えられたのである。
 そして取調べにおける態度も、信念的に頑強に反抗したのではなくて、罪状をかくすために、当初、否認しつづけていたのであって、こうしたことは、一般被疑者のそれと少しも変ることがなかったのである。
 なお、彼が長い間、防諜上の容疑人物だったことと、取調主任者が一貫して彼の偵諜に任じた木村准尉だったことなどから、彼に対し、この犯罪容疑事実以外に、その交友関係、特にクレーギー、グルーなどへの情報提供に関して追及したし、また、彼の和平策動などにも、相当つっこんで調べあげていたが、私は、そうしたことはこの事件の捜査には直接に関係ないものとして、一件書類からはすべて削除させてしまつたのである。
 彼は老齢だったので、特に取扱いには慎重であった。
 高坂中佐以下関係官の手厚いはからいで、もっとも設備のよい地下の第一号留置場に入れられ、寝具などもすべて新らしいものを供与され、食事は本人の希望で、毎日差入れだった。
 彼は四月十五日から五月三日まで、憲兵隊にいたのであったが、いつも麹町の本宅から女中の運んでくるものを食べ、官給のものにはいっさい箸をつけなかった。
 また、一日中、時間をきめて散歩も許されていた。
 私も彼がノー・ネクタイ姿で、あの猫背を見せながら、後庭を歩いているのを見かけたことも一再ではなかった。
 彼ははまさしく別扱いで、大切にされていたものだった。
 しかし、なんといっても、薄暗い地下の別荘で、十八日間も不自由な生活を余儀なくさせられたことは、この贅沢な老人にとっては大変な苦痛だったろう。
 二十九年のはじめ頃の『文芸春秋』に、阿部真之助の吉田茂論が書かれており、その中に、
「吉田が戦時中、憲兵隊に勾引されているとき、彼を殺そうとする陰謀があって、陸軍省の黒崎中佐がこれを心配して、時々憲兵隊を見張っていた」
といったことが述べられているそうだが、私自身は、これを読んだわけではないので、もし、ほんとうに、そういったことが書かれているならば、これはデタラメもはなはだしいもので、あまりの馬鹿げたことに、開いた口がふさがらないというものである。
 かって、吉田事件の処理に関与した私の部下たちが聞いたら、さぞ、心から怒りを覚え、残念がることだろう。
 それにしても阿部老人の偽作か、また、もしこれに資料を与えた人があるとすれば、まことに、誣妄(ぶもう)もはなはだしいことといわざるを得ない。
 かっての憲兵を、事実にもとづいて非難することはいいが、あくどい中傷はやめてもらいたいものだ。
 最近、出版された吉田茂の『回想十年』によると、彼は、
「憲兵隊の取調べは厳重でも取扱いはしごく丁寧だった」
といっている。事実、この取調べの終る頃になると、木村准尉に、
「あなた方は毎日こんなに遅くまで働いて、よく健康を害さないものだ。感心しましたよ」
となごやかに語る彼であったのである。
 なお、ついでであるがこの”回想”には、このようなよい待遇をうけたのは阿南陸相のさしがねだったようにいっているが、阿南陸相からは何の指示もなかった。
 指示したといえば、「悪い奴はどこまでもやるがよい」と激励していた彼であった。
 当時、阿南陸相と吉田とがどんな間柄にあったかは知らなかっだけれども、四月の下旬、吉田がなお、憲兵隊に留置されている頃、阿南陸相は多勢の幕僚をつれて憲兵司令部を巡視に来たが、吉田が地下室の留置場に入れられていると聞いて、わざと、地下の巡視を止めてしまった阿南さんだった。


8 罪名は「造言飛語罪」

 さて、それでは具体的にいって、取調べの結果はどんなものであったか。
 彼は、陸軍に対して、強い反感をもっていた。
 或いは憎悪に近いものであったかも知れない。
 陸軍のなすこと、すること、すべて気に喰わないのである。
 彼は親英派で、その外交政策は、その頃軟弱外交の典型のようにいわれていた幣原外交の流れを酌む、あくまでも英国本位のものの考え方だった。
 だから、こうした外交家が、当時の陸軍に毛嫌いされることも当然であった。
 すでに、しばしばいわれているように、彼は、かの二・二六事件直後の収拾に立ち上った広田内閣で、外務大臣の椅子を予定されていた。
 ところが、これを知った陸軍は、吉田を忌避(きひ)した。
 ために、彼のせっかくの栄職もふっとんでしまったのである。
 広田は、外相兼摂で組閣を完了した。
 これは吉田にとっては、一生の痛恨事だったろう。以来、目に見えて、彼の態度は反陸軍となった。
 この感情なり批判的態度は、検挙当時においては、いっそう激しいものがあった。
 また、彼は親英派といわれるだけあって、その日英親善ぶりは徹底したものだった。
 親善といえば体裁はいいが、裏をかえせば拝英主義者だった。
 この英米崇拝、英米依存は、彼の政治的信念であっだろう。
『日本はだれがなんといおうとも、英米と仲よくしなければぜったいに繁栄する国ではない。
 だから、英米との戦争は、一日も早く止めなければならない。
 英米との戦争に敗けても、国体はぜったいに滅びることはないが、国内が赤化されれば、ただ滅亡あるのみだ』
 これは、その当時の訊問調書にかかれている彼の口述の一節である。
 吉田のこの信念は、今日でもいささかの動揺もないであろう。
 こうした信念に立つが故に彼はこの戦争はすべきではなかったし、また、すでに始められた以上、一日も早く終結させるべきだというのであった。
 ここに、彼の和平策動の根本があった。
 では、彼は和平のために、どんな手を打っていたのであったか。
 すでに、戦争状態であり、外国との交通の杜絶していたその頃、しかも、在野の元外交官としては、自ら求めて英米を動かすことはできない。
 しかし、彼は米国大使グルーとは特に親交があったので、何等かの密約でもありはせぬかと、取調官はかなり追及したが、得るところはなかった。
 なかったというのが本当だったろう。
 また、今日まで、吉田が戦争を終結させるために大きな努力をしたようにいわれているけれども、彼は戦時中、これといった和平工作はしていない。
 たしか十七年の夏頃に、近衛公に和平の機会をつかむために、渡欧をすすめたことはあるが、これもつきつめての話ではなかった。
 近衛が動かないままに尻きれトンボに終ってしまっている。
 彼はもともと近衛グループに属し、彼の平河町の本邸には、しばしば近衛が来邸していた。
 東条内閣の打倒と次期担当政権には、小畑、富田(健次)、細川(護貞)などの近衛側近と密絡していたが、それも彼が外交政治のベテランとして、外相の地位につくことを予想されていたものであったといえよう。
 さらに、東条退陣後は、いわゆる和平への転換に関し近衛に出馬をすすめるなど、近衛和平内閣の出現に動いていたのであったが、積極的というにはほど遠いものであった。
 ちようど、彼が憲兵隊に収容される直前の四月七日に、小磯内閣にかわる鈴木内閣の出現を見たのであったが、彼は鈴木内閣を、彼の希望する内閣ではないといった。
 すなわち、彼は近衛内閣の出現を待望していたので、期待がはずれたというのであったろう。
 しかし、以上のようなことは、必ずしも彼の罪状とは直接閣係のないことだった。
 私は、我々の必要とした二つの容疑事実について、語らねばならない。
 まず、第一の近衛上奏との関係は、こうだったのである。
 近衛上奏の内容をなすところの陸軍赤化論は、吉田はもちろん、殖田の言説に負うところ大であるが、しかし、我々は近衛がかかる上奏をしたことを問題としているのではなく、吉田がこの上奏文を筆写して人々に流布したことを問題としたのである。
 さて、近衛がこうした上奏を行ったことについては、吉田や小畑らが原動力であったことを認めざるを得ない。
 吉田は小畑、岩淵らと共に、近衛に和平転換について天皇に上奏せよとすすめていたのである。
 こうした関係であろう。木戸内府のお膳立で重臣の単独上奏が決定されると、近衛はみずから筆をとって上奏文をしたためた。
 そして上奏日の前日、すなわち二月十三日夜、麹町平河町の吉田邸に宿泊し、ここで近衛は上奏文案を吉田に示した。
 吉田は克明にこれをメモした。そしてその夜、二人は遅くまで上奏文案を中心に語り合い、吉田の意見でいくらか訂正された。
 近衛は十四日午前中に上奏をおえ、それから首相官邸の重臣会議に臨み、その日午後三時頃ふたたび吉田邸に戻って来た。
 そこには近衛の秘書細川護貞も来ていたが、近衛は、吉田らに上奏の模様について、くわしく物語っている。
 拝謁の際の御下問奉答についても、さきにいささか触れたように、
『アメリカはわが皇室を抹殺するといっているということだが、この点をどう思うかと』
の御下問に、近衛は、
『グルーおよびアメリカ首脳者の考え方を見ると、そこまではいかぬように思います』
と答え、また天皇は、
『梅津が「アメリカが皇室抹殺論をゆるめざるをもって徹底抗戦すべし」というているが、自分もこの点には疑問をもっている』
と仰せられ、さらに
『外交による転換の場合、陸軍は動揺するだろうが、杉山はそれだから元帥が必要だといっておった』
と話されたので、近衛は、
『元元帥というような肩書では抑えられますまい』
と言上したこと、その他陛下より軍の統制に関しお話があったことなど、ことこまかく、一時間にわたって彼らに語った。
 吉田はさっそく、これを牧野伸顕に通じた。
 牧野はたいへん喜んで、
『さすがに近衛さんだ。よいことをいってくださった。近衛さんでなければできない仕事だった』
といって感激したという。
 また、吉田は、このことを殖田俊吉に洩らしている。
 牧野伸顕に通じたことはまだよいとして、殖田に流布したのでは問題である。
 殖田は一介の市井人でしかない。その他、二、三の人に流したことを記憶しているが、それが誰と誰であったかは、今は思い出せない。
 この近衛上奏を知られていたことは、彼らには、大きな痛手だったろう。
 吉田は本邸では手帳にメモし、これを大磯ではきれいに墨書して、保存していたのだった。
 なお、余談であるが、吉田の筆写した上奏文の押収は、憲兵として失敗だった。
 というのは、実は冒頭にも述べたように、彼の筆写したものは写真にとられて、陸軍から回ってきている。
 これと同一のものが本邸か大磯かになければならぬ。
 ところが、家宅捜索班はこの入手に成功せず、帰ってきたのである。
 このことは、憲兵が勾引に行った際、吉田が内妻こりんにすばやく帯の間にかくさせ、あとで焼かしてしまったものであることは、前に述べた通りである。
 この点に関しては、木村准尉が四月二十日、ふたたび大磯におもむいて、内妻こりんを取調べているのである。
「あなたが主人をお連れにいらした時、これは大事な書類と存じましたので、ちよっと帯の間に隠して、あなたがお帰りのあとで、すぐ焼き捨ててしまいました。だから中味は少しも存じません」
という、こりんの告白であった。
 これは、おそらく吉田が勾引に応ずる前に内妻に命じたことであろうが、彼は、この点の追及に関してはあくまでも否認して、煙草を持つ手をブルブルふるわせて、
「それは内妻のやったことで、私の知らないことだ」
と、いいきっていた。
 ともかくも、近衛の上奏内容や御下問の状況などを流布したことは、吉田にとつては致命的だったらしい。
 このことがはっきりされてからは、彼の態度もおとなしくなったことは、前述した通りである。
 彼の造言飛語罪の中には、このほかに、関東軍や陸軍中央部が赤化しているという言動もあった。
 これは吉田よりも殖田俊吉が注入したことであるが、こうした言動が、近衛の判断を決定的にして上奏に至らせたことは、疑いを容れないことだった。
 それから、彼は、樺山愛輔に手紙を送っていた。これは動かせない証拠だった。
 大磯にはその頃原田男爵がおり、池田成彬もいた。樺山も大磯の住人である。
 彼らはすべて親英派で、つねに往き来をして戦争を諭じ、和平策を談じ、このため軍事に関する情報をいつも交換しあっていた。
 我々は、これを大磯グループといっていた。
 すなわち、ここに、二つの親英米的和平派の一群があったということができるのである。
 吉田の樺山に送った手紙には、達筆で、
『陸軍は、もはや、この戦争遂行に自信を失い、士気の沈滞蔽うべくもなく、敗戦必至と存候』
といった一句があった。
 この書簡は、樺山の家宅捜査で押収したものだった。
 こうしたものからも、彼らの仲間の間で数多くの反軍、反戦言辞や、陸軍の誹謗が行われていたことが判明したのであった。
 さらに、第二の軍機保護法違反というのは、これは、いわばつけたりといってもよいものだった。
 それは、彼が関東軍の赤化している理由を述べたなかに、関東軍の編成や行動など、かなりうがった内容が書かれてあり、これは法律的には明らかに、わが野戦軍の編成、行動、配置等の、いわゆる軍機事項に抵触するものであった。
 岩淵については、主として政治情報を吉田の許に送っていたが、その中に、反戦和平というよりは陸軍を横暴だとするいくつかの軍誹謗の内容を、吉田に口述していたことが、軍事に関する造言飛語容疑として取調べられたもので、共にこれらの事実は十分に証拠が固められ、彼らもみなこれを自供したものだったのである。

9 売り言葉に買い言葉

 吉田たちが検挙されて、一週間もたったときのことであった。
 殖田調書を見ていると、彼は、しきりに陸軍の赤化をいっている。
 だが、彼が陸軍のなにをつかんでこのようにいっているのか、私にはわかりかねた。
 それで、取調官の能力もあることだし、私みずから彼について聴いてみたいど考えた。
 どうせ、殖田の取調状況を見るとなれば、それと一緒に吉田の取調室も見ておきたいと思ったので、七の日の夕刻、私はこれらの取調状況をつぶさに視察してみた。
 以下、私の取調実見記である。
 私は、まず、吉田の取調状況を見るため、高坂特高警察隊長と共に、地下の調室を訪ねた。
 ここは司令部地階の小さい取調室だ。壁には防音装置もあり、入口の扉は二重になっている。
 この調室は、かっての英人記者コックス飛降り自殺事件(「英人スパイ、コックスの自殺」の項参照)にこりて、三階の取調室を廃し、当時地階の倉庫だったものを改造して、つくられたものである。
 室の一方には小さい採光窓があるだけで、昼でも電燈をつけなくては使えない薄暗さである。
 私が室に入ると、先着していた事件の捜査主任だった大畠中尉が、在室者一同に起立を命じ、
「只今取調中であります」
 と、型のごとく報告した。
 見ると、入口に近く、取調官の木村准尉が位置し、その対面に、採光窓を背にして、吉田が立っていた。
 やや派手な、ねずみ色の縞の背広を着ているが、数日間の留置場の寝起きで、すっかりよれよれになっているし、ネタタイははずされ、白いワイシャツは蒋垢じみて、みすぼらしい田舎老爺然としていた。
 ただ、目だけはギョロッと鋭いものがあるが、顔色はよくない。連日、連夜の取調べに、かなり疲れを見せているのだろう。
 私は、吉田に向い、
「隊司令官の大谷です」
と、自己紹介してから、定めの椅子についた。そして、
「取調べを始めてよろしい」
と命じた。
 木村は、私が赤坂憲兵分隊長当時の、旧部下の一人だった。
「その頃上等兵だったが、もう、こんなにも成長したものか」
と、感慨深げに彼の態度を見つめていた。
 彼も、私の臨場でかなり緊張しているようだ。
 きっと姿勢を正し、吉田の顔をにらむようにして、訊問を始めた。
 なんだかすごい気合のようなものが感じとられる。
「お前が近衛上奏の内容を与えたのではないか」
と木村の一声。
 吉田は、右肩をいからし、足をつっぱり、椅子にふんぞりかえるような姿勢で、木村をにらみ返している。
 よほどグッときたらしい。
「答えないのかな」
と見ていると、彼は、ぽつりと、
「そんなことはない」
 と、噛んで吐き出すように投げつけた。
「なに! そんなことはない。冗談をいうな!
 お前は近衛に書簡を送り、関東軍は赤化している。
 これは、なによりも大変なことだ。
 一日も早く和平をしなければならない。
 日本は英米と和平してこそ国は栄えるが、赤化したら滅亡あるのみだ、といっているではないか」
とたたみかけた。
 吉田はかなり興奮しているようだ。その興奮と心の動揺を、じっと押えるかのように、口を固く結んで、低い天井を睨みつづけている。
 木村の追及を聞いているのかいないのか。――やがて、吉田は、
「それは、その通りだが、僕が近衛さんに献言しても、これを容れるかどうかは近衛さんの考えのあることだ。
 僕の関知したことではない」
 と、語気も荒々しく、憎々しげに答えている。
 見ている私は驚いた。これは取調べではない。喧嘩である。
 売り言葉に買い言葉、取調官の態度も悪いが、吉田の態度も悪い。
 お互いが、憎悪の感情をむき出しにして問答している。
 私は、ものの十分間も、こうしたいさかいのような取調べを見ていたが、もうこの辺で切り上げることにした。
 木村准尉に「待て」と制して、取調べを中止させたのち、吉田に向い、
「憲兵隊にお出でを願って御迷惑のことと思いますが、一応取調べがすむまでは、お気の毒でもここにいてもらわなくてはなりません。
 なにかと御不自由のことでしようが、御不便のことがありましたら、なんでもおっしやって下さい。
 便宜を取計らわせますから――」
 といって立ち上った。
 彼は、さっきからの興奮が消えないのか、私の挨拶には一言も答えず、ただ黙礼しただけだった。
 私は外に出ると、すぐ、随行していた高坂中佐や大畠中尉に、
「あれは取調べではない。まるで喧嘩だ。
 また、木村准尉の取調べ態度も穏当ではない。しかも言葉づかいが悪い。
 彼もかっては在外大使をつとめ、次官までした人だ。儀礼を守らなければならない。
 ああした「ガラ」の悪い取調べをしてはならぬ。吉田の取調べは、大畠中尉みずからやれ。
 木村は補佐官として使ってもいいが、やはり、相手の立場を考えて、将校が取調べに当るようにせよ」
と指示した。
 このときの取調べは、近衛上奏と吉田との関係を追及していたのだった。
 そこは吉田のもっとも痛いところであったので、「カン」をたかぶらせていたのか、或いは、彼の激怒癖であったものか、いずれにしても吉田のプリプリした態度には、何人でも反感をそそるものがあった。
 だから、若い取調官がこれに巻き込まれて、厳正な取調べ態度を失って喧嘩腰になるのも、無理のないことかも知れないと思われた。

10 殖田俊吉とやり合う

 吉田の取調べを見でから、私は殖田俊吉の取調室に行った。
 例のドス黒い神田川に面して建っていた、かっての厩を改造したものだった。
 たたきの廊下を境にして、一方が留置場、一方が取調室になっていた。
 対面の留置場には、本土空襲に参加し、捕虜になった米軍搭乗員が多数取容されていた。
 もう薄暗く、たたき廊下には、ポツンと電灯が一つにぶく光っている。この取調室は急造のバラックで、きわめて、粗末のものだった。
 そこには取調用の机と椅子があるだけで、殺風景そのものである。
 見れば黒の詰襟、いくぶんやせ型の村夫子(そんぷうし)然とした男が、端然と机の前にすわっていた。
 これが殖田だった。
 私は、さっそく殖田に向って、こんな質問をぶつけた。
「僕がここに来たのは、君に聞きたいことがあったからだ。
 君はこれまで、関東軍や陸軍中央部を赤だ赤だといっているが、どうした根拠で、そんなことをいって歩いているのか、その資料と理由を、この僕にはっきり示して欲しいのだ」
 彼は、静かに、いくぶん低い声で、二十分近くもしゃべりつづけたが、要旨は、つぎのようなものだった。
「関東軍および満州国の政治の動き方を見ていると、なんとはなしに、社会主義的な傾向がうかがわれる。
 協和会思想のごときは、その顕著な例だと思う。
 関東軍は満州国の育成と発展をもって、これを、日本の革新に及ぼそうとしている。
 すでに、日本にもこうした社会主義的理念、および政策を導入していると見られる。
 また、陸軍の政策を見ていると、国家社会主義の色彩が濃厚であり、かって私が見た、陸軍でつくられたという重要産業五ヵ年計画なるものは、明らかに社会主義であり、しかも、陸軍の政策は、この基本計画を逐一実施しつつあるものと認められる。
 これをもって、私は陸軍中央部の赤化という」
 これを聞いた私は、
「それはその通りだ。君の思想的な慧眼には敬意を表する。
 だが、まだ君は、その事態の奥行きを知らないようだ。僕がいささか君に説明してあげよう。
 第一点についていえば、満州国協和会思想は、明らかに、一国一党の国家社会主義だ。
 そして、この協和会思想を、日本革新の名において、日本に及ぼそうとしたことがあったのも事実である。
 しかし、それは、私がここの特高課長をしているときに、一網打尽に引上げた、いわゆる浅原事件(「昭和維新と浅原健三の陰謀」の項参照)というのがそれだ。
 我々は君らの心配していることを、すでに、数年前に処理してしまっている。
 また、第二点の陸軍の政策が赤だと君はいうけれども、これは君のいった通り、その重要産業五ヵ年計画なるものは、社会主義者の宮崎(正義)という人がつくったものだ。
 これは石原中将が、この人を使ってこしらえさせたもので、すでに廃案になっていたが、これも不届きだというので、浅原検挙の時に同時に破棄させたものである。
 これらの点については、私みずから取扱い、処置したことで、君らの杞憂に先行して、陸軍の粛正として取上げたものだ。
 浅原事件は、昭和十三年の暮から、翌年春にかけてのことだから、すでに、六年もたっている。
 そんな古い事柄や古い資料を今頃もち出して、現在の陸軍の赤化として持ち回られることは、陸軍としてはしごく迷惑なことだ。
 今はすべてが、嶮(け)わしい戦いに骨身を砕いている。
 この現在において、陸軍が赤化しでいるというなら、具体的な事実について、これこれが軍の赤化だという証拠をはっきり示してもらいたい。
 それならば、私は喜んで承わろう」
「そうした具体的なものをつかんでいるわけではない」
「君は、軍の赤化を一枚看板にして、重臣やその他の要路の人々に説き回っているが、軍のことをいうならば、もっと、陸軍そのものを研究してかからねばならない。
 皮相な見解や臆断で軍を批判することは、とりもなおさず軍への中傷であって、これこそ戦争遂行を妨げるものと断ぜざるを得ない」
と、私は彼を、激しくきめつけた。
「まことに軽卒にして申訳けのないことです」
と、彼は、私の前に頭を下げた。
 これが、殖田と私との問答の要旨である。この殖田が後の法務総裁(第二、三次吉田内閣)その人である。
 以上が、私の吉田、殖田取調状況実見記である。
 私はその夜八時頃、自室に戻ってから、同行の高坂君にこんなことをいったのを覚えている。

『吉田という男は、ずいぶん頑固で、激情家で、気位の高いやつだ。
 それが憲兵隊に来て、一准尉に、お前だの何だのいわれ、その上、痛いところをつつかれて、すっかり感情を害し、極度の反感反情をもって対抗してきている。
 意気込みは鋭くても、若い准尉では、取調べもかなり困難なことだ。
 さっきもいったように、こういった男には、やはり礼を厚くし、その信念なるものをうけ入れて訊問することが大切だ。 ただ”ガムシャラ”にかぶりついていっても、成功するものではない。
 かえって、ああした”ガラ”の悪い取調べになってしまう。
 それにしても、僕も昔からたくさんの人間を取調べてきたが、ああいった怒りっぽい男は、ちよっと珍らしい存在だね。
 また、殖田という男、一見して学者肌ともいえず、学校の先生タイプで、ヘナヘナしたように見えるが、さすがに経済を専攻しているためか、思想的には鋭いものをもっているようだ。
 しかし、彼の意見は、陸軍の一時期、一局面を見ての考察であって、遺憾ながら正鵠を得ていない。
 これも彼が現役軍人との接触を、ほとんど持っていないことによるのだろう。
 こういう半可通の輩が、民間の軍部通として重臣層に出入りしていることは、軍のために、はなはだ危険なことだと思う』と。
 これは当時の私の素直な実惑だったといっていい。

11 ついに不起訴となる

 これらの人々の原調べがすんだ。犯罪の容疑は十分なのだ。
 そこで、私はさらに、第二次捜査に進展させるかどうか、決心することを余儀なくさせられたが、吉田検挙以来、一般の推移を見ていると、吉田たちを逮捕したことで、いわゆる和平派、親英派に対する暗黙の警告は、相当きいていることが確認されていた。
 そこで、この一連の事件は、なるべく消極的に持っていくことがよいことだと思った。
 かくて、私は、発展的に第二次捜査を止めることに決めた。
 そして、単に、第一次捜査の結末をつける意味で、樺山、原田、小畑だけを一応取調べることにしたのである。
 この捜査は、四月二十六日から開始された。そして、すでにこれらの人々の軍事上の造言飛語罪の容疑資料は十分に整っていたけれども、あえて問題とせず、吉田や殖田などの証拠固めの意味の参考調べといった程度ですますことにしたのであった。
 だから、これらの人々は、わざわざ憲兵隊に出頭を命ずることもなく、居宅取調という形式をとった。
 それは、在大磯の樟山はすでに老体であるし、また原田は、その頃病臥中であった。これらの人々を、いつ空襲があるかわからない東京に連行することは、どうかと思われたし、小畑は在郷であっても、陸軍の先輩といった立場を尊重しての処置だったのである。
 たしか大磯へは、憲兵が二、三泊で出張して居宅訊問を行い、小畑の場合は、大畠中尉みずから彼の中野の自宅で調べたはずである。
 さて、このように、この捜査に私が消極的な態度をとったため、世間の一部では、当時、どこからか憲兵が圧力をうけたのではないかという疑惑をもつものもあったが、私の身辺にはいずれの方面からも、いささかの圧力もなかった。
 すべて、私の判断のままに動いたものであることを、ここで、はっきりさせておく。
 終戦後、殖田俊吉手記するところの『日本バドリオ事件顛末』(二十四年十二月、文芸春秋)には、
「小畑君は引張られなかったが、これは引張られたと同じに、憲兵が家にいって、調書をとっている。
二週間くらい軟禁されている」
 と、書いているし、また細川日記(「情報天皇に達せず」)によると、原田男は、自邸で四日間の取調べをうけ、かつ家宅捜索もうけた。樺山愛輔伯も家宅捜索をうけたとある。
 共に、相当な誇張はあるが、彼らを取調べたことは事実である。けれども、それは単なる参考人に過ぎなかった。
 さて、吉田茂他二名は、五月二日東部軍軍法会議に書類送付、翌三日、身柄を東京代々木陸軍刑務所に移した。
 その後のことは知らぬ。
 陸軍刑務所に収容されたこれらの人々は、あの五月二十五日の夜間大空襲で、代々木刑務所が焼かれるまでおり、代々木が焼けたので、その数日後に保釈で出所を許されたはずである。
 彼らは、釈放運動には相当に動いたらしい。
 私がこのような消極的な決心をした後になって、ある人が私を訪ねて、暗に穏便な処置を懇請したこともあった。
 また私が、終戦後になって、時の外務大臣だった東郷茂徳氏に聞いたところでは、東郷外相も吉田の身を思って、阿南陸相にしばしば吉田らの釈放を懇請したが、陸相は、
「若いものがいうことを聞かないので」
とて、明答を与えなかったという。
 この事件は、結局において、不起訴だった。
 陸軍省では起訴、不起訴が問題となり、兵務局を中心とした幕僚は強く起訴を主張したが、けっきよく、阿南陸相の裁断で不起訴と決定したということであった。
 私はいつも、事件がいったん憲兵の手を離れてからは、成行には無関心だった。
 したがって、この場合も、吉田が釈放されようが、殖田が不起訴になろうが、それは、軍法会議の権限においてなされることであって、そうしたことには一片の干渉もしたことはなかった。
 まして、戦局困難を訴え、また、あの激しい空襲の連続下では、もはや、過去のことに気を配るだけの余裕のなかったことも事実である。

12 『注』 昭和二十年二月十四日 近衛文麿上奏文案(原文のまま) top
 敗戦は遺憾ながら、最早、必至なりと存候。以下此の前提の下に申述候。
 敗戦は我国体の一大瑕瑾(かきん)たるべきも、英米の与論は、今日迄の所、国体の変更にまで進み居らず、(勿論、一部には、過激論あり、又、将来、いかに変化するかは測知し難し。)従って、敗戦だけならば、国体上は、さまで、憂ふる要なしと存候。
 国尊護持の立前より、最も、憂ふべきは、敗戦よりも、敗戦に伴ふて起ることあるべき共産革命に侯。       つらつら、思ふに、我国内外の状勢は、今や共産革命に向って、急速度に進行しつつありと存候。
 即ち、国外に於ては、ソ連の異常なる進出に御座侯。我国民は、ソ連の意図を的確に把握し居らず、かの一九三五年人民戦線戦術、即ち、二段革命戦術採州以来、殊に、最近、コミンテルン解消以来、赤化の陰謀を軽視する傾向顕著なるが、これは、皮相安易なる見方と存侯。
 ソ連が究極に於て、其周辺諸国には、ソヴィエット的政権を樹立せんとして、著々、其工作を進め、現に大部分成功を見つつある現状に有之候。
 ユーゴーのチトー政権は、其の最典型的なる具体表現に御座侯。ポーランドに対しては、予め、ソ連内に準備せるポーランド愛国者連盟を中心に、新政権を樹立し、在英亡命政権を問題とせず押切り候。ルーマニア、ハンガリー、フインランドに対する休戦条件を見るに、内政不干渉の原則に立ちつつも、ヒットラー支持団体の解散を要求し、実際上、ソヴィエット政権に非らざれば、存在し得ざる如く強要致侯。イランに対しては、石油利権の要求に応ぜざるの故を以て、内閣総辞職を強要致候。スイスがソ連との国交開始を提議せるに対し、ソ連はスイス政府を以て、親枢軸的なりとして一蹴し、之が為、外相の辞職を余儀なくせしめ候。
 米英占領下のフランス、ベルギー、オランダに於ては、対独戦に利用せる武装蜂起団と、政府との間に深刻なる闘争続けられ、是等諸国は、何れも、政治的危機に見舞はれつつあり。而して、是等武装団を指導しつつあるは、主として、共産系に御座候。
 ドイツに対しては、ポーランドに於けると同じく、已に、準備せる自由ドイツ委員会を中心に、新政権を樹立せんとする意図あるべく、これは、英米にとり、今は頭痛の種なりと、存ぜられ候。
 ソ連は、かくの如く、欧洲諸国に対し、表面は内政不干渉の立場をとるも、事実に於ては、程度の内政干渉をなし、国内政治は親ソ的方向に引きずらんと為し居り侯。ソ連のこの意図は、東亜に対しても、亦同様にして、現に延安にはモスコーより来れる岡野(編集部註・野坂参三)を中心に、日本解放連盟組織せられ、朝鮮独立連盟、朝鮮義勇軍、台湾先鋒隊等と連携、日本に呼びかけ居り候。
 かくの如き形勢より推して考へるに、ソ連は、やがて、日本の内政にも干渉し来る危険、充分ありと存ぜられ候。(即ち、共産党公認、共産主義者入閣――ド・ゴール政府、バドリオ政府に要求せし如く――治安維持法、及び、防共協定の廃止等々)
 翻って、国内を見るに、共産革命達成のあらゆる条件、日々、具備せられ行く観、有之候。
 即ち、生活の窮乏、労働者発言権の増大、英米に対する敵愾心昂揚の反面たる親ソ気分、軍部内一部の革新運動、之に便乗する所請新官僚の運動、及び、之を背後より操る左翼分子の暗躍等々に御座候。
 右の内、特に、憂慮すべきは、軍部内一味の革新運動に有之候。少壮軍人の多数は、我国体は共産主義と両立するものなりと信じ居るものの即く、軍部内革新論の基調も、亦、ここにありと存侯。
 皇族方の中にも、此の主張に耳傾けらることありと仄聞(そくぶん)いたし候。
 職業軍人の大部分は、中以下の家庭出身者にして、その多くは、共産的主張を受け入れ易き境遇にあり。已に、彼等は、軍隊教育に於て、国体観念丈けは、徹底的に叩き込まれ居るを以て、共産分子は、国体と共産主義の両立場を以て、彼等を引きずらんとしつつあるものに御座候。
 節々、満洲事変、支那事変を起し、之を拡大して、遂に大東亜戦争にまで導き来れるは、差等軍部一味の意識的計画なりしこと、今や、明瞭なりと存候。
 満洲事変当時、彼等が、事変の目的は、国内革新にありと公言せるは、有名なる事実に御座候。
 支那事変当時も「事変は永引くがよろし、事変解決せば、国内革新は出来なくなる」と、公言せしは、此の一味の中心人物に御座候。
 是等軍部内一味の者の革新の狙ひは、必ずしも共産革命に非ずとするも、これを取巻く一部官僚、及び民間有志(之を右翼といふも可、左翼といふも可なり、所謂右翼は、国体の衣を着けたる共産主義なり)は、意識的に、共産革命に迄、引きずらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人、之に躍らされたりと見て、大過なしと存候。
 此の事は、過去十年間、軍部、官僚、右翼、左翼の多方面に亘り、交友を有せし不肖が、最近、静かに反省しで到達したる結論にして、此の結論の鏡にかけて、過去十年間の動きを照らし見る時、そこに思ひ当る節々、頗る多さを感ずる次第に御座候。不肖は、この間、二度迄、組閣の大命を拝したるが、国内の相剋摩擦を避けんが為、出来るだけ、是等革新論者の主張を採り入れて、挙国一致の実を挙げんと焦慮せる結果、彼等の主張の背後に潜める意図を充分に、看取する能はざりしは、全く、不明の致す所にして、何とも申訳無之、深く責任を感ずる次第に御座候。
 昨今、戦局の危急を告ぐると共に、一億玉砕を叫ぶ声、次第に、勢を加へつつありと存候。
 かかる主張をなす者は、所謂右翼者流なるも、背後より之を煽動しつつあるは、之により国内を混乱に陥れ、革命の目的を達せんとする共産分子なりと説み居り侯。
 一方に於て、徹底的英米撃滅を唱うる反面、親ソ的空気は、次第に濃厚になりつつある様に御座侯。
 軍部の一部には、いかなる犠牲を払ひても、ソ連と手を握るべしとさへ論ずる者あり、又、延安との提携を、考へ居る者もありとの事に御座候。
 以上の如く、国の内外を通じ、共産革命に進むべきあらゆる奸条件が、日一日と、成長致しつつあり、今後、戦局益々不利ともなれば、此の形勢は、急速に、進展可致と存候。
 戦局の前進につき、何等か一縷(いちる)でも打開の望みありというならば格別なれど、敗戦必至の前提の下に論ずれば、勝利の見込なき戦争を、之以上継続する事は、全く共産党の手に乗るものと存侯。
 従って、国体護持の立場よりすれば、一日も速かに、戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕候。
 戦争終結に対する最大の障害は、満洲事変以来、今日の事態にまで、時局を推進し来りし軍部内の、かの一味の存在なりと存侯。
 彼等は、已に、戦争遂行の自信を失ひ居るも、今迄の面目上、飽く迄、抵抗可致者と存ぜられ候。
 もし、此の一味を一掃せずして、早急に、戦争終結の手を打つ時は、右翼、左翼の民間有志、この一味と響応して、国内に大混乱を惹起し、所期の目的を達成致し難き恐れ有之候。
 従って、戦争を終結せんとすれば、先づ、其の前提として、此の一味の一掃が肝要に御座候。
 此の一味さヘー掃せらるれば、便乗の官僚、並に右翼、左翼の民間分子も、声を僣むべく候。
 蓋し、彼等は、まだ大なる勢力を結成し居らず、軍部を利用して野望を達すんとするものに外ならざるが故に、基本を絶てば、枝葉は自ら枯れるものと存侯。
 尚、これは、少々、希望的観測かは知れず候へ共、若し、此等一味が一掃せられる時は、軍部の相貌は一変し、英米及び、重慶の空気或は緩和するに非らざるか。元来、英米乃至重慶の目標は、日本軍閥の打倒にありと申し居るも、軍部の性格が変り、その政策が改まらは、彼等としても、戦争継続につき考慮する様になりはせずやと思はれ候。
 それは、兎も角として、此の一味を一掃し、軍部の建て直しを実行する事は、共産革命より日本を救ふ前提先決条件なれば、非常の御勇断こそ、望ましく存候。
以上  

http://ktymtskz.my.coocan.jp/cabinet/ootani3.htm#0

7. 保守や右翼には馬鹿し[166] lduO54LiiUWXg4LJgs2Ubo6tgrU 2023年5月09日 06:09:41 : EERvbbA34m : Sjg3M1VaWVM5SGs=[1] 報告
特番『伊藤貫先生登場!戦後吉田茂から続く”親米保守”では日本は滅びる!』ゲスト:国際政治アナリスト 伊藤貫氏
2022/11/12

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