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ト・アペイロン 経済原論概説
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/1118.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 10 月 18 日 17:10:49: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: マルクス経済学の世界 投稿者 中川隆 日時 2020 年 5 月 28 日 14:54:48)


経済原論概説 記事案内
ト・アペイロン 2020/03/25
https://note.com/scienta_est/n/n9e262ce878b0/edit

現代経済学における「経済原論」の位置づけ

 現在の大学教育等における(狭義の)「経済学」は、多くの場合「近代経済学」を指す。近代経済学とは、「ミクロ経済学」及び「マクロ経済学」の総称である。ミクロ・マクロ経済学とは、極めて近代的な学派の一つであると換言してもよいだろう。

 近代経済学以前の経済学はアダム・スミスやデービット・リカードウ、トマス・ロバート・マルサス、J.S.ミルなどに代表され、「古典派」と呼称される。古典といっても彼らの時代は18世紀後期から19世紀の中頃である。その後、メンガ―、ジェボンズ、ワルラス等の理論から、近代経済学の基本理論が構築されていく。沢山の人物が出てきて混乱を招きかねないのは恐縮だが、要するに近代経済学は百数十年程度の歴史しかないのである。

 更にスミス以前の経済学(であると解釈される)理論も存在するが、これは「経済学史」及び「経済思想」の範疇なので、これ以上の記述はここでは控えることとする。

 さて、古典派の経済理論を受け継ぎ発展してきた近代経済学だが、近代経済学が産声を上げたのと同時代に、全く別の系譜が発展していくことになる。それすなわち「経済原論」である。経済原論はカール・マルクスが『資本論』において記述した理論を枢軸としている。日本においては宇野弘蔵が『経済原論』の中で『資本論』の理論を分析したことは有名である。

 以前は近代経済学と同等に学習されていた原論も、現在の大学のカリキュラムとしては経済学部の選択科目として設置されていて、経済学部の人間でも学ばずに卒業することもあり、経済学部以外の学部では(たとえミクロ・マクロ経済学を学習した人でさえも)その存在を知ることはあまりないように見受けられる。しかしながら、経済という不可視的なシステムを分析するに当たり、その理論前提を比較検討することは重要な営みである。

記事の目的と方針
 マルクス=社会主義=共産主義=革命=危険思想であると断定するのはあまりにも短絡的に過ぎるだろう。マルクスは資本主義社会を批判的に書いてはいたが、それは必ずしも共産主義への転換を意味するものとは限らない。資本主義の抱える問題を指摘し、より良い社会へと人々を導こうという試みのもと書かれた『資本論』だが、これは未完成の内に終わっている。彼が思い浮かべていた理想世界を完全に知ることはできないのである。それでも、マルクス経済学につて学ぶことは有意義なことである。

 上記の通り、近代経済学とは現在最も主要な経済学であるに過ぎず、普遍的・絶対的な視点であるとは言えない。それに対して真に批判的な視点は不可欠である。経済に対する視点の相対化というアプローチは、上述した「経済学史」及び「経済思想」が大いにその役割を果たしているが、一方で、近代以降の、かつ近代経済学とは抜本的に異なる思想系譜を体系的に学ぶこともまた、非常に効果的な方法であろう。

 第1回から第5回で経済原論の成立および基本的な理論を概説し、第6回以降は戦後の日本経済び世界経済を経済原論的な視点で概観していく(全9回)。最後に番外編として、専門性の高い記事を用意している。

 さて、先ほどから「概」という文字が多用されている。この記事はアマチュア(つまりは経済学で生計を立てていない人間)によって書かれており、その対象は経済原論に触れたことのない方、あるいは経済(学)に興味はあるがあまり詳しくない方を想定している。つまりは初学者向けに書かれたものであり、煩雑な説明を避けてなるべく平易な内容にすることを心掛けている。無論、原論やその他近代経済学についての記事なので、最低限の専門用語の登場は避けられないが、その都度できるだけわかりやすい解説を行おうと考えている。

 この記事はあくまでも今日の社会構造を理解する方法論の一つとして経済原論を多くの人に知ってもらうことが目的であり、特定思想への誘引を目的としたものではない。むしろ、経済原論・近代経済学の両方を批判的な目で見ることが望ましいと私は考えている。そして何よりもこの記事によって読者の教養がより深いものになることを望んでいる。

https://note.com/scienta_est/n/n9e262ce878b0/edit  

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コメント
1. 中川隆[-10792] koaQ7Jey 2020年10月18日 17:53:13 : WKyPV5eFRY : WDdzVVpPcGZjT1U=[14] 報告
経済原論概説 第1回 理論構成
ト・アペイロン 2020/03/28
https://note.com/scienta_est/n/n7bc473f8d65d


講座案内

理論の背景
 学問的、及び歴史的な経済原論の始まり、すなわちマルクス経済学の始まりは、マルクス著『資本論』(1867)である。本書は資本主義を批判的にとらえ、解説したものであり、その批判は現代にも通ずるものがある。

 マルクス経済学は、物事の本質は「物」であると考える唯物論の下、資本主義を科学的な見地から見直している。(ヘーゲルの)弁証法により、経済の発展法則を解明し、社会構造に当てはめて考えた。生産力水準が低い狩猟採集社会から、農耕社会へと発展(歴史学的、特にマクロヒストリーの学説においては必ずしもそうではないということを付しておく)し、やがて農耕技術の発展によって必要な労働時間が短縮したり、コミュニティのなかで食料生産に従事する必要のない人口が増加する。更に手工業が発展し、産業革命を経て大規模工場による生産が開始され……といった具合だ。このような歴史に興味を持たれた方は、経済史を学習することを推奨する。マルクスは(残念ながら未完である)『資本論』において、資本主義社会の次にもたらされるべきより発展した社会の姿を描こうとした(それは必ずしも社会主義的な要素に満ち溢れているとは限らないだろう)。

 また、マルクスは社会の下部構造である経済(生産関係)の変化が、思想や文化などの上部構造に変化をもたらすと考えたのである。方法論としては、抽象的な物から具体的な物へと発展させていく上向法が採用された。例えば資本の価値を分析する場合、まずは商品交換の価値から分析し、それを踏まえて貨幣を分析し、資本に関する価値分析を行うのである。

近代経済学との相違

 近代経済学とマルクス経済学は、その基礎となる価値論から異なったものとなっている。近代経済学の価値論は、消費者の視点に立った主観的価値説を基にしている。消費者の効用(満足度)を指標として、効用を最大化させることを目的に理論を樹立した。これに対するマルクス経済学に批判は、効用という主観的な物を価値判断の基準にしてよいのだろうか、というものだ。マルクス経済学は、古典派経済学の労働価値説を発展させ、生産者側の立場から経済を分析している。近代経済学のように、効用の基数(a+b=c)的計測を行うことを不可能であるとし、序数(a<b<cだがa+bの値は問わない、1st,2nd,3rdの世界)的計測を行うにとどまっている。


 更に、マルクス経済学が利潤の源を労働であると考えている(労働価値説と呼ばれる)ことには特に注目したい。近代経済学では、労働はある意味売買され「投入」される生産要素に過ぎない。これは生産者的な視点から見れば当然の帰結であろう。それではなぜマルクスが労働が利潤を生み出すという考えに至ったのを、次回以降上記のマルクス的手法を用いて物々交換の段階から弁証法的に解説する。

https://note.com/scienta_est/n/n7bc473f8d65d

2. 中川隆[-10789] koaQ7Jey 2020年10月18日 18:29:58 : WKyPV5eFRY : WDdzVVpPcGZjT1U=[17] 報告
経済原論概説 第2回 貨幣論
ト・アペイロン 2020/03/30
https://note.com/scienta_est/n/n452b753965e8


物々交換から貨幣へ

 マルクス経済学における労働価値説を巡って、「価値」というものを考える。なぜ貨幣に価値を見いだすのか、資本とはいかなるものか、経済の主体が商品→貨幣→資本へと"発展"していったプロセスを辿りながらマルクスの思想になぞらえて解説する。


 物々交換では、商品と商品を直接交換するため、例えばある商品a100gを別の商品bと交換するときは、aを100g生産するために必要な労働量で生産できる量のbと交換することになる。ここで仮にaを100g生産する労働力で、bを200g生産できるとするならば、a100gはb200gと交換されることになる。商品が二つだけならば問題は無いが、無数の商品をこの方法で交換する場合、無数の交換比率が存在する。(n個の商品にはn(n-1)/2個の交換レートが存在する。)そこで、取引を容易にするために商品貨幣として一般的等価物が使われるようになった。実例としては米や家畜、塩などがこれにあたり、これを基準としてその他の商品を交換するようになった。般的等価物の条件として、耐久性、保存性、等質性、希少性があり、分割や結合、移動に便利であることが挙げられるが、これを満たしているのは貴金属である。貴金属の中でもイオン化傾向が最も低く、王水以外には溶けず、展性、延性に優れる金が貨幣という形で役割を果たすようになった。 

貨幣には三つの役割がある。@商品の価値を図る価値尺度としての機能、A交換機能、B腐敗や劣化がないことで可能となった価値保存の機能である。また、貨幣の登場により、生産と消費が統一されるようになった。

 ここで貨幣(金貨)をG、商品をWとする。

a) G → W¹
b) W¹ →  G → W²
      c)W² → G


aはW¹をGで買ったことを意味する。bはW¹をGで売り、そのGを用いてW²を購入したことを意味する。cはW²をGで売ったことを意味する。

画像1
https://note.com/scienta_est/n/n452b753965e8


そうすると、黒い線の左側を生産面、オレンジ色の線の右側を消費面であるということになる。中心のG、貨幣に着目すれば、2回の取引に必要となったGは、取引一回分のGのみである。これを流通必要貨幣量と呼ぶ。具体的な数値を当てはめると、Gが10ポンドならば、この10ポンドで20ポンド分の取引が行われたことになる。つまり、流通必要貨幣量は10ポンドである。

 ここで、価格をP、商品の量をq、流通速度(回数)をF、必要貨幣量をMとすると、P×q/F=Mということになる。必要な貨幣量(右辺)は、流通するものの価格と量(P×q)が増えれば増加するが、貨幣が還流する速度(別の人の手に渡る速度,F)が早ければ減少するという意味である。

 マクロ経済学では、価格をP、取引量をT、貨幣残高をM、回数(速度)をVとして、P×V/T=M、整理してMV=TPとなる。これはフィッシャーの交換方程式と呼ばれる。これを基に、物価を上昇させるには通貨量を増やせばよいといったような貨幣数量説も唱えられた。
 他にも、貨幣量と国民所得の関係を唱えたマーシャルのケンブリッジ現金残高方程式や、貨幣量は物価水準に影響するだけで所得水準には影響を与えないという貨幣ヴェール観という考え方もあるが、本旨からそれるためここでは名前だけの紹介に留める。

 さて、金が貨幣として扱われるようになると、流通によって金が減少していくという問題が発生し、貨幣の持つ価値と減少を考慮した実際の価値との分離が起こるようになった。例えば、金10g分の貨幣が実際は摩耗して8gしか無い、といった具合である。そこで金の代替物として、金80%、鋼20%で造られた鋳造貨幣が使われるようになった。これがさらに発展して、無価値な紙幣を国家紙幣として流通させるに至った。国家紙幣として、金との交換が保証された金券を流通させることで、金本位制を樹立したのである。金本位制の下では、紙幣の発行量は金の保有量内に制限されていた。金の保有量を超えて紙幣を発行した場合、紙幣は信用を失い、インフレーション(物価高、紙幣価値の下落)が発生してしまう。

 貨幣取引、商品交換の発展により、信用取引も発展した。その一例として、取引で建て替えを為すという意味の為替制度が誕生した。ある商品の代金を支払うときに、その金額分の送金依頼を記した銀行券を渡すことで、遠隔地で商売をする負担が軽減された。期日に支払うことを約束する約束手形や、銀行へ持参することで当座預金から金額が支払われる小切手も、信用通貨の一種である。また日本銀行券も信用通貨の一種である。紙幣とは、政府が発行したものを指す言葉である。

https://note.com/scienta_est/n/n452b753965e8

3. 中川隆[-10787] koaQ7Jey 2020年10月18日 19:09:11 : WKyPV5eFRY : WDdzVVpPcGZjT1U=[19] 報告
経済原論概説 第3回 貨幣から資本への転化
ト・アペイロン 2020/04/01
https://note.com/scienta_est/n/n747c2214cbd3?magazine_key=m75824ff6e6c2

貨幣によってもたらされる商品交換のプロセスは

W - G - W - G - W - G -…

となり、商品Wを売って貨幣Gと交換し、その貨幣で新たな商品を購入することが可能となった。このような形式が発展すると、

G-W-G* G*=G+ΔG  (Δは増加を表す)

例えば、G=100円、W=100円、ΔG=20円とすると、上記式は100円で仕入れたWを120円で販売していることになる。つまり、購入時よりも高値で売ることで利潤が生まれているということである。この時Gは元手=資本として機能することになるのである。

 しかし、全ての人が安く買って安く売ることは不可能である。そんなことをすれば商品の値段は際限なく高騰してしまうし、そもそも高すぎる商品は売れない。これは日常的な感覚で考えればわかりやすいだろう。

 では、利潤はどこから発生するのだろうか。式を見ると、最終的にGが増加しているが、Gそのものの価値がひとりでに上昇したわけではない。そこに置いておいた100円が何もしないのに120円に増えるのはおかしな話である(このような考え方は唯物論的であると言えるだろう)。

 また原論的な考えに則せば、単純な物々交換や買った商品に高い値段を付けて販売する方法では、社会の利潤は恒久的に0である(20円高く売りつけて得をした人がいても、20円損する人がいるため、社会全体の利潤は相殺される)。

 価値が上昇したのはWの過程においてであると考えるのが合理的であろう。つまり、商品に付加価値が加えられたと解釈するのである。生産(過程)Pを考慮に入れて上記式を書き直すと次のようになる。

G - W ⋯ P ⋯ W' - G' G'=G+ΔG

 先の例と同様に考えると、G=100円、W=100円だが、ここでWに生産活動=労働が加わることで、100円のWがW'となり、その価値を金額で測ると120円となった結果として、ΔG=20円が創出されると考えることができる。

 ΔGの部分を、マルクス経済学では剰余価値と呼び、これが利潤の源であると考える。WにPを加えること、つまり生産的労働によって商品を加工あるいは創造することによって、価値を高めることが可能になるのである。ΔGは、貨幣の価値尺度機能を用いてその価値を金額で測ったものに過ぎないのである。このようにマルクス経済学は、価値を生み出すものは労働であるという、労働価値説に基づいていのである。

次回は労働(P)に着目し、資本主義社会の解析を行う。

https://note.com/scienta_est/n/n747c2214cbd3?magazine_key=m75824ff6e6c2

4. 中川隆[-10772] koaQ7Jey 2020年10月19日 13:08:45 : wkiRvIykcQ : aFFBREwzUFlhM28=[16] 報告
経済原論概説 第4回 資本主義社会
ト・アペイロン 2020/04/05
https://note.com/scienta_est/n/n610b9a00d9a8

生産の細分化
労働価値説に基づいて資本主義社会の解析を進める為に前回の式

G - W ⋯ P ⋯ W' - G'

を労働力A、生産手段Pmを用いて細分化する。生産手段とは生産に用いる原料、機械などを指す。

画像1
https://note.com/scienta_est/n/n610b9a00d9a8


W’=W+ΔW  G’=G+ΔG 

 ここではG=100円、A=30円、Pm=70円、ΔW=20円と考える。上式におけるAとは、労働者に支払われる賃金と同義である。また、期末(取引の最後)におけるGは元手あり、G’から元手100円を差し引いたΔGが利潤である。生産者の立場から見ると、利潤はWに生産的労働がなされたことで発生している。よってマルクス経済学では、A(賃金)とΔGの部分を付加価値と捉える。

 近代経済学においての付加価値はΔG部分のみである。なお、近代経済学においてはこれらの記号は使用されておらず、全要素生産性(技術力)をA、労働をL、資本をKとしてこれらの関係式から生産量をYを導出する。総生産高から総費用を引いた金額を利潤と捉えるのである。

 話が少しそれたが、ここで一歩引き返してまた別の道に寄り道をしよう。仮に、元手の100円を貨幣資本家、投資家に借りた場合、元手の返済と共に利潤のうち一部を合わせて支払う。これが利子である。例えば上記の例の場合、借りた元手の100円の70円で生産手段を購入し、30円を労働者に支払うことで120円分の価値を有する商品が生産される。その商品を売ると120円が手に入るが、貸し手に102円(2円の利子を付けて)返すと18円が生産者に残る。その生産を借りた土地で行なった場合、更に土地代を払うことになるだろう。地主は自分の土地を一定期間貸し出すだけで金銭をせしめることが可能になるのである。先ほどと同様、生産者の立場から見ると利潤はWに生産的労働がなされたことで発生しているが、貸し手や地主の視点のみを考えれば、貨幣や土地(資本)が利潤を生みだしたように見える。近代経済学に労働価値説が継承されなかった大きな原因がここにある。

労働の細分化
 労働と生産の関係を詳細に見るため、労働力(A)部分を、量的変化(人をどれだけ雇うか、どの位働かせるかの調整)が可能であり、(価値の)創出効果のある可変資本(v)とし、ΔG部分を可変資本(v)によって生み出された利潤(m)と呼ぶ。一方でPmを量的変化のない、創出効果を生み出さない不変資本(c)とする。すると、

付加価値生産=v(可変資本)+m(利潤)

となる。

 ここで、労働者に支払われる賃金はvであるためvを必要労働(生産物)、mを剰余労働(生産物)と解釈することが可能である。技術が発展するほどm/v(賃金に対する剰余労働の割合)が大きくなる、つまり剰余生産物が多くなると考えられる。原始時代には自分が生きていくための生産で手いっぱいだったが、農耕の発達により剰余生産物が増えることで、農奴制や封建社会を維持することが可能になったのである。産業革命が起こり、生産技術が飛躍的に向上したことでmも飛躍的に増加したことによって、資本主義社会が形成されるようになったのである。m/vについては、次回より詳しく説明する。


 さて、先ほどの生産者が自分のお金でW’を生産し販売すると、G’(120円)を獲得する。原論では120円の中に元本の100円が含まれていると考えるが、とにもかくにも生産者は新たに獲得した貨幣を使うことで再び生産活動をすることができる。このようなGの循環を資本循環という。Aは労働者に対する賃金として支払われているが、労働者はAをG(30円)という形で受け取っている。労働者はGを用いて生活必需品を消費することになる。労働者が受け取った賃金を用いて消費活動をすることでもGは循環している。このような循環を賃金労働循環と呼ぶ。

 このような労働と資本の循環による再生産によって社会は存続しているが、貨幣交換で成立している社会では本来社会を維持しているはずの生産労働が見落とされ、貨幣や資本によって社会が維持されているという考え方に陥りやすい。さらにそれが進むと、貨幣や資本が神格化され、貨幣や資本ですべてを解決できるというような、物神性論に陥ってしまう。
 商品価値をwとおくと、

w=c+v+m

と表すことが出来る。本来mは、vがcを用いて生み出した、換言すると、人が労働によって生み出したものである。しかしながら表象(経営)的には、c+vというコストで利潤mが生みだされたと捕らえられる。mを増加させることばかりを重要視すると、利潤第一主義や拝金主義に陥り、さらにそれが進めば社会的モラルは退廃してしまう。    

次回は必要労働と剰余労働の関係について詳述する。

https://note.com/scienta_est/n/n610b9a00d9a8

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