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マルクス経済学の世界
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投稿者 中川隆 日時 2020 年 5 月 28 日 14:54:48: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: ミヒャエル・エンデの世界 投稿者 中川隆 日時 2020 年 5 月 02 日 14:18:42)


マルクス経済学の世界


【マルクス経済学とは】史的唯物論から『資本論』の世界まで解説 2020年3月3日
https://liberal-arts-guide.com/marxian-economics/


マルクス経済学(Marxian economics)とは、


経済学者のカール・マルクスが、古典派経済学を批判的に継承して「剰余価値説」「資本蓄積」などの理論から、資本主義体制はプロレタリア革命によって崩壊し、社会主義が到来すると論じた経済学です。

「マルクスや社会主義なんて古くて学ぶ必要ないものでは?」

と思われるかもしれませんが、マルクスの思想は今でも社会科学に広く影響していますし、マルクス経済学が行った資本主義の批判は今でも学ぶべきところがあります。

言い換えると、マルクス経済学は近代社会=資本主義社会論として読むことができます。そのため、マルクス経済学を理解しなければ、さまざまな学説はわかりにくいものになってしまします。

そこで、この記事では、

マルクス経済学の歴史や特徴
『資本論』などから分かるマルクス経済学の詳しい理論

について分かりやすく解説します

マルクス経済学は難解だと思われていますが、できるだけ簡単に説明するので関心のある所から読んでみてください。

1章:マルクス経済学とは

マルクス経済学は、ドイツ出身の経済学者カール・マルクス(Karl Marx)が『資本論』などの著書で明らかにした独自の経済学です。


マルクス以前の主流派の経済学は、アダムスミスやデヴィットリカード、マルサスなどによる古典派経済学でしたが、古典派経済学から思想を継承しつつも、それを独自の立場で体系化したのがマルクス経済学です。

1章では、まずはマルクス経済学の概要について説明します。

『資本論』などを通して明らかな、マルクス経済学の具体的な理論については2章から解説します。

1-1:マルクス経済学が生まれた背景

カール・マルクス(Karl Marx/1818-1883)が生きた時代、イギリスでは産業革命の真っただ中であり、

産業資本家の力が強くなる
労働者の立場が弱く、1日16時間を超えるような長時間労働、児童労働、恐慌による失業

といったことが社会問題になっていました。

そんな社会の中でマルクスは自身も実践的に革命運動に参加し、1850年代以降に入ってから経済学の本格的な研究をはじめました。

マルクスは大学に所属する研究者ではなく、今でいう在野の研究者で、大英博物館の図書館で研究を進め『資本論』という大著を書き上げたのです。

マルクスは『資本論』の第1部のみを書き上げ、彼の死後に共同研究者だったフリードリヒ・エンゲルス(Friedrich Engels)がマルクスから預かった草稿をもとに、『資本論』の第2部、第3部を発表しました。

1-2: マルクス経済学の世界観(史的唯物論)

マルクス経済学について知るためには、マルクスが立脚している世界観(※)である史的唯物論について知っておく必要があります。

※世界観とは、一般的に使われるような「世界の雰囲気、イメージ」というものではなく、「世界をどのようなものとして見るか」という立場のことです。

マルクスの世界観である「史的唯物論」とは、

社会には歴史的段階があり発展していくもの
世界は物質によって統一されており観念は物質のいち働きでしかない

という立場から世界を見ることです。

メモ

逆に、唯物論と対立するのが観念論であり、これは物質に観念が先行する、つまり物質より先に観念があったとする世界観です。観念論は、物質世界は観念によって生み出されると考える(つまり宗教的立場)ものとして、マルクスは批判します。

史的唯物論の立場からマルクスは考えるため、

資本主義社会では、労働が「疎外」されるが、この疎外の在り方は歴史的な一形態にすぎない

また、歴史の原動力は観念的なものではなく、社会の物質的側面が持つ矛盾である
社会の物質的側面が持つ矛盾がある段階に達すると、次の歴史的段階に進むための階級闘争が生まれ、社会主義が誕生する

社会主義社会では、人間は「疎外」されない

という議論をしています。

これだけではよくわからないと思うので、簡単に説明します。

1-3-1:労働の疎外

そもそも、資本主義社会は財産の私的所有(私有財産制)を前提にしています。

なぜなら、近代以前の中世的世界では、財産の私的所有の自由がなく大衆は権力者に支配されていたからです。そのため、資本主義社会の私的所有とは、封建制社会からすると進歩です。

この私有財産の本質について、マルクスは「疎外された労働」にあると言います。

マルクスによると、私有財産制の社会では以下のように「人間の人間からの疎外」が生まれるとしています。

労働によって生み出された生産物は、それを生み出した労働者に属さない疎遠なものとなり、労働者と対立する存在である(労働生産物からの疎外)1

労働者の「労働」そのものも、強制されたものであるため、労働者自身は自己実現の喜びを得られないものである(労働からの疎外)2

労働は本来、人間が他人とともに生きる社会的存在(類的存在)であることを認識し、喜びを得るものだったはずだが、疎外された労働は生存手段でしかない(類的存在からの疎外)3

上記の疎外の結果、人間の人間からの疎外が生まれる4

この「疎外」が私有財産制の本質であるとマルクスは考えたのです。

こうした考えから、労働者を疎外から解放するために、私的所有をやめること、つまり資本主義から脱することが必要であるという結論に至ります。


1-3-2:社会の物質的側面の矛盾(生産諸力と交通形態の矛盾)

また、マルクスはこうした労働疎外の在り方は、歴史の一形態に過ぎず普遍的なものではない。つまり、資本主義社会に特有のものだと考えました。

ここでも史的唯物論的な立場から論じられます。

まず、マルクスは社会構造を大きく二段階のものと考えています。これを「上部構造」と「下部構造」と言います。

少し長いですが、『経済学批判』からマルクスの説明を引用します。


「この生産諸関係の相対は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また一定の意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。」

『経済学批判』

これを整理すると、

社会には「労働」「生産」といった生産に関する構造(物質的生産諸力)が土台として存在する

その生産に関する構造(土台)の上に、法律や政治、社会的意識などの観念的な上部構造が存在する

そして、観念(上部構造)が物質的生産関係(下部構造)を規定するのではなく、物質的生産関係が観念を規定する

ということです。


上部構造・下部構造とはなにか

つまり人間の精神的活動は、その生活の実態から規定されているのであり、その逆ではないということです。

物質的世界が観念的世界に先行するという唯物論的立場から社会構造を明らかにしていることが分かります。


参考
「上部構造・下部構造」という概念について、詳しくは以下の記事で解説しています。

【上部構造・下部構造とはなにか】マルクスの議論をわかりやすく解説
https://liberal-arts-guide.com/base-and-superstructure/


1-3-3:経済的社会構成の発展

そして、社会の物質的な面である生産過程(物質的生産諸力)は、ある一定の所まで発展し続けるが、ある段階を超えると崩壊し、次の社会構造を作るようになると考えました。

マルクスは、世界の歴史を物質的生産諸力の面から整理すると、以下のようになると考えました。

アジア的生産様式
古代的生産様式
封建的生産様式
近代ブルジョア的生産様式(資本主義社会)
社会主義的生産様式

それぞれの段階で、その時代の生産様式が限界まで発達すると構造が崩壊し、次の社会構造が形成され、また限界まで発展していったのだ。これがマルクスの史的唯物論の要点です。

これを見て分かるように、マルクスは自身が生きた資本主義社会の「生産諸力」も発展の余地がないほどまで発展しており、いずれプロレタリア革命(労働者による革命)によって崩壊すると考えたのです。

では、資本主義社会は、具体的にはどのように崩壊することになるのか。それに答えたのが『資本論』です。

2章では『資本論』を解説しますので、まずはここまでをまとめます。


1章のまとめ

マルクスは失業、不況といった現実の社会問題を解決するため、各命運動に身を投じ、その後マルクス経済学を体系化した

マルクス経済学は、「史的唯物論」の立場に立っており、社会構造の持つ矛盾が限界に達すると次の社会構造が現れると考えた

2章:『資本論』から見るマルクス経済学のポイント

それではこれから、マルクス経済学の各理論を『資本論』から解説していきます。

『資本論』を要約すると、以下のようになります。


『資本論』の要約

商品の価値…具体的な使用時の価値である「使用価値」、交換できること自体の価値「交換価値」、そして抽象的な「価値」が区別される。使用価値は「具体的有用労働」が作り、「価値」は抽象的人間労働が作る。

貨幣の物神性…商品の価値形態は最終的に貨幣になる。資本主義社会では商品・貨幣に支配される(物神性)。

剰余価値説…資本家は労働者の労働力に賃金を払うが、支払った価値以上に労働させることで剰余価値を得ることができる。

資本蓄積…剰余価値を高めるために、労働時間の延長か労働生産性を高めるという選択肢があるが、長期には機械設備の導入が進められる(資本の有機的構成の高度)

産業予備軍…長期には労働に代わって機械設備化が進むため、労働者は景気の波で雇用・解雇される「産業予備軍」になり、立場が弱体化

革命…機械設備化を進めると資本家の利潤は減り、巨大企業しか生き残らないため、資本主義社会が崩壊し社会主義社会に移行する


それでは簡単に解説していきます。

2-1:商品・労働の価値と貨幣

マルクス経済学を理解する上では、まずは「商品はいかにして、どのような価値を持つようになるのか」という問いと答えを理解する必要があります。

2-1-1:商品の使用価値と交換価値

マルクス経済学では、商品は以下の2つの価値を持っていると考えます。

使用価値:その商品を使うことによって欲望を満たす(つまり商品が役に立つ)という面の価値1

交換価値:他のものと交換できるという面の価値2

そして、商品は労働者が労働力を注ぎ込んで作ったもの(労働生産物)であるため、それは労働力が結集されたものだと考えることができます。

さらに、ややこしいかもしれませんが、マルクスはこれらとは異なる単なる「価値」も区別しています。

交換価値によって、例えば1表のお米と1台の自転車が交換される場合、この2つの商品の交換価値は等しいです。しかし、本来この2つはまったく異なる性質を持つもので、価値を比較することはできないはずです。

そのため、この2つの商品には根源的な「価値」があると考えられ、それは「使用価値」とも「交換価値」とも区別されるのです。

2-1-2:具体的有用労働と抽象的人間労働

では、商品にはどのような労働力が投下されているのでしょうか?

マルクスは、これも2つの面から考え、「具体的有用労働」と「抽象的人間労働」によって商品の価値が作られていると考えました。

具体的有用労働:「お米」「自転車」などの商品の具体的な使用価値を作る労働のこと1

抽象的人間労働:その商品の「価値」を作る労働のこと2

この商品の価値は、「具体的有用労働」と「抽象的人間労働」の2つの統一物である、とマルクスは把握したのです。

マルクスの議論はややこしいかもしれませんが、まずは大まかにでもイメージしておくとその後の議論が分かりやすくなります。

2-1-3:貨幣と物神性

マルクスは、商品の価値の形態は最終的には貨幣になり、資本主義社会では商品や貨幣が社会を支配するのだ、と論じました。

まず、様々な商品は他の商品との比較の中でさまざまな「価値形態」をとります。

たとえば、「10表のお米」と「10台の自転車」が同じ価値を持つ場合、「10台の自転車」が「10キロのお米」の「価値形態」です。

さらに、「10台の自転車」と「50キロのトマト」が同じ価値を持つ場合、「50キロのトマト」は「10台の自転車」の価値形態です。

これを繰り返していくと、最終的には以下のようになり、これが貨幣形態です。

マルクス経済学の貨幣の物神性

「では、なぜ商品や貨幣が社会を支配するという結論になるの?」

と思われるかもしれませんが、それは、資本主義社会が「私有財産制」であるからです。

私有財産制の社会では、商品は特定の誰かの所有物ですので、商品を交換しあわなければ社会的な結びつきが生まれません。

そのため、商品・貨幣の交換が社会の前提になるため、人間は商品・貨幣から支配される。これをマルクスは「物神性」と呼んでいます。

したがって、社会から物神性を取り除こう。そのために革命を起こそう、とマルクスの革命思想に繋がっていくことになります。

さらに、資本主義社会では「労働」それ自体も商品化されているとマルクスは考えましたが、この思想からマルクス経済学の本質的な理論である「剰余価値説」に繋がっていきます。

2-2:剰余価値説

そもそも、資本主義社会では労働者は「労働」を売らなければ生きていけません。

それは、以下の意味で、労働者が二重の意味で「自由」であるからです。

労働者は人格的に自由であること1
生産手段の所有から自由であること2

このAについては、自由というとポジティブな気がしますが、労働者は他に何も売るものがないため、自らの労働を売るしかなくなるという意味になります。

この「労働を売るしかない」という労働者の立場を利用して、資本家は自らの利潤を拡大していくことができます。

2-2-1:支出としての労働と労働力の再生産のための労働

これを、マルクスは支出としての労働と、労働者が自らの生産量を創出するための労働とに区別して説明します。

まず、資本家は賃金を支払って労働者を雇用するとき、労働者の「労働」という商品を買ったことになります。その労働者を働かせれば、例えば1日12時間働かせることで何らかの商品を作らせることができます。

さらに、マルクス経済学では、労働者が自らの労働力を再生産(取り戻す)するためにも「労働」が必要であると考えます。

つまりは、労働者は食事をしたり休養を取ったりするのにかかる時間が、労働力の再生産のための労働です。

具体的には、

資本家が使う労働者の労働:1日12時間
労働者が自らの労働力を再生産するのに必要な労働:1日8時間

というように考えることができます。

2-2-2:剰余価値が生まれる仕組み

ここで考えるべきなのが、資本家は労働者に「8時間分」の賃金を支払うだけで、「12時間分」の労働をさせることができるということです。

なぜなら、資本家は労働者の「労働」を買っているため、後はどのようにその労働力を使っても構わないからです。

したがって、労働者に支払う賃金と実際に労働によって生み出される価値との差額が生まれます。

この差のことを「剰余価値」と言うのです。


マルクス経済学の剰余価値説

もちろん、商品を生産するのに必要なのは労働力だけではなく、工場などの生産設備も必要です。

したがって、マルクス経済学では商品の価値は以下のようにあらわされます。


商品が持つ価値=生産手段の価値が転換したもの+労働力+剰余価値


マルクス経済学の商品価値

さて、もしあなたが資本家なら、労働者を自由に雇用し働かせることができる場合、どのように考えますか?

「何とかしてもっと儲けたい」と思うのではないでしょうか。

マルクスはこのような資本家の性質から、資本蓄積によって労働者はさらに弱い立場に追い込まれてしまうと論じています。

2-3:資本蓄積

資本家が「もっと利潤を増やしたい」と考えた場合、やるべきなのは「剰余価値を増やすこと」です。

では、どうしたら剰余価値が増えるでしょうか?

マルクスは剰余価値を増やす方法について、以下の2つを指摘しています。

@絶対的剰余価値の生産

労働時間の延長によって、剰余労働時間を増やし剰余価値を増やすこと。たとえば労働時間を12時間から13時間に増やし、剰余労働時間を5時間から6時間に増やすなど。

絶対的剰余価値の生産


A相対的剰余価値の生産

労働生産性を高めることで労働時間を減らし、支払う賃金を減らし剰余価値を増大させる。労働時間を12時間から10時間にし、剰余労働時間をそのままに支払う賃金を減らすなど。

相対的剰余価値の生産

労働者が働ける時間には限界がありますので、多くの資本家はAの経営努力をすることになります。

もっと具体的に言えば、資本家は得た剰余価値をより良い生産設備などの機械に投資することで、生産性を向上させるようになります。

この剰余価値の新たな資本への投資のことを、「資本の蓄積」と言います。

生産設備などの資本が増大していくということです。

こうして資本はさらなる資本の増大を求めていくことになります。

そしてマルクスは、こうした資本蓄積が結果として不況を生み、恐慌を生み、多くの失業者を生み出すことになるのだ。それが資本主義社会が抱える問題なのだと主張します。

2-4:恐慌の発生

現代でも問題になる「不況」ですが、マルクスも当時の社会を見て不況のメカニズムを考え、その原因が「資本蓄積」にあると論じました。

2-4-1:不況のメカニズム

なぜ不況が発生するのか。マルクスは、それを貨幣の存在から説明します。

資本主義社会では、資本家は最大限の利潤を得るためにできるだけ売れ残りを作りたくないと考えます。

その場合、得た利潤のすべてを次の商品の生産に充てるわけにはいきません。

そこで、富を貯蔵する手段として貨幣を使うことになります。生産物は劣化の恐れがありますが、貨幣は劣化の心配なく手元に置いておき、好きな時に使うことができるからです。

将来に不安が大きいほど、資本家は富を貨幣という形で貯蔵します。

その場合、投資の需要は小さくなり世の中で購入される生産物の量が減少します。これが「不況」です。

2-4-2:恐慌発生のメカニズム

逆に、将来に対する予測がポジティブなら、資本家は多くの資本を投資して新しい商品を作ります。

その場合は世の中で購買される商品の数が増えて「好況」になりますが、多くの商品を生産しようとすれば多くの労働力が必要になります。

社会が持つ労働力には上限があるため、労働者の賃金は上昇し、資本家が得られる利潤は減少し、やがて「不況」に転換します。

この「不況」のより激しい状態が「恐慌」です。

2-4-3:資本の有機的構成の高度化

繰り返しになりますが、商品の価値は生産手段からの価値の転換と、労働による価値の転換によって生まれます。

2-3の「資本蓄積」で説明したように、より多くの剰余価値を得ようと考える(つまり儲けようとする)と、「労働時間を増やす」か「労働生産性を高める」かのどちらかしかありません。

そして、労働時間には限界があるため、資本家は、いつかは必ず労働生産性を高める努力をしなければならなくなります。つまり、新しい技術に投資して労働生産性を高め、逆に投下する労働時間の数を減らしていこうとするのです。

こうして競合他社よりも高い剰余価値を得られるようにしていきます。この他社と比較した際の剰余価値を「特別剰余価値」と言います。

マルクスは上記の説明を「不変資本」と「可変資本」という言葉で説明しています。

不変資本(c):商品の生産の際に、機械設備などの生産手段から転化される部分
可変資本(v):商品の生産の際に、労働から投下される部分

つまり、資本家はより高い特別剰余価値を得るために、商品に対する「可変資本(v)」の割合を少なく、「不変資本(c)」の割合を多くしていこうとするわけです。

商品の持つ価値に対する、上記の割合は「c/v」という数式で表されますが、分母である「v」が大きくなると資本家の得る剰余価値が大きくなるということです。

このことを、マルクスは「資本の有機的構成の高度化」と言っています。
資本の有機的構成の高度化

そして、資本の有機的構成が高度化、つまり不変資本の割合が高まると、資本家が得る利潤の割合は減少していきます。

2-4-4:労働者の失業と産業予備軍化

ここまで理解できれば、資本主義社会ではなぜ労働者の立場が弱くなり、失業者が増えていくのか分かると思います。

資本家はより高い剰余価値を得て競合他社に勝ち、生き残っていくために、労働者の雇用を減らして機械設備に投資し生産性を高めていかなければなりません(資本の有機的構成の高度化)。

その結果、労働者は失業していきます。

また、資本主義社会では景気循環があり「不況」と「好況」を行ったり来たりするため、労働者は不況時には解雇され、好況時には雇用されます。

そのため、労働者は「産業予備軍」として資本家が経営を最適化するための役割として、ストックされることになります。

しかし、長期で見ると資本主義社会では、資本の有機的構成が高まり続けるため、産業予備軍は巨大化していきます。つまり、雇用が不安定な労働者の層が増大していくのです。

こうした趨勢によって資本主義社会では、恐慌が頻発し不安定な労働者が大量に発生するようになるのです。

さらに、企業は特別剰余価値を生み出すために競い合いますので、新しい技術の投資に失敗した会社は、成功した会社に取り入れられて生産性の高い巨大企業・大資本家が生まれていきます。

大資本家の成長に伴って大衆への抑圧は高まり続けていくため、ある時点で限界が来るだろう。そこで労働者がプロレタリア革命を起こし、資本主義社会は崩壊し、社会主義の時代が来るのだ。と、このようにマルクスは論じています。

参考

この「産業予備軍」の増大は、現代の日本に目を向けても明らかです。特に日本では90年代以降に労働者派遣法が改正され、それ以降非正規雇用が増大しました。派遣労働者は正社員に比べて、人員の補充・削減の調整がしやすいため、「産業予備軍」として企業に活用されている現状があります。

以上が『資本論』第一部の内容です。これに続いて第二部、第三部もありますが、マルクスが生前に自分で完成させたのは第一部だけで、二部、三部はエンゲルスが手を加えています。

そのため、これ以降について知りたい場合は原著を読んでみることをおすすめします。

『資本論』第一部の内容をまとめます。


『資本論』の要約

商品の価値…具体的な使用時の価値である「使用価値」、交換できること自体の価値「交換価値」、そして抽象的な「価値」が区別される。使用価値は「具体的有用労働」が作り、「価値」は抽象的人間労働が作る。

貨幣の物神性…商品の価値形態は最終的に貨幣になる。資本主義社会では商品・貨幣に支配される(物神性)。

剰余価値説…資本家は労働者の労働力に賃金を払うが、支払った価値以上に労働させることで剰余価値を得ることができる。

資本蓄積…剰余価値を高めるために、労働時間の延長か労働生産性を高めるという選択肢があるが、長期には機械設備の導入が進められる(資本の有機的構成の高度)

産業予備軍…長期には労働に代わって機械設備化が進むため、労働者は景気の波で雇用・解雇される「産業予備軍」になり、立場が弱体化

革命…機械設備化を進めると資本家の利潤は減り、巨大企業しか生き残らないため、資本主義社会が崩壊し社会主義社会に移行する

この記事のまとめ

マルクス経済学は、史的唯物論に立脚しているため、資本主義社会の物質的な生産過程(生産諸力)が限界まで発展すると、社会構造が崩壊して社会主義が到来すると考えた
マルクス経済学では、労働者が機械設備(不変資本)に代替されていき、産業予備軍として不安定な立場になり、いずれはプロレタリア革命が起こると考えられた
https://liberal-arts-guide.com/marxian-economics/  

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コメント
1. 中川隆[-12575] koaQ7Jey 2020年5月28日 18:50:23 : TmfHkY98iU : ejdTbEYxMllJTzI=[5] 報告

【上部構造・下部構造とはなにか】マルクスの議論をわかりやすく解説 2020年4月20日
https://liberal-arts-guide.com/base-and-superstructure/


あなたは、「上部構造・下部構造(base and superstructure)」をどこまで理解していますか?


「上部構造・下部構造」とは、


下部構造(経済)という社会全体の土台が上部構造(法律的・政治的/イデオロギー的)を因果的に決定するという建築の比喩

です。

定義だけではわかりにくいと思いますが、理解する価値のある大変重要な議論です。

なぜならば、マルクスの経済学や1970年代以降に登場したネオ・マルクス主義、カルチュラル・スタディーズ、ポストコロニアリズム、サバルタン研究など「上部構造・下部構造」の議論をスタート地点としているからです。

たしかに、ソ連の解体に代表される社会主義への信頼の喪失は、マルクス不信を生み出しました。その結果、今ではあたかもマルクスは悪の根源のように描かれるようになっています。

しかし、20世紀もっとも影響力をもった思想家の一人であるマルクスによる、ある時代のある社会構造を分析しようとする理論的・批判的な精神はいまだに大事です。

そこで、この記事では、

上部構造・下部構造の定義・意味
上部構造・下部構造への批判
マルクスの議論とその後の展開

などをそれぞれ解説します。

読みたい箇所から、読み進めてください。

1章:上部構造・下部構造とはなにか?

冒頭の定義を再度確認しましょう。


「上部構造・下部構造」とは、


下部構造(経済)という社会全体の土台が上部構造(法律的・政治的/イデオロギー的)を因果的に決定するという建築の比喩

です。

一般的に、マルクスの著作である『ドイツ・イデオロギー』(1845-46)や『経済学批判』(1859)で提示された概念と考えられています。

そして「上部構造・下部構造」という言葉は英語で、

「base」=下部構造
「superstructure」=上部構造

と表記されます。

そのため、「下部構造」を日本語に翻訳したとき、しばしば「土台」と訳さます。

1-1: 上部構造と下部構造の意味

まず、上部構造と下部構造を理解するためには『ドイツ・イデオロギー』で議論された内容を理解することが重要です。

1-1-1: 下部構造(経済)とは?

『ドイツ・イデオロギー』は1845-46年にかけて、旧友のエンゲルスとマルクスによって書かれた本です。この本では「人間と動物の違い」を議論することから初めています。


マルクスによると、人間と動物の違いは、

人間は自分の生活手段を自分で生産すること

だと考えました。

そして、マルクスは人間が自分の生活手段を生産する様式のことを「生産様式(mode of production)」と呼びました。

当たり前だと思いますが、人間は一人では生活できません。人間は他の人間と相互に関係を築きながら活動する必要があります。マルクスはこの人間の相互活動を「交通」と呼びます。

マルクスは「交通」をとおした「生産様式」が、人間生活のベースとなる物質的側面、つまり「経済」だと考えました。

参考

マルクスの用語で説明すると、

「生産力」+「生産関係」=「生産様式」

「生産関係」とは階級を意味する

1-1-2: 上部構造(法律的・政治的/イデオロギー的)とは?

これまでは経済、つまり下部構造の解説でした。では一体、上部構造とはなんでしょうか?

定義では法律的・政治的/イデオロギー的なものと説明しましたが、抽象的でわかりにくかったと思います。ここではもっとシンプルにしてみましょう。


シンプルにいうと、上部構造とは、

人間の精神的な活動(観念、思想、理念等々)

を指します。

つまり、物資的で経済的なものが下部構造であるならば、上部構造は人間の精神的な活動を意味します。

そして、マルクスは人間生活のベースにある「物質」と、人間の「精神」との関係を『経済学批判』で考察しました。そこで提示された比喩が「上部構造と下部構造」でした。

1-1-3: 建築の比喩としての上部構造と下部構造

上部構造・下部構造とはなにか(上部構造・下部構造の建築の比喩)

まず、マルクスは一軒家の建築物のような社会全体を想定します。


建築物をつくるためには、

最初に、もっとも重要な土台という基礎をまずつくる1
その次に、構築物をつくる2
最後に建築物の外部と内部の装飾物をつくる3

といった過程がありますね。

マルクスは、この建築の過程に社会を当てはめて説明します。

社会は物質的土台である経済がある(経済=「生産様式」=「生産力」+「生産様式」)1

経済の上に、政治と法律という「一階」がある2

その上に、イデオロギーという「二階」がある3

といった社会全体を想定します。

ここで重要なのが、マルクスは経済的な土台が因果的に上部構造の実践を決定すると考えた点です。

つまり、マルクスは土台である経済がまずあり、それに規定されて権力構造が決定されたり、人間の精神活動が決まる、と考えました。これが「上部構造・下部構造の比喩」の考えです。

このなかで注目してほしいのが、「イデオロギー」という言葉です。

「イデオロギー」はデステュット・ド・トラシーという人物によって初めて使われました。その意味は「観念学」というものでした。

しかしマルクスは「イデオロギー」を人間精神活動の一般をまとめて説明するために使用します。思想、学問、芸術、それはすべてイデオロギーと呼ばれました。

ポイント

「上部構造・下部構造」を理解するためのポイント

物質的生活の生産様式が社会的、政治的、精神的な生活を制約する
ある社会の成り立ちは当該社会の経済的なあり方に規定される


1-2: 上部構造と下部構造が誕生する歴史的文脈

さて、そもそもマルクスはなぜ「上部構造・下部構造の比喩」を必要としたのでしょうか?

結論からいうと、マルクスは資本主義社会を説明するために上部構造・下部構造を必要としました。

哲学者の今村仁司によると、マルクスが上部構造・下部構造の比喩を用いた理由は次のようなものでした。


こうした命題を登場させるには現実的経験が確かにあった。それが圧倒的貧困をともないつつ巨歩を進める経済的現実すなわち資本主義であった。一九世紀の人々にとって後に資本主義と命名される経済は全く新しい現象であり、知識人と民衆とを問わず、困惑と驚嘆をよび起こす何ものかであった。


社会で起きる出来事を分析するには、新たな分析のわかりやい言葉が必要です。マルクスは「上部構造・下部構造の比喩」を用いて、経済という物質生活の再生産に迫ることで資本主義を分析しようとしました。


1-2-1: 上部構造・下部構造の論争的な性格

マルクスが経済に着目した理由は、当時広く共有されていた経済無視の観念論的な考え方に反対するためでもありました。

観念論は歴史的発展に対する人間の精神を強調しますが、マルクスは実際の物質的状況や実践から説明する試みをします。

ここでは深く立ち入りませんが、マルクスの上部構造・下部構造は「観念論 vs 唯物論」といった学問的な論争的性格をもっていたことを心の隅に置いておいてください。

1-3: 上部構造と下部構造に対する批判

さて、マルクスの上部構造・下部構造は激しい批判をうけてきました。その主なものは「上部構造・下部構造は経済決定論である」という批判です。


経済決定論とは、

人間の意思や行為が経済によって決定されている

という考えです。

たしかに、マルクスの「上部構造・下部構造」によると、政治、文化、イデオロギーは経済変化の従属変数にすぎない、と考えることができます。

経済的土台が最重要であり、上部構造は付随的な反映にすぎないといえるでしょう。

しかし、本当にそうでしょうか?マルクスの「上部構造・下部構造」をよくよく考えると、そこには大きな矛盾が存在することがわかります。

経済決定論にある矛盾は次のように説明できます。


一方で経済決定論に従えば、
個人や集団の行動は経済に決定される

個人の自発的な意思はなく、社会構造が経済構造によって何もかも決定されている
同様に、社会の発展や崩壊も経済に決定されている。個人の意思が介入する余地はない


他方で経済決定論を信じる社会主義者たちは、
自らの行動によって社会革命を自発的・意識的に引き起こそうとする

つまり、自らの原理では不可能な行動を可能であるかのように主張する

ここに経済決定論の決定的な矛盾があります。

つまり、経済決定論の矛盾とは、

経済が政治、法律、文化、個人の意識を決定していると主張するならば、個人的または集団的な実践的行動は不必要

「革命」は経済が引き起こすものであり、人間主体という役割はない

といったものです。

言い換えると、皮肉なことに革命という自発的な社会変革は経済決定論を否定することになるのです。それが経済中心主義のマルクスが抱えた問題でした。

いったんここまでの内容をまとめます。


1章のまとめ

「上部構造・下部構造」とは、下部構造(経済)という社会全体の土台が上部構造(法律的・政治的/イデオロギー的)を因果的に決定するという建築の比喩

経済とは「交通」をとおした「生産様式」で、上部構造とは人間の精神的な活動を意味する

マルクスの経済決定論は、革命という自発的な社会変革によって否定されることになる


2章:上部構造・下部構造のその後の展開

「上部構造・下部構造」の概要は1章で解説したとおりですが、ここで終わると「マルクス主義はやっぱり忘れるべきもの」といった結論に陥ります。

しかしそれでは非常にもったいないです。20世紀後半以降、マルクスの再解釈は社会分析の新たな視点を提供してきただけでなく、日本の社会科学の発展に大きな影響を与えてきたからです。

ですから、2章では20世紀後半以降における「上部構造・下部構造」という課題の解決の試みを簡単に紹介します。

2-1: 上部構造・下部構造とアルチュセール

ここでは経済決定論と批判された「上部構造・下部構造の比喩」の解決策を、フランスの構造主義的マルクス主義のルイ・アルチュセールから紹介します。

アルチュセールが考えたのは「重層的決定(overdetermination)」と「相対的自律(relative autonomy)」という概念です。


重層的決定とは、

「生産様式」という抽象的な社会関係でさえ、経済的なものだけから決定される関係ではない

その代わり、「生産様式」という社会関係には政治的、イデオロギー的なものを含めて構成されている

そのため、経済、政治、イデオロギーという要素が重層的に社会のあり方と「革命」の可能性を決定している

と考えたものです。


そして、相対的自律とは、

それぞれのレベルにおける実践の内容は単に経済的土台から由来するのではなく、相対的に自立して存在する

たとえば、資本主義国家は資本家階級の利害からある程度自律してる。しかしその自律の程度は相対的なものにすぎない

と考えたものです。

すこしわかりにくかもしれませんが、アルチュセールが目標としてるのは経済の「決定性」を揺るがすことです。

そのため、マルクスは経済に最終的な決定性を与えていましたが、アルチュセールは経済に優位性があるものの、社会編成は重層的に決定されることを指摘しました。

言い換えると、経済に優位性は常にあるものの、状況によっては文化、政治、イデオロギーが社会変革を導く可能性があるといった「経済に還元できない非決定性」を提示します。

だからこそ、それぞれの要素(経済、政治、法律、イデオロギー、文化等々)は相対的に自律しており、経済がすべての社会変化を説明するわけではない、といった考えが必要だったのです。

非常に簡単なまとめですが、これがアルチュセールの主張です。1章の説明と合わせて読むと、内容が何となく理解できると思います

メモ

アルチュセールのような議論を土台として、上部構造による社会変革の可能性を、

ネオ・マルクス主義
レギュラシオン理論
カルチュラル・スタディーズ
ポストコロニアリズム
サバルタン研究
アントニオ・グラムシの議論

がしています。

冒頭で説明したように、「上部構造・下部構造」はこれらの議論を理解するスタート地点ですから、今でも非常に大事です。


2-2: 上部構造・下部構造と日本での展開

これまで西欧諸国における議論の展開を解説しましたが、日本社会に与えた影響はどうだったのでしょうか?後発的な資本主義社会である日本での展開と日本の社会科学へ与えた影響を簡単に解説します。


第二次世界大戦以前の日本社会においてマルクスが大きな論争になったのは、

日本の資本主義において異なる「生産様式」が共存していたことをどうように評価し、それを踏まえてどのように運動を展開するのか

といった問題が存在したからでした。

論争のなかで「封建遺制」といった言葉が使われたように、当時の日本社会では資本主義の「生産様式」とは異なった社会関係が存在していました。

そのような社会関係から社会運動がどう展開されるべきか、といった議論がされました。

重要なのは論争の内容ではなく、その後の展開です。なぜならば、戦後日本の社会科学はこの論争を「土台」にしていると一般的に考えられているからです。

たとえば、

大塚久雄の経済学史
宇野弘蔵の経済学
川島武宜の法社会学
有賀喜左衛門の農村社会学

などは「封建遺制」の論争から発展しています。

非常に簡単ですが、マルクスの議論は日本の社会科学に影響を与えていることがわかると思います。

これまでの内容をまとめます。


2章のまとめ

アルチュセールの「重層的決定(overdetermination)」と「相対的自律(relative autonomy)」は、経済的な決定性を揺るがすもの

マルクスの議論は日本の社会科学に影響を与えている



この記事のまとめ

「上部構造・下部構造」とは、下部構造(経済)という社会全体の土台が上部構造(法律的・政治的/イデオロギー的)を因果的に決定するという建築の比喩

経済とは「交通」をとおした「生産様式」で、上部構造とは人間の精神的な活動を意味する

マルクスの経済決定論は、革命という自発的な社会変革によって否定されることになる

アルチュセールの「重層的決定(overdetermination)」と「相対的自律(relative autonomy)」は、マルクスの経済的な決定性を揺るがすもの

https://liberal-arts-guide.com/base-and-superstructure/

2. 中川隆[-12369] koaQ7Jey 2020年6月18日 19:16:56 : mclIHZvJWY : dktVRmUwWHZQY1E=[22] 報告

武器としての「資本論」– 2020/4/10
白井 聡 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A6%E5%99%A8%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%80%8C%E8%B3%87%E6%9C%AC%E8%AB%96%E3%80%8D-%E7%99%BD%E4%BA%95-%E8%81%A1/dp/4492212418


『武器としての資本論』 著・白井聡
書評・テレビ評2020年6月18日

 『資本論』といえば、資本主義の全体系を本質的に解明したカール・マルクスの古典的労作である。だが、その重厚な内容とともに抽象的な論理的記述が、とくに初心者には難解な印象を与える。そのため、数多くの入門書が出版されてきた。本書は、その新たな一冊ともいえるが、これまで見られたような原書の要約や学術的な解説書ではない。そのことは、とくに新自由主義に直面する現在の若者の生活実感と問題意識に寄り添い、混沌とした現状から脱却し、未来を展望する武器として『資本論』をどう読み解くのかという、著者の姿勢に示されている。

 著者は、人々が日常生活で感じている息苦しさがどこから来るのか、政府や上司の言動など納得できぬまま過ごしてきたことの意味が、『資本論』のなかに鮮やかに描かれていると強調している。われわれが現実に直面するさまざまな馬鹿げたことは、すべて資本主義のシステムのなかで起きているからだ。そして、「『資本論』から現在を見ると、現実の見え方がガラッと変わり、生き方が変わってくる」と。

 産業革命以来、社会の生産力は未曾有の勢いで発展し、社会全体は物質的に豊かになった。不断の技術革新による生産性の向上は人々を幸福にするはずだった。だが、そのもとで労働者の困窮は極まり、明るい未来が見えてこない。AI化は労働時間を短くするといわれるが、現実にはそれが増大する一方で、過労死が大きな社会問題になっている。学生の就職活動は本来、「職業選択の自由」を謳歌して社会に貢献できる契機なのだが、だれもが切羽詰まった表情をしている。

人間の労働力も商品に 資本増殖の本質

 本書では、こうした不合理がどこから来るのかについて、『資本論』の重要なフレーズを引用して解明していく形で進行する。著者はとくに新自由主義のもとで、資本主義が人間社会と不可分のものであるかのような空気が社会を覆い、自己責任論が当然のようにみなされ、「人間の思考・感性に至るまでの全存在が“資本の魂”に包摂されてきた」ことに着目している。そして、マルクスがそうしたように、今こそ資本主義が歴史の一時点の生産様式にすぎず永遠に続くものではないこと、それは資本の運動に内在する根本的な矛盾によって乗りこえられる宿命を背負ったシステムであることを再確認すべきときだと強調している。

 資本主義社会は、近代に入って人々が生活するうえで不可欠な物質代謝の大半を商品を通じておこなうようになって生まれた。それは、人間の労働力も商品となった社会である。資本の増殖の本質は、労働力を使用して生み出す剰余価値の追求にある。

 著者は、農民を封建的身分制度から自由にする形で、土地や道具など生産手段をはぎ取り無一文の賃金労働者を生み出していく資本の本源的蓄積の説明に力を入れている。そして、農村の共同体から労働者を都市にかり出す暴力的な手段は、古今東西の資本主義化に共通していることを、明治維新に始まる日本資本主義の発展過程からも明らかにしている。また、それが恐慌、戦争その復興需要などでもくり返されてきたことも。

労働者の既得権をはぎ取る 新自由主義で

 本書では、そのような観点から、新自由主義が「資本の側からしかけた戦争であった」ことを強調している。さらに「階級闘争は古くなった」のではなく、現実の問題であると訴える。労働者階級がそのような言辞にまどわされているあいだに富裕層は階級闘争を強力におし進めてきたからだ。

 それは、資本の側が労働力の価値を引き下げるために、これまでの労働者の既得権をはぎとる形でおこなわれてきた。この間の非正規・不安定雇用はもとより、生産拠点の海外移転や、外国人労働力の輸入もひとつながりに見えてくる。

 著者によれば、高度成長期の生産性向上・福利厚生政策のもとで、労働組合を通じた労働者の要求が一定程度受け入れられたのは、資本にとって労働者を生かす(労働力の再生産を成り立たせる)必要があったからで、それは労働者への人道的な慈愛というものではなかった。そして、それに安住していた労働組合や「労働者の利益」を掲げる党も、新自由主義にとり込まれざるをえなかった。

 そのような資本の剰余価値の追求(=搾取)によって「1%vs99%」という未曾有の経済格差が生まれた。著者は「自由・平等・人権」はあくまでたてまえであり、資本による労働者の支配の現実は「過去の奴隷制とつながっている」とのべている。

 本書のもう一つの特徴は、『資本論』の観点から階級闘争についての考え方を見直すよう提起していることである。それは、「資本家をやっつける」といったものではなく、資本制社会全体を一つのシステムとしてとらえて、「等価交換を廃棄する」ことをめざす闘う主体を地域共同体から形成することだという提起である。

 また、労働力の価値(労働賃金)を高めるたたかいとかかわって、この間労働者に影響を与えてきた「スキルがなければしょうがない」という資本側の考え方を克服し、人間としての尊厳をとり戻すための闘いとしてとらえることが必要だとのべている。そのうえで、労働力の価値とは社会的で文化的なものであり、うまいものを食べたいとか豊かな生活がしたいという「ベーシックな感性」の部分からもう一度立て直すよう提起している。

 本書の論述は、コロナ禍で噴出するさまざまな不合理、資本と人間の逆立ちした関係を鋭く照射するものともなっており、新たな時代を開くうえで鍵となる一冊だといえる。

 (東洋経済新報社発行、B6判・294ページ、1600円+税)

https://www.chosyu-journal.jp/review/17593

3. 中川隆[-11033] koaQ7Jey 2020年10月05日 01:48:46 : r0012kP8cs : ekYyeG5rL2xHQ1k=[4] 報告
マルクスがイギリスで共産主義を考えた理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/891.html

パリ・コミューンについて
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/890.html

戦後の日本が世界で最も成功した社会主義国、理想の共産社会に近い一億総中流社会になった理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/353.html

戦後日本のバブル崩壊以前の一億総中流社会は共産主義者ばかりの GHQ が意図的に作ったものだった
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/830.html

マルクス史観はどこが間違っていたのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/775.html

新自由主義を放置すると中間階層が転落してマルクスの預言した階級社会になる理由
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/350.html

共産主義の時代
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/613.html

4. 2020年10月18日 17:03:24 : WKyPV5eFRY : WDdzVVpPcGZjT1U=[11] 報告
経済原論概説 記事案内
ト・アペイロン 2020/03/25
https://note.com/scienta_est/n/n9e262ce878b0/edit

現代経済学における「経済原論」の位置づけ

 現在の大学教育等における(狭義の)「経済学」は、多くの場合「近代経済学」を指す。近代経済学とは、「ミクロ経済学」及び「マクロ経済学」の総称である。ミクロ・マクロ経済学とは、極めて近代的な学派の一つであると換言してもよいだろう。

 近代経済学以前の経済学はアダム・スミスやデービット・リカードウ、トマス・ロバート・マルサス、J.S.ミルなどに代表され、「古典派」と呼称される。古典といっても彼らの時代は18世紀後期から19世紀の中頃である。その後、メンガ―、ジェボンズ、ワルラス等の理論から、近代経済学の基本理論が構築されていく。沢山の人物が出てきて混乱を招きかねないのは恐縮だが、要するに近代経済学は百数十年程度の歴史しかないのである。

 更にスミス以前の経済学(であると解釈される)理論も存在するが、これは「経済学史」及び「経済思想」の範疇なので、これ以上の記述はここでは控えることとする。

 さて、古典派の経済理論を受け継ぎ発展してきた近代経済学だが、近代経済学が産声を上げたのと同時代に、全く別の系譜が発展していくことになる。それすなわち「経済原論」である。経済原論はカール・マルクスが『資本論』において記述した理論を枢軸としている。日本においては宇野弘蔵が『経済原論』の中で『資本論』の理論を分析したことは有名である。

 以前は近代経済学と同等に学習されていた原論も、現在の大学のカリキュラムとしては経済学部の選択科目として設置されていて、経済学部の人間でも学ばずに卒業することもあり、経済学部以外の学部では(たとえミクロ・マクロ経済学を学習した人でさえも)その存在を知ることはあまりないように見受けられる。しかしながら、経済という不可視的なシステムを分析するに当たり、その理論前提を比較検討することは重要な営みである。

記事の目的と方針
 マルクス=社会主義=共産主義=革命=危険思想であると断定するのはあまりにも短絡的に過ぎるだろう。マルクスは資本主義社会を批判的に書いてはいたが、それは必ずしも共産主義への転換を意味するものとは限らない。資本主義の抱える問題を指摘し、より良い社会へと人々を導こうという試みのもと書かれた『資本論』だが、これは未完成の内に終わっている。彼が思い浮かべていた理想世界を完全に知ることはできないのである。それでも、マルクス経済学につて学ぶことは有意義なことである。

 上記の通り、近代経済学とは現在最も主要な経済学であるに過ぎず、普遍的・絶対的な視点であるとは言えない。それに対して真に批判的な視点は不可欠である。経済に対する視点の相対化というアプローチは、上述した「経済学史」及び「経済思想」が大いにその役割を果たしているが、一方で、近代以降の、かつ近代経済学とは抜本的に異なる思想系譜を体系的に学ぶこともまた、非常に効果的な方法であろう。

 第1回から第5回で経済原論の成立および基本的な理論を概説し、第6回以降は戦後の日本経済び世界経済を経済原論的な視点で概観していく(全9回)。最後に番外編として、専門性の高い記事を用意している。

 さて、先ほどから「概」という文字が多用されている。この記事はアマチュア(つまりは経済学で生計を立てていない人間)によって書かれており、その対象は経済原論に触れたことのない方、あるいは経済(学)に興味はあるがあまり詳しくない方を想定している。つまりは初学者向けに書かれたものであり、煩雑な説明を避けてなるべく平易な内容にすることを心掛けている。無論、原論やその他近代経済学についての記事なので、最低限の専門用語の登場は避けられないが、その都度できるだけわかりやすい解説を行おうと考えている。

 この記事はあくまでも今日の社会構造を理解する方法論の一つとして経済原論を多くの人に知ってもらうことが目的であり、特定思想への誘引を目的としたものではない。むしろ、経済原論・近代経済学の両方を批判的な目で見ることが望ましいと私は考えている。そして何よりもこの記事によって読者の教養がより深いものになることを望んでいる。

https://note.com/scienta_est/n/n9e262ce878b0/edit

5. 2020年12月15日 16:54:34 : LdBpAZbBfo : eGRHN20ya3Q1VU0=[5] 報告
『資本論』エッセンス 全三巻徹底解読 著・鎌倉孝夫
書評・テレビ評2020年12月14日


https://www.amazon.co.jp/kindle-dbs/entity/author/B001I7B7UQ?_encoding=UTF8&offset=0&pageSize=12&searchAlias=stripbooks&sort=date-desc-rank&page=1&langFilter=default#formatSelectorHeader

 新型コロナウイルスの世界的な感染拡大のもとで、失業・倒産、飢餓、自殺者が一気に急増した。その一方でGAFAをはじめ一部の巨大企業と富裕層はばく大な富を集中させている。為政者の多くが目前の対策に右往左往するなかで、現場の労働者が社会を支え動かしている現実が浮かび上がり、自然と人間の関係、人間労働をとらえ直す機運が高まっている。それはコロナ後の社会の展望を模索しつつ発展している。こうしたなかで、『資本論』(マルクス)が若い世代の関心を集めている。

『資本論』理解の手引きに 長年の研究踏まえて出版

 本書は長年にわたって『資本論』研究の第一線に立ってきた著者が、その学習の手引・指針となるようにまとめたものである。副題に「全三巻徹底読解」とあるように、『資本論』の論理展開に即してマルクスの提起を正確に読みとることを重視し、全体系のなかで各章の課題を明確にして理解が深まるように構成、論述している。


 『資本論』はマルクスが第一巻を著した後他界し、エンゲルスがその遺業を継いで二巻、三巻をまとめて出版した経緯があり、その意味で未完成の作品だといえる。こうした事情も含めて、『資本論』の理解においては長年、正確さを欠いたり誤ってとらえる傾向があったとされる。第一巻だけで『資本論』のエッセンスがわかるといった風潮もそのなかにあった。


 本書では、マルクスが哲学・歴史から経済学、さらに晩年の『資本論』にいたる学問的な格闘の過程で理論を純化・発展させていったことを、他の諸文献や書簡・ノートなどの分析を通して明らかにしている。著者は唯物史観や恐慌論などについて論理を変化発展させていった事情についてもくわしく展開し、社会科学における『資本論』の位置づけと、それが社会変革の理論的根拠となることを示している。

 日常生活において「体が資本」「教育投資」などの言葉がかわされ、経済活動でも「元手となる資本」がなければ事業が起こせない。資本こそが社会の原動力であるかのように見える。しかし、なにごともそうだが資本の本質をその外面を追認し、推論・判断することからは把握できない。『資本論』によって、経済学史上はじめて資本の内部で働く諸要素の関連を動的にとらえそこに貫く法則を導き出すという科学的な方法で、資本の本質が解明された。資本の本質は商品と貨幣から構成される流通運動である。


 『資本論』は資本を商品の売買の連鎖のなかでとらえ、資本の運動の目的が剰余価値の獲得(金儲け)にあることを明らかにしている。著者は第一巻「資本の生産過程」から第二巻「資本の流通過程」、第三巻「資本主義的生産の総過程」まで通して読むことで、資本間の競争や土地所有など資本主義の全体像とかかわって資本の運動法則が明らかになることを強調している。このことはとくに、株式・証券・国債、土地・不動産などが擬制資本として社会を支配する今日の状況を理解するうえでは、不可欠だといえる。


 資本の運動過程において人間の労働力をとり込み、資本の過剰から無理が生じて恐慌をもたらす。それを形のうえで解消するための貸付資本(それ自身に利子を生む資本)、それを具体化した株式=擬制資本があらわれた。利子生み資本はそれ自体、生産過程での価値を生まないことから、その具体的形態は“擬制”でしかありえないのだ。

 『資本論』から150年を経た今日、資本主義は株価至上主義のもとで、あまたの「金融商品」が出回り架空の繁栄(バブル)を生み出している。為政者・メディアは経済アナリストを動員して株価を基準に一喜一憂し、資本主義の複雑な経済現象は得体の知れぬものであるかのようにふるまっている。しかし、資本の極限的発展として体現した株式・証券の売買が実体経済に根ざさぬものであり、社会の実体は労働者の共同・連帯した生産活動であることがだれの目にも明らかとなっている。


 さらにコロナ禍において、資本の論理によってねじ曲げられ破壊されてきた生態系と人間の関係を見直す論議が発展している。とくに人類社会の存立に不可欠な農業生産と食料の流通をめぐって、これを営利追求・価値増殖に取り込む資本の本質が露わとなり、生産者・労働者との対立が鋭さを見せている。自然観・人間観・労働観をとらえ直すうえでも、『資本論』は貴重な示唆を提供している。


 資本の利潤追求を目的とする大工業による生産力の発展は、その生産力の担い手である労働者の労働力を乱用することで、労働者の肉体的・精神的破壊をもたらさざるをえない。『資本論』は同時に、それが土地の収奪による自然力(自然の循環法則)の破壊をもたらすことで農村でも労働力を無力にし土地を疲弊させ、ひいては「大工業」自体の破局をもたらすことを明らかにしている。


 本書でも、労働過程が人間と自然(土地・水・森林・鉱山等)との物質代謝、つまり自然物を利用し加工しさまざまな生産物を生産する過程であることにふれて、人間労働はそれ自身は自然力であるが、自然に主体的に働きかけることによって自分自身の天性的に持っている能力を発展させることだと提起している。それが構想・計画を持った目的意識的な創造活動である点に、本能的に活動する動物と決定的な違いがあるのだ。


 人間労働のこうした本性は、資本主義のもとでも社会の実体として貫かれている。問題はその生産過程が資本の側の目的意識的な支配のもとに置かれていることにあるだろう。

https://www.chosyu-journal.jp/review/19444

6. 中川隆[-5885] koaQ7Jey 2021年4月08日 18:41:28 : 7vJmlBbsA6 : YzNyY2VzangxR2s=[6] 報告
資本主義を終わらせるための、新しいマルクス
斎藤 美奈子
http://www.webchikuma.jp/articles/-/2334


ただいま話題のあのニュースや流行の出来事を、毎月3冊の関連本を選んで論じます。書評として読んでもよし、時評として読んでもよし。「本を読まないと分からないことがある」ことがよく分かる、目から鱗がはらはら落ちます。PR誌「ちくま」2021年3月号より転載。

 斎藤幸平『人新世の「資本論」』が評判になっている。

https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E6%96%B0%E4%B8%96%E3%81%AE%E3%80%8C%E8%B3%87%E6%9C%AC%E8%AB%96%E3%80%8D-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%8E%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E5%B9%B3/dp/4087211355/ref=sr_1_2?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%AD%A6%E5%99%A8%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%80%8C%E8%B3%87%E6%9C%AC%E8%AB%96%E3%80%8D&qid=1615352902&s=books&sr=1-2


 帯にも、錚々たる面子の華々しい推薦文が躍っている。〈斎藤はピケティを超えた。これぞ、真の「21世紀の『資本論』」である〉(佐藤優)。〈気候、マルクス、人新世。これらを横断する経済思想が、ついに出現したね。日本は、そんな才能を待っていた!〉(松岡正剛)。〈気候危機をとめ、生活を豊かにし、余暇を増やし、格差もなくなる、そんな社会が可能だとしたら〉(坂本龍一)。〈資本主義を終わらせれば、豊かな社会がやってくる。だが、資本主義を止めなければ、歴史が終わる。常識を破る、衝撃の名著だ〉(水野和夫氏)。すごいな。各氏大絶賛!
 いまさらマルクス? という人もいるだろうけど、最近またマルクスが「来ている」という感触はあった。格差が極限にまで広がり、労働者は最悪の状態に置かれ、にもかかわらず出口が見えない社会の打開策として、マルクスが呼び戻されているともいえる。新世代のマルクス解釈とはどのようなものなのだろうか。

新自由主義に対抗するためのマルクス

 その前に、マルクスがらみの別の本を見ておきたい。
 白井聡『武器としての「資本論」』は〈みんなが一生懸命『資本論』を読むという世界が訪れてほしいと思うのです。そこまで行けば世の中は、大きく変わります〉と豪語する。

https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A6%E5%99%A8%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%80%8C%E8%B3%87%E6%9C%AC%E8%AB%96%E3%80%8D-%E7%99%BD%E4%BA%95-%E8%81%A1/dp/4492212418/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%AD%A6%E5%99%A8%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%80%8C%E8%B3%87%E6%9C%AC%E8%AB%96%E3%80%8D&qid=1615352902&s=books&sr=1-1


 いま『資本論』を読む理由は〈「生き延びるために」です〉と著者はいいきる。環境破壊、経済危機、戦争……。一〇〇年後に人類が存続しているかどうかもわからない。〈「では、その原因は」と考えると、間違いなく資本主義なのです〉。
 本書の八割以上は『資本論』第一巻をベースにした資本主義のしくみの解説で、そこは画期的にわかりやすい。物足りない部分があるとしたら『資本論』を武器に、私たちはどんな方法で社会変革を起こし、どんな社会を目指すのかが曖昧な点だろう。

 かつてのマルクス主義者たちは、暴力革命によって、労働者階級主体の社会主義国をつくるべきだと考えた。一九世紀末には暴力革命ではなく選挙(代議制民主主義)で合法的に政権を奪取する、という考え方が広がり、いまはこっちが主流になった。しかし結局のところ、ソ連型の計画経済は頓挫し、ヨーロッパで誕生した社会民主主義も新自由主義に席巻されてしまった。

〈かつて期待がかけられた階級闘争の戦略は悉く無効化してしまった〉。それが今の現実。しかし、階級闘争の原点は〈生活レベルの低下に耐えられるのか、それとも耐えられないのか〉だと著者はいう。〈本書は『資本論』の入門書ではありますが、裏にあるテーマは「新自由主義の打倒」です〉。これが本書の要諦だろう。〈新自由主義とは実は『上から下へ』の階級闘争〉という現実を変えること。〈「自分にはうまいものを食う権利があるんだ」と言わなければいけない。人間としての権利を主張しなければならない〉。

 松尾匡『左翼の逆襲』の副題は「社会破壊に屈しないための経済学」。こっちの提言はもう少し具体的だ。

https://www.amazon.co.jp/%E5%B7%A6%E7%BF%BC%E3%81%AE%E9%80%86%E8%A5%B2-%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%A0%B4%E5%A3%8A%E3%81%AB%E5%B1%88%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%9D%BE%E5%B0%BE-%E5%8C%A1/dp/4065142393/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%B7%A6%E7%BF%BC%E3%81%AE%E9%80%86%E8%A5%B2&qid=1615352955&s=books&sr=1-1


〈私たちは「左翼」を忘却のかなたから呼び起こさないといけません〉と著者は焚きつける。新自由主義経済と「反新自由主義」から派生した右派ポピュリズムに対抗するには「豊かな時代のリベラリズム」ではもうダメで、「生活が苦しい労働者」に寄り添うマルクスの思想を取り戻すことが必要だと。
 反緊縮を掲げる左派ポピュリズムに希望を見いだしつつ、本書が提唱するのは「レフト3・0」の方向性だ。

 急進的な「マルクス=レーニン主義」から穏健な社会民主主義まで含む「レフト1・0」は七〇年代に全盛を迎えた。それは〈@国家主導型で、「大きな政府」を志向、A生産力主義であること、B労働者階級主義であること、そして、C社会主義を名乗る大国に甘いことでした〉と総括できる。が、それは社会主義国の停滞、「大きな政府」の赤字の累積、労働者中心主義への批判などがあいまって、八〇年代に入った頃から行き詰まる。
 代わって九〇年代に台頭した「レフト2・0」は、過去への反省から、「反生産力主義」的なエコロジズム(環境主義〉や「脱労働組合依存」を打ち出し、「労働者階級主義」にかわって女性やマイノリティを含む多様な人々との共生を求める市民運動に軸足を移した。が、労働者階級意識を捨てたため、市場原理や「小さな政府」に飲み込まれ、格差と貧困が広がってしまった。
「レフト3・0」は、労働者意識も多様性も保持しつつ両者を総合した、その先の思想という。具体的な政策のひとつが「グリーンニューディール」である。これは〈代替エネルギーの開発や、化石燃料消費を減らす交通システム転換、環境保全などに、大々的に公共投資することによってたくさんの優良な雇用を創出し、公正な移行過程を通じて、二酸化炭素をあまり出さないケア労働など、環境負荷が少ない部門が中心になるような産業構造転換をめざすもの〉で、欧米の3・0勢力の共通した政策になっている。
 必要なのは〈誰もが「生きていてよかった」という人生をおくれることを目的にすること〉。〈その怒りは共感と連帯を呼び、この道に至る世の中をくつがえすでしょう〉。
 冷戦終結から約三〇年。バブル崩壊からも三〇年。マルクスの人気が一時凋落したのは、暮らしがそこそこ豊かになり、革命によって社会主義国家を建設するというビジョンがリアリティを失ったためだろう。が、この三〇年で状況は変わった。ソ連型の共産主義というモデル幻想から脱却すれば、マルクスの読み方は変わるのだ。

マルクスは環境危機を予言していた
 で、『人新世の「資本論」』。人新世とは〈人間たちの活動の痕跡が、地球の表面を覆いつくした年代〉のこと。

 この本が他のマルクス解釈本と大きく異なるのは、地球環境の危機を前面に押し出していることだ。国連が推進するSDGs(持続可能な開発目標)など何の足しにもならない、という話から本書ははじまる。それは資本主義の現実から目をそらすアヘンにすぎない。資本主義社会が続く限り、根本的解決はないからだ。
〈近代化による経済成長は、豊かな生活を約束していたはずだった。ところが、「人新世」の環境危機によって明らかになりつつあるのは、皮肉なことに、まさに経済成長が、人類の繁栄の基盤を切り崩しつつあるという事実である〉。
 大量生産・大量消費をベースとする「帝国的生活様式」は魅力的であり、先進国を豊かにしたが、その裏で南北問題と呼ばれる事態、すなわちグローバル化によって犠牲を被る地域や住民(グローバル・サウス)を生み出した。資本主義による収奪の対象はしかも、周辺地域の労働力だけでなく地球全体に及んでいる。〈資源、エネルギー、食料も先進国との「不等価交換」によってグローバル・サウスから奪われていくのである。人間を資本蓄積のための道具として扱う資本主義は、自然もまた単なる略奪の対象とみなす〉。
 ここからはじまる脱資本主義論はなかなかにラジカルだ。新自由主義が倒れても、資本主義が続く限り「本源的蓄積」は継続するし、グリーンニューディールを押し進めても、経済成長を続ける限り二酸化炭素は削減できず、環境危機は回避できない。
〈私的所有や階級といった問題に触れることなく、資本主義にブレーキをかけ、持続可能なものに修正できるとでもいうのだろうか〉。〈労働を抜本的に変革し、搾取と支配の階級的対立を乗り越え、自由、平等で、公正かつ持続可能な社会を打ち立てる。これこそが、新世代の脱成長論である〉。
 本書の目玉は、一九世紀のマルクスが環境危機による資本主義の限界に気づき、右のような認識に達していたという指摘だろう。
『資本論』はマルクスが執筆した第一巻が一八六七年に刊行された後、未完のまま残された。第二巻・第三巻はマルクスの没後、エンゲルスが遺稿を編集したものである。ところが第一巻の刊行後、マルクスは思想的な大転換を遂げていた。最新の研究から見えてくるのは、晩年のマルクスが進歩史観(史的唯物論)を超えた「脱成長コミュニズム」に到達していたことだった。
〈マルクスが求めていたのは、無限の経済成長ではなく、大地=地球を《コモン》として持続可能に管理することだった〉。コモンとは共同体の富のこと。〈要するに、マルクスが最晩年に目指したコミュニズムとは、平等で持続可能な脱成長型経済なのだ〉。
 この部分にこそ、目指す社会の未来像があると著者はいう。
 脱成長コミュニズムの柱は、@「使用価値」に重きを置いた経済に転換して大量生産・大量消費から脱却する、A労働時間を削減して生活の質を向上させる、B画一的な労働をもたらす分業を廃止して、労働の創造性を回復させる、C生産のプロセスの民主化を進めて経済を減速させる、D使用価値経済に転換し、労働集約型のエッセンシャル・ワークを重視するなどの五つ。
〈古い脱成長論では、なぜダメなのか。古い脱成長論は一見すると資本主義に批判的に見えるが、最終的には、資本主義を受け入れてしまっているから〉だという批判は痛烈だ。
 とはいえ白井や松尾の主張と本書は対立するものではなく、もう一歩先に踏みだしたものと考えるべきだろう。その証拠に「気候非常事態宣言」を出したスペイン・バルセロナの実践例などを紹介しつつ、本書も読者を焚きつけるのだ。三・五%の人の非暴力的な行動で、世の中は変わる。ワーカーズ・コープでも、学校ストライキでも、有機農業でもいい、アクションを起こせ、と。
 コロナ禍は現在の経済システムの脆弱さを暴きだした。資本主義の呪縛からいかにして脱却するかが問われているのだ。

【この記事で紹介された本】

『人新世の「資本論」』
斎藤幸平、集英社新書、2020年、1020円+税
https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E6%96%B0%E4%B8%96%E3%81%AE%E3%80%8C%E8%B3%87%E6%9C%AC%E8%AB%96%E3%80%8D-%E9%9B%86%E8%8B%B1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%96%8E%E8%97%A4-%E5%B9%B8%E5%B9%B3/dp/4087211355/ref=sr_1_2?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%AD%A6%E5%99%A8%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%80%8C%E8%B3%87%E6%9C%AC%E8%AB%96%E3%80%8D&qid=1615352902&s=books&sr=1-2



〈気候変動、コロナ禍…。文明崩壊の危機。唯一の解決策は潤沢な脱成長経済だ。〉(帯より)。著者は1987年生まれで、専攻は経済思想・社会思想。気候危機が喫緊の課題として迫っている現在、もはや一刻の猶予もない。そんな現状認識からスタートし、資本主義の根源的な限界と、それにかわる「脱成長型コミュニズム」の姿を描く。晩年のマルクスが残したノートの解析が白眉。

『武器としての「資本論」』
白井聡、東洋経済新報社、2020年、1600円+税
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%A6%E5%99%A8%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%80%8C%E8%B3%87%E6%9C%AC%E8%AB%96%E3%80%8D-%E7%99%BD%E4%BA%95-%E8%81%A1/dp/4492212418/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E6%AD%A6%E5%99%A8%E3%81%A8%E3%81%97%E3%81%A6%E3%81%AE%E3%80%8C%E8%B3%87%E6%9C%AC%E8%AB%96%E3%80%8D&qid=1615352902&s=books&sr=1-1


〈資本主義を内面化した人生から脱却するための思考法〉(帯より)。著者は1977年生まれの政治学者。「なぜ満員電車に乗らなければならないのか」「なぜイヤな上司がいるのか」などの身近な疑問から出発し、『資本論』にいう「商品」「包摂」「階級」「疎外」「剰余価値」「本源的蓄積」などの概念を解説する。階級闘争を「等価交換の廃棄」とみなすあたりが新しい。

『左翼の逆襲――社会破壊に屈しないための経済学』
松尾匡、講談社現代新書、2020年、1000円+税
https://www.amazon.co.jp/%E5%B7%A6%E7%BF%BC%E3%81%AE%E9%80%86%E8%A5%B2-%E7%A4%BE%E4%BC%9A%E7%A0%B4%E5%A3%8A%E3%81%AB%E5%B1%88%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%84%E3%81%9F%E3%82%81%E3%81%AE%E7%B5%8C%E6%B8%88%E5%AD%A6-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%9D%BE%E5%B0%BE-%E5%8C%A1/dp/4065142393/ref=sr_1_1?__mk_ja_JP=%E3%82%AB%E3%82%BF%E3%82%AB%E3%83%8A&dchild=1&keywords=%E5%B7%A6%E7%BF%BC%E3%81%AE%E9%80%86%E8%A5%B2&qid=1615352955&s=books&sr=1-1


〈人は生きているだけで価値がある!〉(帯より)。著者は1964年生まれの経済学者。反緊縮論の代表的な論客だが、コロナ禍で新自由主義は加速すると警告。「国際競争力が必要だ」「財政が破綻する」といった新自由主義的言説に乗った「中道左派リベラル」の思考体系を批判し、マルクスの精神に沿った「レフト3・0」のビジョンを説く。半分くらいは具体的な政策の提言。

http://www.webchikuma.jp/articles/-/2334

7. 中川隆[-5589] koaQ7Jey 2021年4月17日 23:02:38 : RSLdzPRb1s : Y0wwMFV6MDlreDI=[55] 報告
3回 古典派経済学の発展
http://www.eco.shimane-u.ac.jp/nodat/ecogen/ecogen201603.pdf


アダム・スミスの価値論の矛盾点をめぐって、リカード(David Ricardo、
1772-1823)は、投下労働価値論を徹底させ、価値と分配の理論(資本・土地・
労働と利潤・地代・賃金)を主張した。
他方、マルサス(Thomas Robert Malthus、1766-1834)は、投下労働価値
説を放棄し、支配労働価値説と需給関係による価値決定という理論にたった。

1、リカードの経済理論1

@ 価値論
労働は価値の源泉であり、商品の価値の大きさはそれ
に投じられた労働量によって測定され、労働者の賃金に
は、左右されないとした。また、労働者の直接労働だけ
でなく、機械や原料に投じられた間接労働(蓄積労働)
も、価値決定に影響することを主張した。
投下労働量によって決まる商品の価値が、商品の生産
に充当された資本・土地・労働に対して、それぞれ利潤・
地代・賃金として分配されるのである。

A 地代論・・・耕地の各地片は、質(肥沃度)あるいは位置について優劣があ
り、穀物価値は、最劣等地における最大の投下労働量によって決定されるの
で、劣等地耕作の進展により、優等地の穀物の個別価値が、社会価値(最劣
等地での穀物価値)以上の価値を持つことによって優等地に差額地代生じる。

B 賃金論・・・賃金が労働者の生存費に充当される。労働者の自然賃金は、労
働者が全体として生存し永続してゆくに必要な商品の価格によって決まり、
市場賃金は、労働市場における供給(人口)と需要(資本)との関係によっ
て、決まる。

C 利潤論・・・利潤は、労働によって作り出された価値から、賃金を差し引い
た残額であり、農産物では地代も控除されるとした。基本的関係としては、
賃金によって利潤が逆方向に規定されると見なした。

1 【参考文献】リカード『経済学および課税の原理』(岩波文庫、1817 年)

2、マルサスの経済理論2

@ 人口論・・・食糧が人間の生存に必要であること。人
間の情念は消滅するようなものでなく、不変であるこ
と。この二つの公準より、自然法則としての人口圧力
と資本蓄積の関係を解こうとした。

A 地代論・・・マルサスは、リカードに先立って、差額
地代論を提唱した。人口と資本が増加し、富と勤労と
が増すにつれて、地代収入は増加し、利潤と賃金とを
押し下げる傾向があると見た。

B 賃金論・・・一方で、労働者の賃金の元となる労働維持基金の大きさは、一
国の資本と収入の増加、したがって国富の増加によって増加するとした。す
なわち地主の地代収入の増加が商品に対する需要を増加させ、国富を増加さ
せるとしたのである。

C 有効需要と国富・・・マルサスは、生産的労働者と不生産的労働者の割合が
適切であることが、富の増大と労働維持基金の分量と価値の増大にとって、
重要であるとした。富の需要面として、生産物に対する地主や不生産的労働
者(使用人たち)の有効需要を重視したのである。そして、資本蓄積によっ
て一国の富が増大するためには、生産的労働者と不生産的労働者との間の適
正な割合が必要とされ、不生産的労働者の消費が重要視された。


2 【参考文献】マルサス『人口の原理(人口論)』(岩波文庫、1798 年)
T・R・マルサス
⇒リカードとマルサスの「穀物法論争」(1810 年代)
産業資本家の立場に立ち、輸入穀物に関税をかける「穀物法」撤廃を主
張するリカードと、地主階級の立場に立ち「穀物法」を擁護するマルサス
の間で争われた論争を調べてみよう。1経済学概論

3、資本主義体制の成立と階級対立、マルクス経済学の成立

(1)資本主義体制の成立と社会主義思想

産業革命による機械制大工業への経営形態の転換により、19 世紀〜20 世紀に
かけて大工場を経営する産業資本家が労働者を雇って利潤を得ることを目的と
して商品を生産する経済の仕組み、すなわち資本主義体制が成立する。以後産
業資本家は社会・経済・政治の分野で支配的な地位を確立していく。
また、資本主義体制の成立は、一方で富が集中する資本家と、もう一方で、
不衛生な住居と食事・危険な職場での過度の労働に苦しみ、貧困な生活を強い
られる労働者を大量に生み出すことになった。彼らは次第に、労働組合の結成
や、労働運動を起こすようになった。当初はラッダイト運動のような過激な機
械打ち壊し運動が中心だったが、イギリスのロバート・オーエン(Robert Owen、
1771-1858)やフランスのサンジカリズム(サン・シモン、フーリエ)などの初
期社会主義思想、協同組合思想などが生まれて来た。
一方、古典派経済学の理論を受け継いだドイツの思想家マルクス(Karl Marx、
1818-1883)とエンゲルス(Friedrich Engels、1820-1895)によって経済学的
な裏づけによった社会主義と革命の理論が成立することになる。


(2)マルクス経済学の成立

マルクスは古典派経済学による労働が商品の価値・価格
の源泉であるという労働価値説を継承し、労働力の商品化
と労働の生産過程における価値増殖の仕組みから剰余価値
説を打ち立てた。これが剰余価値の利潤への転化、資本蓄
積の理論へと発展し、資本蓄積の過程の中で、労働者階級
の貧困と階級対立の理論にまでつなげていった。→マルク
ス経済学の詳しい解説は次回(第4回以降)

マルクス経済学は古典派経済学の継承という理論の側面と、階級闘争と革命
の理論という側面を持つ。マルクスとエンゲルスは資本主義の変革を労働者階
級の団結と労働運動に求め、その思想と運動はレーニンなどによって社会主義
革命の理論として継承、実践されていくことになる。3→第7回へ

【参考文献】
※ ロバート・オーエン『ラナーク州への報告』(1820 年)
※ カール・マルクス『賃労働と資本』(岩波文庫、1848 年)、『共産党宣言』(大月文庫、1848
年)、『資本論』(新日本出版、1863 年)、『賃金、価格および利潤』(岩波文庫、1865 年)
※ レーニン『帝国主義(論)』(岩波文庫、1917 年)


http://www.eco.shimane-u.ac.jp/nodat/ecogen/ecogen201603.pdf

8. 2023年8月10日 02:58:08 : lNJFrKzOO2 : bUF0WWVZRGROYk0=[1] 報告
<■90行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
『若マル資本論』韓国語版のためのまえがき
2023-08-08
http://blog.tatsuru.com/2023/08/08_1452.html

 みなさん、こんにちは。内田樹です。
 『若者よマルクスを読もう』の最終巻、『資本論』編の韓国語訳をお手にとってくださってありがとうございます。
 この『若者よマルクスを読もう』はマルクスの主著を中学生・高校生のために解説するために企画されました。『共産党宣言』から始まって、番外編『マルクスの心を聴く旅』を含めての全5冊のシリーズ。この『資本論』で完結します。
 と書くと、「え、私、中学生高校生じゃないんだけど・・・この本の読者に想定されていないんじゃのかしら」と思った方がおられると思います。大丈夫です。この本は「まだマルクスって、ちゃんと読んだことないんだけれど、そのうちにいつか読まないといけないな」と思っているけれどたまたままだその機会に恵まれない方のための本です。別に年齢とかは関係ないです。
 それから、もう一つご注意があります。それは、この本を読んだ方が「ああ、これ読んでだいたいマルクスのことはわかったわ。これで『資本論』とか読む必要なくなった」と思われては困るということです。これは「じゃあ、いよいよマルクスを実際に読んでみるか」という気分になってもらうために、「背中を一押しする」ための本であって、これで「マルクスがわかった気」になるための本じゃないんです。
「え、この本を読んで、それからさらにマルクスも読まないといけないの?だったら二度手間じゃない。それならはじめからマルクス読んだ方が話が早いじゃないか」と思った方もおられるでしょう。その気持ちはわかります。でもね、そうはゆかないんです。マルクスのような巨大な思想家の著作に取り組むときは、素人がいきなりとりついても無理なんです。巨大な壁がたちはだかっているんですから、どうしても「道案内人」が必要なんです。どういう登山ルートがあって、どの辺に難所があって、どの辺に迷い道があって、どの辺で道を踏み外すと転落するか...ということを知っている人が必要です。
 この本の二人の著者では、石川さんは若い時に正統的な道案内人にしたがって難所をくぐり抜けて、ご自身もベテランの道案内人になった方です。僕の方は若い時には「道案内人なんか要らないよ」と豪語して、無謀なマルクス単独行を敢行して、そこらじゅうで痛い目に遭って、「やっぱり道案内人がないとまずいわ」と思うに至った人間です。
 そういうタイプの違う二人の道案内人がみなさんをマルクスという巨峰への登攀にお誘いしようというわけです。でも、あくまで登るのは皆さんご自身です。僕たちは案内をするだけで、実際に汗をかいて、足を痛めて歩くのはみなさんご自身です。僕たちの仕事は「とにかく、この山に登りましょう」とお誘いし、その気になった人がいたら、ルートをいくつかご案内するところまでです。

『共産党宣言』から『資本論』の間には二十年以上の歳月があり、マルクスの思想も、その時代の歴史的経験を通じてかなり変化しています。『若者よマルクスを読もう』シリーズは主著を年代順に解説しておりますけれども、みなさんは別に初期マルクスから始めて、晩期マルクスに至るという順序で読まれる必要はありません。「手に取ったのも何かの縁」です。ですから、この『資本論篇』から読み始めてくださってもぜんぜん構いません。どの時代のマルクスも、それぞれに深い思想を語っていて、そこに伏流する「社会は公正なものであるべきだ」という信念に揺らぎはないからです。

 マルクスの解説書がこうして韓国語訳になって、多くの人たちの手に取ってもらえるということを僕たちはとてもうれしく思っています。
 ご存知の通り、韓国には今も国家保安法という法律があって、朝鮮民主主義人民共和国と共産主義を賛美する行為及びその兆候は処罰の対象となります。事実上空文化しているとはいえ、この本のように「マルクス主義を賛美する」ことを主たる目的とする書物が堂々と書架に並ぶ時代が来たということには多くの方が「隔世の感」を覚えておられることでしょう。これはいったいどんな歴史的変化を意味するのでしょうか。これが韓国におけるマルクス主義運動の再評価の兆しであれば、僕はうれしく思います。
 朝鮮共産党は1925年に日本の統治下のソウルで結成されました。東アジアでは、インドネシア共産党(1920年創設)、中国共産党(1921年創設)、日本共産党(1922年創設)に続いて創設された「老舗」です。みなさんの国でも、マルクス主義の歴史はずいぶん古いんです。
 1919年の三・一独立運動の流れの中で生まれた朝鮮共産党は、朝鮮の独立をめざす運動でしたから、当然日本の官憲から激しい弾圧を受けましたが、それでも生き残り、1945年の日本の敗戦と同時に党は再建されました。しかし、ソ連が支配する朝鮮半島北部に党中央組織を作ろうとする人たちと、南北一体の組織維持を目指す人たちが対立し、組織は南北に分裂します。南の組織(南朝鮮労働党)は韓国政府に弾圧され、党員たちの多くは北へ逃れましたが、のちに金日成によってほぼ全員が粛清されました。
 この人たちはマルクス主義の名において、朝鮮半島の統一と独立、市民の自由と平等をめざして戦い、その多くは日本政府、韓国政府、そして北朝鮮政府によって殺されました。この先駆的なマルクス主義者たちひとりひとりの事績の評価については歴史学的な検証を待つ必要があると思いますが、運動の目標そのものは正しかったと僕は思います。
 でも、朝鮮半島におけるマルクス主義の歴史は戦後の韓国の「正史」ではあまり詳しくは言及されてきていませんでした。おそらく多くのマルクス主義者は「国賊」とか「スパイ」というラベルを貼られて、断罪され、忘却されてしまったのではないでしょうか。
 いま、マルクスについての本が韓国の読者に求められているということは、もしかすると、韓国の人たちが自国における「マルクス主義の100年」について、その暗部も栄光も含めて正面から向き合おうとしている徴候ではないか、そんな気が僕にはします。そうであれば、そのような国民的な事業の一助となれることは僕たちにとって大きな喜びです。

http://blog.tatsuru.com/2023/08/08_1452.html

9. 2023年10月10日 10:31:39 : qFFXQaTFBY : N01JczVSLzdlZEE=[10] 報告
【マルクス主義】暴力!革命!元東大生がわかりやすく解説!世界が変わるには何が必要なのか?
2020/09/01
https://www.youtube.com/watch?v=W8YyFsvZ_wA&t=0s

革命を成し遂げるには何が必要なのか!
それを徹底分析したのがマルクスです!
共産主義!社会主義!理解するためにこの動画は外せない!

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