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米英金融資本とナチスの緊密な関係
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投稿者 中川隆 日時 2022 年 4 月 24 日 02:36:47: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: オランダ・ドイツ・オーストリアの歴史と現代史 投稿者 中川隆 日時 2021 年 1 月 02 日 13:20:04)

2022.04.24XML
米英金融資本とナチスの緊密な関係
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202204240000/


 2013年11月から14年2月にかけてアメリカのバラク・オバマ政権はウクライナでクーデターを実行、ビクトル・ヤヌコビッチ大統領を排除することに成功した。ヤヌコビッチは選挙で選ばれた大統領であり、言うまでもなくクーデターは憲法を否定する行為である。このクーデターを否定しない人物が「護憲派」を名乗ることはできない。ヤヌコビッチは2004年から05年にかけての「オレンジ革命」でも排除されたが、この「革命」を仕掛けたのはアメリカのジョージ・W・ブッシュ政権だ。

 オバマ政権はクーデターを実行するため、ネオ・ナチを戦闘員の主力とする「右派セクター」を使った。この組織はドミトロ・ヤロシュとアンドリー・ビレツキーが2013年11月に組織している。

 そのヤロシュは2007年にNATOの秘密部隊ネットワークに参加したと言われている。その年の5月に欧州のネオ・ナチや中東の反ロシア・ジハード主義者を統合するための会議がウクライナのテルノポリで開かれたが、その議長をヤロシュが務めている。

 ウクライナのネオ・ナチはステパン・バンデラを信奉している。バンデラはOUN(ウクライナ民族主義者機構)のメンバーだったが、この組織は1938年5月に指導者のイェブヘーン・コノバーレツィがソ連の工作員に暗殺されると分裂、反ポーランド、反ロシア感情の強いメンバーはバンデラの周辺に集まった。

 ウクライナをドイツが占領していた時代、OUNはドイツと結びついて「汚い仕事」を引き受けた。当時、ウクライナでは90万人のユダヤ人が行方不明になったとされているが、それもOUNが行ったと言われている。

 1941年3月になるとOUNの内部対立は頂点に達し、OUN-M(メルニク派)とOUN-B(バンデラ派)に分裂、ドイツはOUN-Bへ資金を提供し、バンデラ派のミコラ・レベジはゲシュタポ(国家秘密警察)の訓練学校へ入っている。ドイツ軍がソ連へ攻め込んだバルバロッサ作戦が始まったのはこの年の6月。ドイツ軍はウクライナのリビウへ入った。

 リビウを制圧したドイツ軍とウクライナ人は6月30日から7月2日にかけてユダヤ人の虐殺を開始、犠牲者は4000名から8000名だと推測されている。対象地域をウクライナ西部に地域を広げると、7月に殺されたユダヤ人の数は3万8000名から3万9000名に達するという。(Grzegorz Rossolinski-Liebe, “Stepan Bandera,” ibidem-Verlag, 2014)

 8月になるとゲシュタポは暴走を始めたOUN-MとOUN-Bなどウクライナの「ナショナリスト」を摘発し始め、12月にOUN-Bは1500名のメンバーがナチスに逮捕されたと発表している。メルニクを含めて約2000人が逮捕されたともいう。(前掲書)

 ドイツ軍は1941年6月にソ連への軍事侵攻を開始している。「バルバロッサ作戦」だ。西側には約90万人だけを残し、310万人を投入するという非常識なものだったが、これはアドルフ・ヒトラーの命令。西側から攻めてこないことを知っていたかのようだ。

 ドイツ軍は7月にレニングラードを包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点に到達した。10月の段階でドイツだけでなくイギリスもモスクワの陥落は近いと考えていたのだが、12月にソ連軍が反撃を開始、年明け直後にドイツ軍はモスクワで敗北してしまう。ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入するが、ここでもソ連軍に敗北、1943年1月に降伏。この段階でドイツの敗北は決定的になった。

 1943年春になるとOUN-Bの戦闘員はUPA(ウクライナ反乱軍)として活動し始め、その年の11月には「反ボルシェビキ戦線」を設立した。ゲシュタポから摘発されていたはずのOUNやUPAの幹部だが、その半数近くはウクライナの地方警察やナチスの親衛隊、あるいはドイツを後ろ盾とする機関に雇われていたと考えられている。(前掲書)

 ドイツ軍の敗北を見てアメリカとイギリスは慌てて動き出し、この年の7月に軍隊をシチリア島へ上陸させた。シチリア島を含むイタリアで支持されていたコミュニストへの対策ということもあり、アメリカの情報機関はこの時にマフィアからの協力を得ている。

 アメリカやイギリスの支配層、つまりウォール街やシティの住人はナチスを手先と考えていた。ナチスの戦争犯罪を研究しているアメリカン大学のクリストファー・シンプソンによると、1920年代後半にアメリカからドイツへ融資、あるいは投資という形で多額の資金が流れている。ヨーロッパ大陸全域でアメリカの投資額が激減している中、1929年から40年の間に約48.5%増えているのだ。(Christopher Simpson, “The Splendid Blond Beast”, Common Courage, 1995)

 アメリカからドイツへの投資は限られた金融機関を通して行われていた。その中心になっていたのがディロン・リードとブラウン・ブラザーズ・ハリマンだ。

 ドイツへ資金を流すため、1924年にユニオン・バンキングが設立されるが、その重役にはプレスコット・ブッシュやW・アベレル・ハリマンが含まれている。ブッシュとハリマンはいずれもエール大学でスカル・アンド・ボーンズという学生の秘密結社に所属したいた。

 プレスコットが結婚したドロシーの父親はウォール街の大物、ジョージ・ハーバート・ウォーカー。プレスコットは1924年、ウォーカーが社長を務める投資銀行A・ハリマンの副社長に就任、ウォール街でも名の知られた存在になる。そうしたことからウォール街の弁護士だったアレン・ダレスと親しくなる。プレスコットの息子、ジョージ・H・W・ブッシュがCIA長官に就任するのは必然だった。

 こうしたウォール街人脈にとって、1932年のアメリカ大統領選挙の結果は衝撃だった。ニューディール派のフランクリン・ルーズベルトが当選したのだ。そこでJPモルガンをはじめとするウォール街の住人たちはクーデターでニューディール派を排除し、ファシズム体制を樹立しようとした。

 クーデターの司令官を誰にするかについてウォール街の住人たちはパリで協議、選ばれたのはスメドリー・バトラー退役少将だった。軍の内部で圧倒的な人望があり、この人物を抱き込まないと計画を成功させられないと判断したからのようだ。

 しかし、JPモルガンはバトラーがラディカルすぎると考えて嫌っていたという。この金融機関が考えていた人物は陸軍参謀長だったダグラス・マッカーサー。この軍人が結婚したルイス・クロムウェル・ブルックスの母、エバ・ロバーツ・クロムウェルが再婚したエドワード・ストーテスベリーはJPモルガンの共同経営者だった。

 ウォール街の住人はドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。フランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」のような50万名規模の組織を編成して政府を威圧、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の重責を引き継ぐとしていた。こうした計画を聞き出した上でバトラーはカウンタークーデターを宣言、議会で告発している。(Public Hearings before the Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, 73rd Congress, 2nd Session)

 バトラーはその一方、信頼していたフィラデルフィア・レコードの編集者トム・オニールに相談、オニールはポール・コムリー・フレンチを確認のために派遣する。フレンチは1934年9月にウォール街のメンバーを取材、コミュニストから国を守るためにファシスト政権をアメリカに樹立させる必要があるという話を引き出した。(Jules Archer, “The Plot to Seize the White House,” Skyhorse, 2007)

 その後、ルーズベルトは1936年、40年、そしてドイツや日本の敗北が間近に迫っていることが明らかだった44年の選挙でも勝利する。戦争が終われば、ウォール街とナチスとの関係が調べられ、責任を問われることも予想されたが、45年4月12日に急死してしまった。そして始まるのが「赤狩り」、つまり「反ファシスト派狩り」だ。

 第2時世界大戦の終盤、ドイツの敗北が決定的になるとアレン・ダレスたちはナチスの幹部と接触し始める。サンライズ作戦だ。その後、アメリカの軍や情報機関はナチスの幹部や協力者を逃走させ、保護、そして雇用する。つまりラットライン、ブラッドストーン作戦、ペーパークリップ作戦などだ。

 ドイツでナチスが権力を握る頃からウォール街はファシストと緊密な関係にあった。その関係は大戦後も続き、ウクライナでもその人脈が生きている。

 そうした実態を新聞、出版、放送、映画、最近ではインターネットを支配するハイテク企業が封印、事実と違うイメージを広めている。ナチスは人びとの抱くイメージをコントローするすため、啓蒙宣伝省を設立していた。その機関を動かしていたのがヨーゼフ・ゲッベルスだ。啓蒙宣伝省を「民営化」すると西側の有力メディアになると言えるだろう。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202204240000/  

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コメント
1. 中川隆[-13180] koaQ7Jey 2022年4月24日 02:43:36 : iETXt650tQ : QTJoQ3BhaG1MdW8=[6] 報告
アフター・ヒトラー
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/405.html

英米はドイツ軍がソ連に勝てないとわかる迄は、ウォール街のエージェントのヒトラーと戦う気は全く無かった
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/615.html

ヴィクター・ロスチャイルドはナチス・ドイツと八百長戦争をして儲けるために、親ナチス派のエドワード八世に醜聞を仕掛けて排除した 
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/772.html

2. 中川隆[-12902] koaQ7Jey 2022年9月16日 09:04:25 : VJXIRfYHjw : LkQ2d3pja2QvVTY=[2] 報告

2022.09.16XML
窮地にあるウクライナ政府や欧米の好戦派は「核戦争カード」を出してきた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202209150000/

 アンドリー・イェルマーク・ウクライナ大統領府長官とアナス・ラスムセンNATO前事務総長は9月13日、​「キエフ安全保障協定」の草案を発表​した。軍需産業への投資、兵器輸送、同盟国からの情報活動の支援、徹底した軍事訓練、EUやNATOの一員として合同軍事演習に参加するといったことを勧告、ウクライナを事実上、NATOの戦争マシーンに組み込むという。ロシアに対する宣戦布告に等しい内容だ。

 アメリカ海兵隊の元情報将校でUNSCOM(国連大量破壊兵器廃棄特別委員会)の主任査察官を務めた​スコット・リッターが指摘​しているように、ウクライナ軍として戦わせるために相当数の兵士がNATO加盟国で軍事訓練を受け、最新兵器を扱えるように訓練されている。ハリコフへの攻撃にはイギリスで訓練を受けていた部隊が投入されたと言われている。軍事情報は以前から提供されていたが、そのランクが上げられ、NATOが作戦の指揮をとり始めたようだ。すでに協定は実行され始めていると言えるが、それが文書化される意味は重い。

 ウクライナがNATOへ加盟させることをロシアが危険視する理由はバルバロッサ作戦を思い起こせば理解できる。1941年6月にドイツ軍はソ連に対する侵略戦争を開始。バルバロッサ作戦だ。この作戦で東へ向かったドイツ兵は約300万人、西部戦線に残ったドイツ軍は90万人だけだと言われている。7月にドイツ軍はレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫った。


 そこでソ連軍は敗北して再び立ち上がることはないと10月3日にアドルフ・ヒトラーはベルリンで語り、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 ところがそうした見通しは外れ、1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏、8月にはスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じた。ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、1943年1月にドイツ軍は降伏する。このシナリオをアメリカのプロパガンダ担当者はドンバスで利用しているが、現実は違う。

 スターリングラードでの敗北でドイツの降伏は決定的になり、ソ連の敗北を期待していたイギリスは慌てる。しかも、このまま終わるとソ連がドイツに勝ったということになってしまう。

 ポツダム宣言は即時無条件降伏を要求しているが、「無条件降伏」という語句が出てきたのは1943年1月。フランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相がフランスのシャルル・ド・ゴールらとカサブランカで会談した際のことだ。この会談で無条件降伏が主張されなければ、早い段階でドイツは降伏していただろう

 イギリスはアメリカと会談、1943年7月に両国軍はシチリア島への上陸作戦を実行した。ハリウッド映画で有名なノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月になってからだ。すでに主力が壊滅しているドイツ軍の戦闘能力は大幅に低下していた。そうした中、米英が敵視していたのはソ連とレジスタンスだ。これは本ブログで繰り返し説明してきた。

 同じアングロ・サクソン系の国とはいうものの、反ファシストのルーズベルト米大統領とチャーチル英首相の関係は良くなかった。ルーズベルトが率いるニューディール派はウォール街、つまりアメリカの金融資本と敵対関係にあり、1933年から34年にかけての時期、ウォール街の大物たちはルーズベルト政権を倒してファシズム体制を樹立させようとクーデターを計画している。これはスメドレー・バトラー退役少将によって阻止されている。ウォール街はシティ、つまりイギリスの金融資本と緊密な関係にある。

 そのルーズベルトは1945年4月に急死、その翌月にドイツは降伏する。その直後にチャーチル英首相はソ連への奇襲攻撃を目論む。JPS(合同作戦本部)に対して作戦を立案を命令し、5月22日には「アンシンカブル作戦」が提出された。

 その作戦によると、攻撃を始めるのは1945年7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦は発動しなかったのは、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 その頃、アメリカとイギリスは核兵器を開発していたが、7月16日にニューメキシコ州のトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が行われて成功、7月24日にハリー・トルーマン米大統領は原子爆弾の投下を許可した。そして7月26日にポツダム宣言が発表される。

 アメリカ軍は1945年8月6日にウラン型原爆「リトル・ボーイ」を広島へ投下、9日に長崎へプルトニウム型「ファット・マン」が落とされた。これ以降、アメリカは核戦争が軍事戦略の中心に据えられる。

 スターリングラードでドイツ軍が降伏した頃からナチスとウォール街人脈は接触を開始、ルーズベルト大統領には無断でナチスの高官を保護する方策を協議している。サンライズ作戦だ。その後、アメリカの軍や情報機関はナチスの幹部や協力者を逃走させたり、保護したり、雇用していく。それらにはラットライン、ブラッドストーン作戦、ペーパークリップ作戦などという暗号名が付けられた。ドイツが降伏する前の月にルーズベルト大統領が急死したのは、こうした工作を進めていた人びとにとっては好都合だった。そしてレッドパージが始まって反ファシスト派が粛清され、冷戦が始まる。

 そうした中、1949年4月にNATO(北大西洋条約機構)が創設された。創設時の参加国はアメリカとカナダの北米2カ国に加え、イギリス、フランス、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルクの欧州10カ国だ。

 この軍事同盟を組織した目的はソ連に対抗することだとされているのだが、当時のソ連には西ヨーロッパへ攻め込む能力はなかった。ドイツとの戦闘でソ連の国民は2000万人以上が殺され、工業地帯の3分の2を含む全国土の3分の1が破壊され、惨憺たる状態だったのである。NATOはヨーロッパを支配する仕組みとして組織されたと言うべきだろう。

 大戦の終盤、アメリカとイギリスの情報機関はジェドバラというゲリラ戦部隊を編成している。戦争が終わった後、その人脈はアメリカ軍の特殊部隊、あるいは極秘の破壊工作組織OPCの中核になり、ヨーロッパでも秘密組織を編成している。

 NATOが登場するとその秘密組織はそこへ入り込み、1951年からはCPC(秘密計画委員会)の下で活動するようになる。SACEUR(欧州連合軍最高司令官)の命令でCPCの下部組織として1957年にはACC(連合軍秘密委員会)が創設された。この委員会を通じてアメリカがNATO加盟国に設置した秘密部隊のネットワークを操っているとも言われている。イタリアのグラディオもそうした秘密部隊のひとつだ。イタリアのグラディオは極左を装い、1960年代から80年代にかけて爆弾テロを繰り返し、クーデターも計画した。

 ウクライナでは昨年11月からバレリー・ザルジニー軍最高司令官の顧問をドミトロ・ヤロシュが務めているが、この人物はNATOの秘密部隊ネットワークに所属していると言われている。

 大戦中、レジスタンスに加わっていたシャルル・ド・ゴールも米英の支配層は敵視していた。フランスでは1961年にOAS(秘密軍事機構)が組織された。その背後にはフランスの情報機関SDECE(防諜外国資料局)や第11ショック・パラシュート大隊がいて、その後ろにはイギリスやアメリカの情報機関が存在していた。

 OASはその年の4月12日にスペインのマドリッドで秘密会議を開き、アルジェリアでのクーデター計画について討議している。会議にはCIAの人間も参加していた。

 アルジェリアの主要都市の支配を宣言した後でパリを制圧するという計画で、その中心には直前まで中央欧州連合軍司令官(CINCENT)を務めていたモーリス・シャレをはじめとする4名の将軍がいて、1961年4月22日にクーデターは実行に移される。

 それに対し、アメリカ大統領だったジョン・F・ケネディはジェームズ・ガビン駐仏大使に対し、必要なあらゆる支援をする用意があるとド・ゴールへ伝えるように命じている。クーデターを進めるとCIAとアメリカ軍が衝突する可能性が高まる。結局、クーデターは4日間で崩壊してしまう。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 フランスのクーデターを失敗させたとも言えるケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺された。その葬儀にド・ゴール自身も出席している。帰国したフランス大統領は情報大臣だったアラン・ペールフィットに対し、ケネディに起こったことは自分に起こりかけたことだと語ったという。(David Talbot, “The Devil’s Chessboard,” HarperCollins, 2015)

 ケネディ大統領が暗殺されてから3年後にフランス軍はNATOの軍事機構から離脱、翌年にはSHAPE(欧州連合軍最高司令部)をパリから追い出す。その司令部はベルギーのモンス近郊へ移動した。

 ド・ゴールは1968年5月の「五月革命」で追い詰められ、翌年に辞任。後任大統領のジョルジュ・ポンピドゥーはアメリカとの関係強化を推進、SDECEの局長に親米派のアレクサンドル・ド・マレンシェを据えた。この新局長はポンピドゥーの命令に従い、アメリカとの関係強化に邪魔だと見なされるメンバー815名を解雇した。

 NATOに加盟するということは、米英金融資本の属国になることを意味する。NATOの東方拡大は米英金融資本の支配地拡大を意味し、最終的にロシアを侵略することになる。

 1998年4月、アメリカ上院はNATOの拡大を承認したが、「封じ込め政策」で有名な​ジョージ・ケナンはそうした政策はロシアを新たな冷戦に向かわせると警告​している。ケナンは反コミュニストの外交官として有名だが、それでも危険だと感じたのだ。また​ヘンリー・キッシンジャーはスイスのダボスで開かれたWEF(世界経済フォーラム)の年次総会で、平和を実現するためにドンバスやクリミアを割譲するべきだと語っている​。

 1999年3月にNATOはユーゴスラビアを先制攻撃、さらにアフガニスタン、イラク、リビアなどで軍事作戦を実行している。NATOの目的を防衛にあると信じている人は変質と考えるかもしれないが、これが正体なのだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202209150000/

3. 中川隆[-12823] koaQ7Jey 2022年12月27日 16:24:38 : E4ZieSqcgA : eXgxNmV4YUM2cWM=[4] 報告

2022.12.27XML
CIAはNATOの秘密部隊ネットワークを利用し、ロシアに対するテロ戦争を始めた
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202212270001/

 ​ロシアの治安機関であるFSB(連邦保安庁)によると、12月25日にウクライナからロシアのブリャンスクへ侵入しようとした4名のチームを銃撃戦の末に殲滅した​という。その4名はサブマシンガンやカービン銃で武装、破壊活動に使う予定だったと思われる爆発物を持っていた。

 12月5日にはロシア領内へ深く入った場所にあるディアギレボ基地とエンゲルス基地が、また12月26日にもエンゲルス基地がそれぞれUAV(ドローン)で攻撃されたが、いずれもロシア領に潜入した工作員によるものだと言われている。​ジャーナリストのジャック・マーフィーによると、CIAはNATO加盟国の情報機関を利用し、ロシアで破壊活動を続けてきた​。本ブログでも繰り返し書いてきたように、アメリカとイギリスの情報機関はNATO加盟国全てに秘密部隊を作らせている。

 この秘密部隊の背景にはイギリスとアメリカの対ソ連戦略があった。第一次世界大戦の際にイギリスはロシアとドイツを戦わせるため、MI6を使い、障害になっていたグレゴリー・ラスプーチンを暗殺する。

 1917年3月の「二月革命」で誕生した臨時革命政府は巨大資本と手を組んでいたこともあり、戦争推進。それを嫌ったドイツは「即時停戦」を主張していたウラジミール・レーニンが率いるボルシェビキに目をつけ、その幹部をロシアへ列車で運ぶ。ドイツの思惑通りボルシェビキ政権は即時停戦を決めるが、アメリカが参戦していたこともあり、ドイツは負けた。

 しかし、そうした経緯もあり、ドイツとボルシェビキ政権は友好的な関係を維持するが、ナチスの台頭によって関係が壊れる。ソ連はイギリスと共同でドイツを抑え込もうとするが、失敗。ヨシフ・スターリンは1939年8月にドイツと不可侵条約を結ぶのだが、41年6月にドイツ軍の4分の3隊がソ連へ向かって進撃を開始する。バルバロッサ作戦だ。西側に4分の1しか残さなかったのはアドルフ・ヒトラーの命令によるが、彼は西から攻められる心配がないことを知っていたと考える人もいる。

 1990年代にNATOは東へ、つまりロシアへ向かって拡大し始めた。約束違反だが、アメリカやイギリスの支配者の言うことを信用することが悪い。この段階で「新バルバロッサ作戦」は始まっている。その山場が2010年1月から14年2月にかけてのウクライナにおけるクーデターにほかならない。その「新バルバロッサ作戦」が現在、ロシア軍の反撃で窮地に陥っている。

 ところで、ソ連に攻め込んだドイツ軍は1941年7月にレニングラード(現在のサンクトペテルブルク)を包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点まで迫る。ソ連軍は敗北し、再び立ち上がることはないと10月3日にヒトラーはベルリンで語り、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測している。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 しかし、レニングラードでドイツ軍は激しい抵抗に遭い、モスクワは陥落しない1942年8月にドイツ軍はスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まるが、11月からソ連軍が猛反撃に転じ、翌年の1月に生き残ったドイツの将兵は降伏した。この時点でドイツの敗北は決定的だ。

 そこで慌てたのはイギリスのチャーチル政権。すぐアメリカ政府と協議し、1943年7月に米英両国軍はシチリア島上陸作戦を実行する。その作戦の最高司令官はイギリス人のハロルド・アレグザンダーで、その下で戦ったのがジョージ・パットン司令官の第7軍(アメリカ軍)とバーナード・モントゴメリー司令官の第8軍(イギリス軍)だ。この作戦が相手にしていたのはドイツでなくソ連だと言えるだろう。

 その年、アメリカのOSSとイギリスの特殊部隊SOEはレジスタンスに対抗させるためにゲリラ戦部隊を組織する。それが「ジェドバラ」だ。大戦中、西ヨーロッパでドイツ軍と戦っていたのは事実上、レジスタンスだけだが、その主体がコミュニストだったことから米英の支配層は敵視していたのだ。後にシャルル・ド・ゴールが命を狙われた一因は彼がレジスタンスに参加していたからだとも言われている。

 大戦後にジェドバラは解散するが、人脈は消えない。その人脈はアメリカで破壊工作機関OPCを創設、1951年にはCIAの内部に入り込み、秘密工作部門になる。要人暗殺やクーデターを仕掛けてきたのはこの部門だ。

 この人脈はヨーロッパで破壊工作機関のネットワークを組織、NATOが創設されるとその内部に入り込む。そのネットワークの中で最も有名な組織はイタリアのグラディオ。1960年代から80年代にかけ、極左を装って爆弾テロを繰り返し、クーデターも計画している。そのメンバーを日本政府が守ったことも知られている。ネットワークを指揮しているのはイギリスのMI6とアメリカのCIAだ。

 NATOへ加盟するためには、秘密の反共議定書にも署名する必要がある。アメリカ人ジャーナリストのアーサー・ローズ、情報活動に関するイタリアの専門家であるジュゼッペ・デ・ルティース、イタリアでグラディオを調査しているマリオ・コグリトーレなどもこの議定書は存在していると主張している。

 この問題を研究しているダニエレ・ガンサーによると、NATOの元情報将校は「右翼過激派を守る」ことが秘密の議定書によって義務づけられていると語っている。コミュニストと戦うために彼らは役に立つという理由からだという。(Daniele Ganser, “NATO’s Secret Armies”, Frank Cass, 2005)

 秘密工作ネットーワークにはウクライナのネオ・ナチを率いているひとりのドミトロ・ヤロシュも含まれていると言われているが、ロシアの内部にも網の目は伸びているだろう。そうした網を構成する工作員が活動を開始したとマーフィーは言っているのだ。

 9月26日のノード・ストリーム爆破はイギリス海軍が実行したとロシア政府は主張しているが、10月8日にクリミア半島とロシア本土を結ぶクリミア橋(ケルチ橋)が爆破された事件はイギリスのMI6が計画したとも言われている。

 10月29日にクリミアのセバストポリにある基地がUAVや無人艦で攻撃されたが、攻撃を実行したのはオチャコフにいるイギリスの専門家から訓練を受けたウクライナ第73海軍特殊作戦センターの隊員だという。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202212270001/

4. 中川隆[-12804] koaQ7Jey 2023年1月23日 17:16:03 : MoYzjeDoZc : R0ljb0czOW8uQms=[14] 報告

2023.01.23XML
ロシアとの戦争で劣勢のアメリカはNATOとEUの戦略的な関係を宣伝
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301230001/

 ​NATOとEUは「共通の価値観、共通の課題に取り組む決意、ユーロ大西洋地域における平和、自由、繁栄を促進し、保護するという責務」に基づき、戦略的な協力関係を築くとしている​。アメリカ/NATOが仕掛けた対ロシア戦争で劣勢になった危機感の現れだろう。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、NATOはヨーロッパを支配する仕組みとしてアメリカやイギリスの支配層によって創設された。NATOの初代事務総長でウィンストン・チャーチルの側近だったヘイスティング・ライオネル・イスメイはNATOを創設した目的について、ソ連をヨーロッパから締め出し、アメリカを引き入れ、ドイツを押さえつけることのあると公言している。

 そのイスメイはドイツ軍が「バルバロッサ作戦」を始めて間もない1941年10月の段階で3週間以内にモスクワは陥落すると推測していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 勿論、心配していたわけではない。アドルフ・ヒトラーはこの作戦に約300万人を投入、西部戦線には約90万人しか残さなかったことから西からの攻撃はないと確信していた可能性が高い。

 ナチス政権は1934年1月にポーランドと不可侵条約を締結したが、両国の間には飛地の問題、いわゆる「ポーランド回廊」の問題があったのだが、交渉はほぼ合意に達し、1939年3月21日にポーランドのジョセフ・ベック外相がドイツの首都ベルリンを訪問することになった。

 ところがベックは姿を現さず、ロンドンへ向かった。ロンドンではコントロール不能になったアドルフ・ヒトラーをどうするか決めるために西側各国の指導者が集まっていた。そして3月26日にポーランドはドイツに対し、回廊をドイツに返還しないと通告する。

 その年の8月11日にイギリスとソ連はドイツ問題で交渉を開始、ソ連の国防相(国防人民委員)と参謀総長はポーランドの反対が解決されれば、ドイツを封じ込めるために軍隊をドイツとの国境へ派遣する用意があると提案している。

 イギリスのテレグラフ紙によると、部隊の規模は120歩兵師団と16騎兵師団だが、イギリスの代表は交渉する権限がないという理由で回答を拒否した。見切りをつけたソ連は1939年8月23日にドイツと不可侵条約を結ぶ(Nick Holdsworth, “Stalin ‘planned to send a million troops to stop Hitler if Britain and France agreed pact’, the Telegraph, 18 October 2008)のだが、これは「ミンスク合意」のようなもので、守られない。

 1939年9月1日にドイツ軍はポーランドへ軍事侵攻。チェコスロバキア侵攻のケースでは黙認したイギリス、フランス、オーストラリア、そしてニュージーランドが9月3日に宣戦布告して第2次世界大戦は始まったのだが、ドイツはそれから半年間、目立った戦闘を行なっていない。イギリスやフランスもドイツとの本格的な戦闘を始めない。「奇妙な戦争」の期間だ。ドイツはこの時点で大規模な戦争を始める準備をしていなかった可能性が高い。そしてバルバロッサ作戦へと進む。

 ドイツの対ソ連戦はイスメイの思惑通りには進まず、1942年1月にドイツ軍はモスクワでソ連軍に降伏、8月にはスターリングラード市内へ突入して市街戦が始まる。当初はドイツ軍が優勢に見えたが、11月になるとソ連軍が猛反撃に転じ、ドイツ軍25万人はソ連軍に完全包囲され、1943年1月にドイツ軍は降伏する。この時点でドイツの敗北は決定的だった。イギリスとアメリカが動き始めるのはこの後である。

 ドイツが降伏する直前の1945年4月に反ファシストのフランクリン・ルーズベルト米大統領が急死、降伏直後にチャーチル英首相はソ連に対する奇襲攻撃の作戦を立てるようにJPS(合同作戦本部)へ命令、5月22日には。「アンシンカブル作戦」が提出された。

 その作戦によると、攻撃を始めるのは1945年7月1日。アメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始める想定になっていた。この作戦が発動しなかったのは、参謀本部が5月31日に計画を拒否したからである。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000)

 下野したチャーチルは第2次世界大戦後、冷戦の開幕を告げる。その冷戦は1991年12月にソ連が消滅した時点で終わり、アメリカの国防総省では世界制覇プランが作成された。​国防次官補のポール・ウォルフォウィッツが中心になって書き上げた「DPG草案」、いわゆる「ウォルフォウィッツ・ドクトリン」​だ。

 その目的として、ソ連と同じような脅威をもたらす新たなライバルの再出現を防ぐことだとしている。アメリカにとって重大な脅威が発生する可能性がある地域として、旧ソ連だけでなくヨーロッパ、東アジア、中東、南西アジアを挙げ、またラテン・アメリカ、オセアニア、サハラ以南のアフリカも注目している。要するに、全世界でアメリカのライバルが出現することを許さないというわけだ。

 1991年12月にソ連が消滅して以来、NATOはソ連首脳との約束を無視して東へ拡大させるが、これはロシアにとって「新たなバルバロッサ作戦」にほかならなかった。

 2014年2月にアメリカのバラク・オバマ政権はネオ・ナチを使った暴力的なクーデターでキエフを制圧、クーデターに反対する東部や南部を軍事的に占領しようとする。そして始まったのがドンバスにおける内戦だ。

 軍や治安機関の内部にもネオ・ナチによるクーデターに反発する人は少なくなかったこともあり、内戦はドンバスの反クーデター派が優勢。そのまま進めばドンバス軍の勝利で終わりそうだったが、そこで話し合いによる解決を目指す動きが出てくる。ドイツやフランスを仲介者とする停戦交渉が始まったのだ。

 その結果、ウクライナ、ロシア、OSCE(欧州安全保障協力機構)、ドネツク、ルガンスクの代表が2014年9月に協定書へ署名する。これが「ミンスク合意」だが、キエフ政権は合意を守らず、2015年2月に新たな合意、いわゆる「ミンスク2」が調印された。

 この合意について​アンゲラ・メルケル元独首相​は昨年12月7日、ツァイトのインタビューでウクライナの戦力を増強するための時間稼ぎに過ぎなかったと語っている。メルケルと同じようにミンスク合意の当事者だった​フランソワ・オランド元仏大統領​もその事実を認めた。

 アメリカ/NATOは兵器や装備品を供給、兵士を訓練、軍事情報を提供する態勢を整備していく。のちにロシア軍が回収したウクライナ側の機密文書によると、2022年春に軍事作戦を始める計画を立てていた。その直前、2022年2月にロシア軍は軍事作戦を始動させた。

 この軍事作戦についてNATOは「深刻なユーロ大西洋の安全保障への脅威」だと表現、ウクライナのウォロディミル・ゼレンスキー政権に対する支援をEUと共同でさらに強化すると宣言している。

 アメリカ/NATOは2014年2月、ウクライナの独立や主権を無視したクーデターで領土を占領、ウクライナ人から自らの運命を選択する権利を奪ったわけである。そしてロシアに対する軍事的な恫喝を強化した。

 クーデターで占領できなかったドンバスやクリミアを制圧するため、アメリカ/NATOはウクライナの戦力を増強する必要があり、そのための時間稼ぎがミンスク合意だった。

 ところがロシア軍が先手を打ち、戦況はアメリカ/NATOの思惑通りに進んでいない。ジョー・バイデン政権が始めたロシアに対する経済戦争はロシアへダメージを与えられないだけでなく、EU社会に混乱をもたらしている。それが西側を苦しめている「食糧とエネルギーの危機」だ。

 アメリカ/NATOからの攻撃を受けたロシアは中国との関係を強化、今では「戦略的同盟関係」にある。米英の支配層は中国経済を1970年代に新自由主義化、経済だけでなくアカデミーの世界も支配することに成功したのだが、ロシアと中国との接近を阻止できなかった。

 シティやウォール街を拠点とする金融資本がナチスへ資金を提供していたことが判明しているが、その金融資本はネオコンの黒幕として対ロシア戦争を継続しているように見える。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202301230001/

5. 中川隆[-12561] koaQ7Jey 2023年5月25日 09:28:55 : hkS8l6HytQ : d1R1YmlNR0lWLlE=[4] 報告
<■160行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
2023.05.25XML
豪労働党は米国の核戦略に従い、原潜を環境規制法案の対象から外す法案を提出
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202305250000/

 ​オーストラリアの労働党は原子力潜水艦を環境保護の法的規制の対象外にするため、「国防法改訂法案」を議会に提出​したという。原子力発電所は1998年に制定された「オーストラリア放射線防護および原子力安全法」と1999年に制定された「環境保護および生物多様性保全法」の規制を受けているが、その規制から原潜を外すということだ。

 この法案はオーストラリアがアメリカやイギリスと創設した軍事同盟AUKUSと関係している。2021年9月に創設が発表された際、アメリカとイギリスはオーストラリアに原潜の艦隊を建造させるために必要な技術を提供するとも伝えられ、ジョー・バイデン米大統領はオーストラリアへ売却する3隻のバージニア級原子力潜水艦を2030年代の初めに建造すると語っている。その潜水艦を動かすためにはアメリカの軍人が乗り込む必要があり、事実上、アメリカ海軍の潜水艦になるという。

 この計画は日本とも関係している。山上信吾オーストラリア駐在大使はキャンベラのナショナル・プレス・クラブで2022年11月14日、日本がオーストラリアの原子力潜水艦を受け入れる可能性があると表明しているのだ。

 アメリカ、イギリス、オーストラリアはアングロ・サクソン系の国だが、日本は明治維新以来、アメリカやイギリスの金融資本から強い影響を受けてきた。アメリカは2018年5月に「太平洋軍」を「インド・太平洋軍」へ編成替えしたが、この新体制でも日本の軍事的な役割は重要だとされている。

 アメリカ、イギリス、オーストラリアに日本とインドを加えた5カ国で「クワド」と呼ばれる軍事同盟が作られているが、インドは腰が引けていて、ロシア製の防空システムS-400の購入を諦めていない。

 中東ほど劇的な形ではないが、東アジアでもアメリカから自立する動きがある。台湾、韓国、フィリピンの現政権はアメリカへ擦り寄っているが、日本ほど盤石ではない。そこでNATOが乗り出そうとしている。

 NATO(北大西洋条約機構)のイェンス・ストルテンベルグ事務総長は2020年6月、オーストラリア、ニュージーランド、韓国、日本をメンバーにするプロジェクト「NATO2030」を開始すると宣言した。2024年中に連絡事務所をNATOは連絡事務所を東京に設置するという。

 1949年4月にアメリカとカナダの北米2カ国、そしてイギリス、フランス、イタリア、ポルトガル、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、ベルギー、オランダ、そしてルクセンブルクの欧州10カ国で創設されたNATOはソ連軍の侵攻に備えるとしていた。

 しかし、この主張には説得力がない。ソ連はドイツとの戦争で2000万人とも3000万人とも言われる国民が殺され、工業地帯の3分の2を含む全国土の3分の1が破壊され、惨憺たる状態で、西ヨーロッパに攻め込む余力があったとは思えない。結局、ソ連はこの痛手から立ち直ることができなかった。

 NATOの初代事務総長でウィンストン・チャーチルの側近だったヘイスティング・ライオネル・イスメイはNATOを創設した目的について、ソ連をヨーロッパから締め出し、アメリカを引き入れ、ドイツを押さえ込むことのあると公言している。アメリカがヨーロッパを支配するための仕掛けとして設立されたと考えるべきだろう。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、第2次世界大戦のヨーロッパ戦線は1942年8月から43年2月にかけて行われたスターリングラードの戦いで事実上、勝敗は決していた。アドルフ・ヒトラーの命令でドイツ軍は戦力の4分の3をソ連との戦いに投入、その部隊が降伏したのだ。

 それを見て慌てたイギリスとアメリカの支配層は1943年5月にワシントンDCで会談、7月にシチリア島上陸作戦を敢行した。その際、レジスタンスの主力だったコミュニストを抑え込むため、アメリカ軍はマフィアの協力を得ている。ノルマンディー上陸作戦(オーバーロード作戦)は1944年6月だ。

 その頃になるとアメリカの戦時情報機関OSSのフランク・ウィズナーを介してアレン・ダレスのグループがドイツ軍の情報将校、ラインハルト・ゲーレン准将(ドイツ陸軍参謀本部第12課の課長)らと接触している。ソ連に関する情報を持っていたゲーレンをダレスたちは同志と見なすようになり、大戦後には彼を中心に情報機関が編成された。BND(連邦情報局)だ。

 スターリングラードでドイツ軍が降伏した後、アメリカやイギリスはナチスと接触して善後策を協議。サンライズ作戦である。その後、アメリカの軍や情報機関はナチスの幹部や協力者を逃走させたり、保護したり、雇用する。ラットライン、ブラッドストーン作戦、ペーパークリップ作戦などという暗号名が付けられている。

 その一方、ソ連やレジスタンスに対抗するための手を打っている。そのひとつがシチリア島上陸作戦だが、もうひとつはゲリラ戦部隊ジェドバラの創設。1944年のことである。この部隊を組織したのはイギリスとアメリカの特殊部隊。つまりイギリスのSOEとアメリカのSO(OSSの一部門)だ。

 アメリカの大統領だったフランクリン・ルーズベルトはファシズムや植民地に反対、ソ連を敵視、植民地の維持を望んでいたイギリスのウィンストン・チャーチルとは関係が良くなかった。ルーズベルト政権が始まった1933年から34年にかけての時期、アメリカの金融資本はクーデターを計画している。ファシズム体制を樹立しようとしていることを金融資本側は隠していない。このクーデターを阻止したのが海兵隊の退役少将だったスメドリー・バトラーだ。

 アメリカの金融資本(ウォール街)を生み出したのはイギリスの金融資本(シティ)であり、チャーチルはシティにつながっている。米英の金融資本がナチスと手を組み、ソ連やコミュニストを敵視していたことはジャーナリストや研究者によって明らかにされてきた。

 例えば、アメリカのブラウン・ブラザース・ハリマンやディロン・リードといった金融機関はナチスとの関係が強かった。ブラウン・ブラザース・ハリマンの重役の中にはW・アベレル・ハリマンやプレスコット・ブッシュも含まれ、ハリマンとブッシュはドイツ企業との手形交換業務を行う名目で「ユニオン・バンキング(UBC)」を設立、ナチスへの重要な資金ルートになる。スイスで設立されたBIS(国際決済銀行)や第2次世界大戦が勃発する半年ほど前にドイツへ約2000トンの金塊を渡したと言われているイギリスのイングランド銀行もナチスとの関係が指摘されている。

 アメリカでは政府の内部にもファシストの巣窟が存在していた。国務省だ。反ファシストのルーズベルトは大統領として国際会議に出席する場合、国務省の高官を同行させていない。基本的に同行したのは軍人で、文民は個人的にルーズベルトが信頼していたハリー・ホプキンスだけだったという。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 アメリカの国務省には「リガ・グループ」とも呼ばれる反コミュニスト、反ソ連の一派がロシア革命の直後から存在していた。ラトビアのリガ、ドイツのベルリン、そしてポーランドのワルシャワの領事館へ赴任していた外交官たちがその中心で、メンバーの中には「封じ込め政策」で有名なジョージ・ケナンや駐日大使を務めたJPモルガン人脈のジョセフ・グルーも含まれていた。そのケナンより反ロシア感情が強く、好戦的なグループがネオコンにほかならない。

 ルーズベルト大統領は大戦が終わってから金融資本とファシストとの関係を明らかにする意向だったと言われているが、1945年4月に休止してしまう。ドイツが降伏したおはその翌月。その直後にチャーチルはソ連を奇襲攻撃するための軍事作戦を作成させた。「アンシンカブル作戦」である。(Stephen Dorril, “MI6”, Fourth Estate, 2000など)

 その作戦では、1945年7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めることになっていたが、イギリスの参謀本部は拒否し、実行されなかったという。

 この作戦が葬り去られる別の理由もあった。1945年7月16日、アメリカのニューメキシコ州にあったトリニティ実験場でプルトニウム原爆の爆発実験が行われ、成功したのだ。ハリー・トルーマン大統領の意向でポツダム会談が始まる前日に実行されたという。

 その実験成功を受けてトルーマン大統領は原子爆弾の投下を7月24日に許可。26日にアメリカ、イギリス、中国はポツダム宣言を発表、8月6日に広島へウラン型爆弾を投下、その3日後には長崎へプルトニウム型爆弾が落とされている。これ以降、チャーチルやアメリカの好戦派はソ連や中国への核攻撃計画を作成する。核兵器に反対することに問題はないが、ソ連が核兵器を保有しなければアメリカやイギリスが核戦争を始めたことを無視するべきではない。

 AUKUSの創設が発表された際、オーストラリアの原子力潜水艦保有計画も明らかにされた。敵国の潜水艦を攻撃することな任務になるようで、核戦争を想定している。しかも建造、維持・運用をアメリカに依存することになっているので、アメリカの核戦略の一部になる。必然的にオーストラリアはアメリカが進めている中国やロシアとの戦争に巻き込まれてしまう。

 かつてオーストラリアの労働党は自主独立の政策を進めようとしていた。1972年12月の総選挙で労働党が勝利、ゴフ・ホイットラムが首相に就任、自国の対外情報機関ASISに対し、CIAとの協力関係を断つように命令する。イギリスのジャーナリスト、デイビッド・レイによると、ウイットラムはチリにおける軍事クーデターに関する情報を入手、そこでASISがCIAのサルバドール・アジェンデ政権崩壊工作に協力していたことを知っていた。(David Leigh, "The Wilson Plot," Pantheon, 1988)

 また、オーストラリアのパイン・ギャップにはCIAの通信傍受施設があるのだが、その使用期限が迫っていた。この施設は1966年12月に結ばれた秘密協定に基づいて建設されたもので、協定の有効期限は10年。1976年までに更新しないと基地を閉鎖しなければならない。ホイットラムが更新を拒否することをアメリカ側は懸念していた。

 そこでCIAは1975年11月、イギリス女王エリザベス2世の総督であるジョン・カー卿を動かしてホイットラム首相を解任した。実際に動いたのはアメリカのCIAやイギリスのMI6だが、総督がいなければ解任できなかった。総督は名誉職だと考えられていたが、そうではなかったのである。

 アメリカのジャーナリスト、ジョナサン・ウイットニーによるとカーは第2次世界大戦中の1944年、オーストラリア政府の命令でアメリカへ派遣されてCIAの前身であるOSS(戦略事務局)と一緒に仕事をしている。大戦後もCIAと深い関係にあった。(Jonathan Kwitny, "The Crimes of Patriots," Norton, 1987)

 アメリカとイギリスを中心とする情報機関のつながりがある。アングロ・サクソン系のカナダ、オーストラリア、ニュージーランドの機関がその配下にある。事実上、米英金融資本がそうした国々を監視、管理するためのネットワークだ。すでにアメリカや韓国は米英の影響下にあるが、それをNATO2030で強化しようとしているのだろう。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202305250000/

6. 中川隆[-12329] koaQ7Jey 2023年9月27日 07:55:21 : MZ6IYfKy7Y : VEE4ZTBwMlk5TTI=[3] 報告
<■89行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
2023.09.27XML
加議会で議員とウ大統領が元ナチス親衛隊兵士にスタンディング・オベーション
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202309270000/

 カナダのアンソニー・ロタ下院議長は9月22日、議会にウクライナのウラジーミル・ゼレンスキー大統領のほか、ヤロスラフ・フンカなる人物を招待していた。下院議長はフンカを「ウクライナの英雄、カナダの英雄」と呼んで功績に称え、議場にいたゼレンスキーを含む人びとは一斉に立ち上がり、拍手するのだが、その光景を見て抗議の声を上げる人が現れた。

 フンカは第2次世界大戦中、ソ連軍と戦ったとロカ議長は讃えているのだが、彼の所属部隊は第1ウクライナ師団(親衛隊ガリシア師団)、つまりナチスのSS(武装親衛隊)だったのだ。この師団は1943年半ばにハインリヒ・ヒムラーが8万人のウクライナ人志願者で編成したという。この師団はユダヤ人、ポーランド人、ベラルーシ人、スロバキア人に対する残虐行為でも知られている。

 こうした背景をロタが知らなかったとは考えにくい。正体不明の人物を招待するとは思えず、常識的に考えて、カナダ政府は事前にチェックしたはずだ。

 抗議を受け、ジャスティン・トルドー首相の事務所はフンカとナチス親衛隊の関係を知らず、全て下院議長が決めたと主張、下院議長は全て自分の責任だとして謝罪した。大戦中、ソ連軍が戦った相手はナチス体制下のドイツ軍とその同盟者である。何の情報も持っていなかったとしても、ロタ議長はフンカとナチスの関係に気づかなければおかしい。

 そもそもトルドー政権で副首相と財務大臣を兼任しているクリスティア・フリーランドの家系はナチスと関係が深い。​彼女の母方の祖父にあたるマイケル・チョミアックはポーランドで発行されていたファシスト系新聞の『クラキフスキー・ビスティ』で編集長を務めていた人物。​ドイツに占領されていた当時のポーランド政府の要人と一緒に撮影された写真も残っている。チョミアックとドイツ軍の関係は、ワルシャワにあるポーランド政府公文書館でドイツ軍の記録から判明している。彼はウィーンでドイツのスパイ活動やプロパガンダ活動の訓練を受けたという。カナダは第2次世界大戦後、約2000名のナチス親衛隊を受け入れ、保護したと言われている。

 本ブログでは繰り返し書いてきたが、ナチスはウォール街やシティ、つまり米英の金融資本から資金援助を受けていた。そうした金融資本が作った情報機関がイギリスのMI6やアメリカのCIAだ。

 ナチス政権に率いられたドイツ軍は1941年6月にソ連に対する奇襲攻撃「バルバロッサ作戦」を開始。西側には約90万人だけを残し、310万人を投入するという非常識なものだが、これはアドルフ・ヒトラーの命令で実行されたという。

 1941年7月にドイツ軍はレニングラードを包囲、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点に到達。ヒトラーはソ連軍が敗北したと確信、再び立ち上がることはないと10月3日にベルリンで語っている。

 また、ウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測しながら傍観していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)

 しかし、ソ連軍の抵抗でこうした予想通りにことは進まず、ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入する。ここでソ連軍に敗北、1943年1月に降伏した。この段階でドイツの敗北は決定的。ここからアメリカやイギリスは慌てて動き始める。

 1943年1月にフランクリン・ルーズベルト米大統領とウィンストン・チャーチル英首相はフランスのシャルル・ド・ゴールらとカサブランカで会談、「無条件降伏」という話が出てくるが、この条件はドイツの降伏を遅らせる一因になった。米英にはソ連対策を講じるための時間的な余裕ができたわけだ。

 その年の7月に両国軍は犯罪組織の協力を得てシチリア島へ上陸、ナチスの幹部はアレン・ダレスたちと接触し始めた。「サンライズ作戦」である。ダレスは戦時情報機関OSSの幹部だったが、その前はウォール街の弁護士だった。その後、アメリカの軍や情報機関はナチスの幹部や協力者を逃走させ、保護、そして雇用する。「ラットライン」、「ブラッドストーン作戦」、「ペーパークリップ作戦」などだ。

 1943年春、ウクライナのステパン・バンデラ派OUN-BはUPA(ウクライナ反乱軍)として活動し始め、その年の11月には「反ボルシェビキ戦線」を設立した。UPAは「民族浄化」に乗り出し、ユダヤ人やポーランド人の殺戮を始める。その方法は残虐で、妊婦の腹を引き裂いて胎児や内蔵を取り出し、脅しのために灌木に引っかけるといったことをしたという。(Grzegorz Rossolinski-Liebe, “Stepan Bandera,” ibidem-Verlag, 2014)

 反ファシズムのフランクリン・ルーズベルト米大統領は戦争終結後、ウォール街とファシストとの関係を追及する姿勢を見せていたと言われているが、1945年4月12日、ドイツが降伏する直前に急死する。必然的に彼が率いていたニューディール派の力は弱まり、ウォール街がホワイトハウスの実権を取り戻した。

 ドイツが降伏するとOUN-Bを含む東ヨーロッパの反ソ連勢力はアメリカやイギリスへ接近、オーストリアのインスブルックへ逃げ込んでいる。1945年夏になると、バンデラたちはドイツの情報法機関を統轄することになるラインハルト・ゲーレンの機関に匿われることになる。当時、ゲーレンたちはアメリカの配下に入っていた。

 反ボルシェビキ戦線は1946年4月にABN(反ボルシェビキ国家連合)へ発展、APACL(アジア人民反共連盟、後にアジア太平洋反共連盟に改名)と共にWACL(世界反共連盟。1991年にWLFD/世界自由民主主義連盟へ名称変更)の母体になった。

 こうした背景を考えると、カナダの議会でナチス親衛隊の元隊員がたたえられるのは必然であり、ウクライナを舞台とした戦闘は第2次世界大戦で米英が行ったナチスを利用した対ソ連戦の続きだということがわかる。バラク・オバマ政権がウクライナにネオ・ナチ体制を成立させたのも必然なのだ。

https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202309270000/

7. 中川隆[-11345] koaQ7Jey 2024年3月09日 13:02:19 : FzROkOFlVo : dUZ5TzV2U2tRM1k=[4] 報告
<■76行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
2024.03.09XML
米英金融資本が作ったナチス・システムから逃れられず、露との戦争へ向かう独
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202403090000/

ロシアの十月革命からナチスが台頭するまでの期間、ドイツとロシア/ソ連の関係は良好だった。ソ連を率いることになるボルシェビキの指導部は二月革命で臨時革命政府が樹立されるまで収監されているか、亡命していてロシアにはいなかった。二月革命で臨時革命政府を樹立したのはフェリックス・ユスポフをはじめとする一部貴族、資本家、そして資本主義革命を望んでいた「リベラル派」の連合体で、イギリスの戦略通り、第1次世界大戦でドイツと戦争することを望んでいたのだ。

 この勢力のライバルだったのは大土地所有者や皇后を後ろ盾とするグレゴリー・ラスプーチンという修道士。この勢力はドイツとの戦争に反対していた。ロシアの支配層が戦争をめぐって対立する中、1916年7月13日に戦争反対の皇后はラスプーチンへ電報を打つのだが、それを受け取った直後に彼は見知らぬ女性に腹部を刺されて入院してしまう。8月17日に退院するが、その前にロシアは参戦していた。

 参戦してもラスプーチンが復活すると戦争を辞める可能性があるのだが、1916年12月16日、ラスプーチンは暗殺された。川から引き上げられた死体には3発の銃弾を撃ち込まれ、最初の銃弾は胸の左側に命中、腹部と肝臓を貫いていた。2発目は背中の右側から腎臓を通過。3発目は前頭部に命中、これが致命傷になったと見られている。暗殺したのはフェリックス・ユスポフだとされているが、止めの銃弾はイギリスの軍用拳銃で使われていたものだ。

 その当時、ロシアにはイギリス外務省が送り込んだMI6のチームがいた。中心はサミュエル・ホーアー中佐で、ステファン・アリーとオズワルド・レイナーが中心的な役割を果たしていた。

 アリーの父親はロシアの有力貴族だったユスポフ家と親しく、アリー自身はモスクワにあったユスポフの宮殿で生まれたと言われ、レイナーはオックスフォード大学時代からユスポフと親密な関係にあった。

 臨時革命政府はドイツとの戦争を継続、両面作戦を嫌ったドイツは即時停戦を主張していたウラジミル・レーニンに目をつけた。そこでドイツ政府は国外に亡命していたボルシェビキの指導者32名を1917年4月に「封印列車」でロシアへ運ぶ。その後、紆余曲折を経て十月革命でボルシェビキ政権が誕生、ドイツとの戦争を止めることになるのだ。

 このソ連とドイツとの関係を潰したのがナチスであり、そのナチスの資金源がイギリスやアメリカの金融資本だということがわかっている。アメリカの金融資本は1933年から34年にかけての頃、フランクリン・ルーズベルト大統領を中心とするニューディール派の政権を潰すためにクーデターを試み、スメドリー・バトラー退役少将に阻止された。金融資本はファシストの戦術を真似ようとしていたが、それだけでなくファシズム体制の樹立を目指すと記者に語っている。

 戦争が終了した後に金融資本とナチスとの関係にメスが入ると見られていたのだが、ドイツが降伏する直前の1945年4月12日にルーズベルトが急死、ニューディール派は急速に力を失い、金融資本が実権を取り戻した。

 1949年4月に北大西洋条約機構が調印されてNATOが誕生するが、初代事務総長のヘイスティング・ライオネル・イスメイはその目的を「ソ連を追い出し、アメリカを引き入れ、ドイツを抑え込むことだ」としている。この機構はヨーロッパをアメリカが支配するための仕組みであり、その手先になる秘密部隊のネットワークも存在する。

 それに対し、西ドイツがNATOへ加入した1955年、ソ連は近隣諸国と「ワルシャワ条約」を締結、安全保障機構が設立された。ソ連の近隣国とはドイツがソ連へ軍事侵攻する直前に支配していた地域で、カトリックの影響が強く、大戦中、反ロシア感情からナチスと結びついていた人が少なくなかった。本ブログで繰り返し書いてきたように、ポーランドの反ロシア感情とイギリスへの従属が第2次世界大戦の引き金になっている。

 ナチスを育て、支援した米英金融資本の戦略は19世紀に書かれた。その中心的なグループはビクトリア女王にアドバイスしていたネイサン・ロスチャイルド、ウィリアム・ステッド、レジナルド・ブレット、そしてセシル・ローズらだ。

 ローズは1871年にNMロスチャイルド&サンの融資を受けて南部アフリカでダイヤモンド取引に乗り出して大儲けした人物。1877年6月にフリーメーソンへ入会、『信仰告白』を書いている。

 その中で彼はアングロ・サクソンが最も優秀な人種だと主張、その優秀の人種が住む地域が増えれば増えるほど人類にとってより良く、大英帝国の繁栄につながるとしている。そのためには侵略し、先住民を皆殺しにする必要がある。そうした意味で、アメリカやイスラエルは彼らの戦略が成功した地域だと言えるだろう。

 中東やウクライナ、そして日本でも多くの人が死ぬようなことをしているが、これは彼らの計画だと考えるべきだ。そうした計画を実現するためにはエネルギーと作戦本部が必要。秘密結社はその作戦本部だと考えられる。
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202403090000/

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