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天皇の姓は阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)
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投稿者 中川隆 日時 2020 年 7 月 23 日 14:41:57: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 


天皇の姓は阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)

阿毎氏
https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E9%98%BF%E6%AF%8E%E6%B0%8F

阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)は、古代の日本の皇室の姓である。その由来は『隋書』列伝第四十六東夷伝[1]にある。継体天皇(オホド/オオド/ヲホド)を祖として、『大化の改新』以降の天智天皇(中大兄皇子)の代に中国風の原氏(はる - し)と改姓して、今日の今上天皇(令和天皇)の代までにいたっている。


『魏書』第三十烏丸鮮卑東夷伝・『後漢書』列伝第八十五東夷伝によると、朝鮮半島南部の耽羅[2](済州島)で遊牧生活をしていた州胡こと耽羅鮮卑[3]と呼ばれる部族が存在したことが判明されている。

東京大学の教授であった江上波夫は持論の『騎馬民族征服王朝説』で、以下のことを述べている[4]。

三国時代以降の東晋の時代に北方からトルコ系匈奴・羯[5]・鮮卑[6][7]やチベット系の羌氐[8]などの遊牧民族が南下して中国北部を征服した五胡十六国時代に変遷した影響を受けいた応神天皇(慕容讃)[9]・仁徳天皇(慕容珍)[10]父子が耽羅(済州島)におり、鮮卑化したチベット系の羌氐の酋長である武内宿禰[11]の補佐を得ていた。

この父子はトルコ系遊牧民族で前燕・後燕・西燕・南燕・吐谷渾[12]などを建国した鮮卑慕容部の一支族の酋長として、同じトルコ系東胡の末裔で、ツングース系の穢(獩)貊(濊狛)[13]・沃沮[13]などとの混合民族である半農半牧の扶余[14][15](夫余)と鮮卑化したチベット系の羌氐と古代トルコ人であり現在の中国河北省北部に中山国を建国した白狄鮮虞部[16]の末裔などを吸収して、北魏(代魏)・東魏・西魏などを建国した同じ鮮卑拓跋部と同族で、南涼を建国した鮮卑禿髪部の酋長である烈祖武王の禿髪烏孤の甥で、景王の禿髪傉檀の子である禿髪破羌(源賀)の末子である禿髪阿毎を阿毎氏族の祖となった。阿毎が逝去すると、子の禿髪稚渟毛二岐[17]が後を継いだ。稚渟毛二岐が亡くなると、弟の禿髪意富々杼[18]が後を継いだ。意富々杼が亡くなると、弟の禿髪乎非[19]が後を継いだ。乎非が亡くなると、弟の禿髪汙斯[20]が後を継いだ。汙斯は亡父の諱を採って、禿髪氏から阿毎氏に改姓したという。

汙斯は応神・仁徳天皇父子らと連合して、朝鮮半島南部に移動しながら、耽羅(済州島)を拠点として、多くの部族を統率をしていた。やがて彼らは耽羅(済州島)付近にいた海洋民族である韓人あるいは汙人[21]を奴隷として舟を築造させて、日本列島に渡ったという。

日本列島にやって来た州胡(耽羅鮮卑)の盟主である応神・仁徳天皇父子は、中国南部・ベトナム北部からやって来た越人・呉人・荊楚人[22]が米作りを営む農耕民族であることで、これも奴隷として今までの肉を主食の風習を米食に変更したのである。さらに日本の先住民族である海洋民族の倭人[23](委人)をも奴隷として、河内国で河内王朝が成立され古墳時代に突入した。同時に朝廷の主要民族である鮮卑・扶余・白狄・羌氐などは越南人・呉人・荊楚人・倭人などと混血を繰り返して、これが大陸系の大和民族(和人[24])の成立の過程になった[25]。さらにアルタイ語族を骨子とする日本語[26]といった言語が同時に成立された。

阿毎汙斯は応神・仁徳天皇父子により、出雲国から若狭国までの日本海に面する広大な領地を与えられた。阿毎汙斯が亡くなると、阿毎男大迹(継体天皇)[27]が後を継いだ。その間に阿毎氏族は徐々に勢力を蓄えており、河内王朝にとっても脅威的な存在となっていた。

同時に、河内王朝の動向は、仁徳天皇の孫である大王(おおきみ)の安康天皇[28]は年代が近い叔父の大草香皇子(大日下王・波多毘能王)を誅殺して、その妻である異母妹の草香幡梭姫を奪うも、従弟である大草香皇子の子の眉輪王に暗殺された。安康天皇の同母弟・雄略天皇[29]が後を継いで、眉輪王も含む皇位継承権がある多くの親族を皆殺しして、河内王朝は衰退を極まった。雄略天皇の従孫である武烈天皇[30]は、応神・仁徳天皇父子の6世の孫・玄孫であり、稀代なる暴君であった。このころの朝廷はやや遊牧民族国家から農耕民族国家に変遷していたが、それでも部族間に争いは凄まじいものがあった。

扶余の一酋長でもあった大連の大伴金村は朝廷で権威を振るった挙句に、反乱を起こした平群真鳥・鮪(しび)父子を討ち取る功績を残した。だが、武烈天皇の暴虐ぶり聞いてこれを諌めるも、それを聴きいれなかった武烈天皇は佞臣とともに奴隷の殺戮を繰り返していた。この行為は殷(商)の紂王(帝辛/季受)に等しいものがあり、武烈天皇は諌める臣下を処刑したり、妊婦の腹を引き裂いたり、ある女性たちに数頭の馬と交尾させるなどなど、無限の暴政をおこなっていた。

これを見かねた大伴金村は武烈天皇の姉妹の婿である阿毎男大迹と密談して、武烈天皇を討伐するように計画を立てた。しかし、阿毎男大迹は武烈天皇の姉妹の婿のみではなく、その子の阿毎勾大兄[31](安閑天皇)と阿毎檜隈高田[32](宣化天皇)と阿毎天国排開広庭[33](欽明天皇)兄弟は武烈天皇の娘を娶っていた。

阿毎男大迹は悩んだ挙句に、出雲国から若狭国から軍勢を率いて、南下して大伴金村と呼応して河内国に攻め込んだ。阿毎男大迹と大伴金村の謀反を知った武烈天皇は激怒して、迎え撃ったが離反する臣下が続々と出たため、大敗して宮殿の奥に逃げ込んで火を放ち、自決を遂げた。武烈天皇8年12月8日のことであった。こうして鮮卑慕容部出身である応神・仁徳天皇父子を祖とする河内王朝はついに滅亡した。

阿毎男大迹は大伴金村をはじめ、物部麤鹿火[34]・巨勢男人らに迎えられて、大和国で即位した。これが継体天皇であり、大和王朝の始まりであった。ここで大和時代に突入したのである。それでも、部族間の争いは相変わらず凄まじかった。

歳月は流れて645年の『大化の改新』以降に、腹心の中臣鎌足(藤原氏の祖)とともに、積極的に中国文化を採り入れた中大兄皇子(天智天皇)は、皇室の姓を鮮卑風の阿毎氏から中国風の「原氏」と改称させ、君主の号を大王から天皇に改称させたのである。このころの日本朝廷は、ほぼ遊牧民族国家から農耕民族国家として変遷を遂げ、文明国家となったのである。


脚注

↑ それによると、モンゴル系柔然普六茹部(楊氏)の隋の煬帝に謁見させるために、日本の実力者で摂政の蘇我馬子の命で、遣隋使・小野妹子を派遣させた時の大王は阿毎多利思北孤/阿毎多利思比孤(用明天皇(橘豊日皇子/池辺皇子/大兄皇子)、あるいは子の聖徳天皇(厩戸豊聡耳皇子)の説がある)という。
↑ 耽牟羅・屯羅・渉羅・純羅・度羅とも呼ばれた。
↑ 耽羅民族とも呼ばれる。
↑ 江上と同様に民族学者の岡正雄は、天孫降臨神話が朝鮮半島経由で日本列島に入ったこと、その担い手はアルタイ系の遊牧民文化的要素を強くもっており、おそらく皇室の先祖だった、と考えた。民族学者・東京大学名誉教授の大林太良も岡説に賛意を表するとともに、これが征服騎馬民族によってもたらされたかはっきり判明されていない(その一方で、「皇室の祖先は、アルタイ語族系の征服者であった」ともいう)、と述べている(『日本神話の起源』(大林太良/角川新書/1961年))。
↑ 現在の山西省長治市武郷県を拠点とした匈奴羌渠部に属する氏族。
↑ 鮮卑の原音はツングース語の祥瑞・吉兆を表わす語の「Sabi」であろうとの説があったが、近年はトルコ・モンゴル語の帯鉤をさす語の「Sarbe」とする説が有力である。中国の史書に記録されている若干の鮮卑語に対して、かつて一部の学者はこれをモンゴル系とツングース系の混種であろうと主張した。しかし、近年は鮮卑語には多少のモンゴル語的要素の混合は認められるも、本質的にはトルコ語であり、従って鮮卑はトルコ系であったとする学説が有力である(陳舜臣もこれを支持している)。
↑ 同時に内田吟風『北アジア史研究 鮮卑柔然突厥篇』(同朋舎出版、1975年刊行)の3〜4頁が引用するフランスのポール・ペリオは1925年秋にロシアのレニングラード(サンクトペテルブルク)における講演において、4〜5世紀に華北を支配した鮮卑拓跋部の語彙を基礎として、鮮卑はトルコ諸語に属する民族であったと発表したと、それを引用したドイツ系ロシア人のワシーリィ・ウラディミロヴィチ・バルトリド(ヴォルフガング・ヴィルヘルム・バルトルト)(Vasily Vladimirovich Bartold)は紹介した(Wolfgang.Wilhelm.Barthold:Der heutige Stand und die nächsten Aufgaben der geschichtlichen Erforschung der Türkvölker〔Zeitschrift der deutschen Morgenländischen Gesellschaft,Neue Folge Band 8 - Heft 2.S.124〕)。ついでに引き続き引用されたぺリオ自身は鮮卑語をモンゴル諸語とみる意味のことをToung-pao XX.S.328注3、XXVII.S.195.注1で発表した。ペリオを引用したバルトリドは鮮卑の言語はトルコ諸語であると論じ、鮮卑は疑いもなくトルコ諸族であったと結論を示し(Zwölf Vorlesungen über die Geschichte der Türken Mittelasiens〔Orta Asya Türk Tarikhi,Istanbul 1927.Die Welt des Islams Bd.XIV 1932.〕)。さらに、アメリカのP.ブッドバーグは鮮卑拓跋部をはじめとする諸族の語彙が実質的にトルコ諸語に属する民族である考証を示した(P.Boodberg,The Language of the Tó-pa Wei.Harvard Journal of Asiatic Studies I-2 1936)。
↑ 前秦の苻(蒲)氏と後秦の姚氏などの残党を含む。
↑ 慕容胎中・慕容品陀和・慕容大鞆和・慕容品太・慕容凡牟都和希とも呼ばれる。
↑ 慕容大雀・慕容大鷦鷯とも呼ばれる。
↑ 建内宿禰とも呼ばれる。
↑ チベットにあった遊牧民国家。
↑ 13.0 13.1 穢(獩)貊(濊狛)・沃沮はツングース系と骨子として、トルコ系と混血している民族とする説もある。
↑ この系統である北扶余(北夫余)からモンゴル系と化した豆莫婁(達末婁)が出た。
↑ その一方で、金平譲司『日本語の意外な歴史』では扶余はアルタイ化したウラル語族の南サモエード諸族の後裔で、鮮卑化したチベット系姜氐と混血して、日本人の祖となったと伝わる。
↑ 漢風の姓は釐姓。
↑ 禿髪若沼野毛二俣・禿髪稚渟毛二派とも呼ばれる。
↑ 禿髪意富々杼・禿髪意富々等・禿髪大々迹とも呼ばれる。
↑ 禿髪宇非・禿髪宇斐・禿髪弘斐とも呼ばれる。
↑ 禿髪琵彦主人・禿髪毘古主人
↑ 倭人とは別の民族で、根あるいは泥とも呼ばれるオホーツク諸族(古アジア諸族=旧シベリア諸族)に属する。
↑ これらの稲作民族は「江南系弥生人」と総称され、同時に「南漢民族」の祖でもあった。
↑ 縄文人とも呼ばれる。同じく日本の先住民族で、南方の琉球民族と北方のアイヌ(蝦夷)も含まれる。
↑ アイヌ(蝦夷)による大和民族の総称のこと。
↑ 今日の日本人は日本の国籍を持った人々を指し、民族と種族は問われない。
↑ 大和語とも呼ばれ、中国南部やベトナム北部などの江南系の弥生語および縄文語(琉球語とアイヌ語(蝦夷語)も含む)などの原日本語(古代日本語)などを吸収している。
↑ 阿毎袁本杼・阿毎雄大迹・阿毎乎富等・阿毎琵古太尊・阿毎毘古太尊とも呼ばれる。
↑ 慕容穴穂と呼ばれる。
↑ 慕容大泊瀬幼武・慕容大長谷若建とも呼ばれる。
↑ 慕容小泊瀬稚鷦鷯・慕容小長谷若雀とも呼ばれる。
↑ 阿毎広国押建金日とも呼ばれる。
↑ 阿毎建小広国押楯・阿毎武小広国押盾とも呼ばれる
↑ 阿毎志帰嶋・阿毎斯帰斯麻とも呼ばれる
↑ 物部麁鹿火とも呼ばれる。物部氏は鉄器製造技術を生業とする古代トルコ人の白狄鮮虞部に属する一酋長という。


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コメント
1. 中川隆[-12066] koaQ7Jey 2020年7月23日 14:45:11 : Wq5ELzbtHM : bnJDSTk1YTFNU0E=[5] 報告

原氏 (皇室) : 「げん - じ」「はる - し」


原氏
https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E5%8E%9F%E6%B0%8F

原氏(げんじ/はるし/はらし)とは、日本の氏族である。幾多かの系統があり、越後国にも異流の原氏などがある[1]。

原氏 (皇室) : この姓のみ「げん - じ」「はる - し」と呼ばれる。日本の皇室の姓である阿毎氏[2]が『大化の改新』以降に中国風に改姓したもので、現在の今上天皇(平成天皇)までいたる。この系統から皇別[3]として、橘氏・清原氏・高階氏[4]・在原氏・平氏・良岑氏(桓武源氏)・源氏などの庶家が出て、この系統は地方では貴種として尊ばれた。

原氏 (物部氏) : 物部氏一族の原国造を祖とする氏族[1]。

原氏 (漢氏) : 渡来系の阿智使主(阿智王/阿智吉師)[5]・都加使主(都加王/都加吉師)父子[6]を遠祖とする漢氏または倭漢氏(東漢氏/西漢氏)の系統である坂上氏の系統で原首(はらのおびと)を祖とする。摂津国嶋上郡原邑[7]を本拠地とした[1]。

原氏 (秦氏) : 古代トルコ系とされる渡来系の秦氏の系統で、秦原公(はたのはらのきみ)を祖とする氏族[1]。

原氏 (中臣氏) : 中臣氏の系統である荒木田氏の庶家。伊勢神宮の神官の氏族で、藤原氏とは同族である[1]。

原氏 (度会氏) : 古代に皇室に仕えた神官である度会氏(渡会氏)の系統である氏族[1]。

原氏 (藤原氏) : 藤原南家の工藤氏の系統。陸奥国を本拠地とした[1]。

原氏 (千葉氏) : 丹姓平氏良文流千葉氏(坂東八氏/房総平氏)の庶家。下総国香取郡千田郷原村[8]を本拠地とした。この系統は相模国の北条伊勢家こと相模北条氏(相模平氏)および、甲斐国守護の武田氏(常陸源氏/甲斐源氏)に仕えた原虎胤(まさたね、胤元)[9]・盛胤[10]父子などが出た。通字は「胤」[1]。

原氏 (源氏) : 武家源氏の系統。約3系統ほど存在する[1]。


脚注

↑ 1.0 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5 1.6 1.7 1.8 『姓氏』(著作:丹羽基二・監修:樋口清之/秋田書店/1970年)
↑ 『隋書』列伝第四十六東夷伝の高麗・百済・新羅・靺鞨・琉求(台湾のこと、琉球とは別)・倭国による。一説では、トルコ系鮮卑拓跋部の支族である禿髪部の禿髪阿毎(禿髪破羌=源賀の末子)の系統で、朝鮮南部の耽羅(済州島)にいた耽羅鮮卑こと州胡の中心部族だったという(『後漢書』列伝第八十五東夷伝)。
↑ 臣籍降下した皇族・宗室の氏族。
↑ 庶家に大高氏が出た。
↑ 阿知使主(阿知王/阿知吉師)とも呼ばれた。
↑ 漢氏は後漢の霊帝(劉宏)の末裔と自称(仮冒)した。
↑ 現在の大阪府高槻市原大字
↑ 現在の千葉県香取郡多古町原大字
↑ 友胤の子、甚内の兄。
↑ 別名は昌胤。横田綱松(横田高松の婿養子、尹松の父)の弟、重胤(貞胤)・直胤(胤貞)の兄、勝胤(昌吉)の父。

https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E5%8E%9F%E6%B0%8F

2. 2020年7月23日 17:53:35 : TIbrWzwsgw : bEM4QlBXVGM2RWM=[1] 報告

天皇家にはなぜ姓がないのか?2019年05月08日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/f239c0f30c5037a219085d5bb5efa582

 天皇家には姓がない。なぜだろうか・・・。
 この問いに対する答えは簡単明瞭である。古代の倭人には姓(苗字)がなかったからである。天皇は日本史の生きた化石なのである。姓を持たないということは、人類史上格別珍しいことではない。世界の諸民族はほとんど姓を持たなかった。唯一、中国を除いては・・。

 日本、朝鮮、満州、モンゴル、トルコ、などアルタイ系諸民族も無論、姓がなかった。あるのは個人を特定する名前(テムジンとかチムールなど)とその個人が所属する部族や氏族の名称だけである。(ちなみに、ジンギスカンはボロジキン氏族、チムールはバルラス氏族)。古代日本では、大伴、物部、額田、佐伯などがそれに当たる。佐伯部、額田部、久米部のように、氏族集団を「部」で表す。その属民は「部曲(かきべ)」という。後に、大伴氏とか蘇我氏のように氏族名が中国風の姓となってゆく。

(1)『宋書』倭国伝の記事

 五世紀の『宋書』倭国伝には「倭讃」とか「倭隋」など姓らしき名称が出ているが、これは中国の冊封体制下にあった当時の倭国の王が中国風に漢字二文字で表わしたにすぎない。「倭」はけっして日本の王姓ではない。この時代、東アジアの諸国は中国に朝貢するに当たって、中国風の姓を名乗る必要性があった。そのため、百済は自分たちの出自である「夫余族」の「余」を王姓として、六世紀の武寧王は「余隆」を名乗り(本名は「斯麻」)、他にも「余映」とか「余歴」「余固」などの名で中国の南朝に朝貢している。

 高句麗も王姓として「高」を用いているが、これら「倭」「余」「高」は民族として持っていた固有の「姓」ではなく、対外的に中国風の姓として使っていたにすぎない。

 新羅の王姓「金」も、新羅が後世の満州族の清朝「愛新覚羅」( 満州語 aisin 金 ) と同系の民族であったことを示唆している。新羅の場合は七〜八世紀にほぼ半島全土を統一した後、人名、地名などすべて中国風に改めたため、中国とそっくりになってしまった。朝鮮が小中華と呼ばれるゆえんである。

(2)『隋書』倭国伝の記事

 八世紀の『隋書』倭国伝には次のような記事がある。「倭王姓阿毎、字多利思比孤、號阿輩雞彌」(原文は「比」は「北」となっている)。これによると倭王の姓は「阿毎」(アメ)、字(あざな)は「多利思比孤」(タリシヒコ)、「阿輩雞彌」(オホキミ)と号すとある。この時、倭国は推古天皇の時代(600年)であったので、これは大和政権の王ではなく、九州にあった別の国の王のことだと主張する人まで現れた(古田武彦の九州王朝説)。
 

 はたしてそうであろうか。倭人には個人を特定する姓(苗字)はなかった。この姓「阿毎」も倭王固有の姓ではなく、中国の皇帝に朝貢したとき「倭王の姓は」と尋ねられて、倭王の信仰する天の思想から生まれた倭王の氏族名「アメ(天)」と便宜上答えたにすぎないと考えられる。おそらく、使者はそう答えるように倭王から指示されていたのであろう。

『古事記』高天原神話初代の神は「天御中主神」(アメノミナカヌシノカミ)であり、「天(アメ)」を冠した神々は数多い。これは北アジアの騎馬民族トルコやモンゴルにも共通した信仰であり、彼らが中国に行ったとき、王(可汗)の姓を聞かれて「テングリ(天)」と答えるようなものである。「アメ」も「テングリ」も王姓ではない。倭人も北方騎馬民族も「姓」はなかったのである。

 では「多利思比孤」(タリシヒコ)はどうか。推古天皇が男性名を名乗っている。古田氏の面目躍如というところであるが、漢和辞典で「字」の意味を見てみると、古代中国では「字」とは男子が二十歳になったとき本名のほかに決める通称名とある。普通、この通称名を使うとある。つまり、後世、日本で相手の本名を呼ぶことは失礼であり、「小松殿」(平重盛)とか「越中守様」(松平定信)などのように、その人の住む地名とか官職名で呼ぶ文化と共通している。(現代でも、上司の名前を呼ばず「課長」とか「部長」などと言う)
 
「タリシヒコ」は倭王の本名ではなく、その通称名であったと考えればスンナリ理解できる。古代の天皇で「タリシヒコ」の通称名を持つのは12代景行、13代成務、14代仲哀の各天皇であり、仲哀天皇の和名は「帯中日子天皇」(タラシナカツヒコ)。他に「タラシヒコ」という名称を持つ天皇は、ずっと下がって七世紀前半に在位したことの確実な34代舒明、35代皇極の両天皇であることから、景行、成務、仲哀は八世紀の史官の捏造だとの説を主張する人もいる。しかし、「タラシヒコ」を倭王の通称名と考えれば、初期大和政権(四、五世紀)にはすでにこの名称が存在していた証拠とも言える。(「タラシ」と「タリシ」の母音の違いは時代が変わればよく起きることである)。

 このように考えると、推古天皇の時代であったとしても、倭国の使者は日本の大王(天皇)の通称名を言ったにすぎず、歴代大王は当然、男であり、たまたま女であったことがむしろ例外であったのだから。後世の「ミカド(天皇の呼称)」のようなものである。
 

(3)氏姓制度と大王(天皇)家

 日本史の教科書にも出てくる「氏姓(うじかばね)制度」が古代王朝で確立する(六世紀頃)。氏(うじ)とは北アジア騎馬民族でいう部族、氏族に当たるものであり、久米、物部、大伴、佐伯などがそれであり、姓(かばね)とは「臣」「連」「真人」「宿禰」など、つまり位階である。後世の大納言とか、明治時代の爵位に相当する。なお、氏(うじ)はモンゴル語の ulus (ウルス・・部族、国)と比較されている。
 
 不思議なのは、古代氏姓制度が確立したとき、大王家も強力な氏族の一つであり、神話時代以来の「天(アメ)」氏族であるのに、それを国内的には名乗らなかった。中国・隋に使者を送ったときには姓は「阿毎(アメ)」と答えているのに。つまり、推古天皇は大王(天皇)家の氏族名の「あめ(天)」を姓として隋・皇帝に伝えたのである。

 貴族階級に限るとはいえ、大伴、蘇我、佐伯、久米などの氏族名が飛鳥時代には中国の姓と同じような機能を持っていた。だのに天皇家はなぜか「天(アメ)」を名乗らなかった。もしこのとき、「天(あめ)」を大王家の氏(うじ)として名乗っていたら、現代の天皇も、姓は「天(あめ)」名は「裕仁(ひろひと)」のようになっていたであろう。歴史は偶然が左右する。事実はそうはならなかった。
 
 私はその理由を次のように考えている。大王家の氏族名は本来「天(あめ)」であった。しかし、中国の文献から「天皇」の称号を選んだとき、その中にすでに「天」の文字が入っている。つまり、「天皇」そのものが「天氏(あめうじ)」であり、姓そのものであるとの考えから、特に姓を決める必要性がなかったからであろう。案外、理由は単純なところにあるのではないか。また、大伴家持(おおとものやかもち)と「の」を入れて読むのは、大伴氏族に属する「家持」の意味であり、古代の氏族制度の名残りである。

 なお、日本が姓(苗字)の数で世界一を誇るようになって行くのは、平安時代の荘園制の発達と武士の登場に由来している。

 <追記>
 アラブ系の民族(イスラム教徒)も同じく姓を持たない。あるのは個人名と部族や氏族の名称だけである。これでは個人の識別が困難なので、自分の父親の名前を便宜上、姓として使っている。中国のトルコ系のウイグル人も同様である。例えば、名前は「メフルグル」で父親の名前が「アブリズ」なら、「メフルグル・アブリズ」と名乗る。がしかし、これでは代替わりごとに姓が変わるので不便である。おそらく中央政府は中国人のように固定した姓を持たせたい思っているだろうが、いまだそうなっていない。ウイグル人は頑迷に民族固有の文化を守っている。

 北隣りのモンゴル共和国では、ごく最近、固定した姓を全国民が持つように決め、各自がそれぞれ好きな言葉を選んで登録していることを新聞記事で読んだ。それによると、やはり、地名とか山や川の名前などが多いとのことだった。やはり、国が近代化すれば行政上やむを得ないのであろう。中国のウイグル人も早晩そうなるであろう。なお、ウイグルと同じトルコ系のウズベキスタンではソ連時代に「姓」を名乗るようになったが、ロシア人とは違い、日本人と同じく「姓・名」の順である。やはりアルタイ系の言語を話す民族のゆえんである。なぜか親近感を覚える。 
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/f239c0f30c5037a219085d5bb5efa582

3. 2020年7月23日 18:04:36 : TIbrWzwsgw : bEM4QlBXVGM2RWM=[2] 報告

天皇家にはなぜ姓がないのか?  − 続編 − 2019年12月31日 |
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/50ca658d4ebc1abad056d3be484b2299

 この問いに対する答えはすでに書いた。ところが、日本史の大学教授の名字に関する著書に「姓を与えることは天皇の権限であり、姓を名乗ることは天皇支配を受け入れることを意味する」とあった。これは常識の噓(俗説)である。たしかに、『日本書紀』に天智天皇が中臣鎌足に「藤原」姓を与えたとあり、これが根拠とされているようだが、この記事から分かることは、天智天皇の時代には倭国の氏族名が中国風の「姓」と同じ機能を有していたことを示しているだけであり、姓を与えることが天皇の権限であるなど、どこにも書かれていない。これは後世の「源氏」「平氏」「豊臣」などの姓を朝廷(天皇)が下賜した例との混同である。

 なぜ、このような誤解が生まれたのか。それは古代日本で六世紀頃成立した「氏姓(うじかばね)制度」による。この漢字「姓」は中国の人名の姓(漢の皇帝の姓は「劉」、唐は「李」)とは違う意味で使っていたからである。日本では「姓」は地位・身分を表わした。蘇我大臣蝦夷とか大伴宿祢家持のように、この場合「大臣(おほおみ)」「宿祢(すくね)」が「姓」である。勿論、これら「姓(かばね)」を与える権限は天皇にある。『日本書紀』に出て来る天武天皇が684年に新たに制定した「八色の姓(やぐさかばね)」の制が有名である。「真人(まひと)、朝臣(あそみ)などのように貴族を八種の階層に分けた。しかし、古代日本では氏族への帰属意識が強かった。この点では日本は北方騎馬民族のトルコやモンゴルに近い。朝鮮半島では氏族意識がそれほど強くなかったようで、統一新羅(八世紀)が中国風の「姓」を受け入れた。日本でも奈良時代あたりから位階の「姓」制度がうすれ、氏族名が中国風の「姓」となっていった。今、ネット投稿などに天皇賜姓説が定説のように流布しているが、これは人名の「姓」のことである。つまり、天皇は臣下に姓を与えられるが、天皇に姓を与える上位の人はいないとの・・。とんでもない誤解である。今一度、私見を述べたい。

 ー東夷、南蛮、西戎、北狄 には個人の姓はなかったー

 古代の東アジアで姓を持っていたのは中国だけである。その周辺の諸民族は中華文明の影響を受けて、姓を名乗るようになった。至極、単純なことである。ただ、国家・民族によって、姓を持つ中国文化を受け入れた時代は様々である。まず、朝鮮半島では五世紀頃、王族が高(高句麗)、金(新羅)、余(百済)、列島では倭(日本)などを名乗り始めた。三世紀の倭の女王・卑弥呼や台与には姓らしきものは出てこない。半島では統一新羅(八世紀)が人名、地名などすべてを中国風に改めた。倭国では遣隋使(七世紀)が倭王の姓を「阿毎(あめ)」(大王家の氏族名)と答えており、この頃、倭国でも氏族名を中国風の姓として使い始めたようである。

 − ラストエンペラー ・ 溥儀には姓がなかった ー

 清朝最後の皇帝、愛新覚羅・溥儀の「愛新覚羅」とは「アイシン部族」の意味であり(満州語 aisin ・・金)、20世紀まで姓を持たなかったのである。勿論、「愛新覚羅」を姓として使ってはいたが、現在、中国に住む元清朝皇帝一族の人は皆「金」姓を名乗っている。北狄のモンゴル共和国ではなんと21世紀になって全国民が姓を持つようになったが、中国・新疆のウイグル人はいまだ固定した姓はない。南蛮のベトナムでも中華文明の影響は大きく、有名な建国の父、ホー ・ チミン も漢字名の「胡 志明」からきている。また、楊貴妃でよく知られている唐の玄宗皇帝のとき(八世紀中葉)、西域で反乱を起こした安禄山は、実はイラン系のソグド人であり、本来、姓を持たない西戎であるが、中国風の「安」を姓として名乗っている。「禄山」が名前で、ペルシャ語の「 Roshan ( ロウシャン )・・光、輝き 」の意味であることが分かっている。

 −天武天皇は「大海人皇子(おおあまのみこ)」−

「あめ」と「あま」は容易に交替するので同じものである。「天皇」の称号を使い始めたのは天武天皇からと言われている(それまでは「王」)。天武の和名は天渟中原瀛真人天皇(あめのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)であり、この「天」を「あめの」又は、「あまの」と読み、通説では美称とされているが、私の考えでは「大伴家持(おおとものやかもち)」や「蘇我入鹿(そがのいるか)」同様、「天氏族に属する誰それ・・」の意味であり、大海人皇子は通称名であったと考えられる。つまり、「大天(おおあま)皇子」。なぜ漢字「海人」を使ったのかは諸説あり定かでない。また、天武天皇の皇后、持統天皇の和風諡号(死後のおくり名)は大倭根子天之廣野日女尊(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)であり、やはり「天氏族の姫」の意味を持っている。

 大海人皇子は中国の皇帝を意識して、「天皇」の称号を用い、「 天(あめ)氏族・・大王家 」が倭国の全氏族の上に立つ権威を確立しようとしたのではないのか。以前の蘇我氏による崇峻天皇暗殺事件や山背大兄皇子弑逆事件など、二度と起こさせないとの強い決意があったと思われる。(この二つの事件から言えることは、倭国の王権が天氏から蘇我氏に移る可能性もあったということでもある)。この時、現代にまで続く天皇制が確立した。

 また、天武天皇の兄、天智天皇の和名は天命開別尊(あめのみことひらかすわけのみこと)。つまり、「天氏族の・・」の意味を持つ。その前の欽明天皇の和名は「天国排開広庭天皇」であり、やはり、天国(あまくに)もしくは、(あめのくに)を冠している。どうも欽明天皇あたりから半島の高句麗、百済、新羅が軍事的に強くなってきており、倭国も大王家(天氏族)を中心に強国化を図る必要性を感じていたようである。(欽明天皇23年・・562年、任那日本府滅亡)

 <追記>

 私はかねがね不思議に思っていたが、「天皇」の読みは「てんのう」である。漢字「皇」は日本では「こう」としか読めない。(例、皇帝、皇太子、上皇など) このことに関して明確な回答を聞いたことがない。私は次のように考えている。天武天皇以前、倭の大王は自身の氏族名「天(あめ)」と「王(おほきみ)」から、倭人語で「あめのおほきみ」(天氏族の王)と呼ばれ、漢字音で通称「天王(てんのう)」と称していた。漢字「天王」は仏教の「四天王」と偶然一致しており、欽明天皇あたりから仏教に帰依していた倭国王にとっては最適な称号だったと思われる。天武天皇が中国皇帝に対抗して「天皇」の文字を用いるようになったが、読みはこれまでどおり「てんのう」と変えなかった。これならスンナリ理解できる。すでにこの説を唱えた人はいるかもしれないが・・。

 最後に今一度、言っておくが、天皇家にはなぜ姓が無いのかを考える以前に、日本人はどうして姓を持つようになったのか、という疑問を持つのが先決である。日本人の「姓」の起源は、倭国の氏族名が中華文明の影響を受けて中国風の「姓」となって行ったものである。決して、天皇が賜姓したものではない 。全国どこにでもいる「久米さん」の御先祖は神武東征のとき、近衛隊長「大久米命」として古事記に出てくる。神武天皇が賜姓したのだろうか ・・。今でも、奈良県明日香にはその氏寺、久米寺も現存している。その後、飛鳥時代あたりから、国の発展に伴い、多くの新氏族(姓)が生まれた。天皇に姓が無いのではなく、天皇家はなぜかその氏族名「天(あめ)」を「姓」として名乗らなかった。ただ、それだけのことである。(令和元年 大晦日)

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/50ca658d4ebc1abad056d3be484b2299

4. 中川隆[-12051] koaQ7Jey 2020年7月25日 12:16:10 : YLHKqgJkDo : bGdCZGx0emtUSkE=[8] 報告
稲荷山鉄剣銘文の読み ー通説に疑問ー
2009年10月14日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/c/e0618254158cd3dea2df42b778133892


 ー稲荷山鉄剣銘文ー
(表) 
 辛亥年七月中記 乎獲居臣 上祖名意富比曙 其児多加利足尼 其児名弖已加利獲居 其児名多加披次獲居 其児名多沙鬼獲居 其児名半弖比

(裏)
 其児名加差披余 其児名乎獲居臣 世々為杖刀人首 奉事来至今 獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時 吾左治天下 令作此百練利刀 記吾奉事根原也

 上記銘文で問題となるのは「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」である。通説では「ワカタケル大王の寺が斯鬼宮に在る時」と読まれている。ここで「寺」であるが、「漢和辞典」によると「寺」は役所の意味があるので、この「寺」はそういう意味で使われたと言うのが定説となっている。はたしてそうであろうか。これは漢文としても不自然である。
 第一、漢語「寺」に役所の意味があるとしても、「記紀」「風土記」「万葉集」などに「寺」を役所の意味で使っている例があるのだろうか。あれば教えて欲しい・・・
 
 この「寺」こそ、倭王が対外的に漢字一文字で表してきたそれではないのか。五世紀、倭の五王は「讃」とか「興」とか「武」のように中国の王朝に朝貢したことが「宋書倭国伝」に記されている。この「寺」もそれであり、「獲加多支鹵大王寺」は「宋書倭国伝」風に書けば「倭王寺」となる。では「倭王寺」とは誰のことであろうか。

「辛亥年」は471年、雄略天皇(ワカタケル)の時代とされている。しかしこれは単なる推定に過ぎない。還暦60年後の531年もその候補となる。この時代の天皇はだれか。それはまさしく「寺」にもっとも相応しい人、欽明天皇となる。
日本史教科書にもあるように、欽明天皇13年百済の聖明王が金銅仏と経典を倭国に送ったことが『日本書紀』に書かれている(仏教公伝・・538年)。この記事は百済の王が倭国王に公式に仏像などを献じたことを記録しただけで、仏教自体はそれ以前に多くの倭人が政治・軍事などの用件で半島に渡っており、また同様に古代朝鮮三国からも多くの人が来朝しており、すでに倭国にもたらされていたであろう。仏教に帰依した欽明天皇は、自身の漢字一字表記を「寺」にしたことが十分考えられるからである。
 
 また、『古事記』には「坐師木嶋大宮治天下」とあり、欽明天皇の宮殿は「師木嶋大宮(しきしまのおおみや)」、つまり銘文の「斯鬼宮(しきのみや)」と一致する。
 このことは、私がすでに論証した「隅田八幡神社の人物画像鏡の読み」とも関連してくる。 それには、「癸未年八月日十大王年」とあり、「日」は特定できないが、八月のある日、つまり「八月中」と同じ意味であり、後世の「寛政三年八月 吉日」の原形ではないのか、との私の説。漢字一文字で表した「十大王」を「宋書倭国伝」風に表記すれば「倭王十」となる。
 稲荷山鉄剣銘文は「ワカタケル大王、寺が斯鬼の宮に在る時」と読むべきであろう。

 <追記>
「獲加多支鹵大王」雄略説の根拠はこれが「ワカタケル」と読め、雄略天皇の和名(大長谷若建命)に一致することから来ている。しかし、雄略天皇は『古事記』によると「長谷朝倉宮」に居たとあり、ここが大和・磯城(しき)郡にあることから、「斯鬼宮」でよいとする。まさに牽強付会のご都合主義である。
 そもそも、「記紀」の記事というものは、実際の歴史の半分も書かれていないであろう。私は津田左右吉流に「記紀」は8世紀の朝廷の史官の創作とは思っていない。やはり、歴史の核となる事実があり、それが文字記録のない時代、神話化されたり、物語風に潤色され語り継がれてきたものだと思っている。(安本美典氏も常にこの点を主張している)。
 
 今、この小論を読まれている諸兄に聞きたい。現在の天皇の本名を知っていますか。まして、明治天皇や大正天皇の場合はどうですか。だれも即答出来ないでしょう。しかし、大量の記録文化を持つ現代では調べればすぐ判ることです。ちなみに明治天皇は「睦仁」(むつひと)。
 
 日本で文字文化が始まった時代とされている推古天皇(6〜7世紀初頭)でさえ和名は「豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)」とのみ記され、なにか食物の神様みたいな名前である。とても本名とは思えない。その父親の欽明天皇でも「天国排開広庭天皇」と記され、この中で「広庭(ひろにわ)」が本名のようでもあるが、なんとも言えない。史料的に実在が確実な中大兄皇子(天智天皇)でさえ、本名は分からない。「大兄」とは長兄、年長者の意味の尊称であり、つまり、通称のみである。天智天皇の和風諡号は「天命開別尊」であり、「開別」(ひらきわけ)が名前とは思えない。百済の武寧王の名前が「斯麻(シマ)」であったことが墓誌から証明されているが、これは奇跡的なことである。
 
 文字記録されなかった時代は、我々が明治天皇とか大正天皇のように通称で記憶しているように、様々な要素が組み合わされて生まれた通称名が記憶・伝承されてきたと見るべきであろう。「ワカタケル」は「若き勇者」、「ヤマトタケル」は「大和の勇者」、仁徳天皇の「オホサザキ」は「大きな鳥」(現在、堺市の仁徳陵の横に大鳥神社があるのは象徴的)。欽明天皇が当時、通称、ワカタケル大王と呼ばれ、漢字一字で「寺」と自称していたことは十分あり得ることである。ちなみに、ほぼ同時代の百済・武寧王は「余隆」を名乗って中国に朝貢している。「余」は百済の王姓なので「隆」を漢字名としていたのである。ほかにも、「余映」「余固」などの名で中国・南朝に朝貢している。

 ー新証拠の発見ー
 NHK教育テレビ「日本と朝鮮の2000年」という番組で、10月25日の「倭寇」のとき、李氏朝鮮王が対馬の海賊の棟梁・早田(そうだ)氏に、倭寇を懐柔する目的で送った「告身」(朝鮮王朝官位任命書)には「弘治六年三月 日」とある。日付の数字は入っておらず、一文字空けてある。つまり、朝鮮王の命令はこの「告身」を三月中に早田氏に渡すようにとのことであり、その日までは特定できないので空けてあるのであろう。(実際は「弘治」は3年まで、西暦1561年に当たる)

 この「告身」と千年の時間差はあるが、百済武寧王が送った隅田八幡宮の鏡「日十大王」もやはり、「八月 日 十大王」と読むのが正しいであろう。この鏡が「男弟王」(後の継体天皇)に渡る正確な日は武寧王にも分からないが、八月中には渡すようにと命じたことだけは言える。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/c/e0618254158cd3dea2df42b778133892

5. 2020年7月25日 20:00:58 : e2YOtRWEoL : Nzh2WE5uMEFlWWc=[10] 報告

新発見の鉄剣銘文と稲荷山鉄剣銘文
2012年01月08日

 昨年(2011年)9月、元岡古墳(福岡市西区)で出土した鉄剣銘文の読みについて福岡市教育委員会から発表があった。それによると、暦年代が特定できる日本唯一の鉄剣銘文であるとのことであった。その年代は西暦570年、銘文は 「大歳庚寅正月六日庚寅日時作刀凡十二果■」(■は「練」の可能性) の19文字。「庚寅の年の正月6日に、この刀を作った。12回練り鍛えた」と読めるとのこと。

 中国の古代暦によると、干支で年代と日付を表す方法があり、それにより、570年が明確になったとのことであった。問題はこの570年である。まさに、欽明天皇の時代である。
 

 ー稲荷山鉄剣銘文との関係ー
 すでに「稲荷山鉄剣銘文の読み」で述べたように、銘文 「辛亥年七月中記」 の 「辛亥」 を西暦471年の雄略天皇の時代に当てはめるのが学会の定説のようであるが、それでは、「獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時」 が十分説明できない。私の説、「寺」を欽明天皇の中国風の漢字一字表記と考えれば全体がスンナリ読める。つまり、「ワカタケル大王 寺が斯鬼(しき)の宮に在る時」となる。「獲加多支鹵(ワカタケル)」とは欽明天皇の本名ではなく、「若き勇者」との通称名にすぎない。「記紀」によれば、古代には「タラシヒコ」の名(通称名)を持つ天皇が何人かいるのがその証拠である。もともと、「記紀」には歴代天皇の本名など、まったくと言っていいほど書かれていない。中大兄皇子(天智天皇)や聖徳太子の長男、山背大兄皇子も、「中」「山背」は地名、「大兄」は長兄、もしくは年長者に対する尊称の意味にすぎない。つまり、通称である。江戸時代に、阿波守(阿波蜂須賀家)とか土佐守(土佐山内家)と呼ぶようなものである。

『日本書紀』によると、欽明天皇14年(553年)倭国は百済に暦博士の派遣を求めており、翌年来朝している。つまり、欽明天皇の時代、百済から仏教と共に、中国暦も伝来したと考えるのがもっとも自然である。従って、稲荷山鉄剣銘文の製作年代は還暦60年後の531年説がますます有力になったのではないかと思う。なにも欽明天皇14年(553年)にこだわらなくても、6世紀頃から、倭国と百済との交流は非常に頻繁になっているので、中国暦はこのころ日本に流入したと考えればよい。
 
 なお、百済は倭国より一歩先んじて、中国南朝「宋」(445〜509)の元嘉暦を使用していたらしい。この元岡古墳の鉄剣銘文は元嘉暦による国内最古の事例であると研究者の談話が新聞に出ていた。(日本経済新聞 2011・10・29)

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/cc65b17724442aa30ea0da7f0b2e279d

6. 中川隆[-12018] koaQ7Jey 2020年7月27日 11:17:52 : 9Btaodt8Dk : T0RsdG9YTmVXbUk=[4] 報告
隅田八幡神社の人物画像鏡の読み(前編)
2007年06月18日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/736e0f54f69043f3486446f5416d5b8f

 和歌山県橋本市にある隅田八幡神社の鏡の銘文の読み方については、これまで多くの説が出されている。福山敏夫説が一番有力で日本史教科書にも出ている。しかし、冒頭の「癸未年八月日十大王年」の解釈は「日十 (ひと) 大王」と読むことですべての説が一致している。果たしてそうであろうか ?

 ー人名を「日十」で表記するのは不自然ー
 
 古代の人名で「ひと」の名を持つ人は数多い(彦人皇子、古人皇子、山部赤人など)。「ひと大王」では誰のことか分からない。また、万葉仮名では「人」は「比登」とか「比等」と表記され(例、藤原不比等)、「人」を「日十」と表記した例はない。(「彦」を「日子」、「姫」を「日女」との表記は「記紀」にある)。
 これは八月と日を分けて読むべきではないか。つまり「癸未年八月(ある)日」と、これは後代に「寛政八年三月 吉日」のように、よく神社の鳥居などに刻まれている用法の原形ではないのか。では「十大王」とは誰なのか。これはこの時代(5世紀頃)中国の南朝の宋に朝貢していた倭の五王にそのヒントがある。倭の五王はすべて「讃」とか「興」とか「武」のように漢字一文字で自身を表わしている。同時代の百済・武寧王は中国の南朝に「余隆」という名で朝貢している。(「余」は百済の王姓なので、「隆」一文字で自身を表している。他にも、「余映」とか「余固」などの例もある)。
 
 この「十大王」も「十」でもって自身を表していたのではないか。その人はだれか。倭の五王も『日本書紀』に表記された和名と一致するのは雄略天皇ただ一人である。(和名「大泊瀬幼武」・・倭王武 )。このことから「十」が誰かは特定できないが、雄略のあとの武烈天皇が最有力であると思われる。なぜなら、この銘文にはある特定できる人物名が出ている。それは「斯麻(シマ)」である。その人物こそ百済の武寧王である。

「書紀」武烈紀は「斯麻」、雄略紀は「嶋」と出ている。朝鮮の『三国史記』百済本紀は「斯摩」、そしてなによりも40年ほど前、朝鮮半島で未盗掘の状態で発見された唯一の古代の王墳である百済・武寧王陵、その墓誌銘には「斯麻」とあり人々を驚かせた。(武寧王、462年〜523年) 従って、「十大王」も百済武寧王時代に重なる人物であることは間違いないと言える。『宋書』倭国伝ふうに書けば「倭王十」となる。
 
 現在、韓国・公州市の国立博物館で武寧王陵の出土物は常設展示されているので、一度、行って見学されることをお勧めする。圧巻は日本自生の高野槇で作られた巨大な木棺である。これからも武寧王と倭国との親密な関係がうかがえる。

 <追記>
 歴史雑誌「歴史と旅」(昭和59年5月号)の特集記事で、京都大学の岸俊男教授が「稲荷山古墳の鉄剣」と題して小論を寄せているが、その中で、古代の中国や朝鮮の金石文を何例か出している。それによると、中国で出土した鉄刀のなかに「元嘉三年五月丙午日 造此口官刀・・・」(後漢元嘉3年・・153年)との例が紹介されている。漢代中国では日付を干支で表していた。これを受けて『日本書紀』でも同じ用法を使っている。(下記の史料1.2参照)。

 つまり、隅田八幡宮の鏡の銘文「癸未年八月日十大王年」の場合、日本や百済では元号が無かったので、文頭に干支(癸未)を入れることにより年号を表わし、不特定の意味で「日」のみを刻印したと見るのが一番妥当な考え方ではないだろうか。
 また、日本での発見例として東大寺山古墳出土の鉄刀銘文「中平口年五月丙午 造作大刀・・・」(後漢中平年間・・184-190年)の例も紹介している。やはり、この銘文は「八月(ある)日 十大王年」と読むべきであろう。

 史料1.建始ニ年十月乙卯朔丙子(建始ニ年十月二十二日)・・・西域出土の漢代木簡 (籾山 明著『漢帝国と辺境社会』)

 史料2.十二年春三月丙辰朔甲子(十二年春三月九日)・・・『日本書紀』継体紀
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/736e0f54f69043f3486446f5416d5b8f


隅田八幡神社の人物画像鏡の読み(後編)
2007年06月25日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/702d5c8cdc4236cfc7dca246fd6159e0

 前編で鏡の銘文「日十大王」を「日」と「十大王」に分けて読むべきだとの説を発表したが、今回は全銘文の読みを考察する。(便宜上、分けて書く)
 

 「癸未年八月日 十大王年 男弟王 在意柴沙加宮時 斯麻 念長寿 遣開中費直
  穢人今州利二人等 取白上同二百旱 作此鏡」
 
(読み) 癸未年(503年)八月(ある)日、十大王年(武烈天皇の時代)、男弟王(ヲオト王、後の継体天皇)が意柴沙加宮に在る時、(百済王)斯麻は長寿を念じて開中費直(河内直)と穢人の今州利(クムスリ)二人を遣わして白上銅二百旱でこの鏡を作らせた。
 
 
 今州利は「州利」が名前で「今」は新羅の王姓「金」に同じで、朝鮮半島東北部から満州にかけて居住していた穢人(後の女真・満州人)の王族・貴人の姓(本来は氏族名) aisin (金、ゴールド)と同起源と考えられる。現代朝鮮語では姓の「金」は kim (キム) で、日本語の「きん」同様、唐の長安音であるが、ゴールドの「金」は kum (クム) と読み、日本語同様呉音系を使っている、(例、金銅・・こんどう)。「金(ゴールド)」と「今」の朝鮮漢字音は同じ kum (クム) である。おそらく、百済の王姓「余」に配慮して、より権威のある「金」をあえて使わず、同音の「今」を姓にしていたのであろう。

 百済と日本はこの時代(5世紀ごろ)中国南朝(呉音系)に朝貢していた。百済武寧王は501年即位したが、当時、北の高句麗、東の新羅の圧迫を受け、国の存立は危うかった時代でもある。倭国は百済を支援するため何度も半島に兵を送っている。このことは『日本書紀』の「雄略紀」や「継体紀」に詳しく書かれている。その感謝の意と百済王位(倭王は武烈)に就いたことを記念してこの鏡を作らせたのではないか。「書紀」継体紀に百済の将軍、州利即爾 (スリソニ)が出ているが、「即爾」は尊称と考えられるので、鏡の銘文の人物と同一と思われる。現代朝鮮語でも nim (ニム) は尊称としてある。 百済武寧王「斯麻」の願いの甲斐なく、百済の首都熊津(クマナリ、今の公州)は538年に陥落し、南の扶余に遷都したが、最終的に663年、日本の救援もむなしく滅亡した。(白村江の戦い)

『日本書紀』武烈紀と百済武寧王の墓誌が「斯麻」で一致しているのは当然と言えば当然であったのである。「書紀」は武烈天皇を悪逆非道な王として描いているが、これは王位を簒奪した継体天皇側の粉飾であろう。実体は不明である。

 <追記>
 NHK教育テレビ「日本と朝鮮の2000年」という番組で、10月25日の「倭寇」のとき、李氏朝鮮王が対馬の海賊の棟梁、早田(そうだ)氏に、倭寇を懐柔する目的で送った「告身」(朝鮮王朝官位任命書)には「弘治六年三月 日」とある、日付の数字は入っていない。つまり、朝鮮王の命令はこの「告身」を三月中に早田氏に渡すようにとのことであり、その日までは特定できないので空けてあるのである。(実際、「弘治」は3年まで、西暦1561年に当たる。朝鮮側に正確な情報が伝わっていなかったようである)

 この「告身」と千年の時間差はあるが、百済武寧王が送った隅田八幡宮の鏡「日十大王」もやはり、「日 十大王」と読むのが正しいであろう。この鏡が「男弟王」(後の継体天皇)に渡る正確な日は武寧王にも分からないのであるから。がしかし、八月中には渡すようにと命じたことだけは言える。
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/702d5c8cdc4236cfc7dca246fd6159e0

7. 2020年7月29日 14:20:58 : t3EWg6GvGE : dUlkYS82WGlCcm8=[20] 報告

江田船山古墳の築造年代  −通説に疑問ー
2020年07月27日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/55e32ced87bbbfd14047c832caa69356


 江田船山古墳は熊本県玉名郡和水町(旧菊水町)に所在する前方後円墳である。築造年代は五世紀末から六世紀初頭とされているが疑問が残る。それはこの古墳と同じ型式を持つ福岡県八女市にある岩戸山古墳と石人山古墳の存在である。これら古墳の周りには短甲を着けた武人の石人と石馬が置かれている。このような古墳の周りに石人、石馬を配置するという独特の型式はこの地域特有のもので、その後、日本では見られない。この岩戸山古墳が527〜8年に大和政権(継体朝)に反抗して敗北した筑紫の君・磐井(いわい)の墓であるとされているからである。「記紀」の年代表記にはかなり違いがあるが、六世紀初頭であることは確実であろう。この三つの石人古墳はワンセットで考えるべきである。つまり、江田船山古墳も六世紀初頭から中期とすべきであろう。

 ー 出土した鉄刀名文の読み ー

 「 治天下獲□□□鹵大王世奉事典曹人名无利弖八月中・・・」 を当初は、多遅比瑞歯大王(たじひみずは大王)と読み、反正天皇に比定されてきたが、近年、埼玉稲荷山古墳から出土した鉄剣銘文に、「獲加多支鹵大王」という文字が発見されたことから、この銘文は「ワカタケル大王」と読み、雄略天皇に間違いないとの結論に至った。しかし、ここで大きな疑問が生じる。雄略天皇は五世紀末の人である。この三つの石人古墳のうち、岩戸山古墳は確実に筑紫の君・磐井の墓である。磐井は、527年(継体21年)に半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和政権軍を新羅側に立って阻止したため、翌528年(継体22年)11月、征討将軍物部麁鹿火によって鎮圧された。なぜ、磐井が反乱を起こしたのかは不明な点が多いが、軍隊の動員はいつの時代も人々には重い負担であるので、その不満が原因であったのかも知れない。 それはともかく、岩戸山古墳は528年以降の古墳であり、他の二つもこの時代前後の古墳であろう。そうすると、雄略天皇の時代とは半世紀も後世のものとなる。

 ー稲荷山鉄剣銘文の読みー

 すでにブログで書いたように、稲荷山鉄剣銘文の「ワカタケル」は雄略天皇のあとの欽明天皇であるとの私の主張が生きてくる。「辛亥年七月中記 乎獲居臣 上祖名意富比曙 其児多加利足尼・・・ 」 この「辛亥年七月」を雄略天皇の471年ではなく、還暦60年後の531年とすればまさに磐井の反乱の直後となり、この時代、九州にのみ存在する石人・石馬を古墳の周りに置く型式は六世紀中期頃に流行した古墳であるとのことになり、時代もピッタリ合う。また、江田船山古墳の出土物には新羅の王墳からの出土物と一致するものもある(朝鮮半島ではほとんどの王墳が盗掘にあっており、現存している遺物は数少ないのが実情ではあるが・・)。がしかし、この船山古墳は画文体神獣鏡などの多くの鏡が副葬されており、やはり倭人の伝統的文化を継承している。

 それと、稲荷山鉄剣銘文の中に、「乎獲居臣(オワケノオミ)」と「多加利足尼(タカリスクネ)」とあり、この「臣(オミ)」と「足尼(スクネ)」は六世紀頃(欽明天皇時代か)に制定された「氏姓(うじかばね)制度」の位階であり、これが有るということは、この鉄剣銘文がやはり六世紀以降に作られた事実を証明していると思う。

 <追記>

 古代史学者は「ワカタケル」=雄略天皇(大長谷若建命)との思い込みが強すぎるのではないか。「ワカタケル」とは「若き勇者」の意味であり、モンゴル語では「バートル」と言う。ジンギスカンの孫で、ヨーロッパ遠征でポーランド騎士団を粉砕した有名な「抜都(バトゥ)」は、その名「バートル(勇者)」の漢字表記である。モンゴルの歴史にはよく登場する名前でもある。20世紀にもモンゴル人民共和国の創始者、革命家の スフ・バートルという人もいた。「ワカタケル」をなにも雄略天皇に限定する必要はない。何よりも「古事記」「日本書紀」には天皇や皇族の本名などほとんど書かれていないのであるから・・・。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/55e32ced87bbbfd14047c832caa69356

8. 2023年8月15日 08:29:51 : OiVNFlivfc : ZUtJbWhmNlkybEU=[2] 報告
大神神社の初代神主のオオタタネコのミコト が記したとされる『ホツマツタヱ』
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14139992

古事記(原文・現代語訳・口語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/514.html

日本書紀(原文・現代語訳・口語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/513.html

先代旧事本紀 (現代語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/515.html

古語拾遺(現代語訳)
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/516.html

9. 中川隆[-11448] koaQ7Jey 2024年2月29日 06:04:20 : AYqTKuqWCs : YWRlaXJtdXJ1QUE=[2] 報告
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ゲノム解析からわかってきた日本人のルーツ〜神武東遷・邪馬台国・空白の四世紀
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2024/02/15
https://www.youtube.com/watch?v=iSlBLpHywTk

古墳時代に日本に大量の渡来人がやってきた〜! DNAのゲノム解析からわかってきた 日本人のルーツ。古墳時代、渡来人が大量に日本にやってきた!縄文・弥生・古墳時代の歴史をどう読み解けばよいのか?皆さんにわかりやすくお話しします。また、銅鏡からわかることも併せて。久しぶりの古代史シリーズです^^
葛木御歳神社

邪馬台国の謎
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/09/11
https://www.youtube.com/watch?v=O_3AGnmJJbs&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=4

葛木御歳神社の宮司が、邪馬台国の謎について語ります。まずは魏志倭人伝の記述がちょっと変!
ヤマトでも九州でもないような不思議な記述について。
邪馬台国は「女王国」と呼ばれます。古代日本には多くの「女王国」が存在していた!?
最新の茶臼山古墳を始め、遺跡からわかること等々・・・ぜひご覧ください。
葛木御歳神社公式HP https://www.mitoshijinja.jp/


葛城・鴨氏、八咫烏と神武天皇の物語
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/07/11
https://www.youtube.com/watch?v=bs5VlcUddhM&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=1

葛木御歳神社宮司が地元葛城・鴨氏ゆかりの神話の物語を解説いたします。
鴨氏のルーツは?
八咫烏は何者?金鵄が飛んできて何故ナガスネヒコ軍は総崩れになったのか?神武天皇は御所市の柏原で政務を執った(本居宣長談)など。


古代の出雲と葛城と九州の関係〜二つの天孫降臨と出雲国譲り神々のその後〜
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/08/19
https://www.youtube.com/watch?v=PJtQK6_3zUU&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=2

葛木御歳神社宮司が地元葛城からさらに広げ、葛城・鴨氏と出雲の関係、葛城・鴨氏と九州の関係を紐解きます。
前編では、「二つの天孫降臨」として、天孫族がヤマトで一つになるお話を中心に、地元に残る長髄彦のその後や、富雄丸山古墳にも触れますね。後編では、「出雲国譲り神々のその後」として、大国主が国譲りをした後、大国主の御子神たちが出雲からヤマトに移り住んだ経緯や痕跡などを出雲大社の客座五神や荒神谷遺跡などから考察します。


出雲の国譲り神々のその後〜大国主神の御子神はヤマト葛城、鴨氏の神として復活した!
葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel
2023/08/25
https://www.youtube.com/watch?v=XaXF-4jJYqc&list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z&index=3

後編では「出雲国譲り神々のその後〜大国主神の御子神はヤマト葛城、鴨氏の神として復活した!」として、大国主が国譲りをした後、大国主の御子神たちが出雲からヤマトに移り住んだ経緯や痕跡などを出雲大社の客座五神や荒神谷遺跡などから考察します。
葛城、鴨氏はやはり、出雲の流れを引いていた!江戸時代まで出雲大社には葛城の鴨三社に祭られている大国主神の御子神が勢ぞろいで祭られていた!
8/19にアップした前編では、「二つの天孫降臨」として、天孫族がヤマトで一つになるお話を中心に、地元に残る長髄彦のその後や、富雄丸山古墳にも触れています。ぜひ前編もご覧ください。


葛木御歳神社HPには、オンライン、アーカイブ講座の動画もご案内しています。ぜひご覧くださいね^^

葛木御歳神社 -MitoshiJinja- 公式Channel - YouTube
https://www.youtube.com/@mitoshijinja/playlists
https://www.youtube.com/@mitoshijinja/videos


神社講座 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWBpI_iRu3GEZul02S3SNKUz

祝詞 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWBUriHXbpCFyYCWOI4sh3U4

全国の神社紹介 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWALFxUi_pxlfzu4bejPcZaJ

葛木御歳神社祭事 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWBhj6lRhN4dHFAqslExyIrO

古代史・神話解説 - YouTube
https://www.youtube.com/playlist?list=PLPwPAN3kQkWAhNti4MfDScHrEQXeKIr1Z

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