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天皇の姓は阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)
阿毎氏
https://japan.fandom.com/ja/wiki/%E9%98%BF%E6%AF%8E%E6%B0%8F
阿毎氏(あまし/あめし/あまうじ/あめうじ)は、古代の日本の皇室の姓である。その由来は『隋書』列伝第四十六東夷伝[1]にある。継体天皇(オホド/オオド/ヲホド)を祖として、『大化の改新』以降の天智天皇(中大兄皇子)の代に中国風の原氏(はる - し)と改姓して、今日の今上天皇(令和天皇)の代までにいたっている。
『魏書』第三十烏丸鮮卑東夷伝・『後漢書』列伝第八十五東夷伝によると、朝鮮半島南部の耽羅[2](済州島)で遊牧生活をしていた州胡こと耽羅鮮卑[3]と呼ばれる部族が存在したことが判明されている。
東京大学の教授であった江上波夫は持論の『騎馬民族征服王朝説』で、以下のことを述べている[4]。
三国時代以降の東晋の時代に北方からトルコ系匈奴・羯[5]・鮮卑[6][7]やチベット系の羌氐[8]などの遊牧民族が南下して中国北部を征服した五胡十六国時代に変遷した影響を受けいた応神天皇(慕容讃)[9]・仁徳天皇(慕容珍)[10]父子が耽羅(済州島)におり、鮮卑化したチベット系の羌氐の酋長である武内宿禰[11]の補佐を得ていた。
この父子はトルコ系遊牧民族で前燕・後燕・西燕・南燕・吐谷渾[12]などを建国した鮮卑慕容部の一支族の酋長として、同じトルコ系東胡の末裔で、ツングース系の穢(獩)貊(濊狛)[13]・沃沮[13]などとの混合民族である半農半牧の扶余[14][15](夫余)と鮮卑化したチベット系の羌氐と古代トルコ人であり現在の中国河北省北部に中山国を建国した白狄鮮虞部[16]の末裔などを吸収して、北魏(代魏)・東魏・西魏などを建国した同じ鮮卑拓跋部と同族で、南涼を建国した鮮卑禿髪部の酋長である烈祖武王の禿髪烏孤の甥で、景王の禿髪傉檀の子である禿髪破羌(源賀)の末子である禿髪阿毎を阿毎氏族の祖となった。阿毎が逝去すると、子の禿髪稚渟毛二岐[17]が後を継いだ。稚渟毛二岐が亡くなると、弟の禿髪意富々杼[18]が後を継いだ。意富々杼が亡くなると、弟の禿髪乎非[19]が後を継いだ。乎非が亡くなると、弟の禿髪汙斯[20]が後を継いだ。汙斯は亡父の諱を採って、禿髪氏から阿毎氏に改姓したという。
汙斯は応神・仁徳天皇父子らと連合して、朝鮮半島南部に移動しながら、耽羅(済州島)を拠点として、多くの部族を統率をしていた。やがて彼らは耽羅(済州島)付近にいた海洋民族である韓人あるいは汙人[21]を奴隷として舟を築造させて、日本列島に渡ったという。
日本列島にやって来た州胡(耽羅鮮卑)の盟主である応神・仁徳天皇父子は、中国南部・ベトナム北部からやって来た越人・呉人・荊楚人[22]が米作りを営む農耕民族であることで、これも奴隷として今までの肉を主食の風習を米食に変更したのである。さらに日本の先住民族である海洋民族の倭人[23](委人)をも奴隷として、河内国で河内王朝が成立され古墳時代に突入した。同時に朝廷の主要民族である鮮卑・扶余・白狄・羌氐などは越南人・呉人・荊楚人・倭人などと混血を繰り返して、これが大陸系の大和民族(和人[24])の成立の過程になった[25]。さらにアルタイ語族を骨子とする日本語[26]といった言語が同時に成立された。
阿毎汙斯は応神・仁徳天皇父子により、出雲国から若狭国までの日本海に面する広大な領地を与えられた。阿毎汙斯が亡くなると、阿毎男大迹(継体天皇)[27]が後を継いだ。その間に阿毎氏族は徐々に勢力を蓄えており、河内王朝にとっても脅威的な存在となっていた。
同時に、河内王朝の動向は、仁徳天皇の孫である大王(おおきみ)の安康天皇[28]は年代が近い叔父の大草香皇子(大日下王・波多毘能王)を誅殺して、その妻である異母妹の草香幡梭姫を奪うも、従弟である大草香皇子の子の眉輪王に暗殺された。安康天皇の同母弟・雄略天皇[29]が後を継いで、眉輪王も含む皇位継承権がある多くの親族を皆殺しして、河内王朝は衰退を極まった。雄略天皇の従孫である武烈天皇[30]は、応神・仁徳天皇父子の6世の孫・玄孫であり、稀代なる暴君であった。このころの朝廷はやや遊牧民族国家から農耕民族国家に変遷していたが、それでも部族間に争いは凄まじいものがあった。
扶余の一酋長でもあった大連の大伴金村は朝廷で権威を振るった挙句に、反乱を起こした平群真鳥・鮪(しび)父子を討ち取る功績を残した。だが、武烈天皇の暴虐ぶり聞いてこれを諌めるも、それを聴きいれなかった武烈天皇は佞臣とともに奴隷の殺戮を繰り返していた。この行為は殷(商)の紂王(帝辛/季受)に等しいものがあり、武烈天皇は諌める臣下を処刑したり、妊婦の腹を引き裂いたり、ある女性たちに数頭の馬と交尾させるなどなど、無限の暴政をおこなっていた。
これを見かねた大伴金村は武烈天皇の姉妹の婿である阿毎男大迹と密談して、武烈天皇を討伐するように計画を立てた。しかし、阿毎男大迹は武烈天皇の姉妹の婿のみではなく、その子の阿毎勾大兄[31](安閑天皇)と阿毎檜隈高田[32](宣化天皇)と阿毎天国排開広庭[33](欽明天皇)兄弟は武烈天皇の娘を娶っていた。
阿毎男大迹は悩んだ挙句に、出雲国から若狭国から軍勢を率いて、南下して大伴金村と呼応して河内国に攻め込んだ。阿毎男大迹と大伴金村の謀反を知った武烈天皇は激怒して、迎え撃ったが離反する臣下が続々と出たため、大敗して宮殿の奥に逃げ込んで火を放ち、自決を遂げた。武烈天皇8年12月8日のことであった。こうして鮮卑慕容部出身である応神・仁徳天皇父子を祖とする河内王朝はついに滅亡した。
阿毎男大迹は大伴金村をはじめ、物部麤鹿火[34]・巨勢男人らに迎えられて、大和国で即位した。これが継体天皇であり、大和王朝の始まりであった。ここで大和時代に突入したのである。それでも、部族間の争いは相変わらず凄まじかった。
歳月は流れて645年の『大化の改新』以降に、腹心の中臣鎌足(藤原氏の祖)とともに、積極的に中国文化を採り入れた中大兄皇子(天智天皇)は、皇室の姓を鮮卑風の阿毎氏から中国風の「原氏」と改称させ、君主の号を大王から天皇に改称させたのである。このころの日本朝廷は、ほぼ遊牧民族国家から農耕民族国家として変遷を遂げ、文明国家となったのである。
脚注
↑ それによると、モンゴル系柔然普六茹部(楊氏)の隋の煬帝に謁見させるために、日本の実力者で摂政の蘇我馬子の命で、遣隋使・小野妹子を派遣させた時の大王は阿毎多利思北孤/阿毎多利思比孤(用明天皇(橘豊日皇子/池辺皇子/大兄皇子)、あるいは子の聖徳天皇(厩戸豊聡耳皇子)の説がある)という。
↑ 耽牟羅・屯羅・渉羅・純羅・度羅とも呼ばれた。
↑ 耽羅民族とも呼ばれる。
↑ 江上と同様に民族学者の岡正雄は、天孫降臨神話が朝鮮半島経由で日本列島に入ったこと、その担い手はアルタイ系の遊牧民文化的要素を強くもっており、おそらく皇室の先祖だった、と考えた。民族学者・東京大学名誉教授の大林太良も岡説に賛意を表するとともに、これが征服騎馬民族によってもたらされたかはっきり判明されていない(その一方で、「皇室の祖先は、アルタイ語族系の征服者であった」ともいう)、と述べている(『日本神話の起源』(大林太良/角川新書/1961年))。
↑ 現在の山西省長治市武郷県を拠点とした匈奴羌渠部に属する氏族。
↑ 鮮卑の原音はツングース語の祥瑞・吉兆を表わす語の「Sabi」であろうとの説があったが、近年はトルコ・モンゴル語の帯鉤をさす語の「Sarbe」とする説が有力である。中国の史書に記録されている若干の鮮卑語に対して、かつて一部の学者はこれをモンゴル系とツングース系の混種であろうと主張した。しかし、近年は鮮卑語には多少のモンゴル語的要素の混合は認められるも、本質的にはトルコ語であり、従って鮮卑はトルコ系であったとする学説が有力である(陳舜臣もこれを支持している)。
↑ 同時に内田吟風『北アジア史研究 鮮卑柔然突厥篇』(同朋舎出版、1975年刊行)の3〜4頁が引用するフランスのポール・ペリオは1925年秋にロシアのレニングラード(サンクトペテルブルク)における講演において、4〜5世紀に華北を支配した鮮卑拓跋部の語彙を基礎として、鮮卑はトルコ諸語に属する民族であったと発表したと、それを引用したドイツ系ロシア人のワシーリィ・ウラディミロヴィチ・バルトリド(ヴォルフガング・ヴィルヘルム・バルトルト)(Vasily Vladimirovich Bartold)は紹介した(Wolfgang.Wilhelm.Barthold:Der heutige Stand und die nächsten Aufgaben der geschichtlichen Erforschung der Türkvölker〔Zeitschrift der deutschen Morgenländischen Gesellschaft,Neue Folge Band 8 - Heft 2.S.124〕)。ついでに引き続き引用されたぺリオ自身は鮮卑語をモンゴル諸語とみる意味のことをToung-pao XX.S.328注3、XXVII.S.195.注1で発表した。ペリオを引用したバルトリドは鮮卑の言語はトルコ諸語であると論じ、鮮卑は疑いもなくトルコ諸族であったと結論を示し(Zwölf Vorlesungen über die Geschichte der Türken Mittelasiens〔Orta Asya Türk Tarikhi,Istanbul 1927.Die Welt des Islams Bd.XIV 1932.〕)。さらに、アメリカのP.ブッドバーグは鮮卑拓跋部をはじめとする諸族の語彙が実質的にトルコ諸語に属する民族である考証を示した(P.Boodberg,The Language of the Tó-pa Wei.Harvard Journal of Asiatic Studies I-2 1936)。
↑ 前秦の苻(蒲)氏と後秦の姚氏などの残党を含む。
↑ 慕容胎中・慕容品陀和・慕容大鞆和・慕容品太・慕容凡牟都和希とも呼ばれる。
↑ 慕容大雀・慕容大鷦鷯とも呼ばれる。
↑ 建内宿禰とも呼ばれる。
↑ チベットにあった遊牧民国家。
↑ 13.0 13.1 穢(獩)貊(濊狛)・沃沮はツングース系と骨子として、トルコ系と混血している民族とする説もある。
↑ この系統である北扶余(北夫余)からモンゴル系と化した豆莫婁(達末婁)が出た。
↑ その一方で、金平譲司『日本語の意外な歴史』では扶余はアルタイ化したウラル語族の南サモエード諸族の後裔で、鮮卑化したチベット系姜氐と混血して、日本人の祖となったと伝わる。
↑ 漢風の姓は釐姓。
↑ 禿髪若沼野毛二俣・禿髪稚渟毛二派とも呼ばれる。
↑ 禿髪意富々杼・禿髪意富々等・禿髪大々迹とも呼ばれる。
↑ 禿髪宇非・禿髪宇斐・禿髪弘斐とも呼ばれる。
↑ 禿髪琵彦主人・禿髪毘古主人
↑ 倭人とは別の民族で、根あるいは泥とも呼ばれるオホーツク諸族(古アジア諸族=旧シベリア諸族)に属する。
↑ これらの稲作民族は「江南系弥生人」と総称され、同時に「南漢民族」の祖でもあった。
↑ 縄文人とも呼ばれる。同じく日本の先住民族で、南方の琉球民族と北方のアイヌ(蝦夷)も含まれる。
↑ アイヌ(蝦夷)による大和民族の総称のこと。
↑ 今日の日本人は日本の国籍を持った人々を指し、民族と種族は問われない。
↑ 大和語とも呼ばれ、中国南部やベトナム北部などの江南系の弥生語および縄文語(琉球語とアイヌ語(蝦夷語)も含む)などの原日本語(古代日本語)などを吸収している。
↑ 阿毎袁本杼・阿毎雄大迹・阿毎乎富等・阿毎琵古太尊・阿毎毘古太尊とも呼ばれる。
↑ 慕容穴穂と呼ばれる。
↑ 慕容大泊瀬幼武・慕容大長谷若建とも呼ばれる。
↑ 慕容小泊瀬稚鷦鷯・慕容小長谷若雀とも呼ばれる。
↑ 阿毎広国押建金日とも呼ばれる。
↑ 阿毎建小広国押楯・阿毎武小広国押盾とも呼ばれる
↑ 阿毎志帰嶋・阿毎斯帰斯麻とも呼ばれる
↑ 物部麁鹿火とも呼ばれる。物部氏は鉄器製造技術を生業とする古代トルコ人の白狄鮮虞部に属する一酋長という。
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