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ドイツ人の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/288.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 9 月 01 日 15:14:48: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

(回答先: ヨーロッパ人の起源 投稿者 中川隆 日時 2020 年 8 月 25 日 16:02:53)

ドイツ人の起源

雑記帳 2019年10月15日
ドイツ南部の青銅器時代の社会構造(追記有)
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_29.html


 ドイツ南部の青銅器時代の社会構造に関する研究(Mittnik et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。『サイエンス』のサイトには解説記事が掲載されています。日本語の解説記事もあります。古代DNA研究により、ヨーロッパ中央部における先史時代の遺伝的変化が明らかにされてきました(関連記事)。しかし、その社会構造に関しては、未解明の点が多く残されています。考古学では、前期青銅器時代には、豪勢な墓が確立していったことから、階層的な社会的構造が進展した、と考えられています。同位体分析では、広範な地域にわたる長期の族外結婚ネットワークの存在が示唆されています。

 本論文は、後期新石器時代から中期青銅器時代までの、小さな農場が密集するドイツ南部のレヒ川渓谷における、高解像度の遺伝的・考古学的・同位体データを提示します。本論文は、これらレヒ川渓谷の後期新石器時代〜中期青銅器時代遺跡群の104人のゲノム規模データを生成し、約120万ヶ所の一塩基多型データでその遺伝的系統と親族家系を推定されました。この時期のレヒ川渓谷の文化的区分は、紀元前2750〜紀元前2460年頃の縄目文土器文化(Corded Ware culture、CWC)、紀元前2480〜紀元前2150年頃の鐘状ビーカー文化(Bell Beaker Culture、BBC)、紀元前2150〜紀元前1700/1500年頃の前期青銅器時代、紀元前1700〜紀元前1300年頃の中期青銅器時代(MBA)となります。後期新石器時代〜中期青銅器時代レヒ川渓谷集団(以下、レヒ川渓谷集団)の遺伝的データは、993人の古代人および1129人の現代人と比較されました。また、レヒ川渓谷の後期新石器時代〜中期青銅器時代の139人のストロンチウムおよび酸素同位体データが得られ、生涯の移動履歴が推定されました。

 レヒ川流域集団は遺伝的にはヨーロッパ集団の範囲内に収まり、ポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)の青銅器時代牧畜民と中期新石器時代および銅器時代ヨーロッパ人の間に位置します。レヒ川流域集団の古代系統は、青銅器時代以降の多くのヨーロッパ集団と同様に、ヨーロッパ西部狩猟採集民系統とアナトリア農耕民系統とポントス-カスピ海草原の牧畜民であるヤムナヤ(Yamnaya)系統の混合として表されます。レヒ川流域集団では、BBCから中期青銅器時代にかけて次第にアナトリア農耕民系統の割合が増加しており、新石器時代以来のヨーロッパの在来集団と、後期新石器時代以降となるポントス-カスピ海草原からの外来集団(ヤムナヤ系集団)との混合の進展を示します。

 CWC 集団ではX染色体と比較して常染色体でヤムナヤ系統の割合が顕著に高いことから、ヤムナヤ系の割合の高い集団と在来集団との当初の混合は、前者の男性と在来集団の女性に偏っていた、と示唆されます。これは、後期新石器時代〜青銅器時代にかけてのヨーロッパにおけるヤムナヤ系集団の拡大では男性が主体だった、とする以前の見解と一致します(関連記事)。しかし、後のレヒ川流域集団ではこうした性的偏りは観察されていません。レヒ川流域集団男性のY染色体ハプログループ(YHg)は、ほとんどが紀元前三千年紀のヨーロッパ中央部および西部で高頻度のR1b1a1b1a1a2で、ヤムナヤ系統を有するCWC 集団の拡散に由来すると推測されます。このCWC 集団がヨーロッパ中央部に拡散してきて定着し、ヤムナヤ系統の割合の低い在来集団との混合が次第に進展していった、と考えられます。

 ストロンチウムと酸素の同位体比は、男性と未成年よりも女性において外来者が多かたことを明らかにします。これは、男性が出生地に居住し続けたか、出生地に埋葬されるという父方居住制を示唆します。すでに以前の研究では、後期新石器時代〜前期青銅器時代のレヒ川渓谷において父方居住の配偶形態と、知識の伝達における女性の役割が指摘されており(関連記事)、本論文は以前の研究を改めて確認し、さらに詳しく解明しています。ただ、成人男性のうち3人は例外的で、思春期に出生地を離れ、成人になると帰郷した、と推測されます。外来の女性は、思春期もしくはその後にレヒ川流域に到来した、と推測されます。

 レヒ川渓谷集団の血縁関係も推定され、2世代が3家系、4世代が1家系、5世代が2家系です。10組の親子関係のうち、母親と子供の組み合わせは6組で、子供は全員男性でした。また、10組の親子関係のうち、9人の子供は成人でした。これは、息子ではなく娘が出生地を離れた、と示唆しており、同位体比から推測される父系的な族外婚と一致します。ミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づくと、レヒ川渓谷集団では母系が継続しなかったのに対して、父系は4〜5世代続いたと推定されます。さらに、YHgで支配的なR1b系統に分類されない男性は、同じ墓地に近親の被葬者がいないことも明らかになりました。

 副葬品では、男性における短剣や斧や鏃といった武器と、女性における銅製頭飾・太い青銅製足輪・装飾された銅製ピンなどといった精巧な装飾品は、おそらく社会的地位と関連しており、豊かな副葬品はその家系の富と地位を示す、と考古学では指摘されています。前期青銅器時代のレヒ川渓谷集団の墓地では、複数世代にわたる家系で男女双方ともに副葬品の顕著な蓄積が見られます。これを男女に分けて分析すると、この相関は男性で顕著です。武器は、親族のいない男性の墓地よりも、親族のいる男性の墓地で顕著に多く残っています。WEHR遺跡では、16人のうち母親と息子2人の計3人のみに副葬品が備えられており、富と地位が両親から子供へと継承されていたことを示唆します。成人間近の個体でも副葬品が充実しており、社会的地位は、自らの活動により獲得していくというよりもむしろ、出自により継承されることを示唆します。中核的家族は通常、隣接して埋葬されており、社会的つながりが強調されています。POST遺跡では、副葬品の高い地位は墳墓の建設と木製の柱により強調されます。これは、中核的家族への所属と精巧な形式の埋葬とのつながりを示唆します。

 各データを総合すると、埋葬者は、血縁関係があり副葬品の豊富な個体群と、それとは異なる2集団が識別されました。この2集団の構成員は、中核的家族とともに各農場で居住していた、と推測されています。その一方は外来の女性で、プレアルプス低地を越えてレヒ川流域に到来した個体もいます。これらの女性は血縁関係があり副葬品の豊富な個体群と血縁関係にはありませんが、そのほとんどで副葬品が豊富でした。もう一方は、他の個体群と血縁関係がなく、副葬品も乏しい個体群です。血縁関係のある副葬品の豊富な集団、血縁関係のない副葬品の豊富な集団、血縁関係のない副葬品の乏しい集団という3集団の間では、古代系統の顕著な違いは見られませんでした。豊かな副葬品と血縁関係を考慮すると、異なる地位および血縁関係の人々はおそらく同じ農場に居住し、複雑で社会的に階層化された組織だっただろう、と本論文は推測しています。復元された家系図と改善された個人の直接的推定年代を考慮すると、POSTの墓地では、家系全体の年代は233〜169年になる、と本論文は推測しています。

 古代の家族構造と社会的不平等の調査は、古代の人類集団の社会的組織の理解に重要となります。これまで、前期青銅器時代における社会的地位の違いは、多数の小作農と少数の傑出した支配層として推測されてきました。この支配層は、裕福な農民もしくは広大な地域あるいは集団を社会的・経済的に支配した王および王族と考えられてきました。本論文は、前期青銅器時代における社会的不平等の異なる形態を示します。それは、富と地位を子孫に継承するより高い地位の核となる血縁関係にある構成員と、血縁関係になく裕福で地位の高い外来女性と、地元出身で地位の低い個体群から構成される複雑な家族構造です。本論文は、こうした社会構造が700年以上という長期にわたって安定的に継続した、と推測しています。

 副葬品の比較に基づくと、高い地位の外来女性の何人かは、レヒ川渓谷から少なくとも350km東方となる現在のドイツ東部やチェコ共和国に存在した、ウーニェチツェ(Únětice)文化集団から到来しました。ドイツ南部のほとんどの前期青銅器時代の証拠はレヒ川渓谷遺跡群とたいへん類似しており、レヒ川渓谷のような社会的構造はずっと広範な地域に存在した、と本論文は推測しています。さらに本論文は、前期青銅器時代レヒ川渓谷集団の社会構造は、血縁関係にある人々と奴隷から構成される、古典期ギリシアやローマの家族制度と類似しているように見える、と指摘します。ただ、使用人的なそうした社会構造は、古典期よりもずっと前に存在していたのではないか、というわけです。本論文は、学際的な方法で先史時代の社会構造を明らかにしています。伝統的な個別の方法では解明の難しい先史時代の社会構造も、学際的な方法ではかなりの程度分かるようになる可能性を提示したという意味で、本論文は注目されますし、こうした方法が広く用いられ、研究が大きく進展するだろう、と期待されます。

 本論文は、前期青銅器時代のドイツ南部において、すでに社会的地位と富が出自に基づいて継承されており、階層化社会が確立していた、と示します。社会的地位の高い家系の女性は、外部の集団に送り出されて地位の高い家系の男性と結婚し、地位の低い人々は配偶機会に恵まれないか、そもそも墓地に埋葬されることが少なかった、と考えられます。また本論文は、前期青銅器時代のドイツ南部の社会が父系的だったことも示しています。社会的地位の上下で古代系統の割合が大きく変わらないことと、地位の低い男性のYHgが支配層のR1b系統とは異なっていることから、ヤムナヤ系統の割合の高い外来集団、おそらくはCWC集団が男性主体で征服者としてドイツ南部に拡散してきて、その男系子孫が高い社会的地位を確立して継承していった一方で、在来の男系子孫は社会低層に追いやられ、配偶機会も少なくなっていった、と推測されます。

 こうした父系的社会は世界各地で珍しくありませんが、現生類人猿が現代人の一部を除いてすべて非母系社会を形成することから、人類は元々母系社会で、「社会的発展」により父系社会に移行した、という説明は根本的に間違っている、と私は考えています(関連記事)。この問題についてはまだ勉強不足なので明快には述べられないのですが、類人猿はずっと非母系社会を形成しており、ヒト・チンパンジー・ゴリラの最終共通祖先の時点で時として父系的な構造の社会へと移行し、チンパンジー系統では明確な父系社会へと移行し、ヒト系統では、父系に傾いた非母系社会から、双系的な社会を形成していったのではないか、と考えています。そうした中で、母系に特化した社会も形成されたのであり、母系社会は人類史においてかなり新しく出現したのではないか、というのが現時点での私の見解です。


参考文献:
Mittnik A. et al.(2019):Kinship-based social inequality in Bronze Age Europe. Science, 366, 6466, 731–734.
https://doi.org/10.1126/science.aax6219


追記(2019年10月17日)
 ナショナルジオグラフィックでも報道されました。

https://sicambre.at.webry.info/201910/article_29.html  

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コメント
1. 中川隆[-11559] koaQ7Jey 2020年9月01日 15:15:40 : WyT5nCL4pQ : YzlncmJkNllTTWc=[28] 報告
雑記帳 2020年06月01日
フランスとドイツの中石器時代と新石器時代の人類のゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202006/article_1.html
 フランスとドイツの中石器時代と新石器時代の人類のゲノムデータに関する研究(Rivollat et al., 2020)が公表されました。採集から農耕への変化となる新石器時代への移行は、人類史における最重要事象の一つです。ユーラシア西部では、新石器時代の生活様式は、紀元前七千年紀から続く、レヴァント北部からのアナトリア半島経由の可能性が高い西方への拡大として示されてきました。二つの主要な考古学的によく定義された流れに沿って、農耕は拡大しました。一方はドナウ川沿いでのヨーロッパ中央部への拡大で、もう一方は地中海沿岸でのイベリア半島への拡大です。

 最近の大規模なゲノム研究では、農耕拡大は人々の拡散を通じての拡大によるものだったと示されますが、地域単位での研究では、拡散してきた農耕民と在来の狩猟採集民との間の混合が複雑で地域的だった、と示唆されます。大陸経路はヨーロッパ南東部から中央部で比較的よく考古学的記録が見つかっており、とくに新石器時代線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)において、ひじょうに限定的な最初の生物学的相互作用を伴う急速な拡大が示されています。その後、千年紀以上にわたって、拡散してきた農耕民は在来の狩猟採集民と共存し、文化的交換を続けた証拠があります。ヨーロッパ南東部における新石器時代の拡大は地中海沿岸経路と関連しており、拡散してきた農耕民の最初の定住後の、少なくとも千年紀の狩猟採集民との増加する混合パターンが、イベリア半島で観察されます(関連記事)。これらの研究から浮かび上がってくる全体像は、ヨーロッパ全地域において、最初の拡散してきた農耕民と在来の狩猟採集民との間の混合はほとんどなく、新石器時代が進むにつれて狩猟採集民系統が増加していった、というものです。新石器時代でも後期段階で検出された狩猟採集民要素は、カルパチア盆地とイベリア半島に地域的起源がある、と示されてきました。

 考古学的観点から、後期狩猟採集民と早期農耕民との間の相互作用のさまざまな様式を定義して示すことは容易ではなく、明確で正確な時空間的枠組みを生成するには、高解像度データと正確な分析手法が必要です。大陸経路に沿って、中石器時代集団と新石器時代集団との接触の証拠が西方に向かって増加します。全体として、最後の狩猟採集民の石器群は技術的および様式的に、初期農耕民の石器群にむしろ類似しています。狩猟採集民との接触兆候は、中石器時代後期の石刃と台形石器の範囲における、地域的伝統を有するほぼ細石器タイプです。移住農耕民と狩猟採集民の間の接触の考古学的兆候は、ドイツ南西部において、ヘッセン州の最初のLBK遺跡群だけからではなく、ファイインゲン(Vaihingen)からも報告されてきました。フランス北西部のラオゲット(La Hoguette)やドイツ西部のリンブルク(Limburg)の土器のような農耕民および狩猟採集民と土器を有する集団の間の共存は、LBK集落内で記録されています。集落内での共存の証拠はもはや観察できませんが、特定の狩猟採集民装飾品がヨーロッパ西部中央の埋葬地で観察されてきており、中期新石器時代を通じてこれらの異なる集団の共存伝統が継続したことを示唆します。

 地中海西部経路では、主な不確実性は、イタリアにおけるインプレッサ・カルディウム複合(Impresso-Cardial complex、略してICC)の拡散の起源です。後期の狩猟採集民集落はイタリア半島北東部に集中していますが、最初期の農耕民は南部に出現し、地理的にはほとんど重なりません。対照的に、最後の狩猟採集民と最初の農耕民の間の不連続性は、フランス南部ではもっと顕著です。これは、最後の狩猟採集民の石刃と台形石器のインダストリーと、最初の農耕民の道具一式の顕著な様式の違いに基づいています。これらの不一致は、文化的・人口的変化を合理的に主張します。しかし、フランス南部もしくはイベリア半島における中石器時代から新石器時代への遷移を提供する層序系列はわずかで、ほとんどの場合、明確な層序の間隙が記録されており、推定される地域的相互作用と一致させるのは困難です。新石器時代系列における連続的な石器群、もしくは稀な石器時代の再発は、地中海沿岸の最初の農耕民の植民後、少なくとも3世紀にわたってアルプス南部のみで見られます。

 ヨーロッパ北西部では、新石器時代の生活様式の到来はもっと複雑です。考古学的研究では、中石器時代から新石器時代への相互作用と交換の様相はひじょうに違いがあり、地域的な多様性が見られます。紀元前5850年以降となるICC開拓者集団によるフランス南東部の植民と、紀元前5300年頃までとなるフランス北東部の最初期農耕民集団による植民との間には、もっと顕著な年代的間隙さえあります。大西洋沿岸へと至るヨーロッパ西部の新石器時代農耕民集団拡大の二つの主要な流れの経路と、在来の中石器時代社会との相互作用の程度は両方、次の世紀の地域全体の物質文化で見られる多様性のモザイク状パターンを生み出しました。このパターンは文化水準でよく説明されてきましたが、とくに現在のフランスでは、現在まで利用可能なゲノムデータはありません。パリ盆地の農耕民のミトコンドリアDNA(mtDNA)研究は、狩猟採集民に特徴的なmtDNAハプログループ(mtHg)、とくにU5の割合が、ヨーロッパ中央部および南部よりも高いことを強調し、さまざまな過程の作用を示唆します。

 本論文の目的は、現在のフランスおよびドイツを主要な対象として、新石器時代最初期段階の人類集団間の文化的および生物学的相互作用の複雑さと変異性を解明することです。本論文の対象研究地域は、ヨーロッパ中央部(ドナウ川経路)の初期農耕共同体と、フランス南部(地中海沿岸経路)の初期農耕共同体との収束、および在来の後期狩猟採集民とのさまざまな形の相互作用を包含するのに適しています。


●主成分分析

 本論文は、現在のフランスとドイツの12遺跡で発見された101人のゲノム規模データを新たに報告します。年代は紀元前7000〜紀元前3000年頃で、中期石器時代が3人、新石器時代が98人です。約120万ヶ所の一塩基多型データ(平均網羅率0.6倍)と、mtDNAデータ(平均網羅率249倍)が得られました。一親等の関係は下流分析では除外されています。これらの新たなデータが、既知の古代人(629人)および現代人(2583人)と比較されました。また、古代人30個体の新たな放射性炭素年代測定結果も得られました。

 中期石器時代個体で新たに報告された、ドイツのバート・デュレンベルク(Bad Dürrenberg)の1個体(BDB001)とボッテンドルフ(Bottendorf)の2個体(BOT004およびBOT005)は、主成分分析ではヨーロッパ西部狩猟採集民(WHG)の範囲内に収まります。後期新石器時代となる漏斗状ビーカー文化(Trichterbecherkultu、Funnel Beaker Culture、略してTRB)関連のエルベハーフェル(Elb-Havel)のタンガーミュンデ(Tangermünde)遺跡の1個体(TGM009)は、WHGと新石器時代農耕民の間の中間に位置します。新たに配列された新石器時代個体群は、既知の地域的な2亜集団とクラスタ化します。一方は、ヨーロッパ中央部および南東部の新石器時代個体群で、もう一方は、PC1軸でわずかにWHGに寄っているヨーロッパ西部(イベリア半島とフランスとブリテン諸島)の新石器時代個体群です。4集団を対象としたf統計(単一の多型を対象に、複数集団で検証する解析手法)では、これらの観察はヨーロッパの狩猟採集民との類似性のさまざまな程度に由来する、と確認されます。ドイツのシュトゥットガルト・ミュールハウゼン(Stuttgart-Mühlhausen、略してSMH)とシュヴェツィンゲン(Schwetzingen、略してSCH)とハルバールシュタットHalberstadt(Schwetzingen、略してSCH)の前期新石器時代個体群(既知の44人と新たな42人)はLBKと関連し、ヨーロッパ中央部の早期農耕民集団の均一な遺伝的集団を形成します。

 フランスの新石器時代集団は、ヨーロッパ西部新石器時代個体群とクラスタ化しますが、ICCとなるフランス南部のペンディモン(Pendimoun、略してPEN)遺跡とレスブレギエーレス(Les Bréguières、略してLBR)遺跡の個体群は、さらにWHGへと寄っています。これは、他のあらゆる早期新石器時代個体群よりも高い狩猟採集民構成と、同時代のイベリア半島の西部早期農耕民集団と比較しての、混合の異なる歴史を示唆しています。PENおよびLBRの両遺跡については、狩猟採集民系統が少ないAと多いBという亜集団に区分されます。フランス南部の新石器時代個体群は、ヨーロッパ南東部および中央部農耕民の亜集団の範囲内に収まるアドリア海地域のICC関連個体群とは集団化しません。ヨーロッパ中央部および西部の両集団は依然として紀元前五千年紀と紀元前四千年紀に存在しており、ライン川沿いの地理的境界が示唆されます。フランス北部の中期新石器時代では、ギュルジー(Gurgy、略してGRG)遺跡とプリッセ・ラ・シャリエール(Prissé-la-Charrière、略してPRI)遺跡とフルーリー・シュル・オルヌ(Fleury-sur-Orne、略してFLR)遺跡の個体群が均質なように見える一方で、オベルネ(Obernai、略してOBN)遺跡の個体群は3集団を形成します。第1は同時代のヨーロッパ西部個体群と近く(OBN A)、第2はより強い狩猟採集民構成を有し(OBN B)、第3はヨーロッパ中央部農耕民と近くなっていますが(OBN C)、これら3集団は類似した文化的および年代的背景を共有しています。


●ヨーロッパ農耕民集団における一般的狩猟採集民系統の定量化

 qpAdmを用いて、直接的な放射性炭素年代の得られている新規および既知の新石器時代個体群の、経時的なヨーロッパ狩猟採集民系統の割合が推定されました(モデルA)。ヨーロッパ中央部および南部の各地域における農耕の最初期には、無視できる程度の狩猟採集民系統を有する顕著に類似したパターンが観察され、狩猟採集民系統は農耕確立の数世紀後に次第に増加していきました。追跡可能な狩猟採集民系統を有さない最後の個体群は、紀元前3800〜紀元前3700年頃に消滅します。ヨーロッパ南東部は、セルビアの鉄門(Iron Gates)地域と関連する個体群で特定のパターンを示し、ブリテン諸島は新石器時代の到来時期における突然で一定した狩猟採集民構成を示します。新たにゲノム規模データが報告されたライン川東方の西部LBK集団は、狩猟採集民系統がより高く変動的と報告されている、ブルガリアのマラク・プレスラヴェッツ(Malak Preslavets)遺跡のようなヨーロッパ南東部とは対照的な、エルベ・ザーレ川中流地域とハンガリーのトランスダニュービア(Transdanubia)からの推定を確証します。しかし、現在のフランスでは状況が異なり、ヨーロッパ他地域と比較して全体的に狩猟採集民系統の最高の割合が観察されるだけではなく、フランス南部のPENおよびLBR遺跡の最古の個体群にも狩猟採集民系統が見られます。この観察はまた、単系統遺伝標識でも支持されます。フランス南部地域の西部早期農耕民におけるY染色体ハプログループ(YHg)は、狩猟採集民に由来するI2aのみです。対照的に、mtDNAではもっと一般的な新石器時代の遺伝的多様性が見られ、以前に報告されたように狩猟採集民起源の可能性がある2系統のmtHgであるU5およびU8も見られます。

 ライン川のすぐ西に位置する中期新石器時代のOBN遺跡の2個体(OBN B亜集団)も、ライン川東方のLBK遺跡集団とは対照的に、狩猟採集民構成の高い割合を示します。追加の狩猟採集民系統の割合を定量化するため、ドイツのLBK関連集団がアナトリア半島新石器時代系統とヨーロッパ狩猟採集民系統の混合としてモデル化され、OBN亜集団がLBK関連集団とヨーロッパ狩猟採集民との混合としてモデル化されました。その結果、このモデルはよく支持され、OBN B亜集団において狩猟採集民系統の最大31.8%の過剰が得られました。ライン川東方のLBK関連集団における強い狩猟採集民系統の欠如を考慮すると、これは最初の農耕民の到来に続く数世紀の間の在来集団からの遺伝子流動と推定されます。さらに、OBNの男性個体群のYHgは在来狩猟採集民からもたらされたI2a1a2とC1a2bのみで、ライン川のすぐ西方の地域における狩猟採集民系統のより大きな割合のさらなる証拠を提供します。


●ヨーロッパ狩猟採集民の遺伝的構造

 アナトリア半島新石器時代農耕民系統を有するヨーロッパ初期農耕民の共有された最近の系統と、ヨーロッパ本土全域での急速な拡大により、考古学で提案されているような、ゲノム水準で異なる新石器時代における農耕民拡大の複数の経路を区別することは、困難になっています。既知のデータでは、ヨーロッパ東部から西部へと、狩猟採集民系統の増加が観察されますが、これは単純に農耕起源地からの地理的距離の結果かもしれません。そこで、さまざまな拡大経路の兆候を検証するため、ヨーロッパの狩猟採集民系統における次第に出現してくる地理的構造を利用しました。本論文では、氷期後のヨーロッパの狩猟採集民系統は、それぞれ混合勾配のある主要な3クラスタにより説明されます。それは、ベルギーのゴイエット(Goyet)遺跡で発見された 19000年前頃の個体(Goyet Q-2)的な系統と、イタリアのヴィラブルナ(Villabruna)遺跡で発見された14000年前頃の個体と関連するWHG系統と、ヨーロッパ東部狩猟採集民(EHG)系統です。さらに、これらクラスタ間の2つの勾配が観察できます。一方は、イベリア半島の狩猟採集民により形成される(関連記事)ゴイエットQ2とWHGとの間の勾配で、もう一方は、ヨーロッパ南東部やスカンジナビア半島やバルト海地域の狩猟採集民により形成されるEHGとWHGの間の勾配です。

 この観察に続いて、全ヨーロッパ狩猟採集民個体がf4統計で検証されました。全ヨーロッパ集団で負のf4値が得られ、WHGクラスタと共有される系統が示唆される一方で、正の値はEHGの方へと引きつけられます。qpAdmでは、WHG関連のヴィラブルナとEHGとゴイエットQ2の混合としてヨーロッパの狩猟採集民個体群がモデル化でき、その最適なサブクレードが確立されます(モデルB)。早期農耕民との混合の兆候を示す狩猟採集民のいくつかに適合する、アナトリア半島新石器時代系統が追加されます。本論文はそれぞれの結果で、最も節約的なモデルを選択しました。ヨーロッパ南東部とスカンジナビア半島の狩猟採集民を含むEHGとWHGの間の勾配の個体群は、EHG 系統のかなりの割合を有するので、WHG個体群とは区別できます。上述のドイツの中石器時代個体群(BDBおよびBOT)はWHGクラスタの一部を形成します。

 以下では、ヨーロッパの農耕到来時期において、EHGとWHGの間の広範な系統勾配が、新石器時代の農耕民拡大で提案されているドナウ川経路と重なる、ヨーロッパ中央部および南東部の主要な地域(現在のドイツ・ハンガリー・セルビア・ルーマニア・ウクライナ)を覆っている、という観察を活用します。その結果、ICC土器と関連した地中海沿岸経路の前期新石器時代農耕民と、とくにフランスとスペインに到来した前期新石器時代農耕民が、EHGとWHGの間の勾配のEHG側からの系統は少なく、代わりにヴィラブルナ関連WHGおよびゴイエットQ2関連系統の支配的な混合兆候を示す、という仮説が提示されます。


●農耕民集団における異なる狩猟採集民系統の追跡

 狩猟採集民個体群と同様に、全新石器時代集団でもf4統計が実施され、新石器時代集団の狩猟採集民の東西勾配との類似性が推定されました。新石器時代集団のf4値はほとんど負で、ヴィラブルナとの共有された系統が示唆されますが、ヨーロッパ南東部のいくつかの集団ではEHGの共有された系統が同程度になる、と示唆されます。qpAdmを用いて、ヨーロッパの全新石器時代集団を対象に上述のモデルBでこれらの起源が定量化されましたが、多くの早期新石器時代集団では狩猟採集民構成がひじょうに少なかったことに起因して遠方のソースを用いたことで、モデルBはEHG構成を確実には検出できませんでした。

 そこで、分析をより近くのソースに限定し、WHG系統の代表として、また地中海沿岸経路の代理として、ライン川西方となるルクセンブルクのロシュブール(Loschbour)遺跡の中石器時代個体が選ばれました。遺伝的には狩猟採集民に見えるものの、農耕文化との関連で発見されたハンガリーのKO1個体が、大陸経路の狩猟採集民系統として選ばれました。f4統計では、正のf4値は、EHGとWHGの間の勾配の代理としてKO1と共有された系統を示唆します。次に、負の値は、ロシュブールに代表されるWHGクラスタと過剰な共有された系統を示唆します。この結果は、ライン川東方の農耕民集団がKO1と、ライン川西方の農耕民集団がロシュブールとのとより多く共有された系統を有する、という傾向を示します。

 注目すべき例外は、ドイツのハーゲンのブレッターヘーレ(Blätterhöhle)遺跡の中期新石器時代集団の個体群と、ボーランドの紀元前4700〜紀元前4000年頃となるレンジェル文化(Lengyel Culture)のブジェシチ・クヤフスキ集団(Brześć Kujawski Group、略してBKG)のN22個体(関連記事)と、タンガーミュンデ遺跡の1個体(TGM009)で、その全個体はWHG関連個体群との強い類似性を示しますが、ライン川東方に位置します。qpAdmで新石器時代集団の狩猟採集民構成がモデル化され、それには提案されている農耕民集団の両拡大経路で遭遇したかもしれない狩猟採集民2ソースが含まれます(モデルC)。狩猟採集民2ソースが支持される場合に、qpAdmで最適のモデルが選択されます。

 多くの新石器時代集団では狩猟採集民系統の割合がひじょうに低いので(10%未満)、最終的なソースを確実に特徴づけることは依然として困難です。それにも関わらず、支持されるモデルからの混合パターンは、明確な地理的兆候を示します。ヨーロッパ中央部(現在のハンガリー・オーストリア・ドイツ)のLBKと関連した新石器時代集団は、低い狩猟採集民系統の割合を有し、おそらくはEHGとWHGの間の勾配の狩猟採集民個体群との混合に由来し、それは起源前6000〜紀元前5400年頃となる新石器時代農耕民集団の拡大の先行段階に、ヨーロッパ南東部で起きました。ドイツのライン川東方の中石器時代個体(BDB001)も対象としたf4統計では、LBK集団への在来集団の影響は支持されませんが、それはライン川西方のロシュブールと同じパターンです。これは、近隣に存在した、ヨーロッパ中央部のBDB001のようなロシュブール的狩猟採集民からの追加の遺伝子流動が、最初の新石器時代集団ではごく僅かだったことを示唆します。

 しかし、紀元前4000〜紀元前3500年頃となるドイツのザクセン=アンハルト州のバールベルゲ(Baalberge)集団は、LBK集団へのKO1およびロシュブール的系統の両方の組み合わせと比較して、そのような狩猟採集民系統の顕著な増加を示します。バールベルゲ集団における最大で21.3±1.5%に達するWHG系統の増加は、在来のロシュブール的系統、もしくは考古学的データで示唆されているように、紀元前五千年紀にこの兆候を有する西方からの農耕集団の拡大により起きた、と示されます。本論文で対象とされたライン川西方の全ての新石器時代集団では、在来のロシュブール的狩猟採集民起源のように見える最初の農耕民集団も含めて、より高い狩猟採集民系統を有する異なるパターンが観察され、考古学的データと一致します。


●ヨーロッパ中央部における狩猟採集民系統の後期の存続

 ドイツ中央部の新石器時代集団とは対照的に、ドイツ北東部のタンガーミュンデ遺跡の1個体(TGM009)は、狩猟採集民系統の異なるパターンを示します。遠方のソースでモデル化すると、TGM009は63.6±5.2%のヴィラブルナ関連系統を有します。近くのソースを用いると(モデルC)、狩猟採集民系統は48.1±6.4%のKO1関連系統と、25.8±6.1%のロシュブール的系統に区分されます。KO1を通じてTGM009で観察されたEHG関連兆候が、スカンジナビア半島中石器時代との地域的な後期の接触という考古学的記録で示唆されているように、スカンジナビア半島狩猟採集民に由来するのかどうか決定するため、f4統計が適用されました。f4値は顕著に負で、TGM009がスカンジナビア半島狩猟採集民よりもヨーロッパ南東部狩猟採集民の方と多く系統を共有する、と示唆されます。そのため、ハンガリーのKO1の代わりにスウェーデンのムータラ(Motala)を用いたqpAdmモデルは、適合度が低くなました。

 TGM009の特定の場合では、紀元前3200〜紀元前2300年頃となる、「新石器時代狩猟採集民」とみなされる円洞尖底陶文化(Pitted Ware Culture、略してPWC)の個体群が、外群のモデルCセットの適切な同時代の近位ソースであるのか、検証されました。その結果、アナトリア半島新石器時代系統とロシュブール系統とKO1系統の3方向モデルが支持されます。しかし、ムータラ狩猟採集民を外群として追加すると、4方向モデルが最も支持されます。それは、アナトリア半島新石器時代系統21.7±2.4%、ロシュブール系統24.4±6.2%、スウェーデンPWC系統12.6±1.1%、KO1系統41.3±7.3%です。ヨーロッパ中部〜東部の黄土地帯周辺におけるPWC集団の小さいながらも安定した寄与は、ヨーロッパ中央部における後期新石器時代集団と最後の狩猟採集民集団との間の相互作用の複雑さを追加します。


●狩猟採集民と初期農耕民との間の混合年代の推定

 DATESを用いて、早期農耕民と狩猟採集民との混合時期がさらに調べられました。主成分分析でも見られたように、両集団はライン川を挟んで東西のパターンを示します。このパターンは、狩猟採集民系統の割合だけではなく、その質的な痕跡にも依存しています。PENおよびLBR遺跡のフランス南部4集団の推定年代は、拡散してきた農耕民が、紀元前5850年頃の到来後比較的早く(100〜300年のうち、紀元前5740〜紀元前5450年頃)に在来の狩猟採集民と混合した、と示唆します。これらの推定年代は、初期農耕の確立に関する考古学的データとも一致しますが、混合がイタリア半島で起きた可能性も除外できません。

 フランスの他地域では、LBK後の集団はより古い混合年代を示し、狩猟採集民構成は強く、新石器時代初期段階におけるWHG関連系統狩猟採集民との混合事象が推定されます。対照的に、フランス北部のOBN 遺跡では、異なる狩猟採集民系統の割合と対応する混合年代を有する、区別可能な集団間の異質性遺伝的兆候が明らかになります。OBN3集団の推定年代間の違いは、OBN集団が最近の継続する混合事象よりもむしろ、遺伝的下部構造を示す、と示唆されます。


●フランスにおけるゴイエットQ2の追跡

 ゴイエットQ2とヴィラブルナとアナトリア半島新石器時代系統をソースとしてqpAdmを用い、マグダレニアン(Magdalenian)関連のゴイエットQ2的系統が新たなヨーロッパ西部新石器時代集団で推測されました(モデルD)。ゴイエットQ2関連構成は、フランス西部のPRI個体群(6±3%)とパリ盆地のGRG個体群(3.7±1.3%)で観察されます。イベリア半島新石器時代集団と類似して、紀元前4300〜紀元前4200年頃のPRI集団は、狩猟採集民構成の1つとしてゴイエットQ2でうまくモデル化でき、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)後もゴイエットQ2構成を保持していたフランス西部の在来狩猟採集民との混合、もしくはもっと後の段階における新石器時代イベリア半島系統集団との遺伝的接触が示唆されます。注目されるのは、大西洋沿岸のPRI遺跡個体群が、ヨーロッパ狩猟採集民とのわずかに新しい年代(紀元前5200年頃)の混合を示唆していることで、これはフランス西端における新石器時代集団の到来がより遅かったことと一致します。


●ブリテン島およびアイルランド島とのつながり

 f4統計では、ブリテン島とアイルランド島の新石器時代集団が、他集団よりもフランスの大西洋沿岸のPRI集団と遺伝的浮動を共有しているのか、検証されました。以前の研究では、ブリテン島の初期農耕民集団は遺伝的にイベリア半島の農耕民集団と類似している、と示されていましたが(関連記事)、本論文でも改めて、LBR遺跡A亜集団とフランス中期新石器時代集団とイベリア半島中期新石器時代集団との類似性の共有が確認されました。これは、WHG 系統の多い狩猟採集民比率で示されます。しかし、本論文におけるフランス新石器時代遺跡群の結果に基づくと、イングランドとウェールズとスコットランドの集団は、大西洋沿岸経由だけではなく、ノルマンディーのFLR遺跡集団やパリ盆地のGRG遺跡集団やフランス南部のICC後のLBR遺跡A集団経由でも、地中海新石器時代集団とつながっている、と示唆されます。以下は、中石器時代から新石器時代にかけてのヨーロッパの狩猟採集民と農耕民の系統割合の変化を示した図4です。

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https://advances.sciencemag.org/content/advances/6/22/eaaz5344/F4.large.jpg


●まとめ

 ヨーロッパにおけるアナトリア半島農耕民系統は、多くの地域で報告されてきました。農耕生活様式と関連した個体群における狩猟採集民からの増加する遺伝子流動の再発パターンは、最初の接触および仮に「狩猟採集民再起」と呼ばれる事象の後に何世紀も起き、イベリア半島やヨーロッパ北部および中央部やカルパチア盆地やバルカン半島で観察されてきました。しかし、新石器時代農耕民集団拡大の主要な経路(ドナウ川沿いのヨーロッパ中央部への拡大と、地中海沿岸でのイベリア半島への拡大)に関する仮説では、ゲノムデータの比較は試みられてきませんでした。本論文が提示した一連の新たな結果は、両方の経路が交差した現在のフランスへの重要な洞察を提供します。ヨーロッパにおける異なる中石器時代の遺伝的基盤により、新石器時代集団で観察された混合狩猟採集民構成の質量に基づき、新石器時代の拡大経路の追跡が可能となります。

 フランス南部の新石器時代集団は地中海ICC拡大経路の一部で、他地域の拡大農耕民集団の早期と比較すると、異なる遺伝的構成を示し、大陸経路関連集団よりもかなり高い狩猟採集民構成の割合を示します(PEN遺跡B集団で最大56±2.9%)。フランス南部のPENおよびLBRの年代は、イタリア半島北西部のリグリーア州やフランス南東部のプロヴァンスやフランス南西部のラングドックといった地中海沿岸地域における最初の農耕民の定住よりも400年(16世代)ほど遅くなりますが、より近い世代での在来集団との混合事象(3〜6世代前)が示唆されます。考古学的研究では、新石器化第2段階の地中海西部、とくに狩猟採集民の人口密度がより高い地域における、拡散してきた農耕民と在来の狩猟採集民との間の相互作用の増加が主張されています。本論文でも、フランス南部の新石器時代集団の拡大期における、そうした相互作用の遺伝的痕跡が確認されました。これは考古学的観点から、狩猟採集民が最初期農耕民の後の物質文化内で観察される明確な変化に寄与してきた、と示唆されます。

 しかし、アドリア海沿岸東部のICC個体群では、より類似しているヨーロッパ中央部集団と比較して、わずかな狩猟採集民系統しか有していません。これは、イタリア半島のアペニン山脈の両側で観察される物質文化内の技術的伝統の差異に関する仮説と適合します。それは、起源がまだ不明のバルカン半島およびティレニアとつながるアドリア海伝統集団です。ティレニア側の強い狩猟採集民構成を、同じ地域の特定の土器伝統と関連づけ、これを狩猟採集民の新たな意味づけの結果とみなす見解は魅力的です。しかし、イタリア半島中央部および南部の利用可能なゲノムデータが不足しているため、この仮説を直接的に検証はできません。さらに、イベリア半島のICC個体群も、狩猟採集民系統をあまり有しません。まとめると、ICC関連個体群がそれ自体均一な遺伝的構成を有するという仮説は棄却され、相互作用のより地域的に微妙なシナリオが主張されます。

 ヨーロッパ中央部早期農耕民は、狩猟採集民構成の割合がひじょうに低く(平均して5%)、それは農耕民拡大の初期段階におけるハンガリーのトランスダニュービアでの混合に由来する可能性が高そうです。これは、考古学的記録の一般的な観察と合致するだけではなく、最初のLBK石器群が後期中石器時代の石刃および台形石器複合と類似している理由も説明できます。これは、ドイツ黄土地域全域の最初の農耕民の速い拡大を主張する、以前の古代DNA研究も確証します。ドイツ南西部および東部のLBK集団は、ルクセンブルクのロシュブール遺跡個体よりもハンガリーのKO1個体の方と類似性を多く共有しています。ドイツ南部の遺跡群の農耕民集団における推定混合年代は、SMHで19.2±3.8世代前、SCHで12.3±8.2世代前で、カルパチア盆地およびオーストリアの混合年代より新しいか、同時代となります。共有されるKO1的狩猟採集民系統の、一時的な遅延と微妙な増加から、LBK集団を年代的に追跡でき、考古学的研究により示唆されているように、トランスダニュービアの中核地域からのLBKの拡大というモデルとよく一致します。しかし、現在の解像度では、フランス北西部のラオゲットやドイツ西部のリンブルクのような早期LBK期においてはとくに、狩猟採集民およびより西方の遺跡群の南方からの影響を有する集団との接触に関する考古学的証拠の増加は説明されません。

 ヨーロッパ中央部の状況とは対照的に、ライン川西方地域は、紀元前五千年紀に異なる遺伝的構成を示します。最初の農耕民はロシュブール関連狩猟採集民構成をより高い割合で有しており、OBN遺跡B集団に分類されるアルザス地域の個体群の中には、後には最大で33.3±3%まで増加する事例も見られます。mtDNAデータは、この知見を支持します。紀元前五千年紀のフランスの全集団において、狩猟採集民と密接な関連のあるmtHg-U5・U8の平均的な割合は、ライン川東方のLBK集団の1.4%よりも高い15.5%です。フランス北部のLBK関連個体群のゲノムデータはありませんが、この狩猟採集民構成から、最初の農耕民集団が到来した後に混合が起きた、と推測できます。

 フランス北西部中央に位置するOBN遺跡の3集団におけるヨーロッパ狩猟採集民構成をqpAdmでモデル化すると、4.3〜31.8%の間の狩猟採集民構成の増加が観察され、それは在来のロシュブール関連集団に区分されます。しかし、この手法は他の同時代のフランス集団には直接的に適用できません。それは、新石器時代農耕民集団拡大の地中海沿岸経路と関連した追加の移動の可能性があるからです。この場合、フランス北部における最初のLBK農耕民の到来に続き、双方向の狩猟採集民と農耕民の相互作用の単純な過程を複雑にする可能性があります。現在のゲノムデータでは、検出された兆候が、可能性のある南方からの遺伝的寄与により混乱しているのかどうか、決定できません。しかし、フランス北部におけるGRGおよびFLR遺跡集団の推定混合年代は、より古い混合事象が30世代(840〜930年前)以上前に起きた、と示唆します。フランス北部における最初の新石器時代定住の確立した年代と一致して、南部ICCで得られた重複・同時代の年代は、フランス南部における最初の狩猟採集民の寄与の兆候と一致し、それに続いて狩猟採集民系統を有する集団が北方へ拡大します。

 フランス西部中央の大西洋沿岸のPRI 遺跡とパリ盆地のGRG遺跡の個体群で検出されたゴイエットQ2的狩猟採集民構成は、LGM後もゴイエットQ2的構成が残存したイベリア半島とのつながりを示唆します。それは、ゴイエットQ2的狩猟採集構成を有する在来だったかもしれない狩猟採集民との混合、もしくはイベリア半島の最初の農耕共同体との接触、あるいは紀元前五千年紀におけるイベリア半島からの新石器時代集団との交流に起因するかもしれません。考古学的データは、これら3仮説すべてと適合的です。しかし、PRIとイベリア半島との間の遺伝的類似性が示される一方で、上述のブリテン諸島と地中海新石器時代との間の類似性から、パリ盆地経由でのおもにノルマンディーと地中海地域とのつながりが最良の説明となります。イングランドとスコットランドとウェールズは、フランス西部よりも、フランス北部・南部およびイベリア半島の方と高い遺伝的類似性を示します。対照的に、新石器時代アイルランド集団は、他のブリテン集団よりもフランス北部沿岸および地中海地域との類似性が低くなっており、大西洋の枠組み内で説明できます。この全体的パターンは、ブリテン諸島西部および東部への新石器時代農耕民集団拡大は、異なる2つの現象と速度だった、という考古学的データから提示された仮説と一致します。

 まとめると、本論文で強調されるのは、地中海西部沿岸とライン川西方地域との間の文化的および生物学的相互作用の多様なパターンです。これは、新石器時代農耕民集団の拡大期における高い変動性を確証し、過程および持続期間と同様に、狩猟採集民構成の異なる割合を示します。狩猟採集民集団間の遺伝的構造により、初期農耕民における地域的な混合をたどることができ、ライン川西方ではヨーロッパ中央部および南東部と比較して狩猟採集民系統の割合が高いものの、それは在来のWHG関連集団に起因します。狩猟採集民と初期農耕民のゲノムデータ数は増加しており、中石器時代から新石器時代への移行期の地域的な動態の解明と、大小の地域的な規模での、時間の経過に伴う過程と発展の理解を深めるのに役立ちます。本論文の観察に基づくと、大まかなモデルでは、農耕民と狩猟採集民の相互作用の充分な範囲と詳細を一致させる可能性がますます低くなった、と明らかになり、将来の研究では、より多くの地域に焦点を当てたモデルの使用が提唱されます。


参考文献:
Rivollat M. et al.(2020): Ancient genome-wide DNA from France highlights the complexity of interactions between Mesolithic hunter-gatherers and Neolithic farmers. Science Advances, 6, 22, eaaz5344.
https://doi.org/10.1126/sciadv.aaz5344


https://sicambre.at.webry.info/202006/article_1.html

2. 中川隆[-8666] koaQ7Jey 2021年1月03日 11:28:02 : FN5ePxnIHg : QTVvd0FDb0FsLms=[14] 報告
雑記帳 2021年01月03日
ドイツ南部の銅器時代の親族と社会組織
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_5.html


 ドイツ南部の銅器時代の親族と社会組織に関する研究(Sjögren et al., 2020)が公表されました。最近の遺伝的研究により明確になったのは、紀元前三千年紀がポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からヨーロッパ中央部、後にはヨーロッパ西部への一連の移住の期間であり、まず紀元前2900〜紀元前2100年頃の縄目文土器(Corded Ware)複合、次に紀元前2750〜紀元前2000年頃の鐘状ビーカー(Bell Beaker)複合の形成をもたらした、ということです(関連記事)。これはヨーロッパ中央部の共有された埋葬儀式でも証明されており、個々の埋葬と体の向きにおける男女間の厳密な区別が特徴です。これらの移住から生じた遺伝的混合は、現在のヨーロッパにおける1つもしくは複数のインド・ヨーロッパ語族の先行者が、これらの移民によりもたらされた可能性がひじょうに高いのと同様に、依然として現代ヨーロッパ人集団を特徴づけています。

 しかし、これらの変容の契機や仕組み、集団もしくは個体の動態についての仮説を推測することしかできないので、この変容事象の規模と程度と速度について、依然として多くの問題が未解決です。また、これらの集団にとって、その文化的・社会的・言語的一貫性を確立して長期にわたって維持することがどのように可能だったのかも、まだよく理解されていません。縄目文土器複合(CWC)の場合、最初の移住は男性が優勢で、おそらくは新石器時代以来の在地集団の女性と結婚した、と提案されてきましたが(関連記事)、現時点では、これらの集団に寄与した男性優勢の移住の遺伝的証拠に説得力があるのかどうか、議論されています。個々の集団は共同体水準では父系制と外婚を実践した可能性が高い、との証拠もあります。

 本論文は、ヨーロッパ中央部においてCWCの次となる鐘状ビーカー文化(BBC)について、親族構造や父方居住や外婚のパターンが持続するのかどうか、検証を試みました。これらのパターンの一部は、ドイツの南バイエルンのアウグスブルク市近郊のレヒ川(Lech River)渓谷の、BBCや前期青銅器時代の埋葬共同体で提案されています(関連記事)。本論文は、こうした結婚パターンが遺伝子プールの多様化増加につながる、との見解(関連記事)の検証も試みました。本論文は、その程度は社会的同盟の複雑さにより変化し、より大きな同盟ネットワークは、たとえばミトコンドリア系統のより高い多様性につながる、と提案します。また本論文は、男性系統が長期にわたって維持されていたのかどうか、検証を試みます。これらの知見を踏まえて最終的には、どの社会的仕組みと精度がそのような長期的な遺伝的および恐らくは言語的安定性を支えるのか、考察します。

 これらの仮説を評価するための基準点は、ドイツ南部バイエルン州の後期BBCの2ヶ所の墓地における発見で、両方ともドナウ川の近くに位置し、相互に17km離れており、ほぼ同じ年代の層位となっています(図1)。一方はシュトラウビング=ボーゲン(Straubing-Bogen)郡のイルルバッハ(Irlbach)に、もう一方はシュトラウビング(Straubing)市レルヒェンハイト(Lerchenhaid)のアルブルク(Alburg)に位置します。両方とも1980年代の調査で完全に発掘され、それぞれ24ヶ所と18ヶ所の墓として報告されています。

 両墓地とも、詳細な考古学的評価を受けており、葬儀習慣や物質文化や年代が浮き彫りにされています。両墓地とも、自然人類学的にじゅうぶん分析されており、歯のエナメル質の複数の同位体測定が行なわれ、性別やミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)およびY染色体ハプログループ(YHg)や系統や遺伝的親族関係が調べられた、最近のヨーロッパ規模のBBC関連個体群の古代DNA研究(関連記事)の一部です。本論文では、ゲノム解析をさらに進めて、個体間の親族関係を詳細に調べます。以下、本論文の図1です。
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●考古学と自然人類学からの知見

 イルルバッハ墓地には24基あり、ドイツ南部では最大のBBC墓地となります。しかし、ほとんどの墓は耕作により損傷を受けており、発掘前にさらに数基が完全に破壊されたかもしれません。墓地には元々、西から東の3群に配置された約30基の墓があり、全体は東西60m×南北30mでした。配置は、西部に6基、中央部に14基、東部に3基、孤立した位置に1基です(図1)。対照的に、アルブルク墓地はほぼ完全に保存されており、約10m×30mの領域に18基の墓が存在します(図1)。最大で1.4m×0.8mの墓穴があるほぼ全ての墓は南北方向に長い列で並んでいます。アルブルク5号墓(ALB 5)のみがこれらの列のいずれかより外れており、本当にアルブルク墓地に属しているのかどうか、確認できませんでした。

 記録できた41基の墓は、おもに南北方向の、しばしば非常に浅い埋葬坑の個人の土葬墓で、多くの場合、墓の列に配置されているか、密集しています。例外もあり、アルブルク墓地では、18号墓被葬者は火葬で、10号墓には2人の幼児期1(0〜7歳)の子供(おそらくは双子の新生児)が埋葬され、イルルバッハ2号墓(IRL 2)には「若年成人」女性1人と幼児期1の子供が1人葬られています。ほとんどの埋葬には土器が共伴しており、おもに1個もしくは2個のカップおよび/もしくは皿・椀で、イルルバッハの6基の墓には、元々は供え物だった食料の残骸としての単一の動物の骨があります。アルブルク墓地9号墓にのみ、BBCに因む様式の装飾されたビーカー容器1個があります。

 土器以外にも、男性の墓には時として、燧石製の鏃、シカの歯、通常は狩猟と関連する装飾された牙や角のペンダントが含まれていました(イルルバッハ墓地では4人、アルブルク墓地では3号墓に1人)。女性の墓には、一連の小さなV字穴の骨や枝角のボタンが含まれていました。イルルバッハ墓地の3被葬者にはわずかしか含まれていませんでしたが、アルブルク墓地の6基の墓には多くのボタンが含まれており、6号墓だけで29個、15号墓に22個が、U字型で鎖骨から胸骨下部、その後でもう一方の鎖骨へと上向きに配置されており、そのほとんど穿孔された側が上向きです。男女とも、威信材の存在に基づく社会的分化の兆候をほとんど示しません。小さな銅剣が1本だけありますが、地位と関連するような、手首の防護や、金・銀・琥珀の工芸品はありません。

 物質文化は埋葬の時系列の基礎を形成し、器材と土器の特徴的な集合により、数世代を構成する可能性が高い相対的な段階として、A2b・B1・B2が定義されます。イルルバッハとアウグスブルクの両墓地は、A2bからB2にまたがる類似の時系列を示し、ほとんどの墓はB1期となります。したがって考古学的用語では、両墓地はほぼ同年代とみなされるかもしれず、イルルバッハ墓地の5号墓と10号墓は最初期のものです。イルルバッハ墓地の東部の墓4基(6・11・20・21号墓)が最も新しく、バイエルン地域におけるBBCの最終段階を表しています。

 アルブルク墓地では、18・9・13・16・2号墓が最初期で、最初の南北方向に配置された列となります。アルブルク墓地では、6・17号墓が最新のようです。イルルバッハ墓地とアルブルク墓地は、100年以上使われていました。厳密な年代を確定するため、放射性炭素年代測定が行なわれました。その結果、紀元前2300〜紀元前2150年頃と推定され、バイエルン地域における他の中期〜後期BBC墓地と一致しますが、物質文化と遺伝学に基づく相対年代を超えて墓地の使用寿命の推定を改善するには、少なすぎて不正確です。

 ドイツ南部のBBC関連の人々は、ほぼ全ての女性が頭を南に向けて右側にしゃがみ、ほぼ全ての男性が北に頭を向けて左側に横たわるという、性別の埋葬慣行を有していました(図1)。自然人類学的および遺伝的性別は両方、この習慣の広範な厳守を確認します。しかし、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地ではそれぞれ例外もあります。耕作により攪乱されたイルルバッハ墓地17号墓被葬者は、脚がおそらくは他の女性とは異なり左側に置かれた成人女性で、さらに、脚を曲げて仰向けになっているかもしれません。ALB 14は、ほとんどの男性のように埋葬されているにも関わらず、遺伝的に女性と明らかになりましたが、1個の椀と2個のカップの副葬品は女性に典型的です。どちらの事例も、他の不規則性を示しません。

 性別は両墓地で均衡が取れています。イルルバッハ墓地では11人の女性と9人の男性で、アルブルク墓地では7人の女性と8人の男性です。成人は、イルルバッハ墓地が14人(6人の男性と7人の女性と性別不明の1人)、アルブルク墓地が10人(3人の男性と7人の女性)です。イルルバッハ墓地では、7人の幼児期1(0〜7歳)と幼児期2(7〜14歳)の被葬者(少なくとも2人の少女と3人の少年)と、学童期(juvenile)の2人(1人は少女の21号墓被葬者で、もう一方は性別不明)の未成年がいます。アルブルク墓地では、5人の乳児期1および2の被葬者がおり、2人の少年と少なくとも1人の少女ですが、同様に学童期の2人がいます(ともに少年)。したがって、乳児期の子供は、子供の死亡率の高い前産業化社会での予想よりも少なくなります。これが示唆するのは、選択された子供が共同墓地での適切な埋葬を許可される、という社会的制度が共同体において実践されていたことです。両方の墓地の被葬者の合計が埋葬で少年を選好しており不均衡に見えるので(7人の少年と4人の少女)、そのような制度は思春期にも適用されたかもしれません。ただ、本論文も後述しているように、女児よりも男児の方で一般的に死亡率が高いことも反映しているかもしれません。

 両墓地の埋葬からは、死因の人類学的証拠は得られません。病状はほとんどなく、栄養失調の証拠は最小限で、対人暴力はイルルバッハ墓地14号墓の男性1例のみです。この男性は、右橈骨の形が変わり、遠位関節面のすぐ上の尺骨が折れていました。この男性は平均身長をはるかに上回り、墓地では最も身長の高い男性の1人で、右橈骨・尺骨に銅の短剣を有している、両墓地で唯一の個体です。別の銅製品がイルルバッハ墓地22号墓被葬者に与えられた可能性がありますが、それは古代においてすでに除去されていました。イルルバッハ墓地20号墓も意図的に攪乱されていました。

 上腕骨の不完全な癒合面である中隔開口部の非計測特性は、イルルバッハ墓地の3・14・21・22号墓の被葬者で見られ、その内訳は男性2人と女性2人で、そのうち1人は学童期の15〜16歳です。この特性は、現代の一般的な集団ではわずか6%です。両墓地の遺骸群において、少なくとも1つの癒合した上腕骨の遠位関節面を有する合計9人と比較して、イルルバッハ墓地の被葬者は不均衡です。イルルバッハ墓地でみつかったこれらの特性の数は、遺伝、したがって親族関係の結果かもしれません。


●古代DNA

 イルルバッハ墓地の18基とアルブルク墓地の16基の墓で遺伝的データが得られました。このデータセットは、YHg、mtHg、高解像度の系統推定と親族分析が可能な常染色体データに区分できます。本論文では、mtDNA情報のみを有する4個体(アルブルク墓地の3人とイルルバッハ墓地の1人)が新たに報告され、最近の研究で報告された14人の追加のDNAライブラリが生成されました。

 両墓地で充分なデータのあるBBC関連男性は全員、YHg-R1b1a1b(M269)で、これはヨーロッパ西部において紀元前2500年以後の草原地帯系統の到来と関連している主要系統です。BBCに先行し、部分的に重なるヨーロッパ中央部のCWC集団ではYHg-R1aが優勢でしたが、YHg-R1bも少数ながら存在しました。YHg-R1b1a1bと決定できた個体群では、全員が同じ派生変異(S116/P312)を有している、と明らかになりました(YHg-R1b1a1b1a1a2)。これは、現在ヨーロッパ中央部および西部で優勢なYHgです。これは男性系統の並外れた均一性を表しており、じっさい、両墓地の男性全員と、実質的にヨーロッパ中央部のBBCのYHg-R1b1a1b1a1a2の男性の大半とを結びつけます。しかし、このYHgは数世紀前に出現した可能性が高いことを考えると、この均一性は必ずしも、これら両墓地の共同体およびヨーロッパ中央部のBBCの男性間の、全体としてひじょうに密接な父系での関係を示唆しているとは限りません。

 父系となるYHgとは対照的に母系では、イルルバッハ墓地の18個体のうち14個体が異なるmtHgを有しており、アルブルク墓地の16個体では9系統のmtHgが確認されます(図3A・B)。これは、さまざまな背景の女性を何世代にもわたって埋葬地共同体に組み込み、拡張親族集団にまとめる、広範でおそらくは制度化された外婚パターンの可能性を示唆します。興味深いことに、どのmtHgも両墓地で共有されていません(図3A・Bでは同じ区分となっているmtHg-T2が、じっさいにはT2g2やT2fやT2bのようにさらに詳細に区分されています)。最近利用可能になった同年代で唯一の他のデータセット(関連記事)では、両墓地から約200km離れている、アウグスブルク市近郊のBBC3集団および2基の単一墓で、19人のうち16人が異なるmtHgを有しますが、ミトコンドリアの多様性をこれと比較すると、イルルバッハ墓地は類似しているのに対して、アルブルク墓地では低くなっています。以下、本論文の図3です。
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 イルルバッハ墓地の16人とアルブルク墓地の13人のゲノム規模分析系統は、ユーラシア西部現代人集団の遺伝的多様性に古代人標本を投影した主成分分析で示されます(図4)。その結果、両墓地の個体群が青銅器時代草原地帯およびヨーロッパ新石器時代系統により決定される勾配に沿って分布する、と示されます。イルルバッハ墓地の9・10・16号墓個体とアルブルク墓地の14・16号墓個体は、草原地帯およびCWC集団とより近い類似性を有していますが、イルルバッハ墓地の4・14号墓個体とアルブルク墓地の4・6・9・12号墓個体は、より早期に確立した、つまり草原地帯系統のヤムナヤ(Yamnaya)文化集団よりも前の、ヨーロッパの前期および中期新石器時代農耕民の方に寄っています。これは基本的に、上述のアウグスブルク市近郊集団の後の状況と同じです。以下、本論文の図4です。
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 ゲノム規模データを用いて、集団内の親族関係が決定されました。1親等の関係(英語圏では親子とキョウダイ)は、イルルバッハ墓地では3・8・9と11・20と14・22号墓被葬者間で、アルブルク墓地では4・6と9・12と2・13号墓被葬者間で、またおそらくはアルブルク墓地の1・2と1・13号墓被葬者間で特定されました。性別・年齢情報や墓の位置や年代を組み合わせると、さらなる結論を導き出せます。

 イルルバッハ墓地では、中央部に位置する3・8・9号墓の被葬者は、11・20・14・22号墓被葬者よりも古い、と推測されます。8・9号墓被葬者は、キョウダイもしくは母親(50歳以上で死亡)と学童期の息子(10〜11歳で死亡)です。3号墓被葬者は成人男性(30〜40歳で死亡)で、8・9号墓被葬者と1親等の関係です。この3人は同じmtHg-T2bで、墓は相互に隣接しており、母と2人の息子である可能性が高そうです。一方、男性2人と女性1人のキョウダイである可能性は低そうです。20号墓被葬者は学童期の11号墓被葬者の父親で、両者はmtHgが異なります。14号墓の男性(40〜45歳で死亡)は、22号墓の成人女性(24〜25歳で死亡)の息子かキョウダイです。

 アルブルク墓地では、4号墓の女性が6号墓の女性の母親である可能性が高そうです。9号墓の成人女性は12号墓の少年の母親です。2号墓と13号墓はともに成人男性で、同じmtHg-H1e1aを共有する兄弟です。1号墓の学童期の少年もmtHg-H1e1aで、2号墓の成人男性と同様に土器が共伴せず、2号墓と13号墓との間でわずかにずれた位置にあります。1号墓の少年は、他の兄弟と高い親縁係数を共有します。これらの関係に最もよく適合し、埋葬の時間的な連続と一致するシナリオは、1・2・13号墓の男性が第一世代の兄弟であることです。

 また、2親等と3親等の関係やさらに遠い親族関係も検出されました。イルルバッハ墓地では、14・20号墓被葬者間と20・22号墓被葬者間が2親等、11・14号墓被葬者間と11・22号墓被葬者間が3親等です。このつながりから、11・14・20・22の墓4基は全て密接に関連していると示され、その上腕骨の中隔開口部の表現型と一致しているので、最も可能性の高いシナリオは、20号墓被葬者は11号墓被葬者の父親であるだけではなく、22・14号墓被葬者両方の甥でもある、というものです。同じmtHg-H5a1を完全に一致して共有しているにも関わらず、4号墓被葬者と6号墓被葬者は1親等もしくは2親等ではありませんが、3親等の可能性はあります。1・2・4・5号墓の被葬者は3親等の可能性がありますが、4・5号墓被葬者間は3親等の可能性の方が高そうです。1・2・4・5号墓の被葬者は、11・14・20・22号墓の被葬者とは3親等かもっと遠い親族関係です。3・8号墓被葬者間は兄弟関係にありますが、1・2・4・5・11・14・20・22号墓の被葬者とは3親等かもっと遠い親族関係の可能性があります。

 アルブルク墓地では、4・12号墓被葬者間は2親等の関係で、8・11号墓被葬者間では同じmtHg-H+16129が共有されており、2親等の可能性があります。1・2・13号墓被葬者はキョウダイの可能性があり、等しく4号墓被葬者と2親等もしくは3親等の関係にあるので、姪と父方のオジの関係です。1・2・13号墓被葬者は12号墓被葬者とも3親等の関係です。14・16号墓被葬者は3親等の関係の可能性があります。7・17号墓被葬者はmtDNAデータしかありませんが、同じmtHg(H1+10410+16193+16286)を4・6号墓被葬者と共有しているので、密接な母系での関係が示唆されます。4号墓被葬者は成人女性で、標本抽出されていない1・2・13号墓被葬者のキョウダイの娘かもしれません。4号墓被葬者が、12号墓被葬者の少年とは関係があるものの、その母親である9号墓被葬者とは関係がないならば、12号墓被葬者の父方のオバ・もしくは姪でしょう。被葬者の中で4号墓被葬者の両親を確認できませんが、彼女は最初の2世代と最後の(1もしくは複数)世代の親族関係の「かなめ」のようです。4号墓被葬者にとって、6号墓被葬者が娘で、7・17号墓被葬者は幼児もしくは孫かもしれません。

 これらの遺伝的つながりから、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の両方における密接な親族集団の存在の可能性が高いことになり、アルブルク墓地では、4〜5世代の可能性が高い単一の核家族を形成する成人10個体が存在した、と示されます。以下、アルブルク墓地の家系図を示した本論文の図6です。
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 イルルバッハ墓地では、西部の埋葬集団の6個体が、標本抽出と解像度の限界内では、相互に、および中央集団と無関係のようです。したがって、東部の3被葬者と、孤立して埋葬された6号墓被葬者が遺伝的に主要集団とつながっているので、1家族もしくはより拡大された家族集団の存在を推定できます。墓地の使用期間は5〜6世代に及ぶ可能性がありますが、上述のように耕作による破壊のため、その推定は困難なままです。以下、イルルバッハ墓地の家系図を示した本論文の図7です。
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●同位体分析

 イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の合計35基の墓から、遺骸の歯のストロンチウム同位体(ストロンチウム87とストロンチウム86)と酸素同位体が分析されました。ストロンチウム同位体比分析からは、アルブルク墓地では8・9・16号墓被葬者、イルルバッハ墓地では6・11・16号墓被葬者が外部起源個体と示されます。アウグスブルク市周辺のBBC遺跡群と比較すると、外来民と地元民との比率はほぼ同じです。これらのうち、アルブルク墓地16号墓被葬者のみ出身地を特定でき、最も近いのはバイエルンとチェコ共和国の間のバイエリッシャー・ヴァルト(Bayerischer Wald)山脈の古生代の岩に沿ったドナウ川の真向かいですが、他の場所の可能性もあります。イルルバッハ墓地の被葬者で外部起源を示す同位体比の外れ値は全て異なるので、それぞれ出身地が異なるかもしれません。アルブルク墓地の被葬者では、ともに女性の8・9号墓被葬者の同位体比はひじょうに類似しており、2人は1世代もしくは2世代離れている可能性もありますが、同じ地域の同じ共同体の出身だった可能性があります。

 酸素同位体(酸素18)データでは、バイエルン南東部では-4.6〜-6.4の範囲となります。異なる離乳効果を考慮に入れても、データセットでは2集団を識別でき、一方は-4.6〜-5.4、もう一方は-5.75〜-6.4です。各集団では、性別や全ての期間の埋葬が表されます。酸素18の外れ値は、イルルバッハ墓地2号墓の被葬者2人と、4号墓被葬者(死亡時4〜5歳の少女)で見られ、それぞれ-4.297と-4.242です。両者の起源地は正確には特定できませんが、高い酸素18値は一般的に、より海の影響の強い地域、つまり西方と北方を表します。

 合計8人が同位体の外れ値とみなせます。これは、6人の女性(イルルバッハ墓地では2・4・6号墓被葬者、アルブルク墓地では8・9・16号墓被葬者)と2人の男性(イルルバッハ墓地の11・16号墓被葬者)を表しています。6人は成人で、そのうちイルルバッハ墓地16号墓被葬者のみが西部集団です。2人は子供で、それはイルルバッハ墓地の4号墓被葬者(死亡時4〜5歳の少女)と11号墓被葬者(死亡時11〜12歳)です。これらの被葬者のうち、ストロンチウム同位体比と酸素18の外れ値の組み合わせはありません。イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の外来民と地元民との比率は、アウグスブルク地域のBBC被葬者やドイツ南部の他の被葬者とひじょうによく一致しており、両墓地が父方居住と外婚の共同体であることと一致します。

 考古学・人類学・遺伝学の情報を組み合わせると、外来民のより複雑な状況が浮かび上がります。アルブルク墓地では、同位体データ外れ値の3人の女性のうち2人が第1期で、第一世代のキョウダイの隣に埋葬されています。しかし、その正確な関係と、2人がどのように結びついたのか、まだ情報が得られていない家族、とくに成人男性のために(全体では3人の成人男性と7人の女性)、確定するのは困難です。重要なことに、両墓地で唯一装飾されたビーカー容器が共伴されたアルブルク墓地の9号墓被葬者は、主成分分析では両墓地の被葬者で草原地帯およびCCW系統が最も低く、ヤムナヤ文化よりも前の新石器時代集団に寄っています。9号墓被葬者の息子のアルブルク墓地12号墓被葬者は地元で生まれ、死亡時年齢は7〜14歳です。その父親は、本論文で親族関係の情報が得られている成人男性には含まれませんが、この少年は3人の兄弟(1・2・13号墓被葬者)にとって、曾孫よりも、イトコの可能性の方が高そうです。

 アルブルク墓地16号墓被葬者の女性は、バイエリッシャー・ヴァルト山脈からドナウ川を渡って来た可能性が高いと言われているように、mtHgは稀なI3aで、対照的に、両墓地の標本群の中では草原地帯・CCW関連系統が最も高い個体群の1人です。アルブルク墓地14号墓女性には3親等の親族もおり、通常は学童期や若い成人の男性被葬者に見られる体の向きで埋葬されています。しかし、アルブルク墓地14号墓女性は、16号墓被葬者の隣に埋葬された3人の兄弟のうち1人、つまり2号墓被葬者とまったく関係がありません。したがって2人は、14号墓被葬者を16号墓被葬者の他のイトコとみなし、14号墓女性が16号墓被葬者のように外来民で同じ家族出身ではあるものの、アルブルク共同体には恐らく1世代後に到来した、と仮定しない限り、近い関係ではなさそうです。2人とも、同じように高い草原地帯・CCW関連系統を有します。アルブルク墓地8号墓被葬者は、おそらくは第二もしくは第三世代に到来した集団の成人女性です。彼女は近くに葬られた8号墓被葬者の学童期少年(本論文のデータでは父親は確認できません)と2親等の関係にあり、同じmtHg(H+16129)を共有しているので、彼の祖母もしくは母方のオバだった可能性があります。

 イルルバッハ墓地では、酸素18の外れ値個体は2号墓被葬者の若い成人女性で、子供とともに埋葬されていました。彼女は中期に埋葬され、外来のmtHg-X2c1に分類されます。対照的に、ストロンチウム同位体比の外れ値の3人は、最終期に埋葬されました。これは、この時点での新たな人々の到来事象を示しているかもしれません。6号墓被葬者は成人女性(死亡時45歳)で、孤立した場所に葬られていますが、酸素18の外れ値2人のうち1人である4号墓被葬者の少女とは3親等の関係にあるかもしれず、同じmtHg-H5a1に分類されます。

 イルルバッハ墓地の16号墓被葬者である成人男性は、西部集団で唯一の外れ値個体です。彼は主成分分析では最高級の草原地帯・CCW系統を有しており、稀なmtHg-W5に分類されるイルルバッハ墓地で唯一厳密な埋葬習慣から外れた成人女性の17号墓被葬者の、すぐ隣に葬られています。2人は夫婦だったかもしれませんが、西部および中央部埋葬集団他の構成員にとって、無関係だったようです。イルルバッハ墓地で夫婦だった可能性がある他の個体は、隣同士で葬られているものの、遺伝的には無関係のように見える、3号墓男性と2号墓女性、14号墓男性と13号墓女性です。

 イルルバッハ墓地では、11号墓の11〜12歳で死亡した少年が、隣に葬られた20号墓男性の息子で、14・22号墓被葬者の大甥でもありますが、同位体データでは外れ値個体です。11・20号墓の2人は東部で第三の被葬者となる21号墓女性(両墓地で唯一のmtHg-HV6に分類され、15歳と唯一の結婚適齢期の少女です)とともに、孤立した集団を形成します。15号墓少女の親族関係データはありませんが、その上腕骨の中隔開口部の非計測的特性から、14・22号墓被葬者と遺伝的につながっている可能性があるので、恐らくは2人の親族です。14・21・22号墓被葬者は全員ほぼ同年代で、別の移民集団を反映しているかもしれません。21号墓少女は、第一大臼歯と切歯でさまざまな同位体値を示し、おそらくはイルルバッハ共同体に結婚のために到来しました。しかし、明確な外部起源の同位体値を示すのは11号墓少年だけで、その父親(20号墓被葬者)とは異なります。この知見と一致する想定できるシナリオは、20号墓男性は元々イルルバッハで生まれて育ち、しばらく故郷から離れて同位体値の異なる環境に居住して息子(11号墓少年)が生まれ、帰郷するまでそこで暮らした、というものです。20号墓男性の複数の地域との関係と、彼が出身集団から離れなかった可能性を考慮すると、別のシナリオでは、11号墓少年は里子として幼い頃に親族に預けられ、亡くなる直前に戻って来た、となります。


●拡大主義の親族制度

 学際的知見から、イルルバッハとアルブルクという2ヶ所の後期BBC墓地の42基の墓に関して、6つの社会原則により特徴づけられるモデルが提案されます。

(1)基本的な親族単位は核家族です。これは、拡大家族集団というよりもむしろ、小さな家族集団を単に意味します。人類学で証明されているように、核家族はさまざまな方法で組織化されている可能性があります。結婚もさまざまな形態の可能性があり、本論文では最も広い意味で、おもに性的で社会により認可された、ヒト相互の関係の社会的制度として理解されます。イルルバッハ墓地における相互に隣接して埋葬された遺伝的に無関係なように見える男女の事例から、BBC社会の制度の生死における基本的役割に関する示唆が与えられるかもしれません。本論文の証拠を解釈するために、外婚や父系や父方居住という人類学的分類が用いられます。しかし、親族制度に関する文献は膨大で、考古学は、先史時代に親族および結婚制度をどのように適用するのか、まだより深く理解していません。本論文は、結婚と親族のパターンを、社会の政治的・経済的組織と、したがって権力構造の再現と密接に関連しているとみなす、研究伝統を支持します。強い規範的伝統が存在するとしても、そのような慣行は常に交渉可能なので、経時的に変化する可能性があります。親族戦略と祖先を用いて起源を主張し、階層化を可能にする方法も、人類学では指摘されています。北アメリカ大陸先住民のオマハ人の親族用語に関する最近の研究では、父系集団との強い相関関係が示されています。本論文でも示されるように、これは言語学でも実証されます。アルブルク墓地は、2人の兄弟とその妻の可能性がある女性(10代で死んだ第三のキョウダイの可能性があります)から始まり、時間の経過とともに、少なくとも遺伝的には1系統に統合されました。イルルバッハ墓地では、西部集団が異質で他集団とは無関係なので、1つの家族系統があります。本論文の記録ではその構成員の一部が欠けていますが、両墓地、とくにアルブルク墓地の事例では、成人男性に関して4〜6世代にわたって追跡できます。年齢分布に基づいて、これらの家族は、両親、さまざまな年齢の子供たちの一部、時として祖父母世代で構成されていました。この意味で、本論文における核家族は、両墓地よりも400年古く、文化的にはCWC区分される、ドイツのオイラウ(Eulau)遺跡の虐殺で報告されたものと同一です。これらCWCやBBCの構造は、その後のアウグスブルク市周辺のほぼ200年以上後の前期青銅器時代で浮き彫りにされたものとも同じです。

(2)これらの核家族集団は、家父長制・父系制・父方居住に基づいています(図9A・B)。これは、アルブルク墓地共同体の創始者である可能性が高い兄弟(1・2・13号墓の男性3人)により示されます。また、オイラウ遺跡やアウグスブルク市周辺で観察されたように、Y染色体の均一性と同位体の性的偏りからも明らかです。この見解はさらに、男性の子供と学童期の埋葬の選好(少年5人に対して少女3人で、学童期では少年2人に対して少女1人)にも裏づけられますが、両墓地の16人の未成年の中に性別が確定していない個体もあるので、この推測は不完全かもしれません。しかし、同様の事例は、他のドイツ南部のBBCや前期青銅器時代の墓地でも観察されています。アルブルク墓地4号墓女性の事例も、そのような核家族集団において地元育ちの女性が有することのできる重要な役割を示します。彼女は3人兄弟(1・2・13号墓の男性3人)と2親等もしくは3親等の親族で、おそらくは孫・姪か曾孫で、6号墓女性の母親でもあり、後の7・17号墓被葬者と密接な母系関係にあるので、世代間をつないでいます。しかし、彼女の親世代は不明なので、彼女もしくはその両親が、出身集団からしばらく離れて過ごしたのかどうか、推測できません。

(3)結婚制度は女性の外婚に基づいており、おそらく一夫一婦制です。これは、両墓地における同位体の証拠と男女の等しい被葬者数、イルルバッハ墓地における成人男女の同数、本論文の遺伝的記録における半キョウダイ(父親と母親の一方のみを共有するキョウダイ関係)の欠如により裏づけられます。またこの見解は、さまざまなmtHgの存在と、数世代にわたるさまざまな地域出身の女性によっても裏づけられます。イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の遺伝的背景も、一部の珍しいmtHgや核ゲノムにおける系統のさまざまな程度により示されるように、遺伝的系統の点でたいへん多様です。したがって女性はおもに、「前期・中期新石器時代」と「草原地帯・CCW」の、両方の遺伝的背景に由来します。当時、女性たちは全員、BBC共同体の一部でした。一部の個人もしくは集団は、現在ではハンガリーとなるドナウ川下流地域の出身の可能性があり、その地域では遺伝的により高い「新石器時代」系統が維持されています。このドナウ川のつながりは、現在のドイツ東部やチェコ共和国に存在したウーニェチツェ(Únětice)文化の領域の推測よりも広範で、アウグスブルク市周辺で観察される、BBCから前期〜中期青銅器時代にかけての「アナトリア農耕民関連系統」の増加に役割を果たしたかもしれません(関連記事)。

(4)相続制度は男性長子相続に基づいている可能性があります。子供たちの副葬品が先史時代社会で予測されるものよりずっと少ないだけではなく、子供たちは年齢と性別により埋葬形態で異なっています。乳児期1・2の子供たちで女性がわずかに少ないことは、幼い少女が妻として与えられていた可能性はあり得るとしても、選択を表していた可能性があるので、少年を選好する学童期の性的偏りがあったかもしれません。両墓地で唯一の10代女性(イルルバッハ墓地21号墓)は外部出身の可能性が高く、独特なmtHg(HV6)を示すので、15歳と若くして死亡した既婚の少女だったかもしれません。彼女の隣に埋葬された11号墓少年は里子だった可能性があり、有望な息子を親族に渡すような制度によく合致します。この習慣は、アウグスブルク市周辺で3人の成人男性でも観察され、第一大臼歯と第三大臼歯で明らかな同位体変化を示し、出生地に戻る前に地理的に異なる環境でしばらく過ごした、と推定されます(関連記事)。本論文の家父長制と父系制と父方居住と外婚の証拠を組み合わせると、男系での相続制度の可能性が高いことと、長子相続の重要性が示されます。長子相続は、一流の武器の組み合わせを備えた子供の埋葬により裏づけられ、BBCの狩猟者・戦士の継承された(達成されたのではなく)地位を男子に提供します。

(5)核家族は独立した世帯を形成した可能性が高そうです。しかし、埋葬された家族の構成員および/あるいは世帯主が、世帯を支えるものの埋葬の権利がないような、他の個体や家族ではない構成員や遠い親族なしに、100年も安定した世帯を維持できるのに充分だったのかどうか、という疑問が生じます。したがって、近隣の墓地だけではなく他の墓地における威信材と狩猟者・戦士の地位の不平等な分布は、家族・世帯内の階層化と、それ故の社会的不平等を示しており、不自由で地位の低い家族構成員を儀式的には見えなくしています。これは、その後のアウグスブルク市周辺の前期青銅器時代の墓地(関連記事)やウーニェチツェ文化とは対照的です。

(6)家族・世帯は、親族関係と観察された外婚慣行を通じて同盟を形成し、里子はそのような同盟をさらに築き上げ、おそらくは家族を氏族(クラン)に結びつけました。したがって同盟は、密接な地域的というよりもむしろさらに広域的で、より多くの政治的・民族的実体を形成し、不安定な期間もしくは拡大期間に動員されるようになった可能性があります。このパターンは、イギリスのストーンヘンジ近くのソールズベリー平原の、ほぼ同年代の親族集団により示されているように、ドイツ南部に限定されていません。ソールズベリー平原では、紀元前2200〜紀元前2031年頃の父親(I2600)と紀元前2140〜紀元前1940年頃となるその娘(I2600)がそれぞれ、相互に6.5km離れたエイムズベリーダウン(Amesbury Down)の墓地とポートンダウン(Porton Down)の墓地に葬られておいます。さらに、3親等・4親等の男性親族2人が、エイムズベリーダウンのI2457の隣と、ウィルスフォードダウン(Wilsford Down)に葬られており、後者は直接的祖先の可能性が高いものの、前者はI2600とI2600のイトコの可能性が高そうです。しかし、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の間には、親族関係もmtHgの共有もないので、そのようなつながりは存在しないようです。この状況は、アウグスブルク市周辺で示されるように、前期青銅器時代まで続いたようです。また現時点では、バイエルンの他の被葬者と正確に一致するmtHgはありません。イルルバッハ墓地およびアルブルク墓地の被葬者のmtHgと最も近いのは、アウグスブルク市のヒューゴ・エクケナー・ストラーセ(Hugo-Eckener-Straße)墓地の3号墓の個体(H1+10410+16193)で、アルブルク墓地では4・6・7・17号墓被葬者のmtHg(H1+10410+16193+16286)と、1ヶ所の変異のみが異なります。しかし両者の分岐は、これらアルブルク墓地個体群の数世代前に起きていた可能性があります。以下、本論文の図9です。
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●考察

 本論文では、比較人類学の解釈的枠組みとインド・ヨーロッパ語族の親族体系・制度の言語学的復元の中で、これまでの結果を位置づけます。インドネシア東部のスンバ島とティモール島の伝統的社会における父方居住婚と母方居住婚制度を比較した最近の研究では、これら2制度は言語と遺伝両方の優位に異なる結果をもたらす、と示されます。複数の言語がある地域に存在し、結婚後の居住規則が言語共同体間の持続的な方向性の移動を促進する場合、言語は片方の親側(父系もしくは母系)に沿って伝えられるでしょう。時間の経過とともに、これらの親族関係制度は、その遺伝子と言語の系統を形成しました。その結果、父方居住共同体へと嫁入りした女性は、夫側の言語の採用を強制されます。このような状況は、紀元前三千年紀のヨーロッパとよく似ている可能性があります。インド・ヨーロッパ語族が父方居住的な外婚制度を導入したならば、非インド・ヨーロッパ語族話者共同体の女性は、インド・ヨーロッパ語族話者共同体に移動し、その言語を用いたでしょう。時間の経過とともに、これは1つもしくは複数のインド・ヨーロッパ語族方言の遺伝的および文化的優位と統合につながるでしょう。

 本論文のデータから、女性の父方・夫方居住と関連する外婚制度の特定が可能です。これらの結果は、6.5km離れたエイムズベリーダウンとポートンダウンのブリテン島BBCの文脈で埋葬された父と娘の特定により裏づけられます。この親族関係モデルは、有史時代のインド・ヨーロッパ語族話者社会の間で広まっており、以前には、言語復元の手法によりインド・ヨーロッパ語族祖語(PIE)共同体の仮説が提示されてきました。外婚の言語学的指標は、婚資(brideprice、祖語ではh1uedmōn)という単語や、「嫁ぐ(‘to wed)と「導く(to lead)」(祖語ではuodheieti)のような動詞の同義語でおもに復元されたPIEの語彙から構成されており、花嫁はその出身地から離れて新たな夫の世帯へと行きました。

 父方居住および妻の親族との結果として起きる遠隔は、PIEの復元された親族関係用語が、妻の親族の名前の著しい欠如とは対照的に、夫の親族の名前へと強い偏りを示す、という事実によりさらに示唆されます(図9C)。したがって本論文は、紀元前三千年紀におけるPIE話者の言語学的に復元された親族関係構造と、最初期の歴史的資料に見られるその言語学的子孫の親族関係構造との間の、潜在的な継続の最初の特定を提供します。本論文のデータでは、1つの優勢な遺伝的男性系統を特定できますが、複数の女性系統が存在しており、経時的な強い父方居住と父系の優位を示唆します。これは、PIEで復元されてきた父系世帯と類似しており、家の主人(dems potis)、その妻(potnih2)、息子(suHnus)、未婚の娘(dhugh2tēr)、義理の娘(snusos)、孫(nepōts)で構成されます。

 このモデルは、いわゆるオマハ人の親族関係制度と類似しています。オマハの親族制度は、以下のように特徴づけることができます。父方の結びつき、とくに兄弟間が強調され、父方関連男性とその妻および子供たちで構成される世帯は通常、ひじょうに結束しており、最重要の政治・経済的単位です。強い管理が集団構成員の行動に及び、通常、とくに妻と子供は世帯主の独裁的な支配下にあります。結婚生活は厳密に夫方居住で、花嫁の富の支払いは通常高く、離婚や姦通に対しては強い制裁の可能性があります。このようなオマハ人社会の特徴に基づくと、本論文で示されたイルルバッハ墓地とアルブルク墓地は世帯主とその近親者を表しています。

 オマハ人社会の親族制度では、娘と同盟相手の結婚に成功した男性の系統・世帯は、他の人々よりも多くの婚資を受け取るだけではなく、里子の息子をもらう可能性も有したでしょう。里子の息子は、その母親の兄弟に迎えられ、若い戦士となります。母親の家族での少年の育成は、ドイツやケルトの集団など初期インド・ヨーロッパ語族話者共同体では一班的で、通常は母方のオジで育てられました。イルルバッハ墓地では、その可能性のある1事例が特定されました。11号墓の少年(11〜12歳で死亡)は、ストロンチウム同位体比では外来の痕跡を示し、その遺伝的な父親は隣の墓で埋葬され、異なる地域の痕跡を有しています。したがって11号墓少年は、おそらくオマハ人社会の用語では祖父(PIEではh2euh2os)と呼ばれる母方のオジとともにイルルバッハとは異なる地域で育てられ、思春期直前に帰郷して死亡した可能性があります。同様の証拠は、三重葬で母と2人の子供と指摘されているものの、生物学的には明らかに母親ではない、オイラウ遺跡の98号墓と、アウグスブルク市近郊の3ヶ所の埋葬で報告されています。これは、初期インド・ヨーロッパ語族の「キョウダイ」という言葉がより広い意味で使われているという観察や、親族関係もしくは共通の社会的所属に関連している若い男性の集団を示唆することと対応しています。

 オマハ人社会の親族関係制度の重要な側面は、その柔軟性と拡大の可能性です。ひじょうに機会主義的ですが、オマハ人社会では同じ家族と2回結婚できない、という1つの規則がありました。そのような規則が実施されたならば、より多様な同盟を生み出すので、交換・交易もしくは狩猟・戦争の動員のどちらであれ、潜在的な政治的支援を拡大するでしょう。これと一致して、本論文はイルルバッハ墓地とアルブルク墓地の両方で複数の女性のmtHgを識別でき、女性の遺伝を特定できました。したがって、唯一の優勢なYHg-R1b1a1b(M269)がある一方で、複数の女性系統(mtHg)が存在し、両墓地は相互に17kmしか離れておらず、ほとんど同年代にも関わらず、同じmtHgは一つもありません。この証拠は、結婚がじっさいに広範な同盟を築く手段で、それは景観に広がる単一の家屋という居住構造に役立った、という見解を裏づけます。これは、そのような制度では経時的に遺伝的多様性が増加する、という見解も裏づけます(関連記事)。このような制度では、拡大主義的同盟制度において家族の結びつきを維持し、新たな技術を外部から嫁ぎ先の世帯に導入する、という重要な役割が女性に認められます。

 元々のPIE社会の制度の言語学的復元がほぼオマハ人社会の制度に対応している一方で、BBC共同体の伝統は、間違いなく革新により特徴づけられます。たとえば、世代間傾斜と呼ばれる典型的なオマハ人社会の特徴、つまり母親側の男性の父系でも母系でもない親族に同一の親族用語を使うことは、PIEでは復元できません。この特徴の証拠は、ヨーロッパのいくつかのインド・ヨーロッパ語族で独立して出現し、アジアでは存在しません。したがって、それはヤムナヤ文化後の文脈で二次的に進化しました。遊動的な草原地帯牧畜民がより定住的な生活様式を採用すると、他の核家族およびとくに母親の親族との接触が強化され、新たな親族関係用語が新しい親族関係の役割とともに言語に追加されました。インド・ヨーロッパ語族方言の拡大を促進他可能性があるのは、この革新的な父系および父方居住親族関係モデルです。

 イルルバッハ墓地とアルブルク墓地は、アウグスブルク市周辺のBBC墓地集団よりもわずかに新しく、いくつかの良好な重複が存在し、イルルバッハ墓地のmtHgの多様性は、アウグスブルク市周辺のBBC墓地と類似している一方で、アルブルク墓地ではより低くなっています。むしろmtHgの多寡は、集団の異質性と均質性、もしくは成功あるいは不成功を反映しているようです。成功と不成功の問題に関しては、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地では女性のmtHgが共有されていないので、両者の間で競合が作用していたようです。これは、BBC期においてそのような結婚同盟がどれほど広範囲に及んだのか、という問題を提起します。アルブルク墓地では、ドナウ川を越えて到来した女性の1例と、おそらくは同じ場所のストロンチウム同位体比の外れ値個体の他の事例があります。アウグスブルク市周辺では、60kmほど離れた、レヒ川沿いと近隣のリース地域が想定されています(関連記事)。1000年後のヨーロッパ北部の青銅器時代には、ストロンチウム同位体比の解釈が正しければ、400〜500kmもしくはそれ以上の、若い女性の移動事例が知られています。

 性別比はほぼ1対1です。本論文の証拠では半キョウダイが検出されなかったことからも、一夫一婦制が優勢な原則と示唆されます。年齢の違いに関しては、いくつかの不均衡があります。明確に学童期(10代)の男性の方が多く(男女比で5:1)、男児の女児より高い死亡率もしくは埋葬における特定の男性の選択を示唆します。本論文は、長子相続の影響を検討します。長子相続は、男性系統の遺伝子と同様に、財産の継承における強い継続性も意味します。しかし長子相続は、将来どこか他の場所を探さねばならない男性も生み出します。したがって、新たな土地に移住する強い動員集団が存在するので、集団を拡大しますが、彼らは成長するまで、将来のために訓練する若い戦士の一団の特別な制度においてしばしば組織化されました。これも危険性と早期死亡の期間をもたらしたかもしれませんが、少女はおそらく思春期に入った頃にはすでに結婚しており、それは墓地における相違を説明するのに役立つかもしれません。これは、アウグスブルク市周辺の後の事例(関連記事)と、結婚同盟の一環としての可能性が高い、14歳でヨーロッパ中央部からデンマークまで移動した14歳で死亡した少女の事例を想起させます。

 イルルバッハ墓地とアルブルク墓地は、始まりだけではなく終焉もほぼ同じで、この地域における墓地のより広い終焉と、新たな場所での墓地の設立の期間に対応します。したがって、定住体系には一定の動態が存在し、100年後に場所を変える周期だったようです。アルブルク墓地では、最初に埋葬されたのは2人の兄弟(2・13号墓被葬者)で、おそらくは第三の兄弟(1号墓被葬者)も2人の隣に埋葬されました。しかし、このうち2人(2・13号墓被葬者)だけが、同じ墓地の後の被葬者の父親と祖父になるまで長く生きました。「建国の父」としての3兄弟は、ずっと後のインド・ヨーロッパ語族の民間伝承と神話で重要な役割を果たし、創始された新たな家族・世帯における長子相続の継承のない息子の役割を反映している可能性があります。それは、神話と象徴主義における「三」を重視する役割と対応しています。両墓地には4〜6世代が含まれると本論文は述べてきましたが、新たな親族の構成員は、周期の終わりに向かってイルルバッハ墓地の既存集団に加わったようです。それはおそらく、居住地の移転と拡大の新たな期間の始まりを示唆します。

 これらの観察は、CCWからBBCへの継続性で説明してきた社会制度の固有の拡大主義的動態を強調します。しかし、この型の社会的組織は、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地よりも600年古い、ポーランド南部のコシツェ(Koszyce)村の球状アンフォラ文化(Globular Amphora Culture、略してGAC)の集団埋葬(関連記事)の、遺伝的およびストロンチウム同位体比の結果とやや反しています。イルルバッハ墓地とアルブルク墓地の事例と同様に、コシツェ遺跡の集団埋葬では6系統のmtHgが確認されており、1系統のみのYHg-I2a1b1a2b1(L801)よりも多様です。これは、イルルバッハ墓地とアルブルク墓地のように外婚関係と父方居住と父系を示唆しており、おそらくは新石器時代と前期青銅器時代のヨーロッパで広く見られる慣行でした。

 しかし、違いもあります。コシツェ遺跡では、4つの核家族もしくはその一部が、単一の大きな拡大家族を形成していたので、親族関係の原則は、イルルバッハ墓地およびアルブルク墓地とは異なる性質だったかもしれません。コシツェ遺跡のmtHgはBBC集団よりもずっと少なく(15人のうち6系統)、何人かのキョウダイは同じ父親を共有していましたが、母親は異なっており、それにも関わらず相互に関係があったかもしれません。これは、非一夫一婦制もしくは連続的一夫一婦制のいずれかを示します。また、mtHgの多様性が低いことは、根本的に異なる結婚制度を示唆している可能性があるか、あるいは単に全体として遺伝的に均質な社会を示しているにすぎません。したがって、CCWとBBCの社会組織は、先行する新石器時代社会よりも異なる性質を有する兆候はあるものの、将来の研究から学べきことはまだ多くあります。


●まとめ

 考古学・人類学・同位体・古代DNAなど多くの種類の証拠を抽出して組み合わせることで、4000年以上前の2家族の人生について、空前の高解像度の解釈可能な物語の提示が可能となりました。結果は、最初に証明されたインド・ヨーロッパ語族社会と、インド・ヨーロッパ語族祖語の言語学的復元について知られていることと対応します。証拠は、他集団の女性と結婚し、娘を他の共同体に嫁がせることにより同盟ネットワークを構築するような、優勢な男性系統に基づく親族関係構造の復元を確証し、それは安定な期間の競争的動員の一部だった可能性があり、おそらくは金属のような資源の入手を確保するためでもありました。そのような制度は、よく記録されているオマハ人社会の父方居住および父系と長子相続に関連する外婚の親族構造と対応します。そのような制度は広範な移民方針を選好し、男系に沿った先史時代の語族の拡大や経時的な男系の遺伝的優勢に関して、初めて現実的なモデルを提供します。その結果、ヨーロッパ大陸の半分となる北部と西部のほとんどの現代人は、遺伝的に紀元前三千年紀のCCWおよびBBCの人々と関連しており、おそらくはその言語の発展型を話しています。

 しかし、考古学的・言語学的証拠は、むしろ相同的もしくは共有された状況を提供するものの、そのような社会組織はインド・ヨーロッパ語族集団だけてばなく、後の牧畜および農耕牧畜社会でも見られ、それは経済組織における類似性に基づいており、オマハ人社会の親族関係制度にも反映されています。したがって、本論文の考古学的事例研究は、将来の研究でより強力な一般化を達成できるかもしれない親族関係制度についての、考古遺伝学と言語人類学の復元との間の歴史的に特有の一致を提供する、と提案されます。しかし、本論文の結果はバイエルンのアウグスブルク市近郊のレヒ川流域の結果と一致しているので、CCW社会に起源があるものの、BBC社会のより広範な地域にまたがる制度化された慣行を扱っている可能性が高いようです。したがって、拡大主義社会組織についての本論文のモデルは、将来の比較研究に検証事例として役立つ可能性があります。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、考古学・自然(形質)人類学・遺伝学(とくに古代DNA研究)・言語学といった複数分野の知見を統合した、見事な学際的研究の事例を提供しているように思います。このような学際的研究において、近年の進展の目覚ましい古代DNA研究が果たした役割は大きく、ヨーロッパでは紀元前三千年紀でも、まだ一部地域とはいえ、親族制度や社会組織についてこれだけ多くの知見がすでに得られているとは、古代DNA研究がユーラシア西部、とくにヨーロッパと比較して大きく遅れているユーラシア東部圏の1個人としては、羨ましい限りです。ただ、ユーラシア東部でも、まだヨーロッパには遠く及ばないとしても、昨年古代DNA研究が大きく進展したので、今後はいわゆる先史時代でも、これまでよりも詳細な社会構造に関する知見が得られるのではないか、と期待されます。


参考文献:
Sjögren K-G, Olalde I, Carver S, Allentoft ME, Knowles T, Kroonen G, et al. (2020) Kinship and social organization in Copper Age Europe. A cross-disciplinary analysis of archaeology, DNA, isotopes, and anthropology from two Bell Beaker cemeteries. PLoS ONE 15(11): e0241278.
https://doi.org/10.1371/journal.pone.0241278

https://sicambre.at.webry.info/202101/article_5.html

3. 2021年2月10日 11:55:26 : TlFczT83Iw : bUdxY2h5ZlBYM0E=[10] 報告
雑記帳 2021年02月10日
ドイツの新石器時代集団の遺伝的構成
https://sicambre.at.webry.info/202102/article_11.html

 ドイツの新石器時代集団の遺伝的構成に関する研究(Immel et al., 2021)が公表されました。過去数年にわたって、大規模な古代DNA研究により、ヨーロッパの古代人および現代人の複雑な遺伝的歴史が明らかにされてきました(関連記事)。最近の研究は、とくに新石器時代の人口動態に焦点を当てています。紀元前5450〜紀元前4900年頃となる均一な線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)とともにヨーロッパ中央部全域で出現する最初の農耕民は、おそらく狩猟採集民と約2000年間共存していました。農耕民と狩猟採集民の両集団は近接して居住していたと考えられていますが、当初、混合は限定的でした(関連記事)。この状況は、初期農耕民による狩猟採集民集団に典型的なゲノム構成要素の遺伝子移入を通じて、紀元前4400〜紀元前2800年頃に変わりました。

 後期新石器時代は、強い地域的な多様化と分類の小単位の寄せ集め(たとえば、考古学的文化)により考古学的に特徴づけられます。後期新石器時代開始期に出現したヨーロッパ西部のそうした単位のうち一つは、紀元前3500〜紀元前2800年頃となるヴァルトベルク(Wartberg)文化(WBC)と関連しており、これは紀元前3800〜紀元前3500年頃となる後期ミシェスベルク(Late Michelsberg)文化(MC)から発展した可能性が最も高そうです。WBCはおもにドイツ中西部で見られます(図1)。WBCは隣接する地域とは異なる巨大回廊墓の巨石建築で知られていますが、パリ盆地とブルターニュ地方の同様の遺跡とひじょうによく似ています。いくつかの方向からの文化的影響を接続するWBCの中心的な地理的位置にも関わらず、WBC遺跡群の人類遺骸のゲノム規模データはこれまで調査されてきませんでした。

 この研究は、ドイツのヘッセン州のニーダーティーフェンバッハ(Niedertiefenbach)町近くのWBC回廊墓に埋葬された、紀元前3300〜紀元前3200年頃となる42個体のゲノム規模分析を行ないました。通常は特定の遺跡と期間の少数個体を含む他のゲノム規模古代DNA研究とは対照的に、本論文は、集団墓地を約100年間使用した埋葬共同体のある一時点を提供します。集団遺伝学と親族関係分析の実行に加えて、免疫関連のHLA(ヒト白血球型抗原)領域も調べられました。この手法により、ニーダーティーフェンバッハ町近くのWBC関連の人々遺伝的系統の復元だけではなく、後期新石器時代集団の免疫関連遺伝子の構成への洞察も得られました。以下、本論文の図1です。
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●DNA解析

 ニーダーティーフェンバッハ町近くのWBC回廊墓の個体群のうち、25個体で年代が測定されました。この25個体全ての年代は、紀元前3300〜紀元前3200年頃と示唆されました。89個体のうち汚染を示す個体を除いた42個体のゲノムデータが、以下の分析で用いられました。これら42個体のDNA損傷パターンは、古代DNAに特有のものを示しました。血液媒介病原体の証拠は得られませんでした。遺伝的には、42個体のうち10個体が女性、25個体が男性で、7個体は性染色体の配列網羅率が欠落しているか低いため、性別を明確に決定できませんでした。そこで、骨格形態に基づいて、女性1個体と男性1個体が追加で識別されました。したがって、42個体のうち、11個体が女性、26個体が男性と決定されました。

 まず、この42個体から得られた一塩基多型情報が、主成分分析を用いて、既知の古代人122集団のデータセットとともに、ユーラシア西部現代人59集団から計算された基本図に投影されました。ニーダーティーフェンバッハ個体群は、第一主成分でおもに狩猟採集民と初期農耕民との間の遺伝的変動により説明されるクラスタを形成しました(図2)。しかし、ニーダーティーフェンバッハ標本群は、集団内の高い多様性を反映す広範な遺伝的空間にまたがっています。一部のニーダーティーフェンバッハ個体は、ドイツのハーゲンのブレッターヘーレ(Blätterhöhle)遺跡(紀元前4100〜紀元前3000年頃)の2標本と密接に集団化します。

 4〜8の系統構成要素(K=4〜8)のADMIXTURE分析では、ニーダーティーフェンバッハ個体群への2つの主要な遺伝的寄与が示唆されます。一方はヨーロッパ狩猟採集民で最大化される系統構成要素で、もう一方はアナトリア半島の新石器時代農耕民で最大化される系統構成要素です。次に、f3外群統計を適用して、外群に対する、ニーダーティーフェンバッハ個体群と他の検証集団との間で共有される遺伝的浮動量が計算されました。共有される遺伝的浮動の最高量は、ニーダーティーフェンバッハ個体群とシチリアやクロアチアやハンガリーのヨーロッパ狩猟採集民との間で観察されました。

 ニーダーティーフェンバッハ集団における新石器時代農耕民と狩猟採集民の遺伝的系統量を推定するため、qpAdmが実行されました。ニーダーティーフェンバッハ集団の可能性が高いモデルは、アナトリア半島起源の新石器時代農耕民とさまざまなヨーロッパ狩猟採集民の2方向混合として得られました。平均すると、新石器時代アナトリア半島農耕民系統が60%、ヨーロッパ狩猟採集民系統が40%です。ニーダーティーフェンバッハ集団の別の可能性が高い2方向混合モデルは、アナトリア半島農耕民系統(41%)とブレッターヘーレ遺跡個体群の組み合わせです。

 次に、連鎖不平衡(複数の遺伝子座の対立遺伝子同士の組み合わせが、それぞれが独立して遺伝された場合の期待値とは有意に異なる現象)に基づく年代測定法(ALDER)を用いて、ニーダーティーフェンバッハ集団における、初期農耕民およびヨーロッパ西部狩猟採集民と関連する系統構成要素の混合年代が推定されました。本論文ではヨーロッパ西部狩猟採集民の代表として、ルクセンブルクのヴァルトビリヒ(Waldbillig)のロシュブール(Loschbour)遺跡の中石器時代個体が用いられました。ALDERでは、ニーダーティーフェンバッハ個体群の年代(紀元前3300〜紀元前3200年頃)から14.85±2.82世代前の混合が推定されました。1世代を29年と仮定すると、ニーダーティーフェンバッハ共同体の遺伝的構成の出現年代は、紀元前3860〜紀元前3550年頃のようです。以下、本論文の図2です。
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 表現型の再構築のため、皮膚の色素沈着と髪の色(rs16891982)、目の色(rs12913832)、デンプン消化(rs11185098)、ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(rs4988235)と関連する選択された一塩基多型が調べられました。配列網羅率の低さのため、調べられた個体全てで、これらの一塩基多型の全てが利用可能だったわけではありません。ニーダーティーフェンバッハ個体群のゲノムデータ分析に用いられた42個体のうち14個体は、rs16891982-Cアレル(対立遺伝子)を有しています。これは、濃い髪の色および皮膚の色素沈着の増加と関連しており、3個体は両方のアレル(CとG)を有していました。青い目の色と関連するrs12913832-Gを有しているのは3個体のみで、7個体は茶色の目と関連するアレル(rs12913832-A)を、8個体は両方のアレルを有していました。rs11185098の少数派アレル(A)は、デンプン消化と関わるアミラーゼ1(AMY1)遺伝子コピーおよび高いアミラーゼ活性と正の関連があります。Gアレルでホモ接合型なのは1個体のみで、6個体は両方のアレルを有していますが、Aアレルのホモ接合型を有する個体は見つかりませんでした。rs4988235の充分な網羅率を有する全個体はGアレルを有していました。Gアレルは祖先的ハプロタイプで、ラクターゼ活性非持続と関連しており、ニーダーティーフェンバッハ集団は乳産物を消化できなかった、と示唆されます。

 ニーダーティーフェンバッハ個体群のHLAクラスIおよびIIアレルを決定するため、以前に開発された手法が適用されました。さらに、HLA 型判定ツールのOptiTypeも使用されました。両方の方法で一貫して見られたアレルのみが、分析の対象となりました。3個の古典的なHLAクラスI遺伝子座A・B・Cでのアレルと、無関係な23個体における3個のHLAクラスII遺伝子座DPB1・DQB1・DRB1の遺伝子型決定に成功しました。これら6個の遺伝子座それぞれについて、2つの最も一般的なアレルは、現代ドイツ人集団とは頻度で少なくとも9%異なり、95%信頼区間(CI)を考慮した場合でさえ、古代と現代のHLAアレルプールの間におけるかなりの違いが示唆されます。

 代理一塩基多型を用いると、12個のアレルのうち7個で、既知のデータセットにおける経時的頻度を追跡できます。このうち5個、つまりHLA-B・C・DRB1のアレルは、ニーダーティーフェンバッハ標本群もしくは初期農耕民よりも狩猟採集民(47%以上)でずっと高頻度と観察されました(図3A)。この知見と一致して、これらのアレルは現代ドイツ人ではさらに低頻度で、HLA-C*01:02のように、その多くは統計的に有意でした。興味深いことに、このアレルはニーダーティーフェンバッハ個体群で観察されたHLA-Cアレル間で最も高い系統発生的相違のいくつかも示しました(図3B)。

 所与のHLA遺伝子座における2個のアレルのアミノ酸配列間の相違の増加は、コードされたHLA分子多様体間のより大きな機能的違いの代理であり、提示された抗原のより大きな全体的範囲につながり、より高い免疫能力と関連しています。じっさい、HLA-C遺伝子型がC*01:02を含むニーダーティーフェンバッハ個体群は、このアレルを有さない個体群よりも、HLA-Cアレル間でより高い差異を示します。さらに、ニーダーティーフェンバッハ個体群におけるHLAアレルは、特定のウイルスペプチドセットに結合するようです。同様のパターンは、HLA-B遺伝子座の最高頻度アレルB*27:05でも観察されました。全体的に、これら2個のアレルと他のアレルの頻度の違いは、ニーダーティーフェンバッハ個体群とドイツ現代人との間のアレルプール構成における有意な違いにつながります。以下、本論文の図3です。
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 本論文は、29系統の異なるミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)と、Y染色体ハプログループ(YHg)I2に分類される5系統のY染色体ハプロタイプに注目しました。高解像度のY染色体ハプロタイプ情報が得られた男性16個体のうち10個体は、同じハプロタイプ(I2c1a1)を有していました。f3外群統計とREAD(Relationship Estimation from Ancient DNA)を用いて、親族関係分析が実行されました。両プログラムは、女性1人と男性2人の3人組を一親等(英語圏では親子とキョウダイ)の親族関係として特定しました(女性KH150622と男性KH150620およびKH150623、mtHgは3個体ともX2c1で、YHgは2個体ともI2a1a1a)。骨格形態分析では、これら3個体は全員乳児期(1〜3歳)もしくは早期子供期(4〜6歳)に死亡したと示されるので、親子関係は除外できます。したがって、この3人はキョウダイとなり、これは、それぞれのmtDNAハプロタイプとY染色体ハプロタイプとHLAアレル特性により裏づけられます。


●考察

 ヨーロッパにおける、広大な地域の均質な物質文化により特徴づけられるLBKから、後のより多様な新石器時代社会への変化は遺伝的混合を伴っていた、と明らかに確認されています。しかし、この変化の根底にある集団の相互作用はまだ充分には解明されていませんでした。この混合事象は地理的にひじょうに局所化されており、異なる系統構成要素を有するさまざまな集団が関わっていました。これらの過程は、中期〜後期新石器時代共同体で観察される、狩猟採集民系統の割合とmtDNA系統における増加につながりました。ヨーロッパにおいて何がこれらの広範な人口統計学的およびゲノム過程に影響を及ぼしたのか、現時点では不明ですが、気候変化および/もしくは社会的過程が要因とみなされる可能性があります。

 本論文では、ドイツのニーダーティーフェンバッハ町近くのWBC回廊墓地で発掘された後期新石器時代42個体の共同体が調べられました。この共同体の放射性炭素年代は紀元前3300〜紀元前3200年頃で、これはヨーロッパ中央部における草原地帯系統の到来のわずか数百年前となります。興味深いことに、草原地帯系統を有する混合の遺伝的証拠は観察されませんでした(たとえば、草原地帯系統を有する適切な2方向混合モデルや、草原地帯系統関連集団がヨーロッパ中央部や西部にもたらしたと考えられるYHg-R1bはありませんでした)。

 ニーダーティーフェンバッハ集団は、狩猟採集民と早期農耕民のゲノム構成要素の混合を示します。比較的高い遺伝的な狩猟採集民の割合の連続的範囲(34〜58%)は、驚くべきことです。混合年代推定からは、この2系統構成要素の混合は紀元前3860〜紀元前3550年頃に起きた、と示唆されます。これらの結果から、寄与する集団自身がすでにどの程度混合していたのか、あるいはどの生存経済が採用されていたのか、推測することはできません。しかし興味深いことに、推定された混合年代は、後期MC(紀元前3800〜紀元前3500年頃)における農耕拡大段階および社会的変化と一致します。

 考古学的には、後期MCからWBCにかけてのよく記録された継続性があります。フランスとドイツの2ヶ所のMC遺跡のmtDNAからは、分析された個体群はすでに、農耕民と狩猟採集民両方に典型的なハプロタイプを含む混合された集団に属す、と示唆されています。明確な考古学的MC文脈からのヒトゲノム規模データセットは、まだ利用可能ではありません。考えられる例外は、ドイツのハーゲンのブレッターヘーレ遺跡の4個体のデータで、これは年代的(放射性炭素年代で紀元前4100〜紀元前3000年頃)および地理的に後期MCおよび/もしくはWBCと関連しているかもしれません。しかし、ヒト遺骸があらゆる明確な文化的分類のない洞窟で発見されたことに要注意です。

 本論文の分析では、ニーダーティーフェンバッハ集団は、ブレッターヘーレ遺跡個体群と最も密接に関連しているようです。ブレッターヘーレ遺跡個体群では、ニーダーティーフェンバッハ集団で観察された範囲内の大きな狩猟採集民系統構成要素(39〜72%)を示します。さらに、ブレッターヘーレ遺跡個体群はニーダーティーフェンバッハ標本群における狩猟採集民構成要素の優れた代理です。また、本論文におけるニーダーティーフェンバッハ集団の混合年代は、ブレッターヘーレ遺跡個体群の混合年代(紀元前3414±84年という標本群の平均年代の18〜23世代前)とひじょうによく類似しています。したがって、ブレッターヘーレ遺跡に埋葬された人々と、ニーダーティーフェンバッハ町近くの回廊墓に埋葬された人々との間には、遺伝的つながりがあるかもしれません。

 ニーダーティーフェンバッハのWBC関連集団は、狩猟採集民系統の割合がひじょうに幅広い、遺伝的に多様な集団を表しています。この知見は、混合がその時点でまだ進行中だったか、数世代前に起きたことを示唆します。この想定は、混合年代分析により暫定的に裏づけられます。驚くほど大きな狩猟採集民系統構成要素から、その混合は排他的もしくはほぼ排他的な遺伝的狩猟採集民系統を有する個体群も含んでいた、と考えられそうです。利用可能な全ての一連の証拠を考慮に入れると、狩猟採集民構成要素の増加は、MCの統合期および/もしくはWBC開始期に起きた可能性が高く、混合していない在来のヨーロッパ西部狩猟採集民から拡大する農耕集団への直接的な遺伝子流動も含んでいた、と仮定されます。

 ニーダーティーフェンバッハ標本の遺伝的データは、考古学および形態学の分析から得られた情報とともに、この回廊墓を使用した共同体に光を当てます。この7uの墓から少なくとも合計177個体の骨格遺骸が発見され、集団的なWBC埋葬のひじょうに高い占有率を反映しています。標本の遺伝的な性別分布からは、成人と亜成人における男性の過剰(70%)が示唆され、これは他の新石器時代集団では報告されていません。この研究は無作為な標本抽出戦略に従ったため、このような過剰は注目に値し、埋葬の偏りを反映しているかもしれません。年齢に関しては、ドイツの新石器時代墓地でよく報告されている、子供の少なさは観察されませんでした。表現型の復元から、検証された個体群はおもに濃い顔色をしており、遺伝的にはまだ、デンプンが豊富な食品もしくは乳糖を消化するようには適応していない、と明らかになりました。これらの表現型は通常、狩猟採集民と初期農耕民で報告されてきました。

 全体的にゲノムデータからは、回廊墓はおもに、さまざまな近隣地域に居住していたかもしれない密接に関連していない人々により使用された、と示唆されます。この観察は、多数のmtHgにより裏づけられます。しかし、関連のある個体も埋葬され、上述のようにキョウダイと思われる3個体が確認されました。さらに、1種類のみの高頻度のY染色体ハプロタイプ(I2c1a1)の存在は、父系社会を示唆します。

 ヨーロッパ中央部の新石器時代集団の健康状態を調査した研究と一致して、ニーダーティーフェンバッハ個体群は、栄養失調や伝染病など身体的ストレスを示唆する多くの非特異的な骨格傷害を示します。興味深いことに、病原体は検出されませんでした。この観察は、新石器時代には感染症疾患が比較的少なく散発的だったことを報告する、古代DNAに基づく知見と一致します。

 ニーダーティーフェンバッハ標本で生成されたHLAクラスIおよびIIデータセットは比較的小さかったので、高度な統計分析はできませんでした。しかし、現代ドイツ人集団と比較して、アレル頻度におけるいくつかの顕著な変化が観察できました。興味深いことに、現在ではあまり一般的ではないアレルのいくつか(たとえば、A*02:01、B*27:05、C*01:02、DQB1*03:01、DRB1*08:01)は、ヒト免疫不全ウイルス(HIV)やC型肝炎ウイルス(HCV)やA型インフルエンザウイルスやヘルペスウイルスなどウイルス性病原体に対するより高い耐性と関連しており、しばしば細菌感染もしくはその合併症に対するより高い感受性と関連しています。

 HLAクラスIおよびIIの最高頻度のアレルを経時的に追跡すると、5個のHLA-B・C・DRB1アレルが狩猟採集民の特徴であるものの、後の農耕民の特徴ではない、と明らかになりました。したがって、ニーダーティーフェンバッハ標本におけるそれらの高頻度は、集団におけるかなりの狩猟採集民関連系統の割合を反映しているかもしれません。それらのアレルは、より高い配列の相違や提示された抗原の固有の種類などその機能的特有性のために、その時点においてこの頻度で維持されていたかもしれません。これらの特性は両方とも、多様なウイルスや他の病原体との戦いにおいて利点をもたらすはずです。後に、それらのアレルは相対的な適応度の利点を失ったかもしれません。たとえば、病原体が負の頻度依存選択の過程でこれら最も一般的なアレルに適応し、ペスト菌(Yersinia pestis)のような新たに出現したヒト病原体細菌に対する有益なアレルに置換された、といった理由です。かつて一般的だったHLA-C*01:02アレルについては、現在、感染性病原体素に対する保護効果は知られていません。したがって、HLA-C*01:02アレルが、新石器時代B型肝炎ウイルス(HBV)系統で報告されてきたように、病原性がなくなった、もしくは絶滅した病原体の防御で進化してきた、と推測するのは魅力的です。

 別の注目すべき違いは、HLA- DRB1*15:01アレルに関するものです。これは現代ヨーロッパ人では広く見られますが(約15%)、ニーダーティーフェンバッハ標本群では見られません。このアレルを有していると、マイコバクテリア感染症(結核およびハンセン病)にかかりやすくなります。疾患研究では、一塩基多型アレルrs3135388-Tは、しばしばDRB1*15:01の遺伝標識として用いられます。既知の古代DNAデータセットでは、rs3135388-Tは分析されたヨーロッパの旧石器時代・中石器時代・新石器時代集団の全てで欠けている、と明らかになりました。rs3135388-Tは、青銅器時代に初めて出現したようです。それ以来、その最初の高頻度(20%)は現在の低水準に減少しました。この知見は、rs3135388-Tが末期新石器時代および青銅器時代に、ヨーロッパ人の遺伝子プールに草原地帯関連系統構成要素の一部として組み込まれたかもしれない、という興味深い可能性を提起します。古代人の標本規模が限られていることを考慮すると、これらの考察は推測に留まっており、さらなる古代人集団のHLAデータが利用可能になるまで、確証を待っています。

 農耕の到来とその後の病原体暴露の変化は、初期農耕民の免疫遺伝子を根本的に変えた、と考えられています。ニーダーティーフェンバッハ標本の免疫反応は、ウイルス性因子との戦いに向けられているようです。このHLA特性がニーダーティーフェンバッハ集団固有の人口史(つまり、高い狩猟採集民系統の割合)にどの程度起因するのか、もしくは紀元前四千年紀の新石器時代共同体にどの程度典型的だったのか、まだ明らかにではありません。全体的に本論文では、現代ヨーロッパ人のHLAの種類が過去5000年のいつかというごく最近に確立され、集団混合により形成されたかもしれない、と示されます。

 ニーダーティーフェンバッハ町近くの集団墓地に埋葬されたWBC関連個体群への包括的なゲノム科学手法の適用により、この墓地を約100年間使用したニーダーティーフェンバッハ共同体は遺伝的に異質で、新石器時代農耕民関連系統と狩猟採集民関連系統の両方を有していた、と明らかになりました。これら2構成要素の混合は紀元前四千年紀初めに起きた可能性が高く、ヨーロッパ西部におけるその時期の重要な人口統計学的および文化的変化を示唆します。またこの事象は、その混合集団と子孫の免疫状態にその後何世代にもわたって影響を及ぼしたかもしれません。


参考文献:
Immel A. et al.(2021): Genome-wide study of a Neolithic Wartberg grave community reveals distinct HLA variation and hunter-gatherer ancestry. Communications Biology, 4, 113.
https://doi.org/10.1038/s42003-020-01627-4


https://sicambre.at.webry.info/202102/article_11.html

4. 2021年4月17日 09:50:51 : RSLdzPRb1s : Y0wwMFV6MDlreDI=[14] 報告
フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の二人の王妃【ゆっくり解説】
2021/04/17



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