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太平洋先住民の起源
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/355.html
投稿者 中川隆 日時 2020 年 11 月 02 日 11:43:36: 3bF/xW6Ehzs4I koaQ7Jey
 

太平洋先住民の起源


雑記帳 2009年01月25日

太平洋への人類の拡散
https://sicambre.at.webry.info/200901/article_25.html

 ピロリ菌のDNAの塩基配列と言語系統樹との比較から、太平洋への人類の拡散の様相を推定した2つの研究(Moodley et al., 2009、Gray et al., 2009)が公表されました。ピロリ菌(ヘリコバクター=ピロリ)のDNAの塩基配列を比較した研究(Moodley et al., 2009)では、台湾とオーストラリアの先住民・ニューギニアの高地人・ニューカレドニアのメラネシア人とポリネシア人から、ピロリ菌の標本が採取されました。ピロリ菌は人間特有の細菌なので、宿主である人間とともに世界中に広まり、遺伝的に分化していくことになります。

 ピロリ菌DNAの塩基配列の比較の結果、過去数千年の間別々に進化してきたと思われる菌株2種が確認されました。そのうちの1つは“hpSahul”で、スンダランドを経由してニューギニアおよびオーストラリアへと人類が移住したのにともない、3万年以上前にアジアのピロリ菌から分化しました。もう1つは“hpMaori” で、台湾からフィリピン・ポリネシア・ニュージーランドへの人類の移住のさいに、5000年前以降に広がっていきました。

 言語系統樹を比較した研究(Gray et al., 2009)では、台湾から太平洋地域への人類の拡散について、オーストロネシア語の比較から分析されました。この研究では、210個の基本語彙における類似性に基づいて、400種の言語の関係を表した系統樹が作成されました。その結果、オーストロネシア語族の起源は台湾にあり、5000年前以降に分化し始めたことが示されました。

 またこの移住には、2度の大きな中断があると推測されました。最初の中断は台湾からフィリピンへの移住の間で、おそらく両地域を分断する350kmにおよぶ海峡を横断するのが困難だったためと考えられます。2度目の中段は西ポリネシアにおいてのもので、東ポリネシアの島々の間の広大な距離を渡るには、もっと優れた技術や社会革新が必要であったため、と考えられます。

 広大な太平洋への人類の拡散は、現生人類史において、アメリカ大陸・オーストラリア大陸への拡散と匹敵するか、それ以上の壮挙と言うべきで、そのさいに育まれた文化には、現代でも見るべきものが少なからずあるのではないか、と思います。その太平洋への人類の拡散について、遺伝学と言語学の分野から相互補完的な研究が提示されたことは興味深く、今後、こうした諸分野の研究を統合した、大きな枠組みの提示が進むことが期待されます。


参考文献:
Gray RD. et al.(2009): Language Phylogenies Reveal Expansion Pulses and Pauses in Pacific Settlement. Science, 323, 5913, 479-483.
http://dx.doi.org/10.1126/science.1166858

Moodley Y. et al.(2009): The Peopling of the Pacific from a Bacterial Perspective. Science, 323, 5913, 527-530.
http://dx.doi.org/10.1126/science.1166083

https://sicambre.at.webry.info/200901/article_25.html  

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コメント
1. 2020年11月15日 10:18:49 : WBwhDwKyTw : MGZIdEtpL1hETS4=[21] 報告
2020年11月15日
古代DNAデータから推測されるバヌアツにおける複数の移住
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_20.html


 古代DNAデータからバヌアツにおける複数の移住を推測した研究(Lipson et al., 2020)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。太平洋の人類史研究における重要な違いは、ニアオセアニアとリモートオセアニアとの間にあります。ニアオセアニアは西太平洋の一部で、ニューギニアやビスマルク諸島(ニューブリテン島やニューアイルランド島など)やソロモン諸島を含み、現生人類(Homo sapiens)は5万年前頃に到来しました。リモートオセアニアはミクロネシアおよびポリネシアの全域と、バヌアツやニューカレドニアやフィジーや岩礁の散在する島々やソロモン諸島南東部のサンタクルーズ諸島といった、メラネシアの島々を含みます。

 バヌアツは、リモートオセアニア南部において人類が居住した最初の島嶼集団で、それに続く3000年の重要な地域的交差点になったという意味において、太平洋の移民史における重要な群島です。バヌアツの遺伝的歴史は、定住過程の個体群からのゲノム規模データにより明らかにされてきました(関連記事)。バヌアツへの最初の移民(M1)は、ラピタ文化複合の初期段階と関連しており、オセアニアへのオーストロネシア語族の最初の拡大と関連していた可能性が高そうです。オーストロネシア語族集団は今では、もっと広範に拡大しています。オーストロネシア語族は台湾に起源があり、ほぼ完全なアジア東部関連系統を有しており、「最初のオセアニア人(FRO)」と呼ばれてきました。

 対照的に「先住現地バヌアツ人」として識別される現代人を含む後の個体群はおもに、ニューブリテン島起源の可能性が高いパプア人系統を有しており、2800年前頃以後、最後のラピタ文化期もしくはラピタ文化期後にサンタクルーズ諸島とバヌアツへ到達しました。本論文は、ニアオセアニアの現代人集団で見られる系統の大半に寄与した深い祖先的系統を「パプア人」と呼びます。以前の研究では、この2回目の移住(M2)が、短期間に起きたのか、一定以上の時間を要した漸進的な遺伝的交換だったのか、議論になりました(関連記事)。

 以前の研究でも、過去1000年に起き、バヌアツにおける「ポリネシア人外れ値」の確立と関連した、第三の異なる移住の波(M3)の詳細な兆候については、言及されたものの深くは扱われませんでした。そうした「ポリネシア人の外れ値」は、ポリネシア人の下位集団の言語が話され、ポリネシア人の物質および非物質文化が見られる島々のことです。バヌアツにおけるポリネシア人の影響は、完全な言語置換を伴わない外れ値共同体に隣接する多くの島々にも拡大しました。しかし、これらのポリネシア人に由来する文化的および言語的変化を伴う人口移動の程度については、ほとんど知られていません。

 そうしたポリネシア人影響を受けた島の一つがバヌアツ諸島中央部のエファテで、ポリネシア語話者の2共同体が現在存在しており、一方は小さな沖合の島であるイフィラ(Ifira)、もう一方はバヌアツ諸島南西部の島であるメレ(Mele)です。エファテ島とその隣接するエレトク(Eretok)島およびレレパ(Lelepa)島に位置する「ロイマタ首長の領地」は、口承伝統と1960年代に発掘された壮大な埋葬遺跡との間のつながりに基づいて、2008年にユネスコ世界遺産に登録されました。地元の口承伝統と関連する物質文化の側面のいくつかの異形は、エファテ島および隣接する羊飼い集団の島々におけるロイマタ首長およびその政治的役割についての物語に示されるように、強いポリネシア人の影響を示唆します。エレトク島の埋葬遺跡は、当初紀元後13世紀と考えられていましたが、エレトク島およびロイマタ首長およびその最も密接な従者たちの故地と言われてきたエファテ島のマンガース(Mangaas)村遺跡の放射性炭素年代測定から、今では紀元後1600年頃と推定されています。

 ロイマタ首長の領地の歴史、より一般的にはバヌアツにおけるポリネシア人の影響の歴史に関する遺伝的視点を得るため、伝承によるとロイマタが埋葬されたエレトク(レトカもしくはハット)島の3個体と、マンガース村の床下埋葬の2個体がともに、古代DNA分析のために標本抽出されました。また、公開されたデータを補完する、追加の6個体のゲノム規模古代DNAデータが新たに報告されます。このうち4個体はテオウマ遺跡のラピタ文化共同墓地(3000〜2750年前頃)から、1個体はタプリンズ(Taplins、メレ)1岩陰から、1個体はバナナ湾から得られました。

 これら11個体が、既知のバヌアツの古代人26個体、他の古代オセアニア人8個体、多様な現代人集団と組み合わされ、上記の人類集団の移動(M1・M2・M3)に関する以下の主要な問題に光が当てられました。M1に関しては、テオウマ遺跡のラピタ文化期の埋葬の標本増加は他の遺跡と組み合わされて、以前の報告よりも多様な創始者集団を明らかにしますか?M2に関しては、バヌアツへのパプア人の移住の起源地・年代・期間をよりよく解明できますか?M3に関しては、ロイマタ首長の領地の世界遺産地域内のエレトク島とマンガース村から新たに報告された個体群は、一部の口承伝統と考古学的記録の特徴が示唆するように、ポリネシア人との特別な関連性を示しますか?以下、本論文で取り上げられた島々や遺跡の位置を示した図1です。

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●主成分分析

 主成分分析(図2)は、PC1軸が最初のリモートオセアニア人(FRO)の相対的比率(左側ほど低く、右側ほど高くなります)、PC2軸がソロモン諸島人(上側)とニューギニア人(下側)との類似性に対応します。ニューブリテン島とバヌアツの現代人集団は、PC2軸に沿って比較的均一な値でクラスタを形成しますが、PC1軸に沿って適度な広がりを形成し、ポリネシア人およびポリネシア人外れ値集団がさらに右側に位置します。古代の個体群はほとんど同じ島の連鎖からの現代人集団と重なりますが、バヌアツのエファテ島のテオウマ遺跡およびトンガのタラシウ(Talasiu)遺跡のラピタ文化関連個体群と、マラクラ(Malakula)島の古代個体群、エレトク島およびエファテ島マンガース遺跡の一部個体群は、さらに右側に位置します。

 主成分分析(図2)のバヌアツ内における最大の変異の方向性はほぼ左から右(異なるFROとパプア人の混合比率を反映している可能性が高そうです)で、ニューブリテン島やバヌアツやポリネシアや古代のラピタ文化関連個体群と関連する変異の主要な方向とよく一致します。このパターンは、この拡張された勾配に沿った集団の多くもしくは全てが、異なる割合の系統構成の一対の共有として単純な方向でモデル化できる、という可能性を示唆します。一方は、ニューブリテン島とバヌアツの一部で100%近く見られる系統と関連したパプア人系統により表され、もう一方はラピタ文化関連個体群で100%近く見られる系統と関連するFRO系統により表されます。以下、主成分分析結果を示した図2です。

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●明白な混合モデル化

 主成分分析の結果に基づいて、qpAdmを用いて候補となる混合モデルが検証されました。以前の研究や本論文の主成分分析(図2)は、ニアオセアニアにおける高度な地域的集団構造を示唆し、それにはニューギニアやニューブリテン島やニューアイルランド島で見られるパプア人系統のほぼ異なるクラスタを伴いますが、ニューアイルランド島など多くの集団は、複数のパプア人系統構成の混合を有するとモデル化できます。以下の分析では、ソロモン諸島とニューブリテン島のクラスタを表すため、それぞれ、ブーゲンビル島の非オーストロネシア語族話者であるナシオイ(Nasioi)人と、ニューブリテン島の非オーストロネシア語族話者であるバイニング(Baining)人がしばしば用いられます。それは、ナシオイ人(20%以下)とバイニング人(5%以下)が、最も低いFRO系統の割合を有している一方で、本論文のデータセットのクラスタから特有の在来パプア人系統の最も高い割合を有しているからです。

 古代バヌアツ個体群はほぼ全て、マラブ(Kankanaey)の下位集団であるバイニング人と、フィリピンのオーストロネシア語族話者であるカンカナイ人(Kankanaey)を用いて、外群集団としてナシオイ人を伴っても、2代理起源集団としてqpAdmでモデル化できます。逆に、バイニング人の代わりにナシオイ人を代理起源集団として用いると、ほとんどのモデルが成功しません。ただ、適合性が低いのは、外群と検証集団もしくは代理起源集団との間の、モデル化されず共有されていない系統に由来するかもしれません。たとえば、古代の個体群にとっての小量の汚染や、外群としてのナシオイ人におけるFRO関連系統が、カンカナイ人におけるFRO関連系統よりも優れた起源集団であるような場合です。ポリネシア人とポリネシア人外れ値にとって、異なる系統間を区別する本論文の能力は、パプア人系統のより低い割合によって制限されますが、代理起源集団としてナシオイ人よりもむしろバイニング人を用いると、より適合した類似の結果が観察されます。以前に報告されたように、ナシオイ人の代わりに一部のニューブリテン島関連系統を有するソロモン諸島集団であるマライタ島人で適合性は改善しますが、バイニング人とよりは悪化し、ほとんどの集団で棄却されます。

 qpAdmからの定量的な混合割合の推定(図3)は、主成分分析ともよく一致します。FRO系統の最も低い割合はラピタ文化後の個体群で見られ、エファテ島で0〜3.6%、タンナ(Tanna)島で0.6〜6.6%です。FRO系統の最も高い割合はラピタ文化関連個体群で見られ、テオウマ遺跡で96.4〜99.2%、トンガのタラシウ遺跡で96.4〜100%、マラクラ島で87.4〜100%です。ロイマタ首長の領地の個体群ではFRO系統の割合は比較的多様で、マンガース遺跡の個体(I10966)では17.3〜22.0%、エレトク島の個体(I10969)では38.3〜44.2%です。

 また、常染色体とX染色体の系統割合の推定を比較し、性的に偏った混合があったのか、検証されました。その結果、性的に偏った兆候が観察され、現代ポリネシア人および古代マラクラ島人で以前報告された事例が確認されました。なお新たに報告された11個体に関しては、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)では、3000年前頃のテオウマ遺跡の1個体がB4a1a1、2600〜2200年前頃のメレの1個体がQ1b、マンガース遺跡では、500〜200年前頃の1個体がQ1、180±20年前頃の1個体がQ2a3、エレトク島の500〜200年前頃の2個体はB4a1a1とP2、490〜310年前頃の1個体はP2、エファテ島のバナナ湾地区の234±19年前頃の1個体はP1d2です。Y染色体ハプログループ(YHg)は、テオウマ遺跡の3000〜2750年前頃の2個体がともにO、2600〜2200年前頃のメレの1個体とエレトク島の500〜200年前頃の1個体とエレトク島の490〜310年前頃の1個体とバナナ湾地区の234±19年前頃の1個体は、いずれもC1b2aです。mtHgでもYHgでも、ほぼFRO系統のみからパプア人系統の流入が示唆されます。以下、古代バヌアツ個体群におけるパプア人系統の割合を示した図3です。

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●混合年代

 以前の研究では、バヌアツの現代人集団の大半は、他のオセアニア人と一致して、平均して2000年前頃を中心とする混合年代を有する、と示されましたが、一部の集団、とくにポリネシア人関連系統を有する集団は、たとえば1075±225年前となるフツナ(Futuna)島のように、より最近の年代を示します。本論文は、MALDERとDATESの両方を用いて、エレトク島とマンガース遺跡の個体群の混合年代を推定し、平均して個体群の約20〜30世代前もしくは550〜850年前頃、つまり1400〜700年前頃と示されました。

 この年代範囲は、考古学的証拠に基づく、1000〜750年前頃に起きた西進してきたポリネシア人の到来の可能性よりも、やや早くなっています。しかし、ポリネシア人流入の想定では、ポリネシア人と在来集団の両方がすでに混合していたことを考慮すると、予想される平均混合年代は、最近とより古い混合事象の組み合わせを反映しているでしょう。MALDERから混合の複数の波の有意な証拠は検出されませんでしたが、両方の代理起源集団が系統の同じ混合タイプ(パプア人とFRO)を有しているでしょうから、異なる混合事象を解明するのは困難です。それでも、エレトク島とマンガース遺跡の比較的最近の混合年代は、混合割合で観察された不均質性とともに、より最近の混合過程の証拠を提供します。


●パプア人系統とFRO系統の起源

 アレル(対立遺伝子)共有対称性検証を通じて、リモートオセアニアにおけるパプア人系統とFRO系統の勾配がより詳しく調べられました。まずf4統計(X、傣人、ナシオイ人、ニューギニア高地人)で、検証対象の集団Xとソロモン諸島およびニューギニアの集団との間で共有される相対的なアレルが検証されました。検証対象の2集団は、パプア人系統の異なる起源集団を有する場合(たとえば、一方はニューブリテン島で、他方がニューギニアやニューアイルランド島やソロモン諸島)、FR系統の割合を補正した後では、異なる値を示すと予想されます。エロマンガ(Erromango)島やテオウマ遺跡やツツバ(Tutuba)島などいくつかの例外を除いて、現代および古代のリモートオセアニア人はひじょうに均一な結果を示し、そのパプア人系統の共通起源と一致します。

 パプアニューギニアの祖先の起源が異なる場合(たとえば、1つはニューブリテン島から、もう1つはニューギニア、ニューアイルランド、またはソロモン諸島から)、コプラ(ココヤシを乾燥させたヤシ油や石鹸の原料)の大農園で知られるツツバ島は、おそらく在来バヌアツ人とメラネシアの他地域から到来した大農園労働者間の最近の混合を受けました。エロマンガ島が例外である理由は不明ですが、19世紀に白檀を購入して伐採する集団が多数訪れており、そうした接触の結果として、持ち込まれた疾患により人口減少に悩みました。

 ニアオセアニア人の間では、予想されたように、ニューギニアの集団は一般的にリモートオセアニア人の線の下に位置し、ソロモン諸島の集団はその上に位置します。しかし、ニューブリテン島の下位集団はリモートオセアニア人を密接に追っており、(おもに)バヌアツとポリネシアへ寄与したパプア人系統の起源集団の適切な代理を表している、と示唆されます。この結果はqpWaveの使用で確認されました。現代バヌアツ集団は、4系統の起源集団を必要としており、おそらくエロマンガ島やツツバ島のように異なるパプア人系統、もしくは最近の接触に由来する、アジア東部人やヨーロッパ人のような他の系統の小さな割合に起因します。

 次に、FRO系統の異なる起源集団の可能性について同様の検証が行なわれました。まずf4統計(X、ニューギニア高地人、テオウマ遺跡個体群、カンカナイ人)で、テオウマ島個体群と現代カンカナイ人への、オセアニア全域のFRO系統の関連性が検証されました。全集団はFRO系統の水準と高度に相関する正の値を示し、この系統がテオウマ遺跡個体群と密接に関連している、と示唆されます。次のf4統計(X、ニューギニア高地人、テオウマ遺跡個体群、タラシウ遺跡個体群)では、FRO系統がラピタ文化関連個体群でもバヌアツとトンガのどちらとより密接に関連しているのか、検証されました。本論文の統計的能力は、このラピタ文化関連2集団間の密接な関係により制限されますが、エファテ島のテオウマ遺跡個体群よりもトンガのタラシウ遺跡個体群の方と、より大きな類似性を示唆する有意な結果が示されました。しかし、わずかな偏差しか観察されません。したがって、標本抽出された古代および現代のオセアニア集団で見つかったFRO系統は、バヌアツとトンガのラピタ文化関連個体群との関係では比較的均一で、わずかにトンガに近いようです。


●ポリネシア人の遺伝的遺産

 同様の手法で、f4統計(X、ニューブリテン島のトライ人、カンカナイ人、トンガ人)によりとくにポリネシア人関連系統の存在が検証されました。予想通り、他のポリネシア人はトンガ人と共有されるひじょうに強いアレルを示します。バヌアツ内では、ほとんどの集団はニアオセアニア人により確立された基準線水準と一致しますが、一般的にFRO系統より高い割合を有する一部の集団は、トンガ人と共有される過剰なアレルを示します。これらには、150年前頃のエファテ島のイフリア(Ifira)遺跡の1個体や、現代のアネイチュム(Aneityum)島やバンクス諸島やエファテ島やフツナ島やマクラ(Makura)島やトンガや、エファテ島でも高いFRO系統を示すメレの下位集団が含まれます。本論文で新たに報告された古代の個体群では、マンガース遺跡個体群とエレトク島の3個体のうち2額の両方が、ポリネシア人との類似性の強い兆候を有します。

 より正確にこのポリネシア人との類似性の起源を決定するために、f4統計(X、トライ人、ポリネシア人1、ポリネシア人2)が用いられました。トンガとサモアの比較では、共有されるアレルに有意な違いは検出されませんでしたが、バヌアツにおけるポリネシア人の影響を受けた多くの集団では、トンガとポリネシア人の外れ値との比較で、やや過剰な共有されるアレルが観察されました。例外の一つは、ペンテコスト(Pentecost)島のナマラム(Namaram)とオントンジャワ(Ontong Java)との間の過剰な関連性でした。しかし、ほとんどの場合、バヌアツ集団におけるポリネシア人関連系統の起源集団は、メラネシアにおける他のポリネシア人外れ値共同体よりも、ポリネシア集団の方とわずかに密接に関連しているようです。

 次に、エレトク島およびマンガース遺跡の個体群と他のバヌアツ集団との間で共有される過剰なアレルが検証されました。その結果、いくつかの有意な兆候が検出されました。それは、古代の5個体とエファテ島現代人と、とくにエファテ島のメレ地区の高いFRO系統の現代人下位集団との間、次にエレトク島の2個体(I10968とI10969)とエファテ島イフリア地区の150年前頃の1個体との間、最後に、5個体のエレトク島個体群とマンガース遺跡個体群との間です。フツナ島現代人と共有されるアレルに関する別の統計検定は、アネイチュム島人との強い関係を特定しましたが、エレトク島もしくはマンガース遺跡個体群との特別な関係性は確認されませんでした。また追跡調査分析から、エレトク島の個体(I14493)とマンガース遺跡の個体(I10967)はおそらく2親等の近親者と示唆され、この特別に高いアレル共有を説明し、ロイマタの物語における両遺跡と直接的に関連する口承伝統を確証します。


●混合グラフ分析

 混合グラフが作成され、現代のタンナ(Tanna)島およびフツナ島人、エファテ島の600年前頃の1個体(I5259)、エレトク島とマンガース遺跡の個体群、ポリネシア人、多様なニアオセアニア人を含む、複数集団間の関係が同時に調べられました。最終的なモデルでは、ニューギニア集団とソロモン諸島集団とニューブリテン島の2集団と関連する祖先的パプア人系統間の、2回の混合事象が推測されます。そのうち1回は、ニューブリテン島のメラメラ(Melamela)とバヌアツとトンガにおけるパプア人系統を節約的に特徴づけられます。

 バヌアツ内では、このモデルはバヌアツ諸島の南部および中央部における別々の2段階の混合史を含みます。現代のフツナ島集団は、タンナ島の個体群(12%のFRO系統と88%のパプア人系統と推定されます)と関連する56%の系統と、ポリネシア人と関連する44%の系統の混合としてモデル化できます。エファテ島では、マンガース遺跡で発見されたものの、必ずしもロイマタ首長の領地遺跡とは関連していない1個体(I5259)が、11%のFRO系統と88%のパプア人系統の混合と推定され、エレトク島とマンガース遺跡の集団は、I5259関連系統63%とポリネシア人関連系統37%の混合としてモデル化できます(全体では33%のFRO系統)。エレトク島およびマンガース遺跡の集団とフツナ島集団を、過剰な(とくにポリネシア人関連ではない)FRO系統を有するとモデル化すると、予測不充分なf統計が残ります。タンナ島個体群とI5259は、真の起源集団の正確な代表ではないかもしれないので、ポリネシア人関連系統の推定割合はわずかに不正確かもしれませんが、地域の遺伝的状況と最終モデルの適合品質の両方に基づく、尤もな代理です。以下、諸集団間の混合を示した本論文の図5です(緑色がFRO系統でその他の色がパプア人系統)。

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●まとめ

 バヌアツ諸島の人類集団の遺伝的歴史は複雑で、多様な起源を有する複数集団間の相互作用が特徴です。この複雑さは、バヌアツ諸島が1000km以上にわたり、ソロモン諸島の東端に位置する岩礁およびサンタクルーズ諸島からニューカレドニアまでの南西太平洋において重要な相互に見える関連を形成していることを考えると、驚くべきではありません。さらに、現代のバヌアツを特徴づける大きな文化的多様性に照らすと、バヌアツ諸島のさまざまな部分が過去に異なる人口動態を経てきたとしても、驚くことではありません。本論文の結果は、いくつかの未解決の問題に関連する新たな証拠とともに、経時的にバヌアツの遺伝的構成に実質的に寄与した上記の3つの集団移動(M1〜M3)に関する理解を深めます。

 エファテ島のテオウマ遺跡の新たに報告された4個体が既知のデータに加わり、ラピタ文化関連では、リモートオセアニアの3000〜2500年前頃の合計12個体(テオウマ遺跡の8個体、タラシウ遺跡の3個体、マラクラ島の1個体)のゲノムデータが得られ、その全個体はほぼ完全にFRO関連系統を有していました。したがって、将来の標本抽出ではこの時期のより大きな遺伝的多様性が明らかになる可能性も依然としてありますが、現時点での古代DNA研究の結果が支持する仮説は、ラピタ文化複合の拡大をもたらしたリモートオセアニアの最初の人々(上記のM1)は、ほぼアジア東部および南東部の起源を有する集団の子孫だった、というものです。

 2500年前頃以後、ラピタ文化期後の標本抽出された個体群はパプア人系統の流入(M2)を示しますが、バヌアツの異なる地域でさまざまな軌跡を伴っています。バヌアツ中央部および南部のこの時期最初の3個体は、本論文のデータセットではFRO系統の割合が最も低く、大きな地域的な遺伝的変化を示します。同じ島々からのもっと後の集団におけるFRO系統の増加は、ラピタ文化期の後の混合の推定年代と組み合わされて、混合はFRO系統とパプア人系統のさまざまな割合を有する集団間でその後に起きた、と示します。バヌアツ北部のマラクラ島における既知の後期ラピタ文化期およびラピタ文化期後(2500〜2000年前頃)の個体群は、最近の推定混合年代とともに大きく異なる個体水準での系統割合に反映されているように、そのような混合過程の直接的証拠を提供します。他の古代の個体群とは異なりマラクラ島の個体群は、ラピタ文化集団の創始者から2000年前頃までの1000年間、継続的に居住された1遺跡に由来します。ラピタ文化の要素が、この地域でバヌアツ中央部および南部よりも長く続いた兆候もあります。

 古代と現代のデータの再分析は、2500年前頃から現代までのバヌアツで見られるパプア人系統の主要な構成が単一起源だったことを支持し、いくつかの例外のほとんどは、ヨーロッパ人との接触後の移動と関連している可能性があります。とくに、ニアオセアニアからの利用可能な同時代の古代DNAデータはありませんが、この起源集団の位置は、強い現代の地域的な遺伝的構造に基づくと、ニューブリテン島だった可能性が高く、地理的により近いソロモン諸島からの遺伝子流動の孤立した証拠以上のものは検出されません。

 バヌアツ全域の経時的なこの相対的な均質性は、後期ラピタ文化期の頃に始まるパプア人系統の流入をもたらしたのは短期間での移住事象だった、という仮説を支持します。ポリネシア人の影響を受けた集団を除いて、バヌアツにおける推定混合年代も、FRO系統とパプア人系統のこの頃の混合を示します。先験的に、最も可能性の高い移動と相互作用は、遠方の島々よりもむしろ、近隣の群島間と予想されます。つまり、ソロモン諸島から岩礁およびサンタクルーズ諸島を経てバヌアツ諸島へと至る経路です。しかし、これは考古学的および言語学的理由でM1には当てはまらないようで、またソロモン諸島を除いて、バヌアツ諸島とニューブリテン島との間の直接的な遺伝的つながりに基づくと、M2にも当てはまらないようです。

 遺伝学と考古学両方の結果に照らすと、節約的な説明は、後期ラピタ文化期においてM2が事実上M1の継続だったものの、ほぼ異なる系統を有する移民を含んでいた、というものになるかもしれません。ニューブリテン島とバヌアツとの間の文化的つながりは、バヌアツの最初のラピタ文化期の堆積物におけるニューブリテン島の黒曜石の存在や、このラピタ文化期の最初の段階に続く、食性と埋葬行動と骨格形態の変化や、頭部結合および完全に円形のブタの牙の製作といった、これらの場所に限定された(どの年代までさかのぼるのか不明な)独特の慣行を含みます。また、以前の研究でのより複雑な提案とは異なり、バヌアツに同じニューブリテン島関連起源集団を用いることにより、ポリネシア人で見られるパプア人系統をモデル化でき、両者が移住の同じ段階からおもに派生した可能性が提起されます。しかし、FRO構成と同様に、この系統を有する人々がポリネシアへの経路でバヌアツを通過したのかどうか判断するには、将来の研究を俟たねばなりません。

 過去数世紀のエファテ島におけるポリネシア人の文化的影響の考古学的および人類学的証拠と一致して、ロイマタ首長の領地の5個体の分析は、より高いFRO系統の割合の兆候と、混合の比較的最近の年代と、ポリネシア人と共有されるとくに高いアレルにより、ポリネシア人関連系統の流入(M3)を示します。エファテ島のメレ地区の現在のポリネシア人の外れ値共同体や、他の現在および比較的近い過去のエファテ島の個体群も、エレトク島とマンガース遺跡の個体群と共有される系統を示します。バヌアツ南部におけるフツナ島とその近隣諸島のポリネシア人外れ値集団は、ポリネシア人の影響の別の例を表しているかもしれませんが、比較するためのデータが不足しています。したがって、現代のバヌアツ先住集団の系統はおもにバヌアツ諸島の初期の人類史にたどれるものの、後の移住、とくにポリネシア人の移住もまた、現代のバヌアツ諸島集団の遺伝的多様性に寄与しました。以下、諸集団間の混合とその割合を示した本論文の図S5です。

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https://sicambre.at.webry.info/upload/detail/006/822/60/N000/000/000/160535405783341866648.jpg.html


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、バヌアツ諸島の複雑な人類史を以前よりも詳しく明らかにしましたが、今後の研究によりさらに詳細に解明されることが期待されるとともに、本論文の見解もある程度は修正されていく可能性も想定されます。上記の図4や図S5に関しては、最近の古代DNA研究(関連記事)を踏まえると、現代のオーストロネシア語族の台湾先住民であるタイヤル(Atayal)人も含まれる、FROの主要な祖先系統はアジア東部南方系統に位置づけられます。これは、ユーラシア東部北方系統より派生したアジア東部系統からさらに分岐した系統で、FRO系統の直接的な起源は台湾でしょうが、さらにさかのぼると現代の福建省などアジア東部南方沿岸部地域になりそうです。これは、福建省新石器時代集団の古代DNA研究でも確認されています(関連記事)。アジア東部現代人集団では、同じくアジア東部系統から派生したアジア東部北方系統の方が、アジア東部南方系統よりも遺伝的影響は強くなっています。

 一方、バヌアツ諸島の現代人で大きな遺伝的影響を有しているパプア人系統は、ユーラシア東部南方系統に位置づけられます。ユーラシア東部世界は、ユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統内における南北間の遺伝的構造の違いとともに、それよりも大きな遺伝的違いとして、ユーラシア東部北方系統とユーラシア東部南方系統という南北間の構造も見られ、その複雑な相互作用と混合割合の解明が今後進んでいくのではないか、と期待されます。日本列島の人類集団も、ユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統内の南北両系統と、ユーラシア東部南方系統との複雑な相互作用により形成された、と考えられます。


参考文献:
Lipson M. et al.(2020): Three Phases of Ancient Migration Shaped the Ancestry of Human Populations in Vanuatu. Current Biology.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2020.09.035

https://sicambre.at.webry.info/202011/article_20.html

2. 2020年11月28日 07:18:50 : fhXpTNTSFo : d2lndk56TWlqQjI=[4] 報告
2020年11月28日
人類史における渡海
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_36.html

 現生人類(Homo sapiens)は、航海により世界中に拡散しました。その最古の証拠となりそうなのは、5万年前頃のサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島は陸続きでした)への拡散です。5万年前頃ともなると、舟が証拠として残る可能性はほとんどないでしょうが、東ティモールのジェリマライ(Jerimalai)遺跡では、マグロのような遠海魚も含むさまざまな種類の42000年前頃の魚が発見されており、高度な計画と海洋技術が必要な遠洋漁業をしていた、と推測されています(関連記事)。この頃には現生人類は高度な航海技術を有しており、東ティモールから近いサフルランドへの拡散も、高度な航海技術により行なわれた、と考えられます。その後の画期として、5500年前頃から始まるオーストロネシア語族の拡散があり、太平洋の広範な地域からアフリカに近いマダガスカル島まで、高度な航海技術により到達しました。オーストロネシア語族の祖先集団は、福建省や台湾で発見された新石器時代個体群と遺伝的にひじょうに密接だと考えられます(関連記事)。

 遅くとも5万年前頃以降の現生人類の航海技術は明らかなので、大きな問題となるのは、非現生人類ホモ属(古代型ホモ属)の航海です。人類史における最古の渡海の証拠は、インドネシア領フローレス島で得られています。フローレス島中央のソア盆地では、マタメンゲ(Mata Menge)遺跡などですでに前期〜中期更新世の石器群が発見されており、ウォロセゲ(Wolo Sege)遺跡の石器群の年代は100万年以上前までさかのぼると推定されています(関連記事)。マタメンゲ遺跡では、70万年前頃の人類遺骸が発見されています(関連記事)。

 これを「渡海」と呼んで「航海」とは呼ばないのは、たとえば近隣のスラウェシ島から偶然漂着した可能性もあるからです(関連記事)。スラウェシ島では10万年以上前の石器群が発見されており、これも古代型ホモ属の可能性があります(関連記事)。ルソン島では70万年前頃の人類の痕跡が発見されており(関連記事)、これは間違いなく古代型ホモ属の所産でしょうが、じっさい、ルソン島では5万年以上前の古代型ホモ属遺骸が発見されており、ホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)と分類されています(関連記事)。

 このように、アジア南東部では古代型ホモ属による渡海の証拠が複数提示されていますが、それが航海だったのかとなると、上述のように疑問が呈されています。ホモ・エレクトス(Homo erectus)にはすでに、現生人類と同水準ではないとしても言語能力が備わっていた、との見解では、エレクトスも遠洋航海を行なっていた、と想定されています(関連記事)。フローレス島の更新世古代型ホモ属はエレクトスの子孫かもしれず(関連記事)、もしエレクトスに航海能力があったのだとすれば、フローレス島の前期〜中期更新世の人類は航海により到来したのでしょう。この問題の解明は難しそうですが、エレクトスにも航海能力を認める見解は、アジア南東部における渡海の複数の証拠からも、検証に値すると思います。

 他地域での古代型ホモ属による渡海の証拠になりそうな事例は、地中海で報告されています。過去500万年以上にわたって大陸と陸続きではなかったクレタ島南西部のプラキアス(Plakias)地域で13万年前頃の石器が発見されていますが(関連記事)、年代は曖昧だったので、疑問視する研究者は多いようです。このクレタ島の13万年前頃の石器群には、掻器(scrapers)や鉈状石器(cleavers)や両面加工石器(bifaces)などが含まれており、アシューリアン(Acheulean)と分類されていて、ネアンデルタール人が製作した、と推測されています。

 南部イオニア諸島のレフカダ島(Lefkada)・ケファロニア島(Kefallinia)・ザキントス島(Zakynthos)において、合計15ヶ所の中部旧石器時代〜中石器時代の開地遺跡が発見されており、このうちレフカダ島の4遺跡・ケファロニア島の3遺跡・ザキントス島の3遺跡が中部旧石器と分類されています。これらは全て中部旧石器時代の開地遺跡で、典型的なムステリアン(Mousterian)とされています。後期第四紀においても南部イオニア諸島はギリシア本土(ヨーロッパ大陸)とは地続きではなく、ギリシア本土やイタリアの中部旧石器との類似性から、ネアンデルタール人による南部イオニア諸島への航海の可能性が指摘されています(関連記事)。

 また、2018年4月のアメリカ考古学協会の会議での発表でも、ネアンデルタール人による航海の可能性が指摘されたそうです(関連記事)。ギリシアのナクソス島(Naxos)のステリダ(Stelida)などで、ネアンデルタール人の製作と思われる握斧や石刃などの石器が確認されました。ナクソス島はクレタ島の北方250kmのエーゲ海に位置し、更新世の寒冷期にも大陸と陸続きにはならなかった、と推測されています。これらの握斧や石刃はムステリアンとの類似性が指摘されています。石器の年代は現在測定中とのことで、詳細な情報は語られませんでしたが、よく層序化された地層で発見されたので、年代の信頼性は高いものになるだろう、とのことです。

 これらの事例から、地中海においてネアンデルタール人が航海技術を有していた可能性は検証に値する、と言えそうです。ただ、ギリシア南部では21万年前頃となる現生人類的な頭蓋が発見されています(関連記事)。中期更新世の時点で、レヴァントだけではなくヨーロッパ本土にも広義の現生人類系統が拡散していた可能性は高そうです。遺伝学でも、ネアンデルタール人のミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体は、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)に近い系統から現生人類に近い系統へと置換された、と推測されています(関連記事)。20万年以上前から、ヨーロッパに広義の現生人類系統が存在した可能性は高そうです。

 その意味で、10万年以上前の地中海における航海を認めるとしても、それは現生人類が行なっていたかもしれず、またネアンデルタール人の航海があったとしても、広義の現生人類系統の影響を受けた可能性も考えられます。現時点では、古代型ホモ属による渡海の証拠となりそうな事例はアジア南東部と地中海に限定されているようですが、今後、さらに広範な地域で確認され、いつかは決定的な証拠が得られるかもしれないので、研究の進展に注目しています。
https://sicambre.at.webry.info/202011/article_36.html

3. 2020年12月26日 17:36:38 : PLjQd27PlM : UWhkTlI4NVNUMlE=[5] 報告
雑記帳 2020年12月26日
グアム島の古代人のゲノムデータと太平洋における移住
https://sicambre.at.webry.info/202012/article_32.html


 グアム島の古代人のゲノムデータを報告した研究(Pugach et al., 2021)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。ミクロネシア西部のマリアナ諸島における人類の定住は、いくつかの点でポリネシアの定住よりも注目すべきですが、ポリネシアの定住はマリアナ諸島の定住よりもずっと注目されています。マリアナ諸島は、約750kmの海にまたがる15の島で構成され、フィリピンの東方約2500km、ニューギニアの北方約2200kmに位置します(図1)。マリアナ諸島で最大の島はグアムで、マリアナ諸島の最南端に位置します。以下、本論文の図1です。

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https://www.pnas.org/content/pnas/118/1/e2022112118/F1.large.jpg


 マリアナ諸島最初期の遺跡の年代は3500年前頃で、古環境の証拠は、4300年前頃に始まるさらに古い人類の居住を示唆します。マリアナ諸島最初の人類の存在は少なくともそれと同年代で3300年前頃以後となり、ポリネシア人の祖先と関連づけられている、メラネシア島嶼部とポリネシア西部における最初のラピタ(Lapita)文化遺跡より早くなる可能性さえあります。しかし、マリアナ諸島に到達するには2000km以上の外洋航海が必要なのに対して、ポリネシア人の祖先は、過去1000年にポリネシア東部に進出するまで、同じような距離の航海を行ないませんでした。

 マリアナ諸島に最初に航海してきた人類がどこから来たのか、またその集団とポリネシア人の関係は、未解決の問題です。マリアナ諸島人は、他のミクロネシア人やポリネシア人と比較すると、多くの点で珍しい存在です。グアム島の在来言語であるチャモロ語は、インドネシア西部(ウォレス線の西側の島)やスラウェシ島やフィリピン諸島の言語とともに、オーストロネシア語族の中で西マレー・ポリネシア語派に分類されます。ミクロネシア西部の別の在来言語であるパラオ語も西マレー・ポリネシア語派ですが、他の全てのミクロネシアおよび全てのポリネシアの言語は、東マレー・ポリネシア語派のオセアニア亜集団に属します。プタやイヌやニワトリなどの家畜がラピタ文化遺跡やポリネシア人居住地には通常関連していることに表されるような、メラネシア島嶼部とポリネシア西部のオーストロネシア人の最初の存在と関連しているラピタ文化の土器の最も決定的な特徴は、マリアナ諸島には存在しません。さらに、稲作はマリアナ諸島先住民の伝統として存在していたようですが、これまで、そうした証拠はリモートオセアニアの他の場所では見つかっていません。

 これらの言語的および文化的違いにより、ほとんどの学者は、メラネシア西部とポリネシアの居住は相互にほとんど関係なかった、と結論づけています。しかし、ミクロネシア人とポリネシア人との間の形態および遺伝の類似性の指標や、フィリピンとマリアナ諸島とラピタ文化地域の土器の間の様式のつながりも指摘されています。それにも関わらず、ポリネシア人の起源に関する標準的な物語は、4500〜4000年前頃に台湾から始まり、フィリピン諸島を島伝いしてインドネシアを南東へと通過し、3500〜3300年前頃にビスマルク諸島に到達した、オーストロネシア語族話者の移動を反映している、というものです。ポリネシア人はそこからポリネシア西部へと拡大し、2500年前頃となるニアオセアニアからの追加の移住がそれに続き、それにより究極的にはポリネシア全域に拡大したより多くのパプア人系統がもたらされた、とされます。この物語は、考古学・言語学・遺伝的データ(関連記事)の大半により裏づけられ、ミクロネシア西部は通常、この正統な物語において目立ちません。

 ポリネシア人と比較して、マリアナ諸島人の起源はより不確かです。現代グアム島のチャモロ人のほとんどのミトコンドリアDNA(mtDNA)配列は、mtDNAハプログループ(mtHg)Eで、これはアジア南東部島嶼部全域で見られ、マリアナ諸島最初の人々と関連している一方、低頻度のmtHg-B4はポリネシア人では高頻度で、後の接触に起因する、と考えられています。常染色体の縦列型反復配列(short-tandem repeat、STR)遺伝子座の限定的な数の研究は同様に、ミクロネシア西部(パラオとマリアナ諸島)とミクロネシア東部の類似性における違いを示唆し、ミクロネシア西部はアジア南東部と、ミクロネシア東部はポリネシアとのつながりを示します。

 チャモロの言語学的証拠は、インドネシアのスラウェシ島もしくは直接的にフィリピン中央部または北部の起源を示唆し、3500年前頃となるメラネシア最古の装飾土器と他の人工物は、同じ頃かより早い年代のフィリピンの同類と合致します。しかし、代替的な見解が提案されて議論されており、同時代のチャモロの遺伝的および言語的関係がどの程度、最初の居住者と後の接触をそれぞれ反映しているのか、明確ではありません。さらに、航海のコンピュータシミュレーションでは、フィリピンもしくはインドネシア西部からマリアナ諸島への航海が成功した事例は見つかりませんでした。代わりに、これらのシミュレーションは最も可能性の高い出発点として、ニューギニア島とビスマルク諸島を示しました。

 ゲノムの証拠は、チャモロ人の起源、およびチャモロ人とポリネシア人との関係に関するこの議論に光を当てられます。ニューギニア島とビスマルク諸島には、2つの主要な遺伝的系統が存在します。一方はオーストロネシア人(マレー・ポリネシア人)で、台湾からのオーストロネシア語族話者の拡大により到達しました。もう一方は、一般的な用語では非オーストロネシア人系統で、オーストロネシア人の到来前にニューギニア島とメラネシア島嶼部に存在しました。ただ、「パプア人」系統は、地域全体で構成がかなり不均一であることに要注意です。パプア人関連系統はおそらく、少なくとも49000年前頃となる、アフリカからオセアニアに拡散してきた最初の現生人類(Homo sapiens)集団にまでさかのぼり、オーストロネシア人系統とは容易に区別できます。

 パプア人関連系統はニューギニア島とビスマルク諸島だけではなく、インドネシア東部にもかなりの頻度で存在し、本論文では、インドネシア東部はウォレス線以東(図1)の全てのインドネシア諸島として定義されます。しかし、パプア人関連系統は、ウォレス線以西では事実上存在しないので、マリアナ諸島最初の居住者がフィリピンもしくはウォレス線の西側から出発したならば、パプア人関連系統はほとんどなかったはずです。逆に、マリアナ諸島最初の居住者がインドネシア東部やニューギニア島やビスマルク諸島から出発したならば、かなりのパプア人関連系統をもたらしたはずです。

 原則として、この問題に対処するために、マリアナ諸島の現代人の系統をパプア人関連系統に関して分析できます。しかし、古代DNA研究の一般的な知見は、現在のある地域の人々の系統が、数千年前の同地域の人々の系統を反映していないかもしれない、というものです。とくにマリアナ諸島の場合、考古学的証拠は1000年前頃のかなりの文化的変化を示唆しており、ほぼ全ての太平洋諸島が長距離航海により居住されて接続された頃の、ラッテ(latte)と呼ばれる正式な村の配置における石柱の家の建設と一致します。現代チャモロ人におけるmtHg-B4の存在は、ラッテ期の接触に起因する、とされています。

 さらに、1521年のマリアナ諸島へのマゼランの到達とともに始まり、1565〜1815年にかけてのマニラとアカプルコ間のガレオン船航海(および奴隷貿易)へと続く、ヨーロッパ植民地時代には、集団接触と移動はより複雑になりました。グアム島は、これらの航海の定期的な乗継地でした。またヨーロッパの植民地主義は、マリアナ諸島全域の集団規模の複数の移転と減少を伴いました。これらの事象は間違いなく、チャモロ人の遺伝的系統に影響を及ぼし、その起源およびポリネシア人との潜在的な関係の評価をより困難にしました。したがって、マリアナ諸島の古代DNAでこれらの問題に対処するのが望ましいでしょう。

 グアム島北部のリティディアン海岸洞窟遺跡(Ritidian Beach Cave Site)では、ラッテ期に明確に先行する人類2個体が、儀式的な洞窟遺跡の外で見つかりました。この2個体(RBC1およびRBC2)は、頭と胴体を取り除いた状態で、並んで埋葬されていました。RBC2の骨の直接的な放射性炭素年代測定では、較正年代で2180±30年前という結果が得られ、これはグアム島最初の居住の約1000年後ですが、ラッテ期の約1000年前でもあります。本論文は、この2個体の古代DNAの分析結果を報告します。その結果は、マリアナ諸島最初の人類の出発点に関する議論に寄与し、太平洋の人々のより大きな観点におけるマリアナ諸島の役割に、追加の洞察を提起します。


●母系と父系

 ミトコンドリアゲノムの平均網羅率は、RBC1で95.2倍、RBC2で261.3倍となり、ともに母系となるmtHgではE2aに分類されます。また、mtHg-E2aでも新規の置換があり、ATP6遺伝子においてアミノ酸置換(グルタミン→アルギニン)をもたらします。mtHg-E2aはグアム島の現代チャモロ人集団では最も一般的で、頻度は65%です。他の地域では、フィリピンとインドネシアの集団で散発的に確認されており、ソロモン諸島の1個体で確認されています。それ以外ではオセアニアには存在せず、アジア南東部大陸部で報告されています。したがって、グアム島の古代人におけるmtHg-E2aの発見は、マリアナ諸島が、ニューギニア島やビスマルク諸島よりもむしろ、フィリピンやインドネシアとつながっていることを示唆します。

 さらに重要なことに、現代チャモロ人におけるmtHg-E2aの高頻度は、古代人遺骸により表される集団とのある程度の遺伝的継続性と、1000年前頃以後のラッテ期以来、および後のヨーロッパ植民地事象の集団間接触を通じて持続した、と示唆します。X染色体と常染色体の平均網羅率の比率に基づいて、RBC1は男性、RBC2は女性と推定されます。RBC1のY染色体ハプログループ(YHg)は、O2a2(P201)に分類されます。YHg-O2a2は、アジア南東部大陸部および島嶼部に広く分布しており、オーストロネシア人の拡大と関連づけられています。


●ゲノム規模一塩基多型データ

 SGDP(Simons Genome Diversity Project)のデータに基づいて、RBC1とRBC2のゲノム規模一塩基多型データが得られました。RBC1とRBC2は一親等の関係にあるかもしれませんが、データ量が限定的なので、確定できません。それを踏まえた上で、ユーラシアやオセアニアの多様な現代人も対象として主成分分析が行なわれました。RBC1とRBC2は、台湾およびフィリピンの標本と重なっています(図2A)。RBC1とRBC2には、とくにインドネシア東部の標本と比較した場合、パプア人関連系統の兆候は見られません。インドネシア東部の標本は全てパプア人関連系統をいくらか有しているので、他のアジア南東部標本と明確に分離されています。

 次に、同じデータセットでADMIXTURE分析が行なわれました。図2Bには、K=6の結果が示されています。ニューギニア島の標本の特徴で、インドネシア東部の標本らも存在する黄色の系統成分は、どのK値の分析でも古代グアム島の2標本(RBC1とRBC2)では完全に欠けています。さらに、K=6では、古代グアム島の2標本に濃い青色の系統成分があり、これはフィリピンと台湾の個体群で最も高い頻度です。RBC1には紫色の成分もあり、これはヨーロッパ人の最近のDNA汚染を反映している可能性が高そうです。以下、本論文の図2です。

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https://www.pnas.org/content/pnas/118/1/e2022112118/F2.large.jpg

 したがって、これらの主成分分析とADMIXTURE分析から、古代グアム島の2標本(RBC1とRBC2)にはパプア人関連系統がなく、さらに、古代グアム島の2標本はフィリピンと台湾の現代人標本に最も類似している、と示唆されます。ただ、このデータセット内の一塩基多型の数は、集団関係の検証には少なすぎ、オセアニア現代人集団の対象範囲が限定されています。そこで、「Human Origins」データセットでさらなる分析が行なわれました。これには、ニアオセアニアとリモートオセアニアの現代人標本が含まれ、古代グアム島の2標本との重複が多く、バヌアツとトンガの初期ラピタ文化標本など、アジアと太平洋の古代人標本のデータも含まれています。

 古代人の標本も含めた主成分分析(図3A)では、初期ラピタ文化標本と、ニューギニア島標本と、アジア東部標本がそれぞれ別の頂点に配置されます。古代グアム島の2標本は、台湾およびフィリピンの現代人標本から離れ、初期ラピタ文化標本の方向に投影されます。K=9のADMIXTURE分析(図3B)では、古代グアム島2標本における主要な2系統成分が明らかになります。それは、インドネシアとフィリピンの現代人標本で最も高頻度の濃青色成分と、ポリネシアで最も高頻度の橙色成分です。わずかな紫色成分は、最近のヨーロッパ人の汚染を反映している可能性が高そうです。図2で示された分析と同様に、古代グアム島2標本では、主成分分析またはADMIXTURE分析のパプア人関連系統の兆候がありません。以下、本論文の図3です。

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https://www.pnas.org/content/pnas/118/1/e2022112118/F3.large.jpg

 古代グアム島2標本におけるこれら2系統成分の存在が、インドネシアおよびフィリピン関連集団と他のポリネシア人関連集団との間の混合を示唆する可能性もありますが、複数の系統成分の存在に関しては他の説明も可能です。とくに、古代グアム島2標本は、系統的にインドネシアおよびフィリピンとポリネシアの両方と関連しており、その後の分岐と遺伝的浮動により、分離したインドネシアおよびフィリピン関連系統とポリネシア関連系統の識別が容易になったかもしれません。

 古代グアム島2標本の関係をより詳細に調べるため、外群f3およびf4統計が分析されました。外群f3分析では、古代グアム島2標本により共有される浮動(すなわち系統)の量が、外群(ムブティ人)と比較して他の集団と比較されます。その結果、古代グアム島2標本はラピタ文化のバヌアツおよびトンガの標本群と最も浮動を共有し、フィリピンの古代人標本がそれに続き、その次がフィリピンおよび台湾の現代人標本と台湾海峡諸島の後期新石器時代標本群となります。とくに、ニューギニアおよびフランスと共有される浮動は、他のあらゆる集団よりも少なく、古代グアム島2標本はこれら2集団との関連性が最も少ないことを示唆します。これらの結果は、古代グアム島2標本にパプア人関連系統がないことを裏づけており、さらに、ヨーロッパ人の汚染がこれらの結果に影響を与えていないことも示唆します。

 次に、f4統計が実行されました。対象は、検証集団、フィリピンのオーストロネシア語族話者であるカンカナイ人(Kankanaey)、ニューギニア島高地人、アフリカのムブティ人です。f4統計の値がゼロと等しいと、検証集団がニューギニア島集団と比較してカンカナイ人とクレード(単系統群)を形成し、値がゼロ未満だと、カンカナイ人は検証集団よりもニューギニア島集団とより多くの系統を共有し、値がゼロより大きいと、検証集団はカンカナイ人よりもニューギニア島集団とより多くの系統を共有する、と示唆されます。古代グアム島2標本と他の全てのオセアニア集団を用いると、オセアニア集団の検証された全集団は、古代グアム島2標本を除いて、カンカナイ人と比較してニューギニア島集団と系統を共有する、と示唆されます。


●初期ラピタ文化標本との関係

 主成分分析とADMIXTURE分析と外群f3分析は、古代グアム島2標本とフィリピンおよび台湾の現代人集団との間の類似性を示唆するだけではなく、さらに古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群との間の強い類似性を示します。古代グアム島2標本とアジアおよびオセアニアの初期ラピタ文化標本群の間のより詳細な関係を調べるため、データセットにおける、初期ラピタ文化のバヌアツおよびトンガ標本と、全ての現代および古代のアジア人とオセアニア人の標本を別々にして、f4分析(古代グアム島2標本、初期ラピタ文化標本、アジアおよびオセアニア現代人、ムブティ人)が行われました。ゼロと一致するf4統計の値は、古代グアム島2標本が初期ラピタ文化標本群とクレードを形成する、と示唆します。負の値は、初期ラピタ文化標本とアジアおよびオセアニア現代人集団との間の過剰な共有系統を示唆します。正の値は、古代グアム島2標本とアジアおよびオセアニア現代人集団との間の過剰な共有系統を示唆します。

 古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群は常に、あらゆるアジア人集団と比較して相互にクレードを形成する、という結果が示されます。しかし、初期ラピタ文化標本は両方、古代グアム島2標本よりも、古代および現代ポリネシア人標本群と多くの系統を共有しており、他のあらゆるオセアニア人標本とはそうではありません。これは、古代グアム島2標本および初期ラピタ文化標本群の他集団との外群f3比較により、さらに裏づけられます。初期ラピタ文化標本は両方、古代グアム島2標本よりも、現代および古代のリモートオセアニア人標本群とより多くの浮動を共有します。それにも関わらず、f4統計(オセアニア人、初期ラピタ文化標本群、古代グアム島2標本、ムブティ人)は常に、どのオセアニア人集団が検証に含まれるかに関係なく、初期ラピタ文化標本両方で有意に負の値を示します。

 これらのf4結果から、他のあらゆるオセアニア人標本と比較すると、外群f3結果と一致して、初期ラピタ文化標本群と古代グアム島2標本との間には共有された浮動がある、と示唆されます。全体として、f3とf4の結果からは、初期ラピタ文化標本群と古代グアム島2標本が相互に密接に関連している一方で、初期ラピタ文化標本群は、古代グアム島2標本よりも、現代および古代のオセアニア人標本群におけるポリネシア人関連系統のよい代理である、と示唆されます。

 次に、混合グラフ、つまり混合もしくは移住を表現できる系統樹を用いて、古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本と他のアジア人およびオセアニア人の標本間の関係がさらに調べられました。これらの分析に含まれていたのは、パプア人系統の源としてのニューギニア島高地人、アジア人系統の源としての漢人、オーストロネシア人の源としてのカンカナイ人、ビスマルク諸島との関係を調査するためのニューブリテン島の(混合したパプア人とオーストロネシア人の系統の)トライ人(Tolai)と(パプア人系統のみの)バイニン・マラブ人(Baining_Marabu)、混合したパプア人とオーストロネシア人の系統を有する現代バヌアツ人、古代グアム島2標本、バヌアツとトンガのラピタ文化標本群です。また、ムブティ人が外群として含められました。

 まず、TreeMixソフトウェアを用いて、最尤系統樹が構築され、移住先が追加されました。2つの移住先を有する系統樹(図5A)は、3標準誤差(SE)以内で全ての誤差を有しているので、妥当な適合を提供します。この系統樹は、古代グアム島2標本とラピタ文化標本群との間で共有された浮動を示唆しており、現代のバヌアツとトンガの標本群へラピタ文化関連系統をもたらす移住先が伴います。

 さらに、マルコフ連鎖モンテカルロ法(Markov chain Monte Carlo method)を用いて混合グラフが調べられ、AdmixtureBayesソフトウェアで実行され、潜在的な混合グラフの空間が標本抽出されました。最高事後確率(17.6%)を有するグラフは、古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群との間の共有された浮動を裏づけます。さらに、1000個の混合グラフの事後標本の少なくとも50%に存在する結節点を示す一致グラフからは、古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群との間の共有された浮動は接続形態の99%に現れる、と示唆されます。

 さらに、qpGraphソフトウェアを用いてのf統計の組み合わせで、TreeMixとAdmixtureBayesの両方により教師なしで推測された、この接続形態が調べられました。この接続形態は、「許容可能な」グラフにとって3未満という最悪の適合Z得点の既存の閾値を上回る、4.56という最悪の適合Z得点を有します(図5C)。一般的に、近似データと観察データ間の偏差は、誤った接続形態もしくはモデル化されていない混合により説明できます。最悪のf統計は漢人を含む傾向があり、漢人を除外すると、最悪のZ得点は3.72に減少します。このグラフは3以上のZ得点を有する5つのf統計があり、その全てはムブティ人とニューギニア島高地人を含みます。したがって、このグラフはおそらく、オセアニア人標本群の関係、とくに古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群との間で共有された浮動の、妥当な描写を提供します。

 混合系統を有する2集団の場合、バヌアツの現代人標本は、パプア人関連系統65%とオーストロネシア人関連系統35%を有すると推定されますが、トライ人標本はパプア人関連系統85%とオーストロネシア人もしくはラピタ文化関連系統15%を有します。これらの推定は、バヌアツではパプア人関連系統66%とオーストロネシア人関連系統34%、トライ人ではパプア人関連系統87%とオーストロネシア人関連系統13%と示した、AdmixtureBayesの推定と密接に一致します。

 さらに、混合グラフ分析に台湾先住民と系統を共有する中華人民共和国福建省連江県亮島の粮道(Liangdao)遺跡の標本群(関連記事)を含めることにより、古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群との間で共有される浮動が調べられました。その結果、粮道遺跡標本群は、古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群におけるオーストロネシア人関連系統にとって、現代人標本群よりも適切な代理であると示唆されるものの、古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群との間では依然として共有される浮動があります。以下、本論文の図5です。

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https://www.pnas.org/content/pnas/118/1/e2022112118/F5.large.jpg


●古代グアム島2標本の起源

 グアム島の古代DNAの研究結果の解釈には、いくつかの注意が必要です。グアム島の古代DNAは2標本(RBC1とRBC2)に基づいており、年代はグアム島の最初の居住民の1400年後です。リモートオセアニアの初期ラピタ文化遺跡群の古代DNAに関する以前の研究は、限定的な標本数に基づく最初の結果(関連記事)が、追加の標本を分析した時に明らかになった複雑さを把握できていなかった、と明らかにしました(関連記事)。それにも関わらず、古代グアム島2標本が同じ地域の他の古代および現代の標本群と示す関係は、さらなる調査の基礎となるだろう、グアム島の移住と、リモートオセアニアのさらなる居住への興味深い洞察を提供します。

 古代グアム島2標本のmtHgとYHgは、ニューギニア島もしくはビスマルク諸島よりもむしろ、アジア南東部とのつながりを示唆します。さらに、ゲノム規模データの分析のいずれでも、古代グアム島2標本におけるパプア人関連系統の痕跡は見つかりませんでした。したがって本論文の結果は、インドネシア東部とニューギニア島とビスマルク諸島ではかなりの量のパプア人関連系統が存在することから、古代グアム島2標本の起源がウォレス線の東側にある可能性を除外します。古代グアム島2標本の最も可能性が高い起源はフィリピンですが、インドネシア西部もあり得ます。フィリピンおよびインドネシアの現代人集団と古代人のDNAのさらなる標本抽出が、起源地の特定に役立つでしょう。さらに、考古学的証拠を検討するさいには、フィリピンから東方のメラネシアと南方のスラウェシ島、最終的にはさらに遠くに拡散した集団を反映する、3500年前頃となる赤色土器の急速な地理的拡大に対処するために、より詳細な標本抽出が必要です。

 グアム島の基礎的集団のフィリピン起源との見解は、現代人のDNAの知見、言語学的証拠、3500年前頃の最初のマリアナ諸島居住民の考古学的痕跡と一致します。しかし、遠洋航海のコンピュータシミュレーションは代わりに、ニューギニア島もしくはビスマルク諸島を、マリアナ諸島に到達する航海の潜在的な起源地として示唆します。これら2系統の証拠を調和させる可能性がある一つの仮説は、人々がフィリピンからニューギニア島もしくはビスマルク諸島へ到達し、その途中であらゆる集団と混合せず、その後にニューギニア島もしくはビスマルク諸島からグアム島へと航海し、再び先住集団との混合はなかった、というものです。

 しかし、TreeMixとAdmixtureBayesの結果(図5)はこの仮説を支持せず、言語学的および考古学的証拠も同様です。とくに、3500年前頃となるマリアナ諸島最初の土器は、3300年以上前にさかのぼらない、ニューギニア島の東側に位置する最古のラピタ文化遺跡群に先行する可能性が高そうです。しかし、マリアナ諸島における3500年前頃の土器や細かい貝の装飾品や他の文化的物質はラピタ文化の伝統とは完全に異なり、代わりに3800〜3500年前頃のフィリピンにおける物質的指標と関連づけることができるので、フィリピンからマリアナ諸島への移動が支持されます。

 さらに、遠洋航海のコンピュータシミュレーションは、強い海流と風に逆らって移動する古代の航海の能力を適切に考慮していません。とくに、チャモロの単一のアウトリガー(舷外浮材)カヌーに関しては、スペインの船と比較してのより優れた速度と操縦性能に、オセアニアに到来した初期ヨーロッパ人は感銘を受けました。文献には、17世紀にマニラからグアム島への航海における舢舨(sampan)という船で漂流した「中国人」交易者の記録が少なくとも1例あります。ビスマルク諸島の初期ラピタ文化遺骸の古代DNAは、人々がビスマルク諸島からグアム島へ移動した、という仮説のさらなる検証を提供するでしょう。もちろん、後の期間に、他の場所(おそらくビスマルク諸島を含みます)からマリアナ諸島への追加の集団がもたらされた可能性はあります。


●古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群との間の関係

 全ての分析は一貫して、古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群との間のひじょうに密接な関係を示します。この密接さは、外群f3およびさまざまなf4分析により明らかで、その全ては古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群との間の共有された系統を示唆します。さらに混合グラフからは、古代グアム島2標本がまず分岐し、ビスマルク諸島からグアム島への人々の移動は支持されない、と示唆されます(図5)。しかし、混合グラフの結果には注意が必要です。混合グラフは分析において、古代および現代のDNA標本群の混合を含めることに影響を受けるかもしれず(通常、各集団の標本では古代が現代よりも少なくなります)、古代の標本には汚染や損傷に起因する配列エラーの可能性があります。それにも関わらず、人々はマリアナ諸島からビスマルク諸島(もしくはメラネシア島嶼部の他の場所)へと移動し、その後にリモートオセアニアの他の場所に移動したか、あるいは、古代グアム島2標本および初期ラピタ文化標本群の祖先が別々に、異なる経路で同じ起源集団から移動したようです。

 本論文の結果では、これら2つの可能性を区別できません。後のポリネシアへの移住におけるマリアナ諸島の直接的な役割に反する事象は、ポリネシアに特徴的な、決定的なラピタ土器もしくは家畜の欠如です。しかし、現代人の言語はその後の発展を反映しているかもしれず、家畜は他の経路で導入されているかもしれません。マリアナ諸島の土器はラピタ土器に数世紀先行しており、一部の研究者には、後にラピタ土器で精巧になった細かく装飾された土器の関連した種類と考えられています。

 さらに、インドネシア東部とニューギニア島の他地域を迂回するマリアナ諸島経由もしくは他のいくつかの経路で、フィリピン(もしくはその近隣地域)からビスマルク諸島への人々の直接的な移動は、一つの特有な観察を説明します。それは、バヌアツとトンガの初期ラピタ文化標本群におけるパプア人関連系統の欠如です。ポリネシア人の祖先が、数百年(おそらくは10〜15世代)かかった過程で、台湾もしくはフィリピンからビスマルク諸島にインドネシア東部を通ってニューギニア島の海岸沿いに島伝いに移動したならば、その途中でパプア人関連系統を有する人々と遭遇し、パプア人関連系統を入手する充分な機会があったでしょう。おそらく、ポリネシア人の祖先はこの経路で移動しましたが、社会的もしくは他の知覚された違いのために、途中で人々とすぐに混合しませんでした。

 しかし、パプア人関連系統が初期ラピタ文化標本群とほぼ同時にバヌアツに現れ、ポリネシア全域へと拡大した、バヌアツやサンタクルーズやフィジーにおけるかなり後のパプア人関連系統の接触の証拠があるように、そうした障壁は長く続きませんでした(関連記事)。考慮に値する代替的な説明は、ポリネシア人の初期の祖先は、ビスマルク諸島に到達するまでパプア人関連系統を有する人々と遭遇しなかったので、パプア人関連系統を欠いており、それはおそらく、インドネシア東部やニューギニア島沿岸を迂回するマリアナ諸島もしくは他の場所を経由して航海したから、というものです。ミクロネシア経由のポリネシアへの移住は、一般的に研究者には考慮されてきませんでした。しかし、この可能性は、土器の証拠に基づいて提案されてきており、本論文で提示された遺伝的証拠は、ミクロネシア人とポリネシア人との間のつながりへのさらなる洞察を提供します。


 以上、本論文の内容をざっと見てきました。今年になって大きく進展したアジア東部の古代DNA研究(関連記事)を踏まえると、本論文の見解を現生人類(Homo sapiens)の拡散史により的確に位置づけられるように思います。ユーラシア東部への現生人類の拡散の見通しは、以下のようになります。

 まず、非アフリカ系現代人の主要な祖先である出アフリカ現生人類集団は、7万〜5万年前頃にアフリカからユーラシアへと拡散した後に、ユーラシア東部系統と西部系統に分岐します。ユーラシア東部系統は、北方系統と南方系統に分岐し、南方系統はアジア南部および南東部の先住系統とサフル系統(オーストラリア先住民およびパプア人)に分岐します。サフル系統と分岐した後の残りのユーラシア東部南方系統は、アジア南東部とアジア南部の狩猟採集民系統に分岐しました。アジア南東部の古代人では、ホアビン文化(Hòabìnhian)関連個体がユーラシア東部南方系統に位置づけられます。アジア南部狩猟採集民系統は、アンダマン諸島の現代人によく残っています。この古代祖型インド南部人関連系統(AASI)が、イラン関連系統やポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)系統とさまざまな割合で混合して、現代インド人が形成されました。アジア南東部において、この先住の狩猟採集民と、アジア東部から南下してきた、最初に農耕をもたらした集団、およびその後で南下してきた青銅器技術を有する集団との混合により、アジア南東部現代人が形成されました。

 アジア東部に関しては、ユーラシア東部北方系統と南方系統とのさまざまな割合での混合により各地域の現代人が形成された、と推測されます。ユーラシア東部北方系統からアジア東部系統が派生し、アジア東部系統は北方系統と南方系統に分岐しました。現在の中国のうち前近代において主に漢字文化圏だった地域では、新石器時代集団において南北で明確な遺伝的違いが見られ(黄河流域を中心とするアジア東部北方系統と、長江流域を中心とするアジア東部南方系統)、現代よりも遺伝的違いが大きく、その後の混合により均質化が進展していきました。ただ、すでに新石器時代においてある程度の混合があったようです。また、大きくは中国北部に位置づけられる地域でも、黄河・西遼河・アムール川の流域では、新石器時代の時点ですでに遺伝的構成に違いが見られます。アジア東部南方系統は、オーストロネシア語族およびオーストロアジア語族集団の主要な祖先となり、前者は華南沿岸部、後者は華南内陸部に分布していた、と推測されます。

 この見解に基づくと、古代グアム島2標本と初期ラピタ文化標本群は基本的にアジア東部南方系統に位置づけられ(アジア東部北方系統も多少有しているでしょうが)、パプア人関連系統は基本的にユーラシア東部南方系統に位置づけられます。オセアニアにはユーラシア東部南方系統でほぼ完全に構成される集団が5万〜4万年前頃に拡散してきて、完新世にユーラシア東部北方系統から派生したアジア東部系統(おもにアジア東部南方系統)の集団が拡散し、ユーラシア東部南方系統で構成される集団と混合していったのでしょう。古代グアム島2標本(の祖先集団)と初期ラピタ文化標本群は、オセアニアにおけるユーラシア東部北方系統(から派生したアジア東部系統)の初期の拡散を表している、と言えそうです。


参考文献:
Pugach I. et al.(2021): Ancient DNA from Guam and the peopling of the Pacific. PNAS.
https://doi.org/10.1073/pnas.2022112118


https://sicambre.at.webry.info/202012/article_32.html

4. 中川隆[-8920] koaQ7Jey 2020年12月26日 17:46:23 : PLjQd27PlM : UWhkTlI4NVNUMlE=[6] 報告
オーストロネシア語族の移動ルート=PNASのウェブサイトから
https://amd-pctr.c.yimg.jp/r/iwiz-amd/20201225-00000001-ftaiwan-000-1-view.jpg

(台北中央社)米領グアムの先住民のルーツが台湾であることが、先史人類のDNA解析によって証明された。研究に携わった国際研究チームの台湾人メンバー、オーストラリア国立大学の洪暁純(こうぎょうじゅん)上席研究員が、謎解明までの経過を中央社に語った。

グアムはマリアナ諸島を構成する島の一つで、最も近いフィリピンからは2000キロ余り離れている。洪氏によれば、先史時代の人類が約3500年前までにはマリアナ諸島に到達していたことが過去の研究から分かっているが、どこから来たのかについては考古学者の見解が分かれていた。

洪氏が参加する研究チームは2016年、グアム北部の遺跡で先史時代の人骨を2体発見。DNA解析を経て、フィリピン・ルソン島北部の先住民カンカナイ族と台湾の先住民アミ族に最も近いことが判明し、このことから、グアム先住民の祖先は台湾からフィリピンに移り、そこからグアムにたどり着いたという結論を導き出した。

洪氏によると、太平洋諸島からアフリカ・マダガスカルにまで広く分布する「オーストロネシア語族」の起源が台湾であることが近年の研究で証明されており、約4000年前に台湾からフィリピンに渡った同語族の一部がグアムやサイパンに、別のグループがインドネシアや他の太平洋の島々に向かったと確定できるという。

研究成果は学術誌「米国科学アカデミー紀要」(PNAS)のウェブサイトに掲載された。洪氏は、グアム先住民が3500年前に2000キロ余りを航海できる技術を持っていたことを、この最新研究が間接的に証明しているとの認識を示している。(許秩維/編集:塚越西穂)

中央社フォーカス台湾 12/25(金) 11:41配信
https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20201225-00000001-ftaiwan-cn

5. 中川隆[-6116] koaQ7Jey 2021年4月02日 06:31:12 : Ft8UfP6Ll6 : dnpvazRXendDazY=[21] 報告
雑記帳 2021年04月02日
南アメリカ大陸先住民におけるオーストラレシア人との遺伝的類似性
https://sicambre.at.webry.info/202104/article_2.html


 南アメリカ大陸先住民におけるオーストラレシア人との遺伝的類似性に関する研究(Castro e Silva et al., 2021)が公表されました。南アメリカ大陸の現代および古代の先住民と、アジア南部の現代の先住民・オーストラリア先住民・メラネシア人との間の遺伝的類似性が、以前に報告されました(関連記事1および関連記事2)。このオーストラレシア人とアメリカ大陸先住民のつながりは、人類における最も興味深く、よく理解されていない事象の一つとして存続しています。

 議論となっているこのオーストラレシア人口集団の遺伝的構成要素は、ユピケラ(Ypikuéra)人口集団もしくは「Y人口集団」構成要素と呼ばれており、現代アマゾン人口集団でのみ特定されており(関連記事)、アマゾン地域の人々の形成につながる少なくとも2つの異なる創始者の波があった、と示唆されます。その最初の波は、ベーリンジア(ベーリング陸橋)停止人口集団の直接的子孫で構成されていると推測され、第二の波は、ベーリンジア人口集団ともっと新しくベーリンジアに到達したアジア南東部人の祖先の混合人口集団により形成された、と推測されました。これら両人口集団はアマゾン地域に定住し、混合したでしょう。

 在来遺伝子プールへの標本抽出されていない人口集団の寄与は、オーストラレシア人と共有される祖先系統の起源につながった、と考えられています(関連記事)。この意味で、Y人口集団はアメリカ大陸最初の植民集団の一部だったでしょう。南アメリカ大陸の古代標本のデータは、1万年前頃の弱いY兆候を示します(関連記事)。この証拠は、Y祖先系統が、アジア南東部から南アメリカ大陸に入ってくる第二の波というよりはむしろ、アジア北東部に居住していたアメリカ大陸先住民の共通祖先にさかのぼるかもしれない、と示唆します。

 さらに、新たな研究(Ning et al., 2021)の一連の証拠から、最初のアメリカ大陸先住民クレード(単系統群)は、ベーリンジアではなくアジア東部で分岐したと示唆されており、祖先的アジア東部人集団からのY祖先系統の遺伝子流動の可能性がさらに高まっています。しかし、現代および古代の集団間の兆候の不足は、検出の地域特有で明らかに無作為のパターンとともに、それが、アマゾン人口集団(および他の南アメリカ大陸先住民)が経てきた強い遺伝的浮動効果に起因する、偽陽性検出である可能性を高めました。しかし、逆の可能性もあります。それは、Y人口集団の兆候が一部人口集団で高い遺伝的浮動効果のために有意水準を下回った、という想定です。この問題を解明するため、南アメリカ大陸人口集団からのゲノムデータの、現時点で最も包括的な一式となるデータセットが調べられました(383個体の438443ヶ所の指標)。これらのデータは倫理的承認を経ています。

 本論文の結果は、以前にアマゾン人口集団に限定されると報告されたオーストラレシア人の遺伝的兆候が、太平洋沿岸人口集団でも特定されたことを示し、南アメリカ大陸におけるより広範なY人口集団の兆候が指摘され、これは太平洋とアマゾンの住民間の古代の接触を示唆している可能性があります。さらに、この遺伝的兆候の人口集団間および人口集団内の変異の有意な量が検出されました。

 この過剰なアレル(対立遺伝子)共有の存在を検証するために、D統計(ムブティ人、オーストラレシア人、Y、Z)が実行され、YとZは在来集団もしくは本論文のデータセットの個体群が対象とされました。ここでの「オーストラレシア人」とは、オーストラリア先住民とメラネシア人とアンダマン諸島のオンゲ人とパプア人です。集団間の検証では、兆候の検出がアマゾンのカリティアナ人(Karitiana)やスルイ人(Suruí)で再現されましたが、太平洋沿岸のモチカ人(Mochica)の子孫であるチョトゥナ人(Chotuna)や、ブラジル中央西部のグアラニ・カイオワ人(Guaraní Kaiowá)や、ブラジル高原中央部のシャヴァンテ人(Xavánte)でも観察されました。最大の無関係な個体群一式を用いると、Y人口集団の兆候はカリティアナ人とスルイ人とグアラニ・カイオワ人で有意な水準を失いました。しかし、この兆候は太平洋沿岸人口集団とブラジル中央部先住民でまだ明らかでした(図1)。以下、本論文の図1です。
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 また、一部の個体が同じ人口集団の他者よりも多数の有意な検証を示すのかどうか、検出することも目的とされました。これは、陽性人口集団内の不均一な遺伝的祖先系統を示唆しているかもしれません。じっさい本論文の分析では、一部の個体が過剰なアレル共有を示すより多くの検証を示しましたが、一部は他者との比較でこの祖先の有意な不足を示す可能性も高い、と明らかになりました(図2)。これらの結果から、完全な一式から最大限無関係な標本一式までの変化における兆候の重要性の喪失が、最初の場所で検証された標本間の関連性により引き起こされた偏りの除去というよりもむしろ、オーストラレシア人と共有しているアレルのより高い水準を有する特定の個体群の除外により起きたことは明らかです。以下、本論文の図2です。
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 これは、この兆候の有意な変動が人口集団間水準だけではなく、同じ人口集団の個体間でも存在する、という強い証拠を提供します。これらの結果は、この兆候の人口集団内の変動が稀ではなく(図2)、アパライ人(Apalai)やグアラニ・ニャンデヴァ人(Guaraní Nãndeva)やカリティアナ人やムンドゥルク人(Munduruku)やパラカナ人(Parakanã)やシャヴァンテ人といった、いくつかの集団で観察されることを示唆します。最も有意な検証では、トゥピ(Tupí)語族話者個体群でこの過剰な兆候が検出されましたが、その兆候は主要な全言語集団でも検出され、同時に、南アメリカ大陸内で広範な地理的分布を示しました(図1)。逆に、かなりの数の標本が、オーストラレシア人と共有するアレルの欠損を有している、と推測されました(図2)。一際目立つのは、パラカナ人の1個体(PAR137)で、有意な検証の極端に高い割合(31.64%)を示し、相対的な不足を示唆します。PAR137は、アメリカ大陸先住民標本の主成分分析でも、欠測率に関しても、無関係で混合されていない下部一式の標本間の対の遺伝的距離MDS(多次元尺度構成法)でも、外れ値ではありません。さらに、南アメリカ大陸の現代先住民集団間のY人口集団祖先系統分布は、民族言語的多様性もしくは地理的位置との関係を示しませんでした。

 中央および南アメリカ大陸先住民集団の祖先系統をさらに特徴づけるため、qpWaveで実行された以前の一連の検証(関連記事)が再現され、これら人口集団の形成に必要な祖先系統の波の最小限の数が調べられました。基本的に、世界の6地域(サハラ砂漠以南のアフリカ、ヨーロッパ西部、アジア東部、アジア南部、シベリアおよびアジア中央部、オセアニア)のそれぞれの4人口集団を外群として、混合されておらず無関係な3個体以上のアメリカ大陸先住民14集団が検証集団として選択されました。これらの集団はいくつかの組み合わせで検証されました。その結果、以前の検証により得られた推定値が再現され、中央および南アメリカ大陸先住民人口集団の現代の遺伝的多様性を説明するには、少なくとも2つの移住の波が必要と示唆されます。

 太平洋沿岸のチョトゥナ人も、D統計(ムブティ人、オーストラレシア人、Y、Z)により推定されるようにオーストラレシア人と共有する過剰なアレルを示したので(図1)、以前の研究(関連記事)に基づいて、セチュラ人(Sechura)とチョトゥナ人とナリフアラ人(Narihuala)という太平洋沿岸集団を追加して、混合グラフモデルが作成されました(図3A)。最適モデルでは、カリティアナ人やスルイ人でも観察されたように、太平洋沿岸は、南アメリカ大陸祖先系統と、オンゲ人との姉妹系統と関連する小さな非アメリカ大陸先住民の寄与の混合集団である、と示されました(図3C)。シャヴァンテ人が分析に含まれると、最適モデルは、太平洋沿岸におけるオーストラレシア人構成要素の直接的寄与を示し、その後、この兆候の強い浮動が続き、アマゾン集団が形成されました(図3D)。図3Dはオーストラレシア人関連祖先系統からの独立した2回の混合事象を示唆しますが、このモデルの結節点間の小さな遺伝的距離は、単一の混合事象の証拠を強固にしました。Treemix分析も、太平洋沿岸とアンデス集団がまず分岐し、続いてアンデス東部斜面人口集団が、最後にアマゾン集団と他の南アメリカ大陸東部集団が分岐した、という多様化のパターンを示しました。これらの知見から、Y人口集団の寄与はアマゾン系統の形成前にもちらされ、太平洋沿岸およびアマゾン人口集団の祖先だった可能性が高い、と示唆されます。以下、本論文の図3です。
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 南アメリカ大陸へのさまざまな移住経路が以前に提案され、証明されてきました。考古学的および遺伝学的データでは、太平洋沿岸と内陸部の両経路が最初の移民に用いられた可能性が高い、と示されました。本論文のモデルは、太平洋沿岸とアマゾンの人口集団間の古代の遺伝的類似性を指摘し、それは両地域集団のY祖先系統の存在により説明できます。さらに、この共有された祖先系統の導入は、太平洋沿岸系統とアマゾン系統の分離に先行するようで、西岸からの拡散と、ブラジルの人口集団における遺伝的浮動の連続事象が続く、と示されます。南アメリカ大陸太平洋沿岸におけるY祖先系統の遺伝的証拠から、この祖先系統は太平洋沿岸経路でこの地域に到達した可能性が高いので、これまでに研究された北および中央アメリカ大陸の人口集団におけるこの遺伝的構成要素の欠如を説明できる、と示唆されます。


 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、アマゾン地域の現代先住民集団の一部と、ブラジルのラゴアサンタ(Lagoa Santa)で発見された10400年前頃の1個体で確認されていた、オーストラレシア人と密接に関係するゲノム領域(Y祖先系統)が、南アメリカ大陸太平洋沿岸にも広範に見られることを示しました。この問題はひじょうに謎めいており、以前から注目されていたので、新たな手がかりを提示した点で、本論文の意義は大きいと思います。本論文でも、このY祖先系統の正確な起源はまだ明らかになっていませんが、南アメリカ大陸で太平洋沿岸集団とアマゾン集団が分離する前にすでにもたらされていたようですから、南アメリカ大陸への(現代の南アメリカ大陸先住民集団の主要な祖先である)人類集団の初期の移住の時点で、Y祖先系統がすでに存在していた可能性は高そうです。

 最近のアジア東部における古代DNA研究の進展(関連記事)を踏まえると、Y祖先系統はユーラシア東部沿岸部祖先系統に分類されると考えられます。ユーラシア東部沿岸部祖先系統は、西遼河地域の古代農耕民や「縄文人」にも影響を与えており、とくに「縄文人」では大きな影響(44%)を有する、と推定されています。ユーラシア東部沿岸部祖先系統を有する集団が後期更新世にアジア東部沿岸を北上していき、アメリカ大陸先住民の主要な祖先集団の一部と混合し、アメリカ大陸を太平洋沿岸経路で南進して南アメリカ大陸に拡散した、と考えられます。北および中央アメリカ大陸の先住民集団でY祖先系統が確認されないのは、Y祖先系統を有する集団が北および中央アメリカ大陸にはほとんど留まらず急速に南アメリカ大陸に拡散したか、北および中央アメリカ大陸に留まったものの、後にY祖先系統を有さないアメリカ大陸先住民集団に置換されたか、ヨーロッパ勢力の侵略後の大規模な人口減少の過程で消滅した、と推測できます。もちろん、これは現時点での推測にすぎず、この問題の解明には、現代アメリカ大陸先住民のさらに広範囲なゲノム分析と、何よりも古代DNA研究のさらなる進展が必要になるでしょう。


参考文献:
Castro e Silva MA. et al.(2021): Deep genetic affinity between coastal Pacific and Amazonian natives evidenced by Australasian ancestry. PNAS, 118, 14, e2025739118.
https://doi.org/10.1073/pnas.2025739118

Ning C. et al.(2021): The genomic formation of First American ancestors in East and Northeast Asia. bioRxiv.
https://doi.org/10.1101/2020.10.12.336628


https://sicambre.at.webry.info/202104/article_2.html

6. 中川隆[-5234] koaQ7Jey 2021年5月03日 04:21:46 : VB5J2ALj5k : eXZCdXBKRnJBS0U=[2] 報告
雑記帳 2021年05月02日
オセアニアの人口史と環境適応およびデニソワ人との複数回の混合
https://sicambre.at.webry.info/202105/article_3.html


 オセアニアの人口史に関する研究(Choin et al., 2021)が公表されました。考古学的データでは、ニューギニアとビスマルク諸島とソロモン諸島含むニアオセアニア(近オセアニア)には、45000年前頃に現生人類(Homo sapiens)が居住していました(関連記事)。リモートオセアニア(遠オセアニア)として知られており、ミクロネシアとサンタクルーズとバヌアツとニューカレドニアとフィジーとポリネシアを含む太平洋の他地域は、3500年前頃まで人類は居住していませんでした。この拡散は、オーストロネシア語族およびラピタ(Lapita)文化複合の拡大と関連しており、台湾で5000年前頃に始まり、リモートオセアニアには3200〜800年前頃までに到達した、と考えられています。

 オセアニア人口集団の遺伝的研究は、オーストロネシア語族の拡大に起因するアジア東部起源の人口集団との混合を明らかにしてきましたが(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4)、オセアニアの移住史に関しては疑問が残っています。太平洋地域への移住が島嶼環境への遺伝的適応をどのように伴ったのか、また古代型ホモ属(絶滅ホモ属)からの遺伝子移入がオセアニア個体群においてこの過程を促進したのかどうかも、不明です。オセアニア個体群は、世界で最高水準のネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)および種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)の組み合わされた祖先系統を示します(関連記事1および関連記事2および関連記事3)。本論文は、全ゲノムに基づいた調査を報告します。この調査は、太平洋の人口集団の人口史および適応の歴史と関連する広範な問題に対処します。


●ゲノムデータセットと人口構造

 ニアオセアニアとリモートオセアニアの移住史に影響を与えたと考えられる地理的区域の20の人口集団から、317個体のゲノムが配列されました(図1a)。これらの高網羅率ゲノム(約36倍)は、パプアニューギニア高地人やビスマルク諸島人(関連記事1および関連記事2)や古代型ホモ属(絶滅ホモ属)を含む(関連記事1および関連記事2および関連記事3)、選択された人口集団のゲノムとともに分析されました。最終的なデータセットには、太平洋地域の355個体を含む462個体と、35870981ヶ所の一塩基多型が含まれます(図1b)。

 ADMIXTURE、主成分分析、遺伝的距離の測定(FST)を用いると、人口集団の多様性はおもに4要素により説明される、と明らかになりました。それは、(1)アジア東部および南東部個体群、(2)パプアニューギニア高地人、(3)ビスマルク諸島人とソロモン諸島人とバヌアツ人(ni-Vanuatu)、(4)ポリネシア人の外れ値(本論文ではポリネシア個体群と呼ばれます)と関連しています(図1c・d)。最大の違いはアジア東部および南東部個体群とパプアニューギニア高地人との間にあり、残りの人口集団はこの2構成要素のさまざまな割合を示し、オーストロネシア語族拡大モデルを裏づけます(関連記事)。

 ビスマルク諸島人とバヌアツ人の間では強い類似性が観察され、ラピタ文化期末におけるビスマルク諸島からリモートオセアニアへの拡大と一致します(関連記事)。ヘテロ接合性の水準はオセアニア人口集団の間で著しく異なり、個々の混合割合と相関します。最も低いヘテロ接合性と最も高い連鎖不平衡は、パプアニューギニア高地人とポリネシア個体群との間で観察され、おそらくは低い有効人口規模(Ne)を反映しています。とくにF統計は、バヌアツのエマエ(Emae)島民からポリネシア個体群のバヌアツ人において、他のバヌアツ人より高い遺伝的類似性を示し、ポリネシアからの遺伝子流動を示唆します(関連記事)。以下は本論文の図1です。
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●ニアオセアニアとリモートオセアニアの定住

 オセアニアの移住史を調べるため、いくつかの進化的仮説により駆動される一連の人口統計モデルが複合尤度法(composite likelihood method)で検討されました。まず、パプアニューギニア高地人と他の現代人および絶滅ホモ属との間の関係が決定され、以前の調査結果(関連記事)が再現されました。次に、遺伝子流動を伴う3期の人口統計が想定され、ニアオセアニア集団間の関係が調べられました。観測された部位頻度範囲は、ニアオセアニアにおける定住前の強いボトルネック(瓶首効果)により最もよく説明されました(Ne=214)。ビスマルク諸島およびソロモン諸島の人々とパプアニューギニア高地人の分離は39000年前頃までさかのぼり、ソロモン諸島人とビスマルク諸島人の分離は2万年前頃で(図2a)、これは45000〜30000年前頃となるこの地域における人類の定住の直後となります(関連記事)。以下は本論文の図2です。
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 次に、マラクラ(Malakula)島のバヌアツ人個体群に代表される、リモートオセアニア西部人口集団がモデルに組み込まれました。バヌアツ人個体群の祖先の一部はビスマルク諸島からの移民で、3000年前頃以後にバヌアツ人の遺伝子プールの31%以上に寄与したと推定され、これは以前の古代DNA研究と一致します(関連記事)。しかし、最適なモデルでは、バヌアツに3000年前頃以降に到来したパプア人関連人口集団は、他のニアオセアニア起源集団の混合だった、と明らかになりました。バヌアツ人のパプア人関連祖先はパプアニューギニア高地人と分岐し、後にソロモン諸島人関連系統から約24%の遺伝的影響を受けました。興味深いことに、台湾先住民のバヌアツ個体群への直接的寄与は3%未満と最小限で、2700年前頃までさかのぼる、と明らかになりました。これは、現代リモートオセアニア西部人口集団のアジア東部関連祖先系統が、おもに混合されたニアオセアニア個体群から継承されたことを示唆します。


●オーストロネシア語族拡大への洞察

 フィリピンとポリネシアのオーストロネシア語族話者を本論文のモデルに組み込むことにより、オセアニア人口集団におけるアジア東部祖先系統の起源が特徴づけられました。移住に伴う孤立を想定して、台湾先住民、およびフィリピンのカンカナイ人(Kankanaey)やソロモン諸島のポリネシア個体群といったマレー・ポリネシア語派話者は7300年前頃に分岐した、と推定され、これはフィリピンの人口集団に関する最近の遺伝学的研究と一致します(関連記事)。他のオーストロネシア語族話者集団をモデル化しても、同様の推定が得られました。

 これらの年代は、台湾からの拡散事象は4800年前頃に始まり、オセアニアに農耕とオーストロネシア語族言語をもたらした、と想定する出台湾モデルと一致しません。しかし、アジア北東部人口集団からオーストロネシア語族話者集団へのモデル化されていない遺伝子流動(関連記事)が、パラメータ推定に偏りをもたらしているかもしれません。そのような遺伝子流動を考慮すると、出台湾モデルにおいて予測されるよりも古い分岐年代が一貫して得られたものの、信頼区間とは重複します(8200年前頃、95%信頼区間で12000〜4800年前)。これは、オーストロネシア語族話者の祖先が台湾の新石器時代の前に分離したことを示唆しますが、パラメータ推定における不確実性を考慮すると、古代ゲノムデータを用いてのさらなる調査が必要です。

 次に、近似ベイズ計算(ABC)を用いて、さまざまな混合モデルにおける、ニアオセアニア個体群とアジア東部起源の人口集団との間の混合の年代が推定されました。その結果、2回の混合の波モデルが、ビスマルク諸島とソロモン諸島の人々の要約統計に最もよく一致しました。最古の混合の波はこの地域でラピタ文化出現後の3500年前頃に起き、ビスマルク諸島とソロモン諸島の人々についてはそれぞれ、2200年前頃と2500年前頃でした(図2c)。これにより、台湾先住民からのマレー・ポリネシアの人々の分離が、ニアオセアニア人口集団との即時で単一の混合事象の後に起きたわけではない、と明らかになり、オーストロネシア語族話者はこの拡散中に形成段階を経た、と示唆されます。


●ネアンデルタール人とデニソワ人からの遺伝的影響

 太平洋島嶼部の人々は、主成分分析やD統計やf4比統計により示唆されるように、かなりのネアンデルタール人およびデニソワ人祖先系統を有しています。ネアンデルタール人祖先系統が均一に分布しているのに対して(2.2〜2.9%)、デニソワ人祖先系統は集団間で顕著に異なり(関連記事)、パプア人関連祖先系統と強く相関しています(図3a・b・c)。注目すべき例外はフィリピンで観察されており、「ネグリート」と自認しているアイタ人(Agta)と、それよりは影響が劣るもののセブアノ人(Cebuano)で、デニソワ人祖先系統の相対的影響が高めではあるものの、パプア人関連祖先系統をほとんど有していません。

 古代型ホモ属(絶滅ホモ属)祖先系統の供給源を調べるため、信頼性の高いハプロタイプ(図3d)が推測され、クロアチアのヴィンディヤ洞窟(Vindija Cave)のネアンデルタール人(関連記事)およびシベリア南部のアルタイ山脈のデニソワ洞窟(Denisova Cave)のネアンデルタール人(関連記事)とのハプロタイプ一致率が推定されました。ネアンデルタール人の一致率は全集団において単峰型で(図3e)、ネアンデルタール人のゲノム断片は人口集団の組み合わせで有意に重複しており、単一のネアンデルタール人集団からの非アフリカ系現代人集団の祖先への1回の遺伝子移入事象と一致します。

 逆に、デニソワ人から遺伝子移入された断片では、異なる最大値が見られました(図3e)。以前に報告されたように(関連記事)、2つの最大値兆候(デニソワ人のゲノムとの一致率は、それぞれ98.6%と99.4%)がアジア東部個体群で検出されただけではなく、台湾先住民やフィリピンのセブアノ人やポリネシア個体群でも見つかりました。約99.4%一致するハプロタイプは、約98.6%一致するハプロタイプよりも有意に長く、アジア東部人口集団では、アルタイ山脈のデニソワ人と密接に関連する人口集団からの遺伝子移入が、遺伝的により遠い関係の絶滅ホモ属集団からの遺伝子移入よりも新しく起きた、と示唆されます。

 パプア人関連人口集団でもデニソワ人の2つの最大値が観察され、一致率は約98.2%と約98.6%です。近似ベイズ計算を用いると、一貫して、パプアニューギニア高地人は2回の異なる混合の波を受けている、と確認されます。約98.6%の一致率のハプロタイプは、全人口集団で類似の長さでしたが、約98.2%の一致率のハプロタイプは、パプア人関連人口集団において、他の人口集団における98.6%の一致率のハプロタイプよりも有意に長い、と示されました。

 近似ベイズ計算パラメータ推定は、最初の混合の波が222000年前頃にアルタイ山脈デニソワ人と分岐した系統から46000年前頃に起き、パプア人関連人口集団への第二の混合の波が、アルタイ山脈デニソワ人と409000年前頃に分離した系統から25000年前頃に起きた、と裏づけます。このモデルは、アルタイ山脈デニソワ人とは比較的遠い関係にあるデニソワ人系統からの混合の波が46000年前頃に起きた、と報告した以前の研究(関連記事)よりも支持されました。本論文の結果は、パプア人関連集団の祖先とデニソワ人との複数の相互作用と、遺伝子移入元の絶滅ホモ属の深い構造を示します。

 フィリピンのアイタ人についても、2つのデニソワ人関連の最大値が観察され、それぞれ一致率は98.6%と99.4%です(図3e)。99.4%の最大値の方は、おそらくアジア東部人口集団からの遺伝子流動に起因します。アイタ人における遺伝子移入されたハプロタイプは、パプア人関連人口集団のハプロタイプと有意に重複していますが、パプア人とは関係ないデニソワ人祖先系統の比較的高い割合(図3c)は、追加の交雑を示唆します。

 ルソン島におけるホモ・ルゾネンシス(Homo luzonensis)の発見(関連記事)を考慮して、ネアンデルタール人やデニソワ人以外の絶滅ホモ属からの遺伝子移入の可能性も調べられました。絶滅ホモ属の参照ゲノムを利用せずとも、現代人のゲノム配列の比較により絶滅ホモ属との混合の痕跡と思われる領域を検出する方法(関連記事)で、ネアンデルタール人とデニソワ人に由来するハプロタイプを除外すると、合計499万塩基対にまたがる59個の古代型ハプロタイプが保持され、ほとんどの集団で共通していました。アイタ人とセブアノ人に焦点を当てると、両集団に固有の遺伝子移入された約100万塩基対のハプロタイプしか保持されませんでした。これは、ホモ・ルゾネンシスが現代人の遺伝的構成に全く、あるいはほとんど寄与しなかったか、ホモ・ルゾネンシスがネアンデルタール人もしくはデニソワ人と密接に関連していたことを示唆します。以下は本論文の図3です。
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●絶滅ホモ属からの遺伝子移入の適応的性質

 絶滅ホモ属からの適応的な遺伝子移入の証拠は存在しますが(関連記事1および関連記事2)、オセアニア人口集団における役割を評価した研究はほとんどありません。本論文ではまず、適応的遺伝子移入兆候における濃縮について、5603の生物学的経路が検証されました。ネアンデルタール人とデニソワ人に由来する断片については、有意な濃縮がそれぞれ24と15の経路で観察され、そのうち9つは代謝機能と免疫機能に関連していました。

 ネアンデルタール人からの適応的遺伝子移入に焦点を当てると、OCA2やCHMP1AやLYPD6Bなどの遺伝子が複製されました(図4a)。また、免疫(CNTN5、IL10RA、TIAM1、PRSS57)、神経細胞の発達(TENM3、UNC13C、SEMA3F、MCPH1)、代謝(LIPI、ZNF444、TBC1D1、GPBP1、PASK、SVEP1、OSBPL10、HDLBP)、皮膚もしくは色素沈着表現型(LAMB3、TMEM132D、PTCH1、SLC36A1、KRT80、FANCA、DBNDD1)と関連する遺伝子の、以前には報告されていなかった兆候が特定され、ネアンデルタール人由来の多様体が、有益であろうとなかろうと、多くの現代人の表現型に影響を与えてきた、との見解(関連記事)がさらに裏づけられました。

 デニソワ人については、免疫関連(TNFAIP3、SAMSN1、ROBO2、PELI2)と代謝関連(DLEU1、WARS2、SUMF1)の遺伝子の兆候が複製されました。本論文では、自然免疫および獲得免疫の調節と関連する遺伝子(ARHGEF28、BANK1、CCR10、CD33、DCC、DDX60、EPHB2、EVI5、IGLON5、IRF4、JAK1、LRRC8C、LRRC8D、VSIG10L)における、14個の以前には報告されていない兆候が示されます。たとえば、細胞間相互作用を媒介し、免疫細胞を休止状態に保つCD33は、約3万塩基対の長さのハプロタイプを含み、オセアニア集団特有の非同義置換多様体(rs367689451-A、派生的アレル頻度は66%超)を含む、7個の高頻度の遺伝子移入された多様体を伴い、有害と予測されました。

 同様に、ウイルス感染に対するToll様受容体シグナル伝達とインターフェロン応答を調節するIRF4は、29000塩基対のハプロタイプを有しており、アイタ人では13個の高頻度多様体が含まれます(派生的アレル頻度は64%超)。これらの結果から、デニソワ人からの遺伝子移入が、病原体に対する耐性アレル(対立遺伝子)の貯蔵庫として機能することにより、現生人類の適応を促進した、と示唆されます。以下は本論文の図4です。
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●島嶼環境への遺伝的適応

 太平洋の人口集団における古典的一掃と多遺伝子性適応の兆候が調べられました。デニソワ人からの適応的遺伝子移入として識別されたTNFAIP3遺伝子(関連記事)を含む、全パプア人関連集団に共通する44個の一掃の兆候が見つかりました。最も強く的中したなかには、妊娠中に内因性プレグナノロンの抗痙攣作用を媒介するGABRPと、肥満度指数および高密度リポタンパク質コレステロールと関連するRANBP17が含まれます。最高得点は非同義置換を特定し、おそらくはGABRPの多様体(rs79997355)に損傷を与え、パプアニューギニア高地人とバヌアツ人では70%以上の頻度ですが、アジア東部および南東部人口集団では5%未満と低頻度です。人口集団特有の兆候の中で、栄養欠乏に対する細胞応答を調節し、血圧と関連するATG7は、ソロモン諸島人で高い選択得点を示しました。

 高いアジア東部祖先系統を有する人口集団間では、29個の共有される一掃兆候が特定されました。最高得点は、ALDH2など複数遺伝子を含む約100万塩基対のハプロタイプと重複します。ALDH2欠損は、アルコールに対する有害反応を起こし、日本人では生存率増加と関連しています。ALDH2の多様体rs3809276の頻度は、アジア東部人関連集団では60%以上、パプア人関連集団では15%未満です。脂質異常症および中性脂肪水準とデング熱に対する保護と関連するOSBPL10周辺で強い兆候が検出され、これはネアンデルタール人からの適応的遺伝子移入と明らかになりました。人口集団特有の兆候として、ポリネシア個体群におけるLHFPL2が含まれ、その変異は、鋭い視力に関わるひじょうに多様な特性である眼の網膜黄斑の厚さと関連しています。LHFPL2の多様体はポリネシア個体群では約80%に達しますが、データベースには存在せず、研究されていない人口集団におけるゲノム多様性を特徴づける必要性が強調されます。

 ほとんどの適応的形質は多遺伝子性と予測されるので、形質関連アレルの統合されたハプロタイプ得点を、一致する無作為の一塩基多型のそれと比較することにより、充分に研究された遺伝的構造を有する25個の複雑な形質(関連記事)の方向性選択が検証されました。対照としてヨーロッパの個体群に焦点当てると、以前の研究で報告されたように、より明るい肌や髪の色素沈着への多遺伝子性適応兆候が見つかりましたが、身長に関しては見つかりませんでした(図4b)。太平洋の人口集団では、ソロモン諸島人とバヌアツ人で、高密度リポタンパク質コレステロールのより低い水準の強い兆候が検出されました。


●人類史と健康への示唆

 オセアニアへの移住は、現生人類の島嶼環境への生息と適応の能力に関する問題を提起します。現生人類の変異率と世代間隔に関する現在の推定を用いると、ニアオセアニアの45000〜30000万年前頃の定住の後に、島嶼間の遺伝的孤立が急速に続くと明らかになり、更新世の航海は可能であったものの限定的だった、と示唆されます。さらに本論文では、アジア東部とオセアニアの人口集団間の遺伝的相互作用は、厳密な出台湾モデルで予測されていたよりも複雑だったかもしれない、と明らかになり、ラピタ文化出現後のニアオセアニアで少なくとも2回の異なる混合事象が起きた、と示唆されます。

 本論文の分析は、リモートオセアニアの定住への洞察も提供します。古代DNA研究では、パプア人関連の人々が、バヌアツへと最初の定住の直後に拡大し、在来のラピタ文化集団を置換した、と提案されています(関連記事1および関連記事2)。本論文では、現代のバヌアツ個体群におけるほとんどのアジア東部人関連祖先系統は、初期ラピタ文化定住者からよりもむしろ、混合されたニアオセアニア人口集団からの遺伝子流動の結果だった、と示唆されます。これらの結果は、ポリネシアからの「逆移住」の証拠と組み合わされて(関連記事1および関連記事2)、バヌアツにおける繰り返された人口集団の移動との想定を裏づけます。比較的限定された数のモデルの調査だったことを考慮すると、この地域の複雑な移住史の解明には、考古学と形態計測学と古ゲノム学の研究が必要です。

 本論文のデータセットにおける多様なデニソワ人から遺伝子移入されたゲノム領域の回収は、以前の研究(関連記事1および関連記事2)とともに、現生人類がさまざまなデニソワ人関連集団から複数の混合の波を受けた、と示します。第一に、アルタイ山脈デニソワ人と密接に関連するクレード(単系統群)に由来する、アジア東部固有の混合の波が21000年前頃に起きた、と推定されます。このクレードのハプロタイプの地理的分布から、その混合はおそらくアジア東部本土で起きた、と示されます。

 第二に、アルタイ山脈デニソワ人とは遺伝的に比較的と追い関係の別のクレードが、ニアオセアニア人口集団とアジア東部人口集団とフィリピンのアイタ人に、類似した長さのハプロタイプをもたらしました。本論文のモデルはニアオセアニアとアジア東部の人口集団の最近の共通起源を支持しないので、アジア東部人口集団はこれらの古代型断片を間接的に、アイタ人および/もしくはニアオセアニア人口集団の祖先的人口集団を経由して継承した、と提案されます。ニアオセアニア個体群の祖先への混合の波を仮定すると、この遺伝子移入はサフルランドへの移住の前となる46000年前頃に恐らくはアジア南東部で起きた、と推測されます。

 第三に、パプア人関連集団固有の別の混合の波は、アルタイ山脈デニソワ人とは遺伝的にもっと遠い関係にあるクレードに由来します。本論文では、この遺伝子移入は25000年前頃に起きたと推測され、スンダランドもしくはさらに東方で起きた、と示唆されます。ウォレス線の東方で見つかった絶滅ホモ属はホモ・フロレシエンシス(Homo floresiensis)(関連記事)とホモ・ルゾネンシスで、これらの系統がアルタイ山脈デニソワ人と関連していたか、デニソワ人と関連する人類もこの地域に存在していた、と示唆されます。

 アジア東部とパプアの人口集団で検出されたデニソワ人からの遺伝子移入の最近の年代から、絶滅ホモ属は25000〜21000年前頃まで生存していた可能性がある、と示唆されます。アイタ人における比較的高いデニソワ人関連祖先系統から、アイタ人の祖先が異なる独立した混合の波を経てきた、と示唆されます。まとめると、本論文の分析から、現生人類と絶滅ホモ属のひじょうに構造化された集団との間の交雑は、アジア太平洋地域では一般的現象だった、と示されます。

 本論文は、太平洋諸島住民の未記載の10万以上の頻度1%以上の遺伝的多様体を報告し、その一部は表現型の変異に影響を及ぼす、と予測されます。正の選択の候補多様体は、免疫と代謝に関連する遺伝子で観察され、太平洋諸島に特徴的な病原体および食資源への遺伝的適応を示唆します。これらの多様体の一部がデニソワ人から継承された、との知見は、現生人類への適応的変異の供給源としての絶滅ホモ属からの遺伝子移入の重要性を浮き彫りにします。

 高密度リポタンパク質コレステロールの水準と関連する多遺伝子性適応の兆候からは、脂質代謝における人口集団の違いがあり、この地域における最近の食性変化への対照的な反応を説明している可能性がある、と示唆されます。太平洋地域の大規模なゲノム研究は、過去の遺伝的適応と現在の疾患危険性との間の因果関係を理解し、研究されていない人口集団における医学的ゲノム研究の翻訳を促進するために必要です。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


遺伝学:太平洋地域の人類集団の祖先を読み解く

 太平洋地域の人類集団史の詳細な分析について報告する論文が、今週、Nature に掲載される。今回のゲノム研究は、ヒトの進化、ヒト族の異種交配、そして島嶼環境での生活に応じて起こる適応に関して新たな知見をもたらした。

 太平洋地域は、パプアニューギニア、ビスマルク諸島、ソロモン諸島を含む「近オセアニア」と、ミクロネシア、サンタクルーズ、バヌアツ、ニューカレドニア、フィジー、ポリネシアを含む「遠オセアニア」に分けられる。人類は、アフリカから移動した後、約4万5000年前に近オセアニアに定住した。遠オセアニアに人類が定住したのは、それよりずっと後の約3200年前のことで、現在の台湾からの移住だった。

 この人類集団史をさらに探究するため、Lluis Quintana-Murci、Etienne Patinたちの研究チームは、太平洋地域に分布する20集団のいずれかに属する現代人317人のゲノムを解析した。その結果、近オセアニア集団の祖先の遺伝子プールが、この集団が太平洋地域に定住する前に縮小し、その後、約2万〜4万年前にこの集団が分岐したことが判明した。それからずっと後、現在の台湾から先住民族が到来した後に、近オセアニア集団の人々との混合が繰り返された。

 太平洋地域の集団に属する人々は、ネアンデルタール人とデニソワ人の両方のDNAを持っている。デニソワ人のDNAは複数回の混合によって獲得されたもので、これは、現生人類と古代ヒト族との混合が、アジア太平洋地域で一般的な現象だったことを示している。ネアンデルタール人の遺伝子は、免疫系、神経発生、代謝、皮膚色素沈着に関連した機能を備えているが、デニソワ人のDNAは主に免疫機能と関連している。そのため、デニソワ人のDNAは、太平洋地域に初めて定住した者が、その地域で蔓延していた病原体と闘うために役立つ遺伝子の供給源となり、島嶼環境の新たな居住地に適応するために役立った可能性がある。


参考文献:
Choin J. et al.(2021): Genomic insights into population history and biological adaptation in Oceania. Nature, 592, 7855, 583–589.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03236-5

https://sicambre.at.webry.info/202105/article_3.html

7. 2021年11月09日 02:34:57 : L8M7tk2rjk : bFBmdGZkQWhCYnM=[7] 報告
2021年11月07日
ポリネシアにおける人類の移動経路と年代
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_7.html

 ポリネシアにおける人類の移動経路と年代に関する研究(Ioannidis et al., 2021)が公表されました。ポリネシアへのヒトの移住史は住民により長く調べられてきており、少なくともクック船長(Captain James Cook)以来の世界規模の未解決の問題でした。最近では、これらポリネシアの創始者集団に特定の健康状態が存在することに、医学遺伝学者が関心を寄せています。しかし、医学研究および歴史的理解には不可欠にも関わらず、このオセアニアの広範で地球最後の定住可能地域のヒトの遺伝的構造は、ほとんど知られていません。


●背景

 ポリネシア諸島の定住順序は、最初の拡大とその後の島嶼間の文化的交換のため、比較言語学もしくは文化的手法を用いて明らかにするのは困難なままです(関連記事)。一方、定住年代の考古学的推定は依然として議論されており、最近ではポリネシア東部全域で最大千年ほど前に修正されてきました。以前の地域規模のポリネシア人の遺伝学的研究は、グロビン遺伝子の多型のみを考慮したか、近ポリネシア(西ポリネシア)およびソシエテ諸島に限定されており、祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)固有の手法が欠けていました。一方、古代DNA研究では、西ポリネシアの1島から4点の標本と、東ポリネシアの1島から3点の現代に近い標本のみが配列されており、全て遺伝子型密度が低く、標本間の遺伝子重複は低いままで、時間枠が異なります(関連記事1および関連記事2)。

 本論文では、ポリネシア全域の詳細な島内および島間の人口下部構造を調べるため、以前より2桁大きい現代人標本のデータセット(21集団430人)が用いられます。標本規模を活用して方向性およびネットワーク分析が実行され、共存個体群からの高密度重複遺伝子型を活用して、世代内の常染色体ハプロタイプ一致判定が実行され、初めてポリネシア諸島の定住経路を年代測定し、再構築することが可能となります。本論文により、過小評価された混合人口集団からのゲノムデータ分析に、新たな祖先系統特異的技術を示すことも可能となります。

 ポリネシア人はおもにオーストロネシア語族話者航海民の子孫で(関連記事)、その言語の起源は台湾にまでさかのぼります(関連記事)。その祖先の拡大は、アジア南東部島嶼部へと進み、最終的には太平洋に拡大した、と考えられています(関連記事)。西太平洋(フィジーやトンガやサモア)のオーストロネシア語族話者移民は、探検と開拓の並外れた航海を経て、広大な東方の海に散在する島々に定住していきました。これら孤立した島々に最初に到来した人々は、ヒトが生息していなかった漁獲されていない浅瀬礁、巨大な海鳥の群生、(すぐに絶滅した)飛べない鳥といった豊富な資源を原動力に、急速な初期の成長を経たと考えられます。

 これら急速に拡大する島の人口集団はその後、一部の理論によると、さらなる未開発資源探索の新たな探検航海を開始し、これは初期の口述歴史により裏づけられたモデルです。ポリネシアの交易品の、とくに手斧の地質学的分析から、遠方のポリネシア諸島は数世紀の間相互に交易接触を続けていた、と示唆されます。しかし、これらの接触は本質的に、群島間の広大な距離により必然的に頻度が制約され、二重船体の航海力により規模が制限されました。

 この歴史的モデル下では、これら孤立した太平洋諸島の少ないアレル(対立遺伝子)は、創始者ボトルネック(瓶首効果)の連続に起因する、島々の植民の順番(範囲拡大)に従って短縮するように失われていく、と予測されます。本論文は以下のようにこの仮説を確証し、次に、つまりそれぞれの遠方の群島の遺伝的構成は、急速に植民したその創始者の寄与が支配的だった、という結果を用いて、ポリネシアの定住の順序を再構築します。本論文は最後に、このモデルの自己整合性を評価して、その妥当性を検証します。


●遺伝学的分析

 遺伝的下部構造が二次元の地表面上で縦横無尽に起きる大きな歴史的住や征服や拡散により形成され、その結果として地理を反映する遺伝的分散の二次元の投影が起きる、大陸(および沿岸の島)の人口集団とは対照的に、ポリネシアの人口構造は地理を反映しない高度の次元性を示し、標準的な主成分分析(図1a)では島々が別々に分岐している、と明らかになりました。じっさい、主要なゲノム変異の最初の2つの二次元は、ポリネシア人個体群の祖先系統特異的の主成分分析(図1b)でさえ、大陸の人口集団内のように、島々を地理的に分離していません。代わりに、連続する各主成分分析は、特定の島もしくは群島の遺伝的浮動を捕捉しており(図1b・c)、これらの島々の間の遺伝的分散が、拡散勾配もしくは移動勾配ではなく、その創始者効果により支配されていることを示します。

 ゲノム次元の削減へのこうした標準的な分散に基づく手法をさらに複雑にしているのは、ポリネシア諸島が遺伝的多様性で大きく異なることです。起源地の島々ではずっと大きな多様性があるので、主成分分析で含めると最初の主成分を占めます。さらに、特定の島々からの全標本を含む多くの個体は、ヨーロッパ人やアメリカ大陸先住民やアフリカ人といった非ポリネシア人祖先系統をある程度有しています。そうした異なる祖先系統供給源からの植民地化後の大規模な混合の存在は、これら混合された標本を主成分分析に含めると、島内および島嶼間の分散のポリネシア人に焦点を当てた解釈を完全に混乱させます。

 この三重の障害物を克服して島嶼間の関係を視覚化するため、非線形次元削減技術の新たな祖先系統特異版である、t分布型確率的近傍埋め込み(t-SNE)が適用されました。これは、本論文で標本抽出された個体群のポリネシア人祖先系統のゲノム領域にのみ適用され、行列完成段階が採用されました(図1d)。この祖先系統特異的t-SNE手法の図では(図1d)、台湾やアジア南東部の島(スマトラ島)やフィジーやトンガやサモアといった西方の祖先の島々が左側に、より最近定住された東方の島々は右側に集まります。

 クック諸島のマウケ(Mauke)島やアチウ(Atiu)島やラロトンガ(Rarotonga)島など群島の島々は、隣接するまとまり(クラスタ)を形成します。ラロトンガ島とパリサー(Palliser)諸島は東ポリネシアの島々の中心に現れ、他の東ポリネシアの島々がそこから放散します。このパターンは、遺伝的浮動投影手法と同様に、UMAP(均一多様体近似および投影)と自己組織化写像(SOM)の本論文の祖先系統特異的定式化を含む、代替的な次元削減手法全体で一貫しています。以下は本論文の図1です。
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●系統樹構築と経路の再構築

 各島の個体は、非線形の分散に基づく投影(t-SNEとUMAPとSOM)の全てで密着した別々のまとまりを形成するので、島の全個体の一塩基多型計量ベクトルを平均化することにより、各島の有意義な分散頻度ベクトルを定義できます。上述のように、本論文はポリネシア人起源のゲノム領域のみを考慮しており、それは、標準的な非祖先系統特異的分析は、その割合が低くても、ヨーロッパ人などひじょうに分化した植民地祖先系統の最近の導入により混乱するからです。全個体で平均化することによりノイズが減少し、ほぼまったくマスキングからの欠落のない合成のポリネシア人固有の頻度ベクトルが得られます。これら島固有のポリネシア人多様体頻度ベクトルを用いて、対での違いの平均数(π)と多様体内積(外群F3)と方向性指数(範囲拡大統計、ψ)を含む、島の各組み合わせの統計が計算されます。

 方向性指数ψは(図2a)は、範囲拡大の方向にしたがって、創始者事象に起因するゲノム全体で保持された稀な多様体の頻度における総増加頻度を測定します(図2b)。ψ統計は、あらゆる遺伝的距離(π、F2、MixMapper)もしくは内部産物(F3とTreeMix)に基づく手法で利用できない重要な情報をもたらします。つまり、子孫から母集団を線で描く方向性矢印です。ほとんどの人口集団の研究はそうした方向性を必要とせず、それは、現代の人口集団が一般的に近縁で、もはや現存しない古代の母集団からの遺伝的浮動を有しているからです。母集団は、古代の標本群から利用可能ならば、明確に時間の矢印により示唆されます(通常は放射性炭素年代測定)。しかし、比較的最近定住されたポリネシア諸島では、遺伝的浮動は時間ではなく創始者効果により形成されます。

 したがって、ポリネシア諸島のほとんどでは、遺伝的浮動のない(母)集団がまだほぼ現存しています。つまり、それらは起源地の島々の集団です。人口集団系統樹を構築する場合、これは本論文のデータセットが末端の(従属系統を有さない)結節点だけではなく、内部結節点も含んでいることを意味し、ψ統計からの階層が分かります。この方向性知識により、系統樹構築演算法(アルゴリズム)を用いることが可能となります。この系統樹構築演算法は、現在使用されている人口集団系統樹とは異なり、完全なデータの存在において、全てのあり得る系統樹の空間から最適な系統樹を見つけることが保証されています。このより堅牢な方向性に基づく演算法を用いて、ポリネシアの定住経路を再構築できます(図2a)以下は本論文の図2です。
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●年代測定

 推測される定住事象の年代を推定するため、さまざまな島において個体の全ての組み合わせで、共通祖先から継承されるDNA領域、つまり同祖対立遺伝子(identity-by-descent、略してIBDを検出する手法が用いられました。IBDとは、かつて共通祖先を有していた2個体のDNAの一部が同一であることを示し、IBD領域の長さは2個体が共通祖先を有していた期間に依存し、たとえばキョウダイよりもハトコの方が短くなります。上述のように、ポリネシア人祖先系統のゲノム領域のみが考慮されます。A島とB島の各組み合わせについて、B島の個体群と組み合わされたA島の個体群間で共有されたポリネシア人IBD領域の全てが貯えられ、結果として生じる領域の長さの分布に指数曲線が当てはめられます(図2c)。この指数曲線の減衰定数から、島の組み合わせの分岐以降経過した世代の数が計算されます。

 図2aでは、植民経路により接続された島の全ての組み合わせについての、推定された分岐年代が示されます。定住後交易接触のような島嶼間の最近の移動は、少数のより長い島内IBD領域をもたらす可能性があり、推定分岐年代を現在へと向かわせるので、切り捨てられた指数が当てはめられました。それにも関わらずこれらの分岐年代は、各移住先の島の定住の終点とみなすべきでしょう。他の島々と大規模な人口集団交換がないと考えられている、ラパヌイ(Rapa Nui)島(イースター島)など最遠方の島々の事例では、IBDに基づく年代は定住の実際の年代と密接に一致しているでしょう。

 ゲノム規模ネットワーク分析から推測される年代は、以前の包括的再分析の放射性炭素年代に基づく「短い年表」を裏づけます。これは、以前に提案された1000年ほど古い「長い年表」や、中間的な年表(マルケサス諸島には紀元後300〜600年頃、東ポリネシアの他の島々には紀元後600〜950年頃)とは対照的です。以前の研究で提案された紀元後12世紀後期となるマルケサス諸島の定住と、紀元後13世紀中期と推定されるクック諸島南部の定住でのみ、異なる(より古い)年代が見つかります。

 しかし、以前の研究で説明されているように、各島での初期の年代測定された遺跡の標本規模は小さく、新たな考古学的発見により以前の年代はさかのぼる可能性があります。本論文の年代は、現代のポリネシア人自身にある、島全体の祖先の歴史に由来しており、古代DNAや遺物に影響を及ぼすこれら標本抽出の問題を抱えているわけではありません。じっさい、現代人のゲノムは古代の遺物を保管します。それは、遺物に影響を及ぼす問題、つまり各島の最初の遺跡の発見、遺跡の物が人為的なのかどうか決定すること、多くの場合木か炭であるそれらの遺物が新しい木と古い木のどちらに由来するのか、といったことが、現代人のゲノムには影響を及ぼさず、逆もまた同様だからです。

 本論文のイースター島の定住年代は以前の研究と一致し、遺跡の放射性炭素年代と同様に、湖のコアと土壌侵食パターンの分析に基づいて推定された、紀元後1200年頃という年代とも密接に一致します。さらに、「長い年表(紀元前200年頃のマルケサス諸島における定住)」とは異なり、マルケサス諸島のファトゥ・ヒヴァ(Fatu Hiva)島の紀元後1140年頃もしくは紀元後1989年の28.4世代前という本論文の定住年代は、多くの太平洋諸島人自身の系図の口述歴史と一致します(紀元後1005年、もしくは紀元後1875年の29世代前)。トゥアモトゥ (Tuamotus)諸島では、本論文の定住年代は紀元後1110年頃もしくは紀元後1989年の29.3世代前で、口述歴史の紀元後1125年もしくは紀元後1965年の28世代前とさらに密接に一致します。

 北マルケサス諸島のヌク・ヒバ(Nuku Hiva)島と南方のライババエ(Raivavae)島やリマタラ(Rimatara)島など群島内の一部の島々については、本論文の推定分岐年代は紀元後1330〜1360年頃とより遅く、東ポリネシアにおける最大の島嶼間交易接触の期間に収まります。以前の研究で提案されているように、長距離交易航海のこの期間に最後の島々が発見されたのか、それとも群島内で充分な移動と居住の比率がまだ存在し、IBDの分布年代に影響を及ぼしたのかもしれません。本論文の植民経路の再構築は、これらの年代推定とは無関係で、IBD分布よりも後の散発的接触に対してより堅牢であることに要注意です。


●考察

 本論文の分析は、東ポリネシアの定住について以下のような想定を示します。西ポリネシアから、航海民はフィジーやトンガの定住と共通の経路でサモア島から通過し、クック諸島のラロトンガ島に紀元後830年頃に到達しました。ラロトンガ島はクック諸島では最大で、標高が最も高くなっており、火山性土壌には山岳性の雨が降り注ぎ、明確な雲ができます。これらの雲と目立つ山により、海上で長距離にわたって島が見えるようになって、おそらくはその発見を容易にしました。これに基づいて、航海民が紀元後1190年頃にラパ・イチ(Rapa Iti)島へと南方に移動を続け(言語学的証拠から最近仮定された分枝)、別々に東方へより小さなクック諸島のマウケ島やアチウ島へと続いた、と明らかになりました。

 移民は紀元後1050年頃にラロトンガ島から北東へとソシエテ諸島にも扇形に広がり、本論文のデータセットではタヒチで表されていますが、文化的に重要なライアテア(Ra‘iātea)島も含みます。移民はそこから北東へとトゥアモトゥ諸島へと紀元後1110年頃に広がり、本論文のデータセットではパリサー諸島のマテヴァ(Mataiva)島で表されます。この時点では、オーストラル諸島のノロロトゥ(Nororotu)島など拡大経路における広く散在したトゥアモトゥ接続地と他の重要な環礁は、紀元後900年頃という最近になって海面に出現し、表土や森林が固まったばかりだったと考えられます。したがって、本論文で推測された年代と定住経路は、東ポリネシアへの拡大は紀元後千年紀から二千年紀の変わり目にそうした中間的な島々の出現により媒介された、という見解を裏づけます。

 東ポリネシア中央全域に広がるトゥアモトゥ群島は、地域的な航海接続地として機能した、と以前には仮定されており、本論文の分析では、航海民がマルケサス諸島(本論文のデータセットではヌク・ヒバ島とファトゥ・ヒヴァ島)へと北方に向かったのはこの接続地からで、本論文のデータセットではマンガレヴァ(Mangareva)島となるガンビエ(Gambier)諸島へと南方に向かったのは、紀元後12世紀半ばに始まります。マンガレヴァ島からは、その拡大がポリネシア諸島では東端となるイースター島に紀元後1210年頃に到達した、と明らかになります。この最後の行程は、マンガレヴァ語とラパ・ヌイ語との間の類似性や、伝統的な石造りの儀式台の類似性から提案されてきました。この定住順序は、祖先系統特異的のUMAPや、F統計や、主曲線分析や、多様性統計や、ADMIXTUREクラスタ化といった、本論文の遺伝標識頻度に基づく分析でも裏づけられます。

 注目すべきことに、オーストラル諸島のライババエ島の集団が、オーストラル諸島のトゥブアイ(Tubuai)島とリマタラ島経由ではなく、遠方のトゥアモトゥ島とマンガレヴァ島を経由して到来した、と明らかになりました。さらに遠方の南北マルケサス諸島とイースター島と同様に、それぞれがトゥアモトゥ島に由来すると推定される移住があったライババエ島には、石で擬人化された巨大な像を彫る古代の伝統がありました。他のオーストラル諸島にはこうした伝統がありませんでした。じっさい、そうした巨大な彫像はそれら遠方の島々でのみ見つかっており、トゥアモトゥ群島の共通の遺伝的供給源がある、と本論文では示されます(図2a)。トゥアモトゥ島経由で定住したと推測されている島々でのみ、先植民地期のアメリカ大陸先住民との遺伝的接触が特定されており(関連記事)、その年代がこの地域における本論文の推定航海年代と密接に一致していることも注目に値します。

 これは、ポリネシア人が最東端の最も長い発見の航海に出ている間に接触が起きた、という説を裏づけます。ポリネシアの現代人は、サモアで始まった範囲拡大が、紀元後11世紀と12世紀からの一連の伸縮する創始者事象を通じて、東ポリネシア全域に伝播した、という強い遺伝的証拠を有しています。この伸縮する一連のボトルネックが保持された稀な多様体の頻度を移動経路に沿って(図2b)増加させ、これらの多様体の一部がおそらくは有害だったので、個々の頻度とこれら稀な多様体の影響を特徴づけるさらなる研究が望まれます。本論文は、そうした大規模な配列と表現型の研究が、上述の定住順序における末端の島々に焦点を当てるべきである、と提案します。

 こうした一連の定住では、複合的なボトルネックが最大の頻度増加をもたらしました(図2b)。本論文では、これら特定の島々の人々も高水準のホモ接合性を有している、と示されます。高水準のホモ接合性により、形質の関連性や有意なIBDを検出する能力が高まるはずで、もう一つの有用な手法であるIBDマッピングが可能となります。注目すべきは、二つの大きな現代ポリネシア人集団、つまり北方のハワイと南方のニュージーランドがこれら連続したボトルネック連鎖の地理的末端に位置するので、そうした将来の大規模な関連研究の有力候補である、ということです。

 本論文は、混合された現代人標本内のポリネシア人の多様体頻度を詳細に特徴づけるための祖先系統特異的計算手法を導入したので、そうした多様な人口集団の将来のコホート内で混合の可能性があっても、これらの研究を計画するうえでの障壁にはなりません。これらの共同体との継続的な提携はひじょうに重要でしょう。それはこのような研究が、これら人口集団の個々の健康の理解と、現代人全員の世界的な遺伝学的理解の両方に役立つからです。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用(引用1および引用2)です。


考古学:ポリネシアへの人類の定住をゲノムから明らかにする

 太平洋島嶼部の人類集団(21集団)に属する現代人(430人)のゲノムから、人類がポリネシアに定住した時期と航海経路を推定した結果を示した論文が、今週、Nature に掲載される。

 ポリネシアは、地球表面の約3分の1を占める太平洋に点在する数多くの島々によって構成されている。この広大な地域への人類の定住は、人類の探検史上の1つの驚異とされるが、人類がポリネシアへ移住した時に個々の島に定住した時期と順序については、論争がある。

 今回、Andrés Moreno-Estrada、Alexander Ioannidisたちは、現在の居住民430人から採取した試料によるデータセットを使用して、広範囲に分散した広大な太平洋諸島ネットワークの人類集団の詳細な遺伝的歴史を解明した。30〜200人からなる家族集団が、二重船体のカヌーで数千キロメートルの外洋航海を敢行して、新たに見つけたポリネシア諸島群に定住していったことが、歴史家とポリネシアの言い伝えによって証明されている。今回行われたゲノム解析の結果は、人類の移住がサモア諸島から始まり、まず9世紀にラロトンガ(クック諸島)を通じて広がり、11世紀にはTōtaiete mā(ソシエテ諸島)、12世紀にはTuha'a Pae(オーストラル諸島)とツアモツ諸島に達し、最終的にはマンガレヴァを経由して、その後に巨石像の建設で知られるようになる島々、つまり北方のTe Henua ‘Enana(マルケサス諸島)、南方のライババエ島、そしてポリネシア諸島の最東端のRapa Nui(イースター島)に到達し、1200年頃に定住したことを示唆している。ポリネシアには、先史時代の巨石像の遺跡が存在する島がいくつかあるが、それぞれが孤立しており、数千マイルの外洋によって隔てられている。今回の研究で得られた新証拠は、これらの島が、遺伝的につながりがあることを明らかにしている。


人類の移動:ゲノムネットワークから推測されたポリネシアにおける人類の移動の経路とそれらの時期

人類の移動:太平洋諸島の人々のゲノム

 ポリネシアは、地球の面積の3分の1を占める海洋に点在する無数の小島によって構成される。この広大な地域での人類の定着は、人類の探検をめぐる不思議の1つだが、ポリネシアにおける人類の移動の年代および期間は議論の的となっている。今回A Moreno-Estradaたちは、そうした移動がサモアから始まり、まず9世紀にクック諸島を通って広がり、11世紀にはソシエテ諸島、12世紀にはオーストラル諸島西部およびトゥアモトゥ諸島へ、最後に、いずれも巨石像文化を持つ、北はマルケサス諸島、南はライババエ島、そしてポリネシア諸島最東端のイースター島(ラパ・ヌイ)まで広がったことを明らかにしている。イースター島への人類の定着は、1200年ごろにマンガレバ島を介した移動によってもたらされた。この研究は、考古学的な証拠に基づくものではなく、太平洋の21の主要な島嶼集団の430人の現代人に由来するゲノムから得られた証拠に基づいている。


参考文献:
Ioannidis AG. et al.(2021): Paths and timings of the peopling of Polynesia inferred from genomic networks. Nature, 597, 7877, 522–526.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-03902-8


https://sicambre.at.webry.info/202111/article_7.html

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