<■181行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可> また的外れなことをほざきやがるコンクリ事件の神作譲が生活保護受けながら最後はくたばったけど アカいお前らが始末した?のかな? 爆 するなら党員系の湊か? 呆 > 「女子高生コンクリ詰め殺人事件」準主犯格Bの孤独な最期 3年前51歳で自宅トイレで…
1 名前:名無しさん@涙目です。[] 投稿日:2025/09/02(火) 17:38:15.33 ID:CHqd446U0 旭川女子高生殺人事件、江別男子大学生集団暴行死事件…北海道では2024年、未成年や若者による凶悪事件が相次いだ。少年による刑法犯数が戦後ピークを迎えた1980年代。「史上最悪の少年犯罪」といわれるのが1989年に起きた東京都足立区綾瀬の女子高生コンクリート詰め殺人事件だ。 事件の加害者のひとりである準主犯格のB(当時17)が、3年前に孤独死していたことが今回新たに判明した。2000年から加害者や親、関係者に行ってきた独自取材や裁判・捜査資料から、知られざる加害者の「その後」をリポートし、矯正教育や社会での処遇について考える。(文・写真:HBC報道部 山ア裕侍 ※3回シリーズの1回目、肩書や年齢は取材当時)【2回目】【3回目】 ■準主犯格Bの義兄が告白 「Bは死にました」 2024年夏、久しぶりに電話で話したその人物は、会話の最後に思いもよらぬ事実を告げた。私は衝撃のあまり、絶句した。Bは私と同い年の50代。早すぎる死だった。Bは日本中を震撼させたある事件の犯人のひとりだった。 『足立区綾瀬の女子高生コンクリート詰め殺人事件』 1989年3月、東京都江東区若洲の空き地で、コンクリート詰めにされた女性の遺体が発見された。被害者は埼玉県三郷市に住む17歳の女子高校生だった。 事件に関わったのは主犯格A(18)、準主犯格B(17)、自宅が監禁場所となったC(16)、監視役のD(17)など、当時16歳から18歳の少年7人。 通りがかりの見ず知らずの女子高生をAが強姦目的で連れ去り、40日間にわたって足立区綾瀬のCの自宅の一室に監禁した。連日に及ぶ強姦、顔面や体を殴りつける、ライターで皮膚をあぶる、食事を与えない。非道の限りを尽くしたあげく、A・B・C・Dの4人は女子高生を殺害。遺体をドラム缶に入れて捨てたのだった。 私は被害者やBと同い年だ。事件発生当時、「なぜ彼らはこんなに凶悪な事件を起こしたのか?」と疑問を抱いた。11年後の2000年、図らずも取材者という立場で事件に関わることになった。当時、刑事処分を可能とする年齢を16歳から14歳へ引下げる少年法改正案が議論されていた。いわゆる厳罰化である。厳罰化によって「少年の健全な育成」を目的に更生に重きをおく少年法の理念は果たせるのだろうか。
そもそも罪を犯した少年たちは、どんな更生の道を歩んでいるのか。 メディアは事件の「その後の少年たち」を伝えられているのか。 いくつもの疑問がわき上がり、その問いに自分なりに答えを見つけようと取材したのが女子高生コンクリート詰め殺人事件だった。 2000年から2005年にかけて加害者や親など多くの関係者に会い、話を聞いた。冒頭に電話で話した人物は準主犯格Bの義兄だ。2004年、Bが出所後に再犯(詳報は次回)したときに取材で知り合った。義兄の告白を受け、私は再び関係者を訪ね歩いた。 h ttps://newsdig.tbs.co.jp/articles/-/1627718?display=1 2 名前:名無しさん@涙目です。[] 投稿日:2025/09/02(火) 17:39:24.67 ID:CHqd446U0 ■懲役5年〜10年のB 「私が知っていることはなんでも話します」 約20年ぶりに東京で再会した義兄。物静かでひとつひとつ言葉を選びながら話す様子は、以前と変わらない。義兄は、改めてBと最初に会ったときのことから話し始めた。
記者「第一印象はどうだったか?」 義兄「こんな言い方したら変ですけど、薄気味悪い。嫌な印象しかなかったですね」 1999年8月4日、Bは28歳のとき満期で出所。その2日後、義兄はBと初めて会った。
記者「最初に会ったとき、Bの態度や表情は?」 義兄「俺様という感じで、自分が一番だぞという態度でしたね」 インタビューに応じるBの義兄(撮影:三浦康典) Bは1971年5月11日生まれ。幼いころに父親が愛人をつくり家を出ていった。母親は2人の幼子を養うため働きに出ねばならず、Bは「家族そろって食卓を囲んだ記憶はない」と供述している。小学校では野球、中学校では陸上に打ち込み、大きな問題行動は起こしていない。だがスキーで足首を骨折し、得意のスポーツができなくなってから人生は暗転する。学校の成績は下がり始め、私立高校に進学したものの、身長180センチという目立つ体格からいじめにあい、不登校となって、最後は中退。前後して母親に暴力を振るうようになった。その頃出会ったCの自宅に出入りするようになり、Cの不良仲間だったAと知り合う。「道具のように使われる」として当初はAを避けていたが、Bが暴走族との間に起きたトラブルをAに相談してから、Aと行動を共にするようになり、Bの非行性が増す。
この頃Aを中心とする不良仲間は、自動車などの窃盗や、見ず知らずの女性を連れ去って強姦することを繰り返していた。Bも何度か加わった。そして1988年11月25日夜、AとCが自転車で帰宅途中の女子高生を襲い、Cの自宅に監禁し、凄惨な事件が始まった。
裁判では4人の少年が実刑判決を受ける。Aは懲役20年と最も重かった。Bは懲役5〜10年、Cは懲役5〜9年、Dは懲役5〜7年のいずれも不定期刑だった(確定判決)。Bは、最終意見陳述で涙ながらにこう述べた。 「被害者の女性がどれだけ熱かったか、どれだけ痛かったか。一生謝っても謝りきれない。僕の一生をかけても償っていきたい」 4 名前:名無しさん@涙目です。[] 投稿日:2025/09/02(火) 17:40:11.52 ID:CHqd446U0 中国籍の女性と結婚するも数年で離婚
1999年に出所したBは弁護団のひとりから紹介されたコンピューター関連の派遣の仕事に就く。2000年12月、中国籍の女性と結婚し、千葉に引っ越す。女性は7歳年下で、歌舞伎町の店で働いていたとき、客として出入りしたBと知り合ったという。だが数年で離婚し、母親が住む埼玉県の実家に戻ると、再びBの人生は大きく狂い始める。仕事先でトラブルになり、退職。未払いの給料を取り戻すため、母親の知り合いを通じて暴力団幹部と付き合うようになる。 当時のBの様子を義兄は、次のように証言する。 「会社をやめてからはフラフラするようになって、仕事はしませんでした。母親に金を無心するようになりました」 Bは高級セダンの国産車を中古で約200万円で購入する。 「出所したあとは、人生一からだからローンもたくさん組めるし、自分のやりたいことはすべてできたようです。高級車をローンで買うなど、やりすぎじゃないかなっていう生活を始めました。自分が一番だぞという態度でした」 2024年秋、私は東京都内の公営住宅で暮らすBの父親を訪ねた。突然の訪問にもかかわらず、居間に招き入れて1時間半も当時のことを話してくれた。父親は家を出てから別の女性と結婚し、新たに2人の子どもをもうけた。Bは出所後、高級セダンに乗って、すでに新たな家庭を築いていた父親の元にも何度か顔を出したという。 父親「車に乗って何度かここにも来た」 記者「なんの用事で来たのか?」 父親「とくに用事はなかったようだ。しかし、妻がいうには子どもに手をあげていたという。俺は見ていないが」 Bは出所後、自分を捨てた父親に何を期待して会いに行ったのだろうか。 東京地裁から心理鑑定を依頼された福島章氏はBを次のように分析した。 Bを心理鑑定した精神科医・福島章氏 「少年時から人の顔色を見る、表裏のある子供だったが、暴力で他の子供を従え、自己中心的に自己の存在を主張する傾向もあった。しかし、父親に愛情を求めたり母親に甘えたり受容を求めたりする欲求が強いにもかかわらず、それが満たされなかったために心の深い層で傷ついており、それらの愛情欲求や自尊感情を自ら断念し、衝動性をもっぱら抑圧・分裂・疎隔化のメカニズムを採用して神経症的性格構造を形成したと思われる。かなり屈折した精神状態にあるといってよい」『精神状態鑑定書』(1990年2月9日付)より
5 名前:ジャンピングパワーボム(茸) [TW][] 投稿日:2025/09/02(火) 17:40:54.37 ID:CHqd446U0 [4/5] ?PLT(12000) 最期はトイレで頭を… 出所後、一緒に暮らしていた母親は、Bに対して腫れ物に触るように接していた。母親によると、Bが離婚したあと「結婚して子どもでも作って、普通の生活をしたら?」と問いかけると、「事件の子どもって言われるから無理でしょう」と返してきたという。父親も「刑務所の話は絶対にしなかった」という。事件について親子が向き合うことはなかった。 女子高生が監禁された現場近くの公園 撮影去年11月
2004年5月、Bは再び罪を犯す。知人に対する逮捕監禁致傷の罪で起訴されたBは、翌年3月東京地裁で懲役4年の実刑判決を受ける。
2009年、府中刑務所を満期で出所したのち、埼玉県のアパートでひとり暮らしを始める。そこは生活保護受給者や元受刑者など、部屋が借りにくい人たちを受け入れているアパートだったという。Bは仕事もせず、生活保護を頼った。ひとり部屋に引きこもる日々。 Bの最期は寂しいものだった。 「母親がいつものように弁当を持っていくと、トイレのなかで倒れた状態で発見されたのです。救急車を呼んだが、息をしていませんでした」 Bの最期の様子を知る人物は少ない。長年母子を支援していた女性は、「あまり報道しないで」と言いながらも、涙を浮かべながらBの様子を語ってくれた。 「事故だったんです。感情を抑える薬を飲んでいて、ふらついてトイレの中で倒れたんです。そうしたら便器とタンクの間に頭がはさまって外れなくなって、嘔吐して死んだんです。最期はかわいそうな死に方でした。本来は明るくて、物静かで、優しい子です」 Bが死亡したのは2022年7月16日。51歳だった。 義兄はインタビュー中、Bに対して哀れみや同情の言葉を一切発しなかった。そして、Bが犯した罪は許されるものでないとして、次のように突き放した。 「人にはそれぞれ生きざまがありますが、あれだけのことをしたわけですから、Bを許せる人はいないと思うんです。51年間生きていたということ自体、私には許せない」 2024年、義兄は離婚した。 263 名前:名無しさん@涙目です。[sage] 投稿日:2025/09/02(火) 22:54:16.49 ID:H+q6XX+d0 >>5 最終的に生活保護に頼ってんじゃねーか
35 名前:名無しさん@涙目です。[] 投稿日:2025/09/02(火) 17:51:57.66 ID:4iW9LLN60 >>1 少年A(宮野裕史、改名後:横山裕史) 役割: 主犯格。懲役20年の判決(求刑は無期懲役)。 その後: 出所後、2013年に振り込め詐欺容疑で逮捕されたが不起訴処分。 その後、改名し、埼玉県や茨城県で転々と生活していたとされる。 2023年時点での明確な消息は不明だが、一部報道では関東でアウトロー的な生活を送っている可能性が指摘されている。 現在の状況: 明確な情報なし。 結婚していない可能性が高いとされるが、確証はない。 少年B(小倉譲、改名後:神作譲) 役割: 準主犯格。懲役5〜10年の不定期刑。 その後: 出所後、コンピューター関連の仕事に就くも、被害妄想から離職。2004年に逮捕監禁致傷事件で再犯し、服役。 2009年出所後は埼玉県で生活保護を受給しながら引きこもり生活を送っていた。 2022年7月、51歳で自宅トイレで孤独死(窒息死)していたことが2025年に報道された。 現在の状況: 死亡(2022年)。 少年C(湊伸治) 役割: 事件現場となった自宅を提供。懲役5〜9年の不定期刑。 その後: 出所後、2004年に逮捕監禁致傷事件で再犯。 2018年には殺人未遂(傷害罪に変更)で逮捕され、裁判中に裁判官に反抗的な態度を見せた。 2025年時点では執行猶予中とされるが、詳細な消息は不明。 一部報道では改名した可能性がある。 現在の状況: 執行猶予中(不確定)。 少年D(渡邊恭史) 役割: 主犯格の追従者。懲役5〜7年の不定期刑。 その後: 出所後(1996年頃)、精神疾患を患い、引きこもり状態に。 2001年に母親が取材に応じ、当時同居していたとされるが、その後の情報は乏しい。 現在の状況: 消息不明。 その他の関与者(E、Fなど) 殺害には直接関与しなかった少年EとF(当時16歳)は、少年院退院後、2000年時点で結婚し子供がいたと報道された。 EとFのその後の詳細な動向は不明。 77 名前:名無しさん@涙目です。[] 投稿日:2025/09/02(火) 18:10:19.46 ID:oO2g4GGr0 >>35 Dも死んでるんじゃなかったっけ
267 名前:名無しさん@涙目です。[] 投稿日:2025/09/02(火) 22:59:39.19 ID:4wJ/GO7s0 >>77 死んでる 脳がスカスカになって
228 名前:名無しさん@涙目です。[sega] 投稿日:2025/09/02(火) 21:29:46.12 ID:OPvLTvfn0 >>35 再犯しまくりだな クズの更生とかあり得ないというのがよく分かる
h ttp://2chcopipe.com/archives/52193320.html
[18初期非表示理由]:担当:アラシ認定のため全部処理
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