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広島と長崎に米軍が原爆を投下してから80年
https://plaza.rakuten.co.jp/condor33/diary/202508050000/
2025.08.05 櫻井ジャーナル
アメリカ軍がウラン型原子爆弾「リトル・ボーイ」を広島へ、プルトニウム型原爆「ファット・マン」を長崎へ投下してから今年で80年になる。広島へは8月6日、長崎へは8月9日。広島では9万人から16万6000年が、長崎では6万人から8万人がそれぞれ殺されたとされているが、核分裂反応を利用するという性格上、人びとのDNAが傷つけられ、障害苦しんだ人も少なくない。
広島と長崎への原爆投下を許可したのは大統領に就任してまもないハリー・トルーマンである。アメリカ、イギリス、中国が「ポツダム宣言」を発表する2日前、7月24日のことだ。日本が「ポツダム宣言」にどう反応するかを見ずにトルーマンは原爆投下による市民虐殺を決めた。
原爆の開発プロジェクトは「マンハッタン計画」と名付けられていたが、主導した国はアメリカでなくイギリスだった。1940年2月にバーミンガム大学のオットー・フリッシュとルドルフ・パイエルスのアイデアに基づいてプロジェクトが始まり、MAUD委員会なるものが設立されている。
1943年には核兵器用のウランとプルトニウムを製造するため、テネシー州オーク・リッジに4施設が建設され、そのひとつはオーク・リッジ国立研究所へと発展した。ワシントン州に建設されたハンフォード・サイトではプルトニウムを製造するため、1944年9月にB原子炉が作られている。
この「マンハッタン計画」を統括していたアメリカ陸軍のレスニー・グルーブス少将(当時)は1944年、同計画に参加していたポーランドの物理学者ジョセフ・ロートブラットに対し、その計画は最初からソ連との対決が意図されていると語ったという。原爆を開発する目的がソ連である以上、「ポツダム宣言」に対して日本がどのように反応するかは意味がなかったわけだ。(Daniel Ellsberg, “The Doomsday Machine,” Bloomsbury, 2017)
ナチスに支配されたドイツは1941年6月にウクライナとベラルーシへ軍事侵攻、ソ連との戦争を始めた。「バルバロッサ作戦」だ。1941年7月にドイツ軍はレニングラードを包囲し、9月にはモスクワまで80キロメートルの地点に到達した。
それを見てアドルフ・ヒトラーはソ連軍が敗北すると確信、再び立ち上がることはないと10月3日にベルリンで語っている。またウィンストン・チャーチル英首相の軍事首席補佐官だったヘイスティングス・イスメイは3週間以内にモスクワは陥落すると推測しながら傍観していた。(Susan Butler, “Roosevelt And Stalin,” Alfred A. Knopf, 2015)
しかし、ソ連軍の抵抗でこうした予想通りにことは進まない。ドイツ軍は1942年8月にスターリングラード市内へ突入するが、ここでソ連軍に敗北、1943年1月に降伏した。この段階でドイツの敗北は決定的。それを見てイギリスは慌てた。
イギリスのウィンストン・チャーチル首相は1943年1月、アメリカのフランクリン・ルーズベルト大統領やフランスのシャルル・ド・ゴールとカサブランカで会談している。「無条件降伏」という話が出てくるのはこの会談だった。この条件はドイツの降伏を遅らせることが目的だったとも言われている。米英はソ連対策を講じるための時間的な余裕が必要だった。
1943年7月にアメリカ軍とイギリス軍は犯罪組織の協力を得てシチリア島へ上陸、その一方、ナチスの幹部はOSSの幹部だったアレン・ダレスと接触し始める。「サンライズ作戦」だ。
その後アメリカの軍や情報機関はナチスの幹部や協力者を逃走させ、保護、そして雇用する。「ラットライン」、「ブラッドストーン作戦」、「ペーパークリップ作戦」などだ。こうした工作でナチスの幹部や協力者はアメリカの保護下に入り、工作にも参加することになる。
1945年4月にルーズベルト大統領が急死、その翌月にドイツは降伏。その直後にチャーチル首相はソ連に対する奇襲攻撃を計画、アンシンカブル作戦が作成された。7月1日にアメリカ軍64師団、イギリス連邦軍35師団、ポーランド軍4師団、そしてドイツ軍10師団で「第3次世界大戦」を始めるというものだが、イギリスの参謀本部がこの計画を拒否したので実行されていない。
1945年7月26日に退陣したチャーチルは大戦後の46年3月にアメリカのフルトンで「鉄のカーテン演説」を行い、「冷戦」の幕開けを宣言。FBIの文書によると、チャーチルは1947年にアメリカのスタイルズ・ブリッジス上院議員に対し、ソ連を核攻撃するようハリー・トルーマン大統領を説得してほしいと求めている。(Daniel Bates, “Winston Churchill’s ‘bid to nuke Russia’ to win Cold War - uncovered in secret FBI files,” Daily Mail, 8 November 2014)
大戦中、ウクライナでナチスやイギリスの対外情報機関MI-6と連携していたOUN-B(ステパン・バンデラの信奉者たち)は1943年春にUPA(ウクライナ反乱軍)として活動し始め、その年の11月には「反ボルシェビキ戦線」を設立した。(Grzegorz Rossolinski-Liebe, “Stepan Bandera,” ibidem-Verlag, 2014)
第2次世界大戦後の1946年4月に反ボルシェビキ戦線はABN(反ボルシェビキ国家連合)へと発展し、66年にはAPACL(アジア人民反共連盟、後にアジア太平洋反共連盟に改名)と合流してWACL(世界反共連盟。91年にWLFD/世界自由民主主義連盟へ名称変更)の母体になる。(Scott Anderson & Jon Lee Anderson, “Inside the League”, Dodd, Mead & Company, 1986)
戦争が終わった直後、MI6は反ソ連組織の勢力拡大を図り、1947年7月にインテルマリウムとABNを連合させ、9月にはプロメテウス同盟も合流させた。翌年の後半、新装ABNはバンデラの側近だったヤロスラフ・ステツコを中心に活動を開始。ステツコと同じようにバンデラの側近だったミコラ・レベドはアメリカのアレン・ダレスの配下に入る。
ステツコの人脈は後にKUN(ウクライナ・ナショナリスト会議)を創設、1986年に彼が死亡すると妻のスラワ・ステツコが引き継ぎ、2003年に死ぬまで率いることになる。
KUNの指導者グループに所属していたひとりにワシル・イワニシンなるドロボビチ教育大学の教授がいたが、その教え子のひとりであるドミトロ・ヤロシュはイワニシンが2007年に死亡すると後継者になる。このタイミングでヤロシュはNATOの秘密部隊ネットワークに参加したと言われている。
1941年6月のバルバロッサ作戦から現在に至るまでナチズム信奉者の対ロシア戦争は続いているのだが、その背後にはイギリスやアメリカの支配層が存在している。
イギリスが対ロシア戦争を始めたのは19世紀のこと。同じ頃、イギリスは対中国戦争も行った。アヘン戦争と第2次アヘン戦争(アロー戦争)だが、内陸部を制圧することはできなかった。戦力が圧倒的に足りなかったからだ。その後、イギリスは日本で体制転覆に成功、日本は朝鮮半島から中国を侵略、略奪を始めている。
原爆投下や焼夷弾による絨毯爆撃を指揮したアメリカ軍のカーティス・ルメイは1948年からSAC(戦略空軍総司令部)の司令官に就任、1954年にはソ連を破壊するために600から750発の核爆弾を投下し、118都市に住む住民の80%、つまり約6000万人を殺すという計画を作成、57年に作成された「ドロップショット作戦」では300発の核爆弾をソ連の100都市に落とすることになっていた。(Oliver Stone & Peter Kuznick, “The Untold History of the United States,” Gallery Books, 2012)
沖縄では1950年代に「銃剣とブルドーザー」で土地が強制接収されて軍事基地化が推し進められた。1953年4月に公布/施行された布令109号「土地収用令」に基づき、武装米兵が動員された暴力的な土地接収で、55年の段階で沖縄本島の面積の約13%が軍用地になっているのだが、これはアメリカの核戦略と無関係ではないだろう。
その頃、アメリカではICBMの準備が進み、統合参謀本部議長だったライマン・レムニッツァーや空軍参謀長だったルメイたちは1963年後半までにソ連を先制核攻撃するという計画をたてた。まだソ連がICBMの準備ができていない時点で攻撃したかったのだ。その作戦の障害になっていたジョン・F・ケネディ大統領は1963年11月22日にテキサス州ダラスで暗殺されている。この暗殺の責任をソ連になすりつける動きもあったが、成功しなかった。
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