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90年前の二・二六事件とは何だったのか
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2026.02.27 櫻井ジャーナル
二・二六事件と米英金融資本
今から90年前、1936年の2月26日に日本陸軍の「青年将校」が下士官と兵を率いて決起して政府要人を襲撃し、首相官邸、陸軍省、警視庁など永田町や霞ヶ関を占拠した。2・26事件だが、天皇の「奉勅命令」を受けた戒厳部隊に決起軍は包囲され、収束した。決起した将校たちは中国への軍事侵攻に反対していたが、37年7月の盧溝橋事件を切っ掛けにして日本と中国は全面戦争に突入した。


日本政府が推進していた政策は新自由主義に近い「レッセ-フェール」に基づくもので、貧富の差を拡大させていた。アメリカでは1920年代の金融バブルが29年の株価暴落で弾け、恐慌に突入。庶民の生活は苦しくなる。
そうした政策を推進する政治家、官僚、財閥、そのトライアングルに取り入ることで自分たちの野心を実現しようとした軍幹部に対する怒りが軍の内部にあったことは否定できない。中学、高校、帝国大学へと進むにはそれなりの資産がなければならず、親はエリート。庶民の優秀な子どもは士官学校や海軍兵学校へ入学していた。国民の惨状は軍人の方が理解していたのだ。
明治維新とアヘン戦争
いわゆる「近代日本」は明治維新から始まるが、その背後にはイギリスが存在していた。中でも有名なジャーディン・マセソンはアヘン戦争で大儲けした麻薬業者。19世紀における麻薬取引を支配していたのは、ジャーディン・マセソンと「東方のロスチャイルド」ことサッスーン家である。19世紀のイギリスの政界では反ロシアで有名なヘンリー・ジョン・テンプル(別名パーマストン子爵)が大きな力を持ち、ビクトリア女王に対してアヘン戦争を指示していた。
アヘン戦争でイギリスは勝利したのだが、それは海戦でのこと。陸軍の力が圧倒的に足りず、中国(清)を征服することはできなかった。イギリスは自分たちの代わりに陸上で戦う戦闘集団が必要だったわけだ。そこで目をつけたのが日本だろう。日本は軍事力を増強、琉球を併合、台湾へ派兵、そして江華島事件を引き起こし、日清戦争、日露戦争へと突き進んだ。
中国への軍事侵略
こうした流れの背後にはアメリカやイギリスの外交官がいた。例えば厦門のアメリカ領事だったチャールズ・ルジャンドル。この外交官は台湾から帰国する途中に日本へ立ち寄り、そこでアメリカ公使を1869年から務めていたチャールズ・デロングと会っているが、そのデロングから日本政府に対して台湾を侵略するようにけしかけているという説明をルジャンドルは受けている。(James Bradley, “The Imperial Cruise,” Little, Brown and Company, 2009)
デロングは日本の外務省に対してルジャンドルを顧問として雇うように推薦、受け入れられた。ルジャンドルは1872年12月にアメリカ領事を辞任している。顧問になった彼は外務卿の副島種臣に台湾への派兵を勧めた。
ルジャンドルはアメリカに妻がいたのだが、離婚しないまま1872年後半から73年前半のどこかの時点で池田絲なる女性と「結婚」している。この女性は松平慶永と腰元との間に生まれたのだが、絲が生まれて間もなく母親は自殺していた。
1894年に朝鮮半島で甲午農民戦争(東学党の乱)が起こり、閔氏の体制が揺らぐ。それを見た日本政府は「邦人保護」を名目にして軍隊を派遣、その一方で朝鮮政府の依頼で清も出兵して日清戦争につながったわけだ。この戦争に勝利した日本は1895年4月、「下関条約」に調印して大陸侵略の第一歩を記すことになる。
清の敗北でロシアへ接近することが予想された閔妃をこの年、日本の三浦梧楼公使たちが暗殺している。日本の官憲と「大陸浪人」が閔妃を含む女性3名を惨殺したのだ。暗殺に加わった三浦公使たちは「証拠不十分」で無罪になっているが、この判決は暗殺に日本政府が関与している印象を世界に広めることになる。その後、三浦は枢密院顧問や宮中顧問官という要職についた。
日本が閔妃を惨殺した4年後、中国では義和団を中心とする反帝国主義運動が広がり、この運動を口実にして帝政ロシアは1900年に中国東北部へ15万の兵を派遣する。その翌年の9月、事件を処理するために北京議定書が結ばれ、列強は北京郊外に軍隊を駐留させることができるようになった。ロシアの動きを見てイギリスは警戒感を強めるが、自らが乗り出す余力がない。そこで1902年に日本と同盟協約を締結する。
ロスチャイルドとモルガン
日本は1904年2月に仁川沖と旅順港を奇襲攻撃した後に宣戦布告して日露戦争が始まるが、日本に戦費を用立てたのはロスチャイルド系金融機関クーン・ローブを経営していたジェイコブ・シッフ。日本に対して約2億ドルを融資、その際に日銀副総裁だった高橋是清はシッフと親しくなっている。
日露戦争の後、アメリカ大統領だったセオドア・ルーズベルトは日本がアメリカのために戦っていると語り、日本政府の使節としてアメリカにいた金子堅太郎はアングロ・サクソンの価値観を支持するために日本はロシアと戦ったと説明していた。(James Bradley, “The China Mirage,” Little, Brown and Company, 2015)
1923年9月1日に東京周辺を巨大地震が襲い、被災者は340万人以上に及んだ。死者と行方不明者を合わせると10万5000名を上回り、損害総額は55億から100億円に達していたという。
復興資金を調達するために外債発行を日本政府は決断、ウォール街を拠点とする巨大金融機関のJPモルガンと交渉する。この巨大金融機関と最も深く結びついていた日本人が井上準之助だ。井上がJPモルガンと親しくなったのは1920年に対中国借款交渉を行った時だという。(NHK取材班編『日本の選択〈6〉金融小国ニッポンの悲劇』角川書店、1995年)
JPモルガンはロスチャイルドからスピンオフした金融機関だ。ジョン・ピアポント・モルガンの父親であるジュニアス・モルガンはジョージー・ピーボディーとロンドンで銀行を経営していたが、その銀行の業績が1857年に悪化、倒産寸前になる。そのときにピーボディーと親し区していたロスチャイルド一族が救いの手を差し伸べた。その際、ロスチャイルドはジョン・ピアポント・モルガンに目をつける。ジョンは1899年にロンドンで開かれた金融機関の会議に出席、アメリカへ戻ったときにはロスチャイルド系金融資本のアメリカにおける代理人になっていたのだ。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)
JPモルガンを率いていたトーマス・ラモントは3億円の外債発行を引き受け、1931年までの間に融資額は累計10億円を超えたという。必然的にJPモルガンは日本に大きな影響力を及ぼすようになる。日本の通貨を支配するために金本位制を強制、今の用語を使うならば「新自由主義経済」を導入させた。その結果、日本からは金が流出して不況はますます深刻化、東北地方で娘の身売りが増えることになる。
そうした政策に反発する人たちもいた。例えば血盟団は1932年に井上準之助や団琢磨らを暗殺、そして36年2月26日に陸軍の青年将校が軍事蜂起したわけだ。腐敗した政治家や財界人を排除すれば天皇が素晴らしい政治を行ってくれると信じていたようだが、勿論、間違っていた。天皇も彼らの仲間だったのだ。
ウォール街のクーデター計画
ウォール街は帝国主義の牙城だが、その中核がJPモルガンにほかならない。そのウォール街を揺さぶる出来事が1932年にあった。大統領選挙で彼らに担がれていたハーバート・フーバーがニューディール派を率いるフランクリン・ルーズベルトに敗れたのだ。
フーバーはスタンフォード大学を卒業した後、鉱山技師としてアリゾナにあるロスチャイルドの鉱山で働いていた。利益のためなら安全を軽視するタイプだったことから経営者に好かれ、ウォール街に目をかけられたという。(Gerry Docherty & Jim Macgregor, “Hidden History,” Mainstream Publishing, 2013)
その当時、大統領の就任式は選挙から4カ月後の3月に行われていた。式の直前、ルーズベルトは1933年2月15日にフロリダ州マイアミで開かれた集会に参加したのだが、銃撃事件に巻き込まれている。イタリア系のレンガ職人、ジュゼッペ・ザンガラが32口径のリボルバーから5発の弾丸を発射したのだ。弾丸はルーズベルトの隣に立っていたシカゴのアントン・セルマック市長に命中、市長は死亡したものの、ルーズベルトは無事だった。
ザンガラの足場が不安定だったうえ、そばにいたW・F・クロスという女性がザンガラの銃を握っていた腕にしがみついて銃撃を妨害、すぐ別の人も同じようにザンガラの腕にしがみついたと報道されている。クロスによると、ザンガラはルーズベルトを狙っていた。(‘Woman’s courage foils shots assassin aimed at Roosevelt,’ UP, February 16, 1933)
次期大統領の命が狙われた可能性が高いのだが、徹底的な調査は行われていない。事件の真相が明らかにされないまま、ザンガラは3月20日に処刑されてしまった。
ルーズベルトが大統領に就任した後、ウォール街の住人はクーデターを計画する。1933年から34年にかけてのことだ。この事実は名誉勲章を2度授与されたアメリカ海兵隊の伝説的な軍人であるスメドリー・バトラー少将が計画の詳細を聞き出した上で議会において告発、明らかにされた。(Public Hearings before the Special Committee on Un-American Activities, House of Representatives, 73rd Congress, 2nd Session)
バトラーによると、ウォール街の住人たちはドイツのナチスやイタリアのファシスト党、中でもフランスの「クロワ・ド・フ(火の十字軍)」の戦術を参考にしていた。50万人規模の組織を編成して政府を威圧、「スーパー長官」のようなものを新たに設置して大統領の重責を引き継ぐとしていた。動員する組織として想定されていたのは在郷軍人会だ。
クーデターを計画したグループはアメリカに金本位制を復活させようとしていた。ウォール街に利益をもたらすからだ。失業対策として彼らが考えていたのは強制労働収容所にすぎず、労働者の権利を認めたり公教育を充実させるといった政策は考えていない。
クーデター計画を聞き出したところでバトラーは反クーデターを宣言した。50万人の兵士を利用してファシズム体制の樹立を目指すつもりなら、自分は50万人以上を動かして対抗すると応じた。内戦を覚悟するようにバトラーは警告したのだ。(前掲書)
JPモルガンの属国
関東大震災から日本の政治経済に大きな影響を及ばしたJPモルガンをはじめとするウォール街の金融機関とはファシストにほかならない。そのJPモルガンは1932年に駐日大使としてジョセフ・グルーを日本へ送り込んでくる。この人物のいとこにあたるジェーン・グルーが結婚した相手はジョン・ピアポント・モルガン・ジュニア、つまりJPモルガンの総帥だ。
また、グルーの結婚相手であるアリス・ペリー・グルーの曾祖父にあたるオリバー・ペリーは海軍の軍人で、その弟は「黒船」で有名なマシュー・ペリー。ジェーン自身は少女時代を日本で過ごし、華族女学校(女子学習院)へ通ったという。
グルー夫妻は官僚や財界人だけでなく天皇周辺にも強力な人脈を持っていた。例えば松平恒雄宮内大臣、徳川家達公爵、秩父宮雍仁親王、近衛文麿公爵、貴族院の樺山愛輔伯爵、吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕伯爵、元外相の幣原喜重郎男爵らがその人脈には含まれていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)
しかし、グルーが個人的に最も親しかったひとりは松岡洋右だと言われている。松岡の妹が結婚した佐藤松介は岸信介や佐藤栄作の叔父にあたる。1941年12月7日(現地時間)に日本軍はハワイの真珠湾を奇襲攻撃、日本とアメリカは戦争に突入するが、翌年の6月までグルーは日本に滞在した。離日の直前には商工大臣だった岸信介からゴルフを誘われている。(Tim Weiner, "Legacy of Ashes," Doubledy, 2007)
グルーは天皇周辺にも人脈を持っていた。例えば松平恒雄、徳川宗家の当主だった徳川家達、昭和天皇の弟で松平恒雄の長女と結婚していた秩父宮雍仁、近衛文麿、貴族院の樺山愛輔、当時はイタリア大使だった吉田茂、吉田の義父にあたる牧野伸顕、元外相の幣原喜重郎が含まれていた。(ハワード・B・ショーンバーガー著、宮崎章訳『占領 1945〜1952』時事通信社、1994年)
戦前レジームと戦後レジーム
明治維新以降、日本では民主主義勢力が徹底的に弾圧されていたが、1925年4月には治安維持法が公布され、5月に施行された。1927年5月には第一次山東出兵、28年4月に第二次山東出兵、5月に第三次山東出兵、6月には張作霖を爆殺、31年9月に柳条湖で満鉄の線路を爆破(柳条湖事件)、32年3月に「満洲国」の建国を宣言した。
そして1937年7月には盧溝橋事件。当時、特務機関員として活動していた人物によると、その事件では迷子になった日本兵を野営地へ送り届けた中国人戦闘員を歩哨に立っていた日本兵が射殺、その報復として冀東防共自治政府の保安隊が通州の日本人約200名を殺害している。8月には蒋介石が上海で日本軍との戦闘を開始した。
1937年12月に日本軍(事実上の指揮官は朝香宮鳩彦)は南京を占領するが、その際に住民を虐殺している。その際、秩父宮雍仁は財宝略奪作戦(金の百合)を指揮、竹田宮恒徳が補佐役を務めた。大戦後、その財宝をアメリカの軍や情報機関の幹部、そしてウォール街の大物たちはナチ・ゴールドと一体化させ、ブラック・イーグルとして管理している。(Sterling & Peggy Seagrave, “Gold Warriors”, Verso, 2003)
1939年5月には中国東北部(満州国)とモンゴルの国境も近いノモンハンで日本軍とソ連軍が軍事衝突して日本が敗北、41年6月にはドイツ軍がソ連への軍事侵攻を開始、同年7月から9月にかけて日本軍は中国東北部や朝鮮半島に部隊を移動させる。
これが関東軍特種演習だが、ソ連への軍事侵攻を想定していた。大本営陸軍部は8月にこの計画を年内に実施することを断念したという。そして1941年12月にマレー半島、そしてハワイの真珠湾を攻撃してアメリカとイギリスを相手に戦争を始める。
豊下楢彦が指摘しているように、第2次世界大戦後の日本を動かしていたのはダグラス・マッカーサーと吉田茂でなく、天皇とジョン・フォスター・ダレスをはじめとするウォール街。1945年4月のフランクリン・ルーズベルト大統領急死を境としてアメリカは再び巨大資本がホワイトハウスを支配する時代になっていた。
そうしたウォール街の人脈を後ろ盾とし、ジャパン・ロビーと呼ばれるグループが戦後日本の基盤を築き上げていく。そのグループの中核的な団体が1948年6月にワシントンDCで創設されたACJ(アメリカ対日協議会)である。その中心にはジョセフ・グルーがいた。1932年からウォール街の代理人として駐日大使を務めていたファシストのグルーにほかならない。戦前レジームと戦後レジームの基本構造は同じだ。
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【櫻井ジャーナル(note)】
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