★阿修羅♪ > Jfp6zyQtewg > 100000
 
g検索 Jfp6zyQtewg  
 
Jfp6zyQtewg コメント履歴 No: 100000
http://www.asyura2.com/acas/j/jf/jfp/Jfp6zyQtewg/100000.html
[自然災害19] 南青山、白金…大型台風直撃 水没が怖い高級住宅街リスト(日刊ゲンダイ) 赤かぶ
7. 2017年8月05日 12:34:30 : NQO0ApT5mk : Jfp6zyQtewg[1]

面白ニュース秒刊SUNDAY


2013年08月30日12:00


恐らく8割以上が勘違いしている『台風予報円』の真実
http://www.yukawanet.com/archives/4526254.html
http://www.asyura2.com/13/jisin19/msg/825.html#c7

[政治・選挙・NHK194] 安倍首相が否定したい南京大虐殺を日本テレビの番組が精緻な取材で「事実」と証明! ところが番組告知は…(リテラ) 赤かぶ
103. 2017年8月05日 14:58:07 : NQO0ApT5mk : Jfp6zyQtewg[2]

( `ハ´)中国の反応ブログ

中国本土の掲示板やニュースポータルの書き込みの翻訳まとめ


中国人「だから、何で南京大虐殺は無視するの?」 アメリカ、安倍首相の真珠湾訪問に期待
http://asiareaction.com/blog-entry-2791.html(日本人コメント一部引用)


(日本人)コメント


301821. 名無しの日本人 2016/05/30 22:29:39
#-
編集

●1937年当時、スペイン内戦に次ぐ大事件で南京にも記者が何十人も集まっていたが、新聞には虐殺の記事は皆無、外国企業の職員も日本の敗戦まで住んでいて、平穏な日々の日記がある。

●1949年の内戦も末期に、南京で建国を宣言する予定で党幹部も集合、その機会を逃さず、毛沢東が党幹部と南京市民を抹殺し党主席に成った。其れが真の南京大虐殺だが、今は、蒋介石の仕業とされ、記念碑も建てられている。

301824. 名無しの日本人 2016/05/30 22:32:15
#-
編集

WW1で、多額の賠償金を敗戦国に与えることで、
結局はナチスの台頭を生んでしまった。
そこでWW2では少しの賠償金+贖罪意識を植え込む手法に切り替えた。

●で、アメリカと国民党が共謀して、戦闘による死者を虐殺にすり替え
敗戦国日本に植え込んだのが、南京事件。つまり、嘘なんだわ。

その嘘を共産党も継承することで、アメリカと中国は共犯関係にあったが、
中国がいよいよアメリカの敵に回ったために、それがもう使えなくなったんだ。

301827. 名無しの日本人 2016/05/30 22:37:57
#-
編集

●第二次上海事変に投入した60万の兵力は米国の資金提供で、ヒットラーの武器と教官で整備している、絶対に負ける筈のない戦争なのに蒋介石が敗退してルーズベルトは激怒した。

●敗戦後の混乱にも、米国の蒋介石批判等のミスがあり、それで共産党が勝利した。

●米国の無責任な介入が、中国人に犠牲を強いたのは確実だ。

301833. 名無しの日本人 2016/05/30 22:46:23
#-
編集

>だから、何で南京大虐殺は無視するの?

●アメリカ政府が、その理由を一番よく知っているからだよ。
それに、原爆投下を正当化するのであれば、南京大虐殺も正当化出来る。
なぜなら、戦争は被害者数で競うからね。それは多い方が良い。
ただし、原爆投下は、世界が認める様に写真もあれば映像もあるし、
退役軍人の証言も被爆者も沢山いる。何より化学兵器による大量殺戮。

●一方、南京大虐殺の方は証拠が乏しく、信憑性が低い。
しかも、30万人の被害者数と言うことから、原爆投下でもしない限りは無理な数。
敵兵がそこまでやるには難しい。
ちなみに、アメリカは中国の代弁者では無いぞ。
自国のことは、自国で解決するのが世界の常識です!
●ちなみに、チベット大虐殺はいつ謝罪と賠償をするのか?チベット独立は?
それをやってから、中国人は被害者面しろよ。お前達もやっている時点で、被害者では無いわ!

301836. 名無しの日本人 2016/05/30 22:49:29
#-
編集

●虐殺ではなく単なる攻防戦だから
戦争の戦闘の死者が出ただけでいちいち謝罪してたらキリがない
中国兵だって日本人を一人も殺してないわけないんだからお互い様
●原爆やホロコーストは組織的で意図的な民間人への虐殺だから悪質なの

301840. 名無しさん 2016/05/30 22:54:33
#-
編集

●蒋介石の自白位調べろ、低脳〇酷人
捏造で日本人にヘイとしていた事を土下座して死んでわびろ

301841. 名無しの日本人 2016/05/30 22:56:28
#-
編集

●20万人説は今でも議論されるが
中国が戦後創作した30万人説およびその歴史観は完全に捏造
肯定する歴史学者も存在しない

●中国が日本を貶めるために国家ぐるみで行ったプロパガンダ犯罪であり
それを証明する確固たる証拠も揃ってる


______

南京を逃げ出した蒋介石、中国軍の残虐行為や略奪行為

2013-01-30 08:10:00

テーマ: 南京大虐殺のウソ
http://ameblo.jp/michiru619/entry-11459773691.html


______

「南京大虐殺の真実! 自分たちがやった」と告白した国民党少尉【アパホテルの正義】APA
.

大東亜国防チャンネル

2015/03/31 に公開 (7分55秒)
https://www.youtube.com/watch?v=wSNB4vuxoiw


南京大虐殺の真実

●2012年1月27日に、開国少将というベンネームの作者が、「外祖父が自分の日で見た南京大虐殺」という歴史評論をネット(http://www.kdnet.net)に書き込んだ。

●すぐに記事は削除されたのか、現在は閲覧することができない。

出典 http://japan-plus.net/299/
参考 「ひと目でわかる 日韓、日中の歴史の真実」:水間政憲 氏著     「日本人はなぜ世界から尊敬され続けるのか」:黄文雄 氏著


その記事は、次のような内容だったという。
「私は小さい頃に、外祖父が抗日戦場から何故逃げ出したのか分からなかった。逃げたことは秘密で、外祖父が死去する前年に、よく雑談の中で何時間も話すようになっていた。外祖父は、妻が早く死去したということだったが、それが逃げた理由ではないだろう。私はある日、やつと外祖父から真相を聞き出した。
彼は四川省の貧農の出身で、小さい頃から武術で鍛えていた。
1928年に四川で国民党に捕らえられて兵士にさせられ、 1937年の南京大虐殺前夜に少尉にさせられて、日本軍の猛烈な攻撃を、首都を守れ・国父を守れというスローガンで防衛するよう命じられた。しかし日本軍の進政を食い止めることなど出来ないので、南京城から撤退した。

部隊は列車を何両か手配して、軍用の荷物と食料を積み込んだ。その時に周囲から、一般の民衆が老人や子供の手を引きながら列車に乗り込んできた。
大勢が列車の屋根にも乗っていた。日本軍は、すぐ近くまで迫っている。このままでは、国民党の兵士たちは逃げることが出来ない。誰かが、日本軍が来たぞと叫び、国民党指揮官は列車に乗り込んだ民衆に列車から降りろと怒鳴った。
誰も従わないので、指揮官は民衆を銃殺しろと命令を出した。兵士たちは民衆を銃殺することなど出来ないので、互いに顔を見合わせていた。指揮官は兵士たちに、もうすぐ日本軍が来るのだから、民衆は日本軍に銃殺されたことにしたら良いのだと言って、一斉射撃を命じた。あたりは血の海となり、兵士の足首まで血が溜まったと言う。ここで約1千人の南京市民は、国民党の兵士たちから銃弾を浴びて死んで行った。

●国民党の部隊が必死で逃げた後には死体の山が血の海の中に残され、それは日本軍の残虐行為として転嫁された。外祖父は、こんな部隊に残りたくないので、撤退途中に九江で夜陰に紛れて脱走し、長江を渡り武漢で列車を乗り換え、南の小さな山村に逃げ込んだ。

●外祖父の記憶では、他の部隊も同様のことをしてきたという。全ての国民党による民衆大虐殺は、日本軍の残虐行為として転嫁されたのである。外祖父は貧農の出身だが、国民党が貧乏人を虫けらのように扱うことに抵抗があつたという。
外祖父は、国民党の軍隊に残っていれば、出世したかもしれない。また抗日戦争で戦死していれば、抗日戦闘英雄烈士との美名で呼ばれたかもしれない。しかし、逃亡する道を選んだ。そして裏切り者という悪名で呼ばれて、経歴を隠し通して逃げ回った。その過去の真実を、外祖父は死ぬ前になって初めて語ったのである。
南京大虐殺は自分自身が犯した罪である。外祖父は恥ずかしくてたまらなかっただろう。

●私は反日・反米の青年であり、ネットによく論評を発表していた。

●だが、そんな単純な反日・反米の青年たちは利用されているだけなのだ。天国にいる外祖父よ、私を許して下さい」。


______

【石平】 南京事件を覆す決定的証言

Lisa Leonard

2016/03/14 に公開
https://www.youtube.com/watch?v=L61Ji0z2amA


_______

未来から来た宇宙人のブログ


2016-06-24

NNNドキュメント 「南京大虐殺 兵士たちの記録 陣中日記」を検証してみた。(南京事件 兵士たちの遺言)時々更新します
http://richard-black.hatenablog.com/entry/2016/06/24/022210(一部引用)


(略)

●重要な事なので、ここに緊急に追記します。

●実は調べると上の動画の中で表紙に「支那事変日記帳」と書かれていますがこれがおかしいのです。

●当時使われている漢字では「支那事變日記帳」と書かれないとおかしいのです。

使われている漢字が 「変」は新字体で旧字体なら「變」が正解です。

そこで日記に使われている漢字を色々と調べると新字体や旧字体がまざっています。

捕虜の「虜」の字も旧字体なら「虜」で男の部分の田の部分が毌でなければなりません。

当時の日本の漢字と今の日本の漢字では当然旧字体の方が正しい漢字なので今とは使い方が違います。

1923年(大正12年):文部省臨時国語調査会が指定した漢字1962字とその略字154字。
 一部資料に1960字とあるのは略字によって2組が同字となるため。


1931年(昭和6年):「常用漢字表及仮名遣改定案に関する修正」にて上記常用漢字表中の147字を減らし45字を増やして修正した1858字。


1942年(昭和17年):国語審議会が作成した標準漢字表2528字のうちの常用漢字1134字。他に準常用漢字1320字、特別漢字74字。簡易字体(略字)の本体78字、許容64字があった。


1945年(昭和20年):国語審議会が上記常用漢字から88字を削り249字を加えた
 常用漢字表1295字案。この案は採択されず、これを修正した1850字が当用漢字
 として公布された。
1981年(昭和56年):公布された常用漢字表1945字。

漢字は今まで何度も変更されています。

そこで当時「支那事変」で使われていた漢字を調べると「支那事變」の漢字が使われています。

「支那事変」画像検索結果

https://www.google.co.jp/search?q=%E6%94%AF%E9%82%A3%E4%BA%8B%E5%A4%89&lr=lang_ja&hl=ja&biw=1253&bih=678&tbs=lr:lang_1ja&source=lnms&tbm=isch&sa=X&ved=0ahUKEwjbv5aFrtTPAhXGKpQKHVG2DbMQ_AUIBygC

f:id:zigenn-daisuke357:20161012142412j:plain

読み方が右から左で今と逆ですがやはり「支那事變」の漢字が使われています。

当時の新聞でも「支那事變」と書かれています。

他にも使い方がおかしな漢字がないか現在検証中です。

新字体と旧字体の使われ方を途中までですが検証して下にアップしました。

(略)


_______

キリスト教読み物サイト

「南京大虐殺」は
捏造ねつぞうだった

南京の日本軍がなした多くの人道的活動
日本兵による犯罪は少数あったものの、日本軍による「大虐殺」はなかった
非道行為を行なったのはむしろ中国兵たちだった
http://www2.biglobe.ne.jp/remnant/nankingmj.htm


_________________________________________________

以下は、もはや手の施しようがない方々の考え方。
日本を徹底的に貶めるGHQの策略にまんまと嵌ったまま死んでいくんだろう。
しかし、これからさき何もお咎めなしに逃げ切れるんだろうか・・?


    ↓


読む・考える・書く

マスコミやネットにあふれる偏向情報に流されないためのオルタナティブな情報を届けます。


2017-04-19

南京大虐殺紀念館に行ってきたよ
http://vergil.hateblo.jp/entry/2017/04/19/221550


______

南京大虐殺の証拠〜当時の記録映像と生存者の確実な証言

osugi takiji

2015/03/01 に公開
https://www.youtube.com/watch?v=uyVeMusrS-k


こてつ6 か月前

●元日本兵の証言もあるのに、何が捏造なものか

http://www.asyura2.com/15/senkyo194/msg/426.html#c103

[政治・選挙・NHK194] 安倍首相が否定したい南京大虐殺を日本テレビの番組が精緻な取材で「事実」と証明! ところが番組告知は…(リテラ) 赤かぶ
104. 2017年8月05日 15:44:50 : NQO0ApT5mk : Jfp6zyQtewg[3]
キリスト教読み物

日中戦争の真実 

日本は、内戦に明け暮れる中国を救おうとした
ローマ法王も、日本の行動を支持していた
http://www2.biglobe.ne.jp/~remnant/rekishi05.htm(一部引用)


・・●また、南京攻略の司令官だった松井石根大将には、こんなエピソードも残っています。南京攻略戦の最中、焼け跡から赤子の泣き声が聞こえてきました。彼は秘書の岡田尚に「捜して来い」と命じました。
 ●救助された赤子を、松井大将は温泉に入れ、毛布にくるむと、自分の目を細めて抱き上げました。彼は、松井の一字をとって松子と命名してかわいがり、ミルクを飲ませて育てました。南京の入城時には、岡田秘書がこの赤子を背負って入城しました。・・


______


松井石根
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E4%BA%95%E7%9F%B3%E6%A0%B9

______

(れんだいこ氏のブログ)

428416 部隊の責任者・松井石根大将考、比較岡村大将考
http://www.marino.ne.jp/~rendaico/daitoasenso/taigaishinryaku_nankinziken_matuiko.htm(一部引用)

(略)

上海から南京へ

 ●昭和12年8月、松井大将は現役に復帰を命ぜられ、天皇陛下の謁を賜り、上海派遣軍司令官親補の勅を拝した。しかし派遣軍の兵力は当初3個師団(1個連隊は欠)の3個師団弱の微力なるものであった。大将は5個師団を要求した。米・ソが軍事支援をしており、装備も戦闘意欲もかつての満州の匪賊討伐とは違うと強調した。果たせるかな大将の言うとおり、相手は馮玉祥総指揮のもとに約30万の軍隊が、堅固な陣地を構築していた。
そのため、戦局は一向に進展せず、悪戦苦闘、我が方の犠牲は甚大を極めた。

 ●そこで参謀本部は、柳川中将ひきいる第10軍(3個師団と国崎支隊)及び北支にいた第16師団を転用して上海の背後をつく作戦をとった。そのため形勢は一変した。松井大将は上海軍と第10軍とを統轄する中支那派遣軍司令官(当時、中国は支那と呼ばれていた)に任命され、南京攻略戦を指揮した。日本軍は破竹の勢いで当時の首都、南京に迫った。

 ●蒋介石、何応欽ら政府と軍の首脳らが南京を脱出したのは12月7日頃である。これと前後して馬市長はじめ公務員も、金持ちもほとんどが南京を脱出した。残るは市民約20万(公称)唐生智将軍ひきいる約5万の国民党軍であった。

 ●松井大将は総攻撃に際して、全軍将兵に軍紀を厳守して皇軍の威信を示せと命じ、同時に国際安全区にいる20万市民の愛護を厳命し、無用の者の立ち入りを厳禁した。この時の「南京城攻略要領」(国際法顧問の斎藤良衛博士の意見を徴して作成)の「注意事項」には次のように書かれている。「@・将来の模範たるべき心組を持って、不法行為等絶対に無からしむること、A・軍紀風紀を特に厳粛にする、B・外国権益、外交機関に接近せず、中立地帯(安全区)には必要の外立ち入りを禁じ、所要の地点に歩哨を配置す、中山陵等にも立ち入りを禁ず、C・城内外国権益の位置等を徹底せしめ、絶対に過誤無きを期す、D・略奪行為を為し又火を失する者は厳罰に処す、多数の憲兵を入城せしめ不法行為を摘発せしむ」。

 ●大将はこの20万市民の安全と中山陵等史蹟を守るため降伏を勧告するビラを9日、飛行機から城内に散布した。しかし、唐将軍からの回答はなく、10日、正午を期して総攻撃を開始した。

 
 ●南京城は激戦のすえ13日に陥落したが、唐将軍は前夜、逃走したため、指揮官を失った敗残兵は略奪を欲しいままにし、一般市民の着衣を奪って安全区に逃げ込んだ。

 ●戦時国際法は、この便依兵(ゲリラ)の処刑を認めており、日本軍はこれを摘発し処刑した。

 17日、入場式、18日戦死者の慰霊祭が行われた。この時、松井大将は「中国の戦死者も、ともに慰霊しよう」と提案したが師団長から異論が出て取りやめとなった。この時の大将の思いが、後の興亜観音の建立につながるのである。

 19日には幕僚数名をともなって城内の清涼山や北極閣に登り、城内を視察、看望した。「概して城内は、ほとんど兵火をまぬがれ市内、安堵の色深し。」と大将は日記に記している。市民約20万を管理していた国際安全委員会のラーベ委員長から安全区内は砲爆撃もなく全員無事であった旨の感謝の書簡があった。大将も安全区の代表らに会い慰労している。

 21日の日記には「人民も既に多少づつ帰来せるを見る」とある。人口は1ヶ月後には25万に増加したのである。

 22日、大将は上海に帰り、2回にわたり、内外記者団と記者会見を行っている。この記者会見でもいわゆる゛南京虐殺”に関する質問など全然なかった。大将がこれを初めて耳にしたのは、終戦直後、アメリカの放送で知って驚き、旧部下に命じて聞き取り調査を行った。もちろん、各部隊長とも答えはNOであった。

(略)


松井石根の人間像

・・さらにこんな話もある。軍司令部が湯水鎮に進出した夜、軍司令部付通訳官の岡田尚(たかし)氏は、焼け跡から赤子の鳴き声が聞こえる、当番兵と2人でこの赤子を救助した。温泉に入れ、毛布にくるめた赤子を、大将は目を細めて抱き上げ、松子と命名した。松井の一字をとっての命名である。翌日入城式に、当番兵はこの赤子を背負って入城した。●松子ちゃんは上海の東亜クラブのマネージャー鳥井夫妻に養女としてもらわれたが、大将は上海を去る日まで松子のことを気にして、何かと岡田に指示し、慈父のごとくいつくしんだと言う。●松子は小学校1年の時疫痢のため死去した。注(4)・・・


(略)

パール判事は松井大将を東京裁判で評した…


(略)

 (松井大将辞世)

     世の中に のこさばやと 思う言の葉は 自他平等 誠の心


(略)

http://www.asyura2.com/15/senkyo194/msg/426.html#c104

[戦争b13] 盧溝橋事件の銃声と集団的自衛権 平成一郎
16. 2017年8月06日 01:55:35 : NQO0ApT5mk : Jfp6zyQtewg[4]
news-us

【緊急】南シナ海で米軍兵が行方不明に!!!?  ヤ バ す ぎ る 事件が発生!!!  2ch「始まるってことだよね」

2017.08.06
http://www.news-us.jp/article/20170806-000011c.html

【国際】南シナ海で任務中の米駆逐艦から水兵ひとりが失踪。日米の艦が捜索中。中国ネット民「これ盧溝橋事件に似てね?」

(以下略)


______

さくらの花びらの「日本人よ、誇りを持とう」

保守の会会長 松山昭彦のブログ

東京新聞「日本人は歴史の愚を学べ」

2017/7/8(土) 午後 11:59
https://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/34801926.html?__ysp=6Kaq5pel5rS%2B44Gg44Gj44Gf6JKL5LuL55%2Bz44GM5Y%2BN5pel44Gr44Gq44Gj44Gf44Gu44Gv55un5rqd5qmL5LqL5Lu244GL44KJ(一部引用)

盧溝橋事件80年 歴史に「愚」を学ぶとき

北京郊外で旧日本軍に銃弾が撃ち込まれた盧溝橋事件から八十年になる。これが八年間に及ぶ日中戦争の発端になった。止められた戦争と歴史は教える。

(略)

(2017.7.8 東京新聞)

------------------------



まず、歴史上には「日中戦争」という言葉はない。この言葉は戦後、左翼歴史家が作った言葉で、当時は「支那事変」と呼んでいた。ここから東京新聞の歴史認識は失格である。



-----「現地で停戦協定が成立したにもかかわらず、華北への派兵が決定し、戦争拡大へと歯車は動きだした」(東京新聞)-----



ものごとには必ず理由がある。日本が派兵した理由を書かずに「日本は派兵させたため戦争拡大となった」と書くのは意図的すぎる。



満州事変の停戦協定である「塘沽停戦協定」からしばらくは平静であったが、昭和10年に日本人に対する殺人事件など反日事件が50件ほど起きた。



現地の日本人居留民が不安になると、日本軍は国民党に「華北を安定しなければ軍が実力で治安を担当する」と通告した。治安を安定させるのは当事国の務めだ。しかし国民党政府はそれをしなかったために、日本人の生命・財産を守るために派兵したのだ。





-----「盧溝橋事件は幾重にも謎に包まれている。それなのに戦争を始める。「愚」である。不要な戦争であった」(東京新聞)-----



人民解放軍の兵士用教科書『戦士政治課本』に「盧溝橋事変は劉少奇の指揮する学生が起こした」と、シナ共産党が戦争に導いたと書いてある。



支那派遣軍情報部北平支部長の秋富重次郎大佐は「盧溝橋事件直後の深夜、北京大学構内の通信所から、延安の共産党軍司令部に緊急無線で、成功した、と三回連続反復送信していたのを傍受した」と証言している。



さらには1949年、中華人民共和国の樹立宣言で「我々共産党軍が日本軍と蒋介石軍の両軍に鉄砲を撃ち込み、日華協定を妨げたことが共産党の今日の栄光をもたらした起因である」と盧溝橋事件はシナ共産党が仕掛けたと自ら述べているのだ。





-----「戦争の公式目的が「中国を懲らしめるため」である。そんな荒っぽい理屈が当時の国際社会に受け入れられるはずもない」(東京新聞)-----



●これも、当時の日本の感情を無視した解釈だ。東京新聞は歴史をきちんと調べもせずに思い込みだけで書いているのか?



●シナを懲らしめるとなったのは、7月29日に260人の日本人女性や子供が凌辱され惨殺された「通州事件」が起きて、日本国民の怒りと屈辱で「支那を懲らしめよ」となったのだ。



●これを指令したのが日支全面衝突させたかったコミンテルンであり、工作したのはシナ共産党北方局の劉少奇の部下の黎巨峰と王自悟であることがシナで明らかにされている。



●東京新聞は「コミンテルン」と「通州事件」を書かずに「荒っぽい理屈」と書くのはあまりにもお粗末ではないか。





-----「和平はとても成立しなかった。寛容さがあれば、戦争を止めることもできた。和平を台無しにした「愚」もあるのだ」(東京新聞)-----



●この和平を妨害していたのもコミンテルンだ。理由は「第七回コミンテルン会議」にある通り、日支の戦いを長引かせて日本軍の体力を消耗させようとしていたからだ。



●この時、蒋介石に和平をさせないようにしていたのが黒田善治である。反日日本人が蒋介石に指導、工作していたのだ。





-----「こういう時こそ、歴史の「愚」を学ぶとき」(東京新聞)-----



●今まで指摘してきた通り、歴史をきちんと学ぼうともせずに、戦前の日本がやってきたことは全て「愚」と決めつける東京新聞。よくもこんな幼稚な記事を書けたものだ。





戦後言われている歴史は嘘が多い。

●まず日本軍は上海事変から南京、徐州、漢口と攻め入って支那民衆を苦しめたように教えられているが、全く違う。



●上海も南京も徐州も日本軍が国民党軍を追い出したことにより治安がよくなり、支那民衆から大変感謝されていたのだ。



●日本軍が蒋介石国民党を追い出したことで、国民党に深い恨みのある支那民衆は「和平救国、反蒋大会」を上海、南京、杭州、九江など各地で開催し、支那民衆は「親日」を要望し、「日の丸」や「五色旗」(満州の旗)を掲げて「打倒蒋介石」の声を高らかに上げて、反蒋デモが行われた(下画像)。

イメージ 1




広東では支那人が「日の丸」を背中に、襟に「親日突撃隊」と書いた法被(下画像)を着て、東亜新秩序を集会を行っていた。これは日本軍が来たことで治安が回復した感謝の祝賀であった。

イメージ 2





●支那民衆を苦しめたのは「蒋介石国民党」や虐殺と粛清を繰り返していた「毛沢東共産党」であった。これを戦後は「日本軍」にすり替えたのだ。



●当時の支那人はみんなそれを知っていた。



水間政憲著『一目で分かる日中戦争時代の武士道精神』にはこう書かれている。

1990年頃、上海出身の知人が教えてくれた言葉の意味が全て理解できました。それは筆者が「日本を批判している中国から、なぜ留学してきたのか」との質問に「お母さんは上海に日本軍が来てから治安が回復し、夕方でも外で遊べるようになった。日本軍は信頼されていた」と語った。


_______

迷える夏の恋人たち


◆ 「南京虐殺」宣伝の裏に共産勢力


◇ 中国大陸・沖縄尖閣諸島
2013/06/1517:34 0 0
http://natsunokoibito.blog.fc2.com/blog-entry-595.html?sp(全文転載)


「南京大虐殺」
宣伝の裏に共産勢力
2011.06.23
(http://sankei.jp.msn.com/world/news/110623/chn11062305000001-n1.htm )
  ↓
(The page cannot be displayed )

「『南京大虐殺』という、戦時プロパガンダが行われた経緯を解明する、新たな糸口になるかもしれない」。


『別冊正論』 15号(中国共産党 野望と謀略の90年)の編集を終え、そんな期待が膨らんできました。


●中国の『国民党』が主導したと考えられてきた『南京大虐殺』の宣伝に、『中国共産党』または『ソ連』が大きく関与していた可能性が、論文筆者たちの指摘で、浮かび上がってきたのです。


虚実不明の『南京大虐殺』を、初めて世に紹介したのは、イギリス『マンチェスター・ガーデン紙』の 特派員ティンパーリーが、1938年(昭和 13年)に刊行した『戦争とは何か』です。


ティンパーリーは、当時、中国の『国民党』中央宣伝部顧問で、資金提供も受けていたことが、北村稔・立命館大教授らの研究で判明しています。


●『戦争とは何か』をはじめとする『南京大虐殺』宣伝 は、世界中で反日論を高める戦時プロパガンダだったのです。


『別冊正論』 15号では、3人の筆者が、このプロパガンダへの『中国共産党』または『ソ連』の関与を示す根拠を、提示しています。


(1) 『戦争とは何か』の中国版の「序文」を書いた有名文化人の郭沫若 (かく・まつじゃく)は、日中戦争勃発にあわせ、亡命先の日本から『中国共産党』や『コミンテルン』(戦前〜戦中の『国際共産主義運動指導組織』。本部はモスクワ)の支援で極秘帰国し、戦時宣伝を担当した。(中西輝政・京大教授)


(2) 『戦争とは何か』の日本語版の「序文」を書いた青山和夫こと★黒田善治という人物は『コミンテルン』の秘密工作員とともに中国で活動していた。(近現代史研究家・長塩守旦氏)


(3) 『南京大虐殺』の証拠の一つとされた『ラーベ日記』の著者ジョン・ラーベは、『ソ連』 大物スパイだったゾルゲの活動を上海で支援していた『赤軍』 報部員の 友人だった。(江崎道朗・日本会議専任研究員)


●『戦争とは何か』の英語版に『コミンテルン』の影が見え隠れすることは、北村教授も著書『「南京事件」の探求』で指摘しています。


●『南京大虐殺』宣伝に国際共産主義勢力が積極的にかかわっていたとすれば、相当の規模をもった「対日宣伝戦」だったことを意味します。


●アメリカでは近年、第二次世界大戦前後のルーズベルト政権内に『ソ連』と通じた『秘密共産党員』が多数潜入して政策に影響を与えていたという実証研究が進み、共産主義の世界革命戦略が当時の情勢分析に欠かせない、という見方が強まっています。


●『南京大虐殺』宣伝も、その中に位置づけられるとしたら・・・。


今後の検証が待たれます。


_______

なぜ、「南京事件」は捏造されたのか?

mediawatchjapan

2009/08/16 に公開
https://www.youtube.com/watch?v=9jWIHnks7uo&feature=related


(コメント引用)

eitman184 年前

南京虐殺はないでしょ。証拠は毛沢東が戦後、国民党の蒋介石が共産党員を南京で大虐殺したとして、捏造宣伝した、。また、毛沢東は日本軍の欠点として占領しても虐殺しなかったことだと明言した。残念だがその教訓から文革で大虐殺をやったということらしい。また、日本が支援した汪兆銘の南京臨時政府がポツダム宣言まで存在していた、。つまり、中国人の指導者が統治していた、。また、当時の中国人の認識では蒋介石、毛沢東もただの地方の盗賊集団という認識。だから、日本が統治すると治安が回復し住民が戻ってきたということらしい。ただ、アメリカはそれでは日本は正義の見方になり、アメリカが参戦した動機をごまかせなくなるから、戦後、あらゆるところで、日本軍を悪く宣伝したということだ。朝鮮が反日で侵略と盛んに言うのは、アメリカもその方が都合がいいでしょということだよ。

http://www.asyura2.com/14/warb13/msg/173.html#c16

[政治・選挙・NHK218] 「真珠湾攻撃の犠牲者を慰霊した翌日、真珠湾攻撃を指示した東条英機を神と祀る神社に参拝する支離滅裂。」 上丸洋一氏 赤かぶ
14. 2017年8月06日 02:51:45 : NQO0ApT5mk : Jfp6zyQtewg[5]
Hatena::ブログ(Diary)

1:昭和天皇は戦争回避とユダヤ人難民救護を希望し原爆開発中止を厳命した。


2017-01-08

■♯:32─8─アメリカとイギリスは、「7日午後1時」という指定日時の重要な意味を知っていた。真珠湾奇襲攻撃より先のマレー強襲上陸。1941年12月8日。〜No.200〜No.201@
http://d.hatena.ne.jp/nisikiyama2-14/?of=187(全文転載)


日米開戦と真珠湾攻撃秘話 (中公文庫)
作者: 半藤一利,秦郁彦,横山恵一
出版社/メーカー: 中央公論新社
発売日: 2013/04/23
メディア: 文庫

二つのブログを、五つに分けて建設する。

 プロフィールに、五つのブログを立ち上げる。↗ 

   ・   ・   ・   

 真珠湾攻撃は、奇襲攻撃(サプライズ・アタック)であって卑怯な攻撃(スニーク・アタック)ではなかった。

   ・   ・   ・   

 ルーズベルトとアメリカ軍は、日本の外交機密暗号を傍受・解読し、「7日午後1時」以降に日本軍が軍事行動を起こす事を理解していた。

 チャーチルとイギリス軍も、「7日午後1時」以降に日本軍がマレー半島を攻撃する事を知っていた。

   ・   ・   ・   


ルーズベルトは、真珠湾に太平洋艦隊を移動させた。

 真珠湾の水深は約14メートルで、航空機から発射される魚雷は通常40メートル沈みこんでから敵艦に向かって進んで命中する。

 真珠湾を攻撃するには航空機しかなく、水深の浅い真珠湾では雷撃は不可能であった。

 残る攻撃方法は爆撃であったが、水平爆撃は命中精度か低く撃沈する威力は弱く、急降下爆撃は命中精度も高く破壊力も強かった。

 軍事評論家フレッチャー・プラットは、日本人は近視で高高度水平爆撃は無理であり、おぶって育てられる為に三半規管に異常があって急降下爆撃はできない、と科学的報告書を発表していた。

ルーズベルトは、もし万が一、日本海軍が真珠湾を攻撃したとしても被害は軽微で済むであろうと考えていた。

   ・   ・   ・   

 大本営は、真珠湾攻撃の12月8日は日本では「大安」でアメリカ・ハワイ・真珠湾では「仏滅」だから成功したと盲信していた。

 ミッドウェー海戦においても、中国から伝来した陰陽道の暦占い「六曜」に従って、勝負事に先んじて勝つ「先勝」を選んだ。

   ・   ・   ・   

 なぜ、スチムソン陸軍長官が日本を戦争に追い込むような対日強硬策をルーズベルトに進言していたのか。

 それは、スチムソンが1927年〜29年までフィリピン総督をしていた経験による。 そこで知ったアジア人像とは、アジア人は不平不満で反抗しても、脅せば恐怖で震え上がって大人しくなり、奴隷の如く従順となって損を承知で命令に従うという事である。

 アジア人が大人しくなったところで話を聞き、アジア人の要求をほんの僅か叶えてやれば良い。

 フィリピン統治で学んだ実践知で、軍国日本と日本人を理解し、対日強硬策を実施した。

 スチムソン陸軍長官は、ルーズベルトほどの反日親中国派ではなく、人種差別主義者として日本を憎んではいなかった。

 むしろ、ウォール街の国際金融資本家らの金儲けの為に日本を利用する事を考えていた。

 つまり、スチムソン陸軍長官はルーズベルトとは違って日米戦争を望んではいなかった。

 世界常識を持つ多くのアメリカ人高官達も、軍国日本は、チェコスロバキアがナチス・ドイツとの戦争を回避する為にミュンヘン会談決定を受け入れて国土解体を決断したのと同様に、アメリカとの戦争を避けるだろうと予想していた。

 軍国日本が、絶望的戦争を避けるには領土の一部を放棄し帝国の解体を受け入れる事であった。

   ・   ・   ・   

 12月7日午前4時半頃 アメリカ軍暗号解読班は、ワシントンの日本大使館に送られた最終電文第14部の暗号を傍受し、解読した。

 日本政府は、ハル国務長官への手交する時刻を「7日午後1時」と指定し、さらに直ちに暗号機を破壊する様に命じた。

 ハワイ時間の午前7時半で、南雲機動部隊が真珠湾を奇襲するのは午前8時であった。

 誰が呼んでも、「午後1時以降に日本軍が攻撃してくる」事は明らかであった。

 ブラットン陸軍大佐は、午前9時から午前10頃まで行方不明になっていたマーシャル参謀長を捜し回り、午前11時15分にようやく解読文を手渡した。

 マーシャルは、何故か、前日の夜から所在不明となっていた。

 後日。「何処にいたのか?」と問われて、「覚えていない」と答えた。

 マーシャル参謀総長は、ブラットン大佐の最重要な14部から読むようにとの要望を無視して、13部から読み始めた。

 そして、アメリカとの外交関係を断絶するという内容の最後の14部を読み終えて、海外に駐屯するアメリカ軍に日本軍からの攻撃が近いという警戒を伝えた。

 但し、ハワイへの警告は、緊急電話回線も海軍の無線を使わず、時間がかかる民間の通信回線で送った。

 文面は、事態が切迫しているというものではなく、「午後1時の通告時刻が何を意味するか分からないが」という曖昧なものであった。

 スターク海軍作戦部長は、早朝にクラマー少佐から「午後1時」の通告時刻付き暗号解読文の連絡を受けたが、自宅でゆっくりと朝の時間を寛いでから登庁した。

 ウィルキンソン海軍情報部長は、解読文を読み終わったスターク海軍作戦部長に、至急、ハワイのキンメル提督に電話する様に意見具申した。

 スターク海軍作戦部長は、大統領命令でハワイに警告できるのはマーシャルだけであるとして、マーシャルに電話したがつながらなかった。次に、ホワイトハウスに電話したが、ルーズベルトにもつながらなかった。

 「私は良心には一点のやましいさもない。なぜなら自分の一切の言動は、上司の命令によってコントロールされていたからだ」

 その頃。ルーズベルトは、外部からの電話を全てつながない様に命じて、ハリー・ホプキンズと一室に閉じ籠もって密談していた。

 ワシントン時は、ハワイ時間午前7時半にあたる。

 ノックス海軍長官は、後日、報告書を読んで通告時刻「午後1時」は宣戦布告の時間を意味するとし、キンメル提督に緊急警告が成されていなかった事を知って愕然とした。 

 日本大使館は、最後通告の清書作業が指定手交時刻までに完了できないのは明らかであったが、大使館員全員を非常呼集して清書を間に合わせようとはしなかった。

 真珠湾騙し討ちの責任は、緊張感に欠けた外交官の怠慢であって、日本全体が責めを負う事は不当である。

 ハリー・バーンズ「スタークはFDRに協力を求められた。しかし、いくらか良心の呵責を感じていたらしい。もっとも、彼を計画の主要な実行者にすれば、FDRにとって余計な危険が増える事をを意味する。スタークはノックスのもとで仕事をしていた。彼を通じて計画がノックスに伝われば、計画全体が挫折してしまう恐れがあったからだ」

   ・   ・   ・   

 ルーズベルトは、昭和天皇に平和を求める親書を送ったが、新しい提案を盛り込まなかった。つまり、平和への親書で戦争を回避する意志はなかった。

 ワシントン時間午前11時 ホワイト・ハウスは、ルーズベルトの親電を東京に送った。

 ホワイト・ハウスは、親書を送る事を発表した。

 ハル国務長官は、中国大使に「この電報は多分役に立たない。しかし、後日、アメリカ側の立場をよくする。その為に打っておいたんだ」と語った。

 松平康東一等書記官「ルーズベルト大統領から親書が出る。という事は戦争なんだ」 

 正午 東京の中央電信局は、グルー大使に宛てた親電文を受け取ったが、参謀本部の戸村盛雄少佐は独断で親電をグルー大使に渡すのを15時間遅らせた。

 グルー大使は、アメリカ発のラジオで親書を知っていたが、受け取ったのは午後10時半であった。

 直ちに、昭和天皇への謁見を求めたが実現しなかった為に、東郷外相に手渡した。

 午前11時52分(ハワイ時間午前6時22分) スターク海軍作戦部長は、マーシャル参謀長に、機能が優れた海軍無線局を使って海外の警備部隊に警告を発するべきと意見した。

 マーシャル参謀長は、海軍の提案を拒否し、陸軍無線局からパナマ、マニラ、サンフランシスコの警備部隊に警告文を送ったが、ハワイには直接ではなく民間回線で送った。

 この警告文は、遅れて配達された。

 ルーズベルトは、日本軍に攻撃される事は知っていたが、それが真珠湾であったかそれは不明である。

 5ヶ月以上に及ぶ、日本を戦争に追い込む作戦は成功した。

 チームSRは、10ヶ月前から日本占領計画の研究を始めていた。

   ・   ・   ・   

 戦後。GHQは、戦争を回避する為に送られた親電の行方を極秘で調査していた。  

   ・   ・   ・  

 日本海軍の真珠湾奇攻撃は、卑怯な騙し撃ちではなかった。

 アメリカは、日本の外交暗号傍受し解読し、日本が何を考えているかを知っていた。

 そして、「7日午後1時」以降に日本軍が軍事行動を起こす可能性がある事を理解していた。

 日本側も、東京のアメリカ大使館とワシントンの外交電報を傍受していた。

 アメリカ軍が日本海軍の奇襲を知らなかったとすれば、アメリカ軍は日本軍との情報戦に完敗した事になる。

 それは、決してあり得ない事である。

   ・   ・   ・   

 アメリカ軍は、日本軍の奇襲攻撃に備えて軍隊を配備していたが、真珠湾だけは無防備のまま放置していた。

   ・   ・   ・   

 12月8日午前零時15分過ぎ グルー大使は、ワシントンの指示に従って、東郷外相に親書を手渡して昭和天皇への謁見を願い出た。

 東郷外相は、グルーに「親電は現今の危急を救い得るものとは認めがたく、且つ時刻も急迫につき」として昭和天皇の面会を断った。

 午前2時半 東郷外相は、東條首相に親書を伝えた。

 東條首相「内容に目新しいものはあるか」

 東郷外相「何もありません」

 午前2時50分 東郷外相は、皇居に参内した。

 昭和天皇は、真珠湾攻撃やマレー半島上陸などの成功報告が来るのかを不安で眠れずにいた。

 午前3時 昭和天皇は、海軍軍装を召し、御学問所で東郷外相から親書を受け取って呼んだ。

 昭和天皇は、親書を読み、東郷外相の報告を聞き、戦争を回避する為の建設的な文面でない事に失望した。

 東條首相は、真珠湾攻撃の30分前に、昭和天皇の前で親書の全文を読み上げた。

 アメリカ東部時間の午後1時であった。

 スチムソン「戦争回避の努力をみせるポーズとしての価値しかなかった」

 日本陸軍船団は、マレー半島に上陸を開始した。

 ワシントンの日本大使館は、東京の指示に従い、最後覚書を東部標準時間7日午後1時に手交する為に準備を急いだが、清書に手間取り遅延という失態をしでかした。

 館員は、最後の暗号機を破壊し、暗号帳と機密文書を焼却処分した。

 だが日本外務省は、手交が遅れても構わないと思っていた節が幾つかある。

 先ず第14部を第13部から15時間後に長文で送った事、次に「大至急」ではなく「至急」と指定した事。

 そして、通告文の原文から「将来起こる一切の事態の責任は、挙げてアメリカ政府にある」という最後通告文を削除した。

 つまり、ワシントンの日本大使館は開戦通告と深刻にとらえなかったともいわれている。

 アメリカは、暗号電文から、開戦は間近であると判断した。

 ホワイト・ハウスとワシントンの軍首脳部は、午後1時頃に日本軍が何処かを奇襲攻撃する事を予想した。

 予想しなかったとした、無能と言うしかなかった。

 午後零時20分 日本政府は、日本の戦争はアジアの解放の為であるという「帝国政府声明」を発表した。 

   ・   ・   ・   

 『フーバー回想録』「スティムソンの日記が明らかにしたように、ルーズベルトとその幕僚は、日本側から目立った行動が取られるように挑発する方法を探していたのだ。だから、ハルは、馬鹿げた最後通牒を発出して、そして真珠湾で負けたのだ」

   ・   ・   ・   

 ハワイ時間7日午前8時(日本時間 8日午前3時25分)。真珠湾攻撃。日本は、軍事大国・アメリカに対して覇権的意図のもとで武力先制攻撃・騙し討ちを行ったのではなく、軍事的劣勢を補い為に予防的先制攻撃(プリベンティブ・プレアタック)・奇襲攻撃を行っただけである。

 不意打ちを食らわせる攻撃は、戦争勃発を意図として理不尽な圧力を加えて来る軍事大国に対する小国の当然な権利である。

 小国の権利が認められなければ、世界は大国の正義で支配される。

 大国中心の文明論及び力の正義に、敗北覚悟で宣戦布告して叛旗を翻したのは軍国日本だけである。

 日本軍は、攻撃対象を軍艦、軍用機、軍事施設に限定して、軍用地以外は攻撃しなかった。

 日本海軍攻撃隊は、民間人や民間施設への誤爆を避けるべく細心の注意を払っていたが、軍基地や軍事施設で働いている民間人の犠牲はやむを得ない犠牲とした。 民間人の犠牲者は、68人で、そのほとんどが基地の従業員であった。

 湾内に停泊していた大小軍艦約120隻を攻撃したが、一隻の病院船には一発の機銃弾も撃ち込まなかった。

 アメリカ軍が撃った対空砲火の破片が落下して、市民57名が巻き込まれて死亡した。

 石油基地なども攻撃しなかった為に、真珠湾の環境破壊と民間人の二次的被害も起きなかった。

   ・   ・   ・    

 パン・アメリカン航空の大型飛行艇チャイナ・クリッパー機は、真珠湾のあるフォード島北側にある飛行艇専用の船着き場を目指して飛行していた。

 同機の乗客の中に、ビルマ首相ウー・ソーとイラン帝国皇太子パーレビ(モハンマド・レザ・シャー)がいた。

 真珠湾攻撃の真っ最中にハワイに向かって飛行していた民間機チャイナ・クリッパー機は、日本軍機の攻撃を避ける為にハワイ島ヒロ空港に緊急着陸した。

 両者は、日本軍による真珠湾奇襲攻撃の成功を間近に見て、白人による世界支配の終焉は近いと確信し、アメリカやイギリスと戦う軍国日本への共感を強めた。

 ウー・ソー首相は、軍国日本の戦争に協力する申し込みをした事がバレて逮捕さ、戦後、濡れ衣を着せられて処刑されたれた。

 イラン帝国皇帝レザ・シャーは、枢軸側に味方しないし連合国側に協力しないと中立を宣言したが、ソ連への援助ルートを確保したいアメリカとイギリスの謀略で逮捕されモーリシャスに島流しにされた。

 パーレビ皇太子は、皇帝に即位した。

 親日派のパーレビが、祖国が連合軍によって軍事占領され傀儡国家の皇帝となった。

   ・   ・   ・   

 トルーマン「真珠湾の失敗は、陸海軍の反目にあった。キンメルとショートは口もきかない間柄で、お互いに情報ゼロの状態であった」

   ・   ・   ・   

 日本海軍は、マリアナ諸島のグアム島に上陸し、アメリカ軍守備隊400人と現地民義勇兵800人は抵抗は無駄と判断して降伏した。

 数日で、トラック島やクエゼリン島なども日本軍によって占領された。

   ・   ・   ・   

 昭和天皇は、日本海軍による真珠湾攻撃の報告を聞くや、「病院や学校には爆弾を落とさなかっただろうね。本当に大丈夫だろうね」と何度も念を押した。

 自衛行為としての「正戦」を宣言した以上、可能な限り非戦闘員を巻き込まない事を希望した。

 その気持ちで、一般市民を大虐殺する目的の大量破壊兵器・原爆の開発に猛反対した。

 軍国日本が戦ったのは、戦時国際法に則った「正戦」であって、神の意思で際限の無い殺戮や無差別の虐殺を祝福する「聖戦」ではなかった。

   ・   ・   ・   

 日本軍は、地元の独立派の協力を得て侵攻していた。

   ・   ・   ・   

 軍部は、第三国であるタイのシンゴラ湾に許可なく上陸する為に、政府に対して開戦詔書から「国際法を守る」の文言を削除させた。

   ・   ・   ・   

 日本は、宣戦布告以前に真珠湾を奇襲攻撃し、この先制攻撃ゆえに、日本は戦争犯罪国家とされた。

 日本軍は、乏しい弾薬や燃料の為に軍事目標を攻撃したが、それ以外の病院などの民間施設を攻撃するゆとりはなかった。もし民間施設を攻撃したとしても、意図した攻撃というよりは戦闘による誤爆であった。

 それは、全ての戦場で言えた事であった。

 日本には、アメリカの様に有り余るほどの物資はなく、遊び半分に浪費できる燃料も弾薬も無かった。

 弾薬の乏しい日本兵は、貴重な銃弾を一発ずつ撃つ銃を手にして突撃した。

 大量の弾丸を持つアメリカ兵は、離れた場所から機関銃を乱射して日本兵をなぎ倒していた。

 その物量差は、海上でも、上空でも、同じであった。

   ・   ・   ・   

 12月8日午前1時30分(日本時間) 日本軍の第18師団佗美支隊(佗美浩少将)は、宣戦布告なしでマレー半島東岸のコタバルに上陸を開始した。

 上陸作戦は、真珠湾奇襲攻撃より1時間20分早かった。

 日本軍は、英領マレーとその北のタイ領シンゴラに上陸した。

 タイ首相ピブンは、軍国日本と無害通行の秘密約束をしていたが、戦争は軍国日本の敗北で終わる事が分かっていた為に戦後の言い訳の既成事実を作るべく、現地からの日本軍上陸の緊急報告が届けられた際に居留守を使いった。

 海岸守備のタイ軍は、ピブン首相の命令がない為に上陸してきた日本軍を侵略軍として攻撃した。

 日本軍は、無害通行の密約があったのにタイ守備隊からの予期せぬ攻撃に驚いたが、シンガポール攻略という作戦に加えてタイ軍と戦う事は好ましくないとして静観した。

 タイ軍は、ピブン首相からの戦闘停止と日本軍の領土内通過を認める命令が届いて攻撃を止め、日本軍の上陸を静観した。

 日本軍は、長時間、タイ国内に留まる事は迷惑になるとして直ちに南下し、国境近くに建設されている要塞ジットラ・ラインの攻略に向かった。

 イギリス軍は、ジットラ・ラインは3ヶ月は日本軍の攻撃を防げると確信していたが、1日で日本軍に占領された。

 日本軍の攻撃を助けたのは、地元のマレー人であった。

 イギリス軍に協力したには、マレーで生活していた約350万人の華僑や華人であった。

 華僑や華人達は、イギリスの植民地支配に協力し地元マレー人を奴隷如く使役し阿片を売り付けて大金を稼いでいた。

 反日派の華僑や華人は、マレーに住む日本人居留民に暴力を振るう事件を起こしていた。

 イギリス人警官は、華僑や華人達による日本人居留民への犯罪に目を瞑り放置し、殺人・強盗・放火などの重犯罪のみ逮捕した。

 華人の陳嘉庚の配下は、日本人の谷豊の妹(6)を強姦して惨殺した。

 刑務所に収監された反日派の華僑や華人の重犯罪者は、白人看守から「好ましいアジア人」として優遇され、華僑や華人から英雄視されていた。

 日本軍の自転車を使った銀輪部隊は、1日平均20キロの快進撃を続け、敵の攻撃を受けるや自転車を捨てて密林に入って敵軍を殲滅した。

 地元マレー人は、自主的に、無報酬で、日本軍が乗り捨てた自転車を保管し、自転車を担いで日本軍兵士の後に従い、シンガポールへの進撃を助けた。

 華僑や華人達は、イギリス軍に協力する為に民間便衣隊(ゲリラ・スパイ・破壊工作員)を組織して、進撃してくる日本軍を攻撃した。

 イギリス軍パーシバルは、地元マレー人の協力で快進撃してくる日本軍に対抗するべく、日本人憎しの重犯罪者の華僑や華人を便衣隊として利用するように命じた。

 ジョン・ダレー大佐は、チャンギー刑務所などに収監されている華僑や華人の犯罪者を便衣隊として組織し、ダレーのならず者部隊と呼ばれた。

 華僑と華人は、中国国民党系と中国共産党系の二グループに分けて競わせた。

 犯罪者以外にも一般人も参加して、当初は約3,000人であったが、シンガポールが陥落する昭和17年2月迄に総勢数万人に膨れ上がった。

 正規軍人ではなく民間人ゲリラ・テロリストとして利用する為に軍服を支給せず、目印として黄色いバンダナを巻かせて戦場に投入し、さらに日本軍の兵站線を破壊すべく日本軍の後方へ送り込んだ。

 華僑や華人らのならず者部隊は、重犯罪集団の凶悪さを遺憾なく発揮して、戦闘地域以外の日本人居留民はおろか地元マレー人へ見境ない凶悪犯罪を「戦争である」として行っていた。

 日本軍は、ならず者部隊の便衣隊員で投降した者は許して武器を取り上げて家に帰したが、投降を拒否して徹底抗戦する者は正規軍人ではなく民間人ゲリラ・テロリストとして処刑した。

 その処刑が、戦争犯罪「シンガポール大虐殺」と認定された。

   ・   ・   ・   

 マレー半島上陸作戦。イギリス軍14万人。日本軍3万5,000人。

 シンガポール防衛のイギリス軍は、マレーシアとタイ国境近くに、日本軍の侵略を防ぐ為に堅固な重層防衛線ジッド・ラインを築いていた。

 パーシバル「日本軍を3ヶ月は食い止められる」

 イギリス軍は、他の欧米列強軍同様に、白人キリスト教徒は優秀人種で世界の支配者り、優秀人種の軍隊は負ける事は絶対にあり得ないという不敗神話から、劣等人種の日本軍を過小評しいた。

 植民地支配を受けていたアジア人の多くも、日本軍は負けると確信していた。

 イギリスは、植民地支配で莫大な利益を得る為に、マレー半島の自然を破壊し、ブラジルからゴムの木を、アフリカから油椰子を持ち込んで植え、中国人苦力を奴隷の如く酷使して錫鉱床の露天掘りを行い重金属を含んだ死の池を幾つも放置していた。

 華僑や華人らは、白人植民地支配で利益を得ていた為にイギリス軍に協力していた。

 植民地支配に苦しむマレー人らは、白人や華僑・華人から解放してくれる神軍の到来を待ち望んでいた。

 日本軍は、マレー人ら現地住民にとって解放軍であり、華僑・華人らにとっては侵略軍であった。

 日本軍が迷惑をかけたという相手は、植民地の圧政下で搾取され貧困で苦しめられていた現地住民ではなく、植民地支配に協力して暴利をえ現地住民を下等人種と差別していた華僑・華人であった。

 日本陸軍謀略機関であるF機関(藤原岩市少佐)は、東南アジア各地の民族主義者を味方に付け、独立闘争の為に武器弾薬を与えた。

 植民地支配に苦しむ東南アジアの人々にとって、日本軍は紛れもなき「解放者」であった。

 東南アジアの華僑・華人らは、植民地に於ける既得権を守る為に白人支配者に協力した。

 非中国系東南アジア人は、祖国回復の暴動を起こし、植民地軍を攻撃する為に日本軍に協力した。

 独立派マレー人達は、先を争うにして日本軍の弾薬を運び、シンガポールへの近道を教え、そして進撃の道先案内をかつてでた。

 だが後に、民族主義者は、祖国完全回復の為に連合軍に協力して、侵略者日本軍を攻撃した。

 山下奉文は、全軍に対して軍紀厳守を命じ、占領地での強姦・略奪・放火を禁じた。

 「軍風紀を緊粛し『焼くな、奪うな、犯すな』を厳守すべし。従わざる者は処断し、上官もその責任を問う」

 戦場に立った大半の日本軍上層部は、兵士全員に皇軍としての行動と非戦闘員への犯罪行為を禁ずる命令を出していた。

 だが、一部の日本軍兵士は上官の命令を無視して略奪と虐殺を行った。

 戦後、上官や関係のない日本人兵士が戦犯として処刑された。

 イギリスの暗号解読機関は、ケーブル・ワイヤレス社の協力を得て、日本の全ての暗号を解読していた。日本語は世界的に難解な言語であり、その言語の壁ゆえに日本の暗号は解読できないと盲信している者は、無能な日本人である。日本外交の暗号通信はもちろん日本海軍の暗号も、イギリス情報機関は解読していた。

 タイは、セーニー・プラモート王子を極秘でアメリカに送り、抗日派華僑と協力して反ファシスト団体・自由タイを組織して連合国軍に味方させた。

 ルーズベルトとハル国務長官は、駐米ソ連大使リトヴィーノフに対日戦への参加を要請した。

 モロトフは、ソ連は中立条約で日本との戦争は出来ないし、ナチス・ドイツとの戦争に全精力を集中したいと訓令した。

   ・   ・   ・   

 日本軍は、今後の戦闘に備えて地元民の反感を買わないようにする為に、司令部付き医療施設近くに、民間業者に依頼して慰安施設を開設した。

 日本軍の占領地では、日本兵による地元女性に対する強姦事件は少なかった。

 日本軍の占領は、戦争が終わって占領したわけではなく、戦闘が終わっての占領であった。

 少数兵力の日本軍は、膨大な物量を持って大反撃してくる連合軍に備えて陣地構築を急いでいた。

 勝敗の鍵は、地元民が味方してくれるかどうかに懸かっていた為に、間違っても反感を買い敵意を持たれる事は避ける必要があった。

 だが。何時一死ぬかもしれない救いのない絶望的状況下で、気の弱い日本人兵士が死を前にして自暴自棄となりって凶暴になり、強姦や暴行をおこなった事は事実である。

 戦後。彼らは、B級C級戦争犯罪者として有罪となり、リンチ的縛り首で処刑された。

 日本は、彼らを靖国神社に祀って慰霊した。

 中国や韓国などアジア諸国は、戦争犯罪者の慰霊を許さず、靖国神社の破棄を求めている。

   ・   ・   ・   

 昭和天皇は、平和を望んでいただけに戦争になった事に落胆したが、戦争を始めた以上は勝つ為に背広から軍服に着替えた。

 午前7時10分 昭和天皇は、御座所で、侍従武官の山県有光と同城英一郎から真珠湾攻撃、マレー半島上陸、シンガポール爆撃などが成功したとの報告を受けた。

 真珠湾攻撃成功の報告を受けた際、「病院や学校には爆弾を落とさなかったろうね。大丈夫だろうね」と心配して念を押して問い質した。

 昭和天皇は、 午前7時15分に永野修身軍令部総長から真珠湾攻撃の戦果を、午前7時30分に杉山元参謀総長からマレー半島上陸作戦その他の報告を受けた。

 攻撃は飽くまで敵軍艦と軍施設のみで民間施設への攻撃はしなかったとの答えで、民間人への被害はなき旨を聞いて安堵した。

 午前10時 昭和天皇は、帝室会計審査局長官の木下道雄から「昭和15年度会計審査」の成績について報告を受け、個人的な親しさから戦争が始まった事に対して「極めて沈痛な表情」を見せていた。

 午前11時25分 昭和天皇は、内閣上奏書類「米国及び英国に対する宣戦の布告の件」を裁可した。

 最終軍事指揮権を持った大元帥として、国家と民族を守る為に、全ての国民に軍隊に入隊して敵を倒す事を命じた。

 国家元首・昭和天皇は、最終的決定権を持つ最高権力者として、如何なる外圧にも屈する事なく逃げ隠れもせず全ての責任を引き受けた。

 昭和天皇には、如何なる理由があれ、戦争責任がある。

   ・   ・   ・   

 東條英機は、誰もいな寝室で、昭和天皇の期待に応えられず戦争になった事に号泣し、己の力が及ばなかった事に涙を拭う事なく慟哭した。

 泣き止んだ後、総理として戦争を始めた以上は勝つ事のみを考えて政府を率いた。

   ・   ・   ・   

 全ての日本人は、日本には非がないと信じ、正義は日本にあると確信し、戦争に勝つ事だけを考えて銃を取った。

 負ける事はもちろん、譲歩して戦争を止める事も考えず、前を向き、油断をせず、一歩でも前に出る為に猛進した。

   ・   ・   ・   

 日本が戦争を回避する方法は、チェコスロバキア解体である。

 チェコスロバキアは、ナチス・ドイツとの戦争を避ける為に国家の解体に合意した。

 軍国日本が、アメリカとの戦争を避ける唯一の方法は、大日本帝国を解体し、日露戦争以前の状態に戻る事である。

   ・   ・   ・   

 日本人捕虜第一号、酒巻和男海軍少尉「貴国ら『持てる国』は、『持たざる国』である日本に対する経済封鎖を実施。我々に石油や綿などを売却する事を拒んだ為、我々は崩壊以外に選択肢を持たない状況に追い込まれた。その為、貴国と外交交渉を開始したが、実を結ばなかった。従って、友と共に私は真珠湾を目指して出港した。その目的は戦艦を撃沈する事であった」

 アメリカ軍は、酒巻少尉を捕虜収容所に収容したが、奴隷のように従順に指示に従わず、反抗的でトラブルを起こし手を焼いた。

 酒巻少尉は、帝国海軍軍人として、日本男児として、武器がなくとも戦う意欲を捨てず、殺される事を覚悟で日本の名誉を守ろうとした。

 アメリカ軍は、人格を崩壊させる為に裸で独房に閉じ込めたりと、ジュネーブ条約違反を承知で精神的攻撃を繰り返していた。

 連合軍も、日本軍同様に、捕虜虐待を行っていた。

 日本軍の捕虜虐待は戦況悪化と共に起きたが、連合軍による捕虜虐待は人種差別で起きていた。

   ・   ・   ・   

 ククリット・プラモード(後にタイ王国首相)「日本のお陰で、アジアの諸国は全て独立した。日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はスクスクと育っている。今日東南アジアの諸国民が、米英と対等に話ができるのは、一体誰のお陰であるのか。それは身を殺して仁をなした日本というお母さんがあった為である。この重大な思想を示してくれたお母さんが、一身を賭して重大決心をされた日である。我々はこの日を忘れてはならない」

・・・・・・・   

 真珠湾攻撃は、日本軍の予防的先制攻撃である。

 日本軍攻撃機は、戦時国際法に基づく軍事目標主義を遵守して、病院や民家など民間施設への攻撃を避けた。

・・・・・ 

 B17爆撃機編隊は、午前8時にオアフ島に着陸するように命令を受けて飛行していた。

 ハワイに設置された防空用レーダーサイトの当直士官は、この日に限って専門外の将校が配置に就いていた。

 将校は、レーダーの機影を報告があるB17爆撃機編隊のと思い込んでいた。

 真珠湾攻撃。ハワイ時間、午前7時53分。

 アメリカ軍基地では、多くの日系アメリカ人が基地労働者として働いていた。

 高度な技術を持っていた日系アメリカ人労働者は、アメリカへの忠誠を示す為に、軍事施設の拡充強化に協力した。日本人らしい生真面目さから、弱点を作る為の手抜きはしなかったし、国家への裏切りとして軍事機密情報の漏洩も破壊工作もしなかった。

 ハワイ準州政府は、日系アメリカ人に市民権を認め公務員への道を開いて忠誠を要求したが、政治力を持たせるとハワイを乗っ取られるとの恐怖感から選挙投票権を認めなかった。

 日本軍の攻撃で、日系アメリカ人の犠牲者は、白人に次いで多かった。

 日本人医師や看護婦は、大量に運ばれてくる負傷したアメリカ兵や基地労働者の治療に奔走した。

 帰化して市民権を獲得した日系アメリカ人は、模範的アメリカ人であろうとして、日本と戦う為に自らの意思で志願してアメリカ軍に入隊した。

 日系アメリカ人は、母国日本との関係を断ち切る為に、ファミリーネーム(姓)はそのままにして、ファーストネーム(名前)をアメリカ風に改名した。

 日系アメリカ人は、日本民族の誇りを守る為に、ユダヤ人の様にユダヤ民族である事を隠す為にフルネームを変更しなかった。

 だが。アメリカ軍内部は激しい人種差別が横行していて、日本人志願兵は虐待に近い過酷な訓練が強制されていた。

 日本人志願兵は、アメリカ兵以上に規律を守り、上官の命令には盲目的に従い、地獄の様な猛訓練によく耐えていた。

 一部の軍首脳部は、日本人志願兵の不屈な忠誠心から日本人単独部隊の創設を模索し始めた。

 日系アメリカ人は、アメリカ国民として国家に忠誠を誓い、国家の為に日本と戦う事を決意した。

 日本精神・大和魂は、死ぬと分かっていても正々堂々と戦う事を本懐とし、生き残る為に味方を敵に売る「裏切り」を最も嫌った。

 アラスカの日本人移民134人は、エスキモーら原住民とアザラシや鯨を獲って生活していたが、敵国人とされてアイダホ州のミニドカ収容所に強制的に送られた。

 午後2時 野村と来栖両大使は、ハル国務長官に最後覚書を手交した。

 スチムソン陸軍長官「私は日本が奇襲したという、最初のニュースが届いた時に、何よりもまずほっとした。この危機が到来した事によって、決断できなかった時が去り、アメリカ国民全員を一致団結できるのだと思って、安堵した。

 被害の報告が、刻々と入ってきて、急速に大きくなっていったにもかかわらず、そのあいだ中、深い満足感にひたった」

 チャーチル「すでに戦争に勝った。……我々は戦争に勝ったのだ。……私は感動し興奮によって満たされ、すっかり満足して床につき、救われた事に感謝しながら、安らかな眠りにおちた」

 ハワイの日本人総人口は15万9,534人で、ハワイ諸島の34.2%に当たる。

 アンドリュー・W・リンド「ハワイでは日本人移民の職業階層内の上昇傾向が本土の日本人に比べて進んでいた」

カレイ・マックウィリアム「1941年の時点でハワイでは、日本人が就いていない職種はないといってよかった。働いている日本人の15%は指導的立場や専門職についていた」

 日系アメリカ人は、今はなきハワイ王家時代からハワイ先住民との間に強い絆が存在していたが、支配階級の白人との接近を極力避けて日本人だけで固まって生活していた。

 ハワイ先住民は、白人支配のハワイではなく、ハワイ人のハワイにするべくハワイ王家の復活を切望していた。

 アメリカ本土とは違って、日本移民排斥運動は起きなかった。むしろ寛容であった。

 白人支配層は、本土同様に日本人排斥運動を行いたかったが、日本人を排除してしまうと貴重な労働力が居なくなりハワイ経済が崩壊する恐れがあった。

 ハワイには、日系アメリカ人に代わる労働力が他にいなかった。

 西海岸諸州の日本人移民排斥団体が、ハワイの日本人約16万人を受け入れる事に猛反対していたからである。

 後に。カリフォルニア合同移民問題委員会は、国家安全保障の観点から西海岸の全ての日本人を退去隔離を主張したが、ハワイから本土への移住隔離は反対した。

 その為に。ハワイの人種差別主義者は、諸島内の日本人を「追放せよ!」とは主張できず、新聞や雑誌に反日論文を掲載しても、本土の様な退去隔離運動を起こさなかった。

 真珠湾攻撃後。アメリカ軍は、ハワイ在住の日系アメリカ人の暴動を恐れて戒厳令を引いたが、破壊工作は起きなかった。

 デロス・エモンズ将軍は、解任されたショート将軍に代わってハワイ防衛司令官として着任するや、日系アメリカ人がハワイでは欠かせない存在である事を理解して保護した。

ただし、アメリカに忠誠を誓わない者や軍国日本の行動を擁護する者は逮捕して本土の刑務所に送った。

 「我が国に忠誠心を持つ者は、それをハッキリとした形で示そうとする。それを妨げる様な事をするべきでない」

   ・   ・   ・   

 日本航空隊の未帰還機は、第一次攻撃隊で9機、第二次攻撃隊で20機。

 アメリカ軍は、奇襲による混乱から立ち直り、迎撃態勢を整えつつあった。

 レーダー観測部隊も、汚名を返上するべく、日本攻撃隊の機影を総力を挙げて負っていた。

 ハワイ近海にいた空母レキシントンは、日本機動部隊を発見すべく索敵活動を開始していた。

 南雲艦隊は、第三次攻撃を加える為に作戦海域に留める事は、アメリカ軍の反撃を受ける危険があった。

 
   ・   ・   ・ 


(これまでの記事タイトル)


2017-01-07

■♯:32─7─歴史修正主義。FBIのジョン・フーバー長官は、英MI5(情報局保安部)からの真珠湾奇襲情報をガセネタとして握り潰した。1941年12月5日〜No.198〜No.199@

2017-01-06

■♯:32─6─ソ連と中国共産党が、軍国日本とアメリカを戦争へ追い込んだ。アメリカ共産党。日本共産党。アメリカの反日派ユダヤ人達と軍産複合体。1941年12月〜No.195〜No.196No.197@ 

2017-01-05

■♯:32─5─東條英機とA級戦犯達は、ハル・ノートを読んで話し合いによる和平交渉を諦め、仕掛けられた戦争は受けて立つ事を決断した。1941年11月28日〜No.193No194@ 

2017-01-03

■♯:32─4─東條英機は、開戦派から裏切り者と罵られても、絶望的対米戦を避ける為に大陸からの一部撤兵を決断した。ハル・ノート。1941年11月26日〜No.191No.192@

2017-01-01

■♯:32─3─ルーズベルトは、日本と戦争をする為に、戦争回避を切望する日本側の譲歩2案を拒否する事を決めた。米英両軍は、対日戦準備を完了させた。1941年11月15日〜No.189No.190@

2016-12-31

■♯:32─2─東條英機らA級戦犯達は、初めての戦争回避提案(甲案と乙案)を決定し、アメリカ側に日米交渉の為の予備交渉を公式ルートで申し込んだ。1941年11月〜No.187No,188 @ 

2016-12-30

■♯:32─1─東條英機は、対米英戦争回避内閣を組閣し、憲兵隊を使って開戦派を監視した。日本軍部は、ユダヤ人の陰謀を警戒し国内のフリーメイソンを弾圧した。1941年10月17日〜No.184〜No.185No.186@             


2016-12-29

■♯:31─8─日米戦争を欲したのは、軍国日本ではなく、ファシスト中国であり、アメリカとイギリス、そしてソ連と中国共産党であった。1941年10月〜No.182No.183@ 

2016-12-27

■♯:31─7─昭和天皇は、反ドイツ反ヒトラー親米英として、明治天皇の御製を詠み、和平交渉を成立させ戦争の回避を切望した。1941年9月〜No.180No.181@                

2016-12-26

■♯:31─6─アメリカの対日石油輸出禁止指令。ルーズベルトとチャーチルは、大西洋会談で日本を戦争に追い込む事で合意した。近衛・ルーズベルト首脳会談提案。1941年8月〜No.177No.178No.179@

2016-12-25

■♯:31─5─日本軍は、慢性的食糧不足を打開するべく、独立派ベトナム人の協力を得て、南部仏印のメコンデルタ穀物地帯を占領してコメを獲得した。1941年7月〜No.175No.176 @ 

2016-12-24

■♯:31─4─近衛首相らは、中国通として知られた内閣嘱託・尾崎秀実(ソ連のスパイ)の分析を鵜呑みにして、南部仏印進駐を認めた。1941年6月〜No.173No174 @

2016-12-23

■♯:31─3─日本海軍情報班は、ロンドン外務省から東京のイギリス大使館への極秘電文を傍受し、暗号を解読して、解読文を松岡外相に見せていた。1941年5月〜No.170〜No.171〜No.172@   

2016-12-22

■♯:31─2─中立国アメリカは、秘かに軍国日本と戦うファシスト中国に味方して軍事・経済・金融の援助を行った。日ソ中立条約。1941年3月〜No.168No.169@   

2016-12-21

■♯:31─1─アメリカとイギリスは、日本外務省の暗号電報を傍受し解読して、軍国日本の軍事行動を知っていた。イギリス軍の炭疽菌爆弾開発計画。1941年1月〜No.166No.167@ 

2016-12-20

■♭:30─4─ユダヤ人モーゲンソー財務長官は、軍国日本を無力化する為に、ルーズベルトと日本本土空爆計画を協議した。アメリカのユダヤ人は敵日派であった。1940年10月〜No.163〜No.164No.165@❺ 

2016-12-18

■♭:30─3─昭和天皇は、三国同盟に反対していた。独立派ベトナム人は、日本軍を解放軍として北部仏印進駐を手引きした。内閣機密費と陸海軍の上納金。1940年7月〜No.161No.162@                       

2016-12-17

■♭:30─2─民主党のルーズベルトは、対日経済制裁を強化すべく、共和党員のスチムソンを陸軍長官に、ノックスを海軍長官に採用した。1940年4月〜No.159No.160@

2016-12-15

■♭:30─1─親中国派のルーズベルトは、日本軍を敗北させる為に「通商航海条約」失効を軍国日本に伝え、軍需関連物資の輸出を制限する経済制裁を強めた。1940年 〜No.156No.157No.158 @                    

2016-12-14

■♭:29─4─第二次世界大戦。親日派ポーランドと反日派ナチス・ドイツ。インディギルカ号遭難事故。徴兵制の永世中立国スイス。死の商人と中立国。1939年9月〜No.154No.155 @ 

2016-12-12

■♭:29─2─軍国日本は、国際法に従い平和的に南シナ海・南沙諸島を領土とした。 〜No.150No.151@

2016-12-11

■♭:29─1─スターリンの大粛清。ノモンハン事件。日本軍はファシスト中国軍・中国共産党軍・ソ連軍・国際人民義勇軍・アメリカ民間ボランティア部隊の連合軍と戦った。1939年〜No.147No.148No.149 @ 

2016-12-10

■♞:61─3─台湾内の反日派勢力と中国共産党の共闘。台北の慰安婦記念館。〜No.352 

2016-12-08

■♭:28─2─アメリカ政府と国際金融資本と軍産複合体は、戦争で金儲けする為にファシスト中国を自由・民主主義陣営の一員として歓迎した。1938年7月〜No.145〜No.146@ 

2016-12-07

■♭:28─1─日本軍戦闘機と空中戦をした中国空軍のソ連製軍用機とアメリカ製軍用機。東京万博開催中止。1938年 〜No.143〜No.144@ 

2016-12-06

■♬:27─12─村山富市内閣総理大臣談話全文。日本政府は、正式に侵略戦争を行って甚大なる被害を与えた事を認めて謝罪した。 (平成7年8月15日)〜No.140No.141No,142@❹                                   


2016-12-05

■♬:27─11─反日派であるナチス・ドイツの保守層、国防軍、軍需産業は、ヒトラーの許可を受け、ファシスト中国に味方して軍需物資支援を続けた。1937年12月21日 〜No.137〜No.138@

2016-12-04

■♬:27─10─ニューヨーク・タイムズ紙など反日的報道機関は、ドイツ軍人が創作した日本軍の南京虐殺を報道して国際世論を反日に誘導した。1937年12月17日〜No.135〜No.136@

2016-12-03

■♬:27─9─第二回南京事件。パネー号事件。日本軍による南京占領で、ナチス・ドイツとファシスト中国の軍事協力は消滅した。1937年12月〜No.133〜No.134@ 

2016-12-02

■♬:27─8─ドイツ軍事顧問団は、宣伝戦・情報戦を成功させるべく、中国人民に日本人を惨殺したいほどの憎悪を植え付ける反日教育を指導した。1937年11月〜No.131〜No.132@ 


(2016-12-01記事から前頁)
                           
http://www.asyura2.com/16/senkyo218/msg/381.html#c14

[政治・選挙・NHK229] 岸信介は米国と「裏取引」をして生き延びた!  赤かぶ
8. 2017年8月06日 03:10:29 : NQO0ApT5mk : Jfp6zyQtewg[6]
早苗コラム

6期目の永田町から 平成24年12月〜平成26年12月


2014年04月22日

安倍晋三首相と岸信介元首相の共通点
https://www.sanae.gr.jp/column_details674.html



http://www.asyura2.com/17/senkyo229/msg/229.html#c8

[政治・選挙・NHK226] 石破氏が安倍首相改憲案批判を日本記者クラブで行った衝撃  天木直人 赤かぶ
54. 2017年8月06日 03:23:14 : NQO0ApT5mk : Jfp6zyQtewg[7]
ロマンチック中年男の独り言 DVDレビュー、収集物、趣味全般、日々想うこと


2015年07月19日


岸信介と安倍晋三の共通点(正しい政策が評価されない悲劇の政治家)
https://plaza.rakuten.co.jp/aosaga/diary/201507190000/(抜粋)


・・「目からウロコ」だったのはコメンテーター(?)田原総一朗の、60年安保闘争に関する彼の発言です。

「安保闘争には私も参加したが、私や他の参加者のほとんどは安保改正のことをわかってなかった」

「親英米の吉田が(サンフランシスコ講和条約と同時に結んだ)日米安全保障条約(旧安保条約)は『奴隷安保』だった、米軍は日本のどこにでも基地が作れたし、日本を守る義務もない、占領政策の延長だった」

「岸安保によって、米軍基地は日米の協議によって決定し、米軍は日本を守る義務が生じた」

「岸の安保改定によって明らかによくなった」・・


http://www.asyura2.com/17/senkyo226/msg/227.html#c54

[政治・選挙・NHK198] 「安倍さんは嘘つき」元家族会の蓮池透氏が拉致問題で安倍首相がついた真っ赤な嘘と政治利用の手口を全暴露(リテラ) 赤かぶ
80. 2017年8月06日 03:33:05 : NQO0ApT5mk : Jfp6zyQtewg[8]
戦後体制の超克

「憲法改正」・「愛国教育」・「国体護持」・「日本第一」を軸に、様々な情報発信を行う提案型ブログです。

【緊急拡散】蓮池透の工作員化を止めろ!

2016年02月01日 19時30分00秒
テーマ:意見・主張
https://ameblo.jp/nihonkaigi-yachiyo/entry-12123933091.html(一部抜粋)


(略)

<辻本清美の政治資金パーティ(右端が蓮池透氏)>


蓮池透4


 ●事もあろうに、拉致事件の加害者(=朝鮮総連)のお友達と仲良くなって、彼は一体何がしたいのでしょうか?


 ●2002年に拉致被害者5名が帰国するまで、最も強硬に北朝鮮への制裁を求めていたのは、あなたご自身だったのではないですか? 

(略)


http://www.asyura2.com/15/senkyo198/msg/109.html#c80

   

▲このページのTOPへ      ★阿修羅♪ > Jfp6zyQtewg > 100000  g検索 Jfp6zyQtewg

★阿修羅♪ http://www.asyura2.com/  since 1995
 題名には必ず「阿修羅さんへ」と記述してください。
掲示板,MLを含むこのサイトすべての
一切の引用、転載、リンクを許可いたします。確認メールは不要です。
引用元リンクを表示してください。