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[近代史4] 昔は夫婦別姓だったのか? 中川隆
1. 2020年7月30日 05:05:34 : Ngvb4PuuiA : ajRmYkhUeG9nQm8=[1]
昔は夫婦別姓だったのか ? 最終章  − 蔓延する常識の噓 (俗説) ー
2020年03月07日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/b2fbad42247ac2b906f05b02692dc561

 先日、「選択的夫婦別姓」を推進するため、超党派国会議員の会合があったことが夜のニュースで報道された。翌日の新聞各紙も大きく取り上げていた。その時、ある全国紙がその記事に合わせて、大学教授の一文を載せていた。そこには驚きの内容が書かれていた。要約すると、「日本では古代から江戸時代まで夫婦別姓もしくは夫婦別氏であった。明治新政府が近代的民法導入のため、フランスから法学者・ボアソナードを招聘して民法作成に取り掛かり、最終的に君主制のあるドイツ民法も取り入れて、明治憲法下における新民法が成立した。そこで、夫婦同姓(原則的に妻は夫の姓を名乗る)が決められ、明治31年に正式に公布された。日本の夫婦同姓は明治政府の欧化政策によって生まれたものだ・・」とのこと。つまり、西洋を真似た結果だとの論旨であった。この説は一般的に流布しているもので、日本史学者、とりわけ古代の戸籍制度を研究している学者の説もだいたい同じようなものである。まさに、驚天動地、最後に今一度述べておく。

 ー 日本では古代から現代まで中国式の夫婦別姓であったことは唯の一度もない ー

 古代の倭国では中国文化の影響を受けて氏族名が「姓」となって行った。大伴旅人の異母妹であり、大伴安麻呂の娘、大伴坂上郎女(おおとものさかのうえのいらつめ)も「の」を入れて読み、男女共に自分の属する氏族を表わしていた。つまり、女姓も生涯、自分の生まれた氏(うじ)に属した。他氏族の男と結婚しても「大伴氏の女」であることに変わりなかったのである。平安時代中期に書かれた『更級日記』(さらしなにっき )の作者は菅原孝標女(すがわらたかすえのむすめ)であるが、本名は伝わっていない。この女性も橘氏と結婚して子供もいるが生涯、菅原氏の女であった。同様に、王朝時代の多くの才媛たち、紫式部、清少納言、和泉式部なども本名は分かっていない。誰それの娘とか妻であるとは諸史料にあるが・・。一方、中国では有名な楊貴妃(「貴妃」は尊号」)でさえ「楊王環」という本名が伝わっている。生涯、「楊王環」を名乗っていたからである。ここにも、日本と中国の大きな違いがある。

 この日本の歴史的伝統、慣習が武家社会になっても存続していたと見るのが正しいであろう。他家に嫁に行っても生涯、実家の姓で呼ばれてきたのである。しかし、意識は婚家の一員であった。これらの事実を夫婦別姓と呼ぶことには大きな問題がある。誰でも、夫婦別姓と聞くと中国のそれをイメージするからである。ただし、古代は夫婦別氏であったとの表現は正しい。男女共に生涯、自分の生まれた「氏(うじ)」(氏族)に属したのであるから。この慣習は江戸時代の公家社会まで生きていた。(なお、武家社会の足利氏や豊臣氏の「氏」は「家」の意味である)。

 たしかに、婦人が実家の姓を使って「姓・名」を表記した資料は存在する。ところが、逆に夫の姓を用いて「姓・名」を表記した事例もまた有ることがすでに研究者によって報告されている。その理由を「前近代には夫婦の苗字に関する法的規制は存在せず、妻が実家、婚家どちらの苗字を名乗るかは、慣行や帰属意識にゆだねられていた・・・」とある (大藤修著『日本人の姓・苗字・名前』吉川弘文館)。 

がしかし、ごくわずかの文献資料でもって、日本の女性が昔から中国のように「姓・名」で自分を名乗っていたと考えるのは早計である。日本の女性が全員、「姓・名」を名乗るようになったのは明治8年の「平民苗字必称令」の布告からである。その時、実家、婚家どちらの姓を名乗るかで日本全国で混乱が起きたことはすでに書いた。(当時の日本が本当に中国式の夫婦別姓だったら、何の混乱も起きなかったはずである。政府の指示は、妻は実家の姓を名乗れとのことだったのだから・・)。つまるところ、日本は夫婦別姓・同姓どちらとも言えない曖昧な国だったとしか言いようがない。(北政所が東寺に納めた木札に「豊臣氏女」と書いていることは象徴的)

 ー日本史学者の言う夫婦別姓と中国の夫婦別姓とは根本的に違う ー

 蒋介石の妻の名前は「宋美齢」である。娘時代は宗家の娘、「宋美齢」である。結婚しても、蒋家の嫁、「宋美齢」である。夫の死後もやはり宋家の女、「宋美齢」である。これが本当の夫婦別姓である。では、日本の場合はどうか。大石内蔵助の妻、「りく」の娘時代は石束家の娘、「石束りく」か? 結婚して、大石家の嫁、「石束りく」か? 夫の死後も石束家の女、「石束りく」か? 「りく」は「石束りく」とも「大石りく」とも名乗ったことはただの一度もない。この両者の違いを日本史の研究者は正しく認識しているとは思えない。

 この二人の女性の人生で根本的に違うのは、「りく」は結婚そして離縁後も、「大石家の女」としてその責任をまっとうしたことである。「りく」は離縁後、二人の子供を連れて但馬豊岡・石束家に戻った。男児は幕府からお咎めを受け遠島に処されたが、ほどなく赦免され豊岡に戻った。女児は他家に嫁にやったが、男の子供は実父の尽力や藩主の口添えもあったのであろう、浅野家本藩・広島藩に召し抱えられた。「りく」はその子と一緒に広島に行き、そこで生涯を終えた。大石家の再興に執念を燃やし、最後まで「大石家の女」として生きた人生であった。

 <追記>

「選択的夫婦別姓」を推進するため集まった与野党議員の先生方は、本当に日本史学者の言う、「昔の日本は夫婦別姓であった」との主張の矛盾を理解した上で、夫婦別姓に賛同しているのだろうか。はなはだ心もとない。そのとき新聞に一文を寄せた大学教授同様、日本も中国や朝鮮と同じように、古代から江戸時代まで夫婦別姓であったのに、明治31年、ときの政府によって、それまで名乗っていた実家の姓を取り上げられたと思っているのではないのか・・。

 また、「姓」と「名(苗)字」は違うとの通説があるが、それは歴史的由来から来ているものであり、日本で最初に中国風の姓を持ったのは氏族集団、つまり貴族階級であった。だからこそ、「大伴の旅人」と「の」を入れて読むのであり、「大伴氏の旅人」の意味である。「名字」は平安末の荘園制の崩壊から土地が私有されるようになり、その土地に「名」を付けて自分の物とした。そこから「名字」を持つ武士が生まれた。「姓」(貴族・官人)と「名字」(農民・武士)は格が違うのである。その後、両者の区別はなくなった。

 余談であるが、ドイツも貴族階級は戦前まで氏名の間に von (英語の of ・・の)を付けていた。東プロイセン(現在はポーランド領)にあった総統大本営爆破事件に失敗し銃殺された クラウス ・ フォン ・ シュタウフェンベルグ は地主貴族(ユンカー)出身であった。つまり、シュタウフェンベルグ家 の クラウス の意味である。他にも、フォン ・ モルトケ将軍 やフォン ・ ヒンデンブルグ元帥などが有名である。日本でも阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)と「の」を入れて読むことで貴族意識を持っていたのであろう。全くの偶然とはいえ人間の考えることはよく似ているものである。 

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/b2fbad42247ac2b906f05b02692dc561
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/976.html#c1

[近代史5] 天皇はソウル出身の漢民族 中川隆
5. 2020年7月30日 05:14:38 : Ngvb4PuuiA : ajRmYkhUeG9nQm8=[2]

広開土王(好太王)碑文の新解釈 −「臣民」についてー
2017年12月10日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/e2ae18935ced9a252521243c9b46b909?fm=entry_awp

    「好太王碑文」の画像検索結果広開土王(好太王)碑文

 広開土王(好太王)碑文は鴨緑江北岸、現在中国・集安市にある。明治13年(1880年)地元の農民により発見され、明治17年、日本陸軍の酒匂大尉によって拓本が持ち帰られ、その後、日本で碑文の本格的研究が始まった。この碑文解釈に重要な見落としがある。それは碑文にある「臣民」の文字である。これまで「臣民」との文字を、単なる「家臣」とか「支配民」ていどの意味として、あまり深く考えてこなかった。これこそ古代の日本と朝鮮半島の関係を語る重要な文字である。

 −広開土王碑文の世界史的意味ー

 この碑文は西暦414年に広開土王の事績を顕彰するため息子の長寿王が建立したものである。世界四大碑文に相当すると私は思っている。時代の古さ(4世紀末〜5世紀初頭)、巨大さ(高さ6メートルほど、幅1・5メートル)、文字数の多さ(約1800字)、そうしてなによりもその時代の東アジアの激動の歴史を非常に克明に描写している。決定的なことはこの碑文の内容が、後世、高麗時代(1145年)に編纂された朝鮮の歴史書『三国史記』の記事と大体一致していることである。(勿論、高句麗側から見ているので、多少の誇張や粉飾は仕方がないがおおむね信用できる)。

 では、あとの三つとは、BC1286年頃、古代エジプト王国と小アジア(今のトルコ共和国)にあったヒッタイト帝国がシリア周辺の覇権を争ったカデシュの戦いの和平協定を記録した碑文、エジプトのラムセス2世のカルナック神殿に象形文字で残されている。ヒッタイトでは、楔形文字で刻まれた同文の粘土版が発掘され、解読された。次に、古代エジプトのツタンカーメン碑文や今、大英博物館にある有名なロゼッタストーン(アレクサンダー大王の後継王国、エジプトのプトレマイオス朝の碑文、BC196年)、これら一連の象形文字碑文、三つ目は古代ペルシャのベヒストゥン碑文(ダリウス碑文)、これは古代アケメネス朝ペルシャのダリウス大王の事績などを断崖絶壁に楔(くさび)形文字で刻んだもの(BC500年頃)。勿論、世界各地で発掘などにより様々な文字記録は出土しているが(突厥碑文など)、質量の点においても、歴史的記録の大型碑文はこの4例しかないのではないか。中国は意外とこのような碑文は残っていない。まず、次の王朝によって破壊されたのであろう。有名な「赤壁の碑」も後世のものである。

 −広開土王碑文の価値を貶(おとし)める韓国・北朝鮮ー

 この碑文を日本と中国の学者は漢文に忠実に読んでいる。これ「異」を唱えるのが韓国・北朝鮮の学者たちである。古代の時代に現在の国家間の問題を持ち込んでいる。いわゆる、感情移入である。碑文にある「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■■羅以為臣民 」(西暦391年)であるが、日本と中国の学者は「百済、新羅は元々(高句麗の)属民で朝貢していたが、倭が辛卯年に渡海して来て百済、新羅を破り臣民とした」と読んでいる。特に、漢文の本家の中国の学者の読みはすべて一致している。母国語であるので当然である。ところが、韓国・北朝鮮の学者は渡海したのは高句麗で、百済、新羅、倭を(広開土王が)臣民としたと読んでいる。荒唐無稽、無茶苦茶である。漢文の法則を無視しても自分たちに都合よく解釈する。そうして、絶対に自説を変えることはない。

 朝鮮サイドの人にとってはこの「臣民」は困る文字なのである。「倭」が百済・新羅を「臣民」にする。まさに明治の日韓併合の古代版になる(皇国臣民)。こんなことは絶対にあってはならないことである。そこで歴史を創るのである。とくに、高句麗も王であり、王が中国皇帝を差し置いて「臣民」にするなどは当時の東アジアの中華文明圏には有り得ないことである。

 また、碑文中に「新羅遣使白王 倭人満其国境 潰破城池」(西暦400年)とあり、倭人が国境に迫ってきていると、新羅が高句麗に救援を求めてきた。そこで、広開土王は歩騎五万を率いて出撃し、碑文には 「新羅城倭満其中官兵方至倭賊退自倭背急追至任那加羅」とあり、占拠していた新羅城から撤退する「倭賊」を「任那加羅」まで追撃したとある。このとき、高句麗は自軍を「官兵」と称している。「官兵」とは「高句麗王の軍」の意味であろう。その4年後には「倭不軌侵入帯方界 」と、今の韓国・ソウル付近まで侵入してきた倭を撃破して「倭寇潰敗斬敵無数」と表記している。この「倭賊」「倭寇」を韓国・北朝鮮の解釈では中世(室町時代)の「倭寇」、つまり、海賊集団と決め付けている。世界四大碑文の一つである広開土王碑文は、父親の大王が倭の海賊ていどを討ち破ったことを偉大な功績として顕彰したことになる。韓国・朝鮮人にとって、現在は中国領にあるとはいえ、これほど先祖の偉大な王を侮辱する行為をなぜ平然とやれるのだろうか。むしろ、その功績をきちんと評価しているのはなんと日本と中国である。つまり、この碑文は「倭」を撃破したことを誇る戦勝記念碑なのに・・。これほど皮肉なことはない。

 −臣民は中国皇帝の臣ー

『前漢書』「地理誌」に「楽浪海中有倭人・・・以歳時来献見云」とあり、倭人は紀元前から楽浪郡に朝貢している。次の『後漢書』「東夷伝」には、「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬」とあり、西暦57年、倭奴国が朝貢して後漢の光武帝から印綬を授かっている。そして、三世紀の「魏志倭人伝」には、倭の女王・卑弥呼は魏の皇帝から「親魏倭王」に叙任され、「金印」を賜っている。その後、卑弥呼の後継者「台与」が朝貢したあと(266年)、中国の文献からは「倭国」の記事は消える。この時代は日本古代史でも「謎の四世紀」と言われている。そうして、突然、四世紀末、広開土王碑文に「倭」「倭人」「倭賊」「倭寇」などが出てくる。この間、一体なにがあったのか。歴史史料は何も語ってくれない。次に中国史書に出てくるのは五世紀、『宋書』倭国伝の「倭の五王」の時代である。 

私はこの四世紀にも王朝は変わっても中国に朝貢して、皇帝の臣として冊封体制下にあったと思う。つまり、倭国の軍隊は中国皇帝の軍でもあり、倭国軍は官軍として朝鮮半島に出兵したのではないか。そのことを、当然、新羅・百済・高句麗にも宣伝していた。倭軍の先頭には中国皇帝の印(しるし)、黄色い旗が翻えっていたはずである。戦いを有利に進めるため、いつの時代でも大義名分は戦争に必要である。それを知っていた長寿王は倭が百済・新羅を破り、「以為臣民」と碑文に刻んだのではないか。自分たち高句麗でさえ百済・新羅は「属民」にすぎないのに。なぜ碑文に「臣民」があるのか。これしか理由が見当たらない。たしかに、この時期、西暦372年、百済も中国(東晋)に朝貢して冊封を受けてはいるが、「勝てば官軍」は今も昔も変わりない。

時代が下がって西暦478年の『宋書』倭国伝の有名な倭王武の上表文には「臣雖下愚、忝胤先緒、駆率所統、帰崇天極」とあり、倭王は中国皇帝に対して自分を「臣」と称し、宋皇帝に忠節を誓っている(帰崇天極)。同じ頃、宋に朝貢した百済王も自分を「臣」と称している。「臣」は「臣下」と同じ意味であり、「臣民」はその支配下にある「国の民」をさす(つまり、中国皇帝の臣民)。とくに倭軍が「倭不軌侵入帯方界」と、いにしえの「帯方郡」近くまで進攻してきたことは、倭国の戦争の大義、つまり、中国皇帝の軍として帯方郡の復活を目論んでいたのではないのか。この倭軍の中には倭国に亡命してきた楽浪・帯方両郡の漢人が相当数いたのではないかと思う。(313年、楽浪・帯方両郡滅亡)

 −女王・卑弥呼も官軍として戦っているー

「魏志倭人伝」に「倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢  拝假難升米 為檄告喩之」とあり、卑弥呼は南の狗奴國との争いで、帯方郡に使者を送り、戦いの窮状を訴えた。そこで、郡は魏皇帝の名代として軍事顧問、「張政」を派遣し檄をとばした(為檄告喩)。そのとき、もたらされたのが「詔書」と「黄幢」である。この「黄幢」こそ、魏皇帝の軍の印(しるし)、日本でいう「錦旗(にしきのみはた)」にほかならない。このとき、卑弥呼の邪馬台国は官軍となったのである、(黄幢、錦旗説は多くの研究者が認めている、「幢」は丸い筒型の絹の幟で、朝廷の儀仗に使われる。黄色は中国皇帝の色)。その後、狗奴国との戦闘はどうなったのか「倭人伝」に記事はない。卑弥呼の死によって双方が和睦に合意したのかもしれない。

 この「倭人伝」の記事から分かるように、三世紀の「倭国」は半島の小国家郡とは違い、中国王朝からまるで別格扱いされている。魏は中央アジアの大国、大月氏国王にも「親魏大月氏王」の称号を与えているが、卑弥呼とこの二人だけである。この事実は重い、(大月氏国とは前漢の武帝が、宿敵匈奴を東西から挟み撃ちしようと同盟を求め、「張騫」を派遣したことでよく知られている。大月氏王は断ったが・・)。また、卑弥呼の遣使、「難升米」を率善中郎將 「牛利」を率善校尉という魏の官職を与えて銀印綬を下賜している。その理由はやはり倭人が前漢以来、中国王朝に朝貢して珍しい産物をもたらしたからであろう。「倭人伝」のいう「上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹」がそれを物語っている。絹布や麻布は漢人にとっても好物であったろうし、返礼に「賜汝好物」として与えた銅鏡百枚など漢人にとってはまさに、「シメシメ」とほくそえむ程度のものでしかなかったであろう・・。この三世紀の魏と倭国の関係の延長線上に四世紀の「広開土王碑文」があると考えるのが一番自然である。つまり、倭軍は中国皇帝の軍、官軍であったのだとの認識は半島諸国にも共有されていた。そこから「以為臣民」の文字が刻まれた。

 <追記>

 「広開土王碑文」問題は現代の「慰安婦騒動」と根は同じである。韓国・朝鮮人は歴史の真実を追究しようという知性が欠如しているとしか思えない。歴史とは自分たちに都合よく創り上げるものであり、どのような事実を突きつけても絶対に認めない。異常なカルト性を持った民族である。古代に倭国が半島に攻め込んで来ることは有りえない。これが絶対的真実であり、中国の古漢文の専門家の意見など一顧だにしない。旧日本軍による慰安婦20万人の強制連行も絶対的真実であり、どのような議論にも耳を貸さない。このことを我々日本人は肝に銘じておく必要がある。

 だが、日本にもよく似た問題がある。三角縁神獣鏡を魏鏡だと断定し、中国の古鏡学者の見解(三角縁神獣鏡は日本製)を一顧だにしない。そして、いまだ発掘もされていない箸墓(はしはか)古墳を卑弥呼の墳墓に間違いないとほぼ断定し、日本の古墳時代は卑弥呼の生きた三世紀中期に始まるとの説を、あたかも絶対的真理の如く宣伝する。その理由は大多数の古代史、考古学者の意見がそうであるからとのこと。学問は選挙のように多数決で決まるものではない。クレオパトラの墓もジンギスカンの墳墓も発掘調査してはじめて決定されるものであり、これが世界の常識である。韓国・朝鮮人を非難ばかりしておれない。

 思うに、邪馬台国論争は明治以来、九州か大和かの位置論争ばかりが先行し、「倭人伝」にある魏や帯方郡との外交交渉などは軽視されてきた。そうして、邪馬台国の倭人は漢字も知らなかったとの俗説が定説化している。これに「異」を唱える人はいるにはいるが、いまだ日本史教科書もそうである、(私のブログ「卑弥呼は漢字を知っていた」参照)。卑弥呼は「詔書」「黄幢」「金印」をもらうほどの密接な関係を魏と維持していた。同時代の半島諸国にはこのような事例はない。なぜ、このような事実が軽視されてきたのか。

 それは明治以後、戦前まで続いた天皇中心史観、いわゆる皇国史観にある。日本の古代の歴史は『古事記』『日本書紀』が正史であり、中国の史書ではないのである。例えば、日本に漢字が伝わったのは『古事記』にある五世紀の応神天皇のとき、百済の「王仁(わに)」によってである。このとき、倭人は初めて漢字を知ったのだと・・。とんでもない、「魏志倭人伝」を素直に読めばそんなことはあり得ないのに。卑弥呼は「詔書」の意味さえ分からなかったのであろうか? これを逆手に取られて、朝鮮サイドの人には古代の倭人、未開の土人説が定着している。未開の倭人を文明化してやったのは我々韓国・朝鮮人だと。漢字も知らないそんな未開の倭人が四世紀末に半島に軍事行動など起こせるわけがないと。朝鮮サイドの人にこう言わせる責任はいまだ皇国史観から抜け出せないでいる日本側にある。邪馬台国・大和説こそ皇国史観そのものである。日本の歴史は悠久の昔から大和の天皇家から始まるのであり、邪馬台(ヤマト)国はその前身であるとの・・。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/e2ae18935ced9a252521243c9b46b909?fm=entry_awp
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/233.html#c5

[近代史5] 邪馬台国は ヤマトノクニ と読むのが正しい 中川隆
14. 中川隆[-11981] koaQ7Jey 2020年7月30日 05:45:23 : Ngvb4PuuiA : ajRmYkhUeG9nQm8=[3]
広開土王(好太王)碑文の新解釈 −「臣民」についてー
2017年12月10日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/e2ae18935ced9a252521243c9b46b909?fm=entry_awp
    「好太王碑文」の画像検索結果広開土王(好太王)碑文

 広開土王(好太王)碑文は鴨緑江北岸、現在中国・集安市にある。明治13年(1880年)地元の農民により発見され、明治17年、日本陸軍の酒匂大尉によって拓本が持ち帰られ、その後、日本で碑文の本格的研究が始まった。この碑文解釈に重要な見落としがある。それは碑文にある「臣民」の文字である。これまで「臣民」との文字を、単なる「家臣」とか「支配民」ていどの意味として、あまり深く考えてこなかった。これこそ古代の日本と朝鮮半島の関係を語る重要な文字である。

 −広開土王碑文の世界史的意味ー

 この碑文は西暦414年に広開土王の事績を顕彰するため息子の長寿王が建立したものである。世界四大碑文に相当すると私は思っている。時代の古さ(4世紀末〜5世紀初頭)、巨大さ(高さ6メートルほど、幅1・5メートル)、文字数の多さ(約1800字)、そうしてなによりもその時代の東アジアの激動の歴史を非常に克明に描写している。決定的なことはこの碑文の内容が、後世、高麗時代(1145年)に編纂された朝鮮の歴史書『三国史記』の記事と大体一致していることである。(勿論、高句麗側から見ているので、多少の誇張や粉飾は仕方がないがおおむね信用できる)。

 では、あとの三つとは、BC1286年頃、古代エジプト王国と小アジア(今のトルコ共和国)にあったヒッタイト帝国がシリア周辺の覇権を争ったカデシュの戦いの和平協定を記録した碑文、エジプトのラムセス2世のカルナック神殿に象形文字で残されている。ヒッタイトでは、楔形文字で刻まれた同文の粘土版が発掘され、解読された。次に、古代エジプトのツタンカーメン碑文や今、大英博物館にある有名なロゼッタストーン(アレクサンダー大王の後継王国、エジプトのプトレマイオス朝の碑文、BC196年)、これら一連の象形文字碑文、三つ目は古代ペルシャのベヒストゥン碑文(ダリウス碑文)、これは古代アケメネス朝ペルシャのダリウス大王の事績などを断崖絶壁に楔(くさび)形文字で刻んだもの(BC500年頃)。勿論、世界各地で発掘などにより様々な文字記録は出土しているが(突厥碑文など)、質量の点においても、歴史的記録の大型碑文はこの4例しかないのではないか。中国は意外とこのような碑文は残っていない。まず、次の王朝によって破壊されたのであろう。有名な「赤壁の碑」も後世のものである。

 −広開土王碑文の価値を貶(おとし)める韓国・北朝鮮ー

 この碑文を日本と中国の学者は漢文に忠実に読んでいる。これ「異」を唱えるのが韓国・北朝鮮の学者たちである。古代の時代に現在の国家間の問題を持ち込んでいる。いわゆる、感情移入である。碑文にある「百殘新羅舊是屬民由來朝貢而倭以耒卯年來渡[海]破百殘■■■羅以為臣民 」(西暦391年)であるが、日本と中国の学者は「百済、新羅は元々(高句麗の)属民で朝貢していたが、倭が辛卯年に渡海して来て百済、新羅を破り臣民とした」と読んでいる。特に、漢文の本家の中国の学者の読みはすべて一致している。母国語であるので当然である。ところが、韓国・北朝鮮の学者は渡海したのは高句麗で、百済、新羅、倭を(広開土王が)臣民としたと読んでいる。荒唐無稽、無茶苦茶である。漢文の法則を無視しても自分たちに都合よく解釈する。そうして、絶対に自説を変えることはない。

 朝鮮サイドの人にとってはこの「臣民」は困る文字なのである。「倭」が百済・新羅を「臣民」にする。まさに明治の日韓併合の古代版になる(皇国臣民)。こんなことは絶対にあってはならないことである。そこで歴史を創るのである。とくに、高句麗も王であり、王が中国皇帝を差し置いて「臣民」にするなどは当時の東アジアの中華文明圏には有り得ないことである。

 また、碑文中に「新羅遣使白王 倭人満其国境 潰破城池」(西暦400年)とあり、倭人が国境に迫ってきていると、新羅が高句麗に救援を求めてきた。そこで、広開土王は歩騎五万を率いて出撃し、碑文には 「新羅城倭満其中官兵方至倭賊退自倭背急追至任那加羅」とあり、占拠していた新羅城から撤退する「倭賊」を「任那加羅」まで追撃したとある。このとき、高句麗は自軍を「官兵」と称している。「官兵」とは「高句麗王の軍」の意味であろう。その4年後には「倭不軌侵入帯方界 」と、今の韓国・ソウル付近まで侵入してきた倭を撃破して「倭寇潰敗斬敵無数」と表記している。この「倭賊」「倭寇」を韓国・北朝鮮の解釈では中世(室町時代)の「倭寇」、つまり、海賊集団と決め付けている。世界四大碑文の一つである広開土王碑文は、父親の大王が倭の海賊ていどを討ち破ったことを偉大な功績として顕彰したことになる。韓国・朝鮮人にとって、現在は中国領にあるとはいえ、これほど先祖の偉大な王を侮辱する行為をなぜ平然とやれるのだろうか。むしろ、その功績をきちんと評価しているのはなんと日本と中国である。つまり、この碑文は「倭」を撃破したことを誇る戦勝記念碑なのに・・。これほど皮肉なことはない。

 −臣民は中国皇帝の臣ー

『前漢書』「地理誌」に「楽浪海中有倭人・・・以歳時来献見云」とあり、倭人は紀元前から楽浪郡に朝貢している。次の『後漢書』「東夷伝」には、「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀使人自稱大夫倭國之極南界也光武賜以印綬」とあり、西暦57年、倭奴国が朝貢して後漢の光武帝から印綬を授かっている。そして、三世紀の「魏志倭人伝」には、倭の女王・卑弥呼は魏の皇帝から「親魏倭王」に叙任され、「金印」を賜っている。その後、卑弥呼の後継者「台与」が朝貢したあと(266年)、中国の文献からは「倭国」の記事は消える。この時代は日本古代史でも「謎の四世紀」と言われている。そうして、突然、四世紀末、広開土王碑文に「倭」「倭人」「倭賊」「倭寇」などが出てくる。この間、一体なにがあったのか。歴史史料は何も語ってくれない。次に中国史書に出てくるのは五世紀、『宋書』倭国伝の「倭の五王」の時代である。 

私はこの四世紀にも王朝は変わっても中国に朝貢して、皇帝の臣として冊封体制下にあったと思う。つまり、倭国の軍隊は中国皇帝の軍でもあり、倭国軍は官軍として朝鮮半島に出兵したのではないか。そのことを、当然、新羅・百済・高句麗にも宣伝していた。倭軍の先頭には中国皇帝の印(しるし)、黄色い旗が翻えっていたはずである。戦いを有利に進めるため、いつの時代でも大義名分は戦争に必要である。それを知っていた長寿王は倭が百済・新羅を破り、「以為臣民」と碑文に刻んだのではないか。自分たち高句麗でさえ百済・新羅は「属民」にすぎないのに。なぜ碑文に「臣民」があるのか。これしか理由が見当たらない。たしかに、この時期、西暦372年、百済も中国(東晋)に朝貢して冊封を受けてはいるが、「勝てば官軍」は今も昔も変わりない。

時代が下がって西暦478年の『宋書』倭国伝の有名な倭王武の上表文には「臣雖下愚、忝胤先緒、駆率所統、帰崇天極」とあり、倭王は中国皇帝に対して自分を「臣」と称し、宋皇帝に忠節を誓っている(帰崇天極)。同じ頃、宋に朝貢した百済王も自分を「臣」と称している。「臣」は「臣下」と同じ意味であり、「臣民」はその支配下にある「国の民」をさす(つまり、中国皇帝の臣民)。とくに倭軍が「倭不軌侵入帯方界」と、いにしえの「帯方郡」近くまで進攻してきたことは、倭国の戦争の大義、つまり、中国皇帝の軍として帯方郡の復活を目論んでいたのではないのか。この倭軍の中には倭国に亡命してきた楽浪・帯方両郡の漢人が相当数いたのではないかと思う。(313年、楽浪・帯方両郡滅亡)

 −女王・卑弥呼も官軍として戦っているー

「魏志倭人伝」に「倭女王卑弥呼與狗奴國男王卑弥弓呼素不和 遣倭載斯烏越等 詣郡 説相攻撃状 遣塞曹掾史張政等 因齎詔書黄幢  拝假難升米 為檄告喩之」とあり、卑弥呼は南の狗奴國との争いで、帯方郡に使者を送り、戦いの窮状を訴えた。そこで、郡は魏皇帝の名代として軍事顧問、「張政」を派遣し檄をとばした(為檄告喩)。そのとき、もたらされたのが「詔書」と「黄幢」である。この「黄幢」こそ、魏皇帝の軍の印(しるし)、日本でいう「錦旗(にしきのみはた)」にほかならない。このとき、卑弥呼の邪馬台国は官軍となったのである、(黄幢、錦旗説は多くの研究者が認めている、「幢」は丸い筒型の絹の幟で、朝廷の儀仗に使われる。黄色は中国皇帝の色)。その後、狗奴国との戦闘はどうなったのか「倭人伝」に記事はない。卑弥呼の死によって双方が和睦に合意したのかもしれない。

 この「倭人伝」の記事から分かるように、三世紀の「倭国」は半島の小国家郡とは違い、中国王朝からまるで別格扱いされている。魏は中央アジアの大国、大月氏国王にも「親魏大月氏王」の称号を与えているが、卑弥呼とこの二人だけである。この事実は重い、(大月氏国とは前漢の武帝が、宿敵匈奴を東西から挟み撃ちしようと同盟を求め、「張騫」を派遣したことでよく知られている。大月氏王は断ったが・・)。また、卑弥呼の遣使、「難升米」を率善中郎將 「牛利」を率善校尉という魏の官職を与えて銀印綬を下賜している。その理由はやはり倭人が前漢以来、中国王朝に朝貢して珍しい産物をもたらしたからであろう。「倭人伝」のいう「上獻生口倭錦絳青縑緜衣帛布丹」がそれを物語っている。絹布や麻布は漢人にとっても好物であったろうし、返礼に「賜汝好物」として与えた銅鏡百枚など漢人にとってはまさに、「シメシメ」とほくそえむ程度のものでしかなかったであろう・・。この三世紀の魏と倭国の関係の延長線上に四世紀の「広開土王碑文」があると考えるのが一番自然である。つまり、倭軍は中国皇帝の軍、官軍であったのだとの認識は半島諸国にも共有されていた。そこから「以為臣民」の文字が刻まれた。

 <追記>

 「広開土王碑文」問題は現代の「慰安婦騒動」と根は同じである。韓国・朝鮮人は歴史の真実を追究しようという知性が欠如しているとしか思えない。歴史とは自分たちに都合よく創り上げるものであり、どのような事実を突きつけても絶対に認めない。異常なカルト性を持った民族である。古代に倭国が半島に攻め込んで来ることは有りえない。これが絶対的真実であり、中国の古漢文の専門家の意見など一顧だにしない。旧日本軍による慰安婦20万人の強制連行も絶対的真実であり、どのような議論にも耳を貸さない。このことを我々日本人は肝に銘じておく必要がある。

 だが、日本にもよく似た問題がある。三角縁神獣鏡を魏鏡だと断定し、中国の古鏡学者の見解(三角縁神獣鏡は日本製)を一顧だにしない。そして、いまだ発掘もされていない箸墓(はしはか)古墳を卑弥呼の墳墓に間違いないとほぼ断定し、日本の古墳時代は卑弥呼の生きた三世紀中期に始まるとの説を、あたかも絶対的真理の如く宣伝する。その理由は大多数の古代史、考古学者の意見がそうであるからとのこと。学問は選挙のように多数決で決まるものではない。クレオパトラの墓もジンギスカンの墳墓も発掘調査してはじめて決定されるものであり、これが世界の常識である。韓国・朝鮮人を非難ばかりしておれない。

 思うに、邪馬台国論争は明治以来、九州か大和かの位置論争ばかりが先行し、「倭人伝」にある魏や帯方郡との外交交渉などは軽視されてきた。そうして、邪馬台国の倭人は漢字も知らなかったとの俗説が定説化している。これに「異」を唱える人はいるにはいるが、いまだ日本史教科書もそうである、(私のブログ「卑弥呼は漢字を知っていた」参照)。卑弥呼は「詔書」「黄幢」「金印」をもらうほどの密接な関係を魏と維持していた。同時代の半島諸国にはこのような事例はない。なぜ、このような事実が軽視されてきたのか。

 それは明治以後、戦前まで続いた天皇中心史観、いわゆる皇国史観にある。日本の古代の歴史は『古事記』『日本書紀』が正史であり、中国の史書ではないのである。例えば、日本に漢字が伝わったのは『古事記』にある五世紀の応神天皇のとき、百済の「王仁(わに)」によってである。このとき、倭人は初めて漢字を知ったのだと・・。とんでもない、「魏志倭人伝」を素直に読めばそんなことはあり得ないのに。卑弥呼は「詔書」の意味さえ分からなかったのであろうか? これを逆手に取られて、朝鮮サイドの人には古代の倭人、未開の土人説が定着している。未開の倭人を文明化してやったのは我々韓国・朝鮮人だと。漢字も知らないそんな未開の倭人が四世紀末に半島に軍事行動など起こせるわけがないと。朝鮮サイドの人にこう言わせる責任はいまだ皇国史観から抜け出せないでいる日本側にある。邪馬台国・大和説こそ皇国史観そのものである。日本の歴史は悠久の昔から大和の天皇家から始まるのであり、邪馬台(ヤマト)国はその前身であるとの・・。

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[近代史4] 昔は夫婦別姓だったのか? 中川隆
2. 2020年7月30日 06:15:15 : Ngvb4PuuiA : ajRmYkhUeG9nQm8=[4]

昔は夫婦別姓だったのか? 再論 −学者の無知と誤解 ー
2009年12月18日
https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/b399bbeb1cfeb9fb125923347520a3a7?fm=entry_awp

「昔は夫婦別姓だった」というのが日本史の通説となっている。NHKの番組でそれを話した日本史学者・今谷明氏だけの説かと思っていたが、日本人の姓に関する本を調べてみると、なんとそれが定説のように書かれていた。まさに驚天動地、一体全体、どうしてこのような誤った説が定着しているのか。そうして、その根拠は判で押したように北条政子と日野富子があげられている。前回、私が述べたように、なぜ「細川ガラシャ」の名称が権威ある日本史の本で使われているのか。「明智ガラシャ」が正しいはずである。
 また、大石内蔵助の妻は「大石りく」と呼ばれている。「りく」の故郷、兵庫県豊岡市の観光案内には「大石りく」と出ている。なぜ、日本史の学者は、それは間違いで「石束りく」と訂正させないのか。(「りく」は内蔵助と離縁後、幼い子供を連れて実家の但馬豊岡藩家老・石束家に戻っている)。なぜ、このような相反する事例が存在するのか。その原因を再考してみる。

(1)夫婦別姓の定義が曖昧
 我々は普通、「夫婦別姓」と聞くと、中国や朝鮮のそれを思い浮かべる。中華民国総統、蒋介石の妻の名前は宋美齢である。彼女の親が「美齢」と名付けた瞬間から死ぬまで「宋美齢」である。けっして「蒋美齢」とは名乗らない。これが正式の夫婦別姓である。 では、日本史の通説のように、昔は日本も夫婦別姓だったと言うなら、秀吉の正室・北政所は生涯「浅野ねね」とか「杉原ねね」を名乗っていたのだろうか。(北政所の生家は杉原氏であるが浅野家の養女となった)。同じく、側室淀殿は生涯「浅井茶々」を称していたのだろうか。(両親は浅井長政とお市の方)。無論、そのような文献史料はない。
 
 北条政子と日野富子も同様、そのように書かれた史料はない。単なる歴史用語である。ただ、北条政子の場合は「平 政子」と署名した願文があるらしい。がしかし、「政子」の実家の姓は「北条」であり「平」ではない。伊豆・北条氏の遠祖が平氏であることから、姓の代わりに使ったにすぎない。ただ「政子」だけでは誰のことか分からないので。
 
 日本では通例、女性はその実家の姓で呼ばれてきたのである。例えば、三条夫人(武田信玄の正室、京三条家から来た)、大井夫人(武田信虎の正室、信玄の母、国人大井氏出身)、京極殿(秀吉の側室、北近江守護京極家の出)。また、系図にも「母〇〇氏」などのように実家の姓が書かれている場合がある。稀な例であるが、江戸時代の夫婦墓には、妻の実家の姓と名を刻んだものもある。また、同じく婦人の墓の側面に俗名として、実家の姓と名が刻まれた例が報告されている。
 上記のことから、昔は夫婦別姓だったとの誤解が生まれたのであろう。しかし、これらは中国の「宋美齢」とは根本的に違う。夫婦同姓でない以上、本人の意思で、実家の姓を表記する事例が少なからず散見されるに留めるべきである。

(2)夫婦同姓の由来
 現代日本の夫婦同姓はいつから始まったのか。意外と新しく明治31年施行の民法からである。調べてみると、この制度が決まるまで紆余曲折があったことが研究者によって明らかにされている。
 明治8年2月、明治新政府は「平民苗字必称令」を布告した。つまり、すべての日本国民は苗字(姓)を称すること、との布告である。しかるに、その3ヵ月後には石川県から、「婦人はその生家(実家)の姓を称するべきか、それとも夫の姓を称するべきか」の伺いが内務省に出されている。当時の日本国内で、姓をどちらにすべきか相当の混乱があったようである。これに対する太政官の回答はなんと、婦女は結婚してもなお元の実家の姓を称すべきとのものだった。この回答が後世の研究者を誤解させる根本原因となったと思われる。
 
 つまり、日本は夫婦別姓だったから、従来どおりにしなさいという意味に解釈したのである。それは違う。その証拠に明治30年頃まで全国各地から、「嫁家ノ氏ヲ称スルハ地方ノ一般ノ慣行」(宮城県の伺い)、つまり、宮城県では一般的に妻は夫の姓を名乗ると言っているのである。また、お膝元の東京府からも、「嫁した婦人が生家の氏(姓)を称するのは極めて少数」とまで言っているのである。つまり、明治初期には日本は夫婦同姓であったのである。
 
 このことは何を意味しているのか。武家の婦人はその出自を表すため、実家の姓で呼ばれてきたし、そのように書かれた史料も多く存在する。大多数の農民はどうか、一般的に農民には苗字(姓)がなかったとされているが、それは常識の嘘で、戦国時代は地侍として姓はあったし、そのまま江戸時代は庄屋や中小の自作農として姓は持っていた。ただ、幕府の政策として公称することが禁じられていたにすぎない。今に残る江戸時代の村の神社・寺院の寄進帳には、ほぼ全員、堂々と「姓・名」で署名・寄進している。現在の学校の歴史教育はそのことを教えていない。私自身、武士と苗字帯刀を許された一部の者だけが姓を持っていたと誤解していた。
 
 これら農民階級も婦人の姓に対しては武士と同様の意識を持っていたと思われる。つまり、日本では夫婦同姓ではないし、といって中国式の夫婦別姓でもなかった。つまり、女性は基本的に姓を名乗ることがなく、きわめて曖昧な状態であったというのがことの真相であろう。
 そのため、明治新政府が全国民に姓を持つように布告したとき、子供は父親の姓をそのまま使えるが、すでに夫婦である者とか、その後、他家に嫁したとき姓をどうするかについて社会的混乱が起きたのであろう。では、明治新政府はどのような決定をしたのか・・。

(3)夫婦同姓の決定
 明治31年、公布された民法で妻は夫の氏(姓)を称することが決められた。この明治民法は家を中心に考えられ、すべての家族はその家の苗字(姓)を名乗ることが法的に義務化されたのである。いわゆる、家制度の確立である。
この決定まで紆余曲折があったことが分かっている。なぜか、それは明治新政府が当初、武家の慣習を踏襲して、妻は実家の姓で呼ばれてきた事実のみを念頭に置いて、妻は実家の姓を名乗るように通達を出したことによる。
 
 しかし、日本の女性は中国のように「姓・名」で自身を名乗ることはほとんど無かったゆえ、「浅井茶々」も「石束りく」も、無論「北条政子」もそのような人格は存在しなかった。あるのは「伊豆北条家の女、政子」であり、「大石家の奥方、りく」であったのである。つまり「女、三界に家(姓)なし」であった。そこに、明治政府に対する反発が起きた理由がある。(苗字とか姓とは家名でもあったのである。)
 
 お上から、苗字(姓)を新たに名乗るようにと指示が出されたとき、ほとんどの日本の女性は夫の姓を名乗ることに何の抵抗もなかったであろう。むしろそれはごく当たり前のことだと思ったであろう。だからこそ混乱が起きたと考えられる。私は明治31年の民法は決して欧米を真似た結果だとは思わない。むしろ自然の成り行きであったと考えている。
 大石内蔵助の妻「りく」も、もし幕府から武家の女性も「姓・名」を名乗れと指示されたら、迷わず「大石りく」と名乗ったであろう。自分は「石束りく」などと称したことは唯の一度も無かったのであるから・・・。

 <追記>
 日本では昔は夫婦別姓であったとの通説は完全な誤りとは言えないまでも、一般大衆に大きな誤解を与えるものである。夫婦同姓の対極に夫婦別姓(中国式の)があるのではないという基本的な認識が日本史学者に欠けているとしか思えない。
 たしかに、実家の姓を表記した資料は存在する。それは例外的なもので、基本的に女性が苗字(姓)を名乗ることはほとんどなかった。苗字は家に付くものであり、女性はその家の娘であり妻であった。「女、三界に家なし」とはまさに言い得て妙である。昔の人は真実をついていた。今に残る江戸時代の系図には、女性は名前さえ書かれず、「女」とのみあることは誰でも知っている事実である。
 

ただ、日本の女性が婚家の一員であるとの意識を強く持っていたのも紛れもない事実である。戦国時代にも夫に殉ずる悲劇の女性は数多い(武田勝頼の妻など、このような例は中国や朝鮮にはまず見かけない)。また、農民や商家の妻も、夫に先立たれたとき、その家業を一人で切り盛りして家を守る男勝りの女性は江戸時代にはいくらでもいた。実家より婚家こそ自分の居場所であったのである。
 

 幕末の篤姫や和宮などの超エリート女性も徳川家の人との意識は強かった。和宮(静寛院宮)にいたっては、徳川慶喜の助命嘆願の手紙を京の朝廷に送ったとき、「徳川家を朝敵として討つなら、自分も徳川と共に滅ぶ覚悟」とまで書いている。これには京の新政府もまいったようである。江戸無血開城の真の功労者は勝海舟ではなく和宮であったのが歴史の真実であろう。

 このように日本女性が婚家の一員であるとの意識を強く持っていたことが、明治新政府の初期の方針に反発し、夫婦同姓を認めさせた要因であろう。しかし、現代ではこの意識も過去の遺物になってしまった。

https://blog.goo.ne.jp/awakomatsu/e/b399bbeb1cfeb9fb125923347520a3a7?fm=entry_awp
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/976.html#c2

[番外地8] 小さな間違いが一つでもあったらルポ全部が捏造だと騒ぐのが右翼の手口だよ 中川隆
1. 2020年7月30日 06:33:28 : Ngvb4PuuiA : ajRmYkhUeG9nQm8=[5]
ルポは時間が限られているからそれ以外に遣り様が無いんだよ
学者が研究するなら何か月も現地滞在して、何年かかけて論文にするけど、ルポは学術論文じゃないからね
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/116.html#c1
[近代史5] ALS患者を殺害した元厚労省医系技官らの優生思想 中川隆
7. 2020年7月30日 07:15:17 : Ngvb4PuuiA : ajRmYkhUeG9nQm8=[6]
京都・安楽死殺人 灘高出身と厚労省出身のエリート医師たちの接点は勉強会「日本の医療に貢献したい」
2020/07/29

 全身の筋力が衰えていく難病「筋萎縮性側索硬化症」(ALS)を発症していた京都市の林優里さん(51)から依頼を受け、2人の医師が嘱託殺人容疑で京都府警から逮捕された事件で謎とされているのは、医師たちの接点だ。その真相が本誌の取材で明らかになった。

 
 逮捕された1人は、弘前大学医学部から厚生労働省の医系技官として勤務後、宮城県で開業した大久保愉一容疑者(42)だ。元自民党国会議員の妻が記者会見を開くなどし、その経歴、「安楽死」にのめり込んだ心情の一部が明らかになった。

 一方、もう一人の医師は山本直樹容疑者(43)。山本容疑者は関西出身で屈指の進学校、灘中学校から灘高校、そして東京医科歯科大学で学んだ後、千葉県救急医療センターに医師として勤務したという。

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「6年間、一緒に学びましたが、目立つこともなく、おとなしいヤツだった。覚えているのは、中学1年生の時に年齢がなぜか1つ上の13歳で不思議だなと思っていた」(灘中学、高校時代の同級生)

 
 同じ医師を目指すも青森県と東京都という別々の大学だった2人を結びつけたのは、医学の歩き方「Med−Pearls Sharing Project」という勉強会だった。当時のホームページを見ると、大久保容疑者は弘前大学6年生で副総括というナンバー2。山本容疑者は、ホームページのWEB MASTERと記されている。

 ホームページには<講義でもチュートリアルでもない、新しい形の学び方「学生発信型学習」により、学年の壁、大学の壁を超えてさまざまな医学のPearlsを共有 Share していくために作られました>と紹介されている。

 山本容疑者が感染症の専門家にインタビューしている記事も掲載されている。

<感染症とその魅力や今抱えている問題点と、国の医療について聞きたい>とインタビューした動機を記している。

 当時、学生として勉強会に参加していた、医師はこう話す。

「全国の医療系大学に在籍する、熱心で問題意識を持った学生が有志の集まりでした。基本的にホームページやネットを通した勉強会です。たまに、勉強会などで集まることもありました。けど、大久保容疑者と山本容疑者が特別に親しいと感じたことはありません。大久保容疑者は厚労省の技官となり、山本容疑者は千葉で救急救命をやっているということで、みんなそれぞれの道で頑張っているだと思っていた」

 山本容疑者は勤務していた千葉救急救命センター時代、アメリカへ研修にも行っている。その時の様子を山本容疑者がリポートしたものが今もネット上に残っている。

<この経験を活かして広い視点で日本の医療を見つめ、日本の医療の発展に救急診療の現場から貢献していきたいと思います>と意欲的な感想を記している。

 アメリカの研修で白衣を着ている姿を撮影した写真を自身のED治療のSNSに使っている。どこからも、今回の犯行をうかがわせるような気配はない。

「当時、2人から安楽死などについての論議などはまったくありませんでした。それどころか、立派な医師として活躍しているんだなと思っていた。今回の事件を知って、ビックリするばかりです」(前出・医師)

 その後、大久保容疑者と山本容疑者のつながりは、『扱いに困った高齢者を「枯らす」技術:誰も教えなかった、病院での枯らし方』という共著を電子書籍で出版していることだった。事件発覚後、電子書籍は買えない状態となっているが、紹介文にはこう記されていた。

<「今すぐ死んでほしい」といわれる老人を、証拠を残さず、共犯者もいらず、スコップや大掛かりな設備もなしに消せる方法がある。医療に紛れて人を死なせることだ。病室に普通にあるものを使えば、急変とか病気の自然経過に見せかけて患者を死なせることができてしまう。違和感のない病死を演出できれば警察の出る幕はないし、臨場した検視官ですら犯罪かどうかを見抜けないこともある。荼毘に付されれば完全犯罪だ>

 安楽死を思わせるような内容が列挙されていた。 事件の数か月前、大久保容疑者は「安楽死研究会」という掲示板をネット上に開設。

<(安楽死が)バレないための方法、についてのアドバイス>などと記し、<嘱託殺人、自殺幇助など、法にダイレクトに触れることが書かれると運営に削除されるおそれがあります>と違法性に言及するような記述もあった。

 かつては医師として理想を追っていた2人がなぜ、こんな事件を起こしてしまったのだろうか?

https://www.msn.com/ja-jp/news/national/%e4%ba%ac%e9%83%bd-%e5%ae%89%e6%a5%bd%e6%ad%bb%e6%ae%ba%e4%ba%ba-%e7%81%98%e9%ab%98%e5%87%ba%e8%ba%ab%e3%81%a8%e5%8e%9a%e5%8a%b4%e7%9c%81%e5%87%ba%e8%ba%ab%e3%81%ae%e3%82%a8%e3%83%aa%e3%83%bc%e3%83%88%e5%8c%bb%e5%b8%ab%e3%81%9f%e3%81%a1%e3%81%ae%e6%8e%a5%e7%82%b9%e3%81%af%e5%8b%89%e5%bc%b7%e4%bc%9a-%e6%97%a5%e6%9c%ac%e3%81%ae%e5%8c%bb%e7%99%82%e3%81%ab%e8%b2%a2%e7%8c%ae%e3%81%97%e3%81%9f%e3%81%84/ar-BB17k6Bj?ocid=ientp
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/244.html#c7

[番外地8] 右翼が必死にデマを流して本多勝一を貶めようとしているだけだよ 中川隆
1. 2020年7月30日 10:16:52 : Ngvb4PuuiA : ajRmYkhUeG9nQm8=[7]
1971年、朝日新聞に連載された本多勝一記者の長編ルポルタージュ『中国の旅』は、大変な反響を巻き起こしました。
このルポによって初めて、中国戦線で旧日本軍が行ってきた数々の凄まじい蛮行が、被害者である中国人自身の証言という生々しい形で徹底的に暴露されたからです。出征した兵士たちは、ごく少数の例外を除いて自分たちが行った残虐行為については一切口をつぐんでおり、教科書や一般の歴史書も抽象的に戦争の経過や背景を説明するだけだったため、戦後世代の日本人の多くは、かつて自国が行った侵略戦争の実態がどのようなものだったのか、具体的には何も知らないも同然でした。『中国の旅』は、いわば無知ゆえに安穏としていられた戦後世代を過酷な歴史的事実に目覚めさせる冷水のような役割を果たしたのです。

それだけに、このルポに対する右派勢力からの攻撃にもすさまじいものがありました。本多氏や朝日を黙らせようとする直接的脅迫はもちろん、氏の人格を中傷する捏造記事や、『中国の旅』に書かれている膨大な事例の一つでも否定しよう(そしてそれを宣伝することでルポ全体の信用性を貶めよう)とするあらゆる試みが行われました。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/115.html#c1

[番外地8] 南京大虐殺の証拠〜当時の記録映像と生存者の確実な証言 - YouTube 中川隆
1. 中川隆[-11980] koaQ7Jey 2020年7月30日 10:17:21 : Ngvb4PuuiA : ajRmYkhUeG9nQm8=[8]
1971年、朝日新聞に連載された本多勝一記者の長編ルポルタージュ『中国の旅』は、大変な反響を巻き起こしました。
このルポによって初めて、中国戦線で旧日本軍が行ってきた数々の凄まじい蛮行が、被害者である中国人自身の証言という生々しい形で徹底的に暴露されたからです。出征した兵士たちは、ごく少数の例外を除いて自分たちが行った残虐行為については一切口をつぐんでおり、教科書や一般の歴史書も抽象的に戦争の経過や背景を説明するだけだったため、戦後世代の日本人の多くは、かつて自国が行った侵略戦争の実態がどのようなものだったのか、具体的には何も知らないも同然でした。『中国の旅』は、いわば無知ゆえに安穏としていられた戦後世代を過酷な歴史的事実に目覚めさせる冷水のような役割を果たしたのです。

それだけに、このルポに対する右派勢力からの攻撃にもすさまじいものがありました。本多氏や朝日を黙らせようとする直接的脅迫はもちろん、氏の人格を中傷する捏造記事や、『中国の旅』に書かれている膨大な事例の一つでも否定しよう(そしてそれを宣伝することでルポ全体の信用性を貶めよう)とするあらゆる試みが行われました。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/118.html#c1

[近代史5] 北京政府の情報操作の実態 中川隆
7. 2020年7月30日 10:46:26 : Ngvb4PuuiA : ajRmYkhUeG9nQm8=[9]
社員の肩書でじわりと盗む 組織に入り込んでいく、中国・経済スパイの実態
2020/07/30


 今、米中関係が新たな次元に入っているようだ。

 2019年のマイク・ペンス副大統領による中国を糾弾する厳しいスピーチに続いて、7月23日、マイク・ポンペオ国務長官もスピーチでさらに厳しい対中姿勢を見せた。カリフォルニア州でスピーチしたポンペオ長官は、中国共産党が自由世界への最大の脅威であり、法に基づく秩序を破壊していくと主張。さらに華為技術(ファーウェイ)などの企業を手先として使っており、ファーウェイは安全保障への脅威であるとも語った。

 これを受け、中国共産党の機関紙の英語版では、直ちにいくつか反論記事を掲載。ポンペオ長官を激しく批判した。これらの動きから、まさに米中は冷戦の様相にあることが確認できる。

 そして米中の緊張関係が高まる中、両国関係をさらに悪化させる事態が発生した。22日、米国務省のモーガン・オルタガス報道官は、米政府がヒューストンの中国総領事館に閉鎖を命じたことを明らかにした。その理由は、同領事館が米国に対するスパイ活動の拠点となっていたからだ。

 実は米国内で中国政府が行っているスパイ活動は今に始まったことではない。以前から広範囲に行われており、米国は喰いものにされてきたと言っていい。企業の知的財産や、政府や軍の機密情報など、さまざまな情報を奪ってきた。しかもそうした活動は米国内にとどまらず、日本や欧州ももちろん例外ではないと言ってもいい。そこで、米国を中心に、中国のスパイ活動の実態に迫ってみたい。

●研究者や学生、社員の“肩書”を使って情報を盗む

 実は、今回のヒューストン総領事館の封鎖命令の翌日には、米国内で中国政府系のスパイが何人か逮捕されていたことが発表されている。

 FBI(米連邦捜査局)は7月23日、最近4人の中国人留学生を逮捕していたと明らかにした。容疑は、人民解放軍との関係を隠してビザを獲得し、カリフォルニア州とインディアナ州の大学に入り込んでいたことだ。そのうちの1人は、6月20日にFBIから取り調べを受けた後に、サンフランシスコの中国総領事館に逃げ込んでいたが、結局逮捕された。

 別のもう1人は人民解放軍の将校で、医学研究者になりすましてカリフォルニア州の大学に留学していたとしてロサンゼルスの空港で逮捕されている。

 これは中国スパイの典型的な手口の一つで、研究員や学生といった肩書で米国の大学や研究機関に入り情報を盗む。これまでもいくつものケースが報告されている。

 2018年にはイリノイ州で留学生を装って入国した中国人が、在米中国人の情報を集めたり、彼らを協力者にリクルートしたりするなどの諜報活動を行っていて逮捕された。この人物は、中国の諜報組織である国家安全部(MSS)のスパイで、米軍関連の情報なども盗もうとしていたことが判明した。

 19年8月には、米カンザス大学で、中国系の教授が中国の大学との近い関係を隠し、情報を流していたとして起訴されている。19年12月には、ハーバード大学に留学していた中国人のがん研究者が、がん細胞の入った生物試料の瓶を21本も隠し持って中国に帰国しようとして逮捕されたケースもある。

 民間でも、15年にはIBMの元社員だった中国系の人物がソフトウェアのソースコードを中国側に渡したとして逮捕されているし、16年には原子力関連の開発に技術を提供するなど関与したとして、帰化した中国系米国人が逮捕された。18年にも、潜水艦に関連する機器を中国に送ったとして中国人が逮捕されている。

 また、こんなケースもある。18年10月にはMSSの中国人スパイが堂々と、米航空関連企業から情報を盗み出そうとしたとして、オハイオ州で逮捕されている。また、ダイアン・ファインスタイン上院議員の運転手が中国のスパイだったことが判明し騒動に。19年9月には、カリフォルニア在住の中国系米国人のツアーガイドが、ホテルの一室で政府の機密情報が入ったUSBデバイスを受け取り、飛行機でMSSの元に運ぼうとしたところを逮捕されている。

●高い給料で中国人以外も“協力者”に

 こうした行為以外にも、実は中国は中国人以外の研究者らを取り込んで、堂々とスパイ活動を行っていると指摘されている。その活動の代表的なものは、「千人計画」と呼ばれるプログラムだ。

 中国で08年に始まった「千人計画」では、中国が成長するために、国外にいる中国人科学者などを中心に人材や技術を確保することを目的としている。米当局は、特に生物科学や医学の分野で研究開発の情報や知的財産を盗もうとしていると警戒し、19年から180人以上に対する捜査を行っている。世界的にも知られるような主要な研究所などでも、共同研究などの名目で知的財産を盗まれ、中国で勝手に特許が取られている場合もあり、米当局は中国政府とつながりのある研究者や学生などが研究所などから情報を盗む「スパイ工作」に関与していると見ている。

 米情報当局者がメディアに語ったところによると「すでに1万人以上が参加しており、参加者は本職でもらっている給料の3〜4倍の給料が提供される」という。

 千人計画は米大学などに止まらない。民間には600人ほどが確認されており、政府系の機関にも300人ほどいるという。米司法省は18年11月から千人計画などで中国側と関与している人たちを摘発するといった「チャイナ・イニシアチブ」を立ち上げており、FBIは対象者を注意深くモニターしている。

 これは中国のスパイ工作の特徴でもあるのだが、できる限り合法的に企業や大学に「浸透」していって、研究資金を出すなどしながら重要な情報をじっくり盗んでいく。もしかしたら協力者らはその自覚すらないケースもあるだろう。そして、そういうケースは米国にとどまらず、日本でも起きている可能性は高い。

 とにかく、こうしたスパイのケースは枚挙にいとまがない。米国は世界で最も多く中国によるスパイ工作が行われている国だといわれている。その理由は、世界最大の経済大国であり、技術力があり、世界最強の軍を持っているからだ。中国は、民間からは知的財産を、政府や軍からは機密情報を盗みながら成長してきたと言っても過言ではない。FBIは「中国は私たちの作り上げた経済的なはしごを盗みながら登っている」と指摘しているくらいだ。

●日本の大企業でも技術が盗まれていた

 経済力と技術力という意味では、日本も世界有数の国である。そして、米国と同じように、中国によるスパイ工作のターゲットになっている。7月26日、米司法省が中国のスパイだったシンガポール人男性を、米軍関係者から機密情報などを盗んで中国に渡していたとして訴追した。日本が購入を決めている最新鋭ステルス戦闘機F35が日本や周辺地域の情勢にどんな影響を与えるかについて情報収集し、中国に報告していたことも判明している。中国のスパイ組織にとって、日本も当然視野に入っているのである。

 現在では、こうした人的なスパイ工作に加えて、サイバー攻撃によって情報を盗むといったスパイ工作も強化している。世界中でハッキングなどによって知的財産を盗んでおり、日本も企業から知的財産だけでなく、人事情報などまで盗まれている。今年だけでも、三菱電機やNEC、NTTコミュニケーションズ、神戸製鋼所などが数年前にサイバー攻撃を受けていたことが判明しているが、それ以外の大企業から中小企業まで、大量の情報が盗まれていると考えていい。実際に、攻撃者側をモニターしている国外のサイバーセキュリティ関係者や情報関係者らの話では、さまざまな日本企業の技術が盗まれていると聞くことが多い。

 このように中国のスパイ工作は徹底しており、サイバー攻撃も駆使して行われている。そして、ターゲットは米国や日本だけに限定されない。

 例えば欧州では、中国人スパイが拠点にしている国がある。ベルギーの首都ブリュッセルだ。ブリュッセルには250人の中国人スパイがいるといわれており、この数はロシアよりも多いという。

 なぜブリュッセルなのか。ブリュッセルは、欧州の首都と呼ばれ、EU(欧州連合)本部や関連機関が多数存在し、NATO(北大西洋条約機構)の本部もある、欧州の政治の中心都市だからだ。先に述べた、18年に米航空関連企業から情報を盗み出そうとしたとしてオハイオ州で逮捕された中国のスパイは、実はブリュッセルで情報収集をしていて逮捕され、米国に身柄を送致されている。

 またこんな話もある。ブリュッセルにあるマルタ大使館は、EUなどの建物の近くに建っているが、そこが中国スパイ工作の拠点になっているとして、ベルギー当局が捜査を行っていたという。マルタは欧州の国の中でも中国と良好な関係を築いており、07年に在ベルギーのマルタ大使館がリノベーションを行った際にも中国が協力。中国が贈った家具などに工作がなされ、周辺の建物の情報を拾っていると指摘された。結果的にマルタ政府がその疑惑を全面的に否定したために、それ以上の捜査は行われなかった。ただ少なくとも、ベルギーでも中国のスパイ工作が警戒されていることは間違いない。

●ゆっくりと社内情報を盗んでいった“優秀な社員”

 ここまでさまざまなケースを見てきたが、中国によるスパイ工作が広範囲に行われている事実は、もはや世界でも常識だと言っていい。驚きもない。

 日本でも、今年判明した大手企業へのサイバー攻撃だけでなく、各方面でさまざまな工作が行われているはずだ。ある企業の幹部が少し前に筆者にこんなことを漏らしたことがある。「友人の企業で、新卒で入社してきた社員が数年後に退職した後、社内の情報を盗んでいたことがサーバの記録などから判明した。ゆっくりと情報をコピーしていた。日本の有名大学を卒業した優秀な中国系社員だったらしい」

 もちろん全ての留学生や研究者、従業員がスパイというわけでは決してない。ただ何くわぬ顔をして協力者になっているケースは確かにある。日本企業で働くビジネスパーソンも、そういう実態が現実としてあることを肝に銘じておいた方がいいだろう。
https://www.msn.com/ja-jp/money/other/%e7%a4%be%e5%93%a1%e3%81%ae%e8%82%a9%e6%9b%b8%e3%81%a7%e3%81%98%e3%82%8f%e3%82%8a%e3%81%a8%e7%9b%97%e3%82%80-%e7%b5%84%e7%b9%94%e3%81%ab%e5%85%a5%e3%82%8a%e8%be%bc%e3%82%93%e3%81%a7%e3%81%84%e3%81%8f-%e4%b8%ad%e5%9b%bd-%e7%b5%8c%e6%b8%88%e3%82%b9%e3%83%91%e3%82%a4%e3%81%ae%e5%ae%9f%e6%85%8b/ar-BB17ll1y?ocid=ientp

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