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[近代史02] 間違いなく日本の朝鮮統治は全てが悪 中川隆
36. 2021年1月31日 11:40:20 : pewE9MNtck : TENybGJhVVBSNEE=[1]
英米からみた日本の朝鮮支配(1)
- 戦間期領事報告を中心に -
梶 居 佳 広
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/99-3/Kajii.htm

 

 目    次

はじめに

第一章  朝鮮と英米の関係−日本支配期を中心に

第二章  斎藤総督−「文化政治」−期(一九一九−三一年)の報告  (以上本号)

第三章  宇垣総督期(一九三一−三六年)の報告

第四章  南総督−「皇民化」政策−期(一九三六−四一年)の報告

第五章  太平洋戦争勃発後(一九四二−四五年)の報告

お わ り に


は  じ  め  に

  周知のように、日本は欧米以外で近代植民地帝国を形成した唯一の国家であったが、それは欧米の事例を摂取した「模倣」の産物であった(1)。さりながら、一方で日本の植民地支配は欧米のそれとは「似て非なるもの」とのイメージ・評価が定着しているのもまた事実である。近年、欧米研究者の間で日本と欧米植民地の類似性を踏まえた研究も進められているが、植民地帝国日本を国際比較の中で検証する作業は未だ発展途上と言わざるを得ない(2)。
  本稿は「比較」の視点から日本の植民地支配を考察する作業の「手掛かり」の一つとして、戦前日本にとって最重要の外交相手であり植民地保有国でもあった「イギリス・アメリカ(以下英米と略記)が日本の最重要植民地である朝鮮支配をどう見ていたか」について、一九一九年三・一運動以降を中心に検討する。本稿で検討する時期は、併合以前や「解放」以降と比べ朝鮮に対する英米の動向に関する研究は乏しく、三・一運動や太平洋戦争の戦後構想を除くと殆ど「空白」といってよい。三・一運動については、外交史料を用いた研究があり英米は朝鮮に同情は示したが具体的支援は行わなかったとしている(3)。また戦後構想については、カミングス氏ら多くの研究があるが、これらは「英米、特にアメリカは朝鮮をどう扱おうとしたか」に関心が集中しており、当時の英米が持っていた日本の朝鮮支配観についてはあまり触れられていないのである(4)。
  さて、「比較」の視点から日本の植民地支配を考察する場合、冒頭で触れたように欧米の植民地支配との共通点(同質)・相違点(異質)の検討が重要な論点になると考えられるが、ここでは日本植民地支配の特異性(とされる側面)について最小限触れておきたい。
  即ち、日本植民地帝国の特異性としては、@植民地獲得が本国と近接した「同一」文明圏への同心円的拡大であった、A植民地支配の原則が「同化(assimilation)」であったことが指摘される(5)。特にAは第一次大戦後(「同化」を原則としていたフランス(6)も含め)欧米諸国が植民地自治に傾く中で「同化」に固執したこと、また三〇年代後半の所謂「皇民化」政策は被支配者の民族性を抹殺する性格を持ち「同化」の極限とされている。なお、第二次大戦中連合国が朝鮮の日本からの分離独立を初めて公式に承認したカイロ宣言では「朝鮮の人民の奴隷状態に留意し、やがて朝鮮を自由独立のものとする」という表現になっているが、宣言中の「奴隷状態」は日本の植民地支配の持つ特異性をベースにしていたといえよう。
  私もこれらの特徴、就中日本の植民地支配の原則が「同化」であった事に異論はないが、留意すべき点もあるように思われる。まず「同化」について、百科事典での定義では「ある支配民族が他の集団を自己の文化になじませようとする(政策、考え(7))」となっているが、「同化」は文化的であると同時に法的・政治的なものでもある。また、「「同化」という言葉のインフレーションにより、植民地支配の理念も実態も見えにくくなっている(8)」という意見に代表されるように、実際日本の「同化」はほぼ一貫して唱えられたため却って曖昧な概念になった嫌いがある。近年、日本の「同化」について、@法制度の次元とA文化・イデオロギー的次元を区別して検証する作業が試みられており、既に幾つか研究がある(9)。この整理で「同化」について全てを説明できるかどうかはなお検討の余地もあるが、本稿では「同化」の本来の意味として「植民地を完全に宗主国の一部として統合しようとする政策・考えであり、具体的には法制面と文化面の二つが柱となる。そして法制・文化両面の同一化によって「同化」が完成することになる」と一応定義しておきたい。勿論、これはあくまでも一般的な定義であって、実際日本が進めた「同化」はこれとは異なる側面(例えば朝鮮人に対する差別待遇の維持)があったことは出来るだけ触れていきたい。
  一方、英米を含む欧米の場合、支配者=「文明国」が「未開」の植民地を「文明化」するという、所謂「文明化(の使命)」論によって支配を正当化していた。日本の場合、植民地独立を許容する論理になりうる「文明化」は採れなかったとされるが、例えば植民地参政権を日本が拒否する際、理由としたのは「内地」と「外地」の「民度」の差であった。つまり日本も「民度」≒「文明」の差異によって植民地支配を正当化しており「文明化」論と相通じる面を持っていたといえる(10)。この場合「同化」と「文明化」は対立するものではないと考えた方が自然であろう。
  そこで本稿では、「文明化」で植民地支配を正当化した当時の英米人に「同化」を原則にした日本の朝鮮支配はどう映ったのか、また先述のカイロ宣言での「朝鮮の奴隷状態」という認識がいつ、どのように形成されたかを可能な限り後づけながら進めていきたい。
  最後に、史料その他について(11)。本稿では在ソウル英米領事報告を中心に、本国官庁報告も対象とするが、イギリスの場合「年次報告書」が朝鮮について一九二〇年から三九年まであり主にこれを用いる。アメリカの場合『国務省記録』収録報告を検討するが、年次報告がなく、かつ『国務省記録』に未収録の報告も存在する。それ故、民間論説も一部加えたいが、全体にイギリス報告を軸にアメリカ報告にも言及する方法で進めていきたい。なお、本稿は「日本の統治を英米はどう見たのか」に重点を置いており、朝鮮人の動向や政治的側面以外については十分言及できない。また、今回は英米が描く日本の朝鮮支配観の「イメージ」の概観であり、「イメージ」と実際日本がとった政策の「実態」との間には当然乖離が見られることを予め強調しておきたい(12)。

(1)  ピーター・ドウス[浜口裕子訳]「想像の帝国」(ピーター・ドウス、小林英夫編『帝国という幻想』青木書店、一九九八年)一三頁。なお本稿でいう「植民地」は法制上植民地とされる「公式帝国」をさす(台湾、朝鮮、南樺太)。
(2)  木畑洋一「英国と日本の植民地統治」(『岩波講座  近代日本と植民地』一  岩波書店、一九九二年)二七四頁。欧米の研究としては R. Myers, M.R. Peattie (eds.), The Japanese Colonial Empire, 1895-1945, (Princeton 1984)、マーク・ピーティー[浅野豊美訳]『植民地』(読売新聞社、一九九六年)が代表的である。
(3)  朴慶植『朝鮮三・一独立運動』(平凡社、一九七六年)と姜東鎮『日本の朝鮮支配政策史研究』(東京大学出版会、一九七九年)が国務省を含むアメリカ国内の動きを触れている。ベルサイユ会議中の朝鮮人組織の活動は、長田彰文「ベルサイユ講和会議と朝鮮問題」(『一橋論叢』一一五巻二号、一九九六年)参照。欧文ではイギリス外務省史料を駆使した労作である Ku Dae−yeol, Korea under Colonialism (Seoul, 1985) 等を参照。
(4)  宮崎章「アメリカの対朝鮮政策(一九四一−一九四五)」(立教大学『史苑』四一巻二号、一九八二年)、ブルース・カミングス[鄭敬謨・林哲訳]『朝鮮戦争の起源』一(シアレヒム社、一九八九年)、クリストファー・ソーン[市川洋一訳]『米英にとっての太平洋戦争』全二巻(草思社、一九九五年)、李景a『朝鮮現代史の岐路』(平凡社、一九九六年)等参照。
(5)  山本有造「日本における植民地統治思想の展開」(『日本植民地経済史研究』名古屋大学出版会、一九九二年)、大江志乃夫「まえがき」並びに「東アジア新旧帝国の交替」(『岩波講座  近代日本と植民地』一、岩波書店、一九九二年)参照。
(6)  ただし同じ「同化」でもフランスと日本のそれとは相違点があるとされる。例えば、矢内原忠雄「軍事的と同化的・日仏植民政策比較の一論」(『国家学会雑誌』五一巻二号、一九三七年)、ピーティー、前掲書参照。
(7)  『世界大百科事典』第一九巻(平凡社、一九八九年)五三〇頁[星野昭吉執筆]
(8)  駒込武『植民地帝国日本の文化統合』(岩波書店、一九九六年)一二頁。
(9)  春山明哲「近代日本の植民地統治と原敬」(春山明哲・若林正丈『日本植民地主義の政治的展開一八九五ー一九三四年』アジア政経学会、一九八〇年)、山中速人「朝鮮同化政策と社会的同化・上」(『関西学院大学社会学部紀要』第四五号、一九八二年)。山本有造、前掲書と駒込武、前掲書も参照のこと。
(10)  木畑洋一「イギリスの帝国意識」(『大英帝国と帝国意識』ミネルヴァ書房、一九九八年)参照。
(11)  史料について。イギリスの場合、日本並びに「植民地」の「年次報告書(Annual Report)」を集めた『駐日英国大使館報告資料集成(Japan and Dependencies:Political and Economic Reports 1906-1960)』(Archive Edition, 1994)があり、@第一一巻とA第一二巻が朝鮮関係である。以下、@を Annual Report Korea 1906-1923, Aを Annual Report Korea 1924-1939, と略記する。また、未公刊史料としてイギリス外務省(F.O.)史料のうち、大使館が外務省に送った文書 F.O. 371 General Correspondence:Political があり、以下、F.O. 371 と略記。一方アメリカは「国務省記録」デシマル・ファイルの内『朝鮮の国内情勢に関する国務省記録Records of the U.S. Department of State relating to the Internal Affairs of Korea』を用いる。@一九一〇ー二九年(Internal Affairs of Korea 1910-1929. Reel. と略記)。A一九三〇ー三九年(Internal Affairs of Korea 1930-1939. Reel. と略記)。B一九四〇ー四四年(Internal Affairs of Korea 1940-1944. Reel. と略記)。公刊史料は United States Department of States, Foreign Relations of the United States があり、以下、FRUS と略記。
(12)  なお日本の朝鮮支配に関する個別研究は膨大でありここで列挙するのは到底不可能である。差し当たり文献目録として戦前分は末松保和編『朝鮮研究文献目録』(汲古書院、一九八〇年)、戦後分は朝鮮史研究会『戦後日本における朝鮮史文献目録一九四五ー一九九一年』(緑陰書房、一九九四年)、それ以降は『朝鮮史研究会論文集』巻末の文献目録を参照。

第一章  朝鮮と英米の関係 −日本支配期を中心に

  本論に入る前に、英米が朝鮮にどの程度の関係を持っていたか、また日本の対朝鮮政策に対してどのような態度を取ったかについてごく簡単にみていきたい。

一  朝鮮在留英米人
  日本支配期、朝鮮在留欧米人は千数百人であった(表1参照)。これは朝鮮の総人口からみて極めて少数であるが、欧米人の中ではアメリカ、イギリスが一九四〇年まで一位、二位を占めていた。地域的には鉱山を除くと市部に偏りソウルを含む京畿道に約五百人在住していた。なお表1で慶尚南道、咸鏡道でイギリス人がアメリカ人より多いのはキリスト教(プロテスタント系)諸宗派間で布教地域を予め設定した結果である。職業別に分類すると、一九二一年現在、一二六五人中八五四人が宣教師関係、鉱山業一九九人、商業一〇四人となっている(1)。以下、これら職業について歴史的背景も含め簡単に触れておく。
  まず宣教師であるが、英米人の多くはプロテスタントに属しており、彼らは朝鮮各地に滞在していた。朝鮮におけるプロテスタントの本格的伝来は、一八八五年長老派アンダーウッド(H.G. Underwood)と監理教アペンゼラー(H.G. Appenzeller)入国に始まる。その後諸宗派が次々に朝鮮に入り信者も激増した。即ち、一八九五年に一五九〇人であったのが一九一〇年に二二万人(プロテスタントのみ)に達し(2)、日本支配期にはカトリックも含め最大五十万人にまで増加したのである。このような信者数急増の要因として、社会情勢の影響や布教活動の成果が挙げられるがここで詳細に検討することは行わない。ただ、朝鮮ではキリスト教が民族主義の宗教としての性格を持ち抗日・独立運動の拠点にもなったことは無視できぬ事実である。他方、日本にとってキリスト教は「要注意」であるが、外交上弾圧しにくい「厄介」な存在であった。ただ欧米人宣教師についていえば、彼らは非政治的立場を取り日本の朝鮮支配についても人道的立場からの要望に止めていた(3)。
  次に、鉱山業について。日本の支配期に英米人が運営していた鉱山としては、雲山、陽徳、遂安等があげられる。これらは日清戦争後の中国で展開された「利権獲得競争」と同時期に獲得したものだが、中国と違い、朝鮮の場合鉱山が唯一といってよい利権であった。しかも一九一五年朝鮮鉱業令が制定されるなど、鉱山経営は日本による制約を受けるようになった。結局、三九年雲山売却を最後に朝鮮における英米の鉱山利権は消滅した(4)。
  第三に商業についてだが、朝鮮進出の外国企業は鉱山業を除くとスタンダード石油会社、ライジング・サンなど極僅かにすぎず、通商についても、朝鮮の場合日本本国に集中し英米の占める比率は小さかった。この傾向は併合前からではあったが、一九二〇年代日本資本主義が発展したことで一層顕著なものとなった。例えば一九三〇年朝鮮への輸入の内、アメリカは二%、イギリスは「コンマ以下」であった(輸出はゼロに近い数字である)。
  なお、日本支配期朝鮮に領事館を設置していたのは英米の他、中国、フランス、ソ連であるが、このうち英米は総領事を筆頭に数名が赴任していた。表2は英米の主な領事をあげているが、ここで領事について触れておくと、イギリスは全員が横浜、神戸、長崎など日本各地の領事を経験した「知日家」(二〇年代前半までソウル総領事だったレイはむしろ「朝鮮通」といえるが)であり、特にレイ、ロイド、ホワイト、フィップスは日本の朝鮮支配について独自の意見を年次報告の中で展開していたのに対し、アメリカはアジアとは無関係の地域から赴任した領事もおり、日本や朝鮮の知識に乏しい者が多かった(尤もアメリカの場合も、三・一運動直後には国務省極東部長のミラーを総領事に任命しているし、また三〇年代前半に活躍したデイビスやラングドンのようにソウル駐在中に「朝鮮通」となる者もいた)。彼らは当然自国民の保護が主な職務であるが、同時に朝鮮情勢について情報収集し本国に報告していた。その際「情報源」となったのは朝鮮発行雑誌・新聞、総督府刊行物、それに宣教師や役人らとの接触などであった。

 

 

 

二  日本の朝鮮植民地化・支配に対する英米の態度
  次に、日本の朝鮮植民地化(とその後)に対する英米両国の態度を概観する。この問題については既に一定の研究(5)があるので、ここでは概略的事実を触れるに止めておく。
  @  併合(一九一〇年)前
  英米が朝鮮と国交を開いたのは、日本に遅れること数年、即ちアメリカが一八八二年、イギリスがその翌年であった。以降、韓国併合まで英米は朝鮮と関係を持つことになる。
  一九世紀後半以降、朝鮮半島は国際紛争地の一つであった。しかし朝鮮に直接関心を持っていたのは日本、中国(清)−清は朝鮮に対し宗主権を有していた−、ロシアであり、英米ではなかった。イギリスは一八八五年朝鮮南部の巨文島を二年間占拠する事件を起こしたが、これはロシアを牽制するためであり朝鮮に領土的野心をもっての行動とは言い難い。アメリカについても同様である。要するに英米共に朝鮮問題は二次的なものに過ぎず、故に日本にとって朝鮮「進出」のライバルは、やはり中国とロシアであり、日本はこの両国との戦争に勝利することで朝鮮における覇権を獲得した(その間に朝鮮における抗日の動きを弾圧したことは言うまでもない)。そして日露戦争では英米は日本支援に回ったのであった。
  一九〇五年日本は韓国を「保護国」としたが、イギリスは第二次日英同盟、アメリカは「桂・タフト協定」によって日本の行動を容認した。その後、満州問題で特に日米間で利害対立が発生することもあったが、この対立が日本の朝鮮「進出」に打撃を与えることはなかった。結果、一九一〇年八月日本は韓国併合を実行したが、その際日本は欧米諸国が旧韓国政府との間で得た経済権益の十年間維持を表明し、英米両国も承認したのであった。
  なお、併合時に日本が認めたこれら経済権益は、その後日本が不平等条約の完全撤廃を成就させたこともあり徐々に消滅することになるが、これに対し英米ら欧米諸国は日本との関係を悪化させるような抵抗を行っていない。このような態度の背景としてやはり朝鮮に対する関心の低さも関係しているように考えられる(6)。
  A  併合後特に三・一独立運動(一九一九年)での対応
  韓国併合後、英米両国は日本の朝鮮支配については黙認の姿勢をとり、朝鮮独立を一度たりとも支持しなかった。そしてこの姿勢は、先に触れたカイロ宣言まで続くことになる。
  ただし、この間英米が日本の支配に対し何の行動も取らなかったわけではない。併合直後から日本の「圧政」に関する報告が領事館から本国へ時々送られ、外交問題に発展することもあった。ただしこれらはキリスト教徒や自国民の保護を目的としていた。しかし、三・一運動では英米、特にイギリスは日本に対し朝鮮統治の改善を要請したのであった。
  周知のように、三・一運動は民族自決やロシア革命、日本の圧政に対する反発を背景に、朝鮮全土で起こった文字通り全民族的運動であった。これに対して日本は軍事力を用い死者約七千五百人という血腥い方法で鎮圧した。しかし、あまりにも苛酷な弾圧、特に四月に発生した堤岩里虐殺事件をカーチス(R.S. Curcis)米国領事やロイド(W.M. Royds)英国領事らが報告することによって日本非難の声が俄に高まった(7)。

1 アメリカ
  アメリカは「民族自決」を唱えるウィルソンが大統領であり第一次大戦戦勝国でもあった。それ故、アメリカは朝鮮人の期待を特に強く受けていた。事実、三・一運動参加者にはアメリカによる朝鮮の独立回復を期待する向きも少なからずあった。しかし、アメリカ政府が朝鮮独立を支持することはなかった。国務省当局は日本を弁護する主張を行い、ソウル総領事ベルグホルツ(L.A. Bergholz)に対し「朝鮮在住アメリカ市民が日本の内政に干渉することのないように」と再三指示していた(8)。新しい国際秩序の構築に奔走していたアメリカにとって、朝鮮というアメリカから見て「些細な」問題で日本との関係を悪化させたくなかったのが本音であったといえよう。
  しかし、提岩里事件が伝わるに従い、アメリカの各新聞は日本の行為を非難する記事を書き始め(9)、議会も六月に朝鮮問題を取り上げるようになった。このような状況に対し、ロング(B. Long)アメリカ第三国務次官は七月初め出渕駐米日本代理大使と面談し、朝鮮問題に対する意見と日本軍の「蛮行」に関する説明を求め、出淵から朝鮮支配を「リベラル」なものにするとの約束を引き出した(なおロングは、国務省としては朝鮮問題は日本の内政問題と考えるが、同時に日本の残虐な弾圧は人道上由々しき問題であるとも考えていると述べている(10))。会談後、出淵は朝鮮統治改革やキリスト教徒の待遇改善などの案を原首相に送り(11)、原首相も早速キリスト教会連合会東洋委員会に「統治の改善」を約束する電文を送った(12)。その後、上院では長老派教会ら作成の朝鮮に関する報告(米国キリスト教会連合協議会報告書)が議事録に収録され(13)、「朝鮮人同情法案」が提議されるに至った(ただし未採択)。なお、米国総領事のベルグホルツについては「鮮人カ自己ノ意見ヲ公表シ民族自決主義ヲ唱ウルハ人類ノ特権ニシテ彼ラノ主張ニ耳ヲ借リセス猥リニ高圧手段ヲ採ルハ当ヲ失ワセリ(14)」と主張したとして日本側が警戒する一方、欧米人宣教師の間では日本の弾圧に対して抗議を行わず「毎ニ吾人ヲ冷遇シ一点ノ誠意ヲ認ムル能ハズ(15)」と総領事更迭要求が持ち上がっていた。そのためか、彼はこの年の秋に総領事を離任している。

2 イギリス
  イギリスも朝鮮独立を認めない立場であった。周知のように当時イギリスはエジプトやインドでの独立運動に手を焼いており、民族自決にも否定的であった。このためロイド総領事代理は朝鮮に関する報告を度々打電していたが(16)、当初政府が朝鮮情勢に関心を示すことはなかった。
  しかし、アメリカと同様提岩里事件を契機にイギリス政府も五月頃から政策の見直しを進め、七月になり元インド総督であるカーゾン(E. Curzon)外相が珍田駐英大使に対し統治の改善を要請するに至った(17)。なおこの要請の際カーゾンは外務省極東部(Far Eastern Department)のミュラー(M. Muller)作成の「朝鮮における日本の政策に関する覚書」を用いている。この「覚書」について要約すると、運動発生の潜在的要因として(1)日本の統治が朝鮮を「日本化」するものであったこと(ここでいう「日本化」とは日本人が朝鮮の全分野を独占することをいう)、(2)日本語を強制したこと、(3)日本人の入植活動への反発、4裁判の不公正さを挙げている。そして、「処方箋」として「朝鮮独立は考慮の範囲外」であるが、@武官総督を文民に入れ替える、A何らかの自治の容認、B朝鮮語を日本語と同等の扱いにする、C言論・集会・出版の自由の容認を求めている(18)。イギリスの要請は断続的に翌年始めまで続けられたが、徐々に人道上の問題に力点が変化したとされる(19)。
  以上、英米は三・一運動時日本に対し統治改善の要請を行ったが、その際アメリカよりイギリスの方が具体的な統治改善を要請していた点は興味深い事実ではある。これに対し、日本は長谷川好道総督を引責辞任させ、後任に海軍出身の斎藤実を任命し「文化政治」と称する改革に着手することになった。この「改革」については次章に委ねるが、「文化政治」への政策転換を齎した要因として原首相の持論(内地延長主義)の他に英米の要請への対応もあったことは否定できないであろう。

(1)  朝鮮総督府「在鮮欧米人氏名表」一九二一年三月(国立国会図書館憲政資料室『斎藤実文書』一一〇ー一三)。
(2)  柳東植『韓国のキリスト教』(東京大学出版会、一九八七年)四七頁。
(3)  閔庚培『韓国キリスト教会史』(新教出版会、一九八一年)、韓国基督教歴史研究所『韓国キリスト教の受難と抵抗』(新教出版会、一九九五年)等参照。
(4)  S.J. Palmer,”American Gold Mining in Korea’s Unsan District. Pacific Historical Review 31 (1962) pp. 379-391 等を参照。
(5)  山辺健太郎『日韓併合小史』(岩波書店、一九六六年)、森山茂徳『近代日韓関係史研究』(東京大学出版会、一九八七年)、長田彰文『セオドア・ルーズベルトと韓国』(未来社、一九九二年)、海野福寿『韓国併合』(岩波書店、一九九五年)等参照。
(6)  Ku Dae−youl, Korea under Colonialism (Seoul, 1985) pp. 20-23.
(7)  韓国基督教歴史研究所編著[信長正義訳]『三・一独立運動と堤岩里教会事件』(神戸学生青年センター出版部、一九九八年)に領事・宣教師報告が収録されている。Ku Dae−yeol, op. cit., pp. 169-198 も参照。
(8)  朴慶植『朝鮮三・一独立運動』(平凡社、一九七六年)二八八頁、姜東鎮『日本の朝鮮支配政策史研究』(東京大学出版会、、一九七九年)七〇ー七一頁。FRUS, 1919, Vol. II, pp. 458-463.
(9)  朴慶植、前掲書、二八六ー二九一頁、姜東鎮、前掲書、七一、八七ー九〇頁。なお朴殷植[姜徳相訳注]『朝鮮独立運動の血史』二(平凡社、一九七二年)によると、一九二〇年九月までにアメリカの新聞が載せた朝鮮関係記事は九千回以上という。
(10)  B. Long,”Memorandum of Conversation with the Japanese Charge D’Affairs, July 3, 1919, 895. 001/−, Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 3. 日本側史料では6月下旬出淵は国務次官と面談し、その内容を本国政府に送っている。外務省外交資料館所蔵『韓国ニ於ケル統監政治及同国併合後帝国ノ統治策ニ対スル論評関係雑纂』二二八頁。「内田外務大臣宛出渕代理大使報告」。
(11)  同『韓国ニ於ける統監政治及び同国併合後帝国ノ統治策ニ関スル論評関係雑纂』二三八ー二四一頁。同報告。
(12)  同『韓国ニ於ケル統監政治及同国併合後帝国ノ統治策ニ対する論評関係雑纂』二七一ー二七三頁。「米国東洋委員部宛原敬書簡案(七月一〇日)」。
(13)  朴殷植、前掲書、一三三ー二一四頁に収録されているのを参照。
(14)  『現代史資料』二六「朝鮮」(2)(みすず書房、一九六七年)、四三四頁。
(15)  『現代史資料』二五「朝鮮」(1)(みすず書房、一九六七年)、三八七頁。
(16)  Ku. Dae−yeol, op. cit., p. 142. なおロイドの活動は日本側史料でも確認できる。『現代史資料』二六「朝鮮」(2)、三三五ー三四二頁参照。
(17)  Ku. Dae−yeol, Ibid, pp. 155-160.
(18)  Memorandum by Mr. Max Muller on Japanese Policy in Korea. July 5, 1919, F.O. 371/3818 (F106971/7293). なお、Ku, Dae−yeol, Ibid, pp. 149-152. も参照。
(19)  イギリス政府は一九二〇年七、八月段階で朝鮮状況は概ね「改善」したと判断している。Ku, Dae−yeol, Ibid, pp. 235-246, 298.

 

第二章  斎藤総督  −「文化政治」− 期(一九一九−三一年)の報告

  本章は斎藤実総督、所謂「文化政治(1)」における英米報告を検討する。厳密には、斎藤は一九二七年四月ジュネーブ軍縮会議に出席後総督を辞任し、一九二九年八月に再登板するまで山梨半造が総督であった。しかし山梨は在任二年弱に過ぎず、辞任直後に朝鮮米の取引をめぐる収賄事件で起訴されている。故に二〇年代の朝鮮支配は斎藤によって特徴づけられるといってよい。
  ところで、前述のように三・一運動に対し英米は朝鮮独立は支持しなかったが、日本の弾圧には批判的であり何らかの統治の改善を要請していた。それ故英米にとって新総督斎藤については、まずこの「要請」にどう答えたかに関心があったといえる。

一  「諸改革」とその「成果」
  斎藤は朝鮮総督に就任するや様々な「改革」に着手した。このうち英米の要請に対応するものとしては総督府官制改革、地方制度改革、教育改革等が該当する。以下、総督府も「文明政治」の基礎とした警察・教育・地方三改革に関する英米報告をみていく。
  @  残酷な刑罰廃止と警察制度改革
  まず、三・一運動弾圧の際、英米が問題視した残虐な刑罰(鞭打ち刑)廃止と警察改革についてであるが、鞭打ち刑は一九二〇年三月に廃止された。当初鞭打ち廃止に日本は慎重であったが、英米側は鞭打ちが「野蛮」な刑罰であり、また朝鮮人のみに科される事もあげ廃止を強く要求した。従って鞭打ち廃止は当然の事ながら英米共に歓迎している(2)。
  次に警察改革、即ち憲兵警察から普通警察へ、行政機構から独立した警務総監部から総督府直属の警務局への転換は、一九一九年八月官制改革の一環として実施された。この改革について、イギリスは一九二〇年報告(レイ)で「国境地帯」を除き普通警察が実施され、警官数が増加した事実を紹介しているが、警官増大の是非は言及していない(3)。そしてその後の報告では警察改革を「朝鮮統治上重要な改革」と評価している。例えばアメリカ(デイビス)は「平時でも殆ど軍事政府のような異常かつ専制的であった警務総監部が廃止され、ほぼ西洋と同様の警務局になった(4)」と評していた。
  また、これらに関連して朝鮮人への拷問があるが、イギリス報告では拷問が「改革」後も存続し宣教師が見聞した事例紹介をしている(5)。ただ拷問の事実を否定してきた総督府対応の変化や暴力警官への裁判実施により一九二二年「朝鮮人の扱いに改善がみられる(6)」とも判断しており、二〇年代後半には拷問に関する言及がなくなっている。
  A  教育制度改革 −第二次教育令(一九二二年)−
  英米宣教師による朝鮮の教育への要請は大きく二点、即ち(1)専門学校に格下げされ宗教教育も禁止されたキリスト教系学校の待遇の改善、(2)(上級学校に進学できない)修学年限での差別、絶対的に少ない学校数など教育面での朝鮮人の待遇改善を挙げることができる。これらは第一次教育令(一九一一年)と諸規則に基づく制度の改定を必要としていた。
  これに対し総督府は一九一九年から改革に着手し、一九二二年第二次教育令を公布した。この改革は、(1)学制をほぼ日本本国と同一とし大学教育を認可、(2)朝鮮語教育を保障したが、それ以上に日本語教育を重視、(3)宗教教育を公認したが、ミッション系は専門学校のまま(ただし「条件」を満たす学校は普通学校=「指定学校」扱い)、(4)学校整備等を特徴とする。故にこの改革は教育拡充を掲げつつ朝鮮人を漸進的に「同化」させ、一方で朝鮮人を日本人の補助的存在として「教育」する狙いがあったとされる。
  この改革にも英米は高い関心を示し、法的整備終了の一九二二年頃迄報告を出している。イギリス報告では順次実施された改革を紹介し、新教育令公布では先に挙げた特徴に触れつつ「明確な進歩」と評していた(7)。ただ(3)についてはミッション内に戸惑いが見られたとしている(8)。というのも、宗教教育の未実施が普通学校の「条件」とされたことで教会内に混乱が生じたからである。一九二三年報告では「ミッション系も「指定学校」になるのが増える(9)」とみていたが、この点長老派は「専門学校」に甘んじたのであった(10)。
  一方、アメリカ(ミラー)も度々報告を出したが、一九一九年の時点で改革=「進歩」とみていた(11)。新教育令公布の際は学校・宗教関係者らとの接触を通じ「現実に運用される迄に評価を下すのは時期尚早だが、この教育制度は好意的に受け止められている。ミッション系学校の新制度への適応もうまくいくだろう(12)」とみている。翌年ミラーは「朝鮮における教育」との報告を作成した(13)。この報告は李朝期には未発達の教育が発展する過程を整理したものであるが、興味深い点としてアメリカ領フィリピンやイギリス保護国エジプトの例を挙げつつ朝鮮の現状を検討していることである。ミラーはエジプトの支配者クローマー(L. Cromer)の著作(14)を援用しつつ報告を進めている。即ち、植民地教育の問題として@物質的成長は急速だが「モラル」の成長は時間が掛かる。A学校整備は多額の資金が必要で却って教育の発展を阻害する。B高等教育は現地民の「政治的覚醒」を喚起する危険があると指摘し、日本も同様の問題に直面しつつあるとしている。ただミラーによると、日本の場合(1)学校整備に本国から援助を受け負担軽減がなされている。(2)実業教育が重視されている。(3)朝鮮の就学率はエジプトより高くフィリピンより低いが、現地民の教育熱は高く収容能力以上の志願者で溢れているのが実情としている。
  なおイギリスは二〇年代後半も年次報告で教育問題に言及しており(15)、一九二八年報告(ホワイト)では、教育を「朝鮮の三大問題」の一つとして財政事情ゆえに学校整備が遅れ朝鮮人に不満が燻っていることを強調している(16)。
  B  地方制度改革   −第一次改革(一九二〇年)・第二次改革(一九三〇年)−
  特にイギリスの要請では何らかの「自治」を朝鮮に与えるべきとしていたが、総督府は、一九二〇年七月の制令で地方制度改革を実施した。即ち、道(日本の府県にあたる)、府(日本の市にあたる)、邑・面(日本の町村にあたる)に公選諮問機関を設置した(但し、面は所謂「指定面」のみ公選。道評議会は2/3が府面協議会員が選んだ候補者から、残りは知事任命で構成)。何れも選挙権は原則五円以上の納税者に限られていた。
  第一次改革の評価であるが、報告に「自治(Self−government)」という表現を用いていることから、英米共この改革を朝鮮に対する自治権付与と考えたようである。但しイギリス(レイ)は「(地方制度が)実際どうなるかについて語るのは時期尚早(17)」とし、その後年次報告では一九二九年まで地方制度の記事が姿を消すことになる。一方、アメリカ(ミラー)は第一、二回(一九二三年)選挙に関し簡単な報告を出したが(18)、第一次改革施行後も「自治」問題に注目していた。例えば、一九二五年十一月副島道正京城日報社長が論説「朝鮮統治の根本義」で「朝鮮議会」設置・朝鮮人「自治」は考慮すべきであると主張した(19)のに対し、ミラーは「全面的に同意する」としていた(20)。
  一九二九年斎藤が総督に再任すると制度改正が検討され、翌年一二月に第二次改革が公布された。この間の事情−総督府は「朝鮮議会」も検討したという−は、先行研究も有りここでは触れないが(21)、結論から言えば、朝鮮議会は見送るが、府協議会・指定面評議会を議決機関に、道評議会を公選制(選挙権は各議員のみ)議決機関に拡充するものであった。
  第二次改革について、イギリス(ホワイト)は改革前から注目しており、第一次改革で実現した諮問機関は意外に影響力を持つが限定的な権限しか与えられていない。納税制限も問題である(条件を緩和するか、朝鮮人が金持ちになるしかないと皮肉っている)。そして第二次改革は評価できるが、現状を大きく変えるものでもないとする。というのも朝鮮地方制度は行政権優位の日本のそれを踏襲したものと考えられるためである(22)。なお一九三一年第二次改革施行については事実紹介(ロイド)に止まっている(23)。一方、アメリカはデイビスが報告をまとめており、改革は「成果」といえるが、納税制限で大半の朝鮮人の政治参加を閉ざしたため朝鮮人の感情とは隔りがある。とはいえ今回の改革は朝鮮人の「自治の実験」であり、改革の将来は制度を上手に行使し得る朝鮮人の能力と朝鮮人の活動を許容する日本の度量にかかっているとしている(24)。

二  朝鮮国内の諸状況
  @  朝鮮在留英米人との関係
  次に、朝鮮状況一般に関する報告に入るが、その前に朝鮮在留英米人と総督府の関係について触れておく。在留英米人と総督府の関係は三・一運動で険悪なものとなり、斎藤就任直後もその「余波」、即ち「アペンゼラー事件(三・一運動一周年の学校デモによるミッション系校長解任(25))」「ショー事件(独立運動援助容疑による在中国イギリス人逮捕(26))」の発生があった。しかし両事件が解決(アペンゼラーの校長復帰、ショーの釈放)すると、在留英米人と総督府の関係は良好なものへ変化した。イギリス報告では一九二一年頃から総督府の「誠意ある対応」により「明白な変化」=関係が良好になったとしている(27)。そして多数の反日的宣教師が方針転換したことや特に斎藤は宣教師に好意的であることなど、両者の良好な関係はその後も続くことになる(28)。なお一九二五年朝鮮神宮鎮座式出席を教会側が拒否し総督府が譲歩した事件がその例として英米報告の中で触れられている(29)。ただ総督府との関係とは「反比例」するように朝鮮人の反欧米感情が表面化した(一九二三年報告(30))。イギリス報告ではまず一九二四年(「反英米」が目的ではないが)領事館爆破未遂が発生した(31)。次いで二六年はアメリカ人宣教師暴行事件や救世軍内の朝鮮人信者除名事件(32)、二九年はイギリスの協力による独立運動家呂運亭逮捕に対する朝鮮人の反発を紹介している(33)。要するに、親日的になった英米に対する朝鮮人の失望が反外国感情を促したといえよう。
  A  朝鮮国内についての報告
  「文化政治」期の朝鮮の諸状況に関する英米報告は広範にわたっており、全てを紹介するのは到底無理である。ここでは幾つかのポイントに絞って整理することにしたい。

1  相対的安定
  まず英米共に朝鮮は安定の方向に向かっていると認識していた。まずイギリス報告によると「不穏な状況が続いた」朝鮮も「目立った出来事の無い」状況になり、斎藤総督の下「穏健な統治」が進行していることが二〇年代を通じ指摘されている(34)。一方アメリカの場合朝鮮情勢に関する報告自体一九二一年以降激減している。三・一運動時は大量の報告を打電した事を考えると、この事からもアメリカが朝鮮情勢を「安定」と認識した根拠になるといえる。なお一九二五年治安維持法適用に合わせ作成したミラー報告では、「改革」の結果平和が国境を除き達成され、争点が政治から経済・社会にシフトしたとしている(35)。
  しかし、これら状況の安定は相対的なものに止まっていると英米側はみていた。即ち、国内の安定は多くの朝鮮人が「外国による独立回復の可能性が消え、日本統治以外に選択984cが無くなったことからの諦め(36)」や「直接行動で独立回復は得られないと理解した(37)」ためであり「独立を求める感情、日本に対する感情に大きな変化はなかった(38)」のである。
  それでも、一連の「改革」で総督府が一部朝鮮人を取り込むのに成果をあげたのも事実であった。その点、イギリス報告では一九二四、二五年「親日派」の動向(39)や一九二九年地方制度に対する朝鮮人有権者の関心の高まりを紹介している(40)。また併合後十年以上経ち、日本支配しか知らない若い世代と古い慣習に固執する旧世代との対立が現れたが(一九二八年報告(41))、これは「一枚岩」と見られた朝鮮人内部で「民族分裂」傾向が生じた一例であり、日本にとって支配を維持するのに有利な状況になったことを意味した。
  なお朝鮮総督府発行の『朝鮮』には、この時期多くの外国人論評を紹介しているが(42)、欧米でも朝鮮支配についての論評が現れている。例えば一九二四年『フォーリン・アフェアーズ』にミシガン大学教授ヘーズン(R. Haydon)が「朝鮮と台湾における日本の新施政」を発表し(43)、またアイルランド(A. Ireland)が一九二六年『新しい朝鮮』を著したが(44)、両者とも、日本統治、特に「文化政治」を「フィリピン統治に引けを足らない(ヘーズン)」「李朝より遥かに成果を挙げた(アイルランド)」統治と主張していた。

2 「社会不安」・「危険思想」
  三・一運動以来の「社会不安」は「文化政治」になっても存続し、イギリス報告では、度々事例紹介をしている。一九二〇−二六年の事例を簡単にみると以下の通りである。
一九二〇年「社会不安継続、法律違反者・容疑者検挙は年中。三月独立運動一周年により各地で示威行動。学生ストは六、十月発生。八月平壌総督府施設と新義州鉄道ホテルに爆弾。アメリカ議員団の朝鮮訪問中、議員に面会を求めた朝鮮人と当局の衝突。九月元山で陰謀発覚(45)」
一九二一年「社会不安は相対的に沈静化。九月釜山で爆弾。六月ボルシェビキの陰謀発覚。十月ソウルでカリキュラム改善要求の学生スト(46)」
一九二二年「学生スト(主にカリキュラム上の問題)がたびたび発生(47)」
一九二三年「一月義烈団の爆弾テロが発生。学生ストは減少。中国人労働者問題(48)」
一九二四年「義烈団による事件、十一月ソウルで独立運動派の陰謀発覚。領事館爆破未遂。主な学生ストは二つ。ウラジオストックや臨時政府の動き(49)」
一九二五年「臨時政府の動き、「三・一」前後とメーデーにおける一斉検挙。共産主義者事件。幾つかの学生スト。二月ソウル、三月平壌で労働スト(50)」
一九二六年「六月前皇帝葬儀での小規模衝突。十二月義烈団の銀行爆破事件(51)」
  全体に、「直接行動」の数が減り未然の摘発・検挙など警察の活動が巧妙になったことが窺える。ほぼ毎年発生していた学生ストはミッション系でも多発したが、(1)抗日運動としての性格と(2)学校「改善」要求(設備や「指定学校」の条件である宗教教育廃止)の性格を持っていた。これに対し英米領事は、特に(2)では学校当局の立場に立っており、必ずしも学生に同情的ではなかった(52)。
  一九二九年発生の学生運動に関して、イギリス報告は原因・運動の拡大・警察の動向について紹介している(一九二九、三〇年報告)。そして@運動参加者は学生であるが、単なる学生運動ではなく朝鮮支配への抗議である、A朝鮮全土への運動拡大はこの運動が組織的であることを暗示している、B大規模な運動でありながら死者が出なかったのは日本側の巧妙さにあったとしている(53)。一方アメリカは、一九三〇年東京からの報告があり、内容はほぼイギリスと同様であるが、学生は独立願望と共産主義の影響を受けていること、検挙者は二五〇〇人にのぼり多くの学校が閉校になったと言及している(54)。
  次に学生ストとも大いに関連するが、共産主義とそれに基づく「陰謀」が二〇年代を通じ増加傾向にあり、イギリスも動向に注目していた。「共産主義」は一九二一年報告で登場したが(55)、二四年報告では学生の思想傾向を「独立と親ボルシェビキに分けられ、両者は反日で結束している(56)」と見ていた。そして二八年報告では、総督府のいう「危険思想」が、教育・経済と共に「三大問題」と見なされ、共産主義拡大の要因(アメリカへの失望、ソ連の宣伝、経済問題)や若年層への浸透、「陰謀」が紹介されている(57)。
  一方、アメリカの報告は、特に一九二〇年以降断片的なものしかない。ただ先述の一九二五年報告では、共産主義拡大について「経済的貧困が原因であり、朝鮮人が本当に共産主義を理解しているとは思えない(58)」とし、三年後の報告では「朝鮮は表面上平和だが、経済的貧困から「不穏思想」が広まっている(59)」と指摘していた。

3 経済不況
  「共産主義」拡大の要因として挙げられた、経済問題について。まずイギリスは、一九二八年報告で経済問題を「三大問題」の一つとして重視し、特に小作人について、総督府の改善策にもかかわらず小作人は苦境が続いているとしている(60)。二九、三〇年報告では、日本人の富の集中、世界恐慌下の不況にも触れている(61)。一方、アメリカは前述の報告で「朝鮮人の多くは生計を立てるのにあくせくしている」「経済困難のため故郷を捨てようとする農民もいる(62)」と触れているが、ミラーは一九二九年農民に関する報告をまとめている。内容はこれ迄の報告と類似しているが、ただ大半が小作人である農民貧困の要因として、過去の世代の「遺産」、そのような状況に長年馴染んだ無気力、近年朝鮮でも発生した経済状況、世界的不況を挙げている。ただし、総督府の対応については経済困難に対する改善策=「努力」面のみを強調している(63)。

4  「同化(assimilation)」について
  総督府が標榜する「同化」についてこの時期の報告は余り触れていない。ただ、特にイギリスは「同化」には懐疑的であった。レイは識字率や日本・朝鮮人間の婚姻数から「日本は「同化」に固執しているが、成果は殆ど挙がってない(64)」としていた。またホワイトは、一九二八年報告で「理論上は朝鮮人が高官に占める割合が高いはずだが実際は異なる。また理論上は言論・出版の自由があるはずだが実際は厳しい検閲下にある(65)」と述べ、又二年後には、朝鮮は長い歴史を持ち慣習も日本と異なるが故に朝鮮が完全に日本の一部になることはないのではないかとする松田拓相発言に注目し、「同化」は日本にとっても建前に過ぎないのでないかと指摘している(66)。以上のように、特にホワイトは「同化」を疑問視していたが、その特徴は「権利の平等」は認めずに文化の強要のみが進められがちであること、また(彼の言う)「同化」ならあり得ない朝鮮人への差別に対する批判にあった。

5 間島・北部国境情勢
  朝鮮と満州の国境である間島は朝鮮・中国間の係争地であったが、国境紛争については一九〇九年の間島条約で一応決着していた。しかし日本の朝鮮支配確立と共に、間島は朝鮮国内から逃れてきた抗日朝鮮人の拠点となった。これに対し総督府は間島を特別地帯として多数の警察を駐留させ、朝鮮人への大弾圧を行った。故に、イギリスは間島を「無法地帯」と見なして(67)、年次報告でほぼ毎年国境情勢について紹介している。ここで詳細に検討する余裕はないが、報告の内容は、日本の弾圧、朝鮮人の動向、中国側動向に整理でき、特に日本の弾圧と朝鮮側の抵抗は詳しく紹介され、間島が極めて危険であることを強調している(68)。一方アメリカは、一九二八年報告で朝鮮の深刻な問題として国境情勢を取りあげていた(69)。
  結局、度重なる弾圧にもかかわらず抗日朝鮮人は根絶できなかった。日本にとり国境地帯の政情不安は、朝鮮支配の安定化や満州の日本利権にも障害になると見なされた。故に三〇年代に日本が満州侵略に走った背景の一つとして国境地帯の政情不安を挙げることができよう。


三  斎藤総督への評価
  最後に斎藤に対する評価を簡単にみていくが、これ迄の報告からも大凡明らかなように英米の評価は大変高い。まず領事の批評を挙げるとミラーは「斎藤は賢明でリベラルな統治」を行ったといい(70)、「同化」に批判的なホワイトも「斎藤が総督に再任されたことは朝鮮にとって幸運なこと(71)」と述べている。さらに三・一運動の目撃者であるロイドも斎藤の統治を「寛大で穏健」と評していた(72)。確かに、斎藤による宣教師との関係改善や諸改革は、これ迄の報告から推測するに英米とも概ね評価していたといえる。また斎藤自身アメリカ滞在の経験を持ち、英米との関係を重視していた。その「成果」もあってか、斎藤は個人的にも信用され、それはたとえ朝鮮を巡る様々な問題が発生しても変わらなかったのであった。
  一九三一年六月、斎藤は高齢と病気等を理由に総督を辞任したが、これに対しアメリカのデイビスは、斎藤引退は残念なことである。彼の統治は効率の良さと朝鮮人の幸福に配慮したものであり、改革は朝鮮発展に寄与するものであったと辞任を惜しんでいる(73)。斎藤はその後五・一五事件直後の「挙国一致内閣」の首相にもなった(一九三二−三四年)が、一九三六年二・二六事件で青年将校の凶弾に倒れた。なお二月二五日斎藤は駐日米国大使グルー(J.C. Grew)の晩餐に招かれ暗殺される数時間前まで団欒の一時を送った。グルーは斎藤について次のように述べている「(彼は)好戦的争闘の時代にあって偉大な叡知と広い自由主義的な意見を持っていた(中略)私は彼が朝鮮の学校問題(神社参拝問題を指す�\引用者)解決に影響力を行使することが出来ればいいと思っていた(中略)斎藤子爵は常に米国の宣教師を支持していた(74)」。

(1)  「文化政治」全般をテーマにした著作・論文については、中塚明「日本帝国主義と朝鮮」(『日本史研究』八三号、一九六六年)、姜東鎮『日本の朝鮮支配政策史研究』(東京大学出版会、一九七九年)、糟谷憲一「朝鮮総督府の文化政治」(『岩波講座  近代日本と植民地』二、岩波書店、一九九二年)等を参照。
(2)  Annual Report Korea 1906-1923, p. 277. Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State, April 6, 1920, 895. 13, Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 5.
(3)  Annual Report Korea 1906-1923, p. 273.
(4)  Consul General, Seoul(J.K. Davis),”Extension in the system of local self−government in Chosen and its significance, July 30, 1931, 895. 01/31. Internal Affairs, Korea 1930-1939, Reel. 1.
(5)  Annual Report Korea 1906-1923, pp. 277, 311, 411, 523-524. Annual Report Korea 1924-1939, pp. 109-110, 126-129.
(6)  Annual Report Korea 1906-1923, p. 411.
(7)  Annual Report Korea 1906-1923, pp. 276-277, 309, 413-414, 518-522.
(8)  Ibid, pp. 414, 521-523.
(9)  Ibid, p. 522.
(10)  韓国基督教歴史研究所編『韓国キリスト教の受難と抵抗』(新教出版社、一九九五年)八七ー九二頁。
(11)  Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State, December 18, 1919, 895. 42/22. Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 6.
(12)  Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State. April 14. 1922, 895. 42/29. Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 6.
(13)  Consul General, Seoul (R.S. Miller),”Education in Chosen (Korea), December. 14, 1923, 895. 42/31. Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 6.
(14)  L. Cromer, Modern Egypt, VoL. 2 (London, 1908). クローマーについては木畑洋一「英国と日本の植民地統治」(『岩波講座  近代日本と植民地』一  岩波書店、一九九二年)二七九ー二八一頁にも紹介されている。
(15)  Annual Report Korea 1924-1939, pp. 130, 180.
(16)  Ibid, pp. 450, 452.
(17)  Annual Report Korea 1906-1923, p. 276.
(18)  Consul General, Seoul (R, S. Miller) to Secretary of State, December 3, 1920, 895. 00/688, 並びに、Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State, November 22, 1923, 895. 00/700. 何れも Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 3. 収録。
(19)  『京城日報』一九二五年十一月二六ー二八日。
(20)  Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State, December 18, 1925, 895. 01/22. Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 4.
(21)  姜東鎮、前掲書、三七九ー三九五頁、駒込武『植民地帝国日本の文化統合』(岩波書店、一九九六年)二一四ー二一八頁など参照。
(22)  Annual Report Korea 1924-1939 pp. 465-467, 476-477.
(23)  Ibid, pp. 489-490.
(24)  前掲(4)デイビスのレポート(895. 01/31)参照。
(25)  FRUS, 1920, Vol. III, pp. 44-48.
(26)  Annual Report Korea 1906-1923, pp. 280, 281, 314.
(27)  Ibid, pp. 277-278, 313-314.
(28)  Ibid, pp. 314, 411, 412, 525-527. Annual Report Korea 1924-1939, pp. 120, 175-176.
(29)  Ibid, pp. 163-164. Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State, October 19, 1925, 895. 413, Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 6.
(30)  Annual Report Korea 1906-1923, p. 527
(31)  Annual Report Korea 1924-1939, pp. 118-119.
(32)  Ibid, pp. 299-302.
(33)  Ibid, pp. 471-472.
(34)  一九二二年報告で「平穏」とみている。Annual Report Korea 1906-1923, p. 409.
(35)  Consul General, Seoul (R. S, Miller)”Political and social conditions and organizations in Chosen.−The Public Safety Act, May 25, 1925, 895. 00/705 Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 3.
(36)  Annual Report 1906-1923, p. 409.
(37)  Ibid, pp. 311-312, 510-511. 前掲(35)のミラー報告(895. 00/705)参照。
(38)  Ibid, pp. 311-312, 409, 507-509. Annual Report Korea 1924-1939, pp. 111-112, 172.
(39)  Ibid, pp. 120, 173-174.
(40)  Ibid, pp. 465-466.
(41)  Ibid, p. 450.
(42)  なお朝鮮総督府調査資料『外人の観たる最近の朝鮮』(一九三二年)はこれら「親日的」論評を集めた本であるが、中にはブルンナーの農村調査(S. Brunner, Rural Korea)のような実証研究も含まれる。
(43)  R. Haydon,”Japan’s New Policy in Korea and Formosa. Foreign Affairs 2 (1924) pp. 474-487.
(44)  A. Ireland, The New Korea. (New York, 1926)
(45)  Annual Report Korea 1906-1923, pp. 279-280.
(46)  Ibid, pp. 309, 311-312, 314-315.
(47)  Ibid, pp. 413-415.
(48)  Ibid, pp. 510-511, 522, 532-533.
(49)  Annual Report Korea 1924-1939, pp. 111-112, 115-119.
(50)  Ibid, pp. 168-170, 178-179. 181-183.
(51)  Ibid, pp. 297-298.
(52)  Annual Report Korea 1906-1923, pp. 414-415. Ibid, p. 247.
(53)  Ibid, pp. 460-461,468-470, 476, 479-480.
(54)  ただしこの報告によると、ソウル領事館からステファン副領事報告が打電されたことが確認できる。Embassy, Tokyo (W.R. Castle) to Secretary of State, January 27, 1930, 895. 00B/2, Internal Affairs of Korea 1930-1939, Reel. 1.
(55)  Annual Report Korea 1906-1923, p. 312.
(56)  Annual Report Korea 1924-1939, p. 110.
(57)  Ibid, pp. 453-455.
(58)  前掲(35)のミラー報告(895. 00/705)参照。
(59)  Consul General, Seoul (R.S. Miller) to Secretary of State, June 8, 1928, 895. 00/711, Internal Affairs of Korea 1910-1929, Rell. 3.
(60)  Annual Report Korea 1924-1939, pp. 450-451
(61)  Ibid, pp. 467-468. 478-479.
(62)  前掲(35)ミラー報告(895. 00/705)並びに前掲(59)のミラー報告(895. 00/711)
(63)  Consul General, Seoul (R.S. Miller),”The Farmers and farm lands of Chosen (Korea) in 1928, September 7, 1929, 895. 61/5, Internal Affairs of Korea 1910-1929, Reel. 8.
(64)  Annual Report Korea 1924-1939, p. 235.
(65)  Ibid, p. 451.
(66)  Ibid, pp. 477-478.
(67)  Ibid, p. 482.
(68)  Annual Report Korea 1906-1923, pp. 280, 312, 313, 410, 511. Annual Report Korea 1924-39, pp. 108, 109, 162, 163, 457.
(69)  前掲(59)のミラー報告(895. 00/711)。
(70)  前掲(13)のミラー報告(895. 42/31)。
(71)  Annual Report Korea 1924-1939, p. 462.
(72)  Ibid, p. 498.
(73)  Consul General, Seoul (J.K. Davis) to Secretary of State, June 20, 1931, 895. 001/19, Internal Affairs of Korea 1930-1939, Reel. 1.
(74)  ジョゼフ・グルー[石川欣一訳]『滞日十年』(毎日新聞社、一九五八年)二二七ー二三一頁。

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/99-3/Kajii.htm

http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/392.html#c36

[番外地8] 一九一〇年八月日本は kankoku 併合を実行したが、その際日本は欧米諸国が旧kankoku 政府との間で得た経済権益の十年間維持を表… 中川隆
1. 中川隆[-7804] koaQ7Jey 2021年1月31日 12:22:37 : pewE9MNtck : TENybGJhVVBSNEE=[2]
一九一〇年八月日本は kankoku 併合を実行したが、その際日本は欧米諸国が旧kankoku 政府との間で得た経済権益の十年間維持を表明し、英米両国も承認したのであった。

  なお、併合時に日本が認めたこれら経済権益は、その後日本が不平等条約の完全撤廃を成就させたこともあり徐々に消滅することになるが、これに対し英米ら欧米諸国は日本との関係を悪化させるような抵抗を行っていない。

  A  併合後特に三・一独立運動(一九一九年, 七千五百人虐殺)での対応

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/law/lex/99-3/Kajii.htm

欧米人は当時の日本政府の chousen 人やアイヌ人の文化抹殺・日本人同化政策を今の中国政府のウイグル人・内モンゴル人の文化抹殺・中国人同化政策と同じ様に見ていたんだよ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/825.html#c1

[近代史4] コロナ肺炎を治すには温泉療法しかない 中川隆
8. 中川隆[-7803] koaQ7Jey 2021年1月31日 12:56:11 : pewE9MNtck : TENybGJhVVBSNEE=[3]
新型コロナに対する温泉効果 2021年01月31日
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/f39d3ec0442e73c276652414dd702634


つい先日のブログ「光り輝くようなシンバルの響きを求めて」の中で、「新型コロナウィルス」に関して次のようなことを述べていた。

「ちなみに、あれほど内外の観光客が押し寄せる日本一の温泉都市「別府(人口約12万人)」だが、これまで大規模なクラスターが発生していないし、患者数も少なく多いときでも1日当たり10人を上回ることがないのが不思議。

もしかして、大気中に広範に漂う温泉の湯気成分が効果があるのではないかという説が地元の一部にはある。ほかの熱海などをはじめとする温泉地はどうなんだろう。」

実は、この説の出所は懇意にしている地元の市会議員さんからだったのだが、折りしも相呼応するかのように翌日(1月30日)のネットに次のような記事が掲載されていた。

「群馬県草津町は草津温泉の湯畑の源泉が新型コロナウィルスの感染力を90%以上減らす効果があるとの研究結果が得られたと明らかにしました。

草津町から調査を依頼された群馬大学発のベンチャー企業「グッドアイ」は水道水と湯畑から採取した温泉の水に入れた新型コロナウイルスをそれぞれ細胞に振り掛けて感染力の違いを比較をしました。

その結果、水道水を掛けた細胞の多くがウイルスに感染したのに対して、温泉の水を掛けた細胞はほとんど感染することがなく、感染力が90%以上低減することが確認されたということです。

町では今後、観光客の集まる場所に源泉を使った「手洗い湯」を整備し、感染防止に役立てたいとしています。

研究にあたった群馬大学大学院の板橋英之教授は、他の温泉の源泉も調査してどの成分がウイルスの感染力を弱めているのか調査を続けるとしています。」

とまあ、「源泉」そのものと大気中に漂う「湯気の成分」との違いはあるものの実にタイミングのいい記事だった。

さっそく、この記事の件を市会議員さんにご注進すると、「市内でもっとも源泉が豊富な鉄輪(かんなわ)地区であれだけ旅館や民宿が立て込んでいるのにコロナ患者が一人も出ていなんですよねえ」と仰っていた。
https://blog.goo.ne.jp/jbltakashi/e/f39d3ec0442e73c276652414dd702634
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/743.html#c8

[近代史4] 新自由主義の世界 中川隆
3. 中川隆[-7802] koaQ7Jey 2021年1月31日 15:56:36 : pewE9MNtck : TENybGJhVVBSNEE=[4]
【サッチャリズムとは】具体的な政策や社会への影響をわかりやすく解説
2020年1月3日 / 2021年1月27日
https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/society/270072

サッチャリズムとは

サッチャリズム(Thatcherism)とは、1980年代にイギリスの首相マーガレット・サッチャーによって行われた新自由主義的・新保守主義的な政策のことです。

サッチャーの政策なんて、現代日本を生きる私たちに身近ではないと思われるかもしれません。しかし、サッチャーが行ったいわゆる新自由主義的政策やその社会への影響は、日本で行われた政策も共通点が多く、日本の政治を考える上でも役立ちます。

そこでこの記事では、

サッチャリズムの背景や特徴、具体的な政策
サッチャリズムの失敗や社会への影響
について詳しく解説します。

関心のあるところから読んでみてください。

このサイトは人文社会科学系学問をより多くの人が学び、楽しみ、支えるようになることを目指して運営している学術メディアです。

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目次 [非表示]

1章:サッチャリズムとは
1-1:サッチャリズムの背景
1-2:サッチャリズムの特徴
2章:サッチャリズムの具体的政策と影響
2-1:新自由主義的な財政政策・構造改革
2-2:金融自由化(ビッグバン)
2-3:マネタリズム的な金融政策
2-4:労働組合との対決・炭坑労働者のストライキ
3章:サッチャリズムとホール
4章:サッチャリズムに関するおすすめ本
まとめ
1章:サッチャリズムとは
サッチャリズムとは、「鉄の女」と呼ばれたイギリス初の女性首相であるマーガレット・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher)によって行われた、一連の政策のことです。

このサイトでは複数の文献を参照して、記事を執筆しています。参照・引用箇所は注1を入れていますので、クリックして参考にしてください。

一般的に、イギリスの福祉国家的政策(後述)から新自由主義的政策に転換したこと、強い態度でさまざまな改革を行い、社会に大きな影響を与えたことから知られています。



1章ではサッチャリズムの背景から、サッチャーがどのような問題意識を持つようになったのか、そしてどのような特徴の政策が行われたのかを説明します。

より具体的な政策の内容や社会に与えた影響については2章以降で説明します。

1-1:サッチャリズムの背景
サッチャリズムは経済・社会保障面では新自由主義的、外交的には新保守主義的な政策が行われたと言われます。

なぜそのような政策が必要とされたのでしょうか?

結論から言えば、福祉国家的政策に限界があると考えられるようになったからです。

1-1-1:福祉国家的政策の伝統
そもそも、イギリスには福祉国家的政策の伝統がありました。

福祉国家とは、医療保険、社会福祉サービス、貧困層への補助などの社会保障制度の拡充を重視し、実現している国家のことです。

福祉国家について簡単に説明します。

政治学や経済学における重要なテーマに、「国家の市場に対する役割をどこまで認めるか?」というものがあります。そして、大きく分けると以下の2つの立場があります。

自由主義(古典的自由主義、新自由主義)・・・国家は市場(民間の経済活動)に対してできるだけ関わるべきではない。
社会民主主義・ケインズ主義・・・市場に任せていたら格差拡大や景気の上下が激しくなるなどの問題が起こるため、国家が積極的に介入するべき。
福祉国家というのはAの立場から、国家が市場に介入し、社会保障サービスを充実させることを重視する国家のことです。

イギリスに限らず、第二次世界大戦後の西側先進国の多くは福祉国家的な政策を行っており、日本や自由主義の国と言われるアメリカですらそうだったのです。

→福祉国家について詳しくはこちら

また、イギリスではケインズ主義と言われる政策が戦後政治の主流でした。

ケインズ主義とは、簡単に言えば下記のような金融政策を行うことで景気を安定させ、完全雇用(失業者がいないこと)を目指す政策のことです。

景気が悪い時
政府が金利を下げ、お金を借りやすくして投資や消費を促進させたり、政府が支出を増大することで、景気を刺激する
景気が良い時
景気が過熱しインフレが激しくならないように、政府が金利を上げ、投資や消費を抑制させたり、政府が支出を抑えて景気を安定化させる
このように、国家が景気循環に介入して失業率を下げること、社会保障サービスを充実させることを合わせて行っていたのが戦後政治の路線でした。

しかし、1970年代頃にはすでにこうした政治が批判されはじめ、市場原理主義(国家が市場に介入しないこと)を主張する論調が起こりました。

1-1-2:ポンド危機・景気の行き詰まり・労働者の不満
1960年代頃には、ケインズ主義的な経済運営を批判する勢力が生まれました。

ケインズ主義的な「景気が悪くなったら金利を下げ、公共支出を増加し、景気が良くなったら金利を上げ、公共支出を減らす」という政策は、経済成長にもブレーキをかけてきたからです。

そのため、イギリス・保守党の中でも市場原理主義的な主張をする勢力が生まれたのです(ニューライト)。

イギリスの戦後政治は、保守党=右派(資本家など裕福な人が支持者)、労働党=左派(労働者など経済的に貧しい人が主な支持者)という二大政党制で運営されました。

保守党の市場主義路線の主張に対し、労働党は左派の立場から社会主義的路線を打ち出して真っ向から対立しましたが、1970年にはエドワード・ヒース率いる保守党が勝利し、市場主義的な政策を明確にしました。

その後、ヒースは当時の経済環境から市場主義的政策が難しく、旧来通りの政策を行い、特に労働組合との間で関係を悪化させます2。

その後、1974年には労働党政権が生まれます。

ウィルソン政権
インフレと国際収支悪化から、公共支出の削減や賃金抑制という労働者に厳しい政策を行う
キャラハン政権
国際収支の悪化とポンド切り下げのため、IMF(国際通貨基金)から借り入れを決定し、緊縮的な経済政治、賃金上昇を抑制する政策を行う
70年代後半の労働党の政策は、労働者に不満を爆発させ公務員の労働組合は大規模なストライキを行いました。

このストライキは、公共サービスの利用者には不便を押しつけられる結果になったことから、労働組合やストライキに対する消費者からの不満が蓄積されました。

この労働党への不満や労働組合への悪いイメージの蓄積が、80年代のサッチャー政権が支持を集めることにつながっていきます3。

整理すると、

福祉国家・ケインズ主義的な政策は、財政の悪化や景気の行き詰まりから限界と考えられるようになった(また、保守党内に自由主義・市場主義的な勢力が生まれた)
労働者は労働党の政策に不満を持った
労働組合やストライキという労働者が企業・資本家に対して権利を要求する運動に対し、悪いイメージが持たれるようになった
ということから、新自由主義的な政策が行われる前提が形成されていたのです。

1-2:サッチャリズムの特徴
さて、こうした背景から生まれたのが、新自由主義と新保守主義を特徴とするサッチャリズムだったのです。特徴を順番に説明します。

1-2-1:新自由主義
新自由主義とは、市場(経済活動)への国家の介入を最小限にし、小さな政府、民営化、規制緩和といった政策を目指す経済思想

1-1で説明した通り、戦後のイギリスは基本的に福祉国家・ケインズ主義という国家が市場に積極的に介入する政策を行ってきました。

しかし、サッチャーが行ったのは、

生活インフラ(水道、電気、ガス)や通信、鉄道、航空などの民営化、規制緩和とそれによる公共支出の削減
金融システム改革(ビッグバン)
所得税や法人税の引き下げと、消費税の引き上げ
といった過去の伝統的な政策を覆すものでした。

このように、政府の役割を民間に移譲することで財政支出を減らし、自由化や規制緩和を進める改革は日本の中曽根政権以降、特に橋本龍太郎政権や小泉政権でも行われました。

新自由主義的なサッチャリズムは経済を刺激するために行われましたが、むしろ社会には大きな悪影響を与えることにもなりました(この点について2章で説明します)。

新自由主義について詳しくは以下の記事で解説しています。

【新自由主義とは】定義・問題点・生まれた背景をわかりやすく解説

1-2-2:新保守主義
サッチャリズムと言えば経済的側面(新自由主義的政策)が知られていますが、一方でサッチャリズムは新保守主義とも言われます。

この場合の新保守主義とは、イギリス的な伝統的な価値観を現代の時代にあらためて実現することで、国民統合を強める試みのことです。

簡単に言えば、

イギリスの伝統は古典的自由主義である
自由主義という価値観をあらためて国民に認識させることで、「われわれイギリス人」という意識を強める
ということです。

サッチャーはフォークランド紛争によってもナショナリズムを喚起し、国民からの支持を集めましたが、古典的自由主義という価値観も国民統合に利用したと考えられます4。

新保守主義として有名なのはアメリカのネオコンです。これは「強いアメリカ」「民主主義・自由主義の国」という価値観を重視し、それを現実世界で実現しようとする立場(よって好戦的)です。

詳しくは以下の記事をご覧ください。

【ネオコン(新保守主義)とは】起源からトランプまでわかりやすく解説

また、国民統合・ナショナリズムについては以下の記事で解説しています。

【ナショナリズム・国民国家とは】成立過程から問題までわかりやすく解説

さらに、イギリスの伝統的価値観を理解するためには、イギリスの歴史を知っておくことも大事です。以下の記事が参考になります。

【イギリス革命とは】清教徒革命と名誉革命の歴史・背景を詳しく解説

サッチャリズムの背景や特徴について理解できたでしょうか。

2章では、サッチャリズムの具体的な政策とその影響について説明します。

いったんここまでを整理します。

1章のまとめ
サッチャリズムは、福祉国家・ケインズ主義的な政策の限界から、新たな政策として生み出されたもの
サッチャリズムの特徴は新自由主義と新保守主義
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2章:サッチャリズムの具体的政策と影響
これからサッチャリズムの具体的な政策内容を解説します。先に要点を挙げると以下の通りです。

新自由主義的な財政政策・構造改革
金融自由化(ビッグバン)
マネタリズム的な金融政策
労働組合の政治力の削減
順番に説明します。

2-1:新自由主義的な財政政策・構造改革
繰り返しになりますが、サッチャーは伝統的な自由主義の思想を持っていました。簡単に言えば、政府に頼らず自助努力を奨励する精神です(これは、サッチャーの家庭環境が影響していると言われます)5。

そのため、公共支出、社会保障サービスの削減を行いました。

2-1-1:公共支出の削減
サッチャーが行ったのが、下記のような政策です。

所得税、法人税を引き下げ、消費税を上げる
石油、石炭、ガス、水道、電気、通信、航空、鉄道、自動車などの国営企業を民営化し、公共部門の労働者を減らす(財政支出の削減)
ケインズ主義的な政策では、景気を上向かせたい場合は公共支出を増やす(つまり、企業の代わりに国がお金を出して経済を回す)ことを重視します。しかし、サッチャーは逆に民営化を進めて公共サービスにも市場原理を持ち込み、民間の自助努力に任せる政策を行いました。

さらに、逆進性のある消費税を増税するという、労働者に厳しい政策も行っています。

逆進性とは、消費税の増税は所得の低い人ほど苦しく、所得の高い人ほど負担が軽くなるという消費税の特徴のことです。

こうしてサッチャリズムは、格差を広げ弱者が自助努力に追い込まれる厳しい社会を創り出したと、後になって批判されるようになったのです。

2-1-2:社会保障の削減
サッチャーは、公共支出の削減として社会保障サービスも削減しました。

公的年金を引き下げ
民間年金の方が有利になるため、多くの人は民間に移行する
低所得者や失業者に対する福祉の削減
福祉サービスの受給者は、逆に増大することになった
サッチャーは社会保障サービスにも市場原理を導入することで、公共支出の削減や競争原理によるサービス向上、国民の自助努力の精神を刺激することを考えましたが、結果として、福祉サービスの受給者が増大するという逆の結果をもたらしたのです。

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2-2:金融自由化(ビッグバン)
サッチャーは、下記のような「ビッグバン」と呼ばれる金融政策を行いました。

売り上げ手数料の自由化
銀行と住宅金融公庫の区別の撤廃
証券・金融市場の海外への開放
この「ビッグバン」によって、

イギリスへの海外からの投資が増大し、イギリスの金融機関が海外の資本から買収される(ウインブルドン現象)
金融部門における専門職が増大
イギリスの産業が工業から金融へと、脱工業化が急速に進む
といったことが起こりました。

特に産業が脱工業化し金融部門が成長したことで、金属、機械工業などの産業は、急速に衰退していきます。そして、これらの産業を抱えていた地域に失業率が集中することになります。

その後のイギリスは、世界の金融の中心として世界中から資本を集めることになりました。そのため、サッチャリズムが社会にとって害悪でしかなかったとは言えません。しかし、少なくとも国内の労働者・低所得者らにとってはつらい社会を作ることになったのです。

サッチャリズムの金融自由化(ビッグバン)は、90年代の日本の橋本政権によって行われた「日本版金融ビッグバン」のモデルになりました。

2-3:マネタリズム的な金融政策
マネタリズムというのは、政府(中央銀行)が国内に流通する貨幣量を増やすと、物価が上がり投資が増え、失業率が下がると考える、経済政策における思想のことです。

マネタリズムについてここでは詳しく解説しませんが、貨幣供給量を増やすことが景気刺激になると考える思想、とここでは押さえておきましょう。

サッチャーはこのマネタリズムの思想に基づいて、物価上昇(インフレ)に対処するために政策金利を上げることで、流通している貨幣量を減らす金融政策を行いました。しかし、このマネタリズム的な政策が行き過ぎた結果、失業率が急上昇し、1970年代末には5%台だった失業率が1983年には11%台にまで悪化しました。

2-4:労働組合との対決・炭坑労働者のストライキ
サッチャリズムの特徴として、労働組合を解体させたことがよく知られています。

サッチャーが労働組合を解体させたのは、労働組合が政治的勢力として強いと福祉国家路線の政策から軌道を変更することができないからです。なぜなら、福祉国家的な政策は労働者が労働者としての権利を主張することで成り立っていたからです。

したがって、サッチャーは1981年に労使関係法で労働組合の力を削り、さらに1982年雇用法で労働組合の活動を厳しく制限し、労働組合の政治力を奪いました。

しかし、もちろん労働組合側も黙ってはいません。

1984年、イギリス石炭庁が全国174カ所の炭坑のうち20を閉鎖する計画を発表し、炭坑労働組合がそれに反対。そして、全国の炭坑労働者のうち80%がストライキに参加することになりました。

サッチャー政権はこの大規模ばストライキに対し、警察による弾圧やマスコミを使った印象操作などによって対抗し、ストライキは労働者側の敗北に終わります。

1章でも説明したように、これ以前からすでに労働組合やストライキに対して悪いイメージがついていたこともあり、これ以降イギリスの労働組合は政治的な力を失っていきました。

こうしてサッチャリズムを止める勢力が力を失い、新自由主義がイギリスでも猛威を振るうようになったのです。

この大規模な炭坑労働者のストライキは、後にいくつかの映画の題材になりました。ぜひ鑑賞してみてください。


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2章のまとめ
サッチャーは公共事業の民営化や規制緩和、福祉サービスの削減などで公共支出を削減した
金融自由化(ビッグバン)によって、脱工業化が進み工業部門の失業者が増大
労働関係法、雇用法を改正し労働組合の力を弱めた
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3章:サッチャリズムとホール
さて、サッチャリズムを語る上で欠かせないのはスチュアート・ホールの「The Great Moving Right Show」(1979)という論文です。

この論文は「労働者階級の人々を苦しめる権威的政治指導者が、なぜ労働者階級から支持されるのか?」を分析したものです。言い換えれば、労働者階級の右傾化に関する分析です。

ホールの研究はサッチャリズムに関する先駆的な研究であり、第二次世界大戦以降のイギリスでもっとも影響力のあった論文の一つとされています。

スチュアート・ホールとは、バーミンガム大学の「現代文化研究センター(CCCS:Center for Contemporary Cultural Studies)」長として、カルチュラル・スタディーズを開花させた人物です。

より詳しくはこちらの記事を参照ください。

【スチュアート・ホールとは】人物・思想・研究までわかりやすく解説
【カルチュラル・スタディーズとは】文化の意味から研究事例まで解説
結論からいえば、ホールは労働者階級の右傾化とサッチャリズムを「権威主義的ポピュリズム」といいます。ホールによると、権威主義的ポピュリズムとは、

古典的なファシズムとは異なり多くの代表的諸制度を保ったまま,同時に人々の合意を構築することに成功した資本主義国家の例外的形態

を意味します。

「権威主義的である一方で、大衆の立場を自称する」という一見矛盾した用語の節合がホールのユニークな分析を顕著に表しています。

論文に当たればわかりますが、右傾化に対する左翼の反応や社会民主主義制度上の問題点など詳細な分析がされており、実際にはここまでおおざっぱな議論ではありません。

サッチャリズムに関する代表的な論文ですから、ぜひ読んでみてください。


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4章:サッチャリズムに関するおすすめ本
サッチャリズムは、日本の新自由主義について理解する上で一つの足がかりになります。

より詳しくは以下の本から学んでみてください。

おすすめ本
デヴィッド ハーヴェイ『新自由主義―その歴史的展開と現在』(作品社)

ハーヴェイの『新自由主義』は新自由主義の研究として名著です。サッチャーはもちろんレーガンや中曽根など新自由主義の代表格について詳しく論じられていますので、ぜひ読んでください。


新自由主義―その歴史的展開と現在
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長谷川貴彦『イギリス現代史』(岩波新書)

サッチャリズムについて理解するためには、それ以前やそれ以降の政治についても知っておくことが大事です。『イギリス現代史』はサッチャリズムそれ自体の記述は少ないですが、現代史がとてもわかりやすく解説されています。


イギリス現代史 (岩波新書)
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などの特典もあります。学術的感性は読書や映画鑑賞などの幅広い経験から鍛えられますので、ぜひお試しください。

まとめ
最後にこの記事の内容をまとめます。

この記事のまとめ
サッチャリズムの背景には、福祉国家・ケインズ主義の行き詰まりがあった
サッチャリズムの特徴は新自由主義、新保守主義
サッチャリズムで行われたのは、公共支出削減、労働組合解体、金融自由化など

https://www.jomo-news.co.jp/news/gunma/society/270072
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/916.html#c3

[近代史4] 新自由主義の世界 中川隆
4. 中川隆[-7801] koaQ7Jey 2021年1月31日 15:59:30 : pewE9MNtck : TENybGJhVVBSNEE=[5]
【ゆっくり解説】英国IMF危機〜しくじり財政破綻〜【福祉国家の末路】
2021/01/31





【ゆっくり解説】ハイエクvsケインズ〜経済学を変えた世紀の対決〜









http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/916.html#c4
[近代史4] 新自由主義の世界 中川隆
6. 2021年1月31日 16:14:58 : pewE9MNtck : TENybGJhVVBSNEE=[7]
【サッチャリズム】政策の内容や国際的な影響などわかりやすく解説
2020年10月31日 2020年11月1日
https://akademeia-literacy.com/economics/thatcherism/


Introduction:マーガレット・サッチャーはどんな人?
マーガレット・サッチャー(Margaret Hilda Thatcher)とは、

1925年〜2013年に活躍した政治家で、イギリス初の女性首相。保守党党首。
です。

サッチャーは、保守的で強硬な姿勢から、「鉄の女(Iron Lady)」と呼ばれました。

イギリス初の女性首相かつ、イギリス初の保守党の女性党首です。

本記事では、サッチャリズムの時代背景・政策内容を解説していきます。

【サッチャリズム】 要点
・時代背景:伝統的な福祉政策・英国病
・ネオリベラリズム:個人の自由の尊重や市場原理に基づいて、政府による個人・市場への介入を最低限に留めるべきという考え
・小さな政府を目指す
・政策:ビッグバン・労働組合と対立

目次
1 Part 1:時代背景
1.1 1−1 福祉的経済政策
1.2 1−2 英国病
2 Part 2:サッチャリズムの政策内容
2.1 2−1 ネオリベラリズムに基づいた政策
2.2 2−2 ビッグバン(金融自由化)
2.3 2−3 労働組合との対立
3 Part 3:おすすめの書籍
4 Part 4:まとめ
Part 1:時代背景
サッチャリズムの政策が取られたのは、イギリスの時代背景が影響しています。

1−1 福祉的経済政策
第二次世界大戦後のイギリスでは、世界恐慌の教訓からケインズ経済学や厚生経済学に基づいた福祉的な政策が主流になっていました。

ケインズ経済学・厚生経済学についてまとめた記事は以下のリンクからご覧いただけます。

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【厚生経済学】旧厚生経済学から新厚生経済学までの展開をわかりやすく解説
厚生経済学
世界恐慌で景気が悪化したことで、それまで主流だった古典派経済学・新古典派経済学の有効性が疑われ、ケインズ経済学の福祉的な政策が有効であると考えられました。

古典派経済学・新古典派経済学についてまとめた記事は以下のリンクからご覧いただけます。

関連記事
【古典派経済学・新古典派経済学】主要な経済学者や経済思想などわかりやすく解説
古典派経済学 新古典派経済学
大きな政府として市場に介入して企業を国営化することで産業を保護しました。

世界恐慌といった景気が悪い時期は有効だった福祉的な政策ですが、景気が向上すると、政府の介入が非効率を生み出し始めました。

その結果、「英国病」という状況を生み出しました。

1−2 英国病
英国病とは、

社会保障の充実や国営化といった福祉的な政策によって、財政悪化・既得権益の発生・勤労意欲の低下といった問題を引き起こした現象
です。

伝統的な福祉政策をとっていたイギリスは、景気が上向きになっても福祉的な政策を継続したために競争力が低下し、経済成長が停滞しました。

政府が市場に介入し続けた結果、国際競争力の低下や膨大な社会保障費による財政悪化といった問題が発生しました。

また、充実した失業保険や高税率の所得税といった福祉的政策が労働のインセンティブを奪い、勤労の意欲低下という問題が発生しました。

さらに、オイルショックが発生し、不況にもかかわらず物価が上昇するスタグフレーションが発生しました。

このような状況から、労働組合が賃上げを求めるストライキを行なったり、公共サービスの労働者がストライキを行いました。

その結果、ごみ収集や病院、学校といった公共サービスが停止し、国民は大きな不満をかかえ、「不満の冬」と呼ばれました。

このような福祉的政策の限界によって不満が蓄積したイギリスでは、サッチャーが台頭する準備が整いました。

Part 2:サッチャリズムの政策内容
サッチャリズムは、伝統的な福祉的政策とは対照的な政策を展開しました。

2−1 ネオリベラリズムに基づいた政策
サッチャリズムは、ネオリベラリズム(新自由主義)に基づいた政策です。

ネオリベラリズム(Neoliberalism)とは、

個人の自由の尊重や市場原理に基づいて、政府による個人・市場への介入を最低限に留めるべきという考え
です。

ネオリベラリズムは市場の効率性を評価し、政府による介入は非効率であると考え、小さな政府を目指します。

ネオリベラリズムに基づいた政策は

規制緩和・民営化・緊縮財政
などが挙げられます。

サッチャーは、様々な規制を撤廃することで、企業間の競争を促進しました。

既得権益や特定の事業を保護するための規制は、経済的効率性を損なうという考えに基づいて、規制緩和が行われました。

市場原理では、企業の競争の促進によって経済成長が達成されると考えます。

またサッチャーは、国営の水道や電気、鉄道、航空といった事業を民営化し、政府による非効率的な運営をやめました。

国営企業を民営化することで、政府支出を抑えることに成功しました。

また、福祉的政策をやめ、社会保障費を抑える緊縮財政政策を行いました。

企業のために所得税を減税しましたが、消費税は増税し、国民に負担を強いました。

このようにサッチャーは、規制緩和・民営化・緊縮財政といったネオリベラリズムに基づいた政策を展開しました。

2−2 ビッグバン(金融自由化)
ビッグバン(Big Bang)とは、

サッチャー政権下でロンドン証券取引所が実施した金融改革
です。

サッチャーは、アメリカの経済学者であるミルトン・フリードマンが主張したマネタリズムに基づいて、金融政策を行いました。

フリードマンについてまとめた記事は以下のリンクからご覧いただけます。

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【フリードマン】マネタリズムやネオリベラリズムなど、わかりやすく解説
フリードマン
マネタリズムとは、

貨幣の役割を重視し、貨幣の量によって景気や物価といった変数が決定するという経済理論
です。



ロンドン証券取引所は市場の効率性を高めるために、

・売上げ手数料の自由化

・単一資格制度廃止

・外部資本への開放

という改革を行いました。

競争を制限するような手数料を撤廃したり、外部資本へ開放することで競争を促進させました。

単一資格制度とは、

ブローカーとジョバーの兼業を禁止するという慣習的制度
です。

単一資格制度が廃止されることで金融の自由化が進展しました。

このようにサッチャーは、金融市場を自由化することで市場の効率性を高めようと試みました。

しかし、競争のために外国へ金融市場を解放した結果、外国資本よってイギリス国内の企業が淘汰される「ウィンブルドン現象」がおきました。

2−3 労働組合との対立
サッチャーは、サッチャリズムを行う上で障害となっていた労働組合と対立しました。

当時政治的影響力が強かった労働組合は、労働者の権利や労働環境改善などを主張し、福祉的な政策を求めていました。

労働組合は、福祉的政策と正反対な政策を進めるサッチャーと敵対することになります。

サッチャーは、労働法を改正することで労働組合を弱体化させました。

労働組合側はストライキで対抗しましたが、警察による弾圧といったサッチャーの権力に敗北しました。

労働組合を弱体化させ、政治的影響力を奪うことに成功したサッチャーは、ネオリベラルな政策を促進させました。

以上のような政策を行った結果、戦後最悪の失業率を記録しました。

また、所得格差が拡大し、貧困層が増えることで犯罪率も増加しました。

サッチャー政権の評価は、ネオリベラリズムを信奉する人とそうでない人の間で大きく分かれています。

Part 3:おすすめの書籍
もっと「サッチャリズム」を学びたいという人は、以下の書籍がおすすめです。


マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙 (字幕版)

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Part 4:まとめ
いかがでしたか?

「サッチャリズム」をまとめると、

【サッチャリズム】 要点
・時代背景:伝統的な福祉政策・英国病
・ネオリベラリズム:個人の自由の尊重や市場原理に基づいて、政府による個人・市場への介入を最低限に留めるべきという考え
・小さな政府を目指す
・政策:ビッグバン・労働組合と対立

https://akademeia-literacy.com/economics/thatcherism/
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/916.html#c6

[近代史4] 新自由主義の世界 中川隆
7. 中川隆[-7800] koaQ7Jey 2021年1月31日 17:11:47 : pewE9MNtck : TENybGJhVVBSNEE=[8]
サッチャーの政策 岩崎新哉
http://www.ritsumei.ac.jp/~yamai/7KISEI/iwasaki.pdf


はじめに

まず、サッチャーが政権を握る以前、イギリスにおいては国有化が大規模に始められ、
それは多くの国の国有化に影響を与えてきた。このイギリスの国有化は第二次大戦後すぐ
に成立した法律によってその枠組みが作られた。そして労働党が国有化を推し進めようと
し、保守党がそれに反対してきたのは事実であるけれども、しかし、戦後の国有化の実施
過程を見ると名目上ほど対立していたわけではなかった。
すなわち、石炭・ガスに見られるように、当時これらの産業は困難な状況にあったので、
民営のままでは無理といられていた。そのため、保守党は国有化にほとんど反対しなかっ
た。インペリアル・エアウェイズの場合も国家利害の観点からほとんど反対されなかった。
つまり、これらの国有化は、もちろん公共的利益の追求ということも目的とされていたの
ではあるが、困難に陥った私企業の救済的な要素が強かったのである。
例外は鉄鋼業であった。これは当時利益の上がっている企業であり、産業全体に影響を
与える戦略産業であったから、その国有化は激しい抗争を巻き起こし、国有化、民営化、
再国有化という変遷を遂げた。いずれにせよ、国有化に関しては政党間の相違は綱領で当
然のこととされているより小さかった。こうして、公共部門は次第に肥大化していき、国
有企業のみで 1979 年にはGDPの約 10%を占め、150万人を雇用するようになってい
た。これは西側世界の国では最大の比率の公共部門を保持していたことになる。

しかし、こうした多くの国有企業が効率性に欠け、従業員の福祉をも達成することに失敗しているという認識が一般の人々にあった。また、これらの原因の多くが国有企業の活
動に対する、絶えざる政治的干渉に帰せられるという一般認識も広くあった。

1.サッチャーの行った政策

サッチャーは先に述べた状況に対して、全面的変革を掲げて戦いを挑んだ。彼女のやろうとしたことは、まさしく産業主義を現代に取り戻し、意識改革を起こそうというもので、ダニエル・ベルが「現代風のブルジョア革命」といみじくも名づけたものである。そしてサッチャーの「現代風のブルジョア革命」の内容は以下のようなものだった。

@国営企業の民営化、非効率企業への国家援助を取り外し、国際競争に耐え得ない企業
は倒産させる。

A最高所得税を 83%から 40%に減税し、豊かな層の企業活動を一層活発化させる。

B慣行の上にあぐらをかいて働かない労働組合に対して、労働法を改正して労働組合活動を制限するとともに、国営企業をはじめとして企業から多くの失業者を作り出し、
失業の恐怖の下、働くことを強制する。

C労働者に公営住宅を払い下げ、所有意識を持たせるとともに、国営企業を民営化する際、株式を払い下げ、900 万に及ぶ株主を作り出し、企業の業績に関心を持たせる。

このような変革政策は相当程度成功し、比較的停滞した社会が相当に活発化した。それ
では本当にサッチャリズムはイギリスの基本構造を変革することに成功したのだろうか。
結論を先取りして言えば、サッチャー政策は自由市場政策をとり、国際競争に生き残れる
企業が生き残ればいいという政策をとった。この結果、伝統的な産業部門は長期間にわた
って多くの部分が衰退することになった。これは、イギリスの経済政策に対する国際指向
性の再主張でもあった。保護されたのは防衛産業と農業であった。一方、この政策で恩恵
を受けたのはシティを中心とする金融、商業会社に加えて既に多国籍企業に支配されてい
る部門であった。
しかし、こうした蓄積戦略はは、一国経済の発展は製造業が担っており、サービス産業
が取って代わることはできないので、イギリスの相対的衰退に歯止めをかけることはでき
なかった。サッチャー政策はイギリスの衰退傾向を逆転し産業主義を取り戻そうとしたに
しては、金融・流通中心、国際指向性中心の経済政策になった。これは、シティ中心のイ
ギリスの伝統的な経済構造から一歩も出ないということになる。
もちろん、後に 90 年代に入り、シティを中心とした金融業務は活発化し、イギリスを蘇
らせることにはある程度成功した。しかし、製造業については、やむをえないとはいえ、
外国資本を導入して補うという政策であった。これも成功しているが、肝心のイギリス固
有資本による製造業の発展は弱いままであった。


2.労働組合への攻撃

サッチャーの最も厳しい攻撃対象は労働組合であった。労働組合は確かにイギリス病の
重要な原因の一つであった。サッチャーは労働組合を弱体化させるために、法的整備を進
めるとともに積極的に組合潰しをやった。イギリス最強の労組である炭鉱労組を 1984〜85
年の一年にわたる合理化反対闘争で敗北させた。その後、イギリスの労働組合員の数は減
少し、また、組合の組織率は大幅に低下していった。いまや、あの強すぎるイギリスの労
働組合といった 70 年代まで持たれていたイメージはどこにもない。
もちろん、これはサッチャー政策だけの力ではない。世界的に先進国では労働組合は弱
体化していたからである。その理由は産業構造の変化で、労働組合加入に熱心でない、組
合活動に関心を持たない人々が増えたからである。すなわち、製造業をはじめとする肉体
労働者の減少、第三次産業の発展、女子雇用の増大、パートタイム労働者の増大小企業の
増大、これらは、いずれも労働組合に関心を持たない人の増大を意味している。
やはり、サッチャー政策が効果を上げたもっとも大きな政策の一つがこの労働組合の問題であった。労組が弱体化したからこそ、安心して外国資本がイギリスへ大挙入ってきた
のであり、この外国資本がイギリスを支えたのである。
サッチャー政策においては、効果的な経済活性化政策はなかった。イギリスの国際経済
への完全な統合を促進し、その中で競争に生き残れる産業だけが生き残っていけばいいと
いう産業戦略であった。
こうした中で製造業生産はその前のピークである 1973 年水準をようやく 1988 年に超え
たに過ぎないという程度にまで縮小したのである。先進国で 16 年前の製造業生産量と変わ
らないという国はほかにはない。確かに製造業の生産は 82〜88 年の間に年平均 5.5%の
上昇を示した。しかしこれは、非能率企業がつぶれたり、省力化の推進といった減量経営
が効果をあげたのである。積極的設備投資を行って高い生産力の下で、どれだけ新生産力
を作り出しているかが問題なのである。


1972→1991 の国内シェア

イギリスの工作機メーカー 70%→40%
靴 69%→30%
衣服 79%→56%
洗濯機 82%→49%


多国籍企業の進出
製造業生産 25%
資本支出 30%
輸出 40%
乗用車・テレビ
バイク・半導体 100%


サッチャー政権以来の民活・民営化路線の裏側でイギリスの製造業の空洞化が進んだ。
上の表のとおり、1971 年から 91 年の 20 年間でイギリス工作機メーカーの国内シェアは
70%から 40%に転落した。同様に靴が 69%から 30%に、衣服が 79%から 56%に、洗濯機
が 82%から 49%に落ちた。イギリスでは製造業を衰退させることによって、やはり将来の
発展基盤を失っているのではないだろうか。
一方で、イギリスをヨーロッパ市場向けの組み立て基地として利用する、日本をはじめ
とした他の先進国の多国籍企業の進出が続いた。結果、外国企業はイギリスの製造業生産
の 25%、資本支出の 30%、輸出の 40%を占めている。そして乗用車生産、カラーテレビ、
オートバイ、半導体は 100%外国資本の所有であり、化学産業も 3 分の1が外国人所有であ
る。
確かに、この外国資本はイギリスの製造業の衰退を補った。もし、外国資本の進出がな
かったら、イギリス経済がどうなっているかを考えるだけでその重要性がわかる。しかし、
イギリスへの外国資本の進出は、イギリスが進出の条件としてより有利だったからとか、
あるいは多国籍企業の単なる相互浸透の問題とかいって済まされないものを含んでいる。
自動車部品やコンピューターのICL社にみられるように、最も重要な部門が外国資本の
支配に服していっているが、そうした分野では研究開発はイギリスでは行われない。総体
として今後イギリスは製造業リードを外国資本に任せることになり、ヨーロッパの辺境経
済化するであろうと思われる。


3.民営化
民営化というのは以前からあったし、問題にもなってきたが、サッチャー政権下で始ま
り、その影響が世界にも広がったような意味での「民営化」は初めてであった。しかし、
民営化という概念は国際多様性を持っていて、その国、その時代によって民営化の意味す
るものが異なる。イギリスでも論者によって異なるのであるが、主に次の3つの形態に集
約できると思う。

@非国有化
これまで政府が保有してきた資産や株式を売却すること。

A自由化
それまで活動が国有企業に限定されていた部門に私企業の参入を許すこと。

B請負制
公共的サービス部門を請負契約によって民間企業に請け負わせるものである。実現した
ものはナショナル・ヘルス・サービスだけで具体的には清掃、給食、洗濯といったもので
ある。

自由化も、実現されたものはバス、郵便、通信などに過ぎず、サッチャー政権下の民営
化政策の中心は非国有化におかれていた。
さて、民営化は、サッチャー政権の中で最も成功したものとされている。しかし、決し
て最初から中心的課題として取り上げられてはいなかった。1979 年選挙綱領でも長期的目
的で国家所有を後退させ、社会における所有の基礎を広げることが漠然と宣言されている
だけで、具体的には、造船、航空機産業と陸送のナショナル・フレイトの売却が謳われて
いるのみであった。これは、それまでの影の内閣では民営化の使命的熱意は必ずしも広く
分け持たれておらず、そこで、サッチャー派、すなわちドライ派は全党的な統一を保つた
め妥協せねばならなかったからである。さらに、1983 年の選挙でさえ必ずしも重要な問題
としては取り上げられてはいなかった。今日でさえ、イギリス政府や保守党から、民営化
についての明確な記載物は出ていないのである。そこで民営化の分析は、大臣演説や種々
の内容説明書、報告などからなされている。実際のところ、イギリス政府は、民営化をや
っているうちに、実践の中でその技術を発展させたということである。イギリスの民営化
は、政策思想の上で勝利したから実施されたというものではなかった。実際にやっていた
らうまくいったので、政府はそれを拡大していったというようなものである。
サッチャー政府が意図的にはっきりと民営化を始めるのは 1984 年からである。表 1 に見
るように 1983 年までは、年間国有企業売却代金は 5 億£以下と少量であった。そして、い
かに劇的に 84 年から売却代金が増えたかをより明確に示したのが図1である。そして、こ
の売却代金がPSBR(公共借入)の返済にいかに用いられたか、図1と図2を重ねてみ
るとよくわかる。1987 年から 88 年ではPSBRはマイナスにさえなっているのである。


表1

図1 民営化売却代金

表 1 イギリスの民営化売却代金

図 1 民営化売却代金(1979〜92 年)


図 2 公共部門借入れ(1979 年〜92 年)

ともかく、国有企業売却は 84 年から劇的に増加し、1987 年の選挙のときまでには 50 億
£と 80 年代初めの時期の 10 倍に達しているのである。サッチャー政府は 79〜83 年までは
選挙への影響を恐れていたのだが、84 年の第二期政権からは自信を持ち、民営化に対する
考え方を完全に変えたのである。
さて、民営化はさまざまな理由のために行われてきたのであるが、その理由の中には矛
盾するものさえ含んでいる。民営化の利益としてあげられたものは、効率を上げ、競争を
増進する、株式所有者を拡大する、労働組合の影響力を低下させる、従業員の働く意欲を
増大させる、経営への政府介入を低下させる、政府資金に代えて市場金融にする、民営化
の際の株式売却代金で公共部門の借入れを引き下げることによって税金を引き下げる、と
いうものであった。
整理すると、第一に、民営化によって効率を増進し、競争を拡大するということである。
実際に国有企業は政府の政治的理由によって採算を無視した介入を受け、効率的な運営を
阻害されてきた。これを、自由化によって自由な企業活動を行わせることによって効率を
増進させる。また、自由化によって新規の企業が参入し、これによって競争が増進される。
いずれにせよ、政府は競争の増進を民営化の最大の目的としている。
第二に、労働組合の力を低下させるということである。これには、株式を売り出す際、
株主を奨励するとともに、従業員に株主を保有させるという方法が取られた。また、公営
住宅の売却により、持ち家政策を実施することもこれに含まれるものである。いわゆる大
衆参加の資本主義である。これらによって所有意識と参加意識を持たせることで、労働者
を保守化させ、労働組合の闘争力を低下させようとしたのであった。
第三に、民営化によって政府収入の増大と政府支出の削減がはかるということである。
まず株式の売却による収入の増大である。さらに民営化によって国有企業への補助金支出
が削減できる。これには公営住宅に支出されていた補助金も含まれる。また自助を提唱す
ることによって福祉費の削減がはかられている。これには、医療・教育などの民営化が含
まれる。


おわりに
さて、最後はサッチャーの経済政策に対する評価についてである。
サッチャー政権下における経済政策と、イギリス経済のパフォーマンスに対する批判的
な評価の多くは、それがもたらした高い失業率に注目している。おまけに「イギリスの製
造業を破壊した」などと、名目でも実質でも支出は増えているにもかかわらず、「福祉国家
を目の敵にした」という批判が繰り返されている。しかしながら、イギリスが抱える根の
深い長期的な問題に焦点をあわせると、次のような見方も可能である。
低生産性、低効率、高インフレといった形で、どのようなコストがふりかかろうとも完
全雇用を維持するという従来のやり方をサッチャー政権が拒否したこと、資源の面でどんなに高くつこうとも福祉国家を維持するというやり方を拒否したこと、不況地域の雇用を
維持するため衰退産業を維持するというやり方を拒否したことなど、いずれもそれ自体と
しては、誤った政策だとか政策が失敗した証拠だとかを決めつけることはできない。それ
どころか、それらはイギリスの長期的な経済問題にようやく手がつけられたことを示して
いるのかもしれない。実際、このような考え方に焦点を当てた発言としては、次のキャラ
ハン氏(1976 年に労働党政権の首相になった)のスピーチ以上に適切なものはない。
「我々は、長い間、多分第二次体制以降、我々の社会と我々の経済に関する根本的な選択
と変革の問題を避けて通ってきた。我々は借り物の時代を生きている、と私が言うのはそ
のことを指している。この国は、非常に長い期間、イギリス産業の基本的な問題に取り組
む代わりに、我々の生活水準を維持するために外国から金を借りて満足してきた。
我々は減税や政府支出を増やすことで景気後退から抜け出せると考えていた。
非常に率直に言わせてもらうと、そのような選択肢はもはや存在しない。それがかつて
は存在したとしても、戦後においては、毎回経済により大幅なインフレを注入することに
よって可能となっていたにすぎない。その結果、より高い失業率がもたらされた。インフ
レの加速が失業率の増加につながったのである。我々はこの国が経験した最悪のインフレ
からようやく抜け出すことができた。しかし、我々は、まだその後遺症である失業から抜
け出せていない。これが過去 20 年間の歴史である。」(James Callaghan, Time and Chance,
Collins, London, 1987 より)

したがって、この観点から考えると、サッチャーの政策が本当の意味で成功したか否か
は、それが完全雇用という戦後の目標を固守したかどうかではなく、イギリスの経済の長
期的なパフォーマンスの改善をもたらしたかどうか、あるいは少なくともそのための環境
を整えたかどうかで判断されるべきである。こうした問題は根が深いので、簡単に変わる
とは思えないが、最近では実際に変化の兆しがうかがえる。とくにイギリス鉱工業生産性
が大きく改善したことは、本当に必要だった変化が起きたことを示すものであり、先行き
は明るいといえる。
1970 年代末にイギリス経済が抱えていた大きな問題を考えると、政府が短期的な視点か
らの総需要管理政策を放棄し、経済の供給面の改善に力を集中したことは正しい。
政権の最初の 18 ヶ月間における財政政策と、特に金融政策は、意図せざる結果とはいえ、
過度に抑制的であり、そのため実質為替レートの上昇を招いたが、経済に対する影響はそ
れほど悪いものではなかった。長期的にはむしろプラス効果が大きかったといえるかもし
れない。
産業に対し生産性の向上とコスト削減を迫る圧力は、大幅に過剰雇用を吐き出させ、漸
進的な方法では生じ得なかったような大規模なパフォーマンスの改善の舞台を提供した。
これは、大量の失業者がもたらした深刻な社会的コストを否定しようというものではなく、1970 年代のイギリスの産業の多くが危険な状態にあったことを考えると、改善しようとす
ると大きな社会的コストが避けられなかったのではないかと思われる。
最初の税制改革−例えば所得税の最高税率の大幅な引き下げ−は方向としては正しいが、
公平や効率の観点から言えば、様々の役得やほかの個人税の減税措置も同時に削減するべ
きであった。限界税率の引き下げは十分な根拠があったが、平均税率の引き下げはそれほ
ど急ぐ必要はなかった。
製造業の生産が 1979 年以降増えていないこと、イギリスの製品貿易が歴史上初めて赤字
になったこと、失業者が大幅に増加したこと、を強調する反対意見のすべては、表面的に
は理解できる。しかし、これらの反対意見の第一の見方は、政府の政策のうちの最初の二
年を重視しすぎており、1981 年以降の持続的なパフォーマンスの改善を軽視している。第
二の見方は、石油の実質価格が大幅に上昇した時期に、イギリスが歴史上初めて大規模な
石油の純輸出国になったこと(イギリスはかつて食糧の 50%以上を輸入していたが、それ
がわずか 30%に低下したことも注目に値する)から、製品貿易の収支をかつてと同じ水準
に維持するのが不可能になったことを完全に見落としている。しかし、失業に関しては明
らかに受け入れがたいので、しんこくに受け止めなければならない。ただ、失業はほとん
どの先進国で大幅に増加したことに注目する必要がある。いくつかの国はイギリスとほと
んど変わらない深刻な状況にある。このことはイギリスの国内政策が唯一の要因ではない
ことを示している。
失業問題と関連があるのは、イギリスの労働力の大部分が技能と訓練が不十分な点であ
る。そして政府がイギリスの長期の産業問題の研究開発の側面とともに、この側面に対し
て対応するのが遅れたことは批判されても仕方がない。失業は短期的には最も緊急な課題
であり、政府は特別の対策を打ち出す必要がある。それを前提として、経済の供給面のパ
フォーマンスを改善する政策を続ける必要がある。
最も重要なのは、教育制度と個人税制の構造の改革である。短期の小幅の総需要管理政
策を避けるのは無理かもしれないが、1960〜70 年代のような大規模な政策に戻ることは不
必要であり、かつ歓迎もされていない。幸いにも 1987 年 6 月の選挙において、イギリス国
民はこうした見解を支持したようである。そして、サッチャーの市場主義と規制緩和の効
果は、むしろ 93 年以降になって顕著に現れたと考えられる。しかし、最高所得税を 83%か
ら 40%にも切り下げ、市場主義と規制緩和でやっていくというサッチャー流の政策は、当
然貧富の差が拡大する。中以下の層のところでは忿懣が充満していた。これが 97 年に労働
党を大勝利させた大きな要因であった。つまり、サッチャー政策はいつまでもそのままで
やっていける政策ではなかった。1980 年代のイギリスに必要な政策であったといえるので
ある。


参考文献

浜矩子『最新 EU 経済入門』日本評論社、1995 年。
内田勝敏、清水貞俊『EC 経済論』ミネルヴァ書房、1993 年。
相沢幸悦『EC 通貨統合の展望』同文舘、1992 年。
岸上慎太郎、藤原豊司『1992 年・EC 読本』東洋経済新報社、1992 年。
上田克巳『欧州単一通貨 ユーロ』日本経済新聞社、1998 年。
星野郁『ユーロで変革進むEU経済と市場』東洋経済新報社、1998 年。
中村靖『イギリスとEU』産業経済研究、1998 年。
中島精也『EU通貨統合をめぐる最新の情勢』世界経済評論、1998 年。
小林襄治『EU 通貨統合とイギリス』世界経済評論、1998 年。
内田勝敏『ヨーロッパ経済とイギリス』東洋経済新報社、1969 年。
中村靖志『現代のイギリス経済』九州大学出版会、1999 年。
ジェフリー・メイナード『サッチャーの経済革命』日本経済新聞社、1989 年。
内田勝敏『イギリス経済』世界思想社、1989 年。

http://www.ritsumei.ac.jp/~yamai/7KISEI/iwasaki.pdf
http://www.asyura2.com/20/reki4/msg/916.html#c7

[近代史5] ポーランド人の起源 中川隆
3. 2021年1月31日 18:49:56 : pewE9MNtck : TENybGJhVVBSNEE=[9]
雑記帳 2021年01月31日
ポーランド南東部の縄目文土器文化集団の遺伝的多様性
https://sicambre.at.webry.info/202101/article_40.html


 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、ポーランド南東部の縄目文土器文化集団の遺伝的多様性に関する研究(Linderholm et al., 2020)が公表されました。ヨーロッパ大陸の新石器時代には重要な人口統計学的変化と人口事象があり、近年では多くの考古遺伝学的研究により示されてきました(関連記事)。人類集団間の遺伝的系統・類似性・混合過程は、異なる生活様式・埋葬習慣・物質文化表現を有する文化複合と関連する、異なる期間と地理的背景の個体群の分析により調べられています。

 ヨーロッパの新石器時代化に関連する人口統計学的事象とそれに続く発展の特定は、集団置換および変化した生活様式への移行の過程における移動性と移住の重要性を示しました。この過程は、ヨーロッパのさまざまな地域でさまざまな経路をたどり(関連記事)、期間に応じて、狩猟採集民と農耕集団との間だけではなく、農耕民集団と牧畜民集団との間の混合パターンに明らかです。紀元前3000年頃の重要な移行過程と、ヨーロッパ東部におけるポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)のヤムナヤ(Yamnaya)文化複合の出現は、東方からの移住の波と関連しており、それは紀元前三千年紀における人口統計学的(草原地帯系統構成)・文化的・社会的・言語的発展に大きな影響を示しました。

 ヨーロッパ南部における紀元前3100〜紀元前3000年頃のヤムナヤ複合の出現は、さらに北方の縄目文土器複合(Corded Ware Complex)の出現(紀元前2900〜紀元前2800年頃)とほぼ一致しています。より早期の考古遺伝学的分析では、縄目文土器複合(CWC)個体群は草原地帯系統を示す、と明らかにされてきました(関連記事)。しかし、ヨーロッパ中央部で分析された同時代の個体群では、草原地帯系統がさまざまな程度で見られます。この草原地帯系統は、球状アンフォラ(Globular Amphora)文化と関連する個体群では見られませんでした(関連記事)。ヨーロッパ大陸の人口統計学的先史時代に関する知識は過去5年で大きく増加しましたが、これらの人口事象の地域的な解像度は不充分で、その関係は激しく議論されて批評されています。

 紀元前5400年頃、農耕はポーランド中央部にもたらされ、それは前期新石器時代への移行を示す線形陶器文化(Linear Pottery、Linearbandkeramik、略してLBK)複合の出現と一致します。LBK地域の近隣の狩猟採集民集団はその生活様式を維持し、ほぼ千年間新石器時代生活様式の拡散は停止しました。しかし、混合パターンで見られるように、農耕民集団と狩猟採集民集団との間には明らかに接触がありました(関連記事)。これらの関係は、長期間にわたってLBK後の農耕共同体の北限だったクヤウィ(Kuyavia)地域で見られる、レンジェル文化(Lengyel Culture)のブジェシチ・クヤフスキ集団(Brześć Kujawski Group、略してBKG)で明確に示されます。

 次の千年紀の間となる紀元前4000年頃、つまり中期銅器時代に、漏斗状ビーカー(Funnel Beaker)文化漏斗状ビーカー文化(TRB)が出現し、銅器時代生活様式が、スウェーデンの一部や現在のポーランドの大半を含むヨーロッパ中央部の北部地域へと拡散しました。ポーランドのTRB個体群は、ほぼヨーロッパ西部狩猟採集民集団(WHG)と関連する狩猟採集民集団との混合を示します。紀元前3100年頃、ポーランドのTRBはバデン(Baden)文化および球状アンフォラ文化(GAC)の出現(紀元前3400/3100〜紀元前2800年頃)とともに衰退し、ポーランドの多くの地域ではそれらの文化に置換されました。GACはむしろ短命な現象で、紀元前2800年頃以後、縄目文土器複合(Corded Ware Complex)が優勢になっていき、その消滅まで500年ほど継続しました。

 GACとCWCの個体群はひじょうに異なる遺伝的系統を有していました。ポーランドでは、CWC関連個体群は東方のヤムナヤ文化草原地帯牧畜民からの顕著な遺伝子流動を示しましたが、GACの個体群は草原地帯系統をほとんど示しません。紀元前2400年頃、鐘状ビーカー文化(Bell Beaker Culture、略してBBC)複合が南西からこの地域に侵入してきて、さらに別の主要な遺伝的構成が在来集団に追加されました。ポーランド南東部では、BBCは紀元前2200年頃に消滅します。ポーランドにおける発展は明確に、ヨーロッパ大陸で起きた混合事象と、人口統計学的および社会的発展における移動性の重要さを示します。

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)とY染色体DNAと核DNAの識別により、系統と起源と混合を確認できます。ヤムナヤ牧畜民はY染色体ハプログループ(YHg)R1a・R1bをヨーロッパ大陸にもたらし、それ以前に拡大していたYHg-G2aをほぼ完全に置換した、と示されてきました。CWC個体群へのmtDNAの寄与は、mtDNAハプログループ(mtHg)U2・Wの出現と関連しています。完全な置換に近いこの大規模な寄与は、中石器時代狩猟採集民および前期新石器時代農耕民集団の遺伝的系統をほとんど保持していないCWC個体群ではひじょうに明確です。CWC複合と関連する個体群の研究では、狩猟採集民集団や、後期銅器時代〜前期青銅器時代にかけてアジア中央部で栄えたアファナシェヴォ(Afanasievo)文化およびヤムナヤ文化複合のような草原地帯文化集団との系統・混合が検出されています。経時的に、次のBBC複合の個体群との混合の証拠が現れ、先史時代ヨーロッパのこの地域は重要な社会的領域で、東西両方からの人類の遺伝子の坩堝だった、と示唆されます。考古遺伝学的分析は、人口統計学的過程を解読する最良の可能性を有しており、CWC複合と関連する個体群は、紀元前三千年紀における発展への重要な手がかりを提供します。

 CWC複合の最も特有の特徴の一つは埋葬儀式で、これはヨーロッパ中央部の大半に急速に広まりました。この広大な文化複合内の移住パターンと、地域的な下位集団があったのか、それとも他の種類の下位区分があったのかどうか、識別して理解する試みがなされてきました。CWCのさまざまな下位集団がどのように互いや周辺集団と相互作用したのか、識別して理解するために、先史時代におけるひじょうに重要な時期(紀元前2800〜紀元前2300年頃)のCWC関連個体群の詳細な分析がたいへん重要です。その理解は、CWC下位集団の複雑なネットワークと社会構造の理解に役立つだろう、個体群の親族関係も調べることでさらに深くなります。ポーランド南東部の地域的なCWC集団間のゲノム識別特性をさらに調べることにより、より完全でありながら複雑な像が、さまざまな文化集団からのいくつかの混合事象とともに浮き彫りになるでしょう。

 本論文では、ポーランド南東部の墓に埋葬された、CWCと関連する50個体およびBBCと関連する3個体の側頭部錐体骨標本が分析されました。このうち、CWC関連16個体とBBC関連3個体の計19個体から遺伝的データが得られました(網羅率は0.02〜5.4倍)。調査対象地域(図1)は、1〜4と6〜10と5の各遺跡に大きく3区分されます。1はクラコウ・ミスツルゼジョビツェ(Kraków-Mistrzejowice)、2はボストゥフ(Bosutów)、3はプロショビツェ(Proszowice)、4はペウチスカ(Pełczyska)、5はルブチェ(Łubcze)、6はミロチン(Mirocin)、7はシュチトナ(Szczytna)、8はフウォピツェ(Chłopice)、9はスコウォシュフ(Skołoszów)、10はスベツェ(Święte)です。3地域の遺跡区分は、サブカルパチア(Subcarpathian)地域に位置するジェシュフ丘(Rzeszów Foothills)地域がシュチトナ遺跡とフウォピツェ遺跡とミロチン遺跡とスベツェ遺跡、マウォポルスカ高地(Małopolska Upland)がクラコウ・ミスツルゼジョビツェ遺跡とプロショビツェ遺跡とボストゥフ遺跡とペウチスカ遺跡、ヴォルィーニ声地(Volhynian Upland)西部のソカリ尾根(Sokal Ridge)がルブチェ遺跡となります。

 全被葬者は同じ葬儀を示す類似様式の埋葬で、副葬品にいくつかの違いがあり、放射性炭素年代は一致しています。ストロンチウム同位体分析では、16個体のエナメル質標本が用いられました。この16個体はおもに成人の男女で、子供もいました。エナメル質は第一大臼歯(M1)優先で、第一小臼歯(P1)からも採取されました。さらに8個体で、炭素13および窒素15安定同位体分析が行なわれました。考古学的情報に基づく地理的下位集団との関連における遺伝的多様性のパターンだけではなく、ストロンチウム同位体分析や放射性炭素年代測定により得られた他の結果との関連における遺伝的データも調べられました。これらの個体群は4集団に区分されます(表1)。以下、本論文の図1です。
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●DNA解析

 遺伝的データが得られた19個体のうち10個体は、放射性炭素年代で3985±35〜3830±35年前でした。これらの遺伝子配列は、古代DNAに特徴的なシトシン脱アミノ化パターンを示しました。ボーランドの銅器時代の全個体は、ヨーロッパもしくはユーラシア西部起源のmtHgを有しており、具体的にはH2およびH7を含むHと、HV・I2・J1・K1・T1・T2・U4・U5です。ペウチスカ(図1の4)遺跡の個体群は、他のCWC遺跡群で特定された同じmtHgを示します。ヤムナヤ複合の個体群とは対照的に、ポーランド南部のCWCおよびBBC個体群は、mtHg-I2・J1を有していましたが、ヤムナヤ文化個体群でよく見られるmtHg-W・U2は欠如していました。

 19個体は全て遺伝的に性別が決定され、そのうち10個体は未成年なので、以前は形態的な性別評価が不足していました。8個体が女性、11個体が男性で、男性は全員YHg-Rに分類されました。このうち7個体はさらに詳しく分類され、ヤムナヤ文化およびBBC個体群に特徴的で、とくに青銅器時代以来ユーラシアに拡大したR1b1a1b(M269)もしくはR1b1a1b1a1a(L11)でした。

 個体間の相互関係を調べるため、本論文で調査された個体(表1)の全ての組み合わせで、条件付きヌクレオチド多様性推定値が用いられました。その結果、強い構造化は明らかになりませんでしたが、いくつかの個体間(pcw040とpcw041、pcw061とpcw062、pcw211とpcw212)でより密接な関係が浮き彫りになりました。さらに、プロショビツェ遺跡(図1の3)の1個体(pcw420)と、スベツェ遺跡(図1の10)の2個体(pcw062・pcw110)およびスコウォシュフ遺跡(図1の9)の1個体(pcw191)との間で、条件付き多様性の低下が観察されました。


●主成分分析

 主成分分析(図3B)では、地理的近接にも関わらず、ポーランド南部のCWC個体群とBBC個体群との間で、明確な遺伝的分離があることを示唆します。ポーランド南部のCWC個体群の遺伝的多様性は、ドイツの既知のCWC個体群の大半と重なりますが、ポーランドの既知のCWC関連8個体は、BBC個体群とより密接な類似性を示します。ポーランド南部のBBC個体群の遺伝的多様性は、ヨーロッパ中央部(チェコ共和国、ドイツ、ポーランド、ハンガリー)のBBC個体群の広範な多様性と重なります。考古学・地理・遺伝学の結果に基づいて、文化的区分(CWCとBBCの2集団)および遺跡の地理的分布(表1で示される集団1〜4)による検証がさらに行なわれました。以下、本論文の図3です。
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●混合

 標本群の系統追跡のため、現代人214集団と古代人485個体を用いて123の集団・個体の標本にまとめ、K=2からK=10でADMIXTURE分析が行なわれました(図4A)。混合分析では予想されたように、ポーランドの銅器時代個体群は主要な3系統を有する、と示されました。それは、ヨーロッパ西部および北部狩猟採集民(WHG、橙色)、近東新石器時代(NEN、赤色)、アジア起源の緑色と青色です。アジア起源は、アジア南部(SA、濃紺色)、アジア北東部(NEA、水色)、アジア南東部(SEA、淡緑色)、南北アメリカ大陸(NSA、濃緑色)です。ポーランド銅器時代個体群は以前の混合分析(関連記事)と類似しており、スベツェとシュチトナとミロチンの個体群は、ヤムナヤ文化関連個体群よりも大きなNEAおよびSEA構成要素を有していました。

 ポーランドのCWC個体群は、サハラ砂漠以南および他のアフリカ現代人集団で最も顕著なさらに別の構成も有していました。以前の研究によると、この構成要素は草原地帯系統を有する集団よりも新石器時代ヨーロッパ集団でより明らかである、と明らかになりました。個体群の集団の違いに関しては、集団1はSAの割合がより大きく、SEAの割合がより小さい構成要素を有しているのに対して、集団3および4は、より大きなSEA およびNEN構成要素を有します。この変動は、以前の研究で観察されたヨーロッパ中央部新石器時代個体群の変異および構成要素分布に反映されています(図4A)。本論文の知見は、現在のポーランドの異なる地域のCWC集団間の構造化と同様に、ポーランド南部のより早期の新石器時代集団と、侵入してくる草原地帯牧畜民との間の変動的な局所的混合パターンを指摘しています。以下、本論文の図4です。
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●f2・f3・f4統計

 外群f3統計が検証され、古代の集団・個体群が本論文で個別に生成された古代の標本群とより多くの遺伝的浮動を共有していました。参照古代集団・個体群の異なる人口規模と、密接に関連した個体群と集団間の有意な結果の欠如により、これらの分析から正確な結論を抽出するのは困難です。したがって上述のように、本論文で取り上げられた古代の個体群が遺跡の地理的分布に基づいて4集団にまとめられ(表1)、これらの集団は相互および古代の参照個体群・集団と比較されました。古代の参照個体群は、ADMIXTURE分析と同じ基準にしたがって集団にまとめられました。全体的に、有意ではないものの、結果からは、4集団がヤムナヤ文化個体群よりもロシアのアファナシェヴォ文化個体群の方と遺伝的浮動を多く共有し、集団1・2・3はロシアのアファナシェヴォ文化個体群よりもポーランドのCWC個体群の方と遺伝的浮動を多く共有する傾向が示唆されました。このパターンは、f2統計にも反映されています。

 本論文の標本セットにおける構造化を検証するため、複数のf4統計(O、X、A、B)が実行されました。Oは外群としての現代ヨルバ人です。Xは本論文で仮定された銅器時代4集団(集団1〜4)です。AとBは混合に関して検証された集団を表します。まず、本論文で取り上げられたポーランド銅器時代集団間の相互関係が検証されました。ほとんどの結果は有意ではありませんでしたが、集団2は集団3を除いて集団1および集団4とより密接と観察され、集団3となるペウチスカ遺跡(図1の4)BBC個体群は異なる集団と確認されました。有意なf4統計はおもに主成分分析上の集団化パターンと一致する、と観察されました。他の既知のヨーロッパ新石器時代集団で検証すると、類似のパターンは後期銅器時代および終末期銅器時代集団で観察されましたが、球状アンフォラ文化(GAC)のようなより早期の集団では観察されませんでした。

 集団1〜4は遺伝的に、ヤムナヤ文化個体群よりもロシアのアファナシェヴォ文化個体群の方とより密接で、また相互よりもロシアのアファナシェヴォ文化個体群の密接でした。集団1〜4に関して、ロシアのアファナシェヴォ文化個体群と同じ集団・年代・遺跡の2個体をf4統計で比較した時でさえ、相互よりもロシアのアファナシェヴォ文化個体群の方と有意に多くの遺伝的浮動を共有します。これらの結果は、ロシアのアファナシェヴォ文化個体群に対するf3およびf4統計に偏りがある可能性を示唆します。f2統計ではこの偏りは観察されず、予想通り、集団内の個体は相互にロシアのアファナシェヴォ文化個体群よりも密接です。アファナシェヴォ文化集団の小さな標本規模(5個体)のため、アファナシェヴォ文化集団の1個体(RISE507)を削除することでさらに偏りは減少し、別の1個体(RISE50811)と同様の可能性が高いことから、ロシアのアファナシェヴォ文化個体群との類似性に関しては、注意して解釈される必要があります。

 本論文の観察結果をさらに調べ、参照データの生成に起因するかもしれない偏りを追跡するため、ヤムナヤ文化個体群データセットを全ゲノム配列データセット(WGS)と濃縮データセット(CP)に分割し、同じf4統計計算が実行され、WGSヤムナヤ文化個体群データを用いてのf4統計の結果のみが信頼されます。WGSデータセット内でより類似性を有するにも関わらず、混合参照データセットを用いて得られた場合と同様の結果が依然として観察されます。


●親族関係分析

 個体間の親族関係を確認するため、個体の全組み合わせ間でREAD(Relationship Estimation from Ancient DNA)が用いられました。スベツェ遺跡(図1の10)で一親等の親族関係が2組(男性pcw040と少年pcv041、および女性pcw061と女性pcw062)と、フウォピツェ遺跡(図1の8)で2親等の関係が1組(子供のpcw211とpcw212)特定されました。さらなる集団に基づく統計的分析では、関連する各組み合わせのより低い網羅率のゲノム(つまり、pcw041とpcw062とpcw212)が除外されます。


●ペアワイズヌクレオチド多様性

 ペアワイズヌクレオチド多様性を用いて、個体のペアと集団間(集団1のpcw040とpcw070、集団3のpcw260とpcw280、集団4のpcw361とpcw362)の差異が検証され、その値がさまざまな新石器時代集団の個体のペア間で推定される多様性と比較されました。個体水準では、ペアワイズヌクレオチド多様性はREADの結果と一致している、と明らかになりました。換言すると、READ分析でも関連性が認められた3組(男性pcw040と少年pcv041、女性pcw061と女性pcw062、pcw211とpcw212)間でのより密接な関係が見つかります。集団水準では、ヌクレオチド多様性が集団間と類似しており、他の銅器時代文化集団で見られる多様性と同等である、と明らかになりました(図4B)。集団2は異なる遺跡の個体で構成されており、擬似的に推定値が上昇するかもしれないので、含まれていません。


●機能的一塩基多型

 網羅率の高い7個体(pcw040、pcw061、pcw070、pcw211、pcw361、pcw362)で、ラクターゼ(乳糖分解酵素)活性持続(LP)、目や髪の色、アジア系統と関連するいくつかの特徴といった、機能的一塩基多型がいくつか検証されました。この7個体は全員、アジア系統アレル(対立遺伝子)もLPも有していません。この7人のうち色素沈着関連一塩基多型の予測に充分な網羅率の個体では、茶色の目と濃い色(茶色もしくは黒色)の髪が予測されました。


●ストロンチウム同位体分析

 ストロンチウム同位体値(87/86)によると、ジェシュフ丘の遺跡に埋葬された一部の個体は外来民でした(図2B)。これらの個体の食性パターンはCWC個体群と一致しますが、考古学および同位体データでは、外来民の出身地(子供時代を過ごした場所)は、部分的にソカリ尾根もしくはウクライナだった可能性が示唆されます。これらのデータを用いて、個体の集団間の潜在的な関係を検証するため、人口統計を用いてFST分析が行なわれました。それは、(A)本論文における分析で用いられた4集団(集団1〜4)間。(B)ジェシュフ丘の個体群で、新たに地元民か外来民かで区分された4集団間。外来民は、ソカリ尾根の遺跡で埋葬された個体群と組み合わされました(集団1a、集団2、集団3、集団4a)。(C)全データセットを5集団に区分することにより(集団1a、集団2、集団3、集団4、集団5)分析が繰り返され、集団5はジェシュフ丘の外来民のみで構成されていました。

 Human Originsおよび1000人ゲノム計画の両方と統合された一塩基多型パネルを用いて、全ての潜在的な集団化が検証されました。集団1にジェシュフ丘の外来民を含めると、代替の集団4aに含められる場合よりも、他の集団との間の距離が短くなる、と明らかになりました。遺伝的距離の一般的パターンは同じままで、結果は参照データセット(Human Originsおよび1000人ゲノム計画)間で再現可能です。データセットが5集団に区分されると(ジェシュフ丘の個体群を地元民と外来民に区分)、ジェシュフ丘の外来民はソカリ尾根の個体群と最も近く、両者は他集団との関連においてひじょうに類似したパターンを示す、と観察されました。しかし、集団5がヌクレオチド多様性検証に基づいて統一されよく定義された下位集団を構成するという証拠は検出されず、地理および考古学的文脈に基づく集団Aが遺伝的分析に最も関連しているので、さまざまな分析にわたって用いられる、と明らかになります。以下、本論文の図2です。
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●考察

 本論文で分析された全個体は、CWCおよびBBC複合の埋葬と関連しています。地理的位置とストロンチウム同位体分析に基づいて異なる4下位集団が識別され、遺伝学に基づいて本論文の標本セットでは少なくとも2つの異なる集団が特定されました。mtDNAとY染色体のデータは、地域の遺伝的多様性のわずかに異なる像を提供し、ヨーロッパ中央部の他地域の対応する考古学的背景の個体群に関する以前の研究とは対照的です。以前の研究とは対照的に、とくにヤムナヤ文化牧畜民とつながるミトコンドリア系統は見つからず、代わりに、本論文の標本で見つかったmtDNA系統のほとんどは、以前の研究における西部CWC標本群の場合と同様に、ヨーロッパ新石器時代農耕集団と関連しているかもしれません。本論文の結果は、以前の観察と比較して、早期新石器時代集団とのより強い継続性を示唆します。換言すると、本論文は在来個体群の明らかな「取り込み」の痕跡を検出しました。しかし、埋葬は調査された全事例で典型的なCWCパターンを示すので、新石器時代以来の埋葬儀式の影響は限定的なようです。

 YHg-R1b1a1b(M269)もしくはR1b1a1b1a1a(L11)は、ヤムナヤ文化およびBBC個体群に特徴的で、青銅器時代とその後にユーラシア全域へとくに拡大しました。不思議なことに、YHg-R1b1a1bは他の既知のヨーロッパ(ドイツ、ポーランド、ボヘミア、エストニア、リトアニア)のCWC個体群では珍しく、後のBBC共同体と関連しています。ヤムナヤ文化関連集団の遺伝的兆候の包含は見られますが、近隣地域で見られるものとは異なる在り様です。これらの結果は、以前の研究の推定より高い水準の、より早期の新石器時代個体群とのCWC共同体の継続性を示唆します。またこの結果から、CWC集団は草原地帯世界の影響を示す、と分かります。つまり、特定のY染色体を有する個体群においてです。後に、BBC共同体の影響はより強くなりました。

 主成分分析では、地理的近接にも関わらず、CWC個体群とBBC個体群との間に明確な遺伝的分離がある、と明らかになりました。ポーランド南部のCWC個体群の遺伝的多様性は、ドイツの既知のCWC個体群の大半と重なりますが(関連記事)、ポーランド低地のCWC関連8個体は、BBC個体群とより密接に類似しています。ポーランド低地のCWC共同体を単一墓文化と呼ばれるCWC世界の北西部の代表とみなすならば、この事実は予想外ではありません。ポーランド南東部のBBC個体群の遺伝的変異は、ヨーロッパ中央部(ボヘミア、モラヴィア、ドイツ、ポーランド南西部、ハンガリー)のBBC個体群の広範な変異と重なっており、考古学的データとよく一致します。この結果は、混合分析と一致します。構造化がさらに地域水準で検出できるのかどうか判断するため、標本が地域的下位集団に区分され、その関係性が検証されました。

 個体水準のf4統計によると、ポーランド南東部のCWC個体群は既知のCWC個体群およびヤムナヤ文化個体群と同等に異なりますが、ペウチスカ遺跡(図1の4)の3個体は、ヤムナヤ文化関連個体群を除いて、ドイツやエストニアやリトアニアやポーランド西部のCWC個体群を選択する傾向があります。しかし、これはポーランド中央部北方のクヤヴィア(Kuyavia)地域のCWC個体群には当てはまりません(関連記事)。ポーランド南東部のCWC個体群は、クヤヴィア地域のCWC個体群よりもヤムナヤ文化関連個体群の方を選ぶ傾向があります。本論文の結果は、ヤムナヤ文化集団の移住事象がヨーロッパ全域でさまざまな集団に与えた影響を強調します。つまり、ヤムナヤ文化集団の移住による過程が残した遺伝的影響は、地域や文化により大きく異なります。

 集団3(表1)を除いて、集団2が集団1および集団4とより密接である、という統計的に有意な値が得られ、ペウチスカ遺跡のBBC個体群は異なる人口集団である、と確認されました。これは、ポーランド南部の銅器時代内だけではなく、同じ文化を表す集団間の構造化を示唆します。前期〜中期新石器時代標本群と比較すると、CWC関連の集団1と集団2と集団4は、ヤムナヤ文化牧畜民、およびエストニアやドイツやリトアニアやポーランド中央部の既知のCWC集団の大半と、同等の遺伝的距離を示します。ポーランド南東部のCWC個体群は、ポーランド低地のCWC個体群よりもヤムナヤ文化個体群の方と有意に密接に関連しており、ポーランド中央部のさまざまなCWC集団間の分化が裏づけられます。これは、CWCの低地と高地の物質的の違いを示す考古学的知見と一致します。

 ペウチスカ遺跡のBBC個体群は、草原地帯の祖先よりも、大半はチェコのBBC集団と同様にドイツやポーランド低地やエストニアのCWC個体群の方と近くなっています。興味深いことに、ポーランド南東部のCWC個体群(集団1と集団2と集団4)とは対照的に、ペウチスカ遺跡のBBC個体群は、ヤムナヤ文化関連個体群よりも、新石器時代のイベリア半島やイタリア半島やハンガリーやスウェーデンやポーランドの漏斗状ビーカー文化(TRB)およびブジェシチ・クヤフスキ集団(BKG)の方と、有意に密接な類似性を共有し、ポーランドの球状アンフォラ文化(GAC)個体群とは有意ではないものの、正の類似性を示します。これは、ウチスカ遺跡のBBC集団とより早期の集団との間の潜在的な継続性を示します。この過程に関連する集団の遺伝的特異性は、150〜200年後のヨーロッパ中央部におけるBBCの特徴との類似性を示します。

 CWCの複雑な個性は埋葬儀式の種類にも見られる、という見解に基づくと、とくに墓と二重埋葬の研究は、潜在的な親族関係に関して、CWC集団の地域の社会的構造の解釈に光を当てられます。肯定的な結果は、3ヶ所の二重墓から得られ、全て同性の個体が含まれます。フウォピツェ遺跡の11号墓(pcw211とpcw212)およびスベツェ遺跡の408号墓(pcw061とpcw062)で親族関係が観察されました。フウォピツェ遺跡11号墓の被葬者2人は2親等の親族関係を表しますが、スベツェ遺跡408号墓の被葬者2人は一親等の親族関係を表します。ルブチェ遺跡の二重墓の被葬者2個体(pcw361とpcw362)は、本論文のREAD分析では密接な関係はありませんでした。しかし、その類似したYHg-R1b1a1b1a1aからは、男性系統での共有祖先の可能性が示唆されます。

 フウォピツェ遺跡では、若い女性2人が同時に死亡して埋葬されましたが、その死因は特定できません。ルブチェ遺跡の人類遺骸は保存状態が悪すぎて、死亡時や死因に関する情報を得られませんでした。興味深いことに、スベツェ遺跡の408号墓では、より若い女性個体(pcw061)がより年長の女性個体(pcw062)より早く死亡しており、pcw061遺骸はおそらく別の場所から掘り出され、pcw062の墓に追加されました。壁龕建築は「再訪」と二次的堆積を可能としましたが、この慣行は珍しい埋葬儀式の一部で、女性2個体間の親族関係が関連していたかもしれません。興味深いことに、ストロンチウム同位体分析によると、pcw061は外来民で、pcw062は地元民だったので、この密接に関連した女性2個体は、異なる場所で子供時代を過ごしました。この観察は、CWCの埋葬慣行と社会組織も考えると、とくに驚くべきで重要です。この女性2個体は、一部の事例では親族が異なる時期に死亡しても共に埋葬されたことを示します。

 密接に関連した個体はスベツェ遺跡の40A号墓(pcw040)と43号墓(pcw041)でも見られますが、二重墓に埋葬されておらず、相互に近くの場所に埋葬されました。両者は外来民でした。pcw040とpcw041は一親等の関係にあり、同じ放射性炭素年代を示すので、父と息子である可能性が最も高そうです。両者の墓が近くにあることから、親族関係は社会の重要な部分で、CWC共同体の埋葬慣行で明確に現れたのかもしれません。


●まとめ

 先史時代の社会的過程は、解釈はもちろん特定も困難です。本論文では、古代DNAとゲノム分析を用いて、銅器時代のポーランド南部に存在したCWCとBBCとの間、およびCWC内のいくつかの水準の構造化と人口動態が検出できました。集団間の混合を評価することにより、草原地帯系統の拡大のようなより早期の既知の人口統計学的事象が、本論文のCWC個体群でも検出できます。当然、ドイツ中央部の集団およびドイツ低地に居住するCWC下位集団との強いつながりも見つかりました。これらのつながりは新しくありませんが、ポーランドの他の先行研究の標本群ではさほど明確ではなかった、興味深い南部の起源を示唆しているかもしれません。さらに、クヤヴィア地域とポーランド南部のCWC集団間の少ない関連性が検出され、CWC伝統の拡大の詳細な経路が明らかになりました。特定された最も珍しい兆候は、CWCとアファナシェヴォ複合との間のものです。ヤムナヤ文化よりもさらに東方の草原地帯集団からのこの遺伝的取り込みは、これらの地域にとって新規であり、以前の見解よりも複雑なCWC集団の構造と歴史を示唆します。

 本論文の結果は、標本数の少なさだけではなく、草原地帯系統の拡大に先行し、地理的により広範な個体群における同じ兆候の出現もあるため、慎重に扱う必要があります。本論文の知見は、以前のゲノム研究での推定よりも小さなヤムナヤ文化集団拡大の影響を示唆する、最近の考古学的観察と一致します。CWC系統は、最初の新石器時代の共通するmtDNA系統だけではなく、ヤムナヤ文化牧畜民により同化され置換された系統へのつながりも示します。さらに後の時代では、BBC集団の遺伝子プールにおけるCWC南東部集団の遺伝的残存が検出されます。ポーランド南東部は紀元前三千年紀における重要地域で、異なる起源を有する人類集団の真の先史時代の坩堝でした。この地域では、典型的なBBC集団のゲノムが、ヨーロッパの他地域よりも200年早く出現したかもしれません。

 ストロンチウム同位体の使用により、本論文の標本群では地元民と外来民を検出でき、CWCのさまざまな下位集団がどのように相互作用したのか、光を当てます。これらの特徴を基礎として用いることで、埋葬された個体間の親族関係をより詳しく調べられます。調べられた個体間、とくに珍しい埋葬慣行の親族関係の異なる3種類を識別することにより、CWCの社会構造の根底にある儀式と伝統に関する理解が深まります。


参考文献:
Linderholm A. et al.(2020): Corded Ware cultural complexity uncovered using genomic and isotopic analysis from south-eastern Poland. Scientific Reports, 10, 6885.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-63138-w


https://sicambre.at.webry.info/202101/article_40.html
http://www.asyura2.com/20/reki5/msg/299.html#c3

[番外地8] イギリスを二流の地方国家にしたサッチャーの政策 中川隆
1. 中川隆[-7799] koaQ7Jey 2021年1月31日 19:47:03 : pewE9MNtck : TENybGJhVVBSNEE=[10]
イギリスを二流の下請け国家にしたサッチャーの経済政策
サッチャーのやろうとしたことは、まさしく産業主義を現代に取り戻し、意識改革を起こそうというもので、ダニエル・ベルが「現代風のブルジョア革命」といみじくも名づけたものである。そしてサッチャーの「現代風のブルジョア革命」の内容は以下のようなものだった。

@国営企業の民営化、非効率企業への国家援助を取り外し、国際競争に耐え得ない企業
は倒産させる。


A最高所得税を 83%から 40%に減税し、豊かな層の企業活動を一層活発化させる。

B慣行の上にあぐらをかいて働かない労働組合に対して、労働法を改正して労働組合活動を制限するとともに、国営企業をはじめとして企業から多くの失業者を作り出し、
失業の恐怖の下、働くことを強制する。


C労働者に公営住宅を払い下げ、所有意識を持たせるとともに、国営企業を民営化する際、株式を払い下げ、900 万に及ぶ株主を作り出し、企業の業績に関心を持たせる。

サッチャー政策は自由市場政策をとり、国際競争に生き残れる企業が生き残ればいいという政策をとった。この結果、伝統的な産業部門は長期間にわたって多くの部分が衰退することになった。この政策で恩恵を受けたのはシティを中心とする金融、商業会社に加えて既に多国籍企業に支配されている部門であった。
しかし、こうした蓄積戦略は、一国経済の発展は製造業が担っており、サービス産業
が取って代わることはできないので、イギリスの相対的衰退に歯止めをかけることはできなかった。後に 90 年代に入り、シティを中心とした金融業務は活発化し、イギリスを蘇らせることにはある程度成功した。しかし、製造業については、外国資本を導入して補うという政策であった。

サッチャー政策が効果を上げたもっとも大きな政策が労働組合の弱体化であった。労組が弱体化したからこそ、安心して外国資本がイギリスへ大挙入ってきた
のであり、この外国資本がイギリスを支えたのである。

サッチャー政策においては、効果的な経済活性化政策はなかった。イギリスの国際経済
への完全な統合を促進し、その中で競争に生き残れる産業だけが生き残っていけばいいという産業戦略であった。


こうした中で製造業生産はその前のピークである 1973 年水準をようやく 1988 年に超えたに過ぎないという程度にまで縮小したのである。先進国で 16 年前の製造業生産量と変わらないという国はほかにはない。

1972→1991 の国内シェア

イギリスの工作機メーカー 70%→40%
靴 69%→30%
衣服 79%→56%
洗濯機 82%→49%


多国籍企業の進出
製造業生産 25%
資本支出 30%
輸出 40%
乗用車・テレビ
バイク・半導体 100%


サッチャー政権以来の民活・民営化路線の裏側でイギリスの製造業の空洞化が進んだ。
上の表のとおり、1971 年から 91 年の 20 年間でイギリス工作機メーカーの国内シェアは
70%から 40%に転落した。同様に靴が 69%から 30%に、衣服が 79%から 56%に、洗濯機が 82%から 49%に落ちた。イギリスでは製造業を衰退させることによって、やはり将来の発展基盤を失っている。


一方で、イギリスをヨーロッパ市場向けの組み立て基地として利用する、日本をはじめ
とした他の先進国の多国籍企業の進出が続いた。結果、外国企業はイギリスの製造業生産の 25%、資本支出の 30%、輸出の 40%を占めている。そして乗用車生産、カラーテレビ、オートバイ、半導体は 100%外国資本の所有であり、化学産業も 3 分の1が外国人所有である。

自動車部品やコンピューターのICL社にみられるように、最も重要な部門が外国資本の
支配に服していっているが、そうした分野では研究開発はイギリスでは行われない。総体として今後イギリスは製造業リードを外国資本に任せることになり、ヨーロッパの辺境経済化するであろう。
____________

19世紀以来の貴族階級と資本家をすべて残して新自由主義にすれば、労働者階級の有能な人間は誰も大学に進学できなくなるから経済も学問も衰退するに決まっているんだよ。金持ちのバカ息子に地味な研究・開発なんか絶対に無理なんだ。
http://www.asyura2.com/20/ban8/msg/826.html#c1

[番外地8] イギリスを二流の地方国家にしたサッチャーの政策 中川隆
2. 中川隆[-7798] koaQ7Jey 2021年1月31日 19:49:41 : pewE9MNtck : TENybGJhVVBSNEE=[11]
イギリスを二流の下請け国家にしたサッチャーの経済政策
サッチャーのやろうとしたことは、まさしく産業主義を現代に取り戻し、意識改革を起こそうというもので、ダニエル・ベルが「現代風のブルジョア革命」といみじくも名づけたものである。そしてサッチャーの「現代風のブルジョア革命」の内容は以下のようなものだった。

@国営企業の民営化、非効率企業への国家援助を取り外し、国際競争に耐え得ない企業
は倒産させる。


A最高所得税を 83%から 40%に減税し、豊かな層の企業活動を一層活発化させる。

B慣行の上にあぐらをかいて働かない労働組合に対して、労働法を改正して労働組合活動を制限するとともに、国営企業をはじめとして企業から多くの失業者を作り出し、
失業の恐怖の下、働くことを強制する。


C労働者に公営住宅を払い下げ、所有意識を持たせるとともに、国営企業を民営化する際、株式を払い下げ、900 万に及ぶ株主を作り出し、企業の業績に関心を持たせる。

サッチャー政策は自由市場政策をとり、国際競争に生き残れる企業が生き残ればいいという政策をとった。この結果、伝統的な産業部門は長期間にわたって多くの部分が衰退することになった。この政策で恩恵を受けたのはシティを中心とする金融、商業会社に加えて既に多国籍企業に支配されている部門であった。
しかし、こうした蓄積戦略は、一国経済の発展は製造業が担っており、サービス産業
が取って代わることはできないので、イギリスの相対的衰退に歯止めをかけることはできなかった。後に 90 年代に入り、シティを中心とした金融業務は活発化し、イギリスを蘇らせることにはある程度成功した。しかし、製造業については、外国資本を導入して補うという政策であった。

サッチャー政策が効果を上げたもっとも大きな政策が労働組合の弱体化であった。労組が弱体化したからこそ、安心して外国資本がイギリスへ大挙入ってきた
のであり、この外国資本がイギリスを支えたのである。

サッチャー政策においては、効果的な経済活性化政策はなかった。イギリスの国際経済
への完全な統合を促進し、その中で競争に生き残れる産業だけが生き残っていけばいいという産業戦略であった。


こうした中で製造業生産はその前のピークである 1973 年水準をようやく 1988 年に超えたに過ぎないという程度にまで縮小したのである。先進国で 16 年前の製造業生産量と変わらないという国はほかにはない。

1972→1991 の国内シェア

イギリスの工作機メーカー 70%→40%
靴 69%→30%
衣服 79%→56%
洗濯機 82%→49%


多国籍企業の進出
製造業生産 25%
資本支出 30%
輸出 40%
乗用車・テレビ
バイク・半導体 100%


サッチャー政権以来の民活・民営化路線の裏側でイギリスの製造業の空洞化が進んだ。
上の表のとおり、1971 年から 91 年の 20 年間でイギリス工作機メーカーの国内シェアは
70%から 40%に転落した。同様に靴が 69%から 30%に、衣服が 79%から 56%に、洗濯機が 82%から 49%に落ちた。イギリスでは製造業を衰退させることによって、やはり将来の発展基盤を失っている。


一方で、イギリスをヨーロッパ市場向けの組み立て基地として利用する、日本をはじめ
とした他の先進国の多国籍企業の進出が続いた。結果、外国企業はイギリスの製造業生産の 25%、資本支出の 30%、輸出の 40%を占めている。そして乗用車生産、カラーテレビ、オートバイ、半導体は 100%外国資本の所有であり、化学産業も 3 分の1が外国人所有である。

自動車部品やコンピューターのICL社にみられるように、最も重要な部門が外国資本の
支配に服していっているが、そうした分野では研究開発はイギリスでは行われない。総体として今後イギリスは製造業リードを外国資本に任せることになり、ヨーロッパの辺境経済化するであろう。
__________

19世紀以来の貴族階級と資本家をすべて残して新自由主義にすれば、労働者階級の有能な人間は誰も大学に進学できなくなるから経済も学問も衰退するに決まっているんだよ。金持ちのバカ息子に地味で無味乾燥な研究・開発なんか絶対に無理なんだ。
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