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西郷隆盛を知らない我々は自分の真の姿も見えないという証拠
http://www.asyura2.com/0311/idletalk6/msg/744.html
投稿者 すみちゃん 日時 2003 年 12 月 29 日 11:57:33:xnvpUXgHxuDw6
 

(回答先: 被統治者に真実の像を結ばせないこと 投稿者 リーマン 日時 2003 年 12 月 26 日 08:04:45)

西郷隆盛は偉大な政治家であり、征韓論など唱えておらず、西郷追放はひも付きのクーデター


リーマンさん。 こんにちわ。

最近は時間を見つけて狂牛病投稿(資料翻訳と作成、参考文献のまとめ)を行ったので、
応答できませんでした。
翻訳等に3時間かかりました。

今回はとりあえず西郷さん関係の重要投稿を転載させていただきます。
非常に大事なことなので全文引用で。
何よりも雄弁に事実が語っていると。
性感帯タッチは次ということで。

上野公園にいけば、高村光雲作の西郷像が立っています。
みんなで拝見にいきましょう。


−引用開始−

(Re: 幕末期に入った国際金融資本の魔手
http://www.asyura.com/0306/idletalk2/msg/380.html
投稿者 通りすがり 日時 2003 年 7 月 20 日 00:12:30:

面白い! ただ私は、メインとなったのは薩摩ではなく長州だと思いますよ。
白石正一郎とか伊藤博文とか井上馨とか。上海にまでしょっちゅう出張ってましたしね。
それに結局、薩摩閥(特に西郷一派)は西南戦争で粛清されちゃいましたし。

ここらへんのことは、副島隆彦の『属国・日本論』に詳しかったはず。一読あれ。

>西郷が征韓論を唱えたということになっていますが、怪しいものです。

毛利敏彦の『明治六年政変』や松浦玲の『横井小楠』に詳しいですが、
「西郷が征韓論を唱えた」というのは、もはやデマで確定でしょう。

−−引用終わり


−引用開始−

((西郷隆盛の生涯)岩倉洋行団の出発から西郷内閣まで
http://www.asyura2.com/0311/bd32/msg/492.html
投稿者 愚民党))


(西郷隆盛の生涯)岩倉洋行団の出発から西郷内閣まで

(大久保、木戸らの外遊と西郷の留守内閣)

 明治4(1871)年11月12日、岩倉具視を特命全権大使とし、副使に木戸孝允、大久保利通が任命され、
 以下同行の留学生を合わせて百名を超える大洋行団が、横浜を出港しました。
 
 この岩倉洋行団の目的は、江戸幕府が締結した修好通商条約の条約改正の下準備とヨーロッパ、
 アメリカなどの文明諸国視察を兼ねていました。
 
 しかし、まだ廃藩置県が行われて4ヶ月しか経っておらず、いつ日本に騒動が起こるかもしれない状況での
 この洋行団の出発は、時期尚早だったといっていいでしょう。
 
 特に、大久保は、島津久光が廃藩置県に対し、大きな不満を持ち、西郷と大久保を憎んでいるということを
 聞いていたので、ほとぼりがさめるまで、それから逃げ出したいという気持ちも恐らくあったと思います。
 かなり無責任な話ですが、大久保という人物は、その生涯において自分に都合の悪いことが起きると、
 それから責任逃れをするクセがあります。特に自分を見出してくれた久光に対しては、
 その大久保の性格が顕著に表れています。
 
 話が横道にそれましたが、こんな困難な状況を一手に任された西郷も西郷だとは思いますが、
 西郷も大いに政府を運営する自信があったからこそ、留守を引き受けたのでしょう。
 木戸や大久保らがいない内に、斬新な改革を進めようと考えていたかもしれません。
 
 鬼のいぬまになんとか・・・という感じだったのでしょう。
 岩倉らが出発すると、西郷を中心とした内閣は、次々と新しい制度を創設したり、改革案を打ち出していきました.
 特筆したものをあげていくと、@警視庁の発端となる東京府邏卒の採用、A各県に司法省所属の府県裁判所の設置、
 B田畑永代売買解禁、C東京女学校、東京師範学校の設立、D学制の発布、E人身売買禁止令の発布、F散髪廃刀の自由、
 切り捨て・仇討ちの禁止、Gキリスト教解禁、H国立銀行条例の制定、I太陽暦の採用、J徴兵令の布告、
 K華士族と平民の結婚許可、L地租改正の布告、などの斬新な改革を次々と打ち出していったのです。
 
 これら全ての改革が西郷の発案によるものでは当然ありませんが、西郷が政府の首班(首相)として成し遂げた改革で
 あることは、まぎれもない事実です。
 よく、西郷に政治能力はなく、明治政府においてただの飾り物に過ぎなかったと書く本が、残念ながらまだ多数出版されています。
 しかし、ただの飾り物でしかない西郷を中心として、このような思い切った改革が次々と出来るでしょうか。
 
 また、西郷が政府の首班として在職していた間は、明治政府が当初悩んだ農民一揆や反政府運動というものは、
 ほとんど起こることがありませんでした。これは世の人々が、西郷の政治に満足していた結果であると言えましょう。
 
 明治新政府がやらなければならなかった諸改革のほとんどが、この西郷内閣で行われたのです。これをもってしても、
 西郷の政治手腕を高く評価するべきではないでしょうか。

((西郷隆盛の生涯)西郷の遣韓論
http://www.asyura2.com/0311/bd32/msg/493.html
投稿者 愚民党)


(西郷隆盛の生涯)西郷の遣韓論


(征韓論の経緯)

 いよいよ西郷の一番の謎とされる征韓論のことを書く時がやってきました。前にも少しですが書いた通り、
 西郷は「征韓論」などという乱暴なことを主張したことはただの一度もありません。
 
 では、なぜ西郷が征韓論の巨頭と呼ばれることが、歴史の通説となってしまったかを簡単に述べていきましょう。
 まず、日本と朝鮮の関係がいつ頃からもつれてきたかと言いますと、明治初年、新政府が朝鮮に対して国同士の
 交際を復活させようとしたことに始まります。元来、日本と朝鮮とは、江戸幕府の鎖国政策の時代から交際を続けていました。
 
 しかし、江戸幕府がアメリカやロシアといった欧米列強諸国の圧迫に負け、通商条約を結んだことにより、朝鮮は、
 日本と国交を断絶したのです。その頃の朝鮮も、欧米列強を夷狄(いてき)と呼んで鎖国政策を取っており、
 外国と交際を始めた日本とは交際出来ないという判断だったのです。
 
 このようにして、江戸幕府は朝鮮から国交を断絶されたのですが、当時の幕府はその朝鮮問題に熱心に関わっている
 時間がありませんでした。当時の江戸幕府としては国内外に問題が山積されていたので、それどころではなかったのです。
 
 そして、その江戸幕府が倒れ、明治新政府が樹立されると、新政府は朝鮮との交際を復活させようとして、江戸時代を
 通じて朝鮮との取次ぎ役をつとめていた対馬の宗氏を通じて、朝鮮に交際を求めました。
 
 しかし、その当時の朝鮮政府は、明治政府の国書の中に「皇上」とか「奉勅」という言葉があるのを見て、明治政府から
 送られてきた国書の受け取りを拒否しました。朝鮮政府としては、先の「皇上」とか「奉勅」という言葉は、
 朝鮮の宗主国である清国の皇帝だけが使う言葉であると考えていたからです。
 
 このようにして、朝鮮政府は明治政府の国交復活を完全に拒否したのです。明治政府はその後も宗氏を通じて朝鮮
 に国書を送りつづけましたが、朝鮮政府は受け取りを拒否続け、一向にらちがあきませんでした。
 
 そのため、明治政府は、直接、外務権大録(がいむごんのだいろく)の佐田白芽(さだはくぼう)と権小録の森山茂、
 斎藤栄を朝鮮に派遣しました。しかし、3人は朝鮮の首都にも入れず、要領を得ないまま帰国せざるを得なくなったのです。
 
 目的を果たせず帰国した佐田は、激烈な征韓論を唱え始め、政府の大官達に「即刻朝鮮を討伐する必要がある」
 と遊説してまわったのです。これは明治3(1870)年4月のことで、西郷はまだ郷里の鹿児島におり、新政府には
 出仕していません。
 
 そして、この佐田の激烈な征韓論に最も熱心になったのは、長州藩出身の木戸孝允です。
 
 木戸が征韓論を唱えていたということに驚く方がおられるかも分かりませんが、これは事実です。
 木戸は同じく長州藩出身の大村益次郎宛の手紙に、「主として武力をもって、朝鮮の釜山港を開港させる」と書いています。
 木戸はこのようにして征韓論に熱心になったのですが、当時の日本には廃藩置県という重要問題があったので、
 その征韓論ばかりに構っているわけにはいきませんでした。
 
 そして、廃藩置県後、木戸は岩倉らと洋行に旅立ったので、木戸としては征韓論を一先ず胸中にしまうという
 ことになりました。しかし、前述の佐田らは征韓論の持論を捨てず、政府の中心人物になおも説いてまわっていたので、
 征韓論は人々の間で次第に熱を持ってきたのです。
 
 そして、明治6(1873)年5月頃、釜山にあった日本公館駐在の係官から、朝鮮側から侮蔑的な行為を受けた
 との報告が政府になされたのです。まさに朝鮮現地においては、日本と朝鮮とが一触即発の危機にありました。
 
 その報告を受けた外務省は、西郷中心の太政官の閣議に、朝鮮への対応策を協議してくれるよう要請しました。
 こうして、明治6(1873)年6月12日、初めて正式に朝鮮問題が閣議に諮られることとなったのです。

(西郷の遣韓大使派遣論)

 閣議に出席した外務少輔(がいむしょうゆう)の上野景範(うえのかげのり)は、
 「朝鮮にいる居留民の引き揚げを決定するか、もしくは武力に訴えても、朝鮮に対し修好条約の調印を迫るか、
 二つに一つの選択しかありません」と説明しました。
 
 その上野の提議に対して、まず参議の板垣退助が口を開きました。板垣は、「朝鮮に滞在する居留民を保護するのは、
 政府として当然であるから、すぐ一大隊の兵を釜山に派遣し、その後修好条約の談判にかかるのが良いと思う」と述べ、
 兵隊を朝鮮に派遣することを提議しました。
 
 しかし、その板垣の提案に西郷は首を振り、次のように述べました。
 
「それは早急に過ぎもす。兵隊などを派遣すれば、朝鮮は日本が侵略してきたと考え、要らぬ危惧を与える恐れがありもす。
これまでの経緯を考えると、今まで朝鮮と交渉してきたのは外務省の卑官ばかりでごわした。
そんため、朝鮮側も地方官吏にしか対応させなかったのではごわはんか。
ここは、まず、軍隊を派遣するということは止め、位も高く、責任ある全権大使を派遣することが、
朝鮮問題にとって一番の良策であると思いもす。」

西郷の主張することは、正論です。板垣の朝鮮即時出兵策に西郷は反対したのです。
西郷の主張を聞いた太政大臣の三条実美は、「その全権大使は軍艦に乗り、兵を連れて行くのが良いでしょうな。」
と言いました。しかし、西郷はその三条の意見にも首を振ります。

「いいえ、兵を引き連れるのはよろしくありもはん。大使は、烏帽子(えぼし)、直垂(ひたたれ)を着し、礼を厚うし、
威儀を正して行くべきでごわす。」

この西郷の堂々とした意見に、板垣以下他の参議らも賛成したのですが、一人、肥前佐賀藩出身の大隈重信(おおくましげのぶ)
だけが異議を唱えました。大隈は、「洋行している岩倉の帰国を待ってから決定されるのが良い。」と主張したのです。
その意見に西郷は、「政府の首脳が一同に会した閣議において国家の大事の是非を決定出来ないのなら、
今から正門を閉じて政務を取るのを止めたほうが良い。」と大隈に言いました。

こう西郷に言われれば、大隈としても異議を唱えることは出来ません。そして、その後、西郷はその朝鮮への全権大使を
自分に任命してもらいたいと主張しました。西郷としては、このこじれた朝鮮問題を解決できるのは、自分しかいないとも思い、
相当の自信もあったのでしょう。

しかし、閣議に出席したメンバーは、西郷の申し出に驚愕しました。西郷は政府の首班であり、政府の重鎮です。
また、この朝鮮へ派遣される使節には、非常に危険が伴う恐れがあったのです。

西郷が朝鮮に行き、もしも万一のことがあったら、政府にとってこれほどの危機はありません。
そのため、他の参議らは西郷の主張に難色を示しました。西郷はそれでも自分を行かせて欲しいと主張したのですが、
この閣議では結論が出ず、取りあえずその日は散会となったのです。

 このように、これまで征韓論と呼ばれる一連の出来事の経過を、軽くですが書いてきました。
 これを読んで頂ければ分かるように、西郷のどの言葉や行動にも「征韓」などという荒っぽい主張はどこにも出てこない
 ことが分かることでしょう。
 
 逆に、征韓論について、反対意見すら述べていることが分かると思います。
 これとは逆に、西郷を征韓論者だと決め付けている人々は、必ずと言って良いほど西郷の板垣退助宛書簡
 (西郷が板垣に宛てた手紙の中に、征韓を匂わせる文言がある)を持ち出すのですが、これはまったく当て
 の外れた推測としか言いようがありません。
 
 この板垣宛書簡については、書きたい事が山ほどありますが、征韓論については、今後もテーマ随筆で取り上げて
 いくつもりなので、これ以上ここで詳細な経過を書くことは紙幅の関係で控えます。
 しかし、一応、この後のこの征韓論争の経過だけを軽くですが、書いていきます。
 
 西郷はその後、紆余曲折を経て、朝鮮使節の全権大使に任命されます。西郷としては大いに頑張るつもりで
 準備を始めたのですが、ここに洋行から帰った岩倉具視と大久保利通が、西郷の前に立ちはだかります。
 岩倉と大久保は、再び閣議を開き、その席において、西郷の朝鮮派遣に反対意見を述べるのです。
 
 理由は、次のようなことでした。西郷が朝鮮に行けば、戦争になるかもしれない、今の政府の状態では外国と戦争
 をする力がないので、朝鮮使節派遣は延期するのが良い。
 一見すれば尤もな意見と思われますが、大久保や岩倉の主張は、西郷が朝鮮に行けば必ず戦争になるということを
 前提として論を展開しています。
 
 しかし、西郷は戦争をしないために平和的使節を派遣したいと言っているのです。
 岩倉や大久保が戦争になると決め付けて反対意見を述べるのには、西郷は納得がいきません。
 ここで、西郷と大久保の間で大論戦が繰り広げられるのですが、結局西郷の主張が通り、西郷派遣が正式決定
 されたのですが。しかし、岩倉の最も腹黒い策略で、西郷の朝鮮派遣は潰されてしまいました。
 
 岩倉が閣議で決定された事を天皇に奏上しようとせず、自分の個人的意見(西郷派遣反対)を天皇に奏上する
 と言い張ったのです。今から考えればそんなバカなことがあるか、と思うかもしれませんが、現実にそれが行われたのです。
 そうなれば、今までの閣議は何のための会議だったのでしょうか、と思わざるを得ません。
 一人の人間の私心によって、国の運命が決められたのです。こうして、西郷の遣韓論は潰されたのです。
 
 ここで、一つ付け加えます。よくこの明治六年の政変(いわゆる征韓論争)は、西郷ら外征派(朝鮮を征伐する派)
 と大久保ら内治派(内政を優先する派)との論争であると書かれている本がたくさんあります。
 
 しかし、それはまったく事実と反します。
 
 まず、西郷は公式の場で、朝鮮を武力で征伐するなどという論は一回も主張していません。
 また、今まで書いてきたように、当初は板垣らの兵隊派遣に反対し、平和的使節の派遣を主張すらしているのです。
 また、内政を優先させるのが先決であると主張した大久保の方ですが、大久保がその後にした事と言えば、
 明治7年には台湾を武力で征伐して中国と事を構え、翌8年には朝鮮と江華島で交戦し、朝鮮と事を構えています。
 
 朝鮮に対しては、軍艦に兵隊を乗せて送りこみ、兵威をもって朝鮮を屈服させ、修好条約を強引に結ばせました。
 西郷の平和的使節派遣に反対し、内政の方が優先するといった大久保がこんなことをやってのけたのです。
 これをもってしても、外征派対内治派という構図が、いかにまやかしであったかが分かることでしょう。
 
 いつの間にか歴史の通説において、西郷を征韓論の首魁と決め付けるようになったのは、大久保らが自分らの正当性
 を主張するがゆえのまやかしであったのです。
 
 また、その他にも色々な理由があるのですが、それは後日テーマ随筆で取り上げていきたいと思います。

http://www.page.sannet.ne.jp/ytsubu/


−引用終わり−

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