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「産業資本主義」の終焉:「貨幣経済」と「供給→需要原理」:経済問題を考えるための基本論理
http://www.asyura2.com/0406/dispute19/msg/136.html
投稿者 あっしら 日時 2004 年 8 月 10 日 22:30:27:Mo7ApAlflbQ6s
 


「「産業資本主義」の終焉」シリーズもそろそろ収束の段階に入ります。

補足的な説明は適宜加えるつもりですが、全体としてはレスでリストアップしている参照投稿をお読みいただいているという前提で説明させていただきます。
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長期化した「デフレ不況」の原因について、需要が不足している!という説明がある一方で供給が過剰だ!という説明も飛び交う。

原因に関して合意が形成されていないのだからまともな対応策が合意できるはずもない。
仮にうまく対応できたとしてもまぐれ当たりの結果オーライでしかなく、次の機会では外れてしまうだろう。

需要と供給は同じコインの表裏である。
需要不足に対して供給過剰だと言って反論するのは、貨幣表現の需要と物理表現の財供給量を比較してあれこれ言う算数レベルの誤りである。

同じコインの表裏というのは、他者の供給活動がなければ財やサービスを手に入れられないのだから供給なくして需要はないこと、ほとんどのひとは供給活動に従事しなければ財やサービスを買うお金を手に入れることができないのだから供給なくして需要はないことに拠る。

需要と供給は、分離できたり対立するものではなく一体なのである。

需要不足は一般的に金額で語られ、供給過剰は一般的に財の物理量で語られる。
需要不足なのか供給過剰なのかという対立は、一方は100兆円の需要では足りないと言い、もう一方は1億個の供給は過剰だと言っているようなものだから、議論の接点や共通の土俵がなく対立するものでもない。
金額と物理量という異質のものである、100兆円の需要と1億個の供給を比較してバランスがとれているかどうか判断することはできない。(5個のリンゴと1000円はどちらが多いか少ないかを論じているのと同じだから算数レベルの誤りである)
100兆円の需要と110兆円の供給だとか、1億個の需要と1億100個の供給という同質の数値を比較するものでなければ意味はない。
供給には財の物理量だけではなく金額があることを失念しているひとが多すぎる。

「供給活動がなければ需要もない」ことや「貨幣経済」であるという根源的論理を理解しないまま経済問題が語られている現状は大きな悲劇である。
もっともらしい説明体系をまとめている“経済学”が、「供給=需要」であることさえ理解していない現状に驚くばかりである。


■ 「貨幣経済」の意味

「近代経済」の特質は、「貨幣経済」の普遍化である。
貨幣は前近代から存在しているが、生産活動が貨幣を得るための“商業行為”になったことが、「近代」と前近代を区分する指標であり、「貨幣経済」の普遍化事象である。

「貨幣経済」とは、生産活動が“供給活動”に転化した経済社会である。
農家などは生産物を自家消費しているが、生産活動が、自己(家族)のためではなく、お金を得るため、すなわち他者のために行われるようになったのが「貨幣経済」である。

前近代の商業は、大土地所有者や物納を受ける支配層などが保有する余剰の財と他者が保有する魅力的な財を交換することが主たる内実であったが、「近代」では、活動力しか売るものを持たないひとを含めてあらゆるひとが“商人”になることを強いられる。
(これが「法のもとの平等」の基礎でもある)

経済社会を「貨幣経済」に誘う制度は租税の金納である。
物納と労働力供与が基本だった租税が金納化されることで、農民にも“商人”的性格が求められ、「近代」=国民経済の扉を開く。
租税が金納になることで、生産活動が否応なくお金を得るためのものへと急激に変容していく。明治維新後の「地租改正」が日本近代化の入り口である。

売買の相手である他者なしで経済活動が成り立たない「貨幣経済」は、自ずと経済活動のGDP的連関性(社会的分業)を高める。自己の経済活動が他者に影響を与え、他者の経済活動が自己に影響を与えるようになり、自覚しないとしても、見知らぬひととも抜き差しならない経済関係で結ばれる。
このような経済関係性が、国民国家的統合の強化を求め、輸送及び商業体系の整備を進め、貨幣的価額で分析し評価できる国民経済を確立する。
人々は、直接的で生き生きとした相互扶助的関係性や個別的実存としての意味性を剥ぎ取られ、経済論理に隷属した抽象的“経済人”や国家を構成する国民として位置付けられる。
目で見え確かな手触りが感じられる感性的な世界ではなく、抽象的な論理がひとり一人の在り様を規定する世界に置かれるようになる。
農民でさえお金なしでは生存できなくなるのだから、お金を手に入れることがすべてのひとにとっての基本的な生存維持活動となる。

このような「貨幣経済」の確立が“経済学”の存立基礎である。
「貨幣経済」ではなく、自己(家族)のために生産活動を行なうことが基本となっている経済社会では人々の有機的連関性が希薄で経済活動を貨幣的価額で評価することもできないから、“経済学”という説明理論体系は成立せずその必要性もない。

貨幣の基本機能は、「交換手段」と「富の蓄蔵」である。

「交換手段」とは、様々な供給活動で行っている人たちの活動力を貨幣を通じて部分的に交換することであり、GDP的連関の分節をつなぐという意味で近代貨幣の基本機能である。
米を生産している経済主体が米を販売して得たお金でビールや衣服そして家電製品を購入し、家電製品の供給活動に従事しているひとが給与として得たお金で、米やビールそして衣服を購入する・・・・という網の目がGDP的連関であり、表面的には財の交換のように見えても、内実は(供給)活動力の交換である。

「富の蓄蔵」は、それがまとまった「支払い手段」として固定資本(生産手段)や流動資本(人件費や中間財の仕入れ)として使われることに経済的意味がある。
株式会社や銀行制度の確立により、不特定多数の富の蓄積が、ある個別経済主体の資本に転化するようにもなった。
「近代経済システム」は利潤獲得を動因としているが、利潤の目的は贅沢や散財ではない。資本の増殖すなわち固定資本の増大で生産性の上昇を実現し、より大きな利潤が得られる条件を手に入れることが利潤の基本目的である。
固定資本の増大こそが、競争に打ち勝つ唯一の手段であり、企業の存続条件である。

利潤の目的が成金趣味や贅沢を満たすものでもなければ、守銭奴的な自己目的的蓄財でもないことが、アダム・スミスの蓄財擁護論やマックス・ウェーバーの「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」的論考の妥当性を支えている。
また、だからこそ、日本のような国家主導近代化や“開発独裁”そして「共産主義国家」といった“非市民社会”の経済的合理性を指摘することができる。


■ 近代経済システムを根源的に規定する「供給→需要原理」

「貨幣経済」は、お金がなければ必要な財や欲しい財を手に入れることができない現実を日々再生産することで経済社会に決定的な規定性を与える。

その決定的な規定性とは、「供給→需要原理」である。

それは、供給がどのようにして行われるものであるかを考えるとすぐにわかる。
供給活動を行うためには大量のお金(資本)が必要であり、資本は、生産手段・原材料・労働力を購入する手段になるものだから、そのまま他者にとっては需要である。
「供給活動がなければ需要もない」は、欲しい財の存在性だけではなく、このような意味を含んでいる。

供給活動がそのまま需要であるという理解は、「近代経済システム」(産業資本主義)を認識するための要諦である。

この意味で、(新)古典派が尊重する「セイの法則」は、正しく理解すれば極めて重要な経済原理である。
セイの法則の基礎は、「供給はそれ自身が需要をつくる」というものである。
これを「供給した量だけ需要は発生する」と誤解してしまうと、現実に合わないあやしい御託宣になってしまう。
セイの法則は、「供給活動に投じた金額が需要になる」と理解することで生き生きとした現実論理になる。

グローバリズムは、国民経済という枠組を基礎とした認識では見えにくかった「セイの法則」をスッポンポンのままで白日のもとに晒すことにつながる動きである。
国民経済的視点では曖昧だった「世界で供給活動に投じられた金額が世界の需要になる」という論理がリアルに見えるようになる。
「世界で供給活動に投じられた金額が世界の需要になる」のは“最善値”であり、高額所得者や優良企業は所得や利潤の一部を財やサービスの需要に支出しない性向があるので、「世界の需要は、世界で供給活動に投じられた金額を最大値とする」と言ったほうがより妥当である。

供給活動に投じられた金額ほどの需要もないということは、一部の企業は利益を上げられるとしても、企業全体としては“赤字”になることを意味する。

これが、「産業資本主義」が終焉する基本論理である。


「供給→需要原理」を簡単な論理的モデルで考えてみる。


【前提条件】

経済主体Aのみが貨幣的富を蓄蔵しており、他は、現物資産や活動力しか保有していない無一文者である。
企業所有者は労働者でもあり給与を得る。


【経済活動過程】

● 経済主体Aは、消費財を供給しようと考え、蓄積していた貨幣的富1000単位を資本化した。
資本となった貨幣1000単位の用途は、生産手段550単位・労働力300単位・中間財100単位・土地建物所有者賃貸料50単位という内訳だとする。


● 機械装置製造者である経済主体Bは、Aの発注で得た前受け金550単位で、製造に必要な労働力350単位・中間財200単位を購入した。

● Bの機械を製造するために必要な中間財(鉄鋼など)を生産する経済主体Cは、Bから得た200単位で労働力200単位を購入した。

● Aが消費財を生産するために必要な中間財を供給する経済主体Dは、Aから得た100単位で労働力100単位を購入した。


※ ここまでの説明で、供給(活動)が需要であることがおわかりいただけると思う。
  1000単位の資本金を持つ経済主体Aが供給活動を始めようとしたことで、B・C・Dという経済主体に需要が発生し、土地建物所有者への50単位以外はすべて労働力の購入に向けられたことになる。(労働力購入:A300単位・B350単位・C200単位・D100単位:合計950単位)
 Aにとっては財(モノ)に支払ったように見えても、内実は人々の活動力に支払っているのである。
 GDPの構成要素である付加価値も、この例では1000単位である。


● 消費財供給経済主体Aは、1000単位のお金で購入した生産手段・労働力・中間財を使って消費財を500個生産した。


【消費財市場】

A以外はお金を持っていないという前提だから、消費財の需要額は、いろいろなところで供給活動に従事した人たちに支払われた950単位(A300単位・B350単位・C200単位・D100単位)と土地建物を貸したひとに支払われた50単位の合計1000単位である。

これは、消費財供給の経済主体Aが供給活動のために投資した金額そのものである。


消費財が必需品で500個が不可欠の量であれば全量が売れる。そのとき財の価格は、1000/500だから2単位になる。
経済主体Aは、供給活動で投じた金額1000単位をすべて回収できる。


【再生産過程と消費財市場】

経済主体Aは、再び500単位の消費財の生産にとりかかった。

すぐにわかるように、生産手段は耐久財だから、次の生産サイクルではメンテナンス費用しか支出する必要がない。
このため、経済主体Bに支払う金額は10単位になり、経済主体Cに対する需要はゼロになった。
2サイクル目の供給活動に投じられる額は、460単位と初回よりも540単位も減少した。

Aの供給活動により、再び500個の消費財が供給された。

経済主体Aは540単位の貨幣を使わないまま保有しているが、他のひとたちが手にしているお金は460単位しかないのだから、供給する財を全量売ろうとしたら、単価は0.92単位になる。
経済主体Aには「そんなバカな!前回と同じ2単位でしか売らない」と叫ぶ自由はあるが、そうしたとしても、無い袖は振れないのだから、消費財は230個売れて460単位のお金を回収できるだけである。
消費財が腐敗するものなら、経済主体Aがなにがしかを消費するとしても、残り270個のほとんどを捨てるハメになる。
どうしても単価2単位で全量を売りたいのなら、自分のお金で残った270個買うしかない。


これが、「セイの法則」の基本である。

モデルに他の消費財経済主体や競争関係にある消費財経済主体がないからそうなるのではないかという疑問が提示されるかもしれない。

他の消費財経済主体の存在はこのモデルに影響を与えない。経済主体Aが何でも屋で様々な消費財を供給しているのと同じである。
それぞれの消費財経済主体が供給活動に投じたお金の合計が需要になることに変わりはない。

もう一つの競争状況は、確かにモデルに影響を与える。

【競争状況】

消費財供給経済主体Xが存在し、経済主体Aと市場で競合する財の供給活動を行なうとする。

両者がともに供給する財の需要量が700個しかないときに、Aが500個でXが500個の合わせて1000個を供給しようとする。
生産性の悪い経済主体Xは供給活動に600単位投資し、生産性が高い経済主体Aは460単位投資した。供給額(=需要額)は1060単位である。

経済主体Aは単価1.2単位で販売しようとし、経済主体Xは単価1.5単位で販売しようとした。
この場合、Aは500個を全量売り600単位を回収し、Xは残る需要量200個だけを売って300単位を回収するできるだけである。
(総需要額は1060単位だから、両者が回収した金額の合計である900単位はその範囲内であり、供給額>=需要額(需要額は供給額が最大値)という原理に適合している)

Aは140単位の“利潤”を獲得し、Xは300単位の損失を被ったことになる。
(Aの“利潤”はXの損失から得たものだから、XからAへの貨幣的富の移転である。国民経済的には貨幣的富は増加していないという意味)

潜在需要額として160単位が残っているが、両経済主体が絶妙な価格設定(Aが1.4単位でXが1.8単位だとか)をしていれば、Aが700単位を回収し、Xが360単位を回収できる。
この場合、Aは240単位の“利潤”を獲得し、Xは240単位の損失を被ることになる。(供給活動を通じて、XからAに貨幣240単位が移転したことになる)

Xが損を覚悟でAの価格に合わせて販売すると、両者がそれぞれ350個を売り、420単位ずつ回収することになる。
無闇な価格競争で両者が損失を被ったわけである。(Aの損失は40単位、Xの損失は180単位。Xはこのようなかたちでも全量を売るほうが損失は少なくて済む)
消費者(=供給活動従事者)は、このサイクルで220単位をお金を手元に残すことができる。しかし、AとXは次の再生産過程をこなすことができないから、次の所得が得られる機会を失うことになる。

(※ 消費財の需要量が1000個でAとXが1000個を生産している場合は、価格差はあっても全量がきちんと売れ、供給に投じたお金を全額回収できる)


「規制緩和」や「レーガノミックス」の誤りは、このような現実を生み出すことを考慮していないことにある。
「規制緩和」で供給活動が増え一時的に需要が増加することは間違いないが、新たな供給活動=需要でない限り、破綻企業を生み出して終わる。
サプライドサイド経済学は持続的な経済効果を生む理論ではなく、うまく立ち回れる金融家だけが利得を手にするだけで終わる理論である。(金融家の利得の後ろには損失を被った人たちがいる)


※ 参照投稿

『「規制緩和」や「民営化」の末路は米英の歴史的経験から見えてくる。』
http://www.asyura2.com/0403/hasan35/msg/871.html

ここまでの説明を整理すると、

● 供給活動に投じたお金が供給された財に対する需要額を決定する。
● 近代の供給活動に必須の機械装置(固定資本全般)に対する需要は、財に耐久性があることから“一過性”である。

この二つが、「近代経済システム」(産業資本主義)を貫いている根源的な論理である。
しかし、外部に経済社会が存在する国民経済という枠で考えたときは、ある条件をつくりだすことで、この二つの規定性(制約)から逃れることができる。


【「供給→需要原理」から脱け出す方法】

「供給活動に投じたお金が供給された財に対する需要額を決定する」は、輸出で無効化できる。

上述のモデルを再び使って簡単に説明する。
経済主体Aは1000単位のお金を供給活動に投じて500個の消費財を生産したが、そのうち100個を輸出し、400個を国内で販売した。

国内の需要金額は1000単位と変わらない。(この国が最高の生産性を達成しているので、外国からの輸入はない)
国内で販売する消費財は400個だから、2.5単位の単価で売れ、1000単位を回収できた。
輸出した100個も2.5単位で販売し250単位を回収した。
国内と輸出で合計1250単位の売上である。

経済主体Aは、100個を輸出することで、250単位の利潤を得ることができた。

※ ここのミソは、国内の需要額(=供給額)はそのままで、財の供給量だけが減少したことで国内で高く売れたことである。輸出は、需要額を増やす一方で、製造拠点国内への財供給量を減らすというダブル特典の経済行為なのである。


【競合環境】で説明したAとXが同じ使用価値がある消費財を供給しているケースを考える。

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【競合環境B】

生産性の悪い経済主体Xは供給活動に600単位投資し、生産性が高い経済主体Aは460単位投資し、1000個の消費財を生産した。供給額(=需要額)は1060単位である。

AもXも、それぞれ250個を輸出した。

国内で販売した消費財は、単価2.1単位で全量を販売し、AもXもそれぞれ525単位を回収した。

輸出価格は両者とも2.1単位で、それぞれ525単位を回収した。

Aは、供給投資額が460単位で1050単位を回収したから利潤は590単位である。
Xは、供給投資額が600単位で1050単位を回収したから利潤は450単位である。
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※ 国内市場で競合しているときは一方が壊滅的な損失を被ったのに、輸出を行うことで、両者が利益を上げ、より生産性が高いほうが多くの利潤を手にするだけの差にすることもできる。


「近代の供給活動に必須の機械装置(固定資本全般)に対する需要は“一過性”である」も、輸出の拡大が維持できるなら逃れることができる。

経済主体Aは、生産している消費財が外国でも売れることがわかったので、毎年は投入しないでいい固定資本向けのお金から減価償却分を差し引いたお金と輸出で得た利潤を、固定資本の増加と流動資本(労働力と中間財)の増加に振り向けて生産規模を拡大した。
(より多くの資本が必要なときは、銀行から借り入れるだろう)

このような固定資本の増加が持続的であれば、機械装置を製造する経済主体の需要も安定的で持続的なものになる。
固定資本が増加すれば、それを動かす労働力も増やさなければならないし、中間財の仕入れも増やさなければならないから、労働力の購入(雇用)が拡大する。
(中間財の仕入れも固定資本の発注も、突き詰めれば労働力の増加であり、需要につながるものである)

もう一つ、新しい消費財が開発され供給されることで、固定資本(機械装置)関連の供給活動が増大するとともに、国内の需要額も増加する。
新しい消費財が開発され供給される条件も、開発に従事する人たちの給与を支払うことができ、新しい固定資本を購入できることだから、利潤の蓄積が前提である。ということは、輸出(貿易収支黒字)の維持が必須である。

利潤をもたらす輸出の増加は、余裕ができた可処分所得をターゲットにした供給活動の増加を促す。

上述の【競合環境B】では、生産性が低いXも大きな利潤を上げている。
このような状況を見た経済主体Wが、商売のチャンスと考え、まったく新しい消費財を供給することにした。
この供給活動には300単位が投じられた。固定資本(機械装置)製造者にも需要が発生する。

XとAの供給額は1060単位だから、Wの300単位と合わせると国内需要額は1360単位になる。

Wが供給した財は目新しさもあって人気で、500単位を回収して、200単位の利潤を得た。

AとXが供給する消費財の需要額は860単位になった。

AとXは、輸出でそれぞれ525単位を回収している。

かつては国内の単価が2.1単位だったが、Wの参入で需要額が減り1.72単位になった。
それでも、AとXは国内でそれぞれ430単位を回収できるから、輸出と合わせると利潤を得ることができる。

Aは、供給投資額が460単位で955単位を回収したから利潤は495単位である。
Xは、供給投資額が600単位で955単位を回収したから利潤は355単位である。
Wは、供給投資額が300単位で500単位を回収したから利潤は200単位である。


※ ここのミソは、A・X・Wの利潤総額が1050単位で、輸出総額(貿易収支黒字)の1050単位と同額であること。利潤は、輸出をしているかどうかに関わらず魅力的な財を供給した経済主体がより多く手に入れるとしても、貿易収支黒字の争奪戦なのである。


近代産業資本主義は、共同体(国家社会)の需要を超えた過剰生産(供給)力を輸出(外部需要)で打ち消すことを前提としたシステムである。
この意味で、近代産業資本主義は根っからグローバリズムを内に抱えている。

輸出増加(貿易収支黒字)を牽引力として、供給される財の種類が増えること(=供給活動に投じられるお金が増加すること)が産業連関的に国民経済を成長させていく。

他の供給活動が増加することで、AやXが供給する消費財の需要も、欲しくて買えなかったひとがいるものなら増える。AやXが新しい消費財を開発する力を持っているのなら、他の供給活動のおかげで増加した需要をより多く自分のものにすることができる。

なににしろ、供給活動に投じられるお金が増えない限り、需要額も増えないのである。
今回のシリーズで何度も書いたように、利益を上げて余裕資金を持っている企業が供給活動に投じる金額を増加させない限り、GDP的需要は増加しない。
ポイントは、利益を上げている企業が供給活動に投じる金額を増加させても、そのお金は回りまわってその企業の懐に戻ってくるということである。
(トヨタであれば、トヨタが人件費を増加させるかたちで供給活動に投じる金額を増加させれば、販売台数は増えないとしても、価格がより高い自動車が売れるようになる)


【供給額=需要額と供給量】

財の価格は、上述したように需要額/財供給量で決まる。

デフレは、財供給量の増加ほど需要額が増加しないことで起きる経済事象である。
(インフレは、財供給量の増加を超えて需要額が増加することで起きる経済事象である)
ともに絶対量が問題ではなく変化率が問題である。

供給が過剰だ!と叫ぶ人は、価格算定式の分母に着目しているのであろう。
算術的には確かに財供給量が減れば、財の価格は上昇する。
しかし、需要額は供給額に規定されるものである。
財の供給量が減るということは供給活動に投じられるお金の減少につながるものだから、分子である需要額も減少することになる。
需要額を減らさないまま財の供給量を減らすというのは、企業が遊んでいる人にも給与を出すことでしか達成できない。

デフレを解消するためには、国内に供給される財の量を減らすか、需要額=供給額を増やすしかない。
供給量を減らさないで国内に供給される財の量を減らす経済行為は輸出の増加である。
しかし、昨年から今年にかけての輸出増加でもデフレから脱却できていないことや世界経済の動向から、輸出に依存してデフレから脱却することを考えるのは無責任である。

そうなると残るデフレ解消策は、需要額=供給額を増やすことだけである。
財の供給量は同じでも、需要額=供給額を増やせば財の価格は上昇する。
財供給量の増加率がゼロで、需要額=供給額の増加率がプラスであれば財の価格は上昇する。(将来の不安がなければだが..)

デフレは、膨大な固定資本を基礎とする産業や多額の債務を抱えている企業にとって大きな災厄である。

同じ量の財を供給するために供給額を増やしたとしても、国民経済的連関性から供給活動主体に戻ってくる。
増えた供給額=需要額の争奪戦はあるとしても、競争力で優っている経済主体(企業)がより多く、劣った企業はより少なくという結果だからことさら問題にすることはない。(競争力に劣る企業は供給額を増やしていないはず)

デフレという災厄が除去できるなら、自由競争で取り分に差があるとしても、損はしない供給額の増加策はなんら躊躇することではない。
もちろん、どこかまともな個別企業がひとりだけで供給額の増加(給与引き上げ)を行えば、その企業は赤字に陥る恐れがある。
このような愚を避けるためには、せっかくある日本経団連が音頭をとって、優良企業が一斉に供給額の増加を行わなければならない。

供給額が増加するということはコストが増加することは確かだから、輸出競争力が心配になる。
この問題も、変動相場制や世界的な分業構造における日本産業の圧倒的な強さを考えれば心配する必要はない。

※ 参照投稿

『「産業資本主義」の終焉:外国為替レートの変動論理:固定相場制と変動相場制の違い』
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/853.html

『「産業資本主義」の終焉:購買力平価を大きく超える「円高」になっている理由:“円高恐怖症”自体がその一因』
http://www.asyura2.com/0406/hasan36/msg/112.html


もう一つのポイントは、資本財(固定資本)や中間財の需要は消費財の「供給=需要」額に規定されるということである。
それ自体が最終的に消費されたり利用されるものではない資本財(機械装置)や中間財(鉄鋼や部品)は、消費財の供給活動(=需要)に左右される供給活動である。

産業資本主義は、機械で財を生産するようになったことよりも、効率的な供給(生産)手段である機械を機械で生産するようになったことに最大の特質がある。
この特質は、消費財を生産するための手段を製造する活動力にとどまらず、生産手段を生産するための手段を製造する活動力に支えられているという深く広い産業連関性を意味する。
このような産業構造が、後進国が先進国にキャッチアップすることを阻んでいる。
日本などから機械装置を輸入して消費財を生産することはできても、機械装置を生産するための機械装置まで生産できるようになるには、長い期間をかけた技術の蓄積が必要である。
そして、そのような蓄積と深い連関性から製造される機械装置は、後進国にとってはバカ高いものである。(13億人が生活している中国のGDPが日本の1/3しかないことを考えれば、そのバカ高さをイメージできる)
日本とドイツが高い産業力を誇っているのは、機械装置を生産するための機械装置まで生産できる高い産業力が基礎としてあるからに他ならない。

供給活動に投じられるお金の縮小は、そのまま需要の縮小であり、競争力の源泉である生産性上昇を高める固定資本関連の供給活動も縮小させる。このような動きは、国民経済を低迷させるのみならず中長期的には競争力を劣化させることになる。

個々の企業が生き残りのために行っているリストラ(人員削減や給与引き下げ)が、いかに馬鹿げた自殺行為であるかおわかりいただけると思う。


■ ケインズの「有効需要の原理」は“犯罪的”経済政策論

「供給→需要原理」が腑に落ちないひとは、ケインズの「有効需要の原理」を知っているひとだろうと推測する。

そうでなくとも、35兆円という膨大な赤字財政支出で下支えされている日本経済の現状を考えれば、「需要→供給」を無視することはできないという考えるひとも多いだろう。

ケインズの「有効需要の原理」は「セイの法則」に対する懐疑や批判を通じて生み出された。
マルクスも、貨幣の蓄蔵機能から「セイの法則」を批判し、恐慌が発生する論理を展開している。

両者の「セイの法則」に対する批判は、供給活動に投じられたお金+α(輸出)が回収されたとしても、利潤を含むすべてのお金が再生産過程に投じられるわけではなく、失業者の増大や企業破綻の続出(恐慌)は避けられないという点に集約できる。

「供給→需要原理」ではなく「セイの法則」は、供給=需要を重視して需要不足は起きないから失業も発生しないということにまで踏み込んでいるから、失業が社会問題化し恐慌も周期的に起きる現実を見た両者の批判は一概に誤っているとは言えない。

「有効需要の原理」は、「需要が供給をつくる」という考えから、政府が赤字財政支出で需要を創造すれば供給活動が活発化するという主張につながっていく。

※ 赤字ではない税収範囲内の財政支出は、供給活動に従事したひとたちや企業が所得の一部を他の人たちに移譲するものだから、新たな需要をつくるわけではなく、「供給→需要」の在り様(配分)を変えるだけのものである。
 自分が海外旅行を我慢する代わりに、子どもたちが無料で学校教育を受けられるようになり、納税したお金は教師の生活費として需要に回ると考えればいいだろう。


「有効需要の原理」は、需要は供給活動に投じられた金額を最大値とするという原理が現実として最大値にならなかったときや輸出が増加しないときの“補填策”であり、経済論理というより経済政策論を支えるものである。
より的確に言えば、余剰のお金を持っているひとから税を徴収しないで、利払いを約束してそのひとたちからお金を借りて政府が事業を行い、将来多くの国民から徴収する税金でそのひとたちに約束通り債務を果たすという“犯罪”的な政策である。
政府にお金を貸して行われる政府支出で潤うのは、お金を貸した人たち(企業)である。
貸したお金が需要になることで供給活動で利益を上げることができ、貸したお金が利息付きで返済されることでまた儲けることができるという、一粒で二度おいしい話なのである。
「有効需要の原理」が最大の“金持ち優遇策”であり低中所得者を困窮化させる政策を支える理論だということを見抜けないひとは経済学者の看板を降ろすべきである。


※ 参照投稿

『「匿名希望」氏へのレス:ケインズ的延命策の陥穽  《ケインズ主義は「近代経済システム」の“死期”を早めた》』( http://www.asyura.com/2002/hasan12/msg/1118.html

それはともかく、このような「有効需要の原理」を支えとした赤字財政支出は、世界的な経済変動のなかで落ち込む需要を短期的に補う範囲のものであって、中長期的に活用できるものではない。
そのわけは、この間の日本を顧みればすぐにわかる。
利息を支払い元本も返済しなければならないお金を原資にした赤字財政支出は、将来のフロー所得から吸い上げる額を増やしGDPの需要を縮小することにつながるからである。

日本経済は、貿易収支の黒字が10兆円で所得収支が6兆円と合計16兆円ほどの“利潤”がある。
供給活動に投じた額にその16兆円が加算されたものが、最大値の需要額である。
所得収支はともかく貿易収支黒字分が供給活動に投じられるのなら、名目GDPは年々10兆円ずつ増加していく。
(非金融事業主体の付加価値(供給額)はおよそ260兆円だから、10兆円は3.8%の重みがある)

35兆円の財政赤字支出・20兆円の財政投融資・10兆円の貿易収支黒字という需要プラス要因と供給量削減要因がありながら、「デフレ不況」に陥っていることが異常であるとの認識を持つことが処方箋を見出す出発点である。


★ インフレ政策

管理通貨制では、金融政策で見掛け(名目)の“需要”を増やし“利潤”をつくり出すことができる。
この“需要”や“利潤”は、固定資本の増加に伴う債務負担や減価償却費の捻出に貢献することで生産性の上昇がスムーズに達成できるようにする。

しかし、供給活動の増加や固定資本の増加につながらなければ、ただ財の価格が上昇するだけであることからわかるように、輸出のように真の利潤をつくり出すわけではない。

何より重要な点は、インフレ政策も、固定資本の増加など供給活動の増大がなければ現実化されないことである。
通貨供給量の増加は、相手が民間であれ政府部門であれ貸し出しを通じて行われる。
政府部門への貸し出しは、一時的には需要を増大させるが、将来の増税につながり需要を縮小させるものだから、需要の先食いでしかない。
民間企業は、需要が増大する見通しを持たなければ設備投資をしないから借り入れもしない。
(東京で賃貸ビルの供給=固定資本が増大しているのは、有利な条件(安くなった地価や建築費)を活かせば既存の需要を食えるという判断があるからで、GDPの需要を支えているとしても、不良債権の増大につながりかねないものである)

金融手法を使ったインフレ策は、輸出が増加し利潤が増大する経済条件があるときのみ有効なものとなる。


※ 参照投稿

『「産業資本主義」の終焉:インフレーションと経済成長(デフレーションと不況):インフレは産業への“賛助”である。』
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/786.html


『「産業資本主義」の終焉:GDPの名目成長率と実質成長率:インフレ(デフレ)と生産性上昇を理解するために』
http://www.asyura2.com/0403/dispute18/msg/830.html

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