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超巨大カルト、バチカン研究:(8)「世界統一神権国家」への道のり(C)シヨンから第2公会議へ
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/829.html
投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 7 月 08 日 06:39:36: SO0fHq1bYvRzo

超巨大カルト、バチカン研究:(8)「世界統一神権国家」への道のり(C)シヨンから第2公会議へ


このシリーズをお読みの大部分の人にとって、このシヨン運動、およびその創始者のマルク・サンニエのことは初耳だったと思います。(実は私もつい何ヶ月か前までは知りませんでした。)しかし、「オプス・デイと第2バチカン公会議は決して突然に現れたことではないはずだ。必ずそれ以前の動きがあったはずだ。」という直感を頼りにしてあれこれと探しているうちに、とんでもないヤツに出くわしたわけです。

先日、第2公会議を召集したヨハネス23世を選出した1958年のコンクラーベに関する重大な疑惑について投稿しました。
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http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/822.html
投稿者 バルセロナより愛を込めて 日時 2005 年 7 月 06 日 21:34:45
1958年のバチカン・クーデター:簒奪された「グレゴリオ17世」の教皇位
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今回はそのヨハネス23世とシヨン運動、そして第2公会議を取り仕切ったバチカンの僧侶たちとシヨンとの関係、さらに19世紀末ごろからこの公会議までのバチカン内外で暗躍する集団の動きをまとめてみることにします。

なお、この『超巨大カルト、バチカン研究』シリーズの過去の投稿一覧は、この記事の最後にまとめておきます。


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超巨大カルト、バチカン研究:(8)「世界統一神権国家」への道のり
(C)シヨンから第2公会議へ


●アンジェロ・ロンカッリとシヨン

マルク・サンニエが死亡したのは1950年のことだった。そのすぐ後のことである。サンニエの妻Rénéeは一通の手紙を受け取った。差出人は大司教アンジェロ・ロンカッリ、在パリのバチカン大使である。そこには次のことが書かれてあった。

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http://www.sillon.net/marc-sangnier.html
Sillon.net より Founder of the Sillon

【前略】

『私がカトリック青年団の会議で最初にマルク・サンニエの演説を聞いたのは、1903年か1904年のことでした。彼の言葉と魂のすばらしい魅力は私を勇気付けてくれました。私の若い僧侶時代全般でもっとも生き生きとした思い出は、彼の政治的・社会的行動と同時に彼の人格についてです。

1910年後半のピオ10世教皇聖下によるご勧告は、まさに慈悲深く愛情に満ちたものだったのですが、それに従った彼の高貴で率直な人間性は、私の心にとって本当の偉大さを示すものだったのです。

彼のような、フランス革命精神【本文はthe Gospel:この言葉はフランスでは聖書の「福音」の他に”the gospel of revolution”, “the Gospel of Jean-Jacques Rousseau”のようにも使う】と聖なる教会のどちらにも忠実で敬意あふれる魂は、栄光を保証する最も高い席に向かうものです。その栄光とは、小さき者たちを高いものにする方法を知っておられるキリストの栄光、そして彼の同時代の人々と繁栄以前に現在の生活の栄光でもあります。現在の人々にとってマルク・サンニエの例が一つの証としてそして励ましとしてあり続けるでしょう。

【後略、翻訳終り】
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アンジェロ・ロンカッリは後に、極めて疑惑のあるコンクラーベで、ヨハネス23世となる人物である。以前の教皇ピオ10世が「自由、平等、友愛」のフランス革命精神を極度に恐れ嫌悪していたのは有名で、ロンカッリがシヨンを禁圧するピオ10世の回勅を知らなかったはずは無いのだが、しかし彼はそんなことにはお構いなく、慈悲深いピオ10世とサンニエを並べて共に持ち上げている。

ロンカッリがサンニエの演説を聴いたのが1903年か04年ということだから、ちょうど22歳か23歳くらいの頃だろう。まだ正式にカトリック僧侶として認められていない時期である。彼のシヨン運動に対する強い関心には、貧しい小作農の出身という彼自身の身の上も影響しているはずだ。しかしロンカッリが直接にシヨンに関係した、という情報には私はまだ接していない。

このロンカッリの昇進ぶりも少々気になる。伏魔殿と言われるバチカンで様々な地位に昇進するのは、主に人脈とカネの力のはずだ。彼に特別の学識や鋭い神学理論が備わっていたとも思えないし、もしそうであったとしても、やはりその裏に太い人脈が無ければ、教皇から直々に何かの地位を任命されることは考えにくい。

1921年にベネディクト15世はロンカッリを「信仰の宣教会(The Society for the Propagation of the Faith)」のイタリア代表という重責に任命する。1925年にはピオ11世は彼をブルガリアのバチカン大使に任命、1935年にはトルコとギリシャの大使、1944年にはピオ12世によってパリの大使に任命された。こうやって彼は「外交畑」で活躍し、特にトルコではユダヤ機関を助けて大勢の東欧のユダヤ人をパレスチナの土地に送る力となった。最初の赴任地もブルガリアという東欧である。そして1953年にはベニスの主教座大司教という極めて重要な地位に着き、同時に教皇選出の投票券を持ちまた新教皇の候補の可能性がある枢機卿に抜擢された。

ロンカッリ(ヨハネス23世)は「善良な教皇」と呼ばれたが、人の好さで昇進することはありえない。貴族出身のピオ12世とは異なり資金力と政治力を自らが持っていたとも考えられない。とすると、彼のバックによほど強大な勢力がいなければならなかったはずである。その勢力が何なのかは明確ではないが、最近の私の投稿『1958年のバチカン・クーデター』でも申し上げたように、前後の流れとの整合性で推測は付く。

また『超巨大カルト、バチカン研究:(2)第2バチカン公会議「カトリックのユダヤ化」』でも述べたが、ヨハネス23世が誕生したときに米国の大新聞(ユダヤ系の資本に牛耳られる)がこの決定を賞賛したと言われる。もちろん表面的には彼がトルコにいた時代の行動によるものだろうが、それだけとは思えない。ロンカッリは就任後わずか3ヶ月で公会議召集の意志を表明した。ということは、そのはるか以前からすでにその強大な勢力によって「公会議」の筋道が立てられていた、という以外には考えられない。

それがシヨン運動と関係があるのかどうか、これもまだはっきりとはしないが、しかしヨハネス23世がそのわずかの在位中に命をすり減らして実行した第2バチカン公会議の召集と、この会議での決議事項がほとんどシヨン運動の発展形であったことを考えると、シヨンからこの公会議までの流れの背後に潜む強大な勢力による、非常に太く濃い一本の線を想定することができるだろう。


●ジョセフ・カルディジンとピエトロ・パヴァン

ここでシヨンと第2バチカン公会議を結びつける重大な人物を紹介しよう。ベルギーの神父で第2公会議の時には枢機卿であったジョセフ・カルディジン(Joseph Cardijn:1882〜1967)である。彼は第2公会議を推進させる重要人物の一人であったと同時に、ベルギーにあるカトリック団体「キリスト教青年労働者運動(the Young Christian Workers (YCW or JOC) movement)」の初代の主任司祭である。

現在でもこの団体の支持者たちがカルディジン研究のホームページを持っている。
http://cp.cardijn.info/vatican2.shtml

公式にはこのYCWは1925年にできたことになっている。しかしカルディジンはしばしば1912年、あるいはもっと早く誕生していた、と語っている。ということは、シヨン運動がピオ10世によって潰されたあとにすぐにそれを引き継ぐ形で誕生した可能性が高い。バチカンの中でピオ10世の回勅はかなりの数の幹部からは無視されていた、と言えよう。

ここでYCW運動とシヨン運動について研究する文章Healing the Fractured Memory of the Lay Movements(俗人運動の傷ついた記憶の癒し)を読んでみよう。これはACMICA(Australian Catholic Movement for Intellectual & Cultural Affairs)のサイトにあるStefan Gigaczの文章の一部である。(2004年5月)(これは親シヨンの立場で書かれている。)

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http://www.acmica.org/pub_gigacz.html

【前略】

私がさらに調べたところ、カルディジンはその生涯を通してある鍵となる言葉を使い続けた。それはシヨンのうたい文句、あるいは合言葉とすら言えるものである。その最も重要な例は、シヨンが民主主義について定義した「それぞれの人間の市民としての良心と責任を最大限にさせる社会組織のシステム」という表現の中に見つかる。その合言葉「良心と責任」はこうしてシヨンのトレードマークとなった。ちょうど「行動の中の観想」がイエズス会のトレードマークとなっているのと同様のあり方である。

1921年にマルク・サンニエを迎え入れたときから、カルディジンはこの定義に言及することを決して止めなかった。この「良心と責任」という言葉は、カルディジンのあらゆる主要な発言の中にさまざまなあり方で姿を現すことになる。それには1951年のローマでの国際俗人使徒職会議、そして最も重要なことには、第2バチカン公会議での彼の三つの演説に現れている。

その言葉は教皇ヨハネス23世の1961年の公式書簡である Mater et Magistraの中にすら発見できる。その文書の中でカルディジンは、ヨハネス教皇に提案してこの書簡が目指すべき方向の概要を指し示した、と評されている。この「責任」、「良心」および「自覚」(フランス語の“conscience”には「良心」「自覚」の二つの意味がある)に対する同様の強調は、1963年のPacem in Terris【「地上における平和」、ヨハネス23世による書簡】にも現れている。

同じ言葉が1965年の第2バチカン公会議の最終部会で採用された数多くの文書の中にも現れていることを私は発見した。その部会ではカルディジンが議長を務めたのである。これらの文書にはGaudium et Spes (近代世界での教会)、Apostolicam Actuositatem(俗人使徒職)、Ad Gentes(宣教活動)、Dignitatis Humanae(信教の自由)が含まれている。この最後の文書Dignitatis Humanaeの冒頭には次のように書かれている。

『人間の尊厳という考え方は現代人の意識の中に益々深く自らを焼き付けつつある。そして、強制によらず義務の意識に動機付けられた責任ある自由を喜び利用しながら、人が自らの判断に基づいて行動すべきである、という要求が日増しに強くなってきている。』

明らかにDignitatis Humanaeは、カルディジンの盟友であり同盟者であったモンシニョール(後に枢機卿)ピエトロ・パヴァン(Pietro Pavan)が最初の草稿を書いたものである。パヴァンは同時にMater et Magistra およびPacem in Terrisの草稿の作者でもあった。

実際に、カルディジンとパヴァンは、シヨンによる民主主義の定義を、第2バチカン公会議の数多くの重要なコンセプトの中心部に埋め込むことに成功した。その中には例えば信教の自由、俗人の果たす役割、現代世界での伝道、そしてローマ教会の宣教活動さえもある。それは信じがたいほどの成功だった。特に50年前にピオ10世がシヨンの民主主義の考えをフランスの神父に対する回勅で厳しく非難し閉鎖に追いやったことを考えるとなおさらである。この公会議以来、多くの伝統主義者たちがこの「良心と責任」という言葉を異端であるとして攻撃し続けているのは驚くべきことではない。

【後略、翻訳・引用、終り】
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これでシヨンと第2バチカン公会議の関係は明らかであろう。そして前回お知らせしたように、オプス・デイの出自にも一筋の光が当てられる。ヨハネ・パウロ2世のころから現在もバチカンの国務長官を務めるアンジェロ・ソダノはオプス・デイと極めて近い筋(はっきりと会員であると断言する人も多いが真相は秘密である)なのだが、そのソダノが2000年10月のバチカンの公式書簡の中で、このカルディジンが育てたベルギーのYCW運動を絶賛している。さすがにシヨンやサンニエの名を直接出してはいないものの、明らかにその思想を褒め称えているのである。さらにオプス・デイの操り人形であったヨハネ・パウロ2世がフランス革命の基本精神を賞賛したことは前回お知らせしたとおりである。

このカルディジンについてもう一つ忘れてはならないことがある。それは米国のカトリックに対する影響である。2003年の書評集の中に、「AMERICAN CATHOLICS: GENDER, GENERATION, AND COMMITMENT」という本の書評がある。その一部を見てみよう。

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http://www.stfrancisonline.com/messenger06_03.html

【前略】

俗世間の事柄への教会活動の参加を要求する声は新しいものではない。20世紀の初期にベルギーのジョゼフ・カルディジン枢機卿が「観察し判断し行動せよ」というスローガンを用いてキリスト教労働者青年団(YCW)とキリスト教学生青年団(YCS)を築き上げた。これらの最初はヨーロッパのグループから始まった考えが、合衆国で労働運動とキリスト教家族運動の中に広まっていったのである。

【後略、翻訳・引用、終り】
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カルディジン自身がイエズス会であった形跡は無いが、この明らかにシヨン運動を継承する神父の運動とその米国への波及が、『超巨大カルト、バチカン研究:(1)第2バチカン公会議「カトリックの米国憲法化」』で申し上げた米国イエズス会のジョン・コートニー・マレー神父による信教の自由に関する研究とパラレルであることに注目すべきだろう。第2公会議で「信教の自由」をうたったのは先ほど登場したDignitatis Humanaeという文書である。ここに欧州での「フランス革命→シヨン運動」と「アメリカ革命→合衆国憲法」がみごとにバチカンの中で合体したわけである。

またヨハネス23世とオプス・デイの創始者エスクリバーの関係については前回の『(7)「世界統一神権国家」への道のり(B)シヨンからオプス・デイへ』で申し上げたとおりである。エスクリバーは『私はヨハネ23世聖下のまことに優しく父のような魅力に触れてこのように申し上げました。「教皇様、オプス・デイではカトリックであろうがなかろうが、常にすべての人のために場所があります。私は教皇様からエキュメニズムを学んだのではありません」。教皇様は感動して微笑んでおいででした。すでに1950年に聖座はオプス・デイがカトリックでない人やキリスト者でない人々を協力者として受け入れることを認めたのをご存じだったからです。』と語った。1950年と言えばロンカッリ(後のヨハネス23世)がサンニエの未亡人に彼を賛美する手紙を出した年でもある。


●イエズス会のユダヤ人、マラキ・マーティン

ここで、先日私が別途に投稿した『1958年のバチカン・クーデター』について、第2バチカン公会議との関連でもういくつか重大なことを書いておかねばならない。
(参照)
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/822.html
1958年のバチカン・クーデター:簒奪された「グレゴリオ17世」の教皇位

この年のコンクラーベで「グレゴリオ17世」の教皇位を剥奪されたと伝えられるジュゼッペ・シリ枢機卿はゴリゴリの本来の意味の保守派で(ベネディクト16世ことラツィンガーの偽保守とは異なる)、彼が教皇になったとしたら「カトリックの近代化」など決して許さず公会議召集はあり得なかっただろう。

このシリがいったんは選出された後で、もし彼が教皇になれば共産圏の国々で「カトリック教徒のボグロムが起こるだろう」という情報を入れたのは誰か。シリの支持者たちによると、それは、後に還俗して作家となるマラキ・マーティン(Malachi Martin)であったという。
(参照)
http://en.wikipedia.org/wiki/Papal_conclave%2C_1958
Wikipedia:Papal conclave, 1958より、The mysterious case of 'Pope Gregory XVII'

マラキ・マーティン(1921〜99)はアイルランド出身のイエズス会神父であり、この当時から第2公会議の時期にかけてアウグスティン・ベア枢機卿の私設秘書をしていた。ベアについては『超巨大カルト、バチカン研究:(2)第2バチカン公会議「カトリックのユダヤ化」』でご紹介したが、改宗ユダヤ人の枢機卿と言われておりこの公会議では特にユダヤ人とユダヤ教に対するカトリックの態度を180度転換させた。中には彼を非改宗ユダヤ人、つまりカトリック内のあからさまなユダヤ教徒とまで呼ぶ者もいる。

そしてベアの私設秘書マラキ・マーティンもまたユダヤ人銀行家の子孫であり、ベア枢機卿の卓越したブレインであった。第2バチカン公会議の最重要文書の一つNostra Aetate (教会の非キリスト教宗教に対する関係についての宣言)はマーティン、ベアそしてロンカッリ(ヨハネス23世)によって作成されパウロ6世によって1965年10月に公表された。

このマラキ・マーティンについては次のサイトで詳しい。なかなかに面白い人物である。
http://www.revisionisthistory.org/occult3.html
The Passing of a 20th Century Judas
http://www.revisionisthistory.org/occult2.html
Dossier on Jesuit Conspirator Malachi Martin

もしシリ枢機卿を断念させた「脅迫」がマーティンから(おそらくベアも一枚噛んで)もたらされたものであれば、このような策動を作り上げたものの正体は明らかだろう。次のような指摘がある。Bible Believers' Newsletter #164からである。

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http://www.biblebelievers.org.au/nl164.htm

【前略】

教皇ピオ12世の時代に、ジョゼッペ・シリ枢機卿(1906〜1989)は天才的であり1944年に司教、1953年に枢機卿となった。彼はピオの後継者として決まりであるとまで言われた。そして1958年のコンクラーベでアンジェロ・ロカッリ(後の教皇ヨハネス23世)との激しい戦いを行った。世界ユダヤ人会議やブナイブリス(ユダヤのメーソン・ロッジ)などの数多くの伝統的な敵対グループは、ロンカッリのためのキャンペーンを遂行していた。

ヨハネス23世(1958年)とパウロ6世(1963年)のコンクラーベの場合には、(外部との)コミュニケーションがあった。その最初の方の(コンクラーベの)中では、何回もの投票があり、そこでは守旧派ブロックが1958年10月26日のコンクラーベ初日の第4回目の投票で明らかにシリを選出することに成功していたことは有名だ。

【後略、翻訳・引用、終り】
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後は『1958年のバチカン・クーデター』で述べたとおりである。シリはヨハネス23世の死後、1963年のコンクラーベでも最有力候補とされるのだが、そこでも次のような声がある。Sanctus.comからThe Pope: Could He Be Cardinal Siri?(教皇:それはシリ枢機卿だったのか?)という文章の冒頭部である。

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http://www.sanctus.cc/siri.htm

ボルゲーゼ殿下のドイツ人の従兄弟であるスコルテスコ殿下は、モンティーニ【パウロ6世のこと:訳注】が教皇座に選出されたコンクラーベの議長だったのだが、1963年6月21日のコンクラーベに関して次のような情報を与えている。『コンクラーベの間、ある枢機卿がシスティナ礼拝堂を去り、ブナイブリスの代表たちと会って、シリ枢機卿の選出を告げた。彼らは、教会に対する迫害がすぐにでも続くだろう、と返事をした。彼はコンクラーベの席に戻ってモンティーニを選出させた。』

【後略、翻訳・引用、終り】
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もちろん上記二つの資料の正しさを完全に証明することはほぼ永久に不可能だろう。密室の世界の出来事であり、また陰の演出家は証拠を残すほど頓馬ではない。ただこの2度のコンクラーベで明白に変化したローマ・カトリックの姿が、逆にこのような裏でささやかれる事柄の、全面的とまでは言わなくても、かなりの真実性があることを逆に証明するだろう。

そういえば、カトリックの教義を合衆国憲法化させたジョン・コートニー・マレーを公会議に送り込んだスペルマン枢機卿は、マーティンと同じイエズス会の重鎮で、ブナイブリスあたりとの関係も深かったはずだ。


●19世紀末にシヨン運動(シヨニズム)が起こりフランスを席巻しつつあるときに、たまたま偶然だろうが発音のよく似たシオン運動(シオニズム)が、欧州各地の民族主義の隆盛に対抗するように盛り上がっていった。シヨンとシオンを結びつけるものは何か。私の頭は、まだまだ個々の出来事の点と点が想像の中で線を作っている段階に過ぎない。

ただここまでで、まずバチカン内部のシヨンの流れを受け継ぐ集団(反対派からはたいていはフリーメーソンの手先と言われているが)、世界ユダヤ人会議やブナイブリスなどのユダヤ組織、そしてイエズス会が、この流れに直接に絡んでいる可能性が高いことだけははっきりした、と言える。

そしてその背景として『超巨大カルト、バチカン研究:(4)「ユダヤ教カトリック支部」?』で述べたように、19世紀から進行していたローマ教会とロスチャイルド家との関係、ラテラノ条約と1929年のバチカン銀行創設、そこでのユダヤ人銀行家ノガーラの活躍とロスチャイルド家との堅い連携、アニエッリ家やマフィアなどを通しての闇経済への参入、といった「物質的基盤」の変化がある。

第2バチカン公会議で発表されたバチカンの新方針の中で最も大切な「三つの柱」とよべるものが、@Dignitatis Humanae(信教の自由)、ANostra Aetate (他宗教との対話と協調)、AGaudium et Spes (教会の社会との積極的な関わり)であろう。これがすべてシヨンから発して、それが今まで述べたような幾つかの人脈によって、しっかりとローマ教会の中心に根を下ろしたのである。「自然の法則」でこのようなことは起こりえない。ある意図を持った人間集団による明確な見通しと粘り強い意思、強力な実行力の下で、始めてありうる変化であろう。

そして第2バチカン公会議以降、いわゆる「冷戦構造」の中で、シヨン運動の持っていたより右翼的・資本主義的な面を強調するバチカン主流派(オプス・デイが中心)と、より左翼的・社会主義的な面に集中するカトリック・リベラル(「解放の神学」派が中心)が、与党と野党となり、ある種の「2大政党支配」を形作っていた。公会議で「リベラル派」の中心人物として先頭に立って論陣を張ったラツィンガー(現教皇ベネディクト16世)がその後「保守派」に転向した、など、ヘソが茶を沸かす茶番劇に過ぎない。

その冷戦構造が消滅し、新たな「反テロ世界戦争体制」の中で進められることは何か。私は、シヨン運動についてピオ10世がズバリ見抜いた「世界統一宗教」への道ではないか、と考える。そしてそれはもうその入り口にまで来ているようだ。

宗教が政治・経済・軍事と一体化する方向性を持った瞬間に、それは人間を内側と外側の両面から支配するカルトと化する。そして20世紀の初期以来、ローマ教会は世界の政治的・経済的・軍事的な支配を、人間の内側からも完成させるための道具として着々と作り変えられてきた。その姿はシヨン運動からの流れをたどってみたときにより明らかなものになる。

次回のこのシリーズの見出しは『超巨大カルト、バチカン研究:(8)「世界統一神権国家」への道のり(D)』だが、(D)の先の標題はまだ決まっていない。次の投稿までには少々日にちが開くかもしれないが、現代カトリックのカルトとしての思想内容について触れてみたいと思っている。

【今までの『超巨大カルト、バチカン研究』シリーズ一覧】
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http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/282.html
超巨大カルト、バチカン研究:(1)第2バチカン公会議「カトリックの米国憲法化」
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/299.html
超巨大カルト、バチカン研究:(2)第2バチカン公会議「カトリックのユダヤ化」
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/351.html
超巨大カルト、バチカン研究:(3)ユダヤ人教皇ヨハネ・パウロ2世?
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/377.html
超巨大カルト、バチカン研究:(4)「ユダヤ教カトリック支部」?
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/444.html
超巨大カルト、バチカン研究:(5)「米国・バチカン同盟」の軌跡とオプス・デイ
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/789.html
超巨大カルト、バチカン研究:(6)「世界統一神権国家」への道のり(A)シヨン運動について
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/819.html
超巨大カルト、バチカン研究:(7)「世界統一神権国家」への道のり(B)シヨンからオプス・デイへ

(参照)
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/389.html
米国指導部にとって、カトリック、プロテスタント、ユダヤ教はすでに「一つ」ではないのか?
http://www.asyura2.com/0502/cult1/msg/822.html
1958年のバチカン・クーデター:簒奪された「グレゴリオ17世」の教皇位
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