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その時、馬に神が宿った3 _ ダイユウサク
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/401.html
投稿者 中川隆 日時 2010 年 9 月 02 日 23:36:39: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: その時、馬に神が宿った2 _ ステイゴールド 投稿者 中川隆 日時 2010 年 9 月 02 日 23:12:46)


「1991年有馬記念」

http://www.youtube.com/watch?v=7oW6b4o7a6s
http://www.youtube.com/watch?v=JAXC0AR1URU


史上最強の一発屋 ダイユウサク


1991年有馬記念(Gl)を、従来のレコードを1秒1縮める2分30秒6という脅威のレコードで駆け抜けて圧勝したダイユウサク

彼が記録した有馬記念のレコードは、2003年にシンボリクリスエスが2分30秒5を記録するまでの12年間にわたって破られることなく、有馬記念のレースレコードとして輝き続けた。

ダイユウサクが生涯最大・・・というより、おそらく唯一といっていい栄光の舞台となる中山競馬場に姿を現した時の大多数のファンの反応は、

「何しに出てきたんだ」

という程度のものだった。

有馬記念といえば、日本競馬の華ともいうべき中長距離の中でも最も高い格式を誇るレースのひとつとされるだけあって、Glの中でも番狂わせが少ないレースとして知られている。

そんなレースに紛れ込んだ彼は間違いなく異質な存在であり、本気で勝ち負けできると信じていた者は誰もいなかった。

その年の有馬記念の出走馬には、当時絶対的な王者といわれていた名馬メジロマックイーンまでいた。

単勝オッズ13790円で15頭だての14番人気にすぎなかったダイユウサクは、笑われながら出走したそのレースで、メジロマックイーンをはじめ並み居る強豪たちをまとめて切って捨てた。

その大番狂わせの衝撃は、翌日のレース評論で


「世紀末を理不尽馬が駆け抜けた」


と評されるほどだったのである。

 ダイユウサクの有馬記念は、ただのまぐれというにはあまりに鮮烈な印象を私たちに残した。

彼の名前は、脈々と続く有馬記念の歴史の中に、燦然と輝く栄光とともにはっきりと刻まれている。

 そんなダイユウサクは、今は競走馬としてだけでなく種牡馬としての戦いも終え、観光施設で静かな時を過ごしている。

彼の居場所は、彼自身が有馬記念を勝つことで勝ちとった安息の地である。

ダイユウサクがそこにたどり着くまでの間に歩んだ道とは、どのようなものだったのだろうか。


ダイユウサクの活躍は、7歳になっても終わることがなかった。

年初めの京都金杯(Glll)ではトップハンデの1番人気に応え、ついに念願の重賞初制覇を果たした。

その後、産経大阪杯(Gll)でもホワイトストーンの2着と頑張ったダイユウサクだったが、裂蹄を発症して半年の休養を余儀なくされると、復帰後は振るわない成績が続いた。

それまで長い間頑張ってきたダイユウサクだが、さすがに衰えてしまったのか。

内藤師をはじめとする関係者も、年齢が年齢だけに「もう駄目か」とがっかりしていた。

しかし、引退させる前にいろいろな方法を試してみようということで、次走のスワンS(Gll)で思い切った後方待機策をとってみたところ、ダイユウサクは鋭い末脚を見せて4着に食い込んだ。

そのため、内藤厩舎の人々はまた「諦めるのは早い」と思い直すようになった。

『伝統を超えた幸運』

 この年の有馬記念(Gl)は、皐月賞、ダービーを無敗で制してクラシック戦線を主導したトウカイテイオーが骨折で出走できないため、古馬最強と謳われるメジロマックイーンの独壇場となるだろうというのがもっぱらの予想だった。この年はトウカイテイオーに限らず故障で有馬記念を回避する有力馬が相次いだため、出走馬の層が例年よりも薄かった。

 もっとも、いくら層が薄いとはいっても、有馬記念は有馬記念である。重賞勝ちが京都金杯だけのダイユウサクが、ファン投票で選ばれるはずはない。

ダイユウサクが有馬記念に出走するためには、推薦委員会(当時)から推薦をもらう必要がある。

 登録されていたために審議の対象にはなったダイユウサクだったが、推薦委員会では、彼の出走の可否について激論がかわされたという。反対説の主たる論拠は、

「この程度の馬を出しては、伝統ある有馬記念の格が落ちるのではないか」

という一点に尽きていた。

この年はもともと登録馬が少ないため、推薦委員会の動向次第ではフルゲートにならない可能性もあった。だが、反対派は、ヘンな馬を推薦で出走させるくらいなら、フルゲートにならなくても格式にふさわしい馬だけで力勝負をさせた方がいいというのである


それでもダイユウサクは、有馬記念に何とか推薦されることになった。

中央競馬の1年を締めくくるグランプリがフルゲートにならないというのは、いくらなんでも情けない。

それに、ダイユウサクが本当の駄馬ならともかく、この年の初頭には京都金杯を勝ち、さらに前走でもトップハンデのOP特別を勝っている。

そのふたつの実績が、彼の推薦の大きな原動力となり、道は拓かれた。

 こうして有馬記念のゲートになんとか滑り込んだダイユウサクだったが、グランプリを控えての彼の調整は、内藤師の予想すらはるかに超える素晴らしいものだった。

もう一度同じ状態に仕上げろといわれてもできない、それほどの究極の仕上げが、この時のダイユウサクだった。

 内藤師は、有馬記念を数日後に控えたある夜、夢を見た。

夢の中で5枠に入ったダイユウサクは、メジロマックイーン以下のライバルを斥けて、先頭でゴールを駆け抜けていった

 そしてやって来た1991年12月22日、晴天に恵まれた第36回有馬記念(Gl)当日。

中山のメインレースの馬柱には、ダイユウサクの名前もあった。

「名前もある」―少なくとも大部分のファンにとって、ダイユウサクはただそれだけの存在にすぎなかった。


 1番人気に支持されたのは、大方の予想どおりメジロマックイーンであり、単勝170円の圧倒的人気だった。

メジロマックイーンは前年の菊花賞(Gl)、そしてこの年の天皇賞・春(Gl)を制し、さらに2ヶ月前の天皇賞・秋(Gl)では後続に6馬身差を付けて1着入線しながら、進路妨害をとられて無念の18着降着となっている。

天皇賞春秋連覇は幻に終わっても、現役最強馬としての実力は、誰もが認めるところだった。


そんなメジロマックイーン一本かぶりの雰囲気の中で、翻ってダイユウサクを見ると、買える材料は何もなかった。

出走馬中唯一の7歳馬という年齢。

これまでに好走したレースは2000mまでで、前走も勝ったとはいえマイル戦という距離実績。

ローテーションは中1週で、秋の臨戦過程は

朝日CC→京都大賞典→スワンS→マイルCS→OP特別→有馬記念

という過密かつ距離もバラバラとあっては、単勝13790円のブービー人気というのも致し方のないところである。

売れたダイユウサクの単勝は、内藤師の宣伝にも関わらず、単勝馬券全体の売上のわずか0.6%だった。

表彰式に出ることになった場合に備えて正装で中山競馬場に現れた内藤師は、

「先生、いったいどうしたんですか?」

とさんざんからかわれたという。

 ダイユウサク鞍上の熊沢騎手にとって、この日は初めての中山競馬場遠征だった。

そのため彼は、競馬場に来る時に道が分からず、迷ってしまった。

もっとも、熊沢騎手の東京競馬場での初騎乗はGlのオークス当日で、その時の彼は人気薄のコスモドリームで大穴をあけた前歴があった。

 そして、この日のパドックに姿を現したダイユウサクの馬体は光り輝き、過去最高の仕上がりを見せていた。

そして、黙然と闊歩する彼の中には、うち秘められた闘志が深く、深く沈殿していた。

・・・もっとも、気付く人はめったにいなかったが。

『―彼の名前は呼ばれない』

 メジロマックイーンのためのレース。

そうなるはずだったこの日の戦いの始まりを告げたのは、ツインターボと大崎昭一騎手の怒涛の逃げだった。

単騎逃げでもハイペースにしてしまい、最後には壮絶に潰れることが「お約束」になっていた個性派にとって、それはいつも通りの走りである。

メジロマックイーンと武騎手は、ハイペースを見越して中段に控え、「王者の競馬」に徹することにした。

他のすべての馬はメジロマックイーンの動きをにらみながらレースを進め、位置取りに大きな変動はないままに馬群は向こう正面へと進んでいった。・・・

ダイユウサクの名前はまだ呼ばれない。

 馬群がやがて第3コーナーを回っていくと、案の定、ツインターボはこの付近からあっという間に失速し始めた。

すると、前走で天皇賞馬の「名」のみを得たプレクラスニーが、評価に「実」を伴わせるために、江田照男騎手とともに進出を開始する。

レースの流れが動き始めたことを悟り、ついにメジロマックイーンも動き始める。

武騎手は、まくり気味に前へ前へと押し出していく。・・・

ダイユウサクの名前は、やはり呼ばれない。

 第4コーナー付近でまず先頭に立ったのは、プレクラスニーだった。

しかし、中山のスタンドにこだまする大歓声は、プレクラスニーに向けられたものではない。

「やはり王者がやってきた!」

 それは、大多数のファンの期待通り、確実に上がってきたメジロマックイーンのためのものだった。

『謎の馬』

 ジャパンC(Gl)の4着敗退で瞬発力不足が指摘されていたメジロマックイーンだったが、この日の脚色は違っていた。

懸命に逃げ込みを図るプレクラスニーも、中山直線の急坂、通称「地獄の壁」でついに脚が止まる。

「メジロマックイーンにだけは負けられない、負けたくない」

前走の天皇賞・秋で、6馬身差をつけられての2着に入線ながら、1着入線のメジロマックイーンが降着処分を受けたことで「天皇賞勝ち馬」とされる「屈辱」にさいなまれた江田騎手の心の叫びもむなしく、力尽きた秋の天皇賞馬に、現役最強馬は満を持して襲いかかった。

「差せる!」

 誰もがそう感じていた。

しかし、先頭の攻防に見入っていた人々の視界に、その時メジロマックイーンでもプレクラスニーでもない1頭の鹿毛馬が割り込んできた。


「あの馬は、何だ!?」


 彼は、そんな問いには答えない。

ただ、最内から1頭だけで馬群を突き抜けてくるのみである。そして、その弾丸のような伸びは、プレクラスニーはもちろんのこと、メジロマックイーンをもはるかに凌駕していた。

 黄色い帽子に操られたその馬は、抵抗するプレクラスニーをいとも簡単にかわして先頭に踊り出た。

プレクラスニーをかわして悠然と先頭に立つはずだったメジロマックイーンは、思いがけず現れた刺客に完全に足元をすくわれた形になった。

何とか態勢を立て直し、もう一度その馬をとらえようと懸命に追い込むが、脚色の違いは歴然としている。まったく届きそうにない。


 あっという間に突き抜けた鹿毛の馬は、後続を突き放すと、みるみるうちにセーフティリードを形成していった。

大観衆の驚愕の中、謎の馬はそのままゴールを駆け抜けた・・・。

『―そして、名前が叫ばれた』


  高々と左手を天に掲げたのは、熊沢騎手だった。


世間に名高い「あっと驚くダイユウサク」である。

 ダイユウサクは、メジロマックイーンに1馬身4分の1の差をつけ、完勝した。


これは、さすがのメジロマックイーンをしても届かない永遠の着差であり、勝ち時計の2分30秒6は、従来のイナリワンの記録を1秒1も縮める驚異のレコードだった。

場内は悲鳴にも似た喚声で騒然となった。


 ダイユウサクは、道中ずっとメジロマックイーンの後方に待機していた。

ツインターボの逃げでペースが吊り上がり、ツインターボの失速とともにプレクラスニーやメジロマックイーンがまくったことから形成された厳しいペースを衝いた、鮮やかな差し切り勝ちだった。

無尽蔵のスタミナを誇るメジロマックイーンだったが、この一世一代の鬼脚の前にはまったく為す術がなかった。
http://www.retsuden.com/vol2-01.html

 

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コメント
 
01. 2010年12月14日 07:03:12: knHrmSjd8A
前日のスポニチの一面は、「絶好調のダイユウサクを見送る熊沢騎手」だった。
末脚の切味は、一級品で距離と脚元が不安材料だった。
密かに穴で狙っていた人でスポニチ見て、気が変わった人もいたと思う。

02. 2011年2月06日 12:46:02: MiKEdq2F3Q

なんとびっくりレッツゴーターキン!!


1992年 第106回天皇賞(秋) レッツゴーターキン
http://www.youtube.com/watch?v=V_qY6F8Og1Y


大崎「天皇賞に行こう」

周囲「え?」

記者「レッツゴーターキンなんてwww」

大崎「レッツゴーを馬鹿にするな!」

記者「wwwwwwww」

大崎「坂路で鍛えているし、東京の坂だって大丈夫」

記者「はいはいwww」


________


「さあ、さあ17万の大歓声!

4コーナーをカーブして直線コースに入ってきた!

先頭はダイタク! ダイタク先頭! ダイタクが先頭だ! ダイタクが先頭だ!

さあ、まだか! テイオーはまだか! テイオーはまだか!

テイオーは2番手! テイオーは2番手!

外のほうから懸命にナイスネイチャ突っ込んで来ている! ホワイトストーンもやって来た!

さらにはヤマニングローバル!

さあインコース懸命にテイオーだが、トウカイテイオーがインコースから!

ダイタク! テイオー! さあS・B対決になるのか!

しかし外から一気に後続が押し寄せてきた!

外から一気に後続が押し寄せてきた!

一番外からレッツゴーターキン!レッツゴーターキン!

レッツゴーターキン! ムービースター! レッツゴーターキン! ムービースター!

ヤマニングローバル! ヤマニングローバル! レッツゴーターキンだー!

何とびっくりレッツゴーターキン!

そして2着にムービースター! 大崎昭一やった!

レッツゴーターキン大外一気に駆け抜けた! 1分58秒6!

勝負はインコースのS・B対決ではなかった! 外から伏兵レッツゴーターキン、ムービースター!」

(三宅正治アナウンサー)

http://aimar.s18.xrea.com/meigen.htm

107 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 19:46:24 ID:yQsvRBcR0
ローカル帝王だったターキンを福島の後天皇賞に行かせたのが凄い。
前走福島の馬なんて買えるかってことで人気まるでなし。
あれは衝撃的だったなぁ。
パーマーとダイタクのバカ逃げ争いのハイペースに、
テイオーもついて言って巻き添え死亡してたなw

214 :名無しさん@恐縮です:2011/02/01(火) 18:45:27 ID:vB5tBG450
レッツゴーターキンってローカル競馬なんかに出ていたんだよね。
馬は知らなくても府中の乗り方を騎手が知っていたってのが当時話題だった。w


66 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 18:20:56 ID:EGCs0QEmO
このレース前に大崎が、
「レッツゴーを馬鹿にするな!」
と息巻いていたのは名言w
「レッツゴー」ってw


100 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 19:36:31 ID:7NBbDFBm0

レッツゴーターキンはパドックでも
「ここは福島や小倉じゃねーぞ」って野次られてたらしいね


166 :名無しさん@恐縮です:2011/02/01(火) 00:30:15 ID:BMhVto5i0
メジロパーマとダイタクヘリオスの喧嘩で超殺人ラップになった伝説のレースだな

169 :名無しさん@恐縮です:2011/02/01(火) 00:47:38 ID:hX3WvZvAO
>>166
最近はそんなレースがほとんどなく、スローのヨーイドンばかり

その辺も競馬離れが進んでいる理由のひとつでは?

ツインターボが出るだけで楽しみだったし、ズルズル下がって“バックターボ”とか見るのも楽しみだった


______________


 『地獄を見た男』

6歳になってからも相変わらず不振が続いたレッツゴーターキンだったが、新潟に遠征した彼は、そこでようやく復活の兆しを見せた。谷川岳S(OP)に出走したレッツゴーターキンは、そこで実に1年1ヶ月ぶりの勝利をもぎ取ったのである。レッツゴーターキンに復活のきっかけを与えたもの、それはある男・・・かつて地獄を見た騎手との出会いだった。

 大崎昭一・・・それが、レッツゴーターキンが新潟で出会った男の名前である。大崎騎手は、当時既に47歳を迎え、騎手の中でも指折りの大ベテランとなっていた。そして、そんな彼の大レースでの実績は、一流騎手として十分誇るに値するものである。大崎騎手は、

1969年のダイシンボルガード、81年のカツトップエースで日本ダービーを2勝、
67年のカブトシロー、79年のグリーングラスで有馬記念を2勝し、さらに
天皇賞も、75年秋にフジノパーシアで勝っている。

「泣きの昭ちゃん」の愛称で親しまれた彼は、確かに関東の一流騎手であり、日本の騎手界を代表するスター騎手にふさわしい活躍をしていた。

 しかし、そんな大崎騎手の運命は、1985年8月を最後に暗転した。大崎騎手は、この時新潟競馬場でたいへんな「事件」を起こしてしまったのである。そのことをきっかけに、大崎騎手の運命は暗転し、その後の人生には暗い影が落ちることになる。

 1985年8月25日、第2回新潟競馬6日目第9レース、赤倉特別。レース前に馬が外ラチ沿いへ寄っていった時、大崎騎手に1人のファンが声をかけ、大崎騎手もそれに返事をした。・・・そのひとことが運命の分かれ道だった。


 数日後のスポーツ紙に踊ったのは、「大崎不正行為」「騎乗停止処分」というショッキングな見出しだった。大崎騎手は、外ラチ沿いで声をかけられて返事をしたことで、

「特定のファンに対して馬の調子を教えた」

という疑惑を持たれ、「公正競馬に反する」と問題にされたのである。

 この事件についての大崎騎手の言い分は、

「馬の調子はどうだ?」

と聞かれ、反射的に

「いいよ」

と答えた、というものだった。しかし、周囲は必ずしもそうは見てくれなかった。それどころか、一部では

「金の動きがあったのではないか・・・」
「予想だけでなく、八百長もしていたのではないか・・・」

という何の証拠もない憶測が乱れ飛び、大崎騎手の名誉を失墜させた。この事件を理由として大崎騎手に課せられた処分が4ヶ月間の騎乗停止処分という極めて重いものだったことも、そうした憶測に輪をかけた。・・・そして、時を同じくして、ある週刊誌で大崎騎手の暴力団員との交際疑惑が報じられた。記事自体は出所すらはっきりしない記事であり、こんな時期でさえなければ、あふれる情報の波の向こう側へとたちまち消えていくようなものにすぎなかったが、そんな記事でも、「不正行為をはたらいて4ヶ月間もの騎乗停止処分を受けた」ということで既にうさんくさい目で見られるようになっていた1人の騎手に致命傷を与えるには十分なものだった。

http://www.retsuden.com/vol8-02a.html


 今いろいろしゃべると主人に叱られますけど、新潟のあれは仕組まれたんです。あの事件の少し前、若い人たちが調整ルームに外の人を入れて、新聞を広げて○×を付けていたんですって。それを主人が注意したそうなんです。その逆恨みなんですよ。主人のあのレースのとき、変だと思ったら新潟の場長さんに言えばいいのに、直接競馬会の本部に密告してるんですからね。最初から仕組んでたんですよ。
 もしも、これが真相であれば、その若い騎手たちに話が及ぶかも知れない。だからこそ、大崎は語らない。そういう見方もできるだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/goldhead/20090610/p2


 それまで大崎騎手を取り囲み、ちやほやしていた人々は、潮が引くように彼のまわりから離れていった。気がつくと、かつて彼を取り巻いていた人々の姿は消え、さらに彼に騎乗を依頼しようという調教師も、ほとんどいなくなっていた。

 ・・・この時のことについて、大崎騎手は多くを語らない。ただ、後にこの事件を振り返った彼は、

「あの時、俺は死んだんだ」

と述懐している。このひとことが、この事件で彼が失ったものの重みを感じさせてくれる。


 この事件の後、大崎騎手の本拠地である関東の調教師たちからは、大崎騎手への騎乗依頼がほとんどなくなった。馬に乗れない騎手が騎手を続けることはできない。こうして大崎騎手の騎手生命は風前の灯となったが、そんな苦境にあっても、すべての人々が大崎騎手を見捨てたわけではなかった。彼を救ったのは、関西を本拠地とする何人かの若手調教師たちだった。

「大崎の処分はおかしいんじゃないか」
「いくらなんでも、4ヶ月の騎乗停止は重すぎる・・・」

 大崎騎手が何をしたのか。その内容は、4ヶ月の騎乗停止処分という重い処分に見合ったものだったのか。・・・そんな基本的な部分さえもはっきりしないままに決まってしまった処分に対しては、当時から疑問の声も少なくなく、関東に比べて自主の機運が強いとされる関西では、特にその傾向が強かった。

 大崎騎手に対する処分に疑問を抱き、大崎騎手に同情した調教師たちの一部は、関東ではほとんど騎乗機会がなくなった大崎騎手のために自分たちの厩舎の馬の騎乗を依頼するようになった。この動きには、一流騎手とのつながりが薄い若手ゆえの、技術を持った騎手を確保するための動き、という側面もあったかもしれない。しかし、調教師たちが大崎騎手を信じてその再起を願い、大崎騎手もまた、彼らの助けによって引退の危機を免れることができたことは間違いない事実である。1986年以降の大崎騎手は、関東に本拠地を置きながら、その勝ち星のほとんどを関西馬で挙げるようになっていった。

 大崎騎手を支援する調教師たちは、一部で「大崎昭一に1000勝させる会」と呼ばれるようになった。それまでに通算631勝を挙げていた大崎騎手だったが、新潟での事件のせいで、騎手を引退した後に調教師になることは絶望視されていた。そんな大崎騎手を競馬界に残すため、事実上無試験で調教師になることができる特典を伴う1000勝を挙げさせてやりたい・・・。そんな思いを共有する調教師たちの中に、レッツゴーターキンを管理する橋口師も含まれていた。

http://www.retsuden.com/vol8-02a.html


 『ローカルのスペシャリスト』

 同じ宮崎県出身という地縁で結ばれていた大崎騎手と橋口師は、谷川岳Sを勝ったことにより、レッツゴーターキンという馬でも手を結ぶことになった。谷川岳Sを境として、レッツゴーターキンには大崎騎手が騎乗するようになっていった。

 すると、それまで成績の波が激しかったレッツゴーターキンが、安定した成績を残すようになってきた。北九州記念(Glll)ではヌエボトウショウ、小倉記念(Glll)ではイクノディクタスの2着に入り、さらに福島民報杯(OP)ではこの年2勝目を挙げた。そして、レッツゴーターキン陣営は、中央開催へと打って出ることを決意した。

 ただ、それまでのレッツゴーターキンの戦績を見ると、良績はローカル開催に偏っていた。それまでのレッツゴーターキンの戦績は29戦6勝2着5回だったが、そのうちいわゆる「中央開催」での戦績は16戦2勝2着1回だったのに対し、「ローカル開催」での戦績は13戦4勝2着4回である。全国の競馬場を回りに回り、このとき既に阪神・京都・中山・中京・小倉・新潟・福島に出走経験を持っていた(後に東京にも出走)レッツゴーターキンだが、そのことの背景には、そんな数字があった。

 ローカルが得意な馬は、「小回りが得意」「坂が苦手」といった理由があることが多い。そうした観点からすれば、コーナーのつくりが広く、さらに大きな坂もある東京競馬場は、最も不向きなコースにも思われる。事実、レッツゴーターキンはそれまで1度も東京競馬場でのレースには出走していなかった。しかし、そんなレッツゴーターキンが次走に選んだのは、東京競馬場のレースであるだけでなく、古馬の最高峰でもある天皇賞・秋(Gl)だった。

 レッツゴーターキンの関係者たちの中でも、橋口師などはレッツゴーターキンの天皇賞出走には消極的だったという。そんな彼に天皇賞行きを強く勧め、最終的に決断させたのは、大崎騎手の

「天皇賞へ行こう」

という言葉だった。・・・それでも橋口師の方は、レース当日まで半信半疑だったようだが。


 大崎騎手は、あらかじめ橋口師と話し合い、採るべき作戦を決めていた。レッツゴーターキンは、もともと末脚に賭ける差し馬である。ダイタクヘリオスとメジロパーマーという2頭の逃げ一手の馬が揃ってハイペースが必至と思われるこのレースでは、下手な小細工はせずに、最後方待機の直線勝負に賭けた方がいい。小回りのローカルで鋭い脚を使って勝ってきたこの馬なら、展開さえはまれば見せ場は作れるはずだ・・・。

 枠順の決定の際に、外枠不利といわれる東京2000mで、先行に有利な2番という内枠をひいた時には、ほんの少し好位につけての先行策に心が動いたという大崎騎手だったが、彼はついに作戦を変えることはなかった。ローカルとはいえ、それまでの競馬で築いてきた実績と信頼が、彼の作戦に自負と確信を与えていた。

 ただ、この作戦にはひとつだけ不安があった。レッツゴーターキンは、臆病といっていいほど繊細な馬である。初めての東京競馬場の大観衆、それもGlの異様な雰囲気に入れ込んでしまうと、最後方待機で我慢できないまま、なし崩しに脚を使ってしまうのではないか・・・それだけが心配のタネだった。

 レース直前になると、レッツゴーターキンは案の定、それまで経験したことのない大歓声に興奮していた。大崎騎手は、馬を落ち着かせようと思い、本馬場入場の時には、レッツゴーターキンを他の馬とは逆に回らせた。それで一度は落ち着いたかに見えたレッツゴーターキンだが、ゲート入りの際にはまた暴れ始め、今度は大崎騎手を振り落としてしまった。場内からは、思わぬアクシデントに苦笑いも起こった。

 ・・・しかし、大崎騎手を振り落としたことで、結果的にレッツゴーターキンは平常心を取り戻した。大崎騎手が再び騎乗すると、今度は至極冷静にゲートに収まったのである。しかも、大嫌いなゲート入りが最後に回されたおかげでゲート内にいる時間も短く済んだ。・・・そして、レースが始まった。

 この日展開されたレースの内容は、恐ろしいものだった。―それは誰もが予想したとおりの展開のはずだったが、まさかそこまで激しいものになるとは、誰1人予想していなかった。

 戦いは、メジロパーマーとダイタクヘリオスの激しい先頭争いによって始まった。1番人気のトウカイテイオーも、好スタートを切って2頭のすぐ後ろにつけた。

 この日のトウカイテイオーは、18頭立ての15番枠に入っており、外枠不利とされる東京府中2000mでは決して有利とは言いがたい位置にいた。スタートしてすぐに全馬が一斉に第2コーナーへ殺到するこのコース構造は、外枠をひいた場合、位置取りで大きな不利を受ける。トウカイテイオーの父シンボリルドルフが敗れたのも、17頭立て17番で出遅れたことが最後にたたったものである。

 しかし、府中コースを熟知した岡部幸雄騎手は、トウカイテイオーに見事なスタートを切らせることに成功した。・・・まさか、このことがトウカイテイオーにとってむしろ仇となっていくなどとは知る由もない。


 『死のハイペース』

 レースを引っ張るメジロパーマーとダイタクヘリオスは、互いにまったく退く気配を見せなかった。希代の逃げ馬であり、しかもいずれもGlをそれ以前に1つ、その後にもう1つ制した実力馬である彼らが互いに一歩も引かないまま激しく競りあったのだから、ペースがどうなるかは火を見るより明らかである。

 レースのペースは、みるみる吊り上がっていった。そして、トウカイテイオーをはじめとする先行馬たちも、否応なくこのハイペースに巻き込まれていった。

「速い!」

 ラップを見た人間は、皆自分の目を疑った。1000m通過は57秒5。通常の天皇賞・秋のラップより1秒は速い。それでもダイタクヘリオスとメジロパーマーは互いに譲らず、2頭の競り合いは第3コーナーと第4コーナーの間まで続いた。1400m通過が1分20秒8。これは、もはや驚異を通り越して狂気のハイペースである。いくら前の2頭が実力のある逃げ馬でも、これでは粘れるはずがない。

 トウカイテイオーは、前が失速していく中、第4コーナーのあたりから抜け出しにかかった。しかしいくらトウカイテイオーでも、この殺人ペースで3、4番手についてきて直線で抜け出し、後続を突き放すことは不可能だった。1600m通過タイムは1分33秒3であり、マイル戦の日本レコード1分32秒4と1秒も違わない。この年の春に同じ東京競馬場で行われたマイルGl・安田記念でのヤマニンゼファーの勝ちタイムは、1分33秒5だった。2000mの中間ラップなのにマイルGlを上回るタイムなのだから、いかに狂気のペースだったかが分かろうというものである。

 案の定、いったん先頭には立ったものの、坂を上がると、トウカイテイオーの行き脚はみるみる怪しくなっていった。無論、地獄を見たのはトウカイテイオーだけではない。先行馬有利のはずの府中2000mで、先行した有力馬がことごとく無惨な総崩れとなったのである。トウカイテイオーの横を、後方にいたがために殺人ペースに巻き込まれなかった格下の馬たちが駆け抜けて行く。その中に、大崎騎手に押されたレッツゴーターキンの姿もあった。

http://www.retsuden.com/vol8-03a.html


レッツゴーターキンは、ダイタクヘリオスとメジロパーマーが刻んだ狂気のハイペースに惑わされることなく、折り合いもしっかりとついたまま、直線まで後方に控えて脚をためていた。そして、先行馬たちが総崩れになる中で、彼の末脚は最大限の破壊力を発揮したのである。

 レッツゴーターキンの末脚は、直線で炸裂した。後方待機を決め込んだ橋口師と大崎騎手の作戦が、ピタリとはまった形である。もっとも、騎手も調教師もここまでのハイペースを予想してはいなかっただろうが、このハズレは、レッツゴーターキンにとってむしろ好都合なものだった。

 失速するトウカイテイオー、ダイタクヘリオスをかわしたレッツゴーターキンは、残り100mで突き抜けた。第4コーナーでは馬が後ろに4頭しかいなかったレッツゴーターキンが、その数十秒後には先頭でゴール板を駆け抜けていた。


___________


 『嗚呼、天皇賞馬』


 長い旅路の果てにようやく栄光を手にしたレッツゴーターキンだが、その栄光の向こう側に待っていたのは、厳しい現実だった。 レッツゴーターキンは、種牡馬入りした年には、繁殖牝馬の質はお世辞にも高いとはいえないながら、何とか25頭の種付けを確保した。・・・しかし、それだけだった。高くない人気は、落ち込むのも早い。次の年から種付け頭数は早くも一桁になり、落ち込んだ人気はその後回復することもなかった。

 1990年代以降、北海道の生産牧場は構造不況の直撃を受け、おまけに外国産馬の大攻勢もあって、経営者の冬の時代へと入っていった。種牡馬レッツゴーターキンも、やがて種付けがなくなって最初の繋養先を出され、何処かへと消えていった。種牡馬登録こそ抹消されていないものの、その行き先は杳として知れず、様々な憶測が飛びかった。


 『牛の牧場にて』

 一度消息が途絶えたレッツゴーターキンの行方が知れたのは、ある競馬雑誌の取材によってだった。その雑誌が内国産Gl馬たちの近況を伝える特集を組んだ際にレッツゴーターキンを発見し、その現況を世に伝えたのである。レッツゴーターキンは、「牛の牧場」にいた。

 北海道の牧場といっても、馬の牧場ばかりではない。レッツゴーターキンは、牛の飼育をメインとする牧場に引き取られ、牛たちと一緒に放牧されていたという。レッツゴーターキンがどのような経緯を経て牛の牧場に辿り着いたのか、その雑誌は詳しく語っていない。

 しかし、取材に際して牛の牧場で繰り広げられたという光景は、非常に印象的である。レッツゴーターキンの写真を撮ろうとした記者に対し、牧場の人たちは

「やめて下さい!」

と強い口調で止めたという。

「天皇賞馬が牛と一緒にいる写真なんて、あんまりだ」

と・・・。


人気が思わしくない種牡馬の中には、登録の抹消すらされないうちに行方不明となり、闇に消えていく者も少なくない。そんな中で、レッツゴーターキンは、純粋に彼を愛する人によってその命を救われたようである。ちなみに、その牧場がレッツゴーターキンを引き取った理由については、牧場主がレッツゴーターキンと大崎騎手のファンだったからである、と伝えられている。

http://www.retsuden.com/vol8-04a.html

126 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 20:55:43 ID:e50lmUK30

2011年1月30日 午前5時30分

レッツゴーターキンは23歳9カ月をもって命終いたしました。生前のご厚情を心より御礼申し上げ慎んでお知らせ致します。 1月8日朝に突然倒れ専門医とともに加療、一時小康を得ましたが、食欲の回復不十分、手を尽くしましたものの力及びませんでした。
(所有者コメント)
http://meiba.jp/detail.php?sn=1223

用途変更になる2008年まで毎年種付けもできてた。お相手が婆さん馬ばっかりだったから仔を取る気はなかっただろうが。 多分幸せな余生だったと思う。


23 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:40:34 ID:eh6NGyrP0
ほんと馬肉にされずに召されたのは良かったな

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1296462251/


「醜いアヒルの子」


 干された騎手と期待されない馬。
 陽の当たらない裏街道を歩いてきた一人と一頭が、中央の桧舞台で光を放つ。
 誰にも認められることのない一度きりの煌き。


 平成11年1月9日。競馬サークルにあるひとつのニュースが流れました。大崎騎手引退。現役最年長の大崎昭一騎手引退のニュースです。15日に、54回目の誕生日を迎える、その目前にしての引退。通算970勝、1000勝まであとわずか30を残しての引退でした。

 大崎昭一・・・通称“泣きの昭ちゃん”私の、大好きな騎手でした。

 その昭ちゃんが、1頭のサラブレットを引き連れ、中央の、しかも天皇賞という檜舞台に出てきたのは、今からもうずっと前のこと。昭ちゃんの思い出を胸に、最後の天皇賞を語ります。


******  フロック  ******

 競馬は、人知の知り得ない意外性の連続でありかつ固まりである、と誰かが言いました。とはいえ、大波乱の主役には勝つためには、“それなりの、根拠・・・”というものがレースの後につき、解釈がされるものです。

 例えば、

「もともと潜在能力はあったものの、体調の不備が重なったため結果が出せなかったが、本番で絶好の状態に仕上がった。」

 例えば、

「能力はあるものの、展開や流れに注文が多く、たまたま本番で条件が揃った。」

 などなど。しかし、レッツゴーターキンの天皇賞制覇については、誰もが

 「夢のような・・・」

出来事だったと振り返るのです。それは、レース後のあらゆる解釈の前提となるべき勝馬の能力を、「ついに、信じきれなかった」からに他なりません。

 “フロックでGTは勝てない”という格言に対して、ファンは天皇賞馬レッツゴーターキンだけはフロックだったのではないか、と最後までその実力を疑い続けています。しかし、私はレッツゴーターキンにとって、ファンのそうした疑念でさえ、ひとつの勲章であると考えます。なぜなら、歴代天皇賞馬の中でレッツゴーターキン、ただ1頭だけが “フロックで勝った”希有な存在であった、とも言えるのですから。

******  期待されない馬  ******

 レッツゴーターキンは、そもそも社台ファームの“売れ残り”でした。ダイナースクールでも売れ残った馬で、会員さんも「これしか残ってないので、仕方なく、」買われたそうです。その年の社台の男馬の中では、一番安い馬でした。 入厩してからも、腹が上がっていて全く見栄えが悪く、気性の悪い。坂路コース
から逃げ出すこともあったそうです。

「気性が悪いというよりも臆病だったのでしょう。ですから全く期待なんてしていませんでしたよ。1つか2つ勝ってくれればいいなって感じでした。」

橋口弘次郎調教師が当時を振り返る言葉です。


 その言葉通り、レッツゴーターキンはほとんど誰にも期待されない一介の凡馬として、平成元年12月デビューしました。14頭立ての6番人気。結果13着。惨澹たるものでした。もちろん、デビュー前から凡馬とみなしていた橋口師は、この結果に落胆することはなかったでしょう。

 その後も未勝利戦を6着、8着と負け続けましたが、2ヶ月半の休養でリフレッシュした後、ようやく未勝利を勝ち上がります。このとき18頭立て12番人気。単勝3920円という高配当。

 レッツゴーターキンがその素質を垣間見せたのは、500万条件を勝ち上がって迎えた中日スポーツ賞4歳Sでした。12頭立ての11番人気の評価に反発するように不良馬場のなか鋭く伸びて、ロングアーチとタイム差なしの2着。何はともあれ準オープンのドアをノックする地位までステップアップしました。

 菊花賞は11着と惨敗でしたが、これは出られただけでよし。そして5歳になってちょっと成長したレッツゴーターキンは、小倉大賞典、中京記念と重賞を連覇します。


「あのときは、能力があるのかな、とも思いましたけど。その後は惨敗が続きましたからねえ・・・」

橋口師が言う惨敗の足跡を列挙すると、次の通り。


 陽春S 6着
 新潟大賞典 9着
 阪神競馬場新装記念 12着
 金杯 12着
 日経新春杯 12着
 小倉大賞典 6着
 マーチS 5着

 まさに目を覆うばかりの参状。しかし、ここで転機が訪れます。

******  干された騎手  ******

 レッツゴーターキンにとって大崎昭一という1人のベテラン騎手、そう昭ちゃんとの出会いは、まさに邂逅と言っていいものでした。コンビを組んで第1戦、ウラ開催新潟の谷川岳Sでハヤブサオーカンをクビ差押さえて久々の勝利。当時すでにJRAから干され、かつ若手騎手の台頭によってますます華やかな舞台から追いやられていたベテラン・ダービー2勝ジョッキーと、凡馬の烙印を押されたサラブレットは、このとき歩みを共にすることになったのでした。

 橋口師はこう振り返ります。

「大崎さんは意外性のあるジョッキーと言うか、勝負強い人でしょう。これまでダービーをはじめとしてGTレースをたくさん獲っているけれど、人気馬に乗って、というのはあまりないんじゃないですか。

 レッツゴーターキンという馬も意外性のある馬だと思っていましたから、相性がいいんじゃないかなあ、と思ったんです。大崎さんはレッツゴーターキンの能力を完全に掌握していたし、レース展開や流れに応じて上手く乗ってくれたと思います。」

 谷川岳S後、人気になった新潟大賞典で

「ゲートで馬が何かに怯えて硬直してしまった」(昭ちゃん)

ため13着に惨敗するものの、レッツゴーターキンと昭ちゃんはこの後後方一気の追い込みで安定した成績をあげるようになります。

 北九州記念ではヌエボトウショウにクビ差惜敗。 小倉記念では58.5Kgを背負ってイクノディクタスにハナ差負け。しかし福島の民放杯で3馬身差をつけ強い勝ち方を見せると、昭ちゃんは“泣きの昭ちゃん”の異名に反してこう橋口師に言います。

 「天皇賞に行こう!」

 この年の天皇賞ではイクノディクタスが人気になっていたほどですから、その比較からすればそう差はないはず。内容を考えれば天皇賞でもかなりいい競馬ができる、そう昭ちゃんは踏んだのでしょう。そして何より、嫌われ者の自分に乗る馬を与えてくれる橋口師に、少しでも恩返しをしたい、という気持ちが強かったと思います。橋口師は、昭ちゃんと同じ九州の出身でした。橋口師は最後まで天皇賞に出走させることは半信半疑だったといいます。

「福島民放では強い勝ち方をしたんで、これなら天皇賞に出しても笑われることはないだろうと思って出しました。レッツゴーターキンはクラブの馬でしたから、会員さんの希望も強くて。使う前は勝ち負けなんて毛頭考えていませんでした。 色気なんてものは本当に、100%持っていませんでした。」

******  信じること  ******

 第106回天皇賞(秋)が行われた東京競馬場は、天皇賞(春)で5着に敗れた後、骨折による長期休養を余儀なくされたあの2冠馬・トウカイテイオーの半年ぶりの復帰戦とあって、18万ものファンによって埋め尽くされていました。もちろん、私も18万分の1。

馬場コンディションはパンパンの良。ターフの帝王の帰還に舞台は整っていました。

 当然のことながら1番人気はトウカイテイオー単勝2.4倍。以下ナイスネイチャ、ダイタクヘリオス、イクノディクタス、ムービースターと好調馬が続き、レッツゴーターキンは18頭立ての11番人気。まあ、そんなものか。

 レースは予想された通りメジロパーマーの先行で始まり、これに毎日王冠をレコードで逃げ切ったダイタクヘリオスが絡む。それはもう、緩みのない、すさまじい流れとなりました。

 トウカイテイオー、先行馬を射程に入れる3番手。これをマークする各馬もつられるように前々を進みペースが上がる。メジロパーマーの1000m通過は57秒5という超ハイラップ。このハイペースに、ひそかにほくそ笑んでいたのが、レッツゴーターキンの昭ちゃんでした。もともとスタートのいい馬ではないレッツゴーターキンを無理せずにスタートさせ、速い流れになると確信して後方待機に徹します。

「橋口先生からも道中は我慢して直線勝負と言われてました。好位につけるレースも考えたんですけれど、この馬の末脚を信じることにしました。」

 スタートしてレッツゴーターキンと昭ちゃんはピタリ折り合い、最初のコーナーをスムーズに廻ると案の定の速い流れ。これを3コーナー過ぎから徐々に仕掛け、追ってみるとグッとくる手応え!

「いけるかもしれない、と思いました。このペースでは前を行く馬は4コーナー手前で脚が鈍くなるだろう。レッツゴーターキンは左回りだと内にもたれる癖があるので左に鞭を入れたのを覚えています。勝利を確信したのは坂を上りきったあたりでしたね。もう後は横なんか見ないで真っ直ぐ追っただけです。」

 “馬の能力を信じて、逆らわずにその馬に合った乗り方をする”

というのは、ほとんどの騎手が使う常套句です。ですがもちろん、これは言うは易し行うは難しのことで、レースの明暗を分けるのは、どこまで馬の能力を信じきれるかにあるといえるでしょう。騎手がその馬の能力を把握しきる、これは並大抵のことではありません。レースの流れの中で仕掛けどころをどう見極めるか、その
一瞬の決断は馬への信頼度によって微妙に変化するものです。

 とくにレッツゴーターキンのような追い込み馬の場合、馬への信頼が結果に直結することは明白。過信と不信の狭間で、騎手は決断を迫られます。そして昭ちゃん渾身のステッキに抜群の手応えを示したレッツゴーターキンは、総崩れとなった先行馬群をすさまじい勢いで捉え、同じ社台ファーム生産の僚馬・ムービースターを引き連れるようにして盾の栄冠に飛び込みました。

http://www.geocities.jp/anato_senka2/meiba/letsgot.html

16 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:37:03 ID:YkscA8IVO
昭ちゃんといえばテンノリのグリーングラス・・・
泣けました。

31 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:44:40 ID:VIopCf840
>>16
あれは滅茶苦茶上手かった。
あとカツトップエースのダービーも上手すぎ。

40 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:49:47 ID:/eCvUGks0
大崎は本当に仕事人だったよな
オグリローマンの勝った桜花賞でも最内をついてツィンクルブライドで
あっといわせたのが記憶に鮮明にのこってる

43 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:54:26 ID:VIopCf840
>>40
懐かしいなあ。
最内を縫って抜け出して来てやったと思ったら外にオグリローマンが・・・
あれも人気薄だったし。

111 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 19:51:46 ID:xd/Et79QO
カツトップエースみたいなどん臭い馬に二冠を取らせた大崎の技術は本当に凄かった
ただ映像見る限り太がモタモタモタモタしなければサンエイソロンがダービー快勝してたが

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1967年 有馬記念 カブトシロー
http://www.youtube.com/watch?v=WeUzRErZpAo
1979年 有馬記念 グリーングラス
http://www.youtube.com/watch?v=svXfIu-RnLU
1981年 カツトップエース 皐月賞
http://www.youtube.com/watch?v=68ma3xgt83E
1994年 桜花賞 ツィンクルブライド
http://www.youtube.com/watch?v=URbkJmCDU0k

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213 :名無しさん@恐縮です:2011/02/01(火) 18:26:54 ID:LIgtNnGZ0
この頃の競馬が一番面白かった。

223 :デブネコ ◆DEBU/4SWxE :2011/02/01(火) 20:51:30 ID:6rLh15el0
昔の馬って一頭一頭に個性があったし差別化があった。
今は似たような馬と血統ばかりでつまらないレースばかり。
最近の若い女と同じでみんな同じ顔に見える。

233 :名無しさん@恐縮です:2011/02/01(火) 22:41:40 ID:vB5tBG450
サンデーサイレンスが出てから急に競馬が面白くなくなったんだよ。
勝つのは社台の父サンデー馬だけだもの。

29 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:43:13 ID:n9R5dLVtO
競馬には展開があると痛感したレース、そして年末の有馬記念の伏線となった隠れた名レースだと思う。

122 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 20:15:02 ID:eVuW/PLm0
あの天皇賞は前年が伏線なんだよな。
マックイーンの降着事件で府中2000のコース不備が議論されるようになり
控えると不利を受けやすいという論が広まった。
そして92年。ムービースターの武も「後ろじゃ不利だからなるべく前に押してでも行く」と吹きまくる。
で、ゲートが開くとガッチリ控え。前々を意識しすぎた有力馬は全部討ち死に。

209 :名無しさん@恐縮です:2011/02/01(火) 17:31:15 ID:FKcqh8q60
パーマーとダイタクが暴走して1番人気のテイオーが付いて行ったもんだから、他の馬も付いていくしかなかったんだよね。
案の定、直線で先行馬は逆噴射していった。
このレースで4着に残ったテイオーを評価できた人間が次のJCで美味しい汁を吸うことになる。
パーマーもダイタクもG1馬だから簡単には逃がせられないよね。


250 :名無しさん@恐縮です:2011/02/02(水) 12:52:40 ID:I4YZYdfY0
この翌年あたりから東京競馬場は極度のスローペース症候群になり、
直線ヨーイドン、ひどい時には残り400m-200mの坂だけ全力疾走するレースばっかりになってしまいましたとさ

18 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:37:50 ID:ST4oQwHZP
今の時代じゃG1ホースでさえ乗馬→肉の運命もおかしくないのにターキンは勝ち組の馬生を送れたな。 実績的にはフロックの秋天ホースだったけど この馬の名前だけは何かずっと覚えてたよ

35 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:47:24 ID:iurpDP5iO
>>18
この馬もオサイチジョージ同様にその手順を踏んでいたが それをたまたま聞きつけた牛の農家に拾われた

昔の別冊宝島の競馬読本とかに書いてあった結構有名な話


200 :名無しさん@恐縮です:2011/02/01(火) 08:18:53 ID:9FUZVn130
一時期消息不明だったのになw
見つかったときは牛の牧場で片隅で草を食ってるような環境って出てたな


25 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:41:00 ID:ST4oQwHZP
丁度その年はミホノブルボンとライスシャワーのクラシック年でもあったな

30 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:43:43 ID:lVxTtS7F0
ライアン、マックイーン、ホワイトストーンの世代か
おつかれさん


28 :名無しさん@恐縮です:2011/01/31(月) 17:42:05 ID:d40X8vAS0
この翌年トウカイテーオーが復活するんだよね。このころの競馬って、すっげーおもしろかったよ

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/mnewsplus/1296462251/


A. メジロパーマー

1992年 新潟大賞典 メジロパーマー
http://www.youtube.com/watch?v=LtiIolm05-I

1992年 宝塚記念 メジロパーマー
http://www.youtube.com/watch?v=XOemekB7rSU

1992年 有馬記念 - メジロパーマー
http://www.youtube.com/watch?v=YJnw9zJ_tf4

1993年 阪神大賞典 メジロパーマー
http://www.youtube.com/watch?v=L9t9GvV2vF0&playnext=1&list=PL2ABC1EE7AA6BFCE2

20世紀の名馬 メジロパーマー
http://www.youtube.com/watch?v=IdSqcUIEkME
http://www.youtube.com/watch?v=b6CmcqHreMc&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=AT39ALRwuRA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=4ZR0PZEOLwA&feature=related


B. ダイタクヘリオス

1991年 高松宮杯(GU)
http://www.youtube.com/watch?v=hx0ULyetKUE

1991年 マイルCS ダイタクヘリオス
http://www.youtube.com/watch?v=rzYzKmBKJow

1992年 読売マイラーズカップ ダイタクヘリオス
http://www.youtube.com/watch?v=pK57QxK3rpM

1992年 毎日王冠 ダイタクヘリオス
http://www.youtube.com/watch?v=IoC7lPDPNbs

1992年 マイルCS ダイタクヘリオス
http://www.youtube.com/watch?v=KTpGEY0pm5w

栄光の名馬たち ダイタクヘリオス
http://www.youtube.com/watch?v=87UKoHheKBw
http://www.youtube.com/watch?v=QnQZG_niPjk&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=5-0Vzhlz04k&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=hX3knTqTs5E&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=SwgClhbPKyE&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=IY0hDAkNqEI&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=CjziPTtv948&feature=related


C.トウカイテイオー


1991年皐月賞 - トウカイテイオー
http://www.youtube.com/watch?v=zkKmmxiTNJg

1991年 日本ダービー
http://www.youtube.com/watch?v=0EVnCFFkmSM&feature=related

1992年 トウカイテイオー  産経大阪杯
http://www.youtube.com/watch?v=0G-mWLPkoak

1992年 天皇賞(春) メジロマックイーン
http://www.youtube.com/watch?v=WahaBVZO93E&feature=related

1992年ジャパンカップ トウカイテイオー 
http://www.youtube.com/watch?v=nY0LpQej_Sw&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=8ct0zx9dQTs&feature=related

1993年 有馬記念 トウカイテイオー
http://www.youtube.com/watch?v=FRPSVXkvT2c&feature=related

淀がゆれた日トウカイテイオーvsメジロマックイーン
http://www.youtube.com/watch?v=14D5y43RZi4&playnext=1&list=PL450AC3D9D5F63345
http://www.youtube.com/watch?v=1zIZcyFJ6sA&feature=related
http://www.youtube.com/watch?v=V5hLzlwNQRY&feature=related

20世紀の名馬トウカイテイオー
http://www.youtube.com/watch?v=ypZ0aWdPOwg
http://www.youtube.com/watch?v=PQLSFRQjwf0&feature=related


03. 2013年3月19日 06:06:21 : W18zBTaIM6

       /            | ヽ        \
        /       i  i   l   \  ヽ    、
      i  /  / // |  /   /    ヽ l ヽ    i
      | /  / // _/ / / /ー─ - 、 ヽl   ヽ   ;
     │i  / //'´/ / / / .ン== 、、` リ   l   l
        i  / //r=、、/ / /  ´iノ;;::ヽゝ i   . |   |
      l.   //i,ノり) ' /   丶ニノ,  l    |、  |
      メ  /|´ 弋ノ              |   | 〉  i
      /   ヘ "               |   |'   ;
      i     .ハ     ヽ            l     |    i
      │i   i ヽ     -        .|    |    ',
       ; l   ;  >、.         / |    |         
       | i     `丶、`丶、  _ 、-´   |    |    ',
.      i  l    ヽ  `ヽ ヾ´( ヽ_.   |    |     i
     |  |     V´ ,ヘ  V´ /`,ヽ. |    l     ',
      ;  ヘ     \ ヽ| / /  /i_ l、,i    |      i
    │/`ヽ      \く    ´´  ハ   |、      ;
    /´``'ヽ\      ヽ\     〈/l   | \   i
   /       ヽ       ヽ    \l   |   ` ヘー、


20世紀の名馬 第86位 ダイユウサク
http://www.nicovideo.jp/watch/sm5130008

[1991年]有馬記念(GI) ダイユウサク
http://www.nicovideo.jp/watch/sm6819276


04. 2013年6月09日 00:31:54 : W18zBTaIM6

1991 【第36回有馬記念】 ダイユウサク
http://www.youtube.com/watch?v=PxkQ8-7MhqQ

05. 2013年6月09日 00:37:25 : W18zBTaIM6


【有馬記念】91年ダイユウサク「オレが一番ビックリしたよ」


熊沢とのコンビで大波乱の主役となったダイユウサク Photo By スポニチ

 グランプリ史上最大の番狂わせと言っていいだろう。91年有馬記念を単勝137・9倍のブービー人気でレコード勝ちしたダイユウサク。担当助手は当時31歳、現調教師の平田修だった。

 「あの単勝オッズはありえへんと思ったよ。とにかく出来だけは生涯一、二やった。もちろん距離が明らかに長かったし、自信はなかったけどね」

 道中は後方待機。動きがあったのは4角手前、内からジワジワ進出する愛馬の姿に胸が高鳴った。

 「4角で8着はあるかなと思ったら、直線では5着もあるかもって…。そしたら先頭に立ったんだ」

 そして先頭でゴール。しかし高々と右手を突き上げた熊沢を見ても、まだ勝利が信じられなかった。

 「テレビでこれはビックリ、ダイユウサク!、って言ってたけど、オレが一番ビックリしたよ」

 ダイユウサクは98年から北海道浦河町の「うらかわ優駿ビレッジAERU」で功労馬として過ごしている。

 「毎年会ってるよ。あの馬は、体質の弱さからデビューが遅れて抹消寸前だったんだけど、自分の力ではい上がってきた。この馬のことは忘れたらあかんし、忘れられるはずもないよ」

 平田師の携帯メールアドレス。そこにはダイユウサクの馬名と2分30秒6の勝ち時計が記されている。

 ◆平田 修(ひらた・おさむ)60年(昭35)5月29日、京都府生まれの52歳。84年にトレセン入り。内藤繁厩舎での厩務員、調教助手をへて、森、橋口、石坂の各厩舎で腕を磨き、06年に開業。今年のNHKマイルCをカレンブラックヒルで制してG1初制覇。

[ 2012年12月18日 06:00 ]
http://www.sponichi.co.jp/gamble/news/2012/12/18/kiji/K20121218004798330.html


06. 2013年6月09日 00:52:26 : W18zBTaIM6

あの馬は今Vol.19〜有馬記念・ダイユウサク


1991年12月22日 有馬記念 優勝馬 ダイユウサク

札幌から3時間半。千歳からでも2時間半はゆうにかかる。高速日高道が日高富川まで延長された今でも都市部からのアクセスは決して良いとはいえない。何もなさそうで、それでいて普段忘れているものを思い出させてくれる場所、ここを訪れただれもが、素敵な何かに「会える」ように、と名付けられた「AERU」。そこがダイユウサクにとっての与えれた安住の地である。
 
 21歳。同期にはオグリキャップやサッカーボーイがいる世代。しかし、デビュー戦から天才的な走りを見せた馬と同期生と異なり、ダイユウサクのレースには人生があった。デビューは3歳の10月30日。京都競馬場。この日、オグリキャップは東京競馬場でタマモクロスと雌雄を決する戦いをしていた。

 そこから遠く離れた京都競馬場でデビューしたダイユウサクに待っていたのは勝馬から13秒離されたシンガリ負けという現実だった。2戦目はスタートこそダッシュを決めたが、徐々に遅れて再びのタイムオーバー。この時点で競走馬として失格の烙印を押されても不思議ないデビューだった。遅生まれで、牧場時代は

「他の馬にいじめられてばかりいました(生産者の中野富男さん)」

というダイユウサクは、人間にもなつこうとせずに逃げ回ってばかりいたという。

 そんなダイユウサクが一世一代の脚を使ったのが有馬記念だった。

あの日、ツインターボの逃げをプレクラスニーが追いかけ、そこにダイタクヘリオスが絡んできた。そんなハイペースの流れの中、1番人気のメジロマックイーンが「勝ち」にいった。みんなが自分の形にこだわり、そして勝ちたいと願った、そんな展開だった。

ダイユウサクもまた、自分のペースを守り、じっくりと構えて脚をためた。先行争いを制したプレクラスニーをメジロマックイーンがとらえようとした瞬間、内から豪快に伸びたのがダイユウサクだった。

2分30秒6のレコードは従来のそれを1秒1縮める快走だった。その後、燃え尽きたように凡走を繰り返したダイユウサクは、翌年暮れに引退。種牡馬となったが、現在は前述のAERUで悠々自適の生活だ。

 「肩と、腰が悪くて乗馬には適さないから放牧のみです。1番の古株なんですが、あまり他の馬には興味がないようですね」

と途中から合流したニッポーテイオーやウイニングチケットとは一定の距離をおいて草を噛んでいる。

「今でも多くのファンがたずねてくれる人気馬です。幸せな馬ですね」

とスタッフが目を細めている。

 
 タイムオーバーからのG1制覇。あの有馬記念から15年の月日が経った。それでも、年の瀬になると、ほとんどの競馬ファンはダイユウサクの名前を思い出す。幸せな馬だと、本当にそう思う。

日高案内所取材班
http://uma-furusato.com/column/detail/_id_33551


ダイユウサクを訪ねて〜うらかわ優駿ビレッジAERU


 「もう25歳ですからね。それでも、食欲なんかは落ちてないですし、年齢の割には元気だと思います。この馬は食べることが大好きなんですよ」

と浦河町の優駿ビレッジAERUの島村博乗馬マネージャーが深いしわを寄せた。

 1つの放牧地に4頭のG1勝馬。ニッポーテイオー、ウイニングチケット、サニーブライアン、そしてダイユウサクがいる。

本稿の主人公ダイユウサクは、もっとキャリアの長い古株なのだが、あとから来て一番威張っているニッポーテイオーの側に寄り添うようにしている。ニッポーテイオーが歩けば、それに沿うようにダイユウサクもついていく。

ある一定の距離を保つように、そして離れないように。ちょっとばかりおぼつかない足取りだが、それは以前からのこと。もともと腰の丈夫な馬ではないのだ。若いうちからあまり歩き回るのは好きでない。

 「もっと若いうちは注射が嫌いで、獣医師の姿を見ると逃げ出したものです。それでも、最近は観念したのか、克服できるようになりましたよ」

と現況を教えてくれた。

 6月生まれのダイユウサクは、生まれたときから弱い存在だった。いつも仲間から離れてポツンと過ごしていたという。

デビューは3歳10月の条件戦。500キロを超える馬体まで成長したダイユウサクだったが、さすがに1勝馬相手のデビュー戦では勝負になるはずもなく、勝馬から200mも離される散々のデビュー戦となった。

 捲土重来を期した2戦目は11月の未勝利戦。ダッシュ良く飛び出したもののズルズルと後退し、やはり勝馬から7秒以上離された大差しんがり負けを喫してしまう。

デビューから2戦連続のタイムオーバー。しかも、もう出走すべき未勝利戦は残っていない。初勝利は4歳春。そんなどん底からダイユウサクの競走馬人生はスタートし、そして有馬記念(G1)のレコード勝ちまでのぼりつめた。

 「やっぱり、あの有馬記念(G1)のインパクトは大きいですね。
この馬を訪れる多くのファンが有馬記念(G1)の思い出話をしてくれます」

と島村さんがいう。ここAERUでは引き馬乗馬やトレッキングを楽しめるほか、これら功労名馬との再会も楽しみのひとつなのだ。そんな楽しみを共有できるのも、競馬ファンの楽しみのひとつだ。1頭の馬には数え切れないほどのドラマがある。そんなドラマを共有できるのも競馬ファンだけに許された特権なのだ。そんな楽しみを味わいに、AERUを訪ねてみてはどうだろうか。
http://uma-furusato.com/column/detail/_id_56614


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