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弥生人の起源2
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投稿者 中川隆 日時 2011 年 10 月 02 日 19:16:05: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう 投稿者 中川隆 日時 2011 年 10 月 02 日 09:31:13)

文献は語る −日本神話


1.天孫降臨


天孫降臨の話は、基本的には高天原の神々がその直系の神を高天原から地上の世界へ降ろし、地上を支配していた国津神たちから国土を譲り受ける、あるいはそのまま支配する話なのだが、これは以下のような構成になる。

(1)天菩比神と天若日子の派遣
(2)建御雷神と事代主・建御名方神の交渉
(3)迩迩芸命の降臨
(4)迩迩芸命と木花之咲夜姫

このうち(1)、(2)はオオクニヌシの支配する葦原の中津国、すなわち出雲地方のことで、この物語は天孫降臨よりも、「出雲の国譲り」としてのほうが知られている。しかしこれも意味合いから言えば天孫降臨である。「国譲り」とはぶんどった方の呼び方であって、取られた方からすれば略奪であり、占領である。

難波や日向に天下った際には特別な記事はないのに、出雲だけ何故建御名方神が抵抗したのか。おそらく、当時の国々の中では出雲だけが、高天原(天津神(渡来して北九州にいた集団)たちの国)に抵抗できるだけの体制(軍備・文化・技術等々)を持っていたからに相違ない。これは、出雲が北九州とは独立して、遙か昔からの先進文化を受け入れていたことを示している。

葦原中国を平定後、アマテラスは最初、我が子天之忍穂耳命(オシホミミノミコト)に、葦原中国を統治するように命じたが、オシホミミノミコトに子が生まれ、アマテラスは、その子番能邇邇藝(ホノニニギノミコト)を降臨させる。 最初命を受けたオシホミミノミコトが、降臨の役目を辞退してしまうのはなぜかよくわからない。アマテラスは、天児屋命(アメノコヤネノミコト)、布刀玉命(フトダマノミコト)、天宇受売命(アメノウズメノミコト)、伊斯許理度売命(イシコリドヒメ)、玉祖命(タマノオヤ)を孫のニニギノミコトに付けて、共に地上に行くように命じ ニニギノミコトに、八尺の勾玉(ヤサカノマガダマ)、八尺鏡(ヤタノカガミ)、そして草薙剣(クサナギノツルギ)を授ける。更に、思兼神(オモヒカネノカミ)、天手力男神(タヂカラヲノカミ)、天石門別神(アメノイハトワケ)、らにニニギノミコトと一緒の天降りを命じた。ニニギノミコトには、

「この鏡を私の魂と思って、私の前で拝むような気持ちでいつも敬うように」

と下命した。一行の降臨を国津神の猿田彦神(サルタヒコ)が待ち受けていた。こうして、ニニギノミコトは、高天原を離れ、随行する神々と、途中、天の浮橋から浮島に立ち、筑紫の日向の高千穂の峰に天降った。

この地は韓国に向き、笠沙の岬にまっすぐ道が通じていて、朝日がまぶしくさす国であり、夕日が明るく照りつける国でもあった。ニニギノミコトはここに宮殿を造るが、ニニギノミコトが天降った高千穂という伝説地は、宮崎県西臼杵郡高千穂町と宮崎・鹿児島両県にまたがる高千穂峰が有名である。天孫降臨の話は、古事記と日本書紀では若干違っており、日本書紀では本伝のほかに多くの異伝を伝えている。天上から地上への降臨による地上支配の発生という神話は、東アジアを中心にして多くの民族に共通し、それらを北方的な要素とみなす見解もある。 天孫降臨のあとは、いわゆる日向神話における山幸彦・ウガヤフキアヘズ命の誕生を経て、初代神武天皇へと直結する。

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古事記での「天孫降臨」


故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖、天の浮橋に宇岐士摩理、蘇理多多斯弖、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降りまさしめき。故爾に天忍日命、天津久米命の二人、天の石靫を取り負ひ、頭椎の大刀を取り佩き、天の波士弓を取り持ち、天の眞鹿兒矢を手挾み、御前に立ちて仕へ奉りき。故、其の天忍日命、天津久米命是に詔りたまひしく、

「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞來通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

と詔りたまひて、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原の氷椽多迦斯理て坐しき。
(倉野憲司・武田祐吉校注「古事記・祝詞」岩波書店、1993年)


日本書紀での「天孫降臨」

「時に、高皇産靈尊、眞床追衾を以て、皇孫天津彦彦火瓊々杵尊に覆ひて、降りまさしむ。皇孫、乃ち天磐座を離ち、且天八重雲を排分けて、稜威の道別に道別きて、日向の襲の高千穂峯(たかちほのたけ)に天降ります。既にして皇孫の遊行す状は、くし日の二上の天浮橋より、浮渚在平處に立たして、そ宍の空國を、頓丘から國覓き行去りて、吾田の長屋の笠狹碕に到ります。」
(坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注「日本書紀 上」岩波書店1993年)

(注;)日本書紀では複数ヶ所に「天孫降臨」が記されている。すべて「一書に曰く」という引用によるものであるためそれぞれに表現が異なっており、天孫降臨の地も上記「高千穂峯」の他に「くしふるの峰」「二上峰」「添(そほり)の山の峰」などと記されている。


日向國風土記逸文での「天孫降臨」

「日向の國の風土記に曰はく、臼杵の郡の内、知鋪(=高千穂)の郷。天津彦々瓊々杵尊、天の磐座を離れ、天の八重雲を排けて、稜威の道別き道別きて、日向の高千穂の二上の峯に天降りましき。時に、天暗冥く、夜昼別かず、人物道を失ひ、物の色別き難たかりき。ここに、土蜘蛛、名を大くわ・小くわと曰ふもの二人ありて、奏言ししく、「皇孫の尊、尊の御手以ちて、稲千穂を抜きて籾と為して、四方に投げ散らしたまはば、必ず開晴りなむ」とまをしき。時に、大くわ等の奏ししが如、千穂の稲を搓みて籾と為して、投げ散らしたまひければ、即ち、天開晴り、日月照り光きき。因りて高千穂の二上の峯と曰ひき。後の人、改めて智鋪と號く。」
(秋本吉郎校注「日本古典文学大系2 風土記」岩波書店)

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梅原猛は、この神話は一般に「天孫降臨」として知られるが、最初は「天子降臨」だったのではないか、という指摘をしている。この神話の原典は古事記・日本書紀・万葉集だが、万葉集が一番古い資料で、古事記・日本書紀では確かに 「天孫降臨」になっているが、万葉集では『日の皇子』という表現になっていて、『皇孫』ではない。そこで梅原は、万葉集の原型が作られたのが、まだ持統天皇の子供の草壁皇子が生きていた頃で、その後草壁皇子が早死にしてしまい、持統天皇は孫の軽皇子(後の文武天皇)に位を譲るべく活動していた時に、この孫に国を治めさせるという話が成立したのではないか、としている。なかなか興味深い推察である。


天孫が降臨した「高千穂」を巡っても諸説ある。古事記では、竺紫(=筑紫)の日向の高千穂の久士布流多氣(くじふるたけ)、日本書紀では「一書に曰く」と諸説あるため、高千穂峯(たかちほのたけ)、久志振流岳(くじふるだけ)などに降臨した事になっているが、宮崎県の高千穂町と、鹿児島の霧島山系・高千穂の峰が「高千穂峯」の本家争いをしているのは有名な話である。しかしその「くじふるだけ」という呼び方から、大分県の「久住岳」(くじゅうだけ)と言う意見もあるし、福岡県の英彦山には、天忍穂耳神が降臨されたという伝説があり、農業や鉱業などの守り神として今も信仰されている。


本居宣長(1730年〜1801年)は、高千穂は二説あり、どちらか決めがたいと言っている。「彼此を以て思へば、霧嶋山も、必神代の御跡と聞え、又臼杵郡なるも、古書どもに見えて、今も正しく、高千穂と云て、まがひなく、信に直ならざる地と聞ゆれば、かにかくに、何れを其と、一方には決めがたくなむ、いとまぎらはし。」(『古事記伝』十五之巻)

 
また宣長は、二説併記のみならず、移動説も提示している。「つらつら思ふに、神代の御典に、高千穂峯とあるは、二処にて、同名にて、かの臼杵郡なるも、又霧嶋山も、共に其山なるべし、其は皇孫命初て天降坐し時、先二の内の、一方の高千穂峯に、下着賜ひて、それより、今一方の高千穂に、移幸しなるべし、其次序は、何か先、何か後なりけむ、 知るべきにあらざれども、終に笠沙御崎に留賜へりし、路次を以て思へば、初に先降着賜ひしは、臼杵郡なる高千穂山にて、其より霧嶋山に遷坐して、さて其山を下りて、空国を行去て、笠沙御崎には、到坐しなるべし」
(『古事記』十七之巻)


前出梅原猛氏は、「天皇家の“ふるさと”日向をゆく 新潮社刊」の中で、この本居宣長説について、ニニギノミコトが稲作技術を持って笠沙御崎に上陸したが、シラス台地は稲作に適した場所ではないため、弥生時代中期から後期頃に臼杵郡の高千穂に入り、西都から霧島へ移動したのではないかとこの説を補強している。

2000年9月14日(木)から17日の間、第38回歴史倶楽部例会で、「南九州/神話・遺跡の旅」と称して、宮崎神宮・西都原古墳群・高千穂町・上野原遺跡・橋牟礼川遺跡・水迫遺跡などを廻ってきた。高千穂町はほんとに山深い鄙びた町である。こんな所に神々が降ったとは一寸思えない。しかしそれは、一大生産地としての観点から見ればであって、神話に言うただ降りてきただけの「降臨の地」とすれば納得できない事ではない。山深い幽玄な雰囲気はそれを十分感じさせるだけの説得力を持っている。だが神話を離れて、外来民族か或いは他地方からの民族移動を「天孫降臨」だとすれば、この地はあまりに辺境すぎる。あまりにも山の中である。天孫ニニギの尊が、「葦原の中つ国」を治めるために降りて来るには一寸ばかり山峡すぎる。日向に三代に渡って住んだと記紀は書いているが、高千穂から日向の国へ移ったという記述はない。とすれば、降りてきた高千穂にニニギニミコト、ウガヤフキアエズ、カンヤマトイワレビコと三代住んだと考える方が自然だろう。それにしてはここはあまりにも山の中である。ここでは東に良い国があるなどという情報も到達しないのでは、と思える程辺境だ。

(以下古事記による。)

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爾くして、天照大御~・高木の~の命(みことのり)以ちて、太子(おおみこ)正勝吾勝勝速日天忍穗耳(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみ)の命に、

「今、葦原中國を平らげ訖(おわ)りぬと白す。故、言依(ことよ)」

さし賜いし隨(まにま)に降り坐して知らせ」

と詔りき。爾くして其の太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳の命、答えて、


「僕、將に降らんと裝束(よそ)える間に、子、生まれ出でぬ。 名は天邇岐志國邇岐志(あめにきしくににきし)天津日高日子番能邇邇藝(あまつひたかひこほのににぎ)の命、此の子を降すべし」


と白しき。 此の御子は高木の~の女、萬幡豐秋津師比賣の命に御合して生める子、天火明(あめのほあかり)の命、次に日子番能邇邇藝の命【二柱】也。是を以ちて白しし隨に、日子番能邇邇藝の命に科(おお)せて、「此の豐葦原水穗の國は汝が知らさん國と言依さし賜う。


故、命の隨に天降爾くして日子番能邇邇藝の命、將に天より降らんとする時に、天之八衢(あめのやちまた)に居て、上は高天原を光し、下は葦原中國を光す~、是れ有り。故、爾くして天照大御~・高木の~の命以ちて、天宇受賣の~に、

「汝は手弱女人(たわやめ)に有りと雖も、伊牟迦布(いむかふ)~と面勝(おもかつ)~ぞ。故、專(もは)ら汝往きて將に、

『吾が御子の天降らんと爲す道に、誰ぞ如此して居る』と問え」

と詔らしき。 故、問い賜いし時に答えて、

「僕は國つ~、名は猿田毘古(さるたびこ)の~也。出で居る所以は、天つ~の御子、天降り坐すと聞きし故に、御前に仕え奉らんとて參い向い侍る」

と白しき。


爾くして、天兒屋(あめのこやね)の命・布刀玉(ふとだま)の命・天宇受賣(あめのうずめ)の命・伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命・玉祖(たまのおや)の命、并せて五伴緒(いつとものお)を支(わか)ち加えて天降しき。是に其の遠岐斯(おきし)、八尺勾(やさかのまがたま)、鏡、及び草那藝の劍、また常世思金の~、手力男の~、天石門別(あめのいわとわけ)の~を副え賜いて詔らさくは、

「此の鏡は專ら我が御魂と爲て、吾が前を拜むが如く伊都岐(いつき)奉れ。次に思金の~は前の事を取り持ちて政を爲せ」

と、のりき。此の二た柱の~は、佐久久斯侶伊須受能宮(さくくしろいすずのみや)を拜み祭る。次に登由宇氣(とゆうけ)の~、此は外宮の度相(わたらい)に坐す~也。


次に天石戸別の~、またの名を櫛石窓(くしいわまど)の~と謂い、またの名を豐石窓(とよいわまど)の~と謂う、此の~は御門の~也。次に手力男の~は佐那縣(さなあがた)に坐す也。故、

其の天兒屋の命は【中臣連(なかとみのむらじ)等の祖(おや)】。
布刀玉(ふとだま)の命は【忌部首(いんべのおびと)等の祖(おや)】。
天宇受賣(あめのうずめ)の命は【猿女君(さるめのきみ)等の祖(おや)】。
伊斯許理度賣(いしこりどめ)の命は【鏡作連(かがみつくりのむらじ)等の祖(おや)】。
玉祖(たまのおや)の命は【玉祖連(たまのおやのむらじ)等の祖(おや)】。


故、爾くして天津日子番能邇邇藝の命に詔りて、天の石位(いわくら)を離れ、天の八重の多那(たな)雲を押し分けて、伊都能知和岐知和岐弖(いつのちわきちわきて)、天の浮橋に宇岐士摩理蘇理多多斯弖(うきじまりそりたたして)筑紫の日向の高千穗の久士布流多氣(くじふるたけ)に天降り坐しき。故、爾くして天忍日(あめのおしひ)の命、天津久米(あまつくめ)の命の二人、天の石靭を取り負い、頭椎(くぶつち)の大刀を取り佩き、天の波士弓(はじゆみ)を取り持ち、天の眞鹿兒矢(まかごや)を手挾み、御前に立ちて仕え奉りき。

故、

其の天忍日(あめのおしひ)の命【此は大伴連(おおとものむらじ)等の祖(おや)】、
天津久米(あまつくめ)の命【此は久米直(くめのあたい)等の祖(おや)也】。

是に詔らさく、

「此地は韓國に向かい、笠紗(かささ)の御前に眞來通(まきどお)りて、朝日の直(ただ)刺す國、夕日の日照る國也。 故、此地は甚吉(いとよ)き地」

と、詔りて、底津石根に宮柱布斗斯理(ふとしり)、高天原に氷椽多迦斯理(ひぎたかしり)て坐(いま)しき。

【ホノニニギの、諸文献における表記】

古事記 天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命
天津日高日子番能邇邇芸命
天津日子番能邇邇芸命
日子番能邇邇芸命
日本書紀 天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
天之杵火火置瀬尊
天杵瀬尊
火瓊瓊杵尊
天津彦火瓊瓊杵尊

風土記 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦火瓊瓊杵尊
天国饒石彦火瓊瓊杵尊
天津彦国光彦火瓊瓊杵尊
天津彦根火瓊瓊杵尊
彦火瓊瓊杵尊
瓊瓊杵尊
哀能忍耆命

先代旧事本紀 天津彦火瓊瓊杵尊
天饒石国饒石天津彦々火瓊々杵尊


ホノニニギの神名の多さと長さは記紀にもあまり例がない。ちょっと異常と思えるほどだが、想像をたくましくすれば、北九州の高天原からあちこちへ降臨した神々がいたのではないかと思わせる。日向へ降ったホノニニギはその一人で、神話が形成されていく過程で、ホノニニギ一人に集約されたもののようにも思える。ホノニニギの「ホ」は「穂」であり、ニニギは「にぎにぎ」の意で「賑やかな」「賑わう」と解釈し、稲穂が豊穣に実っている様を表していると言われる。

また、ホノニニギは「天神御子」とも称され、神から天皇へ繋がる系譜上の重要なポイントに位置し、先に見たように、記紀編纂当時の、持統天皇・草壁皇子・文武天皇の皇位継承問題の事情が反映されているのではないかとも言われる。日本書紀九段本書では、天孫降臨の任務は初めからホノニニギであり、赤ん坊の姿でマトコヲフスマに包まれて降臨している。ホノニニギは、崩じた後日本書紀によれば「可愛之山綾」に葬られ、現在その場所は、鹿児島県川内市宮内町や、宮城県延岡市北方の可愛岳などが想定されている。


「国譲り」神話を、何らかの史実を秘めた伝承であるとする立場からすれば、冒頭にも記したように、これは明らかに民族間の領土移譲を含めた権限委譲である。若干の武力抗争もあっただろうが、「国譲り」と表現されるような、圧倒的な軍事力の違いの前に、国を譲らざるを得ないような状況があったのだろうと想像できる。見てきたように、それは北九州の高天原に、出雲の葦原の中津国が屈したのだと考えれば、以後の歴史展開が、考古学の成果も含めて一番説明が容易である。そうやって北九州の、当時の日本列島で一番勢力が強かった一団が、出雲や畿内や南九州を屈服させていったのだろうと思われる。天孫降臨は、それらの屈服させた領地へ派遣する司令官とそのお供の武官達を任命した、いわば壮行会であり、辞令交付式だったのだろうと思われる。そして時代を経て、それは高天原と国津神たちの支配する中津国とのお話として神話となって伝承された。


高天原の神々が降臨に用いる乗り物は天の磐船であり、雲であり、その上に乗って大勢のお供とともに天下っている。これは明らかに海上を船によって移動したことを示唆している。陸上を馬や徒歩で移動したのであればこういう表現にはなっていない。これは高天原が少なくとも近畿ではなかったことを強く物語る有力な証左である。


2.日向三代


天孫「ニニギの尊」が高天原から高千穂に降臨して以来、「ウガヤフキアエズ」「カンヤマトイワレビコ(神武天皇)」と、三代に渡って日向に住んだという事になっており、これを「日向三代」と呼ぶ。「神武東征」については、「邪馬台国の東征」と並び古代史の重点項目である。戦前、戦中は真剣に(現代でもそうだが。)、高千穂の峰や「日向三代」の所在を巡って大論争が巻き起こっていた。今日の視点からすればずいぶんと滑稽な論争もあったようである。

神話を全く否定した「唯物史観」の立場にたてば、神話そのものの基盤が虚構なのだから、その上に立っての議論など何の意義もないと言うことになろう。しかし、すぐ側の西都原(さいとばる)古墳群を見ると、確かに、古代この地方に何らかの有力な勢力が存在していた事を実感させる。古墳群は現にここにあるのだから、これを否定する事はできない。呼応して我が国の古史がそれに似た話を残しているとなれば、もっとその方面の研究がなされてもいいような気もする。


こういう意見を言うとすぐ「軍国主義」とか「皇国史観の復活」とか言われるのは困ったものである。いいかげん、学問からイデオロギーを取り去って欲しいもんだが。


さて、ニニギの尊が地上に降りてからある時、海岸で一人の美女に出会う。迩迩芸命が名を尋ねると

「私は大山津見神の娘で木花之咲夜姫(このはなのさくやひめ)といいます。」

と答えた。そこでニニギは咲夜姫に結婚を申し込むが、咲夜姫は

「私の父に言って下さい」

と答える。そこで迩迩芸命が大山津見神の所に行き、咲夜姫との結婚を申し込むと大山津見神は喜んで、姉の石長姫も一緒に娶ってくれといい、婚礼用品を添えて二人の娘をニニギの元にさしだした。

ところが石長姫の方は醜女だったため、ニニギは大山津見神の所へ返してしまう。すると大山祇神は怒り、

「石長姫とも結婚していたら、あなたの子孫は石のように永遠の命を持てたのに。咲夜姫とだけの結婚でしたら、あなたの子孫は木の花のようにはかなく散り落ちていくでしょう」

と答えた。古事記は、だから代々の天皇の寿命は短いのだとコメントしている。

さて、その咲夜姫だが、ニニギとは一度しか交わらなかったのに、その一回の交わりだけで妊娠してしまう。ニニギは、1回交わっただけで妊娠するとは、と疑った。咲夜姫は、

「これは間違いなくあなたの子供です。その証拠に私は火の中で子供を産みましょう。私が正しければ神の加護があるはずです」

と言い、産気付くと家に火を付け、その中で3人の子供を産み落した。その子供は産まれた順に、火照命・火須勢理命・火遠理命という。火照命が別名海幸彦、火遠理命が別名山幸彦である。山幸彦はまた、天津日高日子穂穂手見命(あまつひこひこほほでみのみこと)という名を持つ。


海の神の娘、豊玉姫神と結婚し、やがて鵜葺屋葺不合命(うがやふきあえずのみこと)を産む。彼は豊玉姫の妹で、育ての親でもある玉依姫神(たまよりひめのかみ)と後に結婚して、神武天皇が産まれる。


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是に天津日高日子番能邇邇藝能命、笠紗の御前に麗しき美人に遇いき。爾くして、

「誰が女ぞ」

と問いき。答えて、


「大山津見の~の女、名は~阿多都比賣(かむあたつひめ)、またの名は木花之佐久夜毘賣(このはなのさくやびめ)と謂う」

と白しき。また、

「汝、兄弟有りや」

と問いき。答えて、

「我が姉、石長比賣(いわながひめ)在り」

と白しき。 爾くして、

「吾は汝と目合(みあ)わんと欲う。奈何に」

と詔りき。答えて、

「僕は白すことを得ず。僕が父、大山津見の~、將に白すべし」

と白しき。故、其の父の大山津見の~に乞い遣りし時に、大きに歡喜びて其の姉の石長比賣を副(そ)えて、百取(ももとり)の机代の物を持たしめて奉り出だしき。故、爾くして其の姉は甚凶醜きに因りて、見畏みて返し送り、唯に其の弟の木花之佐久夜毘賣を留めて一宿、婚爲き。爾くして大山津見の~、石長比賣を返ししに因りて大きに恥じて白し送りて、

「我(あれ)の女、二並(ふたりとも)に立て奉りし由は、石長比賣を使わさば、天つ~の御子の命、雪零り風吹くと雖も、恆に石の如くして、常わに、堅わに動かず坐さん、また木花之佐久夜毘賣を使わさば、木の花の榮ゆるが如く榮え坐さんと宇氣比弖(うけいて)貢進(たてまつ)りき。此く石長比賣を返らしめて、獨り木花之佐久夜毘賣を留むる。故に天つ~の御子の御壽(みいのち)は木の花の阿摩比能微(あまひのみ)坐(ま)さん」

と言いき。故、是を以ちて今に至るまで天皇命(すめらみこと)等の御命(みいのち)は長くあらぬ也。


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豊玉姫は妊娠し、天津神の御子は海の中で生んではならないと地上へやってきた。そして渚に鵜の羽を茅葺(かやぶき)にした産屋を建ててくれと山幸彦に頼み、異郷の者が出産するときには、すべて元の国の姿になるので、出産現場を見ないでくれと頼む。山幸彦は見ないと約束するが、心配と好奇心で産屋を覗いてしまう。そこに居たのは、八尋(やひろ)ワニの姿に戻った豊玉姫がいた。驚く山幸彦に、約束を破って姿を見られたからにはもうここにはいられないと豊玉姫は、我が子ウカヤフキアヘズノミコトの世話を、妹である玉依姫神に託すと単身海の国へと戻っていった。


山幸彦ことホヲリノミコト(火遠理命)は、日向で580年生き、高千穂の山の西に葬られた。ホヲリノミコトの子、アマツヒコヒコナギサタケウカヤフキアヘズノミコト(天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命)は、やがておばの玉依姫神と結ばれ、イツセノミコト(五瀬命)、イナヒノミコト(稲氷命)、ミケヌノミコト(御毛沼命)、ワカミケヌノミコト(若御毛沼命)が生まれた。ワカミケヌノミコトの別名は、カムヤマトイハレビコノミコト(神倭伊波礼昆古命)と言った。

ミケヌノミコトは常世国へ行き、イナヒノミコトは母のいる海原に入った。


故、後に木花之佐久夜毘賣、參い出でて、

「妾(あれ)は妊身(はら)みぬ。今、産む時に臨みて、是れ天つ~の御子にして、私(わたくし)に産むべきにあらぬが故に請(もう)す」

と白しき。爾くして、

「佐久夜毘賣、一宿(ひとよ)にや妊(はら)める。是れ我が子に非ず。必ず國つ~の子ならん」

と詔りき。爾くして答えて、

「吾が妊(はら)める子、若し國つ~の子ならば、産むこと幸くあらず。若し天つ~の御子ならば幸くあらん」

と白して、即ち戸の無き八尋殿(やひろどの)を作り、其の殿の内に入り、土を以ちて塗り塞(ふさ)ぎて、方(まさ)に産まんとする時に火を以ちて其の殿に著(つ)けて産む也。 故、其の火の盛りに燒ゆる時に生める子の名は、火照(ほでり)の命【此は隼人(はやと)の阿多(あた)の君の祖(おや)】。 

次に生める子の名は、火須勢理(ほすせり)の命【須勢理の三字は音を以ちてす】。 

次に生める子の御名は、火遠理(ほおり)の命、またの名は天津日高日子穗穗手見(あまつひたかひこほほでみ)の命【三つ柱】。

(略)

是に海の~の女、豐玉毘賣の命、自ら參い出でて、

「妾(あれ)は已(すで)に妊身(はら)みぬ。今産む時に臨みて此(これ)を念(おも)うに、天つ~の御子を海原に生むべくあらず。故、參い出で到れる也」と白しき。爾くして即 ち其の海邊の波限(なぎさ)に鵜の羽以ちて葺草と爲て産殿を造りき。

是に其の産殿の未だ葺き合えぬに御腹の急(にわ)かなるに忍(た)えず。故、産殿(うぶや)に入り坐しき。爾くして將方(まさ)に産まんとする時に其の日子に白して、「凡そ他(あた)し國の人は産む時に臨みて本(もと)つ國の形を以ちて産生(う)むぞ。故、妾(あれ)今本の身を以ちて産まんと爲(す)。願う妾を見る勿(なか)れ」


と言いき。是に其の言(こと)を奇しと思いて竊かに其の方(まさ)に産まんとするを伺えば、八尋和邇(やひろわに)と化りて匍匐(はらば)い委蛇(もごよ)いき。

即ち見驚き畏みて遁(に)げ退(そ)きき。爾くして豐玉毘賣の命、其の伺い見る事を知りて心恥(はずか)しと以爲(おも)いて、乃ち其の御子を生み置きて、

「妾は恆に海の道を通りて往來(かよ)わんと欲(おも)う。然れども吾が形を伺い見ること、是れ甚(いと)(はずか)し」

と白して、即ち海坂(うなさか)を塞(ふさ)ぎて返り入りき。

是を以ちて其の産める御子を名づけて、天津日高日子波限建鵜葺草不合(あまつひたかひこなぎさたけうがやふきあえず)の命と謂う。然くして後は、其の伺いし情(こころ)を恨むと雖ども戀(こ)うる心に忍(た)えずして、其の御子を治養(ひた)す縁(よし)に因りて、其の弟(おと)の玉依毘賣(たまよりびめ)に附(つ)けて歌を獻(たてまつ)りき。 

(略)

故、日子穗穗手見(ひこほほでみ)の命は、高千穗の宮に坐(いま)すこと伍佰捌拾歳(いほとせあまりやそとせ)。御陵(みささぎ)は、即ち其の高千穗の山の西に在り。是の天津日高日子波限建鵜葺草葺不合の命、其の姨(おば)の玉依毘賣の命を娶りて生みし御子の名は、五瀬(いつせ)の命。次に稻氷(いなひ)の命。次に御毛沼(みけぬ)の命。

次に若御毛沼(わかみけぬ)の命、またの名は豐御毛沼(とよみけぬ)の命、またの名は~倭伊波禮毘古(かむやまといわれびこ)の命【四つ柱】。故、御毛沼の命は浪の穗を跳(ふ)みて常世(とこよ)の國に渡り坐し、稻氷の命は妣(はは)の國と爲(し)て海原に入り坐しき。


古代、南九州には隼人と呼ばれる一族がいた。山幸彦に降伏した海幸彦は、溺れたときの所作を演じ、ふんどしをつけ顔や手足を赤く塗り、俳優の技をして弟を慰めたといい、そして、この子孫が隼人であるといわれる。海幸・山幸神話は、皇孫である山幸彦に隼人の祖である海幸彦が服従するという、隼人の朝廷への服従起源でもある。この話は、もともと南九州にいた隼人族の伝承であったといわれており、その伝えていた芸能隼人舞の由来話という形で、その首長の前で演じられていたのではないかといわれている。猟具の交換を発端とする海底国への訪問、失った釣針などに類似する話としては、喜界島の「竜神と釣縄」という話があり、そのほか、パラオ等、インドネシアからミクロネシアにかけて類似した話が語られている。


日向国が、現実の南九州の日向であったかどうかについても色々な議論がなされている。日向とは現在の宮崎県ばかりでなく、大隈と薩摩を含んだ地域であるとすると、それは隼人族の住む未開の地でもあるので、皇室の祖先はそうした未開の地は原郷にしないという説もあるし、日向とは単なる「太陽の照らす聖地」という意味にすぎないという説もある。そもそも邪馬台国問題と同じで、或いはそれ以上に情報量は少ないので、神話や民俗学に興味がある者なら、いかようにも解釈できることになる。

日向三代の神話が全て隼人族の伝承だったとすると、「コノハナサクヤヒメの神話」「海幸山幸の話」も同じくインドネシア、ミクロネシアに類似した神話が多くあるので、隼人族そのものも南方種族ではないかとする説もあり、かなり有力視されている。しかし、日向三代神話が隼人の伝承であったとすると、これを大和朝廷が皇室の神話系譜の中に取り入れたのは何故なのか、またいつごろなのかという問題が残る。



北九州の高天原から南九州へ移動した一団がほんとにいたのだと解釈すれば、宮崎に残る西都原古墳群やこの神話の持つ意味も理解できる。日向に三代も住めば、そこが地理的に日本列島の統治にとって都合のいい場所ではないと判明したかもしれないし、もっと実りの多い、稲作に都合の良い平野を抱えた地方が東にあるという情報も、派遣した先兵や偵察隊が報告していたかもしれない。実際に、後に神武天皇と呼ばれる人物が東を目指して旅だった可能性も高いが、私が邪馬台国東遷説にいまだ同意できないのは、もし、高天原=北九州、天照大神=卑弥呼だとすると、その後の邪馬台国はどうなったのかという疑問が未だに解けないからでもある。邪馬台国から日向へ降りてきたニニギは日向で勢力を発展させるが、では北九州に残った邪馬台国はどうなったのだろうか。依然として勢力を保っていたのなら、東遷するのは北九州の高天原でなくてはならない。しかるに、近畿を平定するのは日向に住んだイワレビコなのだ。

3.神武東遷


初代の天皇である神武天皇(カムヤマトイハレビコノミコト)は、日向国に天下りした邇邇芸命(ニニギのみこと)の曾孫にあたる。神武の時期から人代で、それ以前は神代とされる。神武の一族は、日向国高千穂宮に住んでいたが、兄のイツセノミコトと共に、東国に豊かな土地を求めて移住を始め、豊国宇佐足一騰宮(あしひとつあがりのみや:

大分県宇佐市)、竺紫岡田宮(福岡県遠賀川河口)、阿岐国多祁理宮(たけりのみや:広島県府中町)、吉備高嶋宮 (岡山市高島)、青雲の白肩津(東大阪市日下町)、紀国男水門(大阪府泉南郡樽井町)、熊野村(和歌山県新宮町)、吉野の川尻(奈良県吉野郡)を経て、宇田(奈良県宇陀郡)へ到着した。

岡田宮に一年、多祁理宮に七年、高島宮には八年も滞在したとされる。瀬戸内海を渡った神武は、難波の津で長髄彦に抵抗され、兄・五瀬命を失うが、和歌山の大台ヶ原から大和に入り、長髄彦を破って大和の平定に成功し、辛酉年春正月一日に、橿原宮で即位し、百廿七歳で、橿原宮にて死んだ。


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宇佐に行く前、二人は速吸門(はやすいのと:豊予海峡)で亀の甲羅に乗って釣をしている人間を見つける。お前は誰かと尋ねると国つ神だといい、海路をよく知っているというので案内人とし、サヲツネヒコ(棹根津日子)という名をあたえる。

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  一行は難波に上陸するが、登美(奈良市富雄町)の豪族、ナガスネビコ(那賀須泥昆古)が軍勢を率いて攻めてきた。戦闘はナガスネヒコが優勢で、イツセノミコトも敵の矢を受ける。イハレビコは

「日の神の御子である我々が、日に向かって攻め入ったのが良くなかった」

として、日を背にして敵を撃とうと紀州沖を南下し熊野から内陸をめざすが、兄のイツセノミコトは船上で絶命してしまった。今、イツセノミコトの御陵が紀伊の国の竈山にある。

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イハレビコは、和歌山から南に回って、熊野村に到着したが、大きな熊に出会い、やがて一行の兵士達は突然気を失い、次々に倒れ伏す。そのとき一振りの太刀をもった男が現れ、イハレビコに剣を献上した。この太刀で、イハレビコは熊野の山の荒ぶる神を退治した。この時剣を献上したタカクラジ(高倉下)が、イハレビコに剣を渡した訳を説明する。

夢をみて、夢にアマテラスとタカギノカミが現れ、二人は、タケミカヅチ神を呼び寄せて

『葦原中国はひどく騒然としており、我が御子たちは病み悩んでいるようだ。かの国はそなたが服従させた国なのだから、もう一度そなたがいって御子たちを助けてこい。』

と。タケミカヅチは、

『私が降らなくても、かの国を平定した太刀がありますから、このサジフツノカミ(佐士布都神)を降しましょう』

と、タカクラジが授かって届けに来たのだという。さらにタカクラジは、夢の中で、タカギノカミからの伝言を預かっていると言う。

「荒れすさぶ神がたくさんいるから、天つ神の御子をこれ以上奥に行かせてはならない。」

「今、天上からヤタガラス(八咫烏)を遣わそう。そして、そのヤカガラスが先導するので、その後についていくように。」

ヤタガラスの後を追いながら吉野川の川下にたどりついたカムヤマトイハレビコは、魚をとっている人物に出会った。 さらに進むと、井戸から尾の生えた人物に出会った。さらに、山に入ると尾の生えた人物が岩を押し分けで出てきた。それぞれ、天津神の御子が来るというので、出迎えにきた国つ神だった。そして、奈良県の宇陀という場所にたどりついた。タケミカヅチから授かったこの霊剣、サジフツノカミは別名、フツノミタマ(布都御魂)といい、現在石上神宮に鎮座している。


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これが神武東征神話の概略である。戦前は史実として流布され、戦後は一転して全面的に否定された。辛酉年は紀元前660年にあたり、1月1日は太陽暦の2月11日にあたるとされる。神武天皇は、なぜ辛酉年に即位したと考えられたのだろうか。中国人の革命思想は、天地を支配する天帝は、人民の中から仁の心に富んだ男を選び、愚民を支配する権力を委任する。

天子は道徳的な力に満ちた男であるが、その権力を譲られた子孫はそうとは限らない。人民を痛めつける天子は、もはや天子ではなく、新たに自分が天子だと自覚する男が、これを殺すことが正当化される。これを革命(革令)といい、このうち、辛酉年には新しい王朝が建てられるという。ただし、60年ごとの辛酉年ではなく、60年の21倍の1260年ごとの辛酉年である。600年代はじめ、推古天皇の摂政だった聖徳太子を責任者として、国史の編纂が行われた。西暦601年が辛酉年であり、ここから1260年さかのぼった紀元前660年が、神武天皇の即位の年と計算され、日本書紀にも引き継がれたのである。神武天皇は、紀元前660年の人物であり、この時期は縄文時代とされているから、とても実在の人物とはいえない。産能大教授の安本美典説では、歴代天皇の平均在位数の計算から、天皇の在位期間は、過去にさかのぼればさかのぼるほど短くなる。そして一代の天皇の平均在位年数は約10年とする。これは日本だけでなく、中国の王の在位年数の場合も、西洋の王の場合も同じ傾向を示しているのである。


ここから導き出される結論は、神武天皇以後、全ての天皇が実在すると考えても、神武天皇の活躍した時代は280年から290年くらいにしかならない。つまり大和朝廷の一番初めは、邪馬台国の時代に届かないことになる。つまり大和朝廷の始まりは、邪馬台国以後である、ということになるのである。

これは、邪馬台国=弥生時代、神武以後=古墳時代という私の史観と合致する。わたしはこの「神武東遷」に象徴される、九州からの勢力が東へ東へと進み大和朝廷を築き上げたと考える説に賛同する。それは中国の文献や我が国の考古学の成果とも、今の所は一番合致していると考えるからである。しかし神武天皇に比定される人物、或いは一団が、ほんとに日向から来たのか、それとも九州の他の地域から来たのかまでは、まだわからない。

だが明らかに、弥生時代から古墳時代に移り変わる我が国の考古学上の状況は、西から新しい文化文明が東へ移ってきたことを示しているし、奈良盆地の中に縄文人が古くから住み付き、純粋な日本人として培養されて、やがて稲作を取り入れ、農耕具や青銅器を自分たちで考えたとはとうてい思えない。それらは明らかに西の九州から来たのであり、厳密に言えばそれは北九州で、更にその源は朝鮮半島であり、中国大陸である。そしてそれらは、散発的な移動はともかく、神武東遷に象徴される、北九州の一団によって近畿地方にもたらされたものとする考え方が一番合理的である。


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古事記・日本書紀に書かれている天孫降臨や神武東遷伝承が、大和朝廷の役人達によって机上で述作されたものであるという考え方は、全くの想像である。記紀が編纂されてから今日まで、そういう事を書いてある古文献は1点も存在しない。それを、述作されたものであるとか、創作されたものだとする考えは、完璧に主観的判断に基づいて、歴史をねつ造しているのと同じである。

歴史学者・考古学者たちの第二次世界大戦における敗戦のショックと、戦前・戦中を通じて、強権に確執を醸せなかった自らの贖罪を求める気持ちはよく理解できる。同胞が、戦時中に近隣諸国に対して行った行為に対して、それらの国々に対する謝罪の念も持って良い。しかし、そういったイデオロギーと学問の世界における真理の追究とは全く別物であるということに、もうそろそろ気づいても良い頃だ。古事記・日本書紀という、我が国最古の歴史書に書かれ、また多くの伝承を持ち、長きにわたって多くの研究がなされてきたこれらの日本神話が、戦後50数年間にわたって、歴史家によって殆ど無視され、語られもしなかった事実は全く異常としかいいようがない。教科書にも載せず、読み物にも書かれない今の現状では、やがて日本人は、自分たちの祖先が語った多くの神話と、その中にもしかしたら潜んでいるかもしれない歴史の核を、まるで理解できない、世界でも希有な民族になってしまう。

私は古代史を学んで、日本国家の成立を探り、天皇家の起源を探り、ひいては自分が誰なのかを探ろうとしている。それには、掛ければ色や形が変わって見えてしまう、イデオロギーというサングラスだけは絶対に掛けたくないと思う。

http://inoues.net/yamahonpen10.html

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日本人の思想の原基


 吉本さんと梅原さんが、中沢新一さんの司会で、1994年に対談をしている。その対談を収録した本「日本人は思想したか」(新潮社)の第一章『日本人の「思想」の土台』から、「縄文時代までさかのぼる」という問題意識を語り合っている部分を抜書きしてみる。


中沢

 いま期せずして国家という問題が出てきました。これは日本の思想というものを考える時、一番のカギになる言葉だと思います。たとえば日本人の思想がどうしてお茶の思想とか、お花の思想というふうな、個別的で具体的な表現の形態として出てくるかということにも、深く関係していると思います。日本人が何か創造的な思想を試みようとすると、実感や情念がとらえているものと、仏教や儒教や道教のような、超越的ないし普遍的な表現のちょうど中間のようなところで表現を試みていたように思います。たとえば、仏教はとても普遍的な表現の体系を持っているけれども、日本人の創造的な思想家は、その体系の中で作業をしたわけではなくて、自分の実感と普遍の体系との間(はざま) というか、ずれというか、そういうところに立脚して思想をつくり出そうとしてきて、そのずれというようなものが、日本的な仏教とか日本化された儒教としてあらわれてきて、そのことが一番出ているのが国家にかかわる問題なのだろうと思います。

 普遍的な国家という考え方を、近代日本人はヘーゲルなどを通じて知りますが、一日本人にとって国家が実体性を持った意味を含み始めた時に、とても重要な意味を持ったのは中国に発生した国家という考え方だったと思います。梅原さんは古代史をめぐるさまざまなお仕事をなさってきましたが、そのとき日本に起こることを、つねに広いアジア史の中でとらえようとしていらっしゃったように思います。日本人の国家という概念は、ヘーゲルが考えたような国家とも違うし、中国人がとらえていた国家とも違う。日本がおかれていた位置や環境とのかかわりで、国家というものについて日本の特殊性が発生している。いつまでたっても日本人には国家というものが、ヘーゲルや中国人が考えたようなものにはなり得ない。その日本的国家という問題を、梅原さんはいつ頃を起点にして考え始めたらよろしいとお考えでしょうか。

梅原

 私が日本研究に転向した時に、一番の問題は、戦争中からの日本主義はイコール国家主義であった。そして日本の思想家も、非常にリベラルな思想家と言われる人も、戦争中には完全に国家主義になった。日本的であることが国家主義であるような、そういう日本主義とは無縁なものを私は探していた。だからいま出たヘーゲル的な国家論は、日本でたとえて言うと和辻哲郎の『倫理学』にある。あれは見事な哲学的体系なんですよ。人間を個人と考えず、人間の間柄で考える。間柄という概念には個人主義を止揚する重要な思想が含まれている。私は儒教思想の現代版だと思いますけど、現代でもなお十分傾聴に値する哲学的思想だったと思うんです。しかし結論は、全部国家の中に飲みこまれてしまう。最終的には国家が万能であり、普遍的なものである。まあ、ヘーゲルの日本版だと思いますけど、そういう和辻に対して、私は厳しく批判した。それから鈴木大拙ですら、最後はやっぱり国のために死ぬことだ、それが無だというようなことを言っている。そういうことも一切私は許すことができなかった。私はそういうものの批判者として登場した。

 特に私が仏教をやったのは、明治以後の神道は完全に国家主義になってしまって、そういう神道に対するアレルギー反応を長い間脱却することができなかったからです。神道に対してアレルギーを脱却できたのは、アイヌの宗教を知ってからです。仏教は比較的国家主義の色彩が少なかった。また、その時は万葉集にもアレルギーがあって、万葉より古今を、と言った私の最初の論文の『美と宗教の発見』で、古今を日本美の中心においたというのも、一種のアレルギー反応でしてね。国家というものはとにかくかなわない、という意識が非常に強かった。そんなことを考えていたのですが、偶然のように、七、八世紀の、吉本さんの言った日本国家成立期の歴史を勉強するようになった。そしてそこで『隠された十字架』や『水底の歌』が書かれた。そこで私が見出したものは、国家成立期に権力から排除されて、怨みを飲んで死んでいった怨霊の姿だった。たとえば、聖徳太子は一度は体制側の人だったけど、やがて藤原氏が律令体制をつくると、それに滅ぼされて、そして怨霊になった。柿本人麿も同じように一旦は律令体制で高い地位につくがやがて失脚して水死刑死をする。聖徳太子とか柿本人麿の怨霊というような、国家形成の影に隠れた怨霊が十何年の間、私のパトスそのものだったんですね。怨霊がのりうつったわけですが、なぜ怨霊が外ならぬ私にのりうつったのかはよく分らない。

 私の七、八世紀研究は、主として怨霊の研究に始まったのですが、しかし自ら七、八世紀の日本の考察をせざるをえない。七、八世紀は、日本が中国から律令制度を移入し、それで日本国家をつくった。しかしそれは中国の律令制度がその まま移入されたものではない。あれは中国から借りて国家をつくったんですけど、その中国文化は変質させられた。変質させたのは、それよりも前に日本に存在した何かだろうということに気づいたんですね。その前に何があるか、それからいろいろ思想的に問い詰めると、どうも縄文文化がそれではないか。そして、アイヌと沖縄に縄文文化が残っているんじゃないかというふうに考えてきた。そうすると、吉本さんと思弁の方法は違うんですけど、結論は大変似ているところに行っているような気がしているんだけど。そういうふうに日本を奥へ奥へと掘り下げてゆくことによって、国家という枠を超えた、むしろ普遍的なところに達した。そういうところに達したことによってやっと神道に対するアレルギーを捨てることができた。アイヌや沖縄の宗教に、神道の原初的な姿を見た。そこから見れば明治以後の神道は、これは神道と言えないようなものだ。しかし神道の国家主義化はすでに律令時代に始まっていて、だから神道は二度大きな国家主義化を受けた。ひとつは律令時代、ひとつは明治以後。明治以後の神道は、神道とさえ言えない、プロイセン主義なりナポレオン主義に伝統の殻を着せただけのようなものだといま考えているんですけどね。


中沢

 いま梅原さんから、同じ言葉が二度出ました。ふたつのちがう意味をこめて、「普遍」という言葉を二回使われました。
 ひとつは、実感を超えて超越である普遍。これはたぷんヘーゲルの国家概念や中国の国家みたいなところにたどりついて行くんだと思います。ところが最後に梅原さんが、たとえば神道のようなものを通して普遍へ行くんだとおっしゃったその普遍は、まえの普遍とちょっと違うのでしょうね。


梅原

 ちょっと違いますね。

中沢

 その、あとの方の普遍というのは、いまとこれからの日本が超近代というような形で出てくるものとして探っている普遍なんじゃないかと思うのですね。それはひょっとすると日本の国家が、前方へむかってさぐっているものとつながっているんじゃないか。梅原さんの考えてらっしゃるアイヌの神道などは、ヘーゲル的な普遍とは異質な、もうひとつの普遍に触れているのかも知れませんね。

梅原

 そうと言えるかもしれん。

中沢

 それは神道以前のもので、ひょっとするとそれは、オーストラリア原住民の神道とか、南中国の少数民族の神道とか、チベット人の神道とか、そういう神道につながっていて、そういう形でもうひとつの普遍というものがいま大きく浮上してきた感じがしますが、このふたつの普遍が混同されて、普遍という問題を考える時に、日本人の思考を混乱させているのではないでしょうか。

 これは吉本さんが超近代の問題として考えているテーマとつながっている、と僕は思います。
 古代の向こうにあるもの、アジア的なものの向こうにあるもの、それを吉本さんはアフリカ的という言葉で表現しようとしています。それは新しい普遍につながる考えです。
 いまお二人の話の中に期せずして普遍という言葉の、二通りの使い方というものが浮上してきて、ヘーゲル的な普遍の国家や神道や日本国家に取り込まれてしまって、見えなくなってしまうもうひとつの神道がそこで同時に出てきました。近代の原理を解体していくものと、壊していくものと、縄文や南島のテーマが浮上してくるプロセスが、お二人の思想の中では同時進行しているような感じを受けるのですが。

吉本

 僕はそうだと思いますね。梅原さんのアイヌについての論文は、柳田国男の初期の仕事から延長していくと大変よくわかり、位置づけがしやすいんですが、とても重要で、僕はずいぶん影響を受けたように思うんですね。

 アイヌの問題や沖縄の問題は、いま「遡る普遍」という言い方をすれば、どうしても出てくるんじゃないかなという感じです。それをヘーゲル、マルクス流の国家と直かに対応させることはなかなかできないので、現在は、対応できそうな超近代のところを睨んで持っていくよりしょうがないと思います。でも「遡る普遍」のところでは、かなり確実に出てくるんじゃないかと思い込んでいるんです。

 ちょうど中間のところで、梅原さんの言われた神道があって、それはふたつの理解ができます。明治以降、天皇制神道、あるいは伊勢神宮神道と結びついた意味の神道と、それからそうじゃなくて、田舎へ帰れば鎮守様があって、お祭りがあって、とてもいいんだ、というのと二重性があるような気がするんです。明治以降の天皇制神道と結びついた部分は、僕も梅原さんと同じでアレルギーが多い。つまり自分が戦争中イカレた分だけアレルギーがあって、ということになります。そこで、遡る神道といいましょうか、あるいは村々の鎮守様へ行く神道とはちょっと分けなくちゃいけないよ、ということになってくる気がします。鎮守様としての神道みたいなのは宗教というふうに言わなくて、もっと風俗・習慣というところで生きられる部分があるように僕は思ってます。これは国家神道にまで編成されちゃったものと区別しないといけない。国家神道に収斂させられてしまったものは、何となく第二次大戦までが生命だったという気がして、それ以降はあるとしても、そんなに生きられるものとしてあるというわけではなく、壊れつつある過程としてあると考えたほうがいいんじゃないか、僕はそう思ってます。

 以上のやり取りで、梅原さんと吉本さんが、方法論は違っていても、同じ問題意識を持って日本人の思想の原基にアプローチしようとしていることが分かると思う。 この後、梅原さんは「アイヌや沖縄の宗教に、神道の原初的な姿を見た。」という前段の発言を敷衍してその内容を詳述しているので、その部分を抄録しておく。

 七、八世紀の神道は祓い、政の神道なんですよ。それが私、なかなかわからなんだ。『古事記』の書かれた時代、国家に有害なやつは祓ってしまう。そしてまだ祓わんやつは禊をさせて改心させる。やはりこれは律令国家体制の産物だ、という点を考えんと神道は理解できない、と思った。そこまでは行ったんですけど、それから向こうの神道が見えてこなかった。

 そしてアイヌをやった時に、ほんとに目から鱗が落ちるようなショックを受けたのは、アイヌ語の神の概念、神をあらわす言葉が全部、古代日本語と一致し、しかもその古代語の中にラマットなんていう言葉がある。ラマットというのはヤッコラマットという、祝詞や宣命にわずかに出てくる言葉で、本居宣長もこれは古代語が残ったんだと言ってる。そのラマットという言葉が魂という意味でアイヌ語にある。それを知った時に、アイヌ語と日本語は同起源である、やっぱり日本の古代語の縄文語がそこへ残ったんだろうということと同時に、神道の古い形がアイヌの神道の中にあるという直観があったんですね。それでアイヌの神道をいろいろやってると、国家主義なんて全然関係ない。それはやはり森の中で人間が宇宙の精霊と、魂たちと共存して生きて、その魂の力で自分たちの生活を守り、そして死んでいき、あの世へ行ってまた魂がこの世へ帰ってくる。そういう信仰であるということがわかった。

 その眼で沖縄を見ると、沖縄の神道もアイヌと同じような神道ではないか。柳田国男や折口信夫は、今まで日本研究の外におかれた沖縄を日本研究の中に取り入れた。しかしそれは弥生時代で日本本土を沖縄と結んだ、米で結んだ。つまり沖縄は弥生時代の古い米文化が残ったものだとした。これはいわゆるあの柳田の南方の島を伝わって稲がやって来るという説ですが、この説は実証的に否定されている。こういう沖縄と本土を結ぶと、米栽培しないアイヌは落ちて、それは日本じゃないということになる。私は柳田も記紀の史観に無意識に影響されていると思う。私は、それは違う、沖縄と日本というのは縄文でつながるんじゃないか。アイヌ、沖縄、日本、この三つを結ぶものが日本的じゃないかと。ずっと思弁してそういうふうになってきたんですけどね。私はそこへ来て初めて、この原理はどうもいわゆる普遍的なんじゃないかと思った。それは恐らく、中沢さんのおっしゃったようにアボリジニーやアメリカ・インディアンとも同じだし、あるいはシベリアの狩猟採集民族と同じ、あるいはケルトとも同じもので、一時代前の、人類の普遍的な原理がまだ残っていたんじゃないか。それが日本国家をつくった後にわずかに日本に残ってる。


 「日本本土と沖縄」を米で結ぼうとし、「米栽培しないアイヌ」を見落としてしまうことは、柳田や折口の民俗学が「日本=瑞穂の国」という虚像の枠の中で展開されていることからくる限界を示している。「日本=瑞穂の国」という虚像については、いずれ取り上げる予定でいる。


 
縄文人と弥生人


  吉本、梅原、中沢三氏の鼎談より8年前(1986年)に、吉本さんと梅原さんは対談をしている。その対談が「対話・日本の原像」(中央公論社)という本になっている。 その本の中に梅原さんが日本語の源流について次のような意見を述べている。


 縄文人のつかう縄文語というのがあって、これはかなり日本列島全体に行き渡っていただろう…‥。縄文土器が朝鮮半島にはほとんどないのに、日本列島にはほぼ全体に普及している。そのように、だいたい同質の言語が南は沖縄から北は千島まで、多少のローカルカラーがあるけれども、日本列島に普及していたのではなかったかと思います。

 そして弥生人が入ってきて日本列島の中枢を占領した。そして弥生人はまったく縄文人とは違う言語をもってきたけれども、言語学の法則として、少数の民族が多数の民族の中に入ってきて、それを支配する場合、その言語は被支配民族の言語になるが、発音その他は相当な変更を蒙り、そして、支配民族が新たにもってきた新文化や技術にかんするものの名称は支配民族の言語で呼ばれる、というふうな法則がある。こういうことが弥生時代以後、起こったのではないでしょうか。
 だから縄文語が弥生時代以来かなり変質した言語が倭人の言語であり、それが日本語の源流になったのじゃないかと思うんです。そして南と北により純粋な縄文人が残っていて、縄文語がより純粋な形で生きのびて残ったのではないだろうか。琉球は朝鮮や中国とも近いから人種も混血し、言葉もかなり変質しているけれども、あそこは稲作農業には不適な所なので、かなり強く縄文文化が残っている。北の方は中国などとの交渉も薄いし、沿海州あたりとの接触があるにせよ混血も少なく、縄文語がいちばん強く残った。それが小進化してアイヌ語になったと考えているんですけれどね。

 この梅原さんの仮説と考古学の成果を照らし合わせてみよう。

 近年、古代遺跡の発掘がいよいよ盛んで、古代像のさまざまな仮説・通説が書き換えられている。その近年の考古学の成果をまとめた本がある。天野幸弘という方の著作で、こちらの書名は「発掘・日本の原像」(朝日選書)という。
 この本から梅原さんの仮説に関係すると思われる部分をまとめてみる。もちろん、考古学による学説もいまだに仮説レベルのものも多い。さしあたってはそれらの学説から古代のおおまかなイメージが描ければよいとする。


 まず縄文人について。

 東アジアで縄文人と似た人骨が判明した例は今のところない。ということは、特定の集団が日本列島になだれこんで縄文人になった形跡はないわけだ。こう考えて、京都大学霊長類研究所の片山一道教授(人類学)は科学誌『サイアス』(1997年5月2日号)に書いた。タイトル「縄文人は来なかった」は刺激的だ。これまでに見つかっている縄文人骨の特徴を詳しく分析したうえで、「縄文人は日本列島で生まれ、育った」と結論づけている。決着がついたとされるルーツ探しより、これまでに数千体見つかっている縄文人骨の精査の方が大切だと考える片山さんは、「混血しなくても体格が変わるのは、われわれ現代人も経験した通りだ。生活の変化も大きな要素だ」。だから縄文人がどのように形づくられたか、生活の復元こそが問題だ、と強調する。例えば「海民的な性格が加わるなど、大陸の人びととは別の道を選んだ結果なのだろう」。
 確かに、縄文時代は独特だ。その次の弥生時代から現代までの五倍弱、一万年近くも続いた。ところが北海道から琉球列島に至るまで、人びとの体格などに地域による大きな違いはなかった。地域差より、時代の推移に伴う変化の方が目立つといわれる。アメリカ人の生物学者エドワード・S・モースが東京の大森貝塚を発掘調査し、七体の縄文人骨を見つけて以来、120年間にわたる調査や論争、研究の結果である。そして、「縄文人は先住民などではなく、現代日本人の祖先だ」というのが、大方の研究者の見解になってきた。

(中略)

   この年(1998年)、北海道の北西端の離島、礼文島にある船泊(ふなどまり) 遺跡でも、同じころの縄文時代の人骨約三〇体分が発掘された。サハリンやバイカル湖周辺で見つかるのと似た形式の貝製装飾品、日本列島南方産の貝製品も副葬されていたため、「縄文時代に大陸から来た渡来者か」と注目された。先の片山教授の説と食い違いが出そうだったが、専門家の詳しい鑑定による結論は「すべて典型的な日本列島の縄文人」だった。もちろん、縄文人の活発な行動力を印象づける発見として、重要な遺跡が新たに分かった意義ははかりしれない。


 弥生人は縄文人に比べて顔が細長く彫りが浅く、縄文人より長身だ。それまでの縄文人とかなり異なる体格などから「渡来系」とされてきた。では弥生人はどこから来たのか。

 「土井ケ浜遺跡人類学ミュージアム」館長の松下孝幸さん(人類学)たちは中国社会科学院考古学研究所の韓康信教授らと共同で、山東省出土の紀元前5世紀から400年間ほどの人骨500体分を調べた。その結果「体の各部の計測データや顔面のプロポーションのほか、神経が通る頭の骨の小さな穴といった細かい部分も土井ケ浜人とそっくりだった。」


 調査は新たに黄河、長江の最上流部の青海省へ舞台を移す。「人と文化はおそらく、中国では大河に沿ってつながるに違いない。これまでの南北の流れとは別の『東西の道』を探りたい」からだ。中国原郷説への自信がのぞく。

 青海省での1998年までの日中共同調査でも、山東省に似た結果が出た。李家山など三遺跡から出土した約3000年前などの人骨計約300体は、いずれも土井ケ浜や佐賀県の吉野ヶ里などから出た渡来系弥生人骨の特徴をそなえていた。「黄河、長江上流の人びとが北部九州など一部の弥生人の祖先だった可能性がある」という分析結果なのだ。

 1999年の共同調査では、長江下流の江蘇省梁王城(りようおうじよう) 遺跡と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡出土の二体の人骨の、母系遺伝子に限定されるミトコンドリアDNAの塩基配列がぴったり一致する例まで分かった。縄文時代の稲作伝播も長江との関係で考えられており、重視されている。


 一方、縄文人そっくりの弥生人の人骨が発掘されている。 阪神・淡路大震災の被災者住宅の建設に先立つ調査(1997年)のときに出土した人骨は、紀元前三世紀の前半、弥生時代前期のものである。しかしその人骨は縄文人そっくりの特徴を示していた。典型的な弥生時代の遺物、遺構の中から、土井ケ浜遺跡で見つかったような渡来系の人ではなく、弥生以前に一万年近くも続いていた縄文時代の人の体つきの人骨だったのである。

 福岡県志摩町新町遺跡から出土した人骨も「縄文的な弥生人」だった。しかもこの遺跡の墓は中国東北部から朝鮮半島にかけて築かれているものとよく似ているという。さらに、中国・秦時代(紀元前221〜202年)の銅貨や新時代(紀元8〜23年)の硬貨も出ている。またその近くの、明らかに稲作が行われていたとみられる曲り田遺跡では出土した土器のうち朝鮮半島由来の無文土器はごくわずかで、多くは縄文時代の流れを汲む土器だったという。

 これらの事実は何を物語っているのだろうか。


 縄文的な特徴をとどめた弥生人骨は、西北九州などからも出ている。ところが、遺物との関係がつかめないことが多い。この新町や神戸の新方は数少ない例である。「朝鮮半島から渡来人が稲作などをもたらした時、地元がそれらの中からいいものを選び取った。土器が激変しないのは渡来人がそんなに多くはなかったためで、やがて在来人は彼らと融合しながら変わっていった」と、中橋さんは見る。「大勢の渡来人が縄文人を追い払い弥生時代になった」という人もいる。しかし近年、調査・研究が進むにつれて、ひとことではいえない複雑な様相が弥生当初、各地で繰り広げられたことが浮き彫りになってきた。

 中橋さんが数学者の飯塚勝さんと連名で1998年に『人類学雑誌』(106号)に発表した論文「北部九州の縄文〜弥生移行期に関する人類学的考察」は、その面からも興味深い仮説といえる。弥生時代の中期、渡来系弥生人と見られる人びとが占める割合は80〜90パーセントにのぼっている。これは中期初めまでに形成された人口構成と見られる。しかし、初期の渡来人はこれまでの発掘成果から見て、少数だったようだ。そうすれば、200〜300年間にこの逆転現象が一体、なぜ起きたのか。その答えは「渡来系集団の人口増加率が、水田稲作などの進んだ文化を背景に、土着系集団を大きく上回り、弥生中期には圧倒的になった可能性が大きい」というものだ。弥生の開花期はこうして始まったようだ。その後、人びとの行き来は次第に頻繁になり、多くの渡来人が来た、と歴史書にも記されている通りだ。


天皇制の古層(1)


 どうやら、琉球・蝦夷とヤポネシア中央部との間の大きな断層とは、まったく無関係という意味の断層ではなく、ヤポネシア全体に分布していた古層の上に、中央部だけ新来の人種が覆いかぶさって新たな層=天皇制の基層を形作った結果である、と考えてよさそうだ。そうであれば、天皇制の基層とその下の古層との関係を明らかにすることは天皇制を相対化あるいは無化する上で重要な課題となる。

 「第314回」(6月28日)の引用文の中で梅原さんは、アイヌ語の魂を表す言葉ラマットが祝詞や宣命に残っている古代日本語=倭語と一致していると指摘していた。日本文化の古層にあるアイヌ文化の痕跡を言葉の面からもう少し探ってみる。「対話・日本の原像」から拾い出す。二つの第一級の思索が響きあう対話は気持ちよく読める。内容もとても興味深いものなのでそのまま引用する。

 まず吉本さんが地名を二つ重ねる枕詞を論じている。枕詞については吉本さんは著書「初期歌謡論」(枕詞論・続枕詞論)で詳細に論じているが、ここでは「初期歌謡論」を調べる労はとらない。「対話・日本の原像」で話題にされたものでその大略を知ればよいとする。


 枕詞の中に地名を二つ重ねる枕詞がある。例えは「春日の春日」――「ハルヒノカスガ」と読みましょうか ―― とか「纏向の檜原」とかね。これはとても古い、原型にちかいタイプの枕詞なんです。

 『古事記』に、ヤマトタケルが東国へ遠征してきたところ、海が荒れ、オトタチバナヒメが海に飛び込んで海を鎮めるという話がありますね。そこのところで、オトタチバナヒメが「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」という歌を詠んで飛び込むのですが、この「さねさし相模」の「さねさし」というのは、どういう意味か全然わかっていないんです。アイヌ語に、陸地がちょっと海の方へ突き出た所という意味で「タネサシ」という言葉があって、僕は、「さねさし」はアイヌ語の地名じゃないか、というふうに考えました。

 つまり相模もちょっと出っ張った所ですから、そこに昔、アイヌあるいはそれに近い人たちが住んでいたときに地形から「タネサシ」というふうに言われていた。それをもうひとつ重ねて「さねさし相模の小野に燃ゆる火の」とした。「さねさし」という枕詞はアイヌ語だとするのが一番もっともらしいのじゃないか、そこのところで、柳田国男の地名の考え方にちょっと接触していくのです。

 柳田は、アイヌ語の地名は自然の地形をそのまま名づけた所が多いのだという。なぜアイヌ語の地名が残っているのかというと、それは単にそこにアイヌ人が住んでいたからではなくて、アイヌ人またはそれに近い人たちが住んでいたときの地名があった所へ、後から移り住んで来た人間がいる。先住民たちを完全に駆逐してしまったら、その地名はなくなってしまう。そこで地名が残っているということは、アイヌ人たちと後から来た人間たちとが共存状態であったのだろう、というふうに柳田は言っています。

 つまり、アイヌ語の地名という問題はそういう意味でとても大切なことになってきます。先住民と後住の人とが異なった人種であっても、共存していたか、駆逐してしまって新しい地名をつけたか、またはこの「さねさし相模」みたいに、枕詞の形で残したか ―― そういうふうに分けると微妙にいろんな段階があって、それはとても重要なことだなと、たしか『地名の研究』の中で言っているんです。

 これを受けて、梅原さんは次のように応答している。

 枕詞の発生はそういう二つの異言語の接触、いってみれば「春日の春日」というのは、「カスガ」をどうして「春日」と書いたかという謎を説明しているわけですね。そういう言語の違う二つの文化が接触して、そこで生ずる言語のギャップを枕詞によって埋めようとしたという説はたいへん興味深いのです。私もぼんやりそういうことを考えていました。「さねさし」は「タネサシ」から来ているだろうとおっしゃるのは、きっとそうでしょう。「タンネ」というのはアイヌ語で「長い」という意味で、「種子島」も「長い島」ですからね。アイヌ語で解ける地名が東北地方に広がっているのは当然ですけれど、もっとはるか沖縄にまであるということは非常に重大な問題だと思います。

 日本の真ん中にはなくて、北と南の両端にだけ残っている言葉がだいぶたくさんあるんですね。例えば沖縄ではサンゴ礁と海の境目を「ヒシ」といいますが、アイヌ語でも、海と浜との境目−海岸線を同じように「ピシ」というんです。ところが興味深いことには、『大隅風土記』に必志の里というものがでてきて、その必志の里に「海の中の州は隼人の俗の語に必志という」と註がついています。ということは、『大隅風土記』が作られた八世紀現在でもヒシという言葉はもう中央ではわからなくなっていたけれど、大隅の国では方言として残っていたということです。

 そうすると、ヒシという言葉はアイヌと沖縄に現在も存在し、本土では八世紀にわずかに大隅地方の方言として残っていた、この問題をどう考えるかということです。いまの「タネ」の問題でもそうですが、そういうのがたくさんありますね。たとえば「ト」という言葉はアイヌ語では湖あるいは沼を意味しますが、古くは海を意味したと知里其志保はいいます。ところが『おもろ草子』に「オクト」とか「オオト」という言葉が出てきますが、それは「奥の海」「大きい海」を意味します。本州の「トネガワ」とか「セトノウミ」の「ト」も海あるいは湖の意だと思います。利根川は海のような川、セトはおそらくセプト、広い海ということになります。

 私も枕詞についてそういうことを考えることがあって、例えば「チハヤ」という言葉があるでしょう。「チハヤビト宇治」とか「チハヤフル神」とか、『古事記』には、「チバノカドノニ」という言葉がある。「チハヤフル」「チハヤビト」「チバノカドノニ」 ―― 全部神様につながっているけれど、意味はよくわからない枕詞なんですね。

 ところが「チバ」というのは、アイヌ語では「ヌサバ」なんですよ。つまり神に祈る時にイナウというものを作るのですが、イナウが集まったものを「ヌサ」という。日本の古代語では御幣そのものをヌサというけれど、アイヌ語では御幣の集合をヌサといいまして、ヌサのある所がチバなんです。そうすると「チハヤフル」は神を祭るヌサのあるチバが古くからある、だから神につく。「チハヤビト」というのはヌサ場で一族が集ってお祭をする、だから氏につく。「チバノカドノニ」というと、チバの多くあるカドノニ。平城京跡からたくさんイナウが出てきた。古代日本にも到る所にチバがあったと思います。私はそういう解釈で、「チハヤフル」などの枕詞は理解できるのではないかと思うのですよ。

 だから、おっしゃるように、そういう異言語の接触で、枕詞として古い言葉を残しておくというのはたいへん興味深い解釈で、いま言われた「さねさし」が「タネサシ」から、というのは私は気がつかなかったのです。これは柳田国男の洞察に敬意を表したい。枕詞をもう一度、アイヌ語で考えてみることは必要なんでしょうね。金田一(京助)さんのようなアイヌは異民族でアイヌ語は異言語、アイヌ文化と日本文化とは全くの異文化であるという通説、その通説について私は批判しましたが、その通説のタブーさえなくなればいまのような解釈は十分成立可能だし、そう考えることによって、日本の古代語研究は飛躍的に進むと思いますよ。


記紀歌謡をもういちど、アイヌと琉球の歌謡との比較を通して見直してみる必要があると、お二人の意見は一致している。枕詞だけではなく、記紀歌謡の中で、どう考えても近世以来のこじつけに近い解釈が多々ある。もしかすると、そういうことは全部、アイヌや琉球の歌謡とよく照合することができれば、解明できるのではないかと考えている。
 そういう観点から、枕詞の次に取り上げられたのは「逆語序」という文法面での古層だった。


吉本さんの問題提起。

 これは地名の重ねと同じことになるんですが、琉球の古い歌謡の『おもろ草子』の中にも例がありますが、古い問題ではないかと考えていることが一つあるのです。それは僕が考えたというよりも、その前に折口信夫が「日琉語族論」などでいちはやく指摘していることなんです。

 現在の常識でいえば、地名を呼ぶ場合、東京都中央区とか京橋何丁日というふうに、大きか地域の地名を先に言って、だんだん小さくしていきます。

 ところが、折口さんは古い形はそうじゃなくて逆語序になっていて、小さい地名を先にいって大きい地名を後でいう言い方があったんだと指摘しているんですね。その例は『おもろ』の中にいろいろあります。
 「ヒルカサリ(辺留笠利)」という場合に、「カサリ」村の中の何とかという意味で「カサリ」の方が地域的に大きい。


 逆語序の関連でいうと、「大工の吉本」というのが普通の語序ですが、『おもろ』の中では「吉本」を先にいって「吉本が細工」のように、大工だから細工人というような言葉を後でいう言い方がある。折口信夫は「それは古い言い方なんだ」といっているんですね。

 たとえば「山があってその傍に村がある」とすると、それをヤマカタという。それをカタヤマというふうにいうと、後世は「片山」という言い方になってしまって、片方が削げている山みたいに思うかもしれないけれど、本当は、昔はそうじゃなくてヤマカタと、いって、山の傍という意味で、山の途中をそう呼んだと、折口さんは言っているわけです。

 それらを全部合わせて、いわゆる「逆語序の時代」というのがあったというのが折口さんのとても大きな指摘で、 僕らも初期歌謡を調べてその種の例をいくつか見つけて、折口さんの説が正しいということを論じたことがありま す。その種のことを考えていくと、これは梅原さんのご領域でしょうが、日本の古代あるいは古代以前のことは、 どうも半分だけわからないところがあるような気がしてしょうがないのです。

 この問題について、梅原さん次のように応えている。

 地名を小さい順から書くというのは、外国もそうですね。アイヌと沖縄の形容詞の書き方を比べてみると、アイヌ語はわりと自由で、形容詞が名詞の前にきていたり後にきていたり、いろいろあると思うのです。どちらの形が古いのか、そこのところはまだ検討していないのですが、たいへん面白い問題を含んでいると思います。

 これは少し大胆すぎる意見かもしれませんが、アイヌ語では顔のことを「エ」および「へ」といい、お尻のところを「オ」あるいは「ホ」というんです。古代日本語でも上と下の対立を「エ」と「オト」で表現します。「エヒメ」「オトヒメ」、「エウカシ」「オトウカシ」などです。また、「エボシ」とか「エダ」とか、上のほうを「エ」あるいは「へ」という。それでお尻のほうも尻尾のことを「尾」という。「山の尾」というのも山の裾ではなくて、ちょうど山のお尻にあたる所と考えるとよくわかる。

 ところでアイヌ語では動作を表すのに「ホ〜」「へ〜」というのが実に多いんです。人間の動作を、顔と尻の二点でだいたい表現している。それが名詞の前にもおかれ、「へ何々」「ホ何々」という。「へ何々」というのは、何々に顔を向けて、何々の方へとなり、「ホ何々」は何々の方へ尻を向けて、何々から、ということになる。こういう言葉から、さらに「へ」および「ホ」が言葉の後について、「何々へ」「何々ホ」「何々ヲ」となる。こうなると日本語の助詞「へ」と「ヲ」に近くなる。日本語の助詞と非常に似ている。「東京を発って京都へ行く」は、東京に尻を向けて京都へ顔を向けるという意味であるということになるわけです。

 そういうふうに考えると、肉体の部分を表す「エ」あるいは「オ」が前置詞のように用いられ、後に後置詞になって、助詞になってゆくという、そういう助詞の成立の過程がわかるように思うんです。さきの逆語序という問題とこの問題とはつながっているように思われて、私にはたいへん興味深い。

 それから吉本さんが「わからない部分がある」とおっしゃったのは、まさにその通りでして、私はついこの間まで、縄文文化というのはわからないと思っていたのですね。考古学ではある程度物質生活は知ることができるが、精神生活を知りえない。いくら頑張っても、考古学だけでは縄文人の精神生活や宗教意識がわかるはずがない。ところが私はいま、アイヌ文化を発見して、沖縄文化との対比で考えると、あるところまで縄文人の精神構造や宗教意識が理解できるのではないかと思うようになったのですね。今までわからなかった縄文文化を解く鍵が多少みつかってくると思います。

 琉球やアイヌの文化を読み解くことによって、縄文人の精神構造や宗教意識が理解できるのではないか、と梅原さんは言っている。それは同時に天皇制の古層を掘ることでもあり、天皇制の相対化あるいは無化へと向かう道筋でもある。
 吉本さんと梅原さんの対話は、ヤポネシアを広く覆っていたであろう天皇制以前の精神文化や宗教意識の問題へと続く。吉本さんの問題提起から。


 たとえば、中央部でも岩磐とか巨石とか樹木信仰というのがありますね。これはむしろ先住民の信仰だと考え、そこに天皇家みたいなものが入ってきて、それをそのまま容認したんだというふうに考えると、三輪山信仰でも考えやすいところがあります。

 それから、たとえば諏訪神社の信仰もそうですが、どうもこれは北方系あるいは東北からきているんじゃないかと思えるのですが、信仰の形として男の生き神様を造って、それは生涯不犯で神事ばかり司って、その兄弟が政治を司るみたいな形がいろんな所に見えるのですね。諏訪地方の信仰もそうですが、瀬戸内海でも大三島の信仰のあり方もそうです。

 そういうのと、そうじゃなくて母系制で、耶馬台国のように女の人が神事を司り、その御託宣によってその兄弟が――これは沖縄もそうですが――政治を司る、そういう形と両方あるような気が僕はするんですね。

 ですから神話の中でも、実在かどうかわかりませんが、神武というのがいて、その兄に五瀬命(イツセノミコト)というのがいますが、これは神事を司っていた長兄と思われますが、遠征の途中で登美の那賀須泥此古(ナガスネヒコ)と戦って撃退され、熊野の方に廻って転戦して、戦死してしまうことになっています。この五瀬命が、神人というか神事を司っていたと考えると、男系の匂いもするんですね。

 そうはいうものの、たとえば神武が熊野から入っていって三輪山の麓まできて、その地の村落共同体の首長の娘を嫁にもらうか入婿するかどちらかわからないが、それと結婚する。すると、それはどうも母系制に従っているようにも思える。ところがいろんなところを見ていくと、男系の神様を奉っておいて、兄弟が村落を支配するという形が、どこかにほの見えたりして、よくわからないところがあるんです。 これをどういうふうに理解すればいいのかということです。それはつまり時代の差異とか、そういうものを象徴しているのか、あるいはまた先住・後住ということを意味しているのか、それとも系統が違うということなのか、そこがよくわからないんです。

 この問題について、以下のように対話が続く。

梅原 おっしゃるように、どれが縄文文化なのか、どれが弥生以後の文化なのか、またどれが記紀にいう神武天皇という新しい支配者が出た大和朝廷以後の文化なのか、それを分別するのは容易ではないですね。私は構造として縄文文化を根底において、次に弥生文化を――神武伝承以前の弥生文化というものもあると思いますけれど――その次に神武伝承以後の大和朝廷の文化を考えますと、三輪山はどこに属するのか。朝鮮などに行くと、そっくりそのまま三輪山みたいな山があって、同じように崇拝されている。こう見ると、これは端的に縄文文化とはいえない。あるいは神武以前の弥生文化の遺跡ではないのかとも思われますが、それらは重層的に重なり合っているので粘り強く一つ一つ解いていくよりしょうがないだろうと思います。

 最後に出された男系の問題ですが、男の司祭の問題は、私は気がつかなかったが、たいへん面白い。それも父系社会と双系社会の問題と関係するのではないでしょうか。社会学者の中根千枝さんなどの考え方でも、中国・韓国は父系社会であるけれども日本はそうじゃなくて、双系社会だという。ところがアイヌも双系社会なんですね。どういうふうに違うかというと、父系社会というのは、本貫を同じくする氏により団結がたいへん固い。ですから当然大家族制になってくる。そして同姓娶らず、その範囲では結婚はできない。中国や韓国は今でもそういう社会です。

 そういう社会だと姓は増えないわけです。だから韓国は全部で二百姓ぐらいしかない。中国も百姓といいますが、今ちょっと増えましたが、少数民族を含めても五百くらいでしょうね。こういう父系社会では同姓を超えた団結はなかなか生まれません。会社でも同姓で集まるし、異姓の人が入っても絶対に社長になれないから、どうしても会社に対する帰属感がない。

 ところが日本ではそうではなくて、父系社会の団結が弱い。古代では「物部鹿島」というような複姓がある。父は物部氏、母は土着の鹿島の人、そこで物部鹿島という姓ができ、物部氏から独立する。だから姓は無数にふえる。日本の苗字というのはほとんど地名ですが、結局、氏、血よりも今住んでいる土地のほうが大事なんです。だから苗字が何十万とあるわけです。

 またアイヌでは、財産を継承するときに、男のものは父系で相続、女のものは母系で相続するのです。弓矢のような男の持ち物は男の血縁で相続され、女の持ち物は女の血縁のほうに行く。上代日本もそうではないかと思われます。それから、「同姓娶らず」の韓国では本貫を同じくする同姓のものが結婚したら、禽獣の行為だとされるくらいたいへんです。同姓を娶ったら法律で罰せられて、監獄に行かなければならない。それを免れるためには亡命をしなくちゃならん。現に最近でもそういう悲劇の実例があるのを私は知っていますよ。

 ところが古代日本の場合は、父親が一緒でも母親さえ違えば兄妹でも結婚してもかまわない。それは父系社会からみれば、まったくの禽獣の行為としかみえないかもしれないけれど、それはそれで双系社会の掟はある。母親が一緒だったら、これはやはり畜生の行為ということになるわけです。

 いまの話でいうと、初期天皇家が父系的な社会であったか、双系的な社会であったか――私は、入ってきたとき、初めは父系的であったと思います。けれど、いつの間にかだんだん双糸的に変ってきたのではないかという気がしてしょうがないんです。

 入婿の話が出ていましたが、父系社会では入婿は絶対あり得ないわけですね。

吉本 あり得ないですね。


梅原 ところが、神武天皇が大和を支配するために入婿みたいな形になっていますね。


吉本 入婿ですね。三輪山の麓の長の娘と結婚して、そこに入婿していますから。そこで僕は思うんだけれど、初期天皇でも、十代目ぐらいまでたいてい長男坊ではないですよね。それは長子相続ではなかったという意味なのか、それとも長男というのは隠れているけれど、宗教的な司祭をしていて、全然子孫を残さないことになっているから、長男ではなかったのか、そこがよくわからない。


梅原 末子相続でしょう。


吉本 それに近いと思います。


梅原 アイヌも末子相続です。アイヌは家が小さいから、大家族はできないのですね。長男が嫁さんをもらうと独立をしてまた家をつくる。兄弟がだんだん独立をすると、最後の子どもが年とった親父さんと一緒にいる。だからアイヌは財産は子どもにみんな平等に分けるけれど、最後まで親父さんと一緒にいるのは末子ということになる。ここに末子相続的な原理が含まれていると思うんですね。


 それと、いま吉本さんがおっしゃった、天皇家はだいたい末子相続ということとつながりが出てくるような気がしますね。応神天皇の時、ウジノワキイラツコとオオササギノミコトが皇位をゆずりあって困り、ついにワキイラツコが自殺したという事件がありますが、あれも伝統的な末子相続と儒教的長子相続の争いと見られます。この場合、末子相続法によって皇位の相続の権利を主張できるワキイラツコが儒教信者であり自分は相続すべきではないと考えたところに悲劇の原因があったと思います。とすると古代日本社会はアイヌ社会に似ていた。だからいまの問題は言語だけでなくて、習俗というものを考えても、アイヌと沖縄をみると古代日本のことがいろいろわかってくることになるのじゃないかと思いますね。


吉本 そう、アイヌの問題を調べていくと、弥生時代から残っているいろいろな宗教的な行事とか文化的なもの、風俗・習慣もそこに保存させている部分がありますから、そういうことがとてもわかってくるという問題があるわけですね。


梅原 しかし、アイヌにないものを調べることも大事だと思いますね。弥生時代にすでにあってアイヌにまったくないものは何かということです。それは外から持ち込んできたものである可能性が高い。アイヌでは消えてしまった可能性もありますけれど。そういうものをいろいろと比較・検討してみると、今までわからなかったものが、少しずつわかってくるのじゃないかという気がしますね。

 縄文文化と弥生文化を対比するとき、その違いは非農耕民と農耕民の違いに還元される部分が多いと思う。そして非農耕民と農耕民という場合、縄文人と弥生人という対比の外にもう一つ考慮すべきことがある。「山の民」と「里人」の対比である。

 山の民=山人とは何か。

 私たちは普通「山人」というと、木地師や 木樵などと呼ばれている人たち、さらに は狩猟を仕事とする「マタギ」や「山窩」と呼ばれている人たちを考えると思う。しかし山人研究をしていた柳田国男は、 放浪の鍛冶屋とか 鉱山師、あるいは放浪の修験者とか放浪の宗教者みたいなものも山人として考えてい たらしい。

 柳田は山人研究を半ばにして放棄しているが、これについて梅原さんが次のように言っている。

吉本 柳田さんはそれ(山人)を異人種、人種が違うと考えていたんでしょうか。


梅原 初期にはそうでなかったと思いますね。『山人の研究』で「自分の生まれたところは昔、異族が住んでいたところだと『播磨風土記』にある記事を見て、自分も山人の子孫の血が入っているのじゃないかと思った」という意味のことを言っている。それが彼にはショックだったと思いますね。だから彼はたいへん厭世的になり、民俗学の研究に入っていく。あの玉三郎が演じた泉鏡花の『夜叉ケ池』で竜の女と住む学者は柳田さんがモデルだといわれているくらいですからね。自分の血とつながっているそういう山人の文化のすばらしさを明らかにし、里人をおどろかしてやろうという気特が、山人の研究に入っていった彼の気持であり、それが『遠野物語』になってゆく。彼の民俗学の出発点は明らかに「山人研究」「異族研究」なのです。

 しかし柳田さんは大正六年頃を境として変った。山人研究は完成しなかった。おそらく私は、幸徳事件などが間接的な原因と思います。山人研究を続けていたらたいへんなことになると心配し、それは天皇制とぶつかって危険だと、官僚でもある柳田さんはそこで転向し、山人研究から里人、つまり常民の研究者となる。自分を山人じゃなくて里人と一体化する。そこで新しい柳田民俗学が生まれたと思います。そういうふうに、柳田さんには微妙な転換があるような気がしますね。だから、初期の柳田さんはアイヌに対する関心が非常に強かったのだけど、どこかの段階で捨ててしまった。柳田さんを考えるときに、そのへんがいちばん大事になってくるのじゃないか、と私は思うんです。

 山人研究から常民研究への柳田の転向の理由を幸徳事件と結びつけるのは、私には穿ち過ぎのように思える。しかし、そういう結びつきを想像できる要素が山人研究には濃厚に含まざるを得ないのは確かだ。 吉本さんと梅原さんの対話は、天皇制の基盤である農耕民とその古層の狩猟採集民との関係を神話から読み解く議論に移っていく。

吉本 そういうところから考えますと、柳田さんは何を日本人というふうに見ていたのでしょうか。
 『海上の道』でもそうですが、よくよく突きつめてみると、柳田さん流にいえば、稲作をもって南の島からだんだんと東北の方に行った、そういうものを日本人と呼んでいるみたいに思えます。これではとても狭い気がしますね。そうすると、ほとんどが日本人じゃない、ということになりそうな気がしてくるところがあるんですが、それはどうでしょう。

梅原 柳田さんは農林省ですか、勤めていたのは。

吉本 農商務省ですね。

梅原 やはり農商務省の役人としての職業意識が強くなると、どうしても日本を農業国と考える。稲作農耕民の渡来によって日本の国はできたと考えた。しかしその背後には記紀史観の影響があると思いますね。

 アマテラスオオミカミ、というのは明らかに農耕民族の神だし、その孫のニニギノミコトも農耕民族として日本の国に来た。ところが土着のクニツカミ、というのがすでにいた。たとえばオオヤマヅミというのは山民ですし、ワダノカミというのは漁撈民でしょう。ニニギとその子孫が、そのオオヤマヅミやワダノカミ、の娘を娶った曾孫が神武天皇です。ですからあの神話は、農耕民がやってきて、山地狩猟民や漁撈民と混血して、日本民族ができたということを物語っている。

 日本人は渡来の農耕民が土着の狩猟民を支配してつくった国家だ――こういう記紀史観が当時の日本人の共通の史観になっていた。それに柳田さんも影響されているのではないかと思います。だからどうしてもアマツカミ、主体の歴史観だった。われわれは今は、クニツカミを重視した歴史観を考えていかねばならないと思いますよ。

 しかし記紀のニニギから以後の九州での話は、事実そのままではないとしても、日本人の成立の過程についてたいへん正確に語っていると思われます。渡来した稲作農耕民を父系、土着の狩猟採集民を母系に、その二つの混血によって日本人はできてきたということをその神話は示している。そのために出産のときにトラブルが起きたりする。文化が違うと出産がいちばん問題だと思います。出産のときに必ず文化のトラブルが起きてくる――そういうものを、とてもうまく語っていると私は思いますけれどね。

 次いで、「マタギ」と「山窩」の社会習俗や宗教が話題となる。


吉本 それから、柳田さんのいう山人の中に事実として、たとえば山の中腹から煙が立っているのを見て、「あれは山窩の人がまたやってきたんだ」というような言い方で出てくるけれど、山窩というのは、つまり山人のうちにどういうふうに位置づけられるのでしょうかね。


梅原 まあ、柳田さんを読むとびっくりするのは、大正天皇の御大典のときに、京都の若王子の山の中腹から煙が出ていた、あれは天皇の即位を祝って山人がたいた火の煙だと書いてあるんですね。僕は若王子の山裾に住んでいるんで、どうしてそんなことを柳田さんが考えたか、びっくりしてしまいますけれど。(笑)

 山窩とかマタギという人たち――山窩とマタギとはどう違うのか。マタギというのは東北に住んでいる狩猟民で、山窩というのはもうちょっと中部の山岳地帯に住んでいる狩猟民ですね。マタギのほうがまだ農耕民との間の、ある種の友好関係があるけれど、山窩は差別され非常に迫害されていた、と考えていいのではないでしょうかね。

 ところがマタギ社会ですけど、ご承知のようにカメラマンの内藤正敏さんがダムで埋没する新潟県のマタギの社会を撮っていますね。この間、私も山形県の小国町という所のマタギ部落へ行って、マタギの熊祭を見てきましたよ。マタギ部落というのはもうどこでもほとんどなくなってしまいましたが、まだそこには少し残っているんです。

 熊を獲るのに、今はライフルですから、かなり遠い所からでも撃てるはずなんですよ。ところが、そんなふうにパッと撃たないで、やはり勢子が出て、熊を下の方から追い上げ、一の鉄砲、二の鉄砲、三の鉄砲が待ちうける。そしてずーっと追い詰めてきて、一の鉄砲から順に撃って行く。武器がすっかり近代的に変っても、昔、熊を追い込んで、槍で仕止めるのと同じ方法でやっているんです。

 ここにどうしてマタギ社会が残ったのかというと、彼らは片方で農耕をやっている。冬になって農耕ができなくなってからマタギの生活に入るんですね。ふだんは農耕をやって、冬の間だけマタギですから、かえって純粋に残ったのです。

 そこでいろいろ聞きましたけど、完全な共産社会ですね。分配が実に公平です。つまりマタギの親方を能力によって、今度の熊狩りには誰がいちばんいいか相談して決める。一種の職能的な秩序が完全にできていて、親方はご飯も炊かなくていいし、寝ていればいい。しかし親方の命令には全部従う。その代り、親方は責任をもたなくてはならない――そういう形でやっているわけです。ところが熊を獲って、熊の肉を分けるのはみんな平等で、狩りに参加できない未亡人とか年寄りにもちゃんと平等に分けるんです。ですからマタギ社会は見事な平等社会で、長は機能に応じてできる………というので、私は感動しましたね。

 そんな彼らが熊祭をしている。それがいつやるかというと、マタギをやめるとき、つまり熊が冬眠からさめて出て来るときに熊を獲るわけです。ですから熊を獲り終ると春で、彼らはそれから農耕生活に入るんです。その熊祭もやはり、アイヌの熊送りに似ていました。熊の魂を天に送るという、そういう意味が残っているようでした。同時に、熊祭を終えて、自分たちはこれからマタギをやめて農耕の生活に変るという、そういう意味ももっているけれども、どこかにアイヌの熊祭の面影を保っていました。

 ところで、そういうマタギとか山窩――山窩はまたちょっと生活が違うと思いますけれども ――彼らの生活習慣を見ていると、ふつうには、山人はやはり異民族だと考えられるんじゃないかと思うんです。しかし、分配の見事な平等主義の社会を実際に見ると、やはり感動しましたね。


 記紀歌謡の中には近世以来のこじつけに近い解釈が多くある。このことと山窩が結びついて思い出したことがある。
 吉本さんは著書「共同幻想論」で柳田国男の「遠野物語」や「記紀」の神話の他に三角寛の「サンカの社会」 を素材に用いている。その「共同幻想論」の「規範論」に、古事記の中の次の歌の意味について論じているくだりがある。


 夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁徴爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁
(やくもたつ いずもやえがき つまごみに やえがきつくる そのやえがきを)


 通説ではこの歌を

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」

と読み下している。そしてその意はおおよそ

「八雲の幾重にも立ちのぼる出雲の宮の幾重もの垣よ。そこに妻をむかえていま垣をいくつもめぐらした宮をつくって共に住むのだ」

とするのが通説だ。 学者たちは何故そのような読解と解釈をしたのか。

この歌は、「天津罪」を犯して高天原を追放されたスサノオが出雲を平定し、その地に宮を作ったという物語に挿入されている。


 故ここをもちてその速須佐之男命、宮造作るべき地を出雲国に求ぎたまひき。ここに須賀の地に到りまして詔りたまひしく、

「吾此地に来て、我が御心すがすがし。」

とのりたまひて、其地に宮を作りて坐しき。故、其地をば今に須賀と云ふ。この大神、初めて須賀の宮を作りたまひし時、其地より雲立ち騰りき。ここに御歌を作みたまひき。その歌は、


 夜久毛多都 伊豆毛夜幣賀岐 都麻碁徴爾 夜幣賀岐都久流 曾能夜幣賀岐袁

 「其地より雲立ち騰りき」という物語の地の文にとらわれてのことであるのは明らかだ。勿論これは古事記の編者の意図であっただろう。しかし、記紀の歌謡については、物語の部分とは別個に考えなければならない場合が多いことが一般に認められている。伝承の歌があってそれをもとに物語が作るられたり、物語の前後の関係からその物語にうまく会う伝承歌を挿入されたりした可能性があるのだ。

 実はこの歌はサンカの社会にも伝承されていて、サンカの解釈はまったく違うという。吉本 さんが「サンカの社会」から引用している部分を孫引きする。


サンカは、婦女に暴行を加へることを「ツマゴメ」といふ。また「女(め)込めた」とか、「女込んだ」などともいふ。この「ツマゴメ」も、往古は、彼らの得意とするところであった。そこで、「ツレミ」(連身)の掟( ヤヘガキ)ができて、一夫多婦を禁じた。それが一夫一婦(ツ レ)の制度(ヤヘガキ) である。

 ここで問題になるのは、古事記・日本書紀に記された文字と解釈である。すなはち、


(古事記)夜久毛多都伊豆毛夜幣賀岐都麻碁微雨夜幣賀岐都久留骨能夜幣賀岐衰

(日本書紀)夜句茂多菟伊都毛夜覇餓岐菟磨語妹爾夜覇餓枳菟m盧贈廼夜覇餓岐廻

 右に見るやうに、両書は、全く異った当て字を使ってゐるが、後世の学者は、次のやうに解釈してゐる。


八雲立つ 出雲八重垣妻ごみに八重垣作るその八重垣を

と、決定してゐるやうであるが、サンカの解釈によると、(昭和11年、富士山人穴のセプリ外 18ヶ所にて探採)次の通りである。


ヤクモタチ(ツ)は、八蜘昧断ち(つ)であり、暴漢断滅である。

イヅモ、ヤへガキは、平和を芽吹く法律で、ツマゴメ(ミ)ニは、婦女手込めにし、である。

ヤへガキツクルは 掟( ヤヘガキ)を制定して、コ(ソ)ノヤへガキヲ、はこの 掟( ヤヘガキ)をこの守る憲法を―で、これが「一夫一婦」の 掟( ヤヘガキ)である。

 それで出雲族を誇示する彼らは、自分たちのことを、「沢瀉(おもだか) 八蜘蛛断滅」だと自称して、誇ってゐるのである。

 吉本さんは「サンカの伝承の方が確からしく思われてくる」と言い、その理由を次のように述べて いる。

 なぜこういう解釈に吸引力があるかといえば、スサノオが追放されるにさいして負わされた〈天つ罪〉のひとつは、農耕的な共同性にたいする侵犯に関しており、この解釈からでてくる婚姻についての罪は、いわゆる〈国つ罪〉に包括されて土着性の濃いものだからである。『古事記』 のスサノオが二重に象徴している〈高天が原〉と〈出雲〉における〈法〉的な概念は、この解釈にしたがえば大和朝廷勢力と土着の未開な部族との接合点を意味しており、それは同時に〈天つ罪〉の概念と〈国つ罪〉の概念との接合点を意味していることになる。


 「規範論」はこのあと「〈天つ罪〉の概念と〈国つ罪〉の概念との接合点」を論究していく。


 前回、梅原さんが「こういう記紀史観が当時の日本人の共通の史観になっていた。それに柳田さんも影響されているのではないかと思います。だからどうしてもアマツカミ、主体の歴史観 だった。われわれは今は、クニツカミを重視した歴史観を考えていかねばならないと思います よ。」と言っていた。上記のような記紀歌謡の洗い直し、あるいは記紀の神話の古層の掘り 起こしはそのことと別のことではないと思う。網野さんのお仕事もその線上にある。

 サンカの誰かが里に下りてきて、古事記あるいは日本書紀を読む機会をもった。その中の「ヤクモタツ・・・」という歌を知り、自分流に解釈しなおしてサンカ社会に流布した、なんてとても考えられない。とすると「ヤクモタツ・・・」の歌は古事記の編者が伝え聞いた伝承と同じ発祥のものを、古事記編纂の時代よりずっと古くから、古事記とは無関係に、サンカの祖先の社会に伝承され、今日まで伝えられてきたと考えるのが自然だ。そういう点からもサンカの人たちが解く解釈の方が確からしい。
 サンカの人たちは出雲族を誇示しているという。出雲族というのは歴史的な信憑性のある種族だろうか。
 出雲神話はまったくの作り話だというのがこれまでの通説だが、梅原さんはこの通説にも疑問を呈している。


 実はこの間、出雲にすばらしい銅剣がたくさん出たので見に行きました。銅剣が356本。これは今まで日本全土で出ているより多い数です。それに銅鉾が16本、銅鐸が6個――ちょっと日本の古代史を書き換えなくてはならない。われわれもそうですが、長いこと「出雲神話」はフィクションだと考えてきた、これは津田左右吉に影響された日本の古代史家が一様にもってきた考え方です。

 ところが、「出雲神話」の中心地である斐伊川の近くの、ほんの小さい丘からそれだけのものが出てきて、国譲りの話をそのままあらわしているようなことになってきた。

 それから、和辻哲郎の銅鐸文化圏、銅剣・銅鉾文化国の対立で弥生文化を、近畿文化圏と北九州文化圏の対立と考える図式もすでにおかしくなってきましたが、この荒神谷遺跡の出現でもう一度大きく問い直されなければならなくなった。

 そこで、どうしてそんなものがそこに埋められていたか、いろんな説が出ていますが――最初、銅鐸を使って地の祭をしていた。ところが今度は太陽を祀る宗教になったから、要らなくなって埋めたという説が有力のようですが、埋めたにしては数が多すぎる。それと同時に、地の神から太陽の神へと、そんな簡単に信仰の対象が移るものかどうか。どうにもうまい説明がつかないんですね。私はこの遺跡がヤマトタケルと関係する記紀や『風土記』のタケルべの里であることを考えて、やはり出雲権力の大和権力への降服儀式ではないかと思いますね。


 「発掘・日本の原像」がこの神庭荒神谷(かんばこうじんだに) 遺跡に関連した記述をを書き出してみる。


  島根県松江市に弥生時代の戦場跡らしい遺跡がある。田和山遺跡という。この田和山の西約 40kmに出雲大社、約17km西南西に神庭荒神谷と加茂岩倉の両遺跡がある。

 この田和山遺跡は標高46mの丘陵にあり、2100年あまり前の弥生時代前期後半につくられ、200 年ほど続いた不思議な遺跡だという。まるで砦か、聖地のようだという。人が住んでいた形跡はない。こんな弥生遺跡はきわめて珍しい。見晴らしの良い丘陵に、倉庫にしてはあまりにも小規模、しかも厳重な防衛態勢をとって営まれた形跡が濃い。いったいどんな施設だったのだろうか。神庭荒神谷遺跡はこうした周辺の遺跡とも関連して考えなければいけないだろう。

 神庭荒神谷遺跡から大量の銅剣、銅鉾、銅鐸が発掘されたのが1984年。梅原さんがそれに注目して上記のような発言をしたのが1986年のこと。その後、1998年には吉野ヶ里遺跡から九州初の銅鐸(高さ約26cm)が発見されている。さらに99年6月、これまで6種類以上の鋳型が出土している大阪府茨木市東奈良遺跡から、朝鮮式小銅鐸と日本式銅鐸双方の特徴をもち、「日本式が考案される過程でつくられた祖形のひとつで、絶滅してしまった型の遺物」ともいわれる古い銅鐸(高さ14.2cm)が出土している。同じ年の9月には奈良県田原本町の唐古・鍵遺跡で、類例のない文様の銅鐸鋳型が見つかった。このように近年、銅鐸関係の新発見が続いている。しかし、鋳型が見つかった約35ヵ所のうち、30ヵ所を近畿地方が占めている。


 このため、春成秀爾・国立歴史民俗博物館教授(考古学)は「近畿に銅鐸の中心部があったことは依然、揺るがない」という。そして「高度で繊細な技術やデザインなどから見ても、銅鐸は当時の地域集団にとって、格別なものだった。とても対価を支払って入手できるものではなく、製作も限られていた。贈り主と贈られた相手の間には、半永久的に従わざるを得ないような関係ができたに違いない」とし、社会統合の象徴とも考えている。

 銅鐸はこれまで、その用途や埋納目的に関心が向きがちだった。奈良国立文化財研究所は、加茂岩倉銅鐸の原料産地などの科学分析を始めている。詳しい分布状態や製作推定地、兄弟関係などから、銅鐸の「動き方」が解明されれば、ここからも弥生社会の実態が見えてくるだろう。

農耕があると富の蓄積がきくわけですね。狩猟社会というのは絶えず移動していますから、富を一カ所に貯蔵することはなかなか困難ですね。だから例のオオクニヌシノミコトが袋を背負っていくというのは、狩猟民族の移動方法を示しているのではないかと私は思います。

 獲物があった場合でも食べられない分は腐ってしまいますから、自分だけ一人占めにすることはできないだろうし、部族の全部に分ける――そういう、非常に共産主義的な社会だったと思います。

 ところが農耕が発明されて、富の集中が可能になり、そしてそこから国ができる。国ができれば国家を統一する大宗教、世界宗教が出てくる。そして巨大な神殿ができてくる。それからそれに対して必ず文字が出てくる――ということになると思うのですが、縄文文化というのは、そういう意味でいうと、すでに世界の他の地区にそういう大文明が出現しているのに、一時代前の生産方法のもとにかなり精神的に高い文化を発展させた特殊な文化であったと思いますよ。

 日本では農耕の成立が遅れ、巨大な国家の出現が遅れたために、富の集中する社会が出てくるのがたいへん遅かった。それから文字の出現も遅かったと思いますが、それはいいことではなかったか、といま僕は考えているんですよ。

 国家のできるのが遅かったからよかったという考え方です。巨大国家が造られたときは富の集中があって、階級社会ができて、うんと金持と貧乏人の差ができる。そういうところから生ずる人間の心の歪みがたいへんきつい。そのきつい歪みを世界宗教が反映しているのではないかと、私は思うんです。

 縄文文化は、巨大国家や大文明は生み出さなかったが、それはむしろよいことだったのだと言っている。大文明の代わりに「精神的に高い文化を発展させ」ていた。現代の人類が陥っている陥 穽から人類を救い出し人類の未来を開くための新しい思想あるいは倫理を創出する手懸りが、 縄文文化を発掘・考究することによって得られるのではないか。梅原さんと吉本さんの対話から、 こんな壮大なモチーフが浮かび上がってくる。

 さて、いきおい、お二人の話題は「日本国」ということになる。 梅原さんの要請に従って、吉本さんが「共同幻想論」のモチーフと方法論を次のように語っている。


吉本

 制度的というか、政治的というか、そういうところから考えると、日本人の歴史と、日本国家、つまり初期の大和朝廷成立以降の国家らしい国家が農耕を基礎にしてできあがったことは同じではありません。つまり日本国の歴史と日本人の歴史は違って日本人の歴史の方がずっと古いわけです。それこそ縄文早期、あるいはもっと前から始まっているかもしれませんから。日本人の歴史と日本国の歴史――もっといえば天皇家の歴史とを全部同じものとして見るのは不当ではないかという感じ方はあったのです。

 だから、天皇家の始まりが日本国の始まりというのはまだいいとしても、天皇家の始まりが日本人の始まりだ、というのは少なくとも違うから、日本人の歴史というところを掘り起こしていけば、天皇家を中心にしてできた日本国家の歴史のあり方を相対化することができるのではないかということが問題意識の一番初めにあったわけです。


 網野さんの厳密な定義に従えば、日本国成立以前には「日本人」はいなかったことになるが、吉本さんが「日本国」と「日本人」とを使い分けている意図が網野さんの問題意識と同じであることは言うまでもないだろう。吉本さんは「日本人」という語を「日本国の国制の下にある人間集団をさす言葉」として用いているのではない。ヤポネシアを「日本列島」と呼ぶときと同じで、吉本さんがこの文脈で「日本人」というときの「日本」は国名ではなく地名を表していると考えてよいだろう。
 不要な解説だったかもしれない。吉本さんの発言の引用を続ける。

 ですから初めの頃、熱心にやったのは、天皇家の即位の仕方とか宗教の作り方というもの――僕は主としてそれを琉球・沖縄をみて、沖縄にずっと後まで、十世紀以降まであった聞得大君(キコエオオキミ)という女官の制度的な頂点にいる、宗教を司る女性たちの即位の仕方と比べると、たいへん似ているところがあるのではないか、そこを知ろうとしました。
 『共同幻想論』の中では何を考えたかというと、能登半島などの田の神が来訪してくるという田の神の儀式と、大嘗祭の神事のやり方とがわりあい似ているのではないか。同じ型があるのではないか――それを調べて研究すると、日本人の歴史という問題と天皇家の成立以降の国家の歴史、あるいは天皇家の祭儀や祭の中に残っている制度的な名残りなどを類型づけられるのではないかというふうに考えて、初めはそんなことばかりつつき回していたように思います。

 初期の天皇家が大和盆地に入ってきて、そこで地域国家らしきものを造っていくときの信仰のありかたは、沖縄の聞得大君の即位のときの信仰のやり方と似ていて、いずれもはっきりいえば一種の巨石信仰あるいは樹木信仰みたいなもので、その巨石や樹木、あるいは小高い丘の頂点から神が降りてくるという感じがあって、それは同じ類型づけができるのではないかと考えたんです。

 それが、天皇家あるいはもっと普遍化して農耕民に特有な信仰だったのか、あるいはそれ以前からあった信仰を継承したのか、そこがわからないから、初めは農耕民のいちばん古い祭の仕方を、天皇家が大和盆地で継承して最初にやったのだと考えたのですけれども、後になるにつれて、それは前からいた先住民の信仰ではないのかと思えるようになってきているんです。でも本当は、そこがよくわからないんです。

 つまり初期の天皇をみていても、相続は少なくとも長子相続ではない。しかし婚姻になるといつでも姉と妹がいて、入婿的で、女系的な匂いがするのは確かです。そうすると、そこのところはどういうふうに理解したらいいか。つまり宗教的な為政と、現実に一族のあり方としてとっている相続の形とがどうしても混合していて、よくわからないというのが問題です。

 これと異質なのは、縄文時代からの狩猟民的な祭式といわれる、諏訪湖のほとりの諏訪神社の祭のあり方と相続の仕方です。あれは男系の子どもを連れてきて、何十日かその子どもを籠らせたあと、岩盤みたいなものの上で相続の儀式をする。それは一種の生き神様の役割をさせるという形で、大和朝廷が近畿地方、大和盆地でやったやり方とちょっと違うんですね。

 それと、瀬戸内海の大三島神社の古くからの相続の仕方――河野氏の祖先でしょうけれども ――あのやり方が、兄が生き神様を相続して、それは生涯結婚できず子孫を残すことかてきないことになっていて、弟が支配するという形を強固に保ってきた――わずかにその二つぐらいが異質だということがわかっていた。

 江上(波夫)さんのいうように、もし大陸からやってきたのが天皇家だというのならば、そのとき大勢の原住民がいて宗教的な形態も決まっていた、そこに支配的な民族が土着の人たちより少人数という形で入ってきた場合に、自分たちの宗教を押しつけるものなのか、あるいはそこに元からあったものをうまく使うのか――僕は、そこのあたりの解明がとても重要ではないかという感じがします。

梅原

 記紀の記事を尊重すると、神武天皇の次に重要なのは崇神天皇でしょう。神武天皇も崇神天皇も、どちらもハツクニシラススメラミコトといわれている。どうして二人に同じ名前をつけたのかという問題が生じてくるけれども、政治支配は神武天皇から始まっている。記紀の記述に従って南九州からやってきて、巨大な統治政権を固めたのが神武天皇だとすれば、それの宗教的な基礎を固めたのが崇神天皇であるということになる。そういう意味で崇神天皇が神武天皇とともにハツクニシラススメラミコトと呼ばれるのだと思います。

 崇神天皇の時代に疫病がはやってたいへん多くの人が死んだことがある。どうして疫病がはやるのか占ってみたら三輪の神様が崇っている。そこで三輪山の神様の子孫であるオオタタネコを見つけ出して三輪山を祀らせたら、疫病はおさまって日本の政治はうまくいったという記事が『古事記』にも『日本書紀』にも出ているんです。

 これは、神武天皇以後九代までの天皇が向こうからもってきた、近くは南九州、その前はおそらく朝鮮半島からもってきた宗教で交配しようとしたけれどうまくいかない。そして世の中がいろいろ乱れたので、結局、先住民が信仰していた宗教を祀ることによっておさまった、ということではないかと私は解釈するんです。三輪山の宗教が縄文時代までさかのぼるものか、それとも弥生時代に始まるものか、これまた難しい問題ですが……。

 一応、日本の国を考えるときに、言語だの宗教だのはだいたい土着のものを基本にして、それを継承したのではないか。そうしないと、少数の支配者が多数の被支配者をうまく治めることはできないだろうと、そう考えているんです。

 それでは先住民、縄文住民の宗教はどうであって、弥生初期にどう変って、再びいまの天皇家の祖先が来たときにどう変ったかということはなおわからない。私は、いわゆる神様が山の峰に天降って、それが現在の支配者の祖先だという考え方は、天皇家が大陸のほうからもってきた思想ではないかと思っていました。ところがそれもやはり、それ以前の縄文時代の人たちがすでにもっていた考え方ではないか――沖縄やアイヌの例もあって――そういうふうに今は考えております。
 アイヌでもかれらの祖先が降った山が必ずあるところを見ると、天上から神が降臨するというのがアマツカミ渡来農耕民の考え方であるとはいえないようです。

http://www3.kitanet.ne.jp/~nihirata/nippontoha.html

ヤマト王権の出自(1)


 吉本さんと梅原さんの対話が次に取り上げたのはヤマト王権の出自である。この問題に まつわる事柄はいまだほとんど仮説の域にあるが、それらの仮説を照らし合わせたり組み合わせたりしながら、より信憑性のある説を作り出すほかはない。そのときの基準・方法は たぶん、「常識的な感性」だと思う。
 ヤマト王権は弥生文化を生活基盤とする人たちによって樹立された。ヤマト王権の出自を問う前に弥生文化がだれがどこからどのようにヤポネシアに伝えたのか、まず歴史学者の見解を聞こう。「岩波講座・日本の歴史1」所収の山尾幸久氏の論文「政治 権力の発生」を利用する。山尾さんはもちろん、考古学や文献学の成果を論拠にして論を進めているが、それらの論拠は省いて、大まかな論旨だけを追うことにする。
 朝鮮に青銅器文化が始まったのは遅くとも前四世紀ごろを下らないとといわれている。やがて中国戦国時代末期、前240年代〜前220年代、燕や斉の亡命者が鋳造鉄器を朝鮮にもたらした。 漢が朝鮮に四郡を設置(前108年〜前107年)した後には錬鉄鍛造品も作られるようになったという。 南部朝鮮が鉄器時代に入るのはさらに一時期遅れて一世紀とされている。
 燕や斉の亡命者は鉄だけではなく、鉄とともに稲をももたらしたと考えられる。 「日本の弥生文化複合の物質的二大要素すなわち鉄と稲」はまず朝鮮半島に伝えられた。
 そのころの南部朝鮮の人々の生活様式特色の一つは西南部の多島海などでの漁撈活動にあり、 造船・航海術にも習熟していたことが察せられる。また、低湿地では初期的な水稲栽培が行われていたと考えられる。

 さて、中国を統一した漢は朝鮮を征服して四郡を設けた。そのうち「真番」という郡は早くも26年後(前82年)完全に放棄された。その理由として反乱などの外的要因は考えられない。そこで山尾さんは次のように推論している。
 漢の郡県制支配の特色の一つは、前後三回行なわれた戸口調査を基礎とする人頭課税と力投 徴発であるが、国家権力の基盤「庶民」「編戸の民」の中心、力役や兵役を負担する15〜56歳の男子が種々の方法で国家権力の掌握から逃れて減少し「荒地」(『魏志』韓伝)と化した場合、 長吏を派遣して郡県として維持する意味は稀薄になる。真番郡廃止の理由の一つとして、この ような事情があったのではなかろうか。(その逃亡者たちが)豪族の私的経済機構に流入する といった事態は考えられないから、郡県支配の及ばぬ地に、かなり多数の人々が新たな安住の地を求めて移動したのであろう。

 漢の郡県制を嫌った南部朝鮮の人々の中にヤポネシアにまでやってきた人たちがいただろう ということは、地理的条件や北九州の海民たちの活動からも容易に考えられる。山尾さんの説は次のとおりである。

 北部九州人の縄文晩期以来の南部朝鮮人との接触または歴史的親縁性を前提として、当初の ある期間、弥生文化の主として物質的・技術的領域などが学ばれていたのであろう。その後し ばらくして伊勢湾沿岸までの西日本に、比較的短期間に人間集団が飛び地的に移住することに より、この文化が伝播したとされる。その人間集団は南部朝鮮の系統であったらしいが、しか し水稲栽培がなぜ日本列島に定着したかとは一応別個の説明を要するはずの、南部朝鮮からな ぜ人間集団が移住したかの問題は、いまだ必ずしも明らかではない。弥生時代の開始期を想定するについても、その時期の南部朝鮮の可耕地がどのように分布しており、いかなる稲作がど の程度行なわれ、人間集団を移住させた特殊歴史的な事情はなにであったのか、あまり関説されてはいないように思われる。小稿のように鉄と稲との大同江流域への伝来を前三世紀後半と考え、南部朝鮮への伝播や北部九州人の海を越えての接触による習得の期間をある程度考えた場合、前三世紀じゅうに、南部朝鮮人または北部九州でのその二世などが、畿内から伊勢湾沿 岸にまで移住して弥生文化を伝えたといったことは、あまり考えられなくなる。かりにそのよ うなことがあれば左に述べる特別の政治的事情は畿内などへの弥生文化伝播の第二波であった ことになりかねないが、小稿は、前記した前108年ないし前82年の、真番郡の設置から放棄まで の時期に、注目したいのである。

 朝鮮半島西南部全羅道地方の、鉄器を使用し稲作を行ない、航海にも長じた半農半漁民の一 部分が、漢の郡県制支配を忌避して朝鮮半島東南部慶尚道地方などに移住する過程で、さらに その一部分は、すでにかなり長期にわたって接触があった北部九州にも渡来し、西日本の各地に初めて進出したと考える可能性もあるのではなかろうか。

 こう考えると朝鮮四郡の設置は、北部九州などに限られていた弥生文化の西日本各地への伝播の直接的契機であり、弥生文化は縄文晩期のそれを基礎とし南部朝鮮の文化を受容して成立した ことになり、朝鮮のそれ自体が、江准地区や山東地方の稲作や墓制、北アジアに系譜がたどれる遼寧地方の牧畜民の青銅器文化や墓制、もちろん戦国期の四大文化系統の一つとされる燕・斉の鉄器文化等々が、朝鮮半島西南部の河畔・沿海の漁撈生活者としても特色があった人々の新石器 文化を基礎として、習合したものであったことになるであろう。
http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-588.html


山尾さんの説から当面のテーマに沿った部分を取り出してみる。

1. 朝鮮半島西南部と北部九州とはかなり長期にわたって接触があった。

2. 北部九州に朝鮮からの本格的な移住が始まったのは、真番郡の設置から放棄までの前108年〜前82年ごろからである。

3. 弥生文化は縄文晩期のそれを基礎とし南部朝鮮の文化を受容して成立した。


 また、山尾さんは中国の史書の記述を詳細に吟味して、そこに登場する倭人の「国」の地理上の位置を次のようにまとめている。すなわち『前一世紀中葉ごろの北部九州の多数の「国」、一世紀半ばの那珂郡の「奴国王」、二世紀初頭の北部九州の「倭国」とその王、三世紀中ごろ、「親魏倭王」が都する畿内の「邪馬台国」』。「邪馬台国」畿内説を採用しているが、「邪馬台国」がどの地方の「国」なのかという問題は、いまは問題としない。そのかわりに初期ヤマト王権の王と考えられている「倭の五王」の記事が「宋書」に書き留められたのが413年〜502年であることを付け加えておきたい。

 以上のことを前提として梅原さんと吉本さんの対話に戻る。

 まず江上波夫さんの「騎馬民族渡来説」が取り上げられる。「騎馬民族渡来説」は、たぶんいまは歴史学会ではまったく問題にされていないのではないか。吉本さん、梅原さんももちろん否定的取り上げている。

 吉本さんは時間の幅を問題にする。異質の宗教と乗馬の技術と武器をもった一団が、何の抵抗もなくスーッと入ってきて短期間に畿内へ進出したと考えるのは不自然だという。 ヤマトにやってきたヤマト王権の祖先が騎馬民族だったのか、北九州の定住民だったのか、あるいは記紀が記述するとおり高千穂の峰あたりからやってきたのか、いずれにしても九州に定住した弥生人であり、幾世代もの定住を経ながら漸進してきたと考えるのが自然だという。

 そのそのように考えるヒントの一つとして柳田さんの考えを紹介している。


 そこで、興味深いと思えるんですが、稲の種子とか耕作をもって南の島づたいに来た人たちはどうやって近畿地方に入ってきたかについて、柳田さんが言っていることは、外側、つまり四国の土佐の太平洋側を海岸伝いに通って近畿地方に入るのは、それほど高度な航海術や大きな船でなくても可能であったということです。けれど、豊後水道か北九州の関門海峡かわかりませんが、そこを通って瀬戸内海を航海するというのは、相当な航海術と船の大きさとがなければできなかったといっています。

 だから、柳田さんの考え方を敷術すると、琉球・沖縄から島づたいにやってきた、稲作をもった人々は、南のほうからやってきて、海峡を通って瀬戸内海から近畿地方に入るという船の技術が充分に身につくまでは、そこまで来るコースによって北九州か南九州かわかりませんが、そこへんの沿岸に何代かにわたって住んでいた、というふうに潜在的に考えていたんじゃないか、と僕は思っているんです。

(中略)

 つまり日本列島で人類が発生したと考えない限りは、どうせ大陸から渡ってきているわけですから、おおざっぱにいえば王権も民衆も大陸から渡ってきたというのは確かでしょう。しかし、それは時間的にたくさん幅をとらないといけないので、あまり早急に考えると違ってくるのではないか。

 柳田さんは稲と稲作技術が南の方から伝わってきたという説に依拠している。私が冒頭にまとめた朝鮮渡来説とは真っ向から対立する説である。南方渡来説が今なお有力な説の一つなのかどうか詳らかにしないが、ここでは太平洋側の海岸伝いの航海より瀬戸内海の航海のほうが難しいという点に注目したい。そして、弥生人の移住が本格的に始まってから「倭の五王」までに数百年の時間があることを考慮すれば吉本さんの「時間的にたくさん幅をとらないといけない」という判断はきわめて「常識的」だと思う。

 この吉本さんの考えを受けて、梅原さんも「騎馬民族説」を二つの点で退けている。一つは歴史書にその反映がないこと、二つは騎馬民族は父系社会で日本は双系社会と間には相当に断絶があるという点をあげている。そして、梅原さんはさまざまな新説よりも記紀の記述のほうがずっと納得できるといっている。


 その点、『古事記』にあらわれているニニギノミコトから神武天皇までは――曾孫ですね。これは非常に自然ではないでしょうか。ニニギノミコトというのは向こうから来た種族にしても、その次に来ると、オオヤマヅミノミコトの娘のコノハナサクヤヒメとの間に次の子ができて、それが二代にわたってワダノカミの娘との結婚によって神武ができるということになると、外国から来た血統が結局、八分の一になってしまいますね。そういう土着の血が入らないと渡来民が、なかなか日本を支配することは難しいのじゃないかという気がしますね。

 それでもしかし、神武天皇が大和に入ってくれば、さっそく土地の娘を娶らなきゃならんということになる。次代の天皇は、九州の女の子どもではなくて、大和の三輪山の神の血を引く娘の子どもでなければならぬという――こういうところにそれが事実でないとしても日本の国の成り立ちが、大変よく説明されているような気がするんです。ですから、いろいろな人が頭で考えた戦後のあれこれの新説よりも、日本の国の成り立ちというのは記紀に記されている話の方がずっと納得可能なのではないかと、この頃思うようになりましたよ。

http://adat.blog3.fc2.com/?no=589

 
 それを認めても、決して国家主義の史観にはならないのではないか。天皇家の祖先が日本列島にやって来る以前から日本人があり、日本文化があった、そう考えさせるものがすでに記紀の中に秘かに含まれているのじゃないか、という気がしてしょうがないんですね。柳田国男とちがって記紀神話を、天つ神の方からでなく国つ神の方から読むことが可能ではないでしょうか。

 「天皇家の祖先が日本列島にやって来る以前から日本人があり、日本文化があった」というくだりの「日本人」「日本文化」は、もちろん「縄文人」「縄文文化」と読まれるべきだろう。また「天つ神の方からでなく国つ神の方から読む」という読み方により新たに開けてくるものがあるかもしれない。梅原さんの仮説を聞いてみよう。

 そして、それは南九州の権力が大和に攻めてきたということになっている。文化的にみると、北九州は弥生時代にすばらしい文化をもっているわけで、北九州文化圏あるいは大和文化圏と二つの文化圏があって、弥生時代の末になって一つに統一される、ということが大体いえるわけですね。そこで和辻(哲郎)さんは、北九州権力が大和に攻めてきて、統一したのではないかと考えている。私もそういう考えでしたが、だんだん記紀神話どおり、北九州権力ではなく南九州権力が大和へ攻めてきたと考えた方がいいのではないかと考えるようになってきた。

 大体、そういう言葉があるように、金持ちはあまり喧嘩しないもんでね(笑)。アレキサンダーとかジンギスカンのように、遠征したり冒険したりするやつは、みんな貧乏でハングリー精神をもっている(笑)。だからおおよそ弥生末期にいわゆる天孫族が外国から日本に入ってきたとしても、北九州のいいところは全部、先に来た部族に押えられていて南九州にゆくより仕方がない、そして南九州は環境的にとても不利なところですよ。ああいう所で農業をしていたら食っていけないに決まっているから、そこで大きな賭に出た。今でも薩摩の人は気が荒い。おくればせに日本にやって来た天孫族とアマ族との混血の部族集団が大和へ攻めてきたと考えてよいと思う。

 そして、宮中儀式に使ういろいろなものは、南のものが大変多いですね。例の仁徳天皇の豊楽の式のときに、紀州でも南の新宮地方にしか出ないようなミツナガシワが必要になって、それを求めるために仁徳天皇の皇后のイワノヒメが紀州に行く。すると、その間に天皇はワカイラツメと浮気をしていた。カシワの葉を船に積んで帰ってくる途中でその浮気のことを聞いたイワノヒメは、怒って摘んできたカシワをみんな海へ捨てたという話がありますけど、そんな南にしかないものが即位の式に必要だということは、やはり南方説をどこかで裏付けているような気がしますよ。だから僕は、そういう意味で、記紀神話というのが意外に事実を忠実に伝えているのじゃないかと考えているんです。


 どうやら弥生人は稲と鉄とともに、中国大陸の殺戮・略奪・征服による富と権力の樹立方法をも携えてきたようだ。縄文時代の穏やかな暮らしは一変する。

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話題は再度、精神文化とくに信仰や祭祀の問題が取り上げられる。まず神道について梅原さんが自論を展開している。その根源を縄文時代までさかのぼれる宗教としてとらえている。

 日本の土着宗教は二度、国家による大きな変化を受けた。一度は律令時代、もう一度は明治以後。ふつうわれわれが神道と考えるのは律令神道で、これも当時としては大変新しいものだったのではないだろうか。国家を造っていく場合に、

「要らないやつは祓ってしまおう。そして、心の悪いやつを改心させよう」

という、祓い禊の神道ですが、これもそれほど古いものではないと思うんです。あの時代、7,8世紀に、むしろ道教などの影響を受けながら作られたものだと思います。

 ちょうど明治以後の国家神道が、ヨーロッパの国家主義を伝統宗教で受け止めようとして生まれたように、律令神道も律令国家建設という大きな歴史的課題のもとで、道教を神道の伝統と結ぴつけてつくりだされたものだと、僕は考えるのですね。

 この観点から、政治家たちが政治的に利用して日本の伝統と妄言している「靖国神社」について、次のように述べている。


 靖国神社にしても、あれは日本の国のために死んだ人だけ祀っているんでしょう。ところが、日本の神道の本来はそうじゃないですよ。自分たちがやっつけたほうを祀っている。それのほうが恨んでいるわけですから、それの鎮魂をする知恵なんです。だから敵を味方にする知恵ですね(笑)。自分のほうだけ祀るのでは、昔の敵はいよいよ恨みを深める。これは、日本民族の知恵と反対のやり方だ。だから僕は、明治の国家神道は、ほとんど外来のものだと思うんですよ。


 では国家による作為を受ける以前の土着宗教はどんなものだったのだろうか。


 日本の土着宗教の最も基本的な哲学は、やはり霊の循環という考え方じゃないかと、この頃思うんです。人間の生まれてくるのは、霊が肉体に宿ることから始まりますが、その霊がやがて肉体を離れて天に帰って行く。すぐには天に行けないから山にゆき、そこで清められてから天に行く。そして天に何十年、何百年いて、またこの世に還ってくる……。これは人類が自分の住んでいる世界を考える場合、すべてそういう循環の理に従っていると考える。太陽が朝昇って夜没する。そして次の朝また出てくる。太陽も生きて、死んで、また復活してくる。月が満月になったり欠けたりするのもそうだ。植物も春夏秋冬と生死のリズムを繰り返す。昆虫も同じである。そういう循環する世界を見ていたら、人間の霊魂も、一度天に昇って、また還ってくると考えるのは、きわめて自然でしょうね。

 その霊魂が人間・動物・植物みんな共通で、そういう生死の輪廻を無限に繰り返しているという世界観は、旧石器時代の人類に共通したもので、とくに狩猟採集文化が後代まで続いた日本では非常に色濃く残っているのじゃないか、といまは考えているんです。

 神道の本質は基本的にはそういう思想にあるんじゃないかと、この頃考えているんです。で、僕はそういう考え方がだんだん好きになってきたな。死んで地獄へは行きたくないけれども、極楽へもあんまり行きたくはない(笑)。極楽を考えるのは、よっぽどこの世で恵まれてない人間ですよ。向こうへ行ったら、今度は腹いっぱい食べて女にもてたいと思っている。死後の地獄極楽という考えの中には、この世はどうにもならない悪の里だという考えがある。(笑)

 ところがキリスト教のようになってくると、イエスが再臨して、最後の審判がある。そこで良いものと悪いものが二分され、裁判される。これはニーチェのいうように復讐心の末世への投影である。仏教は少しちがうが、やはり地獄極楽に分かれる。キリスト教や仏教の世界観は、厳しい階級社会から生まれてきたもので、どうも日本人の本来もっている世界観のそれとは違う。死んでも、ときどきはお盆やお彼岸には孫の顔を見に還ってきて、あんまり邪魔しないで三日ほどで帰っていって、何十年、何百年、天に留まって、また子孫に生まれかわってこの世に還ってくる……。こういう世界観が、だんだん好きになってきました。

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楕円構造の文化


 梅原さんは日本の文化を中心(焦点)が二つある楕円構造をしているものとしてとらえることを提唱している。

 僕は日本文化を楕円構造をもつものと考えると一番いいと思っている。一つの中心は縄文文化で、もう一つの中心が弥生文化です。日本の精神構造は縄文的なものに大きく影響されていますが、技術的なものや制度的なものは、やはり弥生の精神で、弥生時代以来、ずっと日本人は大陸から先進文化を輸入している。古い伝統的な縄文文化を精神の根底にしながら、絶えず海外の文化や制度を貪欲に輸入している。この二つの面を考えないと、日本文化は解けないと思いますよ。

 ただ、私も一貫して日本とは何かを考えてきた点でナショナリストですけれど、日本文化の根底をずっと掘っていくと、今の人類が失ってはいるが、かつて人類が共通にもっていたものにぶっからざるをえないと思います。
 私はそれを「縄魂弥才」といっているんですよ。縄文の魂に弥生の知恵――日本人は、そういう矛盾する魂を自己の中にもっている。たしかに狩猟採集時代の文明にふさわしい魂をもっているが、弥生時代から新しい文明を海外から移入し続けていることを、つまり私のいう弥才と称するものを考えないと日本文化は十分よく解釈されない。この縄魂弥才が後に和魂漢才になり、また和魂洋才になったというのが私の考え方です。

 吉本さんは、日本文化はわからないことが多いと謙虚におっしゃるが、それは本当だと思います。まだ分からないことが多い。私のは一つの仮説ですがこの仮説は誤っているかもしれない。日本の文化が世界の文化の中で、どのような特質をもっているのか、そしてそういう特質をもった日本文化が今後の世界にどのような役割を果たすべきなのか、こういうことを個別科学の正確な認識にもとづいて、多くの学者でそれを明らかにすべきです。そしてその仮説は出来るだけ多い方がよい。多い理論が自然に淘汰され必要なもののみが生き残るのが歴史の摂理なのです。だけど仮説なしには生きてはゆけない時代が来ているように思うのです。

 一方、吉本さんは日本を日本の中から見る眼のほかに上から大きく見る鳥瞰の眼をもつ必要があると指摘している。また、日本と日本人の分からなさのゆえんを述べて、梅原さんが言うところの楕円構造と同趣旨の意見を述べている。

 これは、梅原さんの日本学というものの根本的なモチーフになるわけですが、僕はとても内在的といいますか、自分の中から見る眼を使うと、とても面白い考え方だと思いますし、それはとても重要な問題提起だと思えるんです。でももうひとつ、いわゆる鳥瞰というか鳥の眼で見る見方からいきますと、どう考えても日本国は東アジアの片隅の、小さな島に過ぎません。先ほどの地名でいきますと、アジア・オリエントの一般的な制度・風俗・習慣・思想・宗教を考えてみますと、アジア・オリエントのそういうものがまず最初にあって、その次にたとえば東アジアの風俗・習慣・宗教・思想というのがあって、そこに今度はまたもう少し島という条件がひとつ加わって、この島も地形がかなり細長くて北と南にわたっているから、とても特殊な島でしょうけれど、そういう島という条件があって、その条件をまたアジア・オリエントの一般条件の中から特殊に考えていかないと、日本の問題はわからないよ ――と考えています。つまり大きな地名から小さな地名、それからまたその下にある小さな地名……と考えていきますと、「日本学」というものを取り出して、つくりあげていくという考え方と、もうひとつ鳥の眼で見る見方と……その両方の交錯点的なものを想像力の中で入れてないと、なんとなく特殊の普遍化みたいな感じがするんですね。

 そういう点はどうでしょうかね。そういうところが、梅原さんの日本学という概念は、特殊をとても普遍化するといいましょうか、そういう感じがしないこともないです。

 僕は、いま梅原さんが言われたことと同じことなんですが、ニュアンスを違えて考えて、日本も日本人も、よくわからないなと思っているところがあるんですね。

 つまり先ほどから、アジアの全体から見て東アジアの片隅の小さい島だと考えて、地勢的には済んでしまうところもあります。現在の日本を考えると、世界第二の先進国だというのが気になってきます。現在の日本の社会の規模と高度さを支えている技術の多様さは、ちょっとどうしようもないくらい高度なものです。多分、理屈とか技術の詳しい内容はわからなくても、この間行なわれた筑波万博を見ても、秋葉原の電気製品街を歩いても、どんな高度な技術製品が並べてあっても、民衆の誰もびっくりしない。何か一種の古さと、わけのわからないほど高度になっている新しさとが共存している奇妙なあり方はたいへん不思議な気がします。これはちょっと、日本というのはわからないぜ、というのが僕の実感ですね。

 梅原さんが言われたように、僕も楕円というのを考えていて、世界有数の高度な技術を持っている技術民としての現在の日本あるいは日本人と、依然としてアジア的な農耕社会の共同体意識を残している古い面の日本あるいは日本人と、この二つの軸を中心として回っていて、しかも共通に重なり合う部分もあると思います。この二つの軸を強いて一致させてはいけないのではないかというのが僕の考え方です。そう考えていかないと日本についての理解は間違えるのではないかと漠然と考えています。

 梅原さんが日本の歴史の深層を掘っていき、弥生的と縄文的という両方の軸を考えないといけないと言われたのは、そういう意味でとても興味深いことですね。


 網野さんが農耕民以外の人たちに焦点当てたり、島国の中だけでなく海の方にも視線を向けてるのも、梅原さんや吉本さんと同じモチーフによるものだと思う。

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梅原さんは記紀神話には歴史的な投影があるという仮説のもとにヤマト王権の祖先を南九州から大和に侵略してきた種族だと考えている。この問題をもう少し追ってみる。

 久しぶりに本屋をのぞいたら「歴史としての天皇制」という本が眼にとまった。その中に書名と同じ「歴史としての天皇制」というテーマでの網野さんと吉本さんの対談が収録されている。川村湊さんが司会役ということで参加しているが、むしろ鼎談といったほうがよいだろう。その鼎談がもたれたのは 1987年で、「対話・日本の原像」の一年後ということになる。 その鼎談の中に次のような興味深い話がある。


吉本

 ぼくは高千穂というところに行ったことがあるんです。車で3時間も4時間もかかる山のなかへ皇族というのが参拝に来ていて、記念の植樹とかあるんです。だけども、なんとなく、おおっぴらには参拝に来たことを、言えないみたいなところもあるんですね。

 なぜならば、おおっぴらに高千穂神社に参詣したと言っちゃえば、神話のなかの、自分たちの出自はあそこらへんの縄文中期に栄えた山のなかの村落にあったんだと認めたことになっちゃいますからね。天皇制がさ。つまり神話のとおりに、自分たちの祖先は南九州の山のなかの縄文時代の村落がたくさんある、そういうところが出自だとおおっぴらに認めることになるわけでしょう、間接的に。

 だから、ぼくはなんとなく、これはひっそりと来ているなという感じを持ったんです。それはとても面白かったですね。あれは、ひっそりと参詣に来て、ちゃんと何々が来た、記念のなんとかと、ちゃんとあるからね。だから、ひっそりとは、ちゃんと参詣しているんですね。

 それは神話にそう書いてあるから、なんか自分たちの祖先はあそこだというふうに、一応なっているんじゃないでしょうか。ひそかになっているんじゃないですか。でもそれをおおっぴらにしたら、別になんてことはないじゃないか、おまえの祖先は田舎の山の奥の奥の縄文人だったんじゃないかっていうことを認めたことになるわけでしょう。

 しかしみんな来てるなというのが、ぼくの印象で、とても面白かったです。


川村
 「象徴天皇」のなかに出てますが、瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)の陵なんてのもちゃんとあるらしいですね。


吉本
 みんなありますよ。ちゃんと対応関係は皆ありましたね。ちゃんとそれは出来ているんですよ。


川村
 やっぱりほんとうに神話のなかの天皇なんですね。


吉本
 これまた考古学者の仕事なんでしょうけども、とにかく大規模な縄文村落の発達したところですから、もちろん可能性だってあるわけだし、出自だという象徴的必然はあるわけなんですよ。 だけど、それをほんとうに認めたら、別になんていうことじゃない、この人たちは、ということにも、なってしまいます。

 つまり、畿内にきて初期王朝を築いたみたいなところにきちゃえば、堂々たる中央の大きな王権のはじめなんだということを言えるんだけど、しかし、もともとはあそこだったんだということを認めたら、それはどうということはないわけです。 ぼくの印象はひっそりと来てるなという感じです。


川村
 何とかの別荘に行くときには新聞に出るけれども、そういうときは出ないですね。


吉本
 出たらおかしなことになりそうな気がしますね。別におかしかないんだけど、日本人の先入の印象とはぜんぜん違っちゃうみたいなことになり、イメージダウンにつながります。

 神話はヤマト王権のふるさとが高千穂の山の中の一集落だと語っている。

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「対話・日本の原像」には巻末に、対話で取り上げられた話題について、吉本さんが「註記」と題する補足を書いている。その中の「信仰・祭祀」に関する部分を読むことにする。


 ここには日本列島の住人の種族における南北問題と、縄文期、弥生期を貫き初期古墳期にいたる歴史時間の問題が複雑にからみあっていて、神話、伝承、地域信仰や習俗を解き分けてゆかなければ、とうてい一義的な確定が得られそうもない。この問題を具体的に整理してみる。

(1) 諏訪地方に諏訪神社を中心とした大祝祭政体が成立していたことが、比較的よく研究されている。このばあい男性の生き神大祝と随伴する共同体の政事担当者の起源の関係は、神話の伝承に入り込んでおり、時代を降ってまた中世・近世の態様も比較的よく知られている。

(2) 神話伝承の最初期の天皇群(神武から崇神まで)の祭政の在り方は、『古事記』『日本書紀』の記載の読み方によっては、長兄が祭祀を司り、末弟(またはそれに準ずるもの)が政治を司る形態とみられなくはない。これらは次第に皇后が神事を司り、天皇が政治を司る形、皇女が分離した祭祀を司る形へと移行する。

(3)おなじように長兄が祭祀を司り、生涯不犯の生き神として子孫をのこさず、弟が共同体を統括する形は、瀬戸内の大三島神社を中心とする祭司豪族河野氏の祖先伝承として存在するとされる。

(4)沖縄地方では姉妹が神事を司り、その兄弟が政治を司るという形態が古くからあり、聞得大君の祭祀的な村落共同体の統轄にまで制度化された。

(5)樹木・巨石の信仰は、日本列島の全域にわたって遺跡が存在する。諏訪地方における諏訪神社信仰。三輪地方における三輪神社信仰。高千穂地方における岩戸神社信仰。沖縄における御岳信仰。これらは神話や伝承に結びついているが、その他制度化されていない形で無数に存在する。そしてこの信仰は狩猟や木樵の祭儀の形態と農耕祭儀の形態とを重層しているばあいもあれは、狩猟だけ、農耕だけの祭儀に結びついているはあいもある。

(6)神話、伝承の考古学的な対応性ともいうべきもの、また民俗学的な対応性ともいうべきものが存在する。それは縄文期、弥生期、古墳期のような区分が、日本列島の地理的な条件の上では、地勢の海からの標高差に対応している面があるからである。狩猟、木樵、漁業、農耕(水稲耕作)などの差異は、地勢上の標高差の問題と対応し、縄文、弥生、古墳期のような歴史以前と歴史時代初頭の問題との対応をもっている。

 「神話・伝承」と「民俗学」の対応の一つとして、吉本さんは柳田国男の例をあげている


 わたしたちはこの問題について民俗学者柳田国男を論じたとき、柳田国男が民俗学の眼から神話をみていた視点を想定して、つぎのように述べたことがある。柳田国男のばあいには、この種の対応は、海流と航海技術と造船技術が、神話とのある対応関係にあるとみなされていた。

 このところには柳田国男の『記』『紀』神話にたいする微妙な異和と同和とが同時にふくまれている。始祖の神話の持主である初期王権が、いわゆる「東征」といわれたものの起点を南九州(もちろん日向の沿海であってもいい)においているところまでは「船」を仕立て直す休息点(あるいは「日本人」が成長してゆく熟成点)として、柳田の「日本人」がはしってゆく流線と、一致できるものであった。

 だがそこから瀬戸内海にはいる経路と土佐国の沿岸を連ねる経路とのあいだの〈分岐〉〈異和〉〈対立〉は、柳田のいわゆる常民「日本人」と初期王権の制度から見られた「日本人」との絶対的差異として、柳田の容認できないところであった。

 初期王権が『記』『紀』のなかで始祖神話の形で暗喩している支配圏や生活圏の版図は、北九州から南九州にわたる沿海地帯と、瀬戸内海の四国側寄りの沿海地帯や島々にかぎられている。わたしのかんがえでは、柳田国男はこの神話の暗喩する版図になみなみならない親和感をいだいていた。この親和感が、南九州(日向沿岸でもよい)のどこかで南西の島から東側海岸に沿ってやってきた柳田の「日本人」が、「船」を整えなおしたというかんがえに愛着した理由だとおもえる。

 またしいていえば柳田が、本来無意味なのに、じぷんの常民的な「日本人」の概念を、制度や王権の問題にまで無造作に拡大して、朝鮮半島を南下したいわゆる騎馬民族が初期王権に坐ったという説に、抜き難い不信を表明した理由であった。

 もうすこしくわしくできるだろうが、柳田のいう「日本人」は、地上二米以下のところしか歩いたり、走ったり、願望したりしない存在だから、制度や王権にかかわりない、まったくべつの概念であった。
          (吉本「柳田国男論」第T部「国文学 解釈と教材」29巻9号、59年ア月号)

 整理しなおすと次のように言っていると思う。

柳田の「原」常民は宝貝を求めてはるか南の方からやってくる。南九州で「船」を仕立て直した「原」常民は「土佐国の沿岸を連ねる経路」を通っていくはずである。しかるに「記紀」神話が描く経路は「瀬戸内海にはいる」。

「北九州から南九州にわたる沿海地帯と、瀬戸内海の四国側寄りの沿海地帯や島々」という「記紀」神話が描く支配圏・生活圏を柳田は原「常民」の版図と考えたいのだが、ヤマト王権がたどる経路が柳田の「原」常民の経路と整合しない。その矛盾は、もともと、「制度や王権にかかわりない」常民という概念を「制度や王権の問題にまで無造作に拡大」したためだ。

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ヤマト王権の出自(続き)

(3)即ち、鳥見(とみ)の長髄彦(ながすねひこ)、菟田(うだ)の兄猾(えうかし)・弟猾(おとうかし)、吉野の井光(ゐひか)、同じく磐排別(いわおくわく)、苞苴担(にへもつ)、国見岳の八十梟帥(やそたける)、磐余(いわれ)の兄磯城(えしき)・弟磯城、磯城の磯城八十梟帥、高尾張の赤銅(あかがね)八十梟帥、兄倉下(えくらじ)・弟倉下、波?丘岬(はたのおかさき)の新城戸畔(にいきとべ)、和珥坂(わにさか)の居勢祝(こせほふり)、臍見長柄丘岬(ほとみのながらのをかさき)の猪祝(ゐのほふり)、高尾張の土蜘蛛(つちくも)などとあります。地名は動く可能性もあり、また奈良朝人の想定も予測されるが、地名と部族名が平行して出て来るところから、古くからその部族がそこに住んでいたという気がします。これらの地名を現在の地図にあてはめると、全部標高 70m線以上にあります。若し神武紀が奈良朝に偽作されたものならは、考古学や地質学の知識のない、しかも地盤隆起の原則を知らなかった奈良朝人は、これらの地名のうち一つ位は地盤の低い所をあてても良いと想像される。このようなところに案外、古代人の活躍の史実が古典に投影しているのではないかと思われるわけです。


 古い土地、つまりより標高の高い土地70m以上のところには土着の人たち、たぶん縄文人と弥生人が融合しながら平穏な社会を営んでいた集落があった。

 更にこれらの遺跡を発掘してみますと、全部が縄文土器終末期のものです。最近、晩期縄文土器の年数設定が出来た。炭素放射能の減退量をミシガソ大学が測定したところによると、近畿地方の中期弥生式土器は大体今から二千四百年ほど前、そして晩期縄文土器は約二千六百年前のものと測定された。もちろんプラス・マイナス二百年の誤差はありますが、この事実は科学的に信用せざるを得ないのではないでしょうか。従って神武天皇遺跡は大体において少なくとも二千六百年、更にはそれ以上前の湖岸もしくはそれよりも高い所の地名が舞台になっていると云うことが出来ます。14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる偶然としては見過ごされない事実でして、寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当かと思います。


 樋口さんは土器から推定された紀元前600〜400年という年代をそのままヤマト王権の初期の大王たちの時期とみなしているようだが、私たちが史書の記録から100〜300年頃と推定した年代とはるかに異なり、容認しがたい。その反論の根拠は素人としさし控え、深入りしない。

 しかし「14の遺跡すべてが一致してその如くであることは、単なる偶然としては見過ごされない事実でして、寧ろ必然的な史実の投影があったと考えた方が妥当かと思います。」という点は、その可能性は否定しがたいと思う。

(4)しかも橿原遺跡は、奈良県では珍らしく大きな縄文末期のものです。この岡で人間は半水上生活をしていたこともわかっております。舟も着きやすく、見張りにも便であり、三方が水であってみれば敵から守ることにも都合がよかったようです。そしてこの遺跡から出た食糧を眺めると、水の幸・山の幸の両面に恵まれた生活であったことが想像出来る。即ち、鼬廃鼠(いたち)・野兎・猪・鹿・狼・山犬・狸・狐・河獺・熊・穴熊・猿・鶴・白鳥・鴨・鳩・鴫・山鳥・鯨・石亀・?(えい)・鯛・河豚・鯔(ぼら)・鱸(すずき)・海豚など、まことに多種多彩です。魚類にしても近くの淡水魚はもちろん、?(えい)・鯛・鯔などの海魚は恐らく遠く大阪湾から持ち運んだと思われ、また鯨・海豚などは紀伊方面からの経路が想定されます。更にこの遺跡から出る石器の石質は吉野地方の緑泥片岩であって、かくみると、橿原遺跡の生活圏或は物資伝播の経路は非常に広いということになります。所で、檪(くぬぎ)・樫はやや亜寒地性のところに好んではえる植物で、今の大和平野にはありませんが、当時の気温環境はより寒冷に近いものだったことも同時にわかって、まことに面白いと思います。 このように縄文晩期の聚落はこの地に栄えていましたが、或る時期に川が流れて来て半島の先をけずり、水で包んでしまったために木は枯れ、その上から堆積土が2mも重なり長い間地下に埋まってしまった。もし橿原の地名が畝傍山の東南にあったとしても、その地名は消え去ってしまう可能性が肯けるのであります。

 かく云う私は、神武天皇個人の存在を無条件で認めているわけではない。神武天皇紀の説話に、 歴史的信憑性があり、歴史の投影があると云っているのです。


  吉本さんのコメントで結論付けると、樋口さんは

「これらの根拠から、神武東征の神話が、北九州の稲作や製鉄器の技術を伴った弥生式の文化が、畿内に伝播し、流入する経路を象徴するに足りることを結論している。」

ことになる。 しかし私が注目したいのは、ヤマト王権がよそから畿内に侵略してきた種族だとすると、その侵略までは縄文人 たち(弥生人との融合を深めながら)が豊かで平穏な社会を営んでいたらしいということである。
http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-597.html

樋口さんは、畿内にやってきた勢力がどこから来たのかという問題には言及していない。「ヤマト王権の出自」についての諸説をまとめてみる。

 「第328回」(7月11日)で紹介した論文「政治権力の発生」の筆者・山尾幸久さんは邪馬台国畿内説を採っている。その邪馬台国が発展して「倭の五王」につながっていくと考えているようだ。従ってイワレヒコの東征についてはまったくの歯牙にもかけていない。

 一方、邪馬台国北九州説を採る人たちはその所在地を筑後山門郡とする説が有力のようだ。「神武天皇」(中公文庫)の著者・植村清二さんはその説に同意して、邪馬台国の所在を筑後御井付近、投馬国は薩摩の川内付近としている。そして北九州の連合国家の支配権を手にした邪馬台国が東征して畿内に入ったと考えている。東征したのは邪馬台国ではなく薩摩にあった投馬国だという説もある。

 これらの諸説に対して、「戦後のあれこれの新説よりも、日本の国の成り立ちというのは記紀に記されている話の方がずっと納得可能なのではないか」という梅原さんの考えを先に述べた(第329回)。梅原さんは「記紀」の記述の通り、ヤマト王権の始祖は日向から東征したと考えている。

http://adat.blog3.fc2.com/blog-entry-599.html

 

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コメント
 
01. 2012年10月16日 23:06:47 : HNPlrBDYLM

日本語の母体のY-DNA「D」縄文語がホモサピエンスの祖語かもしれない
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/450.html

大和朝廷は漢民族?
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/451.html


02. 古代史が好き 2012年12月07日 08:27:18 : fl7EtJKGL.oBo : pwCHotVwgI
天照大御神が譲れといった葦原中津国は鳥取県北栄町にあった。
縄文海進から縄文海退にかけて瀬戸、原を入江の入口として西穂波、亀谷、灘手地区(津原、鋤、別所、尾原)、穴沢、穂波、原の海抜4mの線を結ぶと、天然の良港があったことがわかる。津である。縄文海退がすすみ、周辺は葦原になっていた。今でも葦が生えている。大和武(たける)の尊が大島に来られた時は、嵐を避けるために小型船に乗り換えて来られた(宮崎神社由緒より)。大島から縄文丸木舟が発掘されている。まだ中央は津であった。
 亀谷神社には木乃花咲也姫が住まわれ、もう少し山側(下種の大宮神社)にはニニギの尊が御所を建てられた。天孫はこの地域(葦原中津国)を目標に降りてこられた。穂波には一番の家来の天児屋根命がいた。西(琴浦町)にも家来を配置して、平定は完了した。
地図の貼り付けはうまくいかないので、みなさんで調べてください。
このあたり(鳥取県中部)は事代の主が支配していた。美保関から帰ってきた事代の主はすぐ東の波波来神社のあたりで生き延びることを許された(伝承では幽閉されていた)。その後ニニギの尊は建御名方命の支配していた、鳥取県西部の進出に乗り出した。鳥取県西部も占領し出雲国であった鳥取県中西部を伯耆国とした。


03. 中川隆 2013年7月18日 11:50:00 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

梅原猛 「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く」 2011/1/12(水)


梅原猛先生の「葬られた王朝―古代出雲の謎を解く」 を読みました。

記紀神話に関して、本居宣長説、津田左右吉説のみならず、自らの、「神が
みの流ざん」までも否定して、古代出雲王朝について語りました。


@記紀神話は、高天原神話、出雲神話、日向神話の三つの神話から成り立っている。

特に日向神話は、アマテラスの孫ニニギが日向の高千穂に降臨して以来三代を経て、ひ孫カムヤマトイワレヒコ、すなわち神武天皇が東征の旅に出て、ついにヤマトを占領し、天皇家の祖となる話である。


@出雲王朝は少なくとも6代は続いたとみなければならない。出雲王朝はオオクニヌシ以来、日本全国を支配する王ではなく、出雲一国を支配する王としてささやかながら続いたと考えなければならない。

「古事記」を素直に読む限り、アマテラスを開祖とするヤマト王朝の前に、スサノオを開祖とする出雲王朝が、この日本の国に君臨していたと考えねばならない。

そして出雲王朝が存在した形跡を追って、写真多数で、出雲の各地を回るのですね。
そしてそこには見事に、出雲王朝の存在を立証するかのような様々な形跡が残されているのですね。



@アマテラスは石屋戸から現れるが、神がみは、スサノオの悪行に憤り、スサノオを流罪にしてしまう。そこでスサノオは出雲の国にやってきたのである。


@イザナギ、イザナミはその子孫によって、二つの系統の神々にわかれた。
ひとつは、イザナギ、アマテラス、ニニギのヤマト王朝の系統である。
もうひとつが、イザナミ、スサノオ、オオクニヌシの出雲王朝の系統である。


@多くの出雲の山々が越の豪族の支配下にあり、その山々が荒廃していることを表現したのではないかと思う。すなわち、スサノオは出雲の森林の荒廃を嘆き、出雲の国を越の支配から解放して山々に木を植え、そして今のような植林が青々とした森の国にしたのではなかろうか。このようにスサノオは出雲の森林を再生することによって、さらにまた農業も盛んにしたのだと思う。


@オオクニヌシはヌナカワヒメと結婚し、しばらくこの越の地で暮らした。そしてヌナカワヒメとの間に生れた子が、「国譲り」の際、最後まで抵抗して、ついに諏訪に追いやられ、諏訪神社の祭神になったタケミナカタであった。
ヌナカワヒメは半ば強姦のような形でオオクニヌシの妻となったが、結局彼女は追われて、北陸のあちこちを流浪したらしい。

クロヒメというのは、ヌナカワヒメの別名で、越後には黒姫山という山がいくつかあり、クロヒメを祀る神社は、オオクニヌシに追われた晩年のクロヒメの怒りと悲しみを伝えている。
黒姫山ってそこから来てるんですね。歴史ロマンを感じますね。


@海外から一人でやってきた前歴の全くわからないこのスクナヒコナを、オオクニヌシは国造りの最大の協力者として重用した。
オオナムジことオオクニヌシとスクナヒコナの最大の功績は、日本に医療をもたらしたことである。
おそらくスクナヒコナは朝鮮から先進の医療技術を持ってきて多くの人命を救ったであろう。そのような医療に関する施設の一つが、スクナヒコナが発見し、温泉療法を伝えたという、玉造温泉である。


@私は、日本に新しい医療技術をもたらし、病に苦しむ多くの人を救ったスクナヒコナはまた温泉の開拓者ではなかったかと思う。
またスクナヒコナは酒の醸造技術をもたらした神でもあったらしい。記紀には、「スクナヒコナが造った酒は美味しい」という歌がある。酒造りが米作りと深い関係があることを考えれば、オオクニヌシとスクナヒコナが行った米造り、酒造りをはじめとする農業の改良政策はおおいに民衆を喜ばせたに違いない。


@出雲大社で毎年旧暦十月に行われる有名な神在祭は、日本全国の神々が出雲にお悔やみにやってくる、いわばオオクニヌシの葬式であると私は思うが、それに対して、「一つ山大祭」「三つ山大祭」は、むしろ生きているイタケルとオオクニヌシに二十一年あるいは、六十一年に一回、敬意を表して全国の神々が集まり、その神々をもてなすという祭りなのである。


@神在祭はオオクニヌシの葬儀に全国の神々が集まり、神譲りをおこなう祭事なのである。それは言葉を変えれば、オオクニヌシが日本海に身を隠して現身の人ではなくなったが、黄泉の王として再生したことを祝う祭りとも言える。
この手の込んだ神在祭は、「古事記」「日本書紀」に語られる国譲りの神話は決して架空のことではなく、事実であることを末永く後世に伝えるものであろう。


@銅鐸の起源は馬のクビにつける鈴である。
朝鮮の馬の首につける鈴がそのまま日本に移入され、銅鐸という宝器になったわけではない。朝鮮の人にとって漢式馬車に乗る貴族こそ尊敬の的、憧れのまとであった。そして漢式馬車を持つ貴族は、その墓に貴族の証拠として漢式馬車の部品を副葬したのであろう。

貴族のシンボルとして、馬の首につける鈴ほど適当なものはない。それゆえにこのような馬の鈴を日本で祭器、宝器としたのは、朝鮮から来た貴族か、あるいは貴族に強い憧れを持つ人物であったに違いない。
それが私は、朝鮮からきた、スサノオを想起する。銅鐸は出雲王朝の祖であるスサノオと結びつく。


@私はやはり銅鐸は出雲でうまれ、出雲王朝の領土拡大と共に中国、四国、近畿まで多く造られるようになったのではないかと思う。

@荒神谷遺跡から出土した358本の銅剣のうち344本になかごといわれる柄に差し込まれる部分に「×」印が刻まれている。

この「×」印の謎について、梅原先生は解き明かします。
凄いですよ。

@縄文時代の土偶は全て胎児を宿した成熟した女性であり、そして土偶はすべて必ず破壊されている。


そしてこの謎も解き明かします。

@アイヌの葬式の話。
「まあふつうの大人が死ねば型どおりに葬られますが、子供が死んだ時は特に大変でした。アイヌの社会では子供をはらむと、その子は必ずあの世へ行った祖先の霊が帰ってきたものだとしんじられています。

その子が幼くして死ぬと、遠いあの世から帰ってきた祖先にこの世の幸せを十分味あわせずにすぐにあの世へ帰すのは申し訳ないと考え、子供の死体を甕に入れて、人のよく通る入口に埋められるのです。それは、その子を産んだ夫婦がセックスに励んで、死んだ子が次の子として生まれ変わってくるようにという願いからなのです。」

この話は私にとって、とても興味深かった。縄文時代の竪穴住居の入り口には、子供の骨が入れられた甕が逆さにして埋められていることがある。この風習がアイヌの社会に残されていたのだろう。
さらに、

「しかし子供が死んだときよりもっと大変なのは妊婦が死んだ時でした。せっかく祖先の霊が帰ってきて妊婦の腹に宿ったのに、妊婦が死んでしまったら、その子は妊婦の腹に閉じ込められてあの世に行けません。妊婦の腹に入ったままであの世にいけない先祖の霊は祟りをなすと思われていたのです。

ですから妊婦はいったんふつうの人と同じように墓に埋められますが、翌日、霊力を持った女性がその墓を掘り返し、妊婦の腹を割いて、その胎児を女性に抱かせて葬ります。」

縄文の文化が色濃く残っているアイヌ。
このアイヌに残る風習は大きな謎を解くカギとなったんですね。


@土偶について、
1、 土偶は全て生きた人間とはおもえない異様な形をしている。
2、 土偶は全て妊婦である。
3、 土偶はすべて破壊されている。
4、 土偶は全て縦に腹をひきさいたような真一文字の線がある。

 土偶は腹を裂かれて死んだ妊婦の像であり、妊婦が胎児とともに葬られる時、その妊婦が完全な人間として再生することができるようにバラバラにして埋められるものである。

@眼のない死体は再生不可能であり、眼のある死体は再生可能であるという信仰によって、死んだ妊婦が完全な人間としてあの世で生まれ変わることを願って、巨大な眼窩のある土偶がつくられたのであろう。また長年の謎の、土偶の腹の縦真一文字の線も、腹を割いて胎児を取りだした後として理解できた。

凄いでしょ?
土偶の謎はそうゆう事だったんですね。

@このような縄文時代からのあの世観は、ずっと日本人の中に残っていて、この世とあの世はあまり違わないが、万事あべこべであり、この世で完全なものはあの世では不完全であり、この世で不完全なものはあの世では完全であるという信仰がずっとあったと思われる。それゆえ死者に贈られるべきものは必ず壊して贈らねばならない。

死者に供えるものはそのように、壊されたり、焼かれたりする。
日本で恒久的な都が遅れたのは、前代の帝の宮殿を焼いて死んだ帝に捧げられたためであると私は考える。

このことは、縄文時代のことを考えるときに決して忘れてはいけないことですね。これを忘れると、現代の感覚では理解できないことになってしまいますね。


@二つの遺跡から出土した銅器に付けられた「×」の謎が初めて理解される。それらの銅鐸、銅剣、銅矛は、全て死者に贈られたものの印であろう。しかし、この堅固な銅鐸などを壊すのは容易でなく、また忍びがたい。それで、「×」の印を刻んで、不完全なものであることを示そうとしたのではないか。

凄いでしょ??
興奮するでしょ??
いやーそうだったんですね。

@紀元一世紀といえば、記紀に語られる南九州にいた天孫族が東征して、西日本全体を戦乱の渦に巻き込んだ時代である。とすれば、それはオオクニヌシの国譲りの時代とも重なってくる。この大量の青銅器は、稲佐の海に身を隠し、今は黄泉の国の王となった、地下のオオクニヌシに贈られたものではないだろうか。

@天皇の御陵が前方後円墳になるのは、ハツクニシラススメラミコトと称される崇神天皇の御陵からである。とすれば、出雲小王国は崇神天皇以前に滅びたことになる。

@出雲は四角形の墳墓に強く執着し、四隅突出型墳丘墓が消失した後も、円墳ならぬ方墳が多く造られ、ヤマトで前方後円墳よりも、前方後方墳が造り続けられた。この四角形への執着は、黄泉の国を支配するオオクニヌシの宮殿に対する敬意であり、オオクニヌシへの深い愛情の心を示すものではなかろうか。

コメント

ついでに三輪山の神と出雲の神の関連について、考察していただけませんか?
私は三輪山の神が出雲に放逐されたのではないか?と疑っているのですが・・・
確か梅原先生もそのような説を立てていませんでしたっけ?
2011/1/13(木) 午後 3:30 [ mak**ina38 ]


実は、大神神社を参拝して山之辺の道を旅したとき、神武天皇の皇后を祀る「狭井神社」の周辺が出雲屋敷と呼ばれていることを知りました。

皇后の父が三輪の大物主(大国主神の和魂?)であることからふと、神武東征まで三輪の地を拠点としていた三輪氏なる豪族が神武天皇に娘を差し出して降伏したあと、出雲に放逐されたのでは?と想像してしまったのです。

大和政権に匹敵する大きな力と祭祀権を持っていた三輪氏に対する畏怖の念から、東西にほぼ一直線をなす東・伊勢ー三輪ー西・出雲という重要な地点に巨大な神殿を築いて今もなお天皇は丁重に祀り続けてこられたのでは?

という推察ですが、学問的な構築の土台が弱いので、所詮推理作家的視点でしか見ることができないので、突然こんなお願いをしてしまい、申し訳ありませんでした。

私の考えは梅原氏が以前に出された「神々の流竄」が下敷きにあったのかもしれませんが、梅原氏はこの「葬られた王朝」で前説を訂正されているようですね。
それでもなんか三輪神と出雲神・・どうも気になるんですよね〜
2011/1/14(金) 午後 11:03 [ mak**ina38 ]
http://blogs.yahoo.co.jp/warabe401/60202767.html


04. 中川隆 2013年7月18日 21:28:31 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

葬られた王朝: 古代出雲の謎を解く (新潮文庫) 梅原 猛 (著)
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梅原猛の「古代出雲王朝の謎を解く」(1)
アマテラスとスサノオという光と影 2012-01-04

梅原猛氏の「葬られた王朝・古代出雲の謎を解く」を読んでみました。
古来、日本海沿岸には大きな文明があり、アマテラスに追放されたとされるスサノオの住んだ世界は実在した、という話です。

著者梅原氏は、以前に書いた自分の本の説は間違っていた、大国主に謝りたい、という気持ちで出雲地方を旅し、新しい説を書いたということです。 「環日本海文化圏」という発想は、日本という風土に風穴を開ける発想であるように思います。

           (引用ここから)

出雲には神話にふさわしい遺跡がないという説は昭和59年(1984)の出雲市の荒神谷遺跡の発見によって吹き飛んでしまっていた。 出雲市の荒神谷遺跡から銅剣358本と銅鐸6個、銅矛16本が出土したのである。 それまで全国で出土していた銅剣の総数は約300本。 銅剣の数は一挙に倍以上になったのである。

われわれは学問的良心を持つ限り、出雲神話は架空の物語であるという説を根本的に検討し直さなければならないことになる。

「古事記」を素直に読む限り、アマテラスを開祖とする「ヤマト王朝」の前にスサノオを開祖とする「出雲王朝」がこの日本に君臨していたと考えなければならない。

スサノオとは何者であろうか?

「古事記」・「日本書紀」によれば、スサノオには出雲の神となる以前に、高天原を舞台にした前史がある。

愛しき妻イザナミを失ったイザナギは死者の国である黄泉の国に行った。
イザナミの変わり果てた姿を目にしたイザナギは、驚いて黄泉の国から命からがら逃げ帰ってきた。 そして汚れた体を清めようと「禊ぎ」をし、水の中に潜って体を清めると、左の眼を洗った時にアマテラス、右の眼を洗った時にツクヨミ、鼻を洗った時にスサノオの三貴子が生まれたのである。

つまり「出雲王朝」の祖先神スサノオと「ヤマト王朝」の祖先神アマテラスとは、「禊ぎ」によって生まれた姉弟と言うことになる。 ところがスサノオは母を慕って泣いてばかりいて海原を支配しようとしないので、イザナギは怒ってスサノオを追放してしまう。

スサノオは母のいる根の国に行く前に、姉アマテラスと誓約(うけい)をして、それぞれ子どもを産み出す。 その誓約(うけい)に勝って勝ち誇ったスサノオは傲慢になり、アマテラスの作った田の畔を壊し、悪しき業を繰り返す。 そしてそのことが原因でアマテラスが天の岩戸に隠れるという、天人族にとっての大事件が起こるのである。

そして神がみはスサノオの悪行に憤り、スサノオを流罪にしてしまう。
そこでスサノオは出雲の国に来たわけである。

この契約でスサノオの口から吐き出された5柱の男神はアマテラスの意志によってアマテラス直系の男神となる。そしてその男神の子がアマテラスの孫、天孫ニニギなのである。

つまりスサノオを祖とする「出雲王朝」とアマテラスを祖とする「ヤマト王朝」の関係は、契約によって深く繋がっていることになる。

「出雲王朝」の祖であるスサノオは、イザナギが最後に産んだ三貴子の嫡男とも言える男神である。 スサノオは当然葦原の中津国、つまり日本の国を支配してもよいわけである。 スサノオは実際にイザナギから日本国の支配を命ぜられたのである。それなのに、彼は黄泉の国で暮らす母イザナミを慕思し、根の国に流罪になった。

このようにイザナギ・イザナミはその子孫によって二つの系統の神がみに分かれた。

一つはイザナギ・アマテラス・ニニギの「ヤマト王朝」である。

そしてもう一つはイザナギ・スサノオ・オオクニヌシの「出雲王朝」の系統である。

前者はまさに日本を支配する光の神であり、後者は一旦は成功をおさめるが、最後には悪神となり、根の国へと行かざるをえない神である。

ヤマト王朝と出雲王朝の神々はもともと親戚であったが、ヤマト王朝の神々はすべて光の神、善神であり、出雲王朝の神々は結局闇の神、悪神である。

二つの王朝の関係は、たとえば「ヤマト王朝」に伝わるやたの鏡・勾玉、草なぎの剣の「三種の神器」にも見ることができる。

その内、鏡は「ヤマト王朝」の独自の神器である。

これに対して「草なぎの剣」はスサノオがヤマタノオロチを切ってその尾から取り出したものである。

勾玉についてもまた出雲の土地で盛んに作られていたもので、「出雲王朝」でも宝とされるものである。

このことから、「ヤマト王朝」は「出雲王朝」の権力を受けついでいるという継承性と、「ヤマト王朝」の独自性と正統性を示すために、このような「三種の神器」の神話が作られたと見るべきであろう。

つまり「古事記」・「日本書紀」に書かれた神話は「ヤマト王朝」と「出雲王朝」の血縁関係を示すものであり、すでに5世紀以前に成立していたに違いないと思われる。
         (引用ここまで)
          


荒神谷博物館HP
http://www.kojindani.jp/

wikipedia「荒神谷遺跡」より

荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)は、島根県出雲市斐川町神庭西谷の小さな谷間にある国指定の史跡である。

1983年広域農道(愛称・出雲ロマン街道)の建設に伴い遺跡調査が行われた。
この際に調査員が古墳時代の須恵器の破片を発見したことから発掘が開始された。
1984年 - 1985年の2か年の発掘調査で、銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が出土した。

銅剣の一箇所からの出土数としては最多であり、この遺跡の発見は日本古代史学・考古学界に大きな衝撃を与えた。
これにより、実体の分からない神話の国という古代出雲のイメージは払拭された。

その後の加茂岩倉遺跡の発見により、古代出雲の勢力を解明する重要な手がかりとしての重要性はさらに高まった。

出土した青銅器の製作年代等については下記の通りであるが、これらが埋納された年代は現在のところ特定できていない。

銅剣

丘陵の斜面に作られた上下2段の加工段のうち下段に、刃を起こした状態で4列に並べられて埋められていた。358本の銅剣は、全て中細形c類と呼ばれるもので、長さ50cm前後、重さ500gあまりと大きさもほぼ同じである。 弥生時代中期後半に製作されたとみられている。

この形式の銅剣の分布状況から出雲で製作された可能性が高いが、鋳型が発見されていないため決定的ではない。いずれにしろ、形式が単一なので同一の地域で作られたことは確かである。

また、このうち344本の茎には、鋳造後にタガネ状の工具で×印を刻まれている。
このような印は、現在までのところこれらと加茂岩倉遺跡出土銅鐸でしか確認されておらず、両遺跡の関連性がうかがえる。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/724e9a0543a63c28f546eb8996670106

梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(2)
スサノオは渡来人だったのか? 2012-01-07

         (引用ここから)

「古事記」ではスサノオは高天原から出雲にやってきたということになっているが、「日本書紀」には異なる伝承が語られている。

それによると、スサノオは高天原から追放されてただちに出雲に降りたわけではなく、まずその子イタケルとともに新羅の「ソシモリ」という所に降り立ったというのである。 おそらく「ソシモリ」は韓の国のかなり豊かな町であったのであろう。

ところがスサノオはこのような豊かな地に自分は住みたくないといって、舟を造り、その舟に乗って出雲の国に至る。


さらにまた「日本書紀」は、スサノオの故郷を物語る別の一書も伝えている。

そこではスサノオがヤマタノオロチを切った剣は「韓(から)さいの剣」であるという。

それは韓国から伝来した小刀を指す。 その小刀でヤマタノオロチを切ったのだとすれば、スサノオ自身も韓国から来たと考えるのが自然であろう。

このようにスサノオに始まる「出雲王朝」には朝鮮の陰が強く射しているのである。


「古事記」には「高志(こし)の八俣のオロチ」と書かれているが、「高志(こし)」は「越(こし)」であり、明らかに越前・越中・越後の「越」を意味している。

また「出雲国風土記」には「越の八口(ヤクチ)」とある。
クチは蛇・蝮と同義で、「越のヤマタノオロチ」と同じ意味である。
八つの頭と八つの尾を持つオロチが実在したとは考えられない。

オロチはしばしば強くて悪い人間に譬えられる。
鬼退治やオロチ退治というのは、人民を苦しめる強くて悪しき人間を退治することを言うのであろう。

このように考えてみるとヤマタノオロチとは人民を苦しめる悪い豪族を指すのかもしれない。

出雲の「国引き神話」においては、オオクニヌシは西は新羅の国から、東は越の国から国を引いてきたという。 つまり「出雲王国」の交易範囲は、西は新羅から東は越に及んでいたことを意味するのであろう。

日本海に臨む当時の国ぐにの中で、ヒスイを生産する越の国がもっとも豊かで強い国であったに違いない。 そしてこの越の国からやって来た越のヤマタノオロチに、スサノオは酒を飲ませて油断させ、皆殺しにしたのではないか。

このように土着の神であり、初期農業の神である国津神の支配を妨げ、出雲の国を植民地として荒廃させた越の豪族が、朝鮮の国からやって来たであろうスサノオに退治されたと解釈すると、ヤマタノオロチ伝説は良く理解出来るのである。

オオクヌヌシは越のヌナガワヒメを娶り、さらにヤマト遠征の旅に出た。

オオクニヌシがヤマトといかなる戦いをしたかは分からない。 これについて「古事記」も「日本書紀」も何も語っていない。 しかしその戦いは幾多の困難があったにせよ、オオクニヌシの大勝利に終わったことはほぼ間違いないと思われる。

関西周辺の地域にはオオクニヌシおよび彼の子たちをまつる神社や出雲の名を当てる場所がはなはだ多い。 こう考えると、古くはヤマトも山代も出雲族の支配下にあり、この地に多くの出雲人が住んでいたと見るのがもっとも自然であろう。

このようにオオクニヌシは日本海沿岸だけでなく、近畿・四国・山陽の地までも支配下に置いていたと思われる。

そしてこのオオクニヌシを助ける有能な参謀が現れた。 島根県松江の美保関に、誰も知らない小人のような神スクナヒコナが小舟に乗ってやってきたのである。

スクナヒコナは一体どこからやってきた神なのであろう。
やってきた場所から考えれば、やはりスサノオと同じ韓国からであろう。

オオクニヌシはこの海外からやってきた前歴のまったく分からないスクナヒコナを国づくりの最大の協力者として重用したのである。

スクナヒコナが去ると次に、海の向こうから神々しい新たな神が現れた。

「日本書紀」にはこうある。

「時に、神しき光海に照らして、たちまちに浮かび来る者あり。
我は日本国の三諸山に住まんと欲ふ。」

スクナヒコナの時と同様、またも海の彼方から光を放ちながら、オオクニヌシの国づくりを手助けする神が現れたのである。

わたしはかつてこの三輪の神をヤマト土着の神と考えたが、「古事記」「日本書紀」が語るように、オオモノヌシは外来の神であると考える方がよいのかもしれない。

          (引用ここまで)


スクナビコナが誰だったかについては、別の考え方として、歴史研究者・山崎謙氏は著書「まぼろしの出雲王国」で以下のように考察しています。

          (引用ここから)

神の名はスクナビコナ神といい、神産巣日神の子だという。
神産巣日神は、天地開闢の際に登場した「造化三神」のうちの一柱。
神産巣日神はスクナビコナ神に対して

「オオクニヌシ神と兄弟になって、葦原の中津国をつくり固めよ。」

と言う。

日本神話に登場する神は、「天津神」と」国津神」に大別される。
オオクニヌシ神は「国津神」である。

不思議なのは、「国津神」の代表的な存在であるオオクニヌシ神の手助けをして、一緒に国づくりをおこなったスクナビコナ神が「天津神」系だということだ。

またその後オオクニヌシ神を助けて国づくりをしたオオドシ神も「古事記」では「天津神」系になる。

神話はこの話の後「国造り」になるが、オオクニヌシの国づくりに「天津神」系が協力したという記述は、それを正当化するために意図的に挿入されたと考えられるだろう。
         (引用ここまで)

しかし同書でも、スクナビコナ神は韓国から来た渡来神だと考えられるとも述べられています。
 


         (引用ここから)

奈良市に漢国(かんごう)神社がある。

「漢」はもともとは「韓」、「国」はもともとは「園」であった。

祭神はもともと大物主神で、藤原不比等が韓神としてオオナムチ神とスクナビコナ神を合祀したという。 不比等は「日本書紀」の編纂に関わっており、「日本書紀」は不比等の構想によるものだという見方もある。

この神社では、オオナムチ神とスクナビコナ神は韓国から来た神ということになる。

確かにスクナビコナ神は神話でも海上からやって来たことになっており、渡来した神である可能性が高い。

         (引用ここまで)

wikipedia「スクナビコナ」より

スクナビコナ(スクナヒコナとも。須久那美迦微、少彦名、少日子根など他多数)は、日本神話における神。

『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。

大国主の国造りに際し、波の彼方より天乃羅摩船(アメノカガミノフネ)に乗って来訪した神。

国造りの協力神・常世の神・医薬・温泉・禁厭(まじない)・穀物霊・知識・酒造・石など多様な姿を有する。

『古事記』によれば、大国主の国土造成に際し、天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、オホナムチ(大己貴)大神の命によって国造りに参加した。

『日本書紀』にも同様の記述があり、『記』・『紀』以外の文献では多くは現れない神である。

酒造に関しては、酒は古来薬の1つとされ、この神が酒造りの技術も広めた事と、神功皇后が角鹿(敦賀)より還った応神天皇を迎えた時の歌にも「少名御神」の名で登場する為、酒造の神であるといえる。

ただし石に関しては記述よりそうした面が見られると想像されるだけであり、あくまで性質的なものである。

創造における多様な面を持つ神ではあるが、悪童的な性格を有すると記述される(『日本書紀』八段一書六)。

オホナムチ同様多くの山や丘の造物者であり、命名神として登場する。のちに常世国へと渡り去る。

小さいと言われているが、「鵝(ひむし・蛾)の皮の服を着ている」と高御産巣日神の「わが子のうち、指の間から落ちた子」という記述からの後世の想像である。

名前の由来について、『古事記伝』によれば「御名の須久那(スクナ)はただ大名持(オホナムチ)の大名と対であるため」とあり、名前が必ずしも体の大きさを表すわけではない。

あるいは金井清一によれば「若き日の御子」の意とする説もある。

また、この神が単独ではなく、必ずオホナムチと行動を共にすることから、二神の関係が古くから議論されている。

大林太良はこの神に「第二の自我」を見、吉田敦彦は双生児的な関係を指摘している。

海から来訪したとの記述により渡来人という説もあるが、船で渡来=外国人という単純な図式からの連想であり、奇説の域を出ない。


wikipedia「国引き神話」より

国引き神話(くにびきしんわ)は、出雲国に伝わる神話の一つである。

『古事記』や『日本書紀』には記載されておらず、『出雲国風土記』の冒頭、意宇郡の最初の部分に書かれている。

八束水臣津野命(やつかみずおみつぬのみこと)は、出雲の国は狭い若国(未完成の国)であるので、他の国の余った土地を引っ張ってきて広く継ぎ足そうとした。

そして、佐比売山(三瓶山)と火神岳(大山)に綱をかけ、以下のように「国来国来(くにこ くにこ)」と国を引き、できた土地が現在の島根半島であるという。

国を引いた綱はそれぞれ薗の長浜(稲佐の浜)と弓浜半島になった。

そして、国引きを終えた八束水臣津野命が叫び声とともに大地に杖を突き刺すと木が繁茂し「意宇の杜(おうのもり)」になったという。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/bbafc7f59e87fd98e00bbb362834869d

梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(3)
出雲の国譲りと、たたり 2012-01-11


          (引用ここから)

では、オオクニヌシの「出雲王朝」はどのようにして崩壊したのか。

内部分裂とアメノヒボコと言われる韓国から来た強力な神の出現によって追いつめられたオオクニヌシの下に、ついに「国譲り」の使者がやって来る。


「古代出雲王朝」がどのように滅びたか、史実として確かなことは全く分からない。

しかしオオクニヌシ王国を滅ぼしたのは物部氏の祖先神であるという説がある。

「古事記」では「国譲り」の使者はアメノトリフネを従えたタケミカヅチであるのに対し、「日本書紀」では主なる使者は物部の神を思わせるフツヌシであり、タケミカヅチは副使者にすぎないのである。


「出雲王国」を滅ぼしたのはニニギ一族より一足先にこの国にやって来た物部氏の祖先神かもしれない。

青柴垣神事、諸手船神事といった、たいそう手の込んだ「国譲りの神話」を象徴する祭りは、「古事記」や「日本書紀」に語られる「国譲り」の神話は決して架空の事ではなく、事実であることを末永く後世に伝えるものであろう。


「古事記」を虚心に読むかぎり、「出雲王朝」がヤマトをも支配していたことはほぼ確実であると思われる。


神武天皇は日向からはるばると遠征して、ヤマトにいるナガスネヒコと、一足先にヤマトに来ていたニギハヤヒの子、ウマシマジの連合軍を滅ぼし、ヤマトを占領した。

しかし神武天皇が権力を保つには、かつてこの国を支配したオオクニヌシ一族の血を引く女性を娶り、その女性との子を次の天皇にすることが必要であった。

そこで探してきたのが、三島と三輪のオオモノヌシの娘である。


神武天皇が亡くなった時、日向の元の妻との間の息子は殺された。
おそらく日向の豪族の血を持つ王子が皇位を継ぐことに、ヤマトの人たちの支持は得られなかったのであろう。

そして明らかに出雲王朝の血を持つヌナガワミミが第二代の天皇に就くことによって、神武天皇は安泰を保つことができたのだろう。
しかし以後オオクニヌシ系の女性で正妃の位に就く人はなく、物部系の女性が多く就くようになる。


新たに政権の座に就いた王朝がもっとも力を尽くすのは、前代の王朝の鎮魂である。
疫病が流行したり災害が起こったりしたとき、それはおそらく前代の王朝の祟りであると考えられた。


第10代の天皇、天皇家の祖とされる崇神天皇の御代に悪性の流行病がたびたび起こり、それはおそらく前代の「出雲王朝」の祟りであると考えられた。

このような出雲大神のたたりは崇神、垂仁で終わらず、「古事記」が作られた和銅の御世に近い過去にも起こったのである。


「日本書紀」の斉明天皇5年(659)に次のような記事がある。

「この歳、出雲国造に命せて神の宮をつくりよそわしむ。」

斉明天皇は天智・天武天皇の母であり、「古事記」選集当時の天皇であった元明天皇の祖母に当たる。

現天皇の祖母の時代にまで出雲大神の祟りが存在していたとすれば、「古事記」選集の段階において出雲大神の鎮魂ということが重要な国家的課題であったと考えられるのである。
          (引用ここまで)
 

著者梅原氏は、「出雲王朝」の崩壊の原因には直接言及することなく、話をすすめていくように思えます。もしかしたら「出雲王朝」を滅ぼしたのは物部氏の祖先フツヌシだったかもしれない、、と軽く触れられますが、深い詮索は行われません。

ただ、「青芝神事」や「諸手舟神事」、また姫路の「一つ山・三つ山祭り」といった地域の古い伝統行事は、まさにスサノオやオオクニヌシたちが今も生きているように生き生きとした伝承を行っており、「出雲の国譲り」は神話や物語などではなく、かつて出雲のオオクニヌシ一族の支配下にあった人々の心には決して忘れられることがない史実であり、心の奥深くに刻み込まれている記憶であることを証明していると考える、と語る道を選んでおられます。

そしてまた、だからこそ、「出雲王朝」にたたられているという出来ごとは、「古事記」・「日本書紀」が書かれている当時の人々にとって、最大の恐怖をもたらす最大の関心事であり、最大の悩みの種であったであろうと考えられています。

ニギハヤヒとは何者なのか、物部氏とは何者なのかということは、後で他の研究者の著作も比較してみてみたいと思っていますが、かつて在った者により「たたられている」という感覚は日本の歴史の中には脈々と流れ伝わっているように思います。


wikipedia「ニギハヤヒ」より

『古事記』では、神武天皇の神武東征において大和地方の豪族であるナガスネヒコが奉じる神として登場する。

ナガスネヒコの妹のトミヤスビメ(登美夜須毘売)を妻とし、トミヤスビメとの間にウマシマジノミコト(宇摩志麻遅命)をもうけた。

ウマシマジノミコトは、物部連、穂積臣、采女臣の祖としている。

イワレビコ(後の神武天皇)が東征し、それに抵抗したナガスネヒコが敗れた後、イワレビコがアマテラスの子孫であることを知り、イワレビコのもとに下った。

『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。

これらは、ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。

また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。

大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。


wikipedia「フツヌシ」より

経津主神(ふつぬしのかみ)は日本神話に登場する神である。

『日本書紀』のみに登場し、『古事記』には登場しない。

別名、斎主神(いわいぬしのかみ)、伊波比主神(いわいぬしのかみ)。『出雲国風土記』では布都怒志命として登場する。


『日本書紀』の神産みの第六の一書では、伊弉諾尊が軻遇突智を斬ったとき、十束剣から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群となり、これが経津主神の祖であるとしている。

第七の一書では、軻遇突智の血が天の安河のほとりの岩群を染めたことにより岩裂神・根裂神が生まれ、その御子の磐筒男神・磐筒女神が生んだのが経津主神であるとしている。

葦原中国平定では武甕槌神とともに出雲へ天降り、大国主命と国譲りの交渉をしている。

『出雲国風土記』や『出雲国造神賀詞』では経津主神のみが天降ったとしており、出雲の意宇郡楯縫郷(島根県安来市)で天石楯を縫い合わせたとの逸話が残っている。


神名の「フツ」は刀剣で物がプッツリと断ち切られる様を表すもので、刀剣の威力を神格化した神であるとの解釈がある一方、「フツ」は刀で切る音ではなく「フツフツ」と沸き上がり「フルイ起す」フツであるとも解されている。

一説には、神武東征において建御雷神が神武天皇に与えた刀である布都御魂(ふつのみたま)(または佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ))を神格化したものであるともいう。

逆に『先代旧事本紀』では、経津主神の神魂の刀が布都御魂であるとしている。

『古事記』においては、建御雷之男神の別名が建布都神(たけふつのかみ)または豊布都神(とよふつのかみ)であるとしており、葦原中国平定は建御雷之男神が中心となって行っているなど、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるように書かれている。

布都御魂を祀る石上神宮が物部氏の武器庫であったと考えられていることから、経津主神も元々は物部氏の祭神であったと考えられる。

後に中臣氏が擡頭するにつれて、その祭神である建御雷神にその神格が奪われたものと考えられている。

経津主神は香取神宮で主祭神として祀られているが、香取神宮と利根川を挟んで相対するように、建御雷神を祀る鹿島神宮がある。

また、春日大社では経津主神が建御雷神らとともに祀られている。

これは香取神宮・鹿島神宮のある常総地方が中臣氏(藤原氏)の本拠地であったため、両神社の祭神を勧請したものである。

また、鹽竈神社でも経津主神・建御雷神がシオツチノオジとともに祀られている。


コメント

国譲りの試論 (須賀の語部)2012-03-29 19:45:26 

古事記の出雲神話は弥生後期の四隅突出型墳丘墓と古墳時代を先取りした王墓が造成された時代と不思議とマッチすると。渡辺島根大学名誉教授が季刊「考古学」に書いておられた。

 私の解釈だとこうだ。

こたつ状の形をした四隅突出墳丘墓の分布は東は島根県の安来市、西は出雲市を中心とした王族が造成した。

発達時期は東が若干早く、数は東が、大きさは西のものが大きく国内最大級のものがある。しかし両者とも出雲の中では、数量、規模とも他を圧倒している。

つまりこれは、東はスサノオの王国、西はオオクニヌシの王国があったと考えるとすると説明がつく。

これが古墳時代に入ると、墳丘墓(古墳)を突然作らなくなる。
この西の勢力の衰弱が、国譲りを表しているとピッタリ符合する。

それでも西の勢力は古墳時代中期には回復し、当時全国的に流行していた前方後円墳を作り始める。一方東部は四隅突出墳丘墓の伝統を濃厚に引き継いだ、方墳、前方後方墳を頑なに作り続け、奈良時代までの500年間栄える。

また、古墳時代に埋葬された大刀の東西の差異も面白い。
東部は装飾性の強い大刀で蘇我氏系のもので、西部は装飾性が弱く、物部氏系のものであると考古学者は言っている。

つまり、大和朝廷の有力豪族として東部は入廷し、西部は吉備で栄えた大和朝廷の有力豪族物部氏の軍事侵攻に屈したと解釈するのが自然だろうと考えられる。

今年は島根県が神話博しまねをやっているのでこのあたりの詳しい情報は、島根県にある古代出雲歴史博物館に行って実物や考古学的成果を見てみるとより臨場感がわくだろう。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/0ebb60e97215cb8f6449e18dcfb5d7a7


05. 2013年7月18日 23:10:50 : W18zBTaIM6



梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(4)
縄文から弥生へ 2012-01-14

          (引用ここから)

わたしはイザナギ・イザナミは縄文の神であると思う。

縄文の哲学は産みの哲学である。

タカミムスビ・カミムスビの「ムスビ」というのは、子を産むことを意味する。

このような「ムスビ」の神が、縄文時代において最も崇拝されていたことは、縄文時代にあまねく崇拝された石棒を見ても分かる。

これに対してイザナギ・イザナミに続く神々は、明らかに弥生の神であり、農耕の神々であろう。


「古事記」では国産みの後に神産みの話が続く。 イザナギはその最後にアマテラス・ツクヨミ・スサノオを産んだというが、この三人はいずれも農耕の神々である。 つまり縄文時代が終わり、弥生時代が始まるのである。

このように考えるとスサノオ、オオクニヌシの出雲神話は弥生時代の話なのであろう。

この弥生時代について、これまで紀元前5世紀から紀元後3世紀頃の間の約800年間と考えられていたのだが、放射性炭素年代測定法により、その始まりが通説より500年ほど遡った。 つまり紀元前10世紀頃にはすでに稲作農業が日本で行われていたと考えられる。


新たに認識された約3000年前の弥生時代初期に目を向ける時、われわれは古代の日本が現代の日本とははなはだ違う状況にあったことを認識しなければなるまい。

それは、かつてはこの日本列島の文化的中心は太平洋沿岸ではなく、日本海沿岸であったということである。

このような日本海沿岸の高い文化を示すものに、主として北陸地方に出土する巨大なウッドサークルの遺跡がある。 その代表的なものが能登半島の真脇遺跡であろう。

最大直径1メートルもある10本の栗の木が柱の断面を外側に向けている環状木柱列が発見された。 そのサークル状の柱の穴は幾重にも重なっていて、10本の柱が何年かに一度、立て替えられていたことを示していた。

また少し時代は後になるが、そこに無数のイルカの骨塚があったのが発見されている。 そこはおそらくアイヌの「熊送り」のように、「イルカ送り」をした場所であったのであろう。

サークル状に配された10本の柱は、生命の永劫回帰を意味するのかもしれない。


巨大な建造物の遺跡は山陰にもある。

このような伝統の下で、出雲のオオクニヌシの隠居の宮殿として、現在の出雲大社の本殿の高さの二倍もある巨大な宮殿が建てられたと見るべきであろう。


そしてもう一つ、この日本海沿岸で栄えた文明は、「玉 」の文明であった。
近年の調査で、新潟県糸魚川地方がヒスイの現産地であることが確かめられた。
この勾玉の起源を猪や魚の形をした獣型勾玉に求める梅原氏の説に、わたしはたいへん興味を覚えた。

アイヌ語は縄文語の名残を留めている言語だと私は考えているが、アイヌ語の「タマ」は「カムイ」と同じように霊的な存在を意味する。 玉はまさに霊的な存在であり、特に、勾玉は霊的存在の最たるものである。

勾玉はやはり魂の形を示しているのであろう。
その魂は植物の魂であるよりは動物の魂であろう。
動物と植物の違いは、動物にははっきりと死があることである。
それは動物の肉体から魂が去っていくからであろう。


魂の去った肉体はむしろなきがらであり、縄文人にとっては全く意味のないものであった。 縄文人はそのようななきがらを山に捨てて二度と参ろうとは思わなかった。 彼らが参るのは別の墓なのである。

縄文人は人が死ねばその魂は西の空に行き、そこでほぼこの世と同じ生活をすると考えてきた。 そしてその人物の子孫に妊娠が告げられると、あの世にいる祖先の誰かの魂が選ばれ、またこの世に帰ってくると考えていたのである。

それゆえ魂はこの世とあの世との間を永遠に行き来するものであった。

勾玉はそのような魂を表わすものであると考えられる。
人間をはじめすべての獣の、死からの復活を願う祈りが込められている。


「古事記」にある出雲の神オオクニヌシの越の神ヌナガワヒメに対する恋の話は、同時に征服の話なのである。 勾玉文化の中心地、越はついに出雲のオオクニヌシの手に帰したのである。

出雲の地は長年、ヒスイ王国・越の支配下にあった。

 その越の支配からの解放が、スサノオによる越のヤマタノオロチの退治の話であり、逆に出雲による越の征服の話がオオクニヌシの強引なヌナガワヒメとの結婚の話であろう。
            (引用ここまで)

wikipedia「真脇遺跡」より

真脇遺跡(まわきいせき)は、石川県鳳珠郡能登町字真脇にある縄文時代前期から晩期にいたる集落跡の遺跡である。

真脇遺跡は能登半島の先端から少し内海に入ったところにある入江の奥に位置する。

用水路工事に伴う1982-83年にかけて行われた発掘調査により発見された。

遺跡は入江奥の沖積低地の包含層の、最近の水田の土地の約1メートル下にあって、そこから約3メートル下に亙って遺跡の含まれる層が年代順に層を成していた。

そこから発掘される史料なども豊富であるため、「考古学の教科書」などとも呼ばれる。

約6000年前から約2000年前まで、採集・漁撈の生活を営む集落があったものと考えられている。

発掘で出土した厚く堆積した300体を超える大量のイルカの骨や、長さ2.5メートルもある巨大な彫刻柱、土偶、埋葬人骨、厳つい風貌の土面は後期に属する日本最古の仮面、整然とした地層などが話題を呼んだ。

この遺跡に住んでいた人々はイルカ漁を盛んに行ったらしく、大量のイルカの骨が発掘されている(特に前期-中期にかけて多く見られる)。

イルカの骨には石器の鏃や槍が残っていて、獲ったイルカは食用に供せられるほか、骨を再利用したり、油を採ったりされた。

また、イルカは、この土地だけでなく他地域との交易に使われたと考えられる。

船は出土しなかったが、船の櫂(ヤチダモ材)が出土している。

さらに中部山岳地帯や東北地方からの土器や玉が出土していることからも分かる。


遺跡最晩期の地層からは、円状に並べられたクリ材の半円柱が発掘された。

10本の柱で囲んだと思われる直径7.4メートルの環状木柱列で、各々の柱を半分に割り、丸い方を円の内側に向けている。

その太さは直径80〜96センチもある。

小さな環状木柱列もあり、これらは何度も立て替えられたと考えられる。

同じ石川県金沢市で先に確認されたチカモリ遺跡の環状木柱列(ウッド・サークル)と良く似ており、注目されている。


このような巨木を用いた建物や構築物は巨木文化と呼ばれ、日本海沿岸から中央高地にかけていくつか確認されている(新潟県糸魚川市の寺地遺跡、富山市古沢の古沢A遺跡、長野県原村の阿久遺跡など)。

2000年11月の発掘で、縄文時代中期頃の盛り土で区画された大規模な集団墓地遺構が検出された。

大量の土を動かし、それを積み上げて盛り土をし、墓を造っている。

盛り土は、日本列島では、縄文時代後期に属する北海道斜里郡斜里町の環状土籬、弥生時代の墳丘墓、古墳時代の各種の古墳などがある。

人間の労働力を集中して自然の景観を変えてしまう共同作業が縄文の時代にも行われていた。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/8f8f1191a02512bca01e813e5afc50b4

梅原猛の「古代出雲の謎を解く」(5)
×印をつけて埋葬された銅鐸をめぐって 2012-01-21

梅原猛は近年島根県の遺跡から大量に発見された銅鐸について、以下のような問いを立てます。


>近年発見された荒神谷遺跡や加茂倉遺跡で発見されたおびただしい青銅器は、どのような形でスサノオ・オオクニヌシの「出雲王朝」と結びつくというのだろうか。


        (引用ここから)

ヒスイおよび玉の産地はほぼ環日本海地域である。
日本海沿岸はこのような巨大建築と玉の文化が栄えていた。
そしてさらに青銅器文化も栄えていたのである。
それは大量の銅鐸の出土によって分かったことである。


弥生時代の芸術作品といえば、銅鐸をあげねばならぬと思う。
弥生文明は稲作農業を生産の基礎とする文明であった。
農業に従事する人々を統合する宗教的・政治的権威が必要である。
それが神聖たるべき王の存在であろう。
日本では昔から「政りごと」は「祭り事」と言われるように、政治はすなわち祭事でもなければならなかった。 そしてそこで、青銅器は「出雲王朝」の政治と深く結びついた祭器であったと考えられる。


「古事記」「日本書紀」は、日本の農業はスサノオ、オオクニヌシの始めたものであるとする。

では、近年発見された荒神谷遺跡や加茂倉遺跡で発見されたおびただしい青銅器は、どのような形でスサノオ・オオクニヌシの「出雲王朝」と結びつくというのだろうか。


銅鐸研究家佐原氏は、銅鐸の起源について、銅鐸は中国から来たものではなく、朝鮮の馬の首につける鈴が日本に来て、祭器になったものであるとする。
朝鮮の人にとって漢式馬車に乗る貴族は尊敬の的、憧れの的であった。
貴族のシンボルとして馬の首につける鈴ほど適当なものはない。
それゆえにこの様な馬の鈴を日本で祭器としたのは朝鮮から来た貴族、あるいは貴族に強いあこがれを持つ人物であったに違いない。

わたしはそういう人物として「日本書紀」の記述により朝鮮から来たと考えられるスサノオを想起する。 そうであるとすれば、銅鐸は「出雲王朝」の祖であるスサノオと結びつく。

では、このような大量の青銅器を所有していたのは誰か、そしてそのような大量の青銅器を埋蔵したのはなぜなのだろうか。


これほど多くの宝器を所有したのは間違いなく「出雲王朝」の大王であり、おそらくオオクニヌシと言われる人であったに違いない。

しかしそのような宝器をなぜ人目につかない丘の中腹に埋めたのか。

その謎を解く鍵は、荒神谷遺跡と加茂岩倉遺跡の銅鐸のほとんどに×印が刻まれていたことにある。

西洋から近代科学文明を採り入れて以来、日本人は「あの世」について考えなくなった。
しかし日本人の「あの世」信仰は、浄土教が日本に移入される以前に、すでに深く日本人の魂に浸透していた信仰であると思わざるを得ない。
日本人は縄文時代以来、深い「あの世」感を持っていたので、とりわけ浄土教が日本仏教の主流になったのではないかと思う。

かつて柳田国男が指摘したように、日本人には人が死ぬとまず近くの里山に行き、しばらくたって亡くなった祖先達の住むあの世へ行き、お盆やお正月やお彼岸にはこの世に帰ってくるという縄文時代以来の信仰と、十万億土離れた遠い極楽浄土へ往生するという浄土教の信仰がまだら染めのように混在していたと思われる。

このような「あの世」観において「あの世」は、「この世」とあまり変わりない所と考えられていたのである。


ただし一つだけ大きく違うことがある。
「あの世」と「この世」は万事あべこべなのである。
たとえば「この世」の夏は「あの世」の冬、「この世」の冬は「あの世」の夏。

「この世」の昼は「あの世」の夜、「この世」の夜は「あの世」の昼、というように、「この世」で完全なものは「あの世」では不完全であり、「この世」で不完全なものは「あの世」で完全なものであるという信仰でもある。


そうした信仰の最もはっきり認められるものが、縄文時代に作られた土偶であろう。

土偶はすべて必ず破壊されていた。

また土偶の特徴は中央に縦一文に引き裂いたような跡があることである。

土偶の中にはあたかも人間を葬るかのように丁寧に埋葬されたものもある。

土偶は腹を裂かれて死んだ妊婦の像であり、妊婦が完全な人間として再生することが出来るようにバラバラにして埋められるものである。

それゆえ、死者に贈られるものは必ず壊して贈らなければならない。

弥生時代の副葬品として貴重な鏡が供えられることもあるが、その鏡はばらばらに壊されているものがあり、死者に供えるものはそのように壊されたり、焼かれたりする。

火で焼くことによって、そのものを「あの世」へつつがなく贈るのである。

日本で恒久的な都が作られるのが遅れたのは、前大帝の宮殿を焼いて、死んだ帝に捧げられたためであると、私は考えている。


このように考えると、遺跡から出土した銅器に付けられた×印の謎が初めて理解される。

それらの品物は、すべて死者に贈られたものの印であろう。

×印を刻んで、不完全なものであることを示そうとしたのではないか。

大量の銅鐸の出土した遺跡は賀茂氏の祖先であるオオクニヌシの愛児・アジスキタカヒコネのいたところで、この地に彼の宮殿があったと思われる。

それゆえ、「国譲り」後も生き残った彼とその子孫たちは、持っていた銅鐸をすべてこの丘に埋蔵して、父・オオクニヌシに送り届けようとしたのではあるまいか。

いずれの遺跡においても、銅鐸は愛情をこめて、実に丁寧に埋葬されている。

そこにオオクニヌシに対する深い哀悼の心が込められているのではないかと私は思ったのである。  
           (引用ここまで)


梅原氏は、出土した銅鐸は朝鮮からやってきて、出雲王国を作り上げたスサノオノミコトが朝鮮からもたらしたものであり、出雲王朝の王オオクニヌシが所有していたものであり、オオクニヌシの息子が死者の住むという「あの世」にいる亡き父オオクニヌシに贈ったものではないだろうか、と考えています。


この考えとは別の考えとして、山崎謙氏は著書「幻の出雲王国」において別の見解を述べておられます。

       (引用ここから)

古代出雲は日本海をつうじて諸地域と交流があった。

近年の考古学的発見の数々はその様子を次第に明らかにしつつある。

弥生時代は中国の史書に「倭国騒乱」の文字があるように、各地に地域国家が出現し、勢力争いが勃発していたと見られる。

弥生時代の出雲は、青銅器の出土量は全国でもトップクラスであり、その後の鉄器も北九州に次いで出土数が多い。 出雲は当時、現在で言えばハイテク分野でトップクラスの力をもつ強国であったと考えてよい。

青銅器は鉄器が流入すると、急速にすたれる。
荒神谷遺跡などの青銅器の大量埋納はそのことと関係があるかもしれない。
あるいは青銅器を使用することに意味をもつ宗教的な行事が意味を失い、廃棄されたのかもしれない。

また、古代出雲王国が大和王権に屈し、伝えられてきた同国の象徴である青銅器を廃棄させられたという可能性も捨てがたい。

        (引用ここまで)
確かに、どの説の可能性も捨てがたいと感じます。
http://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/ce75cf2f7f37e0487c4f1305c5e2f258


06. 中川隆 2014年8月23日 07:05:50 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

蘇我氏は、出雲神族か?

 蘇我氏の出自については、未だ結論の出せない謎に包まれています。

 しかし、日本書紀、古事記、新撰姓氏録、その他各豪族の系図を追っていくと、実は蘇我は、葛城氏、物部氏、大伴氏、賀茂氏、三輪氏と同族であり、出雲神族であったことがわかります。

 日本書紀では、蘇我馬子は、推古天皇に葛城県の返還を願い出ており、また蘇我葛城臣との記述もあり、少なからず葛城氏との接点が示唆され、この言葉を裏付けるように、蘇我氏の本貫地は、葛城氏と同じ大和の西部、葛城山の麓、現在の奈良県・御所市であり、ここは、葛城王朝の存在が示唆され、多くの大型古墳が残る地域でもあります。

 また、蘇我氏の祖は、葛城氏と同様、仲哀天皇の皇后・神功皇后を、大臣として補佐した武内宿禰(彼については、諸説ありますが、一旦、存在したと仮定します)と位置付けられています。

 さらに、蘇我氏は、屯倉において、渡来人をよく重用していましたが、蘇我氏が葛城氏と同族であるならば、

>葛城氏は半島の鉄を持ち込むと同時に渡来系鉄職人も受け入れており、国内での鉄の加工を担っていた可能性がある。またその時に流れてきた大量の鉄職人(秦氏、漢氏)は日本各地での鉄自給の道を開く伝道者にもなった
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=201749


 とあるように、葛城氏(襲津彦)が統率していた渡来系の職人(秦氏、漢氏)を、葛城氏没落後、蘇我氏が統率するようになっていったこともすんなり理解できます。

 同族だからこそ、引き継いで、そのまま渡来人を重用していたとみることができます。

 また、蘇我氏の本貫地は、葛城賀茂氏の本貫地でもあり、しかも、葛城山自体、元々は「かもやま」と呼ばれていたそうです。

 その葛城氏の神は、「一言主神」であり、この神は賀茂山口神社の祭神で、神社の名に賀茂が入っているように、古来より賀茂氏によって祀られてきた神でした。

 そして、この「一言主神」は事代主神と同神でもあり、その事代主神は、素戔嗚尊の孫、または曾孫にあたる、出雲神族、つまり賀茂・三輪氏の系図に記載がある人物でもあります(以下の系図参照)。

素戔嗚尊−大国主命−事代主命(一言主)−大田々根子┬葛城賀茂氏
                         └−大友主−三輪
 
 葛城氏の神を賀茂氏が祀って来た理由もここにあり、同族であるからこそ、同じ神を祀っていたのであり、葛城氏も蘇我氏も共に三輪・賀茂氏の一支族ということになります。

 同時に、三輪・賀茂氏と、蘇我氏が同族ということは、賀茂・三輪氏と同じ出雲出身である物部氏も、そして大伴氏も、実は蘇我氏と同族と言うことになってきます。

 ということは、古代中央豪族の殆どは出雲神族と目されていた、賀茂・三輪氏と同族、言わば「葛城系豪族」であったということになります。

 初代天皇・神武から少なくとも4代連続して、皇后(大后)は賀茂氏の女性(三輪系図に記載あり)であり、そしてその後、皇后は、葛城・蘇我氏両氏から出されています。

 その葛城・蘇我両氏族が三輪・賀茂族に繋がるとすると、少なくとも古代天皇家(大化の改新まで)において、皇后は、三輪・賀茂族を中心とする「葛城系豪族」が全て独占していたことが明らかになってきます。

 要するに、古代ヤマト朝廷とは、葛城系豪族の国家であったと言えるのではないでしょうか。

 このように葛城氏及び蘇我氏が皆、出雲神族であるならば、


 大国主命を祀る、本殿裏側の摂社に祀られている素戔嗚尊。この素戔嗚尊の摂社が「素鵞社」と呼ばれている理由。

 そして、奈良の入鹿神社の祭神は蘇我入鹿と素戔嗚尊となっていること。

 また、蘇我氏全盛の頃、蘇我氏たけが方墳をつくる特権を持っており、他の豪族には許されなかったことだが、唯一、出雲国造家だけは許されていた理由。


 これら全てが、繋がってきます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=202194


07. 中川隆 2014年8月23日 07:14:03 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

蘇我氏は高句麗渡来か!〜明日香の巨大墳丘発掘より 2014/08/23

お盆休みの8月13日に考古学的には大きな発見が報道された。

奈良明日香村に蘇我氏が築いたと思われる41m方形の巨大ピラミッドが発掘されたと言う。

それにしてもなぜこれほど大きな構造物が今日まで発見されなかったのかは不思議だが、蘇我氏はこれまで謎の豪族といわれる事が多かっただけに高句麗と繋がる今回の古墳発掘は蘇我氏解明、古代王朝の解明に繋がる発見になるであろう。

蘇我氏が高句麗渡来となると日本の古代王朝の百済説が見直され、高句麗を軸にした分析が必要になる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=188168

例がない巨大な「階段ピラミッド」の方墳…被葬者は蘇我稲目か 
明日香村「都塚古墳」 2014.8.13
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/140813/wlf14081317080018-n2.htm

>奈良県明日香村にある飛鳥時代初期(6世紀後半)の都塚(みやこづか)古墳が、一辺40メートル以上の巨大な方墳で、国内に例がない階段ピラミッド状と判明し13日、関西大と村教委が発表した。現場は蘇我氏の拠点地域で、古代朝廷の実力者・蘇我馬子の墓とされる石舞台古墳に近いことなどから、専門家は「馬子の父で、蘇我氏の権勢の基礎を築いた蘇我稲目の墓の可能性が極めて高い」としている。

今回の発掘調査で、新たに築造当初の墳丘裾(すそ)部を3カ所で確認。墳頂部付近の石積みの階段状遺構が4段分(長さ約6メートル)出土し、全体が階段ピラミッド状の東西約41メートル、南北約42メートルの大型方墳とわかった。

 1段目は幅約6メートルのテラス状。その上に幅約1メートル、高さ約30〜60センチの石積みの階段が4段以上続き、8段以上あったとみられる。石は拳(こぶし)から人頭大の川原石で、古墳の高さは7メートル以上と推定される。北側には周濠跡も見つかった。

 国内では岡山県真庭市の大谷1号墳(飛鳥時代)が5段築成の方墳として知られるが、都塚古墳とはやや異なる。高句麗の王陵「将軍塚古墳」(4〜5世紀、高さ約13メートル)は階段ピラミッド状で、百済の古墳にも似た形があることから、古代朝鮮がルーツとの見方もある。

都塚古墳は、馬子の墓との説が強い石舞台古墳(一辺約50メートルの方墳)の南東約400メートルに位置。石舞台古墳そばの島庄(しまのしょう)遺跡からは蘇我氏の邸宅跡とされる大型建物跡も見つかっており、周辺は蘇我氏の拠点とされる。日本書紀によれば、6世紀に活躍した蘇我氏の実力者は馬子の父、稲目。欽明天皇の時代に政権ナンバー2の大臣をつとめ、百済から伝えられた仏教を崇拝。自分の娘3人を天皇に嫁がせ、その後馬子、蝦夷(えみし)、入鹿と3代続く蘇我氏の権勢の基礎を築いた。

 関西大などは、蘇我氏の有力者の墓と推定。泉森皎(こう)・元橿原考古学研究所副所長(考古学)は「馬子以前の6世紀後半に蘇我氏の根拠地といえる場所に、大規模な墓をつくることができるのは稲目しかいない。階段状にしたのは威容を示すためで、蘇我氏の力を見せつけようとしたのだろう。古代飛鳥の歴史を解明する上で、大きな意味を持つ発見だ」と話している。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=294297

蘇我氏の出自を探る
 

蘇我氏の出自はどのように語られているか、水谷千秋氏の「謎の豪族 蘇我氏」にまとめてあったのでそれを紹介する形で蘇我氏とはどのような豪族かを明らかにしていきたい。

■蘇我氏渡来人説を唱えているのが門脇禎二氏である。その概要は以下のようになっている。

五世紀後半頃の百済の官人「木ら満致」と日本書紀に書かれてある「蘇賀満智」と同一人物であるという説である。

なぜ門脇氏がこのふたりを同一人物と見るかというと、ひとつには「木ら満致」が五世紀後半ごろ百済を出て「南」へ行ったという記事が百済の歴史書「三国史記」にあるからである。

百済の王は高句麗の攻撃を知り、敗色が濃厚な為、子の文周王に命じた。

「私は責任をとってこの国と共に死のうと思うが、汝がここで死ぬのは無益である。汝は難を避けて国王の系譜を継承せよ」

文周王は木ら満致らを連れて南へ行ったと記された。「南へ行けり」を倭国に行ったと捉えたのである。また書記の中では木満致という名前で応神紀25年に倭国に来た百済の執政官という形で紹介されている。

この説に立てば蘇我氏は「木ら満致」という事になり王に直結した百済の官人という事になる。この門脇説がかなり支持されているらしいが、曖昧な点も多く、水谷氏は以下の点で否定している。


1.応神紀25年と三国史紀で書かれた年号には180年の差がある。応神紀が干支が2連繰り下がるので120年程度の差があるがそれでも60年の差が生じる。

2.木ら満致が本当に倭国(日本)に渡来したすればわざわざ蘇我満智と名乗る必然性がない。この時期の渡来人は秦氏にしても倭漢氏にしても自らの系譜を隠そうとはしていない。(実際に系譜を隠すのは8世紀以降である)

3.南行を直ちに倭国へ行く事と解釈しているが三国史記によれば、文周王はその後、新羅へ援軍を要請に行ったことになり、南行とはそれを指している。木ら満致だけが倭国まで南下する必然性がない。

・以上から蘇我氏百済人説は否定できると思われる。

現在、学説ではその他の渡来説は出ておらず、蘇我氏の出自は葛城の地に住む土着の倭人であるという説がまだ有力である。

また渡来人であったもかもしれないが、渡来後大和で一定期間、定着してから葛城氏の力を得て天皇系に近づいた可能性がある。要するに蘇我氏の出自については未だ決着していない。

・高句麗人説も含めて渡来人説が飛び交うのは蘇我氏の政治行動によるものらしい。

蘇我氏の政治行動とその特徴として以下の点が上げられる。
 
急速な台頭、国際的な開明性がある。

 仏教伝来を推進、倭漢氏などの渡来人を支配下に持つ。

倭漢氏だけでなく5世紀から6世紀の物部、葛城の没落後は蘇我氏は渡来人集団のほとんどを組織化し、彼らが手足となって活躍していた。

6世紀初頭には百済の政策を模倣して部民制(人)と屯倉制(土地)を定着させ土地と人を支配した。

支配した渡来人集団を使って経済を一手に担い、権力を強化した。


・一方で実質的には渡来人的性格があったと思われることとして、系譜の中に渡来人との婚姻があったことが指摘される。

蘇我稲目以前の蘇我氏の系譜に「蘇我韓子」や「蘇我高麗」などの朝鮮系とみられる名前が散見される。蘇我韓子の父は倭人であるが、母は朝鮮系であることが書記にかかれている。蘇我稲目は高句麗の女性を妻としたという記事もある。

蘇我馬子の母親は葛城氏であるという説を遠山美津男氏等は唱えている。

・天皇との関係は継体天皇から発生する。

一般的には蘇我氏の力が及んだ天皇との関係は継体天皇没後の安閑天皇、宣化天皇から推古天皇までと言われているが、物部氏が担ぎ上げたとされる継体天皇の大和定着の際に葛城の没落後、方針転換して継体支持に廻った。継体は蘇我氏によって大和定着を実現できたとも考えられている。

・その後蘇我氏は欽明天皇に嫁がせて血縁関係を強化していくが、著者の水谷氏は蘇我氏と天皇家の関係を以下のように書いている。

「蘇我氏の天皇家との血縁関係の緊密化は、単に蘇我氏の勢力の向上のみを意味するのではない。むしろ逆に天皇家にとってこの新興の強大な雄族との連携は王権の基盤を強化する上で有効と考えられ、事実、王権の安定化に大きく貢献している側面があったことは見逃せない」


・天皇家はその後、斉明―天智―天武を経て藤原の力を得て蘇我氏の作った律令制度を引き継いで東日本を除く列島の過半を統合する事になる。

こうして見ると天皇家と蘇我氏とは単に百済―新羅という単純化した勢力争いだけではない蘇我氏の天皇家(日本)支配の構図が見て取れる。

しかし蘇我氏滅亡後も天皇家と血縁関係を結んで実権を得ていく、その手法はそのまま藤原不比等がトレースしていく。天皇家が神格化され実質を失い、それがその後の日本の天皇制の雛形となった。

水谷氏は著書を通して蘇我氏の出自を執拗に問う事はしていない。むしろ大陸からの圧力の高まりに時を同じくして国内の秩序の基盤を作った蘇我氏を評価している。

ただ、蘇我氏の出自を考えるに渡来人集団をいち早く統合し、百済の制度や仏教をわずか100年という短期間で浸透させた力は単に傑出した倭人というだけでは説明がつかないように思う。



08. 中川隆 2014年8月23日 07:30:02 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

仏教伝来に見る蘇我氏の出自 〜高句麗僧と聖徳太子の関係より
 

蘇我氏の出自は百済とも言われていますが、仏教伝来時の高句麗僧と聖徳太子と蘇我氏の連携を見れば、蘇我氏は高句麗出自と見るのが妥当なように思えます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=196221

●高句麗からの渡来僧

・高句麗の平原王の意図を受けて、僧=恵便(えべん)が来朝してきた。それは、崇仏派の統領だった蘇我馬子に接近して、高句麗との関係を強化するためだった。
だが、この頃、わが国では、廃仏派が仏教徒を激しく迫害していた。その迫害から逃れるため、恵便は、同行してきた尼僧=法明と共に、やむを得ず還俗して、播磨(現在の兵庫県加古川市のあたり)に身を隠したという。


●仏僧を求めた蘇我氏

・敏達13年(584)9月、鹿深臣(かふかのおみ)は、百済から弥勒菩薩の石像一体をもたらし、また、佐伯連も、仏像一体を持ち帰った。蘇我馬子は、この2体の仏像を請い受け、これを祀る僧を探し出すよう、鞍作村主(くらつくりのすぐり)の司馬達等(しめのたっと)と池辺直氷田(いけべのあたいひた)の二人に命じた(『日本書紀』)。

二人は、あちこちを探し求めて旅をした末に、播磨国にいた還俗僧=恵便を見つけ出して、明日香に連れて行った。何の手がかりもない中で、身を隠している恵便を見つけるのは不可能に近いことなので、実際は、恵便の方から接触したのではないかと推測されている。

この当時、大陸の先進文化を身に付けていたのは僧侶だった。早い時期から朝鮮半島の情勢を学んでいた蘇我馬子は、一族が政権に就くためには、仏教を積極的に取り入れ、これを政治手段として用いるのが早道だということを悟っていたのだろう。

それ以来、恵便は、馬子の仏法の師となった。

●高句麗の僧が聖徳太子の師に

この当時、中国大陸の大国=隋は、勢力圏を広げて、高句麗に迫ろうとしていた。高句麗は、早期に大和朝廷と同盟を結んで、対隋戦争に備えての援助が得られるよう段取りを整えねばならなかった。

恵便は、それまでの大和朝廷の情勢を高句麗王に報告するため、手下の者を国に送り返した。
その報告の中で、恵便は、将来天皇になるべく期待されていた聖徳太子の師として、高徳の僧を送ってくれるように高句麗王に申し出たと思われる。

こうして、学問僧で高句麗の使者である慧慈(えじ)が送り込まれてきた。聖徳太子は、慧慈を師と仰ぎ、皇太子としての教養を身に付けていった。
慧慈は、当時としてはかなりの高齢だったが、鑑真のように大和の地に骨を埋めることなく、高句麗の国王に大和朝廷の政治情勢を報告するために帰国した。

これ以前のこと。百斉の聖明王は、国運にかかわる新羅との戦いを前に、仏像と経論を日本へ送ってきたが、大和朝廷との関わりにおいて高句麗は数歩も遅れを取っていた。 663年に、百済は滅んだ。その5年後に、高句麗は滅ぶ。 慧慈が大和に渡ってきてから70年後のことだった。

●高句麗による大和朝廷への懐柔作戦 

慧慈が高句麗から倭国へ渡って来きたのは、595年のこと(日本書紀)。慧慈と一緒に、百斉の僧=慧聡(えそう)も渡って来ている。だが、聖徳太子の師匠になったのは、慧聡ではなく慧慈だった。

高句麗王の命令を受けて、多数のスパイが活動するなど高句麗の動きが活発になっていた。

同時に、大和朝廷の高官に黄金をばらまいてもいる。当時、馬子は飛鳥寺を建てたが、高句麗王は605年に黄金300両余りを送ったと記録に残っている。

また、高句麗は蘇我氏の出自を知っていて、馬子に接近したとも考えられている。蘇我氏は高句麗からやって来た可能性が非常に高い。

いずれにしても、高句麗の王や高官は、倭国の指導者たちを洗脳して、倭国が高句麗と強固な同盟関係を結ぶように画策したと思われる。
慧慈の来日も、この政策の一環だった。慧慈は、聖徳太子に学問や仏教、人間学を教えながらも、太子の気持ちを高句麗側に引き付けようとしたとも考えられている。
http://sky.geocities.jp/omahenca/0-0-1s3-07.html


09. 中川隆 2014年8月23日 07:57:58 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc

1 :風林火山 ◇ ◆qR1zdW0bl6 03/05/03 09:09

稲目の先見性
馬子の外交術
蝦夷の日本人らしさ
入鹿の無謀人生
   
蘇我氏はみんな個性的で最高ですね

88 :日本@名無史さん 03/08/30 00:14
河内石川で周辺の渡来人の力を吸収してきた蘇我氏。
でもすぐ北には物部氏の大勢力があって、それにも限界がある。

稲目は天皇家への接近をはかるために、大和へ進出したかった。
そのために、畝傍山の東南一帯、今の欽明陵古墳あたり(坂合)を本拠地にしている境部氏の女を妻にした。

摩利勢は葛城系の母をもつ馬子とは異母兄弟。


947 :日本@名無史さん 2008/03/21(金) 14:32:18
乙巳の変が無ければ、その後の歴史も変わってただろうな


290 :日本@名無史さん 04/12/01 19:57:23
蘇我氏自体は倭人だと思う。
渡来系の子分とくっついていただけだと思う。


291 :日本@名無史さん 04/12/01 20:29:53
そんな当たり前のことを・・・・。
土着の氏族以外は諸蕃に分類されるのだから、倭人であることは当時からすでに常識。

当人である蘇我氏自身も周りの関係者(土着系からも渡来系から)も倭人認定。
周りからも何の異議も挙がっていないから、それが当時の共通認識だろう。

渡来人だと主張している人はごく最近になってから出始めたに過ぎず、信証拠も信憑性がいまいち。


6 : 03/05/03 10:45
馬子、蝦夷、入鹿とか蔑称めいたものが多いな。

当時からこの名称なのか?

あるいは逆族ゆえにこのような名称が後からつけられたものか?


7 :日本@名無史さん 03/05/03 11:35
柿本人麻呂も帝の不興を買って柿本佐留(さる=猿)に改名されたようだからな。
死後馬だの海老だにされたフシはある。

ちなみに蝦夷は海老で、熊襲は勿論熊、そして隼人は隼。
これは陸海空の鳥獣に当てはめて並び称されていたようだ。

熊襲は文化的にも殆ど隼人と変わらないのに、わざわざ別な「生物」である事を強調されていたのは、大和が自分たちを支那人のように、「数多くの野蛮人に囲まれている文明人」として自ら演出する為の必要性があったからではないだろうか。
閑話休題

14 :日本@名無史さん 03/05/09 01:23
高校の日本史の授業で、蝦夷、入鹿は藤原氏によりつけられた蔑称であり、
蝦夷は毛人(読みはえみしだと思う)、入鹿は鞍作が本名だと聞いた。鞍作は学問的にも優秀だったとも。


10 :日本@名無史さん 03/05/03 18:43
蘇我稲目は二人の娘を欽明天皇の後宮に入れ、皇子や皇女を産ませて、朝廷の屯倉開発にも携わり、渡来してきた賢人たちをも自分の派閥に組み入れ、蘇我氏権力を確固した偉大な人物。

後を継いで大臣となった子の蘇我稲馬子も十ニ位冠制とか十七条憲法とか作成。
しかし、>>6のいうように、稲目とちがって馬子の名は蔑視的か??


44 :日本@名無史さん 03/07/03 03:03
もう過去に何度もレスし尽くされているが 韓子、高麗、馬子、蝦夷、入鹿
いずれも当時よくある名で蔑称でも何でもない


8 :日本@名無史さん 03/05/03 18:38
蘇我入鹿から3代前の稲目から、蘇我氏は突如として歴史の表舞台に台頭してくるのですが、その父の名前は高麗(こま)。そして、高麗とは「日本書記」ではまさに高句麗を意味する言葉。

蘇我氏周辺の様子は、あまりにも高句麗色に満ちています。

例えば、稲目の子、蘇我馬子が建立した法興寺(飛鳥寺)の建築様式は高句麗的ですし、それに稲目は、戦争によって捕虜になった高句麗女性を大伴狭手彦という武将から奉られています。

仏教に傾倒していたと言われる蘇我氏ですが、高句麗の国教こそが仏教であるという事実も見逃すことができません。

自分たちの先祖が仏教徒だから、蘇我氏は仏教を受け入れやすかった。
そう考えて間違いないと思います。

81 :伊予の介(空蝉の君の旦那) 03/08/25 11:36

蘇我高麗は朝廷の金庫番をしてた訳だが、裏金でも作って朝臣を買収しまくって基盤を作り、稲目がその人脈を発展させたんだよね。


19 :日本@名無史さん 03/05/18 07:52

あたしのすきな蘇我日向ちゃんいついてはどうかしら?


29 :日本@名無史さん 03/05/30 03:13
蘇我日向のチクリで蘇我石川麻呂宅に出兵が決まってそれを解決するために石川麻呂が首をつったって日本史でならったな

日向=チクリ魔


28 :日本@名無史さん 03/05/28 16:46
蘇我日向 is No.1

39 :日本@名無史さん 03/06/15 13:31
蘇我の系図につながる末流って今もいるんですか?

63 :日本@名無史さん 03/07/26 22:47
蘇我満智のお父さんが武内宿禰ですね。

武内宿禰 → 蘇我満智 → 韓子 → 高麗 → 稲目 → 馬子 → 蝦夷 → 入鹿

101 :日本@名無史さん 03/09/16 13:48
天智天皇て、蘇我氏の誰かでない?
聖徳太子て、蘇我の馬子の事でない?

131 :日本@名無史さん 03/12/16 21:30
>>101

聖徳太子=馬子の子

善徳説は聞いた事がある。

146 :日本@名無史さん 04/01/02 23:17
>>131
以前、法隆寺展だったか、展示品の中に小さな蘇我善徳の像があったぞ。これかな?

957 :日本@名無史さん 2008/10/13(月) 14:44:06
馬子の長男は「善徳」。「蝦夷」とはえらい違いだ。

959 :日本@名無史さん 2008/10/13(月) 18:37:08
>>957
「善徳」は法名。

日本で初めて出家をした善信尼にみられるように尊語の漢字で法名を定めるのは中国や百済の影響で日本においても仏教伝来当初から行われていた。
ちなみに、善信尼の出家前の名前は「嶋」。

馬子の長男は庶子であったために仏門に入れられていた。
次男の蝦夷は馬子の正妻であった物部守屋の妹を母とし馬子の嫡子だった。


128 :日本@名無史さん 03/12/08 01:17
入鹿の血ってほとんど物部!

稲目━━┳馬子  
女子━━┛ ┣━━蝦夷(1/2※)   
尾輿━━┳女子   ┃
女子━━┛      ┣━入鹿(3/4※)  
尾輿━━┳石上贄古┃ 
如波流姫┛ ┣━━鎌媛
尾輿━━┳布都媛
阿佐姫━┛


144 :日本@名無史さん 04/01/02 13:39
>>128
物部氏は、天皇家より由緒古いとも云われる本邦第一の大族だった。
いまいちマイナーな存在、物部氏について語るスレ
http://academy2.2ch.net/test/read.cgi/history/1029739403/l50

142 :日本@名無史さん 04/01/01 17:10
平安朝初頭まで、朝廷に残存していた蘇我氏後裔の石川氏は何処に消えたんだろ。
藤原氏の他氏排斥暗躍史には、名がでてこないが。

143 :日本@名無史さん 04/01/01 18:24
>>142
奈良時代末期に石川石足が右大弁になったのを最後に政権中枢には石川氏の名前が見られることはなくなったようですね。
その後「石川」から「宗岳」に改姓しましたが二度と議政官を出すことはなかったようで、歴史の中に埋没していったようです。

『今昔物語』のなかに宗岳氏の娘の不幸な物語があったのではなかったかな

221 :日本@名無史さん 04/05/18 02:16
蘇我氏って奈良時代までは歴史の表舞台に立ってたんだよな。その後は?
あと、千葉市の蘇我とは関係あんの?

222 :日本@名無史さん 04/05/18 08:17
>>221
>>142-143で既出。

千葉県の蘇我との関係は私も気になってるが。
但し、あそこ埋め立て地だと思うので、実はそんなに由緒はない地名なのかも知れない(汗

224 :日本@名無史さん 04/05/18 18:42
>>222
前にそのこと質問したことあったけど関係あるみたいだよ
蘇我神社みたいなのがあるらしいけど
そのあたりは蘇我部だったのだろう


223 :日本@名無史さん 04/05/18 17:50
蘇我の語源は菅で、スガ、スゲ、ソガなど類似の地名は全国にたくさんあると思われ。中には蘇我氏の部曲の名残りもあるかも知れないが、ほとんどの場合、別に相互に歴史的な関係があるわけではないだろうな。


234 :日本@名無史さん 04/06/29 11:33
住友財閥の創始者は蘇我理右衛門。
これは蘇我氏の子孫なの?


236 :日本@名無史さん 04/06/30 23:33
蘇我理右衛門(1572年〜1636年)
この頃、蘇我という名字は特別な意味を持っていたの?
つまり古事記・日本書記的な知識はどの程度広まっていたの?

250 :日本@名無史さん 04/08/24 20:34
どうして天皇でもない蝦夷が「天皇記」「国記」を持っていたか、それが謎だ。

251 :日本@名無史さん 04/08/24 23:08
聖徳太子と蘇我馬子の共著だろう。
多分、執筆中に太子も馬子も恐らく献上するはずだった
推古天皇も死んで宙ぶらりんになっていたのでは?

961 :日本@名無史さん 2008/11/18(火) 21:49:08
蝦夷って目立ってないよね?

まるで偉業を「誰か」に取られたみたいに。


962 :日本@名無史さん 2008/11/18(火) 23:41:03
偉業なんて、そもそも無いんだろう。
軽皇子も一枚噛んでたみたいだし
外堀を埋められてるのに気がつかなかったのはちょっとね。


964 :日本@名無史さん 2008/11/25(火) 13:13:44
蝦夷も自殺じゃなくてどこかに落ちのびて、余生を全うすればよかったのにね。
そうすれば聖徳太子と蘇我氏で書いた歴史書も焼けずにすんだのに。


364 :日本@名無史さん 05/01/03 00:51:12
ところで、聖徳太子の子孫って全く残ってないん?

366 :日本@名無史さん 05/01/03 14:58:27
>>364
厩戸皇子(聖徳太子)の子供は蘇我入鹿に攻められたときに全員死んだとされていたのでは。
厩戸皇子の弟・麻呂子皇子の子孫と称している一族がいたようないなかったような。


367 :日本@名無史さん 05/01/03 23:48:31
聖徳太子の兄弟の子孫

当麻皇子(麻呂子皇子) → 当麻真人→高田氏(大和)・都留氏・功力氏(甲斐)など

来目皇子 → 山村王・登美真人 → 山中氏?

殖栗皇子 → 蜷淵(ミナブチ)真人

聖徳太子の子孫を称する氏族に、猿丸氏が知られる。
太子の孫・弓削王が独り死せずして、難波芦屋に逃れ、猿丸大夫を号したと云う。猿丸氏はその末裔と。
(姓氏家系大辞典の猿丸条を参照)

345 :日本@名無史さん 04/12/31 21:26:15
>>327
>この有様を見た古人皇子は、一目散に逃げ帰り、門を閉ざして閉じこもった..

古人大兄が語ったという「韓人が鞍作を殺した」を、文字通りに読めば中大兄は欽明の曾孫ではなく、渡来人の一世かその子孫になるのだが。


346 :日本@名無史さん 04/12/31 22:46:42
>>345
確かに気にはなっているが・・・
今風に言えば「外国人が蘇我入鹿を殺した」と言っているわけで。
ただ、事件は外国の使節が貢ぎ物を持ってくるセレモニーの中で起きたので、違った見方もできるのだが。


347 :日本@名無史さん 04/12/31 22:52:57
当時の出席メンバーに、葛城皇子は含まれていなかった。
また、中臣氏も崇仏論争時に勢力が衰えており、やはり蚊帳の外だった。

もちろん子麻呂や網田が警備工作をしているとはいえ、外国使節団に似せた格好でなければ、殿中に紛れ込めなかったのではないか。


348 :日本@名無史さん 04/12/31 23:25:44
>>347
外国使節団が殺したと受取ったなら、門を閉ざして閉じこもる反応は取らないだろう。

自派の者へ、犯人の外国使節団の捕縛や殺害を命じるはずではないか。宮廷内クーデターと理解し、己への危害も懸念されたわけで、入鹿殺害の首謀者を非入鹿派の勢力と理解した。

蘇我氏近縁で次の皇位有力候補の古人大兄が、自派の対抗政治勢力に無智だったわけはない。

身分は離れていても廷内に入りうる殺害実行犯には面識があったろうし誰の息のかかった者かも普段の行動から察しがついた上での篭居と発言だろう。


352 :日本@名無史さん 05/01/01 00:23:22
>>347
>出席メンバーに、葛城皇子は含まれていなかった...
否、中大兄は怖気づく佐伯連子麻呂らを叱咤して、共に入鹿に斬りつけたのでなかったか。
中大兄皇子 626〜671 

http://www.asahi-net.or.jp/~sg2h-ymst/tennji.html


353 :日本@名無史さん 05/01/01 00:56:41
>>352
伝えるところによれば、陰に潜んで襲うタイミングを見計らっていた。
つまり、本来の出席者には含まれていない。


349 :日本@名無史さん 04/12/31 23:33:52
>>348
それはもっともだが、実行犯は外国人で黒幕は「やつら」と解釈したのでは
という解釈だった。確かに、あなたの解釈の方が辻褄が合っている。


854 :日本@名無史さん 2007/06/18(月) 09:26:39
法隆寺の夢違観音像のモデルで在られる崇峻帝の暗殺、による日本国家の再生、確立つまりキリストの磔と復活に蘇我馬子は、なぞらえて、仏教景教の導入により、日本国家を鎭護せしめた。


855 :日本@名無史さん 2007/06/18(月) 09:30:41
そんな寺で暗殺計画練ってたら、蘇我に情報が漏れまくりだと思うが成功してる。
不思議だ。


856 :日本@名無史さん 2007/06/18(月) 09:31:15
仏教伝来のときに大臣であり、仏教導入を最初に進めたのは、馬子の父稲目のはずだが。
キリストなんぞ、関係なし。


857 :日本@名無史さん 2007/06/18(月) 09:35:20
計画を練ったのは、多武峰の談山神社。


858 :日本@名無史さん 2007/06/18(月) 09:37:56
暗殺計画ねってたのは、不比等の所領(今の談山神社)だろう。
飛鳥の地を出た、山の中だよ。

飛鳥寺でねってたなんていう史料が、あった?
入鹿暗殺後、中大兄皇子がすぐさま兵を率いて飛鳥寺に入ったのは事実だが、
母皇極天皇がいる板葺宮を戦場にしてはならない以上、当時の飛鳥で、王宮でも蘇我氏の屋敷でもなくて、立てこもれる建物といったら、あそこぐらいだろうが。


861 :日本@名無史さん 2007/06/18(月) 18:58:45
談山神社は大化の改新の時代には存在しないのでは?


862 :日本@名無史さん 2007/06/18(月) 19:17:01
>861
多武峰のあたりに、鎌足の所領があった。
そこに行って、密談していたんだよ。
当時はまだ、神社はなかったがね。
山中なら、大丈夫。飛鳥からは結構険しい道のりだが。
鎌足の長男が、のちに父の所領に寺を建てたのが、のちに談山神社となる(明治になるまでは神仏習合だった)


865 :日本@名無史さん 2007/06/18(月) 21:14:06
寺は軍事要塞だからね
中臣などの神祇氏族が寺を建てるのも、財政、軍事、学問上の必要があってのこと
山背大兄王の斑鳩寺も軍事基地だったし


867 :日本@名無史さん 2007/06/19(火) 09:08:35
寺が武装するのはもっと後の時代だから、蘇我氏といえども、氏寺に兵はおいてなかったんじゃないか?
飛鳥寺は、蘇我氏と縁の深かった天皇家の庇護も受けていたし、蘇我氏という一豪族の私有物というよりも、あたかも公共の建物のような位置づけだったと思うのだが。


85 :日本@名無史さん 03/08/27 09:15
テロで政権を奪取した中大兄皇子は卑劣な奴だな。
その治績には見るべきものはない。
ただ混乱をもたらしただけ。
蘇我時代の絢爛たる文化はいまも日本人の心のふるさとだが。


921 :日本@名無史さん 2008/02/28(木) 23:58:24
皇族などの殺害を繰り返していたのは蘇我氏。

その蘇我氏の征伐がテロ行為かい。


922 :日本@名無史さん 2008/03/01(土) 05:49:53
皇族って誰のことなのか詳しく聞きたいな


923 :日本@名無史さん 2008/03/01(土) 16:41:46
蘇我氏の皇族殺害

(今、思いついたものだけ)

崇峻天皇殺害

穴穂部皇子殺害

山背大兄王殺害

宅部皇子殺害


924 :日本@名無史さん 2008/03/01(土) 17:18:25
崇峻天皇については暗殺だわな

だけどそれ以外はすべて戦をして攻め滅ぼしている
つまり皇子の側が弱すぎて蘇我氏に負けたわけだ
蘇我氏が物部氏を滅ぼしたのと同じテロなわけがない


925 :日本@名無史さん 2008/03/01(土) 17:23:04
おそらく中大兄皇子や中臣鎌子が蘇我蝦夷、入鹿親子と対等に戦をしていたら負けていただろう
そこで思いついたのがテロ(暗殺)
武器を持たず一人になったところを見計らって殺すやり方
蘇我氏は意外に正当なやり方で敵を滅ぼしているよ
入鹿殺害のことは皇極天皇すら知らず天皇はショックで位を去っているしな


926 :日本@名無史さん 2008/03/01(土) 18:37:54
入鹿暗殺は新羅の金春秋の話の改変らしいから実際は古人大兄のいうように韓人による大義名分のない卑劣なテロでいいと思う


927 :日本@名無史さん 2008/03/01(土) 21:45:09
蘇我氏による数々の皇族殺害は事実。
それを否定するのは

「本能寺の変で明智光秀は織田信長を殺害していない!」
「正当な戦闘で戦死させたのだ!」

というようなもの。


991 :日本@名無史さん 2009/02/14(土) 20:41:07

崇峻天皇暗殺に関して馬子が何ら処罰を受けていないのはどういう事?

992 :日本@名無史さん 2009/02/14(土) 21:31:46
>>991
実は裏で大后炊屋媛(のちの推古天皇)が糸を引いていたから。
日本書紀では蘇我氏の悪事の一つに宣伝しすぎだけど、結局は天皇家内部の政権争いにすぎないよ。


993 :日本@名無史さん 2009/02/14(土) 21:36:44
>>992
むしろ、馬子が推古帝の糸を引いていたからという方が現実に近くはあるまいか


434 :日本@名無史さん 2005/09/16(金) 19:08:15
稲目の曾曾曾孫が蘇我宗家滅ぼしちゃったってのも皮肉な話だね…。

466 :日本@名無史さん 2005/11/21(月) 09:37:27
天皇家を凌ぐ豪族が入鹿を殺されただけで滅亡というのもなぁ。

555 :日本@名無しさん 2006/03/21(火) 00:54:25
遠山の主張する「王権あっての蘇我氏」に対して、「蘇我氏あっての王権」を主張している。

「大化改新は蘇我氏のやろうとしたことを中大兄皇子らが横取りしたもの」という
松本清張の主張を新たな視点から跡付けた。
なかなか説得的。

566 :日本@名無しさん 2006/03/23(木) 01:24:24
水谷千秋も引用してる推古の言葉、「朕は蘇我より出でたり。」

まさに「蘇我氏あっての王権」だったんだ。

617 :日本@名無史さん 2006/03/29(水) 14:26:44
継体、安閑、宣化、欽明は、蘇我氏と関わりが深い天皇

とくに欽明天皇に対して、蘇我稲目は娘を二人も嫁がせており稲目の娘達が産んだ皇子・皇女が、用明、崇峻、推古天皇と3人も天皇になっている事から、蘇我氏を語る上では継体、安閑(架空)、宣化(架空)、欽明を語る事は非常に重要である
そして蘇我系天皇が3人も続いて出た事が、蘇我氏の繁栄の基となったと考えられる


644 :日本@名無史さん 2006/04/03(月) 01:04:54
蘇我蝦夷が山背大兄王を天皇に即位させていれば蘇我宗家、蘇我上宮王家、蘇我境部家、蘇我倉山田家が対立し滅びる事もなかった

蘇我稲目や馬子と比べると、蝦夷と入鹿は思慮が足りない馬鹿者達


791 :日本@名無史さん 2007/02/06(火) 09:48:59
蘇我系王族集団である上宮王家を滅ぼした時点で蘇我本宗家の滅亡は必然だったろう
まあ本宗家滅亡に手を貸した蘇我倉山田家も滅亡してしまったがな

蘇我上宮王家滅亡
蘇我本宗家滅亡
蘇我倉山田家滅亡

これで用明系王統は完全に王位から見放され蘇我氏も衰退して敏達系王統と藤原氏の天下になった

928 :日本@名無史さん 2008/03/01(土) 22:03:13
蘇我氏が気に入らない相手を誰でも暗殺など用いなくても殺せる状況にあったことが蘇我氏専横の証。
強大な力を握り専横の限りを尽くす蘇我氏を排除するには暗殺という手段しかないのはむしろ当然といえる。


372 :日本@名無史さん 05/01/05 23:52:38
蘇我氏が衰退し、歴史の流れに消えていったのはたぶん必然だろう。
あれほど内部抗争が激しくては権力を維持し続けるのは無理だ。
しかし、入鹿が暗殺を巧妙にくぐりぬけるか、蝦夷があっさりあきらめなければ
蘇我王朝が誕生した可能性はあると思われ。
その場合、日本史は全く違うもの、つまり王朝が交代するのが当然の国になっていただろう
http://mimizun.com/log/2ch/history/1051920599/


10. 2014年8月23日 08:26:44 : 3cdYZYbVIc

古墳からみた古代豪族葛城氏

大阪府立近つ飛鳥博物館館長で、歴博名誉教授の白石太一郎先生のご指導の下で、5世紀前後、幾世代にも渡った大王家の外戚として知られている葛城氏を古墳考古学から再考し地域首長連合としての古代豪族を考える機会がありました。先生から教わった議論の要旨を以下にまとめておきます

1 大王家と葛城氏の関係と同祖系譜

葛城氏の始祖は、百済記にも記載あることもあり、実在の可能性が大きい「葛城襲津彦」と云われている。

その娘の磐之媛が仁徳に嫁し、息子に葦田宿禰がいる(葦田は葛城の北部地域を指す)。
そして襲津彦の孫に玉田宿禰がいる(玉田は葛城の南部地域を指す)。

葦田宿禰の娘が履中に嫁し、その孫のはえ媛が雄略に殺されることになる市辺押羽皇子に嫁し、その息子が仁賢となる。大王の男子継承が確かになった頃に、継続して外戚としての位置を固めていたのが葛城氏だったと理解してよい。

実在は疑わしいが、孝元天皇の息子とされる建内宿禰系図(古事記による)には、波多八代宿禰、許勢小柄宿禰、蘇賀石河宿禰、平群都久宿禰、木角宿禰らと共に葛城長江曽都毘古が兄弟となっている。少なくとも、これは古代豪族は共通祖先を有するという思想があったことを如実に語っている。だから豪族同士、ある種の政治的同盟を結ぶことができた証しとも考えられる。

2 葛城氏の本拠地域

葛城氏の本拠とされる葛城地方は、先に述べた文献資料にある「葦田」や「玉田」を考慮し、馬見古墳群のある広瀬郡、葛下郡(葛城北部地域)、忍海郡や葛下郡(葛城南部地域で、室宮山古墳等がある)と考えられる。即ち奈良盆地の西方を占めている。大王を出した大和・柳下古墳群のある山辺郡、式下郡、式上郡、十市郡は奈良盆地の東方を占め、丁度対象の位置関係にある(中間の見瀬丸山古墳のある高市郡の高取川辺りが丁度境界となる)。

3 葛城地域のおける古墳の分布と編年からの考察

大型の前方後円墳が設営された古墳時代前期から中期にかけて、大王の墓は、おおまかに当初の柳下古墳群から離れ、河内地方の古市古墳群と和泉地方の百舌鳥古墳群を行き来し、後期に大和の五条野丸山古墳に戻ることになる。この3世紀中から6世紀の中で、摂津地方の三島野古墳群の太田茶臼山古墳は別として、今城塚古墳を継体稜と考えると、明らかに大王でない大型前方後円墳の造営は、馬見古墳群、即ち葛城地域に限られ、古墳時代前期中葉から中期にかけて継続している。

葛城地域に存在する200m前後の大型古墳を埴輪の編年に当てはめて、地域別にたどると次のようになっている。

埴輪1期:馬見南の新山古墳(唯一の前方後方墳)→
埴輪2期:馬見北の島の山古墳→馬見中の巣山古墳→馬見南の築山古墳(編年根拠が若干弱いものの)→
埴輪3期:室・国見山の室宮山古墳→馬見中の新木山古墳→
埴輪4期:馬見北の川合大塚山古墳→室・国見山の鑵子塚古墳→新庄の屋敷山古墳→
埴輪5期:馬見南の狐井城山古墳(古墳時代後期の古墳で奈良盆地内では4番目の大きさであることから大王墓の可能性が高い)

つまり葛城地域を転々として設営されており、同時期に同じ群内では連続することなく交替して造営されていることが明白である。

4 古墳考古学からの考察

葛城地域には、馬見北、馬見中、馬見南、新庄、室・国見山を本拠として、5つの有力な政治集団が存在した。それらが政治的連合を形作り、そのリーダの位置には交替して就いていた。即ち、葛城氏とは政治連合体であったと考えるのが自然である。先に述べた古代豪族間の同祖同族の意識がこれら政治集団の間にもあったと考えられる。

参考1)初期ヤマト王権

大王墓と見られている大型の前方後円墳のおおまかな編年を見ると次のような移動が見られる。箸中古墳群の箸墓古墳→大和古墳群の西殿塚古墳→鳥見山古墳群の外山茶臼山古墳→メスリ山古墳→柳下古墳群の行燈山古墳→渋谷向山古墳。


つまり4つの有力な政治集団が大王の位置に交替して就いていたと考えられる。それに続く時代の葛城氏が同様の仕組みで政治的連合を図っていたとしても不思議ではない。

参考2)室宮山古墳


本テーマを議論するにあたり、葛城地方の古墳の概要を個々に確認していったが、とても興味を抱かされるのが室宮山古墳である。90年に盗掘を受けており現状で分かっている特徴例を述べる。@後円部に竪穴式石室があり追葬されているようである。また前方部にも埋葬施設があったらしい。A石室天上石には播磨の石が使われており、B伽耶製の舟形陶質土器が出、朝鮮半島との繋がりが推測される。

この古墳は、もともと建内宿禰の墓(室大墓)との言い伝えがあり、応神天皇と同世代である葛城氏の始祖たる朝鮮半島とも繋がりがある葛城襲津彦の墓の可能性が大きい(建内宿禰が応神天皇の時代に帰化人を使って韓人池を造営した言い伝えもある)。

では石室に合葬された同格の埋葬者は誰だろうか。かつてのように聖俗合葬の可能性もあるが、5世紀には例がほとんどないとの由。白石先生は、磐之媛が追葬された可能性を示唆された。つまり当時、夫婦合葬の習慣は無いので仁徳稜には葬られないことから、郷の父の墓に合葬されたのではないかと考えられた。直接の証拠が出る訳ではなが、極めて自然な考え方と率直に受け入れられる。
http://members2.jcom.home.ne.jp/taigaa_kok7/art_history_32.html



11. 2014年8月23日 08:38:11 : 3cdYZYbVIc

2013/12/14 考古学で探る蘇我氏

東京学芸大名誉教授の木下正史先生による最新の考古学成果を踏まえた蘇我氏の総合的な位置付けを下記の流れに沿って解説戴きました。


1 蘇我氏の登場

古墳時代から飛鳥時代,倭国から日本国への転換に応じた国家土台を築き上げる。世界との関係では,仏教の導入や大伴氏に代わって外交を掌握したことが挙げられよう。屯倉配置や戸籍制度等の内政改革面での役割は,渡来人の先進的技術,管理能力,知識を利用し国家の実務制度を整備したことか。馬子の時代の聖徳太子との協調で冠位十二階制や十七条憲法の制定,蝦夷による天皇記や国記編纂も特筆される。

要は国際的視野と知識に裏付けられた政策が日本を形作り,その後の方向を規定し,文化の性格に決定的な影響を与えた。

蘇我氏の出自や本拠については諸説あるが,6世紀に曽我川に沿って南に勢力を伸張させ檜隈,身狭(むさ,見瀬),飛鳥に進出する。それは,稲目の娘が欽明の妃となったことからの天皇家との関係を強化してゆくことに重なる。その後,敏達,用明,崇峻,推古,舒明と続くが,蘇我本宗家歴代当主は娘を天皇の妃,夫人とすることで,その子が天皇に就くと外戚として権力の基盤を固めてゆく。


2 蘇我稲目,馬子

百済渡来の新しい知識や技術を有する王辰爾に船に関する税務を司らせ,また鉄生産に関わる吉備の屯倉設置等にも注力する。敏達は,物部守屋が大連のままにし,蘇我馬子を大臣に任命する。両者はやがて権力を争うようになり,蘇我系皇族や豪族勢力を束ねた蘇我氏が勝利する。また馬子の権力を削ごうとした崇峻をも暗殺し,その支配体制を確実にする。

馬子政権は中国まで視野に入れた積極的外交,屯倉の整備,治水を伴う農業振興策等で朝廷経済力を強化し,また仏教を中心とする先進諸国にならった文化政策を推進する。推古即位(593)以降が馬子権力の安定期となる。


3 蘇我蝦夷,入鹿

推古の死に伴う後継争いから(推古の意志たる田村皇子を蝦夷は推すが,馬子の弟の境部摩理勢は山背大兄皇子を推す),一族間に亀裂が生じるも,蝦夷は摩理勢を殺害し田村皇子,即ち舒明を即位させる。蝦夷は大臣を継ぎ,本宗家は権力を確保するものの結束は弱まる。

舒明が崩御し,宝皇后が皇極として即位するものの蝦夷は病気がちで入鹿が政治の実権を握り始める。古人大兄皇子の擁立を謀るが実現せず。後継をめぐる豪族間,蘇我一族内での争いが複雑化してゆく(蘇我諸分家は山背大兄皇子を推す)。中臣氏(旧勢力代表)は中大兄皇子に期待を高める)。

皇極元年,蝦夷は葛城に祖廟を作り,天子権限の八?の舞を奉納したり,全国から人夫を徴発し蝦夷,入鹿の寿陵の築造(今来の双墓)を始めるなどの権力を誇示する。そして入鹿の国政は蝦夷を凌ぐ威令となる。

そして天皇後継問題に決着しようと斑鳩宮に山背大兄皇子を襲撃し,最終的にその一族は滅ぶ(蝦夷は愚かな行為と罵る)。それに対し,中大兄皇子と中臣鎌子は蘇我本宗家と分家間の確執を利用,即ち蘇我倉山田石川麻呂(入鹿の従兄弟)を味方にし入鹿暗殺を計画する。その成就が飛鳥板蓋宮での乙巳の変である。本宗家滅亡後も要職(孝徳朝での蘇我倉山田石川麻呂の右大臣,天智朝での蘇我赤兄(石川麻呂の弟)が左大臣)に就くが蘇我氏の時代は終わる。


4 蘇我氏の飛鳥進出

曽我川に沿って,畝傍山の南から身狭(見瀬)へ勢力を拡げ(6世紀),稲目は小墾田家(飛鳥川左岸の豊浦北方から同右岸の雷丘東方一帯),向原家(後の豊浦寺の前身。百済聖明王からの仏像を祀る。豊浦は蘇我本宗家の伝統的本拠。蝦夷は豊浦大臣と呼ばれる),軽の曲殿(橿原市大軽町,身狭に近い)に居す。


6世紀末には,軽から豊浦,小墾田にかけてが本拠となる。

馬子は,石川家(橿原市石川町。石川精舎と呼ばれる仏殿に弥勒石造を安置),槻曲家(橿原市大軽町),嶋宅(明日香村島ノ庄。小嶋のある池を庭に造ったことから嶋大臣と呼ばれる)に居す。

注)島庄遺跡;飛鳥盆地南東端。石舞台古墳の西隣から北方,飛鳥川右岸の川岸付近に存在。方形池跡や建物群が発見されている。

蝦夷は,豊浦に居を構えたことから豊浦大臣と呼ばれる(古宮遺跡は7世紀前半の宮殿,即ち推古の小墾田宮か,また蝦夷の邸宅と考えられている)。また畝傍家(迎賓館的性格),畝傍山東家に居す。

入鹿は,林太郎,林臣の下で育ったが,入鹿神社(橿原市小綱)が邸宅跡との伝承がある。

蘇我氏の同族は,飛鳥とその周辺に居住していたようで,例えば蘇我倉山田臣一族の私寺が山田寺(桜井市山田)で,近くに山田家があった。


5 蘇我氏の滅亡 −乙巳の変− と甘橿丘の家

蝦夷大臣,入鹿臣が甘樫岡に並べて家を建てたと伝えられ,蝦夷のを上宮門(うえのみかど),入鹿のを谷宮門(はざまのみかど)と称した。家の外に城垣,門の傍に兵庫を造り,漢値等が守ったが,乙巳の変で滅ぶ。

注)甘橿丘東麓遺跡の調査が行われており建物群跡が発見されているが,宮門と称するにふさわしい大規模な建物は未発見。


6 蘇我氏四代の墓

この地,時代的には,巨大な前方後円墳の見瀬丸山古墳,現在欽明陵と比定されている梅山古墳等がある。稲目とこれらとの関わりについての詳細な議論は省略する(これまで学んだことから,私は稲目の墓は梅山古墳であり,見瀬丸山古墳は欽明陵だと考えている)。また馬子の所謂「桃原墓」は,石舞台古墳と考えて良いのではないか。


今来双墓たる蝦夷と入鹿の墓は「大和志」によると葛上郡今木双墓,古瀬水泥村に在り」とあり,水泥古墳と水泥塚穴古墳が双墓との伝承があり,可能性が高い。


7 仏教の受容と寺院造営 −飛鳥文化を特徴づけるもの−

蘇我稲目と百済官廷との事前計画(仏教受容による東漢氏等の渡来系氏族の協力を期待する稲目と,新羅の軍事的圧迫を受けている百済の軍事支援を得ることの期待が一致)により,欽明7年(日本書紀では欽明13年),百済聖明王から金銅釈迦像一体と幡蓋,経論が献じられた。

欽明は群臣に受容可否を問う。稲目は当然ながら可とし,仏像を貰い受け,小墾田家に安置,向原家を清め寺とするが,物部大連尾輿,中臣連鎌子は他国神崇拝は国神の怒りを買うとして反対する。そして疫病の流行に伴い,仏像廃棄を主張するようになり難波堀江に流し捨ててしまう。こうして崇仏派と廃仏派が衝突し政治問題になる。

しかし,敏達6年,大別王らを百済に派遣,百済王は経論,律師,比丘尼,呪禁師,造仏工,造寺工らを付けて仏像・教典を献上,また敏達13年には,鹿深臣が弥勒石像を,佐伯連が仏像を百済から持ち帰る。

馬子は二体の仏像を貰い受け,還俗していた高句麗僧恵便を探し出し,司馬達等の娘嶋を出家させ善信尼とし,東漢氏一族から二人の娘を出家させる。そして家に仏殿を造り弥勒石像を安置し,三人の尼に祀らせる(豊浦尼寺の前身か)。東漢氏は蘇我氏主導の仏教興隆に尽くすことになる。

用明はその2年に病を得,後継争いも加わり蘇我・物部の権力争いが激化する中で,鞍部多須奈の天皇のための出家や善信尼の百済留学を申し出る。そして丁未の役(蘇我・物部戦争)で物部守屋が滅ぶ。

初期寺院は,その多くが蘇我氏の邸宅を喜捨した捨宅寺院で,蘇我氏本拠の豊浦,石川,軽・丈六,畝傍山山麓にかけての山田道沿い一帯にある。代表的には向原寺(稲目の向原家を寺とする),桜井寺(三名の尼が百済留学後に住持)。

更に推古は,その11年,豊浦宮から小墾田宮に遷り,豊浦宮を施入し豊浦寺とし,桜井寺の機能を移す。


8 飛鳥寺 −日本最初の本格的な伽藍寺院−

馬子が守屋討伐に際し,戦勝を祈って寺塔の造立を誓願し,百済使者の助言で,僧を受戒させる法師寺として計画する。そして,百済から貢調使と共に,飛鳥寺造営のために,僧,寺工,露盤博士,瓦博士,画工ら,また仏舎利が献上されるのである。それらの指導の下に,東漢氏など渡来系集団の有力者は工人を動員し協力する。

飛鳥寺は地名による通称であり,法号からは法興寺,元興寺,法満寺と言われる。現在の明日香村大字飛鳥の安居院の地に,止利仏師作の金銅丈六像(飛鳥大仏)を残している。日本初の瓦葺き礎石建ち建物で高い建築精度を有している。真南北方位で造営され,高麗尺75尺を基準に設計されている。

基本的には蘇我氏の氏寺で正式の受戒寺院である。推古3年に高句麗僧慧慈,百済僧慧聡が三宝の棟梁となり飛鳥寺に住むようになり,天武9年には仏法元興の由緒により大寺の扱いとなるが,飛鳥時代を通じて仏教興隆の中心寺院としての地位を占め続けるのである。
http://members2.jcom.home.ne.jp/taigaa_kok7/history_d.html


12. 2014年8月23日 08:51:24 : 3cdYZYbVIc

2012/11/03 奈良盆地東南部の6基の初期倭国王墓

大阪府近つ飛鳥博物館の白石太一郎先生(歴博名誉教授)は日本有数の考古学研究家で、多くの著書等を通じても邪馬台国から古墳時代について様々に提言なされており、今回受講した掲題セミナーでは、

奈良盆地東南部に在る大和古墳群、箸中古墳群、鳥見山古墳群の中にある古墳時代前期初頭から中葉にかけての6基の、それぞれが設営された時期では隔絶して大規模な前方後円墳(墳丘長200〜310m)に着目し、それらが倭国王墓であると断じられました。

文献資料だけでは明らかにできないこの時代についての考古学上の立場からの考察です。ここにその議論の一端を私の理解した範囲でまとめておきます。

1 奈良盆地東南部の6基の巨大古墳

その6基の巨大な前方後円墳とは、編年順に、箸中古墳群の箸墓古墳、大和古墳群の西殿塚古墳(現手白香皇女陵)、鳥見山古墳群の外山茶臼山古墳、メスリ山古墳、柳本古墳群の行燈山古墳(現崇神陵)、渋谷向山古墳(現景行陵)で、3世紀中頃から4世紀中頃のおよそ100年間に順次造営されたものです。

古墳群は、いわゆる「氏」に相当する政治集団、つまり豪族の営みの結果として捉えることができます。ここでは議論を省略しますが、白石先生は箸墓古墳を卑弥呼の墓であると考えられていますので、邪馬台国段階から初期ヤマト王権が、これら四つの政治集団で担っていたと云えます。そこで白石先生が、これら四つの古墳群を一括りにして「オオヤマト古墳群」と提唱されていることの意味があります。

2 巨大古墳の評価を巡って

ここで、岸本直文氏の二系列説、また外山茶臼山古墳とメスリ山古墳は安部氏祖先のオオヒコの墳墓ではないかとの説に関する検討と、それぞれが成り立ち難いところがあることを説明戴きました。

この6基は、初期倭国6代の王墓であると、つまり初期の王に果たして相当しているのでしょうか。神武以下8代を除き、神武と同じハツクニシラス名の崇神が行燈山古墳、次の垂仁が不明ながら、景行の渋谷向山古墳と続き、名からは存在が疑わしいのですが、成務や仲哀は佐紀古墳群に移り、そして応神以降が河内の古市古墳群、和泉の百舌鳥古墳群に移ったとすると、巨大古墳と大王の系図とが合致しなくもないのです。それぞれの被葬者を以下のように推測してゆきました。


3 歴史的位置付けと被葬者像

古事記、日本書紀、そして延喜諸陵式に見られる陵墓記事からは、巨視的に見て崇神以降は考古学成果に合っています。これは崇神以降は確かな何らかの伝承があって「帝紀」が記されたようです。

3.1 箸墓、西殿塚古墳

箸墓の卑弥呼墳墓論に対する台与後継男王説、つまり和田萃説、また寺沢薫説についても、『梁書』倭伝の読み方を検討し、また箸墓が4世紀初頭の築造を前提とした解釈の問題等を検討、議論し、白石先生は両説とも、必ずしも当たってはいないことを導かれました。

次に、西殿塚古墳を考察しました。大和古墳群のある大和郷には大和神社が厳としてあります。そして、その中の西殿塚古墳は前方部分にも後円部にもそれぞれの頂に方形台が在り、二つの竪穴式墳墓が存在するのです。聖俗二重に墳墓が構築されたとの岸本説に反して、恐らくは聖俗の二人が一つの古墳に埋葬されています。大和神社の巫女とも考えられなくもない手白香皇女の御陵であると考えるのは自然でしょう。

3.2 外山茶臼山、メスリ山古墳

外山茶臼山古墳の前方部には平坦部が無く後円部の埋葬施設が一つあるのみです。後円部に沿った副葬施設から多量の武具が出土しており、また81面以上の鏡が出ています(三角縁神獣鏡はありません。ただ大きな和鏡の出土がありました)。これらから聖俗兼ねた王の墓と考えられます。メスリ山古墳も後円部に一つの埋葬施設しかなく、やはり聖俗兼ね備えた王の墓だったのでしょう。

3.3 行燈山、渋谷向山古墳

行燈山古墳の考古学上の築造は4世紀前半と考えられており、伝承に基づいて崇神陵として比定されていますが、318年没の崇神の御陵として大きな矛盾はありません。同様に渋谷向山古墳は4世紀半ばの前方後円墳で景行陵とされているのも、考古古学的見地からも適合します。

4 まとめ

文献的に遡れる限界が、まさにハツクニシラス名の崇神であり、この頃、奈良盆地の東南部に居た四つの豪族から相互に推戴されて王に就いていたと考えるのが考古学的に見ても自然なのです。
http://members2.jcom.home.ne.jp/taigaa_kok7/history_4.html


2014/06/21 箸墓古墳出現の意味するもの

『日本書紀』崇神天皇十年九月条に,三輪山の神に仕える巫女の「ヤマトトトヒモモソヒメ」を被葬者とするとする伝承がある箸墓古墳,考古学者の多くが,恐らくは卑弥呼の墓とするこの前方後円墳を,大阪府立近つ博物館館長の白石太一郎先生(国立歴史民俗博物館名誉教授)が議論され,その講義を受けました。その概要について,私の理解の範囲で以下に記しておきます。


1 箸墓古墳の概要

1.1 最近の古墳周辺部の調査結果

先ず,福辻淳「HASHIHAKA −始まりの前方後円墳−」(桜井市埋蔵文化財センター,2014)に詳細が述べられているが,前方部の葺石,周濠,また外堤や大規模落ち込み等を含め,古墳周辺部の最新調査結果を再確認した。


1.2 箸墓古墳の埴輪等,出土品からの考察

前方部からは,二重口縁壺,そして二重口縁壺形埴輪が出土している。これらは実用に用いられたものと,始めから底が開いている埴輪として作られたものに明確に区別される。そして後円部からは,器台形埴輪が出土している。それは弥生時代後半に吉備地方で用いられた壺と器台を元としており,最も新しいタイプの宮山型特殊器台と(埴輪ではない),最古の埴輪タイプである都月型特殊器台形埴輪の両者である。宮山型は弥生時代末期,都月型はそれに続く古墳時代初頭のものである。また産地として,大和地方だけでなく,吉備系の埴輪,伊勢湾地方系の埴輪が混在している。

更に,落ち込み部(外濠か,或いは築造のための土取り場か)の最下層部から出土した土師器は布留0式であり,古墳時代前期初頭のものである(福辻淳「箸墓古墳のこれまでの調査(箸墓再考シンポ発表要旨集)」(桜井市埋蔵文化財センター,2014)参照)。


1.3 航空レーザー測量による俯瞰図と復元図

円壇(円丘)が乗る4段築成の後円部に同じく4段築成の前方部が連なる(接続構造は明確にはなっていない),全長280m,後円部高さが100mを超える前方後円墳であり,前方部が大きく開いている最も古い形式である。即ち古墳時代の最も古い時期のものと考えられる。


1.4 日本書紀の箸墓伝承

「ヤマトトトヒモモソヒメ」伝承の中で,箸墓築造の記事があり,「大坂山の石を運びて造る」とある。縦穴式石室の石材採取が,以下のように二上山系において行われたと推定されており,それに符合する。即ち,3世紀中頃から4世紀にかけて採石されている。

芝山玄武岩;箸墓,黒塚,西殿塚,東外塚等
春日山安山岩;上ノ山,天神山,黒塚等
亀の瀬安山岩;メスリ山,櫛山


1.5 箸墓古墳の築造時期と大和地方の位置付け

以上から,考古学上の見地から云えることは,箸墓古墳は弥生時代の終末期から古墳時代(定型化した古墳が築造される時代)に掛けて造られたことを意味している。更に,落ち込み部最下層から出土した土師器に付着しているお焦げを放射性炭素年代測定した結果も含めて考えると,西暦250年代に築造されたと考えられ,丁度卑弥呼の死の頃に重なるのである。

また出土品は大和地方産だけにとどまっていないことから,当時の列島統合が推測されるのである。

なお,奈良盆地東南部のオオヤマト古墳群における巨大古墳の築造順は以下のように推測されており,この地方に初期大和政権の大王が存在したと考えられる。即ち,
@箸墓(280m),A西殿塚(240m),B外山茶臼山(200m),Cメスリ山(250m),D行燈山(240m),E渋谷向山(360m)である。


2 考 察

箸墓が定型化した最初の古墳であり,画一性(前方後円墳,竪穴式石室,埋葬物等,同じ約束事に基づく)を有することから,これまでの邪馬台国連合(畿内より西地域のみ)が,狗奴国連合(伊勢湾より東地域)と統合し,大和政権の確立を見たと考えるのが自然である。つまり卑弥呼を弔う箸墓から大和政権の大王が連なるのである。前方後円墳分布から,王統の交替はあるものの大王の系統は続いていったと考えられる。
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13. 2014年8月23日 09:00:20 : 3cdYZYbVIc

2010/05/18 朝鮮半島の歴史と文化その1;古朝鮮

東京大学准教授の六反田豊先生に導かれて、古代から近代までの朝鮮半島の歴史を一通り,やり直しています。7月まで6回のセミナーを受講する予定です。日本古代を考えるに朝鮮半島を含めて考えないと当然理解できませんので。私が、朝鮮半島の言葉を学んだのも,万葉集を読むうちに,どうしても必要になったからでした。もう10数年前のことです。


2010/06/01 朝鮮半島の歴史と文化その2;高句麗,百済,新羅

六反田先生の講義は、古朝鮮を過ぎ,三韓時代に入りました。多少承知していた事柄の整理のつもりでした。ところが多くのことを学び続けています。新たに得られた知見の一つに,それぞれの建国神話(説話)がありました。朝鮮半島は大陸そのものと単純に考えてはなりませんね。東南アジアも視野に入れて考えてゆかねばと思い知らされます。

聴講されている年配の先生方の関心は,やはり任那日本府をどう説明されるか,広開土王碑文をどう読み取るかにあるようで,そのくだりに来ると室内には小さな緊張が走りました。現在の学会の一般解釈に,朝鮮学者の渡来人が古代日本に作ったとする分国論をも紹介されたこともあり,自分の考えが,ますますちっぽけに感じてしまいました。学べば学ぶほど,解釈は遠くに逃げてしまい,納得できなくなってゆきます。

朝鮮半島の言葉を知ると,発音が異なる加那(カナ),加羅(カラ)に違いがないことを容易に理解できます。古代日本の鉄文化がこの地域に大きく依存していたこともあり,加羅諸国はもっと丁寧に研究されても良さそうに思います。資料が少ないからでしょうか,色んな解釈が出てはいますが。

さて次回は唐も含めた新羅中心の激動の時代に入ります。古代日本を考える上で,この時代と外交,渡来人の役割・・・,興味が尽きることがありません。


2010/06/15 朝鮮半島の歴史と文化その3;統一新羅,渤海

三韓時代を新興の新羅が生き延び,唐の干渉を排除して大同江以南の朝鮮半島を統一してから,やがて高麗に併合されるまでの300年弱のあらましを学びました。また同時期に大同江以北に存在した渤海も。たまたま統一新羅と日本の関係が良くないこともあったことからの渤海との強い交流をもっと議論されるべきだと考えています(相互の往来は,200年ほどの間に,渤海から33回,日本から13回に及び,頻繁に行われていました)。古代からの関係同様,統一新羅,渤海との外交論,国際関係論も興味あるところです。

でも「海東の盛国」と称された渤海ですが,あまりにも情報が少ないなと感じていました。それも六反田先生の講義でやや納得しました。10世紀始めに契丹に滅ぼされるのですが,その後を継承した国家が無く(女真族がいたようですが),歴史書が起草されなかったそうです。中国の宋や元もこの地方を治めることは無かったようですし。忽然と消えた大国,残念で寂しいものがあります。

講義の中で紹介されましたが,「貞孝公主墓」からの考古学的考察から,高句麗の伝統を守り(壁画),かつ中国文化をマスターしていること(墓誌の漢文),仏教解釈も優れていたこと等,独自の文化を有していたことが想像されます。そしてその領域は,現在の中国吉林省,黒龍江省を中心に,朝鮮半島北部,中国東北部からロシア領に及びますしね。渤海は渤海として捉えないと理解できないに違いありません。


2010/06/29 朝鮮半島の歴史と文化その4;高麗

六反田先生の朝鮮半島の歴史セミナーも,いよいよ後三国の時代から高麗の時代に入って来ました。唐滅亡後の五代十国の時代から契丹,女真の金,そしてモンゴルの元と,朝鮮半島が大国中国に翻弄されてゆくなかで,高度な国の制度を構築してゆく様,仏教への取り組み等には感銘を受けました。文化的にも象嵌を施した独特の青磁器にも惹きこまれてしまいます。

ご存知のように元寇に参加させられた高麗ですが,やはり国際政治の非常さをも考えざるを得ませんでした。また多くは議論されませんでしたが,モンゴルとの関係で,高麗とその叛乱軍である三別抄から個々に鎌倉幕府にもたらされた援軍依頼への無視,つまりこの頃の日本の国際感覚の無さについても,もう少し突っ込んでみたいところではありました。

私の最大の関心は古代史なのですが,現在の朝鮮半島の考え方や論理は,既にこの高麗以前の時代から形作られていますし,それらが確定した李朝1までの大きな流れは一般常識としても理解しておきたいところです。


2010/07/06 朝鮮半島の歴史と文化その5;李氏朝鮮

高麗恭譲王から禅譲の形で即位した李成桂(太祖)に始まる朝鮮時代の流れを漂い始めました。ソウルにある民族博物館にも展示されている測雨器等の科学的取り組み,集賢殿学士の登用,訓民正音の制定と公布,また北方開拓でウォン札でもおなじみの世宗には尊敬の念を抱いておりますが,その前提は第三代の太宗の政治基盤の確立に続くものと考えると分かり易いことにも気付かされました。また中央集権的体制(中央と地方の官制)の見事さにも,結構感動を覚えもしました。日本が室町幕府の頃に,「経国大典」を施行させたことも,たたならぬ国家であったことを示しています。

とは云え,今回は,特寿宮近くにあった世宗大王の像がやけに身近に感じられたり,鐘路の鐘閣を思い出したりしながら受講しておりました。とりあえずは優秀な官僚として伸して来た士林派と,やがての士禍あたりまで辿り着きました。

帰宅中に横浜駅から乗ったバス中で,配布された諸資料や自身の参考書「北東アジアの歴史と朝鮮半島」の当該項を読み続けました。その記述への理解がどんどん深まってゆくのを,とても嬉しく感じておりました。

幾度も訪れたソウルや韓国で,ほとんど歩き尽くしたつもりでいますが,まだまだですね。こうしてその歴史を体系的に学ぶと,もっともっと楽しめそうです。また訪ねることにしましょう。


2010/07/20 朝鮮半島の歴史と文化その6;李氏朝鮮その2

古朝鮮から李朝滅亡までの歴史講座も最終日となりました。この日の講義は,私たち日本人にとっても微妙な感覚に襲われる壬辰倭乱から始まりました。その後に後金(やがて清国)からの侵攻も受けます。壬辰倭乱の悲惨さについては柳成竜による「懲録」により現在まで伝わっていますが,一方,丙子胡乱後に仁祖が強要されたあまりに屈辱的なるが故か,「三跪九叩頭の礼」を遺した碑がほとんど国内にも紹介されていないことも,現在の日中韓の関係に少しは響いているのかも知れません。また崇禎紀元などから,当時の朝鮮王朝が明を尊敬し,その支援に本当に感謝していたこと,逆に女真族から続く清への侮蔑も感じられなくもありませんでした。

いずれにしても,その後の士林派(学閥と云うより官僚派閥なのでしょうか)の分裂と英祖による蕩平策や,現実離れした朱子学に代わった実学への流れも興味深いものがありました。また幕末の頃,半島南部で吹き荒れていた壬戌民乱が当時の世道政治による社会矛盾から来ていることも,論理立てて学びました。そして,何だか落ち着いて考えられない1876年の江華島事件まで来て,全講義終了の鈴が鳴ってしまいました。

駆け足で古朝鮮から朝鮮王朝まで概観して来ましたが,朝鮮半島の歴史には,どこか学問で裏打ちされた理想郷への思想と実践の流れを感じてしまいます。言わば,現在の韓国にも感じるある種の儒教的な理想主義は,きっとこの歴史の上に立っているからなのだと思えます。

この講座は,秋から講師が代わり近代・現代編へと進むとのことで,強い継続受講のお誘いを受けましたが,私は,ここから逆に,高麗,渤海と統一新羅,新羅・百済・高句麗,そして古朝鮮へと時代を戻りつつ,多少でも理解を深めてゆくつもりです。そして古代日本との関わりに着目してゆきたいと考えています。
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14. 中川隆 2014年8月23日 09:41:48 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
2010/07/24〜2011/03/26 古代国家の成立を探る

−古墳考古学からの大和政権の考察−


国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学の広瀬和雄教授は,古墳を中心とした考古学が御専門で,氏による『古代国家の成立を探る』ことを主としたセミナーに参加しました。言わば,古墳考古学から大和政権を考察することが主眼です。

大きくは,@邪馬台国に続く初期大和政権を大和・柳本古墳群を中心に考察した後に,A倭の五王で代表されるいわゆる古墳時代たる中期の大和政権を,そしてB朝鮮三国時代を意識しつつ,後期前方後円墳から終末期の大型方墳・円墳を通じて,後期大和政権の特質を議論してゆこうとするものです。この頃に出版された「前方後円墳の世界(岩波新書)」にも氏の論理が示されていますし,また「前方後円墳国家(角川選書)」等も参考にしながら学びました。

本稿はその御講義を私なりに理解し,その範囲で「古代史の部屋」に記録したノートを加筆訂正し,再編集したもので,全ての学術的な論理の提供やその功績は広瀬先生にあり,その内容や表現についての拙さに伴う文責は筆者にあります。


(1)初期大和政権と邪馬台国

前方後円墳や前方後方墳が3世紀中頃から7世紀までの350年の短い間に,集中して造営され,その数たるや5,200基に及んでいることは古代を考えるに無視できない事象です。その特性を適切に理解することが古代を浮かび上がらせることに直接繋がります。

巨大墳墓は確かに畿内に集中しており,同時に副葬された威信財,権力財,生産財も同様です。即ち,当時の社会的な富や労働力は畿内中枢に集積していること,その造営の始まりが3世紀中頃に遡るとすれば,卑弥呼の時代から連なります。氏の論点の趣きは,特に邪馬台国が何処にあったかの議論にはなく,古墳時代に畿内にある中央と地方の統合関係が存在したことを考古学上の事実から説明しようとするもので,初めにその概要を論じられました。

先ずは大和・柳本古墳群を中心に,それらの特性を整理してゆきました。そして筑前地域や豊前地域,日向地域の前期古墳群の特性を,更に吉備地方の特性を加え,考察してゆきました。その間に,最古の前方後円墳の中で最大規模を誇る「箸墓古墳」を確認する際,卑弥呼の墳墓であるとの論調だけが一人歩きしていることとへの疑問も呈せられました。確かに箸墓古墳が卑弥呼の墓との論調は良く聞くのですが,きちんと整理されている書物もないことに,私ですらいらだちを覚えていました。論文そのものが出ていないとはっきり述べられたので,ここはすっきりしたのですが,この辺り,学問的姿勢を失わないよう議論してゆくべきと改めて自戒しました。

また,魏志倭人伝にある卑弥呼が葬られたと云う径百余歩に相当する巨大な円墳で3世紀中頃に造営されたものが見当たらないことや,同じく奴婢百余人を殉葬した形跡のある古墳が出ていないことをどう考えれば良いのでしょう。いずれにしても,古墳時代に絡めて,その情報だけで卑弥呼の時代を考えるのが無理があるのかも知れません。

引き続き,島根県神原神社古墳から出た「景初三年」銘のある三角縁神獣鏡,そして小林行雄氏の同笵鏡の分有関係図を意識しつつ,画文帯神獣鏡1面,と三角縁神獣鏡33面が出土した黒塚古墳の前方後円墳とその状況を再確認しました。いずれにしても魏志倭人伝記事の「銅鏡百枚」候補が他に無く,同笵鏡の多さが特鋳説を補強するとすれば,中国から出なくとも卑弥呼の鏡を前提にしても良いのかも知れません。ただ三角縁神獣鏡の扱いがどうも二次的で,丁重に扱われていないことが気になっています。


三角縁神獣鏡も当然含まれますが,神獣鏡を副葬する意味を明確にすることも重要です。氏は,神獣鏡そのものが不老長生の神仙思想に基づくものであることから,首長として共同体の繁栄を保証して貰うため墳墓に埋めた可能性を示唆されました。鏡その他を入れた理由について多くの議論がありますが,必ずしも全面的に納得できなくています。でも,この講義に流れる「中央と地方の統合関係」を考える上で,相当の説得力がありそうです。

その後,奈良だけでなく播磨や九州,山陰,北陸,関東,つまり東国と西国の古墳を個々に概観してゆきました。その結果から,東国の前方後方墳と西国の前方後円墳の対抗学説(極論すれば西国の前方後円墳は狗奴国後裔の墳墓と唱えられもしますしね)が成立しないことを主張されました。即ち,東国でも前方後方墳のない地域が存在すること,西国にも前方後方墳がそれなりに存在すること,しかも最大のものは,大和・柳本古墳群にある西山古墳(墳長180m)であることからのものでした。


また,統治権威の上では前方後円墳も前方後方墳も同質的であり,前期大和政権が在地伝統を無視せずに東国を統治したことを示していると考えるられます。氏は,畿内の前方後方墳は東国統治の担当首長のものである可能性にまで言及されました。そして,各地の多彩な弥生墳墓を概観しました。いずれにしても後期後半から大型化し,かつ祭祀を目的としていることに高い可能性があります。そして,これらに中国思想が加わり,更に大型・多量化した結果として前方後円墳が出現したのだと考えても良さそうです。


ここで,メスリ山古墳やマエ塚古墳に納められている主として鉄製の武器等の埋葬事実を議論し、特に鉄素材の出土状況を勘案しますと(日本列島で製鉄が始まるのは6世紀後半のこと,それまでは南部朝鮮からの輸入に頼っていた),まさに軍事力の存在そのものを示しています。弥生首長層の政治的共同体のなかでも,時には衝突もあり得たことでしょう。この意味するところは,所謂シャーマニズムだけで共同体が統治されるはずはなく、背景に武力の存在ありとの論理が成り立ちます。

更に議論を進めて,大和・柳本古墳群の巨大前方後円墳4基(箸墓古墳、西殿塚古墳、行燈山古墳、渋谷向山古墳)が初期の大王墓である可能性に言及されました。有力首長層による大王の推戴が行われていたようです。そして地方の前期古墳の急な築造停止や墳形の変化、首長墓の統合の事実から,中央政権による地方統治の実態の推定に議論が進みました。

氏の論点は、シャーマニズム(銅鏡等の威信財や神仙思想の取り入れ、つまり政治的権威の源泉は中国に求める)だけでは統治できないこと、その後ろ盾としての軍事力(鉄素材等の権力財は南部朝鮮に求めたこと)の存在にあることを強調するものでした。つまり中央政権は宗教的権力と武力の圧倒的な差でもって地方を抑えており、鉄製武器は北部九州、山陰、丹後など、多地域が窓口になっていたことが古墳考古学の見地から明らかなことも強調されました。

これらの議論から,初期大和政権の特性と構造は以下のように整理できます。


1)政治的権威の源泉(銅鏡等の威信財,神仙思想等のイデオロギー的依拠)は中国王朝に,政治権力の源泉(鉄素材等と権力財)は南部朝鮮諸国に二元的に求めていたこと。


2)大和の有力首長層が中央集権を共同統治し,もの,人,情報の再分配システムの中核を担い,そして交通拠点を掌握していた列島首長層を統治。即ち,中央政権は宗教力と武力で支えられ,しかも地方首長(層)とは圧倒的な力量の格差あり。鉄製武器の窓口は,北部九州,山陰,丹後等多角的。


3)奈良盆地に割拠した5,6人の有力首長が,各4,5基の前方後円墳を築造。有力首長層が大王を共同推戴。箸墓,西殿塚,行燈山,渋谷向山古墳は大王墓,桜井茶臼山,メスリ山古墳は準大王層で政権中枢を担当。

(2)中期大和政権と「倭の五王」


4世紀後半には中央と地方の関係が成立していたことを踏まえて,それがどう変化してゆくかを,先ずは古市,百舌鳥古墳群等の代表例から確認してゆきました。4世紀末から5世紀後半の政権構造が主題です。

あまりにも巨大で陪墳から出土する鉄製武器や農具の多さ等から,やはり中央の古墳が中心になりますが,地方首長墓の動向にも大きな変化が現れます。そればかりではなく加那や新羅の王墓との関わり,多種多彩な文物の渡来にも心を配る必要が出て来ます。初期の古墳には無かった沖ノ島遺跡に示される祭祀が盛行したことも忍ばれる時代になってゆきました。

従来の河内政権論では,佐紀,馬見古墳群を無視しており,古市,百舌鳥,佐紀,馬見古墳群全体を見なければならないと氏は強く主張されます。それは大和川水系で考えるもので,この中期大和政権は,それぞれの古墳地域に居る4有力首長の共同統治であったとの見方です。

初期大和政権の大和・柳本古墳群を含めて,巨大墳を含め,前方後円墳130基,前方後方墳5基(4基は大和・柳本古墳群)が存在する地域です。その主なものを概観し,特性を確認してゆきました。


その結果,数えうる17代の大王墓は,その編年も考慮し,大和・柳本古墳群から佐紀古墳群,そして古市・百舌鳥古墳群と遷移し,摂津・河内・大和古墳群に至ります。それらの特徴からは,一系的であり緩やかな変化はありますが,大きな断絶が見られません。つまり,ほぼ350年間,畿内(大和,河内,和泉,摂津)地域の有力首長が担っていたと考えられるのです。明らかに倭王であったと考えられる墳墓として,石津丘古墳,誉田山古墳,大山古墳,ニサンザイ古墳,岡ミサンザイ古墳,今城塚古墳にその可能性が見てとれます。

つまり,それぞれの古墳群の有力首長(中小の首長を束ねていて自身は巨大前方後円墳に埋葬される権力を有している)が,大和政権を担う最高首長である大王(その概念は当時は未だ無かったようですが,王のなかの王を意味します)を推戴していたのではないかということです。考古学上からの知見ですが,大王は一系でなくとも一向構わないのではないでしょうか。


これら巨大な前方後円墳が何のために造営されたのでしょうか。その位置から見ても,政権の守護と示威,つまり政治的な効果を図るためだったことは否めません。また奈良盆地の大和・柳本,佐紀,馬見古墳群は大和中央政権の政治拠点を守護する役目も果たしています。4世紀末以降,朝鮮半島への派兵も含み西方との交渉が必要であり,環大阪湾に巨大な前方後円墳を形成し,中央政権の権力を見せ付けたとも考えられます。


つまり,南の熊野からの入り口にあるメスリ山古墳を含めて,これら古墳群が大和中央(奈良盆地)を取り囲んでいること,瀬戸内の明石海峡からは五色塚古墳が,紀淡海峡からは宇度墓・西陵古墳が,大阪湾からは百舌鳥古墳群が望める劇的な配置です。まさに政治的なモニュメントそのものであったようです。


この時代の倭の五王が宋書倭国伝に記されているからでしょうか,特に河内王朝が強調されがちですが,この頃の古墳群を探りますと確かに初期大和政権の本拠だった大和・柳本古墳群から継続しています。そして,埋葬されている渡来のものを含む物品には,それぞれ特徴があるようですが(祭祀,武器,鉄てい,埴輪等が古墳群に特徴的に出土しています。もっと整理すれば何かを語れるかも知れません),私にはそれぞれの地域の首長がそれぞれの役割を担っていたのではないかと思えます。そして相互に交易していたと。


引き続き,国家的祭祀を担った沖ノ島遺跡や,当時の韓半島の高句麗,新羅,百済,伽那の古墳の特徴である祭祀や政治的色彩が無いことやビジュアルではないことを確認しました。


また,4世紀末以降の須恵器に代表される渡来物を考えてみました。朝鮮半島との繋がりが如実に表れています。特に,朝鮮動乱の影響もあるのでしょう,武具の変化,即ち長頸鏃や鋲留式への変化は印象的です。また半島出兵の動機の一つに鉄ていの安定的確保もあったに違いありません。更に畿内様式の前方後円墳の地方展開を確認してゆきました。


そして,これまで確認して来た中期古墳等から,この時代は以下のように結論付けられます。


『4世紀末頃から5世紀後半の頃まで,多少先行していた佐紀と馬見古墳群,そして古市,百舌鳥の4古墳群は,同じ大和川水系にあって,一代一墳の巨大前方後円墳と中小古墳や陪塚の存在等の共通構造を持ち,同時期に平行して造営され続けていました。


それは政権(王朝)が継続していることを意味しており,その交替があったとは考えられません。つまり階層構造型の古墳群(巨大,そして中小の前方後円墳,帆立貝式古墳,円墳,方墳等)は一大政治集団の構成を結果的に表しており,4有力首長が多数の中小首長層を統率し,中央政権を共同統治していたと考えられます。


即ち,4世紀末から5世紀後半,朝鮮半島動乱への対応で,初期大和政権からの中央政権に再編がもたらされたと理解すべきなのです。古市,百舌鳥古墳群を造った二つの有力首長が大王を7代に渡って輩出したとも考えられます。その政治的権力の根源は卓越した武力にありました。


畿内首長層は大王を中核に政治的に結集しており,前期以降の大王墓は一系的,かつ連続的であって,決してその断絶は見られないのです』


(3)後期大和政権と朝鮮三国時代

古墳を通じた大和政権論は,いよいよ5世紀末から7世紀初頭の後期前方後円墳,また7世紀代の終末期の大型方墳,円墳から考えてゆくことになります。時は朝鮮三国時代で,中国も含めた国際関係にも注目しなければなりません。


先ずは,5世紀末以降,大王墓は,大阪府の岡ミサンザイ古墳(古市古墳群),今城塚古墳,河内大塚古墳,奈良県の平田梅山古墳(欽明陵),見瀬丸山古墳と河内,摂津,大和を移動してゆきます。これらの古墳の特徴/特性を詳細に確認してゆきました(およそ350年,17代の大王墓に相当します)。


岡ミサンザイ古墳を除き,いずれも古墳群は形成しません。いずれも横穴式石室,家形石棺を有し,また陪塚が無い等の共通した特性を示しています。いずれにしても,これまでと同様,大和川水系の移動であり,墳丘の構造等に急激な変化はありません。しかし,巨大な前方後円墳は,列島最大の横穴式石室を持つ見瀬丸山古墳を最後にぴたっと消えます。大きな政治的な革新と期を合わせて・・・。


ここで,その時代の百済(武寧王陵,扶余陵山里東古墳群),新羅(慶州古墳群,天馬塚古墳,鶏林路14号墳)の特徴/特性も,議論に重ね合わせると興味深い事実に直面します。


百済王墓は,そう大きくはない円墳で,中国南朝系であるせん積(=土偏に專と積)と記し,タイル様焼き物の積層を意味する)の横穴式石室を特徴としつつ,その木棺は朝鮮半島に自生しない日本列島から運んだと考えられるコウヤマキ製であり,中・日両者とも関わりある様式であることもその一つです。また陵山里東古墳群の系譜的変化は日本の平野塚穴山古墳(7世紀半ば)に連なっています。


新羅の古墳も円墳ですが,百済に比べると大きくて高いのが特徴です。特に様々な純金製品が埋葬されていますが,なかでも冠(中国様式を独自形式に変化させています)に日本の糸魚川周辺産翡翠の勾玉が飾られているのも,当時の両国関係を単純な図式では解釈できないことを示しています。


これら事実から,この時代をどう読み解くことができるのでしょうか。可能なら高句麗の古墳も議論に加えたいところです。常に東アジア全体からの視点を失ってはなりません。


以上を踏まえて,この時代に唯一古墳群を形成し続けている古市古墳群(5世紀末頃に,佐紀,馬見,百舌鳥古墳群は造営を停止しています)の特徴を追いました。白髪山古墳等に代表される南グループの後期のものは,前方部分がますます発達しています。そしてこれまでの共同体的色彩が冠,履や耳飾り,飾り太刀に飾り馬具が出ることから,属人的色彩に変化していることが見て取れます。明らかに中期大和政権の有り様の変化をを示しています。


大和の後期古墳の典型例である市尾墓山古墳,烏土塚古墳,藤ノ木古墳,牧野古墳のそれぞれの特徴を概観しました。やはり前方後円墳や円墳は被葬者の政治的(社会的)地位に依存し,石室構造は経済力を反映しているのでしょうか。従来の墳墓の在りようとは決定的に異なり,個人的な色彩が強まって来ています。つまりこれまでのように共同墓域へ埋葬することも無くなり,見せる必要も無くなったようです。確かに,この頃に大きな社会変化が生じたと考えられます。


次に山城の後期古墳を眺めました。秦氏の勢力範囲でもあり,実感が湧き始めます。蛇塚古墳の自然石を積み上げた,高さが5mを超える巨大石室や天塚古墳,甲塚古墳,狐塚古墳の,やはり巨大な石室と玄室に,その経済力の大きさを目の当たりにするようです。


その一方で,近江の野洲古墳群の特徴は,畿内有力首長層に準ずる巨石墳を有し,畿内型横穴式石室構造を取るものの,畿内中枢とは異なる右片袖式を保ち続けることにあります。中央政権から外れていった豪族の可能性を示唆されます。

そして,畿内の大型群集墳である物部氏勢力範囲にある石上・豊田古墳群(鉄鍛冶具,武器の副葬),竜王山古墳群,一須賀古墳群を概観し,その特徴と墳墓の数から,中間役人層や農民・工人などの中間層(有力家族層)の存在が明らかであるとの議論に進みました。


更に,愛知の北地古墳群の特徴から,海民(水運技術を有していると考えられる武装漁民)の存在と,それを中央政権が統治していたことを示されました。6世紀後半,水運・・・,まさに朝鮮半島,「新羅」との深い関係が見えて来ます。当時の社会の変化は朝鮮半島,中国との外交問題も大きな要素となったに違いありません。


次に,広瀬国立歴史民俗博物館教授による畿内首長層の横穴式石室の編年(5世紀後半から7世紀末)の特徴を整理したうえで,終末期の古墳を個々に確認してゆきました。


前方後円墳終焉後,大型方墳や円墳,八角墳が構築されましたが,中でも飛鳥の石舞台古墳は特徴的です。一つが80トン近い天井石,周濠と葺石から成る二段築成の一辺55mの大型方墳です。それより規模は少し劣りますが,からと古墳や水泥古墳,岩屋山古墳と石室の変化を辿りました。その帰結が漆喰仕上げの玄室内面を有する文殊院西古墳(百済陵山里古墳群の特徴に一致)になるのでしょう。


続いて王陵の谷(推古や用明,孝徳陵古墳に,聖徳太子墓古墳等が集中しています。ただここでは宮内庁指定の是非は議論しません)と呼ばれる磯長谷(しながだに)の終末期古墳を個々に特徴付けしてゆきました。石室のより精緻な漆喰仕立て,石棺から漆棺への変化等を確認しました。副葬品も含めて,高松塚古墳がその代表例と云えるでしょう。


そして仏教的色彩を帯び始め,その特徴が次第に強くなってゆきます。帯解黄金塚古墳を例に白壁づくり(そして壁画),乾漆像技法の応用とも考えられる夾ちょ棺等の出現に連なるようです。御嶺山古墳には格狭間(こうざま)が棺台に刻まれもします。氏は,これまでの首長の神格化に合わせて,首長が仏に擬せられたとみます。蕃神思想としての観念でしょうか。


以上のように朝鮮三国との関連も考慮した上で,後期大和政権を含め,考古学資料から見ての大和政権の構造は以下のように整理できます。更に議論を進めるためには,文献資料と兼ね合わせて考えてみたいところです。


1)前期大和政権(3世紀中〜4世紀後半);奈良盆地の6,7人の有力首長層が「大王」を推戴し政務を分担した。関東に巨大前方後円墳が急激に出現したことは東日本まで初期統合した可能性を示唆している。


2)中期大和政権(4世紀末〜5世紀後半);佐紀,馬見,古市,百舌鳥古墳群を造営した4有力首長が,各々多数の中小首長層を統率し,大和を共同統治した。その礎は「鉄」の独占と配布にあり,地方も再編成した。


3)後期大和政権(5世紀末〜7世紀初頭);大王が傑出(血統化)し,数人の有力首長が原初的官僚層(群集墓を造営)を統率し,大王を支えた(畿内有力首長層は終始結束)。全国統合は,卓越した軍事力にあり,各地の首長層の利害を調整し,また外交を担った。


この時代の後,律令国家へ発展してゆくのですが,その飛鳥・奈良時代を考古学の観点から別途,議論してゆくことにしています。
http://members2.jcom.home.ne.jp/taigaa_kok7/art_history_24.html

2011/04/23〜06/11 古墳時代の「国境」を考える

国立歴史民俗博物館教授の広瀬和雄先生の,特に朝鮮半島や中国も含めた古墳に関する考古学資料の考察を通じて,邪馬台国から引き続く「大和政権」について議論して来ました。その内容については,「古代国家の成立を探る −古墳考古学からの大和政権の考察−」にまとめていますが,その特性は前方後円墳に特徴付けられ,律令国家成立に先立つ初期国家として呈をなしていたと考えられます。こうした議論を踏まえて,政治的,また文化的にその領域と云うか,同特性にある範囲を確認しておくことも求められます。


1 壱岐島

この観点から興味深い事実を突きつけるのが,壱岐に見出される古墳です。結論から言いますと,横穴式石室は首長墓と群集墓共に,4期に編年可能で,1期の6世紀後半頃,急に発生し,4期の7世紀前半頃に急に衰退すると云う,時間が区切られた消長を特徴としている点にありますす。しかも大型横穴式石室の系譜をたどると,福岡平野に連なることが明確になります。

以上は何を物語っているのでしょうか。一つの可能性として,6世紀後半(580年頃か),福岡平野の首長層が多数の中間階級層を伴い壱岐に移住したと考えられます。石室の巨石化は畿内首長墓の横穴式石室に関連していることや北・中部九州を含めた首長層のイデオロギー的一体性,帰属意識の醸成が図られていることにも着目せねばなりません。広瀬先生は「壱岐様式の横穴式石室は,集団的帰属意識を高揚させるための観念装置であった」と結論されました。

つまり壱岐へ他律的な意志の下で千人を超える(古墳の数からの概算。もっと多いかも知れない)移住があったと考えるのが自然です。中央政権が軍事と外交の最前線として国境政策に当たらせたのでしょうか。本格的な戦争状態に入り,敗戦した7世紀半ば以降,壱岐での古墳造営は一基も無いことも,それを物語っているやに思えます。つまり壱岐は対新羅の前線基地であったとの推論です(より朝鮮半島に近い対馬についての議論は省略します)。


2 古墳時代の文化

ここでは,弥生時代から分化し独自に発展していった古墳時代の文化を議論してゆくことにします。広瀬先生によると,古墳時代は大きく三つの異質な文化が共存していたと説明できます。紀元前10世紀頃,西北九州に水田稲作が導入されて以降(板付遺跡等),それまでの均質な縄文文化が分裂し,大和を中心とし関東から北九州までの弥生文化圏,北海道や北東北地方の続縄文文化圏(北海道は独自に,擦文文化,オホーツク文化,アイヌ文化と続いてゆきます),そして沖縄諸島の貝塚後期文化圏を形作るようになります。

ここで考古学的に研究が進んでいる続縄文文化と弥生・古墳文化の相互関係を見てゆくことにします。その資料となるのは,北東北各地に造営された直径10m未満の円墳で,7世紀前半から9世紀末頃の末期古墳です。詳細に議論しましたのは,青森県森ヶ沢遺跡(従来の縄文文化を継承しているが,畿内との交易を物語る初期須恵器,土師器の副葬あり),盛岡市の中半入遺跡(5世紀中から後半頃の首長居館,琥珀玉等の祭祀品,黒曜石を用いた皮革加工や鍛冶工房の存在),奥州市の角塚古墳(日本列島最北端の5世紀後半頃の前方後円墳の存在。北上川流域は古墳文化と続縄文文化の混在,日常的交流地域で,二つの文化に支配関係は見られず)です。

これらから続縄文文化は,次のような特性を有するようです。1)採集,狩猟,漁労の獲得経済で,特にラウンドクレーパーを用いた皮なめしを行っていること。2)墓に階層性なし(政治的要素なし)。3)閉ざされた社会でなく,鉄や須恵器を交易で入手。4)大崎平野では二つの文化圏が共存。

そして7世紀から8世紀に時代が下る青森県奥入瀬町の阿光坊古墳群(直径10m未満,高さ1m前後の小さな群集墳丘が特徴の一つ。武器や馬具の副葬あり),八戸市の丹後平古墳群(乗馬と武装したと考えられる副葬品があり,6世紀頃の新羅式環頭も出土),北上市の江釣子古墳群(北東北の末期古墳・石室墳としての典型。縄文文化とは異質の埋葬方式である横穴式石室の系譜を引く石室あり),瀬戸岡古墳群(半地下式の河原石積み横穴式石室あり)を概観しますと,次のように末期古墳の特性をまとめることができます。

1)均質的な家長墓で,武装し一部は乗馬も。2)100〜200基の大型古墳群と,10数基程度の小型古墳群が存在。3)木棺直葬墳(7世紀前半〜9世紀後半)と石室墳(8世紀初頭〜9世紀後半)が別々の古墳群を形成し,北上川流域では両者共存,その他の地域では後者のみ。後者は武蔵・下野地域の特徴があり居住民か。前者は続縄文土杭墓の系譜。4)7世紀頃のルーズな関係から,次第に律令国家の北東北支配に対抗しての集団意識が発露されていったか。5)和同開珎等は律令国家からの下賜品の可能性。

更に北東北の遺跡や古墳,また城柵等をレビューし検討を続けてゆきます。文献資料で明らかな桓武天皇の征討の時期に当たりますが,何故,蝦夷を支配しようとしたのか,また北東北は何故末期古墳や蝦夷の墓を積極的に造営するようになったのか,興味の尽きないところです。


3 北東北の国境

前章で議論した続縄文墓と北東北地方に展開された恐らく2千基を下らない末期古墳の特徴を比較しますと,概ね不連続です。それは継続して変化したのではなく,新たな文化が入って来たことを意味します。またその新たに入って来た末期古墳は,後期古墳の系譜(円墳,石室,副葬品)を引くものがあることが注目に値します。例えば石室墳は,東国,特に武蔵や下野とあまりにも酷似しています。それはそれらの国からの大規模な移民集団のもの,そしてそれに同化した蝦夷の墳墓と考えられるのです。

かつて続縄文文化と古墳文化は交易を通じて共存していました(大崎平野では混在跡まで確認されています)。ところが7世紀半ば以降,東国から多数の移住があったようです。それは,古墳時代を脱し律令国家が形作られる時期,その北東北政策が大きく変更されたのではないかと考えられます。その現れの一つが「城柵(官衙と築地屏や濠,土塁等の城壁を有する)」の設置です。政治・軍事拠点として,それを活用し,領域支配を始めたと広瀬先生は考えられています。つまり人と土地を媒介とした支配・従属方式への転換です。異文化支配の開始と見るのです。

その動きに北東北の人々(律令国家から見ると「蝦夷」)は,<われわれ意識>を高揚させ末期古墳を築造することで,それを9世紀まで確認し続けたと考えられます。続縄文文化における一体意識,アイデンティティの発露と理解できるとするのが自然でしょう。ただ広瀬先生も述べられていましたが,何故,末期古墳の形態でなければならなかったのかは疑問ではありますが。

以上をまとめます。@律令国家が城柵を拠点として在地民(蝦夷)を支配し始めた。Aそれらを担ったのは,東国からの移住民(柵戸)であり,蝦夷に対して同化政策を採った。その象徴が末期古墳に遺る。B蝦夷は同化しつつも,家長を中心とした帰属意識を高めていったと考えられます。

ただ城柵の最前線は現在の盛岡市にある志波城にとどまっています。城柵は,7世紀から9世紀に掛けて位置が南北に前後しながら作造されていることから,二つの文化圏は時間と空間的に混在していたようで,明確な境を示すことはできないでしょう。柵戸に対して,蝦夷と俘囚(律令国家に帰依した蝦夷の人々)が混在していたのですから。
http://members2.jcom.home.ne.jp/taigaa_kok7/art_history_28.html



15. 中川隆[2545] koaQ7Jey 2016年5月21日 20:31:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2806]

何故、古代史の舞台は奈良盆地なのか?・・・大阪は河内湖、大和は湿地帯だった。
 

何故、古代史の舞台が畿内でも奈良の山奥から始まるのか、そして次第に河内に舞台が移っていくのか、不思議に思われる。

この謎は実は現在の地形を前提に考えているからで、かつて大阪は上町台地のみが陸地で他は河内湖と呼ばれる内海であり、大和は標高60m以下は大湿地湖だったとされている。

縄文中期以降、海退が始まり、次第に陸地が広がって行くという地理学的な前提をふまえると、古代史の舞台が奈良の山奥から始まるという謎も解けてくる。

>奈良盆地の東方の山裾を縫うように、細々と南北に続く道がある。その名を「山の辺の道」という。

古社寺や名所旧跡、古墳などが道沿いに点在し、古代の面影をよく残している・・・

人が住むところに道ができるのは当たり前だが、ではなぜ「山の辺の道」は標高60m〜70mの高度を保ちながら三輪山の山麓をめぐっているのだろうか。

その理由を大和湖の存在に求める学者がいる。

三輪山麓に人類が住みついた縄文前期の約6千年前、大和盆地にはまだ巨大な淡水湖が存在し、その湖岸にできた道が山辺の道の最初の姿だというのだ。

>その後次第に土地が隆起し大和川ができると、湖水が排出されて平野部が広がっていった。土地が干上がるにつれて、人々は平野部へ移り住みはじめ、弥生時代には、平野部の沼地を利用して稲作農耕を営むようになった。

しかし、弥生時代とそれに続く古墳時代を通して、「山の辺の道」は相変わらず大和盆地の東側を結ぶ主要道路でありつづけた。その証拠に、第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)、第11代垂仁天皇の纒向珠城宮(まきむくたまきのみや)、第12代景行天皇の纒向日代宮(まきむくひしろのみや)など上代宮跡伝承地は標高60mの線上にある。

http://www.bell.jp/pancho/travel/yamanobe/preface.htm


この大和湖を最初に唱えたのが、樋口清之博士で、博士は神武東征の地も標高60m付近にあることから、神武神話の時代には大和は大湿地帯であったと考察している。

http://somo.seesaa.net/article/32163752.html


宝賀寿男氏は弥生時代の遺跡群も標高50−70mに存在していることと、文献的整合性から神武神話の年代を弥生時代に設定している。

半島、九州の動乱の影響により畿内へと逃げ延びてきた神武にとって、湿地帯故に土木造成次第では農地を切り開くことが可能だった大和の地は、絶好のフロンティアであったのであろう。(勿論、ナガスネヒコら縄文人らの抵抗はあったであろうが、先に入っていたニギハヤヒや鴨族の支援もあって九州で縄文人支配を経験済みの神武にとってはさほど難しくはなかったのであろう。)

以下は、

当時のイメージ地図 リンク
http://somo.seesaa.net/upload/detail/image/2yamatoko-imaji.JPG.html

奈良盆地が都になる必然

何故、奈良に最初の都ができたのか?

古代の高低差地図リンク
http://blog-imgs-42.fc2.com/a/t/a/atamatote/asuka_naniwa_0.jpg


も参照してみてください。


朝鮮半島から攻め入られたとき、生駒山山系を第一の防衛線、奈良盆地を第二の防衛線とし、最後の砦として三輪山を背にして都を築いた、と読めます。

平安遷都はエネルギー問題だった!

―地形で解く日本史の謎リンク
http://shuchi.php.co.jp/article/1794


から引用させていただきます。


-------------------------------------------------

 21世紀の現在の地形から見ると「なぜ、奈良盆地が都になったのか?」が理解できない。

 ともかく奈良盆地は大阪湾から離れていて内陸に入っている。さらに360度周囲は山で、他の土地との連絡も悪い。奈良はどこから見ても交通の要所とはいえない。
(中略)

 なぜ奈良が日本最初の首都になったかを3〜4世紀の地形の上に立ちシミュレーションしてみよう。

 今の大阪平野は、当時は湿地帯であった。大坂湾は上町台地を回り込み内陸の奥まで入り込んでいた。

 また、今の大和川は堺市へ流れている。しかし、奈良時代の大和川は奈良盆地を出ると向きを北に変え、大坂湾に流れ出ていた。堺へ流れている今の大和川は、江戸時代に掘られた人工の水路なのだ。

 奈良が都になる4世紀頃、大坂平野の奥まで海と川が混じる湿地帯が広がっていた。まさに河内と呼ばれた地であった。

 船で瀬戸内海から大坂湾に入り、上町台地を回り込み、大和川を遡ると生駒山、金剛山の麓まで行くことができた。中国大陸から生駒山麓の柏原市まで直接舟で行けたのだ。柏原で小舟に乗り換え生駒山と金剛山の間の亀の瀬を越えると、もうすぐそこは奈良盆地であった。

 この奈良盆地には、大きな湿地湖が広がっていた。その湿地湖を利用すれば奈良盆地のどこにでも舟で簡単に行くことができた。

 奈良盆地全体が、大坂湾の荒波を避ける穏やかな自然の内港のようであった。
 舟を利用すれば奈良盆地は便利がよく、ユーラシア大陸との連絡も容易であった。

 奈良盆地が日本の都になったのは、地形から見て合理的であった。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=315461


16. 中川隆[7429] koaQ7Jey 2017年3月31日 10:03:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7910]


伝承は何年くらい伝わり・残るものか: 2016年12月28日

神話と考古学の間 創元社 (1973)  末永 雅雄, 三品 彰英, 横田 健一
https://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%A8%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E3%81%AE%E9%96%93-%E6%9C%AB%E6%B0%B8%E9%9B%85%E9%9B%84/dp/4422201115

このところ物部氏の出自について、なるべく推測を交えずに語ることが出来るよう
にと様々な本を当たっています。

ただ多くの人たちが関心を持ってきた一族ですので、その量が半端ではありません。
少々時間が掛かります。

そこで今日はそんな調査の中で見つけた一つの説をご紹介します。

タイトルにある「伝承は何年くらい伝わり、残るものか」というものです。

「神話と考古学の間」という末永氏という考古学者と文献史学の先生たちの対談集
で、この点に触れています。

結論から言えばおおよそ400年と言っています。

末永先生という方は故人ですが、橿原考古学研究所の初代所長を務めた方です。
大学を出ずに色々な経験を積んで来られた異色の人物です。
ある時、町史編纂に関わっていました。

その家に伝わっていた話しを調べてみると、数百年前に実際にその通りだったと
いうことに出会われたそうです。

神武天皇は橿原の宮で即位したと伝わりますが、これは作り話しで橿原の宮は想
像の産物とされていました。

ところが昭和13年から始まった末永先生も加わった調査で縄文から弥生時代に
掛けての遺跡が発見されました。

現在の大鳥居の付近では、大きなカシの木の根も出てきました。畝傍山あたりか
ら持ってきた土で、土地の高低を調整し大きな広場を作ってお祭りをしたらしい
のです。その時の一群の土器も出てきました。

末永先生の話では、弥生の終わり頃1世紀辺りと見られる土器も出てきたので
す。

日本書紀には神武天皇が

「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の真中である。
ここに都を造るべきである」

と言われ都造りに着手したとあります。

私は神武天皇の即位年、辛酉を121年と見ています。
調べれば調べるほど奇妙な一致が出てきます。

庶民の家の話しが数百年残っていたとすると、皇家や大きな豪族の伝承などは、
より残り易いと考えていいでしょう。

記紀には考えていた以上に史実が含まれていた可能性があります。
http://newkojiki.com/2016/12/28/%E4%BC%9D%E6%89%BF%E3%81%AF%E4%BD%95%E5%B9%B4%E3%81%8F%E3%82%89%E3%81%84%E4%BC%9D%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%83%BB%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%8B/


17. 中川隆[7430] koaQ7Jey 2017年3月31日 10:12:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[7911]

大和建国へ(7) 磐余に築かれた柄鏡式前方後円墳が招いた誤解 2017年3月5日
http://newkojiki.com/2017/03/05/%e5%a4%a7%e5%92%8c%e5%bb%ba%e5%9b%bd%e3%81%b8%ef%bc%88%ef%bc%97%ef%bc%89%e3%80%80%e7%a3%90%e4%bd%99%e3%81%ab%e7%af%89%e3%81%8b%e3%82%8c%e3%81%9f%e6%9f%84%e9%8f%a1%e5%bc%8f%e5%89%8d%e6%96%b9%e5%be%8c/


記紀において神武天皇は「カムヤマトイワレビコ」と呼ばれます。

イワレは奈良県の桜井市辺りの古称とされます。
下図は大和の大王墓の分布です。


http://newkojiki.com/2017/03/05/%e5%a4%a7%e5%92%8c%e5%bb%ba%e5%9b%bd%e3%81%b8%ef%bc%88%ef%bc%97%ef%bc%89%e3%80%80%e7%a3%90%e4%bd%99%e3%81%ab%e7%af%89%e3%81%8b%e3%82%8c%e3%81%9f%e6%9f%84%e9%8f%a1%e5%bc%8f%e5%89%8d%e6%96%b9%e5%be%8c/
   大和大王墓の分布

考古学は記紀編纂の時代よりも現代の方が進んでいます。これらの大規模な古墳を
見て、記紀編纂者たちは柄鏡型の前方後円墳である桜井茶臼山、メスリ山古墳の方
が古いと考えたのではないか。

柄鏡 宮崎県立総合博物館蔵 「柄鏡とは柄のついた円形の銅鏡で、室町時代以降に多く作られました」

柄鏡型は周濠部を持ちません。周濠部を持つ三味線のバチのように前方部が開いて
いく「バチ型前方後円墳」をより新しいデザインを取り入れたものと考えた。

その為に大和建国の地は磐余(イワレ)であると認識、つまり誤解した。

そう考えれば神武東征の物語が宇陀から盆地に入り、この南東部を主体に展開した
理由も納得出来ます。

大和建国の時代、弥生時代に倭国は文字を持っていません。

一部には既に文字があり、かなり自由に使えたという説もあります。事実、卑弥呼
は魏へ使者を出しています。

しかしこれは限定された場で使われたと見るべきでしょう。

古事記を編纂した太安万侶も漢字を使って日本語の「意」を表すか「音」を表すか
に大変苦労をしたと言っています。

弥生時代に一部文字が使われたとしても、それは中国語でしょう。日本語を表記す
ることは出来なかったはずです。

もし一部の研究者が言うようにかなり自由に使えたとするならば、なぜ日本から、
特に纏向から出土する卜骨に中国のもののように占いの内容が文字で書かれていな
いのか。
おかしなことです。

国家の最重要案件であり、神に問う占いです。
この時に文字を使っていないという事は、それほど自由に文字を使うことは出来な
かったという証しでしょう。

つまり神武東征伝承など文字が無ければとても残らない詳細な話しは伝わっていな
かった。

記紀編纂時代に中国史書、墳墓など特に大王墓、各一族に伝わる大まかな伝承話し
などを参考に構想を作り、古事記、日本書紀を表したということです。

後日詳しく検討しますが日高正晴氏が

「古代日向の国」(NHKブックス刊)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E5%90%91%E3%81%AE%E5%9B%BD-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E6%97%A5%E9%AB%98-%E6%AD%A3%E6%99%B4/dp/4140016655


で示すように、天孫降臨の地、つまり皇家の出自は「襲(そ)」という南九州の地にあったという根本的伝承があった。

そこを基底として記紀が生まれてきたようです。

崇神天皇の世では全国平定まで一気に進む強大な国となったと記し、バチ型の大王
墓が展開される三輪山周辺へと舞台を移しました。

渋谷向井山古墳築造の時代、大和は祭祀者から政治指導者への国へと変わり、中央
集権体制が固まり始めたことにより、次の飛躍の時を迎えたようです。

また日向を見れば柄鏡型前方後円墳があり、建国の祖の出自と磐余地域が記紀編纂
者の頭の中で見事に繋ったのでしょう。
http://newkojiki.com/2017/03/05/%e5%a4%a7%e5%92%8c%e5%bb%ba%e5%9b%bd%e3%81%b8%ef%bc%88%ef%bc%97%ef%bc%89%e3%80%80%e7%a3%90%e4%bd%99%e3%81%ab%e7%af%89%e3%81%8b%e3%82%8c%e3%81%9f%e6%9f%84%e9%8f%a1%e5%bc%8f%e5%89%8d%e6%96%b9%e5%be%8c/


18. 中川隆[-6574] koaQ7Jey 2017年8月30日 01:31:55 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

邪馬台国と大和朝廷そして出雲大社の謎 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BAsQBZSTG0Q

19. 中川隆[-6495] koaQ7Jey 2017年9月07日 06:11:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

葛城氏と秦氏

元々、市場や諜報のネットワーク、神社ネットワークを作り上げたのは葛城氏(賀茂氏)だが、その後、賀茂神社の実権を秦氏が握ったことに象徴されるように、ネットワークは秦氏に移行したと考えられる。

以下、「泰澄大師 と 日本文化 」の一部要約です。

●京都の愛宕山の寺院には、「大和葛城・鴨氏の役小角」と「越前秦氏の泰澄」の起源に関わる、奈良時代の伝承がある。銅鐸・鉄器をもたらした人々は、出雲など日本海側から渡来し、丹後・亀岡などに拠点、大和に至り、三輪山山麓を本拠とした。彼らは、水・鉄をもたらす山を崇めたが、その中の一集団が、奈良盆地 南西に暮らした葛城鴨氏である。 今日の奈良「高鴨神社」一帯に暮らし、やがて新しい勢力の流入を受け北上し、山代に至る。 その後、奈良時代、同じく葛城から山代へ北上したのが山岳修験の「役小角」である。

天智天皇は、大津京守護のために、奈良の大神神社から、今の日吉大社へ出雲の神である「大己貴神」を勧請した。天武天皇は、出雲の一族である鴨氏奉祭の上鴨神社社殿を整えた。桓武天皇も平安京の護りとしたのは、賀茂社の地である。

古墳時代、秦氏は主に北九州〜河内・山代に至るが、一方、日本海側、越前から淡海(滋賀)を経て山代に南下した秦氏もある。その一人が泰澄。泰澄(越前秦氏)は、奈良時代の修験道の僧。越前国白山を開山した。泰澄の父は、秦氏の 秦角於だとする説がある。

秦氏の拠点拡大や、その二つの渡来ルートの合流は、松尾大社の祭神「大山咋神」と「市杵島姫命」に伺える。大山咋神は、日吉大社の奥宮磐座に残る古代の神山信仰で、山城の松尾大社から保津川を昇り、亀岡に伝わる。市杵島姫命は、元来、北九州の宗像大社の祭神である。また、越前から南下した泰澄の白山信仰は、日吉大社など滋賀に多く伝わり、山城に至る。
以上、出雲からは亀岡、大和〜山代、 一方では、越前からの淡海〜山代。 出雲から伝来した磐座信仰、大国主信仰は、亀岡の出雲大神宮や愛宕神社、そして山代の山頂に至り、今日の愛宕山社寺に伝わる。最澄は、奈良の三輪山より大物主の分霊を日枝山(比叡山)に勧請して、大比叡とした。

『秦氏の研究 −日本の文化と信仰に深く関与した渡来集団の研究−』(大和岩雄 著/大和書房)は、泰澄の生まれた足羽郡に秦氏がいたことを指摘し、また、秦氏の山岳信仰の山である愛宕山の開基が泰澄であり、愛宕山を「白山」ということをあげて泰澄が秦氏の出であることを主張している。泰澄は 702年、文武天皇から鎮護国家の法師に任じられ、717年、越前国の白山にのぼり妙理大菩薩を感得した。 各地にて仏教の布教活動を行い、元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師(じんゆうぜんじ)の号を賜る。737年に流行した疱瘡を収束させた功により泰澄の戒名と大和尚位を賜ったと伝えられる。

この時期600年代後半〜700年代、愛宕山麓、嵯峨野周辺では秦氏の活動が活発となる。

●松尾大社 縁起(ホームページ)より
[磐座祭祀] 当社の御祭神「大山咋神」は、当社社殿建立の飛鳥時代の頃に、始めてこの場所に祀られたものではなく、それ以前の太古の昔よりこの地方一帯に住んでいた住民が、松尾山の山霊を頂上に近い大杉谷の上部の磐座(いわくら)に祀って、生活の守護神として尊崇。
[秦氏来住] 五・六世紀の頃、近年の歴史研究では朝鮮新羅の豪族とされている 秦氏の大集団が、朝廷の招きによってこの地方に来住、その首長は松尾山の神を同族の総氏神として仰ぎ開拓。
[秦氏の開拓] [大堰と用水路][酒造神]
[平安京誘引] 時代と共に経済力と工業力を掌握した秦氏は、大和時代以後朝廷の財務官吏として活躍し、奈良時代の政治が行き詰まると、長岡京へ、次に平安京へ遷都を誘引したのも秦氏の膨大な勢力によるものであったことが定説。
〔神殿の造営〕 701年に秦忌寸都理(はたのいみきとり)が勅命を奉じて、山麓の現在地に神殿を営み、山上の磐座の神霊をこの社殿に移し、その女の知満留女(ちまるめ)を斎女として奉仕し、この子孫が明治初年まで当社の幹部神職を勤めた秦氏(松尾・東・南とも称した)。

●修験道の開祖に仮託された役小角も山岳修行者の一人だった。平安時代になると最澄が比叡山、空海が高野山を開くなど山岳仏教が隆盛し、密教の験者たちがその験力を得るために山岳修行を行なった。また安倍晴明などの陰陽師で山岳修行をしたものも少なくなかった。こうした験力をおさめた密教の験者たちが修験道を作りあげてゆく。中世期に修験道が全盛期をむかえ、熊野を本拠として、本山派や当山派などの中央の修験をはじめ、羽黒山・彦山・白山・立山など地方の諸山の修験が活発な活動をするようになった(本山は三井寺を後ろ盾としてまとまり、当山派は吉野を拠点とした大和の諸大寺の修験から成る)。白山山麓の永平寺を修行道場とした曹洞宗、身延山の七面山を道場とした日蓮宗、一遍が熊野で啓示を得て開教した時宗など、鎌倉新仏教も山岳信仰や修験道と密接な関係を持っている。

近世期には山岳を拠点として諸国を遊行した修験者や聖たちは村や町に定着して、氏神や小祠小堂の祭や芸能にたずさわったり、加持祈祷などの活動に従事した。その影響は強く、現在でも奥三河の花祭などのように、山村には彼らが残した祭
や芸能が伝えられている。また近世中期以降になると在俗の庶民たちが講をつくって羽黒・富士・白山・立山・木曾御岳・大峯・石鎚・彦山などの山岳にのぼるようになっていった。
http://bbs.jinruisi.net/blog/2017/08/2951.html


20. 中川隆[-6458] koaQ7Jey 2017年9月10日 22:25:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

その時歴史が動いた 邪馬台国の女王・卑弥呼 〜動乱の中国に使 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%81%9D%E3%81%AE%E6%99%82%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E3%81%8C%E5%8B%95%E3%81%84%E3%81%9F+%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%AE%E5%A5%B3%E7%8E%8B%E3%83%BB%E5%8D%91%E5%BC%A5%E5%91%BC+

21. 中川隆[-7870] koaQ7Jey 2018年4月09日 22:59:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10066]

『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く―』(新潮文庫)
https://www.amazon.co.jp/%E8%91%AC%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%8E%8B%E6%9C%9D%E2%80%95%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%87%BA%E9%9B%B2%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8F-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E6%A2%85%E5%8E%9F-%E7%8C%9B/dp/4101244146/ref=pd_lpo_sbs_14_t_0?_encoding=UTF8&psc=1&refRID=5TZM39ZEVGQSN0YTP10M


著者は梅原猛。
哲学者にして日本文化の深層を解明する論考を世に問うている泰斗である。  

この本は梅原の著作のなかでも重要な意味をもっている。  

梅原はかつて『神々の流竄』(集英社)という本で「出雲神話はヤマトで起こった物語を出雲に仮託したものだ」という説を唱えた。出雲神話などフィクションだという立場をとっていたのだ。

しかし、出版から40年を経て、梅原は自らの説を否定し、出雲王朝は神話ではなく事実であったと、その存在をフィールドワークも加えながら検証している。  

出雲王朝を語るうえで重要な資料となるのは『古事記』、『日本書紀』、『出雲国風土記』があるが、記紀については大きく2つのとらえ方がある。  

ひとつは本居宣長の唱えた「『古事記』こそ日本の「神ながらの道」が記された神典である」という説。
もうひとつが、津田左右吉による、「記紀の応神天皇以前の記事は、6世紀末に創作された、天皇家に神聖性をもたせるためのフィクションであった」という説である。  

第二次世界大戦以前は宣長の説に支配されてきたが、戦後の歴史学者の多くは津田の説によっており、現在もその声は大きい。

梅原は『神々の流竄』において、中臣鎌足の嫡子である藤原不比等を日本歴史偽造の中心人物と考えた。それについては正しいという立場は現在も変わっていない。
梅原が自分の説に疑問を抱いたのは、出雲神話だけでなく日本の神話はフィクションであると断じたことにあった。  

というのも、昭和59年(1984)に、島根県斐川町の荒神谷遺跡から358本の銅剣、6個の銅鐸、16本の銅矛が出土し、出雲の存在をフィクションであると一蹴することができなくなったのだ。  

この本では神社に残された伝承や祝詞、荒神谷遺跡などから発掘された大量の銅剣や銅鐸などの例証を挙げながら、出雲神話の伝承が事実に基づいていたことを明らかにしていく。

記紀に登場する神々やストーリーを解説するのは、読み解く側の視点によって見え方が変わってくる。ここでは梅原の解釈にしたがって話を進めていくことにしよう。 

日本人なら一度はヤマタノオロチ伝説を聞いたことがあると思う。
悪行により高天原を追われたスサノオが、高志(越)の国を荒らしていた八つの頭と八つの尾を持つヤマタノオロチを退治したという説話だ。オロチの尾を切り開くと、そこから三種の神器のひとつ、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ・草薙剣)が出てくる。  

この話は、出雲を治める「国つ神」の子孫アシナヅチが、毎年娘を食べにくるヤマタノオロチを退治してほしいとスサノオに懇願することからはじまる。
スサノオがヤマタノオロチを退治したのは出雲の国の鳥髪山の近くで、現在の奥出雲地方の木次(きすき)に当たる。
この一帯には、ヤマタノオロチにまつわる神社や伝承地がいまでも数多く点在している。

出雲の国の民の救済者となったスサノオは、アシナヅチの娘クシナダヒメと結婚し、?賀(須賀)の地に家を建てるのだ。
この?賀の宮の地は、鳥髪山から北東に15qほど離れた場所にあり、いまも須我神社として歴史を刻んでいる。

八重垣神社
所在地:島根県松江市佐草町227
TEL:0852-21-1148
奥の院の森の中には「鏡の池」があり、クシナダヒメの御霊が水底深くに沈んでいる。縁結びの神として知られ、硬貨を紙に乗せてお供えし、早く沈むと早く結婚できるという。
スサノオが住んだという場所は、出雲ではここだけではない。  

ヤマタノオロチを退治する際、クシナダヒメを隠す場所として選ばれたのが、斐伊川の川上から七里離れた「佐久佐女(さくさめ)の森」にあり、夫婦が住んだこの宮は八重垣神社となっている。  

梅原はこれらの地に残された数々の伝承や事実をつなぎ合わせ、スサノオこそが出雲王朝の初代王であると結論づけている。  

そしてその6代目として、古事記に兄弟の神々の従者として大きな袋を背負って登場するのが、オオナムヂことオオクニヌシである。  

八十神(ヤソカミ)たちは、稲羽(因幡/現在の鳥取市周辺)のヤガミヒメに求婚しようと、オオナムヂに重い荷物を背負わせて東方の因幡国に向かう。
この旅の途中に挿入される説話が、「因幡の素兎(しろうさぎ)」の話だ。
素兎はワニ(鮫)と八十神に翻弄され、いじめられるのに対し、オオナムヂだけがやさしく兎を介抱する。その結果、ヤガミヒメが結婚相手に選んだのが一番身分の低いオオナムヂであった。

当然、八十神たちの嫉妬は激しさを増す。
兄弟の神々の画策により、オオナムヂは殺されてしまう。
嘆き悲しんだのはオオナムヂの母、サシクニワカヒメだった。母は高天原に参上し、出雲の守護者であるカミムスビに助けを乞う。カミムスビはふたりのヒメを遣わし、オオナムヂを治療し、見事に蘇生させる。

しかし、八十神の迫害は止まらない。

身を案じた母のサシクニワカヒメは、紀伊国(和歌山県)のオオヤビコの元へとオオナムヂを逃がしてやる。
それでも追手がやってくるため、オオヤビコの手引でスサノオのいる根之堅洲国(ねのかたすくに/黄泉の国)へと送ってやるのだ。

黄泉の国では祖先であるスサノオが王であった。
スサノオは、オオナムヂを温かく迎えたわけではなく、いくつかの試練を与える。  

そこでオオナムヂの苦難を救ったのは、スサノオの娘であるスセリビメだった。
愛を交し合ったふたりは、スサノオの隙を突き、宝物である太刀と弓矢と玉飾りのついた琴を抱えて逃げ出す。
スサノオは我が娘スセリビメを奪っていったオオナムヂが憎いのだが、その反面、この娘婿がかわいくてしかたがないのが、和歌からありありと伝わってくる。

黄泉の国から帰ったオオクニヌシことオオナムヂは、苦難を克服する強い男に成長していた。  

八十神を討つため、オオクニヌシが最初に城を構えたのは、木次町里方の妙見山の尾根筋に位置する城名樋山(きなひやま)であったという。
ヤマタノオロチを退治した、スサノオゆかりの地で挙兵したオオクニヌシは、出雲平野の北部の地を占領して出雲の王となった。
正妻には黄泉の国より連れてきたスセリビメを迎えたが、最初の妻であった因幡のヤガミヒメはスセリビメを恐れ、因幡へと帰って行った。  


熊野大社
所在地:島根県松江市八雲町熊野2451
TEL:0852-54-0087
古代出雲において、最も格式が高い一之宮とされたのが熊野大社。出雲大社の宮司が亡くなって引継ぎが行われる際、直ちに熊野大社の「鑽火殿」に赴いて「火継」の式を執り行わなければならない。
兄弟神を征伐し、大国の王を継いだオオクニヌシは、次にヌナカワヒメという女王が支配する越の国に軍を進める。
ヒスイを産出する糸魚川を支配する越の国は、豊かな富を誇っていたに違いないと梅原は説く。
ヒスイは縄文時代より「玉」という呪力を持つ宝石であった。  

オオクニヌシはヌナカワヒメと契りを結び、しばらく越の国で暮らす。
ヌナカワヒメとの間に生まれたタケミナカタは、「国譲り」の際に最後までヤマト王朝に抵抗することになる。その後、戦いに敗れ、諏訪に追いやられて諏訪神社の祭神となっている。  

越を征服したオオクニヌシは、出雲へ戻るとすぐにヤマト(奈良県)へと向かう。
その様子は古事記の、正妻スセリビメとオオクニヌシとの間で交わされた和歌に表れている。遠征先で次々に女性を娶るオオクニヌシに対し、嫉妬心を抱くスセリビメ。オオクニヌシはその心中を察しながら、妻に癒す言葉を返すのだ。

このヤマト遠征の旅については、『古事記』にも『日本書紀』にもその記述がない。
しかし、梅原は「オオクニヌシの大勝利に終わったことはほぼ間違いないと思われる」という。
関西周辺にある神社に、オオクニヌシやその子ら、同神といわれるオオモノヌシなど、出雲系の神を祀った古社が非常に多いことに着目する。  

ヤチホコノカミという別名を持ち、日本海沿岸だけでなく近畿、四国、山陽までをも支配下においていたと思われるオオクニヌシだが、戦争で征服するのと統治するのとは違う。  

梅原が指摘するのは、どこからともなくオオクニヌシを補佐する有能な参謀が現れるということだ。

 『古事記』によれば、オオクニヌシが島根半島の東端にある「御大の御前」(美保関の岬)にいるときに、「羅摩(かがみ)の船」に乗ったスクナヒコナが登場する。
「羅摩」というのは多年草の蔓草のガガイモの古名であり、その実を割った姿が小舟に似ている。それに乗ってきたというのだから、小人のような神である。そう梅原は推測する。  

『古事記』では、出雲の守護者カミムスビ(タカミムスビ)には1500もの神の子がおり、スクナヒコナは指の間からこぼれ落ちた子で、『日本書紀』には自分の教えに従わなかった悪い神であるとされている。  

ところが、オオクニヌシは、海を渡って他の国からやってきたと思われる素性のわからないスクナヒコナを、国造りの最大の協力者として重用するのだ。  

オオクニヌシとスクナヒコナの最大の功績。それは医療技術をもたらし、民の命を救ったことであると梅原は指摘する。  

その施設のひとつが、スクナヒコナが発見し、温泉療法を伝えた玉造温泉である。  


玉造温泉 湯之助の宿 長楽園
所在地:島根県松江市玉湯町玉造323
泉質:ナトリウム・カルシウム−硫酸塩・塩化物泉(低張性弱アルカリ性高温泉)
源泉:69.7度
pH:8.1
TEL:0120-62-0171
120坪の大露天風呂「龍宮の湯」をはじめ、すべての浴槽が加温、加水をしない源泉かけ流しになっている。残念ながら日帰り入浴はない。
ここまできて、ようやく温泉の話にたどり着いた。

玉造温泉は、出雲大社の宮司が沐浴して身を清めなければならない聖泉とされている。  

『出雲国風土記』によれば、宮司である出雲国造が都へ就任あいさつの詞(「出雲国造神賀詞」)を奏上しに都へ上る際、「御沐(みそぎ)の忌の里」である玉造へと向かう。
「再び沐(ゆあみ)すれば、万(よろづ)の病悉(やまいことごと)に除(い)ゆ」とあり、万病に効いたことが記されている。

『日本鑛泉誌』(明治19年・内務省衛生局編纂)に、玉造温泉の歴史について興味深い記述がある。

温泉の発見は養老年間(717−724)であるらしい。というのも古の温泉は洪水によって失われており、再興したきっかけは佐々木義綱(富士名義綱か/?―1336)にある。
義綱が病に倒れ、家族が仏神に祈ると、夢のなかに源泉のありかが示されたという。その温泉に入ることで義綱は治癒し、延慶2年己酉(1309)7月、義綱は医王の祠を造営した。
温泉はその後も興衰を繰り返し、寛永18年辛己(1641)、出雲松江藩主松平直政(1601−1666)が浴場を修補する、と記述されている。  

さて、スクナヒコナの功績は、医療だけではなかった。  

この神は醸造技術ももたらし、記紀にも「スクナヒコナの造った酒が美味しい」という歌があるほどだ。  

王朝が変わっても、オオクニヌシとスクナヒコナの政治に対する賛美は日本各地に残っていた。
国造りに励んだスクナヒコナだが、国造りが一段落すると突如姿を消してしまう。
出雲国内についての後継者争いについて、『古事記』や『日本書紀』、『出雲国風土記』にその記述はない。だが、梅原は『伊予国風土記』の逸文のなかに、ふたりの決定的な争いの様子が残されていることを示す。  

ともに国を造ってきた間柄ではあったが、暴力をふるうオオクニヌシに対し、これ以上協力するわけにはいかず、これからの出雲の近い将来の衰亡を予見して王国を去ったのではないか、と梅原はまとめている。  

その後、出雲王朝がどのようにしてヤマト王権に敗れていくのか。ここでは触れないでおこう。  

たとえヤマト王権に敗れ、歴史書から抹殺されていたとしても、万民に愛され、そして語り継がれてきたからこそ、オオクニヌシの物語は現在もこうして全国に遺されている。  
http://www.smart-acs.com/magazine/12110103/onsen001.php


22. 中川隆[-7869] koaQ7Jey 2018年4月09日 23:06:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10066]

梅原猛氏は、『水底の歌』の中で、「雲は、古代人にとって、死霊の行末であった。死霊が雲になり、雨になるのである」と指摘している。

たとえば、『万葉集』巻二に、「柿本朝臣人麿の死(みまか)りし時、妻依羅娘子(よさみのをとめ)の作る歌二首」がある。

今日今日(けふけふ)とわが待つ君は石川の貝に交(まじ)りてありといはずやも(224)

直(ただ)の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲(しの)はむ(225)

諸説あるらしいが、梅原氏の解釈では、この二首は以下のような状況で歌われている。

人麿は死んだ。妻は人麿の死を聞いて現場へかけつける。それが、石川のほとりである。女は、その河の河口まできた。夫に逢いたい、せめて、その屍(しかばね)なりと見たいと女はいう。しかし、その屍は河口近くの海に沈んで、どこにあるのか分からない。そして女が詠んだのが、最初の歌である。

女はここに来たけれど、夫の死骸すら見ることができない。「直の逢ひ」とは、せめて死体なりとも逢いたいという願い、すなわち直接の邂逅(かいこう)をいう。しかし夫の死体は(海底の貝に交じって)、どこへ行ったのか分からない。それで女は叫ぶのだ――せめて石川にいっぱい雲が立ちこめておくれ、その雲を見て夫を偲ぼうと。

《雲が、古代日本人にとって、死人の魂の行方を示すものであることは、依羅娘子(よさみのをとめ)の二首目の歌によっても分かる。夫が沈んだという石川の河口までたずねて行って、妻は歌う。

「せめて雲よ、死んだ人の霊の行方だという雲よ、どうかいっぱい石川に立ちこめて、せめて亡き夫の霊魂の存在を私に知らせておくれ」と。》

もう一つ、菊地威雄(よしお)氏の『万葉の挽歌』(2007年)を読んでいたら、「鳥は霊魂の運搬者である」という指摘があった。

たとえば『万葉集』巻二に、「大后(おほきさき)の御歌一首」(153)がある。

鯨魚(いさな)取り 淡海(あふみ)の海を 沖放(さ)けて 漕(こ)ぎ来る船 辺(へ)付きて 漕ぎ来る船 沖つ櫂(かい) いたくな撥(は)ねそ 辺(へ)つ櫂 いたくな撥ねそ 若草の 夫(つま)の 思ふ鳥立つ

(近江の海の沖べを漕いでくる舟よ。岸辺について漕いでくる舟よ。沖の櫂もひどく水を撥ねはいでおくれ。岸辺の櫂もひどく水を撥ねないでおくれ。若草のようにいとしい夫が愛していた鳥が、驚いて飛び立ってしまうではないか。)

この歌について、菊地氏は、こういうことを言っている。

《水面を「いたくな撥ねそ」と歌うのは、水音に驚いて若草の夫の「思ふ鳥」が飛び去ってしまうからである。鳥が霊魂の象徴であることを示す伝承は、魂が白鳥になって天がける倭建命(やまとたけるのみこと)の物語をはじめ数多い。鳥は霊魂を運ぶ器でもあった。》

《天智天皇が生前愛していた水鳥が飛び去ってしまうことは、天皇の霊魂が天がけることである。湖上に浮かぶ鳥は倭姫にとっては天皇を偲ぶ唯一のよすがであった。》

ちなみに、船もまた霊魂を運ぶと考えられていたらしい。
http://h.hatena.ne.jp/matsuiism/228172354017557204


23. 中川隆[-12642] koaQ7Jey 2018年5月27日 13:16:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-14470]


hoh********さん 2016/2/13 01:29:09
神武東征は実際にあったとすれば、西暦何年頃の出来事だと思いますか?


pin********さん 2016/2/13 21:23:55

「日本書紀の神武紀」を見ると、彼らは、大阪湾までやってきて、「登美のナガスネヒコ」との戦闘の時に、舟で日下の蓼津(現在の東大阪市日下町付近)まで進出して来ます、そこでの戦闘で、兄の五瀬命が負傷したので、南方(現在の大阪市淀川区西中島南方付近)を舟で経由して撤退し血沼海(茅渟海、大阪湾)に出たとの記述があります。

現在の地形では、「蓼津も南方」も陸地で、舟で到達したり通過したりすることができません。

でも、250年から300年頃の弥生時代の後半には、大阪湾の奥に河内湾というのがあり、この二つの湾を分断するような半島状の地形(片町台地)の先端部分が開いていて、海水が河内湾にも流入していたのです。

その後、堆積物によりふさがって河内湖になり、ふさがったところが「南方」です。

このように、「神武」が東征してきた時の状況がリアルに伝えられていますので、時期としては、250年から300年ごろのことだと考えられます。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13155826588


24. 中川隆[-13789] koaQ7Jey 2018年12月15日 21:15:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22171] 報告

2018.08.27
ニギハヤヒ(饒速日命)とは|その正体や瀬織津姫が妻説など解説
https://shinto-bukkyo.net/shinto/kamisama/%E3%83%8B%E3%82%AE%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%83%92-%E9%A5%92%E9%80%9F%E6%97%A5%E5%91%BD/

ニギハヤヒとはどんな神様?

ニギハヤヒ(饒速日命/ニギハヤヒノミコト)という神様について調べたあなたは、どのような正体を持つ神様であると思っていますでしょうか。

アマテラスオオミカミと同一説

スサノオノミコトの子孫で物部氏の先祖という説

実は日本という国を最初に作ったという伝説の神様

はたまた宇宙人?

ニギハヤヒという謎に包まれた神様は、古事記や日本書紀という書物の中ではあまり多く語られていないのに、とても不思議で重要な神様の役割をしています。

それ故にたくさんの伝説があります。

今回はそんな様々な伝説がどうやって生まれたのか?

またそれらはどの程度あり得るのか?を見ていきましょう。

ちなみに、筆者の私の家は昔から石切劔箭神社にお参りをしている家庭に生まれたので石切さん(石切劔箭神社の通称)の説を基本的に信じていますが、どの説も間違っているとは考えていませんので、ご了承ください。

ニギハヤヒノミコトという神様には様々な俗説が

先ほど少し見ましたが、ニギハヤヒという神様には、たくさんの俗説(伝説)があります。

あまりにも突拍子もない俗説から、神話の中でさえもたくさんの理解があるため、ニギハヤヒという神様はとても謎の多い神様です。

簡単にどのような説があるのか、俗説以外にも、江戸時代から議論されているようなまじめな説など、少し上げてみましょう。
1アメノホアカリ(天火明命)という神様と同じ?
2オオナムチ(オオクニヌシ/大国主命)の子供?(スサノオの子孫)

ここは実は、ニギハヤヒという神様が古事記や日本書記以外で記された書物の中で出てくるもので、昔からの議論の対象となっている説です。

この他に、いわゆる俗説で次のような説もあります。
1ニギハヤヒは実はアマテラスオオミカミである!?
2ニギハヤヒの妻は瀬織津姫という神様!?
3ニギハヤヒは宇宙人?さらに同じく瀬織津姫も宇宙人でシリウス文明が…(?)
4ニギハヤヒは龍神を操る?
5ニギハヤヒは中国の皇帝が不老不死の薬を求めて日本に遣わした徐福と関連が?

と言った様々なにわかには信じがたい説がたくさん存在しています。

こういった説が一体全体どんな説なのかを考える上で、一般的に広まっている日本神話の中のニギハヤヒという神様について見ていきましょう。

ニギハヤヒは漢字で書くと

ニギハヤヒと言う神様はニギハヤヒノミコトと正式には呼ばれ、漢字では次のように書きます。
饒速日命
饒速日尊
邇藝速日命
櫛玉饒速日命

ニギハヤヒの別名は?

日本神話の他の神様の例に漏れず、ニギハヤヒもたくさんの名前を持っています。
櫛玉命

このほかに、古事記や日本書記以外の書物でニギハヤヒは別の神様と同一と考えられるという記述も存在します。
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)

先代旧事本紀ではニギハヤヒは上でみた天火明命(アメノホアカリノミコト)と同一と見られます。

そのためアメノホアカリノミコトの持つ別名もニギハヤヒノミコトの別名とも考えられます。
天照國照彦天火明尊(あまてる くにてる ひこ あめのほあかり の みこと)
天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかり)
彦火明命
膽杵磯丹杵穂命
天照御魂神

このたくさんの書物での一説にまとまらないことがニギハヤヒを謎めいた、伝説の多い神様にしているのです。

ニギハヤヒの日本神話の物語

たくさん説のあるニギハヤヒですが、まずは最も知られている日本神話の中での説を見ていきましょう。

ニギハヤヒの系図・関連する神様
登美夜毘売(とみやひめ,三炊屋媛(みかしきやひめ))(妻)
長髄彦(ながすねひこ)(義兄)
可美真手命(うましまでのみこと)(子)
神武天皇(カムヤマトイワレビコ)(後に臣下に下る)

日本書記・古事記以外の神話の中で関連する神
天照大御神(アマテラスオオミカミ)(祖母)
天香山命(アマノカグヤマノミコト)(子)
瓊瓊杵尊/邇邇芸命(ニニギノミコト)(弟もしくは子)
須佐之男命(スサノオノミコト)(祖父もしくは父)
大国主命(オオクニヌシノミコト)(父)
物部氏・穂積氏・古積氏・尾張氏(子孫)

ニギハヤヒが天磐船(アマノイワフネ)で河内国に降臨

ニギハヤヒの物語の参考はこちら
http://www.ishikiri.or.jp/yuisyo/mythology/

ニギハヤヒノミコトはアマテラスオオミカミから十種の瑞宝/十種神宝(とくさのかんだから)という人を治め、身や心の病をいやす霊力をそなえた様々な神器を受け、天磐船(アマノイワフネ)という船で高天原から降臨されました。

十種の瑞宝の中の有名なものは「フツノミタマの劔」と高天原から降臨した天津神である証明となる「天羽々矢(アメノハハヤ)」です。

これらを持ち、ニギハヤヒは神様として、河内国(今の大阪の東南の地域)に向かいます。

その当時、そのあたりは鳥見(登美/とみ)と呼ばれる地域で、長髄彦(ナガスネヒコ)という首長とその一族が治めていました。

その長髄彦(ナガスネヒコ)や一族はとても好戦的でしたが、天津神という神様のニギハヤヒと会いその先進的な文化の差を感じ争わずにニギハヤヒに従うことになりました。

そして妹の登美夜毘売(とみやひめ,三炊屋媛(みかしきやひめ))と結婚します。

十種の瑞宝/十種神宝(とくさのかんだから)

これは、以下に見る2つの鏡、1つの剣、4つの玉と3つの比礼(女性の服飾)です。
沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)
蜂比礼(はちのひれ)
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)

ニギハヤヒと神武天皇の東征

ニギハヤヒが鳥見(登美/とみ)の里を治めて繁栄を謳歌していたときに、神武天皇(この当時は天皇ではないのでカムヤマトイワレビコと呼ばれている)が東征をされます。

神武天皇は大阪の浪速国の白肩津に上陸をされると、長髄彦(ナガスネヒコ)率いる軍勢に追い返されます。

一度は失敗しましたが、その後神武天皇は別のルートから攻めます。

そして長髄彦(ナガスネヒコ)のいる生駒山まで行きます。

そこで、長髄彦(ナガスネヒコ)とまた戦います。

その戦いの最中、神武天皇は自分がアマテラスオオミカミの玄孫であり、この土地を治めに来たと言いますが、長髄彦(ナガスネヒコ)はそのことを信じず戦闘が続きます。

やがて、金色のトビが空からやってきて、光輝き戦闘ができなくなります。

その時に長髄彦(ナガスネヒコ)はこのように神武天皇に伝えます。

「何ゆえこの土地を攻めるのか?私たちは天津神の櫛玉饒速日命(クシタマニギハヤヒノミコト)に従い、この土地を守っている。あなた(神武天皇)は天津神の子孫と言ったが、こちらはニギハヤヒノミコト様という天津神の元でこの土地を収めている。

お前は偽物の神様だろう!」と。

そこで、神武天皇と長髄彦(ナガスネヒコ)はそれぞれが自分たちが天津神に関わるものだということを天羽々矢を見せ合いました。

どちらも本物だとわかったのですが、長髄彦(ナガスネヒコ)は戦いをやめなかったためにニギハヤヒは長髄彦(ナガスネヒコ)を殺し、神武天皇に従うことを誓いました。

ニギハヤヒの物語の参考はこちら
http://www.ishikiri.or.jp/yuisyo/mythology/

ニギハヤヒにまつわる様々な説

ニギハヤヒは上記の物語がありますが、たくさんの説・物語を持っている神様と冒頭でも説明しましたが、他にどのような説や物語があるかを見ていきましょう。

ニギハヤヒの正体とは?

まず、ニギハヤヒという神様は、日本神話を記した有名な書物の日本書記と古事記でも統一した記述はありません。

他の書物ではさらに全く違う記述がされています、

ニギハヤヒはアマテラスオオミカミの孫?

ニギハヤヒはアメノホアカリと同一と書かれています。(先代旧事本紀)

アメノホアカリとニギハヤヒが一緒なのであれば、アマテラスオオミカミの子のアメノオシホミミと高木神の娘のヨロヅハタトヨアキツシヒメとの間に生まれた子供がニギハヤヒということになります。

これは簡単に言うと、

天孫降臨で有名なニニギノミコトの兄を意味します。(父という記述をした書物も)

つまり、ニギハヤヒは天孫族というアマテラスオオミカミの系統で、神様の中でも特に位が高い神様で、

しかも葦原中津国に降臨をしたニニギノミコトより先に降臨していたということです。
アマテラスオオミカミについて詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。
アマテラスオオミカミ(天照大御神)とは|伊勢神宮の神社史や神話の姿

ニギハヤヒは出雲王朝(スサノオ)の子もしくは孫?

播磨国風土記という、兵庫県の播磨地方の歴史を記した奈良時代の書物の中では、ニギハヤヒは出雲王朝の子孫と言われています。

出雲王朝を作ったきっかけは、アマテラスオオミカミの弟の神様であるスサノオノミコトとその子供のオオクニヌシノミコト(大国主命/オオナムチ)という神様です。

ニギハヤヒはその王朝から現在の奈良の大和地方に向かったとも言われています。
スサノオノミコトやオオクニヌシノミコトについて詳しく知りたい方はこちらをご覧ください。
スサノオノミコト(素戔嗚尊)とは|神話(ヤマタノオロチ等)、ご利益等を解説大国主命(オオクニヌシノミコト)とは?ご利益や神社の情報や国譲り等神話の物語も解説

ニギハヤヒは物部氏の始祖?

物部氏とは、奈良時代の蘇我氏が政権の中央に出るまで、政治・祭司の中心的な氏族として有名でした。

その物部氏はニギハヤヒノミコトの子孫と伝えられています。

物部氏をルーツとする武将は数多くおり、武士(もののふ)の家柄だとも言われています。

日本で最も古い家系図とも言われる海部氏の系図には様々な氏族がニギハヤヒ・天火明命の子孫と根拠が得られます。

ただし、様々な説が多くあるために、疑問視する人も存在します。

ニギハヤヒとアマテラスオオミカミの男性神?

ここからは少々スピリチュアルな説が続きます。

ニギハヤヒノミコトの正式な名前が、
天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと)

と表記されます。

この名前の最初の天照(アマテラスともアマテルとも発音)の表記から、「太陽神」つまりアマテラスオオミカミの男性神として生まれたのではと主張する説があります。

そもそもイザナミノミコト・イザナミノミコトという双神で国ができたという話や、太陽神とは陽(男性神)で、月が陰(女性神)という考え方から日本の皇祖神がアマテラスオオミカミ(女性神)だけということに疑問を持つ人たちがいます。

この説はそういった人の推論の上に成り立っているものです。

古代のロマンを感じるものですね。

ニギハヤヒは宇宙人という説

スピリチュアルが好きな方がネット上にたくさんの意見を乗せていて、その一つにニギハヤヒは宇宙人であるという意見もあります。

これは学術的な背景を持っている説ではありません。

この説は、ニギハヤヒの妻の瀬織津姫という女神は、シリウス文明の女神であるという説や、エジプトその他神話を持つヨーロッパ・中東地域の神とつなげるという説の様です。

ニギハヤヒとユダヤ?

古代のロマンが好きな人なら「日ユ同祖論」と呼ばれる、イスラエルに存在した部族の一つが日本に流れ着き王朝を立てたというニコラス・マクラウド氏が明治時代に提唱した意見を聞いたことがあると思います。

この意見では、日本の神様の名前の音がヘブライ語に似ているウガヤフキアエズという神様がユダヤの王と同一という考え方等たくさんの説があります。

ニギハヤヒもその一つという考え方です。

ニギハヤヒと龍神(白龍)の関係がある説

これは後半で考察をする、ニギハヤヒの妻は瀬織津姫ではないか?という説に関わるものです。

ニギハヤヒの妻と言われる瀬織津姫は日本の神話には出てこないのに、神道の大祓詞にでてくる神様で大変謎の多い神様です。

この神様は龍神様であるという説が存在しニギハヤヒは龍神と関りがあるという説があります。

また、千と千尋の神隠しに出てくるハクという白龍になる少年。

彼はニギハヤミコハクヌシという本名を持っているためニギハヤヒと龍の関係に注目が集まったのかもしれませんね。

ニギハヤヒと徐福

さらにはニギハヤヒは徐福という中国の秦王朝の時代に皇帝から不老不死の薬を探して来いと日本に遣わされた人物と関係があるという説もあります。

大神神社(奈良)の大物主はニギハヤヒという説

また、大物主(オオモノヌシノカミ)というご祭神を祀る、日本で最も古い神社の一つと言われる大神神社(おおみわじんじゃ)にもニギハヤヒは関係すると言われています。

ただし、大神神社の公式の見解にはありません。

また三輪王朝と呼ばれる、仮説に基づく考えがあるなど、その真偽は不明です。

ニギハヤヒの妻は瀬織津姫?

上で見てきたようにニギハヤヒには本当かな?と思うような説がたくさんついて回っています。

その中でも特に根強い支持を集めているのが、このニギハヤヒと瀬織津姫が夫婦だったというものです。

瀬織津姫という神様は、先ほども述べましたが、日本の神話には出てこないが、大祓詞の中に名前が出てくる神様で、伊勢神宮の内宮(アマテラスオオミカミを祀る社)の別宮荒祭宮の別名が瀬織津姫であるという記述がいくつかの書物でされています。

他にも兵庫県西宮市の廣田神社では現在はアマテラスオオミカミを祀っていますが、以前は瀬織津姫を主祭神と祀っていたと戦前までの記録にはあります。

また、日本の神社の中で、ニギハヤヒと瀬織津姫と同一とみられる神々が一緒に祀られる神社があると言われてもいます。

ニギハヤヒがアマテラスオオミカミの男性神として、瀬織津姫がアマテラスオオミカミの女性神だという主張も存在します。

瀬織津姫について詳しく知りたい方はこちら

参考:瀬織津姫とは?封印された龍神・弁財天とも言われる伝説の神様を解説!

ニギハヤヒノミコトが祀られている神社・神宮

ニギハヤヒはそもそも神話内でも明確な表記がないことから上記で見たようなにわかには信じられない説が数多くあります。

それでも、重要な神様として、日本の各地でニギハヤヒノミコトを祀る神社が存在しています。

それらの神社について見ていきましょう。

石切劔箭神社(いしきりつるぎやじんじゃ)

日本で最も有名なニギハヤヒノミコトとその子の可美真手命/宇摩志麻遅命(うましまでのみこと)を祀る神社です。

神話の中でニギハヤヒノミコトが降臨し、統治の中心とした場所と言われる河内の国にある神社で、ニギハヤヒの子孫の物部氏の有力氏族の木積氏が代々神主を務める神社です。

公式サイト:http://www.ishikiri.or.jp/

磐船神社(いわふねじんじゃ)

ニギハヤヒを祀る神社の中でも、ニギハヤヒが降臨されたときに乗っていたという天磐船(アマノイワフネ)だと言い伝えられる巨石がある神社です。

所在地:大阪市交野市私市9-19-1

籠神社(こもじんじゃ)

籠神社のご祭神は彦火明命(ひこほあかりのみこと)という神様で、ニニギノミコトの兄弟神として地上に降臨し籠神社のご祭神となったとされます。

この彦火明命の別名が「饒速日命(ニギハヤヒノミコト)」とされます。

籠神社は丹後国一宮という古くから皇室でも重要視されている神社であり、国宝の海部氏系図という、神代からの家系図が残る由緒正しい神社です。

さらにこの籠神社の伝承では、彦火明命は宗像三女神のイチキシマヒメ(市杵島姫命)を妻としたと言われています。

このイチキシマヒメは瀬織津姫と同一視される神様と言われています。

籠神社公式サイト:http://www.motoise.jp/index.php

ニギハヤヒの墓

ニギハヤヒは逝去された時、そのご遺骸は天に上っていったとされます。

そのため、ニギハヤヒが埋葬されたというお墓はありません。

ですが、ニギハヤヒの妻がニギハヤヒの遺言に従い、鳥見の白庭にニギハヤヒの遺品を埋めたという言われ、その鳥見の弓塚と言われます。

その伝説が語られる場所は現在も存在します。
饒速日命墳墓(奈良県生駒市白庭台5-9-1)
真弓塚(奈良県生駒市上町5002)

ニギハヤヒのご利益・ご神徳は?

様々な神社で祀られ様々なご利益御神徳をお持ちと考えられています。
腫物(癌等)の守護(石切神社)
病気平癒(磐船神社)
諸願成就

ニギハヤヒノミコトの神格
太陽神
穀物の神
呪術の神
航空の神
https://shinto-bukkyo.net/shinto/kamisama/%E3%83%8B%E3%82%AE%E3%83%8F%E3%83%A4%E3%83%92-%E9%A5%92%E9%80%9F%E6%97%A5%E5%91%BD/

25. 中川隆[-10518] koaQ7Jey 2019年4月29日 10:15:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1568] 報告

古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3

内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
歴史利用による日本賞賛は、一種の宗教である 2019年3月5日


 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RCQT9M0397NL/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4886563694

26. 中川隆[-10507] koaQ7Jey 2019年4月29日 13:48:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1579] 報告


「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く! (宝島社新書 296) – 2009/9/10
安本 美典 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4796673482?_encoding=UTF8&isInIframe=0&n=465392&ref_=dp_proddesc_0&s=books&showDetailProductDesc=1#product-description_feature_div

内容紹介

箸墓の出土物が放射性炭素年代測定で卑弥呼の生きた時代と一致したとの発表で、邪馬台国畿内説がいっきに盛り上がってきました。しかし、そもそもこの発表の真偽のほどが疑わしく、さらに考古学的な事実や文献学的な史実からかけ離れた邪馬台国畿内説には、まったく根拠がないのです。著者は邪馬台国北九州説の立場から、「邪馬台国畿内説、箸墓=卑弥呼の陵墓説」を、舌鋒鋭く粉砕します。

内容(「BOOK」データベースより)

よそおいは「科学的」、内容は「支離滅裂」!歴博の研究グループの「炭素14年代測定法」による「箸墓古墳は卑弥呼の墓説」は、捏造に等しい。


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

安本/美典
1934年、中国東北(旧満州)生まれ。京都大学文学部卒業。文学博士。産業能率大学教授を経て、現在、古代史研究に専念。『季刊邪馬台国』(梓書院発行)編集責任者。「邪馬台国の会」主宰者。情報考古学会会員。専攻は日本古代史、言語学、心理学。著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


カスタマーレビュー

hira
筆者の主張を知りたければ、『邪馬台国への道』を読むべき! 2019年3月20日


 本書は、国立歴史博物館の研究グループが、炭素14年代測定法により、箸墓古墳を3世紀半ばの造営と推定できたので、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が有力だと、発表したことへの批判から、はじまっていますが、結局は、代表作

『邪馬台国への道』
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93&i=stripbooks&adgrpid=60278501504&gclid=EAIaIQobChMIj-_P37704QIVVbaWCh1FmQf7EAAYASAAEgKPmvD_BwE&hvadid=338592697130&hvdev=c&hvlocphy=20638&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=e&hvrand=13828832324121605197&hvtargid=kwd-334597022393&hydadcr=16037_11170827&jp-ad-ap=0&tag=googhydr-22&ref=pd_sl_41xwlnckqn_e

で、取り上げられた説の繰り返しが、大半です。

 しかも、それらの説の根拠が、本書であまり記述されていないので、ここでは、それらを次のように、まとめましたが、その中には、前提が怪しく危うい説も、散見できます。


○邪馬台国=畿内説は、成り立たず

 邪馬台国論争は、「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国が、どこにあったかよりも、当時の日本列島で、最も繁栄していたのは、どこだったかのほうに、論点が摩り替えられ、本来は、青銅器・鉄器や土器等の出土と無関係ですが、筆者も、それを持ち出しているので、ますます混乱しています。

 「魏志倭人伝」によると、帯方郡〜邪馬台(壱)国間が、1万2000余里、帯方郡〜狗邪韓国間が、7000余里、狗邪韓国〜対馬国間・対馬国〜壱岐国間・壱岐国〜末盧国間が、それぞれ1000余里、末盧国〜伊都国間が、500里なので、伊都国〜邪馬壱国間が、1500余里以内となります。

 1500余里は、対馬国〜壱岐国間の約1.5倍なので、地図上で、どうみても、近畿まで到達できず、九州の北半分が限界なうえ、方位と距離の両方の書き誤りとなれば、「魏志倭人伝」自体の信憑性が、疑問視されるので、邪馬台国=九州北部説とみるのが、妥当です。

 ちなみに、対馬・壱岐の規模は、それぞれ400余里四方・300里四方、「魏志韓伝」によると、韓(馬韓・辰韓・弁韓)の規模は、4000里四方とあり、当時の1里=75〜90mで、1500余里=112.5〜135kmと算出できます。

 邪馬台国を、筆者は、福岡県朝倉市(平塚川添遺跡)付近に、想定していますが、納得できる根拠は、地名を列挙する程度で、希薄です。

○箸墓古墳=卑弥呼の墓説も、成り立たず

 邪馬台国=九州北部説が、妥当なので、箸墓古墳=卑弥呼の墓説は、当然成り立ちませんが、筆者は、歴博の研究グループが、不確実な炭素14年代測定法で、ホケノ山古墳・箸墓古墳等を、3世紀代と推定したことに反論し、4世紀代だと主張しています。

 特に、土器付着の炭化物は、実際より古い年代を示すようで、今後の科学的知見がないと、何ともいえませんが、大和での大型の前方後円墳の林立が、3世紀代からか、4世紀代からで、状況が多少異なり、筆者は、歴博の研究グループが、邪馬台国=畿内説を有利に、導こうとしたと指摘しています。

○天皇の平均在位年数

 筆者は、21〜50代の天皇29人(39代を除外)が、478(21代=倭王武が、宋皇帝に朝貢)〜793.5(50代の在位が、781〜806年と長期なので、その半分を算入)年の316年間なので、天皇の平均在位年数を、約10年(10.88年)としています。

 これは、神功皇后(14-15代の間)を5世紀初め(400年)に、崇神天皇(10代)を4世紀半ば(360年)に、位置づけることを中心に、組み立てられ、5世紀初めは、倭が、朝鮮半島へ渡海し、高句麗との交戦を断続的に開始した年代、4世紀半ばは、崇神天皇陵とされる行燈山古墳が造営された年代です。

 ですが、行燈山古墳=崇神天皇陵といえない等、各天皇の実在性・事績等は、不確定で、それら以前でも、10年/人を微妙に調整しており、崇神の9代前の神武天皇(初代)を3世紀後半(280〜290年)、神武の5代前のアマテラスを3世紀前半(239年)としています。

○邪馬台国東遷説への疑問

 この説は、3世紀前半に、九州北部にあった邪馬台国の一派が、いったん日向へ、そこから3世紀後半に、大和へ移動し、朝廷を樹立したとする主張で、これと整合させるため、筆者は、アマテラス=卑弥呼を3世紀前半に、神武天皇の東征を3世紀後半に、推定したとみられます。

 「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで、筑紫城に居住し、神武天皇から、大和州へ移住したとあります。

 また、「宋史日本国伝」では、初代がアメノミナカヌシ、23代(「新唐書日本伝」を訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 ただし、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 他方、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、移住直後は、まだ統治基盤が落ち着かないと推測されるので、東遷説と結び付けにくく、神武東征の時期が、もう少し古くないと、納得困難でしょう。

 東遷説の時期は、2世紀後半の倭国乱きっかけと、3世紀半ばの邪馬台国と狗奴国の戦争きっかけがあり、筆者には、3世紀前半に、後述の卑弥呼=アマテラス説があるため、3世紀後半を想定していますが、前述の鉄器の出土数の比較を勘案すれば、2世紀終りのほうが、妥当です。

 私は、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみており、17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、天皇の在位期間の平均が、約12年/人となります。

 1〜16代の17人を、12年/人とすれば、崇神天皇(10代)の即位は、4世紀初め(304年)になり、大和に大型の前方後円墳が林立しはじめた時期と合致し、神武天皇(初代)の即位は、2世紀終り(196年)になり、倭国乱後と合致します。

 そもそも、卑弥呼や壱与を輩出した邪馬台国が突然、遷都する理由はなく、大和に九州の影響が、ほとんどないので、もし、あるとすれば、倭国乱で敗走した勢力が、一時日向へ避難し、そこから大和へ進出した可能性で、それなら当時は、準構造船か丸木舟しかないので、東遷でなく、集団移住程度です。

 なお、九州北部(夜須町)と畿内(大和郷)の地名の一致は、天皇による東遷でなく、有力豪族でも成り立つうえ、斉明天皇(37代)が、新羅派兵で(白村江の合戦前)、朝倉宮まで出陣し、約3ヶ月生活したので、その際に命名した可能性も捨て切れず、これだけでは、東遷説の根拠といえません。


○卑弥呼=アマテラス説への疑問

 「日本書紀」では、神功皇后を卑弥呼と同一視しており、筆者は、卑弥呼をアマテラスに比定していますが、そもそも記紀神話で、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)は、6種類あり、そのうち、アマテラスが天皇の祖先なのは、「古事記」と「日本書紀」本文の2つです。

 そこでは、5男神(長男が天皇の祖先・アメノオシホミミ)が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘となっています。

 一方、「日本書紀」一書第一・第三と次の段の一書第三の3つは、5男神が、スサノオの息子、3女神が、アマテラス(日の神)の娘となっています(「日本書紀」一書第二の1つは、どちらの子供か、明記されていません)。

 ここから、元々は、5男神が、スサノオの息子で、3女神が、アマテラスの娘だったのを、アマテラスを天皇家の祖先神にするために、記紀神話の主要2ヶ所で、5男神が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘へと、改変したとも推測できます。

 よって、アマテラス‐アメノオシホミミ‐ニニギ‐ホオリ(山幸彦)‐ウガヤフキアエズ‐カンヤマトイワレヒコ(神武天皇)の系譜自体の、信憑性が疑問視されるうえ、そもそも筆者が、神代を人代の延長とし、神代でも、平均在位年数を、10年に設定するのは、疑問です。

 「日本書紀」で、タカミムスヒは、アマテラスよりも、天孫降臨の命令を主導しているので、元々は、タカミムスヒが、天皇家の祖先神とされ、天武天皇(40代)の時代に、アマテラスへ転換したとする説が有力です。

 そのうえ、「魏志倭人伝」によると、倭では、卑弥呼‐男王‐壱与と、王位継承されており、ニニギは男神なので、天皇家の祖先神の系譜と、合致しません。

 筆者が、卑弥呼=アマテラス説を主張するのは、「古事記」に登場する地名数から、出雲(2位)を葦原の中つ国に(本文にあり)、九州(1位)を高天原に(本文になし)、比定し、邪馬台国東遷説に結び付けたいからのようですが、すべてをつなげるのには、無理があります。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RO6D5A61LSNPK/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4796673482

27. 中川隆[-10502] koaQ7Jey 2019年4月29日 19:33:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1585] 報告

新書821伊勢と出雲 (平凡社新書) – 2016/8/10
岡谷 公二 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E6%9B%B8821%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E3%81%A8%E5%87%BA%E9%9B%B2-%E5%B9%B3%E5%87%A1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B2%A1%E8%B0%B7-%E5%85%AC%E4%BA%8C/dp/458285821X/ref=sr_1_13?qid=1556533857&refinements=p_27%3A%E5%B2%A1%E8%B0%B7+%E5%85%AC%E4%BA%8C&s=books&sr=1-13&text=%E5%B2%A1%E8%B0%B7+%E5%85%AC%E4%BA%8C


内容紹介
日本原初の記憶が刻まれた地でありながら、それぞれ別物とされてきた伊勢と出雲を、古代朝鮮の文化と鉄をキーワードにつなぎ直す。

内容(「BOOK」データベースより)
前著『神社の起源と古代朝鮮』から三年―。両者とも日本の起源が刻まれた地でありながら別物とされてきた伊勢と出雲を、「韓神と鉄」をキワードにつなぎ直す思索の旅の物語がはじまる。二大神社の繋がりの謎を解く。

著者について
1929年東京生まれ。 東京大学文学部卒業。跡見学園女子大学名誉教授。著書に、『柳田国男の青春』(筑摩書房)、『島の精神誌』(思索社)、『神の森 森の神』(東京書籍)、『南の精神誌』(新潮社)、『絵画のなかの熱帯』(平凡社)、『南海漂蕩』(冨山房インターナショナル、和辻哲郎文化賞)、『原始の神社をもとめて』『神社の起源と古代朝鮮』(いずれも平凡社新書)、訳書に、レリス『幻のアフリカ』、ルーセル『ロクス・ソルス』(いずれも平凡社ライブラリー)など多数。

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
起源・発祥から消化・吸収へ、外来から土着への進展も必要なのでは? 2019年3月10日


 音楽業界のアーティストの初期のアルバムが、よい曲が多く、高いクオリティーだったのに、しだいにアルバムで、よい曲が少なくなり、クオリティーが低がるのは、多々あることです。

 それは、おそらくデビュー前までの長期間、よい曲をたくさんストックしていたからで、そこから、よい曲をアルバムで出し尽くせば、個人には限界があるので、これまでと異なる新しいものを、短期間で生み出すのは、大変困難になり、これは、出版業界にも、いえることではないでしょうか。

 特に新書は、それが顕著で、続々編にもなると、似たり寄ったりになるのも散見でき、本作は、前々作『原始の神社をもとめて』・前作『神社の起源と古代朝鮮』に比べて、残念ながら、内容が薄いといわざるをえません。

 前々作でも、伊勢が(6章)、前作でも、出雲が(4章)、取り上げられていますが、それらを、朝鮮半島から西日本へ渡来人が流入した総論とみれば、本作では、伊勢・出雲の各論として、ヨリ詳細に、考察してもらいたかったところです。

 筆者は、渡来人を新羅・伽耶系とまとめていますが、それぞれの地域へ、いつの時期(弥生期・古墳期・飛鳥期等)に流入し、何をして、どう地域に溶け込んだのかが、不明なままなので、多少整理してもらわないと、内容の繰り返しになってしまうのではないでしょうか。

 たとえば、伊勢や出雲を、鉄と結び付けたいのであれば、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転したとされているので、それも勘案すべきです。

 鉄器は、1世紀後半〜2世紀に、山陽・山陰・近畿北部まで流入しましたが、畿内までは、あまり流入しておらず、3世紀初め〜半ばに、畿内が、ようやく山陽・山陰・近畿北部と同程度になっています。

 また、鉄器が西日本へ本格的に普及したのは、国外品の使用が、前漢による楽浪郡設置(紀元前108年)以降の紀元前1世紀から、国内鍛造が、おそらく1世紀頃から、国内鋳造が、伽耶諸国滅亡(532年に金官伽耶・562年に大伽耶が滅亡)以降の6世紀後半からです(岡山県・千引カナクロ谷遺跡)。

 さらに、鉄の原料には、鉄鉱石と砂鉄があり、鉄鉱石には、褐鉄鉱・赤鉄鉱・磁鉄鉱があり、褐鉄鉱は、葦・茅等の水辺の植物の根に、水中の鉄分が蓄積し、根が枯渇したものですが、これを原料にしても、磁鉄鉱より格段にもろく、石器より劣るようなので、とても使えないでしょう。

 よって、国内鍛造は、出雲では、弥生後期(2世紀)以降、伊勢では、古墳前期(4世紀)以降で、国内鋳造は、砂鉄によるタタラ製鉄の日本最古の想定でも、4世紀後半〜5世紀前半とみられています(兵庫県・入佐山3号墳の浜砂鉄)。

 そのうえ、倭は、4世紀終り〜5世紀初めから、朝鮮半島へ渡海し、高句麗と断続的に交戦、それ以降に渡来人が、日本列島へ大勢流入したうえ、新羅の実質上の建国が、4世紀半ばなので(それ以前は、12の小国があった辰韓)、鉄関連の新羅・伽耶系神社の創建は、古墳中期〜飛鳥期とみるのが自然です。

 朝鮮半島への仏教伝来は、高句麗・百済が4世紀(それぞれが372年・384年)で、新羅が6世紀と、約200年後なので、そこから、日本列島への流入は、「仏」が百済経由(538年か552年)で、その間の、渡来系の「神」が新羅経由と、推定されています(p.37)。

 一方、高麗の時代・12世紀半ば成立の「三国史記」によると、新羅王の初代が死去し、2代が始祖廟を創建、2代の妹が祭祀したのが、新羅での氏神信仰の起源とみられ、5世紀後半(487年)に、始祖廟が「神宮」と呼称され、これが伊勢神宮の名称や斎宮制に影響されたともいわれています(p.37-39)。

 たしかに、伊勢神宮の創建は、5世紀後半から6世紀後半まで、諸説あるようで、これらから、鉄関連の外来神は、5〜6世紀以後に流入したとも導き出せますが、鉄と結び付けなければ、それ以前も想定できるので、そのあたりが、どうも曖昧なのです。

 ただし、筆者は、新羅・伽耶系神社の祭神が、スサノオ・オオアナムチ・コトシロヌシ等の出雲の神なので、出雲の神も渡来系だとしていますが、祭神は、古代・中世(神仏習合の影響)や近世・近代(神仏分離の影響)等での変更・追加も、多々あるので、それらを精緻に調査してもらいたいです。

 仏教が本格的に普及したのは、飛鳥期〜奈良期で、仏寺に対抗し、神社が社殿化され、その時期の朝鮮半島は、唐勢力の排除(676年)後の統一新羅なので、朝鮮半島からの渡来系をすべて、新羅とみなし、命名された可能性もあり、百済遺民が大勢流入したのに、新羅系神社が大半なのも、気になります。

 私が着目しているのは、百済の王族が、天皇(持統/41代)から、百済王(こにきし)の姓が授与(690か691年)されたのが、百済滅亡(660年)の30か31年後で、高句麗の王族が、天皇(文武/42代)から、高句麗王の姓が授与(703年)されたのは、高句麗滅亡(668年)の35年後であることです。

 つまり、朝鮮の王族が、30〜35年で、大和政権の官僚の一員に取り込まれており、それは、かれらが、中央政府に有益なので、利用したかったからでもありますが、30〜35年経過すれば、渡来系氏族と区別されつつも、渡来人も土着人並に取り扱われ、外来が早急に消化・吸収(日本化)されています。

 ところで、大和政権は、天つ神(天神、天上の神)と国つ神(地祇、地上の神)を区分し、スサノオ・オオアナムチ(オオクニヌシ)・コトシロヌシ(オオクニヌシの息子)は、国つ神ですが、もし、筆者のいう、出雲の神が渡来系なら、外来の天つ神が、外来の国つ神に、国譲りを迫ったことになります。

 しかし、実際には、国つ神は、土着神で、天つ神は、外来神という位置づけですが、記紀神話では、土着の国つ神が、国作りしたよりも、外来の天つ神が、国生みしたほうが、優位なので、もし、外来どうしだったとしても、天皇が、日本列島を統治する根拠となるよう、うまく消化・吸収しています。

 このように、日本は、中国・朝鮮の起源・発祥だけに固執するよりも、それをうまく消化・吸収するのが特徴なので、筆者が今後も、神への祭祀・神社関連の新書を発表するなら、外来から土着への進展の考察も期待します。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R55T1YUOXJ2R0/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=458285821X

28. 中川隆[-10500] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:13:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1587] 報告

ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書) – 2010/11/20
吉村 武彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/ヤマト王権〈シリーズ-日本古代史-2〉-岩波新書-吉村/dp/4004312728/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

内容紹介
日本列島にはじめて成立した統一国家、ヤマト王権。その始まりはいつだったのか。最初の「天皇」は誰なのか。王宮や王墓の変遷は何を物語るのか──。『魏志倭人伝』等の中国の正史や金石文ほか、貴重な同時代資料に残された足跡を徹底的にたどりつつ、ひろく東アジア全域の動きを視野に、多くの謎を残す時代の実像に肉迫する。(全6巻)


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉村/武彦
1945年朝鮮大邱生まれ、京都・大阪育ち。1968年東京大学文学部国史学専修課程卒業、同大大学院国史学専攻博士課程中退。現在、明治大学文学部教授。専攻は日本古代史


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
古墳期の一元的・集権的な世界観から脱却せよ! 2019年2月16日


 本書のシリーズAは、@が弥生期、Bが飛鳥期なので、古墳期を範囲としており、日本列島で、7世紀後半から、律令制を本格的に導入した、中央政府の起源を、ヤマト王権とし、それが分権社会から集権社会へと、移行していった過程を、主に文献学から解説しています。

 したがって、本書では、考古学による、畿内以外の地域の状況は、ほとんど取り上げられていませんが、だからといって、日中の古代歴史書も、正当に史料批判されているとはいえず、ヤマト王権の初期から、大和中心の一元的な世界に偏重しており、現在でも、それが通説化しています。

 しかし、実際の古墳期は、もっと多元的な世界だったので、ここでは、異説を取り上げることで、本書にも問題点が、多々あることを、指摘しておきます。

○倭奴国(p.5-7)

 「後漢書倭伝」で、57年に、後漢の光武帝(初代)へ朝貢し、金印を授与されたのは、倭の奴国ではなく、倭奴国で、それは、「旧唐書倭国伝」に、倭国は、古(いにしえ)の倭奴国なり、「新唐書日本伝」に、日本は、古の倭奴なり、とあるからです。

 また、金印も、漢の委(わ)の奴(な)の国王ではなく、漢の委奴の国王、「隋書俀国伝」で、後漢の安帝(6代)の時代(106〜125年)に、使者を派遣・朝貢したのは、俀奴国、「後漢書倭伝」で、107年に、倭国王の帥升等が、安帝に奴隷160人を献上しているので、倭国=倭奴国=委奴国=俀奴国です。

 そうなると、金印の委奴国は、伊都(いと)国よりも、倭奴国の人偏を省略とみるのが適当で、「魏志倭人伝」には、倭の30ヶ国の他にも、倭種(倭人)の国があり、それらと区別するためか、中国は、匈奴と対照的に、「倭奴」の呼称にしたとも推測でき、57年・107年の後漢朝貢ともに、倭国です。

○邪馬壱国・壱与(p.12、23)と邪馬壱国九州説(p.13-17)

 3世紀後半成立の「魏志倭人伝」では、邪馬壱(旧字は壹)国と壱与でしたが、5世紀前半成立の「後漢書倭伝」では、邪馬台(旧字は臺)国に改変され、7世紀前半成立の「梁書倭国伝」では、なぜか祁馬台国となっています。

 7世紀半ば成立の「隋書俀国伝」では、邪靡堆(やまたい)=邪馬台、7世紀半ば成立の「北史倭国伝」では、邪摩堆=邪馬台と、踏襲されており、本書では、10世紀後半成立の「魏志」の抜粋が収録された「太平御覧」も、邪馬台国のようなので、「後漢書倭伝」で、改変されています。

 一方、壱与は、「後漢書倭伝」「隋書俀国伝」には、記事がなく、「梁書倭国伝」「北史倭国伝」で、台与に改変され、邪馬台国に改変された時期とズレており、どちらか本当かは、不明なので、勝手に改変すべきでなく、正確には、邪馬壱国・壱与です(「隋書俀国伝」を「隋書倭国伝」とすべきでないのと同様)。

 邪馬壱国=近畿(大和)説は、方位の東を南に書き誤ったとしていますが、魏は、倭に派兵しており、方位は、進軍・補給に大切なうえ、万一記載ミスなら、「魏志倭人伝」より後世に成立した「後漢書倭伝」で、狗奴国の方位を訂正・距離を追加した際に、そこも訂正してもよいはずではないでしょうか。

 邪馬壱国=九州説は、帯方郡〜邪馬壱国間を1万2000余里、帯方郡〜伊都国間を1万500余里、伊都国〜邪馬壱国間を1500里以内(対馬国〜壱岐国間の約1.5倍)としており、それを論破しないまま、はるか後世の15世紀初めの地図を持ち出し、邪馬壱国=近畿(大和)説を採用するのは、不充分といえます。

○銅鏡の価値(p.21)

 中国の銅鏡は元々、官営工房で製造されていましたが、やがて政権の庇護がなくなったため、工房が、自立するようになり、後漢末期の2世紀終りには、すでに民間工房の量産品が、中国市場に流通していたので、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、銅鏡の価値が、しだいに低下していました。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは、畿内が、政治の中心になったからではなく、価値の低下を認知していた九州北部が、輸入品を畿内へ、率先して販売した可能性があります。

 「魏志倭人伝」では、238年に、魏皇帝が、倭の卑弥呼へ、紺色地に曲線模様の錦3匹・まだらの花の細密模様の毛織物5張・白絹50匹・金8両・五尺刀2口・銅鏡100枚・真珠+鉛丹各々50斤を授与しており、銅鏡100枚は、五尺刀2口よりも後ろの記載なので、価値があまり高くないともいえます。

 銅鏡100枚は、魏の政権が、複数の民間工房に発注したとみられ、古墳期の銅鏡は、有力者から配布(下賜)されるよりも、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)で、大量入手したと推測できます。

○初代・10代と欠史八代の実在性(p.35-41)
 一書も含めた、記紀神話での、1〜10代の天皇の妻の出身は、次の通りです。

・神武(初代):日向(阿多、紀・記)、神の子孫(紀・記)*
・綏靖(2代):磯城(県主・ハエの妹=紀1・記)、春日(紀2)、神の子孫(紀本)*
・安寧(3代):磯城(県主・ハエの娘=紀1・記)、春日(大間、紀2)、神の子孫(紀本)*
・懿徳(4代):磯城2(県主・ハエの弟イテの娘=紀1、紀2)、皇族(紀本)*
・孝昭(5代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、大和(紀2)、葛城(尾張、紀本・記)*
・孝安(6代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、十市(紀2)、皇族(紀本)*
・孝霊(7代):磯城(紀本)*、十市(紀2・記)、春日(紀1・記)、皇族2(紀本×2・記×2)
・孝元(8代):河内(紀・記)、穂積(物部)氏2(紀×2・記×2)*
・開化(9代):葛城(記)、丹波(紀・記)、穂積(物部)氏(紀・記)*、和珥(丸邇)氏(紀・記)
・崇神(10代):紀伊(紀・記)、葛城(尾張、紀・記)、皇族(記)*

※紀本:日本書紀本文、紀1:日本書紀一書第一、紀2:日本書紀一書第二、記:古事記、*:皇后

 ここで注目すべきは、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(尾張は、高尾張邑=葛城邑なので)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、この間は、親子世代での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、この間は、兄弟世代での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の親子間の皇位継承や、100歳以上の超長寿・神武天皇(初代)即位以降の年代も、捏造でしょう。

 初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇(10代)も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 よって、2〜9代が、もし、非実在なら、妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明でき、超長寿や特異な名前・事績がないだけで、全否定は、できません。

 崇神天皇は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還しているので、実際には、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、開拓で、流通ネットワークを全国展開した一方、4世紀前半の統治範囲は、大和の周辺地域までとみられます。

 神武天皇は、その始祖なので、編纂の際に、「天下」と装飾され、初代・10代ともに、「はじめてこの国を統治した天皇」と潤色されただけではないでしょうか。
 履中天皇(17代)以後は、旧天皇即位から新天皇即位までの平均が12年で、仁徳天皇(16代)以前は、超長寿なので、仮に、それらの天皇が全員実在し、在位期間を12年/人、履中天皇即位を400年とすれば、神武天皇即位は、196年(2世紀終り)、崇神天皇即位は、304年(4世紀初め)となります。

 崇神天皇の4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期で、筆者が主張する、初期ヤマト王権の4世紀前半とも、ほぼ符合し、神武天皇の2世紀終りは、大和に銅鏡が集中するようになる(漢鏡8期の2・3段階)直前で、大型古墳が大和に出現する直前の時期で、始祖にふさわしいともいえます。

 孝元・開化の2天皇(8・9代)は、それぞれ280年・292年即位と算定でき、河内・丹波出身の妻がいて、3世紀後半に、畿内が、鉄器の出土数で、はじめて九州を逆転したので、それぞれ瀬戸内海側・日本海側の、輸入用の交易ルートを開拓したとも、結び付けられます。

 各天皇の実在性は、疑問視されますが、この程度の人数がいた可能性があり、実際には、親子間でなく、兄弟間での皇位継承が、主流だったと導き出せます。

○日中で古代歴史書での食い違い

 これは、あまり取り上げられていませんが、「日本書紀」神功皇后(14-15代の間)の時代の記事で、「魏志倭人伝」から、人名等を引用したにもかかわらず、次のように、ことごとく食い違っています。

「魏志倭人伝」→「日本書紀」
・238年:倭の使者の難升米・帯方郡長官の劉夏→239年:難斗米・ケ夏
・240年:帯方郡長官の使者の建中校尉の梯儁→建忠校尉の梯携
・243年:倭の使者の伊声耆・掖邪拘→伊声者・掖耶約

 また、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 さらに、「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで筑紫城、神武天皇から大和州へ移住したとあります。

 「宋史日本国伝」では、献上された年代記には、初代がアメノミナカヌシ、23代(訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 それらから、倭国は、九州北部の筑紫政権が中心で、畿内の大和政権は当初、倭国の圏外だったのが、朝鮮半島への派兵で、各地の政権が協力するようになり、白村江の合戦(663年)での大敗後の戦後処理をきっかけに、倭国から日本国へと改号し、大和政権が中心になった、とする説があります。

 これによれば、「魏志倭人伝」と「宋書倭国伝」の倭の五王は、すべて筑紫政権の記事で(邪馬壱国=九州北部説、倭の五王=九州王朝説)、大和政権は、「日本書紀」で、故意に人名等を、一部改変することで、筑紫政権の史実を乗っ取ったとみることもできます。

 記紀神話で、神武天皇は、日向から進出しているので、大和政権の始祖(初代)は、筑紫政権と無関係といえますが、中国には、神武天皇が、筑紫から大和へ進出したように、改変しており、権威・権力が、倭から日本へと、スムーズに受け継いだように見せ掛け、正統性を担保したとも読み取れます。
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29. 中川隆[-10495] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:38:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1592] 報告
古代国家はいかに形成されたか 古墳とヤマト政権 (文春新書 (036)) – 1999/4/20
白石 太一郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/古代国家はいかに形成されたか-古墳とヤマト政権-文春新書-036-太一郎/dp/4166600362/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8


内容紹介
ヤマト政権が成立したのは、果して三世紀か、五世紀か、七世紀か。最新の発掘成果をふまえて古代史最大の謎・この国のルーツに迫る

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
経済連携していたところに、古墳文化が流行し、政治連合になったのでは? 2019年2月11日

 本書は、為政者の古墳から、政権の変遷を読み取ろうとしていますが、そうするにあたって、問題なのは、主に次の2点ではないでしょうか。

(1)政治の中心地は、王墓よりも、王宮であること
(2)他地域と比べて、古墳の規模が大きいからといって、そこよりも権力があるとはいえないこと


 (1)について、筆者は、「古墳は本来的に、その勢力の本拠地に造営されるのが原則だった」とし(p.119)、「王宮の位置は、その王の姻族(配偶者の血族)や、時の政権を支えた豪族との関係等、時々の政治情勢に規制される可能性が大きい」としています(p.123-124)。

 王宮の位置は、記紀神話での皇宮(天皇の宮殿)の立地と、天皇の妃の出身地・有力豪族の拠点等から、イメージしているようです。

 大型の前方後円墳(帆立貝式も)が立地する、3世紀前半からの大和(おおやまと)・柳本・箸中・鳥見山古墳群(奈良盆地南東部)は、その付近に皇宮も立地していますが、4世紀半ばからの佐紀古墳群(奈良盆地北部)は、皇宮が立地しておらず、豪族の拠点もなく、先行の古墳もなく、根拠不明です。

 一方、4世紀終り〜5世紀初めからの古市・百舌鳥古墳群(大阪平野南東部・南西部)は、交互に古墳が造営され、その付近に皇宮の一部も立地していますが、これは、初期ヤマト政権の盟主が、大和の勢力から、河内南部と和泉北部の二大勢力連合へと、移動したからとしています(p.123)。

 その根拠は、古市・百舌鳥の両方ともに、巨大古墳に先行する、大型古墳が造営されていたからとしていますが(p.122)、そこに有力豪族の拠点があった痕跡は、発見されていないようです。

 また、4世紀半ばに、柳本古墳群の行灯山・渋谷向山の2古墳が続いたので、王位の世襲制が固定化したとし、5世紀にも、佐紀古墳群でも大型古墳が造営されたので、それらから、佐紀の古墳の被葬者は、古市・百舌鳥の古墳を造営した王の妃+その父の家系の可能性が高いとしています(p.124-125)

 これは、夫が妻の家に通い、その子が妻+その父の家に住む、当時の婚姻の風習を想定しているようですが、それだと、筆者が最初に設定した「その王の姻族」で、古墳が立地していることになります。

 吉備・毛野等、畿内以外の地域で、大型古墳(盟主)が移動するのも、婚姻の可能性があると推測でき、婚姻での祖先を共通にした同族意識も、当初は、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野等の、広域内で発達したとみられます。

 ここまでみると、佐紀古墳群の立地が、根拠不明なことと、古市・百舌鳥古墳群の立地が、先行の大型古墳の存在のみで、その付近に、先行古墳の被葬者の拠点が発見されていない以上、根拠にならないことがわかります。

 そうなると、そもそも、王墓は、被葬者の出身地だという、設定自体が、成り立つとはいえなくなり、王墓も、王宮と同様、時々の政治情勢で決定されていたと、みるほうが自然です。

 豪族の拠点がないとすれば、奈良盆地の、北方の佐紀古墳群は、日本海経由の交易ルートの出入口に、西方の古市・百舌鳥古墳群は、瀬戸内海経由の交易ルートの出入口に、それぞれ立地しているので、皇宮のある盆地へ、アプローチする際の視覚的効果が、相当意識されていることになります。

 「日本書紀」の、崇神天皇(10代)による四道将軍の派遣・平定は、4世紀前半とされ、出発から帰還まで、わずか半年なので、実際は、交易ルートの開拓で、輸入用の丹波・西道の2ルートと輸出用の北陸・東海の2ルートを確保した、次のステップの佐紀古墳群と古市・百舌鳥古墳群の造営といえます。

 (2)について、筆者は、「3世紀後半という、あまりに古い時期に、ヤマトを中心とする一元的・集権的な国家的秩序の形成を構想してしまうと、その後の400年にもおよぶ、長い期間における政治連合の変質過程を、正しく認識するうえで支障がある」(p.19)といっており、これに、私も賛同します。

 しかし、出現期の古墳が、畿内の大和で大型、畿内の山城・瀬戸内の吉備・九州北部の豊(とよ)で中型、九州北部の筑紫で小型なので、広域の政治連合が、畿内の大和を中心に形成され(p.56)、連合の盟主である倭国王は、倭の諸国を代表して外交権・交易権を掌握していたとしています(p.61)。

 そして、出現期古墳を生み出した政治連合の形成の契機が、鉄資源をはじめとする、様々な先進的文物の輸入ルートの支配権を巡る、玄界灘沿岸地域と、畿内・瀬戸内海沿岸地域の、争いにあり(p.57)、それを「魏志倭人伝」での2世紀後半の倭国の乱とし、畿内・瀬戸内連合が、勝利したとしています(p.60)。

 つまり、筆者は、3世紀後半を、多元的・分権的といいつつも、いつのまにか、一元的・集権的な畿内の大和をイメージしており、これは、古墳の大きさと権力の大きさを直結し、邪馬台国=畿内説と、安直に結び付けてしまったのが、原因だといえます。

 ところで、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀初め〜半ばに、畿内が、ようやく瀬戸内と同程度になり、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しています。

 もし、倭国の乱で、畿内・瀬戸内連合が、鉄器の輸入ルートを支配したのなら、逆転するのに約100年もかかったことになり、大幅にズレがあることになります。
 そこで私は、古墳の大きさと権力の大きさが、アル程度比例し、上下(主従)関係が成り立つのは、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野の広域内等、盟主が首長を観察でき、反抗すれば、すぐに戦争ができる範囲内だとみています。

 他方、戦争ができる範囲外では、そもそも首長・盟主が、他地域へ頻繁に行き来しないので、古墳の大きさと権力の大きさの比例を想定するのは、大変疑問で、各首長・盟主は、対等が原則、序列があっても、兄弟程度の関係だったと推測できます。

 ここでの戦争ができる範囲とは、当時は、丸木舟か準構造船しかなく、人や物を多く乗せられず(1艘最大20人程度)、途中で水・食糧等を調達しなければならず、海路で侵攻しても、長期戦で食糧不足になれば、撤退しかなく、それほど戦果が期待できないので、補給が容易な、陸路での侵攻が前提です。

 そうなると、遠方とは、戦争よりも交易でつながり、古墳の規模は、広域外への権力の表現よりも、まず広域内への権力の表現で、何よりも、大型古墳を造営できる財力があったと、みるのが自然で、最初から政治連合ではなく、経済連携があり、そこに古墳文化が流行したと、イメージすべきでしょう。

 出現期古墳・纏向型前方後円墳の規模が、それぞれ箸墓・大和の大型前方後円墳の約1/4・1/3・1/2・2/3・3/4・1/1・6/5倍となっているのは、共通の築造企画が存在しなくても(p.38)、交易で長さ(絹・布等)の単位が統一され、被葬者の財力を勘案し、周囲を真似すれば、特定の寸法に近づくのではないでしょうか。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは(p.59)、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、徐々に銅鏡の価値が低下したのを、九州北部が認識していたからで、後漢末から、民間工房の量産品が、中国市場に流通していたため、それを九州北部が、率先して商売にしたのでしょう。

 畿内・吉備の土器が、九州北部へ移動し、その逆が、ほとんどみられないのは(p.60)、交易で、畿内・吉備の土器を商品として、九州北部の輸入鉄器と、物々交換していれば、それは成り立ち、それが、5世紀初めからの、和泉での、陶邑窯跡群の須恵器の全国流通につながったとも、いうことができます。

 筆者が、政治連合の1次的なメンバーは、3世紀初めの西日本の邪馬台国連合で、前方後円墳形の墳丘墓を造営し、2次的なメンバーは、3世紀中葉すぎに邪馬台国連合と合体した東日本で、前方後方墳形の墳丘墓を造営したとしていますが(p.69)、「魏志倭人伝」と、安直に結び付けるのは、禁物です。

 私は、大和が、裕福な財力を元手に、鉄器による水田整備・古墳造営+首長霊祭祀(墳丘形式・葬送儀礼)・威信財副葬のセットの、領国統治モデルを、東国に提供・交易したので、ますます蓄財でき、経営力があったとみています。

 5世紀前半には、その利益を、畿内は、国内不戦の意思表示として、巨大古墳造営に、多く投入した一方、九州北部は、国外からの鉄器確保のため、朝鮮半島派兵に、多く投入したとみれば、古墳の規模の格差は、説明できます。

 それが、5世紀後半には、戦況悪化で、鉄器確保の危機になったため、九州北部だけでなく、畿内も、領国統治モデルを維持しようと、巨大古墳を天皇陵のみに制限し、財力を朝鮮半島派兵に、本格投入したと、みることができます。

 ただし、筆者は、2世紀後半に、九州北部の玄界灘沿岸地域が、畿内・瀬戸内海沿岸地域に敗北・衰退し、3世紀半ばに、狗奴国の濃尾(美濃・尾張)が、邪馬台国の畿内に敗北・衰退したと、主張したいため、九州北部・濃尾の大型古墳は、6世紀前半としています(それぞれ岩戸山古墳・断夫山古墳)。

 ところが、九州北部・濃尾には、4世紀にも、全長100m前後の大型古墳が、次のように、散見できるので、その推論は、成り立ちません。


○九州北部
・久里双水古墳(佐賀県唐津市双水):3世紀後半〜4世紀前半・前方後円墳・全長109m
・一貴(いき)山銚子塚古墳(福岡県糸島市二丈田中):4世紀後半・前方後円墳・全長103m
・金立銚子塚古墳(佐賀市金立町):4世紀終り・前方後円墳・全長98m
・黒崎観世音塚古墳(福岡県大牟田市岬):4世紀終り・前方後円墳・全長97m


○濃尾
・青塚古墳(愛知県犬山市青塚):青塚古墳群、4世紀半ば・前方後円墳・全長123m
・白鳥(しらとり)塚古墳(名古屋市守山区上志段味):志段味古墳群、4世紀後半・前方後円墳・全長115m
・昼飯(ひるい)大塚古墳(岐阜県大垣市昼飯町):不破古墳群、4世紀終り・前方後円墳・全長150m
・坊の塚古墳(岐阜県各務原市鵜沼羽場町):4世紀終り・前方後円墳・全長120m
・粉糠(こぬか)山古墳(岐阜県大垣市青墓町):不破古墳群、4世紀終り〜5世紀初め・前方後方墳・全長100m


 以上より、3世紀前半から、濃尾以西で土器の地域差が希薄化し(庄内式)、環壕集落が廃絶したのは、西日本で経済連携ができたからで、そこへ古墳文化が流行し、3世紀半ばから、東日本にも拡大、政治連合化したのは、4世紀終り〜5世紀初めからの、朝鮮半島派兵が、きっかけではないでしょうか。

 経済連携といっているのは、首長・盟主間が、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)の、対等・分権のヨコの関係で、政治連合化すると、支配と服属の、序列・集権のタテの関係もでき、最初は、みんなの自発的な文化摂取だったのが、やがて有力者の強制的な制度摂取へと変容していくのです。

 これまでは、古墳期を飛鳥期につなげようと、「前方後円墳体制」等のように、古墳を制度として取り扱い、タテの関係に偏重してきましたが、統一国家成立前なので、これからは、有力者どうしのヨコの関係も、同時にみていく必要があり、古墳が文化だった原初へ、イメージを遡行させるべきです。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3355WHQS4KXTS?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp

30. 中川隆[-10463] koaQ7Jey 2019年4月30日 16:03:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1624] 報告


倭の五王 - 王位継承と五世紀の東アジア (中公新書) – 2018/1/19
河内 春人 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B-%E7%8E%8B%E4%BD%8D%E7%B6%99%E6%89%BF%E3%81%A8%E4%BA%94%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%B2%B3%E5%86%85-%E6%98%A5%E4%BA%BA/dp/4121024702?ref=pf_vv_at_pdctrvw_dp


内容紹介

倭の五王とは、中国史書『宋書』倭国伝に記された讃・珍・済・興・武を言う。邪馬台国からの交信が途絶えてから1世紀後、中国へ使者を派遣した王たちである。当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が争い、倭もその渦中にあった。本書は、中国史書から、中国”への接近”の意図や状況、倭国内の不安定な王権、文化レベルを解読、天皇と五王との比定などを通し、5世紀の倭の実態を描く。


内容(「BOOK」データベースより)

倭の五王とは、中国史書『宋書』倭国伝に記された讃・珍・済・興・武を言う。邪馬台国による交信が途絶えてから150年を経て、5世紀に中国へ使者を派遣した王たちである。当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が争い、倭もその渦中にあった。本書は、中国への“接近”の意図や状況、倭国内の不安定な王権や文化レベル、『古事記』『日本書紀』における天皇との関係などを中国史書から解読。5世紀の倭や東アジアの実態を描く。


著者について

河内春人(こうち・はるひと)
1970 年東京都生まれ.93 年明治大学文学部卒業.2000 年明治大学大学院博士後期課程中退.2002 年日本学術振興会特別研究員(PD),博士(史学).現在,明治大学・立教大学・中央大学・大東文化大学・首都大学東京など兼任講師. 著書 『東アジア交流史のなかの遣唐使』(汲古書院, 2013 年) 『日本古代君主号の研究――倭国王・天子・天皇』(八木書店,2015 年) 共著 『古代中国・日本における学術と支配 』(同成社,2013 年) 『藤原仲麻呂政権とその時代』(岩田書院,2013 年) 『梁職貢図と東部ユーラシア世界』(勉誠出版,2014 年) 『日本古代の地域と交流』 (塙書房,2016 年) 『日朝関係史』(吉川弘文館,2017 年) 他多数 翻訳 シャルロッテ・フォン・ヴェアシュア著 『モノが語る日本対外交易史 ―― 七〜一六世紀』( 藤原書 店, 2011年)


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち3.0
国際感覚がなければ、日本古代史は理解できない 2018年8月24日

 4世紀初めから、中国大陸の北半分が戦乱で弱体化し(五胡十六国時代)、4世紀後半から、朝鮮半島北部の高句麗が南下すると、5世紀代の日本列島の倭は、半島南中部の伽耶諸国からの鉄資源確保が圧迫されないよう、半島南西部の百済を救援・参戦するとともに、大陸南半分の宋に朝貢しました。

 本書は、6世紀前半成立の中国の歴史書「宋書」に登場する、倭の五王が、5世紀代に、朝鮮半島や中国大陸と、いかに関係したかを、限られた少ない史料にもかかわらず(限られた少ない史料だからこそ、新書の紙面を埋め尽くそうと)、比較的詳細に検討しています。

 歴史学のうち、文献学は、史料批判が必須で、ひとつの史料を、ただ信用するだけだと、もはや信仰の対象としての宗教的な経典や、文学的な神話の読解になってしまうので、本書は、そうならないよう、なるべく複数の史料を照らし合わせ、諸説ある場合には、丁寧に吟味しているのではないでしょうか。

 特に、「日本書紀」は、国内外の様々な書物をもとに、飛鳥後期・天武天皇(40代)の時代に編纂が開始され(681年)、奈良前期・元正天皇(44代)の時代に完成しましたが(720年)、その間の天武系+藤原系の政権の都合がいいように、潤色された箇所も多々あり、それらは、主に3つに大別できます。

 1つめは、歴代天皇の即位では、血筋が正統性の根拠なので、系譜がつながっているように潤色し(ヤマトタケルの息子の14代・仲哀天皇は、父の死から35年後に誕生していて不自然)、中央豪族達も、天皇家の祖先神の家系か、古来より天皇に奉仕していたと潤色することで、正当性を担保しています。

 2つめは、実際よりも以前から、先進的な制度を摂取したり、朝鮮半島へ派兵・支配していたと潤色しており、そうすれば、日本は先進国だと自負できるとともに、先例が国史にあれば、比較的抵抗なく、その制度や派兵を、受け入れやすくなる傾向にあります。

 3つめは、600年から遣隋使、668年から遣新羅使を派遣しましたが、中国とは対等、朝鮮とは優越な関係とし、日本は小帝国だと主張するため、周辺諸国(高句麗・新羅・百済・任那・伴跛/はえ・耽羅/たんら・呉/くれ・蝦夷・隼人・多禰嶋/たねのしま)との外交を、朝貢だと潤色しています。

 このように、「日本書紀」を、そのまま信用するわけにはいかないので、本書での取り扱いは、最低限にしているのでしょう。

 百済と新羅は、4世紀半ばに、実質上建国されましたが、5世紀代は、中央集権化で先行していた高句麗の南下政策で、百済・新羅・倭が、戦争のために、中央集権化しなければならなくなり、国家体制を、「横」の関係から「縦」の関係へと変容させる最初の時期といえます。

 日本の戦国期には、武家・寺社等の様々な勢力が乱立しましたが、極度に集権的だった織田信長が、やや分権的でもあった延暦寺・本願寺を、最後は制圧し、天下統一しており、戦争に中央集権化は、必須なのが実証されています(余談ですが、白村江の合戦もアジア太平洋戦争も、軍隊は、分権的でした)。

 「横」から「縦」への関係切り替えは、国家間の外交でも適用され、高句麗・百済・新羅・倭は、絶対的な地位の、中国への朝貢合戦を繰り広げ、自国が他国よりも優位な地位を確保しようとするとともに、戦争で劣勢になれば、自国の生き残りをかけて、優勢な他国と同盟し、人質も差し出しました。

 ちなみに、百済が、倭へ人質を差し出すようになったのは、高句麗に大敗・屈服した翌年(397年)からで、筆者は、百済の近肖古(きんしょうこ)王(13代)が倭王へ、七支刀を贈与した時期(372年)には、まだ倭と百済が対等な同盟だったと言及しているにすぎません(p.13-14)。

 百済は、七支刀贈与の同年、倭よりも先に、中国南朝・東晋へ朝貢し、近肖古王が、鎮東将軍(将軍号)・領楽浪太守(楽浪郡の長官)を授与しており、国際的には、倭より上の立場で、391年から、倭+百済+伽耶諸国連合軍は、高句麗+新羅連合軍と、朝鮮半島で、断続的に戦争しています。

 そのうえ、百済は、腆支(てんし)王(18代)も、東晋に朝貢し(416年)、使持節(中国皇帝から委譲された特権)・都督百済諸軍事(軍政権)・鎮東将軍・百済王(民政権)を授与しました。

 そののち、東晋が滅亡、宋が建国されると(420年)、高句麗王は、征東大将軍、百済王は、鎮東大将軍に昇格した一方、倭の讃は、その翌年(421年)に、はじめて宋に朝貢し、官爵(倭国王・安東将軍)を授与しましたが、中国への朝貢は、新羅(377年に前秦へ、高句麗も同行)よりも後発です。

 南朝・宋にとっての百済は、両国で北朝を挟み込む、重要な位置にあったので(高句麗も同様)、それ以降の倭の珍→済→興→武が、都督百済諸軍事を要求しても、宋に却下され、国際的には、高句麗・百済より下の立場のままでした(序列は、上から車騎→征東→鎮東→安東、大将軍→将軍の順)。

 しかも、当時の人質は、日本の戦国期のように、政治の役に立たない女性や子供・老人等だけではなく、政治の役に立つ男性を、連携相手へ差し出すこともあると明記しており(p.44-45)、新羅から倭への人質・金春秋(のちの29代・武烈王)は、当時46歳と働き盛りでした。

 また、新羅は、高句麗(392・412年)と倭(402年)の双方へ、人質を差し出しており、当時の戦況の相当な劣勢が読み取れますが、逆に、その程度の「ゆるい主従関係」ともいえ、高句麗も、宋(420年)と北魏(435年)の中国南朝・北朝両方に朝貢し、北魏の皇帝に指摘されても、中止していません。

 さらに、新羅による、392年の高句麗への人質は、のちの実聖(じっせい)王(18代)、412年の高句麗への人質と402年の倭への人質は、奈勿(なこつ)王(17代)の息子、百済による、397年の倭への人質は、のちの腆支王(18代)、461年の倭への人質は、蓋鹵(がいろ)王(21代)の息子か弟です。

 つまり、将来、政権の中枢に有望な王族を抱え込めば、長年にわたる円滑な連携も期待でき、当時の朝鮮半島と日本列島では、国外的にも、国内的にも、まだ序列(秩序)が明確になっていませんでした。

 そして、5世紀代の倭は、朝鮮半島を実効支配するために渡海したのではなく、軍事援助するかわりに、百済・伽耶諸国が、知識人・技術者(渡来人)や鉄素材・先進文物等を提供する、一種の交易といえ、水田稲作(開墾・治水・灌漑施設の整備)・古墳造営等に、大量に鉄器具が必要でした。

 武士の君臣間での御恩と奉公の関係では、戦勝による領地獲得がないと、主従関係が成立・維持できませんが、ここでは、交易なので、派兵すれば、勝敗にかかわらず、知識人・技術者や鉄素材・先進文物等が取得でき、倭王を窓口に、各地の豪族達へ分配することで、先進文化が発達しました。

 これを突き詰めると、戦時の朝鮮半島では、日本列島から将軍・兵士が流入し、平時の日本列島では、朝鮮半島から農民・職人が流入することで(難民も)、日本列島には「民」による平和、朝鮮半島には「軍」による動乱と二分化し、双方を商人が往来するという構図になっていたのではないでしょうか。

 私達が注意しなければいけないのは、近代日本の極度な中央集権や、「きつい主従関係」の知識(偏見)が抜け切らないため、それを過去にも投影しがちなことで、それは、おそらく古代日本の、いつの時点でも同様で、地方分権から中央集権への過渡期を、段階的にイメージしなければいけません。

 珍が倭の隋ら13人(平西・征虜・冠軍・輔国は、珍の安東と同等の3品で、平西は安東の1級下、征虜は平西の2級下、征虜→冠軍→輔国と各1級下)、済が23人と、連名で将軍号を要求したのも、倭王がまだ、有力豪族達の盟主(代表)程度の存在で、地方分権が濃厚だった証拠です。

 古代日本の中央集権化は、5世紀後半の雄略天皇(21代)の時代→6世紀半ばの欽明天皇(29代)の時代→7世紀前半の推古天皇(33代)の時代→7世紀半ばの天智天皇(38代)の時代→7世紀後半の天武・持統の2天皇(40・41代)の時代と、約200年で徐々に推進されました。

 中央集権化に、このような期間がかかったのは、海外から日本列島へ攻め込まれる心配がなかったからですが、白村江の合戦(663年)の大敗後、はじめて危機となり、急速に推進され、壬申の乱(672年)で、政権の中枢にいた有力豪族達が一掃されたため、天武天皇に権威・権力が集中できました。

 筆者が主張したかったのは、総体的には、倭の五王を歴代天皇に比定するのは、現状では大変困難だということ、局所的には、[1]珍から済への継承での王統移動、[2]武=雄略天皇(21代、ワカタケル)説への疑問、[3]5世紀代の始祖王=応神天皇(15代、ホムタワケ)説です。

 それに、大前提として、まず、武による、宋の皇帝への上表文に、「東のかた毛人55国を征し、西のかた衆夷66国を服し、渡りて海北95国を平らぐ。」とあるため、武の政権は、日本列島の中央付近にあったとみるのが自然です。

 7世紀半ば成立の「隋書」倭国伝には、国造(軍尼/くに=国)120人、9世紀初め〜10世紀初め成立の「先代旧事本紀」には、国造家135氏とあるので、東55+西66=121ヶ国と、おおむね合致します。

 つぎに、5世紀までに造営された、全長200m以上の巨大古墳35基は、大和19基、河内6基、和泉5基と(備前2基、摂津・上野・丹後が各1基)、大半が畿内に分布しており、巨大古墳の造営には、大量の鉄器具が必要なので、鉄資源の確保を主導した倭の五王は、畿内の政権だと推測できます。

 筆者も、3世紀後半からの、大和東側の大和・柳本古墳群→大和北側の佐紀古墳群+大和西側馬見古墳群→河内の古市古墳群+和泉の百舌鳥古墳群の変遷を、取り上げており(p.14-17)、5世紀代の畿内の政権が、大和を既成地の後方拠点、河内・和泉を新開地の前方拠点としたのに、異論ないでしょう。

 [1]については、珍は、安東将軍で、倭の隋は、そのわずか1級下の平西将軍と推測でき、筆者は、珍と済に続柄の記載がないので、そこから倭の隋が、珍と対立する済の勢力だとし、珍の勢力と、済+倭の隋の勢力を、古市古墳群(安東)と、百舌鳥古墳群(平西)に、結び付けているようです(p.95-98)。

 [2]については、筆者は、5世紀半ば造営の稲荷台1号墳(千葉県市原市)出土の鉄剣での「王」を、珍か済と推定し、5世紀後半造営の稲荷山古墳(埼玉県行田市)出土の鉄剣と江田船山古墳(熊本県和水町)出土の鉄刀での、ワカタケルの「大王」とは区別しています(p.98-100)。

 ところが、記紀神話以前の7世紀成立とされる「上宮(じょうぐう)記」の逸文(「釈日本紀」)によると、垂仁天皇(11代)には「大王」、応神天皇(15代)には「王」、継体天皇(26代)には「大公王」が使用されているので、「大王」は、尊称にすぎないと導き出せます。

 むしろ、稲荷山古墳の鉄剣や江田船山古墳の鉄刀での、「治天下」を重要視すべきですが、「治天下」とは、中国皇帝のように、天下(世界)を統治する唯一の王を意味するので、武=雄略天皇説だと、武が478年に宋へ朝貢、臣下と官爵を要求し、宋の権威に依拠するのと矛盾します。

 しかし、雄略天皇は、稲荷山古墳の鉄剣や江田船山古墳の鉄刀により、5世紀後半に、関東南部から九州北部にかけて、統治していたと推測でき、5世紀代で唯一、実在性が確実視されています。

 よって、倭の五王の一人に、雄略天皇が該当しないか、武=雄略天皇なら、国外的には、中国へ朝貢・従属、国内的には、「治天下」の王だと使い分けていたか、当初は、朝貢・従属していたのを、途中で、「治天下」の王へと路線変更したかの、いずれかとみるしかありません。

 ただし、筆者は、倭が中国への朝貢を打ち切ったのを、権力を天皇に集中できたからでなく、宋の滅亡・南斉の権威低下と、王位継承での混乱としています。

 [3]については、「古事記」では、百済の近肖古王から応神天皇へ、横刀(たち)・大鏡が贈与され(「日本書紀」では、近肖古王から神功皇后へ、七枝刀・七子鏡が授与)、百済との外交開始が応神天皇なので、中興の祖的に位置づけています。

 一方、武による、宋の皇帝への上表文での、祖・禰(でい)=仁徳天皇(16代)説もあり、そこでは、讃=履中天皇(17代)、珍=反正天皇(18代)、済=允恭天皇(19代)、興=安康天皇(20代)、武=雄略天皇に比定されています。

 ですが、応神天皇と仁徳天皇は、記紀神話に事績の重複があるので、同一人物説もあり、結局、筆者は、倭の五王を厳密に検討し、比定できないと結論づけたにもかかわらず、記紀神話を安直に持ち出し、5世紀代の始祖王=応神天皇とするのには、到底納得できません。

 それよりも、応神天皇の5世孫が、王統断絶後の継体天皇(26代)で、この家系が、現在まで皇位継承されており、応神天皇を八幡神と同一視され、皇祖神としても崇拝されているだけで、実在性が確実視されていません。

 もし、記紀神話を信用できないとするのなら、実際には、王統移動しているのに、親子間や兄弟間で王位継承しているように、潤色している痕跡を発見するほうが得策で、「日本書紀」での気になる点は、次に示す通りです。

‐允恭の父・仁徳天皇、允恭の同母兄・反正天皇と、允恭天皇から王統断絶(25代)まで、年齢が算定できない(履中天皇以外)
‐反正天皇以前は、皇太子が王位継承していたが、允恭天皇で、はじめて群臣の推挙によって即位(仁徳天皇の即位は、皇太子が自殺したので例外)
‐允恭天皇の名前に、近臣を意味する「宿禰(すくね)」が含まれ、允恭の同母兄の履中・反正の2天皇の「別(わけ)」と異なる
‐反正天皇の事績が、わずかしかない(「古事記」も同様)

 どうも、珍=反正天皇と済=允恭天皇の間に、何かありそうです。

 最後に、文章や巻末の簡素な年表だけだと、全体像が把握しにくいので、中国(北朝・南朝)・高句麗・百済・新羅・倭の欄を別々にした、年表を冒頭に掲載してくれれば、朝貢・同盟・攻撃・救援等の様子が、もっとわかりやすくなったのではないでしょうか。
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31. 中川隆[-9310] koaQ7Jey 2019年6月25日 08:17:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3183] 報告

本当にただの神話? 古事記・日本書紀の「神武東征」伝承から見える史実
「神武東征」伝承の真実を検証する@
宝賀 寿男 2017年10月05日
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7078



高千穂の宮にいたイワレビコは、天下を治める最良の地を目指して東征を思い立つ。兄とともに東の地を目指した旅路は決して平穏なものではなかった……。『古事記』『日本書紀』に描かれた”神武東征”伝承は史実なのか? 神話と史実を探求しながら、その実像に迫る。


『国史画帖大和櫻』より「神武天皇御東征之図」

非合理な「神話」として
切り捨てられない伝承

 戦後の古代史学で主流となった津田史学(※『古事記』『日本書紀』を史料批判の観点から研究した津田左右吉の説)の影響で、神武天皇とその東征伝承は、天皇統治の正当化のための神話の一部で、史実性がないとみられてきた。とはいえ、遠い昔の建国事情については、『古事記』『日本書紀』(両書併せて「記紀」という)ともに大和朝廷の創始者、初代の天皇として「神武天皇」をあげるから、この人物の的確な検証は欠かせない。

 この両書が描く神武天皇につては、ともに東征伝承が大部分を占め、大筋はほぼ同じだが、遠征の具体的な経路など若干異なる点がある。比較すると、『古事記』のほうが割合簡潔で、素朴な感じがする。そこには、金色の鵄(とび)が窮地の神武天皇を救った金鵄伝承はなく、最大の敵である長髄彦(ながすねひこ)との大和での戦は、古代歌謡のひとつである久米歌にしか見られない。その一方『書紀』のほうが詳しく書かれるから、主に同書に拠って見るほうが分かりやすい。そのあらすじは上段を見ていただくとして、先に主な道筋を簡単に紹介しておこう。

 筑紫の日向に居た神武は、兄とともに、畿内の大和に統治の良き地を求めて、東征に出発した。まず、筑紫の宇佐に至り、次に筑紫の岡之水門に行き、安芸、吉備を経て、国津神(くにつかみ)の珍彦(うづひこ)が出迎えた速吸之門(明石海峡)を通る。浪速の渡りを経て河内の草香邑に上陸。これを迎え撃った、のちに宿敵となる長髄彦と日下の坂で戦ったが敗れ、そこで退いて南回りで海路を進むことになる。

 紀伊の名草郡竃山で、先の日下の戦で重症を追った兄の五瀬命が死去した。ここで、指揮官が神武に替わり、八咫烏の道案内などで行軍し、熊野から大和の宇陀に入って賊軍を討伐した。鳥見では、長髄彦と決戦で苦戦する中、金色の鵄に助けられ、敵軍にあった物部氏の祖先が長髄彦を殺して帰順してきたので、残余の賊を討って大和を平定し、畝傍山付近の橿原で即位した、というものである。

 その後に、皇后の選定や東征の論功行賞、皇祖神の祭祀なども行ったと『書紀』の記事に見える。

 この伝承を現代的な視点で改めて検討してみると、総じて史実の原型が窺われる面がある。東征の随行者や服属者などから見ても、出発時の神武一行は少人数であって、「邪馬台国東遷」という国家的な規模ではなかった。本国の王位を望めない王族庶子・神武兄弟の新天地への展開が東征の主な目的であったからだ。非合理な「神話」だとして頭から切り捨てることはできだろう。

 東征伝承に現れる神異現象についてお、具体的に太陽神信仰を表すものなど合理的な解釈ができるのものも有る。地理の面から東征伝承を見ていこう。
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7078

「天孫降臨」の地“日向”は、本当は何処なのか?
「神武東征」伝承の真実を検証するA
宝賀 寿男 2017年10月08日
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7107




高千穂の宮にいたイワレビコは、天下を治める最良の地を目指して東征を思い立つ。兄とともに東の地を目指した旅路は決して平穏なものではなかった……。『古事記』『日本書紀』に描かれた”神武東征”伝承は史実なのか? 神話と史実を探求しながら、その実像に迫る。


『国史画帖大和櫻』より「神武天皇御東征之図」

「日向=宮崎」説を覆す
「日向=北九州」説

 神武東征伝承が疑問とみられる理由として、まず出発地「日向」にある。
 葦原中国の大己貴神に国譲りをさせて天孫が降臨した地が、僻遠の南九州の「日向」、宮崎県とされる。その後の天皇家とまるで縁のない地で三代(日向三代)を過ごしてから、大和入りを図るという筋書が荒唐無稽で、これにより神武東征の史実性は根底から崩れているとされる。

「日向」とは、もともと南九州全域を指し、後に薩摩・大隅の文理で日向一国となるが、異民族的な色彩の隼人が住む未開地であった。これが皇室の現実の発祥の地でありえたかは疑問が大きい。

 記紀の編者が「日向」を日神の子孫と称する皇室の先祖が住む土地にふさわしいとみて、天孫降臨させた結果、日向と大和を結びつける必要性のために、「神武東征」は日神思想による観念から生まれたもので、歴史的事実ではない」とみられることになってしまったのだ。

 この「日向=宮崎」説には最近まで多くの疑問が出されてきた。実際の「日向」は北九州で、福岡県の玄界灘沿岸にあったとの見解が多い。旧地名でいえば筑前の早良郡・怡土(いと)郡の地域であり、現在の地名では福岡市の西区あたりから糸島市にかけての地となる。ここが、福岡平野の那珂川流域にあった海神族の国「葦原中国=奴国」を屈服させて天孫降臨があった地域だとされる。

『書紀』には「筑紫の日向」と表現され、『古事記』でも「竺紫の日向の高千穂」、「この地は韓国(からくに)に向ひ、……、朝日の直刺す国、夕日の日照る国なり」と書かれてあり、こうした地理的状況に筑前海岸部は合致する。西区と糸島市との境界あたりには日向峠・日向山や槵触(くしふる)山の地名も残る。
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7107


河内の支配者に大敗した神武天皇
「神武東征」伝承の真実を検証するB
宝賀 寿男 2017年10月12日
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7129



高千穂の宮にいたイワレビコは、天下を治める最良の地を目指して東征を思い立つ。兄とともに東の地を目指した旅路は決して平穏なものではなかった……。『古事記』『日本書紀』に描かれた”神武東征”伝承は史実なのか? 神話と史実を探求しながら、その実像に迫る。


『国史画帖大和櫻』より「神武天皇御東征之図」

河内を支配する長髄彦に敗れ
熊野へ迂回した神武天皇

 神武東征伝承の出発地「日向」について、「日向=宮崎」説には最近まで多くの疑問が出されてきた。実際の「日向」は北九州で、福岡県の玄界灘沿岸にあったとの見解が多い。

 一方、宮崎のほうは、景行天皇の九州巡幸のときその言葉により初めて「日向」と名付けられたと『書紀』にあり、それまでは『襲国(そのくに)』と呼ばれていた。日向三代のうちの二代(ホオリ、ナギサ)が海人族の王族女性(豊玉姫、玉依姫)と通婚したとも記紀にある。

 考古学的にも、怡土(いと)郡に三雲遺跡など、早良郡にも吉武高木遺跡など、双方に著名な弥生遺跡がある。日向峠のほぼ真東に位置する吉武高木遺跡からは、朝鮮製の鏡・剣・玉という日本最古の三種の神器セットも出た。津田左右吉博士も、皇室の筑紫紀元を否定する確証がないという。

 さらに一行は岡之水門を通り、速吸の門から浪速の渡り、日下の津(東大阪市の日下町)と進んで河内で上陸した。当時の大阪平野の地理では、浪速の湾入が河内平野に大きく入り込む潟湖となり、そこに上町台地が突き出していたとみられ、この行軍経路は当時の地理に符号する。浪速の渡りとは、河内内海の入口の上町台地の先端あたりで、そこに生國魂神社が鎮座する。この祭神、生島足島神こそ、天照大神(原型は男性神)の実体であった。

 河内内海の中生駒山頂を目印にして進むと日下の津に着く。そこで上陸した軍は、生駒越えを図って日下の坂で待ち受けた長髄彦に大敗し兄の五瀬命は負傷した。このため進路変更を余儀なくされ、浪速に引き返し和泉・紀伊と南に大きく迂回する行路をとることになった。

 紀ノ川の河口部に位置する紀伊の名草郡では、兄の五瀬命が落命して竃山で葬った。当地の竈山神社は五瀬命を祭神とする。この時点で、行軍の指揮者が神武に変更となった。
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7129


神武天皇一行を襲った、二度の危機の謎
「神武東征」伝承の真実を検証するC
宝賀 寿男 2017年10月15日
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7154


高千穂の宮にいたイワレビコは、天下を治める最良の地を目指して東征を思い立つ。兄とともに東の地を目指した旅路は決して平穏なものではなかった……。『古事記』『日本書紀』に描かれた”神武東征”伝承は史実なのか? 神話と史実を探求しながら、その実像に迫る。


『国史画帖大和櫻』より「神武天皇御東征之図」

「毒気」により正気を失った軍を
救った高倉下とは何者か?

 神武東征伝承において、河内を支配する長髄彦に敗れ熊野へ迂回した神武天皇紀は、進路変更を余儀なくされ、浪速に引き返し和泉・紀伊と南に大きく迂回する行路をとることになった。

 紀伊東北部の竃山から先の進軍行路がまた問題となる。『古事記』ではすぐ熊野の悪神の被害に遭う話となるが、『書紀』ではこの「熊野」が明確に紀伊南部の熊野地方だと解して、熊野灘で暴風に遭い、神武の兄の二皇子の入水伝承などに続く。荒海で有名な熊野灘までなぜ行ったのかという大迂回の謎がある。

 名草郡で地元の地理に明るい大伴氏の祖・道臣命を得たのに、極めて不自然な話であり、普通に考えれば、大和入りの古代の幹線ルートであった紀ノ川を遡上したと解される。だから、二皇子の遠征随行も、その入水も、疑問が大きい。

 神武軍は紀ノ川遡行を目的として、その河口部に向け南進した。日神の御子だから日に向って戦うのを避けたというのは、記紀編纂時の解釈にすぎない。弥生後期当時の浪速の湾入や紀ノ川などの地理状況を踏まえた行動を、これまでも在地者による行路誘導によりとっていた。道案内者無しでの熊野灘航行やけわしい山路の熊野〜吉野間の往行はありえない。

 高地性集落遺跡も潮岬から新宮という熊野にかかる地域には見られないからだ。

 紀伊から宇陀に至る過程で、神武一行は熊野の「高倉下(たかくらじ)」なる者に救われた。高倉下が夢の教えに従って神武に献上した神剣フツノミタマの霊力により、土地の悪神の出した毒気により正気を失っていた軍衆は、それによって覚醒した、と記紀に見える。早くに紀ノ川遡上説を唱えた鳥越憲三郎氏は、紀ノ川上流域に高倉下の居住地「熊野」があったとする。

 ところで「毒気」とは硫黄や水銀の出す毒気とみられる。紀ノ川流域には鉱物資源が豊富で、丹砂(水銀と硫黄の化合物で、産地を「丹生(にふ)」という)や鉄が採取され、丹生神社の分布が多い。『書紀』では、事件は「仁敷(にふ)」で賊酋を殺したときに起きたと記される。

 高倉下は、別名が手栗彦(たぐりひこ)という尾張氏族(尾張連・海部直など)の祖であった。『旧事本紀』の「天孫本紀」には、のちに長髄彦を捨て神武に帰順する饒速日命(にぎはやひのみこと)の子とされるが、本来の系譜は、海神族の豊玉彦の曾孫で、海導者・珍彦の従兄弟にあたる。だから、天孫族計の饒速日とは男系が別であり、饒速日の女婿だとみられる。その縁で「熊野」に居住していたのだろう。

 危難を救った神剣はのちに神武からウマシマチ(饒速日の子)に与えられ、その後に物部氏が奉斎した石上神宮に神宝として納められた。

 こうした諸事情から、高倉下の居住地は、紀伊國那賀郡あたりであろう。当地には式内社海神社(現紀の川市神領)があり、最深は海神の豊玉彦命で、和泉山脈の最高峰葛城山の南西麓にある。同じ名で大和の葛城山の東麓に高倉下の本貫地「高尾張邑(たかおはりむら)」もあった。高倉下の帰服には、同族の珍彦の手引もあった。
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7154


八咫烏(やたがらす)は三本足のカラスではなかった! その正体は……
「神武東征」伝承の真実を検証するD
宝賀 寿男 2017年10月19日
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7190



高千穂の宮にいたイワレビコは、天下を治める最良の地を目指して東征を思い立つ。兄とともに東の地を目指した旅路は決して平穏なものではなかった……。『古事記』『日本書紀』に描かれた”神武東征”伝承は史実なのか? 神話と史実を探求しながら、その実像に迫る。


『国史画帖大和櫻』より「神武天皇御東征之図」

「八咫烏」とは三本足のカラス
ではなく人だった!?

 東征をする神武一行だったが、大和入りの道はまだ険しく、熊野の山中で道に迷ってしまう。この苦境の一行を、天照大神のお告げを受けた「八咫烏(やたがらす)」と道臣命が道案内して、大和の宇陀に入り、穿(うかち)邑(宇陀市菟田野宇賀市あたり)に至った。宇陀から、賊酋たちの討伐がまた始まる。

 これらの案内も、高倉下の霊剣献上も、天照大神のお告げだというが、この神異や霊夢がなくとも話に特段の問題はないし、八咫烏は神武の同族の出であった。宇陀には式内社の八咫烏神社が宇陀市榛原高塚にあり、その子孫という者が後世まで居たと伝えるから、八咫烏一族の居地の一つが宇陀にあったとみられる。

「八咫烏」は太陽にいる三本足の烏を表すが、実際には動物のカラスではなく、その名が鴨健角身命(かもたけつのみのみこと)といわれる人物で、天孫族の鳥トーテミズムと太陽神信仰に基づく通称にすぎない。その別名は多く、少彦名(すくなひこな)神とか三島溝咋耳(みしまみぞくいみみ)命、天日鷲(あめのひわし)命ともいうが、東征当時の該当者は生玉兄日子(いくたまえひこ)命であり、鴨健角身命の孫であった。

 紀伊の竃山から大和の宇陀までの具体的経路は、『古事記』と『書紀』とで若干の歳があるが、現実の地理で見ると『古事記』のほうが妥当で合理的である。

 記紀編纂時には「熊野」の概念が紀南の現・熊野地方にほぼ固定されていたようであり、熊野大迂回伝承は冒険譚としては面白くても、東征当時の史実原型はそうではなかったということである。
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7190

神武天皇の最大の敵「長髄彦(ながすねひこ)」とは何者か
「神武東征」伝承の真実を検証するE
宝賀 寿男 2017年10月22日
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7218


高千穂の宮にいたイワレビコは、天下を治める最良の地を目指して東征を思い立つ。兄とともに東の地を目指した旅路は決して平穏なものではなかった……。『古事記』『日本書紀』に描かれた”神武東征”伝承は史実なのか? 神話と史実を探求しながら、その実像に迫る。


『国史画帖大和櫻』より「神武天皇御東征之図」

神武天皇の前に立ちはだかる
長髄彦とは何者か?

 大和での戦いは『書紀』が詳しく記すように、当初から苦戦続きの長髄彦(ながすねひこ)が東征の最大の敵であった。だから、宴席の長髄彦を殺害し、衆を率いて神武に帰順した物部氏の遠祖の功績が大きかった。この帰順社の名を、記紀共に饒速日命(にぎはやひのみこと)とするが、『旧事本紀』の「天孫本紀」などから見て、その子の宇摩志麻治命と思われる。

 饒速日の系譜は、記紀や『新撰姓氏録』には記載がないが、天津端という天孫のしるしをもつ者だと『書紀』にある。神武に先立って大和入りした天孫という、天皇家統治に不都合な伝承すら記される。『姓氏録』では天孫の部に置かれない物部氏族だが、「天孫本紀」では天照大神の太子の天忍穂耳の子の天火明命が饒速日にあたるとある。

 神武と物部氏は、同じ天孫族の出だが、神武自体は伊都支分家の出で、物部の傾倒も高天原の嫡統から早く別れていた。具体的には、葦原中国を降伏させたフツヌシ神(天目一箇命)の子が饒速日とみられる。

『書紀』によると、神武に先立ち、天磐船に乗って天降りしてきた饒速日を、長髄彦は主君と仰いで仕え、妹を后としたことで、神武に敵対した。ここでは、天孫族の一員の他の土地からの移遷を「天降り」と記すことに留意される。

『古事記』では、逆に饒速日が神武の行軍を追いかけてきたと記すが、これは『書紀』や『旧事本紀』にある、“饒速日が先”のほうが妥当である。
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7218


神武天皇、実在の可能性
「神武東征」伝承の真実を検証するF
宝賀 寿男 2017年10月29日
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7270


高千穂の宮にいたイワレビコは、天下を治める最良の地を目指して東征を思い立つ。兄とともに東の地を目指した旅路は決して平穏なものではなかった……。『古事記』『日本書紀』に描かれた”神武東征”伝承は史実なのか? 神話と史実を探求しながら、その実像に迫る。


『国史画帖大和櫻』より「神武天皇御東征之図」

「金の鳶」の正体は鳥トーテミズムと
太陽神信仰を併せ持つ天孫族

 神武侵攻のときには大和地方には「ヤマト原国家」ともいうべき部族連合体が作られ、その祭祀具が銅鐸とみられる。長髄彦(ながすねひこ)殺害の有無には異説あるが、その子孫は東西の二派に分かれて畿内から退散し、東へ行ったのは信州諏訪に落ち着き諏訪族となった。その祖神の建御名方命こそ、長髄彦の別名で、系譜は三輪の大物主神の弟である。西へ退散した一派は、四国南部の地域に勢力を長く保ち、阿波の長国造や土佐の土佐・波多両国造を出した。これら退散経路や遷住地には海神族祭祀や後期銅鐸の出土がある。

 部族連合軍である長髄彦軍は強く、当初の河内でも大和でも、神武郡はおおいに苦戦した。そんな中、大和の鳥見の地にて、一羽の「金の鵄(とび)」が神武の弓の先に留まり、強烈な日明を発し照り輝いたので、賊軍の志気をおおいにくじいたという、いわゆる金鵄伝承である。戦前の金鵄勲章にも名を残すほどの大功であった。実は金鵄も動物の鳥ではなく、鳥トーテミズムと太陽神信仰を併せもつ天孫族の一員の表象であったから、これも神異とするにあたらない。

「金鵄」の実態について、早くに平田篤胤が「天加奈止美命」(「加奈」は金、「止美」は鵄の意味)の異名をもつ忌部の祖神・天日鷲命だと指摘した。私も検討の結果、ほぼ同様の結論(鴨県主の祖・八咫烏で、かつ忌部の首の祖・天富命)になった。京都の下鴨神社の社伝でも、「金鵄=八咫烏」とする。

 関連していうと、神武天皇即位後の4年には、鳥見山の中に祭祀の場を築いて皇祖天神を祀ったと『書紀』に見える。『古語拾遺』には忌部氏の祖・天富命が御幣を用いて祝詞をのべ皇祖天神を祀り、これが忌部氏の祭祀菅掌の由来だと記される。この地は、宇陀市榛原という説もあるが、やはり金鵄の霊験があった桜井市外山(とび)の鳥見山であろう。当地には式内社の等弥神社があり、その境内からは八咫烏の像が出た。神社の旧地は、鳥見山中の斎場山だといわれ、祭祀用臼玉が多数出ている。同社に上ッ尾社・下ッ尾社があるのも鵄との関連を示唆する。

 ここでは、地理的な問題を中心に見てきたが、とくに触れなかった年代論や人物論などの問題でも、神武天皇について十分に合理的な理解ができる。この辺を結論的にいえば、神武の活動期は弥生後期頃の西暦2世紀後葉頃とみられ、その創業関係者は、崇神天皇を取り巻く人々の各々五世代ほど祖先にあたる系譜が諸氏に伝えられる。神武崩御後の綏靖天皇による兄・手研耳命(たぎしみみのみこと)殺害事件が記紀ともに伝えられることも併せ考えて、崇神とは別人であり、総合的、具体的に神武天皇の史実性を考えるほうが妥当である。
http://www.kk-bestsellers.com/articles/-/7270

32. 中川隆[-9295] koaQ7Jey 2019年6月25日 19:21:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3204] 報告

奈良盆地の原風景 〜古代奈良湖の残影〜
2013年10月31日 | 奈良大和路散策
https://blog.goo.ne.jp/nambashout/e/1858903decf3df8427ce6f66be8b8ae7

 以前から不思議に思っていたことがある。近鉄奈良線に乗って生駒トンネルをくぐり、奈良まで行く場合の全線の高低差の話である。電車は上町台地の地下(大阪上本町駅)を出て鶴橋方面へやや下ると、あとは平坦な河内平野を真東に進み、やがて枚岡、瓢箪山、石切と急激に高度を上げて、生駒山の斜面をやや北方向に駆け登ってゆく。まるで登山電車並みの勾配を軽快に走る近鉄電車の醍醐味を味わえる区間だ。しかもここらからの大阪市街地の風景は絶品だが、その話はまたにして、やがて生駒トンネルをくぐると再び真東に進路を取り、生駒、東生駒、富雄、学園前と進む。しかし、生駒トンネルを通過すると不思議なことに電車は下降せずにほぼ水平に奈良に向けて快走する。あれだけの急勾配を登ってきたのに。と言うことは奈良盆地の標高は河内平野の標高より高い、ということなのだろうか?

 早速調べてみた。奈良盆地の標高は40mから60mほど。一方、生駒山を隔てた河内平野のそれは1〜3m。やはりこれだけの高低差があるのだ。ちなみに上町台地は一番高いところが38m(大阪城のあるあたり)、天王寺あたりで16mだそうだ。生駒山は642m、二上山が517m、山辺の道の東にそびえる龍王山は517m、三輪山は467mである。奈良盆地はこれらの山塊に囲まれた比較的標高の高い盆地(上町台地よりは高い)であることを認識した。

 現在の河内平野は、かつては河内湖、さらに時代をさかのぼれば上町台地(砂嘴であったという)を挟んんで瀬戸内海とつながった海水湖であった。したがって海抜が0に近いのも理解できるような気がする。やがては流入する土砂で湖底が上がり、干上がって平地になっていった。今は大阪のベッドタウン、日本の製造業を支える東大阪の町工場群、河内のおっちゃん、おばちゃんでにぎわうソウルフルな地域である。もはや河内湖の痕跡も面影もないが、上町台地か生駒山から展望すると確かにここがかつては海、湖であったとしても不思議ではない地形に見える。

 一方、河内平野とこれだけの比高差がある奈良盆地には、かつて古代奈良湖があったとされている。周辺の山々から流入する水が溜まった巨大な盆地湖があったと言うのだ。奈良盆地は東西16km、南北30km、矢田丘陵、馬見丘などはあるものの総面積300平方キロメートルの比較的平坦な盆地である。今は初瀬川、富雄川、飛鳥川、高田川など、枝分かれた150余の小河川が張り巡らされており、そのどれもがやがては大和川に合流し、王寺から亀の瀬と言われる生駒山系と葛城・金剛山系の切れ目、すなわちあの二上山のある穴虫峠のあたりから高低差を一気に下り河内平野に流れ込んでいる。200万年前の二上火山の噴火に伴う地形変化で古代奈良湖の水が河内へ流出し始めたと考えられている。さらに、古代奈良湖は、縄文後期から弥生時代にかけて、地底の隆起や大和川からの流出増(これには農業のための人為的な流路変更も考えられるとする研究者もいる)などにより、水位が下がり続け、やがては干上がって消滅してしまったと言われている。何時頃まであったのかの確認が研究課題となっているが、後述のように様々な考古学、歴史学上の事績、記述にもヒントが隠されているようだ。

 なるほどこういう地形の大きな変遷があったのか。世の中にはこのようなことを研究しておられる先生方もいて、様々な研究成果が発表されている、特に最近は南海トラフ地震の被害想定や、海抜0メートル地帯である上町台地西側の大阪の中心部(難波八百八橋の水の都であった)や、東の河内平野(かつて海。湖であった)の防災対策、亀の瀬地域の大和川の土砂災害対策などの現実的な要請から、古代の地形変動に関する研究が盛んだ。また歴史学の視点からも様々な研究がなされている。私は研究者ではなく、通りがかりの「時空旅行者」なので、その詳細には立ち入らないが、太古の地形が歴史上のいくつかの出来事や風景描写、考古学的な発掘の意味を説明してくれている点はとても興味がある。
 
 いくつかのエピソードを並べると、

? 奈良盆地に見られる縄文遺跡は例外なく標高45m以上の微高地に検出されている。それ以下には見つかっていない。やがて稲作農耕を主体とする弥生時代に入ると、弥生遺跡は標高40mでも見つかるようになる。すなわち、縄文後期から弥生時代にかけて徐々に奈良湖の水位が下がり、湖畔の湿地帯は肥沃な地味で稲作に適していたことから弥生人が定住し始めた証拠だと言う。湖畔に豊葦原瑞穂国の風景が生まれた。

? また、古代の山辺の道がほぼ標高60mの高さで山麓を南北に通っているのは、かつての湖や通行に支障のある湿地帯をさけて形成された証拠だと言う。当初は人々の頻繁な自然往来で踏み分けられた道であったのだろうが、その重要性から権力者により官道として整備されていったのだろう。その後平地に造られた上津道、中津道、下津道より時代をさかのぼる最古の官道と言われるゆえんだ、と。

? 万葉集巻の一に舒明天皇御製の歌がある。
 「大和には群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は」
この「海原」はかつて香具山の北にあった埴安の池のことを指している、と唱える万葉集の研究者もいるが、この池も埋め立てられて、今香具山に登っても海や湖はおろか,池もも見えない。6世紀当時ははるか北に奈良湖の姿があったのであろうか。だとすると山と湖と水田で満たされた盆地はさぞ美しい風景だったことだろう。

? 斑鳩の法隆寺の南大門の前に鯛石という1×2メートルの踏み石が表面を露出させて埋まっている。地元ではこの鯛石まで水が来ても大丈夫と言い伝えられている。今見るとどこに水があるのか、という法隆寺界隈だが、創建当時は消滅寸前の奈良湖はこの斑鳩辺りに存在していて、創建時の斑鳩宮、法隆寺は近いところに建っていたのかもしれない。そうなると聖徳太子は飛鳥京へ毎日太子道を馬で通っていたとされるが、実は斑鳩からは船で飛鳥へ渡っていたのではないか。ちなみにこの鯛石のある地点の標高は50mで大和川の水位40mよりは高い位置にある。

 たしかに地形的に見ても、歴史的に見ても、「古代奈良湖存在説」はあまり荒唐無稽な感じではない。現在の奈良盆地の150余の中小河川の大和川一局集中の地形を見ても、かつての大きな水源の存在の痕跡を感じることが出来よう。さらに稲作農耕中心の生産手段と富の所有分配という経済体制、政治的支配機構、社会システムが確立されていったヤマト王権の時代の下部構造には、こうした水運に役立つ古代湖や河川とそれに連なる肥沃な湿地帯、神の権威を感じる甘南備型の山に囲まれた「まほろば」すなわち奈良盆地(大和盆地)が無くてはならなかった。まさにそうしたステージの一角、山懐(山の処)すなわちヤマト(大和)にヤマト王権が成立していったと考えれば、やはりこの盆地の舞台設定は、箱庭的であるが、国家誕生の揺籃としてはパーフェクトな設定ではないかと思う。


https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/1a/e080e77ea19c21ed40a5f43e9b34ad6e.jpg

(奈良湖推定図。この図によれば、縄文遺跡は水辺、湿地帯をさけて山麓の微高地に分布しているが、弥生時代の農耕集落(唐古鍵遺跡など)は湿地帯に分布している。面白いのは古墳時代から飛鳥時代の古墳や宮殿・宮都跡は稲作生産の拠点である水辺・湿地ではなく三輪山の山辺に分布している。やがては湿地の無い盆地南の飛鳥の地に遷っている。この図はネットの図形検索で出てきた図で、あちこちのブログで引用されている。しかし、いくら調べても出典が明らかでない。以前「近畿農政局のHP」に掲載されていたものではないかと思う。作者不詳だがよく出来ているので引用させてもらった)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/e8/fe71c8bbed362bd353858b8a95dbed6f.jpg

(奈良湖から亀の瀬を通って河内平野に流出する大和川の構造を示した図。高低差がある分だけ、亀の瀬地区は古代より大和川の流水による地盤崩壊などの災害の多いところであったようだ。奈良湖は最後は斑鳩の辺りに小規模に残り、やがては消滅していったのだろう。これも上図同様、出典が明らかでないがわかりやすいので引用させてもらった)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/92/4c34343109fc06091a8b3a8bc9b36947.jpg

(上町台地大阪城付近から展望した河内平野の今。高層マンション辺りが近鉄八尾駅前。かつてはこの辺り一帯は河内湖であった。二上山と左手の生駒山との切れ目あたりが亀の瀬、穴虫峠)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/15/0dca563980b9b718dee3cb64dedee8e8.jpg

(山辺の道の背後にそびえる龍王山山頂から奈良盆地を俯瞰する。この一帯に古代奈良湖があったと言われている。正面が二上山、その右側の山稜の切れ目が亀の瀬、大和川が河内平野に流入する所だ。手前の緑は崇神天皇陵。他にも箸墓古墳、景行天皇陵など大型の古墳がずらりと並ぶ大倭古墳群)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/69/67b040beb8603d584f70d66ad61df869.jpg

(龍王山からの二上山の展望。右奥の山向うに,うっすらと河内平野の町並みが見える)
https://blog.goo.ne.jp/nambashout/e/1858903decf3df8427ce6f66be8b8ae7

33. 中川隆[-9290] koaQ7Jey 2019年6月25日 19:32:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3209] 報告

 『逆・日本史3』樋口清之著 から
 大和平野標高六〇メートル地点の謎
http://kamnavi.jp/jm/yamato.htm


 石器時代の終わりごろの遺跡が、奈良県全体で、約三〇〇近く発見されている。これらの遺跡は、大和の吉野渓谷から始まり、宇陀・三輪を通って大和平野に降りてくるが、平野の周縁部に広がるだけで、中央の平坦部にはまったくないのである。そして、周縁にある遺跡は、いずれも標高六〇メートルほどの線までである。
 これが弥生文化の一八〇〇年ほど前の遺跡になると、標高五〇メートルの線まで下りてくる。もっとも標高の低い島根山古墳も、やはり標高五〇メートルの線で止まっている。

 これはどういうことかというと、石器時代には標高六〇メートルが、古墳時代には標高五〇メートルが、人間が生活できる極限線だったことを意味している。それ以下の低い土地には何らかの障害があって、人間が住むことができなかった。

 そして、住むことができなかった障害とは、そこに水があったからである。標高五〇メートル以下の土地はすべて、かつては水中であった。つまり、大和湖の湖面が、二七〇〇〜二八〇〇年前の石器時代には標高六〇メートルの線にあり、一八〇〇年ほど前の弥生時代には、標高五〇メートルまで水位が下がったということなのである。

 なぜ、北九州にではなく、大和に都ができたのか

 弥生文化が、おもに西日本で発達し、なかでも大和と北九州に大きな文化圏ができたことはよく知られている事実である。だが、なぜ、大陸文化を早くから受け入れた九州に王朝ができず、大和に日本の古代王朝が誕生したのだろうか。
 それは、大和平野に巨大な湖があり、時がたつにつれて、水位が下がっていったことに大きな原因があったと思われる。

 水位が下がったのは土地がしだいに隆起したからであるが、水が引いたあとの湖畔の土地はよく肥えていて、農業にもっとも適した土地であった。しかも、大和平野は周りを山に囲まれているため、強い風を防ぎ、夏は蒸し暑くて、水田で稲を栽培するのには好条件であった。また、地形が複雑で土地の高低差があり、斜面に恵まれていたことから、大和地方に水田稲作農耕がいち早く発達し、それが大和王朝を生んだのである。

たかばみさん提供奈良湖


 記紀に書いてあることを、学問的根拠もなしに頭から否定してしまうのは、戦前、神話をすべて鵜呑みにして「歴史」としたことと同じくらい滑稽な話である。
 なぜなら、神武天皇の話の内容は、じつは古代の大和に存在したいくつかの歴史的事実の印象や伝承を編集、つまり日本の古代社会の雰囲気を如実に表現した部分が、数多く含まれているからである。

 たとえは、地名である。

 神武天皇は九州の日向を出発し、東へ進んで大和に入ると、長髄彦・兄猾・弟猾・土蜘蛛などの未開人を平定し、畝傍山のふもとの橿原の宮で天皇の位に即いた、ということになっている。

 この長髄彦や兄猾・弟猾・土蜘蛛などがいたという土地や、橿原など、神武天皇に関係のある地名が『日本書紀』や『古事記』などに三三カ所ほど挙げられているが、これらの地名を大和の土地にあてはめると、すべて標高六○メート〜線以上に存在していることがわかる。

 しかも、その土地ほ、大和湖のまわりの小高い所で、縄文式土器の出土する遺跡とぴったり一致しているのである。

 神武天皇伝承が、奈良時代にだれかが勝手につくりあげたものなら、うっかり、標高六〇メートル線以下の、古代においては湖底にあたる地名も出る可能性がある。奈良時代には土地の隆起がいちじるしく、大和潮は幻の湖になっていた。 昔は水位が六〇メートル線にあったなどということは記録に残されていないからである。

 とくに驚くべきことは、神武天皇の都とされている橿原が、ちゃんと存在していたことである。

http://kamnavi.jp/jm/yamato.htm

34. 中川隆[-10392] koaQ7Jey 2019年11月01日 07:01:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2488] 報告
722名無しさん@お腹いっぱい。2019/11/01(金) 00:18:20.92ID:KB7VfRme

春日氏は、スサノオの子孫を称する諏訪神族の嫡流・金刺宿禰浄成の三男・春日成富を始祖とする家柄で、その子孫・春日大隅の嫡男が春日虎綱にあたる。
その春日虎綱の子孫を称する者、つまりスサノオの子孫を称する者はY-C2c1a2a

百済王族の扶余豊璋の子孫を称する者はY-C2c1a
百済王神社は百済王氏の祖霊を祭る神社で、百済王と共にスサノオを祀っている

スサノオの子孫が国譲りに負けて逃げ込んだのが信濃
百済王族の扶余豊璋の弟である善光が日本に亡命して建てたのが信濃の善光寺

百濟王族は、扶餘系C2c1a(C-Z1300)を出自とするが、百濟の民衆は南方系のO1b2a1(O-F1204)系統が多数であったと考えられている。

C2c1系統はシベリアに一番多い。

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