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弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html
投稿者 中川隆 日時 2011 年 10 月 02 日 09:31:13: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: NEW「大化の改新」近代史の盲点。 投稿者 manase8775 日時 2011 年 9 月 22 日 18:56:44)

弥生人の特徴は、縄文人と比較すると、顔立ちは、面長で、眼窩は鼻の付け根が扁平で上下に長く丸みを帯びていて、のっぺりとしている。また、平均身長も162〜163センチぐらいで、縄文人よりも数センチ高い。これらの人骨資料のほとんどは、北部九州・山口・島根県の日本海沿岸にかけての遺跡から発掘されたものである。

近年、福岡県糸島半島の新町遺跡で大陸墓制である支石墓から発見された人骨は縄文的習俗である抜歯が施されていた。長崎県大友遺跡の支石墓群から多くの縄文的な人骨が発見されている。さらに瀬戸内地方の神戸市新方遺跡からの人骨も縄文的形質を備えているという。ただ、福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の唐古・鍵遺跡の前期弥生人は、渡来系の人骨だと判定されている。

つまり、最初に渡来人が来たと考えられている北部九州や大陸系渡来人が移住した可能性のある瀬戸内・近畿地方でさえ、弥生時代初期の遺跡からは渡来系の人と判定される人骨の出土数は少ない。 水田稲作の先進地帯でも、渡来系の人々ではなく、縄文人が水稲耕作を行ったのではないか。絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。

鈴木尚は、縄文時代から現代までの南関東の人骨を比較研究して、縄文人から弥生人への体質変化を生活環境の変化と考えた。狩猟・漁労生活から農耕生活へと生活環境を一変させた変革こそ形質を変えることになったと理解した。しかし、南関東の人骨比較のみによって、日本全体へ広げて当てはめて理解しようとすることには疑問が残る。

一方、金関丈夫は、西日本の弥生人骨の研究から、縄文人とは違った人間が大陸からやってきて、縄文人と混血して弥生人になったと考えている。この想定は、山口県土井ヶ浜遺跡、福岡平野の前・中期の弥生人骨の研究から導かれた。

混血が起きた地域を西日本と限定し、東日本では、鈴木尚がいうように在来の縄文人が弥生人になったと考えている。福岡平野・佐賀平野などの北九州の一部で、縄文人が渡来人と混血した結果弥生文化を形成して東に進み、混血しながら名古屋と丹後半島とを結ぶ線まで進み、水稲耕作が定着した。そして、西北九州・東日本では、縄文人が弥生人を受け入れたと考えている。 両説対立するというよりも両説両立するといえる。金関の成果を受け継いで前進させている永井昌文は、混血の可能性が大きいと考えている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3


もし、弥生人が稲作を日本列島に持ち込んだ民族(従来の歴史ではそのようにしてある)であるとするのなら、弥生人の故郷は、朝鮮半島ではなく、中国の南部であるという。

これは最近の科学的ミトコンドリアDNA鑑定によって、稲および弥生人のDNAが中国南部のそれと一致するからである。


1999年(平成11年)3月23日、中日共同調査団が発表、 「弥生人」の起源は江南地方か

共同通信によると、日本に稲作を伝えたとされる渡来系弥生人の人骨と、長江
(揚子江)下流域の江蘇省で発掘されたほぼ同時期の人骨の特徴がよく似ており、
DNA分析で配列の一部が一致する個体もあることが、18日までの中日共同調
査団の調査で分かった。

 渡来系弥生人は、朝鮮半島や華北地方から来たという説が有力と考えられてい
たが、稲作の起源地とされる長江下流域を含む江南地方からも渡来した可能性が
高くなり、弥生人の起源を探る上で注目されそうだ。

 同日、東京で記者会見した日本側山口団長らによると、調査団は1996年か
ら3年計画で、江蘇省で出土した新石器時代から前漢時代(紀元前202−紀元
後3年)にかけての人骨と、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人や縄文人の
人骨を比較した。

 その結果、弥生時代の直前に当たる春秋時代(紀元前8―同5世紀)から前漢
時代にかけての江蘇省の人骨と、渡来系弥生人の人骨には、頭や四肢の骨の形に
共通点が多かった。

 また日本列島では縄文時代から弥生時代にかけて前歯の一部を抜く風習があっ
たが、江蘇省の人骨二体にも抜歯の跡があった。

 江蘇省の人骨三十六体からDNAを抽出し分析した結果、春秋時代の三体でD
NAの塩基配列の一部が弥生人のものと一致したという。

 中国側団長の鄒厚本南京博物院考古研究所所長は「弥生人と江南人骨の特徴が
極めて似ていることが分かり、弥生人渡来の江南ルート説に科学的根拠が与えら
れた。今後も多方面から研究を進め、弥生人渡来の実態を解明したい」と話して
いる。

 江蘇省ではこれまで春秋戦国時代から前漢時代までの人骨がほとんど出土せず、
渡来系弥生人との関連を探る研究は進んでいなかった。

「文化的にも江南から影響有」という記事も見られる。

吉野ヶ里で発見された絹は、遺伝子分析により前2世紀頃中国江南に飼われていた四眠蚕の絹であることが分かった。当時の中国は蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じており、世界で最初に国外に持ち出された場所が、日本の北部九州であり、考古学的に証明された。


中国江蘇省無錫市の越時代の貴族墓から出土した鐸(共同)右日本の銅鐸(弥生時代)

『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。中国側研究者からは「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」との声が出ている。鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。

同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、長江(揚子江)下流域の呉(?〜紀元前473)と越(?〜紀元前334)に存在していたことが歴史書にあるが、実際に中国で出土したのは今回がはじめて。楚に滅ぼされた越から日本に逃げた人がいるとされることもあり、日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。』2006年3月7日付の朝日新聞

現在の日本文化の特色となっている神社の原初的形態、しめ縄、鳥居なども中国江南の文化・風俗・風習そのものだと言える事が、考古学的に明らかになっている。

そのほか「抜歯、イレズミ」の風俗、そして大社造の高床式の建物など、DNA鑑定とあわせると、弥生人の出自は中国南部といえそうだ。

ただし中国南部とは、地図上でそういうのであって、その民族は中国人(漢民族)ではない。今も残る中国の少数民族と、すでに消えてしまった民族が混血して出来たものであろう。

春秋戦国時代の呉越の時代の中国、東南アジア、東インド諸島まで視野に入れるべきであろう。

http://sawyer.exblog.jp/7178292/

◇弥生人はどこから来たか?そのルーツを中国江南に探る

第1章 弥生人が見えてきた

@なぜいま江南人骨なのか


我々日本人の祖先はどこから来たか?このテーマは、日本古代史に残された大きな課題の一つである。と同時に、日本人(特に渡来系弥生人)のルーツを探ることは、現代日本人が最も関心を持っている浪漫の一つであろう。

なぜなら、この渡来系弥生人が現代日本人の形質に一番大きな影響を与えているといわれており、学問的なテーマでありながら身近な問題であり、今日的意義も大きいからである。

渡来系弥生人とは、中国大陸からイネを運んできた渡来民のことである。そこで、共同調査団としては、イネの故郷と思われる中国・江南地方にターゲットを絞った。しかし、今まで江南地方からは日本の弥生時代に相当期(中国の春秋戦国時代〜前漢時代)の古人骨はまったく出土していなかった。このため江南人骨との対比調査は未知の分野であった。

ところが、昨秋(1998年11月)の第3回訪中調査で3ヵ年にわたる共同調査を終了したが、予期せざる大きな成果をあげることができた。それは中国側の絶大なる協力と南京博物院の精力的な努力によって提供された未研究の江南人骨数体の中に、日本の渡来系弥生人に極めて類似する固体が数多くあることを確認できたのである。


A衝撃的な成果を上がる

南京博物院の調査研究室にずらりと並んだ江南人骨をまず、頭骨、続いて四肢骨と入念な計測作業が続く。この日は計測を始めて3日目であった。

日ごろ、慎重そのものの3人の学者(山口敏・国立科学博物館名誉研究員、中橋孝博・九州大学教授・分部哲秋・長崎大学講師)が「江南人骨の多くは渡来系弥生人にそっくりである」と自信に満ちた言葉で言われた。

「まだサンプル数が少なく、多少の固体変質はあるが……」との注釈は付いたが、「江南に弥生人の原郷があった」という発見は、人類学上も衝撃的な成果であった。

「日本の渡来系弥生人にそっくり」の古人骨を江南地方で発見し、分析研究できたことは、日本はもちろん、中国でも今回が初めての画期的な成果であった。 

この成果が1999年3月18日、東京国立博物館で、日中共同調査団(日本側団長=山口敏)からマスコミに正式発表され、各報道機関から全国に詳しく報道されている。 この発見は人類学会だけでなく、考古学・農学などの周辺諸分野の研究者にも反響が大きく、また、国民的な話題と関心を読んだ。

http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin.html

弥生人のルーツは江南か〜江南人骨の計測と観察〜


@渡来系弥生人そっくりの江南人骨


頭骨の計測=中橋孝博・九州大学教授

(a)特徴をどう対比する

「渡来系弥生人」の特徴は、縄文人に比べて「高顔」つまり顔が「面長」であり、しかも平面的な点である。そこで「江南人骨」と対比する場合、まずこれらの点を観察してみると、両者は基本的に共通していることがまず確認できる。

頭骨の顔面には多くの情報が潜んでいる。そこでまず顔面の計測に入る。 顔の高さ、顔の幅、鼻の高さ・幅、眼窩の形・広さなどである。計測の結果,個体差はあるが平均値としては渡来系弥生人に良く似たデータが得られた。

弥生人と縄文人との決定的な差異は、渡来系弥生人の鼻根部、つまり鼻の「つけ根」がぺチャッとしている平坦な点である。これが渡来系弥生人の顔の最大の特徴である。江南人骨との対比調査で一番大事なポイントはここである。

江南人骨も、渡来系弥生人に似て、鼻の「つけ根」が平坦である。また、「鼻骨つけ根と前歯の間の長さ」を計測すると、ほとんどの江南人骨の数値が、北部九州の渡来系弥生人の数値(平均値)である「74ミリ」に非常に近い。縄文人の数値は67〜68ミリである。

これらの数字は渡来系弥生人と江南人の共通性を決定づける、重要なデーターの1部である。多数の数値(平均値)が一致すれば、「よく似ている」と判断を下せるわけである。

(b)中国で弥生タイプ人骨の出現〜変化はすでに春秋時代〜

今回日中共同調査で渡来系弥生人にそっくりの江南人骨の発見も驚ききであったが、実は江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代、紀元前5〜6世紀)から、すでに渡来系弥生人に似た人骨が出土していたことはさらなる驚きであった。

日中共同調査団による5年前(199?年)の調査で、中国の新石器時代人(4000年〜5000年前)は日本の縄文人、弥生人いずれにも似ていないことが明らかになっていたが、今回(199?年)の研究で、紀元前約500年の春秋時代末期に、弥生人タイプの「春秋時代人」がすでに出現していたことが明らかになったのは、予期せぬ大きな発見であった。

中国の新石器人の形質がなぜ変化したのか?この問題には、日中共同調査団の考古学者の中国側メンバーばかりでなく、この調査に協力いただいた日本の考古学者(菅谷文則<滋賀県立大学教授>東アジア考古学専攻)も注目している。

しかも、この春秋時代人骨は骨の形質が渡来系弥生人にそっくりであると同時に歯も渡来系弥生人のように大きく、抜歯風習も弥生時代の形式と一致している。梁王城遺跡の春秋時代の2体(いずれも男性)に見られた「上顎の側切歯を左右対称に抜く」という「抜歯の形式」は、弥生時代に流行していた抜歯の形式とまったく同じものであった。これは今回の重要な発見の一つであり、今後の重要な研究課題であると、中橋教授も注目している。

今後、この梁王城遺跡一帯は渡来系弥生人の起源を探る重要な鍵となるかも知れない。

http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin2.html

A江南人のほうがスマート

四肢骨の計測=分部哲秋・長崎大医学部講師

(a)四肢骨

北部九州の渡来系弥生人は、江南の春秋〜前漢時代人よりも下肢骨が太く、江南人のほうがややスマートであるが、骨幹の横断面形など、共通性は多い。

また縄文人の大腿骨は前方に「彎曲」しているが、江南人、渡来系弥生人ともに「彎曲」は弱く、この点も重要な共通点である。

(b)推定身長

大腿骨の長さから算出した推定身長は、ひ県劉林の新石器時代人(男2例、平均168.2cm)は黄河流域の新石器時代人に似て著しく高身であるが、常州ウトンの新石器時代人(男6例、平均152.6cm)と春秋〜前漢時代人(男9例、平均165.5cm/女5例、平均152.5cm)はやや低く、北部九州弥生時代人の平均(男162.6cm/女151.3cm)に比較的近い値を示している。

B歯は弥生人のほうが大きい

歯の形態と計測=松村博文・国立科学博物館研究官
縄文人に比べて弥生人の歯は大きい。江南人骨の歯も1部の資料(ひ県梁王城、揚州胡場)では、歯の大きさとの比例が渡来系弥生人に著しく似ている例があったが、現状のサンプルの平均値では弥生人に比べて小さいようである。

今回調査できた江南人骨の頭骨には残念ながら歯の保存されている例が少なかったので、今後サンプル数を増やさねば正確な対比はまだ望むべくもないが、ただ前歯の裏側がシャベル型にえぐれている点などは、渡来系弥生人と共通する特徴がある。

C弥生人と春秋人が同じ祖先

DNA解析=篠田謙一・佐賀医大助教授

江南人骨35体の歯の試料から12体のDNAを抽出し、PCR法で増幅することに成功、解析したデータの塩基配列を「近隣結合法」で比較したのが図2の比較グラフ(系統樹)である。

そのグラフを見ると江南人骨(揚州市−胡場、連運港市−網田童庄など)と北部九州の渡来系弥生人骨(福岡県−隈・西小田)との位置関係は、縄文人に比較すると近い距離にあるように見える。

古人骨DNA分析は国際的にも研究がスタートしてまだ5年程度の歴史であり、日本側・中国側のサンプル数が少ないので、篠田助教授はまだ「作業仮説」であると言っているが、今後サンプル数が増加し、もっと深く分析が進めば、なぜ古人骨の間にこのような変化や共通性が生じた理由(例えばヒトの移動による混血とか)が、DNAの解析から結論が出せるかもしれない……と語っていた。

ここで特記すべきことは、前記した梁王城遺跡の春秋時代末期(紀元前5〜6世紀)の江南人骨2体が、すでに渡来系弥生人と共通の塩基配列を持っていたことであろう。

これは梁王城の人と渡来形の弥生人の先祖が共通である可能性をデータが物語っており、今後の大きな研究課題として注目される貴重な発見である。


D山口調査団長に聞く

(a)共同調査対象の江南人骨

新石器時代 22体 ウトン
春秋戦国時代 11体 梁王城10 儀征1
前漢時代 15体 網田童庄5 陶湾1 胡場7 他2


(b)調査成果の要点

(1)未知の江南地方で調査対象の古人骨が始めて発見された。

(2)江南人骨が頭骨、推定身長などの計測の結果でも、渡来系弥生人に「よく似ている」ことを確認できた。しかもDNA解析、抜歯の風習でも「弥生的要素」の類似が始めて発見されたことである。

(3)これも予期せぬことであったが、すでに弥生人タイプの春秋人が春秋時代末期に誕生していた。これは画期的な発見であった。

(c)稲作民の渡来

稲作民は中国大陸のどこからきたのか?その源郷はどこか?これが私たちの調査団の最大の関心事であった。そのためには「イネのふるさと」である江南地方の古人骨の調査に的を絞ってきた。今回稲作の渡来民の源郷を江南で発見し、その宿題を果たし得たことは学問的にも大きな意義があると思う。

さて、その稲作を日本にもたらした渡来ルートにについては、渡来民の源郷の候補地が黄海をとりまく山東、江南、朝鮮半島の地域に絞られてきたので、これからは考古学、農学など関連部門との学際的研究にまつべき時期に来たと思う。

この稲作民がなぜ故郷を離れねばならなかったか?というテーマも興味深い。これも学際的な課題である。

http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin3.html

第3章 前漢墓の遺跡−巨大な木槨〜中国江蘇省の網田童庄〜


昨年(199?年)の秋、訪中した共同調査団は江南人骨が出土した江蘇省連雲港市の海州地区網田童庄(田がヘンで造りが童で,田童で1字です) の前漢墓の発掘跡を訪れた。

この遺跡からは前漢時代の人骨5体(男3体、女2体が出土していた。この遺跡は前漢時代の海州邑の豪商、豪農の広大な墓域であったとのことで、小高い丘陵の山麓にあり、地下深く10メートル掘って埋めていた巨大な「木槨」の中に夫妻の「木棺」2基が納められ、その木棺の中に古人骨は眠っていた。

「魏志倭人伝」に「魏の墓には棺ありて槨なし」と記述されているが、始めてみる巨大な「木槨」には調査団も目を丸くしたものである。

http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin4.html


江蘇省の主な人骨出土遺跡■印
http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin5.html

今の朝鮮半島の住人と、三韓時代の半島の住人は民族学的には全く別の民族です。

韓国(北朝鮮)人の先祖は百済人でも新羅人でもありません。 同じ地域に住んでいるという事だけが共通点です。

弥生人と呼ばれる文化を持つグループは今でいう中国南部からの移民(難民)だと思われます。 三国志の世界の前(前〜後漢)期あたりでしょう。

その後に北方系の民族が半島に文化を咲かせながら 日本列島にやってきます。

勿論、今の朝鮮半島の人たちとの先祖ではない人たちです。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1425303274

稲作の起源とその考古学的分析


日本人の渡来ルートを知るために稲作の渡来ルートを考える研究があり、いくつかの説が存在している。

かつて、佐々木高明らによる照葉樹林文化論は、稲作が中国雲南省などの山間部における陸稲を発祥としていると主張していたが、近年、長江文明の全貌が明らかにされるにつれ、稲作は長江下流域の水稲耕作を発祥とする説が有力視されつつある。

従来、稲作は弥生時代に朝鮮半島を南下、もしくは半島南部を経由して来たとされてきたが、2005年、岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラント・オパールが見つかっており、縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が多数出た。


それに加え、

遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、

朝鮮半島で確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり、畑作米の確認しか取れず、日本より遡れないこと、

極東アジアにおけるジャポニカ種の稲の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部からジャポニカ種の遺伝子の一部が確認されないこと


などの複数の証拠から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート)による伝来である学説が見直され、日本から朝鮮半島へ伝わった可能性を指摘する佐藤洋一郎の説もある。


一方、これらに対して農学者の池橋宏は、従来の「縄文稲作農耕」説は農学的に見ても疑わしく、日本の稲作は江南を起源とし、北九州に持ち込まれた可能性が高いと主張している[38]。しかしながら、最近の遺伝子解析技術の進歩はめざましく、こういった学説では


日本での水田跡が紀元前まで遡るのに比べて、

朝鮮半島では水田耕作の遺跡が約1500年前くらいまでしか遡れない事実


と符合するものでもある。

現在、炭素14による日本最古の水田稲作遺跡は約2800 - 3000年前とされている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA#.E3.80.8C.E5.80.AD.E6.97.8F.E3.80.8D.E8.AB.96


日本の神典によると、稲の起源は神代の時代で、保食神(伊勢外宮のご祭神・豊宇気姫神)によってその原種が生み成されたとされています。そして天熊人(あまくまのうし)がそれを高天原へ持ち帰ったところ、天照大御神が「この物は、すなはち顕見(うつしき)蒼生(あおひとくさ)の食ひて活(い)くべきものぞ」という神勅を発せられ(「顕見蒼生」とは人類のこと)、人間の主食であることが定め
られました。

その後、高天原で稲を培養する道が開かれ、また品種改良も行われて、天孫降臨の際、邇々芸命(ににぎのみこと)に最上級とされる米種が授けられたことが伝えられています。


わたしが学校で習った頃は、確か「稲作は朝鮮半島から日本に伝わった」という説でしたが、テクノロジーの発達によって様々なことが判明してきますね。

http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/230809.htm

縄文の視点からみた台湾と朝鮮 From tokumaru

縄文専門家に台湾と朝鮮の話を伺いました。短いですが、ご参考まで

1台湾は旧石器時代から、スンダ文明圏にありました。台湾はスンダ原住民の国です。海底には神殿遺跡があります。三百年前大陸から中華大陸から三百人ほどわたってきて、さんざ悪さをしました。そして将介石が台湾に逃げてきて占領しました。独立派はいれなくなりした(今は大丈夫になりました)。

また、台湾では縄文土器が発掘されていることです。是非、原住民資料展示館、及び考古博物館に足を運び館の人と話すとよいです。

2ソウルの韓国国立博物館にも縄文土器が展示してますよ。九州の縄文土器と同じだとちゃんと解説してあります。また、ピョンヤンの国立博物館にも7千年前の縄文土器が展示されていた。

朝鮮半島も縄文文化圏だったのです。

台湾の博物館で特別に発掘土器を見せて貰ったのですが、日本語を話す館長は、それら土器を縄文土器と言っていました。沖縄では縄文土器がないとされていたのですが、空港工事で縄文土器がでてきたので、歴史年表が書き換えられています。

http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220813.htm


■チョーセン人・カンコク人が認めたくない歴史的事実の例


・弥生人が長江流域から稲作とともにやってきた百越系民族であること(稲のDNAによる証明)

・半島南部の先住民が倭人(日本人)(弥生人=百越系民族)であること(半島南部考古学的遺物=九州北部遺物)

・新羅の建国時の宰相(瓢公)が倭人(日本人)であり、王家の一つ昔氏が倭人系統であること、また始祖の朴赫居世についても倭人(日本人)説があること(瓢=ひさご・ひょうたん=朴=半島南部古語)

・百済、新羅が日本の大和朝廷に対し従属的地位にあったこと

・大和朝廷(日本)による伽耶地域の支配(半島南部における多数の前方後円墳の存在)

・半島における文化的独自性の欠落(あらゆる分野での古典の不在)→事実のねつ造,文化の掠奪

・常に日本、中国、モンゴルなどの属国として歩んできた歴史

・姓が漢族のものであること

・朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと(李朝の軍は明の将の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われている)

・朝鮮通信使が実質的に日本への朝貢使節であったこと(琉球の江戸上りと同じ)

・李成桂が女真人=満州人であること

・固有語の語彙が乏しく、また日本のように字訓という制度的保証がない状態ですでに語彙のおよそ7割が日本漢語であること(学術的語彙は9割が日本漢語

http://shadow-city.blogzine.jp/net/2011/02/post_6c46.html#more


■中国の史料『東夷伝』の記述

「新羅も百済も日本を大国として敬い、仰ぎ、通商していた」

■中国の史料『三国志』の記述
「朝鮮半島南部は倭人が支配していた」

■高句麗の史料『広開土王碑』の記述
「日本が新羅と百済を属国にした」

※韓国人が石碑の改竄を主張するが、昔の拓本が2枚、中国で見つかり、中国人学者に否定される

■日本の史料『日本書紀』の記述
「新羅と百済は日本の属国」

「渡来」は飛鳥時代にも奈良時代にも続いている。大移動は無くなったが、始祖の地からの文化・血脈の移入は続行していたのである。

大和朝廷における「渡来人」は、そのもたらした価値故に高い身分につき、絶えず政(まつりごと)の中心にいた。やがて血脈の移動は途絶えるが、見方によっては「渡来人」達が今日の日本を造ったとも言える。

『日本書紀』には百済の歴史書が多く引用され(『百済記』『百済新撰』などが引用されているが遺失した歴史書である)、百済から輸入された文物は多い。

有名な文化財には、軍事的援助の礼として、中国より伝来したとの説もあるが、百済から倭に送られた奈良県の石上神宮に伝わる七支刀がある。

百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む百済人が倭国に亡命し一部が朝廷に仕えた。豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。百済王氏は8世紀に敬福(きょうふく)が陸奥守として黄金を発見し東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍した。大阪府枚方市の百済王神社は百済王氏の氏神を祭る神社である。

この他にも、5世紀に渡来した昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥戸神社など百済にまつわる延喜式内社がある。また、奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残る。

また、兵庫県神戸市には扶余系にちなんで唐柩の地名が残る。なお百済王氏ではないが、光仁天皇の妻の一人であり、桓武天皇の生母である高野新笠は百済武寧王を遠祖とする渡来人和氏の出身という記述が『続日本紀』にあるものの、実際に武寧王の子孫であったかどうかは朝鮮側の資料から見ても不明瞭であるため疑問視する学説もある(詳細は高野新笠の項目を参照)。

そもそも、百済は唐・新羅連合軍によって、完全に断絶させられており、今の韓国人とは関係のない国家とする見方もある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88


大和政権の発展のために働いた渡来人(渡来人研究会)

秦氏・・・秦の始皇帝の末裔を自称していたと伝えられる。

蘇我氏の元で、諸外国の技術・知識を調べ出すことを、当時の政権のため、あるいは氏族自身の朝廷での優位性をたもつために、熱心におこなっていただろうことが想像される。

蘇我氏の仏教導入のための造寺、儀式導入など。
養蚕から絹織物との関わりも考える説もある。
大蔵・内蔵官人職との関わりが強く、文筆業・算術などにも長けていたものとおもわれる。

長岡・平安遷都には、山城に拠点をもった秦氏とその土木技術が大きく影響を及ぼしている。

東漢氏・・・韓半島でもカヤ地域から河内に渡来してきた氏族。

漢帝国に属した帯方郡から渡来したという伝承に由来して「漢」と称することとなったと考えられている。

伝承面では東漢氏の渡来伝承には、神牛の導きに従い、中国漢末の戦乱から逃れ、朝鮮に渡ったこと、皆才芸に優れ重宝されたこと、さらに聖王が日本におり、このままでは滅ぼされてしまうとして、渡来してきたと伝えられている。 
蘇我氏の兵士として奉仕していたが、壬申の乱では、蘇我氏を見捨てることもあった。
その後天武天皇にそれら推古天皇以来の武力の技をとがめられている。


西漢氏・・・物部氏と結びつきが深かったとの説がある。東漢氏に準ずる形で組織が成立していったらしい。


文氏・・・王仁の後裔氏族。文筆業を主としたことから、その呼称・氏族名が生じたものと考えられている。


今来漢人・・・遅れて渡来した漢人。外交関係に従事。

陸系先進技術を通して、王権に奉仕していったものと考えられている。
奈良時代にはその一部は雑戸・品部として、官営工房などに配属されたようだ。


吉士集団・・・6世紀ごろに渡来した新羅系の渡来人集団。

7世紀以降の渡来人・・・百済・高句麗が滅んだときに亡命してきた、百済王氏・高麗王氏らの亡命渡来人や、朝鮮三国の官職をもって渡来した氏族とその子孫、唐から遣唐使などを通して渡来した唐人などがある。

また、7世紀ころになるとペルシアやインド方面からの渡来人も記録されている。
これらの渡来人は、当時最先端の大陸系の知識・文化を身につけていたことから、時に重宝されることがあったものと考えられている。

http://tott.blog68.fc2.com/blog-entry-99.html


一般には、日本では神代(かみよ)の昔から、方言はあるものの、すべての人が同じ言語を話していたということになっています。日本書紀も古事記もそういう前提で話が進んでいるので、疑う人も問題にする人もいません。

しかし、歴史学者の岡田英弘氏は、日本にも実際は多くの言語があり、しかも、その人たちは、他の言語をしゃべる人たちとは商売以外の交流はほとんどなかっただろうと述べています。

引用開始

それでは、668年に天智天皇が日本を建国する前、7世紀後半の韓半島の人口構成はどうだったでしょうか。

636年に唐が編纂した『隋書』の「東夷列伝」によると


百済の国人は、新羅人・高句麗人・倭人の混合であり、また中国人もいる。

新羅の国人も中国人・高句麗人・百済人の混合である、


と書いています。この記事では百済には倭人がいるのに新羅には倭人がいないのが目立ちます。これは新羅が、倭から百済をへて南朝にいたる貿易ルートを外れているのが原因だと思います。


それでは日本列島ではどうだったか。ここで、同じ『隋書』に伝えられる、609年に隋使・裴世清が立ち寄った秦王国のことを思い出していただきたい。

博多の竹斯のすぐ次が秦王国であり、しかもその先十余国をえてから倭国の難波の津に到着することから考えれば、秦王国は瀬戸内海の西部沿岸の下関付近だろうと思いますが、そこに中国人だけの秦王国という国が実際にあったことは、疑う余地がありません。そうして見ると、韓半島だけでなく、日本列島も人口構成は似たようなもので、倭人以外の種族が混じって住んでいたことになります。

(『日本史の誕生』より引用)


引用終了

つまり600年頃、倭には中国人(秦人と漢人)・新羅人・高句麗人・倭人がいたことになります。彼らの何が違うのかといえば、風習もありますが、主に言語です。ちょっと長いですが、『倭国の時代』から引用します。


引用開始


たびたび説明したように、漢人・百済人の言語は楽浪群・帯方郡で土着化した中国人と中国化したわい人・朝鮮人・真番郡の土着民とかが使った河北・山東方言系の中国語の基礎の上に、後漢・魏・晋の河南方言と南朝の南京方言と、475年の百済の南下によって中国化した馬韓人の言語との影響が加わって出来た言語であり、倭国の首都の難波から河内・大和にかけて話されていた。


秦人・新羅人の言語は、それよりも古く倭国に入ったもので、辰韓・弁韓の都市国家郡を建設した華僑が話した前漢の陝西方言系の中国語を基礎とし、それに辰韓人・弁韓人の土語の影響が加わったものであったが、大和・河内では新しく侵入した漢人・百済人の言語に圧倒されて影が薄くなり、奥地の山城・近江を中心として話されていた。


倭人の言語は3つの中では一番古いが、畿内の諸国では、平野部に入植して来た帰化人の言語の影響で語彙も文法もひどく変わってしまっていた。

以上の3つの言語はそれぞれ話される場がちがう。それぞれの言語を話す人々は、別々の社会を構成していて、コミュニケーションの必要があれば、ブロークンな中国語と倭語をちゃんぽんに使って、やっと用を弁じたのである。


(『倭国の時代』から引用)

引用終了

主に分ければ、倭には3種類の言語、つまり漢人(あやびと)・百済人の言語、秦人(はたびと)・新羅人の言語、倭人の言語があったわけです。そして彼らは「別々の社会を構成していて、コミュニケーションの必要があれば、ブロークンな中国語と倭語をちゃんぽんに使って、やっと用を弁じ」ていました。

さて、これらは違う言語ですが、特にちがうのが発音あるいは発声です。これは現代の我々の漢字の読み方にも残っています。

例えば「行」という漢字。これは「ぎょう」とも「こう」とも「あん」とも読めます。「ぎょう」を呉音、「こう」を漢音(かんおん)、「あん」を唐音(とうおん・とういん)といいます。また、他にも、呉音が入る前の古い読み方である古音というのもあります。

例えば「妙法蓮華経」は、呉音では「みょうほうれんげきょう」ですが、漢音では「びょうほうれんがけい」になります。唐音では「びょうはれんがきん」だそうです。

呉音は、名前からいってどうやら南方系の発音のようですから、先ほどの百済人・漢人の系統の言語でしょう。

一方、長安などの唐の中国語の発音が漢音です。また漢音の発音、発声、読み方を含めて切韻(せついん)といいます。後で述べるように新羅人・秦人の言語はこれに近いようです。

ちなみに唐音というは、名前と違って、もっと新しい発音で、明から清の頃の発音をいうそうです。

日本には、この切韻の発音をするための「音博士」という制度がありました。どうやら、当時、日本では呉音の発音が主流であり、漢音は特別な人しか使えなかったようです。


なぜ、最澄(伝教大師)は長安にいけなかったのか?


最澄は804年に中国に渡っています。同じ年に空海も渡っています。空海は長安、今の西安(シーアン)にまで行っています。1年半ぐらいしか行っていません。

それに対して、最澄に至っては1年も行ってないのではないかと思います。最澄はどこへ行ったかというと、天台寺から行っています。日本の留学僧が必ず渡ったところは寧波(ニンポウ、ネイハ)という町で、上海からずっと南のほうへ行って、かなり大きな湾がある杭州(こうしゅう)の側(そば)です。中国人はみんな白酒という強い酒を飲みますが、日本人は紹興酒(しょうこうしゅ)が大好きです。その紹興という町に近いと思いますが、この寧波という町に日本人の留学生は何があろうがたどり着くわけです。

そこよりさらに南のところに天台山というのがあって、ここが天台宗の総本山です。そこから、お経やら戒律やらをもらってきたわけで、大したことはありません。本当は長安まで行かなければなりませんでした。

なぜ、最澄は長安に行かなかった、あるいは行けなかったのでしょうか?

その答えは、当時の唐の標準の発音である、いわゆる「切韻(せついん)」が彼はできなかったからというのが、私の考えです。


実は、最澄の母親は漢人(あやびと)です。上記で言えば、百済・漢人系の呉音の発音をしていた人たちです。ですから、基本的に中国南東部のことばしか理解せず、また切韻もできなかったということになります。

通訳(義真という人)がいたというから、切韻ができる人間をつれていったのだと思います。

「いや、そんなこと言っても、中国に行けば、発音を覚えてなんとかなるでしょう」と思う方もおられるとおもいます。そこで、空海といっしょに西安に修行にいった橘逸勢(たちばなのはやなり)という人の文章があるので引用しておきます。


引用開始


空海と対照的なのが、入唐も帰国の一緒だった逸勢である。空海は唐で逸勢の代筆をした。


中国とわが国では言葉が違っています。私逸勢はまだ中国の言葉が不自由で、学校で勉学に励むことができません、仕方がないので、以前学んだものを復習しています。また、琴や書を学んでいます。
(『古代日本人と外国語』から引用)

引用終了


「私逸勢はまだ中国の言葉が不自由で、学校で勉学に励むことができません」と正直に書いています。したがって、長安に行っても中国語(ここでは切韻)がわからなければ、「以前学んだものを復習する」しかないわけです。

いずれにしても、空海といっしょに長安に行った逸勢の手紙は、長安に行かなかった最澄の選択が正しかったことを如実に物語ってくれています。

さて、それでは、なぜ一方の空海は切韻ができたのか?という話になります。

さきほど、倭では3種類の言語に分けられるという話をしましたが、この中で、特に重要なのが、秦人が話していた言語です。609年に隋使・裴世清が立ち寄った秦王国では、「その人華夏と同じ」であったと述べています。この華夏というのは「華(はな)のような中国の中心部」という意味で、当時の長安と同じということです。

つまり、倭にいた人の中でも、秦人であれば切韻をなんとか理解できたことになります。ただし、668年の日本誕生以来、秦人・新羅人は必死に日本人として同化していったそうですから、800年のころに話せた人は、そうたくさんはいなかったでしょう。

そして日本人で長安に留学して活躍できた僧や留学生は、この秦人の系統の人たちだと思います。例えば、弘法大師の出身は多度津というところの近くですが、この多度津も明らかに秦人の町です。また吉備真備(きびのまきび)は吉備下道の人です。この下道の古い人は吉備上道と呼ばれていますが、彼らは秦人であったということがわかっています。

この秦人は、今では秦氏とよばれ、なにかあやしい民族のように思われています。しかし、言語が当時の中国の中心部と同じだったのだから、彼らこそが、隋・唐からの最先端の土木・工芸・医療技術の担い手だったのでしょう。今の日本で、英語ができると最新の社会科学が学べるのと全く同じです。

http://www.snsi.jp/bbs/page/1/


 現在日本語と朝鮮語は、文法構造がよく似ており、発音構造の一部にも共通点がある。そのため、双方ともツングース諸語・モンゴル諸語・チュルク諸語を含むアルタイ語族に含まれるという見方がある。しかし研究者の見解が一致したわけではない。また、日本語と朝鮮語の近縁関係も、証明されたわけではない。

  中国語(実質的には別言語と見なせる諸方言)は、シナ・チベット語族に分類され、日本語や韓国語とは別系統。シナ・チベット語族に含まれる言語は、中国語、チベット語、ビルマ語など。

  ただし、「中国語は、(上古において)それぞれ別の言語を話していた商人が中原地帯で取り引きを行う片言(かたこと)から生まれた人工的な言語。しかも、漢末期からの混乱期に、本来の漢族は実質的に絶滅。その後の歴史で、大量に流入した北方民族が改めて中国語を形成した。つまり、古代中国語と現代中国語には断絶がある。

古くから続く漢文(文章中国語)は本来、片言を記録するための記号列であり、そのため品詞の区別や時制など文法の本質的要件を備えていない。当初から言語(話し言葉)とは別の、通信・記録の手段。現代中国語の古語ではない」(歴史学者の岡田英弘氏)との説もある。

  継体天皇は、先代の武烈天皇が崩御した後、越前にいた応神天皇五世の子孫を迎えたとされる。出自に不明な点も多く、日本でも戦後になり「新王朝の始祖」とする説が発表された。(編集担当:如月隼人)

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0723&f=national_0723_034.shtml


ブレイスのアイヌ−サムライ説


1989年に、ミシガン大のローリング・ブレイス教授らは「Reflections on the Face of Japan」という論文をAmerican Journal of Physical Anthropologyに発表した。この論文で、ブレイスらは、鎌倉の材木座・極楽寺付近から出土した1333年の鎌倉攻めの犠牲者人骨の歯のサイズと頭蓋骨計測データを用いて、鎌倉武士はアイヌと近縁であるという説を唱え、アメリカで注目を集めた。

鎌倉・由比が浜で見つかった、多数の関東武士の頭骨を調べたら、長頭で彫りが深かった。


ブレイス博士の武士=縄文系の視点はなかなか興味深いものです。

鎌倉時代に由比ガ浜だったですか、大量の関東武士の骨が出てきて学者が調べると、現代日本人と頭骨が著しく異なることがわかりました。 つまり、現代人が中頭〜短頭なのに、これらの武士は長頭だったのです。 いままで、日本人の小進化だと思ってましたが、これが縄文系だとすると合点がいきます。

武士道とは弓馬の道で、弓の技術が尊ばれ、刀が武士の命となったのは、江戸時代
でした。弓といえばアイヌが弓の名手として有名です。

幕末から明治にかけて来日した欧米人が日本人には2種類の人々がいて、武士階級
は名誉を重んじ、威風堂々として礼儀正しい人々だと書き残している。

また、一般の人々とは容姿も異なり、武士は背が高く、中高の精悍な顔をしている
と言っている。 絵巻物を見ても騎馬武者と兵卒では容姿が異なっている。

縄文人が、実は武士団に血統を色濃く残していたと考えると、ブレイス博士の言ってることは、新鮮で興味深い。

何時だったか鎌倉時代の人骨が鎌倉から大量に掘り出されたが、ほとんど縄文人と区別つかなかったそうだ。 つまり、14世紀になっても関東の大部分は、まだ縄文人の系統が、マジョリティーだった。

関東の武士団は、土着の地方豪族たちで、土着の地方豪族たちは、土着の農民たちを兵としていたから、関東武士の骨が、縄文人の骨と区別が、つきがたいほど似ていた、ということは彼らが居住していたであろう関東は、14世紀になっても縄文人系が多かった。


関東人は長頭、朝鮮人は短頭。


とくに鎌倉から発見された頭骨900体あまりは白人並に長頭。

鎌倉市材木座の八幡宮参道沿いで、一の鳥居のすぐ東隣から、鎌倉時代の関東武士と推定される人骨が、1953年から1956年にわたる三回の発掘によって、少なくとも910体も発見された。

しかし、北部九州や畿内や山陰の古墳に埋葬されてる骨の多くは、短頭から中頭。


それは何故か解るだろ?

朝鮮半島や中国からの渡来人だからさ。

http://logsoku.com/thread/academy4.2ch.net/history/1149868119/

日本人は「本土型」と「琉球型」・・・遺伝解析で明らかに


日本人は、遺伝的に「本土型」と「琉球型」に大別できることが、理化学研究所が約7000人を対象にした遺伝解析で明らかになった。日本人の起源を知る手がかりになるもので、26日の米科学誌(電子版)に掲載される。


 理研の鎌谷直之チームリーダーらが、全国の病院から患者の遺伝情報データを収集。14万か所のDNAの個人差(SNP)を手がかりに分類したところ、「本土型」「琉球型」の大きく二つのグループに分けられた。


 両者を分ける最も大きな違いは「髪の毛の太さ」と「耳あかのタイプ」に関係するSNPで、

「本土型」の方が髪の毛が硬く、乾いた耳あかができる傾向にあった。

「本土型」の方が、中国人と遺伝的により近かった。

http://scienceplus2ch.blog108.fc2.com/blog-entry-285.html


今回の研究では、国際ハップマッププロジェクト※6の4つの集団(西・北欧系ユタ州住民60人、ナイジェリアのヨルバ族60人、東京在住の日本人45人、北京在住の中国人漢民族45人の合計210人)のSNPのデータに加えて、バイオバンクジャパン※7の日本人7,003人の、常染色体※8上にある1人あたり140,387個所のSNPを解析に用いました。この日本人7,003人は、心筋梗塞、糖尿病、関節リウマチなど35種類の疾患のいずれかの患者であり(バイオバンクジャパンでは47種類の対象疾患があります)、病院の所在地により、7つの地域(北海道、東北、関東甲信越、東海北陸、近畿、九州、沖縄)にグループ分けされています。

 研究チームは、これらの人々からの常染色体上のSNPの遺伝子型データを用いて、主成分分析を基礎にした解析手法により、個人間の遺伝子型の相関を基に個人間の近縁関係を解析しました(図2)。まず、欧米人、アフリカ人を含んだ解析により、日本人7,003人のほぼ全員が東アジア人のグループに属することを確かめました。

次に、この内の7,001人を中国人45人のサンプルと共に解析した結果、7,001人は本土クラスターと琉球クラスターの2つの主なクラスターに大別されることがわかりました(図3)。

つまり、前者には本土の6つの地域で採血された大部分の人が含まれ、後者には沖縄で採血された人の大部分が含まれていました。本土クラスターと琉球クラスターの遺伝的分化の程度は非常に小さく、そのためSNPの頻度の違いは大部分についてはわずかでしたが、約14万個所という数多くのSNPを用いたために、2つのクラスターを観察できたと考えられます。さらに、本土の中でも遺伝的な地域差があることが明確にわかりました(図4)。今回の結果は、従来から提唱されている日本人集団の「ニ重構造」説と矛盾しないものです。

 本土クラスターと琉球クラスターの違いが、どのSNPでもっとも顕著であるかを調べたところ、6番染色体のHLA領域※9に見つかりました。また、アミノ酸を変化させるSNPの頻度の違いを比較したところ、髪の毛の太さと関連のあるEDAR遺伝子※10のSNP、耳垢のタイプと関連のあるABCC11遺伝子※11のSNPの頻度がもっとも大きい違いを示しました。

 さらに研究グループは、日本人の集団構造が疾患関連遺伝子探索のケース・コントロール解析にどの程度影響するかを調べるために、2つのクラスターや地域を分集団として、個人をランダムにサンプル抽出し、シミュレーションを行いました。その一つとして、本土クラスターのケース集団(200人)とコントロール集団(200人)を基に、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合を増やしていき、ゲノム全体のSNPの遺伝子型頻度の違いの統計量がどのように増大するかを調べました。その結果、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合が23%になると、偽陽性の結果を得る率の増大が無視できなくなることを明らかにしました。この結果は、ケース・コントロール解析では、患者の住む地域や遺伝的背景を考慮した解析デザインが必要であることを示しています。


渡来した弥生人は男性中心で、先住の縄文人女性との間に、日本列島で子孫を残した

母親から子供にそのまま受け継がれる遺伝子「ミトコンドリア(mt)DNA」の型の分布から、母方のルーツが「縄文系」の人と「弥生(渡来)系」の人の構成比を求める計算式を、住斉(すみ・ひとし)・筑波大名誉教授(生物物理学)が考案したというニュースを見つけた。7地域、約3000人を対象にしたデータによると、日本全国から人を集める首都圏では弥生系が約7割と多数派を占めていて、東北や南九州などかつて遠い昔に縄文社会が発達した地域では、縄文系が7〜6割と多かったと記事に書かれている。つまり父親は動いたけれど、母親は動いていないと言うことだね。「女たちのスピリットが大地に残っているかぎり、(先住民の)国は滅ぼされない」というネイティブ・アメリカンの言い伝えを思い出した。日本列島にも先住民の国が依然として影のごとく残されているのだ。

各地域集団の計算結果は表の通り。日本人の平均的集団と考えられる首都圏の弥生人の比率(71%)で、別の調査の歯の形態から割り出された現代関東人での弥生系の比率(75%)とほぼ同じだった。

逆に、縄文系の比率が高かったのが東北や南九州で、三内丸山(青森県)や上野原(鹿児島県)などの大規模遺跡に象徴される縄文社会の発達を改めて裏付けた。のちの時代、大和王権(朝廷)に抵抗した東北と南九州も縄文的な容姿や文化を色濃く持っていたとされているが、今回の調査でその遺伝子が現代まで濃厚に残っていることが裏付けられた。現代人にも縄文系の特徴が色濃く残るとされる沖縄は、遺伝子解析でも縄文系の割合が最高だった。

縄文系が約半数だった北九州は、弥生人流入の中心地の一つだけに意外な数字だが、母方のルーツでみた数字であり、「渡来した弥生人は男性中心で、先住の縄文人女性との間に子孫を残した」と考える説と矛盾しない。

各地域集団の計算結果は表の通り。日本人の平均的集団と考えられる首都圏の弥生人の比率(71%)で、別の調査の歯の形態から割り出された現代関東人での弥生系の比率(75%)とほぼ同じだった。

逆に、縄文系の比率が高かったのが東北や南九州で、三内丸山(青森県)や上野原(鹿児島県)などの大規模遺跡に象徴される縄文社会の発達を改めて裏付けた。のちの時代、大和王権(朝廷)に抵抗した東北と南九州も縄文的な容姿や文化を色濃く持っていたとされているが、今回の調査でその遺伝子が現代まで濃厚に残っていることが裏付けられた。現代人にも縄文系の特徴が色濃く残るとされる沖縄は、遺伝子解析でも縄文系の割合が最高だった。

縄文系が約半数だった北九州は、弥生人流入の中心地の一つだけに意外な数字だが、母方のルーツでみた数字であり、

「渡来した弥生人は男性中心で、先住の縄文人女性との間に子孫を残した」

と考える説と矛盾しない。

http://www.riken.jp/r-world/info/release/press/2008/080926/detail.html

崎谷満先生の父系Y染色体による系統分析、の要約と補足


「日本人の出自から見たDNAの平均値 」


約38% D2型、日本にしか残されていないシベリア経由で入ってきた縄文人の血

約34% O2b型、ジャポニカ米と共に揚子江から海路渡ってきた弥生人(長江文明人、百越人)の血

約18% O3型、山東半島〜朝鮮半島〜日本と渡って来た漢族の血

約 5% C1型、インド経由、南方系海人族の血

約 1% N型、フィリピンに顕著に残り、ツングースも保有する血筋

約 1% C3型、樺太から北海道に、アイヌに残るバイカル湖経由のツングース系の血
     朝鮮半島から九州に、扶余の血? ルート違いのバイカル湖経由のツングース系の血

その他 1%以下、D1、D3型、チベットに残るテュルク系?の血
     O1型、台湾経由の大陸系の血


     O2a型、渡来時期、ルートの異なる長江文明人の血

(出身地域により特定血筋を多く持つ者も、全く持たない者もいます)

(アイヌより縄文人のほうが渡来が早いとの説もあります)

(扶余の祖、東胡も民族系列は謎、ツングースか、テュルクとの混血ともいわれます)

(扶余が天皇家とは限りません。蘇我氏説もあります。皇統断絶説、二回説もありますしね)

(朝鮮人はO2b型5割、O3型4割、C3型1割、O1型数%です)

(日本人は10種類もの血筋が入り混じった稀有な民族なんだそうです。負け犬の吹き溜まりとも、冒険野郎の終着点ともいえるでしょう)


日本人のDNAと日本人のルーツ


世界の人々は35人の母親から生まれてきた子供達です。

35人の母親達もアフリカ大陸に住んでいた1人の偉大なる母から生まれています。人類は35通りの民族的DNAから構成されています。ほとんどの民族は35種の内、5種前後を保有しているに過ぎません。

しかし、大和民族は16種を保有する多様性な民族で有ります。簡単に言うと混血もいいとこなんですよ。おそらく、世界一の混血民族が大和民族なんですね。


縄文人は3万年前ぐらいから日本に渡来してきました。しかし、縄文人が渡来する以前から日本には人が住んでいました。約12万年前の石器が発見されています。

縄文人は僅か3万年前にやってきた新参者なんですよ。その新参者の縄文人が日本を支配した。なぜ?支配したと分かるのか?

それはY染色体遺伝子を辿ることで明白になります。Y染色体遺伝子は父親から男の子へ受け継がれる遺伝子です。つまり日本における支配階級のDNAは何か分かるのです。


縄文人の保有するD系統YAP型が40%から50%も現在日本人に保有している。これが縄文人が日本を支配していた証明になると思われます。アイヌの人はD系が80%も保有しているそうです。限りなく縄文人に近いと思います。

http://robasan.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/dna-7ca9.html


東アジアの民族の遺伝子の近似値

日本人は特殊なタイプなことがわかる。韓国人のほうが漢族に近い。
ttp://maokapostamt.img.jugem.jp/20071222_71597.gif


日本の本州に住む男性の43%がYAP+を保有
アイヌ人男性の98%がYAP+を保有。韓国人のYAPは1%しか存在しない
http://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/enjoybbs/viewphoto/phistory/89000/20070729118570733493125400.gif


日本人は基本的に共通して、アイヌ人〜本土日本人〜沖縄人までD系統(北方古モンゴロイド)がベースになっており、日本人3集団が持つD系統を持たない韓国人は赤の他人と結論できる。

日本は島国だったせいか、チベット人や中東の人間しか持たない遺伝子を日本人も持っているらしい。

韓国人に一番近いのは中国の漢民族なんだよね。


★近畿人は日本人ではありません。

★近畿人は遺伝的にも朝鮮人であると完全に証明されています。


▼手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との遺伝的距離

(山口敏『日本人の顔と身体』より)

0.000…朝鮮半島
0.007…近畿地方
- - - - - - - - - - -
0.012…中部地方
0.035…中国地方
0.035…九州地方
0.038…四国地方
0.048…関東地方
0.068…東北地方
0.092…南西諸島


▼各地の男性頭骨の弥生・縄文判別関数値

(池田次郎・京都大学名誉教授による)※数値が高いほど朝鮮に近い

+2.12…畿内 ←★チョン★
+1.08…四国
+0.76…東中国
+0.70…西中国、北東九州
+0.51…関東、東北
+0.40…北陸
-0.87…西九州、南東九州 ←★天皇家★

▼身体的特徴から求めた朝鮮人との遺伝的近似性(小浜基次・阪大教授による)
     頭示数 比肩峰幅 比上肢長 比下肢長
蝦夷人  76.55   23.65   44.60   55.14(小顔・足長の美しい日本人DNA)
東北人  80.16   23.07   44.46   54.33(小顔・足長の美しい日本人DNA)
畿内人  84.98   22.67   43.99   54.23(顔デカ・胴長短足の醜い朝鮮人DNA)
朝鮮人  85.16   22.35   43.30   53.48(顔デカ・胴長短足の醜い朝鮮人DNA)

▼解剖学者・松村博文先生の常識的見解
http://www.frpac.or.jp/rst/sem/sem1721.pdf

『近畿人は胴長短足、朝鮮人も胴長短足』
『近畿人は短頭、朝鮮人も短頭』
『近畿人は乾燥耳垢、朝鮮人も乾燥耳垢』
『近畿人は耳たぶが痩せている、朝鮮人も耳たぶが痩せている』
『近畿人は髭が薄い、朝鮮人も髭が薄い』
『近畿人は一重まぶた、朝鮮人も一重まぶた』
『近畿人は蒙古襞、朝鮮人も蒙古襞』
『近畿人と朝鮮人は歯の形が同じ』


扶余(ふよ、プヨ、〔朝:buyeo〕、扶余〔中:fu'yu'〕)は、中国三国時代に満州に住んでいた民族で、万里の長城より北、南は高句麗(こうくり)に、東は?婁(ゆうろう)に、西は鮮卑(せんぴ)接する、方約二千里(三国時代の一里は、約450m)の範囲に住んでいた。 夫余、扶餘、夫餘とも表記される(「餘」は「余」の旧字体)。

穀物は余り良く育たない土地に定住したが、好戦的であり、歌舞飲酒を好み、風俗は淫乱であったと記録される。

元々前漢の玄菟郡に属し、その後、三国時代に入ると遼東半島の公孫氏の配下に入った。しばしば鮮卑の攻撃を受けて衰亡し、最後はツングース系の勿吉によって滅ぼされた。

この扶余族には、沃沮(よくそ)・?(わい)・高句麗なども含まれ、朝鮮半島北部を中心に広く分布していた。

他に百済王家も扶余系とみられ、南扶余と国号を自称していた時代がある。また、百済王の姓も扶余または余と名乗っている。


大韓民国忠清南道の郡、扶余郡(プヨぐん、ふよぐん)は、百済最後の都があった。面積634.9平方キロ、総人口82,546人(2005年4月現在)。過疎化で若干減少気味となっている。1邑(町)15面(村)からなる。郡庁所在地は扶余邑。(Wikipedia)

百済の始祖温祚王というのは、まだ原始部族国家のひとだが、韓民族ではなく、朝鮮の歴代の王朝の始祖がつねにそうであるように北方の満州あたりから南下してきた扶余族の出身であった。

扶余族というのは南満州や鴨緑江の山谷を駆けまわって狩猟していた連中であり、
やがては北朝鮮を中心に高句麗国をつくり、南朝鮮諸国を圧迫した。

その一派が南朝鮮の韓民族地帯に入って征服王となり百済国をつくったのであろう。従って、百済の始祖温祚王というのは、背が高く、目に蒙古襞をもち、ほお骨の秀でた北朝鮮型の容姿をもっていたであろう。頭はまわりを剃って髪の一部をながくのばし、それを編んでいわゆる辮髪であったにちがいなく、その服装は北方騎馬民族の特徴であるズボンをはいていたに相違ない。(司馬遼太郎)

実在する最古の天皇14代応神の墓、誉田山古墳の陪塚丸山古墳から出土した国宝の「金銅製透彫鞍金具」は中国遼寧省喇嘛洞UM101号墓で最近出土した鮮卑族の鞍と細部に至るまでほとんどまったく同一。


百済→王族は扶余族、民衆は長江文明遺臣の倭人(弥生人、百越人ともいう)

新羅→王族は扶余族、三王家のふたつに大和出自伝説あり、民衆は倭人と、始皇帝から逃げてきた秦人(漢族)

任那→王族は扶余族、大和の直轄地、民衆風俗は新羅に似る

東胡→ツングース系? テュルクと混血とも、BC200年頃、匈奴に破れ四散

オロチョン→もっともツングースDNAが濃い。>ブリヤート>エヴェンキ>蒙古>満州>北朝鮮人>韓国人>日本人

扶余→東胡の末、穢族から分岐(日本に相撲、胡服を伝えた?)

穢族→(ワイ族、さんずいでカイ族とも)、東胡の末、穢四族(高句麗、扶余、沃沮、穢)に分裂

高句麗→コリョ族(高麗族、大和呼称はコマ族)、 東胡の末、穢族から分岐

高麗→高句麗は便宜上の呼称、高句麗が前高麗、高麗が後高麗、どちらもコリョ族

渤海→東胡の末、建国時高句麗遺臣も参画

蒙古→東胡の末、東胡→室韋(しつい)→蒙古

鮮卑→東胡の末

契丹→東胡の末

柔然→東胡の末

女真→東胡の末、満州族のこと、コリョ、渤海に近いともいう

突厥→テュルク系といわれる

匈奴→??人 、フン族説強し(民族大移動)、東胡を四散させた。

日本人は南から移住か 遺伝情報でルート推定 (共同通信 他)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/238.html


 東アジア、東南アジア、南アジアの住民のゲノム(全遺伝情報)の分析によって、日本人の多くは、アフリカからインドに入り、タイなどを経て北に向かった集団の流れをくむと推定されるとする研究結果を国際チームがまとめ、11日付の米科学誌サイエンスに発表した。

 東アジアの人は、主に南から来たという説と、少なくとも北からと南からの2ルートはあったという二つの仮説があり、今回は前者をより強く支持する結果という。

http://www.excite.co.jp/News/society/20091211/Kyodo_OT_CO2009121001000829.html


日本人におけるミトコンドリアゲノム多様性

○田中雅嗣(岐阜県国際バイオ研究所)

【背景】ミトコンドリアDNA (mtDNA)の全塩基配列に基づいた世界人類のミトコンドリアDNAの多様性に関する最近の分析は、ヒトのアフリカ起源説を支持する確固たる証拠を提供している(Ingmanら、2000)。100,000年前以降に、少なくとも2つのmtDNA人間血統が、急速にアフリカから旧世界に広がり始めた(Maca-Meyerら、2001)。

考古学的記録は約30,000年前に人間が極東アジアの日本に到着したことを示している。(Gloverら、1980)。

 その頃、日本は北と南の陸橋によってアジア大陸とつながっており2つの移入ルートが可能であった。13,000年前に日本とシベリアにおいて世界で初めての土器
が出現した(Shiraishi 2002)。その後の技術的な改良は、日本の新石器時代の縄文文化をもたらし、かなりの人口成長が見られた。その後大陸の人々が朝鮮半島から
の日本に到着し弥生時代が始まり、約2000年前に人口の流入は最大となったと推定されている。


【研究方法】東アジアのmtDNAの系統樹を構築するために、私たちは日本人672個体のミトコンドリアゲノムの全塩基配列を決定した。これにより、アジア人942個体の全塩基配列を使って系統発生を分析することが可能になった。

日本人mtDNAの全塩基配列データから新しい分岐および小分岐が同定された。
この明白な系統樹に基づいて、私たちはアジア人4,713個体のmtDNAの部分的塩基配列を10%未満の誤差で分類した。


【結果および考察】人口および系統地理学的な方法を適用して、日本列島におけるヒトの定住の歴史において論争の的になっている問題を明確にするために、
mtDNAの部分配列を利用した。人口に基づいた比較によって、現代の日本人が北アジア人、特に韓国人に最も近い遺伝類似性を持っていることを確認した。

このことは、弥生時代以降に中国大陸から日本へ遺伝子の拡散が生じたとする従来の説と一致する。

一方、この系統地理学的なアプローチによって旧石器時代の日本人が高度に分化していたことが明らかになった。琉球人とアイヌ人において基礎的なMおよびN系統
が存在することから、古代において南方と北方からの移住があったと推定された。さらに、日本人とチベット人との間の直接的な関係も明確になった。

これはY染色体の研究結果と一致した結果である。更に、いくつかの小分岐が日本において最も高い多様性を示したことから、日本がアジア大陸への移住拡大していった地域の一つであると推定された。


【結論】ミトコンドリアゲノム多型から描き出されたこの複雑な像は、日本への定住の歴史を説明するために提案されてきた従来の理論では十分に説明できない。

http://www.nms.ac.jp/nms/jmito/NENKAI03/DAI3Y41-50.html

古代朝鮮・韓民族の形成とニッポン  【ニッポン民俗学】

▼朝鮮人と日本人


 朝鮮人というのも、日本人と同じくらい形成過程に不明な点が多い謎の民族である。ともに、北方的なるものと南方的なるものとの狭間で、両者のせめぎ合いと融合の末に出来上がった国である。

日本にも今でも東西(あるいは南北)で民俗や生活様式などに相違が残るが、朝鮮ではそれどころか南北は国境線で分かたれている。この「北緯38度線」は、古代の形勢、すなわち北の高句麗と南の韓族の三国家を彷彿とさせるものである。喩えて言えばだが、今なお北方的なるもの(旧ソ連と中国)と南方的なるもの(日本と「南蛮」米)との狭間にあるかのようだ。

 朝鮮半島では「南北統一」がいま盛んに語られているが、これは新羅による七世紀の国土統一以降、一千年以上唱えられてきた「国土・民族・主権の統合や自己回復」の民族的スローガンの一変種との見方もできる。朝鮮史は、ツングース系契丹族の遼やモンゴル族の元など北方異民族の侵入や支配、そうでないときは宗主国・中国への臣従と、南方からの倭寇や秀吉の侵略、とどめに日韓併合と朝鮮戦争などと、幾多の「自己喪失」で満たされている。

 日本は今でこそ東西に分かたれてはいないが、古代には畿内の西日本政権に対し、東日本は「蝦夷」であり「日本」ではなかった。鎌倉幕府は当初、東日本政権だったし、江戸幕府も関東基盤の政権であった。東西の自然環境の違いが双方の農耕や産業のスタイルをたがえ、そこに適応した生活様式が生まれ、方言や民俗そして感性や思考の違いを生じさせたのであろう。しかしそれだけだろうか。現に、日本化が最も遅れた地域の「日本人」である北海道のアイヌ人と沖縄の琉球人には、本州日本人との文化的差異ばかりではなく、遺伝学的な微妙な差異すら指摘されている。

 朝鮮人形成の解明は、日本人にとって他山の石、いや鏡である。話を先取りしてその違いだけを述べれば、朝鮮人には北方的なるものが、日本人には南方的なるものがより多く残ったということであろう。古代においては、半島南端と列島西端で共有されていた南方的なる「倭」は、その名とともに後ちの日本に引き取られた。後世においては、朱子学の受容にその相違がよく表れている。前者は本家よりも厳格な北方的儒学を打ち立て、後者は南方道教的な人間学へ変質させて怪しむことがなかった。なお、本論では話を古代にとどめることをお断りしておく。

▼南アジア人と北アジア人

 初めにも述べたように、朝鮮半島と日本列島の民族や文化は南北からの渡来で出来ている。正確には知りようもないのだが、幾度にもわたる「交通」(戦争や征服から共存・混血などの人的交流、また文化・物資だけの交易までを含む全交流)の往来があったのだろう。最初に半島や列島に住んだのは、東南アジア方面から北上した原アジア人(古モンゴロイド:南アジア人)である。人口的にはそう多くを想定しなくてもよいだろう。ただし、この南方「交通」ルート(東南アジア−中国・華南−朝鮮西南部・日本西北部)は常にオープンであった。

 次に渡来したのは、北方で長らく氷雪に閉じ込められていた新アジア人(新モンゴロイド:北アジア人)である。彼らは寒さで体質を変化させていたが、同時に文化も寒中で集約的に磨いていたはずだ。およそ一万年前の雪解け(温暖化)とともに、彼らは南進し始める。原アジア人よりも精力的で人口も多かったように思われる。やがて半島や列島に押し寄せたのは、その中のアルタイ・ツングース族系の者たちである。彼らは採集・狩猟・漁撈の民であった。

 朝鮮半島に最初に入ったツングースは、ワイ(カイ)族や貊(ぱく)族と呼ばれる者たちである。彼らは南方から来たアジア人とも「交通」しながら、ほぼ半島全体に拡がったものと思われる。これが朝鮮語の礎を作ったのであろう。一方、考慮しておかねばならないのは、南方ルートからの絶え間ない「交通」である。人の渡来も文化・物資の交易もあった。とりわけ、後ちには南方の焼畑耕作文化が移植されていただろうことは強調しておきたい。


▼半島北部の「中国人」支配

 東アジアの歴史記録は中国に頼らざるを得ない。それによれば、初めて「朝鮮」を名乗ったのは当時の「中国人」である。それは春秋・戦国時代の燕(現北京に都した周の分封国)に隣した「箕氏朝鮮」である。もちろん、半島と中国文明との「交通」はそれ以前からあっただろう。黄河文明のアワを中心作物とした畑作文化が、北西回りで半島に移入されていたことは間違いない。その箕氏朝鮮とは半島北西部までを領土としていたものと思われる。

 実は、箕氏朝鮮がその存在とともに、歴史年代が明白となってくるのは滅亡に関しての記録においてである(『後漢書』)。哀れなものである。戦国末期の燕、秦帝国、そして前漢、と強者が変転する動乱がうち続く中で、旧燕からの亡命者・衛満という者によって箕氏は滅ぶ。紀元前194年ごろ、替わって立ったのは衛氏朝鮮である。しかしこの衛氏も漢の武帝によって滅ぼされ、そこには直轄植民地として楽浪郡などの四郡が置かれる。同108年のことであった。


このように半島北西部には長らく「中国人」が住み、その文化を持ち込んだ。これは紀元後313年、高句麗が楽浪郡を滅ぼすまで継続した。箕氏の到来から数えると、およそ一千年と見てよいだろう。そういう意味で、東日本と同じく、半島北部は「朝鮮人」ではない「異民族」の地であった。その後の高句麗(ツングース族)支配を考えれば、それはさらに続くとも言える。しかし同時にこれは、「では韓民族とは何だ?」という問題を提起し、さらに「民族」というものの歴史性にまで思いを至らせてくれるものでもある。


▼韓民族の「辰国」と「倭人」の登場

 次に、南方からの渡来にもう一度、目を向けたい。南方ルートの出発地は長江やその北の淮河の河口域で、北に山東半島を伝い、やがて朝鮮半島西岸や南岸(それに日本・九州北岸も)に及んでいる。前述のように絶え間ない渡来があっただろうが、春秋・戦国時代の華南での闘争、すなわち呉(南アジア人)と楚(北アジア人)、呉と越(南アジア人)、越と楚、それに小国家も巻き込んだ戦乱は一挙に大流民を生んだ。それは、呉が滅亡した紀元前五世紀の前半から加速したと思われる。

 彼らは半島西岸や南岸にたどり着き、そこで「韓」と呼ばれるまとまりを成した。これを辰国と言う。彼らは稲作と漁撈の民である。内陸と北東部にはワイ族や貊族が居住していた。そして北西部には箕子朝鮮があった。韓族は西南部に集住したが、これが後ちの馬韓となる。弁韓と辰韓は、馬韓地域から海岸伝いの移民によって拡張された「韓」である。辰王は大王として、この三韓地域を支配する馬韓の王であった。

 同四世紀後半、長江河口域での最後の「南アジア人」の国・越が楚に滅ぼされる。おそらくこれを契機に、再び半島に流民が押し寄せる。これが「倭人」である。倭人は弁韓南部と対馬と九州北端を強奪する。黥面文身(入れ墨)した最も海人的要素を残した民として、黄海、山東半島、日韓海峡、それに東シナ海を故地・長江河口まで自由に行き来しただろう。遅れてきた韓人こそが倭人に他ならない。そしてこれが『後漢書』や『魏志』に描かれた「楽浪海中の倭人」であり「馬韓や弁韓の南にいた倭人」である。

 「韓」人や「倭」人とは何か。華南の「越」人である。これは国名ではない。主に長江河口域に住み、稲作と漁撈を生業とし、高床式の住居文化をもつ「越」と呼ばれた諸族である。中華は彼らを「百越」と総称した。「越智」を今でも「おち」と読むが、これは「越」を「wo:ヲ」とかつて発音したことの残滓である。「倭」もまた元は「wo」と発音した。つまり、「越族」とは「倭族」である。日本・北陸地方を「越」というが、もちろんこれもただの偶然ではない。


▼「倭国」王の朝貢と三韓の成立

 紀元前二世紀初め、衛満によって国を追われた箕子最後の準王は、南方へ逃れて馬韓に攻め込み、韓(=辰)王となった。しかしそれは一代で終わり、再び韓人が復位した。半島北西部には箕子のあと衛氏が建国したが、前漢がこれを滅ぼし、楽浪郡が設置されたことは前述の通りだ。そこへ「倭奴国」が朝貢し、蛇の取っ手が付いた金印の下賜を受けたことは有名だ(紀元後57年)。さらに「倭国王帥升」も朝貢している(107年)。

 この頃、すなわち紀元後一世紀ごろ、高句麗が南進し、楽浪郡を圧迫し始める。その東部にはワイ族と貊族がいた。二世紀後半、中国・後漢政権の衰弱に伴い、楽浪郡も衰える。辰国は、馬韓王を共同王として頂きながらも、馬韓・弁韓・辰韓の三韓体制となる。中華帝国の綻びは、周辺国に動揺を与えるのだ。『後漢書』には「倭国で大乱」とも記録されている。後漢末期、楽浪郡南部を帯方郡とし、植民地再建をはかるが、後漢は滅び、魏がその後を継ぐ。その帯方郡へ使節を派遣し「親魏倭王」と信認されたのが卑弥呼である(239年)。

▼百済と高句麗

 さて、半島北方に拡がる満州平原(中国東北部)に目を向けよう。ここも元々は古モンゴロイドが先住していたが、南下した北アジア人に呑み込まれ、混血してツングース諸部族となっていた。ツングースの西方には、遊牧狩猟民のモンゴル諸部族がいた。扶余族はそのモンゴルの一部族で、紀元前二世紀末、満州平原に進み、そこにいたツングース諸族を征服し混血する。北方系の畑作を学んで半農半猟民となり、やがて扶余国を建てた。

 この国は高句麗や鮮卑の圧迫を受けて紀元後四世紀前半に滅亡するが、一王子が逃れて東扶余国を建てる。しかし今度は王位継承問題がこじれて、王子は朝鮮半島に逃れた末、華南に移った東晋の支持をおそらく受けながら、馬韓に攻め込み、同世紀半ば過ぎ、馬韓を制圧してしまう。これが百済の建国である。すなわち、百済とはその王族は扶余族、その住民は馬韓人(倭族)という「二層構造」の国家だったのである。このとき、辰国は解体する。

 次に高句麗だが、この国は紀元前一世紀末、ツングースのワイ族系の部族が建てた国である。徐々に勢力を拡大し、四世紀には現中朝国境の鴨緑江を中心に、扶余国からは満州平原南部を、楽浪郡と先住ツングース部族からは朝鮮北部を奪って、その地を領有するに至る。高句麗には二つの宿命があった。一つはツングース族の「名門」扶余族の影である。高句麗は扶余の後裔と僭称する。もう一つは旧楽浪郡の文化である。華北中国文化を引き継ぎ、半島へ導入する役割を担うことになる。


▼新羅と加羅

 古代朝鮮「三国」のあと一国・新羅は、以上述べてきた通り、韓族主導でツングース族が混血した国である。王族も住民も韓人である。新羅の成立は六世紀初め(503年か)と見られる。同国は辰韓の三氏族の統合体である。すなわち、朴(パク)・昔(ソク)・金の三氏族が辰国の解体以降、並立していたが、それを王統譜22代の金氏・智證王が統一し、この時、国号を新羅としたと見られる。

 後ちに新羅に併呑される加羅(伽耶)であるが、ここは統一領土国家ではなく、都市国家連合的な「連邦」を成した。これは「倭人」が「韓」による統合を拒んだためと思われる。特に、「任那日本府」があったとされる南岸の金官加羅は、中華に「狗邪韓国」とも呼ばれていたように、「韓」と「倭」の二重国家であった。すなわち、韓の加羅連合の一国であると同時に、倭の一国でもあった。この状態は新羅成立前ごろまで続いた。(実はこのあたりに、わが倭国王権の秘密が隠されているのだが、これは別論として述べたい。)

 その後の半島情勢については以前にも記したので簡略にとどめるが、六世紀半ば過ぎに新羅は加羅を併合した後、七世紀後半、唐と連合して百済(および倭国)を破り、唐に討たれた高句麗の半島内領をも掌中に収めて、半島全土を統一支配する(676年)。

▼朝鮮人形成の方向性

 改めて考えたいのだが、これで「朝鮮人」が成立したわけではないことは自明だろう。ここで同時代の日本を想起されたい。壬申の乱(672年)直後の天武天皇の時代であるが、朝鮮と同様に、この頃にはまだ「日本人」は成立していないのである。「民族」という概念の限界を強調しておきたい。

 朝鮮人は、北のツングース族と南の韓族(倭族)の結合として熟成していったことはお分かりだろう。統合は新羅王権によって進められたので、新羅王権の性格が朝鮮人形成の方向性を示唆してくれるはずだ。統一以前の三国時代は、中国の南北朝時代とほぼ並行してあったが、朝鮮情勢はその代理戦争の面もあった。諍いもあったが北朝系文化を担ったのが高句麗であり、南朝系文化を積極的に移入し南朝と友好をはかったのが百済であった。

 地図を広げてもらえれば分かりやすいのだが、南朝に最も近いのは百済であり、言うまでもなくこれは伝統的な「南方ルート」でもあった。では、新羅はどうか。いまや宿敵となった百済に中国への陸路も海路も阻まれ、大陸から見れば最遠の地にあった新羅は、高句麗の強圧もあって高句麗経由で北朝中国文化を受け容れた。中国仏教も二伝あって、それはインドとつながる西域に開いた北魏(モンゴル系鮮卑族の国)の北朝仏教と、閉じて中国化の道を辿る南朝仏教であった。

 つまり新羅は、三国の中では最も韓民族らしい国であったが、その文化は強くツングース・モンゴル系の中国化を蒙った国と言える。因みに百済は、ツングース系王権が支配する韓民族の国であったが、建国時にも後押しがあっただろう南転した中華中国人(漢人)系の中国化が進んだ。(自らも北アジア人である「漢人」は、より北方のアルタイ・モンゴル系北アジア人に絶えず圧迫されて南進し、そこでは南アジア人を圧迫・吸収しつつ、次に北進して北方民族を呑み込むという運動を繰り返して「中国人」となった。)

 実際、新羅王権は、韓人の源流である南アジア人の色を最も濃く残した「倭人」を南海峡に追い落として、倭国に切り捨てる一方、漢人が再び北進して中華の定位置である北方の中原に立った大唐帝国の諸制度・文化(律令・礼式、仏教・儒教など)を忠実に、いや中華以上の精確さで受容していくことで「小中華」たる朝鮮と朝鮮人を練り上げていった(注)。ここに朝鮮人の「北方ルート」の重視、南北バランスの北方優位性が固定されたのだ。

(注)新羅・高麗時代には仏教が国教扱いで、李氏時代になって儒教が国教となった。中華志向は、統一までは便宜的な要素もあったが、後になるほど高まり、中国が北方異民族に支配されたときなぞには、朝鮮こそ中華帝国の後裔と意識された。

http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-52.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/235.html
 

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コメント
 
01. 2011年10月02日 10:41:46: MiKEdq2F3Q

古代中国には、北方の畑作・牧畜地帯の龍を信仰する龍族と、南方の稲作・漁撈地帯の太陽や鳥それに蛇を信仰する太陽族・鳥族・蛇族が明白にすみわけて存在していた。南方の長江流域の稲作・漁撈民は、太陽こそ稲の豊穣をもたらすものと考えた。そして、鳥はその太陽の運行を助けるものであった。太陽は朝生まれ、夜に死ぬ。その永劫の再生と循環を支えているのが鳥であった。

 その南北構造のルーツは7千年前までさかのぼることができる。中国東北部の内モンゴル自治区から遼寧りょうねい省にかけて、新石器時代に高い文化が発展した。その代表が6千年前の紅山こうざん文化であり、龍が信仰されていた。

ところが、寒冷・乾燥化が進行した5千年前に紅山文化が衰退し、4千年前には崩壊する。北方の中原で生活していた畑作・牧畜の民は南下して、長江中流域の江漢平原から長江文明を担った稲作・漁撈の民を追い出し、雲南省や貴州省の山岳地帯へ追放した。青銅器の武器を持った「家畜の民」が、青銅器の武器を持たない「森の民」を征服することはやさしかったであろう。

こうして、4千年前以降、北方から何回にもわたって征服する波がおしよせた。とりわけ3千年前は、著しい気候の寒冷・乾燥期であった。北方の中原から「家畜の民」が大挙して長江流域に南下した。長江流域に生活していた「森の民」は、森の多い山岳地帯に退去せざるをえなくなった。この時、長江文明の担い手の苗ミャオ族を含む長江流域の人々が、長江文明の崩壊とともに台湾や日本列島へと移動した可能性が高くなってきた。

 中国大陸においては太陽族・蛇族は龍族に追われたのであるが、海上難民となって日本列島に到着した太陽族・蛇族は、これまであった縄文時代の太陽信仰・蛇信仰に出会うことになる。縄文時代以来の太陽と蛇を信仰する再生と循環の世界観に、この稲作・漁撈民の太陽信仰と鳥信仰・蛇信仰はすんなりと受け入れられたのである。

神武天皇はヤタガラスの道案内によって、熊野から奈良盆地南部の橿原かしはらの地に宮をかまえる。天津神あまつかみ系の子孫である神武天皇が、対決しなければならなかったのが、その東北に位置する三輪山を中心とする国津神くにつかみ系の神々であったが、再生と循環の世界観を共有していたため、スムーズな国譲りが行われた。

 日本の神話に出てくる天皇のルーツをみていくと、アマテラスは田で稲を作る太陽神であった。神武天皇が初代天皇になり奈良盆地を支配する時に、その案内をしたのはヤタガラスという鳥だった。そしてトヨタマヒメはワニだった。稲、太陽、鳥それに揚子江ワニ、これらはすべて長江文明を代表するものである。高天原から日本列島へやってきたニニギノミコトは、鹿児島県の笠沙かささの地についた。長江文明の新しい文化や技術を持った人々がやって来た。長江下流域から、船で東シナ海に出ると、対馬暖流に乗って真っ先に行きつくところが、鹿児島の南端である。そこから対馬暖流が行きつくところが、出雲でありその先が富山の越の国なのだ。

 神武天皇にはじまる日本の天皇は、雄略天皇、武烈天皇という二代の暴虐によって、皇統は断絶の危機に直面する。その時、天皇の血を受け継いだ人としてさがしだされてきたのが、越の国出身の継体天皇であった。越の国のルーツは、長江流域からの越人の国の意味あいが強かった。継体天皇の墓地といわれる高槻市今城塚古墳や埴輪を製造した高槻市新池遺跡からは、船を線刻した円筒埴輪が百個以上も出土している。これは継体天皇と九州の水軍と強い関係を暗示している。そして九州の水軍の背景には江南の水軍がひかえている。

 天武天皇が唐帝国の覇権主義に対抗し、倭国を独立した国として維持するために注目したハードは律令体制であったが、ソフトは太陽信仰だった。天武天皇は長江文明以来の太陽信仰を体系づけ、「日の御子」として天皇を中心する「日本国の心の形」を作り上げた。天武天皇は太陽王であった。日本列島における「太陽の文明」はこの天武天皇によって名実とも完成した。天武天皇は長江文明を継承し、その長江文明の世界観を天皇を中心とする日本国の建国の柱にすえたのである。長江文明は日本文明となって甦ったのである。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/hon/ryutotaiyou.htm

古代史の鍵・丹後 籠神社

太陽信仰もつ海人集団の拠点

「元伊勢」、伊勢神宮の成立に関与?

 京都府の丹後(かつての丹波)地方は、天女伝説や浦島伝説で知られる。近年、古代海部(あまべ)氏の系図が公表されたり、考古学的にも注目すべき遺物が出るなど、漁労や航海を生業とした海人集団による独自の歴史性が明らかにされつつある。
 丹後半島の東側、日本三景の一つ「天の橋立」の付け根に、「元伊勢」といわれる籠 (この)神社が鎮座する。祭神はホアカリノミコト(火明命)で、丹波国造が祖神として祭った。

 籠神社の宮司家は海部直といい、宮司家が長く秘蔵してきた二つの系図、通称「海部氏系図」「勘注系図」は、現存する最古の系図として、昭和五十一年に国宝に指定された。

 これら系図によれば、海部直氏の始祖、ホアカリノミコトをオシホミミの第三子とする。

 オシホミミは『古事記』によれば、天照大神の子である。一方、『新撰姓氏録』(九世紀成立)によれば、ホアカリノミコトは愛知県の濃尾平野に勢力を築いた雄族・尾張氏の祖神である。尾張氏の配下にあった有力な海部集団が、ホアカリノミコトを自らの祖神としたものらしい。

浦島伝説にちなんで名前の付けられた丹後半島の亀島

 籠神社にはまた、二枚の中国製の銅鏡も伝えられてきた。それぞれ前漢時代、後漢時代のもので、系図中にも「息津鏡」(おきつかがみ)「辺津鏡」(へつかがみ)と記されている。昭和六十二年に初めて公表され、弥生時代に招来されて以来、二千年にわたって伝世されたということで、大きな反響をよんだ。息は沖、辺は岸辺のことで、航海の安全に呪力をもつ鏡として祭られたものだ。

 銅鏡といえば、平成六年には、竹野郡弥栄町の墳墓から、邪馬台国の卑弥呼の晩年に相当する「青龍三年」(紀元二三五年)の年号がある銅鏡が発見され、卑弥呼とのかかわりも取り沙汰された。

 弥生時代の近畿地方には、銅鏡文化はほとんどなく、丹後の特殊性がうかがわれる。太陽信仰をもっていた海人集団の幅広い活動を示すといえよう。

 ホアカリノミコトは太陽神で、各地に鎮座するアマテル(天照)神社の祭神である。神話学の松前健氏は、もともとあった「アマテル」という神が、その格があげられて皇祖神である「アマテラス」となったのだと説く(『日本神話の形成』)。

 当時の海人集団の習俗をパノラマ的に描いたらしい土器がある。鳥取県西伯郡淀江町から出土した壷(弥生時代中期後半)だ。神殿建築のような高床式の建物があり、その右側の船には、鳥の装束の人物が乗っており、船の上には太陽らしい渦巻き(同心円)紋がある。

 さらに、左側の木には、瓜のようなものが二つぶら下がっている。金関恕・天理大教授 によれば、銅鐸であるという。千田稔・国際日本文化研究センター教授は、このパノラマ図について銅鐸をともなった弥生時代の太陽信仰を描いたものとし、アマテル信仰の 源流とみている。


息津鏡=籠神社・海部宮司家所蔵

 しかしこれがアマテラス信仰の源流であるかについては、さらに検討の必要がある。ホアカリノミコトは、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)のように、ニギハヤヒと複合で称されることがしばしばで(丹後の天照玉命神社もその一つ)、ニギハヤヒは物部氏の祖神の名であるからだ。

 物部氏は銅鐸を奉祭した氏族とみられ、実際、丹後には銅鐸が多く出土する。天ノ橋立に囲まれた阿蘇海に流入する野田川右岸の加悦町から、銅鐸形土製品が発見され、籠神社の東の由良川の上流には、阿陀岡神社が鎮座し、付近から二個の銅鐸が出ている。

 郷土史家の金久与市氏によれば「銅鐸出土地には必ずといっていいほど古社がある。海洋民の集団が由良川をさかのぼり、上流地点に銅鐸を祭祀し、祠を建立、拠点としたのではないか」(『古代海部氏の系図』)という。

 丹後町から西に向かう網野町の函石浜遺跡からは、中国の新時代の王莽によって鋳造された「貨泉」が発見されている。中国とかかわる交流を物語るものだ。

 平成十年には、王墓とみなされる墳墓(弥生後期〜末期)が籠神社から約三キロ西南で見つかった。美しい透明の青色ガラス製の釧で話題を呼んだ。他に、貝輪系の銅釧(く しろ)(腕輪)十三点、鉄剣十四本などが出土したが、これらは九州系の文化遺物である。

 銅鐸氏族・物部氏には、天磐舟(あまのいわふね)による降臨神話があり、先の壷のパノラマ図をほうふつとさせる。物部氏は航海、交易によって栄えた氏族だったといえよう。

 さて、この地を「元伊勢」というのは、天照大神が大和から伊勢に遷座する途中、最初に立ち寄ったのが、この籠神社だったとする伝承が、伊勢神宮に伝わる「倭姫命世記」(やまとひめのみことせき)(七六六年の成立という)にあるからだ。また、伊勢神宮外宮の豊受大神ももと籠神社奥宮の祭神で、八世紀に、丹後から遷座したと伝えられる。

 このように、丹後は大陸・韓半島に近いがゆえに、物部氏や海部氏をはじめとする海人集団の幅広い活動の舞台となり、アマテラスの伊勢への遷宮ともかかわりをもったと思われる。まさに古代史を解くカギが潜む地といえる。

http://tamagaki.exblog.jp/2992078/

京都府北部、丹後半島の付け根にある天橋立は、日本三景の一つに数えられる観光の名所ですが、天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社はまた、古代史ファンにはよく知られた神社です。

 1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表され、関係者の大きな注目を集めました。現存する日本最古の系図として、また、従来にない古代史の新史料として、思いがけないものだったからです。翌年にはさっそく国宝の指定を受けたのも異例のスピードでした。

 この系図には、なんと邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。最近、卑弥呼の墓の最有力候補として注目されている奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳、その被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っているのです。

 系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。

 「日神」とは、すごい呼び方です。太陽神のような扱いを受けた女性ということでしょうか。なんとなく卑弥呼を思わせるといってもいいでしょう。
 それに、「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」とある記述に完全に一致します。宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」の「大市」です。

 どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、彼女が卑弥呼であるらしい。つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。

 この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。

 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。

 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。

 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。

 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。


息津鏡(下)と辺津鏡(上) (c)gakken

 ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。

 前漢鏡の方は、近畿地方では出土例がまったくない貴重なものですし、後漢鏡の方も、近畿地方では破片で出ることはあっても、完全な形で出土したことはなく、やはり貴重な鏡といえます。

 驚くべき鏡が、代々神社の神宝(かんだから)として伝えられていたわけです。
 では、なぜ卑弥呼の名が籠神社の系図のなかに残っているのでしょうか。それが謎です。

古代丹後の鉄とガラス


 籠神社のある丹後半島周辺は、不思議な伝説が多いところでもあります。

 『丹後国風土記逸文』には、このあたりの漁師の若者が竜宮城を訪れる話、つまり、有名な浦島太郎の伝説が残っています。ほかにも、羽衣を奪われた天女が天に帰れなくなるという羽衣伝説、さらに、天橋立はもともとイザナギ命が天から通ってくる梯子でしたが、神が地上で寝ている間に倒れて天橋立になった、という伝説もあります。いずれも、天上界や海の彼方にある別世界と交渉する内容をもっているのが特徴といえます。

 籠神社の名前の由来も、神代に彦火火出見命(ひこほほでみのみこと・彦火明命の別名)が籠船で龍宮に行ったとの伝説があり、そのために昔は籠宮(このみや)といったようです。

   


 丹後はこのように、どこか神話的な世界の残る地方でもあります。籠神社のある宮津市の「宮津」とは、大きな宮のそばにある港という意味です。むろん籠神社を指してのことです。天橋立はもともと籠神社の参道だったからです。

 なお、丹後という呼び名は比較的新しいもので、古代には、現在の京都府と兵庫県の中部北部合わせた全部を丹波と呼んでいました。ところが、684年(天武13年)に丹波国から但馬国(兵庫県北部)が分けられ、713年(和銅6年)、丹波国の北部5郡が分けられて丹後国となったという経緯があります。

 弥生時代には、この丹後地方は列島のなかでもかなり特別な地域だったようです。何が特別かというと、弥生時代からなんとガラスや鉄製品が作られていたのです。それを物語る考古学の発掘が、この10年ほどの間に相次いでいます。
 特徴的なものをいくつかピックアップしてみると…

 まず、丹後半島中央部の弥栄(やさか)町、奈具岡(なぐおか)遺跡では、紀元前1世紀頃ごろ(弥生時代中期後半)の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっています。水晶やガラスを使って勾玉(まがたま)や管玉(くがたま)などを生産していた工房です。そのための道具としてノミのような鉄製品が作られていたようです。
 この遺跡の場合、出土した鉄屑だけでも数キログラムになるといわれ、大和や河内など近畿地方の中心部と比べると、「鉄の量としては桁違いの多さ」だといわれます。ましてや、鉄製品そのものが残されていたら、どれほどの量だったのでしょうか。

 驚くべきことに、このような玉造りが丹後半島では紀元前2世紀ごろから始まっていました。玉造りの工房のある遺跡が、丹後半島だけで十数か所見つかっています。

 当然、この地域の遺跡から大量のガラス玉が出土するケースも多く、大宮町の三坂神社墳墓群や左坂墳墓群など、ガラス玉の総数は1万点にも及ぶということです。全国の弥生時代のガラス玉のほぼ10分の1が、丹後から出土しているといわれます。

もう一つの先進地域


 次は、墓です。平成13年5月、宮津市の隣、加悦町の日吉ヶ丘遺跡からやはり弥生時代中期後半の大きな墳丘墓があらわれました。紀元前1世紀ごろのものです。30メートル×20メートルほどの方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさでした。

  墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかりました。水銀朱は当時としては貴重なもので、魔よけの意味があるといわれます。それがふんだんに使われていました。しかも、大量の管玉。墓に接するように環濠集落があるようです。

 この墓は、他の地域と比べてみると、あの吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代です。墓の大きさも、吉野ヶ里よりわずかに小さいだけで、しかも、吉野ヶ里の墳丘墓には十数体が埋葬されていましたが、日吉ヶ丘遺跡の場合はただ一人のための墓です。当然、王の墓という性格が考えられ、「丹後初の王墓か」と新聞などでは話題になりました。

 全国的に見ても、この時代にはまだ九州以外では王はいなかったと考えられていますが、丹後では王といってもよい人物が登場してきたわけです。

丹後半島の古墳公園(加悦町)

倭国大乱の原因となる鉄

 丹後地方は、弥生時代の終わりごろになってくると、今度は鉄製の武器を大量に保有するようになります。
 平成10年9月、携帯電話の中継塔を立てる目的で、籠神社から数キロはなれた岩滝町の天橋立を見下ろす丘陵の中腹を調査したところ、驚くべき出土品が多数見つかりました。これは大風呂南遺跡と呼ばれる墳墓群ですが、その中心的な墓(1号墓)から11本の鉄剣と、美しい青色のガラスの腕輪が出土したのです。墓の年代は西暦200年前後。

 ほかにも、銅の腕輪(銅釧・どうくしろ)が13個、大量の鉄製品や管玉、朱など、弥生時代の墳墓の常識を超えるものでした。
 なかでもガラスの腕輪は、国内ではこれまでに3例しかないうえに(福岡県で2例、丹後で1例)、どれも原形をとどめていませんでしたが、ここでは完全な形で出土し、透明感のあるコバルトブルーの輝きを放っています。被葬者が左手につけていたもので、権威の象徴です。

 11本の鉄剣も、墓の副葬品としては異例の多さです。弥生時代の墓に副葬される鉄剣は通常1〜2本ですが、11本というのは被葬者がいかに大きな権力を持っていたかをよく物語っています。しかも、時代は西暦200年前後、まさに邪馬台国が誕生した直後です。

 この墓の被葬者は、奈良県・纏向遺跡の石塚や、岡山県・楯突墳丘墓に葬られた人物と同じ時代に生きていたことになります。

 この時代の丹後の墓からは、鉄剣が大量に出土します。特別な立場にあるような人の墓ではなく、家長クラスの墓からも当たり前のように鉄剣が出てくるのです。おそらく軍事集団のようなものが存在していたのではないか、と考えられています。そうなると当然、軍事集団を束ねるリーダーがいたはずです。大風呂南遺跡の墓の被葬者は、そのような人物だったのではないか、と考えられています。


ガラス釧(腕輪)と銅釧 丹後郷土資料館蔵

 このように倭国大乱期から邪馬台国時代にかけて、列島のなかでどこよりも鉄を保有していたのが丹後です。その多くが鉄剣や鉄鏃(てつぞく・矢の先端部)など、武器として出土しています。

 弥生時代はかつて平和な農村社会と考えられていましたが、案外、戦いが多かった時代だと今では考えられています。各地の戦いで武器の主力が鉄器になってくるのは、1世紀ごろからです。そのころから、丹後の墓からも鉄剣が出始める。ちょうど1世紀ごろの王墓と見られる三坂神社3号墓からは、大陸製の鉄刀やりっぱな弓矢、豪華な玉飾りなど、経済的な権力を持った王の姿があらわれてきます。

 その後、2世紀後半から3世紀前半にかけては、上に述べたような状況で鉄剣がポンポン出てくきます。この時期に丹後の勢力がもっていた鉄は、キャスティング・ボードになったのではないでしょうか。これほどの突出した武力が、あの倭国大乱を引き起こしたのではないか、とさえ思えるのです。

  そう考えると、丹後(古代丹波)の勢力は、女王卑弥呼の誕生にも重要な立場を取ったに違いありません。邪馬台国の女王に卑弥呼を共立していく主要なメンバーに、古代丹波が入っていたのはほぼ間違いないでしょう。しかも、海部氏の系図に残る「日女命」の名は、卑弥呼がじつは古代丹波出身だったのではないか、と思えてきます。

 先進の技術によって蓄えられた力が、数百年をかけてピークに達したとき、そういう時代に合わせるように、ひとりの飛びぬけて神秘的な能力をもった女性が丹波にあらわれたのではないでしょうか。もちろん、その女性こそが卑弥呼です。

http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/index.html

十種神宝


十種神宝(とくさのかんだから、じっしゅしんぽう)とは、物部氏の祖神である饒速日命が伝えたとされる十種の神宝である。

『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の記載によるもので、饒速日命が天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする。『先代旧事本紀』には「天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)」と書かれている。

分類すれば、鏡2種、剣1種、玉4種、比礼(女性が、首に掛けて、結ばずに、左右から同じ長さで前に垂らすスカーフ様のもの)3種となる。これを三種の神器に対応させて、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説もある。

十種神宝の内容は以下の通りである。

沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)



布瑠の言

布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。

『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。

「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。

饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている。



十種神宝の行方

石上神宮の祭神である布留御魂神は十種神宝のことであるとする説もある。石上神宮に伝わる鎮魂法では「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱える。いずれにしても、十種神宝は現存していない。

本物か不明であるが、大阪市平野区喜連6丁目にある楯原神社内の神寶十種之宮に、偶然、町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られている。石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返していないという。

江戸時代、山崎闇斎は、垂加神道においては神秘的な意義の有るものとして、さまざまな口伝的著述を残した。

籠神社には、息津鏡・辺津鏡という2面の鏡が伝世している。十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明で、籠神社も特に見解は出していない。

秋田県大仙市の唐松神社には古史古伝のひとつである『物部文書』とともに奥津鏡、辺津鏡、十握の剣、生玉、足玉とされる物が所蔵されているという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D

浦島伝説の起源


このたびは、古くからの友人であり 中国伝承文学の権威、君島久子さんにご一緒 していただき、改めて丹後半島を旅しながら、中国の浦島についてお話を伺うことにいたしました。



富山 三分間スピーチで、君島さんは中国の浦島太郎の話をして下さいましたね。あのお話、とても面白くて印象に残っていて、いつかもっと詳しくうかがいたいと思ってましたの。

  

 京都から由良川をくだり、大江山など訪ねたのち、丹後半島を歩いて、ここが古墳地帯であること、そして浦島伝説の地であることも知りました。

 郷土資料館も私の予想通り対岸との関係が想像できる資料がいっぱい、忘れられないですし、宇良神社(浦嶋神社)で重文の絵巻物も見ていただいた。その絵巻物では、普通私たちが聞かされる浦島物語(注4)とは少し話が違っていた。それを思い出したのです。

  そこで、今回の対談で、どうせ浦島の話をうかがうなら、ご一緒に宇良神社にお参りし、絵巻物も見て、それから対談、ということなら素敵だなと思いましたの。


君島 以前にも何度か来ましたが浦嶋神社の絵巻物は中国的で面白いですね。全体の雰囲気が中国的で、完全に神仙思想(注5)が絵になっている。五色の亀とかが描かれていて道教(注6)の影響も明らかに見られるし、とても面白かった。『風土記』(注7)の世界によく似ていますからね。


富山 以前、君島さんは「中国の浦島は日本とずいぶんと違っている」とおっしゃったと思うのですが、まずはその辺りからからお話いただけますか。

君島 両方あります。日本の浦島とよく似ている方は、洞庭湖(注8)のほとりの伝承なの ですが、


ある漁夫が、嵐の洞庭湖で水に落ちた乙女を助けるのです。すると、乙女が

「私は洞庭湖の竜女です。お礼に竜宮城へお招きしましょう」

と言う。竜女というのは乙姫様 ですよね。その男が

「竜宮の中に入っていくことができない」

と言うと、竜女が水を分ける珠「分水珠」をくれるのです。後日、彼がその珠を持って湖に行くと、さっと水が二つ に分かれて竜宮城へ着きます。すると乙姫様が出てきて、歓待され、結婚して幸せに暮らすのですが、ふと母親を思い出し、故郷に帰りたいと言い出す。乙姫様は宝の手箱を渡し て

「私に会いたくなったら、いつでもこの箱に向かって私の名を呼びなさい。でも、この手箱を開けてはいけませんよ」

と言われるのですね。故郷に帰ってきてみると、村の様子 もすっかり変わり、村人たちも知らない顔ばかり。それもそのはず、竜宮での一日は、人間界の十年にあたるので何百年もたっていたわけ。彼は動転して、竜女に聞こうと思わず 手箱を開けてしまうのです。すると、ひとすじの白い煙が立ち上り、若い漁夫は、白髪のおじいさんに変わり、湖のほとりにぱったり倒れて死んでしまう。

でも、彼は死後も目を 閉じることなく、じっと洞庭湖を見つめ続けているのです。すると突然湖の水が満ちてきた。それは竜女が悲しみのあまりほっと長いため息をついたからなのです。その長いため 息が、洞庭湖の水位の変化だと伝えています。 (注9)


富山 彼女はまだ竜宮にいるわけですね。だいたい日本と同じですね。


君島 そうですね。古代中国の文明というと、以前から黄河文明が代表的なものでしたが、今は長江文明が考古遺物の発掘、発見などで次第に明らかになってきたのです。ちょっとした長江文明ブームかな。そのため、洞庭湖や陽湖など長江文明に属する地域からの日本への伝播の問題も、ずいぶん分かりやすくなってきたと思います。

  浦島の話も洞庭湖には古くからありました。六朝時代の『拾遺記』(注10)に、洞庭山(洞庭湖の中にあるという説があります)の薬草を取りにいった男が洞窟に迷い込み、しばらく行くと別天地が開け、楽の響きや美女たちの歓待に酔いしれ、この世のものとも思われぬ夢のような暮らしをおくった話です。男は、やがてふと故郷が恋しくなり、帰郷を思いたつ。共に暮らした美女が別れを惜しみ、贈り物をくれる。洞窟の出口までおくられ、故郷に帰ってみると、知る人は一人もなく、家も何もない。村人にたずねると、三百年前に薬草を取りに行った男がそのまま帰ってこないという。男は行方不明となる。まさに山の浦島ですね。洞庭湖には、山にも湖にもこの話があるということです。

浦嶋神絵巻


面白いと思うのは、今の洞庭湖のお話も、竜宮の一日が現世の十年というように、時間の差がはっきりあるのです。けれども中国には「玉手箱を開けたらおじいさんになった」という話よりも、「もらった宝の箱から乙姫様が現れて、ずっと現世で幸せに……」という民話の方が多いですね。

富山 中国にはほかにも浦島伝説があるのですか。


君島 いろいろな地域にあります。私は、この竜宮へ訪問する話を、最後に異常な時間の差異によって破滅する「浦島型」と「現世型」(注11)とに分けたのですが、中国では乙姫を連れてきてしまう現世型が結構多いのです。

 現世型は竜宮での一日が現世の一年というように、竜宮との時間の差が少なく、三日間竜宮で過ごして帰ってきたら「三年間もどこに行っていたか」と聞かれる程度です。そしていい女房をもらって幸せになる。時間の異常な経過がなければ、完全に現世型ですね。もらって帰ったら宝物が乙姫様だったりして。

富山 浦島伝説は中国のどの地域に多いのですか。

君島 長江から南の方が多いですね。竜は雨を司るものですから、北の畑作地帯も南の水田地帯も干ばつが怖いので、竜神に雨乞いはしますが、特に稲作文化との関係は深いようです。

富山 長江と聞けば、やはり稲と、稲の伝播とを思わないわけにはいかないですね。最近では稲作の起源も、雲南の奥地からずっと下流に下りてきました。アジア最古の稲が出た河姆渡(かぼと)遺跡(注12)もあります。それにしても、浦島太郎というと普通私たちは、海が舞台で、「釣りに出たがなかなか魚がつれなくて・・・」という話が頭にありますから、海の神、魚の神様かと思いますけれど、ここ丹後半島では、浦島伝説は稲作の神様の話ということですね。

http://www.mizu.gr.jp/kenkyu/toyama2/t_rep2_1.html


乙姫様は誰でしょう


 乙姫様は元々は亀姫で他に何なんだと言われるかも知れませんが、あえて考えてみましょう。


(1)西王母

   ・蓬莱山を背中に背負っているのが亀で、蓬莱山の上に居るのが西王母とくれば、亀と蓬莱山と西王母は1セットということでどうでしょうか。

   西王母とすると、西王母の役割が微妙になりますが、西王母のいる場所は、この世の果ての昆崙の山の上だったり、洞穴の奥だったり、地底だったりするようですので、元来は死者の国と関係があって、蛇穴や龍穴の話とつながっているのかも知れませんね。

  ....探せばあるもので、藤田友治さんという方が「古代日本と神仙思想」という本の中で浦島伝説と亀と蓬莱山と西王母の関係について書いておられます。


(2)苗族の王女

   ・洞庭湖附近には、舜の2人の妻(堯の娘)が溺れて死んだ話もありますが、許漢陽が洞庭湖で水竜王の娘に人間の生き血の酒を飲まされた話の場合、書生に漢字を書いてもらうのが目的で近づいたようですので、水竜王の娘は非漢民族のような気がします。

    洞庭湖付近は長江文明圏で、元々は三苗と呼ばれる人達のものでした。三苗と苗(ミャオ)族が全くイコールではないと思いますが、5世紀には未だ苗族の人達も漢人に完全には追い払われていなかったでしょうから、水竜王の娘は、征服者側の堯の娘ではなく、追い払われた側の苗族と考えるのが妥当だと思います。

  ....異民族間の結婚で悲劇が起こったのでしょうか?

http://www.urahamafuzei.sakura.ne.jp/urasima/nazo.htm


丹後地方には「不思議な時間」に関係する伝説として、「浦嶋伝説」の他に「八百比丘尼」の伝説と「羽衣伝説」があります。

「羽衣伝説」については、雲南省から東南アジアにかけての少数民族(苗(ミャオ)族や哈尼(ハニ)族、泰(タイ)族その他)の間に広く分布しているようですので、大林先生の言われるユーラシア大陸を西から東に流れる大きな文化の流れの1つの道(亀井貫一郎さんの言われる第1東胡のヒマラヤ迂回派のルート)があったことが窺われます。


 春秋戦国時代の戦乱の時期から斉や呉や越が滅んだ時に、逝江省から山東半島にかけての地域から大勢の人達が日本列島に渡ってきたようです。

この時に既に不思議な時間の話が逝江省付近にあったかのかも知れませんが、アメリカ大陸や太平洋諸島域に不思議な時間の話が無いということは、不思議な時間の伝搬は紀元前1,000年(3千年前)より遅い時期と考えられますし、中国の話は西域との交流が確立した漢代の遅い時期から後に出来た話のようですので、もっと後の、大和国家成立過程の時期に大陸と往復した人達がもたらした(神仙思想と一緒にかどうかは判りませんが)ということにしておきましょう。

http://www.urahamafuzei.sakura.ne.jp/urasima/ama-densetsu.htm


02. 2011年10月03日 21:46:38: MiKEdq2F3Q

タイ山岳民族は日本の弥生人と同系の民族

http://wee.kir.jp/thailand/tai_people.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/4525/introduction.html

三輪隆文集・「黄金の三角地帯から」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1850/essays.html

タイの山岳民族(三輪隆)
http://column.chaocnx.com/?eid=22870

タイのアカ族と日本との不思議な共通点


遠い昔にどこかで見たような懐かしい風景が広がっています。

アカ族はこの国の先住民族ではなく、リス族同様に中国やビルマからこの国に移住してきた民族です。この国に入植した歴史は新しく、まだ100年ほどしか経過していないそうです。この民族は他の民族同様に、中国の雲南省、ビルマ、ラオス、及びタイ北部にまたがって広く分布している。

現在、北部タイの山岳地帯には300余のアカ族の村があり、約5万人が暮らしている。焼畑農業によって主食の米を作っているのは他の山岳民族と同じです。

伝統的にすべてものに精霊が宿り、精霊が人を幸せにも不幸にもするとしたアニミズムの信仰を続けているが、近年、キリスト教の布教活動によって改宗した者も多い。


パトォー・ピー(精霊の門)

山頂に築かれたアカ族の村。


アカ族の村の入口には、パトォー・ピー(精霊の門)と呼ばれる日本各地の神社にある鳥居にそっくりの門が建っています。この門は必ず村の入口2ヵ所以上に築かれ、悪霊が村に侵入しないように結界の役目を果たしています。峻険なドイ・メーサロンの山中は山岳民族の宝庫なのですが、もっとも多くこの地に居住しているのはアカ族です。

アカ族の中では、もっとも早く北部タイの地に移住してきたのは、ウロ・アカ族だと言われている。この国では、ウロ・アカ族とロミ・アカ族がもっとも多く、他にはパミ・アカ族という支族がわずかにビルマとの国境周辺に集落を築いて住みついている。

右側の女性は、杵でもち米をついてもちを作っていました。


アカ族は、精霊と共に生きる民族と言われるぐらい、精霊との関わりの強い民族である。

アニミズムの信仰を続けているアカ族の村の入口には、上の写真のように必ずパトォー・ピー(精霊の門)が設置されています。いまでは迷信扱いされ、村人からも忘れ去られようとしている存在のこの門ですが、昔は村を訪れたすべての人がこの門を潜って村に入らなければいけないとされていた。

その人について来た悪霊が村に侵入して悪さをするのを防ぐためである。

アカ族の伝統的な宗教の根幹とも言えるパトォー・ピーには、木製の鳥が数羽止まっていたり、支柱に幾何学模様が刻まれていたり、竹で作った風車のようなものが取り付けられたりしています。

そして門の脇には、悪霊に対する強力な武器として、鉈や弓矢が置かれていることもあります。


アカ族の村のモー・ピー(祈祷師)。

モー・ピーは山岳のどの村にもいて、さまざまな行事を執り行なったり、病人を治癒したりします。

病人が重い病気の時には、よりパワーの強い祈祷師を他の村から呼び寄せたりするのですが、基本的にその村のモー・ピーが祈祷によって村人の治療にあたります。

病人のいる家の床下で祈祷を行なうのが、より効果的だと言われています。

この時には、犬とアヒルが生贄とされていました。

器の中には、精霊の大好きな酒が満たされています。


アカ族は自由恋愛の民族と言われていて、どの村にも若い男女が集まって愛を交わす場所というものがあるそうです。

アカ族はリス族のように社交的ではなく、どちらかと言えば閉鎖的な民族だが、一度仲間と認めるとどんなことがあっても相手を裏切らない、実に律儀な民族です。

http://maesai.main.jp/page068.html


アカ族はタイ、ラオス、ミャンマー、中国雲南省にかけて住む少数民族です。

タイへは20世紀初め頃から、雲南省より南下し、現在海抜800m以上の山岳地帯に住んでいます。焼畑を中心とした農耕生活を営み、質素な暮らしをしています。

信仰はアニミズムであらゆる物や自然現象に霊が宿ると考えます。自然崇拝に加えて祖霊崇拝を重要視しており、驚く事に、系譜をたどり初祖にいたるまで60以上もの先祖の名前を暗唱できます。

アカ族の社会が父系制で、名付け方法が「父子連結名」のため、これを可能にしています。

「父子連結名」とは子供に父親の名前の一部を付けることです。

「我が父、家康。家康の父、秀吉。秀吉の父、信長。信長の父・・・」と続けるととても覚えきれませんが、

「我が父、家康。家康の父、吉家。吉家の父、秀吉。秀吉の父、長秀。長秀の父、信長・・・」

となれば多少覚えやすくなります。

名前と同じようにしてアカ族は自分の祖先がどこからやってきて、どこに住んでいたかを暗記しており、彼らの移住経路をたどることができます。

特別な儀式や葬式などでこれらは朗唱されます。またアカ族のある2人がお互いの関係を知りたいと思ったら、彼らは自分の系譜を唱えます。祖父の代から始め、曾祖父、曾々祖父・・・と繰り返し、お互いの共通の先祖が現れるまで続けられます。

アカ族は文字を持たない民族ですが、文字の代わりに語り継ぐことによって民族の歴史、伝説を記憶に保存しているのです。


アカ族の風習には日本と不思議な共通点があります。

アカ族では、稲の種まきの始まる毎年4月に、村の出入り口に木造の「門」を作ります。この「門」は日本人なら誰でも知っている見慣れた「門」です。垂直に立てられた2本の木。その上に水平に乗せた木は垂直の2本の木の間隔よりもやや長く、両端が少し反っています。これらの門には縄が張られています。

そう、神社で必ず見かける「鳥居」と「しめ縄」にそっくりなのです。この「門」には、木製の鳥が数羽載せられています。日本の「鳥居」は「鳥の居る場所」と書きます。現在の日本の鳥居には鳥はみかけませんが、「鳥居」の文字で分かるように、そのルーツには鳥が関係していることがわかります。

大阪和泉市の弥生時代の遺構から、アカ族の村の門に置く鳥とまったく同じ形の木彫りの鳥が見つかっています。古代日本の鳥居には恐らく、鳥が据えられていたのでしょう。アカ族のこの鳥居に似た「門」は神聖なもので、村人以外の人間は触れてはなりません。村人たちは門が完成すると儀礼を執り行ない、その後この門をくぐり、村の中に入ります。

天の神が鳥に乗って降りてきて、邪霊や悪鬼を祓い、村人たちを守ってくれると信じられています。

なぜ幾千キロも離れた日本とアカ族に共通点があるのか?
誰しも疑問に思うはずです。

この謎を調べて行くと興味深い事実と歴史が浮かび上がってきます。
それは日本人のルーツにもつながっていきます。

http://www.cromagnon.net/blog/2004/07/post_85.php

倭族と鳥居

神社にある鳥居の起源って?これは昔から不思議に思っていたのだけれど、どうも東南アジアから東アジアに広がる“倭族”に共通した信仰・風習を起源としているようです。


「鳥居論---ニッポン人の鳥信仰とその出自」

鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、それから朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括る。

その氏によって、雲南省やそこに隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲むタイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」が見出されている。それは左右二本の柱の上に笠木(横に渡す木)を載せたものだ。ただし、これは「社(やしろ)の門」ではなく「村の門」(「ロコーン」と言う)だ。

「鳥居」の起源は、共同体(村)へ侵入する悪霊を防ぐ結界門だったのである
(「締め縄」とはそういう意味だ)。

 そして、果たしてその門の笠木には木製の鳥が止まっていた。

実は、吉野ヶ里遺跡を始め、わが国の弥生時代の遺跡からは木製の鳥が頻出している。だが「鳥居」は残っておらず、どこにどう止まっていたのかは分からない。

「村の門」には左右の自然木に「締め縄」が渡されただけのものもある。それらにはしばしば「鬼の目」がぶら下がっている。鬼の目とは竹で編まれた悪霊を追い払う呪具(「籠目」もその一つ)で、現代の日本の締め縄にも吊されている。(中略)


再び中国大陸に戻ろう。

南部に住む苗(ミャオ)族の村の中心には芦笙(ろしょう)柱というものが立ててある。苗族の神樹・楓香樹で出来ている。

てっぺんに木製の鳥が止まるのだが、その柱には竜が巻き付いている。しかも柱の上部には牛の角が左右ににょきと突き出している。

ここに正月(苗年)祭りのときには、一対の神聖な銅鼓(どうこ)が下がられていたはずだ(というのも今ではもうほとんどの銅鼓が失われている)。

 実は朝鮮のソッテでも一本柱の場合、鳥杆に竜に見立てた綱が巻かれる。

芦笙柱、そしてソッテとはもう明らかだろう。神話的世界の中心にそびえる「世界樹」である。文字通り、木である場合も、山である場合もある。そして、それは聖林となり、社となった。

天に向かいそびえるもの、すなわち、神を呼ぶもの、依り代が世界樹の本質である(注)。

そして、鳥は神を運ぶ神使であり、依り代でもある。

http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=191832


112 :出土地不明:2009/06/18(木) 23:22:16 ID:H5jIqf+0

中国少数民族には、太陽は鳥が引っ張ってくると言ういい伝えがある。

だから、太陽を引っ張ってもらう鳥に止まってもらうために鳥居がある。
鳥が太陽を引っぱってくれないと朝があけない。

実際に、鳥の模型を止まらせた鳥居もある。
少数民族の鳥居には、鳥の模型を止まらせたものもある。


113 :出土地不明:2009/06/19(金) 01:43:48 ID:9/5gRbpN
太陽の船には鳥がとまってるよ


タイの山岳少数部族「アカ族」について


 「アカ族」はタイ北部の山岳地帯に暮らす少数民族で、日本と同じ稲作文化、精霊信仰を持ち草木染めなどカラフルな色の民族衣装を着て生活しています。

 顔などは日本人そっくりで、村の入口には鳥居を思わせる門があり、お歯黒の習慣を持っているなど日本と共通のルーツを思わせます。

一方で、婚姻制度は父系制で、代々父親の名の一部をとって子供に命名していく「父子連名法」により、各自が50代以上にわたる祖先の系譜を暗記しているなど、母系制度が色濃く残っていた日本の農村とは異なる文化も見られます。 


■アカ族の村 

 人口約50,000人。メーサイを中心としたチェンラーイ県にほぼ集中して約120の村がある。標高1,000m以上の高地の山頂近くの斜面にへばりつくようにして集落を形成する。高床式の家に住み、男女の部屋が別々なのが特徴。

 女性の民族衣装は、銀貨や銀細工、ビーズ等をあしらったカブトの様な重い帽子を被り、黒いミニスカートに脚絆という出で立ちで、帽子は作業中もおろか就寝時もこのままだ。帽子を脱ぐと悪霊が頭から入ってしまうそうだ。

アカ族の女性は温和で素朴、優しくてサービス精神に富み、働き者で知られる。
   
 アカ族は最も奇妙な習慣をもつ山の民で、あらゆる物に精霊が宿ると信じている典型的なアミニズムである。村の霊、山の霊、光や風にも霊が宿るという。水の霊を恐れるために水浴をも嫌う。
   
 村の入口には、日本の鳥居と同様の門が築かれ、木製の男根と女性器の偶像が村の神様として祀られている。これは悪霊や疫病から村人を守り、子孫の繁栄や穀物の豊作を祈願するものである。

奇祭として知られる村の大ブランコ乗りの儀礼は、豊作を祈って稲穂が風に揺れるブランコにイメージさせる 「親感呪術」 という説と、身体を振ることで体内に住む悪霊を振り払う説と、昔アカ族の村に女の子が生まれなかった頃、森の中でブランコに乗った妖精を見つけて村に連れてきたことをお祝いするという説があり、祈祷とお清めの場でブタを殺して4日間儀礼を行う。
   
 アカ族はいわゆるフリーセックスで、自由恋愛の民族で、どの村にも男が娘を抱く広場、ハントする場所がある。若い男女は毎日ここに集まり、黄昏の刻から親交を深め、目出度く成立したカップルは闇に包まれた森の茂みの中に消えて行く。

ただし、双生児が生まれた場合は悲惨で、その赤ん坊は不吉なものとして殺さねばならない。生んだカップルも村を追い出され、出産した家は焼き払われる。


■アカ族の家族 

 アカ族は普通、男性で十七歳から二十歳、女性は十四歳から十七歳ぐらいまでの間に結婚する。集落の中には若者が集まる広場があり、竹や木で作ったベンチがしつらえられ、夜になると若い男女が集まってきて自由に語り合う。

特に農閑期や祭礼時には、夜更けまで騒いだり、愛を語り合ったりして、それが結婚相手をみつける絶好の機会となる。アカ族の恋愛は比較的自由で、結婚前に複数の異性と婚前交渉を重ねることもまれではなく、恋を語る少女たちも実にオープンで、屈託がない。結婚に際しても、特に親の同意を必要とせず、本人同士の合意によって決定される。


  父系制のアカ族とって、男子が生まれることは必要不可欠である。
生まれてきた子供が女児ばかりの場合、家系がとだえることになり、恥ずべきこととされる。私の知り合いのアカ族のおじさんは六人の子供がいるが、みな女の子ばかりなので、世間の視線は冷たく、内心肩身の狭い思いをしている。アカ族では、男児に恵まれない場合、妻に原因があるとされ、亭主は第二夫人を娶る権利があるとされる。

そうでなくてもアカ族では、財力のある男性は第一夫人の同意が得られた場合に限り、複数の妻をもつことができる。しかし、アカ族の社会でも、第一夫人以下のヒエラルキーは厳然としてあり、夫の愛情の質量とは無関係に、母屋に居住を許されるのは第一夫人だけである。第二夫人以下は仮小屋などを建てて別居することになる。

第一夫人のみが正式な妻として社会的に認知され、その妻の同意がない限り、離婚も容易ではない。第一夫人の権利と威厳はこうして保たれる。

結婚前の恋愛は自由だが、家庭をもち、一人前の成人として認められるようになれば、共同体の社会的秩序と体面を維持しなければならないのである。これを犯したものは、それなりの制裁が待っている。


 精霊信仰、おおらかな性意識という農耕民族的な暮らしぶりと、父系制という遊牧民族的な風習が融合したアカ族の文化は彼らの出自にその秘密がありそうです。
 
 アカ族がタイにやってきたのはそれほど昔のことではなく、20世紀初めころとされています。中国雲南省から、ビルマ、シャン州を経由して、タイ北方の山岳部へやって来たらしい。彼らの起源は中国で羌(チャン族)と呼ばれた遊牧民族というのが有力です。

長く漢族、チベット族という二大部族の支配下にあり、一時期「西夏国」という国を建てたりしましたが1227年に滅亡、二大民族に同化していったようです。その後一部の集団は同化を逃れ、南下していった末裔がアカ族なのではないでしょうか。

当初は遊牧部族的な風習を持っていた彼らが、次第に農耕へと生活手段を変化させてゆく中で、精霊信仰を獲得していったが、父系制だけは残存させたという推察ができます。

 父系制が残った理由として、(これは私の想像ですが)南下逃亡して来たチャン族の生き残りは男ばかりの集団で、周辺部族からの略奪婚によって集団を維持してきた時期があったからではないでしょうか。

http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/05/000593.html

『稲と鳥と太陽の道』
http://www.amazon.co.jp/%E7%A8%B2%E3%81%A8%E9%B3%A5%E3%81%A8%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E9%81%93%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%82%B9%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86-%E8%90%A9%E5%8E%9F-%E7%A7%80%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4469231274

 日本の神社には鳥居が立っている。なぜ鳥居というのか。組んだ木のてっぺんに鳥が居るからだ。この鳥は他界から鳥の姿をした祖霊が幸福や豊饒をもたらすためにやってきたシンボルである。日本神話では「天の鳥船」といって、そうした祖霊や幸福や豊饒を天空で運ぶ船さえ想定されていた。

 一方、竪穴式住居を脱した古代の家々は、それでも吉野ケ里遺跡や三内円山遺跡に見るごとく掘っ建て柱に屋根をかぶせたようなもので、つねに柱が目立っている。そうした家々のある集落では、その入口に1本あるいは2本の柱をゲート状に立てて、その上に木彫りの鳥を止まらせる風習をもっていた。いや、最初から鳥を置いたのではなくて、そんな高い柱や組み柱にはたいていどこかから鳥がやってきて止まった。その鳥の来し方行く末は、古代集落にとっては祖先や未来の国である。そこで木に鳥を彫って、それを柱のてっぺんにつけた。

 このような柱と鳥の関係を総称して「鳥竿」(とりざお)とよぶとして、この鳥竿をつかった祭は日本にも韓国にもいっぱいある。韓国ではソッテとかチントベキといって、やはり鳥を止まらせている。ソッテは蘇塗とも綴るのだが、そのテはシンテ(神竿)やナッカリテ(禾竿)のテのことをさした。その鳥竿のルーツをさらに追っていくと、中国に行きつく。萩原さんはさらに追いかけて、それがミャオ族の習俗に出所していたことをつきとめた。ここまでが第1段の前段になる。

 ところで、関西ではオコナイ、関東ではオビシャとよばれる行事が広まっている。

 オコナイとは祈年行事のことで、神社でやるときはミヤオコナイ、寺院でやるときはテラオコナイといった。リーダーとなるのはその年の頭屋(とうや)で、鏡餅づくりをするか、茅の輪を編んでみんなでこれをくぐるか、丸い的をつくってこれに矢を射るかした。関東のオビシャは御奉射のことで、三本足の烏や三つ目の兎を描いた的を弓で射ることが多い。これでわかるように、関西のオコナイ・関東のオビシャのどちらにも弓神事なるものが絡んでいる。

 これらに共通するのは、鏡餅にしても茅の輪にしても丸い的にしても円形の標的があることで、そこに矢を射ることやそこに烏や兎が描かれることが加わっている。いったいこれらは何を示しているのか。オコナイやオビシャより古いかたちを見る必要がある。たとえば神楽だ。

 日本の神楽はおおむね天地創成神話を背景としている。舞庭(まいにわ)あるいは神庭(こうにわ)を一つの異界として創出するのが演目になる。このとき野外なら柱や竿から、室内なら天井から綱や紐や糸を垂らして、そこに三本足の烏を描いた日輪と三つ目の兎を描いた月輪を吊るした。のちにはそれが左右の幡(旗)になった。

 この舞庭・神庭で新しくは「岩戸」「五行」が、古くは「将軍」という神楽曲が舞われた。鹿児島県薩摩の大宮神社の「将軍」を例にすると、将軍は弓に矢をつがえて五方を射る所作をする。なぜ、こんなことをするかといえば、この所作には物語がある。太古、太陽が7つ、月が7つあったのだが、スイという鬼が太陽を6つ、月を6つ呑みこんだ。さらにもう1つ呑みこんだらこの国は真っ暗になるので、選ばれた将軍が五方に弓矢を射て鬼を退治して、その片方の目を日輪に、もう片方の目を月輪とあらわして、未来永劫の万象を祈願したというのだ。

 これはイザナギの左の目からアマテラスが、右の目からツクヨミが生まれたことと対応する。が、それとともにこの物語は、中国の天地創成神話にある弓の名人のゲイが9つの太陽を射落とした話や、太陽に住んでいた烏を9羽射落とした話に似ている。済州島にも太陽を落とした神話がある。朱蒙(ジゥモング)という弓の名人もいる。

 つまりここにはいわゆる招日神話・射日神話があったのだ。そこで、その分布を調べてみると、アムール川流域からインドネシアまで広まっている。ミャオ族にもまったく同じ伝説がある。

 以上のことから類推できるのは、鳥と太陽の話はどこかでつながっているということである。そこに弓矢神事が出入りしていた。これが第2段の前提になる。そこで、これらの話のすべてをもっているミャオ族のことを知っておく必要があるということになる。


三本足の烏を描いた的(沼南町高柳)


 ミャオ族は中国江南に居住する民族で、中国では古くから三苗とよばれた。3つの言語集団がいた。その後はタイ北部にまで広がった。移動した連中はまとめて「百越」とよばれた集団である。

 民族上は少数山岳民族グループに分類されているが、いまでも150万人か200万人くらいがいる。しかし古代中世のミャオ族は文字をもっていなかった。移動の記録や歴史の記録は古歌や伝説や習俗にしか残っていない。

 そのミャオ族では、新年になるとジーユイニャオという鳳凰に似た木彫の鳥をとまらせる柱あるいは竿を立てる。芦笙柱(ろしょうばしら=トン・カー)という。楓香樹であることが多い。その上のほうに牛の角のような横木をつけた(写真を見るとすぐわかるが、鳥居の原形に近い)。新年、その芦笙柱を左まわりで踊る。

 なぜそのようになったかという伝説が「跋山渉水」という古歌にあって、カササギあるいはツバメの先導でこの地にやってきたことをあらわしているのだという。この到着地はのちのちまで神聖な場所になり、カー・ニンとよばれる。カーは芦笙のこと、ニンは場所である。村の“へそ”にあたる。

 この神聖な場所は東西軸を重視する。そもそも中国では純潔チャイニーズの漢民族は天空の中心の北極星(太極)を信仰して、そのため南北軸を重視する。風水も、天子や宮殿が北を背に南面することを基本とする。一方、江南のノン・チャイニーズの少数民族は繁茂する植物の象徴である太陽を信仰して、太陽の昇降する東西軸を重視する。

 これでわかるように、ノン・チャイニーズのミャオ族の村の“へそ”に立つ芦笙柱は、太陽が依り坐す柱なのである。太陽のトーテム・ポールなのだ。

 太陽は季節や時間とともにコースを動くので、その季節や時間を感じることが大切になる。そこで暦のようなものが生まれるのだが、文字をもたないミャオ族は、この季節と時間の“しるし”を鳥の去来で学習していった。また、それを教える者を鳥官といった。

 さらに、このような太陽信仰を支える鳥の存在と去来を忘れないように、芦笙柱を寿ぐ数々の祭では、男はニワトリの羽根や茅萱(ちがや)の輪を差し、女は鳥の羽根の衣裳で身を飾った。これが鳥装である。いいかえれば、村のシャーマンたちは鳥装によって鳥霊になり、太陽の行方と合体するわけである。たちまち日本の鷺舞や鶴の舞といった各地の祭りがおもいあわされよう。

 ここまでが第3段で、話の前提があらかた出揃ってきた。太陽と鳥と弓はひとつのものなのだ。では、これらの前提の話がどうして日本のコメ文化と結びつくかということである。ここからが本題になる。その前にちょっとおさらいをしておく。

 コメはムギにくらべて一本当たりの収穫量が格段に多い作物である。ヨーロッパの麦作の播種量が5倍〜6倍であるのに対して、日本の米作はざっと30倍〜40倍になる。何千年でも連作もできる。

 コメは稲からとれる。稲は籾に包まれていて、その籾殻をとったものが玄米、それを精米すると白米になる。ようするに稲の種実がコメなのである。その稲種を学名ではオリザ・サチバという。もともとは野生の稲種オリザ・ペレニス一種が起源だとされている。それがいろいろ分かれていった。

 その稲種には大きく分けてジャポニカ種とインディカ種がある。アフリカ種も現在まで伝わっているが、ごく少量だ。

 中国南部を原産地とするジャポニカは短粒でやや粘り気があり、インドを原産地とするインディカは長粒でぱさぱさしている。今日ではDNA分析によって、二つはまったく異なる遺伝子をもっていて、それぞれ独自の祖先型があることがわかっている。

 日本人のコメ文化はほぼ100パーセントがジャポニカで成り立っている。タイ米やカリフォルニア米は炒めたチャーハンやピラフにするならともかく、それらはとうてい“ごはん”にはならない。以前はこれを「外米」(がいまい)といった。



日本へ稲が伝わったころのジャポニカとインディカの出土地
(『九州歴史大学講座』第2期No.3より)

 日本に到来した稲には最近流行の黒米・赤米で知られるように、ジャポニカにも熱帯ジャポニカや温帯ジャポニカなどいくつもの種類があった。インディカも入ってきた。何がいつ入ってきたかはまだ正確に確定できないのだが、だいたい縄文後期から弥生前期にかけての時期、2500年くらい前には稲が渡来していた。

 なかで熱帯ジャポニカはいわゆるモチ米に近いもので、中粒で粘り気が強い。そのためモチ性の弱い普通のコメをウルチ米とよぶようになった。ただし、このモチ米のモチは漢字で書くと「餅」ではなくて、本来は「糯」と書く。日本ではこれをモチと読むが、もともとはダである。ちなみに中国では、いまでも餅(ピン)といえば小麦粉食品のことをいう。だから月餅などという菓子もある。

 ともかくも総じていえば、日本はウルチ米とモチ米を含むジャポニカを何世代にもわたって品種改良して、日本の食文化の中心にすえてきたということだ。稲作にあたってはウルチ米でもモチ米でも、ともに陸稲と水稲があるのだが、日本はもっぱら水稲によって水田で育てた。このときいったん稲苗をつくって、それを田植えで移植するという独特の方法をとった。おそらく紀元前5世紀から3世紀にはこの方法が確立しはじめた。

 この「苗」と「田植え」が日本の社会や文化に大きな影響を与えたのである。これは、湿度の高い日本では直播きの陸稲では稲とともにすぐに雑草が繁茂して、どうにもならない。そこでいったん苗をつくり、それを移植する。そうすればすでに一尺ほどの貯金があるのだから、稲はなんとか雑草と対抗できる。つまり「株立ち」をしておくことが日本の稲作の基本であって、それが春に種蒔きをし、5〜6月に田植えをし、秋に収穫するという、日本の稲作生活の大きなリズムと特色をつくることになったわけである。

 この稲作とほぼそっくりの原型をもっていたのが、実はミャオ族だったのである。



ミャオ族は稲刈りした稲を高倉に収める。梯子は丸太を刻んだもので日本の弥生時代のものに酷似している。

 ミャオ族にはイネ文化もモチ文化もトウモロコシ文化も雑穀文化もある。しかし、そのうちのいくつかは日本の社会文化によく似たものをもっている。稲を保存する高倉、高床式の住居、チガヤを稲に見立てる田植え行事、正月のモチ月、羽根つき、竹馬、おこわ、チマキ(粽)、なれズシ、糯稲の麹でつくる酒、鯉や鮒の水田飼育、鵜飼いなどである。

 そのほか、正月料理を男主人がつくり、最初の3日間は女性は家事をしない風習、その料理を家の者たちが10日ほど食べつづけること、新年の辰の日(元旦)に2個の丸餅を台状の脚の低い椅子にのせて大地に酒をそそぐ儀礼なども、どこか日本の正月に通じるものがある。

 萩原さんはこうしたミャオ族の儀礼や生活をつぶさに観察して、しだいに中国原産のジャポニカを日本に運んだのはミャオ族ではないかと考えるようになった。おそらく中国江南地方の稲作の技能をもったミャオ族の一部が、なんらかの事情で長江から山東半島と朝鮮半島をへて日本に来たのではないか。

 なんらかの事情についても考えてみた。それはきっと中国の戦乱事情と関係があって、たとえば紀元前473年に越王が呉を滅ぼしたこと、その越が楚に滅ぼされて、楚が山東地方にまで勢力を拡大していったことなどと関係があるのではないか、というふうに。

 ただし、このときちょっとした選抜がおこったのではないかということを萩原さんは考えた。それというのも古代日本の中国側の記述には、例の『魏志』倭人伝をはじめ、倭人が入れ墨をしていたということがしばしば書かれているのだが、しかも日本の海人伝承にはしばしば黥面や入れ墨をしていることが語られているのだが、その海人が日本に来たとすると、いろいろ辻褄があわないことがあるからだ。

 従来、倭人の勃興と海人伝承は重ねて仮説されてきた。ということは漁労と入れ墨と倭人の勃興はひとつの出来事とみなされてきたということだ。

 しかし、考古学史料や植物学や遺伝学による調査が進んでくると、日本列島に稲作が入ってきたとおぼしい時期がしだいに早まって、紀元前3世紀にはかなりの水田耕作が広まりつつあったと見るしかないことがわかってきた。

 そうだとすると、文身(入れ墨)の習俗をもった漁労民が稲作を定着させたというような奇妙なことになる。これはちょっとおかしいのではないか。その後の日本文化を見ても、田植えの民が文身をもっているということはほとんどないし、そういう祭りもほとんど見ない。しかし他方、鏡餅にアワビやコンブを飾ったり、田植え行事にワカメ採りが重なっているような例はある。

 では、この辻褄があわない脈絡を説明するにはどうするか。新たな解答を与える仮説はなかなか出なかったのだ。こうして萩原さんの仮説が浮上した。先に水田民が定着して、それに漁労文化が集合していったのではないか。

 結論をいえば、萩原さんは中国南部からタイ北部の少数民族(チベット族・リス族・リー族・タイ族・シャン族・ワ族・カレン族・イ族など)をほぼすべて調査した結果、ミャオ族だけが入れ墨の習慣をもっていないことをつきとめたのである。

 そうであれば、文身をもたないミャオ族が春秋戦国期の内乱に押し出されるようにして、山東半島や朝鮮半島をへて日本にやってきて稲作技術を伝えたとしてもおかしくないことになる。少なくともそう考えれば、日本の正月儀礼や食物文化に似るミャオ族の儀礼や習慣との関連も説明がつく。しかし、ほんとうにそんなふうに言えるのか。萩原さんは傍証をあげていく。

 本書や、その前著の『稲を伝えた民族』で萩原さんが掲げている傍証はたくさんある。それをいまは絞って紹介する。

 まず第1には、稲魂(いなだま)信仰がある。稲魂とは稲に宿る精霊のようなものを信仰する習慣がもたらした観念で、稲穂が稔ることを期待した観念である。日本にはこの稲魂を重視する行事や祭がかなりある。その最も代表的なものは新嘗祭である。近いものが日本の西南や南島にある。これはミャオ族にもあって、初穂を捧げる儀礼になっている。

第2には、種蒔き・田植え・刈り入れというリズムによって、農村生活がハレとケを重視していることだ。稲作にとってハレはなんといっても豊作と収穫にある。そこにむかって農民は予祝をし、雨が涸れたり稲が枯れることを恐れ、そのための行事や占いをする。これはケ(枯)をしっかり感得することによってハレを招きよせるという考え方を生む。また、それを1年のサイクルにする生活様式をつくっていく。

ここで重要になってくるのが、晴れ着で着飾る新年がいつだったかということである。実は調べていけばいくほどに、もともと新年は収穫期の直後にあったのだということがわかってくる。いまでも西表島では8月や9月に節祭をおこなって稲や粟などの五穀の収穫を祝う。そこで一年が切り替わるとみなしている。このような例はいくらもあるのだが、このことから、第3の生と死の観念に関する問題が特色されてくる。

すなわち第3に、稲も人も「生と死」をもっていて、そこにはいったん「籠もる」という出来事が挟まって、それによって稲は稔り、人は充実を迎えるのではないかという考え方である。これは民俗学では「擬死再生」というふうによばれてきたことだが、日本にもミャオ族にもこの擬死再生をあらわす儀礼や祭礼がきわめて多いということだ。

しかも第4に、そのような稲や人の擬死再生には、その「籠もり」が終わったことを告げる神がたいてい出てくる。いわゆる春を告げる来訪神、折口信夫がマレビトと名付けた来訪神である。来訪神が蓑笠をつけて、いったん隠れた場所から出現してくるという所作をともなうことも看過できない。

すなわち第5に、稲の成長がもたらした藁束は神の似姿の衣裳となって、ケを破ったハレを告げるわけなのだ。
このような来訪神の習俗はミャオ族にもいまなお続行されている。異装のマンガオがやってきて、ツァイライ(長老)の家で鍋墨などをなすりつけ、そのあとで芦笙柱を派手にまわって人々を驚かせ、また笑わせる。モウコウという来訪神もいる。おどろおどろしい異装のモウコウが5人・7人・9人といった奇数が集まって、ウォーウォーと唸り声をあげて子供を寿ぐ。まさにナマハゲだ。 

5つの傍証をあげただけだが、これでも十分に推測がつくように、ミャオ族の村落儀礼と日本の稲作儀礼をつなぐ紐帯はけっして浅くない。それどころか、すでにいくつかの前段でのべたように、ここには太陽信仰と鳥信仰がさまざまに重なってくる。

萩原さんは、こうした「太陽と鳥と稲」の相互関係からは、おそらく日本人の祖霊をめぐる観念の形態がいろいろ読みとれるのではないかというふうに、本書を結んでいく。

日本の祖霊信仰は基本的に正月と盆を、また春分と秋分を行ったり来たりすることで成立しているのだが、それは稲作の儀礼ともぴったり重なっている。だいたい種蒔きと刈り入れが春分と秋分の幅をもっている。そこには太陽の道が劇的に通過する。ここにはしかも日本人の彼岸と此岸の観念も重なってくる。また、もしも新年が収穫期と深い関係をもっていたとするのなら、「魂があらたまる」という日本人の感覚は田植えの夏至から冬籠もりの冬至に向かってドラマをつくっているといえるのだ。

千葉県沼南では天道念仏という行事がくりかえしおこなわれている。いまでは3月15日におこなわれているが、おそらくは春分行事であったおもわれる。かつてはたんに「天祭り」とよんだ。ここではボンデンという竹で編んだ丸い籠に半紙を貼って鳥の目を描きこみ、これを「カラス」とか「シラサギ」とよんで竹串で射る。まさにオビシャである。このボンデンを折口は「髭籍」(ひげこ)と認識して、光を放つ太陽だとみなした。

これでだいたいの話はつながったはずである。萩原さんは遠い地の話をしたわけではなかったのだ。われわれも正月や春分や冬至を、アジアとともに感じるべきだと言いたかったのである。



秋分の朝、真東の太陽を迎える芦笙柱上の鳥

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1141.html


03. 2011年10月04日 21:58:54: MiKEdq2F3Q


「北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁撈民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこでテン(シ+眞)王国を作った。

同じように、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。テン文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。


 この仮説は百年も前に鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)が台湾の生番族と苗族の文化的共通性からすでに着想していたことである。それから百年後、その鳥居の仮説がようやく一歩近づいたのである。」

安田喜憲『龍の文明 太陽の文明』PHP新書170 2001
http://www.amazon.co.jp/%E9%BE%8D%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E%E3%83%BB%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%89%E7%94%B0-%E5%96%9C%E6%86%B2/dp/4569617352

「『古事記』が選録されたその年には、唐では玄宗皇帝が即位し、唐文化は爛熟の時代をむかえつつあった。「家畜の民」「畑作・牧畜民」の漢民族の巨大王国の世界支配が貫徹した時代に、「森の民」「稲作・漁撈民」としての日本民族のアイデンティティーをいかに記録にとどめるかに、元明天皇も太安万侶も腐心したはずである」


テンと日本の共通性は


「コメと肉を食べ、太陽や蛇や鳥を長らく神として信仰し母権制を軸とする共通の伝統があるからである」

それを「中尾佐助氏や佐々木高明氏は照葉樹林文化と名づけた。」


この著者は北方畑作・牧畜文化を龍の文明とし、一方南方文化を太陽、蛇、鳥の文明としている。日本が藤原氏以後、天皇を女帝とし、神を太陽神・アマテラスにしたのは、追いやられてゆく南方系文明をこの国の正統な王朝としようとしたためだとする。そして天皇家が今でも北方系のシンボル龍よりも南方稲作民のシンボル太陽神を象徴としていると言うのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/45768819.html


安田喜憲氏の新著『龍の文明・太陽の文明』(PHP新書、二〇〇一年九月刊)で著者が江上波夫氏による「騎馬民族征服王朝」を意識して提唱した「稲作・漁労民征服王朝説」を立ち入って検証してみたい。

一、龍族の南下と縄文文化


今から約八千年前、中国東北部の遼寧省から内モンゴル自治区にかけて、龍信仰の原形となる猪龍や鹿龍などをトーテムとする牧畜民が興り、七千年前には現在の龍に近いものが玉器とともに信仰され、六千年前には龍と玉それに女神がセットなって、一つの宗教体系を形成するに至った。

著者はおよそ十年間にわたって、中国各地の先史遺跡をひろく踏査し、「龍は森と草原のはざまに生息する猪や鹿、それに森の中を流れる川にすむ魚そして草原の馬をモデルにして誕生していた」(P.98)と突きとめ、龍は長江(揚子江)流域の蛇か鰐をモデルにした架空動物だとみなす従来の通説を覆した。

龍信仰を定着させた紅山文化は、内モンゴル自治区から遼寧省・吉林省にかけて発達したが、五千年前に寒冷化と乾燥化とが顕著になってくるにつれて、しだいに衰弱し、そして四千年前には完全に崩壊してしまった。

それと時期を同じくして、長江流域の各地において約五千年前に、巨大都市に象徴される王権が突如として出現した。五千年前の良渚文化の遺跡では、角と耳のついた玉龍が見つかり、龍に対する信仰があらたに現われてきたことを物語る。

こうした長江流域に見られるの新しい文化的要素について、著者は「玉への信仰は長江流域と内モンゴルがほぼ同じか、あるいは内モンゴルが若干早く出現した可能性が高い」または「長江流域で最古の龍が出現するのは五千年前なので、内モンゴルの方が二千年近く早いことになる」と指摘し、さらに「こうした玉と龍への信仰は長江流域の稲作地帯で独自に誕生したのではなく、北方の畑作地帯でもほぼ同時に、あるいは北方の畑作・農耕地帯で誕生し、それが南方の稲作・漁労地帯へ伝播したとみなす必要が出てきた」と論じる(P.31)。

ここでも、長江文明を特徴づける「玉」への強い信仰の南方起源説という「通念」は、あっけなく論破されたのである。

著者が中国の遺跡を調査する際には、つねに日本文明の起源という問題を意識していることは、本書の随所にそれをうかがうことができる。たとえば、遼寧省西部の査海遺跡から、約七千年前と推定される玉玦や玉匕などといった中国最古の玉製品が出土していることに関連して、著者はすぐに縄文時代の遺跡に目をむけ、次のように述べる。

「この査海遺跡の玉玦や玉匕は、福井県金津町の縄文時代早期末〜前期の桑野遺跡から出土した玦状耳飾りや玉匕とよく似ている。さらに類似した玦状耳飾りは滋賀県守山市赤野井湾遺跡、京都府舞鶴市浦入遺跡、兵庫県淡路町まるやま遺跡、新潟県堀之内町清水上遺跡、大分県本耶馬渓町枌洞窟遺跡などで発見されていることが明らかとなっている。」(P.30)

このような出土品の類似によって、著者は「七千年前頃からすでに日本海をわたって中国東北部との交流があった」(P.30)と大胆に推論する。さらに、気象の寒冷化と紅山文化の崩壊にともなって、龍族の南下が始まったが、その影響が長江流域の文明にあらたな転機を来したのみならず、縄文時代中期の文化的発展にも波及したと論を進めていく。

気候の寒冷化により紅山文化の担い手たち、あるいはその文化的影響を受けた北方の人々が南下したり日本列島に渡来することによって、長江文明発展の契機や縄文時代中期の文化的発展の契機を作ったのではあるまいか。

「いうまでもなく縄文時代中期以降、土偶と翡翠そして蛇信仰がきわだったものになってくる。そうした縄文時代中期文化の画期には、龍を信仰し、玉を持ち、女神を信仰していた大陸の紅山文化の影響があるのではあるまいか。」(P.35)

ところが、龍と玉それに女神を信仰する北方系の「紅山文化の担い手たち」が縄文文化に影響を及ぼしたという推論は、本書の骨格をなす「稲作・漁労民征服王朝」の仮説と噛み合わないものがある。

つまり、著者は再三にわたって「日本において龍とみなされるものが出現してくるのは、弥生時代後期以降のことである」と強調し、その背景として「王権の誕生が中国に比べて遅かったこと」(P.50)を指摘し、龍信仰が稲作とともに日本に伝わらなかったと断言する。

このことは、初期の稲作伝播の径路と龍をもたらした人々の渡来径路を考える上でも重要な意味を持っている。すくなくとも初期の稲作をもたらした人々は、龍信仰を持っていなかった。おそらく彼らは龍よりは太陽と鳥を崇拝する長江流域の人々であった可能性がきわめて大きいことを示唆している。

龍の造形は、古墳時代より以降の遺跡では中国龍に近い形で見られるようになるのだが、弥生時代の後期では大阪府の池上曾根遺跡、恩智遺跡、船橋遺跡、下池田遺跡、兵庫県の玉津田中遺跡、奈良県の唐古遺跡、岡山県の天瀬遺跡など、近畿地方から瀬戸内海沿岸にかけて、足のついた龍らしき動物を描いた土器片が出土している。 この意味で、龍信仰の将来者は縄文末期から東シナ海をわたってきた稲作民ではないとする見解はうなずける。


二、鳥から鳳凰そして朱雀へ


北方の森と草原のはざまで生息していた龍族は、約五千年前から寒冷化にともなって南下すると、長江流域において太陽信仰を持つ鳳凰族らの異文明と遭遇する。この異文明とは、南方の森と湿地のはざまで発達したもので、本書のキーワードでもある「長江文明」にほかならない。

「その森と湿地の周辺で、稲作・漁撈民が一万年以上も前から畑作・牧畜民とはまったく異質の暮しを続けていたのである。そして六千年前には、城壁都市を構築し、五千年前には本格的な都市文明の段階へと突入し、四千年前にはメソポタミアのウルクなどに匹敵する巨大な都市を作りあげていたのである。」(P.55)

著者によれば、「太陽の運行は稲作を行なう上で実りの光を与え、稲作の行事にリズムを与えてくれる」ため、稲作民と漁撈民は太陽を崇拝し、また太陽は鳥によって運ばれると信じているという。(P.55)そして、鳥を神格化したのが鳳凰であり、鳳凰はすなわち太陽の化身とみなされる。

鳳凰信仰の原型である鳥崇拝は、長江各地では異なった様相を呈する。たとえば、長江中流域にある湖南省の高廟遺跡からは、太陽を両羽にかかえる怪鳥の姿が造形されていた七千年前の土器が出土しており、その鳥は立派なトサカを持ち、鶏の面影をとどめている。そして長江下流域では、七千年前と推定される浙江省の河姆渡遺跡に、二羽の鳥が太陽を真ん中に向かい合う象牙の彫刻が発見され、その姿はどうやら水鳥に似ている。時代はくだるが、長江上流域の四川省三星堆遺跡から、青銅製の扶桑木といわれるものが発見され、その枝にとまっている九羽の鳥は、明らかにカラスをモデルにしている。

このような地域差のある個性的な鳥崇拝は、長い歴史のなかで互いに融合して、鳳凰という空想の神鳥信仰に吸収されていく。『山海経』には、鳳凰の頭は徳をあらわし、翼は順を、腹は仁、背中は義を、それぞれ象徴しているとあるのは、鳳凰の組み合わせ動物としての多様性を想像させる。

著者の唱える鳳凰の南方起源説、鳳凰信仰を鳥崇拝の進化とみなす説、鳳凰が太陽信仰の根幹をなしているとの説などは、いずれも中国でも早くから指摘されており、おそらく疑問をいれる余地はなかろう。ただし問題となるのは、稲作民と漁労民がなぜ鳥を崇拝し、鳳凰信仰を持つようになったかをめぐっての説明である。

これに対して、著者は「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」(P.60)と説明しているが、こう簡単に片づけられては困る。著者のもう少し詳しい解釈を引用しよう。

「太陽の運行は稲作・農耕民にとっては、きわめて重要な生産のメルクマーク(指標)であった。いつ種もみを播き、いつ苗床を作り、いつ田植えをし、いつ田の草を取り、いつ収穫するかという稲作の農作業は、畑に水をやる必要もない天水農業の麦作に比べると、はるかに複雑な作業であり、綿密さと緻密さ・計画性を要求された。その綿密の根幹を司るのが太陽の運行であった。そして鳥はその太陽の運行を助けるものであった。太陽は朝生まれて、夕方には死ぬ。その永劫の再生と循環を支えているのが鳥であった。」(P.62)

右文はもっぱら稲作民と太陽および鳥との深い関連を述べているが、漁労民との関連についてはまったく言及していない。漁労民とは漁業を生計とする人々をさし、長江下流域の沿岸地帯では漁業をいとなむ漁民が生息していたと思われるが、中流域の湖南省と上流域の四川省では漁労で生計を立てる民族集団がいたかどうか疑わしい。つまり、漁労民と鳥崇拝との間に、必然的な関連が見出せないということである。

たとえ水鳥と漁労民の間になんらかの接点があったとしても、それはあくまでも長江下流域の河姆渡遺跡などに限られ、高廟遺跡の鶏崇拝と三星堆遺跡のカラス崇拝には当てはまらない。したがって、鳥を崇拝するのは漁労民ではなく、稲作民とみなした方が無難であろう。というのは、鳥崇拝の遺物が発見された地域は大抵、早くから稲作が盛んなところだったからである。

湖南省については、玉蟾岩遺跡から一万六千五百年前と推定される稲籾が四粒見つかり、現時点では中国最古の稲作の証拠とされている。また七千年前の河姆渡遺跡からは大量の米粒と稲殻そして農具などが出土し、太陽と鳥を造形した象牙彫刻も同じ遺跡から出ており、鳥崇拝と稲作民との深いつながりを思わせる。

鳥崇拝が稲作農耕から生まれたとすれば、農業に密接な関係を持つ太陽信仰に鳥がなぜ登場してくるかを「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」では説明できなくなる。

ここで思い出されるのは、長江下流域に生息していた越人の「鳥田」に関する伝承である。『論衡』(巻四)によれば、「禹葬會稽、鳥為之田。蓋以聖コ所致、天使鳥獸報祐之也」とあり、つまり夏王朝を創った禹が亡くなって会稽山に葬られたとき、天はその聖徳を嘉みし、鳥を遣わして田を耕させたという。

中国の文献、たとえば『越絶書』と『論衡』はこの故事をしばしば「鳥田」と約して称しているが、それは「鳥の田」という意味ではなく、「鳥が田を耕す」と理解すべきことは、『墨子』(佚文)の「禹葬於会稽、鳥為之耘」、『呉越春秋』(無余外伝)の「天美禹コ、而労其功、使百鳥還為民田」などによっても裏書きされる。

鳥が人力のかわりに田を耕すことは後世の伝承にすぎないが、しかし原始農業のころ、鳥は稲作民によってありがたい存在に違いない。禹が葬られた会稽山は今の紹興にあり、そこに「大禹陵」と呼ばれる墓が現存している。『論衡』はさらに「会稽衆鳥所居」といい、「鳥自食苹」とも伝えている。「苹」は「草」の意味で、『水経注』(四十)は「鳥為之耘、春拔草根、秋啄其穢」と説明している。

 このように、鳥は稲の種を運び、土を柔らかくし、害虫や雑草を除去してくれることで、稲作民から崇拝され、さらに鳳凰信仰と発展し、同じく農耕から生まれた太陽信仰に融合していく。鳳凰信仰と太陽信仰との結合は、南方の稲作民において、独自な宗教世界あるいは宇宙像がついに体系をととのえたことを物語る。鳳凰族の誕生である。

三、苗族と越族と長江文明


第二章「鳳凰と太陽」において、著者は鳳凰信仰の源流をたどってのち、中国西南部にひろく分布している苗族を調査した成果を披露し、ついでに長江文明を創った栄冠を苗族に贈ったのである。

苗族は中国に五十六ある民族の一つであり、人口は一九九〇年の調査によれば、七三九万に達して四番目である。その半数は貴州省に集中し、その他は雲南・湖南・広西・四川・湖北・海南の六省に散在している。

著者はおよそ十年間にわたって湖南省・貴州省・雲南省・四川省・湖北省の各地をかけめぐり、古代の遺跡と苗族の生態を綿密に調査しつづけた。日本人として苗族の調査をはじめて行なったのは、鳥居龍蔵博士である。博士は台湾の生番族の大陸渡来説を提唱し、生番族と類似点の多い苗族の調査を手がけたのである。そして、著者の苗族調査は明らかに鳥居博士の先駆的な仕事を意識したものである。

著者は「鳥居との間に不思議な縁を感じることがある」と述べ、鳥居博士の「私は純粋な考古学者ではなく、先史考古学者である。先史考古学は自然科学に属する」との言葉を引用して、オリジナルな環境考古学も「自然科学の立場から人文社会科学を総合」(P.75)する目標をかかげていると宣言する。

その通り、本書に披露された調査結果は、考古学のデータに民俗学の資料を重ねたものといえる。つまり、湖南省の城頭山遺跡から出土した木材の分析で、この六千年前の古代都市を築くときに、周辺から伐採したフウの木(中国名は楓香樹)を多用したことが判明、つづいて広西省にある苗族の村を踏査した結果、苗族の楓香樹信仰をつきとめ、台湾の生番族と大陸の苗族が同族であろうという鳥居博士の仮説を立証し、さらに弥生時代の倭人のルーツも苗族にあったのではないかと推測する。

「その長江文明の担い手は、苗族であり、苗族を含む長江流域の人々が、長江文明の崩壊とともに台湾や日本列島へと移動する大民族移動があった可能性が高くなってきたのである。」(P.75)

日本人にとって、苗族の村には弥生時代を彷彿させる風景は少なくはない。苗族の村を訪ねたときの第一印象について「一瞬、弥生の村に迷い込んだのかと思った。高床式の倉庫が立ち並ぶ。倉庫にあがる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じだ」(P.77)と心境を語っている。

もっとも著者の視線を釘づけにしたのは、村の要所に立てられた蘆笙柱である。蘆笙柱とは苗族の生命世界の根幹をつかさどる宇宙樹であり、フウの木で作られる。その先端には鳥または太陽を象徴する瓢箪などがつけられている。ここに稲作民の古代信仰とみなされる鳥と太陽のセットが出てきた。

さらに著者の目をひくのは、きまって蘆笙柱の下に置かれていた水牛の角である。苗族では十三年ごとに祖先の霊を祭る牯葬節を催し、そのときに百頭以上の水牛が犠牲になるという。苗族の多く生息している山間部では水牛を飼育しにくい。したがって、水牛は祭りの犠牲に供えるために飼われている場合が多い。これに対して、「苗族がかつて水牛の生育に適した平野部の低湿地地帯で生活していたことの名残り」(P.80)との解釈は妥当であろう。鳥と太陽にくわえて稲作農業に重要な役割を果たす水牛も登場してきた。

著者の目線はまた祭りそのものにも向けている。一万人を超す群衆は一つの村に集まり、若い男性の吹く蘆笙(楽器)の音色にあわせて、「百鳥衣」と呼ばれる衣装を身にまとった女性が蘆笙柱のまわりを踊りながら回る。この百鳥衣はすそに鳥の羽が一面に縫いつけてあることから名づけられ、その由来は「昔、苗族に稲穂をくわえて運んでくれたのが鳥だから、その鳥に感謝するためだ」(P.82)そうである。これは越人にまつわる「鳥田」伝承の類話ではないか。

ここに至って、著者の主張つまり苗族の原郷は長江流域にあり、六千年前に長江文明を創りあげながら、龍族の南下によって南へ追いはらわれたとの仮説に、思わず同調したくなる。

しかし、右の仮説を立証するためには、いくつかの疑問をクリアしなければならない。一つは苗族の起源であり、もう一つは越族との関係である。

まずは苗族の起源について、著者はその先祖を三苗とみなし、古くから洞庭湖周辺の江漢平原に居住していたが、約四千年前に「家畜の民」こと龍族の南下によって貴州省や雲南省などの山岳地帯へ追放され、南蛮へと落ちのびたと論じる。

中国における最近の研究を調べると、苗族の先祖を蚩尤とするのが、ほぼ通説となっている。『山海経』(大荒南経)には「楓木、蚩尤桎梏所棄、是為楓木」とあり、楓木すなわち楓香木は蚩尤の化身である。それは苗族の楓香木信仰の原点に違いない。

蚩尤の率いる九黎族はもと黄河の中下流域に分布し、東方の強族として勢力を張った。五千年前に西の黄帝族と拮抗して敗れ、四千年ほど前に淮河・長江流域にまで逃れ、ここで三苗族として再起したが、秦の始皇帝による統一戦争によってさらに南遷し、ついに中原に鹿を逐う力を失ったのである。

右のごとく五千年前には、苗族の先祖は北方の東部に興り、本書の想定した稲作・漁労民ではなく、また畑作・牧畜民というよりも、畑作をいとなむ農耕民である。それは蚩尤についての文献記録とも合致する。

『龍魚河図』に登場してくる蚩尤は「獣身人語、銅頭鉄額」とあり、また『述異記』は蚩尤の姿を「黾足蛇首」あるいは「人身牛蹄」と記している。「黾」とは蛙の一種である。蚩尤は金属技術を持つ農耕民であるため、牧畜民の黄帝は勝てず、そこで「人首鳥形」の女性から『玄女兵法』を授けられ、ようやく勝利を収めたと『黄帝玄女戦法』が伝える。『山海経』(大荒北経)によれば、蚩尤は風雨を起こして黄帝軍を苦しめたとあり、『春秋繁露』(求雨)には「夏求雨、其神蚩尤」と記され、明らかに農耕民の首領である。

次に苗族と越族の関係について考えてみよう。著者は六千年前に苗族が長江文明を誕生させたと主張しているが、そのとき苗族の先祖は黄河中下流域に生息していたし、五千年前までは長江より北に活躍していたから、長江流域の先住民ではなかったことは明らかである。

一方、越人の先祖とみなされる七千年前の河姆渡人、五千年前の良渚人は稲作をいとなみ、長江下流域において華麗な呉越文明を創りあげたのである。黄帝側に協力して「黾足蛇首」の蚩尤を退治した「人首鳥形」の玄女は、鳥と太陽を信仰する越人の象徴であるかもしれない。三苗は牧畜民に圧迫され、黄河流域から南下し、長江流域の民族と交流を持ったに違いないが、長江文明の創造主ではない。

要するに、第二章後半部の論述は、実地調査を行なった地域の見聞に頼りすぎ、多民族の衝突と融合をくりかえした中国文明史の全体像への目配りは十分とはいえない。日本との関係を苗族に絞りすぎたため、越人と倭人の関連を考察する第四章「稲作・漁労文明の系譜」とも齟齬してしまう恐れがある。


四、鳥族と蛇族と弥生人

第三章「北の龍・南の鳳凰」では、いよいよ日本との関連に考察の重点を移すようになる。まず本章の前提となる論点を整理すると、北方に興った龍族は五千年前から南下し、四千年前に長江文明がその圧力によって衰退し、三千年前には三苗と呼ばれる太陽族・鳥族・蛇族が長江流域を追われて西南部の山岳地帯へ逃れる。

「かくして太陽族・鳥族・蛇族の苗族たちは敗れ、雲南省や貴州省の山岳地帯へとおちのびていく。その一派が海上難民として日本列島にも到達し、太陽信仰、鳥信仰をもたらしたのである。」(P.105)

三苗は龍族との抗争に負けてしまい、一部は陸路から南方へ逃れて苗族となり、一部は海路から日本へ渡って倭人となったという図式は、簡単明瞭ではあるが、にわかに賛同できない点が多々ある。

前にもふれたが、苗族の先祖は黄河流域に居住していた北方東部の農耕民であり、蚩尤の伝承にも象徴されているように、蛇をはじめ牛や蛙などを崇拝していた。つまり、苗族の先祖は蛇族であり、黄帝と手を結んだ鳥族とは仲が悪かったらしい。

中国の統一はまず北方における東西の折衝から始まり、戦争に勝った西の牧畜民は蛇族をも受け入れて龍族として生まれ変わったと考えられる。『爾雅翼』に「龍の角は鹿、頭は駱駝、眼は鬼、うなじは蛇、腹は蛤、鱗は魚、爪は鷹、掌は虎、耳は牛」とあるのは、まさに新生の龍族の姿である。

 龍族の支配に服従しない蛇族は長江中流域にまで南下し、そこの漁民と融合して伏羲と女媧の創世神話を生みだしたのであろう。鱗身の伏羲と蛇体の女媧は兄妹であるが、二人が結婚して人類万物を創ったという。伏羲の出身は河南省とも江蘇省とも伝えられ、南北融合を反映した神話であると見てよかろう。

伏羲と女媧の神話は「黾足蛇首」の蚩尤と重なる部分が見てとれ、苗族はもとより蛇族だった証拠になる。対して、約四千年前に長江下流域を舞台に活躍した禹は「鳥田」伝説に示されるように、鳥信仰を持つ稲作民である。それは七千年前の河姆渡遺跡、五千年前の良渚遺跡によって証明されている。

長江流域において、蛇を崇拝する畑作民の苗族と鳥を崇拝する稲作民の越人は互いに多くの交流を持っていたことと推察される。今の苗族が持っている楓香樹信仰と牛信仰は古来のものであるのに対して、鳥信仰はおそらく稲作をいとなむ越人から受けた影響によるものと推察される。

著者は日本列島にも渡ったであろう太陽族も鳥族も蛇族もすべて「苗族たち」としているが、苗族と信仰も生業も民族も異なる江南の鳥族を視野に納めるべきところであろう。

第三章では苗族と倭人の蛇信仰に多くの紙幅を割いている。雲南省昆明市の滇池周辺に、およそ二千四百年前から、弥生時代とほぼ同じころ、滇王国と呼ばれる王国が繁栄していた。そこの出土品には蛇や蛙それに女性などの造形が際立っており、強烈な蛇信仰と女性信仰を認めることができる。

著者がいう、「女性中心の母権制の社会で蛇信仰を持った社会は、人間を大蛇の犠牲にするという戦慄すべき風習が存在した。女王は同時に蛇巫女であったのであろう」(P.122)と。そして、『古事記』などに語られたヤマタノオロチ退治の話に言及して、「日本ではこのような大蛇はいない。おそらく日本の神話に語られるヤマタノオロチの人身供養の物語などは、こうした雲南省などの長江流域の物語にその起源がもとめられるのであろう」(P.122)と述べる。

このように、著者はつねに日本文化または日本民族の起源を探察する視線を雲南省あたりの奥地に向けている。大胆にも以下のような発言もされている。

「日本の弥生時代の世界史的な位置づけは、同じく漢民族の周辺に位置した雲南省などとの比較の中で、より明らかになってくるのではあるまいか。雲南省では漢民族の国々とは異なり、長らく母権制が維持されていた。日本の弥生時代もまた漢民族からみれば滇王国と同じ少数民族の稲作農耕社会であったとみなされる。」(P.126)

紀元後百年ごろ、滇王国は突然に衰亡する。著者は自然科学者の眼目をもって、その原因を気候の悪化に求める。その影響によって、民族移動が盛んに行なわれ、既成秩序を脅かす新たな不安要素となり、東アジア全域に大動乱を誘発し、滇王国の衰亡から倭国の大乱までは連鎖的に起こった。

これらの政局の激変によって、各地の政治地図が大きく塗り替えられ、漢民族の立てた漢王朝は東アジアに君臨するようになった。漢民族の勢力がいちじるしく伸張しているなかで、著者は滇王国と日本の弥生文化だけがその波及を逃れて、「長江文明の伝統をもっとも色濃く受け継いでいる」(P.132)と断言する。

北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁労民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこで滇王国を作った。同じように長江下流域に生活し、良渚文化などの長江文明を発展させた稲作・漁労民の一派は、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。滇文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。

右は第三章の到達した結論である。この雄大な文明論は、著者の光り輝く知見をキラ星のごとくちりばめ、また自然科学者ならではの的確なデータをフルに活用しており、読者の眼前に斬新な世界を広げてくれる。

ただし、この結論では、著者の雲南省への愛着が隠すことなく現わされ、あたかも滇王国を作ったのも長江下流域の稲作民も台湾へわたった生番族も弥生文化を生み出した倭人も、長江の中・上流域を追われた苗族の一派だったかのような印象を読者に与えてしまう。


五、羽人と越人と征服王朝

本書のクライマックスは、なんといってもこの第四章「稲作・漁労文明の系譜」にほかならない。佐々木高明氏の『照葉林文化の道』(NHKブックス)にちなんで、著者は北方のナラ林文化を龍族、南方の照葉林文化を蛇族にあてて、次のように述べる。

中国大陸では北方のナラ林帯の龍族が、南方の照葉林帯の太陽族・鳳凰族・蛇族を駆逐した。そして中国大陸で龍族に追われた一派が、ボートピープルとなって稲作とともに鳥と深く関わる太陽信仰を中心とする神話体系を日本にもたらし、弥生時代を開幕する原動力となった。

周知のとおり、日本神話には天津神と国津神という系統の異なった神々が登場している。著者は国津神を縄文人、天津神を渡来人とみなし、国津神から天津神への国譲りが平和的に行なわれたと見る。つまり、弥生文化を主導した王権は長江文明を持った稲作・漁労民であり、これを「稲作・漁労民南方征服王朝説」と名づける。

そもそもこの新説の発端は、江上波夫氏の唱える「騎馬民族征服王朝説」へ反省にあった。つまり、「日本人の伝統的な習俗や世界観は、かならずしも騎馬民族征服王朝説を支持しなかった」こと、「日本神話の故郷がなぜ南九州にあるのか」との疑問から、著者は長年の中国調査の成果を生かして、日本神話の見直しに踏み切ったようだ。

考えてみれば、もし朝鮮半島を経由して騎馬民族が征服王朝を作ったとすれば、著者のいうように「天皇のルーツを誇る日本神話の故郷は、北九州にあるのが自然である」(P.138)。しかし、神話の舞台だった高千穂の峰は南九州にあり、天皇の高祖と崇められるニニギノミコトも出雲国を譲られて南九州から上陸するのである。

長江文明の視点から日本神話を見直してみると、驚くほど多くの共通点に遭遇する。たとえば、葦原中国の保食神が死ぬと、頂が牛馬となり、顱の上からは粟、眉の上からは繭、眼の中からは稗、腹の中からは稻、女陰からは麦と豆がそれぞれ生まれ、それを入手したアマテラスは大いに喜び、「粟稗麦豆を以ては、陸田種子とす。稻を以ては水田種子と」して、高天原に稲作と蚕桑を始めたという。(『日本書紀』)

これは稲作民の神話そのものであり、、しかも蚕桑を兼業とする長江下流域の稲作民の神話を想起させる。さらに日本神話のなかに鳥の存在が大きいことも稲作民渡来説を補強する。

神武天皇が熊野から奈良盆地へ向かうときに道先案内をしたのはヤタガラスであり、大国主が出雲国をゆずるときに天鳥船の供給を約束された。そして、弥生遺跡の出土品に鳥の造形が多いことは多言を要しまい。

鳥信仰と関連するものに、羽人の存在も無視できない。岐阜県の荒尾南遺跡、鳥取県の淀江町角田遺跡、高槻市の新池遺跡、奈良県の東殿塚などから、頭上に羽を挿した人々が船を操っている場面を描いた弥生時代の出土品が報告されている。それらと類似したものは雲南省の石寨山遺跡からも見つかり、中国の研究者はそれを「羽人」と呼んでいる。羽人の操る船こそ天鳥船の原型ではなかろうか。

稲作民にとって、鳥信仰はあくまでも太陽信仰の一部である。それも日本神話に反映されている。アマテラスは太陽の化身であり、天皇家の後継者は「日子」と称される。太陽信仰は世界各地に見られるが、ギリシア神話のアポロのように男神が普通であって、アマテラスのような女神はめずらしい。長江下流域の越人地域には、太陽神の性別を中原の男神と違って、女性とする伝承は少なくない。

このように、日本神話を検討した結果、雲南省よりも江南の沿岸地帯の伝承と実情に多くの類似点を持っていることがわかる。著者もこの点を汲み取って「羽人は越人であった」(P.150)と認め、そしてニニギノミコトの来日径路については

「長江下流域から、船で東シナ海に出ると、対馬暖流に乗って真っ先につくところが、鹿児島の南端なのである。さらに、そこから対馬暖流が行きつくところが、出雲でありその先が富士の越の国なのだ。海流に乗れば、漂着する場所が南九州である。」(P.148)

と述べ、「富士を中心とする北陸三県の越の国の起源も、こうした長江下流域にもとめられる」(P.150)とも付け加えている。江南の越人は同じ地域にすむ呉人よりも航海技術に長じており、『淮南子』(斉俗訓)に「胡人は馬に便れ、越人は舟に便る」とあり、『越絶書』(記地伝)にも「(越人は)船を以って車と為し、楫を以って馬と為す」と見える。彼らはいざという時に、東シナ海を横切る航海技術を十分に持っていると考えられよう。


六、呉人と越人の海外移住

考古学の発掘資料を多用し、自然科学者の視点を生かしたのは、本書の特徴であり、意表をつく魅力でもある。ただし、三千五百年前には、日本がまだ原始社会の縄文時代にとどまっていたころ、中国ではすでに文字を使う歴史時代に突入している。したがって、日本神話の検証にも、考古学資料の裏づけにも中国の文献資料をより積極的に用いれば、結論の妥当性が一段と高まるのではないか。

たとえば、『通典』にひかれた『魏略』に「倭人自謂太伯之後」とあり、『資治通鑑』にも「今日本又云呉太伯之後、蓋呉亡、其支庶入海為倭」と記されている。呉国は太伯(泰伯とも)を始祖と崇め、紀元前四七三年、越国に滅ぼされてから、その一派が日本へ渡ったと考えられる。三角縁神獣鏡をめぐっては論争がまだ続きそうだが、王仲殊氏の主張する呉人移民の製作説はかなり有力であろう。また『漢書』(地理志・呉地)に出てくる東鯷人も日本へ移住した呉人だった可能性は指摘されている。日本との関連において、第二章と第三章は苗族のみに照準をあて、第四章は越人を引き立てすぎるといった印象がある。それはおそらく著者の調査した地域との関係があろうが、文献資料を補助的に使えば、こうした偏りをいくらか回避できたかもしれない。

苗族を長江文明の創造者と強調するためか、長江流域に分布していた太陽・蛇・鳥の諸信仰を持ち合わせる南方民族として扱うところも気になる。苗族の先祖は北方民族であり、その首領蚩尤は黄河流域において、東方の農耕民を率いて西方牧畜民の黄帝軍と戦を重ねて中原を争った。私見では、蛇を崇拝する苗族は基本的には龍族の根幹をなし、牧畜民との戦争に敗れて、農耕技術や金属技術とともに蛇信仰も中原を制圧した西方民族に吸収され、龍族という混合民族が生まれたと考えたい。長江流域では、西方部族と東方部族は楚と越のようにしばしば紛争を引き起こし、信仰や生業などでも相違が見られる。要するに、中国の文明発展史を見るかぎり、黄河と淮河それに長江に阻まれて、南北の交流よりも東西の交流がきわめて活発であった。この意味で、本書は東西関係への目配りはいささか不足している気がする。

日本における龍の出現を弥生後期か古墳時代とし、その影響は朝鮮半島から受けているとの指摘にも賛同しがたい。蛇崇拝は黄河下流域の苗族にあり、また長江下流域の越人にも行なわれていたようだ。水または海との関連で、東方の夷族に共有されていると推定される。鳥から進化した朱雀が南方の守護神とされるのと同じように、蛇から進化した青龍は東方の守護神である。したがって、日本へわたった越人が龍信仰を弥生文化にもたらした可能性もある。『魏志』(倭人伝)をひもとくと、「(越人は)断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人も好んで沈没して魚蛤を捕る。文身して、亦以って大魚と水禽を厭う」とあり、蛟龍信仰が九州沿海の漁民に広がっていた証拠となろう。

http://www.geocities.jp/jiangnankejp03/lunwen/jp_lunwen06.htm


日本のルーツ? 長江文明


漢民族の黄河文明より千年以上も前に栄えていた長江文明こそ、日本人のルーツかも知れない。 H15.08.03


■1.再生と循環の長江文明■


 6300年前、中国の長江(揚子江)流域に巨大文明が誕生していた事が近年の発掘調査で明らかになっている。メソポタミア文明やエジプト文明と同時期かさらに古く、黄河文明よりも千年以上も早い。長江の水の循環系を利用して稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であり、自然と共生する「再生と循環の文明」であった。

 4200年前に起こった気候の寒冷化によって、漢民族のルーツにつながる北方の民が南下した。彼らは畑作牧畜を生業とし、自然を切り開く「力と闘争の文明」の民であった。彼らはその武力で長江文明の民を雲南省や貴州省の山岳地帯に追いやった。 これが今日の苗(ミヤオ)族などの少数民族である。

 別の一派はボートピープルとなって、一部は台湾の原住民となり、別の一派は日本に漂着して、稲作農耕の弥生時代をもたらし、大和朝廷を開いた、、、

 日本人の起源に関するこうした壮大な仮説が、考古学や人類学の成果をもとに学問的に検証されつつある。これが完全に立証されれば、日本人のアイデンティティに劇的な影響を与えるだろう。今回はこの仮説に迫ってみよう。



■2.森と川と水田と■


 1996年、国際日本文化センター教授・安田喜憲氏は3年もの交渉期間を経て、長江流域に関する日中共同の発掘調査にこぎつけた。対象としたのは長江の支流・岷江流域、四川省成都市郊外の龍馬古城宝トン(土へんに敦)遺跡である。測量してみると、この遺跡は長辺1100メートル、短辺600メートル、高さ7〜8メートルの長方形の城壁に守られた巨大都市だった。

 城壁の断面から採取した炭片を放射性炭素による年代測定法で調べてみると、4500年前のものであった。エジプトで古王国が誕生し、インダス川流域に都市国家が出現したのと同じ時期だった。

 1998年からは湖南省の城頭山遺跡の学術調査が開始された。 直径360メートル、高さ最大5メートルのほぼ正円の城壁に囲まれた城塞都市で、周囲は環濠に囲まれていた。城壁の最古の部分は今から約6300年前に築造されたことが判明した。また約6500年前のものと思われる世界最古の水田も発見され、豊作を祈る農耕儀礼の祭壇と見なされる楕円形の土壇も見つかった。

 さらに出土した花粉の分析など、環境考古学的調査を行うと、これらの都市が栄えた時代には、常緑広葉樹の深い森であることがわかった。この点はメソポタミア、エジプト、インダス、 黄河の各文明が乾燥地帯を流れる大河の流域に発生したのとは根本的に異なっていた。


 深い森と豊かな川と青々とした水田と、、、長江文明の民が暮らしていた風景は、城壁さえのぞけば、日本の昔ながらのなしかしい風景とそっくりである。



■3.平等な稲作共同体■


 長江文明が稲作農耕をしていたのに対し、他の四大文明が畑作農耕をしていたというのも、決定的な違いである。小麦や大麦は、極端に言えば、秋口に畑に種をまいておけば、あとはたいした手間をかけずに育っていく。そのような単純労働は奴隷に任され、支配者は都市に住んで、農奴の管理をするという階級分化が進みやすい。都市は交易と消費の中心となり、富と武力を蓄える役割を持つ。

 それに対して稲作は複雑で手間がかかる。苗代をつくってイネを育て、水田に植え替えをする。秋に実るまでに水田の水を管理し、田の草も取らねばならない。高度な技術と熟練を要するので、奴隷に任せてはおけず、共同体の中での助け合いを必要とする。そこでの都市は水をコントロールする灌漑のセンターとして成立し、さらに豊穣を祈る祭祀が行われる場所として発展していく。おそらく祭祀を執り行う者がリーダーとなったであろうが、その下で身分の分化は畑作農耕社会ほどには進まなかったであろう。

■4.太陽と鳥の信仰■


 7600年前の浙江省河姆渡遺跡からは、二羽の鳥が五重の円として描かれた太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙製品が出土した。8000年前の湖南省高廟遺跡からは鳥と太陽が描かれた土器が多数出土している。長江文明においては、太陽と鳥が信仰されていたのである。

 種籾をまき、苗床を作り、田植えを行い、刈り取りをする、という季節の移ろいにあわせて、複雑な農作業をしなければならない稲作農耕民にとって、太陽の運行は時を図る基準であった。同時に太陽はイネを育てる恵みの母でもあった。太陽信仰が生まれたのも当然であろう。

 その聖なる太陽を運んでくれるのが鳥であった。太陽は朝に生まれて、夕方に没し、翌朝に再び蘇る。太陽の永遠の再生と循環を手助けするものこそ鳥なのである。

 太陽信仰と鳥信仰は日本神話でも見られる。まず皇室の祖神である天照大神は日の神、すなわち太陽神そのものであった。 神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったのが天から下された「八咫烏(やたがらす)」という大烏であった。

 景行天皇の皇子で九州の熊襲(くまそ)を征し、東国の蝦夷を鎮定した日本武尊は、帰途、伊勢の能褒野(のぼの)で没したが、死後、八尋白智鳥(やひろしろちどり、大きな白鳥)と化して天のかなたへ飛び去ったという。さらに伊勢神宮、熱田神宮など多くの神社では、「神鶏」が日の出を告げる神の使いとして大切にされている。


■5.鳥と龍との戦い■


 約4200年前に気候の寒冷化・乾燥化が起こり、黄河流域の民が南下して長江流域に押し寄せた。司馬遷の「史記」には、漢民族の最古の王朝・夏の堯(ぎょう)・瞬(しゅん)・禹(う)という三代の王が、中原(黄河流域)から江漢平野(長江と漢水が合流する巨大な湿地帯)に進出し、そこで三苗(さんびょう)と戦い、これを攻略したという記事がある。三苗とは今日の苗族の先祖で、長江文明を担った民であると見られる。

 一方、苗族の伝説にも祖先が黄帝の子孫と戦ったという話がある。黄帝とは漢民族の伝説上の帝王である。苗族の祖先は黄帝の子孫と戦って、敗れ、首をはねられたという。

 長江文明の民が逃げ込んだ雲南省では龍を食べる鳥を守護神とする伝説がある。龍は畑作牧畜の漢民族のシンボルであり、鳥と龍との戦いとは、長江文明と漢民族との争いを暗示していると考えられる。

 これは筆者の想像だが、出雲神話に出てくる八岐大蛇(やまたのおろち)も龍なのかもしれない。この頭が8つに分かれた大蛇を天照大神の弟・戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治して、人身御供となりかけていた稲田姫(くしなだひめ)を救い、二人は結ばれる、という物語である。大蛇の体内から出てきた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、後に皇位を象徴する三種の神器の一つとなった。八岐大蛇はこの世の悪の象徴であり、草薙剣はその悪と戦う勇気を表しているとされている。


■6.収奪と侵略の黄河文明に対抗できなかった長江文明■


 馬に乗り、青銅の武器を持って南下してきた畑作牧畜の民にとって、長江文明の民は敵ではなかった。彼らは精巧な玉器を作る高度な技術は持っていたが、金属製の武器は持っていなかったからである。

 金属器は農耕でも使われたが、それ以上に人を殺す武器として発展した。長江文明より遅れて誕生した黄河文明は、金属器を使い始めてから急速に勢力を広げていった。畑作牧畜で階級分化した社会では、支配者階級が金属器による武力をもって下層階級を支配し、また近隣地域を侵略して支配を広げていく。

収奪と侵略の中で、金属器を作る技術はさらに急速に発展し普及したのであろう。また階級分化した社会であれば、大量の奴隷を兵力として動員する事も容易であったろう。

 それに対し、長江の稲作漁撈民は自然の恵みの中で争いを好まない文明を築いていた。インダス文明がまだ細石器を用いていた頃、彼らはすでに精巧な玉器を作る技術を持っていた。しかし平和で豊かな社会の中では、金属器の必要性はあまり感じなかったようだ。また平等な社会では、共同体の中から一時に大量の戦闘員を動員する事にも慣れていなかったと思われる。

 収奪と侵略に長けた北方の民が、馬と金属製武器をもって現れた時、長江の民はとうてい敵し得なかった。平和に慣れた文明が、武力を誇る北方の蛮族に敗れるという図式は、ローマ帝国対ゲルマン民族、さらには後の中華帝国対蒙古・満洲族との戦いにも共通して見られた現象である。


■7.苗族、台湾の先住民、そして弥生時代の日本■


 漢民族の南下によって長江の民は次第に雲南省などの奥地に追いつめられていった。その子孫と見られる苗族は今では中国の少数民族となっているが、その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたような風景だという。倉庫に上がる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じである。かつての水田耕作を山岳地でも続けるために、急勾配の山地に棚田を作っているのも、日本と同様である。

 苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていた。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われている。

 また明治時代に東アジアの人類学調査で先駆的な業績を残した鳥居竜蔵は、実地調査から台湾の先住民族・生番族と雲南省の苗族が同じ祖先を持つ同根の民族であるという仮説を発表している。

 長江文明の民が漢民族に圧迫されて、上流域の民は雲南省などの山岳地帯に逃れて苗族となり、下流域に住む一族は海を渡って台湾や日本に逃れた、とすれば、これらの人類学的発見はすべて合理的に説明しうるのである。


■8.日本列島へ■


 日本書紀では、天照大神の孫にあたる天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原から南九州の高千穂峰に降臨され、そこから住み良い土地を求めて、鹿児島・薩摩半島先端の笠狭崎(かささのみさき)に移り、この地に住んでいた木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)を后とする。

 天孫降臨の場所がなぜ日本列島の辺境の南九州であるのか、この質問に真剣に答えようとした研究者は少なかった。どうせ架空の神話だと一蹴されてきたからである。しかしどうにでも創作しうる架空の神話なら、たとえば富士山にでも降臨したとすれば、皇室の権威をもっと高めることができたろう。

 笠狭崎は中国から海を渡って日本列島にやってくる時に漂着する場所として知られている。天平勝宝5(753)年に鑑真が長江を下って、沖縄を経て漂着したのは、笠沙から車で15分ほどの距離にある坊津町秋目浦であった。

 漢民族に追われた長江下流の民の一部は、船で大洋に乗り出し、黒潮に乗って日本列島の最南端、笠狭崎に漂着したのであろう。そこで日本の先住民と宥和した平和な生活を始めた。その笠狭崎の地の記憶は、日本書紀が編纂された時まで強く残っていたのであろう。

 鳥取県の角田遺跡は弥生時代中期のものであるが、羽根飾りをつけた数人の漕ぎ手が乗り込んだ船の絵を描いた土器が出土している。それとそっくりの絵が描かれた青銅器が、同時代の雲南省の遺跡から出土している。さらに弥生時代後期の岐阜県荒尾南遺跡から出土した土器には、百人近い人が乗れる大きな船が描かれている。長江で育った民は、すでに高度な造船と航海の技術を駆使して、日本近海まで渡来していたのであろう。

瓊瓊杵尊の曾孫にあたる神武天皇も、船団を組んで瀬戸内海を渡り、浪速国に上陸されたのである。


■9.幸福なる邂逅■


 当時の日本列島には縄文文明が栄えていた。たとえば青森県の三内丸山遺跡は約5500年前から1500年間栄えた巨大集落跡で、高さ10m以上、長さ最大32mもの巨大木造建築が整然と並び、近くには人工的に栽培されたクリ林が生い茂り、また新潟から日本海を越えて取り寄せたヒスイに穴をあけて、首飾りを作っていた。


 日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生を大切にする文明を持っていた。そこにやってきた長江の民も、稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であった。両者ともに自然との共生を原則とする「再生と循環の文明」であった。

 この両者の出会いは「幸福な邂逅」と言うべきだろう。瓊瓊杵尊が木花之開耶姫を后とされたという事がそれを象徴している。神武天皇が九州から大和の地に移られた時も部族単位の抵抗こそあったが、漢族と苗族の間にあったような異民族間の血で血を洗う抗争という様相は見られない。


 人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか。


 神武天皇が即位された時のみことのりである。この平和な宣言こそ、わが国の国家として始まりであった。わが国は縄文文明と長江文明という二つの「再生と循環の文明」の「幸福な邂逅」から生まれたと言えるかもしれない。

 以上は長江文明の発見から生まれた壮大な仮説であり、なお考古学的、人類学的な立証が進められつつある。かつて古代ギリシャの詩人ホメロスの叙事詩に出てくるトロイアの都は伝説上の存在と考えられていたが、子供の時からその実在を信じていたシュリーマンによって遺跡が発掘され、高度な文明をもって実在したことが証明された。長江文明に関する研究が進展して、日本神話の真実性を立証する日も近いかもしれない。(文責:伊勢雅臣)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog304.html

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04. 2012年10月16日 22:11:21 : HNPlrBDYLM

日本語の母体のY-DNA「D」縄文語がホモサピエンスの祖語かもしれない
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/450.html

大和朝廷は漢民族?
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/451.html


05. 2012年10月16日 23:01:40 : HNPlrBDYLM


弥生人の起源


弥生時代は紀元前800年から始まる。日本人の起源や現在に至る氏族を追いかけていくと朝鮮半島に始まるが、その前の稲作伝来まで数百年の隔たりがある事を忘れてはならない。

朝鮮半島の紀元前の歴史は殆どなく、中国がようやく半島の鉄資源を求めて鉄職人を送り込んできた時期である。稲作もその頃に半島南部に広がっており、日本列島まで渡来して先進文化を伝える状況になかった。

朝鮮半島からの渡来人は早くて2世紀まで遅れる。その間、九州、中国地方を中心に弥生の文化や技術を創ってきたのは間違いなく大陸の渡来人である。先行して大陸から渡来人が稲作、漁労、養蚕を伝え、拡げていったのが呉人である安曇族であるという説がある。安曇族はその後の奴国を作り、57年に大陸から金印を授かっている。


「海から見た日本列島」
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/

にある以下の記事はそのくだりが書かれており、かなり信憑性が高いので紹介しておきたい。

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【安曇族を解く鍵「金印」】

 博多湾の入口にある志賀の島は 海人の安曇族の根拠地として また AD57年に 後漢の光武帝から授かった「漢委(倭)奴國王」(カンノワノナノコクオウ)と彫られた金印が出土した地として知られている。

中国大陸を制覇した後漢から奴国王が金印を授かったことは破格の厚遇である。なぜ光武帝は倭国の中の一部族に過ぎない奴国に金印を与えたのかまたなぜ奴国王は遠く洛陽まで使者を出したのか。両者の間には 金印授受に値する結びつきがあったはずだしまた 突然の訪問で金印を授かることは考えられないからそれ以前に奴国は中国大陸と交流があったはずである。

その交流にしても奴国王の使者が洛陽まで出かけるにしても海を渡らなければならない。そこには航海術に長けた海人の安曇族が深くかかわっていたはずである。
 

【安曇族はBC5世紀に呉から渡来。】

『魏志・倭人伝』や『晋書』『梁書』など中国史書にある倭人は入墨などの習俗から会稽地方(現在の浙江省から江蘇省)と共通している。またAD57年に洛陽へ行った奴国の使者は呉の祖といわれている太伯の後裔と述べたと記述されている。 
一方、中国大陸では春秋時代(BC770〜403年)に呉は越と30年ほど戦ってBC473年に亡ぼされた。長年の戦争に船を駆使して戦ってすぐれた航海術をもっていた呉人が日本列島へ亡命してきた可能性は大きい。

以上記した習俗、呉の後裔、呉人の亡命の3点から奴国の使者は呉が亡びたときに日本列島へ亡命した呉人の子孫であると考えた。


北九州へ亡命して来た呉人すなわち安曇族は仇敵越への復讐を誓い志賀島を根拠地に中国大陸に出かけて越の情報を集めるのに都合がいい交易をはじめた。

 ところがBC334年には仇敵の越も楚に亡ぼされる。元々呉と越は同族で呉越同舟という言葉は両国は戦争をつづけているが何か呉と越に共通する敵が現れたら力を一つにしてその敵に向かうという意味である。このように呉越は兄弟のようなものだから越が亡びて困っていると呉の後裔の安曇族は得意の航海術を使って越人が日本列島へ亡命することを手助けした。

 またBC221年に秦の始皇帝が天下を統一すると万里の長城を築いたり阿房宮をつくったりでそのために過酷な税の取立てや強制労働などを行った。安曇族はこれらに耐えかねて祖国を棄てる人たちの亡命も手助している。

【亡命者を日本列島の水田稲作適地に斡旋】

 亡命者たちは水田稲作・養蚕や漁撈の技術をもっていた。安曇族は 中国大陸との交易が軌道に乗ると交易で取り扱う品を多くするため日本列島内にも交易網を広げていたから鉄製品がまだ普及せず石や木の農具を使っての水田稲作と養蚕に適している地域の情報ももっていたし魚介類が豊かで船を扱いやすい海岸の情報ももっていた。だから 安曇族は亡命者たちに水田稲作と養蚕に適した地へ漁撈が得意な人たちへはそれに適した海岸を斡旋して住まわせた。
 
その斡旋先での生産物は安曇族が一手に引き受け日本列島内の交易も中国大陸との交易も大きく発展した。ということで日本列島内においては水田稲作・養蚕と漁撈が盛んになってきた。
 
こうなると倭国においては一部族に過ぎない奴国すなわち安曇族ではあるが商業に重点を置いた政策をかかげた後漢の光武帝にとっては取引先として大切な相手であった。安曇族にとっても光武帝から金印を授かることは円滑に交易を進める上で欲しいものであった。ということで「漢委奴國王」の金印を安曇族が授かったという仮説は成立するのではないか。


【安曇族の橋渡しで水田稲作技術は中国大陸から伝わった】

●水田稲作について〜稲のDNAを調べた佐藤洋一郎によると 水田稲作技術の日本列島への伝播ルートは 中国大陸から直接と朝鮮半島経由の二つのルートがあるという。ここでは中国大陸からの直接水田稲作技術が日本列島へ入った点に注目する。


●養蚕について〜布目順郎は確定的とは言えないがと前置きして浙江省や江蘇省から東シナ海を直接渡ってきたといっている。水田稲作の適地と養蚕の適地は豊かな水、風通しがよいなど条件が重なっている。


●言葉について〜森博達は日本には中国南朝の音である呉音が入ってきた。そのルートは朝鮮半島経由というのが通説だが呉音には濁音があるが朝鮮の漢字音には濁音がない。と朝鮮半島との結びつきに疑問を投げかけ中国南朝から直接日本列島へ入ってきた可能性を示唆している。


これらの技術や文化が中国大陸から直接日本列島へ伝わるには東シナ海を渡らねばならないからそこに安曇族が関与したことは間違いない。中でも水田稲作と養蚕は日本列島内の交易と中国大陸との交易に結びつくし、安曇族の入植地斡旋は日本列島内の水田稲作の短期間普及につながっている。
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/

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以上のように呉人である安曇族が航海技術に長けた海人としての特徴を生かして、中国から人、物、技術を運んできたと考える事は、その後の日本の海洋国家としての歴史を見ても頷けます。

また、弥生時代の最大の集落である吉野ヶ里遺跡に養蚕が盛んに行われており、中国とも交易をしていたという史実とも整合します。

一方、安曇族が越人を運んだと言われる北陸地方から関東にかけても同質の弥生文化は広がっていったと思われます。

朝鮮半島から来る渡来人第2波の前に既に相当程度、中国の先進文明を受け入れていた可能性があるのです。古墳時代を経て大陸の隋の時代に至るまで、日本列島が半島からの戦火を免れている背景には、弥生時代に構築した中国との関係は見逃せないのではないでしょうか。

戦争に明け暮れた朝鮮半島と戦争史がほとんどなかった日本、その対比を見ていく上で中国からの視点が必要になってくると思います。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=202671
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=202674

百越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。越、越人、粤(えつ)とも呼ぶ。
非漢民族および半漢民族化した人々を含む。日本の現代の書物において「越人」「越の人」と表される場合、現在のベトナムの主要民族であるベト人(越人)、キン族(京人)とは同義ではない。

現在の浙江省の東海岸が起源と見られる。言語は古越語を使用し、北方の上古漢語を使う華夏民族とは言語が異なり、言葉は通じなかった。秦および漢の時代には、「北方胡、南方越」といわれ、「越」は南方民族の総称ともなっていた

周代の春秋時代には、呉や越の国を構成する。秦の始皇帝の中国統一後は、その帝国の支配下に置かれた。漢代には、2つの越の国が確認できる。1つは中国南部、すなわち現在の広東省、広西、ベトナムにかけて存在した南越、もう1つは、中国の閩江(福建省の川)周辺の閩越(びんえつ)である。この時代、中国の南方を占めた越人は、北方民族による力の支配とぶつかり、しばしば反乱がおきている。チュン姉妹の乱は、現代に伝わる当時の反乱の1つである。

その後は、徐々に北方からの人々の南下とともに、越人の一部は彼らと混じり、また他の一部は山岳の高地や丘陵地帯などに移り貧しく厳しい暮らしに身を投じる人々に分かれるなど、越人の生活圏には変化が起こっていく。北部ベトナムは中国王朝の支配が後退すると、939年に最初の民族王朝である呉朝が呉権により成立している。

文化面では、稲作、断髪、鯨面(入墨)など、百越と倭人の類似点が中国の歴史書に見受けられる。現代の中国では廃れたなれずし(熟鮓)は、百越の間にも存在しており、古い時代に長江下流域から日本に伝播したと考えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%B6%8A

句呉(こうご、くご)は、中国の周の時代に、太伯(泰伯とも)が、弟の虞仲と千余家の人々と共に建てた国である。紀元前12世紀から紀元前585年まで続いた。後に、太伯の弟の子孫である寿夢が国名を呉と改名する。国姓は姫(き)。
太伯(たいはく)は、中国周王朝の古公亶父の長男で、呉の祖とされる人物。泰伯とも。虞仲(ぐちゅう)は古公亶父の次男。『史記』「周本紀」では弟が虞仲とあるが、「呉世家」では仲雍とある。季歴の兄、文王の伯父に当たる。姓は姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。

古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。

父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。
太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。
『史記』では世家の第一に「呉太伯世家」を挙げているが、これは周の長子の末裔である呉に敬意を表したものであろう。『論語』泰伯篇では、季歴に地位を譲ったことについて孔子が「泰伯(太伯)はそれ至徳と謂う可きなり」と評価している。


日本との関連
髪を短く切るのは海の中で邪魔にならないための処置であり、刺青をするのは模様をつけることで魚に対する威嚇となる。この二つの風習は呉地方の素潜りをして魚を採る民族に見られるという。歴代中国の史書で倭に関する記述にも同じような風習を行っていることが記されており、これが元となって中国や日本そして李氏朝鮮までの朝鮮半島において、倭人は太伯の子孫であるとする説が存在した。
例えば『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『梁書』東夷伝などに「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とあり、『日東壮遊歌』や『海東諸国紀』等にもある。これは日本の儒学者の林羅山などに支持され、徳川光圀がこれを嘆き『大日本史』執筆の動機になったと伝えられている。

九州宮崎県の諸塚山には、句呉の太伯が生前に住んでいて、死後に葬られたという伝承がある。

鹿児島神宮(大隈国隅正八幡)には、全国の神社で唯一、太伯が祭られている。

『新撰姓氏録』では、松野連(まつののむらじ)は呉王夫差の後とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2

呉 (春秋)
呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉。
呉の成立については詳しいことはわかっていないが、司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載っている。
周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていた。長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に後継を譲り、呉の地にまで流れて行き、現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。

後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないと示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。

興隆と滅亡
6代王の闔閭の時代、呉は強勢となり、名臣孫武、伍子胥を擁し当時の超大国楚の首都を奪い、滅亡寸前まで追いつめた。しかし新興の越王勾践に攻め込まれ闔閭は重傷を負い、子の夫差に復讐を誓わせ没する。夫差は伍子胥の補佐を受け、会稽にて勾践を滅亡寸前まで追い詰める。勾践が謝罪してきたため勾践を許したが、勾践は呉に従うふりをして国力を蓄えていた。
夫差はそれに気付かず北へ勢力圏を広げ、また越の策にはまり伍子胥を誅殺し、中原に諸侯を集め会盟したが、その時にすでに呉の首都は越の手に落ちていた。紀元前473年、呉は越により滅亡する。この時、夫差は勾践に対し助命を願った。勾践は夫差に一度助けられていることを思い出し願いを受け入れようとしたが、宰相の范蠡に
「あの時、天により呉に越が授けられたのに夫差は受け取らなかった。ゆえに今呉は滅亡しようとしているのです。今、天により越に呉が授けられようとしているのです。何をつまらない情を起こしているのですか」
と言われ、和議を蹴った。それでも勾践は夫差を小島に流刑にして命だけは助けようとしたが、夫差はこれを断って自害し、呉は滅びた。
夫差は越に闔閭を殺された後、薪の上に寝て復讐心を忘れなかった。勾践は夫差に負けた後、胆を嘗めて復讐の心を呼び起こし、部屋に入るたびに部下に「汝、会稽の恥を忘れたか」と言わせて記憶を薄れさせないようにした。この故事から臥薪嘗胆の言葉が生まれた。また、呉越の激しいライバル争いから呉越同舟の言葉が生まれた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)


越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前334年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。

呉との抗争
隣国の呉とたびたび抗争し、紀元前515年、楚に遠征した呉王闔閭の留守を狙って越王の允常[1]は呉を攻め、呉領内を荒らしまわった。更に混乱に乗じて実弟の公子夫概が兄に対して謀反を起こすなど、闔閭の立場が大いに揺らぐ事となり闔閭は越を憎んだ。やがて紀元前496年に允常が死去して、太子の勾践が父の後を継いで即位した。その報せを受けた闔閭が越を攻めたが敗死した。

闔閭の後を継いだ次男の夫差が報復の準備を整えつつある事を憂えた勾践は、先手を打って仕掛けたが逆に大敗し、越は滅亡寸前にまでなったが勾践が謝罪したために滅亡は免れる。謝罪後、勾践は呉で使用人として労働を命じられたりしたが、范蠡の助けを借り、越は呉への復讐心から着実に力を蓄えてゆき、呉が伍子胥を殺害し夫差が中原に諸侯を集めて会盟を結びに行っている隙を突いて呉を攻め、呉に大打撃を与え、紀元前473年には呉を滅ぼした。呉を滅ぼした勾践は、越の都を現在の山東省の琅邪に遷し(江蘇省連雲港との説もある)、更に諸侯と会盟して中原の覇者となった。

勾践は讒言によって腹心の文種を粛清した。これを聞いた范蠡は勾践の猜疑心を知り尽くしていたために、既に斉に逃亡しており、陶朱公と称して富豪となっていた。紀元前465年、勾践は死去した。


滅亡
紀元前334年、勾践の6世の孫である無彊の代に楚の威王の遠征によって、王の無彊は逃亡するも、楚の追撃を受けて捕虜にされ直ちに処刑された。その後、楚懐王の代の紀元前306年頃までに、楚の王族卓滑によって滅ぼされた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A


06. 2012年10月16日 23:11:28 : HNPlrBDYLM

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参考HP


日本人のガラパゴス的民族性の起源 ← お薦め
http://galapagojp.exblog.jp/i0

日本人の起源
http://www.geocities.jp/ikoh12/index.html

更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究
http://research.kahaku.go.jp/department/anth/s-hp/index.html


07. 2012年10月17日 17:24:44 : HNPlrBDYLM
「海から見た日本列島」
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/


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12. 中川隆 2013年7月13日 22:47:16 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6


paper_lies800さん 2010/12/16

日本人が色々な種族・部族の混血から成り立っている以上、数学のように一つの答えが出るわけではありません。あくまでも特徴的なことを大まかに言えば、ということが前提です。

鉄資源の確保が理由で、根源的には、天皇家が出た天孫族の日本への渡来直前の経由地(そのもっと以前は中国東北部)が朝鮮半島南部であったこと、だと思います。下記もある人の説ですが、腑に落ちるので、私はそのように考えています。

紀元前2〜3世紀頃、中国江南地方を原郷とし、朝鮮半島を経由して筑前〜肥前北部沿岸に渡来した海神族。稲作と青銅器文化をもたらしました。
(中川註:倭人・弥生人、Y_DNA はO2)

スサノオ・大己貴・大国主・大物主などを祖神とし、安曇連、三輪君、宗像君、和邇臣、尾張連(海部直)、大倭国造、磯城県主などを出しました。


それに少し遅れて、朝鮮半島南部を経由して日本の筑後川流域に渡来した天孫族。スサノオ(上記とは別)・五十猛神、高魂神、天照大神、天目一箇神などを祖神とし、鉄器、鏡作、玉作、鍛冶、衣類の制作などの文化をもたらしました。
(中川註:大和朝廷、Y_DNA はO3)

天皇家、物部連、出雲臣、忌部首などを出しました。

スサノオや五十猛神は「韓神新羅神社」に祀られており、宮中の、皇室の祖先神という「韓神」も同じでしょう。

「天孫降臨」は、天孫族が筑前北部海岸にあった海神族の「葦原中国」に国譲りを迫り、征服したものです。

追い出された海神族(三輪氏が主体)は大和に遷り、原大和国家を形成。

天孫族の本家は邪馬台国となり、天孫降臨した分流(ニニギは長男ではないので)が伊都国を形成。

その後、天孫族の分流の中の更に庶流(=神武。神武も長男ではない)が、新天地を求めて、苦難の末に、大和入りに成功し、征服して天皇家となり、その後のヤマト王権の基礎を築いた。

国譲りの際に、天孫族は宗像君をして半島に繋がる海北道中を掌握しました。これで半島から鉄資源を持ち込むことが出来るようになったのでしょう。

天孫族から出た古代豪族の系図の中には、一時期朝鮮半島に居住し、また日本に戻ったというような記事を記すものもあります。

その後、国内で産鉄、製鉄技術が発展すると、鉄資源の供給地としての半島の重要性が薄れたものと思います。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1352053068?fr=rcmd_chie_detail


13. 中川隆 2013年7月13日 22:51:34 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、

天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ 知らない方が良いこともあるのだ と答えたという研究者の話が伝わっています。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html


14. 中川隆 2013年7月13日 23:16:17 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

karasawa7772000さん 2010/10/19

律令期・7〜8世紀頃における渡来人

当該期、半島情勢の動乱によって多数の人々が日本に亡命しています。

※ちなみにこれ以前の渡来(弥生時代前半を除く)については、当該期の記録に比べると格段に少なく、遺伝学的な影響を及ぼすほど多数とは言い難い、というのが現在までの研究成果とされる。

事例を挙げますと…。


・天智天皇5年:百済男女2000人
・天智天皇8年:百済人700人余
・天武天皇13年:百済の僧尼と俗人23人
・持統天皇元年:高句麗人56人
・持統天皇元年:新羅人26人
・持統天皇2年:百済人
・持統天皇3年:新羅人
・持統天皇4年:新羅人12人
・和銅8年:新羅人74人
・霊亀2年:高句麗人1799人
・天平5年:新羅人56人
・天平宝字2年:新羅人74人
・天平神護3年:新羅人193人
・宝亀11年:新羅人

ちなみに奈良時代の総人口は、『延喜式』規定の出挙稲額と常陸国の出挙稲額を比例計算したした結果、600万人前後と推定されているそうです。

すなわち、上記の数値は今日(1億2千万人として)に換算すると20倍近いものとなります。

一つの都市に相当する人数が渡来したことになり、当該期いかに多い人間が来たかわかります。

この中には宮廷で高位に就く者もいたばかりか、白村江の戦いの結果、亡命してきた百済王(の系譜)なども含まれております。

朝鮮半島経由で稲作が伝播した理由には、遺構自体の類似性もありますが、何より出土する遺物に幾つもの同一性があることが両者の行き来を示すとされています。

事例を列記します。


・遼寧式銅剣
分布が遼寧省(中国東北部)を中心とすることからこの名が付いた。
紀元前9世紀に出現したとされ、遼東半島〜朝鮮半島(比来洞遺跡・松菊里遺跡)〜今川遺跡(福岡県)などで出土。

・磨製石剣
・諸手鍬、エブリ、石包丁、石鎌など農具
・蛤刃石斧、抉入柱状石斧、扁平片刃石斧など木工具


…これらは従前の北部九州・縄文晩期には見られない製品で、総て大陸を遡源としているだけでなく、石製である点にも注意せねばなりません。

当該期、中国大陸ではこれら道具の多くが金属製品に代わっていて、朝鮮半島・日本では石製を使用していたのです。

同時に型式的類似性もある、というかソックリなものの方がむしろ多数を占めます。

縄文時代にも「オサンニ釣針」や「キバノロ牙の加工品」など、九州と朝鮮半島が古くから交流していた物的証拠が幾つもあります。

※特にキバノロは日本に生息していない点に注意。

ただし、縄文時代後晩期〜弥生時代前半において文物が伝播したのは朝鮮半島経由のみではなく、北方からもあったとされます。

・三足土器(亀ヶ岡式土器に数例)
・内反り石刀(同)
・玉斧(山形県中川代遺跡)
・中国製青銅刀子(山形県三崎山遺跡)

…こうしたものは、分布などから考えて中国北方〜沿海州などから伝わったものとされています。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1448933639?fr=rcmd_chie_detail


15. 中川隆 2013年7月14日 02:21:51 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

もう20数年前のことである。ある歴史学者が、昭和天皇に質問した。

昭和天皇は、オフレコならばと前置きして答えられた。


Q:天皇家の先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックというものがある。
  これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。
http://akirakakun.iza.ne.jp/blog/entry/1574364/


古代朝鮮からの侵略部族が、一貫して日本を支配してきた 

古代日本、とりわけ朝鮮半島が戦乱にあけくれた2世紀〜6世紀に 、彼らは日本にやってきた。当時南朝鮮は、部族連合から国家への 移行期であり、激しい戦いを繰り広げ、そこから押し出された部族 が、一族郎党で武装のまま新天地の日本にやってきたのだった。

彼らは既に鉄製の剣を持ち、戦慣れした武装勢力であり、当時の縄文人・弥生人が敵う相手ではない。西日本に侵略部族による国が、あっという間に出来 あがる。

その後も、蘇我氏(高句麗からの侵略部族、神社を持たず仏教を導入)などが相次いだ。特に6世紀中ごろの任那滅亡、7世紀中ごろの百済滅亡の際には、任那・百済の支配部族の中核・大半が日本に移住した。
http://blog.trend-review.net/blog/2008/08/000801.html


16. 中川隆 2013年7月14日 02:52:14 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

宮崎の山村に伝わる「百済王伝説」の謎 _古代朝鮮からの侵略部族が日本を支配してきた 
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/849.html

17. 中川隆 2013年7月14日 16:15:54 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/850.html

天皇家に伝わる御衾秘儀
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html


18. 中川隆 2013年7月16日 07:46:01 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

「朝鮮と日本の神話を考える」 上田正昭 京都大学名誉教授

 敬愛してやまない末本徹夫さんがお亡くなりなって早くも2周年になります。仏教で申しますと3回忌になりますが、徹夫さんは京都大学の先輩でもありました。学生でありながら京都市会議員に当選され、人権問題、とりわけ日朝友好促進に力を入れられました。末本徹夫さんを偲んでの2周年の集いに「神話の問題」の話をしてほしいと雛子さんから言われまして喜んで参上した次第です。末本徹夫さんの写真がここに置かれていますが、その志を受け継いでいきたいと念じております。

 今日は「朝鮮と日本の神話を考える」というテーマです。新しい歴史教科書の問題がありますが、歴史学も科学です。小説家の歴史ではなく、歴史的事実を正確に認識することが大前提になります。伝仁徳天皇陵も仁徳天皇が葬ってあるかどうか大変あやしいのですが、伝仁徳天皇陵は私が学長をしていました大阪女子大学の近くにある日本最大の前方後円墳です。巨大な前方後円墳の仁徳天皇陵と伝えられている古墳ですが、堺では大仙という地名がありますので、我々は大仙古墳と言っています。大仙古墳を天皇を尊敬する方々がご覧になったら全長六百メートルの古墳になる。天皇制に反対の方がご覧になったら二百メートルだ、ということでは学問として成り立たない。

歴史は解釈の問題も大事ですが、誰がどういう立場で言おうと、史実は変わらない。正確な史実をまず認識するということが学問としての歴史研究の第一歩です。神話についても皇国史観の人が解釈する神話と、左翼の人が解釈する神話で全く違う評価が生まれるということでは学問になりません。

神話の定義

そこで神話をどう定義するか。定義が正確でないと内容が間違って解釈されることになりかねないと思います。「神話」という漢字の熟語は中国の古典にもありません。漢字文化圏である朝鮮半島の古典にも神話という漢字の熟語はありません。中国の『三国志』にも神話という文字はない。翻訳漢字です。日本の学者が1890年代に英語のmyth,mythusを「神話」と漢字に訳したものです。神話という翻訳漢字は失敗であったと思います。神話は神様の話という単純なものではありません。

日本の古典の中に神話に類似する用語があるか。「神語」というのはあるんです。『日本書紀』、皇極天皇2年、同3年の条、西暦643・644年の条に「神語」と文字があります。「カムガタリ」という方が皆さんがお考えになっている神話の意味がより正確に言えると思います。神の語りです。神話の定義は神話学者の数ほどあると言われるようにいろんな定義があります。

ギリシャ神話とか文字に記録された神話は神話の本来の姿ではないんですね。記録された神話は第二次、第三次の神話です。書かれた神話は本来の神話とは違うということです。文字を知らない人や、民族でも神話を持っています。なぜなら神の語りだからです。耳から口へ、口から耳へと語り伝えていくものが本来の神話です。文字に属するのではなく言葉の世界に属します。ホーリー・ラングウェッジ、聖なる言葉が神話の大事な点です。

沖縄の研究も復帰前から進めてまいりました。沖縄での国際会議にもたびたび招かれています。沖縄が本土に復帰する以前、米軍が占領していた時代、沖縄に行くにはパスポートがいった時代です。その時代から沖縄の調査をしていますが、本島から先島つまり宮古、八重山諸島など台湾に近いところです。

たとえば宮古島では神話が伝わっていますが、記録にはない。巫女さん、「ツカサ」のおばあさんたちが神話を言葉として語り伝えている。祭りの場で伝えられる。記録としてはないわけです。祭りに参加しなければ神話は聞けない。日常は語られません。男子禁制なので入れない。ツカサの神話の語りを録音させてほしいと申し入れて、

「祭りの場でもないのに語れません」

と拒否されました。お供えをして帰ろうとしたらおばあさんが

「待ってなさい。あなたは神の子だという御告げがあったから語ってあげます」

と録音させていただいたこともありました。

記録された神話

 『記・紀神話』といわれているものは、語られた神話ではなくて書かれた神話です。『古事記』は3巻あっては上巻に神話が書いてある。『日本書紀』は30巻ありまして、巻第一と巻第二が神代の話です。『古事記』は和銅5年、西暦712年正月28日に完成しましたが、時の天皇家の立場から作為的に記録されたものです。天武天皇の勅語に

「偽を削り、実を定める」

と書いてある。天皇家の立場からこれはふさわしくないというのは削ってある。天皇家の立場から書いている。神話のすべてを書いてあるわけではありません。


例えば今日の話について皆さんは、私の言葉を速記するなら別ですが、上田の話はここは大事だなと思う箇所を書いておられる。全部書いているわけではない。皆さんの日記でも全部正確に書いているとはいえない。都合の悪いことは自分の都合のいいように書く。日記だから本当のことが書いてあると思ったら間違いです。将来、孫が読むかもしれない。「おじいちゃんはこんなに立派だった」と第三者を予想して書いている場合もある。

記録する時には作為がある。歴史学をやるものは、書かれたものが全て本当だと思うようでは歴史研究をする資格がない。どこが本当で、どこがウソか文献批判が必要です。ラブレターはそれの最たるものです。「私はあなたを愛しています」と書くわけです。その瞬間はそう書くんです。口説くために。騙されて結婚して今日に至っている人もたくさんいると思います。ラブレターの文献批判をしていない。

自由民主党の新聞に書いている内容と共産党の新聞に書いている内容では違うことがありうる。一つの事実がさまざまに記録されるわけです。新聞が書いているからその通りだと思ってはいけない。毎日新聞の立場がある。朝日新聞には朝日の立場がある。6紙くらい読んでどれが真実かと考える。

 これは文字による記録の限界なんですね。書かれた神話には誇張の潤色が入る場合がある。『古事記』や『日本書紀』が日本の神話のすべてだと言っていたら、神話を教科書に載せる資格は全くない。こんな教科書で勉強するのは気の毒です。戦争中はそういう教育を受けた。神話を疑ってはいない。神武天皇橿原宮で即位された。「紀元は二千六百年、ああ一億の」という時は中学2年生でした。昭和15年。私は級長でしたから並んで国旗掲揚をしました。

紀元二千六百年の元年は西暦ではB.C.660年です。縄文時代の晩期の頃です。弥生時代の前です。そういう時代に日本国ができたというのは、少し勉強したらちょっと待ってくれと言わざるをえない。日本国家が縄文時代にできたなんてことはありえない。邪馬台国よりはるかに昔の話ですよ。邪馬台国の卑弥呼の時代は紀元後3世紀前半の話です。そのときから900年くらい昔の話です。日本国が誕生したという考えには幼稚園の子どもでも待ってくれと言わざるをえないのではないでしょうか。だけどそれは『日本書紀』に書いてあるわけです。『日本書紀』に書いてあるからその通りですと言うていたら、ウソということになるわけです。

神話とはなにということを理解していただかないと、これからお話する日本と朝鮮の神話の問題も間違ってくると思います。神話はまさに聖なる言葉でした。

神話とよく似た言葉には「伝説」「昔話」があります。語り伝える口頭伝承です。言葉の世界に属していますが、しかし内容はみな違うんです。

神話は神様が出てくる。この世のはじめ、天地開闢と関係がある。

「この世のはじめにおける神と人との重要な出来事を語り伝えた聖なる言葉」

が神話です。ハレは非日常、ケは日常。神様をお祭りするハレの時に着る着物が本来の晴れ着です。日本人の晴れ着は祭りの日に着る着物です。ケ着は日常の着物です。ハレの非日常の聖なる時と場の語りが神話です。神の行いを信じるという信仰が神話にはある。語られている内容がどんなに非合理であっても。

国産み神話。イザナギとイザナミの命が鉾を天空から海中に下ろして、それが塩で固まって島ができた。次々に国を生んでいく。塩が固まって島ができる、国土ができる。全く不合理な話ですが、語っている人、聞いている人が信じていた。信仰です。祭りの場に参加していないと聞けない。信じてかつてそのような出来事があったことを深く信じている。

 ところが伝説というのは全く違うんです。ある特定の物に則して語られる。伝説には神様が登場しなくてもいい。即物性がある。弘法大師が池をつくられた。弁慶が運んだ石がある。義経が腰をかけた石がある。何か物に則して伝説は語られる。語られている内容は自分たちの祖先がやってきたこととして語る。伝説には何年何月何日、「頃は元禄15年12月14日」は忠臣蔵の日ですが、日時まで物に則して語られる場合がある。

昔話は語られる内容が全く違う。どの昔話でも「昔、昔、あるところに」と時がわからない。伝説は特定している。昔話は特定しない。「で、あったとさ」と語りの最後は結ばれる。もちろん土地の言葉で語られる。伝説や昔話はケの語りです。いろり端で語る。「昼の話はネズミが笑う」という諺がありますが、夜、語られる。

神話はケの語りではない。神を祀るというハレの時と場で語られる。文字を知らないどこの民族でも神話はある。朝鮮民族には朝鮮民族の神話があり、日本民族には日本民族の神話があるわけです。それが後に記録化される。日本の場合は記録化された神話としては『古事記』『日本書紀』が有名です。

『古事記』『日本書紀』以外も我々の祖先のことが書かれているものがあります。『風土記』があります。『古語拾遺』は西暦807 年にまとめられたものです。『風土記』は各国々で編纂されましたから国々にあります。語り部の神話の記録もあります。『万葉集』の中にも『延喜式』にもあります。『先代旧事本紀』の神話もある。『古事記』や『日本書紀』だけが日本神話のすべてではないということを押さえておかないといけないと思います。

朝鮮の神話では

 朝鮮の神話はどうか。もちろん朝鮮民族の神話も最初から文字で書かれたわけではない。好太王碑文は有名ですが、その冒頭は建国神話で、高句麗の祖先はこういう人たちであったと語っているわけです。25、26年前、高句麗文化展がありました。京都市立美術館で朝鮮民主主義人民共和国から貴重なものを送っていただきました。京都を皮切りに巡回されました。私は西日本の高句麗文化展の責任者だったんです。東日本の責任者は騎馬民族説で著名な江上波夫先生でした。

碑は高さが6メーター38センチあります。これをレプリカにして送ってきましたが、美術館に入らない。京都の場合は屋外に展示しました。そのはじめに高句麗の神話が書いてある。広開土王という高句麗の王様の石碑が彼の子どもの長寿王の2年の時に建った。西暦414年、5世紀のはじめです。[史料5]この碑文が有名なのは、碑文に

「由来朝貢而倭以辛卯年来渡」。

西暦391年に倭人が海を渡ってきた。「百殘」は百済です。「新羅以為臣民」と書いてあります。

倭イコール大和朝廷と解釈しているのは歴史的事実に反します。

倭をどう解釈するか問題があるのですが、北九州を中心にする倭の勢力が海を渡ってきて、朝鮮半島の百済、新羅、伽耶を破って臣民にしたと書いてある。

これを明治以来の日本の政府はかつて朝鮮半島は日本の属国であったということをこの碑文を証拠に言ったわけです。その中心になったのは東京帝国大学の先生方ではなく、陸軍参謀本部なのです。そのことを明らかにしたのが、在日の歴史家の李進熈さんです。和光大学の名誉教授の考古学者です。

陸軍参謀本部が改ざんしたのだというのが李さんの説です。李説が発表された時、中国の学者も韓国の学者も台湾の学者も日本の学者もショックを受けた。好太王碑文の陸軍参謀本部の改ざん説が契機になりまして、好太王碑の研究が前進しました。その功績は高く評価していますが、改竄説には賛成してはいないのですが、李さんの問題提起がなければ好太王碑の研究はあれほど盛んになるとは思われません。

共和国の学者も好太王碑についての論文も書きました。中国の学者も書きました。好太王碑をめぐって大変な論争を展開することになります。その火付け役をしたのが李進熈さんです。このことはちゃんと認めないといけないと思います。

 好太王碑が立っているところは中国の吉林省にある集安、鴨緑江を挟んで対岸は朝鮮で共和国の皆さんが歩いておられる姿が見えます、川を挟んで。

その碑文の調査に私は3回行きました。碑文の文字は残っているのですが、剥落して判読できないところも若干あります。

 この碑文が大事なひとつは高句麗の神話が記述されている事です。

朝鮮にも古典はたくさんあります。たとえば『三国史記』がありますが、『古事記』や『日本書紀』より出来たのははるかに遅いんです。1145年に編纂の命をうけて書かれました。12世紀のなかば、日本でいえば平安時代の終わりです。平清盛の頃に書かれた神話を高句麗の本来の神話として議論してはいけない。

高句麗の神話は5世紀にあったということは好太王碑文を見たらわかるわけです。この碑文ができたのは414年です。414年の好太王碑文の最初に神話が書いてある。

「惟昔始祖 牟王之創基也」。

朱蒙が高句麗の基を築いた祖先である。

「出自北夫餘天帝之子」、

天の神様の子どもであって、お母さんは「河伯女郎」なり。河の神の娘である。お父さんは天の神様。お母さんは河の神の娘である。卵を裂けて世に降りる。生まれながらにして聖。

高句麗には5世紀のはじめのころに建国神話があったということは、好太王碑文によってわかるわけです。もちろん書かれた神話ですが、そういう神話が5世紀のはじめに高句麗にあったことを物語っているわけです。

 昨年12月23日の天皇誕生日の前の12月17日、宮中で記者会見があった。記者クラブが7つ質問している。その中の一つが

「来年はワールドカップで日韓共催でやる。天皇はどう思われるか」

という質問に

「自分の先祖である桓武天皇の生母高野新笠は百済武寧王の子孫であった。
韓国とのゆかりを感じます」

と語られたわけです。私にもすぐ朝日新聞社からコメント依頼がきました。私が感動したのは、人物の交流が皇室を含めてあったのだけれども

「不幸な関係があったということも忘れてはなりません」

とちゃんと言っておられる点ですね。そこがあまり報道されてないんです。

 私は朝日のコメント依頼に「そこが大事だ。それを書いてくれなければコメントしない」と申し上げたのです。1月16日、京都新聞には載りませんでしたが、共同通信が後追いの記事を出しました。なるほどと思ったのは「誕生日の記者会見くらいは自分の言葉で言わせてほしい」と言われたそうです。宮内庁のチェックはなかったようですね。宮内庁は大慌てになったということを1月16日の共同通信配信で知りました。私はその日、松江に行っていまして、山陰中央新報で知りました。実はこれは、神話の問題とも関係があります。


桓武天皇のお母さんの高野新笠は、勅撰の歴史書である『続日本紀』が明記するとおり武寧王の子孫ですが、延暦8年12月に亡くなります。お葬式は正月にあった。葬ったのは大枝の沓掛にある旧山陰道の右手の山の中腹。そこに高野新笠のお墓があります。階段を登らないと行けません。延暦9年1月にお葬式をしている。

『続日本紀』に新笠の伝記が書いてある。どういう人だったかということを書いて百済の神話を書いている。そこに書いてあるものを読むと

高句麗の建国神話と百済の建国神話が同じであったことがわかります。今、残念ながら朝鮮人民民主主義共和国と大韓民国は分断されていますが、百済の建国の神話と高句麗の建国神話は同じです。在日の皆さんが自分の祖国の神話も知らずにいるというのでは残念です。

朝鮮と日本の神話の類似性

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。


 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。

 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。

朝鮮と日本の神話の相違性

 日本の神話と朝鮮の神話は極めて類似性がある。
玄界灘を隔てて隣り合っている国ですから共通性がある。
日本の神話と朝鮮の神話には共通性がある。

比較というのは似ている点だけをすることではない。どこがどう違うかということを正しく理解することが極めて重要です。朝鮮の文化と日本の文化のどこが共通しているか。

日本の中に朝鮮の文化がこんなにたくさんある。
遺跡めぐりをしても朝鮮の文化が各地にある。
それにあわせてどこがどう違うかという、共通性だけでなく独自性も見ていないと、本当の友好、連帯はできない。全く同じだったら改めて勉強する必要はないんです。キムチと漬物の文化とは違うじゃないですか。

なぜ違ってきたのかを正しく理解しなければ、本当の連帯はできない。同じだと言ってばかりいると「日鮮同祖論」になる。祖先は同じなんだから日本に朝鮮が併合されてももとは一緒ではないかという論理と類似のものになってくる。どこがどう違うかということだけを言っていても具合悪いんですね。共通性と独自性の両方を理解することが必要だと思います。

 書かれた日本の神話と、書かれた朝鮮の神話の決定的に違うところが三つあります。それも知っておく必要がある。

クシの峰、天降った山の名は類似している。

けれども、日本の神話では「荒ぶる神」がいた。降ってきて平定するんです。

高天原から降って「言向和平」する。

朝鮮の神話では違う。民衆が

「どうか神様降ってください」

とお祈りすると降ってくる。 [史料4]「又曰 

皇天所以命我者 御是處 惟新家邦 為君后為茲故降矣 称須掘峯頂撮土 歌之云 亀何亀何」。

もしもし亀よ亀さんよと歌うわけです。

「首其現也 若不現也 燔灼而喫也」。

亀さんの姿を現せ、そうでなければ焼いて食べるぞと。民謡だと思います。

「以之踏舞 則是迎大王・歓喜踴躍之也」。

神が降ってきたといって民衆が喜び、踊り回る。

「歓喜踴躍」する。すばらしいシーンです。


 朝鮮の高句麗や百済、伽耶の神話の場合は卵が天から降ってきて、それが割れて中から誕生する。卵から生まれるという卵生型は日本の神話にはありません。

 そして朝鮮の神話ではお供を連れて天降ってこない。単独降臨です。

日本ではお供の神様がついてくる。

アメノコヤネの命は中臣氏の祖先です。瓊瓊杵尊と一緒に天降ってくる。

後の天皇家の周辺の有力貴族の祖先も一緒に天降ってくる。
朝鮮には檀君神話を除いて随伴神伝承はないんです。
後の時代はお供が増えますが。そのように内容が違う。


 もとは共通であったはずの朝鮮と日本の神話がなぜこのように違ってきたのか。

語られた神話、『古事記』『日本書紀』に書かれる段階で、すでに我が国には天皇制があった。

天皇制を背景にできあがった『古事記』『日本書紀』の神話に対して、朝鮮の場合は貴族の合議制。王者はいるのですが、貴族が合議しながら政治をやる(和白制)。

よりデモクラティックな民主的な要素の強い朝鮮社会と、我が国のように天皇制を中心にする社会体制ができあがっている。記録化の背景が違ってくる。社会の仕組みが違うので神話の内容も専制的なものになっていく。極めてデモクラティックな朝鮮との違いができたのではないかというのが私の説です。文庫本(日本の神話を考える)をお持ちの方もおありのようですが、そこにも詳しく書いておりますので参考にして下さい。

 韓国、朝鮮は日本と最も近い国です。善隣友好、隣と仲良くできなくて、どうしてアメリカ、ヨーロッパと仲良くできるか。近くで対立しているようでは、国際化日本にはなれないと思います。そのためには日本の文化と韓国、朝鮮の文化のどこが共通しているかを確かめると同時に、なぜこんなに違ってきたのかということを相互に詳しく理解しなければ本当の信頼関係は生まれないと思います。国際化ということは、相手を知ることがまず第一です。

我々が朝鮮の文化、朝鮮の歴史、朝鮮の生活を知る。そして己を知る。自分を知る。日本人が日本を知らなくて国際化なんてできません。在日の皆さんもそうです。朝鮮の皆さんが朝鮮のことを知らなくてどうして国際化ができますか。朝鮮民族が日本のことだけを知っているのではなく、己を知ることも大事です。いかに友好の関係史があったか。そのことにあわせて極めて不幸な侵略の歴史、大変なご迷惑をかけた、拭うことのできない歴史も忘れてはなりません。

共通の認識と共にどこがどう違うか。異質性、独自性の認識が正しい理解を生むのだと思います。共通性もありますが、違う点もあることをよくご理解いただきたいと思います。以上で終わらせていただきます。

ご静聴ありがとうございました

質問 三つだけ教えてください。

@神話は科学的に実証することができるかどうか。
A真床追衾(まとこおふすま)について。
B邪馬台国について。

上田 神話を正しく理解するには書かれた神話、記録化した時にどこにどう手を加えたということを知ることが大事です。原像を復元することはむずかしいと思います。しかしその作業をなおざりにはできません。

 2番目の真床追衾。マは形容語で、寝床の床です。高御座の台です。
被りものを被って降臨する。オブスマは被りもの。スマは中が空洞になっているものです。

 3つ目に邪馬台国、卑弥呼の時代は3世紀前半です。
邪馬台国は私の考えでは前期邪馬台国と後期邪馬台国に二つに分けて考えられる。

後期邪馬台国は畿内の大和だと思います。前期は九州だと考えています。

講談社学術文庫『大和朝廷』に私の説が書いてありますのでお読みください。大王家の祖先は邪馬台国の卑弥呼になるのですが、神武天皇が北九州から入ってくる。北九州から大和に入ってくる伝承を全くの架空とは断言できない。西から東に王権が移ったということがあったに違いない。考古学は1、2世紀の文化は畿内大和より北九州の方が進んでいる。3世紀では畿内大和が進んでいる。

弥生時代の前期は九州の方が進んでいる。弥生時代後期は断然大和が進んでいる。2世紀後半に遡る可能性がある。最近は畿内説の方が調子がいい。畿内説から九州説に寝返った人もいるが、私は一貫して畿内説ですが、生え抜きの畿内ではない。邪馬台国後期の畿内論です。

(2002年1月26日 講演記録より)
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html


19. 中川隆 2013年7月16日 08:15:48 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

「朝鮮隠し」 と 「日本神話」

「白村江の戦」で新羅に破れ国を追われた百済人は、故郷を追われた怨念もあったであろうか、追われた身としてではなく「天から降臨した神の子」として新天地づくりに熱情を傾けた。自分たちの国として、自分たちの位置づけを明確化し、故郷に対する優越意識を高めるために、「朝鮮隠し」なるものを発揚させたのである。

「日本」という国号を作り、「我々は日本人である」という意識高揚が、現日本人の祖先の位置づけを曖昧化させた。朝鮮系の地名・人名を変え

加羅→唐 高麗→呉 金→今、

その風潮は1300年経った現在も消えず、朝鮮の痕跡を顕在化させまいとする歴史が今でも点灯している。

「日本神話」の真実

ソウル市内の国立中央博物館で韓国の「檀君神話」 と「日本の建国神話」 を比較考察する学術会議が開催されたとき、アジア史学会会長 上田正昭氏の論文が事前公開された。その際、上田氏の

「天孫が空から降りる韓国と日本の神話には類似性が多い」

という記述に注目が集まったという。日韓の神話を比較研究してきた上田氏は、

日韓の天孫は山頂に降臨しており、共通点が多い

と主張。百済の神の存在が、日本で継続的に命脈を受け継いできたと指摘しているという。

日本の建国神話は、韓国の「檀君神話」の影響を大きく受けており、この事実は韓国だけでなく日本史学界でも認められているという。「日本神話」は、主に八世紀初めに書かれた「記紀」の記述がもとになっている。

この説は、「駕洛国記」による韓国の降臨地「亀旨kuji」と「記紀」による降臨地「久志」の音がそっくりであることからも否定できないという。

日本にも朝鮮にも、「仏教」以前から「神道」が存在している。

「神道」は、朝鮮半島の古代文化を形成した北方民族 (騎馬民族) のシャーマニズムに由来すると言われている。北方民族のシャーマニズムは「天孫降臨神話」をもっており、「天孫降臨神話」が日本にも朝鮮にもあるということは、騎馬民族によって形成された朝鮮文化の流れに日本も乗っていることになる。

弥生時代から急増した朝鮮渡来人が、倭国へ「神道」をもちこんだのはごく自然な流れだろう。

梅原猛は「芸術新潮(2009年)」の大特集「古代出雲王朝」で、

「日本書紀の記録や出雲で発見された古墳・遺跡・大社の社などから判断すれば、

スサノオは朝鮮半島から出雲へ来た

という説が正しい。スサノオがヤマタノオロチを切った刀は韓鋤の剣であることからしても、スサノオが韓国から来た神であると考えるのが最も自然であろう。

スサノオに始まる出雲王朝には朝鮮の影が強く差している。」

と述べている。さらに、梅原猛は、著書『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』で、

「出雲王朝の創立者は韓国系と考える。

その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。
銅鐸の起源は韓国の貴族が双馬馬車につけていた鈴だ。
スサノオが韓国からきたとする説はますます有力になっている。
新しい日韓関係を見せてくれる。韓国に注目しなければならない。
古代日本にとって、韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた。」


と述べている。

出雲市の斐伊川の上流に「鳥髪」という所がある。

市町村合併によりその地名なくなったが、奥出雲の「鳥上小学校」「鳥上公民館」の「上 かみ」は「髪」の音から転用した語である。

AD四世紀ごろ スサノオは韓国の「소머리 somoli 牛頭」から奥出雲の「鳥髪(とりかみ)」へ渡来し、「たたら流し」のリーダーとして名を成した人であるという。

スサノオは砂鉄によって「草薙の剣」を作った偉人という伝説があり、「草薙の剣」はヤマタノオロチの尾にあった剣のことである。「記紀」の神話を書く際に、フィクションのモデルにされたのはスサノオであろうという説がある。奇妙に思うかもしれないけれども、

「記紀」を書いたのは渡来人(主として百済のエリート)であり、「記紀」が書かれるより300年前の伝説の人 スサノオも渡来人である。

「日本神話」の成立についてのこのような話は、現在の日本人にとって想像を超えた物語に聞こえるだろう。


「소머리 somoli 牛頭」と「鳥髪(とりかみ)」は同じ言葉で、「소 so 牛」が「새 se 鳥」に転訛し、「머리 moli 頭 髪」は「鳥髪」の「髪」と同じ言葉であるという。

スサノオが天から降りて来たという神話は、朝鮮の「天孫降臨神話」を模したものでフィクションに過ぎない。このような真実を、馬鹿馬鹿しい想像によるものであると影に移し、「記紀」が書かれて1300年たった現在ですら「スサノオ」と「ヤマタノオロチ」は日本神話の真髄である。朝鮮の影が映っている歴史は影に過ぎないと追跡せず、朝鮮由来の歴史は朦朧と曖昧化されている。従って、日本の古代史の書籍には「謎である」という解釈が目立ち、日本語のルーツは明治以来150年にたってもわからないのだから、今後も「謎だらけ」であろうと豪語する学者らしき人の書籍が店頭を飾っている。
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-1eca.html

[庚戌国辱100年紙上座談会・上]韓日元老6人が100年を論ずる
◇古代からの韓日交流史 2010年04月14日 中央日報/中央日報日本語版

−−韓国と日本は古代からさまざまな交流をしてきた。 お互いどんな影響を及ぼし合いながら現在の社会文化を形成してきたと考えるか。

梅原猛=中国の先進文化は韓国を経由して日本に入った。
私は今月、『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』という本を出すが、

出雲王朝の創立者は韓国から来たと考えている。

『日本書紀』に多くの文書があるが、そのうち3つの文書は‘韓国系’と把握している。 これは新しい考えだ。

弥生(BC200−AD300)時代には日本海(東海の日本式表現)側が日本の中心部だった。 したがって越の国、今の新潟県から移ってきた国が出雲を支配していたが、韓国から来たスサノオ(日本神話の人物)が出雲を越の国の支配から独立させた。

出雲王朝の創立者は韓国系と考える。

その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。 大和王朝の鏡に代わるものだ。 銅鐸の起源は韓国の貴族が双頭馬車に付けて入った鈴だ。

(神話に出てくる)スサノオが韓国から渡ってきたとする説はますます有力になっている。

新しい日韓関係を見せてくれる。 韓国にまた注目しなければならない。 古代日本にとって韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた恩人だった。

朴泰俊(パク・テジュン)=古代韓国は日本に文明を伝授した。
ポスコがある迎日湾の村には、『三国遺事(サムグクユサ)』に記録されている新羅時代の「延烏郎細烏女」という夫婦の話が伝えられている。

この夫婦が日本に‘太陽と月’(光)を伝え、王と王妃に推戴されたという話だ。

‘光’は文明を意味する。

1973年に迎日湾には日本の協力で新しい‘光’が誕生した。 溶鉱炉の光、すなわち浦項製鉄だった。 迎日湾を背景に両国間でやり取りした‘光’の話は、両国関係の未来を照らす灯火と考えてもよい。 韓日間には日本の侵略と植民地という痛ましい歴史もあったが、お互い助け合いながら発展した時期も多かった。
http://japanese.joins.com/article/246/128246.html?sectcode=&servcode=A00


20. 中川隆 2013年7月16日 08:32:58 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6



出雲王国は実在したか?

結論から言ってしまえば、この問いに対する私の答えはYESである。後で述べるような意味合いにおいてであるが、出雲に象徴される一大「山陰王国」は実在したと思う。しかもその「王国」は、はるか紀元前後から大和朝廷が成立する古墳時代まで続いていた可能性がある。



1984(昭和59)年の夏、神庭・荒神谷遺跡からの大量銅製品の出現は、従来の出雲観を塗り替えたと言ってよい。それまで出雲には目立った遺跡・遺物は出土しないとされていた為、日本史上多くの謎を秘めていたのである。

なぜ「古事記」「日本書紀」に出雲関係の記事が多いのか、日本神話はどうしてああまで出雲を取りあげているのか、山陰の鄙びた一地方である出雲に、伊勢神宮を上回る規模で最古・最大の神社が存在しているのはなぜか? 

これらは誰にも解けない謎として、過去多くの研究者や古代史マニア達を悩ませていたのだ。


神話の持つ歴史性にさほど信頼を置かない歴史学者や考古学者にとっては、山陰地方に考古学的遺物・遺跡の少ないことが、「記紀」の歴史性を否定する理由にもなっていた。「記紀」の出雲神話や「出雲の国風土記」はもっぱら文学者や民俗学者の研究対象だったのである。

それが今回の発見で、全国でそれまで出土していた銅剣の数を上回る358本の銅剣、銅矛16本(翌'85年)が出土した。さらに、これまでの学説では異なる文化圏として区別されていた「銅矛文化圏」と「銅鐸文化圏」の、まさしくその円陣が重なる部分として、ここ出雲から銅矛と中型銅鐸が6個並んで出土したのである('85年)。日本神話の故郷は、一気に考古学最前線としてのアプローチを受ける事になった。


この時から出雲に対する認識は一変したと言える。

誰もが、出土した銅剣のその量の多さに驚き、多くの疑問が各方面から提示され、本格的な研究もやっと端緒についた 1996年(平成8年)、今度は加茂岩倉遺跡から実に39個もの銅鐸が一挙に出土した。トンボ、シカなどの絵画に加え出雲独特の文様も持ったこれらの銅鐸は、人は殆ど通らないような谷間の斜面に意図的に埋められていた。出雲はふたたび世間の耳目を集める事になった。更に同じ年、正蓮寺周辺の遺跡から、直径が800mにも及ぶ環濠跡も発見されている。もはや出雲は何もない国ではなくなったのである。誰もが出雲王国の存在を予感した。


更に、1992(平成4)年から昨年(1998年)まで発掘調査された鳥取県の「妻木晩田遺跡」の出現は、後述するようにその周辺遺跡の調査発掘の結果とともに、従来の日本海沿岸地方に対する考古学的所見をことごとく塗り替えたと言ってもよい。


私が表題に掲げた「出雲王国」というのは、ただ島根県だけを指しているのではないことをご理解いただきたい。現在では出雲と言えば島根県という事になるが、私の考える「出雲王国」というのは出雲を中心として、西は山口県から東は丹後半島から、もしかすると能登半島を通り越して現在の糸魚川あたりまでの広い範囲を考えている。

勿論、ただ一つの国がこれらの広い範囲を支配・管轄していたとは考えられない。2000年前の紀元前後に、王をいただいた唯一つの行政機関がこれらの地域を統括していたとは一寸想像し難い。しかし中国においては「漢王朝」があの広大な領土を統治していたのであるから全く可能性が無いわけではないが、現在の所この地方にそれを窺わせる文献も考古学的知見も存在してはいない。私の言う「王国」とは「文化圏」と同義である。北九州、畿内とは異なる、環日本海文化を共有する集団が存在していたと考える。


クニとしてはそれぞれ独立し、王や首長のもと原始国家を形成していたと思われるが、これらの人々はある一つの大きな事実で互いに結びつき、文化圏を同じくしていた。それは「渡来」である。彼ら環日本海地方の人々は、出身地方こそ違え、皆朝鮮半島からの「渡来人」であった。

一部中国大陸からの人々も居たかもしれない。北九州と同様な、或いはそこよりも進んだ文化と技術を携えた人々が、段階的に日本海側に渡来したのである。

それは縄文末期もしくは晩期にその萌芽を見て、弥生期に入って本格的に形成され古墳時代中期頃まで続いたと考えられる。
http://inoues.net/mystery/izumo_oukoku.html

我が国に現存する五つの風土記の内、「出雲国風土記」のみがほぼ完全形で伝えられている。成立年代や編作者もあいまいなものが多い中、「出雲国風土記」のみは、天平五年(733)、出雲国造出雲臣広嶋(いずものくにのみやっこ・いずものおみひろしま)編という事がわかっている。この風土記は、神社・寺院・山川・地名の由来、地方の物産などの他に、出雲の国が出来た由来を伝える「国引き物語」など、他の風土記にはない内容を多く伝えており、当時の様子を知ることが出来る第一級の史料である。


「国引き神話」によると、古代の出雲は小さく領土が不足しているので四つの国から土地を引いてきて今の形にしたとある。

現在の島根半島である。衛星からの写真で島根半島を見ると、大きく四つの山塊に別れている事が見てとれる。


「三穂の埼」みほのさき・・・・・・・・・・美保関町北浦・稲積から松江市手角町にかけての東側の岬。美保神社がある。

「闇見の国」くらみのくに・・・・・・・・・・・鹿島町多久川から美保関町北浦・稲積までを言う。闇見の神が鎮座する。

「狭田の国」さだのくに・・・・・・・・・・・・平田市小津から鹿島町多久川の切れ目までを指す。佐太大神が鎮座する。

「八穂米支豆支の御埼」やほしねきづきのみさき・大社町日御碕から平田市小津・平田までを指す。ここに出雲大社がある。



地質学的には、島根半島は約7000年前には日本列島から離れた横に細長い独立した島であった。3000年から2500年ほど前に現宍道湖の東側・西側が地続きになり宍道湖が出来、弓ヶ浜半島も陸続きとなって中海も湖となった。1200年ほど前、弓ヶ浜半島の付け根が再び海となり中海は湾となり、現在に至っている。

神話は例えば三穂の埼を、高志(越:北陸地方。)の国から弓ヶ浜半島を綱にして、大山を杭に引き寄せたという荒唐無稽なものであるが、その地形的な成り立ちと一致しているのには驚かされる。また西側の杵築(きづき)の御崎は、遠く新羅の国から引き寄せたとあるが、衛星も地図もない時代にただ想像力だけでこういう壮大なスケールの物語を作った古代人には圧倒される。


しかし実は、古代出雲人が単なる想像力だけで新羅の国を持ち出したのではない事は明白だ。環日本海ル−トとでも呼ぶべき、大陸・半島との交流が相当昔から存在していたと見るべきだろう。

地図を見れば一目瞭然だが、朝鮮半島東側の新羅からは、実は北九州に行くよりも出雲や伯耆・若狭あたりの山陰・北陸へ行く方が自然である。対馬海流の流れを見ても、逆らってわざわざ松浦に行く事はない。

こぎ出せば海流に乗って自然に出雲あたりへ流れ着くのだ。北九州に負けず劣らず、山陰地方にも古くから大陸・半島からの渡来が行われていたと推測できる。とりわけ出雲では他の地域に先駆けて朝鮮半島と交易を行い、最新ハイテク技術である金属加工法を獲得していたのではないか? 

技術とともにその技術を伝える人々も渡来してきたはずだ。人的交流も盛んだったはずである。その成果が冒頭の358本の銅剣につながるのだろう。


スサノオ、オオナムチを中心とする出雲神話は、我が国神話(記紀)の約3分の1を占めている。8世紀初頭に成立した古事記・日本書紀がここまで出雲を取りあげた、或いは取りあげねばならなかった理由は一体何であろうか。

出雲は、記紀が成立した時代にそれほど重要な、又は重要な記憶を秘めた場所であったのか。


出雲の最高神、大国主(オオナムチ:大国主の命)は、遠く高志(越)のクニまで進出し糸魚川の翡翠製産をもその勢力下に納めようとするほどの権勢を誇っていたが、この出雲王朝に悲劇は突然訪れる。

高天原の天照大御神(アマテラス)と高御産巣日神(タカミムスビ)は孫の火瓊瓊杵(ホノニニギ)を下界へ降ろし、大国主以下の神々に出雲の統治権を高天原に譲るよう交渉させようと試みるのである。しかし第一陣、第二陣の使者達は出雲側の懐柔に会い使命を放棄してしまう。三度目の使者、建御雷(タケミカヅチ)と天鳥船(アメノトリフネ)は出雲の稲佐の浜(出雲大社東岸)に降り立ち、建御雷は、波頭に突き立てた刀の刃先にあぐらをかくという奇怪な格好で大国主と「国譲り」の交渉を開始する。

大国主は即答せず、長男の事代主(コトシロヌシ)と相談したいと返事する。事代主は大国主に国譲りを勧め、自らは沈む船の中に隠れてしまう。そこで大国主は国譲りを決意するが、末子建御名方(タケミナカタ)は腕力による決着を望み、建御雷に信濃の諏訪まで追いかけられ、結局諏訪の地に封じ込められてしまう。建御雷は出雲に戻って大国主に決断を迫り、ここに「出雲の国譲り」が成立する。

大国主は国譲りにあたって、高天原の神々の子らと同様の壮大な宮殿造営の条件を出す。高天原はこれを了承し、大国主の為に多芸志の浜に宮殿を造る。


この宮殿について日本書紀は、


(1).宮殿の柱は高く太く、板は広く厚くする。

(2).田を作る。

(3).海で遊ぶ時のために、高橋、浮橋、天鳥船を造る。

(4).天の安川に打橋を造る。


....などと厚遇し、天穂日命(アメノホヒ:国譲り交渉の第一陣使者)を大国主の祭祀者として任命する。

(この天穂日命が出雲国造の祖神という事になっており、現在の宮司はその83代目にあたるとされている。)


以上がいわゆる「出雲の国譲り」と称される神話の概要である。古事記と日本書紀で細部は異なるが、話の大筋は同じである。この神話を巡っての解釈も諸説あり、神話の中に何らかの史実性を見いだそうとするもの、全くの創作だとするもの、
殆ど史実ではないかと唱えるものなど様々だ。私見では、かなりの確率でこの話は史実に基づいているのではないかと考える。そう仮定すると、出雲の重要度、弥生以後の我が国の展開が矛盾なく説明できると思う。


皇学館大学の田中卓教授は、「田中卓著作集2」所収「古代出雲攷:日本国家の成立と諸氏族」で、出雲族の根拠地はかって大和であり、出雲は、出雲族が追われた場所である、とする説を述べている。

又、梅原猛氏は集英社刊「神々の流竄(るざん)」において、出雲族の根拠地は大和であり、出雲は8世紀の大和朝廷が神々を追放しようとした土地である、と考えている。これは現在のところ、学会では一般的な意見のようである。即ち、出雲にある程度の文化的な先進性を認めたとしても、それは元々大和にあったのだという発想である。

特に近畿圏で活動する学者達は殆どそういう意見のように見える。

しかしながら私には、大和に文化が独自に発展したと考える方がはるかに非論理的なように思える。どうしてあんな辺鄙な盆地に突然文化的な萌芽が湧いて出るのか?

渡来によらず、縄文からどうしていきなり青銅器や稲作を始められるのか?

渡来文化しかありえないではないか。


しかも大陸・半島からいきなり大和を目指してくる訳もない。北九州か、山陰か、瀬戸内海を経由してくるしか無いのだ。

渡来人達は、征服しやすい土地を求めて奈良盆地にたどり着いたと考えるのが一番自然であろう。山陰地方から内陸へ南下した渡来人達は、丹波で負け、摂津で負け、河内で負け、或いはこれらの土豪達とは戦わず迂回して、最も弱かった奈良盆地を征服したのだ。そのおかげで、奈良は渡来文化をあまさず享受できたと考えられる。大国主の神々の本拠地が元々出雲にあり、大和地方もその傘下に治めていたのだ。


大和の勢力が出雲に大国主の神々を派遣して王国を築いたという見方は、私には本居宣長の考えとそう違わないような気がする。天皇家とその発祥を大和におき、あくまでも日の本は大和を中心に栄えたとし、よその地方から移ってきたなどとんでもないという考えは、渡来人及びその源地を蛮族視しているようにしか思えない。いわゆる「進歩的な」歴史学者達の中にも、結果的にはこういう立場に立っている人達もいるのである。

「記紀」によれば、大国主の命は高天原勢力に「国譲り」をする。そして高天原から出雲の国へ天穂日命(アメノホヒノミコト)が天下る。

天穂日命は出雲の国造(くにのみやっこ)の祖先となる。大国主の命の領地であった(可能性が高い)大和には、邇芸速日の命(ニギハヤヒノミコト)が天下る。天照大神の孫が2人も出雲と大和に天下っている。邇芸速日の命の降臨は神武東征の前であり、出雲の国譲りの後のように思われる。



「杵築(きづき)を見たということは、これはただ珍しい社殿を見たにとどまらず、それ以上のものを見たことになるのである。杵築を見るという事は、とりもなおさず今日なお生きている神道の中心を見るということ、・・・・・ 悠久な古代信仰の脈拍にふれることなのである。」

明治 23年(1890)9月13日夜半、出雲大社に初詣したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、翌14日、唯一昇殿を許された外国人として、この感動・衝撃的体験をその著書「杵築」で語っている。(昭和50年、恒文社刊 小泉八雲著「杵築」平井呈一訳)


出雲大社十六丈復元図(「日本のやしろ出雲」美術出版社)によれば、古代の出雲大社は、実に巨大で異常な高さを持つ。

往古三十二丈、中古十六丈の社伝が残っていて、現在が八丈(24m)であるから、大昔(創建時)には96mの高さを誇っていた事になる。現在の伊勢神宮が9mである事を考えると出雲大社がいかに高さを主張していたかが理解できる。96mがほんとに建っていたのか、48mにしても、古代にそんな建造物製作が可能であったかについては、大林組プロジェクトチームによる「出雲大社の復元」に詳しい。

復元図を見ていると、この建物は何かに似ている。初めは何かわからなかったが、左右に建っている柱でようやくわかった。

これは縄文・弥生の遺跡から発見される「高床式建物」である。柱がぐーんと伸び、階段も広く長くなっているが、これはまさしく高床式建物ではないか。

高床式建物が渡来文化の賜(たまもの)だとすれば、これは見事にその文化の行き着いた先を表わす「象徴」である。むしろその為にこそ、大国主は高天原にこの宮殿を建てさせたのかもしれない。また、その条件を呑みこの宮を建てた高天原にとっても、出雲はそれほどの強大な権力と見なされていたのであろう。階段の端は遠く稲佐の浜まで続いていたとされている。大国主の命が、宮殿から海に遊びに行く時のために、高橋と浮き橋と天の鳥船が造られたと「日本書紀」は伝えるが、この絵を見ていると宮殿から遙か日本海の彼方を眺めては、自らの父祖の地を想っている大国主の姿が目に浮かぶようである。

1665(寛文5)年10月10日、出雲大社の東方200mの摂社(せっしゃ:本社の付属社で、本社に祀られている神以外を祀る。

勿論本社の神と関わりが深い神々を祀るのが普通である。)「命主神社」裏において、石の切り出し作業中、硬玉(ヒスイ)製勾玉と銅戈が発見された。後世この鑑定が行われているが、硬玉は、京都大学原子炉実験室による成分解析の結果、新潟県糸魚川地方の産とほぼ認定され(近似値を得た)、銅戈は、中細形と言われる形式であり、弥生時代中期に北部九州で濃密な分布があり、鋳型も春日市を中心に多く発見されている。

糸魚川は越(高志)の国とも呼ばれ、大国主がここを訪れ奴奈河比売(ぬなかわひめ)に求婚した話も残っているし、また銅戈とともに出土した土器片は、北部九州に多く見られる木葉文がくっきりと残されており、出雲が北部九州から越の国まで広く交流していたことはほぼ間違いない。北九州と糸魚川を結ぶ環日本海ルートのちょうど中間の位置に出雲はある。

「古事記」によると奴奈河比売訪問の後、大国主は倭国行脚を想起し「出雲国造神賀詞」には大国主の和魂(にぎたま)を大和の三輪山に祀るとある。大和は、出雲の支配下にあった事をうかがわせる。
http://inoues.net/mystery/izumo_oukoku1.html


21. 2013年7月16日 11:37:36 : W18zBTaIM6

大林組 出雲大社本殿の復元
http://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/izumo/p01.html

22. 2013年8月06日 00:36:08 : W18zBTaIM6

Y-DNAから日本人のルーツを想像してみた
http://www.youtube.com/watch?v=43Hbp27OYas

23. 2013年8月06日 00:41:46 : W18zBTaIM6

Origins of Japanese 1.Ydna:C1,D2 −日本人はどこから来た?
http://www.youtube.com/watch?v=TsKQmskk0u4

Origins of Japanese 2.Ydna:N −日本人はどこから来た?
http://www.youtube.com/watch?v=KUIB7nePTt0

Origins of Japanese 3.Ydna:O2b,O2a,O1 −日本人はどこから来た?
http://www.youtube.com/watch?v=2AOc8cO2tRg


24. 2013年8月12日 03:20:47 : W18zBTaIM6

奈良県の神武天皇伝承地
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-15-3tousen2.html

25. 2013年8月12日 03:22:05 : W18zBTaIM6

古代史の復元 目次
http://www.geocities.jp/mb1527/mokuji.htm

26. 2013年8月12日 22:42:29 : W18zBTaIM6

神武東征の物語
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/index.html

27. 2013年12月01日 19:28:25 : CrxCONEQHV
自称『専門職』の看護師の暴走が酷い

看護師レベルの 低度専門職 は日本に100以上も有るんだよ

看護協会のボケ婆さんたちへ

無節操南野の国会における醜態で馬鹿確定だろ


28. 歴史家 2014年3月02日 16:32:02 : xj2Ztzk/GEiaY : tlBq9QHwf7
日本人は朝鮮半島から五世紀後半に、やってきて、これが原初と、日本の学会は、基本にしています。
中川隆氏は中国から渡来説と、されたのは、何か証拠があるのでしょうか?
ネット、ウエーブ上で、書かれている「中国から渡来説」も、一人も、根拠はないのですが?
作家なら商売でお金になるから、あること?ない事も、かきますが。

29. 歴史家 2014年3月02日 17:05:32 : xj2Ztzk/GEiaY : tlBq9QHwf7
日本人は朝鮮半島から五世紀後半に、やってきて、これが原初と、日本の学会は、基本にしています。

九州大学 西谷正氏
福岡大学 武末教授
千葉国立歴史博物館
渡来人 - Wikipedia
学界の主流となった。 .... 5世紀後半〜6世紀に朝鮮半島から移住した技術をもった人々を『日本書紀』では「古渡才伎(こわたりのてひと)」に対して「今来才伎(いまきのてひと)」と呼んでいる。
5世紀後半から6世紀半ばに、日本のものと同じ前方後円墳が築造されており、日本の影響力が朝鮮半島に及んでいた説

ほとんどが朝鮮半島からの渡来人だったというのが歴史学者の見解です。
意地でも朝鮮半島から日本に米が伝わった。

最近では「朝鮮半島渡来説」を唱える研究者は非常に少なくなっており、中国大陸から渡来したというのが<定説>となっ ... 米を伝えたとする説を唱える学者もいるが、根拠はないのが実情。

支那の稲作研究界ではむしろ水稲種は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっている。

邪馬台国の会 考古学者の多くは、稲作が朝鮮半島から渡来したとする。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku266.htm

某有力政治家が韓国訪問の際に「日本の天皇家の祖先は朝鮮半島から来た」とスピーチして論争に成っている。
ここにもあり得ない?朝鮮半島から渡来
朝鮮半島は古代から仏の国で神は関係ない。

DNA鑑定でも日本人に朝鮮半島系の人が多いというのは立証されています。
渡来人はほとんどが朝鮮半島から渡ってきた人たちのようです。
スサノオは高天原を追放されて出雲に来ます。
高天原=朝鮮半島だと言われています。
朝鮮半島から渡ってきた勢力が大和朝廷を樹立したのが歴史的事実である、竹田恒康氏 http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu191.html



30. 中川隆 2014年5月17日 18:43:14 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
>日本人は朝鮮半島から五世紀後半に、やってきて、これが原初と、日本の学会は、基本にしています。
中川隆氏は中国から渡来説と、されたのは、何か証拠があるのでしょうか?


弥生人は中国長江の稲作漁労民が漢人に追われて日本・朝鮮南部に渡ってきたのです。縄文人と弥生人は所謂 土人で自給自足なんですね。だから縄文人と弥生人は国家を作らないんです。

大和朝廷は2000年前は朝鮮の帯方郡にいた漢人なので、日本は華僑が作った国という事になります。

天皇一族は百済王家と親戚で、5世紀から任那を通して朝鮮人を沢山日本に移民させたので、近畿地方の住人の遺伝子は朝鮮人と変わらなくなったという事ですね。

[32削除理由]:アラシ

31. 忍穂耳の垢 2014年6月14日 12:29:44 : 5n2KmwfCW10dU : xGyanw9iT2
ここは近代史板なんだろうが、古代とはね‥

なかなか面白かった。読み物をありがとう。

記事を読了後の所見、その要点のみを書いてみる。下の引用文の以降は詳細説明。

まづ、
言語圏としての国を見ずに、生物学的な系統関係を論じるのは無意味。
中国人?と日本人の系統関係はもちろん、朝鮮人と日本人の関係論も、同じ。

同一の言語圏があるから、そこに文化が育ち、言語を駆使した指導者が立ち、国が生まれるのだ。
少なくとも、中国大陸の言語圏と、日本語圏は全くの異質な文明。そこに系統関係は成り立たない。

語る余地があるとするなら、中国の史学が、都合良く、自らの歴史に組み込んでしまった異民族、東夷のなした「殷」ぐらいなもの。
だが、その東夷との関係性を論じる前に、周王朝以降の、改ざんとねつ造を明らかにすることが先だろう。我々が常識としている基礎情報は既に汚れているのだよ。

あと、証拠能力が強い資料と、願望・希望に過ぎない仮説とが、並列に扱われているように見えるが、これじゃお話は何とでも広がってしまう。
朝鮮半島に天皇家が降臨したとかは、いわゆる記紀のマインドセットそのまま。(笑)

> 現在日本語と朝鮮語は、文法構造がよく似ており、発音構造の一部にも共通点がある。そのため、双方ともツングース諸語・モンゴル諸語・チュルク諸語を含むアルタイ語族に含まれるという見方がある。しかし研究者の見解が一致したわけではない。また、日本語と朝鮮語の近縁関係も、証明されたわけではない。

そのとおり、近縁関係は証明されたわけではない。
物理的に隣に接しているということは、長い期間の間に、当然、情報の交換もあってしかるべき。

例えば、大和言葉のとある語彙が、アイヌ語圏で俗語や隠語に用いられたり、その逆もあった訳で、隣接する言語圏には、似た言い回しや語彙が流通しているのが普通だと考えるのが、合理的思考というもの。一例に「アラハバキ」がある。

だから、そうした共通した語彙が存在するからと言って、一足飛びに言語圏・文化圏の祖形だとか、主従関係とかの結論にはなり得ない。
だが、こうしたちょっと考えれば分る事もすっ飛ばして、ご大層に主従関係、征服譚を言い立てる学者が出てくる。
そこには、既に結論ありきな、とうてい科学的とは呼べないファンタジーが隠れているものだ。

たとえば、外から△△民族がやって来て、日本人を形成した、とかもそう。
外から来た、という可能性があるなら、その逆の可能性も考慮するのが合理的思考というもの。

だが、ハナから、太古の日本列島は無人の荒野だったという前提があるらしい。だが、そんなことは誰も確たる事は言えない。
特に、狩猟具ではなく、煮炊きをした形跡のある土器、つまり、ある程度人間的な定住生活をしたという痕跡を較べるなら、日本の古さは相当なもの。

よくある、日本列島の形成に絡めて、陸続きで移住してきた‥云々の話も、移住の結論が先にあって、誰も文句が云えなそうな地理学的理屈を宛てているだけ。
生物学的系統関係を言い立てるのは、そこに征服・殺戮の関係性が前提観念となっているだけの話。つまり結論ありきということ。

よく考えてもらいたいのは、我々の使う漢字というツールそのものに、文明は西から東に伝播したというマインドセットが仕込まれていることだ。
だから、お勉強のよく出来る学者さんほど、そうしたマインドセットに実に従順な学説を立ててしまう。
空気のように当たり前な前提、公理にも疑問符をつけ、確かめるのが本当の一流の学者だろうに。


それと、こうした文明論にしばしば欠けているのは、物質文明の伝播の話題のみで、精神性、それも最大の精神性である言語の共時性を語らない。
言語の共時性とは、一つの言語圏で話される言語は、その意思疎通を可能にするために、ある種の弾性的な復元力、剛性をもつということ。

よく、千年も経てば言語はどれほど変化するか‥的な話を平気で話す者が居るが、本当のところは、言語というものは、常に揺れを内包しているにも関わらず、必ずその揺れ過ぎ、偏り過ぎを修正する。そうでなければ、その言語圏での意思疎通は難しくなってしまうからだ。
漢字文化という怒涛を舐めても、日本語の基本的な構造はほとんど変化しなかった。

この言語的剛性を保つ主体、多くは国と云ってきたが、そうした独立した言語圏という視点が、どうも欠けている。
何度も言うが、言語圏があるから、そこに文化が育ち、言語を駆使した指導者が立ち、国が生まれる。言語意識こそが国が存立する要件である。

ちなみに、欧米諸国にみるような言語圏と国境の非依存関係は、単に複雑化している事と、ある種の妥協の産物に過ぎない。なぜなら、異なる言語圏同士の民族闘争が常にくすぶっているのが、その証しだ。


中国語と日本語は明らかに異なる言語構造をもつ。これは明らかだろう。だから両者には、祖形だとか、後裔だとかの単純な系統関係は描けない。
だから、中国の沿岸地域からどれ程の流民があったとしても、それが系統関係とはまた別の話となる。

中国語と日本語の差異とは何か。これは漢字文化にあまりに馴染み過ぎて日本人には判り難いが、その最たる基本的なものは、音素体系の細かさだろう。それと、拍(モーラ)の意識も全く違う。こうした差異は、現代においてなお、留学生や長期滞在者の、語学学習の障壁となっている。

この視点を、韓国語に充ててみると、明らかに韓国語と日本語とは異なる言語だということが見えてくる。
韓国語の音素は細かい。どちらかと言うと中国語の音素体系に近い細かさをもつ。実は、こうした細かさが日本に伝播して、「ちょん、きゅん」とかの拗音の意識が定着した。だが、元はこうしたものは無く、カナ音どおりの音素体系があっただけなのである。その証拠が、奈良時代から続いてきた歴史的仮名遣い表記、例えば「蝶々:ちょうちょう」は「てふてふ」と書いていた仮名二音の表記に残っている。

こうした拗音の日本語定着にみるように、少なくともある程度の数の韓国語音素保持者が日本に流入、定着したという事実は見えてくる。
むしろこれは、従来語られているような、漢語の影響よりも大きいと言うべきかも知れない。
だがそれは、日本語の基本構造を変えるまでには至っていない。単に小さな音素の語彙が増えたという次元の話である。

もちろん、他の代表的な小さな音素体系である英語の語彙、例えば「sky」を「スカイ:su-ka-i」と大きな音節に変換してしまうように、この日本に小さな音素を定着させただけでも大事件なのではあるが。

とまれ、やはり日本語と韓国語は、どうみても異語であり、両者には、祖形だとか、後裔だとかの単純な系統関係は描くべきではないだろう。


32. 2014年8月08日 11:12:02 : ETEcjS92Cc
弥生人が渡来したとする根拠はない。先住民族のmtDNA増大に反し、弥生人O2b系の
減少とD2(雄のみ)の増加が確認できる点を無視している為である。そうした偏向
報道の最たるものは九州大の文系学部、吉野ヶ里遺跡職員等が上げられるが、それらの
研究機関はY染色とmtDNAの頻度差における子孫の性染色体形成や人口増加率に対し、
何の根拠も提示していない。異民族の雄に紛れ込まれ、自民族の雄の頻度を減らした
種が世間で言われる弥生人(O2b系)であり、これらは彼ら自身が渡来人などではなく
もともとその土地に土着していた先住民であることを示している。従って、これらの
根拠に反する考古学的、地理学的、歴史学的な資料においては事実に反する内容をいたずらに列挙しているだけのものである可能性が極めて高い。繰り返すが、先住民や原住民が
多数の渡来民の雌を併合することは有り得ない。縄文人が先住なのではなく明らかに弥生人が先住民として狩られている事実を否定する根拠は示されていないのである。

33. 2014年8月08日 11:12:27 : ETEcjS92Cc
近年、日本固有の先住民族縄文人と朝鮮渡来の弥生人が混血して今の日本人が
形成されたと主張する一方的な見解が科学的な根拠も伴われず特定の人種から
主張去れている様だ。調査して確認してみた所、この諸説の出所は売国教育機関として
ある意味有名な九州大学の中橋、国立博物センターの馬場、筑波大の人類学研究チーム、
吉野ヶ里職員等、所謂弥生人渡来仮説の急先鋒の連中であることが分かる。
彼らは彼ら自身の顔つきがエラが張った朝鮮人に多い系統の顔付きであることが
よほど気に入らないのか、殊更似顔絵などで縄文人をエラが張った毛深い民族
として描き、どう調査しても朝鮮人系の弥生人を面長な一重の人間として
描いているのである。(国立博物館 馬場等)これらは漫画チックな幼稚プロパガンダ
の一種であろうが、これらの煽動工作で勢いを得たと勘違いした国内の
朝鮮人系日本人どもがネット上で仮説をあたかも実証済みの内容であるかのように
吹聴している点について疑問を感じる人々も少なからずいる事だろう。今回の
考察は顔学会等の所謂似非科学とそれに伴った朝鮮人系のプロパガンダに対し、
考察を進めることにする。
 縄文人と弥生人の区分は文系の似非学者により、地理学的な移動ルート、化石や
発掘骨、並びに食性の痕跡等、間接的な資料からのみ論じられていることに注意されたい。
 これは例えば恐竜の化石が太古の地層から発見されたとして、あの肉食恐竜は
これまで獰猛なハンターとされていたが実は草食に過ぎなかったという”説”がある、
等の言い回しである。この言い回しで勘の鋭い人なら感じるだろうが、この縄目の
土器はこの地層から発掘されたのだから、そして近層にこの骸骨が埋められていることも
見られるから、これは縄文人、そしてこういう生活をしていたのでは、というレベルの
内容であることを理解されたい。即ち、実際にその人種がそのように生活をしていた
と言う確証は全くないにも拘らず、あたかも実態であったかのように”勝手に”
決められ、それらが縄文時代、弥生時代、移動ルート、食性ルート、として
仮説に仮説を上書きする形で一人歩きしているのである。
これらは考古学や
歴史学全般に通じることで、確定的な証拠を土中から掘り起こす化石や遺跡等から
求めることは理論上不可能であると言う点、そして化石骨から人種を特定する
場合においてもボンドで顎や鼻を取替え、遺伝子上では辻褄を合わせたデータを
好き放題に捏造できる点、誰も国立博物館のショーケースをこじ開けてまで
その骨が完全に正しく組み合わせてあるかを確認しようとしない点までを
考慮しなくてはならないからだ。
これらの点を踏まえていけば、古い世代の
歴史教科書を見れば縄文人と弥生人とされる人骨は後者の例では非常に顎が大きく、
エラが張り、鼻筋が低い現代の朝鮮人の頭蓋骨が資料集等で掲載されている
ことを覚えている人もいるだろう。翻って現状では国立博物センターの馬場とか言う
似非学者が”似顔絵”で縄文人の特徴、弥生人の特徴、等と実際に調査もしていない
内容を無責任に垂れ流していることがおぼろげながらに理解できるのではあるまいか。
 と言うのは、縄文人がそもそもD2なのかC系なのかさえも現実には確定していない
点も無視されているのである。D2の元はD1に系統を遡るが、これらの内四川のイ族に
至っては常染色体に共通内容がある為か、極めて日本人に形態が近い。
また、知っている人もいるだろうが、彼らは異民族を白イとして農耕奴隷として扱い、
自分たちはその農奴の年貢で生活し、武芸に励んでいるのである。
彼らは
所謂縄文系にありとあらゆる点で酷似しており、尚且つ貴族は黒イであり、
農奴層はO系が多いのである。従って、極めて縄文人と形態的に近い大陸の
縄文亜種が日本列島に渡来を試みた場合、そして先住民が取り分け残すmtDNA
の頻度を比較した場合では、日本本土の朝鮮人系(弥生人)の”雄だけ”が
頻度を減らし、尚且つ彼らは農奴層であったことが透けて見えてくるだろう。
 所謂縄文系と言うとアイヌや沖縄で先住民で追いやられている人々なのではと
いうイメージを恐らくは植え付けられているだろうが、本土の日本人男性の半数以上
がD2、つまり縄文系で、2割がO3、所謂漢人系(これが恐らく稲作伝達担当)、
そして残りが劣等の弥生(O2b系)であることが消去法的に導かれることになる。
 アイヌや沖縄が示すD2の割合は日本本土、九州、四国の分を合わせれば僅か
数%に満たないにも関わらず、拡大解釈、意図的な歪曲によって、事実を捻じ曲げ
られている現状について再考しなければならないことが分かることだろう。
 これらの点を踏まえて考えていけば、所謂戦後から”常識”であった、縄文時代、
弥生時代と言うのは恐竜の食性や移動ルートを探るレベル程度の根拠しかなく、
直接的な確証足り得ないこと、また、現実に雄で分布を本土日本、九州、四国等で
拡大させているのはほぼD2系であり、彼らはその亜族が異民族を隷属させる
習慣を持っている点。そして、大陸側では稲作を行う層は農奴としてD系に
年貢を納める形で奉公する形を取り、一口に奴隷と言ってもその身分はいくつもの
階層に分かれている点は、日本の古代王朝の制度と極めて酷似している点を
無視できないことである。
 極めつけはD2の頻度が増加した分、O2bの頻度が雌に比べ2割程度しか存在
しない点である。O2b系の雌は遺伝子を残し、雄は人口比に対して減らしている点
がこうした古代の奴隷王朝制度の現状を表していると言えるだろう。こうした点を
無視して、意図的に弥生人が盲目的に半島から渡ってきて縄文人を奴隷に〜
等と抜かしている上記の似非研究機関の連中は、むしろこのような背景を多くの
人々に知られることを恐れ、マスゴミにそっくりな偏向報道を大学等の研究機関名を
逆手にとって、威圧を込めて垂れ流してきているという現状が少しづつでは
あるが理解できるはずである。
 先住民が侵入民族のしかも女性と交雑し、そのY染色体”だけ”を侵入民族
よりも増やすと言うことは有り得ない。これらは元々先住民と移住民の定義を
逆にされていた内容がこれまで一方的に垂れ流されてきただけのことである。
 ここまで述べれば結論も言わずとも分かるかもしれないが、今回の件もまた、
朝鮮半島系日本人と呼ばれる連中の内、取り分け日本の男の2割から3割を占める
エベンキによく似た朝鮮人系どもの偏向煽動であることが確認されると言うわけだ。
 正しい歴史観をこうしたクズどもは破壊し、自分達が嘘を重ねやすい環境を
作ろうとしてくることは既出のことだが、参政権やらTPPを盲目的に推進する
売国奴と合わせてこうした歴史偽造を試みる似非科学者どもも我々は一匹残らず
狩りとって行かなければならないだろう。

34. 中川隆 2014年10月28日 07:54:39 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

環日本海文化圏


環日本海環境考古学・特別講演 国際日本文化センター教授 安田喜憲)

 縄文時代の人間や弥生時代の人間というものは、物凄く移動している、特に日本海を縦横無尽に移動している。古代の人々は東シナ海をかなり自由に行き来をしていたことが最近の研究でわかってきました。

 1994年に青森県の三内丸山遺跡、本州の最果てで高い文化が発展していたことがわかってきました。我々が環境考古学、特に花粉分析、或いは酸素、炭素の安定同位体でもって過去の気候を復元すると、三内丸山遺跡が発展した約5.000年前という時代は、現在より寒い時代なのです。約6.000年前という時代は、現代よりも気候が暖かったのです。縄文海進があった時代で海面が現在より2〜3m高くて、温度が2〜3度高いという温暖な時代であったのです。ところが三内丸山遺跡が発展する時代というのは、その温暖な時代が終って、気候が可也寒くなりました。

 何故寒くなるときに、このような北の端、東北地方に文化が発展したのか、それを証明するためには日本のことだけを考えていたのでは駄目だということが分かってきたのです。

 実は、この日本海を取り巻く巨大な交流というものが、縄文時代に既に存在したということが分かってきたのです。その縄文時代の文化を考える時に非常に重要なことは、遼寧省から内モンゴルというところにかつて高い新石器時代の文化があったのです。これは縄文時代の前期に相当するのです。今から約6.000〜7.000年前に紅山文化という非常に高い文化がありました。(紅山文化=北方地区の新石器文化の中で最も重要な文化です。ここで言う北方地区とは、東北3省―遼寧・吉林・黒龍江で内蒙古自治区及び新疆ウイグル自治区を指します)

 大連、遼河が、この

遼寧省
http://japanese.china.org.cn/japanese/ri-difang/liaoning.htm


から内モンゴル自治区の東部にかけて沢山の新石器時代の遺跡がみつかってきたわけです。今では、全く森がありません。黄土の大地で、森のない大地がずっと広がっているのです。実は、昔は深い森があり、花粉を分析してボーリング調査で土の中に含まれている花粉の化石を取り出して分析した結果、かつてこの大地には、深い落葉のナラ・ニレ・カエデの仲間、満州グルミというような落葉の広葉樹と松の針葉樹が混交した森があったということが分かってきました。即ち、現在は殆ど森のない大地の森の中で、今から約7.000から6.000年前に高い新石器時代の文化が発展していたのです。

 今から約8.000年前の遺跡、査海遺跡。打製石斧が沢山出土しました。これは恐らく畑を耕すために使ったと考えられています。(査海遺跡=集落のほぼ中央で、赤褐色の石で積んだ龍形配石遺構が発見された。長さ19.7m、龍の体は幅2mぐらいである。その遺構の下で、成人の土抗墓と祭祀抗が発見され、副葬品のない墓が多いものの、22点の石器や副葬した墓もある)サドルカーンという石器も発見され、雑穀をすりつぶして、粉にするものです。恐らく粟を栽培していたと考えられます。

 7.800年前の土器が出土しているわけで、縄文時代の土器と同じです。三内丸山遺跡の円筒土器と非常に良く似ているのです。縄文時代中期の三内丸山遺跡は、円筒土器という土器を使っていました。材質もそっくりです。

遼寧省から内モンゴル自治区
http://japanese.china.org.cn/japanese/ri-difang/xinjiang.htm


にかけて、紅山文化の時代に作られていたのです。

 この査海遺跡から中国での最古の玉製品として、けつ状耳飾りが出土しています。この玉製品と同じものが、福井県の鳥浜遺跡から、玉塊(たまかい)と言っているものが、縄文時代前期のものが見つかっています。中国のものよりは質的には劣りますが。即ち形も材質も査海遺跡のものと同じものが。査海遺跡のものは約7.800年前、鳥浜貝塚の玉は約6.000年前です。即ち、日本海を渡って、当時既に文化の交流があったと考えざるを得ないのです。

 査海遺跡から又、中国最古の竜が発見されています。石の長さは19.3m、幅3.8まります。頭も胴も尻尾もです。足もあります。これは7.800年前の石組みの石を置いて作った竜なのです。査海遺跡では既に7.800年前に、竜の信仰というものが誕生していたようです。

 紅山文化で、約6.000年前「ピラミット」と書いてあった敷石があります。石で周りが敷かれていて、高さ20m位で、14m位のピラミットと言われるものです。そして、女神の神殿というものがあり、それが大地母神だったのです。縄文時代の土偶と同じで、女神の神殿がありました。そして、竜の信仰も。

 この積み石塚はお墓なのです。既に、階級社会に入っているようです。約6.000年前の紅山文化のお墓なのです。お墓の中に遺体が埋葬されていて、そこからやはり竜が出てきます。

 この竜は、イノシシの顔をした竜です。猪竜と言いました。今まで竜というのはヘビが進化して、竜になったと考えていました。ところが、この遼寧省から内モンゴル自治区にかけては、実は原型はヘビではなく、森の中に住んでいる動物です。猪や豚です。或いは鹿です。森の中にいる鱗というのは、魚で、魚鱗、こういうものが合体したものとして、一番最初に中国の人々は竜を作ったようです。

 今は河北省一帯は森というものが全然ありません。黄土平原が広がっていて、一つも森はありません。ところがかつては、そこに深い森があったのです。6.000〜7.000年前にはあったのです。

 縄文時代の東北地方と同じような、落葉のナラやクリ、クルミなどが生えている森があったのです。そういう森の中に住んでいた人が、最初に竜というものを作り出し、その竜の原形が猪、鹿或いは魚だったわけです。これらを合体したものとして竜が発想されたらしい。

 この文化が、実は約5.000年前に突然崩壊するのです。三内丸山遺跡が寒冷化した時代は約5.000年前に気候が寒冷化するのです。約6.000年前というのは気候が2〜3度高くて、温かく南から湿った空気が入り、森の成育に適した環境でしたが、約5.000年前には寒冷化によって、内モンゴルでは、冬はマイナス11度とか、20度に下がるのです。

 この寒冷化が、紅山文化に大変大きな影響を与え、恐らく、紅山文化を担っていた人々が、寒さを避けて、恐らく、南へ、或いは南東部海岸地帯へ逃れ、その一部が三内丸山遺跡へ来たのではないか。と私の仮説です。

 丁度、紅山文化が崩壊する時代、約5.000年前という時代は、縄文時代の中期の文化が発展する時代です。縄文時代中期というのは非常に特徴のある時代です。例えば、長野県の八ヶ岳山麓には、火炎式土器。新潟県にも火炎式土器といって、炎のように盛り上がる土器があります。あの炎はヘビなのです。縄文中期土器、三内丸山遺跡でも、まず一番信仰が大規模になるのがヘビ信仰です。特に八ヶ岳山麓というものは、ヘビ信仰の中心地なのです。ヘビ信仰が大変盛んです。

 また土偶では、三内丸山遺跡から大量の土偶が出土しています。大量の土偶が作られているということは、大地母神を信仰するような信仰が、この縄文時代中期から盛んになるのです。

 ということは、突然約5.000年前に大地母神の信仰やヘビ信仰が盛んになります。それは、中国の東北部に非常に優れた新石器文化がありました。それが紅山文化なのです。それが、大地母神や竜信仰という世界観があったのです。それが崩壊して、大量の人々が三内丸山や新潟県の中期火炎式土器に影響を与えたのではないかと、私は考えております。

 三内丸山へ来た以外の一派が、約5.000年前から大きく発展してきた長江文明に竜がでてきます。この竜が紅山文化から出ていた猪竜なのです。玉で作った竜が突然出現してきます。

 こういうように日本海を取り巻く北方の文化と日本の関係も分かりましたが、南の関係も非常に大きな関係があることが最近分かってきました。

 其の一つは、福井県若狭湾沿岸の鳥浜貝塚です。縄文時代前期の貝塚で、約6.000年前の層から、鹿角斧(ろっかくふ)というものが出土しました。鹿の角の又の部分を残して、作っているのです。100本が出土しているのです。それは、三内丸山遺跡からも5〜6本出土しています。

 中国の淅江省の河姆渡遺跡というのは約7.000年前から稲作が行なわれていました。そこに同じものを私は見ました。これは、畑を耕す農耕具だと説明していました。即ち、鍬だったわけです。それで鳥浜貝塚から、エゴマ、ヒョウタン、麻、リョクトウ、などの栽培作物が見つかっています。ヒョウタンというものは、南のものです。既に淅江省の河姆渡遺跡と鳥浜貝塚の間には、縄文時代前期の約6.000年前にも交流があったということです。

 雲南省の昆明の町のそばにテン池あり、今から約3500年前からのテン王国という青銅器文化の素晴らしい王国が発見されました。そのテン王国の青銅器の中に、「貯貝器」というのがありました。

 貯貝器とは、当時は貝がお金だったのです。アラビアやインド洋という南の海で取れる貝を雲南省まで運んできて、それをお金にしたのです。そのお金を貯える青銅器の器を貯貝器といいますが、円筒形の器なのです。その上には色々な模様や人間などが造形されています。横にも色々な彫像は彫られています。その模様に船に乗った人間が船を漕いでいます。何人かの人間が櫂で船を漕いでいるのです。その船を漕いでいる人の頭にあるのが、羽根です。

「羽人」
http://www.asukanet.gr.jp/ASUKA4/hiten/02_6.html

といいます。羽根の冠を被っているのです。魚も泳いでいるところを船を漕いでいるのです。船頭がおって、前方に号令をかけて、太鼓を鳴らしています。その太鼓を

「銅鼓」
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/guanguang/jieri/200201/200201.htm

といいます。銅で作った太鼓です。そういうものが描かれています。揚子江下流の淅江省にも羽人という羽根の頭を描いた船を漕ぐ人々がいるのです。

 それが、日本でも見つかっているのです。淅江省と同じものが、鳥取県の淀江という弥生時代の遺跡から見つかっています。上に太陽と思われるものと、この船を漕ぐ人、頭に羽飾りを付けているのです。

 揚子江流域の雲南省から下流域の淅江省、そして、日本海側周辺にかけて、羽飾りをもった人々が船を操って来ていたのではないかということです。

 佐賀県の川寄吉原という遺跡が見つかっています。これには銅鐸の形をした鋳型に書かれたもので、土で作った銅鐸です。銅ではないのです。銅鐸の形に似せた土製品で、やはり人間が武器を持っているのですが、武器を持っている人の頭には羽飾りが付いているのです。

 福岡県の珍敷塚古墳
http://www.os.rim.or.jp/~yang/mezurasizuka.html

の壁画に描かれたのは、船の舳先の左の方に鳥が止まっている絵があります。雲南省からも船の舳先に鳥が留まっているのがあります。これは水先案内人として鳥が止まっているのです。それと同じものがこの珍敷塚古墳にもあります。

 この越人に重要なものは何かといいますと、この羽根です。羽根は何か、鳥です。そして淀江遺跡、珍敷塚古墳でもありますが、船の上にあるのが、太陽です。船に乗って、鳥を舳先に置いて、羽根飾りの帽子を着けて、そして太陽を神様として崇める。こういう人々が、実は揚子江の南の方にかけておるわけです。これを「越人」と呼ぶことを中国の考古学者の間で決まりました。

 昔は越人というのは、此の辺に住んでいる人をいいました。「呉越同舟」の呉越の越です。雲南省にいる越人とは、テン王国ですからテン越と決まりました。つまり、かつて揚子江流域には、羽飾り帽子を持って、鳥を舳先に置いて、太陽を神様として崇めるような人々がいた。そういう人々が越人なのです。

 この越人は、淅江省から実に鳥取県の淀江だけでなくて、越前、越後の国へ。

この越前、越後の国の越は、まさにこの越です。それはまさに日本海です。揚子江流域の人々が、羽飾りを付けて船に乗って、新しい文化を持ってきたのです。

 3.500年前に突然来たわけではないのです。揚子江の下流域と日本海側との交流は、6.000年前の鳥浜貝塚の時代に河姆渡遺跡の間には、深い交流があったわけです。その海のルートというものは、代々伝承されますから、3.500年前にはもっと航海の技術も発展して、若狭や北陸地方と中国揚子江の下流域には、深い文化的な交流があったのです 

 終わりに、東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区及び新疆ウイグル自治区。此の辺一帯に紅山文化という文化が繁栄したのです。その紅山文化のルートは8.000年も前に遡り、7.800年前にはそこで竜が生まれたのです。それが、5.000年前の気候変動での寒冷化です。その寒冷化によって、一部は日本に来たのです。そして日本の縄文時代中期の文化の発展に貢献したのです。長江文明もこの紅山文化の影響があったのです。其の時代長江文明にも竜が生まれ始めたのです。

 元々、長江流域には越人と言われる人々が住んでいました。その越人は鳥を神様にして、ヘビをも、太陽も神様にするという世界です。しかも、彼らは畑作の粟と猪や豚などの家畜で主たる生業にしていたのです。環境は落葉の広葉樹林でした。これを「ナラ林文化」と言われています。これに対して、稲作を行なって、魚を食べたり、ヘビを神様にしたり、太陽を神様にしているようなところは、照葉樹林です。カシやシイの森の中で。

 このように二つの大きな文化圏が存在したのです。5.000年前に一回目の寒冷化と3.500年前に再び気候の変動が起きたのが、大きかったのです。北方から大挙して繁栄していた長江流域に南下したのです。長江流域に住んでいた越人、羽飾りを持って、船に乗って、魚を食べて、お米を栽培して、鳥やヘビや太陽を崇めていた人々が、漢民族に追われるのです。追われて一部は雲南省の山奥へ逃れ、別の一部は船に乗って、ポートピープルとして日本に来たのです。そしてもう一つは南の東南アジアの方へ行ったのです。

 我々は雲南省の人々との間には非常に共通性が在ると言います。もともと同じ越の文化を持っていたからです。とりわけ、北陸の人は越人だろうと思います。そして、日本にやってきて弥生時代という新しい時代が出来てくるのです。

 こういう風に見ていきますと、今まで我々は、日本列島というのは海に囲まれていて殆ど交流がなかったと思われますが、鳥浜貝塚の6.000年前から、淅江省の揚子江下流域と日本の間には航海ルートが作られていたのです。また5.000年前には、3.500年前などには民俗の大移動と共に文化の交流が行なわれていたのです。

 縄文文明の時代に長江文明の担い手であった人々が太平洋も渡ったのではないかという仮設も考えられるのです。長江文明の玉器の中から南米のペルーから出土したチャビンデワンタルという石像の正面の顔がヘビに絡まれて髪の毛を持って、牙をむいている像が全く同じように思われるのです。これを「環太平洋文明論」といいます。
http://bunarinn.lolipop.jp/bunarinn.lolipop/tok2-index/3GharukaEncare/tusimadariyu/bunkakousou/bunka.html


35. 中川隆 2015年6月08日 08:30:17 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

天皇家の遺伝型は縄文系?
http://ncode.syosetu.com/n1693bt/49/


遺伝子の研究が進み、日本人の遺伝子がどのような構成になっているのかわかりかけてきました。


日本人の遺伝子分布

http://ime.nu/pds23.egloos.com/pds/201207/08/76/d0022076_4ff99679dcd9b.jpg


C1とC3という謎の人種が10%います。

土蜘蛛といわれた妖怪の一族だというものもいますが、よくわかりません。


D2の人種が30%います。縄文系の日本人です。

D2a1bの遺伝子が徳川将軍家の遺伝子であることは証明されており、徳川将軍家は縄文系です。

天皇家もD2a1bだといってますが、本当なのかはわかりません。

今のところ、公式発表では、天皇家は縄文系だということにされています。


あとは、O2が30%です。

これは弥生人であり、渡来人です。

これは古代中国の王朝の王家の遺伝子と一致します。


O3が20%います。

これは中国系渡来人です。

あの藤原氏も、O3の渡来人です。正確には、鮮卑・百済民族です。

中国人の王朝は隋も唐も、鮮卑の民俗の王朝だったと遺伝子により突き止められており、

隋・唐以後の渡来人もこの遺伝子をしているのでしょう。


朝鮮人の血統はどうなってるんだ、といわれるかもしれませんが、

朝鮮人のほとんどは、中国の五胡十六国時代に中国北部を支配した鮮卑の民族の血筋を引いています。

これは、高句麗が鮮卑に侵略され、支配されたためです。

ですので、朝鮮人というのは、中国人の遺伝子と同じと考えて問題ありません。


わたしは、自分の遺伝子がどの系列なのか知りませんが、ぜひ調べたいものです。

追記。


朝鮮人、隋、唐が鮮卑だというのはまったくの勘ちがいでした。研究成果を待ちます。

皇帝、王のY染色体ハプロタイプ

D2 日本
O2 中国    漢民族最後の王朝
O3 朝鮮    最後の王朝
C3 モンゴル 最後の王朝
O2 ベトナム 最後の王朝
E1 フランス  最後の王朝
R1 ロシア   最後の王朝

天皇        D2a1b

魏皇帝      O2*      220〜. 265年 漢族
元皇帝      C3f1a   1271〜1368年 モンゴル族
明皇帝      O2a1a    1368〜1644年 漢族
清皇帝      C3c      1644〜1912年 満州族

朝鮮王      O3a2c1  1392〜1910年 李氏朝鮮

越南皇帝    O2a     1802〜1945年 阮朝


リューリク朝  N1c1 ノヴゴロド864年〜879年、キエフ大公国882〜924年、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国1199〜1349年、モスクワ大公国1263〜1547年
ロシア皇帝   R1b      1613〜1917年 ロマノフ朝

フランス王    R1b      1589〜1792年、1814〜1830年 ブルボン朝
フランス皇帝  E1b1b1c1 1804〜1814年、1815年、1852〜1870年 ボナパルト朝

ペルシャ皇帝 J1      1796〜1925年 ガージャール朝
ペルシャ皇帝         1925〜1979年 パフラヴィー朝

歴史上の人物のY染色体ハプロタイプ
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_genetic_results_derived_from_historical_figures#Y-DNA
http://www.kjclub.com/jp/exchange/theme/read.php?tname=exc_board_6&uid=140910&fid=140910&thread=1000000&idx=1&page=1&number=92583


10. 2013年7月13日 17:47:40 : WUs3UH3xVg

天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。

例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような盛り土である事は知られています。

古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。

終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。

当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。

日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。

日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。

現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。


38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、仮にこの付近が関連する村であると、南だけではなく北とも天皇は接点を持つ可能性が浮かび上がります。

(私の直感として、天皇と北の接点が存在した場合に拉致問題と関係していなければ良いなあ、と思うのですが、、、、、気にしすぎでしょうかね)

こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。

天皇が戦争とどう関わったかについては、総括することは必要だという考えは
理解しますが、戦前の体制や、戦後の状況からいっても、昭和の時代、平成一桁の時代において戦争経験者が多く存在する時代ですし、天皇制や天皇と戦争との関連を法的に取り扱う事は、容易ではないといえるでしょう。

そうした意味では、棄却理由は無理があるとはいえ裁判所が天皇の戦争との関わり
以外に出自等歴史的タブーに絡み、歴史に挑戦するというのも難しいので、
棄却は無理も無いといえるでしょう。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10


36. 中川隆 2015年6月08日 15:41:34 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

日本人たち. 自分たちの先祖がどこから来たのか分かりたくないか.
Molanthro 2013/08/18 3,314 0

2.suzuki 170万名余 - O3a2c1a 2サンプル, O3a2* 1サンプル, .

3.Takahashi 141万名余 - D2a1b 1サンプル.

4.Tanaka 134万名余 - O2b1a 2サンプル, C3* 1サンプル.

5.Watanabe 113万名余 - D2a1b 2サンプル.

8.Nakamura 106万名余 - O2b1a 3サンプル.

9.Kobayashi 102万名余 - O2b1a 2サンプル, D2a1b 1サンプル.

10.Saito 98万名余 - O2b1a 1サンプル, O2b1b 1サンプル.

11.Kato 86万名余 - D2 1サンプル.

15.Yamaguchi 65万名余 - N1c1 1サンプル, O2b1a 1サンプル.

16.Matsumoto 63万名余 - D2 1サンプル. D2a1b 1サンプル.

18.Kimura 58万名余 - O2b1a 2サンプル.

19.Hayashi 54万名余 - O3a2c1a 3サンプル.

27.Mori 43万名余 - D2 1サンプル, O3a1c1 1サンプル.

30.Ogawa 38万名余 - C3f1 1サンプル, D2a1b 1サンプル.

31.Fujita 38万名余 - N1 2サンプル.

32.Okada 38万名余 - D2a1b 1サンプル.

34.Hasegawa 37万名余 - O3a2c1 1サンプル.

39.Endo 33万名余 - D2 1サンプル, O3a2 1サンプル.

40.Aoki 32万名余 - N1 1サンプル, O3a1c1 1サンプル.

42.Nishimura 31万名余 - O2b1a 1サンプル.

45.Miura 30万名余 - C1 1サンプル.

50.Nagano/Nakano 30万名余 - O2b1a 2サンプル.

52.Ono 29万名余 - O2b1b 1サンプル.

53.Tamura 28万名余 - O2b1a 1サンプル.

56.Wada 27万名余 - O2b1a 1サンプル.

59.Ueda 25万名余 - D2a 2サンプル.

68.Miyamoto 23万名余 - D2a1b 1サンプル.

72.Shimada 22万名余 - D2a1b 1サンプル.

73.Taniguchi 22万名余 - O2b1a 1サンプル.

75.Takada 21万名余 - O2b1a 1サンプル.

86.Otsuka/Osuka 19万名余 - O2b1a 2サンプル, D2a 1サンプル O3a1c1 1サンプル.

97.Kiguchi/Kikuchi 18万名余 - D2a1b 1サンプル.

98.Nomura 18万名余 - O3a2c1a 2サンプル, O3a1c1 1サンプル

99.Arai 18万名余 - Q1a1 1サンプル.

104.Furukawa 18万名余 - O2b1a 1サンプル.

105.Hamada 17万名余 - O2b1a 2サンプル.

107.Komatsu 17万名余 - O2b1a 1サンプル.

109.Mizuno 17万名余 - O3a2c1 1サンプル.

122.Kawasaki 15万名余 - O3a2c1a 1サンプル.

130.Iwata 14万名余 - O2b1a 2サンプル.

131.Hattori 13万名余 - O3a2 1サンプル.

135.Kawakami 13万名余 - O2b1a 1サンプル.

137.Nagai 14万名余 - D2a1b 1サンプル.

138.Matsuoka 14万名余 - C3f1 1サンプル.

148.Ishihara 14万名余 - D2a1b 1サンプル.

152.Matsuura 13万名余 - O3a1c1 1サンプル.

154.Araki 13万名余. - O2b 1サンプル.

160.Kawamura 13万名余 - D2 1サンプル.

161.Tanabe 13万名余 - O2b1a 1サンプル.

164.Kuroda 13万名余 - O3a2c1 1サンプル.

169.Naitou 12万名余 - D2a1b 2サンプル.

185.Miyata 11万名余 - N1 1サンプル.

187.Ishibashi 11万名余 - D2a1b 1サンプル.

197.Miyake 10万名余 - O2b1b 1サンプル.

205.Uchiyama 10万名余 - O2b1a 1サンプル, D2a1b 1サンプル.

222.Hirayama 10万名余 - D2a1b 1サンプル.

223.Aoyama 9万名余 - O2b1a 1サンプル.

230.Kawai 9万名余 - O2b1a 1サンプル.

237.Adachi 9万名余 - O2b1a 1サンプル.

247.Muto 8万名余 - N1 1サンプル.

251.Mizutani 8万名余 - O3a1c1 1サンプル.

284.Konno 7万名余 - D2a 1サンプル.

296.Takashima 7万名余 - D2 1サンプル.

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スンウィバック

Nasu - C1 1サンプル, O3a2c1a 1サンプル.

Miyazawa - C3f1 1サンプル, O2b1a 1サンプル.

Gen - D2 1サンプル.

Gotanda - D2 1サンプル.

Hiratsuka - D2a 1サンプル.

Jo - D2a1b 1サンプル.

Gamei - D2a1b 1サンプル.

Kitou - D2a1b 2サンプル.

Kanekura - D2 1サンプル.

Karaki - D2a1b 1サンプル.

Masada - D2a1b 1サンプル.

Nakahori - D2a1b 1サンプル.

Ouchi - D2a 1サンプル.

Segawa - D2a 1サンプル.

Tagawa - D2a1b 1サンプル.

Takaoka - D2 1サンプル.

Takeo - D2 1サンプル.

Tomura - D2a1b 1サンプル.

Utosawa/Utozawa - D2a 1サンプル.

Shimbashi - D2a1b 1サンプル.

Teshima - D2a1b 1サンプル.

Aoyagi - D2a1b 1サンプル.

Machida - N1 1サンプル.

Ken - O1a1 1サンプル.

Miyaji - O1a1 1サンプル.

Shimmen - O1a1 1サンプル.

Higa - O2b1b 1サンプル.

Hosoi - O2b1b 1サンプル.

Shigesada - O2b1b 1サンプル.

Akagi - O2b1b 1サンプル, O3a2c1a 1サンプル.

Akinaga - O2b1b 1サンプル.

Fujikami - O2b1b 1サンプル.

Matsuzo - O2b1b 1サンプル.

Shimabukuro - O2b1b 1サンプル.

Ashikaga - O2b1a 1サンプル.

Akaishi - O2b1a 1サンプル.

Jordan - O2b1a 1サンプル.

Kamie - O2b1a 1サンプル.

Maki - O2b1a 1サンプル.

Muramoto - O2b1a 1サンプル.

Nishimori - O2b1a 2サンプル, O3a2 1サンプル.

Nishino - O2b1a 1サンプル.

Seko - O2b1a 1サンプル.

Shimazaki - O2b1a 1サンプル.

Shimoda - O2b1a 1サンプル.

Shimura - O2b1a 1サンプル.

Suda - O2b1a 1サンプル.

Sugimura - O2b1a 1サンプル.

Arima - O2b1a 1サンプル.

Furuto - O2b1a 1サンプル.

Gima - O2b1a 1サンプル.

Hikichi - O2b1a 1サンプル.

Hikida - O2b1a 1サンプル.

Ikehara - O2b1a 1サンプル.

Kiroko - O2b1a 1サンプル.

Okano - O2b1a 1サンプル.

Shinsato - O2b1a 1サンプル.

Sueoka - O2b1a 1サンプル.

Tanikawa - O2b1a 1サンプル.

Tomizuka - O3a1 1サンプル.

Shigeura - O3a1c1 1サンプル.

Muneoka - O3a1c1 1サンプル.

Higashida - O3a2 1サンプル.

Katagiri - O3a2 1サンプル.

Shirotani - O3a2 1サンプル.

Yabuki - O3a2 1サンプル.

Nagare - O3a2c1 1サンプル.

Soma - O3a2c1 1サンプル.

Kamibayashi - O3a2c1a 1サンプル.

Hada - O3a2c1a 1サンプル.

Kimoto - O3a2c1a 1サンプル.

長い間の時間の間手作業で集めたサンプルたちだ.

下の表に表示された (例示: O3a2c1a = 2samples or 2サンプル)中 O3a2c1a,O2b1a,D2a1bみたいなことによって父系先祖が分かる.

C1= クマソ,Hayato勢力推定. 日本西南部に多い. ヨーロッパで極少数である C6義兄弟 (日本 4‾5%, 韓国,ウィグル 0.1%, 中国 0%)

C3(C3c,C3d,C3g,C3hなど) = サハリン, 満洲, シベリア系統. (中国 2%, 日本 1%, 韓国 0.5%)

C3f,C3f1 = 韓半島, 満洲の土着遺伝子. チングギスカンは C3f1の子孫である C3f1aで明かされた. (韓国 14%. 中国 10%. 日本 5‾6%)

D2,D2 a= 遠眼繩文である ( 日本 13%. 韓国 1‾2%. 他地域 0%)

D2a1b = 繩文系統, 将軍家で検出された遺伝子. 関東,神戸,京都を中心に 何百年間に権力者たちの間で大きい拡張をした. ( 日本: 18%. 韓国 1%. 他地域 0%)

N1 = 万余年前, 東南アジアでシベリア,フィンランド,ロシア,バルト3国に移動する中韓半島,日本,中国にぽつりぽつりと広がった遺伝子. ( 韓国 3%, 中国 2%, 日本 1%)

N1c1 = シベリアで南下した遺伝子 ( 韓国1% 中国 1% 日本 0.5%)

O1a1 = 上海,台湾,フィリピンでよく発見される遺伝子. 韓半島,日本の O1a1は上海,台湾,フィリピンの物と差があったように見えて搖れ半島の物と似ている. (上海 25%, 台湾 23%, 中国 8%, 韓国 2%, 日本 1%)

O2,O2a = O2*自体が O2bよりは O2aに近いのが大多数だ. O2aは O2bと幾万年差を見せて, 共存したことがない. (O2: 中国 3% 韓国 2%, 日本 1%. O2a: ベトナム 35%, 中国 12%, 韓国 0.1%, 日本 0.5%)

O2b* = 祈願誌が黄海平原(過去黄海海)に推定されるハプルログル−ム. (韓国 1%, 日本 0.5% 中国 0.1%)

O2b1 = 祈願誌が韓半島に推定されるハプルログル−ム. (韓国 7%, 日本 3%, 中国 0.3%)

O2b1a = 彌生人の最大ハプルログル−ム. チォンファングがから発見された事がある. トクシマで 28%, 大阪で 26% 発見されるなど関西で高く現われる. 本人もこれに属する. (日本 23%, 韓国 8%, 中国 0%)

O2b1b = 韓半島南部で拡張をハンゴッに推測される韓国表紙ハプルログル−ム ( 韓国 12%, 日本 5%, 中国 0.3%)

O3a1 = 韓国, 日本で発見されたら, 何百年以内で先祖が中国大陸から来たと思わなければならない. ( 中国 1%, 韓国 0.3%, 日本 0.3%)

O3a1c(O3a1c1,O3a1c2) = 東夷族の主要ハプルログル−ム. 山東省で始まったハプルログル−ムでチウチォンファングのハプルログル−ムではないか推測される. (中国 18%, 韓国 10%, 日本 6%)

O3a2(xP164,M7) = 中国の物とちょっと他の類型の O3a2. 韓半島土着と見える. (韓国 8%, 日本 5% 中国 0.3%)

O3a2c1 = 朝鮮の遺伝子. 朝鮮太祖李成桂, 世宗大王, 高宗がこのハプルログル−ムに属する. (中国 17%, 韓国 9%, 日本 5%)

O3a2c1a = 中国で数字が多いが, 韓国西南部と日本西部で現われる類型が存在するのに, 百済->日本に移動したどんな勢力が日本で有力家門になって, 子孫をあんまり残さなかったか推測する. ( 中国 19%, 韓国 10%, 日本 6%)

Q1a1 = 満洲で始まったことで推測される遺伝子, 兄弟グループである Q1a3はアメリカ原住民の株腰下フローグループだ ( 中国 3%, 韓国 2%, 日本 1%)

http://www.kjclub.com/jp/exchange/theme/read.php?tname=exc_board_6&uid=140910&fid=140910&thread=1000000&idx=1&page=1&number=92583


37. 中川隆 2015年6月08日 22:26:43 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

日本で根強い、秦氏=ユダヤ人説や皇室のユダヤ人説はY-DNA研究の現状の結果からは残念ながら成立しないようです。また青森の有名な戸来一族もユダヤ人の末裔ではないでしょう。   

幕末・明治期の皇室や戸来一族のユダヤ顔、すなわち面長鼻高等の西欧風形質は、Y-DNA「C1a」とY-DNA「C3a」の持つ古代遺伝子Y-DNA「C」の持つソース顔の特徴で充分説明できます。   

ただし「C」は典型的な二重瞼(どちらかと言うと奥二重に近い)なので、まずはそうかどうか確認が必要ですが。

  また日本の中国地方はY-DNA「O1a」の産地ですが、台湾のY-DNA「O1a」の先住民を見ると凹凸の少ない面長鼻高(「つまりしょうゆ顔」)なので幕末・明治期の皇室顔の候補には入りますね。でもやはり二重瞼のはずです。


  更に情報としては、

中国河北の黄河文明の古代遺跡で発掘される「極めて古いモンゴロイドのはず」つまりY-DNA「O3」のはずの復元顔は面長鼻高でコーカソイド顔である、というのはこの分野の研究者には常識となっています。

Y-DNA「O」系統はY-DNA「CF」の子亜型の「F」から分化した孫亜型なので当然西欧顔の面長鼻高二重瞼の彫深顔がオリジナルなのです。   

しかしその後の厳しい黄河流域生活で黄砂適応した結果と寒冷地適応した北方民族系のY-DNA「C3c」との交配でフラット・一重瞼が増加していったと考えられます。

ところが本当にフラット一重顔の漢民族は少ないのです。

現在中国の政治経済の中心が河北になるため、フラット・一重が中国顔とされていますが、中国全体でみれば華南系Y-DNA「O1」と「O2」は面長二重瞼を維持しています。しかし「O3」系との交配が極めて進んでいるためソース顔ではなくしょうゆ顔に変貌しています。

  
そのY-DNA「O3」のオリジンである「O3*」が日本でも検出されています。

一体どこからきたのだろうか?

縄文晩期には既に陸稲系農耕が日本列島に来ていたことが日本農耕史では常識になっていますが、これをもたらしたのは当然河北系の渡来者になります。つまり後世紀元後に朝鮮半島を追い出された負け組の「O3」大和朝廷族や武士団族ではなく、はるか以前に渡来してきていたはずなのです。   

そしてオリジナル「O3*」と言うことはコーカソイド系つまり西欧顔の形質だったはずなのです。

つまりY-DNA「O3*」も幕末・明治期の皇室顔の候補には入るのです。恐らく古代の焼畑農耕や陸稲農耕の伝統があった地域に住んでいた可能性が大なのです。  

「O3*」は朝鮮半島にも多く住んでいたはずなので箕子朝鮮等の古代朝鮮国家の統治者層だった可能性もあり、後にフラット・一重化していた負け組に混じって日本列島にやってきた可能性もかなりあります。

  つまり「O3」は少なくとも3系統あったのではないかと思われるのです。


オリジナルY-DNA「O3*」系統、黄河文明/河北系の「O3a1」系統と長江文明/華南系との交配系「O3a2」です。

  日本人は彫深顔を見るとどうも劣等感が強くすぐ外来種と思う傾向がありますがY-DNA「C」の典型顔でもあるのです。特に海洋性ハンターの「C1a」や内陸性ハンター「C3a」の住み着いた沿岸部や山間部が日本のソース顔美男子の供給基地だったのです。

  現代アイヌ人に見られる彫深顔も、何のことはない古代アイヌを征服したオホーツク文化の古代ニヴフ族Y-DNA「C3c」の持つ「C」顔に他ならないでしょう。

  現代のY-DNA「C3c」は寒冷地適応と黄砂適応を遂げフラット顔に変貌していますが、古代を残すニューギニアの「C2」、ネイティヴ・アメリカンの「C3b」やアボリジニの「C4」を見れば一目瞭然の彫深顔です。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/1-11.htm


38. 中川隆 2015年6月10日 07:35:39 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

中国四千年の歴史という馬鹿げた妄想
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-815.html


彦崎遺跡
http://blog-imgs-43.fc2.com/n/e/z/nezu621/20100306224923773.jpg


中国といえば、四千年の歴史という言葉がすぐに修飾語として浮かんでくるほど、いまどきの日本人は洗脳されているといえます。

しかし、中国は、四千年どころか、かなりその歴史は疑わしいものと断じざるを得ない、というのが今日のお話です。

平成12(2000)年のことです。

東大の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝(WANG Li)らが、中国で発見されている遺骨のDNA分析の結果を発表しました。

調査の対象となったのは、


1、約2500年前の春秋時代の人骨

2 約2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨

3 現代の臨シ住民


です。

これらの人骨から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果によると、三つの時代の臨シ人類集団は、まったく異なる遺伝的構成を持っていました。

どういうことかというと、約2500年前の春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は、現代「ヨーロッパ人」の遺伝子に非常に近い。

約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は、現代の「中央アジアの人々」の遺伝子と非常に近い。

現代の臨シ住民の遺伝子は、現代「東アジア人」の遺伝子と変わらない。

つまり、2500年前の支那大陸で、春秋戦国時代を築いていた集団は、現代ヨーロッパ人類集団と遺伝的に近縁な人類集団であった、すなわり、いまの支那人たちとは、まるで異なる集団であったということです。

言いかえれば、2500年前から2000年前の500年間に、支那では大きな遺伝的変化が生じた、つまり、支那大陸では、大規模な人類の移動があったということです。

そもそも中国語と英語を含むヨーロッパ系言語では、文法や語順のなどが、非常に似通っています。

たまたま文字が漢字であるため、見た目のイメージはまるで異なる言語にみえるけれど、語族として考えたら、日本語と中国語よりもはるかに支那語は、ヨーロッパ系言語に近い。

しかも、ひとくちに中国語といっても、支那は広大な大陸です。
さまざまな方言があり、外国語並みにたがいに言葉が通じない。
文法や語順、あるいは基本的名詞に至るまで、まったく違うものもあり、もはやその言語は、互いに別な言語というほうが、はるかに正しいです。

たとえば、我々が中国語口座を受けると、「声調」は「四声」と教わるけれど、これは北京語の話であり、広東語は九声、福建語は八声もある。
上海語と客家(ハッカ)語は六から七声です。

また、北京語には濁音がないけれど、南方語には、濁音が存在する(日本語の影響?)。

フランス語と、英語は、語順等は似ているけれど、母音の数がまるで異なります。当然、異なる言語とされている。国籍も別です。

支那にある諸方言を考えたら、これらをひとまとめに、同一言語であるとみる方が、むしろ異常です。


中国語の方言
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中国四千年の歴史なる言葉は、そもそもが、三皇五帝(さんこうごてい)なる支那の神話伝説時代の帝王からきている言葉です。

三皇は神、五帝は聖人で、それらは支那の伝説の時代である「夏」の時代(紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)よりも古い時代の皇帝だというのだけれど、これも大載礼記、史記、戦国策、易経、礼記、淮南子、世経、三統経、資治通鑑外記などで、誰が皇帝であり、誰が帝王だったのかすら、全部言い分が異なっています。

炎帝(姜王)などは、礼記と准南子に登場するけれど、体が人間で、顔は牛だったというから、そもそも人類であったかどうかすら疑わしい。
要するに、これらは単なる神話とされ、いまでは、その実在は誰も認めていません。

三皇五帝のあとにくる「夏王朝」にしても、いまからちょうど四千年あたり前から470年続いき、その後「殷」に滅ぼされたとされているけれど、これも、その実在性がかなり疑わしいとされている。

結局支那で考古学的にはっきりとその存在が証明されているのは、「殷王朝」で、これは、紀元前17世紀頃から紀元前1046年の王朝です。遺跡もある。

そして遺跡があるおかげで、この時代の殷王朝を形成した人々が、いまの漢民族とは、まるで異なる遺伝子を持った別な民族であったということが立証されてしまっています。

時代が下って、西暦220年頃の三国志に登場する関羽とか張飛とかのを見ると、関羽は、髭(ひげ)の長い巨漢、張飛は、ずんぐりむっくりの巨漢です。

遺伝的特徴からしたら、髭(ひげ)の薄い漢民族の特徴というよりも、関羽あたりは北欧系のノルウェーの海賊(バルカン民族)の特徴をよく備えているし、張飛の遺伝的特徴も、漢民族的特徴はまったくなくて、どうみても、北欧系のドワーフです。


関羽や張飛の姿は北欧系のコーカソイドの遺伝的特徴そのものである

バイキングとドアーフ
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そしてこの時代の人骨からは、先に述べたとおり、明らかにヨーロッパ系の遺伝子を持った遺伝子・・・漢民族とは異なる遺伝子を持った人骨・・・が発見されています。


さらに時代をさかのぼると、支那の文明の始祖として、20世紀前半に黄河文明の仰韶(ヤンシャオ)遺跡が発掘されました。仰韶遺跡は、紀元前5000年から同3000年まで続いた文化です。

遺跡からは、彩文土器、竪穴住居、磨製石斧などが出土し、彼らが粟などの栽培や、豚や犬の飼育、鹿などの狩猟を行っていて、竪穴住居に住み、集落を形成し、石斧・石包丁などの磨製石器や彩陶を使用していたことは、明らかになっています。

しかし、そこで発見された彩陶土器は、西アジア、中央アジアから伝来したものです。

つまり、どうやら工具的にも、ここの文化を構築した人たちは、東洋系の人種ではなく、コーカソイド系の人たちだったようです。漢民族的特徴を示す物は、残念ながら発見されていません。


コーカソイド系の人々
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これに対し、黄河文明よりも、もっと古い遺跡として発見されたのが、長江文明です。

これは紀元前6000年〜紀元前5000年ごろのもので、河姆渡(かぼと)遺跡などからは、大量の稲モミなどの稲作の痕跡と、高床式住宅、玉器や漆器が発見されています。

栽培されていた稲は、ジャポニカ種です。

どういうわけかジャポニカ米の原産地は、長江中流域などとされ、日本の稲作の起源が、支那の長江流域などと「決め付け」られているけれど、ジャポニカ種の米の栽培(稲作)に関しては、日本の岡山県の彦崎遺跡と朝寝鼻遺跡が縄文前期(紀元前6000年前)のものなどがあり、もしかすると成立年代的に、日本で始まった水田灌漑技術と、稲が、支那にわたって長江文明を形成した可能性も否定できません。

要するに、いまから約8000年前に、日本には稲作文化があり、7000年前には、支那の長江流域に、日本と同じ稲作を営む集団がいたということです。

そして、長江文明を営んでいた人骨は、明らかにモンゴロイド系の特徴を持っています。


そのモンゴロイド系の遺伝子を持つ長江文明を形成した人々は、その後西から移動してきた麦作と牧畜を基礎とした文化を携えたコーカソイド系の人々によって滅ぼされてしまいます。

で、できたのが黄河文明です。

おそらくは、狩猟民族と農耕民族の違い、すなわち武器文化と非武器文化の違いで、武力に勝るコーカドイドが勝利した。

ただ、流れてきた人々よりも、農耕によって食を賄い、古くから住んでいた人々の方が、人口的には多かったであろうことが想像され、人口に勝るモンゴロイドが、軍事的政治的文化的には敗者となったけれど、結果として遺伝子的には黄河文明の人々をしのいだ。

それで漢民族が「黄色」になったとみることができます。

おもしろいのは、男から男に引き継がれるY遺伝子は、ほぼ完全に黄色人種の特徴を示すのに対し、女性から女性にだけ引き継がれるミトコンドリアの遺伝子には、コーカソイド系の特徴をそのまま残している、ということです。

つまり、戦い好きなコーカソイド系の男たちは、軍事的に結局は死に絶え、その遺伝子は女性から女性にのみ引き継がれた(ミトコンドリア遺伝子)という姿が見えてきます。

ふつうに考えればわかることですが、狩猟族というのは、獲物を追ってどこまででも遠くへ移動する。土地に定着する必要がないのです。

コーカソイドが、古代に日本に来たというお話もあります。
スサノオのヤマタのオロチ退治の伝説です。

古事記などでは、ヤマタのオロチは、八本の尾がある大蛇とされていますが、飛騨の阿礼家に伝わる伝承では、ヤマタのオロチは、八人のオロシャなのだそうで、おそらくは、漂流してきたコーカソイド系の男たちであったのであろうかと思われます。

彼らは、山に巣食って、村を襲い、村の娘たちを拉致していた。
そこをたまたま通りがかったスサノオが、オロシャ人に酒を飲ませて、酔いつぶれたところを退治した。

日本は、島国だったので、8人程度の移民で済んだのでしょうが、大陸ではそうはいきません。大挙して押し寄せて、村の娘たちや食糧を根こそぎ奪っていった。
で、出来たのが黄河文明だったと考えられるわけです。


いづれにしても、黄河文明を形成した人々と、いまの支那人たちとは、血統はどっかつながっていようかと思いますが、彼らが、中国四千年の歴史と称する歴史は、王朝が変わるたびに、ことごとく前王朝の民族抹殺、大量虐殺を繰り返してきたものであり、わるいけれど自慢できるような平和の歴史とはほど遠い。


さらにいえば、いまある支那共産党の中華人民共和国などは、まさに中国共産党王朝ともいうべきものでしかありません。

なにせ、支那に十五億いる人々の中の、わずか7千万人の共産党員が、我が物顔にのさばり、党員以外の人々から酷い収奪をする。

中国人とひとくちに言っても、民族も様々、言語も様々、文化も様々。
要するにその中で、中国共産党という名称の「民族」が、設立わずか60年の絶対君主制の帝国主義王朝を築いているというのが、いまの支那です。

ちなみに、中華人民共和国という国名のうち、「中華」と「国」以外は、全部日本語です。

そして支那の歴史は、民族同士が互いに殺戮しあい、生き残りのためには誰も信用することができず、民族浄化とホロコーストを続けてきた歴史です。

とてもじゃないが、四千年の歴史などと呼べるものではない。中国四千年の歴史というのは、支那の大地の中で、異民族同士が、互いに絶滅を賭して殺し合い、強姦しあい、騙しあってきた、殺戮と暴力の嘘と虚構の歴史です。

そしてその暴力と虚偽の歴史は、いまなお、法輪功の弾圧や、ウイグルの虐殺、旧満州の女真族に対する民族浄化と暴力で続けられている。

そんな地獄の亡者やゾンビの大軍の殺し合いのような国家にたいし、長く平和と愛情と和の精神を築きあげた日本が、自ら率先して「友愛」などしにいく必要など、さらさらないのです。

それは、まじめに生きてきた日本民族を、暴力団や極道よりもはるかにたちの悪い亡者の前に、進んで身を晒すようなものだからです。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-815.html


39. 中川隆 2015年6月10日 07:50:23 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

DNAが証明!!今の中国人は昔の中国人の子孫ではない
http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/38533705.html

本当に食い尽くします

明末に起こった「張献忠屠川」で四川省は無人の地になっています。これは張献忠率いる占領軍によって四川省の住民が数年間に渡り組織的に殺され、最終的には全員食料として食い尽くされたという事件です。

http://takaojisan.blog13.fc2.com/blog-entry-230.html

リンク ↑
石平 著 「中国大虐殺史」によれば、
 
 十七世紀の半ば、明から清に移り変わる時期、張献忠と言う人物が、四川の住民に対して行った大虐殺であり、虐殺が始まった時期、四川の人口は六百万ほどであったが、張献忠が敗北して虐殺が止まったとき、四川の人口は一万八千人ほどだったという。
 
 明王朝の末期、各地で反乱が起きたが、張献忠もその一人であり、無頼の徒であったとされている。一時は六十万の兵力を要した張献忠はその兵を率いて四川に乗り込んだがとにかく戦ってとらえた明の兵士と民衆を焼き殺したのを皮切りに、成都を攻め落とした張はそこで大西王朝と称する自前の王朝を樹立し、自ら大西朝皇帝となって、四川での大虐殺を始めた。
 
 手始めに守備軍、住民を集め十五歳以上の人間をすべて殺した。これは中国では珍しいことでなく、大人数の捕虜をそのままにしておくと膨大な食料がいるし、またいつ反乱でも起こされるかもしれないので、手っ取り早く皆殺しにするのだが、彼らにとっては合理的な解決手段でしかない。
 
 そのうえ、張は成都を落としてから、一日一万二千人とのノルマを決めて住民殺しを始めた。


日本には「四川料理」というものがあって有名な料理人がいますが、四川省の住民は明末に絶滅しているのですからこの料理は古来から四川にあった料理ではなく、清の時代に四川で出来上がった料理ということになります。

諸葛孔明が何を食べていたかもう判らないわけです。

毎日、人肉ばかりなんだからきっと中華料理というものは毎日食べる人肉をいかに美味しく食べるかという所から発達してきたのかもしれません。

王朝末期には新しい王朝による大量虐殺は付き物のようですが、その中でも毛沢東による虐殺が歴代王朝のなかで最大と言われています。

大量虐殺の後には、耕作民不足による必ず大飢餓があり、毛沢東による「大躍進時代」の飢餓も筆舌に尽くし難いものがあったようです。

孫文と『揚州十日記』

陳舜臣の書いた『孫文』という本があります。


孫文 (中公文庫) 陳 舜臣 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E5%AD%AB%E6%96%87%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89%E6%AD%A6%E8%A3%85%E8%9C%82%E8%B5%B7-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%99%B3-%E8%88%9C%E8%87%A3/dp/4122046599
http://www.amazon.co.jp/%E5%AD%AB%E6%96%87%E3%80%88%E4%B8%8B%E3%80%89%E8%BE%9B%E4%BA%A5%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%99%B3-%E8%88%9C%E8%87%A3/dp/4122046602/ref=pd_sim_14_1?ie=UTF8&refRID=08ZE3BA48VM93B71RSXF

『孫文』には、孫文が世界中の「砂」の様な華人をまとめる為に、17世紀半ば、満州族が中国中心部に攻め込んだ際に行った、殺戮や略奪、放火などの記録を詳細に記録した『揚州十日記』という資料を用いた事が書かれています。

その貴重な資料が何処に存在したかと言うと、何と日本です。

日本に資料の写しが存在したので、日本に留学していた中国人たちが必至にそれを写して、“知られざる民族の悲劇”を知り、「滅満興漢」の決意を新たにしたそうです。

孫文は、「これは、日本に残っていた反清文書です。記念に一冊差し上げます!」と言って、共感する華人に配って回り、支持者を集めていたそうです。

この本によると、かつての中国知識人の間には、「日本は古い文化を保存する国」という好ましい印象があったようです。

その理由は、日本では中国と異なり「易姓革命」が起こらなかったので、焚書や文字の獄が滅多に発生せず、中国の古い本や、その写しも綺麗に保存されていたからだそうです。

また、日清戦争当時、戦場となったのは限られた地域であり、上海辺りはまるで「戦争」の雰囲気が無かったそうです。

実際清国人だった孫文も、その頃、交戦国の日本を経由してホノルルに向かっています。


臨シの位置


人骨のDNA調査が行われた臨シとはどこなのか調べてみました。「中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都」とのことですがちょっとイメージがわかないので・・・

昔の地図だと分かりやすい。(地図右上渤海湾に隣接しています。)


ファイル春秋時代.PNG - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3.PNG


で、グーグルマップで現在の地図ではどうなっているのか調べたんですが、これがなかなか分かりづらい。


臨シという地名は臨シ区として残っていました。
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/e/4/e427090b.png

済南事件で有名な山東省は済南市の東約100kmにあるシ博市のさらに東30km程行ったところです。

以下 コメント


・人肉食の歴史

を持つ支那、支那人ならば人体を解体することに対して躊躇はないのかも知れない。

在日の支那人が急激に増え出した頃から 「バラバラ事件」 のニュースをよく聞くようになった。

人肉食は支那の文化であり、現在でも日常茶飯事化しているようだ。

こんな人種を 「30万人の留学生受け入れ」 とか、「一千万人の移民を受け入れる」 とか 狂っているとしか言いようがない。

多くの日本人は支那の実態を知らないし、漢民族とチベット人の違いも、また真実の歴史さえ知ろうとはしないでしょう。

一度に多くの日本人に覚醒してもらうにはどうしたらいいのか、どんな方法があるのか、、、?

とにかく、日本人を悩ませ苦しめている全ての原因は、在日、そして日本人に成り済ましている帰化人の政治家達です。

こいつらを国民に暴き引きずり降ろすこと、それしかありません。

・画期的研究

某掲示板から回ってたどり着きました。

国立遺伝研の斎藤先生とは何度かお会いしたことがありますが自由な発想を持つ優れた学者です。

DNA解析をもとにした遺伝学は非情かつ正確な学問です。このような画期的な発見がほとんどニュースにもなっていないのは不思議です。
漢字文化もコーカソイドの発明というのも興味深いところですね。

春秋戦国時代こそ中国文明の真髄と言っても良いものなので今の中国人にとっては受け入れがたいのかも知れませんが。


・No title

シナ文明は漢代までは発展していますがそれ以後文化的に停止してしまいます。

わたしもここに書かれているような歴史だとすれば新モンゴリアンの今のシナ人は漢文明を造った人々ではありません。ローランの美女も完全にコーカソイドでした。日本はブータンやチベットに近い古モンゴロイドです。シナ大陸の中原に興亡したすさまじい民族とうまくいくわけはありません。

・No title

漢服の中に西洋人のドレスのような服装があって、

現代でこそモデルがなんとか着こなしていますが、絶対に中国人には似合わない衣装なんですよね。100年前の中国人の写真を見ると、とてもこんなものを着こなしていたようには見えない・・・っていう。

確かに、コーカソイド系に近い民族が着ていたものなのかもしれません。
http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/38533705.html


40. 中川隆 2015年6月10日 07:54:41 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

Question: rosynobleさん 2010/8/22

黄河文明から大唐帝国までの中華世界について

宋代より前の中国は西戎(コーカソイド・白色人種)の影響が強く、文化的・人種的に現代とは大きな隔たりがあると聞きます。 ただ宋代以降になって、南蛮(南方モンゴロイド)が主流となり、北狄(北方モンゴロイド)の支配を受けながら混血し、現代の形となったようです。

アンダーソンのオリエント伝来説や、シルクロード・西域、姜族・匈奴・突厥・拓跋部北朝に始まり、クルガン仮説と斎藤成也の臨シDNA研究によって、その噂もいよいよ真実味を帯びてきました。

そこで、これについて現状では、どういった見解が有力視あるいは妥当とされているのでしょうか?

Answer : hinomikotoさん 2010/8/22

殷(商)と周は、大きな断絶を感じます。殷の人は入墨をしていましたが、周は入墨を嫌いました。殷の占いは動物の骨や亀の甲を焼いて占いましたが、周の占いは周易であり、骨を焼いたりしません。また暦もかわりました。

骨を焼いて占うというのは、昔はどこでもやっていたという類ではありません。中国の資料(主に正史)を読むかぎり、殷と扶余と倭(日本)だけですね。三国志魏書の扶余伝を読むと、扶余の人間は殷暦を使っていたとも書かれています。漢の時代に殷暦ですからね。よほどの理由がなければ使いませんよね。私は殷、扶余、濊、高句麗、百済、倭、契丹は、繋がっていたんじゃないかと見ています。

中国最初の統一王朝は、秦です。しかし中国人は一般に漢民族と呼ばれ、秦民族とは言われません。秦は西戎だったようですね。

また漢を建国した連中は、黄巾の乱の頃、伝染病もあってほとんど滅亡したともいわれています。岡田英弘氏が主に主張していますが。

北魏、隋、唐は鮮卑王朝でした。鮮卑は謎ですが、トルコ系とされています。

元はもちろんモンゴル人です。

遼は契丹人の王朝でした。『魏書』には契丹、高句麗、室韋、庫莫奚、豆莫婁(扶余の後継国家)は言語が同じと書かれています。遼を建国した人は、耶律 阿保機(やりつ あぼき)さんでしたが、どこか日本人の名前に通じるものを感じます。

金と清は、女真の王朝でした。

明は漢民族の王朝とされますが、たとえば、漢や宋は黄河文明でしたが、明は長江系です。明は過去の漢民族とは違う、南方漢民族だったんだろうと思います。この南方漢民族の子孫が今の中国人のコアでしょうね。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1345681258


41. 2015年6月10日 08:36:19 : b5JdkWvGxs

Y染色体(父系)による系統分析

母系のみをたどるミトコンドリア解析に対し、父系をたどるY染色体は長期間の追跡に適しており、1990年代後半からY染色体ハプログループの研究が急速に進展した。

ヒトのY染色体のDNA型はAからTの20系統がある。

複数の研究論文から引用したY染色体のDNA型の比率を示す
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA#Y.E6.9F.93...


Question : thosidaxさん 2013/9/11

初期の漢民族(漢民族のアイデンティティーが確立される以前の黄河文明)は、インド・ヨーロッパ系の民族なのでしょうか?

中国語が周辺のアルタイ語系のSOVではなく、SOVの語順である事もありますし、
中国史にたびたび登場するイラン系民族の存在から、このあたりにコーカソイドが進出していても不思議ではないと思います。

一般的にコーカソイドはモンゴロイドよりも長身ですが、日本がその昔【倭】と呼ばれていた(中国人より小さかった)のも一つの根拠として挙げられます。今の中国人はモンゴロイドですが、これは五胡十六国以降に中編民族との混血がすすんだ事によるのではないでしょうか?


Answer : myalfanameさん 2013/9/18

Y染色体ハプロタイプ(遺伝子)は1990年代後半から始まり、2000年代になってやっとその状況が判明してきています。

それ以前に調査していたミトコンドリアDNA(遺伝子)は分散する傾向があり、集団(部族、民族)の移動を表さない事から、欧米ではすでに、Y染色体ハプロタイプによる集団の経路分析が「主流」となっていますので、試しにY染色体ハプロタイプ(遺伝子)で見てみましょう。


例えば、中国人(ここでは漢民族とします)とイギリス人(ここではケルト系とします)とを比較してみます。

※Y染色体ハプロタイプは一般的には「ハプログループO3」と表記しますが、系統を判りやすくするため、また、ミトコンドリアDNA(mtDNA)と混同しないように、「NO系統O亜型O3」と表記します。

-------------------------------------------
【 中国人(漢民族 %は混血比率)】

・NO系統O亜型O3 (約54%)★←ここを漢民族とします
・NO系統O亜型O1A(約10%)
・NO系統O亜型O2*(約10%)
・NO系統O亜型O2A(約 5%)
・CF系統C亜型C3 (約 8%)

※地方差あり
-------------------------------------------
-------------------------------------------
【 イギリス人(ウェールズ %は混血比率)】

・P(QR)系統R亜型R1B(約88%)★←ここをケルト系とします
・P(QR)系統R亜型R1A(約1.1%)←スラブ系
・NO系統N亜型N (約3.8%)←ウラル系
・IJ系統I亜型I (約3.4%)←ノルマン系
・DE系統E亜型E1B (約1.8%)←ラテン系


※言語学的な意味があるので、一概には言えませんが、一応の目安として○○系と分けました
http://www.eupedia.com/europe/maps_Y-DNA_haplogroups.shtml
-------------------------------------------


となります。これが何だとおっしゃるかもしれませんが、O3の祖はNOであり、そしてR1Bの祖はPとなります。

そして、NOとPの祖はK、つまり中国人もイギリス人も2系統もどれば、全く同じ祖(K)となります。

Kの元をたどれば、CF系統Fで、45000年前に中央アジア(インド北西部付近)で発生したと推定されており、インド人から検出されます。

CF系統Fの元はCF系統CFで、東アフリカ(出アフリカ以前)となります。

ちなみに、O3は今から20000〜25000年前に発生したと遺伝子計算から出されています。

その頃の漢民族(O3)はどんな民族であったかは想像もつきません。

中国人とイギリス人はY染色体ハプロタイプから見ると(見かけはともかく)かなり近い系統なのです。

Y染色体ハプロタイプの世界ではもう常識となっていますが。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3%E...
http://ja.wikipedia.org/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93%E3%83%8F%...
http://ja.wikipedia.org/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93%E3%83%8F%...


ちなみに、日本人は、中国人と同じNO系統ももっていますが、全く別のDE系統も入っています。中国人との違いはDE系統に由来しているのではないでしょうか。
-------------------------------------------


【 本土日本人 (%は混血比率)】
・DE系統D亜型D2A(約40〜50% YAP因子あり)←ラテン系に近い
・NO系統O亜型O2B1(約20〜30%)
・NO系統O亜型O3(約18〜20%)
-------------------------------------------
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA#Y.E6.9F.93...
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E...

中国人(漢民族)と日本人について「DNAマイクロアレイ」で分析すると以下のような結果が出るようです。
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=73749&type=0


42. 中川隆 2015年6月10日 08:45:41 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

古代の支那人と、現代の支那人が人種が違うという、おもしろい話があります。

黄河文明の遺跡から出土する人骨のDNAを調べてみると、それらはモンゴロイドではなく、なんとコーカソイド、つまり白人種だったというのです。

これは東大の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝(WANG Li)らによる古代支那の人骨のDNA分析研究の成果です。


研究の対象となったのは、


1 約2500年前の春秋時代の人骨

2 約2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨

3 現代の臨シ住民、です。

これらの人骨から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果によると、三つの時代の臨シ人類集団は、まったく異なる遺伝的構成を持っていました。

どういうことかというと、支那にはもともと揚子江のほとりに、稲作を行うモンゴロイドが住んでいたのですが、ある日、黄河の流域に、大型の動物を追ってやってきたコーカソイド(白人種)が住み着くわけです。

白人種たちは、大型動物を捕って食べますから、大型の武器を持っています。住まいは竪穴式住居です。

モンゴロイドたちは、農耕文化ですから、武器ではなく、クワやスキを手にしていて、武器を持ちません。住まいは、食料保管のために高床式住居です。

その武器を持たないモンゴロイドのところに、ある日、武器を持った白人たちが現れる。

法のない時代に、武器を持った者たちは、武器を持たない者たちの前では、まさに超人です。

モンゴロイドたちは襲われ、食べ物を奪われ、女性たちは強姦されたことでしょう。

そんなことをされたら、モンゴロイドたちだって黙っていません。

復讐のために武器を手にして、コーカソイドたちに戦いを挑みます。

互いに殺され奪われた恨みがきっかけの戦いです。
戦いは凄惨をきわめたことでしょう。

こうして春秋戦国時代が始まります。

双方の種は、互いに大軍を率いるようになり、凄惨な殺し合いと強姦が起こる。
結果として、白人種とモンゴロイドの血が混じり、彼らの外観は、数の上で圧倒的多数であるモンゴロイドに近いものとなりました。


このことは、南米の歴史によく似ています。

アルゼンチンやウルグアイは、白人種によって先住民族のモンゴロイドがほぼ完ぺきに抹殺されたため、いまでは外見は完全に白人種の国家となっていますが、エクアドルやペルー、ボリビアなどは外見はモンゴロイドの住民たちの国となっていますが、彼らは100%白人種との混血です。

この違いは、要するに先住民族の女たちが手当たりしだい強姦されたあげく子を産む前に全部殺された国と、手当たり次第強姦されたけれど、それが全部には至らなかったという違いです。

南米が白人種によって征服された時代は、銃の時代です。

けれど、支那大陸で白人種とモンゴロイドが争った時代は、いまから4000年ほど昔で、まだ弓槍の時代です。

カタチとしては、エクアドルやペルー、ボリビアなどと同じく、外見はモンゴロイドになったわけです。


面白いのは、現代の臨シ住民のDNAです。

彼らの中には、ミトコンドリアの中にだけ、コーカソイドのDNAが発見されます。
これが何を意味しているかというと、ミトコンドリアのDNAは、母親から娘にしか遺伝しません。

つまり、現代支那人のDNAには、ミトコンドリアの中だけに、白人種のDNAが含まれているのです。

これが何を意味するかというと、要するに血の気の多い、コーカソイド系の人を殺すことを何とも思わない男たちのDNAは、殺し合いの結果、自滅してしまい、結果として女性から女性に遺伝するミトコンドリアDNAの中にだけ、大昔の征服者であるコーカソイドのDNAが残っているわけです。

いまでも支那人は、先天的に殺し合いが好きな民族ですが、これは彼らがまさにコーカソイドとモンゴロイドの種の殺し合いの中で、生き残ってきたDNAを持つ民族だから、ということができます。

支那におけるこうした流れは、カンブリア紀のような1億年という途方もない長い時代の流れではなく、約4000年という短期間に起きた現象ですが、この流れを俯瞰してみると、もしこれを対立と闘争という淘汰論(進化論)で語るとするならば、勝ち残るのは強いコーカソイドでなければならず、現代支那人の外見も、コーカソイド系(白人系)とならなければならないことになります。

ところが実際に生き残ったのは、モンゴロイド系の外観です。
つまり、弱い方が生き残ったわけです。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2049.html?sp


43. 中川隆 2015年6月12日 22:36:53 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

古代中国の歴史
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=304895


中国には長江、黄河という2つの大河があるが、文明はそれぞれの河川域に数千年の時代を経て誕生している。

長江が南方系の稲作農耕文明に対して黄河は畑作で牧畜を中心としており、モンゴル草原の終着点であることから気候変動期に遊牧部族がなだれ込んで先行していた西側(中東地域)の文明が入り込んだ。

現在でも中国はアジアと言いながら西洋的なのはこのときに誕生した略奪系の黄河文明がベースとなっているからでもある。

年代を追って見て行きます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【長江文明】
BC7000年 世界最古の稲籾跡
BC5000年 長江文明誕生(河姆渡遺跡)
     豚の飼育、漁労、狩猟跡・・・母系社会
BC4500年 最古の水田跡〜城頭山古城
BC3500年 良渚文化 玉文化 国家的集合体
BC2000年 気候変動期に長江大洪水で文明消滅 良渚で洪水跡
      長江人は呉越に流れる
      ★この時代に大量に日本に江南人が流入。


【イラン、モンゴル高原の状況】
BC3500年〜3000年 急激な寒冷、乾燥化
BC3500年にイラン高原で人類最初の戦争勃発⇒戦争の玉突きが始まる
 モンゴル族、ツングース族の南下
 遊牧民による農耕牧畜民の襲撃


【黄河文明】
BC5500年 畑作開始
BC3200年 西山遺跡〜中国最古の城砦跡
     この時代に戦争が発生している。
BC2200年 伝説の王朝「夏王朝」が中原地域で誕生
     夏王朝を作ったのは南方のチベット族
BC2000年 華北で世界最古の金属製造開始〜生産性が一気に高まる

BC1500年 殷王朝が誕生 モンゴル族出自
     甲骨文字の誕生 商人の登場
BC1100年 周王朝開始 チベット族出自
     周は殷王朝の下にあった一王朝が反乱して誕生
     徳知政治で王の徳を重視した。
BC770年 春秋時代開始
     各地の知識人が華北に集まる。
    BC500年 孔子
    BC300年 孟子
    BC250年 荀子など諸子百家
    
    この時代の戦争は1日〜2日で決着
※武力時代に完全移行する前夜、大衆が私権社会を回避しようとした時代
 或いは私権社会の秩序、整合性を模索していた時代。
 鉄器による農耕革命が起き、格差が生じてくる。

BC500年 匈奴による侵略(モンゴル族の組織化が進む)

BC400年 戦国時代
    一転して武力で決する力の時代。
    華北を中心に勝ち抜き戦

BC221年 秦の中国統一
  中央集権で国が統一され、法による秩序形成、大土木事業(万里の長城)、貨幣の統一、文字の統一⇒私権社会の確立


 ※秦始皇帝の出自は漢民族ではない。

メソポタミアでBC558年に起きたアケメネス朝ペルシャの末裔が作った西戎がチベット高原を越えて華北に西方文明をもたらした。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=282879


秦は1代で滅びるが、中央集権的、力の支配はその後の中国王朝は継承する事になる。秦が中華思想の源流でもあり、今日の中国の原点である。

★この時代に始皇帝を欺いて日本に部族丸ごとで逃げ延びたのが徐福であり、未だ各地に残る徐福伝説である
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=243460


徐福は日本渡来後、葛城や秦氏を名乗ったという説もあり、その後の大和朝廷形成まで大きな影響力を持った。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=271439



http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=304895


44. 中川隆 2015年6月13日 16:33:35 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

古代朝鮮の歴史
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=304908

中国が5千年に渡り文明的歴史を有しているのに対して、中国大陸の東端の朝鮮半島は驚くほど歴史が浅い。BC12世紀から箕氏朝鮮という伝説王朝があったという説もあるが、その考古学的証拠がほとんどない。

史実として残っているのはBC195年から始まる衛氏朝鮮で、半東北部に登場したこの部族による連合王朝は90年余り続いて朝鮮半島は三韓+高句麗の時代に突入した。

日本にもっとも近く、影響が大きい朝鮮半島の歴史を概観しておく。
半島の動揺がそのまま日本の政治的動向に繋がっていく。

半ば半島から追われた部族によって形成されたのが大和朝廷である。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

BC100年〜4世紀 三韓時代(馬韓、弁韓、辰韓)
秦〜漢の時代に朝鮮半島南部中心に中国内部の抗争に敗れた部族が流れ込む。この時代に朝鮮半島に水田稲作が定着

BC37年 華北の騎馬民族の扶余族が高句麗の地に流れ込み建国。(現在の北朝鮮)建国当初は連合政権で前漢と朝貢関係を形成。

4世紀を超えると三韓の地に国家が誕生(但しいずれも50余国の連合)
4世紀初頭 百済建国、新羅建国
3世紀後半 伽耶(金官伽耶)建国〜但し諸国連合のまま

4世紀 高句麗の広開土王が領地拡大 百済、新羅、金官伽耶に進出
    百済、新羅は連合して対抗

4世紀 金官伽耶は鉄器産出を武器に鉄器文化を形成
  ※この時代に倭国(日本)と緊密な関係を形成

5世紀中 金官伽耶が高句麗+新羅によって侵略、消滅
   ※伽耶から倭国へ王族、製鉄技術が流れる。蘇我氏?

660年 唐+新羅によって百済消滅
⇒百済から大量に日本へ流れる。一部王族も渡来(後の藤原)
663年 白村江の戦いで倭国が百済奪還を目指すが唐の圧倒的武力の前に壊滅

668年 唐+新羅によって高句麗消滅
671年 唐VS新羅戦争 唐軍退く

新羅は朝鮮半島統一、以後935年までの270年間は新羅の時代でその後の李氏朝鮮が中国の殖民国家である事から唯一、朝鮮独立時代とも言える。

新羅という国は一言で言うと虎の衣を借りた猫。半島の中で最も弱小の国家であるが故に 百済、高句麗、唐とコバンザメのようにくっつくことで生き延びた。

仏教は中国文化の浸透と併せて各地に定着(伝来年)
 317年 高句麗
 384年 百済
 532年 新羅

日本にも500年代後半に伝わる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=304908
 


45. 2015年6月13日 19:42:42 : b5JdkWvGxs

日本の歴史

第1回〜列島形成から縄文時代早期まで

(年代は全てBCで表記)
★は中国、朝鮮半島の動き

気候・地理・移動)

BC31000年以前 日本列島は大陸と繋がっており、海流の影響が少なく列島は針葉樹に包まれている。

日本列島の人骨発掘は沖縄で30000年、24000年、静岡県で16000年、沖縄の湊川人が16000年とあるが、縄文人とは繋がっていない。 

BC23000年 現在より−5℃

BC23000年〜18000年 寒冷化に伴いバイカル湖に居住していたC3系がサハリン経由で大陸から日本に移住。旧石器時代の中心になる。
細石刃石器を生み出す。専ら狩猟で生業。定住はしていない。
(※日本列島の人口は13000年頃で700人〜3000人)

BC17000年 日本列島の海抜が現在より120m低い(最低海抜)

BC15000年 対馬海峡ができる(但し冬には氷橋ができ往来ができる)

BC15000年〜10000年(縄文時代草創期)
鳥浜貝塚(櫛、釣り針など発掘 漁労の足跡)
BC14000年世界最古の土器発掘(青森県大平山本T遺跡)
細石刃石器がなくなり、やじりとしての石鏃(じん)が出土しており、弓矢の使用が始まる。

BC12000年 北海道最北の宗谷海峡開通 日本海に生物が繁殖

BC11000年 森の民D2系が日本流入。1万年間に渡る気温の上昇、低下を繰り返す中でモンゴル高原から朝鮮半島を経由して北九州から流入。このD2系が後の縄文文化、日本文化形成の核になる。(D2系は現在でも日本人の中に4割程度見られ、世界でも珍しい)

BC10500年 現在より−4℃
玄界灘が開通。日本海に暖流が流れ込み、現在の日本列島の形になる。
日本海側が温暖化。針葉樹林帯が西日本から徐々に果実の豊富な落葉広葉樹林帯へ移行する。定住化と採集生産が本格的に始まる。    

BC10000年〜5000年(縄文時代早期)
気候の温暖化から海水面が上昇。東日本を中心とした縄文文化が始まる。

BC8200年  現在より−5℃(最終寒期である後氷期が終わる)

BC7500年 南九州の上野原遺跡に最古の大規模定住集落跡

★BC7000年 長江流域で最古の稲作跡 

BC5300年 九州で喜界カルデラの噴火。以後西日本は数千年間噴火の影響を受け、人口増加が止まる。縄文時代の人口構成は落葉広葉樹地帯とも重なり、以後中部地方以東に9割という偏った配置になる。

BC6000年 列島の人口は約2万人

★BC5000年 長江文明が発生

BC4300年 ミャオ族の渡来、長江文明発の文化が日本列島に入る
 丸木舟、高床住宅、ヒスイ等江南文化


※縄文早期までの婚姻

人口がまだ少なく、一族の間での総偶婚(全員婚)=族内婚(クナド婚)であった。この婚姻形態が以後、江戸時代まで続く婚姻慣習の基本となる。縄文中期以降は人口密度の多い地域から族外婚(集団外と婚姻)をするようになり、共同体間の緊張圧力を婚姻によって緩和した。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=304426

第2回〜縄文時代前期〜縄文晩期まで

縄文前期といっても長い縄文時代の2/3は過ぎていますので、実質上は中期と呼んでもいいくらいの時期です。前期の始まりBC5000年から始まります。因みに縄文時代の各期の区分は土器の特性変化によって学者が定めたもので、他の時代と違って王朝や戦乱の背景はありません。

ただ、土器の形態変化が気候や集団の外圧と連動しているのも一つの特徴です。


(年代は全てBCで表記)

縄文前期〜中期の気候)
BC6000年〜BC3000年 ヒプシサーマル(高温)期
BC5500年 現在と同じ気温まで上昇
BC3000年 現在より+2℃高い平均気温 青森が東京と同じぐらい
      縄文海進で海抜が現在より5m高い。
      関東平野は群馬県辺りまで海が入り込む

縄文前期)
BC5000年〜BC3500年
 円筒土器文化が北海道南部〜東北地方にかけて拡大
 ※本格的な土器文化が広がる。
 ※定住化が進み拠点集落が各地に点在するようになる
 この期間に列島の人口は2万人⇒11万人に拡大。

縄文中期)
BC3500年〜BC2500年
 大規模拠点集落が東日本に登場する。

 ※三内丸山遺跡(BC3500年〜BC2000年)
 最大人口500人(予測)の巨大集落。三内丸山の周辺にも同様の規模の集落が並存する。栗栽培が確認されており、大規模な建物跡もあり、祭祀や周辺集落のセンター的交流が為されていたものと思われる。

 黒曜石やヒスイの広域交易がこの時代に進む。
 新潟県〜長野県での縄文文化も進み、有名な火焔土器もこの時代に登場
 この期間に人口は11万人⇒26万人(縄文時代最大数)まで拡大。

集団間が近接し、緊張圧力も高まるが、縄文時代を通じて戦争跡はない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

縄文後期〜晩期の気候)
世界的にはBC3500年から寒冷化、乾燥化が始まり、遠くメソポタミアではこの時代に人類最初の殺し合いの戦争が始まっている。

西洋と東洋は約500年の差が生じるが、中国から日本にかけてもBC2000年から急激な寒冷化が始まる。


※4200年前から地球規模の寒冷化が進み、長江文明を初めとするインダス文明などの古代文明は消滅する。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=184606


縄文後期)
BC2500年〜BC1300年

土器の形状は用途に応じて多様化していくが、この期間に縄文の縄目が消え、摺消縄文になっていく。

環状列石(秋田県大湯環状列石)の遺跡が登場するのもこの時期。

共同墓地、日時計など、石の意味合いには諸説あるが、気候変動に対する人々の思いが切実になってきている時代。

集落は分業、専業化が為され、千葉県や東京では大型貝塚が登場。

茨城霞ヶ浦沿岸で土器による製塩がなされていることが確認されており、塩の生産が為され、各地へ交易された。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=84204


縄文晩期)
BC1300年〜BC950年
縄文後期から始まった寒冷化は晩期から弥生前期でピークになる。
BC500年には−1℃の極寒期を向かえるがここから反転し、AC0年には現在と同じ気温まで上昇する。
列島の人口はBC2000年〜BC1000年の期間に26万人⇒8万人まで激減
過半は西日本に移動するが、東北地方のみこの時期に人口は減っていない。

晩期の最も大規模な遺跡が青森県の亀ヶ岡文化。

遮光土器などで有名だが、亀ヶ岡土器洋式は全国(奈良県、京都)に広がっている。

北九州や出雲に、この時代の寒冷化、大陸での呉越戦争の敗者(江南人)が中国から朝鮮半島を経由して小集団で何派にもわかれて渡来している。

亀ヶ岡文化や北海道南部の縄文文化は弥生時代以降も続縄文時代として後1000年間は継続する。

一方で、北九州を中心に縄文晩期(BC900年)には渡来人の技術を受け栽培、水田稲作が始まる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=304652


46. 中川隆 2015年6月21日 11:20:29 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

日本の歴史(年表)〜日本の私権時代の始まり(概況)
 

弥生時代(BC220年)〜古墳時代、大和朝廷(680年)までを見て行きます。

年表にかかる前にこの時代を貫徹する流れを文章にしておきます。

弥生時代は稲作伝来から半島経由の弥生土器の誕生をもって時代区分にしている。水田稲作伝来は前10世紀に九州に入っているが、拡大は遅々として進まず、稲作が全国に武器、銅鐸の青銅器文化をもって拡大したのは前3世紀以降である。弥生時代が500年早まったとするのではなく、北九州で戦争が勃発した前220年を弥生時代の始まりとする。

クニの始まりとなった弥生時代から大和朝廷形成までは中国、朝鮮半島の戦乱と連動しており。言い換えれば中国、半島の敗北部族の受け皿として、できあがったのが日本国と言える。一方で土着の縄文人、縄文晩期に渡来した江南人が形成した弥生人が新たな渡来人と混合し、文化的にも合流したのが日本でもある。従って渡来人が支配したのではなく、渡来人が日本に融合したのだ。

渡来人と一言でいっても時代ごとに何派も別れて渡来した。
役者だけ見ても以下のようにある。

呉越戦争の敗者である呉越人、秦帝国から逃れた徐福、魏の圧力から逃れた高句麗人、半島で敗れた伽耶人、国の滅亡で送られてきた百済の官僚、

彼らはそれぞれ敗北部族故に最初は日本国内で住み分けて定着するが、3世紀以降は縄張りが接触し、高句麗勢力対伽耶+土着勢力という構図の中で古墳を築造して日本列島にマーキングをしていった。その中で弱体だった伽耶勢力は百済を取り込み、蘇我氏の政治力を使って一気に大和朝廷を築き上げた。

弥生時代前半は呉越戦争の敗者が渡来。

呉越戦争の敗者は日本だけではなく朝鮮半島(馬韓、弁韓)にも渡来し、水田稲作文化を形成した。最も日本に近い、弁韓は伽耶地域とも呼ばれ北九州地域と一体となって倭国を形成する。鉄の生産拠点でもあった伽耶は1世紀には北九州に九州王朝を作るが、これは半島側から見れば、倭国という集合体における日本側の拠点に過ぎない。

一方で中国に登場した秦時代に日本に亡命した徐福率いる技術者集団は各地に散らばり、その後の古代豪族の核となり、各地に伝説(徐福伝説)を作っていく。徐福直系の豪族が3世紀から始まる大和朝廷の中心者となった葛城氏であり、彼が各地の徐福ネットワークを作って畿内を中心に3世紀には王朝を形成していく。

その王朝を形成する契機は出雲から新潟にかけて渡来し始めた高句麗勢力である。

中でも出雲はそれまで拠点としていた伽耶+土着勢力が大規模な戦争で敗れ、中国地方及び畿内に移動する。(物部氏)

高句麗勢力は出雲、尾張、日本海側を占拠するが、畿内に入る事ができず、やがて関東を中心とした東へ拠点を移動する。それが日本史では描かれていない関東日本国という大和朝廷と並存する規模の国であった。日本には古代から西と東には異なる国があったことになる。(古事記、日本書紀は日本支配の為の歴史書でそれら都合のわるい史実は残していない)

高句麗勢力が前方後方墳、土着+伽耶勢力(後に加わった百済勢力)が前方後円墳を形成して列島を埋め尽くすが、7世紀前半から始まる高句麗の弱体化―敗北によって国内の高句麗勢力は勢いを失う。以降は古墳築造が終焉し、それまで高句麗相手に連合していた伽耶系と百済系の争いが起きる。

一巳の変(645年)の蘇我氏殺害をもって優位をもっていた百済系が排除されていくが、蘇我氏の優れた外交、国内統合によって国家として祖形ができた日本は、その後登場した伽耶系の天武天皇、藤原不比等?によって継続されていく
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=305143


47. 2015年6月27日 08:27:40 : b5JdkWvGxs

日本の歴史(年表)第6回〜日本の私権時代の始まり(弥生時代)

上で概観した弥生ー古墳ー大和朝廷の時代を年表で貫通してみていきます。渡来人と土着人(弥生人も含む)が交錯する激動のこの時代は次の時代の律令を以って一旦安定します。


渡来人の系統にわけて見て行きます。

★百済、伽耶系渡来人の動き

■高句麗系渡来人の動き

□徐福系(古代豪族)の動き

☆弥生人(江南人)+縄文人の動き


《縄文晩期》
〜江南地方から少数で九州へ渡来、水田稲作が伝来〜

ただ、稲作は遅々として広がらず、九州地方にとどまる。
☆前10世紀 佐賀 菜畑で日本初の水田遺跡
☆前9世紀 北九州 板付に水田遺跡
☆前7世紀 有明に水田遺跡

呉越戦争 
前473年 呉が敗北 敗者が日本、朝鮮半島に流れる
敗者とはいえ戦争経験者の呉の難民が集団規模で日本に渡来。
朝鮮半島にも稲作を伝え、後に馬韓、弁韓といった江南人のクニを作る。

《弥生時代》
〜日本での私権社会の始まり〜
☆前4世紀 呉人渡来。吉野ヶ里に大規模集落が発生。
    環濠集落 2ヘクタール。高床式住居 多数の戦争跡
☆前220年 北九州で日本初の戦争跡〜クニの統合が進む。

前314年 越が楚に敗北。越人が大量に日本、朝鮮に流れる。
  ⇒九州は呉人のクニがあるので、出雲から新潟にかけて越人が居住。
   今でも日本海側に越の地名が残っている。

☆前140年 青銅器(九州は武器、近畿は銅鐸)を用いた祀り、葬送が始まる。日本で金属器文化が始まる。

前221年 秦始皇帝 中国を武力で統一
□前219年 徐福が老若男女3000人(技術者集団)を率いて日本に亡命
  各地にバラバラに居住し、古代豪族(秦氏、葛城)の基盤となる。


〜北九州にテクノポリス〜
★1世紀〜2世紀 海を跨いで伽耶と九州に鉄の王国(倭国)が出来上がる。伽耶はその後金官伽耶に、九州は日本側の拠点として以後3世紀まで
継続する。金印を授与され奴国と呼ばれるが日本での独立国家ではなく朝鮮半島の拠点。

□1世紀前後 畿内に巨大集落 唐古鍵遺跡が登場する。徐福の末裔が畿内に集結する。

★2世紀 伽耶から来た物部氏が九州を避け出雲、岡山に拠点を作る
★九州の勢力で負われた部族が瀬戸内から畿内に移動。高地性集落発生。


〜高句麗人渡来〜
■2世紀 高句麗が魏に追われ、朝鮮半島を南進。新羅、伽耶を押さえ、日本列島に拠点を作り始める。

■2世紀〜3世紀 鳥取県 青谷上寺地遺跡に53体の戦争遺体の人骨
■高句麗一派が弥生人を駆逐し、出雲に拠点を作る。4隅突出墓は高句麗にしかない様式。
 ⇒乱暴者スサノオ伝説は高句麗がモデル。
 ⇒☆出雲の原住者(オオクニヌシ)は追われて畿内(三輪山)へ移動
  〜出雲神話

3世紀 青銅器遺物がこの頃なくなる。《弥生時代終結》
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=305334


48. 中川隆 2015年6月28日 12:12:16 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

日本の歴史(年表)第7回〜日本の私権時代の始まり(古墳〜大和朝廷)


=渡来人の系統にわけて見て行きます。=


★百済、伽耶系渡来人の動き

■高句麗系渡来人の動き

□徐福系(古代豪族)の動き

☆弥生人(江南人)+縄文人の動き


《古墳時代》
☆□3世紀半ば奈良の箸墓に280mの最古の巨大古墳が登場
 高句麗勢力に押されて畿内で戦争圧力の上昇
 唐子・鍵遺跡を作った徐福系(葛城)と出雲から逃れた伽耶系(物部)が合流する。

☆3世紀の邪馬台国があったとされているが、畿内でも九州でもなく、邪馬台国の場所は日本ではなく、倭国(朝鮮半島)にあった模様。刺青の風習からして江南人文化圏。184427


■4世紀 前方後方墳による高句麗勢力の拡大
 出雲⇒尾張⇒関東へ
  〜畿内は古代豪族(葛城)の拠点で落とせず。

■5世紀〜 長野に馬文化の登場(大室古墳群)〜高句麗勢力による開発
  関東に高句麗勢力+縄文人によって作られた大和と相並ぶ関東日本国が形成される。

5世紀 新羅、高句麗に押され百済が弱体化
★百済の高官 蘇我氏が日本亡命
  以後の百済渡来人を組織化、結集する。

★513年 仏教の伝来(百済から五経博士)

《大和朝廷時代開始》
★6世紀 巨大古墳の築造 畿内の伽耶人+土着集団に百済人が合流。
 河内へ拠点が広がる。世界最大の構造物である仁徳天皇稜が築造
 渡来人の間で発生する戦争圧力を古墳競争で昇華。

★527年 磐井の乱 弥生から続いた九州勢力が大和に組み込まれる 

6世紀 高句麗本国の滅亡の危機。国内高句麗勢力弱体化

〜天孫降臨伝説〜アマテラスは百済人?

★587年 蘇我氏が物部(守屋)を滅ぼす。
  伽耶系から百済系へ。蘇我氏による中央集権国家の基礎が作られる。
  仏教、屯倉の管理、戸籍制度、土木開発、寺院建設など進む

★6世紀 推古天皇〜最初の女帝(推古はたぶん土着系)

★593年 聖徳太子摂政になる。17条憲法
    聖徳太子は架空の人物。蘇我氏自身の可能性が大。

★600年 遣隋使 日本国を名乗る。天皇を名乗る。

★645年 一巳の変〜蘇我氏殺害《伽耶系の反乱》
★645年 大化の改新
    改新はしておらずほとんど蘇我氏のシステムを転用。
    以後、蘇我氏の中央システムが律令時代まで続く。

★646年 薄葬令により古墳築造禁止
《古墳時代終焉》

663年百済滅亡
★663年白村江の戦いで敗北 勝目のない百済奪回を目指す謎の戦争
   伽耶勢力が国内の百済人減らしを目論んで仕掛けた可能性大

★664年防人制度 九州に水城作り唐の圧力に備える。
   この時代が最大の外圧

668年高句麗滅亡

★672年 (伽耶系)天武天皇即位 実質初代天皇 西日本統一
★701年 大法律令成る
★710年 平城京へ遷都
《奈良時代開始》
★718年 (伽耶系)藤原不比等による養老律令成る(不比等実権を握る)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=305365


49. 中川隆 2015年6月28日 12:42:37 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
上の年表には

聖徳太子は架空の人物とか、邪馬台国は朝鮮半島にあったとか

滅茶苦茶な主張もありますが、そこは読み飛ばして下さい。


50. 中川隆 2015年7月06日 21:20:42 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

日本の歴史(年表)第8回〜奈良、平安時代は日本の胎動期
 

奈良、平安時代の500年間を見ていきます。

先の投稿でも触れたが、日本は土着民(縄文人+弥生人(縄文人と江南人の混血))に朝鮮半島からの伽耶、百済、高句麗の敗族が渡来し、住み分けた国である。ただ、伽耶系、百済系は勢力争いを続け、百済系の蘇我勢力が追い落とされて以降はその両者は凌ぎを削る争いを続けながら、土着民とは一線を画した貴族文化を形成していく。

一方、高句麗系は関東から東北にその基盤を作ったが、本国が消滅して以降は土着民の中に埋没していく。しかし、鎌倉時代の前には武士として頭角を現していき、後の時代の幕府勢力を作るまで盛り返していった。

こうして朝鮮半島の3つの勢力は江戸時代にいたるまで脈々とその系譜は流れていった。そういった史観の中で時代を見ていきたいと思う。

【奈良時代】

奈良時代は藤原不比等が実権を持つことで、天皇制度が換骨奪胎していく。2番手の太政大臣である不比等が全権をもったのである。天皇は祭祀のみを扱う職に転落し、以後の時代まで続いていった。

古事記や日本書紀で歴史を捏造し、租庸調雑徭、戸籍制度が敷かれ、唐を模倣した中央集権国家として上級貴族に富が集中、三世一身法、墾田永世私財法によって土地の所有を部分的に認め、日本で初めて私権社会のしくみを作る。

同時に国家力を高める目的で各地に国分寺を建設、仏教を国家仏教として定着させる。同時に中央には金色の東大寺大仏を作りその力を示した。

平城京では日本初の市場である東市、西市が出来上がる。
貴族、寺院を中心に初期荘園が開始した。

奈良時代は基本的に唐を模倣する時代で天平文化として建物、彫刻が作られる。遣唐使は630年〜894年の間に20回、遣新羅使も675年〜779年の間に22回行われ、大陸、半島文化を積極的に取り入れた。

不比等亡き後は皇族系(百済)と貴族系(伽耶)で抗争が繰り広げられ、長屋王の変など有力者が殺される事件が相次ぐ。災害、伝染病が流行し、庶民にとっては受難の時代でもあった。


【平安時代】

平安京を建てた桓武天皇は百済系である。それまでの伽耶ー百済の争いに終止符を打つ為に京都に中心を移す。桓武の後の嵯峨天皇まで唐風文化一色に染め上げ、日本はこの時代最も中国に近い国になる。

ただ則天武后が就いて以降、唐の国内が荒れ始め、それまで唐の脅威に怯え、ひたすら国づくりを続けてきた状況が一変する。

新羅、唐の圧力が弱まった事でその兵力を国内統一に向けた。それが平安初期に起きた蝦夷討伐である。それまで縄文時代の延長で継続してきた東北地方に支配の手が伸びた。象徴としてアテルイを京に連れ戻し処刑するといった行為で力を示すが、所詮遠方の東北、以後も東北の縄文体質は残り続ける。

それ以降に平安貴族による内向きの歴史が始まる。文学、食、建築に現れ、やがて女性中心の貴族社会が日本初のかな文字を生み出す事になる。

平安貴族文化は政治より恋愛に暮れ、力のある者(藤原)は己の地位を固める事だけに終始した。

907年に唐、935年に新羅が滅び、大陸の外圧が弱まると必然的に国内統合の圧力も弱まる。平安時代中期には奈良以降続いてきた律令制度は機能しなくなり、国内は無秩序な社会に突入する。受領という職を作り税の徴収を一任するが、人格も無く内実が伴わない受領達は各地で混乱を引き起こす。

農民は自らの生きる場を守る為に武力を用意し、防衛した。それが武士の始まりである。日本における武士は西洋の騎士と大きく異なり、戦闘や侵略で始まったのではない。大衆が自衛するための必要な武力だったのである。農民の中から武士は誕生し、地方をまとめる位置に最下層の貴族だった平家、源氏が登場した。この時代に農業開発(荘園)、貿易(日宋貿易)が盛んに行われ、瀬戸内海で海賊が跋扈し、東北では奥州藤原氏が頭角。畿内中央から地方の時代に移行する。

武士は10世紀に関東で最初に登場し、坂東武士達が連合を組んだ。平将門が東に建てたのが坂東武士(高句麗系の末裔)を中心とした武士連合であり、短期的に天皇に対抗する東の独立国家を形成した。以後鎌倉まで連綿と東の武士集団が継続し、将門の乱が起きて250年後にまったく同じ地に日本初の武士の国(鎌倉幕府)が登場した。この幕府は源氏が主導したが、高句麗系の東の勢力が実権を持ち盛り返したと見ることも出来る。

平安時代400年の国内は決して平安ではなく激動だった。そして、渡来文化が日本の風土に合わせて租借改変され、後の日本の仕組みが生まれる胎動期でもあった。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=305628


51. 中川隆 2015年7月18日 11:35:47 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

日本の歴史(年表)第9回〜奈良時代の年表(国家作りという名の唐模倣)
 

奈良時代の90年間は藤原不比等が立ち上げ、手中に権力を集中させたが、唐の外圧が高まる中、模倣と防衛、国内的には権力の主導権争いに終始した非常に混乱した時代でもあった。国家仏教に代表されるように中央から地方へ、大衆へとその圧力がまだ届いていた時代でもあった。


■国家統合□私権制度★主導権争い☆市場・外交関係△大衆 に分けて年表を作成する。

■701年 大宝律令成る 持統天皇による律令の立上げが為される

★708年 藤原不比等右大臣へ登用 実質ここから不比等に権力・冨が集中する。(不比等の年収は一般の官人の1000倍)⇒同時に天皇は神事と象徴として実質権力を失う。

△690年 戸令により戸籍制度が作られる。
 ⇒大衆は国から土地を与えられる代わりに戸籍に登録される。

△租庸調雑役によって大衆は税を搾り取られるが、大衆側からは取立てという概念はまだなく、存続するために納めるという義務の意識が高かった。

相次ぐ私有制度の制定

□723年 三世一身法により土地私有を国が認める。(但し3世代まで)
 ※真意は新田の開墾を推進する為と、そこからの徴税にあった。

□743年 墾田永年私財法 開墾すれば私有できるという制度で墾田の永年 私財を認める⇒寺院中心に拡大し、後の荘園制度に引き継がれる。
 ※三世一身法ではぬるいとしてさらに私有意識を高めた。

□8世紀後半〜寺院を中心とした荘園制度が広がる。
〜開墾面積は一気に拡大

■710年 古事記(国内向き統合)
 712年 日本書紀(唐向きの発信)が相次いで編纂
 〜編纂者の名はあるが、実態は不比等の命で作られた歴史捏造書。
 権力と史実(捏造した)により、必然として不比等は君臨した。

■718年 養老令成る 藤原不比等による発布。但し施行されるのは40年後

国家仏教の動き

■645年 仏教興隆の詔 仏教を国家として推進する声明が出る
背後には唐の外圧〜仏教の教義より、側としての仏教が必要だった
唐の職人、技術を輸入し、仏教建築、仏像が先行して作られる。
〜大衆には全く広がらない。

仏教を中心とした文化=天平文化(729年〜745年)が官人中心に広がる。
中央の仏教建築
■726年 東福寺■730年 薬師寺■745年 東大寺起工
■752年 東大寺大仏 正倉院

■737年 諸国に造仏命ず
■741年から地方に国分寺を建造する
■官人要請として学校制度が始まる
 大学(中央官人) 国学(地方官人)で学生は400人〜30人で運営
 唐の科挙に倣ったが、科挙に代わる制度は最後まで日本には根付かず。

■759年 万葉集〜国内で初めて文学が広がる
■749年 行基〜仏教を推進、同時に土木工事を各地で施行
■763年 鑑真〜中国から渡来、戒律を伝え、国内での思想仏教の始まり。

権力争い

天皇は奈良時代を通じて8代続くが、女帝も多く、実権は藤原氏(伽耶系)と他皇族(百済系)で交互に奪い合った。
720年不比等亡き後は長屋王(皇族系)が奪取

★729年 長屋王の変
★729年ー737年 藤原氏が奪い返すが、4子が次々と病死
★740年 藤原広嗣の乱では1万人の兵がぶつかる
★737年 橘氏が就くが、聖武天皇が転々と遷都を繰り返す。
その後は藤原氏と皇族氏の武力を用いた戦争が続く。当然国内統合は乱れ、その間に荘園制度が進む。

平安京を起こした桓武天皇は蘇我系から連なる百済系の一派で、藤原家からの権力奪取と天皇中心の中央集権を目指し、奈良を捨て、京都へ移る。
国内的にはここで権力中枢の転換が起きる。

外交関係

奈良時代は唐の外圧が徐々に弱まる課程にあったが平安に入るまではひたすら唐を模倣する形が続いた。唐が弱体化する9世紀以降に激減し、無くなる。

☆遣唐使 630年〜894年の間に20回(但し奈良時代が過半)
☆遣新羅使 675年〜779年の間に22回(同上)

一方で渤海との関係は唐、新羅の2国とは異なり、貿易、交易という関係で民間中心に継続した。交易品は昆布や人参、干魚といった実物だった。
☆渤海使 727年〜919年の間に33回
☆遣渤海使 728年〜811年の間に13回

唐に脅威をいだいていた朝廷は
758年 大宰府を作り、防人を全国から集める。いわゆる自衛隊である。

市場の始まり

☆平城京では東位置、西位置が行われ、全国の珍物が並ぶ。
708年和同開珎の銅銭が国内で初めて作られるが、貨幣経済には移行していない。

△大衆は重税の重みに耐えかね、徐々に逃亡、奈良時代半ばには戸籍制度が崩れ始める。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=306106


52. 2015年7月22日 08:42:05 : b5JdkWvGxs

日本の歴史(年表)第10回〜平安時代の年表(武士の歴史は私権社会に対する集団防衛から始まった)
 

>平安時代400年の国内は決して平安ではなく激動だった。そして、渡来文化が日本の風土に合わせて租借改変され、後の日本の仕組みが生まれる胎動期でもあった。


先の投稿でこのように定義したが、平安時代とは日本社会が受け入れがたい私権社会に突入する過渡期であり、混乱期でもあった。そういう中で集団防衛の為に登場したのが武士であり、その武士達を組織化する為に新たな源氏ー平氏といった勢力争いが起きた。

平氏は桓武系列で百済系、源氏は藤原系列で伽耶系と見る事もできるし、後の北朝が源氏、南朝が平氏としてみる事もできる。いずれにせよ日本にはこの2つの勢力が長く明治時代まで残り続ける事になる。しかし、関東にこの2つの勢力が集結したという事は関東で力をつけてきた高句麗勢力が水面下に存在していた事を匂わせる。その高句麗末裔の一派が無類の強さであった坂東武士達であったのではないかと推測できる。


平安時代は最初の100年、次の100年、最後の200年間で大きく分けて見る事ができる。今回は最初の200年間を年表に表してみます。

桓武天皇が藤原系から権力を奪取するところから始まります。

□百済系(南朝) ■藤原系(伽耶系・北朝)★武士(高句麗系)△大衆
☆争い

□781年 桓武天皇即位
□784年 長岡京遷都
□794年 平安京遷都 百済系の桓武故により唐風文化が強まる

△795年 公出挙率を3割減らし、雑徭半減⇒大衆の締め上げを減らす。

☆桓武の後の平城天皇で再び平城京に遷都するが、直ぐに嵯峨天皇が対立し再び平安京に遷都 806年

□816年 検非遣使を京に置き、警備を強化する。
    国家中枢による武力社会が進行する

東北制圧

蝦夷を配下に置くことは大和朝廷からの積年の課題であった。
古くは斉明天皇時代の阿部比羅夫の658年蝦夷進行に始まる。
以降、奈良時代にも数回に渡り蝦夷へ兵を送り柵を造営する。

☆724年 大野東人 多賀城設置

唐の圧力が弱まった平安時代、兵力を一気に国内に向け、本格的に蝦夷制圧が始まる。788年から攻め続け、アテルイ初めとする東北の縄文末裔の集団である陸奥制圧に50年かけて到達する。

☆788年 蝦夷制圧進出
☆789年 朝廷軍 アテルイに大敗
 797年 坂上田村麻呂 日本初の征夷大将軍
☆801年 蝦夷制圧
☆803年 アテルイ降伏 陸奥に胆沢状築造
※京に検非遣使を配備し、蝦夷の武者をその任に就かせた。


平安初期の唐風文化

国家仏教は平安に入っても継続。建物中心の奈良時代から思想、教義中心の中身を伴うものを求めた。しかし唐の仏教は国内に入って改変され、結果的にはその後の神仏習合に繋がる租借が行われた。

一方で仏教はその統合力が為政者に利用され、最澄を初めとする天台宗は国家と密接に繋がる特権集団になっていく


804年 最澄による天台宗開祖
806年 空海が密教を持ち込み真言宗を開祖
唐風文化は嵯峨天皇の時代に終わり、以降は唐文化を日本流に改変する平安文化が京都で育っていく。

それはその時期に唐と朝鮮半島で時代交代が進み、一時的な無風状態になった事と符合する。

この間の大陸との関係、大陸の動き

779年 遣新羅使中止
894年 遣唐使中止(但し平安時代には数回しか遣唐使を出していない)
907年 唐滅亡
935年 新羅滅ぶ
936年 高麗による朝鮮半島統一
960年 宋建国

その間に朝廷、貴族で女流中心の文化が生まれる。⇒かな文字の登場
万葉仮名から11世紀には女手と呼ばれ、それがかな文字となって登場。
11世紀後半には片仮名も誕生する。

9世紀〜11世紀の間に文学が登場
9世紀 竹取物語
10世紀 伊勢日記、古今和歌集、土佐日記
11世紀 枕草子、源氏物語

しかし、この200年間は朝廷が社会から浮世として切り離された為、世は荒れ、秩序は混沌としていた。

天皇家中心の政治は嵯峨天皇以降再び藤原家に乗り換えられ、摂関政治として以後1075年の藤原師実まで続く

■884年 藤原基経
■901年 菅原道真
■995年 藤原道長

★武士の誕生はそういった中央と地方の分断の中から発生した。

901年 延喜の荘園整理令
 これ以降、荘園私有(寄進系荘園)が広く認められ、有力農民が土地を所有し開発領主に成長する。負名の登場⇒後の武士になっていく。

■同時にそれまで国司によって中央から派遣されていた税の取立てが、言わばサラ金のような受領という役職にとって代わられ、受領の横領によって地方の税は収奪され、そこから守るための自衛組織 武士が登場した。

★武士は国の直轄のものと地方から成り上がってきた物に分かれたが、最も武力を有し、頭角を現してきたのが関東中心の坂東武士に象徴される防衛組織だった。

□935年〜940年 平将門の乱は彼ら土着武士を組織化し、朝廷に対抗する東の国を一時期作り上げた。

■平将門を平定したのは清和源氏の源氏系武士だった。
以降、平氏対源氏と言った武士を統括する勢力争いが起き、それが平安時代の後半の歴史に繋がっていく。

平氏と源氏の争いもまた百済系と伽耶系(土着系)の争いでもあった。
しかし平氏は海洋系でもあることから明確な百済系ではない。おそらく縄文土着と弥生系混血の海洋民(安曇族達)を百済系が取り込んで勢力を拡大しようとしたのだと思われる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=306117


日本の歴史(年表)第11回〜平安後期から鎌倉は源氏支配の安定期
 

平安時代後半から鎌倉時代を見ていきたい。

この時代は平安前半の百済系貴族と藤原家との折り合いをつけた腐敗政治につけこんで源氏と平氏が頭角を表した時代だが、結果平氏は滅び、源氏が支配権を広げる形で鎌倉時代まで続く。鎌倉時代は幕府ができ、初めて東日本に日本の中心が移動したが、後の江戸時代と同様、東日本(高句麗系)の武士を味方につけ、安定した時代でもあった。

この時代にモンゴル率いる世界最強の軍勢を退けたのも、鎌倉幕府の統治の力であった可能性がある。

この時代の年表を振り返ってみたい

★百済系=平家=南朝 ☆伽耶系=藤原家=北朝で見ていく

★1129年 鳥羽上皇により院政が敷かれる。天皇が実権を握れない摂関政治に対する反発でもあった。
★1179年 後白河天皇の時代に院政終わる
★1156年 保元の乱、1159年平冶の乱で平氏が源氏を圧倒
★1180年〜1247年 日宋貿易 平氏は莫大な経済力を得る
 平氏が海洋系武士であった事が優位に
☆1083年 平氏に追われた源氏の一派(義経)が東北地方に進出
 土着武士であった清原氏率いる奥州藤原が東北を支配する。
 清原氏は藤原氏を途中で名乗る。
★壇ノ浦の合戦で源氏が平氏を滅ぼす
☆1189年 源頼朝が奥州藤原を平定し、源氏の東北支配を確定
☆1192年 源頼朝が征夷大将軍に命じられ、鎌倉に幕府を建てる

 ※北条氏と婚姻し、天皇家と混血を結ぶ
 鎌倉幕府の最大の特徴は東国支配にあり、この時初めて東西を支配する勢力が日本に誕生する。

国外の動きはモンゴルの台頭で一変する

1206年 チンギスハーン即位
1231年 モンゴルが高麗を攻め降伏に
1260年 フビライハーン即位
1271年 元王朝 初めて中国がモンゴルの支配下に落ちる
 日本はこの時代、南宋と交易を続け、モンゴルの反発を買う

1274年〜1281年 元寇によるモンゴルの攻勢が続くが、1281年文永の役での神風も味方してモンゴルを排除する。

鎌倉時代は平安後期に登場した武家社会を確固たるものに固めていく。
そういう中で、農業生産が飛躍的上昇し、それまでの荘園ー小作農という関係から、有力農民が自力で村を作る惣村が14世紀前半に畿内で登場。
〜以後、民衆の力が台頭する(共同体の再生)⇒後の一揆に繋がる

一方で、仏教はそれまでの国家宗教から民間宗教へ移行
いくつもの宗派が生まれ、その中で浄土宗、浄土真宗が拡大。本願寺が力を持ち始める。国家仏教は天台宗として継続。天台宗は武力を兼ね備え、その後仏教界で対立を引き起こす。

1333年 源氏の一派である新田氏、足利氏の反発により、北条氏を押さえ、鎌倉幕府が終わる。

★後醍醐天皇を隠岐に流し、足利氏による室町幕府が再び京都に誕生する。

その後、南朝を作った後醍醐天皇と北朝の足利氏の間で南北朝戦争が始まる。室町時代は再び百済(南朝)ー伽耶(北朝)の争いが勃発した不穏な時代であった。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=306224


53. 2015年7月27日 10:07:29 : b5JdkWvGxs
大和朝廷の誕生から明治維新まで〜不比等を百済系として組み立てなおす
 

※これまでの日本史の解説の中で1点大きな誤りあった。蘇我氏を百済系とし、藤原不比等を伽耶系とした所である。これで歴史が見えなくなっていた。今回、蘇我氏を高句麗人、不比等を百済人として組み立てなおした。以下がそのストーリーである。この方が現在に繋がってくる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大和朝廷が誕生する前夜には日本列島には江南系、伽耶系と高句麗系が入り込んでいた。また前200年に渡来した徐福系(江南系)も畿内を中心に各地に配置されていた。

しかし渡来人はまだ少数で、土着の縄文人と混血し、江南人⇒弥生人、伽耶系⇒倭人、高句麗系⇒縄麗人(造語)が混在していた。

2世紀後半に出雲を高句麗系が支配し、それまで出雲に居た土着江南系を排除。江南系はそのまま畿内に移動する。畿内は既に徐福系の末裔である葛城が牛耳っていたが江南系故に馴染み合流する。

一方、伽耶系出自の物部氏は鉄のルートを持っており、高句麗系が前方後方墳で勢力を拡大するとそれと対抗するように前方後円墳を中国地方を中心に作っていく。
この前方後円墳のネットワークに加わったのが畿内にいた徐福系葛城である。3世紀に巻向に古墳を築造してしばらくは高句麗と対立する。高句麗系は中部地方、関東に拠点を移し、関東に「日本国」を建立しにらみ合いが続く。

しかし、6世紀に大陸からの外圧が高まると高句麗の高官である蘇我氏を取り込み、それまで対立していた伽耶―高句麗―江南系が一つになった。蘇我氏を登用したのは徐福系の葛城だが、それに異を唱えた物部系と対立、物部―蘇我氏の対立から蘇我氏は物部を排除する。

一方6世紀後半から本国の敗走により続々と渡来する百済人が大和朝廷に合流するが、上で管理する蘇我氏が邪魔として、クーデターを起こす。蘇我氏暗殺である。
以降は百済系の天智―藤原(鎌足)が政権を取る。百済奪還を試みるが、敢え無く敗北。そこに滅亡した国、百済の高官不比等が渡来する。不比等は藤原鎌足の息子と成り代わり、持統天皇の元、太政大臣に昇格。その後の日本の律令を定めていく。

ただし、不比等は渡来して百済の後ろ盾がなく、止むを得ず土着伽耶系の豪族と手を組む。奈良時代とは百済系不比等と伽耶系豪族の連合政権であった。奈良時代に勃発した権力闘争は、百済系対伽耶系での主導権争いで、そういう意味では奈良時代は百済系の純粋王朝ではなかった。不比等が最も消したかったのは蘇我が立ち上げた高句麗系の日本の律令史であり、自らの百済の出自だった。不比等の系譜を日本古来から存在する藤原に仕立てたのだ。日本書紀、古事記はその為の歴史書として編纂され、日本の捏造史と併せて百済、伽耶が都合よく書かれた。

平安遷都は桓武天皇によってなされるが、それまで伽耶系が混在する奈良から決別する目的もあった。従って桓武天皇は平安朝になるや否や、百済系で周りを固め、唐風文化を極端に推進する。平安時代は桓武―嵯峨天皇の後再び藤原家が摂関政治として中心になるが、藤原家が試みたのは唐風ではなく日本風だった。平安貴族200年の間に文学が発展し、日本独自の文化が生まれたのは、藤原の意図と重なる部分があったのではないか。

平安時代は後期に武士の時代に突入する。武士の中核をなしたのは高句麗の末裔たちだ。

馬を操り、戦争にも強かった高句麗系を取り込むのは朝廷の積年の課題だった。

平氏、源氏といった最下層の貴族たちが武士の管理に借り出されるが、百済系に仕えた平氏がその海洋民としての力で一時期財を成すが、都落ちし関東に基盤を作った源氏に後世に滅ぼされる。源氏は高句麗系の坂東武士をまとめる事で鎌倉幕府を立てる。

以降、鎌倉は高句麗系武士と伽耶系源氏といった相性のよい関係から、平安時代の律令に対し、民衆の自治を重視する大衆政治が行われる。仏教が大衆に広がり、惣村も立ち上がる。言わば百済系律令からの脱却の時代だった。

室町は源氏系の新田、足利がその大衆自治路線をそのまま京へ持ち込んだ。百済系はこの時点で完全に水面下に下る。南北朝戦争はそこからの逆転を狙った南朝(百済系)の謀略だった。

このように天皇家は長らく百済系が握り、一方で幕府、武士階級は伽耶系、高句麗系が担っていた。戦国時代には尾張の武将、信長、秀吉が台頭するが、彼らもまた土着伽耶系或いは高句麗系の由来だったと思われる。キリシタンを再三にわたって排除した事や、天下統一を争いをなくす為に果たそうとした信長の意思は大和朝廷のそれと似通っている。

さらにそれを推し進めたのが家康である。鎌倉幕府同様、日本の東を押さえたことで安定政権を取る。大衆自治を推進した家康もまた高句麗系由来の武将だった可能性が高い。

日本はこのように武家社会が高句麗系(伽耶系)で固められ、一方で天皇、公家が百済系で固められた。明治維新はその構図を逆転する為に起こした百済天皇家のクーデターである。

金貸しがその構図に気が付き、そそのかしたのである。明治―昭和とそれまで単なるお飾りにすぎなかった天皇が主権を担うようになる。日本の事などどうでもよい連中が主権を取ったのである。結果は火を見るより明らかだった。明治が日本社会の崩壊期の始まりであり、平成になった現在でもその系譜は途絶えていない。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=306362


54. 2015年7月27日 17:01:25 : zorfcU9oeI

沖縄方言は日本語だから当然だ。
沖縄出身女優・仲間某は日本が大嫌いな反日らしいが、変なの。
御主人は誰かにウリ二つだし。

韓流研究室
http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-3259.html

★沖縄人ルーツ「日本由来」 
 南方系説を否定
 沖縄タイムス 9月17日(水)6時0分配信
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140917-00000005-okinawat-oki ☜(削除)


55. 中川隆 2015年10月06日 14:39:12 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

13 :記憶喪失した男(愛知県):2015/10/02(金) 17:51:50.92 ID:p9E9p5WU

日本人Y-DNAハプログループ比率
D1b--32%
O2b--32%
O3---20% (漢皇帝家5%、周王室9%)
C2----6%
C1----5%
O2a---1%
O1a---1%
N1----1%
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等)サンプル数2390


今、注目しているのは、ミトコンドリアDNAのBハプログループはタヒチの女性のハプロで、 非常に筋力があるといううわさです。2000キロの海を渡った古代人女性のハプロに興味があります。
また黒人選手が運動では強いですが、その遺伝子的根拠にも注目したいです。

14 :記憶喪失した男(愛知県):2015/10/02(金) 17:52:17.63 ID:p9E9p5WU

不勉強ながら、中国皇帝家のY染色体ハプロを書きます。

殷   O2a-M95 (O3だという説も有力)
周   O3a2c1a-M117(確定。この子孫は大繁栄した)
秦   O3a2c1a−M133(始皇帝は周王室と同祖)
項羽 O3a3b*-M7
漢   O3a1c-002611
曹魏 O2*-M268(xM95) (O2だと確定してますが、O2aなのかは未確認)
孫呉 O3*-M122(xM324)
晋   O2*-M268(xM95) (謎)
北魏 O3a2c2−F444(どうやら北魏の鮮卑の拓跋氏の子孫はO3のハプロのようだ)
隋   O3a2c1a-M117  (周王室と同祖)
唐   O3a3*-P201(xM7,M134):O3a2c1a−M133(唐は始皇帝と同祖)
宋  O3a2c1a−M133(宋は唐と同祖)
元 C2e1a1a−C407(有名なチンギス・ハンの子孫)
明   O2*-M268(xM95) (O2aで確定)
清 C2b1c1−C401(ヌルハチの子孫)

おまけ。
孔子 O−F316(O3で周王室と同祖になる)
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1443702463/l50


56. 中川隆 2015年11月30日 13:52:40 : 3bF/xW6Ehzs4I[1094] : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw

アジア史の中の日本1(縄文・弥生時代)


●モンゴロイドの形成と拡散

日本古代史を考える上でも、自然圧力(気候変動→食糧生産技術の発展)と同類圧力(縄張り闘争→外交・戦争)が重要であり、同類圧力については中国大陸や朝鮮半島からの人口や文化・制度・思想の流入、更にはモンゴル高原やチベット高原の遊牧民たちの動きを抑えることが重要である。

モンゴロイドは中央アジアを中心に北方適応した北方モンゴロイドと、東南アジアのスンダランドで南方適応した南方モンゴロイドに分かれる。日本には南からも北からも様々な遺伝子タイプのモンゴロイドがやってきた。主力は縄文人の中核をなしているD2タイプだが、原中国人の流れを汲むO1、O2タイプ(稲作を日本に伝えた倭人)、新モンゴロイドO3(いわゆる天孫族)、原モンゴロイドに近いC1タイプ、現在のシベリアに多く存在するC3タイプもいる。

ブリヤート人と日本人の共通遺伝子C3に注目した日本人北方起源説が注目を集めているが、縄文時代の中心勢力はD2。彼らはモンゴル高原周りで入ってきているが、モンゴル高原に定着していた時期は温暖期で、北方適応することなく日本に入ってきている。従って、縄文人の主流は、南方モンゴロイドによってつくられた。

●私権闘争に突入した中国と、贈与外交で戦いを回避した日本

中国では、南方モンゴロイドが長江を中心に稲作・漁撈文化を、北方モンゴロイドが黄河を中心に畑作文化を形成。西方・北方にはチベット族、モンゴル族、ツングース族が遊牧・狩猟文化を形成した。人口増で同類緊張圧力が高まると、北方から父権社会に転換。私有意識が登場する。寒冷期には遊牧民が豊かな黄河に侵入、夏(チベット族)→殷(モンゴル族)→周(チベット族)といった国家を作り出した。初期中国文明は、西方のチベット族と北方のモンゴル族の中原を巡る覇権争いであった。

この頃、日本列島でも集団規模が拡大し、同類緊張圧力が高まったが、黒曜石や翡翠を贈与しあうことで緊張を緩和し、戦争を回避した。そして次第に巫女が力を持つ母権社会を形成していく。

●遊牧騎馬民族によって作られた中国・朝鮮の封建社会。大陸・半島の没落貴族たちを受け入れ出来上がった日本の豪族社会

中原の覇者となった周は王の血縁者を地方の諸侯として送り込み、地方を徳を持って統治させる封建制度を始めたが、後代になると、諸侯の反乱が起こり、春秋戦国時代に突入した。その争いの中で、長江流域=江南地方に栄えた呉・越が滅び、更に楚が滅んだ。そして江南人(倭人)が朝鮮半島南部と日本にも流入し、稲作文化を伝えた。

朝鮮半島は三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の時代を迎える。馬韓・辰韓は、北方のツングース扶余族の侵攻を受け、国家体制を強化していったが、南方の弁韓→伽耶は部族連合的色彩を強く残した。

日本の縄文人たちは寒冷化によって稲作文化は受け入れたが、北方騎馬民族の侵攻を直接的に受けることはなかたので縄文時代の友好関係を延長した銅剣・銅矛のネットワークが作られていった。(縄文人×倭人=弥生人の形成)※倭人世界は日本列島だけでなく、朝鮮半島にも広がっていたことに注意が必要。鉄の産地である伽耶と日本を行き来していた海人族のネットワークによって、日本の稲作文化は急速に広った。

寒冷化に伴って匈奴による中原への侵攻が激化すると、匈奴に対抗する長城をつくり、下克上の時代を統一したのが秦。西方文明を取り入れユダヤ人説もたえない秦の始皇帝は、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)を行い、徳に変わって厳罰主義の法家の思想で支配した。それを逃れて日本に大船団でやってきた徐福一派が、最新技術を日本に広め、秦氏など古代豪族の基盤をつくった。(なお徐福は秦に最後まで抵抗した斉に住んでいた越人であったとの説あり、先住の弥生人たちも喜んで受け入れたのだろう)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=309774

アジア史の中の日本2(古墳時代)

●統一国家に向かう中国・朝鮮と権力誇示のための古墳競争を繰り広げた日本

寒冷化で遊牧部族の争いも激しくなり、ツングース系の鮮卑族が中国に侵攻し、魏→隋→唐を建国。均田制、科挙制度、仏教によって支配体制を固めた。このように漢民族は遊牧民を侮蔑しているが、実は中国の基礎は寒冷化の度に押し寄せてくる遊牧騎馬民族がつくったのである。

中原を巡る争いは朝鮮半島にも飛び火し、特に伽耶の鉄の交易を巡って、漢が直轄地(楽浪郡・帯方郡)を置くなどの動きを見せ、混乱を極めた。魏志倭人伝にいう倭国大乱とは実は、この時期の朝鮮半島における動乱を指し、邪馬台国も実は朝鮮半島にあったとする山形明郷説が最も妥当性が高い。半島ではこうした大陸と半島の動乱は、高句麗が楽浪郡・帯方郡を滅ぼすことで一旦終結し、百済・新羅の国家体制の確立をもたらした。        

絶えず、北方の騎馬民族の流入に悩まされていた大陸と半島の諸国には、海を渡って日本を直接支配するような余力はなく、むしろ高句麗にしろ百済にしろ日本の援軍を頼る関係であった。従って、大陸の動乱は日本には間接的な影響に止まり、豪族連合の結束強化という動きとなって現れた。その結果、前方後円墳や前方後方墳といった同形の古墳ネットワークの拡大競争が繰り広げられ、古墳は巨大化していった。

奈良巻向を皮切りに西日本を中心に広がりをみせた前方後円墳は、葛城氏ら西の海人族系豪族を中心に作られた、西の古墳人の豪族連合である。また前方後方墳及びその前駆形態である四隅突出墓は、出雲から東海・長野を始め東に逃れた、新羅・高句麗系の東の古墳人の豪族連合である。この古墳競争は、高句麗・新羅連合が百済・伽耶を消滅させ、高句麗系蘇我氏が伽耶系の物部氏を屈服させたことを持って終結する。

なお聖徳太子(その実態は蘇我氏)が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と隋との対等関係を強調したのは、蘇我氏が隋と同格のツングース族の長の末裔であることの証明であろう。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=309779


57. 2015年12月01日 22:37:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw

アジア史の中の日本3(平安時代)

●百済の没落貴族=藤原不比等によって改竄された日本の歴史

中国は隋、唐と、ツングース系鮮卑族による統一国家、朝鮮半島は新羅による半島統一が成し遂げられる。こうした中、日本も豪族連合の段階から統一国家を目指していく。

日本では百済系藤原鎌足が蘇我氏を殺害するというクーデター(一巳の変)が起こり、唐と新羅によって百済が消滅すると、百済奪回という大義名分の下、勝ち目のない白村江の戦いに日本は乗り出していった。これはそれまでの豪族連合国家・日本が、百済の没落貴族である藤原氏によって乗っ取られたということを意味する。その後、壬申の乱で、伽耶系の天武天皇による政権奪還もあったが、藤原不比等による歴史改竄(記紀捏造)による万世一系神話を、伽耶系を中心に他の豪族たちも追認したことで、朝廷の藤原氏支配が完成した。

中国では、王が徳を失うと、天命が下り、王は交替するという易姓革命が発達し、一定の政権交代の史実が記されることになるが、日本においては万世一系神話という嘘の共認によって国家統一が図られたため、史実が大きく歪められてしまった。

●堕落する平安貴族。役人(受領)の暴走に対し自衛のための武士が台頭。

 豪族連合の拠点が形成されたのは奈良盆地の南部であったが、その後、藤原京、平城京、長岡京、平安京と遷都を繰り返す。これは、伽耶系・高句麗系・百済系の連合政権であった大和王朝が、次第に、藤原支配=百済支配を強めていく流れでもあった。藤原氏は、天皇はお飾りにして、次々と娘たちを天皇家に送り込むことで実質的な支配権を握り続けた。これは日本が基本的に母権社会で母親の影響が強い社会だからである。これ以降、日本の支配階級は、いかに血族を形成して権力を握るかが最大の関心ごととなっていった。

 比較的、大陸・半島情勢が安定していたこともあり、平安時代を通じて、貴族たちは、有閑階級化し、源氏物語に代表されるように、とことん解脱埋没していく。律令制は形骸化し、貴族直営の荘園が拡大。他方、地方の徴税を取り仕切る国司=受領は横領を繰り返し、百姓たちの反感を強めていく。こうした中、貴族の一部が軍人化する一方で、百姓たちも武装化。受領に対抗する荘園領主を核に武士集団(平家・源氏)が台頭していった。また、平安貴族の私交易を担った寺社勢力は貨幣経済においても力をつけていった。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=309799

アジア史の中の日本4(中世)

●商人を味方につけた武士集団(平氏)が貴族に取って代わり、武力に勝る源氏による東国の政権が登場する。

10世紀に入ると、中国・朝鮮半島も再び戦乱の時代に入る、中国は五胡十六国時代を経て金・宋といった女真族の時代に入る。宋は朝貢に付随していた私交易を重視し、宋銭を広めて、中世市場社会への橋渡しを果たしたが、よりイスラム商人との関係を強めたモンゴル=元に滅ぼされた。

朝鮮半島は新羅、後高句麗、後百済による後三国時代を経て、高麗が統一。高麗は、科挙制度にもとづく、文官(文班)が武官(武班)を抑える両班(ヤンパン)制度をつくる。朝鮮半島の民の生活を無視した官僚の暴走は、この高麗の時代に決定付けられたといえるであろう。その後、文班と武班の対立をモンゴルにつけ込まれて崩壊していく。

 このように中世は、支配階級=有閑階級たちの解脱埋没を背景に商人が力を持ち、そうした商人を味方につけた北方遊牧民に出自を持つ武力集団が台頭していく時代であった。そして日本も貴族階級の没落とともに台頭したのが、商人たちを味方につけた武士集団であった。

日本では、日宋貿易によって得た資金力を背景に東国の武士を束ねた平家が全国に支配を広げる。平氏は百済系(従って西の古墳人の末裔)といわれるが、その実力の中心は西日本の海洋系縄文人の持つ海運力=商業力(とそれによって統合された武力)であった。

他方、源氏は反百済=高句麗・新羅系(従って東の古墳人の末裔)といわれるが、その実力の中心は高句麗の騎馬民族から騎馬術を学んだ狩猟系縄文人の戦闘力であった。そして、源氏によって、商業力だけでなく、農村自治を重視した武家=東国の政権のカタチを現す。

以後、

平家→源氏→北条氏(平氏系)→新田・足利(源氏)→織田・豊臣(平氏)→徳川(源氏)

と源平交替(東国と西国の主導権争い)が繰り返されていくことになる。それは武力=農村自治による統合力と商業力=市場発展による統合力の相克であった。


武家(源平)の時代となったことで、公家(藤原家)は武家の神輿あるいは錦の御旗にすぎなくなり、公家も分裂していく。その端緒となったのは足利氏(源氏)が担ぎ上げた後醍醐天皇によって開かれた吉野朝(南朝)。

しかし足利氏は主導権を握りたがった後醍醐天皇を切り捨てて、北朝を再び神輿として担ぎ、室町幕府をつくる。以降、百済系藤原家も北朝=藤原北家と、南朝=藤原式家に分裂し、源平交替は概ね北朝・南朝の交替劇となる。

さらに足利氏は中国の明朝から日本国王として冊封を受けて天皇に迫る権威を確立するなどして、武家優位の時代を確立していった。


●イエズス会のアジア進出。アジア人同士を戦わせる戦略にまんまと嵌った秀吉。

元はイスラム商人を重視し、紙幣を発行したが、その結果、銀不足に陥った。そうした問題から、元の後に興った明は、国家による貿易管理を強化し、海禁政策を取った。すると大陸・半島・日本をまたにかけて私交易・海賊行為に力を入れる勢力が台頭する。西国を中心とする海洋系縄文人の流れをくむ倭寇である。

そして彼ら倭寇を従え、ヨーロッパからもたらされた火縄銃を手にした西国の武将たちが台頭し、東国の政権=室町幕府は没落。戦国時代に突入するが、火縄銃を駆使した新しい戦いを制した織田信長、豊臣秀吉ら西国の武将らによって日本の戦国時代も再び、統一に向かう。

秀吉は刀狩を実行し、兵農分離の身分制度を固め、下克上のない国家秩序づくりを進めた。他方、西国大名の中から、明・琉球・カンボジア貿易に力を入れる大名たち(長州の大内氏=百済系、薩摩の島津氏=秦氏系ら)が登場。、後にキリシタン大名、さらにはイエズス会と組んだ日本におけるワンワールド派=薩長連合へとつながっていく。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=309805


58. 中川隆 2015年12月02日 18:05:09 : 3bF/xW6Ehzs4I[1094] : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw

アジア史の中の日本5(近代)

●欧州金貸し勢力のアジア侵攻と、金貸しと手を結んだ薩長同盟

 イスラム商人に変わって、スペイン=イエズス会がアジア支配に乗り出し、フィリピンにスペイン総督府が設置された。それを知った秀吉は朝鮮出兵を断行。イエズス会から火縄銃を手に入れて、朝鮮・中国を支配しようとするが、秀吉の死によって未完と終わった。ヨーロッパ金貸したちの、アジア人同士を戦わせる戦略にまんまと嵌ったのであった。

 中国では明に替わって清が興る。当初は明同様、貿易の国家管理を主軸としていたが、官吏の腐敗から、財政難に陥り、東アジアで最も早く西洋に門戸を開いた。清との貿易で銀不足に陥ったイギリスは、それを解決しようとインド産のアヘンを中国に輸出。中国でアヘン中毒が広まり、清がアヘンの取締りを強化すると、イギリスが反発し、アヘン戦争勃発。勝利したイギリスに有利な南京条約が締結された。他方、李氏朝鮮は、女真族からの攻撃を受けて、小中華思想と儒教を強め、鎖国を強化。開国は一番遅れた。

 東国の農村自治を重視する江戸幕府は幕藩体制・参勤交替・鎖国体制・キリスト教禁止令によって、国家秩序の安定と内需主導の経済を作り出し、寒冷化による米の不作にも新田開発で対応したが、ヨーロッパの金貸したちの魔の手は次第に伸びていった。

 その先兵となったのは、長州の毛利氏、薩摩の島津氏ら、西国の外様大名であった。薩摩は琉球を媒介に清と、長州は対馬を介して清・朝鮮と密貿易をしており、イギリスとの接触が進んだ。薩長が当初、尊皇攘夷を叫び、開国に反対したのは、幕府が開国したのでは、密貿易のうまみがなくなるからであった。だから倒幕がなり、新政府の中心勢力になる見通しがたつと一気に開国派に転じたのである。

●明治維新・大東亜戦争を巡る南朝と北朝の対立

 尚、江戸時代の天皇は北朝だったが、薩長らは海外との交易を推し進める上で、南朝系の天皇を囲い、イエズス会等との海外ルートの顔として使っていた。この時に天皇家の一部が欧州にわたり欧州貴族になったとする説もある。こうした欧州と南朝皇室のパイプを活かすために、明治維新において南朝の大室寅之助が担がれたのであろう。

 その後、明治政府は、秀吉同様、金貸したちのアジア人同士を闘わせる戦略に嵌められて、朝鮮併合、日清戦争、満州支配へと乗り出していく。そこには、ヨーロッパの戦略に乗せられた部分もあるが、天皇(特に北朝系)を錦の御旗とする一派が故郷=高句麗の地へ回帰していく運動であったとみることもできる。彼らは満州進出でユダヤ人と手を組む=河豚計画を実行した。しかし、アメリカ=ロックフェラーが台頭する中、金貸し勢力は旧勢力であるロスチャイルドと新勢力であるロックフェラーの対立が大きくなる。

 そこで、陸軍による満州進出を支援していたロスチャイルドはアメリカ=ロックフェラーの力を削ぐために、旧日本陸軍を北進論から南進論に転換するように誘導する。昭和天皇がこれを支持したのは、昭和天皇自身が南朝系であり、北朝系であった満州派=陸軍を潰すためであったのだろう。(東北出身の石原莞爾らは左遷されたが、同じ満州組でも南朝系系の岸・安倍一派は戦後、CIAのスパイとして代復活を遂げた)

 この陸軍つぶしと連動して大きな攻撃を受けたのが北朝系の大本教団である。(出口王仁三郎は北朝系天皇の落胤)なお、現在、明治天皇すり替え説を吹聴している勢力の中心は、北朝系の大本教の影響を受けた人たちである。大本教の発展系のひとつに日月神示があるが、彼らは「フリーメーソンも悪であっても、手を組め」という発想をする。これは満州進出時の河豚計画の発想を今に継承するものであるが、日本の支配階級は常に金貸しに騙されてきたという事実を直視し、普通の人々は本気で脱お上を実現していかなければならないだろう。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=309827


59. 中川隆[1094] koaQ7Jey 2015年12月07日 15:42:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[145]

30-2. 日本人のガラパゴス的民族性の起源
http://garapagos.hotcom-cafe.com/


日本の発酵の技術はどこから来たのだろうか?

中尾佐助や佐々木高明といった素晴らしい文化人類学の先達研究者によって明らかにされたのが、長江流域を起源とする照葉樹林文化だった。 そしてよく知られているのが鮒ずしなどの発酵文化です。つまり日本お家芸の「発酵」技術は長江流域を起源とする弥生農耕文化の伝えた技術なのです。

  当ガラパゴス史観は、日本人の持つガラパゴス的な特質は、本家の中国に追いつき追い越せと学問や技を磨いた、 朝鮮半島の生き残りに負けて半島を追い出された黄河文明系Y-DNA「O3」を核にする大和朝廷族と武士団族が起源だと推測していますが、 一方、発酵などの稲作農耕文化や照葉樹林文化は長江文化を日本列島に持ち込んだY-DNA「O2b」を核にする弥生文化人が起源なのです。

  当ガラパゴス史観の他の記事に書いているように、

長江文明系Y-DNA「O2a」は中華大陸での黄河文明系Y-DNA「O3」国家に敗れ長江流域から南北に逃れ、

南に逃げた集団Y-DNA「O2a」は「越」として東南アジアに国家や地域を作り、

稲作適地を求めて最も遠くに移動どうした集団はドラヴィダ集団の中に入り込み 稲作集団として、現代まで遺伝子をかなりの頻度で伝えています。ドラヴィダ民族の中の稲作集団の中にはY-DNA「O2a」が70%の頻度を持つ部族さえ存在します。

  一方、北へ逃げた集団は、欧米の研究者は満州あたりでY-DNA「O2a」から「O2b」に分化したと考えています。現在でも満州族は13%のY-DNA「O2b」頻度を持っています。 そして稲作適地を求めて、南下し朝鮮半島で朝鮮族を形成し、現在の中国の朝鮮族は43%ものY-DNA「O2b」頻度を持ち、韓国は日本と同じ30%、 日本人は12%のY-DNA「O2b」と日本列島固有の20%のY-DNA「O2b1」で合計32%の長江文明系遺伝子を持っています。

Y-DNA「O2a」が「越」系と考えられるのに対し、Y-DNA「O2b」は「呉」系と考えられます。

ちなみに日本人にも少ない頻度で存在しているY-DNA「O1a」は「楚」系と考えられます。

  話が拡散してしまいましたが、ガラパゴス的な民族性も発酵技術もY-DNA「O」の極東遺伝子がもたらしたものです。


当ガラパゴス史観の主張は、

  日本列島人は日本文化の基層と古代性をもたらした縄文系に、当時の世界最先端技術だった水田稲作文化をもたらした弥生系が交配しあい日本列島に棲み分けていたところに、朝鮮半島の生き残り抗争に敗れ半島を追い出された好戦的な武装侵略者集団の大和朝廷族を含むいわゆる天孫族や続いて流れてきた武士団族が、狩猟のための武力しか持たない好戦的ではない先住民族の縄文−弥生人を征服し 1500年以上に渡りエスタブリッシュメント階級として支配し虐げ蔑んできたのが、第二次大戦後アメリカの手で農地解放などを経て交配が進みつつあるのが現代日本列島人の姿です、

ということです。


  当ホームページで主張しているように3.11で世界に感嘆を呼んだ日本人の従順性や、規律順守性、ホスピタリティなどどちらかと言うと古代的な民族性は間違いなく縄文の基層文化なのです。

  そして一方、世界に冠たる自己中心的なガラパゴス的民族性は、朝鮮半島から流れてきた武装侵略者集団が本家の中華王朝文化に追い付き追い越せととことん技術力を昇華していった姿勢そのものでもあるのです。

  そして日本人が持つ残虐性は好戦的な武装侵略者集団だった大和朝廷族や武士団族が持つ特質に他ならないのです。

  つまり、縄文系、弥生系と武装侵略者系の3重のY遺伝子から構成されているのが日本民族なのです。

  これを前提に下記の記事を読むと、非常にわかりやすいと思います。

  「沈黙と忍耐」は縄文系の特性、典型例は江戸時代の「百姓は生かさぬように殺さぬように」です。

  富を独占してきた武装侵略者集団の中の特に武士団族は戦国時代など戦になると百姓を雑兵にかり出し前線に立たせ、一方で田畑を蹂躙してきたのです。

  富を分配したのは同じ武士団の中だけに過ぎないのです。日本列島の縄文−弥生人の子孫は1500年以上虐げられてきたのです。

  それなのに縄文−弥生系は大和朝廷族や他の天孫族が創作した古事記や日本書紀をありがたがり、武士団族の抗争や成りあがり物語までもありがたがり、何と従順でお人好しな事か!

  そうなんです。日本列島は過去1500年近く大和朝廷族と武士団族が征服し続けてきた軍事政権国家だったのです。この軍事政権がやっと終わったのは何と第2次大戦後のアメリカの手によってなのです。

  日本人は外からの圧力がなければ、実は何も変えられない民族性を持っているのです。


  日中韓を動かしてきたのは根が全く同じY-DNA「O3」という黄河文明系遺伝子の支配層であることは間違いありません。しかし

漢民族には「縄文系(Y-DNA「D2)」と「弥生=呉系長江文明系(Y-DNA「O2b」)」が抜けています。

韓民族には「呉系長江文明系」は日本と同程度の頻度でありますが「縄文系」がすっぽり抜けています。

  この遺伝子構成の違いが、同じ自己中心的なY-DNA「O3」支配国家でありながら、行動様式がかなり異なる要因となっているのです。

今日の新聞広告の週刊誌「SAPIO」に「罵り合う中韓」と言う見出しがありました。これは中韓の侵略/被侵略の歴史を知っている者には当たり前のことです。

  韓国から見ると、朝鮮半島史上1000回にも及ぶと言う、楽浪郡・帯方郡などの中華王朝の侵略・侵攻・占領の結果、韓国のY-DNAの何と43%もがY-DNA「O3」つまり黄河系漢族遺伝子に変わってしまっているのです。しかも「O3」は3韓、3国等長い間朝鮮半島の支配層を形成し、李王朝など近代にいたるまで朝鮮半島の先住人民を搾取しまくってきたのです。

  「O3」が侵攻する前に朝鮮半島に居住していたのは北部にはツングース系「C3c」の恐らく扶余などの諸部族と南部には「O2b」の長江文明呉民系の水田稲作農耕民でしたが、「O3」に駆逐され「C3c」は現在11%程度に減少してしまっています。もしかすると箕子朝鮮や衛子朝鮮など古朝鮮はこのツングース系であった可能性が大です。

  一方南部の長江文明呉民系「O2b」は農民として確保され現在でも日本列島と同程度の頻度の30%を維持しています。やはり食料を生産する農耕民は「生かさぬように殺さぬように」されてきたからでしょう。本来なら朝鮮半島先住古部族から見れば中華王朝系「O3」は日本列島の「O3」と同様に武装侵略者に過ぎなく、その子孫の漢民族も同じなのです。

  つまり中国から見れば朝鮮半島は中華王朝の出先機関が牛耳れば良い程度の僻地でしかなく、日本列島と同じ蔑視の対象でしかないのです。

  しかし近代化した今、国内のベクトルを一つにまとめ不満分子の矛先をかわすためと、お互い工業生産産業の振興のため利用し合うのがベストとわかっているため、日本を共通の仮想敵国として上っ面は手を組むようなふりをしているだけなのです。だから子供の頃から徹底した反日教育をしているのですが、中韓が本気で組むなんてありえない話です。

  他の記事でも書きましたが、実はガラパゴス的民族性はY-DNA「O3」黄河系遺伝子の持つ民族性そのものなのです。

  中国は、他国のことなど知ったことではなく、自分の国さえよければ良いという極めつけの利己主義の国

  韓国は、世界は全て韓国が起源と吹聴する極めつけのウリジナル思想の国

 片や日本も自分たちが良いと思うものは世界も良いと思うはずだと決めつける自己中心思想の国

  全て「O3」が長い間支配層を形成してきた国家です。3国にはY-DNA「D」遺伝子が程度の差はあれ古代から根付いています。長江文明系Y-DNA「O2」も根付いています。Y-DNBA「C」もいくらか根付いています。支配されてきた遺伝子も実は似通っているのです。

  しかしお互い随分と違う国になってしまいましたね

  違いが最も大きいのはY-DNA「D」の存在のあり方です。恐らくホモサピエンスが出アフリカした当時の形質を最も残していると考えられている「D」はいわゆる純朴・親切・我慢強い・等典型的な田舎的古代遺伝子です。

  中国では、「O3」漢民族は「D1」遺伝子を中原から追い出し羌族やチベット族として標高の高い高原地域に押し込め少数民族化させ、「O2」遺伝子も華南の少数民族に押し込めてしまいました。「C3」遺伝子も内モンゴル等華北や西部の少数民族に追い出しました。つまり中国では「D」も「O2」も「C」も正式な国民の一員(つまり「O3」漢民族)ではないのです。

  韓国では、「D1」は恐らく姜性一族として数%しか残存しておらず「D」の影響は実質ほぼゼロですが「O2」は食糧生産の農民として国民の一員になっています。TPPの犠牲者ではありますが....。

  ところが日本では、「D2」が縄文文化の子孫としていまだ40%近くを占め、3.11で世界から称賛された日本人の我慢強い・整然とした行動を支えてきたのです。また「C1」、「C3」も技術集団として沿岸系・内陸系の伝統文化を引っ張っています。「O2」は世界に誇る農耕民として日本の農業生産を担っています。

  この日本独特の古代的な縄文精神は「O3」とは別の意味で、ガラパゴス的民族性を形成する一面なのでしょう。つまり二重の極めつけのガラパゴスなのです。


60. 2015年12月07日 15:52:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[146]

ガラパゴス的民族性の基層

  今までの調査や学習から、日本人は;

(1) スンダランドから共に行動しまだユーラシア大陸と陸続きだった日本列島弧の大陸棚部分にたどり着いたシーラカンス的古代遺伝子Y-DNA「D2」、「C1」、「C3」が、ブラキストン線(津軽海峡)に北進を阻まれ定着した結果コラボが進んだ縄文遺伝子集団が基層にある。Y-DNA「D1」「D3」集団のチベット語と日本語の文法が極めて似ていることから現代も維持されている日本語の文法は「D2」の文法でしょう。

  またY-DNA「D*」のアンダマン諸島人がネグリート形質で黥面文身であり、アイヌ民族も入墨習慣があったことを考えると、「D2」も当然ネグリート形質でしょう、そして魏志倭人伝に出てくる倭人の入墨は間違いなく縄文人「D2」の習慣で「倭人」は蔑称ではなく文字通り「小柄な民族」と言う意味でしょう、つまり「D」の分布していた地域の住民は中国から見れば全て「倭種」だったのでしょう。このように考えれば現在でも150cm以下の小柄な日本人が多いことが明快に理解できます。

  ただし黥面文身は古代民族の共通の習慣だったような説明が多いところをみると「C1」「C3」もそうだった可能性は大です。いずれにせよ、魏志倭人伝がわざわざ黥面文身のことに触れたのは、当時中国大陸や周辺の国々では既に廃れ珍しい習慣になっていたからなのでしょう。

(2) そこに新しいこれぞアジアの遺伝子タイプである「O2a」がもっと新しい「O3」に中国大陸を追い出され満洲あたりで「O2b」に分化し、ボートピープルとして江南文明の水田稲作農耕文化を日本列島に持ち込んだ。もとより農民である「O2b」は狩猟採集民の縄文集団と敵対はほとんどなく棲み分けながらも交配を進め「O2b1」に進化し、本州北端まで稲作文化が拡大した。稲作を中心にした「O2」集団の単語が大量に日本列島に持ち込まれたが、縄文文法は変わることがなかった。

  もし縄文集団と「O2b」が敵対し交配しなかったなら、韓半島と同じ「O2b」のままで「O2b1」には進化しなかったでしょう。「C3」との交配でHTLV-1ウイルスに感染したことも「O2b1」への分化の可能性としてあります。あるいは相乗効果かもしれません。

(3) 一方、最新の遺伝子である「O3」は縄文文化の晩期に陸稲稲作文化を日本列島に持ち込んだようですが、本格的な進出は百済が滅んだ辺りから王族や宮廷官僚・貴族がやはりボートピープルとして移住してきたことによりそうです。百済で「O2b」の農民を支配していただろう「O3」部隊は、似たような民族構成の日本列島を東進し、縄文−弥生交配集団が居住していた大阪から奈良の畿内圏を占領し定住し大和朝廷族となったのでしょう。

  先住の縄文−弥生混血集団を懐柔するために、縄文−弥生の神話と「O3」の神話をくっつけて「O3」が作ったのが日本書紀だと考えられます。そして極めつけは宮中や官僚は漢語を話し読み書きしていたにもかかわらず、民衆向けに縄文文法を採用し、結局漢語文法を朝廷以外の世界では捨てながらも大量の漢語の単語を定着させ縄文−弥生単語に上乗せしたのが日本語の単語の祖系と思われます。

(4) そして明治以降、大量の欧米発の単語を取り込み、日本語が完成しました。

  日本民族の特徴は、このように異遺伝子の文化をドンドン取り込み自前の文化にしてしまうことです。古代の縄文文法を踏襲しながらも、出会った新しい異遺伝子集団の文化の単語を億面もなく取り入れることができたのです。そして初めから自分たちの単語だったように扱うことができる、これは恐らく弥生集団の特徴ではないだろうか?

中国大陸を追い出されボートピープル化した弥生集団が、これ以上逃げるところのない日本列島で、先住民の縄文人と共存するために縄文人の言語を文法ごと取り込み、縄文人が持っていない稲作農耕などの新しい文化の言葉は自前の単語を追加して交配することを選んだのでしょう。これは現代でも欧米発の科学や技術、音楽にしても何でも気負うことなく取り込むことができる、2000年来の日本民族の真骨頂なのです。

  しかし取り込んだ後、海外の状況など無視して独自進化を遂げられる特異性・独善性、つまりガラパゴス性はどこから来るのだろう?まだ考察が必要です。

  1つ考えられるのは、日本人の持つ探究心、とことん突き詰める研究熱心さですが、既に白鳳時代、天平時代に中国から取り入れた文化を独自に咀嚼して自分のものにしていたようなので、中国から招いた技術者たちが、本家よりより良い物を作ろうと挑戦・努力する、という意欲と結果がガラパゴス化の起源ではないでしょうか!

  ということは、あまり認めたくはないのですが、「O3」遺伝子集団の技術者達がガラパゴス的民族性の起源の最も大きな要因かもしれません。

  もうひとつ考えられるのは、独特の日本絵画の色使いの工夫、浮世絵などに見られる色使いなど微妙な色を再現するための工夫・努力や、平賀源内のエレキテルに見られるような、外国の情報だけで見よう見まねで作ってしまう才能、日常品だった陶磁器から刀や鉄砲のような武器に至るまで芸術に昇華させてしまう才能....など様々な才能が熟成した江戸の鎖国時代が、ガパラゴス化の2番目に大きな要因ではないでしょうか。江戸時代は日本人同士でかつ日本人だけで切磋琢磨し業と芸術性をとことん磨いていけたよき時代だったような気がします。

  つまり異文化を何でも取り込むことができる「O2b1」遺伝子の持つ懐の大きな気質ともともとガラパゴス的な気質だった技巧系職人「O3」遺伝子の混じった日本人が、鎖国時代にとことん独自進化し熟成されたのが、世界がどう進もうとわれ関せずで自分たちだけで更に独自な進化を続けられる極めつけのガラパゴス民族性の基なのでしょう。そうすると「D2」「C1」「C3」の果たした役割はなんなのでしょうか?

  もしかすると「O3」も「O2b1」も「D2」C1」「C3」特に「D2」の手のひらの上で踊らされているだけなのかもしれません。つまりガラパゴス化した技術・製品があってもそれを受け入れ支えるる国民性が必要です。それが縄文系の役割なのかもしれません。

____

ガラパゴス的民族性の起源 今までのまとめ:


●日本民族の遺伝子はかなり複雑で、記事4-1、4-2にまとめたように狭い日本列島に中華大陸と同じくらいか、それ以上の遺伝子集団がひしめいています。

●その複雑な遺伝子集団が中華大陸のように53種もの少数民族がずらーっと並んでいるのではなく、全てが1つの日本民族に集約されている(ただし現代アイヌ民族は除く、琉球民族は遺伝子では完全に日本民族の1地方型であることが明確)、少数民族/先住民化しなかった世界でも稀有な民族なのです。

●民族を決めるY-DNAの50%近くを現代人類が60000年前頃に出アフリカを果たした当時の古代遺伝子Y-DNA「D」と「C」が占めている、という驚くべきシーラカンス性。こんな近代国家は日本以外に一切存在しません。日本人の持つホスピタリティや濃すぎるほどの人情の根源です。

●さて視点を変えると、現代世界はY-DNA「R1b」、「R1a」の欧米遺伝子集団と、Y-DNA「O3」のアジア集団が覇権を争っている真っ最中です。両遺伝子とも古代遺伝子の一つであるY-DNA「F」から分化して発生してきた新しいつまり新興遺伝子集団です。今世界はこの2つの新興遺伝子集団によって動かされているのです。

●近代世界で先に覇権を取ったのが「R1b」のゲルマン系集団(ヨーロッパ諸国)、そして「R1a」のスラブ系集団(旧ソ連)が割って入り、更に現代の覇権は彼らが移住したアメリカ(「R1b」が支配層)に移り今に至っています。そしてロシアと同じ「R1a」のアーリア系のインドも名乗りを上げ始めています。

●ところがそこに対抗軸として存在するのがY-DNA「O3」のアジア組です。Y-DNA「O3」はユーラシア大陸の東端に4千年の漢民族・中華王朝(一時Y-DNA「C3c」のモンゴル族の元の時代あり)を継続させてきましたが、「O3」が40%の少数民族・満州族の「清」時代で「R1b」の欧米と、同じ「O3」の日本との戦争に負け没落し、代わりに20%の「O3」が支配している日本が先に現代世界のアジア代表として覇権争いに加わり、やっと今年圧倒的な人口増殖の力でエネルギーを取り戻した「O3」が50%の漢民族が再度アジアの盟主争いに名乗りを上げ、「O3」が40%の韓民族が加わろうとしているのが現在です。台湾も「O3」が60%、ベトナムも「O3」が40%の勿論「O3」支配国家です。アジアの近代国家は全て「O3」支配国家なのです。

●日本民族のガラパゴス性は、渡来人として極東ユーラシア大陸から韓半島経由で流れてきた戦闘集団のY-DNA「O3」の大和朝廷族とその官僚・技術者集団及び武士団が本家中国のY-DNA「O3」に負けまいと独自性を高めたのが最大要因です。そして支配された戦闘を好まない縄文・弥生の先住民集団が支配を受け入れ、火焔土器などの縄文土器の独自性に見られる縄文人「D2」「C1a」「C3a」の元々もっていた独自性や、世界に冠たる水田稲作農耕を完成させた弥生人「O2b」「O2a」「O1a」の先進性が支えているのが世界に冠たる日本のガラパゴス性なのです。

  (一時言われたY-DNA「C3c」の極東騎馬民族集団は日本には一切渡来していないことはY-DNA遺伝子調査で極めて明確に結論されました、つまり日本民族にY-DNA「C3c」は全く検出されていないのです、ただし大和圏の詳細な調査が進めばその限りではありませんが....。唯一の例外はニヴフ族(恐らく古代史の粛慎)が北海道を征服し現代アイヌ民族にY-DNA「C3c」を15%も定着させたオホーツク文化時代のみです。)

●日本民族はこの古代シーラカンス遺伝子縄文集団と新興遺伝子ながら弥生集団の持つ狩猟・採集・漁労・農民的などちらかと言えば田舎的なホスピタリティを持つ良き日本的な暖かい性格と、支配遺伝子たる「O3」の持つ戦闘好きで支配したがり屋の持つ冷酷でドライな性格を併せ持っています。日本人は征服者たる大和朝廷族が日本列島に上陸以来1500年以上経ち棲み分けをしてきましたが、明治以降、特に第二次大戦以降相当に交配が進んでいるため、支配者層がわかりにくくなっていますが、良きにつけ悪しきにつけ日本列島を率いてきたのは残念ながら当ブログオーナーが子孫と自認する縄文人でも弥生人でもないのです。明らかに占領軍・征服者の渡来軍団なのです。

●我々縄文、及び弥生の子孫は占領軍の大和朝廷族一派に支配され、記紀では一方的に「土蜘蛛」だとか「国樔」「国巣」「国栖」だとか蔑まれ、あるいは蝦夷、隼人、熊襲などと差別され、「まつろわぬ原住民」として下級人間扱いをされながらも、それでも元々持っている争い嫌いで従順な性格が災い?し、結果として「O3」に協力した形になり、ガラパゴス化を推進してしまったのです。戦争でも残忍性を発揮しふんぞり返っている上層部は「O3」軍団、一兵卒として戦場にかりだされるのは縄文・弥生のおとなしい子孫です。言い換えれば指示する側と指示される側(指示待ち人間になりやすい)です。ちょっと誇張気味ですがほぼこの通りです。日本人の持つ二面性は複雑な遺伝子構成がもたらす結果です。 注:インターネットで多く見かける間違い:

  日本人は多数の異遺伝子の混遺伝子集団であっても、混血集団ではありません。別にコーカソイドとモンゴロイドが交配した...とかいう訳ではありません。60000年前頃と言われる出アフリカ後、現在のような「人種」が出来上がる前に、古代の遺伝子と新興の遺伝子が古代に交配してできた稀有な島国集団が現在「日本人」と呼ばれているだけです。異なる人種が混血した訳ではないのです。

  それらの混じり合った多様な遺伝子の子孫が現在、Y-DNA「D」はアンダマン諸島ではネグリートと呼ばれ、Y-DNA「C1」の弟遺伝子「C2」はニューギニアでオーストラロイドと呼ばれ、更に下の弟「C3a」の弟の「C3b」は北米大陸ではネイティブアメリカン(旧アメリカ・インディアン)と呼ばれ、水田稲作農耕文化を日本列島に持ち込んだYDNA「O2」と「O1」はそれぞれオーストロアジア語族とオーストロネシア語族と現在は呼ばれており、日本列島を征服し長い間日本列島の支配遺伝子となっている大和朝廷族系のY-DNA「O3」は現在世界の覇者を狙っている漢民族と呼ばれています。日本人はそれらが確立する前に日本列島で密な交配を繰り返したため、今でも欧米顔やジャガイモ顔やしょうゆ顔や南方系顔が入り乱れているにも関わらず、1つの日本人を形成しこれから均質化がどんどん進むでしょう。しかしこれだけ多様な遺伝子から構成されていると決して単一民族とは呼べませんが、間違いなく単一国民なのです(明治以降の話ですが)。

  ?Y-DNAは交配を繰り返しても、変化はしません。Y-DNA「D2」は今後数千年経っても「D2a1b2」とか亜型に細分化はしてもベースの「D2」は変わらないのです。つまり自分の持っているY-DNAは永遠なのです。同様に女系のmtDNAもベースは永遠で、細分化が進むだけです。

  ただ組み合わせは結婚相手によって変わります。遺伝子(設計図)は両親から平等に受け継ぎますが、どちらの設計図が使われるか、どの部分にどちらの設計図が使われるかは決まってはいません。これが交配の「妙」なのです。しかし必ず「こうなる」とわかっている形質があります。それが世に言う「優性遺伝」という物です。人類は本来二重瞼のため二重瞼は優性遺伝です。ところが寒冷地適応の後天的獲得形質のはずの禿頭は後天性にも関わらず優性遺伝をします、一帯何故?面白くない。後天性ではない、ということかもしれません。どうもY-DNA「N」系に特徴的ではないかと疑っています。Y-DNA「N」はシベリア系遺伝子で日本のような極東からヨーロッパまでユーラシア大陸に広く拡散し、世界中に禿頭をバラまいています。しかも優性遺伝なので始末が悪いのです。タイムマシンで数万年遡りY-DNA「N」の最初の男性を消せば禿頭はなくなるはずです。最も自分もこの世に存在しないでしょうが......。

  しかし大事なことは、男子が生まれなければ父親のY-DNAは消滅します(残念ながら娘だけの我が家もそうです)。しかし母親からのみ遺伝するmtDNAは男女の区別はないので子供が誕生する限り永遠なのです。やはり世界は女性を中心に回っているのです。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/


61. 中川隆[1094] koaQ7Jey 2015年12月26日 09:13:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[504]


ゲノム解析でイネの起源は中国・珠江の中流域   [2012/10/26]


珠江
https://www.google.co.jp/maps/place/Zhujiang+River,+%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD/@23.1301408,113.0362784,10z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x34025504bb64e70d:0x5dbfdd91a9aabb2?hl=ja

A map of rice genome variation reveals the origin of cultivated rice
http://www.nature.com/nature/journal/v490/n7421/full/nature11532.html


これまで長い間論争が続いていたジャポニカ米などのイネの栽培起源地について、国立遺伝学研究所や中国科学院上海生物科学研究所などの研究チームは、中国南部を流れる珠江(しゅこう、the Pearl River)中流域であるとの研究結果を、英科学誌「ネイチャー」(オンライン版)に発表した。

研究チームは、アジア各地から収集した野生イネ(ルフィポゴン)446系統、ジャポニカ米やインディカ米などの栽培イネ1083系統のゲノム(全遺伝情報)を解析し、1529系統間の相互関係を明らかにした。さらに遺伝的変異のパターン解析から、ジャポニカ米とインディカ米では55のゲノム領域で、イネの脱粒性や芒(のぎ)の有無、粒幅などの重要な形質について、栽培化による選択が行われていたことが分かった。

これらの遺伝的な指標を用いてイネの系統進化を解析し、さらに各系統の生息地の情報を比較した結果、イネの栽培化は中国南部の珠江の中流域で始まり、1つの野生イネ集団からジャポニカ米が生まれたことが分かった。その後、ジャポニカ米の集団に別の野生系統のイネが複数回交配してインディカ米の系統が作り出されたと考えられるという。

イネの起源地についてはこれまで、遺跡の調査結果などから何十年にもわたり論争が続き、インド・アッサム地方から中国・雲南省にかけての地域や、中国の「長江」中・下流域などとの諸説があった。研究チームは「今回のわれわれの解析で、イネの起源地と栽培化のプロセスが明らかとなり、長い論争に終止符を打つことができた」としている。
http://news.mynavi.jp/news/2012/10/26/064/


イネの栽培化の起源がゲノムの全域における変異比較解析により判明した 2012年11月12日
倉田のり・久保貴彦 (国立遺伝学研究所 系統生物研究センター植物遺伝研究室)
http://first.lifesciencedb.jp/archives/6056


イネの栽培化は、中国の珠江流域で始まった!
国立遺伝学研究所

栽培イネには大きく2つの系統があります。一つは、日本人が主食とするジャポニカ 系統です。ふっくらと丸みを帯び、モチモチとした食感が特徴です。もう一つは、タイなどの東南アジアで好まれるインディカ系統で、米は長細く、パサパサし た食感と独特の香りをもつ品種を含むのが特徴です。

栽培化の起源については、1万〜7000年前にさかのぼるというのが定説になっています が、

「栽培イネの起源が、ただ一つの地域の一つの系統に由来するのか」、

あるいは

「複数の地域で独立の系統から栽培化がはじまったのか」

という点が論争に なっていました。

前者の単一説を支持する研究者たちは「中国、雲南省の南部、揚子江の中流域で栽培化がはじまり、その後でジャポニカとインディカの系統に 分かれた」とし

後者の複数説を支持する研究者たちは「ジャポニカ系統は雲南省の揚子江流域、インディカ系統はインドのガンジス川流域で独立に栽培化され はじめた」としています。

各派が報告する研究成果はいずれもゲノムの配列を大きな根拠としてきましたが、「使われるイネのサンプルが、研究者ごとに異な る」、「配列をくらべる領域が10以下と少ない」といった状況で、結論が出ませんでした。

アジア各地から収集された野生イネ(O.rufipogon)446系統と、栽培イネ(O.sativa)1083 系統の計1529系統を対象に、次世代シークエンサーを用いたゲノム解読と、バイオインフォマティクスを用いたデータの解析を行いました。まず、各系統の 全ゲノムを2倍量ずつ薄く読みました。

高精度のゲノム解読だと全ゲノムを100〜200回繰り返し読む必要がありますが、費用や時間が膨大になってしまい ます。2回ずつ読んだだけでは配列が決まらずに穴となった箇所がたくさん残りますが、今回は、そのような部位を他の系統のゲノムデータから推測することで 対応しました。

このようにして全ゲノムのデータを揃えたうえで、塩基配列を比較し、その類似度から祖先関係を描き出しました。とくに、栽培化にともなってゲノムから掃き出された領域(セレクティブ・スウィープ)55か所に注目して解析を行いました。

ジャポニカの最も古い系統をたどっていったところ、中国、珠江の中流域に行き着きました。

そのジャポニカ系統につながった野生イネの生息地もまた、珠江の中流域であることがわかりました。

また、インディカ系統についても調べたところ、 やはり珠江中流が起源で、インディカ系統につながった野生イネの生息地も、同じ珠江の中流域でした。

これらのことは、珠江の中流域において「倒れにくい」、「実が落ちにくい」といった栽培に適した野生系統のあるイネが選び出されて稲作がはじまり、やがてジャポニカ系統は単一系統由来のものとして、また インディカ系統は各地の野生イネ系統と交配しながら、アジア各地に広がっていったことを端的に示しています。

また、中国大陸から日本に伝わっ たジャポニカ系統と、タイ、ベトナム、インドなどに広がったインディカ系統とでは、遺伝的な距離がかなり大きいことも明らかになりました。

ほぼ同一の祖先 をもちながらも、栽培化のための選択圧が約1万年も加わった結果、遺伝的にかなり異なる2つの系統に進化したことが伺えます。
http://www.nig.ac.jp/nig/ja/research/interviews/close-up-interviews/close-up-interviews15


62. 中川隆[1094] koaQ7Jey 2015年12月26日 09:24:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[505]
稲作農耕の起源

「アッサム・雲南起源説」、「長江流域起源説」から「珠江中流域起源説」へ

1)「アッサム・雲南起源説」から「長江流域起源説」へ 


 従前は、インドのアッサム丘陵から中国の雲南高地にかけての地域が稲作の起源地であるという「アッサム・雲南起源説」が有力でした。渡部忠世氏が1970年代に唱えた説です。

 この「アッサム・雲南起源説」を覆す発見が中国の文化革命のさ中になされました。長江下流域に位置する河姆渡遺跡の発見です。1973年からの大規模調査の結果、約7000年前の稲作農耕集落遺跡であることが判明しました。大量の稲籾が発見されています。発掘成果をまとめた論文が発表されたのは国内が落ち着いた1980年代になってからで、厳文明氏や王在徳氏が「長江下流域起源説」を提唱しました。


 河姆渡遺跡発見の後、長江流域で相次いでイネ出土遺跡が発掘されたこともあり、「長江流域起源説」が通説になりました。

河姆渡遺跡が発見された当時は、河姆渡遺跡が中国最古のイネ出土遺跡でしたが、その後より古いイネ出土遺跡が長江流域で相次いで見つかりました。彭頭山遺跡、玉蟾岩遺跡、仙人洞遺跡、吊桶環遺跡などです。

 玉蟾岩遺跡は、長江中域の小さな洞窟の遺跡で、約1万4000年前のものと推定される稲籾が見つかっています。堆積層に含まれる炭片の年代測定から約1万4000年前のものであると推定されたのです。安田喜憲氏は「洞窟の堆積層の層序の認定はむずかしく、たとえ炭片と同じ層から出土したとしても、稲籾の年代が炭片と同じ時代であるとは断定できない」と述べています。

また栽培種か野生種か明確でないという見方もあります。同じ洞窟遺跡である仙人洞遺跡でも古いイネが見つかっていますが、栽培種か野生種か明確ではありません。

  これらに次ぐとみなされているイネ出土遺跡は、上山遺跡、彭頭山遺跡です。上山遺跡は、長江下流域の遺跡であり、1万年ほど前とみなされるイネが発見されています。栽培種か野生種かどうかは不明です。彭頭山遺跡は、洞庭湖の西側に位置する遺跡であり、8000年前前後と推定されています。彭頭山遺跡の出土イネにも栽培種かどうか疑わしく思っている研究者が存在します。

 洞窟遺跡である吊桶環遺跡については「稲の考古学」で趙志軍氏の分析が紹介されています。

「@更新世末期にすでに野生イネの採集が始まっていた、

Aヤンガー・ドリアスの気候悪化にともない、おそらく野生イネ群落が南下したことによりイネ利用が中断した、

B栽培化が確実に想定できるのは完新世に入ってからである」

という3つの要点が挙げられています。

 上記のように長江流域で1万年以上前と推定されるイネ出土遺跡が発見されていますが、栽培種か野生種かどうかについては不明であり、稲作農耕遺跡であると確定できない状況です。長江流域での稲作農耕はヤンガー・ドリアス期終了後の完新世に始まったとみるのが妥当であり、9000〜8000年前に開始したというのが現時点での素直な見方ではないでしょうか。


2)「長江流域起源説」から「珠江中流域起源説」へ

 通説となっている「長江流域起源説」を覆す研究結果が2012年10月に発行された「Nature」に掲載されました。

日本の国立遺伝学研究所や中国科学院上海生物科学研究所などの研究チームが、アジア各地から収集した野生イネ、栽培イネのゲノムを解析した結果、


「@イネの栽培化は中国南部の珠江(しゅこう)の中流域で始まり、

A1つの野生イネ集団からジャポニカ米が生まれた、

Bその後、ジャポニカ米の集団に別の野生系統のイネが複数回交配してインディ
カ米の系統がつくりだされた」


という結論が得られています。

 長江流域ではなく珠江中流域であったこと、ジャポニカ米とインディカ米は同一の起源を持つこと、を突き止めたことで画期的な研究成果と言えるでしょう。

 今後、この研究成果と長江流域のコメ出土遺跡調査で蓄積された研究成果を結合することにより新しい知見が導き出されることを期待します。


主な参考文献

安田喜憲著 「稲作漁撈文明 長江文明から弥生文化へ」 雄山閣 2009年3月
佐藤洋一郎著 「イネの歴史」 京都大学学術出版会 2008年10月
ピーター・ベルウッド著 「農耕起源の人類史」 京都大学学術出版会 2008年7月
中村慎一著 「稲の考古学」 同成社 2002年10月
渡部忠世著 「稲の道」 日本放送出版協会 1977年12月
http://keihanshin777.blog.fc2.com/blog-entry-7.html


63. 中川隆[2275] koaQ7Jey 2016年4月10日 11:06:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2290]

百済が日本にもたらしたもの〜文化でなく言語にその本質があるのではないか
 

日本語は百済語と近接しているという説は多い。

ブログ「日本語と韓国語は同系語」
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-3a69-1.html

という中から信憑性のある部分を紹介します。

>飛鳥〜平安時代頃、日本には各地域の方言の外に「宮廷語」があった。

「宮廷語」も日本全体から見れば、宮廷という限られた区域の方言である。

『万葉集』『記紀』はこの「宮廷語」によって書かれ、作者は漢字を自在にあやつることができる宮廷の知識層、朝廷にかかわって働くエリートであった。

大和朝廷で働いていた人たちの生活の本拠地は「飛鳥」で、『続日本紀』『姓氏録』によれば、飛鳥地方の住民の80〜90%は朝鮮人であったという

飛鳥地方を中心に活躍していた聖徳太子は蘇我氏(朝鮮人―当時の実質天皇)の一族で、妻も蘇我氏の人である。

日本で最初に建てられた寺院「飛鳥寺」は蘇我氏の氏寺で創立者は蘇我馬子である。

明日香村にある日本最大級の横穴式古墳「石舞台古墳」の埋葬者は蘇我馬子ではないかとされている。有名な「高松塚古墳」は明日香村にあり、中に描かれた彩色壁画の婦人像の着衣は古代朝鮮人の服装そのままである。

なぜ「飛鳥地方で使われていた言葉は朝鮮語(主に百済語)であった」と言われているか、下記に列挙した研究者の言葉を見れば一層その信憑性に気づくのではないだろうか。


※「飛鳥における政治の実権は蘇我氏(朝鮮人)の掌中にあった。このころの天皇とは蘇我氏のことである。」 (亀井勝一郎他)

※「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であ
った。宮中では百済語が使われていた。古事記・日本書紀は百済の学者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。
(金容雲 日韓文化交流会議の韓国側代表)

※ 日本書紀は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合がいいように整理されている。 (上田正昭らの対談集)

※ 飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)

※ 平安時代までの日本文化は外国のもの。日本の王朝文化は百済と同じ。
(司馬遼太郎・丸谷才一 他)

※ 朝鮮半島からのエリート集団の集中的移住が宮廷文学を開花させた。
(国弘三恵)

※ 唐への留学僧は百済人であった。当時の僧侶の言葉は百済語であった。
(金達寿 司馬遼太郎 上田正昭らとの対談集)

※ 日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、白村江の戦いの敗北で渡来した百済人。『日本』という国号をつくったのも百済人。(文定昌)


司馬遼太郎は「平安時代までの日本の文化は外国のもの、日本らしくなったのは鎌倉時代になってから」と述べている。

「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は国を追われ、王族・高官などのエリートがたくさん倭国へ亡命した。

故国を失い百済再興の夢を倭国に託した百済人は、奈良時代に「日本」という国号を作り、倭国の文化を根底から変える著しい日本文化の礎石を「飛鳥」に置いたのである。

従って、「百済の王朝語」が「飛鳥王朝の宮廷語」になり、雨後の竹の子のように生まれた「宮廷文学」の言葉は、それ以後の多くの知識層の文学作品の言葉として使われ、結果的に江戸・明治・大正・昭和の学問・文学などの用語として日本全国に広がって行った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上抜粋ーーーーー

これらを読むに付け、日本の宮廷、天皇、王朝を語る際に「百済」という朝鮮半島から消えてなくなった国家が大きく影響している事が判る。

それを日本土着のものに取り戻すのに鎌倉時代までの400年かかっている。
しかし再び明治以降、この百済の復興が天皇を担ぎ上げる事によって為された。

百済王朝が日本に亡命してまだ1300年しか経っていない。

この影響は日本語という言葉の中に浸透しただけでなく日本人の気質や一つに成り切れない民族の核心部にまだ残っているのではないか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=314004


64. 中川隆[2600] koaQ7Jey 2016年5月24日 15:22:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2861]

7世紀までに韓半島から日本列島に流入してきた人々は、それぞれグループごとに中国語の方言を話していたと考えられる。
方言と言っても、現代の福建人・潮州人・客家人・広東人・海南人がたがいに話が通じないのと同様、秦人・漢人・高句麗人・百済人・新羅人の間ではたがいに話が通じなかっただろう。

 日本列島の雑多な種族たちは、新羅に併呑されて独立と自由を失わないために、倭国王家の天智天皇のもとに結集して、日本国を作りあげる。

中国語を国語とすることは危険であった。新羅の公用語が中国語だから、別の途を選ばねばならなかった。

それは漢字で綴った中国語の文語を下敷きにして、その一語一語に、意味が対応する倭語を探しだしてきて置き換える、対応する倭語がなければ、倭語らしい言葉を考案して、それに漢語と同じ意味をむりやり持たせる、というやり方である。これが日本語の誕生であった。


 柿本人麿から山上憶良まで、半世紀の間にはじまった国語の開発は、情緒を表現する韻文の詩歌に関する限り目覚ましく成功したが、」より実用的・論理的な散文の文体の開発は、百年たってもなかなか成功しなかった。

 紀貫之の時代から百年をへて、11世紀の初めに紫式部の「源氏物語」が現れてもまだ、散文の文体の開発が完了したとは言えない。日本語の散文の開発がおくれた根本の原因は、漢文から出発したからである。

 結局、19世紀になって、文法構造のはっきりしたヨーロッパ語(ことに英語)を基礎として、あらためて現代日本語が開発されてから、散文の文体が確定することになった。


【出典】「日本史の誕生〜千三百年前の外圧が日本を作った」岡田英弘/弓立社‘94年  
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/706.html


65. 中川隆[2843] koaQ7Jey 2016年6月11日 11:55:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3121]

輝ける古墳造成時代(1/2)

《1》
 「古墳時代」とは妙な呼称である。

 一応、三世紀半ばから七世紀末頃までの約400年間を指す。旧石器時代、縄文時代、弥生時代、の後に古墳時代が来て、次に飛鳥時代、そして奈良時代へと連なる。この時代は国内にも支那の歴史文献にも倭国の記述がなく詳細を把握できないため、「空白の四世紀」と呼ばれている。
 
 支那から(無礼にも)倭国と呼ばれたヤマト王朝の勢力が拡大し、王権が強化統一されていった時代である。この時代の末期に「日本国」を名乗ったもののようである。

 私の子供のころ教わったときは、大和時代と呼ばれたが、最近では一般的でなくなってきているらしい。われら日本史の最初の英雄、仁徳天皇(第16代天皇 4世紀後半)はこの時代である。王朝が成立しているのに、王朝を時代名にしないって何? サヨクの差し金か?

 だいたいこのころに、ヤマト王朝が北海道東北を除いて全国統一政権が樹立したと考えられている。

 古墳がしきりに造られた時代も、その数や規模はいわゆる正規分布を描き、中期ごろに多くなって巨大化したが、後期には数も減って小さくなっている。これは何を物語るのか。

 歴史学会では、古墳はずばり天皇・皇族や地方豪族の墓だとされる。天皇や地方豪族が、人民を搾取し強権をふるって奴隷として酷使して、自らの権勢を後世に残すために大きな墓を建てたのだと、学校でも教わった。これは一つにはエジプトのピラミッド建設の解釈を模倣しているやに想像する。

 ピラミッドの場合は、奴隷を使役して王が墓を造るため、石材を積み上げさせたのだと解かれてきたが、それがウソで、実は山を崩して造ったものだと解明されている。

 古墳は、どこを見ても平らな土地に土を盛って造ってある。人工的な盛り土だ。もしも天皇や豪族の墓だとするなら、いったいその膨大な量の土砂はどこからどうやって運んできたのか。

 墓にするなら、自然の小高い丘にでも埋葬すれば十分なのに、なぜわざわざ平地に造らせたのか、はなはだ疑問である。

 古墳の周囲は平地だから、現在は住宅街か田んぼが広がっている。造られた当時も、田んぼか畑だったはずである。

 ここから、日本歴史学会の定説にぼちぼち異議が唱えられている。

 稲作は縄文前期には日本にあった。弥生時代に〈弥生人〉が渡来して持ち込んだのではない。ずっと小規模の水田で、河川や湖のそばにあっただけである。菜畑遺跡(佐賀県唐津市)を見れば明らかだ。

 それが古墳が造られる時代になると、かなり大規模化した水田が登場する。そして当然、稲の収穫量も飛躍的に増えている。

 これは大規模な灌漑工事が行なわれたことを指している。

 本来、自然の土地は起伏があって当たり前である。河口付近は土砂の堆積で平地が多いが、太古から手つかずの自然ならば、大なり小なり土地は真っ平らではない。

 そこを開墾して平らにならし、水田にする工事をすれば、大量の土砂が出る。灌漑だから、水路も確保しなければならず、また溜め池も掘らねばならない。どうしても掘った土砂を捨てなければならない。

 これからリニア中央新幹線の大工事が始まるようだが、アルプス山脈にトンネルを掘るから、すさまじい量の土砂が出て、その処理をどうするかが大問題になっている。

 と、同じように、往時も土砂の処理は考えねばならなかった。
 それで土砂を集めて、盛り土にし、古墳にしたのである。


 この説を聞いたときには感嘆した。そうだよな、と。

 古墳は各地にあるが、とりわけ近畿地方に多い。それはつまりヤマト朝廷が近畿で勃興し、強大な権力となったからである。そして大阪平野や奈良盆地などを灌漑して、余った土砂を小山にした。

 それによって、民は米がたらふく食べられるようになり、人口も増え、国家が隆盛していったのである。
 
 したがってサヨク史家が言うように、天皇や豪族が人民を奴隷としてこきつかって、見栄や私欲で墓を造らせたわけがない。

 みんなが食べられるようになり、食糧をめぐっての争いも減って、平和になって、どれほど人民が幸せになったか。

 仁徳天皇陵も灌漑で盛り土したところに、家来や人民が天皇は偉大な方だったとの感謝を込め、また死後も魂としてみんなを見守ってほしいと願って、その盛り土を利用して陵墓にした、というわけだった。結果として陵墓になったのだ。

 おそらく仁徳さんの有名な逸話、「民の竃は賑わいにけり」は、こうした土木工事に敏腕を振るった天皇を偲んでの「神話」になったのではないだろうか。

 サヨク史家どもはいつも階級闘争史観を展開し、王権は絶対悪で、善良な人民を収奪し虐げたことにするけれども、支那や朝鮮ではあるまいし、「やらずぶったくり」の極端な苛斂誅求は行なわれなかった。

 もし、天皇や豪族が、人民の膏血をしぼりに搾る圧政をしていたなら、飛鳥、奈良、平安の時代の仏像が、どれもみんな穏やかな、慈愛に満ちた表情になるだろうか。これは直接の証拠だと言うつもりはないが、いにしえの人々の認識一般がそれら仏像の表情に、滲み出るはずではないか。

 要するに「空白の四世紀」とは、全国的に開墾、灌漑が盛んに行なわれ、米の収量が飛躍的に伸びた時期である。やはり「大和時代」の呼称のほうが良いだろう。
 七世紀末ごろに古墳の建設が行なわれなくなるのは、そうした古式の灌漑工事をやらずに済むようになったからだ。

 多くの土地が開墾され、土地が平らにされ、水路も発達していたから、新たに荒れ地を開墾しても、土砂は水路を利用して船でどこか(海?)に運んだり、大規模な堤防を造るのに利用されるようになったと言われている。

 実際、明らかに古い盛り土で古墳なのに、豪族の埋葬品もなく、墓とは言えないものが多いことが、古墳建設の目的が墓ではなかったことを示している。

 前方後円墳とか、形がいくつかパターンがあるが、それは盛り土が雨などで崩れないために固めたからだという。盛り土が崩れないよう、出来上がるまでは板で囲いをし、さらに周囲に溝を掘って、崩落に備えたので、仁徳陵のような巨大古墳には堀がある。

 盗掘を防ぐため、といいうより、土砂の固定のほうが大事だった。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/437944663.html


輝ける古墳造成時代(2/2)
《2》
 この四世紀間、日本人はせっせと土木工事に勤しみ、広大な田圃を造り、主食を増産して、人口を増やすことに成功した。土木工事の技術は、道路の建設や巨大王宮の建設に生かされていく。

 近畿地方から地方へ、大きな道路が敷かれていき、これによって中央政権が地方の支配をつつがなく遂行できるようになっていくのだ。

 地方の豪族にまつろわぬ動きがあれば、ただちに軍隊を差し向けることが出来るようにもなっていったろう。中央と地方の連絡も、整備された道路のお陰で早く確実にできるようになっていく。

 それは統一王朝の出現と維持を堅固なものにした。やがて飛鳥時代になって、日本独自の「文化」が花開くのである。仏教は6世紀前半に伝来したようだが、それが寺院や仏像をしっかり造るようになる。

 かねてよりの私の持論だけれど、日本人の脳細胞が幾たびかの戦乱を経ることで、飛翔したのである。例えば源平騒乱のあとの鎌倉時代の文化、南北朝戦乱後の室町文化、戦国時代後の江戸初期の元禄文化といったようにである。戦乱で日本人全体での体軀と認識がシビアな反映を強いられ、磨かれるからであり、戦乱が終息して平和になって、文化的な活動が落ち着いて出来るようになって、一気呵成に独自の文化が花開くのである。

 それにならえば、古墳がしきりに造成された時代、すなわち土木開墾が行なわれた時代は、人々はそれまでやったことのない運動を強いられたのである。強いられたといっても、奴隷の苦役ではなかったから、辛いには辛い労働だとしても、希望があった。これで飢餓に苦しまなくて良くなる、腹一杯飯が食える! との目的があった。

 だから開墾灌漑の工事をしながら、言うなれば楽しく、前向きに捉えながらの労働でもあったはずである。

 これは空手の修行でも言えることで、道場で厳しい練習をするにあたって、嫌々やれば上達はしないし、五感器官が鍛えられることでアタマは良くならない。
 よしんばどんなに肉体的にしんどい練習であっても、喜んでやれば、上達も早いし、アタマも良くなる。

 空手の達人になる修行では、たとえばモッコを担いで山を造り、足で踏み固め、さらに土を盛っていく。あるいは一抱えもあるような樹木を素手で引っこ抜く。巨木を担いで移動させる。こういう修練をわが流派が行なっていることは、学問誌『学城』をひもといている方なら、承知しておられるだろう。

 辛い労働でも夢をもって、前向きにやればすばらしい成果があがる。それまでやったことのない運動と、五感の反映で、人々は体力がつくだけでなく、アタマも飛躍的に良くなったのである。

 これは戦争とは違うけれど、それまでの日本人がやったことのない労働だったのである。人民が総動員されて、広大無辺の土地を、重機もないのに森の木を引き抜き、薮を払い、真っ平らにならし、モッコを担いで山を築いていく運動が、すさまじく手足の感覚器官を鍛え上げていった。

 神経は躍動的に動かされ、その元締めの脳も画期的に揺さぶられた。
 そのうえに、食事が充実していったから、実体への栄養も行き渡った。食事が重労働をも可能にした。

 認識は感情で創られるのである。感情(機能)をはぐくむためには、五感器官の実体が立派にならなければならない。五感器官を喜んで駆使する労働と、栄養がとれたことで、その感情のレベルが見事になっていった。

 さらに言えば、この土木工事によって、われらの先祖は、技術というものが生活を豊かにし、国を富ませ、強くすることを学習したはずである。

 例に挙げるのは悪いけれど、アフリカとか東南アジアとかでは、日本人のようないわば「技術信仰」とでもいうような、向上心はついに生まれなかった。後進国の奥地はまるで縄文時代が今日まで続いているような案配であったではないか。テレビのドキュメント番組で見たが、インドネシア奥地の山村では、カマドすら作る知恵が生まれなかったのだ。

 カマドと、ただ石ころを組んだだけの焚き火では、煮炊きするための火力に大きな差がでる。焚き火では火力が得られないから、いきおい森林から大量の薪を伐採してこなければならず、結局ハゲ山となり、砂漠化していく。人々の生活がいよいよ困窮していった。

 暗澹たる厭悪が何千年と続くまま。

 日本では技術が誕生したのである。今日も、「技術立国」とか「技術大国」と自他ともに許すこの実力は、世界を圧倒している。その曙がこの時代だったのではあるまいか。

 仁徳天皇一人の功績ではないけれど、彼が技術立国日本の礎を創ったと言っても良いのではなかろうか。

 国が富むことで、わが国は支那や朝鮮からの侵略にも耐える実力もいっそう付いたことだろう。開墾工事をみんなで力をあわせてやることで、団結力ができてきたこともあっただろう。

 もしかすると、みんなで力をあわせることの経験から、「和」の大事性が強く認識されるようになったのではなかったか。

 聖徳太子の「十七条憲法」ができるのは、ちょうど古墳の造成=開墾が終わりつつある頃だった。

 「和をもって尊しとする」とは聖徳太子一人の思いつきではなく、あの憲法が発想され、また受け入れることのできる「社会的共通認識」が育っていたから成立したのである。ここからも、どれほど日本人全体のアタマが良くなっていたかの証拠が見てとれる。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/437944701.html


66. 反日蝦夷徳川東条[1] lL2T@onaiM6Tv5Dsk4yP8A 2016年8月31日 16:46:50 : GFWCHZFr3k : gN@FCIgisaQ[1]
縄文人との混血なら”劣等人種縄文”wwwだよww
なんで人種的に価値の低い方の混血が弥生人様になれるんだよバカwwww Y染色体と同じ
数だけ残念ながら縄文土人、つまり先住民どもの混血が増やされてしまったのは縄文人の没落士
族が長い間武家政権やってたから。しかし弥生人の英雄坂本龍馬がぶったたいたおかげで最近
では減ってきたから、これに焦った愛知土人、つまりトグガワとかトウホグ土人、これは東条
の子孫みたいな反日先住民どもが必死に混血なら日本人かも〜〜弥生人かも〜〜〜文句言う奴
は長文で差別主義者のコミュ障!!俺たち縄文人に嫌われる奴は誰が何と言おうとコミュ障
かも〜〜!!とか低IQの嫌疑そらしに必死などっかで聞いたことあるな〜みたいなやつらが
反日先住民族の縄文人wwwアイヌっていうか蝦夷wwwだわなww

もともと無能先住民族の縄文人どもである平家源氏北条→戦国武士→トグガワという流れで
長い間正義の弥生人様が劣等人種の原住民縄文被差別武士侍に主導権握られて辮髪??
みたいなちょんまげ強要されていた時代のひずみがどうしてもあるからな〜
だから東条英機とか靖国を煽る徳川の子孫のナゴヤ野郎とかその子分の全体主義が違憲??
2万パーセントお前死刑みたいなハシゲとかの縄文と北チョンの合いの子みたいな部落民がこの国を
おかしくしようと煽っている。
吉田茂を牢屋に放り込んだ憲兵も名古屋とか大阪辺りの縄文人系の被差別部落民どもだろうしな
今の時代でさえ靖国を煽っている奴らはどいつもこいつも先祖が縄文蝦夷アイヌの劣等人種みたいな低IQの
ゴミどもばかりだし名前にはいつでも”徳川”wwwが書いてあるwww この徳川とかいう奴が本来
阿弖流為とかを自分たちの本当の神、縄文王とか崇めているやつらでトウホグの東条英機もこういうド底辺原住民と同じ
 我々はいい加減日本人とは弥生人のことで、先住民族縄文人のもでないことを自覚しないといけない
 もちろんそうなると一番困るのはこういう縄文どもなのだが、こいつらは弥生人を騙すために大河ドラマが〜とか
戦国時代が〜とか日本の”縄文人の”城が〜〜などと喚いて本来の人種間闘争を嫌疑そらしとかで煙に巻こうとするからな
 何度も言う通り、縄文人とは人種なわけ 吉田が弥生人だとしても徳川や東条は愛知やトウホグの縄文人でヤクザな部落民どもであるという
事実をもっと直視しないといけないんだよ
 歴史をちょっとさかのぼって調べてみれば平家や源氏、北条なんて大阪名古屋トウギョウあたりの原住民の山賊集団みたいなやつらの
先祖ってひょっとして阿弖流為???な〜んてことくらい教科書に直接書いてなくてもははあ〜〜〜ってな具合で分かるだろ??ww
だって科学力に勝る弥生様がなんで兵役とか農作業なんて奴隷仕事いちいちやってやんなきゃなんねーんだよwwってのが中世だし
それならそれで原住民の部落民縄文人どもも、じゃあ兵役をまとめて俺のとこの縄文部落民何万人とかで引き受けるから奴隷王の
元阿弖流為の家来の俺ナゴヤに朝廷様官位くれ〜〜とか、ほならワイらオオサガの縄文王で元阿弖流為の家来だったわいらにも
京都の大和弥生天皇陛下様官位くれや〜〜〜〜ってんで先にオオサガの平家が出世しただけじゃん?? 平民の弥生人さま
すっとばしてよ??  だからIQに劣るゴミの縄文人野郎どもでも戦国武士とか侍とかちょんまげとか絶対に弥生人ならやらない
ださい風習がはびこっちまったわけだからな 正義に目覚めた弥生人の英雄坂本龍馬がこういう狂った隠れ縄文人利権をぶったたいて
くれたけどいまだにナゴヤとか靖国とか東条の子孫をはじめこういう反日先住民どもがこの国を縄文時代に戻してやるwwwつって
自民党とかで国家解体工作、ブラック縄文国家wwに憲法改悪で煽ろうとしている腐りきった世の中なんだからこういうのを是正
しようというのが吉田茂的な魂だってことだよ


この国の正義の弥生人たちの魂よ!!我々の文化風習を汚しに汚し、腐りきった靖国蝦夷阿弖流為思想で
非文明的なブラック思想を押し付け、その無能極まりない政治で縄文時代に押し戻そうとする日本人顔した
ペテン師どもであるナゴヤ徳川縄文部落民どもやトウホグ東条部落民どもなど阿弖流為の家来だった
劣等人種どもを絶滅させることに目覚めよ!!! この国は弥生人のものであり天皇陛下がお造り
したもうたのであり、反日先住民政党自民党のような穢れた部落民没落士族などの反日先住民どもによ
って汚されていいものでは断じてない!!
我々が昭和の時代に無駄死にを強いられた怒りはすべてにおいてこの反日先住民どもナゴヤの徳川
没落士族原住民、トウホグ東条英機蝦夷土人をはじめ、オオサガカゴシマトウギョウなどの腐りに腐り
きった低知能人種縄文人どもの仕業である!!!!
弥生人よ立ち上がれ!!!反日先住民縄文人や没落士族どもを一匹残らず殺し尽せ!!!絶滅させよ!!
我々の弥生国家とその子孫のために今ここで縄文人どもを絶滅させることが最善の選択であることを知ら
なければならない!!!!


67. 中川隆[3833] koaQ7Jey 2016年9月01日 20:11:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4219]

〔サイエンスZERO〕日本人のルーツ発見!
〜”核DNA”が解き明かす縄文人〜〔Science Zero〕
https://www.youtube.com/watch?v=RPYvAFCc3QA

68. 中川隆[3834] koaQ7Jey 2016年9月01日 20:42:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4220]

東ユーラシア人の中で最初に分岐したのは縄文人だった〜
縄文人の核ゲノム配列をはじめて決定 2016/09/01
http://gansokaiketu.sakura.ne.jp/20160831-higashi-yurashiajinno-nakade-saishoni-bunkisitanoha-jyomonjin-datta-jyoumonjinno-kakugenomuno-hairetuwo-hajimete-kettei.htm


国立遺伝学研究所集団遺伝研究部門および総合研究大学院大学遺伝学専攻の斎藤成也教授らのグループは、福島県北部にある三貫地貝塚から出土した縄文時代人(縄文人)の歯髄からDNAを抽出して、核ゲノムの一部を解読することに成功しました。

これまで縄文人のDNAについては、ミトコンドリアDNAの情報しか得られていませんでした。今回、ミトコンドリアDNAの数千倍にあたる核ゲノムの DNA配列1億1,500万塩基対を決定しました。

このゲノム情報を、現代日本列島人と比較解析したところ、

縄文人はアイヌ人にもっとも近く、ついでオキナワ人、そしてヤマト人(アイヌ人とオキナワ人を除く日本列島人)に近縁であることが明らかになりました。

さらに、縄文人は、現代人の祖先がアフリカから 東ユーラシア(東アジアと東南アジア)に移り住んだ頃、もっとも早く分岐した古い系統であること、そして、現代の本土日本人に伝えられた縄文人ゲノムの割 合は15%程度であることが明らかになりました。

今回、縄文人の核ゲノムの一部が解読されたことによって、縄文人が現代の東アジア人と比べて遺伝的に特異な集団であったことが明らかとなりました。今後、 縄文人ゲノムデータを充実させ、それらを比較解析することによって、縄文人のたどった進化史が明らかになり、日本列島人の起源と成立を知ることにつながる と期待されます。
この研究成果は、Journal of Human Genetics(Online版)に掲載されます。


69. 2016年10月03日 12:06:48 : Yb9cCsO76A : 6x08FbyLuwg[1]

朝日新聞と琉球新報の見解では、沖縄人の起源である港川人は縄文人とは異なるのではないかと言いたいようです。即ち、ウチナンチュはヤマトンチュのDNAはまるで関係ないということですね。
でも、ウチナーグチが大和言葉とよく似ているのはどうしてなんでしょうか?
元々の台湾語との共通点があるのかないのか知りませんが、たぶん全く違う言語ではないかと思います。


BBCメニュー  NEWS JAPAN

世界最古の釣り針、沖縄の洞窟で発見


2016年09月19日
http://www.bbc.com/japanese/37405022


朝日新聞デジタル

港川人、縄文人と似ず 顔立ち復元、独自の集団か

2010年6月28日10時46分
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201006280113.html


琉球新報

【教えてニュース塾】港川人 縄文人と別起源

2009年10月9日 14:30
http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-151034.html(結びの言葉引用)


・・この分析結果について、研究チームメンバーで国立科学博物館に勤める海部陽介(かいふようすけ)さんは「港川人を縄文人の祖先として考えることが一般的だったが、それが本当に正しいのか、詳しく研究する必要がある」と話しています。


70. 2016年10月03日 12:15:15 : Yb9cCsO76A : 6x08FbyLuwg[2]
訂正


>元々の台湾語との共通点があるのかないのか知りませんが、たぶん全く違う言語ではないかと思います。


(台湾の原住民の言葉は中国語ではないということで)沖縄は地理的に九州より台湾の方が近いので言語的にどうなのか?という意味です。


71. 2016年10月03日 12:19:34 : Yb9cCsO76A : 6x08FbyLuwg[3]
>>70続き
専門家によると、その共通性はないようです。


Yahoo!知恵袋

台湾原住民の言語と沖縄の古語に統一性はありますか?なんか無いような気がします...
ruang_bon_tiengさん

2015/1/20
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14140893829



72. 2016年10月03日 12:34:38 : Yb9cCsO76A : 6x08FbyLuwg[4]
面白いです。


tacodayoのブログ

8月15日


ブサヨに騙されて死ぬ沖縄人 2chまとめ

カテゴリ:歴史進化論のウソと犯罪
http://blog.livedoor.jp/tacodayo/archives/8092818.html


73. 中川隆[5518] koaQ7Jey 2016年12月18日 08:55:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5955]

稲作の起源は1万年前の中国―専門家
http://www.recordchina.co.jp/a158082.html
2016年12月17日(土) 16時50分


科学者らは中国稲作起源の学術提案書を発表し、中国の稲作の起源は1万年前まで遡ることができ、その範囲は江西省万年県仙人洞の吊桶環遺跡を中心エリアとする長江中・下流及びその南部に及ぶだろうとの見方をまとめている。


中国科学技術協会が主催する「第54期中国科学技術フォーラム――中国稲作起源地学術シンポジウム」がこのほど、江西省万年県で開かれた。人民日報が伝えた。

科学者らは中国稲作起源の学術提案書を発表し、中国の稲作の起源は1万年前まで遡ることができ、その範囲は江西省万年県仙人洞の吊桶環遺跡を中心エリアとする長江中・下流及びその南部に及ぶだろうとの見方をまとめている。

中国の稲作研究者は、中国の稲作の起源を論証するため努力を続けてきた。80年代以降、江西万年仙人洞吊桶環遺跡、湖南道県玉蟾岩遺跡、浙江浦江上山遺跡などの考古調査により、1万年前には稲の人工栽培が確認され、「稲作の起源は中国」という学説を有力に裏付けている。(提供/人民網日本語版・編集YF)


74. 中川隆[7613] koaQ7Jey 2017年4月09日 11:58:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8100]

最近ネットで

東山天皇は縄文人 D1b1a2
藤原鎌足の墓と言われる阿武山古墳の被葬者は弥生人 O1b2a1a1


というデマが広まっています。 デマの情報源は


有名人のハプログループ
http://famousdna.wiki.fc2.com/

王家のハプログループ - Yourpedia
http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AE%B6%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97#.E6.97.A5.E6.9C.AC

Famous people's Y-DNA listed by haplogroup - Eupedia
http://www.eupedia.com/genetics/famous_y-dna_by_haplogroup.shtml


ですが、まともなデータや文献は何一つ引用されていません。

そもそも阿武山の遺体のDNA鑑定なんて行われてないし
実在しないニニギノミコトのDNAまで書いてるクルクルパー資料

朝鮮進駐軍の話と同じで在特会やチャンネル桜の関係者が捏造したものだと思います。

右翼は天皇が朝鮮人だとわかると困るんでしょうね。


因みに、Y-DNAだけでは民族差の判断は難しいのです。

2008年10月16日
ミトコンドリアDNAでは母方の祖先が分かるが、Y染色体のDNAからは父方の祖先が分かる。
「常に男女が同程度の人数で移動した」とは限らないので、Y染色体のDNAも調べる必要がある。


南米大陸全体での先住民族のDNAを持つ人の割合は、ミトコンドリアDNAでは82.8%だったのに対し、Y染色体ではわずか8.6%だった。

Y染色体で先住民族のDNAを持たない人の父方の祖先は、大航海時代以降南米に入ったヨーロッパ系(侵略者)又はアフリカ系(奴隷)の人々である。

比較的「南米以外」からの影響が少ないと見られていたペルーの山岳部の住民でも、同様の傾向があった。

先住民族のDNAを持つ人の割合は、ミトコンドリアDNAでは94.2%だが、Y染色体では46.0%しか居なかった。
http://d.hatena.ne.jp/psw_yokohama/20081016/p1

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/04(月) 23:19:37 ID:9w/WmKTM

ところが中南米人の遺伝子調べると
母系は先住民、父系はヨーロッパ人と綺麗に分かれてる
ハーレム状態


94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/04(月) 23:36:51 ID:GKFrYljf
>>93
人種構成は、

ペルーが、インディオ47%、混血40%、欧州系12%、東洋系等1%

ボリビアが、インディオ55%、混血32%、欧州系13%

メキシコが、インディオ30%、混血55%、欧州系(スペイン人)15%


97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/05(火) 12:35:59 ID:OriNBOP5
>>94
それは人種構成だから遺伝子の数値とズレがあるよね

例えばアルゼンチンは白人国家とされてるけど

ブエノス・アイレスの隣のラ・プラタ市の遺伝子調査だと
mtdna(母系)は45%が先住民、Y染色体(父系)の90%がヨーロッパ系

インディオが少ないとされるブラジルでも調査すると
mtdna(母系)の32%が先住民、28%が西アフリカ人となる
Y染色体(父系)の方はこれまた90%以上ヨーロッパ系になる


つまり人種的に黒人、インディオに分類されても
男系にかぎっては過去に白人の祖先をもつやつがとても多い

それに人種的にブラジルは白人、ムラート、黒人に分類されるが
実際は先住民ともかなり混血してることがわかる

あとアメリカ黒人男性の20%は白人を祖先に持つ
逆にアメリカ白人への黒人の遺伝子的影響はわずか0.7%
アメリカ白人への先住民の遺伝子的影響は3.4%

これらの数値はつい先日英語サイトから拾ってきたもの

ブラジルの数値はちゃんとした論文で具体的な方法まで書いてあったから
かなり信用できると思う
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/geo/1094725063/l50

中南米人の遺伝子調べると母系は先住民、父系はヨーロッパ人と綺麗に分かれてる ハーレム状態

現代の中国人は父系は大半が黄河文明人 O2(旧表記O3)で元々はコーカソイドみたいだけど、母系は南方系が殆どだから中南米のインディオと同じ様にモンゴロイドにしか見えない

日本では父系が黄河文明人 O2 の比率は 20%だけど、母系は縄文人(D1b, C1, C2)と弥生人(O1b2)でしょう

日本人Y-DNAハプログループ比率
D1b--32%
O1b2-32%(旧表記O2b)
O2---20%(旧表記O3)
C2----6%
C1----5%
O1b1--1%(旧表記O2a)
O1a---1%
N1----1%
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)

自分のハプロタイプが調べられる機関
https://genographic.nationalgeographic.com/
https://www.familytreedna.com/
https://www.23andme.com/

最新ツリー -ISOGG、ウィキペディア
http://www.isogg.org/tree/ISOGG_YDNATreeTrunk.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97


天皇一族みたいな朝鮮からの漢民族系渡来人は黄河文明人 O2 で一重瞼

縄文人(D1b, C1, C2)と弥生人(O1b2)は全員二重瞼


一重瞼はチョンだと思って間違いない :

グレゴール・ヨハン・メンデルの「優性の法則」によると、遺伝には親の性質が現れやすい「優性」と、現れにくい「劣勢」の二通りあり、両方の遺伝子が存在した場合、優性の形が優先されるそうです。

二重まぶたの遺伝パターン

二重まぶたは「優性遺伝」、一重まぶたは「劣勢遺伝」です。「それなら、両親とも、もしくはどちらかが二重まぶたなら子供も絶対二重まぶたになるのでは?」と思いますよね。でも、実は遺伝には4つの遺伝法則があるのです。
そもそも、まぶたには3種類の遺伝パターンがあります。


●二重の遺伝子を2つ持つ「AA」の二重

●二重の遺伝子を1つと一重の遺伝子を1つ持つ「Aa」の二重

●一重の遺伝子を2つ持つ「aa」の一重

両親が二重でも、「AA」タイプの二重なのか「Aa」タイプの二重なのかによって、子供が二重になる確率は変わるのです。


二重まぶたの遺伝の法則

両親のどちらかが「AA」タイプの二重であれば、子供が二重になる確率は100%、

両親が二重であっても、「Aa」タイプの二重であれば、子供が一重になる確率が25%ある

両親のどちらかが一重であれば、子供が一重になる確率は50%になります。


両親のタイプ別二重まぶたの遺伝ケース

父「AA」×母「AA」の二重
子供も「AA」の二重


父「Aa」×母「Aa」の二重
子供は「AA」か「Aa」の二重、又は「aa」タイプの一重になる可能性がある


父か母「AA」の二重×父か母「aa」の一重
子供も「Aa」の二重


父か母「Aa」の二重×父か母「aa」の一重
子供は「Aa」の二重、又は「aa」の一重になる可能性がある
https://moomii.jp/baby/babymabuta-iden.html


75. 中川隆[7703] koaQ7Jey 2017年4月12日 20:24:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8191]

ソウルは大和朝廷の同盟国だった百済の首都「漢城」が起源であり、防衛上不利なので何度も敵に攻略されては主人が交代してきました。

地形が不利なうえに歴代の王朝は軍が弱かったので、攻略されては首都を移転したが、結局また元の場所に首都が落ち着いている。

大きな河川があって朝鮮半島の西側の中心に位置し、大きな港を作りやすく、中国大陸に向かって開けているので、経済を発展させるのに有利だからです。


第二次大戦後や朝鮮戦争後、あまりにも38度線に近すぎるので首都を移転させようという意見もあったが「朝鮮半島の首都」であるソウルにこだわって移転を拒否している。

大和朝廷が交易に有利な大阪などより、防衛を重視して山奥の奈良や京都から動こうとしなかったのとは対照的です。
http://www.thutmosev.com/archives/70434088.html


76. 中川隆[-7988] koaQ7Jey 2017年4月30日 12:47:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

阿修羅管理人に投稿・コメント禁止にされましたので、本日をもってこのスレは閉鎖します

77. 中川隆[-7892] koaQ7Jey 2017年5月01日 08:41:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

参考に、僕が阿修羅原発板で反原発派の嘘とデマを明らかにした為に、阿修羅で投稿・コメント禁止にされた経緯を纏めました:

これが阿修羅に巣食う電通工作員
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c73


78. 中川隆[-7599] koaQ7Jey 2017年5月30日 06:34:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017年05月25日 人骨は多くを語る〜沖縄の石垣島で2万7千年前の人骨が大量発見
http://web.joumon.jp.net/blog/2017/05/3212.html


5月20日にプレス発表されたこのニュース。考古学的にはかなり大きな発見だ。
毎日新聞と琉球新報での記事全文を転載しますが、特に今回の発見での特筆すべき点を記事の中から抽出しておきたい。


http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/2017/05/img_e72b1210f7ad6d6dbb815b68561efc40228205.jpg


>7年間に渡る調査の集大成

2012年から継続した発掘調査は今年7月で終了。旧石器時代の人骨は全体で計約1000点出土した。同時代の人骨が確認された遺跡としては東アジア最大級で、科学分析による新たな知見も得られており、日本列島の旧石器人の研究に欠かせない遺跡となった。

>高度な分析方法で人骨年代精度が高まる

今回の遺跡調査の特徴は、人骨の科学的分析を進めてきた点だ。

骨内のたんぱく質「コラーゲン」を放射性炭素年代測定にかけることで、人骨の年代を直接測定できるようになった。過去にも1万8千年前とされる湊川人の遺跡が発見されているが、年代は人骨に伴って出てきた遺物の測定によるものだったため、人骨が後世に流れ込んだ可能性が指摘され、沖縄での旧石器人の存在を疑う見解もあった。今回の調査は沖縄に確実に2万年以上前に旧石器人が居た事を証明するものとなった。


>2万年前の葬送方式は風葬だった

今回の発掘の最大のポイントは風葬という葬送方式が再現できる形で発掘できた事である。⇒旧石器時代の人骨が大量に出土した同遺跡は、墓地だった可能性が指摘されている。岩陰や洞穴の入り口に遺体を安置する、風葬に近い葬送法が考えられるという。

藤田研究員は「世界でも岩陰で人骨がばらばらで見つかることがあり、墓なのか分からなかった。世界的に価値が高い発見だ」と評価し「沖縄だけでなく、日本本土でも洞穴を墓に利用したのではないか」とも想像する。
死体を埋めずに空気にさらす「風葬」の決め手は岩陰で見つかった、国内最古となる全身骨格がそろった1体分の人骨だった。手足を折り曲げて葬られた姿勢が初めて分かった。それらを分析すると「古い人骨を押しのけて新しい遺体を置いたことが推測できる」

>DNAの抽出に成功、日本人のルーツ、食生活まで人骨から情報を得る

推定身長が165センチの人骨もあり、港川人など他の旧石器人骨より大柄だ。

当時の食生活についてもコラーゲンの組成分析から発見があった。同遺跡の旧石器時代の人間は、その後の時代の人間に比べ海産物を食べる割合が低かったことが判明した。氷河期のためサンゴ礁がなく、海産物が利用できなかった可能性が指摘できるという。

旧石器時代のものでは初めてで国内では最古となる、人骨からのヒトのDNA抽出にも成功した。そのDNAのパターンが、中国大陸南部や東南アジアなどが起源と想定されるパターンだったことが判明し、日本人のルーツを探る上で貴重なデータとなった。


以下は記事の転載です。今後のさらなる発見にも注目が高まります。

5月20日毎日新聞1面〜

DNAも抽出、日本人の起源手がかりに

約2万年前の旧石器時代の人骨が確認されたことで知られる沖縄県・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡(石垣市)で、ほぼ全身の骨格をそろえた人骨が1体分見つかった。旧石器時代の全身骨格の出土は、沖縄本島・八重瀬町の港川フィッシャー遺跡での出土以来2例目。2012年から継続した発掘調査は今年7月で終了。旧石器時代の人骨は全体で計約1000点出土した。同時代の人骨が確認された遺跡としては東アジア最大級で、科学分析による新たな知見も得られており、日本列島の旧石器人の研究に欠かせない遺跡となった。【大森顕浩】

全身骨格の人骨は、約2万4000〜2万年前(放射性炭素年代)の地層にあった岩陰の奥で見つかった。2014年にひざが一部露出、翌年から掘り下げて、頭骨など1体分の全身の骨の約8割がまとまって出土した。ひざの関節部分や背骨などが接合しそうなほど近い位置で見つかっており、体が横たわった状態がうかがえるという。

日本の旧石器時代の確実な人骨は、酸性土壌の多い本土では静岡県で確認された「浜北人」だけ。一方、化石の保存に適した石灰岩質が広がる沖縄県では山下町第一洞穴遺跡(那覇市)など数多く発見されているものの、全身骨格の発見は港川フィッシャー遺跡で確認されたのが最初。約1万8000年前(放射性炭素年代)の4体のみだった。今回の骨格は港川とほぼ近い年代にあたるという。

土肥直美・元琉球大准教授(形質人類学)は「遺体が埋められていないまま、自然にばらけて白骨化していく様子がうかがえる。全身骨格は体形などの特徴がはっきり分かり、大変重要」と指摘する。

*************************

白保竿根田原洞穴遺跡は旧石器時代から近世の人骨やイノシシ、鳥などの動物の骨、土器や石器などが出土する複合遺跡。石垣島の空港建設に伴う調査で発見された。沖縄県立埋蔵文化財センターが10年に緊急調査、12年から5カ年計画の本格調査を続けてきた。
これまで確認した旧石器時代の人骨約1000点は、頭骨や歯、四肢の骨などで、全身の骨がまんべんなく見つかっている。同センターの分析で、現時点で十数人分の人骨に相当すると判明した。

同遺跡の特徴は、人骨の科学的分析を進めてきた点だ。骨内のたんぱく質「コラーゲン」を放射性炭素年代測定にかけることで、人骨の年代を直接測定できるようになった。白保竿根田原洞穴遺跡の発見以前は、沖縄では旧石器そのものが見つかっていなかった。沖縄の旧石器時代の人骨も洞穴内での発見が多く、年代は人骨に伴って出てきた遺物の測定によるものだったため、人骨が後世に流れ込んだ可能性が指摘され、沖縄での旧石器人の存在を疑う見解もあった。同遺跡の人骨から約2万年前の年代が測定されたため、旧石器人の存在を科学的に証明することができた。

当時の食生活についてもコラーゲンの組成分析から発見があった。同遺跡の旧石器時代の人間は、その後の時代の人間に比べ海産物を食べる割合が低かったことが判明した。氷河期のためサンゴ礁がなく、海産物が利用できなかった可能性が指摘できるという。

旧石器時代のものでは初めてで国内では最古となる、人骨からのヒトのDNA抽出にも成功した。そのDNAのパターンが、中国大陸南部や東南アジアなどが起源と想定されるパターンだったことが判明し、日本人のルーツを探る上で貴重なデータとなった。

************************

旧石器時代の人骨が大量に出土した同遺跡は、墓地だった可能性が指摘されている。同遺跡では、人骨が特定の場所に複数人分が集中する形で出土している。人骨には片面だけ粘土や土が付着したり、動物がかんだ跡とみられる傷もあった。人骨が長期間露出していた環境がうかがわれるため、岩陰や洞穴の入り口に遺体を安置する、風葬に近い葬送法が考えられるという。

調査を担当した沖縄県立埋蔵文化財センターの仲座久宜・調査班長は「旧石器時代の人骨出土数は国内最大。約2万年前に人類が石垣島まで到達したことを示す貴重な成果。その後も洞穴が断続的に利用されていた点も重要だ」と振り返る。今後は新たに出土した人骨からも年代測定やDNA抽出を試みるほか、保存状態の良い頭骨を基に顔の復元などの研究を進めるという。土肥さんは「日本人の起源や、東アジアでの人類の拡散につながる新しい研究成果がこれからも出てくるだろう」と期待している。

5月20日毎日新聞 25面〜

沖縄県・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡で見つかった世界でも例のない大量人骨は、旧石器時代に何度も繰り返された葬送の痕跡だった。手足を折り曲げた遺体を風葬のように岩陰に置いたとみられ、洞穴を墓にしていた実態が明らかになった。「風葬のような葬送方法が分かったのは前例がない」と国立科学博物館の藤田祐樹研究員(形態人類学)は驚きを隠さない。

死体を埋めずに空気にさらす「風葬」の決め手は岩陰で見つかった、国内最古となる全身骨格がそろった1体分の人骨だった。手足を折り曲げて葬られた姿勢が初めて分かった。骨の関節がはずれてばらついた様子は、沖縄で長く続いた風葬の人骨と似ており、遺体が長期間地上で露出していたことを物語る。

屈葬の姿勢は縄文時代に多くみられ、手足を縛って災いを防ぐ、胎児の姿勢にして再生を祈願する、などの説がある。当時の死生観について、沖縄県立埋蔵文化財センターの金城亀信所長は「類例がないのでなんとも言えない。今後の課題だ」と話した。

国内の旧石器時代の人骨の出土は沖縄県がほとんどだが、散乱して見つかっており、遺体の姿勢までは分からなかった。藤田研究員は「世界でも岩陰で人骨がばらばらで見つかることがあり、墓なのか分からなかった。世界的に価値が高い発見だ」と評価し「沖縄だけでなく、日本本土でも洞穴を墓に利用したのではないか」とも想像する。

保存状態の良い頭蓋骨(ずがいこつ)は計4点見つかり、河野礼子・慶応大准教授(自然人類学)は顔の復元に注目する。「4点の顔が似ているかどうかで、洞穴に葬られた人たちの血縁関係がどの程度近いか推測できる。また、全身骨格からは体つきや健康状態も分かる。どの地域から来たのかもうかがえる。日本人のルーツのヒントになる」と期待する。【大森顕浩】

琉球新報より〜

「あおむけて膝を胸の方に折り曲げた姿勢(屈葬)で葬られた」−。19日に沖縄県西原町の県立埋蔵文化財センターで開かれた同県石垣市の白保竿根田原(さおねたばる)洞穴遺跡に関する記者会見。日本で初めて旧石器時代の墓地と確認された同遺跡で見つかった「4号人骨」の葬られた際の姿勢について、土肥直美元琉球大准教授はこう説明した。琉球弧に広く分布する風葬は、2万7千年前には始まっていたことになる。研究者らは「旧石器時代の葬法の状況が分かるのは国内で初めて」と興奮気味に語った。

 遺跡からは1千を超える人骨片が出土し、それらを分析した結果、少なくとも19人がそこに葬られていることが分かった。5カ所にまとまって人骨が集中しており、墓地である可能性は早くから指摘されていた。しかし、人工物が全く見つからず文化的活動の証拠を見いだせず、墓地と打ち出せるかどうか慎重に検討されてきた。

決め手になったのが「4号人骨」で葬られた姿勢が明確になったことだ。屈葬と呼ばれるその姿勢こそ文化活動の証拠だった。他のバラバラで見つかった人骨も、発掘を進めながらその位置関係を3次元で精密に記録してきた。それらを分析すると「古い人骨を押しのけて新しい遺体を置いたことが推測できる」と土肥さんは語る。

県立埋蔵文化財センターで20日から一般公開される1号から4号までの人骨。1、3号は頭骨だけで、2、4号は全身の骨格がほぼ残る。これらの骨の形や状態からは、当時の暮らしも垣間見えた。4体はいずれも成人男性で、20代半ばの2体と高齢とみられる2体。推定身長が165センチの人骨もあり、港川人など他の旧石器人骨より大柄だ。

高齢とされる2号、4号では、下顎より上顎の歯のすり減り方が著しい。河野礼子慶応大准教授は「食生活からは考えにくい。特殊な歯の使い方をしていた可能性がある」と指摘した。この男性の頭骨からは日常的な冷水刺激によるとされる外耳道骨腫が確認できた。長年、潜り漁をしていたのではないかと想像が広がる。

形質人類学が専門の土肥さんは10年以上、八重山で旧石器人骨を探し続けたが手掛かりがなかった。そこに現れたのが竿根田原遺跡だった。人骨を「この人は…」と説明する土肥さんの言葉には、はるかな昔を今に伝えてくれる人骨への敬意が込められていた。
http://web.joumon.jp.net/blog/2017/05/3212.html

石垣島で国内最古の全身人骨発掘
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-33.htm

関連の学会や研究機関では大変話題になっている報告です。
紹介するのは 2017/5/21 の朝日新聞の記事です

沖縄群島が日本人の「先祖の系統の一つ」を考察するうえで非常に重要であることがまた裏ずけられました。

1.オーストラロイドでしょう。

  縄文草創期の港川人はオーストラロイド似(恐らくY-DNA「C1a1」)であることは既に研究機関の復元顔が報告されていますが、 弟遺伝子亜型と考えられるオーストラリアのアボリジニ(Y-DNA「C1b2b」)は50,000年前には既にサフール大陸 (ニューギニア島とオーストラリア大陸が一つの大陸に繋がってころの大陸名)に上陸していたことは 欧米の研究で報告されています。

  つまりニューギニア高地人(ラニ族やダニ族など:Y-DNA「C1b2a1c」)やオーストラリア・アボリジニ(Y-DNA「C1b2b」)より古い 兄Y-DNA亜型を持つ縄文人の一系統である海洋性ハンターのY-DNA「C1a1」は 少なくとも同じころにはヤポネシア列島に上陸していてもおかしくはないのです。

Y-DNA「C」系統の中で最も古い亜型が日本列島から検出されているのです。 日本列島は少なくとも数万年以上まえから、遺伝子の吹き溜まり(最終到達地)となり 極めて古い亜型がそのまま残っている希少な価値を持つ唯一の「先進国家」なのです。

2.主要な遺伝子亜型の入れ替わりがあったようです。

  今回の発掘の価値は、遺伝子亜型入れ替えの可能性が求められることにあります。

  これまでの国内のY-DNA調査では現代石垣島はY-DNA「O1b2」つまり弥生農耕民亜型が60%近くを占める弥生系世界のようです。 日本列島の中で最も弥生度の高い地域と思われるのです。

  ところがもっと古い時代は沖縄本島と同様の縄文系の世界であることが今回判ったのです。

  縄文系精神風土の石垣島に、南下してきた稲作農耕民が移住し多数派になり精神風土が弥生系に変わったと考えられます。 沖縄の中でも独特な石垣島の精神風土は支配層の遺伝子亜型の違いによるものかもしれません。 沖縄群島は縄文でひとくくりにされる単純な文化/精神風土地域ではないのです。

  かと言って台湾との接点は現在全く検出されていません。台湾の先住民の遺伝子型はY-DNA「O1a1a」で楚系の集団と考えられます。 

この楚系遺伝子亜型は石垣島では検出されず、むしろ本州の中国地方で高頻度で検出され、中国地方が日本の中でも 特異な地域(吉備氏が代表か?)であることが判っています。

  石垣島の農耕民遺伝子は現代のY-DNA調査では、台湾からではなく朝鮮半島から九州経由で南下してきたと考えるのが妥当です。

  但しこの調査研究報告は若干古く、報告された弥生系の亜型は満州、朝鮮半島や日本の一部でも検出されるオリジナル呉系のY-DNA「O2b2」か、 縄文と交配し分化した日本独自のY-DNA「O2b2a1a1」かどうかまでは踏み込んではいません。 つまり水田稲作農耕文化民が満州から朝鮮半島経由で南下し一気に石垣島まで移住してきたのか、九州で独自亜型に分化してから南下してきたのかはまだわからないのです。
  新しい研究が進む事を期待します。

関連論文と記事

16-5. 30,000年前〜35,000前に遡る沖縄の漁労技術
http://garapagos.hotcom-cafe.com/16-5.htm

14-4. 42,000年前のホモサピエンスの外洋漁撈と海洋技術
http://garapagos.hotcom-cafe.com/14-4.htm

30-12. 石器晩期−縄文草創期の港川人はオーストラロイドのようだ
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-12.htm


79. 中川隆[-7629] koaQ7Jey 2017年5月31日 10:29:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
>>74 に追記


王家のハプログループ 科学的根拠なしで削除された項目
http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AE%B6%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97#cite_note-4


王家のハプログループ(英:haplogroup of a royal family)とは、世界各国の王家のY染色体ハプログループを記した一覧である。詳細なSNP(一塩基多型)に関しては研究途中の段階であるケースもあるが、現在、解明されている世界の王家に関するY染色体の分岐系統をなんとなく適当に記す。


日本

出雲王朝 C2c1a(C-Z1300)[2] 要再調査。千家国麿氏と典子さまのご結婚時にD1b2と報道されたとうわさあり。

諏訪神党 C2c1a(C-Z1300) [3] 要再調査。

皇室 D1b1a2(D-IMS-JST022457)(継体天皇まで遡る) 科学的根拠なし[4][5][6]

源氏(征夷大将軍) D1b1a2b1a1(D-Z1504, CTS8093) 科学的根拠なし[7][8]

足利氏(征夷大将軍) D1b1a2b1a1 科学的根拠なし

豊臣秀吉(太閤) C1a1 科学的根拠なし

徳川氏(征夷大将軍) D1b1a2 科学的根拠なし

王政復古 D1b1a2 科学的根拠なし

蝦夷

鬼菱 ?(シャクシャインと覇を争ったアイヌの酋長。松前藩の仲介で一時和睦するが、シャクシャイン側の奇襲にあって討死した)

シャクシャイン ?(東蝦夷シブチャリ(静内)のアイヌの酋長)

カンナリ家 ?(幌別アイヌの巨酋・カンナリキ[9]に始まる系統。子孫は金成・神成姓を称す。カンナリキの遠祖はもと和人とされる)

チリ家 ?(登別アイヌの酋長・チリパ・ハエプトに始まる系統。子孫は知里姓を称す[10])

琉球

舜天王統 D1b(D-M64.1) 科学的根拠なし[11]

英祖王統 ?
察度王統(中山王) ?
羽地王統(北山王) ?
大里王統(南山王) ?
第一尚氏王統 ?

第二尚氏王統 D1b(D-M64.1) 科学的根拠なし[12]


80. 中川隆[-7626] koaQ7Jey 2017年6月02日 08:51:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

水稲は約1万年に長江下流域で栽培開始―中国研究グループ
http://www.recordchina.co.jp/b179785-s0-c30.html
2017年6月1日(木) 5時50分


2017年5月30日、中国国営新華社通信によると、水稲の栽培が約1万年前に長江下流域で始まったとする中国の研究グループによる研究成果がこのほど、米国科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences、PNAS)に掲載された。これは、世界の農業の起源における中国の早期稲作の地位をより確かなものにするものだ。

稲の栽培の起源については定説がなく、インドや中国などが挙げられている。中国国内においても華南起源説と長江中・下流域起源説が存在する。

中国科学院地質・地球物理研究所の呂厚遠(リュー・ホウユエン)研究員とそのグループによると、世界で最も古い水稲化石は長江中・下流域の少数の遺跡だけで確認されており、浙江省浦江県の上山遺跡がその一つだ。だがその年代測定の多くは、陶器の破片から取り出した有機物を放射性炭素年代測定にかけて調べられるが、呂氏らは年代推定の精度を上げるため、プラントオパール中の炭素14を利用した放射年代測定により、9400年前以前のものと推定している。

呂氏は「この方法で測定された上山遺跡の層位と最下層からの距離、およびイネの栽培化の速度の遅さを考慮すると、栽培が開始された年代は約1万年前の完新世の開始期におおむね一致する」と説明している


81. 中川隆[-7383] koaQ7Jey 2017年6月22日 22:32:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

未来を創る科学者達 (6)遺伝子に隠された日本人の起源 〜篠田謙一〜 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%82%92%E5%89%B5%E3%82%8B%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%80%85%E9%81%94%E3%80%80%EF%BC%88%EF%BC%96%EF%BC%89%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90%E3%81%AB%E9%9A%A0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90%E3%80%80%EF%BD%9E%E7%AF%A0%E7%94%B0%E8%AC%99%E4%B8%80%EF%BD%9E

NHKスペシャル アジア巨大遺跡 縄文 奇跡の大集落 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=NHK%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB++%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E5%B7%A8%E5%A4%A7%E9%81%BA%E8%B7%A1++%E7%B8%84%E6%96%87+%E5%A5%87%E8%B7%A1%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%9B%86%E8%90%BD


82. 中川隆[-7350] koaQ7Jey 2017年6月25日 07:14:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

サイエンスZERO 日本人のルーツ発見! ”核DNA”が解き明かす縄文人 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B9ZERO++%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E7%99%BA%E8%A6%8B%EF%BC%81+%E2%80%9D%E6%A0%B8DNA%E2%80%9D%E3%81%8C%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA

未来を創る科学者達 (6)遺伝子に隠された日本人の起源 〜篠田謙一〜 YouTube 動画
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NHKスペシャル アジア巨大遺跡 縄文 奇跡の大集落 - YouTube 動画
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サイエンスzero 農耕 - YouTube 動画
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83. 中川隆[-7298] koaQ7Jey 2017年7月06日 07:21:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

ナショナル歴史民族ミュージアム研究報告 2014年7月

雑草からみた縄文時代晩期から 弥生時代移行期における イネと雑穀の栽培形態
那須浩郎 著 - ‎2014
https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:_BJAweQUWKMJ:https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D300%26file_id%3D22%26file_no%3D1+&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja

 縄文時代晩期から弥生時代移行期におけるイネと雑穀(アワ・キビ)の栽培形態を,随伴する雑 草の種類組成から検討した。

最古の水田は,中国の長江中・下流域で,約6400年前頃から見つかっているが,湖南省城頭山遺跡では,この時期に既に黄河流域で発展した雑穀のアワ栽培も取り入れており,小規模な水田や氾濫原湿地を利用した稲作と微高地上での雑穀の畑作が営まれていた。

この稲作と雑穀作のセットは,韓半島を経由して日本に到達したが,その年代にはまだ議論があり, プラント・オパール分析の証拠を重視した縄文時代の中期〜後期頃とする意見と,信頼できる圧痕 や種子の証拠を重視して縄文時代晩期終末(弥生時代早期)の突帯文土器期以降とする意見がある。

縄文時代晩期終末(弥生時代早期)には,九州を中心に初期水田が見つかっているが,最近,京都 大学構内の北白川追分町遺跡で,湿地を利用した初期稲作の様子が復元されている。この湿地では, 明確な畦畔区画や水利施設は認められていないが,イネとアワが見つかっており,イネは湿地で, アワは微高地上で栽培されていたと考えられる。

この湿地を構成する雑草や野草,木本植物の種類 組成を,九州の初期水田遺構である佐賀県菜畑遺跡と比較した結果,典型的な水田雑草であるコナ ギやオモダカ科が見られず,山野草が多いという特徴が抽出できた。

この結果から,初期の稲作は, 湿地林を切り開いて明るく開けた環境を供出し,明確な区画を作らなくても自然地形を利用して営 まれていた可能性を示した。

はじめに

 縄文時代から弥生時代への移行は,一般に水田稲作の開始によって特徴づけられる。しかし,明 確な水田遺構(水田跡)や畠遺構が見つかる以前にも,炭化米や籾痕土器,プラント・オパールな どのイネ資料の報告があり,これにより,縄文時代の稲作が議論されてきた。さらには,イネだけ でなく,雑穀のアワ・キビの種子や圧痕もほぼ同時期から見つかっており,縄文時代におけるイネ と雑穀の複合的な栽培が想定されてきた[佐々木,2003;2011など]。

この栽培形態については,遺 跡立地や民俗例などをもとに,焼畑や切り替え畠などで行われていたと考えられることが多かったが,実際に,縄文時代に焼畑があったことを積極的に示す証拠はまだ見つかっていない[能登,2002]。

縄文時代の原初的な天水田,畑地,焼畑などの耕作地を,遺構として明確に捉えることは困難だか らである。  縄文時代のイネや雑穀の栽培形態を示すひとつの方法として,雑草に着目する方法がある。雑草 は,「人為環境下に良く生育し,かつ人間活動に干渉する植物群」と定義され,野生植物と栽培植物 の両方の性質を部分的に持っている植物である[山口,1997]。

雑草植生は人為の干渉の度合いによっ て種類組成が異なるため,遺跡から出土する雑草の種類組成から,当時の人為干渉の度合いを推定 することができる。笠原安夫は遺跡から出土する雑草種子を精力的に分析し,縄文時代から弥生時 代にかけて水田雑草が増加することを明らかにした[笠原,1976;1982;笠原・武田,1979など]。こ のように,作物に付随する雑草の種類組成を調べることで,当時の立地環境や栽培形態を間接的に 推定することが可能である。  

本報告では,イネや雑穀などの穀物資料に随伴する野草や雑草の組成に着目して,イネと雑穀の 栽培形態を検討する。まず,中国で水田稲作が始まった頃のイネと雑穀の栽培形態を,湖南省城頭 山遺跡の雑草種子分析の例から検討する。

次に,縄文時代のイネと雑穀の出土記録を整理し,イネ と雑穀の渡来時期を検討する。最後に,最近筆者が調査した京都府北白川追分町遺跡の例から,縄 文時代晩期末(九州北部の弥生前期初頭に相当)の湿地を利用した初期稲作について検討し,佐賀 県菜畑遺跡の初期水田遺構と雑草種子を比較することで,初期湿地稲作の栽培形態を推定する。


❶……………稲作と雑穀農耕の起源と伝播

 まず,日本列島の初期稲作・雑穀作の栽培形態を検討する前に,稲作と雑穀農耕が,大陸でどの ように始まったのかを振り返ってみたい。稲作が中国の長江流域で始まったことは,既に多くの研 究から明らかにされている[Cohen, 2011; Zhao, 2011;Fuller, 2012など]。

野生イネ採集の記録は, 15,000〜11,500年前頃の長江中下流域南部の丘陵地帯(湖南省玉蟾岩遺跡,江西省仙人洞遺跡・吊 桶環遺跡,浙江省上山遺跡)で見つかっており,その後,9,000〜7,000年前頃に長江中下流域で栽 培化されたとされている。9,000〜8,000年前頃には,湖南省彭頭山遺跡・八十 遺跡,浙江省上山 遺跡,河南省賈湖遺跡などでイネが多数見つかるようになるが,これらが栽培種か野生種かで議論 が分かれている[Li et al., 2007; Fuller et al., 2007]。籾軸の脱粒痕により栽培種だと判定された確実な栽培イネは,7,900〜7,000年前頃の長江下流域の浙江省跨湖 遺跡が最も古い例である。

イネの 栽培が定着するのは,長江下流域の浙江省田螺山遺跡で,6,600年前頃から栽培イネが野生イネより も多く出土するようになる[Fuller et al., 2009]。さらに,つづく6,400〜5,500年前頃になると長江中 流域の湖南省城頭山遺跡や長江下流域の江蘇省草鞋山遺跡で水田が造られるようになる[Yasuda et al., 2004]。

 一方,雑穀のアワ・キビ作は,黄河流域で始まっている。黄河中流域の東部低地の河北省磁山遺 跡から10,300〜8,700年前頃のキビが出土している[Lu et al., 2009a;2009b]。ただし,これは種子の 出土記録ではなく,土壌に含まれるキビの種子の表皮細胞に含まれる珪酸体から特定されたもので ある。表皮の長細胞の形態がキビ属の野生種の一種であるヌカキビと異なることから栽培種のキビ であると示されているが,ヌカキビはキビの直接の野生種ではなく,上述したようにキビの野生種 はまだ見つかっていないので,この指標で本当にキビの栽培/野生を識別できるか疑問とする見方 もある[Nasu et al.,2012]。

さらに,年代測定も土壌の年代を測定しており,遺構との関係から年代 が古すぎるという見解もある[Zhao, 2011]。この遺跡からはアワの表皮細胞の珪酸体も見つかって いるが,アワはキビより遅れて8,700年前頃に出土するとされている。確実な栽培雑穀の証拠が出てくるのは,9,000〜8,000年前頃で,黄河中流域東部低地で栽培キビとアワの種子が出土するようになる。

河南省裴李崗遺跡などでは,9,000〜7,400年前のキビとアワの種子の記録があり,磁山遺 跡でも,今度は確実なキビとアワの種子の記録が8,100〜7,600年前頃から出てくる。その後,7,000 〜6,500年前頃には,雑穀栽培が黄河下流域,黄河中流域西部台地,中国東北部や内モンゴル自治区 まで拡散する[Cohen, 2011]。  

これらの稲作と雑穀作は,水田稲作が始まった頃には既に融合していた。湖南省城頭山遺跡では, 最古の水田跡が見つかっているが,黄河流域で起源して発達してきた雑穀栽培も取り入れていた証 拠が見つかっている[Nasu et al., 2007]。

城頭山遺跡は,6,400〜5,300年前頃の環濠遺跡で,大渓文 化初期,中期,後期,そして屈家嶺文化期の4つの時期の環濠が見つかっている[湖南省文物考古研 究所,2007]。そして,これらの各時期の環濠の増改築とともに遺跡が次第に拡大していたことが判明した。

このような環濠に含まれる植物遺体を分析したところ,イネだけでなく雑穀のアワも見つかり,大渓文化中期からアワが増加していく様子が明らかになった。

城頭山遺跡ではイネの栽培だ けでなく,時代を経て遺跡を拡大するとともに,イネだけでなく雑穀のアワの栽培も取り入れていた。これらの栽培植物に随伴する雑草類の出土状況を調べてみたところ,アワの栽培増加とともに, 畑地雑草が増加していることが明らかになった[那須・百原,2007;Nasu et al., 2012]。

この結果は, 遺跡の拡大とアワ,シソ属などの畑作物の増加と同調しており,遺跡の内部で畑作を取り入れていく様子が明らかになった。

イネの栽培が行われていた大規模な水田跡は見つかっていないが,おそらく遺跡の外の氾濫原を利用して水田稲作を行っていたと考えられる。このように発達した稲作と 雑穀の農耕は,3,400年前頃には韓半島に伝播している[Lee, 2011]。

❷……………縄文時代のイネと雑穀

 それでは,イネと雑穀は,いつ頃から日本でも見つかりだすのだろうか? 近年のレプリカ法やプラント・オパール(植物珪酸体)分析の普及,炭化米の直接年代測定の推進により,縄文時代の イネと雑穀の記録の洗い直しが進められている[中沢,2009;中山,2010;小畑,2011]。

イネについ ては,外山・中山[1992],中山[1999]などによって縄文時代から弥生時代の信頼できるイネ資料 (土器圧痕,炭化米,プラント・オパール,花粉)の集成が進められ,最近の中山[2010]による集 成が現在のところ最もまとまった資料である。

これによると,イネ資料の最古例は,縄文時代中期の鹿児島大学構内遺跡のプラント・オパール資料になる[古環境研究所,1994]。

ただし,これは土壌中のプラント・オパール分析により得られた資料であるため,この縄文時代中期のイネ資料を稲 作の証拠として積極的に採用する研究者と採用しない研究者とで意見が分かれている。

プラント・ オパールは土壌粒子の一部であるため,土壌と挙動を共にして移動する。従って,土壌中のプラン ト・オパールは,土壌中の生物や植物の根系などによる擾乱作用により,堆積した当時の地層よりも下層に移動する可能性を完全には否定できない。

中山[2010]もこの例を,

「定量分析による増減 が層位ごとに示されておりデータとしての信頼性は高いが,それを裏付ける大型植物遺存体や耕地遺構などが不明である」

としている。

筆者は,現時点ではまだ証拠が不十分であることや,韓国に 稲作が伝わるのが青銅器時代前期の3,400年前頃[Lee, 2011]であることを考慮すると,縄文時代中期段階にイネが日本に伝来していた可能性は低いと考える。  

縄文時代中期例の評価がまだ難しいとすれば,縄文時代後期ではどうだろうか? 

縄文時代後期 になると,土器圧痕資料や炭化米資料でもイネの記録が増加してくるが,中沢[2009]や中山[2010] によれば,その全てに疑問符が付けられている。

熊本県石の本遺跡から見つかったイネの土器圧痕 は,圧痕が本当にイネかどうか,疑問が出されている[中沢,2009]。筆者も報告書の写真を見る限り,これをイネと同定する根拠を見つけることができない。

最近見つかった鹿児島県水天向遺跡の 圧痕資料が,唯一縄文時代後期後半のイネの存在の可能性を示す資料である[小畑・真邊,2011]が, これについては土器の時期比定について一致した見解が得られてなく,突帯文土器の可能性が高い との指摘がある[宮地,2013]。

岡山県南溝手遺跡の圧痕資料も同様に土器の年代に疑問が出されて いる[中沢,2009]が,ここでは土器胎土のプラント・オパール分析でもイネが見つかっている[藤 原,1995]。

土器胎土中のプラント・オパールは,土壌中のプラント・オパールよりもコンタミネー ションの可能性が低いため,信頼性が高い。しかしながら,圧痕資料が見つかった土器の年代に疑問が出されていることを考慮すると,胎土分析を行った土器の時期比定も多方面からの再検討が必要であると思われる。

また,イネのプラント・オパールの同定についても,報告書の顕微鏡写真が 鮮明ではなく,重要な資料であるにもかかわらず形態記載が無いため,本当にイネのプラント・オ パールが含まれていたのかどうか疑問がある。この分析ではイネとともにモロコシ(Sorghum bicolor)も報告されているが,モロコシはアフリカで4,000年前頃に栽培化されたと考えられてい るので[Smith, 1995],縄文時代後期に日本に到達していたとは考えにくい。

おそらく,野生のモロコシ属のプラント・オパールだと考えられるが,明確に示されていないため混乱の原因になってい る。

筆者は,縄文時代後期については,可能性はあるものの,まだ証拠が不十分であると考える。  

縄文時代晩期になると,信頼できるイネ資料が増加する[中山,2010]。

ただし,確実な縄文時代晩期のイネ資料は縄文時代晩期終末(九州北部の弥生早期〜前期中頃に相当)の突帯文期までだとする見解があり[中沢,2013],晩期前半の評価が問題になっている。最近の中沢[2013]の圧痕資料の集成では,確実なイネ圧痕資料は島根県の板屋III遺跡の突帯文I期(表1)のものであるとされており,これを遡るような確実なイネ資料はないという。

突帯文期以降は,種実同定と時期比定 の両方で確実なイネ資料が,圧痕[中沢,2013]だけでなく,炭化米やプラント・オパール,花粉で も増加している[中山,2010]。

年代測定が直接行われた炭化米も,この突帯文期相当の2,800–2,400 14C BP前後にあたるものがほとんどで[西本編,2009],それを遡る年代結果はまだ得られていないのが現状である。  

このように,縄文時代の稲作については,縄文時代晩期終末(弥生時代早期)の資料は大方の一 致をみているが,それ以前の資料については,イネ資料の真偽について評価が分かれているのが現状である。

これが,縄文時代晩期前半や縄文時代後期にまで遡るかどうかについては,さらなる確 実な証拠が必要であるが,今後このような重要な資料の発表に際しては,異なる立場の3名以上の 複数の専門家によるクロスチェックが必要だと考える。

特に最古例に近い資料に関しては,植物の 種同定と土器の時期比定,年代測定のすべてにおいてクロスチェックを行ったうえで報告書に発表する体制を,早急に整備する必要があるように思われる。  


雑穀についてはどうだろうか? 

雑穀は,アワ,キビ,ヒエなどがあるが,このうちヒエについ ては,縄文時代前期頃から北海道や東北地方を中心に,いわゆる「縄文ヒエ」が出土している。

これは,野生種のイヌビエと異なり,やや胴部が膨らんだヒエ属種子である[吉崎,1992]。阪本[1988] やCrawford[2002]などは,ヒエは日本列島で独自に栽培化された可能性が高いと指摘している。

一方,アワとキビについては,中国で栽培化されたものが,イネとほぼ同時期に日本に伝播したと考える。

この理由として,アワとキビの野生種はおそらく日本には分布していなかったと考えられ るからである。アワの野生種はエノコログサであり,エノコログサは現在日本の各地に分布してい るが,最終氷期や縄文時代前半の地層からアキノエノコログサやキンエノコロは出土するものの, エノコログサは出土しない。このことから,エノコログサは,アワとともにアワ作の雑草として大 陸から伝来した史前帰化植物ではないかと考えている。

キビについてはその野生種自体がまだ見つ かっておらず,日本にはヌカキビなどの直接栽培化に関わっていない野生のキビ属しか自生しない ため,キビも大陸から伝来したものだと考える。  

アワやキビの炭化種子は縄文時代晩期終末頃(九州北部の弥生前期初頭に相当)に見つかってお り,直接年代が測られた例としては,滋賀県竜ケ崎A遺跡の2,550±25 14C BPの値が最古である

表1 本論に出てくる土器型式と相対年代と炭素14年代の対応表

土器型式 相対年代 炭素14年代 突帯文I期(板屋III) 縄文晩期終末 2800 14CBP 台 山の寺式 (菜畑) 弥生早期 2700 14CBP 台 板付I式 (菜畑) 弥生前期初頭 2500 14CBP 台 長原式 (竜ヶ崎) 縄文晩期終末 2500 14CBP 台 滋賀里V:長原式・船橋式 (北白川追分町) 縄文晩期終末 2500 14CBP 台 弥生I期 2400 14CBP 台
[松谷,2006;宮田他,2007]。


アワに関しては,後述するように,筆者が分析した京都府北白川追分 町遺跡の例で,2,530±20 14C BPの炭化アワが出ており[冨井他,2012],ほぼ同時期にキビとアワ が近畿地方にまで伝来していたのはほぼ確実である。

最近では圧痕資料によるアワとキビの証拠が 急速に増加している。

特に中部地方から関東地方では,精力的な調査により,縄文時代晩期後半〜 終末のキビとアワの圧痕資料が多数見つかっている[佐々木他,2010;中沢,2011;中沢・佐々木, 2011;Takase et al.,2011;遠藤・高瀬,2011;2012;遠藤,2012;中山・閏間,2012;中山・佐野,2012]。

アワとキビに関しては,イネのように縄文時代中期や後期とされる報告はないため,今のところ縄 文時代晩期終末頃(九州北部の弥生前期初頭に相当)が最古であると考えて良いようである。  

このように,イネと雑穀の伝来時期については,まだ確定したものではないが,概ね,縄文時代 晩期終末(九州北部では弥生時代早期〜弥生時代前期初頭)にはイネも雑穀も伝来していたと考えられる。

イネと雑穀の伝来の時期差について,筆者は今のところ,イネと雑穀(アワ・キビ)は同 じ時期にセットで伝来したのではないかと考えている。

中部地方の例では,イネに先行してアワ・ キビが拡散したという考え[遠藤・高瀬,2011]と,イネも雑穀もほぼ同時に波及したが中部高地で は高標高のために積極的に採用されなかった[中沢,2011;中山・閏間,2012]という考えの2通り があるが,筆者も,イネも雑穀も同時に伝来していたが,それぞれ立地を分けて栽培していたので, 出土状況に地域差があるのではないかと考えている。

❸……………イネと雑穀の栽培形態

3–1.イネの焼畑,水田,天水田栽培の検討

 以上のように,縄文時代晩期終末(九州北部では弥生時代早期〜弥生時代前期初頭)には,イネ と雑穀は伝来していたが,これらはどのように栽培されていたのだろうか? 

イネについては,古 くから,古代米の品種が水稲か陸稲か,あるいは水陸未分化稲かの議論があり,農法や立地につい ても焼畑,常畑,水田,湿地などで,意見が分かれている。

佐藤[2002]による弥生時代の古代米 のDNA分析により,古代米には熱帯ジャポニカ種が含まれていることが見いだされ,これにより 陸稲の焼畑栽培が想定されることが多かったが,安藤[2009]のように,栽培導入時期にイネが陸 稲や焼畑で栽培された可能性を否定する見解もある。

実際,佐藤[2002]も述べているように,古 DNA分析により熱帯ジャポニカと判断されたイネは,縄文時代のイネではなく弥生時代のイネで あり,「水田跡」のある遺跡から見つかったイネも含まれている。

従って,弥生時代に熱帯ジャポニカの品種があったからといって,それが直ぐに焼畑農耕や陸稲に結びつくものではないと考える。 熱帯ジャポニカ種でも湿地や水田で生育可能だからである。

水田が見つかる以前の稲作が畑作や焼畑の可能性もあるかもしれないが,まず先に検討したように,縄文時代中期,後期,晩期前半の確実なイネ資料はまだないこと,確実なイネ資料が増加する時期と水田跡が増加する時期がほぼ一致している[中山,2010]ことを考慮すると,当時の稲作を無理に焼畑に結びつける必要はないように 思われる。

佐々木[2003]は,水田,焼畑,畑地とも区別し難いような天水田で原初的な稲作が始 められたと述べている。笠原[1976b]は,縄文時代の出土種子と現在の焼畑に生える雑草を比較して,共通種が多いことから,縄文時代に焼畑が存在したと推定した。

その後,菜畑遺跡での分析結果から,イネとアワが出土し,畑地雑草が多いことから,水陸未分化の稲作がまず伝来したとした [笠原,1982]。

筆者自身も,以前は同様の考えを持っていたが[那須,2004],笠原[1976b]が示し た焼畑雑草のキイチゴ類,ヤマブドウ類,ヌカキビ,キランソウ,アザミ類,コウゾリナ類は,焼 畑でなくとも水田の畦や畑の周囲にも普通に生育する種類であり,これらの出土を持って焼畑の証 拠とすることはできないだろう。

先に述べたように,中国湖南省の城頭山遺跡の分析結果を再検討 した結果[Nasu et al.,2012],イネは湿地や水田で,アワは畑地で立地を違えて営まれていた可能性 が高いと考えるようになった。

このように見ると,湿った土地でイネを栽培し,乾いた土地で雑穀を栽培するような稲作と雑穀の複合農耕がセットで伝わった可能性が考えられる。  

縄文時代晩期終末(九州北部の弥生早期〜前期中頃)の初期水田の形態については,田崎[2002] により詳しくまとめられている。

田崎[2002]によれば,初期の水田は,畦畔による明確な区画が ありかつ水利施設を伴うI型と,区画は認められるが水利施設を伴わないII型に区分される。

I型 はさらに地下水位との関係において,地下水位の低い地形に作られたIa型(半乾田タイプ),地下 水位の高い地形に作られたIc型(湿田タイプ),その中間のIb型(半湿田タイプ)に区分される。

水利施設を伴わないII型の水田は,すべてが地下水位の高い地形に造られた湿田タイプであり,地 形条件の利用様態(造田方法)により,IIa型(人工地形造成)とIIb型(自然微地形利用)に区分される。

水利施設を伴うI型の例として,福岡県野多目遺跡(Ia型),福岡県板付遺跡(Ib型),佐 賀県菜畑遺跡(Ic型)などが挙げられ,水利施設を伴わないII型の水田として,福岡県比恵遺跡 (IIa型),宮崎県坂元A遺跡(IIb型)が挙げられている[田崎,2002]。  

このうち,水利施設を伴わないII型の水田については,「天水田」と呼ばれることが多いが,安藤 [2009]のように,これらを「天水田」と呼ぶのに批判的な見解もある。

水路や堰がない初期水田も, 自然の微傾斜を利用して地下水や湧水を畦畔によって引き込み湛水させることに意味があり,「灌漑」していることに変わりはないという。

確かに「天水田」の用語は,地下水よりも,雨水を頼りに 湛水する印象が強く,一般に誤解を与えやすいのかもしれない。

いずれにせよ,初期の水田には地 形条件に応じて様々なタイプがあったとする点は,田崎[2002]も安藤[2009]も共通している。  

最近筆者らは,田崎の分類によるIIb型の坂元A遺跡の水田に近いか,それよりも原初的だと考 えられる稲作の遺構を調査した。京都大学構内の北白川追分町遺跡では,縄文時代晩期終末(九州 北部では弥生時代前期初頭)の湿地が発掘され,そこからイネとアワが見つかった[冨井他,2012]。

この湿地では,明確な畦畔による区画や水利施設は見つかっていない。
田崎の分類によるIIb型の 湿田に近い可能性はあるが,明確な畦畔による区画は認められなかった。

したがって,ここでは地 下水が高く湿った土地だったが,「意識的に水を引き込んで潤していた」のかどうかは不明である。

いずれにせよこの湿地は,湿地を利用した初期稲作の形態を考えるうえで参考になる事例である。 以下にその湿地稲作の様子を詳しく見てみよう。


3–2.水田以前の湿地稲作―北白川追分町遺跡の例

 北白川追分町遺跡は,京都大学の北部構内の北辺中央に位置する。地形的には,京都盆地の比叡 山西麓に広がる北白川扇状地の末端に位置する[冨井他,2012;千葉,2012]。調査区周辺では,弥生時代前期末の水田遺構も見つかっているが,今回イネとアワが見つかったのは,水田遺構ではなく 泥炭〜シルト質の腐植土層からで,時期は縄文時代晩期終末(滋賀里V:船橋式・長原式に相当)である(図1)。

この腐植土層は弥生前期(弥生I期)の堆積物よりも明らかに下位の地層で,間に 洪水による厚い砂層を挟むためコンタミネーションの影響はない。  この腐植土層の堆積物を面的にサンプリングし,大型植物遺体の分析により,空間的な植生分布 の復元を試みた。その結果,発掘区の南西側の地点から未炭化のイネ籾軸38点と籾殻破片79点が 出土した。北白川追分町遺跡では,過去の調査でも,同じ滋賀里Vの時期の晩期末の泥炭層からイ ネの籾殻破片4点が確認されており[南木,1985],同時期の土器胎土のプラント・オパール分析で もイネが確認されていた[外山,2002]。

このように,複数の証拠により,縄文時代晩期終末(九州 北部では弥生時代早期〜前期中頃に相当)にこの地でイネが栽培されていたことはほぼ間違いないと考えられる。

さらに,今回の調査では,イネだけでなく雑穀のアワも見つかった。

イネが見つかった地点よりも北西側の地点から,炭化したアワの種子が14点出土した。アワの炭化種子を使って年 代測定を行った結果,2,530±20 14C BPの炭素14年代値が得られ,暦年代に較正すると,791BC– 551BCの値が得られ,縄文時代晩期終末(九州北部では弥生時代前期初頭に相当)の年代値が確認できた[冨井他,2012]。  

イネや雑穀だけでなく,一緒に出てくる雑草や野草,木の実の種子を調べると,そこがどのよう な土地だったかを詳しく知ることができる。

これらを空間的に調べた結果,縄文人が湿地林を切り 開いて明るい湿地を供出し,そこでイネを栽培していたことが明らかになってきた。

イネが出土し た遺跡西側からは木本はほとんど出土せず,草本のみが出土し,開けた湿地が広がっていたと解釈できる。

その種類組成は,特にイネが見つかった南西側では,ヒシ,ミゾソバ,ボントクタデ,ヒ ルムシロ属,イグサ属,ホタルイ属,ハリイ属などの現在の水田雑草にもなる種類が比較的多く含まれていた。

一方,アワが見つかった北西側の地点では,カヤツリグサ属,クワクサ,ツユクサな ど種数は少なかったが,畑地雑草にもなる種類が多かった。

このことは,イネは南西側の開けた湿地で栽培されており,アワは北側周辺の微高地で栽培され,火を受けて炭化したアワが何らかの原因で流れ込んで堆積したと考えられる。


図1 北白川追分町遺跡より出土した滋賀里V併行の土器 [冨井他,2012より引用]


 一方,遺跡の東側の扇状地末端に隣接する地点では,湿地林が成立しており,その組成が下層と 上層で変化していた。

下層からはオニグルミ, ミズキ, タラノキ,ニワトコ,マルミノヤマゴボウ, ヤマネコノメソウ,ネコノメソウ属,ヤブミョウガなどが多く,比較的林内が暗い閉鎖的な湿地林が復原できるが,上層では,コナラ節,カヤ,カエデ属,カラスザンショウ,フジ,カナムグラ, イヌタデ近似種, イヌコウジュ属,ナス属,ツユクサ属,スゲ属アゼスゲ節などが多くなった。

稲作が開始される頃には,斜面にコナラ節,ハクウンボク,カエデ属,フジ,カラスザンショウが生 育し,湿地にイヌタデ近似種,イヌコウジユ属,スゲ属,ミゾソバ,カナムグラが生育するような, 比較的明るく開けた湿地林に変化した可能性がある。

これは,人為的な干渉の結果,閉鎖的な森林 環境から,開放的な疎林環境に変化し,そのような開けた湿地環境を利用して,稲作が開始された 可能性を示唆する。

木材分析の結果では,石斧による伐採痕のあるコナラ節の倒木も見つかっている。花粉分析の結果では,周辺はアカガシ亜属を主体とした常緑広葉樹林が復元されているが,こ の湿地付近だけにコナラ亜属(落葉ナラ類)の花粉が多く見つかっているのも示唆的である[冨井 他,2012]。  

以上のように,北白川追分町遺跡では,イネの栽培が始まる前には扇状地の末端にあたる東側斜面に落葉ナラ類やクリの二次林があり,湿地にはオニグルミやトチノキの湿地林が成立していた。

周辺ではトチノキやイチイガシの貯蔵穴も見つかっており[千葉他,1998;冨井他,2007],ドングリ やクリ,オニグルミなどの堅果類が利用されていた。

そのような中で縄文人は,湿地周辺の樹木を 伐採して,明るい湿地環境も供出していた。そのようにして開けた湿地には,ホタルイ属やボント クタデ,ハリイ属,ミゾソバ,イヌビエなどの雑草が生育していた。

ヨシのような高茎草本は見られないことから,適度に攪乱された湿地だった可能性が推定できる。


3–3.菜畑遺跡の初期水田との雑草種組成の比較

 それでは,北白川追分町遺跡でイネが栽培されていた湿地は,水田とどのように異なるのだろうか? 

これを知るために,北白川追分町遺跡の雑草種子の組成を,初期水田遺構の雑草種子が詳しく検討されている佐賀県の菜畑遺跡[笠原,1982]とで比較してみる。

菜畑遺跡の初期水田遺構は, 2つの時期に分けられる。

ひとつは,縄文時代晩期終末頃/弥生時代早期(山ノ寺式)と考えられる初期水田で,もうひとつは,弥生時代前期(板付I式)の水田である。

この2時期の水田から得 られた種子の組成を,北白川追分町遺跡の種子組成と比較し,その特徴を抽出した(表2)。  

まず,菜畑水田との共通種として挙げられるのが,水田(水中)雑草のホタルイ属,ハリイ属, ボンドクタデ,田畑(湿性)共通雑草のスゲ属,ミゾソバ,イヌビエ類,イヌコウジュ属,カヤツ リグサ属,ツユクサ,畑地(人里)雑草のハコベ属,イヌタデ属,クワクサ,イラクサ科,イヌホ オズキ,カナムグラ,スミレ属,ヘビイチゴ,そして木本植物のヤマグワ,マタタビ属,キイチゴ 属,カジノキなどである。

このように比較的水田との共通種は多い。

その一方で,菜畑水田との大きな違いは,典型的な水田雑草のコナギやオモダカ科が見られないことと,山野草や木本植物の量 がまだ圧倒的に多いことである。

抽水植物であるコナギやオモダカ科が見られないことは,畝で区画された狭い帯水域が無かったことを示している。そして,山野草や木本植物が多いことは,この 湿地のすぐそばにはまだ森林が豊富にあったことを示している。


表2 北白川追分町遺跡と菜畑遺跡における出土植物種の比較

縄文晩期終末/ 弥生前期初頭
縄文晩期終末/ 弥生早期
弥生前期 縄文晩期終末/ 弥生前期初頭
縄文晩期終末/ 弥生早期
弥生前期
北白川追分町遺跡 菜畑遺跡 菜畑遺跡 北白川追分町遺跡 菜畑遺跡 菜畑遺跡 湿地 水田 水田 湿地 水田 水田 栽培植物 3種 3種 3種 畑(人里)雑草 10種 10種 26種 イネ ++ + ++++ ハコベ属 ++ +++ + アワ ++ + イヌタデ属 ++ + ++ シソ/エゴマ + + + クワクサ ++ + マクワウリ + イラクサ科 ++ 水田(水中)雑草 6種 5種 17種 イヌホオズキ + ++ ++ イグサ属 ++++ カナムグラ + + + ホタルイ属 ++ + ++ スミレ属 + + + ハリイ属 ++ + ヘビイチゴ + + ヒルムシロ属 ++ ザクロソウ + + ボントクタデ + + + マメ科 + ヒシ + カヤツリグサ ++ + コナギ ++ ++++ カタバミ + ++ ヤナギタデ + +++ ヒユ科 + ++ オモダカ科 + + スベリヒユ + + タガラシ ++++ オオバコ + + セリ + カラムシ + イボクサ + イタドリ + コウガイゼキショウ + ヤブマオ + スブタ + コアカソ + イトトリゲモ + キランソウ + イヌノヒゲ + エノコログサ + ミズアオイ + ヤブジラミ + キクモ + メナモミ + キカシグサ + メヒシバ + タマガヤツリ + カワラケツメイ + 田畑(湿性)共通雑草 11種 10種 17種 キツネアザミ + スゲ属 ++++ + オヘビイチゴ + ミゾソバ ++ +++ ++ 木本植物 19種 11種 10種 イヌビエ類 ++ + ++ ヤマグワ +++ + ++ カヤツリグサ属 ++ マタタビ属 ++ + + イヌコウジュ属 + + キイチゴ属 ++ ツユクサ + + オニグルミ ++ イネ科 + アカガシ/ツクバネガシ ++ シロバナサクラタデ + コナラ節 ++ セリ科 + トチノキ ++ アザミ属 + ハクウンボク ++ ヤブタビラコ + カジノキ ++ アリノトウグサ ++++ タラノキ ++ チドメグサ ++ + ノブドウ ++ ヒメクグ + ++ ニワトコ + タネツケバナ + ++ マツ属複維管束亜属 + タカサブロウ + + カヤ + コゴメガヤツリ + + クリ + ギシギシ + + ミズキ + ノミノフスマ ++++ カエデ属 + クグガヤツリ + カラスザンショウ + ムシクサ + フジ + ヒデリコ + ツツジ属 ++ ++ サナエタデ + ヒサカキ ++ + オトギリソウ + クサイチゴ + ++ イヌガラシ + エゴノキ + + 山野草 5種 イヌザンショウ + + ヤマネコノメソウ +++ コウゾ属 + + マルミノヤマゴボウ + ナワシロイチゴ + + ネコノメソウ属 + クスノキ + ミズ属 + クコ + ヤブミョウガ + フユイチゴ +  1–9粒(+),10–49粒(++),50–99粒(+++),100粒以上(++++)


 出土植物の種数を生態カテゴリー別に分けて百分率で比較すると(図2),北白川追分町遺跡の湿地稲作では,雑草の種類が50%程度で少なく,山野草や木本植物が40%ほどを占めるが,菜畑前 期の水田では山野草が0%に,木本植物が10%程度まで減少し,雑草が80%まで多くなる傾向が見られた。

また,生活形のカテゴリー別にみると(図3),北白川追分町遺跡の湿地稲作では,1年生 草本が35%程度だったのに対し,菜畑前期の水田では50%まで増加していたことが明らかになった。

この結果は,耕作による撹乱の頻度が強い菜畑前期の水田では,撹乱の少ない北白川追分町遺跡の湿地稲作よりも,撹乱環境に強い1年生草本が多くなったと考えられる。


図3 北白川追分町遺跡と菜畑遺跡における出土 植物種数の生活形カテゴリー別比較(%)

図2 北白川追分町遺跡と菜畑遺跡における出土 植物種数の生態カテゴリー別比較(%)

 このように,明確な水田区画が遺構として見つからない場合でも,随伴する雑草の種子を詳しく 分析することで,湿地を利用した初期稲作の様子を復原することができる。このような状態が,お そらく,田崎[2002]や中山[2010]が指摘しているような,原初的水田の形態だったと考えられる。

北白川追分町遺跡では,この湿地稲作の層を厚い洪水砂層が覆っており,その上部に弥生時代 前期(弥生I期)の水田が現れる。洪水砂によって湿地が埋積されたため,その後は場所を変えて, 水利施設を伴う灌漑水田で稲作を行うようになったと考えられる。


まとめ

 以上みてきたように,中国で始まったイネと雑穀(アワ・キビ)の農耕は,城頭山遺跡の例から, 約6,400年前頃には水田稲作の開始とともに融合し,イネは湿地や水田で,雑穀は畑地でそれぞれ 立地を分けて栽培していたと考えられる。

このような稲作と雑穀作の伝来時期はまだ議論があるが, 遅くとも縄文時代晩期終末頃(九州北部の弥生早期〜前期初頭)には日本へ伝来していた。

この時期にはまだ本格的な灌漑水利施設を伴う水田はなく,区画のみの湿地水田がほとんどである。

北白 川追分町遺跡の例では,水田区画が確認できないような湿地を利用した稲作が確認でき,湿地林を 切り開いて供出した明るく開けた湿地でイネを栽培し,周囲の微高地でアワの畑作を行っていたと考えられた。

縄文時代晩期にはまだ,堅果類やベリー類などの森の恵みが主要な食糧であり,それ を獲得しやすい森林の縁の湿地を切り開いて,稲作と雑穀作を生業に組み入れていた可能性がある。

その後,水利施設を伴う灌漑水田稲作に早くから移行していく地域,原初的水田を継続する地域, 雑穀などの畑作を主体とする地域など,立地や社会状況によって地域差や時間差があったと思われる。

これらの地域差や時間差を明らかにし,どのように農耕社会が拡散していったのかを知るため にも,イネや雑穀などの穀物資料に着目するだけでなく,それに随伴して出土する雑草,野草,堅果類,ベリー類などの種類構成と割合を検討していくことが必要だと考えられる。


84. 中川隆[-7187] koaQ7Jey 2017年7月11日 13:45:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

神社と神道の本当の歴史〜アニミズムの自然霊・精霊に加えて天皇神話の神を祀るようになった神代から律令時代
http://bossanovaday.hamazo.tv/e7451114.html


日本の神社の歴史について書いてみたいと思います。
意外と日本の神社の歴史について知らなかったりします。

ちなみに下地にするのは、2011年に発刊の

井上寛司著 『「神道」の虚像と実像」』
https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E9%81%93%E3%80%8D%E3%81%AE%E8%99%9A%E5%83%8F%E3%81%A8%E5%AE%9F%E5%83%8F-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E4%BA%95%E4%B8%8A-%E5%AF%9B%E5%8F%B8/dp/4062881098

です。

この書は、神道・神社の歴史をよくまとめて紹介しています。
また仏教や陰陽道なども添えながら立体的に述べています。
神道を軸にして日本の宗教史を学ぶこともできます。


日本の神社・神道の歴史をザックリと整理しますと、
次のようになります。


========================================


◎縄文時代・太古の時代〜アニミズム

@アニミズム(自然崇拝)・・・自然の中に神を感じて崇拝・信仰するもの

 ・神奈備:かんなび)・・・山、森、木、湖沼といった領域に神を感じて祀(まつ)る
 ・磐座(いわくら)・・・巨石・岩に神が宿るとして祀るもの
 ・神籬(ひもろぎ)・・・竹などで神域を造り、そこで神を祀るもの


A蛇神、龍神などの自然霊を祀るもの(精霊信仰)。


B「氏神」「祖霊」を祀った祖霊信仰(元祖・先祖供養)

・簡素な社(やしろ)、宮(みや)、森(もり)、祠(ほこら)を作って信仰の対象とする

・しかし祭神が不明だったり一定しない(自然そのものを祀っているため)


◎アニミズムの一例

 後のヤマト政権の時代になって、大己貴神などの「国津神」が加えられ主な祭神となる

  ・奈良県の三輪山 ⇒ 大神神社(おおみわじんじゃ)
 ・滋賀県の山の神・大山咋神信仰 ⇒ 日吉大社(ひえたいしゃ)
 ・島根県の磐座信仰 ⇒ 出雲大社

 ・長野県の土着の神々(蛇神、木霊など) ⇒ 諏訪大社(すわたいしゃ)
 ・埼玉県見沼の水神 ⇒ 氷川神社(ひかわじんじゃ)
 ・神奈川県の神山(駒ケ岳山頂) ⇒ 箱根神社

 ・長野県の地主神・九頭龍信仰 ⇒ 戸隠神社(とがくしじんじゃ)
 ・富士山の神霊信仰 ⇒ 富士山本宮浅間大社
 ・島根県の火を祀る信仰 ⇒ 熊野大社

 ・和歌山県熊野地方の太陽神、水神、木神 ⇒ 熊野本宮大社
 ・奈良県吉野の水神信仰 ⇒ 丹生川上神社(上社、中社、下社)


名だたる古社のルーツは、ほぼ全てがアニミズムだったりします。
これらの古社は、次のヤマト政権になってから「神社」化されていくようになります。

◎神代・神武天皇〜ヤマト政権による神社創設

@ヤマト政権によって、「天津神」系の神宮・神社が創設される

 ・天皇家ゆかりの祖霊を人格神として祭る(天皇・氏神信仰)
  住吉神社、伊弉諾神宮、多賀大社、須佐神社、大和神社、
  伊勢神宮、熱田神宮、廣田神社など

・当時の神社の形式は神宮式のほか宮柱を建てるなどの簡素なものだった


Aアニミズム信仰が盛んだった地をヤマト政権が征服して「国津神」系の神社を創設。

 ・主となる祭神を、須佐之男命、大国主命、大己貴神、建御名方などの国津神に変える。

※以下の神社は神代から垂仁天皇の時代にかけて創設された神社の一例。

◎土着の神・地主神 ⇒ 祭神を「国津神」へ改変し固定化

 ・大神神宮・・・三輪山 ⇒ 大物主大神
 ・日吉大社・・・大山咋神(山の神) ⇒ 大己貴神(おおなむちのみこと)
 ・出雲大社・・・出雲地方には磐座が多い ⇒ 国津神

 ・諏訪大社・・・土着の神々(ミシャグチ神、蛇神、狩猟神、石木神) ⇒ 建御名方
 ・氷川神社・・・見沼の水神⇒須佐之男命(すさのおのみこと)
 ・箱根神社・・・神山(駒ケ岳山頂)を磐境としてお祀り

 ・戸隠神社・・・九頭龍大神(地主神)
 ・富士山本宮浅間大社・・・富士山の神霊 ⇒ 木花之佐久夜毘売命
 ・熊野大社・・・火を祀る信仰 ⇒ 素戔嗚尊

 ・熊野本宮大社・・・熊野坐大神(中国から飛来)、太陽神、水神、木の神 ⇒ 須佐之男命
 ・居多神社・・・気多神 ⇒ 大国主命
 ・小野神社・・・諏訪地方の洩矢神(地主神) ⇒ 建御名方(たけみなかた)
 ・生島足島神社・・・諏訪地方の地主神 ⇒ 建御名方
 ・地主神社・・・京都市東山区の地主神 ⇒ 大国主命


◎祖神・氏神 ⇒ 祭神を「国津神」へ改変

 ・氣多大社・・・気多神(祖神) ⇒ 大己貴命
 ・倭文神社・・・倭文氏の祖神・建葉槌命 ⇒ 建葉槌命
 ・安房神社・・・忌部氏(斎部氏)の祖神 ⇒ 天太玉命(あめのふとだまのみこと)


◎蝦夷地を征服した記念碑的な神社

 ・鹿島神宮・・・蝦夷の地を治めた記念碑的神社か? ⇒ 神武天皇元にて宮柱を建てる
 ・香取神宮・・・主祭神はフツヌシ(経津主)

◎奈良時代〜律令国家のために全国の中小神社をも統治化

・拝殿、本殿を有する現在の神社のデザインは、奈良時代に発案。

・これは壮大な建築を誇る仏教寺院に対抗するための発案だった。


・伊勢神宮の式年遷宮も奈良時代の690年から始まる(神代の時代からでは無い)。
 ちなみに伊勢神宮は、垂仁天皇の時代に各地を転々として現在の伊勢に落ち着いた。


・律令国家による中央集権国家を作り全国統一を図るために、各地に神社を創設する。

・各地の豪族が有していた祭祀権(アニミズム信仰の祭祀権)を国の統治下に置く。

・古事記・日本書紀に登場する神を組み込ませて祭神にする。
 建前的には、アニミズム的な精霊を引っ込める。

・このようにしてもらう代わりに、神社の創設や維持・修繕費を国家が捻出する。


・各地のアニミズム信仰が、天皇神話の信仰に作り替えられることが始まった時代。

・全国のアニミズム信仰に代わって、神社を造り、天皇神話の神々を組み込むことで、
 各地の祭祀を管理・掌握し、結託して国家安泰を祈念しようとした。


・しかし実際は、国のこの政策はうまく推進せず、旧態依然の状態が長く続く。
 これが完全に実現したのは明治維新のときだった。

・ちなみに仏教は最初から中央集権化のツールだった(鎮護国家のため)

・「神仏習合」「本地垂迹説」の登場。
 祭神が人工的に書き換えられたので、仏教と融合するのは自然の成り行きだった。

◎平安時代〜中世

・二十二社・諸国一宮を設立して神社パワーで国家繁栄を願う(平安時代)
 二十二社・・・天皇と日本国の守護神とする神社(半分は国津神系:アニミズム系)
 諸国一宮・・・各地を守護する神(鎮守神)(7割以上が国津神系:アニミズム系)


・二十二社・諸国一宮は、国家の元に置かれる神社となった。
 記紀に基づく天皇神話を取り入れて社伝を創作。
 中世神話を作り上げて、表向きは、神社が天皇由来であるようにしていった。


・「吉田神道」の登場・・・地祇道(ちぎどう)としての神道。
 天神地祇の自然霊を信仰するアニミズムに戻りながらも、
 本地垂迹説を否定する教理を組み込んだ「唯一神道」。

◎江戸時代〜宗教を管理する時代

・宗教を統制し管理する時代
・お寺・神社を新しく建立することは原則禁止。
・新しく宗教を創ることも禁止。
・仏教、神道、修験道、陰陽道も幕府公認以外は信仰してはならない取り決め


◎幕末〜日本原理主義となる「国学」「国体思想」の登場

・儒学を取り入れた新しい神道思想(儒学神道)が登場。
 「伊勢神道」、「垂下神道」

・儒学などの中国思想を全て排除し、古事記・日本書紀に基づく
 日本原理主義の「国学」に基づく「復古神道」の登場。
 元祖・右翼思想の「国体思想」も登場。

・幕末には、天理教、黒住教、金光教が登場。
 病気治し、太陽信仰といった素朴な信仰。
 一種のアニミズムの復活と台頭。

◎明治時代〜カルト&ファシズム化する天皇崇拝の国家神道

・国家がファシズム化&カルト宗教化し、天皇崇拝の「国家神道」を国民に強制。

・神社(国家神道)は、国家の装置として、宗教として扱わない規定。


・神社は、内務省の宗教局が統括し、神社と仏教が区別する。

・神仏分離令・・・神社から仏教要素を排除。神社と寺院は共に大打撃を被る。

・廃仏毀釈のブームも起きる・・・仏像、寺院が破壊されていく。

・国家神道のみが正しいとし、迷信の類も禁止していく。

・陰陽道、修験道、虚無僧を禁止。

・イタコ、口寄せ、降霊といった行為も禁止。

・盂蘭盆会、盆踊りも禁止。

・異常でカルト化していく国家神道に対して、柳田国男、南方熊楠らが批判。

・しかし、治安維持法と言論弾圧により、
 カルト宗教化&ファシズム化を深めていく国家

◎戦後〜「国家神道」から「神社本庁」支配の時代へ

・大東亜戦争を反省し、天皇を最高機関から外し、象徴天皇であることを憲法で規定。

・国家神道を廃し、政教分離を規定。

・信教の自由とともに、神道も宗教であるとする。

・神社は、戦後創設された宗教法人「神社本庁」に包括され、支配されることになる。
 ちなみに、神社本庁は、国の機関ではない。

・しかし、神社の源流を遡れば、各地でバラバラに行っていたアニミズムとなる。
 これに対して、神社本庁のような全てを伊勢神宮の配下に置く体制は、
 厳密にいえばおかしい。
 日本古来からある神社の姿を、国民に理解させるにあたって、障害となっている。


========================================


ざっと、こんな感じになりましょうか。
整理しますと、

--------------------------------------------------

1.パワースポット系アニミズム(自然崇拝)

 ・山・・・大神神社、日吉大社、箱根神社、浅間大社、白山比盗_社、松尾大社
 ・巨石・岩(磐座:いわくら)、島・・・厳島神社
 ・森・木・・・諏訪大社
 ・海、湖・沼・・・ 氷川神社


2.精霊系アニミズム(精霊信仰、地神信仰)

 ・水神・・・熊野本宮大社、丹生川上神社(上社、中社、下社)、貴船神社
 ・火神・・・熊野大社
 ・木神・・・伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)
 ・風神・・・龍田大社
 ・龍神・・・戸隠神社
 ・蛇神・・・諏訪大社


3.氏神・祖霊・人格神信仰(先祖崇拝・供養)

 ・各地の有力者、豪族の先祖を祀り信仰。

 ・先祖供養の元祖。

 ・人格神として祀る
  (人格神信仰は、後の菅原道真の天満宮や、徳川家康の東照宮にも出てくる)

 ・皇祖大神(天照大神)は、天皇家の氏神・人格神信仰。


3−1.天津神:天皇家氏神・人格神系(支配者側の祖霊信仰)

 ・皇祖大神(伊勢神宮)、イザナギ・イザナミ(多賀大社)、草薙神剣(熱田神宮)


3−2.国津神:天皇家ら支配者が各地を征服し組み込ませた神々

 ・パワースポット、自然崇拝、精霊信仰が盛んな地を神社化して、管理下に置く。

 ・管理する「印」として、国津神(須佐之男命、大国主命、大己貴神、建御名方)を祀らせる。
  国津神の神名を祀らせることで、それがアニミズム由来であることがわかるようにした。


4.神社化されなかったパワースポット

 ・ヤマト政権から奈良・平安の律令国家時代に、管理されなかったパワースポット。

 ・巨石、磐座(いわくら)

--------------------------------------------------

おおよそ、こんな感じになるかと思います。

神社とは、太古の昔からある宗教施設では無いとうことですね。
日本古来のものではなかったりします。

主に、ヤマト政権から奈良時代の律令国家にかけて、
支配者が新設したり、支配地に造った宗教施設だったりします。
しかも、祭神を日本神話に基づく神名にすることは、明治時代になって完成しています。

こうした歴史があったことは、知っておく必要があるでしょうね。
で、また同じ神社でも、国津神系と天津神系とでは、まったく性質が違うということですね。
神社化されなかったパワースポットもあります。


結局、日本の神道は、精霊信仰・自然崇拝(アニミズム)だったわけですね。
ここに天皇系の人格神・祖霊神が入り込むことで複雑になっていきます。
さらに、中世に至って、初めて神道の教理が確立されていきます。
これは仏教に対抗するためだったといいます。

で、アニミズム(自然崇拝・精霊信仰)は、
世界中にみられる原始的な宗教だったりします。
日本だけではありませんね。

たとえば、

 ・タイの「ピー信仰」
 ・ミャンマーの「ナッ信仰」
 ・チベットの「ボン教」
 ・アフリカの「ブードゥー」
 ・アイルランド・ケルトの自然崇拝
 ・ネイティブアメリカンの精霊信仰
 ・東欧スラブ人の「ルサルカ信仰」

など、世界各地に昔からあります。

アニミズムは根強く、現在の日本でも、お稲荷信仰、龍神信仰などとして
存続しています。

日本の場合、こうした自然崇拝・精霊信仰が、ヤマト政権の誕生によって、
各地のアニミズムに、天皇神話の神霊が追加・上書きされていくようになります。

ただし、これは支配というよりも、管理の目的で組み込ませたのではないかと思います。

井上寛司氏は「国は祭祀権を強奪し、天皇家ゆかりの神を祭神にさせて支配した」
ということを述べていますが、それは違うでしょう。

なぜなら、中世に完成した「二十二社・諸国一宮」の神社の7割以上が、
アニミズムに由来のある霊力の強い神社(国津神)だからです。

各地のアニミズムを尊重しながらも、管理上のマーキングとして、
表向きに天皇家ゆかりの祭神にしたというのが、本当のところではないかと思います。

でなければ、三輪山にしても、諏訪大社、戸隠神社、日吉大社などにしても、
アニミズム的な信仰を消し去ってしまうはずです。

管理上のマーキクング的な祭神として、アニミズムに加えて、
須佐之男命、大国主命、大己貴神、建御名方、五十猛神、稲田姫命
といった「国津神」をあてがったと考えるほうが自然です。

こう考えると、各地の豪族が征服されたというよりも、協調・和解といった、
まさに「国ゆずり」のニュアンスのほうが、しっくりくりもしてきます。

で、奈良時代になってからは、こうした動きが全国展開。

全国各地で行っていた自然崇拝や土着の信仰の祭祀権を管理下に置こうとして、
天皇神話に基づく神を祭神に取り入れさせて神社を造営。
各地の祈祷・祭祀を、国家が管理するようにしていきます。

で、これが現在に伝わる「神社」ということですね。
そういう歴史があったりします。


ただし、こうしたことによって、国津神・天津神の意味が歪んでしまっています。
本来の国津神・天津神の意味ではなくなっています。

征服された側(敗者)、支配する側(勝者)といった
幼稚な意味に取り違えやすくなってしまっています。

国津神とは「土着の神」と言われていますが、これは正しくありません。

本来は「地の神」のことを指しています。
山の神、木の神、狐霊、龍神といった地の神。
これが国津神の原義です。

天神・地祇の「地祇」ですね。

また天津神とは「大陸から来た神」「天皇ゆかりの神」と言われていますが、これも違います。

本来は「天界から降臨した神」のことでしょう。
三十三天などの上位の天界から降臨してくる神を総称しているのでしょう。
天神・地祇の「天神」ですね。

天皇神話が入り込むことで、本来の「国津神・天津神」の意味が
勘違いされやすくなっています。

日本の神社・神道の歴史において、こうした政治的な介入があったことは、
よく見抜いて、知っておく必要はあると思います。


神社参拝する場合は、アニミズムが由来となっている神社へ行くのが
いいのではないかと思っています。

幸いなことに、ほとんどの神社が国津神系になっています。

須佐之男命、大国主命、大己貴神、建御名方、五十猛神、稲田姫命が
お祀りされています。

そうではない神社であっても、長い歴史の中で多くの人が参詣することで、
想念エネルギーが蓄積されてエレメンタル化していますので、
それなりの力が出るようになっているとは思います。

歴史のある神社の多くは社殿が素晴らしく、芸術性の高い建造物になっています。
その秀麗なる外観を堪能するのもいいですね。

で、アニミズム由来の神社は、天然のパワースポットでありますので、
参詣にはおすすめですね。
http://bossanovaday.hamazo.tv/e7451114.html


85. 中川隆[-6779] koaQ7Jey 2017年8月09日 05:28:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「縄文人・弥生人とは何者か」 2017年07月09日
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/09253270b7cfe5941f0d8f616aa09cfd

●淡路島の銅鐸、紀元前4世紀ごろ埋めたか 付着植物片で判明  :日本経済新聞 2017/6/6 20:47

 兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった青銅祭器「松帆銅鐸(まつほどうたく)」7個(弥生時代前期―中期)は紀元前4〜前2世紀前半(弥生時代中期前半)に埋められたとみられることが付着していた植物片の放射性年代測定で分かり、市教育委員会などが6日発表した。

 銅鐸の埋められた年代が科学的な分析で分かるのは初めて。市教委は「銅鐸は一緒に出土する遺物が少なく、年代が分かりにくい史料だけに、付着していた有機物から埋納時期を特定できた意義は大きい」としている。

 銅鐸は時代とともにつり手部分が薄くなり、古いものから菱環鈕(りょうかんちゅう)、外縁付鈕(がいえんつきちゅう)、扁平鈕(へんぺいちゅう)、突線鈕(とっせんちゅう)に分類され、前3者が古いタイプで「聞く銅鐸」、突線鈕は新しいタイプで装飾が多いことから「見る銅鐸」と考えられており、銅鐸の役割が変わったとされている。

 松帆銅鐸は、1号が菱環鈕、2〜7号が外縁付鈕という古いタイプばかり。古いタイプは西暦0年ごろ(弥生中期末)に、新しいタイプは2〜3世紀(弥生後期末)に埋められたとする2段階説が有力だが、古いタイプよりも150年以上前に埋められていたことになり、銅鐸の埋納の意味を巡り論議を呼びそうだ。

 4号の内部や、銅鐸を鳴らす「舌」と呼ばれる棒に付着していたイネ科や樹皮とみられる植物片に含まれる放射性炭素を調べて分かった。

 銅鐸が埋められた理由については、集落の統合によって集めて埋められた、邪悪なものがムラに入らないように境界に埋められたなどの説がある。

 かつて銅鐸は、古墳時代の到来を前に、弥生後期末に、古いものから新しいものまでが一斉に埋められたと考えられていた。〔共同〕
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG06H93_W7A600C1CR8000/

●青銅器の分布:神庭荒神谷・加茂岩倉遺跡の秘密
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-90204.htm


●出雲王朝を滅亡させた大和王朝 (princeofwales1941)2014-09-19 00:16:17

●「スサノオノミコトは朝鮮半島からやってきた」と梅原猛氏 - Ameba News [アメーバース] 2014年09月16日 07時00分
提供:NEWSポストセブン

『週刊ポスト』で平成4年から20年以上にわたり連載が続く歴史ノンフィクション『逆説の日本史』。単行本、文庫本等のシリーズ累計部数がついに500万部を突破したこの大人気作品の原点は、著者・井沢元彦氏が「師」と仰ぐ哲学者・梅原猛氏との「出会い」にあった。今回、2人が出雲王朝の謎について改めて語り合った。

井沢:梅原先生は『葬られた王朝』で、出雲王朝が実在したと述べておられますが、どのような政権だったととらえていらっしゃいますか?

梅原:現在の天皇家につながるのがヤマト王朝ですね。そのヤマト王朝が奈良時代に編纂したのが『古事記』や『日本書紀』です。これら『記紀』に述べられている神話を読んでみますと、ヤマト王朝以前に出雲王朝があったとしか考えられません。

井沢:それは間違いないと思います。

梅原:その出雲王朝の祖先であるスサノオノミコトは、『日本書紀』を読むと、どうやら朝鮮半島からやってきたらしい。

 さらに、出雲王朝でもっとも大切にされていた宝器は銅鐸です。銅鐸は朝鮮半島で使っていた馬の鈴がその原型と考えられます。馬の鈴が大きく立派になって銅鐸になった。だから、出雲王朝というのは朝鮮半島からやって来た人たちの王朝であって、はじめは出雲を中心とした地域を治めていた。

 そしてスサノオの子孫のオオクニヌシノミコトが日本をはじめて統一した人物でしょう。東日本はまだ治めてなかったとしても、西日本をほぼ統一した国家をつくっていたはずです。

井沢:つまり、出雲王朝とは先住開拓民による王朝だったのですね。

梅原:その出雲王朝を、南九州からやって来た王朝が滅ぼして新しい統一国家をつくった。これがヤマト王朝だと思います。彼らがもっとも大切にした宝器は銅鏡です。

井沢:「銅鏡」という考古学用語は、大和言葉(漢語などの外来の言葉を除く、日本固有の言葉)でいえば「かがみ」ですね。同様に「銅剣」は「つるぎ」です。ところが、「銅鐸」に対応する大和言葉はないのですね。

梅原:ありません。

井沢:ということは、銅鐸は存在そのものを消されたのでは?

梅原:銅鐸は明らかに破壊されてから埋められたものが、あちこちから出土しています。これは銅鐸の信仰、すなわち出雲王朝の権威を否定したのでしょう。それを行なったのは、言うまでもなくヤマト王朝です。

井沢:ヤマト王朝は、出雲王朝の王であるオオクニヌシを滅ぼした。滅ぼされたものは祟るからそれを鎮魂しなければいけないという“梅原の定理”に従えば、出雲大社はオオクニヌシ鎮魂のための神社、いいかえればオオクニヌシを封じ込めている場所、と言えますね。

梅原:そうです。前代の王朝を鎮魂することは代々の中国の王朝でもやってきたことですしね。

井沢:そうだとすれば、合点がいくことがあります。出雲大社の大きなしめ縄は、撚り方が普通の神社のしめ縄と逆になっているんですね。普通の神社のしめ縄は「外から神殿の中へ入るな」という意味ですが、それが逆に撚ってあるということは、「神殿の中から外へ出るな」ということなのではないかと。

梅原:そうかもしれませんね。

井沢:出雲大社の社殿は十世紀の史料に日本最大の建築であると記されています。推定では高さが約四十八メートルもあって、これは現在の社殿の二倍の大きさです。

 これも、かつては多くの歴史学者が否定していました。私は、前王朝の王であるオオクニヌシの怨霊を封じるためには日本最大の社殿を建てる必要があったのだろうから、その説は正しいはずだと書きました(『逆説の日本史 1 古代黎明編』参照)。

 すると、平成十二年に出雲大社の境内から鎌倉時代の神殿の巨大な柱が出土したのです。これで、巨大神殿説が正しいことが証明されました。この新発見は神さまが私の正しさを認めてくれたのではないかと思っています(笑い)。
※週刊ポスト2014年9月19・26日号
http://news.ameba.jp/201409166/


●8 銅鐸はなぜ消えたのか | 但馬国ねっとで風土記

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏は、“「銅鐸」と「豊葦原」の謎を解く”で、

かつて和辻哲郎は、九州を銅剣・銅矛文化圏、近畿を銅鐸文化圏と呼び、弥生時代はこの2つ文化圏が対立してきたように思われてきた。(中略)

その後、奈良の唐古・鍵遺跡から銅鐸・銅剣・銅戈の鋳型が同時発掘され、「銅矛圏が銅鐸圏を滅ぼした」や「殺し尽くした」なる推定が「誤り」であることを裏付けた。
http://history.kojiyama.net/?p=129088


●倭人の祖先は呉の太伯の子孫?

<前略>
その史書だが、これは『三国志』(3世紀に陳寿が著した)の種本とされる『魏略』(3世紀にギョカンが著した)に登場する。

ただし、現在『魏略』という書は散逸しており、わずかに『翰苑』(カンエン)という歴史書に「逸文」として、つまり断片が残されているに過ぎず、しかもその『翰苑』自体も日本の「太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう、は福岡県太宰府市にある、天神さま(菅原道真公)をお祀りする神社です)」の蔵書の一部として「巻三十」一巻だけが残っていたという極めてレア物の歴史書なのである。著者は唐の時代の張楚金という歴史家であるという。

その部分は次の通り。

■<…帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。その俗、男子みな面文を点ず。その旧語を聞くに、自ら太伯の後という。昔、夏后少康の子、会稽に邦ぜられ、断髪文身し、以て咬竜の害を避けり。今、倭人また文身せるは、以て水害を厭えばなり。>■

この『魏略』の逸文と三国志・魏志倭人伝を比べると、倭人伝には赤で示した「自ら太伯の後」は無い。おそらく魏志には一般に「呉の太伯」で通用している太伯の後裔であってはまずいということで、削ったのだろう。なぜなら「魏」と「呉」は三世紀当時、「敵対関係」にあったからである。

しかし紺色で示した部分は共通で、倭人伝にも載せられている。「夏后」は「夏王統」という意味で、殷王朝の前代の夏王朝であり、「少康」は「禹」から始まる夏王朝の六代目、およそ紀元前1900年頃の王である。この王の子が会稽(かいけい・地名)に領地を与えられ下ったということだが、実は始祖の「禹」の出身地はそのあたりなのである。

さて、問題はこの一文から果たして「倭人は呉の太伯の後裔、すなわち日本人の祖先は中国大陸の長江流域から移動してきたのだ。」と言えるのかどうかである。ただ、結論から先に言うと、「倭人が春秋戦国時代に長江流域に展開していた呉の末裔であるということは有り得ない。」のである。

「倭人が呉の末裔であると解釈できる中国史料は何か?」という質問に対して、それは『魏略』である―と出典を明らかにした。そこには確かに、<…その旧語を聞くに、自ら太伯の後という。>とあり、これは<彼ら中国に使者としてやって来る倭人から、その昔話を聞くと、自分たちはあの太伯の後裔である、と言っている。>という意味である。

一見すると倭人は呉を建国した太伯の末裔と言っているのだから、「倭人は間違いなく呉の太伯の後裔だ。つまり日本人の先祖である倭人の出自は呉である。」という結論を導き出せそうに思える。

しかし、使者として出かけた倭人は決して「呉の太伯の後」とは言っていない。つまり「呉の」という修辞はないことに気付かなくてはならない。もし「倭人は呉の後裔である」と言いたいのであれば、「われわれは呉を建国し、かつ、代々後継者を出していた太伯の弟の虞仲の後である。」と言わなくてはならないのである。これならば話の筋が通り、文句なく「倭人は呉の後裔」と言う意味が確定する。ところが「太伯の後」という表現だけでは直ちに倭人が呉の後裔であるとは言えない。では、太伯と倭人との関係はどのようなものか?

太伯については『史記』の「周本紀」と「呉太伯世家」に登場する。どちらも内容は同じで、父の古公が三人兄弟の末子である「季歴」とその子の「昌」こそが周王朝を継いでいくのにふさわしい、と考えたため、自分ら兄たちは周を離れ、南方の長江流域に出奔し、そこで新たな王家(呉)を樹立した―ということになっている。

そして同じく「呉太伯世家」によれば、長子の「太伯には子がなく」、子の生まれた弟の虞仲が呉王家を世襲して行くのであるから、「太伯の後」と言ったからといって「呉の末裔」とは言えないのである。太伯には子がいなかったのであるから「太伯の後」はあり得ない話である。では、「太伯の後」と言ったその真意は何であろうか?これには三つのことが想定できる。

@ 最も分かり易いのが、太伯はたしかに呉王家の後継となる嫡子は生まなかったが、別腹の庶子がいてその子が太伯家を繋いで行き、後世になってその太伯家の中から倭人と混血した家系が分岐したというような場合。

A 一番目と前半は全く同じだが、倭人の使者の中には「呉の太伯の後」を標榜する呉からの渡来民を出自に持ち、そのような人物が選ばれて使者に立った者がいたかもしれず、その使者が「実は私の祖先は呉から倭国へ渡ったのです。」などと話したというような場合。

B @、Aはどちらも太伯には子孫がいて、それが倭人とつながっている、という考え方だが、太伯に本当に子孫がいない場合、「太伯の後」はあり得ないが、「呉と倭は起源が同じである」ということを表現した可能性。

@とAの可能性もあるが、その場合でも「太伯の子孫が倭人となった」もしくは「太伯の子孫が倭(国)を開いた」とまでは言えない。そのことを示す古史書が存在する。それは前漢の史家・王充(オウジュウ=AD27年〜97年)が著した『論衡』(ロンコウ)という史書の次の箇所である。

第 八  儒僧篇 周の時、天下泰平にして、越裳は白雉を献じ、倭人は暢草(チョウソウ)を貢ず。

第十三  超奇篇 暢草は倭人より献じられる。

第十八  異虚篇 周の時、天下太平にして、倭人来りて暢を貢ず。

第五十八 恢国篇 成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ず。

第八、十三、十八、五十八とも倭人に関して「暢(暢草)」つまり「霊草(神に捧げる酒に入れたという草)」を貢ぎに来る人々である、という認識は同じである。さらに、それがいつの時代だったのかを特定しているのが第五十八の恢国篇の記述で、その時期を成王の時代としている。

成王とは周王朝の2代目で、中国政府の「夏殷周年表プロジェクト」によって確定された在位は紀元前1042年から1021年の22年間である。したがって紀元前1040年頃、すでに「倭人」という存在が知られており、時代的には「太伯」が周王朝の創始を弟の季歴に譲って次兄の虞仲とともに南方に奔り、「呉を建国した」頃でもある。

もし倭人が「太伯の後」(太伯の末裔)であるならば、成王に暢草を貢献した際、「祖父の代に南方に逃れて呉を建国した太伯の後裔である倭人」というような書き方がされてしかるべきところである。「倭人」は「倭人」として「独立」して描かれている以上、「太伯」と「倭人」との間に血統的なつながりを見出すことは出来ない。

『論衡』の上の記事では、「太伯の後裔の倭人」という書き方はないうえ、第八と第五十八では呉よりさらに南方の越と並んで「倭人」だけが登場しており、「呉人」は出てこない。すなわち成王の時代には「越人(越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前334年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国)」と「倭人」はいても、「呉人」はいなかった節がある。つまり時系列的には「倭人のほうが呉人よりも古い」とさえ言える可能性が出てくるのである。

その点について、太伯・虞仲・季歴兄弟の父親を俎上に載せてみると興味深いことが分かる。父はその名を「古公亶父」(ココウタンプ)というが、古公は「いにしえの」という意味であり、「亶父」は「亶州出身の・亶州を宰領する」男王と解釈される。亶州を私は日本列島(中でも九州島)と比定するので、「古公亶父」とは「日本列島の中でも九州島出身の王」を指しているのではないかと考えられるのである。

以上により、「(呉を建国した)太伯の後」とある『翰苑』巻30の記事から「倭人の起源は呉にある」と導き出すのは「不可能である」と断定できる。

むしろ最後のほうで触れたように、周王朝発足当時(紀元前1040年頃)の「呉の領域」には実は「倭人が居住」していた可能性が見えてきた。2代目の成王の時に暢草を貢献した倭人がどこにいた倭人かはその暢草の種類が特定できれば原産地も特定でき、倭人の居住地も特定できよう。

今のところその特定はできていないが、少なくとも紀元前1000年代には「呉」とは別に「倭人」と呼ばれる種族が居り、周王朝の祭祀の一部を支えていたことだけは確かである。
http://www.geocities.jp/windows_user2013/wazinn_taihaku.htm


86. 中川隆[-6754] koaQ7Jey 2017年8月11日 18:39:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2016年5月1日 / 最終更新日 : 2016年7月27日 大日向 明子 インタビュー
最新DNA研究と縄文人   斎藤成也
http://jomonjin.info/archives/504


最近、遺伝子の研究が進み日本人のルーツに関する新事実が明らかになりつつあります。今回はNHK番組への出演や書籍の出版、公開シンポジウムなどでご活躍の国立遺伝研究所の斎藤成也教授にお話をうかがいました。

▼先生の遺伝子の研究から日本人のルーツに関する新事実が明らかになったとお聞きしましたが、それはどのようなものですか?

これまで日本人は大陸からわたってきたと考えられていたため、遺伝子が東アジアの人たちと近いと考えられていました。ところが調べてみると、東アジアの人たちは遺伝子が似ているのに、日本人はそれとは違うことがわかりました。そこで、その違いをもたらす原因を縄文人の影響だと仮定し、縄文人のDNAを分析したところ、やはりその原因が縄文人にあったことが分かったのです。さらに日本人の中でも、沖縄の人たち、アイヌの人たちはさらに違いが大きいことも分かっています。

▼それでは、その縄文人は、どこからやってきたのでしょうか?

人類はアフリカを出て、約4万年前に東アジアに到達し、東アジア人と東南アジア人に分岐しました。これまでその形質から縄文人は、東南アジアからやってきたと考えられてきました。北方からやってきたという説もあります。ところがDNA分析では東アジア人と東南アジア人に分岐するより古い時代に日本にやってきたらしいとわかりました。(図参照)古い時代にユーラシアのどこからきたのも、はっきりしません。長い年月をかけて混血し、いろいろな経路をたどって移動しているので、分析はとても難しいのです。


縄文人のルーツ

▼具体的には、どのようにDNAを分析されたのですか?

「核DNA解析」という方法です。ひとつのDNAから一個しかとれないので、難しい技術ですが、今までの「ミトコンドリアDNA解析」よりも、はるかに多くの情報がとれるものです。

寒冷な地域の保存のよい福島県の三貫地貝塚から100体以上の人骨が出土していたので、その成人男女の2体の歯根部を使いました。97%がバクテリアの遺伝子でわずか3%の縄文人の遺伝子から分析するのでとても難しい技術です。当時(2014年)私の研究室に総合研究大学院大学の学生として所属していた神澤秀明博士(現在は国立科学博物館人類研究部研究員)が分析しました。

渡来系弥生人はまだ分析されていないのですが、現代にも遺伝子が引き継がれていると仮定して、中国人や韓国人を渡来人の母集団の子孫とみたてて研究しました。

▼その分析の結果は、日本人の形成にどのような可能性をもたらすのでしょうか?

私が提唱しているのは、公開シンポジウムなどでも発表しましたが、下図のような「日本列島人の三段階形成モデル」です。

日本列島人を大きくとらえると、北部、中央部、南部の三地域に大きく分かれています。北部にはアイヌ人、中央部にはヤマト人、南部にはオキナワ人がいます。
アイヌ人とオキナワ人は、ヤマト人と異なる共通性が残っていて、その部分では、現在の日本人は北部や南部の混血が進まなかった地域を除き、縄文人と弥生人の混血であるという「二重構造説」と同じです。

私のこのモデルが新しいのは、二重構造説でひとつに考えられていた新しい渡来民を第二段階と三段階にわけたところにあります。

図2
http://jomonjin.info/archives/504

第一段階は約4万年前から約4000年前(旧石器時代と縄文時代の大部分)です。第一波の渡来民がユーラシアのいろいろな地域から様々な年代に、日本列島の南部、中央部、北部の全体にやってきました。

第二段階は約4000年前から約3000年前(縄文時代末期)です。日本列島の中央部に第二の渡来民の波がきました。第二波の渡来民の子孫は、日本列島中央部の南側において、第一波渡来民の子孫と混血していったことを示します。一方、中央部の北側と北部および南部では第二波の影響は、ほとんどありません。

第三段階は、約3000年前から現在までです。本州の中央部に第三段階で水田稲作の技術をもたらした渡来人が列島に入っていって、日本列島の中央部(福岡県、瀬戸内海沿岸、近畿地方の中心部、東海地方、関東地方の中心部)に移動していったことを示します。この段階では人口が急速にふえていきました。中央部が二重になっているのは、日本海や太平洋の沿岸に第二段階の渡来人のDNAが残ったのではないかということを示しています。

前半の約3000年前〜約1500年前(弥生時代と古墳時代)は北部と南部および東北地方では、第三波の影響はありませんでした。

後半の約1500年前から現在(飛鳥時代以降)になると、それまで中央部の北にいた人が北海道に移動していったり、中央部の南にいた人が沖縄に移住したりしました。北海道の北部にはオホーツク人が渡来するなど時代とともに混血が進みました。

人の移動は複雑で、時代とともにいろいろ混血していったと考えられますが、おおまかに私の説を表すとこのようになります。この三段階渡来モデルは、わたしたち研究グループが提案しているのですが、他の研究分野でもこれに似た説が提唱されています。

エルヴィン・ベルツはヤマト人を東アジア北部から渡来した長州型と東南アジアから渡来した薩摩型に分けました。三段階モデルにあてはめると、長州型が第三段階渡来民の子孫、薩摩型はもっぱら第二段階渡来民の子孫に対応するかもしれません。縄文人の遺伝子が受け継がれているのは、20%です。稲作をもたらした渡来系の人の移動の前にも大陸から渡ってきているということです。

人の移動は複雑でまた長い年月にわたっていますから、オホーツクから入ってきたり、いろいろな遺伝子が混ざっていくわけで、すべてこれで説明できるわけではありません。

言語に関していえば、第二段階が今の言語を伝えているのではないかと現在、思っています。出雲地方と東北地方の人々の間に遺伝的な共通性が存在する可能性もでてきました。出雲の方言と東北の方言が似ていることが以前から指摘されていますが、言語の伝わり方は、とても複雑なのでいろいろ調べていかなければわからないことも多いと思います。

▼出雲の国譲り神話が、文化的・遺伝的に少し異なる人々の間で起きた出来事である可能性についてはいかがですか?

記紀神話では、出雲地方の権力者が九州北部の権力者に国を譲り渡したと解釈される話がでてきます。荒神谷遺跡からおびただしい数の銅剣が発見されましたが、出雲地方の勢力と九州北部の勢力と交わしたなんらかの出来事を示唆しているのではないかと思えてなりません。

わたしたちの研究グループで東京いずもふるさと会と荒神谷博物館の協力を得て、出雲地方の遺伝子を調べました。出雲地方が大陸に近いにもかかわらず、関東の人のほうが、大陸の人たちの遺伝子に近いことがわかりました。先ほどの三段階のモデルでいうと、第二段階の渡来人が第三段階の渡来人に権力を譲り渡したのではないかという考え方です。確かなことはもう少し、研究を重ねていかなければわかりませんが、いろいろな可能性を考えて研究していくことは大事だと思います。

▼様々な分野の専門家の方々とプロジェクトを組み、3月に東京で開かれた公開シンポジウムのように一般の方々に情報を提供されていますが、どのようなお考えからなのでしょうか?

研究を進めていくにあたっては、いろいろな分野の方と協力しあわなければなりません。また遺伝子を研究するにあたり、いろいろな方に協力していただかなければならないことが多くあります。それぞれの分野のプロは同時に他の分野のアマチュアだったりするわけです。各分野の研究者同士、また研究者と一般の方たちの間に境界を設けず、協力しながら研究を進めていこうと思っています。これまでにも違う場所で一般公開のシンポジウムを開いたことがありますし、これからも開いていこうと思います。

▼これからDNA研究はどのように進んでいくのでしょうか?

縄文時代の人骨が東日本からいくつか発見されたので、そのDNAを使って、研究が進められていくといろいろなことが分かってくるでしょう。沖縄の石垣島から2万年前も前の旧石器時代の人骨も見つかり、現在研究が進められています。DNA分析は、縄文人の姿だけではなく、血液型や耳垢・肌の状態などその体質まで知ることができます。

今世紀に入ってすぐ、ゲノムが解読されて以来、この分野の研究は進みました。どんどんいろんなことが今後、わかってくると思います。私は文字に残っていない自然誌をふくめてヒストリーを考えていく方向で、これからもいろいろな方々と研究していきたいと思っています。
http://jomonjin.info/archives/504


87. 中川隆[-6753] koaQ7Jey 2017年8月11日 18:45:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

斎藤成也 縄文人は東南アジア人でも東アジア人でもなくオリジナルアジア人
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/57427204.html


「核ゲノム全体に散在している数十万のSNP座位における対立遺伝子情報をもちいて,これら3集団からサンプルした各個体間および世界の他地域の人間の遺伝的近縁関係を推定。

アイヌ人とヤマト人については,これら2集団が混血をはじめた時期を西暦6世紀と推定し,また集団間で特に大きな対立遺伝子頻度の差があるゲノム領域のなかに,形態的表現型に関与する遺伝子が含まれていることをみいだした。

一方,現代日本列島人にゲノムが引き継がれたと考えられている縄文時代人の核ゲノム塩基配列の一部をはじめて決定し,縄文人が東ユーラシアの中できわめて特異な系統に位置づけられることを発見しました.」
www.molbiol.saitama-u.ac.jp/pdf/141217poster.pdf


SNP=一塩基多型

「 ある生物種集団のゲノム塩基配列中に一塩基が変異した多様性が見られ、その変異が集団内で1%以上の頻度で見られる時、これを一塩基多型(いちえんき・たけい、SNP : Single Nucleotide Polymorphism)と呼ぶ。

従って、対立遺伝子頻度がこれより低いときに使用するのは基本的に誤りで、そのような物は突然変異と呼ばれる(参照:多型)。ある一つの塩基が別の塩基に置換されて起きるため、一つのSNPには置換前と置換後の二種類の対立遺伝子しか見つからないことが多い。が、まれに3から4個の対立遺伝子があるSNPもある。複数形でSNPs(スニップスと発音)と呼ばれることもある。SNPの起源は中立進化説がいうように、種の分化後にランダムに発生したものだと考えられている。」


NHK サイエンスゼロhttp://www.nhk.or.jp/zero/

※要約 サイエンスZERO「日本人のルーツ発見!核DNA解析が解き明かす縄文人」▽オジリナルDNA「縄文人」とは【2016年4月3日(日)NHK Eテレ放送まとめ】
http://yonta64.hatenablog.com/entry/zero/2016-0403-%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84


イメージ 1
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/GALLERY/show_image.html?id=57427204&no=0

斉藤教授の使ったサンプルは、縄文末期(3000年前ほど)の男女遺骨の歯である。

この内部に残存していたDNAの中で、これまでなされてきやY染色体や母系のmtDNAではなく核ゲノムDNAだけを抽出することに成功した。これは快挙。斉藤研究室ではこれに先立ってMISHIMAと名づけられた核ゲノム分離機を完成させていた。今回の分析はこのMISHIMAあってこそである。

核DNAは1細胞にひとつしか存在せず、これまでそのサンプル採集が非常に困難であった。そこで斉藤教授は日本列島の寒冷地ならば、細胞の劣化が少ないと推測し、東北縄文人を選んだところ、DNAそのものはやはりかなりばらばらになったうえに、歯の中に寄生していたバクテリアのDNAも混在していた。これを丹念に仕分けし、ヒトのものだけを抽出して並べる作業が若い助手の手で行われた。


myDNA分析に関して筆者は、サンプル数の少なさやミトコンドリア内部のDNAでは母方しかわからないということを指摘してきた。しかし核DNAならばその個体すべての祖先が全部受け継がれた塩基データが30億個も採取できる。mtDNAの何十倍ものデータである。


その後、東北、北海道の各地でも、この成功に刺激された縄文人DNA分析が行われ、その結果、やはり予想通り、縄文人にも地域によって数種類の違いが見られた。つまり縄文人も一種類ではなかったという結果である。


イメージ 2
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/GALLERY/show_image.html?id=57427204&no=1

問題は、もっと初期縄文人、そして西日本までに及ぶサンプル収集によるデータの淘汰が必要である。いずれにせよ、今回の結果からは、少なくとも末期東北縄文人の核DNAからは、縄文人は東南アジア、東アジア人が、分岐する以前に、同じ汎アジア原種から先に分岐したもので、これは日本の縄文人だけのものとわかった。縄文人が北方ステップルートからではなく、ヒマラヤの南側を通ってやってきた南方系だったことも明確になった。


その縄文の血脈は、現代日本人の中に20パーセントの割合で残存。これまでのmtDNAでは10数パーセントに過ぎないとされてきた分析結果を書き換えた。そしてmtのバイカル湖起源説も白紙に戻す結果となった。

要するに日本の縄文人は中国の華北人や華南人、朝鮮民族や東南アジア人よりも早くアジア原種から分岐した、独立した謎の血脈だったとなる。つまりより原種に近いということだろう。なぜそうなったかはまだわからない。その後、弥生時代直前までに複数のアジアからの来訪者があって、これらが混血。その結果遺伝子の20%に縄文末期人の特徴が残ったとなる。つまりあらゆるアジア人の中で、日本人だけは特殊となる。


すべて筆者の予想に近い結果となった。


mtDNA研究の第一人者だった篠田謙一教授は、この数年前から、人類学者らの疑問に答える形で核ゲノム分析の必要性を著作に著しているが、斉藤教授の分析が彼のmtDNA分析や、Y染色体分析を上回る成果であることを認めている。あとはより多いデータと弥生人、旧石器人の詳細分析が出るまで、わくわくしながらわれわれは待てばよい。ただし日本の土壌ではなかなかサンプルは出てこないだろうが。また、おまけとして、日本人の外見上のさまざまの遺伝子が、思ったより縄文人から受け継がれていることも面白い。これは化粧品メーカー研究室の発見したものである。しみそばかすが多いヒトは縄文の血が残ったヒトらしい。また直毛は弥生系渡来人の、くせ毛は縄文系らしい。


最後に言っておくべきことは、これらはまだあくまでも途中経過でしかないことだ。常に化学の発見は慎重に判断し、決して大喜びしてはなるまい。それに今回、渡来系の分析では中国人(江南・漢・現代南方漢民族)やベトナム人はあっても朝鮮民族のデータがないのも気になった。
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/57427204.html


88. 中川隆[-6747] koaQ7Jey 2017年8月12日 07:04:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本語の母体のY-DNA「D」縄文語がホモサピエンスの祖語かもしれない


  今朝の朝日新聞にまさしく日本学の研究者・マニアには衝撃的なニュースが小さく掲載されました。恐らく2012年の日本学最大のニュースの1つになるでしょう。

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The origin and evolution of word order

Murray Gell-Manna, Santa Fe Institute and Merritt Ruhlenb, Department of Anthropology, Stanford University
Contributed by Murray Gell-Mann, August 26, 2011

Abstract

Recent work in comparative linguistics suggests that all, or almost all, attested human languages may derive from a single earlier language. If that is so, then this language—like nearly all extant languages—most likely had a basic ordering of the subject (S), verb (V), and object (O) in a declarative sentence of the type “the man (S) killed (V) the bear (O).”

When one compares the distribution of the existing structural types with the putative phylogenetic tree of human languages, four conclusions may be drawn.

(i) The word order in the ancestral language was SOV.

(ii) Except for cases of diffusion, the direction of syntactic change, when it occurs, has been for the most part SOV > SVO and, beyond that, SVO > VSO/VOS with a subsequent reversion to SVO occurring occasionally. Reversion to SOV occurs only through diffusion.

(iii) Diffusion, although important, is not the dominant process in the evolution of word order.

(iv) The two extremely rare word orders (OVS and OSV) derive directly from SOV.

Conclusion:

The distribution of word order types in the world’s languages, interpreted in terms of the putative phylogenetic tree of human languages, strongly supports the hypothesis that the original word order in the ancestral language was SOV.

Furthermore, in the vast majority of known cases (excluding diffusion), the direction of change has been almost uniformly SOV > SVO and, beyond that, primarily SVO > VSO/VOS.

There is also evidence that the two extremely rare word orders, OVS and OSV, derive directly from SOV.

These conclusions cast doubt on the hypothesis of Bickerton that human language originally organized itself in terms of SVO word order. According to Bickerton, “languages that did fail to adopt SVO must surely have died out when the strict-order languages achieved embedding and complex structure” (50).

Arguments based on creole languages may be answered by pointing out that they are usually derived from SVO languages. If there ever was a competition between SVO and SOV for world supremacy, our data leave no doubt that it was the SOV group that won.

However, we hasten to add that we know of no evidence that SOV, SVO, or any other word order confers any selective advantage in evolution. In any case, the supposedly “universal” character of SVO word order (51) is not supported by the data.

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  語順のルーツはSOVだと言うことがアメリカ科学アカデミー紀要(業界用語でPNAS=プロナス、当方の学生時代はProNASと呼んでいました)に発表されました。つまり日本語やチベット語などY-DNA「D」遺伝子集団の文法である語順、S(主語)・O(目的語)・V(述語)が欧米語等のSVOより古いことがわかり、しかもホモサピエンスの祖語だろう、との驚異的な言語学上の発見です。

  これは遺伝子の調査結果と完璧に合致します。我々古代シーラカンス遺伝子Y-DNA「D」は古代の出アフリカした当時のホモサピエンスの形態を留めていると言うのが欧米の研究者の結論です。特に「D*」100%のアンダマン諸島のOnge族、Jarawa族は出アフリカ当時の形態をそのまま残していると信じられています。ならば当然言葉も出アフリカ当時のままのはずです。言葉は生き物でその時代のリーダーの決断で言葉は採用されるため、ドンドン変わります。そして征服者の人口が多く、経済力もあれば非征服者の言語はあっという間に征服者の言語に変わってしまいます。

  ところがOnge族や、Jarawa族は外来者を殲滅するという古代習慣を強く持っていたため、遺伝子を保ってきたわけですが、当然言葉も保ってきたはずです。と言うことが今回の発表で間接的に証明されたことになります。

  日本語は長い間孤立語として扱われてきましたが、とんでもない、縄文語から熟成したY-DNA「D2」日本語こそがY-DNA「D1」チベット語と並んで、出アフリカした当時のホモサピエンスの言葉(文法)を維持し続けてきた由緒正しい言葉だと言うことが正にアメリカの研究者によって証明されたのです。

  マレー・ゲルマン博士のチームの仕事ですが、なんとマレー・ゲルマン氏は言語学者ではなく、1969年「素粒子の分類と相互作用に関する発見と研究」でノーベル物理学賞を受賞した物理学者でクォークの提唱者の一人です。恐らく筋金入りの言語学者ではないことが柔軟な発想を生んだのでしょう。西欧優越主義の言語学者なら絶対に欧米語のSVOを祖語として主張すると思われるからです。何はともあれ縄文文化・時代を矮小化したい「O3」御用学者に取っては目障りな発表となりました。

  このことは当然ながら日本人の行動様式こそがホモサピエンスとして本来持っている行動様式であり、ガラパゴス的民族性こそがホモサピエンスの本来の行動様式である事が間接的に証明されたことにもなるはずです。

  そーなんです。やはり日本がガラパゴス化を捨てるのではなく、世界をJaponization(日本化)することこそが人類にとって正しいことなのです。日本人よ自信を持って世界に向かって発言しよう!スティーヴ・ジョブズごとき「R1b」御用商人の日本人に対する悪口・たわごと等クソくらえだ。そしてJaponizationで世界を導こう!

  このニュースの重大さは、何故日本列島人はY-DNA「D2」縄文人の文法を守り続けてきたのか?という点です。「D2」縄文人が圧倒的な文化を確立し、技術者集団だった「C1」、「C3a」縄文人が土器つくりなどで「D2」の精神風土を支え、後からボートピープルとして断続的に韓半島から水田稲作農耕技術を携えて流れてきた呉系長江人「O2b」の子孫も圧倒的な多数派の「D2」と敵対せず、その精神風土を受け入れたため言語の文法も縄文文法を受け入れたのでしょう。

  「O」は「R」などと同じ新興遺伝子集団です。既にSVO文法だったはずです。我々日本人は語順が変わってもそれほど奇異に感じず意味が通じるような適当にあいまいな言葉になっているのはこの「O」の人口と、文化がしっかりと根付いているためです。基本は縄文語ですが、呉系の長江語も漢語の語順でもその中間でも日本人は融通を利かせて理解してしまうように共存してきたからなのです。そして或る動作を強調したい時、我々は平気でSVOになるのです。なぜならSVOの方がキツく聞こえるからです。SOVの方が聞こえ方がやさしいのです。これが縄文の精神風土なのです。

  そして更に後から侵略者として韓半島から暫時流れてきた大和朝廷族や武士団族などのSVO文法の「O3」集団も朝廷内や官僚エスタブリッシュメント階級の中ではSVO漢語を話していたにも関わらず、全国をまとめるために縄文語文法を受け入れることにしたのだと思われます。そして縄文語に翻訳するために開発したのが「かな」、「カナ」なのでしょう。もしこれがなければ、縄文人は漢語を全く理解せず、日本の統一は相当遅れ、日本列島は文化レベルが立ち遅れ西欧列強の植民地化していた可能性が大です。当時の大和朝廷の上層部の誰かが縄文語を認め、縄文人に指示命令するために「かな」「カナ」の開発を命じたのでしょう。この人物こそ本当は歴史に名を残すべきなのでしょうが......。

  またこのニュースは、最近の研究で、人類の祖先は50000年前頃に突然洗練された道具を使ったり、絵画などの芸術活動を始めた、とも書いていますが、これは当たり前のことです。中東でネアンデルタール人と遭遇し交配し、彼らの文化を遺伝子とともに受け継いだけに過ぎません。もしかするとSVO文法はネアンデルタール人の文法だった可能性が実は大です。

  ホモサピエンスは本来SOV文法
  ホモネアンデルターレンシスはSVO文法だったのしょう。
  
  なかなかおもしろくなってきましたね。当ガラパゴス史観が歴史の真実に迫っていることが、少しづつ実証されつつあります。やはりデータマイニング手法はマーケティングだけでなく、古代日本学にも有効なようです。
http://galapagojp.exblog.jp/i29/

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中国語のみならず東南アジア、太平洋地域も、語順はSVO(or VSO)⇒中国人、東南アジア人(Y遺伝子O系統)とは何者なのか!
 


民族の使う言語の語順とその民族性は、ざっくりと見て連関がありそうです。セム人や印欧語族には、XSOやSVOなど動詞を前に持ってくるものが多いですが、これは闘争性、攻撃体質の強さと恐らくは連関している。(どうする、どうしろ、を前にもってくる。)

ところが、一般に穏やかな性格の平和民族と考えられる東南アジアも、実は圧倒的にSVOが多い。ベトナム、タイ、カンボジア、マレーシア、インドネシア、太平洋の島々も全て基本的にSVOである。
台湾原住民やフィリピンにいたっては、何と、セム系と同じXSOなのです。これは一体どういうことなのか。語順と民族性の関係と言う視点が根本的に間違っているのか?

中国人、東南アジア人はY遺伝子分類で言うとO系統にあたるのですが、実は少し気になっていたのですが、Oって、P、Qの次がR(印欧語族)で、印欧語族に近く、C(アボリジニやシベリア人など)とかD(縄文人、チベット人)からは遠い。

現生人類のY遺伝子はアフリカ人や上記C系統、D系統を除くと、インドを中心に東へ西へと拡散したF系統からの派生が多く、Y遺伝子で見る限りは、O系統は、われわれのような「純粋な」モンゴロイドよりも、コーカソイド系統に近い。

そして、それは最初に述べた語順の問題とぴたりと符合する。中国人、東南アジア人は、Y遺伝子も、言語の語順も、もともとはコーカソイド系統と言わざるをえなのではないかと思う。(「コーカソイド系統」という言い方が間違っているかもしれないが。)
改めて考えると、ベトナム人が見せた対米戦争での強さとか、また、(社会的な背景があるにせよ)カンボジアのポルポト時代の大虐殺とか、縄文人の体質とは断層があるという気がしないでもない。

もちろん、女性側の血筋がどうかと言う点もあるし、出自がどうであれ、長い時間をかけて、豊かな東南アジア、太平洋地域で生きていくのに適した遺伝子が残ってきたのでしょうから、あらためて新型モンゴロイドとなったとも言えるとは思う。
いずれにしても、言語の語順と民族性の関係は当初の仮説のままで整合すると考えられます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=313616

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Y遺伝子O系統(中国、東南アジア、太平洋)とそれに近接する系統の言語の語順から、O系統がいつSVOに転じたか推測。
 

●先の(313616)でY遺伝子O系統は、遺伝子も言語の語順も「コーカソイド系統」ではないかと書いた。改めて、O系統周辺のY遺伝子系統樹と、その言語の語順を調べた。

F〜J系統

|┌─────K
└├─────L
 ├─────M
 ├─────N  SOXが一般的(フィンランド語などウラル語族)
 ├─────O  SVO(中国語、東南アジア、太平洋)
 | ┌───P  
 └─┤───Q  抱合語など(アメリカ大陸)母方の言語が残った?
   └───R  SOX→紀元1000年ごろからSVO?(印欧語族)

※印欧語はラテン語(フランス語、イタリア語などの前身)はSOV、英語も中世まではSOV、インド語、イラン語もSOVなので、もともとSOVだったのが、ゲルマン民族大移動→戦争あたり(1000年前くらい?)から、西欧州の言語はみなSVOになったようである。

●上記よりO系統の近くのハプロタイプがすべてSVOと言うわけではない。しかし、F系統(セム族)以下にSXOまたはXSOがしばしば登場している。これは、F系統以下に共通する資質(攻撃性が強いなど)があり、それが環境によって、(例えば厳しい寒冷化→戦闘から、)SXOに転換してくるものが、しばしば登場するということかと思います。

●O系統がSVOに転じたのは5000年前か?

上記よりO系統は、必ずしも誕生したときからSVO型だったのではないと推測できます。では、いつSVOに転じたのか。おそらくは東アジアが戦争に突入し始めるころ、5000年前ごろからではないかと思われます。北方のO3系統と南のO1、O2系統という構図で両者とも同時に、SOXからSVOに転じていったと思われます。(おそらくセム族に比べればはるかに新しいと推測します。)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=315336


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「 見た目はモンゴロイドだが、Y遺伝子はコーカソイド 」 はありうるか? 性染色体と常染色体の動きの違いから解明
 

(315336)から、O系統の言語の語順は初めからSVOであったわけではなさそうだと展開しました。しかし、O系統(中国人、東南アジア人)が、C系統やD系統(モンゴロイド)より、R系統(印欧語族)に近いという問題はいまだ残っています。

O系統は、インドから東南アジア、さらにニュ−ギニア方面へ展開したK系統が、(火山の噴火などが原因か?)大陸側、中国南部方面へ戻った時に生まれた系統か?(他のストーリーも考えられると思う)

その時何が起こったかですが、命からがら逃げてきたK系統の男がモンゴロイドの女と交わって作った集団ということと思われる。(必ずしも強姦ということではなく、モンゴロイド側が受けいれたか?)

その場合、K→O系統の遺伝子が半分残るはずだが、Y遺伝子(性染色体)と違って、常染色体(性染色体以外の一般の染色体)はオスとメスの間を行ったり来たりしながら伝えられていくので、必ず後世に伝えられるというわけではない。(Y遺伝子は、他の部族の男が入らないなら、O系統のY遺伝子が必ず後世に伝わっていく。)

その環境で生きていくのに不適切な遺伝子なら、世代を重ねるごとにどんどん淘汰されていき、Y遺伝子以外は、つまり「常染色体」に乗っていたK系統→O系統(コーカソイド系統)の持ち込んだ遺伝子はほどんど消えてしまうということも十分ありうる。

モンゴロイドの男は集団に入ってくることなく、モンゴロイドの女を集団に組み込んでいけば4世代もすればコーカソイドの血は10分1のにうす
まってしまう。Y遺伝子だけはそのままコーカソイドのものが残る。

今のところ、中国人や東南アジア人は、このように成立した、「Y染色体はコーカソイド、常染色体はほとんどモンゴロイド」の種族と考えます。これが、正しいなら、オスが移動してY遺伝をどれだけ撒き散らしても土地(環境)に根付いたメスが伝える常染色体の形質が、いくらでも巻き返してくるということかと思われます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=315337


89. 中川隆[-6744] koaQ7Jey 2017年8月12日 08:17:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本人のガラパゴス的民族性の起源
30-3. 日本人のY-DNA、mtDNA遺伝子ハプロタイプ出現頻度調査まとめ
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-3.htm


mtDNA(左列)とY-DNA(右列)をまとめてみました。

このmtDNA調査で最も重要なことは日本人の2/3(66%)がmtDNA「M」系であり、世界でこれだけの高頻度の「M」を持つのは、チベット人(約70%)と日本人だそうです。 そして両民族は奇しくも充分な人口規模を持つ世界で唯2のY-DNA「D」民族です。特に琉球人は世界最大頻度の「M」系民族でありアイヌ民族に次ぐY-DNA「D」民族でもあります。 これは偶然の一致ではなく日本列島の縄文のコアであるY-DNA「D」はmtDNA「M」と常にペアで行動してきたことを示しています。

  一方日本人の1/3(33%)は欧米系のmtDN「N」系になります。mtDNA「M」と「N」は出アフリカ前にすでに分化していたとする仮説と アジア(恐らくインド亜大陸か近東)で分化したとする2つの仮説があり、まだ決着はついていません。 しかしネアンデルタール人との亜種間交配で出アフリカしたY-DNA「CT」が「DE」と「CF」に分化したとする仮説が現在もっとも合理的なので、 mtDNAも出アフリカ後に同じ理由で「M」と「N」に分化したとすると説明を付けやすいのです。

  黄河文明の古代遺跡から発掘される人体はコーカソイドの特徴を持っていることは、考古学ではよく知られています。 これは寒冷地適応や黄砂適応を獲得するまえのY-DNA「O3」はY-DNA「CF」の子孫としてふさわしい彫深の外観であったことを示しています。

同様に典型的なフラットフェースのモンゴル人Y-DNA「C3c」も、本来は兄弟亜型Y-DNA「C2」と「C4」のニューギニア先住民やアボリジニと同じく いかつい彫深顔であったことが容易に推測できます。これほど寒冷地適応は厳しい環境要因だったのです。

  ではmtDNA「N」系列はどうやって日本列島にやって来たのでしょうか?

1.Y-DNA「CF」系縄文人の「C1a」や「C3a」とともに来た、か
2.Y-DNA「O」と共にわたって来た、か
3.その両方の場合。
  縄文遺跡から出土するmtDNA「B」は上記1の場合、その他はY-DNA「O」とともに、mtDNA「HV」などはシルクロード経由も考えられます。

  アイヌ民族のmtDNA「Y」はオホーツク文化で古代アイヌ民族を征服した古代ニヴフ族がもたらしたものでしょう。 その古代ニヴフ族は東北アジア系Y-DNA「C3c」のツングース系かモンゴル系と考えられます。

明治期でもアイヌ人男性の一部はコーカソイドと考えられたほど端正な顔立ちだったので、 いづれにせよ寒冷地適応を獲得する前の東北アジア集団が北海道に渡ってきたことになります。

  主題ではありませんが、アスリート能力のうちもっとも重要なエネルギー産生能力は、エネルギー産生がミトコンドリアで行われる以上、 母系遺伝することは当たり前です。白筋と赤筋とmtDNAとの関係はわかりませんが、調査結果からみると 瞬発系アスリートはmtDNA「N」系のmtDNA「F」と「B」が素地を持っているようです。

一方、持久力系はmtDNA「G」が多いようです。 非常に残念なことはミトコンドリアは本記事14-2.でおわかりのように母系遺伝するため、父親がどんなに優秀なアスリートでもエネルギー産生能力は 遺伝しません。母親がその能力を持ったmtDNAを持っていない限り、トンビの子はトンビなのです。残念!

  ではY-DNA調査で分かることはなんでしょうか?

縄文系は現代日本人男性の約43%を占め、古代遺伝子の3種のY-DNA亜型から構成され、コアになる世界でも希少なY-DNA「D」(チベット民族がY-DNA「D1」、 縄文系がY-DNA「D2」)と更に希少な海洋性ハンターY-DNA「C1」と内陸性ハンター「C3a」が含まれます。 世界の先進国の中でこれほど古代遺伝子が男性人口の約半分も占める国家は日本しかありません。 3.11でも示されたような世界を驚かせた日本だけが持つ従順性、規律性やホスピタリティなど独特の精神文化はこの古代遺伝子から構成される 縄文基層文化がもたらすものです。

  日本はこの古代性に加えてY-DNA「O2」(「O2b」,「O2b1」,「O2a」)と「O1a」の弥生系水田稲作農耕民の遺伝子が持つ地域集団を形成し行動する、 先進国でも珍しい規律性の強い村社会的なコミュニティが加わり、ますます独自性を強めています。

  では内向きになりがちな縄文−弥生系に対し、日本人のグローバル性をもたらしたのは何なのでしょうか? それは朝鮮半島の生き残りに負けて半島を追い出され日本列島に逃げ込み、日向なる土地から出発し征服行脚を行った大和朝廷族や他の天孫族、 及び高句麗、新羅、百済などから追い出されてきた武士団族などのY-DNA「O3」プロト漢族遺伝子を持つ武装侵攻集団に他ならないでしょう。 当時の朝廷では和洋女子大の研究者が報告しているように漢語を話し、本家中華王朝に追い付き追い越せで文化力を高め これも独自な発展をする原動力となり、日本人のガラパゴス性の起源になったものと思われます。

  当ガラパゴス史観もまだ確固たる日本人論を持ってはいません、憶測や妄想も含むアブダクション(推論)の段階です。 国を挙げてY-DNAとmtDNAを調査すると、日本人のガラパゴス的民族性の起源と特性がもっとあぶりだされると思います。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-3.htm


90. 中川隆[-6629] koaQ7Jey 2017年8月21日 09:11:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

近畿人というのは、中国大陸や朝鮮半島からやってきた異民族である。
古代、近畿人が降り立った日本には、先住民=縄文人=東北人がいた。

先住民がいてはもちろん近畿人が住む場所などはない。
彼らは、東北人=縄文人を侵略・虐殺・強制連行(俘囚)することで、国を築いたのだ。

蝦夷征討とは、有史以前からずっと続く、近畿人による先住民一掃、
単なる東北人虐殺に他ならない。それは有史以後も傷跡を残し続けるほどのものだったのだ。
 

近畿人が渡来系民族そのものである証拠。 東北人とは全く異民族であることがわかる。 

▼手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との遺伝的距離
(山口敏『日本人の顔と身体』より)
0.000…朝鮮半島
0.007…近畿地方
– – – – – – – – – – –
0.012…中部地方
0.035…中国地方
0.035…九州地方
0.038…四国地方
0.048…関東地方
0.068…東北地方
0.092…南西諸島

●1 人あたり約 14 万個所の DNA 塩基多型を用いて日本人の集団構造を解

http://www.riken.jp/~/media/riken/pr/press/2008/20080926_1/20080926_1.pdf
(図 4 日本の各地域の遺伝的な分化と地理的な傾向 参照)

近畿人クラスターは東北人のクラスター(縄文人)と遺伝的に全くオーバーラップしていない。異民族ということ。

2008年9月26日 独立行政法人 理化学研究所

1 人あたり約 14 万個所の DNA 塩基多型を用いて日本人の集団構造を解 明 - 病気と遺伝子の関連を調べるケース・コントロール解析のよりよい研究デザインが 可能に -


病気のかかりやすさ、薬の副作用の有無は、私たちそれぞれで違っています。この 個人の体質の違いの遺伝的な要因を明らかにして、それぞれの人の特質に見合った治 療を行うオーダーメイド医療がスタートしています。心筋梗塞、糖尿病、関節リュウ マチなど、さまざまな疾患の原因遺伝子を同定するために、ゲノム全体をカバーする 1塩基多型(SNP)を使った関連解析が、わが国ばかりか世界規模で展開されています。

わが国では、この研究の中心となっているバイオバンクジャパンが、約30万人 の日本人のDNA、血清を集め、情報基盤としての役割を果たしています。 この研究を推進してきた理研ゲノム医科学研究センターは、これらの情報を活用して、大部分の日本人が2つのクラスター、本土クラスターと琉球クラスターに大別で きることを明らかにしました。

この結果は、従来から提唱されていた日本人集団の「二 重構造説」と矛盾しない内容です。2つのクラスター の間のSNPの頻度の違いは小 さいのですが、耳垢のタイプを決めるSNPや髪の毛の太さに関わるSNPの頻度には 明らかな違いがありました。また、本土の中でも遺伝的な地域差があることが明確に なりました。 今後は、病気と遺伝子の関連を調べるケース・コントロール解析において、今回の 研究結果を活かすことによって遺伝的背景のバランスを調整できますので、よりよい 研究デザインが可能になります。



図 SNPを活用した日本人の集団構造の解析 ほとんどの日本人は、本土クラスター(赤) と琉球クラスター(緑)に大別



図 SNPを活用した日本人の集団構造の解析 図 本土の遺伝的な地域差


報道発表資料
2008年9月26日 独立行政法人 理化学研究所

1人あたり約14万個所のDNA塩基多型を用いて日本人の集団構造を解明
- 病気と遺伝子の関連を調べるケース・コントロール解析のよりよい研究デザインが 可能に -


◇ポイント◇

・7,000人以上の日本人の常染色体上のDNA塩基多型情報を解析

・ほとんどの日本人は、本土クラスター、琉球クラスターの2つに大別

・本土でも遺伝的な地域差があることが判明 独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、1 人あたり約 14 万個所のDNA 塩基多型の解析により、日本人の集団構造を大きく2つのクラスター(集団)にわけ ることができることを明らかにしました。

これは、理研ゲノム医科学研究センター(中 村祐輔センター長)統計解析・技術開発グループの鎌谷直之グループディレクター、 加畑(山口)由美研究員らによる研究成果です。

私たちそれぞれが持っている遺伝子と個人の病気のかかりやすさ、薬の副作用の有 無などの関係を調べる場合、病気や薬の副作用を持つ集団(患者集団:ケース)と持たない集団(対照集団:コントロール)について、遺伝子上のSNP(1塩基多型)※1を 測定し、その頻度を比較する手法が一般的に行われています。

この手法はケース・コ ントロール解析と呼ばれ、この解析からわかるSNPの頻度情報は、個人に合った投薬 や治療を行う、オーダーメイド医療を目指した研究の基盤情報として非常に有用です。しかし、対象にした集団に分集団構造があり、ケースとコントロールのサンプル の仕方に偏りがある場合、偽陽性の結果を検出する率が上昇してしまいます。今後の ゲノムワイドなケース・コントロール解析のよりよいデザインのためにも、ゲノム全 体を網羅するSNPを用いて、日本人の集団構造を調べることが大変重要です。

研究グループは、日本人 7,001 人と中国人 45 人のサンプルについて、1 人あたり 約14万個所のSNPの遺伝子型データを用いた主成分分析※2を行いました。

その結果、 日本人の大部分が本土クラスターと琉球クラスターに大別できることを明らかにしました。

さらに、本土の中でも遺伝的な地域差があることが明確となりました。

今回明らかにした、日本人の集団構造に関する知識により、ゲノムワイドなケー ス・コントロール解析の研究デザインの向上が期待されます。また、今後さらに多く のアジアの近隣諸国の人のSNPと共に解析することによって、集団間の違い、民族の 歴史、人の移動の程度を含めた詳細な集団構造の理解などが可能になると期待できま す。 本研究は、文部科学省「個人の遺伝情報に応じた医療の実現プロジェクト(オーダ ーメイド医療実現化プロジェクト)」の一環として行われたもので、研究成果は、米 国の科学雑誌『 The American Journal of Human Genetics 』( 10月号)に掲載され るに先立ち、オンライン版(9月25日付け:日本時間9月26日)に掲載されます。



1.背 景

病気のかかりやすさ、薬の副作用の有無などと遺伝子の関係を調べる場合、病気 や薬の副作用を持つ集団(患者集団:ケース)と持たない集団(対照集団:コント ロール)について、ゲノム上のDNA塩基多型のタイプを測定し、その頻度を比較す る手法「ケース・コントロール解析」が一般的に行われています。このケース・コ ントロール解析で用いる1塩基多型(SNP)の頻度情報は、病気や副作用と遺伝子 の関係を解明し、個人に適合した投薬や治療を行うオーダーメイド医療を目指した 研究の基盤情報として非常に有用です。

理研ゲノム医科学研究センターは、ゲノム全体を網羅するSNP解析の手法を確立し、これまでに、心筋梗塞、関節リウマチ、変形性関節症、糖尿病性腎症などをは じめとする数多くの疾患に関連する遺伝子を特定してきました。また近年、欧米の 研究機関においても、同様の解析による疾患関連遺伝子研究が急速に進んできてい ます。一方、SNPの頻度は人種、国、地域によって異なっており、民族の歴史の影 響を受けています。このような状況を踏まえ、日本人の病気や薬の副作用に関連す る遺伝子の探索をさらに深めていく上で、日本人の集団の遺伝的多様性と集団構造 の理解の必要性が高まっています。

現在のケース・コントロール解析は、解析対象の集団の中では、疾患に関係のないゲノム領域のSNPの頻度は個人の疾患の有無と関係がない、という仮定を立てて います。そのため、もし対象の集団に、さらに細分化した分集団構造があって、ケ ースとコントロールのサンプルの取り方に偏りがある場合(図1)、あるいは、コン トロール集団に比べてケース集団の方がより近縁である場合は、疾患に関係のない ゲノム領域でも、SNPの頻度に統計的な有意差が出やすくなり、偽陽性の結果を得 る率が上昇します。

これまで理研ゲノム医科学研究センターは、日本人の集団を対象として、多くの 疾患関連遺伝子を特定してきました。しかし、今後のさらなる研究を進める場合、 より多数のサンプルを用いて解析を行うと、検出力が上がる反面、集団の構造化に よる偽陽性の結果を得る率が上がってしまうことが懸念されます。

日本人の遺伝的多様性と起源についての研究は、これまでミトコンドリアDNA※3 やY染色体※4のDNA塩基多型を用いた研究が主流でした。

それらの先行研究では、 興味深いことに、日本人集団の「二重構造」説※5を支持するものや、ミトコンドリ アDNAのハプロタイプ※6の多様性を示すものがあります。

そのため、今後のゲノム ワイドなケース・コントロール解析が、偽陽性の結果を得ることがないようにするためにも、ゲノム全体を網羅するSNPを用いて、日本人の集団構造を調べることが必要です。



2. 研究手法と成果

今回の研究では、国際ハップマッププロジェクト※6の4つの集団(西・北欧系ユ タ州住民60人、ナイジェリアのヨルバ族60人、東京在住の日本人45人、北京在 住の中国人漢民族45人の合計210人)のSNPのデータに加えて、バイオバンクジ ャパン※7の日本人7,003人の、常染色体※8上にある1人あたり140,387個所の SNP を解析に用いました。

この日本人7,003人は、心筋梗塞、糖尿病、関節リウマチな ど35種類の疾患のいずれかの患者であり(バイオバンクジャパンでは47種類の対象疾患があります)、病院の所在地により、 7つの地域(北海道、東北、関東甲信越、 東海北陸、近畿、九州、沖縄)にグループ分けされています。

研究チームは、これらの人々からの常染色体上のSNPの遺伝子型データを用いて、 主成分分析を基礎にした解析手法により、個人間の遺伝子型の相関を基に個人間の 近縁関係を解析しました(図2)。

まず、欧米人、アフリカ人を含んだ解析により、 日本人7,003人のほぼ全員が東アジア人のグループに属することを確かめました。

次に、この内の7,001人を中国人45人のサンプルと共に解析した結果、7,001人は 本土クラスターと琉球クラスターの2つの主なクラスターに大別されることがわかりました(図3)。

つまり、前者には本土の6 つの地域で採血された大部分の人が含まれ、後者には沖縄で採血された人の大部分が含まれていました。本土クラスター と琉球クラスターの遺伝的分化の程度は非常に小さく、そのためSNPの頻度の違い は大部分についてはわずかでしたが、約14万個所という数多くのSNPを用いたために、2つのクラスターを観察できたと考えられます。

さらに、本土の中でも遺伝 的な地域差があることが明確にわかりました(図4)。

今回の結果は、従来から提唱 されている日本人集団の「ニ重構造」説と矛盾しないものです。 本土クラスターと琉球クラスターの違いが、どのSNPでもっとも顕著であるかを 調べたところ、6番染色体のHLA領域※9に見つかりました。

また、アミノ酸を変化 させるSNPの頻度の違いを比較したところ、髪の毛の太さと関連のある EDAR 遺伝 子※10のSNP、耳垢のタイプと関連のある A BCC11 遺伝子※11のSNPの頻度がもっとも大きい違いを示しました。

さらに研究グループは、日本人の集団構造が疾患関連遺伝子探索のケース・コン トロール解析にどの程度影響するかを調べるために、2つのクラスターや地域を分 集団として、個人をランダムにサンプル抽出し、シミュレーションを行いました。

その一つとして、本土クラスターのケース集団(200人)とコントロール集団(200 人)を基に、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合を増やしていき、 ゲノム全体のSNPの遺伝子型頻度の違いの統計量がどのように増大するかを調べ ました。その結果、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合が23%にな ると、偽陽性の結果を得る率の増大が無視できなくなることを明らかにしました。 この結果は、ケース・コントロール解析では、患者の住む地域や遺伝的背景を考慮 した解析デザインが必要であることを示しています。



3.今後の期待

日本人における遺伝的な集団構造と地域差が、ゲノム全体を網羅するSNPで解明されたことにより、次のような発展が期待されます。まず、今回明らかになった 日本人の集団構造についての知識は、今後のゲノムワイドなケース・コントロール 解析の研究デザインの向上に生かすことができます。今後の解析では、検出力を上 げるために、より多数のサンプル数で解析すると予想でき、今回の研究の知見を生 かせば、ケース集団とコントロール集団のバランスがとれるように前もって調整す ることで、偽陽性をなるべく抑える研究デザインが可能になります。また、進行中 あるいは検証中の研究であっても、今回の研究で示した通り、サンプルの抽出の偏 りが及ぼす偽陽性への影響の程度を考慮することによって、構造化による偽陽性の 問題を解決することが可能になります。さらに、本土と琉球の2つのクラスターの間で頻度の違いが大きいSNPがあることを示しているため、どのSNPやどのゲノ ム領域で偽陽性が起こりやすいか、ということについても役立つ情報を提供します。

このように、集団構造の理解や、分集団間の違いを理解することからケース・コン トロール解析の精度が上がるため、疾患関連遺伝子同定の精度の向上が期待され、 より確かなオーダーメイド医療の実現化につながると考えられます。 また、日本人の集団構造が、今後、アジアの近隣諸国の人のデータと共に解析さ れることによって、集団間の違い、民族の歴史、人の移動の程度を含めた詳細な集 団構造の理解が進むことになります。近縁な集団間における遺伝的な関係や違いの 程度を理解することで、SNPと疾患の関係を解明する研究が、アジアの近隣諸国で も加速していくと注目されます。 今回の研究により、アミノ酸を変化させているSNPの中で、本土クラスターと 琉球クラスター間のもっとも大きな違いが、髪の毛の太さや耳垢のタイプのような、 表現型の違いにかかわるものであったことは、非常に興味深い結果です。今後、近 縁な分集団の間で頻度の違いの大きなSNPを調べることによって、人類の歴史に おいて過去に働いた自然選択が、表現型に違いを生じるようなSNPの頻度の変化 に影響を与えてきた例をさらに探し出すことができる可能性があると期待できま す。


(問い合わせ先) 独立行政法人理化学研究所 ゲノム医科学研究センター統計解析・技術開発グループ グループディレクター 鎌谷直之(かまたになおゆき)
Tel : 03-5449-5708 / Fax : 03-5449-5564

横浜研究推進部 企画課 Tel : 045-503-9117 / Fax : 045-503-9113

(報道担当) 独立行政法人理化学研究所 広報室 報道担当 Tel : 048-467-9272 / Fax : 048-462-4715 Mail : koho@riken.jp


補足説明

※1 SNP(スニップと発音されることが多い) DNAの1塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism)で、過去に起きたDNA の点突然変異による。ヒト集団では染色体をランダムに2本選んで比較すると、 1,200〜1,500塩基に1つの割合で、SNPがあると推定されている。ヒトゲノム上 では、約12,000,000のSNPが報告されている。



※2 主成分分析 複数の変数間の共分散(相関)を少数の合成変数で説明する手法。共分散行列の固 有値問題の解として得ることができる。この研究では、各個体点を座標のばらつき がなるべく大きくなるように直交軸を取り直して眺めている。


※3 ミトコンドリア DNA 細胞内小器官のミトコンドリアが独自に持っている環状のDNA。過去に細胞内で 共生したほかの細胞が由来である、と考えられている。ミトコンドリアDNAは、 受精卵の細胞質により母から子に伝えられる。DNA複製のエラー修復機構を欠き、 分子進化速度が核のDNAよりも速い。ヒトのミトコンドリアDNA は約16,600 塩基対と短いが、塩基多型の割合が核のDNAよりも高い。ヒトの遺伝的多様性と 移動の歴史を推測する研究によく使われている。

※4 Y 染色体 性染色体の1つで、ヒトでは Y染色体があると男性になる。通常の男性の性染色体 の核型はX染色体とY染色体が1本ずつで、 Y染色体は父親から息子に遺伝する。 ヒトの遺伝的多様性と移動の歴史を推測する研究によく使われている。


※5 日本人集団の「二重構造」説 埴原和郎(はにはらかずろう)氏の「二重構造モデル」。日本人の祖先集団は、縄 文人、そして北東アジアから渡来した弥生人に由来しており、この2集団は日本列 島内で徐々に混血したが、アイヌ人と南西諸島の人においては、北東アジアからの 渡来人の影響は少なかった、とする説。


※6 国際ハップマッププロジェクト/ハプロタイプ ハップマップとは、ハプロタイプ地図を略したもの。ハプロタイプは1本のゲノム (染色体)上のDNA塩基多型の組み合わせである。このプロジェクトは、疾患関 連遺伝子同定のためのゲノムワイドなケース・コントロール解析を加速させること を第一の目的に発足した。日本人、中国人、ヨーロッパ系アメリカ人、アフリカ人 からの4集団270人について、ゲノム全体を網羅するSNPの遺伝子型が決定され、 データベースで公開されている。


※7 バイオバンクジャパン 文部科学省「個人の遺伝情報に応じた医療の実現プロジェクト(オーダーメイド医 療実現化プロジェクト)」の基盤となるDNAサンプルおよび血清サンプルを収集し 臨床情報とともに保管している世界でも有数の資源バンクの名称。バイオバンクへ 約30万人のDNAおよび血清試料を集め、それらを利用してSNPと病気との関係、 薬剤の効果などの関係を明らかにする研究を行っている。心筋梗塞、糖尿病、関節 リウマチなど47種類の対象疾患がある。情報は個人情報管理に配慮し幾重にも厳 重に管理されており、東京大学医科学研究所内に設置されている。



※8 常染色体 ヒトでは1〜22番染色体のこと。細胞内の染色体の全セットのうち、性染色体(X 染色体とY染色体)を除いたもの。


※9 HLA(human leukocyte antigen)領域 ヒトの6番染色体短腕(6p21)上に存在し、その領域にある多重遺伝子族(遺伝子 重複によって生じた遺伝子の中で相同性が高いもの)は、自己と非自己の認識、免 疫応答の誘導に関与する白血球抗原をコードしている。MHC(major histocompatibility complex;主要組織適合性複合体)領域とも呼ばれる。


※10 EDAR 遺伝子(ectodysplasin A receptor) シグナル伝達に関与する遺伝子の1種で、2 番染色体上に存在する。370番目のア ミノ酸変異(アラニンまたはバリン)の頻度は、東アジア人と他の人種で大きく異 なっており、髪の毛の太さに関与することがわかっている。東アジア人は他の人種 と比べて髪の毛が太く、アラニン型の頻度が高い。


※11 ABCC11 遺伝子(ATP-binding cassette, subfamily C, member 11) ATP 結合機能を持ち、輸送にかかわるタンパク質のファミリーをコードする多重遺 伝子族のメンバーの1つで、16番染色体上に存在する。薬剤排出の機能を持つ。 180番目のアミノ酸変異(グリシンまたはアルギニン)は、耳垢の乾型、湿型を決 めることがわかっている。そのSNPの頻度は東アジアと他の地域で大きく異なっ ており、東アジア人では乾型のアルギニンのタイプの頻度が高い。



図1 ケース・コントロール解析で偽陽性率が上がる条件

分集団1、分集団2では、多数のSNPの座位(形質に関係のないゲノム領域のSNP の場所)について、SNPの頻度が少しずつ異なっている。この例では、ケース(患 者集団)のサンプルにおける分集団1からの人の割合1(f)が、コントロール(対照集団)における分集団1からの人の割合(g)よりも大きい。このようなサンプルで関 連解析を行うと疾患に関連していないSNPであっても、統計的に有意な関連(偽陽 性)を検出する率が上がってしまう。



図2 たくさんの個所のSNPの遺伝子型を使った個人間の近縁関係の解析

個人からなるべくたくさんのSNPの遺伝子型を数値化(1)して、人数×SNP数の総 データを作る(2)。次に、統計解析のために数値を標準化する(3)。そして、個人対 個人の総当りの、遺伝子型の相関の度合いのデータを得る(4)。主成分分析により、 個人間のばらつきを最大にする軸をきめ、上位の軸(例えば、第1成分と第2成分) でプロットを作成する(5)。第 1成分の軸は、個人間のばらつき最大になるように選 ばれている。第2成分の軸は、個人間のばらつきが次に大きくなるように選ばれてい る。




図3 ほとんどの日本人は、本土クラスターと琉球クラスターに大別される

日本人と中国人漢民族で個人間の近縁関係を解析したところ、主な3つのクラスター に分かれた。1つは中国人のクラスターである(橙)。日本人は、本土クラスター(赤) と琉球クラスター(緑)の2つに大別される。



図4 日本の各地域の遺伝的な分化と地理的な傾向

本土クラスターの中の人の分布は、地域によって偏りがあることがわかった。近畿の 人は、上の図では本土クラスターの左上に偏りがあり、中国人のクラスターに比較的 近い。対照的に、東北の人は、本土クラスターの右下に偏っていて、中国人のクラス ターから見て離れている。
http://www.riken.jp/~/media/riken/pr/press/2008/20080926_1/20080926_1.pdf


91. 中川隆[-6622] koaQ7Jey 2017年8月21日 17:47:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2013年12月17日 形質人類学のデータ

第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、


部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。


とし、


頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。


と書き、さらに、


大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。


と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099203.html


92. 中川隆[-6621] koaQ7Jey 2017年8月21日 17:54:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2013年12月17日 2部落近世起源説の非科学性


現在、部落の起源については、さまざまな説が唱えられている。それらの説の主なものについて、ここで簡単にその誤りを指摘したいと思うが、その前に、部落民がエミシの戦士の子孫であるとする、私の説を裏付ける伝承と形質人類学のデータなどを紹介しておきたい。

「アゼチの者」

岡本弥(『融和運動の回顧』)は、和歌山県伊都郡端場(はば)村という部落について、古くからの口承に基づいて、「村の起源について確かな文献はないが、平安朝の頃東北地方から本郡学文路(かむろ)村へ移住し、後また今の所へ転住したものらしい」と書いている。ちなみに、岡本弥は俘囚起源説を唱えている。

また、前述のように、近世の山陽地方にはチャセン(茶筅)と呼ばれたエミシ系官賤民がいたが、備前や備中では20世紀になってもチャセンを「アゼチ(按察使)の者」と呼んでいたという(喜田貞吉「備前按察使文書」『民族と歴史』五巻四号)。

チャセンは、念仏修業の俗法師であるとともに、長吏と同様に、警察事務を行っていた。長吏の呼称が、「追捕の役人」を意味する古い語義に由来することを考慮すると、アゼチ(按察使)という呼称は奈良時代に設置された地方行政監察官の名称按察使に由来すると思われる。

按察使は、719年(養老三)に、九州を除くほぼ全国に設置されたが、陸奥出羽按察使を除くと、783年(延暦二)ごろを境として他の按察使は姿を史上から消してしまう。

奈良時代に移配(いはい・捕まって奴隷と)されたエミシが官賤民(国家の=天皇の奴隷)として按察使の管理下に置かれ、警察事務などを強制されていたために、後にその子孫が「アゼチの者」と呼ばれるようになったと考えられる。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099201.html


2013年12月17日 ハチヤの起源伝承

チャセンは、山陰ではハチヤ(鉢屋)と呼ばれたが、出雲のハチヤの起源伝承を記録した「本朝鉢屋之来由並雲州苫之由緒之事」によると、鉢屋の先祖は、もと平将門(まさかど・?〜940)と藤原純友(すみとも・?〜941)の家来であった。

将門が関東で、純友が四国で乱を起こして敗北したので、京都に上がり、盗賊になったが、空也上人によって改悛させられ、京都の四条・五条の河原に小屋をかけ、念仏を唱え、瓢箪・鉢をたたきながら修業し、非人を制したので、洛中洛外が静まった。その後、諸国の国司・守護も彼らの仲間を呼んで、領内に置き、盗賊を防がせたという(倉光清六「空也上人とハチヤ伝説との交渉」『民族と歴史』六巻二号)。

また、京都の空也堂にも、「鉢タタキ(ハチヤ)の先祖は、将門の部下の将卒であったが、将門の滅亡後、死罪に処せられるところを空也上人に助けられ、空也堂の僧徒となった」という伝承があるという(倉光清六『前掲論文』)。

※空也上人の寺とされる六波羅蜜寺の資料(六波羅蜜寺発行)を出してみましたが、上人の出自がはっきり記してありません。私の記憶では、この方は、皇族の出身者だったとおもいます。寺に置かれた平清盛の像は有名です。

ハチヤ(鉢タタキ)の先祖が将門の家来であったという伝承は、「将門」がショウモンと音読みされ、ハチヤ(鉢タタキ)の別称である声聞師の「声聞」もショウモンと読まれることから生まれたといわれているが、これらの伝承は、ハチヤ(鉢タタキ)の先祖が東日本出身で、平安時代に反乱に参加して敗北したことと、悪人とみなされていたことを伝えていると思われる。また、ハチヤ(鉢タタキ)の仲間が、国司・守護によって領内に置かれたという伝承も、古代にハチヤの先祖が諸国に移住させられ、国司などの管理下に置かれたことを伝えているとみられる。

部落には、部落の古代起源を伝える、このような伝承がたくさんあるが、部落近世起源説を唱える人たちは、自説にとって都合が悪い、こうした伝承を完全に無視しているのである。

野間宏(『朝日ジャーナル』1977年8月26日号)によると、東京都練馬区の寺に残る板碑(いたび)の「弘安三年」(1280年)の文字は、練馬部落の形成が13世紀に始まることを示唆しているという。しかし、エミシの捕虜の移配が8、9世紀に行われたことを考えると、練馬部落が形成された時期は、鎌倉時代ではなくて、平安時代かもしくは奈良時代と推定されるのである。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099202.html


93. 中川隆[-6578] koaQ7Jey 2017年8月25日 13:17:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本語系統論 の現在:こ れか らどこへ
ア レキサ ンダー ・ボ ビン ハワイ大学
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3203502/pdf/rspb20110518.pdf
https://repository.ninjal.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=21&item_id=764&item_no=1
http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/niso/2003-12-26-1/s001/s006/pdf/article.pdf

日本 語 系 統 の 仮 説

日本 語の起源 については、少 な くとも二百五十年程前か ら、色 々な仮説が 出されて きた。 これまで多 くの学者 に支持 され ている 日韓 同源説 も、新井 白石 とい う国語学者 によって、江戸時代中期に初めて提案 され た。 しか し、十 八世紀には比較言語学 の方法 が存在 しなかったので、なかには何の根拠 もない夢想 的な仮説 もあった。 現在 は比較言語学 の方法が確立 されてすで に百八十年 にな るが、今だに十八世紀 と同 じレベルの仮説 が提起 され続 けてい るのは信 じ難 い事実で ある。本稿 では、 日本語 がSumer語 に関係が ある とか、 どこかの西 アフ リカの言語 に関係があ るとか とい う何の根拠 もない理論 を考慮に入れるつも りはない。 ここで取 り上 げるのは、少な くとも可能性がある仮説 だけである。 以下、可能性 の低 いものか ら可能性の高い ものの順序で詳 しく見てい きたい と思 う。

タ ミ ル 語 仮 説(大 野 晋)
タ ミル 語 仮 説 は 日本 の 大 野 晋 が発 展 させ て き た(大 野1980、1994ab、2000)。 一 部 の タ ミル 人 言 語 学 者 に支 持 され た と同 時 に 、 日本 とイ ン ドの タ ミル ナ ドゥ州 で あ る程 度 マ ス コ ミの 人気 を得 た が、 世 界 中の ドラ ヴ ィダ 諸 言 語 の 専 門 家 と 日本語 の 専 門 家 に は受 け入 れ られ なか った
(村 山1982,Zvelebill990,Krishnamurti2001)。

特 に 、 国 際 日本 文化 研 究 セ ン ター で 開 か れ た『日本 語=タ ミル 語 同 系説 』 とい うシ ン ポ ジ ウム で は 、 大 野 晋 の タ ミル 語 仮 説 は 日本 の言 語 学者 や イ ン ド学 者 に も強 く批 判 され た(長 田1996、 児 玉1996、 家 本1996、 山下1996)。 そ こで 明らか にな った の は 、大 野 晋 の タ ミル 語 仮 説 に は、歴 史 的 、考 古 学 的 、文 献 学 的 な 間違 い が 多 く、そ の上 大 野 晋 が比 較 言 語 学 の 方 法 を正 し く使 って い な い とい う事 実 で あ っ た。 た とえ ば、 大 野(2000:35)は 日本 語 とタ ミル 語 の 問 に 次 の 『対応 』 を掲 げ てい る。

タ ミル 語c一:日 本 語s一
タ ミル 語c一:日 本 語 ゼ ロ
タ ミル 語 ゼ ロ:日 本 語s一

こ の よ うな 分裂 した対 応 が存 在 しない わ け で は ない が 、 何 の 条 件 も提 示 され て い な い場 合 には 、信 頼 性 に欠 け る。 とに か く、 村W、 長 田、児 玉 、家 本 な どが 出 した 大 野 晋 の タ ミル 語 仮 説の批 判 が 完 全 な の で 、 こ こでそ れ に付 け加 え る必 要 は ない だ ろ う。


オ ー ス ト ロ ネ シ ア 語 仮 説(川 本 、Benedict)

大 野 晋 の タ ミル 語 仮 説 と同 じよ うに、 資 料 の扱 い 方 と対 応 の 規 則 に 大 き な 問題 が あ る。 私 は以 前 に も川 本 とBenedictの オ ー ス トロネ シ ア 語 仮 説 につ い て の細 か い 批 判 論 文 を 出 した の で
(Vovinl994a,1994c)、 こ こ で ま た 自説 を繰 り返 す つ も りは な い 。 しか し、 大 野 晋 の タ ミル語 仮 説 と比 べ て、 オ ー ス トロネ シ ア 語 仮 説 の 方 が ま だ注 目す べ き 点 が あ る。 そ れ は、Benedict
が 提 案 した 語源 の うち の い くつ か は 、オ ー ス トロネ シ ア語 起源 か も しれ ない とい うこ とで あ る。

とはい え、 そ の語 源 の数 は非 常 に少 な く、 日本 語 は 元 来 オ ー ス トロネ シ ア語 の 一 つ だ っ た というこ との 証 拠 に は な らな い。

ア ル タ イ ・オ ー ス ト ロ ネ シ ア 混 合 言 語 仮 説(P・livan・v1924、 村 山1981な ど、 崎 山1985な ど 、板 橋(90年 代 の半 ば よ り))

この 混 合 言 語 仮 説 に た て ば、 アル タイ 諸 言 語 の 立 場 か らで は説 明 で き な い 日本 語 の要 素 を説明 で き る可 能 性 が あ る。 しか し、 前 に も言 及 した よ うに、 オ ー ス トロネ シ ア語 の要 素 は 日本 語に は非 常 に 少 ない と思 う。

も し 日本 語 が アル タイ ・オ ー ス トロネ シ ア 混 合 言 語 だ とす れ ば 、 今 ま で に 掲 げ られ た オ ー ストロネ シ ア 語 起源 とみ な され る対応 語 に は、 比 較言 語 学 の見 地 に立つ と、問 題 点 が 多 い。 特 に、村 山七 郎 と崎 山理 の掲 げた 対 応 語 の 中 には 、 正 しい 対 応 語 が 全 くな い わ け で は な い が 、 問題 点が 多 い 。 ア ル タイ ・オ ー ス トロネ シア 混 合 言 語 仮 説 の うち板 橋 の 混 合 言語 説 が最 も将 来 性 の ある仮 説 だ が 、 まだ 疑 問点 が 残 って い る よ うに 思 う。

た と えば 、板 橋(1998)は 上 代 日本 語 の 人 称 代名 詞 の 起源 に つ い て 重 要 な仮 説 を 出 した。 その 仮 説 に よれ ば 、

上 代 日本 語wa一 「わ 」(a一 とい う軟 音 化 は上 代 日本 語 に とって 典 型 的 な 変 化 で は な い。(wameku>ameku「 喚 く」 は そ の軟 音化 の も う一 つ の例 で あ る か もしれ な い)。

よ って 、 上 代 日本 語wa一 「私(一 人 称 単 数)」 と上 代 日本 語a一 厂私(一 人 称 単数)」は 多 分 別 々 の語 源 を もつ とい う板 橋 の 説 明 は 正 しい だ ろ う。 しか し、別 々 の語 源 で あ る か ら とい う理 由 で 上 代 日本 語a一 「私(一 人 称 単数)」 とオ ー ス トロネ シ ア 祖 語*aq 「私(一 人 称 単数)」 を 直 接 につ な げ られ るか 、 とい うの は別 問題 で あ る。 私 の知 る 限 りで は 、 どん な オ ー ストロネ シ ア 語 も 、*a一 は 第 一 人 称 代 名 詞 と して は 使 わ れ て い な いi。 い つ も*aq ま た は そ の省略 形*q と して しか 表 れ て い な い の で 、 上 代 目本 語a一 とオ ー ス トロネ シア 語*aq を対 応 させ るの は難 しい よ うに思 わ れ る。


1フ ィ リ ピ ン の カ ガ ヤ ヌ ン語 に はa「私 」 は存 在 す るが 、カ ガヤ ヌ ン のaはfbcusedactorの 形 式 だ け で 、non fbcusedactorの 形 式 はkoで あ る。 又 、カ ガヤ ヌ ン語 は マ ノボ 語 群 の フ ィ リピ ン語 の一 つ で 、 このa「 私 」が フ ィ リ ピ ン祖 語 に は さか の ぼ らな い。 最 後 に 、 カ ガ ヤ ヌ ン語 につ い て 知 られ て い る事 は実 に少 な く、
特 に カガ ヤ ヌ ン語 の 史 的 音韻 論 は ま った く不 明 な ので 、 このa「私 」 とい う形 式 が ど うい うふ うに成 り立 っ
た か全 く分 か らな い 。

最 近 のオ ー ス トロネ シア 諸語 との比 較 を 見 る と き、 一 番 大 きな 問題 は どの オ ー ス トロネ シ ア語 と比 較 す るか とい うこ とで あ ろ う。 まず 、 オ ー ス トロネ シア祖 語 との 比 較 は 不 可能 で あ る。
オ ー ス トロネ シ ア 祖 語 は少 な く とも 紀 元 前6,000年 に さ か の ぼ る とい う こ とだ か らだ(Blust2000,私 信)。 ま た 、 日本 語 の オ ー ス トロネ シ ア 系 の 語 源 は お そ ら くオ ー ス トロネ シア 祖 語 と
は ほ とん ど一 致 しない とい うこ とだ 。 た と えば 、 日本 祖 語*ta-Cil.3b:L-L「 手 」 は よ く オ ース トロネ シ ア 祖 語*tangan厂 手 」 と比 較 され る。 しか し、*tanganは マ ライ 系 の 言 語 に しか 出 てこ な い の で あ る。 オ ー ス トロネ シア 祖 語 の 「手 」 に 相 当す る単 語 は 間 違 い な く*limaで 、 日本語 に はそ れ に対 応 す る単 語 は な い だ ろ う。

崎 山理 はア ル タイ ・オ ー ス トロネ シ ア混 合 言 語 仮説 の 支 持者 の 一 人 と して 、 この 問題 を は っき り理 解 して い る よ うに思 わ れ る。 従 っ て 崎 山は オ ー ス トロネ シ ア祖 語 で は な くマ ライ ・ポ リ
ネ シ ア祖 語 と 日本 祖 語 を比 較 してい る(崎 山1990、1991、1996、2001)。 しか し、 この 比 較に も問 題 が あ る。 マ ライ ・ポ リネ シ ア祖 語 と 日本 語 の 基礎 語彙 を 比 較 す る場 合 に は 、 可能 とみ
られ る対 応 語 は大 抵 日本 祖 語 で は 一音 節 で 、 マ ライ ・ポ リネ シア祖 語 で は 二 音節 な の で あ る。

とす る と、 日本 祖 語 とマ ライ ・ポ リネ シ ア 祖語 との 間 に規 則 的 な 対応 を成 り立 た せ るた め に は、日本 祖 語 の 中 に音 節 の脱 落 の 証 拠 とな る規 則 的 な 変 化 を見 つ けな けれ ば な らな い。 通 常、 このよ うな音 節 の 脱 落 の影 響 は ア クセ ン トに残 るは ず で あ る。 しか し、 日本 語 も 日本祖 語 も ピ ッチ ・ア クセ ン トな の に もか か わ らず 、 マ ライ ・ポ リネ シア祖 語 の 二音 節 語 の うち一音 節 の脱 落 の 日本 語 にお け るア クセ ン トへ の影 響 が 見つ け られ な い の で あ る。 い い か えれ ば 、 マ ライ ・ポ リネシア祖 語 の 二音 節 語 と対 応 す る と思 わ れ る 日本祖 語 の一 音 節 語 に は 、 ア クセ ン トに 着 目す る と、規 則 的 な 対 応 が ない の で あ る。 た とえ ば 、 次 の 二 つ の 例 を見 る と、 この こ とが 明 白に な る だ ろ
う。

崎 山理 は 日本 祖 語*ma-Cil.3aL-H「 目」 とマ ライ ・ポ リネ シ ア 祖 語*mata「 目」 とを 比 較し、 ま た 一 方 で は 、 日本祖 語*po-Ci1.3bL-L「 火 」 とマ ライ ・ポ リネ シア 祖 語*apuy「 火 」とも比 較 して い る(崎 山2001:471)。 日本 祖 語 のC、V、C、V、 の構 造 に お け る*ta一 く*tanganの ような第 二 音 節 が脱 落 す る可 能 性 を否 定す る わ けで は ない が 、 後者 の マ ライ ・ポ リネ シ ア の語 源を よ く見 る と、 彼 の比 較 は規 則 性 に欠 け て い る のが 分 か る。 前者 の 例 と違 い 、 こ こで は最 後 の音 節 で は な く 、最 初 の 音 節 が脱 落 してい る。 しか し、 日本 祖語*ma-Ci1.3aL-H「 目」、*ta-Ci 1.3bL-L「 手 」、*po-cil.3bL-L「 火 」 は 、 いず れ も同 じ低 起 式 の ア ク セ ン ト類 に 属 し、 ア ク
セ ン トの立 場 か ら見 る と、第 一 音節 の脱 落 、 第 二 音 節 の脱 落 が 不 規 則 的 に起 こ る こ とは考 え られ ない 。

日本 語 の ア クセ ン トをみ るか ぎ り、 マ ライ ・ポ リネ シア祖 語 か ら 日本祖 語 ま で に い たる音 節 脱 落 を証 明す る の は不 可 能 で あ ろ う。

崎 山理 は最 近 、基 礎 語 彙 だ けで はな く、 マ ライ ・ポ リネ シ ア祖 語 と 日本祖 語 の 文 法要 素 の比較 も試 み て い る(崎 山2001:473-478)。 しか し、 崎 山 の 比較 は だ い た い 上代 日本 語 の動 詞 と形
容 詞 の接 頭 辞 と代 名 詞 で あ る。 まず 、 上 代 日本 語 の動 詞 と形 容 詞 の 接 頭 辞 を一 通 り見 てみ よ うと思 う。

崎 山 は 自分 自身 が 比較 の対 象 に使 っ てい る上 代 日本 語 の 動 詞 と形 容 詞 の 大 部分 の接 頭辞 の文 法 的 な 意 味 を知 らな い よ うで あ る。 た とえ ば 、 崎 山 は 上 代 日本 語 のta一が 「偶発 性 」 で 、
ka一が 「被 災 的 」 で 、sa一が 「類 似 概 念 の 派 生 」 だ と指 摘 して い る(崎 山2001:473)。 しか し、ア レキサンダー ・ボ ビン
この 崎 山が あ げ てい る文 法 的 な意 味 が 何 に基 づ く もの な の か が全 く示 され てい ない 。 信 憑 性 の高 い 上 代 日本 語 の参 考 書 をみ て も、 そ の 定 義 と崎 山の解 釈 は一 致 しな い の で あ る。 た とえ ば 、「時代 別 国 語 大 辞 典 」 に は 次 の よ うに定 義 され て い る。ta一に は 「ひ ろ く名 詞 ・副 詞 ・動 詞 ・形容 詞 に冠 して 用 い られ る 」 と して 定 義 が な く(澤 潟1967:408)、ka一 は 「主 と して形 容 詞 に接して そ の意 味 に 一種 の 色 調 をそ え る」(澤 潟1967:170)で 、sa一が 「ほ とん ど実 質 的 な 意 味 はな い 」(澤 潟1967:317)。

岩 波 「古 語 辞 典 」 を調 べ る と、ta一が 「意 味 は 不 明 」(大 野1990:
755)、ka一 が 「見 た 目に … の さ まが 感 じ取れ る とい う意 を表 わす 」(大 野1990:261)で 、sa一は「語 義 不詳 」(大 野1990:530)と あ る。 崎 山 が 比 較 に選 ん だ そ の 他 の 厂上代 日本 語 の 接 頭 辞 」
は形 態 論 的 な 分析 の 間違 い だ け に は と どま らな い 。 た と えば 、 使 役 のpa一は(崎 山2001:473)上 代 日本 語 に は存 在 しない ので あ る。

この よ うな 、 あ る言 語 に は存 在 して い て も 、 あ る言 語 では存 在 しな い 接 頭 辞 の文 法 的 な意 味 の 比 較 は、 何 も証 明す る こ とは で き な い。 崎 山 が これ らの上 代 日本 語 の接 頭 辞 の 「文 法 的 意 味 」 を、 そ の 比 較 の対 象 で あ るマ ライ ・ポ リネ シ ア語 の接 頭
辞 に対 応 させ る た め に作 り上 げた とい うこ と は明 白で あ る。 い うま で もな く、 そ の よ うな方 法は比 較 言 語 学 の方 法 に反 して い る。 崎 山 は上 代 日本語 の代 名 詞 の 分析 も試 み て い る が、 そ の分
析 法 も比 較 言 語 学 の方 法 に反 して い る。 しか し、 そ の批 判 は長 くな るの で こ こで は省 略 す る。

ア ル タ イ 語 仮 説(Mille・ 、Itabashi(90年 代半端まで)、Star・stin,V・vin(最近まで))

アル タイ語仮説 は、 タ ミル語仮説 とオース トロネシア語仮説 に比べれば、長所 は多 いが、短所 も少 なくはない。
日本語 とアル タイ諸言語 のあいだ の子音 とア クセ ン トの対応 がだいたい成 立す るとい う意 見が ある(Starostin1991)。 しか し、 明 らかで ない点 もまだ多 く見 られ る。 特 に、語 中の子音
の対応が十分 に調べ られ てい ない。い うまで もなく、規則 的な音韻対応 だけでは言語 の同系の証拠 にはな らない。 た とえば、 中古 中国語 と日本語の間 には理想 的な ほど、子 音だけでな く母音 の規則的 な対応 も存在す る。 しか し、中古 中国語 と 日本語 は同系の言語ではない。 その完璧とい える対応 は基礎語彙 と基礎文法要素 まで には及 ばず、借 用語 にとどま るか らであ る。

後 に詳 しく述べ るが、アル タイ語族 が五つ の言語(日 本語、韓国語、満 ・ツングース語 、モ ンゴル語 、チ ュル ク語)か らな って いる とい うMiller-Starostin説のアル タイ諸言語 の問には、 その音韻対応 を後 ろ楯す る基礎語彙 と特 に基礎文法要素 が非常 に少ないので ある。

また、アル タイ語仮説 には、他 の問題 も少 な くない。た とえば、母音の対応 が明 らかで はない。今 まで掲 げ られ た母音対応 は、ほ とん どの例 において規則的で はなく、例外が非常 に多いのである。 アル タイ語仮説 の積極的 な支持者 の論証 には言語学的、資料 の扱い方の間違 い などの重大 な欠 点がある。 そのよ うな間違 いの中には信 じ難い ほど稚拙 なものもある。 ここで は、スタロスチ ンのアル タイ語仮説 を例 に して、そのよ うな間違い の幾つか を詳 しく見てみ よ うと思 う。

ス タ ロ ス チ ン の ア ル タ イ 語 仮 説

1)資 料 の 取 扱 いの 問題 点

兎 は卵 。
Dolgopolsky(1999:84)に よ る と、Starostinが た て た アル タ イ 祖 語 に*u「 卵 」 とい う単 語 があ った とい う。 そ して 、 そ の 再構 は 日本 語 に基 づ くのだ とい うの で あ る。 しか し、 日本 語 に は*u「 卵 」 な ど とい う単 語 は な い。 お そ ら くStarostinは 漢 字 の 「卯 」 と 「卵 」 の 区別 がつ か な か った ので あ ろ う。

人 間 に は 目が 二 つ あ るか ら、 祖 語 に も 「目」 と い う単 語 が 二 つ あ った 。

ス タ ロ スチ ン の 日本 語 再 構 は よ くア ル タ イ 語 源 に一 致 す るが 、 日本 語 の デ ー タ を無 視 して いる。 た と えば 、 ス タ ロ スチ ン は 日本 祖 語*m潘-i(1991:87)と 日本祖 語*m瀛N「 目」 を(1991:
265)両 方 再 構 した 。 彼 の再 構 は 中期 韓 国語 のnw「 目」 と一 致 す る こ とに な っ てい る が 、 この再 構 は 日本 語 の デ ー タ に沿 うも の で は な い 。 ま ず 、 一ノ〉 は波 照 間 のmi/>「 目」 に 基 づ い た再
構 だ が 、 この 一1>は 波 照 間 に しか 存 在 しな い た め、 疑 わ しい 。 や は り、 こ の一Nは二 次 的 な も ので あ る と考 え られ る。 波 照 間 のputugiN「 仏 」 な どを 見 れ ば(Martin1987:74-75)、 明 白 だ。 第
二 に、 ス タ ロス チ ンの 日本 祖 語*m潘一 は波 照 間 のmil>「 目」 と対応 して い な い 。 波 照 間 の/i/は琉 球 祖 語 の*e(opon一>opo一 とい う変 化 が 、 後 に続 く/m/の 前に お い て は 自然 で あ る。 上 代 日本 語opo一 〃sonoに は 平安 時代 と鎌 倉 時 代 に 「お も の」 と 「を もの 」 の 二 通 りの振 り仮 名 使 い が あ る。opo一>o一 とい う変 化 が 日本 語 歴 史 上 独 特 で 、 丁 寧 語 の接 頭 辞 で あ る 「お ほ 」 以 外 に 見 られ な い。 こ の接 頭 辞 以 外 の上 代 日本 語 の/opo/と い う音 韻 連続 が平 安 時 代 の/OWO/と 現 代 日本 語 の/0:/に対 応 す る。 よ って 、 こ の単 語 に つ い て は アル タ イ 諸語 との 関係 を想 定 す るの は 不 可能 で あ ろ う。


4)日 本 語 の 中 の 中国 語 借 用 語 は ア ル タ イ 説 を 支持 す る 。

ス タ ロス チ ン は ア ル タ イ祖 語*sir、o「 漏 れ る、 に じみ 出 る 」(チ ュル ク祖 語*sir2一,モ ン ゴ
ル 祖 語*sir一,ツ ン グー ス 祖 語*sire,韓 国祖 語*hを 日本 祖 語*situ「 湿 っぽ い 」 と比 較 してい る(Starostin1997:337)。 日本 語 の 歴 史 を無 視 して い る ス タ ロス チ ン に とっ て は 、彼 が 日本 祖 語 とみ な す 単 語*situが 、 なぜ 「っ れ つ れ 草 」 中 に 初 め て 使 わ れ て い る の か が わ か ら ないよ うで あ る。 実 は 、彼 の比 較 の 対 象 に選 ん だ 日本祖 語*Slip「 湿 っ ぽい 」 は 明 らか な 中古 中 国語
の借 用 語 な の で あ る。 「しつ 」 は 「湿 」 の 漢 字 の慣 用 音 で あ る2。 ま た 、 中期 韓 国語h は「漏 れ る 、 に じみ 出 る」 で は な く、 「流 れ る」 とい う意 味 で 、 ツ ン グ ー ス 語*sire(実 際*sir一
ま た は*siri一)は 「絞 る、 乳 を搾 る」 とい う意 味 で あ る(Cincius1977:93b)。 さ らに 、 韓 国祖語 の*hは*の 必 要 の な い 、 文献 で す で に確 認 され た 中期 韓 国語 の 形 で あ る。 ス タ ロス チ ンは 、 こ こ で も ま た 、 韓 国祖 語 の 再 構 を無 視 して い る。 中 期 韓 国語h は ア クセ ン ト上 、 八類 の動 詞 で 、 韓 国 祖 語*h一に さか の ぼ る(Ramsey1991:236)の で あ る。 こ の単 語 の うちの 、二番 目の/一Uはア ル タイ語 との 関係 の確 立 を よ り困難 に してい る。 最 後 に、 モ ン ゴル 祖 語*sir一は お そ ら くWMsiNbigine一 「し と し と降 る 、水 を ま く」 か ら うま く切 り と られ た 要 素 で 、 残 りの 一bigine一は勝 手 に省 かれ た ま ま、 何 の 説 明 も施 され て い な い 。


5)音 韻 対 応 も無 視/他 の 問題

ス タ ロ ス チ ン は アル タイ 祖 語*bio:ji「 尊 敬 す る」(チ ュル ク祖 語*ba:j;モ ン ゴル 祖 語*bejle,ツ ン グ ー ス祖 語*buje一,韓 国祖 語*p6y-hw6一)を 日本 祖 語*bij竏と比 較 して い る。 まず 、 音韻 対 応 を み る前 に 、対 応 よ りさ さい な 問 題 を 見 て み よ う と思 う。 意 味 的 に は 、 チ ュル ク祖 語 *ba:jは 「金 持 ち」 だ が 、 金 持 ちの 人 々 が 尊 敬 され る可 能 性 は あ る。 中期 韓 国 語phwス タロス チ ンが 行 っ た よ うに二 つ の 形 態 素 に わ け る根 拠 は な い)は 「勉 強 す る」 とい う意 味 で あ る。

次 の例 は も っ と問題 が 大 き い。 モ ン ゴル 祖 語bejle「 三位 の親 王 」 は モ ン ゴル 人 が 清 時 代 以 前 には使 っ て い な い 爵位 で(Jagchid&Hyer1979:276)、 満 州 語 のbeile「 三位 の 親 王 」 か らの 明らか な借 用 語 で あ る。 こ の他 に も、 ス タ ロ スチ ン式 の アル タイ 語 学 は言語 の歴 史 だ けで は な く、2「 しつ 」 は めっ た に しか 出 て こな いsyuu慣 用 音ritu(め っ た に しか 出 て こ ないryuu慣 用 音situ(め っ た に しか 出て こな いsyuukeseeg
「拷 問 に か け る 」 ,aru一 「意 識 を 回 復 す る 」 ニ>arctg 「復 興 す る 」,jalup一 「満 ち る 」=>jalupk
「満 た す 」(Vasilevich1940:93)
,満 州 語 の 稀 なanticausative-gi一:algi一 「有 名 だ 」<aZa一 「報
告 す る 」 同 じ語 源 の 可 能 性 あ り。
上 代 日本 語
於 毛 思路 伎 野 乎婆 奈 夜 吉 曽.
omosirwo-kyinwo-wobanayak-yi-so
美 しい 一連 体 野原 一対 格 否 定 一焼 く一動 名 詞 一す る
美 しい野 を 焼 か な い で(萬XIV-3452)
夜 気 牟志 婆 加 岐
yakey-m-u siba-gakyi

焼 ける一推量 一連体 柴 一垣
焼 ける柴垣(古 事記歌謡109)
中期 韓 国 語
ha-nmwul-ulhe-no-n-i
大 きい 一連 体 物 一対 格 壊 す 一現在 一連 体 一動 名 詞
大 きい 物 を壊 す(金 剛 経1:7)
nolh-ihel-Gi-timwot-ho-mye
刃 一 主 格 壊 す 一 受 け 身 一 動 名 詞 で き な い 一 す る 一 接 続
刃 は 壊 れ な く て_(,月 印X:70)
エ ヴ ェ ン キ 語:
perroneme-cee-1-dipassazhir-il-dijalup-caa-n
ホ ー ム 来 る 一 過 去 一 複 数 一 具 格 乗 り手 一 複 数 一 具 格 満 ち る 一 過 去 一3単
ホ ー ム は 来 た 乗 り 手 で 満 ちた(Boldyrev1994:213b)
dilacaacuutuuma-watigekeen-me-tinjalup-iknan-innama-t
太 陽 青 い 一 対 格 カ ッ プ ー 対 格 一3複 満 ち る 一 か ぎ りま で 一3単 暖 か さ 一 具 格
.ノalup-k鹹aa-n
満 ち る 一 使 役 一 過 去 一3単
太 陽 は 暖 か さ で 青 い カ ッ プ を 端 ま で 満 た し た(Boldyrev1994:213b)
(3)否 定 詞*一e
日 本 語=上 代 日 本 語 一Lv/i<*一e,否 定 詞 、 た と え ばkyik-yi「 聞 き 」 ψヅ 「言 い 」
韓 国 語=韓 国 中 世 語 一e/ye%a,否 定 詞 、 た と え ばkel-e「 歩 き 」;kask-a「 壊 し 」。
?チ ュ ル ク 語:OT一一a,否 定 詞 、 た と え ばegir一 「囲 む 」、egir一艨u 囲 み 」、tut一 「持 つ 」,tut-a
「持 ち 」。(Tenishevetal .1988:474).
上 代 日本 語
都 流 伎 多 智 許 志 爾 刀 利 波 枳 佐 都 由美 乎 多 爾 伎 利 物 知 提
turugyi-tatikφsi-nitwor-ipakyisate-yumyi-wo
剣 一太 刀 腰 一 与格 取 る 一否 定 詞 一佩 く一否 定 詞 狩 猟 一弓 一対 格
ta-nigyir-i-mot-i-te
手 一握 る 一否 定詞 一持 つ 一否 定詞 一接 続
[若 い男 が]剣 太刀 を 腰 に お び、 弓矢 を 手 に 握 り持 っ て(萬V:804)


中 期 韓 国 語
kilpes-esswo-sy-aseysal-aytati-n-i
道 はず れ る 一否 定詞 射 る 一敬 語 一否 定 詞 三 つ 矢 一与 格 皆 落 ち る 一連 体 一 動名 詞
道 か らはず れ て 、 射 て 、[彼 を追 う]三 人 は 三 っ の 矢 で 落 と され た(龍 飛 御 天 歌36)
古 代 チ ュ ル ク語
toquzer-igegir一舩oq鹽
九 武 士 一対 格 囲む 一否 定 詞 撃 ち破 る 一過 去
[彼 が]九 人 の 武 士 を 囲 ん で 、 撃 ち破 っ た(KTb36)


日本語系 統論 において基礎語彙 の比較 は、あま り決定的 な結果 には到 ってい ないが、今す ぐ諦 めず に、 この よ うな細 かい文法要 素の比較 を行 ってい けば、徐 々に 日本語 の系統が分か るようになるだ ろ う。長 田(本 論文集掲載)は 否 定的だが、私 はそ う期待 してい る。

文 献

日本語の文献
古事記歌謡,712
萬 万葉集759以 後
中期韓国語の文献
金剛経
,月印
金 剛 経 彦 解,1464
杜 詩 彦 解,1481
月 印 釈 譜,1459
龍 飛 御 天 歌1445
満州語の文献
MYK
SA
Manju-iYargiyanKooli,十 七 世 紀 後 半(?)
TaizuHwangdiMinggurun-icooha-beSarglin-deambarame
efulehebaita-betucibumearahabithe,十 七 一 十 八 世 紀
モ ンゴル文語
UD ワliger一dalai,十 八 世 紀(?)
古代チュルク語
KTb
KTs
KTeginの 大碑 銘732
KTeginの 小 碑 銘732

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伽vθ rめノ(ゾ飾 照'ノo'漁 ηoo
Keywords:Japonic,Japanese,Altaic,Austronesian,mixedlanguages,Korean,
Manchu-Tungusic,Manchuric.
Thisarticlepresentsabriefoverviewofthemajortheoriesconcerningthe originsoftheJapaneselanguage.Inparticular,Idemonstrateinsomedetail whytwopartiallyexcludinghypotheses:thetheoryofthemixedAustronesianAltaicoriginandtheAltaictheoryhavemultipleshortcomingsatthepresent time.IbelievethatthemostpromisingtheoryisthetheoryoftheKoreoJaponiclinguisticrelationship,anditalsomayturnoutthatbothKoreanand JaponicareultimatelyrelatedtoManchu-Tungusic.IpresentsomeinitialevidenceinfavorofthistentativefamilywhichIcall"Manchuric."


https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3203502/pdf/rspb20110518.pdf
https://repository.ninjal.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=21&item_id=764&item_no=1
http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/niso/2003-12-26-1/s001/s006/pdf/article.pdf


94. 中川隆[-6430] koaQ7Jey 2017年9月12日 06:21:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

◆遠賀川式土器の移動と早期水田伝播から見えるもの 2013/4/3
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55466099.html


「遠賀川式土器(おんががわしきどき)は、西日本に分布する弥生時代前期の土器の総称。九州から西日本に広く分布し、それが初期の水田稲作の西から東への伝播(でんぱ)の指標とされ、西日本の弥生前期土器の総称としてつかわれるようになった。」

「分布は太平洋側では伊勢湾沿岸まで、日本海側では若狭湾沿岸までの西日本全域におよぶ。その後南西諸島や本州北端の青森県までおよんでいることが分かった。 伊藤信雄は、1970年代に炭化米・籾痕土器関連の遺跡を東北地方で23カ所掲げて、日本海沿いの稲作伝播の可能性を指摘している。

1980年代に入って青森県三戸群南郷村の松石橋遺跡で完形壺がみつかり、遠賀川式土器であることが分かり、是川遺跡から出土した土器片が遠賀川式であることが確認された。それ以来東北地方各地で遠賀川式土器的なが見つかっている。これらは遠賀川系土器と呼ばれ、東北地方各地の遠賀川系土器の詳しい観察結果や図・写真が公開されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%B3%80%E5%B7%9D%E5%BC%8F%E5%9C%9F%E5%99%A8

●1遠賀川式土器
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/GALLERY/show_image.html?id=55466099&no=0

http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_03suidenninasaku_no_jitunenndai.html

●2遠賀川(おんががわ)式土器の分布と発見された弥生時代の水田分布図
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/GALLERY/show_image.html?id=55466099&no=1



http://www.ranhaku.com/web04/c3/2_01map.html

列島の稲作は土器の出土編年から、まず日本海ルートで出雲・越(新潟)へと早期に動く。この流れが青森砂沢へと向かったようである。日本海側が早い理由として学者は対馬暖流の流れと温暖さ、さらに夏季の雨量の多さをあげている。疑問点もあるが記紀などの史書が出雲に早期のクニがあったと言うこととは合致することになる。

太平洋ルートでは遠賀川から瀬戸内に入り吉備〜近畿へと向かうルートと、豊後水道から外海へ出て土佐、紀伊、伊勢、濃尾平野へと向かうコースがある。


東北の三陸側へは太平洋ルートではなく、もしや日本海で青森周りで南下して到着した可能性がある。関東地方の水田が最も遅くなっているからである。


いずれにせよこれらすべてのコースは安曇族や久米族の海上交流コースの早期存在を示唆することになるだろう。


●3水耕稲作の発祥地と渡来経路

遺伝子分析と考古遺物の炭素同位によってジャポニカ米の発生地は中国長江流域と確定している。

現在までに水耕稲作の日本列島への伝播ルートは4つの案が出されている。

1 北東アジア北回り遼東半島から朝鮮半島へ南下して北西九州へ→×寒冷乾燥地帯ゆえに痕跡なし。

2 山東半島から海を渡って朝鮮半島の温暖な南部へ入り、そこから対馬・壱岐を経て北西九州へ→○遺跡あり(※ただし・・・)

3 長江流域から台湾・琉球諸島を経て南九州へ(柳田國男説)→×沖縄の水田は11世紀以降しか出てこない

4 長江流域から直接東シナ海を横断して北西九州へ→?証拠になる遺物や渡海の痕跡は探しようがない

※ただし日本のジャポニカ種には朝鮮半島にない遺伝子を持つものが存在する(佐藤洋一郎説)。また4の渡海がなかったと証明するのも難しく、すでに縄文後期には陸稲稲作が鹿児島や長崎・佐賀、そして岡山などであった証拠品は多い。

筆者はイネが南方系植物であることから半島南部と九州玄界灘への到着はほぼ同時だったと見る。なぜならばのちの伽耶など、半島海岸部の倭人と九州の倭人は同じ海人族で同族(はらから)だったからである。

なんとなれば彼らが中国沿岸部の白水郎と同じ海の民である限り、彼ら自身がすでに縄文中期あたりから長江などとも交流していた可能性もあながち否定できず、弥生時代になれば彼ら自身がイネを持ち帰ることも可能である。北西九州の初期水田はすでに長江の最先端技術と鉄器農具とともに渡来していたわけなので、彼らの舟に長江人が同乗してやってきて指導したことも否定できないのである。

水耕稲作の北西九州への到来は推定紀元前5世紀だとされている。最古の水田遺跡は菜畑遺跡。

●水田稲作の伝播コース
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/GALLERY/show_image.html?id=55466099&no=2

http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_03suidenninasaku_no_jitunenndai.html


●遠賀川式土器の移動と水田の広がり

史学界では遠賀川式土器を作る人々が水田稲作を東北にまで広めたことはすでに定説化している。しかし、最初菜畑のような北部九州の西側で始まった水耕稲作が、なにゆえに北東部の遠賀川流域の人々によって広められたについては、いまだ納得できるアイデアにお目にかかっていない。そもそも九州北西部には長江中流域に多い甕棺墓が広まったが、博多の北東部から豊前には例えば板付遺跡でさえも菜畑から500年も遅れてしまうのである。

しかしほかによい付随遺物がないので、ここでは学界の説に準じて話を進めておく。

東北で遠賀川式を模倣して作られた類似土器が多数出る。後進地帯と言われてきた東北だがこれによってすでに地域によっては九州と交流していた先進地帯があったことがわかった。稲作ばかりではなく、農具つまり実用鉄器の移動、あるいは九州的な装飾品も同時に届いており、あるいは琉球の南海にしかいなはずの貝の模倣品土器すら縄文後期・晩期に出ている。

つまり九州〜日本海〜東北(南北海道までも)のコースは稲作以前からすでにあったということになる。さらに付け加えるならば、世界の交易は遠隔地から始まるという世界史の定説もあり、このような長旅を小舟でやれた人々ならば、当然東シナ海すらも渡って長江河口部や山東半島にまで往復できたと考えてもおかしくないだろう。

さて、この遠賀川式土器の日本で最も早い移動の痕跡は、つまり倭人の船旅の列島内で最古のものであり、それが「おがのみなと」のちの「岡の港」(おがとは遠賀の古い発音)からはじまったことに日本古代史最大の謎を解く大きなヒントがあるわけである。


●2遠賀川(おんががわ)式土器の分布と発見された弥生時代の水田分布図をもう一度じっくりと眺めていただきたい。

瀬戸内海で近畿へ向かう航路では岡山に土器が集中している。そして播磨から淀川流域(摂津)である。南下して河内方面へも広がる。しかしこの瀬戸内ルートはここで一旦伝播の波がやみ、淀川を北上した波も琵琶湖南部で止まっている。


紀伊半島・三重県から尾張へは太平洋ルートで伝播したのである。そしてこの流れはここで一応終結したと思われるのは、濃尾平野から北へは伝播時期が非常にはなれてしまい、最後になったのである。

ちなみに、不思議なのは吉備と出雲の間と、播磨と出石の間に横たわっている中国山地である。吉備と出雲は古墳文化が大きく異なるが、考古学的には出雲の西谷古墳(四隅突出型)からは吉備系の円筒埴輪などが出てきており、双方に交流があったことは明白なのだが、播磨と出石には水田・鉄器・土器の交流がないのである。なぜおかしいかというと、実はここの間の山地は、日本で最も低くなだらかな丘陵だからである。

分水嶺が日本最低の海抜10メートルというからこれは山地とは言えず、ひょいっと越えられる丘なのだ。なのに交流が少ない?尾張から福井若狭へ抜ける部分が日本でも最長最高の日本アルプスでさえぎられていたにも関わらず文化交流や人の流れがあったにも関わらず、なぜ兵庫県の日本海側と瀬と内側には古くからの交流がなかったか?筆者には疑問である。

参考文献 木下正史 『よくわかる古代日本の全体像 知識ゼロから学ぶ日本史の原点』新人物往来社2011
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%88%E3%81%8F%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%85%A8%E4%BD%93%E5%83%8F-%E6%9C%A8%E4%B8%8B-%E6%AD%A3%E5%8F%B2/dp/4404039093

※遠賀川式土器が水田と鉄器その他の装飾品などと移動していった道こそは、実はツヌガアラシトやアメノヒボコらの通り抜けていった道、神武天皇東征ルート、そして海人族と隼人たちの海の道なのである。

あとは祭祀都市と墓制がそこでどう影響を与えていったか、だろうと思う。
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55466099.html


95. 中川隆[-6061] koaQ7Jey 2017年10月30日 16:34:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2016年5月1日 / 最終更新日 : 2016年7月27日 大日向 明子 インタビュー

最新DNA研究と縄文人   斎藤成也


最近、遺伝子の研究が進み日本人のルーツに関する新事実が明らかになりつつあります。今回はNHK番組への出演や書籍の出版、公開シンポジウムなどでご活躍の国立遺伝研究所の斎藤成也教授にお話をうかがいました。

▼先生の遺伝子の研究から日本人のルーツに関する新事実が明らかになったとお聞きしましたが、それはどのようなものですか?

これまで日本人は大陸からわたってきたと考えられていたため、遺伝子が東アジアの人たちと近いと考えられていました。ところが調べてみると、東アジアの人たちは遺伝子が似ているのに、日本人はそれとは違うことがわかりました。そこで、その違いをもたらす原因を縄文人の影響だと仮定し、縄文人のDNAを分析したところ、やはりその原因が縄文人にあったことが分かったのです。さらに日本人の中でも、沖縄の人たち、アイヌの人たちはさらに違いが大きいことも分かっています。

▼それでは、その縄文人は、どこからやってきたのでしょうか?

人類はアフリカを出て、約4万年前に東アジアに到達し、東アジア人と東南アジア人に分岐しました。

これまでその形質から縄文人は、東南アジアからやってきたと考えられてきました。北方からやってきたという説もあります。ところがDNA分析では東アジア人と東南アジア人に分岐するより古い時代に日本にやってきたらしいとわかりました。

(図参照)
http://jomonjin.info/archives/504


古い時代にユーラシアのどこからきたのも、はっきりしません。長い年月をかけて混血し、いろいろな経路をたどって移動しているので、分析はとても難しいのです。

縄文人のルーツ

▼具体的には、どのようにDNAを分析されたのですか?

「核DNA解析」という方法です。ひとつのDNAから一個しかとれないので、難しい技術ですが、今までの「ミトコンドリアDNA解析」よりも、はるかに多くの情報がとれるものです。

寒冷な地域の保存のよい福島県の三貫地貝塚から100体以上の人骨が出土していたので、その成人男女の2体の歯根部を使いました。97%がバクテリアの遺伝子でわずか3%の縄文人の遺伝子から分析するのでとても難しい技術です。当時(2014年)私の研究室に総合研究大学院大学の学生として所属していた神澤秀明博士(現在は国立科学博物館人類研究部研究員)が分析しました。

渡来系弥生人はまだ分析されていないのですが、現代にも遺伝子が引き継がれていると仮定して、中国人や韓国人を渡来人の母集団の子孫とみたてて研究しました。

▼その分析の結果は、日本人の形成にどのような可能性をもたらすのでしょうか?

私が提唱しているのは、公開シンポジウムなどでも発表しましたが、下図のような「日本列島人の三段階形成モデル」です。

http://jomonjin.info/archives/504

日本列島人を大きくとらえると、北部、中央部、南部の三地域に大きく分かれています。

北部にはアイヌ人、中央部にはヤマト人、南部にはオキナワ人がいます。

アイヌ人とオキナワ人は、ヤマト人と異なる共通性が残っていて、その部分では、現在の日本人は北部や南部の混血が進まなかった地域を除き、縄文人と弥生人の混血であるという「二重構造説」と同じです。

私のこのモデルが新しいのは、二重構造説でひとつに考えられていた新しい渡来民を第二段階と三段階にわけたところにあります。


第一段階は約4万年前から約4000年前(旧石器時代と縄文時代の大部分)です。第一波の渡来民がユーラシアのいろいろな地域から様々な年代に、日本列島の南部、中央部、北部の全体にやってきました。

第二段階は約4000年前から約3000年前(縄文時代末期)です。日本列島の中央部に第二の渡来民の波がきました。第二波の渡来民の子孫は、日本列島中央部の南側において、第一波渡来民の子孫と混血していったことを示します。

一方、中央部の北側と北部および南部では第二波の影響は、ほとんどありません。

第三段階は、約3000年前から現在までです。

本州の中央部に第三段階で水田稲作の技術をもたらした渡来人が列島に入っていって、日本列島の中央部(福岡県、瀬戸内海沿岸、近畿地方の中心部、東海地方、関東地方の中心部)に移動していったことを示します。

この段階では人口が急速にふえていきました。
中央部が二重になっているのは、日本海や太平洋の沿岸に第二段階の渡来人のDNAが残ったのではないかということを示しています。

前半の約3000年前〜約1500年前(弥生時代と古墳時代)は北部と南部および東北地方では、第三波の影響はありませんでした。

後半の約1500年前から現在(飛鳥時代以降)になると、それまで中央部の北にいた人が北海道に移動していったり、中央部の南にいた人が沖縄に移住したりしました。北海道の北部にはオホーツク人が渡来するなど時代とともに混血が進みました。

人の移動は複雑で、時代とともにいろいろ混血していったと考えられますが、おおまかに私の説を表すとこのようになります。この三段階渡来モデルは、わたしたち研究グループが提案しているのですが、他の研究分野でもこれに似た説が提唱されています。

エルヴィン・ベルツはヤマト人を東アジア北部から渡来した長州型と東南アジアから渡来した薩摩型に分けました。三段階モデルにあてはめると、長州型が第三段階渡来民の子孫、薩摩型はもっぱら第二段階渡来民の子孫に対応するかもしれません。縄文人の遺伝子が受け継がれているのは、20%です。稲作をもたらした渡来系の人の移動の前にも大陸から渡ってきているということです。

人の移動は複雑でまた長い年月にわたっていますから、オホーツクから入ってきたり、いろいろな遺伝子が混ざっていくわけで、すべてこれで説明できるわけではありません。

言語に関していえば、第二段階が今の言語を伝えているのではないかと現在、思っています。

出雲地方と東北地方の人々の間に遺伝的な共通性が存在する可能性もでてきました。出雲の方言と東北の方言が似ていることが以前から指摘されていますが、言語の伝わり方は、とても複雑なのでいろいろ調べていかなければわからないことも多いと思います。

▼出雲の国譲り神話が、文化的・遺伝的に少し異なる人々の間で起きた出来事である可能性についてはいかがですか?

記紀神話では、出雲地方の権力者が九州北部の権力者に国を譲り渡したと解釈される話がでてきます。荒神谷遺跡からおびただしい数の銅剣が発見されましたが、出雲地方の勢力と九州北部の勢力と交わしたなんらかの出来事を示唆しているのではないかと思えてなりません。

わたしたちの研究グループで東京いずもふるさと会と荒神谷博物館の協力を得て、出雲地方の遺伝子を調べました。

出雲地方が大陸に近いにもかかわらず、関東の人のほうが、大陸の人たちの遺伝子に近いことがわかりました。

先ほどの三段階のモデルでいうと、第二段階の渡来人が第三段階の渡来人に権力を譲り渡したのではないかという考え方です。確かなことはもう少し、研究を重ねていかなければわかりませんが、いろいろな可能性を考えて研究していくことは大事だと思います。

▼これからDNA研究はどのように進んでいくのでしょうか?

縄文時代の人骨が東日本からいくつか発見されたので、そのDNAを使って、研究が進められていくといろいろなことが分かってくるでしょう。沖縄の石垣島から2万年前も前の旧石器時代の人骨も見つかり、現在研究が進められています。DNA分析は、縄文人の姿だけではなく、血液型や耳垢・肌の状態などその体質まで知ることができます。

今世紀に入ってすぐ、ゲノムが解読されて以来、この分野の研究は進みました。どんどんいろんなことが今後、わかってくると思います。私は文字に残っていない自然誌をふくめてヒストリーを考えていく方向で、これからもいろいろな方々と研究していきたいと思っています。

国立遺伝学研究所 斎藤成也教授

*写真は三島市にある国立遺伝学研究所と斎藤成也教授

【プロフィール】

1957年福井県生まれ。国立遺伝学研究所集団遺伝研究部門教授。総合研究大学院大学遺伝学専攻教授、東京大学生物科学専攻教授を兼任。1979年東京大学理学部生物学科人類学課程卒。1986年テキサス大学ヒューストン校生物学医学大学院修了。主要著書に「歴誌主義宣言」(2016年 ウェッジ)、「日本列島人の歴史」(2015年 岩波ジュニア新書)、Introduction to Evolutionary Genomics (2014年 Springer)、「ダーウィン入門」(2011年 ちくま新書)他。

(2016.4.11 斎藤研究室でインタビュー/文・写真 大日向明子)
http://jomonjin.info/archives/504


96. 中川隆[-5711] koaQ7Jey 2017年12月12日 19:25:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本人のガラパゴス的民族性の起源

30-3. 日本人の源流とY-DNA、mtDNA遺伝子ハプロタイプ出現頻度調査まとめ
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-3.htm


国立遺伝学研究所教授で著名研究者の斎藤成也氏が、核-DMA解析でたどるによる「日本人の源流」本を出版しました。

 やっと海の民に焦点が当たり、当ガラパゴス史観の「縄文人の一部は海のハンター」史観が正しそうな雰囲気になって来ました。

 そろそろ時機到来の様相になって来ましたのでガラパゴス史観を総括し、日本人の源流考をまとめてみました。 枝葉末節は切り捨て太幹のみに特化して図々しく組み立てましたので異論噴出が当然です。 異論・興味のある方は当史観が集めた論文をじっくり読んで是非御自分で源流考を組み立ててみてください。

1.最初の到来者は、古代遺伝子系集団:Y-DNA「D」とY-DNA「C」

 Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。
 Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分離し、
 Y-DNA「BT」がY-DMA「B」とY-DNA「CT」に分離し、
 Y-DNA「CT」が初めて出アフリカし、更にY-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分離した。これは恐らく先住ネアンデルタール人との交雑の結果と推測できる。


 Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分離したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 先住親遺伝子のY-DNA「A」のサン集団等やY-DNA「B」のピグミー集団等の支配階級としてネイティヴ・アフリカンの主力となり現代に至っている。

 一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、 そこから北上し現在の中国大陸に到達した。その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、 その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し現代までJarawa族やOnge族として絶滅危惧部族として遺伝子を伝えてきている。

 Y-DNA「CT」から分離したもう一方のY-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸で古代遺伝子Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人と交雑した結果Y-DNA「G」以降の全てのY-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できる。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA遺伝子全ての発祥の地となったと考えられる。

 もう一方の分離したY-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸に拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸にそれぞれニューギニア高地人集団やアボリジニ集団、 つまりオーストラロイドとして現代まで残っている。

 スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大した。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われる。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大である。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのだ。

 現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔である。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できる。

 さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。

しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査では検出されていない。どうやら途絶えてしまった可能性が高い。

 一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」がそのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

 オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決めてはY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

 一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。この集団はサハリンから南下し北海道に入り、 更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 北海道に留まった集団はアイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

 このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の交雑混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が日本人の持つ海洋性の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

 ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

 この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と 海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の交雑混成集団と考えられる。 このY-DNA「C2a」が日本人の持つ大陸性の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

 この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパではフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、 Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。最も頻度が高いのはTanana族である。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

 またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2bia2」に分化し、大部分はモンゴル族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。

2.長江文明系稲作農耕文化の到来

 さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

 Y-DNA「F」から分離した亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分離しインダス文明を興し、ドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。

 Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「NO」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く残されており、 テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。 しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子はY-DNA「R1a」、「R1b」、「J2」などに変貌している為、 東アジア起源の面影は全くない。唯一タタール人に若干の面影が残っているが今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も残っている。

 さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えない。

 この東北アジア起源のY-DNA「O」は穀物栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。 一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」と「O1b2」が分化し稲作農耕は発展したようだ。このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

 長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し河南からベトナムへ南下し 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 特にドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。 カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、 ドラヴィダ民族(特にタミール人)に長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、 その結果、学習院大学の大野教授が日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となった。

 一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。 この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州の14%は満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い要因となっている。 北朝鮮はツングース系の遺伝子が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。

 長江流域の呉越の時代の少し前に河南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、東南アジア、インド亜大陸でY-DNA「O1a」は検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは海南島、台湾となんと日本の岡山県である。 岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として渡来し来たのか単独で来たのか? 岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は楚系文化の名残と推測でき、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。

3.黄河文明系武装侵攻集団の到来

 狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島から生き残りに敗れ逃れてきたのが、Y-DNA「O2」を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「群」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

 朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ日本列島に追い出される形で逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でもまた黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。 この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていたツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」である。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた好戦的な集団と推測できる。

 この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由であり、

 一方韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」、Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」、「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリヒティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。 一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。

4.後記

 日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、一方過去の武士団や維新後の軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 もともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。


・日本列島の中で約1万年純粋培養されてきた素朴な狩猟採集とハンターの縄文系、

・好戦的な黄河系に中国大陸を追いだされ僻地の日本列島にたどり着いた、小集団の
 和で結束する稲作農耕民の弥生系、

・朝鮮半島の生存競争に敗れて半島を追い出され、本家中国に追い付き追い越せの
 征服欲出世欲旺盛な武装侵攻集団、


 個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 これだけ世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの縄文古代遺伝子が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-3.htm


97. 中川隆[-5710] koaQ7Jey 2017年12月12日 19:28:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本人のガラパゴス的民族性の起源

30-3-b. 日本人のY-DNA、mtDNA遺伝子ハプロタイプ出現頻度調査まとめ

  出現頻度は、グローバルで入手できた論文のデータを全て単純合算せずに、調査人数を調整して算出しています。 調査した研究者はそれぞれ独自に調査を行っているので、同じ日本人を複数回調査している可能性は極めて低いと思います。 それなら1つの研究のサンプル人数は少なくても、入手できる全てのグローバル論文のサンプル数を積算すればサンプル数が増えより精度が上がることになります。 従って頻度は複数の論文の頻度値の単純平均ではなく、各論文の亜型の人数を割り出し逐一積算し全体数から頻度を再算出しています。

  mtDNA(左列)とY-DNA(右列)をまとめてみました。多少わかりやすいかと思います。


http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-3.htm


 このmtDNA調査で最も重要なことは日本人の2/3(66%)がmtDNA「M」系であり、世界でこれだけの高頻度の「M」を持つのは、チベット人(約70%)と日本人だそうです。 そして両民族は奇しくも充分な人口規模を持つ世界で唯2のY-DNA「D」民族です。特に琉球人は世界最大頻度の「M」系民族でありアイヌ民族に次ぐY-DNA「D」民族でもあります。 これは偶然の一致ではなく日本列島の縄文のコアであるY-DNA「D」はmtDNA「M」と常にペアで行動してきたことを示しています。

  一方日本人の1/3(33%)は欧米系のmtDN「N」系になります。mtDNA「M」と「N」は出アフリカ前にすでに分化していたとする仮説と アジア(恐らくインド亜大陸か近東)で分化したとする2つの仮説があり、まだ決着はついていません。 しかしネアンデルタール人との亜種間交配で出アフリカしたY-DNA「CT」が「DE」と「CF」に分化したとする仮説が現在もっとも合理的なので、 mtDNAも出アフリカ後に同じ理由で「M」と「N」に分化したとすると説明を付けやすいのです。

  黄河文明の古代遺跡から発掘される人体はコーカソイドの特徴を持っていることは、考古学ではよく知られています。 これは寒冷地適応や黄砂適応を獲得するまえのY-DNA「O3」はY-DNA「CF」の子孫としてふさわしい彫深の外観であったことを示しています。 同様に典型的なフラットフェースのモンゴル人Y-DNA「C3c」も、本来は兄弟亜型Y-DNA「C2」と「C4」のニューギニア先住民やアボリジニと同じく いかつい彫深顔であったことが容易に推測できます。これほど寒冷地適応は厳しい環境要因だったのです。

  ではmtDNA「N」系列はどうやって日本列島にやって来たのでしょうか?


1.Y-DNA「CF」系縄文人の「C1a」や「C3a」とともに来た、か

2.Y-DNA「O」と共にわたって来た、か

3.その両方の場合。


  縄文遺跡から出土するmtDNA「B」は上記1の場合、その他はY-DNA「O」とともに、mtDNA「HV」などはシルクロード経由も考えられます。

  アイヌ民族のmtDNA「Y」はオホーツク文化で古代アイヌ民族を征服した古代ニヴフ族がもたらしたものでしょう。 その古代ニヴフ族は東北アジア系Y-DNA「C3c」のツングース系かモンゴル系と考えられます。 明治期でもアイヌ人男性の一部はコーカソイドと考えられたほど端正な顔立ちだったので、 いづれにせよ寒冷地適応を獲得する前の東北アジア集団が北海道に渡ってきたことになります。

  主題ではありませんが、アスリート能力のうちもっとも重要なエネルギー産生能力は、エネルギー産生がミトコンドリアで行われる以上、 母系遺伝することは当たり前です。白筋と赤筋とmtDNAとの関係はわかりませんが、調査結果からみると 瞬発系アスリートはmtDNA「N」系のmtDNA「F」と「B」が素地を持っているようです。一方、持久力系はmtDNA「G」が多いようです。 非常に残念なことはミトコンドリアは本記事14-2.でおわかりのように母系遺伝するため、父親がどんなに優秀なアスリートでもエネルギー産生能力は 遺伝しません。母親がその能力を持ったmtDNAを持っていない限り、トンビの子はトンビなのです。残念!


  ではY-DNA調査で分かることはなんでしょうか?

縄文系は現代日本人男性の約43%を占め、古代遺伝子の3種のY-DNA亜型から構成され、コアになる世界でも希少なY-DNA「D」(チベット民族がY-DNA「D1」、 縄文系がY-DNA「D2」)と更に希少な海洋性ハンターY-DNA「C1」と内陸性ハンター「C3a」が含まれます。 世界の先進国の中でこれほど古代遺伝子が男性人口の約半分も占める国家は日本しかありません。 3.11でも示されたような世界を驚かせた日本だけが持つ従順性、規律性やホスピタリティなど独特の精神文化はこの古代遺伝子から構成される 縄文基層文化がもたらすものです。

  日本はこの古代性に加えてY-DNA「O2」(「O2b」,「O2b1」,「O2a」)と「O1a」の弥生系水田稲作農耕民の遺伝子が持つ地域集団を形成し行動する、 先進国でも珍しい規律性の強い村社会的なコミュニティが加わり、ますます独自性を強めています。

  では内向きになりがちな縄文−弥生系に対し、日本人のグローバル性をもたらしたのは何なのでしょうか? それは朝鮮半島の生き残りに負けて半島を追い出され日本列島に逃げ込み、日向なる土地から出発し征服行脚を行った大和朝廷族や他の天孫族、 及び高句麗、新羅、百済などから追い出されてきた武士団族などのY-DNA「O3」プロト漢族遺伝子を持つ武装侵攻集団に他ならないでしょう。 当時の朝廷では和洋女子大の研究者が報告しているように漢語を話し、本家中華王朝に追い付き追い越せで文化力を高め これも独自な発展をする原動力となり、日本人のガラパゴス性の起源になったものと思われます。

  当ガラパゴス史観もまだ確固たる日本人論を持ってはいません、憶測や妄想も含むアブダクション(推論)の段階です。 国を挙げてY-DNAとmtDNAを調査すると、日本人のガラパゴス的民族性の起源と特性がもっとあぶりだされると思います。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-3.htm


98. 中川隆[-5765] koaQ7Jey 2017年12月17日 15:59:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった!
読売新聞メディア局編集部 伊藤譲治.2017年12月15日
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html


 日本人のルーツの一つ「縄文人」は、きわめて古い時代に他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だったことが、国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の斎藤 成也 なるや 教授らのグループによる縄文人の核DNA解析の結果、わかった。現代日本人(東京周辺)は、遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいることも明らかになった。縄文人とは何者なのか。日本人の成り立ちをめぐる研究の現状はどうなっているのか。『核DNA解析でたどる日本人の源流』(河出書房新社)を出版した斎藤教授に聞いた。

世界最古級の土器や火焔土器…独自文化に世界が注目


縄文時代を代表する大規模な集落跡、青森市の三内丸山遺跡。復元された6本柱の大型掘立柱建物が威容を誇る
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/photonews/article.html?id=20171214-OYT8I50003


 縄文人とは、約1万6000年前から約3000年前まで続いた縄文時代に、現在の北海道から沖縄本島にかけて住んでいた人たちを指す。平均身長は男性が160センチ弱、女性は150センチに満たない人が多かった。現代の日本人と比べると背は低いが、がっしりとしており、彫りの深い顔立ちが特徴だった。

 世界最古級の土器を作り、約5000年前の縄文中期には華麗な装飾をもつ火焔かえん土器を創り出すなど、類を見ない独自の文化を築いたことで世界的にも注目されている。身体的な特徴などから、東南アジアに起源をもつ人びとではないかと考えられてきた。由来を探るため、これまで縄文人のミトコンドリアのDNA解析は行われていたが、核DNAの解析は技術的に難しかったことから試みられていなかった。

 斎藤教授が縄文人の核DNA解析を思い立ったのは、総合研究大学院大学教授を兼務する自身のもとに神澤秀明さん(現・国立科学博物館人類研究部研究員)が博士課程の学生として入ってきたことがきっかけだった。「2010年にはネアンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)解読が成功するなど、世界では次から次に古代人のDNAが出ていたので、日本でもやりたいと思っていた。神澤さんが日本人の起源をテーマにしたいということだったので、縄文人の核DNA解析に挑戦することにした」と振り返る。


福島・三貫地貝塚人骨のDNA解読に成功


(『核DNA解析でたどる日本人の源流』に掲載された図をもとに作成)
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html?page_no=2

 問題は、縄文人骨をどこから手に入れるか、だった。ねらいをつけたのは、自身が東大理学部人類学教室の学生だったころから知っていた東大総合研究博物館所蔵の福島県・三貫地さんがんじ貝塚の人骨だった。同貝塚は60年以上前に発掘され、100体を超える人骨が出土した約3000年前の縄文時代後期の遺跡。同博物館館長の諏訪元げん教授に依頼すると、快諾。男女2体の頭骨から奥歯(大臼歯きゅうし)1本ずつを取り出し、提供してくれた。

 解析を担当する神澤さんがドリルで歯に穴を開け、中から核DNAを抽出。コンピューターを駆使した「次世代シークエンサー」と呼ばれる解析装置を使い、核DNAの塩基32億個のうちの一部、1億1500万個の解読に成功した。東ユーラシア(東アジアと東南アジア)のさまざまな人類集団のDNAと比較したところ、驚くような結果が出た。中国・北京周辺の中国人や中国南部の先住民・ダイ族、ベトナム人などがお互い遺伝的に近い関係にあったのに対し、三貫地貝塚の縄文人はこれらの集団から大きくかけ離れていた。

 「縄文人は東南アジアの人たちに近いと思われていたので、驚きでした。核DNAの解析結果が意味するのは、縄文人が東ユーラシアの人びとの中で、遺伝的に大きく異なる集団だということです」と斎藤教授は解説する。

アジア集団の中で最初に分岐した縄文人

 20万年前にアフリカで誕生した現生人類(ホモ・サピエンス)は、7万〜8万年前に故郷・アフリカを離れ、世界各地へと広がっていった。旧約聖書に登場するモーセの「出エジプト」になぞらえ、「出アフリカ」と呼ばれる他大陸への進出と拡散で、西に向かったのがヨーロッパ人の祖先、東に向かったのがアジア人やオーストラリア先住民・アボリジニらの祖先となった。

 縄文人は、東に向かった人類集団の中でどういう位置づけにあるのか。「最初に分かれたのは、現在、オーストラリアに住むアボリジニとパプアニューギニアの人たちの祖先です。その次が、縄文人の祖先だと考えられます。しかし、縄文人の祖先がどこで生まれ、どうやって日本列島にたどり着いたのか、まったくわかりません。縄文人の祖先探しが、振り出しに戻ってしまいました」

 アフリカを出た人類集団が日本列島に到達するには内陸ルートと海沿いルートが考えられるが、縄文人の祖先はどのルートを通った可能性があるのだろうか。「海沿いのルートを考えています。大陸を海伝いに東へ進めば、必ずどこかにたどり着く。陸地に怖い獣がいれば、筏いかだで海へ逃げればいい。海には魚がいるし、食料にも困らない。一つの集団の規模は、現在の採集狩猟民の例などを参考にすると、100人とか150人ぐらいではなかったかと思います」と斎藤教授は推測する。

分岐した時期は2万〜4万年前の間

 では、縄文人の祖先が分岐したのはいつごろか。「オーストラリアやパプアニューギニアに移動した集団が分岐したのが約5万年といわれるので、5万年より古くはないでしょう。2万〜4万年前の間ではないかと考えられます。日本列島に人類が現れるのが約3万8000年前の後期旧石器時代ですから、4万年前あたりの可能性は十分にある」と指摘。「旧石器時代人と縄文時代人のつながりは明確にあると思う。後期旧石器時代はもともと人口が少ないですから、日本列島にいた少数の後期旧石器時代人が列島内で進化し、縄文人になった可能性も考えられます」と語る。

 また、縄文人のDNAがアイヌ、沖縄の人たち、本土日本人(ヤマト人)の順に多く受け継がれ、アイヌと沖縄の人たちが遺伝的に近いことが確かめられた。ヤマト人が縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%だった。「その後、核DNAを解析した北海道・礼文島の船泊ふなどまり遺跡の縄文人骨(後期)でも同じような値が出ているので、東日本の縄文人に関してはそんなにずれることはないと思う」。アイヌと沖縄の人たちの遺伝情報の割合についてはヤマト人ほどくわしく調べていないとしたうえで、「アイヌは縄文人のDNAの50%以上を受け継いでいるのではないかと思う。沖縄の人たちは、それより低い20%前後ではないでしょうか」と推測する。

 以前から、アイヌと沖縄の人たちとの遺伝的な類似性が指摘されていたが、なぜ北のアイヌと南の沖縄の人たちに縄文人のDNAが、より濃く受け継がれているのだろうか。

 日本人の成り立ちに関する有力な仮説として、東大教授や国際日本文化研究センター教授を歴任した自然人類学者・埴原はにはら和郎かずろう(1927〜2004)が1980年代に提唱した「二重構造モデル」がある。弥生時代に大陸からやってきた渡来人が日本列島に移住し、縄文人と混血したが、列島の両端に住むアイヌと沖縄の人たちは渡来人との混血が少なかったために縄文人の遺伝的要素を強く残した、という学説だ。斎藤教授は「今回のDNA解析で、この『二重構造モデル』がほぼ裏付けられたと言っていい」という。

遺伝的に近かった出雲人と東北人

 日本人のDNAをめぐって、もう一つ、意外性のある分析結果がある。

 数年前、島根県の出雲地方出身者でつくる「東京いずもふるさと会」から国立遺伝学研究所にDNAの調査依頼があり、斎藤教授の研究室が担当した。21人から血液を採取してDNAを抽出、データ解析した。その結果、関東地方の人たちのほうが出雲地方の人たちよりも大陸の人びとに遺伝的に近く、出雲地方の人たちは東北地方の人たちと似ていることがわかった。

 「衝撃的な結果でした。出雲の人たちと東北の人たちが、遺伝的に少し似ていたのです。すぐに、東北弁とよく似た出雲方言が事件解明のカギを握る松本清張の小説『砂の器』を思い出しました。DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出てきた。昔から中央軸(九州北部から山陽、近畿、東海、関東を結ぶ地域)に人が集まり、それに沿って人が動いている。日本列島人の中にも周辺と中央があるのは否定できない」と指摘。出雲も東北地方も同じ周辺部であり、斎藤教授は「うちなる二重構造」と呼んで、注目している。その後、新たに45人の出雲地方人のDNAを調べたが、ほぼ同じ結果が得られたという。


日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?

 斎藤教授は、この「うちなる二重構造」をふまえた日本列島への「三段階渡来モデル」を提唱している。日本列島への渡来の波は、これまで考えられてきた2回ではなく3回あった、というシナリオだ。

 第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。

 このモデルが新しいのは、「二重構造モデル」では弥生時代以降に一つと考えていた新しい渡来人の波を、第2波と第3波の二つに分けたことだという。この二つの渡来の波があったために「うちなる二重構造」が存在している、と斎藤教授は説く。

弥生・古墳人も解析、沖縄では旧石器人骨19体出土

 日本人の成り立ちをめぐり、現在、さまざまなDNA解析が行われ、新たな研究成果も出始めている。「神澤さんや篠田謙一さんら国立科学博物館のグループは、東日本の縄文人骨や弥生人骨、北九州の弥生人骨、関東地方の古墳時代人骨など、数多くの古代人のゲノムを調べています。北里大学医学部准教授の太田博樹さんらの研究グループは愛知県・伊川津いかわづ貝塚の縄文人骨のDNAを解析していますし、東大理学部教授の植田信太郎さんの研究グループは、弥生時代の山口県・土井ヶ浜遺跡から出土した人骨から核ゲノムDNAの抽出に成功しています」

沖縄・石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡から出土した約2万7000年前の日本最古の人骨
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/photonews/article.html?id=20171214-OYT8I50007


 古代人と現代人はDNAでつながっているため、現代人を調べることも重要になってくる。「いま『島プロジェクト』を考えています。島のほうが、より古いものが残っているのではないかと昔から言われている。五島列島や奄美大島、佐渡島、八丈島などに住む人たちを調べたい。東北では、宮城県の人たちを東北大学メディカル・メガバンクが調べているので、共同研究をする予定です。日本以外では、中国・上海の中国人研究者に依頼して、多様性のある中国の漢民族の中で、どこの人たちが日本列島人に近いのかを調べようとしています」と語る。

 縄文時代以前の化石人骨も続々と見つかっている。日本本土で発見された後期旧石器時代人骨は静岡県の浜北人だけだが、近年、沖縄・石垣島の白保竿根田原しらほさおねたばる洞穴遺跡から約2万7000年前の人骨が19体も出土し、学際的な研究が進められている。

 分子(ゲノム)人類学の進展と技術革新で、謎に満ちた縄文人の由来や日本人の起源が解き明かされる日が、近い将来、きっと訪れるだろう。


99. 中川隆[-5732] koaQ7Jey 2017年12月23日 08:50:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

教科書が変わる大発見? 「縄文人」の食生活に、常識破りの新仮説
「狩猟・採集民」ではなく「狩猟・栽培民」だったかもしれない。
 2017年11月01日 18時38分 JST | 更新 2017年11月02日 00時46分 JST
http://www.huffingtonpost.jp/2017/11/01/kodai-history_a_23262970/


第5回「古代歴史文化賞」大賞を受賞した小畑弘己・熊本大教授(右)と溝口善兵衛・島根県知事。

古(いにしえ)の時代、日本列島に暮らしていた縄文人。学校では「縄文人は狩猟・採集民」と教えられたが、もしかしたら彼らは「農耕」を営んでいたのかもしれない――。

11月1日、日本の古代史に関する優れた書籍を表彰する「古代歴史文化賞」の選定委員会が開かれ、第5回大賞に小畑弘己・熊本大教授の

『タネをまく縄文人: 最新科学が覆す農耕の起源』(吉川弘文館)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BF%E3%83%8D%E3%82%92%E3%81%BE%E3%81%8F%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA-%E6%9C%80%E6%96%B0%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%8C%E8%A6%86%E3%81%99%E8%BE%B2%E8%80%95%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%96%87%E5%8C%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E5%B0%8F%E7%95%91-%E5%BC%98%E5%B7%B1/dp/4642058168


が選ばれた。


受賞作の内容は、これまで縄文人に対して抱いてきた「狩猟・採集民」のイメージに新風を吹かせるものだった。

小畑氏は、縄文土器に残る植物の種や昆虫の圧痕を調べることで、日本列島でいつ頃から農耕が始まったのか検証を試みた。これには土器が作られた際に粘土の中に紛れ込んだコクゾウムシや大豆(ダイズ)の痕跡が手がかりになった。

その結果、小畑氏は「縄文時代前期には小豆(アズキ)や大豆(ダイズ)の栽培が始まり、晩期には粟(アワ)・黍(キビ)・稲(イネ)がすでに伝来していた可能性が高い」と説明。

縄文人は「狩猟・採集民」ではなく、「狩猟・栽培民」だったという仮説を提唱し、縄文人を「豊かな狩猟・採集民」だとする日本の研究者の定説とは異なる説を唱えた。

審査委員長の金田章裕・京大名誉教授は「新しい視点や方法・技術に基づいて資料を観察することで、歴史研究に新地平が開かれる可能性を示した」と、選定理由を述べた。

小畑氏は受賞を受けて、「私が扱わせていただいている資料は、日々、暑い日も寒い日も遺跡を掘っている人たちの賜物。そういった中から新しい考古学の発見ができたことが嬉しい」「全国の博物館などには手付かずで眠る土器がある。『第二の発掘』として、こうした資料の研究が進めば...」と、喜びを語った。

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カスタマーレビュー

読む価値がない。2017年11月11日

三角神獣鏡の成分分析をした東北大学金属材料研究所の鈴木謙爾氏は、考古学者や歴史学者について以下のように述べている。

「材料(物質)科学においては客観的データに基づいて考察や理論構築が進められるのですが、歴史学としての考古学では理論構築や主観的
考察が先行し、自説に好都合なデータのみを拾い上げるという指向が強いようです。」

さらに、農学者の佐藤洋一郎氏は「稲の日本史」22Pで、こう書いている。

「一般的に学問の世界はフェアの世界だと思われるが、嫉妬と猜疑心に満ち溢れた、わけのわからない議論が横行する奇妙な世界である。」

お二人とも、理系の人間であるが客観的なデータの積み重ねで実証する手法をとる科学者にとっては、考古学の世界は「嫉妬と猜疑心に満ち溢れた、わけのわからない議論が横行する奇妙な世界」なんでしょうね。

この本は、まさに奇妙な理屈が横行する本で全くもって噴飯モノである。

たとえば、稲についてはプラントオーパルについては無視して縄文時代の稲の炭化米は少数で新しい年代からの混入が考えられるとウソをついているが、プラントオーパルは形状でジャポニカ米であることがわかるが、このジャポニカ米のプラントオーパルが「彦崎遺跡」の6000年前の地層から大量に発見されているし、縄文時代中期から30地点以上の遺跡から土器内から「ジャポニカ米のプラントオーパル」が発見されており、中国の同時期に稲の栽培がされていることが実証されている。

また、この本では佐藤洋一郎氏がラオスの焼き畑農業を実地検分し、道具がなくとも農業はできると実証したところ、この著者は名前を出さずに「暴論」と決めつけ、現代の焼き畑農業では道具が使われているとわけのわからない論を展開している。

この著者の論でいけば、昔の農業はトラクターがないから農業はなかったというぐらいの暴論であるが「奇妙な世界」である考古学の世界では、この奇妙な屁理屈がまかり通るらしい。

この本は何やら立派な賞を受賞したそうで、わけのわからない話である。

佐藤洋一郎氏の「稲の日本史」を読んで、佐藤氏の論旨明快で客観的なデータを用いての「縄文農業論」に興味を覚えて、この本を手にとったのだが、失望した。

佐藤氏に対する猜疑心と嫉妬露わなトンデモ本であった。

この本を読む前に佐藤洋一郎氏の本を読んでから、この本を図書館で借りて(買うのはカネを捨てるようなものだ)読むといい。

幼稚な著者の理屈に唖然とするだろう。

考古学者というのは、このレベルなのか。

以前から考古学者の本を読んで根拠の薄いことを平気で強弁する傾向があると思っていたが、この本はひどすぎる。

追記

130P 「Va期 マメ類・ウルシの栽培開始=縄文時代前期(7300〜5500年前」と書かれているが、鳥浜貝塚からは12600年前の「ウルシの木」が発見され、9000年前には垣ノ島遺跡から「漆塗りの土器」が発見されている。

ウルシというのは人里植物なので人の管理が必要であるし、漆の採取には2〜3年かかるのでウルシの栽培の開始が7300年前からというのは明らかにデタラメで、考古学者なら知らないはずもなく意図的にウソをついてとしか思えない記述である。

131P「一定規模の集団の移住を伴う」日本人のDNA分析と土器の拡散状況から、この時期に外部から大規模な移住が行われていた形跡がなかったことが確認されており、何をもってこういう書き方をしているのかわからない。

この本を読むと、科学的と副題につけながら俯瞰的かつ客観的に論じておらず、偏狭的かつ独善的な記述が目立ち、間違った認識を与えるのではないかとおもう。

三内丸山遺跡の動植物遺体を分析した論文によると、植物の栽培に依存していたと報告されている。

「縄文集落の発達」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua1957/36/5/36_5_350/_pdf

この本による農耕の定義からすると、6500年前から「農業」が行われていたことになる。

他の文献なり書籍を読んでいると、いかがわしさプンプンのトンデモ本である。

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蒼穹の歴女
ダイズとアズキの起源は日本2016年2月2日

本書は古民族植物学(Palaeoethnobotany)から「豊かな狩猟採集社会」といわれていた縄文文化の
「農耕」の証明を行ったものです。

≪実をいうと、筆者は縄文時代を専門に研究しているわけではない。(中略)
しかし、その程度のものが縄文時代について語れるのか、と不安になった読者の方もいらっしゃるであろうが、
研究の中心にあっては見えないもの、気づかないものが、周辺からみえることがある。
また、専門家ではないため、「当たり前」が当たり前に思えず、素朴な疑問を抱き、
それが結果的にいくつかの新しい発見につながった≫(3頁)

これが著者の強みであると同時に弱みであり、本書ではダイズとアズキの起源については強みとして、
イネの起源と伝播については弱みとして顕著に表れます。

≪本書に通底するもう一つの隠れたテーマは、狩猟採集社会や牧畜社会の「農耕」の証明である。
「農耕」の定義は非常に複雑であり、厳密に使用するとイメージを損ねるため、そのまま使用している。
教科書で習った、縄文時代は狩猟採集社会であり、弥生時代以降に農耕社会へと突入するという「常識」は、
本書では「非常識」と考えている≫(4〜5頁)

本書における表向きの主人公はコクゾウムシ(Sitophilus zeamais MOTSCHULSKY)です。
文字通り穀物を食べる害虫の一種です。

≪でも、米喰いムシなら、縄文時代じゃなく、弥生時代じゃないかという、賢明な読者の方もいらっしゃるであろう。
しかし、最近こいつが縄文時代の遺跡からたくさん見つかり始めたのである。
まさに米櫃に湧くように、たくさん……≫(2頁)

このコクゾウムシが縄文時代の「農耕」を証明してくれることになります。
但し、縄文時代のメジャーフードはイネではなくダイズでした。

≪我が国で最も古いダイズ属の資料は、
宮崎県王子山遺跡から発見された約一万三〇〇〇年前のツルマメの圧痕である≫(23頁)

このツルマメが後に見られる「栽培化徴候群」とコクゾウムシにより、
縄文時代のメジャーフードだったことが分かるのです。

≪縄文ダイズ「クマダイ」はこれまで遺伝子学で想定されていた日本起源のダイズの存在を
考古学的に証明したものと評価できる≫(22頁)

ダイズとアズキの起源は中部地方や西関東地方であることまで判明します。

縄文文化は「豊かな狩猟採集社会」という思い込みとは異なり、
一万六千年前頃からアサ、エゴマ、ヒエ、アブラナ科を栽培し、前期にはアズキ、ダイズ、ゴボウの栽培も開始され、
特にダイズをメジャーフード化した「農耕社会」だったことになります。

ここまでが最初の二つの章の内容で、
土器編年の科学的信頼性が低いことを除いては比較的に理路整然と書かれているのですが、

その後の章「イネはいつ日本にやってきたのか」は論理的整合性がとれておらず、
非科学的なバイアスのかかった思い込みによって語られています。

≪遺伝学の立場からは台湾経由で南西諸島を北上したという説もあるが、
考古学的にはその証拠はまったくつかまれておらず、
中国大陸の沿岸部を北上したイネが山東半島から遼東半島を経て、朝鮮半島を南下し、朝鮮・対馬海峡を越えて、
北部九州もしくは山陰地方に伝わったというルートがもっとも信頼できる伝播ルートである≫(118〜119頁)

全くもってデタラメです。


遺伝学で判明しているのは、伝播ルートが朝鮮半島経由ではないという事実です。
「台湾経由」と主張しているわけではなく、日本と台湾が相同だと指摘しているだけです。

逆に「もっとも信頼できる伝播ルート」と主張する朝鮮半島経由に考古学的証拠は一切ありません。

≪中国大陸側の第二起源地がいまだ不明である≫(57〜58頁)
≪大陸側の第二起源地は朝鮮半島南部(韓国)と考えられる≫(58頁)

「第二起源地」が必ず存在するという根拠があるわけでもないにもかかわらず、思い込みに囚われています。

≪今日では長江中下流域がイネ栽培開始の場所であることがわかってきている≫(118頁)

のであれば、大陸から海に出て海流にまかせるだけで九州に到達するともいえます。
(元寇[弘安の役]の際、本軍[江南軍]十万は大陸[現在の浙江省]から海路で直接九州に襲来しています。)

≪弥生時代の水稲耕作そのものは技術・人・思想がすべて輸入されたものであったという点である≫(61頁)

≪我が国や朝鮮半島でのイネの出現は、この竜山文化の農耕文化の影響下にある≫(121頁)

と主張したかと思えば、

≪朝鮮半島の最初の農耕化が寒冷化に起因する遼東・遼西からの人間集団の南下、
つまり農耕パッケージの移入によって形成されたものではないことは確かである≫(127頁)

≪人の移動をともなう農耕パッケージそのものの移入ではなく、起源地との文化的接触によって、
栽培穀物と道具(加工法)に関するわずかな情報が伝わっただけで、
それ以後地域ごとに発展してきたと考えざるを得ない≫(127頁)

と支離滅裂で混乱した記述になっています。

「残された問題」で著者自身が書いているように、

≪土器から出てくる圧痕穀物を土器型式ごとに並べても穀物の拡散状況は復元できない≫(148頁)

のであり、そもそも土器編年の科学的信頼性が乏しいことが問題です。

縄文文化は「豊かな狩猟採集社会」というのが日本の考古学者たちの伝統的かつ一般的な考えでしたが、

≪これに対し、クロフォード氏は、「農耕」の定義を狭くとらえていること、
多くの日本人考古学者にとっての農耕とは「水稲耕作」と同義であること、
それは、イネが多様な作物の単なる一つにすぎないということを無視した、還元学者の議論である≫(40頁)

ゲイリー・クロフォードさんによるこの指摘は、著者にも当てはまります。
本書における「イネはいつ日本にやってきたのか」は還元学者の議論に陥っており、蛇足です。

「見ようとしなければ何も見えない」と著者は本書で述べていますが、
逆に見ようとしたことから様々なバイアスが考察にコンタミネーションしています。

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ジャスミン
圧痕の解析については刮目の出来だが、水稲の伝来についての論はかなり粗い
2016年6月23日

 今まで重要視されていなかった土器に残るドングリや稲の害虫の圧痕などから、縄文時代の食生活を解明しようという著者の研究は、目を剥くような成果を納めたと言える。

 しかし,水稲の伝来について、一方的に朝鮮半島北部経由と断定していることについては、学者としての見識が疑われる。一つの根拠で歴史を断定することは、故江上波夫東大名誉教授の「騎馬民族征服王朝説」や故大野晋学習院大学名誉教授の「クレオールタミル語説」を始めとして、かなり危険なことであると思われる。

 水稲はそれ単体だけではなく、それに伴う栽培・保存技術を持つ人々がその民俗風習を伴って伝わってきている。もちろん朝鮮半島経由の水稲もあったと思われるが、古民俗学、古気象学、水稲自体と弥生人および現代人の遺伝子解析、日本語の構成など、現在判明している事実のすべての点からも、合理的な解釈ができるような論立てがなされていないと、将来消え行く仮説にしかならないと思われる。
 新進気鋭の学者であるが故に、水稲朝鮮半島北部経由伝来説も可能性があるという程度の仮説に止めておいて欲しかったと思う。

 古代史の研究では異説を積極的に取上げている異色の研究家である安本美典博士の、この本に対する評価を伺いたいものである。
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BF%E3%83%8D%E3%82%92%E3%81%BE%E3%81%8F%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA-%E6%9C%80%E6%96%B0%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%8C%E8%A6%86%E3%81%99%E8%BE%B2%E8%80%95%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%96%87%E5%8C%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E5%B0%8F%E7%95%91-%E5%BC%98%E5%B7%B1/dp/4642058168


100. 中川隆[-5512] koaQ7Jey 2018年3月06日 20:51:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

chielien_4f89277efa984404924a2bf6bさん 2016/8/30 21:55:06

同和地区、被差別部落関連のご相談です。気分を害される方もいらっしゃるかと思いましたがネットで調べても詳しく分からないのでこちらでご相談させていただくことにいたしました。

付き合って5ヶ月ほどの彼氏がいる30代の女性です。

年齢のこともあり、付き合い始めからお互い結婚を意識した中で、お付き合いをしております。付き合って3ヶ月頃には互いの両親にも会うことができ、双方の両親ともに私たち自身は気に入ってくださっています。ただ、、彼のご両親が同和地区や被差別部落出身のことを気にされる方のようで、私の苗字と、両親祖父母の出身地が九州ということを知ると、祖父が部落出身ではないかということを気にされてるということを聞きました。

第三者機関で調べてくださって結構ですとお伝えしたのですが、付き合いもまだ浅く、結婚の話にも具体的になっていないので調べないと言われました。彼もご両親と言い合いになったりして辛い思いをしています。なんとかこれから結婚という先を見て楽しくお付き合いを続けたいと思っているので、彼も私も自分達なりに調べたところ、そちらの出身ではないと思っているのですが、それでは信じてもらえる証拠にならず困っています。興信所に調べてもらいたいと思っています。そこでお聞きしたいのですが、

@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。

A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。

B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。

探偵も興信所も、部落問題は取り扱わないと記載されていることが多いので困っています。もちろん私も彼も差別はしてはいけないという考えですが、彼のご両親にも色々と事情があり、彼のことを思って気にしているので、彼とご両親を仲違いさせていることに心苦しいのです。ただ私も彼もお互いこの人と結婚したい‼︎と心から願っています。とはいえ彼の大切なご両親に祝福されないまま強行突破はしたくありません。わがままかもしれませんが、、

とにかく調べる方法がなにかあれば助言をいただけると大変嬉しいです。
また、同じような経験をされた方がいらっしゃったらどのようにされたのかお聞きしたいです。

大変深い悩みで辛い思いをしております。差別だというご叱責は遠慮していただきたいです。

___

Answer katuragi_893さん 2016/9/11 8:49:32

部落とは元来、村の集落を表す単語で昔はズバリ、穢多村・穢多・非人村・非人と言っていましたが、余りに露骨すぎるので今は穢多村・穢多・非人村・非人の隠語で部落を使ってます。同和は「同胞融和」の意味でこれまた穢多村・穢多・非人村・非人の隠語です。(江戸時代中期以前は穢多と非人は違うモノでしたが江戸時代後期?頃から、セックス、混血、共同行動で今では非人も穢多に同化し同じモノです。有名な非人の末裔に「フーテンの寅」こと車 寅次郎がいます)
https://www.youtube.com/watch?v=HR01VW7qpKY
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穢多とは奴隷の末裔で日本人じゃ無い。諸説あるが

穢多(えた)とは
日本人とは異なる異人種・異民族。
古代、日本人との戦争に負けた民族が日本人に捕えられ奴隷となっていた民族、穢多族。

非人(ひにん)とは
罪を犯した者に与えられる刑罰の一つ。
罪を犯した者は罰として、非人の身分に落とされた。

穢多は奴隷の末裔。具体的には国栖・土蜘蛛の末裔(マレーポリネシア系人種)+蝦夷の俘囚+中世、近世の流民、罪人・賎民との混血。日本人では無い。

室町時代から「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。穢多の子はいつまでも穢多である」との絶対的概念があるから、穢多族の子は確定的に穢多族に成る。それ故、穢多族男女は既成事実作り中出し妊娠H狙って来る傾向があり大変危険です。

超強力な穢多部落優遇が存在してる段階で差別は無いし、現実は非穢多部落民が穢多部落民からヤリタイ放題されてます。穢多部落民忌避は邪馬台国と出雲帝国時代、2300年前からある日本の伝統文化です。西日本では婚姻忌避は存在していますが、あれは差別ではありませんし誰だって穢多の子は穢多で忌避される血筋を入れたくありません。もし、穢多部落民が逆の立場なら絶対穢多部落民の血筋は入れないでしょう。

或る左翼部落問題活動家が自分の息子の嫁に穢多部落民女を忌避し破談にしたのはこの部落の真実知ってるからです。左翼部落問題活動家で息子の嫁に穢多部落民女を忌避した奴は狡い奴です。他人には穢多部落民と婚姻しても何ともないよ言いながら、自分の息子の嫁には人種的、歴史的に穢多と言う階級の真の意味を知ってるかから忌避したんです。ホントに狡い奴です。

穢多部落民との結婚は彼も穢多部落民に成り、産まれて来る子も穢多部落民に成ると言う事です。わかっていましたか?。彼との子供も排除・忌避される側に成るという事です。本音と建て前、違いますから今でも就職忌避・婚姻忌避が現実に存在していますから貴方の子供が成人した時に穢多の血筋で就職忌避・婚姻忌避に遭遇するでしょう。。
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全部説明したと思いますが私の書き込みを絶えずチェックし絶えず削除
依頼を出す真実を知られたく無い歴史隠蔽、穢多部落民血筋(DNA)拡散
を狙う穢多部落民に付き纏われてるのでコピペで失礼します。

実際、部落の問題にはこれがあり、奴等が「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と言えた義理ではありません。

山口組ヤクザ約70%の者が部落出身者であり約10%の者が韓国人等の外国人。 カプランとデュブロ

潜入ルポ ヤクザの修羅場(鈴木智彦著 文春ウェブ文庫)

「不良はある程度の年齢になると、ヤクザになるか、右翼になるか、同和にいくか進路を決めるんですわ」彼のいう右翼も同和も”似非”を意味しており、純粋なそれに所属している人間たちにとっては迷惑な話だろう。しかし、彼の何気ない一言は、関西の暴力社会の基本構造をストレートに現している。鈴木智彦は曰く「暴力団と政治団体と人権団体の三位一体は、裏社会最強のコンビネーションだ」、「大阪ではかつて、同和利権を制するものがヤクザ社会を制すると言われていた」。

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実。

被差別部落と暴力団(鈴木智彦)

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実で、仮に一般人と穢多非人部落民が婚姻し、その婚姻が破綻し穢多部落民と離婚しょうとしても、離婚する時は、解同(人権団体)が出て来て「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と喚き散らし一般人の親・親戚の所に押しかけます。

警察は相手が解同(人権団体)なのと民事不介入で介入してくれません。
ヤクザ(暴力団)、右翼団体(政治団体)の場合は警察が介入してくれますが解同(人権団体)の場合は警察が介入しないのを知ってて奴等はやって来ます。
$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$
穢多部落民は過去戦争を煽動・推進したことから天皇から絶対的に嫌悪・忌避・排除されています。

穢多部落民忌避の根源は天皇が絶対的に穢多を嫌悪・忌避・排除してるからです。千年経っても変わりません。

天皇・皇后、障害者支援施設視察

:質問:
@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。
A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。
B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。


:回答:完璧に調べる方法はある。

ただ、貴方が穢多だった場合、自殺、、、。。。魔の宗門人別改帳、江戸時代穢多管理は仏教(宗門)で行っていたので菩提寺が穢多寺なら絶対穢多で一般百姓は原則穢多寺を菩提寺に出来ません。曽祖父の嫁、曽祖母の菩提寺もついでに調べたら完璧に判ります。どの寺が穢多寺だったかは今でも完璧に判ります。逃げられません。徳川幕府の完璧な穢多部落民、嫌悪・忌避・排除に感謝すべきですね。

私は前、この菩提寺による穢多判別の回答をしましたが、穢い穢多部落民共によって削除されました。でも、これが核心です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12163671097

2013年12月17日 形質人類学のデータ

エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、

部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。

とし、

頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

と書き、さらに、

大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。

と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099203.html


101. 中川隆[-5454] koaQ7Jey 2018年3月12日 18:53:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

目は茶色で縮れ毛で…縄文人の顔、DNA情報もとに再現

2018年3月12日 15時54分 朝日新聞デジタル

遺伝情報をもとに復元された縄文人女性の像=東京都台東区
http://news.livedoor.com/article/image_detail/14421675/?img_id=16793455


 国立科学博物館などの研究グループは12日、約3800年前の縄文人の骨から抽出したDNA情報をもとに、顔を再現した復元像を公表した。

 骨格の特徴だけでなく、遺伝情報を参考に古代人の顔を復元したのは国内初という。13日から東京・上野の同館で始まる特別展「人体―神秘への挑戦―」(朝日新聞社など主催)で一般公開する。

 研究グループは、北海道・礼文島の船泊遺跡で頭骨などが発掘された女性の臼歯からDNAを抽出。顔に関する遺伝子の特徴から外見を推定した。女性は、肌は色が濃く、シミがあり、目は茶色、髪の毛は細く縮れていたなどと判明したという。また、血液型はA型で、身長は140センチ程度だったという。

 従来は、骨格の特徴をもとに古代人の顔を復元していたため、肌や目の色がわからず、現代人の特徴をもとに推測していた。遺伝情報の活用でより忠実に復元できたという。

 国立科学博物館の篠田謙一・人類研究部長は「これまで想像の世界であったものが、裏打ちのあるデータを元にかなりの確度で復元ができるようになった。今後は遺伝情報を使った復元が進んでいくのではないか」と話している。(土肥修一)


102. 中川隆[-7704] koaQ7Jey 2018年4月03日 10:18:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-9841]

渡来人と縄文人が共存した弥生時代

半島で土地を得られなかった人達が渡来し、縄文人に大きな変化をもたらした
渡来は年間数百人から千人という単位で1000年以上続いた。
引用:https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/9f/abde6a9ae1b8fae5656d8bbafa5a38ae.jpg

渡来人は新天地九州を目指した

縄文時代が終わり弥生時代、古墳時代へ移行する過程で、日本列島は文字や国家を持つようになった。

農耕や鉄・青銅、律令制度や法律、身分制度、軍隊や兵士などどれも縄文時代にはないものでした。

こうした変化が起きたのは弥生時代の約1千年間で、このため「大陸や半島から進んだ文明を持つ人が渡ってきた」と考えられた。




だが実際はこんなに単純ではなく、古墳時代に至る変化の大部分は渡来人と縄文人が協力したり競争することで成立した。

弥生時代の始まりは水田や弥生集落、弥生土器などで区別されるが、突然始まったのではなく縄文からの移行期があった。

最古の水田は九州の福岡県北部の海岸付近で見つかり、紀元前9世紀ごろとみられている。


最古の水田でありながら水を張るために水平に保たれ、水路や堰などの施設、水耕稲作のための道具なども発見されている。

縄文人が試行錯誤の末に完成させたのではなく、渡来人の集団がやってきて計画的に作ったのは明らかだった。

それでありながら渡来人の水田跡からは朝鮮式の土器はあまり発見されず、大部分は九州産で他の多くは列島産だった。


また渡来人は金属や文字といった大陸の先端文化を持っておらず、石器だけで木材を加工し道具を作っていた。

水田技術を持っていたのを除けば縄文人と同じ程度の技術であり、おそらく朝鮮半島南部から渡ってきた。

紀元前1千年ごろまでに朝鮮南部では畑作農業が普及していて、農耕社会(身分社会)が既に存在していた。

弥生人と縄文人の相互依存

この理由は日本列島の特に関東では木の実や小動物など自然依存の食べ物が豊富だったのに対し、半島は自然が貧しく食料に乏しかった。

縄文人は木の実や動物や魚を採集する生活だったが、半島では食べていけないので畑に作物を植えて収穫した。

水田に関しては半島で始まったのは九州北部より100年ほど前ではないかと言われていて、ほぼ同時期に始まったとも言える。


半島南部ではすでに平野部で畑作が行われていて、水田農業も始まったので、良い土地は有力なグループに占拠されてしまっていた。

この時日本列島は縄文人が暮らしていたが、縄文人は食料が豊富な山間を好み、平野部には居住していなかった。

西日本は植生の違いから東日本の10分の1しか人口がなく、しかも平野部は利用していなかった。


川が流れている平野部の湿地帯は洪水に見舞われるので、縄文人は決して集落を作らなかった。

いわば空き地が無限に広がっていたのが日本列島で、渡来人は縄文人が居ない空き地に田んぼを作っていった。

これが弥生時代の始まりで、両者は争う理由もないし、相互依存的な関係だったと推測できる。


最初の渡来人が水田を作る前から九州北部では「米」が見つかっていて、縄文人が半島と交易で手に入れたと考えられる。

縄文人は最初から米や水田稲作の存在を知っていたし、渡来人と交易することで米などの収穫物を入手した。

これを縄文側から見ると、自然採集に加えて新たな食料調達方法が増えた事になり、むしろ望ましかった。

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弥生人の大戦争時代

初期には友好関係だったと思われるが様相が変わってきたのは最初の水田から100年くらい経った頃で、環濠集落が形成された。

環濠集落は周囲を堀と土塀、柵で囲った村で、防御施設でもあり軍事施設でもあった。

縄文人と弥生人は競争関係にないので、争いは土地を巡る渡来人同士、弥生人同士で起こったと考えられる。


環濠集落は九州から西日本に広がり、「兵士」や「軍隊」が現れて戦争の痕や傷ついた骨などが多数見つかるようになる。

弥生人同士が争う中で縄文人も否応なく巻き込まれ、西日本の縄文人も弥生化して集団農業生活に移行する。

環濠集落を拠点とする大戦争時代は600年ほどで終わり、関東以北に新たな環濠集落はつくられなくなる。


関東以北では環濠集落があまり作られなかったが水田は広がり、東北北部では続縄文時代が続き、弥生時代は来なかった。

渡来人を中心とした弥生集落は九州から大阪までで、関東では在来の縄文人主導で水田が広まったと考えられる。

東北にも水田は作られたが、採集生活も続けながら、副業として水田を作り米を得た。


弥生人の兵士、弥生人は土地を巡って弥生人同士で戦った
img_0
引用:アウトドア・ライフ&バラエティhttps://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-cf-49/estima_tcr10000/folder/925413/34/29778034/img_0?1320839465

渡来は1千年以上続いた

東北のような寒冷地では米という1種類の食料に依存するのはハイリスクであり、多くの種類にリスクを分散したほうが良かった。

渡来人の集落が多いのは大阪付近までなので、関東では縄文人が水田技術を取り入れて弥生人の移住を受け入れたと考えられる。

東日本は縄文人が多く、平野部も完全に無人ではないし、そこに弥生人が大規模な水田を作れば大戦争は避けられない。


だが関東で弥生人と縄文人と全面戦争の痕跡はなく、水田と大規模集落が増えて行った。

弥生時代後半になると西日本にも新たな環濠集落は作られなくなり、東日本を中心に人口爆発が起きました。

縄文末期の列島の人口が8万人足らずだったのに、弥生末期の西暦200年ごろには60万人に増加し、しかも人口の中心地は関東でした。


この過程は弥生人が関東を征服したのではなく、縄文人側が積極的に農業を取り入れて弥生化したと考えると合理的です。

縄文人は採集生活をやめて農耕を取り入れ、この結果家族単位から数百人の集団生活、集団労働に移行しました。

社会はシステム化され縄文土器のような「アート作品」は消滅し、大量生産の同じようなものが大量に出土するようになります。


この間にも毎年数百人、千人単位で半島南部から渡来人が渡ってきたと考えられ、例えば毎年千人の渡来が1千年続いたら合計100万人にも達します。

この大量の渡来が日本列島の人種構成に変化をもたらし、各地に移住したり交じり合って縄文人から弥生人、そして古墳時代人に変化した。

大量に渡ってきた渡来人の多くは半島や大陸で「食えなかった」人達で、支配層の人々ではなかった。
http://www.thutmosev.com/archives/75550976.html


因みに、渡来人と言っても

弥生時代に漢民族に追われて長江から西日本に逃げて来た稲作漁労民

弥生時代末期に朝鮮半島から畿内に入って来た武装集団

の二種族が有ります。

長江から西日本に逃げて来た稲作漁労民は縄文人と融和的で、縄文人と混血して西日本の弥生人になったのですが、

弥生時代末期に朝鮮半島から畿内に入って来た武装集団は武器を持たない弥生人を征服して日本の支配階級になりました。



103. 中川隆[-7843] koaQ7Jey 2018年4月07日 08:43:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10006]

西日本の部落差別が東日本より酷い理由


筑前竹槍一揆
http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/sanpo45.htm

「被差別部落民18人殺害、美作騒擾140年の沈黙に抗う〜頭士 倫典」 ジャーナリスト・西村 秀樹 | シリーズ・ 抗う人
http://gendainoriron.jp/vol.02/serial/se01.php

内浜霊神社(観音寺市・旧観音寺市)
https://wanikawa.com/jinnjya/kanon/10utihama/utihama.html−竹槍騒動


明治時代、明治政府が解放令を発したのを機に西日本(九州、四国、中国)地方で解放令反対一揆と総称される騒擾事件が頻発しました。東日本では何も起きなくて全ての事件は西日本に集中しました。


中央融和事業協会『全国部落調査』(昭和11年刊。昭和10年調査)

01位 兵庫県 593地区 16位 鳥取県 97地区 32位 神奈川 31地区
02位 福岡県 475地区 17位 徳島県 87地区 33位 山梨県 23地区
03位 広島県 426地区 18位 奈良県 77地区 34位 岐阜県 21地区
04位 岡山県 373地区 19位 大分県 71地区 35位 東京府 20地区
05位 愛媛県 341地区 20位 高知県 69地区 36位 佐賀県 20地区
06位 長野県 333地区 21位 滋賀県 67地区 37位 宮崎県 09地区
07位 埼玉県 263地区 22位 長崎県 62地区 38位 福島県 08地区
08位 群馬県 262地区 23位 新潟県 59地区 39位 福井県 06地区
09位 富山県 233地区 24位 茨城県 57地区 40位 秋田県 01地区
10位 三重県 193地区 25位 鹿児島 54地区
11位 山口県 154地区 26位 静岡県 52地区
12位 島根県 147地区 27位 香川県 48地区
12位 京都府 147地区 28位 石川県 47地区
13位 和歌山 111地区 29位 熊本県 45地区
14位 大阪府 106地区 30位 千葉県 39地区
15位 栃木県 104地区 31位 愛知県 35地区

総務庁地域改善対策室『平成5年度部落地区実態把握等調査―地区概況調査報告書―』(1995年刊。1993年調査)

部落地区人口
01位 兵庫県 305051人 13位 三重県 63575人 25位 茨城県 15597人
02位 長野県 213818人 14位 京都府 61140人 26位 静岡県 14246人
03位 福岡県 206105人 15位 奈良県 58059人 27位 千葉県 11321人
04位 埼玉県 122650人 16位 高知県 55036人 28位 新潟県 10731人
05位 愛媛県 121011人 17位 栃木県 48937人 29位 岐阜県 10540人
06位 広島県 102588人 18位 山口県 42905人 30位 愛知県 09792人
07位 群馬県 102561人 19位 滋賀県 40493人 31位 鹿児島 08784人
08位 大阪府 100092人 20位 宮崎県 26657人 32位 香川県 08779人
09位 大分県 087267人 21位 鳥取県 26441人 33位 佐賀県 07399人
10位 徳島県 075490人 22位 神奈川 18093人 34位 山梨県 03956人
11位 岡山県 073129人 23位 熊本県 17205人 35位 福井県 02692人
12位 和歌山 067554人 24位 島根県 16750人 36位 長崎県 02293人


2017/9/3 10:35:32
部落差別は東日本では少なく西日本では多いという感じがしますが、これは西日本に住んでいる人の方が陰湿で差別的だからでしょうか?

それとも何か別の原因や理由があるのでしょうか…

僕が調べた限りだと、部落差別をする人は京都や大阪に多そうな感じがします。

僕は東京に住んでいますが、部落差別的なことを言う人には今までに一度も会ったことがないし、部落問題については授業で少し習った程度で全然詳しくないので教えてください。

御回答よろしくお願い致します

tym********さん 2017/9/9 21:58:46

大まかに説明します。

関西には渡来系弥生人の子孫が多く、関東には先住民である縄文人の子孫が多く暮らしています。

渡来人達は、九州近辺から上陸してきたからです。

渡来人が先住民を駆逐し、国土を乗っ取る。

世界中どこでもそうですが、後ろめたい歴史を持つ国家には、都合の良い伝説と被差別部落が残ります。

静岡より西の地域は、当時鉄器と農耕技術を持っていた渡来系弥生人(朝鮮人)によって蹂躙され、原住民は都の外に追いやられました。
これが部落です。

この渡来系の一族はやがて天皇となり、日本神話を創り、現代に至るまで経済から宗教までを管理してきました。

細面で切れ長の目を持ち、色白で体毛が薄いのは渡来人の特徴です。

背が低く、骨格たくましく浅黒い二重まぶたの人たちが、古来、この国に住んでいた狩猟系の原住民です。

僕自身は完全に渡来系の顔立ちですが、日本古来の原住民が未だに部落に追いやられて生きている現実には、怒りと屈辱しか感じません。

____


aka********さん 2017/9/3 23:17:24

縄文人が森で採集や焼畑農耕をしていた所へ、渡来人が来て低湿地を占拠して、水田稲作を本格化しました。日本列島には低湿地は少ないので渡来人同士が戦い、ムラからクニへ成りました。その過程で、最後まで徹底抗戦した敗者が奴婢とされ、被差別部落の起源になりました。

以上のいきさつは西から東へ進んだので、西日本の方が部落差別は根深いです。

奈良時代には五色の賎に編成され、その内の陵戸が古墳の管理をさせられたので、奈良盆地では古墳のそばに被差別部落が多いそうです。


https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11178943481


104. 中川隆[-7839] koaQ7Jey 2018年4月07日 12:07:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10006]

縄文系先住民が隔離されていたエタ部落は戦後 在日朝鮮人に乗っ取られた


被差別部落民と在日韓人


132 :可愛い奥様:2012/11/11(日) 21:05:27.36 ID:MtxrTx2z0

素朴に聞くけど、朝鮮半島出身者が日本人被差別部落の中に混じって
生活する事は出来るのでしょうかね


153 :可愛い奥様:2012/11/11(日) 21:37:10.77 ID:Smf9sZV4O
>>132
尼崎の友達の朝鮮人は部落地域に住んでたよ
間違いなく朝鮮人が多かった
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/ms/1352608564/100n-

被差別部落民と在日韓人  −社会経済史的視点−
              
    河 明生(かわ めいせい 社会経済史、経営史)
友常 勉(聞き手=ともつね つとむ・地域研究


(『現代思想 特集 部落民とは誰か』第27巻第2号所収、平成11年2月、青土社)

(友常)今日は、『韓人日本社会移民経済史−戦前篇』(明石書店、1997)の著者・河 明生さんにお話を聞こうと思います。本書は、戦前の被差別部落民と在日韓人との社会経済的関係を明らかにしており、部落問題に携わる者として注目しておりました。今日のお話しの中から、これから私たちが、今後の両者のあり方を考えていくための指針を得ることができればと願っています。


(河)よろしくお願いします。

(友常)まず、本書の問題意識からお聞きしたいと思います。

(河) 社会は、マジョリティとマイノリティによって構成されています。ここでは、マイノリティを社会的権力をもたない異質な少数派と定義します。日本社会も例外ではありません。マイノリティが存在します。それは二つに分類できます。一つは、民族的マイノリティです。たとえば、韓人、中国・台湾人、アイヌなどです。もう一つは、非民族的マイノリティです。被差別部落民が該当します。その中、私が選んだ研究客体は、在日韓人です。

 在日韓人問題は、権力と反権力、差別と反差別、加害者と被害者という視角からの研究に偏在集中してきた感が否めません。それは史実ですし、評価すべき業績です。けれどもそれだけで良いのでしょうか。在日韓人社会は百年近い歴史があり、その間、日常生活を支えた労働がありました。それは人間の基本的な営みです。その解明なくして、在日韓人問題を理解することはできません。しかし、それを正面から論じたものは少ない。在日韓人問題の社会経済的活動実態が明らかにされていませんでした。それではいけない。日本の社会経済史や労働史などにおけるマイノリティ史の空白部分を補完したい、というのが執筆動機でした。

(友常) 従来、1939年から始まる「朝鮮人強制連行」以前の渡日者をどのように位置づけるのか、という問題がありました。河さんは移民とみなしていますが、その点はいかがでしょうか。

(河)日本では、移民というと自ら望んで郷里を捨て、中南米や北米などに移住するというイメージがあります。しかし、それは間違いです。ここではふれませんが、欧米での移民に相当する概念は多種多様です。

 在日韓人を移民労働者とみなした場合、二つの論点が生じます。第一に、韓人が、日本労働市場に対していかなる影響を及ぼしたのか、という直接的効果の問題です。賃金水準や雇用機会などへの影響はそれに該当します。第二に、韓人が、日本労働市場において、いかなる行動をしたのか、という移民労働者の行動的特性や適応性の問題です。

(友常) そもそもこういうテーマを選んだのは、河さん自身が、在日二世だということと関わりがあるのでしょうか。

(河) 関係があります。ただ、諸先輩方の関連研究を読みながら、研究を進めていく中で、自分の生い立ちを超えたいと思うようになりました。客観的論述に徹したいと。日本人研究者からすれば、当然のことです。しかし、被差別マイノリティ出身の研究者が、その出身母体を研究客体とする場合、自己の生い立ちを超えることは容易なことではない。どうしても被差別体験が、文章にあらわれてしまう。怒りのようなものでしょうか。これは世代的宿命なのかも知れません。私の論文にも、たとえば「差別」という概念は使用されます。けれどもその「差別」が不当であるか否かは、読み手が判断すれば良いと考えています。

このような感覚を持てたのは、私が上の世代に比べれば恵まれた環境で育ったからです。当然、それは日本社会、とくに日本人の若い世代の変化によってもたらされた環境です。学校で、金とか、李とか名乗っていると、かっこいいとか、個性的だとか、もてはやされる時代なんです。けれども、彼らですら、在日韓人問題については白紙に近い状態です。歴史教育が疎かにされているからでしょう。これからの研究者は、そういう若い世代に、なごやかに語りかけて行かねばならないと思います。

(友常) 被差別部落出身でない僕が、部落問題に出会うのは大学時代です。江原由美子さんがかつて「差別の構造」という論文を書かれましたが、差別されている側とマジョリティの間には対称関係はない、差別されているという体験において、マジョリティの側がその体験を知りようがない以上は、自分の基準で相手を比較したり考えたりできなくなってしまう。

ところが相手が知らないことについて、差別されている側は訴えるしかないわけですね。それを訴えても相手には絶対に通じないという非対称的な関係、それが差別の構造だというわけです。部落問題の研究を進めながら、実際の差別の話を聞いて、気づくのはそういうことです。そういう非対称的な関係は一体どういう状況で生まれてくるのかということを追求したいというのが僕の研究の動機です。それは確かに歴史的な出自を持っている。

たとえば近代社会とか、そういう方向での自分の中のモチベーションです。必ずしも実体化された倫理主義的な態度をとることはないと思いますが、差別−被差別という構図でなければ見えない、あるいは研究でしか摘出できないような研究の方法論とか問題の設定がありますから、そういうスタイルは間違いなくあるでしょう。多分そういうふうにいったからといって、河さんとはそれほど大きな違いはないのではないかと思っています。

朝鮮不熟練労働市場における韓人と中国人移民労働者との競合

(友常) では、具体的なご著書の中で、何が直接明らかにされたのかということに移っていきたいと思います。僕にとっておもしろかったのは、まず朝鮮で中国人労働者と朝鮮人労働者との間で葛藤がある。それに少なからぬ影響を受けつつ、在日韓人移民労働者が形成されたという。

(河) 被差別部落民と在日韓人との関係を考察する際、有用ですので、若干主題とははずれますがお話ししたいと思います。

 在日韓人形成の最大の要因は、日本による朝鮮の植民地支配です。従来、その形成史が日本と朝鮮という二国間関係だけでとらえられてきたのはそのためです。しかし私は、植民地支配以外の渡日要因を再検証すべきであると考えました。在日韓人形成史は、中国をも含めて考察すべきであると考えます。つまり、朝鮮下層労働市場に進出した中国人移民労働者の存在を忘れてはならないのです。


(友常)それはまったく新しい視点ですね。その根拠は何でしょうか。

(河)在日韓人の出身地の大部分は、農業の中心地であった朝鮮南部であり、前職は農民です。当時、朝鮮工業は朝鮮中北部において展開されました。離農間もない朝鮮南部出身者が、何故、陸路で移動可能なソウルや平壌などの朝鮮中北部への出稼ぎを選択しなかったのか。宗主国の日本に、海を越えて出稼ぎに行くというのは、心理的なプレッシャーがあったはずです。言葉も通じないのですから。そういう予想される不安や困難をこえて渡日したのですから、何か合理的な渡日理由があったんだろうと考えました。

それは、日本と朝鮮との賃金および雇用機会の格差です。第一次世界大戦による好況時に、紡績業などの日本企業が、人手不足を補うため、朝鮮で労働者公募を行いました。それに応じた韓人が、渡日して工業労働に従事しました。契約期間がきれたり、先祖の祭礼祭祀のために帰郷します。きれいな服を着て、お金やおみやげをもって田舎に帰ってくるわけです。農村の生活しか知らない朝鮮南部の人々にとって、それはまぶしい光景だったと思います。日本に行って働ければ金になる、ということになります。でも、もし仮に朝鮮に働く場所があって、日本の企業と同じ賃金がもらえるというのであれば、わざわざ渡日する必要はありません。朝鮮に働き場所が少なく、もらえる金も少なかったからこそ、日本への出稼ぎを選択したと考えます。もちろん、日本の賃金が高いというのは相対的なものです。むしろ朝鮮における「低すぎる賃金」に問題があると考えました。

 離農間もない韓人は、不熟練労働者です。たとえば、100人の不熟練労働者が同一労働市場に存在し、その中の10人が失業者や求職者であったと仮定します。この場合、少数派である失業者や求職者によって不熟練労働市場の賃金相場が左右されます。土方の相場が1円だとすると、失業者や求職者はとにかく働きたいわけですから、それを90銭でもやる人が現れます。1円で働いていた人は、失業の危機にさらされます。不熟練労働は代替が容易だからです。もともと1円で働いていた人が、90銭で働かなければ、就労を確保できなくなり、その賃金相場が下がる場合があります。そして再び失業者や求職者は、それよりもさらに安い労働力の提供者となって賃金相場を下げることが予想されます。結果、朝鮮労働市場での「低すぎる賃金」が維持・強化されたと考えます。

 この議論の前提となるのは、不熟練労働市場における失業者や求職者の存在です。それは、工業都市への人口集中や移民などによる過剰労働力を背景にしていると考えました。私が、注目したのは、植民地朝鮮に進出した山東省を出身地とする中国人移民労働者の存在でした。朝鮮総督府は、中国人移民労働者の朝鮮入国を規制しませんでした。1922年の朝鮮総督府調査では、在朝中国人人口は、約3万1千人です。それが8年後の国勢調査では、約9万2千人に増加しています。しかし、中国人移民労働者の実数は、正確には管理できなかったと思います。何せ陸路と海路から続々と入国してくるのですから。彼らの絶対多数は不熟練労働者でした。朝鮮総督府は、韓人は大日本帝国臣民なので、外国人である中国人の雇用が増え、韓人が失業するという状況を好みませんでした。だから、再三再四にわたり、在朝日本人経営者に中国人を雇ってはいけない、という通達を出したり、何人までは雇ってもいいといった割合を決めたりもしましたが、当局の思う通りにはなりませんでした。彼らが韓人よりも低賃金で働くからです。不平不満をいわずに。移民労働者の特性ともいえます。彼らには帰る郷里があるから、「低すぎる賃金」でも我慢して働くんです。食費などの生活費を抑えて残った金を郷里に送金したのです。低賃金を武器とする中国人移民労働者の朝鮮労働市場への進出は、韓人の雇用を脅かし、あるいは雇用機会の減少をもたらしました。とくに、その傾向は、離農間もない農民が就労可能な朝鮮不熟練労働市場において顕著であったと考えます。そのことが朝鮮の「低すぎる賃金」を維持・強化しました。結果、韓人の一部が相対的に高い賃金を求めて日本への出稼ぎを選択した、というのが私の仮説です。

日本不熟練市場での被差別部落民と在日韓人との競合

(友常) そういう要因が重なり合って在日韓人が形成されたのですね。そして日本の労働市場の中で彼ら自身の特性を形成していくことになるんだろうと思います。では、先程おっしゃった第一の論点、韓人が、日本労働市場に対していかなる影響を及ぼしたのか、という直接的効果の問題とは何でしょうか。

(河) 従来の定説を要約すると、戦前の日本における韓人の急増は、新たな労働問題を引き起こした。韓人が低賃金を武器としながら日本労働市場に進出したため、日本人労働者が失業の脅威にさらされたからです。日本人労働者が、自己の雇用を守るためには、低賃金や長時間労働を甘受しなければならなくなった。そのことが結果として、戦前の日本労働市場における低賃金の維持・強化につながった、というものです。

 しかし、韓人の日本労働市場進出によって失業の脅威にさらされた日本人労働者は、一部であって全部ではない。渡日した韓人の大部分は、工業労働経験が全くない不熟練労働者でした。能力的限界を否定できない韓人が、日本のあらゆる労働市場に進出することは不可能であったはずですし、日本人の熟練労働者が韓人の急増によって失業の脅威にさらされることは稀であったと考えます。

 戦前の韓人移民労働者問題は、日本における外国人労働者問題の嚆矢とみなすべき歴史的事例問題です。研究客体の特定なくして史実を明らかにすることはできません。そこで、韓人が進出した労働市場を下層労働市場と限定し、失業の脅威にさらされた日本人労働者は、いわゆる下層労働者、とくに被差別部落民であった、と主張しました。たとえば、1925年の中央融和会調査によれば、神戸の日雇い労働者の失業率は、韓人が24.3%であったのに対し、部落民はその二倍を超える52.8%でした。これは部落民が、韓人によって雇用機会を奪われた結果であったと考えます。

(友常) 近代の部落史の話の中で、先行研究の流れでいうと、たとえば、馬原鉄夫などがいった議論があります。部落差別は独占資本の形成過程の中で作られたもので、労働市場の中で低賃金構造のしずめ石として部落差別は作られている。おそらく同じような帝国主義下のしずめ石として植民地収奪にさらされて日本に強制的にあるいは半強制的に移住させられた韓人労働者がいる。それらが日本の資本主義の低賃金のしずめ石なるという研究の仕方は、60年代に支配的でした。そうではなくて、河さんの話ですと、下層労働市場だという限定がまずあるわけですね。全体の資本主義の構造というよりは、これは下層労働市場で発生している問題だ、そういうふうに問題を定義すると、戦後の移民労働者の問題にまでその視角というのは展開できるものだということになる。それは非常に重要な問題提起です。そのように、移民労働者の問題を考えるということが、同時に行動的特性の分析にもつながります。そこで研究客体としてのより踏み込んだ研究につながっていくと思います。しかしそういう意味で、移民労働者の問題を移動の合理性として立てていくのは、決してまだ支配的ではないですね。

(河) はい。少なくとも戦前の在日韓人を移民としてとらえるのは少数派です。また、在日韓人と被差別部落民とが、下層労働市場で競合したと言いきるのも、おそらく私が始めてではないかと思います。だからこそ、こうして私が、友常さんからインタビュ−を受けているんだと思いますが、いかがでしょうか。(笑)

(友常) おっしゃるとおりです。さて、被差別部落民と在日韓人との下層労働市場での競合の端緒は何だったのでしょうか。

(河) 中小零細企業が集積する工業地帯近隣の被差別部落での両者の混住です。ここからが第二の論点、つまり韓人が日本労働市場において、いかなる行動をしたのか、という移民労働者の行動的特性や適応性の問題となります。

(友常) 従来、韓人が住居を被差別部落や、その周辺に定着したことはよく知られていましたが、それも韓人の特性とみなしてよいのでしょうか。

(河) はい。一般の日本人下層労働者は、被差別部落には定住しなかったと思います。住所が被差別部落やその近隣だと部落民とみなされ差別される可能性があるからです。ただ、移民間もない韓人の場合は事情が異なります。日本の社会事情に疎いというか、被差別部落がどういう状況におかれているのかを知りませんでした。被差別部落やその周辺に定着することについて、一般の日本人よりも、抵抗感が少なかったと思います。たとえば、中央融和事業協会が、1925年から1935年まで、大阪府内の九ヶ所の被差別部落への新規移住者・約1千2百人の出身地を調査したところ、その七割強が朝鮮でした。

 被差別部落に移住した韓人古老に対して聞き取り調査を行ったのですが、自分は被差別部落だとは知らないで住んでしまった、気付いてみたら白丁がたくさん周りに住んでいた、というんですね。認識に若干ずれがありますが。(笑)だからといってそこを離れるわけではありません。その古老も、今日まで60年以上、そこに定住しています。

 問題は韓人の被差別部落流入経路です。韓人の目的は出稼ぎのための就労です。そこで彼らの就労経路から被差別部落流入経路を推論しました。戦前の京阪神行政調査によると絶対多数の韓人は、知人を通じて職場を斡旋してもらう個人紹介や個別的な就職活動による自己志願などによって就労しました。個人紹介は、紹介者と就労希望者とが同郷であるか否かという地縁を紐帯として実行されました。他郷出身者を紹介することが稀だったのは、出身地毎の反目や方言による言語の不通などが原因でした。済州島出身者は、とくにそういう傾向が強かったようです。

しかし、個人紹介は、移民当初から可能だったわけではありません。工場主の韓人紹介者に対する一定の信用に基づき成されたものであり、それは多くの場合、その工場での先駆的就労者=紹介者の就労実績によって培われたものであったと考えます。

(友常) 本書で先駆的就労者の就労経路を重視した理由はそこにあるのですね。

(河)はい。先駆的就労者の就労経路は、日本企業の朝鮮現地での労働者公募とそれ以外とに分類できます。朝鮮紡績と呼ばれた岸和田紡績は前者の典型でしょう。しかし、労働者公募は大戦後の不況により減少します。

 問題は後者です。就労先が定まらずに漠然渡日した無計画渡日者の就労経路です。彼らは時代が下るに連れ急増しました。山口県警特高課が、下関に上陸した韓人の所持金を調査したところ、約67%が五円未満の金しかもっていませんでした。次ぎなる行動は、労働予定地への移動ですが、彼らが購入した電車の切符を調べた大阪市調査から、その多くが京阪神に向かうことを知ることができました。阪神の企業による労働者公募が影響を与えていると思います。彼らが京阪神の目的地にたどりつくまで、小額の所持金は交通費や食費に費やされます。目的地に到着する頃には、無一文状態になりました。

 彼らは、住居と職場を確保しなければならない。両者は同時に併行して行われたと考えます。しかし、職場はすぐにはみつかりませんので、当面の雨露をしのぐ住居の確保が優先されましたが、所持金はすでに使い果たしています。しかも当時の京阪神大都市部の借家難は深刻でした。つまり韓人の大部分は、レイシズムニよる入居差別以前に無一文なのでまともな住居を借りることはできなかったのです。

 韓人の次ぎなる行動は大まかに二つに類型化できます。一つは、沿岸、河川、湿地などの公有地や更地の原っぱなどの私有地にバラックや堀立小屋を建てました。もう一つは、被差別部落やスラムへの流入です。私が、注目したのは、被差別部落に流入した韓人です。

 被差別部落には、韓人を新規の住民として呼び寄せる理由がありました。低廉な家賃です。日雇い労働に一日従事すれば払っていける額でした。しかも権利金も保証人もいりませんでした。被差別部落には、又借りや又貸しの習慣がありました。たとえば、六畳一間の賃貸物件を借りている部落民が、その中の三畳だけを他人に貸したり、納戸を貸していたのです。それは正常な労働市場から疎外されていた部落民が、低額所得者であったことと関係があります。部落民は又貸しすることにより家賃支出を軽減したのです。権利金や保証金が要求されなかったのはそのためです。また、被差別部落に住んでみるとスラムとは異なり食料品の物価が安いのも韓人にとっては魅力でした。商業者が部落民の低所得に合わせたからでしょう。

味噌、醤油、塩などの小売の量も低く設定されていたようです。さらに、被差別部落の周辺に屠場がある場合、日本人が食べなかった牛や豚の内臓をただ同然で譲ってもらえたと考えます。焼き肉のホルモンの語源が、ほおるもん、つまり捨てるものからきているという説もあります。このような経緯により韓人は被差別部落に移住しました。

(友常) それがどのように下層労使市場での部落民との競合と結びつくのでしょうか。

(河) 被差別部落内やその周辺に朝鮮部落が形成されますが、その形成には、ある条件が満たされなければならなったと思います。その近隣に不熟練労働者である韓人を吸収する下層労働市場が存在することでした。韓人無計画渡日者の最大の関心事は就職ですが、すぐには見つかりません。低賃金であろうがなかろうが、差別されようがされまいが、人は生きて行くために働いて金を稼がなければなりません。何のあてもない彼らは、住居近隣を徒歩で徘徊しながら、工場前に張り出された求人の張り紙を目安として、飛び込みによる自己志願を根気よく実行しました。ただ、そういう求職活動には体力的にはもちろん精神的にも限界がありますので、遠出は敬遠し、近隣の工場を物色したと考えます。

 韓人は工業地帯近隣の被差別部落に定着したのです。その近隣に下層労働市場が存在したからです。たとえば、ゴム靴工業の集積地・神戸市長田近隣の番町部落などです。また、中には、被差別部落そのものが、伝統的部落産業の集積地だった場合もありました。皮革業の集積地・大阪市の西浜栄部落はその典型でしょう。韓人不熟練労働者の就職活動にもっとも適したのが工業地帯近隣の被差別部落だったということになります。この条件を満たした被差別部落では、両者の混住が促進されました。そして被差別部落内やその近隣にいわゆる朝鮮部落が形成されていくのです。

(友常) 韓人が部落民が携わっていた労働のまねをする、つまり労働模倣が行われたという重要な指摘をなされていますが。

(河)私は、韓人無計画渡日者が、被差別部落に流入・定着した時点で、彼らの職業が決定されたと考えます。韓人が、先住部落民の生業を模倣したからです。つまり、先住被差別マイノリティの就労実績は、後からきた出稼ぎ目的の韓人に就労先の目安を与えたと考えます。少なくとも出自による差別が少ないということは解りますから。被差別者は就労の際、能力以前に出自による差別を受けるのではないか、という一種の恐怖感をもちます。出自を隠し通せれば良いのですが、現実は難しいようです。日本には、履歴書に書かなければならない本籍や住所から、出自を判断し差別するという悪しき習慣がありますので、被差別者は履歴書をできれば書きたくなかったと考えます。仮に、虚偽を書いたとしても本採用の際、戸籍謄本提出によって解ってしまいます。部落民はそういう事情にあったと思われます。韓人の場合は、本籍を日本本土に移すことを禁止されていましたから、「本籍 朝鮮」と書かなければならず、日本名を使い堪能な日本語を駆使して日本人を装ったととしても出自が解ってしまいます。また、履歴書を書くほどの経歴がないということや、無学のため漢字が書けないということも履歴書提出をためらった理由でした。

雇い主も彼ら被差別マイノリティがおかれている状況を知っていますから、本人が働きたいといえば、履歴書をださなくても、明日から来な、ということになります。被差別マイノリティにしてみれば、出自を理由として門前払いをくらわない、門戸が開かれた職場だったのです。韓人も例外ではありません。彼らの就労は、先住部落民の就労実績によって門戸が開かれていたのです。

 また、そこは彼らにとって働きやすい職場だったともいえるでしょう。同じ境遇の仲間がおり、差別されることが少ないという意味で一種の安心感のようなものがあったと思われます。余談になりますが、私は、阪神淡路大震災の直前まで、長田のゴム靴工業地域を調査していました。ある神父から聞いた話ですが、ベトナム難民が長田に定住し、ゴム靴の内職に従事していました。低賃金だし、一日中、部屋に閉じこもって不健康だからという理由で、神父が就職先を斡旋しました。しかし、みんなやめて、長田に戻ってきちゃう。みな一様にゴム靴の仕事がしたいという。どうしてだと神父が聞くと、月給になれていないので不安だという。ゴム靴の内職は、出来高制なので一日の労働量がわかりやすい。目に見える形で終われば、その場で金をくれる、というわけです。しかも同胞とベトナム語を話してベトナムの歌を歌いながら楽しく仕事ができる。疲れたら休めるのも良いということでした。まさにマイノリティ的感覚だとは思いませんか。移民当初の韓人は、同じ様な感覚をもっていたと思われてなりません。働いた分だけ金をくれるということが、魅力だったと思います。

(友常) 時間感覚につての階層差、近代的な時間というものを機械から疎外されているから長期的な展望で将来を考えたり、貯蓄したりする習慣を持たないからなんだと下層労働者をブルデューは説明するんですが、そういうふうにするよりもむしろ、不払いとか労働意欲の発生が感じられるような就業形態からの説明ができますね。

(河) 被差別マイノリティの立場からすれば、お金は嘘をつかないということになるでしょう。マジョリティと同じ権利行使を可能とする唯一の手段でした。被差別者として疎外感が強くならざるを得ない人間というのは、目に見えるものしか信じないという意味で実証的になります。毎日、働いた分だけの金をもらえるというのは、彼らに安心感と満足を与えます。月給というのは、移民間もないマイノリティには馴染まないですね。被差別マイノリティの生業が、現金商売に遍在集中するのは、そのためです。

(友常)水平社運動の昂揚も韓人の雇用を拡大したと指摘されていますが、その点いかがでしょうか。

(河)中小零細企業が部落民を低賃金および長時間労働で使用したのは、それが企業存立上の絶対条件だったからです。経営者からみれば、通常の労働市場から閉め出されている被差別部落は低賃金労働力の安定した供給源であり、しかも不況の際には容易に解雇できる従順な労働者とみなしていたと思われます。ところが、1920年頃から事情が変わります。労働運動が昂揚したからです。1922年には水平社が創立されました。それは、下層労働市場で低賃金を甘受させられていた部落民の労働者としての権利意識を高めました。逆に、そのことは中小零細事業者にとって、最大の不安だったと考えます。組織的な労働争議へと発展していきますから。けれども低賃金労働者は確保しなければなりません。

ちょうどその頃、比較的権利意識の低い新たな被差別マイノリティが、工場近隣の被差別部落やスラムに流入し、自己申込みによる就職活動を開始したのです。植民地民族の韓人は、中小零細業者から、部落民よりも低位な階層、従順なる低賃金労働者とみなされ代替労働力として利用されたと考えます。その目安になったのが、両者の労働運動に対する国家・社会的許容度だったと思われます。韓人による組織的労働運動は、朝鮮独立運動と結びつく可能性が高く、実質的に内政問題にとどまるものではありませんでした。内務省や特高によって徹底的に弾圧されたのはそのためです。もちろん水平社運動も弾圧されましたが、それは内政問題にとどまる性格上、ある程度は許容されていたと考えます。そのことは中小零細業者からすれば、彼らを雇い入れる際の判断基準になったと思われます。当時はいずれの工場においても労働争議は現実性を帯びていたからです。つまり、部落民よりも抑圧されていた韓人を雇うほうが、労働争議のリスクが少なかったのです。結果、部落民の雇用機会は減少し、韓人のそれは拡大されたと考えます。

京都における被差別部落民と韓人

(友常)その際の仕事をかなり詳細に調べられていますね。京都の場合だと西陣織と友禅染。それが在日韓人と部落民に多いと部分的にはいわれていましたが、河さんの本で論証されたと思います。

(河)京都は被差別部落が多い地域です。戦前の京都市調査によると、三條部落では、韓人排斥運動がおこり、彼らを新規の住人として受け入れなかったと報告しています。しかし、それは例外で、大部分の被差別部落では、韓人を新規の住民として受け入れました。

 戦前の在京韓人の典型的生業は、西陣織りや友禅染めなどの織物染色工、土方、ボロチャンサと呼ばれた屑生地回収業、その他となります。それらの生業は、韓人がいずれの被差別部落に流入・定着したかによって決定されたと考えます。たとえば、養正部落流入者は友禅染めに、崇仁部落流入者は土方に従事しました。それは韓人が、先住部落民の生業を模倣した結果であると考えます。一世による労働模倣は、二世、三世に引き継がれます。彼らは親や親戚、同じ地域に住む先輩や知人の生業に従事する場合が多いことが解りました。多くの場合、養正部落の二、三世は友禅染工業に、崇仁部落の二、三世は土方にそれぞれ従事したのです。

(友常) 友禅染工業での部落民と韓人との関係をどのようなものだったのでしょうか。

(河)京都の友禅染工場は、室町の問屋街に近い堀川を中心に集積していました。しかし、1924年に京都市都市計画により工業地域が指定され、友禅染業者は、移転せざるを得なくなったのです。しかし、工業地域ならどこでも良いということではありません。友禅染めの特徴は、織物生地への後染めです。多品種の染料によって染色し、蒸し箱に入れて密閉し、蒸気で蒸します。これを蒸しといいますが、夏は地獄の暑さだったといわれています。この蒸し業を担ったのが韓人でした。その後、染め生地の表面に附着させた色糊を流水で洗わなければなりません。これを水洗といいますが、川を利用して行われたため冬が苛酷でした。その作業には大量の水が必要です。

1920年の後半から、この水洗業を担ったのは韓人でした。日本人の心の故郷といわれる京都の風物詩として観光の目玉にもなっていた友禅流しを想起して下さい。それは、実は被差別マイノリティによって担われていたのです。また、友禅染めは生地が10メートルを超えるものもあり、水洗後にそれを乾かすために広い場所も必要となります。設備投資をせずに両方の条件を満たせるのが、川の側ということになります。堀川を追われた友禅染め業者が、太秦や高野・一条寺などの川の近隣に移動したのはそのためです。京都の場合、川の側には、被差別部落があります。その中の一つを調査しました。

(友常) 洛北と呼ばれる高野・一条寺近隣の養正・田中部落のことですね。

(河)はい。戦前に田中部落に移住し、戦後、友禅染めで成功した韓人古老は、1920年代後半には、すでに韓人の蒸しや水洗業者が存在したと証言しました。京都商工会議所による友禅染調査も同様の指摘をしています。問題は、彼らの就労経路です。京都の友禅染め工場が、朝鮮現地に赴き労働者を公募したことはありません。ただ、来京間もない韓人が、いきなり事業主になるとは考えられません。その先駆的就労者は、飛び込みの自己申込みによって友禅染め工場に就労した無計画渡日者であったと思われます。彼らは何年か勤務する過程でスキルとノウハウを修得し、独立したと考えます。

しかし、徒弟制度を採用している友禅染工業界では、最低でも三年間は、運搬や掃除などを担当する追い回しと呼ばれる下働きをしなければなりませんので、韓人の先駆的就労の嚆矢は、早くても1920年代前半ということになります。

私は、被差別部落に移住した韓人は、先住部落民の生業を模倣したという仮説を主張しています。その大前提となるのは、田中部落の先住部落民の洛北友禅染め工業への就労実績です。

(友常) 聞き取り調査から有効な証言を得られたのですか。

(河)だめでした。私は、聞き取り調査に関する限り、韓人問題よりも部落問題の方が困難だと感じました。とくに、一般日本人は口を閉ざします。たとえば、友禅染会館の職員に、韓人の友禅染工業就労について質問したところ、戦前の友禅染めには、半島の方が多く携わっていた、と躊躇なく答えてくれましたが、部落民はどうか、と質問したところ、一瞬顔色をかえ、忙しいので、といって逃げるように立ち去ってしまいました。

そこで京都部落史研究所などを利用して資料収集に尽力したところ、『大阪朝日新聞』や『京都日々新聞』などから、1930年頃、洛北友禅染工業界で起こった労働争議に、田中水平社が関係していたことを知りました。つまり、田中部落の部落民は、洛北友禅染め工場に就労していたのです。

次ぎに、問題となるのが部落民の先駆的就労時期でした。それは京都市民政局『友禅労働者の実態−京都市養正地区における調査』から、1918年以前であったと推論しました。つまり、部落民は、韓人よりも早い時期から洛北友禅染めに就労していたことになります。田中部落の典型的生業は、土方と廃品回収などでしたが、一部とはいえ、友禅染めに従事する部落民が存在したのです。就労者数よりも、部落民が皮革や靴などの伝統的部落産業以外の新しい業種に雇われたという就労実績が重要なんです。それは後身の被差別部落民の雇用機会の拡大をもたらしました。そういう状況下で韓人が田中部落に移住してきたんです。

彼らに、幸いしたのが、加茂川や高野川に近接する田中部落の自然環境でした。職を求めて転々としたであろう初期の韓人無計画渡日者は、加茂川や高野川で行われていた部落民による水洗作業を目撃し、その就労を知ったと考えます。部落民であっても出自を問われず採用されるという事実は、韓人に希望を与えました。彼らは部落民の生業を模倣すべく洛北友禅染工場に自己申込みを行い、その中の一部が採用されて先駆的就労者になったと思われます。戦前から田中部落に定住している元友禅染工の韓人古老に、その就労理由を尋ねると、家から近かったから、と答えています。つまり田中部落から、友禅染め工場が移転した高野・一条寺までは徒歩で移動可能な通勤圏だったのです。その古老は、無計画渡日者でしたが、職業に特別な希望をもっていたわけではありません。生きていくために、働き場所を求めて徘徊し、飛び込みによる自己志願を行ったのです。

(友常)西陣織りはいかがでしょうか。

(河)西陣織りには独特な賃機制度があります。西陣織手は、親方と呼ばれる家内工業者との間に徒弟関係を結びます。親方も織元に従属し、生産材料の大部分を依存しなければなりませんでした。移民初期の韓人は、住み込みの織手となり、宿舎と食糧を確保したと考えます。

 西陣は、商業資本家に支配されている囲いのない工場のようなものでした。そこには「出機有り」とか「織手募集」いう求人張り紙が出ていました。それを目安にした自己申込みによって先駆的就労が可能になったと考えます。西陣織手であった韓人古老によると、職を探して西陣を歩いていると「織手募集 但し内地人に限る」という張り紙に憤慨し、それを「織手募集 但し朝鮮人に限る」書き換えて乗り込んだそうです。親方は、彼を一瞥して張り紙を見なかったのか、帰れ、と怒鳴ったそうです。すると彼は、みてきた、と書き直した張り紙をつきつけました。親方は、あきれたようです。彼は、まじめに働くから、一度でいいから雇って判断して欲しい、と懇請したようです。

結局、親方がおれ、様子をみようということで、何とか、住み込みで働けることができるようになります。たとえ与えられた部屋が南京虫がたくさんいるせまくてきたない部屋であっても屋外よりはましだったのです。その古老は、はえのたかっている腐った飯を食わされたと証言しています。けれども飢えるよりはましだったのです。もちろん自己申込みを行ったすべての韓人が雇われたわけではありません。中には、すぐに辞めさせられる人もいました。しかし、辞めさせられなかった韓人は、親方との間に信頼関係を築いたようです。彼は先駆的就労者となり、同郷の韓人の就職を斡旋することが可能となります。親方は、朝鮮人だけどあいつが紹介するならまちがいないだろう、ということになったようです。このように、先駆的就労者の就労実績に基づいて次々に同郷の韓人が雇われて行ったのです。

(友常)不熟練労働者であったはずの韓人が、何故、西陣織りに従事できたのでしょうか。

(河)西陣織の技術は六ヶ月あれば習得可能な簡単なものだったからです。とくにビロ−ド生産は簡単でした。伝統的部落産業である下駄製造業者との関連が深まります。在京韓人は、下駄の鼻緒を作ることになったのです。奈良の被差別部落民の下駄業者との関係が深かったようです。

(友常)戦後も両者の関係は継続したのでしょうか。

(河)はい。敗戦直後、韓人は解放国民となり、いわゆる治外法権と類似の状況におかれました。たとえば、韓人が京都駅前のヤミ市で活動したとしても、京都府警はそれを取締まることはできませんでした。ヤミ市は、日本人、韓人を問わず野心的な人たちにとってまたとない経済的機会でした。部落民も同じです。物を作れば高値で売れるのですから。しかし、部落民は日本人ですので、警察に摘発されます。そこで部落民業者の一部は、韓人との関係を一層深めていったようです。西陣織手だった韓人古老によると、奈良の部落民下駄業者が、奈良県警に捕まった際、特別親しい関係でもないのに身元引受人として助けに来てくれと懇請され、助けてあげたそうです。

神戸における被差別部落民と韓人

(友常) 神戸の場合は、どうでしょうか。

(河)戦前の神戸市調査によると、韓人が流入した被差別部落は、葺合の新川部落と林田の番町部落です。新川部落の韓人は、土方や仲士といった屋外肉体労働従事者が多かったようです。新川部落民の生業を模倣したものと考えます。

 問題は番町部落流入者の生業です。もともと番町部落の生業は農業でした。それが神戸のマッチ工業の勃興により変化します。初期のマッチ工業は、かなり危険な作業で、囚人の労働としてスタ−トしました。やがて囚人による製造は廃止され、零細な民間業者が群生します。その際、重要な役割を担ったのは華僑商人でしたが、その説明ははぶきます。 零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。しかもマッチ工業は労働集約型工業であり、利潤の根源である量産を生産手段の機械化に求めるのではなく、もっぱら低賃金労働力の確保に求めました。ですからマッチ業者の成功は、低賃金労働力の確保如何にかかっていたのです。そこで彼ら零細業者たちが注目したのが、番町部落の部落民でした。低賃金で雇えるからです。新興マッチ業者たちは、低廉な部落民労働力を求めて番町部落近隣に工場を建設したのです。そして部落民も、それに応えるかのようにマッチ工になりました。

(友常)マッチ工業は、神戸に限らず明治30年くらいから部落の生業となります。硫化硫黄を使いますので大変危険な作業でしたが、職業選択の自由を奪われ、生きて行くためにはどんな危険があっても、またどんなに安い賃金でも働かざるを得なかったと思います。

(河)このような経緯により、林田はマッチ工業の集積地となります。番町部落の生業にマッチ工業が加わったのです。少数ながら韓人のマッチ工も確認されています。部落民の生業を模倣したと考えます。

 しかし、大戦終了後、スウェーデンマッチが市場を席巻し、日本のマッチ工業は苦境に立たされます。とくに、零細業者が多かった林田のマッチ工業は深刻でした。大部分が廃業に追い込まれます。当然、部落民の失業者も急増しました。この苦境を救ったのが、新たな産業として台頭したゴム靴工業でした。その嚆矢は、奈良の部落産業で修業した後、林田にもどって開業した部落民業者であったと私は考えています。前述したように、零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。しかもゴム靴工業は、マッチ工業同様、労働集約型工業です。当然、新興のゴム靴工業者は、低賃金労働力を希求します。林田にゴム靴工場が群生したのは、衰退したマッチ工業から大量の低賃金労働力を吸収することができるという目論見があったからだと思います。また、マッチ工場からゴム靴工場に転業する業者もあらわれました。結果、マッチ工から、ゴム靴工へと転職する部落民が続出したのです。

 ちょうどその頃、番町部落には新たな被差別マイノリティが増加していました。韓人です。番町部落に流入した韓人無計画渡日者は、近隣の林田ゴム靴工業地域、現在の長田を徘徊し、求人の張り紙を目安に飛び込みの自己申込みを行ったと考えます。そしてその一部はゴム靴工業に就労しました。それを容易にしたのは、番町部落の先住部落民が、すでにゴム靴工業に就労していたからだと考えます。


大阪における被差別部落民と韓人

(友常)大阪はどうだったのでしょうか。

(河)大阪は日本有数の工業の中心地ですが、中小零細企業の比重が高いことでも知られています。そのことは、大阪が潜在的に低賃金労働力需要が高いということを意味しています。1930年の第三回労働統計実施調査によると、被調査工場の六割にあたる562工場が韓人を採用しています。しかし、この調査は韓人の主たる就労先であった零細企業を調査しておりませんので、実際の韓人採用工場はそれ以上だったと考えます。韓人はありとあらゆる工場労働に進出しました。とくに、ガラス工業の窯業への就労は顕著でした。大阪市内の窯業労働者の3人に1人は韓人だったと報告されています。

 また、戦前の大阪は、スラムや被差別部落などの不良住宅地が多いことでも知られています。そこは京都や神戸同様、韓人の移住先となりました。京都や神戸と異なるのは、大阪の工場労働に積極的に従事したのが済州島人だったということです。済州島人は、朝鮮本土の人たちからは差別されていました。朝鮮本土の韓人は、彼らを作業服と比喩したといわれています。そういう人たちが大阪に一極集中し、工業労働に従事したのです。

(友常)部落民と韓人とはどのような関係だったのでしょうか。

(河)京都や神戸と似ています。まず、大阪の韓人も被差別部落に移住しました。そこには保証人も権利金もいらない廉価な借家があったからです。また、被差別部落内やその近隣には、韓人を容易に雇ってくれる下層労働市場が存在しました。そして韓人は、先住部落民の生業を模倣したのです。たとえば、西浜栄部落と三開部落の部落民が従事する職業には必ず韓人が従事しており、中には、その従事比率が部落民を上回るものもありました。とくにこの傾向は、工業において顕著でした。西浜栄では17業種中、10業種において、三開では18業種中、11業種において韓人の従事比率は部落民のそれを上回ったのです。先住部落民の職業模倣は、何も市内に限ったことではありません。たとえば、大阪府泉北郡信太村と八坂町の被差別部落に移住した韓人総世帯の三割に当たる80世帯が、部落民の生業であった人造真珠工業に従事しました。


韓人が就労した工場労働の共通点


(友常)韓人が就労した工場労働の共通点は何でしょうか。

(河)第一に、その大部分が一般の日本人が忌避する低ステ−タス産業だったということです。たとえば、京都の友禅染めといえば、百貨店で展示された高価な高級品というイメ−ジがあります。しかし、旦那衆と呼ばれた商業資本家や先生と呼ばれる図案作成者を除けば、生産者のステ−タスはそれほど高くはありません。戦前の韓人の場合、追い回しの奉公が終わると、蒸しと水洗の職人見習いになったようです。蒸しも水洗も工賃が相対的に安いわりには重労働なので、いやがられる仕事でした。何らかのアクシデントにより、完成品の色が落ちたり、傷ついたりした場合、職人がペナルティーを課せられ買い取らされるんです。さらに、戦前の京都では友禅染めに限らず、職人は極道商売といわれていました。たとえば、職人間の博打が盛んだったようです。花札はもちろん、シラミを走らせて早さを競わせたりしたようです。親方が賭場を開いて職人の賃金を巻き上げるということもよくありました。

(友常) 低ステータス産業だったいうのがポイントなわけですね。それは部落民と韓人とが競合する仕事にも共通しているように思います。

(河)第二に、工程作業が複雑で機械化に適さない労働集約型工業でした。また、季節や流行によって需要が左右されるため、大量生産にも限界があり、多品種少量生産にならざるを得ない工業でした。つまり大企業が参入しにくい業種です。そのためその生産を担うのは、中小零細企業ということになります。これら業者は資本力に限界があり、商業資本に従属せざるを得ません。商業資本主導により、生産工程毎の分業が促進され、小さな零細事業者が増加します。分業の促進は、作業を簡易化します。不熟練労働者であっても比較的短期間でその生産技術の修得を容易にしました。不熟練労働者であった韓人が雇われたのはそのためです。

 そして地域全体があたかも囲いのない工場になりました。京都の西陣、神戸の長田、大阪の西浜栄などはその典型でしょう。零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。分業が促進されて零細業者が増えれば増えるほど低賃金労働力需要が高まります。韓人は、その低賃金労働力需要に適応したと考えます。

韓人は、何故、被差別部落民との下層労働市場における競争に勝利できたのか


(友常)1920年代の段階で、被差別部落は収入が非常に不安定になっているという調査があります。不熟練労働に従事する部落民の構成比の変化も現れています。それは河さんの結論、つまり韓人労働者が京阪神下層労働市場において部落民と競合し、それに勝利したということです。それはいかにして可能となったのでしょうか。

(河) 戦前の韓人は、同種の労働に従事した日本人労働者よりも相対的に低賃金でした。にもかかわらず、戦前の行政調査は韓人の一部に余剰金が生じていると報告しています。それを郷里に送金したり、貯蓄したというのです。余剰金の多寡よりも、出稼ぎ労働者としての目的を達成できた人々が存在したという事実に注目しました。彼らの大部分は、単身渡日者だったと思われます。

 低賃金労働者であった彼らが、如何にして余剰金を生じさせたのかが問題となります。行政調査では、韓人の生活費が低いから、それが可能になったと推定していますが、それよりは、むしろ移民労働者となった彼らが、植民地朝鮮に進出した中国人移民労働者同様、生活費をあえて抑制したと理解すべきです。在日韓人の大部分は、日本に永住するために渡日したわけではありません。そこが部落民と違うところです。部落民は日本人ですから日本以外に帰るところはないんです。ですから生活費支出を抑制するにも限界があります。しかし韓人は、苦しくても、それは一時的なものであって、帰れる郷里があると考えたはずです。彼らは郷里の家族のために送金しなくてはいけない。だから日本での生活を切り詰めたと考えます。生活レベルに対する欲望は、在日歴が長くなるに連れ、徐々に芽生えてくると思うんです。それは定住によってもたらされた同化の所産です。

 韓人は多くの場合、下層労働市場での部落民との低賃金競争に勝ちました。大阪の西浜栄や三開の事例を見てみましょう。そこは、部落産業の皮革・製靴工業の中心地であり、その従事者の大部分が部落民でした。皮革・製靴工業は一般人の就労が稀であったという意味では、閉鎖的な労働市場を形成しており、そのことが部落民の雇用機会を保障したともいえるでしょう。ところが、相対的低賃金を武器とする韓人の登場はその状況を変えました。つまり、韓人移民労働者の皮革・製靴工業への就労によってもたらされた直接的効果は、相対的高賃金であった部落民の失業や雇用機会の減少だったのです。それが可能であったは、韓人が生活費の支出を押さえることができたということにつきると思います。移民労働者である韓人の行動的特性といえるでしょう。その際、重要な役割を担ったのが、韓人が経営した下宿業でした。たとえば、1923年の大阪市調査によれば、韓人下宿業は、一畳当たり2.17が住んでいることになり、押入も、縁縁も、台所も韓人であふれていたと報告しています。大阪市調査では、被差別部落民の密住実態が指摘されていますが、韓人は、それよりもさらに密住の度合いが高いことが判明しました。たとえば、1929年に実施された調査によれば、東成区中浜町の韓人の一戸当たりの平均居住者は、22.5人です。1928年11月の大阪市の一戸当たりの平均居住者が4.3人ですので、雲泥の差といわねばなりません。

 大阪市の西浜栄部落と三開部落でも比較しました。いずれにおいても部落民より韓人の方が密住の度合いが高かったのです。たとえば、西浜栄部落の場合、一人当たりの畳数が二畳以下の部落民世帯は、部落民世帯総数の35.○%であるのに対し、韓人は韓人世帯総数の62.7%でした。三開部落の場合、部落民世帯は41.3%であるのに対し、韓人は71.6%となります。このように、韓人は、混住者である部落民よりも、住居費支出を抑制していたのです。

(友常)その指摘も従来見落とされていた視点だと思います。本書では、生活費支出の抑制を韓人の行動的特性とみなしており、それを実行しうる者だけが、下層労働市場における低賃金労働力需要に継続的に適応することが可能であった、と主張されていますが、それはどういう意味でしょうか。

(河)求職出稼ぎを目的とする韓人は、何よりも就職を優先しなければなりません。彼らが進出できたのは、下層労働市場でしたが、その雇用は不安定なものでした。わずかな付加価値しか生まない不熟練労働は、新たな低賃金労働者の出現によって容易に代替されるからです。新たな不熟練労働者として、既存の韓人就労者の脅威となったのは、実は、新規渡来の韓人だったと思われます。彼らが就労を優先するあまり、すでに就労している韓人よりもさらなる低賃金を武器とし、その下層労働市場に進出しようとしたからです。日本政府が、中国人移民労働者の内地への入国を規制していたこともそういう状況をもたらした要因であったと思います。日本には、朝鮮不熟練労働市場で韓人離農者の前にたちはだかった中国人移民労働者というライバルが存在しなかったのです。

 雇用を脅かされた韓人の一部は、労働争議によってこれに対処しました。しかし、それは全部ではありません。既存の韓人就労者の一部は、生活費支出抑制に慣れていましたから、余剰金の形成にこだわらなければ、自己の低賃金をさらに低下させても生活することができました。つまり余剰金の額を一定の目安として、賃金をさらに下げることにより、その雇用を確保したのです。この韓人間のいわば生存競争が、その下層労働市場における低賃金のさらなる低下を促進しました。これが日本下層労働市場における低賃金構造の維持と強化をもたらした要因であったと考えます。そのことが結果として、韓人よりも相対的に高い賃金で、生活費支出の抑制に限界のあった日本人下層労働者、とりわけ部落民を失業の脅威にさらしたのです。


部落民と韓人との反目と今後の課題

(友常) 内部の識別についてはどうでしょうか。非常にインフォーマルな交渉関係があって、それは杉原達さんの『越境する民』でも指摘されている「対面関係」という視点にかかわります。河さんが指摘されているおもしろい問題としては、初期のレイシズムというものが近代社会で支配的になるとして、対面関係によるマイノリティ同士のレイシズムはイデオロギーとしてのあるいは公的言説としてのイデオロギーと少し違う。

 杉原さんが紹介されている例ですと、代書屋の例がでてきまして、済州島出身者を相手に代書屋が商売するということですが、やりとりがうまくいかないと、韓人が変な言葉を発して逃げていく。それはていねいに分析していくと、実は済州島の方言だったということがあります。これは落後の話なんですね。そのような形での対面関係が発生していた。先ほどのお話でも、内地人に限るというビラを書き換えていきますね。ねばり勝ちなのかもしれませんが、それでも発生する関係ですが、市場をめぐっては厳しい対立関係があったけれども、またそういう関係もあったということですね。その中で説明はされなくても、あいつは部落出身だとか、どこの出身だとかいうことがお互いにわかってしまう。そういうものが発生している空間は・・・・・・。

(河) 被差別マイノリティは敏感です。とくに、普段、出自を隠している人はその傾向が強いと思います。わかるんですね。相手の出自が。それを説明するのは難しい。感覚的なものだと思います。たとえば、西陣織り業者の中には、韓人もいれば部落民もいます。在日韓人業者は日本名を使っていますし、二世以降になると京都弁もうまいので、識別は困難です。部落民は出自を公表しません。ですからマジョリティの業者にはわかりません。けれどもマイノリティ同士は意識しているのです。交流はないんだけど、お互いの出自を知っているんです。

(友常) 京都では部落問題と在日韓人問題との一つの接点として「オールロマンス事件」というのがありました。ここでは触れませんが、当時の韓人と部落民とはどのような関係だったと考えますか。

(河)両者は基本的に避けていたと思います。喧嘩はしないんですけども、お互いに見下していたと思います。一部の人は連帯したかも知れませんが、それは少数派です。韓人、とりわけ一世は自分のことを両班の末裔だと信じていました。今は没落しているが血統的に正しいという確信があります。一世は、朝鮮の被差別民衆・白丁を部落民におきかえながら、乱暴な言葉を使えば「あいつらと自分は違うんだ」という優越感をもっていたと思います。部落民の方も乱暴な言葉を使えば「あいつらは植民地民族の二等国民だ」という優越感をもっていたのかも知れません。しかし、両者は反目していても社会経済的には結びついていました。このインタビュ−でふれたとおりです。

 また、両者は混住したのですから、生活面でも何らかの結びつきをもっていました。たとえば、田中部落出身の二世の韓人は、父親が食用の赤犬を捕また際、自分で殺さなかったといいます。部落民の屠殺業者に金を払って依頼したそうです。赤犬は彼の目の前で屠殺されました。その光景は、今でも忘れられないと証言しています。関西地域の被差別部落やその近隣で生まれ育った韓人は、多かれ少なかれ、そういう体験をしているようです。

(友常) 政策的な契機が入ってきて発生するイデオロギーがあると思いますし、またそれが介在しないである種やったりやられたりというルールがある世界では差別があっても、競合しても、共存する関係が対面関係の論理だと思います。差別があるわけだけれども、実体的にレイシズムになっていくということとは少し局面が違うということです。それ全部を同じ差別、レイシズムだと考えるとちょっと問題がありますね。

(河)在日韓人問題に関する限り、レイシズムのみを強調すべきではありません。在日韓人は差別されているといいながらも、実は、経済的活動は許容されていました。そうでなければ、ロッテ、大和製罐、平和、モランボンなどの企業は存在していません。もちろんそれは組織的闘争により勝ち取った権利です。けれども経済的活動すら保障されていないマイノリティが世界には存在します。韓国の被差別マイノリティ・華僑はその典型です。在韓華僑は、約1万8千人です。彼らは経済的活動を法制度的に規制されています。しかし、民族教育は保障されています。在日韓人とは対照的です。日本政府は、在日韓人子弟に対する韓民族的教育の保障には消極的です。基本方針が同化だからです。逆に、韓国政府は、在韓華僑子弟に対する漢民族的教育を保障することにより、同化を阻止しようとしています。中国人で中国語ができれば、海外で生活できるだろうということで民族教育を保障しているわけです。そのかわり華僑の経済的活動は規制します。日本とは逆なのです。彼らは韓国政府の思惑通り、海外に移住します。行く先は台湾が多いようです。しかし、台湾でも韓国語訛の中国語をしゃべるという理由で疎外されるようです。横浜中華街周辺にもそういう事情で日本にきた華僑がいます。

(友常) その視角はかなり有効だと思います。先ほどの「対面関係」という領域を設定されたということが河さんの議論で重要なところだと思います。エティエンヌ・バリバールなんかがいっているレイシズムというものとは違う差別の論理はあるんだけれども、共存関係の領域を設定できるということは、一枚板で差別を語るのではなくて、杉原達さんの議論でいうと、帝国主義国家をどう考えるのか、こちらからどう構成するのかということです。マイノリティに対する差別があるということが当たり前のことであって、それとどういうふうに向き合ったり、つきあったりしていくのかというとで問題を立てると、全く違うようなアイデンティティの取り方とか、マイノリティにとっての社会という考えがでるんではないでしょうか。
最後に、被差別部落民問題と在日韓人問題との方向性について、どのようにお考えですか。

(河) 被差別部落問題と在日韓人問題とは、それぞれの研究者に別次元の問題とみなされ、乖離してきたような気がします。それぞれの差別改善運動も同じ状況にあります。しかし、それは改善すべきです。両者は、日本における被差別マイノリティという点で、歴史を共有しているからです。とくに、過去の両者の歴史は総括しなければなりません。部落民や韓人、そしてそれを支えてきた日本人も、差別はいけない、差別をなくせ、と主張してきました。しかし、両者は、一部とはいえ、お互いを差別してきたと思うんです。

差別は誰にでも味わえる快楽です。自分が受けた差別を他人に転嫁することほど、気持ちの良い行為はないのかも知れません。また、両者には感情的にしっくりいかない事件があったはずです。田中部落で生まれた在日二世の人は、部落民は許せないといいます。彼が子どもの頃、同和事業の一環として田中部落に市営住宅を建設することになりました。そこに混住していた両者は、一時立ち退きの条件として市営住宅への優先的入居権を連帯して主張し、京都市と交渉したようです。彼はきれいな家に引っ越せると親から聞き楽しみにしていたそうです。しかし、彼の期待は裏切られました。市営住宅建設後、部落民は約束通り入居できたのですが、韓人は外国人であることを理由に入居を拒否されたのでした。結局、彼の一家は田中部落を離れました。彼は引っ越しのトラックの中で両親に、きれいな家に引っ越せないのは何故かと尋ねたそうです。すると両親は、白丁が裏切ったからだ、と答えたそうです。真偽はわかりません。しかし、少なくとも彼は傷ついたようです。そういう体験は、部落民の方もあるかも知れません。

ある韓人古老は、子弟教育のために、部落民の子女と同じ学区にならないよう引っ越したと証言していました。結婚の場合も反対されることが少なくありませんでした。このような関係は残念です。両者の歴史を総括した上で、お互いの差別意識に基づいた不幸な歴史を清算しなければいけません。そのためには、両方の研究者が共同で「在日マイノリティ史」なる歴史書を作成していく作業が必要です。難しいことですが、やらなければいけない課題であると思います。

(友常)聞き手としての私は今日は本当に勉強させていただきました。河さんの研究を踏まえて、部落問題と移民労働者問題の共同研究が確立できるといいと思います。本日はあがとうございました。
http://www.jita.jp/kawa/text/hyouron-1.html


【尼崎大量殺人】角田美代子【コンク李ドラム缶死体】


783 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 04:21:33.36 ID:+bhk3kJDO

大阪市平野区の加美小学校の事件だったかな。
小学校で就学中だった児童二人を学校長が部落解放同盟幹部に引き渡す事件が発生した。
平野警察だか八尾警察だかが児童二人を取り戻して事無きを得たが報道したのは産経新聞ぐらいだぞ。 つい数年前の事件だ。現実を見てくれよ。

784 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 04:25:57.30 ID:CE1AsOCJ0
>>783
え?何で児童二人は引き渡されたの?怖いんだけど


786 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 04:46:35.43 ID:+bhk3kJDO
>>784
産経の記事によると児童同士でのトラブルが発生していたらしい。
そして虐められたと主張する被害者側の人間が部落解放同盟の幹部だったという訳。

+にもスレッドが立ったが削除依頼が殺到してた。

“加美小学校の糾弾会”という過去の部落の話が書き込まれてるとか
部落の地名が書き込まれてるとかの理由でね。

789 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 04:59:59.37 ID:2RAoKUb00

その話は中学校じゃないか?

「同和利権の真相」
「先生がヤクザに生徒を売った」とか生徒達が騒いだ


796 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 05:25:31.46 ID:+bhk3kJDO

>>789 なら中学校です。八尾に連れ去られたんですよね。
加美小学校の糾弾会の話もありヤバイのは確かです。

791 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 05:09:31.84 ID:uU6rlyEe0

校長や教師も自宅に動物の死体を投げ込まれたり、家族への危害を脅迫されたらどうもできませんよね

結局差別を理由に↑のような行為が見逃されてるところに問題がある
不当な(?)差別はゆるされませんが、差別を口実にした犯罪行為もそれ以上に許されない
BとZに関しては日本はずっと戦後のまま


808 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 05:58:08.77 ID:y2dHgqMg0

大阪の場合、解放なんとかがかなり力持っているからねえ。
何しろ大阪市立大学が事実上の解放理論の拠点なんですから。
かつては中核派とも仲良くしていました。

まあ、大阪市立大学はあの末川博が戦前滝川事件で京大追い出されてから住み着いた時期があり、ここから共産化。
ちなみに解放理論はマルクスレーニン主義がベースです。 やり口も階級理論もコミンテルンそのもの。 だから、戦後すぐの頃は解放なんちゃらの主流派が共産党だったので、朝鮮系と結婚した人がかなりいます。
不破さんや志位さん体制以前は暴力革命路線でしたので。

828 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 07:15:26.98 ID:9dnflT870

B批判が出ているのは決して貧困や穢れから来るのではない。 それを悪用して一般市民に恫喝しているからだよ。 これで泣かされているB出身の人相当いる。 もしB団体がまともであれば、その辺の逆差別行為について厳しく戒めていたはず。 むしろ機会平等とは何か、法律とは何か、社会的信用とは何かを徹底させるのだが。 西光○吉や賀川○彦が泣いているぞ。

けど市町村レベルではB教育とかやる割に兵庫県としてはB同盟とは決別しているんだよ。警察出身の坂井知事の時代に運転免許取得の無料特権をはじめ散々な特権を中止に追い込ませた。


788 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 04:58:30.05 ID:+bhk3kJDO

なんにせよ大阪も部落や在日勢力に蹂躙されてる現実は今だに変わらない。
ただ昔との違いは警察が渋々ながら乗り出してきてるトコだ。
だが兵庫県は違う。昔の大阪のように警察が在日団体や部落団体とグルになってる。


792 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 05:11:23.41 ID:VA3M8nhQ0
>>788
大阪だとどこら辺が酷いの?


796 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 05:25:31.46 ID:+bhk3kJDO
>>792
ヤバイ所って他の地域の人は知りませんよね。
加美も酷いですが加美の人は布施を怖がります。
けど他にもたくさんありますね。


429 可愛い奥様[sage] 投稿日:2012/10/31 19:16:18  ID:NRvElC6m0(1)
 
兵庫県尼崎市: B  
梶○、丸○、塚○、杭○、尾○、


533 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 21:18:16.97 ID:q+OH/jaU0
 
美代子はB落民じゃなくて在日! ・・・ということにしたいネトウヨ&カイホードーメー

普通に考えたら尼崎なんてB指定区域だらけなんだからわかるでしょ


919 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 12:27:58.02 ID:ntK5bx050

尼崎ってそんなに怖いの…?
どんな土地よ…


928 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 12:37:31.13 ID:+bhk3kJDO
>>919
大阪人から見ても尼崎市と加古川市は怖いイメージがある。
実際に物騒な事件が起こり続けてるしね。


933 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 12:41:09.52 ID:ie7ynTpm0
>>919
東大阪と双璧と思ってる


923 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 12:35:22.97 ID:28Xu6EGdO
>>919
すごく広くて人口も多い
昔はほとんど田んぼだったのを潰して、工場やマンション、会社が建った
だから戦後に移住してきたニューカマーが多い
そうした戦後の混乱期にどさくさ紛れに不法入国した連中も…
立花では、戦後のレイプ強盗が多発
勿論犯人はあの民族


985 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 14:46:40.31 ID:BDSeUfXgO
>>919
阪急沿線は住みやすい良い住宅街で阪神沿線から南が柄が悪い
去年、阪神駅前の商店街を買い物したけど以前より雰囲気が悪くなってた気がする

881 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 11:13:07.37 ID:V0mYJph30

兵庫県はド田舎かやくざだよ
西の方はスラムだし
品のいいのは大阪北部


885 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 11:19:28.34 ID:H9vS8k+y0
>>881
武庫川を挟んで、環境は激変するんだよ。
六甲側は、斜面を登れば登るほど高級住宅街。


524 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 21:02:03.37 ID:q+OH/jaU0

尼崎の部落問題は根っこが深いわねぇ・・・


544 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 21:28:23.25 ID:y3ICO3hoP
>>533
明治4年の解放令によってできた特殊部落ではなく
昭和44年に同和対策事業の対象として指定された同和地区というだけで
同和地区=部落民ではないよ
流出入が激しい現在、もう地区によって部落民認定できる時代ではないよ

439 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 19:27:11.82 ID:+k+QNRPD0

塚口は阪急沿線で普通の住宅街、杭瀬は昔は田んぼだったし、B地区じゃなさそうだけど


502 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:39:53.39 ID:ixp6hvEM0
>>439
塚口2年間だけ住んでたことあるけど、学生が多い普通の街だったけどなあ
http://desktop2ch.org/ms/1351539680/?nofilter


491 :可愛い奥様:2012/11/08(木) 03:52:38.60 ID:OfVIByOS0

Bって町単位じゃないよ
もっと小さい集落ごとに決まってるの
字とかレベルの単位
上○○は非部落、北○○も非部落だけど、下○○だけ部落、みたいな


352 :可愛い奥様:2012/11/07(水) 23:19:09.62 ID:4xhjjF+S0

三島由紀夫の学習院入学の時なんかは親の戸籍までを事務的にチェックだろうからね。
三島の部落騒動が勃発したのは、縁談の話が来て、三島が先祖を探ろうとした時。
実際に三島家の本籍地は「関西有数の濃いB部落」である。加古川市志方町だし、三島は加古川で徴兵検査を受けている。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/ms/1352276671/

503 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:40:00.79 ID:aECMD8L10

BやKとは結婚しちゃいけないってことだな
殺人はなくとも、同じようにBやKと縁組みしたために財産を乗っ取られるケースは多いからな


508 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:48:39.52 ID:M3s+uYkJ0
>>503
事業をしていた親戚がBに乗っ取られましたよ。
言葉巧みに近付き会社に入り込み居座っていました。
B朝鮮人かもしれませんわ。
一度見たことがありますが、それはそれはガラガ悪くて犯罪者って感じ。
親戚は泣き寝入りしています。


511 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:51:55.86 ID:M3s+uYkJ0

Bや朝鮮人は集団で来るから恐ろしい


512 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:52:07.75 ID:wEIqKgnm0

まぁ、マトモな奴はBでもKでも親戚が面倒なら縁を切ってるからな。
本人が真っ当に大学出て、ソコソコの企業に就職すると、
変な親戚が居れば、寄生する為に、わんさと寄って来る。
だから、その時点でそいつは親戚と縁を切る。
結婚式の時に無理して披露宴しなきゃすむ話。


 
467 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:03:44.46 ID:wl3fKN600

小、中、高と同和教育があった、B民も同じ学校だったけど
B民の悪行は絶対に他言しちゃならない、したら逆差別を受けるという
恐ろしい洗脳があったのは事実

これ以上は怖くて書けないけどここのスレにチラホラ同じ境遇の人がいて
思い切って書いてみた

個人の付き合い、友達としてなら何も問題ないんだけどね・・・

124 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 12:55:17.21 ID:MF4KgRKB0
>なぜか現在の顔写真が出ない美代子

B落だからねぇ
兵庫のk/a/i/d/o/には警察もマスコミも言いなりよ


143 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 13:12:55.85 ID:MF4KgRKB0
 
今回の事件は同和地区で同和の身内が起こした同和事件
「在日が起こした事件だ!部落とは関係無いよ!」ってことで街道が必死で隠蔽しようとしてるからこの先美代子の顔写真なんて出てこないわよ〜


472 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:11:00.56 ID:t9NaotrQ0
>>143
---
 ★「部落解放同盟」 とは、朝鮮人避難民がそのまま定住した部落組織で、略称は解放同盟 「同和」 である
---
 部落解放「運動」は、在っていう部落解放「同盟」に乗っ取られたんでしょう。
 
 皆吉家は奄美から出て来たって報道見ましたけど。
 こつこつ働いてきた家に孫の遺体が埋められてるなんて。

140 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 13:07:41.40 ID:NwQWrGL00
>>130
記事はだいたい会ってると思うが

「今の日本を象徴するような現代的な事件。 」

これはないでしょwww
部落や在日社会を象徴するような事件
記者の人がそっち出身なのかな


151 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 13:22:22.87 ID:JeLbIIhM0
>>140
”部落や在日社会に乗っ取られた”今の日本を象徴するような現代的な事件

が正解のような気がする

277 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 15:57:57.83 ID:TcIaDQK2O

同和は何年か前に、いつまでも地域や国からの援助で固まっていても未来がないと
動いた人たちがいたけど当事者たちがコミュニティーから出たからないのね。

インタビュー受けた同和の若い子達も「出自で悪口言われて泣いた」とか言ってたけど、あそこで固まってたら抜け出せないでしょうよ。
例えば関東に引っ越せば詳しく地元を聞かれないし適当にいくらでもかわせるのに。


278 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:02:08.76 ID:t3U1DtfT0
>>272
警察が部落に口出しできると思ってるの?
かいほーどーめーのこわーいおじちゃんたちにころ・・・


279 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:07:00.62 ID:t3U1DtfT0
>>277
Bはどこに引っ越しても見た目や言動でわかります
だからBが引っ越すときは他県のB地域に引っ越すんですよ


280 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:10:28.24 ID:+k+QNRPD0
>>279
Bの人にはどんな特徴あるの? 


281 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:11:13.12 ID:A1/LpVkX0

見た目でわかるの?
どんな見た目?
どうしてまたB地域に引っ越すの?
東北在住のせいか、よくわからないわ。

287 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:20:19.46 ID:TcIaDQK2O
>>279
あなた差別工作員?
おかしな人なんてどこでもいるし見た目も色々いる。
生まれも育ちも関東だけど2ちゃんで見るまで部落の話なんて身の回りで出たことがないよ。


288 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:22:30.50 ID:BNXbzU1C0
角田の息子や内縁の夫は逮捕されてないの?
共犯者ではないの?


289 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:25:25.28 ID:YaSiFlvI0
>>287
別に差別するつもりはないがB顔はあるよ
顔つきってのは仕草にもよるんでそこだと思うが
もちろんわからない人もいるんだけど一般的な日本人にはいないタイプだから
B顔みたらBの人なんだな、となる
特に男性はわかりやすい


290 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:26:36.56 ID:BNXbzU1C0
>>279
それ、なんか分かるわ。
B友が大阪に引っ越した先が、また、そういう地域だったし。

思考独特やし。
差別問題に対しては執着心ある友。
普段は、いい人なんだけどね。

また戻ってきて、
B地区に住んでるけどね。


305 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:34:01.07 ID:EG9FFKCh0
>>281
>見た目でわかるの?

ちょっと判る気がする
あの方達は「雰囲気」が独特なの
まず普通の視線の置き方をしない(睨みつけるか、逸らすか、横目で)
それから極端に他所者を排除する

美代子の家に複数の家族が同居してたでしょ?
ああいうのが多いと思う。仲間として認めたら濃い密接な関係で固まる
友達が出来て遊びに行ったら表札も無くて「山田(仮)は2階だよ」と平日昼間に家に居る中年男
極々小さい長屋でもそう。そういうところだよ


308 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:36:29.51 ID:BNXbzU1C0
>>305
目に出てるよね確かに。
目が座ってらっしゃるものw
あと、あまり動じない人が多い。
変に堂々としててドライ。


311 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:41:04.24 ID:YaSiFlvI0
>>308
卑屈で卑しい目つき、それに尽きる
常に人目を気にして生きてきた仕草が出てしまう
京都の野中とか代表的すぎ

重ねて言うけど差別はなくさないといけないし
情報は全部出して少しでも解決の糸口を見つけるなり
こういう事件が再発しないように少しずつ対策した方がいいと思っている
戦後これだけの時間がたってもまだこんな事件が出てくるんだから

294 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:28:46.25 ID:LhQ/rkiE0

文春より

三枝子、月岡靖憲、葬式トラブル家の四男は同じ中学の同級生
三枝子、靖憲は付き合って結婚していた

ちなみに「葬式トラブル家の母」と「月岡叔父の嫁」は姉妹
美代子と四男はいとこのいとこ
美代子は四男の次男を養子にしている

ややこし〜


300 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:30:45.61 ID:BNXbzU1C0
>>294
ZやBは、そんな感じで、家系がややこしい人が多いよ。

353 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 17:22:00.29 ID:bTEozs2TO

三代続く東京人だけど、普通に関東にも部落あるよ。
勤めが電話会社だけど、現在も披差別特定地域ってのがあって、そこは電話基本料金ただです。 同じようにガスや電気も基本料はただだと思います。

差別を武器にとにかく金銭的に得してる。
だから同和の人達はそのエリアから出て行かないんじゃないかな?
入社して直ぐに同和教育の研修を受けたよ。


454 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 19:48:41.66 ID:EG9FFKCh0

清掃局やバスの運転手は「同和枠」がありますよ
だから覚せい剤中毒や数年仮病の公務員がいっぱいいる
不祥事で逮捕されると市長は安心して首にできるw
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/ms/1351539680/


105. 中川隆[-7838] koaQ7Jey 2018年4月07日 12:15:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10006]


部落出身者 在日朝鮮人


近親結婚を追跡調査した報告があり、将来できる子どもの殆どが障害者、知恵遅れ、犯罪者になる確立が高いという結果が出ている

カリカック家の一族という外国にある部落の子孫の犯罪率の高さや頭の悪さを追跡調査した報告があり、将来できる子どもが殆ど知恵遅れや犯罪者、身体及び精神を病んでいる人が多い、と報告されている

部落出身者又は在日朝鮮人に障害者が多いのは、近親結婚が多かったから

優生学研究者は遺伝説を唱えている

ジューク一族の研究論文では、2人の部落民が次々と子どもを作っていき、最後は1000人くらいの子孫になるが、半分以上が、精神障害者で、さらに半分が犯罪者になったという結果も発表されている

部落の人の多くは、遺伝的に粗暴で知恵遅れが多く発生している

別部落出身者や在日は、育つ環境に問題があるのではなく遺伝の問題

遺伝はいつでるか分らず孫の代に出るかも知れない
http://blog-imgs-36.fc2.com/u/r/a/uracigoto/img_1214704_38288977_0.jpg


在日朝鮮人

韓国も階級社会で、日本に来た朝鮮人は韓国では差別にあっていた民族

親や兄弟姉妹間で子供を作ったので奇形が多く、生まれるとすぐに川に流した

今はみやげもの屋に売っているが…

日本でも「こけし」これを漢字にすると「子消し」

生まれるのが殆ど奇形児で川に流し「こけし」として押入れなどに隠していた

「姫だるま」「こけし」も同じ由来がある

貧困農家の口減らしとされているが事実は違う
http://blog-imgs-36.fc2.com/u/r/a/uracigoto/df_20130301202255.png


部落出身者は300万人

在日は韓国で差別されていたのを日本が軍人として日本に連れて来た

彼らも血族結婚で日本の部落民と同じで血筋に弊害がある

韓国人がすべて、というのではなく部落民は親族結婚を繰り返したので精神病、奇形の遺伝子を確実に引き継いでいる

それと知らずに結婚すると精神病の遺伝子が必ず子孫にでる

これを書くと必ず批判が殺到するがこれは事実だ!

オレが言いたいのは「精神病は必ず遺伝する」ということ

競走馬にしろ、牛やブタ、ニワトリもすべて遺伝子操作で作られる

例えば胎児の段階で、脳細胞をがんがん刺激し、細胞をたくさん分裂させたら生まれてから英才児になるかもしれない

将来は、赤ちゃんを産むときに受精卵の遺伝子をコンピュータなどで読んで、

「この人のIQはこのくらいになりそうだ」という話になると思う

IQが140以上になる可能性は0.1%、130以上は5%とか、

今のままでいくとIQ100を越える可能性は0とか、ある一定の確率が出てくる

体外受精で受精卵1個を取りだして検査すると、プリンターから一覧表がでてきて、

IQ130以上なるパーセントは5パーセント、身長何センチになる確率何パーセント

70歳以上生きる確率が70パーセント、80歳以上は3パーセントと計算が出てくる

美人になるかならないか、までも出てくるだろう

受精卵は作るたびごとに遺伝子は違うので病気の一覧表を両親に渡して、こんな値であれば、この受精卵を使うのはやめて別の受精卵にしょうということもあり得るだろう

人間の肉体と精神の特徴、あらゆるもの計算される時代になるかも…

クローン人間ではなく改造人間の時代になる

そうなれば部落民のDNAでも在日のDNAでも関係なくなるが、それまでは…

だから部落民や在日のDNAを引き継ぐと大変なことになる
http://blog-imgs-36.fc2.com/u/r/a/uracigoto/df.png
http://blog-imgs-36.fc2.com/u/r/a/uracigoto/vb.png


http://uracigoto.blog.fc2.com/blog-entry-246.html

血族結婚部落の優生学的調査概報(第一報) −新潟・長野県境「秋山郷」調査−
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/16894704.pdf

血族結婚部落の優生学的調査概報(第二報)−千葉県安房郡七浦村、豊房村調査-
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/DATA/pdf/16894804.pdf

血族結婚部落の優生学的調査 −山梨県南巨摩郡西山村奈良田部落調査-
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14208903.pdf

血族結婚部落に関する生体人類学的研究(2)
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14209001.pdf

この写真は人間の奇形児
http://blog-imgs-36.fc2.com/u/r/a/uracigoto/1d82bae043f6d36f495ead612ccb438a-300x237.jpg


親が代々血族結婚をした子供…
http://blog-imgs-36.fc2.com/u/r/a/uracigoto/93f0f764df25b503be229642b2894dc6.png


朝鮮部落の朝は、酒の臭い。2011-01-03 | 日記

私は、この朝鮮部落に住んでもう8年ぐらいたちます。

あさは、ひとのさぐりあい、ひとのけなしあい、おまけに悪口大会、
そうして、つながりといえば、兄弟姉妹のセックス関係だけです。

あんまり近親相姦がおおいので、ちんば、いざりがたくさんいます。
それに、通名も当たり前で、年賀状も通名らしいです。

この朝鮮部落の臭いは、時にねこのしょんべんのにおい。
ときに、酒の発酵した、いやなにおい、または、たまに洗濯のいいかおり、

朝鮮人が昨年しんでいきましたが、内密に葬式をしたらしく、釣り目のあつまりはみれなかったです。

そのひとは、すこしおかしなひとでした。

いつも、のぞいてました、大家にうその通報はするは、本当にいやなひとでした。
「うえから、みえるんだろう」とか
「おいだしてやる」とか

困っていたら、しんでゆきました。北朝鮮のほうへたぶん灰はとんでいったのでしょうね。

朝鮮部落の若者は、結婚しませんというよりも、できません。
または、朝鮮部落同士まぐわります。

それで、ちかくにある産婦人科でおろします。
生めない子つまり、近親相姦のこどもだからです。

性の関係は、普通の人よりも、はるかにはげしいです。
結婚できないためなのか?

ストレスの多い環境のためなのか?
すごい、年齢まで、近親相姦または、デリヘルなどでやりまくりますね。

この町のいいところは、ひとのさぐりあいですので、
孤独死はありません。たぶん大家が勝手にさぐりますからね。

朝鮮人同士の仲のよさ、それはすごいです。
ほかのものをよせつけないし、臭い部屋でも平気ですね。

孫も、ちょうせんじんなら、かわいそうとしかいいようがないです。
人間のうじですね。

私の住む町は、●●朝鮮部落です。
しかし、みんなは、ひみつにしております。
http://blog.goo.ne.jp/ootomo0320/e/fc08fc45f24c9891f107bc50f2a03dd7

裏には裏の道があり  2011/2/25(金)

たまたま1月に新年のご挨拶ということで、工藤会系の事務所へ足を運んだ時、いろんな人と出会って話をさせてもらいました。その中にA氏はいました。


A氏は田川市の出身。部落差別の中で気が付いたら893のご職業をされているということだった。

残念ながら筑豊地方や北九州市内というのは無数の部落が存在している。15歳になって中学を卒業すると当たり前のように働きに出るのだが、もちろん仕事が無い。
部落出身ということを隠してうまく就職できても結局、後からバレてクビになる。

男性の場合はかなり働き口が狭いので、多くの人間が余ってしまう。それでしょうがないから裏社会へと入ることになる。

そちらのことはまた追々。今回は女の子の方の話。


とりあえず15歳になって中学を卒業したらお水商売の世界へ入るのが半ば、常識のようになってしまっている。在日の経営するパチンコ店などに働きに出るのもいいが、正直、稼ぎが段違いなのですぐに辞めてしまうという。


そのA氏は斡旋をする仕事をしてる。

中洲がもちろんメインではあるが、大阪の飛田新地、名古屋、札幌、東京などにも顔が広く通じていて、15歳になった女の子を広く斡旋しているということを話してくれた。


部落の地域だと常識なんて無い。 我々の考える常識とはかけ離れた世界がそこには存在している。暗く・・・絶望と悲観と・・・ 


A氏が、15歳になった少女と出会い、話を聞いてみると、

初体験は小学生の時で、部落の中でも何度も何度もレイプされたり、

時には父親にレイプされたり、祖父にレイプ、義父にレイプされたり、

さらにその全員に順番にレイプされたりして育つ。

ちょっとキレイめで可愛らしい子になると、15歳の時にすでに男性経験は500人というとんでもないのもいるのだそうな。


だから、中学を卒業したばかりの女の子に声をかけると、喜んでお水で働きたいと言うらしい。今までは襲われてもただ快楽を得るだけで、お金にはならなかったが、これからはセックスが金になると知って喜ぶのだそうだ。 私にはまったく信じられないが、それが部落の世界なのだそうだ。


15歳でいきなりソープデビュー。15歳という若さで本番ありということだから、料金は8万でも10万円にも設定しても客は殺到するという。ほとんど中学生のような少女と金を払えば合法的(?)にセックス出来ると聞いて金の使い道に困っている男達は群がる。1回10万円でも1週間に30回の予約を入れた強者もいたらしい。凄過ぎる。


本人の取り分は半額。それでも、中学を卒業したばかりの少女が1年でもの凄い金額を稼ぎ出す。


さすがにまだ本番までは抵抗があるという少女の場合はお触りだけのピンサロやキャバクラで働く。ソープにはかなわないが、やはり中学卒業したばかりの女の子がってことで固定客はいっぱい付くからなかなかの収入になるという。

入った金で整形をして綺麗にして、うまくいけばAVにでも出てまたそれなりのお金を稼いで部落出身の男と結婚してはすぐ離婚、また結婚してはすぐ離婚を繰り返す人生を送る。


娘が生まれると金になるってことで、金が欲しい父親は娘をレイプして子どもを産ませたりする。男の子だとガッカリし、女の子だと大喜びする。

私が出会ったことがある女性は、祖父との子どもを産み、義父との子どもを産んだことがあるって平気な顔で話してくれたから、驚いたことがありました。


精神病を患っている人も部落にはたくさんいて、産まれてくる子どももまた精神病に。


A氏が話してくれた悲惨な女の子の話。

産まれてすぐに精神病と分かり、父親が育児放棄。母親は自殺。

その後、祖父母が育てたが、小学校に行く頃からさらにおかしくなり、いつも下着姿でその辺を徘徊したりしてどうしようもなかったという。

で、部落の大人の男性たちが毎日レイプ。
集団で次から次へとレイプ。

中学生ぐらいの年齢の頃には2人の子どもがいたという。

そんな年齢でも服を着ないでその辺を徘徊しているものだから、男性が寄ってきては普通に道端でレイプされているとのこと。誰も止めないし、いつもの光景といった感じ。それで次から次へと精神病を患った子どもが出来たという話を聴いた。


A氏が言うには、その少女は部落の人間に毎日レイプされるためだけに生きている、とのこと。


なんだろうね・・・・悲惨を通り越して、言葉が出なかった。


A氏が言うには、そんな精神病患者でも植物を言われた通りに育てることぐらいは出来るのだそうだ。だから、大麻を育てさせては、少ない生活費を渡すということが行われているのも普通のことなんだそうな。たぶん、それが大麻だと知らずに育てるんだろう。育てるとお金がもらえるから一生懸命育てる。普通だったらおかしいと思うが、残念ながらそう思う回路を持っていない。


そんなことを繰り返しては、A氏は少女と大麻で組の中でものし上がっていったそうな。

やはり経済力を持った893は上からも当然重宝されるし、金を山ほど持ってる構成員は出世も早い。

「にいちゃん、金に困った時はいつでも電話ちょうだいな。金ならいくらでもあるからいつでも助けてやるわ」

って、にやっとしながら話してくれた。

「大丈夫、金には困ってないから」

そう伝えると、またにやっと笑いながら奥の部屋へ入っていった。
http://blog.goo.ne.jp/kimutamako1212/e/13f7cdcd736285b2acfdb818a1be2ff2



106. 中川隆[-7893] koaQ7Jey 2018年4月10日 10:56:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10096]
>>1 に追記


中国で見かけた納豆は、やはりネバネバしていた
中島恵 (ジャーナリスト)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12424


 SNSをやっている人はご存じだと思うが、SNSには「昨年、あなたはこんな投稿をしました」という、なんともご親切な振り返り機能というものがある。先日、私のSNSにも「2年前の今日、あなたは・・・」という表示が出て、自分が2年前のその日、貴州省を訪問したときのことを突然思い出すことになった。

 貴州省といってすぐにピーンと何かを思い出す日本人はあまりいないだろう。貴州省は中国の西南部の内陸に位置する省で、広西チワン族自治区、雲南省、四川省、湖南省などに囲まれている。少数民族が多く、GDPが全国的に見て低いことから、中国の中では大きな存在感はない。だが、日本の検索サイトで「貴州省」と打つと、「貴州省日本観光センター」というサイトが上位に出てくる。貴州省の概要を日本語でコンパクトに紹介してくれるものだ。このように海外で観光PRを行っている省は少ないが、大自然の美しさといい、少数民族のきらびやかな民族衣装といい、北京や上海にはない「別の魅力」がある省といえる。

市民の台所、市場で見つけた納豆

 さて、その貴州省に滞在していた2年前、自分がSNSに投稿した写真を見て、私はギョッとした。なんと、納豆の写真を載せていたのだ! 日本の納豆ではなく、もちろん貴州省で見た納豆である。自分がそんな写真を撮ったことすらすっかり忘れていたのだが、写真を見るなり、さまざまなことを思い出した。そして、奇遇なのだが、その数日前に納豆の本を読了していたことから、頭の中で納豆に関する想像が沸き上がったのであった。

 私が納豆に出合ったのは、省都、貴陽市の外れにある小さな市場。仕事で訪れていた貴州大学から徒歩で20分ほど歩いたところだった。〇〇市場などの名称はなく、市民の台所といえるような雑然とした感じだ。道路の脇から突然、野菜を売り始める市場が始まり、進んでいくと鶏肉(生きたニワトリ)やトウガラシ、お惣菜などが売られている。細い路地に小さな店が並び、民族衣装を着たおばあさんらが買い物をしていた。

 そこに突然、納豆らしきものが現れた。

見かけた瞬間、「ああっ! あれ? これ納豆じゃない?」と思わず興奮ぎみに叫んでしまった。同行してくれていたのは現地の大学院生の女の子だったが、涼しい顔で「はい、そうですよ。中島さん」と回答するのみ。「え〜、納豆。こっちの人も食べるんだ……」としげしげと見つめる私に、彼女は「せっかくですから、記念に写真でも撮りますか?」と冷静に答えてくれた。そして撮ったのが、この1枚である。

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12424?page=2

貴陽の市場で見かけた納豆。量り売りだった

 なぜか、この1枚しかない。なぜもっと写真を撮らなかったのだろうか。自分でも不思議だし後悔している(ことを2年ぶりに思い出した)のだが、それでも、この1枚が残っていてよかった。

見た目も臭いもまるで日本の納豆

 大きな籠の中に入っている納豆はネバネバとしていて、まるで日本の納豆そっくりだ。顔を近づけてみたが、臭いも日本の納豆のようだった。納豆の中にプラスチックのスプーンが入っているが、それですくってビニール袋に入れて、量り売りするという。残念なことに価格は忘れてしまった。すぐ近くで売っていた白いおまんじゅうが5元(80〜90円)程度だったので、同じくらいではないかと思うが、もはや確認することができない。周辺で売られていた野菜も、北京や上海とは比べ物にならないほど安く、日本では見かけない種類が多かった。

 そこで納豆を買って食べることをしなかったことが、ジャーナリストである自分にとって最大の後悔なのだが、後日、貴陽市内に住む知り合いの中国人にSNSで問い合わせてみたところ「主に苗(ミャオ)族など少数民族の人たちが食べていると思う」と教えてくれた。漢民族である知り合いは「あまり食べない」といっていたが、食べ方を調べてもらうと、主に3つくらいあることがわかった。(1)ネギや醤油と一緒に混ぜて食べる、(2)香菜(シャンツァイ)やトウガラシ、セリなどと混ぜて合え物にする、(3)料理の調味料のようにして炒め物に使う、などだ。

 確かに、この見た目は日本人が思い浮かべる納豆そのもので、(1)、(2)、(3)どの調理方法でもおいしそうだ。まさか醤油をたらすとは思わなかったが、中国の醤油は日本のそれとは少し違い、味が濃い。貴州省では野草などもよく食べ、私も現地でドクダミの茎の和え物を食べたが、ここに納豆を混ぜて入れてもおいしそうな気がした。炒め物というと、中国では豆鼓(トウチ)炒めが思い浮かぶ。納豆よりも小さな黒豆と肉などを一緒に炒めた料理だ。


ドクダミの茎の和え物。貴州省だけでなく湖南省などでもたべられている。


大都市の健康志向の人も食べているかも?


 そして、知り合いによると、どうやら、ネバネバしたタイプと、乾燥したタイプの2種類あるようだ。知り合いも納豆専門家ではないので詳細まではわからなかったが、ちょうど最近読んだノンフィクション作家の高野秀行さんの本『謎のアジア納豆』に興味深い記述があった。

 それによると、納豆は日本や韓国(韓国ではチョングッチャンという)などだけでなく、中国の一部(湖南省や貴州省、雲南省など)やタイ、ミャンマー、ネパールなどでも食べられているという。山岳地帯や盆地に住む民族(中国の苗(ミャオ)族やミャンマーのシャン族など)の間で食べられてきて、せんべいのように平たくして乾燥させた納豆もあれば、ネバネバしたタイプ、蒸し納豆などもある。ネバネバしているものだけが納豆という認識は、日本人だけのイメージなのかもしれない。納豆といえども、バリエーションも豊富だし、けっこう奥が深いのだ。日本ではパックで売られていて、しかも特製のタレまでついており、すっかり国民食となっているが、中国やアジア各国ではそういう売り方はしていないし、地味な存在だ。

 全国納豆協同組合連合会のホームページを見ると、縄文時代の終わりごろには、すでに日本人は納豆のようなものを食べていたとされているが、詳細はわかっていないらしい。高野さんの本を読んだときも思ったが、案外、納豆についてはまだ解明されていないことも多く、それも驚きだった。

 ところで、納豆と中国のつながりで思い出した。2015年の爆買いブームとき、中国人は日本のドラッグストアで、たくさんの薬やサプリメントを買って帰ったが、その中に「ナットウキナーゼ」という酵素もあった。健康にいいということ、中国では売っていないということから目をつけたようだが、今、北京や上海などの大都市のスーパーに行くと、まるで日本のスーパーのように納豆がたくさん売られている。中国で生産している納豆もあったが、日本からの輸入品もある。上海高島屋の食品売り場で見かけて、その値段の高さにびっくりした記憶がある。おそらく日本人駐在員用かと思ったが、あれだけ売られているということは、健康志向の上海人も日本製の納豆を食べているかもしれない。

 都市部の中国人は経済的に豊かになり、健康にいいと聞くとすぐに飛びつくようになったが、内陸部の少数民族は、そんなこととは関係なく、はるか昔から納豆を食べていたのだ。2年前の自分の投稿をきっかけに、ふと納豆についてあれこれと思いを巡らせることになった。たかが納豆、されど納豆だ。


107. 中川隆[-9669] koaQ7Jey 2018年4月14日 16:50:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10312]


『Y染色体からみた日本人』 中堀豊 (岩波科学ライブラリー)
https://www.amazon.co.jp/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%BF%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E4%B8%AD%E5%A0%80-%E8%B1%8A/dp/4000074504

Y染色体からみた日本人 2010年04月30日
http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2010/04/y.html

 ミトコンドリアDNAが母系で受け継がれるのに対し、Y染色体は父系で受け継がれる。ミトコンドリアDNA解析は過去10万年の人類の移動を明らかにしたが、正確には女性の移動なので、ヨーロッパ人のアメリカ大陸侵略のような男性主体の移動は検知することができない。男性の移動を明らかにするにはY染色体の解析が必要である。

 本書は2005年発行とやや古いが、Y染色体の研究者による日本人の起源論である(2009年時点の研究は

崎谷満氏の『新日本人の起源』
https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%8B%E3%82%89DNA%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%B8-%E5%B4%8E%E8%B0%B7%E6%BA%80/dp/4585054219
http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2010/04/post_192.html

を参照のこと)。

 Y染色体による民族のルーツ探しの本としてはブライアン・サイクスが

『イブの七人の娘』
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%81%AE%E4%B8%83%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%A8%98%E3%81%9F%E3%81%A1-%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B8%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-N-%E3%82%B5-1-1/dp/4863328567/ref=asap_bc?ie=UTF8
http://www.horagai.com/www/book/read/rd2002a.htm#R007


の姉妹編として書いた

『アダムの呪い』
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%91%AA%E3%81%84-%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3-%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9/dp/4789722791/ref=la_B001H6J09S_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1523691985&sr=1-2


があるが、読みすすむにつれ鬱になった。

 女性は妊娠によってしかDNAを残せないのに対し、男はその場限りのセックスで子孫を残せるので、Y染色体はミトコンドリアDNAよりも寡占が起きやすい。ミトコンドリアDNAのハプロタイプを図であらわすとクラスターがきれいに並ぶのに対し、Y染色体のクラスターは不揃いで不規則だ。大半のY染色体は途中で失われ、少数のY染色体のみが栄えるというのがY染色体の現実なのだ。サイクスの本には900年前に死んだサマーレッドという武将のY染色体が40万人に、チンギス汗のY染色体は1600万人に受け継がれているとか、南アメリカのインディオのY染色体はヨーロッパ系ばかりだとか、恐ろしいことがたくさん書いてある。

 きっとその類の話だろうと心して読みはじめたのであるが、意外にも日本人のY染色体は攻撃的でも侵略的でもなかった。

 日本人の起源については縄文人の基層の上に稲作文化をもって渡来した弥生人がくわわり、混血したという二重構造モデルが定説化していたが、Y染色体でも縄文人と弥生人という二大グループは一応確認できた。弥生系の中核をなすOb1は中国に多いクラスタから派生しているのに対し(中国では絶滅している)、縄文系の中核であるD2はアジア人の祖形に近い古いタイプらしく、日本と朝鮮に見られる他は、近縁のD1がチベット人に残っているにすぎない。Y染色体の系統図では縄文系と弥生系は相当離れているのである。

 それにくわえて縄文系の中核であるD2の男性は精子の濃度が低く(!)、無精子症になりやすいことがわかった。

 常識的に考えれば縄文人は侵略された側であり、その上に精子濃度が低いとなれば現代日本人のY染色体は弥生系一色になっていてもおかしくはないだろう。ところがそうはなっておらず、都市部では縄文系・弥生系ともほぼ同頻度なのだという。

 そうなった理由は二つある。まず、弥生人侵略説は誤りだったこと。弥生人は百万人規模で押し寄せていたとされていたが、DNA解析の結果、渡来した弥生人はすくなく、しかも少人数づつさみだれ的にやってきたことがわかった。第二に精子濃度の季節変動が縄文系と弥生系では逆になっていたこと。

 縄文系D2の男性は1〜6月生まれが多く、弥生系の中核をなすOb1の男性は7〜12月生が多いという結果が出たので精子濃度の月変化を調べたところ、縄文系D2は秋から冬が濃度が高く春になって急落するのに対し、弥生系Ob1は春から夏にかけて濃度が高く秋に急低下することがわかった。

 縄文系D2と弥生系Ob1は受精させやすい時期がずれていたのだ。

 著者は最後にこうまとめている。


 日本の男性は大陸の落ちこぼれである。一度目の落ちこぼれである縄文人と、二度目の落ちこぼれである弥生人が、互いを滅ぼしてしまうことなく共存したのが現代日本の男性たちである。まさに、窓際族同士仲良く机を並べて、極東の小島で自然の恵みを享受し、自然に従って生きてきた。互いの言葉も融合させてしまった。

 うーむ、妙に説得力がある。複雑な気分である。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2010/04/y.html


108. 中川隆[-9832] koaQ7Jey 2018年4月15日 21:59:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10480]

日本列島に渡来した民族のハブロタイプ


153名無しさん@涙目です。(庭) [KW]2018/04/15(日) 15:36:59.27ID:KJUZPVOB0

40.000年前 C1a1(ポリネシアン)
35.000年前 D1b(日本列島固有)
34.500年前 C2a(日本列島固有)

3.000年前 O1b2(江南)
1.300年前 O2(百済、新羅、高句麗)


109. 中川隆[-9986] koaQ7Jey 2018年4月16日 17:30:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10666]
縄文時代後期の約4000年前に日本列島の人口は26万人超だったが、縄文末期の3000年前には約8万人まで減少した。

しかも東日本では減少率が少なかったが、西日本は最初から10分の1の人口密度のうえに、壊滅的な減少に見舞われた。

弥生時代の大量移民

人口減少の原因は気候変動で、縄文時代をもたらした温暖化は日本海の水位を120mも上昇させるほど暖かかった。

4000年前から寒冷化が進み、木の実や魚介類や動物が少なくなり、自然減少しました。

自然採集では食えないので大陸では先に農業が始まり、後から農業を始める集団は「農業未開の地」を求めて半島や列島に移住したと考えられます。


この頃から九州に移住して田んぼを作り始めたのが半島南部から来た「渡来人」で、渡来は1千年以上続いたとされている。

推測では年平均1000人ほどの渡来が1000年間つづき、合計では100万人もの人が移住してきた。

縄文末期に西日本の人口はせいぜい2万人で、九州では1万人未満、渡来地の九州北部は数百人しか居住していなかったと考えられる。


人口数百人の地域に毎年1000人もの渡来人が渡ってきて、九州の縄文人と交わり「弥生人」に変化した。

縄文末期の1000年間で26万人から8万人に減った人口は、その後の1000年間で60万人まで増加しました。

これが弥生時代をもたらし、邪馬台国やヤマト政権に発展したと考えられている。
http://www.thutmosev.com/archives/75746010.html


110. 中川隆[-10843] koaQ7Jey 2018年4月21日 09:34:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11662]

縄文関係の記事はこちらに纏めました:


「縄文時代はよかった。」で?どうやって縄文時代のいい所を取り入れるのか?
http://www.asyura2.com/0505/dispute21/msg/430.html


111. 中川隆[-11316] koaQ7Jey 2018年4月25日 15:55:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-12289]

2018年04月25日
古代日本の環境問題 遷都をくりかえした理由は環境汚染だった

コロコロと遷都を繰り返した理由は汚染による健康被害で、場所を変えれば収まるのは知られていた
引用:平城京クロニクルhttp://wedge.ismedia.jp/mwimgs/9/a/-/img_9af45cd3dbea7454727f305fad3eb535278636.jpg

古代の公害問題

奈良の平城京は710年に都となったが740年には京都の恭仁京に遷都し、745年に再び遷都し都になった。

だが745年には再び遷都し京都の長岡京に都が移った。

この間にも数年ごとに遷都を繰り返し、難波宮(744)や近江紫香楽宮(744)など1年に2度遷都したこともあった。



それ以前の藤原京や飛鳥京、難波宮も出たり入ったりしながら数年から十数年で遷都を繰り返し、恒久的な宮殿ではなかった。

天皇が恒久的に住む宮殿は平安京(794年)が初めてで、明治維新の1868年まで続いた。


平安京以前には最も長かった都ですら平城京の39年間(2度目)平城京1回目は30年間で遷都している。

数年ごとに遷都を繰り返した理由としては、環境問題が大きかったのではないかという見方がある。

それまで首都や都市を作らなかった人々が狭い範囲で生活するようになったため、深刻な環境汚染が起きたと考えられている。


多くの人々が捨てるゴミや排泄物は未処理で貯まっていき、衛生状態が悪化し伝染病なども発生したと思われる。

当時は祈祷によって病気を退治しようとしたが、不衛生な環境が影響しているという認識は持っていたのでしょう。

平城京に移転するとさらに大きな問題が持ち上がり、それは金属加工の際に出る水銀や銅や鉛で水が汚染された事でした。

数年ごとに遷都を繰り返した理由

平城京では奈良の大仏など巨大寺院や仏像が多く建設され、多くは金属が使用され表面はメッキ加工されていました。

副産物の重金属は河川や池に流されて、当時の平城京の池や川は、緑色や青色で輝いていたそうです。

当然ながら住民に健康被害が続出したため、場所を変える目的で、数年ごとに遷都を繰り返した。


遷都したなかに難波宮があり、現在の大阪城の隣りなのだが、また別の環境問題を抱えていた。

当時の大阪は現在の「大阪市」の大半が海であり、天然の良港として半島からの使者や貿易船でにぎわっていた。

だが大和川と淀川から流れ込む土砂が急速に海を埋立てていき、入り江は湾になり、湖になりやがて土に埋まった。


大阪城付近は突き出した半島のようになっていて、そこに難波宮を作ったのだが両側は海であり、不安定極まりなかった。

高波や津波のおそれがあるほか、外的から防御し難いので、わずか数ヶ月で放棄されている。

このように遷都の理由の多くが自然環境や環境汚染によるものだったと考えられている。
http://www.thutmosev.com/archives/75878379.html


112. 中川隆[-12443] koaQ7Jey 2018年5月13日 09:20:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-13930]

ikz********さん 2012/10/19 16:29:16

日ユ同祖論 信憑性はどの程度なのでしょうか。

言語が似ている、歌をヘブライ語にすると意味が通る(君が代、かごめかごめ、 ソーラン節など)という具体的な共通点から、遺伝子が中国韓国人にはないものをもつという根拠不明なものなどが上げられます。

某掲示板では、宗教観が違いすぎる、戦前の白人コンプレックスの日本の学者が作り上げたものだとしているのをみて妙に納得してしまいました。確かにユダヤ教と神道、仏教は違いすぎます。まず一神と多神、偶像崇拝禁止と仏像とで明確です。

ただはっきりどちらに分があるとは判断しにくい部分が多いため詳しい方いたらよろしくお願いします。

aki********さん 2012/10/21 01:10:58

歌の類似性と言えば、和歌がインドの民謡と共通性が高いほうが注目に値すると思います。今でも日本人は海外の文化を輸入して、独自に発展させる才能を発揮していますが、昔もそうだったと考えるべきだと思います。ただし、ヘブライ語と日本語の類似性は他の言語と同程度で、かなり低いと思います。多くは音が似ているだけのコジツケになっていると感じます。

本当に日本語と近いのは、大陸の高句麗語です。言語が近縁かどうかを観察するとき、真っ先に見るのが数詞と言われています。日本語と高句麗語の数詞の比較を行うと、朝鮮語などよりもはるかに近縁の言語という結果が出るようです。

高句麗は滅亡して、その人々は女真族と名を変え、今は満州族と呼ばれています。

彼等は清帝国を築いたわけですが、清の時代に遭難した日本の商人が北京に行って驚いたのが、一二三四ではなく、ヒ・フ・ミ・ヨの日本語の数え方がそのまま通じたことだそうです。高句麗の流れを汲む女真族の言葉を話す人々と、北京で普通に接触できたようです。

百済は扶余・高句麗から枝分かれした王室で、朝鮮半島は異民族支配されていました。

そのため、百済の王室と民は異なる言語を話しているという指摘が、中国側に残っています。

神道の世界には古い朝鮮語が数多く残っていると指摘されることがありますが、実際にはそれが失われた高句麗語という説も出てきています。


高句麗語は日本語と同じ膠着語です。

系統が違う漢民族の言葉と文字がいきなり日本に輸入されたわけではなく、まず漢民族の言葉と直接接していた高句麗語が漢字表記されるようになり、それが、高句麗と近い山東半島や遼東半島付近の海人の手を経て日本にもたらされて、古い神道の祝詞の言葉などが作られていったと考えられます。

纏向型祭祀と高句麗国の東盟祭の類似性も、かなり指摘されているようです。

倭人文化圏が北九州から済州島を経て山東半島や遼東半島付近に分布していたと認識している中国側の史料が幾つか散見されるようです。

卑弥呼寒冷期と呼ばれる地球規模の寒冷化に伴って、飢饉に直面した高句麗地域の人々が日本に渡来した結果、弥生時代が古墳時代に変わっていったという説があるようです。

九州に山東半島原産の三眠蚕が入り、纏向(奈良)にも山東半島付近の製鉄と蚩尤(兵主・天日槍)の信仰が入っています。その結果、天照大神のモデルになった古い日女神を祭った比売許曽(ヒメコソ)神社が建てられるといった現象が起こったようです。

比売許曽は姫を祀る神社という意味の高句麗語(朝鮮古語)です。だから、比売許曽神社の末尾の「神社」は必要のない筈ですが、時代が下って元の意味が見失われた結果、付けられるようになったと考えられます。祝詞にも高句麗語由来の言葉が大量に入っている、というより、本来祝詞は高句麗語(吏読)だったそうです。謎が多いとされる「ひふみ祝詞」は、高句麗語として意味がほぼ通じる形で伝わっているそうです。飛鳥という都の名前も元は高句麗語のようです。

トルコからシルクロードを介して日本まで、膠着語圏が広範囲に広がっています。
文法的に近いため、日本語に輸入しやすかったことが考えられます。


たとえば、天皇を古い時代はスメラ・ミコトと呼んでいました。

シュメール文明と日本語の関係がかなり指摘されていますが、シュメール・ミグトと言えば、天降りた支配者のことで、日本語と音が似ているだけでなく、意味も一致しています。したがって、シルクロードを介して日本に入ってきたのは、なにも古代イスラエルの文化に限られるわけではないと思われます。

秦の始皇帝の兵馬俑はペルシャ式の軍団編成になっていて、ペルシャ人の人骨が近くから出ているようです。

ササン朝ペルシャの滅亡に伴って、シルクロードに逃れた王子が中国に亡命し、妻子を安全な日本まで連れて来ているケースもあるようです。わずか数年で日本とペルシャは繋がる距離にあります。西の文化が日本に断片的に入っていても、不思議ではありません。仏教も入れば、ギリシャ彫刻もガンダーラの地域で形を変えながら伝わっています。

しかし、文化的影響が認められるからと言って同祖論を持ち出すのは、不自然すぎると感じます。それを言うなら、人類はアフリカ原産の動物で、皆同祖という話になります。

遺伝子に関しては本来akatamayorihimeさんが御専門の筈ですが、完全スルーしているようです。相手にする必要もない勘違い、ということだと思います。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1195894356


113. 中川隆[-12437] koaQ7Jey 2018年5月18日 17:04:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-14017]

日本語は縄文時代以前から 日本でずっと話されていた言葉

実はとてつもなく古かった日本語 2018 05.01
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3756.html#more


日本語は、もしかすると世界最古の言語であり、しかも世界で最も美しい言語かもしれません。

かつて谷村新司がロンドン交響楽団をバックにレコーディングをしたことがあります。
そのとき日本語の素晴らしさを再認識し、日本語を大切に歌っていくことを信念にしたそうです。

ディズニー・アニメの『アナと雪の女王』は、世界的ヒットとなったアニメ映画ですが、そのなかの挿入歌の『レット・イット・ゴー、ありのままで』は、世界25ヶ国語に翻訳され、それぞれの国の歌手が歌ったものが youtube で公開されました。

このとき、世界中の人たちが驚き、そして圧倒的な人気をはくしたのが日本語バージョンです。

Let It Go - Behind The Mic Multi-Language Version (from Frozen) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=BS0T8Cd4UhA

松たか子ver(日本語吹替版)「Let It Go」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=4DErKwi9HqM


それは、歌った松たか子さんの声の素晴らしさももちろんあるでしょうが、日本語による発声が、メロディに+αの効果をもたらしたのかもしれません。

どこの国でも、それぞれにお国自慢があります。
ここで日本語が世界一だと述べるつもりは毛頭ありません。
ただ、ひとついえることは、どうやら日本語には、他の言語にはない、不思議なところがあるということです。

ひとつは言霊(ことだま)です。
言葉に魂が宿る。

ではどうして言葉に魂が宿るのかというと、日本語が実はもともとそのように構造された言葉だからなのだそうです。

構造とは、日本語の文法や発音や語彙のことです。

つまり、自然との共生を大切に育くむこと、自然を征服したり、人と自然とどちらが上かのような上下構造をもとうとするものではない文化の下で、人と自然とが対等な関係を育んで来たのです。

2つ目はオノマトペ(仏:onomatopee)です。
オノマトペというのは擬声語を意味するフランス語です。

擬声語は、たとえば

わんわん、メーメー、ブーブー、ニャーオ、ホウホウといった動物の鳴き声を真似たものや、

ドキドキ、パチパチ、バキューン、チリーン、ドカン、カリカリ、バタン、ガタピシ、ガタンゴトン、パチバチ、ビリビリ、ジュージュー、グワァ〜ン、パタパタ、ボキポキなどなど、音を真似たもの、

あるいは、

おずおず、おどおど、めろめろ、ふらふら、きゅんきゅん、きらきら、ぴかぴか、ぐずぐず、ツルツル、サラサラのように、本来音を発しない感情などを言葉で表現するものなどのことです。

おもしろいことに、擬声語(オノマトペ)は、言語ごとに、表現がまったく異なります。

冒頭にあるのは、その違いを示した絵本の抜粋で、クリックしていただくと当該ページに飛びますが、たとえば食事をするときは、日本では「PAKU PAKU」ですが、英語では「CHOMP」、フランス語では「MIAM」、イタリア語では「GNAMグナム」、Korea語では「NYAM」です。

キスは日本語では「CHU」ですが、英語では「MWAH」、China語では「BOH」です。
つまり言語によって擬声語(オノマトペ)は、まったく異なります。
ということは、それぞれの言語圏においては、音がそのように聞こえているということです。

そして日本語の擬声語(オノマトペ)は、China語やKorea語ともまったく異なるものです。

ということは、日本語はChinaやKorea半島からの輸入語では絶対に「ない」ということです。

それだけではありません。

日本語は、この擬声語(オノマトペ)が、他の国の言語と比べて著(いちじる)しく多いのです。
その数、なんと5千語です。

日本語の単語数は、たとえば『日本国語大辞典』の収録単語数が50万語です。
このことは、日本語の1%、およそ100語にひとつが擬声語(オノマトペ)であるということです。

そして単語の中には、日常生活でよく使われるものと、そうでない(たとえば学術用語)ものがあります。

オノマトペは日常的によく使われる語です。
早い話、今朝起きたとき、ご家族に「ぐっすり寝れた?」と聞く。
その「ぐっすり」というのがオノマトペです。

しかし睡眠は「ぐっすり」などという音は立てません。
ではなぜ「ぐっすり」というのかというと、「ぐうぐう、すやすや」寝ているからです。
その「ぐうぐう+すやすや」が短縮されて「ぐっすり」です。

「ぐうぐう」も「すやすや」も、なんとなく、そのような音を立てているといわれれば、なんとなくそうかもしれないと思われるかもしれません。
では、

 風が「そよそよ」と吹く
 太陽が「かんかん」に照る
 白い雲が「ぽっかり」浮かぶ
 星が「きらきら」光る

などはどうでしょうか。

風は「そよそよ」などという音をたてないし、太陽は「かんかん」なんてしゃべったりしません。

ではなぜこのようなオノマトペが使われているのでしょうか。

実は、自然がそのような音を立てているのではなくて、受け止める側が自然が発する音をそのように聞いているのです。

このことについて考古学者の小林達雄先生は、「人々が、人と人との間で行うコミュニケーションのための言語活動と同じか、あるいはそれに近いレベルで自然と向き合い、自然との間で活発な言語活動を行ってきた結果」(『縄文文化が日本人の未来を拓く』p.134)と述べておいでです。

つまり、日本語は「自然と対話しながら発達してきた言語」なのです。

だから欧米人にはただの雑音にしか聞こえないカエルの鳴き声や虫の声も、日本人には美しい秋の音色となって聞こえる。なぜ美しいのかといえば、それは人がカエルや虫たちとコミュニケーションしているからです。

では日本語は、いつ頃の時代から形成されはじめたのでしょうか。
言語の発達には、ムラの形成が欠かせません。
なぜならムラを営むには、言語が必要だからです。
そしてそれは磨製石器の登場と時期を同じにするというのが世界の考古学会の定説です。

世界の磨製石器は、おおむね7千年前以降のものです。
中には2〜3万年前のものもあります。

 シベリアの2万年前のもの
 ロシア南西部の紀元前1万6000年前のもの。
 オーストリア中部の2万9000年〜2万1500年前のもの。

など、ほんの数例です。

ところがこれらは、異常に早過ぎる磨製石器であって、作成経緯等はすべて不明です。
そして、その後に起こるおよそ7千年前の磨製石器の時代(新石器時代)と接続していないのです。

ところが日本の磨製石器は、3万年前の磨製石器だけが単独であるのではなくて、昭和48年に東京・練馬区石神井川流域の栗原遺跡で2万7000年前の地層から磨製石斧が発掘され、また同じときに千葉県三里塚からも磨製石斧が出土、以後、秋田から奄美群島まで、全国135箇所から400点余の磨製石器が発掘されています。

そして1万7千年前には縄文時代が始まるのですが、なんとものの見事に、その縄文時代の文化へと、磨製石器の時代が接続しているのです。

ちなみに長野県日向林遺跡から出土した60点、長野県の貫ノ木(かんのき)遺跡から出土の55点の磨製石器に用いられている石は、伊豆の神津島から運ばれてきた石です。

つまり当時の日本人は航海術に長け海洋さえも自在に往来していたことも伺わせています。

こうしたことから、英国のJ・ラボックという考古学者は、

「日本列島の住民は世界に先駆けること二万数千〜三万年前に新石器時代を迎えていた。」

と述べています。

言い方を変えると、これはつまり、日本は世界最古の文明を持っていたことが証明されている国である、ということです。

そして磨製石器の登場と言語の登場、そしてムラを営むための神話の登場が重なるものであるならば、日本語は、およそ3万年前には生まれ、そこから現代に至るまで、ずっと続いている世界的にも稀有な言語である、ということになります。
そしてそれが可能になったのは、日本人が殺し合いや、自然への征服を好まず、人と人、人と自然が常に調和することを好む民族であったからです。

というより、調和を好むという日本人の性質は、最低でも3万年という途方もない長期間のなかで、最終的に生き残ってきた性質である、ということができます。

おもしろいもので身勝手な文化、自分さえ良ければという文化は、一時的な成功を手に入れることができても、必ず最後に崩壊し、再起不能になります。
ところが調和を大切にする文化は、一時的にどん底に落とされても、必ずまた再生し復活します。

植物には一年草と多年草があります。

最近は品種の改良によって、どちらも美しい花を咲かせますが、もともとは一年草の多くは、だいたい派手な花を咲かせるのに対し、多年草の花は、わりと地味な花が多いです。
地味だけれど、ずっと咲き続けます。
まるで日本人そのもののようです。

日本人は、はっきりとわかっているだけでもおよそ3万年、ずっと自然と調和し共生する道を選んできました。

だから日本語には擬声語(オノマトペ)が圧倒的に多いのです。

コメント


新宿の縄文人は、どんな言葉を話していたか?

東京の新宿のど真ん中、皇居の御堀端から2q程の地点から、縄文時代中期や後期(5千年前〜4千年前)の人骨が多数出土した事がありました。

江戸時代の遺跡を調査すると、その下から縄文時代や弥生時代の古い遺跡が続いて出土する事がありますが、その場合、江戸時代以降の大開発等によって、無残に破壊されていてる場合が多いそうです。

僅かな貝殻の堆積が確認されたとはいえ、分厚い貝層が存在しない内陸の地域から、多数の人骨がまとまって出土すること自体が非常に珍しく、当時現場は大変な興奮に包まれたそうです。

当時、保存状態の良かった、40代ぐらいの男性の顔が復元されました。

やや長めの顔に、上下に潰れた長方形の眼窩、彫りの深い目元の頭蓋骨は、ヨーロッパ人の様な風貌、あるいは、若い頃の宇梶剛士さんに似たイケメン風に仕上がりました。

彼のミトコンドリアDNAのハプロタイプは北方系と言われるA、一方彼の近くに葬られていた別の人骨は、南方系と目されるM7aだったそうです。

様々な地域をルーツに持つ縄文人たちが、新宿の地で仲良く暮らしていたのですから興味深いです。

日本語が「どのように成立したか分からない」と言われる所以は、様々なルーツを持つ人々の言葉が、極めて長い時間をかけて、ゴチャゴチャに混じり合った結果ではないかと思います。
2018/05/14(月) 11:38 | URL | 疑問 #iydQorAY[ 編集]

外国人に日本語で話しかける時にこの擬声語は使わない方が良いそうです。

擬声語に相当する外国語がないので、彼らにはさっぱり分からないようです。

また、行けなくも無いなどの二重否定もダメ。

日本人なら、何とかすれば行けると理解できますが、外国人は
理解できないようです。

外国人にとって日本語は本当に難解のようですが、
この言語を意識せず使いこなしている
我々は本当、凄いのかもしれませんね。
2018/05/14(月) 13:40 | URL | 名無し #mQop/nM.


新宿に生きた縄文人〜市谷加賀町二丁目遺跡の発掘

新宿に生きた縄文人〜市谷加賀町二丁目遺跡の発掘
http://www.city.shinjuku.lg.jp/video/video_jm01.html
https://www.youtube.com/watch?time_continue=607&v=P7VUMR0Mvzo

これですね。
2018/05/14(月) 14:31 | URL | KI


加賀町二丁目遺跡の関連本が出版されています。>KIさん

KIさんへ

動画等のご紹介ありがとうございます。

加賀町二丁目遺跡に関しては、講談社から関連書籍も出版されています。

『おどろきの東京縄文人』(瀧井宏臣著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E3%81%A9%E3%82%8D%E3%81%8D%E3%81%AE%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA-%E4%B8%96%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%89%89-%E7%80%A7%E4%BA%95-%E5%AE%8F%E8%87%A3/dp/4062870029

という本です。

この本は、考古学少年から考古学おじさん・おばさんまで、幅広い層の人々が興味深く読める内容になっていると思います。

映像で見るのと、写真で見るのとでは、復元された縄文人の顔の印象は少々異なりますね。

映像の方はバックが暗めで、陰影が強調されていますが、写真の方は細部まで鮮明に写っていますので、少し印象が違ったのかも知れません。
写真で見ると、かなり欧米風味の顔に見えます。

個人的に注目されたのは、12号人骨(復元された縄文人)が腰にぶら下げていた、イルカの下顎の骨のアクセサリーです。

縄文人は、イルカやクジラやサメやエイ等も捕獲していたことが分かっていますが、丸木舟しかない時代ですから、漁の腕前は、現代人と比較しても大したものだったと思います。
2018/05/15(火) 09:54 | URL | 疑問 #iydQorAY
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3756.html#more


114. 中川隆[-13427] koaQ7Jey 2018年7月09日 09:27:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16393]
日本を作った「イネ」。そのすごい力とは?
2018年07月05日 稲垣栄洋(植物学者)
https://shuchi.php.co.jp/the21/detail/5343?


日本の人口密度を支えた「イネ」のパワー


「人類の歴史は、植物の歴史でもある」……。植物学者の稲垣栄洋氏はそう指摘する。確かに人類は植物を栽培することによって農耕を始め、技術を高め、文明を生み出した。そして、そこから生まれた富を争って戦争が始まった。また、イネ、コムギ、コショウ、トウガラシといった植物は、人々の食生活や文化をも変えてきた。

では、植物から見ると歴史はどのように見えるのだろうか。中でも日本人にとって極めて身近な「コメ」について、稲垣氏の著書『世界史を大きく動かした植物』を元に解き明かしていただいた。

イネはコムギの数倍の生産性を誇る

イネはもとをたどれば東南アジアを原産とする外来の植物である。しかし、今ではコメは日本人の主食であり、神事や季節行事とも深く結びついている。日本の文化や日本人のアイデンティティの礎は稲作にあると言われるほど、日本では重要な作物となっているのだ。

どうしてイネは日本人にとってこれほどまでに重要な存在となったのだろうか。

イネは東南アジアなどでも盛んに作られているが、数ある作物のうちの一つでしかない。食べ物の豊富な熱帯地域では、イネの重要性はそれほど高くないのである。

日本列島は東南アジアから広まったイネの栽培の北限にあたる。

イネはムギなどの他の作物に比べて極めて生産性の高い作物である。イネは1粒の種もみから700〜1000粒のコメがとれる。これは他の作物と比べて驚異的な生産力である。

15世紀のヨーロッパでは、コムギの種子をまいた量に対して、収穫できた量はわずか3〜5倍だった。これに対して17世紀の江戸時代の日本では、種子の量に対して20〜30倍もの収量があり、イネは極めて生産効率が良い作物だったのである。現在でもイネは110〜140倍もの収量があるのに対して、コムギは20倍前後の収量しかない。

「コメと味噌汁」は栄養学的に優れている

さらにコメは栄養価に優れている。炭水化物だけでなく、良質のタンパク質を多く含む。

さらにはミネラルやビタミンも豊富で栄養バランスも優れている。そのため、とにかくコメさえ食べていれば良かった。

唯一足りない栄養素は、アミノ酸のリジンである。ところが、そのリジンを豊富に含んでいるのがダイズである。そのため、コメとダイズを組み合わせることで完全栄養食になる。ご飯と味噌汁という日本食の組み合わせは、栄養学的にも理にかなったものなのだ。

かくしてコメは日本人の主食として位置づけられたのである。

一方、パンやパスタの原料となるコムギは、それだけで栄養バランスを満たすことはできない。コムギだけではタンパク質が不足するので、どうしても肉類などを食べる必要がある。そのため、コムギは主食ではなく、多くの食材の一つとして位置づけられているのである。
稲作に適した日本列島

さらに日本列島はイネの栽培を行うのに恵まれた条件が揃っている。

イネを栽培するには大量の水を必要とするが、幸いなことに日本は雨が多い。

日本の降水量は年平均で1700ミリであるが、これは世界の平均降水量の2倍以上である。日本にも水不足がないわけではないが、世界には乾燥地帯や砂漠地帯が多い中で、水資源に恵まれた国なのである。

日本は、モンスーンアジアという気候帯に位置している。モンスーンというのは季節風のことである。アジアの南のインドから東南アジア、中国南部から日本にかけては、モンスーンの影響を受けて雨が多く降る。この地域をモンスーンアジアと呼んでいるのである。

5月頃にアジア大陸が温められて低気圧が発生すると、インド洋の上空の高気圧から大陸に向かって風が吹き付ける。これがモンスーンである。モンスーンは、大陸のヒマラヤ山脈にぶつかると東に進路を変えていく。この湿ったモンスーンが雨を降らせていくのである。

そのため、アジア各地はこの時期に雨季となる。そして、日本列島では梅雨になるのである。

こうして作られた高温多湿な夏の気候は、イネの栽培に適しているのである。

それだけではない。冬になれば、大陸から北西の風が吹き付ける。大陸から吹いてきた風は、日本列島の山脈にぶつかって雲となり、日本海側に大量の雪を降らせる。大雪は、植物の生育に適しているとは言えないが、春になれば雪解け水が川となり、潤沢な水で大地を潤す。

こうして、日本は世界でも稀な水の豊かな国土を有しているのである。

「田んぼを作る」のは簡単ではない

もっとも、雨が多ければイネを栽培できるというほど単純なものではない。イネを栽培するためには、水をためる田んぼを作らなければならないのだ。ところが、これが簡単ではなかった。

日本の地形は山が急峻であることで特徴づけられる。山に降った雨は一気に平野へ流れ込み、増水してあちらこちらで水害を起こす。そのため、日本の平野部は人の住めないような湿地帯が広がっていたのである。そうかと言って高台に住んでいれば、雨水は一気に流れ去ってしまうから、田んぼに使う水を確保できない。雨が多くても、実際に田んぼを拓き、イネを栽培することは簡単ではなかったのである。

田んぼを作るには、山から流れる川の水を引き込んで、田んぼの隅々にまで行き渡らせることが必要である。こうして、大きな川から小さな川を引き、小さな川から田んぼに水を行き渡らせて、田んぼに水をためることによって、山に降った雨は一気に海に流れ込むことなく、地面を潤しながらゆっくりと流れるようになったのだ。

「何もない」景色に隠された途方もない努力

途方もない労力と時間を掛けて、人々は川の氾濫原を田んぼに変えていった。日本の国土にとって、田んぼを作る歴史は、激しい水の流れをコントロールすることに他ならなかったのである。

「田んぼはダムの役割がある」と言われるが、それは単に水をためているからではなく、急な河川の流れをなだらかにして、ゆっくりと流れながら大地を潤し、地下水を涵養することから、そう言われているのである。

戦国時代の日本では、同じ島国のイギリスと比べて、すでに6倍もの人口を擁していた。その人口を支えたのが、「田んぼ」というシステムと、「イネ」という作物だったのである。

ただ、私たち日本人にとって田んぼという風景は当たり前すぎて、田んぼしかないところは「何もない」と表現されてしまう。そして、田んぼが埋め立てられてコンビニでもできれば、「何もなかったところに店ができた」と言われてしまう。

しかし、そこに田んぼがあるということは、血のにじむような先人たちの努力があったということなのである。

(『世界史を大きく動かした植物』より一部再編集)



115. 中川隆[-13420] koaQ7Jey 2018年7月09日 19:55:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16399]

兵馬俑はなぜ一重まぶた? 三つの説
2018年7月7日 10:48 発信地:中国 中新社
http://www.afpbb.com/articles/-/3181512
  
兵馬俑(2016年5月6日撮影、資料写真)。(c)CNS/ケイ利宇
始皇帝の兵馬俑(2015年6月27日撮影、資料写真)。(c)CNS/彭華


【7月7日 CNS】中国・陝西省(Shaanxi)西安市(Xi'an)の文化的な観光資源は実に豊かだ。周、秦、漢、唐などの王朝が、この地に無数の文化遺跡を残した。

 大雁塔(Big Wild Goose Pagoda)、鐘鼓楼(Bell Tower of Xi'an)、西安城壁(Fortifications of Xi'an)などがある。だが、最も世界を揺るがした遺跡は、「世界八番目の不思議」と呼ばれる秦の始皇帝の兵馬俑(Terracotta Army)だ。

 兵馬俑を見たことがある人は、その膨大さ、緻密さに感服させられただろう。

 千年もの間、黙々と始皇帝を守護してきた者たちが、全員一重まぶたであることに注目している人はそう多くない。

 兵馬俑の兵士が、なぜ一重まぶたなのか。実は考古学界でも、この問題は大きな論争になってきた。幾度もの議論を経て、諸説がある。

■その1・顔料の色落ち説

 兵馬俑の兵士は人間を模して製造されたため、表情は実に生き生きとしており、二重まぶたも一重まぶたの兵士も存在していたと考えられていた。しかし、二重まぶたは顔料を使用して描かれていたため、発掘された際に空気に触れ、酸化したことで顔料が色あせ、一重まぶたになったという説だ。

■その2・職人の手抜き説

 二重まぶたがないのは、仕事に手抜きがあり、わざと二重まぶたを描かなかったという説だ。

 ただ、この説にはあまり信ぴょう性がないように思われる。人に模して製造された大小の陶器製の兵士に、手抜きをするためだけにまぶたを描かないことがあろうか。秦の始皇帝が、職人に適当な仕事をさせたとも考えにくい。

■その3・一重まぶたが漢民族のシンボル説

 ある専門家は、兵馬俑は芸術品であり、人を模してありのままの姿で製造されたと考えている。そのため、兵士が一重まぶたであった原因は、当時のモデルとなった人間が一重まぶただったことに由来している。

 2200年前、秦を統治していたのは、西北地域に住んでいた人々で、モンゴル人や東アジアにルーツがある人種で、相対的に単一民族だ。この民族の身体的特徴の一つが一重まぶたであり、蒙古ひだ(目頭を覆う部分にある皮膚のひだ)があることだ。

 医学用語では、「内眼角贅皮(ないがんかくぜいひ)」と呼ばれ、東アジアや東南アジアの民族に多くみられる。

 晋の時代、漢民族は各地の民族と同化し、秦や漢時代のように単一民族ではなくなった。特に、魏晋南北朝時代には、北方の遊牧民族が南下して来た影響で、漢民族は南方の土着民族と同化した。そのため、唐時代の壁画や彫刻には、鼻が高く目が大きい胡人の姿が見られる。

 一重まぶたとつり目は、漢民族の変わらぬ美意識の主流だ。唐時代の美人画では、細い目のつり目か一重まぶたが多く描かれている。

 千年の月日が流れ、秦の兵馬俑はすでに秦帝国の栄枯盛衰を忘れ、血統に関心を払う者はいない。兵馬俑の形状や表情を通して、当時の文明や社会の様子を理解することができる。今日に至るまで、兵馬俑は人類の歴史と文化の宝庫であり、依然として無数の神秘が眠っている。新たな発見とその継承が待たれる。(c)CNS/JCM/AFPBB News
.
※この記事は、CNS(China News Service)のニュースをJCMが日本語訳したものです。CNSは1952年に設立された中華人民共和国の国営通信社です。
http://www.afpbb.com/articles/-/3181512


116. 中川隆[-13462] koaQ7Jey 2018年7月14日 11:03:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16558]

最先端技術を用いた古人骨全ゲノム解析から東南アジアと日本列島における人類集団の起源の詳細を解明
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf


金沢大学の覺張隆史特任助教(人間社会研究域附属国際文化資源学研究センター),佐藤丈寛助教および田嶋敦教授(医薬保健研究域医学系・革新ゲノム情報学分野)は,コペンハーゲン大学が中心となって進めている古代ゲノム研究の国際研究チームと共に,日本列島の縄文時代遺跡や東南アジアから出土した古人骨26 個体のゲノム解析(※1)を実施し,今日の東南アジアで生活する人々の起源と過去の拡散過程を解明しました。

今回,ゲノム解読がなされた縄文人骨は,愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚遺跡(※2)から出土した約2千500 年前の縄文晩期の女性人骨(※3)で,縄文人の全ゲノム配列(※4)を解読した例としては世界で初めての公表となります。

この縄文人骨1 個体の全ゲノム配列をもとに,現代の東アジア人,東南アジア人,8
〜2 千年前の東南アジア人など80 を超える人類集団や世界各地の人類集団のゲノムの比較解析を実施した結果,現在のラオスに約8 千年前にいた狩猟採集民の古人骨と日本列島にいた約2 千500 年前の一人の女性のゲノムがよく似ていることが分かりました。

このように,本研究は,縄文時代から現代まで日本列島人は大陸南部地域の人々と遺伝的に深いつながりがあることが,独立した複数の国際研究機関のクロスチェック分析(※5)によって科学的に実証された初めての研究として位置付けられます。

特に,縄文人骨のゲノム解析は,覺張隆史特任助教,北里大学医学部の太田博樹准教授,国立歴史民俗博物館の山田康弘教授を中心とした『縄文人ゲノム解読プロジェクト(※6)』の成果の一つとなります。

現在,覺張隆史特任助教らはこの縄文女性を主役としたより詳細な解析結果について,別の論文を発表準備中です。

これらの知見は,日本列島に居住していた各時代の人々の起源の解明に将来活用されるだけでなく,広く東アジア・東南アジアにおける人類集団の起源と拡散に関する研究に大きな寄与をもたらすことが期待されます。

本研究成果は,2018 年7 月6 日に国際学術誌「Science」に掲載されました。また,7月8 日〜12 日に,横浜市パシフィコ横浜で開催されている国際分子生物進化学会において,覺張隆史特任助教らが縄文人の全ゲノム配列を中心とした発表を行います。

【研究の背景】

過去にあった人類の拡散過程を復元することは,今に生きる人々の起源や成立過程,
各地域に居住する人々が持つ遺伝的な特徴の獲得や疾病・病原菌耐性の仕組みを追求す
る上で重要な位置付けにあります。従来の遺伝学的研究では,今に生きる現代人の遺伝
情報から人類の拡散ルートの復元を試みてきました。しかし,現代人集団間の遺伝的な
類似性から,実際に過去の人類の移動ルートが分かるわけではありません。なぜなら,
各時代・各地域の人類集団は常に移動する可能性が伴うため,いつ・どこに・どのよう
な遺伝情報があったかを復元しない限り,過去の人類の拡散過程を正確に復元すること
はできないからです。このため,現代人の遺伝情報から移動ルートを復元するには,多
くの仮定の上で推理するしかありませんでした。
近年のDNA 解析技術の革新によって,超微量DNA から全遺伝情報(全ゲノム)を解読
することが可能になり,遺跡から出土する人骨から直接的に過去の人々の全ゲノム配列
を決定できる時代が到来しました。とはいえ,遺跡出土人骨の全ゲノム解析には,まだ
技術的課題が複数あります。その中で,特に克服しなければならない課題が2 つありま
した(図1)。一つ目は,温暖湿潤地域における遺跡出土人骨の分析が成功していなかっ
たことです。二つ目は,微量DNA からの分析の問題点となる現代人由来のDNA 混入(コ
ンタミネーション)の問題です。このコンタミネーションの可能性を客観的に評価する
ためには,複数の独立した研究機関が相互チェックを行いゲノム解読を達成する,すな
わち,科学的信頼性(Scientific Authenticity)を高める共同研究体制の確立が必須
となります。
これらの課題を克服するために,本国際共同研究グループはDNA 保存状態が極めて劣
悪な環境下にある遺跡出土人骨から効率的に古代人由来のDNA を抽出する技術開発と評
価システムを確立し,現代人由来のコンタミネーションの影響を客観的に評価するため
の国際共同研究体制の構築を進めました。その結果,今までの技術や研究体制では科学
的な復元が不可能であった温暖湿潤気候の東南アジアにおける人類の拡散と遺伝的交
流の復元を世界に先駆けて達成しました(図2)。
さらに,先行研究では縄文人の非常に限られた範囲の部分ゲノム配列(Partial Genome
Sequence)のみが公開されていましたが,本研究では全ゲノム配列(Whole Genome
Sequence)の解読に成功しました。このように,日本列島のような保存状態が劣悪な環
境においても全ゲノム配列の取得が可能であることを示した最初の成功例となり,今後
の古代ゲノム研究の大きな躍進につながるといえます。

図1.研究背景の概念図
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf

図2.古人骨ゲノム分析の実験風景(北里大学医学部の古代DNA 分析専用クリーンルーム内にて)
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf


(左上:現代人由来のDNA が少ない環境下にあるクリーンベンチ内でのDNA 抽出。

右上:
古人骨を分析するクリーンルームでは1 回使い捨ての防塵服と専用のゴム手袋を使用。

下:縄文人骨の側頭骨からの試料採取。)


【研究成果の概要】

本論文で国際共同研究チームは,DNA の保存環境として最も悪い東南アジアの遺跡出
土人骨25 個体と日本の縄文人骨1 個体の計26 個体の古人骨からDNA 抽出を実施し,ゲ
ノム配列決定に成功しました。得られた古人骨ゲノムデータと世界各地の現代人集団の
ゲノムデータを比較した結果,東南アジアに居住していた先史時代の人々は,6 つのグ
ループに分類できることが分かりました(図3)。
グループ1 は現代のアンダマン諸島のオンゲ族やジャラワ族,マレー半島のジャハイ
族と遺伝的に近い集団で,ラオスのPha Faen 遺跡(約8 千年前)から出土したホアビ
ン文化という狩猟採集民の文化を持つ古人骨と,マレーシアのGua Cha 遺跡(約4 千年
前)の古人骨がそのグループに分類されました。また,このグループ1 に分類された古
人骨のゲノム配列の一部は,驚くことに日本の愛知県田原市にある伊川津貝塚から出土
した縄文人(成人女性)のゲノム配列に類似していたことが分かりました。さらに,伊
川津縄文人ゲノムは,現代日本人ゲノムに一部受け継がれていることも判明しました。
一方,他のグループ2〜6 は農耕文化が始まる新石器時代から約500 年前までの古人
骨で,ホアビン文化の古人骨とは遺伝的に大きく異なっており,それぞれ異なる拡散と
遺伝的交流(すなわち混血)の歴史を持っていることが分かってきました。グループ2
はムラブリ族などの現代オーストロアジア語族と遺伝的に近く,現代東アジア集団とは
遺伝的な構成要素をあまり共有していないことが分かりました。さらにグループ1 と東
アジア集団が分かれた後に,グループ1 からグループ2 への混血の痕跡が見つかりまし
た。また,グループ3 は現代東南アジア集団のタイ・カダイ語族やオーストロネシア語
族と遺伝的に近く,グループ4 は現代の中国南部地域の人々と遺伝的に近いことも分か
りました。さらに,グループ5 は,現代のインドネシア西部の人々と遺伝的に近く,グ
ループ6 は,いわゆる旧人に分類される古代型人類であるデニソワ人からの部分的な混
血の痕跡なども見られました。
このように,部分的には中国南部の少数民族からの遺伝的な影響があったり,台湾な
どの地域へも遺伝的なつながりがあったりと,新石器時代の東南アジアの人々は単純に
元々住んでいた狩猟採集民がそのまま農耕を取り入れたという静的な状態ではなく,大
陸内と島嶼部で複数の大きな移住の過程で徐々に農耕を取り入れて行ったことが分か
ってきました。従来の考古学的な視点からは,これらの時期には稲作・雑穀などの農耕
文化を持つ人類集団が東南アジアに多数入植して原住民と置き換わったというシンプ
ルな「2 層構造仮説」が提唱されてきました。本研究成果では,すでに稲作文化を持っ
ていた中国南部からの遺伝的な影響は部分的で,人々が完全に置き換わったということ
ではないことが判明しました。その大きな移住の波が少なくとも4 回以上はあったこと
が解析の結果分かってきたことから,このような東南アジアの人々の移動を「複合モデ
ル」という新しい枠組みで捉え直すことになりました。
本研究は,考古遺物でしか人類の拡散の議論ができないと従来考えられてきた東南ア
ジア地域において,古人骨のゲノム分析により人類の拡散を解明した初の成功例になり
ました。今後,同様の分析を様々な地域に応用することで,各地域の詳細な人類の移動
史を科学的に評価することが可能になったことが,本研究の最も大きな成果といえます。

図3.古人骨ゲノムデータから復元された人の拡散ルート
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf

【今後の展開】

本研究で得られた東南アジア古人骨および縄文人骨のゲノムデータは,広く東アジア
の人々の起源研究の基礎情報として活用されると期待されます。また,縄文時代におけ
る古人骨の全ゲノムデータは,現代の韓国,中国,ロシアなどといった日本列島周辺に
同時期に居住していた東アジア集団との遺伝的な類似性を直接比較することを可能に
しました。現在,より広い地域の人類集団との比較研究を進めています。また,本研究
の縄文人の全ゲノム配列決定は,ヒトゲノム計画など現代人のゲノム解析におけるドラ
フト配列(Draft Genome Sequence)決定に相当します。今後は,より精度の高い配列
決定(Complete Genome Sequence)を目指します。
本研究は人類学と考古学が綿密な協力のもと得られたもので,縄文人の起源と多様性
に関する研究の一つのスタート地点に立ったと言えます。今後,より多くの地域から複
数の縄文人骨のゲノム解析をすることで,縄文人の遺伝的な多様性を列島規模で評価で
きるようになります。そうすることで,地域間の人々との交流の実態や,土器や石器な
どの考古遺物といったモノの流れと,ヒトの流れの関係性の評価につながると期待され
ます。このように本研究の成果を礎に全く新しい人類学・考古学の発展が期待されます。

【用語解説】

※1 ゲノム解析
生物が持つ遺伝情報の広範囲な解析のこと。


※2 伊川津(いかわづ)貝塚遺跡
愛知県田原市に位置する縄文時代後晩期の貝塚遺跡。明治期から現代までに200 体以
上の人骨が検出されている日本で最も代表的な縄文時代遺跡。小金井良精や鈴木尚など
著名な人類学者が人骨の形態学的な研究を進めてきた。同市は,他にも,吉胡貝塚,保
美貝塚などの縄文時代を代表する貝塚が古くから調査されており,各遺跡から非常に多
くの人骨が検出されている。


※3 約2 千500 年前の縄文晩期の女性人骨
2010 年度に伊川津貝塚から出土した縄文人骨。近年の研究では,日本列島における弥
生時代の開始は3000 年前とされているが,弥生文化の到来時期は地域ごとに異なる。
今回の伊川津貝塚出土の成人女性人骨は共伴した土器などから,五貫森式土器の時期の
ものと判明しており,渥美半島においてこの時期はまだ縄文時代の文化を残している。
また,分析対象となった女性人骨は形態学的に典型的な縄文人の特徴を有していた。


※4 全ゲノム配列
生物が持つDNA 配列の中でも,タンパク質の発現に関連する遺伝子領域のDNA 配列だ
けでなく,遺伝子以外の領域全てを含めた広い範囲のDNA 配列のこと。


※5 クロスチェック分析
異なる分析機関,異なる分析手法,異なる解析手法で,独立して同じ結果が得られる
かを評価する分析手法のこと。古代DNA 研究で重要な科学的指標の一つに当たる。


※6 縄文人ゲノム解読プロジェクト
日本の考古学者と人類学者,遺伝人類学者,ゲノム研究者などから構成される研究プ
ロジェクト。
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf


117. 中川隆[-13460] koaQ7Jey 2018年7月14日 11:06:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16558]

縄文関係の記事はこちらに纏めました:

「縄文時代はよかった。」で?どうやって縄文時代のいい所を取り入れるのか?
http://www.asyura2.com/0505/dispute21/msg/430.html





118. 中川隆[-13459] koaQ7Jey 2018年7月14日 11:15:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16558]

縄文人、ラオス・マレーシアにルーツ? 金沢大の研究グループがゲノム配列解読
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1531327113/

想定される日本人の祖先の移動ルート
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20180711004656_comm.jpg

 約2500年前の縄文人の人骨に含まれる全ゲノム(遺伝情報)を解析した結果、約8千年前の東南アジアの遺跡で出土した古人骨から得られたゲノム配列と似ていることが、金沢大学の覚張(がくはり)隆史特任助教(生命科学)らの研究グループの調査でわかった。縄文人の全ゲノム配列の解読に成功したのは世界で初めて。日本人の祖先が、どこから来たのかを考えるうえで注目されている。

 研究成果は11日、横浜市で開催中の国際分子生物進化学会で報告されたほか、6日付の米科学誌サイエンス電子版に発表された。

 覚張さんらの研究グループは、コペンハーゲン大学を中心とした国際研究チームと共同で調査。愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚で出土した縄文時代晩期の成人女性の人骨1体について全ゲノム解析を行った。日本のような温暖湿潤気候の地域では、人骨のDNAは劣化しやすく調査は難しいとされてきたが、最新の研究手法で縄文人の全ゲノム配列を初めて解読した。

 この結果を東南アジア各国の遺跡で出土した人骨25体や現代人のデータと比較すると、東南アジアの先史時代の人々は六つのグループに分類できることが判明。そのうちの約8千年前のラオスと、約4千年前のマレーシアの遺跡でみつかった人骨のグループのゲノム配列の一部が、伊川津貝塚の人骨と類似していた。

 日本人の祖先は、約4万年前以…

朝日新聞デジタル 2018年7月11日19時37分
https://www.asahi.com/articles/ASL7B5V8QL7BPTFC018.html

金沢大学プレスリリース:
最先端技術を用いた古人骨全ゲノム解析から東南アジアと日本列島における人類集団の起源の詳細を解明
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf

オンゲ族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%B2%E6%97%8F

ジャラワ族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%83%AF%E6%97%8F

ジャハイ族
https://en.wikipedia.org/wiki/Jahai_people

https://i.imgur.com/DMUIpO0.jpg
http://www.mohr-mcpherson.com/blog/wp-content/uploads/2015/07/9896889874_a000749cc7_b-1024x781.jpg


●数部族に分かれていますが、まぎれもない絶滅危惧部族です。

●Y-DNAの「D*」遺伝子を持つアンダマン諸島先住民は、50000年〜60000年前頃には
当時まだ陸続きの陸橋だったアンダマン諸島弧部分に住み着いたと考えているよ
うです。アボリジニの先祖Y-DNA 「C4」がオーストラリア亜大陸に到達した頃と同
じ古さです。もしかすると一緒に移動していた可能性もあります。

●彼らの、外来者をすべてを殺す習慣はオリジナルの「D」遺伝子や言語を見事に維
持し続けた、と考えられています。 アンダマン諸島先住民は縄文人の先祖の血を  守ってきてくれているのです....感謝!
出アフリカしたホモサピエンスの生きた化石なのです。日本人は彼らを大切に保  護しなくてはなりません。

●アンダマン諸島において、耕作は未知でした、そして、彼らは特有のブタを狩っ  たり、釣り、などで食生活し、集合して生活をしていました。

●唯一の兵器が、弓と、手斧と木製のもりでした。

●絶滅したタスマニアの先住民とアンダマン諸島先住民のみが19世紀に入っても火
を作る方法を全く知らなかった人々だったそうです、 木への落雷によって引き起  こされた炎から燃え残りを慎重に保存したそうです。

●ところがイギリス人の上陸で1867年のアンダマン諸島では、たくさんのOnge部族  民がイギリス人の海軍に殺されました。

●1940年代に、Jarawa部族は彼らの敵意のための日本軍によって爆撃されました。
日本軍は世界でチベット人と並ぶ唯2の縄文人の親戚民族であるアンダマン諸島  先住民を爆撃するという愚挙を行ったのです。大反省....です。

イギリスの最初の上陸時にはおよそ5,000人の先住民がいたそうですが、虐殺、 文明国が持ち込んだ病気、アルコール中毒、 インド亜大陸やビルマ(カレン族)か らの移住者などの影響で、1901年までには600人に減り、
1927年には100人の生存者 だけになったそうです。 1961年には19人に減りましたが、現在約50人に回復してい るそうです。

その間絶滅した部族はかなりあるそうです。アンダマン諸島の古代先 住民 Y-DNA「D*]が絶滅する前に、
同じ「D」の遺伝子を持つ日本人が彼らの調査を行 えるといいですね!

https://web.archive.org/web/20160223020324/http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-6.htm

http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-6.htm
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/21467/21109/show_image/sanjuro.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/01/07/andamanese.jpg

『アンダマン島土人は地球上最小の人種なるべし。

二、三の人類学者は南アのブッシュ人、アメリカの掘食(デイガ)インディアン、フィジ島のテラ土人等をもって最小なりとなせども、

本島の土人は平均身長四フィート以下にして、成人者中にもはるかにこれに満たざるもの少なからず。

一度信をおくときは、きわめて厚き友情を示すことあるも、一般には残忍獰猛にして気むずかしく、馴致しがたき人種なり』

(延原謙訳)

http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/21467/21109/66999919


119. 中川隆[-13444] koaQ7Jey 2018年7月17日 05:45:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16603]
東南アジア民族の形成:日本の縄文人も含む(7月6日号Science掲載論文)2018年7月9日

古代人のゲノム解析が進み、アフリカから、ヨーロッパ、さらにはオセアニア、アメリカでの各民族の形成過程が、ゲノムから明らかにされつつあるが、少なくとも一般紙に発表される論文レベルでは、東南アジアから我が国にかけての民族形成過程について調べた論文をなかなか目にすることはない。

ところがようやく、7月6日号のScienceに東南アジアから我が国の縄文人までカバーした古代人ゲノムの研究が発表され、これまでのフラストレーションが少し解消した。タイトルは、「The prehistoric peopling of Southeast Asia(先史時代の東南アジアの民族形成)」だ。研究の主体はケンブリッジ大学だが、我が国の研究者もさまざまな形で参加しており、そのおかげで縄文人についての記述が多く、初めて日本民族形成のイメージをつかむことができた。

この研究ではマレーシア、タイ、ベトナム、ラオス、インドネシア、フィリピン、そして愛知県伊川津貝塚から、2ー8千年前の人骨を集め、そのDNAを解析している。東南アジアや我が国で、古代人ゲノム研究が進まない理由は、研究レベルの問題もあるが、もう一つは高温多湿地帯のためDNAの変性が激しいことがある。この研究では、この問題をMYbaitsと呼ばれる液体中で人間のDNAを精製する方法を用いて、低い精度ではあるがなんとか全ゲノムを解読し比較に用いている。

この結果、東南アジア出土の古代人ゲノムはgroup1ー6までの6グループに分けることができる。例えばgroup1にはマレーシアHoabinhiansで発見された東南アジア最古の人骨の末裔、マレー半島のÖngeやJehaiが分類され、Group2にはベトナムの新石器時代から青銅器時代の人骨が分類される。他のGroupの構成の詳細は省くが、このように分類した先史時代のゲノムと現代の各民族を比べることで、西から移動してきた現生人類が東南アジアに定住する過程を描くことが可能になる。

論文は50近くの図や表を擁する膨大な研究で、ここでは詳細を省いて以下の2点だけを紹介する。

1) この研究が行われた動機の一つは、各民族の定住を促した農業がどのように東南アジアに広まったかを明らかにすることだ。これまで、Hoabinhiansの狩猟採取民族が外部の影響なしに農業を発展させ、東南アジアに広めたとする説と、東アジアで農業を始めた民族が、徐々に東南アジアの狩猟採取民を征服して置き換わっていったという説が唱えられていた。今回、古代人ゲノムが解析され、それぞれの関係を調べることで、東南アジアの民族が、文化的に優位な民族が他の民族を置き換えるのではなく、混血を繰り返しながら文化を共有していったことが明らかになった。これは例えばヨーロッパの先住民が、Yamnaya民族に置き換わってしまって、インドヨーロッパ語文化圏が形成されたのとは全く違う。すなわち、異なる民族間でのある種の平和的融合を通して混血と定住が進み、各地域の民族が形成されたのが、東南アジアの特徴と言える。事実それぞれのグループにはインドやパプアニューギニア民族からの遺伝子流入も見られることから、この融合範囲はかなり広い。

2) 次は我々日本人にとって最も関わりのある問題、すなわち縄文人や現代日本民族の形成過程だ。驚くことに、縄文人はなんとマレーシアを中心に分布するGroup1に最も近い。ただ、Group1に分類していいかと言われるとかなり違っており、東アジア民族からの遺伝子流入の影響を大きく受けている。すなわち、マレーシアに誕生したGroup1の末裔が東南アジアを経て日本に到達するまでに、その途上の民族とおそらく平和的に混血を繰り返して日本に到達したのが縄文人になる。また、伊川津縄文人を2.5-3千年前とすると、その後の3000年のうちに更に東アジア人と混血して新しい日本人を形成したことだ。おそらく、弥生人の解析が進めばこの点は確認できるのではないだろうか。もちろん、伊川津貝塚からの一体だけで縄文人の由来についての結論を急ぐのは危険だが、人類起源の地アフリカからもっとも離れた島国に定住した日本民族が、様々な民族とゲノムでつながっていても何の不思議もない。

東南アジアの定住と民族形成が征服ではなく融合が基本だったことは、歴史時代多くの争いがあったとはいえ、アジアの精神性の基盤になったのかもしれない。タイの国立博物館を訪れた時、タイ民族が7種類の民族のゲノムが混じり合ってできていることを誇りにしているビデオ展示を見て、純血を重要視しない王国があると感心した。しかも、その民族の中には日本民族も含まれている。この論文を読んで、民族の純血を叫ぶのではなく、逆に他民族との深い関係を誇りにする日本人にでありたいと思うとともに、私たちが深く東南アジアとも繋がっていることを実感した。
http://aasj.jp/news/watch/8656


120. 中川隆[-13906] koaQ7Jey 2018年7月23日 08:51:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17263]
2018年07月23日
日本の移民増加と「渡来人」の歴史
今後は年10万人ペースで増加する


画像引用:外国人労働者の就労拡大 首相が検討開始を指示 単純労働者の増加には懸念も
https://www.sankei.com/politics/news/180220/plt1802200050-n3.html

国内の外国人は300万人か

日本政府は事実上の移民になり得る外国人労働者を増やしていて、外国人就労者人数は約127万人に増えました。

2007年に50万人だったのが10年間で約80万人増、毎年平均8万人外国人労働者が増えている計算です。

中長期在留外国人数は256万で、10年前は約205万人だったので、毎年平均5万人ずつ増加しています。

中長期在留者は必ずしも労働者ではなく、労働者は短期滞在の場合もあるので、全体ではもっと多いでしょう。

政府はさらに労働者の受け入れを加速するとしているので、年10万人増にペースアップします。

すると10年後には観光客を除く外国人滞在者数は、350万超になり、日本の人口の3%になります。


継続して仕事を得て住居を構えて家庭を持ったら、このうちの何割かは永住し、子供は日本に帰化するでしょう。

(父母ともに外国人の子供は、帰化しないかぎり日本国籍にはならない。)

増えていった外国人在留者は何世代かかけて、日本国籍を取得して日本人になっていくと予想できます。


アメリカなど一部の国では、自国で生まれた子供は、父母の国籍と関係なく自動的に国籍が与えられている。

今後日本で生まれた外国人の子供について、差別的だと国籍問題に発展する可能性があります。

増え続ける外国人に法律など受け入れ準備が、まったく追いついていない状況です。


渡来系弥生人の集落が現在の「人権地域」に重なっている

画像引用:http://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/images/kangou-bunpu.gifg


渡来人はどうなったのか

移民というと日本には無関係だったと思われていますが、日本には数千年前から「渡来人」という移民が存在しました。

教科書にも出てきましたが、最初の渡来人が上陸したのは今からおよそ3000年前、福岡の北側の海岸だったと考えられます。

この渡来人が最初の本格的な水田を作ったので、最も古い水田跡をたどれば、最初の上陸地点までおおよそ推測できます。


3000年前の西日本は縄文時代後期の寒冷化によって人口が激減し、1平方キロあたり0.1人しか住んでいませんでした。

東日本では10倍の人口密度でしたが、渡来人は縄文人と争ったのではなく、無人地帯に住み着いたと考えられています。

九州の縄文人と渡来人が混じり合って「弥生人」という人種が生まれ、さらに関西の縄文人と混じり合って関東の縄文人とも混じり合います。


こうして縄文時代から弥生時代に移行し、古墳時代へと続いていきます。

渡来人はどうなったのかというと、最初に九州に上陸した人たちは完全に縄文人と混じり合い、弥生人すなわち日本人と同化しました。

古墳時代以降、特に百済滅亡前後に渡来してきた人たちは、長く同化せず独自の文化や風習を保ち続けます。


今でも渡来人集落の周辺はいわゆる「人権地域」が多く、他とは違う文化を持つ地域が多い。

地域的な偏りを見ると、こうした地域の始まりは百済滅亡後に移住してきた人たちと推測できる。

最初の渡来人は文字や国家を持たなかったので、同じような縄文人と同化したが、百済や新羅はすでに完成した国家だった。


受け入れた日本側も独自の日本文化を築いていて、両者は1000年以上を経た現在も完全には混じり合っていない。


外から来た人たちと前から住んでいた人たちが、「一緒に住めばいずれ一つになる」ような事は決してないのが分かります。


外国の例を見ても、ひとつの国の中で分断し、別々の人種や文化を作り、縄張り争いが始まります。
http://www.thutmosev.com/archives/76917181.html


121. 中川隆[-13834] koaQ7Jey 2018年7月29日 04:50:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17374]

最先端技術を用いた古人骨全ゲノム解析から東南アジアと日本列島における人類集団の起源の詳細を解明 2018年7月25日
https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/58540


金沢大学人間社会研究域附属国際文化資源学研究センターの覺張隆史特任助教,医薬保健研究域医学系・革新ゲノム情報学分野の佐藤丈寛助教および田嶋敦教授は,コペンハーゲン大学が中心となって進めている古代ゲノム研究の国際研究チームと共に,日本列島の縄文時代遺跡や東南アジアから出土した古人骨26個体のゲノム解析(※1)を実施し,今日の東南アジアで生活する人々の起源と過去の拡散過程を解明しました。

今回,ゲノム解読がなされた縄文人骨は,愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚遺跡(※2)から出土した約2千500年前の縄文晩期の女性人骨(※3)で,縄文人の全ゲノム配列(※4)を解読した例としては世界で初めての公表となります。

この縄文人骨1個体の全ゲノム配列をもとに,現代の東アジア人,東南アジア人,8〜2千年前の東南アジア人など80を超える人類集団や世界各地の人類集団のゲノムの比較解析を実施した結果,現在のラオスに約8千年前にいた狩猟採集民の古人骨と日本列島にいた約2千500年前の一人の女性のゲノムがよく似ていることが分かりました。

このように,本研究は,縄文時代から現代まで日本列島人は大陸南部地域の人々と遺伝的に深いつながりがあることが,独立した複数の国際研究機関のクロスチェック分析(※5)によって科学的に実証された初めての研究として位置付けられます。

特に,縄文人骨のゲノム解析は,覺張隆史特任助教,北里大学医学部の太田博樹准教授,国立歴史民俗博物館の山田康弘教授を中心とした『縄文人ゲノム解読プロジェクト(※6)』の成果の一つとなります。

これらの知見は,日本列島に居住していた各時代の人々の起源の解明に将来活用されるだけでなく,広く東アジア・東南アジアにおける人類集団の起源と拡散に関する研究に大きな寄与をもたらすことが期待されます。

本研究成果は,2018年7月6日に国際学術誌「Science」に掲載されました。

https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/58540
図 古人骨ゲノムデータから復元された人の拡散ルート

【用語解説】

※1 ゲノム解析
生物が持つ遺伝情報の広範囲な解析のこと。

※2 伊川津(いかわづ)貝塚遺跡
愛知県田原市に位置する縄文時代後晩期の貝塚遺跡。明治期から現代までに200体以上の人骨が検出されている日本で最も代表的な縄文時代遺跡。小金井良精や鈴木尚など著名な人類学者が人骨の形態学的な研究を進めてきた。同市は,他にも,吉胡貝塚,保美貝塚などの縄文時代を代表する貝塚が古くから調査されており,各遺跡から非常に多くの人骨が検出されている。

※3 約2千500年前の縄文晩期の女性人骨
2010年度に伊川津貝塚から出土した縄文人骨。近年の研究では,日本列島における弥生時代の開始は3000年前とされているが,弥生文化の到来時期は地域ごとに異なる。今回の伊川津貝塚出土の成人女性人骨は共伴した土器などから,五貫森式土器の時期のものと判明しており,渥美半島においてこの時期はまだ縄文時代の文化を残している。また,分析対象となった女性人骨は形態学的に典型的な縄文人の特徴を有していた。

※4 全ゲノム配列
生物が持つDNA配列の中でも,タンパク質の発現に関連する遺伝子領域のDNA配列だけでなく,遺伝子以外の領域全てを含めた広い範囲のDNA配列のこと。

※5 クロスチェック分析
異なる分析機関,異なる分析手法,異なる解析手法で,独立して同じ結果が得られるかを評価する分析手法のこと。古代DNA研究で重要な科学的指標の一つに当たる。

※6 縄文人ゲノム解読プロジェクト
日本の考古学者と人類学者,遺伝人類学者,ゲノム研究者などから構成される研究プロジェクト。
https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/58540

以下、詳しい説明(PDF)より抜粋
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【研究成果の概要】

本論文で国際共同研究チームは,DNA の保存環境として最も悪い東南アジアの遺跡出土人骨25 個体と日本の縄文人骨1 個体の計26 個体の古人骨からDNA 抽出を実施し,ゲノム配列決定に成功しました。得られた古人骨ゲノムデータと世界各地の現代人集団のゲノムデータを比較した結果,東南アジアに居住していた先史時代の人々は,6 つのグループに分類できることが分かりました(図3)。

グループ1 は現代のアンダマン諸島のオンゲ族やジャラワ族,マレー半島のジャハイ族と遺伝的に近い集団で,ラオスのPha Faen 遺跡(約8 千年前)から出土したホアビン文化という狩猟採集民の文化を持つ古人骨と,マレーシアのGua Cha 遺跡(約4 千年前)の古人骨がそのグループに分類されました。

また,このグループ1 に分類された古人骨のゲノム配列の一部は,驚くことに日本の愛知県田原市にある伊川津貝塚から出土した縄文人(成人女性)のゲノム配列に類似していたことが分かりました。

さらに,伊川津縄文人ゲノムは,現代日本人ゲノムに一部受け継がれていることも判明しました。

一方,他のグループ2〜6 は農耕文化が始まる新石器時代から約500 年前までの古人骨で,ホアビン文化の古人骨とは遺伝的に大きく異なっており,それぞれ異なる拡散と遺伝的交流(すなわち混血)の歴史を持っていることが分かってきました。

グループ2はムラブリ族などの現代オーストロアジア語族と遺伝的に近く,現代東アジア集団とは遺伝的な構成要素をあまり共有していないことが分かりました。

さらにグループ1 と東アジア集団が分かれた後に,グループ1 からグループ2 への混血の痕跡が見つかりました。

また,グループ3 は現代東南アジア集団のタイ・カダイ語族やオーストロネシア語族と遺伝的に近く,グループ4 は現代の中国南部地域の人々と遺伝的に近いことも分かりました。

さらに,グループ5 は,現代のインドネシア西部の人々と遺伝的に近く,グループ6 は,いわゆる旧人に分類される古代型人類であるデニソワ人からの部分的な混血の痕跡なども見られました。

このように,部分的には中国南部の少数民族からの遺伝的な影響があったり,台湾などの地域へも遺伝的なつながりがあったりと,新石器時代の東南アジアの人々は単純に元々住んでいた狩猟採集民がそのまま農耕を取り入れたという静的な状態ではなく,大陸内と島嶼部で複数の大きな移住の過程で徐々に農耕を取り入れて行ったことが分かってきました。

従来の考古学的な視点からは,これらの時期には稲作・雑穀などの農耕文化を持つ人類集団が東南アジアに多数入植して原住民と置き換わったというシンプルな「2 層構造仮説」が提唱されてきました。

本研究成果では,すでに稲作文化を持っていた中国南部からの遺伝的な影響は部分的で,人々が完全に置き換わったということではないことが判明しました。その大きな移住の波が少なくとも4 回以上はあったことが解析の結果分かってきたことから,このような東南アジアの人々の移動を「複合モデル」という新しい枠組みで捉え直すことになりました。

本研究は,考古遺物でしか人類の拡散の議論ができないと従来考えられてきた東南アジア地域において,古人骨のゲノム分析により人類の拡散を解明した初の成功例になりました。今後,同様の分析を様々な地域に応用することで,各地域の詳細な人類の移動史を科学的に評価することが可能になったことが,本研究の最も大きな成果といえます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=337608


122. 中川隆[-13770] koaQ7Jey 2018年8月01日 17:47:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17434]

日本人のガラパゴス的民族性の起源
0-0. 日本人の源流考 rev.1.3 2018/7/29
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm


  国立遺伝学研究所教授で著名研究者の斎藤成也氏が、2017年10月に核-DNA解析でたどるによる「日本人の源流」本を出版しました。 その中でやっと海の民にも焦点が当たり、当ガラパゴス史観の「縄文人の一部は海のハンター」史観が間違ってはいないかもしれない雰囲気になって来ました。

  そろそろ時機到来の様相になって来ましたのでガラパゴス史観を総括し、日本人の源流考をまとめてみました。 これはY-DNA及びmtDNAの論文104編を読み込みメタアナリシスした結果得た、アブダクション(推論)です。追加の着想がまとまる都度書き足します。 枝葉末節は切り捨て太幹のみに特化して組み立てていますので、異論・興味のある方は、 当史観が集めた論文をじっくり読んで是非御自分で源流考を組み立ててみてください。


はじめに

  当ガラパゴス史観が、Y-DNAとmtDNAツリー調査を進めて行った時、ホモサピエンスの歴史自身をもう少し深堀したい疑問が生じてきました。

 ・何故、ホモサピエンス始祖亜型のY-DNA「A」やY-DNA「B」はその後現代にいたるまで狩猟採集の原始生活から前進せず、 ホモエレクトスの生活レベルのままだったのか?

 ・シ−ラカンス古代亜型のY-DNA「D」、Y-DNA「E」やY-DNA「C」などの、オーストラリア、ニューギニアやアンダマン諸島、アフリカなどの僻地に残った 集団も、現代に至るまで何故「A」,「B」同様、狩猟採集から抜け出せなかったのか?

 ・彼らは本当にホモサピエンスになっていたのだろうか?我々現生人類はアフリカ大陸でホモサピエンスに進化してから 出アフリカしたと思い込んでいるが、もしかすると出アフリカ後に、ネアンデルタール人との遭遇で現代型に進化したのではないか?

1.ネアンデルタール人の出アフリカから始まったようだ。

  ホモサピエンスの亜種とされているネアンデルタール人(ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス:Homo sapiens neanderthalensis)は、 ホモエレクトスから先に進化し、60万年ぐらい前には出アフリカし、先輩人類としてユーラシア大陸に拡がったらしい。 そして3万年前ぐらいには絶滅した、という見解になっている。

  しかし現生人類の遺伝子の3−4%はネアンデルタール人から受け継いでいることも研究の結果解明されている。 その後、現生人類の先祖が、スタンフォード大学の研究では2000人程度の規模で、出アフリカしユーラシアに拡がるまで ネアンデルタール人の歴史は既に数十万年を経過しており、その間にネアンデルタール人はユーラシア各地で亜種に近いぐらい分化していたらしい。 アジアで発掘されたデニソワ人はどうもネアンデルタール人のアジア型の1例のようだ、 しかも研究ではデニソワ人の遺伝子が現代人に6−8%も受け継がれている、という報告まである。

  これはつまり現生人類は既にある程度の高度な文化を築き上げていたネアンデルタール人との亜種間交雑の結果、 一気に爆発的に進化し現ホモサピエンスとして完成したのではないかと考えるのが妥当なのではないかと思われる。

2.原ホモサピエンスから現ホモサピエンスへ脱皮したのではないか!

  我々現代人(Homo sapiens sapiens)の祖先は、ネアンデルタール人が先に進化し出アフリカした後も進化できずに出遅れ、 アフリカ大陸に残存していたホモエレクトスの中で、先ずmtDNA「Eve」がやっと進化し、Y-DNA「Adam」はかなり遅れて進化したと考えられていた様だが、 最近の研究ではY-DNA「Adam」も20万年近く前には既に現れていたらしい。

  しかも最近の発掘調査では、10万年前ごろにはすでにレバント地域に移動していたらしく、8万年前頃には中国南部に到達していたのではないか、と報告されてきている。 これまでの5−6万年前頃に出アフリカしたのではないかという旧説が、どんどん遡ってきているのは今後まだまだ新しい研究報告がある予兆と思われる。

  いずれにせよ、ネアンデルタール人が先に進化し、出アフリカした後に、落ちこぼれ 取り残されていた最後のホモエレクトスが遅れて進化したのが、我々の直接の先祖の原ホモサピエンスだったと考えられる。

  つまり、このころまでアフリカ大陸ではホモエレクトスが存続していた可能性があり、原ホモサピエンスはホモエレクトスの最終形だったはずである。
 Y-DNA「Adam」がY-DNA「A」となり、

 Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分離し、

 Y-DNA「BT」がY-DMA「B」とY-DNA「CT」に分離したが、

    この「A」と「B」はホモエレクトスのY-DNA亜型だった可能性も十分ありえる。

 Y-DNA「CT」が初めて出アフリカし、更にY-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分離した。

    これは恐らく中近東あたりで先住ネアンデルタール人との交雑の結果と推測可能である。

    この「C」以降が現生人類のY-DNA亜型と考えられるが、もしかするとネアンデルタール人の亜型の可能性だってありえる。

 つまりY-DNA「A」と「B」はホモ・サピエンス・サピエンスではあるが完成形ではないプロト(原)ホモ・サピエンス・サピエンスと言っても良いかもしれない。

 西欧列強が世界中を植民地化するべく搾取活動を続けているときにわかったことは、アフリカ大陸やニューギニア・オーストラリアやアンダマン島の先住民は、 何万年もの間、古代のままの非常に素朴な狩猟採集民の文化レベルにとどまっていた、ということだった。

  研究調査からかなり高度な文化・技術レベルに達していたと判ってきているネアンデルタール人と比べると、 分類学的・解剖学的な現生人類/ホモサピエンスに進化したというだけではホモ・エレクトスと何ら変わらない文化レベルだったという証明だろう。 つまり脳容積がホモエレクトスより大きくなったり、会話が出きるようになった程度では、同時代のネアンデルタール人より原始的な、 しかし可能性は秘めている新型人類に過ぎなかったようだ(しかし体毛は薄くなり、前頭葉が発達し、見た目は多少現生人類的だが)。

  では一体、なぜ現生人類は現代につながるような文明を興すほど進化できたのだろうか?大きな疑問である。 一部の王国を築いた集団を除いた、古ネイティブ・アフリカンは大航海時代になっても、狩猟採集民でしかなかった。 その後西欧列強と出会わなければ、今でも狩猟採集のままのはずである。

  このことは、文明と言うものを構築するレベルに達するには解剖学的なホモサピエンスではなく、 何か決定的なブレークスルーのファクターがあったはずである。

  ネアンデルタール人と原ホモサピエンスの亜種間交配の結果、進化の爆発が起こったと推測するのが今のところ最も妥当だろう。

  出アフリカした先輩人類のネアンデルタール人と亜種間交雑し、ネアンデルタール人がすでに獲得していた先進文化を一気に取り込むことに成功し、 恐らく人口増加率(繁殖性)が高い原ホモサピエンスの中にネアンデルタール人が自然吸収される形で統合化されたのが 完成形の現ホモサピエンスと考えるのが最も妥当性が高い。 (この繁殖力の高さが現生人類の勝ち残った理由なのではないか、想像を逞しくすると、交配の結果得た後天的な獲得形質かもしれない。)

  もし出アフリカせずネアンデルタール人とも出会わずアフリカの中に留まっていたら、 人類は相変わらず19世紀ごろのサン族やピグミー族のように素朴な狩猟採集段階に留まっているだろうと容易に推測できるが、 北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。 つまりホモサピエンスが出アフリカし狩猟採集文化から脱し、現代文明にまで至ったのは必然だったということかもしれない。


3.日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子系集団:Y-DNA「D」とY-DNA「C」
  Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。

  移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、故地である地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 先住親遺伝子のY-DNA「A」の古サン集団等やY-DNA「B」の古ピグミー集団等の支配階級としてネイティヴ・アフリカンの主力となり現代に至っている。

  これは重要なことで、Y-DNA「A」と「B」はネアンデルタール人の遺伝子が混じっていない原ホモサピエンスだが、 ネアンデルタール人遺伝子を獲得したはずの現サピエンスのY-DNA「E」がアフリカ全土にもれなく拡大したため、Y-DNA「A」が主体のサン族も、 Y-DNA「B」が主体のピグミー族も支配階級はY-DNA「E」に代わっているようだ。 (余談だがアフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」がアナトリア、中近東から南下してきて 更に新しい支配階級として現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部になっている。)

  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのだろう。

  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至った。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのだろう。

  一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、 そこから北上し現在の中国大陸に到達した。その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、 その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し現代までJarawa族やOnge族として絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきている。 Y-DNA「D」は基本的に原始性の強い狩猟採集民と考えてよいだろう。日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いない。

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人(アジアにいたのは恐らくデニソワ人か?)と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できる。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えられる。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸に拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族やLani族などニューギニア高地人集団やオーストラリア・アボリジニ集団、つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っている。

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大した。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われる。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大である。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのだ。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔である。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できる。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。

  しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていない。どうやら途絶えてしまった可能性が高い。 いやもしかすると火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高い。そしてY-DNA「D」のようにチベット高原のような高高地に適応できず 途絶えてしまったのかもしれないですね。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」がそのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 サハリンや北海道に留まった集団はアイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。

  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。最も頻度が高いのはTanana族である。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。

4.長江文明系稲作農耕文化民の到来

  さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

  古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した現代遺伝子亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分離しインダス文明を興し、ドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。 Y-DNA「T」からは後のジェファーソン大統領が出自している。

  Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「NO」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く残されており、 テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。

  しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子はY-DNA「R1a」,「R1b」,「J2」などに変貌している為、 東アジア起源の面影は全くない。唯一タタール人に若干の面影が残っているが今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も残っている。やはり移動性の強い遺伝子のようだ。

  さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている事は研究者の周知である。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えない(当史観は環境適応は進化ではないと考えるが、 ラマルクの後天的獲得形質論も進化論といわれるので、進化の一部なのでしょう。と言うことは余談だが、 人類(動物)は体毛が減少する方向に進んでいるので、実は禿頭/ハゲも「進化形態」である事は間違いない。)

  この東北アジア起源のY-DNA「O」は雑穀栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。

  一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」(旧「O2a」)と「O1b2」(旧「O2b」)が分化し稲作農耕は発展したようだ。このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

  長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し江南から更にベトナムへ南下し、 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 ほぼ純系のY-DNA「O1b1」が残っているのはニコバル諸島(Y-DNA「D*」が残るアンダマン諸島の南に続く島嶼でスマトラ島の北に位置する)のShompen族である。

また南インドのドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。

カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、ドラヴィダ民族(特にタミール人)に長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、 その結果、学習院大学の大野教授が日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となったが、こんな遠くまで稲作農耕民が逃げてきたことを間接証明した功績は大きい。

  一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。 この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州の14%は、満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い(恐らく起源は同一集団)要因となっている。 北朝鮮はツングース系遺伝子の分布が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。

過去の箕子朝鮮や衛氏朝鮮が朝鮮族の起源かどうかは全く分かっていないが、呉系稲作農耕民が起源の一つであることは間違いないだろう。


  長江流域の呉越の時代の少し前に江南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、インド亜大陸でY-DNA「O1a」はほとんど検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは台湾のほとんどの先住民、フィリピンの先住民となんと日本の岡山県である。

  岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として混在して来たのか単独で来たのか? 岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は楚系文化の名残と推測可能で、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。 台湾やフィリピンの先住民の民話を重点的に学術調査するとわかるような気がしますが。

5.黄河文明系武装侵攻集団の到来

  狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島での中国王朝出先機関内のから生き残りに敗れ逃れてきたのが、Y-DNA「O2」(旧「O3」)を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「群」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

  朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ追い出される形で日本列島に逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でも、また黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。

  この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていた戦闘要員としてのツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」であろう。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた騎馬を好む好戦的な集団と推測できる。

  この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の朝鮮半島の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由である。

  一方、韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」,Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」,「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。

  一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 特有の征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。

6.簡易まとめ

  日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、一方過去の武士団や維新前後の武士や軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 日本人を構成するもともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。

  日本人の3つの源流は、

  ・日本列島の中で約1万年以上純粋培養されてきた大多数の素朴な狩猟採集民と少数のハンターの縄文系、

  ・中国大陸から僻地の日本列島にたどり着き、集団の和で結束する水田稲作農耕民の弥生系、

  ・朝鮮半島を追い出された、征服欲出世欲旺盛な大王系/武士団系の武装侵攻集団系、

  個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの古代遺伝子(縄文系)が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。 もしこの縄文系遺伝子がなければ、日本と朝鮮及び中国はほとんど同一の文化圏と言って差し支えないでしょう。 それだけ縄文系遺伝子がもたらした日本列島の基層精神文化は、日本人にとって世界に冠たる独特の国民性を支える守るべき大切な資産なのです。


7.後記

  これまで独立した亜型として扱われてきたY-DNA「L」,「M」,「N」,「O」,「P」,「Q」,「R」,「S」,「T」は、 現在、再び統合されてY-DNA「K」の子亜型Y-DNA「K1」とY-DNA「K2」の更に子亜型として再分類される模様です。 つまり独立名をつける亜型群として扱うほど「違いが無い」ということなのです。

  ところがこのY-DNA「K」は、我々極東の代表Y-DNA「O」や西欧の代表Y-DNA「R」や南北ネイティヴアメリカンのY-DNA「Q」等が含まれているのです。 とても遺伝子が近いとは思えないのです。では何故これほど外観も行動様式も異なるのだろうか?

これらの亜型群は何十万年の歴史でユーラシア大陸の各地で亜種に近いほど分化していたと考えられている ネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNA亜型を受け継いだだけの可能性も十分にあるのです。

西欧と極東であまりにも異なる外観や行動様式などの違いの原因を亜種間の接触に求めるのは荒唐無稽とは言えないでしょう。 何しろネアンデルタール人もデニソワ人もホモサピエンスも元をただせばホモエレクトス出身で当然Y-DNAもmtDNAも遺伝子が繋がっているのだから。 恐らくY-DNAもmtDNAもほとんど同じ亜型程度の違いしかない可能性は高いのです 今後の研究の発展を楽しみに待ちましょう。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm


123. 中川隆[-13836] koaQ7Jey 2018年8月04日 08:20:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17584]

北海道スペシャル シリーズ北海道150年 第1集「開拓〜困難の果てに〜」 2018.07.13 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6pi53q

北海道スペシャル シリーズ北海道150年 第2集「アイヌモシリに生きる」 2018.07.27 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6qfzsl

北海道命名150年記念特番 松浦武四郎が夢見た北の大地 2018.07.14 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6pi59l

HTBノンフィクション 「聞こえない声〜アイヌ遺骨問題 もうひとつの150年」 2018.04.24 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6iam1w


124. 中川隆[-13868] koaQ7Jey 2018年8月06日 06:58:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17659]

「縄文体質」を考える-1〜縄文時代の外部世界(=外圧)とは?
ZPosted on 2018年8月1日 Author ozakihiroto
http://syakaituikyu.wp.xdomain.jp/?p=361

リンク
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=329769


 の投稿のヘ に今回私は疑問を持ちました。いえ、正確にはさらに追求したいと思いました。まずはそのヘの文章を引用します


へ.縄文体質とは

・縄文体質の本質は、みんなの期待に応えることにある。それを第一義とする体質が縄文体質であるが、それは集団第一の体質ということもできる。
この縄文体質は、敗戦・焼け野原や3.11壊滅災害etcの状況下では、他国にはない強い勤勉性として現出する。

という内容です。
縄文体質の内容が理解しやすいです

しかしこれは要約のため、要約としては良いが私は縄文時代の外部世界や、縄文時代の集団などを理解しその後しっかり縄文体質に踏み切りたいと考えました。
ですので本日からは縄文体質をつかむを最終目標に縄文時代について考えていきます。

まず本日は縄文時代の外部世界(=外圧)から考えていこうかと思います。

まず縄文人の凄さは先ほどの引用部分からも明らかです
ではそのすごさはどうやって形成されたのでしょうか?

イ.大陸から切り離された地理的状況が縄文人を形づくった。

まず縄文時代初期の日本が置かれた地理的状況をを抑えることにする。
洪積世初期およそ1万年まえの日本の地にはすでに大陸とつながりはきれて四方を海にかこまれた列島になっていた。この海を渡って大陸と往来することは、当時の列島とその周辺の社会の生産力では、まったく不可能でないまでも、きわめて困難であった。

かくて日本列島の社会は、1万年ほども周辺の社会からほとんど孤立した形で独自の道を歩まねばならなかった。そして8千年ほど前に四国と九州からきれた形となり、その後も太平洋がわの海岸線が後退し、5千〜6千年前から日本列島は地形も気候も動植物相も、現在と基本的には同じになっていた。

この一万年あまりの縄文時代に日本人の特質が形作られ、日本の歴史が始まったと考えられます。それは次の2つの理由によります。


第一に、この時代に日本人の原型が成立したと考えられる。

縄文時代人は、日本列島が大陸からきりはなされてからは、日本列島の自然の諸条件に適応し、独自の民族的および文化的特徴をうみだした。 彼らの遠い祖先が、大陸方面か東南アジアか、そのいずれに住んでいたか断定はできないが、数千年から一万年も違った自然的および文化的条件のもとで生活しているうちに、日本人の原型となった、と考えられる。

第二に、日本語の核心が縄文時代に成立していたと考えられる。
言語年代学によれば、いまの日本の本州等の言語と沖縄の言語とは、共通の祖語から、紀元前後に分かれて、それぞれ独自の発達をしたものと推定される。
そうだとすれば、両語に共通の核心部をもった日本祖語は縄文時代に存在していたとせねばならない。

こうして縄文時代には、現在の日本人の固有の生活領域である日本列島が形成されており、そこにまわりの諸民族とは違った独自の一民族とその言語、すなわち日本人と日本語の原型が成長し、その人々が未開を突き抜け、文明への道をきりひらいていった。まさに日本人の歴史がはじまったのである。


ロ.縄文時代を貫く厳しい自然外圧が自然=人間の循環系の文明原理を育んだ

縄文時代の自然環境を考える上で、忘れてはならないのが、火山である。
環太平洋火山帯の西の果てに位置する日本列島は火山活動も多く、3000年前の富士山の活動が一時停止するまでは列島内でかなり多くの火山活動が観測されています。

火山と縄文遺跡の関係はすでに報告されており、火山灰により肥沃になった土地に植生が安定し、多くの遺跡が集合しています。しかし火山は同時に一気に村を飲み込み、集団を絶滅に追い込みます。言い換えれば火山(爆発)という危険と隣りあわせで生活していたのが縄文人であり、縄文居住域だったのだ。
また、大陸の東の果てにある日本列島にはすでに4000年前から渡来人が海を渡って来ている。大陸の文化や物資を運んだと同時にさまざまな病気も運んできたことと思われます。三内丸山の巨大集落が4000年前に消滅したのは一説では伝染病という説があります。

縄文時代はこのように激しい気候変動、火山活動、さらに大陸からの病原菌という外圧に晒され、中期には30万人近くいた人口が縄文晩期には10万人を切るまで減少したのだ。

この1万年間の外圧とは、気候変動による外圧、火山など突然環境が変化してしまうことによる外圧、さらに病気という外圧、それら多くの自然外圧に翻弄されていたのが縄文人であったと考えられる。

集団が外圧に晒されるたびに自然をひたすら注視し、自然との対話を試み、生きる為の術をその中から導き出した。この自然=人間という自然との同化能力こそ1万年の縄文時代に培われた能力だと思う。

このようにして、現代日本人に繋がる仲間へのさらには他集団への同化能力の基礎がこの時代に形成されたと考えられる。

ハ.縄文人は、初めて直面した同類圧力を集団規範を拡大する事で乗り越えた
縄文時代に初めて遭遇した(或いは直面した)人類にとっての全く新しい外圧がある。

それは、人と人の間で生み出される同類圧力である。
人口が増え、生活する縄張りが接触し始めると相互に緊張圧力が生じる。
縄文早期の頃は単位集団は一定はなれて生活していたのが、前期から中期にかけて人口が10万人から30万人に増えている。それも増加した地域は東日本に集中し、三内丸山を抱える東北地方ではその1/3に相当する10万人がいたとされている。

縄文時代は採取生産を生業にしており、その後の農耕生産と異なり一つの集団が生存するには広い食料域が必要でわずか数十人の集団を維持するのに数キロの縄張りが必要になる。たかが10万人とはいえ縄張り同士は当然接触して、相互に緊張圧力が生じた。

遊牧部族では、食糧事情が悪化し、緊張圧力が高まると略奪闘争が始まり、私権闘争の社会へと変化していきました。

しかし縄文時代を通して戦争の痕跡はなく、縄文人はその状況を贈与や祭祀、集団間のネットワークという方法で回避していた。それどころか緩やかな集団間の関係を構築し、単位集団を地域集団という土地に根ざした連合集団を形成していく。

要約すれば縄文時代を通して自然外圧と同類圧力、この2つの圧力が強く作用し、それに対して頭を使い、工夫したのが縄文人であり、永続的に生きていくための多くの共同体規範が作り出されていったと考えられる。
http://syakaituikyu.wp.xdomain.jp/?p=361

縄文体質を考える-2〜縄文体質を作り出した生産様式を押さえる〜
Zhttp://syakaituikyu.wp.xdomain.jp/?p=365Posted on 2018年8月2日Author ozakihiroto

前回の続きとなります。
前回は縄文時代の外圧を考えましたが今回は縄文体質を作り出した生産様式について考えていきたいと思います。

おそらく生産様式をただ問うならそれをここで明らかにするまでもありませんが勘違いしている人などもいるかもしれませんので紹介します。まず縄文人の主たる生業は明らかである。それは「採取、採取」である。

縄文人は採取生産に特化することで世界で最初に定住化した民族ではないかと言われている。

ではなぜ縄文人は採取のみに特化することが可能だったのか?
なぜ狩猟をしなかったのか?

これは豊かな日本の地形が生み出した偶然だと考えることができる。

森林が国土の70%を占める国は先進国の中では特出している。

さらにその森林は火山活動によって形成され火山灰による豊かな土壌に恵まれた再生可能な森を形成し、さらに温暖化による海進によって水位が上昇しリアス式海岸や平地が海に沈んだ漁礁を作り出したのである。

日本の海産資源は同じ海浜地域の地中海と比べ25倍もの生産力を保有している。
縄文人は前期から中期には海浜地域に集結し、この時代の遺跡は見事に海岸線に並ぶ事になります。また、湿潤な気候と森からの清水は植生を豊かに形成していきます。

縄文時代の採取生産はこうして海浜地域から始まりました。

森の生成と豊富な植生、汽水域の魚介、海草それを元に定住化していったのが縄文人でした。定住化の明確な開始は遺跡上では信州では8000年前、最古の定住遺跡は南九州の上野が原の9000年前に遡る。

これらの定住化は凡そ温暖化が始まった時期に符合する。
この定住化をさらに進めたのが土器技術の開発、拡大である。

縄文早期には既にあく抜きや煮炊きができる土器を備えていた縄文人は多様な自然資源を食料として取り込むことにも成功する。この時代の縄文人の食生活は現代人のコメをどんぐりに、肉を魚介に変えただけでかなり豊かな状況にあったようだ。

しかし温暖化で恵まれていたのは約5000年前までで、その後縄文時代の約半分の期間は寒冷化により現在より1度から3度低い時期を迎える。

すでに定住し関東から北に適応していた縄文人は寒冷化してもその地にとどまり続ける。雪や寒さに閉ざされる冬は塩や乾物の技術で乗り越えていき東北地方の縄文人は一部狩猟生産を復活させ、北海道では比較的豊かな海獣などの肉食を主食することで採取と狩猟を並存させていく。

また、寒冷化によって海水位が10m以上も低下し海底が地上に現れる事になり、しばらくは植生のない海岸線が何キロも続き、海岸線は居住できない状態になる。
縄文中期から集落は湿地帯となった海岸線を離れ、内陸へ移動していくことになる。

ここでも縄文人は大きく生業を変えることになります。それまで海の資源に半分くらい依存していたのを諦め、ドングリやクリの管理・維持栽培(=半栽培)などの植物食と陸上動物(イノシシ、シカ)、河川魚類(サケ、マス)の狩猟・採集生産を中心とした時代に移行する。

集落規模も寒冷化に向かったこの時期には小さくなり、いくつかの小規模な集落がネットワークで繋がるように変化していく。

縄文時代の生業はこのような段階を経て農耕中心の弥生時代に移行していく。そしてその時々に気候変動の影響を受けている。

@狩猟生産時代(1万年以上前)…寒冷期
↓ 非定住、巨大動物が食料源、集団規模は小さい

A採取、漁猟生産(8千年前〜5千年前)…温暖期(縄文海進)
↓定住化、居住域は海浜地域中心、集団規模は大きい、人口増大

B採取、栽培、漁撈、狩猟生産(5千年前〜3千年前)…寒冷期
↓居住域は内陸地域中心、集団規模は小規模化するが各集団はネットワーク化される

C稲作技術の渡来、拡大(3千年前〜)…寒冷期
大陸に近くて食料の乏しい九州地方から伝播⇒拡大、人口増大

A⇒Bへの移行期が一番厳しい外圧状況であり、この時期に集団規範や男女規範は作られていったのではないかと思われる。
http://syakaituikyu.wp.xdomain.jp/?p=365


「縄文体質」を考える3〜縄文時代の集団規範を考える
ZPosted on 2018年8月3日Author ozakihiroto
http://syakaituikyu.wp.xdomain.jp/?p=368

前回の投稿の最後にも書いた通り今回は縄文時代の集団規範を中心に当時の集団のあり方を考えたいと思います。


イ.縄文時代の集団形態

環状集落の中央には広場があり、周囲に住居が配置されています。最小で、直径70メートル程度、最大で150メートル以上に及びますが、中央広場には集団墓地が営まれるのが大きな特徴です。同心円状に所定の範囲内に、建物・施設を配置する構造は「重帯構造」と呼ばれ、当然新旧の遺構が重複します。有名な群馬県三原田遺跡では、中期後半の数百年にわたり、300軒以上の住居跡が重複しながら、直径130メートルの円を描いており、集落は外周から徐々に内側へ向って形成されていて、長期的な計画性をうかがわせます。

次に、住居群や墓群が大きく二分されていることもよく知られています。これを「分節構造」と呼びますが、墓域の区分は特に厳格で、埋葬場所は長期にわたって踏襲されていることから、分節は血筋・系譜の区別に基づくものだという可能性が高くなります。大群のなかにさらに小群が枝分かれすることもあり、八王子の多摩ニュータウン107遺跡(中期)はこの典型例で、何百年にわたり、直径32メートルの円内に整然と200基もの墓群が2×2の分節をなして営まれています。ここから、構成員の血縁的区分の厳格さ、血縁集団への帰属性の高さがうかがえます。さらに、各小群内の墓の数には差があり、他の二大群構造の遺跡においても、墓の数に不均衡があることが多いのです。これも、ランダムに墓を作った結果、と見るより、各血縁集団の成員数に違いがあるのが自然で、そこからの必然的結果と見るほうが妥当でしょう。

何世代にもまたがり、文化を受け継ぎ、祖先を祭祀する血縁集団としては氏族・系族と言われる「単系出自集団」が知られています。父系または母系のどちらかの血統により、系譜と成員の資格が受け継がれる集団です。G・C・マードックは数代から10代ぐらいの、実際の系譜が記憶されている単系出自集団を「リネージ」と呼んでいます。死者も含めてリネージの成員とみなしている社会も少なくないそうで、「リネージは生きた成員と死んだ成員との一つの共同体」と言われる所以です。

要約すれば縄文時代の集団は血縁集団への帰属性が強かったということである。


ロ.総遇婚の共認

集団規模が大きくなるとそれまでの「顔の見える」生まれた時から一緒の単位集団(バンド)と違って、より上位の組織統合の課題が登場する事は間違いありません。

弓矢の登場以降、(2から1万年前)安定した生存域と食糧が確保できるようになると、集団規模が拡大してきます。

例えば縄文中期〜後期(5500〜4000年前)に登場した三内丸山遺跡の事例では、竪穴式住居が1000件存在したとされています。推定5000人近い集団です。また他の未開部族などの事例でも、大きなものは推定3000から5000人近くの部族連合を作っていたようです。

これらの集団は基本的に原始共同体です。

そしてこれらの大規模な集団は次のような形で統合されていた様です。

まず末端に30から50人規模の血縁集団(単位集団・氏族)が存在する。そしてその上位に氏族3〜4グループを統合する胞族というグループが作られる。そして更にその上位に、胞族を更に3〜4グループ統合する部族が形成される。という3段構成がとられており、これら全体が一つの集団を構成していたようです。各氏族、胞族は全体で集団規範を共有しており、各段階の決定は現代風に言えば合議制だったようです。これらの集団の一番基礎にある、氏族は血族であり、生産と生活をともにする集団です。だからおそらく各構成員は役割充足も充分に感じていたと思います。

しかし逆にそれぞれの氏族(単位集団)はそのままだと独立性が強くなりすぎるということからでしょう、別の胞族のグループ同士で(ある氏族or婚姻班と別の氏族)総偶婚=群婚制がとられていたようです。集団が解体しないための、統合の一つの知恵です。

この集団構成だと概ね300から500人の規模ですが、それ以上の規模となると、緩やかな部族連合を形成していた様です。但し三内丸山は同一地域に棲んでいたことより、集落全体が一集団だったのかもしれませんし、連合体だった可能性もあります。

これらの集団はおそらく規模が大きくなるに従って、血縁を単位に(但し群婚なので当然母系の血縁になります)集団を分割していったのだと思います。

要約すれば縄文時代は血縁集団を最基底部においた3段構成の共同体社会だったということである。


ハ.縄文人の活力源

縄文の婚姻制を解明する中で、改めて考えさせられたことがあります。それは生まれた集団に属す母系集団であったことです。

人類の祖先である真猿が、オス移籍(チンパンジーはメス移籍)であることと比較して、また哺乳類の原点である原モグラが離乳するとオスメスとも追い出すのと比較して、大きな違いがあるからです。

完全に孤立していた始原人類はともかく、隣接する他部族と接触するようになっても、移籍は発生していません。

このことは同類圧力が戦闘的関係でなかったことを示していると思われます。戦闘的関係を婚姻制で解消したということでもなさそうです。何故なら、原モグラも真猿も、元々それまでの生物がもっていた巣離れ本能+哺乳類が増強した性闘争本能と、親和本能との大小関係で移籍するか、残留するかが決まっており、原モグラも真猿も、巣離れ本能+性闘争本能>親和本能で、巣離れ(移籍)していきます。

真猿は集団内の性闘争本能を下敷きにして、集団間同類闘争(縄張り闘争)を戦っています。

しかし人類はその逆で、圧倒的な外圧状況の中で親和本能(+共認充足回路)を増強して、性闘争本能は封印しています。縄文人も同様だったでしょう。婚姻制も母系集団も性闘争本能の封印を前提に成立している以上、他部族に対しても縄張り争い的な関係にはならないのではないでしょうか。

考えられるのは外敵に対する闘争本能ですが、相手が襲ってこない以上、同類を外敵とみなすのは無理があります。遭遇当初は外敵?との緊張感や警戒心が働いた可能性はありますが、お互い同類であり外敵ではないとの相互理解は成立したでしょう。

従って、同族内も他部族間も人々に働いていたのは、専ら生存圧力や未明課題に対して「何とかして」というお互いの期待・応望圧力(という形での同類圧力)だったと考えられます。
http://syakaituikyu.wp.xdomain.jp/?p=368


「縄文体質」を考える4〜縄文時代の男とは?女とは?
ZPosted on 2018年8月4日Author ozakihiroto
http://syakaituikyu.wp.xdomain.jp/?p=372

前回は縄文時代の集団規範を考える を考えましたが今回は集団の根幹である男らしさと女らしさを考えます。


イ.現代の男女事情

闘争存在である男性は、闘争課題があるとがんばるものの、闘争圧力がなくなると途端に「怠ける」ということ。外圧依存型の闘争性や勤勉性はもっているものの、何もない時には怠けがちなのがオスという生物なのでしょう。


では、なぜ女性が勤勉なのか?

それは、充足・安定存在ゆえであると考えます。

子育て、炊事、掃除、縫い物・・・身近な周りの充足のために日夜勤勉に働くのが女性=お母さんの姿だったりします。どんな家でも女性=お母さんの勤勉さがなければ、日常的な充足・安定は維持できません。

これを逆に見れば、女性は身近な皆の充足・安定のために働いてくれているということです。自分の勤勉さが、皆の充足・安定につながるとわかるうえ、主体的に動いていけば、皆の充足・安定を高める課題(期待)は無数にかつ常に存在します。したがって、永続的に勤勉さが持続するということでしょう。

このように考えると、「勤勉」は女原理なのだと思います。

特に、我々日本人が考える勤勉さは、この女原理発の勤勉さに根ざしているでしょう。

充足・安定を尊ぶ縄文体質とは、すなわち女原理。女原理で動いてきた我々日本人にとって、女性の勤勉さは肯定・感謝の対象であり同化対象です。そこを基点に、男性にとっての労働=闘争も認識して価値を見出していったのが日本人なのだと思います。(労働=闘争を男原理と直結させて理解する欧米人にとって、ここは理解しにくいでしょう)


要約すれば

@男は闘争課題があるとがんばるが、圧力がなくなると途端に怠ける。

A女はたえず勤勉。身の回りの充足のために、日夜勤勉に働いている。

それは、自身の勤勉さが、皆の充足、安定に繋がっている。充足・安定存在であるから

Bこうした課題は常に無数にたえず存在する。永続的に勤勉性が維持される。

Cこのようにみんなのために働く女性の勤勉さは肯定、感謝の対象である。


ロ.縄文における男らしさ、女らしさ

縄文時代に突入し、気候の温暖化に伴いぶなやならの温帯の落葉広葉樹の森が拡大しここから森を中心とした定住文化が開始するわけですが、ここでは女性の存在はこれまでの依存的存在から生産の中心存在へと大きく立場を変えるのです。

森の中での食料の獲得(主に木の実の収集、球根や山菜採り、川や湖の魚貝類)は女性の手で充分可能となり、男たちの獲得する動物性たんぱく質である狩猟生産をしのぎ、縄文時代の主食としてその開発から加工まで女性の繊細な自然への感性と器用な技術が脚光を浴びたのでした。

この時代の男ですが、植物採取社会では、狩猟による動物性蛋白の占める量はわずかなものなのですが、それでも男は原則として植物採集にはタッチしていません。植物採取にウエートがかかればかかるほど、擬似的な狩猟や踊りの練習に熱中しました。さらに、植物食には固形塩が必要となり、海浜部落への物々交換の交易を行なってました。これに対して女はそれ以外の全てを担います。植物採集、昆虫捕獲、育児、土器作り、炉の火の番人等。

縄文時代に入り、自然圧力の低下とともに、生産面においても、女性の活躍の場が広がったことが伺えます。この縄文から以降が、上記の「女性が勤勉である」といったベースが整った時代だったいえるでしょう。

一方の男性も、定住化、集団規模の拡大、他集団との接触機会の増加等によって、集団を統合していく課題に、よりシフトしていったのではないでしょうか。

このように、縄文時代は、男女ともに、それぞれの役割を拡大し、担っていった時代だったといえるのでははないでしょうか。


ハ.極限時代から採取時代である縄文時代のまでの人類の男女の役割 まとめ
〈実現論より引用します〉

人類はつい一万年前まで、まともに地上を歩くことが出来ず洞窟に隠れ棲むしかない様な、凄まじい外圧に晒されていた。従って、人類のメスはサル以上に極度に依存収束を強め、首雄収束⇒応望収束回路を発達させていった。しかも人類のメスは(首雄でも防ぎ切れない)飢えや怯えに晒され、サル以来はじめて自らの不全感を直撃されたメスは専ら解脱収束を強め、強力な解脱収束⇒性機能収束回路(エンドルフィンとドーパミンの快感回路)を形成していった。だから、人類の女は徹頭徹尾、応望存在であり、自らの役割欠損を専ら性機能に収束させてゆく性的存在である。もちろん、それら全ては首雄の期待に応えて役割充足を得る為であり、従って男たちはそんな女たちを、純粋にかつ積極的に肯定視してきた。

極限時代の人類の女は、外圧に立ち向かう男(首雄)の活力源=性的存在としての役割を強化し、一方の男も女の期待を糧に外圧と対峙していたことがわかります。
このような極限状態に置かれた人類が、縄文時代の自然外圧の変化(低下)によって、より男女の役割を拡げていきます。

ここでの採集・漁労部族における女の役割は、注目に値する。採集部族では、弓矢を持った男たちが防衛する(狩猟もするが、獲物は少ない)安全域で、女たちが主要な食糧を採集する。もちろん、闘争過程の主役はあくまでも男たちの防衛であって、女たちの採集は従役である。それにしても、食糧の過半を女が採ってくるというのは、外圧の強い極限時代には考えられなかったことであるが、皆=集団の期待(食糧の採集という役割)に応えて、採集部族の女たちはよく働いた。しかし、それでもなお男たちの期待の中心は性であり、従って女たち自身にとっても、自分たちの中心的な役割は性役(男たちに性的充足を与えること=自らの性的充足を得ること)であった。役割欠損ゆえに性的存在となった女にとって、集団=全ての男たちの期待(=性役という女の役割規範)に応えることほど、自らの存在理由を充足させるものはない。従って、タヒチをはじめ採集部族の女たちは、極めて積極的に集団の期待=性役規範に応え、更に性機能を磨いていった。

(引用終了)


縄文時代に入り、自然が豊かになり、自然外圧が低下するとともに、主雄以外にも食料獲得等の活躍の場が広がることで、集団(主雄)への収束力が低下していきます。この男達の間に入り、彼らの性期待に応望し媒介となって、集団への収束力を高めていったのが女達だったのだと思います。

縄文時代は、主雄と女という関係から集団内の男達と女達へと、男女の性の期待応望を集団内へと拡げていった時代であったと思います。

また縄文時代は、自然外圧の低下により、女性でも、採取が可能になり、生産面に対する役割が担うようになります。その背景には、もっと集団のために役にたちたい、集団を充足させたいという想いがあったことでしょう。充足存在としての存在基盤の延長上に、生産面においても集団の充足課題を担っていく「勤勉」な女達の姿が浮かび上がってきます。

一方の男も自然外圧の低下により、極限時代に比べ、集団に対する収束力が緩んでくるという局面に直面します。同時に、集団規模の拡大や、集団の増加に伴う他集団との接触による同類圧力の上昇という新たな圧力=課題がでてきます。こうした状況の変化に対して、男達は、集団を維持し統合していくため祭事儀礼を含めた集団の取りまとめや、他集団との交渉等、集団を維持していくためのより広範囲な役割を担っていくようになることが伺えます。

縄文時代は生産面においても、集団統合の面においても、男女の役割が拡大していった時代です。その役割を拡げていく活力の根本に、男女の期待応望=互いの肯定視があったことを忘れてはならないでしょうし、男女の肯定視をベースにした、お互いの役割に対する感謝の気持ちがしっかりと存在していたと思います。
http://syakaituikyu.wp.xdomain.jp/?p=372


125. 中川隆[-13626] koaQ7Jey 2018年9月01日 21:16:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18154] 報告

歴史REAL日本人の起源 (洋泉社MOOK 歴史REAL) ムック – 2018/6/5
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2REAL%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-%E6%B4%8B%E6%B3%89%E7%A4%BEMOOK-%E6%AD%B4%E5%8F%B2REAL/dp/4800314739

『洋泉社ムック歴史REAL 日本人の起源』 2018/07/24
https://sicambre.at.webry.info/201807/article_37.html


 洋泉社より2018年6月に刊行されました。本書はおもに、弥生時代までの古代DNA研究・縄文時代研究・弥生時代研究の解説で構成されています。それぞれの執筆者は篠田謙一・山田康弘・藤尾慎一郎の各氏で、期待できそうなので購入しましたが、期待通りに最近の研究成果を知ることができました。とくに、弥生時代までの古代DNA研究の解説では、私が不勉強なため、多くの知見を新たに得ることができ、たいへん有益でした。以下、本書で注目した見解について、備忘録的に取り上げていきます。

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析から、縄文人にはハプログループM7aとN9bが広範囲で見つかっており、現代ではほぼ日本人にしか見られません。ただ、どちらも出現(分岐)年代が3万〜2万年前頃なので、38000年前頃に日本列島に進出してきた人類と縄文人とは直接的な祖先-子孫関係にはなかった可能性が指摘されています。もっとも、あくまでもmtDNA解析に基づく推測ですから、38000年前頃の日本列島の人類集団と縄文人とが、もちろんその後の流入による遺伝的影響はあるとしても、直接的な祖先-子孫関係にある可能性も考えられます。

 縄文人のmtDNA解析数も蓄積されて、地域差が見えてくるようになりました。琉球列島を含む関西以西ではM7aが卓越するのにたいして、北海道・東北ではN9bが多数を占めています。また、サブグループまで分類すると、関西以西と東北・北海道では、M7aでもそれぞれ異なるグループが分布しています。そのため本書では、地域間の人的交流が広範囲に及ぶものではなかったかもしれない、と指摘されています。もっとも、後述するように、遺伝的交流は盛んではなくとも、交易などによる文化的交流はある程度以上活発だった可能性もじゅうぶんあるとは思います。

 また、現代日本人では、N9bが2%程度で、7%程度存在するM7aも、縄文時代の関西以西のサブグループで大半を占めることから、現代日本人に継承されている縄文人のDNAは、おもに西日本の縄文人に由来するのかもしれません。そうだとすると、弥生時代最初期にユーラシア大陸から九州北部に渡来した集団が在地の縄文人と混合し、東進していったために、現代日本人に占める縄文人の遺伝的影響は、西日本系の方が東日本系より高くなったのかもしれない、と本書は推測しています。

 縄文人のゲノム解析も進められており、最近になって、北海道礼文島の船泊遺跡から出土した3800〜3500年前頃の女性のゲノムは、現代人とほぼ同じ精度で解析されたそうです。平均網羅率は明示されていませんでしたが、30倍以上ということでしょうか。この女性の血液型はA型で、耳垢は湿式、切歯はシャベル状ではなく、巻き毛だったことが明らかになっています。これらの表現型はおおむね予想通りでしたが、目の虹彩は茶色で、人骨からの推測通り、身長が低くなる傾向を有する遺伝子が確認されました。

 この女性の両親は近い血縁関係にあり、両親の近縁関係の程度はアマゾンの先住民と同じくらいと推測されています。船泊遺跡からは、新潟県の糸魚川沿いの翡翠や、シベリアで発見されたものと類似した貝製装飾品が発見されていますが、婚姻圏は狭かったのではないか、と本書は推測しています。ただ、こうした狭い婚姻関係が一般的だったのか否かは、もっと縄文人のゲノム解析数が蓄積されないと、判断が難しいように思います。

 船泊遺跡の女性のゲノム解析の結果、福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚の縄文人と同様に

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201609/article_3.html


船泊縄文人も現代の東アジア集団とは大きく離れている、と明らかになりました。現代人の集団で船泊縄文人とある程度遺伝的に近縁性を示すのは、アイヌ・琉球・「本土」日本・台湾や沿海州などユーラシア東部圏沿岸地域の先住民でした。本書は、東南アジアからの初期拡散により北上した集団のなかでユーラシア東部圏沿岸地域に居住した人々が融合し、縄文人が形成されたのではないか、と推測していますが、確証するにはユーラシア大陸の古代DNA解析が必要だ、と指摘しています。

 船泊遺跡では縄文時代の男性遺骸も発見されており、ゲノムが部分的に解析されているそうです。この男性もゲノムが解析された女性も、海獣など脂肪分に富む食資源に依存している場合に有利となる、脂肪代謝に関連する多様体を有しており、北極圏の先住民集団も同様です。船泊遺跡ではじっさいに漁撈具や海獣の骨が多数発見されているので、海獣への依存度が高い食生活を送っていたようです。船泊遺跡の男性のY染色体ハプログループは、現代日本人では30%以上存在するものの、中国や韓国ではほとんど見られないD1bでした。しかし、船泊遺跡の男性のY染色体ハプログループは、D1bの中でも現代日本人で多数を占めるサブグループD1b1ではなく、Y染色体でも、北海道の縄文人が現代日本人にはさほど遺伝的影響を及ぼしていない、という可能性が想定されます。

 弥生時代の人類のゲノム解析も進められていますが、縄文系と渡来系という以前からの形態学的分類がそのまま当てはまるものではなく、複雑な様相を呈していることが明らかになってきました。福岡県那珂川町安徳台遺跡で発見された弥生時代中期の女性は、典型的な渡来系弥生人と考えられており、遺伝的には韓国や中国の集団と類似する、と予想されていましたが、ゲノム解析の結果、現代日本人の範疇に収まり、むしろやや縄文人に近い、と明らかになりました。本書は、安徳台遺跡の弥生時代中期の集団が東進し、在来の縄文系と混合していったとすると、現代日本人における縄文人の遺伝的影響はもっと高くなっていると予想されることから、弥生時代中期〜古墳時代におけるユーラシア大陸からの渡来を想定する必要がある、と指摘しています。

 縄文系とされる弥生人のゲノムも解析されています。長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡で発見された弥生時代後期の合葬された男女2人は、縄文人と共通する形態学的特徴を有している、と評価されています。mtDNAのハプログループでは、女性が縄文系と考えられるM7a、男性が渡来系と考えられるD4aと明らかになりました。しかし、核ゲノム解析では、縄文人と現代日本人の中間に位置する、との結果が得られました。上述した安徳台遺跡の事例からも、弥生時代には在来系と渡来系との融合が進んでおり、弥生人は均一な集団ではなく、独自の遺伝的構成を有していた、と言えるでしょう。本書は、弥生時代の渡来系は当初より在来系の縄文人と融合し始め、当時の朝鮮半島には渡来系弥生人と同じ遺伝的構成を有する集団はいなかっただろう、と推測しています。

 また本書は、弥生時代になっても日本列島の大半に縄文系の人々がいたと考えられることから、弥生時代以降もユーラシア大陸から日本列島への流入があり、現代日本人につながる集団の完成は古墳時代だろう、との見通しを提示しています。まだ予備的な研究の段階ですが、古墳時代になると、関東の集団の遺伝的な構成が大きく変わるそうで、古墳時代の日本列島の住民のDNA解析の進展が期待されます。また、飛鳥時代以降の古代DNAの解析も、日本史研究に大きく寄与するでしょうから、今後の研究の進展が楽しみです。


 これまで、先史時代の研究は考古学と形態学が主流でした。近年では古代DNA研究の進展が目覚ましいものの、考古学と形態学でも研究は着実に進展しています。日本列島最初期の土器は北海道では発見されておらず、朝鮮半島最古の土器は1万年前頃であることから、縄文土器は日本列島で開発された可能性が高そうです。また南島地域においては、縄文文化との共通性も相違点も見られ、時期により縄文文化と連動したり離れたりしていたそうです。本書は、他地域との交流はあるにしても、対馬海峡において文化的な境界線を引けることからも

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_45.html

縄文文化の空間的範囲は、現代の日本国の領域と厳密に一致しているわけではないものの、ほぼその範囲に収まる、との見解を提示しています。

 これは形態学的にも言えることで、縄文人の形質は、空間的には北海道から九州まで、時代的には早期から晩期前半までほぼ同一で、世界中で類似した古人骨は発見されていないそうです。そのため、縄文時代には、形質を大きく変化させるような他地域からの人的流入はなかった、と考えられています。それでも、やはり地域差はあり、北海道では地位内の差異が比較的大きい一方で、九州では小さいことが明らかになっており、縄文人の形成過程と関わっているかもしれません。

 縄文時代には定住が進みましたが、その度合いは地域により異なっており、その要因は依存していた食資源の違いだろう、と推測されています。縄文時代の農耕は近年よく主張されるようになりましたが、畑はまだ見つかっておらず、ダイズやアズキなどの作物が確定しただけだ、と本書は慎重な姿勢を示しています。縄文時代には、後期において、墓の分析から、北海道や東北でかなりの階層化が生じていた、と推測されています。しかし本書は、晩期にはこれらの地域で均質化が見られることから、おそらくは人口の少なさが要因で、階層社会は持続しなかっただろう、と指摘しています。

 弥生時代については、本書では紀元前10世紀にさかのぼるとする早期説が大前提となっていますが、まだ議論が決着したとは言えないようです

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201406/article_1.html


茨城県と栃木県以北では、水田稲作が行なわれても環濠集落が見られませんが、本書はその理由を、地域の核となる存在がなかったからではないか、と推測しています。水田稲作は、災害にあってもすぐに再開する傾向が強いのですが、東北の北部では、水田稲作が途絶えて数百年再開されませんでした。本書はその理由として、寒冷な気候が要因ではなく、東北の北部には水田稲作が始まっても土偶があることから、何らかの信仰形態・世界観の違いを挙げています。本書では古墳時代についても少し言及されており、九州や近畿では墳丘墓が早くから見られるものの、紀元後には衰退して古墳時代には直結しておらず、古墳時代の直接の起源は、紀元後2世紀半ば〜後半にかけての吉備や出雲にあるのではないか、との見解が提示されています。
https://sicambre.at.webry.info/201807/article_37.html

126. 中川隆[-13641] koaQ7Jey 2018年9月03日 19:41:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18211] 報告

諸説あり・縄文人はどこから来たのか=北方説・南方説 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6gnb0k
127. 中川隆[-13628] koaQ7Jey 2018年9月04日 14:58:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18223] 報告


最もネアンデルタールに近いのは日本人? 免疫システムに残る人類の歴史 2016/02/22
http://sciencenews.co.jp/2016/02/22/post-1042/


多くの人を悩ます花粉症。その原因は免疫システムの暴走だが、免疫システムの一部がネアンデルタールからの「プレゼント」だと判明した。

免疫に重要な役割をもつTLRの遺伝子

花粉症対策にかかる費用もバカにならないが……


 とうとう今年も花粉症の「季節」がはじまった。2月にはいると首都圏でもスギ花粉が観測されはじめ、ドラッグストアでは対策商品の陳列に余念がない。

 花粉症を含めたアレルギーは、もともと体に侵入した細菌やウィルスなどから体を守る免疫システムが過剰に反応しておこる。

 花粉症も大変だが、生物が生きていくには欠かせないシステムである。この免疫に関わるいくつかの遺伝子はネアンデルタール人とデニソワ人からの「プレゼント」だったと今年の1月に明らかになった。

 遺伝学の科学誌「The American Journal of Human Genetics」で独の研究チームが発表した。日本人の遺伝子の中にネアンデルタール人が「潜んで」いる。

ヒトはネアンデルタール人を滅ばして今の繁栄を築いた。独・マックスプランク研究所のJanet Kelsoのチームは現代人の遺伝子の中に、ネンデルタール人やデニソワ人との交配によって残り続けている「彼ら」の遺伝子をさがしていた。

 人類の進化でエポックメイキングな最近の発見といえば、ヒトが絶滅させたと考えられているネアンデルタール人と人間が交配していたことと第3の人類デニソワ人の発見だ。

 この3種は50万年前に共通祖先から分かれたと考えられ、ネアンデルタール人はヒトより数十万年前にアフリカを出て主にヨーロッパに広がった。

 研究チームが目をつけたのがTLRの遺伝子。これまでの研究データもとにピックアップした。TLR(Toll Like Receptor)は細胞の表面にニョキニョキと生えているタンパク質。免疫で非常に重要な役割を果たす。

 体を外敵から守るには、まず外敵の侵入を関知しなくてはならない。この防犯センサーの役割を担うのがTLRというタンパク質なのだ。

 体内に侵入した細菌や菌類、寄生虫の一部がこのTLRにくっつくとセンサーが作動し、外敵をやっつける細胞が集まったりと、さまざまな免疫システムが動く仕組みだ。

ネアンデルタール人の遺伝子を最も多く持つ日本人


ネアンデルタール人
我々日本人のご先祖さまである


 複数あるTLRのうちTLR1とTLR6、TLR10は染色体上に隣接している。ネンデルタール人やデニソワ人の3つのTLRを含む領域を現代人と比較する。

 ヨーロッパ人と東アジア人、アフリカ人など現代人の14集団のこの領域を調べると7つのタイプに分類された。このうち2つがネンデルタール人由来、ひとつがデニソワ人由来だと判明する。

 理論的にはヒトより数十万年先にアフリカを出て、中東を経由してヨーロッパに広がったネアンデルタール人の遺伝子は、アフリカに残った祖先由来のアフリカ人には存在しない。

 調べると、確かにアフリカ人にはネンデルタール人由来のTLRを含む領域がほとんどみられなかった。

 このように、現代人のTLRを含む領域のゲノム配列を詳細に調べ比較してネンデルタール人とデニソワ人由来だと突き止めた。

 そして、機能が非常に重要性なので、数万年という自然選択を受けてもほとんど変わらずに高頻度で残っていたと考えた。

 実はこのネアンデルタール人由来のTLR1とTLR6、TLR10遺伝子を最も多く持つのが日本人。どの集団よりも高く、約51%が持っていた。

 花粉症の最大の要因にTLR1とTLR6、TLR10が直接関与するわけではないが、免疫システムを通して人類の壮大な進化を想像し、内なるネアンデルタール人を思うことで少しは症状が軽くなるかもしれない(そんなことはありません)。

取材・文 山下 祐司


▲△▽▼

2017-01-04 ネアンデルタール人 日本人について
http://www.m-a-p-s.biz/entry/neanderutarujinnihonjin


ネアンデルタール人と 日本人について書いてみました。私たちが生きていくためには欠かせないシステムである免疫のいくつかの遺伝子はネアンデルタール人とデニソワ人からの「プレゼント」だったことが明らかになりました。

最もネアンデルタールに近いのは日本人?免疫システムに残る人類の歴史

日本人の遺伝子の中にはネアンデルタール人が「潜んで」いる。

今年もしばらくすると2月に入り、暖かい地域ではスギの花粉が観測されはじめ、薬局やコンビニでも花粉対策商品の陳列に大忙しになる事と思います。

しかし、この花粉症を含めたアレルギー反応というのは、体内に侵入した細菌やウィルスなどから体を守るための免疫システムが過剰に反応して起きているといわれています。


この私たちが生きていくためには絶対に欠かすことのできない大切なシステムである免疫。この免疫に関わるいくつかの遺伝子はネアンデルタール人とデニソワ人からの「プレゼント」だったことが明らかになりました。


遺伝学の科学雑誌「The American Journal of Human Genetics」でドイツの研究チームが『日本人の遺伝子の中にネアンデルタール人が「潜んで」いる』と発表し話題になっています。



ヒトはネアンデルタール人を滅ぼして今の繁栄を築いた

ドイツ・マックスプランク研究所のJanet Kelsoのチームは研究で、現代人の遺伝子の中に

、ネンデルタール人やデニソワ人との交配によって残り続けている「彼ら」の遺伝子をさがしていました。

人類の進化において少しショッキングな近頃の発見といえば、ヒトが絶滅させたと考えられているネアンデルタール人と人間が実は交配をしていたとされる事実と第3の人類デニソワ人の発見でした。

この3種は50万年前に共通祖先から分かれたと考えられ、ネアンデルタール人はヒトより数十万年前にアフリカを出て主にヨーロッパに広がったとしています。

研究チームが目をつけたのがTLRの遺伝子で、これまでの研究データをもとにピックアップすると、TLR(Toll Like Receptor)遺伝子は細胞の表面にニョキニョキと生えているタンパク質のことで人間の免疫システムの中で非常に重要な役割を果たしています。

体を外敵から守る為には、まず外敵の侵入を関知しなくてはなりません。この時この防犯センサーの役割を担うのがTLR遺伝子というタンパク質なのだそうです。

体内に侵入した細菌や菌類、寄生虫の一部がこのTLR遺伝子にくっつくと体内のセンサーが発動し、外敵に攻撃をしかける細胞が集まったりと、さまざまな免疫のシステムが動く仕組みになっています。

複数あるTLR遺伝子のうちTLR1とTLR6、TLR10は染色体上に隣接しており、ネアンデルタール人やデニソワ人の3つのTLR遺伝子を含む領域を現代人と比較してみたそうです。

ヨーロッパ人と東アジア人、アフリカ人など現代人の14の集団のこの領域を調べてみると7つのタイプに分類され、このうち2つがネアンデルタール人由来、ひとつがデニソワ人由来だと判明します。

理論的にはヒトより数十万年先にアフリカを出て、中東を経由してヨーロッパに広がったネアンデルタール人の遺伝子は、アフリカに残った祖先由来のアフリカ人には存在しいていませんでした。

これを調べたら、確かにアフリカ人にはネアンデルタール人由来のTLR遺伝子を含む領域はほとんどみられませんでした。このように、現代人のTLR遺伝子を含む領域のゲノム配列を詳細に調べ比較してネアンデルタール人とデニソワ人由来だと突き止めたのです。

そして、機能が非常に重要なので、数万年という自然選択を受けてもほとんど変わらずに高頻度で残っていたと考えたようです。

実はこのネアンデルタール人由来のTLR1遺伝子とTLR6遺伝子、TLR10遺伝子の3つの遺伝子を最も多く持つのが私たち日本人で、どの集団よりも高く、約51%が持っていたそうです。


花粉症の最大の要因にTLR1とTLR6、TLR10が直接関与するわけではありませんが、免疫システムを通して人類の壮大な進化を想像し、私たちの祖先である、内なるネアンデルタール人のことを意識してみるのも、たまにはいいのかもしれません。
http://www.m-a-p-s.biz/entry/neanderutarujinnihonjin


▲△▽▼


日本人はネアンデルタール系種族の生き残り? - ねずさんのひとりごと? 2017年08月31日
https://ameblo.jp/aoiwasi-k135/entry-12306382775.html
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3498.html?sp


なんだか大上段に振りかぶったようなタイトルになってしまいましたが、要するに言いたいのは、「7万年前からが現生人類」というのは「白人種視点での人類史」だということです。

有色人種視点で考えると、特に日本人などは25万年前に生まれた新人類種(ネアンデルタール系)の生き残りからの進化と考えなければ、遺跡の辻褄が合わなくなるのです。

年表

猿人が出現したのがおよそ600万年前、ネアンデルタール系等の新人類種が出現したのが、およそ25万年前といわれています。

この時代の人類は、火や石器を使うネアンデルタール種を筆頭に、猿人から現在の人類に近いものまで、かなり多様な種族があったようです。

ところがおよそ7万年〜7万5千年前に、インドネシアのスマトラ島にある「トバ火山」が大噴火を起こします。
この噴火は地球史上に残る大噴火で、噴煙は世界に広がって、地球気温は年平均で5℃も低下しました。

年平均気温というのは、1℃違うだけで、鹿児島と仙台の気象が入れ替わります。
それが5℃違うということは、日本がアラスカのような気候になり、赤道直下の気候が北海道から樺太にかけての気候になるということです。
これはものすごい変化です。

当然影響はすさまじくて、このとき地球上の人口は、およそ1,000〜10,000人程度にまで減少したといわれています。

地球はひとつの生命体に例えられますが、その地球が怒ると本当に怖いです。
そしてこの大災害を生き残ったごくわずかな人類が進化して、現代人になったとされています。

これを「ボトルネック効果」といいます。
多様な進化を遂げていた種が、急激な個体数の減少によって遺伝的な多様性を失ない、わずかに生き残った種が、その後繁栄して現代の種になっているわけです。

このことは比較的近いこの千年ほどの時代の中にあって、民族的特徴が極めて似通って細目、エラ、耳などの身体的特徴が極めて似通った民族があることでも理解いただけると思います。

こちらは一国の中における社会体制が原因ですが、トパの噴火のときには、これが地球的な規模で起きたわけです。

おもしろいことに、このときのトパ噴火後、ヒトに寄生するシラミもまた、この時期に変種が生まれています。

毛髪に寄宿する毛ジラミと、衣服に寄宿する衣ジラミで、近年の遺伝子の研究によって、この2種が分化したのも、およそ7万年前とわかりました。

このことは、トバの噴火後、急速に寒冷化した地球を生き残るために、人類が衣服を着用するようになったことを示しています。

トバの大噴火によって起こされた地球の寒冷化は、その後約5万年続きました。
その5万年が、地球上の最終氷河期と呼ばれる期間です。
その終わり頃のおよそ1万8千年前、地球気温は最低のレベルにまで冷え込みました。

その理由が姶良カルデラ(あいらカルデラ)の破局噴火です。
これは日本で起こっています。

鹿児島湾には、入り口付近に桜島があり、その内側は、およそ直径20kmの窪地を構成しているのですが、これが姶良カルデラです。
つまり桜島が活火山なのではなくて、鹿児島湾自体が巨大な噴火口だったわけです。

このときの噴火による火山灰は、南九州では30メートル、高知県宿毛で20メートル、鳥取県大山付近で8メートル、京都にも4メートルも降り積もっています。
そして偏西風に乗って世界各地に甚大な被害をもたらしています。
そしてこれによって、地球気温は急激に寒冷化するわけです。

ちなみに火山の噴火というのは、単に火山灰が太陽を隠して寒冷化をもたらすというだけにとどまりません。

火山灰に含まれるガラス成分が肺に入って突き刺さり、アスベストと同じ肺気腫や心不全などの健康被害をもたらして人を死に至らしめます。

実は近年、南九州で、この火山灰層の下から、縄文時代の大集落跡が次々と発見されています。

そこでは世界最古の船造りのための工具や、燻製施設、金属を加工するための炉、縄文ではなく貝殼紋の土器などの遺物遺構が続々と発掘されています。
この人たちは、遺物の状況からみて、造船のみならず、金属加工まで行っていたわけで、極めて高い文化を持った人々であったことがわかります。
しかも彼らは海洋族です。

海洋族であったということは、海を移動する人々でもあったということです。

さて日本列島には、この姶良カルデラ(あいらカルデラ)の破局噴火よりも1万2千年古い、およそ3万年前の世界最古の磨製石器が関東で発掘されています。
場所は栃木県の岩宿遺跡です。

さらに島根県の出雲にある砂原遺跡からは、およそ12万年前の石器が発掘されています。

これはトパの噴火よりも古い時代の遺物ですが、現生人類の誕生が7万年前とすると、砂原遺跡の石器は、現生人類ではない旧人類(新人)の遺物ということになります。

一方、その人々がそのまま日本列島に生き残ったのであろうことは、近年の研究成果で日本人のDNAに、ネアンデルタール系のゲノムが世界で最も多く残されていることで証明されています。

これは昨年、西ドイツの研究チームが発表したことです。

つまり日本人はネアンデルタール系の旧人類が、現生人類と7万年の歳月をかけてゆるやかに結合していくことで現代日本人につながっている種といえるわけです。

日本列島で石器を遺した人々は、7万年前のトパの噴火で多くの命が失われ、また3万年前の姶良の噴火でも、やはり多くの人命を失ったことでしょう。
ところが姶良カルデラの噴火後、およそ千年の間に、地球気温はいまよりもずっと上昇します。

そしていまから1万6500年前には、青森で最古の土器が発掘されています。
なぜ青森なのかといえば、その頃の地球気温がいまよりもずっと高かったからです。

そして姶良カルデラの噴火以降の遺跡は、九州地区から山陰、畿内、関東、東北へと広がりを持ちます。

この時期の日本列島は、寒冷化と温暖化が数百年単位で変化しています。
このことは、たとえば森の木々にしても、森が針葉樹林になったり、広葉樹林に変化したりしているわけです。

このことは、人々の生活環境を劇的に変えていくことを意味します。
そうした環境変化を生き延びようとすれば、当然、着衣や道具類を進化させていかなければならなくなります。

また、人は移動できる動物です。
寒冷化が進めば南へと移動し、温暖化が進めば北へと移動します。

ここでヒントになるのが、海洋族であったという切り口です。
海の魚には様々な種類がありますが、魚たちはわずかな海温の変化で、その生息地を変化させます。

最近でも、ほんの30年前には御前崎あたりで捕れていたイシモチが、いまは東京湾くらいまで北上しています。

食用には様々な魚が供されたでしょうけれど、比較的漁がしやすく、食用に量も確保しやすい魚が移動すれば、いまのような土地の所有権などなかった時代のことですから、人々は、魚とともに北上したり、南下したりを繰り返したことと思われます。

また、よりたくさんの魚を得るためには、船造りや釣り針などに常に工夫が必要です。
ここにも知恵が必要になります。

海洋族というのは、海を利用して頻繁な往来を行います。
姶良の噴火のような自然災害がいつ起こるかわからないという中にあっては、子孫たちは、地域的に離れて住むことが行われたことでしょう。

このことは古事記の中にあっても、国産み神話の中で、人々(子孫)が全国各地に広がっていった様子として描かれています。

なぜならそうしなければ、変化する環境を生き残れないからです。
ずっと寒冷のまま、ずっと温暖のままであれば、そのような知恵は必要ないかもしれません。

けれど生活環境が劇的に変化する環境のなかにあっては、子孫の生活拠点をどこに置くかは、とても重要なことです。

さて、3年前の2014年のことですが、現生人類とネアンデルタール人は、6万年前くらいから混血してきたのではないかという説が発表されました。
翌年には、米国の研究チームがDNAの研究によって、鬱病や気分障害や依存症などの精神疾患は、ネアンデルタール人由来のものであるという発表を行っています。
そして上にも書きましたが、昨年には西ドイツの研究チームが、世界でもっともネアンデルタール系のDNAを保持しているのが日本人だという研究成果を発表しています。

これらを総合して考えるとき、日本人は大陸から朝鮮半島を経由して日本列島に住み着いたという説は賛成しかねるものとなります。
なぜなら、いまでもそうですが、いわゆる文明というものは、河川と海の交わる平野部で興っているからです。

人類が内陸部でも生活するようになるのは、ずっと後の時代の、農耕が営まれるようになったおよそ1