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弥生人の起源 _ 自称専門家の嘘に騙されない為に これ位は知っておこう
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/547.html
投稿者 中川隆 日時 2011 年 10 月 02 日 09:31:13: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: NEW「大化の改新」近代史の盲点。 投稿者 manase8775 日時 2011 年 9 月 22 日 18:56:44)

弥生人の特徴は、縄文人と比較すると、顔立ちは、面長で、眼窩は鼻の付け根が扁平で上下に長く丸みを帯びていて、のっぺりとしている。また、平均身長も162〜163センチぐらいで、縄文人よりも数センチ高い。これらの人骨資料のほとんどは、北部九州・山口・島根県の日本海沿岸にかけての遺跡から発掘されたものである。

近年、福岡県糸島半島の新町遺跡で大陸墓制である支石墓から発見された人骨は縄文的習俗である抜歯が施されていた。長崎県大友遺跡の支石墓群から多くの縄文的な人骨が発見されている。さらに瀬戸内地方の神戸市新方遺跡からの人骨も縄文的形質を備えているという。ただ、福岡市の雀居(ささい)遺跡や奈良盆地の唐古・鍵遺跡の前期弥生人は、渡来系の人骨だと判定されている。

つまり、最初に渡来人が来たと考えられている北部九州や大陸系渡来人が移住した可能性のある瀬戸内・近畿地方でさえ、弥生時代初期の遺跡からは渡来系の人と判定される人骨の出土数は少ない。 水田稲作の先進地帯でも、渡来系の人々ではなく、縄文人が水稲耕作を行ったのではないか。絶対多数の縄文人と少数の大陸系渡来人との協同のうちに農耕社会へと移行したと考えられる。

鈴木尚は、縄文時代から現代までの南関東の人骨を比較研究して、縄文人から弥生人への体質変化を生活環境の変化と考えた。狩猟・漁労生活から農耕生活へと生活環境を一変させた変革こそ形質を変えることになったと理解した。しかし、南関東の人骨比較のみによって、日本全体へ広げて当てはめて理解しようとすることには疑問が残る。

一方、金関丈夫は、西日本の弥生人骨の研究から、縄文人とは違った人間が大陸からやってきて、縄文人と混血して弥生人になったと考えている。この想定は、山口県土井ヶ浜遺跡、福岡平野の前・中期の弥生人骨の研究から導かれた。

混血が起きた地域を西日本と限定し、東日本では、鈴木尚がいうように在来の縄文人が弥生人になったと考えている。福岡平野・佐賀平野などの北九州の一部で、縄文人が渡来人と混血した結果弥生文化を形成して東に進み、混血しながら名古屋と丹後半島とを結ぶ線まで進み、水稲耕作が定着した。そして、西北九州・東日本では、縄文人が弥生人を受け入れたと考えている。 両説対立するというよりも両説両立するといえる。金関の成果を受け継いで前進させている永井昌文は、混血の可能性が大きいと考えている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3


もし、弥生人が稲作を日本列島に持ち込んだ民族(従来の歴史ではそのようにしてある)であるとするのなら、弥生人の故郷は、朝鮮半島ではなく、中国の南部であるという。

これは最近の科学的ミトコンドリアDNA鑑定によって、稲および弥生人のDNAが中国南部のそれと一致するからである。


1999年(平成11年)3月23日、中日共同調査団が発表、 「弥生人」の起源は江南地方か

共同通信によると、日本に稲作を伝えたとされる渡来系弥生人の人骨と、長江
(揚子江)下流域の江蘇省で発掘されたほぼ同時期の人骨の特徴がよく似ており、
DNA分析で配列の一部が一致する個体もあることが、18日までの中日共同調
査団の調査で分かった。

 渡来系弥生人は、朝鮮半島や華北地方から来たという説が有力と考えられてい
たが、稲作の起源地とされる長江下流域を含む江南地方からも渡来した可能性が
高くなり、弥生人の起源を探る上で注目されそうだ。

 同日、東京で記者会見した日本側山口団長らによると、調査団は1996年か
ら3年計画で、江蘇省で出土した新石器時代から前漢時代(紀元前202−紀元
後3年)にかけての人骨と、福岡、山口両県で出土した渡来系弥生人や縄文人の
人骨を比較した。

 その結果、弥生時代の直前に当たる春秋時代(紀元前8―同5世紀)から前漢
時代にかけての江蘇省の人骨と、渡来系弥生人の人骨には、頭や四肢の骨の形に
共通点が多かった。

 また日本列島では縄文時代から弥生時代にかけて前歯の一部を抜く風習があっ
たが、江蘇省の人骨二体にも抜歯の跡があった。

 江蘇省の人骨三十六体からDNAを抽出し分析した結果、春秋時代の三体でD
NAの塩基配列の一部が弥生人のものと一致したという。

 中国側団長の鄒厚本南京博物院考古研究所所長は「弥生人と江南人骨の特徴が
極めて似ていることが分かり、弥生人渡来の江南ルート説に科学的根拠が与えら
れた。今後も多方面から研究を進め、弥生人渡来の実態を解明したい」と話して
いる。

 江蘇省ではこれまで春秋戦国時代から前漢時代までの人骨がほとんど出土せず、
渡来系弥生人との関連を探る研究は進んでいなかった。

「文化的にも江南から影響有」という記事も見られる。

吉野ヶ里で発見された絹は、遺伝子分析により前2世紀頃中国江南に飼われていた四眠蚕の絹であることが分かった。当時の中国は蚕桑の種を国外に持ち出すことを禁じており、世界で最初に国外に持ち出された場所が、日本の北部九州であり、考古学的に証明された。


中国江蘇省無錫市の越時代の貴族墓から出土した鐸(共同)右日本の銅鐸(弥生時代)

『中国沿海部の江蘇省無錫市にある紀元前470年頃の越の国の貴族のものとみられる墓から、原始的な磁器の鐸が見つかった。南京博物院(同省南京市)によると、これまで中国各地で出土した鐸と異なり、日本の弥生時代の銅鐸によく似ている。中国側研究者からは「日本の銅鐸は越から伝わった可能性があるのでは」との声が出ている。鐸は四つ見つかり、高さ約20センチ、幅約12〜18センチの鐘型。肌色で表面に蛇のような小さな模様が多数刻まれ、鐸上部に長さ数センチの蛇や虎の姿を模したつり手が付いている。

同博物院などの説明では、黄河流域を中心に中国各地で出土してきた鐸は上部に手で持って鳴らすための細長い柄が付いたものばかり。日本の銅鐸と似たつり手の付いた鐸が、長江(揚子江)下流域の呉(?〜紀元前473)と越(?〜紀元前334)に存在していたことが歴史書にあるが、実際に中国で出土したのは今回がはじめて。楚に滅ぼされた越から日本に逃げた人がいるとされることもあり、日本の銅鐸との関連性を指摘する声が出ている。』2006年3月7日付の朝日新聞

現在の日本文化の特色となっている神社の原初的形態、しめ縄、鳥居なども中国江南の文化・風俗・風習そのものだと言える事が、考古学的に明らかになっている。

そのほか「抜歯、イレズミ」の風俗、そして大社造の高床式の建物など、DNA鑑定とあわせると、弥生人の出自は中国南部といえそうだ。

ただし中国南部とは、地図上でそういうのであって、その民族は中国人(漢民族)ではない。今も残る中国の少数民族と、すでに消えてしまった民族が混血して出来たものであろう。

春秋戦国時代の呉越の時代の中国、東南アジア、東インド諸島まで視野に入れるべきであろう。

http://sawyer.exblog.jp/7178292/

◇弥生人はどこから来たか?そのルーツを中国江南に探る

第1章 弥生人が見えてきた

@なぜいま江南人骨なのか


我々日本人の祖先はどこから来たか?このテーマは、日本古代史に残された大きな課題の一つである。と同時に、日本人(特に渡来系弥生人)のルーツを探ることは、現代日本人が最も関心を持っている浪漫の一つであろう。

なぜなら、この渡来系弥生人が現代日本人の形質に一番大きな影響を与えているといわれており、学問的なテーマでありながら身近な問題であり、今日的意義も大きいからである。

渡来系弥生人とは、中国大陸からイネを運んできた渡来民のことである。そこで、共同調査団としては、イネの故郷と思われる中国・江南地方にターゲットを絞った。しかし、今まで江南地方からは日本の弥生時代に相当期(中国の春秋戦国時代〜前漢時代)の古人骨はまったく出土していなかった。このため江南人骨との対比調査は未知の分野であった。

ところが、昨秋(1998年11月)の第3回訪中調査で3ヵ年にわたる共同調査を終了したが、予期せざる大きな成果をあげることができた。それは中国側の絶大なる協力と南京博物院の精力的な努力によって提供された未研究の江南人骨数体の中に、日本の渡来系弥生人に極めて類似する固体が数多くあることを確認できたのである。


A衝撃的な成果を上がる

南京博物院の調査研究室にずらりと並んだ江南人骨をまず、頭骨、続いて四肢骨と入念な計測作業が続く。この日は計測を始めて3日目であった。

日ごろ、慎重そのものの3人の学者(山口敏・国立科学博物館名誉研究員、中橋孝博・九州大学教授・分部哲秋・長崎大学講師)が「江南人骨の多くは渡来系弥生人にそっくりである」と自信に満ちた言葉で言われた。

「まだサンプル数が少なく、多少の固体変質はあるが……」との注釈は付いたが、「江南に弥生人の原郷があった」という発見は、人類学上も衝撃的な成果であった。

「日本の渡来系弥生人にそっくり」の古人骨を江南地方で発見し、分析研究できたことは、日本はもちろん、中国でも今回が初めての画期的な成果であった。 

この成果が1999年3月18日、東京国立博物館で、日中共同調査団(日本側団長=山口敏)からマスコミに正式発表され、各報道機関から全国に詳しく報道されている。 この発見は人類学会だけでなく、考古学・農学などの周辺諸分野の研究者にも反響が大きく、また、国民的な話題と関心を読んだ。

http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin.html

弥生人のルーツは江南か〜江南人骨の計測と観察〜


@渡来系弥生人そっくりの江南人骨


頭骨の計測=中橋孝博・九州大学教授

(a)特徴をどう対比する

「渡来系弥生人」の特徴は、縄文人に比べて「高顔」つまり顔が「面長」であり、しかも平面的な点である。そこで「江南人骨」と対比する場合、まずこれらの点を観察してみると、両者は基本的に共通していることがまず確認できる。

頭骨の顔面には多くの情報が潜んでいる。そこでまず顔面の計測に入る。 顔の高さ、顔の幅、鼻の高さ・幅、眼窩の形・広さなどである。計測の結果,個体差はあるが平均値としては渡来系弥生人に良く似たデータが得られた。

弥生人と縄文人との決定的な差異は、渡来系弥生人の鼻根部、つまり鼻の「つけ根」がぺチャッとしている平坦な点である。これが渡来系弥生人の顔の最大の特徴である。江南人骨との対比調査で一番大事なポイントはここである。

江南人骨も、渡来系弥生人に似て、鼻の「つけ根」が平坦である。また、「鼻骨つけ根と前歯の間の長さ」を計測すると、ほとんどの江南人骨の数値が、北部九州の渡来系弥生人の数値(平均値)である「74ミリ」に非常に近い。縄文人の数値は67〜68ミリである。

これらの数字は渡来系弥生人と江南人の共通性を決定づける、重要なデーターの1部である。多数の数値(平均値)が一致すれば、「よく似ている」と判断を下せるわけである。

(b)中国で弥生タイプ人骨の出現〜変化はすでに春秋時代〜

今回日中共同調査で渡来系弥生人にそっくりの江南人骨の発見も驚ききであったが、実は江蘇省徐州近郊の梁王城遺跡(春秋時代、紀元前5〜6世紀)から、すでに渡来系弥生人に似た人骨が出土していたことはさらなる驚きであった。

日中共同調査団による5年前(199?年)の調査で、中国の新石器時代人(4000年〜5000年前)は日本の縄文人、弥生人いずれにも似ていないことが明らかになっていたが、今回(199?年)の研究で、紀元前約500年の春秋時代末期に、弥生人タイプの「春秋時代人」がすでに出現していたことが明らかになったのは、予期せぬ大きな発見であった。

中国の新石器人の形質がなぜ変化したのか?この問題には、日中共同調査団の考古学者の中国側メンバーばかりでなく、この調査に協力いただいた日本の考古学者(菅谷文則<滋賀県立大学教授>東アジア考古学専攻)も注目している。

しかも、この春秋時代人骨は骨の形質が渡来系弥生人にそっくりであると同時に歯も渡来系弥生人のように大きく、抜歯風習も弥生時代の形式と一致している。梁王城遺跡の春秋時代の2体(いずれも男性)に見られた「上顎の側切歯を左右対称に抜く」という「抜歯の形式」は、弥生時代に流行していた抜歯の形式とまったく同じものであった。これは今回の重要な発見の一つであり、今後の重要な研究課題であると、中橋教授も注目している。

今後、この梁王城遺跡一帯は渡来系弥生人の起源を探る重要な鍵となるかも知れない。

http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin2.html

A江南人のほうがスマート

四肢骨の計測=分部哲秋・長崎大医学部講師

(a)四肢骨

北部九州の渡来系弥生人は、江南の春秋〜前漢時代人よりも下肢骨が太く、江南人のほうがややスマートであるが、骨幹の横断面形など、共通性は多い。

また縄文人の大腿骨は前方に「彎曲」しているが、江南人、渡来系弥生人ともに「彎曲」は弱く、この点も重要な共通点である。

(b)推定身長

大腿骨の長さから算出した推定身長は、ひ県劉林の新石器時代人(男2例、平均168.2cm)は黄河流域の新石器時代人に似て著しく高身であるが、常州ウトンの新石器時代人(男6例、平均152.6cm)と春秋〜前漢時代人(男9例、平均165.5cm/女5例、平均152.5cm)はやや低く、北部九州弥生時代人の平均(男162.6cm/女151.3cm)に比較的近い値を示している。

B歯は弥生人のほうが大きい

歯の形態と計測=松村博文・国立科学博物館研究官
縄文人に比べて弥生人の歯は大きい。江南人骨の歯も1部の資料(ひ県梁王城、揚州胡場)では、歯の大きさとの比例が渡来系弥生人に著しく似ている例があったが、現状のサンプルの平均値では弥生人に比べて小さいようである。

今回調査できた江南人骨の頭骨には残念ながら歯の保存されている例が少なかったので、今後サンプル数を増やさねば正確な対比はまだ望むべくもないが、ただ前歯の裏側がシャベル型にえぐれている点などは、渡来系弥生人と共通する特徴がある。

C弥生人と春秋人が同じ祖先

DNA解析=篠田謙一・佐賀医大助教授

江南人骨35体の歯の試料から12体のDNAを抽出し、PCR法で増幅することに成功、解析したデータの塩基配列を「近隣結合法」で比較したのが図2の比較グラフ(系統樹)である。

そのグラフを見ると江南人骨(揚州市−胡場、連運港市−網田童庄など)と北部九州の渡来系弥生人骨(福岡県−隈・西小田)との位置関係は、縄文人に比較すると近い距離にあるように見える。

古人骨DNA分析は国際的にも研究がスタートしてまだ5年程度の歴史であり、日本側・中国側のサンプル数が少ないので、篠田助教授はまだ「作業仮説」であると言っているが、今後サンプル数が増加し、もっと深く分析が進めば、なぜ古人骨の間にこのような変化や共通性が生じた理由(例えばヒトの移動による混血とか)が、DNAの解析から結論が出せるかもしれない……と語っていた。

ここで特記すべきことは、前記した梁王城遺跡の春秋時代末期(紀元前5〜6世紀)の江南人骨2体が、すでに渡来系弥生人と共通の塩基配列を持っていたことであろう。

これは梁王城の人と渡来形の弥生人の先祖が共通である可能性をデータが物語っており、今後の大きな研究課題として注目される貴重な発見である。


D山口調査団長に聞く

(a)共同調査対象の江南人骨

新石器時代 22体 ウトン
春秋戦国時代 11体 梁王城10 儀征1
前漢時代 15体 網田童庄5 陶湾1 胡場7 他2


(b)調査成果の要点

(1)未知の江南地方で調査対象の古人骨が始めて発見された。

(2)江南人骨が頭骨、推定身長などの計測の結果でも、渡来系弥生人に「よく似ている」ことを確認できた。しかもDNA解析、抜歯の風習でも「弥生的要素」の類似が始めて発見されたことである。

(3)これも予期せぬことであったが、すでに弥生人タイプの春秋人が春秋時代末期に誕生していた。これは画期的な発見であった。

(c)稲作民の渡来

稲作民は中国大陸のどこからきたのか?その源郷はどこか?これが私たちの調査団の最大の関心事であった。そのためには「イネのふるさと」である江南地方の古人骨の調査に的を絞ってきた。今回稲作の渡来民の源郷を江南で発見し、その宿題を果たし得たことは学問的にも大きな意義があると思う。

さて、その稲作を日本にもたらした渡来ルートにについては、渡来民の源郷の候補地が黄海をとりまく山東、江南、朝鮮半島の地域に絞られてきたので、これからは考古学、農学など関連部門との学際的研究にまつべき時期に来たと思う。

この稲作民がなぜ故郷を離れねばならなかったか?というテーマも興味深い。これも学際的な課題である。

http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin3.html

第3章 前漢墓の遺跡−巨大な木槨〜中国江蘇省の網田童庄〜


昨年(199?年)の秋、訪中した共同調査団は江南人骨が出土した江蘇省連雲港市の海州地区網田童庄(田がヘンで造りが童で,田童で1字です) の前漢墓の発掘跡を訪れた。

この遺跡からは前漢時代の人骨5体(男3体、女2体が出土していた。この遺跡は前漢時代の海州邑の豪商、豪農の広大な墓域であったとのことで、小高い丘陵の山麓にあり、地下深く10メートル掘って埋めていた巨大な「木槨」の中に夫妻の「木棺」2基が納められ、その木棺の中に古人骨は眠っていた。

「魏志倭人伝」に「魏の墓には棺ありて槨なし」と記述されているが、始めてみる巨大な「木槨」には調査団も目を丸くしたものである。

http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin4.html


江蘇省の主な人骨出土遺跡■印
http://www.asukanet.gr.jp/tataki/yayoizin5.html

今の朝鮮半島の住人と、三韓時代の半島の住人は民族学的には全く別の民族です。

韓国(北朝鮮)人の先祖は百済人でも新羅人でもありません。 同じ地域に住んでいるという事だけが共通点です。

弥生人と呼ばれる文化を持つグループは今でいう中国南部からの移民(難民)だと思われます。 三国志の世界の前(前〜後漢)期あたりでしょう。

その後に北方系の民族が半島に文化を咲かせながら 日本列島にやってきます。

勿論、今の朝鮮半島の人たちとの先祖ではない人たちです。

http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1425303274

稲作の起源とその考古学的分析


日本人の渡来ルートを知るために稲作の渡来ルートを考える研究があり、いくつかの説が存在している。

かつて、佐々木高明らによる照葉樹林文化論は、稲作が中国雲南省などの山間部における陸稲を発祥としていると主張していたが、近年、長江文明の全貌が明らかにされるにつれ、稲作は長江下流域の水稲耕作を発祥とする説が有力視されつつある。

従来、稲作は弥生時代に朝鮮半島を南下、もしくは半島南部を経由して来たとされてきたが、2005年、岡山県彦崎貝塚の縄文時代前期(約6000年前)の地層から稲のプラント・オパールが見つかっており、縄文中期には稲作(陸稲)をしていたとする学説が多数出た。


それに加え、

遼東半島や朝鮮北部での水耕田跡が近代まで見つからないこと、

朝鮮半島で確認された炭化米が紀元前2000年が最古であり、畑作米の確認しか取れず、日本より遡れないこと、

極東アジアにおけるジャポニカ種の稲の遺伝分析において、朝鮮半島を含む中国東北部からジャポニカ種の遺伝子の一部が確認されないこと


などの複数の証拠から、水稲は大陸からの直接伝来ルート(対馬暖流ルート・東南アジアから南方伝来ルート)による伝来である学説が見直され、日本から朝鮮半島へ伝わった可能性を指摘する佐藤洋一郎の説もある。


一方、これらに対して農学者の池橋宏は、従来の「縄文稲作農耕」説は農学的に見ても疑わしく、日本の稲作は江南を起源とし、北九州に持ち込まれた可能性が高いと主張している[38]。しかしながら、最近の遺伝子解析技術の進歩はめざましく、こういった学説では


日本での水田跡が紀元前まで遡るのに比べて、

朝鮮半島では水田耕作の遺跡が約1500年前くらいまでしか遡れない事実


と符合するものでもある。

現在、炭素14による日本最古の水田稲作遺跡は約2800 - 3000年前とされている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA#.E3.80.8C.E5.80.AD.E6.97.8F.E3.80.8D.E8.AB.96


日本の神典によると、稲の起源は神代の時代で、保食神(伊勢外宮のご祭神・豊宇気姫神)によってその原種が生み成されたとされています。そして天熊人(あまくまのうし)がそれを高天原へ持ち帰ったところ、天照大御神が「この物は、すなはち顕見(うつしき)蒼生(あおひとくさ)の食ひて活(い)くべきものぞ」という神勅を発せられ(「顕見蒼生」とは人類のこと)、人間の主食であることが定め
られました。

その後、高天原で稲を培養する道が開かれ、また品種改良も行われて、天孫降臨の際、邇々芸命(ににぎのみこと)に最上級とされる米種が授けられたことが伝えられています。


わたしが学校で習った頃は、確か「稲作は朝鮮半島から日本に伝わった」という説でしたが、テクノロジーの発達によって様々なことが判明してきますね。

http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/230809.htm

縄文の視点からみた台湾と朝鮮 From tokumaru

縄文専門家に台湾と朝鮮の話を伺いました。短いですが、ご参考まで

1台湾は旧石器時代から、スンダ文明圏にありました。台湾はスンダ原住民の国です。海底には神殿遺跡があります。三百年前大陸から中華大陸から三百人ほどわたってきて、さんざ悪さをしました。そして将介石が台湾に逃げてきて占領しました。独立派はいれなくなりした(今は大丈夫になりました)。

また、台湾では縄文土器が発掘されていることです。是非、原住民資料展示館、及び考古博物館に足を運び館の人と話すとよいです。

2ソウルの韓国国立博物館にも縄文土器が展示してますよ。九州の縄文土器と同じだとちゃんと解説してあります。また、ピョンヤンの国立博物館にも7千年前の縄文土器が展示されていた。

朝鮮半島も縄文文化圏だったのです。

台湾の博物館で特別に発掘土器を見せて貰ったのですが、日本語を話す館長は、それら土器を縄文土器と言っていました。沖縄では縄文土器がないとされていたのですが、空港工事で縄文土器がでてきたので、歴史年表が書き換えられています。

http://www.asahi-net.or.jp/~VB7Y-TD/220813.htm


■チョーセン人・カンコク人が認めたくない歴史的事実の例


・弥生人が長江流域から稲作とともにやってきた百越系民族であること(稲のDNAによる証明)

・半島南部の先住民が倭人(日本人)(弥生人=百越系民族)であること(半島南部考古学的遺物=九州北部遺物)

・新羅の建国時の宰相(瓢公)が倭人(日本人)であり、王家の一つ昔氏が倭人系統であること、また始祖の朴赫居世についても倭人(日本人)説があること(瓢=ひさご・ひょうたん=朴=半島南部古語)

・百済、新羅が日本の大和朝廷に対し従属的地位にあったこと

・大和朝廷(日本)による伽耶地域の支配(半島南部における多数の前方後円墳の存在)

・半島における文化的独自性の欠落(あらゆる分野での古典の不在)→事実のねつ造,文化の掠奪

・常に日本、中国、モンゴルなどの属国として歩んできた歴史

・姓が漢族のものであること

・朝鮮征伐が日本と明との戦争であったこと(李朝の軍は明の将の指揮下に入り、和平交渉も日本と明の間で行われている)

・朝鮮通信使が実質的に日本への朝貢使節であったこと(琉球の江戸上りと同じ)

・李成桂が女真人=満州人であること

・固有語の語彙が乏しく、また日本のように字訓という制度的保証がない状態ですでに語彙のおよそ7割が日本漢語であること(学術的語彙は9割が日本漢語

http://shadow-city.blogzine.jp/net/2011/02/post_6c46.html#more


■中国の史料『東夷伝』の記述

「新羅も百済も日本を大国として敬い、仰ぎ、通商していた」

■中国の史料『三国志』の記述
「朝鮮半島南部は倭人が支配していた」

■高句麗の史料『広開土王碑』の記述
「日本が新羅と百済を属国にした」

※韓国人が石碑の改竄を主張するが、昔の拓本が2枚、中国で見つかり、中国人学者に否定される

■日本の史料『日本書紀』の記述
「新羅と百済は日本の属国」

「渡来」は飛鳥時代にも奈良時代にも続いている。大移動は無くなったが、始祖の地からの文化・血脈の移入は続行していたのである。

大和朝廷における「渡来人」は、そのもたらした価値故に高い身分につき、絶えず政(まつりごと)の中心にいた。やがて血脈の移動は途絶えるが、見方によっては「渡来人」達が今日の日本を造ったとも言える。

『日本書紀』には百済の歴史書が多く引用され(『百済記』『百済新撰』などが引用されているが遺失した歴史書である)、百済から輸入された文物は多い。

有名な文化財には、軍事的援助の礼として、中国より伝来したとの説もあるが、百済から倭に送られた奈良県の石上神宮に伝わる七支刀がある。

百済滅亡により、百済王と王族・貴族を含む百済人が倭国に亡命し一部が朝廷に仕えた。豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜った。百済王氏は8世紀に敬福(きょうふく)が陸奥守として黄金を発見し東大寺大仏造立に貢献するなど日本の貴族として活躍した。大阪府枚方市の百済王神社は百済王氏の氏神を祭る神社である。

この他にも、5世紀に渡来した昆伎王を祀る延喜式内社飛鳥戸神社など百済にまつわる延喜式内社がある。また、奈良県北葛城郡広陵町には百済の地名が集落名として現存し、百済寺三重塔が残る。

また、兵庫県神戸市には扶余系にちなんで唐柩の地名が残る。なお百済王氏ではないが、光仁天皇の妻の一人であり、桓武天皇の生母である高野新笠は百済武寧王を遠祖とする渡来人和氏の出身という記述が『続日本紀』にあるものの、実際に武寧王の子孫であったかどうかは朝鮮側の資料から見ても不明瞭であるため疑問視する学説もある(詳細は高野新笠の項目を参照)。

そもそも、百済は唐・新羅連合軍によって、完全に断絶させられており、今の韓国人とは関係のない国家とする見方もある。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E6%B8%88


大和政権の発展のために働いた渡来人(渡来人研究会)

秦氏・・・秦の始皇帝の末裔を自称していたと伝えられる。

蘇我氏の元で、諸外国の技術・知識を調べ出すことを、当時の政権のため、あるいは氏族自身の朝廷での優位性をたもつために、熱心におこなっていただろうことが想像される。

蘇我氏の仏教導入のための造寺、儀式導入など。
養蚕から絹織物との関わりも考える説もある。
大蔵・内蔵官人職との関わりが強く、文筆業・算術などにも長けていたものとおもわれる。

長岡・平安遷都には、山城に拠点をもった秦氏とその土木技術が大きく影響を及ぼしている。

東漢氏・・・韓半島でもカヤ地域から河内に渡来してきた氏族。

漢帝国に属した帯方郡から渡来したという伝承に由来して「漢」と称することとなったと考えられている。

伝承面では東漢氏の渡来伝承には、神牛の導きに従い、中国漢末の戦乱から逃れ、朝鮮に渡ったこと、皆才芸に優れ重宝されたこと、さらに聖王が日本におり、このままでは滅ぼされてしまうとして、渡来してきたと伝えられている。 
蘇我氏の兵士として奉仕していたが、壬申の乱では、蘇我氏を見捨てることもあった。
その後天武天皇にそれら推古天皇以来の武力の技をとがめられている。


西漢氏・・・物部氏と結びつきが深かったとの説がある。東漢氏に準ずる形で組織が成立していったらしい。


文氏・・・王仁の後裔氏族。文筆業を主としたことから、その呼称・氏族名が生じたものと考えられている。


今来漢人・・・遅れて渡来した漢人。外交関係に従事。

陸系先進技術を通して、王権に奉仕していったものと考えられている。
奈良時代にはその一部は雑戸・品部として、官営工房などに配属されたようだ。


吉士集団・・・6世紀ごろに渡来した新羅系の渡来人集団。

7世紀以降の渡来人・・・百済・高句麗が滅んだときに亡命してきた、百済王氏・高麗王氏らの亡命渡来人や、朝鮮三国の官職をもって渡来した氏族とその子孫、唐から遣唐使などを通して渡来した唐人などがある。

また、7世紀ころになるとペルシアやインド方面からの渡来人も記録されている。
これらの渡来人は、当時最先端の大陸系の知識・文化を身につけていたことから、時に重宝されることがあったものと考えられている。

http://tott.blog68.fc2.com/blog-entry-99.html


一般には、日本では神代(かみよ)の昔から、方言はあるものの、すべての人が同じ言語を話していたということになっています。日本書紀も古事記もそういう前提で話が進んでいるので、疑う人も問題にする人もいません。

しかし、歴史学者の岡田英弘氏は、日本にも実際は多くの言語があり、しかも、その人たちは、他の言語をしゃべる人たちとは商売以外の交流はほとんどなかっただろうと述べています。

引用開始

それでは、668年に天智天皇が日本を建国する前、7世紀後半の韓半島の人口構成はどうだったでしょうか。

636年に唐が編纂した『隋書』の「東夷列伝」によると


百済の国人は、新羅人・高句麗人・倭人の混合であり、また中国人もいる。

新羅の国人も中国人・高句麗人・百済人の混合である、


と書いています。この記事では百済には倭人がいるのに新羅には倭人がいないのが目立ちます。これは新羅が、倭から百済をへて南朝にいたる貿易ルートを外れているのが原因だと思います。


それでは日本列島ではどうだったか。ここで、同じ『隋書』に伝えられる、609年に隋使・裴世清が立ち寄った秦王国のことを思い出していただきたい。

博多の竹斯のすぐ次が秦王国であり、しかもその先十余国をえてから倭国の難波の津に到着することから考えれば、秦王国は瀬戸内海の西部沿岸の下関付近だろうと思いますが、そこに中国人だけの秦王国という国が実際にあったことは、疑う余地がありません。そうして見ると、韓半島だけでなく、日本列島も人口構成は似たようなもので、倭人以外の種族が混じって住んでいたことになります。

(『日本史の誕生』より引用)


引用終了

つまり600年頃、倭には中国人(秦人と漢人)・新羅人・高句麗人・倭人がいたことになります。彼らの何が違うのかといえば、風習もありますが、主に言語です。ちょっと長いですが、『倭国の時代』から引用します。


引用開始


たびたび説明したように、漢人・百済人の言語は楽浪群・帯方郡で土着化した中国人と中国化したわい人・朝鮮人・真番郡の土着民とかが使った河北・山東方言系の中国語の基礎の上に、後漢・魏・晋の河南方言と南朝の南京方言と、475年の百済の南下によって中国化した馬韓人の言語との影響が加わって出来た言語であり、倭国の首都の難波から河内・大和にかけて話されていた。


秦人・新羅人の言語は、それよりも古く倭国に入ったもので、辰韓・弁韓の都市国家郡を建設した華僑が話した前漢の陝西方言系の中国語を基礎とし、それに辰韓人・弁韓人の土語の影響が加わったものであったが、大和・河内では新しく侵入した漢人・百済人の言語に圧倒されて影が薄くなり、奥地の山城・近江を中心として話されていた。


倭人の言語は3つの中では一番古いが、畿内の諸国では、平野部に入植して来た帰化人の言語の影響で語彙も文法もひどく変わってしまっていた。

以上の3つの言語はそれぞれ話される場がちがう。それぞれの言語を話す人々は、別々の社会を構成していて、コミュニケーションの必要があれば、ブロークンな中国語と倭語をちゃんぽんに使って、やっと用を弁じたのである。


(『倭国の時代』から引用)

引用終了

主に分ければ、倭には3種類の言語、つまり漢人(あやびと)・百済人の言語、秦人(はたびと)・新羅人の言語、倭人の言語があったわけです。そして彼らは「別々の社会を構成していて、コミュニケーションの必要があれば、ブロークンな中国語と倭語をちゃんぽんに使って、やっと用を弁じ」ていました。

さて、これらは違う言語ですが、特にちがうのが発音あるいは発声です。これは現代の我々の漢字の読み方にも残っています。

例えば「行」という漢字。これは「ぎょう」とも「こう」とも「あん」とも読めます。「ぎょう」を呉音、「こう」を漢音(かんおん)、「あん」を唐音(とうおん・とういん)といいます。また、他にも、呉音が入る前の古い読み方である古音というのもあります。

例えば「妙法蓮華経」は、呉音では「みょうほうれんげきょう」ですが、漢音では「びょうほうれんがけい」になります。唐音では「びょうはれんがきん」だそうです。

呉音は、名前からいってどうやら南方系の発音のようですから、先ほどの百済人・漢人の系統の言語でしょう。

一方、長安などの唐の中国語の発音が漢音です。また漢音の発音、発声、読み方を含めて切韻(せついん)といいます。後で述べるように新羅人・秦人の言語はこれに近いようです。

ちなみに唐音というは、名前と違って、もっと新しい発音で、明から清の頃の発音をいうそうです。

日本には、この切韻の発音をするための「音博士」という制度がありました。どうやら、当時、日本では呉音の発音が主流であり、漢音は特別な人しか使えなかったようです。


なぜ、最澄(伝教大師)は長安にいけなかったのか?


最澄は804年に中国に渡っています。同じ年に空海も渡っています。空海は長安、今の西安(シーアン)にまで行っています。1年半ぐらいしか行っていません。

それに対して、最澄に至っては1年も行ってないのではないかと思います。最澄はどこへ行ったかというと、天台寺から行っています。日本の留学僧が必ず渡ったところは寧波(ニンポウ、ネイハ)という町で、上海からずっと南のほうへ行って、かなり大きな湾がある杭州(こうしゅう)の側(そば)です。中国人はみんな白酒という強い酒を飲みますが、日本人は紹興酒(しょうこうしゅ)が大好きです。その紹興という町に近いと思いますが、この寧波という町に日本人の留学生は何があろうがたどり着くわけです。

そこよりさらに南のところに天台山というのがあって、ここが天台宗の総本山です。そこから、お経やら戒律やらをもらってきたわけで、大したことはありません。本当は長安まで行かなければなりませんでした。

なぜ、最澄は長安に行かなかった、あるいは行けなかったのでしょうか?

その答えは、当時の唐の標準の発音である、いわゆる「切韻(せついん)」が彼はできなかったからというのが、私の考えです。


実は、最澄の母親は漢人(あやびと)です。上記で言えば、百済・漢人系の呉音の発音をしていた人たちです。ですから、基本的に中国南東部のことばしか理解せず、また切韻もできなかったということになります。

通訳(義真という人)がいたというから、切韻ができる人間をつれていったのだと思います。

「いや、そんなこと言っても、中国に行けば、発音を覚えてなんとかなるでしょう」と思う方もおられるとおもいます。そこで、空海といっしょに西安に修行にいった橘逸勢(たちばなのはやなり)という人の文章があるので引用しておきます。


引用開始


空海と対照的なのが、入唐も帰国の一緒だった逸勢である。空海は唐で逸勢の代筆をした。


中国とわが国では言葉が違っています。私逸勢はまだ中国の言葉が不自由で、学校で勉学に励むことができません、仕方がないので、以前学んだものを復習しています。また、琴や書を学んでいます。
(『古代日本人と外国語』から引用)

引用終了


「私逸勢はまだ中国の言葉が不自由で、学校で勉学に励むことができません」と正直に書いています。したがって、長安に行っても中国語(ここでは切韻)がわからなければ、「以前学んだものを復習する」しかないわけです。

いずれにしても、空海といっしょに長安に行った逸勢の手紙は、長安に行かなかった最澄の選択が正しかったことを如実に物語ってくれています。

さて、それでは、なぜ一方の空海は切韻ができたのか?という話になります。

さきほど、倭では3種類の言語に分けられるという話をしましたが、この中で、特に重要なのが、秦人が話していた言語です。609年に隋使・裴世清が立ち寄った秦王国では、「その人華夏と同じ」であったと述べています。この華夏というのは「華(はな)のような中国の中心部」という意味で、当時の長安と同じということです。

つまり、倭にいた人の中でも、秦人であれば切韻をなんとか理解できたことになります。ただし、668年の日本誕生以来、秦人・新羅人は必死に日本人として同化していったそうですから、800年のころに話せた人は、そうたくさんはいなかったでしょう。

そして日本人で長安に留学して活躍できた僧や留学生は、この秦人の系統の人たちだと思います。例えば、弘法大師の出身は多度津というところの近くですが、この多度津も明らかに秦人の町です。また吉備真備(きびのまきび)は吉備下道の人です。この下道の古い人は吉備上道と呼ばれていますが、彼らは秦人であったということがわかっています。

この秦人は、今では秦氏とよばれ、なにかあやしい民族のように思われています。しかし、言語が当時の中国の中心部と同じだったのだから、彼らこそが、隋・唐からの最先端の土木・工芸・医療技術の担い手だったのでしょう。今の日本で、英語ができると最新の社会科学が学べるのと全く同じです。

http://www.snsi.jp/bbs/page/1/


 現在日本語と朝鮮語は、文法構造がよく似ており、発音構造の一部にも共通点がある。そのため、双方ともツングース諸語・モンゴル諸語・チュルク諸語を含むアルタイ語族に含まれるという見方がある。しかし研究者の見解が一致したわけではない。また、日本語と朝鮮語の近縁関係も、証明されたわけではない。

  中国語(実質的には別言語と見なせる諸方言)は、シナ・チベット語族に分類され、日本語や韓国語とは別系統。シナ・チベット語族に含まれる言語は、中国語、チベット語、ビルマ語など。

  ただし、「中国語は、(上古において)それぞれ別の言語を話していた商人が中原地帯で取り引きを行う片言(かたこと)から生まれた人工的な言語。しかも、漢末期からの混乱期に、本来の漢族は実質的に絶滅。その後の歴史で、大量に流入した北方民族が改めて中国語を形成した。つまり、古代中国語と現代中国語には断絶がある。

古くから続く漢文(文章中国語)は本来、片言を記録するための記号列であり、そのため品詞の区別や時制など文法の本質的要件を備えていない。当初から言語(話し言葉)とは別の、通信・記録の手段。現代中国語の古語ではない」(歴史学者の岡田英弘氏)との説もある。

  継体天皇は、先代の武烈天皇が崩御した後、越前にいた応神天皇五世の子孫を迎えたとされる。出自に不明な点も多く、日本でも戦後になり「新王朝の始祖」とする説が発表された。(編集担当:如月隼人)

http://news.searchina.ne.jp/disp.cgi?y=2009&d=0723&f=national_0723_034.shtml


ブレイスのアイヌ−サムライ説


1989年に、ミシガン大のローリング・ブレイス教授らは「Reflections on the Face of Japan」という論文をAmerican Journal of Physical Anthropologyに発表した。この論文で、ブレイスらは、鎌倉の材木座・極楽寺付近から出土した1333年の鎌倉攻めの犠牲者人骨の歯のサイズと頭蓋骨計測データを用いて、鎌倉武士はアイヌと近縁であるという説を唱え、アメリカで注目を集めた。

鎌倉・由比が浜で見つかった、多数の関東武士の頭骨を調べたら、長頭で彫りが深かった。


ブレイス博士の武士=縄文系の視点はなかなか興味深いものです。

鎌倉時代に由比ガ浜だったですか、大量の関東武士の骨が出てきて学者が調べると、現代日本人と頭骨が著しく異なることがわかりました。 つまり、現代人が中頭〜短頭なのに、これらの武士は長頭だったのです。 いままで、日本人の小進化だと思ってましたが、これが縄文系だとすると合点がいきます。

武士道とは弓馬の道で、弓の技術が尊ばれ、刀が武士の命となったのは、江戸時代
でした。弓といえばアイヌが弓の名手として有名です。

幕末から明治にかけて来日した欧米人が日本人には2種類の人々がいて、武士階級
は名誉を重んじ、威風堂々として礼儀正しい人々だと書き残している。

また、一般の人々とは容姿も異なり、武士は背が高く、中高の精悍な顔をしている
と言っている。 絵巻物を見ても騎馬武者と兵卒では容姿が異なっている。

縄文人が、実は武士団に血統を色濃く残していたと考えると、ブレイス博士の言ってることは、新鮮で興味深い。

何時だったか鎌倉時代の人骨が鎌倉から大量に掘り出されたが、ほとんど縄文人と区別つかなかったそうだ。 つまり、14世紀になっても関東の大部分は、まだ縄文人の系統が、マジョリティーだった。

関東の武士団は、土着の地方豪族たちで、土着の地方豪族たちは、土着の農民たちを兵としていたから、関東武士の骨が、縄文人の骨と区別が、つきがたいほど似ていた、ということは彼らが居住していたであろう関東は、14世紀になっても縄文人系が多かった。


関東人は長頭、朝鮮人は短頭。


とくに鎌倉から発見された頭骨900体あまりは白人並に長頭。

鎌倉市材木座の八幡宮参道沿いで、一の鳥居のすぐ東隣から、鎌倉時代の関東武士と推定される人骨が、1953年から1956年にわたる三回の発掘によって、少なくとも910体も発見された。

しかし、北部九州や畿内や山陰の古墳に埋葬されてる骨の多くは、短頭から中頭。


それは何故か解るだろ?

朝鮮半島や中国からの渡来人だからさ。

http://logsoku.com/thread/academy4.2ch.net/history/1149868119/

日本人は「本土型」と「琉球型」・・・遺伝解析で明らかに


日本人は、遺伝的に「本土型」と「琉球型」に大別できることが、理化学研究所が約7000人を対象にした遺伝解析で明らかになった。日本人の起源を知る手がかりになるもので、26日の米科学誌(電子版)に掲載される。


 理研の鎌谷直之チームリーダーらが、全国の病院から患者の遺伝情報データを収集。14万か所のDNAの個人差(SNP)を手がかりに分類したところ、「本土型」「琉球型」の大きく二つのグループに分けられた。


 両者を分ける最も大きな違いは「髪の毛の太さ」と「耳あかのタイプ」に関係するSNPで、

「本土型」の方が髪の毛が硬く、乾いた耳あかができる傾向にあった。

「本土型」の方が、中国人と遺伝的により近かった。

http://scienceplus2ch.blog108.fc2.com/blog-entry-285.html


今回の研究では、国際ハップマッププロジェクト※6の4つの集団(西・北欧系ユタ州住民60人、ナイジェリアのヨルバ族60人、東京在住の日本人45人、北京在住の中国人漢民族45人の合計210人)のSNPのデータに加えて、バイオバンクジャパン※7の日本人7,003人の、常染色体※8上にある1人あたり140,387個所のSNPを解析に用いました。この日本人7,003人は、心筋梗塞、糖尿病、関節リウマチなど35種類の疾患のいずれかの患者であり(バイオバンクジャパンでは47種類の対象疾患があります)、病院の所在地により、7つの地域(北海道、東北、関東甲信越、東海北陸、近畿、九州、沖縄)にグループ分けされています。

 研究チームは、これらの人々からの常染色体上のSNPの遺伝子型データを用いて、主成分分析を基礎にした解析手法により、個人間の遺伝子型の相関を基に個人間の近縁関係を解析しました(図2)。まず、欧米人、アフリカ人を含んだ解析により、日本人7,003人のほぼ全員が東アジア人のグループに属することを確かめました。

次に、この内の7,001人を中国人45人のサンプルと共に解析した結果、7,001人は本土クラスターと琉球クラスターの2つの主なクラスターに大別されることがわかりました(図3)。

つまり、前者には本土の6つの地域で採血された大部分の人が含まれ、後者には沖縄で採血された人の大部分が含まれていました。本土クラスターと琉球クラスターの遺伝的分化の程度は非常に小さく、そのためSNPの頻度の違いは大部分についてはわずかでしたが、約14万個所という数多くのSNPを用いたために、2つのクラスターを観察できたと考えられます。さらに、本土の中でも遺伝的な地域差があることが明確にわかりました(図4)。今回の結果は、従来から提唱されている日本人集団の「ニ重構造」説と矛盾しないものです。

 本土クラスターと琉球クラスターの違いが、どのSNPでもっとも顕著であるかを調べたところ、6番染色体のHLA領域※9に見つかりました。また、アミノ酸を変化させるSNPの頻度の違いを比較したところ、髪の毛の太さと関連のあるEDAR遺伝子※10のSNP、耳垢のタイプと関連のあるABCC11遺伝子※11のSNPの頻度がもっとも大きい違いを示しました。

 さらに研究グループは、日本人の集団構造が疾患関連遺伝子探索のケース・コントロール解析にどの程度影響するかを調べるために、2つのクラスターや地域を分集団として、個人をランダムにサンプル抽出し、シミュレーションを行いました。その一つとして、本土クラスターのケース集団(200人)とコントロール集団(200人)を基に、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合を増やしていき、ゲノム全体のSNPの遺伝子型頻度の違いの統計量がどのように増大するかを調べました。その結果、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合が23%になると、偽陽性の結果を得る率の増大が無視できなくなることを明らかにしました。この結果は、ケース・コントロール解析では、患者の住む地域や遺伝的背景を考慮した解析デザインが必要であることを示しています。


渡来した弥生人は男性中心で、先住の縄文人女性との間に、日本列島で子孫を残した

母親から子供にそのまま受け継がれる遺伝子「ミトコンドリア(mt)DNA」の型の分布から、母方のルーツが「縄文系」の人と「弥生(渡来)系」の人の構成比を求める計算式を、住斉(すみ・ひとし)・筑波大名誉教授(生物物理学)が考案したというニュースを見つけた。7地域、約3000人を対象にしたデータによると、日本全国から人を集める首都圏では弥生系が約7割と多数派を占めていて、東北や南九州などかつて遠い昔に縄文社会が発達した地域では、縄文系が7〜6割と多かったと記事に書かれている。つまり父親は動いたけれど、母親は動いていないと言うことだね。「女たちのスピリットが大地に残っているかぎり、(先住民の)国は滅ぼされない」というネイティブ・アメリカンの言い伝えを思い出した。日本列島にも先住民の国が依然として影のごとく残されているのだ。

各地域集団の計算結果は表の通り。日本人の平均的集団と考えられる首都圏の弥生人の比率(71%)で、別の調査の歯の形態から割り出された現代関東人での弥生系の比率(75%)とほぼ同じだった。

逆に、縄文系の比率が高かったのが東北や南九州で、三内丸山(青森県)や上野原(鹿児島県)などの大規模遺跡に象徴される縄文社会の発達を改めて裏付けた。のちの時代、大和王権(朝廷)に抵抗した東北と南九州も縄文的な容姿や文化を色濃く持っていたとされているが、今回の調査でその遺伝子が現代まで濃厚に残っていることが裏付けられた。現代人にも縄文系の特徴が色濃く残るとされる沖縄は、遺伝子解析でも縄文系の割合が最高だった。

縄文系が約半数だった北九州は、弥生人流入の中心地の一つだけに意外な数字だが、母方のルーツでみた数字であり、「渡来した弥生人は男性中心で、先住の縄文人女性との間に子孫を残した」と考える説と矛盾しない。

各地域集団の計算結果は表の通り。日本人の平均的集団と考えられる首都圏の弥生人の比率(71%)で、別の調査の歯の形態から割り出された現代関東人での弥生系の比率(75%)とほぼ同じだった。

逆に、縄文系の比率が高かったのが東北や南九州で、三内丸山(青森県)や上野原(鹿児島県)などの大規模遺跡に象徴される縄文社会の発達を改めて裏付けた。のちの時代、大和王権(朝廷)に抵抗した東北と南九州も縄文的な容姿や文化を色濃く持っていたとされているが、今回の調査でその遺伝子が現代まで濃厚に残っていることが裏付けられた。現代人にも縄文系の特徴が色濃く残るとされる沖縄は、遺伝子解析でも縄文系の割合が最高だった。

縄文系が約半数だった北九州は、弥生人流入の中心地の一つだけに意外な数字だが、母方のルーツでみた数字であり、

「渡来した弥生人は男性中心で、先住の縄文人女性との間に子孫を残した」

と考える説と矛盾しない。

http://www.riken.jp/r-world/info/release/press/2008/080926/detail.html

崎谷満先生の父系Y染色体による系統分析、の要約と補足


「日本人の出自から見たDNAの平均値 」


約38% D2型、日本にしか残されていないシベリア経由で入ってきた縄文人の血

約34% O2b型、ジャポニカ米と共に揚子江から海路渡ってきた弥生人(長江文明人、百越人)の血

約18% O3型、山東半島〜朝鮮半島〜日本と渡って来た漢族の血

約 5% C1型、インド経由、南方系海人族の血

約 1% N型、フィリピンに顕著に残り、ツングースも保有する血筋

約 1% C3型、樺太から北海道に、アイヌに残るバイカル湖経由のツングース系の血
     朝鮮半島から九州に、扶余の血? ルート違いのバイカル湖経由のツングース系の血

その他 1%以下、D1、D3型、チベットに残るテュルク系?の血
     O1型、台湾経由の大陸系の血


     O2a型、渡来時期、ルートの異なる長江文明人の血

(出身地域により特定血筋を多く持つ者も、全く持たない者もいます)

(アイヌより縄文人のほうが渡来が早いとの説もあります)

(扶余の祖、東胡も民族系列は謎、ツングースか、テュルクとの混血ともいわれます)

(扶余が天皇家とは限りません。蘇我氏説もあります。皇統断絶説、二回説もありますしね)

(朝鮮人はO2b型5割、O3型4割、C3型1割、O1型数%です)

(日本人は10種類もの血筋が入り混じった稀有な民族なんだそうです。負け犬の吹き溜まりとも、冒険野郎の終着点ともいえるでしょう)


日本人のDNAと日本人のルーツ


世界の人々は35人の母親から生まれてきた子供達です。

35人の母親達もアフリカ大陸に住んでいた1人の偉大なる母から生まれています。人類は35通りの民族的DNAから構成されています。ほとんどの民族は35種の内、5種前後を保有しているに過ぎません。

しかし、大和民族は16種を保有する多様性な民族で有ります。簡単に言うと混血もいいとこなんですよ。おそらく、世界一の混血民族が大和民族なんですね。


縄文人は3万年前ぐらいから日本に渡来してきました。しかし、縄文人が渡来する以前から日本には人が住んでいました。約12万年前の石器が発見されています。

縄文人は僅か3万年前にやってきた新参者なんですよ。その新参者の縄文人が日本を支配した。なぜ?支配したと分かるのか?

それはY染色体遺伝子を辿ることで明白になります。Y染色体遺伝子は父親から男の子へ受け継がれる遺伝子です。つまり日本における支配階級のDNAは何か分かるのです。


縄文人の保有するD系統YAP型が40%から50%も現在日本人に保有している。これが縄文人が日本を支配していた証明になると思われます。アイヌの人はD系が80%も保有しているそうです。限りなく縄文人に近いと思います。

http://robasan.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/dna-7ca9.html


東アジアの民族の遺伝子の近似値

日本人は特殊なタイプなことがわかる。韓国人のほうが漢族に近い。
ttp://maokapostamt.img.jugem.jp/20071222_71597.gif


日本の本州に住む男性の43%がYAP+を保有
アイヌ人男性の98%がYAP+を保有。韓国人のYAPは1%しか存在しない
http://photoimg.enjoyjapan.naver.com/view/enjoybbs/viewphoto/phistory/89000/20070729118570733493125400.gif


日本人は基本的に共通して、アイヌ人〜本土日本人〜沖縄人までD系統(北方古モンゴロイド)がベースになっており、日本人3集団が持つD系統を持たない韓国人は赤の他人と結論できる。

日本は島国だったせいか、チベット人や中東の人間しか持たない遺伝子を日本人も持っているらしい。

韓国人に一番近いのは中国の漢民族なんだよね。


★近畿人は日本人ではありません。

★近畿人は遺伝的にも朝鮮人であると完全に証明されています。


▼手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との遺伝的距離

(山口敏『日本人の顔と身体』より)

0.000…朝鮮半島
0.007…近畿地方
- - - - - - - - - - -
0.012…中部地方
0.035…中国地方
0.035…九州地方
0.038…四国地方
0.048…関東地方
0.068…東北地方
0.092…南西諸島


▼各地の男性頭骨の弥生・縄文判別関数値

(池田次郎・京都大学名誉教授による)※数値が高いほど朝鮮に近い

+2.12…畿内 ←★チョン★
+1.08…四国
+0.76…東中国
+0.70…西中国、北東九州
+0.51…関東、東北
+0.40…北陸
-0.87…西九州、南東九州 ←★天皇家★

▼身体的特徴から求めた朝鮮人との遺伝的近似性(小浜基次・阪大教授による)
     頭示数 比肩峰幅 比上肢長 比下肢長
蝦夷人  76.55   23.65   44.60   55.14(小顔・足長の美しい日本人DNA)
東北人  80.16   23.07   44.46   54.33(小顔・足長の美しい日本人DNA)
畿内人  84.98   22.67   43.99   54.23(顔デカ・胴長短足の醜い朝鮮人DNA)
朝鮮人  85.16   22.35   43.30   53.48(顔デカ・胴長短足の醜い朝鮮人DNA)

▼解剖学者・松村博文先生の常識的見解
http://www.frpac.or.jp/rst/sem/sem1721.pdf

『近畿人は胴長短足、朝鮮人も胴長短足』
『近畿人は短頭、朝鮮人も短頭』
『近畿人は乾燥耳垢、朝鮮人も乾燥耳垢』
『近畿人は耳たぶが痩せている、朝鮮人も耳たぶが痩せている』
『近畿人は髭が薄い、朝鮮人も髭が薄い』
『近畿人は一重まぶた、朝鮮人も一重まぶた』
『近畿人は蒙古襞、朝鮮人も蒙古襞』
『近畿人と朝鮮人は歯の形が同じ』


扶余(ふよ、プヨ、〔朝:buyeo〕、扶余〔中:fu'yu'〕)は、中国三国時代に満州に住んでいた民族で、万里の長城より北、南は高句麗(こうくり)に、東は?婁(ゆうろう)に、西は鮮卑(せんぴ)接する、方約二千里(三国時代の一里は、約450m)の範囲に住んでいた。 夫余、扶餘、夫餘とも表記される(「餘」は「余」の旧字体)。

穀物は余り良く育たない土地に定住したが、好戦的であり、歌舞飲酒を好み、風俗は淫乱であったと記録される。

元々前漢の玄菟郡に属し、その後、三国時代に入ると遼東半島の公孫氏の配下に入った。しばしば鮮卑の攻撃を受けて衰亡し、最後はツングース系の勿吉によって滅ぼされた。

この扶余族には、沃沮(よくそ)・?(わい)・高句麗なども含まれ、朝鮮半島北部を中心に広く分布していた。

他に百済王家も扶余系とみられ、南扶余と国号を自称していた時代がある。また、百済王の姓も扶余または余と名乗っている。


大韓民国忠清南道の郡、扶余郡(プヨぐん、ふよぐん)は、百済最後の都があった。面積634.9平方キロ、総人口82,546人(2005年4月現在)。過疎化で若干減少気味となっている。1邑(町)15面(村)からなる。郡庁所在地は扶余邑。(Wikipedia)

百済の始祖温祚王というのは、まだ原始部族国家のひとだが、韓民族ではなく、朝鮮の歴代の王朝の始祖がつねにそうであるように北方の満州あたりから南下してきた扶余族の出身であった。

扶余族というのは南満州や鴨緑江の山谷を駆けまわって狩猟していた連中であり、
やがては北朝鮮を中心に高句麗国をつくり、南朝鮮諸国を圧迫した。

その一派が南朝鮮の韓民族地帯に入って征服王となり百済国をつくったのであろう。従って、百済の始祖温祚王というのは、背が高く、目に蒙古襞をもち、ほお骨の秀でた北朝鮮型の容姿をもっていたであろう。頭はまわりを剃って髪の一部をながくのばし、それを編んでいわゆる辮髪であったにちがいなく、その服装は北方騎馬民族の特徴であるズボンをはいていたに相違ない。(司馬遼太郎)

実在する最古の天皇14代応神の墓、誉田山古墳の陪塚丸山古墳から出土した国宝の「金銅製透彫鞍金具」は中国遼寧省喇嘛洞UM101号墓で最近出土した鮮卑族の鞍と細部に至るまでほとんどまったく同一。


百済→王族は扶余族、民衆は長江文明遺臣の倭人(弥生人、百越人ともいう)

新羅→王族は扶余族、三王家のふたつに大和出自伝説あり、民衆は倭人と、始皇帝から逃げてきた秦人(漢族)

任那→王族は扶余族、大和の直轄地、民衆風俗は新羅に似る

東胡→ツングース系? テュルクと混血とも、BC200年頃、匈奴に破れ四散

オロチョン→もっともツングースDNAが濃い。>ブリヤート>エヴェンキ>蒙古>満州>北朝鮮人>韓国人>日本人

扶余→東胡の末、穢族から分岐(日本に相撲、胡服を伝えた?)

穢族→(ワイ族、さんずいでカイ族とも)、東胡の末、穢四族(高句麗、扶余、沃沮、穢)に分裂

高句麗→コリョ族(高麗族、大和呼称はコマ族)、 東胡の末、穢族から分岐

高麗→高句麗は便宜上の呼称、高句麗が前高麗、高麗が後高麗、どちらもコリョ族

渤海→東胡の末、建国時高句麗遺臣も参画

蒙古→東胡の末、東胡→室韋(しつい)→蒙古

鮮卑→東胡の末

契丹→東胡の末

柔然→東胡の末

女真→東胡の末、満州族のこと、コリョ、渤海に近いともいう

突厥→テュルク系といわれる

匈奴→??人 、フン族説強し(民族大移動)、東胡を四散させた。

日本人は南から移住か 遺伝情報でルート推定 (共同通信 他)
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/238.html


 東アジア、東南アジア、南アジアの住民のゲノム(全遺伝情報)の分析によって、日本人の多くは、アフリカからインドに入り、タイなどを経て北に向かった集団の流れをくむと推定されるとする研究結果を国際チームがまとめ、11日付の米科学誌サイエンスに発表した。

 東アジアの人は、主に南から来たという説と、少なくとも北からと南からの2ルートはあったという二つの仮説があり、今回は前者をより強く支持する結果という。

http://www.excite.co.jp/News/society/20091211/Kyodo_OT_CO2009121001000829.html


日本人におけるミトコンドリアゲノム多様性

○田中雅嗣(岐阜県国際バイオ研究所)

【背景】ミトコンドリアDNA (mtDNA)の全塩基配列に基づいた世界人類のミトコンドリアDNAの多様性に関する最近の分析は、ヒトのアフリカ起源説を支持する確固たる証拠を提供している(Ingmanら、2000)。100,000年前以降に、少なくとも2つのmtDNA人間血統が、急速にアフリカから旧世界に広がり始めた(Maca-Meyerら、2001)。

考古学的記録は約30,000年前に人間が極東アジアの日本に到着したことを示している。(Gloverら、1980)。

 その頃、日本は北と南の陸橋によってアジア大陸とつながっており2つの移入ルートが可能であった。13,000年前に日本とシベリアにおいて世界で初めての土器
が出現した(Shiraishi 2002)。その後の技術的な改良は、日本の新石器時代の縄文文化をもたらし、かなりの人口成長が見られた。その後大陸の人々が朝鮮半島から
の日本に到着し弥生時代が始まり、約2000年前に人口の流入は最大となったと推定されている。


【研究方法】東アジアのmtDNAの系統樹を構築するために、私たちは日本人672個体のミトコンドリアゲノムの全塩基配列を決定した。これにより、アジア人942個体の全塩基配列を使って系統発生を分析することが可能になった。

日本人mtDNAの全塩基配列データから新しい分岐および小分岐が同定された。
この明白な系統樹に基づいて、私たちはアジア人4,713個体のmtDNAの部分的塩基配列を10%未満の誤差で分類した。


【結果および考察】人口および系統地理学的な方法を適用して、日本列島におけるヒトの定住の歴史において論争の的になっている問題を明確にするために、
mtDNAの部分配列を利用した。人口に基づいた比較によって、現代の日本人が北アジア人、特に韓国人に最も近い遺伝類似性を持っていることを確認した。

このことは、弥生時代以降に中国大陸から日本へ遺伝子の拡散が生じたとする従来の説と一致する。

一方、この系統地理学的なアプローチによって旧石器時代の日本人が高度に分化していたことが明らかになった。琉球人とアイヌ人において基礎的なMおよびN系統
が存在することから、古代において南方と北方からの移住があったと推定された。さらに、日本人とチベット人との間の直接的な関係も明確になった。

これはY染色体の研究結果と一致した結果である。更に、いくつかの小分岐が日本において最も高い多様性を示したことから、日本がアジア大陸への移住拡大していった地域の一つであると推定された。


【結論】ミトコンドリアゲノム多型から描き出されたこの複雑な像は、日本への定住の歴史を説明するために提案されてきた従来の理論では十分に説明できない。

http://www.nms.ac.jp/nms/jmito/NENKAI03/DAI3Y41-50.html

古代朝鮮・韓民族の形成とニッポン  【ニッポン民俗学】

▼朝鮮人と日本人


 朝鮮人というのも、日本人と同じくらい形成過程に不明な点が多い謎の民族である。ともに、北方的なるものと南方的なるものとの狭間で、両者のせめぎ合いと融合の末に出来上がった国である。

日本にも今でも東西(あるいは南北)で民俗や生活様式などに相違が残るが、朝鮮ではそれどころか南北は国境線で分かたれている。この「北緯38度線」は、古代の形勢、すなわち北の高句麗と南の韓族の三国家を彷彿とさせるものである。喩えて言えばだが、今なお北方的なるもの(旧ソ連と中国)と南方的なるもの(日本と「南蛮」米)との狭間にあるかのようだ。

 朝鮮半島では「南北統一」がいま盛んに語られているが、これは新羅による七世紀の国土統一以降、一千年以上唱えられてきた「国土・民族・主権の統合や自己回復」の民族的スローガンの一変種との見方もできる。朝鮮史は、ツングース系契丹族の遼やモンゴル族の元など北方異民族の侵入や支配、そうでないときは宗主国・中国への臣従と、南方からの倭寇や秀吉の侵略、とどめに日韓併合と朝鮮戦争などと、幾多の「自己喪失」で満たされている。

 日本は今でこそ東西に分かたれてはいないが、古代には畿内の西日本政権に対し、東日本は「蝦夷」であり「日本」ではなかった。鎌倉幕府は当初、東日本政権だったし、江戸幕府も関東基盤の政権であった。東西の自然環境の違いが双方の農耕や産業のスタイルをたがえ、そこに適応した生活様式が生まれ、方言や民俗そして感性や思考の違いを生じさせたのであろう。しかしそれだけだろうか。現に、日本化が最も遅れた地域の「日本人」である北海道のアイヌ人と沖縄の琉球人には、本州日本人との文化的差異ばかりではなく、遺伝学的な微妙な差異すら指摘されている。

 朝鮮人形成の解明は、日本人にとって他山の石、いや鏡である。話を先取りしてその違いだけを述べれば、朝鮮人には北方的なるものが、日本人には南方的なるものがより多く残ったということであろう。古代においては、半島南端と列島西端で共有されていた南方的なる「倭」は、その名とともに後ちの日本に引き取られた。後世においては、朱子学の受容にその相違がよく表れている。前者は本家よりも厳格な北方的儒学を打ち立て、後者は南方道教的な人間学へ変質させて怪しむことがなかった。なお、本論では話を古代にとどめることをお断りしておく。

▼南アジア人と北アジア人

 初めにも述べたように、朝鮮半島と日本列島の民族や文化は南北からの渡来で出来ている。正確には知りようもないのだが、幾度にもわたる「交通」(戦争や征服から共存・混血などの人的交流、また文化・物資だけの交易までを含む全交流)の往来があったのだろう。最初に半島や列島に住んだのは、東南アジア方面から北上した原アジア人(古モンゴロイド:南アジア人)である。人口的にはそう多くを想定しなくてもよいだろう。ただし、この南方「交通」ルート(東南アジア−中国・華南−朝鮮西南部・日本西北部)は常にオープンであった。

 次に渡来したのは、北方で長らく氷雪に閉じ込められていた新アジア人(新モンゴロイド:北アジア人)である。彼らは寒さで体質を変化させていたが、同時に文化も寒中で集約的に磨いていたはずだ。およそ一万年前の雪解け(温暖化)とともに、彼らは南進し始める。原アジア人よりも精力的で人口も多かったように思われる。やがて半島や列島に押し寄せたのは、その中のアルタイ・ツングース族系の者たちである。彼らは採集・狩猟・漁撈の民であった。

 朝鮮半島に最初に入ったツングースは、ワイ(カイ)族や貊(ぱく)族と呼ばれる者たちである。彼らは南方から来たアジア人とも「交通」しながら、ほぼ半島全体に拡がったものと思われる。これが朝鮮語の礎を作ったのであろう。一方、考慮しておかねばならないのは、南方ルートからの絶え間ない「交通」である。人の渡来も文化・物資の交易もあった。とりわけ、後ちには南方の焼畑耕作文化が移植されていただろうことは強調しておきたい。


▼半島北部の「中国人」支配

 東アジアの歴史記録は中国に頼らざるを得ない。それによれば、初めて「朝鮮」を名乗ったのは当時の「中国人」である。それは春秋・戦国時代の燕(現北京に都した周の分封国)に隣した「箕氏朝鮮」である。もちろん、半島と中国文明との「交通」はそれ以前からあっただろう。黄河文明のアワを中心作物とした畑作文化が、北西回りで半島に移入されていたことは間違いない。その箕氏朝鮮とは半島北西部までを領土としていたものと思われる。

 実は、箕氏朝鮮がその存在とともに、歴史年代が明白となってくるのは滅亡に関しての記録においてである(『後漢書』)。哀れなものである。戦国末期の燕、秦帝国、そして前漢、と強者が変転する動乱がうち続く中で、旧燕からの亡命者・衛満という者によって箕氏は滅ぶ。紀元前194年ごろ、替わって立ったのは衛氏朝鮮である。しかしこの衛氏も漢の武帝によって滅ぼされ、そこには直轄植民地として楽浪郡などの四郡が置かれる。同108年のことであった。


このように半島北西部には長らく「中国人」が住み、その文化を持ち込んだ。これは紀元後313年、高句麗が楽浪郡を滅ぼすまで継続した。箕氏の到来から数えると、およそ一千年と見てよいだろう。そういう意味で、東日本と同じく、半島北部は「朝鮮人」ではない「異民族」の地であった。その後の高句麗(ツングース族)支配を考えれば、それはさらに続くとも言える。しかし同時にこれは、「では韓民族とは何だ?」という問題を提起し、さらに「民族」というものの歴史性にまで思いを至らせてくれるものでもある。


▼韓民族の「辰国」と「倭人」の登場

 次に、南方からの渡来にもう一度、目を向けたい。南方ルートの出発地は長江やその北の淮河の河口域で、北に山東半島を伝い、やがて朝鮮半島西岸や南岸(それに日本・九州北岸も)に及んでいる。前述のように絶え間ない渡来があっただろうが、春秋・戦国時代の華南での闘争、すなわち呉(南アジア人)と楚(北アジア人)、呉と越(南アジア人)、越と楚、それに小国家も巻き込んだ戦乱は一挙に大流民を生んだ。それは、呉が滅亡した紀元前五世紀の前半から加速したと思われる。

 彼らは半島西岸や南岸にたどり着き、そこで「韓」と呼ばれるまとまりを成した。これを辰国と言う。彼らは稲作と漁撈の民である。内陸と北東部にはワイ族や貊族が居住していた。そして北西部には箕子朝鮮があった。韓族は西南部に集住したが、これが後ちの馬韓となる。弁韓と辰韓は、馬韓地域から海岸伝いの移民によって拡張された「韓」である。辰王は大王として、この三韓地域を支配する馬韓の王であった。

 同四世紀後半、長江河口域での最後の「南アジア人」の国・越が楚に滅ぼされる。おそらくこれを契機に、再び半島に流民が押し寄せる。これが「倭人」である。倭人は弁韓南部と対馬と九州北端を強奪する。黥面文身(入れ墨)した最も海人的要素を残した民として、黄海、山東半島、日韓海峡、それに東シナ海を故地・長江河口まで自由に行き来しただろう。遅れてきた韓人こそが倭人に他ならない。そしてこれが『後漢書』や『魏志』に描かれた「楽浪海中の倭人」であり「馬韓や弁韓の南にいた倭人」である。

 「韓」人や「倭」人とは何か。華南の「越」人である。これは国名ではない。主に長江河口域に住み、稲作と漁撈を生業とし、高床式の住居文化をもつ「越」と呼ばれた諸族である。中華は彼らを「百越」と総称した。「越智」を今でも「おち」と読むが、これは「越」を「wo:ヲ」とかつて発音したことの残滓である。「倭」もまた元は「wo」と発音した。つまり、「越族」とは「倭族」である。日本・北陸地方を「越」というが、もちろんこれもただの偶然ではない。


▼「倭国」王の朝貢と三韓の成立

 紀元前二世紀初め、衛満によって国を追われた箕子最後の準王は、南方へ逃れて馬韓に攻め込み、韓(=辰)王となった。しかしそれは一代で終わり、再び韓人が復位した。半島北西部には箕子のあと衛氏が建国したが、前漢がこれを滅ぼし、楽浪郡が設置されたことは前述の通りだ。そこへ「倭奴国」が朝貢し、蛇の取っ手が付いた金印の下賜を受けたことは有名だ(紀元後57年)。さらに「倭国王帥升」も朝貢している(107年)。

 この頃、すなわち紀元後一世紀ごろ、高句麗が南進し、楽浪郡を圧迫し始める。その東部にはワイ族と貊族がいた。二世紀後半、中国・後漢政権の衰弱に伴い、楽浪郡も衰える。辰国は、馬韓王を共同王として頂きながらも、馬韓・弁韓・辰韓の三韓体制となる。中華帝国の綻びは、周辺国に動揺を与えるのだ。『後漢書』には「倭国で大乱」とも記録されている。後漢末期、楽浪郡南部を帯方郡とし、植民地再建をはかるが、後漢は滅び、魏がその後を継ぐ。その帯方郡へ使節を派遣し「親魏倭王」と信認されたのが卑弥呼である(239年)。

▼百済と高句麗

 さて、半島北方に拡がる満州平原(中国東北部)に目を向けよう。ここも元々は古モンゴロイドが先住していたが、南下した北アジア人に呑み込まれ、混血してツングース諸部族となっていた。ツングースの西方には、遊牧狩猟民のモンゴル諸部族がいた。扶余族はそのモンゴルの一部族で、紀元前二世紀末、満州平原に進み、そこにいたツングース諸族を征服し混血する。北方系の畑作を学んで半農半猟民となり、やがて扶余国を建てた。

 この国は高句麗や鮮卑の圧迫を受けて紀元後四世紀前半に滅亡するが、一王子が逃れて東扶余国を建てる。しかし今度は王位継承問題がこじれて、王子は朝鮮半島に逃れた末、華南に移った東晋の支持をおそらく受けながら、馬韓に攻め込み、同世紀半ば過ぎ、馬韓を制圧してしまう。これが百済の建国である。すなわち、百済とはその王族は扶余族、その住民は馬韓人(倭族)という「二層構造」の国家だったのである。このとき、辰国は解体する。

 次に高句麗だが、この国は紀元前一世紀末、ツングースのワイ族系の部族が建てた国である。徐々に勢力を拡大し、四世紀には現中朝国境の鴨緑江を中心に、扶余国からは満州平原南部を、楽浪郡と先住ツングース部族からは朝鮮北部を奪って、その地を領有するに至る。高句麗には二つの宿命があった。一つはツングース族の「名門」扶余族の影である。高句麗は扶余の後裔と僭称する。もう一つは旧楽浪郡の文化である。華北中国文化を引き継ぎ、半島へ導入する役割を担うことになる。


▼新羅と加羅

 古代朝鮮「三国」のあと一国・新羅は、以上述べてきた通り、韓族主導でツングース族が混血した国である。王族も住民も韓人である。新羅の成立は六世紀初め(503年か)と見られる。同国は辰韓の三氏族の統合体である。すなわち、朴(パク)・昔(ソク)・金の三氏族が辰国の解体以降、並立していたが、それを王統譜22代の金氏・智證王が統一し、この時、国号を新羅としたと見られる。

 後ちに新羅に併呑される加羅(伽耶)であるが、ここは統一領土国家ではなく、都市国家連合的な「連邦」を成した。これは「倭人」が「韓」による統合を拒んだためと思われる。特に、「任那日本府」があったとされる南岸の金官加羅は、中華に「狗邪韓国」とも呼ばれていたように、「韓」と「倭」の二重国家であった。すなわち、韓の加羅連合の一国であると同時に、倭の一国でもあった。この状態は新羅成立前ごろまで続いた。(実はこのあたりに、わが倭国王権の秘密が隠されているのだが、これは別論として述べたい。)

 その後の半島情勢については以前にも記したので簡略にとどめるが、六世紀半ば過ぎに新羅は加羅を併合した後、七世紀後半、唐と連合して百済(および倭国)を破り、唐に討たれた高句麗の半島内領をも掌中に収めて、半島全土を統一支配する(676年)。

▼朝鮮人形成の方向性

 改めて考えたいのだが、これで「朝鮮人」が成立したわけではないことは自明だろう。ここで同時代の日本を想起されたい。壬申の乱(672年)直後の天武天皇の時代であるが、朝鮮と同様に、この頃にはまだ「日本人」は成立していないのである。「民族」という概念の限界を強調しておきたい。

 朝鮮人は、北のツングース族と南の韓族(倭族)の結合として熟成していったことはお分かりだろう。統合は新羅王権によって進められたので、新羅王権の性格が朝鮮人形成の方向性を示唆してくれるはずだ。統一以前の三国時代は、中国の南北朝時代とほぼ並行してあったが、朝鮮情勢はその代理戦争の面もあった。諍いもあったが北朝系文化を担ったのが高句麗であり、南朝系文化を積極的に移入し南朝と友好をはかったのが百済であった。

 地図を広げてもらえれば分かりやすいのだが、南朝に最も近いのは百済であり、言うまでもなくこれは伝統的な「南方ルート」でもあった。では、新羅はどうか。いまや宿敵となった百済に中国への陸路も海路も阻まれ、大陸から見れば最遠の地にあった新羅は、高句麗の強圧もあって高句麗経由で北朝中国文化を受け容れた。中国仏教も二伝あって、それはインドとつながる西域に開いた北魏(モンゴル系鮮卑族の国)の北朝仏教と、閉じて中国化の道を辿る南朝仏教であった。

 つまり新羅は、三国の中では最も韓民族らしい国であったが、その文化は強くツングース・モンゴル系の中国化を蒙った国と言える。因みに百済は、ツングース系王権が支配する韓民族の国であったが、建国時にも後押しがあっただろう南転した中華中国人(漢人)系の中国化が進んだ。(自らも北アジア人である「漢人」は、より北方のアルタイ・モンゴル系北アジア人に絶えず圧迫されて南進し、そこでは南アジア人を圧迫・吸収しつつ、次に北進して北方民族を呑み込むという運動を繰り返して「中国人」となった。)

 実際、新羅王権は、韓人の源流である南アジア人の色を最も濃く残した「倭人」を南海峡に追い落として、倭国に切り捨てる一方、漢人が再び北進して中華の定位置である北方の中原に立った大唐帝国の諸制度・文化(律令・礼式、仏教・儒教など)を忠実に、いや中華以上の精確さで受容していくことで「小中華」たる朝鮮と朝鮮人を練り上げていった(注)。ここに朝鮮人の「北方ルート」の重視、南北バランスの北方優位性が固定されたのだ。

(注)新羅・高麗時代には仏教が国教扱いで、李氏時代になって儒教が国教となった。中華志向は、統一までは便宜的な要素もあったが、後になるほど高まり、中国が北方異民族に支配されたときなぞには、朝鮮こそ中華帝国の後裔と意識された。

http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-52.html
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/235.html
 

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コメント
 
01. 2011年10月02日 10:41:46: MiKEdq2F3Q

古代中国には、北方の畑作・牧畜地帯の龍を信仰する龍族と、南方の稲作・漁撈地帯の太陽や鳥それに蛇を信仰する太陽族・鳥族・蛇族が明白にすみわけて存在していた。南方の長江流域の稲作・漁撈民は、太陽こそ稲の豊穣をもたらすものと考えた。そして、鳥はその太陽の運行を助けるものであった。太陽は朝生まれ、夜に死ぬ。その永劫の再生と循環を支えているのが鳥であった。

 その南北構造のルーツは7千年前までさかのぼることができる。中国東北部の内モンゴル自治区から遼寧りょうねい省にかけて、新石器時代に高い文化が発展した。その代表が6千年前の紅山こうざん文化であり、龍が信仰されていた。

ところが、寒冷・乾燥化が進行した5千年前に紅山文化が衰退し、4千年前には崩壊する。北方の中原で生活していた畑作・牧畜の民は南下して、長江中流域の江漢平原から長江文明を担った稲作・漁撈の民を追い出し、雲南省や貴州省の山岳地帯へ追放した。青銅器の武器を持った「家畜の民」が、青銅器の武器を持たない「森の民」を征服することはやさしかったであろう。

こうして、4千年前以降、北方から何回にもわたって征服する波がおしよせた。とりわけ3千年前は、著しい気候の寒冷・乾燥期であった。北方の中原から「家畜の民」が大挙して長江流域に南下した。長江流域に生活していた「森の民」は、森の多い山岳地帯に退去せざるをえなくなった。この時、長江文明の担い手の苗ミャオ族を含む長江流域の人々が、長江文明の崩壊とともに台湾や日本列島へと移動した可能性が高くなってきた。

 中国大陸においては太陽族・蛇族は龍族に追われたのであるが、海上難民となって日本列島に到着した太陽族・蛇族は、これまであった縄文時代の太陽信仰・蛇信仰に出会うことになる。縄文時代以来の太陽と蛇を信仰する再生と循環の世界観に、この稲作・漁撈民の太陽信仰と鳥信仰・蛇信仰はすんなりと受け入れられたのである。

神武天皇はヤタガラスの道案内によって、熊野から奈良盆地南部の橿原かしはらの地に宮をかまえる。天津神あまつかみ系の子孫である神武天皇が、対決しなければならなかったのが、その東北に位置する三輪山を中心とする国津神くにつかみ系の神々であったが、再生と循環の世界観を共有していたため、スムーズな国譲りが行われた。

 日本の神話に出てくる天皇のルーツをみていくと、アマテラスは田で稲を作る太陽神であった。神武天皇が初代天皇になり奈良盆地を支配する時に、その案内をしたのはヤタガラスという鳥だった。そしてトヨタマヒメはワニだった。稲、太陽、鳥それに揚子江ワニ、これらはすべて長江文明を代表するものである。高天原から日本列島へやってきたニニギノミコトは、鹿児島県の笠沙かささの地についた。長江文明の新しい文化や技術を持った人々がやって来た。長江下流域から、船で東シナ海に出ると、対馬暖流に乗って真っ先に行きつくところが、鹿児島の南端である。そこから対馬暖流が行きつくところが、出雲でありその先が富山の越の国なのだ。

 神武天皇にはじまる日本の天皇は、雄略天皇、武烈天皇という二代の暴虐によって、皇統は断絶の危機に直面する。その時、天皇の血を受け継いだ人としてさがしだされてきたのが、越の国出身の継体天皇であった。越の国のルーツは、長江流域からの越人の国の意味あいが強かった。継体天皇の墓地といわれる高槻市今城塚古墳や埴輪を製造した高槻市新池遺跡からは、船を線刻した円筒埴輪が百個以上も出土している。これは継体天皇と九州の水軍と強い関係を暗示している。そして九州の水軍の背景には江南の水軍がひかえている。

 天武天皇が唐帝国の覇権主義に対抗し、倭国を独立した国として維持するために注目したハードは律令体制であったが、ソフトは太陽信仰だった。天武天皇は長江文明以来の太陽信仰を体系づけ、「日の御子」として天皇を中心する「日本国の心の形」を作り上げた。天武天皇は太陽王であった。日本列島における「太陽の文明」はこの天武天皇によって名実とも完成した。天武天皇は長江文明を継承し、その長江文明の世界観を天皇を中心とする日本国の建国の柱にすえたのである。長江文明は日本文明となって甦ったのである。

http://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/hon/ryutotaiyou.htm

古代史の鍵・丹後 籠神社

太陽信仰もつ海人集団の拠点

「元伊勢」、伊勢神宮の成立に関与?

 京都府の丹後(かつての丹波)地方は、天女伝説や浦島伝説で知られる。近年、古代海部(あまべ)氏の系図が公表されたり、考古学的にも注目すべき遺物が出るなど、漁労や航海を生業とした海人集団による独自の歴史性が明らかにされつつある。
 丹後半島の東側、日本三景の一つ「天の橋立」の付け根に、「元伊勢」といわれる籠 (この)神社が鎮座する。祭神はホアカリノミコト(火明命)で、丹波国造が祖神として祭った。

 籠神社の宮司家は海部直といい、宮司家が長く秘蔵してきた二つの系図、通称「海部氏系図」「勘注系図」は、現存する最古の系図として、昭和五十一年に国宝に指定された。

 これら系図によれば、海部直氏の始祖、ホアカリノミコトをオシホミミの第三子とする。

 オシホミミは『古事記』によれば、天照大神の子である。一方、『新撰姓氏録』(九世紀成立)によれば、ホアカリノミコトは愛知県の濃尾平野に勢力を築いた雄族・尾張氏の祖神である。尾張氏の配下にあった有力な海部集団が、ホアカリノミコトを自らの祖神としたものらしい。

浦島伝説にちなんで名前の付けられた丹後半島の亀島

 籠神社にはまた、二枚の中国製の銅鏡も伝えられてきた。それぞれ前漢時代、後漢時代のもので、系図中にも「息津鏡」(おきつかがみ)「辺津鏡」(へつかがみ)と記されている。昭和六十二年に初めて公表され、弥生時代に招来されて以来、二千年にわたって伝世されたということで、大きな反響をよんだ。息は沖、辺は岸辺のことで、航海の安全に呪力をもつ鏡として祭られたものだ。

 銅鏡といえば、平成六年には、竹野郡弥栄町の墳墓から、邪馬台国の卑弥呼の晩年に相当する「青龍三年」(紀元二三五年)の年号がある銅鏡が発見され、卑弥呼とのかかわりも取り沙汰された。

 弥生時代の近畿地方には、銅鏡文化はほとんどなく、丹後の特殊性がうかがわれる。太陽信仰をもっていた海人集団の幅広い活動を示すといえよう。

 ホアカリノミコトは太陽神で、各地に鎮座するアマテル(天照)神社の祭神である。神話学の松前健氏は、もともとあった「アマテル」という神が、その格があげられて皇祖神である「アマテラス」となったのだと説く(『日本神話の形成』)。

 当時の海人集団の習俗をパノラマ的に描いたらしい土器がある。鳥取県西伯郡淀江町から出土した壷(弥生時代中期後半)だ。神殿建築のような高床式の建物があり、その右側の船には、鳥の装束の人物が乗っており、船の上には太陽らしい渦巻き(同心円)紋がある。

 さらに、左側の木には、瓜のようなものが二つぶら下がっている。金関恕・天理大教授 によれば、銅鐸であるという。千田稔・国際日本文化研究センター教授は、このパノラマ図について銅鐸をともなった弥生時代の太陽信仰を描いたものとし、アマテル信仰の 源流とみている。


息津鏡=籠神社・海部宮司家所蔵

 しかしこれがアマテラス信仰の源流であるかについては、さらに検討の必要がある。ホアカリノミコトは、天照国照彦火明櫛玉饒速日尊(あまてるくにてるひこほあかりくしたまにぎはやひのみこと)のように、ニギハヤヒと複合で称されることがしばしばで(丹後の天照玉命神社もその一つ)、ニギハヤヒは物部氏の祖神の名であるからだ。

 物部氏は銅鐸を奉祭した氏族とみられ、実際、丹後には銅鐸が多く出土する。天ノ橋立に囲まれた阿蘇海に流入する野田川右岸の加悦町から、銅鐸形土製品が発見され、籠神社の東の由良川の上流には、阿陀岡神社が鎮座し、付近から二個の銅鐸が出ている。

 郷土史家の金久与市氏によれば「銅鐸出土地には必ずといっていいほど古社がある。海洋民の集団が由良川をさかのぼり、上流地点に銅鐸を祭祀し、祠を建立、拠点としたのではないか」(『古代海部氏の系図』)という。

 丹後町から西に向かう網野町の函石浜遺跡からは、中国の新時代の王莽によって鋳造された「貨泉」が発見されている。中国とかかわる交流を物語るものだ。

 平成十年には、王墓とみなされる墳墓(弥生後期〜末期)が籠神社から約三キロ西南で見つかった。美しい透明の青色ガラス製の釧で話題を呼んだ。他に、貝輪系の銅釧(く しろ)(腕輪)十三点、鉄剣十四本などが出土したが、これらは九州系の文化遺物である。

 銅鐸氏族・物部氏には、天磐舟(あまのいわふね)による降臨神話があり、先の壷のパノラマ図をほうふつとさせる。物部氏は航海、交易によって栄えた氏族だったといえよう。

 さて、この地を「元伊勢」というのは、天照大神が大和から伊勢に遷座する途中、最初に立ち寄ったのが、この籠神社だったとする伝承が、伊勢神宮に伝わる「倭姫命世記」(やまとひめのみことせき)(七六六年の成立という)にあるからだ。また、伊勢神宮外宮の豊受大神ももと籠神社奥宮の祭神で、八世紀に、丹後から遷座したと伝えられる。

 このように、丹後は大陸・韓半島に近いがゆえに、物部氏や海部氏をはじめとする海人集団の幅広い活動の舞台となり、アマテラスの伊勢への遷宮ともかかわりをもったと思われる。まさに古代史を解くカギが潜む地といえる。

http://tamagaki.exblog.jp/2992078/

京都府北部、丹後半島の付け根にある天橋立は、日本三景の一つに数えられる観光の名所ですが、天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社はまた、古代史ファンにはよく知られた神社です。

 1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表され、関係者の大きな注目を集めました。現存する日本最古の系図として、また、従来にない古代史の新史料として、思いがけないものだったからです。翌年にはさっそく国宝の指定を受けたのも異例のスピードでした。

 この系図には、なんと邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。最近、卑弥呼の墓の最有力候補として注目されている奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳、その被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っているのです。

 系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。

 「日神」とは、すごい呼び方です。太陽神のような扱いを受けた女性ということでしょうか。なんとなく卑弥呼を思わせるといってもいいでしょう。
 それに、「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」とある記述に完全に一致します。宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」の「大市」です。

 どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、彼女が卑弥呼であるらしい。つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。

 この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。

 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。

 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。

 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。

 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。


息津鏡(下)と辺津鏡(上) (c)gakken

 ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。

 前漢鏡の方は、近畿地方では出土例がまったくない貴重なものですし、後漢鏡の方も、近畿地方では破片で出ることはあっても、完全な形で出土したことはなく、やはり貴重な鏡といえます。

 驚くべき鏡が、代々神社の神宝(かんだから)として伝えられていたわけです。
 では、なぜ卑弥呼の名が籠神社の系図のなかに残っているのでしょうか。それが謎です。

古代丹後の鉄とガラス


 籠神社のある丹後半島周辺は、不思議な伝説が多いところでもあります。

 『丹後国風土記逸文』には、このあたりの漁師の若者が竜宮城を訪れる話、つまり、有名な浦島太郎の伝説が残っています。ほかにも、羽衣を奪われた天女が天に帰れなくなるという羽衣伝説、さらに、天橋立はもともとイザナギ命が天から通ってくる梯子でしたが、神が地上で寝ている間に倒れて天橋立になった、という伝説もあります。いずれも、天上界や海の彼方にある別世界と交渉する内容をもっているのが特徴といえます。

 籠神社の名前の由来も、神代に彦火火出見命(ひこほほでみのみこと・彦火明命の別名)が籠船で龍宮に行ったとの伝説があり、そのために昔は籠宮(このみや)といったようです。

   


 丹後はこのように、どこか神話的な世界の残る地方でもあります。籠神社のある宮津市の「宮津」とは、大きな宮のそばにある港という意味です。むろん籠神社を指してのことです。天橋立はもともと籠神社の参道だったからです。

 なお、丹後という呼び名は比較的新しいもので、古代には、現在の京都府と兵庫県の中部北部合わせた全部を丹波と呼んでいました。ところが、684年(天武13年)に丹波国から但馬国(兵庫県北部)が分けられ、713年(和銅6年)、丹波国の北部5郡が分けられて丹後国となったという経緯があります。

 弥生時代には、この丹後地方は列島のなかでもかなり特別な地域だったようです。何が特別かというと、弥生時代からなんとガラスや鉄製品が作られていたのです。それを物語る考古学の発掘が、この10年ほどの間に相次いでいます。
 特徴的なものをいくつかピックアップしてみると…

 まず、丹後半島中央部の弥栄(やさか)町、奈具岡(なぐおか)遺跡では、紀元前1世紀頃ごろ(弥生時代中期後半)の鍛冶炉や、玉造りの工房が見つかっています。水晶やガラスを使って勾玉(まがたま)や管玉(くがたま)などを生産していた工房です。そのための道具としてノミのような鉄製品が作られていたようです。
 この遺跡の場合、出土した鉄屑だけでも数キログラムになるといわれ、大和や河内など近畿地方の中心部と比べると、「鉄の量としては桁違いの多さ」だといわれます。ましてや、鉄製品そのものが残されていたら、どれほどの量だったのでしょうか。

 驚くべきことに、このような玉造りが丹後半島では紀元前2世紀ごろから始まっていました。玉造りの工房のある遺跡が、丹後半島だけで十数か所見つかっています。

 当然、この地域の遺跡から大量のガラス玉が出土するケースも多く、大宮町の三坂神社墳墓群や左坂墳墓群など、ガラス玉の総数は1万点にも及ぶということです。全国の弥生時代のガラス玉のほぼ10分の1が、丹後から出土しているといわれます。

もう一つの先進地域


 次は、墓です。平成13年5月、宮津市の隣、加悦町の日吉ヶ丘遺跡からやはり弥生時代中期後半の大きな墳丘墓があらわれました。紀元前1世紀ごろのものです。30メートル×20メートルほどの方形貼石墓といわれるスタイルで、当時としては異例の大きさでした。

  墓のなかには大量の水銀朱がまかれ、頭飾りと見られる管玉430個も見つかりました。水銀朱は当時としては貴重なもので、魔よけの意味があるといわれます。それがふんだんに使われていました。しかも、大量の管玉。墓に接するように環濠集落があるようです。

 この墓は、他の地域と比べてみると、あの吉野ヶ里遺跡の墳丘墓とほぼ同じ時代です。墓の大きさも、吉野ヶ里よりわずかに小さいだけで、しかも、吉野ヶ里の墳丘墓には十数体が埋葬されていましたが、日吉ヶ丘遺跡の場合はただ一人のための墓です。当然、王の墓という性格が考えられ、「丹後初の王墓か」と新聞などでは話題になりました。

 全国的に見ても、この時代にはまだ九州以外では王はいなかったと考えられていますが、丹後では王といってもよい人物が登場してきたわけです。

丹後半島の古墳公園(加悦町)

倭国大乱の原因となる鉄

 丹後地方は、弥生時代の終わりごろになってくると、今度は鉄製の武器を大量に保有するようになります。
 平成10年9月、携帯電話の中継塔を立てる目的で、籠神社から数キロはなれた岩滝町の天橋立を見下ろす丘陵の中腹を調査したところ、驚くべき出土品が多数見つかりました。これは大風呂南遺跡と呼ばれる墳墓群ですが、その中心的な墓(1号墓)から11本の鉄剣と、美しい青色のガラスの腕輪が出土したのです。墓の年代は西暦200年前後。

 ほかにも、銅の腕輪(銅釧・どうくしろ)が13個、大量の鉄製品や管玉、朱など、弥生時代の墳墓の常識を超えるものでした。
 なかでもガラスの腕輪は、国内ではこれまでに3例しかないうえに(福岡県で2例、丹後で1例)、どれも原形をとどめていませんでしたが、ここでは完全な形で出土し、透明感のあるコバルトブルーの輝きを放っています。被葬者が左手につけていたもので、権威の象徴です。

 11本の鉄剣も、墓の副葬品としては異例の多さです。弥生時代の墓に副葬される鉄剣は通常1〜2本ですが、11本というのは被葬者がいかに大きな権力を持っていたかをよく物語っています。しかも、時代は西暦200年前後、まさに邪馬台国が誕生した直後です。

 この墓の被葬者は、奈良県・纏向遺跡の石塚や、岡山県・楯突墳丘墓に葬られた人物と同じ時代に生きていたことになります。

 この時代の丹後の墓からは、鉄剣が大量に出土します。特別な立場にあるような人の墓ではなく、家長クラスの墓からも当たり前のように鉄剣が出てくるのです。おそらく軍事集団のようなものが存在していたのではないか、と考えられています。そうなると当然、軍事集団を束ねるリーダーがいたはずです。大風呂南遺跡の墓の被葬者は、そのような人物だったのではないか、と考えられています。


ガラス釧(腕輪)と銅釧 丹後郷土資料館蔵

 このように倭国大乱期から邪馬台国時代にかけて、列島のなかでどこよりも鉄を保有していたのが丹後です。その多くが鉄剣や鉄鏃(てつぞく・矢の先端部)など、武器として出土しています。

 弥生時代はかつて平和な農村社会と考えられていましたが、案外、戦いが多かった時代だと今では考えられています。各地の戦いで武器の主力が鉄器になってくるのは、1世紀ごろからです。そのころから、丹後の墓からも鉄剣が出始める。ちょうど1世紀ごろの王墓と見られる三坂神社3号墓からは、大陸製の鉄刀やりっぱな弓矢、豪華な玉飾りなど、経済的な権力を持った王の姿があらわれてきます。

 その後、2世紀後半から3世紀前半にかけては、上に述べたような状況で鉄剣がポンポン出てくきます。この時期に丹後の勢力がもっていた鉄は、キャスティング・ボードになったのではないでしょうか。これほどの突出した武力が、あの倭国大乱を引き起こしたのではないか、とさえ思えるのです。

  そう考えると、丹後(古代丹波)の勢力は、女王卑弥呼の誕生にも重要な立場を取ったに違いありません。邪馬台国の女王に卑弥呼を共立していく主要なメンバーに、古代丹波が入っていたのはほぼ間違いないでしょう。しかも、海部氏の系図に残る「日女命」の名は、卑弥呼がじつは古代丹波出身だったのではないか、と思えてきます。

 先進の技術によって蓄えられた力が、数百年をかけてピークに達したとき、そういう時代に合わせるように、ひとりの飛びぬけて神秘的な能力をもった女性が丹波にあらわれたのではないでしょうか。もちろん、その女性こそが卑弥呼です。

http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/index.html

十種神宝


十種神宝(とくさのかんだから、じっしゅしんぽう)とは、物部氏の祖神である饒速日命が伝えたとされる十種の神宝である。

『先代旧事本紀』の「天孫本紀」の記載によるもので、饒速日命が天神御祖(あまつかみみおや)から授けられたとする。『先代旧事本紀』には「天璽瑞宝十種(あまつしるし みずたから とくさ)」と書かれている。

分類すれば、鏡2種、剣1種、玉4種、比礼(女性が、首に掛けて、結ばずに、左右から同じ長さで前に垂らすスカーフ様のもの)3種となる。これを三種の神器に対応させて、鏡は八咫鏡、剣と比礼は草薙剣、玉は八尺瓊勾玉であるとする説もある。

十種神宝の内容は以下の通りである。

沖津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
八握剣(やつかのつるぎ)
生玉(いくたま)
死返玉(まかるかへしのたま)
足玉(たるたま)
道返玉(ちかへしのたま)
蛇比礼(おろちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
蜂比礼(はちのひれ)…大国主の神話に出てくる比礼との関係が注目される。
品物之比礼(くさぐさのもののひれ)



布瑠の言

布瑠の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。

『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。

「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。

饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている。



十種神宝の行方

石上神宮の祭神である布留御魂神は十種神宝のことであるとする説もある。石上神宮に伝わる鎮魂法では「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱える。いずれにしても、十種神宝は現存していない。

本物か不明であるが、大阪市平野区喜連6丁目にある楯原神社内の神寶十種之宮に、偶然、町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られている。石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返していないという。

江戸時代、山崎闇斎は、垂加神道においては神秘的な意義の有るものとして、さまざまな口伝的著述を残した。

籠神社には、息津鏡・辺津鏡という2面の鏡が伝世している。十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明で、籠神社も特に見解は出していない。

秋田県大仙市の唐松神社には古史古伝のひとつである『物部文書』とともに奥津鏡、辺津鏡、十握の剣、生玉、足玉とされる物が所蔵されているという。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E7%A8%AE%E7%A5%9E%E5%AE%9D

浦島伝説の起源


このたびは、古くからの友人であり 中国伝承文学の権威、君島久子さんにご一緒 していただき、改めて丹後半島を旅しながら、中国の浦島についてお話を伺うことにいたしました。



富山 三分間スピーチで、君島さんは中国の浦島太郎の話をして下さいましたね。あのお話、とても面白くて印象に残っていて、いつかもっと詳しくうかがいたいと思ってましたの。

  

 京都から由良川をくだり、大江山など訪ねたのち、丹後半島を歩いて、ここが古墳地帯であること、そして浦島伝説の地であることも知りました。

 郷土資料館も私の予想通り対岸との関係が想像できる資料がいっぱい、忘れられないですし、宇良神社(浦嶋神社)で重文の絵巻物も見ていただいた。その絵巻物では、普通私たちが聞かされる浦島物語(注4)とは少し話が違っていた。それを思い出したのです。

  そこで、今回の対談で、どうせ浦島の話をうかがうなら、ご一緒に宇良神社にお参りし、絵巻物も見て、それから対談、ということなら素敵だなと思いましたの。


君島 以前にも何度か来ましたが浦嶋神社の絵巻物は中国的で面白いですね。全体の雰囲気が中国的で、完全に神仙思想(注5)が絵になっている。五色の亀とかが描かれていて道教(注6)の影響も明らかに見られるし、とても面白かった。『風土記』(注7)の世界によく似ていますからね。


富山 以前、君島さんは「中国の浦島は日本とずいぶんと違っている」とおっしゃったと思うのですが、まずはその辺りからからお話いただけますか。

君島 両方あります。日本の浦島とよく似ている方は、洞庭湖(注8)のほとりの伝承なの ですが、


ある漁夫が、嵐の洞庭湖で水に落ちた乙女を助けるのです。すると、乙女が

「私は洞庭湖の竜女です。お礼に竜宮城へお招きしましょう」

と言う。竜女というのは乙姫様 ですよね。その男が

「竜宮の中に入っていくことができない」

と言うと、竜女が水を分ける珠「分水珠」をくれるのです。後日、彼がその珠を持って湖に行くと、さっと水が二つ に分かれて竜宮城へ着きます。すると乙姫様が出てきて、歓待され、結婚して幸せに暮らすのですが、ふと母親を思い出し、故郷に帰りたいと言い出す。乙姫様は宝の手箱を渡し て

「私に会いたくなったら、いつでもこの箱に向かって私の名を呼びなさい。でも、この手箱を開けてはいけませんよ」

と言われるのですね。故郷に帰ってきてみると、村の様子 もすっかり変わり、村人たちも知らない顔ばかり。それもそのはず、竜宮での一日は、人間界の十年にあたるので何百年もたっていたわけ。彼は動転して、竜女に聞こうと思わず 手箱を開けてしまうのです。すると、ひとすじの白い煙が立ち上り、若い漁夫は、白髪のおじいさんに変わり、湖のほとりにぱったり倒れて死んでしまう。

でも、彼は死後も目を 閉じることなく、じっと洞庭湖を見つめ続けているのです。すると突然湖の水が満ちてきた。それは竜女が悲しみのあまりほっと長いため息をついたからなのです。その長いため 息が、洞庭湖の水位の変化だと伝えています。 (注9)


富山 彼女はまだ竜宮にいるわけですね。だいたい日本と同じですね。


君島 そうですね。古代中国の文明というと、以前から黄河文明が代表的なものでしたが、今は長江文明が考古遺物の発掘、発見などで次第に明らかになってきたのです。ちょっとした長江文明ブームかな。そのため、洞庭湖や陽湖など長江文明に属する地域からの日本への伝播の問題も、ずいぶん分かりやすくなってきたと思います。

  浦島の話も洞庭湖には古くからありました。六朝時代の『拾遺記』(注10)に、洞庭山(洞庭湖の中にあるという説があります)の薬草を取りにいった男が洞窟に迷い込み、しばらく行くと別天地が開け、楽の響きや美女たちの歓待に酔いしれ、この世のものとも思われぬ夢のような暮らしをおくった話です。男は、やがてふと故郷が恋しくなり、帰郷を思いたつ。共に暮らした美女が別れを惜しみ、贈り物をくれる。洞窟の出口までおくられ、故郷に帰ってみると、知る人は一人もなく、家も何もない。村人にたずねると、三百年前に薬草を取りに行った男がそのまま帰ってこないという。男は行方不明となる。まさに山の浦島ですね。洞庭湖には、山にも湖にもこの話があるということです。

浦嶋神絵巻


面白いと思うのは、今の洞庭湖のお話も、竜宮の一日が現世の十年というように、時間の差がはっきりあるのです。けれども中国には「玉手箱を開けたらおじいさんになった」という話よりも、「もらった宝の箱から乙姫様が現れて、ずっと現世で幸せに……」という民話の方が多いですね。

富山 中国にはほかにも浦島伝説があるのですか。


君島 いろいろな地域にあります。私は、この竜宮へ訪問する話を、最後に異常な時間の差異によって破滅する「浦島型」と「現世型」(注11)とに分けたのですが、中国では乙姫を連れてきてしまう現世型が結構多いのです。

 現世型は竜宮での一日が現世の一年というように、竜宮との時間の差が少なく、三日間竜宮で過ごして帰ってきたら「三年間もどこに行っていたか」と聞かれる程度です。そしていい女房をもらって幸せになる。時間の異常な経過がなければ、完全に現世型ですね。もらって帰ったら宝物が乙姫様だったりして。

富山 浦島伝説は中国のどの地域に多いのですか。

君島 長江から南の方が多いですね。竜は雨を司るものですから、北の畑作地帯も南の水田地帯も干ばつが怖いので、竜神に雨乞いはしますが、特に稲作文化との関係は深いようです。

富山 長江と聞けば、やはり稲と、稲の伝播とを思わないわけにはいかないですね。最近では稲作の起源も、雲南の奥地からずっと下流に下りてきました。アジア最古の稲が出た河姆渡(かぼと)遺跡(注12)もあります。それにしても、浦島太郎というと普通私たちは、海が舞台で、「釣りに出たがなかなか魚がつれなくて・・・」という話が頭にありますから、海の神、魚の神様かと思いますけれど、ここ丹後半島では、浦島伝説は稲作の神様の話ということですね。

http://www.mizu.gr.jp/kenkyu/toyama2/t_rep2_1.html


乙姫様は誰でしょう


 乙姫様は元々は亀姫で他に何なんだと言われるかも知れませんが、あえて考えてみましょう。


(1)西王母

   ・蓬莱山を背中に背負っているのが亀で、蓬莱山の上に居るのが西王母とくれば、亀と蓬莱山と西王母は1セットということでどうでしょうか。

   西王母とすると、西王母の役割が微妙になりますが、西王母のいる場所は、この世の果ての昆崙の山の上だったり、洞穴の奥だったり、地底だったりするようですので、元来は死者の国と関係があって、蛇穴や龍穴の話とつながっているのかも知れませんね。

  ....探せばあるもので、藤田友治さんという方が「古代日本と神仙思想」という本の中で浦島伝説と亀と蓬莱山と西王母の関係について書いておられます。


(2)苗族の王女

   ・洞庭湖附近には、舜の2人の妻(堯の娘)が溺れて死んだ話もありますが、許漢陽が洞庭湖で水竜王の娘に人間の生き血の酒を飲まされた話の場合、書生に漢字を書いてもらうのが目的で近づいたようですので、水竜王の娘は非漢民族のような気がします。

    洞庭湖付近は長江文明圏で、元々は三苗と呼ばれる人達のものでした。三苗と苗(ミャオ)族が全くイコールではないと思いますが、5世紀には未だ苗族の人達も漢人に完全には追い払われていなかったでしょうから、水竜王の娘は、征服者側の堯の娘ではなく、追い払われた側の苗族と考えるのが妥当だと思います。

  ....異民族間の結婚で悲劇が起こったのでしょうか?

http://www.urahamafuzei.sakura.ne.jp/urasima/nazo.htm


丹後地方には「不思議な時間」に関係する伝説として、「浦嶋伝説」の他に「八百比丘尼」の伝説と「羽衣伝説」があります。

「羽衣伝説」については、雲南省から東南アジアにかけての少数民族(苗(ミャオ)族や哈尼(ハニ)族、泰(タイ)族その他)の間に広く分布しているようですので、大林先生の言われるユーラシア大陸を西から東に流れる大きな文化の流れの1つの道(亀井貫一郎さんの言われる第1東胡のヒマラヤ迂回派のルート)があったことが窺われます。


 春秋戦国時代の戦乱の時期から斉や呉や越が滅んだ時に、逝江省から山東半島にかけての地域から大勢の人達が日本列島に渡ってきたようです。

この時に既に不思議な時間の話が逝江省付近にあったかのかも知れませんが、アメリカ大陸や太平洋諸島域に不思議な時間の話が無いということは、不思議な時間の伝搬は紀元前1,000年(3千年前)より遅い時期と考えられますし、中国の話は西域との交流が確立した漢代の遅い時期から後に出来た話のようですので、もっと後の、大和国家成立過程の時期に大陸と往復した人達がもたらした(神仙思想と一緒にかどうかは判りませんが)ということにしておきましょう。

http://www.urahamafuzei.sakura.ne.jp/urasima/ama-densetsu.htm


02. 2011年10月03日 21:46:38: MiKEdq2F3Q

タイ山岳民族は日本の弥生人と同系の民族

http://wee.kir.jp/thailand/tai_people.html
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/4525/introduction.html

三輪隆文集・「黄金の三角地帯から」
http://www.geocities.co.jp/SilkRoad-Oasis/1850/essays.html

タイの山岳民族(三輪隆)
http://column.chaocnx.com/?eid=22870

タイのアカ族と日本との不思議な共通点


遠い昔にどこかで見たような懐かしい風景が広がっています。

アカ族はこの国の先住民族ではなく、リス族同様に中国やビルマからこの国に移住してきた民族です。この国に入植した歴史は新しく、まだ100年ほどしか経過していないそうです。この民族は他の民族同様に、中国の雲南省、ビルマ、ラオス、及びタイ北部にまたがって広く分布している。

現在、北部タイの山岳地帯には300余のアカ族の村があり、約5万人が暮らしている。焼畑農業によって主食の米を作っているのは他の山岳民族と同じです。

伝統的にすべてものに精霊が宿り、精霊が人を幸せにも不幸にもするとしたアニミズムの信仰を続けているが、近年、キリスト教の布教活動によって改宗した者も多い。


パトォー・ピー(精霊の門)

山頂に築かれたアカ族の村。


アカ族の村の入口には、パトォー・ピー(精霊の門)と呼ばれる日本各地の神社にある鳥居にそっくりの門が建っています。この門は必ず村の入口2ヵ所以上に築かれ、悪霊が村に侵入しないように結界の役目を果たしています。峻険なドイ・メーサロンの山中は山岳民族の宝庫なのですが、もっとも多くこの地に居住しているのはアカ族です。

アカ族の中では、もっとも早く北部タイの地に移住してきたのは、ウロ・アカ族だと言われている。この国では、ウロ・アカ族とロミ・アカ族がもっとも多く、他にはパミ・アカ族という支族がわずかにビルマとの国境周辺に集落を築いて住みついている。

右側の女性は、杵でもち米をついてもちを作っていました。


アカ族は、精霊と共に生きる民族と言われるぐらい、精霊との関わりの強い民族である。

アニミズムの信仰を続けているアカ族の村の入口には、上の写真のように必ずパトォー・ピー(精霊の門)が設置されています。いまでは迷信扱いされ、村人からも忘れ去られようとしている存在のこの門ですが、昔は村を訪れたすべての人がこの門を潜って村に入らなければいけないとされていた。

その人について来た悪霊が村に侵入して悪さをするのを防ぐためである。

アカ族の伝統的な宗教の根幹とも言えるパトォー・ピーには、木製の鳥が数羽止まっていたり、支柱に幾何学模様が刻まれていたり、竹で作った風車のようなものが取り付けられたりしています。

そして門の脇には、悪霊に対する強力な武器として、鉈や弓矢が置かれていることもあります。


アカ族の村のモー・ピー(祈祷師)。

モー・ピーは山岳のどの村にもいて、さまざまな行事を執り行なったり、病人を治癒したりします。

病人が重い病気の時には、よりパワーの強い祈祷師を他の村から呼び寄せたりするのですが、基本的にその村のモー・ピーが祈祷によって村人の治療にあたります。

病人のいる家の床下で祈祷を行なうのが、より効果的だと言われています。

この時には、犬とアヒルが生贄とされていました。

器の中には、精霊の大好きな酒が満たされています。


アカ族は自由恋愛の民族と言われていて、どの村にも若い男女が集まって愛を交わす場所というものがあるそうです。

アカ族はリス族のように社交的ではなく、どちらかと言えば閉鎖的な民族だが、一度仲間と認めるとどんなことがあっても相手を裏切らない、実に律儀な民族です。

http://maesai.main.jp/page068.html


アカ族はタイ、ラオス、ミャンマー、中国雲南省にかけて住む少数民族です。

タイへは20世紀初め頃から、雲南省より南下し、現在海抜800m以上の山岳地帯に住んでいます。焼畑を中心とした農耕生活を営み、質素な暮らしをしています。

信仰はアニミズムであらゆる物や自然現象に霊が宿ると考えます。自然崇拝に加えて祖霊崇拝を重要視しており、驚く事に、系譜をたどり初祖にいたるまで60以上もの先祖の名前を暗唱できます。

アカ族の社会が父系制で、名付け方法が「父子連結名」のため、これを可能にしています。

「父子連結名」とは子供に父親の名前の一部を付けることです。

「我が父、家康。家康の父、秀吉。秀吉の父、信長。信長の父・・・」と続けるととても覚えきれませんが、

「我が父、家康。家康の父、吉家。吉家の父、秀吉。秀吉の父、長秀。長秀の父、信長・・・」

となれば多少覚えやすくなります。

名前と同じようにしてアカ族は自分の祖先がどこからやってきて、どこに住んでいたかを暗記しており、彼らの移住経路をたどることができます。

特別な儀式や葬式などでこれらは朗唱されます。またアカ族のある2人がお互いの関係を知りたいと思ったら、彼らは自分の系譜を唱えます。祖父の代から始め、曾祖父、曾々祖父・・・と繰り返し、お互いの共通の先祖が現れるまで続けられます。

アカ族は文字を持たない民族ですが、文字の代わりに語り継ぐことによって民族の歴史、伝説を記憶に保存しているのです。


アカ族の風習には日本と不思議な共通点があります。

アカ族では、稲の種まきの始まる毎年4月に、村の出入り口に木造の「門」を作ります。この「門」は日本人なら誰でも知っている見慣れた「門」です。垂直に立てられた2本の木。その上に水平に乗せた木は垂直の2本の木の間隔よりもやや長く、両端が少し反っています。これらの門には縄が張られています。

そう、神社で必ず見かける「鳥居」と「しめ縄」にそっくりなのです。この「門」には、木製の鳥が数羽載せられています。日本の「鳥居」は「鳥の居る場所」と書きます。現在の日本の鳥居には鳥はみかけませんが、「鳥居」の文字で分かるように、そのルーツには鳥が関係していることがわかります。

大阪和泉市の弥生時代の遺構から、アカ族の村の門に置く鳥とまったく同じ形の木彫りの鳥が見つかっています。古代日本の鳥居には恐らく、鳥が据えられていたのでしょう。アカ族のこの鳥居に似た「門」は神聖なもので、村人以外の人間は触れてはなりません。村人たちは門が完成すると儀礼を執り行ない、その後この門をくぐり、村の中に入ります。

天の神が鳥に乗って降りてきて、邪霊や悪鬼を祓い、村人たちを守ってくれると信じられています。

なぜ幾千キロも離れた日本とアカ族に共通点があるのか?
誰しも疑問に思うはずです。

この謎を調べて行くと興味深い事実と歴史が浮かび上がってきます。
それは日本人のルーツにもつながっていきます。

http://www.cromagnon.net/blog/2004/07/post_85.php

倭族と鳥居

神社にある鳥居の起源って?これは昔から不思議に思っていたのだけれど、どうも東南アジアから東アジアに広がる“倭族”に共通した信仰・風習を起源としているようです。


「鳥居論---ニッポン人の鳥信仰とその出自」

鳥越憲三郎氏は「倭族」という概念で、中国南部や東南アジア、それから朝鮮南部および日本に共通して残る習俗を括る。

その氏によって、雲南省やそこに隣接する東南アジア北部の山岳地帯に棲むタイ系諸族(アカ・ハニ族など)に「鳥居」が見出されている。それは左右二本の柱の上に笠木(横に渡す木)を載せたものだ。ただし、これは「社(やしろ)の門」ではなく「村の門」(「ロコーン」と言う)だ。

「鳥居」の起源は、共同体(村)へ侵入する悪霊を防ぐ結界門だったのである
(「締め縄」とはそういう意味だ)。

 そして、果たしてその門の笠木には木製の鳥が止まっていた。

実は、吉野ヶ里遺跡を始め、わが国の弥生時代の遺跡からは木製の鳥が頻出している。だが「鳥居」は残っておらず、どこにどう止まっていたのかは分からない。

「村の門」には左右の自然木に「締め縄」が渡されただけのものもある。それらにはしばしば「鬼の目」がぶら下がっている。鬼の目とは竹で編まれた悪霊を追い払う呪具(「籠目」もその一つ)で、現代の日本の締め縄にも吊されている。(中略)


再び中国大陸に戻ろう。

南部に住む苗(ミャオ)族の村の中心には芦笙(ろしょう)柱というものが立ててある。苗族の神樹・楓香樹で出来ている。

てっぺんに木製の鳥が止まるのだが、その柱には竜が巻き付いている。しかも柱の上部には牛の角が左右ににょきと突き出している。

ここに正月(苗年)祭りのときには、一対の神聖な銅鼓(どうこ)が下がられていたはずだ(というのも今ではもうほとんどの銅鼓が失われている)。

 実は朝鮮のソッテでも一本柱の場合、鳥杆に竜に見立てた綱が巻かれる。

芦笙柱、そしてソッテとはもう明らかだろう。神話的世界の中心にそびえる「世界樹」である。文字通り、木である場合も、山である場合もある。そして、それは聖林となり、社となった。

天に向かいそびえるもの、すなわち、神を呼ぶもの、依り代が世界樹の本質である(注)。

そして、鳥は神を運ぶ神使であり、依り代でもある。

http://www.kodai-bunmei.net/bbs/bbs.php?i=200&c=400&m=191832


112 :出土地不明:2009/06/18(木) 23:22:16 ID:H5jIqf+0

中国少数民族には、太陽は鳥が引っ張ってくると言ういい伝えがある。

だから、太陽を引っ張ってもらう鳥に止まってもらうために鳥居がある。
鳥が太陽を引っぱってくれないと朝があけない。

実際に、鳥の模型を止まらせた鳥居もある。
少数民族の鳥居には、鳥の模型を止まらせたものもある。


113 :出土地不明:2009/06/19(金) 01:43:48 ID:9/5gRbpN
太陽の船には鳥がとまってるよ


タイの山岳少数部族「アカ族」について


 「アカ族」はタイ北部の山岳地帯に暮らす少数民族で、日本と同じ稲作文化、精霊信仰を持ち草木染めなどカラフルな色の民族衣装を着て生活しています。

 顔などは日本人そっくりで、村の入口には鳥居を思わせる門があり、お歯黒の習慣を持っているなど日本と共通のルーツを思わせます。

一方で、婚姻制度は父系制で、代々父親の名の一部をとって子供に命名していく「父子連名法」により、各自が50代以上にわたる祖先の系譜を暗記しているなど、母系制度が色濃く残っていた日本の農村とは異なる文化も見られます。 


■アカ族の村 

 人口約50,000人。メーサイを中心としたチェンラーイ県にほぼ集中して約120の村がある。標高1,000m以上の高地の山頂近くの斜面にへばりつくようにして集落を形成する。高床式の家に住み、男女の部屋が別々なのが特徴。

 女性の民族衣装は、銀貨や銀細工、ビーズ等をあしらったカブトの様な重い帽子を被り、黒いミニスカートに脚絆という出で立ちで、帽子は作業中もおろか就寝時もこのままだ。帽子を脱ぐと悪霊が頭から入ってしまうそうだ。

アカ族の女性は温和で素朴、優しくてサービス精神に富み、働き者で知られる。
   
 アカ族は最も奇妙な習慣をもつ山の民で、あらゆる物に精霊が宿ると信じている典型的なアミニズムである。村の霊、山の霊、光や風にも霊が宿るという。水の霊を恐れるために水浴をも嫌う。
   
 村の入口には、日本の鳥居と同様の門が築かれ、木製の男根と女性器の偶像が村の神様として祀られている。これは悪霊や疫病から村人を守り、子孫の繁栄や穀物の豊作を祈願するものである。

奇祭として知られる村の大ブランコ乗りの儀礼は、豊作を祈って稲穂が風に揺れるブランコにイメージさせる 「親感呪術」 という説と、身体を振ることで体内に住む悪霊を振り払う説と、昔アカ族の村に女の子が生まれなかった頃、森の中でブランコに乗った妖精を見つけて村に連れてきたことをお祝いするという説があり、祈祷とお清めの場でブタを殺して4日間儀礼を行う。
   
 アカ族はいわゆるフリーセックスで、自由恋愛の民族で、どの村にも男が娘を抱く広場、ハントする場所がある。若い男女は毎日ここに集まり、黄昏の刻から親交を深め、目出度く成立したカップルは闇に包まれた森の茂みの中に消えて行く。

ただし、双生児が生まれた場合は悲惨で、その赤ん坊は不吉なものとして殺さねばならない。生んだカップルも村を追い出され、出産した家は焼き払われる。


■アカ族の家族 

 アカ族は普通、男性で十七歳から二十歳、女性は十四歳から十七歳ぐらいまでの間に結婚する。集落の中には若者が集まる広場があり、竹や木で作ったベンチがしつらえられ、夜になると若い男女が集まってきて自由に語り合う。

特に農閑期や祭礼時には、夜更けまで騒いだり、愛を語り合ったりして、それが結婚相手をみつける絶好の機会となる。アカ族の恋愛は比較的自由で、結婚前に複数の異性と婚前交渉を重ねることもまれではなく、恋を語る少女たちも実にオープンで、屈託がない。結婚に際しても、特に親の同意を必要とせず、本人同士の合意によって決定される。


  父系制のアカ族とって、男子が生まれることは必要不可欠である。
生まれてきた子供が女児ばかりの場合、家系がとだえることになり、恥ずべきこととされる。私の知り合いのアカ族のおじさんは六人の子供がいるが、みな女の子ばかりなので、世間の視線は冷たく、内心肩身の狭い思いをしている。アカ族では、男児に恵まれない場合、妻に原因があるとされ、亭主は第二夫人を娶る権利があるとされる。

そうでなくてもアカ族では、財力のある男性は第一夫人の同意が得られた場合に限り、複数の妻をもつことができる。しかし、アカ族の社会でも、第一夫人以下のヒエラルキーは厳然としてあり、夫の愛情の質量とは無関係に、母屋に居住を許されるのは第一夫人だけである。第二夫人以下は仮小屋などを建てて別居することになる。

第一夫人のみが正式な妻として社会的に認知され、その妻の同意がない限り、離婚も容易ではない。第一夫人の権利と威厳はこうして保たれる。

結婚前の恋愛は自由だが、家庭をもち、一人前の成人として認められるようになれば、共同体の社会的秩序と体面を維持しなければならないのである。これを犯したものは、それなりの制裁が待っている。


 精霊信仰、おおらかな性意識という農耕民族的な暮らしぶりと、父系制という遊牧民族的な風習が融合したアカ族の文化は彼らの出自にその秘密がありそうです。
 
 アカ族がタイにやってきたのはそれほど昔のことではなく、20世紀初めころとされています。中国雲南省から、ビルマ、シャン州を経由して、タイ北方の山岳部へやって来たらしい。彼らの起源は中国で羌(チャン族)と呼ばれた遊牧民族というのが有力です。

長く漢族、チベット族という二大部族の支配下にあり、一時期「西夏国」という国を建てたりしましたが1227年に滅亡、二大民族に同化していったようです。その後一部の集団は同化を逃れ、南下していった末裔がアカ族なのではないでしょうか。

当初は遊牧部族的な風習を持っていた彼らが、次第に農耕へと生活手段を変化させてゆく中で、精霊信仰を獲得していったが、父系制だけは残存させたという推察ができます。

 父系制が残った理由として、(これは私の想像ですが)南下逃亡して来たチャン族の生き残りは男ばかりの集団で、周辺部族からの略奪婚によって集団を維持してきた時期があったからではないでしょうか。

http://bbs.jinruisi.net/blog/2009/05/000593.html

『稲と鳥と太陽の道』
http://www.amazon.co.jp/%E7%A8%B2%E3%81%A8%E9%B3%A5%E3%81%A8%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E9%81%93%E2%80%95%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%8E%9F%E7%82%B9%E3%82%92%E8%BF%BD%E3%81%86-%E8%90%A9%E5%8E%9F-%E7%A7%80%E4%B8%89%E9%83%8E/dp/4469231274

 日本の神社には鳥居が立っている。なぜ鳥居というのか。組んだ木のてっぺんに鳥が居るからだ。この鳥は他界から鳥の姿をした祖霊が幸福や豊饒をもたらすためにやってきたシンボルである。日本神話では「天の鳥船」といって、そうした祖霊や幸福や豊饒を天空で運ぶ船さえ想定されていた。

 一方、竪穴式住居を脱した古代の家々は、それでも吉野ケ里遺跡や三内円山遺跡に見るごとく掘っ建て柱に屋根をかぶせたようなもので、つねに柱が目立っている。そうした家々のある集落では、その入口に1本あるいは2本の柱をゲート状に立てて、その上に木彫りの鳥を止まらせる風習をもっていた。いや、最初から鳥を置いたのではなくて、そんな高い柱や組み柱にはたいていどこかから鳥がやってきて止まった。その鳥の来し方行く末は、古代集落にとっては祖先や未来の国である。そこで木に鳥を彫って、それを柱のてっぺんにつけた。

 このような柱と鳥の関係を総称して「鳥竿」(とりざお)とよぶとして、この鳥竿をつかった祭は日本にも韓国にもいっぱいある。韓国ではソッテとかチントベキといって、やはり鳥を止まらせている。ソッテは蘇塗とも綴るのだが、そのテはシンテ(神竿)やナッカリテ(禾竿)のテのことをさした。その鳥竿のルーツをさらに追っていくと、中国に行きつく。萩原さんはさらに追いかけて、それがミャオ族の習俗に出所していたことをつきとめた。ここまでが第1段の前段になる。

 ところで、関西ではオコナイ、関東ではオビシャとよばれる行事が広まっている。

 オコナイとは祈年行事のことで、神社でやるときはミヤオコナイ、寺院でやるときはテラオコナイといった。リーダーとなるのはその年の頭屋(とうや)で、鏡餅づくりをするか、茅の輪を編んでみんなでこれをくぐるか、丸い的をつくってこれに矢を射るかした。関東のオビシャは御奉射のことで、三本足の烏や三つ目の兎を描いた的を弓で射ることが多い。これでわかるように、関西のオコナイ・関東のオビシャのどちらにも弓神事なるものが絡んでいる。

 これらに共通するのは、鏡餅にしても茅の輪にしても丸い的にしても円形の標的があることで、そこに矢を射ることやそこに烏や兎が描かれることが加わっている。いったいこれらは何を示しているのか。オコナイやオビシャより古いかたちを見る必要がある。たとえば神楽だ。

 日本の神楽はおおむね天地創成神話を背景としている。舞庭(まいにわ)あるいは神庭(こうにわ)を一つの異界として創出するのが演目になる。このとき野外なら柱や竿から、室内なら天井から綱や紐や糸を垂らして、そこに三本足の烏を描いた日輪と三つ目の兎を描いた月輪を吊るした。のちにはそれが左右の幡(旗)になった。

 この舞庭・神庭で新しくは「岩戸」「五行」が、古くは「将軍」という神楽曲が舞われた。鹿児島県薩摩の大宮神社の「将軍」を例にすると、将軍は弓に矢をつがえて五方を射る所作をする。なぜ、こんなことをするかといえば、この所作には物語がある。太古、太陽が7つ、月が7つあったのだが、スイという鬼が太陽を6つ、月を6つ呑みこんだ。さらにもう1つ呑みこんだらこの国は真っ暗になるので、選ばれた将軍が五方に弓矢を射て鬼を退治して、その片方の目を日輪に、もう片方の目を月輪とあらわして、未来永劫の万象を祈願したというのだ。

 これはイザナギの左の目からアマテラスが、右の目からツクヨミが生まれたことと対応する。が、それとともにこの物語は、中国の天地創成神話にある弓の名人のゲイが9つの太陽を射落とした話や、太陽に住んでいた烏を9羽射落とした話に似ている。済州島にも太陽を落とした神話がある。朱蒙(ジゥモング)という弓の名人もいる。

 つまりここにはいわゆる招日神話・射日神話があったのだ。そこで、その分布を調べてみると、アムール川流域からインドネシアまで広まっている。ミャオ族にもまったく同じ伝説がある。

 以上のことから類推できるのは、鳥と太陽の話はどこかでつながっているということである。そこに弓矢神事が出入りしていた。これが第2段の前提になる。そこで、これらの話のすべてをもっているミャオ族のことを知っておく必要があるということになる。


三本足の烏を描いた的(沼南町高柳)


 ミャオ族は中国江南に居住する民族で、中国では古くから三苗とよばれた。3つの言語集団がいた。その後はタイ北部にまで広がった。移動した連中はまとめて「百越」とよばれた集団である。

 民族上は少数山岳民族グループに分類されているが、いまでも150万人か200万人くらいがいる。しかし古代中世のミャオ族は文字をもっていなかった。移動の記録や歴史の記録は古歌や伝説や習俗にしか残っていない。

 そのミャオ族では、新年になるとジーユイニャオという鳳凰に似た木彫の鳥をとまらせる柱あるいは竿を立てる。芦笙柱(ろしょうばしら=トン・カー)という。楓香樹であることが多い。その上のほうに牛の角のような横木をつけた(写真を見るとすぐわかるが、鳥居の原形に近い)。新年、その芦笙柱を左まわりで踊る。

 なぜそのようになったかという伝説が「跋山渉水」という古歌にあって、カササギあるいはツバメの先導でこの地にやってきたことをあらわしているのだという。この到着地はのちのちまで神聖な場所になり、カー・ニンとよばれる。カーは芦笙のこと、ニンは場所である。村の“へそ”にあたる。

 この神聖な場所は東西軸を重視する。そもそも中国では純潔チャイニーズの漢民族は天空の中心の北極星(太極)を信仰して、そのため南北軸を重視する。風水も、天子や宮殿が北を背に南面することを基本とする。一方、江南のノン・チャイニーズの少数民族は繁茂する植物の象徴である太陽を信仰して、太陽の昇降する東西軸を重視する。

 これでわかるように、ノン・チャイニーズのミャオ族の村の“へそ”に立つ芦笙柱は、太陽が依り坐す柱なのである。太陽のトーテム・ポールなのだ。

 太陽は季節や時間とともにコースを動くので、その季節や時間を感じることが大切になる。そこで暦のようなものが生まれるのだが、文字をもたないミャオ族は、この季節と時間の“しるし”を鳥の去来で学習していった。また、それを教える者を鳥官といった。

 さらに、このような太陽信仰を支える鳥の存在と去来を忘れないように、芦笙柱を寿ぐ数々の祭では、男はニワトリの羽根や茅萱(ちがや)の輪を差し、女は鳥の羽根の衣裳で身を飾った。これが鳥装である。いいかえれば、村のシャーマンたちは鳥装によって鳥霊になり、太陽の行方と合体するわけである。たちまち日本の鷺舞や鶴の舞といった各地の祭りがおもいあわされよう。

 ここまでが第3段で、話の前提があらかた出揃ってきた。太陽と鳥と弓はひとつのものなのだ。では、これらの前提の話がどうして日本のコメ文化と結びつくかということである。ここからが本題になる。その前にちょっとおさらいをしておく。

 コメはムギにくらべて一本当たりの収穫量が格段に多い作物である。ヨーロッパの麦作の播種量が5倍〜6倍であるのに対して、日本の米作はざっと30倍〜40倍になる。何千年でも連作もできる。

 コメは稲からとれる。稲は籾に包まれていて、その籾殻をとったものが玄米、それを精米すると白米になる。ようするに稲の種実がコメなのである。その稲種を学名ではオリザ・サチバという。もともとは野生の稲種オリザ・ペレニス一種が起源だとされている。それがいろいろ分かれていった。

 その稲種には大きく分けてジャポニカ種とインディカ種がある。アフリカ種も現在まで伝わっているが、ごく少量だ。

 中国南部を原産地とするジャポニカは短粒でやや粘り気があり、インドを原産地とするインディカは長粒でぱさぱさしている。今日ではDNA分析によって、二つはまったく異なる遺伝子をもっていて、それぞれ独自の祖先型があることがわかっている。

 日本人のコメ文化はほぼ100パーセントがジャポニカで成り立っている。タイ米やカリフォルニア米は炒めたチャーハンやピラフにするならともかく、それらはとうてい“ごはん”にはならない。以前はこれを「外米」(がいまい)といった。



日本へ稲が伝わったころのジャポニカとインディカの出土地
(『九州歴史大学講座』第2期No.3より)

 日本に到来した稲には最近流行の黒米・赤米で知られるように、ジャポニカにも熱帯ジャポニカや温帯ジャポニカなどいくつもの種類があった。インディカも入ってきた。何がいつ入ってきたかはまだ正確に確定できないのだが、だいたい縄文後期から弥生前期にかけての時期、2500年くらい前には稲が渡来していた。

 なかで熱帯ジャポニカはいわゆるモチ米に近いもので、中粒で粘り気が強い。そのためモチ性の弱い普通のコメをウルチ米とよぶようになった。ただし、このモチ米のモチは漢字で書くと「餅」ではなくて、本来は「糯」と書く。日本ではこれをモチと読むが、もともとはダである。ちなみに中国では、いまでも餅(ピン)といえば小麦粉食品のことをいう。だから月餅などという菓子もある。

 ともかくも総じていえば、日本はウルチ米とモチ米を含むジャポニカを何世代にもわたって品種改良して、日本の食文化の中心にすえてきたということだ。稲作にあたってはウルチ米でもモチ米でも、ともに陸稲と水稲があるのだが、日本はもっぱら水稲によって水田で育てた。このときいったん稲苗をつくって、それを田植えで移植するという独特の方法をとった。おそらく紀元前5世紀から3世紀にはこの方法が確立しはじめた。

 この「苗」と「田植え」が日本の社会や文化に大きな影響を与えたのである。これは、湿度の高い日本では直播きの陸稲では稲とともにすぐに雑草が繁茂して、どうにもならない。そこでいったん苗をつくり、それを移植する。そうすればすでに一尺ほどの貯金があるのだから、稲はなんとか雑草と対抗できる。つまり「株立ち」をしておくことが日本の稲作の基本であって、それが春に種蒔きをし、5〜6月に田植えをし、秋に収穫するという、日本の稲作生活の大きなリズムと特色をつくることになったわけである。

 この稲作とほぼそっくりの原型をもっていたのが、実はミャオ族だったのである。



ミャオ族は稲刈りした稲を高倉に収める。梯子は丸太を刻んだもので日本の弥生時代のものに酷似している。

 ミャオ族にはイネ文化もモチ文化もトウモロコシ文化も雑穀文化もある。しかし、そのうちのいくつかは日本の社会文化によく似たものをもっている。稲を保存する高倉、高床式の住居、チガヤを稲に見立てる田植え行事、正月のモチ月、羽根つき、竹馬、おこわ、チマキ(粽)、なれズシ、糯稲の麹でつくる酒、鯉や鮒の水田飼育、鵜飼いなどである。

 そのほか、正月料理を男主人がつくり、最初の3日間は女性は家事をしない風習、その料理を家の者たちが10日ほど食べつづけること、新年の辰の日(元旦)に2個の丸餅を台状の脚の低い椅子にのせて大地に酒をそそぐ儀礼なども、どこか日本の正月に通じるものがある。

 萩原さんはこうしたミャオ族の儀礼や生活をつぶさに観察して、しだいに中国原産のジャポニカを日本に運んだのはミャオ族ではないかと考えるようになった。おそらく中国江南地方の稲作の技能をもったミャオ族の一部が、なんらかの事情で長江から山東半島と朝鮮半島をへて日本に来たのではないか。

 なんらかの事情についても考えてみた。それはきっと中国の戦乱事情と関係があって、たとえば紀元前473年に越王が呉を滅ぼしたこと、その越が楚に滅ぼされて、楚が山東地方にまで勢力を拡大していったことなどと関係があるのではないか、というふうに。

 ただし、このときちょっとした選抜がおこったのではないかということを萩原さんは考えた。それというのも古代日本の中国側の記述には、例の『魏志』倭人伝をはじめ、倭人が入れ墨をしていたということがしばしば書かれているのだが、しかも日本の海人伝承にはしばしば黥面や入れ墨をしていることが語られているのだが、その海人が日本に来たとすると、いろいろ辻褄があわないことがあるからだ。

 従来、倭人の勃興と海人伝承は重ねて仮説されてきた。ということは漁労と入れ墨と倭人の勃興はひとつの出来事とみなされてきたということだ。

 しかし、考古学史料や植物学や遺伝学による調査が進んでくると、日本列島に稲作が入ってきたとおぼしい時期がしだいに早まって、紀元前3世紀にはかなりの水田耕作が広まりつつあったと見るしかないことがわかってきた。

 そうだとすると、文身(入れ墨)の習俗をもった漁労民が稲作を定着させたというような奇妙なことになる。これはちょっとおかしいのではないか。その後の日本文化を見ても、田植えの民が文身をもっているということはほとんどないし、そういう祭りもほとんど見ない。しかし他方、鏡餅にアワビやコンブを飾ったり、田植え行事にワカメ採りが重なっているような例はある。

 では、この辻褄があわない脈絡を説明するにはどうするか。新たな解答を与える仮説はなかなか出なかったのだ。こうして萩原さんの仮説が浮上した。先に水田民が定着して、それに漁労文化が集合していったのではないか。

 結論をいえば、萩原さんは中国南部からタイ北部の少数民族(チベット族・リス族・リー族・タイ族・シャン族・ワ族・カレン族・イ族など)をほぼすべて調査した結果、ミャオ族だけが入れ墨の習慣をもっていないことをつきとめたのである。

 そうであれば、文身をもたないミャオ族が春秋戦国期の内乱に押し出されるようにして、山東半島や朝鮮半島をへて日本にやってきて稲作技術を伝えたとしてもおかしくないことになる。少なくともそう考えれば、日本の正月儀礼や食物文化に似るミャオ族の儀礼や習慣との関連も説明がつく。しかし、ほんとうにそんなふうに言えるのか。萩原さんは傍証をあげていく。

 本書や、その前著の『稲を伝えた民族』で萩原さんが掲げている傍証はたくさんある。それをいまは絞って紹介する。

 まず第1には、稲魂(いなだま)信仰がある。稲魂とは稲に宿る精霊のようなものを信仰する習慣がもたらした観念で、稲穂が稔ることを期待した観念である。日本にはこの稲魂を重視する行事や祭がかなりある。その最も代表的なものは新嘗祭である。近いものが日本の西南や南島にある。これはミャオ族にもあって、初穂を捧げる儀礼になっている。

第2には、種蒔き・田植え・刈り入れというリズムによって、農村生活がハレとケを重視していることだ。稲作にとってハレはなんといっても豊作と収穫にある。そこにむかって農民は予祝をし、雨が涸れたり稲が枯れることを恐れ、そのための行事や占いをする。これはケ(枯)をしっかり感得することによってハレを招きよせるという考え方を生む。また、それを1年のサイクルにする生活様式をつくっていく。

ここで重要になってくるのが、晴れ着で着飾る新年がいつだったかということである。実は調べていけばいくほどに、もともと新年は収穫期の直後にあったのだということがわかってくる。いまでも西表島では8月や9月に節祭をおこなって稲や粟などの五穀の収穫を祝う。そこで一年が切り替わるとみなしている。このような例はいくらもあるのだが、このことから、第3の生と死の観念に関する問題が特色されてくる。

すなわち第3に、稲も人も「生と死」をもっていて、そこにはいったん「籠もる」という出来事が挟まって、それによって稲は稔り、人は充実を迎えるのではないかという考え方である。これは民俗学では「擬死再生」というふうによばれてきたことだが、日本にもミャオ族にもこの擬死再生をあらわす儀礼や祭礼がきわめて多いということだ。

しかも第4に、そのような稲や人の擬死再生には、その「籠もり」が終わったことを告げる神がたいてい出てくる。いわゆる春を告げる来訪神、折口信夫がマレビトと名付けた来訪神である。来訪神が蓑笠をつけて、いったん隠れた場所から出現してくるという所作をともなうことも看過できない。

すなわち第5に、稲の成長がもたらした藁束は神の似姿の衣裳となって、ケを破ったハレを告げるわけなのだ。
このような来訪神の習俗はミャオ族にもいまなお続行されている。異装のマンガオがやってきて、ツァイライ(長老)の家で鍋墨などをなすりつけ、そのあとで芦笙柱を派手にまわって人々を驚かせ、また笑わせる。モウコウという来訪神もいる。おどろおどろしい異装のモウコウが5人・7人・9人といった奇数が集まって、ウォーウォーと唸り声をあげて子供を寿ぐ。まさにナマハゲだ。 

5つの傍証をあげただけだが、これでも十分に推測がつくように、ミャオ族の村落儀礼と日本の稲作儀礼をつなぐ紐帯はけっして浅くない。それどころか、すでにいくつかの前段でのべたように、ここには太陽信仰と鳥信仰がさまざまに重なってくる。

萩原さんは、こうした「太陽と鳥と稲」の相互関係からは、おそらく日本人の祖霊をめぐる観念の形態がいろいろ読みとれるのではないかというふうに、本書を結んでいく。

日本の祖霊信仰は基本的に正月と盆を、また春分と秋分を行ったり来たりすることで成立しているのだが、それは稲作の儀礼ともぴったり重なっている。だいたい種蒔きと刈り入れが春分と秋分の幅をもっている。そこには太陽の道が劇的に通過する。ここにはしかも日本人の彼岸と此岸の観念も重なってくる。また、もしも新年が収穫期と深い関係をもっていたとするのなら、「魂があらたまる」という日本人の感覚は田植えの夏至から冬籠もりの冬至に向かってドラマをつくっているといえるのだ。

千葉県沼南では天道念仏という行事がくりかえしおこなわれている。いまでは3月15日におこなわれているが、おそらくは春分行事であったおもわれる。かつてはたんに「天祭り」とよんだ。ここではボンデンという竹で編んだ丸い籠に半紙を貼って鳥の目を描きこみ、これを「カラス」とか「シラサギ」とよんで竹串で射る。まさにオビシャである。このボンデンを折口は「髭籍」(ひげこ)と認識して、光を放つ太陽だとみなした。

これでだいたいの話はつながったはずである。萩原さんは遠い地の話をしたわけではなかったのだ。われわれも正月や春分や冬至を、アジアとともに感じるべきだと言いたかったのである。



秋分の朝、真東の太陽を迎える芦笙柱上の鳥

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1141.html


03. 2011年10月04日 21:58:54: MiKEdq2F3Q


「北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁撈民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこでテン(シ+眞)王国を作った。

同じように、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。テン文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。


 この仮説は百年も前に鳥居龍蔵(とりい・りゅうぞう)が台湾の生番族と苗族の文化的共通性からすでに着想していたことである。それから百年後、その鳥居の仮説がようやく一歩近づいたのである。」

安田喜憲『龍の文明 太陽の文明』PHP新書170 2001
http://www.amazon.co.jp/%E9%BE%8D%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E%E3%83%BB%E5%A4%AA%E9%99%BD%E3%81%AE%E6%96%87%E6%98%8E-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%AE%89%E7%94%B0-%E5%96%9C%E6%86%B2/dp/4569617352

「『古事記』が選録されたその年には、唐では玄宗皇帝が即位し、唐文化は爛熟の時代をむかえつつあった。「家畜の民」「畑作・牧畜民」の漢民族の巨大王国の世界支配が貫徹した時代に、「森の民」「稲作・漁撈民」としての日本民族のアイデンティティーをいかに記録にとどめるかに、元明天皇も太安万侶も腐心したはずである」


テンと日本の共通性は


「コメと肉を食べ、太陽や蛇や鳥を長らく神として信仰し母権制を軸とする共通の伝統があるからである」

それを「中尾佐助氏や佐々木高明氏は照葉樹林文化と名づけた。」


この著者は北方畑作・牧畜文化を龍の文明とし、一方南方文化を太陽、蛇、鳥の文明としている。日本が藤原氏以後、天皇を女帝とし、神を太陽神・アマテラスにしたのは、追いやられてゆく南方系文明をこの国の正統な王朝としようとしたためだとする。そして天皇家が今でも北方系のシンボル龍よりも南方稲作民のシンボル太陽神を象徴としていると言うのである。

http://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/45768819.html


安田喜憲氏の新著『龍の文明・太陽の文明』(PHP新書、二〇〇一年九月刊)で著者が江上波夫氏による「騎馬民族征服王朝」を意識して提唱した「稲作・漁労民征服王朝説」を立ち入って検証してみたい。

一、龍族の南下と縄文文化


今から約八千年前、中国東北部の遼寧省から内モンゴル自治区にかけて、龍信仰の原形となる猪龍や鹿龍などをトーテムとする牧畜民が興り、七千年前には現在の龍に近いものが玉器とともに信仰され、六千年前には龍と玉それに女神がセットなって、一つの宗教体系を形成するに至った。

著者はおよそ十年間にわたって、中国各地の先史遺跡をひろく踏査し、「龍は森と草原のはざまに生息する猪や鹿、それに森の中を流れる川にすむ魚そして草原の馬をモデルにして誕生していた」(P.98)と突きとめ、龍は長江(揚子江)流域の蛇か鰐をモデルにした架空動物だとみなす従来の通説を覆した。

龍信仰を定着させた紅山文化は、内モンゴル自治区から遼寧省・吉林省にかけて発達したが、五千年前に寒冷化と乾燥化とが顕著になってくるにつれて、しだいに衰弱し、そして四千年前には完全に崩壊してしまった。

それと時期を同じくして、長江流域の各地において約五千年前に、巨大都市に象徴される王権が突如として出現した。五千年前の良渚文化の遺跡では、角と耳のついた玉龍が見つかり、龍に対する信仰があらたに現われてきたことを物語る。

こうした長江流域に見られるの新しい文化的要素について、著者は「玉への信仰は長江流域と内モンゴルがほぼ同じか、あるいは内モンゴルが若干早く出現した可能性が高い」または「長江流域で最古の龍が出現するのは五千年前なので、内モンゴルの方が二千年近く早いことになる」と指摘し、さらに「こうした玉と龍への信仰は長江流域の稲作地帯で独自に誕生したのではなく、北方の畑作地帯でもほぼ同時に、あるいは北方の畑作・農耕地帯で誕生し、それが南方の稲作・漁労地帯へ伝播したとみなす必要が出てきた」と論じる(P.31)。

ここでも、長江文明を特徴づける「玉」への強い信仰の南方起源説という「通念」は、あっけなく論破されたのである。

著者が中国の遺跡を調査する際には、つねに日本文明の起源という問題を意識していることは、本書の随所にそれをうかがうことができる。たとえば、遼寧省西部の査海遺跡から、約七千年前と推定される玉玦や玉匕などといった中国最古の玉製品が出土していることに関連して、著者はすぐに縄文時代の遺跡に目をむけ、次のように述べる。

「この査海遺跡の玉玦や玉匕は、福井県金津町の縄文時代早期末〜前期の桑野遺跡から出土した玦状耳飾りや玉匕とよく似ている。さらに類似した玦状耳飾りは滋賀県守山市赤野井湾遺跡、京都府舞鶴市浦入遺跡、兵庫県淡路町まるやま遺跡、新潟県堀之内町清水上遺跡、大分県本耶馬渓町枌洞窟遺跡などで発見されていることが明らかとなっている。」(P.30)

このような出土品の類似によって、著者は「七千年前頃からすでに日本海をわたって中国東北部との交流があった」(P.30)と大胆に推論する。さらに、気象の寒冷化と紅山文化の崩壊にともなって、龍族の南下が始まったが、その影響が長江流域の文明にあらたな転機を来したのみならず、縄文時代中期の文化的発展にも波及したと論を進めていく。

気候の寒冷化により紅山文化の担い手たち、あるいはその文化的影響を受けた北方の人々が南下したり日本列島に渡来することによって、長江文明発展の契機や縄文時代中期の文化的発展の契機を作ったのではあるまいか。

「いうまでもなく縄文時代中期以降、土偶と翡翠そして蛇信仰がきわだったものになってくる。そうした縄文時代中期文化の画期には、龍を信仰し、玉を持ち、女神を信仰していた大陸の紅山文化の影響があるのではあるまいか。」(P.35)

ところが、龍と玉それに女神を信仰する北方系の「紅山文化の担い手たち」が縄文文化に影響を及ぼしたという推論は、本書の骨格をなす「稲作・漁労民征服王朝」の仮説と噛み合わないものがある。

つまり、著者は再三にわたって「日本において龍とみなされるものが出現してくるのは、弥生時代後期以降のことである」と強調し、その背景として「王権の誕生が中国に比べて遅かったこと」(P.50)を指摘し、龍信仰が稲作とともに日本に伝わらなかったと断言する。

このことは、初期の稲作伝播の径路と龍をもたらした人々の渡来径路を考える上でも重要な意味を持っている。すくなくとも初期の稲作をもたらした人々は、龍信仰を持っていなかった。おそらく彼らは龍よりは太陽と鳥を崇拝する長江流域の人々であった可能性がきわめて大きいことを示唆している。

龍の造形は、古墳時代より以降の遺跡では中国龍に近い形で見られるようになるのだが、弥生時代の後期では大阪府の池上曾根遺跡、恩智遺跡、船橋遺跡、下池田遺跡、兵庫県の玉津田中遺跡、奈良県の唐古遺跡、岡山県の天瀬遺跡など、近畿地方から瀬戸内海沿岸にかけて、足のついた龍らしき動物を描いた土器片が出土している。 この意味で、龍信仰の将来者は縄文末期から東シナ海をわたってきた稲作民ではないとする見解はうなずける。


二、鳥から鳳凰そして朱雀へ


北方の森と草原のはざまで生息していた龍族は、約五千年前から寒冷化にともなって南下すると、長江流域において太陽信仰を持つ鳳凰族らの異文明と遭遇する。この異文明とは、南方の森と湿地のはざまで発達したもので、本書のキーワードでもある「長江文明」にほかならない。

「その森と湿地の周辺で、稲作・漁撈民が一万年以上も前から畑作・牧畜民とはまったく異質の暮しを続けていたのである。そして六千年前には、城壁都市を構築し、五千年前には本格的な都市文明の段階へと突入し、四千年前にはメソポタミアのウルクなどに匹敵する巨大な都市を作りあげていたのである。」(P.55)

著者によれば、「太陽の運行は稲作を行なう上で実りの光を与え、稲作の行事にリズムを与えてくれる」ため、稲作民と漁撈民は太陽を崇拝し、また太陽は鳥によって運ばれると信じているという。(P.55)そして、鳥を神格化したのが鳳凰であり、鳳凰はすなわち太陽の化身とみなされる。

鳳凰信仰の原型である鳥崇拝は、長江各地では異なった様相を呈する。たとえば、長江中流域にある湖南省の高廟遺跡からは、太陽を両羽にかかえる怪鳥の姿が造形されていた七千年前の土器が出土しており、その鳥は立派なトサカを持ち、鶏の面影をとどめている。そして長江下流域では、七千年前と推定される浙江省の河姆渡遺跡に、二羽の鳥が太陽を真ん中に向かい合う象牙の彫刻が発見され、その姿はどうやら水鳥に似ている。時代はくだるが、長江上流域の四川省三星堆遺跡から、青銅製の扶桑木といわれるものが発見され、その枝にとまっている九羽の鳥は、明らかにカラスをモデルにしている。

このような地域差のある個性的な鳥崇拝は、長い歴史のなかで互いに融合して、鳳凰という空想の神鳥信仰に吸収されていく。『山海経』には、鳳凰の頭は徳をあらわし、翼は順を、腹は仁、背中は義を、それぞれ象徴しているとあるのは、鳳凰の組み合わせ動物としての多様性を想像させる。

著者の唱える鳳凰の南方起源説、鳳凰信仰を鳥崇拝の進化とみなす説、鳳凰が太陽信仰の根幹をなしているとの説などは、いずれも中国でも早くから指摘されており、おそらく疑問をいれる余地はなかろう。ただし問題となるのは、稲作民と漁労民がなぜ鳥を崇拝し、鳳凰信仰を持つようになったかをめぐっての説明である。

これに対して、著者は「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」(P.60)と説明しているが、こう簡単に片づけられては困る。著者のもう少し詳しい解釈を引用しよう。

「太陽の運行は稲作・農耕民にとっては、きわめて重要な生産のメルクマーク(指標)であった。いつ種もみを播き、いつ苗床を作り、いつ田植えをし、いつ田の草を取り、いつ収穫するかという稲作の農作業は、畑に水をやる必要もない天水農業の麦作に比べると、はるかに複雑な作業であり、綿密さと緻密さ・計画性を要求された。その綿密の根幹を司るのが太陽の運行であった。そして鳥はその太陽の運行を助けるものであった。太陽は朝生まれて、夕方には死ぬ。その永劫の再生と循環を支えているのが鳥であった。」(P.62)

右文はもっぱら稲作民と太陽および鳥との深い関連を述べているが、漁労民との関連についてはまったく言及していない。漁労民とは漁業を生計とする人々をさし、長江下流域の沿岸地帯では漁業をいとなむ漁民が生息していたと思われるが、中流域の湖南省と上流域の四川省では漁労で生計を立てる民族集団がいたかどうか疑わしい。つまり、漁労民と鳥崇拝との間に、必然的な関連が見出せないということである。

たとえ水鳥と漁労民の間になんらかの接点があったとしても、それはあくまでも長江下流域の河姆渡遺跡などに限られ、高廟遺跡の鶏崇拝と三星堆遺跡のカラス崇拝には当てはまらない。したがって、鳥を崇拝するのは漁労民ではなく、稲作民とみなした方が無難であろう。というのは、鳥崇拝の遺物が発見された地域は大抵、早くから稲作が盛んなところだったからである。

湖南省については、玉蟾岩遺跡から一万六千五百年前と推定される稲籾が四粒見つかり、現時点では中国最古の稲作の証拠とされている。また七千年前の河姆渡遺跡からは大量の米粒と稲殻そして農具などが出土し、太陽と鳥を造形した象牙彫刻も同じ遺跡から出ており、鳥崇拝と稲作民との深いつながりを思わせる。

鳥崇拝が稲作農耕から生まれたとすれば、農業に密接な関係を持つ太陽信仰に鳥がなぜ登場してくるかを「稲作・漁撈民が定住生活を開始した湖沼地帯には、たくさん水鳥がいたから」では説明できなくなる。

ここで思い出されるのは、長江下流域に生息していた越人の「鳥田」に関する伝承である。『論衡』(巻四)によれば、「禹葬會稽、鳥為之田。蓋以聖コ所致、天使鳥獸報祐之也」とあり、つまり夏王朝を創った禹が亡くなって会稽山に葬られたとき、天はその聖徳を嘉みし、鳥を遣わして田を耕させたという。

中国の文献、たとえば『越絶書』と『論衡』はこの故事をしばしば「鳥田」と約して称しているが、それは「鳥の田」という意味ではなく、「鳥が田を耕す」と理解すべきことは、『墨子』(佚文)の「禹葬於会稽、鳥為之耘」、『呉越春秋』(無余外伝)の「天美禹コ、而労其功、使百鳥還為民田」などによっても裏書きされる。

鳥が人力のかわりに田を耕すことは後世の伝承にすぎないが、しかし原始農業のころ、鳥は稲作民によってありがたい存在に違いない。禹が葬られた会稽山は今の紹興にあり、そこに「大禹陵」と呼ばれる墓が現存している。『論衡』はさらに「会稽衆鳥所居」といい、「鳥自食苹」とも伝えている。「苹」は「草」の意味で、『水経注』(四十)は「鳥為之耘、春拔草根、秋啄其穢」と説明している。

 このように、鳥は稲の種を運び、土を柔らかくし、害虫や雑草を除去してくれることで、稲作民から崇拝され、さらに鳳凰信仰と発展し、同じく農耕から生まれた太陽信仰に融合していく。鳳凰信仰と太陽信仰との結合は、南方の稲作民において、独自な宗教世界あるいは宇宙像がついに体系をととのえたことを物語る。鳳凰族の誕生である。

三、苗族と越族と長江文明


第二章「鳳凰と太陽」において、著者は鳳凰信仰の源流をたどってのち、中国西南部にひろく分布している苗族を調査した成果を披露し、ついでに長江文明を創った栄冠を苗族に贈ったのである。

苗族は中国に五十六ある民族の一つであり、人口は一九九〇年の調査によれば、七三九万に達して四番目である。その半数は貴州省に集中し、その他は雲南・湖南・広西・四川・湖北・海南の六省に散在している。

著者はおよそ十年間にわたって湖南省・貴州省・雲南省・四川省・湖北省の各地をかけめぐり、古代の遺跡と苗族の生態を綿密に調査しつづけた。日本人として苗族の調査をはじめて行なったのは、鳥居龍蔵博士である。博士は台湾の生番族の大陸渡来説を提唱し、生番族と類似点の多い苗族の調査を手がけたのである。そして、著者の苗族調査は明らかに鳥居博士の先駆的な仕事を意識したものである。

著者は「鳥居との間に不思議な縁を感じることがある」と述べ、鳥居博士の「私は純粋な考古学者ではなく、先史考古学者である。先史考古学は自然科学に属する」との言葉を引用して、オリジナルな環境考古学も「自然科学の立場から人文社会科学を総合」(P.75)する目標をかかげていると宣言する。

その通り、本書に披露された調査結果は、考古学のデータに民俗学の資料を重ねたものといえる。つまり、湖南省の城頭山遺跡から出土した木材の分析で、この六千年前の古代都市を築くときに、周辺から伐採したフウの木(中国名は楓香樹)を多用したことが判明、つづいて広西省にある苗族の村を踏査した結果、苗族の楓香樹信仰をつきとめ、台湾の生番族と大陸の苗族が同族であろうという鳥居博士の仮説を立証し、さらに弥生時代の倭人のルーツも苗族にあったのではないかと推測する。

「その長江文明の担い手は、苗族であり、苗族を含む長江流域の人々が、長江文明の崩壊とともに台湾や日本列島へと移動する大民族移動があった可能性が高くなってきたのである。」(P.75)

日本人にとって、苗族の村には弥生時代を彷彿させる風景は少なくはない。苗族の村を訪ねたときの第一印象について「一瞬、弥生の村に迷い込んだのかと思った。高床式の倉庫が立ち並ぶ。倉庫にあがる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じだ」(P.77)と心境を語っている。

もっとも著者の視線を釘づけにしたのは、村の要所に立てられた蘆笙柱である。蘆笙柱とは苗族の生命世界の根幹をつかさどる宇宙樹であり、フウの木で作られる。その先端には鳥または太陽を象徴する瓢箪などがつけられている。ここに稲作民の古代信仰とみなされる鳥と太陽のセットが出てきた。

さらに著者の目をひくのは、きまって蘆笙柱の下に置かれていた水牛の角である。苗族では十三年ごとに祖先の霊を祭る牯葬節を催し、そのときに百頭以上の水牛が犠牲になるという。苗族の多く生息している山間部では水牛を飼育しにくい。したがって、水牛は祭りの犠牲に供えるために飼われている場合が多い。これに対して、「苗族がかつて水牛の生育に適した平野部の低湿地地帯で生活していたことの名残り」(P.80)との解釈は妥当であろう。鳥と太陽にくわえて稲作農業に重要な役割を果たす水牛も登場してきた。

著者の目線はまた祭りそのものにも向けている。一万人を超す群衆は一つの村に集まり、若い男性の吹く蘆笙(楽器)の音色にあわせて、「百鳥衣」と呼ばれる衣装を身にまとった女性が蘆笙柱のまわりを踊りながら回る。この百鳥衣はすそに鳥の羽が一面に縫いつけてあることから名づけられ、その由来は「昔、苗族に稲穂をくわえて運んでくれたのが鳥だから、その鳥に感謝するためだ」(P.82)そうである。これは越人にまつわる「鳥田」伝承の類話ではないか。

ここに至って、著者の主張つまり苗族の原郷は長江流域にあり、六千年前に長江文明を創りあげながら、龍族の南下によって南へ追いはらわれたとの仮説に、思わず同調したくなる。

しかし、右の仮説を立証するためには、いくつかの疑問をクリアしなければならない。一つは苗族の起源であり、もう一つは越族との関係である。

まずは苗族の起源について、著者はその先祖を三苗とみなし、古くから洞庭湖周辺の江漢平原に居住していたが、約四千年前に「家畜の民」こと龍族の南下によって貴州省や雲南省などの山岳地帯へ追放され、南蛮へと落ちのびたと論じる。

中国における最近の研究を調べると、苗族の先祖を蚩尤とするのが、ほぼ通説となっている。『山海経』(大荒南経)には「楓木、蚩尤桎梏所棄、是為楓木」とあり、楓木すなわち楓香木は蚩尤の化身である。それは苗族の楓香木信仰の原点に違いない。

蚩尤の率いる九黎族はもと黄河の中下流域に分布し、東方の強族として勢力を張った。五千年前に西の黄帝族と拮抗して敗れ、四千年ほど前に淮河・長江流域にまで逃れ、ここで三苗族として再起したが、秦の始皇帝による統一戦争によってさらに南遷し、ついに中原に鹿を逐う力を失ったのである。

右のごとく五千年前には、苗族の先祖は北方の東部に興り、本書の想定した稲作・漁労民ではなく、また畑作・牧畜民というよりも、畑作をいとなむ農耕民である。それは蚩尤についての文献記録とも合致する。

『龍魚河図』に登場してくる蚩尤は「獣身人語、銅頭鉄額」とあり、また『述異記』は蚩尤の姿を「黾足蛇首」あるいは「人身牛蹄」と記している。「黾」とは蛙の一種である。蚩尤は金属技術を持つ農耕民であるため、牧畜民の黄帝は勝てず、そこで「人首鳥形」の女性から『玄女兵法』を授けられ、ようやく勝利を収めたと『黄帝玄女戦法』が伝える。『山海経』(大荒北経)によれば、蚩尤は風雨を起こして黄帝軍を苦しめたとあり、『春秋繁露』(求雨)には「夏求雨、其神蚩尤」と記され、明らかに農耕民の首領である。

次に苗族と越族の関係について考えてみよう。著者は六千年前に苗族が長江文明を誕生させたと主張しているが、そのとき苗族の先祖は黄河中下流域に生息していたし、五千年前までは長江より北に活躍していたから、長江流域の先住民ではなかったことは明らかである。

一方、越人の先祖とみなされる七千年前の河姆渡人、五千年前の良渚人は稲作をいとなみ、長江下流域において華麗な呉越文明を創りあげたのである。黄帝側に協力して「黾足蛇首」の蚩尤を退治した「人首鳥形」の玄女は、鳥と太陽を信仰する越人の象徴であるかもしれない。三苗は牧畜民に圧迫され、黄河流域から南下し、長江流域の民族と交流を持ったに違いないが、長江文明の創造主ではない。

要するに、第二章後半部の論述は、実地調査を行なった地域の見聞に頼りすぎ、多民族の衝突と融合をくりかえした中国文明史の全体像への目配りは十分とはいえない。日本との関係を苗族に絞りすぎたため、越人と倭人の関連を考察する第四章「稲作・漁労文明の系譜」とも齟齬してしまう恐れがある。


四、鳥族と蛇族と弥生人

第三章「北の龍・南の鳳凰」では、いよいよ日本との関連に考察の重点を移すようになる。まず本章の前提となる論点を整理すると、北方に興った龍族は五千年前から南下し、四千年前に長江文明がその圧力によって衰退し、三千年前には三苗と呼ばれる太陽族・鳥族・蛇族が長江流域を追われて西南部の山岳地帯へ逃れる。

「かくして太陽族・鳥族・蛇族の苗族たちは敗れ、雲南省や貴州省の山岳地帯へとおちのびていく。その一派が海上難民として日本列島にも到達し、太陽信仰、鳥信仰をもたらしたのである。」(P.105)

三苗は龍族との抗争に負けてしまい、一部は陸路から南方へ逃れて苗族となり、一部は海路から日本へ渡って倭人となったという図式は、簡単明瞭ではあるが、にわかに賛同できない点が多々ある。

前にもふれたが、苗族の先祖は黄河流域に居住していた北方東部の農耕民であり、蚩尤の伝承にも象徴されているように、蛇をはじめ牛や蛙などを崇拝していた。つまり、苗族の先祖は蛇族であり、黄帝と手を結んだ鳥族とは仲が悪かったらしい。

中国の統一はまず北方における東西の折衝から始まり、戦争に勝った西の牧畜民は蛇族をも受け入れて龍族として生まれ変わったと考えられる。『爾雅翼』に「龍の角は鹿、頭は駱駝、眼は鬼、うなじは蛇、腹は蛤、鱗は魚、爪は鷹、掌は虎、耳は牛」とあるのは、まさに新生の龍族の姿である。

 龍族の支配に服従しない蛇族は長江中流域にまで南下し、そこの漁民と融合して伏羲と女媧の創世神話を生みだしたのであろう。鱗身の伏羲と蛇体の女媧は兄妹であるが、二人が結婚して人類万物を創ったという。伏羲の出身は河南省とも江蘇省とも伝えられ、南北融合を反映した神話であると見てよかろう。

伏羲と女媧の神話は「黾足蛇首」の蚩尤と重なる部分が見てとれ、苗族はもとより蛇族だった証拠になる。対して、約四千年前に長江下流域を舞台に活躍した禹は「鳥田」伝説に示されるように、鳥信仰を持つ稲作民である。それは七千年前の河姆渡遺跡、五千年前の良渚遺跡によって証明されている。

長江流域において、蛇を崇拝する畑作民の苗族と鳥を崇拝する稲作民の越人は互いに多くの交流を持っていたことと推察される。今の苗族が持っている楓香樹信仰と牛信仰は古来のものであるのに対して、鳥信仰はおそらく稲作をいとなむ越人から受けた影響によるものと推察される。

著者は日本列島にも渡ったであろう太陽族も鳥族も蛇族もすべて「苗族たち」としているが、苗族と信仰も生業も民族も異なる江南の鳥族を視野に納めるべきところであろう。

第三章では苗族と倭人の蛇信仰に多くの紙幅を割いている。雲南省昆明市の滇池周辺に、およそ二千四百年前から、弥生時代とほぼ同じころ、滇王国と呼ばれる王国が繁栄していた。そこの出土品には蛇や蛙それに女性などの造形が際立っており、強烈な蛇信仰と女性信仰を認めることができる。

著者がいう、「女性中心の母権制の社会で蛇信仰を持った社会は、人間を大蛇の犠牲にするという戦慄すべき風習が存在した。女王は同時に蛇巫女であったのであろう」(P.122)と。そして、『古事記』などに語られたヤマタノオロチ退治の話に言及して、「日本ではこのような大蛇はいない。おそらく日本の神話に語られるヤマタノオロチの人身供養の物語などは、こうした雲南省などの長江流域の物語にその起源がもとめられるのであろう」(P.122)と述べる。

このように、著者はつねに日本文化または日本民族の起源を探察する視線を雲南省あたりの奥地に向けている。大胆にも以下のような発言もされている。

「日本の弥生時代の世界史的な位置づけは、同じく漢民族の周辺に位置した雲南省などとの比較の中で、より明らかになってくるのではあるまいか。雲南省では漢民族の国々とは異なり、長らく母権制が維持されていた。日本の弥生時代もまた漢民族からみれば滇王国と同じ少数民族の稲作農耕社会であったとみなされる。」(P.126)

紀元後百年ごろ、滇王国は突然に衰亡する。著者は自然科学者の眼目をもって、その原因を気候の悪化に求める。その影響によって、民族移動が盛んに行なわれ、既成秩序を脅かす新たな不安要素となり、東アジア全域に大動乱を誘発し、滇王国の衰亡から倭国の大乱までは連鎖的に起こった。

これらの政局の激変によって、各地の政治地図が大きく塗り替えられ、漢民族の立てた漢王朝は東アジアに君臨するようになった。漢民族の勢力がいちじるしく伸張しているなかで、著者は滇王国と日本の弥生文化だけがその波及を逃れて、「長江文明の伝統をもっとも色濃く受け継いでいる」(P.132)と断言する。

北方の畑作・牧畜民の南下によって、長江流域の中・上流域に生活し、長江文明を発展させていた稲作・漁労民の人々が雲南省や貴州省の山岳地帯へと追われ、そこで滇王国を作った。同じように長江下流域に生活し、良渚文化などの長江文明を発展させた稲作・漁労民の一派は、ボートピープルとなって海上にのがれ、一部が台湾へ、その一部が日本へと到達し弥生文化を作った。滇文明と弥生文明は兄弟文明だったのである。

右は第三章の到達した結論である。この雄大な文明論は、著者の光り輝く知見をキラ星のごとくちりばめ、また自然科学者ならではの的確なデータをフルに活用しており、読者の眼前に斬新な世界を広げてくれる。

ただし、この結論では、著者の雲南省への愛着が隠すことなく現わされ、あたかも滇王国を作ったのも長江下流域の稲作民も台湾へわたった生番族も弥生文化を生み出した倭人も、長江の中・上流域を追われた苗族の一派だったかのような印象を読者に与えてしまう。


五、羽人と越人と征服王朝

本書のクライマックスは、なんといってもこの第四章「稲作・漁労文明の系譜」にほかならない。佐々木高明氏の『照葉林文化の道』(NHKブックス)にちなんで、著者は北方のナラ林文化を龍族、南方の照葉林文化を蛇族にあてて、次のように述べる。

中国大陸では北方のナラ林帯の龍族が、南方の照葉林帯の太陽族・鳳凰族・蛇族を駆逐した。そして中国大陸で龍族に追われた一派が、ボートピープルとなって稲作とともに鳥と深く関わる太陽信仰を中心とする神話体系を日本にもたらし、弥生時代を開幕する原動力となった。

周知のとおり、日本神話には天津神と国津神という系統の異なった神々が登場している。著者は国津神を縄文人、天津神を渡来人とみなし、国津神から天津神への国譲りが平和的に行なわれたと見る。つまり、弥生文化を主導した王権は長江文明を持った稲作・漁労民であり、これを「稲作・漁労民南方征服王朝説」と名づける。

そもそもこの新説の発端は、江上波夫氏の唱える「騎馬民族征服王朝説」へ反省にあった。つまり、「日本人の伝統的な習俗や世界観は、かならずしも騎馬民族征服王朝説を支持しなかった」こと、「日本神話の故郷がなぜ南九州にあるのか」との疑問から、著者は長年の中国調査の成果を生かして、日本神話の見直しに踏み切ったようだ。

考えてみれば、もし朝鮮半島を経由して騎馬民族が征服王朝を作ったとすれば、著者のいうように「天皇のルーツを誇る日本神話の故郷は、北九州にあるのが自然である」(P.138)。しかし、神話の舞台だった高千穂の峰は南九州にあり、天皇の高祖と崇められるニニギノミコトも出雲国を譲られて南九州から上陸するのである。

長江文明の視点から日本神話を見直してみると、驚くほど多くの共通点に遭遇する。たとえば、葦原中国の保食神が死ぬと、頂が牛馬となり、顱の上からは粟、眉の上からは繭、眼の中からは稗、腹の中からは稻、女陰からは麦と豆がそれぞれ生まれ、それを入手したアマテラスは大いに喜び、「粟稗麦豆を以ては、陸田種子とす。稻を以ては水田種子と」して、高天原に稲作と蚕桑を始めたという。(『日本書紀』)

これは稲作民の神話そのものであり、、しかも蚕桑を兼業とする長江下流域の稲作民の神話を想起させる。さらに日本神話のなかに鳥の存在が大きいことも稲作民渡来説を補強する。

神武天皇が熊野から奈良盆地へ向かうときに道先案内をしたのはヤタガラスであり、大国主が出雲国をゆずるときに天鳥船の供給を約束された。そして、弥生遺跡の出土品に鳥の造形が多いことは多言を要しまい。

鳥信仰と関連するものに、羽人の存在も無視できない。岐阜県の荒尾南遺跡、鳥取県の淀江町角田遺跡、高槻市の新池遺跡、奈良県の東殿塚などから、頭上に羽を挿した人々が船を操っている場面を描いた弥生時代の出土品が報告されている。それらと類似したものは雲南省の石寨山遺跡からも見つかり、中国の研究者はそれを「羽人」と呼んでいる。羽人の操る船こそ天鳥船の原型ではなかろうか。

稲作民にとって、鳥信仰はあくまでも太陽信仰の一部である。それも日本神話に反映されている。アマテラスは太陽の化身であり、天皇家の後継者は「日子」と称される。太陽信仰は世界各地に見られるが、ギリシア神話のアポロのように男神が普通であって、アマテラスのような女神はめずらしい。長江下流域の越人地域には、太陽神の性別を中原の男神と違って、女性とする伝承は少なくない。

このように、日本神話を検討した結果、雲南省よりも江南の沿岸地帯の伝承と実情に多くの類似点を持っていることがわかる。著者もこの点を汲み取って「羽人は越人であった」(P.150)と認め、そしてニニギノミコトの来日径路については

「長江下流域から、船で東シナ海に出ると、対馬暖流に乗って真っ先につくところが、鹿児島の南端なのである。さらに、そこから対馬暖流が行きつくところが、出雲でありその先が富士の越の国なのだ。海流に乗れば、漂着する場所が南九州である。」(P.148)

と述べ、「富士を中心とする北陸三県の越の国の起源も、こうした長江下流域にもとめられる」(P.150)とも付け加えている。江南の越人は同じ地域にすむ呉人よりも航海技術に長じており、『淮南子』(斉俗訓)に「胡人は馬に便れ、越人は舟に便る」とあり、『越絶書』(記地伝)にも「(越人は)船を以って車と為し、楫を以って馬と為す」と見える。彼らはいざという時に、東シナ海を横切る航海技術を十分に持っていると考えられよう。


六、呉人と越人の海外移住

考古学の発掘資料を多用し、自然科学者の視点を生かしたのは、本書の特徴であり、意表をつく魅力でもある。ただし、三千五百年前には、日本がまだ原始社会の縄文時代にとどまっていたころ、中国ではすでに文字を使う歴史時代に突入している。したがって、日本神話の検証にも、考古学資料の裏づけにも中国の文献資料をより積極的に用いれば、結論の妥当性が一段と高まるのではないか。

たとえば、『通典』にひかれた『魏略』に「倭人自謂太伯之後」とあり、『資治通鑑』にも「今日本又云呉太伯之後、蓋呉亡、其支庶入海為倭」と記されている。呉国は太伯(泰伯とも)を始祖と崇め、紀元前四七三年、越国に滅ぼされてから、その一派が日本へ渡ったと考えられる。三角縁神獣鏡をめぐっては論争がまだ続きそうだが、王仲殊氏の主張する呉人移民の製作説はかなり有力であろう。また『漢書』(地理志・呉地)に出てくる東鯷人も日本へ移住した呉人だった可能性は指摘されている。日本との関連において、第二章と第三章は苗族のみに照準をあて、第四章は越人を引き立てすぎるといった印象がある。それはおそらく著者の調査した地域との関係があろうが、文献資料を補助的に使えば、こうした偏りをいくらか回避できたかもしれない。

苗族を長江文明の創造者と強調するためか、長江流域に分布していた太陽・蛇・鳥の諸信仰を持ち合わせる南方民族として扱うところも気になる。苗族の先祖は北方民族であり、その首領蚩尤は黄河流域において、東方の農耕民を率いて西方牧畜民の黄帝軍と戦を重ねて中原を争った。私見では、蛇を崇拝する苗族は基本的には龍族の根幹をなし、牧畜民との戦争に敗れて、農耕技術や金属技術とともに蛇信仰も中原を制圧した西方民族に吸収され、龍族という混合民族が生まれたと考えたい。長江流域では、西方部族と東方部族は楚と越のようにしばしば紛争を引き起こし、信仰や生業などでも相違が見られる。要するに、中国の文明発展史を見るかぎり、黄河と淮河それに長江に阻まれて、南北の交流よりも東西の交流がきわめて活発であった。この意味で、本書は東西関係への目配りはいささか不足している気がする。

日本における龍の出現を弥生後期か古墳時代とし、その影響は朝鮮半島から受けているとの指摘にも賛同しがたい。蛇崇拝は黄河下流域の苗族にあり、また長江下流域の越人にも行なわれていたようだ。水または海との関連で、東方の夷族に共有されていると推定される。鳥から進化した朱雀が南方の守護神とされるのと同じように、蛇から進化した青龍は東方の守護神である。したがって、日本へわたった越人が龍信仰を弥生文化にもたらした可能性もある。『魏志』(倭人伝)をひもとくと、「(越人は)断髪文身して、以って蛟龍の害を避く。今、倭の水人も好んで沈没して魚蛤を捕る。文身して、亦以って大魚と水禽を厭う」とあり、蛟龍信仰が九州沿海の漁民に広がっていた証拠となろう。

http://www.geocities.jp/jiangnankejp03/lunwen/jp_lunwen06.htm


日本のルーツ? 長江文明


漢民族の黄河文明より千年以上も前に栄えていた長江文明こそ、日本人のルーツかも知れない。 H15.08.03


■1.再生と循環の長江文明■


 6300年前、中国の長江(揚子江)流域に巨大文明が誕生していた事が近年の発掘調査で明らかになっている。メソポタミア文明やエジプト文明と同時期かさらに古く、黄河文明よりも千年以上も早い。長江の水の循環系を利用して稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であり、自然と共生する「再生と循環の文明」であった。

 4200年前に起こった気候の寒冷化によって、漢民族のルーツにつながる北方の民が南下した。彼らは畑作牧畜を生業とし、自然を切り開く「力と闘争の文明」の民であった。彼らはその武力で長江文明の民を雲南省や貴州省の山岳地帯に追いやった。 これが今日の苗(ミヤオ)族などの少数民族である。

 別の一派はボートピープルとなって、一部は台湾の原住民となり、別の一派は日本に漂着して、稲作農耕の弥生時代をもたらし、大和朝廷を開いた、、、

 日本人の起源に関するこうした壮大な仮説が、考古学や人類学の成果をもとに学問的に検証されつつある。これが完全に立証されれば、日本人のアイデンティティに劇的な影響を与えるだろう。今回はこの仮説に迫ってみよう。



■2.森と川と水田と■


 1996年、国際日本文化センター教授・安田喜憲氏は3年もの交渉期間を経て、長江流域に関する日中共同の発掘調査にこぎつけた。対象としたのは長江の支流・岷江流域、四川省成都市郊外の龍馬古城宝トン(土へんに敦)遺跡である。測量してみると、この遺跡は長辺1100メートル、短辺600メートル、高さ7〜8メートルの長方形の城壁に守られた巨大都市だった。

 城壁の断面から採取した炭片を放射性炭素による年代測定法で調べてみると、4500年前のものであった。エジプトで古王国が誕生し、インダス川流域に都市国家が出現したのと同じ時期だった。

 1998年からは湖南省の城頭山遺跡の学術調査が開始された。 直径360メートル、高さ最大5メートルのほぼ正円の城壁に囲まれた城塞都市で、周囲は環濠に囲まれていた。城壁の最古の部分は今から約6300年前に築造されたことが判明した。また約6500年前のものと思われる世界最古の水田も発見され、豊作を祈る農耕儀礼の祭壇と見なされる楕円形の土壇も見つかった。

 さらに出土した花粉の分析など、環境考古学的調査を行うと、これらの都市が栄えた時代には、常緑広葉樹の深い森であることがわかった。この点はメソポタミア、エジプト、インダス、 黄河の各文明が乾燥地帯を流れる大河の流域に発生したのとは根本的に異なっていた。


 深い森と豊かな川と青々とした水田と、、、長江文明の民が暮らしていた風景は、城壁さえのぞけば、日本の昔ながらのなしかしい風景とそっくりである。



■3.平等な稲作共同体■


 長江文明が稲作農耕をしていたのに対し、他の四大文明が畑作農耕をしていたというのも、決定的な違いである。小麦や大麦は、極端に言えば、秋口に畑に種をまいておけば、あとはたいした手間をかけずに育っていく。そのような単純労働は奴隷に任され、支配者は都市に住んで、農奴の管理をするという階級分化が進みやすい。都市は交易と消費の中心となり、富と武力を蓄える役割を持つ。

 それに対して稲作は複雑で手間がかかる。苗代をつくってイネを育て、水田に植え替えをする。秋に実るまでに水田の水を管理し、田の草も取らねばならない。高度な技術と熟練を要するので、奴隷に任せてはおけず、共同体の中での助け合いを必要とする。そこでの都市は水をコントロールする灌漑のセンターとして成立し、さらに豊穣を祈る祭祀が行われる場所として発展していく。おそらく祭祀を執り行う者がリーダーとなったであろうが、その下で身分の分化は畑作農耕社会ほどには進まなかったであろう。

■4.太陽と鳥の信仰■


 7600年前の浙江省河姆渡遺跡からは、二羽の鳥が五重の円として描かれた太陽を抱きかかえて飛翔する図柄が彫られた象牙製品が出土した。8000年前の湖南省高廟遺跡からは鳥と太陽が描かれた土器が多数出土している。長江文明においては、太陽と鳥が信仰されていたのである。

 種籾をまき、苗床を作り、田植えを行い、刈り取りをする、という季節の移ろいにあわせて、複雑な農作業をしなければならない稲作農耕民にとって、太陽の運行は時を図る基準であった。同時に太陽はイネを育てる恵みの母でもあった。太陽信仰が生まれたのも当然であろう。

 その聖なる太陽を運んでくれるのが鳥であった。太陽は朝に生まれて、夕方に没し、翌朝に再び蘇る。太陽の永遠の再生と循環を手助けするものこそ鳥なのである。

 太陽信仰と鳥信仰は日本神話でも見られる。まず皇室の祖神である天照大神は日の神、すなわち太陽神そのものであった。 神武天皇東征のとき、熊野から大和に入る険路の先導となったのが天から下された「八咫烏(やたがらす)」という大烏であった。

 景行天皇の皇子で九州の熊襲(くまそ)を征し、東国の蝦夷を鎮定した日本武尊は、帰途、伊勢の能褒野(のぼの)で没したが、死後、八尋白智鳥(やひろしろちどり、大きな白鳥)と化して天のかなたへ飛び去ったという。さらに伊勢神宮、熱田神宮など多くの神社では、「神鶏」が日の出を告げる神の使いとして大切にされている。


■5.鳥と龍との戦い■


 約4200年前に気候の寒冷化・乾燥化が起こり、黄河流域の民が南下して長江流域に押し寄せた。司馬遷の「史記」には、漢民族の最古の王朝・夏の堯(ぎょう)・瞬(しゅん)・禹(う)という三代の王が、中原(黄河流域)から江漢平野(長江と漢水が合流する巨大な湿地帯)に進出し、そこで三苗(さんびょう)と戦い、これを攻略したという記事がある。三苗とは今日の苗族の先祖で、長江文明を担った民であると見られる。

 一方、苗族の伝説にも祖先が黄帝の子孫と戦ったという話がある。黄帝とは漢民族の伝説上の帝王である。苗族の祖先は黄帝の子孫と戦って、敗れ、首をはねられたという。

 長江文明の民が逃げ込んだ雲南省では龍を食べる鳥を守護神とする伝説がある。龍は畑作牧畜の漢民族のシンボルであり、鳥と龍との戦いとは、長江文明と漢民族との争いを暗示していると考えられる。

 これは筆者の想像だが、出雲神話に出てくる八岐大蛇(やまたのおろち)も龍なのかもしれない。この頭が8つに分かれた大蛇を天照大神の弟・戔嗚尊(すさのおのみこと)が退治して、人身御供となりかけていた稲田姫(くしなだひめ)を救い、二人は結ばれる、という物語である。大蛇の体内から出てきた天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)は、後に皇位を象徴する三種の神器の一つとなった。八岐大蛇はこの世の悪の象徴であり、草薙剣はその悪と戦う勇気を表しているとされている。


■6.収奪と侵略の黄河文明に対抗できなかった長江文明■


 馬に乗り、青銅の武器を持って南下してきた畑作牧畜の民にとって、長江文明の民は敵ではなかった。彼らは精巧な玉器を作る高度な技術は持っていたが、金属製の武器は持っていなかったからである。

 金属器は農耕でも使われたが、それ以上に人を殺す武器として発展した。長江文明より遅れて誕生した黄河文明は、金属器を使い始めてから急速に勢力を広げていった。畑作牧畜で階級分化した社会では、支配者階級が金属器による武力をもって下層階級を支配し、また近隣地域を侵略して支配を広げていく。

収奪と侵略の中で、金属器を作る技術はさらに急速に発展し普及したのであろう。また階級分化した社会であれば、大量の奴隷を兵力として動員する事も容易であったろう。

 それに対し、長江の稲作漁撈民は自然の恵みの中で争いを好まない文明を築いていた。インダス文明がまだ細石器を用いていた頃、彼らはすでに精巧な玉器を作る技術を持っていた。しかし平和で豊かな社会の中では、金属器の必要性はあまり感じなかったようだ。また平等な社会では、共同体の中から一時に大量の戦闘員を動員する事にも慣れていなかったと思われる。

 収奪と侵略に長けた北方の民が、馬と金属製武器をもって現れた時、長江の民はとうてい敵し得なかった。平和に慣れた文明が、武力を誇る北方の蛮族に敗れるという図式は、ローマ帝国対ゲルマン民族、さらには後の中華帝国対蒙古・満洲族との戦いにも共通して見られた現象である。


■7.苗族、台湾の先住民、そして弥生時代の日本■


 漢民族の南下によって長江の民は次第に雲南省などの奥地に追いつめられていった。その子孫と見られる苗族は今では中国の少数民族となっているが、その村を訪れると高床式の倉庫が立ち並び、まるで日本の弥生時代にタイムスリップしたような風景だという。倉庫に上がる木の階段は、弥生時代の登呂遺跡と同じである。かつての水田耕作を山岳地でも続けるために、急勾配の山地に棚田を作っているのも、日本と同様である。

 苗族が住む雲南省と日本の間では、従来から多くの文化的共通点が指摘されていた。味噌、醤油、なれ寿司などの発酵食品を食べ、漆や絹を利用する。主なタンパク源は魚であり、日本の長良川の鵜飼いとそっくりの漁が行われている。

 また明治時代に東アジアの人類学調査で先駆的な業績を残した鳥居竜蔵は、実地調査から台湾の先住民族・生番族と雲南省の苗族が同じ祖先を持つ同根の民族であるという仮説を発表している。

 長江文明の民が漢民族に圧迫されて、上流域の民は雲南省などの山岳地帯に逃れて苗族となり、下流域に住む一族は海を渡って台湾や日本に逃れた、とすれば、これらの人類学的発見はすべて合理的に説明しうるのである。


■8.日本列島へ■


 日本書紀では、天照大神の孫にあたる天孫・瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)は高天原から南九州の高千穂峰に降臨され、そこから住み良い土地を求めて、鹿児島・薩摩半島先端の笠狭崎(かささのみさき)に移り、この地に住んでいた木花之開耶姫(このはなのさくやびめ)を后とする。

 天孫降臨の場所がなぜ日本列島の辺境の南九州であるのか、この質問に真剣に答えようとした研究者は少なかった。どうせ架空の神話だと一蹴されてきたからである。しかしどうにでも創作しうる架空の神話なら、たとえば富士山にでも降臨したとすれば、皇室の権威をもっと高めることができたろう。

 笠狭崎は中国から海を渡って日本列島にやってくる時に漂着する場所として知られている。天平勝宝5(753)年に鑑真が長江を下って、沖縄を経て漂着したのは、笠沙から車で15分ほどの距離にある坊津町秋目浦であった。

 漢民族に追われた長江下流の民の一部は、船で大洋に乗り出し、黒潮に乗って日本列島の最南端、笠狭崎に漂着したのであろう。そこで日本の先住民と宥和した平和な生活を始めた。その笠狭崎の地の記憶は、日本書紀が編纂された時まで強く残っていたのであろう。

 鳥取県の角田遺跡は弥生時代中期のものであるが、羽根飾りをつけた数人の漕ぎ手が乗り込んだ船の絵を描いた土器が出土している。それとそっくりの絵が描かれた青銅器が、同時代の雲南省の遺跡から出土している。さらに弥生時代後期の岐阜県荒尾南遺跡から出土した土器には、百人近い人が乗れる大きな船が描かれている。長江で育った民は、すでに高度な造船と航海の技術を駆使して、日本近海まで渡来していたのであろう。

瓊瓊杵尊の曾孫にあたる神武天皇も、船団を組んで瀬戸内海を渡り、浪速国に上陸されたのである。


■9.幸福なる邂逅■


 当時の日本列島には縄文文明が栄えていた。たとえば青森県の三内丸山遺跡は約5500年前から1500年間栄えた巨大集落跡で、高さ10m以上、長さ最大32mもの巨大木造建築が整然と並び、近くには人工的に栽培されたクリ林が生い茂り、また新潟から日本海を越えて取り寄せたヒスイに穴をあけて、首飾りを作っていた。


 日本の縄文の民は森と海から食物を得て、自然との共生を大切にする文明を持っていた。そこにやってきた長江の民も、稲を栽培し魚を捕る稲作漁撈民であった。両者ともに自然との共生を原則とする「再生と循環の文明」であった。

 この両者の出会いは「幸福な邂逅」と言うべきだろう。瓊瓊杵尊が木花之開耶姫を后とされたという事がそれを象徴している。神武天皇が九州から大和の地に移られた時も部族単位の抵抗こそあったが、漢族と苗族の間にあったような異民族間の血で血を洗う抗争という様相は見られない。


 人々がみな幸せに仲良くくらせるようにつとめましょう。天地四方、八紘(あめのした)にすむものすべてが、一つ屋根の下の大家族のように仲よくくらそうではないか。なんと、楽しくうれしいことだろうか。


 神武天皇が即位された時のみことのりである。この平和な宣言こそ、わが国の国家として始まりであった。わが国は縄文文明と長江文明という二つの「再生と循環の文明」の「幸福な邂逅」から生まれたと言えるかもしれない。

 以上は長江文明の発見から生まれた壮大な仮説であり、なお考古学的、人類学的な立証が進められつつある。かつて古代ギリシャの詩人ホメロスの叙事詩に出てくるトロイアの都は伝説上の存在と考えられていたが、子供の時からその実在を信じていたシュリーマンによって遺跡が発掘され、高度な文明をもって実在したことが証明された。長江文明に関する研究が進展して、日本神話の真実性を立証する日も近いかもしれない。(文責:伊勢雅臣)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h15/jog304.html

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04. 2012年10月16日 22:11:21 : HNPlrBDYLM

日本語の母体のY-DNA「D」縄文語がホモサピエンスの祖語かもしれない
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/450.html

大和朝廷は漢民族?
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/451.html


05. 2012年10月16日 23:01:40 : HNPlrBDYLM


弥生人の起源


弥生時代は紀元前800年から始まる。日本人の起源や現在に至る氏族を追いかけていくと朝鮮半島に始まるが、その前の稲作伝来まで数百年の隔たりがある事を忘れてはならない。

朝鮮半島の紀元前の歴史は殆どなく、中国がようやく半島の鉄資源を求めて鉄職人を送り込んできた時期である。稲作もその頃に半島南部に広がっており、日本列島まで渡来して先進文化を伝える状況になかった。

朝鮮半島からの渡来人は早くて2世紀まで遅れる。その間、九州、中国地方を中心に弥生の文化や技術を創ってきたのは間違いなく大陸の渡来人である。先行して大陸から渡来人が稲作、漁労、養蚕を伝え、拡げていったのが呉人である安曇族であるという説がある。安曇族はその後の奴国を作り、57年に大陸から金印を授かっている。


「海から見た日本列島」
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/

にある以下の記事はそのくだりが書かれており、かなり信憑性が高いので紹介しておきたい。

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【安曇族を解く鍵「金印」】

 博多湾の入口にある志賀の島は 海人の安曇族の根拠地として また AD57年に 後漢の光武帝から授かった「漢委(倭)奴國王」(カンノワノナノコクオウ)と彫られた金印が出土した地として知られている。

中国大陸を制覇した後漢から奴国王が金印を授かったことは破格の厚遇である。なぜ光武帝は倭国の中の一部族に過ぎない奴国に金印を与えたのかまたなぜ奴国王は遠く洛陽まで使者を出したのか。両者の間には 金印授受に値する結びつきがあったはずだしまた 突然の訪問で金印を授かることは考えられないからそれ以前に奴国は中国大陸と交流があったはずである。

その交流にしても奴国王の使者が洛陽まで出かけるにしても海を渡らなければならない。そこには航海術に長けた海人の安曇族が深くかかわっていたはずである。
 

【安曇族はBC5世紀に呉から渡来。】

『魏志・倭人伝』や『晋書』『梁書』など中国史書にある倭人は入墨などの習俗から会稽地方(現在の浙江省から江蘇省)と共通している。またAD57年に洛陽へ行った奴国の使者は呉の祖といわれている太伯の後裔と述べたと記述されている。 
一方、中国大陸では春秋時代(BC770〜403年)に呉は越と30年ほど戦ってBC473年に亡ぼされた。長年の戦争に船を駆使して戦ってすぐれた航海術をもっていた呉人が日本列島へ亡命してきた可能性は大きい。

以上記した習俗、呉の後裔、呉人の亡命の3点から奴国の使者は呉が亡びたときに日本列島へ亡命した呉人の子孫であると考えた。


北九州へ亡命して来た呉人すなわち安曇族は仇敵越への復讐を誓い志賀島を根拠地に中国大陸に出かけて越の情報を集めるのに都合がいい交易をはじめた。

 ところがBC334年には仇敵の越も楚に亡ぼされる。元々呉と越は同族で呉越同舟という言葉は両国は戦争をつづけているが何か呉と越に共通する敵が現れたら力を一つにしてその敵に向かうという意味である。このように呉越は兄弟のようなものだから越が亡びて困っていると呉の後裔の安曇族は得意の航海術を使って越人が日本列島へ亡命することを手助けした。

 またBC221年に秦の始皇帝が天下を統一すると万里の長城を築いたり阿房宮をつくったりでそのために過酷な税の取立てや強制労働などを行った。安曇族はこれらに耐えかねて祖国を棄てる人たちの亡命も手助している。

【亡命者を日本列島の水田稲作適地に斡旋】

 亡命者たちは水田稲作・養蚕や漁撈の技術をもっていた。安曇族は 中国大陸との交易が軌道に乗ると交易で取り扱う品を多くするため日本列島内にも交易網を広げていたから鉄製品がまだ普及せず石や木の農具を使っての水田稲作と養蚕に適している地域の情報ももっていたし魚介類が豊かで船を扱いやすい海岸の情報ももっていた。だから 安曇族は亡命者たちに水田稲作と養蚕に適した地へ漁撈が得意な人たちへはそれに適した海岸を斡旋して住まわせた。
 
その斡旋先での生産物は安曇族が一手に引き受け日本列島内の交易も中国大陸との交易も大きく発展した。ということで日本列島内においては水田稲作・養蚕と漁撈が盛んになってきた。
 
こうなると倭国においては一部族に過ぎない奴国すなわち安曇族ではあるが商業に重点を置いた政策をかかげた後漢の光武帝にとっては取引先として大切な相手であった。安曇族にとっても光武帝から金印を授かることは円滑に交易を進める上で欲しいものであった。ということで「漢委奴國王」の金印を安曇族が授かったという仮説は成立するのではないか。


【安曇族の橋渡しで水田稲作技術は中国大陸から伝わった】

●水田稲作について〜稲のDNAを調べた佐藤洋一郎によると 水田稲作技術の日本列島への伝播ルートは 中国大陸から直接と朝鮮半島経由の二つのルートがあるという。ここでは中国大陸からの直接水田稲作技術が日本列島へ入った点に注目する。


●養蚕について〜布目順郎は確定的とは言えないがと前置きして浙江省や江蘇省から東シナ海を直接渡ってきたといっている。水田稲作の適地と養蚕の適地は豊かな水、風通しがよいなど条件が重なっている。


●言葉について〜森博達は日本には中国南朝の音である呉音が入ってきた。そのルートは朝鮮半島経由というのが通説だが呉音には濁音があるが朝鮮の漢字音には濁音がない。と朝鮮半島との結びつきに疑問を投げかけ中国南朝から直接日本列島へ入ってきた可能性を示唆している。


これらの技術や文化が中国大陸から直接日本列島へ伝わるには東シナ海を渡らねばならないからそこに安曇族が関与したことは間違いない。中でも水田稲作と養蚕は日本列島内の交易と中国大陸との交易に結びつくし、安曇族の入植地斡旋は日本列島内の水田稲作の短期間普及につながっている。
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/

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以上のように呉人である安曇族が航海技術に長けた海人としての特徴を生かして、中国から人、物、技術を運んできたと考える事は、その後の日本の海洋国家としての歴史を見ても頷けます。

また、弥生時代の最大の集落である吉野ヶ里遺跡に養蚕が盛んに行われており、中国とも交易をしていたという史実とも整合します。

一方、安曇族が越人を運んだと言われる北陸地方から関東にかけても同質の弥生文化は広がっていったと思われます。

朝鮮半島から来る渡来人第2波の前に既に相当程度、中国の先進文明を受け入れていた可能性があるのです。古墳時代を経て大陸の隋の時代に至るまで、日本列島が半島からの戦火を免れている背景には、弥生時代に構築した中国との関係は見逃せないのではないでしょうか。

戦争に明け暮れた朝鮮半島と戦争史がほとんどなかった日本、その対比を見ていく上で中国からの視点が必要になってくると思います。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=202671
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=202674

百越(ひゃくえつ)または越族(えつぞく)は、古代中国大陸の南方、主に江南と呼ばれる長江以南から現在のベトナムにいたる広大な地域に住んでいた、越諸族の総称。越、越人、粤(えつ)とも呼ぶ。
非漢民族および半漢民族化した人々を含む。日本の現代の書物において「越人」「越の人」と表される場合、現在のベトナムの主要民族であるベト人(越人)、キン族(京人)とは同義ではない。

現在の浙江省の東海岸が起源と見られる。言語は古越語を使用し、北方の上古漢語を使う華夏民族とは言語が異なり、言葉は通じなかった。秦および漢の時代には、「北方胡、南方越」といわれ、「越」は南方民族の総称ともなっていた

周代の春秋時代には、呉や越の国を構成する。秦の始皇帝の中国統一後は、その帝国の支配下に置かれた。漢代には、2つの越の国が確認できる。1つは中国南部、すなわち現在の広東省、広西、ベトナムにかけて存在した南越、もう1つは、中国の閩江(福建省の川)周辺の閩越(びんえつ)である。この時代、中国の南方を占めた越人は、北方民族による力の支配とぶつかり、しばしば反乱がおきている。チュン姉妹の乱は、現代に伝わる当時の反乱の1つである。

その後は、徐々に北方からの人々の南下とともに、越人の一部は彼らと混じり、また他の一部は山岳の高地や丘陵地帯などに移り貧しく厳しい暮らしに身を投じる人々に分かれるなど、越人の生活圏には変化が起こっていく。北部ベトナムは中国王朝の支配が後退すると、939年に最初の民族王朝である呉朝が呉権により成立している。

文化面では、稲作、断髪、鯨面(入墨)など、百越と倭人の類似点が中国の歴史書に見受けられる。現代の中国では廃れたなれずし(熟鮓)は、百越の間にも存在しており、古い時代に長江下流域から日本に伝播したと考えられている。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%99%BE%E8%B6%8A

句呉(こうご、くご)は、中国の周の時代に、太伯(泰伯とも)が、弟の虞仲と千余家の人々と共に建てた国である。紀元前12世紀から紀元前585年まで続いた。後に、太伯の弟の子孫である寿夢が国名を呉と改名する。国姓は姫(き)。
太伯(たいはく)は、中国周王朝の古公亶父の長男で、呉の祖とされる人物。泰伯とも。虞仲(ぐちゅう)は古公亶父の次男。『史記』「周本紀」では弟が虞仲とあるが、「呉世家」では仲雍とある。季歴の兄、文王の伯父に当たる。姓は姫(き)。紀元前12世紀・紀元前11世紀頃の人物。

古公亶父には長子・太伯、次子・虞仲、末子・季歴がいた。季歴が生まれる際に様々な瑞祥があり、さらに季歴の子の昌(文王)が優れた子であったので、古公亶父は「わが家を興すのは昌であろうか」と言っていた。

父の意を量った太伯と虞仲は、季歴に後を継がせるため荊蛮の地へと自ら出奔した。後になって周の者が二人を迎えに来たが、二人は髪を切り全身に刺青を彫って、自分たちは中華へ帰るに相応しくない人物だとしてこれを断った。
太伯は句呉(こうご)と号して国を興し、荊蛮の人々は多くこれに従った。この国は呉ともいわれる。太伯が死んだとき子がいなかったため、弟の虞仲(仲雍)が跡を継いだ。
『史記』では世家の第一に「呉太伯世家」を挙げているが、これは周の長子の末裔である呉に敬意を表したものであろう。『論語』泰伯篇では、季歴に地位を譲ったことについて孔子が「泰伯(太伯)はそれ至徳と謂う可きなり」と評価している。


日本との関連
髪を短く切るのは海の中で邪魔にならないための処置であり、刺青をするのは模様をつけることで魚に対する威嚇となる。この二つの風習は呉地方の素潜りをして魚を採る民族に見られるという。歴代中国の史書で倭に関する記述にも同じような風習を行っていることが記されており、これが元となって中国や日本そして李氏朝鮮までの朝鮮半島において、倭人は太伯の子孫であるとする説が存在した。
例えば『翰苑』巻30にある『魏略』逸文や『梁書』東夷伝などに「自謂太伯之後」(自ら太伯の後と謂う)とあり、『日東壮遊歌』や『海東諸国紀』等にもある。これは日本の儒学者の林羅山などに支持され、徳川光圀がこれを嘆き『大日本史』執筆の動機になったと伝えられている。

九州宮崎県の諸塚山には、句呉の太伯が生前に住んでいて、死後に葬られたという伝承がある。

鹿児島神宮(大隈国隅正八幡)には、全国の神社で唯一、太伯が祭られている。

『新撰姓氏録』では、松野連(まつののむらじ)は呉王夫差の後とある。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%AA%E4%BC%AF%E3%83%BB%E8%99%9E%E4%BB%B2

呉 (春秋)
呉(ご、拼音:wú、紀元前585年頃 - 紀元前473年)は、中国の春秋時代に存在した君国の一つ。現在の蘇州周辺を支配した。君主の姓は姫。元の国号は句呉。
呉の成立については詳しいことはわかっていないが、司馬遷の『史記』「呉太伯世家」によると、以下のような伝説が載っている。
周の古公亶父(ここうたんぽ)の末子・季歴は英明と評判が高く、この子に後を継がせると周は隆盛するだろうと予言されていた。長子・太伯(泰伯)と次子・虞仲(仲雍)は末弟の季歴に後継を譲り、呉の地にまで流れて行き、現地の有力者の推挙でその首長に推戴されたという。

後に季歴は兄の太白・虞仲らを呼び戻そうとしたが、太伯と虞仲はそれを拒み全身に刺青を施した。当時刺青は蛮族の証であり、それを自ら行ったということは文明地帯に戻るつもりがないと示す意味があったという。太伯と虞仲は自らの国を立て、国号を句呉(後に寿夢が呉と改称)と称し、その後、太伯が亡くなり、子がないために首長の座は虞仲が後を継いだという。

興隆と滅亡
6代王の闔閭の時代、呉は強勢となり、名臣孫武、伍子胥を擁し当時の超大国楚の首都を奪い、滅亡寸前まで追いつめた。しかし新興の越王勾践に攻め込まれ闔閭は重傷を負い、子の夫差に復讐を誓わせ没する。夫差は伍子胥の補佐を受け、会稽にて勾践を滅亡寸前まで追い詰める。勾践が謝罪してきたため勾践を許したが、勾践は呉に従うふりをして国力を蓄えていた。
夫差はそれに気付かず北へ勢力圏を広げ、また越の策にはまり伍子胥を誅殺し、中原に諸侯を集め会盟したが、その時にすでに呉の首都は越の手に落ちていた。紀元前473年、呉は越により滅亡する。この時、夫差は勾践に対し助命を願った。勾践は夫差に一度助けられていることを思い出し願いを受け入れようとしたが、宰相の范蠡に
「あの時、天により呉に越が授けられたのに夫差は受け取らなかった。ゆえに今呉は滅亡しようとしているのです。今、天により越に呉が授けられようとしているのです。何をつまらない情を起こしているのですか」
と言われ、和議を蹴った。それでも勾践は夫差を小島に流刑にして命だけは助けようとしたが、夫差はこれを断って自害し、呉は滅びた。
夫差は越に闔閭を殺された後、薪の上に寝て復讐心を忘れなかった。勾践は夫差に負けた後、胆を嘗めて復讐の心を呼び起こし、部屋に入るたびに部下に「汝、会稽の恥を忘れたか」と言わせて記憶を薄れさせないようにした。この故事から臥薪嘗胆の言葉が生まれた。また、呉越の激しいライバル争いから呉越同舟の言葉が生まれた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%91%89_(%E6%98%A5%E7%A7%8B)


越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前334年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国。首都は会稽(現在の浙江省紹興市)。後に漢民族形成の中核となった黄河流域の都市国家群の周辺民族とは別の、長江流域の百越に属する民族を主体に建設されたと言われる。越は楚、呉など長江文明を築いた流れを汲むと考えられており、稲作や銅の生成で栄えた。

呉との抗争
隣国の呉とたびたび抗争し、紀元前515年、楚に遠征した呉王闔閭の留守を狙って越王の允常[1]は呉を攻め、呉領内を荒らしまわった。更に混乱に乗じて実弟の公子夫概が兄に対して謀反を起こすなど、闔閭の立場が大いに揺らぐ事となり闔閭は越を憎んだ。やがて紀元前496年に允常が死去して、太子の勾践が父の後を継いで即位した。その報せを受けた闔閭が越を攻めたが敗死した。

闔閭の後を継いだ次男の夫差が報復の準備を整えつつある事を憂えた勾践は、先手を打って仕掛けたが逆に大敗し、越は滅亡寸前にまでなったが勾践が謝罪したために滅亡は免れる。謝罪後、勾践は呉で使用人として労働を命じられたりしたが、范蠡の助けを借り、越は呉への復讐心から着実に力を蓄えてゆき、呉が伍子胥を殺害し夫差が中原に諸侯を集めて会盟を結びに行っている隙を突いて呉を攻め、呉に大打撃を与え、紀元前473年には呉を滅ぼした。呉を滅ぼした勾践は、越の都を現在の山東省の琅邪に遷し(江蘇省連雲港との説もある)、更に諸侯と会盟して中原の覇者となった。

勾践は讒言によって腹心の文種を粛清した。これを聞いた范蠡は勾践の猜疑心を知り尽くしていたために、既に斉に逃亡しており、陶朱公と称して富豪となっていた。紀元前465年、勾践は死去した。


滅亡
紀元前334年、勾践の6世の孫である無彊の代に楚の威王の遠征によって、王の無彊は逃亡するも、楚の追撃を受けて捕虜にされ直ちに処刑された。その後、楚懐王の代の紀元前306年頃までに、楚の王族卓滑によって滅ぼされた。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B6%8A


06. 2012年10月16日 23:11:28 : HNPlrBDYLM

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参考HP


日本人のガラパゴス的民族性の起源 ← お薦め
http://galapagojp.exblog.jp/i0

日本人の起源
http://www.geocities.jp/ikoh12/index.html

更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究
http://research.kahaku.go.jp/department/anth/s-hp/index.html


07. 2012年10月17日 17:24:44 : HNPlrBDYLM
「海から見た日本列島」
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/


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12. 中川隆 2013年7月13日 22:47:16 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6


paper_lies800さん 2010/12/16

日本人が色々な種族・部族の混血から成り立っている以上、数学のように一つの答えが出るわけではありません。あくまでも特徴的なことを大まかに言えば、ということが前提です。

鉄資源の確保が理由で、根源的には、天皇家が出た天孫族の日本への渡来直前の経由地(そのもっと以前は中国東北部)が朝鮮半島南部であったこと、だと思います。下記もある人の説ですが、腑に落ちるので、私はそのように考えています。

紀元前2〜3世紀頃、中国江南地方を原郷とし、朝鮮半島を経由して筑前〜肥前北部沿岸に渡来した海神族。稲作と青銅器文化をもたらしました。
(中川註:倭人・弥生人、Y_DNA はO2)

スサノオ・大己貴・大国主・大物主などを祖神とし、安曇連、三輪君、宗像君、和邇臣、尾張連(海部直)、大倭国造、磯城県主などを出しました。


それに少し遅れて、朝鮮半島南部を経由して日本の筑後川流域に渡来した天孫族。スサノオ(上記とは別)・五十猛神、高魂神、天照大神、天目一箇神などを祖神とし、鉄器、鏡作、玉作、鍛冶、衣類の制作などの文化をもたらしました。
(中川註:大和朝廷、Y_DNA はO3)

天皇家、物部連、出雲臣、忌部首などを出しました。

スサノオや五十猛神は「韓神新羅神社」に祀られており、宮中の、皇室の祖先神という「韓神」も同じでしょう。

「天孫降臨」は、天孫族が筑前北部海岸にあった海神族の「葦原中国」に国譲りを迫り、征服したものです。

追い出された海神族(三輪氏が主体)は大和に遷り、原大和国家を形成。

天孫族の本家は邪馬台国となり、天孫降臨した分流(ニニギは長男ではないので)が伊都国を形成。

その後、天孫族の分流の中の更に庶流(=神武。神武も長男ではない)が、新天地を求めて、苦難の末に、大和入りに成功し、征服して天皇家となり、その後のヤマト王権の基礎を築いた。

国譲りの際に、天孫族は宗像君をして半島に繋がる海北道中を掌握しました。これで半島から鉄資源を持ち込むことが出来るようになったのでしょう。

天孫族から出た古代豪族の系図の中には、一時期朝鮮半島に居住し、また日本に戻ったというような記事を記すものもあります。

その後、国内で産鉄、製鉄技術が発展すると、鉄資源の供給地としての半島の重要性が薄れたものと思います。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1352053068?fr=rcmd_chie_detail


13. 中川隆 2013年7月13日 22:51:34 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、

天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ 知らない方が良いこともあるのだ と答えたという研究者の話が伝わっています。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html


14. 中川隆 2013年7月13日 23:16:17 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

karasawa7772000さん 2010/10/19

律令期・7〜8世紀頃における渡来人

当該期、半島情勢の動乱によって多数の人々が日本に亡命しています。

※ちなみにこれ以前の渡来(弥生時代前半を除く)については、当該期の記録に比べると格段に少なく、遺伝学的な影響を及ぼすほど多数とは言い難い、というのが現在までの研究成果とされる。

事例を挙げますと…。


・天智天皇5年:百済男女2000人
・天智天皇8年:百済人700人余
・天武天皇13年:百済の僧尼と俗人23人
・持統天皇元年:高句麗人56人
・持統天皇元年:新羅人26人
・持統天皇2年:百済人
・持統天皇3年:新羅人
・持統天皇4年:新羅人12人
・和銅8年:新羅人74人
・霊亀2年:高句麗人1799人
・天平5年:新羅人56人
・天平宝字2年:新羅人74人
・天平神護3年:新羅人193人
・宝亀11年:新羅人

ちなみに奈良時代の総人口は、『延喜式』規定の出挙稲額と常陸国の出挙稲額を比例計算したした結果、600万人前後と推定されているそうです。

すなわち、上記の数値は今日(1億2千万人として)に換算すると20倍近いものとなります。

一つの都市に相当する人数が渡来したことになり、当該期いかに多い人間が来たかわかります。

この中には宮廷で高位に就く者もいたばかりか、白村江の戦いの結果、亡命してきた百済王(の系譜)なども含まれております。

朝鮮半島経由で稲作が伝播した理由には、遺構自体の類似性もありますが、何より出土する遺物に幾つもの同一性があることが両者の行き来を示すとされています。

事例を列記します。


・遼寧式銅剣
分布が遼寧省(中国東北部)を中心とすることからこの名が付いた。
紀元前9世紀に出現したとされ、遼東半島〜朝鮮半島(比来洞遺跡・松菊里遺跡)〜今川遺跡(福岡県)などで出土。

・磨製石剣
・諸手鍬、エブリ、石包丁、石鎌など農具
・蛤刃石斧、抉入柱状石斧、扁平片刃石斧など木工具


…これらは従前の北部九州・縄文晩期には見られない製品で、総て大陸を遡源としているだけでなく、石製である点にも注意せねばなりません。

当該期、中国大陸ではこれら道具の多くが金属製品に代わっていて、朝鮮半島・日本では石製を使用していたのです。

同時に型式的類似性もある、というかソックリなものの方がむしろ多数を占めます。

縄文時代にも「オサンニ釣針」や「キバノロ牙の加工品」など、九州と朝鮮半島が古くから交流していた物的証拠が幾つもあります。

※特にキバノロは日本に生息していない点に注意。

ただし、縄文時代後晩期〜弥生時代前半において文物が伝播したのは朝鮮半島経由のみではなく、北方からもあったとされます。

・三足土器(亀ヶ岡式土器に数例)
・内反り石刀(同)
・玉斧(山形県中川代遺跡)
・中国製青銅刀子(山形県三崎山遺跡)

…こうしたものは、分布などから考えて中国北方〜沿海州などから伝わったものとされています。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1448933639?fr=rcmd_chie_detail


15. 中川隆 2013年7月14日 02:21:51 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

もう20数年前のことである。ある歴史学者が、昭和天皇に質問した。

昭和天皇は、オフレコならばと前置きして答えられた。


Q:天皇家の先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックというものがある。
  これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。
http://akirakakun.iza.ne.jp/blog/entry/1574364/


古代朝鮮からの侵略部族が、一貫して日本を支配してきた 

古代日本、とりわけ朝鮮半島が戦乱にあけくれた2世紀〜6世紀に 、彼らは日本にやってきた。当時南朝鮮は、部族連合から国家への 移行期であり、激しい戦いを繰り広げ、そこから押し出された部族 が、一族郎党で武装のまま新天地の日本にやってきたのだった。

彼らは既に鉄製の剣を持ち、戦慣れした武装勢力であり、当時の縄文人・弥生人が敵う相手ではない。西日本に侵略部族による国が、あっという間に出来 あがる。

その後も、蘇我氏(高句麗からの侵略部族、神社を持たず仏教を導入)などが相次いだ。特に6世紀中ごろの任那滅亡、7世紀中ごろの百済滅亡の際には、任那・百済の支配部族の中核・大半が日本に移住した。
http://blog.trend-review.net/blog/2008/08/000801.html


16. 中川隆 2013年7月14日 02:52:14 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

宮崎の山村に伝わる「百済王伝説」の謎 _古代朝鮮からの侵略部族が日本を支配してきた 
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/849.html

17. 中川隆 2013年7月14日 16:15:54 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

収奪と悪徳の限りを尽くした平安貴族
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/850.html

天皇家に伝わる御衾秘儀
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/851.html


18. 中川隆 2013年7月16日 07:46:01 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

「朝鮮と日本の神話を考える」 上田正昭 京都大学名誉教授

 敬愛してやまない末本徹夫さんがお亡くなりなって早くも2周年になります。仏教で申しますと3回忌になりますが、徹夫さんは京都大学の先輩でもありました。学生でありながら京都市会議員に当選され、人権問題、とりわけ日朝友好促進に力を入れられました。末本徹夫さんを偲んでの2周年の集いに「神話の問題」の話をしてほしいと雛子さんから言われまして喜んで参上した次第です。末本徹夫さんの写真がここに置かれていますが、その志を受け継いでいきたいと念じております。

 今日は「朝鮮と日本の神話を考える」というテーマです。新しい歴史教科書の問題がありますが、歴史学も科学です。小説家の歴史ではなく、歴史的事実を正確に認識することが大前提になります。伝仁徳天皇陵も仁徳天皇が葬ってあるかどうか大変あやしいのですが、伝仁徳天皇陵は私が学長をしていました大阪女子大学の近くにある日本最大の前方後円墳です。巨大な前方後円墳の仁徳天皇陵と伝えられている古墳ですが、堺では大仙という地名がありますので、我々は大仙古墳と言っています。大仙古墳を天皇を尊敬する方々がご覧になったら全長六百メートルの古墳になる。天皇制に反対の方がご覧になったら二百メートルだ、ということでは学問として成り立たない。

歴史は解釈の問題も大事ですが、誰がどういう立場で言おうと、史実は変わらない。正確な史実をまず認識するということが学問としての歴史研究の第一歩です。神話についても皇国史観の人が解釈する神話と、左翼の人が解釈する神話で全く違う評価が生まれるということでは学問になりません。

神話の定義

そこで神話をどう定義するか。定義が正確でないと内容が間違って解釈されることになりかねないと思います。「神話」という漢字の熟語は中国の古典にもありません。漢字文化圏である朝鮮半島の古典にも神話という漢字の熟語はありません。中国の『三国志』にも神話という文字はない。翻訳漢字です。日本の学者が1890年代に英語のmyth,mythusを「神話」と漢字に訳したものです。神話という翻訳漢字は失敗であったと思います。神話は神様の話という単純なものではありません。

日本の古典の中に神話に類似する用語があるか。「神語」というのはあるんです。『日本書紀』、皇極天皇2年、同3年の条、西暦643・644年の条に「神語」と文字があります。「カムガタリ」という方が皆さんがお考えになっている神話の意味がより正確に言えると思います。神の語りです。神話の定義は神話学者の数ほどあると言われるようにいろんな定義があります。

ギリシャ神話とか文字に記録された神話は神話の本来の姿ではないんですね。記録された神話は第二次、第三次の神話です。書かれた神話は本来の神話とは違うということです。文字を知らない人や、民族でも神話を持っています。なぜなら神の語りだからです。耳から口へ、口から耳へと語り伝えていくものが本来の神話です。文字に属するのではなく言葉の世界に属します。ホーリー・ラングウェッジ、聖なる言葉が神話の大事な点です。

沖縄の研究も復帰前から進めてまいりました。沖縄での国際会議にもたびたび招かれています。沖縄が本土に復帰する以前、米軍が占領していた時代、沖縄に行くにはパスポートがいった時代です。その時代から沖縄の調査をしていますが、本島から先島つまり宮古、八重山諸島など台湾に近いところです。

たとえば宮古島では神話が伝わっていますが、記録にはない。巫女さん、「ツカサ」のおばあさんたちが神話を言葉として語り伝えている。祭りの場で伝えられる。記録としてはないわけです。祭りに参加しなければ神話は聞けない。日常は語られません。男子禁制なので入れない。ツカサの神話の語りを録音させてほしいと申し入れて、

「祭りの場でもないのに語れません」

と拒否されました。お供えをして帰ろうとしたらおばあさんが

「待ってなさい。あなたは神の子だという御告げがあったから語ってあげます」

と録音させていただいたこともありました。

記録された神話

 『記・紀神話』といわれているものは、語られた神話ではなくて書かれた神話です。『古事記』は3巻あっては上巻に神話が書いてある。『日本書紀』は30巻ありまして、巻第一と巻第二が神代の話です。『古事記』は和銅5年、西暦712年正月28日に完成しましたが、時の天皇家の立場から作為的に記録されたものです。天武天皇の勅語に

「偽を削り、実を定める」

と書いてある。天皇家の立場からこれはふさわしくないというのは削ってある。天皇家の立場から書いている。神話のすべてを書いてあるわけではありません。


例えば今日の話について皆さんは、私の言葉を速記するなら別ですが、上田の話はここは大事だなと思う箇所を書いておられる。全部書いているわけではない。皆さんの日記でも全部正確に書いているとはいえない。都合の悪いことは自分の都合のいいように書く。日記だから本当のことが書いてあると思ったら間違いです。将来、孫が読むかもしれない。「おじいちゃんはこんなに立派だった」と第三者を予想して書いている場合もある。

記録する時には作為がある。歴史学をやるものは、書かれたものが全て本当だと思うようでは歴史研究をする資格がない。どこが本当で、どこがウソか文献批判が必要です。ラブレターはそれの最たるものです。「私はあなたを愛しています」と書くわけです。その瞬間はそう書くんです。口説くために。騙されて結婚して今日に至っている人もたくさんいると思います。ラブレターの文献批判をしていない。

自由民主党の新聞に書いている内容と共産党の新聞に書いている内容では違うことがありうる。一つの事実がさまざまに記録されるわけです。新聞が書いているからその通りだと思ってはいけない。毎日新聞の立場がある。朝日新聞には朝日の立場がある。6紙くらい読んでどれが真実かと考える。

 これは文字による記録の限界なんですね。書かれた神話には誇張の潤色が入る場合がある。『古事記』や『日本書紀』が日本の神話のすべてだと言っていたら、神話を教科書に載せる資格は全くない。こんな教科書で勉強するのは気の毒です。戦争中はそういう教育を受けた。神話を疑ってはいない。神武天皇橿原宮で即位された。「紀元は二千六百年、ああ一億の」という時は中学2年生でした。昭和15年。私は級長でしたから並んで国旗掲揚をしました。

紀元二千六百年の元年は西暦ではB.C.660年です。縄文時代の晩期の頃です。弥生時代の前です。そういう時代に日本国ができたというのは、少し勉強したらちょっと待ってくれと言わざるをえない。日本国家が縄文時代にできたなんてことはありえない。邪馬台国よりはるかに昔の話ですよ。邪馬台国の卑弥呼の時代は紀元後3世紀前半の話です。そのときから900年くらい昔の話です。日本国が誕生したという考えには幼稚園の子どもでも待ってくれと言わざるをえないのではないでしょうか。だけどそれは『日本書紀』に書いてあるわけです。『日本書紀』に書いてあるからその通りですと言うていたら、ウソということになるわけです。

神話とはなにということを理解していただかないと、これからお話する日本と朝鮮の神話の問題も間違ってくると思います。神話はまさに聖なる言葉でした。

神話とよく似た言葉には「伝説」「昔話」があります。語り伝える口頭伝承です。言葉の世界に属していますが、しかし内容はみな違うんです。

神話は神様が出てくる。この世のはじめ、天地開闢と関係がある。

「この世のはじめにおける神と人との重要な出来事を語り伝えた聖なる言葉」

が神話です。ハレは非日常、ケは日常。神様をお祭りするハレの時に着る着物が本来の晴れ着です。日本人の晴れ着は祭りの日に着る着物です。ケ着は日常の着物です。ハレの非日常の聖なる時と場の語りが神話です。神の行いを信じるという信仰が神話にはある。語られている内容がどんなに非合理であっても。

国産み神話。イザナギとイザナミの命が鉾を天空から海中に下ろして、それが塩で固まって島ができた。次々に国を生んでいく。塩が固まって島ができる、国土ができる。全く不合理な話ですが、語っている人、聞いている人が信じていた。信仰です。祭りの場に参加していないと聞けない。信じてかつてそのような出来事があったことを深く信じている。

 ところが伝説というのは全く違うんです。ある特定の物に則して語られる。伝説には神様が登場しなくてもいい。即物性がある。弘法大師が池をつくられた。弁慶が運んだ石がある。義経が腰をかけた石がある。何か物に則して伝説は語られる。語られている内容は自分たちの祖先がやってきたこととして語る。伝説には何年何月何日、「頃は元禄15年12月14日」は忠臣蔵の日ですが、日時まで物に則して語られる場合がある。

昔話は語られる内容が全く違う。どの昔話でも「昔、昔、あるところに」と時がわからない。伝説は特定している。昔話は特定しない。「で、あったとさ」と語りの最後は結ばれる。もちろん土地の言葉で語られる。伝説や昔話はケの語りです。いろり端で語る。「昼の話はネズミが笑う」という諺がありますが、夜、語られる。

神話はケの語りではない。神を祀るというハレの時と場で語られる。文字を知らないどこの民族でも神話はある。朝鮮民族には朝鮮民族の神話があり、日本民族には日本民族の神話があるわけです。それが後に記録化される。日本の場合は記録化された神話としては『古事記』『日本書紀』が有名です。

『古事記』『日本書紀』以外も我々の祖先のことが書かれているものがあります。『風土記』があります。『古語拾遺』は西暦807 年にまとめられたものです。『風土記』は各国々で編纂されましたから国々にあります。語り部の神話の記録もあります。『万葉集』の中にも『延喜式』にもあります。『先代旧事本紀』の神話もある。『古事記』や『日本書紀』だけが日本神話のすべてではないということを押さえておかないといけないと思います。

朝鮮の神話では

 朝鮮の神話はどうか。もちろん朝鮮民族の神話も最初から文字で書かれたわけではない。好太王碑文は有名ですが、その冒頭は建国神話で、高句麗の祖先はこういう人たちであったと語っているわけです。25、26年前、高句麗文化展がありました。京都市立美術館で朝鮮民主主義人民共和国から貴重なものを送っていただきました。京都を皮切りに巡回されました。私は西日本の高句麗文化展の責任者だったんです。東日本の責任者は騎馬民族説で著名な江上波夫先生でした。

碑は高さが6メーター38センチあります。これをレプリカにして送ってきましたが、美術館に入らない。京都の場合は屋外に展示しました。そのはじめに高句麗の神話が書いてある。広開土王という高句麗の王様の石碑が彼の子どもの長寿王の2年の時に建った。西暦414年、5世紀のはじめです。[史料5]この碑文が有名なのは、碑文に

「由来朝貢而倭以辛卯年来渡」。

西暦391年に倭人が海を渡ってきた。「百殘」は百済です。「新羅以為臣民」と書いてあります。

倭イコール大和朝廷と解釈しているのは歴史的事実に反します。

倭をどう解釈するか問題があるのですが、北九州を中心にする倭の勢力が海を渡ってきて、朝鮮半島の百済、新羅、伽耶を破って臣民にしたと書いてある。

これを明治以来の日本の政府はかつて朝鮮半島は日本の属国であったということをこの碑文を証拠に言ったわけです。その中心になったのは東京帝国大学の先生方ではなく、陸軍参謀本部なのです。そのことを明らかにしたのが、在日の歴史家の李進熈さんです。和光大学の名誉教授の考古学者です。

陸軍参謀本部が改ざんしたのだというのが李さんの説です。李説が発表された時、中国の学者も韓国の学者も台湾の学者も日本の学者もショックを受けた。好太王碑文の陸軍参謀本部の改ざん説が契機になりまして、好太王碑の研究が前進しました。その功績は高く評価していますが、改竄説には賛成してはいないのですが、李さんの問題提起がなければ好太王碑の研究はあれほど盛んになるとは思われません。

共和国の学者も好太王碑についての論文も書きました。中国の学者も書きました。好太王碑をめぐって大変な論争を展開することになります。その火付け役をしたのが李進熈さんです。このことはちゃんと認めないといけないと思います。

 好太王碑が立っているところは中国の吉林省にある集安、鴨緑江を挟んで対岸は朝鮮で共和国の皆さんが歩いておられる姿が見えます、川を挟んで。

その碑文の調査に私は3回行きました。碑文の文字は残っているのですが、剥落して判読できないところも若干あります。

 この碑文が大事なひとつは高句麗の神話が記述されている事です。

朝鮮にも古典はたくさんあります。たとえば『三国史記』がありますが、『古事記』や『日本書紀』より出来たのははるかに遅いんです。1145年に編纂の命をうけて書かれました。12世紀のなかば、日本でいえば平安時代の終わりです。平清盛の頃に書かれた神話を高句麗の本来の神話として議論してはいけない。

高句麗の神話は5世紀にあったということは好太王碑文を見たらわかるわけです。この碑文ができたのは414年です。414年の好太王碑文の最初に神話が書いてある。

「惟昔始祖 牟王之創基也」。

朱蒙が高句麗の基を築いた祖先である。

「出自北夫餘天帝之子」、

天の神様の子どもであって、お母さんは「河伯女郎」なり。河の神の娘である。お父さんは天の神様。お母さんは河の神の娘である。卵を裂けて世に降りる。生まれながらにして聖。

高句麗には5世紀のはじめのころに建国神話があったということは、好太王碑文によってわかるわけです。もちろん書かれた神話ですが、そういう神話が5世紀のはじめに高句麗にあったことを物語っているわけです。

 昨年12月23日の天皇誕生日の前の12月17日、宮中で記者会見があった。記者クラブが7つ質問している。その中の一つが

「来年はワールドカップで日韓共催でやる。天皇はどう思われるか」

という質問に

「自分の先祖である桓武天皇の生母高野新笠は百済武寧王の子孫であった。
韓国とのゆかりを感じます」

と語られたわけです。私にもすぐ朝日新聞社からコメント依頼がきました。私が感動したのは、人物の交流が皇室を含めてあったのだけれども

「不幸な関係があったということも忘れてはなりません」

とちゃんと言っておられる点ですね。そこがあまり報道されてないんです。

 私は朝日のコメント依頼に「そこが大事だ。それを書いてくれなければコメントしない」と申し上げたのです。1月16日、京都新聞には載りませんでしたが、共同通信が後追いの記事を出しました。なるほどと思ったのは「誕生日の記者会見くらいは自分の言葉で言わせてほしい」と言われたそうです。宮内庁のチェックはなかったようですね。宮内庁は大慌てになったということを1月16日の共同通信配信で知りました。私はその日、松江に行っていまして、山陰中央新報で知りました。実はこれは、神話の問題とも関係があります。


桓武天皇のお母さんの高野新笠は、勅撰の歴史書である『続日本紀』が明記するとおり武寧王の子孫ですが、延暦8年12月に亡くなります。お葬式は正月にあった。葬ったのは大枝の沓掛にある旧山陰道の右手の山の中腹。そこに高野新笠のお墓があります。階段を登らないと行けません。延暦9年1月にお葬式をしている。

『続日本紀』に新笠の伝記が書いてある。どういう人だったかということを書いて百済の神話を書いている。そこに書いてあるものを読むと

高句麗の建国神話と百済の建国神話が同じであったことがわかります。今、残念ながら朝鮮人民民主主義共和国と大韓民国は分断されていますが、百済の建国の神話と高句麗の建国神話は同じです。在日の皆さんが自分の祖国の神話も知らずにいるというのでは残念です。

朝鮮と日本の神話の類似性

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。


 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。

 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。

朝鮮と日本の神話の相違性

 日本の神話と朝鮮の神話は極めて類似性がある。
玄界灘を隔てて隣り合っている国ですから共通性がある。
日本の神話と朝鮮の神話には共通性がある。

比較というのは似ている点だけをすることではない。どこがどう違うかということを正しく理解することが極めて重要です。朝鮮の文化と日本の文化のどこが共通しているか。

日本の中に朝鮮の文化がこんなにたくさんある。
遺跡めぐりをしても朝鮮の文化が各地にある。
それにあわせてどこがどう違うかという、共通性だけでなく独自性も見ていないと、本当の友好、連帯はできない。全く同じだったら改めて勉強する必要はないんです。キムチと漬物の文化とは違うじゃないですか。

なぜ違ってきたのかを正しく理解しなければ、本当の連帯はできない。同じだと言ってばかりいると「日鮮同祖論」になる。祖先は同じなんだから日本に朝鮮が併合されてももとは一緒ではないかという論理と類似のものになってくる。どこがどう違うかということだけを言っていても具合悪いんですね。共通性と独自性の両方を理解することが必要だと思います。

 書かれた日本の神話と、書かれた朝鮮の神話の決定的に違うところが三つあります。それも知っておく必要がある。

クシの峰、天降った山の名は類似している。

けれども、日本の神話では「荒ぶる神」がいた。降ってきて平定するんです。

高天原から降って「言向和平」する。

朝鮮の神話では違う。民衆が

「どうか神様降ってください」

とお祈りすると降ってくる。 [史料4]「又曰 

皇天所以命我者 御是處 惟新家邦 為君后為茲故降矣 称須掘峯頂撮土 歌之云 亀何亀何」。

もしもし亀よ亀さんよと歌うわけです。

「首其現也 若不現也 燔灼而喫也」。

亀さんの姿を現せ、そうでなければ焼いて食べるぞと。民謡だと思います。

「以之踏舞 則是迎大王・歓喜踴躍之也」。

神が降ってきたといって民衆が喜び、踊り回る。

「歓喜踴躍」する。すばらしいシーンです。


 朝鮮の高句麗や百済、伽耶の神話の場合は卵が天から降ってきて、それが割れて中から誕生する。卵から生まれるという卵生型は日本の神話にはありません。

 そして朝鮮の神話ではお供を連れて天降ってこない。単独降臨です。

日本ではお供の神様がついてくる。

アメノコヤネの命は中臣氏の祖先です。瓊瓊杵尊と一緒に天降ってくる。

後の天皇家の周辺の有力貴族の祖先も一緒に天降ってくる。
朝鮮には檀君神話を除いて随伴神伝承はないんです。
後の時代はお供が増えますが。そのように内容が違う。


 もとは共通であったはずの朝鮮と日本の神話がなぜこのように違ってきたのか。

語られた神話、『古事記』『日本書紀』に書かれる段階で、すでに我が国には天皇制があった。

天皇制を背景にできあがった『古事記』『日本書紀』の神話に対して、朝鮮の場合は貴族の合議制。王者はいるのですが、貴族が合議しながら政治をやる(和白制)。

よりデモクラティックな民主的な要素の強い朝鮮社会と、我が国のように天皇制を中心にする社会体制ができあがっている。記録化の背景が違ってくる。社会の仕組みが違うので神話の内容も専制的なものになっていく。極めてデモクラティックな朝鮮との違いができたのではないかというのが私の説です。文庫本(日本の神話を考える)をお持ちの方もおありのようですが、そこにも詳しく書いておりますので参考にして下さい。

 韓国、朝鮮は日本と最も近い国です。善隣友好、隣と仲良くできなくて、どうしてアメリカ、ヨーロッパと仲良くできるか。近くで対立しているようでは、国際化日本にはなれないと思います。そのためには日本の文化と韓国、朝鮮の文化のどこが共通しているかを確かめると同時に、なぜこんなに違ってきたのかということを相互に詳しく理解しなければ本当の信頼関係は生まれないと思います。国際化ということは、相手を知ることがまず第一です。

我々が朝鮮の文化、朝鮮の歴史、朝鮮の生活を知る。そして己を知る。自分を知る。日本人が日本を知らなくて国際化なんてできません。在日の皆さんもそうです。朝鮮の皆さんが朝鮮のことを知らなくてどうして国際化ができますか。朝鮮民族が日本のことだけを知っているのではなく、己を知ることも大事です。いかに友好の関係史があったか。そのことにあわせて極めて不幸な侵略の歴史、大変なご迷惑をかけた、拭うことのできない歴史も忘れてはなりません。

共通の認識と共にどこがどう違うか。異質性、独自性の認識が正しい理解を生むのだと思います。共通性もありますが、違う点もあることをよくご理解いただきたいと思います。以上で終わらせていただきます。

ご静聴ありがとうございました

質問 三つだけ教えてください。

@神話は科学的に実証することができるかどうか。
A真床追衾(まとこおふすま)について。
B邪馬台国について。

上田 神話を正しく理解するには書かれた神話、記録化した時にどこにどう手を加えたということを知ることが大事です。原像を復元することはむずかしいと思います。しかしその作業をなおざりにはできません。

 2番目の真床追衾。マは形容語で、寝床の床です。高御座の台です。
被りものを被って降臨する。オブスマは被りもの。スマは中が空洞になっているものです。

 3つ目に邪馬台国、卑弥呼の時代は3世紀前半です。
邪馬台国は私の考えでは前期邪馬台国と後期邪馬台国に二つに分けて考えられる。

後期邪馬台国は畿内の大和だと思います。前期は九州だと考えています。

講談社学術文庫『大和朝廷』に私の説が書いてありますのでお読みください。大王家の祖先は邪馬台国の卑弥呼になるのですが、神武天皇が北九州から入ってくる。北九州から大和に入ってくる伝承を全くの架空とは断言できない。西から東に王権が移ったということがあったに違いない。考古学は1、2世紀の文化は畿内大和より北九州の方が進んでいる。3世紀では畿内大和が進んでいる。

弥生時代の前期は九州の方が進んでいる。弥生時代後期は断然大和が進んでいる。2世紀後半に遡る可能性がある。最近は畿内説の方が調子がいい。畿内説から九州説に寝返った人もいるが、私は一貫して畿内説ですが、生え抜きの畿内ではない。邪馬台国後期の畿内論です。

(2002年1月26日 講演記録より)
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html


19. 中川隆 2013年7月16日 08:15:48 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

「朝鮮隠し」 と 「日本神話」

「白村江の戦」で新羅に破れ国を追われた百済人は、故郷を追われた怨念もあったであろうか、追われた身としてではなく「天から降臨した神の子」として新天地づくりに熱情を傾けた。自分たちの国として、自分たちの位置づけを明確化し、故郷に対する優越意識を高めるために、「朝鮮隠し」なるものを発揚させたのである。

「日本」という国号を作り、「我々は日本人である」という意識高揚が、現日本人の祖先の位置づけを曖昧化させた。朝鮮系の地名・人名を変え

加羅→唐 高麗→呉 金→今、

その風潮は1300年経った現在も消えず、朝鮮の痕跡を顕在化させまいとする歴史が今でも点灯している。

「日本神話」の真実

ソウル市内の国立中央博物館で韓国の「檀君神話」 と「日本の建国神話」 を比較考察する学術会議が開催されたとき、アジア史学会会長 上田正昭氏の論文が事前公開された。その際、上田氏の

「天孫が空から降りる韓国と日本の神話には類似性が多い」

という記述に注目が集まったという。日韓の神話を比較研究してきた上田氏は、

日韓の天孫は山頂に降臨しており、共通点が多い

と主張。百済の神の存在が、日本で継続的に命脈を受け継いできたと指摘しているという。

日本の建国神話は、韓国の「檀君神話」の影響を大きく受けており、この事実は韓国だけでなく日本史学界でも認められているという。「日本神話」は、主に八世紀初めに書かれた「記紀」の記述がもとになっている。

この説は、「駕洛国記」による韓国の降臨地「亀旨kuji」と「記紀」による降臨地「久志」の音がそっくりであることからも否定できないという。

日本にも朝鮮にも、「仏教」以前から「神道」が存在している。

「神道」は、朝鮮半島の古代文化を形成した北方民族 (騎馬民族) のシャーマニズムに由来すると言われている。北方民族のシャーマニズムは「天孫降臨神話」をもっており、「天孫降臨神話」が日本にも朝鮮にもあるということは、騎馬民族によって形成された朝鮮文化の流れに日本も乗っていることになる。

弥生時代から急増した朝鮮渡来人が、倭国へ「神道」をもちこんだのはごく自然な流れだろう。

梅原猛は「芸術新潮(2009年)」の大特集「古代出雲王朝」で、

「日本書紀の記録や出雲で発見された古墳・遺跡・大社の社などから判断すれば、

スサノオは朝鮮半島から出雲へ来た

という説が正しい。スサノオがヤマタノオロチを切った刀は韓鋤の剣であることからしても、スサノオが韓国から来た神であると考えるのが最も自然であろう。

スサノオに始まる出雲王朝には朝鮮の影が強く差している。」

と述べている。さらに、梅原猛は、著書『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』で、

「出雲王朝の創立者は韓国系と考える。

その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。
銅鐸の起源は韓国の貴族が双馬馬車につけていた鈴だ。
スサノオが韓国からきたとする説はますます有力になっている。
新しい日韓関係を見せてくれる。韓国に注目しなければならない。
古代日本にとって、韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた。」


と述べている。

出雲市の斐伊川の上流に「鳥髪」という所がある。

市町村合併によりその地名なくなったが、奥出雲の「鳥上小学校」「鳥上公民館」の「上 かみ」は「髪」の音から転用した語である。

AD四世紀ごろ スサノオは韓国の「소머리 somoli 牛頭」から奥出雲の「鳥髪(とりかみ)」へ渡来し、「たたら流し」のリーダーとして名を成した人であるという。

スサノオは砂鉄によって「草薙の剣」を作った偉人という伝説があり、「草薙の剣」はヤマタノオロチの尾にあった剣のことである。「記紀」の神話を書く際に、フィクションのモデルにされたのはスサノオであろうという説がある。奇妙に思うかもしれないけれども、

「記紀」を書いたのは渡来人(主として百済のエリート)であり、「記紀」が書かれるより300年前の伝説の人 スサノオも渡来人である。

「日本神話」の成立についてのこのような話は、現在の日本人にとって想像を超えた物語に聞こえるだろう。


「소머리 somoli 牛頭」と「鳥髪(とりかみ)」は同じ言葉で、「소 so 牛」が「새 se 鳥」に転訛し、「머리 moli 頭 髪」は「鳥髪」の「髪」と同じ言葉であるという。

スサノオが天から降りて来たという神話は、朝鮮の「天孫降臨神話」を模したものでフィクションに過ぎない。このような真実を、馬鹿馬鹿しい想像によるものであると影に移し、「記紀」が書かれて1300年たった現在ですら「スサノオ」と「ヤマタノオロチ」は日本神話の真髄である。朝鮮の影が映っている歴史は影に過ぎないと追跡せず、朝鮮由来の歴史は朦朧と曖昧化されている。従って、日本の古代史の書籍には「謎である」という解釈が目立ち、日本語のルーツは明治以来150年にたってもわからないのだから、今後も「謎だらけ」であろうと豪語する学者らしき人の書籍が店頭を飾っている。
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2012/08/post-1eca.html

[庚戌国辱100年紙上座談会・上]韓日元老6人が100年を論ずる
◇古代からの韓日交流史 2010年04月14日 中央日報/中央日報日本語版

−−韓国と日本は古代からさまざまな交流をしてきた。 お互いどんな影響を及ぼし合いながら現在の社会文化を形成してきたと考えるか。

梅原猛=中国の先進文化は韓国を経由して日本に入った。
私は今月、『葬られた王朝―古代出雲の謎を解く』という本を出すが、

出雲王朝の創立者は韓国から来たと考えている。

『日本書紀』に多くの文書があるが、そのうち3つの文書は‘韓国系’と把握している。 これは新しい考えだ。

弥生(BC200−AD300)時代には日本海(東海の日本式表現)側が日本の中心部だった。 したがって越の国、今の新潟県から移ってきた国が出雲を支配していたが、韓国から来たスサノオ(日本神話の人物)が出雲を越の国の支配から独立させた。

出雲王朝の創立者は韓国系と考える。

その証拠に出雲王朝の遺跡から銅鐸が出てきた。 大和王朝の鏡に代わるものだ。 銅鐸の起源は韓国の貴族が双頭馬車に付けて入った鈴だ。

(神話に出てくる)スサノオが韓国から渡ってきたとする説はますます有力になっている。

新しい日韓関係を見せてくれる。 韓国にまた注目しなければならない。 古代日本にとって韓国は文明国であったし、さまざまな文化を伝えてくれた恩人だった。

朴泰俊(パク・テジュン)=古代韓国は日本に文明を伝授した。
ポスコがある迎日湾の村には、『三国遺事(サムグクユサ)』に記録されている新羅時代の「延烏郎細烏女」という夫婦の話が伝えられている。

この夫婦が日本に‘太陽と月’(光)を伝え、王と王妃に推戴されたという話だ。

‘光’は文明を意味する。

1973年に迎日湾には日本の協力で新しい‘光’が誕生した。 溶鉱炉の光、すなわち浦項製鉄だった。 迎日湾を背景に両国間でやり取りした‘光’の話は、両国関係の未来を照らす灯火と考えてもよい。 韓日間には日本の侵略と植民地という痛ましい歴史もあったが、お互い助け合いながら発展した時期も多かった。
http://japanese.joins.com/article/246/128246.html?sectcode=&servcode=A00


20. 中川隆 2013年7月16日 08:32:58 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6



出雲王国は実在したか?

結論から言ってしまえば、この問いに対する私の答えはYESである。後で述べるような意味合いにおいてであるが、出雲に象徴される一大「山陰王国」は実在したと思う。しかもその「王国」は、はるか紀元前後から大和朝廷が成立する古墳時代まで続いていた可能性がある。



1984(昭和59)年の夏、神庭・荒神谷遺跡からの大量銅製品の出現は、従来の出雲観を塗り替えたと言ってよい。それまで出雲には目立った遺跡・遺物は出土しないとされていた為、日本史上多くの謎を秘めていたのである。

なぜ「古事記」「日本書紀」に出雲関係の記事が多いのか、日本神話はどうしてああまで出雲を取りあげているのか、山陰の鄙びた一地方である出雲に、伊勢神宮を上回る規模で最古・最大の神社が存在しているのはなぜか? 

これらは誰にも解けない謎として、過去多くの研究者や古代史マニア達を悩ませていたのだ。


神話の持つ歴史性にさほど信頼を置かない歴史学者や考古学者にとっては、山陰地方に考古学的遺物・遺跡の少ないことが、「記紀」の歴史性を否定する理由にもなっていた。「記紀」の出雲神話や「出雲の国風土記」はもっぱら文学者や民俗学者の研究対象だったのである。

それが今回の発見で、全国でそれまで出土していた銅剣の数を上回る358本の銅剣、銅矛16本(翌'85年)が出土した。さらに、これまでの学説では異なる文化圏として区別されていた「銅矛文化圏」と「銅鐸文化圏」の、まさしくその円陣が重なる部分として、ここ出雲から銅矛と中型銅鐸が6個並んで出土したのである('85年)。日本神話の故郷は、一気に考古学最前線としてのアプローチを受ける事になった。


この時から出雲に対する認識は一変したと言える。

誰もが、出土した銅剣のその量の多さに驚き、多くの疑問が各方面から提示され、本格的な研究もやっと端緒についた 1996年(平成8年)、今度は加茂岩倉遺跡から実に39個もの銅鐸が一挙に出土した。トンボ、シカなどの絵画に加え出雲独特の文様も持ったこれらの銅鐸は、人は殆ど通らないような谷間の斜面に意図的に埋められていた。出雲はふたたび世間の耳目を集める事になった。更に同じ年、正蓮寺周辺の遺跡から、直径が800mにも及ぶ環濠跡も発見されている。もはや出雲は何もない国ではなくなったのである。誰もが出雲王国の存在を予感した。


更に、1992(平成4)年から昨年(1998年)まで発掘調査された鳥取県の「妻木晩田遺跡」の出現は、後述するようにその周辺遺跡の調査発掘の結果とともに、従来の日本海沿岸地方に対する考古学的所見をことごとく塗り替えたと言ってもよい。


私が表題に掲げた「出雲王国」というのは、ただ島根県だけを指しているのではないことをご理解いただきたい。現在では出雲と言えば島根県という事になるが、私の考える「出雲王国」というのは出雲を中心として、西は山口県から東は丹後半島から、もしかすると能登半島を通り越して現在の糸魚川あたりまでの広い範囲を考えている。

勿論、ただ一つの国がこれらの広い範囲を支配・管轄していたとは考えられない。2000年前の紀元前後に、王をいただいた唯一つの行政機関がこれらの地域を統括していたとは一寸想像し難い。しかし中国においては「漢王朝」があの広大な領土を統治していたのであるから全く可能性が無いわけではないが、現在の所この地方にそれを窺わせる文献も考古学的知見も存在してはいない。私の言う「王国」とは「文化圏」と同義である。北九州、畿内とは異なる、環日本海文化を共有する集団が存在していたと考える。


クニとしてはそれぞれ独立し、王や首長のもと原始国家を形成していたと思われるが、これらの人々はある一つの大きな事実で互いに結びつき、文化圏を同じくしていた。それは「渡来」である。彼ら環日本海地方の人々は、出身地方こそ違え、皆朝鮮半島からの「渡来人」であった。

一部中国大陸からの人々も居たかもしれない。北九州と同様な、或いはそこよりも進んだ文化と技術を携えた人々が、段階的に日本海側に渡来したのである。

それは縄文末期もしくは晩期にその萌芽を見て、弥生期に入って本格的に形成され古墳時代中期頃まで続いたと考えられる。
http://inoues.net/mystery/izumo_oukoku.html

我が国に現存する五つの風土記の内、「出雲国風土記」のみがほぼ完全形で伝えられている。成立年代や編作者もあいまいなものが多い中、「出雲国風土記」のみは、天平五年(733)、出雲国造出雲臣広嶋(いずものくにのみやっこ・いずものおみひろしま)編という事がわかっている。この風土記は、神社・寺院・山川・地名の由来、地方の物産などの他に、出雲の国が出来た由来を伝える「国引き物語」など、他の風土記にはない内容を多く伝えており、当時の様子を知ることが出来る第一級の史料である。


「国引き神話」によると、古代の出雲は小さく領土が不足しているので四つの国から土地を引いてきて今の形にしたとある。

現在の島根半島である。衛星からの写真で島根半島を見ると、大きく四つの山塊に別れている事が見てとれる。


「三穂の埼」みほのさき・・・・・・・・・・美保関町北浦・稲積から松江市手角町にかけての東側の岬。美保神社がある。

「闇見の国」くらみのくに・・・・・・・・・・・鹿島町多久川から美保関町北浦・稲積までを言う。闇見の神が鎮座する。

「狭田の国」さだのくに・・・・・・・・・・・・平田市小津から鹿島町多久川の切れ目までを指す。佐太大神が鎮座する。

「八穂米支豆支の御埼」やほしねきづきのみさき・大社町日御碕から平田市小津・平田までを指す。ここに出雲大社がある。



地質学的には、島根半島は約7000年前には日本列島から離れた横に細長い独立した島であった。3000年から2500年ほど前に現宍道湖の東側・西側が地続きになり宍道湖が出来、弓ヶ浜半島も陸続きとなって中海も湖となった。1200年ほど前、弓ヶ浜半島の付け根が再び海となり中海は湾となり、現在に至っている。

神話は例えば三穂の埼を、高志(越:北陸地方。)の国から弓ヶ浜半島を綱にして、大山を杭に引き寄せたという荒唐無稽なものであるが、その地形的な成り立ちと一致しているのには驚かされる。また西側の杵築(きづき)の御崎は、遠く新羅の国から引き寄せたとあるが、衛星も地図もない時代にただ想像力だけでこういう壮大なスケールの物語を作った古代人には圧倒される。


しかし実は、古代出雲人が単なる想像力だけで新羅の国を持ち出したのではない事は明白だ。環日本海ル−トとでも呼ぶべき、大陸・半島との交流が相当昔から存在していたと見るべきだろう。

地図を見れば一目瞭然だが、朝鮮半島東側の新羅からは、実は北九州に行くよりも出雲や伯耆・若狭あたりの山陰・北陸へ行く方が自然である。対馬海流の流れを見ても、逆らってわざわざ松浦に行く事はない。

こぎ出せば海流に乗って自然に出雲あたりへ流れ着くのだ。北九州に負けず劣らず、山陰地方にも古くから大陸・半島からの渡来が行われていたと推測できる。とりわけ出雲では他の地域に先駆けて朝鮮半島と交易を行い、最新ハイテク技術である金属加工法を獲得していたのではないか? 

技術とともにその技術を伝える人々も渡来してきたはずだ。人的交流も盛んだったはずである。その成果が冒頭の358本の銅剣につながるのだろう。


スサノオ、オオナムチを中心とする出雲神話は、我が国神話(記紀)の約3分の1を占めている。8世紀初頭に成立した古事記・日本書紀がここまで出雲を取りあげた、或いは取りあげねばならなかった理由は一体何であろうか。

出雲は、記紀が成立した時代にそれほど重要な、又は重要な記憶を秘めた場所であったのか。


出雲の最高神、大国主(オオナムチ:大国主の命)は、遠く高志(越)のクニまで進出し糸魚川の翡翠製産をもその勢力下に納めようとするほどの権勢を誇っていたが、この出雲王朝に悲劇は突然訪れる。

高天原の天照大御神(アマテラス)と高御産巣日神(タカミムスビ)は孫の火瓊瓊杵(ホノニニギ)を下界へ降ろし、大国主以下の神々に出雲の統治権を高天原に譲るよう交渉させようと試みるのである。しかし第一陣、第二陣の使者達は出雲側の懐柔に会い使命を放棄してしまう。三度目の使者、建御雷(タケミカヅチ)と天鳥船(アメノトリフネ)は出雲の稲佐の浜(出雲大社東岸)に降り立ち、建御雷は、波頭に突き立てた刀の刃先にあぐらをかくという奇怪な格好で大国主と「国譲り」の交渉を開始する。

大国主は即答せず、長男の事代主(コトシロヌシ)と相談したいと返事する。事代主は大国主に国譲りを勧め、自らは沈む船の中に隠れてしまう。そこで大国主は国譲りを決意するが、末子建御名方(タケミナカタ)は腕力による決着を望み、建御雷に信濃の諏訪まで追いかけられ、結局諏訪の地に封じ込められてしまう。建御雷は出雲に戻って大国主に決断を迫り、ここに「出雲の国譲り」が成立する。

大国主は国譲りにあたって、高天原の神々の子らと同様の壮大な宮殿造営の条件を出す。高天原はこれを了承し、大国主の為に多芸志の浜に宮殿を造る。


この宮殿について日本書紀は、


(1).宮殿の柱は高く太く、板は広く厚くする。

(2).田を作る。

(3).海で遊ぶ時のために、高橋、浮橋、天鳥船を造る。

(4).天の安川に打橋を造る。


....などと厚遇し、天穂日命(アメノホヒ:国譲り交渉の第一陣使者)を大国主の祭祀者として任命する。

(この天穂日命が出雲国造の祖神という事になっており、現在の宮司はその83代目にあたるとされている。)


以上がいわゆる「出雲の国譲り」と称される神話の概要である。古事記と日本書紀で細部は異なるが、話の大筋は同じである。この神話を巡っての解釈も諸説あり、神話の中に何らかの史実性を見いだそうとするもの、全くの創作だとするもの、
殆ど史実ではないかと唱えるものなど様々だ。私見では、かなりの確率でこの話は史実に基づいているのではないかと考える。そう仮定すると、出雲の重要度、弥生以後の我が国の展開が矛盾なく説明できると思う。


皇学館大学の田中卓教授は、「田中卓著作集2」所収「古代出雲攷:日本国家の成立と諸氏族」で、出雲族の根拠地はかって大和であり、出雲は、出雲族が追われた場所である、とする説を述べている。

又、梅原猛氏は集英社刊「神々の流竄(るざん)」において、出雲族の根拠地は大和であり、出雲は8世紀の大和朝廷が神々を追放しようとした土地である、と考えている。これは現在のところ、学会では一般的な意見のようである。即ち、出雲にある程度の文化的な先進性を認めたとしても、それは元々大和にあったのだという発想である。

特に近畿圏で活動する学者達は殆どそういう意見のように見える。

しかしながら私には、大和に文化が独自に発展したと考える方がはるかに非論理的なように思える。どうしてあんな辺鄙な盆地に突然文化的な萌芽が湧いて出るのか?

渡来によらず、縄文からどうしていきなり青銅器や稲作を始められるのか?

渡来文化しかありえないではないか。


しかも大陸・半島からいきなり大和を目指してくる訳もない。北九州か、山陰か、瀬戸内海を経由してくるしか無いのだ。

渡来人達は、征服しやすい土地を求めて奈良盆地にたどり着いたと考えるのが一番自然であろう。山陰地方から内陸へ南下した渡来人達は、丹波で負け、摂津で負け、河内で負け、或いはこれらの土豪達とは戦わず迂回して、最も弱かった奈良盆地を征服したのだ。そのおかげで、奈良は渡来文化をあまさず享受できたと考えられる。大国主の神々の本拠地が元々出雲にあり、大和地方もその傘下に治めていたのだ。


大和の勢力が出雲に大国主の神々を派遣して王国を築いたという見方は、私には本居宣長の考えとそう違わないような気がする。天皇家とその発祥を大和におき、あくまでも日の本は大和を中心に栄えたとし、よその地方から移ってきたなどとんでもないという考えは、渡来人及びその源地を蛮族視しているようにしか思えない。いわゆる「進歩的な」歴史学者達の中にも、結果的にはこういう立場に立っている人達もいるのである。

「記紀」によれば、大国主の命は高天原勢力に「国譲り」をする。そして高天原から出雲の国へ天穂日命(アメノホヒノミコト)が天下る。

天穂日命は出雲の国造(くにのみやっこ)の祖先となる。大国主の命の領地であった(可能性が高い)大和には、邇芸速日の命(ニギハヤヒノミコト)が天下る。天照大神の孫が2人も出雲と大和に天下っている。邇芸速日の命の降臨は神武東征の前であり、出雲の国譲りの後のように思われる。



「杵築(きづき)を見たということは、これはただ珍しい社殿を見たにとどまらず、それ以上のものを見たことになるのである。杵築を見るという事は、とりもなおさず今日なお生きている神道の中心を見るということ、・・・・・ 悠久な古代信仰の脈拍にふれることなのである。」

明治 23年(1890)9月13日夜半、出雲大社に初詣したラフカディオ・ハーン(小泉八雲)は、翌14日、唯一昇殿を許された外国人として、この感動・衝撃的体験をその著書「杵築」で語っている。(昭和50年、恒文社刊 小泉八雲著「杵築」平井呈一訳)


出雲大社十六丈復元図(「日本のやしろ出雲」美術出版社)によれば、古代の出雲大社は、実に巨大で異常な高さを持つ。

往古三十二丈、中古十六丈の社伝が残っていて、現在が八丈(24m)であるから、大昔(創建時)には96mの高さを誇っていた事になる。現在の伊勢神宮が9mである事を考えると出雲大社がいかに高さを主張していたかが理解できる。96mがほんとに建っていたのか、48mにしても、古代にそんな建造物製作が可能であったかについては、大林組プロジェクトチームによる「出雲大社の復元」に詳しい。

復元図を見ていると、この建物は何かに似ている。初めは何かわからなかったが、左右に建っている柱でようやくわかった。

これは縄文・弥生の遺跡から発見される「高床式建物」である。柱がぐーんと伸び、階段も広く長くなっているが、これはまさしく高床式建物ではないか。

高床式建物が渡来文化の賜(たまもの)だとすれば、これは見事にその文化の行き着いた先を表わす「象徴」である。むしろその為にこそ、大国主は高天原にこの宮殿を建てさせたのかもしれない。また、その条件を呑みこの宮を建てた高天原にとっても、出雲はそれほどの強大な権力と見なされていたのであろう。階段の端は遠く稲佐の浜まで続いていたとされている。大国主の命が、宮殿から海に遊びに行く時のために、高橋と浮き橋と天の鳥船が造られたと「日本書紀」は伝えるが、この絵を見ていると宮殿から遙か日本海の彼方を眺めては、自らの父祖の地を想っている大国主の姿が目に浮かぶようである。

1665(寛文5)年10月10日、出雲大社の東方200mの摂社(せっしゃ:本社の付属社で、本社に祀られている神以外を祀る。

勿論本社の神と関わりが深い神々を祀るのが普通である。)「命主神社」裏において、石の切り出し作業中、硬玉(ヒスイ)製勾玉と銅戈が発見された。後世この鑑定が行われているが、硬玉は、京都大学原子炉実験室による成分解析の結果、新潟県糸魚川地方の産とほぼ認定され(近似値を得た)、銅戈は、中細形と言われる形式であり、弥生時代中期に北部九州で濃密な分布があり、鋳型も春日市を中心に多く発見されている。

糸魚川は越(高志)の国とも呼ばれ、大国主がここを訪れ奴奈河比売(ぬなかわひめ)に求婚した話も残っているし、また銅戈とともに出土した土器片は、北部九州に多く見られる木葉文がくっきりと残されており、出雲が北部九州から越の国まで広く交流していたことはほぼ間違いない。北九州と糸魚川を結ぶ環日本海ルートのちょうど中間の位置に出雲はある。

「古事記」によると奴奈河比売訪問の後、大国主は倭国行脚を想起し「出雲国造神賀詞」には大国主の和魂(にぎたま)を大和の三輪山に祀るとある。大和は、出雲の支配下にあった事をうかがわせる。
http://inoues.net/mystery/izumo_oukoku1.html


21. 2013年7月16日 11:37:36 : W18zBTaIM6

大林組 出雲大社本殿の復元
http://www.obayashi.co.jp/kikan_obayashi/izumo/p01.html

22. 2013年8月06日 00:36:08 : W18zBTaIM6

Y-DNAから日本人のルーツを想像してみた
http://www.youtube.com/watch?v=43Hbp27OYas

23. 2013年8月06日 00:41:46 : W18zBTaIM6

Origins of Japanese 1.Ydna:C1,D2 −日本人はどこから来た?
http://www.youtube.com/watch?v=TsKQmskk0u4

Origins of Japanese 2.Ydna:N −日本人はどこから来た?
http://www.youtube.com/watch?v=KUIB7nePTt0

Origins of Japanese 3.Ydna:O2b,O2a,O1 −日本人はどこから来た?
http://www.youtube.com/watch?v=2AOc8cO2tRg


24. 2013年8月12日 03:20:47 : W18zBTaIM6

奈良県の神武天皇伝承地
http://www.geocities.jp/mb1527/N3-15-3tousen2.html

25. 2013年8月12日 03:22:05 : W18zBTaIM6

古代史の復元 目次
http://www.geocities.jp/mb1527/mokuji.htm

26. 2013年8月12日 22:42:29 : W18zBTaIM6

神武東征の物語
http://kodai.sakura.ne.jp/nihonnkennkokusi/index.html

27. 2013年12月01日 19:28:25 : CrxCONEQHV
自称『専門職』の看護師の暴走が酷い

看護師レベルの 低度専門職 は日本に100以上も有るんだよ

看護協会のボケ婆さんたちへ

無節操南野の国会における醜態で馬鹿確定だろ


28. 歴史家 2014年3月02日 16:32:02 : xj2Ztzk/GEiaY : tlBq9QHwf7
日本人は朝鮮半島から五世紀後半に、やってきて、これが原初と、日本の学会は、基本にしています。
中川隆氏は中国から渡来説と、されたのは、何か証拠があるのでしょうか?
ネット、ウエーブ上で、書かれている「中国から渡来説」も、一人も、根拠はないのですが?
作家なら商売でお金になるから、あること?ない事も、かきますが。

29. 歴史家 2014年3月02日 17:05:32 : xj2Ztzk/GEiaY : tlBq9QHwf7
日本人は朝鮮半島から五世紀後半に、やってきて、これが原初と、日本の学会は、基本にしています。

九州大学 西谷正氏
福岡大学 武末教授
千葉国立歴史博物館
渡来人 - Wikipedia
学界の主流となった。 .... 5世紀後半〜6世紀に朝鮮半島から移住した技術をもった人々を『日本書紀』では「古渡才伎(こわたりのてひと)」に対して「今来才伎(いまきのてひと)」と呼んでいる。
5世紀後半から6世紀半ばに、日本のものと同じ前方後円墳が築造されており、日本の影響力が朝鮮半島に及んでいた説

ほとんどが朝鮮半島からの渡来人だったというのが歴史学者の見解です。
意地でも朝鮮半島から日本に米が伝わった。

最近では「朝鮮半島渡来説」を唱える研究者は非常に少なくなっており、中国大陸から渡来したというのが<定説>となっ ... 米を伝えたとする説を唱える学者もいるが、根拠はないのが実情。

支那の稲作研究界ではむしろ水稲種は日本から朝鮮半島に伝播したという説が有力になっている。

邪馬台国の会 考古学者の多くは、稲作が朝鮮半島から渡来したとする。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku266.htm

某有力政治家が韓国訪問の際に「日本の天皇家の祖先は朝鮮半島から来た」とスピーチして論争に成っている。
ここにもあり得ない?朝鮮半島から渡来
朝鮮半島は古代から仏の国で神は関係ない。

DNA鑑定でも日本人に朝鮮半島系の人が多いというのは立証されています。
渡来人はほとんどが朝鮮半島から渡ってきた人たちのようです。
スサノオは高天原を追放されて出雲に来ます。
高天原=朝鮮半島だと言われています。
朝鮮半島から渡ってきた勢力が大和朝廷を樹立したのが歴史的事実である、竹田恒康氏 http://www.fujitv.co.jp/takeshi/takeshi/column/koshitsu/koshitsu191.html



30. 中川隆 2014年5月17日 18:43:14 : 3bF/xW6Ehzs4I : 3cdYZYbVIc
>日本人は朝鮮半島から五世紀後半に、やってきて、これが原初と、日本の学会は、基本にしています。
中川隆氏は中国から渡来説と、されたのは、何か証拠があるのでしょうか?


弥生人は中国長江の稲作漁労民が漢人に追われて日本・朝鮮南部に渡ってきたのです。縄文人と弥生人は所謂 土人で自給自足なんですね。だから縄文人と弥生人は国家を作らないんです。

大和朝廷は2000年前は朝鮮の帯方郡にいた漢人なので、日本は華僑が作った国という事になります。

天皇一族は百済王家と親戚で、5世紀から任那を通して朝鮮人を沢山日本に移民させたので、近畿地方の住人の遺伝子は朝鮮人と変わらなくなったという事ですね。

[32削除理由]:アラシ

31. 忍穂耳の垢 2014年6月14日 12:29:44 : 5n2KmwfCW10dU : xGyanw9iT2
ここは近代史板なんだろうが、古代とはね‥

なかなか面白かった。読み物をありがとう。

記事を読了後の所見、その要点のみを書いてみる。下の引用文の以降は詳細説明。

まづ、
言語圏としての国を見ずに、生物学的な系統関係を論じるのは無意味。
中国人?と日本人の系統関係はもちろん、朝鮮人と日本人の関係論も、同じ。

同一の言語圏があるから、そこに文化が育ち、言語を駆使した指導者が立ち、国が生まれるのだ。
少なくとも、中国大陸の言語圏と、日本語圏は全くの異質な文明。そこに系統関係は成り立たない。

語る余地があるとするなら、中国の史学が、都合良く、自らの歴史に組み込んでしまった異民族、東夷のなした「殷」ぐらいなもの。
だが、その東夷との関係性を論じる前に、周王朝以降の、改ざんとねつ造を明らかにすることが先だろう。我々が常識としている基礎情報は既に汚れているのだよ。

あと、証拠能力が強い資料と、願望・希望に過ぎない仮説とが、並列に扱われているように見えるが、これじゃお話は何とでも広がってしまう。
朝鮮半島に天皇家が降臨したとかは、いわゆる記紀のマインドセットそのまま。(笑)

> 現在日本語と朝鮮語は、文法構造がよく似ており、発音構造の一部にも共通点がある。そのため、双方ともツングース諸語・モンゴル諸語・チュルク諸語を含むアルタイ語族に含まれるという見方がある。しかし研究者の見解が一致したわけではない。また、日本語と朝鮮語の近縁関係も、証明されたわけではない。

そのとおり、近縁関係は証明されたわけではない。
物理的に隣に接しているということは、長い期間の間に、当然、情報の交換もあってしかるべき。

例えば、大和言葉のとある語彙が、アイヌ語圏で俗語や隠語に用いられたり、その逆もあった訳で、隣接する言語圏には、似た言い回しや語彙が流通しているのが普通だと考えるのが、合理的思考というもの。一例に「アラハバキ」がある。

だから、そうした共通した語彙が存在するからと言って、一足飛びに言語圏・文化圏の祖形だとか、主従関係とかの結論にはなり得ない。
だが、こうしたちょっと考えれば分る事もすっ飛ばして、ご大層に主従関係、征服譚を言い立てる学者が出てくる。
そこには、既に結論ありきな、とうてい科学的とは呼べないファンタジーが隠れているものだ。

たとえば、外から△△民族がやって来て、日本人を形成した、とかもそう。
外から来た、という可能性があるなら、その逆の可能性も考慮するのが合理的思考というもの。

だが、ハナから、太古の日本列島は無人の荒野だったという前提があるらしい。だが、そんなことは誰も確たる事は言えない。
特に、狩猟具ではなく、煮炊きをした形跡のある土器、つまり、ある程度人間的な定住生活をしたという痕跡を較べるなら、日本の古さは相当なもの。

よくある、日本列島の形成に絡めて、陸続きで移住してきた‥云々の話も、移住の結論が先にあって、誰も文句が云えなそうな地理学的理屈を宛てているだけ。
生物学的系統関係を言い立てるのは、そこに征服・殺戮の関係性が前提観念となっているだけの話。つまり結論ありきということ。

よく考えてもらいたいのは、我々の使う漢字というツールそのものに、文明は西から東に伝播したというマインドセットが仕込まれていることだ。
だから、お勉強のよく出来る学者さんほど、そうしたマインドセットに実に従順な学説を立ててしまう。
空気のように当たり前な前提、公理にも疑問符をつけ、確かめるのが本当の一流の学者だろうに。


それと、こうした文明論にしばしば欠けているのは、物質文明の伝播の話題のみで、精神性、それも最大の精神性である言語の共時性を語らない。
言語の共時性とは、一つの言語圏で話される言語は、その意思疎通を可能にするために、ある種の弾性的な復元力、剛性をもつということ。

よく、千年も経てば言語はどれほど変化するか‥的な話を平気で話す者が居るが、本当のところは、言語というものは、常に揺れを内包しているにも関わらず、必ずその揺れ過ぎ、偏り過ぎを修正する。そうでなければ、その言語圏での意思疎通は難しくなってしまうからだ。
漢字文化という怒涛を舐めても、日本語の基本的な構造はほとんど変化しなかった。

この言語的剛性を保つ主体、多くは国と云ってきたが、そうした独立した言語圏という視点が、どうも欠けている。
何度も言うが、言語圏があるから、そこに文化が育ち、言語を駆使した指導者が立ち、国が生まれる。言語意識こそが国が存立する要件である。

ちなみに、欧米諸国にみるような言語圏と国境の非依存関係は、単に複雑化している事と、ある種の妥協の産物に過ぎない。なぜなら、異なる言語圏同士の民族闘争が常にくすぶっているのが、その証しだ。


中国語と日本語は明らかに異なる言語構造をもつ。これは明らかだろう。だから両者には、祖形だとか、後裔だとかの単純な系統関係は描けない。
だから、中国の沿岸地域からどれ程の流民があったとしても、それが系統関係とはまた別の話となる。

中国語と日本語の差異とは何か。これは漢字文化にあまりに馴染み過ぎて日本人には判り難いが、その最たる基本的なものは、音素体系の細かさだろう。それと、拍(モーラ)の意識も全く違う。こうした差異は、現代においてなお、留学生や長期滞在者の、語学学習の障壁となっている。

この視点を、韓国語に充ててみると、明らかに韓国語と日本語とは異なる言語だということが見えてくる。
韓国語の音素は細かい。どちらかと言うと中国語の音素体系に近い細かさをもつ。実は、こうした細かさが日本に伝播して、「ちょん、きゅん」とかの拗音の意識が定着した。だが、元はこうしたものは無く、カナ音どおりの音素体系があっただけなのである。その証拠が、奈良時代から続いてきた歴史的仮名遣い表記、例えば「蝶々:ちょうちょう」は「てふてふ」と書いていた仮名二音の表記に残っている。

こうした拗音の日本語定着にみるように、少なくともある程度の数の韓国語音素保持者が日本に流入、定着したという事実は見えてくる。
むしろこれは、従来語られているような、漢語の影響よりも大きいと言うべきかも知れない。
だがそれは、日本語の基本構造を変えるまでには至っていない。単に小さな音素の語彙が増えたという次元の話である。

もちろん、他の代表的な小さな音素体系である英語の語彙、例えば「sky」を「スカイ:su-ka-i」と大きな音節に変換してしまうように、この日本に小さな音素を定着させただけでも大事件なのではあるが。

とまれ、やはり日本語と韓国語は、どうみても異語であり、両者には、祖形だとか、後裔だとかの単純な系統関係は描くべきではないだろう。


32. 2014年8月08日 11:12:02 : ETEcjS92Cc
弥生人が渡来したとする根拠はない。先住民族のmtDNA増大に反し、弥生人O2b系の
減少とD2(雄のみ)の増加が確認できる点を無視している為である。そうした偏向
報道の最たるものは九州大の文系学部、吉野ヶ里遺跡職員等が上げられるが、それらの
研究機関はY染色とmtDNAの頻度差における子孫の性染色体形成や人口増加率に対し、
何の根拠も提示していない。異民族の雄に紛れ込まれ、自民族の雄の頻度を減らした
種が世間で言われる弥生人(O2b系)であり、これらは彼ら自身が渡来人などではなく
もともとその土地に土着していた先住民であることを示している。従って、これらの
根拠に反する考古学的、地理学的、歴史学的な資料においては事実に反する内容をいたずらに列挙しているだけのものである可能性が極めて高い。繰り返すが、先住民や原住民が
多数の渡来民の雌を併合することは有り得ない。縄文人が先住なのではなく明らかに弥生人が先住民として狩られている事実を否定する根拠は示されていないのである。

33. 2014年8月08日 11:12:27 : ETEcjS92Cc
近年、日本固有の先住民族縄文人と朝鮮渡来の弥生人が混血して今の日本人が
形成されたと主張する一方的な見解が科学的な根拠も伴われず特定の人種から
主張去れている様だ。調査して確認してみた所、この諸説の出所は売国教育機関として
ある意味有名な九州大学の中橋、国立博物センターの馬場、筑波大の人類学研究チーム、
吉野ヶ里職員等、所謂弥生人渡来仮説の急先鋒の連中であることが分かる。
彼らは彼ら自身の顔つきがエラが張った朝鮮人に多い系統の顔付きであることが
よほど気に入らないのか、殊更似顔絵などで縄文人をエラが張った毛深い民族
として描き、どう調査しても朝鮮人系の弥生人を面長な一重の人間として
描いているのである。(国立博物館 馬場等)これらは漫画チックな幼稚プロパガンダ
の一種であろうが、これらの煽動工作で勢いを得たと勘違いした国内の
朝鮮人系日本人どもがネット上で仮説をあたかも実証済みの内容であるかのように
吹聴している点について疑問を感じる人々も少なからずいる事だろう。今回の
考察は顔学会等の所謂似非科学とそれに伴った朝鮮人系のプロパガンダに対し、
考察を進めることにする。
 縄文人と弥生人の区分は文系の似非学者により、地理学的な移動ルート、化石や
発掘骨、並びに食性の痕跡等、間接的な資料からのみ論じられていることに注意されたい。
 これは例えば恐竜の化石が太古の地層から発見されたとして、あの肉食恐竜は
これまで獰猛なハンターとされていたが実は草食に過ぎなかったという”説”がある、
等の言い回しである。この言い回しで勘の鋭い人なら感じるだろうが、この縄目の
土器はこの地層から発掘されたのだから、そして近層にこの骸骨が埋められていることも
見られるから、これは縄文人、そしてこういう生活をしていたのでは、というレベルの
内容であることを理解されたい。即ち、実際にその人種がそのように生活をしていた
と言う確証は全くないにも拘らず、あたかも実態であったかのように”勝手に”
決められ、それらが縄文時代、弥生時代、移動ルート、食性ルート、として
仮説に仮説を上書きする形で一人歩きしているのである。
これらは考古学や
歴史学全般に通じることで、確定的な証拠を土中から掘り起こす化石や遺跡等から
求めることは理論上不可能であると言う点、そして化石骨から人種を特定する
場合においてもボンドで顎や鼻を取替え、遺伝子上では辻褄を合わせたデータを
好き放題に捏造できる点、誰も国立博物館のショーケースをこじ開けてまで
その骨が完全に正しく組み合わせてあるかを確認しようとしない点までを
考慮しなくてはならないからだ。
これらの点を踏まえていけば、古い世代の
歴史教科書を見れば縄文人と弥生人とされる人骨は後者の例では非常に顎が大きく、
エラが張り、鼻筋が低い現代の朝鮮人の頭蓋骨が資料集等で掲載されている
ことを覚えている人もいるだろう。翻って現状では国立博物センターの馬場とか言う
似非学者が”似顔絵”で縄文人の特徴、弥生人の特徴、等と実際に調査もしていない
内容を無責任に垂れ流していることがおぼろげながらに理解できるのではあるまいか。
 と言うのは、縄文人がそもそもD2なのかC系なのかさえも現実には確定していない
点も無視されているのである。D2の元はD1に系統を遡るが、これらの内四川のイ族に
至っては常染色体に共通内容がある為か、極めて日本人に形態が近い。
また、知っている人もいるだろうが、彼らは異民族を白イとして農耕奴隷として扱い、
自分たちはその農奴の年貢で生活し、武芸に励んでいるのである。
彼らは
所謂縄文系にありとあらゆる点で酷似しており、尚且つ貴族は黒イであり、
農奴層はO系が多いのである。従って、極めて縄文人と形態的に近い大陸の
縄文亜種が日本列島に渡来を試みた場合、そして先住民が取り分け残すmtDNA
の頻度を比較した場合では、日本本土の朝鮮人系(弥生人)の”雄だけ”が
頻度を減らし、尚且つ彼らは農奴層であったことが透けて見えてくるだろう。
 所謂縄文系と言うとアイヌや沖縄で先住民で追いやられている人々なのではと
いうイメージを恐らくは植え付けられているだろうが、本土の日本人男性の半数以上
がD2、つまり縄文系で、2割がO3、所謂漢人系(これが恐らく稲作伝達担当)、
そして残りが劣等の弥生(O2b系)であることが消去法的に導かれることになる。
 アイヌや沖縄が示すD2の割合は日本本土、九州、四国の分を合わせれば僅か
数%に満たないにも関わらず、拡大解釈、意図的な歪曲によって、事実を捻じ曲げ
られている現状について再考しなければならないことが分かることだろう。
 これらの点を踏まえて考えていけば、所謂戦後から”常識”であった、縄文時代、
弥生時代と言うのは恐竜の食性や移動ルートを探るレベル程度の根拠しかなく、
直接的な確証足り得ないこと、また、現実に雄で分布を本土日本、九州、四国等で
拡大させているのはほぼD2系であり、彼らはその亜族が異民族を隷属させる
習慣を持っている点。そして、大陸側では稲作を行う層は農奴としてD系に
年貢を納める形で奉公する形を取り、一口に奴隷と言ってもその身分はいくつもの
階層に分かれている点は、日本の古代王朝の制度と極めて酷似している点を
無視できないことである。
 極めつけはD2の頻度が増加した分、O2bの頻度が雌に比べ2割程度しか存在
しない点である。O2b系の雌は遺伝子を残し、雄は人口比に対して減らしている点
がこうした古代の奴隷王朝制度の現状を表していると言えるだろう。こうした点を
無視して、意図的に弥生人が盲目的に半島から渡ってきて縄文人を奴隷に〜
等と抜かしている上記の似非研究機関の連中は、むしろこのような背景を多くの
人々に知られることを恐れ、マスゴミにそっくりな偏向報道を大学等の研究機関名を
逆手にとって、威圧を込めて垂れ流してきているという現状が少しづつでは
あるが理解できるはずである。
 先住民が侵入民族のしかも女性と交雑し、そのY染色体”だけ”を侵入民族
よりも増やすと言うことは有り得ない。これらは元々先住民と移住民の定義を
逆にされていた内容がこれまで一方的に垂れ流されてきただけのことである。
 ここまで述べれば結論も言わずとも分かるかもしれないが、今回の件もまた、
朝鮮半島系日本人と呼ばれる連中の内、取り分け日本の男の2割から3割を占める
エベンキによく似た朝鮮人系どもの偏向煽動であることが確認されると言うわけだ。
 正しい歴史観をこうしたクズどもは破壊し、自分達が嘘を重ねやすい環境を
作ろうとしてくることは既出のことだが、参政権やらTPPを盲目的に推進する
売国奴と合わせてこうした歴史偽造を試みる似非科学者どもも我々は一匹残らず
狩りとって行かなければならないだろう。

34. 中川隆 2014年10月28日 07:54:39 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

環日本海文化圏


環日本海環境考古学・特別講演 国際日本文化センター教授 安田喜憲)

 縄文時代の人間や弥生時代の人間というものは、物凄く移動している、特に日本海を縦横無尽に移動している。古代の人々は東シナ海をかなり自由に行き来をしていたことが最近の研究でわかってきました。

 1994年に青森県の三内丸山遺跡、本州の最果てで高い文化が発展していたことがわかってきました。我々が環境考古学、特に花粉分析、或いは酸素、炭素の安定同位体でもって過去の気候を復元すると、三内丸山遺跡が発展した約5.000年前という時代は、現在より寒い時代なのです。約6.000年前という時代は、現代よりも気候が暖かったのです。縄文海進があった時代で海面が現在より2〜3m高くて、温度が2〜3度高いという温暖な時代であったのです。ところが三内丸山遺跡が発展する時代というのは、その温暖な時代が終って、気候が可也寒くなりました。

 何故寒くなるときに、このような北の端、東北地方に文化が発展したのか、それを証明するためには日本のことだけを考えていたのでは駄目だということが分かってきたのです。

 実は、この日本海を取り巻く巨大な交流というものが、縄文時代に既に存在したということが分かってきたのです。その縄文時代の文化を考える時に非常に重要なことは、遼寧省から内モンゴルというところにかつて高い新石器時代の文化があったのです。これは縄文時代の前期に相当するのです。今から約6.000〜7.000年前に紅山文化という非常に高い文化がありました。(紅山文化=北方地区の新石器文化の中で最も重要な文化です。ここで言う北方地区とは、東北3省―遼寧・吉林・黒龍江で内蒙古自治区及び新疆ウイグル自治区を指します)

 大連、遼河が、この

遼寧省
http://japanese.china.org.cn/japanese/ri-difang/liaoning.htm


から内モンゴル自治区の東部にかけて沢山の新石器時代の遺跡がみつかってきたわけです。今では、全く森がありません。黄土の大地で、森のない大地がずっと広がっているのです。実は、昔は深い森があり、花粉を分析してボーリング調査で土の中に含まれている花粉の化石を取り出して分析した結果、かつてこの大地には、深い落葉のナラ・ニレ・カエデの仲間、満州グルミというような落葉の広葉樹と松の針葉樹が混交した森があったということが分かってきました。即ち、現在は殆ど森のない大地の森の中で、今から約7.000から6.000年前に高い新石器時代の文化が発展していたのです。

 今から約8.000年前の遺跡、査海遺跡。打製石斧が沢山出土しました。これは恐らく畑を耕すために使ったと考えられています。(査海遺跡=集落のほぼ中央で、赤褐色の石で積んだ龍形配石遺構が発見された。長さ19.7m、龍の体は幅2mぐらいである。その遺構の下で、成人の土抗墓と祭祀抗が発見され、副葬品のない墓が多いものの、22点の石器や副葬した墓もある)サドルカーンという石器も発見され、雑穀をすりつぶして、粉にするものです。恐らく粟を栽培していたと考えられます。

 7.800年前の土器が出土しているわけで、縄文時代の土器と同じです。三内丸山遺跡の円筒土器と非常に良く似ているのです。縄文時代中期の三内丸山遺跡は、円筒土器という土器を使っていました。材質もそっくりです。

遼寧省から内モンゴル自治区
http://japanese.china.org.cn/japanese/ri-difang/xinjiang.htm


にかけて、紅山文化の時代に作られていたのです。

 この査海遺跡から中国での最古の玉製品として、けつ状耳飾りが出土しています。この玉製品と同じものが、福井県の鳥浜遺跡から、玉塊(たまかい)と言っているものが、縄文時代前期のものが見つかっています。中国のものよりは質的には劣りますが。即ち形も材質も査海遺跡のものと同じものが。査海遺跡のものは約7.800年前、鳥浜貝塚の玉は約6.000年前です。即ち、日本海を渡って、当時既に文化の交流があったと考えざるを得ないのです。

 査海遺跡から又、中国最古の竜が発見されています。石の長さは19.3m、幅3.8まります。頭も胴も尻尾もです。足もあります。これは7.800年前の石組みの石を置いて作った竜なのです。査海遺跡では既に7.800年前に、竜の信仰というものが誕生していたようです。

 紅山文化で、約6.000年前「ピラミット」と書いてあった敷石があります。石で周りが敷かれていて、高さ20m位で、14m位のピラミットと言われるものです。そして、女神の神殿というものがあり、それが大地母神だったのです。縄文時代の土偶と同じで、女神の神殿がありました。そして、竜の信仰も。

 この積み石塚はお墓なのです。既に、階級社会に入っているようです。約6.000年前の紅山文化のお墓なのです。お墓の中に遺体が埋葬されていて、そこからやはり竜が出てきます。

 この竜は、イノシシの顔をした竜です。猪竜と言いました。今まで竜というのはヘビが進化して、竜になったと考えていました。ところが、この遼寧省から内モンゴル自治区にかけては、実は原型はヘビではなく、森の中に住んでいる動物です。猪や豚です。或いは鹿です。森の中にいる鱗というのは、魚で、魚鱗、こういうものが合体したものとして、一番最初に中国の人々は竜を作ったようです。

 今は河北省一帯は森というものが全然ありません。黄土平原が広がっていて、一つも森はありません。ところがかつては、そこに深い森があったのです。6.000〜7.000年前にはあったのです。

 縄文時代の東北地方と同じような、落葉のナラやクリ、クルミなどが生えている森があったのです。そういう森の中に住んでいた人が、最初に竜というものを作り出し、その竜の原形が猪、鹿或いは魚だったわけです。これらを合体したものとして竜が発想されたらしい。

 この文化が、実は約5.000年前に突然崩壊するのです。三内丸山遺跡が寒冷化した時代は約5.000年前に気候が寒冷化するのです。約6.000年前というのは気候が2〜3度高くて、温かく南から湿った空気が入り、森の成育に適した環境でしたが、約5.000年前には寒冷化によって、内モンゴルでは、冬はマイナス11度とか、20度に下がるのです。

 この寒冷化が、紅山文化に大変大きな影響を与え、恐らく、紅山文化を担っていた人々が、寒さを避けて、恐らく、南へ、或いは南東部海岸地帯へ逃れ、その一部が三内丸山遺跡へ来たのではないか。と私の仮説です。

 丁度、紅山文化が崩壊する時代、約5.000年前という時代は、縄文時代の中期の文化が発展する時代です。縄文時代中期というのは非常に特徴のある時代です。例えば、長野県の八ヶ岳山麓には、火炎式土器。新潟県にも火炎式土器といって、炎のように盛り上がる土器があります。あの炎はヘビなのです。縄文中期土器、三内丸山遺跡でも、まず一番信仰が大規模になるのがヘビ信仰です。特に八ヶ岳山麓というものは、ヘビ信仰の中心地なのです。ヘビ信仰が大変盛んです。

 また土偶では、三内丸山遺跡から大量の土偶が出土しています。大量の土偶が作られているということは、大地母神を信仰するような信仰が、この縄文時代中期から盛んになるのです。

 ということは、突然約5.000年前に大地母神の信仰やヘビ信仰が盛んになります。それは、中国の東北部に非常に優れた新石器文化がありました。それが紅山文化なのです。それが、大地母神や竜信仰という世界観があったのです。それが崩壊して、大量の人々が三内丸山や新潟県の中期火炎式土器に影響を与えたのではないかと、私は考えております。

 三内丸山へ来た以外の一派が、約5.000年前から大きく発展してきた長江文明に竜がでてきます。この竜が紅山文化から出ていた猪竜なのです。玉で作った竜が突然出現してきます。

 こういうように日本海を取り巻く北方の文化と日本の関係も分かりましたが、南の関係も非常に大きな関係があることが最近分かってきました。

 其の一つは、福井県若狭湾沿岸の鳥浜貝塚です。縄文時代前期の貝塚で、約6.000年前の層から、鹿角斧(ろっかくふ)というものが出土しました。鹿の角の又の部分を残して、作っているのです。100本が出土しているのです。それは、三内丸山遺跡からも5〜6本出土しています。

 中国の淅江省の河姆渡遺跡というのは約7.000年前から稲作が行なわれていました。そこに同じものを私は見ました。これは、畑を耕す農耕具だと説明していました。即ち、鍬だったわけです。それで鳥浜貝塚から、エゴマ、ヒョウタン、麻、リョクトウ、などの栽培作物が見つかっています。ヒョウタンというものは、南のものです。既に淅江省の河姆渡遺跡と鳥浜貝塚の間には、縄文時代前期の約6.000年前にも交流があったということです。

 雲南省の昆明の町のそばにテン池あり、今から約3500年前からのテン王国という青銅器文化の素晴らしい王国が発見されました。そのテン王国の青銅器の中に、「貯貝器」というのがありました。

 貯貝器とは、当時は貝がお金だったのです。アラビアやインド洋という南の海で取れる貝を雲南省まで運んできて、それをお金にしたのです。そのお金を貯える青銅器の器を貯貝器といいますが、円筒形の器なのです。その上には色々な模様や人間などが造形されています。横にも色々な彫像は彫られています。その模様に船に乗った人間が船を漕いでいます。何人かの人間が櫂で船を漕いでいるのです。その船を漕いでいる人の頭にあるのが、羽根です。

「羽人」
http://www.asukanet.gr.jp/ASUKA4/hiten/02_6.html

といいます。羽根の冠を被っているのです。魚も泳いでいるところを船を漕いでいるのです。船頭がおって、前方に号令をかけて、太鼓を鳴らしています。その太鼓を

「銅鼓」
http://www.peoplechina.com.cn/maindoc/html/guanguang/jieri/200201/200201.htm

といいます。銅で作った太鼓です。そういうものが描かれています。揚子江下流の淅江省にも羽人という羽根の頭を描いた船を漕ぐ人々がいるのです。

 それが、日本でも見つかっているのです。淅江省と同じものが、鳥取県の淀江という弥生時代の遺跡から見つかっています。上に太陽と思われるものと、この船を漕ぐ人、頭に羽飾りを付けているのです。

 揚子江流域の雲南省から下流域の淅江省、そして、日本海側周辺にかけて、羽飾りをもった人々が船を操って来ていたのではないかということです。

 佐賀県の川寄吉原という遺跡が見つかっています。これには銅鐸の形をした鋳型に書かれたもので、土で作った銅鐸です。銅ではないのです。銅鐸の形に似せた土製品で、やはり人間が武器を持っているのですが、武器を持っている人の頭には羽飾りが付いているのです。

 福岡県の珍敷塚古墳
http://www.os.rim.or.jp/~yang/mezurasizuka.html

の壁画に描かれたのは、船の舳先の左の方に鳥が止まっている絵があります。雲南省からも船の舳先に鳥が留まっているのがあります。これは水先案内人として鳥が止まっているのです。それと同じものがこの珍敷塚古墳にもあります。

 この越人に重要なものは何かといいますと、この羽根です。羽根は何か、鳥です。そして淀江遺跡、珍敷塚古墳でもありますが、船の上にあるのが、太陽です。船に乗って、鳥を舳先に置いて、羽根飾りの帽子を着けて、そして太陽を神様として崇める。こういう人々が、実は揚子江の南の方にかけておるわけです。これを「越人」と呼ぶことを中国の考古学者の間で決まりました。

 昔は越人というのは、此の辺に住んでいる人をいいました。「呉越同舟」の呉越の越です。雲南省にいる越人とは、テン王国ですからテン越と決まりました。つまり、かつて揚子江流域には、羽飾り帽子を持って、鳥を舳先に置いて、太陽を神様として崇めるような人々がいた。そういう人々が越人なのです。

 この越人は、淅江省から実に鳥取県の淀江だけでなくて、越前、越後の国へ。

この越前、越後の国の越は、まさにこの越です。それはまさに日本海です。揚子江流域の人々が、羽飾りを付けて船に乗って、新しい文化を持ってきたのです。

 3.500年前に突然来たわけではないのです。揚子江の下流域と日本海側との交流は、6.000年前の鳥浜貝塚の時代に河姆渡遺跡の間には、深い交流があったわけです。その海のルートというものは、代々伝承されますから、3.500年前にはもっと航海の技術も発展して、若狭や北陸地方と中国揚子江の下流域には、深い文化的な交流があったのです 

 終わりに、東北3省(遼寧、吉林、黒龍江)、内蒙古自治区及び新疆ウイグル自治区。此の辺一帯に紅山文化という文化が繁栄したのです。その紅山文化のルートは8.000年も前に遡り、7.800年前にはそこで竜が生まれたのです。それが、5.000年前の気候変動での寒冷化です。その寒冷化によって、一部は日本に来たのです。そして日本の縄文時代中期の文化の発展に貢献したのです。長江文明もこの紅山文化の影響があったのです。其の時代長江文明にも竜が生まれ始めたのです。

 元々、長江流域には越人と言われる人々が住んでいました。その越人は鳥を神様にして、ヘビをも、太陽も神様にするという世界です。しかも、彼らは畑作の粟と猪や豚などの家畜で主たる生業にしていたのです。環境は落葉の広葉樹林でした。これを「ナラ林文化」と言われています。これに対して、稲作を行なって、魚を食べたり、ヘビを神様にしたり、太陽を神様にしているようなところは、照葉樹林です。カシやシイの森の中で。

 このように二つの大きな文化圏が存在したのです。5.000年前に一回目の寒冷化と3.500年前に再び気候の変動が起きたのが、大きかったのです。北方から大挙して繁栄していた長江流域に南下したのです。長江流域に住んでいた越人、羽飾りを持って、船に乗って、魚を食べて、お米を栽培して、鳥やヘビや太陽を崇めていた人々が、漢民族に追われるのです。追われて一部は雲南省の山奥へ逃れ、別の一部は船に乗って、ポートピープルとして日本に来たのです。そしてもう一つは南の東南アジアの方へ行ったのです。

 我々は雲南省の人々との間には非常に共通性が在ると言います。もともと同じ越の文化を持っていたからです。とりわけ、北陸の人は越人だろうと思います。そして、日本にやってきて弥生時代という新しい時代が出来てくるのです。

 こういう風に見ていきますと、今まで我々は、日本列島というのは海に囲まれていて殆ど交流がなかったと思われますが、鳥浜貝塚の6.000年前から、淅江省の揚子江下流域と日本の間には航海ルートが作られていたのです。また5.000年前には、3.500年前などには民俗の大移動と共に文化の交流が行なわれていたのです。

 縄文文明の時代に長江文明の担い手であった人々が太平洋も渡ったのではないかという仮設も考えられるのです。長江文明の玉器の中から南米のペルーから出土したチャビンデワンタルという石像の正面の顔がヘビに絡まれて髪の毛を持って、牙をむいている像が全く同じように思われるのです。これを「環太平洋文明論」といいます。
http://bunarinn.lolipop.jp/bunarinn.lolipop/tok2-index/3GharukaEncare/tusimadariyu/bunkakousou/bunka.html


35. 中川隆 2015年6月08日 08:30:17 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

天皇家の遺伝型は縄文系?
http://ncode.syosetu.com/n1693bt/49/


遺伝子の研究が進み、日本人の遺伝子がどのような構成になっているのかわかりかけてきました。


日本人の遺伝子分布

http://ime.nu/pds23.egloos.com/pds/201207/08/76/d0022076_4ff99679dcd9b.jpg


C1とC3という謎の人種が10%います。

土蜘蛛といわれた妖怪の一族だというものもいますが、よくわかりません。


D2の人種が30%います。縄文系の日本人です。

D2a1bの遺伝子が徳川将軍家の遺伝子であることは証明されており、徳川将軍家は縄文系です。

天皇家もD2a1bだといってますが、本当なのかはわかりません。

今のところ、公式発表では、天皇家は縄文系だということにされています。


あとは、O2が30%です。

これは弥生人であり、渡来人です。

これは古代中国の王朝の王家の遺伝子と一致します。


O3が20%います。

これは中国系渡来人です。

あの藤原氏も、O3の渡来人です。正確には、鮮卑・百済民族です。

中国人の王朝は隋も唐も、鮮卑の民俗の王朝だったと遺伝子により突き止められており、

隋・唐以後の渡来人もこの遺伝子をしているのでしょう。


朝鮮人の血統はどうなってるんだ、といわれるかもしれませんが、

朝鮮人のほとんどは、中国の五胡十六国時代に中国北部を支配した鮮卑の民族の血筋を引いています。

これは、高句麗が鮮卑に侵略され、支配されたためです。

ですので、朝鮮人というのは、中国人の遺伝子と同じと考えて問題ありません。


わたしは、自分の遺伝子がどの系列なのか知りませんが、ぜひ調べたいものです。

追記。


朝鮮人、隋、唐が鮮卑だというのはまったくの勘ちがいでした。研究成果を待ちます。

皇帝、王のY染色体ハプロタイプ

D2 日本
O2 中国    漢民族最後の王朝
O3 朝鮮    最後の王朝
C3 モンゴル 最後の王朝
O2 ベトナム 最後の王朝
E1 フランス  最後の王朝
R1 ロシア   最後の王朝

天皇        D2a1b

魏皇帝      O2*      220〜. 265年 漢族
元皇帝      C3f1a   1271〜1368年 モンゴル族
明皇帝      O2a1a    1368〜1644年 漢族
清皇帝      C3c      1644〜1912年 満州族

朝鮮王      O3a2c1  1392〜1910年 李氏朝鮮

越南皇帝    O2a     1802〜1945年 阮朝


リューリク朝  N1c1 ノヴゴロド864年〜879年、キエフ大公国882〜924年、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国1199〜1349年、モスクワ大公国1263〜1547年
ロシア皇帝   R1b      1613〜1917年 ロマノフ朝

フランス王    R1b      1589〜1792年、1814〜1830年 ブルボン朝
フランス皇帝  E1b1b1c1 1804〜1814年、1815年、1852〜1870年 ボナパルト朝

ペルシャ皇帝 J1      1796〜1925年 ガージャール朝
ペルシャ皇帝         1925〜1979年 パフラヴィー朝

歴史上の人物のY染色体ハプロタイプ
http://en.wikipedia.org/wiki/List_of_genetic_results_derived_from_historical_figures#Y-DNA
http://www.kjclub.com/jp/exchange/theme/read.php?tname=exc_board_6&uid=140910&fid=140910&thread=1000000&idx=1&page=1&number=92583


10. 2013年7月13日 17:47:40 : WUs3UH3xVg

天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。

例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような盛り土である事は知られています。

古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。

終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。

当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。

日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。

日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。

現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。

民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯であるために容易に近づく事は出来ないだろう、

同行した当時KCIA局員の話としては、そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ

「知らない方が良いこともあるのだ」

と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。


38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、仮にこの付近が関連する村であると、南だけではなく北とも天皇は接点を持つ可能性が浮かび上がります。

(私の直感として、天皇と北の接点が存在した場合に拉致問題と関係していなければ良いなあ、と思うのですが、、、、、気にしすぎでしょうかね)

こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。

天皇が戦争とどう関わったかについては、総括することは必要だという考えは
理解しますが、戦前の体制や、戦後の状況からいっても、昭和の時代、平成一桁の時代において戦争経験者が多く存在する時代ですし、天皇制や天皇と戦争との関連を法的に取り扱う事は、容易ではないといえるでしょう。

そうした意味では、棄却理由は無理があるとはいえ裁判所が天皇の戦争との関わり
以外に出自等歴史的タブーに絡み、歴史に挑戦するというのも難しいので、
棄却は無理も無いといえるでしょう。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html#c10


36. 中川隆 2015年6月08日 15:41:34 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

日本人たち. 自分たちの先祖がどこから来たのか分かりたくないか.
Molanthro 2013/08/18 3,314 0

2.suzuki 170万名余 - O3a2c1a 2サンプル, O3a2* 1サンプル, .

3.Takahashi 141万名余 - D2a1b 1サンプル.

4.Tanaka 134万名余 - O2b1a 2サンプル, C3* 1サンプル.

5.Watanabe 113万名余 - D2a1b 2サンプル.

8.Nakamura 106万名余 - O2b1a 3サンプル.

9.Kobayashi 102万名余 - O2b1a 2サンプル, D2a1b 1サンプル.

10.Saito 98万名余 - O2b1a 1サンプル, O2b1b 1サンプル.

11.Kato 86万名余 - D2 1サンプル.

15.Yamaguchi 65万名余 - N1c1 1サンプル, O2b1a 1サンプル.

16.Matsumoto 63万名余 - D2 1サンプル. D2a1b 1サンプル.

18.Kimura 58万名余 - O2b1a 2サンプル.

19.Hayashi 54万名余 - O3a2c1a 3サンプル.

27.Mori 43万名余 - D2 1サンプル, O3a1c1 1サンプル.

30.Ogawa 38万名余 - C3f1 1サンプル, D2a1b 1サンプル.

31.Fujita 38万名余 - N1 2サンプル.

32.Okada 38万名余 - D2a1b 1サンプル.

34.Hasegawa 37万名余 - O3a2c1 1サンプル.

39.Endo 33万名余 - D2 1サンプル, O3a2 1サンプル.

40.Aoki 32万名余 - N1 1サンプル, O3a1c1 1サンプル.

42.Nishimura 31万名余 - O2b1a 1サンプル.

45.Miura 30万名余 - C1 1サンプル.

50.Nagano/Nakano 30万名余 - O2b1a 2サンプル.

52.Ono 29万名余 - O2b1b 1サンプル.

53.Tamura 28万名余 - O2b1a 1サンプル.

56.Wada 27万名余 - O2b1a 1サンプル.

59.Ueda 25万名余 - D2a 2サンプル.

68.Miyamoto 23万名余 - D2a1b 1サンプル.

72.Shimada 22万名余 - D2a1b 1サンプル.

73.Taniguchi 22万名余 - O2b1a 1サンプル.

75.Takada 21万名余 - O2b1a 1サンプル.

86.Otsuka/Osuka 19万名余 - O2b1a 2サンプル, D2a 1サンプル O3a1c1 1サンプル.

97.Kiguchi/Kikuchi 18万名余 - D2a1b 1サンプル.

98.Nomura 18万名余 - O3a2c1a 2サンプル, O3a1c1 1サンプル

99.Arai 18万名余 - Q1a1 1サンプル.

104.Furukawa 18万名余 - O2b1a 1サンプル.

105.Hamada 17万名余 - O2b1a 2サンプル.

107.Komatsu 17万名余 - O2b1a 1サンプル.

109.Mizuno 17万名余 - O3a2c1 1サンプル.

122.Kawasaki 15万名余 - O3a2c1a 1サンプル.

130.Iwata 14万名余 - O2b1a 2サンプル.

131.Hattori 13万名余 - O3a2 1サンプル.

135.Kawakami 13万名余 - O2b1a 1サンプル.

137.Nagai 14万名余 - D2a1b 1サンプル.

138.Matsuoka 14万名余 - C3f1 1サンプル.

148.Ishihara 14万名余 - D2a1b 1サンプル.

152.Matsuura 13万名余 - O3a1c1 1サンプル.

154.Araki 13万名余. - O2b 1サンプル.

160.Kawamura 13万名余 - D2 1サンプル.

161.Tanabe 13万名余 - O2b1a 1サンプル.

164.Kuroda 13万名余 - O3a2c1 1サンプル.

169.Naitou 12万名余 - D2a1b 2サンプル.

185.Miyata 11万名余 - N1 1サンプル.

187.Ishibashi 11万名余 - D2a1b 1サンプル.

197.Miyake 10万名余 - O2b1b 1サンプル.

205.Uchiyama 10万名余 - O2b1a 1サンプル, D2a1b 1サンプル.

222.Hirayama 10万名余 - D2a1b 1サンプル.

223.Aoyama 9万名余 - O2b1a 1サンプル.

230.Kawai 9万名余 - O2b1a 1サンプル.

237.Adachi 9万名余 - O2b1a 1サンプル.

247.Muto 8万名余 - N1 1サンプル.

251.Mizutani 8万名余 - O3a1c1 1サンプル.

284.Konno 7万名余 - D2a 1サンプル.

296.Takashima 7万名余 - D2 1サンプル.

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スンウィバック

Nasu - C1 1サンプル, O3a2c1a 1サンプル.

Miyazawa - C3f1 1サンプル, O2b1a 1サンプル.

Gen - D2 1サンプル.

Gotanda - D2 1サンプル.

Hiratsuka - D2a 1サンプル.

Jo - D2a1b 1サンプル.

Gamei - D2a1b 1サンプル.

Kitou - D2a1b 2サンプル.

Kanekura - D2 1サンプル.

Karaki - D2a1b 1サンプル.

Masada - D2a1b 1サンプル.

Nakahori - D2a1b 1サンプル.

Ouchi - D2a 1サンプル.

Segawa - D2a 1サンプル.

Tagawa - D2a1b 1サンプル.

Takaoka - D2 1サンプル.

Takeo - D2 1サンプル.

Tomura - D2a1b 1サンプル.

Utosawa/Utozawa - D2a 1サンプル.

Shimbashi - D2a1b 1サンプル.

Teshima - D2a1b 1サンプル.

Aoyagi - D2a1b 1サンプル.

Machida - N1 1サンプル.

Ken - O1a1 1サンプル.

Miyaji - O1a1 1サンプル.

Shimmen - O1a1 1サンプル.

Higa - O2b1b 1サンプル.

Hosoi - O2b1b 1サンプル.

Shigesada - O2b1b 1サンプル.

Akagi - O2b1b 1サンプル, O3a2c1a 1サンプル.

Akinaga - O2b1b 1サンプル.

Fujikami - O2b1b 1サンプル.

Matsuzo - O2b1b 1サンプル.

Shimabukuro - O2b1b 1サンプル.

Ashikaga - O2b1a 1サンプル.

Akaishi - O2b1a 1サンプル.

Jordan - O2b1a 1サンプル.

Kamie - O2b1a 1サンプル.

Maki - O2b1a 1サンプル.

Muramoto - O2b1a 1サンプル.

Nishimori - O2b1a 2サンプル, O3a2 1サンプル.

Nishino - O2b1a 1サンプル.

Seko - O2b1a 1サンプル.

Shimazaki - O2b1a 1サンプル.

Shimoda - O2b1a 1サンプル.

Shimura - O2b1a 1サンプル.

Suda - O2b1a 1サンプル.

Sugimura - O2b1a 1サンプル.

Arima - O2b1a 1サンプル.

Furuto - O2b1a 1サンプル.

Gima - O2b1a 1サンプル.

Hikichi - O2b1a 1サンプル.

Hikida - O2b1a 1サンプル.

Ikehara - O2b1a 1サンプル.

Kiroko - O2b1a 1サンプル.

Okano - O2b1a 1サンプル.

Shinsato - O2b1a 1サンプル.

Sueoka - O2b1a 1サンプル.

Tanikawa - O2b1a 1サンプル.

Tomizuka - O3a1 1サンプル.

Shigeura - O3a1c1 1サンプル.

Muneoka - O3a1c1 1サンプル.

Higashida - O3a2 1サンプル.

Katagiri - O3a2 1サンプル.

Shirotani - O3a2 1サンプル.

Yabuki - O3a2 1サンプル.

Nagare - O3a2c1 1サンプル.

Soma - O3a2c1 1サンプル.

Kamibayashi - O3a2c1a 1サンプル.

Hada - O3a2c1a 1サンプル.

Kimoto - O3a2c1a 1サンプル.

長い間の時間の間手作業で集めたサンプルたちだ.

下の表に表示された (例示: O3a2c1a = 2samples or 2サンプル)中 O3a2c1a,O2b1a,D2a1bみたいなことによって父系先祖が分かる.

C1= クマソ,Hayato勢力推定. 日本西南部に多い. ヨーロッパで極少数である C6義兄弟 (日本 4‾5%, 韓国,ウィグル 0.1%, 中国 0%)

C3(C3c,C3d,C3g,C3hなど) = サハリン, 満洲, シベリア系統. (中国 2%, 日本 1%, 韓国 0.5%)

C3f,C3f1 = 韓半島, 満洲の土着遺伝子. チングギスカンは C3f1の子孫である C3f1aで明かされた. (韓国 14%. 中国 10%. 日本 5‾6%)

D2,D2 a= 遠眼繩文である ( 日本 13%. 韓国 1‾2%. 他地域 0%)

D2a1b = 繩文系統, 将軍家で検出された遺伝子. 関東,神戸,京都を中心に 何百年間に権力者たちの間で大きい拡張をした. ( 日本: 18%. 韓国 1%. 他地域 0%)

N1 = 万余年前, 東南アジアでシベリア,フィンランド,ロシア,バルト3国に移動する中韓半島,日本,中国にぽつりぽつりと広がった遺伝子. ( 韓国 3%, 中国 2%, 日本 1%)

N1c1 = シベリアで南下した遺伝子 ( 韓国1% 中国 1% 日本 0.5%)

O1a1 = 上海,台湾,フィリピンでよく発見される遺伝子. 韓半島,日本の O1a1は上海,台湾,フィリピンの物と差があったように見えて搖れ半島の物と似ている. (上海 25%, 台湾 23%, 中国 8%, 韓国 2%, 日本 1%)

O2,O2a = O2*自体が O2bよりは O2aに近いのが大多数だ. O2aは O2bと幾万年差を見せて, 共存したことがない. (O2: 中国 3% 韓国 2%, 日本 1%. O2a: ベトナム 35%, 中国 12%, 韓国 0.1%, 日本 0.5%)

O2b* = 祈願誌が黄海平原(過去黄海海)に推定されるハプルログル−ム. (韓国 1%, 日本 0.5% 中国 0.1%)

O2b1 = 祈願誌が韓半島に推定されるハプルログル−ム. (韓国 7%, 日本 3%, 中国 0.3%)

O2b1a = 彌生人の最大ハプルログル−ム. チォンファングがから発見された事がある. トクシマで 28%, 大阪で 26% 発見されるなど関西で高く現われる. 本人もこれに属する. (日本 23%, 韓国 8%, 中国 0%)

O2b1b = 韓半島南部で拡張をハンゴッに推測される韓国表紙ハプルログル−ム ( 韓国 12%, 日本 5%, 中国 0.3%)

O3a1 = 韓国, 日本で発見されたら, 何百年以内で先祖が中国大陸から来たと思わなければならない. ( 中国 1%, 韓国 0.3%, 日本 0.3%)

O3a1c(O3a1c1,O3a1c2) = 東夷族の主要ハプルログル−ム. 山東省で始まったハプルログル−ムでチウチォンファングのハプルログル−ムではないか推測される. (中国 18%, 韓国 10%, 日本 6%)

O3a2(xP164,M7) = 中国の物とちょっと他の類型の O3a2. 韓半島土着と見える. (韓国 8%, 日本 5% 中国 0.3%)

O3a2c1 = 朝鮮の遺伝子. 朝鮮太祖李成桂, 世宗大王, 高宗がこのハプルログル−ムに属する. (中国 17%, 韓国 9%, 日本 5%)

O3a2c1a = 中国で数字が多いが, 韓国西南部と日本西部で現われる類型が存在するのに, 百済->日本に移動したどんな勢力が日本で有力家門になって, 子孫をあんまり残さなかったか推測する. ( 中国 19%, 韓国 10%, 日本 6%)

Q1a1 = 満洲で始まったことで推測される遺伝子, 兄弟グループである Q1a3はアメリカ原住民の株腰下フローグループだ ( 中国 3%, 韓国 2%, 日本 1%)

http://www.kjclub.com/jp/exchange/theme/read.php?tname=exc_board_6&uid=140910&fid=140910&thread=1000000&idx=1&page=1&number=92583


37. 中川隆 2015年6月08日 22:26:43 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

日本で根強い、秦氏=ユダヤ人説や皇室のユダヤ人説はY-DNA研究の現状の結果からは残念ながら成立しないようです。また青森の有名な戸来一族もユダヤ人の末裔ではないでしょう。   

幕末・明治期の皇室や戸来一族のユダヤ顔、すなわち面長鼻高等の西欧風形質は、Y-DNA「C1a」とY-DNA「C3a」の持つ古代遺伝子Y-DNA「C」の持つソース顔の特徴で充分説明できます。   

ただし「C」は典型的な二重瞼(どちらかと言うと奥二重に近い)なので、まずはそうかどうか確認が必要ですが。

  また日本の中国地方はY-DNA「O1a」の産地ですが、台湾のY-DNA「O1a」の先住民を見ると凹凸の少ない面長鼻高(「つまりしょうゆ顔」)なので幕末・明治期の皇室顔の候補には入りますね。でもやはり二重瞼のはずです。


  更に情報としては、

中国河北の黄河文明の古代遺跡で発掘される「極めて古いモンゴロイドのはず」つまりY-DNA「O3」のはずの復元顔は面長鼻高でコーカソイド顔である、というのはこの分野の研究者には常識となっています。

Y-DNA「O」系統はY-DNA「CF」の子亜型の「F」から分化した孫亜型なので当然西欧顔の面長鼻高二重瞼の彫深顔がオリジナルなのです。   

しかしその後の厳しい黄河流域生活で黄砂適応した結果と寒冷地適応した北方民族系のY-DNA「C3c」との交配でフラット・一重瞼が増加していったと考えられます。

ところが本当にフラット一重顔の漢民族は少ないのです。

現在中国の政治経済の中心が河北になるため、フラット・一重が中国顔とされていますが、中国全体でみれば華南系Y-DNA「O1」と「O2」は面長二重瞼を維持しています。しかし「O3」系との交配が極めて進んでいるためソース顔ではなくしょうゆ顔に変貌しています。

  
そのY-DNA「O3」のオリジンである「O3*」が日本でも検出されています。

一体どこからきたのだろうか?

縄文晩期には既に陸稲系農耕が日本列島に来ていたことが日本農耕史では常識になっていますが、これをもたらしたのは当然河北系の渡来者になります。つまり後世紀元後に朝鮮半島を追い出された負け組の「O3」大和朝廷族や武士団族ではなく、はるか以前に渡来してきていたはずなのです。   

そしてオリジナル「O3*」と言うことはコーカソイド系つまり西欧顔の形質だったはずなのです。

つまりY-DNA「O3*」も幕末・明治期の皇室顔の候補には入るのです。恐らく古代の焼畑農耕や陸稲農耕の伝統があった地域に住んでいた可能性が大なのです。  

「O3*」は朝鮮半島にも多く住んでいたはずなので箕子朝鮮等の古代朝鮮国家の統治者層だった可能性もあり、後にフラット・一重化していた負け組に混じって日本列島にやってきた可能性もかなりあります。

  つまり「O3」は少なくとも3系統あったのではないかと思われるのです。


オリジナルY-DNA「O3*」系統、黄河文明/河北系の「O3a1」系統と長江文明/華南系との交配系「O3a2」です。

  日本人は彫深顔を見るとどうも劣等感が強くすぐ外来種と思う傾向がありますがY-DNA「C」の典型顔でもあるのです。特に海洋性ハンターの「C1a」や内陸性ハンター「C3a」の住み着いた沿岸部や山間部が日本のソース顔美男子の供給基地だったのです。

  現代アイヌ人に見られる彫深顔も、何のことはない古代アイヌを征服したオホーツク文化の古代ニヴフ族Y-DNA「C3c」の持つ「C」顔に他ならないでしょう。

  現代のY-DNA「C3c」は寒冷地適応と黄砂適応を遂げフラット顔に変貌していますが、古代を残すニューギニアの「C2」、ネイティヴ・アメリカンの「C3b」やアボリジニの「C4」を見れば一目瞭然の彫深顔です。
http://www1.parkcity.ne.jp/garapagos/1-11.htm


38. 中川隆 2015年6月10日 07:35:39 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

中国四千年の歴史という馬鹿げた妄想
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-815.html


彦崎遺跡
http://blog-imgs-43.fc2.com/n/e/z/nezu621/20100306224923773.jpg


中国といえば、四千年の歴史という言葉がすぐに修飾語として浮かんでくるほど、いまどきの日本人は洗脳されているといえます。

しかし、中国は、四千年どころか、かなりその歴史は疑わしいものと断じざるを得ない、というのが今日のお話です。

平成12(2000)年のことです。

東大の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝(WANG Li)らが、中国で発見されている遺骨のDNA分析の結果を発表しました。

調査の対象となったのは、


1、約2500年前の春秋時代の人骨

2 約2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨

3 現代の臨シ住民


です。

これらの人骨から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果によると、三つの時代の臨シ人類集団は、まったく異なる遺伝的構成を持っていました。

どういうことかというと、約2500年前の春秋戦国時代の臨シ住民の遺伝子は、現代「ヨーロッパ人」の遺伝子に非常に近い。

約2000年前の前漢末の臨シ住民の遺伝子は、現代の「中央アジアの人々」の遺伝子と非常に近い。

現代の臨シ住民の遺伝子は、現代「東アジア人」の遺伝子と変わらない。

つまり、2500年前の支那大陸で、春秋戦国時代を築いていた集団は、現代ヨーロッパ人類集団と遺伝的に近縁な人類集団であった、すなわり、いまの支那人たちとは、まるで異なる集団であったということです。

言いかえれば、2500年前から2000年前の500年間に、支那では大きな遺伝的変化が生じた、つまり、支那大陸では、大規模な人類の移動があったということです。

そもそも中国語と英語を含むヨーロッパ系言語では、文法や語順のなどが、非常に似通っています。

たまたま文字が漢字であるため、見た目のイメージはまるで異なる言語にみえるけれど、語族として考えたら、日本語と中国語よりもはるかに支那語は、ヨーロッパ系言語に近い。

しかも、ひとくちに中国語といっても、支那は広大な大陸です。
さまざまな方言があり、外国語並みにたがいに言葉が通じない。
文法や語順、あるいは基本的名詞に至るまで、まったく違うものもあり、もはやその言語は、互いに別な言語というほうが、はるかに正しいです。

たとえば、我々が中国語口座を受けると、「声調」は「四声」と教わるけれど、これは北京語の話であり、広東語は九声、福建語は八声もある。
上海語と客家(ハッカ)語は六から七声です。

また、北京語には濁音がないけれど、南方語には、濁音が存在する(日本語の影響?)。

フランス語と、英語は、語順等は似ているけれど、母音の数がまるで異なります。当然、異なる言語とされている。国籍も別です。

支那にある諸方言を考えたら、これらをひとまとめに、同一言語であるとみる方が、むしろ異常です。


中国語の方言
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中国四千年の歴史なる言葉は、そもそもが、三皇五帝(さんこうごてい)なる支那の神話伝説時代の帝王からきている言葉です。

三皇は神、五帝は聖人で、それらは支那の伝説の時代である「夏」の時代(紀元前2070年頃 - 紀元前1600年頃)よりも古い時代の皇帝だというのだけれど、これも大載礼記、史記、戦国策、易経、礼記、淮南子、世経、三統経、資治通鑑外記などで、誰が皇帝であり、誰が帝王だったのかすら、全部言い分が異なっています。

炎帝(姜王)などは、礼記と准南子に登場するけれど、体が人間で、顔は牛だったというから、そもそも人類であったかどうかすら疑わしい。
要するに、これらは単なる神話とされ、いまでは、その実在は誰も認めていません。

三皇五帝のあとにくる「夏王朝」にしても、いまからちょうど四千年あたり前から470年続いき、その後「殷」に滅ぼされたとされているけれど、これも、その実在性がかなり疑わしいとされている。

結局支那で考古学的にはっきりとその存在が証明されているのは、「殷王朝」で、これは、紀元前17世紀頃から紀元前1046年の王朝です。遺跡もある。

そして遺跡があるおかげで、この時代の殷王朝を形成した人々が、いまの漢民族とは、まるで異なる遺伝子を持った別な民族であったということが立証されてしまっています。

時代が下って、西暦220年頃の三国志に登場する関羽とか張飛とかのを見ると、関羽は、髭(ひげ)の長い巨漢、張飛は、ずんぐりむっくりの巨漢です。

遺伝的特徴からしたら、髭(ひげ)の薄い漢民族の特徴というよりも、関羽あたりは北欧系のノルウェーの海賊(バルカン民族)の特徴をよく備えているし、張飛の遺伝的特徴も、漢民族的特徴はまったくなくて、どうみても、北欧系のドワーフです。


関羽や張飛の姿は北欧系のコーカソイドの遺伝的特徴そのものである

バイキングとドアーフ
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そしてこの時代の人骨からは、先に述べたとおり、明らかにヨーロッパ系の遺伝子を持った遺伝子・・・漢民族とは異なる遺伝子を持った人骨・・・が発見されています。


さらに時代をさかのぼると、支那の文明の始祖として、20世紀前半に黄河文明の仰韶(ヤンシャオ)遺跡が発掘されました。仰韶遺跡は、紀元前5000年から同3000年まで続いた文化です。

遺跡からは、彩文土器、竪穴住居、磨製石斧などが出土し、彼らが粟などの栽培や、豚や犬の飼育、鹿などの狩猟を行っていて、竪穴住居に住み、集落を形成し、石斧・石包丁などの磨製石器や彩陶を使用していたことは、明らかになっています。

しかし、そこで発見された彩陶土器は、西アジア、中央アジアから伝来したものです。

つまり、どうやら工具的にも、ここの文化を構築した人たちは、東洋系の人種ではなく、コーカソイド系の人たちだったようです。漢民族的特徴を示す物は、残念ながら発見されていません。


コーカソイド系の人々
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これに対し、黄河文明よりも、もっと古い遺跡として発見されたのが、長江文明です。

これは紀元前6000年〜紀元前5000年ごろのもので、河姆渡(かぼと)遺跡などからは、大量の稲モミなどの稲作の痕跡と、高床式住宅、玉器や漆器が発見されています。

栽培されていた稲は、ジャポニカ種です。

どういうわけかジャポニカ米の原産地は、長江中流域などとされ、日本の稲作の起源が、支那の長江流域などと「決め付け」られているけれど、ジャポニカ種の米の栽培(稲作)に関しては、日本の岡山県の彦崎遺跡と朝寝鼻遺跡が縄文前期(紀元前6000年前)のものなどがあり、もしかすると成立年代的に、日本で始まった水田灌漑技術と、稲が、支那にわたって長江文明を形成した可能性も否定できません。

要するに、いまから約8000年前に、日本には稲作文化があり、7000年前には、支那の長江流域に、日本と同じ稲作を営む集団がいたということです。

そして、長江文明を営んでいた人骨は、明らかにモンゴロイド系の特徴を持っています。


そのモンゴロイド系の遺伝子を持つ長江文明を形成した人々は、その後西から移動してきた麦作と牧畜を基礎とした文化を携えたコーカソイド系の人々によって滅ぼされてしまいます。

で、できたのが黄河文明です。

おそらくは、狩猟民族と農耕民族の違い、すなわち武器文化と非武器文化の違いで、武力に勝るコーカドイドが勝利した。

ただ、流れてきた人々よりも、農耕によって食を賄い、古くから住んでいた人々の方が、人口的には多かったであろうことが想像され、人口に勝るモンゴロイドが、軍事的政治的文化的には敗者となったけれど、結果として遺伝子的には黄河文明の人々をしのいだ。

それで漢民族が「黄色」になったとみることができます。

おもしろいのは、男から男に引き継がれるY遺伝子は、ほぼ完全に黄色人種の特徴を示すのに対し、女性から女性にだけ引き継がれるミトコンドリアの遺伝子には、コーカソイド系の特徴をそのまま残している、ということです。

つまり、戦い好きなコーカソイド系の男たちは、軍事的に結局は死に絶え、その遺伝子は女性から女性にのみ引き継がれた(ミトコンドリア遺伝子)という姿が見えてきます。

ふつうに考えればわかることですが、狩猟族というのは、獲物を追ってどこまででも遠くへ移動する。土地に定着する必要がないのです。

コーカソイドが、古代に日本に来たというお話もあります。
スサノオのヤマタのオロチ退治の伝説です。

古事記などでは、ヤマタのオロチは、八本の尾がある大蛇とされていますが、飛騨の阿礼家に伝わる伝承では、ヤマタのオロチは、八人のオロシャなのだそうで、おそらくは、漂流してきたコーカソイド系の男たちであったのであろうかと思われます。

彼らは、山に巣食って、村を襲い、村の娘たちを拉致していた。
そこをたまたま通りがかったスサノオが、オロシャ人に酒を飲ませて、酔いつぶれたところを退治した。

日本は、島国だったので、8人程度の移民で済んだのでしょうが、大陸ではそうはいきません。大挙して押し寄せて、村の娘たちや食糧を根こそぎ奪っていった。
で、出来たのが黄河文明だったと考えられるわけです。


いづれにしても、黄河文明を形成した人々と、いまの支那人たちとは、血統はどっかつながっていようかと思いますが、彼らが、中国四千年の歴史と称する歴史は、王朝が変わるたびに、ことごとく前王朝の民族抹殺、大量虐殺を繰り返してきたものであり、わるいけれど自慢できるような平和の歴史とはほど遠い。


さらにいえば、いまある支那共産党の中華人民共和国などは、まさに中国共産党王朝ともいうべきものでしかありません。

なにせ、支那に十五億いる人々の中の、わずか7千万人の共産党員が、我が物顔にのさばり、党員以外の人々から酷い収奪をする。

中国人とひとくちに言っても、民族も様々、言語も様々、文化も様々。
要するにその中で、中国共産党という名称の「民族」が、設立わずか60年の絶対君主制の帝国主義王朝を築いているというのが、いまの支那です。

ちなみに、中華人民共和国という国名のうち、「中華」と「国」以外は、全部日本語です。

そして支那の歴史は、民族同士が互いに殺戮しあい、生き残りのためには誰も信用することができず、民族浄化とホロコーストを続けてきた歴史です。

とてもじゃないが、四千年の歴史などと呼べるものではない。中国四千年の歴史というのは、支那の大地の中で、異民族同士が、互いに絶滅を賭して殺し合い、強姦しあい、騙しあってきた、殺戮と暴力の嘘と虚構の歴史です。

そしてその暴力と虚偽の歴史は、いまなお、法輪功の弾圧や、ウイグルの虐殺、旧満州の女真族に対する民族浄化と暴力で続けられている。

そんな地獄の亡者やゾンビの大軍の殺し合いのような国家にたいし、長く平和と愛情と和の精神を築きあげた日本が、自ら率先して「友愛」などしにいく必要など、さらさらないのです。

それは、まじめに生きてきた日本民族を、暴力団や極道よりもはるかにたちの悪い亡者の前に、進んで身を晒すようなものだからです。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-815.html


39. 中川隆 2015年6月10日 07:50:23 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

DNAが証明!!今の中国人は昔の中国人の子孫ではない
http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/38533705.html

本当に食い尽くします

明末に起こった「張献忠屠川」で四川省は無人の地になっています。これは張献忠率いる占領軍によって四川省の住民が数年間に渡り組織的に殺され、最終的には全員食料として食い尽くされたという事件です。

http://takaojisan.blog13.fc2.com/blog-entry-230.html

リンク ↑
石平 著 「中国大虐殺史」によれば、
 
 十七世紀の半ば、明から清に移り変わる時期、張献忠と言う人物が、四川の住民に対して行った大虐殺であり、虐殺が始まった時期、四川の人口は六百万ほどであったが、張献忠が敗北して虐殺が止まったとき、四川の人口は一万八千人ほどだったという。
 
 明王朝の末期、各地で反乱が起きたが、張献忠もその一人であり、無頼の徒であったとされている。一時は六十万の兵力を要した張献忠はその兵を率いて四川に乗り込んだがとにかく戦ってとらえた明の兵士と民衆を焼き殺したのを皮切りに、成都を攻め落とした張はそこで大西王朝と称する自前の王朝を樹立し、自ら大西朝皇帝となって、四川での大虐殺を始めた。
 
 手始めに守備軍、住民を集め十五歳以上の人間をすべて殺した。これは中国では珍しいことでなく、大人数の捕虜をそのままにしておくと膨大な食料がいるし、またいつ反乱でも起こされるかもしれないので、手っ取り早く皆殺しにするのだが、彼らにとっては合理的な解決手段でしかない。
 
 そのうえ、張は成都を落としてから、一日一万二千人とのノルマを決めて住民殺しを始めた。


日本には「四川料理」というものがあって有名な料理人がいますが、四川省の住民は明末に絶滅しているのですからこの料理は古来から四川にあった料理ではなく、清の時代に四川で出来上がった料理ということになります。

諸葛孔明が何を食べていたかもう判らないわけです。

毎日、人肉ばかりなんだからきっと中華料理というものは毎日食べる人肉をいかに美味しく食べるかという所から発達してきたのかもしれません。

王朝末期には新しい王朝による大量虐殺は付き物のようですが、その中でも毛沢東による虐殺が歴代王朝のなかで最大と言われています。

大量虐殺の後には、耕作民不足による必ず大飢餓があり、毛沢東による「大躍進時代」の飢餓も筆舌に尽くし難いものがあったようです。

孫文と『揚州十日記』

陳舜臣の書いた『孫文』という本があります。


孫文 (中公文庫) 陳 舜臣 (著)
http://www.amazon.co.jp/%E5%AD%AB%E6%96%87%E3%80%88%E4%B8%8A%E3%80%89%E6%AD%A6%E8%A3%85%E8%9C%82%E8%B5%B7-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%99%B3-%E8%88%9C%E8%87%A3/dp/4122046599
http://www.amazon.co.jp/%E5%AD%AB%E6%96%87%E3%80%88%E4%B8%8B%E3%80%89%E8%BE%9B%E4%BA%A5%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%99%B3-%E8%88%9C%E8%87%A3/dp/4122046602/ref=pd_sim_14_1?ie=UTF8&refRID=08ZE3BA48VM93B71RSXF

『孫文』には、孫文が世界中の「砂」の様な華人をまとめる為に、17世紀半ば、満州族が中国中心部に攻め込んだ際に行った、殺戮や略奪、放火などの記録を詳細に記録した『揚州十日記』という資料を用いた事が書かれています。

その貴重な資料が何処に存在したかと言うと、何と日本です。

日本に資料の写しが存在したので、日本に留学していた中国人たちが必至にそれを写して、“知られざる民族の悲劇”を知り、「滅満興漢」の決意を新たにしたそうです。

孫文は、「これは、日本に残っていた反清文書です。記念に一冊差し上げます!」と言って、共感する華人に配って回り、支持者を集めていたそうです。

この本によると、かつての中国知識人の間には、「日本は古い文化を保存する国」という好ましい印象があったようです。

その理由は、日本では中国と異なり「易姓革命」が起こらなかったので、焚書や文字の獄が滅多に発生せず、中国の古い本や、その写しも綺麗に保存されていたからだそうです。

また、日清戦争当時、戦場となったのは限られた地域であり、上海辺りはまるで「戦争」の雰囲気が無かったそうです。

実際清国人だった孫文も、その頃、交戦国の日本を経由してホノルルに向かっています。


臨シの位置


人骨のDNA調査が行われた臨シとはどこなのか調べてみました。「中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都」とのことですがちょっとイメージがわかないので・・・

昔の地図だと分かりやすい。(地図右上渤海湾に隣接しています。)


ファイル春秋時代.PNG - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:%E6%98%A5%E7%A7%8B%E6%99%82%E4%BB%A3.PNG


で、グーグルマップで現在の地図ではどうなっているのか調べたんですが、これがなかなか分かりづらい。


臨シという地名は臨シ区として残っていました。
http://livedoor.blogimg.jp/abechan_matome/imgs/e/4/e427090b.png

済南事件で有名な山東省は済南市の東約100kmにあるシ博市のさらに東30km程行ったところです。

以下 コメント


・人肉食の歴史

を持つ支那、支那人ならば人体を解体することに対して躊躇はないのかも知れない。

在日の支那人が急激に増え出した頃から 「バラバラ事件」 のニュースをよく聞くようになった。

人肉食は支那の文化であり、現在でも日常茶飯事化しているようだ。

こんな人種を 「30万人の留学生受け入れ」 とか、「一千万人の移民を受け入れる」 とか 狂っているとしか言いようがない。

多くの日本人は支那の実態を知らないし、漢民族とチベット人の違いも、また真実の歴史さえ知ろうとはしないでしょう。

一度に多くの日本人に覚醒してもらうにはどうしたらいいのか、どんな方法があるのか、、、?

とにかく、日本人を悩ませ苦しめている全ての原因は、在日、そして日本人に成り済ましている帰化人の政治家達です。

こいつらを国民に暴き引きずり降ろすこと、それしかありません。

・画期的研究

某掲示板から回ってたどり着きました。

国立遺伝研の斎藤先生とは何度かお会いしたことがありますが自由な発想を持つ優れた学者です。

DNA解析をもとにした遺伝学は非情かつ正確な学問です。このような画期的な発見がほとんどニュースにもなっていないのは不思議です。
漢字文化もコーカソイドの発明というのも興味深いところですね。

春秋戦国時代こそ中国文明の真髄と言っても良いものなので今の中国人にとっては受け入れがたいのかも知れませんが。


・No title

シナ文明は漢代までは発展していますがそれ以後文化的に停止してしまいます。

わたしもここに書かれているような歴史だとすれば新モンゴリアンの今のシナ人は漢文明を造った人々ではありません。ローランの美女も完全にコーカソイドでした。日本はブータンやチベットに近い古モンゴロイドです。シナ大陸の中原に興亡したすさまじい民族とうまくいくわけはありません。

・No title

漢服の中に西洋人のドレスのような服装があって、

現代でこそモデルがなんとか着こなしていますが、絶対に中国人には似合わない衣装なんですよね。100年前の中国人の写真を見ると、とてもこんなものを着こなしていたようには見えない・・・っていう。

確かに、コーカソイド系に近い民族が着ていたものなのかもしれません。
http://blog.livedoor.jp/abechan_matome/archives/38533705.html


40. 中川隆 2015年6月10日 07:54:41 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

Question: rosynobleさん 2010/8/22

黄河文明から大唐帝国までの中華世界について

宋代より前の中国は西戎(コーカソイド・白色人種)の影響が強く、文化的・人種的に現代とは大きな隔たりがあると聞きます。 ただ宋代以降になって、南蛮(南方モンゴロイド)が主流となり、北狄(北方モンゴロイド)の支配を受けながら混血し、現代の形となったようです。

アンダーソンのオリエント伝来説や、シルクロード・西域、姜族・匈奴・突厥・拓跋部北朝に始まり、クルガン仮説と斎藤成也の臨シDNA研究によって、その噂もいよいよ真実味を帯びてきました。

そこで、これについて現状では、どういった見解が有力視あるいは妥当とされているのでしょうか?

Answer : hinomikotoさん 2010/8/22

殷(商)と周は、大きな断絶を感じます。殷の人は入墨をしていましたが、周は入墨を嫌いました。殷の占いは動物の骨や亀の甲を焼いて占いましたが、周の占いは周易であり、骨を焼いたりしません。また暦もかわりました。

骨を焼いて占うというのは、昔はどこでもやっていたという類ではありません。中国の資料(主に正史)を読むかぎり、殷と扶余と倭(日本)だけですね。三国志魏書の扶余伝を読むと、扶余の人間は殷暦を使っていたとも書かれています。漢の時代に殷暦ですからね。よほどの理由がなければ使いませんよね。私は殷、扶余、濊、高句麗、百済、倭、契丹は、繋がっていたんじゃないかと見ています。

中国最初の統一王朝は、秦です。しかし中国人は一般に漢民族と呼ばれ、秦民族とは言われません。秦は西戎だったようですね。

また漢を建国した連中は、黄巾の乱の頃、伝染病もあってほとんど滅亡したともいわれています。岡田英弘氏が主に主張していますが。

北魏、隋、唐は鮮卑王朝でした。鮮卑は謎ですが、トルコ系とされています。

元はもちろんモンゴル人です。

遼は契丹人の王朝でした。『魏書』には契丹、高句麗、室韋、庫莫奚、豆莫婁(扶余の後継国家)は言語が同じと書かれています。遼を建国した人は、耶律 阿保機(やりつ あぼき)さんでしたが、どこか日本人の名前に通じるものを感じます。

金と清は、女真の王朝でした。

明は漢民族の王朝とされますが、たとえば、漢や宋は黄河文明でしたが、明は長江系です。明は過去の漢民族とは違う、南方漢民族だったんだろうと思います。この南方漢民族の子孫が今の中国人のコアでしょうね。
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1345681258


41. 2015年6月10日 08:36:19 : b5JdkWvGxs

Y染色体(父系)による系統分析

母系のみをたどるミトコンドリア解析に対し、父系をたどるY染色体は長期間の追跡に適しており、1990年代後半からY染色体ハプログループの研究が急速に進展した。

ヒトのY染色体のDNA型はAからTの20系統がある。

複数の研究論文から引用したY染色体のDNA型の比率を示す
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA#Y.E6.9F.93...


Question : thosidaxさん 2013/9/11

初期の漢民族(漢民族のアイデンティティーが確立される以前の黄河文明)は、インド・ヨーロッパ系の民族なのでしょうか?

中国語が周辺のアルタイ語系のSOVではなく、SOVの語順である事もありますし、
中国史にたびたび登場するイラン系民族の存在から、このあたりにコーカソイドが進出していても不思議ではないと思います。

一般的にコーカソイドはモンゴロイドよりも長身ですが、日本がその昔【倭】と呼ばれていた(中国人より小さかった)のも一つの根拠として挙げられます。今の中国人はモンゴロイドですが、これは五胡十六国以降に中編民族との混血がすすんだ事によるのではないでしょうか?


Answer : myalfanameさん 2013/9/18

Y染色体ハプロタイプ(遺伝子)は1990年代後半から始まり、2000年代になってやっとその状況が判明してきています。

それ以前に調査していたミトコンドリアDNA(遺伝子)は分散する傾向があり、集団(部族、民族)の移動を表さない事から、欧米ではすでに、Y染色体ハプロタイプによる集団の経路分析が「主流」となっていますので、試しにY染色体ハプロタイプ(遺伝子)で見てみましょう。


例えば、中国人(ここでは漢民族とします)とイギリス人(ここではケルト系とします)とを比較してみます。

※Y染色体ハプロタイプは一般的には「ハプログループO3」と表記しますが、系統を判りやすくするため、また、ミトコンドリアDNA(mtDNA)と混同しないように、「NO系統O亜型O3」と表記します。

-------------------------------------------
【 中国人(漢民族 %は混血比率)】

・NO系統O亜型O3 (約54%)★←ここを漢民族とします
・NO系統O亜型O1A(約10%)
・NO系統O亜型O2*(約10%)
・NO系統O亜型O2A(約 5%)
・CF系統C亜型C3 (約 8%)

※地方差あり
-------------------------------------------
-------------------------------------------
【 イギリス人(ウェールズ %は混血比率)】

・P(QR)系統R亜型R1B(約88%)★←ここをケルト系とします
・P(QR)系統R亜型R1A(約1.1%)←スラブ系
・NO系統N亜型N (約3.8%)←ウラル系
・IJ系統I亜型I (約3.4%)←ノルマン系
・DE系統E亜型E1B (約1.8%)←ラテン系


※言語学的な意味があるので、一概には言えませんが、一応の目安として○○系と分けました
http://www.eupedia.com/europe/maps_Y-DNA_haplogroups.shtml
-------------------------------------------


となります。これが何だとおっしゃるかもしれませんが、O3の祖はNOであり、そしてR1Bの祖はPとなります。

そして、NOとPの祖はK、つまり中国人もイギリス人も2系統もどれば、全く同じ祖(K)となります。

Kの元をたどれば、CF系統Fで、45000年前に中央アジア(インド北西部付近)で発生したと推定されており、インド人から検出されます。

CF系統Fの元はCF系統CFで、東アフリカ(出アフリカ以前)となります。

ちなみに、O3は今から20000〜25000年前に発生したと遺伝子計算から出されています。

その頃の漢民族(O3)はどんな民族であったかは想像もつきません。

中国人とイギリス人はY染色体ハプロタイプから見ると(見かけはともかく)かなり近い系統なのです。

Y染色体ハプロタイプの世界ではもう常識となっていますが。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AF%E3%83%AB%E3%82%AC%E3%83%B3%E...
http://ja.wikipedia.org/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93%E3%83%8F%...
http://ja.wikipedia.org/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93%E3%83%8F%...


ちなみに、日本人は、中国人と同じNO系統ももっていますが、全く別のDE系統も入っています。中国人との違いはDE系統に由来しているのではないでしょうか。
-------------------------------------------


【 本土日本人 (%は混血比率)】
・DE系統D亜型D2A(約40〜50% YAP因子あり)←ラテン系に近い
・NO系統O亜型O2B1(約20〜30%)
・NO系統O亜型O3(約18〜20%)
-------------------------------------------
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA#Y.E6.9F.93...
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E...

中国人(漢民族)と日本人について「DNAマイクロアレイ」で分析すると以下のような結果が出るようです。
http://www.recordchina.co.jp/group.php?groupid=73749&type=0


42. 中川隆 2015年6月10日 08:45:41 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

古代の支那人と、現代の支那人が人種が違うという、おもしろい話があります。

黄河文明の遺跡から出土する人骨のDNAを調べてみると、それらはモンゴロイドではなく、なんとコーカソイド、つまり白人種だったというのです。

これは東大の植田信太郎、国立遺伝学研究所の斎藤成也、中国科学院遺伝研究所の王瀝(WANG Li)らによる古代支那の人骨のDNA分析研究の成果です。


研究の対象となったのは、


1 約2500年前の春秋時代の人骨

2 約2000年前の漢代の臨シ(中国山東省、黄河下流にある春秋戦国時代の斉の都)遺跡から出土した人骨

3 現代の臨シ住民、です。

これらの人骨から得たミトコンドリアDNAの比較研究の結果によると、三つの時代の臨シ人類集団は、まったく異なる遺伝的構成を持っていました。

どういうことかというと、支那にはもともと揚子江のほとりに、稲作を行うモンゴロイドが住んでいたのですが、ある日、黄河の流域に、大型の動物を追ってやってきたコーカソイド(白人種)が住み着くわけです。

白人種たちは、大型動物を捕って食べますから、大型の武器を持っています。住まいは竪穴式住居です。

モンゴロイドたちは、農耕文化ですから、武器ではなく、クワやスキを手にしていて、武器を持ちません。住まいは、食料保管のために高床式住居です。

その武器を持たないモンゴロイドのところに、ある日、武器を持った白人たちが現れる。

法のない時代に、武器を持った者たちは、武器を持たない者たちの前では、まさに超人です。

モンゴロイドたちは襲われ、食べ物を奪われ、女性たちは強姦されたことでしょう。

そんなことをされたら、モンゴロイドたちだって黙っていません。

復讐のために武器を手にして、コーカソイドたちに戦いを挑みます。

互いに殺され奪われた恨みがきっかけの戦いです。
戦いは凄惨をきわめたことでしょう。

こうして春秋戦国時代が始まります。

双方の種は、互いに大軍を率いるようになり、凄惨な殺し合いと強姦が起こる。
結果として、白人種とモンゴロイドの血が混じり、彼らの外観は、数の上で圧倒的多数であるモンゴロイドに近いものとなりました。


このことは、南米の歴史によく似ています。

アルゼンチンやウルグアイは、白人種によって先住民族のモンゴロイドがほぼ完ぺきに抹殺されたため、いまでは外見は完全に白人種の国家となっていますが、エクアドルやペルー、ボリビアなどは外見はモンゴロイドの住民たちの国となっていますが、彼らは100%白人種との混血です。

この違いは、要するに先住民族の女たちが手当たりしだい強姦されたあげく子を産む前に全部殺された国と、手当たり次第強姦されたけれど、それが全部には至らなかったという違いです。

南米が白人種によって征服された時代は、銃の時代です。

けれど、支那大陸で白人種とモンゴロイドが争った時代は、いまから4000年ほど昔で、まだ弓槍の時代です。

カタチとしては、エクアドルやペルー、ボリビアなどと同じく、外見はモンゴロイドになったわけです。


面白いのは、現代の臨シ住民のDNAです。

彼らの中には、ミトコンドリアの中にだけ、コーカソイドのDNAが発見されます。
これが何を意味しているかというと、ミトコンドリアのDNAは、母親から娘にしか遺伝しません。

つまり、現代支那人のDNAには、ミトコンドリアの中だけに、白人種のDNAが含まれているのです。

これが何を意味するかというと、要するに血の気の多い、コーカソイド系の人を殺すことを何とも思わない男たちのDNAは、殺し合いの結果、自滅してしまい、結果として女性から女性に遺伝するミトコンドリアDNAの中にだけ、大昔の征服者であるコーカソイドのDNAが残っているわけです。

いまでも支那人は、先天的に殺し合いが好きな民族ですが、これは彼らがまさにコーカソイドとモンゴロイドの種の殺し合いの中で、生き残ってきたDNAを持つ民族だから、ということができます。

支那におけるこうした流れは、カンブリア紀のような1億年という途方もない長い時代の流れではなく、約4000年という短期間に起きた現象ですが、この流れを俯瞰してみると、もしこれを対立と闘争という淘汰論(進化論)で語るとするならば、勝ち残るのは強いコーカソイドでなければならず、現代支那人の外見も、コーカソイド系(白人系)とならなければならないことになります。

ところが実際に生き残ったのは、モンゴロイド系の外観です。
つまり、弱い方が生き残ったわけです。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2049.html?sp


43. 中川隆 2015年6月12日 22:36:53 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

古代中国の歴史
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=304895


中国には長江、黄河という2つの大河があるが、文明はそれぞれの河川域に数千年の時代を経て誕生している。

長江が南方系の稲作農耕文明に対して黄河は畑作で牧畜を中心としており、モンゴル草原の終着点であることから気候変動期に遊牧部族がなだれ込んで先行していた西側(中東地域)の文明が入り込んだ。

現在でも中国はアジアと言いながら西洋的なのはこのときに誕生した略奪系の黄河文明がベースとなっているからでもある。

年代を追って見て行きます。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【長江文明】
BC7000年 世界最古の稲籾跡
BC5000年 長江文明誕生(河姆渡遺跡)
     豚の飼育、漁労、狩猟跡・・・母系社会
BC4500年 最古の水田跡〜城頭山古城
BC3500年 良渚文化 玉文化 国家的集合体
BC2000年 気候変動期に長江大洪水で文明消滅 良渚で洪水跡
      長江人は呉越に流れる
      ★この時代に大量に日本に江南人が流入。


【イラン、モンゴル高原の状況】
BC3500年〜3000年 急激な寒冷、乾燥化
BC3500年にイラン高原で人類最初の戦争勃発⇒戦争の玉突きが始まる
 モンゴル族、ツングース族の南下
 遊牧民による農耕牧畜民の襲撃


【黄河文明】
BC5500年 畑作開始
BC3200年 西山遺跡〜中国最古の城砦跡
     この時代に戦争が発生している。
BC2200年 伝説の王朝「夏王朝」が中原地域で誕生
     夏王朝を作ったのは南方のチベット族
BC2000年 華北で世界最古の金属製造開始〜生産性が一気に高まる

BC1500年 殷王朝が誕生 モンゴル族出自
     甲骨文字の誕生 商人の登場
BC1100年 周王朝開始 チベット族出自
     周は殷王朝の下にあった一王朝が反乱して誕生
     徳知政治で王の徳を重視した。
BC770年 春秋時代開始
     各地の知識人が華北に集まる。
    BC500年 孔子
    BC300年 孟子
    BC250年 荀子など諸子百家
    
    この時代の戦争は1日〜2日で決着
※武力時代に完全移行する前夜、大衆が私権社会を回避しようとした時代
 或いは私権社会の秩序、整合性を模索していた時代。
 鉄器による農耕革命が起き、格差が生じてくる。

BC500年 匈奴による侵略(モンゴル族の組織化が進む)

BC400年 戦国時代
    一転して武力で決する力の時代。
    華北を中心に勝ち抜き戦

BC221年 秦の中国統一
  中央集権で国が統一され、法による秩序形成、大土木事業(万里の長城)、貨幣の統一、文字の統一⇒私権社会の確立


 ※秦始皇帝の出自は漢民族ではない。

メソポタミアでBC558年に起きたアケメネス朝ペルシャの末裔が作った西戎がチベット高原を越えて華北に西方文明をもたらした。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=282879


秦は1代で滅びるが、中央集権的、力の支配はその後の中国王朝は継承する事になる。秦が中華思想の源流でもあり、今日の中国の原点である。

★この時代に始皇帝を欺いて日本に部族丸ごとで逃げ延びたのが徐福であり、未だ各地に残る徐福伝説である
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=243460


徐福は日本渡来後、葛城や秦氏を名乗ったという説もあり、その後の大和朝廷形成まで大きな影響力を持った。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=271439



http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=304895


44. 中川隆 2015年6月13日 16:33:35 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

古代朝鮮の歴史
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=304908

中国が5千年に渡り文明的歴史を有しているのに対して、中国大陸の東端の朝鮮半島は驚くほど歴史が浅い。BC12世紀から箕氏朝鮮という伝説王朝があったという説もあるが、その考古学的証拠がほとんどない。

史実として残っているのはBC195年から始まる衛氏朝鮮で、半東北部に登場したこの部族による連合王朝は90年余り続いて朝鮮半島は三韓+高句麗の時代に突入した。

日本にもっとも近く、影響が大きい朝鮮半島の歴史を概観しておく。
半島の動揺がそのまま日本の政治的動向に繋がっていく。

半ば半島から追われた部族によって形成されたのが大和朝廷である。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

BC100年〜4世紀 三韓時代(馬韓、弁韓、辰韓)
秦〜漢の時代に朝鮮半島南部中心に中国内部の抗争に敗れた部族が流れ込む。この時代に朝鮮半島に水田稲作が定着

BC37年 華北の騎馬民族の扶余族が高句麗の地に流れ込み建国。(現在の北朝鮮)建国当初は連合政権で前漢と朝貢関係を形成。

4世紀を超えると三韓の地に国家が誕生(但しいずれも50余国の連合)
4世紀初頭 百済建国、新羅建国
3世紀後半 伽耶(金官伽耶)建国〜但し諸国連合のまま

4世紀 高句麗の広開土王が領地拡大 百済、新羅、金官伽耶に進出
    百済、新羅は連合して対抗

4世紀 金官伽耶は鉄器産出を武器に鉄器文化を形成
  ※この時代に倭国(日本)と緊密な関係を形成

5世紀中 金官伽耶が高句麗+新羅によって侵略、消滅
   ※伽耶から倭国へ王族、製鉄技術が流れる。蘇我氏?

660年 唐+新羅によって百済消滅
⇒百済から大量に日本へ流れる。一部王族も渡来(後の藤原)
663年 白村江の戦いで倭国が百済奪還を目指すが唐の圧倒的武力の前に壊滅

668年 唐+新羅によって高句麗消滅
671年 唐VS新羅戦争 唐軍退く

新羅は朝鮮半島統一、以後935年までの270年間は新羅の時代でその後の李氏朝鮮が中国の殖民国家である事から唯一、朝鮮独立時代とも言える。

新羅という国は一言で言うと虎の衣を借りた猫。半島の中で最も弱小の国家であるが故に 百済、高句麗、唐とコバンザメのようにくっつくことで生き延びた。

仏教は中国文化の浸透と併せて各地に定着(伝来年)
 317年 高句麗
 384年 百済
 532年 新羅

日本にも500年代後半に伝わる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=304908
 


45. 2015年6月13日 19:42:42 : b5JdkWvGxs

日本の歴史

第1回〜列島形成から縄文時代早期まで

(年代は全てBCで表記)
★は中国、朝鮮半島の動き

気候・地理・移動)

BC31000年以前 日本列島は大陸と繋がっており、海流の影響が少なく列島は針葉樹に包まれている。

日本列島の人骨発掘は沖縄で30000年、24000年、静岡県で16000年、沖縄の湊川人が16000年とあるが、縄文人とは繋がっていない。 

BC23000年 現在より−5℃

BC23000年〜18000年 寒冷化に伴いバイカル湖に居住していたC3系がサハリン経由で大陸から日本に移住。旧石器時代の中心になる。
細石刃石器を生み出す。専ら狩猟で生業。定住はしていない。
(※日本列島の人口は13000年頃で700人〜3000人)

BC17000年 日本列島の海抜が現在より120m低い(最低海抜)

BC15000年 対馬海峡ができる(但し冬には氷橋ができ往来ができる)

BC15000年〜10000年(縄文時代草創期)
鳥浜貝塚(櫛、釣り針など発掘 漁労の足跡)
BC14000年世界最古の土器発掘(青森県大平山本T遺跡)
細石刃石器がなくなり、やじりとしての石鏃(じん)が出土しており、弓矢の使用が始まる。

BC12000年 北海道最北の宗谷海峡開通 日本海に生物が繁殖

BC11000年 森の民D2系が日本流入。1万年間に渡る気温の上昇、低下を繰り返す中でモンゴル高原から朝鮮半島を経由して北九州から流入。このD2系が後の縄文文化、日本文化形成の核になる。(D2系は現在でも日本人の中に4割程度見られ、世界でも珍しい)

BC10500年 現在より−4℃
玄界灘が開通。日本海に暖流が流れ込み、現在の日本列島の形になる。
日本海側が温暖化。針葉樹林帯が西日本から徐々に果実の豊富な落葉広葉樹林帯へ移行する。定住化と採集生産が本格的に始まる。    

BC10000年〜5000年(縄文時代早期)
気候の温暖化から海水面が上昇。東日本を中心とした縄文文化が始まる。

BC8200年  現在より−5℃(最終寒期である後氷期が終わる)

BC7500年 南九州の上野原遺跡に最古の大規模定住集落跡

★BC7000年 長江流域で最古の稲作跡 

BC5300年 九州で喜界カルデラの噴火。以後西日本は数千年間噴火の影響を受け、人口増加が止まる。縄文時代の人口構成は落葉広葉樹地帯とも重なり、以後中部地方以東に9割という偏った配置になる。

BC6000年 列島の人口は約2万人

★BC5000年 長江文明が発生

BC4300年 ミャオ族の渡来、長江文明発の文化が日本列島に入る
 丸木舟、高床住宅、ヒスイ等江南文化


※縄文早期までの婚姻

人口がまだ少なく、一族の間での総偶婚(全員婚)=族内婚(クナド婚)であった。この婚姻形態が以後、江戸時代まで続く婚姻慣習の基本となる。縄文中期以降は人口密度の多い地域から族外婚(集団外と婚姻)をするようになり、共同体間の緊張圧力を婚姻によって緩和した。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=304426

第2回〜縄文時代前期〜縄文晩期まで

縄文前期といっても長い縄文時代の2/3は過ぎていますので、実質上は中期と呼んでもいいくらいの時期です。前期の始まりBC5000年から始まります。因みに縄文時代の各期の区分は土器の特性変化によって学者が定めたもので、他の時代と違って王朝や戦乱の背景はありません。

ただ、土器の形態変化が気候や集団の外圧と連動しているのも一つの特徴です。


(年代は全てBCで表記)

縄文前期〜中期の気候)
BC6000年〜BC3000年 ヒプシサーマル(高温)期
BC5500年 現在と同じ気温まで上昇
BC3000年 現在より+2℃高い平均気温 青森が東京と同じぐらい
      縄文海進で海抜が現在より5m高い。
      関東平野は群馬県辺りまで海が入り込む

縄文前期)
BC5000年〜BC3500年
 円筒土器文化が北海道南部〜東北地方にかけて拡大
 ※本格的な土器文化が広がる。
 ※定住化が進み拠点集落が各地に点在するようになる
 この期間に列島の人口は2万人⇒11万人に拡大。

縄文中期)
BC3500年〜BC2500年
 大規模拠点集落が東日本に登場する。

 ※三内丸山遺跡(BC3500年〜BC2000年)
 最大人口500人(予測)の巨大集落。三内丸山の周辺にも同様の規模の集落が並存する。栗栽培が確認されており、大規模な建物跡もあり、祭祀や周辺集落のセンター的交流が為されていたものと思われる。

 黒曜石やヒスイの広域交易がこの時代に進む。
 新潟県〜長野県での縄文文化も進み、有名な火焔土器もこの時代に登場
 この期間に人口は11万人⇒26万人(縄文時代最大数)まで拡大。

集団間が近接し、緊張圧力も高まるが、縄文時代を通じて戦争跡はない。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

縄文後期〜晩期の気候)
世界的にはBC3500年から寒冷化、乾燥化が始まり、遠くメソポタミアではこの時代に人類最初の殺し合いの戦争が始まっている。

西洋と東洋は約500年の差が生じるが、中国から日本にかけてもBC2000年から急激な寒冷化が始まる。


※4200年前から地球規模の寒冷化が進み、長江文明を初めとするインダス文明などの古代文明は消滅する。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=184606


縄文後期)
BC2500年〜BC1300年

土器の形状は用途に応じて多様化していくが、この期間に縄文の縄目が消え、摺消縄文になっていく。

環状列石(秋田県大湯環状列石)の遺跡が登場するのもこの時期。

共同墓地、日時計など、石の意味合いには諸説あるが、気候変動に対する人々の思いが切実になってきている時代。

集落は分業、専業化が為され、千葉県や東京では大型貝塚が登場。

茨城霞ヶ浦沿岸で土器による製塩がなされていることが確認されており、塩の生産が為され、各地へ交易された。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=84204


縄文晩期)
BC1300年〜BC950年
縄文後期から始まった寒冷化は晩期から弥生前期でピークになる。
BC500年には−1℃の極寒期を向かえるがここから反転し、AC0年には現在と同じ気温まで上昇する。
列島の人口はBC2000年〜BC1000年の期間に26万人⇒8万人まで激減
過半は西日本に移動するが、東北地方のみこの時期に人口は減っていない。

晩期の最も大規模な遺跡が青森県の亀ヶ岡文化。

遮光土器などで有名だが、亀ヶ岡土器洋式は全国(奈良県、京都)に広がっている。

北九州や出雲に、この時代の寒冷化、大陸での呉越戦争の敗者(江南人)が中国から朝鮮半島を経由して小集団で何派にもわかれて渡来している。

亀ヶ岡文化や北海道南部の縄文文化は弥生時代以降も続縄文時代として後1000年間は継続する。

一方で、北九州を中心に縄文晩期(BC900年)には渡来人の技術を受け栽培、水田稲作が始まる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=304652


46. 中川隆 2015年6月21日 11:20:29 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

日本の歴史(年表)〜日本の私権時代の始まり(概況)
 

弥生時代(BC220年)〜古墳時代、大和朝廷(680年)までを見て行きます。

年表にかかる前にこの時代を貫徹する流れを文章にしておきます。

弥生時代は稲作伝来から半島経由の弥生土器の誕生をもって時代区分にしている。水田稲作伝来は前10世紀に九州に入っているが、拡大は遅々として進まず、稲作が全国に武器、銅鐸の青銅器文化をもって拡大したのは前3世紀以降である。弥生時代が500年早まったとするのではなく、北九州で戦争が勃発した前220年を弥生時代の始まりとする。

クニの始まりとなった弥生時代から大和朝廷形成までは中国、朝鮮半島の戦乱と連動しており。言い換えれば中国、半島の敗北部族の受け皿として、できあがったのが日本国と言える。一方で土着の縄文人、縄文晩期に渡来した江南人が形成した弥生人が新たな渡来人と混合し、文化的にも合流したのが日本でもある。従って渡来人が支配したのではなく、渡来人が日本に融合したのだ。

渡来人と一言でいっても時代ごとに何派も別れて渡来した。
役者だけ見ても以下のようにある。

呉越戦争の敗者である呉越人、秦帝国から逃れた徐福、魏の圧力から逃れた高句麗人、半島で敗れた伽耶人、国の滅亡で送られてきた百済の官僚、

彼らはそれぞれ敗北部族故に最初は日本国内で住み分けて定着するが、3世紀以降は縄張りが接触し、高句麗勢力対伽耶+土着勢力という構図の中で古墳を築造して日本列島にマーキングをしていった。その中で弱体だった伽耶勢力は百済を取り込み、蘇我氏の政治力を使って一気に大和朝廷を築き上げた。

弥生時代前半は呉越戦争の敗者が渡来。

呉越戦争の敗者は日本だけではなく朝鮮半島(馬韓、弁韓)にも渡来し、水田稲作文化を形成した。最も日本に近い、弁韓は伽耶地域とも呼ばれ北九州地域と一体となって倭国を形成する。鉄の生産拠点でもあった伽耶は1世紀には北九州に九州王朝を作るが、これは半島側から見れば、倭国という集合体における日本側の拠点に過ぎない。

一方で中国に登場した秦時代に日本に亡命した徐福率いる技術者集団は各地に散らばり、その後の古代豪族の核となり、各地に伝説(徐福伝説)を作っていく。徐福直系の豪族が3世紀から始まる大和朝廷の中心者となった葛城氏であり、彼が各地の徐福ネットワークを作って畿内を中心に3世紀には王朝を形成していく。

その王朝を形成する契機は出雲から新潟にかけて渡来し始めた高句麗勢力である。

中でも出雲はそれまで拠点としていた伽耶+土着勢力が大規模な戦争で敗れ、中国地方及び畿内に移動する。(物部氏)

高句麗勢力は出雲、尾張、日本海側を占拠するが、畿内に入る事ができず、やがて関東を中心とした東へ拠点を移動する。それが日本史では描かれていない関東日本国という大和朝廷と並存する規模の国であった。日本には古代から西と東には異なる国があったことになる。(古事記、日本書紀は日本支配の為の歴史書でそれら都合のわるい史実は残していない)

高句麗勢力が前方後方墳、土着+伽耶勢力(後に加わった百済勢力)が前方後円墳を形成して列島を埋め尽くすが、7世紀前半から始まる高句麗の弱体化―敗北によって国内の高句麗勢力は勢いを失う。以降は古墳築造が終焉し、それまで高句麗相手に連合していた伽耶系と百済系の争いが起きる。

一巳の変(645年)の蘇我氏殺害をもって優位をもっていた百済系が排除されていくが、蘇我氏の優れた外交、国内統合によって国家として祖形ができた日本は、その後登場した伽耶系の天武天皇、藤原不比等?によって継続されていく
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=305143


47. 2015年6月27日 08:27:40 : b5JdkWvGxs

日本の歴史(年表)第6回〜日本の私権時代の始まり(弥生時代)

上で概観した弥生ー古墳ー大和朝廷の時代を年表で貫通してみていきます。渡来人と土着人(弥生人も含む)が交錯する激動のこの時代は次の時代の律令を以って一旦安定します。


渡来人の系統にわけて見て行きます。

★百済、伽耶系渡来人の動き

■高句麗系渡来人の動き

□徐福系(古代豪族)の動き

☆弥生人(江南人)+縄文人の動き


《縄文晩期》
〜江南地方から少数で九州へ渡来、水田稲作が伝来〜

ただ、稲作は遅々として広がらず、九州地方にとどまる。
☆前10世紀 佐賀 菜畑で日本初の水田遺跡
☆前9世紀 北九州 板付に水田遺跡
☆前7世紀 有明に水田遺跡

呉越戦争 
前473年 呉が敗北 敗者が日本、朝鮮半島に流れる
敗者とはいえ戦争経験者の呉の難民が集団規模で日本に渡来。
朝鮮半島にも稲作を伝え、後に馬韓、弁韓といった江南人のクニを作る。

《弥生時代》
〜日本での私権社会の始まり〜
☆前4世紀 呉人渡来。吉野ヶ里に大規模集落が発生。
    環濠集落 2ヘクタール。高床式住居 多数の戦争跡
☆前220年 北九州で日本初の戦争跡〜クニの統合が進む。

前314年 越が楚に敗北。越人が大量に日本、朝鮮に流れる。
  ⇒九州は呉人のクニがあるので、出雲から新潟にかけて越人が居住。
   今でも日本海側に越の地名が残っている。

☆前140年 青銅器(九州は武器、近畿は銅鐸)を用いた祀り、葬送が始まる。日本で金属器文化が始まる。

前221年 秦始皇帝 中国を武力で統一
□前219年 徐福が老若男女3000人(技術者集団)を率いて日本に亡命
  各地にバラバラに居住し、古代豪族(秦氏、葛城)の基盤となる。


〜北九州にテクノポリス〜
★1世紀〜2世紀 海を跨いで伽耶と九州に鉄の王国(倭国)が出来上がる。伽耶はその後金官伽耶に、九州は日本側の拠点として以後3世紀まで
継続する。金印を授与され奴国と呼ばれるが日本での独立国家ではなく朝鮮半島の拠点。

□1世紀前後 畿内に巨大集落 唐古鍵遺跡が登場する。徐福の末裔が畿内に集結する。

★2世紀 伽耶から来た物部氏が九州を避け出雲、岡山に拠点を作る
★九州の勢力で負われた部族が瀬戸内から畿内に移動。高地性集落発生。


〜高句麗人渡来〜
■2世紀 高句麗が魏に追われ、朝鮮半島を南進。新羅、伽耶を押さえ、日本列島に拠点を作り始める。

■2世紀〜3世紀 鳥取県 青谷上寺地遺跡に53体の戦争遺体の人骨
■高句麗一派が弥生人を駆逐し、出雲に拠点を作る。4隅突出墓は高句麗にしかない様式。
 ⇒乱暴者スサノオ伝説は高句麗がモデル。
 ⇒☆出雲の原住者(オオクニヌシ)は追われて畿内(三輪山)へ移動
  〜出雲神話

3世紀 青銅器遺物がこの頃なくなる。《弥生時代終結》
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=305334


48. 中川隆 2015年6月28日 12:12:16 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

日本の歴史(年表)第7回〜日本の私権時代の始まり(古墳〜大和朝廷)


=渡来人の系統にわけて見て行きます。=


★百済、伽耶系渡来人の動き

■高句麗系渡来人の動き

□徐福系(古代豪族)の動き

☆弥生人(江南人)+縄文人の動き


《古墳時代》
☆□3世紀半ば奈良の箸墓に280mの最古の巨大古墳が登場
 高句麗勢力に押されて畿内で戦争圧力の上昇
 唐子・鍵遺跡を作った徐福系(葛城)と出雲から逃れた伽耶系(物部)が合流する。

☆3世紀の邪馬台国があったとされているが、畿内でも九州でもなく、邪馬台国の場所は日本ではなく、倭国(朝鮮半島)にあった模様。刺青の風習からして江南人文化圏。184427


■4世紀 前方後方墳による高句麗勢力の拡大
 出雲⇒尾張⇒関東へ
  〜畿内は古代豪族(葛城)の拠点で落とせず。

■5世紀〜 長野に馬文化の登場(大室古墳群)〜高句麗勢力による開発
  関東に高句麗勢力+縄文人によって作られた大和と相並ぶ関東日本国が形成される。

5世紀 新羅、高句麗に押され百済が弱体化
★百済の高官 蘇我氏が日本亡命
  以後の百済渡来人を組織化、結集する。

★513年 仏教の伝来(百済から五経博士)

《大和朝廷時代開始》
★6世紀 巨大古墳の築造 畿内の伽耶人+土着集団に百済人が合流。
 河内へ拠点が広がる。世界最大の構造物である仁徳天皇稜が築造
 渡来人の間で発生する戦争圧力を古墳競争で昇華。

★527年 磐井の乱 弥生から続いた九州勢力が大和に組み込まれる 

6世紀 高句麗本国の滅亡の危機。国内高句麗勢力弱体化

〜天孫降臨伝説〜アマテラスは百済人?

★587年 蘇我氏が物部(守屋)を滅ぼす。
  伽耶系から百済系へ。蘇我氏による中央集権国家の基礎が作られる。
  仏教、屯倉の管理、戸籍制度、土木開発、寺院建設など進む

★6世紀 推古天皇〜最初の女帝(推古はたぶん土着系)

★593年 聖徳太子摂政になる。17条憲法
    聖徳太子は架空の人物。蘇我氏自身の可能性が大。

★600年 遣隋使 日本国を名乗る。天皇を名乗る。

★645年 一巳の変〜蘇我氏殺害《伽耶系の反乱》
★645年 大化の改新
    改新はしておらずほとんど蘇我氏のシステムを転用。
    以後、蘇我氏の中央システムが律令時代まで続く。

★646年 薄葬令により古墳築造禁止
《古墳時代終焉》

663年百済滅亡
★663年白村江の戦いで敗北 勝目のない百済奪回を目指す謎の戦争
   伽耶勢力が国内の百済人減らしを目論んで仕掛けた可能性大

★664年防人制度 九州に水城作り唐の圧力に備える。
   この時代が最大の外圧

668年高句麗滅亡

★672年 (伽耶系)天武天皇即位 実質初代天皇 西日本統一
★701年 大法律令成る
★710年 平城京へ遷都
《奈良時代開始》
★718年 (伽耶系)藤原不比等による養老律令成る(不比等実権を握る)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=305365


49. 中川隆 2015年6月28日 12:42:37 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs
上の年表には

聖徳太子は架空の人物とか、邪馬台国は朝鮮半島にあったとか

滅茶苦茶な主張もありますが、そこは読み飛ばして下さい。


50. 中川隆 2015年7月06日 21:20:42 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

日本の歴史(年表)第8回〜奈良、平安時代は日本の胎動期
 

奈良、平安時代の500年間を見ていきます。

先の投稿でも触れたが、日本は土着民(縄文人+弥生人(縄文人と江南人の混血))に朝鮮半島からの伽耶、百済、高句麗の敗族が渡来し、住み分けた国である。ただ、伽耶系、百済系は勢力争いを続け、百済系の蘇我勢力が追い落とされて以降はその両者は凌ぎを削る争いを続けながら、土着民とは一線を画した貴族文化を形成していく。

一方、高句麗系は関東から東北にその基盤を作ったが、本国が消滅して以降は土着民の中に埋没していく。しかし、鎌倉時代の前には武士として頭角を現していき、後の時代の幕府勢力を作るまで盛り返していった。

こうして朝鮮半島の3つの勢力は江戸時代にいたるまで脈々とその系譜は流れていった。そういった史観の中で時代を見ていきたいと思う。

【奈良時代】

奈良時代は藤原不比等が実権を持つことで、天皇制度が換骨奪胎していく。2番手の太政大臣である不比等が全権をもったのである。天皇は祭祀のみを扱う職に転落し、以後の時代まで続いていった。

古事記や日本書紀で歴史を捏造し、租庸調雑徭、戸籍制度が敷かれ、唐を模倣した中央集権国家として上級貴族に富が集中、三世一身法、墾田永世私財法によって土地の所有を部分的に認め、日本で初めて私権社会のしくみを作る。

同時に国家力を高める目的で各地に国分寺を建設、仏教を国家仏教として定着させる。同時に中央には金色の東大寺大仏を作りその力を示した。

平城京では日本初の市場である東市、西市が出来上がる。
貴族、寺院を中心に初期荘園が開始した。

奈良時代は基本的に唐を模倣する時代で天平文化として建物、彫刻が作られる。遣唐使は630年〜894年の間に20回、遣新羅使も675年〜779年の間に22回行われ、大陸、半島文化を積極的に取り入れた。

不比等亡き後は皇族系(百済)と貴族系(伽耶)で抗争が繰り広げられ、長屋王の変など有力者が殺される事件が相次ぐ。災害、伝染病が流行し、庶民にとっては受難の時代でもあった。


【平安時代】

平安京を建てた桓武天皇は百済系である。それまでの伽耶ー百済の争いに終止符を打つ為に京都に中心を移す。桓武の後の嵯峨天皇まで唐風文化一色に染め上げ、日本はこの時代最も中国に近い国になる。

ただ則天武后が就いて以降、唐の国内が荒れ始め、それまで唐の脅威に怯え、ひたすら国づくりを続けてきた状況が一変する。

新羅、唐の圧力が弱まった事でその兵力を国内統一に向けた。それが平安初期に起きた蝦夷討伐である。それまで縄文時代の延長で継続してきた東北地方に支配の手が伸びた。象徴としてアテルイを京に連れ戻し処刑するといった行為で力を示すが、所詮遠方の東北、以後も東北の縄文体質は残り続ける。

それ以降に平安貴族による内向きの歴史が始まる。文学、食、建築に現れ、やがて女性中心の貴族社会が日本初のかな文字を生み出す事になる。

平安貴族文化は政治より恋愛に暮れ、力のある者(藤原)は己の地位を固める事だけに終始した。

907年に唐、935年に新羅が滅び、大陸の外圧が弱まると必然的に国内統合の圧力も弱まる。平安時代中期には奈良以降続いてきた律令制度は機能しなくなり、国内は無秩序な社会に突入する。受領という職を作り税の徴収を一任するが、人格も無く内実が伴わない受領達は各地で混乱を引き起こす。

農民は自らの生きる場を守る為に武力を用意し、防衛した。それが武士の始まりである。日本における武士は西洋の騎士と大きく異なり、戦闘や侵略で始まったのではない。大衆が自衛するための必要な武力だったのである。農民の中から武士は誕生し、地方をまとめる位置に最下層の貴族だった平家、源氏が登場した。この時代に農業開発(荘園)、貿易(日宋貿易)が盛んに行われ、瀬戸内海で海賊が跋扈し、東北では奥州藤原氏が頭角。畿内中央から地方の時代に移行する。

武士は10世紀に関東で最初に登場し、坂東武士達が連合を組んだ。平将門が東に建てたのが坂東武士(高句麗系の末裔)を中心とした武士連合であり、短期的に天皇に対抗する東の独立国家を形成した。以後鎌倉まで連綿と東の武士集団が継続し、将門の乱が起きて250年後にまったく同じ地に日本初の武士の国(鎌倉幕府)が登場した。この幕府は源氏が主導したが、高句麗系の東の勢力が実権を持ち盛り返したと見ることも出来る。

平安時代400年の国内は決して平安ではなく激動だった。そして、渡来文化が日本の風土に合わせて租借改変され、後の日本の仕組みが生まれる胎動期でもあった。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=305628


51. 中川隆 2015年7月18日 11:35:47 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

日本の歴史(年表)第9回〜奈良時代の年表(国家作りという名の唐模倣)
 

奈良時代の90年間は藤原不比等が立ち上げ、手中に権力を集中させたが、唐の外圧が高まる中、模倣と防衛、国内的には権力の主導権争いに終始した非常に混乱した時代でもあった。国家仏教に代表されるように中央から地方へ、大衆へとその圧力がまだ届いていた時代でもあった。


■国家統合□私権制度★主導権争い☆市場・外交関係△大衆 に分けて年表を作成する。

■701年 大宝律令成る 持統天皇による律令の立上げが為される

★708年 藤原不比等右大臣へ登用 実質ここから不比等に権力・冨が集中する。(不比等の年収は一般の官人の1000倍)⇒同時に天皇は神事と象徴として実質権力を失う。

△690年 戸令により戸籍制度が作られる。
 ⇒大衆は国から土地を与えられる代わりに戸籍に登録される。

△租庸調雑役によって大衆は税を搾り取られるが、大衆側からは取立てという概念はまだなく、存続するために納めるという義務の意識が高かった。

相次ぐ私有制度の制定

□723年 三世一身法により土地私有を国が認める。(但し3世代まで)
 ※真意は新田の開墾を推進する為と、そこからの徴税にあった。

□743年 墾田永年私財法 開墾すれば私有できるという制度で墾田の永年 私財を認める⇒寺院中心に拡大し、後の荘園制度に引き継がれる。
 ※三世一身法ではぬるいとしてさらに私有意識を高めた。

□8世紀後半〜寺院を中心とした荘園制度が広がる。
〜開墾面積は一気に拡大

■710年 古事記(国内向き統合)
 712年 日本書紀(唐向きの発信)が相次いで編纂
 〜編纂者の名はあるが、実態は不比等の命で作られた歴史捏造書。
 権力と史実(捏造した)により、必然として不比等は君臨した。

■718年 養老令成る 藤原不比等による発布。但し施行されるのは40年後

国家仏教の動き

■645年 仏教興隆の詔 仏教を国家として推進する声明が出る
背後には唐の外圧〜仏教の教義より、側としての仏教が必要だった
唐の職人、技術を輸入し、仏教建築、仏像が先行して作られる。
〜大衆には全く広がらない。

仏教を中心とした文化=天平文化(729年〜745年)が官人中心に広がる。
中央の仏教建築
■726年 東福寺■730年 薬師寺■745年 東大寺起工
■752年 東大寺大仏 正倉院

■737年 諸国に造仏命ず
■741年から地方に国分寺を建造する
■官人要請として学校制度が始まる
 大学(中央官人) 国学(地方官人)で学生は400人〜30人で運営
 唐の科挙に倣ったが、科挙に代わる制度は最後まで日本には根付かず。

■759年 万葉集〜国内で初めて文学が広がる
■749年 行基〜仏教を推進、同時に土木工事を各地で施行
■763年 鑑真〜中国から渡来、戒律を伝え、国内での思想仏教の始まり。

権力争い

天皇は奈良時代を通じて8代続くが、女帝も多く、実権は藤原氏(伽耶系)と他皇族(百済系)で交互に奪い合った。
720年不比等亡き後は長屋王(皇族系)が奪取

★729年 長屋王の変
★729年ー737年 藤原氏が奪い返すが、4子が次々と病死
★740年 藤原広嗣の乱では1万人の兵がぶつかる
★737年 橘氏が就くが、聖武天皇が転々と遷都を繰り返す。
その後は藤原氏と皇族氏の武力を用いた戦争が続く。当然国内統合は乱れ、その間に荘園制度が進む。

平安京を起こした桓武天皇は蘇我系から連なる百済系の一派で、藤原家からの権力奪取と天皇中心の中央集権を目指し、奈良を捨て、京都へ移る。
国内的にはここで権力中枢の転換が起きる。

外交関係

奈良時代は唐の外圧が徐々に弱まる課程にあったが平安に入るまではひたすら唐を模倣する形が続いた。唐が弱体化する9世紀以降に激減し、無くなる。

☆遣唐使 630年〜894年の間に20回(但し奈良時代が過半)
☆遣新羅使 675年〜779年の間に22回(同上)

一方で渤海との関係は唐、新羅の2国とは異なり、貿易、交易という関係で民間中心に継続した。交易品は昆布や人参、干魚といった実物だった。
☆渤海使 727年〜919年の間に33回
☆遣渤海使 728年〜811年の間に13回

唐に脅威をいだいていた朝廷は
758年 大宰府を作り、防人を全国から集める。いわゆる自衛隊である。

市場の始まり

☆平城京では東位置、西位置が行われ、全国の珍物が並ぶ。
708年和同開珎の銅銭が国内で初めて作られるが、貨幣経済には移行していない。

△大衆は重税の重みに耐えかね、徐々に逃亡、奈良時代半ばには戸籍制度が崩れ始める。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=306106


52. 2015年7月22日 08:42:05 : b5JdkWvGxs

日本の歴史(年表)第10回〜平安時代の年表(武士の歴史は私権社会に対する集団防衛から始まった)
 

>平安時代400年の国内は決して平安ではなく激動だった。そして、渡来文化が日本の風土に合わせて租借改変され、後の日本の仕組みが生まれる胎動期でもあった。


先の投稿でこのように定義したが、平安時代とは日本社会が受け入れがたい私権社会に突入する過渡期であり、混乱期でもあった。そういう中で集団防衛の為に登場したのが武士であり、その武士達を組織化する為に新たな源氏ー平氏といった勢力争いが起きた。

平氏は桓武系列で百済系、源氏は藤原系列で伽耶系と見る事もできるし、後の北朝が源氏、南朝が平氏としてみる事もできる。いずれにせよ日本にはこの2つの勢力が長く明治時代まで残り続ける事になる。しかし、関東にこの2つの勢力が集結したという事は関東で力をつけてきた高句麗勢力が水面下に存在していた事を匂わせる。その高句麗末裔の一派が無類の強さであった坂東武士達であったのではないかと推測できる。


平安時代は最初の100年、次の100年、最後の200年間で大きく分けて見る事ができる。今回は最初の200年間を年表に表してみます。

桓武天皇が藤原系から権力を奪取するところから始まります。

□百済系(南朝) ■藤原系(伽耶系・北朝)★武士(高句麗系)△大衆
☆争い

□781年 桓武天皇即位
□784年 長岡京遷都
□794年 平安京遷都 百済系の桓武故により唐風文化が強まる

△795年 公出挙率を3割減らし、雑徭半減⇒大衆の締め上げを減らす。

☆桓武の後の平城天皇で再び平城京に遷都するが、直ぐに嵯峨天皇が対立し再び平安京に遷都 806年

□816年 検非遣使を京に置き、警備を強化する。
    国家中枢による武力社会が進行する

東北制圧

蝦夷を配下に置くことは大和朝廷からの積年の課題であった。
古くは斉明天皇時代の阿部比羅夫の658年蝦夷進行に始まる。
以降、奈良時代にも数回に渡り蝦夷へ兵を送り柵を造営する。

☆724年 大野東人 多賀城設置

唐の圧力が弱まった平安時代、兵力を一気に国内に向け、本格的に蝦夷制圧が始まる。788年から攻め続け、アテルイ初めとする東北の縄文末裔の集団である陸奥制圧に50年かけて到達する。

☆788年 蝦夷制圧進出
☆789年 朝廷軍 アテルイに大敗
 797年 坂上田村麻呂 日本初の征夷大将軍
☆801年 蝦夷制圧
☆803年 アテルイ降伏 陸奥に胆沢状築造
※京に検非遣使を配備し、蝦夷の武者をその任に就かせた。


平安初期の唐風文化

国家仏教は平安に入っても継続。建物中心の奈良時代から思想、教義中心の中身を伴うものを求めた。しかし唐の仏教は国内に入って改変され、結果的にはその後の神仏習合に繋がる租借が行われた。

一方で仏教はその統合力が為政者に利用され、最澄を初めとする天台宗は国家と密接に繋がる特権集団になっていく


804年 最澄による天台宗開祖
806年 空海が密教を持ち込み真言宗を開祖
唐風文化は嵯峨天皇の時代に終わり、以降は唐文化を日本流に改変する平安文化が京都で育っていく。

それはその時期に唐と朝鮮半島で時代交代が進み、一時的な無風状態になった事と符合する。

この間の大陸との関係、大陸の動き

779年 遣新羅使中止
894年 遣唐使中止(但し平安時代には数回しか遣唐使を出していない)
907年 唐滅亡
935年 新羅滅ぶ
936年 高麗による朝鮮半島統一
960年 宋建国

その間に朝廷、貴族で女流中心の文化が生まれる。⇒かな文字の登場
万葉仮名から11世紀には女手と呼ばれ、それがかな文字となって登場。
11世紀後半には片仮名も誕生する。

9世紀〜11世紀の間に文学が登場
9世紀 竹取物語
10世紀 伊勢日記、古今和歌集、土佐日記
11世紀 枕草子、源氏物語

しかし、この200年間は朝廷が社会から浮世として切り離された為、世は荒れ、秩序は混沌としていた。

天皇家中心の政治は嵯峨天皇以降再び藤原家に乗り換えられ、摂関政治として以後1075年の藤原師実まで続く

■884年 藤原基経
■901年 菅原道真
■995年 藤原道長

★武士の誕生はそういった中央と地方の分断の中から発生した。

901年 延喜の荘園整理令
 これ以降、荘園私有(寄進系荘園)が広く認められ、有力農民が土地を所有し開発領主に成長する。負名の登場⇒後の武士になっていく。

■同時にそれまで国司によって中央から派遣されていた税の取立てが、言わばサラ金のような受領という役職にとって代わられ、受領の横領によって地方の税は収奪され、そこから守るための自衛組織 武士が登場した。

★武士は国の直轄のものと地方から成り上がってきた物に分かれたが、最も武力を有し、頭角を現してきたのが関東中心の坂東武士に象徴される防衛組織だった。

□935年〜940年 平将門の乱は彼ら土着武士を組織化し、朝廷に対抗する東の国を一時期作り上げた。

■平将門を平定したのは清和源氏の源氏系武士だった。
以降、平氏対源氏と言った武士を統括する勢力争いが起き、それが平安時代の後半の歴史に繋がっていく。

平氏と源氏の争いもまた百済系と伽耶系(土着系)の争いでもあった。
しかし平氏は海洋系でもあることから明確な百済系ではない。おそらく縄文土着と弥生系混血の海洋民(安曇族達)を百済系が取り込んで勢力を拡大しようとしたのだと思われる。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=306117


日本の歴史(年表)第11回〜平安後期から鎌倉は源氏支配の安定期
 

平安時代後半から鎌倉時代を見ていきたい。

この時代は平安前半の百済系貴族と藤原家との折り合いをつけた腐敗政治につけこんで源氏と平氏が頭角を表した時代だが、結果平氏は滅び、源氏が支配権を広げる形で鎌倉時代まで続く。鎌倉時代は幕府ができ、初めて東日本に日本の中心が移動したが、後の江戸時代と同様、東日本(高句麗系)の武士を味方につけ、安定した時代でもあった。

この時代にモンゴル率いる世界最強の軍勢を退けたのも、鎌倉幕府の統治の力であった可能性がある。

この時代の年表を振り返ってみたい

★百済系=平家=南朝 ☆伽耶系=藤原家=北朝で見ていく

★1129年 鳥羽上皇により院政が敷かれる。天皇が実権を握れない摂関政治に対する反発でもあった。
★1179年 後白河天皇の時代に院政終わる
★1156年 保元の乱、1159年平冶の乱で平氏が源氏を圧倒
★1180年〜1247年 日宋貿易 平氏は莫大な経済力を得る
 平氏が海洋系武士であった事が優位に
☆1083年 平氏に追われた源氏の一派(義経)が東北地方に進出
 土着武士であった清原氏率いる奥州藤原が東北を支配する。
 清原氏は藤原氏を途中で名乗る。
★壇ノ浦の合戦で源氏が平氏を滅ぼす
☆1189年 源頼朝が奥州藤原を平定し、源氏の東北支配を確定
☆1192年 源頼朝が征夷大将軍に命じられ、鎌倉に幕府を建てる

 ※北条氏と婚姻し、天皇家と混血を結ぶ
 鎌倉幕府の最大の特徴は東国支配にあり、この時初めて東西を支配する勢力が日本に誕生する。

国外の動きはモンゴルの台頭で一変する

1206年 チンギスハーン即位
1231年 モンゴルが高麗を攻め降伏に
1260年 フビライハーン即位
1271年 元王朝 初めて中国がモンゴルの支配下に落ちる
 日本はこの時代、南宋と交易を続け、モンゴルの反発を買う

1274年〜1281年 元寇によるモンゴルの攻勢が続くが、1281年文永の役での神風も味方してモンゴルを排除する。

鎌倉時代は平安後期に登場した武家社会を確固たるものに固めていく。
そういう中で、農業生産が飛躍的上昇し、それまでの荘園ー小作農という関係から、有力農民が自力で村を作る惣村が14世紀前半に畿内で登場。
〜以後、民衆の力が台頭する(共同体の再生)⇒後の一揆に繋がる

一方で、仏教はそれまでの国家宗教から民間宗教へ移行
いくつもの宗派が生まれ、その中で浄土宗、浄土真宗が拡大。本願寺が力を持ち始める。国家仏教は天台宗として継続。天台宗は武力を兼ね備え、その後仏教界で対立を引き起こす。

1333年 源氏の一派である新田氏、足利氏の反発により、北条氏を押さえ、鎌倉幕府が終わる。

★後醍醐天皇を隠岐に流し、足利氏による室町幕府が再び京都に誕生する。

その後、南朝を作った後醍醐天皇と北朝の足利氏の間で南北朝戦争が始まる。室町時代は再び百済(南朝)ー伽耶(北朝)の争いが勃発した不穏な時代であった。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=306224


53. 2015年7月27日 10:07:29 : b5JdkWvGxs
大和朝廷の誕生から明治維新まで〜不比等を百済系として組み立てなおす
 

※これまでの日本史の解説の中で1点大きな誤りあった。蘇我氏を百済系とし、藤原不比等を伽耶系とした所である。これで歴史が見えなくなっていた。今回、蘇我氏を高句麗人、不比等を百済人として組み立てなおした。以下がそのストーリーである。この方が現在に繋がってくる。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

大和朝廷が誕生する前夜には日本列島には江南系、伽耶系と高句麗系が入り込んでいた。また前200年に渡来した徐福系(江南系)も畿内を中心に各地に配置されていた。

しかし渡来人はまだ少数で、土着の縄文人と混血し、江南人⇒弥生人、伽耶系⇒倭人、高句麗系⇒縄麗人(造語)が混在していた。

2世紀後半に出雲を高句麗系が支配し、それまで出雲に居た土着江南系を排除。江南系はそのまま畿内に移動する。畿内は既に徐福系の末裔である葛城が牛耳っていたが江南系故に馴染み合流する。

一方、伽耶系出自の物部氏は鉄のルートを持っており、高句麗系が前方後方墳で勢力を拡大するとそれと対抗するように前方後円墳を中国地方を中心に作っていく。
この前方後円墳のネットワークに加わったのが畿内にいた徐福系葛城である。3世紀に巻向に古墳を築造してしばらくは高句麗と対立する。高句麗系は中部地方、関東に拠点を移し、関東に「日本国」を建立しにらみ合いが続く。

しかし、6世紀に大陸からの外圧が高まると高句麗の高官である蘇我氏を取り込み、それまで対立していた伽耶―高句麗―江南系が一つになった。蘇我氏を登用したのは徐福系の葛城だが、それに異を唱えた物部系と対立、物部―蘇我氏の対立から蘇我氏は物部を排除する。

一方6世紀後半から本国の敗走により続々と渡来する百済人が大和朝廷に合流するが、上で管理する蘇我氏が邪魔として、クーデターを起こす。蘇我氏暗殺である。
以降は百済系の天智―藤原(鎌足)が政権を取る。百済奪還を試みるが、敢え無く敗北。そこに滅亡した国、百済の高官不比等が渡来する。不比等は藤原鎌足の息子と成り代わり、持統天皇の元、太政大臣に昇格。その後の日本の律令を定めていく。

ただし、不比等は渡来して百済の後ろ盾がなく、止むを得ず土着伽耶系の豪族と手を組む。奈良時代とは百済系不比等と伽耶系豪族の連合政権であった。奈良時代に勃発した権力闘争は、百済系対伽耶系での主導権争いで、そういう意味では奈良時代は百済系の純粋王朝ではなかった。不比等が最も消したかったのは蘇我が立ち上げた高句麗系の日本の律令史であり、自らの百済の出自だった。不比等の系譜を日本古来から存在する藤原に仕立てたのだ。日本書紀、古事記はその為の歴史書として編纂され、日本の捏造史と併せて百済、伽耶が都合よく書かれた。

平安遷都は桓武天皇によってなされるが、それまで伽耶系が混在する奈良から決別する目的もあった。従って桓武天皇は平安朝になるや否や、百済系で周りを固め、唐風文化を極端に推進する。平安時代は桓武―嵯峨天皇の後再び藤原家が摂関政治として中心になるが、藤原家が試みたのは唐風ではなく日本風だった。平安貴族200年の間に文学が発展し、日本独自の文化が生まれたのは、藤原の意図と重なる部分があったのではないか。

平安時代は後期に武士の時代に突入する。武士の中核をなしたのは高句麗の末裔たちだ。

馬を操り、戦争にも強かった高句麗系を取り込むのは朝廷の積年の課題だった。

平氏、源氏といった最下層の貴族たちが武士の管理に借り出されるが、百済系に仕えた平氏がその海洋民としての力で一時期財を成すが、都落ちし関東に基盤を作った源氏に後世に滅ぼされる。源氏は高句麗系の坂東武士をまとめる事で鎌倉幕府を立てる。

以降、鎌倉は高句麗系武士と伽耶系源氏といった相性のよい関係から、平安時代の律令に対し、民衆の自治を重視する大衆政治が行われる。仏教が大衆に広がり、惣村も立ち上がる。言わば百済系律令からの脱却の時代だった。

室町は源氏系の新田、足利がその大衆自治路線をそのまま京へ持ち込んだ。百済系はこの時点で完全に水面下に下る。南北朝戦争はそこからの逆転を狙った南朝(百済系)の謀略だった。

このように天皇家は長らく百済系が握り、一方で幕府、武士階級は伽耶系、高句麗系が担っていた。戦国時代には尾張の武将、信長、秀吉が台頭するが、彼らもまた土着伽耶系或いは高句麗系の由来だったと思われる。キリシタンを再三にわたって排除した事や、天下統一を争いをなくす為に果たそうとした信長の意思は大和朝廷のそれと似通っている。

さらにそれを推し進めたのが家康である。鎌倉幕府同様、日本の東を押さえたことで安定政権を取る。大衆自治を推進した家康もまた高句麗系由来の武将だった可能性が高い。

日本はこのように武家社会が高句麗系(伽耶系)で固められ、一方で天皇、公家が百済系で固められた。明治維新はその構図を逆転する為に起こした百済天皇家のクーデターである。

金貸しがその構図に気が付き、そそのかしたのである。明治―昭和とそれまで単なるお飾りにすぎなかった天皇が主権を担うようになる。日本の事などどうでもよい連中が主権を取ったのである。結果は火を見るより明らかだった。明治が日本社会の崩壊期の始まりであり、平成になった現在でもその系譜は途絶えていない。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=306362


54. 2015年7月27日 17:01:25 : zorfcU9oeI

沖縄方言は日本語だから当然だ。
沖縄出身女優・仲間某は日本が大嫌いな反日らしいが、変なの。
御主人は誰かにウリ二つだし。

韓流研究室
http://toriton.blog2.fc2.com/blog-entry-3259.html

★沖縄人ルーツ「日本由来」 
 南方系説を否定
 沖縄タイムス 9月17日(水)6時0分配信
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140917-00000005-okinawat-oki ☜(削除)


55. 中川隆 2015年10月06日 14:39:12 : 3bF/xW6Ehzs4I : b5JdkWvGxs

13 :記憶喪失した男(愛知県):2015/10/02(金) 17:51:50.92 ID:p9E9p5WU

日本人Y-DNAハプログループ比率
D1b--32%
O2b--32%
O3---20% (漢皇帝家5%、周王室9%)
C2----6%
C1----5%
O2a---1%
O1a---1%
N1----1%
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等)サンプル数2390


今、注目しているのは、ミトコンドリアDNAのBハプログループはタヒチの女性のハプロで、 非常に筋力があるといううわさです。2000キロの海を渡った古代人女性のハプロに興味があります。
また黒人選手が運動では強いですが、その遺伝子的根拠にも注目したいです。

14 :記憶喪失した男(愛知県):2015/10/02(金) 17:52:17.63 ID:p9E9p5WU

不勉強ながら、中国皇帝家のY染色体ハプロを書きます。

殷   O2a-M95 (O3だという説も有力)
周   O3a2c1a-M117(確定。この子孫は大繁栄した)
秦   O3a2c1a−M133(始皇帝は周王室と同祖)
項羽 O3a3b*-M7
漢   O3a1c-002611
曹魏 O2*-M268(xM95) (O2だと確定してますが、O2aなのかは未確認)
孫呉 O3*-M122(xM324)
晋   O2*-M268(xM95) (謎)
北魏 O3a2c2−F444(どうやら北魏の鮮卑の拓跋氏の子孫はO3のハプロのようだ)
隋   O3a2c1a-M117  (周王室と同祖)
唐   O3a3*-P201(xM7,M134):O3a2c1a−M133(唐は始皇帝と同祖)
宋  O3a2c1a−M133(宋は唐と同祖)
元 C2e1a1a−C407(有名なチンギス・ハンの子孫)
明   O2*-M268(xM95) (O2aで確定)
清 C2b1c1−C401(ヌルハチの子孫)

おまけ。
孔子 O−F316(O3で周王室と同祖になる)
http://anago.2ch.net/test/read.cgi/emperor/1443702463/l50


56. 中川隆 2015年11月30日 13:52:40 : 3bF/xW6Ehzs4I[1094] : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw

アジア史の中の日本1(縄文・弥生時代)


●モンゴロイドの形成と拡散

日本古代史を考える上でも、自然圧力(気候変動→食糧生産技術の発展)と同類圧力(縄張り闘争→外交・戦争)が重要であり、同類圧力については中国大陸や朝鮮半島からの人口や文化・制度・思想の流入、更にはモンゴル高原やチベット高原の遊牧民たちの動きを抑えることが重要である。

モンゴロイドは中央アジアを中心に北方適応した北方モンゴロイドと、東南アジアのスンダランドで南方適応した南方モンゴロイドに分かれる。日本には南からも北からも様々な遺伝子タイプのモンゴロイドがやってきた。主力は縄文人の中核をなしているD2タイプだが、原中国人の流れを汲むO1、O2タイプ(稲作を日本に伝えた倭人)、新モンゴロイドO3(いわゆる天孫族)、原モンゴロイドに近いC1タイプ、現在のシベリアに多く存在するC3タイプもいる。

ブリヤート人と日本人の共通遺伝子C3に注目した日本人北方起源説が注目を集めているが、縄文時代の中心勢力はD2。彼らはモンゴル高原周りで入ってきているが、モンゴル高原に定着していた時期は温暖期で、北方適応することなく日本に入ってきている。従って、縄文人の主流は、南方モンゴロイドによってつくられた。

●私権闘争に突入した中国と、贈与外交で戦いを回避した日本

中国では、南方モンゴロイドが長江を中心に稲作・漁撈文化を、北方モンゴロイドが黄河を中心に畑作文化を形成。西方・北方にはチベット族、モンゴル族、ツングース族が遊牧・狩猟文化を形成した。人口増で同類緊張圧力が高まると、北方から父権社会に転換。私有意識が登場する。寒冷期には遊牧民が豊かな黄河に侵入、夏(チベット族)→殷(モンゴル族)→周(チベット族)といった国家を作り出した。初期中国文明は、西方のチベット族と北方のモンゴル族の中原を巡る覇権争いであった。

この頃、日本列島でも集団規模が拡大し、同類緊張圧力が高まったが、黒曜石や翡翠を贈与しあうことで緊張を緩和し、戦争を回避した。そして次第に巫女が力を持つ母権社会を形成していく。

●遊牧騎馬民族によって作られた中国・朝鮮の封建社会。大陸・半島の没落貴族たちを受け入れ出来上がった日本の豪族社会

中原の覇者となった周は王の血縁者を地方の諸侯として送り込み、地方を徳を持って統治させる封建制度を始めたが、後代になると、諸侯の反乱が起こり、春秋戦国時代に突入した。その争いの中で、長江流域=江南地方に栄えた呉・越が滅び、更に楚が滅んだ。そして江南人(倭人)が朝鮮半島南部と日本にも流入し、稲作文化を伝えた。

朝鮮半島は三韓(馬韓・弁韓・辰韓)の時代を迎える。馬韓・辰韓は、北方のツングース扶余族の侵攻を受け、国家体制を強化していったが、南方の弁韓→伽耶は部族連合的色彩を強く残した。

日本の縄文人たちは寒冷化によって稲作文化は受け入れたが、北方騎馬民族の侵攻を直接的に受けることはなかたので縄文時代の友好関係を延長した銅剣・銅矛のネットワークが作られていった。(縄文人×倭人=弥生人の形成)※倭人世界は日本列島だけでなく、朝鮮半島にも広がっていたことに注意が必要。鉄の産地である伽耶と日本を行き来していた海人族のネットワークによって、日本の稲作文化は急速に広った。

寒冷化に伴って匈奴による中原への侵攻が激化すると、匈奴に対抗する長城をつくり、下克上の時代を統一したのが秦。西方文明を取り入れユダヤ人説もたえない秦の始皇帝は、焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)を行い、徳に変わって厳罰主義の法家の思想で支配した。それを逃れて日本に大船団でやってきた徐福一派が、最新技術を日本に広め、秦氏など古代豪族の基盤をつくった。(なお徐福は秦に最後まで抵抗した斉に住んでいた越人であったとの説あり、先住の弥生人たちも喜んで受け入れたのだろう)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=309774

アジア史の中の日本2(古墳時代)

●統一国家に向かう中国・朝鮮と権力誇示のための古墳競争を繰り広げた日本

寒冷化で遊牧部族の争いも激しくなり、ツングース系の鮮卑族が中国に侵攻し、魏→隋→唐を建国。均田制、科挙制度、仏教によって支配体制を固めた。このように漢民族は遊牧民を侮蔑しているが、実は中国の基礎は寒冷化の度に押し寄せてくる遊牧騎馬民族がつくったのである。

中原を巡る争いは朝鮮半島にも飛び火し、特に伽耶の鉄の交易を巡って、漢が直轄地(楽浪郡・帯方郡)を置くなどの動きを見せ、混乱を極めた。魏志倭人伝にいう倭国大乱とは実は、この時期の朝鮮半島における動乱を指し、邪馬台国も実は朝鮮半島にあったとする山形明郷説が最も妥当性が高い。半島ではこうした大陸と半島の動乱は、高句麗が楽浪郡・帯方郡を滅ぼすことで一旦終結し、百済・新羅の国家体制の確立をもたらした。        

絶えず、北方の騎馬民族の流入に悩まされていた大陸と半島の諸国には、海を渡って日本を直接支配するような余力はなく、むしろ高句麗にしろ百済にしろ日本の援軍を頼る関係であった。従って、大陸の動乱は日本には間接的な影響に止まり、豪族連合の結束強化という動きとなって現れた。その結果、前方後円墳や前方後方墳といった同形の古墳ネットワークの拡大競争が繰り広げられ、古墳は巨大化していった。

奈良巻向を皮切りに西日本を中心に広がりをみせた前方後円墳は、葛城氏ら西の海人族系豪族を中心に作られた、西の古墳人の豪族連合である。また前方後方墳及びその前駆形態である四隅突出墓は、出雲から東海・長野を始め東に逃れた、新羅・高句麗系の東の古墳人の豪族連合である。この古墳競争は、高句麗・新羅連合が百済・伽耶を消滅させ、高句麗系蘇我氏が伽耶系の物部氏を屈服させたことを持って終結する。

なお聖徳太子(その実態は蘇我氏)が「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す」と隋との対等関係を強調したのは、蘇我氏が隋と同格のツングース族の長の末裔であることの証明であろう。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=309779


57. 2015年12月01日 22:37:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw

アジア史の中の日本3(平安時代)

●百済の没落貴族=藤原不比等によって改竄された日本の歴史

中国は隋、唐と、ツングース系鮮卑族による統一国家、朝鮮半島は新羅による半島統一が成し遂げられる。こうした中、日本も豪族連合の段階から統一国家を目指していく。

日本では百済系藤原鎌足が蘇我氏を殺害するというクーデター(一巳の変)が起こり、唐と新羅によって百済が消滅すると、百済奪回という大義名分の下、勝ち目のない白村江の戦いに日本は乗り出していった。これはそれまでの豪族連合国家・日本が、百済の没落貴族である藤原氏によって乗っ取られたということを意味する。その後、壬申の乱で、伽耶系の天武天皇による政権奪還もあったが、藤原不比等による歴史改竄(記紀捏造)による万世一系神話を、伽耶系を中心に他の豪族たちも追認したことで、朝廷の藤原氏支配が完成した。

中国では、王が徳を失うと、天命が下り、王は交替するという易姓革命が発達し、一定の政権交代の史実が記されることになるが、日本においては万世一系神話という嘘の共認によって国家統一が図られたため、史実が大きく歪められてしまった。

●堕落する平安貴族。役人(受領)の暴走に対し自衛のための武士が台頭。

 豪族連合の拠点が形成されたのは奈良盆地の南部であったが、その後、藤原京、平城京、長岡京、平安京と遷都を繰り返す。これは、伽耶系・高句麗系・百済系の連合政権であった大和王朝が、次第に、藤原支配=百済支配を強めていく流れでもあった。藤原氏は、天皇はお飾りにして、次々と娘たちを天皇家に送り込むことで実質的な支配権を握り続けた。これは日本が基本的に母権社会で母親の影響が強い社会だからである。これ以降、日本の支配階級は、いかに血族を形成して権力を握るかが最大の関心ごととなっていった。

 比較的、大陸・半島情勢が安定していたこともあり、平安時代を通じて、貴族たちは、有閑階級化し、源氏物語に代表されるように、とことん解脱埋没していく。律令制は形骸化し、貴族直営の荘園が拡大。他方、地方の徴税を取り仕切る国司=受領は横領を繰り返し、百姓たちの反感を強めていく。こうした中、貴族の一部が軍人化する一方で、百姓たちも武装化。受領に対抗する荘園領主を核に武士集団(平家・源氏)が台頭していった。また、平安貴族の私交易を担った寺社勢力は貨幣経済においても力をつけていった。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=309799

アジア史の中の日本4(中世)

●商人を味方につけた武士集団(平氏)が貴族に取って代わり、武力に勝る源氏による東国の政権が登場する。

10世紀に入ると、中国・朝鮮半島も再び戦乱の時代に入る、中国は五胡十六国時代を経て金・宋といった女真族の時代に入る。宋は朝貢に付随していた私交易を重視し、宋銭を広めて、中世市場社会への橋渡しを果たしたが、よりイスラム商人との関係を強めたモンゴル=元に滅ぼされた。

朝鮮半島は新羅、後高句麗、後百済による後三国時代を経て、高麗が統一。高麗は、科挙制度にもとづく、文官(文班)が武官(武班)を抑える両班(ヤンパン)制度をつくる。朝鮮半島の民の生活を無視した官僚の暴走は、この高麗の時代に決定付けられたといえるであろう。その後、文班と武班の対立をモンゴルにつけ込まれて崩壊していく。

 このように中世は、支配階級=有閑階級たちの解脱埋没を背景に商人が力を持ち、そうした商人を味方につけた北方遊牧民に出自を持つ武力集団が台頭していく時代であった。そして日本も貴族階級の没落とともに台頭したのが、商人たちを味方につけた武士集団であった。

日本では、日宋貿易によって得た資金力を背景に東国の武士を束ねた平家が全国に支配を広げる。平氏は百済系(従って西の古墳人の末裔)といわれるが、その実力の中心は西日本の海洋系縄文人の持つ海運力=商業力(とそれによって統合された武力)であった。

他方、源氏は反百済=高句麗・新羅系(従って東の古墳人の末裔)といわれるが、その実力の中心は高句麗の騎馬民族から騎馬術を学んだ狩猟系縄文人の戦闘力であった。そして、源氏によって、商業力だけでなく、農村自治を重視した武家=東国の政権のカタチを現す。

以後、

平家→源氏→北条氏(平氏系)→新田・足利(源氏)→織田・豊臣(平氏)→徳川(源氏)

と源平交替(東国と西国の主導権争い)が繰り返されていくことになる。それは武力=農村自治による統合力と商業力=市場発展による統合力の相克であった。


武家(源平)の時代となったことで、公家(藤原家)は武家の神輿あるいは錦の御旗にすぎなくなり、公家も分裂していく。その端緒となったのは足利氏(源氏)が担ぎ上げた後醍醐天皇によって開かれた吉野朝(南朝)。

しかし足利氏は主導権を握りたがった後醍醐天皇を切り捨てて、北朝を再び神輿として担ぎ、室町幕府をつくる。以降、百済系藤原家も北朝=藤原北家と、南朝=藤原式家に分裂し、源平交替は概ね北朝・南朝の交替劇となる。

さらに足利氏は中国の明朝から日本国王として冊封を受けて天皇に迫る権威を確立するなどして、武家優位の時代を確立していった。


●イエズス会のアジア進出。アジア人同士を戦わせる戦略にまんまと嵌った秀吉。

元はイスラム商人を重視し、紙幣を発行したが、その結果、銀不足に陥った。そうした問題から、元の後に興った明は、国家による貿易管理を強化し、海禁政策を取った。すると大陸・半島・日本をまたにかけて私交易・海賊行為に力を入れる勢力が台頭する。西国を中心とする海洋系縄文人の流れをくむ倭寇である。

そして彼ら倭寇を従え、ヨーロッパからもたらされた火縄銃を手にした西国の武将たちが台頭し、東国の政権=室町幕府は没落。戦国時代に突入するが、火縄銃を駆使した新しい戦いを制した織田信長、豊臣秀吉ら西国の武将らによって日本の戦国時代も再び、統一に向かう。

秀吉は刀狩を実行し、兵農分離の身分制度を固め、下克上のない国家秩序づくりを進めた。他方、西国大名の中から、明・琉球・カンボジア貿易に力を入れる大名たち(長州の大内氏=百済系、薩摩の島津氏=秦氏系ら)が登場。、後にキリシタン大名、さらにはイエズス会と組んだ日本におけるワンワールド派=薩長連合へとつながっていく。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=309805


58. 中川隆 2015年12月02日 18:05:09 : 3bF/xW6Ehzs4I[1094] : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw

アジア史の中の日本5(近代)

●欧州金貸し勢力のアジア侵攻と、金貸しと手を結んだ薩長同盟

 イスラム商人に変わって、スペイン=イエズス会がアジア支配に乗り出し、フィリピンにスペイン総督府が設置された。それを知った秀吉は朝鮮出兵を断行。イエズス会から火縄銃を手に入れて、朝鮮・中国を支配しようとするが、秀吉の死によって未完と終わった。ヨーロッパ金貸したちの、アジア人同士を戦わせる戦略にまんまと嵌ったのであった。

 中国では明に替わって清が興る。当初は明同様、貿易の国家管理を主軸としていたが、官吏の腐敗から、財政難に陥り、東アジアで最も早く西洋に門戸を開いた。清との貿易で銀不足に陥ったイギリスは、それを解決しようとインド産のアヘンを中国に輸出。中国でアヘン中毒が広まり、清がアヘンの取締りを強化すると、イギリスが反発し、アヘン戦争勃発。勝利したイギリスに有利な南京条約が締結された。他方、李氏朝鮮は、女真族からの攻撃を受けて、小中華思想と儒教を強め、鎖国を強化。開国は一番遅れた。

 東国の農村自治を重視する江戸幕府は幕藩体制・参勤交替・鎖国体制・キリスト教禁止令によって、国家秩序の安定と内需主導の経済を作り出し、寒冷化による米の不作にも新田開発で対応したが、ヨーロッパの金貸したちの魔の手は次第に伸びていった。

 その先兵となったのは、長州の毛利氏、薩摩の島津氏ら、西国の外様大名であった。薩摩は琉球を媒介に清と、長州は対馬を介して清・朝鮮と密貿易をしており、イギリスとの接触が進んだ。薩長が当初、尊皇攘夷を叫び、開国に反対したのは、幕府が開国したのでは、密貿易のうまみがなくなるからであった。だから倒幕がなり、新政府の中心勢力になる見通しがたつと一気に開国派に転じたのである。

●明治維新・大東亜戦争を巡る南朝と北朝の対立

 尚、江戸時代の天皇は北朝だったが、薩長らは海外との交易を推し進める上で、南朝系の天皇を囲い、イエズス会等との海外ルートの顔として使っていた。この時に天皇家の一部が欧州にわたり欧州貴族になったとする説もある。こうした欧州と南朝皇室のパイプを活かすために、明治維新において南朝の大室寅之助が担がれたのであろう。

 その後、明治政府は、秀吉同様、金貸したちのアジア人同士を闘わせる戦略に嵌められて、朝鮮併合、日清戦争、満州支配へと乗り出していく。そこには、ヨーロッパの戦略に乗せられた部分もあるが、天皇(特に北朝系)を錦の御旗とする一派が故郷=高句麗の地へ回帰していく運動であったとみることもできる。彼らは満州進出でユダヤ人と手を組む=河豚計画を実行した。しかし、アメリカ=ロックフェラーが台頭する中、金貸し勢力は旧勢力であるロスチャイルドと新勢力であるロックフェラーの対立が大きくなる。

 そこで、陸軍による満州進出を支援していたロスチャイルドはアメリカ=ロックフェラーの力を削ぐために、旧日本陸軍を北進論から南進論に転換するように誘導する。昭和天皇がこれを支持したのは、昭和天皇自身が南朝系であり、北朝系であった満州派=陸軍を潰すためであったのだろう。(東北出身の石原莞爾らは左遷されたが、同じ満州組でも南朝系系の岸・安倍一派は戦後、CIAのスパイとして代復活を遂げた)

 この陸軍つぶしと連動して大きな攻撃を受けたのが北朝系の大本教団である。(出口王仁三郎は北朝系天皇の落胤)なお、現在、明治天皇すり替え説を吹聴している勢力の中心は、北朝系の大本教の影響を受けた人たちである。大本教の発展系のひとつに日月神示があるが、彼らは「フリーメーソンも悪であっても、手を組め」という発想をする。これは満州進出時の河豚計画の発想を今に継承するものであるが、日本の支配階級は常に金貸しに騙されてきたという事実を直視し、普通の人々は本気で脱お上を実現していかなければならないだろう。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=309827


59. 中川隆[1094] koaQ7Jey 2015年12月07日 15:42:49 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[145]

30-2. 日本人のガラパゴス的民族性の起源
http://garapagos.hotcom-cafe.com/


日本の発酵の技術はどこから来たのだろうか?

中尾佐助や佐々木高明といった素晴らしい文化人類学の先達研究者によって明らかにされたのが、長江流域を起源とする照葉樹林文化だった。 そしてよく知られているのが鮒ずしなどの発酵文化です。つまり日本お家芸の「発酵」技術は長江流域を起源とする弥生農耕文化の伝えた技術なのです。

  当ガラパゴス史観は、日本人の持つガラパゴス的な特質は、本家の中国に追いつき追い越せと学問や技を磨いた、 朝鮮半島の生き残りに負けて半島を追い出された黄河文明系Y-DNA「O3」を核にする大和朝廷族と武士団族が起源だと推測していますが、 一方、発酵などの稲作農耕文化や照葉樹林文化は長江文化を日本列島に持ち込んだY-DNA「O2b」を核にする弥生文化人が起源なのです。

  当ガラパゴス史観の他の記事に書いているように、

長江文明系Y-DNA「O2a」は中華大陸での黄河文明系Y-DNA「O3」国家に敗れ長江流域から南北に逃れ、

南に逃げた集団Y-DNA「O2a」は「越」として東南アジアに国家や地域を作り、

稲作適地を求めて最も遠くに移動どうした集団はドラヴィダ集団の中に入り込み 稲作集団として、現代まで遺伝子をかなりの頻度で伝えています。ドラヴィダ民族の中の稲作集団の中にはY-DNA「O2a」が70%の頻度を持つ部族さえ存在します。

  一方、北へ逃げた集団は、欧米の研究者は満州あたりでY-DNA「O2a」から「O2b」に分化したと考えています。現在でも満州族は13%のY-DNA「O2b」頻度を持っています。 そして稲作適地を求めて、南下し朝鮮半島で朝鮮族を形成し、現在の中国の朝鮮族は43%ものY-DNA「O2b」頻度を持ち、韓国は日本と同じ30%、 日本人は12%のY-DNA「O2b」と日本列島固有の20%のY-DNA「O2b1」で合計32%の長江文明系遺伝子を持っています。

Y-DNA「O2a」が「越」系と考えられるのに対し、Y-DNA「O2b」は「呉」系と考えられます。

ちなみに日本人にも少ない頻度で存在しているY-DNA「O1a」は「楚」系と考えられます。

  話が拡散してしまいましたが、ガラパゴス的な民族性も発酵技術もY-DNA「O」の極東遺伝子がもたらしたものです。


当ガラパゴス史観の主張は、

  日本列島人は日本文化の基層と古代性をもたらした縄文系に、当時の世界最先端技術だった水田稲作文化をもたらした弥生系が交配しあい日本列島に棲み分けていたところに、朝鮮半島の生き残り抗争に敗れ半島を追い出された好戦的な武装侵略者集団の大和朝廷族を含むいわゆる天孫族や続いて流れてきた武士団族が、狩猟のための武力しか持たない好戦的ではない先住民族の縄文−弥生人を征服し 1500年以上に渡りエスタブリッシュメント階級として支配し虐げ蔑んできたのが、第二次大戦後アメリカの手で農地解放などを経て交配が進みつつあるのが現代日本列島人の姿です、

ということです。


  当ホームページで主張しているように3.11で世界に感嘆を呼んだ日本人の従順性や、規律順守性、ホスピタリティなどどちらかと言うと古代的な民族性は間違いなく縄文の基層文化なのです。

  そして一方、世界に冠たる自己中心的なガラパゴス的民族性は、朝鮮半島から流れてきた武装侵略者集団が本家の中華王朝文化に追い付き追い越せととことん技術力を昇華していった姿勢そのものでもあるのです。

  そして日本人が持つ残虐性は好戦的な武装侵略者集団だった大和朝廷族や武士団族が持つ特質に他ならないのです。

  つまり、縄文系、弥生系と武装侵略者系の3重のY遺伝子から構成されているのが日本民族なのです。

  これを前提に下記の記事を読むと、非常にわかりやすいと思います。

  「沈黙と忍耐」は縄文系の特性、典型例は江戸時代の「百姓は生かさぬように殺さぬように」です。

  富を独占してきた武装侵略者集団の中の特に武士団族は戦国時代など戦になると百姓を雑兵にかり出し前線に立たせ、一方で田畑を蹂躙してきたのです。

  富を分配したのは同じ武士団の中だけに過ぎないのです。日本列島の縄文−弥生人の子孫は1500年以上虐げられてきたのです。

  それなのに縄文−弥生系は大和朝廷族や他の天孫族が創作した古事記や日本書紀をありがたがり、武士団族の抗争や成りあがり物語までもありがたがり、何と従順でお人好しな事か!

  そうなんです。日本列島は過去1500年近く大和朝廷族と武士団族が征服し続けてきた軍事政権国家だったのです。この軍事政権がやっと終わったのは何と第2次大戦後のアメリカの手によってなのです。

  日本人は外からの圧力がなければ、実は何も変えられない民族性を持っているのです。


  日中韓を動かしてきたのは根が全く同じY-DNA「O3」という黄河文明系遺伝子の支配層であることは間違いありません。しかし

漢民族には「縄文系(Y-DNA「D2)」と「弥生=呉系長江文明系(Y-DNA「O2b」)」が抜けています。

韓民族には「呉系長江文明系」は日本と同程度の頻度でありますが「縄文系」がすっぽり抜けています。

  この遺伝子構成の違いが、同じ自己中心的なY-DNA「O3」支配国家でありながら、行動様式がかなり異なる要因となっているのです。

今日の新聞広告の週刊誌「SAPIO」に「罵り合う中韓」と言う見出しがありました。これは中韓の侵略/被侵略の歴史を知っている者には当たり前のことです。

  韓国から見ると、朝鮮半島史上1000回にも及ぶと言う、楽浪郡・帯方郡などの中華王朝の侵略・侵攻・占領の結果、韓国のY-DNAの何と43%もがY-DNA「O3」つまり黄河系漢族遺伝子に変わってしまっているのです。しかも「O3」は3韓、3国等長い間朝鮮半島の支配層を形成し、李王朝など近代にいたるまで朝鮮半島の先住人民を搾取しまくってきたのです。

  「O3」が侵攻する前に朝鮮半島に居住していたのは北部にはツングース系「C3c」の恐らく扶余などの諸部族と南部には「O2b」の長江文明呉民系の水田稲作農耕民でしたが、「O3」に駆逐され「C3c」は現在11%程度に減少してしまっています。もしかすると箕子朝鮮や衛子朝鮮など古朝鮮はこのツングース系であった可能性が大です。

  一方南部の長江文明呉民系「O2b」は農民として確保され現在でも日本列島と同程度の頻度の30%を維持しています。やはり食料を生産する農耕民は「生かさぬように殺さぬように」されてきたからでしょう。本来なら朝鮮半島先住古部族から見れば中華王朝系「O3」は日本列島の「O3」と同様に武装侵略者に過ぎなく、その子孫の漢民族も同じなのです。

  つまり中国から見れば朝鮮半島は中華王朝の出先機関が牛耳れば良い程度の僻地でしかなく、日本列島と同じ蔑視の対象でしかないのです。

  しかし近代化した今、国内のベクトルを一つにまとめ不満分子の矛先をかわすためと、お互い工業生産産業の振興のため利用し合うのがベストとわかっているため、日本を共通の仮想敵国として上っ面は手を組むようなふりをしているだけなのです。だから子供の頃から徹底した反日教育をしているのですが、中韓が本気で組むなんてありえない話です。

  他の記事でも書きましたが、実はガラパゴス的民族性はY-DNA「O3」黄河系遺伝子の持つ民族性そのものなのです。

  中国は、他国のことなど知ったことではなく、自分の国さえよければ良いという極めつけの利己主義の国

  韓国は、世界は全て韓国が起源と吹聴する極めつけのウリジナル思想の国

 片や日本も自分たちが良いと思うものは世界も良いと思うはずだと決めつける自己中心思想の国

  全て「O3」が長い間支配層を形成してきた国家です。3国にはY-DNA「D」遺伝子が程度の差はあれ古代から根付いています。長江文明系Y-DNA「O2」も根付いています。Y-DNBA「C」もいくらか根付いています。支配されてきた遺伝子も実は似通っているのです。

  しかしお互い随分と違う国になってしまいましたね

  違いが最も大きいのはY-DNA「D」の存在のあり方です。恐らくホモサピエンスが出アフリカした当時の形質を最も残していると考えられている「D」はいわゆる純朴・親切・我慢強い・等典型的な田舎的古代遺伝子です。

  中国では、「O3」漢民族は「D1」遺伝子を中原から追い出し羌族やチベット族として標高の高い高原地域に押し込め少数民族化させ、「O2」遺伝子も華南の少数民族に押し込めてしまいました。「C3」遺伝子も内モンゴル等華北や西部の少数民族に追い出しました。つまり中国では「D」も「O2」も「C」も正式な国民の一員(つまり「O3」漢民族)ではないのです。

  韓国では、「D1」は恐らく姜性一族として数%しか残存しておらず「D」の影響は実質ほぼゼロですが「O2」は食糧生産の農民として国民の一員になっています。TPPの犠牲者ではありますが....。

  ところが日本では、「D2」が縄文文化の子孫としていまだ40%近くを占め、3.11で世界から称賛された日本人の我慢強い・整然とした行動を支えてきたのです。また「C1」、「C3」も技術集団として沿岸系・内陸系の伝統文化を引っ張っています。「O2」は世界に誇る農耕民として日本の農業生産を担っています。

  この日本独特の古代的な縄文精神は「O3」とは別の意味で、ガラパゴス的民族性を形成する一面なのでしょう。つまり二重の極めつけのガラパゴスなのです。


60. 2015年12月07日 15:52:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[146]

ガラパゴス的民族性の基層

  今までの調査や学習から、日本人は;

(1) スンダランドから共に行動しまだユーラシア大陸と陸続きだった日本列島弧の大陸棚部分にたどり着いたシーラカンス的古代遺伝子Y-DNA「D2」、「C1」、「C3」が、ブラキストン線(津軽海峡)に北進を阻まれ定着した結果コラボが進んだ縄文遺伝子集団が基層にある。Y-DNA「D1」「D3」集団のチベット語と日本語の文法が極めて似ていることから現代も維持されている日本語の文法は「D2」の文法でしょう。

  またY-DNA「D*」のアンダマン諸島人がネグリート形質で黥面文身であり、アイヌ民族も入墨習慣があったことを考えると、「D2」も当然ネグリート形質でしょう、そして魏志倭人伝に出てくる倭人の入墨は間違いなく縄文人「D2」の習慣で「倭人」は蔑称ではなく文字通り「小柄な民族」と言う意味でしょう、つまり「D」の分布していた地域の住民は中国から見れば全て「倭種」だったのでしょう。このように考えれば現在でも150cm以下の小柄な日本人が多いことが明快に理解できます。

  ただし黥面文身は古代民族の共通の習慣だったような説明が多いところをみると「C1」「C3」もそうだった可能性は大です。いずれにせよ、魏志倭人伝がわざわざ黥面文身のことに触れたのは、当時中国大陸や周辺の国々では既に廃れ珍しい習慣になっていたからなのでしょう。

(2) そこに新しいこれぞアジアの遺伝子タイプである「O2a」がもっと新しい「O3」に中国大陸を追い出され満洲あたりで「O2b」に分化し、ボートピープルとして江南文明の水田稲作農耕文化を日本列島に持ち込んだ。もとより農民である「O2b」は狩猟採集民の縄文集団と敵対はほとんどなく棲み分けながらも交配を進め「O2b1」に進化し、本州北端まで稲作文化が拡大した。稲作を中心にした「O2」集団の単語が大量に日本列島に持ち込まれたが、縄文文法は変わることがなかった。

  もし縄文集団と「O2b」が敵対し交配しなかったなら、韓半島と同じ「O2b」のままで「O2b1」には進化しなかったでしょう。「C3」との交配でHTLV-1ウイルスに感染したことも「O2b1」への分化の可能性としてあります。あるいは相乗効果かもしれません。

(3) 一方、最新の遺伝子である「O3」は縄文文化の晩期に陸稲稲作文化を日本列島に持ち込んだようですが、本格的な進出は百済が滅んだ辺りから王族や宮廷官僚・貴族がやはりボートピープルとして移住してきたことによりそうです。百済で「O2b」の農民を支配していただろう「O3」部隊は、似たような民族構成の日本列島を東進し、縄文−弥生交配集団が居住していた大阪から奈良の畿内圏を占領し定住し大和朝廷族となったのでしょう。

  先住の縄文−弥生混血集団を懐柔するために、縄文−弥生の神話と「O3」の神話をくっつけて「O3」が作ったのが日本書紀だと考えられます。そして極めつけは宮中や官僚は漢語を話し読み書きしていたにもかかわらず、民衆向けに縄文文法を採用し、結局漢語文法を朝廷以外の世界では捨てながらも大量の漢語の単語を定着させ縄文−弥生単語に上乗せしたのが日本語の単語の祖系と思われます。

(4) そして明治以降、大量の欧米発の単語を取り込み、日本語が完成しました。

  日本民族の特徴は、このように異遺伝子の文化をドンドン取り込み自前の文化にしてしまうことです。古代の縄文文法を踏襲しながらも、出会った新しい異遺伝子集団の文化の単語を億面もなく取り入れることができたのです。そして初めから自分たちの単語だったように扱うことができる、これは恐らく弥生集団の特徴ではないだろうか?

中国大陸を追い出されボートピープル化した弥生集団が、これ以上逃げるところのない日本列島で、先住民の縄文人と共存するために縄文人の言語を文法ごと取り込み、縄文人が持っていない稲作農耕などの新しい文化の言葉は自前の単語を追加して交配することを選んだのでしょう。これは現代でも欧米発の科学や技術、音楽にしても何でも気負うことなく取り込むことができる、2000年来の日本民族の真骨頂なのです。

  しかし取り込んだ後、海外の状況など無視して独自進化を遂げられる特異性・独善性、つまりガラパゴス性はどこから来るのだろう?まだ考察が必要です。

  1つ考えられるのは、日本人の持つ探究心、とことん突き詰める研究熱心さですが、既に白鳳時代、天平時代に中国から取り入れた文化を独自に咀嚼して自分のものにしていたようなので、中国から招いた技術者たちが、本家よりより良い物を作ろうと挑戦・努力する、という意欲と結果がガラパゴス化の起源ではないでしょうか!

  ということは、あまり認めたくはないのですが、「O3」遺伝子集団の技術者達がガラパゴス的民族性の起源の最も大きな要因かもしれません。

  もうひとつ考えられるのは、独特の日本絵画の色使いの工夫、浮世絵などに見られる色使いなど微妙な色を再現するための工夫・努力や、平賀源内のエレキテルに見られるような、外国の情報だけで見よう見まねで作ってしまう才能、日常品だった陶磁器から刀や鉄砲のような武器に至るまで芸術に昇華させてしまう才能....など様々な才能が熟成した江戸の鎖国時代が、ガパラゴス化の2番目に大きな要因ではないでしょうか。江戸時代は日本人同士でかつ日本人だけで切磋琢磨し業と芸術性をとことん磨いていけたよき時代だったような気がします。

  つまり異文化を何でも取り込むことができる「O2b1」遺伝子の持つ懐の大きな気質ともともとガラパゴス的な気質だった技巧系職人「O3」遺伝子の混じった日本人が、鎖国時代にとことん独自進化し熟成されたのが、世界がどう進もうとわれ関せずで自分たちだけで更に独自な進化を続けられる極めつけのガラパゴス民族性の基なのでしょう。そうすると「D2」「C1」「C3」の果たした役割はなんなのでしょうか?

  もしかすると「O3」も「O2b1」も「D2」C1」「C3」特に「D2」の手のひらの上で踊らされているだけなのかもしれません。つまりガラパゴス化した技術・製品があってもそれを受け入れ支えるる国民性が必要です。それが縄文系の役割なのかもしれません。

____

ガラパゴス的民族性の起源 今までのまとめ:


●日本民族の遺伝子はかなり複雑で、記事4-1、4-2にまとめたように狭い日本列島に中華大陸と同じくらいか、それ以上の遺伝子集団がひしめいています。

●その複雑な遺伝子集団が中華大陸のように53種もの少数民族がずらーっと並んでいるのではなく、全てが1つの日本民族に集約されている(ただし現代アイヌ民族は除く、琉球民族は遺伝子では完全に日本民族の1地方型であることが明確)、少数民族/先住民化しなかった世界でも稀有な民族なのです。

●民族を決めるY-DNAの50%近くを現代人類が60000年前頃に出アフリカを果たした当時の古代遺伝子Y-DNA「D」と「C」が占めている、という驚くべきシーラカンス性。こんな近代国家は日本以外に一切存在しません。日本人の持つホスピタリティや濃すぎるほどの人情の根源です。

●さて視点を変えると、現代世界はY-DNA「R1b」、「R1a」の欧米遺伝子集団と、Y-DNA「O3」のアジア集団が覇権を争っている真っ最中です。両遺伝子とも古代遺伝子の一つであるY-DNA「F」から分化して発生してきた新しいつまり新興遺伝子集団です。今世界はこの2つの新興遺伝子集団によって動かされているのです。

●近代世界で先に覇権を取ったのが「R1b」のゲルマン系集団(ヨーロッパ諸国)、そして「R1a」のスラブ系集団(旧ソ連)が割って入り、更に現代の覇権は彼らが移住したアメリカ(「R1b」が支配層)に移り今に至っています。そしてロシアと同じ「R1a」のアーリア系のインドも名乗りを上げ始めています。

●ところがそこに対抗軸として存在するのがY-DNA「O3」のアジア組です。Y-DNA「O3」はユーラシア大陸の東端に4千年の漢民族・中華王朝(一時Y-DNA「C3c」のモンゴル族の元の時代あり)を継続させてきましたが、「O3」が40%の少数民族・満州族の「清」時代で「R1b」の欧米と、同じ「O3」の日本との戦争に負け没落し、代わりに20%の「O3」が支配している日本が先に現代世界のアジア代表として覇権争いに加わり、やっと今年圧倒的な人口増殖の力でエネルギーを取り戻した「O3」が50%の漢民族が再度アジアの盟主争いに名乗りを上げ、「O3」が40%の韓民族が加わろうとしているのが現在です。台湾も「O3」が60%、ベトナムも「O3」が40%の勿論「O3」支配国家です。アジアの近代国家は全て「O3」支配国家なのです。

●日本民族のガラパゴス性は、渡来人として極東ユーラシア大陸から韓半島経由で流れてきた戦闘集団のY-DNA「O3」の大和朝廷族とその官僚・技術者集団及び武士団が本家中国のY-DNA「O3」に負けまいと独自性を高めたのが最大要因です。そして支配された戦闘を好まない縄文・弥生の先住民集団が支配を受け入れ、火焔土器などの縄文土器の独自性に見られる縄文人「D2」「C1a」「C3a」の元々もっていた独自性や、世界に冠たる水田稲作農耕を完成させた弥生人「O2b」「O2a」「O1a」の先進性が支えているのが世界に冠たる日本のガラパゴス性なのです。

  (一時言われたY-DNA「C3c」の極東騎馬民族集団は日本には一切渡来していないことはY-DNA遺伝子調査で極めて明確に結論されました、つまり日本民族にY-DNA「C3c」は全く検出されていないのです、ただし大和圏の詳細な調査が進めばその限りではありませんが....。唯一の例外はニヴフ族(恐らく古代史の粛慎)が北海道を征服し現代アイヌ民族にY-DNA「C3c」を15%も定着させたオホーツク文化時代のみです。)

●日本民族はこの古代シーラカンス遺伝子縄文集団と新興遺伝子ながら弥生集団の持つ狩猟・採集・漁労・農民的などちらかと言えば田舎的なホスピタリティを持つ良き日本的な暖かい性格と、支配遺伝子たる「O3」の持つ戦闘好きで支配したがり屋の持つ冷酷でドライな性格を併せ持っています。日本人は征服者たる大和朝廷族が日本列島に上陸以来1500年以上経ち棲み分けをしてきましたが、明治以降、特に第二次大戦以降相当に交配が進んでいるため、支配者層がわかりにくくなっていますが、良きにつけ悪しきにつけ日本列島を率いてきたのは残念ながら当ブログオーナーが子孫と自認する縄文人でも弥生人でもないのです。明らかに占領軍・征服者の渡来軍団なのです。

●我々縄文、及び弥生の子孫は占領軍の大和朝廷族一派に支配され、記紀では一方的に「土蜘蛛」だとか「国樔」「国巣」「国栖」だとか蔑まれ、あるいは蝦夷、隼人、熊襲などと差別され、「まつろわぬ原住民」として下級人間扱いをされながらも、それでも元々持っている争い嫌いで従順な性格が災い?し、結果として「O3」に協力した形になり、ガラパゴス化を推進してしまったのです。戦争でも残忍性を発揮しふんぞり返っている上層部は「O3」軍団、一兵卒として戦場にかりだされるのは縄文・弥生のおとなしい子孫です。言い換えれば指示する側と指示される側(指示待ち人間になりやすい)です。ちょっと誇張気味ですがほぼこの通りです。日本人の持つ二面性は複雑な遺伝子構成がもたらす結果です。 注:インターネットで多く見かける間違い:

  日本人は多数の異遺伝子の混遺伝子集団であっても、混血集団ではありません。別にコーカソイドとモンゴロイドが交配した...とかいう訳ではありません。60000年前頃と言われる出アフリカ後、現在のような「人種」が出来上がる前に、古代の遺伝子と新興の遺伝子が古代に交配してできた稀有な島国集団が現在「日本人」と呼ばれているだけです。異なる人種が混血した訳ではないのです。

  それらの混じり合った多様な遺伝子の子孫が現在、Y-DNA「D」はアンダマン諸島ではネグリートと呼ばれ、Y-DNA「C1」の弟遺伝子「C2」はニューギニアでオーストラロイドと呼ばれ、更に下の弟「C3a」の弟の「C3b」は北米大陸ではネイティブアメリカン(旧アメリカ・インディアン)と呼ばれ、水田稲作農耕文化を日本列島に持ち込んだYDNA「O2」と「O1」はそれぞれオーストロアジア語族とオーストロネシア語族と現在は呼ばれており、日本列島を征服し長い間日本列島の支配遺伝子となっている大和朝廷族系のY-DNA「O3」は現在世界の覇者を狙っている漢民族と呼ばれています。日本人はそれらが確立する前に日本列島で密な交配を繰り返したため、今でも欧米顔やジャガイモ顔やしょうゆ顔や南方系顔が入り乱れているにも関わらず、1つの日本人を形成しこれから均質化がどんどん進むでしょう。しかしこれだけ多様な遺伝子から構成されていると決して単一民族とは呼べませんが、間違いなく単一国民なのです(明治以降の話ですが)。

  ?Y-DNAは交配を繰り返しても、変化はしません。Y-DNA「D2」は今後数千年経っても「D2a1b2」とか亜型に細分化はしてもベースの「D2」は変わらないのです。つまり自分の持っているY-DNAは永遠なのです。同様に女系のmtDNAもベースは永遠で、細分化が進むだけです。

  ただ組み合わせは結婚相手によって変わります。遺伝子(設計図)は両親から平等に受け継ぎますが、どちらの設計図が使われるか、どの部分にどちらの設計図が使われるかは決まってはいません。これが交配の「妙」なのです。しかし必ず「こうなる」とわかっている形質があります。それが世に言う「優性遺伝」という物です。人類は本来二重瞼のため二重瞼は優性遺伝です。ところが寒冷地適応の後天的獲得形質のはずの禿頭は後天性にも関わらず優性遺伝をします、一帯何故?面白くない。後天性ではない、ということかもしれません。どうもY-DNA「N」系に特徴的ではないかと疑っています。Y-DNA「N」はシベリア系遺伝子で日本のような極東からヨーロッパまでユーラシア大陸に広く拡散し、世界中に禿頭をバラまいています。しかも優性遺伝なので始末が悪いのです。タイムマシンで数万年遡りY-DNA「N」の最初の男性を消せば禿頭はなくなるはずです。最も自分もこの世に存在しないでしょうが......。

  しかし大事なことは、男子が生まれなければ父親のY-DNAは消滅します(残念ながら娘だけの我が家もそうです)。しかし母親からのみ遺伝するmtDNAは男女の区別はないので子供が誕生する限り永遠なのです。やはり世界は女性を中心に回っているのです。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/


61. 中川隆[1094] koaQ7Jey 2015年12月26日 09:13:19 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[504]


ゲノム解析でイネの起源は中国・珠江の中流域   [2012/10/26]


珠江
https://www.google.co.jp/maps/place/Zhujiang+River,+%E4%B8%AD%E8%8F%AF%E4%BA%BA%E6%B0%91%E5%85%B1%E5%92%8C%E5%9B%BD/@23.1301408,113.0362784,10z/data=!3m1!4b1!4m2!3m1!1s0x34025504bb64e70d:0x5dbfdd91a9aabb2?hl=ja

A map of rice genome variation reveals the origin of cultivated rice
http://www.nature.com/nature/journal/v490/n7421/full/nature11532.html


これまで長い間論争が続いていたジャポニカ米などのイネの栽培起源地について、国立遺伝学研究所や中国科学院上海生物科学研究所などの研究チームは、中国南部を流れる珠江(しゅこう、the Pearl River)中流域であるとの研究結果を、英科学誌「ネイチャー」(オンライン版)に発表した。

研究チームは、アジア各地から収集した野生イネ(ルフィポゴン)446系統、ジャポニカ米やインディカ米などの栽培イネ1083系統のゲノム(全遺伝情報)を解析し、1529系統間の相互関係を明らかにした。さらに遺伝的変異のパターン解析から、ジャポニカ米とインディカ米では55のゲノム領域で、イネの脱粒性や芒(のぎ)の有無、粒幅などの重要な形質について、栽培化による選択が行われていたことが分かった。

これらの遺伝的な指標を用いてイネの系統進化を解析し、さらに各系統の生息地の情報を比較した結果、イネの栽培化は中国南部の珠江の中流域で始まり、1つの野生イネ集団からジャポニカ米が生まれたことが分かった。その後、ジャポニカ米の集団に別の野生系統のイネが複数回交配してインディカ米の系統が作り出されたと考えられるという。

イネの起源地についてはこれまで、遺跡の調査結果などから何十年にもわたり論争が続き、インド・アッサム地方から中国・雲南省にかけての地域や、中国の「長江」中・下流域などとの諸説があった。研究チームは「今回のわれわれの解析で、イネの起源地と栽培化のプロセスが明らかとなり、長い論争に終止符を打つことができた」としている。
http://news.mynavi.jp/news/2012/10/26/064/


イネの栽培化の起源がゲノムの全域における変異比較解析により判明した 2012年11月12日
倉田のり・久保貴彦 (国立遺伝学研究所 系統生物研究センター植物遺伝研究室)
http://first.lifesciencedb.jp/archives/6056


イネの栽培化は、中国の珠江流域で始まった!
国立遺伝学研究所

栽培イネには大きく2つの系統があります。一つは、日本人が主食とするジャポニカ 系統です。ふっくらと丸みを帯び、モチモチとした食感が特徴です。もう一つは、タイなどの東南アジアで好まれるインディカ系統で、米は長細く、パサパサし た食感と独特の香りをもつ品種を含むのが特徴です。

栽培化の起源については、1万〜7000年前にさかのぼるというのが定説になっています が、

「栽培イネの起源が、ただ一つの地域の一つの系統に由来するのか」、

あるいは

「複数の地域で独立の系統から栽培化がはじまったのか」

という点が論争に なっていました。

前者の単一説を支持する研究者たちは「中国、雲南省の南部、揚子江の中流域で栽培化がはじまり、その後でジャポニカとインディカの系統に 分かれた」とし

後者の複数説を支持する研究者たちは「ジャポニカ系統は雲南省の揚子江流域、インディカ系統はインドのガンジス川流域で独立に栽培化され はじめた」としています。

各派が報告する研究成果はいずれもゲノムの配列を大きな根拠としてきましたが、「使われるイネのサンプルが、研究者ごとに異な る」、「配列をくらべる領域が10以下と少ない」といった状況で、結論が出ませんでした。

アジア各地から収集された野生イネ(O.rufipogon)446系統と、栽培イネ(O.sativa)1083 系統の計1529系統を対象に、次世代シークエンサーを用いたゲノム解読と、バイオインフォマティクスを用いたデータの解析を行いました。まず、各系統の 全ゲノムを2倍量ずつ薄く読みました。

高精度のゲノム解読だと全ゲノムを100〜200回繰り返し読む必要がありますが、費用や時間が膨大になってしまい ます。2回ずつ読んだだけでは配列が決まらずに穴となった箇所がたくさん残りますが、今回は、そのような部位を他の系統のゲノムデータから推測することで 対応しました。

このようにして全ゲノムのデータを揃えたうえで、塩基配列を比較し、その類似度から祖先関係を描き出しました。とくに、栽培化にともなってゲノムから掃き出された領域(セレクティブ・スウィープ)55か所に注目して解析を行いました。

ジャポニカの最も古い系統をたどっていったところ、中国、珠江の中流域に行き着きました。

そのジャポニカ系統につながった野生イネの生息地もまた、珠江の中流域であることがわかりました。

また、インディカ系統についても調べたところ、 やはり珠江中流が起源で、インディカ系統につながった野生イネの生息地も、同じ珠江の中流域でした。

これらのことは、珠江の中流域において「倒れにくい」、「実が落ちにくい」といった栽培に適した野生系統のあるイネが選び出されて稲作がはじまり、やがてジャポニカ系統は単一系統由来のものとして、また インディカ系統は各地の野生イネ系統と交配しながら、アジア各地に広がっていったことを端的に示しています。

また、中国大陸から日本に伝わっ たジャポニカ系統と、タイ、ベトナム、インドなどに広がったインディカ系統とでは、遺伝的な距離がかなり大きいことも明らかになりました。

ほぼ同一の祖先 をもちながらも、栽培化のための選択圧が約1万年も加わった結果、遺伝的にかなり異なる2つの系統に進化したことが伺えます。
http://www.nig.ac.jp/nig/ja/research/interviews/close-up-interviews/close-up-interviews15


62. 中川隆[1094] koaQ7Jey 2015年12月26日 09:24:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[505]
稲作農耕の起源

「アッサム・雲南起源説」、「長江流域起源説」から「珠江中流域起源説」へ

1)「アッサム・雲南起源説」から「長江流域起源説」へ 


 従前は、インドのアッサム丘陵から中国の雲南高地にかけての地域が稲作の起源地であるという「アッサム・雲南起源説」が有力でした。渡部忠世氏が1970年代に唱えた説です。

 この「アッサム・雲南起源説」を覆す発見が中国の文化革命のさ中になされました。長江下流域に位置する河姆渡遺跡の発見です。1973年からの大規模調査の結果、約7000年前の稲作農耕集落遺跡であることが判明しました。大量の稲籾が発見されています。発掘成果をまとめた論文が発表されたのは国内が落ち着いた1980年代になってからで、厳文明氏や王在徳氏が「長江下流域起源説」を提唱しました。


 河姆渡遺跡発見の後、長江流域で相次いでイネ出土遺跡が発掘されたこともあり、「長江流域起源説」が通説になりました。

河姆渡遺跡が発見された当時は、河姆渡遺跡が中国最古のイネ出土遺跡でしたが、その後より古いイネ出土遺跡が長江流域で相次いで見つかりました。彭頭山遺跡、玉蟾岩遺跡、仙人洞遺跡、吊桶環遺跡などです。

 玉蟾岩遺跡は、長江中域の小さな洞窟の遺跡で、約1万4000年前のものと推定される稲籾が見つかっています。堆積層に含まれる炭片の年代測定から約1万4000年前のものであると推定されたのです。安田喜憲氏は「洞窟の堆積層の層序の認定はむずかしく、たとえ炭片と同じ層から出土したとしても、稲籾の年代が炭片と同じ時代であるとは断定できない」と述べています。

また栽培種か野生種か明確でないという見方もあります。同じ洞窟遺跡である仙人洞遺跡でも古いイネが見つかっていますが、栽培種か野生種か明確ではありません。

  これらに次ぐとみなされているイネ出土遺跡は、上山遺跡、彭頭山遺跡です。上山遺跡は、長江下流域の遺跡であり、1万年ほど前とみなされるイネが発見されています。栽培種か野生種かどうかは不明です。彭頭山遺跡は、洞庭湖の西側に位置する遺跡であり、8000年前前後と推定されています。彭頭山遺跡の出土イネにも栽培種かどうか疑わしく思っている研究者が存在します。

 洞窟遺跡である吊桶環遺跡については「稲の考古学」で趙志軍氏の分析が紹介されています。

「@更新世末期にすでに野生イネの採集が始まっていた、

Aヤンガー・ドリアスの気候悪化にともない、おそらく野生イネ群落が南下したことによりイネ利用が中断した、

B栽培化が確実に想定できるのは完新世に入ってからである」

という3つの要点が挙げられています。

 上記のように長江流域で1万年以上前と推定されるイネ出土遺跡が発見されていますが、栽培種か野生種かどうかについては不明であり、稲作農耕遺跡であると確定できない状況です。長江流域での稲作農耕はヤンガー・ドリアス期終了後の完新世に始まったとみるのが妥当であり、9000〜8000年前に開始したというのが現時点での素直な見方ではないでしょうか。


2)「長江流域起源説」から「珠江中流域起源説」へ

 通説となっている「長江流域起源説」を覆す研究結果が2012年10月に発行された「Nature」に掲載されました。

日本の国立遺伝学研究所や中国科学院上海生物科学研究所などの研究チームが、アジア各地から収集した野生イネ、栽培イネのゲノムを解析した結果、


「@イネの栽培化は中国南部の珠江(しゅこう)の中流域で始まり、

A1つの野生イネ集団からジャポニカ米が生まれた、

Bその後、ジャポニカ米の集団に別の野生系統のイネが複数回交配してインディ
カ米の系統がつくりだされた」


という結論が得られています。

 長江流域ではなく珠江中流域であったこと、ジャポニカ米とインディカ米は同一の起源を持つこと、を突き止めたことで画期的な研究成果と言えるでしょう。

 今後、この研究成果と長江流域のコメ出土遺跡調査で蓄積された研究成果を結合することにより新しい知見が導き出されることを期待します。


主な参考文献

安田喜憲著 「稲作漁撈文明 長江文明から弥生文化へ」 雄山閣 2009年3月
佐藤洋一郎著 「イネの歴史」 京都大学学術出版会 2008年10月
ピーター・ベルウッド著 「農耕起源の人類史」 京都大学学術出版会 2008年7月
中村慎一著 「稲の考古学」 同成社 2002年10月
渡部忠世著 「稲の道」 日本放送出版協会 1977年12月
http://keihanshin777.blog.fc2.com/blog-entry-7.html


63. 中川隆[2275] koaQ7Jey 2016年4月10日 11:06:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2290]

百済が日本にもたらしたもの〜文化でなく言語にその本質があるのではないか
 

日本語は百済語と近接しているという説は多い。

ブログ「日本語と韓国語は同系語」
http://japanese130.cocolog-nifty.com/blog/2013/02/post-3a69-1.html

という中から信憑性のある部分を紹介します。

>飛鳥〜平安時代頃、日本には各地域の方言の外に「宮廷語」があった。

「宮廷語」も日本全体から見れば、宮廷という限られた区域の方言である。

『万葉集』『記紀』はこの「宮廷語」によって書かれ、作者は漢字を自在にあやつることができる宮廷の知識層、朝廷にかかわって働くエリートであった。

大和朝廷で働いていた人たちの生活の本拠地は「飛鳥」で、『続日本紀』『姓氏録』によれば、飛鳥地方の住民の80〜90%は朝鮮人であったという

飛鳥地方を中心に活躍していた聖徳太子は蘇我氏(朝鮮人―当時の実質天皇)の一族で、妻も蘇我氏の人である。

日本で最初に建てられた寺院「飛鳥寺」は蘇我氏の氏寺で創立者は蘇我馬子である。

明日香村にある日本最大級の横穴式古墳「石舞台古墳」の埋葬者は蘇我馬子ではないかとされている。有名な「高松塚古墳」は明日香村にあり、中に描かれた彩色壁画の婦人像の着衣は古代朝鮮人の服装そのままである。

なぜ「飛鳥地方で使われていた言葉は朝鮮語(主に百済語)であった」と言われているか、下記に列挙した研究者の言葉を見れば一層その信憑性に気づくのではないだろうか。


※「飛鳥における政治の実権は蘇我氏(朝鮮人)の掌中にあった。このころの天皇とは蘇我氏のことである。」 (亀井勝一郎他)

※「飛鳥王朝と百済王朝は親戚関係にあり、天皇の側近は百済の学者であ
った。宮中では百済語が使われていた。古事記・日本書紀は百済の学者により吏読表記(百済の万葉仮名)で書かれている。
(金容雲 日韓文化交流会議の韓国側代表)

※ 日本書紀は百済人を主軸にして書かれ、天皇・藤原氏(百済人)の都合がいいように整理されている。 (上田正昭らの対談集)

※ 飛鳥の朝廷を調べると、いたるところに百済人だらけである。常識的に言って、百済語が公用語だったとしか考えられない。(佐々克明)

※ 平安時代までの日本文化は外国のもの。日本の王朝文化は百済と同じ。
(司馬遼太郎・丸谷才一 他)

※ 朝鮮半島からのエリート集団の集中的移住が宮廷文学を開花させた。
(国弘三恵)

※ 唐への留学僧は百済人であった。当時の僧侶の言葉は百済語であった。
(金達寿 司馬遼太郎 上田正昭らとの対談集)

※ 日本国の誕生にもっとも力を発揮したのは、白村江の戦いの敗北で渡来した百済人。『日本』という国号をつくったのも百済人。(文定昌)


司馬遼太郎は「平安時代までの日本の文化は外国のもの、日本らしくなったのは鎌倉時代になってから」と述べている。

「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は国を追われ、王族・高官などのエリートがたくさん倭国へ亡命した。

故国を失い百済再興の夢を倭国に託した百済人は、奈良時代に「日本」という国号を作り、倭国の文化を根底から変える著しい日本文化の礎石を「飛鳥」に置いたのである。

従って、「百済の王朝語」が「飛鳥王朝の宮廷語」になり、雨後の竹の子のように生まれた「宮廷文学」の言葉は、それ以後の多くの知識層の文学作品の言葉として使われ、結果的に江戸・明治・大正・昭和の学問・文学などの用語として日本全国に広がって行った。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー以上抜粋ーーーーー

これらを読むに付け、日本の宮廷、天皇、王朝を語る際に「百済」という朝鮮半島から消えてなくなった国家が大きく影響している事が判る。

それを日本土着のものに取り戻すのに鎌倉時代までの400年かかっている。
しかし再び明治以降、この百済の復興が天皇を担ぎ上げる事によって為された。

百済王朝が日本に亡命してまだ1300年しか経っていない。

この影響は日本語という言葉の中に浸透しただけでなく日本人の気質や一つに成り切れない民族の核心部にまだ残っているのではないか?
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=314004


64. 中川隆[2600] koaQ7Jey 2016年5月24日 15:22:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[2861]

7世紀までに韓半島から日本列島に流入してきた人々は、それぞれグループごとに中国語の方言を話していたと考えられる。
方言と言っても、現代の福建人・潮州人・客家人・広東人・海南人がたがいに話が通じないのと同様、秦人・漢人・高句麗人・百済人・新羅人の間ではたがいに話が通じなかっただろう。

 日本列島の雑多な種族たちは、新羅に併呑されて独立と自由を失わないために、倭国王家の天智天皇のもとに結集して、日本国を作りあげる。

中国語を国語とすることは危険であった。新羅の公用語が中国語だから、別の途を選ばねばならなかった。

それは漢字で綴った中国語の文語を下敷きにして、その一語一語に、意味が対応する倭語を探しだしてきて置き換える、対応する倭語がなければ、倭語らしい言葉を考案して、それに漢語と同じ意味をむりやり持たせる、というやり方である。これが日本語の誕生であった。


 柿本人麿から山上憶良まで、半世紀の間にはじまった国語の開発は、情緒を表現する韻文の詩歌に関する限り目覚ましく成功したが、」より実用的・論理的な散文の文体の開発は、百年たってもなかなか成功しなかった。

 紀貫之の時代から百年をへて、11世紀の初めに紫式部の「源氏物語」が現れてもまだ、散文の文体の開発が完了したとは言えない。日本語の散文の開発がおくれた根本の原因は、漢文から出発したからである。

 結局、19世紀になって、文法構造のはっきりしたヨーロッパ語(ことに英語)を基礎として、あらためて現代日本語が開発されてから、散文の文体が確定することになった。


【出典】「日本史の誕生〜千三百年前の外圧が日本を作った」岡田英弘/弓立社‘94年  
http://www.asyura2.com/09/bun2/msg/706.html


65. 中川隆[2843] koaQ7Jey 2016年6月11日 11:55:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[3121]

輝ける古墳造成時代(1/2)

《1》
 「古墳時代」とは妙な呼称である。

 一応、三世紀半ばから七世紀末頃までの約400年間を指す。旧石器時代、縄文時代、弥生時代、の後に古墳時代が来て、次に飛鳥時代、そして奈良時代へと連なる。この時代は国内にも支那の歴史文献にも倭国の記述がなく詳細を把握できないため、「空白の四世紀」と呼ばれている。
 
 支那から(無礼にも)倭国と呼ばれたヤマト王朝の勢力が拡大し、王権が強化統一されていった時代である。この時代の末期に「日本国」を名乗ったもののようである。

 私の子供のころ教わったときは、大和時代と呼ばれたが、最近では一般的でなくなってきているらしい。われら日本史の最初の英雄、仁徳天皇(第16代天皇 4世紀後半)はこの時代である。王朝が成立しているのに、王朝を時代名にしないって何? サヨクの差し金か?

 だいたいこのころに、ヤマト王朝が北海道東北を除いて全国統一政権が樹立したと考えられている。

 古墳がしきりに造られた時代も、その数や規模はいわゆる正規分布を描き、中期ごろに多くなって巨大化したが、後期には数も減って小さくなっている。これは何を物語るのか。

 歴史学会では、古墳はずばり天皇・皇族や地方豪族の墓だとされる。天皇や地方豪族が、人民を搾取し強権をふるって奴隷として酷使して、自らの権勢を後世に残すために大きな墓を建てたのだと、学校でも教わった。これは一つにはエジプトのピラミッド建設の解釈を模倣しているやに想像する。

 ピラミッドの場合は、奴隷を使役して王が墓を造るため、石材を積み上げさせたのだと解かれてきたが、それがウソで、実は山を崩して造ったものだと解明されている。

 古墳は、どこを見ても平らな土地に土を盛って造ってある。人工的な盛り土だ。もしも天皇や豪族の墓だとするなら、いったいその膨大な量の土砂はどこからどうやって運んできたのか。

 墓にするなら、自然の小高い丘にでも埋葬すれば十分なのに、なぜわざわざ平地に造らせたのか、はなはだ疑問である。

 古墳の周囲は平地だから、現在は住宅街か田んぼが広がっている。造られた当時も、田んぼか畑だったはずである。

 ここから、日本歴史学会の定説にぼちぼち異議が唱えられている。

 稲作は縄文前期には日本にあった。弥生時代に〈弥生人〉が渡来して持ち込んだのではない。ずっと小規模の水田で、河川や湖のそばにあっただけである。菜畑遺跡(佐賀県唐津市)を見れば明らかだ。

 それが古墳が造られる時代になると、かなり大規模化した水田が登場する。そして当然、稲の収穫量も飛躍的に増えている。

 これは大規模な灌漑工事が行なわれたことを指している。

 本来、自然の土地は起伏があって当たり前である。河口付近は土砂の堆積で平地が多いが、太古から手つかずの自然ならば、大なり小なり土地は真っ平らではない。

 そこを開墾して平らにならし、水田にする工事をすれば、大量の土砂が出る。灌漑だから、水路も確保しなければならず、また溜め池も掘らねばならない。どうしても掘った土砂を捨てなければならない。

 これからリニア中央新幹線の大工事が始まるようだが、アルプス山脈にトンネルを掘るから、すさまじい量の土砂が出て、その処理をどうするかが大問題になっている。

 と、同じように、往時も土砂の処理は考えねばならなかった。
 それで土砂を集めて、盛り土にし、古墳にしたのである。


 この説を聞いたときには感嘆した。そうだよな、と。

 古墳は各地にあるが、とりわけ近畿地方に多い。それはつまりヤマト朝廷が近畿で勃興し、強大な権力となったからである。そして大阪平野や奈良盆地などを灌漑して、余った土砂を小山にした。

 それによって、民は米がたらふく食べられるようになり、人口も増え、国家が隆盛していったのである。
 
 したがってサヨク史家が言うように、天皇や豪族が人民を奴隷としてこきつかって、見栄や私欲で墓を造らせたわけがない。

 みんなが食べられるようになり、食糧をめぐっての争いも減って、平和になって、どれほど人民が幸せになったか。

 仁徳天皇陵も灌漑で盛り土したところに、家来や人民が天皇は偉大な方だったとの感謝を込め、また死後も魂としてみんなを見守ってほしいと願って、その盛り土を利用して陵墓にした、というわけだった。結果として陵墓になったのだ。

 おそらく仁徳さんの有名な逸話、「民の竃は賑わいにけり」は、こうした土木工事に敏腕を振るった天皇を偲んでの「神話」になったのではないだろうか。

 サヨク史家どもはいつも階級闘争史観を展開し、王権は絶対悪で、善良な人民を収奪し虐げたことにするけれども、支那や朝鮮ではあるまいし、「やらずぶったくり」の極端な苛斂誅求は行なわれなかった。

 もし、天皇や豪族が、人民の膏血をしぼりに搾る圧政をしていたなら、飛鳥、奈良、平安の時代の仏像が、どれもみんな穏やかな、慈愛に満ちた表情になるだろうか。これは直接の証拠だと言うつもりはないが、いにしえの人々の認識一般がそれら仏像の表情に、滲み出るはずではないか。

 要するに「空白の四世紀」とは、全国的に開墾、灌漑が盛んに行なわれ、米の収量が飛躍的に伸びた時期である。やはり「大和時代」の呼称のほうが良いだろう。
 七世紀末ごろに古墳の建設が行なわれなくなるのは、そうした古式の灌漑工事をやらずに済むようになったからだ。

 多くの土地が開墾され、土地が平らにされ、水路も発達していたから、新たに荒れ地を開墾しても、土砂は水路を利用して船でどこか(海?)に運んだり、大規模な堤防を造るのに利用されるようになったと言われている。

 実際、明らかに古い盛り土で古墳なのに、豪族の埋葬品もなく、墓とは言えないものが多いことが、古墳建設の目的が墓ではなかったことを示している。

 前方後円墳とか、形がいくつかパターンがあるが、それは盛り土が雨などで崩れないために固めたからだという。盛り土が崩れないよう、出来上がるまでは板で囲いをし、さらに周囲に溝を掘って、崩落に備えたので、仁徳陵のような巨大古墳には堀がある。

 盗掘を防ぐため、といいうより、土砂の固定のほうが大事だった。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/437944663.html


輝ける古墳造成時代(2/2)
《2》
 この四世紀間、日本人はせっせと土木工事に勤しみ、広大な田圃を造り、主食を増産して、人口を増やすことに成功した。土木工事の技術は、道路の建設や巨大王宮の建設に生かされていく。

 近畿地方から地方へ、大きな道路が敷かれていき、これによって中央政権が地方の支配をつつがなく遂行できるようになっていくのだ。

 地方の豪族にまつろわぬ動きがあれば、ただちに軍隊を差し向けることが出来るようにもなっていったろう。中央と地方の連絡も、整備された道路のお陰で早く確実にできるようになっていく。

 それは統一王朝の出現と維持を堅固なものにした。やがて飛鳥時代になって、日本独自の「文化」が花開くのである。仏教は6世紀前半に伝来したようだが、それが寺院や仏像をしっかり造るようになる。

 かねてよりの私の持論だけれど、日本人の脳細胞が幾たびかの戦乱を経ることで、飛翔したのである。例えば源平騒乱のあとの鎌倉時代の文化、南北朝戦乱後の室町文化、戦国時代後の江戸初期の元禄文化といったようにである。戦乱で日本人全体での体軀と認識がシビアな反映を強いられ、磨かれるからであり、戦乱が終息して平和になって、文化的な活動が落ち着いて出来るようになって、一気呵成に独自の文化が花開くのである。

 それにならえば、古墳がしきりに造成された時代、すなわち土木開墾が行なわれた時代は、人々はそれまでやったことのない運動を強いられたのである。強いられたといっても、奴隷の苦役ではなかったから、辛いには辛い労働だとしても、希望があった。これで飢餓に苦しまなくて良くなる、腹一杯飯が食える! との目的があった。

 だから開墾灌漑の工事をしながら、言うなれば楽しく、前向きに捉えながらの労働でもあったはずである。

 これは空手の修行でも言えることで、道場で厳しい練習をするにあたって、嫌々やれば上達はしないし、五感器官が鍛えられることでアタマは良くならない。
 よしんばどんなに肉体的にしんどい練習であっても、喜んでやれば、上達も早いし、アタマも良くなる。

 空手の達人になる修行では、たとえばモッコを担いで山を造り、足で踏み固め、さらに土を盛っていく。あるいは一抱えもあるような樹木を素手で引っこ抜く。巨木を担いで移動させる。こういう修練をわが流派が行なっていることは、学問誌『学城』をひもといている方なら、承知しておられるだろう。

 辛い労働でも夢をもって、前向きにやればすばらしい成果があがる。それまでやったことのない運動と、五感の反映で、人々は体力がつくだけでなく、アタマも飛躍的に良くなったのである。

 これは戦争とは違うけれど、それまでの日本人がやったことのない労働だったのである。人民が総動員されて、広大無辺の土地を、重機もないのに森の木を引き抜き、薮を払い、真っ平らにならし、モッコを担いで山を築いていく運動が、すさまじく手足の感覚器官を鍛え上げていった。

 神経は躍動的に動かされ、その元締めの脳も画期的に揺さぶられた。
 そのうえに、食事が充実していったから、実体への栄養も行き渡った。食事が重労働をも可能にした。

 認識は感情で創られるのである。感情(機能)をはぐくむためには、五感器官の実体が立派にならなければならない。五感器官を喜んで駆使する労働と、栄養がとれたことで、その感情のレベルが見事になっていった。

 さらに言えば、この土木工事によって、われらの先祖は、技術というものが生活を豊かにし、国を富ませ、強くすることを学習したはずである。

 例に挙げるのは悪いけれど、アフリカとか東南アジアとかでは、日本人のようないわば「技術信仰」とでもいうような、向上心はついに生まれなかった。後進国の奥地はまるで縄文時代が今日まで続いているような案配であったではないか。テレビのドキュメント番組で見たが、インドネシア奥地の山村では、カマドすら作る知恵が生まれなかったのだ。

 カマドと、ただ石ころを組んだだけの焚き火では、煮炊きするための火力に大きな差がでる。焚き火では火力が得られないから、いきおい森林から大量の薪を伐採してこなければならず、結局ハゲ山となり、砂漠化していく。人々の生活がいよいよ困窮していった。

 暗澹たる厭悪が何千年と続くまま。

 日本では技術が誕生したのである。今日も、「技術立国」とか「技術大国」と自他ともに許すこの実力は、世界を圧倒している。その曙がこの時代だったのではあるまいか。

 仁徳天皇一人の功績ではないけれど、彼が技術立国日本の礎を創ったと言っても良いのではなかろうか。

 国が富むことで、わが国は支那や朝鮮からの侵略にも耐える実力もいっそう付いたことだろう。開墾工事をみんなで力をあわせてやることで、団結力ができてきたこともあっただろう。

 もしかすると、みんなで力をあわせることの経験から、「和」の大事性が強く認識されるようになったのではなかったか。

 聖徳太子の「十七条憲法」ができるのは、ちょうど古墳の造成=開墾が終わりつつある頃だった。

 「和をもって尊しとする」とは聖徳太子一人の思いつきではなく、あの憲法が発想され、また受け入れることのできる「社会的共通認識」が育っていたから成立したのである。ここからも、どれほど日本人全体のアタマが良くなっていたかの証拠が見てとれる。
http://kokoroniseiun.seesaa.net/article/437944701.html


66. 反日蝦夷徳川東条[1] lL2T@onaiM6Tv5Dsk4yP8A 2016年8月31日 16:46:50 : GFWCHZFr3k : gN@FCIgisaQ[1]
縄文人との混血なら”劣等人種縄文”wwwだよww
なんで人種的に価値の低い方の混血が弥生人様になれるんだよバカwwww Y染色体と同じ
数だけ残念ながら縄文土人、つまり先住民どもの混血が増やされてしまったのは縄文人の没落士
族が長い間武家政権やってたから。しかし弥生人の英雄坂本龍馬がぶったたいたおかげで最近
では減ってきたから、これに焦った愛知土人、つまりトグガワとかトウホグ土人、これは東条
の子孫みたいな反日先住民どもが必死に混血なら日本人かも〜〜弥生人かも〜〜〜文句言う奴
は長文で差別主義者のコミュ障!!俺たち縄文人に嫌われる奴は誰が何と言おうとコミュ障
かも〜〜!!とか低IQの嫌疑そらしに必死などっかで聞いたことあるな〜みたいなやつらが
反日先住民族の縄文人wwwアイヌっていうか蝦夷wwwだわなww

もともと無能先住民族の縄文人どもである平家源氏北条→戦国武士→トグガワという流れで
長い間正義の弥生人様が劣等人種の原住民縄文被差別武士侍に主導権握られて辮髪??
みたいなちょんまげ強要されていた時代のひずみがどうしてもあるからな〜
だから東条英機とか靖国を煽る徳川の子孫のナゴヤ野郎とかその子分の全体主義が違憲??
2万パーセントお前死刑みたいなハシゲとかの縄文と北チョンの合いの子みたいな部落民がこの国を
おかしくしようと煽っている。
吉田茂を牢屋に放り込んだ憲兵も名古屋とか大阪辺りの縄文人系の被差別部落民どもだろうしな
今の時代でさえ靖国を煽っている奴らはどいつもこいつも先祖が縄文蝦夷アイヌの劣等人種みたいな低IQの
ゴミどもばかりだし名前にはいつでも”徳川”wwwが書いてあるwww この徳川とかいう奴が本来
阿弖流為とかを自分たちの本当の神、縄文王とか崇めているやつらでトウホグの東条英機もこういうド底辺原住民と同じ
 我々はいい加減日本人とは弥生人のことで、先住民族縄文人のもでないことを自覚しないといけない
 もちろんそうなると一番困るのはこういう縄文どもなのだが、こいつらは弥生人を騙すために大河ドラマが〜とか
戦国時代が〜とか日本の”縄文人の”城が〜〜などと喚いて本来の人種間闘争を嫌疑そらしとかで煙に巻こうとするからな
 何度も言う通り、縄文人とは人種なわけ 吉田が弥生人だとしても徳川や東条は愛知やトウホグの縄文人でヤクザな部落民どもであるという
事実をもっと直視しないといけないんだよ
 歴史をちょっとさかのぼって調べてみれば平家や源氏、北条なんて大阪名古屋トウギョウあたりの原住民の山賊集団みたいなやつらの
先祖ってひょっとして阿弖流為???な〜んてことくらい教科書に直接書いてなくてもははあ〜〜〜ってな具合で分かるだろ??ww
だって科学力に勝る弥生様がなんで兵役とか農作業なんて奴隷仕事いちいちやってやんなきゃなんねーんだよwwってのが中世だし
それならそれで原住民の部落民縄文人どもも、じゃあ兵役をまとめて俺のとこの縄文部落民何万人とかで引き受けるから奴隷王の
元阿弖流為の家来の俺ナゴヤに朝廷様官位くれ〜〜とか、ほならワイらオオサガの縄文王で元阿弖流為の家来だったわいらにも
京都の大和弥生天皇陛下様官位くれや〜〜〜〜ってんで先にオオサガの平家が出世しただけじゃん?? 平民の弥生人さま
すっとばしてよ??  だからIQに劣るゴミの縄文人野郎どもでも戦国武士とか侍とかちょんまげとか絶対に弥生人ならやらない
ださい風習がはびこっちまったわけだからな 正義に目覚めた弥生人の英雄坂本龍馬がこういう狂った隠れ縄文人利権をぶったたいて
くれたけどいまだにナゴヤとか靖国とか東条の子孫をはじめこういう反日先住民どもがこの国を縄文時代に戻してやるwwwつって
自民党とかで国家解体工作、ブラック縄文国家wwに憲法改悪で煽ろうとしている腐りきった世の中なんだからこういうのを是正
しようというのが吉田茂的な魂だってことだよ


この国の正義の弥生人たちの魂よ!!我々の文化風習を汚しに汚し、腐りきった靖国蝦夷阿弖流為思想で
非文明的なブラック思想を押し付け、その無能極まりない政治で縄文時代に押し戻そうとする日本人顔した
ペテン師どもであるナゴヤ徳川縄文部落民どもやトウホグ東条部落民どもなど阿弖流為の家来だった
劣等人種どもを絶滅させることに目覚めよ!!! この国は弥生人のものであり天皇陛下がお造り
したもうたのであり、反日先住民政党自民党のような穢れた部落民没落士族などの反日先住民どもによ
って汚されていいものでは断じてない!!
我々が昭和の時代に無駄死にを強いられた怒りはすべてにおいてこの反日先住民どもナゴヤの徳川
没落士族原住民、トウホグ東条英機蝦夷土人をはじめ、オオサガカゴシマトウギョウなどの腐りに腐り
きった低知能人種縄文人どもの仕業である!!!!
弥生人よ立ち上がれ!!!反日先住民縄文人や没落士族どもを一匹残らず殺し尽せ!!!絶滅させよ!!
我々の弥生国家とその子孫のために今ここで縄文人どもを絶滅させることが最善の選択であることを知ら
なければならない!!!!


67. 中川隆[3833] koaQ7Jey 2016年9月01日 20:11:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4219]

〔サイエンスZERO〕日本人のルーツ発見!
〜”核DNA”が解き明かす縄文人〜〔Science Zero〕
https://www.youtube.com/watch?v=RPYvAFCc3QA

68. 中川隆[3834] koaQ7Jey 2016年9月01日 20:42:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[4220]

東ユーラシア人の中で最初に分岐したのは縄文人だった〜
縄文人の核ゲノム配列をはじめて決定 2016/09/01
http://gansokaiketu.sakura.ne.jp/20160831-higashi-yurashiajinno-nakade-saishoni-bunkisitanoha-jyomonjin-datta-jyoumonjinno-kakugenomuno-hairetuwo-hajimete-kettei.htm


国立遺伝学研究所集団遺伝研究部門および総合研究大学院大学遺伝学専攻の斎藤成也教授らのグループは、福島県北部にある三貫地貝塚から出土した縄文時代人(縄文人)の歯髄からDNAを抽出して、核ゲノムの一部を解読することに成功しました。

これまで縄文人のDNAについては、ミトコンドリアDNAの情報しか得られていませんでした。今回、ミトコンドリアDNAの数千倍にあたる核ゲノムの DNA配列1億1,500万塩基対を決定しました。

このゲノム情報を、現代日本列島人と比較解析したところ、

縄文人はアイヌ人にもっとも近く、ついでオキナワ人、そしてヤマト人(アイヌ人とオキナワ人を除く日本列島人)に近縁であることが明らかになりました。

さらに、縄文人は、現代人の祖先がアフリカから 東ユーラシア(東アジアと東南アジア)に移り住んだ頃、もっとも早く分岐した古い系統であること、そして、現代の本土日本人に伝えられた縄文人ゲノムの割 合は15%程度であることが明らかになりました。

今回、縄文人の核ゲノムの一部が解読されたことによって、縄文人が現代の東アジア人と比べて遺伝的に特異な集団であったことが明らかとなりました。今後、 縄文人ゲノムデータを充実させ、それらを比較解析することによって、縄文人のたどった進化史が明らかになり、日本列島人の起源と成立を知ることにつながる と期待されます。
この研究成果は、Journal of Human Genetics(Online版)に掲載されます。


69. 2016年10月03日 12:06:48 : Yb9cCsO76A : 6x08FbyLuwg[1]

朝日新聞と琉球新報の見解では、沖縄人の起源である港川人は縄文人とは異なるのではないかと言いたいようです。即ち、ウチナンチュはヤマトンチュのDNAはまるで関係ないということですね。
でも、ウチナーグチが大和言葉とよく似ているのはどうしてなんでしょうか?
元々の台湾語との共通点があるのかないのか知りませんが、たぶん全く違う言語ではないかと思います。


BBCメニュー  NEWS JAPAN

世界最古の釣り針、沖縄の洞窟で発見


2016年09月19日
http://www.bbc.com/japanese/37405022


朝日新聞デジタル

港川人、縄文人と似ず 顔立ち復元、独自の集団か

2010年6月28日10時46分
http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY201006280113.html


琉球新報

【教えてニュース塾】港川人 縄文人と別起源

2009年10月9日 14:30
http://ryukyushimpo.jp/news/prentry-151034.html(結びの言葉引用)


・・この分析結果について、研究チームメンバーで国立科学博物館に勤める海部陽介(かいふようすけ)さんは「港川人を縄文人の祖先として考えることが一般的だったが、それが本当に正しいのか、詳しく研究する必要がある」と話しています。


70. 2016年10月03日 12:15:15 : Yb9cCsO76A : 6x08FbyLuwg[2]
訂正


>元々の台湾語との共通点があるのかないのか知りませんが、たぶん全く違う言語ではないかと思います。


(台湾の原住民の言葉は中国語ではないということで)沖縄は地理的に九州より台湾の方が近いので言語的にどうなのか?という意味です。


71. 2016年10月03日 12:19:34 : Yb9cCsO76A : 6x08FbyLuwg[3]
>>70続き
専門家によると、その共通性はないようです。


Yahoo!知恵袋

台湾原住民の言語と沖縄の古語に統一性はありますか?なんか無いような気がします...
ruang_bon_tiengさん

2015/1/20
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q14140893829



72. 2016年10月03日 12:34:38 : Yb9cCsO76A : 6x08FbyLuwg[4]
面白いです。


tacodayoのブログ

8月15日


ブサヨに騙されて死ぬ沖縄人 2chまとめ

カテゴリ:歴史進化論のウソと犯罪
http://blog.livedoor.jp/tacodayo/archives/8092818.html


73. 中川隆[5518] koaQ7Jey 2016年12月18日 08:55:10 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[5955]

稲作の起源は1万年前の中国―専門家
http://www.recordchina.co.jp/a158082.html
2016年12月17日(土) 16時50分


科学者らは中国稲作起源の学術提案書を発表し、中国の稲作の起源は1万年前まで遡ることができ、その範囲は江西省万年県仙人洞の吊桶環遺跡を中心エリアとする長江中・下流及びその南部に及ぶだろうとの見方をまとめている。


中国科学技術協会が主催する「第54期中国科学技術フォーラム――中国稲作起源地学術シンポジウム」がこのほど、江西省万年県で開かれた。人民日報が伝えた。

科学者らは中国稲作起源の学術提案書を発表し、中国の稲作の起源は1万年前まで遡ることができ、その範囲は江西省万年県仙人洞の吊桶環遺跡を中心エリアとする長江中・下流及びその南部に及ぶだろうとの見方をまとめている。

中国の稲作研究者は、中国の稲作の起源を論証するため努力を続けてきた。80年代以降、江西万年仙人洞吊桶環遺跡、湖南道県玉蟾岩遺跡、浙江浦江上山遺跡などの考古調査により、1万年前には稲の人工栽培が確認され、「稲作の起源は中国」という学説を有力に裏付けている。(提供/人民網日本語版・編集YF)


74. 中川隆[7613] koaQ7Jey 2017年4月09日 11:58:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8100]

最近ネットで

東山天皇は縄文人 D1b1a2
藤原鎌足の墓と言われる阿武山古墳の被葬者は弥生人 O1b2a1a1


というデマが広まっています。 デマの情報源は


有名人のハプログループ
http://famousdna.wiki.fc2.com/

王家のハプログループ - Yourpedia
http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AE%B6%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97#.E6.97.A5.E6.9C.AC

Famous people's Y-DNA listed by haplogroup - Eupedia
http://www.eupedia.com/genetics/famous_y-dna_by_haplogroup.shtml


ですが、まともなデータや文献は何一つ引用されていません。

そもそも阿武山の遺体のDNA鑑定なんて行われてないし
実在しないニニギノミコトのDNAまで書いてるクルクルパー資料

朝鮮進駐軍の話と同じで在特会やチャンネル桜の関係者が捏造したものだと思います。

右翼は天皇が朝鮮人だとわかると困るんでしょうね。


因みに、Y-DNAだけでは民族差の判断は難しいのです。

2008年10月16日
ミトコンドリアDNAでは母方の祖先が分かるが、Y染色体のDNAからは父方の祖先が分かる。
「常に男女が同程度の人数で移動した」とは限らないので、Y染色体のDNAも調べる必要がある。


南米大陸全体での先住民族のDNAを持つ人の割合は、ミトコンドリアDNAでは82.8%だったのに対し、Y染色体ではわずか8.6%だった。

Y染色体で先住民族のDNAを持たない人の父方の祖先は、大航海時代以降南米に入ったヨーロッパ系(侵略者)又はアフリカ系(奴隷)の人々である。

比較的「南米以外」からの影響が少ないと見られていたペルーの山岳部の住民でも、同様の傾向があった。

先住民族のDNAを持つ人の割合は、ミトコンドリアDNAでは94.2%だが、Y染色体では46.0%しか居なかった。
http://d.hatena.ne.jp/psw_yokohama/20081016/p1

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/04(月) 23:19:37 ID:9w/WmKTM

ところが中南米人の遺伝子調べると
母系は先住民、父系はヨーロッパ人と綺麗に分かれてる
ハーレム状態


94 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/04(月) 23:36:51 ID:GKFrYljf
>>93
人種構成は、

ペルーが、インディオ47%、混血40%、欧州系12%、東洋系等1%

ボリビアが、インディオ55%、混血32%、欧州系13%

メキシコが、インディオ30%、混血55%、欧州系(スペイン人)15%


97 :名無しさん@お腹いっぱい。:2005/07/05(火) 12:35:59 ID:OriNBOP5
>>94
それは人種構成だから遺伝子の数値とズレがあるよね

例えばアルゼンチンは白人国家とされてるけど

ブエノス・アイレスの隣のラ・プラタ市の遺伝子調査だと
mtdna(母系)は45%が先住民、Y染色体(父系)の90%がヨーロッパ系

インディオが少ないとされるブラジルでも調査すると
mtdna(母系)の32%が先住民、28%が西アフリカ人となる
Y染色体(父系)の方はこれまた90%以上ヨーロッパ系になる


つまり人種的に黒人、インディオに分類されても
男系にかぎっては過去に白人の祖先をもつやつがとても多い

それに人種的にブラジルは白人、ムラート、黒人に分類されるが
実際は先住民ともかなり混血してることがわかる

あとアメリカ黒人男性の20%は白人を祖先に持つ
逆にアメリカ白人への黒人の遺伝子的影響はわずか0.7%
アメリカ白人への先住民の遺伝子的影響は3.4%

これらの数値はつい先日英語サイトから拾ってきたもの

ブラジルの数値はちゃんとした論文で具体的な方法まで書いてあったから
かなり信用できると思う
http://academy3.2ch.net/test/read.cgi/geo/1094725063/l50

中南米人の遺伝子調べると母系は先住民、父系はヨーロッパ人と綺麗に分かれてる ハーレム状態

現代の中国人は父系は大半が黄河文明人 O2(旧表記O3)で元々はコーカソイドみたいだけど、母系は南方系が殆どだから中南米のインディオと同じ様にモンゴロイドにしか見えない

日本では父系が黄河文明人 O2 の比率は 20%だけど、母系は縄文人(D1b, C1, C2)と弥生人(O1b2)でしょう

日本人Y-DNAハプログループ比率
D1b--32%
O1b2-32%(旧表記O2b)
O2---20%(旧表記O3)
C2----6%
C1----5%
O1b1--1%(旧表記O2a)
O1a---1%
N1----1%
D1a,Q1--1%未満
(2013 徳島大 佐藤等 サンプル数2390)

自分のハプロタイプが調べられる機関
https://genographic.nationalgeographic.com/
https://www.familytreedna.com/
https://www.23andme.com/

最新ツリー -ISOGG、ウィキペディア
http://www.isogg.org/tree/ISOGG_YDNATreeTrunk.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97


天皇一族みたいな朝鮮からの漢民族系渡来人は黄河文明人 O2 で一重瞼

縄文人(D1b, C1, C2)と弥生人(O1b2)は全員二重瞼


一重瞼はチョンだと思って間違いない :

グレゴール・ヨハン・メンデルの「優性の法則」によると、遺伝には親の性質が現れやすい「優性」と、現れにくい「劣勢」の二通りあり、両方の遺伝子が存在した場合、優性の形が優先されるそうです。

二重まぶたの遺伝パターン

二重まぶたは「優性遺伝」、一重まぶたは「劣勢遺伝」です。「それなら、両親とも、もしくはどちらかが二重まぶたなら子供も絶対二重まぶたになるのでは?」と思いますよね。でも、実は遺伝には4つの遺伝法則があるのです。
そもそも、まぶたには3種類の遺伝パターンがあります。


●二重の遺伝子を2つ持つ「AA」の二重

●二重の遺伝子を1つと一重の遺伝子を1つ持つ「Aa」の二重

●一重の遺伝子を2つ持つ「aa」の一重

両親が二重でも、「AA」タイプの二重なのか「Aa」タイプの二重なのかによって、子供が二重になる確率は変わるのです。


二重まぶたの遺伝の法則

両親のどちらかが「AA」タイプの二重であれば、子供が二重になる確率は100%、

両親が二重であっても、「Aa」タイプの二重であれば、子供が一重になる確率が25%ある

両親のどちらかが一重であれば、子供が一重になる確率は50%になります。


両親のタイプ別二重まぶたの遺伝ケース

父「AA」×母「AA」の二重
子供も「AA」の二重


父「Aa」×母「Aa」の二重
子供は「AA」か「Aa」の二重、又は「aa」タイプの一重になる可能性がある


父か母「AA」の二重×父か母「aa」の一重
子供も「Aa」の二重


父か母「Aa」の二重×父か母「aa」の一重
子供は「Aa」の二重、又は「aa」の一重になる可能性がある
https://moomii.jp/baby/babymabuta-iden.html


75. 中川隆[7703] koaQ7Jey 2017年4月12日 20:24:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[8191]

ソウルは大和朝廷の同盟国だった百済の首都「漢城」が起源であり、防衛上不利なので何度も敵に攻略されては主人が交代してきました。

地形が不利なうえに歴代の王朝は軍が弱かったので、攻略されては首都を移転したが、結局また元の場所に首都が落ち着いている。

大きな河川があって朝鮮半島の西側の中心に位置し、大きな港を作りやすく、中国大陸に向かって開けているので、経済を発展させるのに有利だからです。


第二次大戦後や朝鮮戦争後、あまりにも38度線に近すぎるので首都を移転させようという意見もあったが「朝鮮半島の首都」であるソウルにこだわって移転を拒否している。

大和朝廷が交易に有利な大阪などより、防衛を重視して山奥の奈良や京都から動こうとしなかったのとは対照的です。
http://www.thutmosev.com/archives/70434088.html


76. 中川隆[-7988] koaQ7Jey 2017年4月30日 12:47:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

阿修羅管理人に投稿・コメント禁止にされましたので、本日をもってこのスレは閉鎖します

77. 中川隆[-7892] koaQ7Jey 2017年5月01日 08:41:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

参考に、僕が阿修羅原発板で反原発派の嘘とデマを明らかにした為に、阿修羅で投稿・コメント禁止にされた経緯を纏めました:

これが阿修羅に巣食う電通工作員
http://www.asyura2.com/11/kanri20/msg/603.html#c73


78. 中川隆[-7599] koaQ7Jey 2017年5月30日 06:34:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2017年05月25日 人骨は多くを語る〜沖縄の石垣島で2万7千年前の人骨が大量発見
http://web.joumon.jp.net/blog/2017/05/3212.html


5月20日にプレス発表されたこのニュース。考古学的にはかなり大きな発見だ。
毎日新聞と琉球新報での記事全文を転載しますが、特に今回の発見での特筆すべき点を記事の中から抽出しておきたい。


http://web.joumon.jp.net/blog/wp-content/uploads/2017/05/img_e72b1210f7ad6d6dbb815b68561efc40228205.jpg


>7年間に渡る調査の集大成

2012年から継続した発掘調査は今年7月で終了。旧石器時代の人骨は全体で計約1000点出土した。同時代の人骨が確認された遺跡としては東アジア最大級で、科学分析による新たな知見も得られており、日本列島の旧石器人の研究に欠かせない遺跡となった。

>高度な分析方法で人骨年代精度が高まる

今回の遺跡調査の特徴は、人骨の科学的分析を進めてきた点だ。

骨内のたんぱく質「コラーゲン」を放射性炭素年代測定にかけることで、人骨の年代を直接測定できるようになった。過去にも1万8千年前とされる湊川人の遺跡が発見されているが、年代は人骨に伴って出てきた遺物の測定によるものだったため、人骨が後世に流れ込んだ可能性が指摘され、沖縄での旧石器人の存在を疑う見解もあった。今回の調査は沖縄に確実に2万年以上前に旧石器人が居た事を証明するものとなった。


>2万年前の葬送方式は風葬だった

今回の発掘の最大のポイントは風葬という葬送方式が再現できる形で発掘できた事である。⇒旧石器時代の人骨が大量に出土した同遺跡は、墓地だった可能性が指摘されている。岩陰や洞穴の入り口に遺体を安置する、風葬に近い葬送法が考えられるという。

藤田研究員は「世界でも岩陰で人骨がばらばらで見つかることがあり、墓なのか分からなかった。世界的に価値が高い発見だ」と評価し「沖縄だけでなく、日本本土でも洞穴を墓に利用したのではないか」とも想像する。
死体を埋めずに空気にさらす「風葬」の決め手は岩陰で見つかった、国内最古となる全身骨格がそろった1体分の人骨だった。手足を折り曲げて葬られた姿勢が初めて分かった。それらを分析すると「古い人骨を押しのけて新しい遺体を置いたことが推測できる」

>DNAの抽出に成功、日本人のルーツ、食生活まで人骨から情報を得る

推定身長が165センチの人骨もあり、港川人など他の旧石器人骨より大柄だ。

当時の食生活についてもコラーゲンの組成分析から発見があった。同遺跡の旧石器時代の人間は、その後の時代の人間に比べ海産物を食べる割合が低かったことが判明した。氷河期のためサンゴ礁がなく、海産物が利用できなかった可能性が指摘できるという。

旧石器時代のものでは初めてで国内では最古となる、人骨からのヒトのDNA抽出にも成功した。そのDNAのパターンが、中国大陸南部や東南アジアなどが起源と想定されるパターンだったことが判明し、日本人のルーツを探る上で貴重なデータとなった。


以下は記事の転載です。今後のさらなる発見にも注目が高まります。

5月20日毎日新聞1面〜

DNAも抽出、日本人の起源手がかりに

約2万年前の旧石器時代の人骨が確認されたことで知られる沖縄県・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡(石垣市)で、ほぼ全身の骨格をそろえた人骨が1体分見つかった。旧石器時代の全身骨格の出土は、沖縄本島・八重瀬町の港川フィッシャー遺跡での出土以来2例目。2012年から継続した発掘調査は今年7月で終了。旧石器時代の人骨は全体で計約1000点出土した。同時代の人骨が確認された遺跡としては東アジア最大級で、科学分析による新たな知見も得られており、日本列島の旧石器人の研究に欠かせない遺跡となった。【大森顕浩】

全身骨格の人骨は、約2万4000〜2万年前(放射性炭素年代)の地層にあった岩陰の奥で見つかった。2014年にひざが一部露出、翌年から掘り下げて、頭骨など1体分の全身の骨の約8割がまとまって出土した。ひざの関節部分や背骨などが接合しそうなほど近い位置で見つかっており、体が横たわった状態がうかがえるという。

日本の旧石器時代の確実な人骨は、酸性土壌の多い本土では静岡県で確認された「浜北人」だけ。一方、化石の保存に適した石灰岩質が広がる沖縄県では山下町第一洞穴遺跡(那覇市)など数多く発見されているものの、全身骨格の発見は港川フィッシャー遺跡で確認されたのが最初。約1万8000年前(放射性炭素年代)の4体のみだった。今回の骨格は港川とほぼ近い年代にあたるという。

土肥直美・元琉球大准教授(形質人類学)は「遺体が埋められていないまま、自然にばらけて白骨化していく様子がうかがえる。全身骨格は体形などの特徴がはっきり分かり、大変重要」と指摘する。

*************************

白保竿根田原洞穴遺跡は旧石器時代から近世の人骨やイノシシ、鳥などの動物の骨、土器や石器などが出土する複合遺跡。石垣島の空港建設に伴う調査で発見された。沖縄県立埋蔵文化財センターが10年に緊急調査、12年から5カ年計画の本格調査を続けてきた。
これまで確認した旧石器時代の人骨約1000点は、頭骨や歯、四肢の骨などで、全身の骨がまんべんなく見つかっている。同センターの分析で、現時点で十数人分の人骨に相当すると判明した。

同遺跡の特徴は、人骨の科学的分析を進めてきた点だ。骨内のたんぱく質「コラーゲン」を放射性炭素年代測定にかけることで、人骨の年代を直接測定できるようになった。白保竿根田原洞穴遺跡の発見以前は、沖縄では旧石器そのものが見つかっていなかった。沖縄の旧石器時代の人骨も洞穴内での発見が多く、年代は人骨に伴って出てきた遺物の測定によるものだったため、人骨が後世に流れ込んだ可能性が指摘され、沖縄での旧石器人の存在を疑う見解もあった。同遺跡の人骨から約2万年前の年代が測定されたため、旧石器人の存在を科学的に証明することができた。

当時の食生活についてもコラーゲンの組成分析から発見があった。同遺跡の旧石器時代の人間は、その後の時代の人間に比べ海産物を食べる割合が低かったことが判明した。氷河期のためサンゴ礁がなく、海産物が利用できなかった可能性が指摘できるという。

旧石器時代のものでは初めてで国内では最古となる、人骨からのヒトのDNA抽出にも成功した。そのDNAのパターンが、中国大陸南部や東南アジアなどが起源と想定されるパターンだったことが判明し、日本人のルーツを探る上で貴重なデータとなった。

************************

旧石器時代の人骨が大量に出土した同遺跡は、墓地だった可能性が指摘されている。同遺跡では、人骨が特定の場所に複数人分が集中する形で出土している。人骨には片面だけ粘土や土が付着したり、動物がかんだ跡とみられる傷もあった。人骨が長期間露出していた環境がうかがわれるため、岩陰や洞穴の入り口に遺体を安置する、風葬に近い葬送法が考えられるという。

調査を担当した沖縄県立埋蔵文化財センターの仲座久宜・調査班長は「旧石器時代の人骨出土数は国内最大。約2万年前に人類が石垣島まで到達したことを示す貴重な成果。その後も洞穴が断続的に利用されていた点も重要だ」と振り返る。今後は新たに出土した人骨からも年代測定やDNA抽出を試みるほか、保存状態の良い頭骨を基に顔の復元などの研究を進めるという。土肥さんは「日本人の起源や、東アジアでの人類の拡散につながる新しい研究成果がこれからも出てくるだろう」と期待している。

5月20日毎日新聞 25面〜

沖縄県・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)洞穴遺跡で見つかった世界でも例のない大量人骨は、旧石器時代に何度も繰り返された葬送の痕跡だった。手足を折り曲げた遺体を風葬のように岩陰に置いたとみられ、洞穴を墓にしていた実態が明らかになった。「風葬のような葬送方法が分かったのは前例がない」と国立科学博物館の藤田祐樹研究員(形態人類学)は驚きを隠さない。

死体を埋めずに空気にさらす「風葬」の決め手は岩陰で見つかった、国内最古となる全身骨格がそろった1体分の人骨だった。手足を折り曲げて葬られた姿勢が初めて分かった。骨の関節がはずれてばらついた様子は、沖縄で長く続いた風葬の人骨と似ており、遺体が長期間地上で露出していたことを物語る。

屈葬の姿勢は縄文時代に多くみられ、手足を縛って災いを防ぐ、胎児の姿勢にして再生を祈願する、などの説がある。当時の死生観について、沖縄県立埋蔵文化財センターの金城亀信所長は「類例がないのでなんとも言えない。今後の課題だ」と話した。

国内の旧石器時代の人骨の出土は沖縄県がほとんどだが、散乱して見つかっており、遺体の姿勢までは分からなかった。藤田研究員は「世界でも岩陰で人骨がばらばらで見つかることがあり、墓なのか分からなかった。世界的に価値が高い発見だ」と評価し「沖縄だけでなく、日本本土でも洞穴を墓に利用したのではないか」とも想像する。

保存状態の良い頭蓋骨(ずがいこつ)は計4点見つかり、河野礼子・慶応大准教授(自然人類学)は顔の復元に注目する。「4点の顔が似ているかどうかで、洞穴に葬られた人たちの血縁関係がどの程度近いか推測できる。また、全身骨格からは体つきや健康状態も分かる。どの地域から来たのかもうかがえる。日本人のルーツのヒントになる」と期待する。【大森顕浩】

琉球新報より〜

「あおむけて膝を胸の方に折り曲げた姿勢(屈葬)で葬られた」−。19日に沖縄県西原町の県立埋蔵文化財センターで開かれた同県石垣市の白保竿根田原(さおねたばる)洞穴遺跡に関する記者会見。日本で初めて旧石器時代の墓地と確認された同遺跡で見つかった「4号人骨」の葬られた際の姿勢について、土肥直美元琉球大准教授はこう説明した。琉球弧に広く分布する風葬は、2万7千年前には始まっていたことになる。研究者らは「旧石器時代の葬法の状況が分かるのは国内で初めて」と興奮気味に語った。

 遺跡からは1千を超える人骨片が出土し、それらを分析した結果、少なくとも19人がそこに葬られていることが分かった。5カ所にまとまって人骨が集中しており、墓地である可能性は早くから指摘されていた。しかし、人工物が全く見つからず文化的活動の証拠を見いだせず、墓地と打ち出せるかどうか慎重に検討されてきた。

決め手になったのが「4号人骨」で葬られた姿勢が明確になったことだ。屈葬と呼ばれるその姿勢こそ文化活動の証拠だった。他のバラバラで見つかった人骨も、発掘を進めながらその位置関係を3次元で精密に記録してきた。それらを分析すると「古い人骨を押しのけて新しい遺体を置いたことが推測できる」と土肥さんは語る。

県立埋蔵文化財センターで20日から一般公開される1号から4号までの人骨。1、3号は頭骨だけで、2、4号は全身の骨格がほぼ残る。これらの骨の形や状態からは、当時の暮らしも垣間見えた。4体はいずれも成人男性で、20代半ばの2体と高齢とみられる2体。推定身長が165センチの人骨もあり、港川人など他の旧石器人骨より大柄だ。

高齢とされる2号、4号では、下顎より上顎の歯のすり減り方が著しい。河野礼子慶応大准教授は「食生活からは考えにくい。特殊な歯の使い方をしていた可能性がある」と指摘した。この男性の頭骨からは日常的な冷水刺激によるとされる外耳道骨腫が確認できた。長年、潜り漁をしていたのではないかと想像が広がる。

形質人類学が専門の土肥さんは10年以上、八重山で旧石器人骨を探し続けたが手掛かりがなかった。そこに現れたのが竿根田原遺跡だった。人骨を「この人は…」と説明する土肥さんの言葉には、はるかな昔を今に伝えてくれる人骨への敬意が込められていた。
http://web.joumon.jp.net/blog/2017/05/3212.html

石垣島で国内最古の全身人骨発掘
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-33.htm

関連の学会や研究機関では大変話題になっている報告です。
紹介するのは 2017/5/21 の朝日新聞の記事です

沖縄群島が日本人の「先祖の系統の一つ」を考察するうえで非常に重要であることがまた裏ずけられました。

1.オーストラロイドでしょう。

  縄文草創期の港川人はオーストラロイド似(恐らくY-DNA「C1a1」)であることは既に研究機関の復元顔が報告されていますが、 弟遺伝子亜型と考えられるオーストラリアのアボリジニ(Y-DNA「C1b2b」)は50,000年前には既にサフール大陸 (ニューギニア島とオーストラリア大陸が一つの大陸に繋がってころの大陸名)に上陸していたことは 欧米の研究で報告されています。

  つまりニューギニア高地人(ラニ族やダニ族など:Y-DNA「C1b2a1c」)やオーストラリア・アボリジニ(Y-DNA「C1b2b」)より古い 兄Y-DNA亜型を持つ縄文人の一系統である海洋性ハンターのY-DNA「C1a1」は 少なくとも同じころにはヤポネシア列島に上陸していてもおかしくはないのです。

Y-DNA「C」系統の中で最も古い亜型が日本列島から検出されているのです。 日本列島は少なくとも数万年以上まえから、遺伝子の吹き溜まり(最終到達地)となり 極めて古い亜型がそのまま残っている希少な価値を持つ唯一の「先進国家」なのです。

2.主要な遺伝子亜型の入れ替わりがあったようです。

  今回の発掘の価値は、遺伝子亜型入れ替えの可能性が求められることにあります。

  これまでの国内のY-DNA調査では現代石垣島はY-DNA「O1b2」つまり弥生農耕民亜型が60%近くを占める弥生系世界のようです。 日本列島の中で最も弥生度の高い地域と思われるのです。

  ところがもっと古い時代は沖縄本島と同様の縄文系の世界であることが今回判ったのです。

  縄文系精神風土の石垣島に、南下してきた稲作農耕民が移住し多数派になり精神風土が弥生系に変わったと考えられます。 沖縄の中でも独特な石垣島の精神風土は支配層の遺伝子亜型の違いによるものかもしれません。 沖縄群島は縄文でひとくくりにされる単純な文化/精神風土地域ではないのです。

  かと言って台湾との接点は現在全く検出されていません。台湾の先住民の遺伝子型はY-DNA「O1a1a」で楚系の集団と考えられます。 

この楚系遺伝子亜型は石垣島では検出されず、むしろ本州の中国地方で高頻度で検出され、中国地方が日本の中でも 特異な地域(吉備氏が代表か?)であることが判っています。

  石垣島の農耕民遺伝子は現代のY-DNA調査では、台湾からではなく朝鮮半島から九州経由で南下してきたと考えるのが妥当です。

  但しこの調査研究報告は若干古く、報告された弥生系の亜型は満州、朝鮮半島や日本の一部でも検出されるオリジナル呉系のY-DNA「O2b2」か、 縄文と交配し分化した日本独自のY-DNA「O2b2a1a1」かどうかまでは踏み込んではいません。 つまり水田稲作農耕文化民が満州から朝鮮半島経由で南下し一気に石垣島まで移住してきたのか、九州で独自亜型に分化してから南下してきたのかはまだわからないのです。
  新しい研究が進む事を期待します。

関連論文と記事

16-5. 30,000年前〜35,000前に遡る沖縄の漁労技術
http://garapagos.hotcom-cafe.com/16-5.htm

14-4. 42,000年前のホモサピエンスの外洋漁撈と海洋技術
http://garapagos.hotcom-cafe.com/14-4.htm

30-12. 石器晩期−縄文草創期の港川人はオーストラロイドのようだ
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-12.htm


79. 中川隆[-7629] koaQ7Jey 2017年5月31日 10:29:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]
>>74 に追記


王家のハプログループ 科学的根拠なしで削除された項目
http://ja.yourpedia.org/wiki/%E7%8E%8B%E5%AE%B6%E3%81%AE%E3%83%8F%E3%83%97%E3%83%AD%E3%82%B0%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%97#cite_note-4


王家のハプログループ(英:haplogroup of a royal family)とは、世界各国の王家のY染色体ハプログループを記した一覧である。詳細なSNP(一塩基多型)に関しては研究途中の段階であるケースもあるが、現在、解明されている世界の王家に関するY染色体の分岐系統をなんとなく適当に記す。


日本

出雲王朝 C2c1a(C-Z1300)[2] 要再調査。千家国麿氏と典子さまのご結婚時にD1b2と報道されたとうわさあり。

諏訪神党 C2c1a(C-Z1300) [3] 要再調査。

皇室 D1b1a2(D-IMS-JST022457)(継体天皇まで遡る) 科学的根拠なし[4][5][6]

源氏(征夷大将軍) D1b1a2b1a1(D-Z1504, CTS8093) 科学的根拠なし[7][8]

足利氏(征夷大将軍) D1b1a2b1a1 科学的根拠なし

豊臣秀吉(太閤) C1a1 科学的根拠なし

徳川氏(征夷大将軍) D1b1a2 科学的根拠なし

王政復古 D1b1a2 科学的根拠なし

蝦夷

鬼菱 ?(シャクシャインと覇を争ったアイヌの酋長。松前藩の仲介で一時和睦するが、シャクシャイン側の奇襲にあって討死した)

シャクシャイン ?(東蝦夷シブチャリ(静内)のアイヌの酋長)

カンナリ家 ?(幌別アイヌの巨酋・カンナリキ[9]に始まる系統。子孫は金成・神成姓を称す。カンナリキの遠祖はもと和人とされる)

チリ家 ?(登別アイヌの酋長・チリパ・ハエプトに始まる系統。子孫は知里姓を称す[10])

琉球

舜天王統 D1b(D-M64.1) 科学的根拠なし[11]

英祖王統 ?
察度王統(中山王) ?
羽地王統(北山王) ?
大里王統(南山王) ?
第一尚氏王統 ?

第二尚氏王統 D1b(D-M64.1) 科学的根拠なし[12]


80. 中川隆[-7626] koaQ7Jey 2017年6月02日 08:51:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

水稲は約1万年に長江下流域で栽培開始―中国研究グループ
http://www.recordchina.co.jp/b179785-s0-c30.html
2017年6月1日(木) 5時50分


2017年5月30日、中国国営新華社通信によると、水稲の栽培が約1万年前に長江下流域で始まったとする中国の研究グループによる研究成果がこのほど、米国科学アカデミー紀要(Proceedings of the National Academy of Sciences、PNAS)に掲載された。これは、世界の農業の起源における中国の早期稲作の地位をより確かなものにするものだ。

稲の栽培の起源については定説がなく、インドや中国などが挙げられている。中国国内においても華南起源説と長江中・下流域起源説が存在する。

中国科学院地質・地球物理研究所の呂厚遠(リュー・ホウユエン)研究員とそのグループによると、世界で最も古い水稲化石は長江中・下流域の少数の遺跡だけで確認されており、浙江省浦江県の上山遺跡がその一つだ。だがその年代測定の多くは、陶器の破片から取り出した有機物を放射性炭素年代測定にかけて調べられるが、呂氏らは年代推定の精度を上げるため、プラントオパール中の炭素14を利用した放射年代測定により、9400年前以前のものと推定している。

呂氏は「この方法で測定された上山遺跡の層位と最下層からの距離、およびイネの栽培化の速度の遅さを考慮すると、栽培が開始された年代は約1万年前の完新世の開始期におおむね一致する」と説明している


81. 中川隆[-7383] koaQ7Jey 2017年6月22日 22:32:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

未来を創る科学者達 (6)遺伝子に隠された日本人の起源 〜篠田謙一〜 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%9C%AA%E6%9D%A5%E3%82%92%E5%89%B5%E3%82%8B%E7%A7%91%E5%AD%A6%E8%80%85%E9%81%94%E3%80%80%EF%BC%88%EF%BC%96%EF%BC%89%E9%81%BA%E4%BC%9D%E5%AD%90%E3%81%AB%E9%9A%A0%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90%E3%80%80%EF%BD%9E%E7%AF%A0%E7%94%B0%E8%AC%99%E4%B8%80%EF%BD%9E

NHKスペシャル アジア巨大遺跡 縄文 奇跡の大集落 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=NHK%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB++%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2%E5%B7%A8%E5%A4%A7%E9%81%BA%E8%B7%A1++%E7%B8%84%E6%96%87+%E5%A5%87%E8%B7%A1%E3%81%AE%E5%A4%A7%E9%9B%86%E8%90%BD


82. 中川隆[-7350] koaQ7Jey 2017年6月25日 07:14:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

サイエンスZERO 日本人のルーツ発見! ”核DNA”が解き明かす縄文人 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%A8%E3%83%B3%E3%82%B9ZERO++%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E7%99%BA%E8%A6%8B%EF%BC%81+%E2%80%9D%E6%A0%B8DNA%E2%80%9D%E3%81%8C%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA

未来を創る科学者達 (6)遺伝子に隠された日本人の起源 〜篠田謙一〜 YouTube 動画
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NHKスペシャル アジア巨大遺跡 縄文 奇跡の大集落 - YouTube 動画
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サイエンスzero 農耕 - YouTube 動画
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83. 中川隆[-7298] koaQ7Jey 2017年7月06日 07:21:23 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

ナショナル歴史民族ミュージアム研究報告 2014年7月

雑草からみた縄文時代晩期から 弥生時代移行期における イネと雑穀の栽培形態
那須浩郎 著 - ‎2014
https://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:_BJAweQUWKMJ:https://rekihaku.repo.nii.ac.jp/%3Faction%3Drepository_uri%26item_id%3D300%26file_id%3D22%26file_no%3D1+&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja

 縄文時代晩期から弥生時代移行期におけるイネと雑穀(アワ・キビ)の栽培形態を,随伴する雑 草の種類組成から検討した。

最古の水田は,中国の長江中・下流域で,約6400年前頃から見つかっているが,湖南省城頭山遺跡では,この時期に既に黄河流域で発展した雑穀のアワ栽培も取り入れており,小規模な水田や氾濫原湿地を利用した稲作と微高地上での雑穀の畑作が営まれていた。

この稲作と雑穀作のセットは,韓半島を経由して日本に到達したが,その年代にはまだ議論があり, プラント・オパール分析の証拠を重視した縄文時代の中期〜後期頃とする意見と,信頼できる圧痕 や種子の証拠を重視して縄文時代晩期終末(弥生時代早期)の突帯文土器期以降とする意見がある。

縄文時代晩期終末(弥生時代早期)には,九州を中心に初期水田が見つかっているが,最近,京都 大学構内の北白川追分町遺跡で,湿地を利用した初期稲作の様子が復元されている。この湿地では, 明確な畦畔区画や水利施設は認められていないが,イネとアワが見つかっており,イネは湿地で, アワは微高地上で栽培されていたと考えられる。

この湿地を構成する雑草や野草,木本植物の種類 組成を,九州の初期水田遺構である佐賀県菜畑遺跡と比較した結果,典型的な水田雑草であるコナ ギやオモダカ科が見られず,山野草が多いという特徴が抽出できた。

この結果から,初期の稲作は, 湿地林を切り開いて明るく開けた環境を供出し,明確な区画を作らなくても自然地形を利用して営 まれていた可能性を示した。

はじめに

 縄文時代から弥生時代への移行は,一般に水田稲作の開始によって特徴づけられる。しかし,明 確な水田遺構(水田跡)や畠遺構が見つかる以前にも,炭化米や籾痕土器,プラント・オパールな どのイネ資料の報告があり,これにより,縄文時代の稲作が議論されてきた。さらには,イネだけ でなく,雑穀のアワ・キビの種子や圧痕もほぼ同時期から見つかっており,縄文時代におけるイネ と雑穀の複合的な栽培が想定されてきた[佐々木,2003;2011など]。

この栽培形態については,遺 跡立地や民俗例などをもとに,焼畑や切り替え畠などで行われていたと考えられることが多かったが,実際に,縄文時代に焼畑があったことを積極的に示す証拠はまだ見つかっていない[能登,2002]。

縄文時代の原初的な天水田,畑地,焼畑などの耕作地を,遺構として明確に捉えることは困難だか らである。  縄文時代のイネや雑穀の栽培形態を示すひとつの方法として,雑草に着目する方法がある。雑草 は,「人為環境下に良く生育し,かつ人間活動に干渉する植物群」と定義され,野生植物と栽培植物 の両方の性質を部分的に持っている植物である[山口,1997]。

雑草植生は人為の干渉の度合いによっ て種類組成が異なるため,遺跡から出土する雑草の種類組成から,当時の人為干渉の度合いを推定 することができる。笠原安夫は遺跡から出土する雑草種子を精力的に分析し,縄文時代から弥生時 代にかけて水田雑草が増加することを明らかにした[笠原,1976;1982;笠原・武田,1979など]。こ のように,作物に付随する雑草の種類組成を調べることで,当時の立地環境や栽培形態を間接的に 推定することが可能である。  

本報告では,イネや雑穀などの穀物資料に随伴する野草や雑草の組成に着目して,イネと雑穀の 栽培形態を検討する。まず,中国で水田稲作が始まった頃のイネと雑穀の栽培形態を,湖南省城頭 山遺跡の雑草種子分析の例から検討する。

次に,縄文時代のイネと雑穀の出土記録を整理し,イネ と雑穀の渡来時期を検討する。最後に,最近筆者が調査した京都府北白川追分町遺跡の例から,縄 文時代晩期末(九州北部の弥生前期初頭に相当)の湿地を利用した初期稲作について検討し,佐賀 県菜畑遺跡の初期水田遺構と雑草種子を比較することで,初期湿地稲作の栽培形態を推定する。


❶……………稲作と雑穀農耕の起源と伝播

 まず,日本列島の初期稲作・雑穀作の栽培形態を検討する前に,稲作と雑穀農耕が,大陸でどの ように始まったのかを振り返ってみたい。稲作が中国の長江流域で始まったことは,既に多くの研 究から明らかにされている[Cohen, 2011; Zhao, 2011;Fuller, 2012など]。

野生イネ採集の記録は, 15,000〜11,500年前頃の長江中下流域南部の丘陵地帯(湖南省玉蟾岩遺跡,江西省仙人洞遺跡・吊 桶環遺跡,浙江省上山遺跡)で見つかっており,その後,9,000〜7,000年前頃に長江中下流域で栽 培化されたとされている。9,000〜8,000年前頃には,湖南省彭頭山遺跡・八十 遺跡,浙江省上山 遺跡,河南省賈湖遺跡などでイネが多数見つかるようになるが,これらが栽培種か野生種かで議論 が分かれている[Li et al., 2007; Fuller et al., 2007]。籾軸の脱粒痕により栽培種だと判定された確実な栽培イネは,7,900〜7,000年前頃の長江下流域の浙江省跨湖 遺跡が最も古い例である。

イネの 栽培が定着するのは,長江下流域の浙江省田螺山遺跡で,6,600年前頃から栽培イネが野生イネより も多く出土するようになる[Fuller et al., 2009]。さらに,つづく6,400〜5,500年前頃になると長江中 流域の湖南省城頭山遺跡や長江下流域の江蘇省草鞋山遺跡で水田が造られるようになる[Yasuda et al., 2004]。

 一方,雑穀のアワ・キビ作は,黄河流域で始まっている。黄河中流域の東部低地の河北省磁山遺 跡から10,300〜8,700年前頃のキビが出土している[Lu et al., 2009a;2009b]。ただし,これは種子の 出土記録ではなく,土壌に含まれるキビの種子の表皮細胞に含まれる珪酸体から特定されたもので ある。表皮の長細胞の形態がキビ属の野生種の一種であるヌカキビと異なることから栽培種のキビ であると示されているが,ヌカキビはキビの直接の野生種ではなく,上述したようにキビの野生種 はまだ見つかっていないので,この指標で本当にキビの栽培/野生を識別できるか疑問とする見方 もある[Nasu et al.,2012]。

さらに,年代測定も土壌の年代を測定しており,遺構との関係から年代 が古すぎるという見解もある[Zhao, 2011]。この遺跡からはアワの表皮細胞の珪酸体も見つかって いるが,アワはキビより遅れて8,700年前頃に出土するとされている。確実な栽培雑穀の証拠が出てくるのは,9,000〜8,000年前頃で,黄河中流域東部低地で栽培キビとアワの種子が出土するようになる。

河南省裴李崗遺跡などでは,9,000〜7,400年前のキビとアワの種子の記録があり,磁山遺 跡でも,今度は確実なキビとアワの種子の記録が8,100〜7,600年前頃から出てくる。その後,7,000 〜6,500年前頃には,雑穀栽培が黄河下流域,黄河中流域西部台地,中国東北部や内モンゴル自治区 まで拡散する[Cohen, 2011]。  

これらの稲作と雑穀作は,水田稲作が始まった頃には既に融合していた。湖南省城頭山遺跡では, 最古の水田跡が見つかっているが,黄河流域で起源して発達してきた雑穀栽培も取り入れていた証 拠が見つかっている[Nasu et al., 2007]。

城頭山遺跡は,6,400〜5,300年前頃の環濠遺跡で,大渓文 化初期,中期,後期,そして屈家嶺文化期の4つの時期の環濠が見つかっている[湖南省文物考古研 究所,2007]。そして,これらの各時期の環濠の増改築とともに遺跡が次第に拡大していたことが判明した。

このような環濠に含まれる植物遺体を分析したところ,イネだけでなく雑穀のアワも見つかり,大渓文化中期からアワが増加していく様子が明らかになった。

城頭山遺跡ではイネの栽培だ けでなく,時代を経て遺跡を拡大するとともに,イネだけでなく雑穀のアワの栽培も取り入れていた。これらの栽培植物に随伴する雑草類の出土状況を調べてみたところ,アワの栽培増加とともに, 畑地雑草が増加していることが明らかになった[那須・百原,2007;Nasu et al., 2012]。

この結果は, 遺跡の拡大とアワ,シソ属などの畑作物の増加と同調しており,遺跡の内部で畑作を取り入れていく様子が明らかになった。

イネの栽培が行われていた大規模な水田跡は見つかっていないが,おそらく遺跡の外の氾濫原を利用して水田稲作を行っていたと考えられる。このように発達した稲作と 雑穀の農耕は,3,400年前頃には韓半島に伝播している[Lee, 2011]。

❷……………縄文時代のイネと雑穀

 それでは,イネと雑穀は,いつ頃から日本でも見つかりだすのだろうか? 近年のレプリカ法やプラント・オパール(植物珪酸体)分析の普及,炭化米の直接年代測定の推進により,縄文時代の イネと雑穀の記録の洗い直しが進められている[中沢,2009;中山,2010;小畑,2011]。

イネについ ては,外山・中山[1992],中山[1999]などによって縄文時代から弥生時代の信頼できるイネ資料 (土器圧痕,炭化米,プラント・オパール,花粉)の集成が進められ,最近の中山[2010]による集 成が現在のところ最もまとまった資料である。

これによると,イネ資料の最古例は,縄文時代中期の鹿児島大学構内遺跡のプラント・オパール資料になる[古環境研究所,1994]。

ただし,これは土壌中のプラント・オパール分析により得られた資料であるため,この縄文時代中期のイネ資料を稲 作の証拠として積極的に採用する研究者と採用しない研究者とで意見が分かれている。

プラント・ オパールは土壌粒子の一部であるため,土壌と挙動を共にして移動する。従って,土壌中のプラン ト・オパールは,土壌中の生物や植物の根系などによる擾乱作用により,堆積した当時の地層よりも下層に移動する可能性を完全には否定できない。

中山[2010]もこの例を,

「定量分析による増減 が層位ごとに示されておりデータとしての信頼性は高いが,それを裏付ける大型植物遺存体や耕地遺構などが不明である」

としている。

筆者は,現時点ではまだ証拠が不十分であることや,韓国に 稲作が伝わるのが青銅器時代前期の3,400年前頃[Lee, 2011]であることを考慮すると,縄文時代中期段階にイネが日本に伝来していた可能性は低いと考える。  

縄文時代中期例の評価がまだ難しいとすれば,縄文時代後期ではどうだろうか? 

縄文時代後期 になると,土器圧痕資料や炭化米資料でもイネの記録が増加してくるが,中沢[2009]や中山[2010] によれば,その全てに疑問符が付けられている。

熊本県石の本遺跡から見つかったイネの土器圧痕 は,圧痕が本当にイネかどうか,疑問が出されている[中沢,2009]。筆者も報告書の写真を見る限り,これをイネと同定する根拠を見つけることができない。

最近見つかった鹿児島県水天向遺跡の 圧痕資料が,唯一縄文時代後期後半のイネの存在の可能性を示す資料である[小畑・真邊,2011]が, これについては土器の時期比定について一致した見解が得られてなく,突帯文土器の可能性が高い との指摘がある[宮地,2013]。

岡山県南溝手遺跡の圧痕資料も同様に土器の年代に疑問が出されて いる[中沢,2009]が,ここでは土器胎土のプラント・オパール分析でもイネが見つかっている[藤 原,1995]。

土器胎土中のプラント・オパールは,土壌中のプラント・オパールよりもコンタミネー ションの可能性が低いため,信頼性が高い。しかしながら,圧痕資料が見つかった土器の年代に疑問が出されていることを考慮すると,胎土分析を行った土器の時期比定も多方面からの再検討が必要であると思われる。

また,イネのプラント・オパールの同定についても,報告書の顕微鏡写真が 鮮明ではなく,重要な資料であるにもかかわらず形態記載が無いため,本当にイネのプラント・オ パールが含まれていたのかどうか疑問がある。この分析ではイネとともにモロコシ(Sorghum bicolor)も報告されているが,モロコシはアフリカで4,000年前頃に栽培化されたと考えられてい るので[Smith, 1995],縄文時代後期に日本に到達していたとは考えにくい。

おそらく,野生のモロコシ属のプラント・オパールだと考えられるが,明確に示されていないため混乱の原因になってい る。

筆者は,縄文時代後期については,可能性はあるものの,まだ証拠が不十分であると考える。  

縄文時代晩期になると,信頼できるイネ資料が増加する[中山,2010]。

ただし,確実な縄文時代晩期のイネ資料は縄文時代晩期終末(九州北部の弥生早期〜前期中頃に相当)の突帯文期までだとする見解があり[中沢,2013],晩期前半の評価が問題になっている。最近の中沢[2013]の圧痕資料の集成では,確実なイネ圧痕資料は島根県の板屋III遺跡の突帯文I期(表1)のものであるとされており,これを遡るような確実なイネ資料はないという。

突帯文期以降は,種実同定と時期比定 の両方で確実なイネ資料が,圧痕[中沢,2013]だけでなく,炭化米やプラント・オパール,花粉で も増加している[中山,2010]。

年代測定が直接行われた炭化米も,この突帯文期相当の2,800–2,400 14C BP前後にあたるものがほとんどで[西本編,2009],それを遡る年代結果はまだ得られていないのが現状である。  

このように,縄文時代の稲作については,縄文時代晩期終末(弥生時代早期)の資料は大方の一 致をみているが,それ以前の資料については,イネ資料の真偽について評価が分かれているのが現状である。

これが,縄文時代晩期前半や縄文時代後期にまで遡るかどうかについては,さらなる確 実な証拠が必要であるが,今後このような重要な資料の発表に際しては,異なる立場の3名以上の 複数の専門家によるクロスチェックが必要だと考える。

特に最古例に近い資料に関しては,植物の 種同定と土器の時期比定,年代測定のすべてにおいてクロスチェックを行ったうえで報告書に発表する体制を,早急に整備する必要があるように思われる。  


雑穀についてはどうだろうか? 

雑穀は,アワ,キビ,ヒエなどがあるが,このうちヒエについ ては,縄文時代前期頃から北海道や東北地方を中心に,いわゆる「縄文ヒエ」が出土している。

これは,野生種のイヌビエと異なり,やや胴部が膨らんだヒエ属種子である[吉崎,1992]。阪本[1988] やCrawford[2002]などは,ヒエは日本列島で独自に栽培化された可能性が高いと指摘している。

一方,アワとキビについては,中国で栽培化されたものが,イネとほぼ同時期に日本に伝播したと考える。

この理由として,アワとキビの野生種はおそらく日本には分布していなかったと考えられ るからである。アワの野生種はエノコログサであり,エノコログサは現在日本の各地に分布してい るが,最終氷期や縄文時代前半の地層からアキノエノコログサやキンエノコロは出土するものの, エノコログサは出土しない。このことから,エノコログサは,アワとともにアワ作の雑草として大 陸から伝来した史前帰化植物ではないかと考えている。

キビについてはその野生種自体がまだ見つ かっておらず,日本にはヌカキビなどの直接栽培化に関わっていない野生のキビ属しか自生しない ため,キビも大陸から伝来したものだと考える。  

アワやキビの炭化種子は縄文時代晩期終末頃(九州北部の弥生前期初頭に相当)に見つかってお り,直接年代が測られた例としては,滋賀県竜ケ崎A遺跡の2,550±25 14C BPの値が最古である

表1 本論に出てくる土器型式と相対年代と炭素14年代の対応表

土器型式 相対年代 炭素14年代 突帯文I期(板屋III) 縄文晩期終末 2800 14CBP 台 山の寺式 (菜畑) 弥生早期 2700 14CBP 台 板付I式 (菜畑) 弥生前期初頭 2500 14CBP 台 長原式 (竜ヶ崎) 縄文晩期終末 2500 14CBP 台 滋賀里V:長原式・船橋式 (北白川追分町) 縄文晩期終末 2500 14CBP 台 弥生I期 2400 14CBP 台
[松谷,2006;宮田他,2007]。


アワに関しては,後述するように,筆者が分析した京都府北白川追分 町遺跡の例で,2,530±20 14C BPの炭化アワが出ており[冨井他,2012],ほぼ同時期にキビとアワ が近畿地方にまで伝来していたのはほぼ確実である。

最近では圧痕資料によるアワとキビの証拠が 急速に増加している。

特に中部地方から関東地方では,精力的な調査により,縄文時代晩期後半〜 終末のキビとアワの圧痕資料が多数見つかっている[佐々木他,2010;中沢,2011;中沢・佐々木, 2011;Takase et al.,2011;遠藤・高瀬,2011;2012;遠藤,2012;中山・閏間,2012;中山・佐野,2012]。

アワとキビに関しては,イネのように縄文時代中期や後期とされる報告はないため,今のところ縄 文時代晩期終末頃(九州北部の弥生前期初頭に相当)が最古であると考えて良いようである。  

このように,イネと雑穀の伝来時期については,まだ確定したものではないが,概ね,縄文時代 晩期終末(九州北部では弥生時代早期〜弥生時代前期初頭)にはイネも雑穀も伝来していたと考えられる。

イネと雑穀の伝来の時期差について,筆者は今のところ,イネと雑穀(アワ・キビ)は同 じ時期にセットで伝来したのではないかと考えている。

中部地方の例では,イネに先行してアワ・ キビが拡散したという考え[遠藤・高瀬,2011]と,イネも雑穀もほぼ同時に波及したが中部高地で は高標高のために積極的に採用されなかった[中沢,2011;中山・閏間,2012]という考えの2通り があるが,筆者も,イネも雑穀も同時に伝来していたが,それぞれ立地を分けて栽培していたので, 出土状況に地域差があるのではないかと考えている。

❸……………イネと雑穀の栽培形態

3–1.イネの焼畑,水田,天水田栽培の検討

 以上のように,縄文時代晩期終末(九州北部では弥生時代早期〜弥生時代前期初頭)には,イネ と雑穀は伝来していたが,これらはどのように栽培されていたのだろうか? 

イネについては,古 くから,古代米の品種が水稲か陸稲か,あるいは水陸未分化稲かの議論があり,農法や立地につい ても焼畑,常畑,水田,湿地などで,意見が分かれている。

佐藤[2002]による弥生時代の古代米 のDNA分析により,古代米には熱帯ジャポニカ種が含まれていることが見いだされ,これにより 陸稲の焼畑栽培が想定されることが多かったが,安藤[2009]のように,栽培導入時期にイネが陸 稲や焼畑で栽培された可能性を否定する見解もある。

実際,佐藤[2002]も述べているように,古 DNA分析により熱帯ジャポニカと判断されたイネは,縄文時代のイネではなく弥生時代のイネで あり,「水田跡」のある遺跡から見つかったイネも含まれている。

従って,弥生時代に熱帯ジャポニカの品種があったからといって,それが直ぐに焼畑農耕や陸稲に結びつくものではないと考える。 熱帯ジャポニカ種でも湿地や水田で生育可能だからである。

水田が見つかる以前の稲作が畑作や焼畑の可能性もあるかもしれないが,まず先に検討したように,縄文時代中期,後期,晩期前半の確実なイネ資料はまだないこと,確実なイネ資料が増加する時期と水田跡が増加する時期がほぼ一致している[中山,2010]ことを考慮すると,当時の稲作を無理に焼畑に結びつける必要はないように 思われる。

佐々木[2003]は,水田,焼畑,畑地とも区別し難いような天水田で原初的な稲作が始 められたと述べている。笠原[1976b]は,縄文時代の出土種子と現在の焼畑に生える雑草を比較して,共通種が多いことから,縄文時代に焼畑が存在したと推定した。

その後,菜畑遺跡での分析結果から,イネとアワが出土し,畑地雑草が多いことから,水陸未分化の稲作がまず伝来したとした [笠原,1982]。

筆者自身も,以前は同様の考えを持っていたが[那須,2004],笠原[1976b]が示し た焼畑雑草のキイチゴ類,ヤマブドウ類,ヌカキビ,キランソウ,アザミ類,コウゾリナ類は,焼 畑でなくとも水田の畦や畑の周囲にも普通に生育する種類であり,これらの出土を持って焼畑の証 拠とすることはできないだろう。

先に述べたように,中国湖南省の城頭山遺跡の分析結果を再検討 した結果[Nasu et al.,2012],イネは湿地や水田で,アワは畑地で立地を違えて営まれていた可能性 が高いと考えるようになった。

このように見ると,湿った土地でイネを栽培し,乾いた土地で雑穀を栽培するような稲作と雑穀の複合農耕がセットで伝わった可能性が考えられる。  

縄文時代晩期終末(九州北部の弥生早期〜前期中頃)の初期水田の形態については,田崎[2002] により詳しくまとめられている。

田崎[2002]によれば,初期の水田は,畦畔による明確な区画が ありかつ水利施設を伴うI型と,区画は認められるが水利施設を伴わないII型に区分される。

I型 はさらに地下水位との関係において,地下水位の低い地形に作られたIa型(半乾田タイプ),地下 水位の高い地形に作られたIc型(湿田タイプ),その中間のIb型(半湿田タイプ)に区分される。

水利施設を伴わないII型の水田は,すべてが地下水位の高い地形に造られた湿田タイプであり,地 形条件の利用様態(造田方法)により,IIa型(人工地形造成)とIIb型(自然微地形利用)に区分される。

水利施設を伴うI型の例として,福岡県野多目遺跡(Ia型),福岡県板付遺跡(Ib型),佐 賀県菜畑遺跡(Ic型)などが挙げられ,水利施設を伴わないII型の水田として,福岡県比恵遺跡 (IIa型),宮崎県坂元A遺跡(IIb型)が挙げられている[田崎,2002]。  

このうち,水利施設を伴わないII型の水田については,「天水田」と呼ばれることが多いが,安藤 [2009]のように,これらを「天水田」と呼ぶのに批判的な見解もある。

水路や堰がない初期水田も, 自然の微傾斜を利用して地下水や湧水を畦畔によって引き込み湛水させることに意味があり,「灌漑」していることに変わりはないという。

確かに「天水田」の用語は,地下水よりも,雨水を頼りに 湛水する印象が強く,一般に誤解を与えやすいのかもしれない。

いずれにせよ,初期の水田には地 形条件に応じて様々なタイプがあったとする点は,田崎[2002]も安藤[2009]も共通している。  

最近筆者らは,田崎の分類によるIIb型の坂元A遺跡の水田に近いか,それよりも原初的だと考 えられる稲作の遺構を調査した。京都大学構内の北白川追分町遺跡では,縄文時代晩期終末(九州 北部では弥生時代前期初頭)の湿地が発掘され,そこからイネとアワが見つかった[冨井他,2012]。

この湿地では,明確な畦畔による区画や水利施設は見つかっていない。
田崎の分類によるIIb型の 湿田に近い可能性はあるが,明確な畦畔による区画は認められなかった。

したがって,ここでは地 下水が高く湿った土地だったが,「意識的に水を引き込んで潤していた」のかどうかは不明である。

いずれにせよこの湿地は,湿地を利用した初期稲作の形態を考えるうえで参考になる事例である。 以下にその湿地稲作の様子を詳しく見てみよう。


3–2.水田以前の湿地稲作―北白川追分町遺跡の例

 北白川追分町遺跡は,京都大学の北部構内の北辺中央に位置する。地形的には,京都盆地の比叡 山西麓に広がる北白川扇状地の末端に位置する[冨井他,2012;千葉,2012]。調査区周辺では,弥生時代前期末の水田遺構も見つかっているが,今回イネとアワが見つかったのは,水田遺構ではなく 泥炭〜シルト質の腐植土層からで,時期は縄文時代晩期終末(滋賀里V:船橋式・長原式に相当)である(図1)。

この腐植土層は弥生前期(弥生I期)の堆積物よりも明らかに下位の地層で,間に 洪水による厚い砂層を挟むためコンタミネーションの影響はない。  この腐植土層の堆積物を面的にサンプリングし,大型植物遺体の分析により,空間的な植生分布 の復元を試みた。その結果,発掘区の南西側の地点から未炭化のイネ籾軸38点と籾殻破片79点が 出土した。北白川追分町遺跡では,過去の調査でも,同じ滋賀里Vの時期の晩期末の泥炭層からイ ネの籾殻破片4点が確認されており[南木,1985],同時期の土器胎土のプラント・オパール分析で もイネが確認されていた[外山,2002]。

このように,複数の証拠により,縄文時代晩期終末(九州 北部では弥生時代早期〜前期中頃に相当)にこの地でイネが栽培されていたことはほぼ間違いないと考えられる。

さらに,今回の調査では,イネだけでなく雑穀のアワも見つかった。

イネが見つかった地点よりも北西側の地点から,炭化したアワの種子が14点出土した。アワの炭化種子を使って年 代測定を行った結果,2,530±20 14C BPの炭素14年代値が得られ,暦年代に較正すると,791BC– 551BCの値が得られ,縄文時代晩期終末(九州北部では弥生時代前期初頭に相当)の年代値が確認できた[冨井他,2012]。  

イネや雑穀だけでなく,一緒に出てくる雑草や野草,木の実の種子を調べると,そこがどのよう な土地だったかを詳しく知ることができる。

これらを空間的に調べた結果,縄文人が湿地林を切り 開いて明るい湿地を供出し,そこでイネを栽培していたことが明らかになってきた。

イネが出土し た遺跡西側からは木本はほとんど出土せず,草本のみが出土し,開けた湿地が広がっていたと解釈できる。

その種類組成は,特にイネが見つかった南西側では,ヒシ,ミゾソバ,ボントクタデ,ヒ ルムシロ属,イグサ属,ホタルイ属,ハリイ属などの現在の水田雑草にもなる種類が比較的多く含まれていた。

一方,アワが見つかった北西側の地点では,カヤツリグサ属,クワクサ,ツユクサな ど種数は少なかったが,畑地雑草にもなる種類が多かった。

このことは,イネは南西側の開けた湿地で栽培されており,アワは北側周辺の微高地で栽培され,火を受けて炭化したアワが何らかの原因で流れ込んで堆積したと考えられる。


図1 北白川追分町遺跡より出土した滋賀里V併行の土器 [冨井他,2012より引用]


 一方,遺跡の東側の扇状地末端に隣接する地点では,湿地林が成立しており,その組成が下層と 上層で変化していた。

下層からはオニグルミ, ミズキ, タラノキ,ニワトコ,マルミノヤマゴボウ, ヤマネコノメソウ,ネコノメソウ属,ヤブミョウガなどが多く,比較的林内が暗い閉鎖的な湿地林が復原できるが,上層では,コナラ節,カヤ,カエデ属,カラスザンショウ,フジ,カナムグラ, イヌタデ近似種, イヌコウジュ属,ナス属,ツユクサ属,スゲ属アゼスゲ節などが多くなった。

稲作が開始される頃には,斜面にコナラ節,ハクウンボク,カエデ属,フジ,カラスザンショウが生 育し,湿地にイヌタデ近似種,イヌコウジユ属,スゲ属,ミゾソバ,カナムグラが生育するような, 比較的明るく開けた湿地林に変化した可能性がある。

これは,人為的な干渉の結果,閉鎖的な森林 環境から,開放的な疎林環境に変化し,そのような開けた湿地環境を利用して,稲作が開始された 可能性を示唆する。

木材分析の結果では,石斧による伐採痕のあるコナラ節の倒木も見つかっている。花粉分析の結果では,周辺はアカガシ亜属を主体とした常緑広葉樹林が復元されているが,こ の湿地付近だけにコナラ亜属(落葉ナラ類)の花粉が多く見つかっているのも示唆的である[冨井 他,2012]。  

以上のように,北白川追分町遺跡では,イネの栽培が始まる前には扇状地の末端にあたる東側斜面に落葉ナラ類やクリの二次林があり,湿地にはオニグルミやトチノキの湿地林が成立していた。

周辺ではトチノキやイチイガシの貯蔵穴も見つかっており[千葉他,1998;冨井他,2007],ドングリ やクリ,オニグルミなどの堅果類が利用されていた。

そのような中で縄文人は,湿地周辺の樹木を 伐採して,明るい湿地環境も供出していた。そのようにして開けた湿地には,ホタルイ属やボント クタデ,ハリイ属,ミゾソバ,イヌビエなどの雑草が生育していた。

ヨシのような高茎草本は見られないことから,適度に攪乱された湿地だった可能性が推定できる。


3–3.菜畑遺跡の初期水田との雑草種組成の比較

 それでは,北白川追分町遺跡でイネが栽培されていた湿地は,水田とどのように異なるのだろうか? 

これを知るために,北白川追分町遺跡の雑草種子の組成を,初期水田遺構の雑草種子が詳しく検討されている佐賀県の菜畑遺跡[笠原,1982]とで比較してみる。

菜畑遺跡の初期水田遺構は, 2つの時期に分けられる。

ひとつは,縄文時代晩期終末頃/弥生時代早期(山ノ寺式)と考えられる初期水田で,もうひとつは,弥生時代前期(板付I式)の水田である。

この2時期の水田から得 られた種子の組成を,北白川追分町遺跡の種子組成と比較し,その特徴を抽出した(表2)。  

まず,菜畑水田との共通種として挙げられるのが,水田(水中)雑草のホタルイ属,ハリイ属, ボンドクタデ,田畑(湿性)共通雑草のスゲ属,ミゾソバ,イヌビエ類,イヌコウジュ属,カヤツ リグサ属,ツユクサ,畑地(人里)雑草のハコベ属,イヌタデ属,クワクサ,イラクサ科,イヌホ オズキ,カナムグラ,スミレ属,ヘビイチゴ,そして木本植物のヤマグワ,マタタビ属,キイチゴ 属,カジノキなどである。

このように比較的水田との共通種は多い。

その一方で,菜畑水田との大きな違いは,典型的な水田雑草のコナギやオモダカ科が見られないことと,山野草や木本植物の量 がまだ圧倒的に多いことである。

抽水植物であるコナギやオモダカ科が見られないことは,畝で区画された狭い帯水域が無かったことを示している。そして,山野草や木本植物が多いことは,この 湿地のすぐそばにはまだ森林が豊富にあったことを示している。


表2 北白川追分町遺跡と菜畑遺跡における出土植物種の比較

縄文晩期終末/ 弥生前期初頭
縄文晩期終末/ 弥生早期
弥生前期 縄文晩期終末/ 弥生前期初頭
縄文晩期終末/ 弥生早期
弥生前期
北白川追分町遺跡 菜畑遺跡 菜畑遺跡 北白川追分町遺跡 菜畑遺跡 菜畑遺跡 湿地 水田 水田 湿地 水田 水田 栽培植物 3種 3種 3種 畑(人里)雑草 10種 10種 26種 イネ ++ + ++++ ハコベ属 ++ +++ + アワ ++ + イヌタデ属 ++ + ++ シソ/エゴマ + + + クワクサ ++ + マクワウリ + イラクサ科 ++ 水田(水中)雑草 6種 5種 17種 イヌホオズキ + ++ ++ イグサ属 ++++ カナムグラ + + + ホタルイ属 ++ + ++ スミレ属 + + + ハリイ属 ++ + ヘビイチゴ + + ヒルムシロ属 ++ ザクロソウ + + ボントクタデ + + + マメ科 + ヒシ + カヤツリグサ ++ + コナギ ++ ++++ カタバミ + ++ ヤナギタデ + +++ ヒユ科 + ++ オモダカ科 + + スベリヒユ + + タガラシ ++++ オオバコ + + セリ + カラムシ + イボクサ + イタドリ + コウガイゼキショウ + ヤブマオ + スブタ + コアカソ + イトトリゲモ + キランソウ + イヌノヒゲ + エノコログサ + ミズアオイ + ヤブジラミ + キクモ + メナモミ + キカシグサ + メヒシバ + タマガヤツリ + カワラケツメイ + 田畑(湿性)共通雑草 11種 10種 17種 キツネアザミ + スゲ属 ++++ + オヘビイチゴ + ミゾソバ ++ +++ ++ 木本植物 19種 11種 10種 イヌビエ類 ++ + ++ ヤマグワ +++ + ++ カヤツリグサ属 ++ マタタビ属 ++ + + イヌコウジュ属 + + キイチゴ属 ++ ツユクサ + + オニグルミ ++ イネ科 + アカガシ/ツクバネガシ ++ シロバナサクラタデ + コナラ節 ++ セリ科 + トチノキ ++ アザミ属 + ハクウンボク ++ ヤブタビラコ + カジノキ ++ アリノトウグサ ++++ タラノキ ++ チドメグサ ++ + ノブドウ ++ ヒメクグ + ++ ニワトコ + タネツケバナ + ++ マツ属複維管束亜属 + タカサブロウ + + カヤ + コゴメガヤツリ + + クリ + ギシギシ + + ミズキ + ノミノフスマ ++++ カエデ属 + クグガヤツリ + カラスザンショウ + ムシクサ + フジ + ヒデリコ + ツツジ属 ++ ++ サナエタデ + ヒサカキ ++ + オトギリソウ + クサイチゴ + ++ イヌガラシ + エゴノキ + + 山野草 5種 イヌザンショウ + + ヤマネコノメソウ +++ コウゾ属 + + マルミノヤマゴボウ + ナワシロイチゴ + + ネコノメソウ属 + クスノキ + ミズ属 + クコ + ヤブミョウガ + フユイチゴ +  1–9粒(+),10–49粒(++),50–99粒(+++),100粒以上(++++)


 出土植物の種数を生態カテゴリー別に分けて百分率で比較すると(図2),北白川追分町遺跡の湿地稲作では,雑草の種類が50%程度で少なく,山野草や木本植物が40%ほどを占めるが,菜畑前 期の水田では山野草が0%に,木本植物が10%程度まで減少し,雑草が80%まで多くなる傾向が見られた。

また,生活形のカテゴリー別にみると(図3),北白川追分町遺跡の湿地稲作では,1年生 草本が35%程度だったのに対し,菜畑前期の水田では50%まで増加していたことが明らかになった。

この結果は,耕作による撹乱の頻度が強い菜畑前期の水田では,撹乱の少ない北白川追分町遺跡の湿地稲作よりも,撹乱環境に強い1年生草本が多くなったと考えられる。


図3 北白川追分町遺跡と菜畑遺跡における出土 植物種数の生活形カテゴリー別比較(%)

図2 北白川追分町遺跡と菜畑遺跡における出土 植物種数の生態カテゴリー別比較(%)

 このように,明確な水田区画が遺構として見つからない場合でも,随伴する雑草の種子を詳しく 分析することで,湿地を利用した初期稲作の様子を復原することができる。このような状態が,お そらく,田崎[2002]や中山[2010]が指摘しているような,原初的水田の形態だったと考えられる。

北白川追分町遺跡では,この湿地稲作の層を厚い洪水砂層が覆っており,その上部に弥生時代 前期(弥生I期)の水田が現れる。洪水砂によって湿地が埋積されたため,その後は場所を変えて, 水利施設を伴う灌漑水田で稲作を行うようになったと考えられる。


まとめ

 以上みてきたように,中国で始まったイネと雑穀(アワ・キビ)の農耕は,城頭山遺跡の例から, 約6,400年前頃には水田稲作の開始とともに融合し,イネは湿地や水田で,雑穀は畑地でそれぞれ 立地を分けて栽培していたと考えられる。

このような稲作と雑穀作の伝来時期はまだ議論があるが, 遅くとも縄文時代晩期終末頃(九州北部の弥生早期〜前期初頭)には日本へ伝来していた。

この時期にはまだ本格的な灌漑水利施設を伴う水田はなく,区画のみの湿地水田がほとんどである。

北白 川追分町遺跡の例では,水田区画が確認できないような湿地を利用した稲作が確認でき,湿地林を 切り開いて供出した明るく開けた湿地でイネを栽培し,周囲の微高地でアワの畑作を行っていたと考えられた。

縄文時代晩期にはまだ,堅果類やベリー類などの森の恵みが主要な食糧であり,それ を獲得しやすい森林の縁の湿地を切り開いて,稲作と雑穀作を生業に組み入れていた可能性がある。

その後,水利施設を伴う灌漑水田稲作に早くから移行していく地域,原初的水田を継続する地域, 雑穀などの畑作を主体とする地域など,立地や社会状況によって地域差や時間差があったと思われる。

これらの地域差や時間差を明らかにし,どのように農耕社会が拡散していったのかを知るため にも,イネや雑穀などの穀物資料に着目するだけでなく,それに随伴して出土する雑草,野草,堅果類,ベリー類などの種類構成と割合を検討していくことが必要だと考えられる。


84. 中川隆[-7187] koaQ7Jey 2017年7月11日 13:45:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

神社と神道の本当の歴史〜アニミズムの自然霊・精霊に加えて天皇神話の神を祀るようになった神代から律令時代
http://bossanovaday.hamazo.tv/e7451114.html


日本の神社の歴史について書いてみたいと思います。
意外と日本の神社の歴史について知らなかったりします。

ちなみに下地にするのは、2011年に発刊の

井上寛司著 『「神道」の虚像と実像」』
https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E7%A5%9E%E9%81%93%E3%80%8D%E3%81%AE%E8%99%9A%E5%83%8F%E3%81%A8%E5%AE%9F%E5%83%8F-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E4%BA%95%E4%B8%8A-%E5%AF%9B%E5%8F%B8/dp/4062881098

です。

この書は、神道・神社の歴史をよくまとめて紹介しています。
また仏教や陰陽道なども添えながら立体的に述べています。
神道を軸にして日本の宗教史を学ぶこともできます。


日本の神社・神道の歴史をザックリと整理しますと、
次のようになります。


========================================


◎縄文時代・太古の時代〜アニミズム

@アニミズム(自然崇拝)・・・自然の中に神を感じて崇拝・信仰するもの

 ・神奈備:かんなび)・・・山、森、木、湖沼といった領域に神を感じて祀(まつ)る
 ・磐座(いわくら)・・・巨石・岩に神が宿るとして祀るもの
 ・神籬(ひもろぎ)・・・竹などで神域を造り、そこで神を祀るもの


A蛇神、龍神などの自然霊を祀るもの(精霊信仰)。


B「氏神」「祖霊」を祀った祖霊信仰(元祖・先祖供養)

・簡素な社(やしろ)、宮(みや)、森(もり)、祠(ほこら)を作って信仰の対象とする

・しかし祭神が不明だったり一定しない(自然そのものを祀っているため)


◎アニミズムの一例

 後のヤマト政権の時代になって、大己貴神などの「国津神」が加えられ主な祭神となる

  ・奈良県の三輪山 ⇒ 大神神社(おおみわじんじゃ)
 ・滋賀県の山の神・大山咋神信仰 ⇒ 日吉大社(ひえたいしゃ)
 ・島根県の磐座信仰 ⇒ 出雲大社

 ・長野県の土着の神々(蛇神、木霊など) ⇒ 諏訪大社(すわたいしゃ)
 ・埼玉県見沼の水神 ⇒ 氷川神社(ひかわじんじゃ)
 ・神奈川県の神山(駒ケ岳山頂) ⇒ 箱根神社

 ・長野県の地主神・九頭龍信仰 ⇒ 戸隠神社(とがくしじんじゃ)
 ・富士山の神霊信仰 ⇒ 富士山本宮浅間大社
 ・島根県の火を祀る信仰 ⇒ 熊野大社

 ・和歌山県熊野地方の太陽神、水神、木神 ⇒ 熊野本宮大社
 ・奈良県吉野の水神信仰 ⇒ 丹生川上神社(上社、中社、下社)


名だたる古社のルーツは、ほぼ全てがアニミズムだったりします。
これらの古社は、次のヤマト政権になってから「神社」化されていくようになります。

◎神代・神武天皇〜ヤマト政権による神社創設

@ヤマト政権によって、「天津神」系の神宮・神社が創設される

 ・天皇家ゆかりの祖霊を人格神として祭る(天皇・氏神信仰)
  住吉神社、伊弉諾神宮、多賀大社、須佐神社、大和神社、
  伊勢神宮、熱田神宮、廣田神社など

・当時の神社の形式は神宮式のほか宮柱を建てるなどの簡素なものだった


Aアニミズム信仰が盛んだった地をヤマト政権が征服して「国津神」系の神社を創設。

 ・主となる祭神を、須佐之男命、大国主命、大己貴神、建御名方などの国津神に変える。

※以下の神社は神代から垂仁天皇の時代にかけて創設された神社の一例。

◎土着の神・地主神 ⇒ 祭神を「国津神」へ改変し固定化

 ・大神神宮・・・三輪山 ⇒ 大物主大神
 ・日吉大社・・・大山咋神(山の神) ⇒ 大己貴神(おおなむちのみこと)
 ・出雲大社・・・出雲地方には磐座が多い ⇒ 国津神

 ・諏訪大社・・・土着の神々(ミシャグチ神、蛇神、狩猟神、石木神) ⇒ 建御名方
 ・氷川神社・・・見沼の水神⇒須佐之男命(すさのおのみこと)
 ・箱根神社・・・神山(駒ケ岳山頂)を磐境としてお祀り

 ・戸隠神社・・・九頭龍大神(地主神)
 ・富士山本宮浅間大社・・・富士山の神霊 ⇒ 木花之佐久夜毘売命
 ・熊野大社・・・火を祀る信仰 ⇒ 素戔嗚尊

 ・熊野本宮大社・・・熊野坐大神(中国から飛来)、太陽神、水神、木の神 ⇒ 須佐之男命
 ・居多神社・・・気多神 ⇒ 大国主命
 ・小野神社・・・諏訪地方の洩矢神(地主神) ⇒ 建御名方(たけみなかた)
 ・生島足島神社・・・諏訪地方の地主神 ⇒ 建御名方
 ・地主神社・・・京都市東山区の地主神 ⇒ 大国主命


◎祖神・氏神 ⇒ 祭神を「国津神」へ改変

 ・氣多大社・・・気多神(祖神) ⇒ 大己貴命
 ・倭文神社・・・倭文氏の祖神・建葉槌命 ⇒ 建葉槌命
 ・安房神社・・・忌部氏(斎部氏)の祖神 ⇒ 天太玉命(あめのふとだまのみこと)


◎蝦夷地を征服した記念碑的な神社

 ・鹿島神宮・・・蝦夷の地を治めた記念碑的神社か? ⇒ 神武天皇元にて宮柱を建てる
 ・香取神宮・・・主祭神はフツヌシ(経津主)

◎奈良時代〜律令国家のために全国の中小神社をも統治化

・拝殿、本殿を有する現在の神社のデザインは、奈良時代に発案。

・これは壮大な建築を誇る仏教寺院に対抗するための発案だった。


・伊勢神宮の式年遷宮も奈良時代の690年から始まる(神代の時代からでは無い)。
 ちなみに伊勢神宮は、垂仁天皇の時代に各地を転々として現在の伊勢に落ち着いた。


・律令国家による中央集権国家を作り全国統一を図るために、各地に神社を創設する。

・各地の豪族が有していた祭祀権(アニミズム信仰の祭祀権)を国の統治下に置く。

・古事記・日本書紀に登場する神を組み込ませて祭神にする。
 建前的には、アニミズム的な精霊を引っ込める。

・このようにしてもらう代わりに、神社の創設や維持・修繕費を国家が捻出する。


・各地のアニミズム信仰が、天皇神話の信仰に作り替えられることが始まった時代。

・全国のアニミズム信仰に代わって、神社を造り、天皇神話の神々を組み込むことで、
 各地の祭祀を管理・掌握し、結託して国家安泰を祈念しようとした。


・しかし実際は、国のこの政策はうまく推進せず、旧態依然の状態が長く続く。
 これが完全に実現したのは明治維新のときだった。

・ちなみに仏教は最初から中央集権化のツールだった(鎮護国家のため)

・「神仏習合」「本地垂迹説」の登場。
 祭神が人工的に書き換えられたので、仏教と融合するのは自然の成り行きだった。

◎平安時代〜中世

・二十二社・諸国一宮を設立して神社パワーで国家繁栄を願う(平安時代)
 二十二社・・・天皇と日本国の守護神とする神社(半分は国津神系:アニミズム系)
 諸国一宮・・・各地を守護する神(鎮守神)(7割以上が国津神系:アニミズム系)


・二十二社・諸国一宮は、国家の元に置かれる神社となった。
 記紀に基づく天皇神話を取り入れて社伝を創作。
 中世神話を作り上げて、表向きは、神社が天皇由来であるようにしていった。


・「吉田神道」の登場・・・地祇道(ちぎどう)としての神道。
 天神地祇の自然霊を信仰するアニミズムに戻りながらも、
 本地垂迹説を否定する教理を組み込んだ「唯一神道」。

◎江戸時代〜宗教を管理する時代

・宗教を統制し管理する時代
・お寺・神社を新しく建立することは原則禁止。
・新しく宗教を創ることも禁止。
・仏教、神道、修験道、陰陽道も幕府公認以外は信仰してはならない取り決め


◎幕末〜日本原理主義となる「国学」「国体思想」の登場

・儒学を取り入れた新しい神道思想(儒学神道)が登場。
 「伊勢神道」、「垂下神道」

・儒学などの中国思想を全て排除し、古事記・日本書紀に基づく
 日本原理主義の「国学」に基づく「復古神道」の登場。
 元祖・右翼思想の「国体思想」も登場。

・幕末には、天理教、黒住教、金光教が登場。
 病気治し、太陽信仰といった素朴な信仰。
 一種のアニミズムの復活と台頭。

◎明治時代〜カルト&ファシズム化する天皇崇拝の国家神道

・国家がファシズム化&カルト宗教化し、天皇崇拝の「国家神道」を国民に強制。

・神社(国家神道)は、国家の装置として、宗教として扱わない規定。


・神社は、内務省の宗教局が統括し、神社と仏教が区別する。

・神仏分離令・・・神社から仏教要素を排除。神社と寺院は共に大打撃を被る。

・廃仏毀釈のブームも起きる・・・仏像、寺院が破壊されていく。

・国家神道のみが正しいとし、迷信の類も禁止していく。

・陰陽道、修験道、虚無僧を禁止。

・イタコ、口寄せ、降霊といった行為も禁止。

・盂蘭盆会、盆踊りも禁止。

・異常でカルト化していく国家神道に対して、柳田国男、南方熊楠らが批判。

・しかし、治安維持法と言論弾圧により、
 カルト宗教化&ファシズム化を深めていく国家

◎戦後〜「国家神道」から「神社本庁」支配の時代へ

・大東亜戦争を反省し、天皇を最高機関から外し、象徴天皇であることを憲法で規定。

・国家神道を廃し、政教分離を規定。

・信教の自由とともに、神道も宗教であるとする。

・神社は、戦後創設された宗教法人「神社本庁」に包括され、支配されることになる。
 ちなみに、神社本庁は、国の機関ではない。

・しかし、神社の源流を遡れば、各地でバラバラに行っていたアニミズムとなる。
 これに対して、神社本庁のような全てを伊勢神宮の配下に置く体制は、
 厳密にいえばおかしい。
 日本古来からある神社の姿を、国民に理解させるにあたって、障害となっている。


========================================


ざっと、こんな感じになりましょうか。
整理しますと、

--------------------------------------------------

1.パワースポット系アニミズム(自然崇拝)

 ・山・・・大神神社、日吉大社、箱根神社、浅間大社、白山比盗_社、松尾大社
 ・巨石・岩(磐座:いわくら)、島・・・厳島神社
 ・森・木・・・諏訪大社
 ・海、湖・沼・・・ 氷川神社


2.精霊系アニミズム(精霊信仰、地神信仰)

 ・水神・・・熊野本宮大社、丹生川上神社(上社、中社、下社)、貴船神社
 ・火神・・・熊野大社
 ・木神・・・伊太祁曽神社(いたきそじんじゃ)
 ・風神・・・龍田大社
 ・龍神・・・戸隠神社
 ・蛇神・・・諏訪大社


3.氏神・祖霊・人格神信仰(先祖崇拝・供養)

 ・各地の有力者、豪族の先祖を祀り信仰。

 ・先祖供養の元祖。

 ・人格神として祀る
  (人格神信仰は、後の菅原道真の天満宮や、徳川家康の東照宮にも出てくる)

 ・皇祖大神(天照大神)は、天皇家の氏神・人格神信仰。


3−1.天津神:天皇家氏神・人格神系(支配者側の祖霊信仰)

 ・皇祖大神(伊勢神宮)、イザナギ・イザナミ(多賀大社)、草薙神剣(熱田神宮)


3−2.国津神:天皇家ら支配者が各地を征服し組み込ませた神々

 ・パワースポット、自然崇拝、精霊信仰が盛んな地を神社化して、管理下に置く。

 ・管理する「印」として、国津神(須佐之男命、大国主命、大己貴神、建御名方)を祀らせる。
  国津神の神名を祀らせることで、それがアニミズム由来であることがわかるようにした。


4.神社化されなかったパワースポット

 ・ヤマト政権から奈良・平安の律令国家時代に、管理されなかったパワースポット。

 ・巨石、磐座(いわくら)

--------------------------------------------------

おおよそ、こんな感じになるかと思います。

神社とは、太古の昔からある宗教施設では無いとうことですね。
日本古来のものではなかったりします。

主に、ヤマト政権から奈良時代の律令国家にかけて、
支配者が新設したり、支配地に造った宗教施設だったりします。
しかも、祭神を日本神話に基づく神名にすることは、明治時代になって完成しています。

こうした歴史があったことは、知っておく必要があるでしょうね。
で、また同じ神社でも、国津神系と天津神系とでは、まったく性質が違うということですね。
神社化されなかったパワースポットもあります。


結局、日本の神道は、精霊信仰・自然崇拝(アニミズム)だったわけですね。
ここに天皇系の人格神・祖霊神が入り込むことで複雑になっていきます。
さらに、中世に至って、初めて神道の教理が確立されていきます。
これは仏教に対抗するためだったといいます。

で、アニミズム(自然崇拝・精霊信仰)は、
世界中にみられる原始的な宗教だったりします。
日本だけではありませんね。

たとえば、

 ・タイの「ピー信仰」
 ・ミャンマーの「ナッ信仰」
 ・チベットの「ボン教」
 ・アフリカの「ブードゥー」
 ・アイルランド・ケルトの自然崇拝
 ・ネイティブアメリカンの精霊信仰
 ・東欧スラブ人の「ルサルカ信仰」

など、世界各地に昔からあります。

アニミズムは根強く、現在の日本でも、お稲荷信仰、龍神信仰などとして
存続しています。

日本の場合、こうした自然崇拝・精霊信仰が、ヤマト政権の誕生によって、
各地のアニミズムに、天皇神話の神霊が追加・上書きされていくようになります。

ただし、これは支配というよりも、管理の目的で組み込ませたのではないかと思います。

井上寛司氏は「国は祭祀権を強奪し、天皇家ゆかりの神を祭神にさせて支配した」
ということを述べていますが、それは違うでしょう。

なぜなら、中世に完成した「二十二社・諸国一宮」の神社の7割以上が、
アニミズムに由来のある霊力の強い神社(国津神)だからです。

各地のアニミズムを尊重しながらも、管理上のマーキングとして、
表向きに天皇家ゆかりの祭神にしたというのが、本当のところではないかと思います。

でなければ、三輪山にしても、諏訪大社、戸隠神社、日吉大社などにしても、
アニミズム的な信仰を消し去ってしまうはずです。

管理上のマーキクング的な祭神として、アニミズムに加えて、
須佐之男命、大国主命、大己貴神、建御名方、五十猛神、稲田姫命
といった「国津神」をあてがったと考えるほうが自然です。

こう考えると、各地の豪族が征服されたというよりも、協調・和解といった、
まさに「国ゆずり」のニュアンスのほうが、しっくりくりもしてきます。

で、奈良時代になってからは、こうした動きが全国展開。

全国各地で行っていた自然崇拝や土着の信仰の祭祀権を管理下に置こうとして、
天皇神話に基づく神を祭神に取り入れさせて神社を造営。
各地の祈祷・祭祀を、国家が管理するようにしていきます。

で、これが現在に伝わる「神社」ということですね。
そういう歴史があったりします。


ただし、こうしたことによって、国津神・天津神の意味が歪んでしまっています。
本来の国津神・天津神の意味ではなくなっています。

征服された側(敗者)、支配する側(勝者)といった
幼稚な意味に取り違えやすくなってしまっています。

国津神とは「土着の神」と言われていますが、これは正しくありません。

本来は「地の神」のことを指しています。
山の神、木の神、狐霊、龍神といった地の神。
これが国津神の原義です。

天神・地祇の「地祇」ですね。

また天津神とは「大陸から来た神」「天皇ゆかりの神」と言われていますが、これも違います。

本来は「天界から降臨した神」のことでしょう。
三十三天などの上位の天界から降臨してくる神を総称しているのでしょう。
天神・地祇の「天神」ですね。

天皇神話が入り込むことで、本来の「国津神・天津神」の意味が
勘違いされやすくなっています。

日本の神社・神道の歴史において、こうした政治的な介入があったことは、
よく見抜いて、知っておく必要はあると思います。


神社参拝する場合は、アニミズムが由来となっている神社へ行くのが
いいのではないかと思っています。

幸いなことに、ほとんどの神社が国津神系になっています。

須佐之男命、大国主命、大己貴神、建御名方、五十猛神、稲田姫命が
お祀りされています。

そうではない神社であっても、長い歴史の中で多くの人が参詣することで、
想念エネルギーが蓄積されてエレメンタル化していますので、
それなりの力が出るようになっているとは思います。

歴史のある神社の多くは社殿が素晴らしく、芸術性の高い建造物になっています。
その秀麗なる外観を堪能するのもいいですね。

で、アニミズム由来の神社は、天然のパワースポットでありますので、
参詣にはおすすめですね。
http://bossanovaday.hamazo.tv/e7451114.html


85. 中川隆[-6779] koaQ7Jey 2017年8月09日 05:28:56 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「縄文人・弥生人とは何者か」 2017年07月09日
http://blog.goo.ne.jp/princeofwales1941/e/09253270b7cfe5941f0d8f616aa09cfd

●淡路島の銅鐸、紀元前4世紀ごろ埋めたか 付着植物片で判明  :日本経済新聞 2017/6/6 20:47

 兵庫県南あわじ市(淡路島)で見つかった青銅祭器「松帆銅鐸(まつほどうたく)」7個(弥生時代前期―中期)は紀元前4〜前2世紀前半(弥生時代中期前半)に埋められたとみられることが付着していた植物片の放射性年代測定で分かり、市教育委員会などが6日発表した。

 銅鐸の埋められた年代が科学的な分析で分かるのは初めて。市教委は「銅鐸は一緒に出土する遺物が少なく、年代が分かりにくい史料だけに、付着していた有機物から埋納時期を特定できた意義は大きい」としている。

 銅鐸は時代とともにつり手部分が薄くなり、古いものから菱環鈕(りょうかんちゅう)、外縁付鈕(がいえんつきちゅう)、扁平鈕(へんぺいちゅう)、突線鈕(とっせんちゅう)に分類され、前3者が古いタイプで「聞く銅鐸」、突線鈕は新しいタイプで装飾が多いことから「見る銅鐸」と考えられており、銅鐸の役割が変わったとされている。

 松帆銅鐸は、1号が菱環鈕、2〜7号が外縁付鈕という古いタイプばかり。古いタイプは西暦0年ごろ(弥生中期末)に、新しいタイプは2〜3世紀(弥生後期末)に埋められたとする2段階説が有力だが、古いタイプよりも150年以上前に埋められていたことになり、銅鐸の埋納の意味を巡り論議を呼びそうだ。

 4号の内部や、銅鐸を鳴らす「舌」と呼ばれる棒に付着していたイネ科や樹皮とみられる植物片に含まれる放射性炭素を調べて分かった。

 銅鐸が埋められた理由については、集落の統合によって集めて埋められた、邪悪なものがムラに入らないように境界に埋められたなどの説がある。

 かつて銅鐸は、古墳時代の到来を前に、弥生後期末に、古いものから新しいものまでが一斉に埋められたと考えられていた。〔共同〕
http://www.nikkei.com/article/DGXLASDG06H93_W7A600C1CR8000/

●青銅器の分布:神庭荒神谷・加茂岩倉遺跡の秘密
http://www.geocities.jp/yasuko8787/0-90204.htm


●出雲王朝を滅亡させた大和王朝 (princeofwales1941)2014-09-19 00:16:17

●「スサノオノミコトは朝鮮半島からやってきた」と梅原猛氏 - Ameba News [アメーバース] 2014年09月16日 07時00分
提供:NEWSポストセブン

『週刊ポスト』で平成4年から20年以上にわたり連載が続く歴史ノンフィクション『逆説の日本史』。単行本、文庫本等のシリーズ累計部数がついに500万部を突破したこの大人気作品の原点は、著者・井沢元彦氏が「師」と仰ぐ哲学者・梅原猛氏との「出会い」にあった。今回、2人が出雲王朝の謎について改めて語り合った。

井沢:梅原先生は『葬られた王朝』で、出雲王朝が実在したと述べておられますが、どのような政権だったととらえていらっしゃいますか?

梅原:現在の天皇家につながるのがヤマト王朝ですね。そのヤマト王朝が奈良時代に編纂したのが『古事記』や『日本書紀』です。これら『記紀』に述べられている神話を読んでみますと、ヤマト王朝以前に出雲王朝があったとしか考えられません。

井沢:それは間違いないと思います。

梅原:その出雲王朝の祖先であるスサノオノミコトは、『日本書紀』を読むと、どうやら朝鮮半島からやってきたらしい。

 さらに、出雲王朝でもっとも大切にされていた宝器は銅鐸です。銅鐸は朝鮮半島で使っていた馬の鈴がその原型と考えられます。馬の鈴が大きく立派になって銅鐸になった。だから、出雲王朝というのは朝鮮半島からやって来た人たちの王朝であって、はじめは出雲を中心とした地域を治めていた。

 そしてスサノオの子孫のオオクニヌシノミコトが日本をはじめて統一した人物でしょう。東日本はまだ治めてなかったとしても、西日本をほぼ統一した国家をつくっていたはずです。

井沢:つまり、出雲王朝とは先住開拓民による王朝だったのですね。

梅原:その出雲王朝を、南九州からやって来た王朝が滅ぼして新しい統一国家をつくった。これがヤマト王朝だと思います。彼らがもっとも大切にした宝器は銅鏡です。

井沢:「銅鏡」という考古学用語は、大和言葉(漢語などの外来の言葉を除く、日本固有の言葉)でいえば「かがみ」ですね。同様に「銅剣」は「つるぎ」です。ところが、「銅鐸」に対応する大和言葉はないのですね。

梅原:ありません。

井沢:ということは、銅鐸は存在そのものを消されたのでは?

梅原:銅鐸は明らかに破壊されてから埋められたものが、あちこちから出土しています。これは銅鐸の信仰、すなわち出雲王朝の権威を否定したのでしょう。それを行なったのは、言うまでもなくヤマト王朝です。

井沢:ヤマト王朝は、出雲王朝の王であるオオクニヌシを滅ぼした。滅ぼされたものは祟るからそれを鎮魂しなければいけないという“梅原の定理”に従えば、出雲大社はオオクニヌシ鎮魂のための神社、いいかえればオオクニヌシを封じ込めている場所、と言えますね。

梅原:そうです。前代の王朝を鎮魂することは代々の中国の王朝でもやってきたことですしね。

井沢:そうだとすれば、合点がいくことがあります。出雲大社の大きなしめ縄は、撚り方が普通の神社のしめ縄と逆になっているんですね。普通の神社のしめ縄は「外から神殿の中へ入るな」という意味ですが、それが逆に撚ってあるということは、「神殿の中から外へ出るな」ということなのではないかと。

梅原:そうかもしれませんね。

井沢:出雲大社の社殿は十世紀の史料に日本最大の建築であると記されています。推定では高さが約四十八メートルもあって、これは現在の社殿の二倍の大きさです。

 これも、かつては多くの歴史学者が否定していました。私は、前王朝の王であるオオクニヌシの怨霊を封じるためには日本最大の社殿を建てる必要があったのだろうから、その説は正しいはずだと書きました(『逆説の日本史 1 古代黎明編』参照)。

 すると、平成十二年に出雲大社の境内から鎌倉時代の神殿の巨大な柱が出土したのです。これで、巨大神殿説が正しいことが証明されました。この新発見は神さまが私の正しさを認めてくれたのではないかと思っています(笑い)。
※週刊ポスト2014年9月19・26日号
http://news.ameba.jp/201409166/


●8 銅鐸はなぜ消えたのか | 但馬国ねっとで風土記

『古代日本「謎」の時代を解き明かす』長浜浩明氏は、“「銅鐸」と「豊葦原」の謎を解く”で、

かつて和辻哲郎は、九州を銅剣・銅矛文化圏、近畿を銅鐸文化圏と呼び、弥生時代はこの2つ文化圏が対立してきたように思われてきた。(中略)

その後、奈良の唐古・鍵遺跡から銅鐸・銅剣・銅戈の鋳型が同時発掘され、「銅矛圏が銅鐸圏を滅ぼした」や「殺し尽くした」なる推定が「誤り」であることを裏付けた。
http://history.kojiyama.net/?p=129088


●倭人の祖先は呉の太伯の子孫?

<前略>
その史書だが、これは『三国志』(3世紀に陳寿が著した)の種本とされる『魏略』(3世紀にギョカンが著した)に登場する。

ただし、現在『魏略』という書は散逸しており、わずかに『翰苑』(カンエン)という歴史書に「逸文」として、つまり断片が残されているに過ぎず、しかもその『翰苑』自体も日本の「太宰府天満宮(だざいふてんまんぐう、は福岡県太宰府市にある、天神さま(菅原道真公)をお祀りする神社です)」の蔵書の一部として「巻三十」一巻だけが残っていたという極めてレア物の歴史書なのである。著者は唐の時代の張楚金という歴史家であるという。

その部分は次の通り。

■<…帯方(郡)より女(王)国に至る万二千余里。その俗、男子みな面文を点ず。その旧語を聞くに、自ら太伯の後という。昔、夏后少康の子、会稽に邦ぜられ、断髪文身し、以て咬竜の害を避けり。今、倭人また文身せるは、以て水害を厭えばなり。>■

この『魏略』の逸文と三国志・魏志倭人伝を比べると、倭人伝には赤で示した「自ら太伯の後」は無い。おそらく魏志には一般に「呉の太伯」で通用している太伯の後裔であってはまずいということで、削ったのだろう。なぜなら「魏」と「呉」は三世紀当時、「敵対関係」にあったからである。

しかし紺色で示した部分は共通で、倭人伝にも載せられている。「夏后」は「夏王統」という意味で、殷王朝の前代の夏王朝であり、「少康」は「禹」から始まる夏王朝の六代目、およそ紀元前1900年頃の王である。この王の子が会稽(かいけい・地名)に領地を与えられ下ったということだが、実は始祖の「禹」の出身地はそのあたりなのである。

さて、問題はこの一文から果たして「倭人は呉の太伯の後裔、すなわち日本人の祖先は中国大陸の長江流域から移動してきたのだ。」と言えるのかどうかである。ただ、結論から先に言うと、「倭人が春秋戦国時代に長江流域に展開していた呉の末裔であるということは有り得ない。」のである。

「倭人が呉の末裔であると解釈できる中国史料は何か?」という質問に対して、それは『魏略』である―と出典を明らかにした。そこには確かに、<…その旧語を聞くに、自ら太伯の後という。>とあり、これは<彼ら中国に使者としてやって来る倭人から、その昔話を聞くと、自分たちはあの太伯の後裔である、と言っている。>という意味である。

一見すると倭人は呉を建国した太伯の末裔と言っているのだから、「倭人は間違いなく呉の太伯の後裔だ。つまり日本人の先祖である倭人の出自は呉である。」という結論を導き出せそうに思える。

しかし、使者として出かけた倭人は決して「呉の太伯の後」とは言っていない。つまり「呉の」という修辞はないことに気付かなくてはならない。もし「倭人は呉の後裔である」と言いたいのであれば、「われわれは呉を建国し、かつ、代々後継者を出していた太伯の弟の虞仲の後である。」と言わなくてはならないのである。これならば話の筋が通り、文句なく「倭人は呉の後裔」と言う意味が確定する。ところが「太伯の後」という表現だけでは直ちに倭人が呉の後裔であるとは言えない。では、太伯と倭人との関係はどのようなものか?

太伯については『史記』の「周本紀」と「呉太伯世家」に登場する。どちらも内容は同じで、父の古公が三人兄弟の末子である「季歴」とその子の「昌」こそが周王朝を継いでいくのにふさわしい、と考えたため、自分ら兄たちは周を離れ、南方の長江流域に出奔し、そこで新たな王家(呉)を樹立した―ということになっている。

そして同じく「呉太伯世家」によれば、長子の「太伯には子がなく」、子の生まれた弟の虞仲が呉王家を世襲して行くのであるから、「太伯の後」と言ったからといって「呉の末裔」とは言えないのである。太伯には子がいなかったのであるから「太伯の後」はあり得ない話である。では、「太伯の後」と言ったその真意は何であろうか?これには三つのことが想定できる。

@ 最も分かり易いのが、太伯はたしかに呉王家の後継となる嫡子は生まなかったが、別腹の庶子がいてその子が太伯家を繋いで行き、後世になってその太伯家の中から倭人と混血した家系が分岐したというような場合。

A 一番目と前半は全く同じだが、倭人の使者の中には「呉の太伯の後」を標榜する呉からの渡来民を出自に持ち、そのような人物が選ばれて使者に立った者がいたかもしれず、その使者が「実は私の祖先は呉から倭国へ渡ったのです。」などと話したというような場合。

B @、Aはどちらも太伯には子孫がいて、それが倭人とつながっている、という考え方だが、太伯に本当に子孫がいない場合、「太伯の後」はあり得ないが、「呉と倭は起源が同じである」ということを表現した可能性。

@とAの可能性もあるが、その場合でも「太伯の子孫が倭人となった」もしくは「太伯の子孫が倭(国)を開いた」とまでは言えない。そのことを示す古史書が存在する。それは前漢の史家・王充(オウジュウ=AD27年〜97年)が著した『論衡』(ロンコウ)という史書の次の箇所である。

第 八  儒僧篇 周の時、天下泰平にして、越裳は白雉を献じ、倭人は暢草(チョウソウ)を貢ず。

第十三  超奇篇 暢草は倭人より献じられる。

第十八  異虚篇 周の時、天下太平にして、倭人来りて暢を貢ず。

第五十八 恢国篇 成王の時、越常は雉を献じ、倭人は暢を貢ず。

第八、十三、十八、五十八とも倭人に関して「暢(暢草)」つまり「霊草(神に捧げる酒に入れたという草)」を貢ぎに来る人々である、という認識は同じである。さらに、それがいつの時代だったのかを特定しているのが第五十八の恢国篇の記述で、その時期を成王の時代としている。

成王とは周王朝の2代目で、中国政府の「夏殷周年表プロジェクト」によって確定された在位は紀元前1042年から1021年の22年間である。したがって紀元前1040年頃、すでに「倭人」という存在が知られており、時代的には「太伯」が周王朝の創始を弟の季歴に譲って次兄の虞仲とともに南方に奔り、「呉を建国した」頃でもある。

もし倭人が「太伯の後」(太伯の末裔)であるならば、成王に暢草を貢献した際、「祖父の代に南方に逃れて呉を建国した太伯の後裔である倭人」というような書き方がされてしかるべきところである。「倭人」は「倭人」として「独立」して描かれている以上、「太伯」と「倭人」との間に血統的なつながりを見出すことは出来ない。

『論衡』の上の記事では、「太伯の後裔の倭人」という書き方はないうえ、第八と第五十八では呉よりさらに南方の越と並んで「倭人」だけが登場しており、「呉人」は出てこない。すなわち成王の時代には「越人(越(えつ、紀元前600年頃 - 紀元前334年)は、春秋時代に中国浙江省の辺りにあった国)」と「倭人」はいても、「呉人」はいなかった節がある。つまり時系列的には「倭人のほうが呉人よりも古い」とさえ言える可能性が出てくるのである。

その点について、太伯・虞仲・季歴兄弟の父親を俎上に載せてみると興味深いことが分かる。父はその名を「古公亶父」(ココウタンプ)というが、古公は「いにしえの」という意味であり、「亶父」は「亶州出身の・亶州を宰領する」男王と解釈される。亶州を私は日本列島(中でも九州島)と比定するので、「古公亶父」とは「日本列島の中でも九州島出身の王」を指しているのではないかと考えられるのである。

以上により、「(呉を建国した)太伯の後」とある『翰苑』巻30の記事から「倭人の起源は呉にある」と導き出すのは「不可能である」と断定できる。

むしろ最後のほうで触れたように、周王朝発足当時(紀元前1040年頃)の「呉の領域」には実は「倭人が居住」していた可能性が見えてきた。2代目の成王の時に暢草を貢献した倭人がどこにいた倭人かはその暢草の種類が特定できれば原産地も特定でき、倭人の居住地も特定できよう。

今のところその特定はできていないが、少なくとも紀元前1000年代には「呉」とは別に「倭人」と呼ばれる種族が居り、周王朝の祭祀の一部を支えていたことだけは確かである。
http://www.geocities.jp/windows_user2013/wazinn_taihaku.htm


86. 中川隆[-6754] koaQ7Jey 2017年8月11日 18:39:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2016年5月1日 / 最終更新日 : 2016年7月27日 大日向 明子 インタビュー
最新DNA研究と縄文人   斎藤成也
http://jomonjin.info/archives/504


最近、遺伝子の研究が進み日本人のルーツに関する新事実が明らかになりつつあります。今回はNHK番組への出演や書籍の出版、公開シンポジウムなどでご活躍の国立遺伝研究所の斎藤成也教授にお話をうかがいました。

▼先生の遺伝子の研究から日本人のルーツに関する新事実が明らかになったとお聞きしましたが、それはどのようなものですか?

これまで日本人は大陸からわたってきたと考えられていたため、遺伝子が東アジアの人たちと近いと考えられていました。ところが調べてみると、東アジアの人たちは遺伝子が似ているのに、日本人はそれとは違うことがわかりました。そこで、その違いをもたらす原因を縄文人の影響だと仮定し、縄文人のDNAを分析したところ、やはりその原因が縄文人にあったことが分かったのです。さらに日本人の中でも、沖縄の人たち、アイヌの人たちはさらに違いが大きいことも分かっています。

▼それでは、その縄文人は、どこからやってきたのでしょうか?

人類はアフリカを出て、約4万年前に東アジアに到達し、東アジア人と東南アジア人に分岐しました。これまでその形質から縄文人は、東南アジアからやってきたと考えられてきました。北方からやってきたという説もあります。ところがDNA分析では東アジア人と東南アジア人に分岐するより古い時代に日本にやってきたらしいとわかりました。(図参照)古い時代にユーラシアのどこからきたのも、はっきりしません。長い年月をかけて混血し、いろいろな経路をたどって移動しているので、分析はとても難しいのです。


縄文人のルーツ

▼具体的には、どのようにDNAを分析されたのですか?

「核DNA解析」という方法です。ひとつのDNAから一個しかとれないので、難しい技術ですが、今までの「ミトコンドリアDNA解析」よりも、はるかに多くの情報がとれるものです。

寒冷な地域の保存のよい福島県の三貫地貝塚から100体以上の人骨が出土していたので、その成人男女の2体の歯根部を使いました。97%がバクテリアの遺伝子でわずか3%の縄文人の遺伝子から分析するのでとても難しい技術です。当時(2014年)私の研究室に総合研究大学院大学の学生として所属していた神澤秀明博士(現在は国立科学博物館人類研究部研究員)が分析しました。

渡来系弥生人はまだ分析されていないのですが、現代にも遺伝子が引き継がれていると仮定して、中国人や韓国人を渡来人の母集団の子孫とみたてて研究しました。

▼その分析の結果は、日本人の形成にどのような可能性をもたらすのでしょうか?

私が提唱しているのは、公開シンポジウムなどでも発表しましたが、下図のような「日本列島人の三段階形成モデル」です。

日本列島人を大きくとらえると、北部、中央部、南部の三地域に大きく分かれています。北部にはアイヌ人、中央部にはヤマト人、南部にはオキナワ人がいます。
アイヌ人とオキナワ人は、ヤマト人と異なる共通性が残っていて、その部分では、現在の日本人は北部や南部の混血が進まなかった地域を除き、縄文人と弥生人の混血であるという「二重構造説」と同じです。

私のこのモデルが新しいのは、二重構造説でひとつに考えられていた新しい渡来民を第二段階と三段階にわけたところにあります。

図2
http://jomonjin.info/archives/504

第一段階は約4万年前から約4000年前(旧石器時代と縄文時代の大部分)です。第一波の渡来民がユーラシアのいろいろな地域から様々な年代に、日本列島の南部、中央部、北部の全体にやってきました。

第二段階は約4000年前から約3000年前(縄文時代末期)です。日本列島の中央部に第二の渡来民の波がきました。第二波の渡来民の子孫は、日本列島中央部の南側において、第一波渡来民の子孫と混血していったことを示します。一方、中央部の北側と北部および南部では第二波の影響は、ほとんどありません。

第三段階は、約3000年前から現在までです。本州の中央部に第三段階で水田稲作の技術をもたらした渡来人が列島に入っていって、日本列島の中央部(福岡県、瀬戸内海沿岸、近畿地方の中心部、東海地方、関東地方の中心部)に移動していったことを示します。この段階では人口が急速にふえていきました。中央部が二重になっているのは、日本海や太平洋の沿岸に第二段階の渡来人のDNAが残ったのではないかということを示しています。

前半の約3000年前〜約1500年前(弥生時代と古墳時代)は北部と南部および東北地方では、第三波の影響はありませんでした。

後半の約1500年前から現在(飛鳥時代以降)になると、それまで中央部の北にいた人が北海道に移動していったり、中央部の南にいた人が沖縄に移住したりしました。北海道の北部にはオホーツク人が渡来するなど時代とともに混血が進みました。

人の移動は複雑で、時代とともにいろいろ混血していったと考えられますが、おおまかに私の説を表すとこのようになります。この三段階渡来モデルは、わたしたち研究グループが提案しているのですが、他の研究分野でもこれに似た説が提唱されています。

エルヴィン・ベルツはヤマト人を東アジア北部から渡来した長州型と東南アジアから渡来した薩摩型に分けました。三段階モデルにあてはめると、長州型が第三段階渡来民の子孫、薩摩型はもっぱら第二段階渡来民の子孫に対応するかもしれません。縄文人の遺伝子が受け継がれているのは、20%です。稲作をもたらした渡来系の人の移動の前にも大陸から渡ってきているということです。

人の移動は複雑でまた長い年月にわたっていますから、オホーツクから入ってきたり、いろいろな遺伝子が混ざっていくわけで、すべてこれで説明できるわけではありません。

言語に関していえば、第二段階が今の言語を伝えているのではないかと現在、思っています。出雲地方と東北地方の人々の間に遺伝的な共通性が存在する可能性もでてきました。出雲の方言と東北の方言が似ていることが以前から指摘されていますが、言語の伝わり方は、とても複雑なのでいろいろ調べていかなければわからないことも多いと思います。

▼出雲の国譲り神話が、文化的・遺伝的に少し異なる人々の間で起きた出来事である可能性についてはいかがですか?

記紀神話では、出雲地方の権力者が九州北部の権力者に国を譲り渡したと解釈される話がでてきます。荒神谷遺跡からおびただしい数の銅剣が発見されましたが、出雲地方の勢力と九州北部の勢力と交わしたなんらかの出来事を示唆しているのではないかと思えてなりません。

わたしたちの研究グループで東京いずもふるさと会と荒神谷博物館の協力を得て、出雲地方の遺伝子を調べました。出雲地方が大陸に近いにもかかわらず、関東の人のほうが、大陸の人たちの遺伝子に近いことがわかりました。先ほどの三段階のモデルでいうと、第二段階の渡来人が第三段階の渡来人に権力を譲り渡したのではないかという考え方です。確かなことはもう少し、研究を重ねていかなければわかりませんが、いろいろな可能性を考えて研究していくことは大事だと思います。

▼様々な分野の専門家の方々とプロジェクトを組み、3月に東京で開かれた公開シンポジウムのように一般の方々に情報を提供されていますが、どのようなお考えからなのでしょうか?

研究を進めていくにあたっては、いろいろな分野の方と協力しあわなければなりません。また遺伝子を研究するにあたり、いろいろな方に協力していただかなければならないことが多くあります。それぞれの分野のプロは同時に他の分野のアマチュアだったりするわけです。各分野の研究者同士、また研究者と一般の方たちの間に境界を設けず、協力しながら研究を進めていこうと思っています。これまでにも違う場所で一般公開のシンポジウムを開いたことがありますし、これからも開いていこうと思います。

▼これからDNA研究はどのように進んでいくのでしょうか?

縄文時代の人骨が東日本からいくつか発見されたので、そのDNAを使って、研究が進められていくといろいろなことが分かってくるでしょう。沖縄の石垣島から2万年前も前の旧石器時代の人骨も見つかり、現在研究が進められています。DNA分析は、縄文人の姿だけではなく、血液型や耳垢・肌の状態などその体質まで知ることができます。

今世紀に入ってすぐ、ゲノムが解読されて以来、この分野の研究は進みました。どんどんいろんなことが今後、わかってくると思います。私は文字に残っていない自然誌をふくめてヒストリーを考えていく方向で、これからもいろいろな方々と研究していきたいと思っています。
http://jomonjin.info/archives/504


87. 中川隆[-6753] koaQ7Jey 2017年8月11日 18:45:53 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

斎藤成也 縄文人は東南アジア人でも東アジア人でもなくオリジナルアジア人
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/57427204.html


「核ゲノム全体に散在している数十万のSNP座位における対立遺伝子情報をもちいて,これら3集団からサンプルした各個体間および世界の他地域の人間の遺伝的近縁関係を推定。

アイヌ人とヤマト人については,これら2集団が混血をはじめた時期を西暦6世紀と推定し,また集団間で特に大きな対立遺伝子頻度の差があるゲノム領域のなかに,形態的表現型に関与する遺伝子が含まれていることをみいだした。

一方,現代日本列島人にゲノムが引き継がれたと考えられている縄文時代人の核ゲノム塩基配列の一部をはじめて決定し,縄文人が東ユーラシアの中できわめて特異な系統に位置づけられることを発見しました.」
www.molbiol.saitama-u.ac.jp/pdf/141217poster.pdf


SNP=一塩基多型

「 ある生物種集団のゲノム塩基配列中に一塩基が変異した多様性が見られ、その変異が集団内で1%以上の頻度で見られる時、これを一塩基多型(いちえんき・たけい、SNP : Single Nucleotide Polymorphism)と呼ぶ。

従って、対立遺伝子頻度がこれより低いときに使用するのは基本的に誤りで、そのような物は突然変異と呼ばれる(参照:多型)。ある一つの塩基が別の塩基に置換されて起きるため、一つのSNPには置換前と置換後の二種類の対立遺伝子しか見つからないことが多い。が、まれに3から4個の対立遺伝子があるSNPもある。複数形でSNPs(スニップスと発音)と呼ばれることもある。SNPの起源は中立進化説がいうように、種の分化後にランダムに発生したものだと考えられている。」


NHK サイエンスゼロhttp://www.nhk.or.jp/zero/

※要約 サイエンスZERO「日本人のルーツ発見!核DNA解析が解き明かす縄文人」▽オジリナルDNA「縄文人」とは【2016年4月3日(日)NHK Eテレ放送まとめ】
http://yonta64.hatenablog.com/entry/zero/2016-0403-%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84


イメージ 1
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/GALLERY/show_image.html?id=57427204&no=0

斉藤教授の使ったサンプルは、縄文末期(3000年前ほど)の男女遺骨の歯である。

この内部に残存していたDNAの中で、これまでなされてきやY染色体や母系のmtDNAではなく核ゲノムDNAだけを抽出することに成功した。これは快挙。斉藤研究室ではこれに先立ってMISHIMAと名づけられた核ゲノム分離機を完成させていた。今回の分析はこのMISHIMAあってこそである。

核DNAは1細胞にひとつしか存在せず、これまでそのサンプル採集が非常に困難であった。そこで斉藤教授は日本列島の寒冷地ならば、細胞の劣化が少ないと推測し、東北縄文人を選んだところ、DNAそのものはやはりかなりばらばらになったうえに、歯の中に寄生していたバクテリアのDNAも混在していた。これを丹念に仕分けし、ヒトのものだけを抽出して並べる作業が若い助手の手で行われた。


myDNA分析に関して筆者は、サンプル数の少なさやミトコンドリア内部のDNAでは母方しかわからないということを指摘してきた。しかし核DNAならばその個体すべての祖先が全部受け継がれた塩基データが30億個も採取できる。mtDNAの何十倍ものデータである。


その後、東北、北海道の各地でも、この成功に刺激された縄文人DNA分析が行われ、その結果、やはり予想通り、縄文人にも地域によって数種類の違いが見られた。つまり縄文人も一種類ではなかったという結果である。


イメージ 2
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/GALLERY/show_image.html?id=57427204&no=1

問題は、もっと初期縄文人、そして西日本までに及ぶサンプル収集によるデータの淘汰が必要である。いずれにせよ、今回の結果からは、少なくとも末期東北縄文人の核DNAからは、縄文人は東南アジア、東アジア人が、分岐する以前に、同じ汎アジア原種から先に分岐したもので、これは日本の縄文人だけのものとわかった。縄文人が北方ステップルートからではなく、ヒマラヤの南側を通ってやってきた南方系だったことも明確になった。


その縄文の血脈は、現代日本人の中に20パーセントの割合で残存。これまでのmtDNAでは10数パーセントに過ぎないとされてきた分析結果を書き換えた。そしてmtのバイカル湖起源説も白紙に戻す結果となった。

要するに日本の縄文人は中国の華北人や華南人、朝鮮民族や東南アジア人よりも早くアジア原種から分岐した、独立した謎の血脈だったとなる。つまりより原種に近いということだろう。なぜそうなったかはまだわからない。その後、弥生時代直前までに複数のアジアからの来訪者があって、これらが混血。その結果遺伝子の20%に縄文末期人の特徴が残ったとなる。つまりあらゆるアジア人の中で、日本人だけは特殊となる。


すべて筆者の予想に近い結果となった。


mtDNA研究の第一人者だった篠田謙一教授は、この数年前から、人類学者らの疑問に答える形で核ゲノム分析の必要性を著作に著しているが、斉藤教授の分析が彼のmtDNA分析や、Y染色体分析を上回る成果であることを認めている。あとはより多いデータと弥生人、旧石器人の詳細分析が出るまで、わくわくしながらわれわれは待てばよい。ただし日本の土壌ではなかなかサンプルは出てこないだろうが。また、おまけとして、日本人の外見上のさまざまの遺伝子が、思ったより縄文人から受け継がれていることも面白い。これは化粧品メーカー研究室の発見したものである。しみそばかすが多いヒトは縄文の血が残ったヒトらしい。また直毛は弥生系渡来人の、くせ毛は縄文系らしい。


最後に言っておくべきことは、これらはまだあくまでも途中経過でしかないことだ。常に化学の発見は慎重に判断し、決して大喜びしてはなるまい。それに今回、渡来系の分析では中国人(江南・漢・現代南方漢民族)やベトナム人はあっても朝鮮民族のデータがないのも気になった。
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/57427204.html


88. 中川隆[-6747] koaQ7Jey 2017年8月12日 07:04:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本語の母体のY-DNA「D」縄文語がホモサピエンスの祖語かもしれない


  今朝の朝日新聞にまさしく日本学の研究者・マニアには衝撃的なニュースが小さく掲載されました。恐らく2012年の日本学最大のニュースの1つになるでしょう。

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The origin and evolution of word order

Murray Gell-Manna, Santa Fe Institute and Merritt Ruhlenb, Department of Anthropology, Stanford University
Contributed by Murray Gell-Mann, August 26, 2011

Abstract

Recent work in comparative linguistics suggests that all, or almost all, attested human languages may derive from a single earlier language. If that is so, then this language—like nearly all extant languages—most likely had a basic ordering of the subject (S), verb (V), and object (O) in a declarative sentence of the type “the man (S) killed (V) the bear (O).”

When one compares the distribution of the existing structural types with the putative phylogenetic tree of human languages, four conclusions may be drawn.

(i) The word order in the ancestral language was SOV.

(ii) Except for cases of diffusion, the direction of syntactic change, when it occurs, has been for the most part SOV > SVO and, beyond that, SVO > VSO/VOS with a subsequent reversion to SVO occurring occasionally. Reversion to SOV occurs only through diffusion.

(iii) Diffusion, although important, is not the dominant process in the evolution of word order.

(iv) The two extremely rare word orders (OVS and OSV) derive directly from SOV.

Conclusion:

The distribution of word order types in the world’s languages, interpreted in terms of the putative phylogenetic tree of human languages, strongly supports the hypothesis that the original word order in the ancestral language was SOV.

Furthermore, in the vast majority of known cases (excluding diffusion), the direction of change has been almost uniformly SOV > SVO and, beyond that, primarily SVO > VSO/VOS.

There is also evidence that the two extremely rare word orders, OVS and OSV, derive directly from SOV.

These conclusions cast doubt on the hypothesis of Bickerton that human language originally organized itself in terms of SVO word order. According to Bickerton, “languages that did fail to adopt SVO must surely have died out when the strict-order languages achieved embedding and complex structure” (50).

Arguments based on creole languages may be answered by pointing out that they are usually derived from SVO languages. If there ever was a competition between SVO and SOV for world supremacy, our data leave no doubt that it was the SOV group that won.

However, we hasten to add that we know of no evidence that SOV, SVO, or any other word order confers any selective advantage in evolution. In any case, the supposedly “universal” character of SVO word order (51) is not supported by the data.

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  語順のルーツはSOVだと言うことがアメリカ科学アカデミー紀要(業界用語でPNAS=プロナス、当方の学生時代はProNASと呼んでいました)に発表されました。つまり日本語やチベット語などY-DNA「D」遺伝子集団の文法である語順、S(主語)・O(目的語)・V(述語)が欧米語等のSVOより古いことがわかり、しかもホモサピエンスの祖語だろう、との驚異的な言語学上の発見です。

  これは遺伝子の調査結果と完璧に合致します。我々古代シーラカンス遺伝子Y-DNA「D」は古代の出アフリカした当時のホモサピエンスの形態を留めていると言うのが欧米の研究者の結論です。特に「D*」100%のアンダマン諸島のOnge族、Jarawa族は出アフリカ当時の形態をそのまま残していると信じられています。ならば当然言葉も出アフリカ当時のままのはずです。言葉は生き物でその時代のリーダーの決断で言葉は採用されるため、ドンドン変わります。そして征服者の人口が多く、経済力もあれば非征服者の言語はあっという間に征服者の言語に変わってしまいます。

  ところがOnge族や、Jarawa族は外来者を殲滅するという古代習慣を強く持っていたため、遺伝子を保ってきたわけですが、当然言葉も保ってきたはずです。と言うことが今回の発表で間接的に証明されたことになります。

  日本語は長い間孤立語として扱われてきましたが、とんでもない、縄文語から熟成したY-DNA「D2」日本語こそがY-DNA「D1」チベット語と並んで、出アフリカした当時のホモサピエンスの言葉(文法)を維持し続けてきた由緒正しい言葉だと言うことが正にアメリカの研究者によって証明されたのです。

  マレー・ゲルマン博士のチームの仕事ですが、なんとマレー・ゲルマン氏は言語学者ではなく、1969年「素粒子の分類と相互作用に関する発見と研究」でノーベル物理学賞を受賞した物理学者でクォークの提唱者の一人です。恐らく筋金入りの言語学者ではないことが柔軟な発想を生んだのでしょう。西欧優越主義の言語学者なら絶対に欧米語のSVOを祖語として主張すると思われるからです。何はともあれ縄文文化・時代を矮小化したい「O3」御用学者に取っては目障りな発表となりました。

  このことは当然ながら日本人の行動様式こそがホモサピエンスとして本来持っている行動様式であり、ガラパゴス的民族性こそがホモサピエンスの本来の行動様式である事が間接的に証明されたことにもなるはずです。

  そーなんです。やはり日本がガラパゴス化を捨てるのではなく、世界をJaponization(日本化)することこそが人類にとって正しいことなのです。日本人よ自信を持って世界に向かって発言しよう!スティーヴ・ジョブズごとき「R1b」御用商人の日本人に対する悪口・たわごと等クソくらえだ。そしてJaponizationで世界を導こう!

  このニュースの重大さは、何故日本列島人はY-DNA「D2」縄文人の文法を守り続けてきたのか?という点です。「D2」縄文人が圧倒的な文化を確立し、技術者集団だった「C1」、「C3a」縄文人が土器つくりなどで「D2」の精神風土を支え、後からボートピープルとして断続的に韓半島から水田稲作農耕技術を携えて流れてきた呉系長江人「O2b」の子孫も圧倒的な多数派の「D2」と敵対せず、その精神風土を受け入れたため言語の文法も縄文文法を受け入れたのでしょう。

  「O」は「R」などと同じ新興遺伝子集団です。既にSVO文法だったはずです。我々日本人は語順が変わってもそれほど奇異に感じず意味が通じるような適当にあいまいな言葉になっているのはこの「O」の人口と、文化がしっかりと根付いているためです。基本は縄文語ですが、呉系の長江語も漢語の語順でもその中間でも日本人は融通を利かせて理解してしまうように共存してきたからなのです。そして或る動作を強調したい時、我々は平気でSVOになるのです。なぜならSVOの方がキツく聞こえるからです。SOVの方が聞こえ方がやさしいのです。これが縄文の精神風土なのです。

  そして更に後から侵略者として韓半島から暫時流れてきた大和朝廷族や武士団族などのSVO文法の「O3」集団も朝廷内や官僚エスタブリッシュメント階級の中ではSVO漢語を話していたにも関わらず、全国をまとめるために縄文語文法を受け入れることにしたのだと思われます。そして縄文語に翻訳するために開発したのが「かな」、「カナ」なのでしょう。もしこれがなければ、縄文人は漢語を全く理解せず、日本の統一は相当遅れ、日本列島は文化レベルが立ち遅れ西欧列強の植民地化していた可能性が大です。当時の大和朝廷の上層部の誰かが縄文語を認め、縄文人に指示命令するために「かな」「カナ」の開発を命じたのでしょう。この人物こそ本当は歴史に名を残すべきなのでしょうが......。

  またこのニュースは、最近の研究で、人類の祖先は50000年前頃に突然洗練された道具を使ったり、絵画などの芸術活動を始めた、とも書いていますが、これは当たり前のことです。中東でネアンデルタール人と遭遇し交配し、彼らの文化を遺伝子とともに受け継いだけに過ぎません。もしかするとSVO文法はネアンデルタール人の文法だった可能性が実は大です。

  ホモサピエンスは本来SOV文法
  ホモネアンデルターレンシスはSVO文法だったのしょう。
  
  なかなかおもしろくなってきましたね。当ガラパゴス史観が歴史の真実に迫っていることが、少しづつ実証されつつあります。やはりデータマイニング手法はマーケティングだけでなく、古代日本学にも有効なようです。
http://galapagojp.exblog.jp/i29/

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中国語のみならず東南アジア、太平洋地域も、語順はSVO(or VSO)⇒中国人、東南アジア人(Y遺伝子O系統)とは何者なのか!
 


民族の使う言語の語順とその民族性は、ざっくりと見て連関がありそうです。セム人や印欧語族には、XSOやSVOなど動詞を前に持ってくるものが多いですが、これは闘争性、攻撃体質の強さと恐らくは連関している。(どうする、どうしろ、を前にもってくる。)

ところが、一般に穏やかな性格の平和民族と考えられる東南アジアも、実は圧倒的にSVOが多い。ベトナム、タイ、カンボジア、マレーシア、インドネシア、太平洋の島々も全て基本的にSVOである。
台湾原住民やフィリピンにいたっては、何と、セム系と同じXSOなのです。これは一体どういうことなのか。語順と民族性の関係と言う視点が根本的に間違っているのか?

中国人、東南アジア人はY遺伝子分類で言うとO系統にあたるのですが、実は少し気になっていたのですが、Oって、P、Qの次がR(印欧語族)で、印欧語族に近く、C(アボリジニやシベリア人など)とかD(縄文人、チベット人)からは遠い。

現生人類のY遺伝子はアフリカ人や上記C系統、D系統を除くと、インドを中心に東へ西へと拡散したF系統からの派生が多く、Y遺伝子で見る限りは、O系統は、われわれのような「純粋な」モンゴロイドよりも、コーカソイド系統に近い。

そして、それは最初に述べた語順の問題とぴたりと符合する。中国人、東南アジア人は、Y遺伝子も、言語の語順も、もともとはコーカソイド系統と言わざるをえなのではないかと思う。(「コーカソイド系統」という言い方が間違っているかもしれないが。)
改めて考えると、ベトナム人が見せた対米戦争での強さとか、また、(社会的な背景があるにせよ)カンボジアのポルポト時代の大虐殺とか、縄文人の体質とは断層があるという気がしないでもない。

もちろん、女性側の血筋がどうかと言う点もあるし、出自がどうであれ、長い時間をかけて、豊かな東南アジア、太平洋地域で生きていくのに適した遺伝子が残ってきたのでしょうから、あらためて新型モンゴロイドとなったとも言えるとは思う。
いずれにしても、言語の語順と民族性の関係は当初の仮説のままで整合すると考えられます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=313616

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Y遺伝子O系統(中国、東南アジア、太平洋)とそれに近接する系統の言語の語順から、O系統がいつSVOに転じたか推測。
 

●先の(313616)でY遺伝子O系統は、遺伝子も言語の語順も「コーカソイド系統」ではないかと書いた。改めて、O系統周辺のY遺伝子系統樹と、その言語の語順を調べた。

F〜J系統

|┌─────K
└├─────L
 ├─────M
 ├─────N  SOXが一般的(フィンランド語などウラル語族)
 ├─────O  SVO(中国語、東南アジア、太平洋)
 | ┌───P  
 └─┤───Q  抱合語など(アメリカ大陸)母方の言語が残った?
   └───R  SOX→紀元1000年ごろからSVO?(印欧語族)

※印欧語はラテン語(フランス語、イタリア語などの前身)はSOV、英語も中世まではSOV、インド語、イラン語もSOVなので、もともとSOVだったのが、ゲルマン民族大移動→戦争あたり(1000年前くらい?)から、西欧州の言語はみなSVOになったようである。

●上記よりO系統の近くのハプロタイプがすべてSVOと言うわけではない。しかし、F系統(セム族)以下にSXOまたはXSOがしばしば登場している。これは、F系統以下に共通する資質(攻撃性が強いなど)があり、それが環境によって、(例えば厳しい寒冷化→戦闘から、)SXOに転換してくるものが、しばしば登場するということかと思います。

●O系統がSVOに転じたのは5000年前か?

上記よりO系統は、必ずしも誕生したときからSVO型だったのではないと推測できます。では、いつSVOに転じたのか。おそらくは東アジアが戦争に突入し始めるころ、5000年前ごろからではないかと思われます。北方のO3系統と南のO1、O2系統という構図で両者とも同時に、SOXからSVOに転じていったと思われます。(おそらくセム族に比べればはるかに新しいと推測します。)
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=315336


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「 見た目はモンゴロイドだが、Y遺伝子はコーカソイド 」 はありうるか? 性染色体と常染色体の動きの違いから解明
 

(315336)から、O系統の言語の語順は初めからSVOであったわけではなさそうだと展開しました。しかし、O系統(中国人、東南アジア人)が、C系統やD系統(モンゴロイド)より、R系統(印欧語族)に近いという問題はいまだ残っています。

O系統は、インドから東南アジア、さらにニュ−ギニア方面へ展開したK系統が、(火山の噴火などが原因か?)大陸側、中国南部方面へ戻った時に生まれた系統か?(他のストーリーも考えられると思う)

その時何が起こったかですが、命からがら逃げてきたK系統の男がモンゴロイドの女と交わって作った集団ということと思われる。(必ずしも強姦ということではなく、モンゴロイド側が受けいれたか?)

その場合、K→O系統の遺伝子が半分残るはずだが、Y遺伝子(性染色体)と違って、常染色体(性染色体以外の一般の染色体)はオスとメスの間を行ったり来たりしながら伝えられていくので、必ず後世に伝えられるというわけではない。(Y遺伝子は、他の部族の男が入らないなら、O系統のY遺伝子が必ず後世に伝わっていく。)

その環境で生きていくのに不適切な遺伝子なら、世代を重ねるごとにどんどん淘汰されていき、Y遺伝子以外は、つまり「常染色体」に乗っていたK系統→O系統(コーカソイド系統)の持ち込んだ遺伝子はほどんど消えてしまうということも十分ありうる。

モンゴロイドの男は集団に入ってくることなく、モンゴロイドの女を集団に組み込んでいけば4世代もすればコーカソイドの血は10分1のにうす
まってしまう。Y遺伝子だけはそのままコーカソイドのものが残る。

今のところ、中国人や東南アジア人は、このように成立した、「Y染色体はコーカソイド、常染色体はほとんどモンゴロイド」の種族と考えます。これが、正しいなら、オスが移動してY遺伝をどれだけ撒き散らしても土地(環境)に根付いたメスが伝える常染色体の形質が、いくらでも巻き返してくるということかと思われます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=315337


89. 中川隆[-6744] koaQ7Jey 2017年8月12日 08:17:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本人のガラパゴス的民族性の起源
30-3. 日本人のY-DNA、mtDNA遺伝子ハプロタイプ出現頻度調査まとめ
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-3.htm


mtDNA(左列)とY-DNA(右列)をまとめてみました。

このmtDNA調査で最も重要なことは日本人の2/3(66%)がmtDNA「M」系であり、世界でこれだけの高頻度の「M」を持つのは、チベット人(約70%)と日本人だそうです。 そして両民族は奇しくも充分な人口規模を持つ世界で唯2のY-DNA「D」民族です。特に琉球人は世界最大頻度の「M」系民族でありアイヌ民族に次ぐY-DNA「D」民族でもあります。 これは偶然の一致ではなく日本列島の縄文のコアであるY-DNA「D」はmtDNA「M」と常にペアで行動してきたことを示しています。

  一方日本人の1/3(33%)は欧米系のmtDN「N」系になります。mtDNA「M」と「N」は出アフリカ前にすでに分化していたとする仮説と アジア(恐らくインド亜大陸か近東)で分化したとする2つの仮説があり、まだ決着はついていません。 しかしネアンデルタール人との亜種間交配で出アフリカしたY-DNA「CT」が「DE」と「CF」に分化したとする仮説が現在もっとも合理的なので、 mtDNAも出アフリカ後に同じ理由で「M」と「N」に分化したとすると説明を付けやすいのです。

  黄河文明の古代遺跡から発掘される人体はコーカソイドの特徴を持っていることは、考古学ではよく知られています。 これは寒冷地適応や黄砂適応を獲得するまえのY-DNA「O3」はY-DNA「CF」の子孫としてふさわしい彫深の外観であったことを示しています。

同様に典型的なフラットフェースのモンゴル人Y-DNA「C3c」も、本来は兄弟亜型Y-DNA「C2」と「C4」のニューギニア先住民やアボリジニと同じく いかつい彫深顔であったことが容易に推測できます。これほど寒冷地適応は厳しい環境要因だったのです。

  ではmtDNA「N」系列はどうやって日本列島にやって来たのでしょうか?

1.Y-DNA「CF」系縄文人の「C1a」や「C3a」とともに来た、か
2.Y-DNA「O」と共にわたって来た、か
3.その両方の場合。
  縄文遺跡から出土するmtDNA「B」は上記1の場合、その他はY-DNA「O」とともに、mtDNA「HV」などはシルクロード経由も考えられます。

  アイヌ民族のmtDNA「Y」はオホーツク文化で古代アイヌ民族を征服した古代ニヴフ族がもたらしたものでしょう。 その古代ニヴフ族は東北アジア系Y-DNA「C3c」のツングース系かモンゴル系と考えられます。

明治期でもアイヌ人男性の一部はコーカソイドと考えられたほど端正な顔立ちだったので、 いづれにせよ寒冷地適応を獲得する前の東北アジア集団が北海道に渡ってきたことになります。

  主題ではありませんが、アスリート能力のうちもっとも重要なエネルギー産生能力は、エネルギー産生がミトコンドリアで行われる以上、 母系遺伝することは当たり前です。白筋と赤筋とmtDNAとの関係はわかりませんが、調査結果からみると 瞬発系アスリートはmtDNA「N」系のmtDNA「F」と「B」が素地を持っているようです。

一方、持久力系はmtDNA「G」が多いようです。 非常に残念なことはミトコンドリアは本記事14-2.でおわかりのように母系遺伝するため、父親がどんなに優秀なアスリートでもエネルギー産生能力は 遺伝しません。母親がその能力を持ったmtDNAを持っていない限り、トンビの子はトンビなのです。残念!

  ではY-DNA調査で分かることはなんでしょうか?

縄文系は現代日本人男性の約43%を占め、古代遺伝子の3種のY-DNA亜型から構成され、コアになる世界でも希少なY-DNA「D」(チベット民族がY-DNA「D1」、 縄文系がY-DNA「D2」)と更に希少な海洋性ハンターY-DNA「C1」と内陸性ハンター「C3a」が含まれます。 世界の先進国の中でこれほど古代遺伝子が男性人口の約半分も占める国家は日本しかありません。 3.11でも示されたような世界を驚かせた日本だけが持つ従順性、規律性やホスピタリティなど独特の精神文化はこの古代遺伝子から構成される 縄文基層文化がもたらすものです。

  日本はこの古代性に加えてY-DNA「O2」(「O2b」,「O2b1」,「O2a」)と「O1a」の弥生系水田稲作農耕民の遺伝子が持つ地域集団を形成し行動する、 先進国でも珍しい規律性の強い村社会的なコミュニティが加わり、ますます独自性を強めています。

  では内向きになりがちな縄文−弥生系に対し、日本人のグローバル性をもたらしたのは何なのでしょうか? それは朝鮮半島の生き残りに負けて半島を追い出され日本列島に逃げ込み、日向なる土地から出発し征服行脚を行った大和朝廷族や他の天孫族、 及び高句麗、新羅、百済などから追い出されてきた武士団族などのY-DNA「O3」プロト漢族遺伝子を持つ武装侵攻集団に他ならないでしょう。 当時の朝廷では和洋女子大の研究者が報告しているように漢語を話し、本家中華王朝に追い付き追い越せで文化力を高め これも独自な発展をする原動力となり、日本人のガラパゴス性の起源になったものと思われます。

  当ガラパゴス史観もまだ確固たる日本人論を持ってはいません、憶測や妄想も含むアブダクション(推論)の段階です。 国を挙げてY-DNAとmtDNAを調査すると、日本人のガラパゴス的民族性の起源と特性がもっとあぶりだされると思います。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-3.htm


90. 中川隆[-6629] koaQ7Jey 2017年8月21日 09:11:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

近畿人というのは、中国大陸や朝鮮半島からやってきた異民族である。
古代、近畿人が降り立った日本には、先住民=縄文人=東北人がいた。

先住民がいてはもちろん近畿人が住む場所などはない。
彼らは、東北人=縄文人を侵略・虐殺・強制連行(俘囚)することで、国を築いたのだ。

蝦夷征討とは、有史以前からずっと続く、近畿人による先住民一掃、
単なる東北人虐殺に他ならない。それは有史以後も傷跡を残し続けるほどのものだったのだ。
 

近畿人が渡来系民族そのものである証拠。 東北人とは全く異民族であることがわかる。 

▼手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との遺伝的距離
(山口敏『日本人の顔と身体』より)
0.000…朝鮮半島
0.007…近畿地方
– – – – – – – – – – –
0.012…中部地方
0.035…中国地方
0.035…九州地方
0.038…四国地方
0.048…関東地方
0.068…東北地方
0.092…南西諸島

●1 人あたり約 14 万個所の DNA 塩基多型を用いて日本人の集団構造を解

http://www.riken.jp/~/media/riken/pr/press/2008/20080926_1/20080926_1.pdf
(図 4 日本の各地域の遺伝的な分化と地理的な傾向 参照)

近畿人クラスターは東北人のクラスター(縄文人)と遺伝的に全くオーバーラップしていない。異民族ということ。

2008年9月26日 独立行政法人 理化学研究所

1 人あたり約 14 万個所の DNA 塩基多型を用いて日本人の集団構造を解 明 - 病気と遺伝子の関連を調べるケース・コントロール解析のよりよい研究デザインが 可能に -


病気のかかりやすさ、薬の副作用の有無は、私たちそれぞれで違っています。この 個人の体質の違いの遺伝的な要因を明らかにして、それぞれの人の特質に見合った治 療を行うオーダーメイド医療がスタートしています。心筋梗塞、糖尿病、関節リュウ マチなど、さまざまな疾患の原因遺伝子を同定するために、ゲノム全体をカバーする 1塩基多型(SNP)を使った関連解析が、わが国ばかりか世界規模で展開されています。

わが国では、この研究の中心となっているバイオバンクジャパンが、約30万人 の日本人のDNA、血清を集め、情報基盤としての役割を果たしています。 この研究を推進してきた理研ゲノム医科学研究センターは、これらの情報を活用して、大部分の日本人が2つのクラスター、本土クラスターと琉球クラスターに大別で きることを明らかにしました。

この結果は、従来から提唱されていた日本人集団の「二 重構造説」と矛盾しない内容です。2つのクラスター の間のSNPの頻度の違いは小 さいのですが、耳垢のタイプを決めるSNPや髪の毛の太さに関わるSNPの頻度には 明らかな違いがありました。また、本土の中でも遺伝的な地域差があることが明確に なりました。 今後は、病気と遺伝子の関連を調べるケース・コントロール解析において、今回の 研究結果を活かすことによって遺伝的背景のバランスを調整できますので、よりよい 研究デザインが可能になります。



図 SNPを活用した日本人の集団構造の解析 ほとんどの日本人は、本土クラスター(赤) と琉球クラスター(緑)に大別



図 SNPを活用した日本人の集団構造の解析 図 本土の遺伝的な地域差


報道発表資料
2008年9月26日 独立行政法人 理化学研究所

1人あたり約14万個所のDNA塩基多型を用いて日本人の集団構造を解明
- 病気と遺伝子の関連を調べるケース・コントロール解析のよりよい研究デザインが 可能に -


◇ポイント◇

・7,000人以上の日本人の常染色体上のDNA塩基多型情報を解析

・ほとんどの日本人は、本土クラスター、琉球クラスターの2つに大別

・本土でも遺伝的な地域差があることが判明 独立行政法人理化学研究所(野依良治理事長)は、1 人あたり約 14 万個所のDNA 塩基多型の解析により、日本人の集団構造を大きく2つのクラスター(集団)にわけ ることができることを明らかにしました。

これは、理研ゲノム医科学研究センター(中 村祐輔センター長)統計解析・技術開発グループの鎌谷直之グループディレクター、 加畑(山口)由美研究員らによる研究成果です。

私たちそれぞれが持っている遺伝子と個人の病気のかかりやすさ、薬の副作用の有 無などの関係を調べる場合、病気や薬の副作用を持つ集団(患者集団:ケース)と持たない集団(対照集団:コントロール)について、遺伝子上のSNP(1塩基多型)※1を 測定し、その頻度を比較する手法が一般的に行われています。

この手法はケース・コ ントロール解析と呼ばれ、この解析からわかるSNPの頻度情報は、個人に合った投薬 や治療を行う、オーダーメイド医療を目指した研究の基盤情報として非常に有用です。しかし、対象にした集団に分集団構造があり、ケースとコントロールのサンプル の仕方に偏りがある場合、偽陽性の結果を検出する率が上昇してしまいます。今後の ゲノムワイドなケース・コントロール解析のよりよいデザインのためにも、ゲノム全 体を網羅するSNPを用いて、日本人の集団構造を調べることが大変重要です。

研究グループは、日本人 7,001 人と中国人 45 人のサンプルについて、1 人あたり 約14万個所のSNPの遺伝子型データを用いた主成分分析※2を行いました。

その結果、 日本人の大部分が本土クラスターと琉球クラスターに大別できることを明らかにしました。

さらに、本土の中でも遺伝的な地域差があることが明確となりました。

今回明らかにした、日本人の集団構造に関する知識により、ゲノムワイドなケー ス・コントロール解析の研究デザインの向上が期待されます。また、今後さらに多く のアジアの近隣諸国の人のSNPと共に解析することによって、集団間の違い、民族の 歴史、人の移動の程度を含めた詳細な集団構造の理解などが可能になると期待できま す。 本研究は、文部科学省「個人の遺伝情報に応じた医療の実現プロジェクト(オーダ ーメイド医療実現化プロジェクト)」の一環として行われたもので、研究成果は、米 国の科学雑誌『 The American Journal of Human Genetics 』( 10月号)に掲載され るに先立ち、オンライン版(9月25日付け:日本時間9月26日)に掲載されます。



1.背 景

病気のかかりやすさ、薬の副作用の有無などと遺伝子の関係を調べる場合、病気 や薬の副作用を持つ集団(患者集団:ケース)と持たない集団(対照集団:コント ロール)について、ゲノム上のDNA塩基多型のタイプを測定し、その頻度を比較す る手法「ケース・コントロール解析」が一般的に行われています。このケース・コ ントロール解析で用いる1塩基多型(SNP)の頻度情報は、病気や副作用と遺伝子 の関係を解明し、個人に適合した投薬や治療を行うオーダーメイド医療を目指した 研究の基盤情報として非常に有用です。

理研ゲノム医科学研究センターは、ゲノム全体を網羅するSNP解析の手法を確立し、これまでに、心筋梗塞、関節リウマチ、変形性関節症、糖尿病性腎症などをは じめとする数多くの疾患に関連する遺伝子を特定してきました。また近年、欧米の 研究機関においても、同様の解析による疾患関連遺伝子研究が急速に進んできてい ます。一方、SNPの頻度は人種、国、地域によって異なっており、民族の歴史の影 響を受けています。このような状況を踏まえ、日本人の病気や薬の副作用に関連す る遺伝子の探索をさらに深めていく上で、日本人の集団の遺伝的多様性と集団構造 の理解の必要性が高まっています。

現在のケース・コントロール解析は、解析対象の集団の中では、疾患に関係のないゲノム領域のSNPの頻度は個人の疾患の有無と関係がない、という仮定を立てて います。そのため、もし対象の集団に、さらに細分化した分集団構造があって、ケ ースとコントロールのサンプルの取り方に偏りがある場合(図1)、あるいは、コン トロール集団に比べてケース集団の方がより近縁である場合は、疾患に関係のない ゲノム領域でも、SNPの頻度に統計的な有意差が出やすくなり、偽陽性の結果を得 る率が上昇します。

これまで理研ゲノム医科学研究センターは、日本人の集団を対象として、多くの 疾患関連遺伝子を特定してきました。しかし、今後のさらなる研究を進める場合、 より多数のサンプルを用いて解析を行うと、検出力が上がる反面、集団の構造化に よる偽陽性の結果を得る率が上がってしまうことが懸念されます。

日本人の遺伝的多様性と起源についての研究は、これまでミトコンドリアDNA※3 やY染色体※4のDNA塩基多型を用いた研究が主流でした。

それらの先行研究では、 興味深いことに、日本人集団の「二重構造」説※5を支持するものや、ミトコンドリ アDNAのハプロタイプ※6の多様性を示すものがあります。

そのため、今後のゲノム ワイドなケース・コントロール解析が、偽陽性の結果を得ることがないようにするためにも、ゲノム全体を網羅するSNPを用いて、日本人の集団構造を調べることが必要です。



2. 研究手法と成果

今回の研究では、国際ハップマッププロジェクト※6の4つの集団(西・北欧系ユ タ州住民60人、ナイジェリアのヨルバ族60人、東京在住の日本人45人、北京在 住の中国人漢民族45人の合計210人)のSNPのデータに加えて、バイオバンクジ ャパン※7の日本人7,003人の、常染色体※8上にある1人あたり140,387個所の SNP を解析に用いました。

この日本人7,003人は、心筋梗塞、糖尿病、関節リウマチな ど35種類の疾患のいずれかの患者であり(バイオバンクジャパンでは47種類の対象疾患があります)、病院の所在地により、 7つの地域(北海道、東北、関東甲信越、 東海北陸、近畿、九州、沖縄)にグループ分けされています。

研究チームは、これらの人々からの常染色体上のSNPの遺伝子型データを用いて、 主成分分析を基礎にした解析手法により、個人間の遺伝子型の相関を基に個人間の 近縁関係を解析しました(図2)。

まず、欧米人、アフリカ人を含んだ解析により、 日本人7,003人のほぼ全員が東アジア人のグループに属することを確かめました。

次に、この内の7,001人を中国人45人のサンプルと共に解析した結果、7,001人は 本土クラスターと琉球クラスターの2つの主なクラスターに大別されることがわかりました(図3)。

つまり、前者には本土の6 つの地域で採血された大部分の人が含まれ、後者には沖縄で採血された人の大部分が含まれていました。本土クラスター と琉球クラスターの遺伝的分化の程度は非常に小さく、そのためSNPの頻度の違い は大部分についてはわずかでしたが、約14万個所という数多くのSNPを用いたために、2つのクラスターを観察できたと考えられます。

さらに、本土の中でも遺伝 的な地域差があることが明確にわかりました(図4)。

今回の結果は、従来から提唱 されている日本人集団の「ニ重構造」説と矛盾しないものです。 本土クラスターと琉球クラスターの違いが、どのSNPでもっとも顕著であるかを 調べたところ、6番染色体のHLA領域※9に見つかりました。

また、アミノ酸を変化 させるSNPの頻度の違いを比較したところ、髪の毛の太さと関連のある EDAR 遺伝 子※10のSNP、耳垢のタイプと関連のある A BCC11 遺伝子※11のSNPの頻度がもっとも大きい違いを示しました。

さらに研究グループは、日本人の集団構造が疾患関連遺伝子探索のケース・コン トロール解析にどの程度影響するかを調べるために、2つのクラスターや地域を分 集団として、個人をランダムにサンプル抽出し、シミュレーションを行いました。

その一つとして、本土クラスターのケース集団(200人)とコントロール集団(200 人)を基に、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合を増やしていき、 ゲノム全体のSNPの遺伝子型頻度の違いの統計量がどのように増大するかを調べ ました。その結果、ケース集団における琉球クラスターからの人の割合が23%にな ると、偽陽性の結果を得る率の増大が無視できなくなることを明らかにしました。 この結果は、ケース・コントロール解析では、患者の住む地域や遺伝的背景を考慮 した解析デザインが必要であることを示しています。



3.今後の期待

日本人における遺伝的な集団構造と地域差が、ゲノム全体を網羅するSNPで解明されたことにより、次のような発展が期待されます。まず、今回明らかになった 日本人の集団構造についての知識は、今後のゲノムワイドなケース・コントロール 解析の研究デザインの向上に生かすことができます。今後の解析では、検出力を上 げるために、より多数のサンプル数で解析すると予想でき、今回の研究の知見を生 かせば、ケース集団とコントロール集団のバランスがとれるように前もって調整す ることで、偽陽性をなるべく抑える研究デザインが可能になります。また、進行中 あるいは検証中の研究であっても、今回の研究で示した通り、サンプルの抽出の偏 りが及ぼす偽陽性への影響の程度を考慮することによって、構造化による偽陽性の 問題を解決することが可能になります。さらに、本土と琉球の2つのクラスターの間で頻度の違いが大きいSNPがあることを示しているため、どのSNPやどのゲノ ム領域で偽陽性が起こりやすいか、ということについても役立つ情報を提供します。

このように、集団構造の理解や、分集団間の違いを理解することからケース・コン トロール解析の精度が上がるため、疾患関連遺伝子同定の精度の向上が期待され、 より確かなオーダーメイド医療の実現化につながると考えられます。 また、日本人の集団構造が、今後、アジアの近隣諸国の人のデータと共に解析さ れることによって、集団間の違い、民族の歴史、人の移動の程度を含めた詳細な集 団構造の理解が進むことになります。近縁な集団間における遺伝的な関係や違いの 程度を理解することで、SNPと疾患の関係を解明する研究が、アジアの近隣諸国で も加速していくと注目されます。 今回の研究により、アミノ酸を変化させているSNPの中で、本土クラスターと 琉球クラスター間のもっとも大きな違いが、髪の毛の太さや耳垢のタイプのような、 表現型の違いにかかわるものであったことは、非常に興味深い結果です。今後、近 縁な分集団の間で頻度の違いの大きなSNPを調べることによって、人類の歴史に おいて過去に働いた自然選択が、表現型に違いを生じるようなSNPの頻度の変化 に影響を与えてきた例をさらに探し出すことができる可能性があると期待できま す。


(問い合わせ先) 独立行政法人理化学研究所 ゲノム医科学研究センター統計解析・技術開発グループ グループディレクター 鎌谷直之(かまたになおゆき)
Tel : 03-5449-5708 / Fax : 03-5449-5564

横浜研究推進部 企画課 Tel : 045-503-9117 / Fax : 045-503-9113

(報道担当) 独立行政法人理化学研究所 広報室 報道担当 Tel : 048-467-9272 / Fax : 048-462-4715 Mail : koho@riken.jp


補足説明

※1 SNP(スニップと発音されることが多い) DNAの1塩基多型(Single Nucleotide Polymorphism)で、過去に起きたDNA の点突然変異による。ヒト集団では染色体をランダムに2本選んで比較すると、 1,200〜1,500塩基に1つの割合で、SNPがあると推定されている。ヒトゲノム上 では、約12,000,000のSNPが報告されている。



※2 主成分分析 複数の変数間の共分散(相関)を少数の合成変数で説明する手法。共分散行列の固 有値問題の解として得ることができる。この研究では、各個体点を座標のばらつき がなるべく大きくなるように直交軸を取り直して眺めている。


※3 ミトコンドリア DNA 細胞内小器官のミトコンドリアが独自に持っている環状のDNA。過去に細胞内で 共生したほかの細胞が由来である、と考えられている。ミトコンドリアDNAは、 受精卵の細胞質により母から子に伝えられる。DNA複製のエラー修復機構を欠き、 分子進化速度が核のDNAよりも速い。ヒトのミトコンドリアDNA は約16,600 塩基対と短いが、塩基多型の割合が核のDNAよりも高い。ヒトの遺伝的多様性と 移動の歴史を推測する研究によく使われている。

※4 Y 染色体 性染色体の1つで、ヒトでは Y染色体があると男性になる。通常の男性の性染色体 の核型はX染色体とY染色体が1本ずつで、 Y染色体は父親から息子に遺伝する。 ヒトの遺伝的多様性と移動の歴史を推測する研究によく使われている。


※5 日本人集団の「二重構造」説 埴原和郎(はにはらかずろう)氏の「二重構造モデル」。日本人の祖先集団は、縄 文人、そして北東アジアから渡来した弥生人に由来しており、この2集団は日本列 島内で徐々に混血したが、アイヌ人と南西諸島の人においては、北東アジアからの 渡来人の影響は少なかった、とする説。


※6 国際ハップマッププロジェクト/ハプロタイプ ハップマップとは、ハプロタイプ地図を略したもの。ハプロタイプは1本のゲノム (染色体)上のDNA塩基多型の組み合わせである。このプロジェクトは、疾患関 連遺伝子同定のためのゲノムワイドなケース・コントロール解析を加速させること を第一の目的に発足した。日本人、中国人、ヨーロッパ系アメリカ人、アフリカ人 からの4集団270人について、ゲノム全体を網羅するSNPの遺伝子型が決定され、 データベースで公開されている。


※7 バイオバンクジャパン 文部科学省「個人の遺伝情報に応じた医療の実現プロジェクト(オーダーメイド医 療実現化プロジェクト)」の基盤となるDNAサンプルおよび血清サンプルを収集し 臨床情報とともに保管している世界でも有数の資源バンクの名称。バイオバンクへ 約30万人のDNAおよび血清試料を集め、それらを利用してSNPと病気との関係、 薬剤の効果などの関係を明らかにする研究を行っている。心筋梗塞、糖尿病、関節 リウマチなど47種類の対象疾患がある。情報は個人情報管理に配慮し幾重にも厳 重に管理されており、東京大学医科学研究所内に設置されている。



※8 常染色体 ヒトでは1〜22番染色体のこと。細胞内の染色体の全セットのうち、性染色体(X 染色体とY染色体)を除いたもの。


※9 HLA(human leukocyte antigen)領域 ヒトの6番染色体短腕(6p21)上に存在し、その領域にある多重遺伝子族(遺伝子 重複によって生じた遺伝子の中で相同性が高いもの)は、自己と非自己の認識、免 疫応答の誘導に関与する白血球抗原をコードしている。MHC(major histocompatibility complex;主要組織適合性複合体)領域とも呼ばれる。


※10 EDAR 遺伝子(ectodysplasin A receptor) シグナル伝達に関与する遺伝子の1種で、2 番染色体上に存在する。370番目のア ミノ酸変異(アラニンまたはバリン)の頻度は、東アジア人と他の人種で大きく異 なっており、髪の毛の太さに関与することがわかっている。東アジア人は他の人種 と比べて髪の毛が太く、アラニン型の頻度が高い。


※11 ABCC11 遺伝子(ATP-binding cassette, subfamily C, member 11) ATP 結合機能を持ち、輸送にかかわるタンパク質のファミリーをコードする多重遺 伝子族のメンバーの1つで、16番染色体上に存在する。薬剤排出の機能を持つ。 180番目のアミノ酸変異(グリシンまたはアルギニン)は、耳垢の乾型、湿型を決 めることがわかっている。そのSNPの頻度は東アジアと他の地域で大きく異なっ ており、東アジア人では乾型のアルギニンのタイプの頻度が高い。



図1 ケース・コントロール解析で偽陽性率が上がる条件

分集団1、分集団2では、多数のSNPの座位(形質に関係のないゲノム領域のSNP の場所)について、SNPの頻度が少しずつ異なっている。この例では、ケース(患 者集団)のサンプルにおける分集団1からの人の割合1(f)が、コントロール(対照集団)における分集団1からの人の割合(g)よりも大きい。このようなサンプルで関 連解析を行うと疾患に関連していないSNPであっても、統計的に有意な関連(偽陽 性)を検出する率が上がってしまう。



図2 たくさんの個所のSNPの遺伝子型を使った個人間の近縁関係の解析

個人からなるべくたくさんのSNPの遺伝子型を数値化(1)して、人数×SNP数の総 データを作る(2)。次に、統計解析のために数値を標準化する(3)。そして、個人対 個人の総当りの、遺伝子型の相関の度合いのデータを得る(4)。主成分分析により、 個人間のばらつきを最大にする軸をきめ、上位の軸(例えば、第1成分と第2成分) でプロットを作成する(5)。第 1成分の軸は、個人間のばらつき最大になるように選 ばれている。第2成分の軸は、個人間のばらつきが次に大きくなるように選ばれてい る。




図3 ほとんどの日本人は、本土クラスターと琉球クラスターに大別される

日本人と中国人漢民族で個人間の近縁関係を解析したところ、主な3つのクラスター に分かれた。1つは中国人のクラスターである(橙)。日本人は、本土クラスター(赤) と琉球クラスター(緑)の2つに大別される。



図4 日本の各地域の遺伝的な分化と地理的な傾向

本土クラスターの中の人の分布は、地域によって偏りがあることがわかった。近畿の 人は、上の図では本土クラスターの左上に偏りがあり、中国人のクラスターに比較的 近い。対照的に、東北の人は、本土クラスターの右下に偏っていて、中国人のクラス ターから見て離れている。
http://www.riken.jp/~/media/riken/pr/press/2008/20080926_1/20080926_1.pdf


91. 中川隆[-6622] koaQ7Jey 2017年8月21日 17:47:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2013年12月17日 形質人類学のデータ

第1章で説明したように、エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、


部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。


とし、


頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。


と書き、さらに、


大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。


と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099203.html


92. 中川隆[-6621] koaQ7Jey 2017年8月21日 17:54:06 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2013年12月17日 2部落近世起源説の非科学性


現在、部落の起源については、さまざまな説が唱えられている。それらの説の主なものについて、ここで簡単にその誤りを指摘したいと思うが、その前に、部落民がエミシの戦士の子孫であるとする、私の説を裏付ける伝承と形質人類学のデータなどを紹介しておきたい。

「アゼチの者」

岡本弥(『融和運動の回顧』)は、和歌山県伊都郡端場(はば)村という部落について、古くからの口承に基づいて、「村の起源について確かな文献はないが、平安朝の頃東北地方から本郡学文路(かむろ)村へ移住し、後また今の所へ転住したものらしい」と書いている。ちなみに、岡本弥は俘囚起源説を唱えている。

また、前述のように、近世の山陽地方にはチャセン(茶筅)と呼ばれたエミシ系官賤民がいたが、備前や備中では20世紀になってもチャセンを「アゼチ(按察使)の者」と呼んでいたという(喜田貞吉「備前按察使文書」『民族と歴史』五巻四号)。

チャセンは、念仏修業の俗法師であるとともに、長吏と同様に、警察事務を行っていた。長吏の呼称が、「追捕の役人」を意味する古い語義に由来することを考慮すると、アゼチ(按察使)という呼称は奈良時代に設置された地方行政監察官の名称按察使に由来すると思われる。

按察使は、719年(養老三)に、九州を除くほぼ全国に設置されたが、陸奥出羽按察使を除くと、783年(延暦二)ごろを境として他の按察使は姿を史上から消してしまう。

奈良時代に移配(いはい・捕まって奴隷と)されたエミシが官賤民(国家の=天皇の奴隷)として按察使の管理下に置かれ、警察事務などを強制されていたために、後にその子孫が「アゼチの者」と呼ばれるようになったと考えられる。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099201.html


2013年12月17日 ハチヤの起源伝承

チャセンは、山陰ではハチヤ(鉢屋)と呼ばれたが、出雲のハチヤの起源伝承を記録した「本朝鉢屋之来由並雲州苫之由緒之事」によると、鉢屋の先祖は、もと平将門(まさかど・?〜940)と藤原純友(すみとも・?〜941)の家来であった。

将門が関東で、純友が四国で乱を起こして敗北したので、京都に上がり、盗賊になったが、空也上人によって改悛させられ、京都の四条・五条の河原に小屋をかけ、念仏を唱え、瓢箪・鉢をたたきながら修業し、非人を制したので、洛中洛外が静まった。その後、諸国の国司・守護も彼らの仲間を呼んで、領内に置き、盗賊を防がせたという(倉光清六「空也上人とハチヤ伝説との交渉」『民族と歴史』六巻二号)。

また、京都の空也堂にも、「鉢タタキ(ハチヤ)の先祖は、将門の部下の将卒であったが、将門の滅亡後、死罪に処せられるところを空也上人に助けられ、空也堂の僧徒となった」という伝承があるという(倉光清六『前掲論文』)。

※空也上人の寺とされる六波羅蜜寺の資料(六波羅蜜寺発行)を出してみましたが、上人の出自がはっきり記してありません。私の記憶では、この方は、皇族の出身者だったとおもいます。寺に置かれた平清盛の像は有名です。

ハチヤ(鉢タタキ)の先祖が将門の家来であったという伝承は、「将門」がショウモンと音読みされ、ハチヤ(鉢タタキ)の別称である声聞師の「声聞」もショウモンと読まれることから生まれたといわれているが、これらの伝承は、ハチヤ(鉢タタキ)の先祖が東日本出身で、平安時代に反乱に参加して敗北したことと、悪人とみなされていたことを伝えていると思われる。また、ハチヤ(鉢タタキ)の仲間が、国司・守護によって領内に置かれたという伝承も、古代にハチヤの先祖が諸国に移住させられ、国司などの管理下に置かれたことを伝えているとみられる。

部落には、部落の古代起源を伝える、このような伝承がたくさんあるが、部落近世起源説を唱える人たちは、自説にとって都合が悪い、こうした伝承を完全に無視しているのである。

野間宏(『朝日ジャーナル』1977年8月26日号)によると、東京都練馬区の寺に残る板碑(いたび)の「弘安三年」(1280年)の文字は、練馬部落の形成が13世紀に始まることを示唆しているという。しかし、エミシの捕虜の移配が8、9世紀に行われたことを考えると、練馬部落が形成された時期は、鎌倉時代ではなくて、平安時代かもしくは奈良時代と推定されるのである。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099202.html


93. 中川隆[-6578] koaQ7Jey 2017年8月25日 13:17:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本語系統論 の現在:こ れか らどこへ
ア レキサ ンダー ・ボ ビン ハワイ大学
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3203502/pdf/rspb20110518.pdf
https://repository.ninjal.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=21&item_id=764&item_no=1
http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/niso/2003-12-26-1/s001/s006/pdf/article.pdf

日本 語 系 統 の 仮 説

日本 語の起源 については、少 な くとも二百五十年程前か ら、色 々な仮説が 出されて きた。 これまで多 くの学者 に支持 され ている 日韓 同源説 も、新井 白石 とい う国語学者 によって、江戸時代中期に初めて提案 され た。 しか し、十 八世紀には比較言語学 の方法 が存在 しなかったので、なかには何の根拠 もない夢想 的な仮説 もあった。 現在 は比較言語学 の方法が確立 されてすで に百八十年 にな るが、今だに十八世紀 と同 じレベルの仮説 が提起 され続 けてい るのは信 じ難 い事実で ある。本稿 では、 日本語 がSumer語 に関係が ある とか、 どこかの西 アフ リカの言語 に関係があ るとか とい う何の根拠 もない理論 を考慮に入れるつも りはない。 ここで取 り上 げるのは、少な くとも可能性がある仮説 だけである。 以下、可能性 の低 いものか ら可能性の高い ものの順序で詳 しく見てい きたい と思 う。

タ ミ ル 語 仮 説(大 野 晋)
タ ミル 語 仮 説 は 日本 の 大 野 晋 が発 展 させ て き た(大 野1980、1994ab、2000)。 一 部 の タ ミル 人 言 語 学 者 に支 持 され た と同 時 に 、 日本 とイ ン ドの タ ミル ナ ドゥ州 で あ る程 度 マ ス コ ミの 人気 を得 た が、 世 界 中の ドラ ヴ ィダ 諸 言 語 の 専 門 家 と 日本語 の 専 門 家 に は受 け入 れ られ なか った
(村 山1982,Zvelebill990,Krishnamurti2001)。

特 に 、 国 際 日本 文化 研 究 セ ン ター で 開 か れ た『日本 語=タ ミル 語 同 系説 』 とい うシ ン ポ ジ ウム で は 、 大 野 晋 の タ ミル 語 仮 説 は 日本 の言 語 学者 や イ ン ド学 者 に も強 く批 判 され た(長 田1996、 児 玉1996、 家 本1996、 山下1996)。 そ こで 明らか にな った の は 、大 野 晋 の タ ミル 語 仮 説 に は、歴 史 的 、考 古 学 的 、文 献 学 的 な 間違 い が 多 く、そ の上 大 野 晋 が比 較 言 語 学 の 方 法 を正 し く使 って い な い とい う事 実 で あ っ た。 た とえ ば、 大 野(2000:35)は 日本 語 とタ ミル 語 の 問 に 次 の 『対応 』 を掲 げ てい る。

タ ミル 語c一:日 本 語s一
タ ミル 語c一:日 本 語 ゼ ロ
タ ミル 語 ゼ ロ:日 本 語s一

こ の よ うな 分裂 した対 応 が存 在 しない わ け で は ない が 、 何 の 条 件 も提 示 され て い な い場 合 には 、信 頼 性 に欠 け る。 とに か く、 村W、 長 田、児 玉 、家 本 な どが 出 した 大 野 晋 の タ ミル 語 仮 説の批 判 が 完 全 な の で 、 こ こでそ れ に付 け加 え る必 要 は ない だ ろ う。


オ ー ス ト ロ ネ シ ア 語 仮 説(川 本 、Benedict)

大 野 晋 の タ ミル 語 仮 説 と同 じよ うに、 資 料 の扱 い 方 と対 応 の 規 則 に 大 き な 問題 が あ る。 私 は以 前 に も川 本 とBenedictの オ ー ス トロネ シ ア 語 仮 説 につ い て の細 か い 批 判 論 文 を 出 した の で
(Vovinl994a,1994c)、 こ こ で ま た 自説 を繰 り返 す つ も りは な い 。 しか し、 大 野 晋 の タ ミル語 仮 説 と比 べ て、 オ ー ス トロネ シ ア 語 仮 説 の 方 が ま だ注 目す べ き 点 が あ る。 そ れ は、Benedict
が 提 案 した 語源 の うち の い くつ か は 、オ ー ス トロネ シ ア語 起源 か も しれ ない とい うこ とで あ る。

とはい え、 そ の語 源 の数 は非 常 に少 な く、 日本 語 は 元 来 オ ー ス トロネ シ ア語 の 一 つ だ っ た というこ との 証 拠 に は な らな い。

ア ル タ イ ・オ ー ス ト ロ ネ シ ア 混 合 言 語 仮 説(P・livan・v1924、 村 山1981な ど、 崎 山1985な ど 、板 橋(90年 代 の半 ば よ り))

この 混 合 言 語 仮 説 に た て ば、 アル タイ 諸 言 語 の 立 場 か らで は説 明 で き な い 日本 語 の要 素 を説明 で き る可 能 性 が あ る。 しか し、 前 に も言 及 した よ うに、 オ ー ス トロネ シ ア語 の要 素 は 日本 語に は非 常 に 少 ない と思 う。

も し 日本 語 が アル タイ ・オ ー ス トロネ シ ア 混 合 言 語 だ とす れ ば 、 今 ま で に 掲 げ られ た オ ー ストロネ シ ア 語 起源 とみ な され る対応 語 に は、 比 較言 語 学 の見 地 に立つ と、問 題 点 が 多 い。 特 に、村 山七 郎 と崎 山理 の掲 げた 対 応 語 の 中 には 、 正 しい 対 応 語 が 全 くな い わ け で は な い が 、 問題 点が 多 い 。 ア ル タイ ・オ ー ス トロネ シア 混 合 言 語 仮 説 の うち板 橋 の 混 合 言語 説 が最 も将 来 性 の ある仮 説 だ が 、 まだ 疑 問点 が 残 って い る よ うに 思 う。

た と えば 、板 橋(1998)は 上 代 日本 語 の 人 称 代名 詞 の 起源 に つ い て 重 要 な仮 説 を 出 した。 その 仮 説 に よれ ば 、

上 代 日本 語wa一 「わ 」(a一 とい う軟 音 化 は上 代 日本 語 に とって 典 型 的 な 変 化 で は な い。(wameku>ameku「 喚 く」 は そ の軟 音化 の も う一 つ の例 で あ る か もしれ な い)。

よ って 、 上 代 日本 語wa一 「私(一 人 称 単 数)」 と上 代 日本 語a一 厂私(一 人 称 単数)」は 多 分 別 々 の語 源 を もつ とい う板 橋 の 説 明 は 正 しい だ ろ う。 しか し、別 々 の語 源 で あ る か ら とい う理 由 で 上 代 日本 語a一 「私(一 人 称 単数)」 とオ ー ス トロネ シ ア 祖 語*aq 「私(一 人 称 単数)」 を 直 接 につ な げ られ るか 、 とい うの は別 問題 で あ る。 私 の知 る 限 りで は 、 どん な オ ー ストロネ シ ア 語 も 、*a一 は 第 一 人 称 代 名 詞 と して は 使 わ れ て い な いi。 い つ も*aq ま た は そ の省略 形*q と して しか 表 れ て い な い の で 、 上 代 目本 語a一 とオ ー ス トロネ シア 語*aq を対 応 させ るの は難 しい よ うに思 わ れ る。


1フ ィ リ ピ ン の カ ガ ヤ ヌ ン語 に はa「私 」 は存 在 す るが 、カ ガヤ ヌ ン のaはfbcusedactorの 形 式 だ け で 、non fbcusedactorの 形 式 はkoで あ る。 又 、カ ガヤ ヌ ン語 は マ ノボ 語 群 の フ ィ リピ ン語 の一 つ で 、 このa「 私 」が フ ィ リ ピ ン祖 語 に は さか の ぼ らな い。 最 後 に 、 カ ガ ヤ ヌ ン語 につ い て 知 られ て い る事 は実 に少 な く、
特 に カガ ヤ ヌ ン語 の 史 的 音韻 論 は ま った く不 明 な ので 、 このa「私 」 とい う形 式 が ど うい うふ うに成 り立 っ
た か全 く分 か らな い 。

最 近 のオ ー ス トロネ シア 諸語 との比 較 を 見 る と き、 一 番 大 きな 問題 は どの オ ー ス トロネ シ ア語 と比 較 す るか とい うこ とで あ ろ う。 まず 、 オ ー ス トロネ シア祖 語 との 比 較 は 不 可能 で あ る。
オ ー ス トロネ シ ア 祖 語 は少 な く とも 紀 元 前6,000年 に さ か の ぼ る とい う こ とだ か らだ(Blust2000,私 信)。 ま た 、 日本 語 の オ ー ス トロネ シ ア 系 の 語 源 は お そ ら くオ ー ス トロネ シア 祖 語 と
は ほ とん ど一 致 しない とい うこ とだ 。 た と えば 、 日本 祖 語*ta-Cil.3b:L-L「 手 」 は よ く オ ース トロネ シ ア 祖 語*tangan厂 手 」 と比 較 され る。 しか し、*tanganは マ ライ 系 の 言 語 に しか 出 てこ な い の で あ る。 オ ー ス トロネ シア 祖 語 の 「手 」 に 相 当す る単 語 は 間 違 い な く*limaで 、 日本語 に はそ れ に対 応 す る単 語 は な い だ ろ う。

崎 山理 はア ル タイ ・オ ー ス トロネ シ ア混 合 言 語 仮説 の 支 持者 の 一 人 と して 、 この 問題 を は っき り理 解 して い る よ うに思 わ れ る。 従 っ て 崎 山は オ ー ス トロネ シ ア祖 語 で は な くマ ライ ・ポ リ
ネ シ ア祖 語 と 日本 祖 語 を比 較 してい る(崎 山1990、1991、1996、2001)。 しか し、 この 比 較に も問 題 が あ る。 マ ライ ・ポ リネ シ ア祖 語 と 日本 語 の 基礎 語彙 を 比 較 す る場 合 に は 、 可能 とみ
られ る対 応 語 は大 抵 日本 祖 語 で は 一音 節 で 、 マ ライ ・ポ リネ シア祖 語 で は 二 音節 な の で あ る。

とす る と、 日本 祖 語 とマ ライ ・ポ リネ シ ア 祖語 との 間 に規 則 的 な 対応 を成 り立 た せ るた め に は、日本 祖 語 の 中 に音 節 の脱 落 の 証 拠 とな る規 則 的 な 変 化 を見 つ けな けれ ば な らな い。 通 常、 このよ うな音 節 の 脱 落 の影 響 は ア クセ ン トに残 るは ず で あ る。 しか し、 日本 語 も 日本祖 語 も ピ ッチ ・ア クセ ン トな の に もか か わ らず 、 マ ライ ・ポ リネ シア祖 語 の 二音 節 語 の うち一音 節 の脱 落 の 日本 語 にお け るア クセ ン トへ の影 響 が 見つ け られ な い の で あ る。 い い か えれ ば 、 マ ライ ・ポ リネシア祖 語 の 二音 節 語 と対 応 す る と思 わ れ る 日本祖 語 の一 音 節 語 に は 、 ア クセ ン トに 着 目す る と、規 則 的 な 対 応 が ない の で あ る。 た とえ ば 、 次 の 二 つ の 例 を見 る と、 この こ とが 明 白に な る だ ろ
う。

崎 山理 は 日本 祖 語*ma-Cil.3aL-H「 目」 とマ ライ ・ポ リネ シ ア 祖 語*mata「 目」 とを 比 較し、 ま た 一 方 で は 、 日本祖 語*po-Ci1.3bL-L「 火 」 とマ ライ ・ポ リネ シア 祖 語*apuy「 火 」とも比 較 して い る(崎 山2001:471)。 日本 祖 語 のC、V、C、V、 の構 造 に お け る*ta一 く*tanganの ような第 二 音 節 が脱 落 す る可 能 性 を否 定す る わ けで は ない が 、 後者 の マ ライ ・ポ リネ シ ア の語 源を よ く見 る と、 彼 の比 較 は規 則 性 に欠 け て い る のが 分 か る。 前者 の 例 と違 い 、 こ こで は最 後 の音 節 で は な く 、最 初 の 音 節 が脱 落 してい る。 しか し、 日本 祖語*ma-Ci1.3aL-H「 目」、*ta-Ci 1.3bL-L「 手 」、*po-cil.3bL-L「 火 」 は 、 いず れ も同 じ低 起 式 の ア ク セ ン ト類 に 属 し、 ア ク
セ ン トの立 場 か ら見 る と、第 一 音節 の脱 落 、 第 二 音 節 の脱 落 が 不 規 則 的 に起 こ る こ とは考 え られ ない 。

日本 語 の ア クセ ン トをみ るか ぎ り、 マ ライ ・ポ リネ シア祖 語 か ら 日本祖 語 ま で に い たる音 節 脱 落 を証 明す る の は不 可 能 で あ ろ う。

崎 山理 は最 近 、基 礎 語 彙 だ けで はな く、 マ ライ ・ポ リネ シ ア祖 語 と 日本祖 語 の 文 法要 素 の比較 も試 み て い る(崎 山2001:473-478)。 しか し、 崎 山 の 比較 は だ い た い 上代 日本 語 の動 詞 と形
容 詞 の接 頭 辞 と代 名 詞 で あ る。 まず 、 上 代 日本 語 の動 詞 と形 容 詞 の 接 頭 辞 を一 通 り見 てみ よ うと思 う。

崎 山 は 自分 自身 が 比較 の対 象 に使 っ てい る上 代 日本 語 の 動 詞 と形 容 詞 の 大 部分 の接 頭辞 の文 法 的 な 意 味 を知 らな い よ うで あ る。 た とえ ば 、 崎 山 は 上 代 日本 語 のta一が 「偶発 性 」 で 、
ka一が 「被 災 的 」 で 、sa一が 「類 似 概 念 の 派 生 」 だ と指 摘 して い る(崎 山2001:473)。 しか し、ア レキサンダー ・ボ ビン
この 崎 山が あ げ てい る文 法 的 な意 味 が 何 に基 づ く もの な の か が全 く示 され てい ない 。 信 憑 性 の高 い 上 代 日本 語 の参 考 書 をみ て も、 そ の 定 義 と崎 山の解 釈 は一 致 しな い の で あ る。 た とえ ば 、「時代 別 国 語 大 辞 典 」 に は 次 の よ うに定 義 され て い る。ta一に は 「ひ ろ く名 詞 ・副 詞 ・動 詞 ・形容 詞 に冠 して 用 い られ る 」 と して 定 義 が な く(澤 潟1967:408)、ka一 は 「主 と して形 容 詞 に接して そ の意 味 に 一種 の 色 調 をそ え る」(澤 潟1967:170)で 、sa一が 「ほ とん ど実 質 的 な 意 味 はな い 」(澤 潟1967:317)。

岩 波 「古 語 辞 典 」 を調 べ る と、ta一が 「意 味 は 不 明 」(大 野1990:
755)、ka一 が 「見 た 目に … の さ まが 感 じ取れ る とい う意 を表 わす 」(大 野1990:261)で 、sa一は「語 義 不詳 」(大 野1990:530)と あ る。 崎 山 が 比 較 に選 ん だ そ の 他 の 厂上代 日本 語 の 接 頭 辞 」
は形 態 論 的 な 分析 の 間違 い だ け に は と どま らな い 。 た と えば 、 使 役 のpa一は(崎 山2001:473)上 代 日本 語 に は存 在 しない ので あ る。

この よ うな 、 あ る言 語 に は存 在 して い て も 、 あ る言 語 では存 在 しな い 接 頭 辞 の文 法 的 な意 味 の 比 較 は、 何 も証 明す る こ とは で き な い。 崎 山 が これ らの上 代 日本 語 の接 頭 辞 の 「文 法 的 意 味 」 を、 そ の 比 較 の対 象 で あ るマ ライ ・ポ リネ シ ア語 の接 頭
辞 に対 応 させ る た め に作 り上 げた とい うこ と は明 白で あ る。 い うま で もな く、 そ の よ うな方 法は比 較 言 語 学 の方 法 に反 して い る。 崎 山 は上 代 日本語 の代 名 詞 の 分析 も試 み て い る が、 そ の分
析 法 も比 較 言 語 学 の方 法 に反 して い る。 しか し、 そ の批 判 は長 くな るの で こ こで は省 略 す る。

ア ル タ イ 語 仮 説(Mille・ 、Itabashi(90年 代半端まで)、Star・stin,V・vin(最近まで))

アル タイ語仮説 は、 タ ミル語仮説 とオース トロネシア語仮説 に比べれば、長所 は多 いが、短所 も少 なくはない。
日本語 とアル タイ諸言語 のあいだ の子音 とア クセ ン トの対応 がだいたい成 立す るとい う意 見が ある(Starostin1991)。 しか し、 明 らかで ない点 もまだ多 く見 られ る。 特 に、語 中の子音
の対応が十分 に調べ られ てい ない。い うまで もなく、規則 的な音韻対応 だけでは言語 の同系の証拠 にはな らない。 た とえば、 中古 中国語 と日本語の間 には理想 的な ほど、子 音だけでな く母音 の規則的 な対応 も存在す る。 しか し、中古 中国語 と 日本語 は同系の言語ではない。 その完璧とい える対応 は基礎語彙 と基礎文法要素 まで には及 ばず、借 用語 にとどま るか らであ る。

後 に詳 しく述べ るが、アル タイ語族 が五つ の言語(日 本語、韓国語、満 ・ツングース語 、モ ンゴル語 、チ ュル ク語)か らな って いる とい うMiller-Starostin説のアル タイ諸言語 の問には、 その音韻対応 を後 ろ楯す る基礎語彙 と特 に基礎文法要素 が非常 に少ないので ある。

また、アル タイ語仮説 には、他 の問題 も少 な くない。た とえば、母音の対応 が明 らかで はない。今 まで掲 げ られ た母音対応 は、ほ とん どの例 において規則的で はなく、例外が非常 に多いのである。 アル タイ語仮説 の積極的 な支持者 の論証 には言語学的、資料 の扱い方の間違 い などの重大 な欠 点がある。 そのよ うな間違 いの中には信 じ難い ほど稚拙 なものもある。 ここで は、スタロスチ ンのアル タイ語仮説 を例 に して、そのよ うな間違い の幾つか を詳 しく見てみ よ うと思 う。

ス タ ロ ス チ ン の ア ル タ イ 語 仮 説

1)資 料 の 取 扱 いの 問題 点

兎 は卵 。
Dolgopolsky(1999:84)に よ る と、Starostinが た て た アル タ イ 祖 語 に*u「 卵 」 とい う単 語 があ った とい う。 そ して 、 そ の 再構 は 日本 語 に基 づ くのだ とい うの で あ る。 しか し、 日本 語 に は*u「 卵 」 な ど とい う単 語 は な い。 お そ ら くStarostinは 漢 字 の 「卯 」 と 「卵 」 の 区別 がつ か な か った ので あ ろ う。

人 間 に は 目が 二 つ あ るか ら、 祖 語 に も 「目」 と い う単 語 が 二 つ あ った 。

ス タ ロ スチ ン の 日本 語 再 構 は よ くア ル タ イ 語 源 に一 致 す るが 、 日本 語 の デ ー タ を無 視 して いる。 た と えば 、 ス タ ロ スチ ン は 日本 祖 語*m潘-i(1991:87)と 日本祖 語*m瀛N「 目」 を(1991:
265)両 方 再 構 した 。 彼 の再 構 は 中期 韓 国語 のnw「 目」 と一 致 す る こ とに な っ てい る が 、 この再 構 は 日本 語 の デ ー タ に沿 うも の で は な い 。 ま ず 、 一ノ〉 は波 照 間 のmi/>「 目」 に 基 づ い た再
構 だ が 、 この 一1>は 波 照 間 に しか 存 在 しな い た め、 疑 わ しい 。 や は り、 こ の一Nは二 次 的 な も ので あ る と考 え られ る。 波 照 間 のputugiN「 仏 」 な どを 見 れ ば(Martin1987:74-75)、 明 白 だ。 第
二 に、 ス タ ロス チ ンの 日本 祖 語*m潘一 は波 照 間 のmil>「 目」 と対応 して い な い 。 波 照 間 の/i/は琉 球 祖 語 の*e(opon一>opo一 とい う変 化 が 、 後 に続 く/m/の 前に お い て は 自然 で あ る。 上 代 日本 語opo一 〃sonoに は 平安 時代 と鎌 倉 時 代 に 「お も の」 と 「を もの 」 の 二 通 りの振 り仮 名 使 い が あ る。opo一>o一 とい う変 化 が 日本 語 歴 史 上 独 特 で 、 丁 寧 語 の接 頭 辞 で あ る 「お ほ 」 以 外 に 見 られ な い。 こ の接 頭 辞 以 外 の上 代 日本 語 の/opo/と い う音 韻 連続 が平 安 時 代 の/OWO/と 現 代 日本 語 の/0:/に対 応 す る。 よ って 、 こ の単 語 に つ い て は アル タ イ 諸語 との 関係 を想 定 す るの は 不 可能 で あ ろ う。


4)日 本 語 の 中 の 中国 語 借 用 語 は ア ル タ イ 説 を 支持 す る 。

ス タ ロス チ ン は ア ル タ イ祖 語*sir、o「 漏 れ る、 に じみ 出 る 」(チ ュル ク祖 語*sir2一,モ ン ゴ
ル 祖 語*sir一,ツ ン グー ス 祖 語*sire,韓 国祖 語*hを 日本 祖 語*situ「 湿 っぽ い 」 と比 較 してい る(Starostin1997:337)。 日本 語 の 歴 史 を無 視 して い る ス タ ロス チ ン に とっ て は 、彼 が 日本 祖 語 とみ な す 単 語*situが 、 なぜ 「っ れ つ れ 草 」 中 に 初 め て 使 わ れ て い る の か が わ か ら ないよ うで あ る。 実 は 、彼 の比 較 の 対 象 に選 ん だ 日本祖 語*Slip「 湿 っ ぽい 」 は 明 らか な 中古 中 国語
の借 用 語 な の で あ る。 「しつ 」 は 「湿 」 の 漢 字 の慣 用 音 で あ る2。 ま た 、 中期 韓 国語h は「漏 れ る 、 に じみ 出 る」 で は な く、 「流 れ る」 とい う意 味 で 、 ツ ン グ ー ス 語*sire(実 際*sir一
ま た は*siri一)は 「絞 る、 乳 を搾 る」 とい う意 味 で あ る(Cincius1977:93b)。 さ らに 、 韓 国祖語 の*hは*の 必 要 の な い 、 文献 で す で に確 認 され た 中期 韓 国語 の 形 で あ る。 ス タ ロス チ ンは 、 こ こ で も ま た 、 韓 国祖 語 の 再 構 を無 視 して い る。 中 期 韓 国語h は ア クセ ン ト上 、 八類 の動 詞 で 、 韓 国 祖 語*h一に さか の ぼ る(Ramsey1991:236)の で あ る。 こ の単 語 の うちの 、二番 目の/一Uはア ル タイ語 との 関係 の確 立 を よ り困難 に してい る。 最 後 に、 モ ン ゴル 祖 語*sir一は お そ ら くWMsiNbigine一 「し と し と降 る 、水 を ま く」 か ら うま く切 り と られ た 要 素 で 、 残 りの 一bigine一は勝 手 に省 かれ た ま ま、 何 の 説 明 も施 され て い な い 。


5)音 韻 対 応 も無 視/他 の 問題

ス タ ロ ス チ ン は アル タイ 祖 語*bio:ji「 尊 敬 す る」(チ ュル ク祖 語*ba:j;モ ン ゴル 祖 語*bejle,ツ ン グ ー ス祖 語*buje一,韓 国祖 語*p6y-hw6一)を 日本 祖 語*bij竏と比 較 して い る。 まず 、 音韻 対 応 を み る前 に 、対 応 よ りさ さい な 問 題 を 見 て み よ う と思 う。 意 味 的 に は 、 チ ュル ク祖 語 *ba:jは 「金 持 ち」 だ が 、 金 持 ちの 人 々 が 尊 敬 され る可 能 性 は あ る。 中期 韓 国 語phwス タロス チ ンが 行 っ た よ うに二 つ の 形 態 素 に わ け る根 拠 は な い)は 「勉 強 す る」 とい う意 味 で あ る。

次 の例 は も っ と問題 が 大 き い。 モ ン ゴル 祖 語bejle「 三位 の親 王 」 は モ ン ゴル 人 が 清 時 代 以 前 には使 っ て い な い 爵位 で(Jagchid&Hyer1979:276)、 満 州 語 のbeile「 三位 の 親 王 」 か らの 明らか な借 用 語 で あ る。 こ の他 に も、 ス タ ロ スチ ン式 の アル タイ 語 学 は言語 の歴 史 だ けで は な く、2「 しつ 」 は めっ た に しか 出 て こな いsyuu慣 用 音ritu(め っ た に しか 出 て こ ないryuu慣 用 音situ(め っ た に しか 出て こな いsyuukeseeg
「拷 問 に か け る 」 ,aru一 「意 識 を 回 復 す る 」 ニ>arctg 「復 興 す る 」,jalup一 「満 ち る 」=>jalupk
「満 た す 」(Vasilevich1940:93)
,満 州 語 の 稀 なanticausative-gi一:algi一 「有 名 だ 」<aZa一 「報
告 す る 」 同 じ語 源 の 可 能 性 あ り。
上 代 日本 語
於 毛 思路 伎 野 乎婆 奈 夜 吉 曽.
omosirwo-kyinwo-wobanayak-yi-so
美 しい 一連 体 野原 一対 格 否 定 一焼 く一動 名 詞 一す る
美 しい野 を 焼 か な い で(萬XIV-3452)
夜 気 牟志 婆 加 岐
yakey-m-u siba-gakyi

焼 ける一推量 一連体 柴 一垣
焼 ける柴垣(古 事記歌謡109)
中期 韓 国 語
ha-nmwul-ulhe-no-n-i
大 きい 一連 体 物 一対 格 壊 す 一現在 一連 体 一動 名 詞
大 きい 物 を壊 す(金 剛 経1:7)
nolh-ihel-Gi-timwot-ho-mye
刃 一 主 格 壊 す 一 受 け 身 一 動 名 詞 で き な い 一 す る 一 接 続
刃 は 壊 れ な く て_(,月 印X:70)
エ ヴ ェ ン キ 語:
perroneme-cee-1-dipassazhir-il-dijalup-caa-n
ホ ー ム 来 る 一 過 去 一 複 数 一 具 格 乗 り手 一 複 数 一 具 格 満 ち る 一 過 去 一3単
ホ ー ム は 来 た 乗 り 手 で 満 ちた(Boldyrev1994:213b)
dilacaacuutuuma-watigekeen-me-tinjalup-iknan-innama-t
太 陽 青 い 一 対 格 カ ッ プ ー 対 格 一3複 満 ち る 一 か ぎ りま で 一3単 暖 か さ 一 具 格
.ノalup-k鹹aa-n
満 ち る 一 使 役 一 過 去 一3単
太 陽 は 暖 か さ で 青 い カ ッ プ を 端 ま で 満 た し た(Boldyrev1994:213b)
(3)否 定 詞*一e
日 本 語=上 代 日 本 語 一Lv/i<*一e,否 定 詞 、 た と え ばkyik-yi「 聞 き 」 ψヅ 「言 い 」
韓 国 語=韓 国 中 世 語 一e/ye%a,否 定 詞 、 た と え ばkel-e「 歩 き 」;kask-a「 壊 し 」。
?チ ュ ル ク 語:OT一一a,否 定 詞 、 た と え ばegir一 「囲 む 」、egir一艨u 囲 み 」、tut一 「持 つ 」,tut-a
「持 ち 」。(Tenishevetal .1988:474).
上 代 日本 語
都 流 伎 多 智 許 志 爾 刀 利 波 枳 佐 都 由美 乎 多 爾 伎 利 物 知 提
turugyi-tatikφsi-nitwor-ipakyisate-yumyi-wo
剣 一太 刀 腰 一 与格 取 る 一否 定 詞 一佩 く一否 定 詞 狩 猟 一弓 一対 格
ta-nigyir-i-mot-i-te
手 一握 る 一否 定詞 一持 つ 一否 定詞 一接 続
[若 い男 が]剣 太刀 を 腰 に お び、 弓矢 を 手 に 握 り持 っ て(萬V:804)


中 期 韓 国 語
kilpes-esswo-sy-aseysal-aytati-n-i
道 はず れ る 一否 定詞 射 る 一敬 語 一否 定 詞 三 つ 矢 一与 格 皆 落 ち る 一連 体 一 動名 詞
道 か らはず れ て 、 射 て 、[彼 を追 う]三 人 は 三 っ の 矢 で 落 と され た(龍 飛 御 天 歌36)
古 代 チ ュ ル ク語
toquzer-igegir一舩oq鹽
九 武 士 一対 格 囲む 一否 定 詞 撃 ち破 る 一過 去
[彼 が]九 人 の 武 士 を 囲 ん で 、 撃 ち破 っ た(KTb36)


日本語系 統論 において基礎語彙 の比較 は、あま り決定的 な結果 には到 ってい ないが、今す ぐ諦 めず に、 この よ うな細 かい文法要 素の比較 を行 ってい けば、徐 々に 日本語 の系統が分か るようになるだ ろ う。長 田(本 論文集掲載)は 否 定的だが、私 はそ う期待 してい る。

文 献

日本語の文献
古事記歌謡,712
萬 万葉集759以 後
中期韓国語の文献
金剛経
,月印
金 剛 経 彦 解,1464
杜 詩 彦 解,1481
月 印 釈 譜,1459
龍 飛 御 天 歌1445
満州語の文献
MYK
SA
Manju-iYargiyanKooli,十 七 世 紀 後 半(?)
TaizuHwangdiMinggurun-icooha-beSarglin-deambarame
efulehebaita-betucibumearahabithe,十 七 一 十 八 世 紀
モ ンゴル文語
UD ワliger一dalai,十 八 世 紀(?)
古代チュルク語
KTb
KTs
KTeginの 大碑 銘732
KTeginの 小 碑 銘732

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伽vθ rめノ(ゾ飾 照'ノo'漁 ηoo
Keywords:Japonic,Japanese,Altaic,Austronesian,mixedlanguages,Korean,
Manchu-Tungusic,Manchuric.
Thisarticlepresentsabriefoverviewofthemajortheoriesconcerningthe originsoftheJapaneselanguage.Inparticular,Idemonstrateinsomedetail whytwopartiallyexcludinghypotheses:thetheoryofthemixedAustronesianAltaicoriginandtheAltaictheoryhavemultipleshortcomingsatthepresent time.IbelievethatthemostpromisingtheoryisthetheoryoftheKoreoJaponiclinguisticrelationship,anditalsomayturnoutthatbothKoreanand JaponicareultimatelyrelatedtoManchu-Tungusic.IpresentsomeinitialevidenceinfavorofthistentativefamilywhichIcall"Manchuric."


https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC3203502/pdf/rspb20110518.pdf
https://repository.ninjal.ac.jp/index.php?active_action=repository_view_main_item_detail&page_id=13&block_id=21&item_id=764&item_no=1
http://publications.nichibun.ac.jp/region/d/NSH/series/niso/2003-12-26-1/s001/s006/pdf/article.pdf


94. 中川隆[-6430] koaQ7Jey 2017年9月12日 06:21:02 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

◆遠賀川式土器の移動と早期水田伝播から見えるもの 2013/4/3
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55466099.html


「遠賀川式土器(おんががわしきどき)は、西日本に分布する弥生時代前期の土器の総称。九州から西日本に広く分布し、それが初期の水田稲作の西から東への伝播(でんぱ)の指標とされ、西日本の弥生前期土器の総称としてつかわれるようになった。」

「分布は太平洋側では伊勢湾沿岸まで、日本海側では若狭湾沿岸までの西日本全域におよぶ。その後南西諸島や本州北端の青森県までおよんでいることが分かった。 伊藤信雄は、1970年代に炭化米・籾痕土器関連の遺跡を東北地方で23カ所掲げて、日本海沿いの稲作伝播の可能性を指摘している。

1980年代に入って青森県三戸群南郷村の松石橋遺跡で完形壺がみつかり、遠賀川式土器であることが分かり、是川遺跡から出土した土器片が遠賀川式であることが確認された。それ以来東北地方各地で遠賀川式土器的なが見つかっている。これらは遠賀川系土器と呼ばれ、東北地方各地の遠賀川系土器の詳しい観察結果や図・写真が公開されている。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%81%A0%E8%B3%80%E5%B7%9D%E5%BC%8F%E5%9C%9F%E5%99%A8

●1遠賀川式土器
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/GALLERY/show_image.html?id=55466099&no=0

http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_03suidenninasaku_no_jitunenndai.html

●2遠賀川(おんががわ)式土器の分布と発見された弥生時代の水田分布図
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/GALLERY/show_image.html?id=55466099&no=1



http://www.ranhaku.com/web04/c3/2_01map.html

列島の稲作は土器の出土編年から、まず日本海ルートで出雲・越(新潟)へと早期に動く。この流れが青森砂沢へと向かったようである。日本海側が早い理由として学者は対馬暖流の流れと温暖さ、さらに夏季の雨量の多さをあげている。疑問点もあるが記紀などの史書が出雲に早期のクニがあったと言うこととは合致することになる。

太平洋ルートでは遠賀川から瀬戸内に入り吉備〜近畿へと向かうルートと、豊後水道から外海へ出て土佐、紀伊、伊勢、濃尾平野へと向かうコースがある。


東北の三陸側へは太平洋ルートではなく、もしや日本海で青森周りで南下して到着した可能性がある。関東地方の水田が最も遅くなっているからである。


いずれにせよこれらすべてのコースは安曇族や久米族の海上交流コースの早期存在を示唆することになるだろう。


●3水耕稲作の発祥地と渡来経路

遺伝子分析と考古遺物の炭素同位によってジャポニカ米の発生地は中国長江流域と確定している。

現在までに水耕稲作の日本列島への伝播ルートは4つの案が出されている。

1 北東アジア北回り遼東半島から朝鮮半島へ南下して北西九州へ→×寒冷乾燥地帯ゆえに痕跡なし。

2 山東半島から海を渡って朝鮮半島の温暖な南部へ入り、そこから対馬・壱岐を経て北西九州へ→○遺跡あり(※ただし・・・)

3 長江流域から台湾・琉球諸島を経て南九州へ(柳田國男説)→×沖縄の水田は11世紀以降しか出てこない

4 長江流域から直接東シナ海を横断して北西九州へ→?証拠になる遺物や渡海の痕跡は探しようがない

※ただし日本のジャポニカ種には朝鮮半島にない遺伝子を持つものが存在する(佐藤洋一郎説)。また4の渡海がなかったと証明するのも難しく、すでに縄文後期には陸稲稲作が鹿児島や長崎・佐賀、そして岡山などであった証拠品は多い。

筆者はイネが南方系植物であることから半島南部と九州玄界灘への到着はほぼ同時だったと見る。なぜならばのちの伽耶など、半島海岸部の倭人と九州の倭人は同じ海人族で同族(はらから)だったからである。

なんとなれば彼らが中国沿岸部の白水郎と同じ海の民である限り、彼ら自身がすでに縄文中期あたりから長江などとも交流していた可能性もあながち否定できず、弥生時代になれば彼ら自身がイネを持ち帰ることも可能である。北西九州の初期水田はすでに長江の最先端技術と鉄器農具とともに渡来していたわけなので、彼らの舟に長江人が同乗してやってきて指導したことも否定できないのである。

水耕稲作の北西九州への到来は推定紀元前5世紀だとされている。最古の水田遺跡は菜畑遺跡。

●水田稲作の伝播コース
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/GALLERY/show_image.html?id=55466099&no=2

http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn3/003_03suidenninasaku_no_jitunenndai.html


●遠賀川式土器の移動と水田の広がり

史学界では遠賀川式土器を作る人々が水田稲作を東北にまで広めたことはすでに定説化している。しかし、最初菜畑のような北部九州の西側で始まった水耕稲作が、なにゆえに北東部の遠賀川流域の人々によって広められたについては、いまだ納得できるアイデアにお目にかかっていない。そもそも九州北西部には長江中流域に多い甕棺墓が広まったが、博多の北東部から豊前には例えば板付遺跡でさえも菜畑から500年も遅れてしまうのである。

しかしほかによい付随遺物がないので、ここでは学界の説に準じて話を進めておく。

東北で遠賀川式を模倣して作られた類似土器が多数出る。後進地帯と言われてきた東北だがこれによってすでに地域によっては九州と交流していた先進地帯があったことがわかった。稲作ばかりではなく、農具つまり実用鉄器の移動、あるいは九州的な装飾品も同時に届いており、あるいは琉球の南海にしかいなはずの貝の模倣品土器すら縄文後期・晩期に出ている。

つまり九州〜日本海〜東北(南北海道までも)のコースは稲作以前からすでにあったということになる。さらに付け加えるならば、世界の交易は遠隔地から始まるという世界史の定説もあり、このような長旅を小舟でやれた人々ならば、当然東シナ海すらも渡って長江河口部や山東半島にまで往復できたと考えてもおかしくないだろう。

さて、この遠賀川式土器の日本で最も早い移動の痕跡は、つまり倭人の船旅の列島内で最古のものであり、それが「おがのみなと」のちの「岡の港」(おがとは遠賀の古い発音)からはじまったことに日本古代史最大の謎を解く大きなヒントがあるわけである。


●2遠賀川(おんががわ)式土器の分布と発見された弥生時代の水田分布図をもう一度じっくりと眺めていただきたい。

瀬戸内海で近畿へ向かう航路では岡山に土器が集中している。そして播磨から淀川流域(摂津)である。南下して河内方面へも広がる。しかしこの瀬戸内ルートはここで一旦伝播の波がやみ、淀川を北上した波も琵琶湖南部で止まっている。


紀伊半島・三重県から尾張へは太平洋ルートで伝播したのである。そしてこの流れはここで一応終結したと思われるのは、濃尾平野から北へは伝播時期が非常にはなれてしまい、最後になったのである。

ちなみに、不思議なのは吉備と出雲の間と、播磨と出石の間に横たわっている中国山地である。吉備と出雲は古墳文化が大きく異なるが、考古学的には出雲の西谷古墳(四隅突出型)からは吉備系の円筒埴輪などが出てきており、双方に交流があったことは明白なのだが、播磨と出石には水田・鉄器・土器の交流がないのである。なぜおかしいかというと、実はここの間の山地は、日本で最も低くなだらかな丘陵だからである。

分水嶺が日本最低の海抜10メートルというからこれは山地とは言えず、ひょいっと越えられる丘なのだ。なのに交流が少ない?尾張から福井若狭へ抜ける部分が日本でも最長最高の日本アルプスでさえぎられていたにも関わらず文化交流や人の流れがあったにも関わらず、なぜ兵庫県の日本海側と瀬と内側には古くからの交流がなかったか?筆者には疑問である。

参考文献 木下正史 『よくわかる古代日本の全体像 知識ゼロから学ぶ日本史の原点』新人物往来社2011
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%88%E3%81%8F%E3%82%8F%E3%81%8B%E3%82%8B%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E5%85%A8%E4%BD%93%E5%83%8F-%E6%9C%A8%E4%B8%8B-%E6%AD%A3%E5%8F%B2/dp/4404039093

※遠賀川式土器が水田と鉄器その他の装飾品などと移動していった道こそは、実はツヌガアラシトやアメノヒボコらの通り抜けていった道、神武天皇東征ルート、そして海人族と隼人たちの海の道なのである。

あとは祭祀都市と墓制がそこでどう影響を与えていったか、だろうと思う。
https://blogs.yahoo.co.jp/kawakatu_1205/55466099.html


95. 中川隆[-6061] koaQ7Jey 2017年10月30日 16:34:24 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

2016年5月1日 / 最終更新日 : 2016年7月27日 大日向 明子 インタビュー

最新DNA研究と縄文人   斎藤成也


最近、遺伝子の研究が進み日本人のルーツに関する新事実が明らかになりつつあります。今回はNHK番組への出演や書籍の出版、公開シンポジウムなどでご活躍の国立遺伝研究所の斎藤成也教授にお話をうかがいました。

▼先生の遺伝子の研究から日本人のルーツに関する新事実が明らかになったとお聞きしましたが、それはどのようなものですか?

これまで日本人は大陸からわたってきたと考えられていたため、遺伝子が東アジアの人たちと近いと考えられていました。ところが調べてみると、東アジアの人たちは遺伝子が似ているのに、日本人はそれとは違うことがわかりました。そこで、その違いをもたらす原因を縄文人の影響だと仮定し、縄文人のDNAを分析したところ、やはりその原因が縄文人にあったことが分かったのです。さらに日本人の中でも、沖縄の人たち、アイヌの人たちはさらに違いが大きいことも分かっています。

▼それでは、その縄文人は、どこからやってきたのでしょうか?

人類はアフリカを出て、約4万年前に東アジアに到達し、東アジア人と東南アジア人に分岐しました。

これまでその形質から縄文人は、東南アジアからやってきたと考えられてきました。北方からやってきたという説もあります。ところがDNA分析では東アジア人と東南アジア人に分岐するより古い時代に日本にやってきたらしいとわかりました。

(図参照)
http://jomonjin.info/archives/504


古い時代にユーラシアのどこからきたのも、はっきりしません。長い年月をかけて混血し、いろいろな経路をたどって移動しているので、分析はとても難しいのです。

縄文人のルーツ

▼具体的には、どのようにDNAを分析されたのですか?

「核DNA解析」という方法です。ひとつのDNAから一個しかとれないので、難しい技術ですが、今までの「ミトコンドリアDNA解析」よりも、はるかに多くの情報がとれるものです。

寒冷な地域の保存のよい福島県の三貫地貝塚から100体以上の人骨が出土していたので、その成人男女の2体の歯根部を使いました。97%がバクテリアの遺伝子でわずか3%の縄文人の遺伝子から分析するのでとても難しい技術です。当時(2014年)私の研究室に総合研究大学院大学の学生として所属していた神澤秀明博士(現在は国立科学博物館人類研究部研究員)が分析しました。

渡来系弥生人はまだ分析されていないのですが、現代にも遺伝子が引き継がれていると仮定して、中国人や韓国人を渡来人の母集団の子孫とみたてて研究しました。

▼その分析の結果は、日本人の形成にどのような可能性をもたらすのでしょうか?

私が提唱しているのは、公開シンポジウムなどでも発表しましたが、下図のような「日本列島人の三段階形成モデル」です。

http://jomonjin.info/archives/504

日本列島人を大きくとらえると、北部、中央部、南部の三地域に大きく分かれています。

北部にはアイヌ人、中央部にはヤマト人、南部にはオキナワ人がいます。

アイヌ人とオキナワ人は、ヤマト人と異なる共通性が残っていて、その部分では、現在の日本人は北部や南部の混血が進まなかった地域を除き、縄文人と弥生人の混血であるという「二重構造説」と同じです。

私のこのモデルが新しいのは、二重構造説でひとつに考えられていた新しい渡来民を第二段階と三段階にわけたところにあります。


第一段階は約4万年前から約4000年前(旧石器時代と縄文時代の大部分)です。第一波の渡来民がユーラシアのいろいろな地域から様々な年代に、日本列島の南部、中央部、北部の全体にやってきました。

第二段階は約4000年前から約3000年前(縄文時代末期)です。日本列島の中央部に第二の渡来民の波がきました。第二波の渡来民の子孫は、日本列島中央部の南側において、第一波渡来民の子孫と混血していったことを示します。

一方、中央部の北側と北部および南部では第二波の影響は、ほとんどありません。

第三段階は、約3000年前から現在までです。

本州の中央部に第三段階で水田稲作の技術をもたらした渡来人が列島に入っていって、日本列島の中央部(福岡県、瀬戸内海沿岸、近畿地方の中心部、東海地方、関東地方の中心部)に移動していったことを示します。

この段階では人口が急速にふえていきました。
中央部が二重になっているのは、日本海や太平洋の沿岸に第二段階の渡来人のDNAが残ったのではないかということを示しています。

前半の約3000年前〜約1500年前(弥生時代と古墳時代)は北部と南部および東北地方では、第三波の影響はありませんでした。

後半の約1500年前から現在(飛鳥時代以降)になると、それまで中央部の北にいた人が北海道に移動していったり、中央部の南にいた人が沖縄に移住したりしました。北海道の北部にはオホーツク人が渡来するなど時代とともに混血が進みました。

人の移動は複雑で、時代とともにいろいろ混血していったと考えられますが、おおまかに私の説を表すとこのようになります。この三段階渡来モデルは、わたしたち研究グループが提案しているのですが、他の研究分野でもこれに似た説が提唱されています。

エルヴィン・ベルツはヤマト人を東アジア北部から渡来した長州型と東南アジアから渡来した薩摩型に分けました。三段階モデルにあてはめると、長州型が第三段階渡来民の子孫、薩摩型はもっぱら第二段階渡来民の子孫に対応するかもしれません。縄文人の遺伝子が受け継がれているのは、20%です。稲作をもたらした渡来系の人の移動の前にも大陸から渡ってきているということです。

人の移動は複雑でまた長い年月にわたっていますから、オホーツクから入ってきたり、いろいろな遺伝子が混ざっていくわけで、すべてこれで説明できるわけではありません。

言語に関していえば、第二段階が今の言語を伝えているのではないかと現在、思っています。

出雲地方と東北地方の人々の間に遺伝的な共通性が存在する可能性もでてきました。出雲の方言と東北の方言が似ていることが以前から指摘されていますが、言語の伝わり方は、とても複雑なのでいろいろ調べていかなければわからないことも多いと思います。

▼出雲の国譲り神話が、文化的・遺伝的に少し異なる人々の間で起きた出来事である可能性についてはいかがですか?

記紀神話では、出雲地方の権力者が九州北部の権力者に国を譲り渡したと解釈される話がでてきます。荒神谷遺跡からおびただしい数の銅剣が発見されましたが、出雲地方の勢力と九州北部の勢力と交わしたなんらかの出来事を示唆しているのではないかと思えてなりません。

わたしたちの研究グループで東京いずもふるさと会と荒神谷博物館の協力を得て、出雲地方の遺伝子を調べました。

出雲地方が大陸に近いにもかかわらず、関東の人のほうが、大陸の人たちの遺伝子に近いことがわかりました。

先ほどの三段階のモデルでいうと、第二段階の渡来人が第三段階の渡来人に権力を譲り渡したのではないかという考え方です。確かなことはもう少し、研究を重ねていかなければわかりませんが、いろいろな可能性を考えて研究していくことは大事だと思います。

▼これからDNA研究はどのように進んでいくのでしょうか?

縄文時代の人骨が東日本からいくつか発見されたので、そのDNAを使って、研究が進められていくといろいろなことが分かってくるでしょう。沖縄の石垣島から2万年前も前の旧石器時代の人骨も見つかり、現在研究が進められています。DNA分析は、縄文人の姿だけではなく、血液型や耳垢・肌の状態などその体質まで知ることができます。

今世紀に入ってすぐ、ゲノムが解読されて以来、この分野の研究は進みました。どんどんいろんなことが今後、わかってくると思います。私は文字に残っていない自然誌をふくめてヒストリーを考えていく方向で、これからもいろいろな方々と研究していきたいと思っています。

国立遺伝学研究所 斎藤成也教授

*写真は三島市にある国立遺伝学研究所と斎藤成也教授

【プロフィール】

1957年福井県生まれ。国立遺伝学研究所集団遺伝研究部門教授。総合研究大学院大学遺伝学専攻教授、東京大学生物科学専攻教授を兼任。1979年東京大学理学部生物学科人類学課程卒。1986年テキサス大学ヒューストン校生物学医学大学院修了。主要著書に「歴誌主義宣言」(2016年 ウェッジ)、「日本列島人の歴史」(2015年 岩波ジュニア新書)、Introduction to Evolutionary Genomics (2014年 Springer)、「ダーウィン入門」(2011年 ちくま新書)他。

(2016.4.11 斎藤研究室でインタビュー/文・写真 大日向明子)
http://jomonjin.info/archives/504


96. 中川隆[-5711] koaQ7Jey 2017年12月12日 19:25:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本人のガラパゴス的民族性の起源

30-3. 日本人の源流とY-DNA、mtDNA遺伝子ハプロタイプ出現頻度調査まとめ
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-3.htm


国立遺伝学研究所教授で著名研究者の斎藤成也氏が、核-DMA解析でたどるによる「日本人の源流」本を出版しました。

 やっと海の民に焦点が当たり、当ガラパゴス史観の「縄文人の一部は海のハンター」史観が正しそうな雰囲気になって来ました。

 そろそろ時機到来の様相になって来ましたのでガラパゴス史観を総括し、日本人の源流考をまとめてみました。 枝葉末節は切り捨て太幹のみに特化して図々しく組み立てましたので異論噴出が当然です。 異論・興味のある方は当史観が集めた論文をじっくり読んで是非御自分で源流考を組み立ててみてください。

1.最初の到来者は、古代遺伝子系集団:Y-DNA「D」とY-DNA「C」

 Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。
 Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分離し、
 Y-DNA「BT」がY-DMA「B」とY-DNA「CT」に分離し、
 Y-DNA「CT」が初めて出アフリカし、更にY-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分離した。これは恐らく先住ネアンデルタール人との交雑の結果と推測できる。


 Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分離したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 先住親遺伝子のY-DNA「A」のサン集団等やY-DNA「B」のピグミー集団等の支配階級としてネイティヴ・アフリカンの主力となり現代に至っている。

 一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、 そこから北上し現在の中国大陸に到達した。その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、 その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し現代までJarawa族やOnge族として絶滅危惧部族として遺伝子を伝えてきている。

 Y-DNA「CT」から分離したもう一方のY-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸で古代遺伝子Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人と交雑した結果Y-DNA「G」以降の全てのY-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できる。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA遺伝子全ての発祥の地となったと考えられる。

 もう一方の分離したY-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸に拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸にそれぞれニューギニア高地人集団やアボリジニ集団、 つまりオーストラロイドとして現代まで残っている。

 スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大した。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われる。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大である。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのだ。

 現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔である。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できる。

 さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。

しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査では検出されていない。どうやら途絶えてしまった可能性が高い。

 一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」がそのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

 オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決めてはY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

 一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。この集団はサハリンから南下し北海道に入り、 更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 北海道に留まった集団はアイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

 このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の交雑混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が日本人の持つ海洋性の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

 ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

 この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と 海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の交雑混成集団と考えられる。 このY-DNA「C2a」が日本人の持つ大陸性の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

 この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパではフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、 Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。最も頻度が高いのはTanana族である。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

 またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2bia2」に分化し、大部分はモンゴル族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。

2.長江文明系稲作農耕文化の到来

 さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

 Y-DNA「F」から分離した亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分離しインダス文明を興し、ドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。

 Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「NO」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く残されており、 テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。 しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子はY-DNA「R1a」、「R1b」、「J2」などに変貌している為、 東アジア起源の面影は全くない。唯一タタール人に若干の面影が残っているが今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も残っている。

 さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えない。

 この東北アジア起源のY-DNA「O」は穀物栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。 一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」と「O1b2」が分化し稲作農耕は発展したようだ。このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

 長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し河南からベトナムへ南下し 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 特にドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。 カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、 ドラヴィダ民族(特にタミール人)に長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、 その結果、学習院大学の大野教授が日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となった。

 一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。 この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州の14%は満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い要因となっている。 北朝鮮はツングース系の遺伝子が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。

 長江流域の呉越の時代の少し前に河南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、東南アジア、インド亜大陸でY-DNA「O1a」は検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは海南島、台湾となんと日本の岡山県である。 岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として渡来し来たのか単独で来たのか? 岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は楚系文化の名残と推測でき、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。

3.黄河文明系武装侵攻集団の到来

 狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島から生き残りに敗れ逃れてきたのが、Y-DNA「O2」を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「群」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

 朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ日本列島に追い出される形で逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でもまた黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。 この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていたツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」である。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた好戦的な集団と推測できる。

 この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由であり、

 一方韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」、Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」、「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリヒティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。 一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。

4.後記

 日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、一方過去の武士団や維新後の軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 もともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。


・日本列島の中で約1万年純粋培養されてきた素朴な狩猟採集とハンターの縄文系、

・好戦的な黄河系に中国大陸を追いだされ僻地の日本列島にたどり着いた、小集団の
 和で結束する稲作農耕民の弥生系、

・朝鮮半島の生存競争に敗れて半島を追い出され、本家中国に追い付き追い越せの
 征服欲出世欲旺盛な武装侵攻集団、


 個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 これだけ世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの縄文古代遺伝子が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-3.htm


97. 中川隆[-5710] koaQ7Jey 2017年12月12日 19:28:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

日本人のガラパゴス的民族性の起源

30-3-b. 日本人のY-DNA、mtDNA遺伝子ハプロタイプ出現頻度調査まとめ

  出現頻度は、グローバルで入手できた論文のデータを全て単純合算せずに、調査人数を調整して算出しています。 調査した研究者はそれぞれ独自に調査を行っているので、同じ日本人を複数回調査している可能性は極めて低いと思います。 それなら1つの研究のサンプル人数は少なくても、入手できる全てのグローバル論文のサンプル数を積算すればサンプル数が増えより精度が上がることになります。 従って頻度は複数の論文の頻度値の単純平均ではなく、各論文の亜型の人数を割り出し逐一積算し全体数から頻度を再算出しています。

  mtDNA(左列)とY-DNA(右列)をまとめてみました。多少わかりやすいかと思います。


http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-3.htm


 このmtDNA調査で最も重要なことは日本人の2/3(66%)がmtDNA「M」系であり、世界でこれだけの高頻度の「M」を持つのは、チベット人(約70%)と日本人だそうです。 そして両民族は奇しくも充分な人口規模を持つ世界で唯2のY-DNA「D」民族です。特に琉球人は世界最大頻度の「M」系民族でありアイヌ民族に次ぐY-DNA「D」民族でもあります。 これは偶然の一致ではなく日本列島の縄文のコアであるY-DNA「D」はmtDNA「M」と常にペアで行動してきたことを示しています。

  一方日本人の1/3(33%)は欧米系のmtDN「N」系になります。mtDNA「M」と「N」は出アフリカ前にすでに分化していたとする仮説と アジア(恐らくインド亜大陸か近東)で分化したとする2つの仮説があり、まだ決着はついていません。 しかしネアンデルタール人との亜種間交配で出アフリカしたY-DNA「CT」が「DE」と「CF」に分化したとする仮説が現在もっとも合理的なので、 mtDNAも出アフリカ後に同じ理由で「M」と「N」に分化したとすると説明を付けやすいのです。

  黄河文明の古代遺跡から発掘される人体はコーカソイドの特徴を持っていることは、考古学ではよく知られています。 これは寒冷地適応や黄砂適応を獲得するまえのY-DNA「O3」はY-DNA「CF」の子孫としてふさわしい彫深の外観であったことを示しています。 同様に典型的なフラットフェースのモンゴル人Y-DNA「C3c」も、本来は兄弟亜型Y-DNA「C2」と「C4」のニューギニア先住民やアボリジニと同じく いかつい彫深顔であったことが容易に推測できます。これほど寒冷地適応は厳しい環境要因だったのです。

  ではmtDNA「N」系列はどうやって日本列島にやって来たのでしょうか?


1.Y-DNA「CF」系縄文人の「C1a」や「C3a」とともに来た、か

2.Y-DNA「O」と共にわたって来た、か

3.その両方の場合。


  縄文遺跡から出土するmtDNA「B」は上記1の場合、その他はY-DNA「O」とともに、mtDNA「HV」などはシルクロード経由も考えられます。

  アイヌ民族のmtDNA「Y」はオホーツク文化で古代アイヌ民族を征服した古代ニヴフ族がもたらしたものでしょう。 その古代ニヴフ族は東北アジア系Y-DNA「C3c」のツングース系かモンゴル系と考えられます。 明治期でもアイヌ人男性の一部はコーカソイドと考えられたほど端正な顔立ちだったので、 いづれにせよ寒冷地適応を獲得する前の東北アジア集団が北海道に渡ってきたことになります。

  主題ではありませんが、アスリート能力のうちもっとも重要なエネルギー産生能力は、エネルギー産生がミトコンドリアで行われる以上、 母系遺伝することは当たり前です。白筋と赤筋とmtDNAとの関係はわかりませんが、調査結果からみると 瞬発系アスリートはmtDNA「N」系のmtDNA「F」と「B」が素地を持っているようです。一方、持久力系はmtDNA「G」が多いようです。 非常に残念なことはミトコンドリアは本記事14-2.でおわかりのように母系遺伝するため、父親がどんなに優秀なアスリートでもエネルギー産生能力は 遺伝しません。母親がその能力を持ったmtDNAを持っていない限り、トンビの子はトンビなのです。残念!


  ではY-DNA調査で分かることはなんでしょうか?

縄文系は現代日本人男性の約43%を占め、古代遺伝子の3種のY-DNA亜型から構成され、コアになる世界でも希少なY-DNA「D」(チベット民族がY-DNA「D1」、 縄文系がY-DNA「D2」)と更に希少な海洋性ハンターY-DNA「C1」と内陸性ハンター「C3a」が含まれます。 世界の先進国の中でこれほど古代遺伝子が男性人口の約半分も占める国家は日本しかありません。 3.11でも示されたような世界を驚かせた日本だけが持つ従順性、規律性やホスピタリティなど独特の精神文化はこの古代遺伝子から構成される 縄文基層文化がもたらすものです。

  日本はこの古代性に加えてY-DNA「O2」(「O2b」,「O2b1」,「O2a」)と「O1a」の弥生系水田稲作農耕民の遺伝子が持つ地域集団を形成し行動する、 先進国でも珍しい規律性の強い村社会的なコミュニティが加わり、ますます独自性を強めています。

  では内向きになりがちな縄文−弥生系に対し、日本人のグローバル性をもたらしたのは何なのでしょうか? それは朝鮮半島の生き残りに負けて半島を追い出され日本列島に逃げ込み、日向なる土地から出発し征服行脚を行った大和朝廷族や他の天孫族、 及び高句麗、新羅、百済などから追い出されてきた武士団族などのY-DNA「O3」プロト漢族遺伝子を持つ武装侵攻集団に他ならないでしょう。 当時の朝廷では和洋女子大の研究者が報告しているように漢語を話し、本家中華王朝に追い付き追い越せで文化力を高め これも独自な発展をする原動力となり、日本人のガラパゴス性の起源になったものと思われます。

  当ガラパゴス史観もまだ確固たる日本人論を持ってはいません、憶測や妄想も含むアブダクション(推論)の段階です。 国を挙げてY-DNAとmtDNAを調査すると、日本人のガラパゴス的民族性の起源と特性がもっとあぶりだされると思います。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-3.htm


98. 中川隆[-5765] koaQ7Jey 2017年12月17日 15:59:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

「縄文人」は独自進化したアジアの特異集団だった!
読売新聞メディア局編集部 伊藤譲治.2017年12月15日
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html


 日本人のルーツの一つ「縄文人」は、きわめて古い時代に他のアジア人集団から分かれ、独自に進化した特異な集団だったことが、国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の斎藤 成也 なるや 教授らのグループによる縄文人の核DNA解析の結果、わかった。現代日本人(東京周辺)は、遺伝情報の約12%を縄文人から受け継いでいることも明らかになった。縄文人とは何者なのか。日本人の成り立ちをめぐる研究の現状はどうなっているのか。『核DNA解析でたどる日本人の源流』(河出書房新社)を出版した斎藤教授に聞いた。

世界最古級の土器や火焔土器…独自文化に世界が注目


縄文時代を代表する大規模な集落跡、青森市の三内丸山遺跡。復元された6本柱の大型掘立柱建物が威容を誇る
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/photonews/article.html?id=20171214-OYT8I50003


 縄文人とは、約1万6000年前から約3000年前まで続いた縄文時代に、現在の北海道から沖縄本島にかけて住んでいた人たちを指す。平均身長は男性が160センチ弱、女性は150センチに満たない人が多かった。現代の日本人と比べると背は低いが、がっしりとしており、彫りの深い顔立ちが特徴だった。

 世界最古級の土器を作り、約5000年前の縄文中期には華麗な装飾をもつ火焔かえん土器を創り出すなど、類を見ない独自の文化を築いたことで世界的にも注目されている。身体的な特徴などから、東南アジアに起源をもつ人びとではないかと考えられてきた。由来を探るため、これまで縄文人のミトコンドリアのDNA解析は行われていたが、核DNAの解析は技術的に難しかったことから試みられていなかった。

 斎藤教授が縄文人の核DNA解析を思い立ったのは、総合研究大学院大学教授を兼務する自身のもとに神澤秀明さん(現・国立科学博物館人類研究部研究員)が博士課程の学生として入ってきたことがきっかけだった。「2010年にはネアンデルタール人のゲノム(全遺伝情報)解読が成功するなど、世界では次から次に古代人のDNAが出ていたので、日本でもやりたいと思っていた。神澤さんが日本人の起源をテーマにしたいということだったので、縄文人の核DNA解析に挑戦することにした」と振り返る。


福島・三貫地貝塚人骨のDNA解読に成功


(『核DNA解析でたどる日本人の源流』に掲載された図をもとに作成)
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171214-OYT8T50003.html?page_no=2

 問題は、縄文人骨をどこから手に入れるか、だった。ねらいをつけたのは、自身が東大理学部人類学教室の学生だったころから知っていた東大総合研究博物館所蔵の福島県・三貫地さんがんじ貝塚の人骨だった。同貝塚は60年以上前に発掘され、100体を超える人骨が出土した約3000年前の縄文時代後期の遺跡。同博物館館長の諏訪元げん教授に依頼すると、快諾。男女2体の頭骨から奥歯(大臼歯きゅうし)1本ずつを取り出し、提供してくれた。

 解析を担当する神澤さんがドリルで歯に穴を開け、中から核DNAを抽出。コンピューターを駆使した「次世代シークエンサー」と呼ばれる解析装置を使い、核DNAの塩基32億個のうちの一部、1億1500万個の解読に成功した。東ユーラシア(東アジアと東南アジア)のさまざまな人類集団のDNAと比較したところ、驚くような結果が出た。中国・北京周辺の中国人や中国南部の先住民・ダイ族、ベトナム人などがお互い遺伝的に近い関係にあったのに対し、三貫地貝塚の縄文人はこれらの集団から大きくかけ離れていた。

 「縄文人は東南アジアの人たちに近いと思われていたので、驚きでした。核DNAの解析結果が意味するのは、縄文人が東ユーラシアの人びとの中で、遺伝的に大きく異なる集団だということです」と斎藤教授は解説する。

アジア集団の中で最初に分岐した縄文人

 20万年前にアフリカで誕生した現生人類(ホモ・サピエンス)は、7万〜8万年前に故郷・アフリカを離れ、世界各地へと広がっていった。旧約聖書に登場するモーセの「出エジプト」になぞらえ、「出アフリカ」と呼ばれる他大陸への進出と拡散で、西に向かったのがヨーロッパ人の祖先、東に向かったのがアジア人やオーストラリア先住民・アボリジニらの祖先となった。

 縄文人は、東に向かった人類集団の中でどういう位置づけにあるのか。「最初に分かれたのは、現在、オーストラリアに住むアボリジニとパプアニューギニアの人たちの祖先です。その次が、縄文人の祖先だと考えられます。しかし、縄文人の祖先がどこで生まれ、どうやって日本列島にたどり着いたのか、まったくわかりません。縄文人の祖先探しが、振り出しに戻ってしまいました」

 アフリカを出た人類集団が日本列島に到達するには内陸ルートと海沿いルートが考えられるが、縄文人の祖先はどのルートを通った可能性があるのだろうか。「海沿いのルートを考えています。大陸を海伝いに東へ進めば、必ずどこかにたどり着く。陸地に怖い獣がいれば、筏いかだで海へ逃げればいい。海には魚がいるし、食料にも困らない。一つの集団の規模は、現在の採集狩猟民の例などを参考にすると、100人とか150人ぐらいではなかったかと思います」と斎藤教授は推測する。

分岐した時期は2万〜4万年前の間

 では、縄文人の祖先が分岐したのはいつごろか。「オーストラリアやパプアニューギニアに移動した集団が分岐したのが約5万年といわれるので、5万年より古くはないでしょう。2万〜4万年前の間ではないかと考えられます。日本列島に人類が現れるのが約3万8000年前の後期旧石器時代ですから、4万年前あたりの可能性は十分にある」と指摘。「旧石器時代人と縄文時代人のつながりは明確にあると思う。後期旧石器時代はもともと人口が少ないですから、日本列島にいた少数の後期旧石器時代人が列島内で進化し、縄文人になった可能性も考えられます」と語る。

 また、縄文人のDNAがアイヌ、沖縄の人たち、本土日本人(ヤマト人)の順に多く受け継がれ、アイヌと沖縄の人たちが遺伝的に近いことが確かめられた。ヤマト人が縄文人から受け継いだ遺伝情報は約12%だった。「その後、核DNAを解析した北海道・礼文島の船泊ふなどまり遺跡の縄文人骨(後期)でも同じような値が出ているので、東日本の縄文人に関してはそんなにずれることはないと思う」。アイヌと沖縄の人たちの遺伝情報の割合についてはヤマト人ほどくわしく調べていないとしたうえで、「アイヌは縄文人のDNAの50%以上を受け継いでいるのではないかと思う。沖縄の人たちは、それより低い20%前後ではないでしょうか」と推測する。

 以前から、アイヌと沖縄の人たちとの遺伝的な類似性が指摘されていたが、なぜ北のアイヌと南の沖縄の人たちに縄文人のDNAが、より濃く受け継がれているのだろうか。

 日本人の成り立ちに関する有力な仮説として、東大教授や国際日本文化研究センター教授を歴任した自然人類学者・埴原はにはら和郎かずろう(1927〜2004)が1980年代に提唱した「二重構造モデル」がある。弥生時代に大陸からやってきた渡来人が日本列島に移住し、縄文人と混血したが、列島の両端に住むアイヌと沖縄の人たちは渡来人との混血が少なかったために縄文人の遺伝的要素を強く残した、という学説だ。斎藤教授は「今回のDNA解析で、この『二重構造モデル』がほぼ裏付けられたと言っていい」という。

遺伝的に近かった出雲人と東北人

 日本人のDNAをめぐって、もう一つ、意外性のある分析結果がある。

 数年前、島根県の出雲地方出身者でつくる「東京いずもふるさと会」から国立遺伝学研究所にDNAの調査依頼があり、斎藤教授の研究室が担当した。21人から血液を採取してDNAを抽出、データ解析した。その結果、関東地方の人たちのほうが出雲地方の人たちよりも大陸の人びとに遺伝的に近く、出雲地方の人たちは東北地方の人たちと似ていることがわかった。

 「衝撃的な結果でした。出雲の人たちと東北の人たちが、遺伝的に少し似ていたのです。すぐに、東北弁とよく似た出雲方言が事件解明のカギを握る松本清張の小説『砂の器』を思い出しました。DNAでも、出雲と東北の類似がある可能性が出てきた。昔から中央軸(九州北部から山陽、近畿、東海、関東を結ぶ地域)に人が集まり、それに沿って人が動いている。日本列島人の中にも周辺と中央があるのは否定できない」と指摘。出雲も東北地方も同じ周辺部であり、斎藤教授は「うちなる二重構造」と呼んで、注目している。その後、新たに45人の出雲地方人のDNAを調べたが、ほぼ同じ結果が得られたという。


日本列島への渡来の波、2回ではなく3回?

 斎藤教授は、この「うちなる二重構造」をふまえた日本列島への「三段階渡来モデル」を提唱している。日本列島への渡来の波は、これまで考えられてきた2回ではなく3回あった、というシナリオだ。

 第1段階(第1波)が後期旧石器時代から縄文時代の中期まで、第2段階(第2波)が縄文時代の後晩期、第3段階(第3波)は前半が弥生時代、後半が古墳時代以降というものだ。「第1波は縄文人の祖先か、縄文人。第2波の渡来民は『海の民』だった可能性があり、日本語の祖語をもたらした人たちではないか。第3波は弥生時代以降と考えているが、7世紀後半に白村江の戦いで百済が滅亡し、大勢の人たちが日本に移ってきた。そうした人たちが第3波かもしれない」と語る。

 このモデルが新しいのは、「二重構造モデル」では弥生時代以降に一つと考えていた新しい渡来人の波を、第2波と第3波の二つに分けたことだという。この二つの渡来の波があったために「うちなる二重構造」が存在している、と斎藤教授は説く。

弥生・古墳人も解析、沖縄では旧石器人骨19体出土

 日本人の成り立ちをめぐり、現在、さまざまなDNA解析が行われ、新たな研究成果も出始めている。「神澤さんや篠田謙一さんら国立科学博物館のグループは、東日本の縄文人骨や弥生人骨、北九州の弥生人骨、関東地方の古墳時代人骨など、数多くの古代人のゲノムを調べています。北里大学医学部准教授の太田博樹さんらの研究グループは愛知県・伊川津いかわづ貝塚の縄文人骨のDNAを解析していますし、東大理学部教授の植田信太郎さんの研究グループは、弥生時代の山口県・土井ヶ浜遺跡から出土した人骨から核ゲノムDNAの抽出に成功しています」

沖縄・石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡から出土した約2万7000年前の日本最古の人骨
http://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/photonews/article.html?id=20171214-OYT8I50007


 古代人と現代人はDNAでつながっているため、現代人を調べることも重要になってくる。「いま『島プロジェクト』を考えています。島のほうが、より古いものが残っているのではないかと昔から言われている。五島列島や奄美大島、佐渡島、八丈島などに住む人たちを調べたい。東北では、宮城県の人たちを東北大学メディカル・メガバンクが調べているので、共同研究をする予定です。日本以外では、中国・上海の中国人研究者に依頼して、多様性のある中国の漢民族の中で、どこの人たちが日本列島人に近いのかを調べようとしています」と語る。

 縄文時代以前の化石人骨も続々と見つかっている。日本本土で発見された後期旧石器時代人骨は静岡県の浜北人だけだが、近年、沖縄・石垣島の白保竿根田原しらほさおねたばる洞穴遺跡から約2万7000年前の人骨が19体も出土し、学際的な研究が進められている。

 分子(ゲノム)人類学の進展と技術革新で、謎に満ちた縄文人の由来や日本人の起源が解き明かされる日が、近い将来、きっと訪れるだろう。


99. 中川隆[-5732] koaQ7Jey 2017年12月23日 08:50:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

教科書が変わる大発見? 「縄文人」の食生活に、常識破りの新仮説
「狩猟・採集民」ではなく「狩猟・栽培民」だったかもしれない。
 2017年11月01日 18時38分 JST | 更新 2017年11月02日 00時46分 JST
http://www.huffingtonpost.jp/2017/11/01/kodai-history_a_23262970/


第5回「古代歴史文化賞」大賞を受賞した小畑弘己・熊本大教授(右)と溝口善兵衛・島根県知事。

古(いにしえ)の時代、日本列島に暮らしていた縄文人。学校では「縄文人は狩猟・採集民」と教えられたが、もしかしたら彼らは「農耕」を営んでいたのかもしれない――。

11月1日、日本の古代史に関する優れた書籍を表彰する「古代歴史文化賞」の選定委員会が開かれ、第5回大賞に小畑弘己・熊本大教授の

『タネをまく縄文人: 最新科学が覆す農耕の起源』(吉川弘文館)
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BF%E3%83%8D%E3%82%92%E3%81%BE%E3%81%8F%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA-%E6%9C%80%E6%96%B0%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%8C%E8%A6%86%E3%81%99%E8%BE%B2%E8%80%95%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%96%87%E5%8C%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E5%B0%8F%E7%95%91-%E5%BC%98%E5%B7%B1/dp/4642058168


が選ばれた。


受賞作の内容は、これまで縄文人に対して抱いてきた「狩猟・採集民」のイメージに新風を吹かせるものだった。

小畑氏は、縄文土器に残る植物の種や昆虫の圧痕を調べることで、日本列島でいつ頃から農耕が始まったのか検証を試みた。これには土器が作られた際に粘土の中に紛れ込んだコクゾウムシや大豆(ダイズ)の痕跡が手がかりになった。

その結果、小畑氏は「縄文時代前期には小豆(アズキ)や大豆(ダイズ)の栽培が始まり、晩期には粟(アワ)・黍(キビ)・稲(イネ)がすでに伝来していた可能性が高い」と説明。

縄文人は「狩猟・採集民」ではなく、「狩猟・栽培民」だったという仮説を提唱し、縄文人を「豊かな狩猟・採集民」だとする日本の研究者の定説とは異なる説を唱えた。

審査委員長の金田章裕・京大名誉教授は「新しい視点や方法・技術に基づいて資料を観察することで、歴史研究に新地平が開かれる可能性を示した」と、選定理由を述べた。

小畑氏は受賞を受けて、「私が扱わせていただいている資料は、日々、暑い日も寒い日も遺跡を掘っている人たちの賜物。そういった中から新しい考古学の発見ができたことが嬉しい」「全国の博物館などには手付かずで眠る土器がある。『第二の発掘』として、こうした資料の研究が進めば...」と、喜びを語った。

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カスタマーレビュー

読む価値がない。2017年11月11日

三角神獣鏡の成分分析をした東北大学金属材料研究所の鈴木謙爾氏は、考古学者や歴史学者について以下のように述べている。

「材料(物質)科学においては客観的データに基づいて考察や理論構築が進められるのですが、歴史学としての考古学では理論構築や主観的
考察が先行し、自説に好都合なデータのみを拾い上げるという指向が強いようです。」

さらに、農学者の佐藤洋一郎氏は「稲の日本史」22Pで、こう書いている。

「一般的に学問の世界はフェアの世界だと思われるが、嫉妬と猜疑心に満ち溢れた、わけのわからない議論が横行する奇妙な世界である。」

お二人とも、理系の人間であるが客観的なデータの積み重ねで実証する手法をとる科学者にとっては、考古学の世界は「嫉妬と猜疑心に満ち溢れた、わけのわからない議論が横行する奇妙な世界」なんでしょうね。

この本は、まさに奇妙な理屈が横行する本で全くもって噴飯モノである。

たとえば、稲についてはプラントオーパルについては無視して縄文時代の稲の炭化米は少数で新しい年代からの混入が考えられるとウソをついているが、プラントオーパルは形状でジャポニカ米であることがわかるが、このジャポニカ米のプラントオーパルが「彦崎遺跡」の6000年前の地層から大量に発見されているし、縄文時代中期から30地点以上の遺跡から土器内から「ジャポニカ米のプラントオーパル」が発見されており、中国の同時期に稲の栽培がされていることが実証されている。

また、この本では佐藤洋一郎氏がラオスの焼き畑農業を実地検分し、道具がなくとも農業はできると実証したところ、この著者は名前を出さずに「暴論」と決めつけ、現代の焼き畑農業では道具が使われているとわけのわからない論を展開している。

この著者の論でいけば、昔の農業はトラクターがないから農業はなかったというぐらいの暴論であるが「奇妙な世界」である考古学の世界では、この奇妙な屁理屈がまかり通るらしい。

この本は何やら立派な賞を受賞したそうで、わけのわからない話である。

佐藤洋一郎氏の「稲の日本史」を読んで、佐藤氏の論旨明快で客観的なデータを用いての「縄文農業論」に興味を覚えて、この本を手にとったのだが、失望した。

佐藤氏に対する猜疑心と嫉妬露わなトンデモ本であった。

この本を読む前に佐藤洋一郎氏の本を読んでから、この本を図書館で借りて(買うのはカネを捨てるようなものだ)読むといい。

幼稚な著者の理屈に唖然とするだろう。

考古学者というのは、このレベルなのか。

以前から考古学者の本を読んで根拠の薄いことを平気で強弁する傾向があると思っていたが、この本はひどすぎる。

追記

130P 「Va期 マメ類・ウルシの栽培開始=縄文時代前期(7300〜5500年前」と書かれているが、鳥浜貝塚からは12600年前の「ウルシの木」が発見され、9000年前には垣ノ島遺跡から「漆塗りの土器」が発見されている。

ウルシというのは人里植物なので人の管理が必要であるし、漆の採取には2〜3年かかるのでウルシの栽培の開始が7300年前からというのは明らかにデタラメで、考古学者なら知らないはずもなく意図的にウソをついてとしか思えない記述である。

131P「一定規模の集団の移住を伴う」日本人のDNA分析と土器の拡散状況から、この時期に外部から大規模な移住が行われていた形跡がなかったことが確認されており、何をもってこういう書き方をしているのかわからない。

この本を読むと、科学的と副題につけながら俯瞰的かつ客観的に論じておらず、偏狭的かつ独善的な記述が目立ち、間違った認識を与えるのではないかとおもう。

三内丸山遺跡の動植物遺体を分析した論文によると、植物の栽培に依存していたと報告されている。

「縄文集落の発達」

https://www.jstage.jst.go.jp/article/jaqua1957/36/5/36_5_350/_pdf

この本による農耕の定義からすると、6500年前から「農業」が行われていたことになる。

他の文献なり書籍を読んでいると、いかがわしさプンプンのトンデモ本である。

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蒼穹の歴女
ダイズとアズキの起源は日本2016年2月2日

本書は古民族植物学(Palaeoethnobotany)から「豊かな狩猟採集社会」といわれていた縄文文化の
「農耕」の証明を行ったものです。

≪実をいうと、筆者は縄文時代を専門に研究しているわけではない。(中略)
しかし、その程度のものが縄文時代について語れるのか、と不安になった読者の方もいらっしゃるであろうが、
研究の中心にあっては見えないもの、気づかないものが、周辺からみえることがある。
また、専門家ではないため、「当たり前」が当たり前に思えず、素朴な疑問を抱き、
それが結果的にいくつかの新しい発見につながった≫(3頁)

これが著者の強みであると同時に弱みであり、本書ではダイズとアズキの起源については強みとして、
イネの起源と伝播については弱みとして顕著に表れます。

≪本書に通底するもう一つの隠れたテーマは、狩猟採集社会や牧畜社会の「農耕」の証明である。
「農耕」の定義は非常に複雑であり、厳密に使用するとイメージを損ねるため、そのまま使用している。
教科書で習った、縄文時代は狩猟採集社会であり、弥生時代以降に農耕社会へと突入するという「常識」は、
本書では「非常識」と考えている≫(4〜5頁)

本書における表向きの主人公はコクゾウムシ(Sitophilus zeamais MOTSCHULSKY)です。
文字通り穀物を食べる害虫の一種です。

≪でも、米喰いムシなら、縄文時代じゃなく、弥生時代じゃないかという、賢明な読者の方もいらっしゃるであろう。
しかし、最近こいつが縄文時代の遺跡からたくさん見つかり始めたのである。
まさに米櫃に湧くように、たくさん……≫(2頁)

このコクゾウムシが縄文時代の「農耕」を証明してくれることになります。
但し、縄文時代のメジャーフードはイネではなくダイズでした。

≪我が国で最も古いダイズ属の資料は、
宮崎県王子山遺跡から発見された約一万三〇〇〇年前のツルマメの圧痕である≫(23頁)

このツルマメが後に見られる「栽培化徴候群」とコクゾウムシにより、
縄文時代のメジャーフードだったことが分かるのです。

≪縄文ダイズ「クマダイ」はこれまで遺伝子学で想定されていた日本起源のダイズの存在を
考古学的に証明したものと評価できる≫(22頁)

ダイズとアズキの起源は中部地方や西関東地方であることまで判明します。

縄文文化は「豊かな狩猟採集社会」という思い込みとは異なり、
一万六千年前頃からアサ、エゴマ、ヒエ、アブラナ科を栽培し、前期にはアズキ、ダイズ、ゴボウの栽培も開始され、
特にダイズをメジャーフード化した「農耕社会」だったことになります。

ここまでが最初の二つの章の内容で、
土器編年の科学的信頼性が低いことを除いては比較的に理路整然と書かれているのですが、

その後の章「イネはいつ日本にやってきたのか」は論理的整合性がとれておらず、
非科学的なバイアスのかかった思い込みによって語られています。

≪遺伝学の立場からは台湾経由で南西諸島を北上したという説もあるが、
考古学的にはその証拠はまったくつかまれておらず、
中国大陸の沿岸部を北上したイネが山東半島から遼東半島を経て、朝鮮半島を南下し、朝鮮・対馬海峡を越えて、
北部九州もしくは山陰地方に伝わったというルートがもっとも信頼できる伝播ルートである≫(118〜119頁)

全くもってデタラメです。


遺伝学で判明しているのは、伝播ルートが朝鮮半島経由ではないという事実です。
「台湾経由」と主張しているわけではなく、日本と台湾が相同だと指摘しているだけです。

逆に「もっとも信頼できる伝播ルート」と主張する朝鮮半島経由に考古学的証拠は一切ありません。

≪中国大陸側の第二起源地がいまだ不明である≫(57〜58頁)
≪大陸側の第二起源地は朝鮮半島南部(韓国)と考えられる≫(58頁)

「第二起源地」が必ず存在するという根拠があるわけでもないにもかかわらず、思い込みに囚われています。

≪今日では長江中下流域がイネ栽培開始の場所であることがわかってきている≫(118頁)

のであれば、大陸から海に出て海流にまかせるだけで九州に到達するともいえます。
(元寇[弘安の役]の際、本軍[江南軍]十万は大陸[現在の浙江省]から海路で直接九州に襲来しています。)

≪弥生時代の水稲耕作そのものは技術・人・思想がすべて輸入されたものであったという点である≫(61頁)

≪我が国や朝鮮半島でのイネの出現は、この竜山文化の農耕文化の影響下にある≫(121頁)

と主張したかと思えば、

≪朝鮮半島の最初の農耕化が寒冷化に起因する遼東・遼西からの人間集団の南下、
つまり農耕パッケージの移入によって形成されたものではないことは確かである≫(127頁)

≪人の移動をともなう農耕パッケージそのものの移入ではなく、起源地との文化的接触によって、
栽培穀物と道具(加工法)に関するわずかな情報が伝わっただけで、
それ以後地域ごとに発展してきたと考えざるを得ない≫(127頁)

と支離滅裂で混乱した記述になっています。

「残された問題」で著者自身が書いているように、

≪土器から出てくる圧痕穀物を土器型式ごとに並べても穀物の拡散状況は復元できない≫(148頁)

のであり、そもそも土器編年の科学的信頼性が乏しいことが問題です。

縄文文化は「豊かな狩猟採集社会」というのが日本の考古学者たちの伝統的かつ一般的な考えでしたが、

≪これに対し、クロフォード氏は、「農耕」の定義を狭くとらえていること、
多くの日本人考古学者にとっての農耕とは「水稲耕作」と同義であること、
それは、イネが多様な作物の単なる一つにすぎないということを無視した、還元学者の議論である≫(40頁)

ゲイリー・クロフォードさんによるこの指摘は、著者にも当てはまります。
本書における「イネはいつ日本にやってきたのか」は還元学者の議論に陥っており、蛇足です。

「見ようとしなければ何も見えない」と著者は本書で述べていますが、
逆に見ようとしたことから様々なバイアスが考察にコンタミネーションしています。

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ジャスミン
圧痕の解析については刮目の出来だが、水稲の伝来についての論はかなり粗い
2016年6月23日

 今まで重要視されていなかった土器に残るドングリや稲の害虫の圧痕などから、縄文時代の食生活を解明しようという著者の研究は、目を剥くような成果を納めたと言える。

 しかし,水稲の伝来について、一方的に朝鮮半島北部経由と断定していることについては、学者としての見識が疑われる。一つの根拠で歴史を断定することは、故江上波夫東大名誉教授の「騎馬民族征服王朝説」や故大野晋学習院大学名誉教授の「クレオールタミル語説」を始めとして、かなり危険なことであると思われる。

 水稲はそれ単体だけではなく、それに伴う栽培・保存技術を持つ人々がその民俗風習を伴って伝わってきている。もちろん朝鮮半島経由の水稲もあったと思われるが、古民俗学、古気象学、水稲自体と弥生人および現代人の遺伝子解析、日本語の構成など、現在判明している事実のすべての点からも、合理的な解釈ができるような論立てがなされていないと、将来消え行く仮説にしかならないと思われる。
 新進気鋭の学者であるが故に、水稲朝鮮半島北部経由伝来説も可能性があるという程度の仮説に止めておいて欲しかったと思う。

 古代史の研究では異説を積極的に取上げている異色の研究家である安本美典博士の、この本に対する評価を伺いたいものである。
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%BF%E3%83%8D%E3%82%92%E3%81%BE%E3%81%8F%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA-%E6%9C%80%E6%96%B0%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%8C%E8%A6%86%E3%81%99%E8%BE%B2%E8%80%95%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%96%87%E5%8C%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E5%B0%8F%E7%95%91-%E5%BC%98%E5%B7%B1/dp/4642058168


100. 中川隆[-5512] koaQ7Jey 2018年3月06日 20:51:20 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

chielien_4f89277efa984404924a2bf6bさん 2016/8/30 21:55:06

同和地区、被差別部落関連のご相談です。気分を害される方もいらっしゃるかと思いましたがネットで調べても詳しく分からないのでこちらでご相談させていただくことにいたしました。

付き合って5ヶ月ほどの彼氏がいる30代の女性です。

年齢のこともあり、付き合い始めからお互い結婚を意識した中で、お付き合いをしております。付き合って3ヶ月頃には互いの両親にも会うことができ、双方の両親ともに私たち自身は気に入ってくださっています。ただ、、彼のご両親が同和地区や被差別部落出身のことを気にされる方のようで、私の苗字と、両親祖父母の出身地が九州ということを知ると、祖父が部落出身ではないかということを気にされてるということを聞きました。

第三者機関で調べてくださって結構ですとお伝えしたのですが、付き合いもまだ浅く、結婚の話にも具体的になっていないので調べないと言われました。彼もご両親と言い合いになったりして辛い思いをしています。なんとかこれから結婚という先を見て楽しくお付き合いを続けたいと思っているので、彼も私も自分達なりに調べたところ、そちらの出身ではないと思っているのですが、それでは信じてもらえる証拠にならず困っています。興信所に調べてもらいたいと思っています。そこでお聞きしたいのですが、

@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。

A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。

B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。

探偵も興信所も、部落問題は取り扱わないと記載されていることが多いので困っています。もちろん私も彼も差別はしてはいけないという考えですが、彼のご両親にも色々と事情があり、彼のことを思って気にしているので、彼とご両親を仲違いさせていることに心苦しいのです。ただ私も彼もお互いこの人と結婚したい‼︎と心から願っています。とはいえ彼の大切なご両親に祝福されないまま強行突破はしたくありません。わがままかもしれませんが、、

とにかく調べる方法がなにかあれば助言をいただけると大変嬉しいです。
また、同じような経験をされた方がいらっしゃったらどのようにされたのかお聞きしたいです。

大変深い悩みで辛い思いをしております。差別だというご叱責は遠慮していただきたいです。

___

Answer katuragi_893さん 2016/9/11 8:49:32

部落とは元来、村の集落を表す単語で昔はズバリ、穢多村・穢多・非人村・非人と言っていましたが、余りに露骨すぎるので今は穢多村・穢多・非人村・非人の隠語で部落を使ってます。同和は「同胞融和」の意味でこれまた穢多村・穢多・非人村・非人の隠語です。(江戸時代中期以前は穢多と非人は違うモノでしたが江戸時代後期?頃から、セックス、混血、共同行動で今では非人も穢多に同化し同じモノです。有名な非人の末裔に「フーテンの寅」こと車 寅次郎がいます)
https://www.youtube.com/watch?v=HR01VW7qpKY
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穢多とは奴隷の末裔で日本人じゃ無い。諸説あるが

穢多(えた)とは
日本人とは異なる異人種・異民族。
古代、日本人との戦争に負けた民族が日本人に捕えられ奴隷となっていた民族、穢多族。

非人(ひにん)とは
罪を犯した者に与えられる刑罰の一つ。
罪を犯した者は罰として、非人の身分に落とされた。

穢多は奴隷の末裔。具体的には国栖・土蜘蛛の末裔(マレーポリネシア系人種)+蝦夷の俘囚+中世、近世の流民、罪人・賎民との混血。日本人では無い。

室町時代から「卑しい者とは結婚しない。血は一度汚れるときれいにはならない。穢多の子はいつまでも穢多である」との絶対的概念があるから、穢多族の子は確定的に穢多族に成る。それ故、穢多族男女は既成事実作り中出し妊娠H狙って来る傾向があり大変危険です。

超強力な穢多部落優遇が存在してる段階で差別は無いし、現実は非穢多部落民が穢多部落民からヤリタイ放題されてます。穢多部落民忌避は邪馬台国と出雲帝国時代、2300年前からある日本の伝統文化です。西日本では婚姻忌避は存在していますが、あれは差別ではありませんし誰だって穢多の子は穢多で忌避される血筋を入れたくありません。もし、穢多部落民が逆の立場なら絶対穢多部落民の血筋は入れないでしょう。

或る左翼部落問題活動家が自分の息子の嫁に穢多部落民女を忌避し破談にしたのはこの部落の真実知ってるからです。左翼部落問題活動家で息子の嫁に穢多部落民女を忌避した奴は狡い奴です。他人には穢多部落民と婚姻しても何ともないよ言いながら、自分の息子の嫁には人種的、歴史的に穢多と言う階級の真の意味を知ってるかから忌避したんです。ホントに狡い奴です。

穢多部落民との結婚は彼も穢多部落民に成り、産まれて来る子も穢多部落民に成ると言う事です。わかっていましたか?。彼との子供も排除・忌避される側に成るという事です。本音と建て前、違いますから今でも就職忌避・婚姻忌避が現実に存在していますから貴方の子供が成人した時に穢多の血筋で就職忌避・婚姻忌避に遭遇するでしょう。。
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全部説明したと思いますが私の書き込みを絶えずチェックし絶えず削除
依頼を出す真実を知られたく無い歴史隠蔽、穢多部落民血筋(DNA)拡散
を狙う穢多部落民に付き纏われてるのでコピペで失礼します。

実際、部落の問題にはこれがあり、奴等が「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と言えた義理ではありません。

山口組ヤクザ約70%の者が部落出身者であり約10%の者が韓国人等の外国人。 カプランとデュブロ

潜入ルポ ヤクザの修羅場(鈴木智彦著 文春ウェブ文庫)

「不良はある程度の年齢になると、ヤクザになるか、右翼になるか、同和にいくか進路を決めるんですわ」彼のいう右翼も同和も”似非”を意味しており、純粋なそれに所属している人間たちにとっては迷惑な話だろう。しかし、彼の何気ない一言は、関西の暴力社会の基本構造をストレートに現している。鈴木智彦は曰く「暴力団と政治団体と人権団体の三位一体は、裏社会最強のコンビネーションだ」、「大阪ではかつて、同和利権を制するものがヤクザ社会を制すると言われていた」。

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実。

被差別部落と暴力団(鈴木智彦)

穢多非人部落=ヤクザ(暴力団)=右翼(政治団体)=解同(人権団体)=全て同じモノで三位一体が現実で、仮に一般人と穢多非人部落民が婚姻し、その婚姻が破綻し穢多部落民と離婚しょうとしても、離婚する時は、解同(人権団体)が出て来て「差別するな!!偏見を捨てろ!!差別するな!!偏見を捨てろ!!」と喚き散らし一般人の親・親戚の所に押しかけます。

警察は相手が解同(人権団体)なのと民事不介入で介入してくれません。
ヤクザ(暴力団)、右翼団体(政治団体)の場合は警察が介入してくれますが解同(人権団体)の場合は警察が介入しないのを知ってて奴等はやって来ます。
$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$$
穢多部落民は過去戦争を煽動・推進したことから天皇から絶対的に嫌悪・忌避・排除されています。

穢多部落民忌避の根源は天皇が絶対的に穢多を嫌悪・忌避・排除してるからです。千年経っても変わりません。

天皇・皇后、障害者支援施設視察

:質問:
@自分の曽祖父の代まで、そういう地区出身かどうかというのは調べてもらえるのでしょうか。
A調査の結果は書類としていただけるのでしょうか。
B曽祖父。祖父の出身が同和地区かどうかを調べる場合のだいたいの金額はいくらぐらいでしょうか。


:回答:完璧に調べる方法はある。

ただ、貴方が穢多だった場合、自殺、、、。。。魔の宗門人別改帳、江戸時代穢多管理は仏教(宗門)で行っていたので菩提寺が穢多寺なら絶対穢多で一般百姓は原則穢多寺を菩提寺に出来ません。曽祖父の嫁、曽祖母の菩提寺もついでに調べたら完璧に判ります。どの寺が穢多寺だったかは今でも完璧に判ります。逃げられません。徳川幕府の完璧な穢多部落民、嫌悪・忌避・排除に感謝すべきですね。

私は前、この菩提寺による穢多判別の回答をしましたが、穢い穢多部落民共によって削除されました。でも、これが核心です。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12163671097

2013年12月17日 形質人類学のデータ

エミシは和人とアイヌの中間の形質をもち、頭型などの点で、東北・裏日本型に属するとみられるが、近畿・山陽・山陰・九州に散在する四七部落を含む、全国的な日本人の形質調査の資料を整理した形質人類学者小浜基次(「形質人類学から見た日本の東と西」『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号)は、

部落民の形質は異質的なものではなく、現代日本人構成の有力な地方型である東北・裏日本形質に一致している。

とし、

頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅は小さい。したがって、畿内のような高度の短頭地区内にはさまった部落は、一般集団との間に明らかな差異がみとめられる。しかし、山陰・北九州・四国東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

と書き、さらに、

大陸朝鮮型形質のもっとも濃厚な畿内地区に、もっとも非朝鮮的な形質をもつ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値(あたい)する。おそらくは、婚姻と住居の制限によって内婚率が高く、特異の形質がよく保たれているものと思われる。

と述べている(図2参照)。

重要なことは、小浜基次が「一般集団と近似し、差異は少ない」とする山陰の例をみても、部落民が頭型は、中頭を示す一般の住民の頭型よりも、さらに中頭の度が高く、エミシの血を引いている現代東北北部人の頭型と一致することである。

つまり、形質人類学のデータは、エミシが部落民の先祖であることを明確に裏づけているのである。
http://ryuchan60.seesaa.net/article/435099203.html


101. 中川隆[-5454] koaQ7Jey 2018年3月12日 18:53:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-8523]

目は茶色で縮れ毛で…縄文人の顔、DNA情報もとに再現

2018年3月12日 15時54分 朝日新聞デジタル

遺伝情報をもとに復元された縄文人女性の像=東京都台東区
http://news.livedoor.com/article/image_detail/14421675/?img_id=16793455


 国立科学博物館などの研究グループは12日、約3800年前の縄文人の骨から抽出したDNA情報をもとに、顔を再現した復元像を公表した。

 骨格の特徴だけでなく、遺伝情報を参考に古代人の顔を復元したのは国内初という。13日から東京・上野の同館で始まる特別展「人体―神秘への挑戦―」(朝日新聞社など主催)で一般公開する。

 研究グループは、北海道・礼文島の船泊遺跡で頭骨などが発掘された女性の臼歯からDNAを抽出。顔に関する遺伝子の特徴から外見を推定した。女性は、肌は色が濃く、シミがあり、目は茶色、髪の毛は細く縮れていたなどと判明したという。また、血液型はA型で、身長は140センチ程度だったという。

 従来は、骨格の特徴をもとに古代人の顔を復元していたため、肌や目の色がわからず、現代人の特徴をもとに推測していた。遺伝情報の活用でより忠実に復元できたという。

 国立科学博物館の篠田謙一・人類研究部長は「これまで想像の世界であったものが、裏打ちのあるデータを元にかなりの確度で復元ができるようになった。今後は遺伝情報を使った復元が進んでいくのではないか」と話している。(土肥修一)


102. 中川隆[-7704] koaQ7Jey 2018年4月03日 10:18:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-9841]

渡来人と縄文人が共存した弥生時代

半島で土地を得られなかった人達が渡来し、縄文人に大きな変化をもたらした
渡来は年間数百人から千人という単位で1000年以上続いた。
引用:https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/9f/abde6a9ae1b8fae5656d8bbafa5a38ae.jpg

渡来人は新天地九州を目指した

縄文時代が終わり弥生時代、古墳時代へ移行する過程で、日本列島は文字や国家を持つようになった。

農耕や鉄・青銅、律令制度や法律、身分制度、軍隊や兵士などどれも縄文時代にはないものでした。

こうした変化が起きたのは弥生時代の約1千年間で、このため「大陸や半島から進んだ文明を持つ人が渡ってきた」と考えられた。




だが実際はこんなに単純ではなく、古墳時代に至る変化の大部分は渡来人と縄文人が協力したり競争することで成立した。

弥生時代の始まりは水田や弥生集落、弥生土器などで区別されるが、突然始まったのではなく縄文からの移行期があった。

最古の水田は九州の福岡県北部の海岸付近で見つかり、紀元前9世紀ごろとみられている。


最古の水田でありながら水を張るために水平に保たれ、水路や堰などの施設、水耕稲作のための道具なども発見されている。

縄文人が試行錯誤の末に完成させたのではなく、渡来人の集団がやってきて計画的に作ったのは明らかだった。

それでありながら渡来人の水田跡からは朝鮮式の土器はあまり発見されず、大部分は九州産で他の多くは列島産だった。


また渡来人は金属や文字といった大陸の先端文化を持っておらず、石器だけで木材を加工し道具を作っていた。

水田技術を持っていたのを除けば縄文人と同じ程度の技術であり、おそらく朝鮮半島南部から渡ってきた。

紀元前1千年ごろまでに朝鮮南部では畑作農業が普及していて、農耕社会(身分社会)が既に存在していた。

弥生人と縄文人の相互依存

この理由は日本列島の特に関東では木の実や小動物など自然依存の食べ物が豊富だったのに対し、半島は自然が貧しく食料に乏しかった。

縄文人は木の実や動物や魚を採集する生活だったが、半島では食べていけないので畑に作物を植えて収穫した。

水田に関しては半島で始まったのは九州北部より100年ほど前ではないかと言われていて、ほぼ同時期に始まったとも言える。


半島南部ではすでに平野部で畑作が行われていて、水田農業も始まったので、良い土地は有力なグループに占拠されてしまっていた。

この時日本列島は縄文人が暮らしていたが、縄文人は食料が豊富な山間を好み、平野部には居住していなかった。

西日本は植生の違いから東日本の10分の1しか人口がなく、しかも平野部は利用していなかった。


川が流れている平野部の湿地帯は洪水に見舞われるので、縄文人は決して集落を作らなかった。

いわば空き地が無限に広がっていたのが日本列島で、渡来人は縄文人が居ない空き地に田んぼを作っていった。

これが弥生時代の始まりで、両者は争う理由もないし、相互依存的な関係だったと推測できる。


最初の渡来人が水田を作る前から九州北部では「米」が見つかっていて、縄文人が半島と交易で手に入れたと考えられる。

縄文人は最初から米や水田稲作の存在を知っていたし、渡来人と交易することで米などの収穫物を入手した。

これを縄文側から見ると、自然採集に加えて新たな食料調達方法が増えた事になり、むしろ望ましかった。

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弥生人の大戦争時代

初期には友好関係だったと思われるが様相が変わってきたのは最初の水田から100年くらい経った頃で、環濠集落が形成された。

環濠集落は周囲を堀と土塀、柵で囲った村で、防御施設でもあり軍事施設でもあった。

縄文人と弥生人は競争関係にないので、争いは土地を巡る渡来人同士、弥生人同士で起こったと考えられる。


環濠集落は九州から西日本に広がり、「兵士」や「軍隊」が現れて戦争の痕や傷ついた骨などが多数見つかるようになる。

弥生人同士が争う中で縄文人も否応なく巻き込まれ、西日本の縄文人も弥生化して集団農業生活に移行する。

環濠集落を拠点とする大戦争時代は600年ほどで終わり、関東以北に新たな環濠集落はつくられなくなる。


関東以北では環濠集落があまり作られなかったが水田は広がり、東北北部では続縄文時代が続き、弥生時代は来なかった。

渡来人を中心とした弥生集落は九州から大阪までで、関東では在来の縄文人主導で水田が広まったと考えられる。

東北にも水田は作られたが、採集生活も続けながら、副業として水田を作り米を得た。


弥生人の兵士、弥生人は土地を巡って弥生人同士で戦った
img_0
引用:アウトドア・ライフ&バラエティhttps://blog-001.west.edge.storage-yahoo.jp/res/blog-cf-49/estima_tcr10000/folder/925413/34/29778034/img_0?1320839465

渡来は1千年以上続いた

東北のような寒冷地では米という1種類の食料に依存するのはハイリスクであり、多くの種類にリスクを分散したほうが良かった。

渡来人の集落が多いのは大阪付近までなので、関東では縄文人が水田技術を取り入れて弥生人の移住を受け入れたと考えられる。

東日本は縄文人が多く、平野部も完全に無人ではないし、そこに弥生人が大規模な水田を作れば大戦争は避けられない。


だが関東で弥生人と縄文人と全面戦争の痕跡はなく、水田と大規模集落が増えて行った。

弥生時代後半になると西日本にも新たな環濠集落は作られなくなり、東日本を中心に人口爆発が起きました。

縄文末期の列島の人口が8万人足らずだったのに、弥生末期の西暦200年ごろには60万人に増加し、しかも人口の中心地は関東でした。


この過程は弥生人が関東を征服したのではなく、縄文人側が積極的に農業を取り入れて弥生化したと考えると合理的です。

縄文人は採集生活をやめて農耕を取り入れ、この結果家族単位から数百人の集団生活、集団労働に移行しました。

社会はシステム化され縄文土器のような「アート作品」は消滅し、大量生産の同じようなものが大量に出土するようになります。


この間にも毎年数百人、千人単位で半島南部から渡来人が渡ってきたと考えられ、例えば毎年千人の渡来が1千年続いたら合計100万人にも達します。

この大量の渡来が日本列島の人種構成に変化をもたらし、各地に移住したり交じり合って縄文人から弥生人、そして古墳時代人に変化した。

大量に渡ってきた渡来人の多くは半島や大陸で「食えなかった」人達で、支配層の人々ではなかった。
http://www.thutmosev.com/archives/75550976.html


因みに、渡来人と言っても

弥生時代に漢民族に追われて長江から西日本に逃げて来た稲作漁労民

弥生時代末期に朝鮮半島から畿内に入って来た武装集団

の二種族が有ります。

長江から西日本に逃げて来た稲作漁労民は縄文人と融和的で、縄文人と混血して西日本の弥生人になったのですが、

弥生時代末期に朝鮮半島から畿内に入って来た武装集団は武器を持たない弥生人を征服して日本の支配階級になりました。



103. 中川隆[-7843] koaQ7Jey 2018年4月07日 08:43:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10006]

西日本の部落差別が東日本より酷い理由


筑前竹槍一揆
http://www.city.chikushino.fukuoka.jp/furusato/sanpo45.htm

「被差別部落民18人殺害、美作騒擾140年の沈黙に抗う〜頭士 倫典」 ジャーナリスト・西村 秀樹 | シリーズ・ 抗う人
http://gendainoriron.jp/vol.02/serial/se01.php

内浜霊神社(観音寺市・旧観音寺市)
https://wanikawa.com/jinnjya/kanon/10utihama/utihama.html−竹槍騒動


明治時代、明治政府が解放令を発したのを機に西日本(九州、四国、中国)地方で解放令反対一揆と総称される騒擾事件が頻発しました。東日本では何も起きなくて全ての事件は西日本に集中しました。


中央融和事業協会『全国部落調査』(昭和11年刊。昭和10年調査)

01位 兵庫県 593地区 16位 鳥取県 97地区 32位 神奈川 31地区
02位 福岡県 475地区 17位 徳島県 87地区 33位 山梨県 23地区
03位 広島県 426地区 18位 奈良県 77地区 34位 岐阜県 21地区
04位 岡山県 373地区 19位 大分県 71地区 35位 東京府 20地区
05位 愛媛県 341地区 20位 高知県 69地区 36位 佐賀県 20地区
06位 長野県 333地区 21位 滋賀県 67地区 37位 宮崎県 09地区
07位 埼玉県 263地区 22位 長崎県 62地区 38位 福島県 08地区
08位 群馬県 262地区 23位 新潟県 59地区 39位 福井県 06地区
09位 富山県 233地区 24位 茨城県 57地区 40位 秋田県 01地区
10位 三重県 193地区 25位 鹿児島 54地区
11位 山口県 154地区 26位 静岡県 52地区
12位 島根県 147地区 27位 香川県 48地区
12位 京都府 147地区 28位 石川県 47地区
13位 和歌山 111地区 29位 熊本県 45地区
14位 大阪府 106地区 30位 千葉県 39地区
15位 栃木県 104地区 31位 愛知県 35地区

総務庁地域改善対策室『平成5年度部落地区実態把握等調査―地区概況調査報告書―』(1995年刊。1993年調査)

部落地区人口
01位 兵庫県 305051人 13位 三重県 63575人 25位 茨城県 15597人
02位 長野県 213818人 14位 京都府 61140人 26位 静岡県 14246人
03位 福岡県 206105人 15位 奈良県 58059人 27位 千葉県 11321人
04位 埼玉県 122650人 16位 高知県 55036人 28位 新潟県 10731人
05位 愛媛県 121011人 17位 栃木県 48937人 29位 岐阜県 10540人
06位 広島県 102588人 18位 山口県 42905人 30位 愛知県 09792人
07位 群馬県 102561人 19位 滋賀県 40493人 31位 鹿児島 08784人
08位 大阪府 100092人 20位 宮崎県 26657人 32位 香川県 08779人
09位 大分県 087267人 21位 鳥取県 26441人 33位 佐賀県 07399人
10位 徳島県 075490人 22位 神奈川 18093人 34位 山梨県 03956人
11位 岡山県 073129人 23位 熊本県 17205人 35位 福井県 02692人
12位 和歌山 067554人 24位 島根県 16750人 36位 長崎県 02293人


2017/9/3 10:35:32
部落差別は東日本では少なく西日本では多いという感じがしますが、これは西日本に住んでいる人の方が陰湿で差別的だからでしょうか?

それとも何か別の原因や理由があるのでしょうか…

僕が調べた限りだと、部落差別をする人は京都や大阪に多そうな感じがします。

僕は東京に住んでいますが、部落差別的なことを言う人には今までに一度も会ったことがないし、部落問題については授業で少し習った程度で全然詳しくないので教えてください。

御回答よろしくお願い致します

tym********さん 2017/9/9 21:58:46

大まかに説明します。

関西には渡来系弥生人の子孫が多く、関東には先住民である縄文人の子孫が多く暮らしています。

渡来人達は、九州近辺から上陸してきたからです。

渡来人が先住民を駆逐し、国土を乗っ取る。

世界中どこでもそうですが、後ろめたい歴史を持つ国家には、都合の良い伝説と被差別部落が残ります。

静岡より西の地域は、当時鉄器と農耕技術を持っていた渡来系弥生人(朝鮮人)によって蹂躙され、原住民は都の外に追いやられました。
これが部落です。

この渡来系の一族はやがて天皇となり、日本神話を創り、現代に至るまで経済から宗教までを管理してきました。

細面で切れ長の目を持ち、色白で体毛が薄いのは渡来人の特徴です。

背が低く、骨格たくましく浅黒い二重まぶたの人たちが、古来、この国に住んでいた狩猟系の原住民です。

僕自身は完全に渡来系の顔立ちですが、日本古来の原住民が未だに部落に追いやられて生きている現実には、怒りと屈辱しか感じません。

____


aka********さん 2017/9/3 23:17:24

縄文人が森で採集や焼畑農耕をしていた所へ、渡来人が来て低湿地を占拠して、水田稲作を本格化しました。日本列島には低湿地は少ないので渡来人同士が戦い、ムラからクニへ成りました。その過程で、最後まで徹底抗戦した敗者が奴婢とされ、被差別部落の起源になりました。

以上のいきさつは西から東へ進んだので、西日本の方が部落差別は根深いです。

奈良時代には五色の賎に編成され、その内の陵戸が古墳の管理をさせられたので、奈良盆地では古墳のそばに被差別部落が多いそうです。


https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q11178943481


104. 中川隆[-7839] koaQ7Jey 2018年4月07日 12:07:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10006]

縄文系先住民が隔離されていたエタ部落は戦後 在日朝鮮人に乗っ取られた


被差別部落民と在日韓人


132 :可愛い奥様:2012/11/11(日) 21:05:27.36 ID:MtxrTx2z0

素朴に聞くけど、朝鮮半島出身者が日本人被差別部落の中に混じって
生活する事は出来るのでしょうかね


153 :可愛い奥様:2012/11/11(日) 21:37:10.77 ID:Smf9sZV4O
>>132
尼崎の友達の朝鮮人は部落地域に住んでたよ
間違いなく朝鮮人が多かった
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/ms/1352608564/100n-

被差別部落民と在日韓人  −社会経済史的視点−
              
    河 明生(かわ めいせい 社会経済史、経営史)
友常 勉(聞き手=ともつね つとむ・地域研究


(『現代思想 特集 部落民とは誰か』第27巻第2号所収、平成11年2月、青土社)

(友常)今日は、『韓人日本社会移民経済史−戦前篇』(明石書店、1997)の著者・河 明生さんにお話を聞こうと思います。本書は、戦前の被差別部落民と在日韓人との社会経済的関係を明らかにしており、部落問題に携わる者として注目しておりました。今日のお話しの中から、これから私たちが、今後の両者のあり方を考えていくための指針を得ることができればと願っています。


(河)よろしくお願いします。

(友常)まず、本書の問題意識からお聞きしたいと思います。

(河) 社会は、マジョリティとマイノリティによって構成されています。ここでは、マイノリティを社会的権力をもたない異質な少数派と定義します。日本社会も例外ではありません。マイノリティが存在します。それは二つに分類できます。一つは、民族的マイノリティです。たとえば、韓人、中国・台湾人、アイヌなどです。もう一つは、非民族的マイノリティです。被差別部落民が該当します。その中、私が選んだ研究客体は、在日韓人です。

 在日韓人問題は、権力と反権力、差別と反差別、加害者と被害者という視角からの研究に偏在集中してきた感が否めません。それは史実ですし、評価すべき業績です。けれどもそれだけで良いのでしょうか。在日韓人社会は百年近い歴史があり、その間、日常生活を支えた労働がありました。それは人間の基本的な営みです。その解明なくして、在日韓人問題を理解することはできません。しかし、それを正面から論じたものは少ない。在日韓人問題の社会経済的活動実態が明らかにされていませんでした。それではいけない。日本の社会経済史や労働史などにおけるマイノリティ史の空白部分を補完したい、というのが執筆動機でした。

(友常) 従来、1939年から始まる「朝鮮人強制連行」以前の渡日者をどのように位置づけるのか、という問題がありました。河さんは移民とみなしていますが、その点はいかがでしょうか。

(河)日本では、移民というと自ら望んで郷里を捨て、中南米や北米などに移住するというイメージがあります。しかし、それは間違いです。ここではふれませんが、欧米での移民に相当する概念は多種多様です。

 在日韓人を移民労働者とみなした場合、二つの論点が生じます。第一に、韓人が、日本労働市場に対していかなる影響を及ぼしたのか、という直接的効果の問題です。賃金水準や雇用機会などへの影響はそれに該当します。第二に、韓人が、日本労働市場において、いかなる行動をしたのか、という移民労働者の行動的特性や適応性の問題です。

(友常) そもそもこういうテーマを選んだのは、河さん自身が、在日二世だということと関わりがあるのでしょうか。

(河) 関係があります。ただ、諸先輩方の関連研究を読みながら、研究を進めていく中で、自分の生い立ちを超えたいと思うようになりました。客観的論述に徹したいと。日本人研究者からすれば、当然のことです。しかし、被差別マイノリティ出身の研究者が、その出身母体を研究客体とする場合、自己の生い立ちを超えることは容易なことではない。どうしても被差別体験が、文章にあらわれてしまう。怒りのようなものでしょうか。これは世代的宿命なのかも知れません。私の論文にも、たとえば「差別」という概念は使用されます。けれどもその「差別」が不当であるか否かは、読み手が判断すれば良いと考えています。

このような感覚を持てたのは、私が上の世代に比べれば恵まれた環境で育ったからです。当然、それは日本社会、とくに日本人の若い世代の変化によってもたらされた環境です。学校で、金とか、李とか名乗っていると、かっこいいとか、個性的だとか、もてはやされる時代なんです。けれども、彼らですら、在日韓人問題については白紙に近い状態です。歴史教育が疎かにされているからでしょう。これからの研究者は、そういう若い世代に、なごやかに語りかけて行かねばならないと思います。

(友常) 被差別部落出身でない僕が、部落問題に出会うのは大学時代です。江原由美子さんがかつて「差別の構造」という論文を書かれましたが、差別されている側とマジョリティの間には対称関係はない、差別されているという体験において、マジョリティの側がその体験を知りようがない以上は、自分の基準で相手を比較したり考えたりできなくなってしまう。

ところが相手が知らないことについて、差別されている側は訴えるしかないわけですね。それを訴えても相手には絶対に通じないという非対称的な関係、それが差別の構造だというわけです。部落問題の研究を進めながら、実際の差別の話を聞いて、気づくのはそういうことです。そういう非対称的な関係は一体どういう状況で生まれてくるのかということを追求したいというのが僕の研究の動機です。それは確かに歴史的な出自を持っている。

たとえば近代社会とか、そういう方向での自分の中のモチベーションです。必ずしも実体化された倫理主義的な態度をとることはないと思いますが、差別−被差別という構図でなければ見えない、あるいは研究でしか摘出できないような研究の方法論とか問題の設定がありますから、そういうスタイルは間違いなくあるでしょう。多分そういうふうにいったからといって、河さんとはそれほど大きな違いはないのではないかと思っています。

朝鮮不熟練労働市場における韓人と中国人移民労働者との競合

(友常) では、具体的なご著書の中で、何が直接明らかにされたのかということに移っていきたいと思います。僕にとっておもしろかったのは、まず朝鮮で中国人労働者と朝鮮人労働者との間で葛藤がある。それに少なからぬ影響を受けつつ、在日韓人移民労働者が形成されたという。

(河) 被差別部落民と在日韓人との関係を考察する際、有用ですので、若干主題とははずれますがお話ししたいと思います。

 在日韓人形成の最大の要因は、日本による朝鮮の植民地支配です。従来、その形成史が日本と朝鮮という二国間関係だけでとらえられてきたのはそのためです。しかし私は、植民地支配以外の渡日要因を再検証すべきであると考えました。在日韓人形成史は、中国をも含めて考察すべきであると考えます。つまり、朝鮮下層労働市場に進出した中国人移民労働者の存在を忘れてはならないのです。


(友常)それはまったく新しい視点ですね。その根拠は何でしょうか。

(河)在日韓人の出身地の大部分は、農業の中心地であった朝鮮南部であり、前職は農民です。当時、朝鮮工業は朝鮮中北部において展開されました。離農間もない朝鮮南部出身者が、何故、陸路で移動可能なソウルや平壌などの朝鮮中北部への出稼ぎを選択しなかったのか。宗主国の日本に、海を越えて出稼ぎに行くというのは、心理的なプレッシャーがあったはずです。言葉も通じないのですから。そういう予想される不安や困難をこえて渡日したのですから、何か合理的な渡日理由があったんだろうと考えました。

それは、日本と朝鮮との賃金および雇用機会の格差です。第一次世界大戦による好況時に、紡績業などの日本企業が、人手不足を補うため、朝鮮で労働者公募を行いました。それに応じた韓人が、渡日して工業労働に従事しました。契約期間がきれたり、先祖の祭礼祭祀のために帰郷します。きれいな服を着て、お金やおみやげをもって田舎に帰ってくるわけです。農村の生活しか知らない朝鮮南部の人々にとって、それはまぶしい光景だったと思います。日本に行って働ければ金になる、ということになります。でも、もし仮に朝鮮に働く場所があって、日本の企業と同じ賃金がもらえるというのであれば、わざわざ渡日する必要はありません。朝鮮に働き場所が少なく、もらえる金も少なかったからこそ、日本への出稼ぎを選択したと考えます。もちろん、日本の賃金が高いというのは相対的なものです。むしろ朝鮮における「低すぎる賃金」に問題があると考えました。

 離農間もない韓人は、不熟練労働者です。たとえば、100人の不熟練労働者が同一労働市場に存在し、その中の10人が失業者や求職者であったと仮定します。この場合、少数派である失業者や求職者によって不熟練労働市場の賃金相場が左右されます。土方の相場が1円だとすると、失業者や求職者はとにかく働きたいわけですから、それを90銭でもやる人が現れます。1円で働いていた人は、失業の危機にさらされます。不熟練労働は代替が容易だからです。もともと1円で働いていた人が、90銭で働かなければ、就労を確保できなくなり、その賃金相場が下がる場合があります。そして再び失業者や求職者は、それよりもさらに安い労働力の提供者となって賃金相場を下げることが予想されます。結果、朝鮮労働市場での「低すぎる賃金」が維持・強化されたと考えます。

 この議論の前提となるのは、不熟練労働市場における失業者や求職者の存在です。それは、工業都市への人口集中や移民などによる過剰労働力を背景にしていると考えました。私が、注目したのは、植民地朝鮮に進出した山東省を出身地とする中国人移民労働者の存在でした。朝鮮総督府は、中国人移民労働者の朝鮮入国を規制しませんでした。1922年の朝鮮総督府調査では、在朝中国人人口は、約3万1千人です。それが8年後の国勢調査では、約9万2千人に増加しています。しかし、中国人移民労働者の実数は、正確には管理できなかったと思います。何せ陸路と海路から続々と入国してくるのですから。彼らの絶対多数は不熟練労働者でした。朝鮮総督府は、韓人は大日本帝国臣民なので、外国人である中国人の雇用が増え、韓人が失業するという状況を好みませんでした。だから、再三再四にわたり、在朝日本人経営者に中国人を雇ってはいけない、という通達を出したり、何人までは雇ってもいいといった割合を決めたりもしましたが、当局の思う通りにはなりませんでした。彼らが韓人よりも低賃金で働くからです。不平不満をいわずに。移民労働者の特性ともいえます。彼らには帰る郷里があるから、「低すぎる賃金」でも我慢して働くんです。食費などの生活費を抑えて残った金を郷里に送金したのです。低賃金を武器とする中国人移民労働者の朝鮮労働市場への進出は、韓人の雇用を脅かし、あるいは雇用機会の減少をもたらしました。とくに、その傾向は、離農間もない農民が就労可能な朝鮮不熟練労働市場において顕著であったと考えます。そのことが朝鮮の「低すぎる賃金」を維持・強化しました。結果、韓人の一部が相対的に高い賃金を求めて日本への出稼ぎを選択した、というのが私の仮説です。

日本不熟練市場での被差別部落民と在日韓人との競合

(友常) そういう要因が重なり合って在日韓人が形成されたのですね。そして日本の労働市場の中で彼ら自身の特性を形成していくことになるんだろうと思います。では、先程おっしゃった第一の論点、韓人が、日本労働市場に対していかなる影響を及ぼしたのか、という直接的効果の問題とは何でしょうか。

(河) 従来の定説を要約すると、戦前の日本における韓人の急増は、新たな労働問題を引き起こした。韓人が低賃金を武器としながら日本労働市場に進出したため、日本人労働者が失業の脅威にさらされたからです。日本人労働者が、自己の雇用を守るためには、低賃金や長時間労働を甘受しなければならなくなった。そのことが結果として、戦前の日本労働市場における低賃金の維持・強化につながった、というものです。

 しかし、韓人の日本労働市場進出によって失業の脅威にさらされた日本人労働者は、一部であって全部ではない。渡日した韓人の大部分は、工業労働経験が全くない不熟練労働者でした。能力的限界を否定できない韓人が、日本のあらゆる労働市場に進出することは不可能であったはずですし、日本人の熟練労働者が韓人の急増によって失業の脅威にさらされることは稀であったと考えます。

 戦前の韓人移民労働者問題は、日本における外国人労働者問題の嚆矢とみなすべき歴史的事例問題です。研究客体の特定なくして史実を明らかにすることはできません。そこで、韓人が進出した労働市場を下層労働市場と限定し、失業の脅威にさらされた日本人労働者は、いわゆる下層労働者、とくに被差別部落民であった、と主張しました。たとえば、1925年の中央融和会調査によれば、神戸の日雇い労働者の失業率は、韓人が24.3%であったのに対し、部落民はその二倍を超える52.8%でした。これは部落民が、韓人によって雇用機会を奪われた結果であったと考えます。

(友常) 近代の部落史の話の中で、先行研究の流れでいうと、たとえば、馬原鉄夫などがいった議論があります。部落差別は独占資本の形成過程の中で作られたもので、労働市場の中で低賃金構造のしずめ石として部落差別は作られている。おそらく同じような帝国主義下のしずめ石として植民地収奪にさらされて日本に強制的にあるいは半強制的に移住させられた韓人労働者がいる。それらが日本の資本主義の低賃金のしずめ石なるという研究の仕方は、60年代に支配的でした。そうではなくて、河さんの話ですと、下層労働市場だという限定がまずあるわけですね。全体の資本主義の構造というよりは、これは下層労働市場で発生している問題だ、そういうふうに問題を定義すると、戦後の移民労働者の問題にまでその視角というのは展開できるものだということになる。それは非常に重要な問題提起です。そのように、移民労働者の問題を考えるということが、同時に行動的特性の分析にもつながります。そこで研究客体としてのより踏み込んだ研究につながっていくと思います。しかしそういう意味で、移民労働者の問題を移動の合理性として立てていくのは、決してまだ支配的ではないですね。

(河) はい。少なくとも戦前の在日韓人を移民としてとらえるのは少数派です。また、在日韓人と被差別部落民とが、下層労働市場で競合したと言いきるのも、おそらく私が始めてではないかと思います。だからこそ、こうして私が、友常さんからインタビュ−を受けているんだと思いますが、いかがでしょうか。(笑)

(友常) おっしゃるとおりです。さて、被差別部落民と在日韓人との下層労働市場での競合の端緒は何だったのでしょうか。

(河) 中小零細企業が集積する工業地帯近隣の被差別部落での両者の混住です。ここからが第二の論点、つまり韓人が日本労働市場において、いかなる行動をしたのか、という移民労働者の行動的特性や適応性の問題となります。

(友常) 従来、韓人が住居を被差別部落や、その周辺に定着したことはよく知られていましたが、それも韓人の特性とみなしてよいのでしょうか。

(河) はい。一般の日本人下層労働者は、被差別部落には定住しなかったと思います。住所が被差別部落やその近隣だと部落民とみなされ差別される可能性があるからです。ただ、移民間もない韓人の場合は事情が異なります。日本の社会事情に疎いというか、被差別部落がどういう状況におかれているのかを知りませんでした。被差別部落やその周辺に定着することについて、一般の日本人よりも、抵抗感が少なかったと思います。たとえば、中央融和事業協会が、1925年から1935年まで、大阪府内の九ヶ所の被差別部落への新規移住者・約1千2百人の出身地を調査したところ、その七割強が朝鮮でした。

 被差別部落に移住した韓人古老に対して聞き取り調査を行ったのですが、自分は被差別部落だとは知らないで住んでしまった、気付いてみたら白丁がたくさん周りに住んでいた、というんですね。認識に若干ずれがありますが。(笑)だからといってそこを離れるわけではありません。その古老も、今日まで60年以上、そこに定住しています。

 問題は韓人の被差別部落流入経路です。韓人の目的は出稼ぎのための就労です。そこで彼らの就労経路から被差別部落流入経路を推論しました。戦前の京阪神行政調査によると絶対多数の韓人は、知人を通じて職場を斡旋してもらう個人紹介や個別的な就職活動による自己志願などによって就労しました。個人紹介は、紹介者と就労希望者とが同郷であるか否かという地縁を紐帯として実行されました。他郷出身者を紹介することが稀だったのは、出身地毎の反目や方言による言語の不通などが原因でした。済州島出身者は、とくにそういう傾向が強かったようです。

しかし、個人紹介は、移民当初から可能だったわけではありません。工場主の韓人紹介者に対する一定の信用に基づき成されたものであり、それは多くの場合、その工場での先駆的就労者=紹介者の就労実績によって培われたものであったと考えます。

(友常) 本書で先駆的就労者の就労経路を重視した理由はそこにあるのですね。

(河)はい。先駆的就労者の就労経路は、日本企業の朝鮮現地での労働者公募とそれ以外とに分類できます。朝鮮紡績と呼ばれた岸和田紡績は前者の典型でしょう。しかし、労働者公募は大戦後の不況により減少します。

 問題は後者です。就労先が定まらずに漠然渡日した無計画渡日者の就労経路です。彼らは時代が下るに連れ急増しました。山口県警特高課が、下関に上陸した韓人の所持金を調査したところ、約67%が五円未満の金しかもっていませんでした。次ぎなる行動は、労働予定地への移動ですが、彼らが購入した電車の切符を調べた大阪市調査から、その多くが京阪神に向かうことを知ることができました。阪神の企業による労働者公募が影響を与えていると思います。彼らが京阪神の目的地にたどりつくまで、小額の所持金は交通費や食費に費やされます。目的地に到着する頃には、無一文状態になりました。

 彼らは、住居と職場を確保しなければならない。両者は同時に併行して行われたと考えます。しかし、職場はすぐにはみつかりませんので、当面の雨露をしのぐ住居の確保が優先されましたが、所持金はすでに使い果たしています。しかも当時の京阪神大都市部の借家難は深刻でした。つまり韓人の大部分は、レイシズムニよる入居差別以前に無一文なのでまともな住居を借りることはできなかったのです。

 韓人の次ぎなる行動は大まかに二つに類型化できます。一つは、沿岸、河川、湿地などの公有地や更地の原っぱなどの私有地にバラックや堀立小屋を建てました。もう一つは、被差別部落やスラムへの流入です。私が、注目したのは、被差別部落に流入した韓人です。

 被差別部落には、韓人を新規の住民として呼び寄せる理由がありました。低廉な家賃です。日雇い労働に一日従事すれば払っていける額でした。しかも権利金も保証人もいりませんでした。被差別部落には、又借りや又貸しの習慣がありました。たとえば、六畳一間の賃貸物件を借りている部落民が、その中の三畳だけを他人に貸したり、納戸を貸していたのです。それは正常な労働市場から疎外されていた部落民が、低額所得者であったことと関係があります。部落民は又貸しすることにより家賃支出を軽減したのです。権利金や保証金が要求されなかったのはそのためです。また、被差別部落に住んでみるとスラムとは異なり食料品の物価が安いのも韓人にとっては魅力でした。商業者が部落民の低所得に合わせたからでしょう。

味噌、醤油、塩などの小売の量も低く設定されていたようです。さらに、被差別部落の周辺に屠場がある場合、日本人が食べなかった牛や豚の内臓をただ同然で譲ってもらえたと考えます。焼き肉のホルモンの語源が、ほおるもん、つまり捨てるものからきているという説もあります。このような経緯により韓人は被差別部落に移住しました。

(友常) それがどのように下層労使市場での部落民との競合と結びつくのでしょうか。

(河) 被差別部落内やその周辺に朝鮮部落が形成されますが、その形成には、ある条件が満たされなければならなったと思います。その近隣に不熟練労働者である韓人を吸収する下層労働市場が存在することでした。韓人無計画渡日者の最大の関心事は就職ですが、すぐには見つかりません。低賃金であろうがなかろうが、差別されようがされまいが、人は生きて行くために働いて金を稼がなければなりません。何のあてもない彼らは、住居近隣を徒歩で徘徊しながら、工場前に張り出された求人の張り紙を目安として、飛び込みによる自己志願を根気よく実行しました。ただ、そういう求職活動には体力的にはもちろん精神的にも限界がありますので、遠出は敬遠し、近隣の工場を物色したと考えます。

 韓人は工業地帯近隣の被差別部落に定着したのです。その近隣に下層労働市場が存在したからです。たとえば、ゴム靴工業の集積地・神戸市長田近隣の番町部落などです。また、中には、被差別部落そのものが、伝統的部落産業の集積地だった場合もありました。皮革業の集積地・大阪市の西浜栄部落はその典型でしょう。韓人不熟練労働者の就職活動にもっとも適したのが工業地帯近隣の被差別部落だったということになります。この条件を満たした被差別部落では、両者の混住が促進されました。そして被差別部落内やその近隣にいわゆる朝鮮部落が形成されていくのです。

(友常) 韓人が部落民が携わっていた労働のまねをする、つまり労働模倣が行われたという重要な指摘をなされていますが。

(河)私は、韓人無計画渡日者が、被差別部落に流入・定着した時点で、彼らの職業が決定されたと考えます。韓人が、先住部落民の生業を模倣したからです。つまり、先住被差別マイノリティの就労実績は、後からきた出稼ぎ目的の韓人に就労先の目安を与えたと考えます。少なくとも出自による差別が少ないということは解りますから。被差別者は就労の際、能力以前に出自による差別を受けるのではないか、という一種の恐怖感をもちます。出自を隠し通せれば良いのですが、現実は難しいようです。日本には、履歴書に書かなければならない本籍や住所から、出自を判断し差別するという悪しき習慣がありますので、被差別者は履歴書をできれば書きたくなかったと考えます。仮に、虚偽を書いたとしても本採用の際、戸籍謄本提出によって解ってしまいます。部落民はそういう事情にあったと思われます。韓人の場合は、本籍を日本本土に移すことを禁止されていましたから、「本籍 朝鮮」と書かなければならず、日本名を使い堪能な日本語を駆使して日本人を装ったととしても出自が解ってしまいます。また、履歴書を書くほどの経歴がないということや、無学のため漢字が書けないということも履歴書提出をためらった理由でした。

雇い主も彼ら被差別マイノリティがおかれている状況を知っていますから、本人が働きたいといえば、履歴書をださなくても、明日から来な、ということになります。被差別マイノリティにしてみれば、出自を理由として門前払いをくらわない、門戸が開かれた職場だったのです。韓人も例外ではありません。彼らの就労は、先住部落民の就労実績によって門戸が開かれていたのです。

 また、そこは彼らにとって働きやすい職場だったともいえるでしょう。同じ境遇の仲間がおり、差別されることが少ないという意味で一種の安心感のようなものがあったと思われます。余談になりますが、私は、阪神淡路大震災の直前まで、長田のゴム靴工業地域を調査していました。ある神父から聞いた話ですが、ベトナム難民が長田に定住し、ゴム靴の内職に従事していました。低賃金だし、一日中、部屋に閉じこもって不健康だからという理由で、神父が就職先を斡旋しました。しかし、みんなやめて、長田に戻ってきちゃう。みな一様にゴム靴の仕事がしたいという。どうしてだと神父が聞くと、月給になれていないので不安だという。ゴム靴の内職は、出来高制なので一日の労働量がわかりやすい。目に見える形で終われば、その場で金をくれる、というわけです。しかも同胞とベトナム語を話してベトナムの歌を歌いながら楽しく仕事ができる。疲れたら休めるのも良いということでした。まさにマイノリティ的感覚だとは思いませんか。移民当初の韓人は、同じ様な感覚をもっていたと思われてなりません。働いた分だけ金をくれるということが、魅力だったと思います。

(友常) 時間感覚につての階層差、近代的な時間というものを機械から疎外されているから長期的な展望で将来を考えたり、貯蓄したりする習慣を持たないからなんだと下層労働者をブルデューは説明するんですが、そういうふうにするよりもむしろ、不払いとか労働意欲の発生が感じられるような就業形態からの説明ができますね。

(河) 被差別マイノリティの立場からすれば、お金は嘘をつかないということになるでしょう。マジョリティと同じ権利行使を可能とする唯一の手段でした。被差別者として疎外感が強くならざるを得ない人間というのは、目に見えるものしか信じないという意味で実証的になります。毎日、働いた分だけの金をもらえるというのは、彼らに安心感と満足を与えます。月給というのは、移民間もないマイノリティには馴染まないですね。被差別マイノリティの生業が、現金商売に遍在集中するのは、そのためです。

(友常)水平社運動の昂揚も韓人の雇用を拡大したと指摘されていますが、その点いかがでしょうか。

(河)中小零細企業が部落民を低賃金および長時間労働で使用したのは、それが企業存立上の絶対条件だったからです。経営者からみれば、通常の労働市場から閉め出されている被差別部落は低賃金労働力の安定した供給源であり、しかも不況の際には容易に解雇できる従順な労働者とみなしていたと思われます。ところが、1920年頃から事情が変わります。労働運動が昂揚したからです。1922年には水平社が創立されました。それは、下層労働市場で低賃金を甘受させられていた部落民の労働者としての権利意識を高めました。逆に、そのことは中小零細事業者にとって、最大の不安だったと考えます。組織的な労働争議へと発展していきますから。けれども低賃金労働者は確保しなければなりません。

ちょうどその頃、比較的権利意識の低い新たな被差別マイノリティが、工場近隣の被差別部落やスラムに流入し、自己申込みによる就職活動を開始したのです。植民地民族の韓人は、中小零細業者から、部落民よりも低位な階層、従順なる低賃金労働者とみなされ代替労働力として利用されたと考えます。その目安になったのが、両者の労働運動に対する国家・社会的許容度だったと思われます。韓人による組織的労働運動は、朝鮮独立運動と結びつく可能性が高く、実質的に内政問題にとどまるものではありませんでした。内務省や特高によって徹底的に弾圧されたのはそのためです。もちろん水平社運動も弾圧されましたが、それは内政問題にとどまる性格上、ある程度は許容されていたと考えます。そのことは中小零細業者からすれば、彼らを雇い入れる際の判断基準になったと思われます。当時はいずれの工場においても労働争議は現実性を帯びていたからです。つまり、部落民よりも抑圧されていた韓人を雇うほうが、労働争議のリスクが少なかったのです。結果、部落民の雇用機会は減少し、韓人のそれは拡大されたと考えます。

京都における被差別部落民と韓人

(友常)その際の仕事をかなり詳細に調べられていますね。京都の場合だと西陣織と友禅染。それが在日韓人と部落民に多いと部分的にはいわれていましたが、河さんの本で論証されたと思います。

(河)京都は被差別部落が多い地域です。戦前の京都市調査によると、三條部落では、韓人排斥運動がおこり、彼らを新規の住人として受け入れなかったと報告しています。しかし、それは例外で、大部分の被差別部落では、韓人を新規の住民として受け入れました。

 戦前の在京韓人の典型的生業は、西陣織りや友禅染めなどの織物染色工、土方、ボロチャンサと呼ばれた屑生地回収業、その他となります。それらの生業は、韓人がいずれの被差別部落に流入・定着したかによって決定されたと考えます。たとえば、養正部落流入者は友禅染めに、崇仁部落流入者は土方に従事しました。それは韓人が、先住部落民の生業を模倣した結果であると考えます。一世による労働模倣は、二世、三世に引き継がれます。彼らは親や親戚、同じ地域に住む先輩や知人の生業に従事する場合が多いことが解りました。多くの場合、養正部落の二、三世は友禅染工業に、崇仁部落の二、三世は土方にそれぞれ従事したのです。

(友常) 友禅染工業での部落民と韓人との関係をどのようなものだったのでしょうか。

(河)京都の友禅染工場は、室町の問屋街に近い堀川を中心に集積していました。しかし、1924年に京都市都市計画により工業地域が指定され、友禅染業者は、移転せざるを得なくなったのです。しかし、工業地域ならどこでも良いということではありません。友禅染めの特徴は、織物生地への後染めです。多品種の染料によって染色し、蒸し箱に入れて密閉し、蒸気で蒸します。これを蒸しといいますが、夏は地獄の暑さだったといわれています。この蒸し業を担ったのが韓人でした。その後、染め生地の表面に附着させた色糊を流水で洗わなければなりません。これを水洗といいますが、川を利用して行われたため冬が苛酷でした。その作業には大量の水が必要です。

1920年の後半から、この水洗業を担ったのは韓人でした。日本人の心の故郷といわれる京都の風物詩として観光の目玉にもなっていた友禅流しを想起して下さい。それは、実は被差別マイノリティによって担われていたのです。また、友禅染めは生地が10メートルを超えるものもあり、水洗後にそれを乾かすために広い場所も必要となります。設備投資をせずに両方の条件を満たせるのが、川の側ということになります。堀川を追われた友禅染め業者が、太秦や高野・一条寺などの川の近隣に移動したのはそのためです。京都の場合、川の側には、被差別部落があります。その中の一つを調査しました。

(友常) 洛北と呼ばれる高野・一条寺近隣の養正・田中部落のことですね。

(河)はい。戦前に田中部落に移住し、戦後、友禅染めで成功した韓人古老は、1920年代後半には、すでに韓人の蒸しや水洗業者が存在したと証言しました。京都商工会議所による友禅染調査も同様の指摘をしています。問題は、彼らの就労経路です。京都の友禅染め工場が、朝鮮現地に赴き労働者を公募したことはありません。ただ、来京間もない韓人が、いきなり事業主になるとは考えられません。その先駆的就労者は、飛び込みの自己申込みによって友禅染め工場に就労した無計画渡日者であったと思われます。彼らは何年か勤務する過程でスキルとノウハウを修得し、独立したと考えます。

しかし、徒弟制度を採用している友禅染工業界では、最低でも三年間は、運搬や掃除などを担当する追い回しと呼ばれる下働きをしなければなりませんので、韓人の先駆的就労の嚆矢は、早くても1920年代前半ということになります。

私は、被差別部落に移住した韓人は、先住部落民の生業を模倣したという仮説を主張しています。その大前提となるのは、田中部落の先住部落民の洛北友禅染め工業への就労実績です。

(友常) 聞き取り調査から有効な証言を得られたのですか。

(河)だめでした。私は、聞き取り調査に関する限り、韓人問題よりも部落問題の方が困難だと感じました。とくに、一般日本人は口を閉ざします。たとえば、友禅染会館の職員に、韓人の友禅染工業就労について質問したところ、戦前の友禅染めには、半島の方が多く携わっていた、と躊躇なく答えてくれましたが、部落民はどうか、と質問したところ、一瞬顔色をかえ、忙しいので、といって逃げるように立ち去ってしまいました。

そこで京都部落史研究所などを利用して資料収集に尽力したところ、『大阪朝日新聞』や『京都日々新聞』などから、1930年頃、洛北友禅染工業界で起こった労働争議に、田中水平社が関係していたことを知りました。つまり、田中部落の部落民は、洛北友禅染め工場に就労していたのです。

次ぎに、問題となるのが部落民の先駆的就労時期でした。それは京都市民政局『友禅労働者の実態−京都市養正地区における調査』から、1918年以前であったと推論しました。つまり、部落民は、韓人よりも早い時期から洛北友禅染めに就労していたことになります。田中部落の典型的生業は、土方と廃品回収などでしたが、一部とはいえ、友禅染めに従事する部落民が存在したのです。就労者数よりも、部落民が皮革や靴などの伝統的部落産業以外の新しい業種に雇われたという就労実績が重要なんです。それは後身の被差別部落民の雇用機会の拡大をもたらしました。そういう状況下で韓人が田中部落に移住してきたんです。

彼らに、幸いしたのが、加茂川や高野川に近接する田中部落の自然環境でした。職を求めて転々としたであろう初期の韓人無計画渡日者は、加茂川や高野川で行われていた部落民による水洗作業を目撃し、その就労を知ったと考えます。部落民であっても出自を問われず採用されるという事実は、韓人に希望を与えました。彼らは部落民の生業を模倣すべく洛北友禅染工場に自己申込みを行い、その中の一部が採用されて先駆的就労者になったと思われます。戦前から田中部落に定住している元友禅染工の韓人古老に、その就労理由を尋ねると、家から近かったから、と答えています。つまり田中部落から、友禅染め工場が移転した高野・一条寺までは徒歩で移動可能な通勤圏だったのです。その古老は、無計画渡日者でしたが、職業に特別な希望をもっていたわけではありません。生きていくために、働き場所を求めて徘徊し、飛び込みによる自己志願を行ったのです。

(友常)西陣織りはいかがでしょうか。

(河)西陣織りには独特な賃機制度があります。西陣織手は、親方と呼ばれる家内工業者との間に徒弟関係を結びます。親方も織元に従属し、生産材料の大部分を依存しなければなりませんでした。移民初期の韓人は、住み込みの織手となり、宿舎と食糧を確保したと考えます。

 西陣は、商業資本家に支配されている囲いのない工場のようなものでした。そこには「出機有り」とか「織手募集」いう求人張り紙が出ていました。それを目安にした自己申込みによって先駆的就労が可能になったと考えます。西陣織手であった韓人古老によると、職を探して西陣を歩いていると「織手募集 但し内地人に限る」という張り紙に憤慨し、それを「織手募集 但し朝鮮人に限る」書き換えて乗り込んだそうです。親方は、彼を一瞥して張り紙を見なかったのか、帰れ、と怒鳴ったそうです。すると彼は、みてきた、と書き直した張り紙をつきつけました。親方は、あきれたようです。彼は、まじめに働くから、一度でいいから雇って判断して欲しい、と懇請したようです。

結局、親方がおれ、様子をみようということで、何とか、住み込みで働けることができるようになります。たとえ与えられた部屋が南京虫がたくさんいるせまくてきたない部屋であっても屋外よりはましだったのです。その古老は、はえのたかっている腐った飯を食わされたと証言しています。けれども飢えるよりはましだったのです。もちろん自己申込みを行ったすべての韓人が雇われたわけではありません。中には、すぐに辞めさせられる人もいました。しかし、辞めさせられなかった韓人は、親方との間に信頼関係を築いたようです。彼は先駆的就労者となり、同郷の韓人の就職を斡旋することが可能となります。親方は、朝鮮人だけどあいつが紹介するならまちがいないだろう、ということになったようです。このように、先駆的就労者の就労実績に基づいて次々に同郷の韓人が雇われて行ったのです。

(友常)不熟練労働者であったはずの韓人が、何故、西陣織りに従事できたのでしょうか。

(河)西陣織の技術は六ヶ月あれば習得可能な簡単なものだったからです。とくにビロ−ド生産は簡単でした。伝統的部落産業である下駄製造業者との関連が深まります。在京韓人は、下駄の鼻緒を作ることになったのです。奈良の被差別部落民の下駄業者との関係が深かったようです。

(友常)戦後も両者の関係は継続したのでしょうか。

(河)はい。敗戦直後、韓人は解放国民となり、いわゆる治外法権と類似の状況におかれました。たとえば、韓人が京都駅前のヤミ市で活動したとしても、京都府警はそれを取締まることはできませんでした。ヤミ市は、日本人、韓人を問わず野心的な人たちにとってまたとない経済的機会でした。部落民も同じです。物を作れば高値で売れるのですから。しかし、部落民は日本人ですので、警察に摘発されます。そこで部落民業者の一部は、韓人との関係を一層深めていったようです。西陣織手だった韓人古老によると、奈良の部落民下駄業者が、奈良県警に捕まった際、特別親しい関係でもないのに身元引受人として助けに来てくれと懇請され、助けてあげたそうです。

神戸における被差別部落民と韓人

(友常) 神戸の場合は、どうでしょうか。

(河)戦前の神戸市調査によると、韓人が流入した被差別部落は、葺合の新川部落と林田の番町部落です。新川部落の韓人は、土方や仲士といった屋外肉体労働従事者が多かったようです。新川部落民の生業を模倣したものと考えます。

 問題は番町部落流入者の生業です。もともと番町部落の生業は農業でした。それが神戸のマッチ工業の勃興により変化します。初期のマッチ工業は、かなり危険な作業で、囚人の労働としてスタ−トしました。やがて囚人による製造は廃止され、零細な民間業者が群生します。その際、重要な役割を担ったのは華僑商人でしたが、その説明ははぶきます。 零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。しかもマッチ工業は労働集約型工業であり、利潤の根源である量産を生産手段の機械化に求めるのではなく、もっぱら低賃金労働力の確保に求めました。ですからマッチ業者の成功は、低賃金労働力の確保如何にかかっていたのです。そこで彼ら零細業者たちが注目したのが、番町部落の部落民でした。低賃金で雇えるからです。新興マッチ業者たちは、低廉な部落民労働力を求めて番町部落近隣に工場を建設したのです。そして部落民も、それに応えるかのようにマッチ工になりました。

(友常)マッチ工業は、神戸に限らず明治30年くらいから部落の生業となります。硫化硫黄を使いますので大変危険な作業でしたが、職業選択の自由を奪われ、生きて行くためにはどんな危険があっても、またどんなに安い賃金でも働かざるを得なかったと思います。

(河)このような経緯により、林田はマッチ工業の集積地となります。番町部落の生業にマッチ工業が加わったのです。少数ながら韓人のマッチ工も確認されています。部落民の生業を模倣したと考えます。

 しかし、大戦終了後、スウェーデンマッチが市場を席巻し、日本のマッチ工業は苦境に立たされます。とくに、零細業者が多かった林田のマッチ工業は深刻でした。大部分が廃業に追い込まれます。当然、部落民の失業者も急増しました。この苦境を救ったのが、新たな産業として台頭したゴム靴工業でした。その嚆矢は、奈良の部落産業で修業した後、林田にもどって開業した部落民業者であったと私は考えています。前述したように、零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。しかもゴム靴工業は、マッチ工業同様、労働集約型工業です。当然、新興のゴム靴工業者は、低賃金労働力を希求します。林田にゴム靴工場が群生したのは、衰退したマッチ工業から大量の低賃金労働力を吸収することができるという目論見があったからだと思います。また、マッチ工場からゴム靴工場に転業する業者もあらわれました。結果、マッチ工から、ゴム靴工へと転職する部落民が続出したのです。

 ちょうどその頃、番町部落には新たな被差別マイノリティが増加していました。韓人です。番町部落に流入した韓人無計画渡日者は、近隣の林田ゴム靴工業地域、現在の長田を徘徊し、求人の張り紙を目安に飛び込みの自己申込みを行ったと考えます。そしてその一部はゴム靴工業に就労しました。それを容易にしたのは、番町部落の先住部落民が、すでにゴム靴工業に就労していたからだと考えます。


大阪における被差別部落民と韓人

(友常)大阪はどうだったのでしょうか。

(河)大阪は日本有数の工業の中心地ですが、中小零細企業の比重が高いことでも知られています。そのことは、大阪が潜在的に低賃金労働力需要が高いということを意味しています。1930年の第三回労働統計実施調査によると、被調査工場の六割にあたる562工場が韓人を採用しています。しかし、この調査は韓人の主たる就労先であった零細企業を調査しておりませんので、実際の韓人採用工場はそれ以上だったと考えます。韓人はありとあらゆる工場労働に進出しました。とくに、ガラス工業の窯業への就労は顕著でした。大阪市内の窯業労働者の3人に1人は韓人だったと報告されています。

 また、戦前の大阪は、スラムや被差別部落などの不良住宅地が多いことでも知られています。そこは京都や神戸同様、韓人の移住先となりました。京都や神戸と異なるのは、大阪の工場労働に積極的に従事したのが済州島人だったということです。済州島人は、朝鮮本土の人たちからは差別されていました。朝鮮本土の韓人は、彼らを作業服と比喩したといわれています。そういう人たちが大阪に一極集中し、工業労働に従事したのです。

(友常)部落民と韓人とはどのような関係だったのでしょうか。

(河)京都や神戸と似ています。まず、大阪の韓人も被差別部落に移住しました。そこには保証人も権利金もいらない廉価な借家があったからです。また、被差別部落内やその近隣には、韓人を容易に雇ってくれる下層労働市場が存在しました。そして韓人は、先住部落民の生業を模倣したのです。たとえば、西浜栄部落と三開部落の部落民が従事する職業には必ず韓人が従事しており、中には、その従事比率が部落民を上回るものもありました。とくにこの傾向は、工業において顕著でした。西浜栄では17業種中、10業種において、三開では18業種中、11業種において韓人の従事比率は部落民のそれを上回ったのです。先住部落民の職業模倣は、何も市内に限ったことではありません。たとえば、大阪府泉北郡信太村と八坂町の被差別部落に移住した韓人総世帯の三割に当たる80世帯が、部落民の生業であった人造真珠工業に従事しました。


韓人が就労した工場労働の共通点


(友常)韓人が就労した工場労働の共通点は何でしょうか。

(河)第一に、その大部分が一般の日本人が忌避する低ステ−タス産業だったということです。たとえば、京都の友禅染めといえば、百貨店で展示された高価な高級品というイメ−ジがあります。しかし、旦那衆と呼ばれた商業資本家や先生と呼ばれる図案作成者を除けば、生産者のステ−タスはそれほど高くはありません。戦前の韓人の場合、追い回しの奉公が終わると、蒸しと水洗の職人見習いになったようです。蒸しも水洗も工賃が相対的に安いわりには重労働なので、いやがられる仕事でした。何らかのアクシデントにより、完成品の色が落ちたり、傷ついたりした場合、職人がペナルティーを課せられ買い取らされるんです。さらに、戦前の京都では友禅染めに限らず、職人は極道商売といわれていました。たとえば、職人間の博打が盛んだったようです。花札はもちろん、シラミを走らせて早さを競わせたりしたようです。親方が賭場を開いて職人の賃金を巻き上げるということもよくありました。

(友常) 低ステータス産業だったいうのがポイントなわけですね。それは部落民と韓人とが競合する仕事にも共通しているように思います。

(河)第二に、工程作業が複雑で機械化に適さない労働集約型工業でした。また、季節や流行によって需要が左右されるため、大量生産にも限界があり、多品種少量生産にならざるを得ない工業でした。つまり大企業が参入しにくい業種です。そのためその生産を担うのは、中小零細企業ということになります。これら業者は資本力に限界があり、商業資本に従属せざるを得ません。商業資本主導により、生産工程毎の分業が促進され、小さな零細事業者が増加します。分業の促進は、作業を簡易化します。不熟練労働者であっても比較的短期間でその生産技術の修得を容易にしました。不熟練労働者であった韓人が雇われたのはそのためです。

 そして地域全体があたかも囲いのない工場になりました。京都の西陣、神戸の長田、大阪の西浜栄などはその典型でしょう。零細業者の存立基盤は低賃金労働力です。分業が促進されて零細業者が増えれば増えるほど低賃金労働力需要が高まります。韓人は、その低賃金労働力需要に適応したと考えます。

韓人は、何故、被差別部落民との下層労働市場における競争に勝利できたのか


(友常)1920年代の段階で、被差別部落は収入が非常に不安定になっているという調査があります。不熟練労働に従事する部落民の構成比の変化も現れています。それは河さんの結論、つまり韓人労働者が京阪神下層労働市場において部落民と競合し、それに勝利したということです。それはいかにして可能となったのでしょうか。

(河) 戦前の韓人は、同種の労働に従事した日本人労働者よりも相対的に低賃金でした。にもかかわらず、戦前の行政調査は韓人の一部に余剰金が生じていると報告しています。それを郷里に送金したり、貯蓄したというのです。余剰金の多寡よりも、出稼ぎ労働者としての目的を達成できた人々が存在したという事実に注目しました。彼らの大部分は、単身渡日者だったと思われます。

 低賃金労働者であった彼らが、如何にして余剰金を生じさせたのかが問題となります。行政調査では、韓人の生活費が低いから、それが可能になったと推定していますが、それよりは、むしろ移民労働者となった彼らが、植民地朝鮮に進出した中国人移民労働者同様、生活費をあえて抑制したと理解すべきです。在日韓人の大部分は、日本に永住するために渡日したわけではありません。そこが部落民と違うところです。部落民は日本人ですから日本以外に帰るところはないんです。ですから生活費支出を抑制するにも限界があります。しかし韓人は、苦しくても、それは一時的なものであって、帰れる郷里があると考えたはずです。彼らは郷里の家族のために送金しなくてはいけない。だから日本での生活を切り詰めたと考えます。生活レベルに対する欲望は、在日歴が長くなるに連れ、徐々に芽生えてくると思うんです。それは定住によってもたらされた同化の所産です。

 韓人は多くの場合、下層労働市場での部落民との低賃金競争に勝ちました。大阪の西浜栄や三開の事例を見てみましょう。そこは、部落産業の皮革・製靴工業の中心地であり、その従事者の大部分が部落民でした。皮革・製靴工業は一般人の就労が稀であったという意味では、閉鎖的な労働市場を形成しており、そのことが部落民の雇用機会を保障したともいえるでしょう。ところが、相対的低賃金を武器とする韓人の登場はその状況を変えました。つまり、韓人移民労働者の皮革・製靴工業への就労によってもたらされた直接的効果は、相対的高賃金であった部落民の失業や雇用機会の減少だったのです。それが可能であったは、韓人が生活費の支出を押さえることができたということにつきると思います。移民労働者である韓人の行動的特性といえるでしょう。その際、重要な役割を担ったのが、韓人が経営した下宿業でした。たとえば、1923年の大阪市調査によれば、韓人下宿業は、一畳当たり2.17が住んでいることになり、押入も、縁縁も、台所も韓人であふれていたと報告しています。大阪市調査では、被差別部落民の密住実態が指摘されていますが、韓人は、それよりもさらに密住の度合いが高いことが判明しました。たとえば、1929年に実施された調査によれば、東成区中浜町の韓人の一戸当たりの平均居住者は、22.5人です。1928年11月の大阪市の一戸当たりの平均居住者が4.3人ですので、雲泥の差といわねばなりません。

 大阪市の西浜栄部落と三開部落でも比較しました。いずれにおいても部落民より韓人の方が密住の度合いが高かったのです。たとえば、西浜栄部落の場合、一人当たりの畳数が二畳以下の部落民世帯は、部落民世帯総数の35.○%であるのに対し、韓人は韓人世帯総数の62.7%でした。三開部落の場合、部落民世帯は41.3%であるのに対し、韓人は71.6%となります。このように、韓人は、混住者である部落民よりも、住居費支出を抑制していたのです。

(友常)その指摘も従来見落とされていた視点だと思います。本書では、生活費支出の抑制を韓人の行動的特性とみなしており、それを実行しうる者だけが、下層労働市場における低賃金労働力需要に継続的に適応することが可能であった、と主張されていますが、それはどういう意味でしょうか。

(河)求職出稼ぎを目的とする韓人は、何よりも就職を優先しなければなりません。彼らが進出できたのは、下層労働市場でしたが、その雇用は不安定なものでした。わずかな付加価値しか生まない不熟練労働は、新たな低賃金労働者の出現によって容易に代替されるからです。新たな不熟練労働者として、既存の韓人就労者の脅威となったのは、実は、新規渡来の韓人だったと思われます。彼らが就労を優先するあまり、すでに就労している韓人よりもさらなる低賃金を武器とし、その下層労働市場に進出しようとしたからです。日本政府が、中国人移民労働者の内地への入国を規制していたこともそういう状況をもたらした要因であったと思います。日本には、朝鮮不熟練労働市場で韓人離農者の前にたちはだかった中国人移民労働者というライバルが存在しなかったのです。

 雇用を脅かされた韓人の一部は、労働争議によってこれに対処しました。しかし、それは全部ではありません。既存の韓人就労者の一部は、生活費支出抑制に慣れていましたから、余剰金の形成にこだわらなければ、自己の低賃金をさらに低下させても生活することができました。つまり余剰金の額を一定の目安として、賃金をさらに下げることにより、その雇用を確保したのです。この韓人間のいわば生存競争が、その下層労働市場における低賃金のさらなる低下を促進しました。これが日本下層労働市場における低賃金構造の維持と強化をもたらした要因であったと考えます。そのことが結果として、韓人よりも相対的に高い賃金で、生活費支出の抑制に限界のあった日本人下層労働者、とりわけ部落民を失業の脅威にさらしたのです。


部落民と韓人との反目と今後の課題

(友常) 内部の識別についてはどうでしょうか。非常にインフォーマルな交渉関係があって、それは杉原達さんの『越境する民』でも指摘されている「対面関係」という視点にかかわります。河さんが指摘されているおもしろい問題としては、初期のレイシズムというものが近代社会で支配的になるとして、対面関係によるマイノリティ同士のレイシズムはイデオロギーとしてのあるいは公的言説としてのイデオロギーと少し違う。

 杉原さんが紹介されている例ですと、代書屋の例がでてきまして、済州島出身者を相手に代書屋が商売するということですが、やりとりがうまくいかないと、韓人が変な言葉を発して逃げていく。それはていねいに分析していくと、実は済州島の方言だったということがあります。これは落後の話なんですね。そのような形での対面関係が発生していた。先ほどのお話でも、内地人に限るというビラを書き換えていきますね。ねばり勝ちなのかもしれませんが、それでも発生する関係ですが、市場をめぐっては厳しい対立関係があったけれども、またそういう関係もあったということですね。その中で説明はされなくても、あいつは部落出身だとか、どこの出身だとかいうことがお互いにわかってしまう。そういうものが発生している空間は・・・・・・。

(河) 被差別マイノリティは敏感です。とくに、普段、出自を隠している人はその傾向が強いと思います。わかるんですね。相手の出自が。それを説明するのは難しい。感覚的なものだと思います。たとえば、西陣織り業者の中には、韓人もいれば部落民もいます。在日韓人業者は日本名を使っていますし、二世以降になると京都弁もうまいので、識別は困難です。部落民は出自を公表しません。ですからマジョリティの業者にはわかりません。けれどもマイノリティ同士は意識しているのです。交流はないんだけど、お互いの出自を知っているんです。

(友常) 京都では部落問題と在日韓人問題との一つの接点として「オールロマンス事件」というのがありました。ここでは触れませんが、当時の韓人と部落民とはどのような関係だったと考えますか。

(河)両者は基本的に避けていたと思います。喧嘩はしないんですけども、お互いに見下していたと思います。一部の人は連帯したかも知れませんが、それは少数派です。韓人、とりわけ一世は自分のことを両班の末裔だと信じていました。今は没落しているが血統的に正しいという確信があります。一世は、朝鮮の被差別民衆・白丁を部落民におきかえながら、乱暴な言葉を使えば「あいつらと自分は違うんだ」という優越感をもっていたと思います。部落民の方も乱暴な言葉を使えば「あいつらは植民地民族の二等国民だ」という優越感をもっていたのかも知れません。しかし、両者は反目していても社会経済的には結びついていました。このインタビュ−でふれたとおりです。

 また、両者は混住したのですから、生活面でも何らかの結びつきをもっていました。たとえば、田中部落出身の二世の韓人は、父親が食用の赤犬を捕また際、自分で殺さなかったといいます。部落民の屠殺業者に金を払って依頼したそうです。赤犬は彼の目の前で屠殺されました。その光景は、今でも忘れられないと証言しています。関西地域の被差別部落やその近隣で生まれ育った韓人は、多かれ少なかれ、そういう体験をしているようです。

(友常) 政策的な契機が入ってきて発生するイデオロギーがあると思いますし、またそれが介在しないである種やったりやられたりというルールがある世界では差別があっても、競合しても、共存する関係が対面関係の論理だと思います。差別があるわけだけれども、実体的にレイシズムになっていくということとは少し局面が違うということです。それ全部を同じ差別、レイシズムだと考えるとちょっと問題がありますね。

(河)在日韓人問題に関する限り、レイシズムのみを強調すべきではありません。在日韓人は差別されているといいながらも、実は、経済的活動は許容されていました。そうでなければ、ロッテ、大和製罐、平和、モランボンなどの企業は存在していません。もちろんそれは組織的闘争により勝ち取った権利です。けれども経済的活動すら保障されていないマイノリティが世界には存在します。韓国の被差別マイノリティ・華僑はその典型です。在韓華僑は、約1万8千人です。彼らは経済的活動を法制度的に規制されています。しかし、民族教育は保障されています。在日韓人とは対照的です。日本政府は、在日韓人子弟に対する韓民族的教育の保障には消極的です。基本方針が同化だからです。逆に、韓国政府は、在韓華僑子弟に対する漢民族的教育を保障することにより、同化を阻止しようとしています。中国人で中国語ができれば、海外で生活できるだろうということで民族教育を保障しているわけです。そのかわり華僑の経済的活動は規制します。日本とは逆なのです。彼らは韓国政府の思惑通り、海外に移住します。行く先は台湾が多いようです。しかし、台湾でも韓国語訛の中国語をしゃべるという理由で疎外されるようです。横浜中華街周辺にもそういう事情で日本にきた華僑がいます。

(友常) その視角はかなり有効だと思います。先ほどの「対面関係」という領域を設定されたということが河さんの議論で重要なところだと思います。エティエンヌ・バリバールなんかがいっているレイシズムというものとは違う差別の論理はあるんだけれども、共存関係の領域を設定できるということは、一枚板で差別を語るのではなくて、杉原達さんの議論でいうと、帝国主義国家をどう考えるのか、こちらからどう構成するのかということです。マイノリティに対する差別があるということが当たり前のことであって、それとどういうふうに向き合ったり、つきあったりしていくのかというとで問題を立てると、全く違うようなアイデンティティの取り方とか、マイノリティにとっての社会という考えがでるんではないでしょうか。
最後に、被差別部落民問題と在日韓人問題との方向性について、どのようにお考えですか。

(河) 被差別部落問題と在日韓人問題とは、それぞれの研究者に別次元の問題とみなされ、乖離してきたような気がします。それぞれの差別改善運動も同じ状況にあります。しかし、それは改善すべきです。両者は、日本における被差別マイノリティという点で、歴史を共有しているからです。とくに、過去の両者の歴史は総括しなければなりません。部落民や韓人、そしてそれを支えてきた日本人も、差別はいけない、差別をなくせ、と主張してきました。しかし、両者は、一部とはいえ、お互いを差別してきたと思うんです。

差別は誰にでも味わえる快楽です。自分が受けた差別を他人に転嫁することほど、気持ちの良い行為はないのかも知れません。また、両者には感情的にしっくりいかない事件があったはずです。田中部落で生まれた在日二世の人は、部落民は許せないといいます。彼が子どもの頃、同和事業の一環として田中部落に市営住宅を建設することになりました。そこに混住していた両者は、一時立ち退きの条件として市営住宅への優先的入居権を連帯して主張し、京都市と交渉したようです。彼はきれいな家に引っ越せると親から聞き楽しみにしていたそうです。しかし、彼の期待は裏切られました。市営住宅建設後、部落民は約束通り入居できたのですが、韓人は外国人であることを理由に入居を拒否されたのでした。結局、彼の一家は田中部落を離れました。彼は引っ越しのトラックの中で両親に、きれいな家に引っ越せないのは何故かと尋ねたそうです。すると両親は、白丁が裏切ったからだ、と答えたそうです。真偽はわかりません。しかし、少なくとも彼は傷ついたようです。そういう体験は、部落民の方もあるかも知れません。

ある韓人古老は、子弟教育のために、部落民の子女と同じ学区にならないよう引っ越したと証言していました。結婚の場合も反対されることが少なくありませんでした。このような関係は残念です。両者の歴史を総括した上で、お互いの差別意識に基づいた不幸な歴史を清算しなければいけません。そのためには、両方の研究者が共同で「在日マイノリティ史」なる歴史書を作成していく作業が必要です。難しいことですが、やらなければいけない課題であると思います。

(友常)聞き手としての私は今日は本当に勉強させていただきました。河さんの研究を踏まえて、部落問題と移民労働者問題の共同研究が確立できるといいと思います。本日はあがとうございました。
http://www.jita.jp/kawa/text/hyouron-1.html


【尼崎大量殺人】角田美代子【コンク李ドラム缶死体】


783 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 04:21:33.36 ID:+bhk3kJDO

大阪市平野区の加美小学校の事件だったかな。
小学校で就学中だった児童二人を学校長が部落解放同盟幹部に引き渡す事件が発生した。
平野警察だか八尾警察だかが児童二人を取り戻して事無きを得たが報道したのは産経新聞ぐらいだぞ。 つい数年前の事件だ。現実を見てくれよ。

784 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 04:25:57.30 ID:CE1AsOCJ0
>>783
え?何で児童二人は引き渡されたの?怖いんだけど


786 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 04:46:35.43 ID:+bhk3kJDO
>>784
産経の記事によると児童同士でのトラブルが発生していたらしい。
そして虐められたと主張する被害者側の人間が部落解放同盟の幹部だったという訳。

+にもスレッドが立ったが削除依頼が殺到してた。

“加美小学校の糾弾会”という過去の部落の話が書き込まれてるとか
部落の地名が書き込まれてるとかの理由でね。

789 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 04:59:59.37 ID:2RAoKUb00

その話は中学校じゃないか?

「同和利権の真相」
「先生がヤクザに生徒を売った」とか生徒達が騒いだ


796 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 05:25:31.46 ID:+bhk3kJDO

>>789 なら中学校です。八尾に連れ去られたんですよね。
加美小学校の糾弾会の話もありヤバイのは確かです。

791 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 05:09:31.84 ID:uU6rlyEe0

校長や教師も自宅に動物の死体を投げ込まれたり、家族への危害を脅迫されたらどうもできませんよね

結局差別を理由に↑のような行為が見逃されてるところに問題がある
不当な(?)差別はゆるされませんが、差別を口実にした犯罪行為もそれ以上に許されない
BとZに関しては日本はずっと戦後のまま


808 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 05:58:08.77 ID:y2dHgqMg0

大阪の場合、解放なんとかがかなり力持っているからねえ。
何しろ大阪市立大学が事実上の解放理論の拠点なんですから。
かつては中核派とも仲良くしていました。

まあ、大阪市立大学はあの末川博が戦前滝川事件で京大追い出されてから住み着いた時期があり、ここから共産化。
ちなみに解放理論はマルクスレーニン主義がベースです。 やり口も階級理論もコミンテルンそのもの。 だから、戦後すぐの頃は解放なんちゃらの主流派が共産党だったので、朝鮮系と結婚した人がかなりいます。
不破さんや志位さん体制以前は暴力革命路線でしたので。

828 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 07:15:26.98 ID:9dnflT870

B批判が出ているのは決して貧困や穢れから来るのではない。 それを悪用して一般市民に恫喝しているからだよ。 これで泣かされているB出身の人相当いる。 もしB団体がまともであれば、その辺の逆差別行為について厳しく戒めていたはず。 むしろ機会平等とは何か、法律とは何か、社会的信用とは何かを徹底させるのだが。 西光○吉や賀川○彦が泣いているぞ。

けど市町村レベルではB教育とかやる割に兵庫県としてはB同盟とは決別しているんだよ。警察出身の坂井知事の時代に運転免許取得の無料特権をはじめ散々な特権を中止に追い込ませた。


788 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 04:58:30.05 ID:+bhk3kJDO

なんにせよ大阪も部落や在日勢力に蹂躙されてる現実は今だに変わらない。
ただ昔との違いは警察が渋々ながら乗り出してきてるトコだ。
だが兵庫県は違う。昔の大阪のように警察が在日団体や部落団体とグルになってる。


792 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 05:11:23.41 ID:VA3M8nhQ0
>>788
大阪だとどこら辺が酷いの?


796 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 05:25:31.46 ID:+bhk3kJDO
>>792
ヤバイ所って他の地域の人は知りませんよね。
加美も酷いですが加美の人は布施を怖がります。
けど他にもたくさんありますね。


429 可愛い奥様[sage] 投稿日:2012/10/31 19:16:18  ID:NRvElC6m0(1)
 
兵庫県尼崎市: B  
梶○、丸○、塚○、杭○、尾○、


533 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 21:18:16.97 ID:q+OH/jaU0
 
美代子はB落民じゃなくて在日! ・・・ということにしたいネトウヨ&カイホードーメー

普通に考えたら尼崎なんてB指定区域だらけなんだからわかるでしょ


919 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 12:27:58.02 ID:ntK5bx050

尼崎ってそんなに怖いの…?
どんな土地よ…


928 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 12:37:31.13 ID:+bhk3kJDO
>>919
大阪人から見ても尼崎市と加古川市は怖いイメージがある。
実際に物騒な事件が起こり続けてるしね。


933 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 12:41:09.52 ID:ie7ynTpm0
>>919
東大阪と双璧と思ってる


923 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 12:35:22.97 ID:28Xu6EGdO
>>919
すごく広くて人口も多い
昔はほとんど田んぼだったのを潰して、工場やマンション、会社が建った
だから戦後に移住してきたニューカマーが多い
そうした戦後の混乱期にどさくさ紛れに不法入国した連中も…
立花では、戦後のレイプ強盗が多発
勿論犯人はあの民族


985 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 14:46:40.31 ID:BDSeUfXgO
>>919
阪急沿線は住みやすい良い住宅街で阪神沿線から南が柄が悪い
去年、阪神駅前の商店街を買い物したけど以前より雰囲気が悪くなってた気がする

881 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 11:13:07.37 ID:V0mYJph30

兵庫県はド田舎かやくざだよ
西の方はスラムだし
品のいいのは大阪北部


885 :可愛い奥様:2012/11/01(木) 11:19:28.34 ID:H9vS8k+y0
>>881
武庫川を挟んで、環境は激変するんだよ。
六甲側は、斜面を登れば登るほど高級住宅街。


524 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 21:02:03.37 ID:q+OH/jaU0

尼崎の部落問題は根っこが深いわねぇ・・・


544 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 21:28:23.25 ID:y3ICO3hoP
>>533
明治4年の解放令によってできた特殊部落ではなく
昭和44年に同和対策事業の対象として指定された同和地区というだけで
同和地区=部落民ではないよ
流出入が激しい現在、もう地区によって部落民認定できる時代ではないよ

439 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 19:27:11.82 ID:+k+QNRPD0

塚口は阪急沿線で普通の住宅街、杭瀬は昔は田んぼだったし、B地区じゃなさそうだけど


502 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:39:53.39 ID:ixp6hvEM0
>>439
塚口2年間だけ住んでたことあるけど、学生が多い普通の街だったけどなあ
http://desktop2ch.org/ms/1351539680/?nofilter


491 :可愛い奥様:2012/11/08(木) 03:52:38.60 ID:OfVIByOS0

Bって町単位じゃないよ
もっと小さい集落ごとに決まってるの
字とかレベルの単位
上○○は非部落、北○○も非部落だけど、下○○だけ部落、みたいな


352 :可愛い奥様:2012/11/07(水) 23:19:09.62 ID:4xhjjF+S0

三島由紀夫の学習院入学の時なんかは親の戸籍までを事務的にチェックだろうからね。
三島の部落騒動が勃発したのは、縁談の話が来て、三島が先祖を探ろうとした時。
実際に三島家の本籍地は「関西有数の濃いB部落」である。加古川市志方町だし、三島は加古川で徴兵検査を受けている。
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/ms/1352276671/

503 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:40:00.79 ID:aECMD8L10

BやKとは結婚しちゃいけないってことだな
殺人はなくとも、同じようにBやKと縁組みしたために財産を乗っ取られるケースは多いからな


508 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:48:39.52 ID:M3s+uYkJ0
>>503
事業をしていた親戚がBに乗っ取られましたよ。
言葉巧みに近付き会社に入り込み居座っていました。
B朝鮮人かもしれませんわ。
一度見たことがありますが、それはそれはガラガ悪くて犯罪者って感じ。
親戚は泣き寝入りしています。


511 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:51:55.86 ID:M3s+uYkJ0

Bや朝鮮人は集団で来るから恐ろしい


512 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:52:07.75 ID:wEIqKgnm0

まぁ、マトモな奴はBでもKでも親戚が面倒なら縁を切ってるからな。
本人が真っ当に大学出て、ソコソコの企業に就職すると、
変な親戚が居れば、寄生する為に、わんさと寄って来る。
だから、その時点でそいつは親戚と縁を切る。
結婚式の時に無理して披露宴しなきゃすむ話。


 
467 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:03:44.46 ID:wl3fKN600

小、中、高と同和教育があった、B民も同じ学校だったけど
B民の悪行は絶対に他言しちゃならない、したら逆差別を受けるという
恐ろしい洗脳があったのは事実

これ以上は怖くて書けないけどここのスレにチラホラ同じ境遇の人がいて
思い切って書いてみた

個人の付き合い、友達としてなら何も問題ないんだけどね・・・

124 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 12:55:17.21 ID:MF4KgRKB0
>なぜか現在の顔写真が出ない美代子

B落だからねぇ
兵庫のk/a/i/d/o/には警察もマスコミも言いなりよ


143 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 13:12:55.85 ID:MF4KgRKB0
 
今回の事件は同和地区で同和の身内が起こした同和事件
「在日が起こした事件だ!部落とは関係無いよ!」ってことで街道が必死で隠蔽しようとしてるからこの先美代子の顔写真なんて出てこないわよ〜


472 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 20:11:00.56 ID:t9NaotrQ0
>>143
---
 ★「部落解放同盟」 とは、朝鮮人避難民がそのまま定住した部落組織で、略称は解放同盟 「同和」 である
---
 部落解放「運動」は、在っていう部落解放「同盟」に乗っ取られたんでしょう。
 
 皆吉家は奄美から出て来たって報道見ましたけど。
 こつこつ働いてきた家に孫の遺体が埋められてるなんて。

140 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 13:07:41.40 ID:NwQWrGL00
>>130
記事はだいたい会ってると思うが

「今の日本を象徴するような現代的な事件。 」

これはないでしょwww
部落や在日社会を象徴するような事件
記者の人がそっち出身なのかな


151 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 13:22:22.87 ID:JeLbIIhM0
>>140
”部落や在日社会に乗っ取られた”今の日本を象徴するような現代的な事件

が正解のような気がする

277 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 15:57:57.83 ID:TcIaDQK2O

同和は何年か前に、いつまでも地域や国からの援助で固まっていても未来がないと
動いた人たちがいたけど当事者たちがコミュニティーから出たからないのね。

インタビュー受けた同和の若い子達も「出自で悪口言われて泣いた」とか言ってたけど、あそこで固まってたら抜け出せないでしょうよ。
例えば関東に引っ越せば詳しく地元を聞かれないし適当にいくらでもかわせるのに。


278 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:02:08.76 ID:t3U1DtfT0
>>272
警察が部落に口出しできると思ってるの?
かいほーどーめーのこわーいおじちゃんたちにころ・・・


279 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:07:00.62 ID:t3U1DtfT0
>>277
Bはどこに引っ越しても見た目や言動でわかります
だからBが引っ越すときは他県のB地域に引っ越すんですよ


280 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:10:28.24 ID:+k+QNRPD0
>>279
Bの人にはどんな特徴あるの? 


281 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:11:13.12 ID:A1/LpVkX0

見た目でわかるの?
どんな見た目?
どうしてまたB地域に引っ越すの?
東北在住のせいか、よくわからないわ。

287 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:20:19.46 ID:TcIaDQK2O
>>279
あなた差別工作員?
おかしな人なんてどこでもいるし見た目も色々いる。
生まれも育ちも関東だけど2ちゃんで見るまで部落の話なんて身の回りで出たことがないよ。


288 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:22:30.50 ID:BNXbzU1C0
角田の息子や内縁の夫は逮捕されてないの?
共犯者ではないの?


289 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:25:25.28 ID:YaSiFlvI0
>>287
別に差別するつもりはないがB顔はあるよ
顔つきってのは仕草にもよるんでそこだと思うが
もちろんわからない人もいるんだけど一般的な日本人にはいないタイプだから
B顔みたらBの人なんだな、となる
特に男性はわかりやすい


290 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:26:36.56 ID:BNXbzU1C0
>>279
それ、なんか分かるわ。
B友が大阪に引っ越した先が、また、そういう地域だったし。

思考独特やし。
差別問題に対しては執着心ある友。
普段は、いい人なんだけどね。

また戻ってきて、
B地区に住んでるけどね。


305 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:34:01.07 ID:EG9FFKCh0
>>281
>見た目でわかるの?

ちょっと判る気がする
あの方達は「雰囲気」が独特なの
まず普通の視線の置き方をしない(睨みつけるか、逸らすか、横目で)
それから極端に他所者を排除する

美代子の家に複数の家族が同居してたでしょ?
ああいうのが多いと思う。仲間として認めたら濃い密接な関係で固まる
友達が出来て遊びに行ったら表札も無くて「山田(仮)は2階だよ」と平日昼間に家に居る中年男
極々小さい長屋でもそう。そういうところだよ


308 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:36:29.51 ID:BNXbzU1C0
>>305
目に出てるよね確かに。
目が座ってらっしゃるものw
あと、あまり動じない人が多い。
変に堂々としててドライ。


311 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:41:04.24 ID:YaSiFlvI0
>>308
卑屈で卑しい目つき、それに尽きる
常に人目を気にして生きてきた仕草が出てしまう
京都の野中とか代表的すぎ

重ねて言うけど差別はなくさないといけないし
情報は全部出して少しでも解決の糸口を見つけるなり
こういう事件が再発しないように少しずつ対策した方がいいと思っている
戦後これだけの時間がたってもまだこんな事件が出てくるんだから

294 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:28:46.25 ID:LhQ/rkiE0

文春より

三枝子、月岡靖憲、葬式トラブル家の四男は同じ中学の同級生
三枝子、靖憲は付き合って結婚していた

ちなみに「葬式トラブル家の母」と「月岡叔父の嫁」は姉妹
美代子と四男はいとこのいとこ
美代子は四男の次男を養子にしている

ややこし〜


300 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 16:30:45.61 ID:BNXbzU1C0
>>294
ZやBは、そんな感じで、家系がややこしい人が多いよ。

353 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 17:22:00.29 ID:bTEozs2TO

三代続く東京人だけど、普通に関東にも部落あるよ。
勤めが電話会社だけど、現在も披差別特定地域ってのがあって、そこは電話基本料金ただです。 同じようにガスや電気も基本料はただだと思います。

差別を武器にとにかく金銭的に得してる。
だから同和の人達はそのエリアから出て行かないんじゃないかな?
入社して直ぐに同和教育の研修を受けたよ。


454 :可愛い奥様:2012/10/31(水) 19:48:41.66 ID:EG9FFKCh0

清掃局やバスの運転手は「同和枠」がありますよ
だから覚せい剤中毒や数年仮病の公務員がいっぱいいる
不祥事で逮捕されると市長は安心して首にできるw
http://ikura.2ch.net/test/read.cgi/ms/1351539680/


105. 中川隆[-7838] koaQ7Jey 2018年4月07日 12:15:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10006]


部落出身者 在日朝鮮人


近親結婚を追跡調査した報告があり、将来できる子どもの殆どが障害者、知恵遅れ、犯罪者になる確立が高いという結果が出ている

カリカック家の一族という外国にある部落の子孫の犯罪率の高さや頭の悪さを追跡調査した報告があり、将来できる子どもが殆ど知恵遅れや犯罪者、身体及び精神を病んでいる人が多い、と報告されている

部落出身者又は在日朝鮮人に障害者が多いのは、近親結婚が多かったから

優生学研究者は遺伝説を唱えている

ジューク一族の研究論文では、2人の部落民が次々と子どもを作っていき、最後は1000人くらいの子孫になるが、半分以上が、精神障害者で、さらに半分が犯罪者になったという結果も発表されている

部落の人の多くは、遺伝的に粗暴で知恵遅れが多く発生している

別部落出身者や在日は、育つ環境に問題があるのではなく遺伝の問題

遺伝はいつでるか分らず孫の代に出るかも知れない
http://blog-imgs-36.fc2.com/u/r/a/uracigoto/img_1214704_38288977_0.jpg


在日朝鮮人

韓国も階級社会で、日本に来た朝鮮人は韓国では差別にあっていた民族

親や兄弟姉妹間で子供を作ったので奇形が多く、生まれるとすぐに川に流した

今はみやげもの屋に売っているが…

日本でも「こけし」これを漢字にすると「子消し」

生まれるのが殆ど奇形児で川に流し「こけし」として押入れなどに隠していた

「姫だるま」「こけし」も同じ由来がある

貧困農家の口減らしとされているが事実は違う
http://blog-imgs-36.fc2.com/u/r/a/uracigoto/df_20130301202255.png


部落出身者は300万人

在日は韓国で差別されていたのを日本が軍人として日本に連れて来た

彼らも血族結婚で日本の部落民と同じで血筋に弊害がある

韓国人がすべて、というのではなく部落民は親族結婚を繰り返したので精神病、奇形の遺伝子を確実に引き継いでいる

それと知らずに結婚すると精神病の遺伝子が必ず子孫にでる

これを書くと必ず批判が殺到するがこれは事実だ!

オレが言いたいのは「精神病は必ず遺伝する」ということ

競走馬にしろ、牛やブタ、ニワトリもすべて遺伝子操作で作られる

例えば胎児の段階で、脳細胞をがんがん刺激し、細胞をたくさん分裂させたら生まれてから英才児になるかもしれない

将来は、赤ちゃんを産むときに受精卵の遺伝子をコンピュータなどで読んで、

「この人のIQはこのくらいになりそうだ」という話になると思う

IQが140以上になる可能性は0.1%、130以上は5%とか、

今のままでいくとIQ100を越える可能性は0とか、ある一定の確率が出てくる

体外受精で受精卵1個を取りだして検査すると、プリンターから一覧表がでてきて、

IQ130以上なるパーセントは5パーセント、身長何センチになる確率何パーセント

70歳以上生きる確率が70パーセント、80歳以上は3パーセントと計算が出てくる

美人になるかならないか、までも出てくるだろう

受精卵は作るたびごとに遺伝子は違うので病気の一覧表を両親に渡して、こんな値であれば、この受精卵を使うのはやめて別の受精卵にしょうということもあり得るだろう

人間の肉体と精神の特徴、あらゆるもの計算される時代になるかも…

クローン人間ではなく改造人間の時代になる

そうなれば部落民のDNAでも在日のDNAでも関係なくなるが、それまでは…

だから部落民や在日のDNAを引き継ぐと大変なことになる
http://blog-imgs-36.fc2.com/u/r/a/uracigoto/df.png
http://blog-imgs-36.fc2.com/u/r/a/uracigoto/vb.png


http://uracigoto.blog.fc2.com/blog-entry-246.html

血族結婚部落の優生学的調査概報(第一報) −新潟・長野県境「秋山郷」調査−
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/16894704.pdf

血族結婚部落の優生学的調査概報(第二報)−千葉県安房郡七浦村、豊房村調査-
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/DATA/pdf/16894804.pdf

血族結婚部落の優生学的調査 −山梨県南巨摩郡西山村奈良田部落調査-
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14208903.pdf

血族結婚部落に関する生体人類学的研究(2)
http://www.ipss.go.jp/syoushika/bunken/data/pdf/14209001.pdf

この写真は人間の奇形児
http://blog-imgs-36.fc2.com/u/r/a/uracigoto/1d82bae043f6d36f495ead612ccb438a-300x237.jpg


親が代々血族結婚をした子供…
http://blog-imgs-36.fc2.com/u/r/a/uracigoto/93f0f764df25b503be229642b2894dc6.png


朝鮮部落の朝は、酒の臭い。2011-01-03 | 日記

私は、この朝鮮部落に住んでもう8年ぐらいたちます。

あさは、ひとのさぐりあい、ひとのけなしあい、おまけに悪口大会、
そうして、つながりといえば、兄弟姉妹のセックス関係だけです。

あんまり近親相姦がおおいので、ちんば、いざりがたくさんいます。
それに、通名も当たり前で、年賀状も通名らしいです。

この朝鮮部落の臭いは、時にねこのしょんべんのにおい。
ときに、酒の発酵した、いやなにおい、または、たまに洗濯のいいかおり、

朝鮮人が昨年しんでいきましたが、内密に葬式をしたらしく、釣り目のあつまりはみれなかったです。

そのひとは、すこしおかしなひとでした。

いつも、のぞいてました、大家にうその通報はするは、本当にいやなひとでした。
「うえから、みえるんだろう」とか
「おいだしてやる」とか

困っていたら、しんでゆきました。北朝鮮のほうへたぶん灰はとんでいったのでしょうね。

朝鮮部落の若者は、結婚しませんというよりも、できません。
または、朝鮮部落同士まぐわります。

それで、ちかくにある産婦人科でおろします。
生めない子つまり、近親相姦のこどもだからです。

性の関係は、普通の人よりも、はるかにはげしいです。
結婚できないためなのか?

ストレスの多い環境のためなのか?
すごい、年齢まで、近親相姦または、デリヘルなどでやりまくりますね。

この町のいいところは、ひとのさぐりあいですので、
孤独死はありません。たぶん大家が勝手にさぐりますからね。

朝鮮人同士の仲のよさ、それはすごいです。
ほかのものをよせつけないし、臭い部屋でも平気ですね。

孫も、ちょうせんじんなら、かわいそうとしかいいようがないです。
人間のうじですね。

私の住む町は、●●朝鮮部落です。
しかし、みんなは、ひみつにしております。
http://blog.goo.ne.jp/ootomo0320/e/fc08fc45f24c9891f107bc50f2a03dd7

裏には裏の道があり  2011/2/25(金)

たまたま1月に新年のご挨拶ということで、工藤会系の事務所へ足を運んだ時、いろんな人と出会って話をさせてもらいました。その中にA氏はいました。


A氏は田川市の出身。部落差別の中で気が付いたら893のご職業をされているということだった。

残念ながら筑豊地方や北九州市内というのは無数の部落が存在している。15歳になって中学を卒業すると当たり前のように働きに出るのだが、もちろん仕事が無い。
部落出身ということを隠してうまく就職できても結局、後からバレてクビになる。

男性の場合はかなり働き口が狭いので、多くの人間が余ってしまう。それでしょうがないから裏社会へと入ることになる。

そちらのことはまた追々。今回は女の子の方の話。


とりあえず15歳になって中学を卒業したらお水商売の世界へ入るのが半ば、常識のようになってしまっている。在日の経営するパチンコ店などに働きに出るのもいいが、正直、稼ぎが段違いなのですぐに辞めてしまうという。


そのA氏は斡旋をする仕事をしてる。

中洲がもちろんメインではあるが、大阪の飛田新地、名古屋、札幌、東京などにも顔が広く通じていて、15歳になった女の子を広く斡旋しているということを話してくれた。


部落の地域だと常識なんて無い。 我々の考える常識とはかけ離れた世界がそこには存在している。暗く・・・絶望と悲観と・・・ 


A氏が、15歳になった少女と出会い、話を聞いてみると、

初体験は小学生の時で、部落の中でも何度も何度もレイプされたり、

時には父親にレイプされたり、祖父にレイプ、義父にレイプされたり、

さらにその全員に順番にレイプされたりして育つ。

ちょっとキレイめで可愛らしい子になると、15歳の時にすでに男性経験は500人というとんでもないのもいるのだそうな。


だから、中学を卒業したばかりの女の子に声をかけると、喜んでお水で働きたいと言うらしい。今までは襲われてもただ快楽を得るだけで、お金にはならなかったが、これからはセックスが金になると知って喜ぶのだそうだ。 私にはまったく信じられないが、それが部落の世界なのだそうだ。


15歳でいきなりソープデビュー。15歳という若さで本番ありということだから、料金は8万でも10万円にも設定しても客は殺到するという。ほとんど中学生のような少女と金を払えば合法的(?)にセックス出来ると聞いて金の使い道に困っている男達は群がる。1回10万円でも1週間に30回の予約を入れた強者もいたらしい。凄過ぎる。


本人の取り分は半額。それでも、中学を卒業したばかりの少女が1年でもの凄い金額を稼ぎ出す。


さすがにまだ本番までは抵抗があるという少女の場合はお触りだけのピンサロやキャバクラで働く。ソープにはかなわないが、やはり中学卒業したばかりの女の子がってことで固定客はいっぱい付くからなかなかの収入になるという。

入った金で整形をして綺麗にして、うまくいけばAVにでも出てまたそれなりのお金を稼いで部落出身の男と結婚してはすぐ離婚、また結婚してはすぐ離婚を繰り返す人生を送る。


娘が生まれると金になるってことで、金が欲しい父親は娘をレイプして子どもを産ませたりする。男の子だとガッカリし、女の子だと大喜びする。

私が出会ったことがある女性は、祖父との子どもを産み、義父との子どもを産んだことがあるって平気な顔で話してくれたから、驚いたことがありました。


精神病を患っている人も部落にはたくさんいて、産まれてくる子どももまた精神病に。


A氏が話してくれた悲惨な女の子の話。

産まれてすぐに精神病と分かり、父親が育児放棄。母親は自殺。

その後、祖父母が育てたが、小学校に行く頃からさらにおかしくなり、いつも下着姿でその辺を徘徊したりしてどうしようもなかったという。

で、部落の大人の男性たちが毎日レイプ。
集団で次から次へとレイプ。

中学生ぐらいの年齢の頃には2人の子どもがいたという。

そんな年齢でも服を着ないでその辺を徘徊しているものだから、男性が寄ってきては普通に道端でレイプされているとのこと。誰も止めないし、いつもの光景といった感じ。それで次から次へと精神病を患った子どもが出来たという話を聴いた。


A氏が言うには、その少女は部落の人間に毎日レイプされるためだけに生きている、とのこと。


なんだろうね・・・・悲惨を通り越して、言葉が出なかった。


A氏が言うには、そんな精神病患者でも植物を言われた通りに育てることぐらいは出来るのだそうだ。だから、大麻を育てさせては、少ない生活費を渡すということが行われているのも普通のことなんだそうな。たぶん、それが大麻だと知らずに育てるんだろう。育てるとお金がもらえるから一生懸命育てる。普通だったらおかしいと思うが、残念ながらそう思う回路を持っていない。


そんなことを繰り返しては、A氏は少女と大麻で組の中でものし上がっていったそうな。

やはり経済力を持った893は上からも当然重宝されるし、金を山ほど持ってる構成員は出世も早い。

「にいちゃん、金に困った時はいつでも電話ちょうだいな。金ならいくらでもあるからいつでも助けてやるわ」

って、にやっとしながら話してくれた。

「大丈夫、金には困ってないから」

そう伝えると、またにやっと笑いながら奥の部屋へ入っていった。
http://blog.goo.ne.jp/kimutamako1212/e/13f7cdcd736285b2acfdb818a1be2ff2



106. 中川隆[-7893] koaQ7Jey 2018年4月10日 10:56:28 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10096]
>>1 に追記


中国で見かけた納豆は、やはりネバネバしていた
中島恵 (ジャーナリスト)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12424


 SNSをやっている人はご存じだと思うが、SNSには「昨年、あなたはこんな投稿をしました」という、なんともご親切な振り返り機能というものがある。先日、私のSNSにも「2年前の今日、あなたは・・・」という表示が出て、自分が2年前のその日、貴州省を訪問したときのことを突然思い出すことになった。

 貴州省といってすぐにピーンと何かを思い出す日本人はあまりいないだろう。貴州省は中国の西南部の内陸に位置する省で、広西チワン族自治区、雲南省、四川省、湖南省などに囲まれている。少数民族が多く、GDPが全国的に見て低いことから、中国の中では大きな存在感はない。だが、日本の検索サイトで「貴州省」と打つと、「貴州省日本観光センター」というサイトが上位に出てくる。貴州省の概要を日本語でコンパクトに紹介してくれるものだ。このように海外で観光PRを行っている省は少ないが、大自然の美しさといい、少数民族のきらびやかな民族衣装といい、北京や上海にはない「別の魅力」がある省といえる。

市民の台所、市場で見つけた納豆

 さて、その貴州省に滞在していた2年前、自分がSNSに投稿した写真を見て、私はギョッとした。なんと、納豆の写真を載せていたのだ! 日本の納豆ではなく、もちろん貴州省で見た納豆である。自分がそんな写真を撮ったことすらすっかり忘れていたのだが、写真を見るなり、さまざまなことを思い出した。そして、奇遇なのだが、その数日前に納豆の本を読了していたことから、頭の中で納豆に関する想像が沸き上がったのであった。

 私が納豆に出合ったのは、省都、貴陽市の外れにある小さな市場。仕事で訪れていた貴州大学から徒歩で20分ほど歩いたところだった。〇〇市場などの名称はなく、市民の台所といえるような雑然とした感じだ。道路の脇から突然、野菜を売り始める市場が始まり、進んでいくと鶏肉(生きたニワトリ)やトウガラシ、お惣菜などが売られている。細い路地に小さな店が並び、民族衣装を着たおばあさんらが買い物をしていた。

 そこに突然、納豆らしきものが現れた。

見かけた瞬間、「ああっ! あれ? これ納豆じゃない?」と思わず興奮ぎみに叫んでしまった。同行してくれていたのは現地の大学院生の女の子だったが、涼しい顔で「はい、そうですよ。中島さん」と回答するのみ。「え〜、納豆。こっちの人も食べるんだ……」としげしげと見つめる私に、彼女は「せっかくですから、記念に写真でも撮りますか?」と冷静に答えてくれた。そして撮ったのが、この1枚である。

http://wedge.ismedia.jp/articles/-/12424?page=2

貴陽の市場で見かけた納豆。量り売りだった

 なぜか、この1枚しかない。なぜもっと写真を撮らなかったのだろうか。自分でも不思議だし後悔している(ことを2年ぶりに思い出した)のだが、それでも、この1枚が残っていてよかった。

見た目も臭いもまるで日本の納豆

 大きな籠の中に入っている納豆はネバネバとしていて、まるで日本の納豆そっくりだ。顔を近づけてみたが、臭いも日本の納豆のようだった。納豆の中にプラスチックのスプーンが入っているが、それですくってビニール袋に入れて、量り売りするという。残念なことに価格は忘れてしまった。すぐ近くで売っていた白いおまんじゅうが5元(80〜90円)程度だったので、同じくらいではないかと思うが、もはや確認することができない。周辺で売られていた野菜も、北京や上海とは比べ物にならないほど安く、日本では見かけない種類が多かった。

 そこで納豆を買って食べることをしなかったことが、ジャーナリストである自分にとって最大の後悔なのだが、後日、貴陽市内に住む知り合いの中国人にSNSで問い合わせてみたところ「主に苗(ミャオ)族など少数民族の人たちが食べていると思う」と教えてくれた。漢民族である知り合いは「あまり食べない」といっていたが、食べ方を調べてもらうと、主に3つくらいあることがわかった。(1)ネギや醤油と一緒に混ぜて食べる、(2)香菜(シャンツァイ)やトウガラシ、セリなどと混ぜて合え物にする、(3)料理の調味料のようにして炒め物に使う、などだ。

 確かに、この見た目は日本人が思い浮かべる納豆そのもので、(1)、(2)、(3)どの調理方法でもおいしそうだ。まさか醤油をたらすとは思わなかったが、中国の醤油は日本のそれとは少し違い、味が濃い。貴州省では野草などもよく食べ、私も現地でドクダミの茎の和え物を食べたが、ここに納豆を混ぜて入れてもおいしそうな気がした。炒め物というと、中国では豆鼓(トウチ)炒めが思い浮かぶ。納豆よりも小さな黒豆と肉などを一緒に炒めた料理だ。


ドクダミの茎の和え物。貴州省だけでなく湖南省などでもたべられている。


大都市の健康志向の人も食べているかも?


 そして、知り合いによると、どうやら、ネバネバしたタイプと、乾燥したタイプの2種類あるようだ。知り合いも納豆専門家ではないので詳細まではわからなかったが、ちょうど最近読んだノンフィクション作家の高野秀行さんの本『謎のアジア納豆』に興味深い記述があった。

 それによると、納豆は日本や韓国(韓国ではチョングッチャンという)などだけでなく、中国の一部(湖南省や貴州省、雲南省など)やタイ、ミャンマー、ネパールなどでも食べられているという。山岳地帯や盆地に住む民族(中国の苗(ミャオ)族やミャンマーのシャン族など)の間で食べられてきて、せんべいのように平たくして乾燥させた納豆もあれば、ネバネバしたタイプ、蒸し納豆などもある。ネバネバしているものだけが納豆という認識は、日本人だけのイメージなのかもしれない。納豆といえども、バリエーションも豊富だし、けっこう奥が深いのだ。日本ではパックで売られていて、しかも特製のタレまでついており、すっかり国民食となっているが、中国やアジア各国ではそういう売り方はしていないし、地味な存在だ。

 全国納豆協同組合連合会のホームページを見ると、縄文時代の終わりごろには、すでに日本人は納豆のようなものを食べていたとされているが、詳細はわかっていないらしい。高野さんの本を読んだときも思ったが、案外、納豆についてはまだ解明されていないことも多く、それも驚きだった。

 ところで、納豆と中国のつながりで思い出した。2015年の爆買いブームとき、中国人は日本のドラッグストアで、たくさんの薬やサプリメントを買って帰ったが、その中に「ナットウキナーゼ」という酵素もあった。健康にいいということ、中国では売っていないということから目をつけたようだが、今、北京や上海などの大都市のスーパーに行くと、まるで日本のスーパーのように納豆がたくさん売られている。中国で生産している納豆もあったが、日本からの輸入品もある。上海高島屋の食品売り場で見かけて、その値段の高さにびっくりした記憶がある。おそらく日本人駐在員用かと思ったが、あれだけ売られているということは、健康志向の上海人も日本製の納豆を食べているかもしれない。

 都市部の中国人は経済的に豊かになり、健康にいいと聞くとすぐに飛びつくようになったが、内陸部の少数民族は、そんなこととは関係なく、はるか昔から納豆を食べていたのだ。2年前の自分の投稿をきっかけに、ふと納豆についてあれこれと思いを巡らせることになった。たかが納豆、されど納豆だ。


107. 中川隆[-9669] koaQ7Jey 2018年4月14日 16:50:16 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10312]


『Y染色体からみた日本人』 中堀豊 (岩波科学ライブラリー)
https://www.amazon.co.jp/Y%E6%9F%93%E8%89%B2%E4%BD%93%E3%81%8B%E3%82%89%E3%81%BF%E3%81%9F%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E4%B8%AD%E5%A0%80-%E8%B1%8A/dp/4000074504

Y染色体からみた日本人 2010年04月30日
http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2010/04/y.html

 ミトコンドリアDNAが母系で受け継がれるのに対し、Y染色体は父系で受け継がれる。ミトコンドリアDNA解析は過去10万年の人類の移動を明らかにしたが、正確には女性の移動なので、ヨーロッパ人のアメリカ大陸侵略のような男性主体の移動は検知することができない。男性の移動を明らかにするにはY染色体の解析が必要である。

 本書は2005年発行とやや古いが、Y染色体の研究者による日本人の起源論である(2009年時点の研究は

崎谷満氏の『新日本人の起源』
https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%8B%E3%82%89DNA%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%B8-%E5%B4%8E%E8%B0%B7%E6%BA%80/dp/4585054219
http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2010/04/post_192.html

を参照のこと)。

 Y染色体による民族のルーツ探しの本としてはブライアン・サイクスが

『イブの七人の娘』
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%83%B4%E3%81%AE%E4%B8%83%E4%BA%BA%E3%81%AE%E5%A8%98%E3%81%9F%E3%81%A1-%E3%83%B4%E3%82%A3%E3%83%AC%E3%83%83%E3%82%B8%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-N-%E3%82%B5-1-1/dp/4863328567/ref=asap_bc?ie=UTF8
http://www.horagai.com/www/book/read/rd2002a.htm#R007


の姉妹編として書いた

『アダムの呪い』
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A2%E3%83%80%E3%83%A0%E3%81%AE%E5%91%AA%E3%81%84-%E3%83%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%B3-%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%AF%E3%82%B9/dp/4789722791/ref=la_B001H6J09S_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1523691985&sr=1-2


があるが、読みすすむにつれ鬱になった。

 女性は妊娠によってしかDNAを残せないのに対し、男はその場限りのセックスで子孫を残せるので、Y染色体はミトコンドリアDNAよりも寡占が起きやすい。ミトコンドリアDNAのハプロタイプを図であらわすとクラスターがきれいに並ぶのに対し、Y染色体のクラスターは不揃いで不規則だ。大半のY染色体は途中で失われ、少数のY染色体のみが栄えるというのがY染色体の現実なのだ。サイクスの本には900年前に死んだサマーレッドという武将のY染色体が40万人に、チンギス汗のY染色体は1600万人に受け継がれているとか、南アメリカのインディオのY染色体はヨーロッパ系ばかりだとか、恐ろしいことがたくさん書いてある。

 きっとその類の話だろうと心して読みはじめたのであるが、意外にも日本人のY染色体は攻撃的でも侵略的でもなかった。

 日本人の起源については縄文人の基層の上に稲作文化をもって渡来した弥生人がくわわり、混血したという二重構造モデルが定説化していたが、Y染色体でも縄文人と弥生人という二大グループは一応確認できた。弥生系の中核をなすOb1は中国に多いクラスタから派生しているのに対し(中国では絶滅している)、縄文系の中核であるD2はアジア人の祖形に近い古いタイプらしく、日本と朝鮮に見られる他は、近縁のD1がチベット人に残っているにすぎない。Y染色体の系統図では縄文系と弥生系は相当離れているのである。

 それにくわえて縄文系の中核であるD2の男性は精子の濃度が低く(!)、無精子症になりやすいことがわかった。

 常識的に考えれば縄文人は侵略された側であり、その上に精子濃度が低いとなれば現代日本人のY染色体は弥生系一色になっていてもおかしくはないだろう。ところがそうはなっておらず、都市部では縄文系・弥生系ともほぼ同頻度なのだという。

 そうなった理由は二つある。まず、弥生人侵略説は誤りだったこと。弥生人は百万人規模で押し寄せていたとされていたが、DNA解析の結果、渡来した弥生人はすくなく、しかも少人数づつさみだれ的にやってきたことがわかった。第二に精子濃度の季節変動が縄文系と弥生系では逆になっていたこと。

 縄文系D2の男性は1〜6月生まれが多く、弥生系の中核をなすOb1の男性は7〜12月生が多いという結果が出たので精子濃度の月変化を調べたところ、縄文系D2は秋から冬が濃度が高く春になって急落するのに対し、弥生系Ob1は春から夏にかけて濃度が高く秋に急低下することがわかった。

 縄文系D2と弥生系Ob1は受精させやすい時期がずれていたのだ。

 著者は最後にこうまとめている。


 日本の男性は大陸の落ちこぼれである。一度目の落ちこぼれである縄文人と、二度目の落ちこぼれである弥生人が、互いを滅ぼしてしまうことなく共存したのが現代日本の男性たちである。まさに、窓際族同士仲良く机を並べて、極東の小島で自然の恵みを享受し、自然に従って生きてきた。互いの言葉も融合させてしまった。

 うーむ、妙に説得力がある。複雑な気分である。
http://booklog.kinokuniya.co.jp/kato/archives/2010/04/y.html


108. 中川隆[-9832] koaQ7Jey 2018年4月15日 21:59:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10480]

日本列島に渡来した民族のハブロタイプ


153名無しさん@涙目です。(庭) [KW]2018/04/15(日) 15:36:59.27ID:KJUZPVOB0

40.000年前 C1a1(ポリネシアン)
35.000年前 D1b(日本列島固有)
34.500年前 C2a(日本列島固有)

3.000年前 O1b2(江南)
1.300年前 O2(百済、新羅、高句麗)


109. 中川隆[-9986] koaQ7Jey 2018年4月16日 17:30:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-10666]
縄文時代後期の約4000年前に日本列島の人口は26万人超だったが、縄文末期の3000年前には約8万人まで減少した。

しかも東日本では減少率が少なかったが、西日本は最初から10分の1の人口密度のうえに、壊滅的な減少に見舞われた。

弥生時代の大量移民

人口減少の原因は気候変動で、縄文時代をもたらした温暖化は日本海の水位を120mも上昇させるほど暖かかった。

4000年前から寒冷化が進み、木の実や魚介類や動物が少なくなり、自然減少しました。

自然採集では食えないので大陸では先に農業が始まり、後から農業を始める集団は「農業未開の地」を求めて半島や列島に移住したと考えられます。


この頃から九州に移住して田んぼを作り始めたのが半島南部から来た「渡来人」で、渡来は1千年以上続いたとされている。

推測では年平均1000人ほどの渡来が1000年間つづき、合計では100万人もの人が移住してきた。

縄文末期に西日本の人口はせいぜい2万人で、九州では1万人未満、渡来地の九州北部は数百人しか居住していなかったと考えられる。


人口数百人の地域に毎年1000人もの渡来人が渡ってきて、九州の縄文人と交わり「弥生人」に変化した。

縄文末期の1000年間で26万人から8万人に減った人口は、その後の1000年間で60万人まで増加しました。

これが弥生時代をもたらし、邪馬台国やヤマト政権に発展したと考えられている。
http://www.thutmosev.com/archives/75746010.html


110. 中川隆[-10843] koaQ7Jey 2018年4月21日 09:34:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-11662]

縄文関係の記事はこちらに纏めました:


「縄文時代はよかった。」で?どうやって縄文時代のいい所を取り入れるのか?
http://www.asyura2.com/0505/dispute21/msg/430.html


111. 中川隆[-11316] koaQ7Jey 2018年4月25日 15:55:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-12289]

2018年04月25日
古代日本の環境問題 遷都をくりかえした理由は環境汚染だった

コロコロと遷都を繰り返した理由は汚染による健康被害で、場所を変えれば収まるのは知られていた
引用:平城京クロニクルhttp://wedge.ismedia.jp/mwimgs/9/a/-/img_9af45cd3dbea7454727f305fad3eb535278636.jpg

古代の公害問題

奈良の平城京は710年に都となったが740年には京都の恭仁京に遷都し、745年に再び遷都し都になった。

だが745年には再び遷都し京都の長岡京に都が移った。

この間にも数年ごとに遷都を繰り返し、難波宮(744)や近江紫香楽宮(744)など1年に2度遷都したこともあった。



それ以前の藤原京や飛鳥京、難波宮も出たり入ったりしながら数年から十数年で遷都を繰り返し、恒久的な宮殿ではなかった。

天皇が恒久的に住む宮殿は平安京(794年)が初めてで、明治維新の1868年まで続いた。


平安京以前には最も長かった都ですら平城京の39年間(2度目)平城京1回目は30年間で遷都している。

数年ごとに遷都を繰り返した理由としては、環境問題が大きかったのではないかという見方がある。

それまで首都や都市を作らなかった人々が狭い範囲で生活するようになったため、深刻な環境汚染が起きたと考えられている。


多くの人々が捨てるゴミや排泄物は未処理で貯まっていき、衛生状態が悪化し伝染病なども発生したと思われる。

当時は祈祷によって病気を退治しようとしたが、不衛生な環境が影響しているという認識は持っていたのでしょう。

平城京に移転するとさらに大きな問題が持ち上がり、それは金属加工の際に出る水銀や銅や鉛で水が汚染された事でした。

数年ごとに遷都を繰り返した理由

平城京では奈良の大仏など巨大寺院や仏像が多く建設され、多くは金属が使用され表面はメッキ加工されていました。

副産物の重金属は河川や池に流されて、当時の平城京の池や川は、緑色や青色で輝いていたそうです。

当然ながら住民に健康被害が続出したため、場所を変える目的で、数年ごとに遷都を繰り返した。


遷都したなかに難波宮があり、現在の大阪城の隣りなのだが、また別の環境問題を抱えていた。

当時の大阪は現在の「大阪市」の大半が海であり、天然の良港として半島からの使者や貿易船でにぎわっていた。

だが大和川と淀川から流れ込む土砂が急速に海を埋立てていき、入り江は湾になり、湖になりやがて土に埋まった。


大阪城付近は突き出した半島のようになっていて、そこに難波宮を作ったのだが両側は海であり、不安定極まりなかった。

高波や津波のおそれがあるほか、外的から防御し難いので、わずか数ヶ月で放棄されている。

このように遷都の理由の多くが自然環境や環境汚染によるものだったと考えられている。
http://www.thutmosev.com/archives/75878379.html


112. 中川隆[-12443] koaQ7Jey 2018年5月13日 09:20:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-13930]

ikz********さん 2012/10/19 16:29:16

日ユ同祖論 信憑性はどの程度なのでしょうか。

言語が似ている、歌をヘブライ語にすると意味が通る(君が代、かごめかごめ、 ソーラン節など)という具体的な共通点から、遺伝子が中国韓国人にはないものをもつという根拠不明なものなどが上げられます。

某掲示板では、宗教観が違いすぎる、戦前の白人コンプレックスの日本の学者が作り上げたものだとしているのをみて妙に納得してしまいました。確かにユダヤ教と神道、仏教は違いすぎます。まず一神と多神、偶像崇拝禁止と仏像とで明確です。

ただはっきりどちらに分があるとは判断しにくい部分が多いため詳しい方いたらよろしくお願いします。

aki********さん 2012/10/21 01:10:58

歌の類似性と言えば、和歌がインドの民謡と共通性が高いほうが注目に値すると思います。今でも日本人は海外の文化を輸入して、独自に発展させる才能を発揮していますが、昔もそうだったと考えるべきだと思います。ただし、ヘブライ語と日本語の類似性は他の言語と同程度で、かなり低いと思います。多くは音が似ているだけのコジツケになっていると感じます。

本当に日本語と近いのは、大陸の高句麗語です。言語が近縁かどうかを観察するとき、真っ先に見るのが数詞と言われています。日本語と高句麗語の数詞の比較を行うと、朝鮮語などよりもはるかに近縁の言語という結果が出るようです。

高句麗は滅亡して、その人々は女真族と名を変え、今は満州族と呼ばれています。

彼等は清帝国を築いたわけですが、清の時代に遭難した日本の商人が北京に行って驚いたのが、一二三四ではなく、ヒ・フ・ミ・ヨの日本語の数え方がそのまま通じたことだそうです。高句麗の流れを汲む女真族の言葉を話す人々と、北京で普通に接触できたようです。

百済は扶余・高句麗から枝分かれした王室で、朝鮮半島は異民族支配されていました。

そのため、百済の王室と民は異なる言語を話しているという指摘が、中国側に残っています。

神道の世界には古い朝鮮語が数多く残っていると指摘されることがありますが、実際にはそれが失われた高句麗語という説も出てきています。


高句麗語は日本語と同じ膠着語です。

系統が違う漢民族の言葉と文字がいきなり日本に輸入されたわけではなく、まず漢民族の言葉と直接接していた高句麗語が漢字表記されるようになり、それが、高句麗と近い山東半島や遼東半島付近の海人の手を経て日本にもたらされて、古い神道の祝詞の言葉などが作られていったと考えられます。

纏向型祭祀と高句麗国の東盟祭の類似性も、かなり指摘されているようです。

倭人文化圏が北九州から済州島を経て山東半島や遼東半島付近に分布していたと認識している中国側の史料が幾つか散見されるようです。

卑弥呼寒冷期と呼ばれる地球規模の寒冷化に伴って、飢饉に直面した高句麗地域の人々が日本に渡来した結果、弥生時代が古墳時代に変わっていったという説があるようです。

九州に山東半島原産の三眠蚕が入り、纏向(奈良)にも山東半島付近の製鉄と蚩尤(兵主・天日槍)の信仰が入っています。その結果、天照大神のモデルになった古い日女神を祭った比売許曽(ヒメコソ)神社が建てられるといった現象が起こったようです。

比売許曽は姫を祀る神社という意味の高句麗語(朝鮮古語)です。だから、比売許曽神社の末尾の「神社」は必要のない筈ですが、時代が下って元の意味が見失われた結果、付けられるようになったと考えられます。祝詞にも高句麗語由来の言葉が大量に入っている、というより、本来祝詞は高句麗語(吏読)だったそうです。謎が多いとされる「ひふみ祝詞」は、高句麗語として意味がほぼ通じる形で伝わっているそうです。飛鳥という都の名前も元は高句麗語のようです。

トルコからシルクロードを介して日本まで、膠着語圏が広範囲に広がっています。
文法的に近いため、日本語に輸入しやすかったことが考えられます。


たとえば、天皇を古い時代はスメラ・ミコトと呼んでいました。

シュメール文明と日本語の関係がかなり指摘されていますが、シュメール・ミグトと言えば、天降りた支配者のことで、日本語と音が似ているだけでなく、意味も一致しています。したがって、シルクロードを介して日本に入ってきたのは、なにも古代イスラエルの文化に限られるわけではないと思われます。

秦の始皇帝の兵馬俑はペルシャ式の軍団編成になっていて、ペルシャ人の人骨が近くから出ているようです。

ササン朝ペルシャの滅亡に伴って、シルクロードに逃れた王子が中国に亡命し、妻子を安全な日本まで連れて来ているケースもあるようです。わずか数年で日本とペルシャは繋がる距離にあります。西の文化が日本に断片的に入っていても、不思議ではありません。仏教も入れば、ギリシャ彫刻もガンダーラの地域で形を変えながら伝わっています。

しかし、文化的影響が認められるからと言って同祖論を持ち出すのは、不自然すぎると感じます。それを言うなら、人類はアフリカ原産の動物で、皆同祖という話になります。

遺伝子に関しては本来akatamayorihimeさんが御専門の筈ですが、完全スルーしているようです。相手にする必要もない勘違い、ということだと思います。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1195894356


113. 中川隆[-12437] koaQ7Jey 2018年5月18日 17:04:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-14017]

日本語は縄文時代以前から 日本でずっと話されていた言葉

実はとてつもなく古かった日本語 2018 05.01
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3756.html#more


日本語は、もしかすると世界最古の言語であり、しかも世界で最も美しい言語かもしれません。

かつて谷村新司がロンドン交響楽団をバックにレコーディングをしたことがあります。
そのとき日本語の素晴らしさを再認識し、日本語を大切に歌っていくことを信念にしたそうです。

ディズニー・アニメの『アナと雪の女王』は、世界的ヒットとなったアニメ映画ですが、そのなかの挿入歌の『レット・イット・ゴー、ありのままで』は、世界25ヶ国語に翻訳され、それぞれの国の歌手が歌ったものが youtube で公開されました。

このとき、世界中の人たちが驚き、そして圧倒的な人気をはくしたのが日本語バージョンです。

Let It Go - Behind The Mic Multi-Language Version (from Frozen) - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=BS0T8Cd4UhA

松たか子ver(日本語吹替版)「Let It Go」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/watch?v=4DErKwi9HqM


それは、歌った松たか子さんの声の素晴らしさももちろんあるでしょうが、日本語による発声が、メロディに+αの効果をもたらしたのかもしれません。

どこの国でも、それぞれにお国自慢があります。
ここで日本語が世界一だと述べるつもりは毛頭ありません。
ただ、ひとついえることは、どうやら日本語には、他の言語にはない、不思議なところがあるということです。

ひとつは言霊(ことだま)です。
言葉に魂が宿る。

ではどうして言葉に魂が宿るのかというと、日本語が実はもともとそのように構造された言葉だからなのだそうです。

構造とは、日本語の文法や発音や語彙のことです。

つまり、自然との共生を大切に育くむこと、自然を征服したり、人と自然とどちらが上かのような上下構造をもとうとするものではない文化の下で、人と自然とが対等な関係を育んで来たのです。

2つ目はオノマトペ(仏:onomatopee)です。
オノマトペというのは擬声語を意味するフランス語です。

擬声語は、たとえば

わんわん、メーメー、ブーブー、ニャーオ、ホウホウといった動物の鳴き声を真似たものや、

ドキドキ、パチパチ、バキューン、チリーン、ドカン、カリカリ、バタン、ガタピシ、ガタンゴトン、パチバチ、ビリビリ、ジュージュー、グワァ〜ン、パタパタ、ボキポキなどなど、音を真似たもの、

あるいは、

おずおず、おどおど、めろめろ、ふらふら、きゅんきゅん、きらきら、ぴかぴか、ぐずぐず、ツルツル、サラサラのように、本来音を発しない感情などを言葉で表現するものなどのことです。

おもしろいことに、擬声語(オノマトペ)は、言語ごとに、表現がまったく異なります。

冒頭にあるのは、その違いを示した絵本の抜粋で、クリックしていただくと当該ページに飛びますが、たとえば食事をするときは、日本では「PAKU PAKU」ですが、英語では「CHOMP」、フランス語では「MIAM」、イタリア語では「GNAMグナム」、Korea語では「NYAM」です。

キスは日本語では「CHU」ですが、英語では「MWAH」、China語では「BOH」です。
つまり言語によって擬声語(オノマトペ)は、まったく異なります。
ということは、それぞれの言語圏においては、音がそのように聞こえているということです。

そして日本語の擬声語(オノマトペ)は、China語やKorea語ともまったく異なるものです。

ということは、日本語はChinaやKorea半島からの輸入語では絶対に「ない」ということです。

それだけではありません。

日本語は、この擬声語(オノマトペ)が、他の国の言語と比べて著(いちじる)しく多いのです。
その数、なんと5千語です。

日本語の単語数は、たとえば『日本国語大辞典』の収録単語数が50万語です。
このことは、日本語の1%、およそ100語にひとつが擬声語(オノマトペ)であるということです。

そして単語の中には、日常生活でよく使われるものと、そうでない(たとえば学術用語)ものがあります。

オノマトペは日常的によく使われる語です。
早い話、今朝起きたとき、ご家族に「ぐっすり寝れた?」と聞く。
その「ぐっすり」というのがオノマトペです。

しかし睡眠は「ぐっすり」などという音は立てません。
ではなぜ「ぐっすり」というのかというと、「ぐうぐう、すやすや」寝ているからです。
その「ぐうぐう+すやすや」が短縮されて「ぐっすり」です。

「ぐうぐう」も「すやすや」も、なんとなく、そのような音を立てているといわれれば、なんとなくそうかもしれないと思われるかもしれません。
では、

 風が「そよそよ」と吹く
 太陽が「かんかん」に照る
 白い雲が「ぽっかり」浮かぶ
 星が「きらきら」光る

などはどうでしょうか。

風は「そよそよ」などという音をたてないし、太陽は「かんかん」なんてしゃべったりしません。

ではなぜこのようなオノマトペが使われているのでしょうか。

実は、自然がそのような音を立てているのではなくて、受け止める側が自然が発する音をそのように聞いているのです。

このことについて考古学者の小林達雄先生は、「人々が、人と人との間で行うコミュニケーションのための言語活動と同じか、あるいはそれに近いレベルで自然と向き合い、自然との間で活発な言語活動を行ってきた結果」(『縄文文化が日本人の未来を拓く』p.134)と述べておいでです。

つまり、日本語は「自然と対話しながら発達してきた言語」なのです。

だから欧米人にはただの雑音にしか聞こえないカエルの鳴き声や虫の声も、日本人には美しい秋の音色となって聞こえる。なぜ美しいのかといえば、それは人がカエルや虫たちとコミュニケーションしているからです。

では日本語は、いつ頃の時代から形成されはじめたのでしょうか。
言語の発達には、ムラの形成が欠かせません。
なぜならムラを営むには、言語が必要だからです。
そしてそれは磨製石器の登場と時期を同じにするというのが世界の考古学会の定説です。

世界の磨製石器は、おおむね7千年前以降のものです。
中には2〜3万年前のものもあります。

 シベリアの2万年前のもの
 ロシア南西部の紀元前1万6000年前のもの。
 オーストリア中部の2万9000年〜2万1500年前のもの。

など、ほんの数例です。

ところがこれらは、異常に早過ぎる磨製石器であって、作成経緯等はすべて不明です。
そして、その後に起こるおよそ7千年前の磨製石器の時代(新石器時代)と接続していないのです。

ところが日本の磨製石器は、3万年前の磨製石器だけが単独であるのではなくて、昭和48年に東京・練馬区石神井川流域の栗原遺跡で2万7000年前の地層から磨製石斧が発掘され、また同じときに千葉県三里塚からも磨製石斧が出土、以後、秋田から奄美群島まで、全国135箇所から400点余の磨製石器が発掘されています。

そして1万7千年前には縄文時代が始まるのですが、なんとものの見事に、その縄文時代の文化へと、磨製石器の時代が接続しているのです。

ちなみに長野県日向林遺跡から出土した60点、長野県の貫ノ木(かんのき)遺跡から出土の55点の磨製石器に用いられている石は、伊豆の神津島から運ばれてきた石です。

つまり当時の日本人は航海術に長け海洋さえも自在に往来していたことも伺わせています。

こうしたことから、英国のJ・ラボックという考古学者は、

「日本列島の住民は世界に先駆けること二万数千〜三万年前に新石器時代を迎えていた。」

と述べています。

言い方を変えると、これはつまり、日本は世界最古の文明を持っていたことが証明されている国である、ということです。

そして磨製石器の登場と言語の登場、そしてムラを営むための神話の登場が重なるものであるならば、日本語は、およそ3万年前には生まれ、そこから現代に至るまで、ずっと続いている世界的にも稀有な言語である、ということになります。
そしてそれが可能になったのは、日本人が殺し合いや、自然への征服を好まず、人と人、人と自然が常に調和することを好む民族であったからです。

というより、調和を好むという日本人の性質は、最低でも3万年という途方もない長期間のなかで、最終的に生き残ってきた性質である、ということができます。

おもしろいもので身勝手な文化、自分さえ良ければという文化は、一時的な成功を手に入れることができても、必ず最後に崩壊し、再起不能になります。
ところが調和を大切にする文化は、一時的にどん底に落とされても、必ずまた再生し復活します。

植物には一年草と多年草があります。

最近は品種の改良によって、どちらも美しい花を咲かせますが、もともとは一年草の多くは、だいたい派手な花を咲かせるのに対し、多年草の花は、わりと地味な花が多いです。
地味だけれど、ずっと咲き続けます。
まるで日本人そのもののようです。

日本人は、はっきりとわかっているだけでもおよそ3万年、ずっと自然と調和し共生する道を選んできました。

だから日本語には擬声語(オノマトペ)が圧倒的に多いのです。

コメント


新宿の縄文人は、どんな言葉を話していたか?

東京の新宿のど真ん中、皇居の御堀端から2q程の地点から、縄文時代中期や後期(5千年前〜4千年前)の人骨が多数出土した事がありました。

江戸時代の遺跡を調査すると、その下から縄文時代や弥生時代の古い遺跡が続いて出土する事がありますが、その場合、江戸時代以降の大開発等によって、無残に破壊されていてる場合が多いそうです。

僅かな貝殻の堆積が確認されたとはいえ、分厚い貝層が存在しない内陸の地域から、多数の人骨がまとまって出土すること自体が非常に珍しく、当時現場は大変な興奮に包まれたそうです。

当時、保存状態の良かった、40代ぐらいの男性の顔が復元されました。

やや長めの顔に、上下に潰れた長方形の眼窩、彫りの深い目元の頭蓋骨は、ヨーロッパ人の様な風貌、あるいは、若い頃の宇梶剛士さんに似たイケメン風に仕上がりました。

彼のミトコンドリアDNAのハプロタイプは北方系と言われるA、一方彼の近くに葬られていた別の人骨は、南方系と目されるM7aだったそうです。

様々な地域をルーツに持つ縄文人たちが、新宿の地で仲良く暮らしていたのですから興味深いです。

日本語が「どのように成立したか分からない」と言われる所以は、様々なルーツを持つ人々の言葉が、極めて長い時間をかけて、ゴチャゴチャに混じり合った結果ではないかと思います。
2018/05/14(月) 11:38 | URL | 疑問 #iydQorAY[ 編集]

外国人に日本語で話しかける時にこの擬声語は使わない方が良いそうです。

擬声語に相当する外国語がないので、彼らにはさっぱり分からないようです。

また、行けなくも無いなどの二重否定もダメ。

日本人なら、何とかすれば行けると理解できますが、外国人は
理解できないようです。

外国人にとって日本語は本当に難解のようですが、
この言語を意識せず使いこなしている
我々は本当、凄いのかもしれませんね。
2018/05/14(月) 13:40 | URL | 名無し #mQop/nM.


新宿に生きた縄文人〜市谷加賀町二丁目遺跡の発掘

新宿に生きた縄文人〜市谷加賀町二丁目遺跡の発掘
http://www.city.shinjuku.lg.jp/video/video_jm01.html
https://www.youtube.com/watch?time_continue=607&v=P7VUMR0Mvzo

これですね。
2018/05/14(月) 14:31 | URL | KI


加賀町二丁目遺跡の関連本が出版されています。>KIさん

KIさんへ

動画等のご紹介ありがとうございます。

加賀町二丁目遺跡に関しては、講談社から関連書籍も出版されています。

『おどろきの東京縄文人』(瀧井宏臣著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%8A%E3%81%A9%E3%82%8D%E3%81%8D%E3%81%AE%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E7%B8%84%E6%96%87%E4%BA%BA-%E4%B8%96%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%B8%E3%81%AE%E6%89%89-%E7%80%A7%E4%BA%95-%E5%AE%8F%E8%87%A3/dp/4062870029

という本です。

この本は、考古学少年から考古学おじさん・おばさんまで、幅広い層の人々が興味深く読める内容になっていると思います。

映像で見るのと、写真で見るのとでは、復元された縄文人の顔の印象は少々異なりますね。

映像の方はバックが暗めで、陰影が強調されていますが、写真の方は細部まで鮮明に写っていますので、少し印象が違ったのかも知れません。
写真で見ると、かなり欧米風味の顔に見えます。

個人的に注目されたのは、12号人骨(復元された縄文人)が腰にぶら下げていた、イルカの下顎の骨のアクセサリーです。

縄文人は、イルカやクジラやサメやエイ等も捕獲していたことが分かっていますが、丸木舟しかない時代ですから、漁の腕前は、現代人と比較しても大したものだったと思います。
2018/05/15(火) 09:54 | URL | 疑問 #iydQorAY
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3756.html#more


114. 中川隆[-13427] koaQ7Jey 2018年7月09日 09:27:37 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16393]
日本を作った「イネ」。そのすごい力とは?
2018年07月05日 稲垣栄洋(植物学者)
https://shuchi.php.co.jp/the21/detail/5343?


日本の人口密度を支えた「イネ」のパワー


「人類の歴史は、植物の歴史でもある」……。植物学者の稲垣栄洋氏はそう指摘する。確かに人類は植物を栽培することによって農耕を始め、技術を高め、文明を生み出した。そして、そこから生まれた富を争って戦争が始まった。また、イネ、コムギ、コショウ、トウガラシといった植物は、人々の食生活や文化をも変えてきた。

では、植物から見ると歴史はどのように見えるのだろうか。中でも日本人にとって極めて身近な「コメ」について、稲垣氏の著書『世界史を大きく動かした植物』を元に解き明かしていただいた。

イネはコムギの数倍の生産性を誇る

イネはもとをたどれば東南アジアを原産とする外来の植物である。しかし、今ではコメは日本人の主食であり、神事や季節行事とも深く結びついている。日本の文化や日本人のアイデンティティの礎は稲作にあると言われるほど、日本では重要な作物となっているのだ。

どうしてイネは日本人にとってこれほどまでに重要な存在となったのだろうか。

イネは東南アジアなどでも盛んに作られているが、数ある作物のうちの一つでしかない。食べ物の豊富な熱帯地域では、イネの重要性はそれほど高くないのである。

日本列島は東南アジアから広まったイネの栽培の北限にあたる。

イネはムギなどの他の作物に比べて極めて生産性の高い作物である。イネは1粒の種もみから700〜1000粒のコメがとれる。これは他の作物と比べて驚異的な生産力である。

15世紀のヨーロッパでは、コムギの種子をまいた量に対して、収穫できた量はわずか3〜5倍だった。これに対して17世紀の江戸時代の日本では、種子の量に対して20〜30倍もの収量があり、イネは極めて生産効率が良い作物だったのである。現在でもイネは110〜140倍もの収量があるのに対して、コムギは20倍前後の収量しかない。

「コメと味噌汁」は栄養学的に優れている

さらにコメは栄養価に優れている。炭水化物だけでなく、良質のタンパク質を多く含む。

さらにはミネラルやビタミンも豊富で栄養バランスも優れている。そのため、とにかくコメさえ食べていれば良かった。

唯一足りない栄養素は、アミノ酸のリジンである。ところが、そのリジンを豊富に含んでいるのがダイズである。そのため、コメとダイズを組み合わせることで完全栄養食になる。ご飯と味噌汁という日本食の組み合わせは、栄養学的にも理にかなったものなのだ。

かくしてコメは日本人の主食として位置づけられたのである。

一方、パンやパスタの原料となるコムギは、それだけで栄養バランスを満たすことはできない。コムギだけではタンパク質が不足するので、どうしても肉類などを食べる必要がある。そのため、コムギは主食ではなく、多くの食材の一つとして位置づけられているのである。
稲作に適した日本列島

さらに日本列島はイネの栽培を行うのに恵まれた条件が揃っている。

イネを栽培するには大量の水を必要とするが、幸いなことに日本は雨が多い。

日本の降水量は年平均で1700ミリであるが、これは世界の平均降水量の2倍以上である。日本にも水不足がないわけではないが、世界には乾燥地帯や砂漠地帯が多い中で、水資源に恵まれた国なのである。

日本は、モンスーンアジアという気候帯に位置している。モンスーンというのは季節風のことである。アジアの南のインドから東南アジア、中国南部から日本にかけては、モンスーンの影響を受けて雨が多く降る。この地域をモンスーンアジアと呼んでいるのである。

5月頃にアジア大陸が温められて低気圧が発生すると、インド洋の上空の高気圧から大陸に向かって風が吹き付ける。これがモンスーンである。モンスーンは、大陸のヒマラヤ山脈にぶつかると東に進路を変えていく。この湿ったモンスーンが雨を降らせていくのである。

そのため、アジア各地はこの時期に雨季となる。そして、日本列島では梅雨になるのである。

こうして作られた高温多湿な夏の気候は、イネの栽培に適しているのである。

それだけではない。冬になれば、大陸から北西の風が吹き付ける。大陸から吹いてきた風は、日本列島の山脈にぶつかって雲となり、日本海側に大量の雪を降らせる。大雪は、植物の生育に適しているとは言えないが、春になれば雪解け水が川となり、潤沢な水で大地を潤す。

こうして、日本は世界でも稀な水の豊かな国土を有しているのである。

「田んぼを作る」のは簡単ではない

もっとも、雨が多ければイネを栽培できるというほど単純なものではない。イネを栽培するためには、水をためる田んぼを作らなければならないのだ。ところが、これが簡単ではなかった。

日本の地形は山が急峻であることで特徴づけられる。山に降った雨は一気に平野へ流れ込み、増水してあちらこちらで水害を起こす。そのため、日本の平野部は人の住めないような湿地帯が広がっていたのである。そうかと言って高台に住んでいれば、雨水は一気に流れ去ってしまうから、田んぼに使う水を確保できない。雨が多くても、実際に田んぼを拓き、イネを栽培することは簡単ではなかったのである。

田んぼを作るには、山から流れる川の水を引き込んで、田んぼの隅々にまで行き渡らせることが必要である。こうして、大きな川から小さな川を引き、小さな川から田んぼに水を行き渡らせて、田んぼに水をためることによって、山に降った雨は一気に海に流れ込むことなく、地面を潤しながらゆっくりと流れるようになったのだ。

「何もない」景色に隠された途方もない努力

途方もない労力と時間を掛けて、人々は川の氾濫原を田んぼに変えていった。日本の国土にとって、田んぼを作る歴史は、激しい水の流れをコントロールすることに他ならなかったのである。

「田んぼはダムの役割がある」と言われるが、それは単に水をためているからではなく、急な河川の流れをなだらかにして、ゆっくりと流れながら大地を潤し、地下水を涵養することから、そう言われているのである。

戦国時代の日本では、同じ島国のイギリスと比べて、すでに6倍もの人口を擁していた。その人口を支えたのが、「田んぼ」というシステムと、「イネ」という作物だったのである。

ただ、私たち日本人にとって田んぼという風景は当たり前すぎて、田んぼしかないところは「何もない」と表現されてしまう。そして、田んぼが埋め立てられてコンビニでもできれば、「何もなかったところに店ができた」と言われてしまう。

しかし、そこに田んぼがあるということは、血のにじむような先人たちの努力があったということなのである。

(『世界史を大きく動かした植物』より一部再編集)



115. 中川隆[-13420] koaQ7Jey 2018年7月09日 19:55:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16399]

兵馬俑はなぜ一重まぶた? 三つの説
2018年7月7日 10:48 発信地:中国 中新社
http://www.afpbb.com/articles/-/3181512
  
兵馬俑(2016年5月6日撮影、資料写真)。(c)CNS/ケイ利宇
始皇帝の兵馬俑(2015年6月27日撮影、資料写真)。(c)CNS/彭華


【7月7日 CNS】中国・陝西省(Shaanxi)西安市(Xi'an)の文化的な観光資源は実に豊かだ。周、秦、漢、唐などの王朝が、この地に無数の文化遺跡を残した。

 大雁塔(Big Wild Goose Pagoda)、鐘鼓楼(Bell Tower of Xi'an)、西安城壁(Fortifications of Xi'an)などがある。だが、最も世界を揺るがした遺跡は、「世界八番目の不思議」と呼ばれる秦の始皇帝の兵馬俑(Terracotta Army)だ。

 兵馬俑を見たことがある人は、その膨大さ、緻密さに感服させられただろう。

 千年もの間、黙々と始皇帝を守護してきた者たちが、全員一重まぶたであることに注目している人はそう多くない。

 兵馬俑の兵士が、なぜ一重まぶたなのか。実は考古学界でも、この問題は大きな論争になってきた。幾度もの議論を経て、諸説がある。

■その1・顔料の色落ち説

 兵馬俑の兵士は人間を模して製造されたため、表情は実に生き生きとしており、二重まぶたも一重まぶたの兵士も存在していたと考えられていた。しかし、二重まぶたは顔料を使用して描かれていたため、発掘された際に空気に触れ、酸化したことで顔料が色あせ、一重まぶたになったという説だ。

■その2・職人の手抜き説

 二重まぶたがないのは、仕事に手抜きがあり、わざと二重まぶたを描かなかったという説だ。

 ただ、この説にはあまり信ぴょう性がないように思われる。人に模して製造された大小の陶器製の兵士に、手抜きをするためだけにまぶたを描かないことがあろうか。秦の始皇帝が、職人に適当な仕事をさせたとも考えにくい。

■その3・一重まぶたが漢民族のシンボル説

 ある専門家は、兵馬俑は芸術品であり、人を模してありのままの姿で製造されたと考えている。そのため、兵士が一重まぶたであった原因は、当時のモデルとなった人間が一重まぶただったことに由来している。

 2200年前、秦を統治していたのは、西北地域に住んでいた人々で、モンゴル人や東アジアにルーツがある人種で、相対的に単一民族だ。この民族の身体的特徴の一つが一重まぶたであり、蒙古ひだ(目頭を覆う部分にある皮膚のひだ)があることだ。

 医学用語では、「内眼角贅皮(ないがんかくぜいひ)」と呼ばれ、東アジアや東南アジアの民族に多くみられる。

 晋の時代、漢民族は各地の民族と同化し、秦や漢時代のように単一民族ではなくなった。特に、魏晋南北朝時代には、北方の遊牧民族が南下して来た影響で、漢民族は南方の土着民族と同化した。そのため、唐時代の壁画や彫刻には、鼻が高く目が大きい胡人の姿が見られる。

 一重まぶたとつり目は、漢民族の変わらぬ美意識の主流だ。唐時代の美人画では、細い目のつり目か一重まぶたが多く描かれている。

 千年の月日が流れ、秦の兵馬俑はすでに秦帝国の栄枯盛衰を忘れ、血統に関心を払う者はいない。兵馬俑の形状や表情を通して、当時の文明や社会の様子を理解することができる。今日に至るまで、兵馬俑は人類の歴史と文化の宝庫であり、依然として無数の神秘が眠っている。新たな発見とその継承が待たれる。(c)CNS/JCM/AFPBB News
.
※この記事は、CNS(China News Service)のニュースをJCMが日本語訳したものです。CNSは1952年に設立された中華人民共和国の国営通信社です。
http://www.afpbb.com/articles/-/3181512


116. 中川隆[-13462] koaQ7Jey 2018年7月14日 11:03:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16558]

最先端技術を用いた古人骨全ゲノム解析から東南アジアと日本列島における人類集団の起源の詳細を解明
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf


金沢大学の覺張隆史特任助教(人間社会研究域附属国際文化資源学研究センター),佐藤丈寛助教および田嶋敦教授(医薬保健研究域医学系・革新ゲノム情報学分野)は,コペンハーゲン大学が中心となって進めている古代ゲノム研究の国際研究チームと共に,日本列島の縄文時代遺跡や東南アジアから出土した古人骨26 個体のゲノム解析(※1)を実施し,今日の東南アジアで生活する人々の起源と過去の拡散過程を解明しました。

今回,ゲノム解読がなされた縄文人骨は,愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚遺跡(※2)から出土した約2千500 年前の縄文晩期の女性人骨(※3)で,縄文人の全ゲノム配列(※4)を解読した例としては世界で初めての公表となります。

この縄文人骨1 個体の全ゲノム配列をもとに,現代の東アジア人,東南アジア人,8
〜2 千年前の東南アジア人など80 を超える人類集団や世界各地の人類集団のゲノムの比較解析を実施した結果,現在のラオスに約8 千年前にいた狩猟採集民の古人骨と日本列島にいた約2 千500 年前の一人の女性のゲノムがよく似ていることが分かりました。

このように,本研究は,縄文時代から現代まで日本列島人は大陸南部地域の人々と遺伝的に深いつながりがあることが,独立した複数の国際研究機関のクロスチェック分析(※5)によって科学的に実証された初めての研究として位置付けられます。

特に,縄文人骨のゲノム解析は,覺張隆史特任助教,北里大学医学部の太田博樹准教授,国立歴史民俗博物館の山田康弘教授を中心とした『縄文人ゲノム解読プロジェクト(※6)』の成果の一つとなります。

現在,覺張隆史特任助教らはこの縄文女性を主役としたより詳細な解析結果について,別の論文を発表準備中です。

これらの知見は,日本列島に居住していた各時代の人々の起源の解明に将来活用されるだけでなく,広く東アジア・東南アジアにおける人類集団の起源と拡散に関する研究に大きな寄与をもたらすことが期待されます。

本研究成果は,2018 年7 月6 日に国際学術誌「Science」に掲載されました。また,7月8 日〜12 日に,横浜市パシフィコ横浜で開催されている国際分子生物進化学会において,覺張隆史特任助教らが縄文人の全ゲノム配列を中心とした発表を行います。

【研究の背景】

過去にあった人類の拡散過程を復元することは,今に生きる人々の起源や成立過程,
各地域に居住する人々が持つ遺伝的な特徴の獲得や疾病・病原菌耐性の仕組みを追求す
る上で重要な位置付けにあります。従来の遺伝学的研究では,今に生きる現代人の遺伝
情報から人類の拡散ルートの復元を試みてきました。しかし,現代人集団間の遺伝的な
類似性から,実際に過去の人類の移動ルートが分かるわけではありません。なぜなら,
各時代・各地域の人類集団は常に移動する可能性が伴うため,いつ・どこに・どのよう
な遺伝情報があったかを復元しない限り,過去の人類の拡散過程を正確に復元すること
はできないからです。このため,現代人の遺伝情報から移動ルートを復元するには,多
くの仮定の上で推理するしかありませんでした。
近年のDNA 解析技術の革新によって,超微量DNA から全遺伝情報(全ゲノム)を解読
することが可能になり,遺跡から出土する人骨から直接的に過去の人々の全ゲノム配列
を決定できる時代が到来しました。とはいえ,遺跡出土人骨の全ゲノム解析には,まだ
技術的課題が複数あります。その中で,特に克服しなければならない課題が2 つありま
した(図1)。一つ目は,温暖湿潤地域における遺跡出土人骨の分析が成功していなかっ
たことです。二つ目は,微量DNA からの分析の問題点となる現代人由来のDNA 混入(コ
ンタミネーション)の問題です。このコンタミネーションの可能性を客観的に評価する
ためには,複数の独立した研究機関が相互チェックを行いゲノム解読を達成する,すな
わち,科学的信頼性(Scientific Authenticity)を高める共同研究体制の確立が必須
となります。
これらの課題を克服するために,本国際共同研究グループはDNA 保存状態が極めて劣
悪な環境下にある遺跡出土人骨から効率的に古代人由来のDNA を抽出する技術開発と評
価システムを確立し,現代人由来のコンタミネーションの影響を客観的に評価するため
の国際共同研究体制の構築を進めました。その結果,今までの技術や研究体制では科学
的な復元が不可能であった温暖湿潤気候の東南アジアにおける人類の拡散と遺伝的交
流の復元を世界に先駆けて達成しました(図2)。
さらに,先行研究では縄文人の非常に限られた範囲の部分ゲノム配列(Partial Genome
Sequence)のみが公開されていましたが,本研究では全ゲノム配列(Whole Genome
Sequence)の解読に成功しました。このように,日本列島のような保存状態が劣悪な環
境においても全ゲノム配列の取得が可能であることを示した最初の成功例となり,今後
の古代ゲノム研究の大きな躍進につながるといえます。

図1.研究背景の概念図
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf

図2.古人骨ゲノム分析の実験風景(北里大学医学部の古代DNA 分析専用クリーンルーム内にて)
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf


(左上:現代人由来のDNA が少ない環境下にあるクリーンベンチ内でのDNA 抽出。

右上:
古人骨を分析するクリーンルームでは1 回使い捨ての防塵服と専用のゴム手袋を使用。

下:縄文人骨の側頭骨からの試料採取。)


【研究成果の概要】

本論文で国際共同研究チームは,DNA の保存環境として最も悪い東南アジアの遺跡出
土人骨25 個体と日本の縄文人骨1 個体の計26 個体の古人骨からDNA 抽出を実施し,ゲ
ノム配列決定に成功しました。得られた古人骨ゲノムデータと世界各地の現代人集団の
ゲノムデータを比較した結果,東南アジアに居住していた先史時代の人々は,6 つのグ
ループに分類できることが分かりました(図3)。
グループ1 は現代のアンダマン諸島のオンゲ族やジャラワ族,マレー半島のジャハイ
族と遺伝的に近い集団で,ラオスのPha Faen 遺跡(約8 千年前)から出土したホアビ
ン文化という狩猟採集民の文化を持つ古人骨と,マレーシアのGua Cha 遺跡(約4 千年
前)の古人骨がそのグループに分類されました。また,このグループ1 に分類された古
人骨のゲノム配列の一部は,驚くことに日本の愛知県田原市にある伊川津貝塚から出土
した縄文人(成人女性)のゲノム配列に類似していたことが分かりました。さらに,伊
川津縄文人ゲノムは,現代日本人ゲノムに一部受け継がれていることも判明しました。
一方,他のグループ2〜6 は農耕文化が始まる新石器時代から約500 年前までの古人
骨で,ホアビン文化の古人骨とは遺伝的に大きく異なっており,それぞれ異なる拡散と
遺伝的交流(すなわち混血)の歴史を持っていることが分かってきました。グループ2
はムラブリ族などの現代オーストロアジア語族と遺伝的に近く,現代東アジア集団とは
遺伝的な構成要素をあまり共有していないことが分かりました。さらにグループ1 と東
アジア集団が分かれた後に,グループ1 からグループ2 への混血の痕跡が見つかりまし
た。また,グループ3 は現代東南アジア集団のタイ・カダイ語族やオーストロネシア語
族と遺伝的に近く,グループ4 は現代の中国南部地域の人々と遺伝的に近いことも分か
りました。さらに,グループ5 は,現代のインドネシア西部の人々と遺伝的に近く,グ
ループ6 は,いわゆる旧人に分類される古代型人類であるデニソワ人からの部分的な混
血の痕跡なども見られました。
このように,部分的には中国南部の少数民族からの遺伝的な影響があったり,台湾な
どの地域へも遺伝的なつながりがあったりと,新石器時代の東南アジアの人々は単純に
元々住んでいた狩猟採集民がそのまま農耕を取り入れたという静的な状態ではなく,大
陸内と島嶼部で複数の大きな移住の過程で徐々に農耕を取り入れて行ったことが分か
ってきました。従来の考古学的な視点からは,これらの時期には稲作・雑穀などの農耕
文化を持つ人類集団が東南アジアに多数入植して原住民と置き換わったというシンプ
ルな「2 層構造仮説」が提唱されてきました。本研究成果では,すでに稲作文化を持っ
ていた中国南部からの遺伝的な影響は部分的で,人々が完全に置き換わったということ
ではないことが判明しました。その大きな移住の波が少なくとも4 回以上はあったこと
が解析の結果分かってきたことから,このような東南アジアの人々の移動を「複合モデ
ル」という新しい枠組みで捉え直すことになりました。
本研究は,考古遺物でしか人類の拡散の議論ができないと従来考えられてきた東南ア
ジア地域において,古人骨のゲノム分析により人類の拡散を解明した初の成功例になり
ました。今後,同様の分析を様々な地域に応用することで,各地域の詳細な人類の移動
史を科学的に評価することが可能になったことが,本研究の最も大きな成果といえます。

図3.古人骨ゲノムデータから復元された人の拡散ルート
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf

【今後の展開】

本研究で得られた東南アジア古人骨および縄文人骨のゲノムデータは,広く東アジア
の人々の起源研究の基礎情報として活用されると期待されます。また,縄文時代におけ
る古人骨の全ゲノムデータは,現代の韓国,中国,ロシアなどといった日本列島周辺に
同時期に居住していた東アジア集団との遺伝的な類似性を直接比較することを可能に
しました。現在,より広い地域の人類集団との比較研究を進めています。また,本研究
の縄文人の全ゲノム配列決定は,ヒトゲノム計画など現代人のゲノム解析におけるドラ
フト配列(Draft Genome Sequence)決定に相当します。今後は,より精度の高い配列
決定(Complete Genome Sequence)を目指します。
本研究は人類学と考古学が綿密な協力のもと得られたもので,縄文人の起源と多様性
に関する研究の一つのスタート地点に立ったと言えます。今後,より多くの地域から複
数の縄文人骨のゲノム解析をすることで,縄文人の遺伝的な多様性を列島規模で評価で
きるようになります。そうすることで,地域間の人々との交流の実態や,土器や石器な
どの考古遺物といったモノの流れと,ヒトの流れの関係性の評価につながると期待され
ます。このように本研究の成果を礎に全く新しい人類学・考古学の発展が期待されます。

【用語解説】

※1 ゲノム解析
生物が持つ遺伝情報の広範囲な解析のこと。


※2 伊川津(いかわづ)貝塚遺跡
愛知県田原市に位置する縄文時代後晩期の貝塚遺跡。明治期から現代までに200 体以
上の人骨が検出されている日本で最も代表的な縄文時代遺跡。小金井良精や鈴木尚など
著名な人類学者が人骨の形態学的な研究を進めてきた。同市は,他にも,吉胡貝塚,保
美貝塚などの縄文時代を代表する貝塚が古くから調査されており,各遺跡から非常に多
くの人骨が検出されている。


※3 約2 千500 年前の縄文晩期の女性人骨
2010 年度に伊川津貝塚から出土した縄文人骨。近年の研究では,日本列島における弥
生時代の開始は3000 年前とされているが,弥生文化の到来時期は地域ごとに異なる。
今回の伊川津貝塚出土の成人女性人骨は共伴した土器などから,五貫森式土器の時期の
ものと判明しており,渥美半島においてこの時期はまだ縄文時代の文化を残している。
また,分析対象となった女性人骨は形態学的に典型的な縄文人の特徴を有していた。


※4 全ゲノム配列
生物が持つDNA 配列の中でも,タンパク質の発現に関連する遺伝子領域のDNA 配列だ
けでなく,遺伝子以外の領域全てを含めた広い範囲のDNA 配列のこと。


※5 クロスチェック分析
異なる分析機関,異なる分析手法,異なる解析手法で,独立して同じ結果が得られる
かを評価する分析手法のこと。古代DNA 研究で重要な科学的指標の一つに当たる。


※6 縄文人ゲノム解読プロジェクト
日本の考古学者と人類学者,遺伝人類学者,ゲノム研究者などから構成される研究プ
ロジェクト。
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf


117. 中川隆[-13460] koaQ7Jey 2018年7月14日 11:06:50 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16558]

縄文関係の記事はこちらに纏めました:

「縄文時代はよかった。」で?どうやって縄文時代のいい所を取り入れるのか?
http://www.asyura2.com/0505/dispute21/msg/430.html





118. 中川隆[-13459] koaQ7Jey 2018年7月14日 11:15:07 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16558]

縄文人、ラオス・マレーシアにルーツ? 金沢大の研究グループがゲノム配列解読
http://asahi.5ch.net/test/read.cgi/newsplus/1531327113/

想定される日本人の祖先の移動ルート
https://www.asahicom.jp/articles/images/AS20180711004656_comm.jpg

 約2500年前の縄文人の人骨に含まれる全ゲノム(遺伝情報)を解析した結果、約8千年前の東南アジアの遺跡で出土した古人骨から得られたゲノム配列と似ていることが、金沢大学の覚張(がくはり)隆史特任助教(生命科学)らの研究グループの調査でわかった。縄文人の全ゲノム配列の解読に成功したのは世界で初めて。日本人の祖先が、どこから来たのかを考えるうえで注目されている。

 研究成果は11日、横浜市で開催中の国際分子生物進化学会で報告されたほか、6日付の米科学誌サイエンス電子版に発表された。

 覚張さんらの研究グループは、コペンハーゲン大学を中心とした国際研究チームと共同で調査。愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚で出土した縄文時代晩期の成人女性の人骨1体について全ゲノム解析を行った。日本のような温暖湿潤気候の地域では、人骨のDNAは劣化しやすく調査は難しいとされてきたが、最新の研究手法で縄文人の全ゲノム配列を初めて解読した。

 この結果を東南アジア各国の遺跡で出土した人骨25体や現代人のデータと比較すると、東南アジアの先史時代の人々は六つのグループに分類できることが判明。そのうちの約8千年前のラオスと、約4千年前のマレーシアの遺跡でみつかった人骨のグループのゲノム配列の一部が、伊川津貝塚の人骨と類似していた。

 日本人の祖先は、約4万年前以…

朝日新聞デジタル 2018年7月11日19時37分
https://www.asahi.com/articles/ASL7B5V8QL7BPTFC018.html

金沢大学プレスリリース:
最先端技術を用いた古人骨全ゲノム解析から東南アジアと日本列島における人類集団の起源の詳細を解明
https://www.kanazawa-u.ac.jp/wp-content/uploads/2018/07/180709.pdf

オンゲ族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%83%B3%E3%82%B2%E6%97%8F

ジャラワ族
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%A9%E3%83%AF%E6%97%8F

ジャハイ族
https://en.wikipedia.org/wiki/Jahai_people

https://i.imgur.com/DMUIpO0.jpg
http://www.mohr-mcpherson.com/blog/wp-content/uploads/2015/07/9896889874_a000749cc7_b-1024x781.jpg


●数部族に分かれていますが、まぎれもない絶滅危惧部族です。

●Y-DNAの「D*」遺伝子を持つアンダマン諸島先住民は、50000年〜60000年前頃には
当時まだ陸続きの陸橋だったアンダマン諸島弧部分に住み着いたと考えているよ
うです。アボリジニの先祖Y-DNA 「C4」がオーストラリア亜大陸に到達した頃と同
じ古さです。もしかすると一緒に移動していた可能性もあります。

●彼らの、外来者をすべてを殺す習慣はオリジナルの「D」遺伝子や言語を見事に維
持し続けた、と考えられています。 アンダマン諸島先住民は縄文人の先祖の血を  守ってきてくれているのです....感謝!
出アフリカしたホモサピエンスの生きた化石なのです。日本人は彼らを大切に保  護しなくてはなりません。

●アンダマン諸島において、耕作は未知でした、そして、彼らは特有のブタを狩っ  たり、釣り、などで食生活し、集合して生活をしていました。

●唯一の兵器が、弓と、手斧と木製のもりでした。

●絶滅したタスマニアの先住民とアンダマン諸島先住民のみが19世紀に入っても火
を作る方法を全く知らなかった人々だったそうです、 木への落雷によって引き起  こされた炎から燃え残りを慎重に保存したそうです。

●ところがイギリス人の上陸で1867年のアンダマン諸島では、たくさんのOnge部族  民がイギリス人の海軍に殺されました。

●1940年代に、Jarawa部族は彼らの敵意のための日本軍によって爆撃されました。
日本軍は世界でチベット人と並ぶ唯2の縄文人の親戚民族であるアンダマン諸島  先住民を爆撃するという愚挙を行ったのです。大反省....です。

イギリスの最初の上陸時にはおよそ5,000人の先住民がいたそうですが、虐殺、 文明国が持ち込んだ病気、アルコール中毒、 インド亜大陸やビルマ(カレン族)か らの移住者などの影響で、1901年までには600人に減り、
1927年には100人の生存者 だけになったそうです。 1961年には19人に減りましたが、現在約50人に回復してい るそうです。

その間絶滅した部族はかなりあるそうです。アンダマン諸島の古代先 住民 Y-DNA「D*]が絶滅する前に、
同じ「D」の遺伝子を持つ日本人が彼らの調査を行 えるといいですね!

https://web.archive.org/web/20160223020324/http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-6.htm

http://garapagos.hotcom-cafe.com/30-6.htm
http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/21467/21109/show_image/sanjuro.cocolog-nifty.com/photos/uncategorized/2011/01/07/andamanese.jpg

『アンダマン島土人は地球上最小の人種なるべし。

二、三の人類学者は南アのブッシュ人、アメリカの掘食(デイガ)インディアン、フィジ島のテラ土人等をもって最小なりとなせども、

本島の土人は平均身長四フィート以下にして、成人者中にもはるかにこれに満たざるもの少なからず。

一度信をおくときは、きわめて厚き友情を示すことあるも、一般には残忍獰猛にして気むずかしく、馴致しがたき人種なり』

(延原謙訳)

http://app.f.m-cocolog.jp/t/typecast/21467/21109/66999919


119. 中川隆[-13444] koaQ7Jey 2018年7月17日 05:45:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-16603]
東南アジア民族の形成:日本の縄文人も含む(7月6日号Science掲載論文)2018年7月9日

古代人のゲノム解析が進み、アフリカから、ヨーロッパ、さらにはオセアニア、アメリカでの各民族の形成過程が、ゲノムから明らかにされつつあるが、少なくとも一般紙に発表される論文レベルでは、東南アジアから我が国にかけての民族形成過程について調べた論文をなかなか目にすることはない。

ところがようやく、7月6日号のScienceに東南アジアから我が国の縄文人までカバーした古代人ゲノムの研究が発表され、これまでのフラストレーションが少し解消した。タイトルは、「The prehistoric peopling of Southeast Asia(先史時代の東南アジアの民族形成)」だ。研究の主体はケンブリッジ大学だが、我が国の研究者もさまざまな形で参加しており、そのおかげで縄文人についての記述が多く、初めて日本民族形成のイメージをつかむことができた。

この研究ではマレーシア、タイ、ベトナム、ラオス、インドネシア、フィリピン、そして愛知県伊川津貝塚から、2ー8千年前の人骨を集め、そのDNAを解析している。東南アジアや我が国で、古代人ゲノム研究が進まない理由は、研究レベルの問題もあるが、もう一つは高温多湿地帯のためDNAの変性が激しいことがある。この研究では、この問題をMYbaitsと呼ばれる液体中で人間のDNAを精製する方法を用いて、低い精度ではあるがなんとか全ゲノムを解読し比較に用いている。

この結果、東南アジア出土の古代人ゲノムはgroup1ー6までの6グループに分けることができる。例えばgroup1にはマレーシアHoabinhiansで発見された東南アジア最古の人骨の末裔、マレー半島のÖngeやJehaiが分類され、Group2にはベトナムの新石器時代から青銅器時代の人骨が分類される。他のGroupの構成の詳細は省くが、このように分類した先史時代のゲノムと現代の各民族を比べることで、西から移動してきた現生人類が東南アジアに定住する過程を描くことが可能になる。

論文は50近くの図や表を擁する膨大な研究で、ここでは詳細を省いて以下の2点だけを紹介する。

1) この研究が行われた動機の一つは、各民族の定住を促した農業がどのように東南アジアに広まったかを明らかにすることだ。これまで、Hoabinhiansの狩猟採取民族が外部の影響なしに農業を発展させ、東南アジアに広めたとする説と、東アジアで農業を始めた民族が、徐々に東南アジアの狩猟採取民を征服して置き換わっていったという説が唱えられていた。今回、古代人ゲノムが解析され、それぞれの関係を調べることで、東南アジアの民族が、文化的に優位な民族が他の民族を置き換えるのではなく、混血を繰り返しながら文化を共有していったことが明らかになった。これは例えばヨーロッパの先住民が、Yamnaya民族に置き換わってしまって、インドヨーロッパ語文化圏が形成されたのとは全く違う。すなわち、異なる民族間でのある種の平和的融合を通して混血と定住が進み、各地域の民族が形成されたのが、東南アジアの特徴と言える。事実それぞれのグループにはインドやパプアニューギニア民族からの遺伝子流入も見られることから、この融合範囲はかなり広い。

2) 次は我々日本人にとって最も関わりのある問題、すなわち縄文人や現代日本民族の形成過程だ。驚くことに、縄文人はなんとマレーシアを中心に分布するGroup1に最も近い。ただ、Group1に分類していいかと言われるとかなり違っており、東アジア民族からの遺伝子流入の影響を大きく受けている。すなわち、マレーシアに誕生したGroup1の末裔が東南アジアを経て日本に到達するまでに、その途上の民族とおそらく平和的に混血を繰り返して日本に到達したのが縄文人になる。また、伊川津縄文人を2.5-3千年前とすると、その後の3000年のうちに更に東アジア人と混血して新しい日本人を形成したことだ。おそらく、弥生人の解析が進めばこの点は確認できるのではないだろうか。もちろん、伊川津貝塚からの一体だけで縄文人の由来についての結論を急ぐのは危険だが、人類起源の地アフリカからもっとも離れた島国に定住した日本民族が、様々な民族とゲノムでつながっていても何の不思議もない。

東南アジアの定住と民族形成が征服ではなく融合が基本だったことは、歴史時代多くの争いがあったとはいえ、アジアの精神性の基盤になったのかもしれない。タイの国立博物館を訪れた時、タイ民族が7種類の民族のゲノムが混じり合ってできていることを誇りにしているビデオ展示を見て、純血を重要視しない王国があると感心した。しかも、その民族の中には日本民族も含まれている。この論文を読んで、民族の純血を叫ぶのではなく、逆に他民族との深い関係を誇りにする日本人にでありたいと思うとともに、私たちが深く東南アジアとも繋がっていることを実感した。
http://aasj.jp/news/watch/8656


120. 中川隆[-13906] koaQ7Jey 2018年7月23日 08:51:12 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17263]
2018年07月23日
日本の移民増加と「渡来人」の歴史
今後は年10万人ペースで増加する


画像引用:外国人労働者の就労拡大 首相が検討開始を指示 単純労働者の増加には懸念も
https://www.sankei.com/politics/news/180220/plt1802200050-n3.html

国内の外国人は300万人か

日本政府は事実上の移民になり得る外国人労働者を増やしていて、外国人就労者人数は約127万人に増えました。

2007年に50万人だったのが10年間で約80万人増、毎年平均8万人外国人労働者が増えている計算です。

中長期在留外国人数は256万で、10年前は約205万人だったので、毎年平均5万人ずつ増加しています。

中長期在留者は必ずしも労働者ではなく、労働者は短期滞在の場合もあるので、全体ではもっと多いでしょう。

政府はさらに労働者の受け入れを加速するとしているので、年10万人増にペースアップします。

すると10年後には観光客を除く外国人滞在者数は、350万超になり、日本の人口の3%になります。


継続して仕事を得て住居を構えて家庭を持ったら、このうちの何割かは永住し、子供は日本に帰化するでしょう。

(父母ともに外国人の子供は、帰化しないかぎり日本国籍にはならない。)

増えていった外国人在留者は何世代かかけて、日本国籍を取得して日本人になっていくと予想できます。


アメリカなど一部の国では、自国で生まれた子供は、父母の国籍と関係なく自動的に国籍が与えられている。

今後日本で生まれた外国人の子供について、差別的だと国籍問題に発展する可能性があります。

増え続ける外国人に法律など受け入れ準備が、まったく追いついていない状況です。


渡来系弥生人の集落が現在の「人権地域」に重なっている

画像引用:http://yasugawa-iseki.yayoiken.jp/images/kangou-bunpu.gifg


渡来人はどうなったのか

移民というと日本には無関係だったと思われていますが、日本には数千年前から「渡来人」という移民が存在しました。

教科書にも出てきましたが、最初の渡来人が上陸したのは今からおよそ3000年前、福岡の北側の海岸だったと考えられます。

この渡来人が最初の本格的な水田を作ったので、最も古い水田跡をたどれば、最初の上陸地点までおおよそ推測できます。


3000年前の西日本は縄文時代後期の寒冷化によって人口が激減し、1平方キロあたり0.1人しか住んでいませんでした。

東日本では10倍の人口密度でしたが、渡来人は縄文人と争ったのではなく、無人地帯に住み着いたと考えられています。

九州の縄文人と渡来人が混じり合って「弥生人」という人種が生まれ、さらに関西の縄文人と混じり合って関東の縄文人とも混じり合います。


こうして縄文時代から弥生時代に移行し、古墳時代へと続いていきます。

渡来人はどうなったのかというと、最初に九州に上陸した人たちは完全に縄文人と混じり合い、弥生人すなわち日本人と同化しました。

古墳時代以降、特に百済滅亡前後に渡来してきた人たちは、長く同化せず独自の文化や風習を保ち続けます。


今でも渡来人集落の周辺はいわゆる「人権地域」が多く、他とは違う文化を持つ地域が多い。

地域的な偏りを見ると、こうした地域の始まりは百済滅亡後に移住してきた人たちと推測できる。

最初の渡来人は文字や国家を持たなかったので、同じような縄文人と同化したが、百済や新羅はすでに完成した国家だった。


受け入れた日本側も独自の日本文化を築いていて、両者は1000年以上を経た現在も完全には混じり合っていない。


外から来た人たちと前から住んでいた人たちが、「一緒に住めばいずれ一つになる」ような事は決してないのが分かります。


外国の例を見ても、ひとつの国の中で分断し、別々の人種や文化を作り、縄張り争いが始まります。
http://www.thutmosev.com/archives/76917181.html


121. 中川隆[-13834] koaQ7Jey 2018年7月29日 04:50:11 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17374]

最先端技術を用いた古人骨全ゲノム解析から東南アジアと日本列島における人類集団の起源の詳細を解明 2018年7月25日
https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/58540


金沢大学人間社会研究域附属国際文化資源学研究センターの覺張隆史特任助教,医薬保健研究域医学系・革新ゲノム情報学分野の佐藤丈寛助教および田嶋敦教授は,コペンハーゲン大学が中心となって進めている古代ゲノム研究の国際研究チームと共に,日本列島の縄文時代遺跡や東南アジアから出土した古人骨26個体のゲノム解析(※1)を実施し,今日の東南アジアで生活する人々の起源と過去の拡散過程を解明しました。

今回,ゲノム解読がなされた縄文人骨は,愛知県田原市の伊川津(いかわづ)貝塚遺跡(※2)から出土した約2千500年前の縄文晩期の女性人骨(※3)で,縄文人の全ゲノム配列(※4)を解読した例としては世界で初めての公表となります。

この縄文人骨1個体の全ゲノム配列をもとに,現代の東アジア人,東南アジア人,8〜2千年前の東南アジア人など80を超える人類集団や世界各地の人類集団のゲノムの比較解析を実施した結果,現在のラオスに約8千年前にいた狩猟採集民の古人骨と日本列島にいた約2千500年前の一人の女性のゲノムがよく似ていることが分かりました。

このように,本研究は,縄文時代から現代まで日本列島人は大陸南部地域の人々と遺伝的に深いつながりがあることが,独立した複数の国際研究機関のクロスチェック分析(※5)によって科学的に実証された初めての研究として位置付けられます。

特に,縄文人骨のゲノム解析は,覺張隆史特任助教,北里大学医学部の太田博樹准教授,国立歴史民俗博物館の山田康弘教授を中心とした『縄文人ゲノム解読プロジェクト(※6)』の成果の一つとなります。

これらの知見は,日本列島に居住していた各時代の人々の起源の解明に将来活用されるだけでなく,広く東アジア・東南アジアにおける人類集団の起源と拡散に関する研究に大きな寄与をもたらすことが期待されます。

本研究成果は,2018年7月6日に国際学術誌「Science」に掲載されました。

https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/58540
図 古人骨ゲノムデータから復元された人の拡散ルート

【用語解説】

※1 ゲノム解析
生物が持つ遺伝情報の広範囲な解析のこと。

※2 伊川津(いかわづ)貝塚遺跡
愛知県田原市に位置する縄文時代後晩期の貝塚遺跡。明治期から現代までに200体以上の人骨が検出されている日本で最も代表的な縄文時代遺跡。小金井良精や鈴木尚など著名な人類学者が人骨の形態学的な研究を進めてきた。同市は,他にも,吉胡貝塚,保美貝塚などの縄文時代を代表する貝塚が古くから調査されており,各遺跡から非常に多くの人骨が検出されている。

※3 約2千500年前の縄文晩期の女性人骨
2010年度に伊川津貝塚から出土した縄文人骨。近年の研究では,日本列島における弥生時代の開始は3000年前とされているが,弥生文化の到来時期は地域ごとに異なる。今回の伊川津貝塚出土の成人女性人骨は共伴した土器などから,五貫森式土器の時期のものと判明しており,渥美半島においてこの時期はまだ縄文時代の文化を残している。また,分析対象となった女性人骨は形態学的に典型的な縄文人の特徴を有していた。

※4 全ゲノム配列
生物が持つDNA配列の中でも,タンパク質の発現に関連する遺伝子領域のDNA配列だけでなく,遺伝子以外の領域全てを含めた広い範囲のDNA配列のこと。

※5 クロスチェック分析
異なる分析機関,異なる分析手法,異なる解析手法で,独立して同じ結果が得られるかを評価する分析手法のこと。古代DNA研究で重要な科学的指標の一つに当たる。

※6 縄文人ゲノム解読プロジェクト
日本の考古学者と人類学者,遺伝人類学者,ゲノム研究者などから構成される研究プロジェクト。
https://www.kanazawa-u.ac.jp/rd/58540

以下、詳しい説明(PDF)より抜粋
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【研究成果の概要】

本論文で国際共同研究チームは,DNA の保存環境として最も悪い東南アジアの遺跡出土人骨25 個体と日本の縄文人骨1 個体の計26 個体の古人骨からDNA 抽出を実施し,ゲノム配列決定に成功しました。得られた古人骨ゲノムデータと世界各地の現代人集団のゲノムデータを比較した結果,東南アジアに居住していた先史時代の人々は,6 つのグループに分類できることが分かりました(図3)。

グループ1 は現代のアンダマン諸島のオンゲ族やジャラワ族,マレー半島のジャハイ族と遺伝的に近い集団で,ラオスのPha Faen 遺跡(約8 千年前)から出土したホアビン文化という狩猟採集民の文化を持つ古人骨と,マレーシアのGua Cha 遺跡(約4 千年前)の古人骨がそのグループに分類されました。

また,このグループ1 に分類された古人骨のゲノム配列の一部は,驚くことに日本の愛知県田原市にある伊川津貝塚から出土した縄文人(成人女性)のゲノム配列に類似していたことが分かりました。

さらに,伊川津縄文人ゲノムは,現代日本人ゲノムに一部受け継がれていることも判明しました。

一方,他のグループ2〜6 は農耕文化が始まる新石器時代から約500 年前までの古人骨で,ホアビン文化の古人骨とは遺伝的に大きく異なっており,それぞれ異なる拡散と遺伝的交流(すなわち混血)の歴史を持っていることが分かってきました。

グループ2はムラブリ族などの現代オーストロアジア語族と遺伝的に近く,現代東アジア集団とは遺伝的な構成要素をあまり共有していないことが分かりました。

さらにグループ1 と東アジア集団が分かれた後に,グループ1 からグループ2 への混血の痕跡が見つかりました。

また,グループ3 は現代東南アジア集団のタイ・カダイ語族やオーストロネシア語族と遺伝的に近く,グループ4 は現代の中国南部地域の人々と遺伝的に近いことも分かりました。

さらに,グループ5 は,現代のインドネシア西部の人々と遺伝的に近く,グループ6 は,いわゆる旧人に分類される古代型人類であるデニソワ人からの部分的な混血の痕跡なども見られました。

このように,部分的には中国南部の少数民族からの遺伝的な影響があったり,台湾などの地域へも遺伝的なつながりがあったりと,新石器時代の東南アジアの人々は単純に元々住んでいた狩猟採集民がそのまま農耕を取り入れたという静的な状態ではなく,大陸内と島嶼部で複数の大きな移住の過程で徐々に農耕を取り入れて行ったことが分かってきました。

従来の考古学的な視点からは,これらの時期には稲作・雑穀などの農耕文化を持つ人類集団が東南アジアに多数入植して原住民と置き換わったというシンプルな「2 層構造仮説」が提唱されてきました。

本研究成果では,すでに稲作文化を持っていた中国南部からの遺伝的な影響は部分的で,人々が完全に置き換わったということではないことが判明しました。その大きな移住の波が少なくとも4 回以上はあったことが解析の結果分かってきたことから,このような東南アジアの人々の移動を「複合モデル」という新しい枠組みで捉え直すことになりました。

本研究は,考古遺物でしか人類の拡散の議論ができないと従来考えられてきた東南アジア地域において,古人骨のゲノム分析により人類の拡散を解明した初の成功例になりました。今後,同様の分析を様々な地域に応用することで,各地域の詳細な人類の移動史を科学的に評価することが可能になったことが,本研究の最も大きな成果といえます。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=337608


122. 中川隆[-13770] koaQ7Jey 2018年8月01日 17:47:00 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17434]

日本人のガラパゴス的民族性の起源
0-0. 日本人の源流考 rev.1.3 2018/7/29
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm


  国立遺伝学研究所教授で著名研究者の斎藤成也氏が、2017年10月に核-DNA解析でたどるによる「日本人の源流」本を出版しました。 その中でやっと海の民にも焦点が当たり、当ガラパゴス史観の「縄文人の一部は海のハンター」史観が間違ってはいないかもしれない雰囲気になって来ました。

  そろそろ時機到来の様相になって来ましたのでガラパゴス史観を総括し、日本人の源流考をまとめてみました。 これはY-DNA及びmtDNAの論文104編を読み込みメタアナリシスした結果得た、アブダクション(推論)です。追加の着想がまとまる都度書き足します。 枝葉末節は切り捨て太幹のみに特化して組み立てていますので、異論・興味のある方は、 当史観が集めた論文をじっくり読んで是非御自分で源流考を組み立ててみてください。


はじめに

  当ガラパゴス史観が、Y-DNAとmtDNAツリー調査を進めて行った時、ホモサピエンスの歴史自身をもう少し深堀したい疑問が生じてきました。

 ・何故、ホモサピエンス始祖亜型のY-DNA「A」やY-DNA「B」はその後現代にいたるまで狩猟採集の原始生活から前進せず、 ホモエレクトスの生活レベルのままだったのか?

 ・シ−ラカンス古代亜型のY-DNA「D」、Y-DNA「E」やY-DNA「C」などの、オーストラリア、ニューギニアやアンダマン諸島、アフリカなどの僻地に残った 集団も、現代に至るまで何故「A」,「B」同様、狩猟採集から抜け出せなかったのか?

 ・彼らは本当にホモサピエンスになっていたのだろうか?我々現生人類はアフリカ大陸でホモサピエンスに進化してから 出アフリカしたと思い込んでいるが、もしかすると出アフリカ後に、ネアンデルタール人との遭遇で現代型に進化したのではないか?

1.ネアンデルタール人の出アフリカから始まったようだ。

  ホモサピエンスの亜種とされているネアンデルタール人(ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス:Homo sapiens neanderthalensis)は、 ホモエレクトスから先に進化し、60万年ぐらい前には出アフリカし、先輩人類としてユーラシア大陸に拡がったらしい。 そして3万年前ぐらいには絶滅した、という見解になっている。

  しかし現生人類の遺伝子の3−4%はネアンデルタール人から受け継いでいることも研究の結果解明されている。 その後、現生人類の先祖が、スタンフォード大学の研究では2000人程度の規模で、出アフリカしユーラシアに拡がるまで ネアンデルタール人の歴史は既に数十万年を経過しており、その間にネアンデルタール人はユーラシア各地で亜種に近いぐらい分化していたらしい。 アジアで発掘されたデニソワ人はどうもネアンデルタール人のアジア型の1例のようだ、 しかも研究ではデニソワ人の遺伝子が現代人に6−8%も受け継がれている、という報告まである。

  これはつまり現生人類は既にある程度の高度な文化を築き上げていたネアンデルタール人との亜種間交雑の結果、 一気に爆発的に進化し現ホモサピエンスとして完成したのではないかと考えるのが妥当なのではないかと思われる。

2.原ホモサピエンスから現ホモサピエンスへ脱皮したのではないか!

  我々現代人(Homo sapiens sapiens)の祖先は、ネアンデルタール人が先に進化し出アフリカした後も進化できずに出遅れ、 アフリカ大陸に残存していたホモエレクトスの中で、先ずmtDNA「Eve」がやっと進化し、Y-DNA「Adam」はかなり遅れて進化したと考えられていた様だが、 最近の研究ではY-DNA「Adam」も20万年近く前には既に現れていたらしい。

  しかも最近の発掘調査では、10万年前ごろにはすでにレバント地域に移動していたらしく、8万年前頃には中国南部に到達していたのではないか、と報告されてきている。 これまでの5−6万年前頃に出アフリカしたのではないかという旧説が、どんどん遡ってきているのは今後まだまだ新しい研究報告がある予兆と思われる。

  いずれにせよ、ネアンデルタール人が先に進化し、出アフリカした後に、落ちこぼれ 取り残されていた最後のホモエレクトスが遅れて進化したのが、我々の直接の先祖の原ホモサピエンスだったと考えられる。

  つまり、このころまでアフリカ大陸ではホモエレクトスが存続していた可能性があり、原ホモサピエンスはホモエレクトスの最終形だったはずである。
 Y-DNA「Adam」がY-DNA「A」となり、

 Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分離し、

 Y-DNA「BT」がY-DMA「B」とY-DNA「CT」に分離したが、

    この「A」と「B」はホモエレクトスのY-DNA亜型だった可能性も十分ありえる。

 Y-DNA「CT」が初めて出アフリカし、更にY-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分離した。

    これは恐らく中近東あたりで先住ネアンデルタール人との交雑の結果と推測可能である。

    この「C」以降が現生人類のY-DNA亜型と考えられるが、もしかするとネアンデルタール人の亜型の可能性だってありえる。

 つまりY-DNA「A」と「B」はホモ・サピエンス・サピエンスではあるが完成形ではないプロト(原)ホモ・サピエンス・サピエンスと言っても良いかもしれない。

 西欧列強が世界中を植民地化するべく搾取活動を続けているときにわかったことは、アフリカ大陸やニューギニア・オーストラリアやアンダマン島の先住民は、 何万年もの間、古代のままの非常に素朴な狩猟採集民の文化レベルにとどまっていた、ということだった。

  研究調査からかなり高度な文化・技術レベルに達していたと判ってきているネアンデルタール人と比べると、 分類学的・解剖学的な現生人類/ホモサピエンスに進化したというだけではホモ・エレクトスと何ら変わらない文化レベルだったという証明だろう。 つまり脳容積がホモエレクトスより大きくなったり、会話が出きるようになった程度では、同時代のネアンデルタール人より原始的な、 しかし可能性は秘めている新型人類に過ぎなかったようだ(しかし体毛は薄くなり、前頭葉が発達し、見た目は多少現生人類的だが)。

  では一体、なぜ現生人類は現代につながるような文明を興すほど進化できたのだろうか?大きな疑問である。 一部の王国を築いた集団を除いた、古ネイティブ・アフリカンは大航海時代になっても、狩猟採集民でしかなかった。 その後西欧列強と出会わなければ、今でも狩猟採集のままのはずである。

  このことは、文明と言うものを構築するレベルに達するには解剖学的なホモサピエンスではなく、 何か決定的なブレークスルーのファクターがあったはずである。

  ネアンデルタール人と原ホモサピエンスの亜種間交配の結果、進化の爆発が起こったと推測するのが今のところ最も妥当だろう。

  出アフリカした先輩人類のネアンデルタール人と亜種間交雑し、ネアンデルタール人がすでに獲得していた先進文化を一気に取り込むことに成功し、 恐らく人口増加率(繁殖性)が高い原ホモサピエンスの中にネアンデルタール人が自然吸収される形で統合化されたのが 完成形の現ホモサピエンスと考えるのが最も妥当性が高い。 (この繁殖力の高さが現生人類の勝ち残った理由なのではないか、想像を逞しくすると、交配の結果得た後天的な獲得形質かもしれない。)

  もし出アフリカせずネアンデルタール人とも出会わずアフリカの中に留まっていたら、 人類は相変わらず19世紀ごろのサン族やピグミー族のように素朴な狩猟採集段階に留まっているだろうと容易に推測できるが、 北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。 つまりホモサピエンスが出アフリカし狩猟採集文化から脱し、現代文明にまで至ったのは必然だったということかもしれない。


3.日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子系集団:Y-DNA「D」とY-DNA「C」
  Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。

  移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、故地である地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 先住親遺伝子のY-DNA「A」の古サン集団等やY-DNA「B」の古ピグミー集団等の支配階級としてネイティヴ・アフリカンの主力となり現代に至っている。

  これは重要なことで、Y-DNA「A」と「B」はネアンデルタール人の遺伝子が混じっていない原ホモサピエンスだが、 ネアンデルタール人遺伝子を獲得したはずの現サピエンスのY-DNA「E」がアフリカ全土にもれなく拡大したため、Y-DNA「A」が主体のサン族も、 Y-DNA「B」が主体のピグミー族も支配階級はY-DNA「E」に代わっているようだ。 (余談だがアフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」がアナトリア、中近東から南下してきて 更に新しい支配階級として現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部になっている。)

  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのだろう。

  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至った。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのだろう。

  一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、 そこから北上し現在の中国大陸に到達した。その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、 その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し現代までJarawa族やOnge族として絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきている。 Y-DNA「D」は基本的に原始性の強い狩猟採集民と考えてよいだろう。日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いない。

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人(アジアにいたのは恐らくデニソワ人か?)と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できる。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えられる。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸に拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族やLani族などニューギニア高地人集団やオーストラリア・アボリジニ集団、つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っている。

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大した。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われる。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大である。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのだ。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔である。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できる。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。

  しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていない。どうやら途絶えてしまった可能性が高い。 いやもしかすると火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高い。そしてY-DNA「D」のようにチベット高原のような高高地に適応できず 途絶えてしまったのかもしれないですね。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」がそのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 サハリンや北海道に留まった集団はアイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。

  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。最も頻度が高いのはTanana族である。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。

4.長江文明系稲作農耕文化民の到来

  さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

  古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した現代遺伝子亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分離しインダス文明を興し、ドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。 Y-DNA「T」からは後のジェファーソン大統領が出自している。

  Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「NO」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く残されており、 テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。

  しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子はY-DNA「R1a」,「R1b」,「J2」などに変貌している為、 東アジア起源の面影は全くない。唯一タタール人に若干の面影が残っているが今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も残っている。やはり移動性の強い遺伝子のようだ。

  さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている事は研究者の周知である。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えない(当史観は環境適応は進化ではないと考えるが、 ラマルクの後天的獲得形質論も進化論といわれるので、進化の一部なのでしょう。と言うことは余談だが、 人類(動物)は体毛が減少する方向に進んでいるので、実は禿頭/ハゲも「進化形態」である事は間違いない。)

  この東北アジア起源のY-DNA「O」は雑穀栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。

  一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」(旧「O2a」)と「O1b2」(旧「O2b」)が分化し稲作農耕は発展したようだ。このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

  長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し江南から更にベトナムへ南下し、 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 ほぼ純系のY-DNA「O1b1」が残っているのはニコバル諸島(Y-DNA「D*」が残るアンダマン諸島の南に続く島嶼でスマトラ島の北に位置する)のShompen族である。

また南インドのドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。

カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、ドラヴィダ民族(特にタミール人)に長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、 その結果、学習院大学の大野教授が日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となったが、こんな遠くまで稲作農耕民が逃げてきたことを間接証明した功績は大きい。

  一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。 この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州の14%は、満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い(恐らく起源は同一集団)要因となっている。 北朝鮮はツングース系遺伝子の分布が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。

過去の箕子朝鮮や衛氏朝鮮が朝鮮族の起源かどうかは全く分かっていないが、呉系稲作農耕民が起源の一つであることは間違いないだろう。


  長江流域の呉越の時代の少し前に江南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、インド亜大陸でY-DNA「O1a」はほとんど検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは台湾のほとんどの先住民、フィリピンの先住民となんと日本の岡山県である。

  岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として混在して来たのか単独で来たのか? 岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は楚系文化の名残と推測可能で、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。 台湾やフィリピンの先住民の民話を重点的に学術調査するとわかるような気がしますが。

5.黄河文明系武装侵攻集団の到来

  狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島での中国王朝出先機関内のから生き残りに敗れ逃れてきたのが、Y-DNA「O2」(旧「O3」)を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「群」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

  朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ追い出される形で日本列島に逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でも、また黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。

  この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていた戦闘要員としてのツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」であろう。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた騎馬を好む好戦的な集団と推測できる。

  この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の朝鮮半島の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由である。

  一方、韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」,Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」,「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。

  一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 特有の征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。

6.簡易まとめ

  日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、一方過去の武士団や維新前後の武士や軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 日本人を構成するもともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。

  日本人の3つの源流は、

  ・日本列島の中で約1万年以上純粋培養されてきた大多数の素朴な狩猟採集民と少数のハンターの縄文系、

  ・中国大陸から僻地の日本列島にたどり着き、集団の和で結束する水田稲作農耕民の弥生系、

  ・朝鮮半島を追い出された、征服欲出世欲旺盛な大王系/武士団系の武装侵攻集団系、

  個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの古代遺伝子(縄文系)が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。 もしこの縄文系遺伝子がなければ、日本と朝鮮及び中国はほとんど同一の文化圏と言って差し支えないでしょう。 それだけ縄文系遺伝子がもたらした日本列島の基層精神文化は、日本人にとって世界に冠たる独特の国民性を支える守るべき大切な資産なのです。


7.後記

  これまで独立した亜型として扱われてきたY-DNA「L」,「M」,「N」,「O」,「P」,「Q」,「R」,「S」,「T」は、 現在、再び統合されてY-DNA「K」の子亜型Y-DNA「K1」とY-DNA「K2」の更に子亜型として再分類される模様です。 つまり独立名をつける亜型群として扱うほど「違いが無い」ということなのです。

  ところがこのY-DNA「K」は、我々極東の代表Y-DNA「O」や西欧の代表Y-DNA「R」や南北ネイティヴアメリカンのY-DNA「Q」等が含まれているのです。 とても遺伝子が近いとは思えないのです。では何故これほど外観も行動様式も異なるのだろうか?

これらの亜型群は何十万年の歴史でユーラシア大陸の各地で亜種に近いほど分化していたと考えられている ネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNA亜型を受け継いだだけの可能性も十分にあるのです。

西欧と極東であまりにも異なる外観や行動様式などの違いの原因を亜種間の接触に求めるのは荒唐無稽とは言えないでしょう。 何しろネアンデルタール人もデニソワ人もホモサピエンスも元をただせばホモエレクトス出身で当然Y-DNAもmtDNAも遺伝子が繋がっているのだから。 恐らくY-DNAもmtDNAもほとんど同じ亜型程度の違いしかない可能性は高いのです 今後の研究の発展を楽しみに待ちましょう。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm


123. 中川隆[-13836] koaQ7Jey 2018年8月04日 08:20:41 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17584]

北海道スペシャル シリーズ北海道150年 第1集「開拓〜困難の果てに〜」 2018.07.13 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6pi53q

北海道スペシャル シリーズ北海道150年 第2集「アイヌモシリに生きる」 2018.07.27 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6qfzsl

北海道命名150年記念特番 松浦武四郎が夢見た北の大地 2018.07.14 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6pi59l

HTBノンフィクション 「聞こえない声〜アイヌ遺骨問題 もうひとつの150年」 2018.04.24 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6iam1w


124. 中川隆[-13868] koaQ7Jey 2018年8月06日 06:58:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-17659]

「縄文体質」を考える-1〜縄文時代の外部世界(=外圧)とは?
ZPosted on 2018年8月1日 Author ozakihiroto
http://syakaituikyu.wp.xdomain.jp/?p=361

リンク
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=329769


 の投稿のヘ に今回私は疑問を持ちました。いえ、正確にはさらに追求したいと思いました。まずはそのヘの文章を引用します


へ.縄文体質とは

・縄文体質の本質は、みんなの期待に応えることにある。それを第一義とする体質が縄文体質であるが、それは集団第一の体質ということもできる。
この縄文体質は、敗戦・焼け野原や3.11壊滅災害etcの状況下では、他国にはない強い勤勉性として現出する。

という内容です。
縄文体質の内容が理解しやすいです

しかしこれは要約のため、要約としては良いが私は縄文時代の外部世界や、縄文時代の集団などを理解しその後しっかり縄文体質に踏み切りたいと考えました。
ですので本日からは縄文体質をつかむを最終目標に縄文時代について考えていきます。

まず本日は縄文時代の外部世界(=外圧)から考えていこうかと思います。

まず縄文人の凄さは先ほどの引用部分からも明らかです
ではそのすごさはどうやって形成されたのでしょうか?

イ.大陸から切り離された地理的状況が縄文人を形づくった。

まず縄文時代初期の日本が置かれた地理的状況をを抑えることにする。
洪積世初期およそ1万年まえの日本の地にはすでに大陸とつながりはきれて四方を海にかこまれた列島になっていた。この海を渡って大陸と往来することは、当時の列島とその周辺の社会の生産力では、まったく不可能でないまでも、きわめて困難であった。

かくて日本列島の社会は、1万年ほども周辺の社会からほとんど孤立した形で独自の道を歩まねばならなかった。そして8千年ほど前に四国と九州からきれた形となり、その後も太平洋がわの海岸線が後退し、5千〜6千年前から日本列島は地形も気候も動植物相も、現在と基本的には同じになっていた。

この一万年あまりの縄文時代に日本人の特質が形作られ、日本の歴史が始まったと考えられます。それは次の2つの理由によります。


第一に、この時代に日本人の原型が成立したと考えられる。

縄文時代人は、日本列島が大陸からきりはなされてからは、日本列島の自然の諸条件に適応し、独自の民族的および文化的特徴をうみだした。 彼らの遠い祖先が、大陸方面か東南アジアか、そのいずれに住んでいたか断定はできないが、数千年から一万年も違った自然的および文化的条件のもとで生活しているうちに、日本人の原型となった、と考えられる。

第二に、日本語の核心が縄文時代に成立していたと考えられる。
言語年代学によれば、いまの日本の本州等の言語と沖縄の言語とは、共通の祖語から、紀元前後に分かれて、それぞれ独自の発達をしたものと推定される。
そうだとすれば、両語に共通の核心部をもった日本祖語は縄文時代に存在していたとせねばならない。

こうして縄文時代には、現在の日本人の固有の生活領域である日本列島が形成されており、そこにまわりの諸民族とは違った独自の一民族とその言語、すなわち日本人と日本語の原型が成長し、その人々が未開を突き抜け、文明への道をきりひらいていった。まさに日本人の歴史がはじまったのである。


ロ.縄文時代を貫く厳しい自然外圧が自然=人間の循環系の文明原理を育んだ

縄文時代の自然環境を考える上で、忘れてはならないのが、火山である。
環太平洋火山帯の西の果てに位置する日本列島は火山活動も多く、3000年前の富士山の活動が一時停止するまでは列島内でかなり多くの火山活動が観測されています。

火山と縄文遺跡の関係はすでに報告されており、火山灰により肥沃になった土地に植生が安定し、多くの遺跡が集合しています。しかし火山は同時に一気に村を飲み込み、集団を絶滅に追い込みます。言い換えれば火山(爆発)という危険と隣りあわせで生活していたのが縄文人であり、縄文居住域だったのだ。
また、大陸の東の果てにある日本列島にはすでに4000年前から渡来人が海を渡って来ている。大陸の文化や物資を運んだと同時にさまざまな病気も運んできたことと思われます。三内丸山の巨大集落が4000年前に消滅したのは一説では伝染病という説があります。

縄文時代はこのように激しい気候変動、火山活動、さらに大陸からの病原菌という外圧に晒され、中期には30万人近くいた人口が縄文晩期には10万人を切るまで減少したのだ。

この1万年間の外圧とは、気候変動による外圧、火山など突然環境が変化してしまうことによる外圧、さらに病気という外圧、それら多くの自然外圧に翻弄されていたのが縄文人であったと考えられる。

集団が外圧に晒されるたびに自然をひたすら注視し、自然との対話を試み、生きる為の術をその中から導き出した。この自然=人間という自然との同化能力こそ1万年の縄文時代に培われた能力だと思う。

このようにして、現代日本人に繋がる仲間へのさらには他集団への同化能力の基礎がこの時代に形成されたと考えられる。

ハ.縄文人は、初めて直面した同類圧力を集団規範を拡大する事で乗り越えた
縄文時代に初めて遭遇した(或いは直面した)人類にとっての全く新しい外圧がある。

それは、人と人の間で生み出される同類圧力である。
人口が増え、生活する縄張りが接触し始めると相互に緊張圧力が生じる。
縄文早期の頃は単位集団は一定はなれて生活していたのが、前期から中期にかけて人口が10万人から30万人に増えている。それも増加した地域は東日本に集中し、三内丸山を抱える東北地方ではその1/3に相当する10万人がいたとされている。

縄文時代は採取生産を生業にしており、その後の農耕生産と異なり一つの集団が生存するには広い食料域が必要でわずか数十人の集団を維持するのに数キロの縄張りが必要になる。たかが10万人とはいえ縄張り同士は当然接触して、相互に緊張圧力が生じた。

遊牧部族では、食糧事情が悪化し、緊張圧力が高まると略奪闘争が始まり、私権闘争の社会へと変化していきました。

しかし縄文時代を通して戦争の痕跡はなく、縄文人はその状況を贈与や祭祀、集団間のネットワークという方法で回避していた。それどころか緩やかな集団間の関係を構築し、単位集団を地域集団という土地に根ざした連合集団を形成していく。

要約すれば縄文時代を通して自然外圧と同類圧力、この2つの圧力が強く作用し、それに対して頭を使い、工夫したのが縄文人であり、永続的に生きていくための多くの共同体規範が作り出されていったと考えられる。
http://syakaituikyu.wp.xdomain.jp/?p=361

縄文体質を考える-2〜縄文体質を作り出した生産様式を押さえる〜
Zhttp://syakaituikyu.wp.xdomain.jp/?p=365Posted on 2018年8月2日Author ozakihiroto

前回の続きとなります。
前回は縄文時代の外圧を考えましたが今回は縄文体質を作り出した生産様式について考えていきたいと思います。

おそらく生産様式をただ問うならそれをここで明らかにするまでもありませんが勘違いしている人などもいるかもしれませんので紹介します。まず縄文人の主たる生業は明らかである。それは「採取、採取」である。

縄文人は採取生産に特化することで世界で最初に定住化した民族ではないかと言われている。

ではなぜ縄文人は採取のみに特化することが可能だったのか?
なぜ狩猟をしなかったのか?

これは豊かな日本の地形が生み出した偶然だと考えることができる。

森林が国土の70%を占める国は先進国の中では特出している。

さらにその森林は火山活動によって形成され火山灰による豊かな土壌に恵まれた再生可能な森を形成し、さらに温暖化による海進によって水位が上昇しリアス式海岸や平地が海に沈んだ漁礁を作り出したのである。

日本の海産資源は同じ海浜地域の地中海と比べ25倍もの生産力を保有している。
縄文人は前期から中期には海浜地域に集結し、この時代の遺跡は見事に海岸線に並ぶ事になります。また、湿潤な気候と森からの清水は植生を豊かに形成していきます。

縄文時代の採取生産はこうして海浜地域から始まりました。

森の生成と豊富な植生、汽水域の魚介、海草それを元に定住化していったのが縄文人でした。定住化の明確な開始は遺跡上では信州では8000年前、最古の定住遺跡は南九州の上野が原の9000年前に遡る。

これらの定住化は凡そ温暖化が始まった時期に符合する。
この定住化をさらに進めたのが土器技術の開発、拡大である。

縄文早期には既にあく抜きや煮炊きができる土器を備えていた縄文人は多様な自然資源を食料として取り込むことにも成功する。この時代の縄文人の食生活は現代人のコメをどんぐりに、肉を魚介に変えただけでかなり豊かな状況にあったようだ。

しかし温暖化で恵まれていたのは約5000年前までで、その後縄文時代の約半分の期間は寒冷化により現在より1度から3度低い時期を迎える。

すでに定住し関東から北に適応していた縄文人は寒冷化してもその地にとどまり続ける。雪や寒さに閉ざされる冬は塩や乾物の技術で乗り越えていき東北地方の縄文人は一部狩猟生産を復活させ、北海道では比較的豊かな海獣などの肉食を主食することで採取と狩猟を並存させていく。

また、寒冷化によって海水位が10m以上も低下し海底が地上に現れる事になり、しばらくは植生のない海岸線が何キロも続き、海岸線は居住できない状態になる。
縄文中期から集落は湿地帯となった海岸線を離れ、内陸へ移動していくことになる。

ここでも縄文人は大きく生業を変えることになります。それまで海の資源に半分くらい依存していたのを諦め、ドングリやクリの管理・維持栽培(=半栽培)などの植物食と陸上動物(イノシシ、シカ)、河川魚類(サケ、マス)の狩猟・採集生産を中心とした時代に移行する。

集落規模も寒冷化に向かったこの時期には小さくなり、いくつかの小規模な集落がネットワークで繋がるように変化していく。

縄文時代の生業はこのような段階を経て農耕中心の弥生時代に移行していく。そしてその時々に気候変動の影響を受けている。

@狩猟生産時代(1万年以上前)…寒冷期
↓ 非定住、巨大動物が食料源、集団規模は小さい

A採取、漁猟生産(8千年前〜5千年前)…温暖期(縄文海進)
↓定住化、居住域は海浜地域中心、集団規模は大きい、人口増大

B採取、栽培、漁撈、狩猟生産(5千年前〜3千年前)…寒冷期
↓居住域は内陸地域中心、集団規模は小規模化するが各集団はネットワーク化される

C稲作技術の渡来、拡大(3千年前〜)…寒冷期
大陸に近くて食料の乏しい九州地方から伝播⇒拡大、人口増大

A⇒Bへの移行期が一番厳しい外圧状況であり、この時期に集団規範や男女規範は作られていったのではないかと思われる。
http://syakaituikyu.wp.xdomain.jp/?p=365


「縄文体質」を考える3〜縄文時代の集団規範を考える
ZPosted on 2018年8月3日Author ozakihiroto
http://syakaituikyu.wp.xdomain.jp/?p=368

前回の投稿の最後にも書いた通り今回は縄文時代の集団規範を中心に当時の集団のあり方を考えたいと思います。


イ.縄文時代の集団形態

環状集落の中央には広場があり、周囲に住居が配置されています。最小で、直径70メートル程度、最大で150メートル以上に及びますが、中央広場には集団墓地が営まれるのが大きな特徴です。同心円状に所定の範囲内に、建物・施設を配置する構造は「重帯構造」と呼ばれ、当然新旧の遺構が重複します。有名な群馬県三原田遺跡では、中期後半の数百年にわたり、300軒以上の住居跡が重複しながら、直径130メートルの円を描いており、集落は外周から徐々に内側へ向って形成されていて、長期的な計画性をうかがわせます。

次に、住居群や墓群が大きく二分されていることもよく知られています。これを「分節構造」と呼びますが、墓域の区分は特に厳格で、埋葬場所は長期にわたって踏襲されていることから、分節は血筋・系譜の区別に基づくものだという可能性が高くなります。大群のなかにさらに小群が枝分かれすることもあり、八王子の多摩ニュータウン107遺跡(中期)はこの典型例で、何百年にわたり、直径32メートルの円内に整然と200基もの墓群が2×2の分節をなして営まれています。ここから、構成員の血縁的区分の厳格さ、血縁集団への帰属性の高さがうかがえます。さらに、各小群内の墓の数には差があり、他の二大群構造の遺跡においても、墓の数に不均衡があることが多いのです。これも、ランダムに墓を作った結果、と見るより、各血縁集団の成員数に違いがあるのが自然で、そこからの必然的結果と見るほうが妥当でしょう。

何世代にもまたがり、文化を受け継ぎ、祖先を祭祀する血縁集団としては氏族・系族と言われる「単系出自集団」が知られています。父系または母系のどちらかの血統により、系譜と成員の資格が受け継がれる集団です。G・C・マードックは数代から10代ぐらいの、実際の系譜が記憶されている単系出自集団を「リネージ」と呼んでいます。死者も含めてリネージの成員とみなしている社会も少なくないそうで、「リネージは生きた成員と死んだ成員との一つの共同体」と言われる所以です。

要約すれば縄文時代の集団は血縁集団への帰属性が強かったということである。


ロ.総遇婚の共認

集団規模が大きくなるとそれまでの「顔の見える」生まれた時から一緒の単位集団(バンド)と違って、より上位の組織統合の課題が登場する事は間違いありません。

弓矢の登場以降、(2から1万年前)安定した生存域と食糧が確保できるようになると、集団規模が拡大してきます。

例えば縄文中期〜後期(5500〜4000年前)に登場した三内丸山遺跡の事例では、竪穴式住居が1000件存在したとされています。推定5000人近い集団です。また他の未開部族などの事例でも、大きなものは推定3000から5000人近くの部族連合を作っていたようです。

これらの集団は基本的に原始共同体です。

そしてこれらの大規模な集団は次のような形で統合されていた様です。

まず末端に30から50人規模の血縁集団(単位集団・氏族)が存在する。そしてその上位に氏族3〜4グループを統合する胞族というグループが作られる。そして更にその上位に、胞族を更に3〜4グループ統合する部族が形成される。という3段構成がとられており、これら全体が一つの集団を構成していたようです。各氏族、胞族は全体で集団規範を共有しており、各段階の決定は現代風に言えば合議制だったようです。これらの集団の一番基礎にある、氏族は血族であり、生産と生活をともにする集団です。だからおそらく各構成員は役割充足も充分に感じていたと思います。

しかし逆にそれぞれの氏族(単位集団)はそのままだと独立性が強くなりすぎるということからでしょう、別の胞族のグループ同士で(ある氏族or婚姻班と別の氏族)総偶婚=群婚制がとられていたようです。集団が解体しないための、統合の一つの知恵です。

この集団構成だと概ね300から500人の規模ですが、それ以上の規模となると、緩やかな部族連合を形成していた様です。但し三内丸山は同一地域に棲んでいたことより、集落全体が一集団だったのかもしれませんし、連合体だった可能性もあります。

これらの集団はおそらく規模が大きくなるに従って、血縁を単位に(但し群婚なので当然母系の血縁になります)集団を分割していったのだと思います。

要約すれば縄文時代は血縁集団を最基底部においた3段構成の共同体社会だったということである。


ハ.縄文人の活力源

縄文の婚姻制を解明する中で、改めて考えさせられたことがあります。それは生まれた集団に属す母系集団であったことです。

人類の祖先である真猿が、オス移籍(チンパンジーはメス移籍)であることと比較して、また哺乳類の原点である原モグラが離乳するとオスメスとも追い出すのと比較して、大きな違いがあるからです。

完全に孤立していた始原人類はともかく、隣接する他部族と接触するようになっても、移籍は発生していません。

このことは同類圧力が戦闘的関係でなかったことを示していると思われます。戦闘的関係を婚姻制で解消したということでもなさそうです。何故なら、原モグラも真猿も、元々それまでの生物がもっていた巣離れ本能+哺乳類が増強した性闘争本能と、親和本能との大小関係で移籍するか、残留するかが決まっており、原モグラも真猿も、巣離れ本能+性闘争本能>親和本能で、巣離れ(移籍)していきます。

真猿は集団内の性闘争本能を下敷きにして、集団間同類闘争(縄張り闘争)を戦っています。

しかし人類はその逆で、圧倒的な外圧状況の中で親和本能(+共認充足回路)を増強して、性闘争本能は封印しています。縄文人も同様だったでしょう。婚姻制も母系集団も性闘争本能の封印を前提に成立している以上、他部族に対しても縄張り争い的な関係にはならないのではないでしょうか。

考えられるのは外敵に対する闘争本能ですが、相手が襲ってこない以上、同類を外敵とみなすのは無理があります。遭遇当初は外敵?との緊張感や警戒心が働いた可能性はありますが、お互い同類であり外敵ではないとの相互理解は成立したでしょう。

従って、同族内も他部族間も人々に働いていたのは、専ら生存圧力や未明課題に対して「何とかして」というお互いの期待・応望圧力(という形での同類圧力)だったと考えられます。
http://syakaituikyu.wp.xdomain.jp/?p=368


「縄文体質」を考える4〜縄文時代の男とは?女とは?
ZPosted on 2018年8月4日Author ozakihiroto
http://syakaituikyu.wp.xdomain.jp/?p=372

前回は縄文時代の集団規範を考える を考えましたが今回は集団の根幹である男らしさと女らしさを考えます。


イ.現代の男女事情

闘争存在である男性は、闘争課題があるとがんばるものの、闘争圧力がなくなると途端に「怠ける」ということ。外圧依存型の闘争性や勤勉性はもっているものの、何もない時には怠けがちなのがオスという生物なのでしょう。


では、なぜ女性が勤勉なのか?

それは、充足・安定存在ゆえであると考えます。

子育て、炊事、掃除、縫い物・・・身近な周りの充足のために日夜勤勉に働くのが女性=お母さんの姿だったりします。どんな家でも女性=お母さんの勤勉さがなければ、日常的な充足・安定は維持できません。

これを逆に見れば、女性は身近な皆の充足・安定のために働いてくれているということです。自分の勤勉さが、皆の充足・安定につながるとわかるうえ、主体的に動いていけば、皆の充足・安定を高める課題(期待)は無数にかつ常に存在します。したがって、永続的に勤勉さが持続するということでしょう。

このように考えると、「勤勉」は女原理なのだと思います。

特に、我々日本人が考える勤勉さは、この女原理発の勤勉さに根ざしているでしょう。

充足・安定を尊ぶ縄文体質とは、すなわち女原理。女原理で動いてきた我々日本人にとって、女性の勤勉さは肯定・感謝の対象であり同化対象です。そこを基点に、男性にとっての労働=闘争も認識して価値を見出していったのが日本人なのだと思います。(労働=闘争を男原理と直結させて理解する欧米人にとって、ここは理解しにくいでしょう)


要約すれば

@男は闘争課題があるとがんばるが、圧力がなくなると途端に怠ける。

A女はたえず勤勉。身の回りの充足のために、日夜勤勉に働いている。

それは、自身の勤勉さが、皆の充足、安定に繋がっている。充足・安定存在であるから

Bこうした課題は常に無数にたえず存在する。永続的に勤勉性が維持される。

Cこのようにみんなのために働く女性の勤勉さは肯定、感謝の対象である。


ロ.縄文における男らしさ、女らしさ

縄文時代に突入し、気候の温暖化に伴いぶなやならの温帯の落葉広葉樹の森が拡大しここから森を中心とした定住文化が開始するわけですが、ここでは女性の存在はこれまでの依存的存在から生産の中心存在へと大きく立場を変えるのです。

森の中での食料の獲得(主に木の実の収集、球根や山菜採り、川や湖の魚貝類)は女性の手で充分可能となり、男たちの獲得する動物性たんぱく質である狩猟生産をしのぎ、縄文時代の主食としてその開発から加工まで女性の繊細な自然への感性と器用な技術が脚光を浴びたのでした。

この時代の男ですが、植物採取社会では、狩猟による動物性蛋白の占める量はわずかなものなのですが、それでも男は原則として植物採集にはタッチしていません。植物採取にウエートがかかればかかるほど、擬似的な狩猟や踊りの練習に熱中しました。さらに、植物食には固形塩が必要となり、海浜部落への物々交換の交易を行なってました。これに対して女はそれ以外の全てを担います。植物採集、昆虫捕獲、育児、土器作り、炉の火の番人等。

縄文時代に入り、自然圧力の低下とともに、生産面においても、女性の活躍の場が広がったことが伺えます。この縄文から以降が、上記の「女性が勤勉である」といったベースが整った時代だったいえるでしょう。

一方の男性も、定住化、集団規模の拡大、他集団との接触機会の増加等によって、集団を統合していく課題に、よりシフトしていったのではないでしょうか。

このように、縄文時代は、男女ともに、それぞれの役割を拡大し、担っていった時代だったといえるのでははないでしょうか。


ハ.極限時代から採取時代である縄文時代のまでの人類の男女の役割 まとめ
〈実現論より引用します〉

人類はつい一万年前まで、まともに地上を歩くことが出来ず洞窟に隠れ棲むしかない様な、凄まじい外圧に晒されていた。従って、人類のメスはサル以上に極度に依存収束を強め、首雄収束⇒応望収束回路を発達させていった。しかも人類のメスは(首雄でも防ぎ切れない)飢えや怯えに晒され、サル以来はじめて自らの不全感を直撃されたメスは専ら解脱収束を強め、強力な解脱収束⇒性機能収束回路(エンドルフィンとドーパミンの快感回路)を形成していった。だから、人類の女は徹頭徹尾、応望存在であり、自らの役割欠損を専ら性機能に収束させてゆく性的存在である。もちろん、それら全ては首雄の期待に応えて役割充足を得る為であり、従って男たちはそんな女たちを、純粋にかつ積極的に肯定視してきた。

極限時代の人類の女は、外圧に立ち向かう男(首雄)の活力源=性的存在としての役割を強化し、一方の男も女の期待を糧に外圧と対峙していたことがわかります。
このような極限状態に置かれた人類が、縄文時代の自然外圧の変化(低下)によって、より男女の役割を拡げていきます。

ここでの採集・漁労部族における女の役割は、注目に値する。採集部族では、弓矢を持った男たちが防衛する(狩猟もするが、獲物は少ない)安全域で、女たちが主要な食糧を採集する。もちろん、闘争過程の主役はあくまでも男たちの防衛であって、女たちの採集は従役である。それにしても、食糧の過半を女が採ってくるというのは、外圧の強い極限時代には考えられなかったことであるが、皆=集団の期待(食糧の採集という役割)に応えて、採集部族の女たちはよく働いた。しかし、それでもなお男たちの期待の中心は性であり、従って女たち自身にとっても、自分たちの中心的な役割は性役(男たちに性的充足を与えること=自らの性的充足を得ること)であった。役割欠損ゆえに性的存在となった女にとって、集団=全ての男たちの期待(=性役という女の役割規範)に応えることほど、自らの存在理由を充足させるものはない。従って、タヒチをはじめ採集部族の女たちは、極めて積極的に集団の期待=性役規範に応え、更に性機能を磨いていった。

(引用終了)


縄文時代に入り、自然が豊かになり、自然外圧が低下するとともに、主雄以外にも食料獲得等の活躍の場が広がることで、集団(主雄)への収束力が低下していきます。この男達の間に入り、彼らの性期待に応望し媒介となって、集団への収束力を高めていったのが女達だったのだと思います。

縄文時代は、主雄と女という関係から集団内の男達と女達へと、男女の性の期待応望を集団内へと拡げていった時代であったと思います。

また縄文時代は、自然外圧の低下により、女性でも、採取が可能になり、生産面に対する役割が担うようになります。その背景には、もっと集団のために役にたちたい、集団を充足させたいという想いがあったことでしょう。充足存在としての存在基盤の延長上に、生産面においても集団の充足課題を担っていく「勤勉」な女達の姿が浮かび上がってきます。

一方の男も自然外圧の低下により、極限時代に比べ、集団に対する収束力が緩んでくるという局面に直面します。同時に、集団規模の拡大や、集団の増加に伴う他集団との接触による同類圧力の上昇という新たな圧力=課題がでてきます。こうした状況の変化に対して、男達は、集団を維持し統合していくため祭事儀礼を含めた集団の取りまとめや、他集団との交渉等、集団を維持していくためのより広範囲な役割を担っていくようになることが伺えます。

縄文時代は生産面においても、集団統合の面においても、男女の役割が拡大していった時代です。その役割を拡げていく活力の根本に、男女の期待応望=互いの肯定視があったことを忘れてはならないでしょうし、男女の肯定視をベースにした、お互いの役割に対する感謝の気持ちがしっかりと存在していたと思います。
http://syakaituikyu.wp.xdomain.jp/?p=372


125. 中川隆[-13626] koaQ7Jey 2018年9月01日 21:16:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18154] 報告

歴史REAL日本人の起源 (洋泉社MOOK 歴史REAL) ムック – 2018/6/5
https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2REAL%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-%E6%B4%8B%E6%B3%89%E7%A4%BEMOOK-%E6%AD%B4%E5%8F%B2REAL/dp/4800314739

『洋泉社ムック歴史REAL 日本人の起源』 2018/07/24
https://sicambre.at.webry.info/201807/article_37.html


 洋泉社より2018年6月に刊行されました。本書はおもに、弥生時代までの古代DNA研究・縄文時代研究・弥生時代研究の解説で構成されています。それぞれの執筆者は篠田謙一・山田康弘・藤尾慎一郎の各氏で、期待できそうなので購入しましたが、期待通りに最近の研究成果を知ることができました。とくに、弥生時代までの古代DNA研究の解説では、私が不勉強なため、多くの知見を新たに得ることができ、たいへん有益でした。以下、本書で注目した見解について、備忘録的に取り上げていきます。

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析から、縄文人にはハプログループM7aとN9bが広範囲で見つかっており、現代ではほぼ日本人にしか見られません。ただ、どちらも出現(分岐)年代が3万〜2万年前頃なので、38000年前頃に日本列島に進出してきた人類と縄文人とは直接的な祖先-子孫関係にはなかった可能性が指摘されています。もっとも、あくまでもmtDNA解析に基づく推測ですから、38000年前頃の日本列島の人類集団と縄文人とが、もちろんその後の流入による遺伝的影響はあるとしても、直接的な祖先-子孫関係にある可能性も考えられます。

 縄文人のmtDNA解析数も蓄積されて、地域差が見えてくるようになりました。琉球列島を含む関西以西ではM7aが卓越するのにたいして、北海道・東北ではN9bが多数を占めています。また、サブグループまで分類すると、関西以西と東北・北海道では、M7aでもそれぞれ異なるグループが分布しています。そのため本書では、地域間の人的交流が広範囲に及ぶものではなかったかもしれない、と指摘されています。もっとも、後述するように、遺伝的交流は盛んではなくとも、交易などによる文化的交流はある程度以上活発だった可能性もじゅうぶんあるとは思います。

 また、現代日本人では、N9bが2%程度で、7%程度存在するM7aも、縄文時代の関西以西のサブグループで大半を占めることから、現代日本人に継承されている縄文人のDNAは、おもに西日本の縄文人に由来するのかもしれません。そうだとすると、弥生時代最初期にユーラシア大陸から九州北部に渡来した集団が在地の縄文人と混合し、東進していったために、現代日本人に占める縄文人の遺伝的影響は、西日本系の方が東日本系より高くなったのかもしれない、と本書は推測しています。

 縄文人のゲノム解析も進められており、最近になって、北海道礼文島の船泊遺跡から出土した3800〜3500年前頃の女性のゲノムは、現代人とほぼ同じ精度で解析されたそうです。平均網羅率は明示されていませんでしたが、30倍以上ということでしょうか。この女性の血液型はA型で、耳垢は湿式、切歯はシャベル状ではなく、巻き毛だったことが明らかになっています。これらの表現型はおおむね予想通りでしたが、目の虹彩は茶色で、人骨からの推測通り、身長が低くなる傾向を有する遺伝子が確認されました。

 この女性の両親は近い血縁関係にあり、両親の近縁関係の程度はアマゾンの先住民と同じくらいと推測されています。船泊遺跡からは、新潟県の糸魚川沿いの翡翠や、シベリアで発見されたものと類似した貝製装飾品が発見されていますが、婚姻圏は狭かったのではないか、と本書は推測しています。ただ、こうした狭い婚姻関係が一般的だったのか否かは、もっと縄文人のゲノム解析数が蓄積されないと、判断が難しいように思います。

 船泊遺跡の女性のゲノム解析の結果、福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚の縄文人と同様に

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201609/article_3.html


船泊縄文人も現代の東アジア集団とは大きく離れている、と明らかになりました。現代人の集団で船泊縄文人とある程度遺伝的に近縁性を示すのは、アイヌ・琉球・「本土」日本・台湾や沿海州などユーラシア東部圏沿岸地域の先住民でした。本書は、東南アジアからの初期拡散により北上した集団のなかでユーラシア東部圏沿岸地域に居住した人々が融合し、縄文人が形成されたのではないか、と推測していますが、確証するにはユーラシア大陸の古代DNA解析が必要だ、と指摘しています。

 船泊遺跡では縄文時代の男性遺骸も発見されており、ゲノムが部分的に解析されているそうです。この男性もゲノムが解析された女性も、海獣など脂肪分に富む食資源に依存している場合に有利となる、脂肪代謝に関連する多様体を有しており、北極圏の先住民集団も同様です。船泊遺跡ではじっさいに漁撈具や海獣の骨が多数発見されているので、海獣への依存度が高い食生活を送っていたようです。船泊遺跡の男性のY染色体ハプログループは、現代日本人では30%以上存在するものの、中国や韓国ではほとんど見られないD1bでした。しかし、船泊遺跡の男性のY染色体ハプログループは、D1bの中でも現代日本人で多数を占めるサブグループD1b1ではなく、Y染色体でも、北海道の縄文人が現代日本人にはさほど遺伝的影響を及ぼしていない、という可能性が想定されます。

 弥生時代の人類のゲノム解析も進められていますが、縄文系と渡来系という以前からの形態学的分類がそのまま当てはまるものではなく、複雑な様相を呈していることが明らかになってきました。福岡県那珂川町安徳台遺跡で発見された弥生時代中期の女性は、典型的な渡来系弥生人と考えられており、遺伝的には韓国や中国の集団と類似する、と予想されていましたが、ゲノム解析の結果、現代日本人の範疇に収まり、むしろやや縄文人に近い、と明らかになりました。本書は、安徳台遺跡の弥生時代中期の集団が東進し、在来の縄文系と混合していったとすると、現代日本人における縄文人の遺伝的影響はもっと高くなっていると予想されることから、弥生時代中期〜古墳時代におけるユーラシア大陸からの渡来を想定する必要がある、と指摘しています。

 縄文系とされる弥生人のゲノムも解析されています。長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡で発見された弥生時代後期の合葬された男女2人は、縄文人と共通する形態学的特徴を有している、と評価されています。mtDNAのハプログループでは、女性が縄文系と考えられるM7a、男性が渡来系と考えられるD4aと明らかになりました。しかし、核ゲノム解析では、縄文人と現代日本人の中間に位置する、との結果が得られました。上述した安徳台遺跡の事例からも、弥生時代には在来系と渡来系との融合が進んでおり、弥生人は均一な集団ではなく、独自の遺伝的構成を有していた、と言えるでしょう。本書は、弥生時代の渡来系は当初より在来系の縄文人と融合し始め、当時の朝鮮半島には渡来系弥生人と同じ遺伝的構成を有する集団はいなかっただろう、と推測しています。

 また本書は、弥生時代になっても日本列島の大半に縄文系の人々がいたと考えられることから、弥生時代以降もユーラシア大陸から日本列島への流入があり、現代日本人につながる集団の完成は古墳時代だろう、との見通しを提示しています。まだ予備的な研究の段階ですが、古墳時代になると、関東の集団の遺伝的な構成が大きく変わるそうで、古墳時代の日本列島の住民のDNA解析の進展が期待されます。また、飛鳥時代以降の古代DNAの解析も、日本史研究に大きく寄与するでしょうから、今後の研究の進展が楽しみです。


 これまで、先史時代の研究は考古学と形態学が主流でした。近年では古代DNA研究の進展が目覚ましいものの、考古学と形態学でも研究は着実に進展しています。日本列島最初期の土器は北海道では発見されておらず、朝鮮半島最古の土器は1万年前頃であることから、縄文土器は日本列島で開発された可能性が高そうです。また南島地域においては、縄文文化との共通性も相違点も見られ、時期により縄文文化と連動したり離れたりしていたそうです。本書は、他地域との交流はあるにしても、対馬海峡において文化的な境界線を引けることからも

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_45.html

縄文文化の空間的範囲は、現代の日本国の領域と厳密に一致しているわけではないものの、ほぼその範囲に収まる、との見解を提示しています。

 これは形態学的にも言えることで、縄文人の形質は、空間的には北海道から九州まで、時代的には早期から晩期前半までほぼ同一で、世界中で類似した古人骨は発見されていないそうです。そのため、縄文時代には、形質を大きく変化させるような他地域からの人的流入はなかった、と考えられています。それでも、やはり地域差はあり、北海道では地位内の差異が比較的大きい一方で、九州では小さいことが明らかになっており、縄文人の形成過程と関わっているかもしれません。

 縄文時代には定住が進みましたが、その度合いは地域により異なっており、その要因は依存していた食資源の違いだろう、と推測されています。縄文時代の農耕は近年よく主張されるようになりましたが、畑はまだ見つかっておらず、ダイズやアズキなどの作物が確定しただけだ、と本書は慎重な姿勢を示しています。縄文時代には、後期において、墓の分析から、北海道や東北でかなりの階層化が生じていた、と推測されています。しかし本書は、晩期にはこれらの地域で均質化が見られることから、おそらくは人口の少なさが要因で、階層社会は持続しなかっただろう、と指摘しています。

 弥生時代については、本書では紀元前10世紀にさかのぼるとする早期説が大前提となっていますが、まだ議論が決着したとは言えないようです

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201406/article_1.html


茨城県と栃木県以北では、水田稲作が行なわれても環濠集落が見られませんが、本書はその理由を、地域の核となる存在がなかったからではないか、と推測しています。水田稲作は、災害にあってもすぐに再開する傾向が強いのですが、東北の北部では、水田稲作が途絶えて数百年再開されませんでした。本書はその理由として、寒冷な気候が要因ではなく、東北の北部には水田稲作が始まっても土偶があることから、何らかの信仰形態・世界観の違いを挙げています。本書では古墳時代についても少し言及されており、九州や近畿では墳丘墓が早くから見られるものの、紀元後には衰退して古墳時代には直結しておらず、古墳時代の直接の起源は、紀元後2世紀半ば〜後半にかけての吉備や出雲にあるのではないか、との見解が提示されています。
https://sicambre.at.webry.info/201807/article_37.html

126. 中川隆[-13641] koaQ7Jey 2018年9月03日 19:41:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18211] 報告

諸説あり・縄文人はどこから来たのか=北方説・南方説 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6gnb0k
127. 中川隆[-13628] koaQ7Jey 2018年9月04日 14:58:33 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18223] 報告


最もネアンデルタールに近いのは日本人? 免疫システムに残る人類の歴史 2016/02/22
http://sciencenews.co.jp/2016/02/22/post-1042/


多くの人を悩ます花粉症。その原因は免疫システムの暴走だが、免疫システムの一部がネアンデルタールからの「プレゼント」だと判明した。

免疫に重要な役割をもつTLRの遺伝子

花粉症対策にかかる費用もバカにならないが……


 とうとう今年も花粉症の「季節」がはじまった。2月にはいると首都圏でもスギ花粉が観測されはじめ、ドラッグストアでは対策商品の陳列に余念がない。

 花粉症を含めたアレルギーは、もともと体に侵入した細菌やウィルスなどから体を守る免疫システムが過剰に反応しておこる。

 花粉症も大変だが、生物が生きていくには欠かせないシステムである。この免疫に関わるいくつかの遺伝子はネアンデルタール人とデニソワ人からの「プレゼント」だったと今年の1月に明らかになった。

 遺伝学の科学誌「The American Journal of Human Genetics」で独の研究チームが発表した。日本人の遺伝子の中にネアンデルタール人が「潜んで」いる。

ヒトはネアンデルタール人を滅ばして今の繁栄を築いた。独・マックスプランク研究所のJanet Kelsoのチームは現代人の遺伝子の中に、ネンデルタール人やデニソワ人との交配によって残り続けている「彼ら」の遺伝子をさがしていた。

 人類の進化でエポックメイキングな最近の発見といえば、ヒトが絶滅させたと考えられているネアンデルタール人と人間が交配していたことと第3の人類デニソワ人の発見だ。

 この3種は50万年前に共通祖先から分かれたと考えられ、ネアンデルタール人はヒトより数十万年前にアフリカを出て主にヨーロッパに広がった。

 研究チームが目をつけたのがTLRの遺伝子。これまでの研究データもとにピックアップした。TLR(Toll Like Receptor)は細胞の表面にニョキニョキと生えているタンパク質。免疫で非常に重要な役割を果たす。

 体を外敵から守るには、まず外敵の侵入を関知しなくてはならない。この防犯センサーの役割を担うのがTLRというタンパク質なのだ。

 体内に侵入した細菌や菌類、寄生虫の一部がこのTLRにくっつくとセンサーが作動し、外敵をやっつける細胞が集まったりと、さまざまな免疫システムが動く仕組みだ。

ネアンデルタール人の遺伝子を最も多く持つ日本人


ネアンデルタール人
我々日本人のご先祖さまである


 複数あるTLRのうちTLR1とTLR6、TLR10は染色体上に隣接している。ネンデルタール人やデニソワ人の3つのTLRを含む領域を現代人と比較する。

 ヨーロッパ人と東アジア人、アフリカ人など現代人の14集団のこの領域を調べると7つのタイプに分類された。このうち2つがネンデルタール人由来、ひとつがデニソワ人由来だと判明する。

 理論的にはヒトより数十万年先にアフリカを出て、中東を経由してヨーロッパに広がったネアンデルタール人の遺伝子は、アフリカに残った祖先由来のアフリカ人には存在しない。

 調べると、確かにアフリカ人にはネンデルタール人由来のTLRを含む領域がほとんどみられなかった。

 このように、現代人のTLRを含む領域のゲノム配列を詳細に調べ比較してネンデルタール人とデニソワ人由来だと突き止めた。

 そして、機能が非常に重要性なので、数万年という自然選択を受けてもほとんど変わらずに高頻度で残っていたと考えた。

 実はこのネアンデルタール人由来のTLR1とTLR6、TLR10遺伝子を最も多く持つのが日本人。どの集団よりも高く、約51%が持っていた。

 花粉症の最大の要因にTLR1とTLR6、TLR10が直接関与するわけではないが、免疫システムを通して人類の壮大な進化を想像し、内なるネアンデルタール人を思うことで少しは症状が軽くなるかもしれない(そんなことはありません)。

取材・文 山下 祐司


▲△▽▼

2017-01-04 ネアンデルタール人 日本人について
http://www.m-a-p-s.biz/entry/neanderutarujinnihonjin


ネアンデルタール人と 日本人について書いてみました。私たちが生きていくためには欠かせないシステムである免疫のいくつかの遺伝子はネアンデルタール人とデニソワ人からの「プレゼント」だったことが明らかになりました。

最もネアンデルタールに近いのは日本人?免疫システムに残る人類の歴史

日本人の遺伝子の中にはネアンデルタール人が「潜んで」いる。

今年もしばらくすると2月に入り、暖かい地域ではスギの花粉が観測されはじめ、薬局やコンビニでも花粉対策商品の陳列に大忙しになる事と思います。

しかし、この花粉症を含めたアレルギー反応というのは、体内に侵入した細菌やウィルスなどから体を守るための免疫システムが過剰に反応して起きているといわれています。


この私たちが生きていくためには絶対に欠かすことのできない大切なシステムである免疫。この免疫に関わるいくつかの遺伝子はネアンデルタール人とデニソワ人からの「プレゼント」だったことが明らかになりました。


遺伝学の科学雑誌「The American Journal of Human Genetics」でドイツの研究チームが『日本人の遺伝子の中にネアンデルタール人が「潜んで」いる』と発表し話題になっています。



ヒトはネアンデルタール人を滅ぼして今の繁栄を築いた

ドイツ・マックスプランク研究所のJanet Kelsoのチームは研究で、現代人の遺伝子の中に

、ネンデルタール人やデニソワ人との交配によって残り続けている「彼ら」の遺伝子をさがしていました。

人類の進化において少しショッキングな近頃の発見といえば、ヒトが絶滅させたと考えられているネアンデルタール人と人間が実は交配をしていたとされる事実と第3の人類デニソワ人の発見でした。

この3種は50万年前に共通祖先から分かれたと考えられ、ネアンデルタール人はヒトより数十万年前にアフリカを出て主にヨーロッパに広がったとしています。

研究チームが目をつけたのがTLRの遺伝子で、これまでの研究データをもとにピックアップすると、TLR(Toll Like Receptor)遺伝子は細胞の表面にニョキニョキと生えているタンパク質のことで人間の免疫システムの中で非常に重要な役割を果たしています。

体を外敵から守る為には、まず外敵の侵入を関知しなくてはなりません。この時この防犯センサーの役割を担うのがTLR遺伝子というタンパク質なのだそうです。

体内に侵入した細菌や菌類、寄生虫の一部がこのTLR遺伝子にくっつくと体内のセンサーが発動し、外敵に攻撃をしかける細胞が集まったりと、さまざまな免疫のシステムが動く仕組みになっています。

複数あるTLR遺伝子のうちTLR1とTLR6、TLR10は染色体上に隣接しており、ネアンデルタール人やデニソワ人の3つのTLR遺伝子を含む領域を現代人と比較してみたそうです。

ヨーロッパ人と東アジア人、アフリカ人など現代人の14の集団のこの領域を調べてみると7つのタイプに分類され、このうち2つがネアンデルタール人由来、ひとつがデニソワ人由来だと判明します。

理論的にはヒトより数十万年先にアフリカを出て、中東を経由してヨーロッパに広がったネアンデルタール人の遺伝子は、アフリカに残った祖先由来のアフリカ人には存在しいていませんでした。

これを調べたら、確かにアフリカ人にはネアンデルタール人由来のTLR遺伝子を含む領域はほとんどみられませんでした。このように、現代人のTLR遺伝子を含む領域のゲノム配列を詳細に調べ比較してネアンデルタール人とデニソワ人由来だと突き止めたのです。

そして、機能が非常に重要なので、数万年という自然選択を受けてもほとんど変わらずに高頻度で残っていたと考えたようです。

実はこのネアンデルタール人由来のTLR1遺伝子とTLR6遺伝子、TLR10遺伝子の3つの遺伝子を最も多く持つのが私たち日本人で、どの集団よりも高く、約51%が持っていたそうです。


花粉症の最大の要因にTLR1とTLR6、TLR10が直接関与するわけではありませんが、免疫システムを通して人類の壮大な進化を想像し、私たちの祖先である、内なるネアンデルタール人のことを意識してみるのも、たまにはいいのかもしれません。
http://www.m-a-p-s.biz/entry/neanderutarujinnihonjin


▲△▽▼


日本人はネアンデルタール系種族の生き残り? - ねずさんのひとりごと? 2017年08月31日
https://ameblo.jp/aoiwasi-k135/entry-12306382775.html
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-3498.html?sp


なんだか大上段に振りかぶったようなタイトルになってしまいましたが、要するに言いたいのは、「7万年前からが現生人類」というのは「白人種視点での人類史」だということです。

有色人種視点で考えると、特に日本人などは25万年前に生まれた新人類種(ネアンデルタール系)の生き残りからの進化と考えなければ、遺跡の辻褄が合わなくなるのです。

年表

猿人が出現したのがおよそ600万年前、ネアンデルタール系等の新人類種が出現したのが、およそ25万年前といわれています。

この時代の人類は、火や石器を使うネアンデルタール種を筆頭に、猿人から現在の人類に近いものまで、かなり多様な種族があったようです。

ところがおよそ7万年〜7万5千年前に、インドネシアのスマトラ島にある「トバ火山」が大噴火を起こします。
この噴火は地球史上に残る大噴火で、噴煙は世界に広がって、地球気温は年平均で5℃も低下しました。

年平均気温というのは、1℃違うだけで、鹿児島と仙台の気象が入れ替わります。
それが5℃違うということは、日本がアラスカのような気候になり、赤道直下の気候が北海道から樺太にかけての気候になるということです。
これはものすごい変化です。

当然影響はすさまじくて、このとき地球上の人口は、およそ1,000〜10,000人程度にまで減少したといわれています。

地球はひとつの生命体に例えられますが、その地球が怒ると本当に怖いです。
そしてこの大災害を生き残ったごくわずかな人類が進化して、現代人になったとされています。

これを「ボトルネック効果」といいます。
多様な進化を遂げていた種が、急激な個体数の減少によって遺伝的な多様性を失ない、わずかに生き残った種が、その後繁栄して現代の種になっているわけです。

このことは比較的近いこの千年ほどの時代の中にあって、民族的特徴が極めて似通って細目、エラ、耳などの身体的特徴が極めて似通った民族があることでも理解いただけると思います。

こちらは一国の中における社会体制が原因ですが、トパの噴火のときには、これが地球的な規模で起きたわけです。

おもしろいことに、このときのトパ噴火後、ヒトに寄生するシラミもまた、この時期に変種が生まれています。

毛髪に寄宿する毛ジラミと、衣服に寄宿する衣ジラミで、近年の遺伝子の研究によって、この2種が分化したのも、およそ7万年前とわかりました。

このことは、トバの噴火後、急速に寒冷化した地球を生き残るために、人類が衣服を着用するようになったことを示しています。

トバの大噴火によって起こされた地球の寒冷化は、その後約5万年続きました。
その5万年が、地球上の最終氷河期と呼ばれる期間です。
その終わり頃のおよそ1万8千年前、地球気温は最低のレベルにまで冷え込みました。

その理由が姶良カルデラ(あいらカルデラ)の破局噴火です。
これは日本で起こっています。

鹿児島湾には、入り口付近に桜島があり、その内側は、およそ直径20kmの窪地を構成しているのですが、これが姶良カルデラです。
つまり桜島が活火山なのではなくて、鹿児島湾自体が巨大な噴火口だったわけです。

このときの噴火による火山灰は、南九州では30メートル、高知県宿毛で20メートル、鳥取県大山付近で8メートル、京都にも4メートルも降り積もっています。
そして偏西風に乗って世界各地に甚大な被害をもたらしています。
そしてこれによって、地球気温は急激に寒冷化するわけです。

ちなみに火山の噴火というのは、単に火山灰が太陽を隠して寒冷化をもたらすというだけにとどまりません。

火山灰に含まれるガラス成分が肺に入って突き刺さり、アスベストと同じ肺気腫や心不全などの健康被害をもたらして人を死に至らしめます。

実は近年、南九州で、この火山灰層の下から、縄文時代の大集落跡が次々と発見されています。

そこでは世界最古の船造りのための工具や、燻製施設、金属を加工するための炉、縄文ではなく貝殼紋の土器などの遺物遺構が続々と発掘されています。
この人たちは、遺物の状況からみて、造船のみならず、金属加工まで行っていたわけで、極めて高い文化を持った人々であったことがわかります。
しかも彼らは海洋族です。

海洋族であったということは、海を移動する人々でもあったということです。

さて日本列島には、この姶良カルデラ(あいらカルデラ)の破局噴火よりも1万2千年古い、およそ3万年前の世界最古の磨製石器が関東で発掘されています。
場所は栃木県の岩宿遺跡です。

さらに島根県の出雲にある砂原遺跡からは、およそ12万年前の石器が発掘されています。

これはトパの噴火よりも古い時代の遺物ですが、現生人類の誕生が7万年前とすると、砂原遺跡の石器は、現生人類ではない旧人類(新人)の遺物ということになります。

一方、その人々がそのまま日本列島に生き残ったのであろうことは、近年の研究成果で日本人のDNAに、ネアンデルタール系のゲノムが世界で最も多く残されていることで証明されています。

これは昨年、西ドイツの研究チームが発表したことです。

つまり日本人はネアンデルタール系の旧人類が、現生人類と7万年の歳月をかけてゆるやかに結合していくことで現代日本人につながっている種といえるわけです。

日本列島で石器を遺した人々は、7万年前のトパの噴火で多くの命が失われ、また3万年前の姶良の噴火でも、やはり多くの人命を失ったことでしょう。
ところが姶良カルデラの噴火後、およそ千年の間に、地球気温はいまよりもずっと上昇します。

そしていまから1万6500年前には、青森で最古の土器が発掘されています。
なぜ青森なのかといえば、その頃の地球気温がいまよりもずっと高かったからです。

そして姶良カルデラの噴火以降の遺跡は、九州地区から山陰、畿内、関東、東北へと広がりを持ちます。

この時期の日本列島は、寒冷化と温暖化が数百年単位で変化しています。
このことは、たとえば森の木々にしても、森が針葉樹林になったり、広葉樹林に変化したりしているわけです。

このことは、人々の生活環境を劇的に変えていくことを意味します。
そうした環境変化を生き延びようとすれば、当然、着衣や道具類を進化させていかなければならなくなります。

また、人は移動できる動物です。
寒冷化が進めば南へと移動し、温暖化が進めば北へと移動します。

ここでヒントになるのが、海洋族であったという切り口です。
海の魚には様々な種類がありますが、魚たちはわずかな海温の変化で、その生息地を変化させます。

最近でも、ほんの30年前には御前崎あたりで捕れていたイシモチが、いまは東京湾くらいまで北上しています。

食用には様々な魚が供されたでしょうけれど、比較的漁がしやすく、食用に量も確保しやすい魚が移動すれば、いまのような土地の所有権などなかった時代のことですから、人々は、魚とともに北上したり、南下したりを繰り返したことと思われます。

また、よりたくさんの魚を得るためには、船造りや釣り針などに常に工夫が必要です。
ここにも知恵が必要になります。

海洋族というのは、海を利用して頻繁な往来を行います。
姶良の噴火のような自然災害がいつ起こるかわからないという中にあっては、子孫たちは、地域的に離れて住むことが行われたことでしょう。

このことは古事記の中にあっても、国産み神話の中で、人々(子孫)が全国各地に広がっていった様子として描かれています。

なぜならそうしなければ、変化する環境を生き残れないからです。
ずっと寒冷のまま、ずっと温暖のままであれば、そのような知恵は必要ないかもしれません。

けれど生活環境が劇的に変化する環境のなかにあっては、子孫の生活拠点をどこに置くかは、とても重要なことです。

さて、3年前の2014年のことですが、現生人類とネアンデルタール人は、6万年前くらいから混血してきたのではないかという説が発表されました。
翌年には、米国の研究チームがDNAの研究によって、鬱病や気分障害や依存症などの精神疾患は、ネアンデルタール人由来のものであるという発表を行っています。
そして上にも書きましたが、昨年には西ドイツの研究チームが、世界でもっともネアンデルタール系のDNAを保持しているのが日本人だという研究成果を発表しています。

これらを総合して考えるとき、日本人は大陸から朝鮮半島を経由して日本列島に住み着いたという説は賛成しかねるものとなります。
なぜなら、いまでもそうですが、いわゆる文明というものは、河川と海の交わる平野部で興っているからです。

人類が内陸部でも生活するようになるのは、ずっと後の時代の、農耕が営まれるようになったおよそ1万年前からのことです。

それ以前は、狩猟採集生活なのですが、いまでも都市の多くが海に面していることが示すように、狩猟だけでなく、海洋や河川からの漁労が人々の生活に欠かせないものであったことは、論ずるまでもないことであると思います。
モスクワは地図上では内陸部ですが、そこはいわゆる水郷地帯です。
北京や南京は内陸部ですが、やはり河川に囲まれた平野部にあります。

人は食べなければ生きていけません。
そして人が生活したのは、その食べ物を得やすいところであったであろうということは、容易に想像できることです。

そしてその食べ物は、野山と海や川にあります。

ということは、森があり、海にも川にも近くて、その川がいわゆる暴れ川ではないところが、人々の生活の場所になったであろうことは論をまたないことです。
実際、縄文時代の遺跡である貝塚は、いずれも海に近い所にあります。

そうであるとするならば、人は海の近くに住み着いて進化したはずであって、山や砂漠地帯での生活を何万年もの長い間送ったとは考えられないし、そのような生活であったと証明する遺跡もありません。

そもそもサルとヒトとを分ける最も大きな特徴は、尻尾と体毛の有無にあります。
尻尾は四足歩行をする際に、頭部の重さとのバランスをとるためのものですから、二足歩行するようになると尻尾は必要がなくなります。

また体毛は、哺乳類が森で生活するのにあたって、肌を守るために絶対に必要な条件です。

ところがヒトの体毛は、サルよりもはるかに薄い。
そして海に住む哺乳類では、繁殖を陸上で行うアザラシ、トド、アシカ類には密生した体毛がありますが、それ以外のジュゴン、クジラ、イルカ等には体毛はありません。

つまり、海に近い所で生活するようになったサルが、体毛を退化させてヒトに進化したと考えられるのです。

このことから導き出されることは、ヒトは、海岸付近で生活し、その後、文明を発達させて、草木や虫などから身を守る衣類を用いるようになってから内陸部へと、その生息圏を広げていったということです。

そしてシラミの研究から、ヒトがおよそ7万年前から衣類を用いるようになったということは、人が内陸部に生活拠点を求めるようになったのは、早くても3万年以降のことだし、農耕の始まりが1万年前からだということは、それ以前の人々は主として海洋や大型河川から食を得ていたということができます。

そしてそのことは各地の旧石器、新石器の遺跡の所在地がこれを証明しています。

さらに最終氷河期のピークにあたる1万8千年前といえば、海面がいまよりも140メートルも低かった時代です。
これは、いま大陸棚となっているところは、ほとんど海上に顔を出した陸地であったことを意味します。

黄海から東シナ海、南シナ海、タイランド湾からジャワ海に至る一帯は、実は陸上であったわけです。

そして日本列島は、それら張り出した大陸棚の最東端の海に面した地域でした。

要するにこの時代の人々は、海に面した(つまりいまでいう大陸棚の端)あたりに住んでいたわけで、これがその後の温暖化による海面上昇によって、住んでいた地域が水没し、分断されて行ったと考えられるわけです。
日本列島や琉球諸島から、旧石器が出土するのはこのためで、その時代から海に面していて、水没をまぬがれた地域であるからといえるわけです。

つまり日本列島に住む人々は、大陸や朝鮮半島から「やってきた」のではなくて、日本列島に住んでいた人々はそのままに、海面の上昇に従って住む土地を奪われた人々が、およそ1万年の歳月をかけて次第に支那大陸や朝鮮半島などに「追われていった」のです。

こうした人類史というのは、まだまだわからないことだらけの世界です。
ただひとついえることは、古い人種であるネアンデルタール系の人々は、サル同然の姿形や生活をしていたわけではなく、死者を埋葬するに際して、棺に花をいっぱい入れたり(このことは遺跡によって証明されています)、石器や船つくりや、金属加工まで行う一定の文化水準を持った、まさに知恵のある人(ホモ・サピエンス)であったということです。

そしてトパの大噴火後、現生人類が誕生し、ネアンデルタール系はおよそ2万年前には滅んだとされていますが、どっこいそうではなくて、トパの噴火後も、実はユーラシア大陸の東のはずれにも、大噴火を生き残ったネアンデルタール系の人々がいたわけです。

そして海洋族として人口を増やしていくのですが、地球の温暖化によって島と大陸に分断されていき、大陸側の人々は、好戦的な現生人類種によって次々に殺され、あるいは強姦されて血が混じり、ネアンデルタール系の痕跡がわずかしか残っていないという状況になっていき、一方、海に隔てられた日本や琉球諸島、あるいは南太平洋の島々の人々は、その後7万年の歳月をかけて、現生人類とゆるやかに交配を重ねていって、現在に至っているのではないかと思われるわけです。

実はこのことは、古事記を読むと、どうやらそれらしいことが書かれていることに驚かされます。

国産み神話や神生み神話に述べられている神々のお名前に使われている漢字を紐解いていくと、どうやらそれらしいことが書かれているとしか思えないのです。

たとえば伊耶那岐、伊耶那美の生んだ最初の子である水蛭子(ひるこ)は、海に流したと書かれていますが、これはもしかしたら何万年もの昔に水没して失われた、かつて住んでいた陸地のことであるようにも読めるのです。

火之迦具土神の神語は、その後にあった大きな火山の噴火を意味しているようにも読めてしまいます。

しかし、最近の様々な地球史、人類史は、次第に古事記に書かれた神語の真の意味を解き明かしつつあるような気がしてならないのです。
https://ameblo.jp/aoiwasi-k135/entry-12306382775.html

128. 中川隆[-13644] koaQ7Jey 2018年9月08日 11:42:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18361] 報告

2015.9.25 【歴史のささやき】「炊く」か「蒸す」か、それが問題だ


登呂遺跡(静岡県)で行った炊飯実験。弥生人も米を「炊いて」いたのだろう
https://www.sankei.com/region/photos/150925/rgn1509250058-p1.html


 □西南学院大名誉教授・高倉洋彰氏

 現在、ご飯は電子炊飯器で炊くが、私が子供のころは竈(かまど)に鉄釜を置いて炊いていた。竈の前に座って火吹き竹で空気を送り込んで火をおこし、たき木を継ぎ足すのは子供の仕事だった。この光景は漢代の画像資料にも見られる伝統的な方法だ。

 ご飯には、米を直接水にひたす「炊く」方法と、水蒸気を利用する「蒸す」方法がある。炊く方法は軟らかくできるから姫飯(ひめめし)、蒸す方法は硬めにできるから強飯(こわめし)という。強飯の言葉は、赤飯などの「おこわ」に残っていて、結婚式などの祝いの席で食べられる。

 古代日本人は、どちらでご飯を食べたのだろうか。私の学生時代は、「稲作が伝わったころから蒸す方法で食べた」と考えられていた。甑(こしき)とよぶ甕(かめ)の底に穴を開けた土器が見つかったからだった。甑には米をいれ、水を張った甕に重ねる。甕の周りで火をたくと、蒸気が甑の底の穴から吹き上がって、米を蒸す。つまり甑は蒸籠(せいろう)の役割を果たすと考えた。

 しかし、発掘調査が進んでも、甑の出土数は少なかった。一方、「おこげ」が着き、吹きこぼれがスス状になった甕の事例が増えてきた。「蒸す」よりも「炊く」方が主流だったことを示す“物的証拠”といえる。

 考古学者の間壁葭子さんの実験によると、蒸す方法は、できあがりまで100分かかるが、炊く方法なら30分ですむ。しかも炊く方法では五目飯や雑炊など米の量が調整できる。弥生人は今と同じように、炊いたご飯を食べたのであろう。

 弥生人が米を「炊く」には、一つ課題がある。米と水をいれた甕を、安定させなければならない。

 福岡市宝台遺跡の調査で、分厚く作られた土器を3個置いた遺構が検出された。この土器はそれまで、甕などの器を安定させる置き台(器台)と考えられていたが、等間隔に3つ置く方法と、支座とよばれる良く似た土器が中国にあることから、器台ではなく支脚とわかった。長崎・壱岐の原ノ辻遺跡などには口縁部をくちばし状に引き出した安定感のある支脚があるが、これは形態的にも支座である。

 弥生時代には、炊いたご飯を食べていたと考えるのが自然だし、通説となった。

 ところが不思議なことに、弥生に続く古墳時代は、蒸したご飯を食べたと今でも考えられる傾向にある。理由はよくわからないが、竈・甕・甑をセットにした土器や、そのミニチュア土器がかなり出土していることも大きな要因と思う。

 有名な山上憶良(やまのうえのおくら)の『貧窮問答歌』は、憶良が国守として筑前国に在任中、租税徴集の過酷さを詠んだものだが、「竈には、火気ふき立てず、甑には、蜘蛛(くも)の巣懸けきて、飯炊くことも忘れて」という部分がある。

 これを読めば、甑で飯を蒸して食べるが、忘れるほどの長きにわたって蒸すこともないということになりそうだ。しかし、この解釈は違うだろう。

 食事ができなければ、農民は飢え死にするしかないのだ。生産者である農民を飢え死にさせては、政治はできない。

 私が小学生になる前、戦後の食糧難に窮した経験があるが、サツマイモばかりの芋飯や芋粥(いもがゆ)、わずかに米の見える雑炊で飢えをしのいだものだった。これは、蒸す方法ではできない。

 現代の赤飯に残るように、米を蒸す調理は祝祭の日用で、日常の生活では雑炊や芋粥などが可能な炊く方法だったに違いない。

 貧窮問答歌の光景は、ごちそうを食べるような祝い事もないと言っているのだ。

                   ◇

【プロフィル】高倉洋彰

 昭和18年福岡県生まれ。49年に九州大大学院終了後、福岡県教育委員会、県立九州歴史資料館を経て、平成2年から西南学院大教授。弥生時代の遺跡や大宰府のほか、アジアの考古学など幅広く研究。「弥生時代社会の研究」、「行動する考古学」など著書多数。九州国立博物館の誘致にも尽力した。26年3月に西南学院大を退職し、現在名誉教授。同年5月に日本考古学協会会長に就任した。観世音寺(福岡県太宰府市)住職も務める。
https://www.sankei.com/region/news/150925/rgn1509250058-n1.html

129. 中川隆[-13649] koaQ7Jey 2018年9月09日 18:50:29 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18400] 報告

NHKスペシャル 人類誕生 第1集「こうしてヒトが生まれた」2018.04.09 - 動画 Dailymotion
https://www.dailymotion.com/video/x6hiqkk

NHK スペシャル 人類誕生 第2集「最強ライバルとの出会い そして別れ」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=NHK%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%80%8C%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E8%AA%95%E7%94%9F%E3%80%8D%EF%BC%92

NHK スペシャル 人類誕生 第3集「ホモ・サピエンス ついに日本へ!」 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=NHK%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%B7%E3%83%A3%E3%83%AB%E3%80%8C%E4%BA%BA%E9%A1%9E%E8%AA%95%E7%94%9F%E3%80%8D3

130. 中川隆[-13576] koaQ7Jey 2018年9月18日 21:19:45 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18625] 報告


稲作と日本人
2018/05/18 イネのルーツと照葉樹林文化地帯
http://tadatakitada.blog.fc2.com/blog-entry-169.html?sp


江南地方の水稲と照葉樹林文化地帯の陸稲のルーツは同じ(稲作と日本人)


日本文化のルーツに中国南部の照葉樹林文化の影響があると言われます。例えば、納豆などの発酵食品や糯米文化のルーツは照葉樹林文化に由来するという考えですが、稲栽培のルーツもそこにあるという指摘もあり、稲作は江南地方がルーツだという考えと論争が続いている感じがします。

関連し、今回は、両者のルーツは同じ、そして、稲作文化と照葉樹林文化がマレー系民族によって日本に伝えられたことについて愚考します。

拙ブログでは、鹿児島県の火山灰層の1万年前の地層からイネのプラント・オパールの発見があったことから、日本への稲導入は、1万年前からあったと推察しております。そして、それは稲作民族のマレー系民族が持ってきたものであると推察しております。

このことを、照葉樹林文化地帯を入れて図解しますと下の図のとおりです。

http://tadatakitada.blog.fc2.com/img/20180518072401985.png/


また、拙ブログでは、古代稲作の様子を、先日、水稲栽培も陸稲栽培も方法は乾田直播栽培であったことを紹介しました。そして、日本においては陸稲栽培が先に普及したことは周知の事実であります。

一方、拙ブログでは、今でもマレー系民族のDNA(Y染色体ハプログループ O1b)が中国南部にも多数あることを紹介してきました。例えば、照葉樹林文化地帯に住むヤオ族ですが、マレー系の割合は40%もあります。この様子を下の地図で示しました。なお、何度も指摘していることですが、日本には32%のマレー系民族のDNAがあります。


http://tadatakitada.blog.fc2.com/img/20180518072402c58.png/

照葉樹林地帯とマレー系民族

また、江南地方の水稲作を日本にもたらしたのはマレー系民族であったことを、拙ブログでは紹介してきました。マレー系民族は、中国南部の照葉樹林文化地帯にも居り、彼らが日本に稲作(陸稲)と照葉樹林文化をもたらしたと考えることができます。

まとめますと、水稲栽培も陸稲栽培も古代においては同じ乾田直播という方法であり、江南地方では水稲栽培が、照葉樹林文化地帯では陸稲栽培が行われ、それぞれ独自の進化を遂げたと思われます。そして日本では陸稲栽培が先行しましたが、これは地形が影響したと思われます。

以上のことから、稲作も照葉樹林文化もマレー系民族が関与しており、それらを彼らが日本にもたらしたと可能性が高いと判断されます。

なお、専門的な話になりますが、稲には陸稲と水稲があります。陸稲は根が張り乾燥に強い特性がありますが水稲として作ることもできます。一方、水稲は乾燥に弱い問題がありますが、陸稲として作ることもできます。因みに、米が余り良食味品種が求められた時代に水稲のコシヒカリが陸稲栽培されたことがあります。従いまして、水稲と陸稲の差異は小さく、同じ稲が江南地方では水稲となり、照葉樹林地帯では陸稲となったと思われます。

なお、照葉樹林文化のモチ文化と関連し、下の写真は我が菜園の自生ヨモギで作ったヨモギモチです。

http://tadatakitada.blog.fc2.com/img/20180518072403be8.jpg/

ヨモギモチも照葉樹林食文化の一つと思われます。我が家のヨモギモチ饅頭にはアズキアンが入っていて美味しいです(笑)。
http://tadatakitada.blog.fc2.com/blog-entry-169.html?sp

131. 中川隆[-13561] koaQ7Jey 2018年9月20日 05:58:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18649] 報告

なぜ世界最古の土器が日本列島から出土するのか? 2018/09/02
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201809/article_1.html


 1万年以上も自然と共生し、平和が続いた縄文時代は「文明先進国がどこも体験することのできなかった貴重な時間」だった。


■1.日本列島から出土した世界最古の土器の一つ

 東京・上野の国立博物館での縄文展を見た。大変な人気である。特に中国やメソポタミアなどの土器との比較もできるようになっていて、縄文時代の火炎土器は年代もはるかに古いのに、立体的な造形美は比較にならないほど美しかった。また、細かい縄紋、すなわち縄目の模様の精巧さにも驚かされた。

 現在、世界最古と考えられている土器の一つが、青森県大平山元(おおだいらやまもと)遺跡から出土したもので約1万6500年前。これは模様のない無文土器だが、約1万4500年前ごろには、粘土ひもをはりつけた「隆線文土器」が生まれ、全国に広がっている。

 世界の他の地域では、南アジア、西アジア、アフリカでの最古は約9千年前、ヨーロッパが約8500年前で、これらに比べると、飛び抜けて古い。岡村道雄・元文化庁主任文化財調査官は、日本列島の土器は「質量ともに世界の他の時代や地域のものとくらべても際立っている」と述べている。[1, p53]

 従来の歴史では、メソポタミア、エジプト、インダス、中国が世界の「4大文明」であり、日本は文明を中国から教わった後進地域だった、と教わった。近年の考古学はその歴史観を覆しつつある。しかし、なぜユーラシア大陸の東端にある日本列島で、世界最古の土器が出てくるのだろうか?

■2.縄文人たちの「持続可能な開発」

 従来の文明観では、石器時代の人類は狩猟・採集による移動生活を送っていたが、約1万2千年前くらいから、世界の各地で農耕と牧畜を始めてようやく定住生活ができるようになり、そこから文明が始まったというものだった。

 この文明観から完全にはみ出しているのが、1万5千年前くらいから始まった日本の縄文時代だった。そこで我々の先人たちは狩猟や採集のまま定住生活を始めたのである。

 日本列島を巡る海では寒流と暖流がぶつかり合って世界有数の漁場をなし、豊かな森林からは木の実やキノコなどがとれた。さらにイノシシやシカ、ウサギなどの動物も豊富だった。こうした自然の恵みで、縄文人は農耕や牧畜をしなくとも、四季折々の豊かな食物に恵まれていたのである。

 一般に、農耕・牧畜は狩猟・採集よりは進んだ文明段階であると考えられているが、メソポタミア、エジプト、インダス、中国の黄河流域がみな砂漠化している事を考えれば、農耕・牧畜が自然破壊を伴っていることがよく分かる。

 森を切り開いて畑にすれば、樹木がなくなってやがて表面の土壌が失われてしまう(水田は別だが)。牧畜でも家畜が草の芽まで食べてしまうので、植生が失われ、土壌が劣化する。それに比べれば、縄文人たちは1万年以上もこの日本列島で暮らし、しかも豊かな自然を残してくれたのである。

 近年、国連が「持続可能な開発」(Sustainable Development) という概念を打ち出したが、縄文人たちの生活はまさにそのお手本なのである。


■3.数百種類の食材を、旬を考えながら採っていた

 縄文人たちは自然の恵みをただ受けとっていたのではない。それぞれの品目ごとに「旬」を知って採っていたようだ。

 シジミやハマグリは貝の断面の成長線を調べると、全体の70%は4月から6月にかけて食べていたことが分かった。現代の潮干狩りと同様で、この時期がもっとも脂がのっているからである。同じくイワシ、ニシンも春に盛りを迎える。夏はアジ、サバ、クロダイ、秋はサケ、ブリ等々。同時にクリ、クルミ、シイ、トチなどの木の実のシーズンとなる。

 冬になると、脂肪を蓄えたキジ、ヤマドリ、カモ、イノシシ、シカ狩り。年を越すとワラビ、クズ、セリ、ゼンマイなどの若葉、若芽が採れる。縄文遺跡の食料の残滓から獣60種類以上、魚70種類以上、貝350種類以上が遺されている。これに木の実や野菜、果物、キノコなどが加わる。[2, 963]

 今日の日本料理が多種多様な食材を、それも「旬」を考えて出すのは世界の料理の中でもユニークな特色だが、それは縄文時代から続いている伝統だろう。

 この数百種類の食材に対して、どれが食べられるのか、どこで採れるのか、いつが旬なのか、どう料理するのかを縄文人たちは考えながら、食べていた。一口に狩猟・採集とは言っても、麦だけを植え、牛だけを育てる農耕・牧畜よりは、複雑な知識を使っていたのである。


■4.定住と知識・技術の進化

 縄文人の食の多様性をさらに大きく広げたのが土器だった。土器による煮炊きによって、木の実のアクを抜き、植物の根や茎を柔らかくして食べやすくし、魚や獣の肉の腐敗を防げるようになった。土器は保存容器としても、通気性や通水性によって表面の水分が気化して低温を保つので、食物の長期間保存を可能とした。

 縄文人たちは定住することで、大きな重い土器を作り、使う事ができるようになった。一定の場所から粘土を見つけ、それを形にし、火で焼くという作業は定住していなければできない。

 また、定住生活では身体の弱ったお年寄りも脱落することなく、その経験や知識を次の世代に伝える事ができる。それによって様々な食材を食べられるかどうか判別し、いつどこで採ったら良いかを考える、という知識と経験の積み重ねが容易になった。土器の発達も、定住生活ができるようになったから加速しただろう。

 定住が土器を発達させ、食材に関する知識を蓄積できるようにした。逆に土器と食材に関する知識が定住を可能とさせた。この定住と技術・知識の蓄積は、車の両輪として暮らしの進歩をもたらしたようだ。


■5.縄文人の円の思想

 こうして自然の中に抱かれて暮らしていた縄文人の世界観は、また独特のものがあった。それを明治学院大学・武光誠教授は「円の思想」と表現している。「自然界ではすべてのものが互いに深くつながって存在している」という世界観である。

__________
 夏が終われば秋の山野の恵みが、冬が終われば春の食物が現れる。縄文人は、人間とは、このような終わりのない自然界の恵みによって生かされている存在なのだと考えた。[3, p26]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 獣も魚も貝も木も草も、生きとし生けるものはすべて精霊が宿っている。人間もその一部である。その精霊の命を少しだけ戴いて自分たちは生かされている。その無限の命の循環の中に自分たちは暮らしている。とすれば、魚を取り尽くしたり、獣を小さいうちに食べてしまうなどということは、縄文人にとっては許されない行為であった。

 森を切り払って畑にしたり、牛のための牧草地にしてしまう農耕・牧畜の民よりも、はるかにエコロジカルな世界観である。1万年以上もの間、自然と共生してきた生活の基盤には、こういう生命観があった。

 自然に抱かれた縄文人たちは「自然との共感共鳴」をしていて、それが日本語の中にも残っていると小林達雄・國學院大學名誉教授は指摘する。日本語は擬音語、擬声語が豊かなのが特徴だ。川が「さらさら」流れる、風が「そよそよ」吹く、などである。小林教授はこう語る。

__________
 風が「そよそよ」吹くというのがありますが、あれは風が吹いて、音を立てているのではない。ささやいているのです。
 どういうことかと言うと、音を、聞き耳を立ててキャッチしているのではなく、自然が発する声を聞いているのです。音ではなくて「声」です。・・・[4, 1271]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 縄文人は、人間同士で互いに語り合うように、自然の「声」にも聞き入っていたのである。


■6.すべての人が平等だった環状集落

 人間が自然の円の中で生かされているとすれば、人間同士もその円の中で、生まれ、育ち、年老い、そして子孫を残して死んでいくものであった。そこには階級分化もありえず、すべての人間は平等だった。

 縄文人は集落の中心に円形の広場を作り、そこで自然を司る精霊を祀った。そして、その周りに竪穴住居を円の形に配置した。どの家も神聖な広場からは等距離である。このような「環状集落」は5千年前頃から、東北地方から中部地方まで広い範囲で作られた。

 後に神社ができると、その祭りで、歌や踊りに興じたり、神輿(みこし)とともに練り歩いたりするようになったが、縄文時代から同様の祭りがあっただろう。特に盆踊りは「円」を作って、一緒に回る。こうして、みんなで一緒に楽しむと共に、精霊たちを喜ばせた。

 人間が明るく楽しく過ごすことが、精霊に活力を与えて元気にする最も大切なこととされた。特に縁ある男女が結ばれて、明るい気持ちで仲良く過ごし、多くの子供をつくる事を縁産霊(えんむすび)と呼び、人々は夫婦になった二人を祝福して、賑やかな婚礼を開いた。「円」は「縁」でもある。


■7.「旅」と「まれ人」

 縄文時代には各地の集落間で広域の交易が行われていた。新潟県糸魚川市の山中で上質なヒスイが採れるところがあるが、このヒスイを用いた勾玉(まがたま)の祭器が日本全国から出土している。

 また、秋田、山形、新潟の油田地帯では、石油が地上に染み出してできたアスファルトが採れる。このアスファルトは、石の矢尻(やじり)を矢柄の先端にくっつけたり、壊れた土器を修理する接着剤として使われるが、これらアスファルトを使った出土品が北海道南端から、東北地方全域、北陸地方に及ぶ広い範囲で見つかっている。

 こうした交易がどのようになされたのか。たとえば青森の三内丸山の集落で祭りにヒスイが必要となると、集落の中から選ばれた勇者たちがヒスイの採れる新潟の糸魚川近辺まで出かけていく。そういう旅人が来くと、糸魚川の住民は快く場所を教えてやる。すべての自然物は精霊の恵みなので、彼らが独占すべきものではないからだ。

 武光教授は、これが「旅」の始まりだと指摘する。「旅」とは「賜(た)べ」、すなわち「何かを下さい」という言葉から出た。自分が欲しい物がある所に行って、そこの集落に「何々を賜(た)べ(ください)」とお願いする行為が旅だった。

 旅人たちは、糸魚川の住民に自分たちの集落の話をする。そこから、自分の集落から何か、お返しに持ってこられる物を知る。そして、次回、ヒスイを求めてまた旅人がやって来る時には、それを贈り物として持参するのである。

 こうして旅人は、貴重な情報や贈り物をもってきてくれる「まれにしか来ることのない大切な客人」と歓迎された。これが「まれ人」の語源である。

 縄文時代には、このように全国の村落が交易、交流、友好のネットワークで結ばれていた。これも「円の思想」の表れであろう。


■8.日本人のユニークな経験

 縄文時代の代表的な遺跡、三内丸山遺跡に関して、自由社版の中学歴史教科書は次のように述べている。

__________
 1万年以上にわたる縄文時代の大きな特徴は、遺跡から戦争の武器が出土しないことです。三内丸山のような巨大遺跡からでさえ、動物を狩るための弓矢や槍はありましたが、武器は見つかりませんでした。おたがいが助け合う和の社会が維持され、精神的な豊かさを持ち合わせた社会であったと考えられます。
私たちの祖先である縄文の人々は、「和の文明」とも呼べるこのようなおだやかな社会を築いていたのです。[5, p33]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 土地もヒスイも魚も、すべて自然の恵みと考えれば、そこには私有財産という概念は生じ得なかったろう。そして、その自然の恵みを人々が感謝しつつ、使いすぎないように注意深く使っている社会では、争いは生まれない。

 一方、農耕社会では、自分が汗水垂らして耕して作った畑は自分のものだ、という意識が生ずる。その土地を増やそうとすると、土地を巡って隣人と争いが生ずる。

 北米のインディアンは縄文人と同様の精神を持っていたようだ。イギリスからの移住者たちが辿り着いた時、彼らは「まれ人」として温かく迎えた。しかし、その移住者たちは土地を自分たちの財産と主張して、インディアンを駆逐し始める。インディアンたちは、自然の精霊が与えてくれた大地を、なぜ特定の人間が自分の所有物だと主張するのか、理解できなかった。

 農業・牧畜を始めた人間は、自然環境を破壊し、土地を巡って争うようになった。そこから継承された環境破壊と戦争が、現代社会にも大きな危機をもたらしている。その一方で「円の思想」を継承した日本文化は和を大切にし、環境との共存共栄を実現している。小林教授は次のように結論づけている。

__________
 日本列島で農耕が始まるまでの1万年以上も続いた自然との共生の体験の中で縄文世界観が醸成され、日本人的心の基盤が形成されていったと言えます。それは、文明先進国がどこも体験することのできなかった貴重な時間だったとも言えます。[4, 1317]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 そのような世界でもユニークな1万年以上もの時間を経験した我々は、そこで学んだ事を世界に示していく責務がある。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. 「いのちの結び−現代科学と日本文明」、伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/

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『世界が称賛する 日本人の知らない日本』によせられたカスタマー・レビュー 計111件、5つ星のうち4.9

■★★★★★ 若い人々に薦めます(boyさん)

グローバリズムの風潮が席巻する昨今、カネ、モノ、ヒトが国境を越えて動いている。

必然的に他国の文化と出会う機会も多くなるが、自国の文化に対して我々はどれだけ他国の人々に語ることができるだろうか。

他国の文化に対してあこがれはあっても、自国の文化を語ることができなければ自分のよって立つ場所はないだろう。

また根拠のない自国への貶めなど、なかなか日本人として自信を持つ根拠を知る機会は多くない。

そうした状況の中でこの本を読むと先人がどれだけ努力をしてきたのか、また昔の国際環境の中で先進的な働きをしたのかがわかる。
多くの人、特に若い人に読んでもらいたい本である。
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■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1.『日本の歴史01 縄文の生活誌』★★、講談社学術文庫、H20
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/406291901X/japanontheg01-22/

2. 上田篤『縄文人に学ぶ』★★★、新潮新書、H25
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B00GQQU048/japanontheg01-22/

3. 武光誠『日本人なら知っておきたい日本』★★★、育鵬社、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594080510/japanontheg01-22/

4.小林達雄『縄文文化が日本人の未来を拓く【電子特別版】』★★★、徳間書店、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/07FDTD9TV/japanontheg01-22/

5. 『中学社会新しい歴史教科書 新版 [平成28年度採用] 』★★★、自由社、H27
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4915237826/japanontheg01-22/

132. 中川隆[-13564] koaQ7Jey 2018年9月20日 06:37:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18655] 報告

東京・上野の国立博物館 縄文展 縄文時代の火炎土器
https://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/001/519/71/N000/000/003/153584032760948840177.jpg
133. 中川隆[-13561] koaQ7Jey 2018年9月20日 14:40:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-18667] 報告

神道の世界観を外国人に語ろう 2018/07/29
https://s.webry.info/sp/blog.jog-net.jp/201807/article_5.html


 日本は古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術が同居する「ワンダーランド」。

■1.各国首脳の神宮「参拝」

 平成28(2016)年5月、「先進国首脳会議」、通称「サミット」が伊勢志摩で開催され、各国首脳が伊勢の神宮を「参拝」した。外務省は当初、日本以外の参加各国はキリスト教国のため、「参拝」ではなく「表敬」として、神道色をできるだけ消したいと考えていた。

 ところが、参加国の方から「日本に合わせたい」「日本の伝統文化を味わいたい」ということで、事実上の「参拝」の形式を取ることの了承を申し出て来たそうだ。

 内宮御正宮から出てきた各国首脳の顔は太陽の明るい光に照らされて、喜びと感激に溢れていた。各国首脳は次のような言葉を記帳した。一部だけを引用すると:

「日本の源であり、調和、尊重、そして平和という価値観をもたらす、精神の崇高なる場所」(フランス・オランド大統領)

「平和と静謐、美しい自然のこの地を訪れ、敬意を払うことを大変嬉しく思う」(イギリス・キャメロン首相)

「幾世にもわたり、癒しと安寧をもたらしてきた神聖なこの地を訪れることができ、非常に光栄に思います。人々が平和に理解し合って、共生できるよう祈る」(アメリカ・オバマ大統領)


■2.人間は自然の主人か、同胞か?

 これらの感想に共通するキーワードは「平和」である。確かに深い木立の中にひっそりと立つ白木造りの内宮の姿は平和そのものである。私見では、キリスト教文明には自然と共生していく、という思想はないように思う。人間は自然を支配するか、近代文明が自然を破壊し始めると、今度は自然を「保護」するか、という関係でしかない。

__________
 日本には、「山の神様」もいらっしやれば、「海の神様」もいらっしやいます。
 太陽の神を「お天道様」、先祖を「ご先祖様」、礼会のことを「世間様」と呼び、敬いを欠かしません。いかに日本人は、日本という共同体国家・社会のなかで、自然と人間のDNAが共生しているのかというあらわれでしよう。[1, 807]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

__________
 その一方で、キリスト教は主である神という絶対的な存在によって、人類は動かされます。『旧約聖書』にも『新約聖書』にも、絶対的な神は、姿だけでなくその名前すら現しません。
 自然や人間は、あくまで唯一の神の下で一神教である神が「造りたもうた」ものであり、人間は自然を管理する義務を負っています。
 天と地、海や川、人間や植物や家畜、そのすべてを神が創り、全知全能の神として創造します。(『旧約聖書』・「創世記」)[1, 807]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 山村明義氏の『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』[1]での比較である。山村氏は神職の家系に生まれ、20代から30代にかけて全国の神社約3万社に参拝し、約3千人の神職と語り合って来たという。タイトルから想像できるように、この本の動機は、神道の世界観、人生観を外国人にも広く訴えていきたい、という事である。

 神道的世界観では、人間も自然も「神の分け命」であり、同胞でとして共生している。現代科学は、人間も動物も植物も、同じ構造の遺伝子を持っていることを明らかにしており、同じ命から発生したものと見なす。これは神道的世界観に近い。

 それに対して、キリスト教では人間は自然と同じく神に作られた存在ながら、「自然を管理する」義務を負う。いわば、羊飼いと羊の関係なのである。

 深い神宮の森の中にひっそりと立つ白木の本殿を見た各国首脳が、キリスト教的な人間と自然との対立緊張関係ではなく、人間と自然とが睦み合うような共生関係を感じとったことは想像に難くない。それを各首脳は「平和」として表現したのではないか。

 地球環境危機が人類全体の前に立ちはだかる中で、人間が「自然を管理する」自然観よりも、「人間と自然が共生している」という自然観の方に共感を抱く人々が、欧米においても増えている。


■3.全体主義か、自由民主主義か

 自然と人間が共生しているように、人間同士も共生していると神道では考える。そこでの共生の本質を山村氏は次のように指摘する。

__________
神道は「多神教」でありながら、一柱一柱の神様の動きはあくまで「自由」で、「平等」の存在になります。[1, 1392]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 共生とは、生きとし生けるものが自由かつ平等の中で、主体的に協力していく世界である。一木一草も、鳥も魚も、そして人間も、自由平等に生きている。

 万葉集には少年の防人から天皇まで身分の区別無く、男女の差も無く、人の真心を素直に歌い上げた歌が平等に取り上げられているが、それはこの万物が自由、平等に生きている、という神道の世界観が基底にあるからだろう。

 これに比べると、唯一万能の神がすべてを取り仕切るというキリスト教的世界観は、独裁と服従という全体主義モデルに近い。神道の自由と平等の多神教世界は、はるかに現代の自由民主主義と親和性の高い世界観なのである。


■4.性悪説か、性善説か

 しかも、神道的世界観においては、人間は神の分け命であるから、当然、その性は善である。時に個人的な欲望に駆られて悪をなすこともあるが、それは禊(みそ)ぎや祓(はら)えで水に流すこともできる。

 これに対して、キリスト教の原罪説では、人間は性悪なものと捉え、だからこそ神にすがる必要があると説く。万能の神がなぜ人間を性悪に作ったのか、とは戦国時代にキリスト教に触れた我が先人たちが抱いた疑問であるが、その疑問は現代の日本人にも依然、答えられない。

 先般も弊誌[a]で紹介したように、最先端の大脳生理学では利他心は集団生活を必要とする人類が進化の過程で得た本能であると考えている。神道的世界観で育った日本人には当たり前のように思えるこの学説も、性悪説が支配するキリスト教国で唱えるのは、かなり勇気のいる事のようだ。


■5.統制経済か、自由市場経済か

 生きとし生けるものが自由、平等に生きていると言っても、各自が自分勝手にバラバラに生きているわけではない。例えば、農民は大地を耕し、川から水を引いて水田を作り、そこに苗を植え、その苗が太陽の光を浴びて、稲が育つ。

 川から流れ込む水は川床からの養分を運び入れ、田んぼの中では藍藻類が空気中の窒素を固定して、土を豊かにする。その水の中にはオタマジャクシが住んでいて、枯れ草や藻などの有機物を食べて分解し、稲が吸収しやすい栄養分に変える。[b]

 このように、生きとし生けるものが個々バラバラではなく、それぞれが「処を得て」互いに助け合って生きている。人間どうしも同じである。米を作る人、村から町に運ぶ人、店で売る人など、人それぞれが「処を得て」互いに助け合い、社会全体を支えている。

 生きとし生けるものは、決して万能の神が設計し創造した機械の歯車ではない。それぞれが人体の各器官のように、自由平等に、かつ、主体的に協調し合って働いているのである。神の設計のもとで動く歯車では共産主義の統制経済に近いが、万物が処を得て自由に働く姿は、自由市場経済に通じている。


■6.宇宙は時計仕掛けか、生成発展するものか

 古事記では、最初の神が現れた時、「大地はまだ若く、水に浮く脂(あぶら)のようで、海月(くらげ)のように漂っていて、しっかりと固まっていませんでした」[3]と説く。

 そこから、神々が国土を作り、その上で人々が田を作り、水を引く。神や人や万物が力を合わせて何事かを生みなすことを、神道では「むすぶ」と呼ぶ。男女が結ばれて、家庭を作り子をなす。農民が土や水などと力を合わせて作物をなす。

「むすび」の「むす」は、「うむす」が縮まった形で、「うむ(産む)」と同じく、「物の成り出づる」ことを言う。「むすこ」「むすめ」「苔むす」は、この意味である。「び」は「ひこ(彦)」「ひめ(姫)」など、「物の霊異(くしび)なるをいう美称」である。したがって、「むすび」とは万物を生成する不思議な働きを指す。[2]

 この「むすび」に示されるように、神道の世界観では世界は生成発展するものであり、人間もそのプロセスに参画する。

 これに対して、キリスト教では唯一絶対神が宇宙を創造し、あとは人間も自然もその「時計仕掛け」の一部として運動を続けるのみである。この世界観では生物が勝手に進化するという進化論は受け入れられない。今でもアメリカでは42%の人々が「神が今の人間をそのままの形で作った」と信じている。[4]

 人間の努力も与(あずか)って世界が生成発展するという神道の世界観は、人類が科学によって自然法則を発見し、それを応用して新たな技術を生み出すという技術革新を後押しする。

 経済学者ヨーゼフ・シュンペーターはイノベーションが経済発展をもたらすことを主張したが、そのイノベーションとは既存の要素の「新しい結合」であると考えた。異なるものの「むすび」が新たなる生成発展をもたらすという神道的世界観と同じである。

 技術革新は日本企業の強みであるが、それはこの「むすび」の考え方が後押ししているからと考える。特に現場の作業者一人ひとりまでが「改善」に参加するという日本の製造業における「改善サークル」「改善考案」は今や、世界の製造業のグローバル・スタンダードになりつつあるが、その根底にあるのも、人間が世界の生成発展に参画する、という神道の考え方だろう。


■7.神道的世界観の中で生まれた幸福と責務

 こうして見ると、現代のグローバル社会における環境運動、自由民主主義、大脳生理学、自由市場経済、技術革新などのトレンドは、みな神道的世界観と親和性が高いことが判る。

 逆にキリスト教的世界観と、現代文明はきわめて相性が悪いことが見てとれる。考えて見れば、キリスト教が支配した中世から訣別して始まったルネサンスや宗教改革が西洋近代の出発点となった。

 そこから産業革命、自由民主主義、自由市場経済、ついには現代の「リベラル」にまでつながってくるが、この点に関して、山村氏は田中英道・東北大学名誉教授の『日本人にリベラリズムは必要ない』から、こう指摘する。

__________
 もともと「リベラル」そのものが伝統的な「反キリスト教」から始まり、政治思想的には17世紀の「キリスト教からの自由」で始まったイギリスのジョン=ロックに始まり、経済的にはアダム=スミスから、心理学的にはフロイトから始まったといわれているからです。[1, 1146]
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

 西洋近代は、キリスト教との戦いの中で「キリスト教からの自由」を訴えざるを得なかった。しかし、それを追求する過程で、キリスト教が支えていた宗教的道徳も失うことになってしまう。その結果の「神なき近代文明」が現代人から安心立命を奪ってしまった、と言えるのではないか。


■8.古いものと新しいものが同居するワンダーランド

 山村氏は外国人観光客数十人に「日本の良いところはどこですか?」とアンケートで聞いたことがあるという。

__________
 その結果を見ると、50%以上の外国人が、「日本には、古いものと新しいものが共存し、同居しているところ」と、答えていました。
 古い神社や仏閣と最先端のハイテク技術がなぜ同居するのか。また、日本人は新しいものを好む傾向があるのに、なぜ古いものを残そうとするのか。
 日本人にとっては、神社以外にも仏閣や古い家屋の残る日本の当たり前の風景ではありますが、外国人から見れば、日本は「なぜか古いものが残っている」ということが、「ワンダーランド」に見えてしまうのです。[1, 827]
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 外国人、特にキリスト教徒から見れば、「古いもの=キリスト教」、「新しいもの=現代文明」で、両者は基本的に相容れないところがある。しかし、日本では「古いもの=神道」であって、それは以上述べたように、現代文明を包摂し、より良き方向に導く力を持ったものである。

 神道的世界観は現代文明の自由化、民主化、技術革新などを肯定しつつ、自然や共同体の中で共生し、より良く生きる道を教えている。そのような世界観の下で生まれた我々日本人の幸福をよく噛みしめつつも、外国人にもその世界観を共有する責務を我々が担っていることを知るべきだろう。

 昨年の訪日外国人客数が28百万人を超え、政府は2020年には4千万を目標としている。神道的世界観を世界に共有するには絶好の機会である。

 しかし、神道は言挙げよりも、まずは自然の美しさ、有り難さを感じとる処から始まる。そのためには、各国首脳が神宮参拝で感じとったように、まずは我々日本人がこの美しい国土を大切にし、それの姿を見て貰うことが出発点だろう。
(文責 伊勢雅臣)

■リンク■

a. JOG(1071) 最新科学が解明する利他心の共同体
 人間が進化の過程で獲得した利他心を最大限に発揮しうる仕組みをわが国は備えている。
http://blog.jog-net.jp/201807/article_3.html

b. JOG(707) 農が引き出す自然の恵み
 農業はカネでは計れない価値を自然から引き出す。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogdb_h23/jog707.html

c. 伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』、育鵬社、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/

__________
■伊勢雅臣『世界が称賛する 日本人の知らない日本』に寄せられたアマゾン・カスタマー・レビュー
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4594074952/japanontheg01-22/
アマゾン「日本論」カテゴリー1位(H28/6/30調べ) 総合19位(H28/5/29調べ)

■評価★★★★★ 日本に誇りが持てるようになります。(Tatchyさん)
 
 この本を読めば日本人が受け継ぎ発展させてきた世界に誇る日本の文化や伝統、国民性・・・(その他もろもろ)が深く理解できるでしょう。
 特に神道と仏教が融合された独自の宗教観には感銘を受けました。(やや神道寄りに書いていますが)

 西洋や中東のような上から目線の一神教と異なり神は身近にあり労働も生殖も祝福される事であった事などは日本人の勤勉さや弱者や子供を助ける精神に繋がる事がよく分かり素晴らしいと思いました。
 ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄

■参考■(お勧め度、★★★★:必読〜★:専門家向け)
  →アドレスをクリックすると、本の紹介画面に飛びます。

1. 山村明義『日本人はなぜ外国人に「神道」を説明できないのか』★★★、ベスト新書、H30
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4584125708/japanontheg01-22/

2. 竹田恒泰『現代語古事記: 決定版』★★★、学研パブリッシング、H23
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4054050751/japanontheg01-22/

3.平凡社『神道大辞典 全三巻合本』(Kindle版)桜の花出版、H28
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/B01FQFSNIY/japanontheg01-22/

4. Gallup「In U.S., 42% Believe Creationist View of Human Origins」
https://news.gallup.com/poll/170822/believe-creationist-view-human-origins.aspx

134. 中川隆[-13347] koaQ7Jey 2018年10月25日 11:07:15 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-19504] 報告

日本人のガラパゴス的民族性の起源
0-0. 日本人の源流考 rev.1.6
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1


  国立遺伝学研究所教授で著名研究者の斎藤成也氏が、2017年10月に核-DNA解析でたどる「日本人の源流」本を出版しました。 その中でやっと海の民にも焦点が当たり、当ガラパゴス史観の「縄文人の一部は海のハンター」史観が 間違ってはいないかもしれない雰囲気になって来ました。

  そろそろ時機到来の様相になって来ましたのでガラパゴス史観を総括し、日本人の源流考をまとめてみました。 これはY-DNA及びmtDNAの論文104編を読み込みメタアナリシスした結果得た、アブダクション(推論)です。 追加の着想がまとまる都度書き足します。 枝葉末節は切り捨て太幹のみに特化して組み立てていますので、異論・興味のある方は、 当史観が集めた論文をじっくり読んで是非御自分で源流考を組み立ててみてください。


0.はじめに

  当ガラパゴス史観が、Y-DNAとmtDNAツリー調査を進めて行った時、ホモサピエンスの歴史自身をもう少し深堀したい疑問が生じてきました。


・何故、ホモサピエンス始祖亜型のY-DNA「A」やY-DNA「B」はその後現代にいたる
 まで狩猟採集の原始生活から前進せず、ホモエレクトスの生活レベルのままだったの
 か?

・出アフリカを決行した結果、分化したシ−ラカンス古代4亜型の中でY-DNA「D」、
 Y-DNA「E」やY-DNA「C」などの、オーストラリア、ニューギニアやアンダマン諸
 島、アフリカなどの僻地に残った集団も、現代に至るまで何故「A」,「B」同様、狩
 猟採集から抜け出せなかったのか?

・彼らは本当にホモサピエンスになっていたのだろうか?我々現生人類はアフリカ大陸
 でホモサピエンスに進化してから出アフリカしたと思い込んでいるが、もしかすると
 出アフリカ後に、ネアンデルタール人との遭遇で現代型に進化したのではないか?


1.ネアンデルタール人の出アフリカから始まったようだ。

  ホモサピエンスの亜種とされているネアンデルタール人(ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシス:Homo sapiens neanderthalensis)は、 ホモエレクトスから先に進化し、60万年ぐらい前には出アフリカし、先輩人類としてユーラシア大陸に拡がったらしい。 そして3万年前ぐらいには絶滅した、という見解になっている。

  しかし現生人類の遺伝子の3−4%はネアンデルタール人から受け継いでいることも研究の結果解明されている。 その後、現生人類の先祖が、スタンフォード大学の研究では2000人程度の規模で、出アフリカしユーラシアに拡がるまで ネアンデルタール人の歴史は既に数十万年を経過しており、その間にネアンデルタール人はユーラシア各地で亜種に近いぐらい分化していたらしい。 アジアで発掘されたデニソワ人はどうもネアンデルタール人のアジア型の1例のようだ、 しかも研究ではデニソワ人の遺伝子が現代人に6−8%も受け継がれている、という報告まである。

  これはつまり現生人類は既にある程度の高度な文化を築き上げていたネアンデルタール人との亜種間交雑の結果、 一気に爆発的に進化し現ホモサピエンスとして完成したのではないかと考えるのが妥当なのではないかと思われる。

2.原ホモサピエンスから現ホモサピエンスへ脱皮したのではないか!

  我々現代人(Homo sapiens sapiens=解剖学的現生人類)の祖先は、ネアンデルタール人が先に進化し出アフリカした後も進化できずに出遅れ、 アフリカ大陸に残存していたホモエレクトスの中で、先ずmtDNA「Eve」がやっと進化し、Y-DNA「Adam」は かなり遅れて進化したと考えられていた様だが、最近の研究ではY-DNA「Adam」も20万年近く前には既に現れていたらしい。

  しかも最近の発掘調査では、10万年前ごろにはすでにレバント地域に移動していたらしく、 8万年前頃には中国南部に到達していたのではないか、と報告されてきている。 これまでの5−6万年前頃に出アフリカしたのではないかという旧説が、どんどん遡ってきているのは 今後まだまだ新しい研究報告がある予兆と思われる。

  いずれにせよ、ネアンデルタール人が先に進化し、出アフリカした後に、落ちこぼれ 取り残されていた最後のホモエレクトスが遅れて進化したのが、我々の直接の先祖の原ホモサピエンスだったと考えられる。

  つまり、このころまでアフリカ大陸ではホモエレクトスが存続していた可能性があり、 原ホモサピエンスはホモエレクトスの最終形だったはずである。

Y-DNA「Adam」がY-DNA「A」となり、
Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分化し、
Y-DNA「BT」がY-DNA「B」とY-DNA「CT」に分化したが、

  この「A」と「B」はホモエレクトスのY-DNA亜型だった可能性も十分ありえる。

Y-DNA「CT」が初めて出アフリカし、Y-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分化した。

  これは中近東あたりで先住ネアンデルタール人との交雑の結果と推測可能である。

  この「C」以降が現生人類のY-DNA亜型と考えられるが、もしかするとネアンデル
  タール人の亜型の可能性だってありえる。

 つまりY-DNA「A」と「B」はホモ・サピエンス・サピエンスではあるが完成形ではない プロト(原)ホモ・サピエンス・サピエンスと言っても良いかもしれない。

 西欧列強が世界中を植民地化するべく搾取活動を続けているときにわかったことは、 アフリカ大陸やニューギニア・オーストラリアやアンダマン島の先住民は、 何万年もの間、古代のままの非常に素朴な狩猟採集民の文化レベルにとどまっていた、ということだった。

  研究調査からかなり高度な文化・技術レベルに達していたと判ってきているネアンデルタール人と比べると、 分類学的・解剖学的な現生人類/ホモサピエンスに進化したというだけではホモ・エレクトスと何ら変わらない文化レベルだったという証明だろう。 つまり脳容積がホモエレクトスより大きくなったり、会話が出きるようになった程度では、同時代のネアンデルタール人より原始的な、 しかし可能性は秘めている新型人類に過ぎなかったようだ(しかし体毛は薄くなり、前頭葉が発達し、見た目は多少現生人類的だが)。

  では一体、なぜ現生人類は現代につながるような文明を興すほど進化できたのだろうか?大きな疑問である。 一部の王国を築いた集団を除いた、古ネイティブ・アフリカンは大航海時代になっても、狩猟採集民でしかなかった。 その後西欧列強と出会わなければ、今でも狩猟採集のままのはずである。

  このことは、文明と言うものを構築するレベルに達するには解剖学的なホモサピエンスではなく、 何か決定的なブレークスルーのファクターがあったはずである。

  ネアンデルタール人と原ホモサピエンスの亜種間交配の結果、進化の爆発が起こったと推測するのが今のところ最も妥当だろう。

  出アフリカした先輩人類のネアンデルタール人と亜種間交雑し、 ネアンデルタール人がすでに獲得していた先進文化を一気に取り込むことに成功し、 恐らく人口増加率(繁殖性)が高い原ホモサピエンスの中にネアンデルタール人が自然吸収される形で統合化されたのが 完成形の現ホモサピエンスと考えるのが最も妥当性が高い。 (この繁殖力の高さが現生人類の勝ち残った理由なのではないか、想像を逞しくすると、交配の結果得た後天的な獲得形質かもしれない。)

  もし出アフリカせずネアンデルタール人とも出会わずアフリカの中に留まっていたら、 人類は相変わらず19世紀ごろのサン族やピグミー族のように素朴な狩猟採集段階に留まっているだろうと容易に推測できるが、 北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。 つまりホモサピエンスが出アフリカし狩猟採集文化から脱し、現代文明にまで至ったのは必然だったということかもしれない。

3.日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子系集団:Y-DNA「D」と「C」
  Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。

  移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、故地である地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 先住親遺伝子のY-DNA「A」の古サン集団等やY-DNA「B」の古ピグミー集団等の支配階級として ネイティヴ・アフリカンの主力となり現代に至っている。

  これは重要なことで、Y-DNA「A」と「B」はネアンデルタール人の遺伝子が混じっていない原ホモサピエンスだが、 ネアンデルタール人遺伝子を獲得したはずの現サピエンスのY-DNA「E」がアフリカ全土にもれなく拡大したため、Y-DNA「A」が主体のサン族も、 Y-DNA「B」が主体のピグミー族も支配階級はY-DNA「E」に代わっているようだ。 (余談だがアフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」がアナトリア、中近東から南下してきて 更に新しい支配階級として現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部になっている。)
  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのだろう。

  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至った。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのだろう。

  一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の 大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、そこから北上し現在の中国大陸に到達した。 その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、 その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し現代までJarawa族やOnge族として 絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきている。 Y-DNA「D」は基本的に原始性の強い狩猟採集民と考えてよいだろう。 日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いない。

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人(アジアにいたのは恐らくデニソワ人か?)と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できる。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えられる。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸に拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族やLani族などニューギニア高地人集団やオーストラリア・アボリジニ集団、つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っている。

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大した。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われる。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大である。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのだ。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔である。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できる。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。

  しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていない。 どうやら途絶えてしまった可能性が高い。 いやもしかすると火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高い。そしてY-DNA「D」のようにチベット高原のような高高地に適応できず 途絶えてしまったのかもしれないですね。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」が そのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 サハリンや北海道に留まった集団はアイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。

  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような 移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。 最も頻度が高いのはTanana族である、約40%もの頻度を持つ。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、 大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。

4.長江文明系稲作農耕文化民の到来

  さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

  古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した現代遺伝子亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、 Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分化しインダス文明を興し、後にドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。 Y-DNA「T」からは後のジェファーソン大統領が出自している。

  Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「NO」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。 このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く70-80%も残されており、テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。

  しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子は Y-DNA「R1a」,「R1b」,「J2」などに変貌している為、東アジア起源の面影は全くない。 唯一タタール人に若干の面影が残っているが、今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も40%以上も残っている。やはり移動性の強い遺伝子のようだ。

  さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている事は研究者の周知である。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えない(当史観は環境適応は進化ではないと考えるが、 ラマルクの後天的獲得形質論も進化論といわれるので、進化の一部なのでしょう。と言うことは余談だが、 人類(動物)は体毛が減少する方向に進んでいるので、実は禿頭/ハゲも「進化形態」である事は間違いない。)

  この東北アジア起源のY-DNA「O」は雑穀栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。

  一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」(旧「O2a」)と「O1b2」(旧「O2b」)が分化し稲作農耕は発展したようだ。 このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

  長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し江南から更にベトナムへ南下し、 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 ほぼ純系のY-DNA「O1b1」が残っているのはニコバル諸島 (Y-DNA「D*」が残るアンダマン諸島の南に続く島嶼でスマトラ島の北に位置する)のShompen族で100%の頻度である。

また南インドのドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、 越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。 カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、ドラヴィダ民族(特にタミール人)に 長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、その結果、学習院大学の大野教授が 日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となったが、こんな遠くまで稲作農耕民が逃げてきたことを間接証明した功績は大きい。

  一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。 この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州族で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州族の14%は、満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い(恐らく起源は同一集団)要因となっている。 北朝鮮はツングース系遺伝子の分布が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。 過去の箕子朝鮮や衛氏朝鮮が朝鮮族の起源かどうかは全く分かっていないが、呉系稲作農耕民が起源の一つであることは間違いないだろう。

  長江流域の呉越の時代の少し前に江南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、インド亜大陸でY-DNA「O1a」はほとんど検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは台湾のほとんどの先住民、フィリピンの先住民となんと日本の岡山県である。

  岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として 混在して来たのか単独で来たのか?岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は 楚系文化の名残と推測可能で、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。 台湾やフィリピンの先住民の民話を重点的に学術調査するとわかるような気がしますが。

5.黄河文明系武装侵攻集団の到来

  狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島での中国王朝出先機関内の生き残りの戦いに敗れ逃れてきたのが、 Y-DNA「O2」(旧「O3」)を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、 長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「群」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

  朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ追い出される形で日本列島に逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でも、また黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。

  この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていた戦闘要員としてのツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」であろう。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など 朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた騎馬を好む好戦的な集団と推測できる。

  この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の朝鮮半島の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由である。

  一方、韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」,Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」,「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。

  一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 特有の征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。

6.簡易まとめ

  日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、 一方過去の武士団や維新前後の武士や軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 日本人を構成するもともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。


  日本人の3つの源流は、

  ・日本列島の中で約1万年以上純粋培養されてきた大多数の素朴な狩猟採集民と少数のハンターの縄文系、

  ・中国大陸から僻地の日本列島にたどり着き、集団の和で結束する水田稲作農耕民の弥生系、

  ・朝鮮半島を追い出された、征服欲出世欲旺盛な大王系/武士団系の武装侵攻集団系、


  個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの古代遺伝子(縄文系、しかも女系遺伝するmtDNAでは何と約67%が 縄文系のmtDNA「M」系なのです。)が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。 もしこの縄文系遺伝子がなければ、日本列島と朝鮮半島及び中国はほとんど同一の文化圏と言って差し支えないでしょう。 それだけ縄文系遺伝子がもたらした日本列島の基層精神文化は、日本人にとって世界に冠たる独特の国民性を支える守るべき大切な資産なのです。


7.後記

  これまで独立した亜型として扱われてきた近代亜型のY-DNA「L」,「M」,「N」,「O」,「P」,「Q」,「R」,「S」,「T」は、 現在、再び統合されてY-DNA「K」の子亜型Y-DNA「K1」とY-DNA「K2」の更に子亜型(孫亜型)として再分類される模様です。 つまり独立名をつける亜型群として扱うほど「違いが無い」ということなのです。

  ところがこのY-DNA「K」は、我々極東の代表Y-DNA「O」や西欧の代表Y-DNA「R」や南北ネイティヴアメリカンの Y-DNA「Q」等が含まれているのです。 とても遺伝子が近いとは思えないのです。では何故これほど外観も行動様式も異なるのだろうか?

  これらの亜型群は何十万年の歴史でユーラシア大陸の各地で亜種に近いほど分化していたと考えられている ネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNA亜型を受け継いだだけの可能性も十分にあるのです。 西欧と極東であまりにも異なる外観や行動様式などの違いの原因を亜種間の接触に求めるのは荒唐無稽とは言えないでしょう。 何しろネアンデルタール人もデニソワ人もホモサピエンスも元をただせばホモエレクトス出身で当然Y-DNAもmtDNAも 遺伝子が繋がっているのだから。恐らくY-DNAもmtDNAもほとんど同じ亜型程度の違いしかない可能性は高いのです 今後の研究の発展を楽しみに待ちましょう。


8.余談

  (極めて余談ですが、北方系極東人の多くは寒冷地適応や黄砂適応を受け、フラット顔になってはいますが、 中国で発掘される古代人骨はほとんどコーカソイド顔であり、フラット顔は後天的獲得形質であることは研究者達が認めています。 日本人にはこの後天的獲得形質を獲得してから日本列島に渡ってきた集団が多かったことを示しています。 日本人の胴長短足は、高身長の弥生系と武装侵攻系の上半身と小柄な縄文の下半身の交雑の結果に過ぎず、日本人に意外に多い反っ歯や受け口も 弥生系の細身の顎に縄文系のがっしり歯列が収まりきらず前に出てしまっただけであり、親知らずは逆に出られなかっただけです。

  また日本人固有の古代的なホスピタリティは、縄文系である古代亜型Y-DNA「D」と「C」(合計で日本人男性の出現頻度約45%を占める) 及びmtDNA「M」(合計で日本人全体の約67%を占める)の固有の特質であり、近代亜型群の特質ではありません。 つまり特に日本人と他の民族との違いのほとんどは、この縄文系遺伝子の伝えてきた極めて古代的な、 狩猟採集民やハンター民の持つ行動様式や思考回路のもたらす結果に帰することは疑いようがありません。

  もし、天孫族や武士団族が朝鮮半島から負け組として追い出されてこなければ、日本列島は徳川時代の高度な文化もなく、 当時世界最大の都市だった江戸もなく、容易に西欧列強の植民地になっていたでしょう。つまり極めて残念なことですが、 日本人の世界に冠たる高度な技術力や文化性は、日本列島の3重遺伝子構造を構成する遺伝子の中で最後にやってきた Y-DNA「O2」(旧O3)がもたらしてきたものなのです、中国や韓国と支配階級が同じY-DNA「O2」遺伝子なのに結果が異なってきたのは、 常に外敵との抗争や侵略に脅かされ、技術や文化の熟成が近代までに確立「出来なかったか/出来たか」の違いなのでしょう。)

9.時代の趨勢

  3.3 Y-DNA「R1b」に書いた文章を復誦します。

  極めて明らかなことは、国・国民が先進的になるには純系民族では無理なのです。辺境民化してしまいエネルギーが低すぎるのですが、 競う共存遺伝子の種類が多ければ多いほど集団エネルギーが高くなり、国の活性度が上がり、覇権に向かうのです。 アジアの中で唯一近代化に成功した日本は縄文系−弥生系(長江文明系)−武装侵攻系(黄河文明系)が交雑し、 武装侵攻系が核になり集団エネルギーを一気に高め、一時はジャパンアズNo1と覇権を握るかもしれないほどの勢いを手に入れました。

  しかし日本が高止まりしてしまった間に中国が、日本以上の複雑な遺伝子ミックスにより集団エネルギーを高め、近代化らしきものに成功し 対外的には日本に取って替わりアジアの覇権を握ったように見えるレベルに達しました。しかし国民一人当たりの生産性があまりにも低く、 日本の1/4以下程度しかなく真の覇者には恐らく永久になれないでしょう。

  その中国も恐らく近いうちに日本同様高止まりするでしょうが、東アジアには日本、中国に代わる国はもはや存在しません。 南アジアのインドはロシアのスラブ系と同じインド・ヨーロッパ系遺伝子が支配する国ですが、中国同様あまりに国民一人あたりの 生産性が低すぎ日本の1/20程度しかなく覇権には届かないでしょう。

  当分の間はY-DNA「R1b」のアメリカとY-DNA「O2」(旧「O3」)の中国が覇権争いを続けるでしょうが、中国も日本もアメリカに 対する輸出で生産性を上げてきたので、アメリカにとって代わることは逆に自滅に向かうためまず不可能でしょう。
  非常に残念ですが、現代世界の構図は、世界の警察官であり輸入超大国のアメリカが太陽として中心に存在し、世界中から生産物を 買いまくり、そのおかげでアメリカの周りに各国が衛星のように回っていられるだけなのです。 水星、金星はEU諸国、地球は日本、火星はロシア、木星が中国、土星がインドという感じでしょうか。

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空想談

  このコラムの項目2で「北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。」と書いたのですが、 布団に入ってウトウトし始めた時に、突然、”空想の語り部”が降臨してきて グチュグチュと御託言を言い残していったので、忘れないうちに書き留めます。

  何故、ヒトを含む類人猿の進化ツリー前半のギボン(テナガザル)やオランウータンは(東南)アジアにしか棲息しておらず、 進化ツリー後半のゴリラやチンパンジーはアフリカにしか棲息していないのか?

  ヒトがアフリカで発祥したのはチンパンジーとの共通の祖先がアフリカにしかいなかったからなのは極めて明白ですが、 では何故共通の祖先はアジアにはいなかったのか?何故アフリカにしかいなかったのか? この疑問に関する納得できる説明を探してみたのですが、今のところ全く見つかってはいません。

  今のところの進化ツリーでは進化の後半で、ゴリラの祖先になった類人猿はアジアからアフリカに大移動をしたことになります。 要するに、ヒトの遠い源郷はアジアだったから、人は出アフリカしてユーラシア大陸を東に進んだと言うことになります。 つまりサケやウナギが戻ってくるのと一緒で、源郷戻りが遺伝子に埋め込まれているのではないか!? では逆に、なぜ類人猿はアジアからアフリカに移動をしたのか?も依然、極めて大きな謎です。

  とにかく解剖学的現代ヒト族は宿命に導かれ出アフリカし、中東あたりで先輩ヒト族の中東型ネアンデルタール人と交雑し分化し、 インド洋の沿岸に沿って東のアジアを目指し大移動を決行し、古代遺伝子Y-DNA「C」と「D」はアジアに到達しそこで棲息をしてきたわけです。 ところが別の古代遺伝子Y-DNA「E」は、せっかく出アフリカしたにも関わらずまたアフリカに出戻ってしまった。 ということはアフリカに進むことも遺伝子に組み込まれているのかもしれない。

  では残りの古代遺伝子Y-DNA「F」は、なぜインド亜大陸に留まり全新興遺伝子の親遺伝子となったのだろうか? アフリカ大陸でヒト族がチンパンジーとの共通の祖先から分化したように、インド亜大陸で新興遺伝子の共通の祖先の古代遺伝子「F」から 分化したのでしょう、それを実行した最も考えられる要因はアジア型ネアンデルタール人との交雑でしょう。

  インド亜大陸はアフリカ大陸と同様の、進化や分化を後押しするパワーがあるのではないか?誰か研究してくれませんかね!!!!!。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-0.htm#1

135. 中川隆[-13502] koaQ7Jey 2018年11月07日 12:01:25 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20245] 報告


巫女(みこ/シャーマン)
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/


御託宣(ごたくせん)の神・事代主(ことしろぬし)の神に始まるシャーマニズムに於いて「神懸(かみがか)り」とは、巫女の身体に神が降臨し、巫女の行動や言葉を通して神が「御託宣(ごたくせん)」を下す事である。

当然、巫女が「神懸(かみがか)り」状態に成るには、相応の神が降臨する為の呪詛行為を行ない、神懸(かみがか)り状態を誘導しなければならない。

巫女舞に於ける「神懸り」とは、すなわち巫女に過激な舞踏をさせてドーパミンを発生させる事で、神道では恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態の呪詛行為の術で、仏法では脱魂(だっこん)と言い現代で言うエクスタシー状態(ハイ状態)の事である。

現代に於いても人々に踊り好き祭り好きが多いのも当たり前で、ディスコダンスでも盆踊りでも夜明かし踊ればベータ・エンドロフィンが脳内に作用して疲れ心地良いダンシング・ハイの興奮状態を招く。

その最も初期に行なわれ、永く陰陽修験に伝え続けられた呪詛行為の術が、すなわち巫女に過激な性交をさせてドーパミンを発生させ、脳内麻薬のベーター・エンドロフィンを大量に発生させ、セックスハィの陶酔状態にする。

そうした事で、巫女がオーガズム・ハイの状態(ラリル状態)に成れば、その巫女の様子から周囲が神の降臨を認め、「神懸(かみがか)り」と成る。

日本の独自文化と言えば、この国では古来から女神が多いのだが、実を言うとその資格について現代では考えられない条件があった。

それは性交の儀式を執り行う事である。

歴史を知らない者にして見れば、「何で神聖な神社や巫女が性交儀式と結び付くのか?」と疑問に想うかも知れない。

しかし歴史にはその時代時代で必要な事情があり、また、歴史には前代から受け継がれる連続性の記憶がある。

弥生時代から古墳時代までの間、日本列島は縄文原住民族と渡来した多くの他民族・他部族が混在する人種の坩堝(るつぼ)だった。

その日本列島に在って、部族間の争い事に対処するもっとも有効な呪術は、次代が混血する為の性交に拠る人種的和合の「誓約儀式(うけいぎしき)」だった。

つまり異部族間の性交が人種的和合の為の呪術だったからこそ、巫女に拠る神前性交儀式や神前娼婦などの文化が残った。

これは理屈に合っていて、後の江戸末期に「公武合体」のスローガンの下に皇女・和宮を十六歳で徳川十四代将軍・家茂に嫁がせている。

つまり「誓約(うけい)」の概念の基本が、何百年経ても血の混血で在った事が、証明されている。

大和合の国(日本列島)黎明期の女神は、神の言葉を天上から受け取り、御託宣(ごたくせん)として下界の民に伝えるのが役目、つまり巫女(シャーマン)だった。

そこに介在したのが、神事として奉納する性交の儀式である。

何処までが本気で何処までが方便かはその時代の人々に聞いて見なければ判らないが、五穀豊穣や子孫繁栄の願いを込める名目の呪詛(じゅそ)として、巫女の神前性交行事が神殿で執り行われていたのだ。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々に部族集団を形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。

そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

語呂合わせみたいな話だが、祀(祭・奉)り事は政治(まつりごと)であり、政治(まつりごと)は性事(せいじ)と言う認識が在った。

そして誓約(うけい)の精神こそ民族和合と言う最大の政(祭り)事であり、巫術と称するシャーマニズムに満ちた神楽舞の真髄なのではないだろうか。

理解して欲しいのは、当時の物差しが現代と違い、子宝を得る事も実りの豊穣を得る事も、同じ命を産み出す神の恵みであり、その作業を神の御前(みまえ)で執り行い奉納してご利益を願い、同時に巫女を通して神の声(御託宣)を聞くのである。

勿論民人も、只、巫女に何か言われても易々とは信じない。

巫女が神懸(かみがか)りに成って初めてその御託宣(ごたくせん)が信用される。

この御託宣(ごたくせん)を得る為のアンテナが、巫女の女体そのもので、オーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を巫女が彷徨(さまよ)う事に拠って、天上神の声が聞えて来るのである。

それ故に神事として奉納する性交の儀式が真面目に要求され、思想的違和感は無かったのである。

これも、もう少し掘り下げると、初期黎明期の征服部族長(氏族の長)の神格化に辿り着く。

当初は専門の巫女が居た訳ではない。

征服地の統治を容易にするには、民人が信用する絶対的な逆らえない武力以外の力が必要で、それは天上からの神の声である。

氏族長の神格化を進めるにあたって、氏族長を神と成し、屋敷を神域化して神社とすると同時に、その后妃(ごうひ/妻)を、シャーマン役の女神に任じ御託宣(ごたくせん)の能力を持たせる。

つまり女神は、氏族長の后妃(ごうひ/妻)であり、「氏族長(神)の言葉」を、后妃(ごうひ/妻)に御託宣(ごたくせん)させる茶番劇的な「ペテン・カラクリから始まった」と考えるのが合理的である。

それが段々に様式化されて行き、氏族長の后妃(ごうひ/妻)から性交の儀式を執り行う専門の巫女(シャーマン)に替わる。

その女体のアンテナで御託宣(ごたくせん)を得るオーガズム・ハイ状態(神懸/かみがかり)の神域を、巫女が彷徨(さまよ)う為の儀式が、性交呪詛(せいこうじゅそ)と言う「術(すべ)」と成って陰陽呪術に発展、後に本書で記述する「人身御供伝説」への流れが形成されて行くのである。

定説では、遊女の原型は飛鳥期頃から始まって「神社の巫女が官人を接待した事」に由来し、平安期の白拍子も「神社の巫女から発祥した」とされる。

その白拍子は源義経の愛妾・静御前で有名で、白拍子の為す遊芸も元は「神事音楽の巫術から」とされている。

その背景に在ったのは、正に巫女のシャーマニズムと性交呪詛が「誓約(うけい)誓約神話(うけいしんわ)」の古代信仰文化として深く関わっていた事に他ならない。

実はこれらの誓約神話は、多くの多部族・多民族が日が昇る東の外れの大地・日本列島で出遭った事に始まる物語である。

そのが多部族・多民族夫々(それぞれ)に部族国家(倭の国々)を造り鼎立していた日本列島を混血に拠って統一し、日本民族が誕生するまでの過程を暗示させているのである。

元々神道のお祀り(祭り)の意味の内には、異民族(異部族)和合と五穀豊穣の豊年祈願などの呪詛目的を含んでいる。

いずれにしても、巫女は神事としてお祀り(祭り/性交呪詛)に拠る神懸り(かみがかり/神霊降臨)の依り代(よりしろ/憑り代)を役目として負っていた。

そこから派生して、巫女が官人を接待する風習が出来上がって遊女の原型が生まれて行ったのではないだろうか?

現代科学に於いてもこのジャンルは存在を認めていて、エクスタシー状態(ハイ状態)とは恍惚忘我(こうこつぼうが)の絶頂快感状態で、宗教的儀礼などでは脱魂(だっこん)とも解説される。

その宗教的儀礼に於けるエクスタシー状態の際に体験される神秘的な心境では、「神迎え又は神懸かり」に相応しくしばしば「幻想・予言、仮死状態などの現象を伴う」とされている。


尚、アイヌ語では「オイナ」と発音する女性(おんな)は中文(中国語)では女(ニュィ/ニョイ)と発音し、アイヌ語のオイナカムイ(oyna kamuy)は「巫術の神」と解釈するズバリ女神である。

その「巫術の神」は、アイヌラックル (aynu rak kur)で、人間・臭い・神 (つまり半神半人)であるから、原始神道に於ける巫女の原型かも知れない。

◆【性文化史関係一覧リスト】
http://miracle-jiyoudan.com/seibunka_yougo.html

をご利用下さい。

この文章は、

小論・【遊女(女郎)の歴史】
http://miracle-jiyoudan.com/yuuzyonorekisi.html


の一部として記載されています。

◆世界に誇るべき、二千年に及ぶ日本の農・魚民の性文化(共生村社会/きょうせいむらしゃかい)の「共生主義」は、地球を救う平和の知恵である。
https://jiyodan.exblog.jp/7937207/

136. 中川隆[-13584] koaQ7Jey 2018年11月11日 11:10:01 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20500] 報告
縄文体質の史的足跡〜第3回 神社は支配の道具か、縄文の残存か
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3366.html

第3回は神社を扱います。

神社といえば日本古来から存在していたように殆どの人は思われているでしょうが、神社の本質は渡来人が土着縄文人や混血した弥生人を支配する手法であり税を徴収する役所機関です。また神社は地域と密着し、一部には裏情報を収集する諜報機関としても存在していました。そんな神社がなぜ縄文体質の史的足跡になるのか?そこに絞って言及してみます。

やはりどうしても触れておきたいのが神社が作り出す環境です。或いはどのような環境に神社が存在しているかです。

全ての神社に大小あるのでしょうが、最も特徴的なのが三輪山を抱える大神大社です。日本最古と言われる三輪神社は鳥居こそありますが、境内は山そのもので、人々は山に向って拝み、祈ります。

今でも三輪山は神社の所有地で山に存在する木も石も土も持ち出すことは禁じられています。倒木も腐って土に帰るまで何十年も重ねて放置されています。山の全てに神が宿っているからです。神社とはその始まりにおいて縄文人が持っているアニミズムを取り込み、形にしたのです。例えそれが渡来人の意図であっても、逆に言えば渡来人が縄文人に同化する上でアニミズム信仰は進んで取り込み、縄文人もまた渡来人を神社を通じて渡来人を巻き込んでいったという見方もできるかもしれません。

この三輪山と同様の古代の神社は各地に大和時代〜奈良時代にかけて多く作られていきます。その代表が、出雲大社、伊勢神宮、諏訪大社です。いずれも巨木と深い森の中に存在しています。

もう一つは縄文の性です。渡来人は縄文人と婚姻、混血する際に神社を使ったと言われています。

それが巫女であり、誓約の儀式です。縄文が性を肯定視していた事と、神社を仕切る巫女、これらが大量の渡来人を受け入れながら縄文体質を残し続けた象徴的な儀式と言えるかもしれません。


アニミズム(精霊信仰)の歴史@

アニミズムが神社に発展した事例を紹介したい。

後のヤマト政権の時代になって、大己貴神などの「国津神」が加えられ主な祭神となる

・奈良県の三輪山 ⇒ 大神神社(おおみわじんじゃ)
・滋賀県の山の神・大山咋神信仰 ⇒ 日吉大社(ひえたいしゃ)
・島根県の磐座信仰 ⇒ 出雲大社
・長野県の土着の神々(蛇神、木霊など) ⇒ 諏訪大社(すわたいしゃ)
・埼玉県見沼の水神 ⇒ 氷川神社(ひかわじんじゃ)
・神奈川県の神山(駒ケ岳山頂) ⇒ 箱根神社
・長野県の地主神・九頭龍信仰 ⇒ 戸隠神社(とがくしじんじゃ)
・富士山の神霊信仰 ⇒ 富士山本宮浅間大社
・島根県の火を祀る信仰 ⇒ 熊野大社
・和歌山県熊野地方の太陽神、水神、木神 ⇒ 熊野本宮大社
・奈良県吉野の水神信仰 ⇒ 丹生川上神社(上社、中社、下社)


名だたる古社のルーツは、ほぼ全てがアニミズムです。
これらの古社は、次のヤマト政権になってから「神社」化されていくようになります。

古代日本の月信仰と蛇信仰、その変遷

■日本古代の祭り

日本の古代の祭りは、概ね二つの類型があるようである。
一つは男女の祖霊神としての蛇を何らかの方法で現出させる様式。例えば藁や縄で作られた蛇を祀る等。現在も豊年祭で使われる雄綱、雌綱はその好例である。もう一つは男祖霊神である蛇と巫女との交合により巫女が神を身ごもり、籠もり(こもり)の儀礼の後、神として現出する様式である。つまり蛇との交合、受胎、出産を儀礼化させたものである。この場合、概ね男根と蛇の象徴として蔓の絡まる御神木や、山を蛇がとぐろを巻いている姿を蛇に見立てているものが多く、こちらの祭りが多数を占めていた。

これらは満月の夜に行われていたとされる。

実際神社の出来る前の古神道に於いては、蛇や山そのものをご神体としているものが多い。

例えば三輪山(大神神社)、出雲の佐上神社(神事で海蛇を奉納する)、諏訪大社(冬眠中の蛇を奉納する)等が上げられる。

また 物部氏は日本における強力な蛇信仰の担い手であったと推測され、物部氏の子の天語山(あめのかごやま)命(のみこと)は別名、高倉下(たかくらじ)と呼ばれた。この高倉とは高床式の倉であって、倉は富の象徴であった。高倉は鼠害から穀類を守る設備なので、そこには鼠の天敵としての蛇、あるいは蛇を象徴する蛇行剣が祀られていた。蛇が祀られている倉は、その意味でも住居の守護神的存在となるが、これらの理由から、穀倉が神社の起源になっていったようである。

諏訪と縄文 〜なぜ諏訪が人々を惹きつけるのか

諏訪を今日まで縄文的な聖地として確定させたのは諏訪大社の存在です。この大社は数ある日本の神社の中でも最古と言われており、建立時期もあきらかになっていません。

おそらくは弥生時代前期〜中期、紀元前200年〜紀元後100年くらいの時期に一番旧い社屋ができていると言われています。大社と言われる神社はおそらく縄文人と弥生人との合作、原点の神社です。諏訪大社は中国から渡来した出雲族が土着の諏訪人と融合し、作り上げた神社と言われています。諏訪大社には4つの神社が諏訪湖を囲むように存在していますが、各神社は御柱4本が神社の4隅に建てられ、杉の柱で囲まれた領域を聖なる地として領域付けられているのです。

さらにこの御柱を7年毎に新しい柱に交換する、御柱祭りは現在も活き続けています。

2010年には3人の死者を出しながらも現在も続けられる御柱祭り。

現在でも諏訪に在住の普通の人々が祭りを作り運営している。諏訪の人々は7年に一度のこの祭りの為に生きているというくらい、祭りは人々の生活に入り込み、祭りを中心に多くの民が暮らしているのです。祭りと言えば祇園、ねぶた、天神など大きなものは日本中にたくさんありますが、この縄文由来の祭りが今もほとんど変わらず行われている、そんな地は他にはありません。

【誓約(うけい)】

この国には、二千年の永きに渡り特殊な性文化が存在した。

元を正すと、縄文末期に日本列島に数多くの征服部族が渡来して縄文人(原住民・/エミシ族)を征服し、それぞれが土地を占有して小国家を打ち立てた。

その征服部族の出身が、中国大陸から朝鮮半島に到る極めて広域だった事から、被征服者の縄文人(原住民・/エミシ族)を含めそれぞれが対立したこの環境を、武力を背景にした強姦や性奴隷化ではなく、双方の「合意に拠り創り出す知恵」が、誓約(うけい)だったのである。

太古の昔、人間は小さな群れ単位で生活し、群れ社会を構成した。

その群れ社会同士が、争わずに共存するには性交に拠る一体化が理屈抜きに有効であり、合流の都度に乱交が行われて群れは大きくなって村落国家が形成されたその事情が、仲間として和合する為の誓約(うけい)の性交を産みだしたのである。

弥生期初期の頃は、大きく分けても本来の先住民・蝦夷族(えみしぞく/縄文人)、加羅族(からぞく/農耕山岳民族)系渡来人、呉族(ごぞく/海洋民族)系渡来人の三つ巴、その三っも夫々(それぞれ)に部族集団を多数形成していた。

つまり最大の政治(まつりごと)は、それらの勢力の争いを回避する手段の発想から始まり、その和解の為の最も実効があるツール(道具)が誓約(うけい)の性交に拠る血の融合だった。そしてその誓約(うけい)の性交は、新しい併合部族の誕生を呪詛(祈る)する神事と位置付けられて、主要な「祀(祭・奉)り」となった。

(中略)

異民族同士が、簡単且つ有効に信頼関係を構築して一体化する手段は一つしかない。

それは、性交に拠り肉体的に許し合う事に拠って究極の信頼感を醸成し定着させる事である。

その結果は明らかで、次代には混血した子孫が誕生する。

「誓約(うけい)」とは、一義的には性交を伴う現実的和解であり、結果的に両部族(両民族)の子孫が融合して新たな部族(民族)を創造する事である。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3366.html

137. 中川隆[-13584] koaQ7Jey 2018年11月15日 05:45:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20671] 報告

縄文時代における九州と朝鮮半島との交流 2018/05/27


 以前、当ブログで


つくられた縄文時代: 日本文化の原像を探る (新潮選書) – 2015/11/27
山田 康弘 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%83%8F%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%82%8B-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B1%B1%E7%94%B0-%E5%BA%B7%E5%BC%98/dp/4106037785


を取り上げ、縄文時代における九州と朝鮮半島との交流についても少し言及しましたが

(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/201512/article_30.html


もう少し詳しく同書の見解を取り上げることにします(同書P129〜133)。

じゅうらい、縄文時代の日本列島は他地域との交流がほとんどなかった、と考えられてきました。それは、「縄文人」のような形態の人類集団が他地域で確認されず、細かな地域差・時代差があるとはいえ、地理的範囲は北海道から九州まで、時間的範囲は早期から晩期前半まで、「縄文人」の形態はほぼ同一とされてきたからでした。

 しかし、考古学的資料により、縄文時代における九州、さらには西日本と朝鮮半島との交流が明らかになってきました。たとえば、西日本各地に分布する縄文時代前期の轟式土器や曽畑式土器は、朝鮮半島に分布する隆起線文土器や櫛目文土器との類似性が指摘されています。また、轟式土器と曽畑式土器の間に位置づけられる西唐津式土器と朝鮮半島の土器との関係も指摘されるようになっており、相互の土器形式に影響を及ぼす水準で交流があったことは確実とされています。

 朝鮮半島の煙臺島遺跡からは、縄文時代の石器として一般的な石匙が出土しています。縄文時代後期に西北九州で多くみられる石鋸も、朝鮮半島の松島遺跡など南岸部から出土しています。佐賀県の腰岳から産出する黒曜石は、朝鮮半島南岸部からも出土しています。また、朝鮮半島の土偶の中には、縄文時代早期のものとの類似性が指摘されるものもあります。その他にも、縄文時代には珍しくない貝輪・獣歯牙製装身具・土製耳飾りなどが、朝鮮半島南部で出土しています。こうした遺物だけではなく、人類遺骸でも、朝鮮半島と縄文時代の日本列島との交流の可能性が指摘されています。煙臺島遺跡から出土した人類遺骸には、縄文人の形態がよく認められるそうです。

 しかし、近年の研究の進展により、九州を中心とする縄文時代の西日本と朝鮮半島との交流については、一時期の過大評価が訂正される傾向にあるようです。まず、朝鮮半島における縄文(系)土器の出土点数は、在地の有文土器と比較すると0.1%にも満たない、とのことです。また、土器の製作技法・文様の割り付け方法・結合式釣針の製作技法などの比較の結果、縄文時代の日本列島と朝鮮半島との類似性は、同一の文様構成原理や技法で製作されたという水準ではなく、あくまでも視覚的な部分に留まっている、とも指摘されています。見た目は類似しているものの、人間が恒常的に往来して製作技法そのものが伝えられているような状況ではなかっただろう、というわけです。

対馬の越高・尾崎遺跡や夫婦岩遺跡などでは、朝鮮半島系の土器が主体的に出土することもありますが、これは特定の時期だけの減少で、他の時期では基本的に縄文土器が出土するそうです。朝鮮半島には縄文(系)土器が主体的に出土する遺跡は存在せず、あくまでも単発的・客体的に出土するにすぎません。

 これまで、縄文時代の日本列島と朝鮮半島の考古学的資料の類似性は、交流の証明としてひじょうに高く評価されてきましたが、再考が必要ではないか、と本書は指摘します。縄文時代の北部九州と朝鮮半島南部との交流はさほど多くなく、南島地域との比較でも少なかったので、北部九州と朝鮮半島南部の間には言語の壁があったのではないか、との見解も提示されています。

また本書は、朝鮮半島では土偶はほとんど出土せず、大型のものはないことと、縄文文化でよく見られる呪術具は朝鮮半島では出土頻度が低いことなどからも、縄文時代の北部九州と朝鮮半島南部は文化を共有するという状況ではなく、対馬海峡で線を引くことが可能ではないか、と指摘します。縄文文化がユーラシア大陸からの影響を受けたことは間違いないとしても、縄文文化はおおむね日本列島内に収まっているとの見解にも一理ある、と本書は指摘しています。
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_45.html

138. 中川隆[-13658] koaQ7Jey 2018年11月18日 09:17:46 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20872] 報告

弥生人と言われていた民族も弥生前期は長江系、後期は朝鮮系で、別民族みたいですね:

弥生時代後期の弥生人骨 大半が渡来系 2018年11月18日
https://www.yomiuri.co.jp/local/tottori/news/20181117-OYTNT50025.html


研究の成果について報告する篠田副館長(右、鳥取市青谷町で)

DNA分析に使われている弥生時代の人骨。青谷上寺地遺跡展示館で展示が始まった



 ◇青谷上寺地遺跡

 ◇DNA分析 後期、盛んな交流


 鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で見つかった弥生時代後期の人骨について、県埋蔵文化財センターや国立科学博物館などが実施しているDNA分析調査の中間報告会が17日、同町の市青谷町総合支所で開かれた。

大半の人骨のルーツが大陸からの渡来系だったといい、同博物館の篠田謙一副館長は「日本人の成り立ちを知る重要な手がかりだ」と話す。(河合修平)

 遺跡からはこれまでに約5300点の人骨が出土。調査では、頭蓋骨約40点から微量の骨を削り取り、DNA分析を行っている。報告会では、母から子へ受け継がれるミトコンドリアのDNA配列を分析し、母系の祖先をたどった調査結果を篠田副館長が説明。市民ら約130人が聞き入った。

 篠田副館長によると、九州北部の遺跡から出土した弥生前期の人骨の分析では、在来の縄文系と渡来系の遺伝子が見つかった。当時の人が両方の祖先を持っていたことを示しており、青谷上寺地遺跡の人骨についても、両方の遺伝子が検出されると予想していたという。しかし、今回DNAを抽出した人骨32点のうち、31点が渡来系で、縄文系は1点だけ。DNAの型は29種類に分かれ、血縁関係がほとんどないことも分かった。

 青谷は遺跡の発掘調査から、大陸などとの交易拠点だったと考えられており、分析からも、多くの渡来人が入ってきて、交易で栄えていたことがうかがえるという。また、従来の研究では、稲作の普及や定住生活の広がりに伴って弥生後期には日本人の中に渡来系と縄文系が交ざっていたと考えられていた。しかし、今回の調査結果は定説に当てはまらず、篠田副館長は「これまでの説について発展的に考える契機になる」と述べた。

 共同研究では今後、細胞核のDNAから父系のルーツについても分析する。2019年3月には、鳥取市内で最終的な研究成果を発表する予定で、篠田副館長は「当時の人々がどのように暮らしていたのかを明らかにしていきたい」。報告を聞いた同市の会社員宮川昌樹さん(64)は「青谷でどんな人が暮らし、自分たちのルーツはどこにあるのか、興味をかき立てられた。研究内容に注目したい」と語った。

 同町の青谷上寺地遺跡展示館では17日、研究に用いられている人骨5点の展示も始まった。午前9時〜午後5時。月曜、祝日の翌日は休館。無料。終了日は未定。問い合わせは同展示館(0857・85・0841)。

2018年11月18日 Copyright © The Yomiuri Shimbun

139. 中川隆[-13656] koaQ7Jey 2018年11月19日 18:59:04 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20908] 報告

2017-05-31 日本神話=朝鮮神話
http://japbuster.hatenablog.com/entry/2017/05/31/092557

日本人が天から舞い降りた民族でもなければ日本から生えてきた民族でも無い以上日本人はどこからかやってこなければならない。そしてそれは間違いなく朝鮮半島であった。日本神話は確実に朝鮮神話に源流を持つ。日本神話で有名な八咫烏も高句麗のシンボルである。

↓高句麗の壁画に描かれた八咫烏

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八咫烏とは、当社の主祭神である家津美御子大神(素盞鳴尊)のお仕えです。 日本を統一した神武天皇を、大和の橿原まで先導したという神武東征の故事に習い、 導きの神として篤い信仰があります。

八咫烏について - 熊野本宮大社 | 公式サイト

平安から鎌倉時代にかけて皇族や貴族から篤い信仰を受けた熊野神社の主祭神は朝鮮半島ソシモリ出身のスサノオであり、そのお仕えである八咫烏は高句麗のシンボルである。熊野神社は高句麗系渡来人の神社であったのだろう。スサノオは朝鮮半島のソシモリから虵の韓鋤の剣を携えやってきてヤマタノオロチを退治した。「虵の韓鋤の剣」は間違いなく朝鮮製の剣であろう。ヤマタノオロチは蛇である。日本の古くからの信仰は蛇信仰である。蛇信仰は注連縄や鏡餅や土器などに見ることができる。脱皮し永遠の命を持つと思われた蛇は信仰の対象であった。その蛇を朝鮮半島からやってきた神が朝鮮製の剣で退治したヤマタノオロチの神話は示唆的である。これは渡来人が蛇信仰の土着倭人を殺戮した歴史では無いだろうか。

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古神道とはどのようなものか考えたときそれは原始的なアニミズムであっただろう。その特徴を色濃く残す神社と言えば諏訪大社である。諏訪大社の巨木信仰はまさにアニミズムだろう。また諏訪大社ではソソウ神という蛇神やミシャグジ神を祀っている。柳田国男もこれを先住民族の信仰と考えた。諏訪大社の主祭神は建御名方神と八坂刀売神である。建御名方神といえば国譲り神話でこっぴどくやられた神であり八坂刀売神は記紀神話には存在しない諏訪土着の神である。おそらく土着の倭人が朝鮮系の民族に追いやられた歴史を反映していると考えられる。縄文の信仰を残す諏訪大社と国を譲らざるを得なかった神。偶然の取り合わせでは無いだろう。実際縄文系のDNAは日本の周縁へと追いやられている。朝鮮系渡来人である弥生系DNAは日本の中心に分布している。

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古神道を考える上で忘れてはならないのが出雲大社である。記紀の3分の1の記述は出雲のものであり、全国にある8割の神社には出雲系の神が祭られているという。間違いなく古神道といえるだろう。出雲大社の主祭神は大国主大神である。国譲りで国を明け渡さなければならなくなった神であり、大和へその地位を譲らなければならなかった古代出雲文明の神であろう。事実、大国主神は祟り神として知られている。大国主神は国津神の主祭神であり土着の神である。大国主神もまた縄文系の土着の倭人の神であろうか。出雲大社にも流れ着いた海蛇を祀る風習があるという。古代の蛇信仰も色濃く残した神社である。研究によれば出雲の人々のDNAは朝鮮人や中国人とは違うようだ。やはり出雲大社は土着の倭人の神社であるように思われる。

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比較的新しい信仰が天照大神信仰であろう。天照大神は天津神である。渡来人の神であろう。天照大神は機織りや稲作を行う記述があることからも渡来人であることが伺える。天孫降臨神話においても天照大神の孫にあたる瓊瓊杵尊は「この地は韓国に面して、笠沙の岬にも通じており、朝日と夕日が照らす素晴らしい土地である」と発言したように、朝鮮半島との関係をうかがわせる。天照大神は皇室の祖神であり、国家神道の主祭神である。大化の改新の後に皇祖神となったと言われている。持統天皇が日本書紀を編纂させた。その日本書紀が天照大神に特別な地位を与えたと言われている。
http://japbuster.hatenablog.com/entry/2017/05/31/092557

140. 中川隆[-13636] koaQ7Jey 2018年11月21日 11:37:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20959] 報告

高天原故地碑

高天原故地碑(たかまがはらこちひ)は、大韓民国慶尚北道高霊郡の加耶大学校内にある石碑。日本神話の天津神が住む高天原は、ここであると記されている。


慶尚北道 高霊郡 地図
https://map.konest.com/daddr/4783034032


高天原は実在の地域を反映しているとする説は古くから存在し、第二次大戦後は主としてアマチュア研究家によって朝鮮半島説も唱えられることがあった。当初その比定地とされたのは、戦前から一部の研究家によってスサノオが立ち寄ったという新羅のソシモリの候補とされた、『冬のソナタ』のロケ地として知られる江原道春川市であって、慶尚北道高霊郡ではなかった。


春川に代わって名乗りをあげたのが高霊郡であった。加耶大学校の李慶煕総長がこの説の主唱者で、1999年6月28日に「高天原故地」と記された石碑が建立された。


李慶煕の主張


この節に雑多な内容が羅列されています。事項を箇条書きで列挙しただけの節は、本文として組み入れるか、または整理・除去する必要があります。(2010年10月)


李慶煕総長の主張によると

高皇産霊尊は、高と霊の字が含まれるので、高霊郡で誕生した[1]。

東国與地勝覧に書かれている伽耶の天神夷毗訶の次男伊珍阿豉(イジンアシ)はイザナミと発音が似ている。そのため、伊珍阿豉はイザナミである。

任那の任は現代の韓国語で「主人」「母」を意味する。そのため、任那は『主人の国』や『母なる国』を意味する。

高千穂の添山(そおりやま)は韓国の首都ソウルと発音が似ている。そのため、添山はソウルを指す。


と、いうことだそうである。

これらの主張は、2001年に訪韓した筑波大学の馬渕和夫名誉教授らの賛同を得ている。このとき、馬渕教授は李総長の主催する学会で「朝鮮民族が日本を征服し大和王朝を建てた」と発表している[2]。


脚注
1.^ 以下、特に論評はしない。
2.^ 『韓国 堕落の2000年史―日本に大差をつけられた理由』 加耶大学校客員教授 崔基鎬 著
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%A4%A9%E5%8E%9F%E6%95%85%E5%9C%B0%E7%A2%91

141. 中川隆[-13637] koaQ7Jey 2018年11月22日 09:05:44 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20977] 報告

10. 2013年7月13日 17:47:40 : WUs3UH3xVg

天皇のルーツが渡来系である可能性は昔から指摘されています。

これは近代国家の枠組みから外れるために、社会一般にも研究者間でもある種のタブー、
として扱われていた事は、昭和の時代から存在していました。
例としては、天皇家の埋葬が土葬で、朝鮮式の埋葬法で古墳と似て山のような
盛り土である事は知られています。
古い時代の古墳が調査禁止となっているのは、そこから物的証拠が出てくるからです。

それは何を意味するかというと、大陸との繋がりを示すからですね。
終戦直後の占領軍はそうした調査を行ったようですが、現在は出来ない。
宮内庁が許可しないでしょうから、ですね。
当時の認識として、日本を象徴する人物が海外に関係していたとするならば、
それは多くの人の混乱を招いたでしょうから簡単には認められない問題でしょう。


日本という国が単一民族ではない、という点もその通りです。
日本が単一民族といった概念を採用したのは近代国家の枠組みが成立する過程で
生み出された概念に過ぎません。
現実は違い、古来から移民の国として存在する、というのが正しいです。


民俗学的考古学的に調査を行った話としては、天皇のルーツは朝鮮半島の38°線付近の
小さな集落に、風習がとても似た村があると指摘されていて、それらは紛争地帯である
ために容易に近づく事は出来ないだろう、同行した当時KCIA局員の話としては、
そうした天皇の由来について何らかの事情を知っていたらしく、意見を聞かれ
「知らない方が良いこともあるのだ」と答えたという研究者の話が伝わっています。

この話はあるメディアに流れました。

38°線付近の集落という事は、朝鮮半島の南北の中間点であるので、
仮にこの付近が関連する村であると、南だけではなく北とも天皇は接点を持つ
可能性が浮かび上がります。

(私の直感として、天皇と北の接点が存在した場合に拉致問題と関係して
いなければ良いなあ、と思うのですが、、、、、気にしすぎでしょうかね)

こうした話題はタブーに属するので、ある種のオルタナティブメディアで
爆弾発言として現れる事も当時としては多かったように思います。

天皇が戦争とどう関わったかについては、総括することは必要だという考えは
理解しますが、
戦前の体制や、戦後の状況からいっても、昭和の時代、平成一桁の時代において
戦争経験者が多く存在する時代ですし、
天皇制や天皇と戦争との関連を法的に取り扱う事は、容易ではない
といえるでしょう。

そうした意味では、棄却理由は無理があるとはいえ裁判所が天皇の戦争との関わり
以外に出自等歴史的タブーに絡み、歴史に挑戦するというのも難しいので、
棄却は無理も無いといえるでしょう。
http://www.asyura2.com/12/idletalk40/msg/523.html

142. 中川隆[-13634] koaQ7Jey 2018年11月22日 09:10:47 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20977] 報告
昔、三宅さんから聞いた話 2012-11-16

あのころは、三宅さんに、竹村健一さん、飯島清さんが、


テレビで活躍中だった。

空港まで車で三宅さんを迎えに行った。

高速道路を走りながら車中で、


昭和天皇の話になった。


三宅さんが、日本史の江上波夫さんから聞いた話だと。

あの騎馬民族説の江上さんですね。


そう。

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、


昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?
A:朝鮮半島だと思う。
Q:どうしてそう思われますか?
A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。

と答えられたと。


三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、


もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。


現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。


昭和天皇ゆかりの話をしたかったようだ。

いま、あのときの顔を思い出しています。

三宅さん、歯切れのいい話で、


日本の左傾化に歯止めを掛けていた。


やすらかにお眠りくださいますように。
https://blog.goo.ne.jp/akirakasan/e/a6f887959603d8e10b513314716d3643

143. 中川隆[-13638] koaQ7Jey 2018年11月22日 10:22:27 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-20983] 報告

朝鮮と日本の神話の類似性
上田正昭 京都大学名誉教授(2002年1月26日 講演記録より)

百済の国は朝鮮半島南部の西側、忠清南道の方です。百済の都は最初はソウルにあったんです。漢城という。南に遷都せざるをえなくなって公州(熊津)へ行く。そこからまた都を移って扶余(泗沘)に移る。

百済の故都はソウルです。百済の古い歴史を調べようとするとソウルの周辺を調査しないとわからない。

百済の建国の始祖は高句麗の神話と同じで、新笠の伝記の最後に都慕王(朱蒙)の子孫でお母さんは河の神の娘であると書いてあります。

新笠の伝記の中に書いてある神話は高句麗の朱蒙の神話なのです。


 共和国と韓国が分かれるのは北方は狩猟民が多くて、南方は農耕民族だと。そもそも民族が違うのだという南北分断を合理化するような説がありますが、それは大きな間違いです。

同じ神話を持っているわけです、南の百済と北の高句麗は。

伽耶という国、慶尚南道の方です。釜山から大邱にあった国です。始祖は首露という。

 「三国遺事」。13世紀の半ばに編まれた史書です。

そこに「駕洛国記」という伽耶の国の歴史を書いた文章が引用してあります。

伽耶の国の建国神話があります。[史料4]

「後漢世祖光武帝」「建武十八年」は紀元36年。「壬寅三月禊浴之日」。

禊ぎを3月にやっている。雛祭りの日です、3月の節句。中国の春禊の風習は朝鮮半島にも入っています。禊ぎの日に神様が降臨してくる。

「所居北亀旨(クシ)」。

今も首露を祀っている廟があります。

「有殊常聲気呼喚。衆庶二三百人集会於此」。

変な声が聞こえてきたので村人が峰に二、三百人集まった。人の声のようなものがするけれども、形は見えない。ここに人ありや否や。

「九干等云 吾徒在 又日 吾所在為何 對云亀旨」

と言ってお降りになった。これは伽耶の国の降臨神話です。


 天降りの神話です。そこで『古事記』(上巻)に[史料1]

「故爾に天津日子番能邇邇藝命に詔りたまひて、天の石位を離れ、天の八重多那雲を押し分けて伊都能知岐知和岐弓、天の浮橋に宇岐土摩理、蘇理多多斯弖、竺紫の日向の高千穂の久士布流多気に天降りまさしめき」。

高千穂の峰と書けばいいのにわざわざ古事記は「久士布流」という形容をしている。亀旨と同じです。高千穂の峰にクシという言葉がついている。

 「此地は韓國に向ひ、笠沙の御前を眞来通りて、朝日の直刺す國、夕日の日照る國なり。故、此地は甚吉き地。」

という言葉があります。

 高千穂伝承には[史料2]

「筑紫の日向の高千穂の槵觸峰」

「日向の槵日の高千穂の峰」

「日向の襲の高千穂の槵日の二上峰」。

いずれもクシという字があります。

朝鮮の神話と日本の神話に類似性があることを教えてくれます。

それだけではなく

「日向の襲の高千穂の添山峰」。

それを『日本書紀』(巻第二)[史料3]では「曾褒理能耶麻」と云ふ。
わざわざ「そほりの山」と読むと書いてある。

朝鮮半島では聖なる場所のことを「ソホリ」と言う。
韓国の都をソウルというのは聖なる場所という意味なんです。

『三国史記』には百済の最後の都・泗沘(シヒ)のことを所夫里(ソホリ)といっています。
高千穂の聖なる山ということが朝鮮の言葉のソフルと記されています。

天から神が降りてくる、その場所をクシとかソホリという言葉を使っていることに注目して下さい。
http://www5d.biglobe.ne.jp/~tosikenn/kouzaueda.html

144. 中川隆[-13625] koaQ7Jey 2018年11月23日 17:57:59 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21040] 報告

aki********さん 2012/11/13 22:28:43

高句麗は朝鮮ですか大陸(中国?)ですか?民族的に文化的に言語的にどうなのか、それぞれの視点からお願いします。


補足
回答ありがとうございます。

高句麗が騎馬民族だったことを示す、文献なり遺跡なりは残っているのでしょうか?

高句麗は農業大国扶余の分国という情報をネットで拾い読みしましたが、これは間違っているでしょうか?



ベストアンサーに選ばれた回答

aka********さん 2012/11/15 08:36:25


高句麗国の神宮(高天原)の日の巫女の王の忌名と姫姓を受け継ぐ、社家の者としてお答えします。

高句麗は扶余と同じツングースで、北から来たと思っている人も多いようですが、じつはスンダランドが消滅したことで、中国大陸東岸を北上した人々の血がかなり入っているようです。言語的に日本語と近いことは数詞の一致などから見て取れます。固有語レベルで共通性がほとんどない現在の朝鮮語と日本語の関係と比べると、大違いです。とはいえ、地理的に隔たった分だけ差異が認められます。文献研究者が吏読と思っている言葉の多くが、じつは高句麗語というケースが多々あります。当家では日の巫女の王の名を襲名する者は高句麗語(文語的)を第一言語として育てられるので、はっきり認識出来るのですが、そうでない一般の日本人は、失われた言語についてほとんど認識出来ないと思います。

縄文人達は、鬼界カルデラの大噴火の災厄から逃れるために、海外脱出しています。疎開先に東北平原の地域を選んだ人々もいたようです。日の昇る方角に二柱の祖先神が立っていると考える、扶桑信仰が誕生しました。扶は寄り添って立つ同根一対の御神木を指す言葉で、扶余の国名になったようです。この二柱の神々は、現在の日本神話ではイザナギ・イザナミと呼ばれていますね。

扶余国は広大な平野に興った国ですが、寒冷化の影響を受けやすい地域です。太陽の力が陰ったのは王の人徳に問題があるからだという噂が広まって、民から責められた出来事を、漢民族が書き留めています。食糧難が発生して南下を余儀なくされた結果、高句麗や百済が派生したと見るべきでしょう。

高句麗は扶余と同じ太陽信仰の国でした。国母神とその息子の男王の二廟を祀っていることを漢民族が記録しています。これは、夜明けが太陽を産む→明姫(アカルヒメ)が東明聖王を産む→天照大神(神功皇后)が皇統を産んだ、という形で、皇室神道へと繋がっています。高句麗国が半農の国だったことは、東盟祭を観察すれば明らかです。隧穴を大地母神のホトに見立てて、隧神の男性のシンボル(箸=丸太の棒)で突いて、翌年の豊穣を祈願するお祭りをしていました。現代の新嘗祭の原型となった、纏向型祭祀(土坑祭祀)と共通します。箸墓古墳の箸でホトを突くという伝承は、墓の主の死因ではなく巫女が主宰した祭祀形態の伝承です。後世の人々が意味を取り違えたのです。隧穴は高句麗式の石組みのトンカラリン遺跡として日本にも残ります。隧神の箸は日矛鏡で反射した陽光(日矛)へと変り、隧穴を照らす形になりました。天岩戸伝説にも見ることが出来ますね。五穀豊穣を祈願する祭祀は農耕文化の象徴です。当家の主食は今もヘンプ(麻の実)の醗酵粥の醍醐です。東明聖王は朱蒙(弓の名手)の異名を持ちますから、半狩猟民族です。当家の者はボーラや印地の技を伝えています。

扶桑信仰は神仙思想と習合して、東夷=倭人=和人の人々の、蓬莱(日本)への東進を促す原動力になりました。和人文化圏が、山東・遼東半島付近から纏向の地まで広がっていたようです。もし東征だったら、男性は移動しても女性の移動は見られない筈です。ところが、九州の弥生の遺跡からは、縄文に見られないミトコンドリアの遺伝子の型、N9aやZが見出されます。今日の日本人と共通性を持ったパターンが、山東半島や遼東半島付近まで分布しています。つまり女性を伴っての移動だったのです。ところが、男性が担うY染色体のO2bのほうは、かつての和人文化圏に沿った分布が見られません。朝鮮半島付近は、後から男性のみの集団が侵入してY染色体を上書きしています。つまり侵略を受けたのですね。

天照大神の原型となった日の巫女の王が、難民達に日国への里帰りの託宣を下して、自ら日本に渡来して大王家(後の天皇家)を産みだした結果、高句麗の精神文化と言葉が日本にもたらされました。飛鳥や大和や息長などは、高句麗語の音写が変化せずに現代まで残ったものです。この時はO3の型を持った人々が大勢含まれていたと思われます。東明聖王が5部族を無血統一した故事に由来する、和を尊ぶ大和民族の精神に導かれた豊葦原瑞穂の国への里帰りの入植だったようです。京都や奈良の湿地帯の干拓事業を行ったので、古くから日本に住んでいた人々の土地を奪ったわけではないようです。平和的な入植だったので、Y染色体のD2遺伝子などが駆逐されずにちゃんと日本には残っていますね。

高句麗は半農半狩猟の民族で、言語や精神文化は日本が受け継いでいます。難民となって移動した人々は、Y遺伝子で見るとO2bやO3のほうが多いようです。多くの高句麗国の人々は大陸に残ったようですね。東進しやすかったのは、高句麗の民よりも半農・半漁労の人々だった、ということでしょう。

当家の神庫に残る故老の伝承を裏付けるものが多く見出せます。それなりに史実を反映していると思われます。


質問した人からのコメント

2012/11/15 09:09:10

高句麗に大和民族の精神的ルーツがあるという姫様のお家の伝承を元にした御説を以前から読ませて頂いてきましたが、遺伝的な痕跡まであったとは驚きです。

東北平原の土地は肥沃で中国最大の食糧生産地ですが、寒冷化が当時の扶余のヘンプの生産にどういう影響を与えたのか詳しく知りたくなってきました。日女神のお家の主食が米でなく麻の実の発酵粥の理由が、なんとなく分かってきました。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1197169726

145. 中川隆[-13623] koaQ7Jey 2018年11月23日 21:20:14 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21046] 報告


>>144 の妄想の続き

aki********さん 2012/10/31 13:54:35
天照大神は女神とされていますが、なぜ伊勢神宮などに男神の装束が奉納されているのですか?


ベストアンサーに選ばれた回答


aka********さん 2012/11/4 08:51:34

日の巫女の王を襲名した斎の巫女としてお答えします。

日本人は初日の出を拝む風習を持っていますが、神道本来の太陽信仰の姿は、為政者の宗教改革によって見えなくなっています。詳細は省きますが、蘇我馬子は天皇暗殺に飽き足らず、皇祖大兄を名乗って皇統に割り込み、没後は天照大神・男神として祀られるように画策しました。皇祖神・蘇我馬子を後世の人々は否定したものの、太陽信仰の姿が定かでなくなってしまい、本来の太陽神もろとも封印される形になったのです。日本の国姓の姫を母系継承する当家や他の幾つかの社家が、より古い時代の太陽信仰の姿を伝承しています。しかし、天皇記や国記が燃やされるなど、焚書が横行したので、神庫と古い書物の存在は秘匿されたのです。

天照大神は、日本の国号と記紀神話が成立したときに創作された新しい神です。より古い時代に「天照国なになに」という名で祀られた天照系の神々がいますが、そのなかに女神が単体で祀られたケースは見当たりません。信仰実績がないのですから、蘇我馬子達の暴挙が否定された後で、記紀神話が創作された時に、新しく設定された皇祖神と分かります。

記紀神話以前の古い国母神は、比売許曽(ひめこそ/姫の社という意味の古い高句麗語)に祀られていた明姫(アカルヒメ)でした。阿加流比売(アカルヒメ)という音写しか一般に知られてませんよね。天照大神・荒魂・瀬織津姫もまた記紀神話から除外されて、神社からもその名を消されていった女神です。隠蔽体質が顕著です。古い日女神達や建国にまつわる神話は、新たな日本国の神話と信仰を確立する妨げになるので、日本書紀に掲載されませんでした。本当の王統の誕生を祝うお祭りは、京都の葵祭です。建国神話はこのお祭りと一対一対応する桃太郎の昔話として知られています。

詳細を省きますが、アカルヒメが新羅から渡来した女神という神話は真に受けないでください。特有の仮託された表現で構成されているものを、矛盾に気付かずに、太陽神と巫女神が夫婦喧嘩したとか、元祖ストーカー王子と解釈するのは間違いです。書き手の地理的感覚や時間軸も混乱しています。阿加流比売を奉斎する巫女集団が大陸の高天原から渡来した時期は、黄巾の乱の後、卑弥呼登場の少し前です。

記紀神話成立以前の本来の太陽信仰を再生するうえで、国外の和人文化の記録が参考になります。
纏向型祭祀(土坑祭祀)と高句麗の東盟祭の類似性が指摘されています。中国大陸東岸の長江文明の稲作が日本まで伝わってきたことから分かるように、東夷とも倭(和)人とも呼ばれた人々の渡来によって、縄文時代は弥生時代に変わっていきました。黄巾の乱で発生した難民の渡来は、弥生時代を古墳時代に変えていきました。山東半島から纏向遺跡に至る東進ルート沿いに、和人文化圏が形成された時代がありました。高句麗地域(渤海湾岸文明)の朝日に対する信仰は東明信仰です。これを漢民族は扶桑信仰として書き残しています。高句麗では国母神とその息子の男王神の二霊廟を祀っているという記述も残ります。

明姫は「日が明ける」という意味を持つ日女神です。夜明けを神格化した女神です。夜明けから生まれてくるのは太陽です。太陽を神格化した男神が東明聖王です。夜明けが産む太陽。明姫が産む東明聖王。皇祖神・天照大神(女神)が産み出した皇統。高句麗の国母神とその息子の男王神に対する信仰とも対応します。

飛鳥と書いても明日香と書いてもアスカと読みます。飛鳥はじつは「日が明ける(新しい)」を意味する古い高句麗語(祝詞の吏読のルーツ)の音写です。朝鮮語でも「日が明ける」と「飛ぶ鳥」は「날 새/ナルセ」で同音です。「明日」は「日が明ける」の漢語表記です。語尾の「香」は「郷」の音写です。つまり飛鳥郷(京)は、国母(皇祖神)とされた日女(姫)神の明姫の名にちなんだ太陽(東明)信仰の王都なのです。

記紀神話は、イザナギとイザナミの男女一対の神による国産みから始まります。これは陰陽思想に基づきます。天照大神も陰陽思想の影響を受けて設定された太陽神です。天上に輝く陽の存在(太陽)は男神で、その光を受けて人の姿を取るとき、陰の存在の女神の姿を取るとされます。ですから、太陽神・天照大神の依り代となる巫(かんなぎ)は、生き神扱いの男装の巫女なのです。

記紀神話のなかで、スサノオは天照大神のことを姉と呼びます。また、スサノオと対峙するとき、女性の髪形を解いて男装する描写があります。人の姿をした天照大神は、記紀神話の伝承でも女神として描かれます。私が天照大神と心身一体の状態になって神座に座るときに着る神服もまた、男装の剛装束です。皇室から伊勢神宮に奉納される神服も男神用です。普通の人が着るには、やや大きめに作られた物が奉納される慣習があるのは、日の巫女の王の一族は体が大きいことが知られてきたからです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1296497722

146. 中川隆[-13627] koaQ7Jey 2018年11月23日 21:40:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21052] 報告
これも妄想だろうけど、有名な話なので転記

糸島郡の平原遺跡 2014-11-02


平原遺跡 :糸島郡前原町平原

昭和40年糸島郡前原町平原(当時、現在は平原市)において、農作業の最中に多量の朱と共に大小鏡の破片等が発見された。

偶然の発見であったが、福岡県教育委員会はただちに原田大六を調査団長とした発掘調査団を組織し、調査・発掘が実施された。結果、遺構は東西十八m、南北十四mの長方形の方形周溝墓で、弥生時代から古墳時代にかけての遺構であるとされた。原田大六は、2世紀中頃であるとしている。

遺構の中央部には、割竹形木棺を収めていたと思われる痕跡もあった。

この遺跡からは、破砕された合計39面の鏡、ガラス・メノウなどの装身具、素環頭太刀等が出土し、鏡の枚数は一墳墓からの出土数としては我が国最多であった。

又、復元された内行花文鏡は直径が46.5cmもあり、これ又我が国では最大経の鏡であった。太刀等武具の少なさ、装飾品の豪華さ、それに鏡の多さなどから、原田は、この遺構を「伊都国の女王」の墓だと想定している。

平成2年には、平原方形周溝墓出土品が国の重要文化財に。さらに、平成18年には国宝に指定されました。

副葬品は銅鏡40枚、鉄刀1本、ガラス製勾玉やメノウ製管玉などの玉類が多数発見されていて、銅鏡のなかには日本最大級の直径46.5cmの内行花文鏡が5枚ありました。ひとつの墓から出土した銅鏡の枚数も弥生時代としては日本一。

副葬品にネックレスやブレスレットなどのアクセサリーが多いことから、この墓に葬られた人物は女性で、特に超人的な力を持った女性ということで、卑弥呼の墓という説もあるほどです。


1号墓出土品(国宝)

大型内行花文鏡 4面(5面) 別称「内行花文八葉鏡」[3]、仿製鏡(日本製)、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡である。

内行花文鏡(内行花文四葉鏡) 2面

方格規矩鏡 32面、(鋸歯文縁方格規矩四神鏡が23面、流雲文縁方格規矩四神鏡が9面)

四螭文鏡 1面

メノウ製管玉 12個
ガラス製(瑪瑙:めのう)勾玉(くだたま) 3個、ガラス丸玉 約500個
ガラス小玉 一括(約500)
ガラス管玉 一括(30以上)
ガラス連玉 一括(約886)
耳璫(じとう、耳珠)3
素環頭大刀 1振
鉄鏃10
鉄やりがんな1
鉄のみ1
鉄斧1

 日本一大きな国産の内行花文八葉鏡四枚について、考古学者故原田大六(だいろく)はその図抜けた大きさと特異文様とが、伊勢神宮に関する種々の史料から内宮の御神体である八咫鏡( や たのかがみ)と同じものではないかと推察し、次のように述べている(『実在した神話』、学生社)。

「伊勢神宮の八咫(やた)の鏡と平原弥生古墳出土の大鏡は上述のように、寸法、文様ともに食い違ったところを見受けないのである。これがもし事実だとしたら、平原弥生古墳には大鏡の同型同笵鏡(どうはんきょう)が四面あることから、はじめは五面を作製したものの一面が伊勢神宮の御神体になっているといわれないことはない」

原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。

 森浩一氏も、この原田説を支持され、

「原田氏の生涯をかけての、この重要な研究が基本において修正を要しないとすれば、八咫鏡は弥生時代後期に北部九州で製作され、他の同類は破砕されたけれども、一面だけがはるばる近畿地方にもたらされたということになる」

と述べておられる(『日本神話の考古学』)。


 豊玉姫−玉依姫−イワレヒコ(神武)の系譜から、この鏡の製作の中心にいたのは母豊玉姫を弔(とむら)ったであろう玉依姫ということになる。

その玉依姫が、わが子神武の東征にあたって、鏡の一面を携帯させたとすれば、当然、大和朝廷においてその鏡は玉依姫の鏡として長らく宮中にあったに違いない。それが、

「崇神五年、国内に疫病多発、人民の大半が死亡、六年には国内大混乱。その原因としてこれより先、宮中にアマテラスと倭(やまとの)大国魂(おおくにたま)の二神の並祭が、お互い神威が強すぎることにあると思えたので、別々に祭ることにし、アマテラスは豊鋤入姫(とよすきいりびめ)に託して云々」

とある『書紀』に従えば、このときからアマテラスこと玉依姫の依り代である八咫鏡が、現在の鎮座地である伊勢へと至る長い巡幸が始まるのである。 

 その伊勢神宮内宮を見てみれば、アマテラスこと玉依姫の相殿に万幡(よろずはた)豊秋津姫こと豊玉姫が鎮座している。


http://tokyox.matrix.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/11/IMG_3124.png

http://tokyox.matrix.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/11/IMG_3122.jpg

http://tokyox.matrix.jp/wordpress/wp-content/uploads/2014/11/IMG_3123.png


原田先生の報告書は『平原弥生古墳 大日霊貴の墓』

原田大六は平原遺跡一号墳の被葬者は玉依姫であり、伊勢神宮にアマテラス(大日孁貴)として祭られていると推察している。


tokyoblog April 2015 八咫の鏡

「咫(た)」とは円周の長さの単位で、1咫=8寸、直径2.5寸の円周(円周率3.2)とされている。
八咫鏡とは直径2尺、46センチの鏡という事になる。

平原遺跡からは、まさに直径46センチの国内出土最大の鏡が4枚出土している。御統は勾玉や管玉などを緒に通して首飾りにしたもので、五百箇の御統とは、珠が五百箇ある首飾りという事になる。平原遺跡出土の首飾りを写真で数えてみると約470個の珠があった
http://tokyox.matrix.jp/wordpress/%E7%B3%B8%E5%B3%B6%E9%83%A1%E3%81%AE%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1%E3%80%81/

平原遺跡(ひらばるいせき)は、福岡県糸島市にある弥生時代後期のものと考えられる遺跡。 曽根遺跡群の一つとして、昭和57年10月、国の史跡に指定。平成12年10月追加指定。

平原遺跡は弥生時代後期から晩期の5つの墳丘墓を合わせた名称である。 1965(昭和40)年1月、平原遺跡1号墓が偶然発見され、原田大六を中心に学術調査された。昭和63〜平成11年度にかけて、1号墓周辺に調査範囲を広げて、最終的に5基の墳丘墓が発見されている。 この遺跡は「平原歴史公園」として、1号墓のみが墳丘墓として復元管理されている。

1号墓からは直径46.5センチメートルの鏡5面を含む鏡40面をはじめとして多数の出土品があり、その全てが「福岡県平原方形周溝墓出土品」の名称で2006年、国宝に指定された(文化庁所有、伊都国歴史博物館保管)。


1号墓は方形周溝墓で、割竹形木棺の埋納が検出されている。

その1号墓の副葬品の中には日本製と中国製の破砕した銅鏡片が多数あった。これらの破片は当初、39面分に復元されていた。

その後の調査の結果、従来4面に復元されていた直径46.5センチメートルの大型内行花文鏡の破片が実は5面分の破片の可能性があると指摘された。(前原市調査報告書)。このうち1面が九州国立博物館、4面が伊都国歴史博物館に展示されている。

1990年の重要文化財指定時には、銅鏡の員数は39面分とされていたが、上述の調査結果をふまえ、2006年の国宝指定時の官報告示では、銅鏡の員数は40面分となっている[1]。この数は1つの墳墓から出土した銅鏡の枚数としては日本最多である(2009年現在)。

なお直径46.5センチメートルの鏡の外周は鏡の円周の単位で八咫(やあた)あることから、八咫鏡と同じ大きさになる。

この副葬された多数の銅鏡片は「人為的に破砕されたモノではない」と発掘責任者の原田大六は主張している[2]。

学術調査時に、2〜5号墓からは青銅器類の遺物は発見されず、出土した土器や石器類などから弥生時代後期の墓と推定された。5号墓から発見されたとする銅鏡の鈕部分2個は、この破片が土中から発見されたことから5号墓の発見に繋がっていることによる。


主な出土品

1号墓大型内行花文鏡 5面(または4面) 別称「内行花文八葉鏡」[3]、日本製、直径46.5センチメートルの超大型内行花文鏡。
内行花文鏡 2面
方格規矩鏡 32面
四螭文鏡 1面
メノウ製管玉12、ガラス製勾玉3、ガラス丸玉 約500、ガラス小玉 約500、ガラス管玉 約30、ガラス連玉 約900
耳璫 3破片
素環頭大刀 1


国宝指定名称は以下のとおり。

福岡県平原方形周溝墓出土品 銅鏡 40面分
玉類 一括
鉄素環頭大刀 1口
附:土器残欠、ガラス小玉、鉄鏃等 一括

5号墓銅鏡片 2


1号墓から出土した大型内行花文鏡(内行花文八葉鏡)を、その文様と大きさから原田大六は「八咫鏡」と解し、伊勢神宮の八咫鏡も元々は同型の鏡であったのではないか、との説を提示している[5]。『御鎮座伝記』に「八咫鏡」の形は「八頭花崎八葉形也」とあり、この「八頭花崎八葉形也」の図象を持つ考古遺物は現在のところ、この「大型内行花文鏡」のみである。

1号墓は副葬品の多くが勾玉や管玉、耳璫(耳飾り)[6]などの装身具であり、武器類が少ないため、この墓に埋葬された人物は女性であると考えられている。 原田大六はこの平原1号墓の主を玉依ヒメとし、大日孁貴であるという説を提示している[5]。

1号墓の東南にある直径約70センチメートルの縦穴を、発掘調査した原田大六は、湧水の存在から井戸として報告している。この縦穴を「前原市報告書」は大柱跡(穴中の土壌成分未調査)として、墓から見て東南の日向峠の方角に位置していることから、この大柱跡は太陽信仰に関係するものとの説を提示している。

墓壙周辺の12本の柱穴の遺構について、原田大六は「銅鐸や弥生式土器などの絵画に見られる棟持柱を持つ切妻造の倉庫建築の柱の配置にこの柱跡の遺構が似ている」として、この墓壙周辺の12本の柱跡は「殯宮関係の建築物の遺構と考えられる」としている[5]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E5%8E%9F%E9%81%BA%E8%B7%A1

147. 中川隆[-13626] koaQ7Jey 2018年11月24日 09:42:42 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21064] 報告

] 報告
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ros********さん 2012/11/13 23:45:16

オオナムチについて。

福岡県朝倉市にオオナムチ神社という神社があります。

質問します。

@このオオナムチ神社は、日本で最も古い神社だと聞きましたが、これは本当ですか。
逆に言えば、日本で最も古い神社は、どこなのでしょうか。

Aオオナムチ⇒オオクニヌシノミコト
として同一視されているそうですが、オオナムチ自体は、何の宗教のどんな神なのでしょうか。

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aki********さん 2012/11/18 10:25:00

日本最古の神社は、縄文時代の日本に建っていた、という説を採らせて頂きます。天津神が渡来する前から、縄文時代の日本にも神社があった、一万年の歴史を持つ、と思います。

伊勢神宮の内宮などに、心の御柱と呼ばれるものが建っています。これに注目します。廣田神社に天照大神荒魂、撞賢木厳之御魂天疎向津媛命とあります。撞賢木厳之御魂は、撞=依り憑く、賢木=御神木、厳之御魂=男神の魂、です。その後に続くのは、おそらくこの神を奉斎した巫女の名前。御神木に依り憑く男神の魂を奉斎する巫女を神格化した神、と読めます。男神が依り憑く御神木こそが、伊勢神宮の内宮にある心の御柱と考えます。

神は一柱二柱と数えます。これは、神が宿る御神体の御柱を数えるところから来たもの。三内丸山遺跡や諏訪の祭りを観察すれば、神が依り憑く巨大な柱の存在が明確になってきます。三内丸山遺跡は縄文時代前期中頃から中期末葉です。数千年から一万年前まで遡れるかもしれません。

猿の子供のメスは、木の枝を赤ん坊に見立てて、お人形遊びをして、母親の心を学んでいきます。宗教を生みだすアニミズムの発想の原型は、母親の尻尾を獲物に見立てて追い回して遊ぶ、子猫にも認められるそうです。哺乳類がもともとアニミズム的な発想をする習性を持つ動物だとすれば、人類はまだ猿だった時代から、原始宗教を持っていた可能性があります。猿の時代から依り代として使ってきた木の棒を巨大化して大地に建てれば御柱です。これが神社の原型です。扶桑信仰の扶桑は、日出国の日本に縄文時代から建っていた。これは、間違いないと思います。それもおそらく最初は蛇と関わりが深い蒲葵だった。しかし、現在の神社のような建築物はまだなかった、御神体の柱だけだった可能性もあります。

オオナムチの蛇神のほうですが、縄文の模様を観察していると、縄模様に蛇の頭が付いたものが散見されます。たしかに蛇は土坑祭祀と関連があるのかもしれません。土坑に見立てた縄文の壺の穴の周囲にも蛇がトグロを巻いて守っていたのだと思います。壺に入れたものに腐敗などの邪気が寄り付かないように。縄文人達が注連縄模様を描いたものを、考古学者が縄文と名付けたのが真相と思います。

壺の中で蛇を飼う昔話は、常陸国風土記のヌカヒメ伝承があります。蛇を飼育する容器が神聖視されて祀られていたことが分かる伝承です。

鏡とは、カカメが転化したもので、カカ=蛇、メ=目で、本来は蛇目のことだったそうです。鏡餅は、カガ=蛇、ミ=身で、蛇がトグロを巻いた姿に見立てて飾ってあるものと考えられます。また神社の御神木とされるナギ(梛)の木は、ナギ=蛇の木だったと思われます。

オオナムチは、政争に敗れて出雲に島流しになる前は、縄文として描かれていた時代からの日本の神だった、と思います。日本神道には渡来系の天津神だけでなく、縄文時代からそのまま引き継がれた在来系の国津神の系列があり、オオナムチは後者かと。ただ、大陸の扶余に渡る前の巫女達が、縄文時代の日本に存在した可能性もあり、両系統は同根で、明確な区分はないのかもしれない。すでに日本最古の神社や信仰の姿を示す証拠品は出土しているものの、現代人はその情報をまだ整理しきれていないと考えます。

銅鐸に刻まれた、太陽の三態を表す記号、朝『\』昼『○』夕『/』とか、火起こしの回転運動に由来する、火(日)の神の力を召喚するパワーを表す、左右の連結された渦巻とか、いろんなものが残っているものの、我々はまだその信仰の姿を十分読み解けていません。


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aka********さん 2012/11/18 01:56:35


神道施設の成立過程から順に明らかにしていきましょう。

神道は、八百万の神々を祀っていますから、多くの信仰が習合しています。そのほとんどは自然崇拝と祖霊崇拝です。自然崇拝は霊山や島や磐座や塚や御神木など、自然物が対象(御神体)ですから、本来は建物を建てて祀るものではありませんでした。神社は社(ヤシロ)とも言い、元は屋代です。代(シロ)とは、お祓いして清められた神が降臨する場所のこと。そこに建てられるのが屋代です。古い時代は仮の宮とされ、神事のときだけ存在して、用がなくなれば解体されていました。

対して、祖霊崇拝の場合は、生前の業績を称えて祀るのが基本ですから、生前の住まいである宮を子孫が大切に保存したり、霊廟を建てることもありました。神宮と神社の違いは、神宮は貴人の住まいが原点というところです。一般的に、神社には依り代となる御神体を祀る神棚の類はあっても、神様が寝起きしたり座る場所はありません。しかし、祖霊崇拝の場合は、依り代となる現人神(生き神)の巫女が寝起きしたり座る、神座がなくてはなりません。両者の違いを、皇室関係の神社とそれ以外と解説するケースが目立ちますが、神道施設が生まれた過程から見れば、不自然な俗説です。

神道のルーツは扶余の名前の由来になった扶桑信仰にあります。扶桑とは日が昇る場所に立つ同根二柱の神木の夫婦神のことで、現在はイザナギとイザナミと呼ばれていますね。扶桑信仰を作った人々は、後の狛犬のモデルになった狼犬を連れて、日本から大陸に渡っています。おそらく縄文時代の鬼界カルデラの大噴火のときに、噴煙による日照条件の悪化に伴う食糧危機を避けるため、青森県まで逃げて、そこから海外脱出した人々です。大陸から祖先の国を拝んだのが、扶桑信仰の始まりだったと推測できる神話が、日の巫女の王の家の神庫に残っています。扶桑信仰は今でも、初日の出を拝む大和民族の風習として残っていますね。つまり、神道の朝日を拝む歴史は七千年程度あると考えられます。

その長い歴史から見ると、神社という言葉は、かなり新しい時代に生まれた高句麗語&日本語です。扶余から派生した高句麗も、太陽信仰の国でした。神庫に残る故老の伝承を総合すると、高句麗は日の巫女の王が宮を構えていた五女山の神宮(高天原)の境内都市から生まれているようです。天照大神の原型となった女神は明姫(アカルヒメ)と言い、東明聖王の母とも妹ともされています。夜明けの情景から太陽が昇る→夜明けを神格化した明姫から太陽を神格化した東明聖王が生まれてくる→天照大神から皇統が生まれた、というのが、天津神の一族が日本へと渡来してもたらした、祖霊崇拝の日拝の神事を起点とする太陽信仰の原初の姿です。

高句麗の国教の姿を伝える中国の文献には、国母とその息子の王の二霊廟を祀っているとあります。あるとき高天原に難民が押し寄せて、国難を解決するために、明姫は豊葦原瑞穂の国(日国)への里帰りを託宣しました。渡来後の宮はヒメコソと呼ばれたようです。これを古い朝鮮語で「姫の社」という意味だと指摘する人々がいますが、私達は神宮を指す古い高句麗語と認識しています。つまり、最も古い日本の神道系の建物は、明姫を奉斎する日の巫女達が住まう神宮で、最初の入植地姫島のヒメコソだった、ことになります。

オオナムチは大国主の別名です。出雲の神々は四国に入植した渡来氏族が奉斎していた神々で、畿内に移動して大和朝廷の基盤を作りましたが、政権闘争に敗れて出雲へと島流しになっています。前方後円墳の原型は、近畿地方に出現するより百年古い時代から四国で痕跡が認められます。また出雲の神々の信仰実績は四国から見つかっています。つまり、オオナムチは、明姫の日国への里帰りの託宣に従って、九州から四国にかけて入植した人々が奉斎していた蛇神の名残りです。

蛇信仰は纏向型祭祀(土坑祭祀)や東盟祭用の隧穴に棲む蛇から生じたもので、注連縄は雌雄一対の蛇の交尾を表したシンボルです。大地母神の多産の象徴であるホトを表しているのが隧穴で、トンカラリン遺跡などにも見ることが出来ます。天岩戸伝説も隧穴信仰から派生しています。鏡の光を当てると、天照大神がなんだろうと思って岩戸から出てきたエピソードがあります。これは、日矛鏡で陽光を反射して作った、太陽神の男性のシンボル(日矛)の光で、多産を祈願して大地母神のホトを突く神事が元になっている表現です。箸墓古墳のホトを箸(隧神の男性の象徴の木の棒)で突いたという伝承もこの系統です。天照大神が隧穴(天岩戸)から出たとき、再び入らないようにと注連縄を渡したことからも、隧穴とそこに棲む神遣の蛇への信仰の関係が見て取れますね。隧穴と一対の男神のシンボルとして蛇信仰が考えられることもあり、蛇神のオオナムチも古い隧穴信仰の名残りの一つなのです。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1097174915

148. 中川隆[-13621] koaQ7Jey 2018年11月24日 17:19:52 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21082] 報告

京都府北部、丹後半島の付け根にある天橋立は、日本三景の一つに数えられる観光の名所ですが、天橋立を渡ったところにある丹後一の宮、籠(この)神社はまた、古代史ファンにはよく知られた神社です。

 1975年、神社に代々極秘で伝えられていた系図が公表され、関係者の大きな注目を集めました。現存する日本最古の系図として、また、従来にない古代史の新史料として、思いがけないものだったからです。翌年にはさっそく国宝の指定を受けたのも異例のスピードでした。

 この系図には、なんと邪馬台国の女王、卑弥呼と思われる名前が記されています。最近、卑弥呼の墓の最有力候補として注目されている奈良県・纏向遺跡にある箸墓古墳、その被葬者とされる倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の名が載っているのです。

 系図によると、始祖の彦火明命(ひこほあかりのみこと)から9代目の孫のところに、「日女命(ひめのみこと)」と出てきます。この「日女命」の脇に、「またの名を倭迹迹日百襲姫命」、「またの名を神大市姫命」、「日神ともいう」などと記されています。

 「日神」とは、すごい呼び方です。太陽神のような扱いを受けた女性ということでしょうか。なんとなく卑弥呼を思わせるといってもいいでしょう。
 それに、「神大市姫命」の「大市」。これは『日本書紀』のなかで箸墓について、「倭迹迹日百襲姫が死んで、大市に葬る。時の人はこの墓を名づけて箸墓という」とある記述に完全に一致します。宮内庁による箸墓の呼び名「倭迹迹日百襲姫の大市墓」の「大市」です。

 どうやら、箸墓に葬られた百襲姫という女性は、丹後の籠神社の系図にある「日女命」と同一人物で、彼女が卑弥呼であるらしい。つまり、卑弥呼は「日女命」と考えてよいようです。

 この系図は、5世紀に丹波国造となった海部氏が、籠神社の神主となって代々伝えてきたものです。主祭神の彦火明命を丹波国造の祖として、以後、今日まで海部氏が代々続いており、現在は82代目の海部光彦さんです。

 「海部氏系図」と呼ばれるこの系図には、始祖の彦火明命についての驚くべき伝承も伝えています。

 彦火明命は、「天火明命(あまのほあかりのみこと)」、「饒速日命(にぎはやひのみこと)」など、いくつかの名前がありますが、天皇家の祖先と同じ天照大神の孫で、やはり天孫として天降っている。しかも、丹後に天降っているというのです。

 天孫降臨というと、普通、天皇家の祖先のニニギノミコトが九州の日向の高千穂に天降ったといわれますが、「海部氏系図」はもうひとつの天孫降臨伝説を伝えており、海部家と天皇家は同じ天照大神の孫で、兄弟の間柄になるようです。

 籠神社には、2000年間にわたり伝世されてきた息津鏡(おきつかがみ)、辺津鏡(へつかがみ)と呼ばれる秘蔵の鏡も2面あります。


息津鏡(下)と辺津鏡(上) (c)gakken

 ひとつ(辺津鏡)は、紀元前1世紀後半の前漢鏡(内行花文昭明鏡)、もうひとつ(息津鏡)は、紀元後1世紀の後漢鏡(長宜子孫内行花文鏡)です。

 前漢鏡の方は、近畿地方では出土例がまったくない貴重なものですし、後漢鏡の方も、近畿地方では破片で出ることはあっても、完全な形で出土したことはなく、やはり貴重な鏡といえます。

 驚くべき鏡が、代々神社の神宝(かんだから)として伝えられていたわけです。
 
では、なぜ卑弥呼の名が籠神社の系図のなかに残っているのでしょうか。それが謎です。

 籠神社のある丹後半島周辺は、不思議な伝説が多いところでもあります。

 『丹後国風土記逸文』には、このあたりの漁師の若者が竜宮城を訪れる話、つまり、有名な浦島太郎の伝説が残っています。ほかにも、羽衣を奪われた天女が天に帰れなくなるという羽衣伝説、さらに、天橋立はもともとイザナギ命が天から通ってくる梯子でしたが、神が地上で寝ている間に倒れて天橋立になった、という伝説もあります。いずれも、天上界や海の彼方にある別世界と交渉する内容をもっているのが特徴といえます。

 籠神社の名前の由来も、神代に彦火火出見命(ひこほほでみのみこと・彦火明命の別名)が籠船で龍宮に行ったとの伝説があり、そのために昔は籠宮(このみや)といったようです。
   


 丹後はこのように、どこか神話的な世界の残る地方でもあります。籠神社のある宮津市の「宮津」とは、大きな宮のそばにある港という意味です。むろん籠神社を指してのことです。天橋立はもともと籠神社の参道だったからです。 
http://www2.odn.ne.jp/~cic04500/index.html

149. 中川隆[-13624] koaQ7Jey 2018年11月24日 17:52:38 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21088] 報告

2008.9.28
邪馬台国の会 【特別講演会】 柳田康雄先生  伊都国と邪馬台国
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

1.伊都国と邪馬台国  柳田康雄先生

私は伊都国とは深い関わりがある。平原遺跡を始め数多くの遺跡の発掘に携わり、平原遺跡の巨大鏡を始め120枚以上の鏡を発掘した。

平原遺跡については発掘後20年以上になるが、ようやく報告書を刊行することができた。

今日は、これらの経験を踏まえて、邪馬台国に入る直前までの北部九州(福岡、佐賀)の状況について解説する。

■ 弥生時代のクニと国の出現

弥生時代の集落を村とすると、それを束ねているのを考古学で、カタカナで「クニ」 という。そして、この「クニ」が「国」に発展する。

現在、発掘が進んでいる早良(さわら)平野に、弥生中期の初め(紀元前200年前後)に 出現した遺跡があり、朝鮮半島の青銅器がはじめて副葬品として現れる。

そのなかの吉武高木遺跡は青銅器が副葬される率が高い。なかには、1人で銅剣、銅戈4本を持ち、小さいが「多鈕細文鏡」という鏡を持ち、勾玉を持つものがある。

銅剣を1本もっている集落が周辺にいくつか散らばっている。 この地域ではこのような銅剣は合計15〜16本出ているので、これは、吉武高木遺跡を中心に付近の村を統率した「クニ」が出現していたと考える。

弥生時代初期からある板付遺跡は福岡平野の拠点集落であるが、ここには弥生中期の初めに銅剣、銅矛7本が出てくる墳墓が出現する。しかし福岡平野の他の地域からは出てこない。

少し後の弥生中期の中ごろ以後、春日平野の須玖岡本遺跡に青銅器が集中する。青銅器を作る工房も集中する。ここでは銅鏡30枚、銅剣、銅矛が8〜10個出土した甕棺が出現する。

福岡平野は、中期のはじめから前半は板付遺跡中心に発展するが、中頃をすぎるとすべてが須玖岡本遺跡に集中する。 博多駅の近くの比恵から、那珂を経て春日市の須玖遺跡に至るそれぞれ100ヘクタール級の広さの地域に遺跡が途切れなく存在する。

発掘は大字、小字ごとにやっているので、その単位で遺跡の名前が付けられているが、この地域の遺跡は連続した遺跡であり、環濠を設けることなしに繋がっている。

30ヘクタールほどの吉野ヶ里が最大の環濠集落といわれているが、伊都国では三雲地域を発掘した時にすでに40ヘクタールの広さがあり、井原鑓溝遺跡の調査で、60ヘクタールにもなる遺跡であることがわかった。考古学では環濠集落でないと拠点集落と言わない風潮があるのはおかしい。

須玖岡本遺跡はわずかな丘陵にはいるので、平野に面したところだけに環濠がある。環濠の内側の春日丘陵の地域は100ヘクタール以上にもなる一つの単位集落と思われる。

比恵那珂遺跡は弥生終末には、側溝を持つ幅6〜7mの縦貫道路遺溝が出てくる。比恵遺跡では幅20mの運河が出てくる。

吉野ヶ里、池上曽根、唐子鍵を取り上げて弥生都市について議論されることがあるが、この地域の遺跡と比べるとこれらの遺跡は規模が小さく、どんぐりの背比べである。

弥生中期の段階で首長墓が出てくる。弥生中期の終わりに、いままでは朝鮮半島との 交流ばかりであったが、福岡平野の首長墓から中国の鏡が出てくる。

これは全部前漢時代の 鏡である。三雲南小路遺跡からは1号甕棺と2号甕棺の合計で57枚の前漢鏡が出土した。

三雲南小路の1号甕棺は、金銅製の埋葬用の飾り金具(下図の8)が発見されている。これは、皇帝が王侯クラスに下げ渡した物で、1号甕棺が王墓であることを示している。


2号甕棺は22枚の小型鏡が出ているが、ペンダントや勾玉が多数出ていることや、武器がないことから女性の墓と考えられている。

なお、昔に発掘されたもので、金ぴかなものなど価値のありそうなものは持ち去られたりして申告されていない可能性がある。 このようなことも考慮しないと、出土物についての研究では誤る可能性がある。

井原鑓溝遺跡は江戸時代に発掘され、鏡の鈕が21個あったことから少なくとも21面の鏡があったとされる。鉄刀や鉄の鎧なども発見されていることから王墓級の墓である。ただし、大型鏡がない。


最近の発掘では、井原鑓溝遺跡から割竹型の木棺墓が発見され鏡やガラス玉が多数出土している。割竹型木棺は4世紀の前期古墳からしか出ないと言われていたが、伊都国では弥生時代後期のはじめから出る。

九州では甕棺が注目されるが、甕棺と同時に木棺がある。大阪の場合は河内湖があって、木材が水に浸かって残るので発見しやすい。しかし九州では大地の中だと木棺が腐ってしまうので発見しにくい。しかし、最近は技術の進歩で木棺が分かるようになった。

このように、弥生中期後半から後期の初めにかけて、北部九州は鏡をはじめとした副葬品をもった墳墓が大量に増える。しかしそれは伊都国だけである。福岡の奴国と言われているところからはほとんど出て来ない。

後漢からもらった金印が志賀島から出土したが、委奴国と彫られた金印の文字を「倭の奴国」と読んで福岡平野の国とすると、鏡が奴国から大量に出ないのはおかしい。金印の読み方はいくつか提案されているが、「倭の奴国」とは読まないのではないか。

吉野ヶ里からは鏡のかけらは出てくるが鏡が出て来ない。吉野ヶ里は福岡に持ってくれば普通の遺跡。福岡では土地の値段が高いので吉野ヶ里のような大規模な発掘はできないのが残念。現在の吉野ヶ里は宣伝などで過大に評価されている。そのため考古学者はそっぽを向いている。

■ 平原遺跡

平原遺跡の1号墓は王墓である。寺沢薫氏などの近畿の一部の考古学者も王墓と認めるようになった。

王墓もランクがある。鏡の大小や数だけでなく、いろいろな要素で決まる。

王墓には鏡がなければいけない。4世紀までの初期の前方後円墳の副葬品は鏡が主体である。

鏡を副葬品の主体とする墳墓は、弥生時代では三雲南小路遺跡と須玖岡本遺跡、平原遺跡だけである。

棺の主軸近くにある柱跡と、少し離れたところにある大柱の跡を結ぶ線を延長すると、日向(ひなた)峠に向かっている。

10月20日ごろの収穫の時期に日向峠から日が昇るので、何か関係があるかも知れない。

墓には長さ3mの刳抜式木棺があり、大量の朱が蒔かれていた。

頭と足の付近で大量に見つかった鏡の破片のうち、頭付近の破片は全て元の鏡に復元できた。

墓坑のコーナに柱穴の跡があり、木槨があった可能性がある。ホケノ山古墳と同じよう、副葬品は木槨の上から落ちてきているように見える。

出土した前漢鏡(上図左)は直径16センチもあり、この型式の鏡としては中国でもトップクラスのもので、楽浪郡でも見つかっていない。平原の王が中国の外臣の中でも上位として扱われた証拠であろう。

この鏡は、カドが丸くなっていて、周りがすり減っている。前漢末に作られたものが、平原の王の時代まで伝世されたものと思われる。

また、直径21センチの方格規矩四神鏡(上図右)は、京都大学の岡村秀典氏の編年では、漢鏡4期から5期の鏡で、1世紀前半から中頃のものとされる。

しかし、後漢の始めの鏡とすると、銘文は鏡の上から始まるのだが、この鏡では下側から始まっているのはおかしい。

また、後漢の鏡では四の文字を横棒四本で現すのが特徴であるのに、ここでは四の文字を用いている。

つまり、この鏡は岡村氏の言うような中国の鏡ではなく、日本で作られた製鏡である。

平原からは40枚の鏡が出土しているが、直径46.5cmの超大型内向花文鏡や、直径27cmの内向花文鏡も中国にはなく、製鏡と思われる。

平原王墓から、楽浪郡などでも出土するガラス耳(じとう:ピアス)が出てくる。

耳は女性の墓からしか出ないので、平原王墓の被葬者は女性であると判断できる。

耳は時代が降るに従って端部の広がりが少なくなり管玉のようになる。

平原出土の耳は端部の広がりがほとんど無く、後漢の終わり頃のものと考えられている。発掘主任の原田大六氏はこれを琥珀の管玉としていた。

平原王墓からは、ガラス連玉、ガラス小玉、細型ガラス管などが多数出てくる。

右図上段左の連玉は直径5ミリ長さ2センチほどのものだが、高度な技術で作られており、内側は薄い空色で外側が紺色の二重構造になっている。

平原王墓を始め伊都国の地域からは、加工途中のものを含め大量のガラス玉や小玉が出てきており、この地域が高い技術でガラス飾りや玉を製作していたことがわかる。

三雲の弥生終末の遺跡からファイアンス(ガラスの釉薬をかけた焼きもの)が出てきている。

ファイアンスは地中海地域が起源で、エジプト・メソポタミアや中国にもあるので、海のシルクロード経由で南方からもたらされた物である。

伊都国地域のガラス玉の技術も南方から海を経由して入ってきたものであろう。

■ 弥生終末から古墳時代

福岡市の那珂八幡古墳は九州で最も古い時期の前方後円墳である。前方部がやや長めだがその形から纏向型前方後円墳であろう。

このような古墳は小さいものを含め、福岡県には多数あるが、唐津を除くと佐賀県にはない。

弥生時代の福岡県の王墓・首長墓を、副葬品の数などの要素から5段階のランクを付けて表に整理してみた。

この表を見ると弥生後期では圧倒的に伊都国の地域に権力が集中していることがわかる。

北部九州の地域では、弥生王墓から初期の前方後円墳に権力が繋がっているのである。

近畿地方でもこのような表を作って検討して欲しい。近畿で前方後円墳が発生したとするなら、福岡地域のように弥生時代から繋がっていないとおかしい。

近畿地方の前方後円墳は、主体部の構造や副葬品については九州の影響を受け、円形に突出部がでた輪郭のデザインは吉備から東瀬戸内の要素である。

近畿の古墳は、独自に発展したものではなく、これらの地域の影響を受けて出来たものである。

弥生終末と古墳出現の時期はAD200年頃と考える。卑弥呼は2世紀の終わりごろ共立されたとすれば、その墓は古墳が出現した近畿の大和であり、卑弥呼の邪馬台国は古墳時代の近畿の大和にあったと考えられる。

考古学者の中には、邪馬台国は弥生時代にあったと考える人がいる。邪馬台国が弥生時代から存在したとすれば、首長墓のある伊都国しかその候補はない。

平原が卑弥呼の墓ではないかという話があるが、そうは考えていない。平原の被葬者は卑弥呼と親子関係なのではないか。


2.柳田先生の論点                             安本美典先生

邪馬台国論争そのものは、いずれ別の機会に行いたいと思うので、今回は論点の整理をしてみたい。

■ 考えの一致する部分と異なる部分

柳田先生は著書『伊都国を掘る』のなかで、原田大六氏の発言を引用して「考古学的事象は日本の原始・古代に関するかぎり、古事記や日本書紀の「神代」神話をさけて通ることは出来ない。」と述べているが、これについてはまったく同感である。

また、「これまで、多くの研究者が平原王墓を無視してきたが、そのために邪馬台国問題や古代国家形成で避けて通れない古墳出現期の諸問題の研究に多くの時間がかかった。今後は、古墳出現期の研究に対して、平原王墓を正面から評価し、その研究に取り組んで欲しい。」とする考えについても賛成である。

邪馬台国に関連する部分では、柳田先生の考えは「伊都国東遷説」ともいえるような内容である。すなわち、邪馬台国は大和朝廷の一時期の姿であり、大和朝廷は九州で発生し、邪馬台国時代以前に畿内に移ったと考えておられる。邪馬台国は畿内にあったことになる。

いっぽう、安本先生は、九州勢力が畿内に移ったのは邪馬台国時代の後であり、邪馬台国は九州にあったとする。

北九州勢力が畿内に移ったとする点では、柳田先生と安本先生の考えは同じであり、中山平次郎や和辻哲郎が述べていた「北九州の弥生文化と大和の古墳文化の連続性」や「大和の弥生文化を代表する銅鐸と、古墳文化の非連続性」は、このような考えと整合するものである。

骨組みの所で意見が異なるのは、北九州勢力が近畿地方に移動する時期の違いである。

■ 洛陽焼溝漢墓出土鏡の時期について

洛陽の焼溝漢墓の鏡の年代の、日本での紹介のされ方がおかしい。洛陽焼溝漢墓の鏡の年代は平原遺跡の年代にも関係する重要なことである。

下表は、奥野正男氏の『内行花文鏡とその製鏡』(季刊邪馬台国32号)による。ただし、後漢晩期の年代幅は、もとの報告書に基づき安本先生が訂正。

平原遺跡から、長宣子孫内行花文鏡が出土している。長宣子孫鏡は、焼溝漢墓では、第六期に最も多く出土する鏡である。

奥野氏は、第六期を後漢晩期として、後147〜160という年代幅を与えていたが、もとの報告書では、西暦190年の年号が記された入れ物から第六期の鏡が出土した記録があり、第六期は少なくとも190年まで時代を広げるべきである。

柳田先生は、平原遺跡を西暦200年ごろと見ておられるので、長宣子孫鏡が洛陽で190年ごろに使用されていたことと年代的には整合することになり、平原の年代についての柳田先生の見解に納得できる。

ところが、京都大学の岡村秀典氏は、平原遺跡でも出土した長宣子孫鏡を漢鏡5期とし、紀元75年頃の鏡としている。平原を200年ごろとする柳田先生とは、100年以上年代が異なっているのはおかしなことである。


3.対談                         柳田康雄先生 VS 安本美典先生

■ 平原遺跡について

安本: 副葬品から考えると平原遺跡を卑弥呼の墓と考えてもおかしくない。しかし、『魏志倭人伝』には、卑弥呼の墓は径100余歩と記されている。魏の尺度では100余歩は100m以上になるが、平原遺跡全体に土を持った墳丘としたとき100m以上になる可能性はあるのか?

柳田: 14m×10mくらいの方形周溝で区切られているので、まったく無理である。周溝があると言うことは、掘った土を盛り上げるので、もともとは墳丘があったはずだが、100m以上にはなり得ない。

安本:女性の墓か?

柳田: 弥生時代で一番大きな素環刀太刀が出てきているが、女性の墓からしか出土しない耳(じとう:ピアス)が出土しており、女性に間違いない。

また、女性の墓とされている三雲南小路2号墳と同じように、小型の鏡に色を付けて模様を塗り分けていることからも女性の墓といえる。

■ 三角縁神獣鏡と庄内式土器の初現

安本:柳田先生の著書に「現在のところ布留式土器より古い土器が伴い、確実に質のよい三角縁神獣鏡を副葬しているのは九州の前方後円(方)墳のみである。」という文章がある。これを素直に理解すれば、三角縁神獣鏡が出てくるのは、畿内より、九州の方が早いということになるが・・?

柳田: 土器で見ると、庄内式土器の一番新しい物と三角縁神獣鏡がいっしょに出るので、三角縁神獣鏡は九州の方が先に出現したといえる。

■ 庄内式土器

安本: 庄内式土器が畿内で発生したことを疑っている。九州の方が早いのではないか?

柳田: 庄内式土器は圧倒的な量が近畿から出る。古い庄内式土器は九州では少ないが三雲遺跡で若干出てくる。しかし、近畿の人はこれを新しいと言う。私も土器の編年についてはみっちりやってきたがどこが新しいというのか良く判らない。私が見ると古いのもあるのだが数は圧倒的にすくないのは確か。

庄内以前の土器は単体で九州に流れてくるが、庄内式土器からは高坏や壺がセットで出現する。ここに大きな違いがあるので庄内式土器から古墳時代に移る。

九州の古墳では、那珂八幡古墳などから庄内式土器の新しい物は出てくるが、古いものは出ない。しかし、近畿と違って、庄内式土器の新しいものと三角縁神獣鏡がいっしょに出てくる。

■ ホケノ山古墳

安本:庄内式土器や画文帯神獣鏡を出土したホケノ山古墳から、布留T式相当の小型丸底土器がでている。柳田先生も、土器の底部の形態変化は平底→凸レンズ状平底→とがり気味丸底→丸底という変化の方向であることを述べておられる。従って、小型丸底土器を出土するこの古墳は、かなり新しいのではないか?

『ホケノ山古墳調査概報』には、布留式相当の小型丸底土器と庄内式土器が同時期に使用された可能性が高いと記されている。そうすると、ホケノ山の庄内式土器の年代は、かなり新しい布留式土器の時代になるのではないか。

柳田: 当事者ではないので、確定的なことを言えない。一時、ホケノ山古墳は新しい布留式土器の時代との話もあったが、今年の2月の勉強会では、また古いとされているようである。

一般的に言えば、古い土器と新しい土器がいっしょに出たら新しい土器で年代を考えるのだが、発掘担当者などによる最近の勉強会では、ホケノ山のものは布留式土器の古いものが見つかったと解釈しているようである。

また、見つかった銅鏃は、普通にみれば布留式土器に伴う銅鏃であるが、これも、古い銅鏃という解釈をしているようだ。報告書をまとめる人たちは、古墳の年代を3世紀なかごろ以前と考えているようだ。

■ 伊都国と女王国の位置関係

安本: 『魏志倭人伝』には、女王国は伊都国の南にあることが、3回も書かれている。伊都国が糸島半島の国だとすると、その南の筑後平野は女王国の有力な候補であり、甘木や朝倉地域を邪馬台国の有力候補と考えている。

ところが、柳田先生の資料に「佐賀平野・筑後平野・筑豊地域などは邪馬台国の候補地どころか卑弥呼を共立した国にも含まれない」と書かれているので、甘木や朝倉は候補地ではないのか?

柳田: 考古学の立場で考えているので、初期の前方後円墳が出現していて、三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡が出ているところは候補地になる。

大願寺方形周溝墓、神蔵(かんのくら)古墳のある甘木・朝倉地域は、初期の前方後円墳が出現しているし三角縁神獣鏡も出ているので、候補地に含まれる。

文献学者は安本先生のような見方をする九州説の人が多いが、朝倉以南の筑後平野では、前方後円墳から三角縁神獣鏡やそれ以前の鏡を出すところがないので、この地域が女王国だということは考古学的には証明出来ない。

■ 三種の神器

安本: 三種の神器が出てくる遺跡は須玖岡本遺跡、平原遺跡、三雲遺跡と言われたが、 すぐ南の東小田峰遺跡から璧がでているので、璧を玉と考え、剣、鏡も出土しているので、 三種の神器が出ているといえるのではないか?

柳田: 玉というのは勾玉ではないのか?

安本:璧という字は下に玉がついているので・・・

柳田:ははは、それなら認めます。(^_^)

璧を持っている三雲南小路や須玖岡本は最高ランクであるが、かけらを加工したものがその次に準じると國學院雑誌にはっきり書いた。

東小田峰遺跡では4分割以上したものを丸く再加工して璧に見せようとしている。更に璧のかけらを再加工して勾玉に見せようとしたものもあるので、東小田峰遺跡の例も勾玉と同レベルと考えて良い。
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

150. 中川隆[-13636] koaQ7Jey 2018年11月25日 20:14:31 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21127] 報告

邪馬台国時代のすずり5個出土 交易でも文字使用か 福岡市・西新町遺跡
2018年11月23日 06時00分

 邪馬台国の時期と重なる古墳時代前期(3世紀半ば〜後半)に使用されたとみられるすずり5個が福岡市早良区の西新町遺跡から出土していたことが、柳田康雄・国学院大客員教授の調査で分かった。一つの遺跡から5個確認されたのは最多。同遺跡は王都のような政治的拠点ではなく、交易拠点だったと考えられており、まとまった数のすずりは、古代社会の経済活動でも広く文字が使われた可能性を示している。

 弥生時代から古墳時代前期のすずりは、北部九州ではこれまで8個が見つかっていた。各地域の中心とみられる場所からの出土が多く、「王」などの権力者周辺による文字使用が想定されていた。西新町遺跡は中国の歴史書「魏志倭人伝」に出てくる「伊都国」と「奴国」の中間に当たり、古墳時代前期に朝鮮半島や日本各地から多数の土器がもたらされるようになり、倭の貿易港として急激に成長したと考えられている。

 5個のすずりは2007年度までの調査で発掘され、砥石(といし)などとみられていた。柳田教授が他の遺跡の出土品と比較し、形状などからすずりと判断した。長方形の完全な形に近い状態のものが1個(長さ約10・4センチ)で破片が4個。いずれも厚さは0・5センチ前後で、破片も含めて両辺が確認できるものは幅が約4・4〜5・4センチ。3個には朱を使った跡があるという。

 西谷正・九州大名誉教授(考古学)は「政治だけでなく経済でも文字が使われていた可能性が高まり、日本の文字文化の始まりを考える上で興味深い」と評価。柳田教授は「交易で普通に文字を使っていたと考えられる。他の遺跡の出土品を見直せば、もっと見つかるかもしれない」と話している。

=2018/11/23付 西日本新聞朝刊=
https://www.nishinippon.co.jp/nnp/culture/article/467782/


北九州の くに では漢文で朝鮮の人間とコミュニケートして、中国製の鏡を太陽神として崇拝していたという事ですね。

つまり、北九州の くに というのは朝鮮との貿易拠点で、倭人用の市場だったという事ですね。

当然、くに の人間は華僑か漢民族系朝鮮人でしょう。

151. 中川隆[-13632] koaQ7Jey 2018年11月26日 11:21:57 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21142] 報告


畿内は朝鮮からの渡来人に完全に乗っ取られた


埴原和郎 東京大学・国際日本文化研究センター各名誉教授

私どもが行った現代日本人頭骨の分析からみても、近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近いという意味で“特殊な日本人”ともいえる。

その理由は、この地方で渡来系集団の影響がきわめて濃厚であるためと
想像されるが、このような傾向は、すでに古墳時代に現れていたといえる。

時代はやや下がるが、平安時代に編纂された『新撰姓氏録』によると、
畿内の氏族一一八二氏のうち、ほぼ三分の一が渡来系の氏族といわれる。
とくに新羅系の秦氏、百済系の漢氏、高句麗系の高麗氏などは
代表的な氏族で、ともに畿内を中心として、ほぼ全国に拡散した。

この他、日本書紀や続日本紀などにある渡来人の歴史をみれば、
近畿地方に渡来系の特徴が濃厚に残っていることは当然ともいえる。
そして人骨の研究からこれが裏付けられることは、日本人および
日本歴史を考えるうえできわめて重要である。


▲△▽▼


小浜基次「形質人類学から見た日本の東と西」
『国文学の解釈と鑑賞』二八巻五号

畿内型は西日本の畿内を中心として、瀬戸内海沿岸を経て、朝鮮につらなり、
東北・裏日本型は東日本より裏日本に広がり、西日本では、畿内型の周辺を
とりかこんでいる。西日本の離島には代表的な東日本型形質が残されている。

このような両型の地理的分布によつて、集団の移動を推定すると、はじめに、
東北・裏日本型集団が広く日本全土に先住し、のちに、畿内型集団が朝鮮半
島より渡来し、瀬戸内海沿岸を通つて、畿内に集中し、その一部はさらに、
東進したものであろう。古代の高い文化が、畿内を中心として栄えた史実に
一致することは興味深い(以上、75頁)

(追加)形質人類学的にみた未解放部落

われわれの全国的な日本人調査のうちには、未開放部落もふくまれ、その調
査地区は近畿、山陽、九州、四国に散在する四七部落にわたつている。

(中略)

身長は一般に低身であるが、部落の生活環境によつては、長身の集団もある。
頭部については、いずれの地区も共通の中頭型を示し、頭長は大きく、頭幅
は小さい。したがつて、畿内のような高度の短頭地区内にはさまつた部落は、
一般集団との間に明らかな差異が認められる。しかし、山陰、北九州、四国
東北部などの中頭地区内にある部落は、一般集団と近似し、差異は少ない。

畿内地区における両集団の差異は畿内人と山陰人とのちがいにすぎないので
ある。そのほかの形質、たとえば、頭頂高指数や頭部の測度、指数などにつ
いても、部落はまつたく東北・裏日本型に類似している。

大陸朝鮮型形質のもつとも濃厚な畿内地区に、もつとも非朝鮮的な形質を持
つ東北・裏日本型の部落が孤島として介在することは、注目に値する。おそ
らくは、婚姻と住居の制限によつて内婚率が高く、特異の形質がよく保たれ
ているものと思われる。このような部落の成因については、文化史その他の
分野より検討せらるべき課題であろう。(成績はいずれも男子資料による)
(大阪大学医学部教授)


▲△▽▼

網野善彦 『宮本常一「忘れられた日本人」を読む』 岩波現代文庫

私がこの『東日本と西日本』を読んで、とくに衝撃をうけた記憶がはっきりとあるのは、小浜基次さんの論文でした。

小浜さんは大阪大学の名誉教授で、形質人類学・解剖学の専門家、1904年に生まれ、1970年に亡くなっておられます。

この文章は短いものですが、小浜さんは形質人類学の立場から日本列島の、
東と西に住む人びとの差異をいろいろな角度から指摘しておられます。

その中で私がもっともショックを受けたのは、朝鮮半島人と、近畿、瀬戸内海沿岸の人びとがきわめてよく似ており、
形質上は同じであると指摘されている点です。

そしてそれに対して、山陰・北陸と東北の人びとと近畿人との差異は、朝鮮半島人と近畿人の違いに比べて、
はるかに大きく、東北、北陸の人びとはむしろアイヌに近いと小浜さんは強調しておられます。

これは頭部の特性、短頭、中頭、長頭をはじめ、身体的な特質から導き出された結論ですが、
さらに衝撃だったのは小浜さんの、被差別部落に踏み込んだ発言でした。

小浜さんは大阪大学の方ですから、ここまで立ち入っておられるのですが、この論文の書かれた時期には、
被差別部落民は朝鮮半島から渡ってきた人たちだというとらえ方をする人たちが、実際に関西では少なからずあったと思います。

これに対して、小浜さんはとんでもない誤りで、むしろ部落を差別している人びとの方が朝鮮半島人にそっくりで、
差別されている被差別部落の人びとは、東日本人、東北北陸型の人びととむしろ形質上はよく似ているとされています。

小浜さんは被差別部落の人びとが朝鮮半島からきたなどということはまったくの誤りだと強調されているのです。


▲△▽▼


生体の頭長幅指数分布の分布図
http://i.imgur.com/RXXfQ0q.gif

最初は、化石でなく生体の頭長幅指数分布の分布図である。

頭長幅指数とは上から見た頭骨について長さに対する幅の百分比であり、値が大きいほど短頭である(丸い頭である)ことを示す。

この場合、朝鮮半島と同様に九州から中四国、近畿そして関東にかけて、短頭の地域が分布している。

 日本学術会議の研究班は1949年から4年をかけ全国5万6千人を対象に日本人の生体を計測した。

小浜基次はこの結果の地方差から東北・裏日本型と畿内型に分類し、
「その2つの型の分布状況を歴史的に解釈すると、まず、アイヌ系の東北型が広く日本に分布していた。

その後、朝鮮半島から朝鮮系が渡来し、畿内、瀬戸内に本拠をしめ、一部は東進して南関東に達した。

この畿内型の周縁や西日本の離島に東北型がのこっているのも、先住民であったからであろうといっている。

上田常吉はこの後来の朝鮮系が弥生文化をもたらしたと解釈した。」
(樋口隆康「日本人はどこから来たか」講談社現代新書、1971年)

▼各地の男性頭骨の弥生・縄文判別関数値

(池田次郎・京都大学名誉教授による)※数値が高いほど朝鮮に近い

+2.12…畿内 ←★ (アッ…
+1.08…四国
+0.76…東中国
+0.70…西中国、北東九州
+0.51…関東、東北
+0.40…北陸
-0.87…西九州、南東九州


▼手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との遺伝的距離

(山口敏『日本人の顔と身体』より)

0.000…朝鮮半島
0.007…近畿地方
- - - - - - - - - - -  日本と朝鮮の境界
0.012…中部地方
0.035…中国地方
0.035…九州地方
0.038…四国地方
0.048…関東地方
0.068…東北地方
0.092…南西諸島


▽分離型耳垂(福耳)の出現率(兵庫医大・欠田名誉教授)

アイヌ 96.2%
奄美諸島 77.24%
新潟県 72.8%
山形県 70.5%
青森県 63.3%
三重県 60.4%
- - - - - - - - - - -  日本と朝鮮の境界
山口県 36.88%
京都府 36.6%
朝鮮半島 32.6%


▲△▽▼


▼梅原猛(愛知県出身・京都在住の哲学者)
『近畿人は日本人全体からかけ離れて朝鮮人に近い。東大の埴原和郎先生は近畿人は日本人じゃないと言うんだ』

▼中上健次(和歌山県出身・作家)
『大阪はね、ほとんど韓国と一緒の土地だと思うんです。着るものとか街並みだとか、ものすごく韓国に似てますね』

▼国民百科事典(平凡社)
『近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する』

▼池田次郎(京都大学名誉教授・自然人類学)
『畿内人は韓国朝鮮人と同じグループに属し、日本人から最も離れている』

▼レヴィン(旧ソ連の人類学者)
『シベリア抑留者1万人を調査した結果、近畿人は朝鮮人とほぼ同じだが、東西へ向かうに従い日本人となっていく』

▼岩本光雄(京都大学名誉教授・霊長学)
『畿内人と大陸人、とりわけ朝鮮人は人種的につながっている』

▼埴原和郎(東京大学名誉教授・自然人類学)
『近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近く、日本人からは外れている』

▼関晃(東北大学名誉教授・熊本県出身)
『帰化人たちは、ほとんど全部が大阪京都奈良に根を下ろしたといってよい』

▼松村博文(札幌医科大学准教授・解剖学)
『畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。朝鮮半島の人々も畿内人と同じようだとわかりました』

▼欠田早苗(兵庫医科大学名誉教授・解剖学)
『大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い』

▼ハシゲ徹(大阪民國総統)
『大阪の人たちは韓国人と非常によく似ている』

▼網野善彦(山梨県出身・歴史学者)
『以前サントリーの会長が東北には未開なクマソが住んでると言って問題になりましたが、あれは関西人の発想です』

▼戸田恵梨香(神戸市出身・女優)
『神戸って大阪と一緒にされるの凄い嫌なんですよね〜大阪は下品!汚い!』

▼堤真一(西宮市出身・俳優)
『兵庫は大阪と違って洗練された町なんで』

▼森喜朗(石川県出身・元首相)
『大阪は日本のタンツボ』

▼ローラ(東京都出身・モデル)
『アニョハセヨは関西弁』

▼吉田定房(公卿、14世紀)
『赤ん坊級に弱い関西人が一騎当千の鎌倉武士に勝つなんて無理ゲー』

▼人国記(戦国時代の地誌、16世紀)
『関西侍は弱兵、卑劣、欲心深く、狐が服を着てるだけ』

▼武田信玄(戦国最強の将、16世紀)
『関西人は義理も作法も知らず、自分さえ助かればどんな卑怯もする』

▼甲陽軍鑑(甲斐武田の軍学書、17世紀)
『関西侍どもはあまりにも弱すぎる。そこいらの町人レベル』

▼雑兵物語(江戸時代の兵法書、17世紀)
『関西侍は馬にも乗れねえ屁っぴりだんべい』

▼葉隠(佐賀鍋島藩の武士道書、18世紀)
『関西侍は卑怯者だらけ。真似するなよ』

▼薩摩兵(西南戦争の頃、19世紀)
『またも負けたか八連隊(=大阪兵)、それでは勲章くれんたい(=京都兵)』

▼全国体力テスト(文部科学省、21世紀)
『大阪男子の体力は47位で全国ビリ、学力は45位』

▼向江松雄さん(鹿児島歩兵第145連隊)
『大阪なんかな、「またも負けたか8連隊」ち、大阪なんか言いおったっじゃっどんな』

▼古瀬正行さん(久留米第18師団)
『大阪とか京都の兵隊は途中で会ったけどその場でビンタですよ。「こん、ばかたれが」っていうような状態だったですからね、うん』

▼坂本芳次さん(自動車第34連隊)
『うちの部隊にも何名か大阪人がいましたよ。もうこんな「ぜえろく」っていってみんなから蹴飛ばされてたけどね』

▼田辺聖子(大阪府出身・作家)
『浪速の男どもはみな争いごと好まず、膂力(腕力)にも乏しい』

▼司馬遼太郎(大阪府出身・作家)
『大阪兵は日本最弱。上方者が兵にむかないのは当然なこと』

▼樋口清之(奈良県出身・考古学者)
『平安末期の関西人は、本当に男でも女のような体質ですね。肉体的鍛錬をしませんと関節が小さいんです』


▲△▽▼

道府県別朝鮮人人口(1940年) 
典拠:内務省警保局『社会運動の状況』、総理府統計局『国勢調査報告』

01 大阪312,269
02 福岡116,864
03 兵庫115,154
04 東京87,497
05 愛知77,951
06 山口72,700
07 京都67,698
08 北海道38,273
09 広島38,221
10 神奈川24,842
11 岐阜20,093
12 長崎18,144
13 静岡15,726
14 岡山11,887
15 福井11,725
16 三重11,660
17 和歌山11,298
18 山梨9,514
19 奈良9,232
20 佐賀8,693
  長野8,152
  大分8,046
  滋賀7,792
  島根7,146
  熊本5,699
  福島5,549
  愛媛5,506
  宮崎5,476
  石川5,169
  千葉4,886
  埼玉4,884
  群馬4,544
  新潟4,365
  茨城3,877
  富山3,876
  高知3,744
  岩手3,721
  鹿児島3,220
  鳥取2,678
  香川2,214
  青森2,175
  栃木2,091
  宮城2,015
  秋田1,678
  徳島1,343
  山形1,048
  沖縄109

▲△▽▼


【難波=朝鮮】

摂津の地域では、難波の地にあたる東生(成)、西成の両郡に吉志系の氏族と三宅忌寸とが居住していたことが知られる。

東生郡では難波忌寸・日下部忌寸、西成郡では吉士・三宅忌寸が、それぞれの郡の郡領をつとめる有力氏族であったのであろう。

吉士は朝鮮語の首長を意味する語に由来し、新羅では官位十七等の十四位の称にも用いられており、これを氏姓とする氏族の実体は渡来系氏族であると思われる。
『日本書紀』によると、難波忌寸がもとは草香部吉士であることが知られる。
(『大阪府史』)

【浪花っ子=朝鮮人】

高権三『大阪と半島人』(1938年)より

・大阪の半島人は平壌人口よりも多い。
・大阪の浪波子には朝鮮の人の血を受けていないものは、殆どない。
・大阪の何処の通りに行っても、何処のデパートに於ても、朝鮮服の女の姿の見受けられぬところはない。

▽大阪=ヤクザ
関西に暴力団が10人おったらそのうち9人はマイノリティ(『グリコ・森永事件 最重要参考人M』宮崎学・大谷昭宏)

約65万人といわれる在日朝鮮人のうち約50%が兵庫・大阪・京都に集中していることと山口組の発展は決して無関係ではなく、
山口組は部落差別や在日朝鮮人差別の問題をなしにしては語れない(『文藝春秋』昭和59年11月号)

▽大阪=部落
部落民の分布は、穢多の水上と称せられる近畿地方を中心として最も多い。大阪西浜は、全国の中心をなすほどの大部落である。
(『被差別部落一千年史』高橋貞樹・大分県出身)

被差別部落の人口数からいうと、近畿が半数の50%を占め、九州、中国、四国がそれぞれ12%前後、関東、中部となると5%前後となっています。
(『被差別部落の歴史』原田伴彦・佐賀県出身)

▽大阪=在日
いま在日韓国・朝鮮人は67万人だが、うち半数が関西に住む。大阪府下は18万人で実に全国の3割に近い
(大谷晃一・帝塚山学院大学学長)

関西の3府県で韓国・朝鮮籍の永住者が全国の約5割を占める。
(仲尾宏・京都造形芸術大学客員教授)

▽大阪=ヘタレ
大阪の剣術は日本一レベル低い
→鎌倉〜幕末の大阪府下三カ国で名の知れた剣豪は一人も居ない

大阪の侍は日本一弱い
→信州長野の人国記によると大阪武士は詐欺師まがいの狐侍と酷評されている

大阪に武士道などない
→佐賀の葉隠に上方武士は打算で動く卑怯者とある

▽大阪=帰化人
→近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する(国民百科事典・平凡社)

→大阪を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い(欠田早苗・兵庫医科大学名誉教授)

→朝鮮系の土器の列島内における分布は、畿内の河内、大和にとりわけ多い(『アジアからみた古代日本』)

→河内国(大阪府)は列島随一の渡来人(朝鮮半島)の集住地域(熊谷公男・東北学院大学教授)

152. 中川隆[-13631] koaQ7Jey 2018年11月26日 14:28:35 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21145] 報告

耳かきで分かるあなたの先祖 意外な勢力図 2011/1/21
https://style.nikkei.com/article/DGXBZO21914010Z10C11A1000000

人間の耳あかは、各自の体質(遺伝子)によって、乾いて粉状になる乾型(カサカサ)と、松ヤニのように粘り気のある湿型(ネバネバ)の2種類に分かれる。通常、耳そうじをする際、カサカサな人は小さなスプーンのような形をした「耳かき」を使い、ネバネバな人は「綿棒」を使う。ところが、こんな奇妙な話を耳にした。

「日本ではおなじみのあの『耳かき』が、海外ではほとんど見かけない」というのだ。耳そうじがしたくても、現地のホテルや店に「耳かき」が見当たらず、困った経験をした人も多いらしい。

どうしてなのか?

不思議に思って、耳あかの種類を決める遺伝子を発見した北海道医療大学の新川詔夫学長に取材してみた。

「実は日本では7割から8割までがカサカサな乾型なんです。逆に、欧米ではネバネバな湿型がほとんどで乾型はあまり見られない」。新川さんはこんな“逆転現象”があると教えてくれた。そのため、日本では「耳かき派」が主流で、海外では「綿棒派」が主流になっているというのだ。


図1と表2を見てほしい。

https://style.nikkei.com/article/DGXBZO21914010Z10C11A1000000


新川さんらが世界33民族を対象に調査した世界の乾型遺伝子の出現率である(耳あかが実際に乾型になる割合は遺伝子出現率を2乗した値)。世界における乾型と湿型の勢力分布がはっきりと読み取れる。

調査によると、たしかに世界では湿型が圧倒的に多く、乾型は東アジアに偏在している。乾型はとりわけ黄色人種によく見られる特徴で、耳かきを使った耳そうじは、世界でも東アジアを中心とした地域に限られるようだ。

さらに分析を続けてみよう。

乾型遺伝子の出現率が最も高いのは中国北部やその周辺(たとえば中国山西省や韓国大邱市は100%)。ところが、中国北部から離れるほど出現率が低下する。

中国北部からやや離れた日本の平均は7〜8割程度。タイでは7割程度、インドネシアでは5割程度、カザフスタンでは4割程度となり、ヨーロッパまで行くと1〜2割程度に下がる。そして、さらに遠方のアフリカや南米ではついに5%を切る。

この調査から何が分かるだろうか?

実は、各自の遠い先祖のルーツをたどることができるという。


「もともと人間の耳あかはすべて湿型だった。ところが、数万年前に中国北部やモンゴルの周辺で遺伝子の突然変異に伴い乾型の耳あかが生まれ、周辺地域に広がった」


新川さんはこんな仮説を披露する(図3)。乾型と湿型の“逆転現象”はこうして生まれたというわけ。

https://style.nikkei.com/article-image?ad=DSXBZO2189245019012011I00000&ng=DGXBZO21914010Z10C11A1000000

かつて、アフリカで誕生した人類の祖先は世界各地に広がり、黒人、白人、黄色人などに分化した。そのうちの中国北部にいた黄色人の中から乾型の耳あかが生まれた。「それが寒冷気候への適応だったのか、感染症への抵抗性だったのか、理由はまだ不明だが、ある特定の環境下で乾型の耳あかを持つ人は生存に有利だったのではないか」と推測する。

では、日本にどう伝わったのか。

「弥生時代以来、日本に移り住んできた渡来人が乾型の遺伝子を運び込んだ」と新川さんは見る。もともと日本の先住民だった縄文人は、白人や黒人らと同様に湿型ばかりだった。そこへ、渡来人が高度文明や技術、専門知識などとともに乾型の遺伝子も持ち込んだらしい。

乾型の遺伝子は縄文人と混血を繰り返しながら日本人の血に溶け込み、やがて、現在のように湿型と乾型が混在するようになった(図4)。

https://style.nikkei.com/article/DGXBZO21914010Z10C11A1000000?page=2


しかも、現在も遺伝子の混血は進行中だという。

実は、その痕跡を示す統計がある。


図5と表6は、日本国内の耳あかの乾型と湿型の勢力分布を示したものだ。

https://style.nikkei.com/article/DGXBZO21914010Z10C11A1000000?page=3


新川さんらと共同で県立長崎西高校が調査した都道府県別の乾型遺伝子出現率(対象1963人)をもとに作成した。最も高いのは京都、次いで岐阜、大分、愛媛、福井……。逆に最も低いのは岩手、次いで沖縄、広島、宮城、山梨……。

調査を見ると、「乾型は西日本で特に多い」というざっくりした傾向が浮かび上がる。詳しく言うと「乾型は近畿地方で圧倒的に多く、さらに四国北部、九州東部へとつながる臨海地域にも集中している」という。

これは何を意味するのか?

「渡来人が通った足跡のように見えませんか?」と新川さんは言う。「大陸から来た渡来人は中央権力があった近畿地域を目指して移り住んだ。そのルートに沿う形で、乾型遺伝子が多く残った」というのだ。

この仮説によれば「耳あかが湿型の人は縄文人、耳あかが乾型の人は弥生人(渡来人)が祖先」ということになる。何だか、太古の人との「きずな」を見せられたような気がして、歴史のロマンをかき立てられる。

実は、これとよく似た現象を以前、このコラムで書いたことがある。

2010年7月2日に掲載した「全国酒豪マップ」――。耳あかと同様、人が酒に強い(酒豪)か、弱い(下戸)かも各自の体質(遺伝子)で決まる。もともと人間は酒に強かったが、中国南部で酒に弱い遺伝子が突然変異で生まれ、周辺に広がったという話だ。

下戸の遺伝子は渡来人とともに日本に伝わり、酒が強い土着の縄文人との混血で混ざり合った。今では下戸と酒豪が混在しており、近畿、中部、瀬戸内、九州北部など渡来人が移り住んだルートに特に下戸が多い。

比べてみると、たしかに「全国酒豪マップ」との共通点は多い。

例外はあるが、乾型遺伝子の出現率が上位の都道府県は近畿、四国北部、九州東部など下戸が多い地域と重なり、一方の出現率が低い都道府県は東北、四国南部、九州西部など酒豪が多い地域と重なっている。

最後に新川さんにこう尋ねてみた。

「耳あかがカサカサな乾型の人は、そのまま酒に弱い下戸ということになるのですか?」。ともに祖先が渡来人と考えられるからだ。耳あかの種類で酒豪か下戸かが判断できるのなら、便利に違いない。

だが、残念ながら「耳あかと下戸の遺伝子は直接は関連していない。乾型だからといって、その人が必ずしも下戸だとは限らない」という答えが返ってきた。それぞれ、遺伝子上はまったく別の現象らしい。つまり、乾型の耳あかの持ち主が酒豪だったり、湿型の耳あかの持ち主が下戸だったり、はっきりとは区別できないらしいのだ。

とはいえ「どちらも『渡来人と先住民の縄文人が混血しながら日本民族を形成した』という仮説を支持している」と新川さんは言う。

現代の生活では、耳あかの違いも、酒豪か下戸かの違いも、生命を脅かすほどの決定的な要因にはなりえない。ただ太古の時代は謎に包まれている。予想もできない出来事が大きな役割を果たしていた可能性だってある。

乾型耳あかや下戸の遺伝子がなぜ淘汰を免れたのか――。その完全な全体像を解明するには、まだまだ時間がかかりそうだ。

153. 中川隆[-13625] koaQ7Jey 2018年11月27日 12:00:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21175] 報告

諏訪春雄のホームページ
http://home.s00.itscom.net/haruo/index.html

諏訪春雄通信10 2002年 9月

9月21日(金曜日)午後5時から、「中国少数民族の祭りと芸能―トン族・苗族・土家族の世界―」というテーマで、今年の夏におこなった中国調査の報告会を実施しました。


中国の長江中流域地帯には女神信仰がゆきわたっています。たとえば、私たちが調査したトン族社会では、薩神とよばれる民族の祖先の女神にたいする信仰がさかんです。薩神は薩歳ともよばれています。薩はトン族語で祖母を意味します。祖先の女神ということになります。

トン族の神話では、彼らの世界を創生した人物は薩神の子孫姜良姜妹の兄妹です。天下に大洪水がおきて万物がほろんだとき、薩神が送ったひさごにのってたすかった兄妹二人が夫婦となって、山川動植物を生み、トン族をはじめとする人類の祖先になったというのです。水稲農耕もこの兄妹がつくりだしたものとつたえられています。

薩神はまた隋唐時代の女英雄キョウニの伝説と習合しています。キョウニは、都から派遣された官吏の苛政に反乱をおこした村人の先頭にたってたたかい、幾度も勝利をおさめますが、最後は大軍にかこまれて自殺した女性です。

後人は彼女の霊をなぐさめるために祭壇をきずき、神としてまつりました。このキョウニが薩神と同一視されて崇拝の対象になっています。

薩神信仰とならんで、トン族の二大信仰とよべるのが、太陽信仰です。鼓楼、住居、男女の正装、帽子、その他に円形の鏡として造型された太陽をみることができます。年中行事のなかにも太陽信仰は浸透しています。

また、トン族の男女は雨具ではない紙製の傘を冠婚葬祭や日常生活に頻用します。この傘は太陽を象徴するもので、辟邪の働きがあるとされています。

この太陽信仰と薩神信仰はふかくかかわっており、トン族の人々は両者を同一とみなし、太陽光線は薩神の威力をあらわすものとかんがえています。

日本の創世神話とトン族神話には興味ぶかい一致があります。『古事記』によるイザナギ・イザナミを主人公とした創世神話とトン族神話には以下のような一致点があります。

@ イザナギ・イザナミの二神は、神世七代の洪水後に男女対偶神として誕生し、国土の生成、始動にかかわります。姜良姜妹の二神は、洪水のさいにひさごのなかにはいって命がたすかり、国土と人類の生成にかかわります。

A イザナギ・イザナミの二神は、天神の命をうけて、まず天の浮橋に立ち、海をかきまわして得たオノゴロ島に降り、天の御柱をめぐって結婚します。姜良姜妹の二神は最高神の薩神のはからいで結婚します。

B イザナギ・イザナミの二神は、はじめヒルコなどを生んで失敗しますが、天神の指示をあおいで大八島国および石・海・水門・山野の神々を生んでゆきます。イザナギは日向の橘の阿波伎原でミソギをします。そのさいに防塞神や穢れから成る神またはこれを直す神、海の神などが出現し、最後に左右の眼と鼻をあらうと、アマテラス・ツクヨミ・スサノオが誕生します。姜良姜妹の二神は、十ヶ月に満たない九ヶ月で一人の男子を生みます。その子は、頭はあるが耳はなく、眼があって脚がない不完全な人間でした。その身体が斬りくだかれて民となり、手や指が地におちて高峰となり、骨がおちて岩石に化し、頭髪は万里の河川となり、脳がおちて土手や田畑になり、歯牙が黄金白銀になりました。肝腸が長江大河となり、野牛や野鹿、山脈、三百六十四の姓、トン族をはじめとする人類が誕生しました。

両神話のあいだに、洪水から生存した男女二神が結婚して国土と人類を生んだこと、その結婚ははじめうまくゆかず身体不完全の子が生まれたがつぎに国土と人類などが誕生したこと、しかもそうした行為が薩神(『古事記』では天神)の指導ですすめられたことなど、世界創造神話の基本構造が一致していることが注目されます。

さらに薩神とアマテラスとのあいだにもつぎのような一致点があります。

@ 民族の祖先の女神、A太陽神でもある、B稲作の神である、C歴史上の人物(女性英雄神と皇室の祖先)と習合し祭壇がもうけられた、の四点です。

トン族の神話が日本神話の直接の原型であったなどと主張する気はありませんが、長江中流地域が日本の稲作の源流であったことは疑問のない事実である以上、稲作にともなう文化の交流についても真剣に検討する必要があるとおもいます。

この問題についてはつづけてまたこの通信でかんがえてゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa10.htm


諏訪春雄通信 11

東アジアの王権の問題について、夏期の中国調査の結果をふまえて、その後、かんがえたり、調べたりしたことをのべます。私の最終目的は、日本の天皇制の解明です。しかし、そのためには、東アジア、ことに中国大陸での王権の歴史の検討が絶対必要条件であるとかんがえています。

 

中国北方、黄河流域で巨大な王権が誕生し、南方、長江流域でなぜ巨大王権が成立しなかったのか、という問いについて、最初のきちんとした説明をしたのは、ドイツ生まれの社会学者カール・アウグスト・ウイットフォーゲル(1896〜1988)でした。水利社会論とよばれて有名な彼の考えをまとめれば以下のようになります。

 

黄河流域は黄河文明のさかえた土地である。定期的に氾濫をくりかえした黄河の大量の土砂が堆積してできた沖積平野であり、そのままでは農耕に適せず、大規模な潅漑工事が必要であった。そのため、この土地では、大量の人手をあつめて水を支配しなければならず、それが可能な強大な力をもった者が、王権を獲得し、巨大国家を建設した(平野義太郎監訳『新訂 解体過程にある中国の経済と社会』原書房、1977)。

 

この水利社会論は、現在かなり旗色が悪く、日本でも戦後きびしい批判にさらされています。批判は二つにわけることができます。一つは、彼の政治性にたいする反発です。はじめマルクス主義者として出発したウイットフォーゲルはアメリカにわたって反共産主義者にかわりました。その政治理論から、進んだヨーロッパ社会にたいする停滞したアジアという図式をつくりあげました。この図式が不評を買って、批判者の舌鋒をするどくさせたのです。

 

もう一つは、彼の水利社会論そのものにたいする批判です。最近の代表的な批判者二人を紹介しましょう。中国環境史学者の原宗子氏(流通経済大學教授)は、農業のために黄土は多量の降雨を必要とし、でなければ人工的な潅漑がもとめられるというウイットフォーゲルの主張は空想にすぎないとしりぞけ、年間降雨量そのものが不足していない華北の多くの地では、降った雨や雪の水分を発芽期までどう保持するかが問題になるのであり、潅漑の必要など多くの地域で存在しないと断定します(「土壌から見た中国文明」『四大文明』NHK出版、2000年)。

 

批判者をもう一人紹介します。日本の考古学界はフィールドワーク重視一色です。遺跡を発掘しない考古学者を日本では考古学者とはみとめません。ところが、欧米では考古学理論とか比較考古学という学問方法が市民権を得ています。自分では発掘体験のない土地の発掘報告をもとに、比較をこころみる学問です。

 

カナダ・モントリオールのマッギル大學人類学部教授のブルースG・トリッガー博士は、考古学理論家として現在もっとも生産的な仕事をしている学者です。彼は水利社会論をつぎのように批判します。「いっそう大きい潅漑システムへの要求が結果として文明発展の初期段階に専制国家を生む、というかつての通説は、初期文明においては大部分の水利施設が小規模で断片的であったという特徴を、認識していなかった。大規模な国家管理の潅漑システムは、国家の産物であり、その逆であったようにはみえないのである」(川西宏幸訳『初期文明の比較考古学』同成社、2001年)。

 

こうした批判論に接しますと、ウイットフォーゲルの水利社会論の破綻はみとめざるをえないようです。しかし、黄河流域における巨大王権の誕生という事実をどのように説明するのかという問題は、依然そのままにのこります。

 

水利社会論にかわって提出されている論を検討してみます。

 

前述の原宗子氏はつぎのように説きます。「人類が摂取するエネルギー源として太陽エネルギー利用効率の点でもっとも効率的なのは穀物生産である。当時における人工増加のポイントは、いうまでもなく食糧の確保にあったから、穀物生産を発展させた社会が、人口増加でも軍事力増強でも、他の方法で暮らしている社会にくらべ優位に立ったわけである」(前掲論文)。

 

穀物生産農業が巨大国家を誕生させたという考えです。しかし、この説明は成立しません。年間の降雨量も平均温度も農業に適さない黄河流域(前掲の原氏の批判にもかかわらず、この事実は疑問がありません)で巨大専制国家が誕生したのに、あらゆる条件がより農業に適した長江流域で巨大専制国家がなぜ誕生しなかったのか、という問題の解答にならないからです。

 

北中国と南中国の農耕の発展形態に周到な目配りをしながら論をすすめ、巨大国家成立の秘密を説きあかそうとした論文が、やはり中国史学者の岡村秀典氏(京都大學助教授)の「中国文明の起源―農耕のはじまりから国家の成立へー」(前掲『四大文明』)です。

 

氏は、殷墟から出土した甲骨文に大規模な祭祀儀礼の存在をしめす文言がきざまれていることに注目します。そして、巨大な祭祀儀礼をいとなむために、それをささえる経済システムを整備し、農業の大規模経営がおこなわれ、その結果、巨大な専制王権が誕生したと主張します。

 

しかし、この論も誤っています。事実は逆です。巨大政権が成立したから、それを維持するために巨大な祭祀がいとなまれたのです。そうした事例はいくらでもあげることができます。日本の大和政権成立後の国家祭祀整備や大規模化がさしあたっておもいうかびます。

 

湿潤地帯と乾燥地帯のはざまに巨大な大河文明が誕生したという、文明史学者安田喜憲氏の学説は、ウイットフォーゲルに匹敵するスケールの大きなものです。

 

ユーラシア大陸を、大きく湿潤地域のモンスーン・アジア、大西洋地帯と、乾燥地域の乾燥アジア、北方アジアに二分し、これまで四大文明といわれてきたメソポタミア・エジプト・インダス・黄河の四大文明は、そのはざまをながれる大河のほとりでおこっていると主張し、乾燥地帯の牧畜民と湿潤地帯の農耕民の接触によって大文明は誕生したと主張するのが、安田理論です(『大河文明の誕生』角川書店、2000年)。

 

牧畜民は主食の穀物を農耕民との交易によって手に入れないかぎり生きてゆくことができない。この牧畜民に主食となる穀物や野菜を提供した人々こそ、乾燥アジアとの接点をながれる大河のほとりに生活する農耕民であった。それゆえ、乾燥と湿潤のはざまをながれる大河のほとりは、農業革命以来、農耕民と牧畜民の異文化の接触地帯になった。安田氏はそのように説きます。

 

この安田理論も、黄河文明にかぎってもいくつかの疑問があります。まず、華南に比較して、寒冷で乾燥した華北の地を湿潤地帯といえるのかという疑問です。

 

もともと、氏の説の立脚点には、1988年にはじめて氏が発見したという5700年まえにおこった地球規模での気候変動がありました(安田喜憲「五〇〇〇年前の気候変動と古代文明の誕生」『科学』五八号、岩波書店)。この変動は、北緯35度以南の大河ほとりの乾燥化をもたらした。このため、牧畜民が水をもとめて大河のほとりに集中した。この大河のほとりへの人口の集中と、もともと大河のほとりにいた農耕民とあらたにやってきた牧畜民の文化の融合が、都市文明の契機になった。これが安田理論の骨格です。

 

しかし、この論は、北緯35度以北に位置し、しかも5700年まえより1000年以上もあたらしい黄河文明に適用できないことはあきらかです。しかも、遊牧民との接触という事実の確認できない長江周辺に、巨大王権ではありませんが、都市文明の誕生したことの説明ができません。

 

批判することはかんたんにできますが、それに代わる理論を提出することは容易ではありません。ウイットフォーゲルに対する批判を丹念にたどってみると、そのことを痛感します。黄河流域に巨大王権が誕生したことは事実です。その事実にたいして納得できる説明がまだありません。

 

ここであたらしい説明を提示できなかったら、私もおなじ非難をうけることになります。次回の通信12で、私の考えをのべます。あらかじめ、私の立場をあきらかにしておけば、私は一つの理由だけを強調する一元論ではなく、複数の要因を考慮する多元論で、この問題を解明したいとかんがえます。しかも、黄河領域で最初に成立した巨大専制国家であった秦の成立要因を分析することによって、その目的を達成したいとかんがえています。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa11.htm

諏訪春雄通信 12

前回の通信につづいて、東アジアの王権についてかんがえます。

黄河流域で最初に成立した巨大専制国家は秦です。紀元前221年に、のちに始皇帝とよばれることになった秦王政は、戦国6国のなかでただ一つのこっていた斉をほろぼして、天下統一をなしとげました。この中国史上最初の統一国家の成立要因を検討することによって、華北における巨大王権誕生の秘密を解明してみます。

 

@鉄製農具の出現

春秋時代の終りに、木製や石製にかわって鉄製農具があらわれ、未墾地の耕作が可能になりました。農民はかぎられた土地で氏族制を保持する必要はなく、家族単位に分解、その農民たちをあたらしく発生した官僚たちが再組織しました(西嶋定生『秦漢帝国』講談社学術文庫)

 

A潅漑工事

水利技術者鄭国の献策により、秦王政の即位元年に、渭水北岸の荒地を潅漑する大規模な工事がはじまりました。これが完成して沃野が出現し、秦国が富強になり天下統一の財政基盤ができあがりました(西嶋前掲書)。

 

B経済の発展

春秋時代の後半からはじまった鉄器の発明と普及は、農業や手工業の発展をうながし、経済と文化に繁栄をもたらしました。商業の発展にともなって、商人の往来や産物の流通もさかんになり、列国の封鎖的な国境をこえて、各地の経済はたがいに依存の度をつよめていきました(松丸道雄・永田英正『中国文明の成立』講談社)。

 

C富国強兵策

北方の強大な遊牧民族である匈奴の進入を阻止する防衛対策のうえからも、強力な統一国家の出現がもとめられました。富国強兵策を実施したために、生産は発展し、兵力は増強しました。戦国後期、秦の国土面積は全国の三分の一弱でしたが、その富は全国の十分の六に達したといわれ、騎馬戦術を得意とする軍団は無敵の強さをほこりました(松丸・永田前掲書)。

 

以上の四つは、主要な要因であって、この四つに限定されるといいはることはできません。また、たとえば、Bについて、経済の発展とまとめるか、鉄器の発明とするかは、意見のわかれるところです。

 

しかし、鶏が先か、卵が先かをあらそうことは、それほど生産的ではなく、秦帝国出現の要因はけっして一元的ではなく、多元的、複合的であったことを確認することが重要です。

 

さらに大切なことがあります。以上の四つは秦帝国出現の要因であって、そののち、漢、晋、隋、唐、五代、宋、金、元、明、清とつづいた歴代王朝のすべてに適応できる成立要因と断定することはできません。鉄器の発明は、秦成立の重要な要因ではありましたが、漢成立の要因とはいえません。

 

黄河流域の王朝成立過程を検討するためには、学問の手続きとして、秦のばあいと同様に、歴代王朝の成立要因を検討し、共通する原因を抽出するという作業が必要になります。

 

その作業の詳細を展開することは、しかし、日本の王権の成立におよぼした中国古代思想の影響という、私のさしあたっての研究テーマからずれることになりますので、ここでは必要最小限の言及にとどめます。

 

私の研究にとっては、秦につづいて、紀元前三世紀に成立し、紀元後三世紀に滅亡した漢帝国までを対象として、両国の共通性をぬきだせば、さしあたっては十分であるといえます。

 

両帝国誕生の共通要因はつぎの3点にまとめられます。

 A 匈奴を中心とした周辺遊牧民との抗争、軋轢

 B 商業を中心とした経済の発展

 C 農民勢力の台頭

 

Aは秦の4に対応します。匈奴が、モンゴル高原一帯の遊牧社会を統一して大帝国に成長したのは、秦末漢初といわれています。秦がこの匈奴の侵入にそなえて富国強兵政策をとったと同様に、漢もまた、強力な騎馬軍団で侵入をこころみる匈奴との対応に腐心し、軍備の充実につとめ、結果として国勢をのばしています。

 

Bは秦のBに対応します。漢の経済政策は商業一辺倒ではなく、税制の改革、塩鉄専売制度の実施、貨幣制度の制定など、多方面にわたっています。それらの総合的な経済政策が効果をあげて、武帝の時代には、「都鄙の倉庫は一杯になって財貨があふれている。都の銭の量は巨万をかさね、ぜにさしはくさってかぞえることができない。国庫の穀物は古米がふえて外にまで流れだし山積みになって腐敗している」と『史記』が叙述するようなゆたかな財政状態を現出させています。歴代の皇帝は、財政の好景気時代に、その資力を駆使して外征を実行し、領土の拡大と国威の昂揚につとめました。

 

Cは秦の@と共通です。巨大帝国秦を倒したのは、農民蜂起でした。決起軍の指導者の一人陳勝は、一時は、河南省の陳に農民王国を建設して王位につくほどの勢いをしめしています。最終的に秦をほろぼして漢を建設した劉邦もまた農民の出身でした。秦代以来の潅漑工事による農地の拡大と農業技術の改革が、農民に力をたくわえさせ、その爆発が秦をほろぼし、漢を誕生させたともいえます。

 

ウイットフォーゲルの水利社会論が批判の矢面にさらされていることについては、前回の通信でふれました。しかし、彼の論が批判されなければならないのは、その一元的主張であって、潅漑水利が巨大王国出現の重要な原因の一つであったことは、秦や漢巨大化の歴史の検討を通しても、みとめられなければなりません。

 

くりかえしになりますが、私の検討すべき課題は、日本の天皇家の永続です。そのために、大陸において巨大王権が交替をくりかえした黄河流域と、そうした現象のみとめられない長江流域を対比的にまずとらえてみようとしています。

 

中国で王朝交替を正当化する理論として生みだされたのが天の思想であり、日本では天皇の永続をささえる理論として太陽の思想が形成されました。これまでの通信でのべてきたところです。

 

天の思想とは、天の命令をうけて王となり、徳をうしなって天の怒りをうけて王の位置を追われるという思想です。一地方政権にすぎなかった周が殷(商)をたおして王権をうばった行為を正当化するためのイデオロギーであり、『書経』『詩経』など、儒教の書物のなかで理論が整備されていきました。『書経』の「多士」という章では、殷をほろぼした周公が、殷の遺臣たちにつげたことばをつぎのようにつたえています。

 

「汝ら殷の王室につかえていた者たちよ。天が亡国の運命を殷にくだした。そこでわが周は王国を開くべき天命を受けて、天の明らかな威光を奉じて、殷に大罰をくわえ、殷にあたえられた天命が終わったことを上帝に告げたのだ。」

 

この天の思想に対立する、日本の天皇家永続の理論的根拠が太陽の思想です。太陽の子孫だけが天皇の地位につくことができ、太陽の永続が天皇家の永続をささえるという考えで、八世紀の天武・持統の両朝のころから理論化され、『古事記』や『日本書紀』に神話体系としてとりこまれてゆきます。

 

『古事記』を例にとれば、そうした思想は全体にゆきわたっていますが、ことに、「三貴子の分治」、「スサノオの追放と五穀の起源」、「草薙剣」、「オオクニヌシの国譲り」、「ニニギの出生と降臨の神勅」、「天孫降臨」、「ホデリノミコトの服従」などの、骨格をなす神話に、天上の太陽神アマテラスの子孫の永続性と絶対性が周到にかたられています。

 

この天の思想と太陽の思想の生まれてくる母胎は、黄河流域の天への信仰と、長江流域の太陽への信仰にあります。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa12.htm


諏訪春雄通信 13

   前回につづいて、東アジアの王権についてかんがえます。

 

 中国古代の先秦時代、詩ということばは黄河流域でおこなわれた歌謡の歌詞を意味していました。この北方の歌謡はのちに『詩経』とよばれる歌謡集にまとめられました。『詩経』におさめられた詩篇は、周代の民俗と信仰について、かなり豊富な情報をつたえてくれます。北方の民の天への信仰をしめす一篇をつぎに引用します。

 

  ああ諸侯の楽師よ、あなた方は宗廟にいるのだから謹め。
  王はあなた方の豊作のため身を謹み正している。(この事実を)十分よく受け止めよ。
  ああ保介よ、この晩春に、
  (農事以外)また何を求めるのか、新田の様子はどうなのか。
  ああ豊作の麦をみのらせ、多くの実を収穫させたまえ。
  光り輝く上帝よ、豊作をあたえたまえ。
  さて農民たちにいそぎ耕具をととのえさせよ。
  速やかにたくさん刈りいれん。(周頌)

 

 王が臣下とともに神廟で、豊穣を天の神の上帝に祈念し、みずから苗をうえる儀礼をうたった詩です。これを籍田(せきでん)といいました。この祭りに参加した諸侯の楽師につつしんで奉仕することをもとめているのが、一行めと二・三行めです。四行めの保介は農事をたすける者です。

 

 上帝は天命を下して王朝の交替をおこなうだけではなく、豊作を実現させる豊穣の神でもあったことが、この詩であきらかです。

 

 天によって任命された皇帝=天子は、つねに天の祭りをおこない、その意思にしたがって、政治をおこないました。天の神の祭りは天子だけの特権でした。『礼記』によって郊祀(こうし)とよばれた天の祭りの内容をうかがってみます。


 天子は五年に一度諸国を巡視する。その年の二月に、まず東方の巡視をして泰山に至り、柴を焼いて天を祭り、山川にたいして望という祭りをもよおし、その地方の諸侯をあつめて会見し、かつ諸侯の国々に百歳以上の人があるか否かを問い、あれば天子みずから訪問する。そして大師(楽人の長)に命じその地方の詩歌をあつめて並べさせ、その地方の風俗を知る。(王制)


 天子が四方へ行ったときは、まずそれぞれの方角の山嶽に至り、柴を焼いて天を祭る。(郊特牲)

 柴を焼いて煙をたちのぼらせ、その煙をとどけて天をまつることを「燔柴(はんし)」といいました。柴のうえに玉と絹、犠牲などをならべ、これを燃やした祭りでした。

 

 天子による天の祭りは、地方巡行のさいだけではなく、年中行事としても定着し、後続の王朝にもうけつがれていきました。都城の四周に祭壇を常設し、その中心には天をまつる圜丘壇をもうけ、天子みずから祭祀を執行しました。その遺跡である北京の天壇をご覧になった方は多いとおもいます。すでに前漢時代にはおこなわれておりました。その祭祀でも、柴のうえに玉、絹、供物をならべ、焼いて煙を天にとどける儀礼が中心になっていました。

 

 『詩経』が華北の地の民謡や詩であるのにたいし、長江流域の楚の国でうたわれた歌謡の歌詞が『楚辞』です。『楚辞』を分析して、紀元前三、四世紀ごろの中国江南地方の信仰をうかがってみます。


蘭の湯を浴び、香水に髪を洗い、色彩うるわしい衣は花のようである。このように清潔に美しくよそおって神に仕えまつれば、神霊はゆらゆらと降りとどまり、神光はかがやかしく照らして極まりつきることがない。雲の神は、ああ、祭殿に安らごうとして、日月と光をひとしく輝き給う。竜に車をひかせ、天帝の服をつけて、神はしばらく天駆けりさまよい給う。神はかがやいて、すでにここに降り給うたけれども、たちまち遠く雲中にあがってゆかれた(雲中君)

 着飾った巫女が天の神をまつる情景をうたっています。天の神は巫女の招きで地上におりてきます。

 この詩で注意されることは、冒頭部分の神の降臨する場所が、巫女の身体そのものとうけとれることです。この個所は、原詩では、「蘭湯に浴し芳に浴す。華采の衣は英(はな)のごとし。霊連蜷(けん)として既に留まり、爛として昭昭として未だ尽きず」とあります。前の行で巫女をうたい、つづけて神霊がとどまるという表現から、神はその巫女の身体に降り給うたと判断されます。

 この詩は、江南の地のシャーマニズムが、脱魂型(エクスタシー型)、憑霊型(ポゼッション型)の二つのタイプのうち、神が巫女の身体に降りる憑霊型であったことをしめしています。

 太陽をうたった詩があります。つぎにそれを検討してみます。


 赤々と朝日は東方に出ようとして、扶桑のもとにあるわが宮殿の欄干を照らす。私の馬をおさえて静かに駆けると、夜は白白とはや明けてきた。竜に車をひかせ、雷雲に乗り、雲の旗を立てて、ゆらゆらとたなびいている。私は長いため息をついて、いよいよ天に上ろうとするのであるが、心は去りがたくて顧みおもう。ああ、歌声や色うつくしい巫女の私をなぐさめることよ。観る者は皆心やすらかに帰るをわすれる。張りつめた琴と打ちかわす鼓の音、玉でかざった台にかけた鐘を撃つ。鳴り響く横笛と吹き鳴らす笙の調べ。神巫女(かんみこ)の徳すぐれてみめうるわしいのを思うのある。
 巫女たちは飛びめぐり、カワセミのように挙がり、詩を陳(の)べ、集まり舞う。音律に応じて調子を合わせているうちに、もろもろの神の御魂が日を蔽うようにして天下る。私は青雲の上衣に白虹の袴をつけ、長い矢をとりあげて、天狼星を射る。そして自分の弓を持って立ちかえりくだって、北斗の星の柄杓をとり、肉桂のかおる薄い酒をのむ。やがてわが手綱を持って高く馳せかけって、はるかな暗黒の中を私は東へと行くのである。(東君)

 
 東君は太陽です。巫女が太陽神である東君に扮して神威を自賛しています。昇ってゆく朝日である東君が、自分をまつる地上の祭儀に心ひかれて去りがたくおもう。あまりの祭儀の盛観に、日神はついに高い空から降りてきます。太陽神は天狼神を射て、天空を征服し、赫赫と神威をかがやかし、北斗を取って、そなえられた飲み物をのんで、祭りを享受します。そして暗黒の空のなかを東へ去ってゆきます。

冒頭の朝日の光が東君の欄干を照らすという、日神と太陽が分離した表現は、日神に扮した巫女が日の出をうたったもので、客観としての太陽と主観としての日神東君が分離した形式になっています。

 このように、巫女が太陽に扮してその威力を自賛するという詩の表現が成立するのも、神霊が巫の身体に憑依する憑霊型のシャーマニズムが長江流域にひろがっていたからです。

 黄河流域では天にたいする信仰がさかんであり、長江流域では太陽の信仰がさかんでした。このことは、『詩経』と『楚辞』の詩篇からもあきらかですが、より明確なかたちでこの事実を指摘されたのは、中国史の専門である京都府立大學教授の渡辺信一郎氏です。

 今年、二〇〇一年七月二十八日(土)、二十九日(日)の両日、アジア文化研究プロジェクト主催の講演会・シンポジウム「東アジアの王権と祭り」が、学習院百周年記念会館で開催されました。両日をとおして三百五十人余りの方々が参加してくださいました。熱心な聴衆の皆さんに感謝します。

 その初日、「古代中国の王権と祭りー南郊祭天儀礼を中心にー」という題で、中国古代の天子による天の祭りについて、各種の文献を渉猟されて詳細な報告をされた渡辺氏は、結論として、講演内容をつぎのようにまとめられました。覚えておられる方も多いでしょう。

 「匈奴・韓・夫余・高句麗・わい(「さんずい」に「歳」)・烏丸など、中国北方・東北地方ならびに朝鮮半島に活動したモンゴル・トルコ・ツングース系諸族、すなわち遊牧地帯ならびに稲・雑穀栽培地帯には祭天の儀礼が広汎に存在する。しかし、中国南方、長江以南の諸族をはじめ、稲単作文化地帯に属するいわゆる南蛮、西南蛮には祭天の諸儀礼にかかわる記述はない。」

 ここでいう天とは天空または夜空にまたたく星辰をさしています。対する太陽は、昼間は天に位置していますが、夜は地平線にかくれています。太陽は地上の存在と信じられていたのです。

このような太陽にたいする中国人の考え方は、先に紹介した『楚辞』の「東君」にみることができます。そこでは太陽は、夜は扶桑の木のもとにある宮殿にやすんでおり、夜があけると竜車に乗って空にのぼるとうたわれています。同種の観念は、前漢時代初期に成立した『山海経』にもみることができます。

なぜ、黄河流域では天の信仰がおこなわれ、長江流域では太陽の信仰がさかんであったのか。次回はこの問題についてかんがえます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa13.htm

諏訪春雄通信 14

前回にひきつづいて東アジアの王権についてかんがえます。今回のテーマはつぎのとおりです。

「なぜ華北黄河流域で天の信仰が、華南長江流域で太陽の信仰が誕生したのか」

 この問題を解明するのに参照すべき現象が三つあります。
 その一つは一神教と多神教の分布です。世界の宗教を一神教と多神教にわけることがあります。一神教は、一柱の神をたてて崇拝する宗教です。一神教の神は一般的には抽象的な男性原理を有し、全知全能にして万物の創造主とかんがえられています。ユダヤ教のヤーウェの神、キリスト教の父なる神、イスラム教のアッラーの神などがそれにあたります。

 これにたいし、複数の神々を同時に崇拝する宗教を多神教とよびます。古代ギリシアの宗教、インドのヒンズー教、日本の神道、仏教、道教などがそれにあたります。

 この両宗教が生まれ、分布する地域に区別があります。一神教は砂漠地帯に生まれ、多神教は農耕地帯に多くみられます。多神教が神と人間との交流を教義に説くのにたいし、一神教は神と人間との隔絶を強調します。これは一神教が、砂漠に誕生したことと関係があるとされています。荒涼たる自然環境の砂漠では、地上から超絶する天上の神が祈願の対象にえらばれる傾向がありました。たいする多神教は豊穣の大地にいます神々が信仰の対象になりました。一神教と多神教は天の神と地上の神の対比でもあるのです。

 二つめは、シャーマニズムにおける脱魂型(エクスタシー型)と憑霊型(ポゼッション型)の分布です。通信13であきらかにしたように、長江流域では、神が巫女の身体にやどる憑霊型がさかんでした。太陽神も巫女の身体に憑依しました。他方、黄河流域の王の祭天儀礼では柴とその上の供物を燃やして、煙を天にとどけました。神は天にあって、人間の側から神に接近していました。そこでは脱魂型がおこなわれていたとみることができます。

 現在も長江南部では憑霊型がさかんであり、黄河の北方では脱魂型のシャーマンが活躍しています。私はかなり長期にわたって、江蘇、浙江、湖南、貴州、広西チワン族自治区、黒竜、吉林、内蒙古自治区などのシャーマンを調査してまわってこの事実を確認しています。天の信仰と太陽の信仰は、また、シャーマニズムの脱魂型と憑霊型の問題でもありました。

 シャーマニズムでなぜこの両タイプが存在するのか、という問いについてはまだ完全な解答は提出されていません。

 シャーマニズムの研究で大きな業績をあげたM・エリアーデは脱魂型を本質とみて、憑霊型を第二次的な変化とかんがえました。その結論的な部分だけを代表作『シャーマニズム』(堀一郎訳・冬樹社・1985年)から引用します。


 アジア的シャーマニズムは、一つの古代的エクスタシー技術と考えねばならない。この原初的根本理論―天界上昇によって直接の関係を持ち得る可能性のある天界至上神の信仰―は、たえず仏教などの侵入を最頂点とする長い一連の異国からの著彩によって変形せしめられてきた。神秘的死の概念は、漸次祖霊と「精霊」との正常な関係、「憑移」にいたる関係を促進した。

 エリアーデの考えがよくうかがわれます。アジアのシャーマニズムはシャーマンが天界への上昇によって至上神と接触するエクスタシー型こそが真の姿であり、仏教などの侵入による異国からの影響と祖先崇拝によって変化が生まれ、憑移(憑霊、ポゼッション)型を増加させたが、しかし、エクスタシー型をなくするまでにはいたらなかった。このように彼は主張します。

 このエリアーデにたいし、民族学者のW・シュミットはポゼッション型を基本とかんがえ(大林太良「シャマニズム研究の問題点」『北方の民族と文化』山川出版社・1991年)、I・M・エリスは二つのタイプは共存するとみています(平沼孝之訳『エクスタシーの人類学―憑移とシャーマニズム』法政大学出版局、1985年)。

 脱魂型は狩猟文化と関わりをもち、憑霊型は農耕社会に顕著です。この事実は多くの研究者がみとめるところです。日本にかぎっても、本土では脱魂型がほとんど存在しないのに、ながいあいだ狩猟採集社会であった沖縄では他界を旅したり空中を飛翔したりする脱魂型の体験をユタなどから聞くことはまれではありません。

 地球的の規模でシャーマニズムの研究をおこなったアメリカの人類学者エリカ・ブールギェヨンとエヴァンスキーは「全世界からの民族誌的事例の通文化的統計研究において、社会の複雑度が低く、ことに採集狩猟経済にもとづく社会などでは、脱魂型シャーマニズムがふつうで、社会が複雑になり、農耕をいとなむようになると、憑霊型シャーマニズムがさかんになる傾向がある」という結論をみちびきだしています(大林氏前掲書)。

 このようにみてきますと、天の信仰と太陽の信仰を解明する重要な鍵がシャーマニズムの脱魂型と憑霊型にあることがたしかになります。

 華北の天の信仰、華南の太陽の信仰とかかわる現象の三つめは仮面の分布です。
 世界の民族に仮面をもつ民族ともたない民族があります。
 日本の仮面使用の祭りや芸能の分布状況を、『日本民俗芸能事典』(第一法規・1976年)によってみますと、南北につらぬく日本列島で、北から南へゆくほどその分布密度は濃くなり、南島とよばれる九州や沖縄の島々が濃密に仮面芸能をつたえるのにたいし、北の北海道にはこの地で生まれた仮面の儀礼や芸能が存在しません。

 北海道は北緯40度以北に位置します。おなじように朝鮮半島の仮面の祭りや芸能の分布状況を、金両基氏の『韓国仮面劇の世界』(新人物往来社・1987年)収載の表によって検討してみますと、北緯39度線より北に仮面芸能は存在しません。日本と朝鮮半島はともに北緯40線あたりに仮面芸能の北限があったことがわかります。おなじような調査を中国でおこなってみますと、やはり北緯40度の北京あたりに仮面祭式の北限があることがあきらかになります。

 しかし、地球規模に調査の範囲をひろげますと、北緯40度という緯度に特別の意味があるわけではありません。アフリカ大陸の仮面の分布は赤道を中心に南緯15度と北緯15度のあいだにみられ、北アメリカでは北緯65度のアラスカ湾あたりまで仮面をみることができます(吉田憲司編『仮面は生きている』岩波書店・1994年)。緯度に特別の意味はありませんが、世界の民族または人々に仮面をもつ人々ともたない人々のあることは確実です。

 一神教と多神教、シャーマニズムの脱魂型と憑霊型、仮面の有無、の三つの現象と天の信仰・太陽の信仰はふかい関わりがあると私はかんがえます。三つの現象が解明できれば、黄河流域に天の信仰が誕生し、長江流域に太陽の信仰が誕生した理由もあきらかになると信じています。 

 四つの現象をつらぬく共通のキーワードは農耕です。多神教、憑霊型、仮面、そして太陽信仰の四者を誕生育成した社会は農耕社会でした。他の四者を生みだした社会は狩猟または牧畜社会か、農耕社会への転進のおくれた社会でした。こうした私の断定には異論をもつ向きもあるかもしれません。現存の考古学の発掘資料によるかぎり、黄河流域に農耕がはじまった時期は、長江流域に農耕のはじまった時期にそれほど遅れているとはみえないと…。

 黄河流域では紀元前6000年ころまで農耕開始時期をさかのぼることができます。河北省武安県磁山遺跡からは炭化した粟や耕作用の石製鋤、収穫用の石鎌などの農具が出土しています。

 ちょうどそのころ、長江下流域の浙江省余姚市河姆渡遺跡からは野性稲や栽培稲、耕作用の骨製鋤、炊飯用の土器などが大量に出土しています。猪を家畜化した豚の飼育もはじまっていました。それから2000年ほど経過した紀元前4000年ごろの江蘇省蘇州市の草鞋山遺跡では、人工的な水路や水田があらわれています。

 この比較だけでは、両地域はほぼおなじころに農耕社会にはいっていて差はありません。しかし、長江中流域の湖南省にはさらに1000年以上さかのぼった彭頭山遺跡群が存在し、籾や土器、石製農具、集落跡など、水稲耕作のほぼ確実な証拠が発見されています。長江流域の農耕は黄河流域の農耕を1000年以上さかのぼります。さらに湖南省の玉蟾岩遺跡からは12000年前の炭化米を出土しており、これを栽培稲とみる説が有力です。これがみとめられれば、長江中流域に稲作の起源はじつに黄河流域を6000年さかのぼることになります。

 さらに重要な事実があります。長江流域の農耕が稲作であったのにたいし、黄河流域の農耕は雑穀栽培であったということです。毎年おなじ場所に栽培すると連作障害のおこる雑穀では、粟、黍、豆類などを順番に土地を替えて植えなければなりません。その結果、黄河流域では、農耕だけでは十分な食糧を得ることができなかったために、狩猟採集経済がながく並存しました。

 ここで問題はしぼられます。なぜ農耕社会は太陽の信仰を生み、狩猟社会は天の信仰を生むのか。私はそこにいくつかの段階と理由を想定します。

 

1.農耕民は食糧を生む大地を信じ、そこに神々の存在を感得するのにたいし、狩猟民や牧畜民は大地をはなれたところ=天に神の存在を信じる。

2.農耕民の信じる大地の多様な神々のなかでの最高神が農作物の豊凶を支配する太陽神であった。

3.狩猟民は獲物の獣を追う。その獲物は身体の内部に神の分身を宿している。狩猟民はその神をつねに追うことになる。幾世代にもわたって神を「追う」生活が脱魂型のシャーマンを誕生させた。彼らの多くは神の分身の獣を守護霊としている。

4.農耕民は大地をたがやして収穫を待つ。収穫物は農耕民にとっての神の分身である。幾世代にもわたって神を「待つ」生活をくりかえした農耕民のなかのえらばれたシャーマンが、自己の肉体を依代としてそこに神を待ちうける憑霊型を生みだした。

5.仮面も神をよりつかせる依代である。憑霊型のシャーマニズムの分布地帯と仮面の分布地帯がほとんどかさなるのはそのためである。


 

 今回はこの辺で通信を閉じます。次回は長江流域の少数民族社会に太陽信仰以外の信仰を追いかけてみます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa14.htm


諏訪春雄通信 15

前回予告しましたように、長江流域の少数民族社会にひろまっている太陽神信仰以外の信仰をみてゆきます。今回のテーマは「稲魂信仰」です。

 私たちのアジア文化研究プロジェクトには、学習院大学内外の多くの研究者が「プロジェクト参加者」としてくわわっておられます。これまでなんらかの形で私たちの活動に関わりをもたれた方々です。その参加者の一人に曽紅さんという中国の女性がおられます。この方は、現在は学習院大学の中国語講師をつとめていますが、本来は中国雲南省のハニ族の稲作について調査研究をかさね、すでに多くの論文も発表している比較民俗学者です。私の中国調査にもよく同行され、各地の民俗をいっしょに見てまわった方です。

 曽紅さんの研究の核心は雲南省ハニ族の稲作儀礼と日本の稲作儀礼との比較研究です。彼女はそこに多くの共通性を発見しましたが、しかし、なぜ遠く離れた雲南のハニ族と日本とのあいだに稲作にかかわる共通の信仰や儀礼が存在するのかという問いについては判断を保留しています。というよりも、明確なことはわからないというのが曽紅さんの本音のようです。

 彼女の研究の一端を紹介します。
 ハニ族の年中行事のうち、稲作に関係する行事にはつぎのようなものがあります。

1月 五穀祭(穀物神に豊作を祈願する)
2月 ガマツ祭(稲魂の降臨をむかえる) 
3月 苗床祭(稲の苗を祭る) 稲娘の聖婚式(稲魂を水田におろす儀礼) 穀物神と田の神を祭るハォへへ
6月 夏の松明祭(松明の火に照らして稲の多産を祈願する) 水口祭(水田の水口に供物をささげる)
7月 虫送り(稲の害虫駆除の祭り) 稲花酒を飲む(初穂を神棚にそなえ稲籾をいれた酒を飲む)
8月 新米節(ホスザ 稲刈に先立ちあたらしい稲魂と家の神棚にまつってある昨年の稲魂との新旧交代をおこなう)
9月 田の神への感謝祭(主婦は水田の真中で田の神に供物をささげ感謝の歌をうたい稲刈をする) 倉入れ(新旧稲魂の交替の儀礼)
10月 松の飾りと団子飾り(松の枝と稲の籾や若草を入れた竹筒、栗の枝を玄関にかざる。団子飾りは餅花) 年取り(団子をたべる)
    曽紅「ハニ族の年中行事」(諏訪春雄編『東アジアの神と祭り』雄山閣・1998年)

 ハニ族の古い暦法は一年を十ヶ月とします。この年中行事はその暦法によっています。このかんたんな叙述からも、(1)農家の一年の行事が稲作の作業過程とむすびついて進行する、(2)稲の祭りの中心に稲魂信仰がある、(3)稲魂は家の神棚と倉に祭られる、(4)稲魂は新旧交代する、(5)稲は人々の生命力の根源である、など、日本の稲作の祭りと共通の信仰が存在することがあきらかになります。

 家庭の主婦となった曽紅さんは、最近、中国調査を一時休止しています。曽紅さんのあとをうけて、雲南省の少数民族の稲作儀礼調査に目覚しい成果をあげているのが、麗澤大学教授の欠端実氏です。欠端氏とは国際日本文化研究センターのプロジェクトでご一緒し、しばしばお話を聞く機会がありました。
 氏の説の核心部分を引用してみます。

 現在の雲南省においても、穀物が発芽し成長し開花し結実するのは、穀霊の働きによると考え、そのための儀礼を執り行なっている小数民族は多い。アチャン族の穀霊祭は典型的なものとされる。アチャンは、稲には稲魂があって、稲魂を離れると稲は育たず、実も入らないと信じている。したがって、ぜひとも稲魂を祀らなければならないと考えている……ハニにおいても稲魂信仰は強く残され、日本の稲作儀礼と同じ儀礼が今日に至っても守られている。
 「雲南少数民族における新嘗祭」(『新嘗の研究4−稲作文化と祭祀―』第一書房・1999年)

 ハニは現在でも新穀を供える新嘗祭(フォシージャー)を行なっている。期日は一定していないが、おおむね七、八月の龍の日に行なわれる。稲魂(新穀の女神)はとても恥ずかしがりやなので、新穀を刈り取るときにはめでたい詞を唱えて、穀物を収穫する目的と新穀の女神をお迎えする誠意を表明しなければならない。穂がびっしりとつまっていて虫に食われていないものを選ぶ。刈り取った穀物は三本一くくりとし、三束に分けて先祖の位牌の所に掛け、一年中そのままにしておく。ただしお年寄りが亡くなったときにだけ持ち出して焼く。
 新米節のときにはまず先祖に供える。主な供え物としてはご飯である。(同上論文)

 氏はまたハニ族の新嘗祭の特徴をつぎのようにまとめています。

1.家の祭である。
 新嘗の時には家族全員で新穀を食べる。その際、客を招かず、家族以外の人には食べさせない例が多い。また新穀を収めた穀倉は他人 に見せようとはしない。

2.女性が主宰する祭である。
 調査した60余の村の内、11の村が「新嘗」は女性家長が主宰すると答えた。男性が主宰すると答えた村は2例であった。

3.新嘗儀礼の中心にあるのは穀霊(稲魂)信仰である。
 田畑にいる穀霊を家の中に迎え入れ祖先棚あるいは穀物蔵で休息してもらう。新穀を祖霊、穀霊および天神に供え共食する。新穀を食することは穀霊を食べることに他ならないという観念が今日も残されている。

4.穀霊信仰と祖霊信仰とが結合している。
 田畑から迎え入れられた穀霊は祖先棚に安置される。この祖先棚の移動や新設は新嘗の日に行わなければならない。

5.穀霊を保護しているのは聖樹である。穀霊信仰と聖樹崇拝とは結合している。
 ハニ族最大の祭は、田植前に行なわれる聖樹祭(アマトゥ)である。稲魂を庇護する天神が聖樹を伝わって降臨すると考えられている。聖樹は村建ての時、村のセンターとして選ばれるものであるが、西双版納(シーサバンナ)では各家で聖樹をもつ村があった。

欠端実「ハニ族の新嘗―アジア稲作の古層―」(アジア民族文化学会秋季大会発表要旨・平成13年11月11日・共立女子短期大学)


 ここでのべられている雲南省のハニ族の新嘗祭はそのままに日本の新嘗祭です。しかものちに変質してしまった日本の新嘗祭の古代の原型を推定する手がかかりさえのこされています。なぜそのような酷似性がみとめられるのでしょうか。これまでの本通信の注意ぶかい受信者ならば、その理由を容易にかんがえつくことができるはずです。

 欠端氏もまた曽紅さんと同様に、日本との類似性は指摘するがその理由についてはふれられません。雲南省は長江中流域にひろがる湖南省、湖北省などよりもさらに西南に位置し、日本からは遠くはなれた山岳地帯です。ここの稲作が、間にはさまる巨大な空間を超えて注目されるようになったのは、いまから三十年以上もむかしに、照葉樹林文化論(上山春平ら編『照葉樹林文化論』中央公論社・1969年初版)が流行したころからです。雲南省のハニ族の稲作が中国の他の土地に先んじて調査対象になったのは、じつはこの照葉樹林文化論の影響でもあったのです。

 1980年代、アジアの稲作の起源地としては、インドのアッサム州から中国の雲南省・貴州省にかけての高原地帯が有力でした。いわゆるアッサム・雲貴起源説です。この説をささえる重要な根拠は、この高原地帯で日本の農学者渡部忠世博士によって野性の稲が発見され、さらに、3、4000年まえにさかのぼる栽培稲が見出されたことでした。渡部博士の説は、1977年に『稲の道』(日本放送出版協会)として発表され大きな影響を学界にあたえました。

 このアッサム・雲貴稲作起源論のうえに華麗な照葉樹林文化論が強化され、日本の学界をにぎわしたことはご記憶の方も多いとおもいます。照葉樹林文化というのは、西ネパール付近からヒマラヤの南山麓を通り、中国南西部を経て西日本にいたる帯状の地帯にひろがっていた照葉樹林地帯(照葉樹林は、クスノキ、シイ、ツバキなどの、葉は革質で光沢のある常緑広葉樹の林で、日本では九州、四国、関東までの沿岸部に分布します)に生まれそだった文化で、焼畑農耕にもとづく雑穀栽培、ナットウやなれずしなどの醗酵保存食の利用、高床式住居の住居形式などなどの文化複合を形成しています。稲作もまたこのルートをたどって日本に到達したと主張されました。

 しかし、湖南省が稲作の源産地として確定した今日、照葉樹林文化論の骨格はくずれました。ほぼ4000年前の雲南省の稲作は、それよりもさらに4000年以上さかのぼる長江中流域から伝来したものと推定されます。したがって雲南の地にひろまった稲作の祭りや信仰もじつは長江中流域が起源地であったということになります。

 日本の稲魂信仰と雲南省ハニ族の稲魂信仰の共通性は、長江中流域の稲作民の稲魂信仰が東西に伝播したためであるといいきることができます。そして、私たちはすでに、湖南、湖北、貴州などの少数民族社会にその原型となる稲魂信仰を見出しています。

 次回は中国長江中流域の少数民族社会の稲魂信仰についてのべます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa15.htm


諏訪春雄通信 18 2002年 12月

 通信15で雲南省のハニ族の稲魂信仰についてのべました。最終のねらいは、中国の長江中流域ではじまった稲作が、日本へ伝来したときに、稲作の技術とともに、稲にかかわる各種の信仰を同時に日本へもたらし、日本の天皇制の基盤となった信仰・精神を形成したという事実の証明です。

 中国の少数民族ミャオ(苗)族の居住地は、湖北、湖南、四川、雲南、貴州、広西チワン族自治区などの各省にひろがっていますが、738万人におよぶ全人口(1990年の調査)の50パーセントまでが貴州省にすんでいます(田畑久夫他編『中国少数民族事典』東京堂出版・2001年)。

 ミャオ族の現在の主要な生業は稲作を中心とした農業です。山間低盆地や河谷を主体とする山間部に形成された平坦地では、付近をながれる河川の水を利用する水田稲作が中心で、一部の水田では鯉などの養殖もおこなわれています。これにたいし、山腹の斜面をきりひらいて造成した棚田では天水を利用した稲作が、段々畑ではトウモロコシ、おかぼ陸稲などが栽培されています。

 この貴州省のミャオ族のあいだに顕著な稲魂信仰をみることができます(潘定智「丹寨苗族的穀神崇拝」『貴州古文化研究』中国民間文芸出版社・1989年・他)。藩氏は穀神ということばつかっていますが実体は稲魂です。

 彼らのあいだに地上の穀物の起源について3種の神話がつたえられています。
1.大洪水がおこりこの世から穀物がなくなった。姜告略という老人がいた。老人は白バトとスズメに命じて天上の銀河のあたりから穀物をぬすませた。人間はそのおかげで稲をうえることができた。


2.むかし、人間は山の洞窟にすんでいた。そのころ、ミャオ族と漢族がおなじ洞窟に居住していた。その洞窟に一人の老婆がいて穀物と酒の麹種をもっていた。穀物は大きすぎて煮てもたべることができなかった。そののち、老婆がいなくなった。利口な人間が斧で穀物をわったところ、その破片からトウモロコシ、麦、稲、高粱、粟などが生え、また土中にはいって芋や蕨が生じた。漢族は麹種を得て、辛い酒をつくり、ミャオ族は甘い酒をつくった。


3.もともと穀物はとおくはなれた神農氏の里にあった。老人が犬に命じて穀物をとりにゆかせた。犬は途中に流れのはやい大河があったので、尾の先に穀物の粒をつけてもどってきた。そのために、現在、穀物の穂は犬の尾とおなじ形をしている。

 以上の3話は東アジアに流布している稲作神話の三つのタイプを代表しています。1の鳥のモチーフは穂落し神の伝承として中国、朝鮮、日本に流布しており、3の犬のモチーフはとくに中国南部にひろくおこなわれています。また2の洞窟から穀物を入手するモチーフは、洞窟から米が流出する、いわゆる「流米洞伝説」の変型とみることができます。このタイプは中国や朝鮮にひろがっています(大林太良『稲作の神話』弘文堂・1973年)。

 この三つの稲作神話のうち、1は日本でも東北から沖縄にまでひろまっています。穀物をもたらす鳥は多くは鶴ですが、雀、鴻などの種類もみることができます。3の犬は弘法大師伝説とむすびついてかなり変型した話がひろく流布しています。2の流米洞伝説はいまのところ日本からは発見されていません。朝鮮半島にまでつたわっていながら、海峡をこえることができず、日本につたわらなかった神話、伝説、習俗などはかなりあります。流米洞伝説もその一つです。

 稲魂のことを、ミャオ族は穀魂、米鬼、穀神などとよんでいます。稲が田圃で生長する旧暦の2、3月から8、9月のころまで、稲魂は田にあって稲の生長を見まもります。この時期の稲作の祭は稲魂を中心にいとなまれます。
 起活路 翻鼓節 撤苗 開苗門 粽節 稲魂祭 苗家稲祭 吃新節 稲魂収倉行事など、農事の節目ごとの行事がそれにあたります。

 起活路は春節(旧正月)ののちの決められた日(旧暦2月の第一亥の日など)の農事始めの行事です。河のそばの田を鋤でほりおこし、カヤ・ススキや山椒を田にさします。これは邪鬼の類の侵入をふせぐための儀礼です。

 開苗門は田植開始の儀礼です。もち米のご飯と魚を苗代にささげ、稲魂の保護を祈願します。そのときにとなえる文句のなかで、稲魂に「姑娘(娘)」とよびかけます。稲魂を女神とみなしていることがわかります。稲魂祭は、虫の害などで稲の発育が不良のとき、その原因を稲魂が田のなかにいないせいとかんがえ、鴨、酒などを持参して田にやってきて、稲魂に田にもどるように祈願する祭りです。

 苗家稲祭は、若者や娘が稲魂になる儀礼です。七月半ばの夜半、若者と娘たちが村の岡にあつまってこの儀礼がおこなわれます。指導者で歌い手になる人(巫師)が田から青々とした稲の葉(稲魂の変身とみなされている)をとってきて、えらばれて稲魂になる若者の頭上にさします。そして若者に耳をふさがせておいて、腰の鈴をならしながら、稲魂に生育をうながす歌をうたう。そのあいだに若者はしだいにトランスにおちいって、あの世にはいってゆきます。そして、途中、亡霊にあったりしながら、もっとも美しい場所までいってひきかえしてきます。これで若者は稲魂と一体になって成長することができると信じられているのです。

 吃新節は稲が成熟してきたころ、各家で田から奇数本の穂をぬき十粒の新米を古米のもち米とまぜて祖先と稲魂に感謝しながらたべる行事です。

 稲魂収倉行事は秋の収穫がおわったのち、一升の米をえらび、一把の稲束を小さな天秤棒にかけたものをその米にさし、倉におさめる儀礼です。そのときに

 九月がきました。十月がきました。穀粒はすべて倉におさまりました。稲魂様もどうぞ倉におかえりください。

ととなえます。

 ミャオの人たちにとって、稲魂は田の神であるとともに彼らの一生を守護する神でもあります。母の胎内にやどったときから、最後の死をむかえるまで、稲魂にまもられることによって無事にすごすことができると信じています。

 女性は懐妊すると巫師をよんで稲束を部屋の入口にかかげて祈祷をしてもらいます。邪鬼の類の侵入をふせぐためです。子供が成長すると、一碗の米と一個の鶏卵をいつも床の上においておきます。稲魂の保護を期待するためです。子供の衣服や帽子には穀物や米をいれた布の袋がぶらさげられています。

 病気にかかると枕もとに一束の稲の束をおいて病魔の退散を祈願します。新築のさいには、まず使用する柱に稲束、鶏、魚、酒などをささげて祈祷し、家が完成すると、大きな梁の両端に稲束をかけておきます。不幸があって巫師がよばれると、稲束が重要な役割をはたします。巫師は占いによって稲魂からその家の不幸の原因を聞きとり、災難を消滅させます。

 ミャオの人たちの一生は稲魂の保護のもとにあり、死ぬと稲魂にみちびかれてあの世にゆくと信じられています。出棺のとき、巫師は通過する道に米をまきちらし、死者をほうむる墓穴にも米を敷きます。こようにして稲魂は死者の霊魂につきそいます。

 このような事例をならべると、稲魂が祖霊神と一つになっていることがあきらかです。梁に稲束をかけて、家の保護を期待するのも、死者が稲魂にみちびかれてあの世にゆくのも、稲魂即祖先神だからです。

 そして、稲魂はまた太陽神でもあるはずです。

 この断定については、すこし説明が必要です。通信15で紹介した雲南省のハニ族の稲魂信仰では穀霊信仰が祖霊信仰とむすびついていました。その事実は、欠端実氏の報告によってあきらかです。信仰の有無や結合の判断はむつかしく、調査者のモチーフの持ち方に大きく左右されます。調査する人の側に太陽信仰というモチーフがないと、調査結果からこの部分がそっくりぬけおちてしまいます。つまり、欠端氏は穀霊信仰と祖霊信仰という二つのモチーフはつよくもっていましたので、両者の結合をとらえることができましたが、太陽信仰というモチーフははじめからもっていなかったので、調査結果からぬけおちてしまったのです。

 じつは、私がこれまでの貴州省ミャオ族の稲魂信仰の記述に主として利用した藩定智氏の報告にも、太陽神信仰という視点ははじめからないので、稲魂信仰と太陽神信仰の結合という事実はまったくうかびあがってきません。しかし、私は貴州省のミャオの稲魂信仰は太陽信仰と結合していたと判断します。

 私たちのアジア文化研究プロジェクトには企画を立案し、活動の基本の方針を審議する10名の運営委員がおります。著名な民俗写真家の萩原秀三郎氏もその委員の一人です。萩原氏の最近の著書に『稲と鳥と太陽の道』(小学館・1996年)があります。天皇制に焦点をしぼっている私のこの通信文のテーマとはねらいがちがいますが、稲魂信仰、鳥霊信仰、太陽信仰の三つが中国から日本へわたってきたという認識は共通しています。

 氏は、この書の中で広西チワン族自治区のミャオ族の信仰習俗にふれ、正月に村の中心にたてられる芦笙柱の本質を鳥竿、宇宙樹、太陽樹としてとらえておられます。この柱の上には鳥の作り物がかざられます。その鳥がすべて東の方向をむいているのは太陽をむかえるためで、太陽は稲の豊穣に不可欠であり、そこから柱と鳥、太陽、稲魂がむすびつくとのべておられます。したがうべき説です。

 今年の八月、私たちが中国長江流域の湖南、湖北、貴州3省の少数民族社会を調査してまわったことは、すでにこの通信でも報告しております。そのさい、調査にはいったミャオ族部落で太陽信仰の証跡をいくつも発見しています。

 8月4日には貴州省のミャオ族のー秋節という秋をむかえる祭りを見学しました。その部落入口の門の中央には木製の太陽がかざられていました。娘さんの正装の飾りにも太陽を象徴するものがみられました。
 8月11日に湖南省ミャオ族の竜舟行事を見学したときにも、竜舟や竜王廟の飾りに太陽のモチーフを見出しています。

 長江流域の稲作民族であるトン族の人たちが、稲魂、太陽、女性祖先神の三者の結合した信仰をもっていることについては、この通信10でくわしく報告しました。

 こうした長江中流域の文化複合が稲作とともに日本へ伝来したことは確実です。これまでながいあいだ、中国大陸をさすらってきましたが、次回の通信からは、比較民俗の視点と方法で、日本の王権の誕生と本質についてかんがえます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa18.htm


諏訪春雄通信 19

 この通信では日本の天皇制をささえる基本の信仰と精神が、中国の長江流域の少数民族がつたえている信仰と精神をうけついでいることについてのべます。そのために、今回は、日本の古代神話を素材とすることになりますが、しかし、私の採用している方法は比較神話学ではなく、比較民俗学です。日中両国の神話の類似を立証するのではなく、日本の天皇制をささえる基本精神の解明が目的です。

 日本の古代神話をつたえている代表的な書物は『古事記』と『日本書紀』です。この二つの書物が記述されるとき、中国の書物、それも黄河流域の漢民族の著述が、多く参照されました。よく知られている事実です。『古事記』や『日本書紀』の神話を分析するときに、留意すべき点はこの書承による修飾的な叙述を排除して、直接に天皇制の支えとなった稲作民の思想を抽出することです。

そうした修飾を排除した、日本神話の基本構造はつぎのように整理されます。主として『古事記』によります。
1.別天つ神五柱、神世七代のあとをうけ、ただよっている国土生成の命を天神からうけて誕生したイザナギ・イザナミの男女二神は、の浮橋に立ってアメノヌボコで海水をかきならしてオノゴロ島をつくった。その島に降り、聖なる御柱のまわりをまわって結婚する。はじめはヒルコや淡島を生んで失敗する。


2.天神の指示をうけて御柱めぐりと発言をやりなおした二神は、淡路島以下の大八島国、吉備児島以下の六島、石、海、風、木などの神々をつぎつぎに生む。


3.イザナミは日の神カグツチを生んだときに産道を焼かれて病にかかり没した。イザナギはいかってカグツチの首を斬った。その剣の血からは雷神ほか、カグツチの身体からはさまざまな山の神などが誕生した。


4.イザナミは黄泉の国へ去る。そのあとを追ったイザナギは、妻のことばにそむいて死体を見た。「見るなの禁忌」をおかしたイザナミはヨモッシコメらに追われるが桃の実などの呪力で逃走し、黄泉の国と現世との境のヨモツヒラサカを巨大な岩でふさいでしまった。


5.黄泉の国からのがれたイザナギは、筑紫の日向の阿波岐原でみそぎをする。そのとき、左眼からアマテラスが、右眼からツクヨミが、鼻からスサノオが誕生した。三貴子が誕生したことをよろこんだイザナギは、アマテラスに高天原を、ツクヨミに夜の世界を、スサノオに海原の支配を命じた。スサノオは父の命令にしたがわず泣きつづけたので、イザナギは根の国に追放してしまった。


6.スサノオは根の国におもむくまえに高天原のアマテラスをたずねた。スサノオの振舞のあらあらしさをおそれた姉の疑いをはらすために、天の安河をなかにはさんで姉弟は誓約をおこなった。アマテラスはスサノオの剣をかみくだいて三柱の女神を誕生させ、スサノオはアマテラスの玉をかみくだいて五柱の男神を誕生させた。


7.誓約のあと、勝者としてふるまったスサノオは、田を破壊し、大嘗の御殿を汚し、神聖な機織屋に逆はぎした馬の皮をなげこむなどの乱暴をはたらいた。おそれたアマテラスは天石屋戸にこもった。そのために高天原も葦原中国も暗闇となってさまざまな災いがおこった。八百万の神々は天安河原にあつまって相談され、長鳴鳥をなかせ、天香具山のサカキに玉、鏡、白幣、青幣などをつけてフトダマがもち、アメノコヤネが祝詞を奏上し、アメノウズメが神がかりして性器を露出させておどった。八百万の神々が大笑いし、アマテラスが不思議におもってのぞいたところを手力男命が手をとってひきだした。神々はスサノオの鬚と爪をきって追放した。


8.高天原を追放されたスサノオが食物をオホゲツヒメにもとめたところ、鼻・口・尻などから食物をだしたので、汚いといかったスサノオはオホゲツヒメを殺害した。殺害されたオホゲツヒメの身体から五穀や蚕が生じた。


9.天上界をおわれたスサノオは根の国へむかう途中、出雲の肥の河のほとりで、アシナヅチ、テナヅチの夫婦と娘クシナダヒメにあう。娘はヤマタノオロチという八頭八尾の大蛇にくわれる運命にあったが、スサノオは八つの瓶につよい酒を用意させ、大蛇が酔って寝ているすきにきりころした。そのとき、大蛇の尾のなかから出現した剣をスサノオはアマテラスに献上した。スサノオはクシナダヒメと結婚して出雲の地にすんだ。この二神の子孫からオオクニヌシが誕生する。


10.オオクニヌシは、兄の八十神たちが因幡のヤカミヒメのもとに求婚におもむいたときに袋を負って供をし、ワニに皮をはがれ、兄たちにおしえられたいつわりの治療法で苦しんでいた白兎をすくった。


11.白兎の命をすくったことでヤカミヒメの愛を得たオオムナチ(オオクニヌシの別名)は兄弟のねたみをうけ、二度も命をねらわれたが、母神にすくわれ根の国へのがれた。そこでスサノオから、蛇、ムカデ、蜂、野火などの試練を課せられたオオムナチは、スサノオの娘スセリビメの助けによって難をのがれ、太刀、弓、琴などの宝物を入手した。宝物の威力で兄弟の神々に復讐し、葦原中国の王者オオクニヌシとなる。


12.出雲のヤチホコ(オオクニヌシの別名)は高志のヌナカワヒメに求婚に出かけ、歌をうたいかわして結婚した。それを知った正妻のスセリビメがはげしく嫉妬したために大和へ行こうとしたが、夫婦で愛の歌を唱和し、心とけてともに出雲の地に鎮座した。


13.オオクニヌシが出雲の美保の岬にいたとき、小舟にのって海をわたってきたスクナビコナと逢った。両神が力をあわせて国造りにはげんだのち、スクナビコナは常世国へわたっていった。国造りの未完成をなげくオオクニヌシのまえに海を照らして近づいてきた神が国づくりの協力を申しでた。この神は大和の御室の山にまつられた。


14.葦原中国平定のために高天原の神々の命令で派遣されたアメノオシホはオオクニヌシにへつらって三年たっても復命しなかった。そこでアメノワカヒコがあたらしく派遣されたが、オオクニヌシの娘シタテルヒメと結婚して八年たってももどってこなかった。しかも事情をさぐるためにおくられた雉を射殺し、高木神(タカミムスヒの別名)の射返した矢にあたって死んだ。アメノワカヒコの葬儀がいとなまれ、川カリ、鷺、カワセミ、スズメ、雉が役割を分担して歌舞音曲をつとめた。弔いにおとずれたシタデルヒメの兄アジスキタカヒコネは死者とまちがえられたことをいかって、喪屋をけちらしてしまった。


15.アマテラスはタカミムスヒと相談して、つぎにタケミカヅチにアメノトリフネをそえて葦原中国に派遣した。タケミカヅチがオオクニヌシに国譲りをせまると、子のコトシロヌシにこたえさせた。コトシロヌシは天神の御子に国譲りするとこたえた。しかし、もう一人の子のタケミナカタは承知しなかったので、タケミカヅチは力比べに勝って信濃の諏訪に追いはらった。オオクニヌシは出雲国に御殿をたててもらって住み、葦原中国を天神御子に献上した。


16.アマテラスとタカミムスヒ(高木神)はアメノオシホミミに天降りを命じた。オシホミミは自分とタカミムスヒとのあいだに誕生したホノニニギを代りに推薦した。ニニギが降臨する途中、天の八ちまたにサルタヒコが眼から光を発してあらわれた。アメノウズメにその正体を問わせると、「先導をつとめるため」とこたえた。ニニギにアメノコヤネ以下の五伴緒、オモヒカネなどの供と、三種の神器があたえられた。アマテラスは、ニニギに「この鏡をわが魂とおもってまつれ」といい、オモヒカネに「神の祭りをつかさどれ」と命じた。したがって、鏡とオモヒカネは伊勢の五十鈴の宮にまつられている。


17.ホノニニギは笠沙の岬で大山津見神の娘コノハナサクヤビメと出あった。父神は姉のイワナガヒメをあわせて献上したが、ニニギは醜い姉をかえし、コノハナサクヤビメと一夜の契りをかわした。父神は「コノハナサクヤビメをとどめた天孫のお命は木の花のようにはかないでしょう」と申しおくった。一夜で妊娠したコノハナサクヤビメをうたがったニニギにたいし、ヒメは火中出産によって天孫の子であることを証明した。そのときに生まれた子が、ホデリ、ホスセリ、ホオリの三神である。


18.ホデリとホオリは海幸彦、山幸彦として漁労と狩猟にしたがっていた。あるとき、兄弟は釣針と弓矢を交換し、山幸は兄の釣針をうしなった。兄にせめられた山幸は海神の宮をたずね、娘のトヨタマビメをめとり、釣針をとりもどした。海神から呪詛の方法をまなび兄の海幸をくるしめて臣従させた。


19.臨月のちかづいたトヨタマビメは御子を生むために夫のもとにやってきた。しかし八ひろワニとなって出産している姿を夫に見られ、誕生した子ウガヤフキアエズをのこして海の宮へかえっていった。天皇家第一代の神武天皇はこのウガヤフキアエズの四男である。

 以上の19段が『古事記』のつたえる初代神武天皇誕生までの王権神話です。これらの神話の個々のモチーフについては、多くの神話学者による研究のつみかさねがあります。それらは、とうてい長江流域から伝来した稲作にともなう伝承としては解釈できない多様性をもっています。

 たとえば、7の著名なアマテラスの天石屋戸隠れについてはつぎのようなさまざまな説明がこれまでになされています。

A.アマテラスは大嘗祭の準備中に穢れにふれた。
B.日神であるアマテラスの日蝕神話である。
C.日神であるアマテラスの冬至神話である。
D.生命力の回復を祈願する鎮魂祭である。
E.大祓の儀礼の性格をもつ。

 7が以上のような多様のモチーフを複合していることはたしかですが、しかし、『古事記』の王権神話には全体をつらぬく主題があり、19段の神話素はその主題にしたがって、選択、配置、変容をくわえられていることも疑問のない事実です。私がはじめに、この通信で神話の比較研究をこころみているのではなく、王権の永続の秘密を比較民俗学の手法で解明しようとしているのだとのべたことにかかわります。個々のモチーフの由来を検討するのではなく、根本をつらぬく構造の解明とその由来が、私の研究目的になります。

 『古事記』神代の神話(多少形をかえてはいるが『日本書紀』にもいえます)はつぎのような基本テーマで編集されています。

1.日本の天皇は国土を生成し、時間の秩序をさだめた兄妹神イザナギ・イザナミの子孫である。1,2,3,5
2.日本の天皇の直接の祖先神アマテラスは太陽神、穀霊である。5,6,7,16
3.日本の天皇は天界から地上に下った。5,6,7,8,14,15,16
4.天皇以前に地上を支配していた勢力は出雲を拠点としたオオクニヌシ一族の神々である。9,10,11,12,13,14,15
5.地上勢力オオクニヌシの権力の根源もじつは天界にある。9,10,11,13
6.天皇は海の神の血統と呪力をとりこんで王権を強化した。18,19

 『古事記』神代の神話は以上の王権にかかわるテーマのほかに、国土生成(1,2)、地上と黄泉国の分離(4)、祭祀の起源(7)、穀物の起源(8)、地上の整備(13)、寿命の限界(16)などのテーマもかたっています。しかし、王権に限定すれば、以上の6つに整理されます。そして、この6つのうち、さらに日本の王権を確立させる最重要テーマが1から3までの3つです。この根本構造を決定する3つが、じつは中国南部の稲作にかかわる信仰に由来しているというのが私の基本の考えです。

 次回は新春にふさわしくこの天皇制の根本問題を中心にのべます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa19.htm


諏訪春雄通信 20 2002年 1月

2002年最初の通信を、「日本の王権神話と中国長江中流域」というテーマでお送りします。

 『古事記』を中心にまとめた日本の王権神話の最初はつぎのようになります。

 別天つ神五柱、神世七代の神々の最後に誕生したイザナギ・イザナミの男女神は、天の浮橋に立ってアメノヌボコで海水をかきならしてつくったオノゴロ島に天降り、聖なる柱のまわりをめぐって夫婦となる。はじめはヒルコや淡島を生んで失敗する。天神の指示によって御柱めぐりと発言をやりなおし、大八洲の島々と自然の神々を次々に生んだが、火の神を生んだときに火傷を負ってイザナミは死に黄泉国へゆく。妻を追って黄泉国へいったイザナギは妻のつれもどしに失敗する。筑紫の日向の阿波岐原でみそぎをしたイザナギは身体から、アマテラス・ツクヨミ・スサノオの三貴子を得て、天・夜・海の三界を分治させる。スサノオは父の命令に不満をもつ。

 これと構成要素がほとんど一致する中国江蘇省の「三官伝承」とよばれる民間伝承を大林太良氏が紹介されています(「イザナギ・イザナミ神話と中国の伝説」『神話の系譜―日本神話の源流をさぐる』青土社・1996年)。三官とは天神水神地神の三神です。大林氏はつぎの六つの要素に分類し、イザナギ・イザナミ神話との一致を論証しています。
1.海に囲まれた島に夫婦
2.夫婦別離
3.生まれた子を流す
4.夫は水中に入り新しい妻をめとり三子を得る
5.三子は三つの宇宙領域の代表者となる
6.三子のうちの一人は、自分に割り当てられた領域に不満

 この三官伝承は『西遊記』第九回「陳光蕊、任に赴いて災いに会い江流の僧讐を復して本に報ず」を直接の種本にしています。この事実をもとに大林氏は、「三官伝説がいま紹介したような形になったのは、もちろん『西遊記』が広まってからの新しいことであるが、イザナギ・イザナミ神話と対応するような大筋は、すでに古くから呉越の地に神話として存在していたのではないか」という仮説を提示しています。

 2と3が入れ替わっただけの一致は不思議にさえ感じられます。大林氏が提案されるような母胎の神話は呉越の地に実在したのでしょうか。それはどのような形をとっていたのでしょうか。広大無辺とでもいうべき学識の持主であった大林氏はその具体例をあげることなく昨年2001年4月12日に他界されました。私どものプロジェクトも創立当初からお世話になりました。ご冥福をお祈りします。

 中国の長江中流域の稲作民トン族が明確な洪水伝説を核とした祖先神話をもっていることについては、この諏訪春雄通信の10で紹介しました。日本神話とのあいだは、A洪水から生存した兄妹の男女二神が結婚して国土と人類を生んだこと、Bその結婚ははじめうまくゆかず身体不完全の子が誕生したがつぎに国土と人類などが誕生したこと、Cしかもそうした行為が最高神の指導でおこなわれたことなど、基本構造が完全に一致しています。

 世界の神話研究者には意外に知られていない事実ですが、洪水で兄妹が生きのこり、結婚して人類と国土を誕生させるという、いわゆる洪水神話は中国ですくなくとも58話がすでに発見、紹介されています(林河『儺史―中国儺文化概論―』台北東大図書公司・1994年)。

 著者の林河氏が私のふるくからの友人であり、昨年の夏に中国長江流域の少数民族調査を共同でおこなったことについては、この通信の9でのべました。氏は現代中国最高の民俗学者です。この神話の分布状況を、この神話を保持している民族の居住地域で整理するときわめて興味ぶかい結果が出てきます。居住地域の決定は『中国少数民族事典』(田畑久夫ほか編、東京堂出版・2001年)によりました。

雲南省 29  福建省 3  貴州省    12  広西チ自治区 3ワン族
四川省  3  湖南省 8  内蒙古自治区  2  遼寧省       2
湖北省  2  海南島 4  黄河辺     1

 この数値の総計は69となって、58話を超えます。たとえば、トン族は貴州省と湖南省にわかれて居住しています。そのさいにそれぞれを1として計算したために数値がふえたのです。

 洪水神話は、『旧約聖書』のノアの方舟で知られるように、古代オリエント、古代インド、南アメリカ、東南アジアなどにまで分布していて、その起源地についても諸説があって、一定しません。

 しかし、上掲の表によってみると、洪水神話は、雲南、貴州、湖南などの長江周辺の稲作民居住地に稠密に分布していて、そこから南北にずれると、急速に減少しています。このことから、洪水神話の起源地は長江中流域である可能性がきわめて高いといえます。

 私は、さらに、林河氏の紹介例にあたらしく20余話をつけくわえることができます。収集資料の整理・検討がまだ不十分ですので発表は後日を期しますが、私の資料をくわえても、林河氏の資料の分析から得た結論はつよめられこそすれ、ゆれることはありません。

 典型的な洪水神話のいくつかを紹介しましょう。


 むかし、一人の病気がちの老女がいた。彼女は雷神の肉をたべて病をなおそうと、子供たちに雷神をとらえる方法をかんがえさせた。しかし、彼女の孫と孫娘はやさしい性格であったので、こっそり雷神に危険を知らせた。雷神は兄妹に感謝し、歯を一本ぬいて彼らにあたえ、空に雷がなりひびき、大雨がふり、大洪水がおこるようなときには、いそいでこの歯を土中にうめなさい、そうすれば二人の命はすくわれるであろうと告げた。雷神は天の門をひらいて洪水をおこし、人類をことごとくおぼれさせてしまった。兄と妹は天の門がひらかれたときに、すぐ歯をうめた。歯からは大きな瓢箪が生え、兄妹はその瓢箪を割いてなかにかくれ、洪水から身をまもることができた。旧い人類は死にたえ、兄と妹だけがのこった。兄は崑崙山のまわりをまわって妹を追いかけ、天に兄と妹が結婚してよいかどうか、うかがいをたてた。天の許しを得て、ちぎりをむすぼうとするとき、妹ははずかしがって扇で顔をかくし、結婚したあとに肉の卵を生んだ。兄がそれをくだいて人類の種をまいたという(林河著・平石淑子訳「東アジアの動物信仰」諏訪春雄編『東アジアの神と祭り』雄山閣・1998年)。

 この漢民族の神話はほかの少数民族神話の影響下に成立したものとかんがえられます。同型の神話が、トン、ミャオ、トウチャ、チワン、プイ、コーラオなどの各民族につたえられているからです。洪水、生存した兄妹、宇宙の中心をめぐったあとの結婚、失敗、世界の生成などの、重要な要素が出そろっていることに注意してください。

 漢民族の神話と同型のミャオ族の洪水神話をつぎに紹介します。


 おおむかし、天から雷鳴とともに雨がふりそそいだ。雷のしわざである。一人の勇敢な男が鉄の檻を用意して雨のなかにとびだし、雷をとらえた。男が市へ出かけたるす、雷はるす番の子供たち兄妹にたのんで水をそそいでもらった。そのとたん、雷は檻の外へとびだし、天に飛びさった。そのとき、雷は兄妹に礼として歯を一本わたし、土中にうめるようにいいのこした。二人の子供がいわれたとおりにすると、大きな瓢箪が生えた。雷のいかりで大洪水になり、地上の生物はすべて死にたえたが、瓢箪のなかにかくれた二人は生きのこることができた。あるとき、兄が妹に結婚しようと申し出たが、妹はことわった。兄がなおもたのむと、妹は自分を追いかけてつかまえたら結婚するといった。兄は大きな木のまわりをめぐりながら妹を追いかけた。妹はなかなかつかまえられなかったが、兄は急にむきをかえて妹をつかまえた。結婚して間もなく生まれた子は、手足のない肉のかたまりであった。二人は肉塊をこまかにきざみ、天の神にたずねるために天への梯子をのぼりはじめた。しかし、大風がふいて肉の包みが解け、地におちて人間が生まれた。こうして人類は誕生した(君島久子『中国の神話』筑摩書房・1983年)。

 このミャオ族の神話でも洪水と樹めぐりが結合しています。日本の神話との一致は、樹=柱のまわりをめぐる行為が二度目に成功する細部にまでみられます。

 もうひとつ、リス族の民族創成の長編叙事詩を紹介しましょう。


 天空を黒雲がおおい、大地には強風がふきすさぶ。江水、河水がみなぎり、いまや人類は死にたえようとしていた。そのなかで兄一人と妹一人だけが生きのこった。兄妹は瓢箪にかくれて避難した。七日七夜ただよい、九日九夜漂流した。大江の水、大河の水がへりだし、瓢箪は山谷のあいだにただよった。銀刀、金刀で瓢箪をたたきわってみると、屍が大地をうずめていた。兄妹は人類の絶えるのをおそれ、櫛を二つにわり、腕輪を二つに切って交換し、兄は妻をさがしに北へ、妹は夫をたずねて南へゆく。兄と妹は大地の中央、谷の真中で出あった。兄の髪には白髪、妹の目じりにはしわが生じていた。櫛と腕輪はぴたりとあった。兄は妹にむかっていった。伴侶をさがせないのなら、兄妹で夫婦になるほかはない。妹は承知しない。もし結婚をのぞむなら針穴を弓で射なさい。兄は針の穴を射ぬいた。妹はなおも承知しない。池のほとりに臼をおき、谷のそばに臼をおき、もし結婚がうまくゆくなら、二つの臼は一つになるだろうところがした。臼はくぬぎの丘をころがって上部と下部がかさなった。天神は二人をむすびつけ、地神は臼をひきあわせた。二人は涙ながらに結婚し、リス族、漢族、ヌー族、トウロン族などを生んだ。人類は大地をおおい、活力は山野に満ち満ちた(君島久子氏前掲書)。

 この詩でも重要なモチーフはそろっています。洪水、瓢箪、兄妹、中心めぐり、神の意思による結婚など。柱のまわりをめぐる日本神話にたいし、大地をまわって二人は出あっています。柱を立てることは小宇宙(ミクロコスモス)を設定することです(諏訪春雄編『巨木と鳥竿』勉誠出版・2001年)。柱をまわるとは宇宙の中心をまわることであり、それは宇宙の星座が天界をめぐって秩序が更新されることになぞらえられる行為なのです。人類の祖先の結婚は世界の始原の時間の行為であったことをしめしています。

 もう一つ。人類最大タブーの近親婚をやぶるために慎重な配慮がほこされています。五体不満足のヒルコや肉のかたまりが最初に生まれてくるのは、インセスト(近親相姦)を犯した結果なのです。

 イザナギ・イザナミの国生み神話は岡正雄氏(「日本文化の基礎構造」『日本民俗大系』平凡社・1958年)以来、東南アジアの兄妹始祖洪水神話の系列に属するものと論じられ、ほぼ定説とされています。また、火の神カグツチの出産を契機としてのイザナミ・イザナミの夫婦別れも沼沢貴市氏の研究(「天地分るる神話の文化史的背景」『アカデミア』・1952年)以来、これも東南アジアに分布している天地分離神話の一種と理解されてきています。

 中国神話にたいする研究が進展していなかった時代の学説がそのまま今日までうけつがれているのです。王権を論じるこの通信のテーマからはなれますので、深入りはしませんが、天地分離神話も中国の少数民族社会に数多くつたえられています。それぞれの民族がそれぞれの天地創造(分離)神話をもっているといってよく、その数は洪水神話を超えるかも知れません。しかも多くは洪水神話とセットでかたられています。東南アジアで発見される断片的な洪水神話や天地分離神話は中国神話が波及していったものと断定できます。

 中国を中心軸として左右対称に、東南アジアと日本・朝鮮には相似の文化や民俗をみることができます。中国で変質してしまったり、うしなわれたりしたものが、東南アジアの各国や極東の朝鮮・日本にのこっている例もすくなくありません。まして、洪水神話や天地分離神話は中国大陸に数多く発見できるのです。これまでの定説は再検討されなければなりません。

 次回は「太陽と稲魂」をテーマに論じます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa20.htm


諏訪春雄通信 21

 今回は、前回お約束したように「太陽と稲魂」というテーマでお送りします。

 前々回19の通信で整理した神話素によりますと、アマテラスにかかわる神話の大筋はつぎのようにまとめることができます。

 黄泉国からのがれたイザナギが穢れをはらうためにみそぎをした左眼から誕生したアマテラスは高天原の支配を命じられた。鼻から誕生したスサノオは海原の支配を命じられたが、したがわなかったので、根の国へ追放された。
 スサノオは根の国へおもむくまえにアマテラスをたずねた。そのあらあらしさに恐れをなした姉の疑いをはらすために、姉弟は誓約をおこない、アマテラスはスサノオの剣をかみくだいて三柱の女神を誕生させ、スサノオはアマテラスの玉をかみくだいて五柱の男神を誕生させた。誓約のあと、勝者としてふるまうスサノオは、田を破壊し、大嘗の御殿を汚し、機織屋に逆はぎにした馬の皮をなげこんだ。
 おそれたアマテラスは天石屋戸にこもり、高天原も葦原中国も暗闇となりさまざまな災いがおこった。八百万の神々は、長鳴鳥をなかせ、玉、鏡、白・青の幣帛などをつけた榊をフトダマノミコトがもち、アメノコヤネが祝詞を奏上し、アメノウズメが神がかりして性器を露出しておどった。八百万の神々が大笑いし、アマテラスがのぞいたところを手力男命が手をとってひきだした。
 アマテラスは、天降りするニニギに「この鏡をわが魂とおもってまつれ」といい、オモヒカネに「神の祭りをつかさどれ」と命じた。鏡とオモヒカネは伊勢の五十鈴の宮にまつられている。

 『古事記』によってまとめたこの梗概からもアマテラスの《太陽神+稲魂》という本質はうかがうことができます。高天原の支配を命じられて、名がアマテラス(天空を照らす)であること、天石屋戸にこもったこと、鏡を魂とするとなどは、アマテラスが太陽神であることをしめしています。

 『日本書紀』を援用すると、アマテラスが太陽神であることはいっそうあきらかです。
 『書紀』によると、アマテラスは、日神(太陽の神)、オオヒルメノムチ(太陽の女神)などとよばれ、「この御子は輝くこと明るく美しく、天地四方の隅々まで照りかがやいた」などと叙述されています。

 天石屋戸ごもりについては、日蝕、冬至、などの解釈がありますが、いずれにしてもアマテラスが太陽神であることをうかがわせます。鏡が本来太陽をあらわしていることは、長江流域のトン族、ミャオ族などの習俗からあきらかです。

 姿をかくした太陽を鶏がよびだす招日神話が中国の少数民族のあいだに伝承されています。ここではミャオ族の「オンドリになぜトサカがあるか」という話を紹介します。

 むかし、天に住む天爺さんにはオテントサンとよばれる十人のせがれがいた。天爺さんは自分がねむっているあいだ、十人のせがれに一人ずつ空を見まわるよう命じたが、子どもたちは父の言いつけにしたがわず、皆で一度に空をまわることにした。しかし、末っ子だけは父の命令をまもって、兄たちに同行せず留守番をしていた。
 九つのオテントサンが照りつけるため、地上は干あがって作物はみな枯れてしまった。こまった人間たちは相談し、声の大きな動物にオテントサンを追いはらってもらうことにし、アカウシ、シシなどがよばれたが失敗してしまった。そこでつぎに弓の名人が太陽を射ることになり、九本の矢で九つの太陽を射落とした。
 兄たちの射落とされるのをみた末っ子の太陽は、肝をつぶし、矢のとどかない山の向こうににげこんで、二度と顔をみせようとしなかった。世の中は真っ暗闇となり、人々はこまりはてた。声の大きな動物に太陽をよびださせることになったが、シシ、アカウシが失敗し、オンドリがよばれた。しかし、しわがれ声で一回めは失敗、二回めも失敗した。猛練習をかさねたオンドリの三回めのよび声にオテントサンは東の山の頂上から大地をのぞいた。あたりは明るくなり、人々はニコニコして歓迎した。
 オテントサンはすっかりオンドリが気にいって、自分の真っ赤な服のはしを切りとって赤い帽子をつくってやった。それからは、オンドリの呼び声にきっと山の後ろから顔をだすようになった。(村松一弥翻訳『東洋文庫 苗族民話集』平凡社・1974年)。

 前半は射日神話とよばれる話型で、後半が鶏と太陽の招日神話になっています。この両神話はセットになって、中国のミャオ族のほかに、ワ、ラフ、ハニ、プーラン、リー、ヤオ、イ、チベット、チワン、トンなどの諸族につたえられています。おそらく、日本に伝来した招日神話も本来は討日神話とセットになっていたものを、前半を切りおとして、体系のなかにくみいれたものとかんがえられます(萩原秀三郎『稲と鳥と太陽の道』大修館書店・1996年)。

 たいせつなことは、日本の王権神話の重要な骨格が中国長江流域の稲作民族の神話で説明できるということです。

 アマテラスが稲魂であるということも、『古事記』からうかがえます。

1.アマテラスが田をつくり、新嘗を主宰している。
2.地上に降臨したアマテラスの孫ホノニニギは稲穂の豊穣の意味をもつ。

 さらに『日本書紀』を援用するとアマテラスの稲魂、穀霊としての性格はつぎの記述によっていっそう明瞭になります。

1.死んだウケモチノ神の身体から生じた稲などの五穀を天の田にうえ、大きな稲穂を収穫している。
2.新穀をたべる新嘗を主宰している。
3.第二の一書によるとニニギの降臨のさいに高天原の田の稲穂をさずけている。

 皇室の祖先神であるアマテラスは、女神、太陽神、稲魂という三つの性格をかねそなえています。このような性格をもった神がトン族に信仰されていることについては、この通信の10で報告しました。トン族の薩神とよばれる神は、民族の祖先神、女神、太陽神、稲魂、歴史上の人物という五つの性格がアマテラスと一致しています。

 また、祖先神・女神・稲魂・太陽神の四位一体となった神が長江中流の稲作民であるミャオ族やハニ族に信仰されていることについては、通信18で報告しました。

 日本の王権神話の発端となっている、
1 日本の天皇家は国土を生成し時間の秩序をさだめた兄妹神イザナギ・イザナミの子孫である
2 日本の天皇家の直接の祖先神アマテラスは太陽神であり稲魂である

という二項の骨格部分が、中国の長江流域稲作地帯の神話伝承や習俗で説明できることをこれまでにのべました。

 次回は、以上の1と2につづく天孫降臨神話についてもおなじ説明方法が適用できるかどうか、検討します。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa21.htm


諏訪春雄通信 22

 前回の通信で次回は「天孫降臨神話」についてお送りすると予告しましたが、1回先延ばしさせていただき、今回は「沖縄の稲作」というテーマでのべます。

 私たちのプロジェクトは学外の各種機関から助成金をもらって活動を継続しています。その援助機関の一つ、サントリー文化財団から、沖縄祭祀研究のテーマで平成12年、13年とつづけて助成金をうけました。そのために、1月23日、大阪の財団本部で、財団理事の方々やほかの研究プロジェクト代表をまえに研究報告をしなければなりません。今回はその報告の概要をお送りします。

 日本列島へ大陸から稲がわたってきた経路は三つかんがえられます。1:朝鮮半島経由ルート、2:江南からの直接ルート、そして3:沖縄経由ルートです。この3のルートは、柳田國男が昭和36年に刊行した『海上の道』で主張した説です。

 1,2は考古学の裏づけがありますが、3には古い遺跡も出土品もありません。いまのところ、沖縄の最古の稲は、玉城の糸数城遺跡から出た、西暦10世紀ごろのもので、それより古い稲は発見されていません。したがって、考古学者や歴史学者は3をみとめませんが、一部の民俗学者や農学者のなかに、かなり根強い支持があります。

 その一人、遺伝子分析で大きな成果をあげている農学者の静岡大学助教授の佐藤洋一郎氏は、東南アジアから台湾、沖縄、九州にかけて、現在、焼畑耕作にともなう熱帯ジャポニカが点在することを根拠に、3の海上の道説は、《魅力ある仮説》といいきっています。

 一方は考古学上の証拠、他方は現在の熱帯ジャポニカの分布、という相反する事由にもとづく二つの対立した立場に、解決の道をさぐろうとして、私は沖縄と本土の稲魂信仰に注目しました。そして、成熟度に差異があることを根拠に、私は沖縄の十世紀以前の稲作の存在を疑問視しています。

 社会人類学者の伊藤幹治氏は、昭和49年に刊行された『稲作儀礼の研究』(而立書房)で、本土と沖縄の稲作儀礼の周到な比較研究をとおして、両者の異質性を指摘し、柳田國男や折口信夫らが研究の立脚点とした本土日本と沖縄の同祖論を否定しています。

 私はおなじ見方が稲魂信仰や太陽信仰に適用できるとみます。そして、本土日本の稲魂信仰と太陽信仰・祖霊信仰の結合は、稲作の誕生地である中国の長江流域の影響を直接にうけているからとかんがえます。沖縄の稲魂信仰は本土を経由して時間をかけて伝来したために、沖縄固有のニライカナイ信仰に包摂されて変質したものと判断しています。以下、私の報告書を掲載しましょう。


沖縄の太陽信仰と稲魂信仰
   沖縄民俗祭祀の源流を東南アジア・中国大陸南部・台湾などの黒潮文化圏に探る研究
                代表:学習院大学文学部 教授 諏訪春雄

 沖縄の神観念
 沖縄の固有信仰の対象となる神々を二つにわける見方がある(高阪薫「沖縄の祭祀と神観念」同氏編『沖縄の祭祀―事例と課題』三弥井書店・1987)。

A 可視と不可視

 見える神…表象認識できる特定の場に滞在する神      
アニミズムの要素をもつ自然の神々 屋敷神 井の神 カマドの神(火の神) 御嶽の神など
 見えない神…表象認識できない不特定な空間のいずこかに存在する観念的、抽象的な神
火の神 ニライカナイの神 竜宮神 アマミヤシネリヤ(開闢神) 祖霊神 オボツ神(天上や山上の神)など
 
B 信仰集団

 家レベル
オナリ神 火の神 祖先崇拝 アニミズム的な具象の神々
 村レベル
御嶽の神 火の神 ニライカナイ神 祖霊神 竜宮神 アマミヤシネリヤ オボツ神など

 このような体系のなかで、太陽神はAでは見える神、Bでは村レベルに分類できるが、ここにあげられた神々ほど顕著な神格ではない。沖縄の年中祭祀を検討しても太陽神だけを対象とした祭祀はみとめられない。粟国島の正月のユークムイ(世を乞う丘)で区長が東方にむかって豊穣を祈願するのは太陽信仰の数すくない事例である。しかし、太陽神を「てるかは」とよんでいる例が『おもろさうし』にみえるところからも、太陽が信仰されていることは確実である。

 これにたいし、稲を対象とした祭りは多い。旧暦の八月前後におこなわれる豊年祭(広義には、八重山諸島の六月下旬のプールィ、八、九月の結願、十月の種子取祭、宮古諸島の世乞いなどもふくめる)は豊穣祈願を目的とし、稲をはじめとする五穀の豊作が、豊漁、子孫繁栄などとともに対象になる。また、稲霊(魂)信仰が存在することは、旧暦八月にアマミ大島でおこなわれるショッチョガマ(片屋根のわらぶき小屋)、つづく平瀬マンカイ(招き合い)によってあきらかである。ともに収穫感謝と豊作祈願の祭であり、この祭で男、女のとなえる文句のなかに稲霊があらわれる

 稲霊が祈願対象となるショッチョガマと平瀬マンカイの基本構造は対応している。

  早朝―男性―垂直神
  夕方―女性―水平神

 ショッチョガマで男たちによってとなえられる文句はつぎのようである。


ハー、トートガナシ(神への尊称・神拝みの常套句)
八月の新節がやってきて
ショッチョガマ祭を祭ってあげましょう
西東の稲霊様は
伊津部の田袋に お寄り下さって
伊津部田袋の稲霊様は
秋名田袋に お寄り下さって
北風が吹いたら上の畔を枕にして
南風が吹いたら下の畔を枕にするように
稲を実らせて下さい
そして名を上げて下さい トートガナシ

 ここで稲霊様は天から招かれている。

 女たちが掛合いでうたう平瀬まんかいの歌はつぎのようである。


〈神平瀬〉
 玉の石に登って 何のお祝いをしましょう 西東の稲霊を 招き寄せよう
〈女童平瀬〉
 秋名の親ノロが すべての稲霊を寄せて 村があるかぎり 祭ってあげましょう
〈神平瀬〉
 朝潮の満ちあがるころは ショッチョガマの祭り 夕潮の満ちあがるころは 平瀬の祭り
〈女童平瀬〉
 今年世は変わって 不思議なことに 海の魚たちが 陸にあがってきたことよ
            (口語訳のみ 『おきなわの祭り』沖縄タイムス社・1991年)

 ここでは稲霊様は海の彼方から招かれている。

 これらの歌から、沖縄の稲霊は、1.稲の豊穣をつかさどる、2.天または海の彼方から招かれる、3.漁労、狩猟などの豊かさをつかさどる神々と同格である、などの性格がみちびきだされる。
 沖縄の稲魂信仰は固有のニライカナイの信仰に包摂されている。


 日本本土の太陽信仰と稲魂信仰

 日本本土では太陽信仰をまだ各地でみることができる。正月に初日の出をおがむこと、彼岸の社日(土地神の祭り)参り、お日待ち、天道信仰、天道念仏、天道花、お火焚き神事、おびしゃの神事、ゲーター祭などの行事や習俗となってあらわれている。

 天道信仰はとくに対馬を中心とし、北九州などにも分布する。日神信仰と稲魂信仰を合体させ、真言密教の教義で体系化したものである。天道は天童とも書き、テンドウサンとよばれる。赤米を耕作し、その稲魂を加持祈祷して神霊とし、崇拝の対象にした。このテンドウとはべつに真言密教系統の天道法師とよばれる菩薩を信仰の対象にした。この天道童子は母が日光に感精して懐妊し、成長して僧となったという伝説をつたえる。

 天道念仏は、福島、茨城、栃木、千葉などの各県におこなわれている念仏行事である。四本の竹で櫓をくんで注連縄をはり、中央に梵天をたて、供え物をして、梵天を中心にして右回りに念仏をとなえながらおどる。一月から三月彼岸にかけて集中しており、テントウすなわち太陽の信仰が核になっており、そこに出羽三山の信仰や大日信仰、念仏信仰などが集合したものとされている。

 関東地方にことに集中して分布するオビシャは、三本足の烏または烏と兎を一対でえがいた的を弓で射る正月行事である。烏は太陽、兎は月をあらわすものとされ、中国にはじまって日本に伝来した射日神話である。太陽の死と再生を儀式化したものと理解されている。おなじように、三重県鳥羽市神島で年の暮れから元旦の早朝にかけておこなわれるゲーター祭も、太陽の死と再生による秩序の更新をはかるものと理解されている。この祭では、アワとよぶぐみの枝に白紙をまいてつくった直径二メートルほどの輪を、若者たちが雌竹ではげしくたたき、初日の出とともに東の浜で高々と空につきあげる。アワは日輪をかたどり、たたくことは偽の太陽をたたきおとすことであり、空につきあげる行為は日の出を意味する。ゲーターとは迎旦つまり日の出をむかえることという。

 稲魂にたいする信仰も、前述の対馬の赤米神事以外にも本土各地でみることができる。その年の初穂を神にそなえて感謝する新嘗祭、十二月の始めに田の神をむかえて収穫を感謝し、二月のはじめに豊作を祈願して田の神をおくりだす能登半島先端部のアエノコトの行事、その年の稔りの豊さを祈願する祈年祭などの行事に稲魂の信仰をみることができるし、ハレの日の餅、悪鬼ばらいの散米、墓への供物としての洗米、病人の枕元での振り米、出産のさいの力米などにも米の霊力にたいする信仰がある。

 本土の太陽信仰と稲魂信仰は全体としてつぎのような特色をもっている。
1.対馬の天童信仰からあきらかなように太陽信仰と稲魂信仰の合体がみられる。
2.能登のアエノコトにしめされるように祖霊信仰と稲魂信仰の合体がみられる。
3.稲の豊穣をつかさどるだけではなく、人間の寿命や健康までを左右する米の霊力にたいするつよい信仰が存在する。

 以上を総合して、本土の稲魂信仰は、沖縄よりもはるかに成熟していると、結論づけられる。そして、稲魂信仰と太陽信仰や祖霊信仰との結合は、中国の長江中流の稲作地帯の少数民族社会におこなわれている信仰が、稲作とともに日本に伝来したものとみることができる。


稲の来た道

 よくしられているように、柳田國男は昭和36年(1961)に刊行された『海上の道』で、日本人の先祖は稲作をともなって中国大陸南部から沖縄に漂着して宝貝を発見し、その魅力にとりつかれ、また稲作の適地をもとめて、日本列島各地にひろがったという日本人北上論をとなえた。

 このような柳田の論は現在の考古学の裏づけを欠いている。

 沖縄に稲作のはいった時期は、玉城の糸数城跡から麦とともに出土した炭化米の時代判定によって、10世紀以前とみられ、そのころにはかなり栽培されていたとかんがえられる。また、1477年(尚真一)に与那国島に漂着した朝鮮済州島人(金非衣ら)の記録によると、与那国・西表・伊良部・宮古・沖縄の各島に稲作がおこなわれているとの記述がみられ、15世紀後半には沖縄全域で稲作がおこなわれていた(「いね」『沖縄大百科事典』)。

 沖縄に稲の来た道も最近の研究によれば、中国南部から直接に伝来するよりも日本本土を経由した可能性がつよい。

 本土の最古の稲は岡山県や鹿児島県などから出土しており、縄文時代前期、6000年前にまでさかのぼる熱帯ジャポニカである。おそらく焼畑耕作によって、ヒエやアワ、キビなどの雑穀とともに栽培されていた。この熱帯ジャポニカは中国大陸の江南地方から直接日本に渡来していた。

 日本で熱帯ジャポニカが焼畑で耕作されだした、ちょうどそのころ、中国江南では水田耕作による温帯ジャポニカの生産がはじまっていた。現在わかっている水田の最古の遺跡は江蘇省蘇州市の6000年前の草鞋山遺跡である。この水田は朝鮮半島をへて縄文晩期の2600年前には佐賀県唐津市の菜畑遺跡におよんでいた(浦林竜太「イネ、知られざる1万年の旅」『日本人はるかな旅』NHK出版・2001年)。

 水田稲作は、朝鮮半島を経由せず、直接、中国から日本に伝来したものもあった。遺伝子研究によって、佐藤洋一郎氏は、水稲は、中国からの直接ルートと朝鮮半島経由ルートの二つがあったことを主張している(「DNAからみたイネの道」『日本人はるかな旅』)。

 こうした大陸から本土への稲の道に沖縄は登場してこない。

 柳田國男が主張したように、沖縄への稲の伝来を10世紀以前に想定する可能性がまったくないわけではない。

 佐藤洋一郎氏作成の「熱帯ジャポニかの分布図」によると、現在、熱帯ジャポニカは、中国南西部からインドシナ半島半島奥地にかけての地域と、フィリピンやインドネシアなどの熱帯島嶼部で栽培されている。また、熱帯ジャポニカ固有の遺伝子をもつ品種が、台湾の山岳部から南西諸島を経て九州にまで点在している。この事実から佐藤氏は、〈かつて柳田國男が主張した「海上の道」はがぜん魅力ある仮説となる〉とのべている(佐藤洋一郎氏前掲論文)。

 沖縄から古い米が出るか出ないかはいまのところ判断材料はない。また、アジアの熱帯ジャポニカの原産地は中国長江中流域であり、日本には6000年まえには伝来していた。沖縄の熱帯ジャポニカも本土経由の可能性をすてきれない。しかも、沖縄の稲魂信仰が本土にくらべて、太陽信仰や祖霊信仰とむすびつくことがないなど、未成熟または変質の事実を考慮すると、沖縄に十世紀以前のふるい稲作を想定することはむずかしい。
 沖縄の稲作の祭祀儀礼じたいが本土とはかなり異質である(伊藤幹治『稲作儀礼の研究』而立書房、一九七四年)。長い時間をかけて本土から沖縄につたわったために、独自の風土と信仰のなかで変質していった可能性がかんがえられる。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa22.htm


諏訪春雄通信 23

 今回は「天孫降臨神話」についてのべます。

 日本古代神話のなかでも、天孫降臨神話についての研究は格段にすすんでいます。この神話が、日本の王権神話のなかでも核心となる部分だからです。松村武雄、三品彰英、大林太良、西郷信綱、松前健、吉田敦彦などという名立たる神話学者の研究がつみかさねられ、日本の天孫降臨神話が朝鮮半島から内陸アジアにかけてひろく分布している、祖神の天降り神話に由来することは定説となっています。

 これまでに上記の研究者たちによって指摘されている先行神話はつぎのようなものです。

 まず朝鮮の歴史書『三国遺事』がつたえる檀君神話です。
 天帝の子の桓雄は父の命令によって、天符印三個をもって、風・雨・雲および穀物・生命・疾病などをつかさどる神々をひきいて、太白山山上の檀の木をつたわって降臨した。このさいに、熊がよもぎとにんにくをたべて、女に化身し、桓雄と結婚して檀君を生んだ。この檀君が国をひらいて朝鮮と命名した。

 おなじ『三国遺事』がつたえる首露王神話はつぎのようになっています。
 伽耶地方の村々の首長らが亀旨峰という山にあつまって、迎神の祭りをおこなっていると、天から紫色の紐がたれさがってきた。紐の端をみると、黄金の卵が六つはいっている赤い包みがあり、そのなかの一つから伽耶国の始祖である首露がうまれた。

 もう一つ、ブリヤート・モンゴル族のゲセル神話です。
 至高神デルグエン・サガンは、マラトの民の哀願を聞き、一日も早く天神を降して悪者を退治しなければならないと考えた。彼はドロン・オドウン天に全天の諸神九十九柱の主な神々と、天上に住む数千のブルハンをあつめて、悪者征伐の大評定を開いた。最初、至高神サガンの子、カン・チュルマスを下すべきことが提案されたが、チュルマス神は老齢を理由にことわった。そして自分の末子ゲセル・ボグドゥに天下りを命じるよう乞い、四歳のボグドゥが天命を拝受した。ボグドゥは、1)全天の九つの天の主宰神がもつ智謀のすべて、2)祖父のもつ黒い軍馬、3)英雄の準備金、4)祖父の蹄縄、5)祖父の短い槍、6)一人の妻を所望し、これを手に入れて下った。

 この神話を紹介された大林太良氏は、
1.天神の子が天下ることをことわり、孫がその代りに天下る。
2.天下る神が幼児である。
3.日本の三種の神器にあたるものに蒙古の六種がある。
4.日本では荒ぶる神のいる葦原中国を平らげるために神集いにつどい、その結果国譲りがおこなわれたが、蒙古神話でも、荒ぶる神を平らげるために天神の子をくだそうとして神々の大評定がおこなわれた。

という四点の類似をあげて、「おそらく元来はアルタイ語族系の牧畜民文化を母胎とした神話であって、日本へは、皇室の先祖の起源神話として入ったものであろう」と結論づけておられる(『神話と神話学』大和書房・1975年)。

 以上、日本の天孫降臨神話を北方系としてとらえる視点が定着しています。そのばあい、私がこの通信でこれまでのべてきた日本の王権神話の源流であった南方農耕地帯の神話や習俗との関係はどうなるのでしょうか。

 じつは、南方長江流域の少数民族社会にも、民族の祖先が天から穀物をもって下ったという種類の神話や伝説は流布しているのです。いままで考慮されなかっただけのことなのです。そのなかから二つの神話を紹介します。

 まず雲南省を中心にすんでいるナシ族の神話です。

 大昔、兄弟姉妹が近親婚をはたらいたために神の怒りをかって大洪水がおこり、わずかな人類はほろびました。皮鼓のなかにはいってただ一人生きのこったツォゼルウは、天神ツラアブの娘ツフブブミと出会って恋におち、天にともなわれ、父の天神に会いました。若者が気に入らない天神は、一日のうちに九つの林の木をきる、伐採した木を一日でやきはらう、焼け跡に穀物をまいて収穫する、収穫した穀物のうちじゅずかけ鳩と蟻にたべられた三粒の穀物をとりもどす、岩羊の猟のさいに天神のしかけた罠からのがれる、川魚猟のさいに天神のしかけた罠からのがれる、虎の乳をしぼってくる、などの試練を課しましたが、ツォゼルウは娘の知恵にたすけられてことごとく突破します。さすがの天神も二人の結婚をゆるし、家畜、穀物の種などをあたえて下界へかえしてやります。二人は地上の多くの種族の祖先となりました。

 前半は省略しましたが、天地創造神話と洪水型神話が結合しており、後半はスサノオとオオクニヌシの神話と同型の難題婿の話型になっています。しかも天神の娘が人間の男とむすばれて天上から穀物をもたらし、地上の多くの種族の祖先となる話にもなっています。

 もう一つ、湖南省から広西チワン族自治区にかけて居住するヤオ族の神話を紹介します。

 大昔、天は今よりも低いところにあり、人間は大木をつたわってたやすく天へあそびにゆくことができました。そのころ天神に命じられて地上の水をつかさどっていたのは天上にすむ水仙姫でした。ある日、彼女は地上からきた若者に夢中になって、水口をふさぐのをわすれ、地上は大洪水におおわれてしまいました。天神のはげしい怒りにおそろしくなった水仙姫は、若者の手をとってにげだしてしまいました。水仙姫の両親は二人をさがしまわり、月宮の桂の木の下にいる娘と若者を発見しました。たのもしい若者と娘がいることに安堵した両親は、二人に穀物の種子とゴマの種子をあたえて地上へにがしてやりました。
 地上はすでに水がひいていました。二人は穀物とゴマの種をまき、人類や動物をつくりだしました。天神は地上が元通りに豊かになっているのみて、二人をゆるしました。ただ、地上の人間が天に上ってくるのをふせぐため、天をたかくひきあげてしまいました。このときから、地上の人間は天へ登ることができなくなりました。

 このような神話はまだ数多くつたえられています。いずれきちんと分布状況を整理したいとおもっています。

 さしあたり今はつぎのようなことがいえます。
1.天孫降臨神話の骨格は北方諸民族の山上降臨型神話によって形成された。
2.しかし、その北方系神話をうけいれた基盤は、南方農耕民族の天から穀物をもたらし地上の人類の祖先となる神話、稲魂信仰、太陽信仰などであった。そのために天孫ホノニニギは豊穣な穀霊、太陽神などの性格ももつことができた。
3.天孫降臨神話は、シャーマニズムの二つのタイプ、脱魂型と憑霊型が融合して誕生した。

 この3についてさらに説明をくわえておきます。

 天に神がいますという信仰は、北方狩猟採集民族の脱魂型にもとづきます。他方、その神々が地上に降臨して人間にまじわるという信仰は農耕社会に優勢な憑霊型です。この二つが融合しなければ、天孫降臨神話は成立しません。

 2と3をあわせて、これまで、北方系神話が伝来したものといわれてきた天孫降臨神話を、北方、南方両系統の複合としてかんがえなおそうというのが、この通信23の主題です。

 これ以降の日本王権の展開は、北方原理にもとづく思想と南方原理にもとづく思想の葛藤・複合としてとらえることができます。その最初のモデルが天孫降臨神話なのです。これを北方原理だけとしてとらえると、日本の王権の本質は解明できませんし、永続の秘密もみえてきません。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa23.htm

諏訪春雄通信 24

 今回のテーマは「根の国神話」と「海幸山幸神話」です。この二つの神話は、ともにこれまで長江流域の神話や伝説とむすびつけてかんがえられることはほとんどありませんでした。ほとんどといったのは、海幸山幸神話にかぎっては少数意見として、長江流域に源流をもとめる説が存在するからです。

 まず根の国神話から検討してみます。
 王権にかかわる日本神話の基本構造は通信19で整理しておきましたが、念のために根の国神話の梗概をのべておきます。


 オオクニヌシは、兄の八十神たちが因幡のヤカミヒメのもとに求婚におもむいたときに袋を負って供をし、ワニに皮をはがれ、兄たちにおしえられた偽りの治療法で苦しんでいた白兎をすくった。
 白兎の命をすくったことでヤカミヒメの愛を得たオオナムチ(オオヌニヌシの別名)は兄たちのねたみをうけ、二度も命をねらわれたが、母神にすくわれ、根の国へのがれた。そこでスサノオから、蛇、ムカデ、蜂、野火などの試練を課せられたオオナムチは、スサノオの娘スセリビメの助けによって難をのがれ、太刀、弓、琴などの宝物を入手した。宝物の威力で兄弟の神々に復讐し、葦原中国の王者オオクニヌシとなる。

 この神話についても、これまでに、松村武雄、松前健、西郷信綱など各氏の研究がすでに世に出ていますが、一種の成年式、通過儀礼としての解釈をしめすのみで、典拠または原型が指摘されたことはありません。

 しかしこの根の国神話の由来も、長江流域の少数民族の神話や伝説にもとめることができるのです。

 前回の通信23で、私は天孫降臨神話の原型として、雲南省にすんでいるナシ族の神話と湖南省や広西チワン族自治区にすんでいるヤオ族の神話を紹介しました。この二つの神話は地上の人間の先祖が天上から稲をもたらす話であるとともに、前者のナシ族の神話は、地上の若者が天神の課した数々の試練を天神の娘の愛と助けによってのりきり、地上に家畜、穀物の種などの宝物をもたらす話でもあるのです。

 このナシ族の神話と日本の根の国神話とはつぎのような類似点をもっております。
1.地上の若者が異界をおとずれる。
2.異界の王から数々の試練を課せられる。
3.試練を異界の王の娘の助力によってのりこえる。
4.その異界の王の娘と結婚し、王から宝物をあたえられる。
5.二人は地上に生還し、地上の人種の祖先となる。

 もちろん、日本の根の国神話と比較すると、異界が根の国にたいし天界であり、宝物が呪術的な宝器にたいする家畜・穀物である、などの相違もあります。

 しかし、私はこの相違よりも、問題のナシ族の神話が、中国長江流域の少数民族社会の思想や信仰と日本の王権神話の構造的関連を検討するという、大きな構想のなかにうかびあがってきた資料であることを重視します。日本王権神話の骨組みを構成する中国長江流域の神話・伝説群にぴたりと適合する神話であり、いわばミッシングリンクであるということです。

 当然、同地域のほかの民族の神話や伝説のなかに類似の話があるであろうという予想のもとに、私は手許の資料にあたってみましたが、いまのところ、同型の話を見出していません。時間をかけて、ていねいに文献を読むだけのゆとりが、この時期の私にないという事情もはたらいているのかもしれません。この通信を一冊の書物にまとめるときまでに類話を発見しておきたいとかんがえています。

《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》という、これまで何人もおもいつくことのなかった基本構想のもとに、つぎに海幸山幸神話を検討します。

 海幸山幸神話の梗概はつぎのようにまとめられます。


 ホデリとホオリの兄弟は、海幸彦、山幸彦として漁労と狩猟にしたがっていた。あるとき、兄弟は釣針を弓矢と交換し、山幸は兄の釣針をうしなった。兄にせめられた山幸は海神の宮をたずね、娘のトヨタマビメをめとり、釣針をとりもどした。海神から呪詛の方法をまなび兄の海幸をくるしめて臣従させた。

 この神話は通常、兄弟争いと復讐、海神国訪問、異類婚という三つの要素にわけて説明されます。このうち、兄弟争いについては、東南アジア系の類話が報告されています(『上代説話事典』雄山閣・1993年)。
 インドネシアのケイ族につたわるヒアンとパルバラ兄弟の話はつぎのような梗概です。


 天上に兄弟がいた。ある日、弟のパルバラが釣りをしていて、兄のヒアンから借りた釣針をうしなってしまう。兄は返せとせめた。弟はさがしまわり、偶然出あった魚の協力で、のどに針のささった一尾の魚をみつけた。弟は兄に釣針を返したが、一計を案じて兄に油をこぼさせ、その油を返せとせまった。

 ほかにパラウ島の伝承も紹介されています。


 釣針を魚にとられた族長の息子アトモロコトが父にしかられて海中アダックの地にゆく。そこで釣針をのみこんでくるしんでいる女リリテウダウに会う。針を吐きだして痛みがなおった女は、アッダクの支配者であった。アトモロコトが自分の孫であることを知ったリリテウダウはなんでも欲しいものもって帰ることをゆるす。

 このような説話が紹介されたことによって、源流をインドネシア方面にもつ「失われた釣針型説話」を原型として、婚姻や出産、通過儀礼などの要素がそこにくわわってこの神話が形成されたという説が定着しています。

 この定説形成に大きくはたらきかけた要因が、この神話が隼人の服属神話として王権神話にくみここまれたという事実です。隼人の故郷を東南アジアにもとめる視点はかなりな妥当性をもって承認されるからです。

 しかし、私は今年最初の通信20で、東南アジアの兄妹始祖洪水神話の系列に属するとこれまでされてきたイザナギ・イザナミの国生み神話がじつは長江流域に数多く発見される洪水神話にもとづくことを論証しました。東南アジアで発見される洪水神話は、分布状況から判断しても、中国から伝播したものとみられます。

 海幸山幸神話の原型も、同様に、中国の長江流域でおこなわれていた伝承が、隼人の服属神話に組みかえられて、『古事記』や『日本書紀』の神話体系にとりこまれたというように判断されます。

 そのように主張するのは、中国の長江流域で、兄弟の争いと復讐、海神国訪問、呪術的宝物の獲得、などの重要なモチーフをそなえた話がつたえられているからです。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa24.htm


諏訪春雄通信 25

 今回のテーマは前回につづいて「海幸山幸神話」です。

 この神話については東南アジアに原型をもとめる説がつよいことについては前回に紹介しました。この神話にかぎらず、全体として日本神話の源流を東南アジアにもとめる傾向が目立つことは、この通信で再三ふれてきました。その理由は二つあります。

 第一の理由は中国神話の調査が不十分だったことです。私は1988年(昭和63)に初版の出た著書『日本の幽霊』(岩波新書)のなかでつぎのようにのべたことがあります。


 中国は幾度も王朝が交替した。王朝が交替するたびに、新しい歴史がつくりなおされ、前王朝の遺制が破壊されたので、日本の『古事記』や『日本書紀』が伝えたような体系的な神話や伝承が後代に残らなかった。中国神話の研究が立遅れている根本の理由はそこにあり、さらにそれに加えて、もともと孔子が『論語』の中で「子は怪力乱神を語らず」といった国柄なので、神話や伝承の類についての研究はあまりさかんではなかった。

 この説明はいまも通用するとおもいます。儒教をまなんだ中国の知識人も、またその影響をうけた日本の研究者も、ながい間、中国には体系的な神話は存在していないとかんがえてきたのです。しかし、この考えは大きな誤りです。私は『日本の幽霊』のなかで、前掲の文につづけてつぎのようにのべました。


 しかし、1950年ごろ、つまり解放の翌年ごろから、中国の神話研究は、ミャオ、チベット、ヤオなどの少数民族のあいだに伝えられてきた口承神話に注目しはじめた。文化大革命によって一時的に頓挫したが、七十七年に復活、前にも増して活発に研究は続行され、少数民族のあいだにそれこそ無尽蔵といってもよいほどに貴重な神話が蔵されていることが明らかになってきた。

 いまから15年もまえに書いた文章ですが、結局、私自身で実践するよりはかはないというのが、この通信をはじめた動機の一つです。

 第二の理由は、当然のことですが、東南アジアについての研究が中国の少数民族の研究よりもはるかにすすんでいるということです。しかもその研究は、日本人による研究ではなく、ほとんどは欧米の学者による研究なのです。海幸山幸神話にかぎっても、前回の通信で紹介したように〈失われた釣針〉型の神話と類似の神話が東南アジアで分布している事実を最初に報告したのは、19世紀以来のフリードリヒ・ミューラーやフロベニウスといったようなヨーロッパの研究者たちだったのです。

 ヨーロッパの研究者による東南アジア研究が先行し、中国少数民族社会の研究は文献資料を欠くためにいちじるしくたちおくれていました。この事実が、日本神話の原型を東南アジアにもとめさせることになったのです。

 ただ故人の大林太良氏は、晩年、日本神話の源流として中国南部にとくに注目しておられました。1995年10月28日、29日の両日に私たちのアジア文化研究プロジェクトが学習院大學で開催した公開講演・フォーラム「日本民族の形成」で「日本神話の系統」という題で講演されたさいにも、その最後を、


 このように日本神話の系統論にはまだまだ多くの問題があるということ、そして中国の江南がそのなかで大きな地位を占めていること、を申しあげて、私の講演を終わりたいと思います。

とむすんでおられました(諏訪春雄・川村湊編『日本人の出現―胎動期の民族と文化』雄山閣・1997年)。氏がお元気であられたら、おそらく、中国南部と日本神話の結びつきの研究はかくだんにすすんだこととおもわれます。

 すこし話が横にそれますが、私がこの王権神話と並行して研究をすすめている来訪神祭祀にもまったく類似した現象があります。

 よくご存知のように、日本の各地で、季節の変りめに仮面をかぶったり、蓑笠をつけたりする異様な風体をして集団で部落や村へおとずれてくる来訪神の儀礼が保存されています。秋田県男鹿半島のナマハゲは有名ですが、ほかにも沖縄のアカマタクロマタ、パーントゥ、マユンガナシ、鹿児島県のトシドン、石川県のアマミハギ、新潟県のアマメハギ、山形県のアマハゲ、岩手県のスネカタクリ、青森県のシカタハギなどなど、その数は40種をこえます。

 この日本の来訪神儀礼の源流を、太平洋上のメラネシア・ポリネシアの島々におこなわれている秘密結社の儀礼にもとめる説を提出したのが、日本の文化人類学者の草分けとでもいうべき岡正雄でした(「異人その他―古代経済史研究序説草案の控へー」『民族』三巻六号、昭和3年)。

 岡は、秘密結社には未成年者や女子を参加させず、加入には厳重な入社式をおこない、その成員は時あって異様な服装を身につけ、怪音を出してその出現を報じ、村々を横行して、強奪威圧をあえてし、あるいは祝詞をのべる行為をするなどなど、全部で23条の特色をあげて、この異人こそが日本の来訪神儀礼の源流であると主張しました。

 80年ちかくもむかしにだされたこの岡説は、いまも多くの信奉者をあつめています。しかし、この説は、岡正雄自身が太平洋上の島々を調査して提出した説ではなく、19世紀から20世紀の初頭にかけて、コドリントン、リヴァーズ、ウィリアムソンなどの欧米人類学者の調査に全面的に依拠した説だったのです。

 岡説の問題点は、煎じつめますと、(イ)異人と来訪神が混同されている、(ロ)来訪する目的が日本の来訪神に適合しない、の二つにまとめることができます。男子だけによって維持される仮面結社儀礼は世界各地の農耕社会にひろくみられる習俗であり、日本との関係を想定するためにはその本質が厳密に検討されなければなりません。

 私は、中国の長江流域、稲作農耕の誕生地である湖南省にはじまって中国全土にひろまっていった来訪神儀礼13種の調査結果にもとづき、出現の時期、役柄、服装、神の性格、扮装、持物、出現の目的、演じ手の6項目にわたって、日本の来訪神儀礼との共通性を確認しています。日本の来訪神儀礼は中国の来訪神儀礼が稲作農耕とともに日本へわたってきたものと断定できるのです。中国、ベトナム、日本などの分布状況から、その渡来の経路もほぼ特定できます。

 大林太良氏は、海幸山幸神話を海の原理をあらわす海幸と山の原理をあらわす山幸の闘争というようにとらえられ、江南地方につたわる呉越の戦いの伝説をその原型として紹介しておられます(『日本神話の構造』弘文堂)。

 中国江南の浙江省の大河銭塘江は満潮時におこる逆流の高波現象が天下の奇観として有名です。私もちょうどその時間帯にいあわせて、下流から上流にむかっておしよせてくる潮流の迫力に圧倒された体験があります。この逆流現象を春秋時代の呉と越の戦いにむすびつけた伝説が、『呉越春秋』につたえられています。大林氏はその伝説を山の原理をあらわす越と海の原理をあらわす呉との闘争の結果、山の原理が勝利する話として分析されたのです。

 『呉越春秋』の巻三がつたえる伝説です。
 呉と越が一進一退の戦いくりひろげていた時代、呉王夫差は越との和解をかんがえ、越王の提示した講和の条件を呑むことにした。しかし、父の時代から呉につかえていた臣下の伍子胥が講和にはげしく反対したので、夫差は伍子胥に死罪を科した。その死体をなまずの皮の袋にいれて、銭塘江になげこんだ。それ以来、子胥の亡霊はこれをうらんで、潮を逆流させ高波で人びとを溺死させたという。

 また、『呉越春秋』巻六では、越王勾践も家臣の文種に死を命じて、その死体を三峰の下に埋めた。その一年後に、子胥が海上から山に穴をあけて、種をつれさり、共に海上に出現して人々をなやましたという。

 大林氏はこれらの伝承から、越は山の原理、呉は山の原理を代表し、子胥が死後に高潮をおこしたことは、海幸山幸神話で山幸彦が干満珠をもちいておこした満潮に対応するとされました。しかし、山に死体をほうむったから山の原理、海(事実は川)に死体を投じたから海の原理をあらわすというのは、ややくるしい解釈のようにもおもわれます。

 大林氏の紹介した呉越の物語よりも、もっと海幸山幸神話に接近した伝承を紹介されたのが伊藤清司氏でした(「日本と中国の水界女房譚」『昔話―研究と資料21・日中昔話の比較』三弥井書店)。湖南省の土家族のあいだにつたえられている「格山竜珠を与えられる」という話です。


 ある村里に二人の兄弟がいた。兄を格路、弟を格山といった。兄夫婦が格山につらく当たった。堪えられなくなった格山は、ある老人のすすめにしたがって家をぬけだし、さまよいあるく途中、大蛇におそわれて呑みこまれそうになっていた一羽の黄鶯をたすけた。すると、その鶯はうつくしい人間の娘に変わり、竜王の三女と名のり、格山と夫婦になって、竜王の国におもむいた。格山は竜宮で連日歓待をうけたが、やがて望郷の念が昂じ、妻をともなって地上へもどった。帰郷にさいし、竜王が金銀財宝を土産にあたえようとしたが、格山はそれをことわり、
「郷里は水が不足し、田作りもままならず、人びとは暮らしに困っている。水を自由にできるものが欲しい」
と願い出た。そして呪宝の竜珠をもらいうけ、竜王の娘と故郷にもどった。そこで二人は山の上にのぼり、頂から竜珠をたむけると水は奔流となって噴出し、たちまち村の田という田をうるおし、おかげで土家の人びとは裕福になった。

 この話の後日談を伊藤氏が紹介しています。


 如意宝珠である竜珠をもちかえった格山は、その竜珠からりっぱな御殿を出し、その御殿で竜神の娘といっしょに幸福な日々をおくった。意地悪な兄夫婦はそれを知ってねたみ、二人を焼きころそうとするが、格山は竜珠をもちいて逆に兄夫婦を焼きころし、他方、その呪宝から水を噴出させて潅漑の水になやむ土家族の田畑をうるおし、りっぱな耕地に変えた。

 伊藤氏はこの伝説と海幸山幸神話の類似点として、
1.水界訪問
2.水界の女性との結婚
3.水界の女性との結婚
4.水界よりの呪宝の将来
5.呪宝による水の支配
6.兄への復讐

などをあげ、弟の山幸彦が呪宝を得て、最後に日本の統治者の祖先になったという結末と、弟の格山が海神からあたえられた呪宝によって土家族の世界に楽土を実現したという結末とは共通すると主張しています。

 この土家族の伝承と日本の海幸山幸神話の類似性はうたがうことができませんが、「失われた釣針」というモチーフのないのは気にかかるところです。今後、精査する必要があります。

 これまでこの通信でふれてきた稲作農耕地帯に海幸山幸神話につうじるような伝承が散在しています。そのなかには、釣針を魚網にかえただけの同じモチーフの伝承が存在します。私のノートから紹介しましょう。


 むかし、非常にまずしいが人に親切な漁夫がいた。ある日、大河の堤のほとりで網をうって魚をとっていると、一人の老人が大きな岩のうえで泣いているのに出あった。漁夫はすぐに老人にそのわけをたずねた。老人は「自分の娘が奇妙な病気にかかってなおすことができません。どうか家にきて娘の病気を看てください」とたのんだ。承知した漁夫は老人について堤を歩いた。すると老人はどんどん水のなかにはいってゆく。漁夫が老人にむかって、「水のなかには入れない」とうったえると、「いそがずにわしについてきてください。水のなかも地上をゆくのとおなじようになります」とこたえた。ふしぎにも漁夫は地上をゆくように水のなかをすすむことができた。まもなく一軒のうつくしい家がみえてきた。その家の一室に娘が全身を魚網にからめられて横たわっていた。漁夫がその網をとりのぞいてやると娘はすぐに元気になった。父と娘は感謝してたくさんの金銀を礼としてさしだしたが、漁夫はことわって、かわりに刀と鋤をのぞんでその二品をもらった。漁夫がその家を去ろうとすると、門の樹に黄牛と白牛がつながれていた。老人は袋に多量の牛の糞を入れて漁夫に背負わせ、「野菜をうえるときに肥料になさい」といった。漁夫が家にかえると、不思議にも黄牛の糞は金、白牛の糞は銀、刀は金刀、鋤は銀鋤に変わった。漁夫は農夫となって幸福に暮らしたという。

 雲南省のラフ族がつたえている「漁夫の故事」という伝承です。水界の王の娘をたすけ、莫大な宝を得るという話です。その王の娘は魚網にからめられており、漁夫によってその網をとりのぞいてもらっています。失われた釣針と同一のモチーフです。しかも漁夫から農夫に変わるところに、海の原理に野(高地では山)の原理が勝利を占める話にもなっています。日本における海幸山幸神話で、海の原理にたいする山の原理の勝利の意味も、漁労民にたいする狩猟民や農耕民の勝利の話であったことがわかります。

 もう一話、貴州省のコーラオ族がつたえている「竜女と旺哥」という伝承を紹介します。こちらも竜王の娘の報恩物語です。


 むかし、母と子が二人で暮らしていた。母は年をとって眼が見えなかった。子の旺哥は村の金持ちの家にやとわれて毎日手間賃をもらっていた。ある年の正月、旺哥がはじめて金持ちの家に働きにゆくと、主人は「一年はたらいてくれたら三頭の牛を報酬にやろう」と約束した。誠実な旺哥はこの約束を信じて、1年間、金持ちの家の田畑を懸命に耕作した。一年たって、旺哥が主人に約束の三頭の牛をもとめると、主人は「おまえはなにをいうのだ。三頭の牛だって。私はおまえに柄杓で三杯の油をやるといったのだ」といった。あらそうこともできず、旺哥は三杯の油をあたえられただけで帰途についた。
 途中に竜王廟があった。旺哥はせっかく1年間はたらいてもらった油だからと竜王像のまえにその油で灯火ともすことにした。竜王廟を出てまもなく大雨になった。旺哥が村の入口の小川にさしかかったとき、1尾の大きな紅鯉が土砂のうえにのりあげていた。その鯉をとらえて家にもどった旺哥は母に鯉を見せた。鯉の尾から水滴がしたたり、母の眼にはいったとたん、母の眼は見えるようになった。よろこんだ母と子はその鯉を川にはなしてやった。
 その鯉は東海の竜王の娘の変身であった。竜宮にもどり、命をたすけられた恩に報いようと両親に相談すると、竜王夫婦は、ひとり娘であるからと、360日をかぎって旺哥のもとにゆくことをゆるした。うつくしい女性に変わって旺哥の家をおとずれた竜女は、訪問の目的をつげ、一吹き、口でふくと、あばら家はたちまち御殿となり、食物や家具も家内に満ち満ちた。このようにして一家はしあわせな日をおくることになった。
 この噂をきいたのが主人の金持ちであった。旺哥の家にやってきて、うつくしい妻を自分に貸してくれと難題をもちかけた。困惑している旺哥に竜女がそっとささやいた。「わたしは父から360日の日限をみとめられてきたのですが、その日限はもう切れようとしています。あなたは主人の金持ちと家を交換するよう申し出てください」金持ちはすばらしい旺哥の御殿を見て交換の申し出に応じた。母と旺哥は主人の家にうつり、主人は家族をつれて旺哥の御殿にやってきた。
 その夜、主人と竜女が床につくことになったが、竜女は一桶の水をさげて浴室にはいり、そのままもどってこなかった。主人が灯りをともして浴室にいってみると、すでに竜女の姿はなかった。そのとき、一陣の風がふいて御殿が消え、主人はあばら家のなかに身をちぢめて立っていた。 

 長江南部は沼地や河川の多い土地です。ここで数々の水界訪問譚や水界報恩譚が生まれました。海幸山幸神話が海の原理と山の原理が相克するという構造をそなえているとするなら、その誕生地は、地形から判断しても、漁労民、狩猟民、農耕民が混在する中国南部がふさわしいと断言できます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa25.htm


諏訪春雄通信 26

 今回のテーマは「米と雑穀」です。日本の天皇家は、太陽信仰と稲魂信仰にささえられて、その隔絶した地位と永続をたもってきました。この二つの信仰が祖霊信仰や女神信仰などと結合しながら、長江流域から日本に伝来したことについては、これまでこの通信で詳細にのべてきました。

 稲作民にとって米はあらゆる〈穀物や農作物=食料〉のなかで優越した最高の価値をもちます。天皇家の絶対性はこの稲の絶対性にささえられます。しかも稲は大地におち〈朽ちて新しい生命を生みだす〉というサイクルをくりかえすことによって永続性をもちます。天皇家は、この稲の永続性と太陽の永続性の思想にささえられて、その絶対と永続の地位を保証されてきたのです。

 これにたいし、巨大王権が交替をくりかえした黄河流域では天にたいする信仰がさかんであったことについてもこの通信でくりかえしのべてきました。天の信仰は太陽の信仰に対応します。それでは、稲魂信仰に対応して黄河流域で誕生したものは何であったのでしょうか。それがこれからのべようとしている雑穀の信仰なのです。

 低温乾湿の黄河流域は、古来、稲作に適せず、冬小麦、粟、高粱、綿などが栽培の中心になり、水産資源の不足を牧畜などでおぎなってきました。これにたいし、高温多湿の長江流域では、ゆたかな水産資源にめぐまれ、稲をはじめとして、綿、油菜、茶などの多様な作物が栽培されていました。農耕に限定してかんがえると、稲作の長江文明にたいし、雑穀の黄河文明というように対比することができます。

 黄河文明の雑穀は、稲のように一元的絶対的な価値をもつ食物ではなく、複数の穀物にそれぞれ平等の価値をみとめる多元的相対的価値観をそだてます。黄河流域の王権交替を生みだした要因については、通信12で、
1.周辺遊牧民との抗争・軋轢
2.商業を中心とした経済の発展
3.農民勢力の台頭
4.潅漑工事

などをあげて検討しました。こうした要因の基盤にさらに天の思想や雑穀の思想が存在して、王権の交替現象をささえたとみることができます。

 アジアの稲の起源地は、これまでもたびたびのべてきましたように中国の長江中流域に決定しました。そこから日本への稲の伝来ルートの主要なものは二つありました。
  A 江南から直接に九州へ
  B 黄河淮河流域から山東・遼東半島、朝鮮半島を経て九州へ

 注意すべきは、このうち、Aルートが稲単独の伝来であったのにたいし、Bは黄河流域の雑穀地帯を経由したために、稲と雑穀の混合の伝来ルートであったということです。日本の稲作遺跡のほとんどからは雑穀と稲があわせて出土しています。朝鮮半島の稲作遺跡も同様な状況にあることが、この伝来ルートの存在をしめしています。他方、九州の筑後川、矢部川流域の有明湾沿岸部の遺跡からは稲だけが出土しており、江南からの直接ルートの存在をしめしています。

 米がながいあいだ日本人の主要な食物であったことは事実であり、米にともなう稲作文化が日本文化の重要な骨格をつくってきました。日本の王権がこの稲作文化をイデオロギーとして利用してきたのです。そうした様相は、すでに『古事記』や『日本書紀』の神話にみることができます。

 『古事記』の国生み神話で、イザナギ・イザナミの両神は、淡路島以下の大八島国などをつぎつぎに生んでゆきます。その個所で、「讃岐国を米飯の霊のよりつく意味で飯ヨリヒコといい、粟の国を穀物をつかさどるという意味のオホゲツヒメという」とあり、そのオホゲツヒメ神話では、スサノオに殺害されたオホゲツヒメの身体から、「二つの目には稲種、二つの耳には粟、鼻には小豆、陰部には麦、尻には大豆が生まれた」とあります。このあたり、米だけにとくにほかの穀物から超絶した位置をあたえているようにもみえません。

 しかし、しだいに、天孫降臨の地を「みず穂の国すなわち稲穂のみずみずしい国」とし、主役を「ホノニニギすなわち稲穂の豊穣」という名をあたえるなど、米を特別視する意図がつよくなってきます。

 稲を特別視する意図がよりあらわになっているのは『日本書紀』です。国生み神話でも一書第一に天つ神がイザナギ・イザナミに「豊葦原の、豊に稲穂の実る国がある。そこへいって治めるように」と命じ、天孫降臨神話でも、一書第二では、「わが高天原の神聖な稲穂をわが子にあたえなさい」とアマテラスがホノニニギに神聖な稲の携行を命令するなど、稲の特殊化はいちだんとすすんでいます。

 しかし、稲作農業を唯一の日本の農耕文化であるかのようにみなすことに反対する学者や思想家は数多くいます。昭和以降にかぎっても、宮本常一氏を先駆として、坪井洋文、網野善彦、佐々木高明、杉山晃一らの各氏です。

 この人たちは、麦、そば、粟、ひえ、大豆、小豆、胡麻などの雑穀やいも類などが、日本人の主食であり、米よりも重要な食べ物であったと主張しています。これらは米にくらべて、やせ地や寒冷地でそだち、はるかに耕作に手間がかかりません。しかもこれらの雑穀は水田稲作伝播以前の焼畑農耕で栽培されていました。

 弥生時代の初期から中期、日本人は、炭水化物の総摂取量の半分以上は、米以外の雑穀やいも類からとっていたであろうという見解も出されています(佐々木高明『稲作以前』NHKブックス・1983年)。

 網野善彦氏は、米が日本人の唯一の主食であったとかんがえる風潮がつくられたのは、江戸時代の状況を中世にあてはめ、二つの時代がなめらかに同質的に連続しているかのようにみなしたためであると主張します。

 中世の土地税の納め方をしらべてみると、西日本では、租税は米でおさめられていたが、東日本では、これとはちがって、絹や綿でおさめることが多かったといいます。また、米を租税としておさめていた西日本でも、日常、農民がたべていたのは、主に米以外の穀類であったと網野氏はいいます。

 その根拠として、若狭の国太良荘の貞和三年(1347)の記録を氏は提出しました。女百姓の所有物をさしおさえたときの記録によると、没収されたもののなかに、米五斗と、その二倍の量の粟一石がふくまれており、太良荘のような米を税としておさめている稲作地帯でも、ふだんたべていたのは、米ではなく雑穀であったことをあきらかにしています(『日本中世の民衆像―平民と職人』岩波書店・1980年)。

 日本文化のなかで、米に特別の地位をあたえたのは、支配者のイデオロギーであったといえますが、しかし、その観念がながく日本人にうけいれられてきたのは、稲とともに長江流域から伝来した信仰や思想のささえがあったからだということを私は前回までの通信でのべてきました。

3月2日(土曜日)午後2時から、学習院大学西5号館302教室で、公開研究会

「中国の地方劇」

東洋大學文学部助教授 有澤晶子氏

が、アジア文化研究プロジェクト主催で開催されます。講師の有澤先生は中国演劇の専門家です。日本人に馴染みの京劇、昆劇、川劇も中国の地方劇です。その数は300を超えるともいわれています。

   中国の信仰や祭祀→日本の信仰や祭祀
   中国の神話   →日本の神話
   中国の民俗   →日本の民俗
   中国の民間芸能 →日本の民間芸能

という対応がみられるように、

   中国の演劇   →日本の演劇

という対応が存在するというのが、私の確信です。その一端が今回の研究会であきらかになればと期待しています。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa26.htm


諏訪春雄通信 27

 今回のテーマは「大嘗祭」です。

 神話時代が終わって、日本は現実の国家経営に乗りだしてゆきます。統一国家の形態をととのえたのは4世紀から7世紀にかけてのころ、中国の隋・唐の王朝制度をとりいれて律令国家の制度を整備したのは7世紀末から8世紀初頭といわれています。

 これ以前、これ以降の国家としての日本の歴史は、中国の北方原理と南方原理の摂取と融合・葛藤のなかに展開してゆきます。その両原理は、また、日本の王権の歴史的展開を解明する重要な鍵にもなります。

 日本の天皇制永続の秘密をあきらかにするという本通信テーマの独自な視点の一つをあらかじめ提示しておくなら、じつは、この《中国の北方原理と南方原理の融合・葛藤として日本の天皇制をかんがえる》ということにあるのです。

 両原理は、一方が優越することもあれば、拮抗することもあり、また対立もしながら、日本の歴史をつくってゆきます。現時点で両原理はつぎのように対比されます。


北方原理  天の信仰   雑穀の思想  男神信仰   多元的  秩序への志向  
南方原理  太陽の信仰  米の思想   女神信仰   一元的  融和への志向

 これらの特性がどのようにあらわれて日本の国家と天皇の歴史を織りなしてゆくかをこれからあきらかにしてゆきます。

 大嘗祭は、天皇の即位後、最初に挙行する大きな規模の新嘗祭です。大嘗祭をおこなうことによってあたらしい天皇としての資格をもつことできるのですから、即位式でもあります。この大嘗祭をテーマにとりあげて、北方原理、南方原理を検討します。

 大嘗祭の文献上の初出は、『日本書紀』の天武天皇2年(673)12月の記事に「大嘗(おおにえ)」とある記事です。式の進行がよくわかるのは、平安時代にはいってからで、『貞観儀式』『延喜式』『江家次第』などの有職故実の書に記載があります。

 4月の悠紀国(ゆきのくに)、主基国(すきのくに)の選定からはじまって、11月の午の日の豊明節会(とよあかりのせちえ、天皇と臣下の饗宴)まで、半年にわたる行事の中心をしめるのは、11月の卯の日におこなわれる大嘗宮の祭りです。

 大嘗宮は、大嘗祭のためにあらたにたてられた黒木造りの建築物で、東西に悠紀殿、主基殿、廻立殿(かいりゅうでん)という三つの建物がつくられ、外部を柴垣でかこみます。

 外部からうかがい知れない秘密の祭りであるために、のちにみるように種々の推測説がだされていますが、基本の骨組みは、天皇の、廻立殿における《湯浴み》、悠紀殿・主基殿における《聖餐》、《就寝》という三つの行事に還元されます。この三つは、日本の各地の民俗行事にふつうにみられる儀礼であって、その一つ一つには、なんの不思議も神秘もありません。

 《湯浴み》は禊ぎです。水、海水または湯によって心身をきよめることで、祭りをおこなう当事者がけがれをさけるための行為です。

 この禊ぎが火の浄化力とむすびついたものが湯立てです。湯立ては、祭りの場の中央にしつらえられた釜で湯をわかし、笹の葉などにその湯をつけて、あつまってきた参加者たちにあびせるかたちをとるのがふつうです。

 この形式の儀礼は各地の民間神楽に一般的にそなわっている行事です。愛知、静岡、長野の3県をながれる天竜川ぞいに演じられる花祭りには、生まれ清まりと称して、すべてこの湯立ての儀礼をつたえていますし、また、暮れから新春にかけておこなわれる湯立て神楽とよばれる行事も、おなじ儀礼を祭りの中心にすえています。

 《聖餐》は、神と人との共食ですが、大嘗宮では、天皇と天皇の祖先の霊であるアマテラスとの共食です。

 天皇が一世一代の即位式として挙行する湯立てと聖餐が、日本人の民俗行事と共通して、特殊なものではないということをのべました。ここまでなら、数は多くありませんが、日本の民俗学者のなかにも指摘する人がいます(真弓常忠『日本の祭りと大嘗祭』朱鷺書房・1990年、森田悌編『天皇の祭り 村の祭り』新人物往来社・1994年)。

 しかし、この通信で、とくに私が強調したいことは、この二つの儀礼の由来が中国の南方にあるということです。

 稲魂信仰と祖霊信仰が結合した新嘗の祭りが、中国の長江南方の少数民族社会でおこなわれていることについては、この通信の15、18などで報告しました。ミャオ族の人たちは日本の新嘗にあたる祭りを《喫新節》といい、ハニ族の人たちは《フォシージャー新嘗祭》とよんでいます。いずれも、新穀を祖霊、穀霊および天神にそなえたのちに共食する儀礼です。

 中国でも一般的に祭りにさいして清めの火と水が重要な役割を演じていることについて、以前、私は日本・韓国・中国の事例について詳細に検討したことがあります(「中世祭祀の構造―道教・別祭・花祭りー」『日中比較芸能史』吉川弘文館・1994年)。

 日本の新春の若水汲みという民俗行事は水に生命更新の力をみとめる信仰です。この習俗が中国南方の稲作民族社会にひろく分布していることは、大林太良氏の報告があります(『正月の来た道』小学館・1992年)。水に清めの力をみとめ、祭りにさいして禊ぎに使用するのは、この若水汲みと共通する水への信仰にもとづきます。

 《就寝》は篭りです。記録によると、大嘗宮の悠紀と主基のあいだに寝具が用意されてありました。この寝具にくるまって天皇はお休みになるものとみられますが、しかし、この就寝の儀礼については、注目される説がこれまでに提出されています。整理するとつぎの4つです。
1.亡くなられた先帝と新帝との共寝
2.新帝と采女(うねめ)との聖婚
3.死者をほうむる喪屋
4.新生児のための産屋

 4つの説ともに新帝に新生の活力、それは天皇霊とよばれることの多い天子の霊力を付与することを目的にするという点では、ほぼ一致していますが、具体的な儀礼順序や性格規定で、以上のような対立があります。

1の説は、折口信夫(「剣と玉と」昭和7年、「上代葬儀の精神」昭和9年)、堀岡文吉氏(『国体起源の神話学的研究』培風館・1929年)などがとなえています。折口の「剣と玉」から引用します。


 古代には死と生とがあきらかに決らなかったので、死ぬものならば生きかえり、死んだものならば他の身体にたましいが宿ると考えて、もとの天皇霊の著いていた聖躬と新しくたましいの著く為の御身体と二つ、一つ衾で覆って置いて盛んに鎮魂術をする。この重大な鎮魂の行事中、真床襲衾と言う布団の中に篭って物忌みをなされるのである。

2の説をもっとも強力に主張しているのは岡田精司氏です(『古代王権の祭祀と神話』塙書房・1970年)。岡田氏は、新嘗祭には、服属儀礼の一環として、天皇と采女とのあいだに同衾がおこなわれたと推定しています。氏は、大嘗祭は新嘗祭の延長とかんがえ、マドコオスフスマは、これにつつまれて祖神と一体化した天皇と、国々の神の資格をもって奉仕する采女との神婚がおこなわれた衾の遺物であろうとします。

 岡田説の根底には、折口信夫の神の嫁という考えがあります。日本の古代、男性の君主と女性の巫女がたすけあって国をおさめていた時代がありました。君主の身近にある女性が神の嫁となって神意をききわけ、それを君主につたえて政治の方向を決定しました。

 巫女は、地方豪族が服属のあかしとして自己の子女を朝廷にさしだしたものでした。彼女たちは、出身の国々の神につかえる巫女の資格をもち、彼女たちが朝廷につかえることは、国々の神が朝廷に服従することを意味していました。采女は、祭りのさいには、神の生活にはいる天皇に奉仕し、神の嫁として、天皇と神聖な結婚をとげることがあったと、折口は説きました(「宮廷儀礼の民俗学的考察」)。

 この折口の説を支持するような事例が『日本書紀』などに記載されていることは事実です。神の嫁という折口の論はそれなりの有効な射程距離をもっていますが、しかし、それを大嘗祭に適用することについては、反対意見のほうが圧倒的に優勢です。

 その一人、谷川健一氏は諸種の資料を引用して、采女は、推古・皇極・斎明とつづいた女帝の成立によって地位を低下させ、天武天皇以降は、後宮十二司の最下位に所属したと主張します。「大嘗祭という一世一代の由々しい盛儀における采女の役割は、神膳をととのえる以外にはあり得ない」というのが谷川氏の断定です(『大嘗祭の成立』小学館・1990年)。したがうべき見解です。

 3の喪屋説は1の説とかかわる論です。この3の説を強力に主張する谷川氏(前掲書)は、南島のモガリの習俗を論拠に、先帝の死にさいして死者が完全に死者になりきるまえに、死者と共寝して、その活力をうけつぐ儀礼が、喪屋としての大嘗宮でおこなわれたといいます。モガリの習俗が日本の古代におこなわれていたことは確実ですから、谷川説は就寝儀礼の本質をついた説といえます。

 しかし、3の裳屋説と4の産屋説は、じつは相互に補完しあう説なのです。産屋説は、折口信夫がはじめにとなえ、いったんすてたのちに、晩年また採用した説でした(「大嘗祭の本義」昭和3年)。大嘗宮の悠紀、主基の両殿に布団がしかれ、枕もそなえられているのは、「日の皇子となられる御方が、資格完成の為に、御寝所に引き篭って、深い御物忌みをなさる場所である。実に重大なる鎮魂の行事である」とのべています。

 おなじ考えは、西郷信綱『古事記研究』(未来社・1973年)にもみることができます。マドコオスフスマの儀礼は、子宮の羊膜につつまれた胎児の状態にもどり、新生児として誕生しようとする模擬行為であったといいます。

 就寝の儀礼は民俗の死生観をあらわしています。民俗では、死と生は連続または循環として意識されます。死んでよみがえる擬死再生の儀礼がおこなわれる場所が大嘗宮であるといえます。それは稲の種子が大地におちて死に、あたらしい生命を得てよみがえる《篭りの精神》の儀礼化でもあります。

 大嘗祭の就寝の儀礼がモガリとウブヤの複合した性格をもっているとすれば、その習俗もまた中国の南方にもとめることができます。

 1993年の4月から5月にかけて、私たちは中国の東海沿岸、ジョウ泗列島、舟山列島の現地調査をおこなったことがあります。その調査報告は『中国東海の文化と日本』(勉誠社・1993年)として刊行されています。

 そのなかですでにのべたことですが、この地方一帯にお墓を二度つくる複葬がおこなわれています。死者がでると、その死骸を、住まいの近くの田畑などに仮の埋葬の墓(殯廓とよんでいます)をつくっておき、1年または3年が経過した時点で、山の傾斜地などに里のほうにむけて永久的な墓をつくって埋葬しなおします。

 日本の古代のモガリや近畿地方などにおこなわれている両墓制の起源もまた江南にあったことをしめす調査結果です。それが農耕民に顕著な篭りの精神と結合したものが、大嘗宮の就寝儀礼なのです。

 このようにみてきますと、大嘗宮での行事は明確に中国の南方原理をしめしていますが、しかし、全体としての大嘗祭は大嘗宮以外の行事もおこなわれており、大きく、

  A 大嘗宮での天皇一人の儀礼
  B 宮中における天皇と群臣の饗宴(豊楽院の節会、最後の豊明の節会)

と二分されます。

 Bは一種の新帝にたいする服属の儀式であり、そこでは悠紀・主基の両国から献上された貢物が分配されます。悠紀・主基の両国は天皇の統治する日本国の象徴であり、Bはあきらかに新しい天皇とそれに仕える臣下の秩序を確定する北方の原理に支配されています。

 このようにみてきますと、大嘗祭は、結局、北方原理の外枠に核心としての南方原理がつつみこまれた儀礼であると規定できます。この構造は、日本の王権構造全体の象徴でもあります。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa27.htm


諏訪春雄通信 28

 今回のテーマは「天皇号」です。

 3月2日(土曜日)午後2時から東洋大學文学部助教授有澤晶子先生を講師にお招きして、「中国の地方劇」という公開研究会を学習院大學で開催しました。この通信の読者のなかで当日おいでいただいた方々もいらっしゃるとおもいます。

 内容といい、発表形式といい、最近の講演や研究発表のなかでは出色のものでした。当日、おいでになった方は幸運であったといってよいでしょう。

 発表形式はパソコンとビデオを組み合わせたもので、私の所属している国際浮世絵学会などではよくおこなわれている形であり、大學での講義などでも採用される先生が多くなりました。

 ただ、有澤先生のばあいは、その演出がよくゆきとどいており、写しだされることばとビデオの配合が絶妙で、観客を飽かせることがありません。

 機械に習熟せず、機械にふりまわされている発表者(私などはその典型です)がままいますが、有澤先生は機械を、平凡な表現ですが、手足のように使いこなしておられました。

 内容は、360種をこえるといわれている中国の地方劇のなかから4大国劇といわれる、昆劇、京劇、川劇、椰子劇の4種をとりあげ、その概要と特色を紹介したものです。私も前々から関心をもって、研究をすすめている分野ですので、発表内容の評価が多分当日の一般的な聴衆の方々よりはできます。

 小さなテーマで高度な発表をすることは、じつは、一定の水準に達した研究者にはそれほどむずかしいことではありません。真にむずかしいのは、そしてこれからの人文科学系の学者にもとめられることは、

「広く、高度な内容を、わかりやすく、興味ぶかく伝える」

ことなのです。有澤先生の実力をあらためて再認識したというのが、私の率直な感想です。

 この公開研究に先立つ2月26日(火曜日)、私のもとにあるテレビ会社からの取材がありました。といっても、テレビ撮影ではなく、番組の台本づくりのための取材です。松竹株式会社からの依頼をうけて、歌舞伎役者、それも今人気絶頂にある三之助クラスの役者を中国に旅させて歌舞伎の源流をたずねさせるという企画です。

 私が平成12年に吉川弘文館から「歴史文化ライブラリー」の一冊として刊行した『歌舞伎の源流』をじつにていねいに読みこんで、要点をついた質問をしてきました。ディレクターと台本作家と二人で、私の研究室に訪れてきて、交互に質問をしてメモをとっていました。

 そのときに、「歌舞伎の遠い原型が故郷の地を出発して、しだいに演劇としての形をととのえながら、日本にまで到達する歌舞伎ロードという構想は成立しますか」という興味ぶかい問題を、台本作家の方が私に問いかけてきました。

 じつはこの問題はここ数年追いかけている私の重要な研究テーマの一つなのです。

 学習院大学文学部は平成13年に人文科学研究所を創設し、助成金を出す研究プロジェクトを募集しました。そのときに私は「東アジア演劇形成過程の比較研究」という3年計画のテーマで応募し、九件の応募のなかからトップで採用されました。

 有澤先生にもそのプロジェクトにくわわっていただいており、3月2日の公開研究会は、この人文研究所の研究プロジェクトの費用で開催されたものでした。

 この通信の25で私はつぎのようにのべたことがあります。


「私は、中国の長江流域、稲作農耕の誕生地である湖南省にはじまって中国全土にひろまっていった来訪神儀礼13種の調査結果にもとづき、出現の時期、役柄、服装、神の性格、扮装、持物、出現の目的、演じ手の6項目にわたって、日本の来訪神儀礼との共通性を確認しています。日本の来訪神儀礼は中国の来訪神儀礼が稲作農耕とともに日本へわたってきたものと断定できるのです。中国、ベトナム、日本などの分布状況から、その伝来の経路もほぼ特定できます」

 その伝来の経路は大きく二つにわかれるとかんがえています。一つは西回りのルートです。ほぼ長江にそって貴州、雲南、広西チワン族自治区などを経由してベトナムにはいり、沖縄にわたり、北上して九州、福井、石川、新潟、山形、秋田などにつたわったものです。有名な秋田のナマハゲはその最末端の痕跡です。

 もう一つの経路は東回りです。西回りが比較的純粋に来訪神儀礼の原型を保存しているのにたいし、東回りのコースは、悪鬼ばらいの儺の儀礼と結合しながら、文化の先進地帯を経過したことによって、高度な演劇化をとげたというのが、私の基本的な考えです。

 私は概略以上のような構想で「東アジア演劇形成過程の比較研究」というプロジェクトを立ち上げたのです。

 したがって来訪されたテレビ局の台本作家から歌舞伎ロードについて質問されたときにすぐにこの東回りのルートをかんがえました。そしてつぎのようにこたえました。

「東回りをたどった来訪神と儺の複合体は、中国では古代演劇、宋元南戯、元雑劇、明清伝奇劇、地方劇などへと発展しました。おなじ複合体は、朝鮮半島では、処容舞、山台雑戯、農楽などを誕生させ、日本にも上陸して、中世以降の民間神楽、田遊び、王の舞、能、狂言などを生み、最後に歌舞伎として結晶しました」

 そして、中国長江中流域からいったん北上し、山東、遼東、朝鮮などの各半島を経過し、日本海側の出雲に上陸し、京都の五条、北野を経て、現在の四条の南座を終点とする歌舞伎ロードの具体的な道筋についても説明しました。

 この構想を、テレビ局が、台本としてどのように生かしてくださるか、仕上がりが楽しみです。

 大風呂敷のひろげすぎと眉をひそめる方も多いとおもいます。ことに実証主義をたいせつな方法とする専門研究者はそのように批判するとおもいます。

 しかし、私は、このごろ、学問の究極とは「志」であり「夢の実現」なのだとおもうようになりました。もちろん、堅固な実証にささえられた「夢の実現」です。

 通信26で、中国の古代文化と日本の古代文化につぎのような対応があると申しました。

    中国の信仰・祭祀→日本の信仰・祭祀
    中国の神話   →日本の神話
    中国の民俗   →日本の民俗
    中国の民間芸能 →日本の民間芸能

 自分でもそれなりに調査したことのあるこのような対応を前提に、


中国の演劇→日本の演劇

という対応も確実に存在するとかんがえています。

 「天皇号」についてのべます。

 天皇は中国の道教に由来することばです。その出典は、中国古代、紀元前3世紀ごろの各種の道教文献に「天皇大帝」とみえるのが最初です。たとえば、その一つ『春秋緯合誠図』には


 天皇大帝は北辰の星であり、元を含み陽を秉(と)り、精を舒(の)べ光を吐き、紫宮中に居りて四方を制御する。

 とあります。わかりやすくいえば、宇宙の根源として全世界を統御する北極星である、ということです。中国の道教では最高神として崇拝される北極星を天皇といったのです(福永光司『道教思想史研究』岩波書店・1987年)。

 ここから、日本の天皇号についてはむずかしい議論が生まれました。道教信仰そのものと関係があるのかないのか、いつごろから、どのような目的で使用されるようになったのか、などです。

 こまかな詮索はおいておいて、最新の研究成果にもとづいて、結論的なことだけをのべますと、最初は単なる尊称として使用されていた段階(推古天皇の時代)があり、持統天皇の時代に君主号としてもちいられるようになりました。また、東アジア世界における日本国家の地位を意識した呼称ではあるが、かならずしも道教思想と関連させる必要はないということです。

 日本が国家体制をととのえつつあった7世紀から8世紀のころに、主として対外意識のなかで採用され、浸透していったことばが天皇であったということになります。

 この天皇にたいする和語が「すめらみこと」です。平安前期に成立した『令集解(りょうのしゅうげ)』には


君は一人を指す。天皇これなり。俗にすめらみことというなり。

とあって、公式用語の天皇にたいする一種の俗語とかんがえらえられていたようですが、天皇号が成立する以前にはひろくもちいられていたことばです。

 すめらみことは「すめら」と「みこと」にわけられます。すめらについては、「統べら(統治する)」とおなじ意味というのが通説でしたが、上代特殊仮名遣いから判断して、「統べ」のベはエ列乙類、「すめ」のメはエ列甲類であって、甲乙が一致しないという疑問が提出されました。

 そこから、アルタイ諸民族が世界の中心とかんがえるSUMERE(梵語で至高・妙高の意味の蘇迷盧)と同義とする説、清澄、神聖の意味の「澄める」とおなじ意味であるとする説などが出されました。

 上代特殊仮名遣いというのは、奈良時代およびそれ以前のある種の仮名(エキケコソトノヒヘミメヨロ、古事記ではモも)に二種類の書き分けがあったという説です。したがって、発音と表記法がちがうことばは、当然意味の違うことばになるという考えです。

 しかし、私はこの法則をあまり厳密に適用すると行き過ぎになりはしないかという危惧をもっています。

 私は新潟県の出身であるためにイとエの発音があいまいで、仮名遣いもよほど意識しないと誤ってしるしてしまいます。私の友人の数代つづいた家に生まれた江戸っ子はヒとシの区別がまったくできません。こうした現象が古代にもあったのではないでしょうか。

 すめらみことの「みこと」は「尊」「命」などの字があてられますが、もとの意味は「御言」とする説が有力です。

 各様の説があるにしても、結局、すめらは尊貴な存在をあらわすことばであり、このことばを上にかぶせたすめらみことは「天の神のことばを代ってつたえる尊貴な御方」という、折口信夫の説(「天子の諡」)が妥当性をもちます。つまり、高位のシャーマンです。

 すめらみこととよばれた尊貴な方は、この世にあって天の神のことばを体現する神の代行者でした。南方原理につらぬかれた存在だったといえます。

 これにたいする天皇は、天界の北極星そのものと合一する北方原理をとりいれた存在です。

 この通信で、私がもっとも強調したかったことは、のちには混同されますが、本来は、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったということです。

 日本が、6世紀から7世紀にかけて、国家組織を整備してゆくときに、南方原理を北方原理で補完してゆくという当時の基本略を象徴的にしめすものが、君主号すめらみことと天皇の使い分けでした。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa28.htm


諏訪春雄通信 29


 アジア文化研究プロジェクトへようこそ。

 年度末の学校行事が一段落し、ようやく時間的なゆとりも出来ました。そこで、収集してあった中国の神話資料の整理と読み直しをすこしずつはじめました。日本神話とかかわりのある新しい資料が続々と出てきています。

 以前、この通信の24で、《中国長江流域の神話伝説で日本の王権神話の基本構造を説明しきる》という、私の研究の基本態度を説明しました。新しい資料を補足することによって、この研究姿勢に誤りはないという確信をますますつよめています。

 まだ完全な整理がおわっていませんので、結果が出次第、この通信で概要を報告しましょう。

 今回は「天皇と祭祀」というテーマでお話しします。これも大きな問題ですので、数回にわたって、この通信でとりあげる必要がありそうです。

 前回の通信の最後に、天皇は国際的な外交用語であったのにたいし、すめらみことは国家的な祭祀用語であったと申しました。まず、この結論にたいして説明をくわえます。

 通信27で「大嘗祭」をとりあげました。そこで説明しましたように、大嘗祭の中心行事である大嘗宮での祭りは天皇一人の儀礼であって、女官がその他が奉仕するにしても脇役にすぎず、祭りを進行させる神主はとくにいません。天皇自身が神と直接に接触する祭祀主体=シャーマンです。

 この大嘗祭のほかにも、天皇自身が祭祀主体となる祭りは、宮中行事に数多く存在します。

 奈良時代の養老2年(718)に古代法を集成して編纂された法令集が養老律令です。奈良時代から平安時代にかけての日本国家の基本法でした。そのなかで、国家祭祀を規定した
 「神祇令」には、全部で13の祭祀があげられています。

祈年祭  鎮花祭  神衣祭  三枝祭  大忌祭  風神祭  月次祭  鎮火祭
道饗祭  神嘗祭  相嘗祭  鎮魂祭  新嘗祭(大嘗祭)

 「神祇令」の冒頭の第1条には「およそ天神、地祇は、神祇官が神祇令の規定にしたがって祭れ」とあって、13種の祭りを執行するのは、「神祇官」であって、天皇の名は出てきません。

 このことから天皇は国家祭祀に関与していないという結論を出すことはできません。神祇官は祭祀を管轄する行政官であって神主ではないからです。

 わかりやすい例でいえば、文部科学省の役人は教育の管轄はするが教師ではありません。学校の現場で児童に接触するのは教師です。おなじように、祭りで神に接触したのは天皇でした。

 このあたりの事情は、通信27の「大嘗祭」についての記述をお読みいただければわかります。大嘗祭は、天皇一代一度の大祭であって、例年は神嘗祭として執行されます。その神嘗祭は「神祇令」の規定によれば、神祇官が管轄しますが、実際に祭りの主体者として神と接触するのは天皇です。同様の事情がほかの12種の祭祀にもあてはまります。

 国家的規模の祭りの祭祀主体は天皇であって、神祇官は儀式の管轄者、あるいは代理人にすぎなかったという事実をほかの方法で説明してみましょう(丸山裕美子「天皇祭祀の変容」『日本の歴史8 古代天皇制を考える』講談社・2001年)。

 前掲13の祭祀には、新嘗祭(大嘗祭)のように、天皇が関与したことのあきらかな


月次祭  鎮魂祭  新嘗祭

などのほかに、天皇が直接には関与していない多くの祭祀があります。つまり地方の神社で祭りをおこない、そこに天皇が参加していないものです。

 しかし、そうした祭りでも、中央の神祇官から幣帛つまり供物がわけあたえられます。こうした資格をもつ神社を官幣大社といいます。天皇の参加しない国家祭祀でも、官幣大社でいとなまれます。

 その分与式(班幣)はつぎのように進行します。上京した神主(祝部ほうり)たちは、宮中神祇官の役所前の広場に集合します。大臣以下の役人たちが参列するなかで、神祇官の中臣氏がつぎのような内容の祝詞を奏上します。


 あつまってきた神主・祝部らよ、皆聞きなさい。高天原にいらっしゃいます、スメラミコトがむつまじく親しむ男女皇祖神のご命令にしたがって天神・地祇としてまつる神々の前に申しあげます。今年の二月、ゆたかな収穫をたまわりますように皇孫のスメラミコトが珍しく尊い供え物を、朝日がみごとに輝きのぼるときに祝詞を奏上して、奉ります。

 大宝2年(702)2月に実施された祈年祭の祝詞です。この例からもあきらかなように、国家祭祀の正当性は、高天原の神々の子孫である天皇が奉る供物によって保証されるとともに、天皇は供物をとおして、自身直接に参加しない祭祀の主体者となっているのです。

 この祝詞のなかに天皇ということばは出てきません。和語でとなえられる祝詞に漢語の天皇が出てこないことは当然とかんがえられるかも知れませんが、天皇にあたることばとして「皇」と「皇御孫命」という漢語は出てきます。これは「すめら」、「すめみまのみこと」とよまれています。その基本に「すめらみこと」が祭祀用語として存在したとかんがえます。

 「神祇令」は中国の唐代の祭祀を規定した「祀令」を参照して成立したといわれています。しかし、根本精神は日本流に変更がくわえられています。それは天皇が国家祭祀の主宰者であるという観念です。

 天皇は祭祀王であるという観念は7世紀から8世紀にかけて、日本が国家体制をととのえていったときに、為政者によって周到に準備され、律令にもとりいれられましたが、それだけにとどまらず、『古事記』や『日本書紀』のような編纂物のなかにも布石されています。

 一例を『日本書紀』の第10代崇神天皇の記事にとります。
1.天神地祇に祈願する。
2.天照大神・倭大国魂の二神を宮中にまつる。
3.八百万の神々を神浅茅原に招いて占いをする。
4.お祈りした夜の夢に大物主神があらわれ、大物主神をまつる。
5.八十万の神々をまつる。
6.夢中の神の教えのままに墨坂神・大坂神をまつる。
7.鏡をまつる。

 崇神天皇については各種の説がこれまでに提出されています。


事実上の初代天皇である。
三輪王朝の創始者である。
騎馬民族系の渡来王である。
『魏志倭人伝』の卑弥呼をたすけた男弟である。

 複雑な性格をもった天皇であったことが推測されますが、いずれにしても祭祀王であったことは『日本書紀』の以上の記載からあきらかです。

 天皇が祭祀王としての性格をもつようになった過程については、大きく三つの考え方が成立します。

A.天皇ははじめから祭祀王としての本質をそなえていた。
B.巫女王の時代から男性祭祀王の時代に推移した。
C.男女の祭祀王ははじめから並存していた。

 この問題を解決するためには、巫女王、女帝、斎王、後宮などについて検討する必要があります。次回以降、これらの課題を解明してゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f03/suwa29.htm

諏訪春雄通信 30

 私たちのプロジェクトは、会員とはべつに、40数名の学識経験者の方々を「参加者(メンバー)」とよんで、会の運営についてご助言をいただいています。その参加者の一人谷川健一先生から久しぶりにお電話をいただき、新宿の中村屋でお会いしました。

 用件は、5月の連休あけに韓国へ取材にゆく予定であるが、適当な案内者を紹介してくれないか、というものでした。さっそく、やはり参加者の一人である広島大学の崔吉城先生に連絡をとり、最適の案内者を谷川先生に紹介することができまし。

 中村屋で谷川先生と一緒に私を待っていた方が、新潮社の文芸誌『新潮』の編集長前田速夫さんでした。その場で『新潮』に7枚の短文の寄稿を依頼され、「日本神話と中国長江流域神話」という一文を書いてすぐに送りました。この通信でこれまでにのべたことをまとめたものですが、その後に新しく発見した資料を追加しています。

 その追加資料をふくむ部分だけを、まず、この通信でお送りします。読みやすいように段落分けをします。


「日本神話と中国長江流域神話」

 日本神話の研究には、中国の少数民族社会の神話・伝承の調査研究が必須である。
しかし、残念ながら、日本神話の研究に中国少数民族の神話が考慮されることは、亡くなられた大林太良氏のような先覚者をのぞくと、これまでほとんどなかった。

 その理由の第一は、中国の民間伝承研究の成果が利用しやすいかたちで日本の学界につたえられていないということである。現在、中国神話として日本に紹介されている類書はほとんどすべて、文献に記載のある漢民族の神話であって、少数民族の口承神話ではない。

 第二の理由は、ヨーロッパ研究者による東南アジアや南太平洋の神話研究がはるかに先行していて、日本の神話学者はその成果をほとんど無批判に利用していることである。

 具体例で説明してみよう。

 海幸彦・山幸彦として漁労と狩猟に従事していたホデリとホオリの兄弟が、釣針と弓矢を交換し、弟が兄から借りた釣針をうしなって、竜宮をおとずれる神話は『古事記』と『日本書紀』がつたえている。日本人にもっともなじみのふかい神話の一つである。

 この神話の源流として、これまでに、インドネシアのケイ族の伝承、パラウ島の伝承などが指摘されている。インドネシア方面の「失われた釣針型説話」を原型として、日本の海幸彦・山幸彦の神話が成立したというのが現在の定説である。

 東南アジアの「失われた釣針型説話」の存在を最初に報告したのは、十九世紀以来、この地方に入って調査にしたがったフリードリヒ・ミューラーやフロベニウスといったヨーロッパの研究者たちであった。日本の神話研究はその成果を借用してきたのである。

 しかし、最近、中国の長江南部に海幸彦・山幸彦と類似の話が存在することが報告されている。大林太良氏は、この神話を海の原理と山の原理の闘争ととらえ、江南地方につたえられる呉越の戦いにかかわる伝説を、山を代表する越と海を代表する呉の対立として分析し、日本神話の原型として紹介している(『日本神話の構造』)。

 また、伊藤清司氏は、湖南省のトウチャ族につたわる「格山竜珠を与えられる」という話を紹介し、兄弟の争い、水界訪問、水界の女性との結婚、水界よりの呪宝の将来、呪宝による水の支配、兄への復讐、という六つのモチーフが共通することを説いている(「日本と中国の水界女房譚」)。

 私自身はこのほかに、雲南省のラフ族、貴州省のコーラオ族、四川省のイ族、貴州省のプーイー族などがつたえる二十種を超える異型の水界女房譚を、現時点で発掘している。この数はもっとふえるはずである。これらを総合すると、日本の海幸彦・山幸彦の神話の源流は中国の長江南部であると確信をもって断定することができる。

 もう一例、イザナギ・イザナミの国生み神話について検討する。この神話の原型についてもポリネシア、内陸アジア、インドなどの神話との類似がこれまでに説かれてきた。

 日本の国生み神話は、A洪水で生存した兄妹が結婚する、Bその結婚ははじめうまくゆかず身体不完全な子が誕生したが試行の結果国土と人類などが誕生する、Cしかもそうした行為が神、動物などの指示によっておこなわれる、という三つのモチーフから成る、いわゆる洪水神話の不完全型である。

 『旧約聖書』のノアの方舟で知られる洪水神話は、インド、南アメリカ、東南アジアなどに分布していて、起源地についても諸説があって一定していない。しかし、私は、中国ですくなくとも八十七種の洪水神話を収集している。その分布状況はつぎのようになる。

雲南省 三十八種   貴州省 十五種  湖南省 十一種  広西チワン族自治区 七種
四川省    五種   海南島  四種  湖北省   三種  内蒙古自治区      三種
遼寧省    三種   福建省  一種  台湾    一種  河南省          一種
青海省    一種   黄河辺  一種  黒竜江省 一種

 総数が九十五種となるのは、同一話が二つの地域にまたがって存在する例があるからである。この表によってみると、洪水神話は、雲南、貴州、湖南など、長江周辺の稲作民の居住地に稠密に分布していて、そこから南北にはなれると、急速に減少している。このことから洪水神話の起源地は長江中流域であると確定することができる。

 このほかにも、「アマテラスの天石屋戸隠れ」、「天孫降臨」、「オオクニヌシの根の国訪問」など、日本の王権の成立にかかわる神話の重要な骨格部分が、ほとんどすべて、中国の長江流域の稲作民居住地の伝承を源流としていることがあきらかになっている。太陽神・女神・祖先神・稲魂という四つの性格を兼備して、皇室の祖先となったアマテラスと同一神格への信仰もこの地方に存在している。

 このような中国長江流域神話と日本神話の類似という事実はけっして偶然の暗合ではない。アジアの稲作は一万年以前に長江中流域にはじまって、長い年月をかけてアジア各地にひろまっていた。そのときに稲作の技術とともに、稲作にかかわる信仰や民俗、神話伝承もまた伝播していった。その末端が日本に保存されているのである。

 以上です。ここで洪水神話87種といっているのは、通信20でのべたように、中国の民俗学者林河氏紹介の58話に私が29話を追加した数値です。中国の少数民族の神話については、なおも調査を続行中ですので、結果がまとまりしだいまたご報告します。

 今回は前回お約束した「巫女王」の問題について簡潔にのべます。

 巫女王とは女王が巫女をかねているものです。典型的な例は、『魏志倭人伝』にしるされて有名な卑弥呼です。彼女は邪馬台国の女王であったが、夫をもたず、一人の弟が政治をおこない、彼女じしんは鬼道につかえていたといいます。

 卑弥呼の没後、和国は混乱におちいったので、人々は卑弥呼の長女壹与を王として国を治めさせたといいます。壹与もまた巫女王でした。

 卑弥呼や壹与は邪馬台国にかぎられた特殊な例でなく、古代の日本にかなり一般的にみられる政治と祭事の形態だったようです。ヒメ・ヒコ制とよばれるものがそれです。

 ヒメ・ヒコ制は、兄弟と姉妹が政事と祭事を分担する統治の形態です。一般に「地名+ヒメ」と「地名+ヒコ」の名をもつ男女が一対となってその地域を支配する原始的な王権のあり方でした。具体例としては、『日本書紀』神武天皇即位前紀のウサの国の祖先ウサツヒコとウサツヒメの場合などがあります。

 このほかにも『日本書紀』には地方の首長が女性であった例をいくつかひろいだすことができます。政事権または軍事権をもつ男性の名がしるされていませんが、女性が祭事権をもつために首長にされたのであろうと推測されています(鳥越憲三郎「巫女の歴史」『講座日本の民族宗教4』・弘文堂)。

 ただ時代がさがると、男女の役割分担に相互移動もあったようで、女性の首長が政事や生産にたずさわる例もありました(今井尭「古墳時代前期における女性の地位」『日本史研究』397)。

 しかし、ヒメ・ヒコ制の精神は日本の歴史を貫流していました。

 『古事記』や『日本書紀』には天皇の代替わりにともなう皇位継承争いの記事が頻繁と出てきます。そのばあい、ライバルが同母の姉妹をもっていますと、皇位継承者がその女性をめとっている例が多いのです。

 これは、霊的守護者である姉妹を兄弟からひきはなすことに目的があったのではないかとかんがえられます。

 平和のうちにそれが成功すれば、皇位継承者はライバルにたいして優位にたつことができましたが、不幸にして両者が対立関係にあるときは、相手を倒してその霊的守護者である姉妹をめとることによって皇位争奪戦の完全な勝利をかちとることになりました(倉塚曄子『巫女の文化』平凡社・1979年)。

 沖縄にオナリ神とよばれる、兄弟を守護する姉妹の霊にたいする信仰があることはよく知られています。柳田國男が『妹の力』(1940)収載の論文で先鞭をつけ、伊波普猷がそのあとを受けて解明をすすめた問題でした。

 オナリは、奄美・沖縄・宮古・八重山の諸地域で兄弟から姉妹をさすことばです。姉妹から兄弟をさすときはエケリといいます。オナリ神信仰は、宮古をのぞく前記の各地にみられます。

 オナリ神の働きは呪詛にもしめされますが、多くは兄弟が危機にたったときの守護に力を発揮します。航海や戦争などの出発のさい、姉妹は守護のしるしとして、手ぬぐいや毛髪をもたせ、兄弟が危地におちいったとき、姉妹の霊は白鳥になって現地に飛ぶといいます。

 姉妹は兄弟にたいし霊的守護の役割をはたしますが、同時に兄弟は姉妹にたいし俗的守護の役割をします。しかも家族のレベルを超えたさまざまな上位の祭祀集団にもこの関係をみることができます。根神(ニーガミ)と根人(ニーッチュ)、ノロと按司(アジ)、聞得大君と王の関係などです。

 こうなると、本土古代のヒメ・ヒコ制の関係と完全にかさなります。

 興味ぶかいことは、このヒメ・ヒコ制、オナリ神信仰の源流についても、ポリネシアなどのオセアニアやインドネシアにもとめる説(馬渕東一『馬渕東一著作集3』、鍵谷明子『インドネシアの魔女』、他)が有力であるのにたいし、少数意見として、中国の守護女神媽祖(まそ)信仰との関係をかんがえる説があることです(植松明石「オナリ神」『沖縄大百科事典』沖縄タイムス社・1983年)。

 私はいまこの少数意見の立場にくみして、女性の霊力の問題を究明してみようとおもっています。

 さらにまた、女帝、斎王、後宮、采女など、日本の王権の維持にふかくかかわる諸制度で、ヒメ・ヒコ制、オナリ神の観点から説明しなければならないものが数多くあります。

 これらの問題を逐次この通信でかんがえてゆきます。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f04/suwa30.htm


154. 中川隆[-13642] koaQ7Jey 2018年11月27日 19:13:05 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21217] 報告

国内最古の大壁建物跡か、奈良 渡来人の定住早まる可能性 2018年11月27日
http://www.chunichi.co.jp/s/chuspo/article/2018112701001874.html

 奈良県高取町教育委員会は27日、同町の市尾カンデ遺跡で4世紀末から5世紀初めに渡来人が建てたとみられる朝鮮半島式の大壁建物跡が16棟分見つかったと発表した。国内最古とみられ、これまで5世紀後半以降とされていた渡来人の本格的な定住時期が大幅に早まる可能性がある。

 町教委によると、大壁建物は狭い間隔で柱を立てた後、土で壁の中に柱を塗り込めるのが特徴。全容が分かる最大のもので東西約15メートル、南北約13メートルだった。高取町の森ヲチヲサ遺跡で見つかった大壁建物跡と並び最大級という。同町ではこれまで約40棟見つかっていた。

(共同)

155. 中川隆[-13646] koaQ7Jey 2018年11月28日 13:03:22 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21241] 報告

2018年11月23日
縄文体質の史的足跡〜第7回 婚姻様式は本来、安定した集団を支える社会基盤。
http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3382.html


第7回(最終回)は夜這い・婚姻を扱います。

シリーズ「縄文体質とは何か?」第4回縄文の”性”を知る にあるように

>縄文時代の婚姻様式は総遇婚、近接集団との交差婚であり、集団婚であった。その後弥生時代以降も男が女集団に入る妻問い婚という形態にはなったが、ついぞ江戸時代までは女は母集団の中に残り、集団の共認充足に包まれた中で集団と女達は一生暮らすことができた。諸外国を見渡しても婚姻形態がこれほど近代まで残った国も稀有だし、一対婚がこれほど根付かなかった国もない。その意味で縄文が最も色濃く残ったのが婚姻であり、男と女であり、性充足である。それほど、日本人は性におおらかで性を心から楽しんでいた。

日本人の”性”への意識はつい50年ほど前まで集団・社会を安定させる基盤であり、性充足により安心で安定した集団を核として日本人は西洋とは違う民族性=縄文体質を維持してきました。

このように、本来、婚姻様式は社会の根幹を成す規範・制度であり、個人主義に傾斜した現代の一対婚制度により、現代は日本でも集団性が破壊され、縄文体質も薄れつつある危機的な状況にあります。

今回は縄文から今日に至る婚姻の変遷をおさらいし、今の日本で失われつつある精神を探っていきたいと思います。

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以下るいネットから要約します。

【縄文から弥生への婚姻様式の変化〜共認風土に取り込まれていく渡来人〜】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=270746

縄文社会に変化が起きたのは2,450年前の渡来人である呉人以降だろう。 稲作水田は大規模化し、環濠集落が生まれ階層化した村社会の構造が現れてくる。この時代の呉人は大陸での略奪闘争の負け組みだが、私権闘争を経験し支配社会のパラダイムを始めて日本社会に取り込んだのがこの第2波の呉人と思われる。

日本では、二群単位とはかぎらず、二群でも三郡でもが集落をなし、その中央に祭祀施設のあるヒロバをもち、そこをクナドとし、集落の全男女が相集まって共婚行事をもつことによって、族外婚段階を経過したと考えられる。

縄文前期までは単一集団内での族内婚のみであったが、集団規模が大きくなっていく縄文中期から後期は、村と村の要路がヒロバとなり、全男女を対象とした族外婚(クナド婚)が形成されていった。このクナド婚は、それまでの族内婚であった全員婚を、そっくりそのまま族外にも適用した婚姻様式であり、共認充足を第一とする縄文社会を端的に現したものであるといってよい。

そして、第2波の渡来人によって、このクナドも変化を見せる。

しかし、そうした日本も、縄文中期以降は、ようやく集落を定着させて、農耕段階へと進みつつあったと思う。それにつれて婚姻形態も、一方では族外群婚を発達させたが、また他方では北アメリカで20世紀初頭までみられたような母系制的対偶婚への道をひらこうとしていた。紀元前2、3世紀のころに移入されたといわれる水田農耕の普及は、社会関係を複雑にし、孤立した氏族集落対から部族連合体への道が開け始めた。   なおクナド婚は市場や入会山で威力を発揮し、部族連合の一つの動力となって活動したが、その方式に特記すべき変革が起こった。それは神前集団婚から神前婚約が始まり、それによって男が女の部落へ通う妻問形態の個別婚を生み出したことであった。

ここでいう対偶婚は渡来人によってもたらされた婚姻様式。大規模水田とともに新たなパラダイムで縄文を取り込み、そのことによって全員共婚のクナド婚から、対偶婚、さらに時代が進み妻問婚への個別婚へと表向きの婚姻制度が変化していったことが伺える。

クナド婚の場所で、こうした神前婚約が成立すると、男が女に通う妻問形態の個別婚が新しい時代に照応する正式の婚姻制として表面化してくる。しかし、そうなっても、群婚原理はまだ容易にたちきれず、婚約した相手だけでなく、相手の姉妹や兄弟にも波及する。

このように、この全員共婚であるクナド婚は、その後日本の村落共同体では様相を少しずつ変えながら根強く残り続けることになる。(夜這婚はその系譜にあるだろう) むしろ興味深いのは、妻問婚を持ち込んだ渡来人でさえ、共認充足に導かれて実態はクナド婚へ傾斜しているように見える点だ。支配者側であった渡来人は、表向き血筋を明らかにするために個別婚である必要があったが、縄文の共認風土に導かれて平和裏に共存していく様子が婚姻様式にも現れているように思える。

【母系社会の伝統が決定的に影響した日本の婚姻様式2】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=320152

万葉集には、両親を歌った歌が100首ばかりあるが、それらの殆どは母親を歌っており、父親だけを歌ったものは1首しかない。子の母親に対する情愛は現代にも通じるものがあるが、万葉集の世界においては、子は父と同居することがなくても、母親とは常に強い絆で結ばれていた。上の数字はそのことを反映しているのだともいえよう。

では、古代の男女はどのように結ばれたのか。

上層階級は別にして、庶民の間では遠方の地域との婚姻はそう盛んではなかったのではないか。部族集団の中か、せいぜい近隣地域との出会いが中心だったと考えられる。

結婚生活は基本的には、男が女のもとに通う通い婚であった。そのほか男が女の家族と同居する場合や、夫婦が独立して住居を構えることも行われた。だが女が男の家族のもとに同居する例は殆どなかったようである。したがって、近年の社会問題たる嫁舅の関係は、古代には存在しなかったと考えてよい。

通い婚の場合、新婚早々には男は足しげく女のもとに通ったであろう。しかし女が妊娠したり、あるいは男に他の思い人ができたりして、その足が遠のきがちになることもあった。古代の女性の歌には、男の到来を待ちわびる女の歌がそれこそ数多くあるが、そんな文化を日本以外に求めることはできないだろう。

こうした場合、結婚は自然と解消され、女は他の男と再婚することもできたようだ。古代には、男の女に対する責任がきつく問われなかったかわりに、女のほうにも相応の自由が保障されていたのである。

女が比較的簡単に離婚を決意しえたのは、後の時代と異なって、女が経済的に男に従属していなかったからだと思われる。先史時代以来の共同体のあり方に守られて、女は男がいなくとも、何とか生きていくことができたのだと考えられる。

こうした女中心の婚姻や家族の形態が大きく変容するのは平安時代中期である。それには家の成立が深くかかわっている。古代的な共同体が解体され、その中から社会の基本単位として家というものが成立した。家は社会的・経済的な単位として国家機構の中に組み込まれ、課税の単位ともなった。

この新しい家にとっては、家を代表するものとしての戸主というものが登場し、家族の成員はその戸主の名の下に把握された。そこで新しく戸主となったものは男たちだったのである。

家の成立は上流層では10世紀ごろ、庶民層では12世紀ごろだとされている。家が社会の公的な構成単位となったからといって、すぐさま女が男に従属したわけではない。中世初期まで家の中での女の力はまだ根強く残っており、女にも独自の財産を持つことが許されていた。女房が亭主を相手に貸付をしたという記録も残っているほどである。

だが一旦成立した家は次第に機能の増殖をはじめ、ついには家の中の長たる男の権威が妻のそれを圧倒するようになる。女は経済的にも男に従属するようになり、婚姻の形態も自然と、女を男の家に迎える「嫁取り婚」へと変化していくのである。

【中世の社会と婚姻制度・相続制度】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=338907

鎌倉時代は貴族は婿取婚(母系氏族が婿を迎える)という制度であったが、武士は次第に嫁取婚へと移行していく。それは、戦闘軍団ゆえに男の武力が制覇力となったことによるが、とりわけ地方武士は土着性が強いが故に、土地を離れるわけに行かなかったという事情が実際上は大きい。父系制の成り立ちの時期は、それぞれの社会階層によって異なり、武家上層においては、院政期から鎌倉時代において、そして一般武家は鎌倉時代から南北朝時代、さらに庶民層においては、南北朝時代から戦国時代である。 但し、庶民は江戸時代に至るまでも夜這い婚を併用している 因みに、公家層が嫁取りに移行するのは、武士の力が強まり、公武の結婚が行われるようになって以降である。 また鎌倉時代は「分割相続」を原則としており、新しく建てられた分家は本家の惣領(家督)のもとで血縁集団を形成した。惣領は戦時には一門を率いて闘い、軍役と恩賞を一門の各家に割り当てた。この惣領制を土台に幕府は御家人たちを束ねていたのである。 しかし父系制とはいえ、当時は夫と妻とは別々の姓(氏の名)を名乗り、それぞれが父母から相続した氏の財産を継承するという、夫婦別財産制度をとっており、妻も自前の財産を有していた。(女子が惣領となるケースもあった)

この惣領制が揺らぐのは、元寇(鎌倉中期)以降である。それまでは、承久の乱や元寇を通じて、荘園領や非御家人領に支配が及び、分家の所領も確保できていたが、安定期に入ると所領の増加がなくなり、所領は相続の度減少し、御家人たちの収入は激減する。 その結果、戦闘集団として一体化していた本家と分家の結びつきは弱まり、次第に一門同士の血縁的統合から、生産基盤を共にする地縁的結合が高まっていく。このことが地域の独立性を高め惣村の自立性を強める大きな要因となっていく。

【夜這い婚の情景@】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=89190

■若衆宿 その頃は、一人前と認められ、若者宿への参加が認められることが、子供の楽しみであった。十三、四、五歳から参加が認められ、結婚するまでの間、毎年農閑期の何ヶ月間か、そこで共同生活をしたものだ。中には、一年通して、つまり数年間、若者宿で過ごす者も、少なくなかった。彼らは、農繁期の強力な助っ人として、重要な存在であった。

共同生活を通じて、親からの躾とは違う、共同体の一員としての ケジメ を先達から教えられる場であった。また、年に何ヶ月かの共同生活を、数年繰り返すことで、自然と仲間内の序列、派閥なども形成されていった。つまり、仕事のときの采配はだれだれ、遊びはだれだれ、交渉ごとのうまい奴、物資調達のうまい奴、情報通のものなど、互いに相手を知り合う機会でもあった。

■夜這い規範 夜這いといっても、誰もが好き勝手に、女の家へ忍び込んだわけではない。通常、相手の娘が、承知してくれた場合のみ、あるいはその娘が、自分の誘いに応じてくれたときのみ、夜這いに行けたものである。相手の望まない夜這いは、無理に忍び込み、ことに及ぼうとするとき、娘に騒がれて、親に捕まった時など、村のさらし者にされる恐れがあった。

また、忍び込んだ娘の家で、あまり無茶をしないよう、夜這いの礼儀作法というものも教えられた。先達たちが、四方山話の一環として、面白おかしく話すこともあったが、実際は、ベテラン女性に、手取り足取り教えてもらったものである。

■性の指導 若者宿ではまず、新入りには忍び込みのテクニックを教える。そして筆下ろしのため、先輩が事前に了解を得て、ベテランの女性に、童貞の子への筆下ろしを頼んだものである。上農の場合には、元服の際、両親が相談し、親類縁者のなかから、これという女性を選びだして依頼し、文字通り手取り足取り、女性の体の 造り を教え、扱い方 の指導を任せたものである。

娘の場合も、赤飯を炊いて祝った夜、一族の年配者や、主家筋の、しかるべき長老の誰かに、水揚げというか、道を通してもらうのが慣わしであった。そうしておかないと、夜這いされたとき、戸惑うことになる。そして、母親や叔母さん、先に一人前になっていた近所の姉様たちが、具体的に心構えや、手練手管を伝授するなど、共同体の一員としての教育がなされてきたのである。

■性の喜び:活力源 当時は、男女とも、性の悦びを味わうことは、タブーではなかった。もちろん、公然たる不倫は咎められ、相手かまわず交合する者も嫌われた。しかし、農民においては、性とは、心行くまで自由に楽しむべきものであり、過酷な労働に耐える農民の、活力源でもあった。男は十数歳で元服し、女も初潮を迎えれば、ともに一人前として、大人の扱いを受けることになった。

大人の扱いを受けるということは、一人前の労働力として期待されることでもあったが、同時に、自由意志で性を楽しむことを、認められることを意味した。自由とは、規律を守ることにより、自由を保障される。その規律を教えるのが、若者宿であり、赤飯の祝いの夜の儀式であった。当時は男も女も、互いに相手が複数の異性と、交渉を持っていたことを当然として、結婚したものである。

結婚後も、一定の規範の元に、自由であった。不自由なのは、支配者階級である。なまじ、守り、引き継ぐべき、金や富を持っているため、子の血筋を重視するがために、女を家に閉じ込め、他の男との接触を不義として、禁じてきた。下これに倣うで、家臣も、町家の者も、女性の人権、自由度を制限し、現在に到っている。のではなかろうか。

【ムラの「公事」であった「夜這い」】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=156930

>明治以降、国家権力の弾圧によって旧来の日本の夜這い文化は衰退の一途を辿ります。

以下「村落共同体と性的規範の6.弾圧と亡失」より引用)

ところが「筆おろし」の年齢を一挙に引き上げる事件が起こった。すなわち徴兵検査の励行で、富国強兵の政府といたしましては、国家の干城たる青年に花柳病が蔓延するのを座視することはできない。これは古い若衆組の罪で、質実剛健を主旨とする青年会に改組する。「夜這い」などもってのほか、青年、処女は純潔でなければいけぬことになって、教育も。これに応じて大合唱したから、若衆組も、夜這いも決定的な打撃を受けた。

男も男なら、女も女ということになるが、若衆組や夜ばいの盛んであった時代には、こんなことは想像もできなかっただろう。四十六の仲人あっぱが、若衆も娘も実地教育してみせたので、昔の若衆の初夜教育が、いかに適切、かつ科学的教育方法として作動したか、を実証している。まさにあっぱはムラの性教育の伝統を継ぐ、最後の一人であったのだろう。

では、近代教育の「純潔」とか、「貞操」とかはなんであったのか。肉体的な抑制を強要するだけで、健康な発散を考えなかった結果として、いま私たちは、その当然の代償を支払わせられている。娘を商品として高価に売り込むための処女性尊重と「貞操」の強要、息子を売春風俗産業の購買力に仕立てる手段としての「純潔」教育、そこには資本主義社会の露骨な商品化政策があるだけだ。

私たちは若衆組の行事や夜這いを、かつて淫風陋習として退けたのである。しかしムラがムラであったとき、成熟した女性にとって若衆へ心身ともに健全な教育をすることは、次代への継承を維持するために負った義務であり、また権利であっただろう。

ムラが一つの共同体として作動しているとき、夜這いも結婚関係も、若衆組その他と同じく、それぞれムラの「公事」であったから、かれらに「純潔」や「貞操」の観念はなく、どうして生活を維持するかが根本の約束であったものと思われる。

つまり個人として私匿しなければならない密室の作業ではなく、いつでも公開されているルールに乗った行為であった。長い間、私たちは「夜這い」を誤解してきたが、それはムラの古い共同結婚方式を継承したものとして、まさに「公事」として維持されてきたのである。近代日本は結婚を「私事」に変質させることで、「夜這い」の伝統と継承とを否定したが、そのためにかえって社会的性生活を荒廃させた。

【日本における現行の婚姻制度〜日本国憲法@】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=225216

戦後日本の家族のあり方に最大の影響をもたらしているもの。それは、日本国憲法である。日本国憲法は、戦後、GHQによって押しつけられた憲法である。その基本理念は欧米の価値観に基づいている。その理念の一つが、個人主義である。これは家族や国家より個人を重んじる考え方である。日本の社会に個人主義を植えつけること、それが日本を「民主化」することであり、同時に日本を弱体化することだった。

西洋近代の思想の一つである啓蒙主義は、17世紀イギリスのホッブス、ロックらによって展開された。彼らは、デカルトの要素還元主義の影響を受けていた。そのため、まるで幾何学的空間におかれた原子(アトム)のようなものとして、人間をイメージした。「個人主義」とは、原子(アトム)的な個人を、集団より先在する要素とし、個人を原理として、社会の構成を考える考え方である。

日本国憲法は、こうした西洋近代啓蒙思想が根底に置かれている。そして、この思想をさらに極端に推し進めた学説が普及した。すなわち、「個人の尊厳」を持って「個人主義の原理」とし、アトム化した個人を持って「人間社会における価値の根源」などと説明する宮沢俊義らの学説である。

こうした極端な学説が出てくる原因は、日本国憲法にある。具体的に挙げれば、第24条である。この条項には婚姻に関する規定がある。すなわち第1項に「婚姻は、両性の合意のみによって成立し、夫婦が同等の権利を有することを基本として、相互の協力により、維持されなければならない」とある。また第2項に「配偶者の選択、財産権、相続、住居の選定、離婚並びに婚姻及び家族に関するその他の事項に関しては、法律は、個人の尊厳と両性の本質的平等に立脚して、制定されなければならない」と記されている。

このように憲法に婚姻に関する規定が設けられているのは、世界的に見ても異例である。男女が恋愛をし、性的に結びつくことには、法律はいらない。その限りでは、私的な事柄であり、国家が介入すべきことではない。しかし、結婚した男女は、単なる同棲者ではなく、親や家族や親族・友人などの認知を得た関係となる。私的な男女関係が、ここで公認による公の関係となるのである。それは、結婚は夫婦の性的関係を維持する手段ではなく、家族を形成することが目的だからである。つまり、結婚とは、社会の基本単位である家族を形成するという公共性のある行為なのである。そこに、結婚を法律に定める必要があるわけである。そして家族の安定のために、婚姻の安定性を求める法律も定められる。それゆえ、憲法に規定する必要があるのは、婚姻よりも家族に関する規定である。

しかし、第24条は、個人の尊厳と両性の権利の平等を強調する一方、家族の大切さを規定していない。そこに大きな欠陥がある。条文には、夫婦と並んで家族を構成するもう一本の柱である、親子への言及がない。これは、生命と文化が、世代から世代へと継承されていくことを軽視している。憲法の全体に、世代間の縦のつながり、民族の歴史が断ち切られている。

【婚姻が社会と切り離されて50年も経ってない】http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=87512

日本の婚姻史を調べてみると、集団や社会から切り離された婚姻や性関係は、ほんのこの50年くらいしかなかったようだ。

まず、庶民の生活の中で、縄文時代から昭和10年から30年頃まで受け継がれてきた、夜這い婚などの集団婚。それらは、村単位で性充足を高めるシステムで、男女老若既未婚をとわず、性の役割が与えられた。

子育ても、誰の子であろうと、娘の親が育てるというように、村の規範の中で育てられた。決して個人課題ではない。また、性や子育て規範を共有する単位(村)と、生産にかかわる規範を共有する単位(村)は一致していた。

このように、性や婚姻は社会とつながっていて、性自体が集団維持の課題のひとつであった。それゆえ、性をみんなの期待として、肯定的に捉えていた。

次に、貴族や上位層の武士は、父系制の一夫多妻・一夫一婦制をとるが、基本的には政略結婚である。結婚は個人の課題という現代の感覚からすると、無理やり嫁がされてかわいそう、ということになるが、おおきな間違いだと思う。

私権社会での集団維持という歪んだ側面をもつことは否めないが、明らかに集団維持のための婚姻である。 それは、採取時代の人類は、男女の婚姻関係・性関係が、“集団統合上の重要課題である”ことを、ごく当たり前のように認識していたと思われることです。

そして、貴族の娘も、いい家柄に嫁げるように、家庭教師を招いて、教養を身につけるのが、役割であった。娘自身も教養あるおしとやかな女になることを、目指していたのである。ちなみに清少納言や紫式部は、上記の家庭教師だった。

そして、昭和の30年から45年くらいまでの婚姻制度も、基本的には家という基盤を背後に持ちながら、恋愛結婚という形をとった。この源流は、武士や貴族の婚姻制度にある。かなり社会との関係は薄れるが、まだつながりを保っていた時代だと思う。

このように、この50年を除けば、性は社会とつながっており、衰弱することはなかった。そして現在、まったく社会とつながりを失い、当人同士以外だれの期待も受けない性が始めて登場した。そのときから、性は衰弱し続けている。

再生のためには、社会の中でみんなに期待される『性』が役割として再認識される必要がある。そのためには、性も生産も包摂した新しい本源集団の再生が不可欠になる。

http://web.joumon.jp.net/blog/2018/11/3382.html

156. 中川隆[-13721] koaQ7Jey 2018年12月03日 11:49:51 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21601] 報告
2018/12/01
世界最古の水稲栽培文明を滅ぼした急激な寒冷化イベント
東京大学大気海洋研究所、東京大学大学院理学系研究科
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/6151/

概要

中国の長江デルタでは、約7500年前から世界最古の水稲栽培を基盤とした新石器文明が栄えたが、約4200年前に突然消滅し、その後300年間にわたり文明が途絶えた。多くの考古学者や地質学者が研究を行ってきたが、原因について統一的な見解は得られていなかった。

東京大学と日中の研究機関の共同研究グループは、長江デルタの近傍から2本の海洋堆積物コアを採取し、アルケノン古水温分析を行うことで完新世の表層海水温変動を高時間解像度で明らかにした。コア採取地は沿岸の浅海である。沿岸気温は表層海水温と強い相関がある。そのため、表層水温変動の記録から長江デルタの気温変動を定量的に推定することができる。

分析の結果、長江文明が途絶えた時期に一致する約4400〜3800年前には、大規模かつ複数回の急激な寒冷化(3〜4℃の温度低下)が発生していたことが示された。この寒冷化イベントは、この時期に発生した全球規模の気候変動と関連するものと考えられる。このイベントが、稲作にダメージを与え、長江デルタの文明を崩壊させる一因となった可能性が高い。

図. 本研究で明らかになったコア採取地の温度変動と、長江デルタの文明変遷。
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/info/6151/

本研究により、水稲栽培を基盤とした巨大文明が気候変動によって滅んだことが示唆された。今後の地球環境変動予測とその対応策が、人類にとって重要な課題であることが今一度示された。

本研究成果は12月1日付の「Quaternary Science Reviews」に掲載された。

詳細については、

東京大学大気海洋研究所 のホームページ
http://www.aori.u-tokyo.ac.jp/research/

をご覧ください。

―東京大学大学院理学系研究科・理学部 広報室―

157. 中川隆[-13748] koaQ7Jey 2018年12月11日 02:21:36 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-21919] 報告

陸稲は焼き畑農耕と一緒に縄文中期に長江から九州に伝わった

水田は弥生初期に長江から北九州に伝わった

稲の来た道論争
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku368.htm

稲作の渡来(稲作はどこから来たか?)
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku359.htm

4.呉の国と日本・稲作の渡来
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku358.htm#04

縄文時代に長江から九州に伝えられた照葉樹林帯文化
https://dankai.akimasa21.net/east-asian-evergreen-forest-culture/

遡る縄文稲作の年代
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_01jyoumonninasaku.html

長江人が移住して作った吉野ヶ里遺跡の鳥居
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

漢民族が作った魏志倭人伝の伊都国
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

158. 中川隆[-13790] koaQ7Jey 2018年12月15日 12:06:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22159] 報告
西暦200年代に朝鮮半島から日本に移動したグループと判定されました
日本人に多くいそうだね☆


2018年02月25日 Home DNA
http://blog.livedoor.jp/mukamikami000/

Home DNAという祖先解析サービスを見つけたので
早速使ってみました。
https://homedna.com/

他の業者で得られたraw dataをアップロードすると
有料(39US$)で解析してくれるプランもあったため
まずは昨年得られたFamilyTreeDNAでのデータを
ダウンロード、拡張子[.csv.gz]のファイルを保存してから
Home DNAのサイトにアップロード、同時に料金を支払います。
数時間後に、以下の結果が報告されました。

map01

遺伝子多型を解析し、割合の多い3種の人種を提示してくれます。
私の場合
1.オーストロネシア・オセアニア
2.オーストロネシア・東南アジア
3.中央アメリカ
の順でした。この分類はHomeDNA独特のもののようですが
他社データを使って即時に結果がわかるのは便利です。
ほかにも23andme、AncestryDNAやNationalGeographicのデータも受け付けています。
(今後、気が向いたらこれらのデータも解析依頼してみます)
map02
また、上図のように地域上で移動した経路も推測してくれます。
私の場合、西暦200年代に朝鮮半島から日本に移動したグループ
と判定されました。
このバリエーションがどれだけ用意されているかはわかりません。


当然、Home DNAに直接DNAサンプルを送付して解析してもらった場合は
異なる結果が得られる可能性もあるため、通常のサンプル回収キットも
注文しました。
Asian editionなるアジア人集団に特化したと思われるサービスもあったので
ついでに申し込みました。
キットが届き次第再度報告します。

Asian editionは他社にはないユニークなサービスです。
遺伝子解析をするアジア人も多くなった結果でしょうか。
African editionもあるのでアフリカ系のひとたちもこれまでのような
ざっくりとした解析結果にがっかりすることはなくなるかもしれません。

Home DNAではスキンケアなどの健康情報にかかわる遺伝子解析も
提供しているそうなので興味がある方は試してみても
よいかもしれません。
http://blog.livedoor.jp/mukamikami000/

アジア人に特化したサービス
https://homedna.com/product/gps-origins-ancestry-test-asian-edition

159. 中川隆[-13753] koaQ7Jey 2018年12月18日 10:46:30 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

神代文字の使用を裏づける!?、弥生時代の硯も発見された九州筑後の平塚川添遺跡 ・・浮かぶ先進性 三角縁神獣鏡発見で注目(かいけつニュース速報)
https://gansokaiketu-jp.com/kaiketukeijiban/nipponshi/light.cgi?

平塚川添遺跡

浮かぶ、筑後平野の先進性 三角縁神獣鏡発見で注目 福岡・朝倉
https://mainichi.jp/articles/20180906/ddl/k46/040/424000c?inb=ra

弥生時代中期から古墳時代初頭にかけての大規模環濠(かんごう)集落遺跡、平塚川添遺跡(福岡県朝倉市、国史跡)についてのシンポジウムが同市内で開かれた。「卑弥呼の鏡」との説もあり、同遺跡付近で出土したとみられる三角縁神獣鏡が最近発見されたことが報告され、同遺跡一帯の重要性が改めて浮かび上がった。

 平塚川添遺跡は筑後川の支流・小石原川沿いの低湿地にある。1991〜93年に発掘調査。17ヘクタールの範囲で最大7重の環濠や柵列を巡らせた中に、竪穴住居跡300カ所や大型掘立(ほったて)柱建物跡が見つかった。住居、工房、倉庫の用途ごとの区画が存在したとされる。大量の土器や木製品のほか、玉類などもあった。遺跡の最盛期は邪馬台国時代に当たるため、「魏志倭人伝」に登場する「国」の存在を示す遺跡として知られている。

 朝倉市教委文化財係の中島圭さんは、遺跡一帯の地形に着目した。朝倉市では北部の山地から筑後川に向けて小石原川などの支流が流れるため扇状地が発達している。川に沿った高い台地に弥生〜古墳時代の遺跡が多数見つかる。ところが平塚川添遺跡は低湿地で、台地は遺跡の東部に広がる。中島さんは「国の中心は台地にあって、平塚川添遺跡はむしろ新興の開拓地だったのでは」と推測した。

 それをうかがわせるのが発見された三角縁神獣鏡だ。旧福岡藩士の家に所蔵していたもので、今年3月に朝倉市に寄贈された。100年以上前の絵図で存在は知られていたが現物は所在不明だった。出土地点は文献から、同遺跡東部の台地にある、平塚大願寺遺跡の方形周溝墓だった可能性が高いという。これまで同市内で唯一の三角縁神獣鏡の出土地だった神蔵(かんのくら)古墳も、この台地にある。平塚川添遺跡では銅鏡や銅矛の破片しかなく、首長の墓は確認されていない。一方、三角縁神獣鏡は初期大和政権が各地に配布した威信財とされ、地域の首長墓の存在を示す。

 中島さんは「平塚川添遺跡は氷山の一角。台地にはまだまだ遺跡が広がっている」と想像する。武末純一・福岡大教授も「平塚川添遺跡の全容はまだ分かっていない。三角縁神獣鏡と共に葬られた人が当時どこにいたのかも探してほしい」と今後の調査に期待を寄せた。

 朝倉市の隣りの筑前町では近年、弥生時代の硯(すずり)が相次いで発見され、文字使用の可能性を巡って注目されている。同町の遺跡では「王墓」とみられる墳丘墓や銅製品の鋳型も確認されている。平塚川添遺跡を巡る調査研究の進展は、当時の筑後平野の先進性を探る上で鍵を握っているのかもしれない。【大森顕
https://gansokaiketu-jp.com/kaiketukeijiban/nipponshi/light.cgi?


漢文を使って、中国鏡を神体としていたというのは、筑後平野に住んでいたのは漢民族という事ですね。


日本は多民族国家で

陸稲は焼き畑農耕と一緒に縄文中期に長江から九州に伝わった

水田は弥生初期に長江から北九州に伝わった

天皇一族は朝鮮での権力闘争に敗れてソウルから北九州伊都国に移住した


弥生時代後期から昭和までずっと連続して朝鮮から長江系及び漢民族系渡来人が流入し続けた

信仰対象によってどの民族かが簡単に判別できます:

縄文人
蛇信仰、巨木・磐座に神が降りる、死んだら円錐形の山からあの世に上がる

長江人
鳥信仰、集落の入り口に鳥居を設ける

朝鮮からの漢民族系渡来人
中国鏡を神体とする太陽信仰

____

稲の来た道論争
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku368.htm

稲作の渡来(稲作はどこから来たか?)
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku359.htm

4.呉の国と日本・稲作の渡来
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku358.htm#04

縄文時代に長江から九州に伝えられた照葉樹林帯文化
https://dankai.akimasa21.net/east-asian-evergreen-forest-culture/

遡る縄文稲作の年代
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn2/002_01jyoumonninasaku.html

長江人が九州に移住して作った吉野ヶ里遺跡の鳥居と鳥信仰
http://www.yoshinogari.jp/contents/c3/c104.html

朝鮮を追われた天皇家が日本に移住して作った魏志倭人伝の伊都国・邪馬台国での鏡信仰
http://yamatai.cside.com/katudou/kiroku273.htm

160. 中川隆[-13489] koaQ7Jey 2018年12月24日 17:16:13 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22207] 報告

大阪鶴橋に済州島住民が多い理由 仁徳天皇が渡来人歓迎


仁徳天皇や天智天皇は渡来人を歓迎し、百済洲や百済郡、百済寺に百済川もあった


画像引用:地名で分かる渡来人の分布https://www.facebook.com/295367367249272/photos/a.296474680471874/298873963565279/?type=1&theater

仁徳天皇時代には百済島や百済川まであった

大阪市の生野区には日本最大の「移民地域」である鶴橋が存在しています。

鶴橋駅前から市場に入ると韓国語が通用するし、それどころか日本語が通じにくかったりする。

鶴橋の歴史は非常に古く、仁徳天皇の西暦400年ごろにはすでに大勢の百済人や新羅人が住んでいました。



大陸では東晋が滅亡する末期で、半島では百済・新羅・任那日本府が並立し、半島南部はヤマト政権の支配下にあった。

半島南部ではヤマトの大王(天皇)の支配の証である前方後円墳多数が見つかっていて、百済や新羅も日本の影響下にあった。

仁徳天皇の2代前には神功皇后の三韓征伐が行われたと記紀に記されていて、事実である可能性が高まっている。


奈良県でヤマト政権が成立したのは古墳からは西暦200年代と推測され、もっとも近い港である大阪湾が半島や大陸との交易地になった。

当時の大阪市はまだ海に島が点在している状況で、生野区や鶴橋もまだ島や海岸だったと考えられています。

百済や新羅の商人や労働者、上は貴族や王家まで様々な人が大阪や奈良に移民してきました。


これが古墳時代の渡来人で、百済滅亡によって日本に難民が押し寄せて、特に大阪の生野区に移民が増えました。

大阪湾には島が点在していると書いたが、当時は「百済洲」「新羅洲」という名前の島があり、名前の通り百済や新羅の人たちが住んでいた。

鶴橋周辺には「百済郡」があり「百済川」まで流れていたと記録されています。


半島からの移民受け入れに最も熱心だったのが仁徳天皇で、一時は大阪に住み、渡来人のようすを自ら視察したともされています。

渡来人にとって仁徳天皇は最大の理解者なので、彼らが最大級の天皇陵を大阪に作ったとしても不自然ではありません。

百済滅亡で難民が押し寄せた

時代は下って西暦660年ごろ、斉明天皇と天智天皇(母子)の時代になり、ヤマト政権は半島の支配地を失いました。


660年に同盟国の百済が羅漢同盟(新羅と漢)に滅ぼされ、663年に再興を目指した白村江の戦いで日本軍は負けてしまった。


百済滅亡より前に、任那日本府も羅漢に滅ぼされていたと考えられます。

百済滅亡にともなって大勢の百済人が日本に亡命し、縁故を頼って旧百済洲などがあった大阪に住みました。


この中の滅亡した百済の王子・善光は天智天皇の許しを得て「百済郡」の領主となり、百済王一族は長く栄えたとされている。

百済王敬福は大出世して750年に河内守となり、河内国に移住したが多くの百済人の子孫はそのまま残った。

百済郡がどこだったのかは不明だが、鶴橋は「猪飼野」と呼ばれる百済人居住地でした。


当時日本人はあまり豚やイノシシを食べず、百済人はイノシシを飼育していたのでこの名がついたとされている。

百済を滅ぼした新羅の人も日本と絶縁したわけではなく、やはり大阪を中心に多く居住していた。

こうした渡来人は日本にとっては労働力であり、当時としては進んだ技術や知識を持っていたので重宝された。


たとえば法隆寺など日本の初期の寺は、百済人やその子孫が設計や建設に関わっている。

渡来人は大阪湾の埋め立てにも動員され、習慣や文化の違いから他とは違う文化を築いていった。

秀吉の朝鮮出兵の時にも大量の渡来人が移民または連行されて、大阪城や江戸城の建設に動員されたと言われている。

韓国からの20万人大脱走

時はさらに下って明治維新後は半島からの移住者が増えて、終戦時には200万人前後に達していました。

1948年の調査では約150万人が韓国に帰国し、約65万人が残っていたが10万人は戦後に密航してきた人たちでした。

このあと1948年から1953年にかけて「済州島事件」と朝鮮戦争、保導連盟事件によって20万人以上が日本に密航してきた。


この一連の事件はアメリカが任命した韓国初代大統領の李承晩が行った大粛清が原因で、十万人I以上が日本に逃れたとされている。

当時の研究では送還された人を除いて25万人が日本に密航した可能性があると書かれている。

結局10万人ほどは朝鮮戦争が終わっても帰国せず、戦前からの居住者と混ざって「特別永住者」になっている。


李承晩が最も弾圧したのが済州島で、30万人のうち6万人が犠牲になり、10万人ほどが日本に逃れた。

鶴橋には戦前から済州島出身者が多かったので、縁故を頼って大勢の済州島民が鶴橋周辺に定住しました。

これらの人たちが現在の鶴橋を形成し、一説には住民の過半数が半島系の先祖を持っている。


日本に最初の渡来人が移住したのは縄文以前を除くと今から3000年前で、稲作を伝えたとされている。

それから定期的に渡来ブームがあり、特に半島で戦争や混乱が起きると渡来が増え、やはり縁故を頼って大阪にたどり着く。
http://www.thutmosev.com/archives/78516496.html

161. 中川隆[-12919] koaQ7Jey 2019年1月17日 21:39:18 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告
弥生時代の銅鐸は中国長江文明の銅鐘が起源
投稿日: 2017年7月16日 作成者: kidoch
http://denjiso.net/?p=14412


銅鐸は古代中国の長江文明の銅鐘が紀元前5世紀から紀元前3世紀に、つまり春秋戦国時代に移民や難民(=弥生人)が集団で日本にムラ単位で入植して広めた。 

朝鮮半島では銅鐸・馬鐸として、日本では北部九州から島根半島や瀬戸内海に沿って中国、四国、関西、中部、東海、北陸へと移住して銅鐸として広まった。
初期の銅鐸はムラの中央の高床の掘立柱建物の棟に吊るして祀ったのが自然に思える。
紀元前2世紀と起源頃にムラが別の信仰を持つ権力者によって統合されてクニとなるときに埋納された。

◾擂鼓墩 古代音を伝える曾侯乙の編鐘_人民中国より 
http://www.peoplechina.com.cn/home/second/2011-03/02/content_336599.htm


『擂鼓墩 古代音を伝える曾侯乙の編鐘
丘桓興=文 魯忠民=写真


擂鼓墩は、湖北省随州市の西の郊外、省都・武漢市から北西へ155キロ離れたところにある。2000年以上前の春秋時代(紀元前770〜同476年)に、楚王がここで太鼓を叩いて(擂鼓)、突撃する兵士を鼓舞したことに由来する。
1978年、湖北省博物館が2400年以前の曾国の王・曾侯乙の墓を発掘した際、大量の青銅器や漆器、陶器、玉器と竹簡などの貴重な埋蔵物1万5400点余りが出土した。その中で、「古代冷蔵庫」と称えられている青銅製の鑑缶(酒を冷やしたり温めたりする容器)や、彫刻が精美な大金盞、16の環が繋げられた龍鳳玉飾りと「二十八宿図」を描いた衣装箱など、いずれもまれに見る国宝といえる。とりわけ完全に保存された65個の鐘を備えた編鐘は、現在でも各種の曲を演奏できることから、各国の考古学界で世界音楽史上の重大発見と見なされている。


◾CiNii 論文 – 弥生時代の銅鐸の文様の源流について(本文PDF 2001年)より

『銅鐸の装飾は,銅鼓と縦横の幾何学文帯による構成である点では共通するがそれは他の器種にも見られたこと,また幾何学文は銅鼓にはない文様も使用されているがそれらの文様は他の器種には見られたこと,などから銅鼓とだけ深い関係があるのではない様子が浮かび上がってきた。ここで,これまでに挙げた各種の青銅器の出土地を見てみると(地図参照),

殆どは万家鰯型銅鼓及び石寨山型石寨山系銅鼓の分布地域と重なり,また少数のものが越族青銅器の分布地域と重なっていることが分かる54)。これに上記の船文における結論を加えると,本稿の範囲からは,銅鐸の装飾は,むしろ戦国から前漢の銅鼓の分布地域,即ち長江上流域の雲南・四川南部や東南の広西などの地の青銅器文化と近い関係があり,また越族の青銅器文化とも共有する部分があり,沿海の中国南方地域の世界とも無縁ではないということであろう。』
※PDFファイルはページが逆になっているので最後のページがトップです。

◾浙江省人民政府公式ホームページ – 浙江省の舞踊より
http://japanese.zj.gov.cn/col/col12200/index.html

『不可避的に祖先祭祀、神霊、英雄崇拝が一体に結び付いた音楽・舞踊は、浙江省の他の地方にも見られる。例えば、金華市磐安県深沢郷金溝遺跡から出土した商周楽器青銅鐃は、祭祀用具であると共に、士気高揚のための手柄者祝賀宴会のときの打楽器でもある。春秋戦国時代、浙江省は呉、越の覇権争いの地であった。呉が滅亡して越になり、後に越が滅亡して楚になる。

秦が中国を統一してから、全国を36郡に分けた。その時期に、巫呪術的舞踊が流行した。「浙江の古百越人……先秦時期……祭祀は厖雑で、巫術が流行した。」(于彤《浙江风俗概说》)巫の仕事は、音楽・舞踊で神様を楽しませることであり、また、巫術の中の巫舞は特殊形式の民間舞踊である。余杭良諸反山遺跡から出土した文物の中に、遅い、速い太鼓の音にあわせて歌い、袖を振りながら舞う絵がある。

また、浙江省嘉興市海塩県長川壩で戦国時代初期の原始磁質楽器45点、編鐘1組13点、及び紐鐘、勾鑃鐓于などの多くの楽器が発見された。それらの楽器の出土は、古越の王侯貴族、少なくとも資産家の当時の歌舞享楽を証明している。紹興306号戦国墓から出土した銅屋模型は、中に楽師が6人跪いており、前列東一番は太鼓叩き、西二人は歌い者、後列の三人はそれぞれ笙や琴を奏でたりしている。銅屋に舞う巫はいないが、歌舞で神を楽しませる儀式であることは明らかである。』

◾bo 鎛 | bronzes chinois antiques 中国古代青銅器より
https://bronzeschinois.wordpress.com/musique-%E6%A8%82%E5%99%A8/bo-%E9%8E%9B/


bo 鎛 (Shang 商)

◾弥生時代の銅鐸とドンソン文化の銅鼓の類似性」
◾弥生青銅器祭祀の展開と特質2014年2月(PDF)
◾鉛同位体比による青銅器の鉛山地推定をめぐって(PDF)  新井宏(ARAI Hiroshi)のWWWサイトより ※ここ注目!

◾【歴史のささやき】「弥生」のイメージを変えた“インディ・ジョーンズ” – 産経ニュース 2015.5.1 07:02より
2015.5.1 07:02

【歴史のささやき】
「弥生」のイメージを変えた“インディ・ジョーンズ

佐賀県神埼市の川寄吉原遺跡から出土した鐸形土製品
 考古学者といえばトロイを発見したシュリーマン、ツタンカーメンの墓に行き当たったハワード・カーターが有名だ。彼らの発見は結果的に大きな学術的意義をもったにしろ、実のところ「一山当てよう」という野心があったことは否めない。

 「宝探し的な発掘は不純だ」といわれる向きもあるが、むしろ、ハリソン・フォードふんする考古学者インディ・ジョーンズの映画のように、誰しも発見に対する冒険心や、野心は持っている。

 さて、日本の考古学の業界では銅鏡や銅剣・銅矛、銅鐸など青銅製品を、「青物」と呼ぶ。弥生時代の発掘では、この「青物」を引き当てるのが、無上の醍醐味(だいごみ)とされる。

 ところが、発掘を始めるや、たちまち「青物」に恵まれる幸運な考古学者がいる一方、長年、発掘に携わりながら、「青物」に、まったくといってよいほど恵まれない人もいる。佐賀県教育委員会文化課に所属していた天本洋一さんも、そんな1人だろう。

 彼は、1千基以上の甕棺墓(かめかんぼ)を発掘したが、いっこうに副葬品の「青物」の発見に至らない。それでも、黙々と発掘調査を行っていた。同僚の間では「青物に縁のない人」として通っていたし、それが一見地味で、真面目で、おとなしい性格の「彼らしさ」とさえ思われていた。

 このインディ・ジョーンズの対極にあるような考古学者が、弥生時代の研究史を塗り替える発見をいくつもしていた。

 吉野ヶ里遺跡周辺でよく出土する鐸形(たくけい)土製品(どせいひん)のことで彼と話をしていたときに、そのことに気が付かされた。

 銅鐸(どうたく)に似た土製品を、九州で初めて発見したのは天本さんだった。しかも、表面には、戈(ほこ)と盾を持った戦士の像が描かれていたのだ。九州の弥生時代の本格絵画として初見であったし、九州での銅鐸文化存在を予感させるものだった。

 この土製品が出土した遺構が、地面に柱を埋める穴「柱穴」であった。この掘っ立て柱建物の跡は、長辺8・2メートル、短辺4メートルと、弥生時代の大型建物として最初に確認されたものだった。

 当時、大型掘っ立て柱の建物は飛鳥・奈良時代からと言うのが常識で、現場を見た私も「時代を間違っているのではないか」と疑った。私の疑念に天本さんは無念の表情を浮かべた。

 正しかったのは天本さんだった。この遺跡発掘で培われた見識が、吉野ヶ里の大型建物の発見につながる。その後、全国各地で次々と大型の弥生時代の建物が発見され、弥生時代の建築文化・社会が大きく見直されることになった。

 弥生時代といえば、のどかな原始的な農村社会だったというイメージがある。だが、巨大な環壕が巡る中に、祭殿であったり、大型の高床倉庫だったり、物見櫓(やぐら)といった性格の建物があったのだ。部族間の抗争を通して「クニ」などの政治的社会が生成する、実に激しい変化の時代だった。そして文化も、従来の想定より高度だったと考えられるようになった。天本さんの発見は、弥生時代の見直しを迫る端緒となった。

 ほかにもある。佐賀県小城市三日月町の土生(はぶ)遺跡で、日本ではじめて朝鮮系無紋土器が確認された。40年前、私が佐賀県に着任して間もないころだった。

 弥生土器には見られない取っ手があり、表面が黒光りする土器であった。天本さんが持ってきたこの奇妙な土器を調べると、朝鮮半島の青銅器時代特有の土器に属するものと分かった。半島からの渡来人がこの地で製作したものだった。最近の研究からは、この土器を製作した人々が、青銅器の製作技術を日本列島に伝えたことが明らかになっている。

 一見、地味な発掘調査の積み重ねが、実は、歴史の見直しにつながっていることに、今更ながら気がつかされる。考古学には定説はないというのが私の実感である。ちなみに、土生遺跡を国史跡に推挙したのは、九州国立博物館の前館長、三輪嘉六さんである。(旭学園理事長 高島忠平)
http://denjiso.net/?p=14412

162. 中川隆[-12911] koaQ7Jey 2019年1月18日 10:12:40 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告

国立歴史民俗博物館研究報告 第185 集 2014 年2 月
弥生青銅器祭祀の展開と特質 吉田 広
https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185009.pdf

はじめに
❶弥生青銅器の登場
❷弥生青銅器の祭器化
❸弥生青銅器祭祀の終焉
まとめ

[論文要旨]

水稲農耕開始後,長時間に及んだ金属器不在の間にも,武器形石器と転用小型青銅利器という前
段を経て,中期初頭に武器形青銅器が登場する。一方,前段のないまま,中期前葉に北部九州で小
銅鐸が,近畿で銅鐸が登場する。近畿を中心とした地域は自らの意図で,武器形青銅器とは異なる
銅鐸を選択したのである。銅鐸が音響器故に儀礼的性格を具備し祭器として一貫していくのに対し,
武器形青銅器は武器の実用性と武威の威儀性の二相が混交する。しかし,北部九州周縁から外部で
各種の模倣品が展開し,青銅器自体も銅剣に関部双孔が付加されるなど祭器化が進行し,北部九州
でも実用性に基づく佩用が個人の威儀発揚に機能し,祭器化が受容される前提となる。各地域社会
が入手した青銅器の種類と数量に基づく選択により,模倣品が多様に展開するなど,祭器化が地域
毎に進行した。その到達点として中期末葉には,多様な青銅器を保有する北部九州では役割分担と
も言える青銅器の分節化を図り,中広形銅矛を中心とした青銅器体系を作り上げる。対して中四国
地方以東の各地は,特定の器種に特化を図り,まさに地域型と言える青銅器を成立させた。ただし,
本来の機能喪失,見た目の大型化という点で武器形青銅器と銅鐸が同じ変化を辿りながら,武器形
青銅器は金属光沢を放つ武威の強調,銅鐸は音響効果や金属光沢よりも文様造形性の重視と,青銅
という素材に求めた祭器の性格は異なっていた。その相違を後期に継承しつつ,一方で青銅器祭祀
を停止する地域が広がり,祭器素材に特化していた青銅が小型青銅器へと解放されていく。そして,
新たな古墳祭祀に交替していく中で弥生青銅祭器の終焉を迎えるが,金属光沢と文様造形性が統合
され,かつ中国王朝の威信をも帯びた銅鏡が,古墳祭祀に新たな「祭器」として継承されていくの
である。


はじめに

弥生時代像に占める青銅器・青銅器文化の比重は大きい。新たな弥生時代像を求めつつも,弥生
文化を定義しようとするとき青銅器文化像は抜きがたく,弥生文化の大きな規定要因の一つに青銅
器・青銅器文化は数えなければならない。弥生時代の設定からその内容の多様性が明らかになる中
で,弥生時代=青銅器時代,弥生文化=青銅器文化とかつてのように単純化できないながら,弥生
文化が青銅器文化を含み,かつ日本列島史において,弥生文化に包摂されるべき以外の青銅器文化
をみい出し難いからに他ならない。このような構造の弥生文化と青銅器文化の諸関係を整理し,弥
生文化における青銅器文化の特徴的展開を明らかにするためには,弥生文化・弥生時代としながら,
青銅器・青銅器文化の存在しない時間・地域の様相,すなわちそれは青銅器・青銅器文化の登場と
終焉あるいは継承の様相を把握しながら,かつ存在を認める青銅器・青銅器文化の時空間的広がり
の実相を認識しなければならない。


❶……………弥生青銅器の登場

(1)青銅器不在の弥生時代

炭素14 年代測定の進展が鉄器の再検討を導き,水稲農耕を開始しても鉄器の存在しない時代が
かなり長期間にわたって存在したことが明らかとなった。では青銅器はどうか。青銅器鋳造開始年
代を再検討する中で,存在を確実視できるのは,弥生時代中期初頭を待たなければならないとした
[吉田2008]。前期末に遡る可能性をなお残すものの,現状では早期から前期は基本的に青銅器も不
在の時代としなければならない。ところが,この早期から前期の間に存在した可能性を推察させる
資料が,若干なりとも存在していることも無視できない。


1 遼寧式銅剣転用品

転用・非転用を含めて小型青銅利器が日本列島においても少なからず存在し,これを総合的に検
討してみると[吉田2010b],前期に遡る可能性がある資料から,完品の武器形青銅器が登場した中
期以降後期まで,さらには古墳時代にまで降る可能性のある資料すら存在した(図1)。この中で,
遼寧式銅剣という本来の型式から前期に遡る可能性が高い資料として,福岡県今川遺跡出土青銅器


2 点と山口県井ノ山遺跡出土青銅器を指摘できる。

@ 今川遺跡出土青銅器

今川遺跡は福岡県津屋崎町に所在する弥生前期初頭に遡る環濠集落遺跡。まず有茎有翼形銅鏃で
ある(図1-3)。脊は鎬が立ち,鋒付近に樋先端部がみられる。朝鮮半島出土銅鏃に形態的に近似す
るが,大型で脊から茎へと段をなさない,そして樋先端部の脊が幅より厚さを増す特徴から,遼寧
式銅剣樋先端部付近を再加工した可能性が高い[後藤1991 等]。板付T式期の若干新しい様相を含
んだ遺物を出土したV字溝に切られた包含層下層出土で,弥生時代前期初頭前後とされている[酒


図1 小型青銅利器の変遷


もう1 点,調査時に表採され,上記包含層下層帰属と推測されている小型円柱状片刃
青銅利器がある(図1-2)。身断面は7 〜 10oの楕円形状。茎下端部に抉りを認めないものの欠損
とみて,遼寧式銅剣再加工とする意見が多い[後藤1991 等]。遼寧式銅剣再加工がより強く導かれ


る銅鏃出土と併せて,この青銅器も遼寧式銅剣転用である可能性が高い。


A 井ノ山遺跡出土青銅器

井ノ山遺跡は山口県防府市所在。青銅器は小型柱状片刃石斧と形態をほぼ等しくする片刃利器(図
1-4)。詳細を観察検討した結果,「脊厚が脊幅をわずかながらも上回る特徴を有した細形T式銅剣
かあるいは遼寧式銅剣の,茎から元部下半脊部を取り出して小型片刃利器に再加工した」とした[吉
田2010b]。現状でこのような特徴の細形銅剣が存在しないことから,遼寧式銅剣起源の可能性を積
極的に評価する。しかし残念ながら,調査時の表採品で時期が定かでない[石井編2005]。


B 松菊里遺跡出土青銅器

遼寧式銅剣を転用再加工した事例は,朝鮮半島における存在を忠清南道松菊里遺跡にまで遡る(図
1-1)。すなわち,同遺跡出土遼寧式銅剣に特徴的な茎下端一側縁に抉りを残す円柱状の片刃青銅器
の存在である[金・安1975,後藤1991,柳田2003 等]。朝鮮半島においても転用小型青銅利器が存在し,
日本列島に大陸系磨製石器を受容した時,磨製石器と同じ形態的・技術的特徴に基づいて武器形青
銅器断片の小型青銅利器転用というあり方まで受容していたとみられる。
2 比恵遺跡出土銅剣形木製品
遼寧式銅剣に関する資料として,もう1 点触れておかなければならないのが,福岡県比恵遺跡第
25 次調査SK-11 出土の銅剣形木製品である。剣身部と柄部を一体に作りだし,剣身中央に脊が通っ
て銅剣の形状をよく理解している。着柄部では剣身翼が左右とも緩やかにカーブを描いて鍔と関部
が接してなく,遼寧式銅剣の着柄状態に共通する[金2012]。SK-11 からは他に剣柄1 点など多く
の木器が出土し,出土土器を遺構上部および周辺出土土器も併せて検討した結果,板付U式中段階
にSK-11の時期が求められた[田崎・小畑1991]。したがって,着柄された遼寧式銅剣模倣の木製品が,
前期末葉を遡って存在した可能性が高い。
3 三沢北中尾遺跡出土銅斧
遼寧式銅剣関連資料の他,前期に遡る青銅器資料の存在が最近報告された[山崎2012]。福岡県
三沢北中尾遺跡2 b区127 号土坑出土銅斧である(図2)。長方形斧B類[後藤1996]に相当する,
袋部基部付近の破片資料で,破断面も含めて二次的研磨が施され,転用の意図を推し量ることも
できる。出土土坑は貯蔵穴で,青銅器の詳細な出土位置は記録されていないが,出土遺物およびそ
の取り上げ状況を再検証した結果,伴出土器は板付Ua式新段階からUb式古段階に位置づけられ,
完品武器形青銅器の初現を遡る。銅斧自体の朝鮮半島青銅器編年と,北部九州と朝鮮半島南部の土
器並行関係[武末2004・2011]においても,銅斧と伴出土器の組合せは順当な位置を占める。
4 弥生時代前期青銅器文化の可能性


今川遺跡の銅鏃,そして三沢北中尾遺跡の銅斧と,少ないながらも前期末葉を遡る青銅器資料が


図2 三沢北中尾遺跡2b 区127 号土坑出土銅斧

存在する。また,比恵遺跡出土銅剣形木製品は,完品の着柄された遼寧式銅剣が存在していた可能
性すら想起させる。すると,現在資料が未見なだけで,弥生時代前期に青銅器が普遍的に存在して
いた可能性は高いのであろうか。何より,朝鮮半島では三沢北中尾銅斧と同時期に細形の武器形青
銅器が出現しており,「新式の細形銅剣に,細形で無文の銅矛や銅戈が加わり,多鈕細文鏡や鉇・
有肩斧・鈴類もみられる」朝鮮半島南部青銅器編年の3 期古段階,中でも鋳造鉄器を伴わない前半
段階[武末2004・2011]に並行している。これらの青銅器が日本列島に既に流入し,一定の青銅器
文化を形成していた可能性である。
銅斧そのものには二次的加工が認められ,武器形青銅器断片の転用に通じる状況が看取できる。
そして,北部九州では不分明ながら,北部九州以東において武器形青銅器完品の前に武器形青銅器
断片が小型利器素材として流入した段階を設定できることから[吉田2010b],北部九州すなわち日
本列島への青銅器伝播最初期の地においても,小型利器素材としての青銅器断片流入段階を想定す
ることが適当と考える。三沢北中尾銅斧と今川と井ノ山の遼寧式銅剣転用小型青銅利器は,この段
階の所産とするのである。なお,武器形青銅器断片の流入は,松菊里遺跡遼寧式銅剣転用銅鑿の示
す朝鮮半島南部青銅器編年第1 期にまで遡る可能性があり,日本列島における完品武器形青銅器流
入以前がかなりの長期に及び,細分の可能性も予想させる。
ただし,細分項目となり得るのは遼寧式銅剣に関連する資料であり,中期初頭以降に流入定着し
た細形銅剣と異なり,遼寧式銅剣から細形銅剣成立の時間的地域的関係性の中でとらえなければな
らない問題でもある。後続する日本列島青銅器文化への連続性を考慮したとき,現状の中期初頭に
おける画期の評価を前期以前に遡らせることは難しく,中期初頭以降とは伝播流入した青銅器の社
会的脈絡に大きな格差をみなければなるまい。


(2)武器形青銅器登場の階梯

1 青銅器以前

比恵の銅剣形木製品に完品の存在を推察させる可能性はあるが,最初期の青銅器に武器形の全形
を窺い知れるものはほとんどなく,武器形青銅器の全容は中期初頭を待たなければ明らかとならな
い。一方これに先んじて,武器形石製品が登場している。
日本列島において,刃部横断面菱形を呈する武器形品として最初に登場するのは,磨製石剣と磨
製石鏃である。例えば,佐賀県菜畑遺跡では,夜臼Ua式期の包含層から磨製石剣柄部片が出土し,
その上位夜臼Ub式・板付T式期の包含層からは完品磨製石剣が出土し,磨製石鏃はさらに先んじ
て山の寺式・夜臼T式期に初現している[中島・田島編1982]。他の出土例も加えて,板付T式の弥
生前期を遡る弥生早期(縄文晩期末)に磨製石剣を広く確認でき[下條1991,寺前2010 等],先述し
た青銅器の存在可能性を指摘できる時期を確実に遡っている。
まず言及しておかなければならないのが,これら磨製石剣が日本列島において直に青銅器模倣し
た可能性,現状において青銅器そのものの存在は見いだせないが,模倣品成立を模倣対象の存在を
前提とする考え方の是非である。結論から示せば,日本列島における磨製石剣の出現に,武器形青
銅器そのものの存在を前提とする必要はないと考える。一つには,日本列島における武器形品の流
入と完品武器形青銅器流入において,現状で時期的ずれが解消できないことである。そしていま一


図3 雑餉隈遺跡第15 次調査出土磨製石剣


つが,模倣関係を想定するには,磨製石剣と完品銅剣との形態差が小さくないことである。この問
題は,朝鮮半島における磨製石剣の成立自体に関する問題とも共通し,東北アジアの武器形石製
品を扱った特集においても,「模倣対象とされる青銅器と石製品との間の類似性が低い場合,それ
をどのように解釈するのか」といった課題が提起され[庄田・寺前2012],「朝鮮半島の銅剣模倣石
剣は模倣対象と模倣品の間の形態的類似性が総体的に低い」ことが的確に示されている[孫2012]。
朝鮮半島におけるこのような状況を前提とするならば,その磨製石剣の影響下に出現した日本列島
の磨製石剣は,既に成立定型化した武器形石製品として,武器形青銅器の普及に先んじて登場して
いたとすることが適切である。
菜畑遺跡等で断片であった武器形石製品の,より明確に武器形の存在を証明できる完品は,時期
を明示できる出土状況の資料が多くない。そのような中で,副葬土器等を伴う初現例として弥生早
期末の福岡県雑餉隈遺跡をあげることができる。雑餉隈遺跡は福岡市博多区に所在し,15 次調査
において該期の土坑7 基,木棺墓4 基が出土した。このうち,木棺墓SR003 から有茎式磨製石鏃3
点と夜臼式の副葬壺を伴って有節式磨製石剣1 点が(図3 左),木棺墓SR015 から有茎式磨製石鏃
5 点と夜臼式の壺を伴って一段柄式の磨製石剣1 点が(図3 右),そして木棺墓SR011 からも夜臼
式の副葬壺とともに一段柄式の磨製石剣1 点が出土している。伴出土器は弥生前期を遡り,現時点
で確認できる磨製石剣副葬の最古例であり,いずれも木棺墓出土と,墓制自体も新来の木棺を採用
している[堀苑ほか2005]。

図4 吉武高木遺跡3号木棺墓出土武器形青銅器

図5 馬渡・束ヶ浦遺跡2次調査E地区2号甕棺墓出土武器形青銅器

以上から,日本列島においては,遼寧式銅剣関連資料の遡及可能性がある前期をさらに遡って,
武器形石製品が存在すると理解できる。破片資料では夜臼式単純期に初現が認められ,磨製石鏃と
なるとさらに山の寺・夜臼T式期まで遡り,武器形の全容を窺い知れる完品磨製石剣も,板付式に
先行して存在したのである。炭素14 年代測定による新たな年代観に基づけば,青銅器に先行した
石製品のみが武器形品として存在した時間は,500 年にも及ぶことになる。このような前段の存在
が,後の武器形青銅器の展開に与えた影響が実は大きい。
2 完品武器形青銅器の登場
完品の武器形青銅器が登場するのは,弥生時代中期初頭である。北部九州の玄界灘沿岸において,
金海式甕棺あるいは城ノ越式小壷を伴った埋葬遺構の副葬品としてであり,整理再確認したように
[吉田2008],かつては前期末に位置づけられてきた金海式甕棺を,伴う副葬小壷である城ノ越式が
示す中期初頭に位置づけることに基づく。
登場期の様相を豊富な出土品で示すのが,福岡市早良区の吉武遺跡群である[力武・横山編
1996]。中期初頭から形成された甕棺墓・木棺墓からなる墳墓群でも,特定の範囲に武器形青銅器
をはじめとした副葬品の集中する墳墓が集まる。中でも吉武高木遺跡3 号木棺墓では,細形2 類y
タイプ銅矛1 点,細形U式a1 類銅戈1 点,細形T式yタイプ銅剣1 点,細形W式銅剣1 点の武器
形青銅器が,多鈕細文鏡1 点,翡翠製勾玉1 点,碧玉製管玉95 点を伴って出土した(図4)。
中期初頭におけるこのような武器形青銅器の受容は,吉武遺跡群で突出して多く確認できるが,
その他にも早良平野では複数の武器形青銅器出土遺跡が所在し,平野の最奥部にまで及ぶ。前期以
来の拠点的な集落遺跡として板付遺跡や比恵・那珂遺跡が所在する福岡平野では,わずかに板付田
端遺跡が指摘できるのに留まるのと対照的である。そして,西は宇木汲田遺跡の所在する唐津平野,

図6 銅鐸の成立関連資料

東は福岡平野の東側に隣接する古賀市域あたりまでが,金海式甕棺の分布域として甕棺から時期を
押さえることのできる武器形青銅器受容範囲となる。その東端の様相は,細形2類yタイプ銅矛1点,
細形T式a1 類銅戈1 点,細形T式xタイプ銅剣1 点,細形T式yタイプ銅剣1 点と,吉武高木3
号木棺墓に引けをとらない内容の,馬渡・束ヶ浦遺跡2 次調査E地区2 号甕棺墓(図5)に,具体
像を見ることができる[井編2006]。さらに,墓制として甕棺墓の広がりがこの段階で確認できな
い遠賀川流域から北九州市域,さらには関門海峡を越えた北側の響灘沿岸の一部,そして南は佐賀
平野側にも武器形青銅器の受容は及び[吉田2008],まさに朝鮮半島に対面した玄界灘沿岸地域を
中心に,武器形青銅器受容が果たされている。


(3)銅鐸登場の階梯

1 銅鐸の登場時期

銅鐸の出現時期も,鋳造関連資料である鋳型資料から再確認した[吉田2008]。型式および伴出
土器から最古の時期を導き出せたのは,愛知県朝日遺跡出土鋳型(図6–
6)である。斜格子文帯と
綾杉文帯の一部を残す鐸身部片にあたり,文様構成と復元される大きさから菱環鈕1 式に,そして
伴出土器は朝日V期と畿内第U様式後半並行と位置づけられ[野澤・伊藤編2006],中期前葉段階に
は銅鐸が出現していることになる。菱環鈕1 式の製品は現在3 点(図6–
7〜9)を数えるのみで,「個
体差は小さいので,単独工人集団の製品であろう」とされ[難波2006],かつて想定されたように,
248
国立歴史民俗博物館研究報告
第185 集2014 年2 月
前期末葉まで銅鐸の出現を遡らせることは難しい。つまり,銅鐸の出現は,完品武器形青銅器の登
場とほぼ同じ中期前葉に位置づけられる。なお,大阪府東奈良小銅鐸(図6–
10)を型式学的に菱環
鈕式先行と位置づける見解[森田2002]もあるが,定型化した銅鐸すなわち菱環鈕式との格差は大
きく,何より伴った土器が中期後半と新しく[奥井・横山編2003],銅鐸の出現から定型化に直接関
与したとは考えない。
近畿を中心に20p以上の大きさで定型化した銅鐸以外に,北部九州でも小型の銅鐸が存在し,
出現も遅くない。製品では,身裾に斜格子文帯をもつ福岡県原田小銅鐸(図6–
2)が墳墓遺構出土
で中期前半の時期に比定されている[福島1988]。鋳型では,福岡県松本鋳型(図6–
3)が原田小銅
鐸規模の大きさで,伴った土器は前期末から中期初頭[佐藤編1998]。近畿の銅鐸の大きさまでは
ないが,熊本県八ノ坪鋳型(図6–
4)や福岡県勝浦高原鋳型(図6–
5)が中期前半には存在し[林田
編2005・井ノ上編2002],土製の銅鐸模倣品の存在からしても[天本1994],北部九州においても中
期前半には小銅鐸の一定程度の普及を捉えることができる。

2 銅鐸の登場以前

銅鐸および小銅鐸が弥生中期前葉に登場する前段について,武器形青銅器に先んじて,新来の武
器形そのものがまず石製品として登場していたような段階が銅鐸ではあったのか。
後述するが,銅鐸模倣品は土製品が北部九州でも近畿でも展開する。ただいずれも銅鐸出現以降
で,武器形の場合と異なる。何より模倣に際して土製を選択して器物外形を象ることに留まり,銅
鐸あるいは小銅鐸が本来備えた金属という素材に基づく音響性は放棄されている。武器形において
青銅器に先んじて石製品が登場定着できたのは,石製という素材が金属製武器の機能そのものを代
替し得たからに他ならない。それ故,音響性という金属器以外で代替し難い特性をもつ銅鐸あるい
は小銅鐸を,素材を異にした模倣品が,代替先行品の役割を果たすことはできなかった。
朝鮮半島南部においては,小銅鐸の他にも,音響性を伴う青銅器として,銅鈴を組み込んだ各種
異形青銅器が存在する。先に述べた,日本列島に武器形青銅器3 種が完品で登場する段階では,音
響器の機能を有する各種青銅器が朝鮮半島青銅器文化には存在しながら,日本列島には伝わってい
ない。音響器の先行品が存在しないまま,音響器としての特性を帯びた小銅鐸が弥生中期に初めて
日本列島にもたらされ,近畿を中心に銅鐸として独自の展開を始めたのである。
3 銅鐸登場の特性
北部九州への小銅鐸の登場は,武器形青銅器とともに朝鮮半島青銅器文化の海峡を越えて近接す
る地域への,ある意味同心円的波及として理解しやすい。ではなぜ,音響器として初めて登場した
銅鐸が近畿を中心に定着したのだろうか。
菱環鈕式として成立する銅鐸は,先に触れた鋳型資料の朝日鋳型1 点と製品11 点を数える。出
土地不詳4 点を除いて,出雲2 点,播磨1 点,淡路1 点,越前1 点,伊勢1 点,美濃1 点そして尾
張に鋳型1 点となる。山陰から瀬戸内東部,北陸そして東海の広域に点在し,後の銅鐸分布の中心
となる畿内地域では未出である。次の外縁付鈕式段階でも瀬戸内側にはまだ少なく,銅鐸を主体的
に選択した地域は,海峡を挟んで隣接する朝鮮半島から武器形青銅器をある意味スムーズに導入し


た北部九州とはやや距離を置いて,その東側に広がっていることになる。そして,次代の近畿のよ
うな明確な核を読み取ることは難しく,広域性・散在性が特徴である。
このような分布ついては,先行する縄文晩期の大型粗製石棒分布圏を継承した可能性が指摘され
ている[難波2000,中村2004・2007,寺前2010 など]。中でも寺前は,北部九州とは異なる武器形石
器の展開が近畿には見られることを明らかにし,屋外樹立か両手保持の儀礼的脈絡をもつ石棒祭祀
が,外来の武器形石器との折衷によって武器形の祭器化を進めたと考えた[寺前2010]。石棒と武
器形の折衷については,なお時間的関係から慎重を期さねばならないが,武器形石器に明らかな地
域的志向が認められるとともに,屋外樹立あるいは両手保持といった石棒祭祀の公開性は,音響性
あるいは造形性に基づいて当初から祭祀に用いられた銅鐸にこそ共通する。
武器形青銅器を朝鮮半島と同じ社会的脈絡の中で受容し,個人に帰した北部九州弥生社会と異な
り,新素材の青銅を公開性の高い祭祀用の器種に選択しようとしたとき,武器形以外の朝鮮半島青
銅器には各種工具類,銅鏡,銅鈴を組み込んだ異形青銅器,そして小銅鐸があった。ある程度の大
型化を見込めること,武器と異なる金属特性が発揮できることを条件とするなら,工具類や鏡,複
雑な文様造形性が突出した異形青銅器類は難しく,小銅鐸の可能な範囲での大型化がほぼ唯一の選
択ではなかったか。銅鐸が選ばれた理由はそのように考えることもできる。
それでも,銅鐸を確立するには,青銅器製作技術の導入と原料調達が不可避である。先に日本海
沿岸の山陰・北陸から近畿そして東海という,広範な地域の連動性を指摘したが,これは経済的負
荷分散に応じたものではなかったか。その中で,より朝鮮半島に近い日本海沿岸の山陰地域が小さ
くない役割を果たし,島根県荒神谷遺跡[松本・足立編1996],同加茂岩倉遺跡[角田・山崎編2002]
における菱環鈕式銅鐸から外縁付鈕式銅鐸までの集中を導いたと考えられる[吉田2012b]。また,
縄文時代以来の伝統をより残した東日本地域の一端を含み込むことで,複雑な文様や立体的造形性
が銅鐸には求められることとなった。先行性は否定したものの,東奈良小銅鐸はまさにそのような
関係性の中でこそ成立し得た個体であろう[設楽2009]。
(4)小結
北部九州では,弥生時代前期に断片的ながら青銅器の存在が認められ,さらなる広がりの可能性
もなくはないが,遡って弥生前期までで,かつ中期以降の青銅器文化とは格差が大きい。しかし,
水稲農耕開始以後の青銅器不在の間にも,北部九州で武器形石製品が確実に存在し,武器形青銅器
受容の前に,青銅器不在の武器形実在という段階を擁し,最大山の寺・夜臼T式期にまで遡る。一
方で青銅器の出土は,断片的なら弥生前期初頭まで可能性があるが,確実な完品となると弥生中期
初頭を待たねばならない。炭素14 年代測定による新たな年代観によれば,青銅器不在ながら武器
形が石製品のみで存続した時間幅は,最短の弥生前期初頭まででも200 年弱,より確実な完品武器
形青銅器の出現となると,500 年にまで及ぶ。
このような武器形青銅器の登場に対し,銅鐸の出現は時期こそ弥生中期前葉と完品武器形青銅器
にほとんど遅れないものの,武器形石器のようなプロトタイプを欠く。この唐突とも言える銅鐸出
現の背景には,北部九州の武器形青銅器とは異なる祭器を求めた山陰から北陸,近畿そして東海と
いった広域の連動した選択意図を読み取らなければならない。近畿を中心とした地域は,自らの意

図で武器形青銅器とは異なる銅鐸を選択したのであり,ここに以後の弥生青銅器文化の二つの潮流
が,出現当初から形成されたのである。


❷……………弥生青銅器の祭器化

異なる前段と経緯を以て登場した武器形青銅器と銅鐸は,以後の祭器化においても異なった展開
をみせていく。その具体像を形態変化や模倣品,そして社会的関係から検討していくが,まずは武
器形青銅器と銅鐸が成立当初から備えた儀礼性あるいは祭祀性について整理する。
(1)武器形青銅器と銅鐸の祭祀性
朝鮮半島から同心円的な波及の武器形と,それを超えた背後で意図的に選択された銅鐸,それぞ
れの器物が実用性の一方で,登場当初から祭祀性に連なる要素を胚胎させていた。
武器形青銅器登場の前に,既に受容されていた武器形石器は,それまでの縄文文化にない,まさ
に武器としての形状そして機能,つまりは争いという交渉術をもった社会の成立までも導いていた。
それ故に,石製品以上の鋭さをもった青銅器が登場したとき,武器としての実効性の高い武器形青
銅器がすぐさま受容希求された。一方で,石製品としての先行期間が長いこともあり,実用性に裏
打ちされた武器形に対する武威の観念も成熟し,新たな武器形青銅器を入手したとき,武威への観
念が一層増幅されたと推察できる。つまり,武器形青銅器が登場したとき,武器の実用性と武威に
発する祭祀性が既に形成されていたのである。武器形青銅器に内包された,ある意味相反する性格
のいずれに比重をおき,それに応じてどう形態を変化させていくか,その対応をどのような地域的
広がりの中で行っていくか,これらが武器形青銅器の祭器化の実態と把握できる。
対して銅鐸は,縄文以来の公開性の高い祭祀での使用を意図し,武器形とは異なる青銅器の特性
を意識して選択されたため,成立当初から祭器として一貫していた。金属音響という使用(実用)
そのものが,祭祀的行為として成立するとともに,それを除いても,大型の立体的器物として新素
材である金属光沢を発する外形は,祭器としての地位を意識させるのに十分であったと推測する。
祭器としての地位を貫きながら,青銅器としての特性を音響性に見いだすのか,立体的造形性に見
いだすのか,それが後の銅鐸の変化を規定していくこととなる。
(2)武器形青銅器の変容
1 北部九州における武器形青銅器の変容
完品武器形青銅器が登場してあまり時をおかず,中期前半には青銅器生産も始まる[吉田2008]。
その中で,なお出土製品と出土鋳型の特徴が整合的に合致しない場合もあるが,朝鮮半島とは異な
る日本列島的特徴が早々に認められる。それらを一層際立たせ,結果としては武器形3 種それぞれ
が複数の細形型式から1 系譜に収斂して見た目の大型化を図ることで,朝鮮半島とは明らかに一線
を画す中細形を成立させた[吉田2009・2011]。その時期も中期前葉と早い[岩永1994 等]。

図7 関部双孔をもつ銅剣


2 銅剣の関部双孔

このような列島的変容を武器形青銅器が遂げる中で,中期中葉頃から銅剣が関門海峡を東に越え
て中四国地方以東にもたらされる。そうした銅剣に特徴的に認められるのが関部双孔で,武器形青
銅器の変容そして祭器化を考察する上で重要な位置を占める[吉田2012c]。

@ 関部双孔銅剣の存在

関部双孔を確認できる銅剣は46 点を数え,その中から28 点を図7 に示す。型式別にみると,細
形T式xタイプ(1 〜 5),細形U式b類(6 〜 10),中細形A類(12),中細形A ’ 類(11),中細形
B類(13),中細形BC類(14),中細形C類(15),中細形D類(16),平形T式c類(17),東部瀬
戸内系平形T式(18),多樋式(19),深樋式(20・21),細形・中細形再加工(22 〜 25),鉄剣形(26
〜 28)と,多様な型式の銅剣に広く存在していることがわかる。一方で,関部双孔をもつ銅剣の多
くが関門海峡を越えた中四国地方以東で出土していることも特徴で,北部九州出土は46 点中の6
点でしかない。


A 関部双孔の存在率

上述した関部双孔をもつ銅剣46 点であるが,その存在率はどの程度か(図8)。銅剣総数は遺漏
もあるが,関部双孔の有無を確認できた総数は625 点。すると銅剣全体に占める関部双孔をもつ
銅剣は,7.4%でしかない。ただし,銅剣総数に占める荒神谷銅剣358 本(うち関部双孔を塞いだ
2 例を含む)を除くと,関部双孔をもつ銅剣は総数267 点中の44 点16.5%にまで率は上がる。一
方,上述した関門海峡の東西で分けてみると,北部九州で129 点中の6 点4.7%,中四国地方以東
で496 点中の40 点8.1%。荒神谷銅剣を除くと,中四国地方では138 点中の38 点27.5%と格段に
比率が上がる(図8 上)。
さらに型式別に見てみると,一層地域差が際立つ。再加工を除く細形・中細形銅剣で関部双孔を
もつ銅剣は20 点確認できるが,このうち2 点のみが北部九州出土で,他の18 点が中四国地方以東
出土。中四国地方以東出土で関部双孔の有無を確認できる20 点中の18 点90%に達し,関部双孔
が中四国地方以東の細形銅剣において必須に近い装置となっていることがわかる(図8 下左)。中


図8 関部双孔の存在率


細形B類銅剣でも14 点中7 点50%に下がるものの,なお比率は高く,北部九州における12 点中0
点と明確な対照をなす(図8 下右)。さらに,中四国地方以東に分布が限られる中細形BC類銅剣は,
関部双孔の存在率がきわめて高い[吉田2005]。他方,北部九州出土の関部双孔をもつ銅剣は6 点で,
茎にもう1 孔を穿つ多樋式1 点が中期末葉,深樋式1 点と細形再加工1 点,中細形再加工1 点は後
期に降る。残る2 点が,中四国地方以東でも通例の細形銅剣で,関部双孔出現期の資料として重要
な地位を占める。
B 関部双孔の初現
細形銅剣関部双孔は中四国地方以東に展開し,基本的に北部九州では存在しないとみられてきた
が,近年北部九州圏で2 例の出土をみた。しかも時期を絞りこむことができ,関部双孔の出現につ
いて重要な情報を提供している。北九州市小倉城二ノ丸家老屋敷跡(以下,小倉城下層)銅剣(図
7–
10)と遠賀町金丸遺跡銅剣(図7–
9)である。
小倉城下層では石棺墓W− 1 から関部双孔銅剣が出土した[高山編2012]。石棺内頭位側小口近
くの側壁に接するような位置に,2 点に破断されて重ねて副葬されるという,破砕副葬の興味深い
事例でもある[吉田2012c]。銅剣は細形U式b類で,剣身長33.4pと長手でかつ細身。朝鮮半島出
土のよく研ぎ込まれて細身となった銅剣を想起させる。茎表面には,着柄に伴って巻かれたとみら
れる大麻の紐が残る。石棺墓そのものに時期を明示する副葬品はないが,石棺墓を切るW− 1 土器
棺墓が中期初頭であり,それ以前に位置づけられる(図9 左)。金丸遺跡2 次調査2 号土壙墓から
も関部双孔をもつ細形銅剣が出土している[武田編2007]。同じく細形U式b類で,剣身長32.5p
を測り,やはり細身である。土壙墓は他に遺物を伴わず遺構の切り合い関係もなく,周辺の遺構や


図9 北部九州の関部双孔をもつ細形銅剣


遺跡から,中期初頭から前半の時間幅に想定されている(図9 右)。
以上の新出2 例から,北部九州の玄界灘沿岸でもやや東に偏った地域で,中期初頭から前葉には
銅剣関部双孔の出現を確認できる。関門海峡以東の関部双孔銅剣がいずれも埋納とみられる出土状
況で時期を特定できないこと,関部双孔銅剣の模倣品が中期中葉より遡らないことから,銅剣関部
双孔の初現は,北部九州玄界灘沿岸の東部地域における中期初頭から前葉に求めることができる。
C 関部双孔の機能
このようなあり方を示す銅剣の関部双孔の機能については,種々の意見が提起されてきたが,孔
周辺の使用痕が明確でなく,直接的証左を求められなかった。そこで,これまでも指摘されていた
関部双孔位置の変化について[岩永1986 等],詳細の検討を行った[吉田2012c]。まず,関部から
孔芯までの左右平均距離(双孔位置)と,双孔位置を関部から刳方下端までの距離(刳方下端位置)
で除した数値(K 値)を型式ごとに示す(図10)。細形の最低位置1.7pから中細形の最高位置とし
てBC類西大路土居の7.3pまで,剣身長の大型化に伴った低位置から高位置への変化が,双孔位
置とK値で確認できる。中細形BC類をピークに若干下がるものの,中細形C類,D類,そして中
細形B類から派生する平形T式も比較的高い位置を保ち,関部双孔は剣身長の増大に伴って高位置
化するという傾向を読み取ることができる。
これと別に,低位置関部双孔として現れるのが,中期末葉の多樋式,後期の深樋式や鉄剣形,さ
らには細形・中細形の再加工例である。最高で細形銅剣最低位置程度で,双孔位置1p以下のもの


図10 関部双孔の位置

が多い。この中の須玖岡本D地点の多樋式銅剣(図7–
19)は,茎部と関部双孔位置を含んだ下端が
木質をわずかに残して錆具合が異なり,関部双孔と茎の1 孔を着柄の際の目釘孔としたことが窺え
る[境2004]。鉄剣形銅剣では,関部双孔付近で中央鎬や刃部研ぎ出しの消失がみられ,関部双孔
周辺が刃部として意識されていない場合もある。これらから,深樋式他の低位置関部双孔は,関部
自体を覆うようにして着柄するための目釘孔と理解できる。
着柄に実用的な低位置関部双孔に対して,細形から中細形を中心とした高位置関部双孔は,目釘
孔としての着柄には明らかに不向きである。着柄痕跡もなく,関部双孔位置に刃研ぎを行う細形U
式b類も少なくない。着柄を意図せず,孔に直接的な負荷があまりかからない用法を想定するとな
ると,布帛あるいは紐など吹き流し状の装飾付加装置とすることが最も適当であろう。
3 武器形青銅器取り扱いの二相
銅剣関部双孔を吹き流し状の装飾付加装置とすると,そこには銅剣の着柄・佩用をめぐって異な
る取り扱いが生じていることになり,大きくは北部九州と中四国地方以東という地域性となってい
る。その二相について,具体的に言及する。
まず,本来の武器としての取り扱いを保った北部九州においては,銅剣は茎を介在させて柄に装
着され,使用時には腰に佩用されていた。銅矛は長柄に装着されるが,一方で装飾的装置として銅
矛本体に半環状の耳があり,吹き流し状の装飾が推定できる。同じく長柄に紐等で着柄された銅戈
も,緊縛の紐とともに別途柄に装飾付加装置の付く場合が,実際の木柄出土例から知ることができ
る(図11–
4)。甕棺を中心とした埋葬施設に副葬品として収められる場合は,実用時の着柄をある
程度保ちつつ,一部柄を外すあるいは短くするなどしていたとみられる。こういった状況が,北部


図11 細形武器形青銅器の用法模式図と関連資料


九州における中期中頃までの武器形青銅器の扱われ方である(図11 左)。
対する中四国地方以東では,銅矛・銅戈の完品はほとんどもたらされていない。ただ,新たな着
柄技術を伴う戈自体の普及は確認でき[寺前2010],ここでは模倣品として戈の存在を示し,着柄
および装飾は北部九州の銅戈と同じとした。武器形の中で最も普及した銅剣は,上述した関部双孔
が穿たれ,吹き流し状の装飾付加装置が加わる。そのような装飾を効果的とするためには,腰に佩
用していたのでは目立たない。何より,銅剣本来の短柄への着柄と相反する。公開性の高い祭器と
しての使用を意図して銅鐸を成立せしめた地域にあっては,やはり操作者の身体から可能な限り離
れることが求められ,本来的な長柄装着の銅矛欠落もあって,長柄に装着する方法を選択したとす
る。唯一的に関部双孔の表現をもたないが,山口県宮ヶ久保遺跡銅剣形木製品[村岡編1998]の茎
を延長したかのような形態(図11-1)は,長柄に取り付けられた銅剣を模した可能性が高い。小倉
城下層銅剣の分析[吉田2012c]では,短柄用の茎紐巻きと装飾付加装置である関部双孔の共存と
したが,茎紐巻きを長柄用とみなすのである。限定された将来品の武器形青銅器である銅剣を長柄
に装着し,吹き流しなどの装飾を付加し,共同体において多くの成員が集まる公開性の高い場面で
の使用に供されていた様子を復元するところであり,それが最終的には埋納という祭祀によって地
に埋められる。このような武器形青銅器の取り扱われ方が,中期中頃の中四国地方以東には広がっ
ていたのである(図11 右)。


(3)青銅器模倣品の展開

青銅器祭祀の展開を語る上で,青銅器自体の稀少さを補って立体的言及を可能とするのが模倣品
である。これまで,器種毎の論考はそれぞれ豊かな研究蓄積を誇るが,青銅器祭祀全体を俯瞰し,
かつ器種間の模倣のあり方について比較検討した論考は多くない[熱田ほか2007]。これに対して
吉田は,北部九州と中四国地方以東に分けて各器種そして素材毎に模倣のあり方の大枠(表1・2)
を提示し[吉田2002],各器種について地域を細分しながら模倣の地域性を概述し[吉田2004],さ
らに各器種間の模倣のあり方の差違にまで論及した[吉田2011]。これら模倣品のあり方を,青銅器・
青銅器文化の各地域への広がりにともなう青銅器祭祀の地域性・在地性として,改めて様相を整理
する。まずは器種毎の模倣の概要,そして特徴的な地域単位での叙述とする。

1 各青銅器の模倣

@ 銅矛模倣品

銅矛の模倣品は少ない。北部九州では,ミニチュアとでも言うべき製品(熊本県白藤)と鋳型(白
藤,佐賀県土生)があるのみ。中空の袋部と半環状の耳をもち中細形以前の銅矛を意識しているが,
あくまで青銅製で他の模倣品とは性格を異にする。中四国地方以東でも,近畿地域での石製品3 例
(奈良県唐古・鍵,兵庫県家島,京都府日置)のみである。中空袋部と半環状耳を意識し,模倣対象は
中細形以前,大きさは青銅器にほぼ等しい[吉田1997]。


A 銅戈模倣品
銅戈の模倣は,下條により詳細が検討され,内の退化すなわち着柄の形骸化に基づいて九州型
石戈A→Ba→Bb→Ca→Cbの変化が描き出された[下條1976・1982a]。一方,これまで「石矛」

表1 北部九州の青銅器模倣表2 中四国地方以東の青銅器模倣
銅 矛
銅 戈
銅鐸( 小)
銅 剣
石木土銅



○ ○


×
× × ×
× × ×
× ×
△ × ×

○は定量存在、△は少量存在、× は存在せず
銅 矛
銅 戈
銅 鐸
銅 剣
石木土銅



○ ○

×

○ △ ×
△ × ×
△ ×
○ △ ×

○は定量存在、△は少量存在、× は存在せず
  表1 北部九州の青銅器模倣            表2 中四国地方以東の青銅器模倣
とされてきた大型木葉形の武器形石器[下條1982b]について寺前は,目釘を用いた戈としての装
着を明らかとし,これを目釘式石戈,従前の石戈を有胡式とした[寺前2010]。以下,銅戈形石製
品を有胡式と目釘式に大別し,有胡式の細別は下條の分類により有胡式Ba等,目釘式の細別は寺
前の分類に基づき目釘式A等とする。
北部九州では樋の表現のない有胡式が,中期初頭から中期後葉の時間幅で,やや東に分布を偏ら
せつつ安定して展開する。当初は着柄可能な内に発し,中期初頭という出現時期からも,模倣対象
は細形銅戈である。模倣に際した大きさの変化は極端でなく,石材は現状で白色系のものが選択さ
れている。副葬品としての出土例を確認できるが,後半は青銅器同様に非実用的な色合いが強まり,
埋納を推察させる場合もある[下條1982a 等]。
中四国地方以東にも北部九州の無樋の有胡式石製品が点在する一方で,近畿地域を中心に,銅剣
形と同様の黒色系石材を用いた有樋の有胡式石製品が存在し,近畿型銅戈を対象とした模倣が想定
できる。他方,目釘式石製品は,近畿で戈身を打製サヌカイトに置換するなど,青銅器模倣の枠を
超え,戈という有用な新来武器として操作術を含めた機能的な側面での受容が窺える[寺前2010]。
このような受容を背景にしてこそ,青銅器および青銅器模倣品としての戈が,ある意味銅剣以上の
広がりをもちえたと言える。
その最東例が,北信地域を中心に上越・西毛地域に及ぶ中部高地への銅戈到達と,同地での銅戈
模倣である。有胡式石製品の有樋・無樋が混在し,胡幅によれば本来は銅戈とあまり変わらない
大きさである。ところが,鋒が斧刃状に研ぎ減り寸詰まるという特徴が多々見られ[馬場2008 等],
同様の特徴は長野県柳沢銅戈にも認められた[廣田編2012,吉田2012a]。また,樋内に鋸歯文を有
する銅戈形土製品の出土もみられる(新潟県吹上)。
石製品のように特定の範囲に集中展開はしないが,銅戈形木製品は広い分布を示す。石製模倣が
卓越する北部九州と中部高地を除き,西は山陰西部・瀬戸内中部地域から,近畿・北陸・東海地域
に広がる。戈自体の広範な受容にともない,鉄戈の影響(山口県宮ヶ久保)や特大型の存在(岡山県
南方)など,模倣の様相は多様である。
B 銅剣模倣品
銅剣模倣品は北部九州に少なく,積極的に銅剣模倣の展開を認める見解もあるが[寺前2012],
中四国地方以東で広く存在・展開する模倣品との格差を評価しておきたい。
258
国立歴史民俗博物館研究報告
第185 集2014 年2 月
まず,近畿から北陸地域では,黒色系石材による銅剣形石製品が広がる。銅剣の水平な翼の作出
が形骸化することに着目し,水平な翼が表現されるT式から溝状の樋の表現に留まるU式,そし
て樋の表現を消失して関部双孔のみの表現となるV式への変化が示されている[種定1990・1992]。
模倣に際してxタイプの研ぎが踏襲され,対象は細形T式xタイプから中細形A類で,模倣に伴う
大きさの変化も大きくはない。存続幅は中期中葉〜後葉。他方,山陰地域や南四国地域でもそれぞ
れ石製模倣があり,近畿でも中細形B類銅剣を模倣した石製品(京都府東土川)が単独存在する。 各
地で石製模倣が展開する中で,銅剣形木製品も各地に認められる。そのうち,立体的に精巧な模
倣を行うA式と扁平板状のB式があり,B式は小型のB1 式と大型のB 2 式に分けられる[寺前
2010]。瀬戸内地域では石製品が稀で,替わって遺存の容易でない木製品が卓越し(岡山県南方,香
川県多肥松林),土製品も認められる(香川県矢ノ塚)。しかも円柱状の脊を表現するA式があり,模
倣はより忠実である。山陰東部地域でも鯨骨製の精巧な模倣品が存在し(鳥取県青谷上寺地),各地
各様の模倣をみることができる。
C 銅鐸模倣品
銅鐸分布圏内における銅鐸模倣品として,銅製品,土製品,石製品が存在する。広範な銅鐸分布
圏において銅鐸の土製模倣が通例的ともみえるものの粗密があり,近畿北半にほとんど存在しな
い,東海地方で後期に多くなるなど,地域・時期・量,そして模倣の質などの差違が存在する[大
野2004,神尾2012,黒沢2012 等]。とりわけ,各模倣品間の個体差が大きく,地域毎に特徴的な模
倣品の形状等を抽出することは難しい。銅製品も,銅鐸形ということで一括りとする中に,銅鐸模
倣品だけでなく小銅鐸模倣品あるいは銅鐸起源に関わるものを含む可能性があり,単純でない。ま
た,小型ながら青銅器製作技術を要することから,一定範囲の共通性を見出すことはできるが[富
樫・徳沢1995 等],銅鐸における銅鐸群のような型式的まとまりまでは見いだせない。


図12 北部九州の銅戈模倣


他方,銅鐸分布圏外の北部九州でも,銅鐸形土製品がまとまって存在し,朝鮮式小銅鐸,小銅鐸,
さらには福田型等の九州産銅鐸の模倣品混在を想定でき,ここでも土製品は形態の多様性に富む[天
本1994]。そして,銅鐸分布圏外東側の関東地方に,時期を古墳時代初頭まで降らせながら,小銅
鐸が広がっている[比田井2001 等]。
2 青銅器模倣の地域的展開
青銅器模倣は器種毎に差違が確認できるとともに,そのあり方自体が地域単位で生じていた。以
下,一定地域単位での模倣について,青銅器・青銅器文化の受容に対する各地域の直接的反応とみ
て,日本列島内部で青銅器文化が展開・定着し,在地化していく様として詳細を検討する。


@ 北部九州の銅戈模倣

北部九州の銅戈模倣は,最初期には有樋も確認されるが(図12-1),細形銅戈から,樋の表現を
省略し外形とそれに基づく着柄方法を忠実に模倣した無樋有胡式銅戈形石製品が中期初頭に登場す
る。そして,着柄形骸化に基づく型式組列をなして,中期の時間幅の中で展開した。目釘式も出現
するが,着柄および操作術という機能的側面に特化し,青銅器外形の模倣度合いは低い。
無樋有胡式銅戈形石製品は,成立こそ細形銅戈からの模倣を契機とするが,その後の安定した型
式組列は,模倣品自体で完結している。着柄の形骸化と儀器化・祭器化では銅戈と銅戈形石製品が
変化の方向を一致させながら,鋒幅増大などの見た目の大型化を進めた銅戈に応じた,銅戈形石製
品の外形変化は全く見られない。実際の銅戈形石製品の製作にあたっても,石庖丁などとともに専
業的な石器製作工房での製作を示す例があり(福岡県辻田),特定の製作集団の存在が窺える。つま
り,模倣に端を発しながら,その後は銅戈と距離をおいて,特定の製作集団により独自の形態維持
を図っていた様子が窺える。したがって,銅戈と銅戈形石製品が緊密な関係を保ちながら,同じ祭
器として重層的に機能した状況を想定することは難しい(図12)。


図13 中部高地の銅戈模倣


A 中部高地の銅戈模倣

中部高地に近畿型銅戈T式がもたらされる中期中葉以降,これを契機に石製品による銅戈模倣が
始まる。有樋有胡式(図13-1)が多いが無樋も混在し,北部九州ほどの定型化,型式組列の安定性
は窺い難い。むしろ,銅戈形石製品から変形銅戈形石製品に変化する段階で,石材が変質輝緑岩に
集約され,製作集落(長野県榎田)も特定される状況が指摘されている[馬場2008]。変形銅戈形石
製品の最初期には,胡の張り出しという銅戈外形を残して内に円孔を穿つ石製品(図13-2)があり,
その後に胡の張り出しを弱めた石製品(図13-3)が登場する。この系譜の延長に,胡が身から直交
に張り出し,内が柄状に長大化あるいは柄に着柄された様子を取り込むかしたとすれば,有角石器
をも位置づけられる[石川1992]。有角石器の最古段階には胡の盛り上がりと樋の凹みを残す例(千
葉県草刈)があり,銅戈からの影響が模倣品の変容過程においても不断に継続していたことを窺え
る。その中には,縄文系の独鈷石等からの系譜を取り込んだ可能性も考慮されてよい[岡本1999]。
そして,このことと対応するように,銅戈を頂点に,模倣品を下位におく保有集団および祭祀の階
層性が,中部高地においては指摘されており[町田1997a・1997b],銅戈を頂点とした各種模倣品
による祭器の階層化が図られていたと考えられる(図13)。

B 近畿の銅剣模倣

近畿においては銅剣形石製品がT式からU式・V式へと,模倣品自体の製作工程省略という形で
型式組列を組むことができた。明確な製作工房でないものの未製品出土遺跡(京都府神足)もあり,
北部九州の銅戈形石製品と同じく,特定の製作集団の存在が想定できる[種定1990・1992]。また,
最初に細形銅剣ないし中細形A類銅剣から銅剣形石製品T式が模倣された後は,見た目の大型化と
いう銅剣の変化から独立していることも,北部九州の銅戈模倣に一致する。新式の中細形B類yタ
イプ銅剣を新たに模倣した石製品も存在したが,最初に円柱状の脊を作り出す有脊式とも言える特
徴から,従前の銅剣形石製品T式・U式とは製作工程が異なり,一連の模倣品組列に載らない,現時
点で派生個体である。木製品も,立体的な銅剣形木製品A式を欠き,扁平板状な銅剣形木製品B1


図14 近畿の銅剣模倣

式があるのみで,中細形B類yタイプ模倣が想定できる扁平板状の銅剣形木製品B 2 式も派生個体
である。近畿の銅剣模倣も,成立以後に青銅器と距離をおきつつ展開しており,同じ祭祀の中で素
材を違えた祭器が重層的な役割を果たした姿は,とりわけ石製品には想定し難い(図14)。

C 瀬戸内の銅剣模倣

近畿における銅剣の石製模倣に対し,瀬戸内中部地域では銅剣の木製模倣が卓越する。しかもこ
こでは,脊を円柱状に作り銅剣と同じ段差を表現するなど,立体的かつ精巧な銅剣形木製品A式が
存在する(図15-1・2)。一方で扁平板状のB 1 式も同時並存し(図15-3 〜 5),木製によって多様な
模倣度合を成立させている(図15)。同じ状況は,鯨骨製品による模倣の山陰東部地域にも見いだ
せる。精巧な銅剣模倣が達成されているだけに,銅剣そのものの存在が強く推察され,かつ多様な
程度の模倣品を存在させる状況は,これに応じた祭祀の重層化が想定されてもよい。ただそれも,
中期中葉の一時に過ぎず,その後に銅剣および銅剣模倣品が継続した様子は窺えない。


D 近畿の銅鐸模倣

銅鐸模倣については,先に多様な状況に触れるに留めた。銅鐸形土製品を扱った論考でも,基本
的に銅鐸と形態の類似度を個体毎に判断し,その度合いの分類に終始せざるを得ない状況にある。
例えば,大野は銅鐸と共通する形態的特徴の有無に基づく銅鐸模倣品の認定を行い[大野2004],
神尾は土製品の形態分類とともに,「パースペクティブ(乖離度)」を基準に検討し[神尾2012],黒
沢はより直裁的に,「銅鐸に忠実」という視点で模倣文様の有無を最上位に判断する[黒沢2012]。
つまり,銅戈形石製品や銅剣形石製品が,それ自体で型式組列を組める状況とは大きく異なる。こ
のことが,銅鐸形土製品の模倣を考察するとき,最も重要な点である。
忠実な模倣も確かにあるが,総じて高い文様や形態の逸脱は,何より土製という可塑性の高い,
そして要する技術の最も安易な素材選択に応じ,同時に模倣に際しての縮尺率がかなり大きい。こ
こに,模倣品を専門に製作する集団を想定する必要はない。銅鐸に対面した個人ないしは少人数の
集団が,その個別体験に基づいて模倣を行った姿こそ浮かび上がる。もちろん,模倣行為あるいは
図15 瀬戸内の銅剣模倣

10
p
銅剣形木製品
B1
細形銅剣Tx 銅剣形木製品A
中細形銅剣Ax
中細形銅剣By
1 2 3 4 5
図15 瀬戸内の銅剣模倣
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国立歴史民俗博物館研究報告
第185 集2014 年2 月
図16 近畿の銅鐸模倣
0 5p
銅鐸形土製品
銅鐸形土製品
銅鐸形土製品
銅鐸形土製品
銅鐸形土製品
銅鐸形土製品
銅鐸形土製品
銅鐸形土製品
扁平鈕古
銅鐸
扁平鈕新
銅鐸
外縁付鈕2
銅鐸
外縁付鈕1
銅鐸


図16 近畿の銅鐸模倣
その容認について,より大きな集団内での共有(流行)はあろうが,模倣品自体はそのような社会
的共有物にはなり得ていない。ある意味,最も個人レベルに近い祭祀行為の浸透,在地化として,
銅鐸祭祀の重層性(あるいは底辺拡大といった方が適切だろうか)をみることはできるが,一過性が
強いとも推測できる(図16)。なお,後期に銅鐸形土製品が盛行する東海地域では,土製品間にも
組列が想定され[黒沢2012],模倣の増加もあり,土製品まで含み込んだ社会的関係性が広がって
いた可能性がある。
3 青銅器模倣の特性
青銅器各器種,そして特徴的な模倣品が展開する5 地域を取り上げて青銅器模倣について論じた。
まず何より,地域によって選択される模倣対象の相違がある。流入青銅器の種類・量に応じて,選
択肢がそれぞれの地域で異なり,かつ地域での志向性が加わり,模倣品の地域性が形成されたので
ある。そうしたとき,北部九州での模倣の低調さは余計に目立つ。豊富な青銅器をもつが故に,敢
えて素材を違えてまで模倣を行う必要がなかったのであろうか。稀少な流入青銅器に対応した中四
国地方以東と,豊富な青銅器を有する北部九州の差が見え隠れする。
模倣という行為により,模倣対象と模倣品がその取り扱いも含めて重層性を達成していると予測
されたが,実際はそう単純でない。模倣品自体が製作集団の手により確立し,青銅器から離れて独
自の変化を辿った北部九州の銅戈形石製品や近畿の銅剣形石製品は,青銅器との重層的関係を想定
することが難しい。むしろ,やはり少ない青銅器流入に応じ,多様な模倣程度を生み出した瀬戸内
地域の銅剣木製模倣や,中部高地での銅戈形の範疇を超えて展開する多様な形態を生み出した銅戈
の石製模倣などこそ,器物と祭祀の重層化が指摘されてよい。そして,重層性は認められながらも,
土製を専らとした,きわめて個人レベルに近い行為としての銅鐸模倣は,他の青銅器模倣とは社会的位置付けを異にしなければならない。

(4)地域型青銅器の確立
青銅器そのものの列島範囲での広がりに伴い,各地に多様なあるいは特定の青銅器が広がり,そ
れらに対する在地化といった意味で,各種青銅器模倣が展開していた。このような中で中期末葉に
は,特定地域を分布域とする地域形青銅器が登場する。
1 地域型青銅器の分布
中期末葉には西日本を中心に地域を分割するように,青銅器分布圏が割拠するような状況となる。
中広形銅矛,中広形銅戈,中細形C類銅剣,平形銅剣,東部瀬戸内系平形銅剣,近畿型銅戈U・V
式,そして扁平鈕式銅鐸の青銅器分布である[吉田ほか2008]。まず,中細形C類銅剣と平形銅剣は,
密度分布の高まりも,また出土遺跡自体も重なることがほとんどなく,前者が出雲地域,後者が瀬
図17 中期末葉の青銅祭器分布の対峙
264
国立歴史民俗博物館研究報告
第185 集2014 年2 月
戸内南岸地域に分布域を形成する。平形銅剣分布域の東側には,東部瀬戸内系平形銅剣と近畿型銅
戈U・V式が分布して一定の分布域をもつが,出土点数は少ない(図17-1)。一方,西側では,春
日丘陵に一大青銅器生産拠点が形成され,そこで製作された中広形銅矛が北部九州から広がりを見
せる。まず対馬に高い密度分布を示し,東の豊後地域から豊予海峡を渡って南四国地域へ広がり,
荒神谷遺跡により出雲地域でも一極が存在する。対して東側の近畿を中心とした地域では,畿内地
域と東四国地域を中心に扁平鈕式銅鐸の密度分布が高まる(図17-2)。
2 地域型青銅器と弥生社会
分布で際だった特徴を見せる青銅器が,それぞれ地域社会でどのように位置づけられていたのか,
北部九州と瀬戸内,そして出雲を検討の俎上に載せる。
@ 北部九州における青銅器の分節化
北部九州における武器形祭器として広がるのは中広形銅矛であるが,同じく祭器に中広形銅戈が
あり,甕棺には中細形銅矛や中細形銅剣の副葬が続く。このような青銅器のありかたを分節化とし
てかつて整理した[吉田2002]。すなわち,北部九州における最高位の祭器として中広形銅矛,そ
の下位に中広形銅戈がある。最終的に埋納される武器形青銅祭器であり,「奉祭の剣」と表現した。
一方,中期末葉の王墓では,中細形銅矛や中細形銅戈が副葬される。副葬以前は,長柄に装着され
保持者の権威を高めた「威儀の剣」である。そして,銅剣の中でも特異な形態を示し,特別に入手
あるいは創出された可能性の高い,多樋式銅剣や中細形A ’ 類銅剣,中細形U式銅剣が副葬品に加
わる。ただし,棺外副葬の場合があるなど,扱いは一段低い。被葬者が生前身に帯びた「佩用の剣」
と位置づけた。三者は刃部の研ぎ分け技法を共有する場合もあり,王墓を頂点とした副葬と祭器と
しての埋納という最終的に埋められる場面での使い分けと,それ以前の使い分けが,中期末葉の北
部九州には厳然と成立していたのである(図18)。ただ,その分節化の頂点の地位は,自ら製作し
た武器形青銅器でなく,中国王朝の威信・観念を纏った大型前漢鏡が占めていた。


図18部九州中期後葉の武器形青銅器の分節化


A 平形銅剣と文京遺跡

多用な青銅器の分節化に対し,中四国地方以東の地域では,1 器種に特化する方法を採用した。
瀬戸内南岸地域では平形銅剣である。密度分布では瀬戸内南岸でも讃岐地域に高いが,中広形銅矛
や扁平鈕式銅鐸など平形銅剣以外の青銅器と混在し,扁平鈕式銅鐸と平形銅剣の共伴例(香川県羽
方西ノ谷)もある[吉田2004]。対して,松山平野では平形銅剣22 点が,平野北端の道後城北地域
の半径1q内外に集中し,かつその範囲に他の青銅祭器はみられない。松山道後城北地域において
平形銅剣は,局所的・排他的に分布するのである。
そして,この道後城北の中期末葉には,文京遺跡が存在する。大型掘立柱建物や周溝遺構を中心
とした中枢域,密集居住域,高床倉庫の集中する貯蔵域,そして諸生産活動が想定できる生産域と
集落内に機能別配置がみられ,銅鏡や鋳造鉄斧などの舶載品をはじめとした多用な交流を窺わせる
出土品をもち,青銅器生産の存在も考慮される,地域弥生社会の核たる大規模密集型集落である[広
瀬1998,田崎2006,柴田2009 等]。集落至近の埋納地(一万・伝樋又)は,いずれも大型掘立柱建物
から東に500 m程度しか離れてない(図19)。墳墓を介して特定個人の姿を浮かび上がらせること
はできないが,平形銅剣の祭祀あるいは生産までもが,大規模集落を中心とした地域弥生社会の構
造に包摂され,地域型青銅器が地域弥生社会の形成を象徴かつ維持する重要な機能を果たしていた
のである。
B 荒神谷遺跡の大量埋納
一括大量埋納された荒神谷遺跡の358 本もの中細形C類銅剣は,剣身長50p前後という,おそ
らく切り出し時に既に規格化された鋳型石材を用いることにより,突起位置を変更することで銅剣
プロポーションの変異を生み出し(図20 上段),同じ突起位置でも元部外形や脊の厚みに変化を生
図19 文京遺跡と平形銅剣
松山城
二の丸
松山城
本丸
松山城
三の丸
勝山
道後・湯築城
石手川
御幸寺山
大川
道後一万
道後樋又
文京遺跡
道後公園東山麓
若草町遺跡
松山北校
構内遺跡
松山大学
構内遺跡
弥生中期後葉〜後期初頭の
遺構・遺物が出土した調査区丘陵洪積段丘扇状地面上の
谷状の低地中世以降の氾濫原

20
p
0 1q
図19 文京遺跡と平形銅剣
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第185 集2014 年2 月
じさせてさらなる変異がみられた(図20 下段)。同笵関係をも見いだせた,このような資料群は,
一括製作された状態を保ったまま,おそらくは短時間のうちに一括埋納されたと強く推察された[松
本・足立編1996]。そして,荒神谷と同時製作ではないものの,同じ中細形C類に位置づけられる
銅剣が出雲から伯耆地域にかけて分布する。鋳型の出土をみていないものの,一括製作の姿を保っ
たままの荒神谷遺跡における大量埋納と,出雲地域を中心とした分布から,中細形C類銅剣を出雲
で製作された地域型青銅器と位置づけるところである。
青銅器自体からの分析に終始し,地域弥生社会との関係が不明なままであったが,模倣品を通し
て,その関係を推測できる資料が島根県田和山遺跡にある。田和山遺跡は,3 重環濠という一見防
御性の強い集落と見られるが,その内側の狭い山頂部には,「柵によって囲繞された空間に目隠し
の柵を伴った9 本柱遺構のみが存在」するという特異な景観をなし[落合編2005],むしろ祭祀的
な色彩を強く読み取らなければならない。この遺跡で銅剣形石製品が出土しているが,関部双孔の
欠如や円柱状の脊の作出,そして大きさから,中細形C類銅剣模倣とできる。つまり,特殊な遺構
配置をもつ田和山の地で祭祀が執行されたとき,荒神谷に大量埋納される中細形C類銅剣を象った


図20 荒神谷出土銅剣の変異(上段;突起位置の変異、下段;同突起位置内の変


銅剣形石剣が用いられた情景を復元でき,出雲における中細形C類銅剣祭祀の浸透,それも青銅器
と青銅器模倣品という重層化を遂げた様子を指摘することができる[吉田2012b]。
(5)銅鐸の変容
銅鐸の祭器としての地位は,金属器のもつ音響性と文様をもった立体物としての造形性に依拠し
ていたとした。この祭器たる特性が,中期後葉前後から実は変容していく。手がかりは,同笵品の
あり方などの製作技術である。
1 武器形青銅器の同笵関係
武器として鋳造後に研ぎが加えられる武器形青銅器にあっては,同笵関係の抽出はほぼ不可能
であると考えられてきた。しかし,358 本という大量資料と,ほとんど研ぎを加えていないB62 号
銅剣ほか,研磨工程各段階の痕跡が豊富に見いだせ,研ぎによる造形と鋳造による造形の峻別を明
確にできた荒神谷銅剣の分析では,358 本中の296 本で,最大5 本の同笵組を見いだせ,鋳型数で
226 個の鋳型,1 鋳型平均の鋳造本数は296/226 ≒ 1.31 本と算定された[松本・足立編1996]。武器
形青銅器同笵関係初めての認定であり,この値がどのような意味をもつのか,正直大量生産の割に
同笵品製作による省力化はあまり達成できていないのではないかと感じつつも,さらなる分析を経
ることとした。鋳出し鎬の銅戈や銅矛に分析を広げ,さらに一部その後の検討例も加えてまとめた
のが表3 である。同型式大量出土遺跡を中心に新たに扱った資料でも,平均鋳造本数は最大でも1.2。
それも彫り直しの可能性を含めた数値で,荒神谷をいずれも下回っている。実見による詳細未検討
の資料を探索しても,明らかに同笵でないことが見いだせる場合が圧倒的に多く,武器形青銅器に
おける同笵は決して多くないと予測されるに到った[柳浦ほか2004]。武器形青銅器の石製鋳型使
用は,同笵品製作による省力化を意図したものではないことになる。
表3 武器形青銅器の同笵製作比率
青銅器出土数
(a)
鋳型数
(b)
同笵組数
(c)
平均鋳造数
(d;a/b)
同笵組比率
器種 型式 遺跡 (e;c/b)
銅戈
中細形B類隈・西小田23 22 1 1.045 5%
中細形B類住吉神社6 6 0 1 0%
中細形B類隈・西小田+住吉神社29 26 2 1.115 8%
中細形B類牛尾神社2 2 0 1 0%
中細形C類原町43 42 1 1.024 2%
近畿型T式山地6 5 1 1.2 20%
近畿型T式柳沢7 6 1 1.167 17%
銅剣中細形C類神庭荒神谷296 226 43 1.31 19%
銅矛
中広形神庭荒神谷13 13 0 1 0%
13 12 1 1.083 8%
中広形目達原4 4 0 1 0%
中広形検見谷12 11 1 1.091 9%
中広形目達原+検見谷16 14 1 1.143 7%
中広形バンジャク6 6 0 1 0%
6 5 1 1.2 20%
広形坊主山7 7 0 1 0%
7 6 1 1.167 17%
広形増田山8 8 0 1 0%
神庭荒神谷・バンジャク・坊主山の下段は,彫り直しの可能性を算入した場合
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表4 銅鐸の同笵製作比率と鋳造技術
菱環鈕式
外縁付鈕1式
扁平鈕式古段階
外縁付鈕2式
四区袈裟襷文
流水文
流水文
二区流水文
一区流水文
石井谷型
10
25
7
13
34
10
総組数
(a)
同笵組数
(c)
推定同笵組数
(c’)
同笵組比率
(e;c+c’/b)
0
10
3
8111
2721101
20%
68%
71%
69%
67%
25%
20%
菱環鈕式
扁平鈕式新段階
扁平鈕式古段階
外縁付鈕1式
外縁付鈕2式
突線鈕1式
突線鈕2式〜5式
同笵組比率文様鋳出鋳掛け補刻
少数
少数
なし
なし
多用
多用
多用
多用
減少
多用
多用
多用
多用
多用
不鮮明有
不鮮明有
鮮明化
鮮明化
鮮明化
突線採用
突線採用
例外的
例外的
なし
20%
70%
70%
70 〜 20%
表4 銅鐸の同笵作成比率と鋳造技術
2 銅鐸の同笵関係
他方,銅鐸には同笵関係が多数知られ,石製鋳型を何度も補修しながら複数回の鋳造を行ってい
たことが,通則の観すらある。難波によれば,進行した笵傷の存在から菱環鈕式の段階でも同笵関
係の存在が推察でき,実際の同笵関係は外縁付鈕1 式から確認できる[難波2000]。古い段階の銅
鐸は決して良好な鋳上がりでなく,大きな鋳造不良が生じた場合,鋳込み自体のやり直しが想定で
き,同笵銅鐸という形で現れてなくとも,鋳型の複数回使用はむしろ通例であった。以後,石製鋳
型の扁平鈕式古段階まで高い比率で同笵銅鐸が存在する。1 鋳型での製作個数も最大7 個を数え,
正確に算出できないが,1 鋳型あたりの平均鋳造数は銅鐸群によっては優に2 を超え,武器形青銅
器との格差が大きい。同笵組比率で比較しても,武器形青銅器では彫り直し可能性例を算入しても
ようやく20%に届く程度であるのに対し(表3),銅鐸ではこの値が最小値で,最高は70%を超え
る(表4 上段)。
ところが,このような高頻度の同笵銅鐸も,扁平鈕式新段階以降激減する。同笵製作可能な石製
鋳型から,複数回使用が難しい土製鋳型に転換するからに他ならない。使い回しが利き製作の省力
化が大きい特性を退けてでも,鋳型の素材転換を図った意図はどこにあったのか。銅鐸鋳造技術の
一端である鋳掛けと補刻の展開から,推し量ることができる。これらの出現状況を難波の整理に基
づいて整理したのが表4 下段である。菱環鈕式・外縁付鈕1 式の段階では,文様鋳出不鮮明な銅鐸
が比較的多く,鋳掛けは存在するが少なく範囲も狭い。既述のように,大きな鋳造不良が生じた場
合は鋳込み自体をやり直したのである。外縁付鈕2 式になると,鋳出不鮮明なものは減少し,鋳掛
けの多用と広範囲化が認められ,強度を補う円形の足掛かり孔も出現する。そして鋳掛け部分への
追加施文として陰陽逆転となる補刻が始まり,扁平鈕式新段階では陰陽逆転のない文様連続を企画
した鋳掛けも現れる[難波1999・2000 等]。つまり,外縁付鈕2 式以降は文様鋳出の要求に応じた
技術対応が図られているのである。そして,より鮮明な文様鋳出に適合した技法として,扁平鈕式
新段階で土製鋳型が採用され,その延長により太く突線化した文様をもつ突線鈕式の出現も位置づけられる[柳浦ほか2004]。同時に,銅鐸の大型化への途をも開いた技術転換である。


3 武器形青銅器と銅鐸の方向性の差異

武器形青銅器は,同笵製作可能でありながら,その特性を活用せず,文様鋳出の欲求もほとんど
ない。いや本来武器形として鋳造後に研ぎ上げられるべき金属器においては,鋳造による陽出文様
は邪魔ですらあった。それ故,例外的な陽出文様をもつ銅剣が,研ぎを制限したことによって型式
変化の上で大きな転換点に位置した[吉田2006a・2009]。むしろこの段階,武器形青銅器においては,
本来の武器として研ぎ澄まされた金属光沢をより効果的に発揮する技法として,中広形銅矛を中心
に幅広の研ぎ分けが駆使されるに到っている。磨き上げられた金属器の輝きこそが,文様に代わる
装飾要素として,武器形青銅器には高く意識され続けたのである。
対して銅鐸は,同笵品製作可能という技術特性を廃してでも,鮮明な文様を鋳出したいという欲
求から土製鋳型を採用した。文様をもった立体的な造形性と音響性を兼ね備えた祭器として創出さ
れた銅鐸が,鋳造技術の進展にともない,音響器としての形・造形性よりも,より鮮明な文様を重
視する方向に大きく舵を切ったのである。結果,さらなる大型化を招き,音響性を失わざるを得な
くなった。これが「聞く銅鐸」から「見る銅鐸」への転換の実質的要因であろう。
(6)小結
銅鐸は,当初から祭器としての役割を担うべく登場したのに対し,武器形青銅器は武器として登
場しつつも,実用性に基づく武威の観念を伴い,早々に厚みの増大を伴わない身長の大型化という,
非実用的な武威強調の方向に変化を始めた。朝鮮半島と同じ取り扱いまで受容していた範囲を超え
て東に広がったとき,銅鐸同様に祭器としての使用が求められ,銅剣に関部双孔が付加され,見た
目の大型化への欲求はさらに増大された。北部九州でも実用性に基づく佩用が個人の威儀発揚に機
能し,祭器化が受容される前提となる。また,各地では受容した青銅器の種類と数量に基づく選択
により多様な模倣品が生みだされるなど,青銅器・青銅器文化の在地化が進行する。そして,中期
末葉には,北部九州では多種の青銅器を使い分ける分節化を達成し,中四国地方以東では特定の1
器種の地域型青銅器を成立させ,地域弥生社会における祭祀の中核をなすに到る。そして,このよ
うな地域結合の背後で,本来の機能喪失,見た目の大型化という点で武器形青銅器と銅鐸が同じ変
化を辿りながら,武器形青銅器は武器に本来的な金属光沢を強調する方向で祭器化を推進したのに
対し,銅鐸は音響効果や金属光沢よりも文様造形性を重視する方向に進むという,方向性の異同を
生じていたのである。
❸……………弥生青銅器祭祀の終焉
中期末葉に地域型青銅器を各地に成立させ,かつ青銅器としても研ぎ分けを施す中広形銅矛や
最も精美な横帯分割型銅鐸等の出現をみた後,弥生後期になると青銅器・青銅器文化は終焉に向け
た動きを加速させていく。何より,銅剣の多くや近畿型銅戈が中期で製作を停止してしまう[吉田
2011・2012d 等]。後期には,中期末葉の青銅器を一部残す一方で,中期以来の系譜を引く大型青銅
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器は,武器形青銅器で広形銅矛と広形銅戈,そして深樋式銅剣,これに近畿式と三遠式が並ぶ突線
鈕式銅鐸となり,ほかに各種小型青銅器が現れる。
(1)後期の青銅器祭祀
1 青銅器祭器の分布
広形銅矛と突線鈕式銅鐸は,中期末葉の祭器分布圏対峙の様相を継承し,とりわけ南四国で境界
を接して先鋭化する。広形銅矛は中広形銅矛に続いて,九州島から北は対馬の分布密度が一層高ま
り,東へは豊前・豊後地域から豊予海峡を挟んで四国の南西部に高密度域を形成する。突線鈕式銅
鐸は,畿内地域の高密度分布の中心をやや北寄りに移行し,西へは紀伊半島西側から南四国東部
地域へと南に偏って密度分布を高める。そして,新たに東海地域に明瞭な高まりが形成される(図
21)。近畿式銅鐸も多いが,後期東海地域の地域型青銅器たる三遠式銅鐸の集中によるところが大
きい[吉田ほか2008]。そして,瀬戸内海沿岸と山陰から北陸の日本海沿岸に,大型青銅祭器空白
域の広がることが,後期の特徴的かつ重要な事象である。
2 対馬の青銅器
武器形青銅器あるいは銅鐸を奉じた弥生後期青銅器文化の地域的展開を具体的に検討できる地域
は少ない。後期になって地域型青銅器を成立させる東海地域では,銅鐸の土製模倣も多く,土製品
間に系譜関係が想定可能な場合も指摘されるなど[黒沢2012],三遠式銅鐸あるいは近畿式銅鐸を
頂点とする銅鐸祭祀が重層的に展開していた可能性が指摘できる。ただ,埋納された青銅器と地域
弥生社会の関係を十分検討するに到っていない。他方,列島青銅器文化の最西北端の対馬では,地
理的特性もあって,ある意味特異な青銅器文化を後期に展開させている。
対馬で最も目立って存在するのは中広形・広形の銅矛で,島内120 本を超える数が出土している。
広形銅矛は,中広形に続いて北部九州最高位の祭器として埋納される一方で,墳墓出土例(長崎県
塔ノ首3 号石棺・同木坂5 号石棺)が存在し,九州島と異なる取り扱いが認められる[武末1982 等]。


図21 後期の青銅祭器分布の対峙

図22 対馬後期の武器形青銅器


また,細形銅剣や深樋式銅剣が,九州島ではまず行われていない副葬に供され,その中には旧式の
銅剣を着柄できるよう再加工してまで,「佩用の剣」に仕立て上げた例も少なくない。そして,「銅
材の集合」とされる各種異形青銅器類がまとまって出土する[下條1979]。このように特徴的な対
馬の青銅器については,「佩用の剣」であることに拘った銅剣は,北部九州と朝鮮半島南部の間にあっ
て,対外交渉の場面で同じ「佩用の剣」を帯びた半島南部との共通性を演出し,その過程で交易者
として各種異形青銅器の集積を果たし,北部九州の祭器を奉じて埋納することで北部九州圏への帰
属意識を見せつつ,その「奉祭の剣」すら副葬に供することもあるという,複雑な青銅器のあり方(図
22)を復元した[吉田2001・2002]。中期末葉の分節化を継承しながらも,対馬という地理的条件に
応じ,北部九州青銅器文化の枠を超えて自らの青銅器文化を構築した対馬海人の強かな独自性がみ
られるとともに,分節化をピークに終焉に向かう青銅器祭祀・文化の一端を見ることができる。
(2)青銅の行方
対馬という最外縁部での変容の一方で,列島西半部においても青銅器祭祀終焉に向かった動きは
確実に始まっている。一つには,既に述べた大型青銅器の空白域の広がりである。そしていま一つが,
後期になって出現あるいは出土数が著しく増大する小型青銅器である。銅鏡(舶載鏡・小型倣製鏡),
小銅鐸,銅釧,巴形銅器,銅鋤先,銅鏃,筒形銅器,銅貨と多種に及び,九州から関東まで広がり,
大型青銅器退潮の一方で小型青銅器盛行を予想させるに十分である。しかも小型青銅器は,埋納と
異なり土器他を伴う場合が多く,時期をはじめ集落内での存在形態など,多くの情報を得ることが
できる。
このような小型青銅器について,まず大型青銅器空白域において一定範囲の具体的状況が窺える
事例として,岡山県足守川流域を取り上げる。この地域は,後期になって丘陵部から低地へ進出し
て広域に居住域を展開させ,一帯を統括する「政治勢力」の存在が想定される楯築弥生墳丘墓出現
に結びついていく[江見ほか2000,重根2002,伊藤2006 等]。最上流域の高塚遺跡で突線鈕2 式流水
文銅鐸の埋納がみられる他,銅鏃,銅鏡,小銅鐸,銅釧,棒状銅製品,貨泉の出土があり,中でも
銅鏃の出土遺跡・数が多い。高塚遺跡では,後期前葉に銅鐸と貨泉が埋まった後,後期中葉から後
葉に数は少ないが銅鏃と棒状銅製品の出土があり,流域全体でも銅鏃が後期中葉以降増大し,弥生
終末から古墳初頭そして古墳前期にまで及ぶ(図23)。同じ状況は岡山県内では百間川遺跡群でも

図23 足守川流域の青銅器


図24 場遺跡出土銅鏃


確認できる[吉田2006b]。
対岸の香川県旧練兵場遺跡では,60 点を超える大量の銅鏃出土をみるが,やはり後期後半以降
特に数を増し,足守川流域や百間川遺跡群では残存状況の良くなかった銅鏃本体の詳細を検討でき
る個体が多い(図24)。別個体と連続鋳造した痕跡や鏨痕を残す例(7・12),鋳張り除去が不徹底
のものがみられるなど,丁寧な仕上げを行っていない個体が多く,形態差も小さくない。報告者は
交易拠点として大型集落に集積された状態を示すとみるが[信里編2011],製作関連遺物・遺構を
確認していないものの,集落内で生産そして廃棄されたとも考えられる[吉田2010a]。いずれにせよ,
後期後半には銅鏃を遺跡内に残す(廃棄する)ほど豊富に保有する事例が現れ,中期までは祭器へ
の充当に専らだった青銅が,銅鏃という,ある意味消費財の素材に充てられるになった姿をみるこ
とができる。
さらに他でも,畿内地域では後期に鉄器以上の銅鏃出土を数え,「新式銅鐸を生産し,配布する
一方で,鉄器を補完するがごとく,銅を用いた鏃や剣を生産している」との評価がなされている[寺
前2009]。東海地域でも,銅鐸の一方で銅鏃を多く保有する状況があり,有孔銅鏃など儀器的要素
をもちつつも,畿内地域と同じく武器としての鏃製作に青銅を充てる社会をみることができる[黒
沢2009等]。それ以上に,多彩な小型青銅器を保有する社会が後期の中部から関東地方には広がり[柳
田編2012 等],赤塚は「部族性を表象するアイテム」の素材となった青銅との位置づけを提示する
[赤塚2004]。さらに,より金属素材として先鋭的な扱いを見せるのが,広形銅矛と突線鈕式銅鐸の
分布が拮抗する最前線に位置する高知県西分増井遺跡である。後期初頭から中葉にかけて,中広形
銅矛や扁平鈕式銅鐸,広形銅戈の破片がまとまって出土し,一部に小型利器転用(図1―17)もあり
[出原編2004],かつて祭器として機能した青銅器を,自らの手で青銅素材として破砕した可能性す
らある。
以上のように,大型青銅祭器を既に保有しない地域,なお保有する地域のいずれにおいても,青
銅という素材が祭器のみに独占されるのでなく,小型青銅器の原料に解放され,地域によっては,
入手可能量に応じて,銅鏃など消費性の高い器物素材に転換していく状況を看取できる。とくに,
後期後半以降,地域・量において範囲を拡大し,大型青銅祭器と祭祀の社会的価値を相対的に低下
させたと考えられる。なおそのような動向も,各地域単位で進行し,中には小型青銅器獲得に向か
わなかった鳥取県妻木晩田遺跡や高知県田村遺跡等も存在している。
(3)銅鏡の選択
小型青銅器盛行の一方で広形銅矛と突線鈕式銅鐸は,少なくとも古墳時代に降ることが特定でき
た青銅祭器埋納が存在しないこと,古墳という葬送儀礼の新たな祭場に弥生青銅祭器が存在しない
ことから,古墳成立という時代転換を前にあるいは中で最後の埋納を終え,新たな祭器を作り出す
ことも,再び取り出すこともなくなり終焉を迎えていった。ただそれ以上に時期を限定していくこ
とは難しく,直接的に時期を示す伴出遺物を伴う埋納例を得るか,さらなる状況証拠を積み上げて
いくしかない。
他方,弥生青銅器の終焉について,武器形青銅器と銅鐸という弥生青銅祭器が,なぜ器物として
古墳時代に継承されなかったのか。裏を返せば,なぜ銅鏡のみが弥生時代から古墳時代にかけて青
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第185 集2014 年2 月
銅器として継続し,かつ古墳の葬送儀礼において枢要な役割を果たしたのか,弥生青銅器の意味を
確認する上で一考しておかなければならない。
先に,武器形青銅祭器は,磨き上げられた金属光沢こそが祭器たる所以とし,そのピークを研ぎ
分け技法を駆使した中広形銅矛にみた。すると,研磨の明らかな退行をみる広形銅矛は,祭器形態
として終末型式に相応しい。一方の銅鐸は,磨き上げられた金属光沢でなく,大きさも含めた鮮明
な鋳造文様をもった造形性の高さに祭器たる所以をみいだした。武器形青銅器と銅鐸は,言わば,
相反する金属特性に依拠する途を,中期末葉のピークの後に降り始めたのである。青銅祭器を奉じ
た地域間の統合が果たせたとしても,異なる性格の青銅器いずれかを選択することは難しい。その
とき,両者の性格を包含可能であったのが銅鏡である。鏡面と鏡背の二面をもつ銅鏡は,鏡面に武
器形青銅器に共通する金属光沢を,鏡背は銅鐸に求められていた鋳造文様の造形性を継承できた。
しかも,中期末葉の中国王朝との直接・間接の交渉により舶載された銅鏡は,中国王朝の威信や鏡
背に鋳出された宇宙観・宗教観に基づいて,北部九州における青銅器分節化における最上位を入手
当初から占めていた。このように価値を複合的に保持できた銅鏡であったからこそ,後期を通じて,
石製鋳型を主とした小型倣製鏡製作や鏡片保有など,銅鏡に基づく重層的な価値体系を作り出そう
した。しかし,弥生時代には舶載鏡に並ぶ倣製鏡製作は,とりわけ石製鋳型による技術伝統の元で
は果たせず,魏晋王朝の威信を帯びた新たな舶載鏡とともに,舶載鏡と並ぶほどの大きさと文様を
達成した精製大型倭製鏡を待たねばならなかった(図25)。葬送儀礼という新たな祭祀舞台として
前方後円墳が創出されるなかで,弥生青銅祭器の性格をも引き継ぐことができた銅鏡が,新たな「祭
器」として古墳祭祀の中で重要な役割を担っていくことになったのである。


図25 銅鏡に継承された弥生青銅器の二相


(4)小結

青銅器祭祀の終焉は,中期末葉で製作を停止する青銅祭器が現れることに始まり,後期には広形
銅矛と突線鈕式銅鐸が大型青銅祭器として残る程度となる。これらの最終的埋納時期を特定するこ
とはなお難しいが,古墳成立を前に,祭器の役割を終えていたことは間違いない。祭器に独占され
ていた青銅が,多様な器物素材に解放されたことにより,後期後半以降とくに増大する各種小型青
銅器が,残る大型青銅祭器の価値を一層相対的低下させていった。このような青銅器そのものの価
値体系の転換が地域毎に進行し,新たな地域統合を象徴する祭祀は,青銅祭器でなく,前方後円墳
という舞台を完備した葬送儀礼に交替していかなければならなかった。ただし,武器形と銅鐸とい
う大型弥生青銅祭器の性格は,金属光沢と複雑な文様性を両面に具備した銅鏡に継承されることに
よって,前方後円墳祭祀に昇華されたのである。
まとめ
日本列島の青銅器文化の展開を改めて整理してみると,前段の青銅器不在の弥生時代の長さと,
対する出現後のドラスティックな変化を確認することができる(図26)。
日本列島における本格的な青銅器文化は,弥生時代中期初頭に開始し,その前に青銅器文化を伴
わない弥生時代が長期間続いた。北部九州では,青銅器不在の間に武器形石製品を既に受容し,中
期初頭に朝鮮半島から武器形青銅器を,その取り扱いを伴ってスムーズに導入した。ところが,銅
鐸の登場は,武器形青銅器における武器形石製品のようなプロトタイプを欠き唐突で,しかも当初
から祭器としての登場であった。ここには,北部九州の武器形青銅器とは異なる祭器を求めた山陰
から北陸,近畿そして東海に及ぶ広域が連動した積極的意図の存在を窺える。こうした登場前段の
差違を起源として,以後の弥生青銅器文化の二つの潮流が出現当初から形成されたのである。
図26 日本列島青銅器文化の階梯
500
BC
AD
早 期前 期中 期後 期
山の寺式
夜臼T式
夜臼Ua 式
夜臼Ub・
板付T式
板付Ub 式
板付Ua 式
板付Uc 式
城ノ越式
須玖T式
須玖U式
高三潴式
下大隈式
西新式
小型転用利器
磨製石鏃
地域型
磨製石剣
分節化
関部双孔
中細形化
多鈕鏡
中国鏡
武器形青銅器 銅  鐸
今川
比恵
三沢
北中尾
雑餉隈
模倣品
模倣品
模倣品
模倣品
小型青銅器
小型倣製鏡
図26 日本列島青銅器文化の階梯
276
国立歴史民俗博物館研究報告
第185 集2014 年2 月
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の増大を伴わない身長の大型化を遂げ,東へと分布を広げていく中で,祭器としての使用に伴って
銅剣関部双孔が付加される。そして,各地では受容した青銅器の種類と数量に基づく選択から多様
な模倣品が生みだされるなど在地化が進行し,中期末葉には北部九州では多種の青銅器を使い分け
る分節化を達成するのに対し,中四国地方以東では1 種に特化して地域型青銅器を成立させる。こ
のように地域性が分立するとともに,青銅祭器の性格も,本来の機能喪失と見た目の大型化という
点では一致しながら,武器形青銅器が金属光沢の強調へ,銅鐸は文様造形性重視へと乖離し,より
大きな統合へ向かわなかった。
そして,中期末葉に青銅器祭祀を早くも停止する地域が広がり,後期に広形銅矛と突線鈕式銅鐸
の大型青銅祭器が残る一方で,多様な小型青銅器に青銅素材が解放されたことにより,青銅祭器の
価値体系は相対的に低下していった。そして,より広域の新たな地域統合を象徴する祭祀が前方後
円墳という舞台を完備した葬送儀礼に交替していく中で弥生青銅祭器は役割を終え,武器形青銅器
の金属光沢と銅鐸の複雑な文様性を両面に具備した銅鏡が新たな「祭器」として,前方後円墳祭祀
の中に継承昇華されていったのである。

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(愛媛大学ミュージアム,国立歴史民俗博物館共同研究員)
(2012 年12 月7 日受付,2013 年1 月25 日審査終了)
図1;[吉田2010b](1.韓国松菊里,2・3.福岡県今川,4.山口県井ノ山,5.佐賀県釈迦寺,6.福岡県東入部,7.
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図2;[山崎2012]
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図4;[力武・横山編1996]
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図6; 1.韓国慶尚北道入室里[春成1984],2.福岡県原田[福島1988],3.福岡県松本[佐藤編1998],4.熊本
県八ノ坪[林田編2005],5.福岡県勝浦高原[池ノ上編2002],6.愛知県朝日[野澤・伊藤編2006],7.出
土地不詳東博35509 号[春成1984],8.島根県荒神谷5 号[松本・足立編1996],9.兵庫県中川原[春成
1984],10.大阪府東奈良[奥井・横山編2003]
図7; 1.愛媛県西番掛1 号,2.香川県藤の谷3 号,3.香川県藤の谷1 号,4.高知県八田岩滝,5.香川県藤の谷2 号,
6.島根県伝竹矢町,7.愛媛県西番掛2 号,8.伝島根県,9.福岡県金丸,10.福岡県小倉城二ノ丸家老屋敷
跡,11.愛媛県扇田,12.高知県新荘波介1 号,13.兵庫県古津路10 号,14.広島県福田木ノ宗山,15.島
根県荒神谷B 11 号,16.兵庫県正法寺山,17.岡山県由加山3 号,18.徳島県東寺,19.福岡県須玖岡本D,
20.福岡県高三潴東畑,21.広島県盾石,22.長野県箭塚,23.福岡県今宿横浜,24.愛知県志断味,25.長
崎県住吉神社旧蔵,26.大阪府加美,27.岡山県百間川原尾島,28.鳥取県長瀬高浜
   9[武田編2007],10[高山編2012],他[吉田編2001]
図9;[高山編2012]・[武田編2007]
図11;1 〜 3.山口県宮ヶ久保[村岡編1998],4.岡山県南方[扇崎編2005]
図12;1.福岡県金丸[武田編2007]
図13;1.長野県北裏[馬場2008],2.長野県宮渕本村[馬場2008],3.長野県笠倉[馬場2008]
図15;1 〜 5.岡山県南方[扇崎編2005]
図16;1・2.奈良県唐古・鍵[藤田・豆谷ほか2009]
図17・21;[吉田ほか2008]
図19;愛媛県伝道後樋又[吉田編2001]
図20;[吉田編2001]
図24;[信里編2011]
図25;銅矛.佐賀県検見谷11 号[吉田編2001],銅鏡.福岡県立岩堀田10 号甕棺5 号鏡[立岩遺跡調査委員会編
1977],佐賀県桜馬場[唐津湾周辺遺跡調査委員会編1982],奈良県ホケノ山古墳[岡林・水野編2008],滋賀
県雪野山古墳1 号鏡・4 号鏡[福永・杉井編1996],銅鐸.兵庫県生駒[春成編2009]
挿図出典
280
Bulletin of the National Museum of Japanese History
Vol. 185 February 2014
Development and Features of the Yayoi Bronze Ritual Implements
YOSHIDA Hiroshi
After starting rice cultivation, people used weapon-shaped stone tools and diverted small sharpedged
bronze implements to different purposes for a long time, while there were no metal implements.
Following this preliminary stage, weapon-shaped bronze implements appeared in the beginning of the
Middle Yayoi period. On the other hand, skipping the preliminary stage, small bronze bells appeared
in northern Kyushu and bronze bells in Kinki in the first half of the Middle Yayoi period. In other
words, the area around Kinki consciously adopted bronze bells rather than weapon-shaped bronze
implements. Having a ceremonial nature as a sounder, the bronze bells came to be used for nothing but
ritual purposes. In contrast, the weapon-shaped bronze implements came to mix two purposes: practical
utility as a weapon and dignity demonstration as a military power. While various kinds of imitations
were appearing in the periphery and outside of northern Kyushu, however, the bronze implements
as a whole also came to be used in rituals, such as bronze swords with two holes in the joint part. In
northern Kyushu as well, people started to wear swords not only for practical purposes but also for
demonstration of personal dignity, which led to the acceptance of bronze swords as ritual implements.
Respective areas promoted the development of bronze tools into ritual implements in their own ways
while a wide variety of imitations appeared depending on the choice of type and amount of bronze
implements each local society acquired. Eventually, in the end of the Middle Yayoi period, a variety of
bronze tools fell into different categories with different roles in northern Kyushu, which established
a bronze system centering on medium broad bronze spearheads. On the other hand, focusing on
particular types of bronze implements, each area in Chugoku/Shikoku region and eastward developed
its own local bronze tools. Although both weapon-shaped bronze implements and bronze bells lost
their original purposes and became larger in size, they accented different features of the material;
whereas weapon-shaped bronze implements got to emphasize the function of dignity demonstration
with metallic luster, bronze bells attached importance to the creation of patterns rather than acoustics
and metallic luster. While this difference was inherited later, more and more areas stopped using
bronze ritual implements, and bronze came to be used not only for ritual implements but also for other
small tools. Then, the Yayoi bronze ritual implements disappeared, newly replaced by the Kofun ritual
implements. Carrying the prestige of Chinese dynasties, bronze mirrors were adopted as the Kofun
281
ritual implements while inheriting both of the accented features of the Yayoi ritual implements, metallic
luster and pattern creation.
Key words: Yayoi bronze implements, Ritual implements, Weapon-shaped bronze implements, Bronze
bells, Imitation, Regions


https://www.rekihaku.ac.jp/outline/publication/ronbun/ronbun8/pdf/185009.pdf

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座談会 「日本海学の新世紀」
2000年11月25日 富山県赤坂会館
http://www.nihonkaigaku.org/library/other/i001125-i2.html


伊東俊太郎
大塚 和義
安田 喜憲
小泉 格(司会)

本座談は、『日本海学の新世紀』創刊号の特別企画として、
2000年11月25日、富山県赤坂会館で開催されました。

→『日本海学の新世紀』角川書店(p20〜54)
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1 「逆さ地図」からの発想

小泉(司会)

 きょうは三つの柱をあらかじめ立ててあります。一つは、「逆さ地図」を中心にしてみなさんに意見を述べていただく。二つ目は、日本海、環日本海地域の特色について、もう一度みなさんのご意見をいただく。三つ目は、新世紀に期待される「日本海学」ということで、学際的な、あるいは相互性のメリットを生かして何をどこまで解明、あるいは提示できるか。この三つのテーマを考えておりますので、よろしくお願いいたします。
 まず、私からは自然環境にかかわる意見を述べます。安田さんには自然と人類、あるいは自然と生物圈のお話を、大塚さんには主として民族と文化のお話、伊東さんには三人の話をふまえて文明論的な、あるいは全体のまとめ的なことをお願いいたします。三つの柱それぞれについて、小泉・安田・大塚・伊東という順番でまず基調的な発言をいただきまして、そのあとで追加することがあれば追加していただくということで進めてまいります。
 それでは、最初に「逆さ地図」をながめながら日本海、環日本海地域の魅力、また逆さ地図というのは日ごろ私たちが見なれていないものですので、そこから従来と違ったどういうイマジネーションが出てくるかということについて、ご意見をいただきたいと思います。
 口火を切るかたちで、私が地質学的な、あるいは自然環境の立場からすこし申し上げます。私はもともと地質学を勉強していましたので、陸域がフィールドでありました。いまから40年ぐらい前に、陸から海のほうに調査する場所を移しました。そういう人たちを世界では「sea-going geologist(海に向かう地質学者)」というふうに呼んでいます(笑い)。陸上の地質屋の目で海を見ようということです。
 私はこれまで二つのことを勉強してきました。一つ目は、海洋地質学という分野です。ペーリング海、オホーツク海、日本海といった縁海(えんかい、marginal sea)がありますが、この縁海はじつは北西太平洋の部分にしか発達していません。環太平洋地域以外では発達しておりません。縁海は、背弧海盆(はいこかいぼん、backarc basin=島弧の後ろに海ができるという意味)、島弧(islandarc)、海溝の三つが一つのセットとなって構成されています。このセットを説明するのがプレートテクトニクス(→注1)という考え方です。これはいまでは実証されています。プレートテクトニクスを考える場合には、太平洋のほうから日本列島、あるいは日本海を見ていくわけですから、逆さ地図とはまるっきり見方が違います。これが海洋地質学です。
 逆さ地図が出てきた段階で、先ほど申しました二点と趣が違うわけです。すなわち大陸から海を見る見方、あるいは視野を実感させました。私の場合は原点に戻ったのです。陸地から海へ行ったということは、行動の範囲や活動の範囲がだんだん広がっていっている。それは個人的にもそうだし、日本の歴史を考えた場合も、背景にある中国の大陸から始まり、日本海、日本列島、太平洋というように日本の歴史がだんだん拡大していった。そして、まずいことに太平洋の場合には太平洋戦争ということで悪い終着になっている。
 それがいまはまた逆方向に戻りつつあって、日本列島における生活域というか、内海としての日本海と一体になった意識革命をしようとしているのではないか。そういう意味で、認識、あるいはわれわれの意識にかかわってきている。これは人々がもつ思いみたいなものがひとつあります。もうひとつは行政には、人々の認識とか意識を実現させるという仕事があるのだと思います。これは三つ目の柱のときにもう一度、話したいと考えています。
 以上、逆さ地図を見て感じたことを、自分史も含めて最初に問題提起のかたちで述べました。
 次は安田さんにお願いします。もう少し陸域のほう、日本列島、中国大陸を含めてお願いします。

安田

 逆さ地図を見せていただいて感じることは、日本民族にとっては日本海があったということは、たいへん幸せだったのではないかということです。日本海というのは平和の海であったということです。
 なぜかというと大陸部にいる人々は牧畜民です。基本的に農耕と牧畜をやる人なのですが、そういう牧畜民が幸いにして海に出かけることが非常に下手だったということがあります。同じ海を考えても、地中海のギリシャ文明はドーリア人(→注2)の文明ですが、彼らはもともと牧畜民でした。しかし、彼らが地中海のギリシャにあった森の中に定住することで森林資源を利用することを学び、船を造ることを学び、海に出かけて巨大な海洋国家の仕組みをつくっていった。これがギリシャ文明ではないかと思うのです。それに対して、ペルシャという国があります。同じ牧畜民なのですが、ペルシャの牧畜民は海に出かけることができなくて、海洋民になれなかった。
 同じようなことがモンゴルにも言えると思うのです。大陸にいたモンゴルの人は牧畜民なのですが、彼らはやはり船を使ってバイキングのように海上に出ることができなかった。そのことによって日本海というのは、大陸の牧畜民の嵐から長らく隔離されることができたなあという感じがするのです。
 だから、日本に大陸からの文化の影響がより強くやってくるのは、むしろ日本海ではなくて東シナ海なのです。東シナ海を通して大量の難民(ボートピープル)がやってくる。それはどうしてかというと、東シナ海、つまり中国大陸の南部には、船を操ることにたけた人々がいる。これが稲作漁撈(ぎょろう)民です。この稲作漁撈民は船を操ることが巧みですから、彼らは東シナ海を対馬(つしま)暖流に乗って一気に日本にやってくることができたわけです。
 日本海の対岸の少数民族、ニヴフ(ギリヤーク)などがどういう生活をしていたかわかりませんが、モンゴルという巨大な帝国があって、元寇(げんこう、→注3))のときに日本に攻めてきました。彼らは少なくとも海洋民族になれるほど船の技術にたけていなかった。船に乗っていた大半の人々は、長江(ちょうこう)以南から駆り出された人々でした。それが日本を幸福に導いた要因であったと思うのです。
 富山県は越国(こしのくに)といいます。越前が福井県、越中が富山、越後が新潟です。そのように、越国というのが日本海側にあるのですが、対岸の沿海州にはその名前の起源はないのです。では、その起源はどこにあるか。じつは長江の下流域の百越(ひゃくえつ)と呼ばれる越人(えつじん)からきています。ですから、日本海といっても、われわれは対岸から強い文化的な影響を受けたと考えるし、実際にそういうこともあるのですが、同時に、日本海は東シナ海を通って長江の下流域にまでつながっており、それをつなげているのは対馬暖流という大きな海流であって、そういう南の東シナ海からさかのぼってくる文明の影響が日本にはたいへん大きい。それは船を持ち、技術を持った人々が大陸にいたかいないかということに大きくかかわるのではないかと思われます。

小泉

 いま、東シナ海と日本海の関係を稲作漁撈民を例にあげて話されました。東シナ海と日本海とをつなぐ対馬暖流の話は、二番目の柱のところでもういちどおさらいします。安田さんのほうから自然環境と人間とのかかわりのお話が出ましたので、引き続きまして、人間のほうにウエ−トをおいて大塚さんからご発言いただきたいと思います。

大塚

 小泉さんが自分史を語られたように、私も自分史というか、なぜ日本海地域に関心をもっているのかお話します。私はとくに人間そのものに対して強い関心をもっているわけですが、日本海沿岸の諸民族に対して強い関心をもつにいたったのは、最初、旧石器研究を始めまして、北海道に行き、そこでアイヌと出会ったことによります。日本にもいわゆる日本語を語るだけではない人たちもいる、しかも、およそ100年前までは採集狩猟の文化を維持していたということを知り、そこからさらに北方世界に関心をもった。しかし残念ながら、1960年代というのは、ソ連でのフィールドワークなどは全然できなかった、日本人による北方民族はもとより学術的フィールドワークの空白の時代です。
 考古学というのは、ご存知のように大部分が文字のない社会を扱い、現実に生きた人間との対話がまったく不可能なわけです。そこで、狩りなどの自然物と向き合ってきた人間的魅力にとんだアイヌの人たちと語り、北方世界にも行ける時代状況になって、自分の民族学的(人類学的)な関心が非常に強まりました。
 私は、日本民族学の開拓者である鳥居龍蔵(とりいりゅうぞう、→注4)が歩んだ道といいましょうか、彼には『黒熊江(こくりゅうこう)と北樺太(きたからふと)』という名著がありますが、アムール川(黒龍江)を下ってサハリンヘ到るというルートをたどり、さらに別に朝鮮半島まで行っている。くしくも、私も鳥居のたどったルートを歩いたことになりました。この鳥居の歩いた沿岸諸地域をずっと歩いてみたとき、生業の形態で分類すれば大きく二つに分けることができると思いました。一つは、農業地帯で農耕民文化が根を下ろし稲作や雑穀栽培が支配的に行なわれている地域。もう一つは、非農耕地域や採集民社会というか、依然として農耕がほとんどできない地域。そういうふうに二つに区分されるのではないか。
 そして、先ほど安田さんが言われたように、日本には牧畜民が渡って来なかったのですが、樺太(サハリン)にはウイルタ(オロッコ)というトナカイ飼養民が入ってきていました。アムール川流域にも、中国の大典安嶺(だいこうあんれい、大シンアンリン山脈)にもシベリアからトナカイ飼養民は進出しているのです。ただ、この牧畜の一形態であるトナカイ飼養民は、安田さん的にいえばほとんど「脅威」にはならないというか、彼らは大きな軍事的脅威にはなりえなかったのです。
 民族学の面からこの逆さ地図を見ていておもしろいなと思ったのは、間宮(タタール)海峡、宗谷(そうや)海峡、津軽海峡を見ますと、それぞれが近代になるまで、あるいは現代もなお、たとえば間宮海峡でいえば、その北部のサハリンとアムール川流域には、ニヴフという、かつてギリヤークといわれた人たちが両岸で伝統的な漁撈生活を基本にしている。要するに、あくまでも先住民地域なのです。宗谷海峡をはさむ二つの島も、樺太アイヌと北海道アイヌというように古くから先住民が居住する地域でして、一つの先住民が海峡をリンクしている。つまりつながっている。あるいはまた津軽海峡にしても、菅江真澄(すがえますみ、→注5)の『蝦夷廼天布利(えぞのてぶり)』をはじめ宇鉄アイヌ、あるいは外浜アイヌとか、彼らのいろいろな記述に見られるように、アイヌの人たちが海峡を往来して津軽や下北でかなりの人数が生活していた事実もあるわけです。
 対馬や朝鮮海峡はもっと歴史的にみて大きな波動を受けているわけで、諸国家の囲い込みで先住民の存在というものが不明確になってしまう地域なものですから、ここのところは別の切り口で言わないとならないと思うのですが、沿岸各地で先住民というものがいまなお大きなインパクトをもっているのではないか。この逆さ地図で見ると、ハバロフスクからアムールの河口までは森林地帯であり、しかも現在、先住民が散発的ではありますが居住しており、伝統的な社会をある程度維持している。
 生業の面でいうと、ここで私のとりあげている地域のいわゆる先住民社会というのは「サケ・マス文化」というものをもっている。漁撈といってもいいのですが、象徴的にはサケ・マスです。ですから、日本海の北部域、この逆さ地図でいうと左手は漁撈民のサケ・マス文化であり、採集民文化である。一方、右手のほうは、農耕民文化であり、そこには都市文化がある。都市民かおり、農耕民かおりという状況だと思うのです。ですから、都市化され農地化された地域とまだ原生林の残る自然環境の豊かなところというふうに大きく二分されているということが言えるのではないか。
 そして注目したいことに、この地域の先住民文化の俯瞰図(ふかんず)が大きく変わるのは、中国の元(1271〜1368年)から明(1368〜1644年)の時代にかけて、東アジアの商業交易活動が活発化する時期です。その時期にアムール川の先住民社会も大きく商品経済に組み込まれていく。それによって彼らの生業形態が、商品としての毛皮生産や海産物の捕獲といった、自家消費から商品生産に大きくドラスティック(徹底的)に社会が変わる。そして、互いの接触や交易が不可欠となり文化的な類似性が出てくるわけです。しかし、それでも強固にそれぞれの集団が特色ある文化的伝統を維持しているということが、先住民社会の大きな特徴としていえるのではないか。
 私はこの地図を見ながら考えてみました。陸と海峡をつなぐルートが一つある。それから、日本海という全方位のルートもあるわけです。日本海にも、意図的に日本海を横断するものと、日本海沿岸沿いに航行しているのだけれども漂着し、それによって文化的な刺激が沿岸諸地域に与えられたということもある。
 これに関した注目すべき研究成果一つが、池内敏さんの「朝鮮漂流民」に関するものです。池内さんによると、1599年から1872年、だいたい江戸時代ですが、その274年間に967件、朝鮮から日本海沿岸への「漂着」があったということであります。約1万人の人が日本海沿岸に漂着していたという事実にまず驚かされます。漂着民は当時の鎖国体制のなかにありながら釜山にあった倭館(わかん、→注6)を通して朝鮮のほうに引き渡すという日朝両国のルールがあった。漂着民といっても実質は交易民だったようです。漂着民の積荷はその場所の藩で売却していいという幕府の方針でした。日本の鎖国時代の「四つの口」(→注7)は有名ですね。しかし、それ以外にも日本海というのは、対岸貿易の役割もはたしていた。おしなべて平和的なんですけれども、かなり精力的に商業活動が行われていた。それによる文化的な刺激や経済的意味が大きかったといえるでしょうか。

安田

 なぜ平和的だったかというと、交易活動は盛んだったけれども、富山県の真北の沿海州に支配・被支配の関係が成立しにくかったからです。つまり、巨大な帝国が日本海の対岸には出現しなかった。だから、交易は非常に活発だったけれども、基本的に対岸の人々が狩猟・採集・漁撈を生業活動の中心としていたために、日本海が長いあいだ平和の海であったんだろうと、ぼくは思うのです。

小泉

 ありがとうございます。大塚さんのところでは、生業活動を中心とした商業活動にかかわって先住民の問題を提起されたかと思います。
 次に伊東さんにお話いただくわけですが、大塚さんは、北のほうに上がるにつれて、地形的、あるいは地理的に二またに分かれていって、あるいは表現が適切でないかもしれないけれど、日本海地域における一種の南北問題のようなものがあるのではないか。南のほうが豊かで、北に行くにしたがって自然環境がきびしくなる分だけじゅうぶんに文化の発達していないところがあるのではないかということ。それと先住民のことを多少ひっかけて、お話しになったと思います。そのへんのことも含めまして伊東さんのほうから文明論的なことをお願いします。あるいは伊東さんが以前、お話しになった文明交流圏という視点でお願いします。

伊東

 お三方からいろいろ興味深いお話をうかがいました。私は科学史が専門ということになっていますが、このごろは比較文明学という領域に深入りしているわけです。その立場からこの逆さ地図を見てどう考えるかというところから始めると、日本海は地中海に似ているなあ、とあらためて思います。逆さまにして見るとそれがいっそうはっきりします。もっとも地中海にくらべると緯度がすこし北になるかもしれません。しかし、そんなに離れていない。経度の幅の広さでいうと、地中海の半分ぐらいでしょう。そのくらいの違いはあるけれども、基本的に似ているじやないかという感をもたざるをえない。
 いま、私は日本海のことに引っ張りだされているけれど、じつは長いあいだ、地中海文明とはどういうものなのかということをやっていたのです。地中海の文明というものを腑分けして分析していくと、実はあれは単一な文明圈ではないんです。ラルフ・リントン(→注8)は「地中海文明圈」という言葉を使うのだけれど、あれは、いま小泉さんもおっしゃったけれども「文明交流圈」です。地中海の北のほうにはヨーロッパ系の人たちがいて、その文明を、ギリシャ以来、近代ヨーロッパにいたるまで続けて発展させてきましたが、それだけが孤立して発展したわけではないのです。地中海の東側を見ると、フェニキアその他ですが、シリアその他のセム系の文化というものが断固としてあって、これはある意味ではギリシャ文明の先駆者です。アルファベットはそこから出たともいわれています。それがカルタゴに移りますが、それにさらにイスラムの世界が南のほうにずっと広がって、地中海はイスラムの海であったこともある。
 そうなると、セム・ハム系(→注9)の文化が東から南一面、あるときはスペインまで含んでずっと広がっていたわけです。そして、地中海のダイナミズム(活力)とは何かということを考えると、その二つの系統、インド・ヨーロッパ圈とセム・ハム圈のものが、地中海という一つの媒介の海を通して相互に渉り合って発展させたものである。もちろんあるときは戦争もあったが、基本的にいって、この間の緊密な連携と相互作用からあの地中海文明のダイナミズムが生まれたのだろう。
 そう考えると、地中海というのは、結局、一つの「文明交流圈」(cross-civilizational sphere)といえるのではないか。こうした文明交流圈というのは、ここだけではなくていろいろなところに複数あるのです。そういうふうに私は考えています。それまでは、地中海文明というのはギリシャ・ローマの文明だとか何とか言っていて、ヨーロッバ中心の考えがあったのですが、そんなものではないぞということをはじめて言ったのですが、そして、いまではそれがむしろ常識になりました。
 しかし私が、比較文明学を始めたころなどは、まだ「地中海と言ったらギリシャ・ローマですよ」と言っていたわけです。でも、そうではないということがわかってきた。むしろヨーロッパ系のものがすごく発展していくのも、セム・ハム系のものとの交流があったからだし、セム・ハム系のものが発展していくうえでもヨーロッパ系の影響があるという相互作用を見てとらなければいけない。そういうことで、「文明圈」というものも考えなければいけないが、それよりも文明の発展には「文明交流圈」というものに注目しなければならないということを『比較文明』という雑誌に書きました。
 そして、とくに海の文明交流圈が非常に重要だということを力説しました。いままでは陸ばかりやっていた。陸の文明交流圈で思い出すのはシルクロードです。これももちろん重要です。その他にもいろいろあるけれど。海の文明交流圈は、たとえば地中海文明交流圈、インド洋文明交流圈などいろいろあるのだけれど、こういうものをよく見なければ文明のダイナミズムの本当のところはわからない。これこそ非常に大きな文明のダイナミズムを生んでいくのではないか、ということを考えてあらためて「日本海」を見ました。
 そうしたら、なんと日本海は孤独で孤立してあつかわれているのでしょう。つまり、日本史の人たちは日本列島の内部のことだけを考えているじやないですか。その先の向こうにあるものを全然考えないで、出てきたものはなんとか日本のなかでちんまりまとめてしまうことばかりを考えている。でも、いま、海洋学、考古学、民族学、生態学など、さまざまの分野を考えても、相互交流の現実を理解すべきことが明らかになってきました。だから今、まさに日本海文明交流圈を考えなければいけない。
 もちろん日本列島を考える場合も、日本海文明交流圈、東シナ海文明交流圈、大平洋文明交流圈の三つで考えなければいけないということを私は言いましたが、東シナ海はじつは南シナ海と結びつけて考えなければ意味がないのです。だから、それをみんないっしょにして、「東アジア海文明交流圈」としたらどうかと思っています。そうしたら、もっとずっと実体がはっきりすると思うのです。日本海もそういう文明交流圈だということで考えていかなければいけないと思います。
 ところが、いままで、「日本の鎖国」ではなく「日本史の鎖国」が長いこと行われていました。要するに、風通しの悪い日本列島史がずいぶん幅をきかせていた。これをひとつ、ここで大きく打ち破らなければ、21世紀における東北アジアにおける日本の位置、東アジアにおける日本の位置、あるいはもうちょっと広げたら世界における日本の位置というものがわかってこないですよ。こういうセクショナリズム(縄張り主義)、ナショナリズム(民族主義)、アイソレーショニズム(孤立主義)といったものを一回とりのぞいて、もういちど見直したらいいのではないかと思うのです。
 地中海では、見ればみるほど、いくつもの文明が渉り合っているということが、ブローデル(→注10)が明らかにしたように非常にはっきりしていますね。しかし、日本海についてはそれほどでもない。それはなぜかというと、そういう事実がなかったのではなくて、そのようにして広い視野で見ようとする意識がなかった。そういう意識がなかったら、事実はあっても無視され、あるいは曲解されますよ。非常に挟いところに閉じ込めていつも解釈してしまう。もっと広い日本海全体の連関のなかから日本の文明の形成を考えたらよいと思うのです。
 歴史は「事実の学」だといわれています。しかし同時に、その「事実を見る目の学問」だともいえると思う。ですから、ここでそういう新しい目で発見される事実に目を向けましょうよ。それで、いままで積み重ねてきた海洋学、気象学、考古学、民族学、生態学など、統合的、相互関連的な新しい目で見直したらずいぶん変わってくる。そういう突破口になればいいんじやないでしょうか。

小泉

 ありがとうございました。伊東さんからは、地中海と日本海が非常に類似してるが、研究のしかたにおいて非常に異なっているというふうな、たいへん大事な発言がありました。ブローデルの地中海学は有名ですし、地中海と日本海の自然環境につきましては、私自身話したいことが多々あります。ほかの方もそうでしょうが、地中海と日本海の関係については、これでひとまずおいておきます。
 二つ目には、これまでの日本文化、あるいは日本の歴史は、日本海とか太平洋を通して海の交流の歴史にいろどられていたにもかかわらず、歴史観とか文明観は、陸地に視点をおいて政治、経済、社会などの事件を記述するのが主体であった。歴史の背景、根底に存在しているものについて考慮をしなかったということを言われていまして、伊東さんはじめ網野善彦さん、川勝平太さん、入江隆則さん、上田正昭さんたちが、「海からの視点」というものを大事にされております。そのことは、今般、私どもが日本海学を富山県庁の熱意のもとで動かしている原点にもなっているのだと思います。
 一つ目の柱につきまして補足するようなことがございますか。

大塚

 確かに伊東さんがおっしゃられたような近年まで「ちんまりとした」日本史だった。日本国家史という非常に狭い領域のなかで論述を自己完結させるというようなきらいがあったと思います。列島史からさらに巨視的にみていく必要がある。日本海沿岸の諸国を見ますと、先住民社会というのは無文字社会なのです。支配を受けたアムールとかサハリンなどにも元が攻め入ったりしていますが、記録は少なくて断片的である。古くからそこに居住してきた先住民の人たちが書いた文字記録がない。伝承があるのみです。ですから、先住民にはアイヌのユカラ(→注11)と同じく口承による叙事詩などもありますが、そういうものの比較分析もまだじゅうぶんに行われていないわけです。
 そういう意味で、日本海は地中海ほど、諸地域間の交流が国家というレベルまでいっていないところが多い。いわゆる周辺民族的というか……。

伊東

 たしかにそうですね。

大塚

 ええ。小泉さんがすでにおっしゃられましたように、ここは南北問題というか東西問題というのか、地図でいうと左右問題ですが、そこにはかなりの落差があるわけです。

伊東

 だけど、歴史というのは文字だけじゃないですからね。

小泉

 そう。イマジネーションと同時多発的なことですね。

伊東

 民族資料とか考古資料とかいろいろなものがあるから、それを総合化していけば、かなりの構造が明らかになると思うんです。ですから、文字の歴史は歴史の半分だと思ってください。そのほうがずっと実体に迫られる。いままであまりにも文字にかかわりすぎたために、ほかのものを軽視しすぎた。そしてまた、イマジネーションというものがない。文字が出てくると初めてなんだか言えるけれど、あとのことははっきりしないとか言って、じつは、こじつけをやっているところがある。だから、そこのところはもうすこし新しい目で見て、考古・民族・生態・文字資料などを含めた総合的な歴史をつくっていくということも、この日本海学の重要な部分ではないかと思うんです。

2 日本海、環日本海地域の特色

小泉

 次に二つ目の柱です。いま伊東さんから「海のシルクロード」「狭い内海としての日本海」、これは安田さんも指摘されましたように、東シナ海、南シナ海を通して、日本海でいうと対馬暖流で世界と一体になっていた。つまり、日本海が孤立していたのではないという思いを私は持っていますので、二つ目の柱として、日本海、環日本海地域の特色について、あらためて見てみようというわけです。非常に豊かな循環共生体系のなかに、日本海・環日本海地域があるのではないか。そのなかで生命、自然、文化を生み、育んできた海の環境のカをもう一度、復習してみようということであります。
 最初に日本海・環日本海地域が置かれている自然環境設定の様子について簡単に述べてみたいと思います。
 一つは、東シナ海を通り、対馬海峡を通って、いわゆる対馬暖流が日本海に入ってきます。そして、これまでの観測によりますと、約2か月後に津軽海峡から太平洋に出ていきます。一部が宗谷海峡から出て、残りは、間宮海峡は水深が非常に浅いものですからUターンして、いわゆるリマン海流となります。北緯40度より北のところは水深が3000メートルぐらいの深海盆(日本海盆)になっております。この海域は冷水海のエリアになっています。地図で見ると白くなっているところ、薄い青で描かれているところはその境界で、だいたい北緯40度ぐらいのところに、いま話しています日本海の南と北の境界線があります。そんなことから、対馬暖流は世界の情報を日本海に伝えてくるメッセンジャーであるという見方ができます。
 流入してきた対馬暖流は日本海のなかで枝分かれします。朝鮮半島沿いに上がっていくものと、偏西風が吹いていることで日本海側に支流がありますが、それと、日本海のまん中のところを上がっていくものと、だいたい大きく三つの分流に分かれています。そして、その分流のあいだに冷水域が形成されます。この冷水域は主として深いところにあります。冷水域と対馬暖流との境のところで海水が混合することによって非常に豊かな漁場を形成します。日本海がその意味でたいへん豊かな海であることがわかります。もう一つは、先ほど指摘されました日本海の流れが「海のシルクロード」となっていて、太古の昔から隣国どうしをつないでいく交通路であったという話が、伊東さんが主宰されました比較文明学会でのシンポジウムのなかでありました。これを引用させていただきます。
 一つは、江戸時代以前における日本海沿岸交通。二つは、江戸時代の日本海海運。これは北前船(→注12)の全盛期です。三つは、明治時代の交通近代化政策(→注13)と日本海交通の衰退。この三つのことで、歴史の活動空間が日本海から太平洋に移っていったということを、全体のなかの一つとして提示されております。
 最後に、対馬暖流の大きい力は熱を運んでいるということです。南にある低緯度の熱を1日に4千万キロワット分も運んできまして、環日本海地域、とくに日本列島に温和な海洋性気候をもたらしております。その結果として、冬場には降雪がありまして、北海道・東北ではいままさに雪のシーズンですが、これは邪魔者ではなくて、農作に水の恵みをもたらしてくれています。いま、都市部では水問題は深刻になりつつありますが、日本海側では、雪が降るかぎり水の問題はないのです。
 以上、簡単に日本海、環日本海地域の特色をふまえた自然環境の様子についてお話しました。

安田

 先ほど私は、日本海は「平和の海」と申し上げましたが、もうひとつ言えることは、日本海は「森の海」であるということです。日本海の局辺は深い森で、沿海州も日本列島も国土の67パーセントは森である。そこは地中海とは根本的に違うところですね。深い森が日本海の周辺に存在している。先ほど小泉さんがおっしゃったように、日本海にはたくさんの魚がいるという背景には、その豊かな森の栄養分が海に流れ込むということがある。これが、日本海の豊饒(ほうじょう)性をもたらしているもう一つの大きな要因です。その日本海の豊饒性をもたらす原因の基本は、小泉さんがおっしゃった対馬暖流にあると思います。
 日本海の大きな特色は、最終氷期が終わって対馬暖流が日本海に流れ込むようになった途端に積雪量が急激に多くなって、大陸的な気候とは根本的に異なる海洋的な風土が形成されたということです。これが日本列島に大きな影響をおよぽしています。
 小泉さんは具体的におっしゃいませんでしたが、いまから2万年ぐらい前は海面が100メートル以上低いわけですから、対馬暖流は日本海に入っていないわけです。その後、急激に海面が上昇してきて、対馬暖流が日本海に入りはじめるのはいつごろでしょうか。

小泉

 最終氷期が終わって、いちばん最初の徴候は1万数百年、本格的に入ってくるのは8千年ぐらい前ですね。

伊東

 B.P.(before the present=現在から…年前)ですね。つまり、いまから8千年ぐらい前ということですね。

小泉

 そうです。

安田

 それよりも前に、すでに南九州ぐらいまでは対馬海流の影響が来ているのでしょうか。

小泉

 そうです。

安田

 私は何を言いたいかというと、対馬暖流が入ることによって、冬の積雪量あるいは降水量が増大するということは、温帯の落葉広葉樹の森の生育に非常に適した環境が世界に先駆けてできるということなんです。対馬暖流の海面が急激に上昇して、日本海にちょっとでも影響を及ぽすと、日本列島の気候が変化して、ブナやナラの温帯の落葉広葉樹の森が生育する環境が世界に先駆けていち早くできるわけです。そのことが日本列島の文明の発展に根本的な大きな影響を及ぼしている。たとえば対岸の朝鮮半島や沿海州にはかならずしもそういう影響は及ばないのですが、とりわけ日本列島には対馬暖流が強く影響している。
 いまわかっていることは、暦年代で1万4千5百年前にたいへん大きな環境の変動があったことです。それ以前は氷河時代の気候で、トウヒ、モミ、ツガのような高山帯から冷温帯の針葉樹の疎林の森が広がっていたわけですが、1万4千5百年前に突然ブナ、ナラなどの温帯の落葉広葉樹の森が拡大していくのです。その背景にあるのは、対馬暖流がすでに近くにやってきていて、日本列島が海洋的な気候になりはじめたからではないか、と考えているわけです。
 1万4千5百年前に温帯の落葉広葉樹の森が拡大するというところは、世界広しといえども、いまのところ日本列島と西アジアのレバント地方だけです。西アジアのレバント地方でも、1万4千5百年ぐらい前に、落葉のナラ、ピスタチア、アーモンドなどの森が拡大してきます。それ以前は、アカザやヨモギの草原が広がっているわけです。この西アジアのレバント地方が、やはり氷河時代から後氷期(→注14)の移行期にもっとも早く森が拡大するところなのです。
 そこでいったい何が行われたか。もっとも早く森が拡大したところで、人類がもっとも早く定住革命をやっているわけです。森が拡大することによって、いままでは草原で狩猟・採集をして移動していた人間が、森の資源を利用することによって定住生活を始める。そして、定住を始めることによって縄文土器というものを使った生活を始める。だから、対馬暖流の流入でちょっと海面が上昇すれば日本の気候が温帯の落葉広葉樹の生育に適した海洋的な気候になる。そういう特色によって、日本の縄文文化は世界最古の土器を持つようになったのだろうと思います。
 では、同じように森が急激に拡大したレバント地方ではどうかというと、レバント地方でもやはり1万4千5百年前に定住革命が起こるわけですが、そこでは土器はつくらないで、むしろ農耕が引き起こされるようです。ですから、森が氷期から後氷期に大きく気候が変わるなかで、温帯の落葉広葉樹の森がいち早く拡大したところ、それが旧石器時代から新石器時代へと大きく人類史を塗り替える役割を果たしたパイオニア的な場所であって、その一つが日本列島なのです。その理由は日本海にあるとみなしてよいでしょう。日本海に対馬暖流がちょっと入れば、急激に日本列島の気候が温帯海洋的な気候になるということではないかと思われます。

小泉

 1万4千5百年前に非常に劇的な環境の変化があったのではないかというご指摘であります。残念ながら、日本海の海底堆積物のなかには、いま安田さんが言われたような1万4千5百年という非常に古い年代に対馬暖流が流入した証拠が見つかっておりません。安田さんも話されましたように、東シナ海あるいは太平洋でそういう徴候があって、それが大気のなかの湿潤さをもたらし、それが森林の形成に影響したという筋道のほうが、1万4千5百年を説明するには適していると思います。
 ご存知のように、海と大気とをくらべていった場合、運動性、伝播、熱容量等が千倍ぐらい違いますので、海流系の変動が出るまえに大気の変動があったのではないかということで、先ほどお話したように、海と陸との関係を調べるような段階に連しております。

安田

 ということは、いままで100メートル以上海面が低かったのが、50メートル、60メートルになって、対馬暖流が日本海に流入しなくても、海の環境が近づいてきたということによって日本列島が海洋的な環境になってきたということですか。

小泉

 ええ。どこかに熱がプールされていましてね。そういう意味で東シナ海あるいは南シナ海が日本海と連動していて非常に大事だということです。われわれの視点をもうすこし広げていかなければいけないということであります。

安田

 小泉さんがおっしゃったように、日本海に海底堆積物からはっきりと対馬暖流が流入したということがわかる8千年前というのは、まさにブナ林が日本列島の本州の北部まで一気に拡大する時期なんですね。対馬暖流が流入した時代が8千年前であって、しかもその時代、8千年から8千5百年前に世界的にたいへん大きな気候変動があったということもわかっているわけですね。だから、その時代が日本の海洋的な文明への第一歩がほぼ確立した時代であると言っていいだろうと思うのです。

小泉

 それでは大塚さん、日本海ないし環日本海地域での人類学的な特色についてご発言いただけますか。

大塚

 多少話がそれますが、時間軸で言いますと、日本海そのものの新たなる誕生ということで1万4千5百年という年代が出たわけです。その時期は奇しくも考古学でいうと細石器文化(→注15)と同時代なのです。これらの担い手はモンゴル高原などから押し出してきた人たちと思われるのです。それがアムール流域に達し、逆さ地図でいうと左手回り(時計の針の動く方向)でサハリン、北海道に入る。もう一方は西北九州を中心とした、たとえば福井洞穴遺跡(→注16)とか、そのあたりとほぼ年代的に平行し、日本列島全体が細石器文化圏に入るわけです。ですから、細石器文化の形成というのは、環日本海をつなぐ海を中心軸におきながら、陸と海峡を結ぶ円環状のルートの成立という点を問題にしておく必要があると思っているわけです。
 そういう流れのなかで、大ざっぱに言いますと、大きな激動期が日本海にやってくるのは「東アジア経済圏の成立」が一つの大きな時期であったろうと思います。さらに江戸時代のいわゆる北前交易の時期に蝦夷(えぞ)地・北蝦夷地、現在の北海道やサハリンでは大陸との山丹(さんたん)交易などが行われていた。
 山丹交易というのは、中国の浙江(せっこう)省周辺、要するに長江流域で出来た絹製品が北京や東北地方のほうにもたらされて、逆さ地図でいえば下がっていって、それがアムールのほうに流れていった。アムール下流域をアイヌはサンタンと呼んでいましたから、アイヌはそれを山丹地方からもたらされることからサンタチミプ山丹服と呼び、和人(わじん)社会はアイヌ(蝦夷人)から手に入れたから蝦夷錦(えぞにしき)と言うようになった。そういう錦の造、まさにシルクロードがあるわけです。
 同じような状況は、当時の琉球、沖縄のほうにも同時に起こっているわけです。12、3世紀、ちょうど、沖縄で王国ができるころですが、北海道のアイヌ世界(アイヌモシリ)でチャシ(砦)がつくられたり、沖縄でグスク(城)がつくられたりする。そういう同じような状況のもとに、ある意味で首長制社会といえるものが、両方に生まれてくる。
 しかし、それが「国家」という形成までにはいたらなかったというのがアイヌ側です。琉球王朝は明確に中世から近世において強力な国家的様相を持つわけですが、両者の権力構造の段階と発展のテンポというものが違います。アイヌ側はどちらかというと北方系であり、成熟した採集民ですが、寒冷地であり、冬を越すことで食糧の備蓄が必要であり、寒冷地におけるとか生産手段の面でやはり弱さというものがあろうかと思うのです。そういう両者の大きな違いがあったのです。
 私が言いたいことは、先はども述べましたが、元から明にかけての時期13〜14世紀を中心に、いわゆる東アジア世界、中国を軸とした商品経済圏のなかで、それぞれの地域集団で存在した人たちが民族的なかたちでまとまりをもってきた。それぞれが交易によって経済力をもち、自らの利益を守るために武装化までもした。たとえば樺太アイヌは元の軍隊とアムール下流域で戦ってさえいます。これはアイヌが樺太全域を制覇した時期があったことを意味する。アムールのそれぞれの地域の先住・小数民族も占有の地域や小集団のまとまりを拡張したり縮小したり、少数民族といえども、かなりの力を待ったり弱体化したりということの繰り返しをしている。そういう伸び縮みのありようというものが、環日本海地域諸民族の興亡のありようが、歴史的な文化的色どりをおもしろくしているわけです。
 このへんは関連諸科学の力を借りて、もっと立体的に浮かび上がらせることができるのではないかと思っています。そういう意味で大いに期待しているわけです。

小泉

 ありがとうございました。環日本海地域、とくに中国における商業化に伴う日本海とのかかわりにおける海のシルクロードが南と北に首長制社会を同時に形成したが、それが国家形成にまで至ったか否かについてお話されました。それでは、伊東さんには日本海文明交流圏の歴史的展望というか、あるいは時間を通しての変質みたいなことをお話いただければ、日本海ないしは環日本海地域の特色、歴史的な変遷が見えてくるのではないか。あるいはわれわれにそれが見えていないとすれば、どういうやり方をして、それを見えるようにしていくか。伊東さんは、歴史学はこれまで陸域だけで、海からの視点を欠いていたということを問題として指摘されていましたが、それでは具体的にどうすればよろしいのかということもお話しいただければと思います。

伊東

 日本海文明交流圈ということは、もちろん何の根拠もなく言っているわけではないのです。それには交流の事実があるんです。だけど、それをいろいろな人が断片的に研究しているだけでした。私はそれをもうすこし統合して考えてみる必要があるのではないかということで、私自身が興味あるトピック(話題)をいくつかあげて、『比較文明』の11巻、「日本海文明交流圈」のなかで述べています。
 時間的な順序でいうと、まずおもしろいなと思ったのは、けつ状耳飾りというのがあるでしょう。これの分布を藤田富士夫さんが研究されて、『古代の日本海文化』のなかでも述べておられますが、それが富山あたりを中心として沢山発見されているんですね。たとえば極楽寺遺跡とか明石(あげし)A遺跡とか、富山県から石川県にかけてずっと分布している。それはだんだん広がっていくのですが、その起源をたどると、なんと、これはもとが中国江南の河姆渡(かぼと、→注17)なのです。B.P.6千年前に、そこでけつ状耳飾りが使われていたのです。
 それは中国のいろいろなところに伝播(でんぱ)するけれど、いちばん早く日本へやってきた。いまから5千年前後(縄文時代中期)のところで、ここ北陸までやってきたわけです。中国各地へはB.P.4千年以後です。だから、中国各地への伝播よりも早く日本の富山県のほうにけつ状耳飾りが伝播してしまったのはすごい。これはかなり精細な研究がなされて、地図の分布などは藤田さんのご本に出ています。非常におもしろいと思う。
 そして、これはけつ状耳飾りだけではないのです。中国の安志敏(アンシーミン、→注18)という人が言っているように、いろいろなものが東シナ海と日本海を通してやってきた。安田さんがご専門の鳥浜貝塚の漆や高床式の建築も同じルートではないかと言われている。そういうようなことが一つあります。
 次におもしろいなと思ったのは、四隅突出型方墳(よすみとっしゅつがたほうふん)というお墓がありますね。これも藤田さんたちが調査したら、富山県だけでなく出雲のほうで出たのですが、四十基ぐらい出てきたそうです。どうして日本海側だけにできているのかが不思議なのですが、全浩天(チョンファチョン、→注19)という朝鮮の研究室がこうした古墳を研究していますが、さかのぼっていくと、鴨緑江(おうりょくこう)の中流にその起源がありそうだということがわかってきたようです。
 これは森浩一さん(同志社大学名誉教授)なども興味をもってやっておられますが、もっともっと研究されなければいけない。こういう点では北朝鮮の学者、韓国の学者、中国の学者が共同研究をして、ディスカッションをしなければいけないですね。日本人だけで納得する日本史、これは絶対やめなければいけない。近隣諸国の人々も納得する歴史でなければいけない。日本人だけで抱き合ってバンザイしているようではいけない。それだから、考古学の捏造(ねつぞう)まで出るんです。もっとほかのところの人を入れた共同研究をやるべきなんです。日本だけでなく、日本の周辺の人も納得するような研究をする。そのほうが日本史もずっとおもしろいじゃないですか。
 もうひとつだけあげれば巨木大型建造物です。これも日本海沿岸で非常にユニークなものではないですか。ただこれも今のところバラバラですね。秋田県の杉沢台、富山県の不動堂、能登半島の真脇、金沢近くのチカモリ遺跡などから巨木大型建造物が出ている。そして、これは結局出雲大社にまで結びついていくのでしょう。出雲大社のは現在のものよりずっと大きかった。大きかったどころじゃなく、空中神殿じゃないかといわれているが、あれはすごい柱で支えなければいけない。これらは一連の日本海的現象として相互連関的に研究してみたらいい。時代はもちろん違うが、三内丸山から始まって点々とあるわけです。
 これは朝鮮の学者によると、朝鮮半島では見られない。では、どうして日本海沿岸にすごい大木を使った、巨大な建造物が造られたのか。そこにはどのような気候的、社会的、あるいは宗教的要因があったのか。これは相互に連関している現象だと思います。そういうような研究の機運も日本海学が始めていいんじやないですか。いままで別々にやっていたわけですが、私から見ると、なにかそこに共通性があるな。おもしろい日本海的連関性がある。
 これは何も富山県のことだけではないということになります。秋田県もあれば、石川県のほうにもあるわけです。それらを通して日本海沿岸のおもしろい現象が出てくるのではないかと思う。その他、神祇(じんぎ)信仰、朝鮮の神様との関係、嫁入り婚の習俗など、日本独特だと思われていたものが沿海州のほうにあったとか、そういう研究もあるわけです。
 そういう開かれた研究テーマというものを設定すれば、これからどんどん伸びていくと思います。しかも、それが今まではバラバラにやられていた。それはそれで進めていいし、それぞれの特色もあるでしょう。しかし、それをつなげて関連させて観察し、考察してみるということが、日本海学というのだったら、あってもいいのではないかと思うのです。
 日本海文明交流圈の具体相を相互連関的に考える。そうすると、これは中国・朝鮮との関係、あるいは沿海州との関係というものが、重要なものになってあぶりだされてくるに違いない。これはおもしろい未来があるのではないか。これは、日本海文明交流圈の研究というのが、国際的でなければいけないということにもなります。

小泉

 伊東さんには、時空的な、あるいは時空を超えたさまざまな事象、ないしは時点における相互連関の大切さをご指摘いただきました。これは富山県の県庁の人たちが強調されている日本海、あるいは日本海域における循環とか共生の体制につながってくることだと思います。

安田

 一つ、地図を見ながら思ったのですが、大陸の文明が繁栄したところと日本列島との関係を見たとき、もちろんいちばん近いのは朝鮮半島と北九州ですね。北緯40度よりも北はあまり文明が繁栄しないわけですが、北でもっとも近いのが東北地方の北部と沿海州。それから、もう一つは揚子江(ようすこう、長江)の下流と南九州ですね。意外に近いですね。いままでわれわれは太平洋側から見ていたから距離が遠いと思っていたけれども、こういうふうに日本海側から逆さにして見ると、ものすごく近いということがわかる。だから、先ほど伊東さんが、河姆渡遺跡と鳥浜貝塚に深い関係があるとおっしゃったが、古代の人々には船を使って移動できる範囲だったと思います。
 日本列島と大陸との3つの近接ルートは、第1が河姆渡から直接南九州へ来るルート、第2が朝鮮半島から北九州と日本海沿岸に来るルート、第3が沿海州から東北地方北部へ来るルートです。

伊東

 そう。沿海州を考えなければいけない。そこはまだ非常に不十分です。これはやはり考えなければいけないですね。

3 新世紀に期待される「日本海学」

小泉

 では、最後の3つ目の柱に移りたいと思います。「新世紀に期待される日本海学」ということで、これから先における日本海学のあり方について、みなさんのご希望をうかがいたいと思います。最初に私から簡単に述べさせていただきます。
 先ほど安田さんが、争いのないおだやかな内海として日本海をとらえる視点を述べられました。ということは、荒々しい外海、たとえば日本海に対して太平洋のようなものが対峙的にあると思います。いま、3番目の未来志向の大きいことを考えようとしていますが、私たち人間だけでなく、いま陸上にすんでいる生物はみんな海から上陸してきました。血液や、赤ん坊がお母さんのおなかの中にいたときの羊水は海水の成分と同じです。生理的食塩水というのは約0.9パーセントの食塩を含む水で、体液と同じ浸透圧をもちます。そういう背景があるものですから、私たちは海に対するあこがれみたいなものを無意識に待っている。その海というのは、けっして外海の荒々しい海ではなく、内海のおだやかな海が私たちの生命が陸上に上陸してきた場所であったはずです。そのことが私たちの脳裏に刻み込まれていて、たとえば夏休みに海水浴に行く。山に行く人もいますが、リゾートには海に行く人が圧倒的に多い。お正月、冬場になると禊(みそぎ)という行為があります。あれは海水を頭からかぶったりして汚れを流すわけですが、そういったことにも海に対する思いが込められているわけです。
 そこで私は、海と陸とをつなぐ渚(なぎさ)の部分を大事にして保存していかないといけないと思うのです。いままで、その部分をコンクリートで固めたり消波ブロックを置いたりしてきましたね。それはまずいことなので、そういうことをやらないようにしたい。昔は松林があったはずです。その松林を復活させたり、渚を復活させる必要があるのではないかと思います。
 そして、伊東さんが先ほどちょっとお話しになっていましたが、環境問題とのかかわりです。中央と地方との関係が環境問題を境にしてなくなったのではないかと思います。環境問題というのは、環境問題があるその場所が問題の場所なんですね。あらゆる環境問題はそこから始るので中央と地方との違いがないということです。いま、中央から地方に行政が移りつつあります。そして、21世紀はライフスタイルを豊かにしよう、生きがい、充実した生活のあり方というところにウエートが移ってきています。ガリガリ働いているばかりでなく、生活圏のアイデンティティ(主体性、独自性)みたいなものを充実させていこう。それには教育、スポーツ、文化が関与してきているんだと思います。
 大塚さんが研究されたり、関心を持たれていることで、これから日本海学にかかわっていくことで、こういうことをやっていかなければいけないのではないか、というようなメッセージを述べていただければと思います。

大塚

 一つは、日本海というものの持っている水域の利用です。それは海の道としての利用があるわけですが、もっとたいせつなことは、魚をはじめとする、マンガン鉱とか深層水とか何でもいいのですが、いわゆる海岸資源です。沿岸諸国がその資源をどうやって分かち合うかという問題です。とくに、日本海を再生産させ、豊かに常に豊富な海産物を持続的に保証しているのは、むしろ開発されていない陸地が、自然のままの森が陸地にある地域です。問題は、そこに現在でも先住民が生活しているわけです。国家と先住民とのこれからの関係ですが、現代において鋭く利害が対立してきており、強大な国家権力を横暴に行使すれば、先住民とその豊かな資源の大地はいっぺんに吹き飛んでしまうわけです。
 地球も終わりが来るかもしれませんので未来永劫(えいごう)とは言えないかもしれませんが、ある意味で永久にわれわれ人間と自然との関係を保っていくには、民族の問題と国家の関係、資源の共有化、経済戦略だけでなく文化戦略をどうするのかということを、沿岸諸国がこれから真剣に考えていかなくてはならない時代に来ているのではないかと思います。
 多様な先住民が現在でも居住している沿海州やサハリンは、いまでもサケ・マスが遡上する清らかな場所です。豊かな海と陸を持っている先住民の世界があります。珍しいからといって、そういう先住民文化を残すというのではなく、日本海沿岸に生きる人々が運命共同体として、国家と先住民の利害のバランスをどうはかっていくかが、これからいちばん問われるのではないかと思っています。

伊東

 私は日本海学の未来ということでいうと、まず言いたいのは「日本史の解放」(emancipation)であり開放です。日本史も日本というものだけに閉じ込めてやってきたが、これを国際的に開放しようということです。文明交流のダイナミズムを明らかにすることによって、「北東アジア共生の意識」がおのずと育つのではないかと思う。お互いに負うところが多いということがますます明らかになることによって、日本文明の本当の意味でのアジアにおける位置づけというものもはっきりしてくる。これの持つ意味は大きい。他のアジア諸国とこれからどういうような交流をしていくか。そして、その関係を健やかなものにしていくためには、こうした研究を推し進めることだと思います。
 これは日本海だけではないんだけれども、日本海に限っていえば、それによって北東アジアの共生の意識というものがおのずと育つだろう。歴史的に、民族学的に、考古学的に、過去・現在・未来を含んで、よりよい関係をつくっていくことができるだろうと思います。
 いま「国際的に開く」と言いましたが、中国やロシア、とくに朝鮮・韓国の人たちといっしょにやらなければいけない。こういうふうにして開放していく。
 この場合、「日本海」という名称も問題になるかもしれません。私はこのことをじゆうぶん意識していますが、それはちょっとおいておくことにして、仮に「日本海」ということで進めることにして、これは日本だけの海だという意味を持たないということを確認したうえで使います。日本史の開放の第2は、中央からの開放です。
 いままでの日本史は日本国家の歴史です。ヤマトの政権ができて、それがどんなふうにほかのところに支配したかということをいろいろ書いている。だけど、歴史的遺産とは何かということを考えたときに、すごく重要なものを落としていると思う。アイヌや沖縄のこともそうだ。いま地方史というものが盛んになっているが、それはそういうことだと思うんです。
 国家史としての歴史というのは19世紀の産物で、私の予想だと21世紀にはまずまずあまり重要ではなくなるのではないか。いつまでもこんなことばかりやっていたら自分の国も世界のなかで、もたなくなりますよ。国際的に開くと同時に、中央からでなくて地方そのもの、その土地その土地の特徴に注目していく。そして、そこの住民の立場に立って考えていくという歴史がなければならないですよ。今まではそれが中央に吸い込まれるかぎりにおいて、歴史を記述していたんじゃないですか。それでは事実の一片だけがわかるだけにとどまります。
 そうすると、これは小泉さんが言われた環境問題とも結びつくと思います。環境問題は地域住民の問題です。中央の連中はわかっちゃいないし、これからわからなければいけないんだけれど。これまでは日本列島改造論(→注20)みたいな、上からの強引な手法でやってきて、そのためにいろいろな弊害が起こっているわけでしょう。だから、地域住民の立場に立ったものでなければいけない。いま大塚さんが生活圏と言われたが、そこに基盤をおいてやっていかなければいけない。そういう中央からの「開放」がもう一つ必要だろう。そして、それは環境問題と結びついていく。
 それと同時に、もう一つは大塚さんが取り上げられた先住民の問題です。これも大きな問題で、アイヌ、沖縄だけではないと思う。日本海周辺には先住民的なものが残る可能性が大きかったと思う。そこは中央から離れていても、中央から支配される関係にあったところなので、そういうものが日本海周辺を通じてずっとあった。中央の立場ではなくて、地域の立場に立って見たら、日本海地域にはこれから据り起こしていくことがたくさんある。それが日本海学の未来ではないだろうか。そういう意味でこれはおもしろい問題を提起しています。
 では、安田さんにまとめてもらいましょう。

安田

 いま、伊東さんのお話をうかがっていて思いついたのですが、ぼくは日本海は「平和の海」であって「森の海」だと言いました。なぜ森の海であったかというと、それは日本海が平和の海であったからだと思うんです。地中海はかつては深い森に囲まれていた海だった。それなのに、なぜ森がなくなったか。ギリシャ、ローマが戦争をして、大量の木材を船に使っていったからです。つまり、かならずしも地中海というのは平和の海ではなかった。
 ところが、日本海は縄文時代以来、きわめて長いあいだ平和の海であった。だから、森が維持された。それは偶然のことだといままでわれわれは思っていたのですが、そうではない。日本海を取り巻く地域に住んでいる人々の生活のあり方、ものの考え方が、森、自然と共存するというディシプリン(規律、作法)をどこかに持っていた。だから森が残った。戦争を回避するという知恵を持っていたというように、もういちど見直す必要があるだろうと思うのです。
 いままでは、生活の貧しい先住民が住んでいたから日本海の周辺に森が残った、地中海は文明が発展しているから森がなくなったんだという見方だったのだけれど、そうではなくて、日本海が森の海であったということの背景には、日本海周辺に住んでいる人々が、森を破壊しつくさない哲学を持ち、森と共存するライフスタイルを長いあいだ維持してきたからではないでしょうか。そして、森や自然を破壊しつくすようなことに対する、ある種の欲望のコントロールのようなものを持っていた。だから、日本海が森の海でありつづけたということができるのではないかと思うのです。
 そういう視点で見ると、伊東さんがおっしゃるように日本海文明交流圈というものは、じつは新しい文明の発見なのです。いままでは日本海の周辺にいる先住民、あるいは縄文が文明を持っていたとは思わなかった。われわれが言っている文明というのは地中海文明で、これが文明の典型でした。しかし、それは地中海沿岸の森を徹底的に破壊しつくしてしまった。そして、荒野に変えた。ところが、日本海周辺には森を破壊しつくさない、地中海文明とはまったく違う文明があったのではないでしょうか。それが日本海文明ではなかったかと思うのです。
 だから、これから日本海の研究会をやっていくことで、いままでわれわれが文明だと思っていたものとは違う、新しい文明の発見というものが21世紀にあるかもしれない。

伊東

 なるほど。おもしろいなあ。私は日本海は地中海に似ていると言ったけれど、それは日本海を地中海ダッシュにしようということでは全然ない。日本海文明のユニークさというものを地中海文明をおいてみることによってあぶりだしていくということもあると思う。安田さんはそういう点で非常に貴重な発言をされています。私もそういうふうに考えていきたい。とくに森の問題、森と人類との将来の関係、こういうものも含めた新しい文明の形成ということも視野に入れていいのではないかと思います。

小泉

 おっしゃる通りですね。この次は、地中海と日本海との文明、あるいは環境という、まったく違う二つの地域での人間とのかかわりについてのシンポジウムを催したいと思います。
 本日はありがとうございました。

注1 地震や火山の噴火、造山運動などの原因・メカニズムをプレートの水平運動で説明する理論。プレートは地球の表層部をおおう厚く硬い板で、一枚の厚さは約100キロメートル、これが何枚もおおっている。各プレートは違う方向へ動いているために、プレートの境界で離れたり衝突したりずれたりして、その結果、海嶺(かいれい)や地溝帯、海溝、山脈などの地形ができる。

注2 紀元前1100年ごろ、もっとも遅くギリシャ半島に入ってきた古代ギリシャ人の一派のこと。ペロポネソス半島に侵入して定住、先に栄えていたミケーネ文明を滅ぼした。

注3 鎌倉時代中期の元(蒙古、もうこ)の日本襲来のこと。文永の役(ぶんえいのえき、1274年)と弘安の役(こうあんのえき、1281年)の二度にわたったが、襲来した船団が嵐で壊滅状態になるなどしていずれも失敗に終わった。

注4 鳥居龍蔵(1870〜1953年)は徳島市生まれ。独学で考古・民族・人類・史学にわたる諸領域を開拓、生涯国内外の研究を続ける。明治・大正年間に、満州、台湾、千島列島、西南中国、東部蒙古、樺太、東部シベリア、朝鮮などへ何度も調査旅行をしている。

注5 菅江真澄(1754?〜1829年)は三河(愛知県)生まれ。国文学者であり紀行家。1783年(天明3)、東北から蝦夷地(北海道)へ渡って3年間行脚(あんぎゃ)、その後、弘前(ひろさき)藩を経て秋田藩に身をおき、永住。江戸後期の東北の歴史や地理を克明に記録して浮き彫りにした。

注6 倭館は日本からの使客接待のために朝鮮に設けられた施設。室町時代には三浦(富山浦(ふざんぽ)、薺浦(せいほ)、塩浦(えんぽ))にあったが、江戸時代には富山浦(現在の釜山)のみになる。幕府から日朝貿易の独占権を認められた対馬藩からの代官が派遣されて貿易を行った。

注7 対外交易の窓口として幕府より公認された長崎のほか、対馬、琉球、そして北方に秘かに開かれた蝦夷の四つの交易ルートが存在した。

注8 ラルフ・リントン(1893〜1953年)。アメリカの文化人類学者。北米大陸で先史考古学のフィールドワークを、太平洋の島やマダガスカルで民族学的なフィールドワークを行い、ヨーロッパ圏外の諸文化の研究で多くの重要な貢献をする。また、多岐に分かれがちな文化人類学を総合化する努力もした。

注9 セム語やハム語を使う民族のこと。前者はバビロニア人・アッシリア人・フェニキア人・ヘブライ人、後者はエジプト人・エチオピア人などが属し、エジプト・メソポタミア文化をはじめとする古代オリエント文化の担い手となった。

注10 フェルナルド・ブローデル(1902〜1985年)。フランスに生まれ、第二次世界大戦中、ドイツの捕虜収容キャンプにいたとき、記憶をもとに『フェリペニ世下の地中海と地中海世界』を書きおろし、戦後出版してフランスの歴史学に大きな影響を与えた。人文地理学や社会諸科学の成果を取り入れた総合的な歴史の把握をめざした。

注11 アイヌの口承文学の一つで、ユーカラと記されてきたが正しくない。文字をもたなかったアイヌは口承によって叙事詩や物語を伝え残してきた。なかでも超人的な力をもつ少年の冒険を物語る英雄叙事詩がユカラを代表するものとして知られている。長いものでは語り終えるのに一昼夜もかかる。

注12 近世から明治の中ごろにかけて、大坂から瀬戸内海をぬけて日本海沿いに蝦夷地(北海道)を結ぶ海運で活躍した船。北を前にして進むから、北国松前(まつまえ)の略、北回りの略などの諸説がある。春の彼岸のころ大坂を出発、各港に寄港していろいろな物を買いながら北上。蝦夷地でそれらを売り、帰りは蝦夷地で買った産物を各地で売りさばき、11〜12月ごろ大坂に戻った。

注13 江戸時代には、大量の荷物を運ぶのための河川や海上航路を利用した水上交通が盛んだったが、明治以降は鉄道を中心とする陸上交通に切り替えられた。

注14 地球の歴史では、人類が活躍する第四紀(いまから約160万年前から始まる)は氷河が存在する氷河時代にあたる。氷河の規模は時代によって違い、現在よりも寒冷で広く氷河が発達する時代を氷期、温暖で氷河が縮小する時代を間氷期という。現在は間氷期にあたり、先の氷期が終わった後の時代なので後氷期ともいう。一般には氷河時代という用語は氷期のこととして使われている。

注15 約1万2千年前から世界のほとんどの地域に分布。細石器は長さ3〜5センチ以下の小さな各種の石器組成。木や骨製の柄の縁側に溝を込み、そこに複数の細かい石刃を装着して刃部として使用、欠けたりするとその部分の石器を取り替えて使った。シベリアから環北太平洋地域には、石刃を著しく小型にした細石刃が分布する。

注16 長崎県吉井町にあり、日本でもっとも古いタイプに属す土器が細石器とともに発見されている。また、ここでは、円盤状に整形された中央に孔のあいた土器片が出土している。

注17 河姆渡遺跡は中国の浙江省にあり、1973〜78年に発掘調査が行われ、ここの最下層からけつが出土、またその上の層からは、大量の稲籾(いなもみ)や稲作農具が出土している。放射性炭素測定では、これらはいまから7干〜6千年前のものと推定されている。

注18 安志敏は、東シナ海を通じた先史時代の中国と日本の関係を論じている。すなわち河姆渡やそれに続く長江下流の文化が日本の先史時代に影響を与え、縄文時代のけつ状耳飾りや漆器、また稲作、高床式建築などの文化は、長江下流域に起源があるとしている。

注19 全浩天は、山陰地方の四隅突出形方墳の源流を朝鮮民主主義人民共和国と中国の国境を流れる鴨緑江中流域にある高句麗の積石塚に求めている。要旨は『朝鮮から見た古代日本』未来社、(1989年)を参照。積石塚にあるを貼石(はりいし)が四隅突出形方墳のまわりにもあり、四角い外形も似ているという。

注20 高度成長時代の末期(1970年代初め)、自民党の田中角栄が打ち出した国家政策。当時、欧米諸国との経済摩擦と自由化で行き詰まった日本経済を活性化するために、国家資金で行う大規模な建設事業を地方に誘致する主張。
http://www.nihonkaigaku.org/library/other/i001125-i2.html

164. 中川隆[-12862] koaQ7Jey 2019年1月20日 09:39:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告

大陸文化の縦断路−日本海文化圏−   
  縄文人の ファッションを彩った玦(ケツ)状耳飾
http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_11_1nihonnkai_bunnkakenn.html
 
 長江中・下流域に、「黄河文明」に先行する「長江文明」があったことが、近年認知されてきた。その長江文明で、最も繁栄した良渚遺跡(5,500〜4,000年前)から実に4,000に上る多数の、且つ精緻で優美な玉器が出土した。次の写真はそのうちの優品である。
 
 これらの高度な玉製品の数々から、現代に続く中国人の玉信仰は、長江流域で誕生したと、これまで固く信じられてきた。

 一方、この列島に「玉」が現れるのは、大阪府藤井寺市の国府(こう)遺跡からである。ここからは100体に及ぶ人骨が発掘されているが、縄文前期の人骨の一部にケツ状耳飾りをつけ

て埋葬されていたものがあった。(右図)
 このケツ状耳飾りと同様のものは、古くから長江下流域で見られたものであったが、それが列島では突然、縄文早期末から前期に、北海道から九州にかけて一斉に出現したので    
ある。
 玉は長江からという常識に沿えば、照葉樹林文化の一環として西日本地区に伝播した、というのならよく理解できるのだが、 このケツ状耳飾りに関する限りは、西日本地区というような偏りはなく、列島全体に一気に拡散した。
 この不自然さは、中国サイドの発掘発見で解決されつつある。すなわち、ここ十数年来俄かに、中国東北部の内モンゴル自治区から遼寧省にかけて、8,000〜7,000年前の新石器時代に高度な玉文化が存在していたことが、明らかとなってきたのである。 
 その遼寧省西部の興隆窪(こうりゅうわ)文化と呼ばれる遺跡のうちの一つ、査海遺跡(7,000年前)の墓地から、全く予想外のことだが、耳に玉ケツを着けた遺体が発見された。それだけではなく、玉匕(ぎょくひ)や玉斧などの玉製品が発見された。
 長江流域における最古の玉は、6,500年前  
まで遡るのがせいぜいであり、7,000年前の査海遺跡の玉は、正しく中国最古の玉であることが明確となった。玉の起源は、中国南部ではなく、東北部であったのである。


 しかも、この査海遺跡の玉ケツ(ケツ状耳
飾り)や玉匕とよく似ている遺物が、福井県金津町の縄文早期末〜前期(6,000年前)の桑野遺跡から出土していた。
 桑野遺跡だけではない。類似したケツ状耳飾は、前節の鳥浜貝塚をはじめ、新潟県清水上遺跡、京都府浦入遺跡など日本海側の遺跡      
を中心に、日本全国に分布しているのである。 
 即ちこの玉ケツ(ケツ状耳飾)は、実は長江流域から照葉樹林文化の一つとして伝播したものではなく、中国東北部(旧満州)から日本海を縦断して伝播し、桑野遺跡を含む北陸地方を生産拠点として、全国的に拡がったと今では考えられている。
 また、こう考えることが、ケツ状耳飾りが地域の植生や、それが醸す文化とは関係なく、全国的広がりを見せたことを、無理なく説明できると思うのである。
  
 安田喜憲は、以上述べてきた文化の伝播や交流について、「龍の文明 太陽の文明」(PHP新書)のなかで、次のような図を提示して“中国東北部→長江流域”“中国東北部→日本列島”という文化の流れを想定している。
(なお、紅山文化は興隆窪に続く6,000年前の牛河梁遺跡を中心とする文化。)
  

 列島の縄文人と大陸の中国東北部の人々が日本海を挟んで、黒曜石などを通じて旧石器時代から続けてきた日本海圏の交流を、縄文時代に入っても途切れることなく続けていたことが、これで証明されたと言い切っていいだろう。
 そして、これは少々余談になるが、いろいろ描かれている縄文時代の生活の想像図やイラス

    トが、貧しく質素であるのに反し、実は、縄文早期末という極めて古い時代から、縄文人がファッションに拘る人々であり、流行にも敏感であったことがこれで明らかとなった。
 そして、縄文人の美への情念ともいえるものが、あの火焔土器などの類稀な装飾性の高い土器を生み出したのだと思う。
 縄文女性達(もちろん、何らかの意味で選ばれた)は、ハレの日には、きっと左の写真のように着飾って、近隣の部落から集まった若者たちを魅了したことだろう。

日本海を渡った北からの文化…ナラ林文化論


 前節で照葉樹林文化が日本人の心の故郷であるとしてきたが、この文化は、又、西日本地域に伝播した文化でもあった。
 縄文文化が“東日本を中心とする文化”であることを熟知する佐々木高明は、照葉樹林文化論の提唱者の一人として、逆に「ナラ林文化」という視点を提起した。
 ナラ林文化圏は、右図のように青線で囲まれた、東日本のミズナラやそれによく似た東北アジアのモンゴリナラの分布圏を指すと、    
佐々木は定義している。右上図は原図を90°右回転させているが、こうしてみると、ナラ林文化圏が環日本海文化、すなわち直ぐ目の前の“海の向うの文化”であり、一方、照葉樹林文化圏は環東シナ海の文化であることが明瞭となる。
 現在、我々には、狩猟とサケマスの漁撈文化をベースとする、ナラ林文化の名残を見出すことはほとんど出来ない。むしろ、ナマハゲなどの特異な照葉樹林文化の一つが、東日本地域の奥深くまで浸透していることに驚く。
 おそらくこれは、後に詳しく調べる大和朝廷の、まつろわぬ土着民などに対する懐柔や殲滅政策の結果なのであろう。
 しかし、ナラ林文化の痕跡は、何食わぬ顔で作物の品種や遺伝子の中に残っていた。

 日本の在来種のカブには、洋種系と和種系の二種類があり、洋種系は主として東日本に分布し、和種系は西日本に分布している。
 そして洋種系のカブの系統は、朝鮮半島北部、中国東北部からシベリアに連なるという。明らかに東日本から、日本海を挟んだ対岸、すなわち、     
ナラ林帯から渡来した作物であるということが出来る。
 また、栽培種のオオムギは、野生植物当時の脱粒性を防止する遺伝子の組合せから、W型とE型に分けられるという。
 そして、E型がインド東部、チベットから中国南部をへて西日本に分布し、W型は西アジア・ヨーロッパからシベリア・中国東北部・朝鮮半島北部をへて東日本に分布している。
 このようにこの列島の在来作物の中に、シベリア、中国東北部から、サハリン・北海道を経由し、あるいは日本海を縦断して直接に、乃至は朝鮮半島を経て入ってきたものがある。それはカブやオオムギだけでなく、ほかにもゴボウ、ネギ、カラシナなどや、アワやキビ、それに一部ソバも加えて、北方系作物群と呼ばれている。
 これらの作物群は、黄河流域の農耕地帯から中国東北部に入ってきたというより、もっと北の南シベリアから東北アジアのナラ林帯に伝わり、その地域にいわゆるナラ林型雑穀畑作文化を形成し、それが日本列島にまで達したと考えられる。

 このナラ林文化圏が、民族や一定規模以上の集団の移動・交流を伴っていたか、明らかではない。これは現在のところ、佐々木高明が掲げた仮説に止まっている。しかしそれは上記、興隆窪文化や、沿海州の遺跡の解明が進むことによって次第に明らかになると思われる。

   不思議な朝鮮半島の黎明期

 ケツ状耳飾りや北方系作物群の伝播は、中国東北部や沿海州との交流を通じてのことであった。日本海文化圏の一角である、より近しい朝鮮半島との交流はどうであったのだろうか。
 これまで筆者は、最初の日本人が〔華北(黄河)文化センター→朝鮮半島→日本列島〕という経路で渡来し、その後もこのルートが断続的な文化流入ルートであったことを調べ、且つ確認してきた。
 そして当然、半島の南端で、対馬海峡に乗り出すグループと渡海を断念するグループに分かれただろうと想定していた。

 断念したグループは、半島南部の照葉樹林帯か、少し戻って中部以北のナラ林帯で、旧石器時代以来、日本列島におけると同様に、各々の文化を発展させてきたはずだと筆者は迂闊にも信じていた。
 しかし、韓国の前国立中央博物館長、韓炳三(ハンビョンサム)が示す、右の図は衝撃的である。朝鮮半島では旧石器時代の遺跡は、50ヵ所程度しか発見されていなかった。このレベルの遺跡ならば、日本列島の旧石器時代の遺跡数は3,000〜5,000ヵ所に上るというのに、である。
 これはどうしたことであろうか。半島の厳しい気候が    
一度、半島の南端まで達した人々を、また大陸まで引返させてしまったのであろうか。
 大陸の気候も決して厳しくないわけではないはずだが、次の表は更に衝撃的である。
     
 なんとB.C10,000〜5,000年の間(上表で赤で塗りつぶされた部分)、遺跡が、すなわちヒトの気配が、半島からなくなるのである。新たに遺跡が出てくるのは、7,000年前、世界がヒプシサーマル期を迎えようとする時期からである。

 全く不思議なことに、日本列島の最初の土器が隆起線文土器であったのと同様、5,000年以
上の年代格差があるにもかかわらず、朝鮮半島の新石器時代も、右写真のように同じく隆起線文土器で始まる。
 このような年代格差をもって、同じような文化が起こる現象は、河姆渡遺跡の環濠が    
この日本列島では4,000年遅れで北九州の稲作集落(例えば平塚川添遺跡など)に出現するということに似ている。
 それにしても、国境のない時代とはいえ、7,000年前、ようやく朝鮮半島に現れた新石器文化の土器が、直ちに海峡を越えて対馬(上の写真の右の説明書き)に渡って来ていた事は、列島と半島の交流がいかに密であったかということを示す。

  西北九州と朝鮮半島の漁撈文化

 その後、時を経ずして、九州を大地変が襲った。6,300年前(7,300年前 較正年代?)

九州・大隈半島の南、鬼界カルデラが大噴火したのである。アカホヤ火山灰と呼ばれる膨大な

火山灰が遠く東北地方まで降った。
 当然、南九州の生態系は破壊され、ヒトの住めるところではなくなったであろう。中九州でも事情はそれほど大きく異なることはなかったであろう。
 そういう時、西北九州では生き残りをかけて、新たな漁撈文化が生まれた。     
おそらく、アカホヤ火山灰の打撃の少なかった西北九州には、九州南部・中部からの避難民が押し寄せたに違いない。それは、堅果類、芋類の植物食をベースにし、タンパク質の供給を魚に求める、補完的な小規模漁業という旧来からの生業パターンの変更を迫ることになったと思われる。
 堅果類や芋類の自然の供給量は西北九州でも減少し、それを補うために漁業資源の比重を大幅に引き上げる必要性に迫られたに違いない。
     新たな漁撈文化は、そうした情況変化に対応して、必然的にこれまでの沿岸漁業から大型魚(マグロ、サワラ、シイラ、サメ)を対象にした、外洋性の大規模漁業が必要とされた。
 大型魚を釣るには当然大型の針が必要となる。そのとき導入されたのが、沿海
州辺りから朝鮮半島の東海岸まで南下していた、結合式釣り針(5〜10cmの大きさ)の技術

であった。
 この漁撈技術の交流は、生活物資である土器の意匠の共通性をも生み出した。
 右の土器は、アカホヤ降下直後に西北九州と朝鮮半島に現れたいずれも沈線の幾何学文様をもつ土器である。    
考古学の江坂輝弥によれば、模様の共通性だけでなく、滑石や石綿を混ぜた土器生地にも共通性が認められ、櫛目文系土器が西北九州地方に波及して曽畑式土器が成立したと見做して差し支えないとしている。
 また、祭りの道具と考えられる“貝面”、文字通り貝殻製の面が、韓国東三洞貝塚と縄文中期の熊本県有明海沿岸で出土している。材料は違うものの、作り方には共通性が認められる。

この対馬海峡を挟む地域は、半島の東三洞貝塚に見るように、旧石器時代以来、黒曜石の供給で繋がっており、また、弥生時代以降の交流は説明を要しないであろう。
 すなわち、この地域は、国境のない時代、ほとんど継続的に交流のあった、日本海文化圏の主要な地域であり、遺伝子の混交、言語や文化・習俗の共通性などを視野に入れねばならぬ地域であったと言えるだろう。


注)較正年代・・・正式には暦年代較正と呼ばれる。筆者は暦年代という表現に違和感があり、単純
 に較正年代と言っている。従来の放射性炭素年代測定いわゆるC14年代が、いろいろな誤差を含んで
 いるので、年輪年代法などを使って補正しようという方向にある。ただ、統一して使わないと混乱
 を生じるだけなので、筆者は本稿では、縄文時代までは従来のC14年代で、弥生時代以降を較正年代
 で統一している。 

 以上、人類学者や考古学者から、縄文時代を鎖国状態と規定された縄文人の真の姿を捉えようと、照葉樹林文化圏と日本海文化圏を調べてきた。本節に収めきれない部分は追って研究ノートに掲載したい。

 縄文人が実は行動的で、美に対する情念が激しく、先祖からの繋がりを大切にする、新しい文化にも閉鎖的ではない、そうした人々であったことは証明できたのではなかろうか。

 したがって、縄文時代が、日本人の形成という面からも、決して無視できる時代ではなかったと言っていいだろう。

http://www.geocities.jp/ikoh12/honnronn1/001honnronn_11_1nihonnkai_bunnkakenn.html

165. 中川隆[-12794] koaQ7Jey 2019年1月22日 19:24:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22225] 報告

日本人のルーツをさぐる旅 - YouTube
https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E3%83%AB%E3%83%BC%E3%83%84%E3%82%92%E3%81%95%E3%81%90%E3%82%8B%E6%97%85&sp=mAEB


2018/08/29 に公開

166. 中川隆[-12493] koaQ7Jey 2019年2月03日 10:42:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22231] 報告

>>153 の続き


諏訪春雄通信


2017年9月9日(月曜日)の民族文化の会で「東アジアの視点から見る日本 天孫降臨神話」という発表をしました。この発表を徹底的に書きなおし、まったく新しい文章として、連載します。


諏訪春雄通信 789回 (2018年1月22日更新) 天皇の来た道 (8)
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:SI2gv7ivlWYJ:home.s00.itscom.net/haruo/sub4.html+&cd=6&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja


V 稲作を伴う天孫降臨神話

中国南部に流布する稲作天授神話


タイ族

遠い昔、天に一柱の天神がおられ、広大な田地を所有し莫大な収穫をあげていた。そのころ、人類は穀物を知らなかった。木の実を取り、猟で餓えを満たしていた。ある日、天神の娘が空から人間の生活を見て同情し、父に穀物を人間に与えるよう頼んだが、父は承知しなかった。天女は父の目を盗んで一袋の穀物を盗んで人間に恵んだ。怒った父は彼女を牢に入れたが、逃げ出した天女はさらに多くの穀物と綿花を盗んで人間に与えた。天神は激怒して犬にして下界に追い下した。人間は犬となった彼女に感謝し、毎年の一月の戌の日、魚肉、野菜、新米をまず犬に食べさせることにした。

犬が天上から穀物を盗み、人間に与える神話は華南の他の民族にも伝えられている。犬以外に燕、雀、鶴、鳳凰などが盗む神話もある。

雲南省トールン族

洪水で生き残った少年は、天神と出会い、虎の後について天に登った。天神は二人の娘のうち一人を嫁にえらぶよう少年にいった。二人のうち、一人は魚の嫁になることを願っていたので、少年はもう一人の木美姫をえらび、地上に伴った。そのとき、天神は穀物の種、鳥獣、蜂の種、薬酒などを土産にくれた。利口な木美姫は父が稲の種をくれなかったことに気付き、稲倉から稲籾を盗み出した。天神はふたりに途中けっして振り返えるなと警告した。しかし、鳥獣の吼え声で姫が振り返ったために多くの動物が逃げ去り、牛、豚などわずかな家畜が残った。五穀の種は持ち帰ることができた。天神は地上に稲が生長しているのを見て驚き、収穫物の一部を天上に回収した。実のない空の穀粒があるのはそのためである。


中国地図
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:SI2gv7ivlWYJ:home.s00.itscom.net/haruo/sub4.html+&cd=6&hl=ja&ct=clnk&gl=jp&lr=lang_ja

      


天皇の来た道 (9)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub13.html


 W 天孫降臨神話の二系列と日本への稲作伝来経路

@ 天孫降臨神話の骨格は、A天上の神たちが宝器を持って地上に降って支配者になる宝器神話、Bその際に天上から穀物、ことに稲を地上にもたらした稲作神話、の二系列となる。

A このうち、Aの宝器の系列は北方アルタイ語系諸民族の山上降臨型神話によって形成された。

B しかし、Bの稲作の系列は、中国南部の少数民族農耕民の天から穀物をもたらした神または人が地上の人類の祖先または支配者になる神話によって形成された。

C このBのモチーフは大陸から直接に伝来したものと、朝鮮半島で北方系神話と習合してから日本へ伝来したものと、大別して二系列あった。この二系列は、日本への稲作伝来ルートに対応している。

D このBの系列と結合して、中国南方農耕民の稲魂信仰、太陽信仰なども日本へ伝来していた。

 稲作の起源地と日本への伝来

浦林竜太「イネ、知られざる1万年の旅」(『日本人はるかな旅』NHK出版、2001年)を参照する。


アジアの稲の起源地は中国の長江中流域。1995年に湖南省玉蟾岩遺跡から1万2千年前の栽培稲の稲籾が発見され、すこし遅れて隣接する江西省仙人洞遺跡からも1万2千年前の栽培稲が発見された。このころ、私もこの二つの遺跡を訪ねている。

 日本の稲作伝来の二系列


日本で稲作が始まったのは縄文時代前期の鹿児島県で6千年前、焼畑で耕作された熱帯ジャポニカであった。水田稲作の温帯ジャポニカは縄文晩期の二千六百年前の佐賀県の菜畑遺跡から出土した。2003年に国立歴史民俗博物館が、放射性炭素年代測定で弥生土器付着の炭化米の測定結果を発表し、弥生時代は紀元前10世紀に始まるとした。
野生稲の籾の先端の芒(のぎ)が長く、栽培稲では短くなっている。

水田稲作は、直接に中国から日本へ伝来したものと、朝鮮半島経由の二系列があった。天孫降臨神話の二系列に対応する。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub13.html


 天皇の来た道 (10)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub18.html


  X アマテラスの本質 稲魂

『古事記』


@水田を作り新嘗祭を主宰している。

A最初に地上に降臨するアメノオシホホミミは威力ある稲の神の意味であり、交代して降臨したアマテラスの孫ホノニニギは稲穂の豊穣の意味である。

『日本書紀』

@アマテラスは、ツクヨミに殺害されたウケモチノカミの身体から生じた五穀のうち、アワ・ヒエ・ムギ・マメを畑に、稲は水田に植えて大きな収穫をあげている。

Aスサノオと誓約して、オシホホミミ、天上界の霊力ある稲の神の名を持つアメノホヒなどを生んでいる。

B天上で水田を耕作し、新嘗を主宰している。

C第二の一書によると、ニニギの降臨の際に高天原の田で収穫した稲穂をさずけている。

アマテラスの本質 太陽神  


『古事記』 「天を照らす大御神」と表記され、天空(高天原)の支配を命じられたこと、天岩屋戸に籠ったことが日蝕とも冬至とも鎮魂祭とも解釈されること、鏡を魂の依代とすること、などが太陽神の性格を現わしている。

『日本書紀』 アマテラスは日神(太陽の神)、オオヒルメムチ(太陽の女神)などとよばれ、「明るく美しく照らし、天地四方の隅々まで照り輝いた」と叙述されている。

高千穂天岩戸神楽のアマテラス

アマテラスの本質 大地母神

アマテラスは地上で誕生して天に昇った神であった。『古事記』では、黄泉国を逃れて地上に生還したイザナギが筑紫の日向の橘の小門のあわぎ原でみそぎして生んだ神である。『日本書紀』でも、イザナギ、イザナミの両神が地上でアマテラスを生んだのち、「このように神秘で霊妙な御子はすみやかに天上に政事をゆだねるべきである」と、天の御柱を伝わって天上に送っている。


太陽は朝に地上から天に昇り、夕に地上に沈む。この点に注目すれば地上の神であるが、天に輝く日中に注目すれば天の神となる。さらに陽光がやさしいか強烈であるかによって、女神か男神か分かれる。中国南方では太陽は大地の女性神と観念され、北方では天の男性神と意識されている。

アマテラスは稲作の神であり、その稲作を守る太陽神、大地の女神であった。  
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub18.html   


天皇の来た道 (11)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub39.html

2017年9月9日(月曜日)の民族文化の会で「東アジアの視点から見る日本 天孫降臨神話」という発表をしました。この発表を徹底的に書きなおし、まったく新しい文章として、連載します。通信799回に続きます。


平成大嘗祭(皇位継承最初の新嘗祭)の大嘗宮


祖先の太陽女神と稲魂(アマテラス)の祭祀 地方の女神の霊力(悠紀・主基)支配 廻立殿で清め、次いで悠紀・主基で神と共食、共寝


中国南部少数民族の太陽・女神・稲魂信仰

貴州省黎平県トン族の道切 銅鏡=太陽 貴州省ミャオ族集落入口 双竜と太陽

2001年の8月、長江流域の苗、土家、侗の三族の民俗を調査してまわり、いたるところで太陽神信仰に出あった。

しかもこれらの地域では、太陽の信仰は女神、稲魂に対する信仰と結合して三位一体となっている。これは、日本のアマテラスの信仰と完全に一致している。

日本の稲作文化の起源地が長江中流域に決定している現在、日本のアマテラス信仰の原型も長江中流域の少数民族社会であったことを示している。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub39.html

天皇の来た道 (12)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub40.html


 Y 天の信仰と女神信仰 東アジア少数民族の祖先女神信仰

湖南省西南部トン族 薩歳(老祖母神)という最高位の女神を信仰し、薩祭という祭りでは他の神は招かずこの薩歳だけを祀る。その冒頭で主宰する巫師の唱える文句は「別の女神を招かず、別の神に祈らず、ただひたすらに大婆天子にだけお祈り申しあげます」ということばで始まる。大婆天子は薩歳の漢語訳である。


この他にも民族の祖先神を女性とする少数民族は多い。チワン族では人類の祖先は母六甲(ぼろっこう)とよばれる女の神である。水族、ミャオ族、チノー族、エベンキ族、満族など、女神が最初に天地をきり開いたり、最初の人類を生んだりする神話を伝えている。


動物神と女神の合体した創世神話も多い。ナシ族は一羽の白い鶏が九つの卵を産み、その卵から天の神、地の神、男女の人類が現われたとし、ハニ族は一尾の大きな魚から人類が生まれたとしている。(『中国各民族宗教と神話大詞典』学苑出版社、一九九〇年、他)


男女神信仰の四型


大地母神に代表される女神信仰が男神中心の新しい信仰にとって代わられる現象は世界的規模でみられる。その変化は大きく四つの型に分けることができる。第一は、魔女・異端型である。女神を信奉する宗教者を魔女・異端として退け、女神に代表される古い神々を悪魔、鬼神の類として厳しく排斥する。第二は、男神を最高支配神とするパンテオンに下位神してとして組み入れる型である。 第三は、新旧の神々を並列・混在させる型である。第四は女神を男神に優越させる型である。第一型は主として一神教世界、第二型は一神教的多神信仰世界、第三型・第四型は多神信仰世界にみられる。日本ではこの四つの型のすべてが存在し、四型に基づく祭りの形態がみられる。キリスト教は一型、銀鏡神楽など中世神楽は二型であり、諏訪大社の御柱は三型である。そして、日本の古代は女神優位であり、皇室、沖縄などにいまも女神優位の信仰が保存される。

中国の女神と男神の勢力関係についてみると、黄河流域の大帝国の歴史書に登場する神々は男神中心、南方の少数民族の宗教や叙事詩に登場する神々は女神中心であり、北方少数民族の神々は大きく女神から男神中心へ移ったという結論がみちびきだせる(君島久子編訳『中国女神の宇宙』)。

信仰も、文化の一部であり、生活環境と生業の産物である。  
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub40.html

天皇の来た道 (13)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub48.html


  Z アマテラスとタカミムスヒの関係


日本神話に登場する最高司令神はアマテラスとタカミムスヒである。古文献に登場する両神の関係は三型に整理できる。

1アマテラス・タカミムスヒ併記型 古事記、古語拾遺


2タカミムスヒ単独型 日本書紀一書、先代旧事本紀


3アマテラス単独型 日本書紀一書

アマテラス・タカミムスヒの本質 従前説

@アマテラスとタカミムスヒは本来別系統の神。天皇家の本来の守護神はタカミムスヒ。岡正雄(「日本民族文化の形成」『図説日本文化史大系1 縄文・弥生・古墳時代』小学館、一九五六年)、松前健(「鎮魂祭の原像と形成」『日本祭祀研究集成一』名著出版、一九七八年)、岡田精司(『古代王権の祭祀と神話』塙書房、一九七〇年)、溝口睦子(『王権神話の二元構造ータカミムスヒとアマテラス』吉川弘文館、二〇〇〇年)

Aタカミムスヒについて、男性神とする点は四氏一致するが、その先で、太陽神(岡田)、神木をヨリシロとする農耕神(松前)、朝鮮古代の起源神話と同一系統神(岡、溝口)と分かれる。

Bアマテラスについて、先住母系的種族の主神(岡)、伊勢地方のローカルな太陽神(松前)、タカミムスヒに仕える巫女を神格化した神(岡田)、列島規模の土着の女性太陽神(溝口)と分かれる。

タカミムスヒは宇宙樹


タカミムスヒは『古事記』では高木神の別名でも登場する。この神が主として活躍するのは、天孫降臨神話や神武東征説話である。つまり、天と地を結ぶ神としての性格が強く、天地往来の宇宙樹としての本質を持っている。

宇宙樹は世界樹ともいう。まだ確定していない術語である。一般には天界と地下界とを貫いてそびえ,全世界 (宇宙) の秩序を体現していると信じられる巨木。世界各地の神話にみられ,ことに北欧の古代神話『エッダ』の中の巨木が有名で,その枝は全世界の上に広がり,天の上まで突き出ており,3本の根はそれぞれ神々の国・巨人の国・死者の国へと伸びている。そのほか,古代インドのウパニシャッド哲学,アステカの神話,シベリア諸民族のシャーマニズム信仰などにおいて,宇宙樹は多種多様な表象と意味を持つ。『文化人類学事典』弘文堂、一九八七年


中国南部に流布する稲作天授神話と結合した宇宙樹 


湖南省・広西チワン自治区のヤオ族


大昔、天は低く、人間は大木を伝わって天に行くことができた。そのころ、天神の命で地上の水を管理していたのが天に住む水仙姫であった。ある日、地上から来た若者に夢中になり、水口をふさぐことを忘れたために、地上は大洪水となった。天神ははげしく怒り、水仙姫は若者の手を取って逃げ出した。姫の両親は、頼もしい若者が気に入り、二人に穀物の種子とゴマの種子を与えて地上に逃がしてやった。二人は、すでに水の引いた地上で、穀物とゴマの種を撒き、人類や動物をつくりだした。天神はこの様子を見て二人を許した。ただ、人間が天に登って来ないように、天を高く引き上げてしまった。

この神話では天地を結ぶ大木が大きな役割を占めている。日本の天孫降臨神話でアマテラスとともに活躍する高木神(古事記以外ではタカミムスヒ)が、本来は天地を結ぶ宇宙樹であったことを示している貴重な資料である。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub48.html

天皇の来た道 (14)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html


タカミムスヒは宇宙樹

中国南部稲作民族の樹木信仰  貴州省トン族の聖樹と祭り(聖母と稲)   

ミャオ族の聖樹祭芦笙柱の祭り 宇宙樹と太陽と鳥


中国南部の苗族集落には、芦笙(ろしょう)柱が立っている。芦笙柱は苗族の生命世界の根幹を司る宇宙樹である。芦笙柱はフウ(楓)の木で作られ、頂上に太陽の昇る方向を向いた木製の鳥が止まっている。この柱には下から竜が巻きつき上方に牛の角が二本突き出ている。

毎年正月や春分・秋分などの祭りには、この芦笙柱を中心にして着飾った男女が輪になって踊る。苗族の子供や若い女性がハレの時に着る百鳥衣には服の裾に鳥の羽がいっぱいに縫い付けてある。昔、苗族に稲穂を運んできてくれたので感謝するためという。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html


167. 中川隆[-12204] koaQ7Jey 2019年2月13日 12:00:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22237] 報告

サイエンスZERO 動画
日本人成立の謎。弥生人のDNA分析から意外な事実が判明
https://www.dailymotion.com/video/x6zvxyz


弥生人は韓国人に近い遺伝子だと思われてたが今回の調査で違うことがわかった
大がかりなDNA解析による新情報では弥生人の初期は縄文人に近い遺伝子だったが集団の戦いなどで弥生人は時代が進むにつれて韓国人のDNAに近づいて
現代日本人はほとんど韓国人のDNAと一緒になった

これ旧日本人が韓国人に大虐殺された後に中出しレイプされて生まれたのが俺たち現代日本人ってことになるぞ

ナレーション(弥生人の核DNA分析から予想された現代日本人の位置は ここ。弥生人同士がまじわって 現代日本人が成立したと考えられるからです。ところが…。)

篠田謙一:実はですね 現代日本人はもう既に この辺りだということが分かったんですね。つまり 弥生人って 混血していけば恐らく 混血する相手は
この縄文人になりますから当然 現代日本人の位置っていうのはこちらに ずれてくるはずなんですよね。ところが そうならなくてこっちに来てしまったということで
ちょっと 考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり こっち(韓国人)に引っ張る 何かがなければいけないということになるんですね。

小島瑠璃子:てことは 韓国とか あとは大陸の方と多くまじわりながら人口を増やしてったのが私たちってことですか?

篠田謙一:そういうことになると思うんです。

小島瑠璃子:え〜!

168. 中川隆[-12196] koaQ7Jey 2019年2月13日 16:12:09 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22237] 報告

2018年10月04日
現代日本人が受継の縄文人のDNAの多くは西日本由来


 洋泉社出版の「歴史REAL 日本人の起源 縄文・弥生の世界」(本の写真は出版社から未だ了承を得られていないので、得られ次第掲載)で、国立科学博物館の篠田謙一副館長が、最新の日本列島の古代人骨のDNA解析に基づく知見を書いておられる。

 それによると、縄文人は、全国的に均一な形質を持つ集団として成立していたのではなく、地域によって異なる遺伝的集団であった可能性が出てきていることが、最新のデータに基づいて説明されている。

 又、渡来系弥生人のイメージも、従来のイメージと異なり、時期・地域によって異なり、弥生中期以降から古墳時代にかけて、大陸から多くの人々が渡来し、在来の渡来系弥生人との混血が進んでいったのではないかと指摘されている。

 そして、現代日本人が受け継いでいる縄文人のDNAの多くは西日本由来とのことであり、まさに、今回のぷろ古代西日本の中心の一つであった出雲人骨プロジェクトによって、古代史の謎が解き明かされることが期待される。

 さらに、日本列島に初めてきた旧石器人と縄文時代人とは別の集団であった可能性も指摘されている(アイヌ集団・琉球集団のDNA分析の結果)。
https://readyfor.jp/projects/izumo17990/announcements/86610

169. 中川隆[-12191] koaQ7Jey 2019年2月13日 16:30:21 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22237] 報告

2018.12.26
現代日本人のDNAは中国人と縄文人の間 NHKサイエンスZERO
https://phity.net/japanese-yayoi-dna-chinese


動画
https://www.dailymotion.com/video/x6zvxyz


弥生人のDNA分析から意外な事実が判明

遺伝子学や考古学、言語学などさまざまな研究分野の専門家がチームを結成。
40体に及ぶ弥生人の人骨をDNA分析をした。
謎に包まれてきた弥生人を最新科学で解き明かす!

弥生人のDNA分析

鳥取県の弥生遺跡で発掘された人骨のDNAは、9割が渡来人だった。縄文人のDNAは、1割と少なかった。渡来人が縄文人に入れ替わっていた。

弥生人はどこにルーツをもつ、どんな集団だったのか?

弥生人のDNAから渡来人は中国大陸の各地から渡来してきたことがわかった。

渡来は2世紀から始まった。渡来人は、縄文人にはない鉄製の器具、ガラスの装飾品を持って来た。

縄文人からどのようにして、現代日本人になったのか?

現代日本人のDNAは、弥生人よりも中国・韓国人に近い。弥生時代のあと、古墳時代も中国からの流入が続いたためと思われる。

弥生人のDNAから、縄文人と交わっていた形跡がある。
https://phity.net/japanese-yayoi-dna-chinese

170. 中川隆[-12155] koaQ7Jey 2019年2月14日 15:11:32 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22240] 報告
2018.09.20
約2千年前の弥生時代、なぜ凄惨に殺された人骨が大量発掘…国と課税と戦争の誕生
https://biz-journal.jp/2018/09/post_24828.html


 鳥取市の青谷上寺地遺跡で見つかった2〜3世紀(弥生時代後期)の人骨のDNAを最新技術で分析する調査を、国立科学博物館や国立歴史民俗博物館、鳥取県埋蔵文化財センターなどが始めた。

「産経WEST」の報道によれば、遺跡中心部の溝からは、老若男女の人骨が少なくとも109体分、散乱した状態で出土。鋭い武器で切られたり刺されたりした殺傷痕が残るものもあった。戦闘など凄惨な行為があったと考えられるが、その背景は明らかになっていない。

 人間はなぜ戦争をするのか。古くから多くの思想家や研究者が答えを探してきた問いだ。日本で戦争が始まったとされる弥生時代の歴史は、その難問に対するヒントを与えてくれる。

 通説では紀元前4世紀ごろに九州北部で始まったとされる弥生時代といえば、水稲農耕が始まった時代として知られる。縄文時代晩期に渡来人によって北九州に伝えられた水稲技術が、まず西日本、次いで東日本にも広まった。

 同じ時期に日本列島に広まったものがある。戦争だ。

 考古学の研究結果によれば、狩猟採集に基礎を置く縄文時代には、集団と集団とがぶつかり殺し合う戦争はなかった。専用の武器をつくらなかったし、ムラの守りを固めることもなかった。殺されたことが確かな埋葬人骨もごく少ない。

 ところが弥生時代に入ると様子が一変する。周囲に堀を巡らした環濠集落や、台地や山頂に築く高地性集落など、防御を固めた集落が現れる。青銅・鉄・石による専用の武器が登場し、武器を祭器として尊崇する信仰まで生まれる。

 とくに強烈な印象を残すのは、前述の青谷上寺地遺跡でも見つかった、殺傷された証拠を残す人骨である。神戸市の新方遺跡の墓地では、1列に葬られた男性3人の遺骨の中から、それぞれ石鏃が見つかった。そのうち壮年から熟年のたくましい男性は、頭から胴と腕にかけて、17個もの鏃を射ち込まれていた。いろいろな方向から弓矢で集中攻撃されたらしい。

 奈良市の四分遺跡の例もすさまじい。1つの木棺に一緒に葬られた若い男女の遺骨のうち、女性のほうは胸の部分に石鏃が1本。男性のほうは、背中や腰の左右から、鉄の武器で刺されたり切られたりした傷が数カ所、左の肩甲骨や左右の腸骨にある。さらに左の目あたりが鋭利な凶器で骨までざっくりと削られている(松木武彦『人はなぜ戦うのか』)。

弥生時代に農耕と戦争が同時に広まった理由として、歴史学の通説では、農耕社会では狩猟採集よりもたくさんの生産物がとれ、富ができやすいから、その奪い合いが引き金となって戦争が起きると説明されてきた。

国家は欲しい物をつねに暴力で奪う


 しかし、この説明には飛躍がある。人が他人の富を手に入れる方法は、奪うだけではないからだ。ドイツの社会学者フランツ・オッペンハイマーは、人間が生きるために必要な富を手に入れ、欲望を満足させるには、根本的に対立する2つの手段があると指摘した。労働と略奪である。

 オッペンハイマーのいう労働には、自分の労働で物をつくりだすだけでなく、それを互いの合意のもとに他人と交換することも含む。一方、略奪とは欲しい物を暴力や詐欺によって他人から一方的に奪うことを指す。オッペンハイマーは労働を「経済的手段」と呼び、略奪を「政治的手段」と呼んだ。政治の主体である国家は、欲しい物をつねに暴力で奪うからだ。奪う相手が自国民なら課税で、他国民なら戦争でという方法の違いがあるにすぎない。

 他人の富の略奪を目的とする戦争は、明らかに略奪である。しかし、富が欲しければ、交換という選択肢もあるはずだ。事実、弥生時代は異なる集団の間に戦争しかなかったわけではない。石材、木材、山海の産物など縄文時代以来の日常物資の平和な交換が、むしろ普通だった。

 だとすれば、問わなければならないのは、なぜ農耕によって築かれた富を手に入れる際、平和な交換という方法だけでなく、戦争という方法が新たに加わったかだ。

戦争と課税はコインの裏表


 考古学者の松木武彦氏は、人工物や社会をつくったヒトの心に注目する「認知考古学」に基づき、弥生時代における本格的な稲作農耕と戦争とは、ひとつの文化を構成するセットをなしていた可能性があると指摘する。そのルーツは遠く海外にある。

 日本の縄文時代後半、世界ではいわゆる四大文明が芽生え、栄えていた。メソポタミアのチグリス・ユーフラテス両川のほとり、エジプトのナイル河谷、インドのインダス川上流、中国の黄河流域では世界に先駆けて大規模な農耕が始まり、都市が現れ、軍隊をもって戦争を行う古代国家が生み出され、王侯や貴族が支配の頂点に立つ社会が発達する。

きっかけは当時地球上で進行した寒冷化に伴い、温暖なこれらの地帯に周囲から多くの集団が流れ込んだことにある。環境の変化を乗り切る方策のひとつとして、農耕によって自然を支配する一方で、武力によって人を支配するという支配的性向をもつ文化が編み出された。この文化が中国から日本に伝わり、弥生時代の戦争をもたらしたと松木氏はみる(『列島創世記』)。

 同じく考古学者、寺沢薫氏の指摘も興味深い。同氏はR・カーネイロの2つの戦争モデルを紹介する。第1は、アマゾンなど広大な未開の森林を控えた地域だ。負けたグループは征服や賠償の対象にされようものなら、森林の奥地に引っ越す。

 第2は、これとは対照的なペルーの海岸地帯だ。戦争で負けたグループは逃げるところがない。殺されるか勝者に隷属するかだ。敗者は勝者の政治組織に吸収される。この政体が拡大しペルー全体をまとめるようになったとき、インカ帝国が成立した。四大文明発祥の地もおおかたこのモデルだという。

 弥生時代の九州北部は第2のモデルそのものだと寺沢氏は言う。戦争に勝った共同体と敗れた共同体の間には歴然とした階級関係が生まれる。敗北した共同体は首長の下に一見従来どおりの生活を送っているように見えるが、じつは支配共同体に生産物や労働力の一部を貢納というかたちで税金のように支払ったり、特殊技術を提供したりする義務がある。

 寺沢氏は、九州北部では過酷な戦争を通じ、日常的な小共同体がクニ(大共同体)や国(大共同体群)、その連合へと統合されたと述べ、弥生時代前期末の紀元前3世紀末に生まれたクニこそが日本列島における最初の国家だとみる。定説とされる7世紀を大きくさかのぼる説だ。

 それでもオッペンハイマーが言うように国家の本質が略奪にあるとすれば、戦争でほかの共同体を隷属させ、税で財産を奪うクニは、小規模ながら立派な国家といえよう。国家は戦争から生まれ、課税によって育つのだ。

 ここで戦争についてひとつの教訓が導かれる。国家が他国民の富を奪う戦争と、自国民の富を奪う課税は、同じコインの裏表である。どちらも平和な交換を拒絶し、暴力に訴える略奪の異なる形態にすぎない。

 課税が最終的には暴力によって実行されることは誰もが知っている。世界から戦争をなくすには富裕層に増税し富の再分配を強化せよという主張もあるが、まったくの誤りだ。課税という暴力を好む心で、戦争の暴力をなくすことはできない。
(文=木村貴/経済ジャーナリスト)

<参考文献>
木下正史『倭国のなりたち』(日本古代の歴史 1)吉川弘文館
松木武彦『人はなぜ戦うのか——考古学からみた戦争』中公文庫
松木武彦『列島創世記』(全集 日本の歴史1)小学館
寺沢薫『王権誕生』(日本の歴史 02)講談社学術文庫

https://biz-journal.jp/2018/09/post_24828.html

171. 中川隆[-12151] koaQ7Jey 2019年2月14日 15:46:48 : b5JdkWvGxs : DbsSfawrpEw[-22240] 報告

戦乱の時代(受傷人骨と環濠集落・高地性集落)

弥生時代は、縄文時代とはうってかわって、集落・地域間の戦争が存在した時代であった。

武器の傷をうけた痕跡のある人骨(受傷人骨)の存在などは、戦争の裏付けである。また、集落の周りに濠をめぐらせた環濠集落や、低地から100m以上の比高差を持つような山頂部に集落を構える高地性集落なども、集落や小国家間の争いがあったことの証拠であると考えられてきた。

受傷人骨

弥生時代前期の墓には、人骨の胸から腰にかけての位置から十五本の石鏃が出土した例がある。

多くの石鏃が胸部付近に集中して見つかる墓の事例は、瀬戸内海を中心とする西日本一帯に比較的多く見られる。かつては、戦闘の際に矢を何本も射込まれてやっと倒れた人物と解釈されることが多く「英雄」などとも呼ばれたが、近年では、矢を特定の部位に集中して射込まれていることの不自然さから、刑罰として処刑されたとか、何らかの儀礼的行為の際の犠牲(生贄)となって胸に矢を射込まれたなどといった解釈もある。平和的な解釈としては、埋葬の際に副葬品として鏃を胸のあたりに埋納したと考える者もいる。

北部九州では、前期から中期にかけて銅剣・銅戈・石剣・石戈の切っ先が棺内から出土することが多い。こうした例は、武器を人体に刺突した際に先端が折れて体内に残ったものと解釈される。しかし武器の先端を折りとって副葬品として棺内に埋納するという風習があったのではないかといった反論をする者もいる。

佐賀県吉野ヶ里遺跡や福岡県筑紫野隈・西小田遺跡などでは、中期前葉の男性甕棺数が女性の倍にも達する事実があり、男性が戦闘に参加する機会が多い事を示すと考えられる。

甕棺内に頭部を切断された胴体だけが埋葬されていたと考えられる事例が見つかっており、戦闘の際に敵に首を切られた死体を持ち帰り、埋葬したものと理解されている。

戦争やテロの時に敵の首を取る慣習は、戦国時代や幕末でも続いていたが、その始まりは弥生時代にあった。しかしこのような例が本当に戦闘の犠牲者なのかは論証されておらず、何らかの儀礼的行為によるものと主張する者もいるが、未だ論証されていない。

受傷人骨の中でも、明らかに武器によってつけられたと考えられる傷のある人骨の存在は、戦闘の存在を示す証拠である。

例えば額から右眼にかけて致命的な傷痕があり、更に右手首を骨折していた人骨が見つかっているが、右手首の骨折は、攻撃から身を守る際につけられる、防御創と呼ばれる種類の傷としては一般的なもので、戦闘による受傷者である可能性は極めて高い。

また人骨に武器の切っ先が嵌入している事例も、北部九州を中心に数例が確認されているが、これらは武器による受傷人骨であることが明らかである。

このような受傷人骨の例は縄文時代にもないわけではないが、弥生時代には前代と比べて明らかに数が増加しており、縄文時代と比べて戦争が頻繁に起こったであろう事は確実といわれている。


また、戦闘の証拠とされる上記のような事例のうち、武器の切っ先が棺内から出土する例、頭部がない人骨、あるいは人骨に残る受傷例などは、前期後半から中期前半の北部九州地域、特に福岡県小郡市を中心とした地域に多く認められる事が特徴的である。

弥生前期後半から中期前半は、西日本の多くの地域で集落が可耕地に乏しい丘陵上へと一斉に進出することが指摘されており、各地域において弥生集団が急激な人口の増加を背景に可耕地の拡大を求めた時期であるとされる。この可耕地の拡大が原因となって、各地で土地と水に絡む戦いが頻発したものと考えられ、中でも北部九州における受傷人骨の多さは、こうした争いが頻発した証拠と考えられている。なお、中期後半以降は受傷人骨や切先が棺内から出土する例は減少する。


大規模な集団殺戮を示す遺跡としては、鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡が代表的である。

日置川と勝部川の合流点の南側に弥生中期から村が形成され、弥生後期後葉に戦争の結果とみられる状況で集落が廃絶したと思われる(住居跡は未発掘)。

東側の溝(防御施設と港の機能を兼ねていたか)から100人分を超える人骨が見つかり、少なくとも10体、110点の人骨に殺傷痕が見られた。

人骨は女性や老人や幼児も含めて無差別に殺されており、刀剣による切り傷がついた骨、青銅の鏃が突き刺さった骨がある。治癒痕はなく、骨に至る傷が致命傷となってほぼ即死したと思われる。

出土状況も凄惨で、溝に多数の死体が、埋葬ではなく折り重なって遺棄されている。

遺物も、原型を保った建築物の一部や、様々な生活用品が、通常の遺跡ではありえないほど大量に出土している[40]。

死者の中に15〜18歳の若い成人女性がおり、額に武器を打ち込まれて殺されている。

殺戮した後、死体の処理と施設の破壊を兼ねて、死体や廃棄物で溝を埋め立てたものと思われる。

略奪はしただろうが、破壊した住居や不要な生活用品は捨てられた。
通常なら再利用や腐朽で失われるものが、保存条件もよくて大量に残存した。

虐殺以後は集落は復興せず、現代まで水田として利用された模様である[41]。

なお虐殺死体が弥生時代に増加すること及びそれらを研究することが専門の研究者にとっても大きな精神的負担になっていることを、松木武彦は新聞の評論で述べている[42]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3

172. 中川隆[-11828] koaQ7Jey 2019年2月26日 09:12:44 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[151] 報告
アイヌ民族と沖縄民はDNAが近い・「縄文系の血を残す」・・説は本当か? 2013-11-01
https://blog.goo.ne.jp/blue77341/d/20131101

一年前の新聞にあった記事です。

           ・・・・・

2012年11月1日読売新聞

「アイヌ民族DNA、沖縄に近い・・関東と比較」


北海道のアイヌ民族は地理的に近い関東よりも、沖縄の人たちと遺伝的に近いことがDNA解析から証明されたとする研究成果を、東京大学や国立遺伝学研究所などでつくる「日本列島人類集団遺伝学コンソーシアム」がまとめた。

北海道と沖縄では、日本列島に古くから住んでいた縄文人と渡来の弥生人の混血が一部にとどまり、縄文系の人々が残ったとする「二重構造説」を裏付ける成果という。

研究チームはアイヌ民族36人と、3世代以上続く沖縄出身者35人の遺伝情報を詳細に調べた。

DNAのわずか一文字の違いを約60万か所にわたって分析。すでにデータとしてそろっている関東に住む243人と比較し、アイヌ民族は沖縄出身者により近いことを確認した。

こうした傾向はこれまでも示されていたが、データが少なく、結論は出ていなかった。

日本の南北に離れた二つの集団が近い血統だという説は、ドイツ人研究者が顔の特徴などから1911年に発表した。

研究チームの斎藤成也・国立遺伝学研究所教授は「101年を経て、遺伝情報のレベルで最終的に証明できた」と話した。


                     ・・・・・


上にご紹介した新聞記事を読み、「稲作渡来民・「日本人」成立の謎に迫る」という池橋宏氏の本を読んでみました。

                     *****


                   (引用ここから)


稲作渡来民の前に、日本ではどのような言語が話されていたのだろうか。

小泉保は、日本語の古い形を考えるには、日本語と琉球語が、近隣のどの言語より近い関係にあるということが基礎であると考えた。

それに比べると、朝鮮語と日本語では共通の語彙と考えられるものは案外少ない。

アイヌ語と日本語の同系性の証明もむずかしいようである。

さて、東北方言の北側にアイヌ語があり、列島の南には南九州の方言を挟んで琉球語が分布している。

中部、近畿と北九州地域はいろいろの点で共通性があって、北の東北言語と南の方言との間に広がっている。

大局的にみると、中央部に一つの言語が分布し、その両側に古くからの言語が分布している。

この見方から見ると、東北言語がおそらく縄文後期の発音の形を良く保持していると判断される。

また鳥取県西部で話されている「雲伯(うんぱく)方言」は、東北言語と音韻上非常に良く似ている。

小泉氏によると、これらの方言は同系であり、裏日本縄文語とでも呼ばれる言語からきているものと結論している。

それは東北から山陰地方まで連続していたと考えられる。


稲作渡来民たちは、もともと中国の春秋時代から戦国時代に、呉とか越とよばれていた地域の住民であり、不完全な渡航手段によって、小さい集団として朝鮮半島にまで移動して、一部は定着し、さらにその一部は日本列島の北九州あるいは山陰にまで渡ったと考えられる。

渡来民の波が強くおしよせた地域では、縄文人の体質的な特徴はほとんど失われてしまった。

彼らのもたらした農耕は、圧倒的に高い人口増加率を支えたのである。

「倭(わ)」と称された集団が朝鮮半島の南部から九州におよぶ稲作渡来民であっただろうと考察したが、今日その痕跡は言語にはない。

一方、7世紀前後の古代の日本語には、朝鮮語の語彙が多少は入っているとしても、対応のたどれるような言語は少ない。

結局、今日でも日本語は基本的に「縄文語」であるとみてよい。

すなわち言語の基本的な点では、稲作渡来民は日本語に大きな影響を与えなかったのである。
渡来民は縄文語に同化されたのである。


縄文人が近隣のアジアの古代人とは似ていないのと同様に、日本語の系統をアジアの近隣の言語の中に求めることは、今となっては非常にむずかしい。

また、稲作渡来民が日本語の形成に与えた影響については、けっきょくのところ、日本列島で使われている言語は縄文時代から根本的には変化していない。

ただ母音が現在の東北方言に似たものから変わり、無アクセントから、関西方言のようにアクセントに敏感な方言などが分化した。

この後の変化には渡来人の「声調」が影響したとみられる。

さらに日本語は漢語に日本語の読み方(訓)をあてて、その豊富な語彙や概念を導入し、文明を支える言語に発展した。

訓読と並行してカナ文字が生まれた。

それには、4世紀ごろから渡来した人々が、故地で朝鮮語と漢語の対比から経験したことが役立っている。

                 (引用ここまで)

                   *****

新聞記事を読むと、アイヌと沖縄の遺伝的な関係が明らかにされたということです。

縄文文化を築いた人々の子孫は、彼ら2者であるということになります。

一方、上記の本によると、日本語と琉球語はもっともよく似ているが、日本語とアイヌ語に近親性はないということです。

筆者によれば、日本語の北限は東北で、渡来系の影響の強い関西の周辺に、縄文系の影響の強い東北・南九州が残っている、という形になります。

アイヌ文化、沖縄文化、日本文化の理解は、本当に難しいと思いました。
https://blog.goo.ne.jp/blue77341/d/20131101


▲△▽▼


東北と関東の縄文人は系統が別・・DNAを読む 2014-04-30
https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/941b806ea44637d99bde4969c991b1c8

朝日新聞「日曜版」・「日本人の起源」2011・05・01の記事です。

前にご紹介したマレーシアのニア洞窟探訪の記事の続きです。

             ・・・・・

「骨をよむ手がかりはDNA」


マレーシアから東京に戻った私は、国立科学博物館を訪ねた。

篠田謙一の研究室に向かう。

積み重ねられている大きなプラスチックのケースの中味は、江戸時代の人骨だという。


篠田のもとには、全国からさまざまな人骨が集まってくる。

沖縄・石垣島の白保竿根田原(しらほさおねたばる)の旧石器人。

富山市の小竹貝塚の縄文人。

東京・谷中の徳川家の墓地に埋葬されていた将軍の側室や子どもたち。


「私はよく“骨を読む”と言います。

骨からは、実にたくさんのことがわかる。

形態からは当時の人たちの姿形や生活習慣を、DNAからは彼らのルーツを読み取ることができますから」。

篠田はこのうち、古い人骨のDNAを調べる国内では数少ない研究者だ。

わずかでもDNAが残っていれば、それを手がかりに日本人の起源を探ることができる。

ここ20年ほどで急速に進んだ分野ゆえに、学会に大きな一石を投じることもある。


たとえば、縄文土器などの文化をもつ縄文人について、かつては「南方からやって来たほぼ均質な集団」というのが定説だった。

全国で出土した骨を元に、縄文人の顔つきを探ると、上下に短く幅が広いとか、彫りが深いといった共通の特徴があったからだ。


ところが、縄文人のDNAには別のストーリーが秘められていた。

2006年、篠田や山梨大教授らは北海道の縄文遺跡から出土した54体の骨のミトコンドリアDNAを分析。

その特徴をもとにグループ分けし、関東の縄文人のデータと比べてみた。


北海道の縄文人の6割を占める最大のグループは、関東では見られないものだった。

このグループはサハリンなど、現在の極東ロシアの先住民に目立つ。

2番目と3案目に多いグループも、カムチャッカ半島などの先住民に多い。

東北の縄文人も北海道と似たグループ構成だった。


対照的に関東の縄文人のミトコンドリアDNAを見ると、東南アジアの島々、中央アジア、朝鮮半島に住む現代人の特徴があった。


「北海道・東北と関東では違いが大きく、同じ縄文人とくくるのがためらわれるほどだ」と篠田は言う。

縄文人は「均質な集団」ではなく、日本列島の北と南でルーツが違っていた。

浮かびあがるのは、そんなストーリ―だ。


縄文時代、様々な人々がいろいろなルートで日本列島に入ってきたらしい。

アフリカから東南アジア、そして日本列島へ。

日本人の「祖先」のはるかな旅路の詳細は、骨の形や遺物を調べるだけではなかなか見えてこない。

いま、DNAを手がかりに、「祖先」の足跡が次第に明らかになりつつある。

篠田は言う。「私たちは、どこから来た何者なのか。それを知ることで、自分達がどこへ向かおうとしているかを確かめたい」


                       ・・・・・

{}「トヤマ・ジャストナウ・2014・02・05 小竹貝塚」

富山県文化振興財団 埋蔵文化財調査事務所は、日本海側最大級の貝塚である小竹貝塚(富山市呉羽町北・呉羽昭和町地内)の調査結果を発表した。

出土した人骨は91体。縄文時代前期の人骨が見つかった国内の遺跡の中では最多。

DNA鑑定で、南方系と北方系の異なる起源を持つ人たちが一緒に暮らしていたことがわかった。

多くの遺物によって、縄文人のルーツや生活ぶりを探る、大きな手がかりに!


小竹貝塚(おだけかいづか)は富山県のほぼ中央部、呉羽丘陵と射水平野との接点に位置する。

北陸新幹線建設に先立ち、平成21・22年度に発掘調査が行われ、大規模な貝塚とともに、埋葬人骨や竪穴住居などが出土している。

貝殻のカルシウム成分によって、土壌がアルカリ性を保ち、通常の遺跡では酸性土壌で腐ったり、溶けてなくなったりしてしまうような骨、木器などが残る。

古の人たちの暮らしぶりを伝えるタイムカプセルといってもいいようだ。


小竹貝塚は、約6,750〜5,530年前の縄文時代前期の貝塚で、約1,220年間にわたって形成された。

遺跡範囲は東西約150m、南北約200m。

埋葬人骨(墓域)、貝層(廃棄域)、板敷遺構(生産・加工域)、竪穴住居(居住域)の区域分けがされていた。

貝層では、ヤマトシジミを主とする貝が最大で約2m堆積していた。


墓地として使用されていた貝塚で見つかった人骨は91体と、他に例を見ない数だ。

そのうち、男性は35体、女性は18体で、残りは性別不明だった。

死亡時の年齢をみると、10代後半から20代の若い男性、生まれたばかりの子どもが多く、厳しい生活環境だったことをうかがわせる。

身長を推定できる人骨は男性22体、女性7体あり、男性では165cm以上の、当時としては高身長の人もいれば、154cm前後の低身長の人もいた。

女性の平均身長は、縄文時代後・晩期の平均推定身長と同じ148cmだった。

 国立科学博物館人類研究部が人骨の細胞の中にあるミトコンドリアDNA(遺伝子情報)を分析したところ、小竹縄文人はロシアのバイカル湖周辺や北海道縄文人に多い北方系と、東南アジアから中国南部に見られる南方系の2系統が混在することがわかった。

縄文時代中期以降の系統と遺伝的なつながりを確認することもできた。

一方、渡来系の弥生人や現代の日本人に多い型は見られなかった。

人骨のさらなる研究により、縄文人がどこから来たのか、ルーツ解明が期待される。


小竹貝塚からは、埋葬されたとみられるイヌが21体見つかり、縄文人の墓のそばに丁寧に葬られていた。

狩猟犬、愛玩犬として縄文人と一緒に生活し、丁寧に扱われていたことを示している。

現代のようにペットとしてイヌを可愛がっていたとは驚き。愛犬と仲良く暮らす縄文人の様子が目に浮かんできそうだ。


縄文土器・土製品は約13トン分が出土。

関東地方や近畿地方、東北地方で作られたとみられる土器があり、他地域との交流を物語っている。

石器は約10,000点出土しており、糸魚川周辺で採取されたとみられるヒスイを使った作りかけのペンダントが発見されている。

縄文時代前期のヒスイ製品としては国内で最古級だ。

骨角貝製品(こっかくかいせいひん)では、釣針、刺突具(しとつぐ)、針、装身具など約2,300点が出土。

装身具の中には、九州や伊豆諸島以南でしか採取できないオオツタノハという貝で作られた貝輪1点が見つかった。

太平洋沿岸の縄文遺跡では見つかっているが、日本海側では初めて。

ブレスレットとして、現代人が身に付けてもいいほど、素敵なデザインだ。

縄文時代にすでに釣針や針、ブレスレットやイヤリングが作られていたとは驚き。形も現代のものと大差ない。

タイの歯が象嵌(ぞうがん)された漆製品もあり、縄文人の工芸の技を垣間見ることができる。

当時の女性たちもお洒落をしていたと思うと、親近感も湧いてくる。


富山県文化振興財団 埋蔵文化財調査事務所では、

「小竹貝塚では、南方系と北方系にルーツを持つ人たちが一緒に暮らしていたことがDNA分析から明らかになった。日本海側の真ん中に位置するからだろうか。縄文人を語るうえで欠くことのできない重要な遺跡だ。
また、広範囲の地域との交流を物語る品々が出土した。日本海側の他の地域の遺物と比較し、小竹貝塚の特徴をより調べていきたい」

と話している。


wikipedia「白保竿根田原洞穴遺跡」より

白保竿根田原洞穴遺跡(しらほさおねたばるどうけついせき)は、沖縄県石垣市(八重山列島石垣島)にある旧石器時代から断続的に続く複合遺跡である。

新石垣空港建設前まで、同地はゴルフ場内にあたり盛土されていたため、地下にこのような洞穴があることは、把握されていなかった。

長大な洞穴の洞口が最初に見つかった、白保側(現在の遺跡の場所よりも北側)の小字名がそのまま遺跡名として利用されている現状がある。

白保竿根田原洞穴遺跡は2007年に新石垣空港予定地で見つかった遺跡で、NPO法人沖縄鍾乳洞協会によって、洞穴内から人間の頭、脚、腕などの骨9点が発見された。

このうち、状態のよい6点について同協会、沖縄県立埋蔵文化財センター、 琉球大学、東京大学等の専門家チームが放射性炭素年代測定を行ったところ、

そのうちの1点の20代-30代の男性の頭骨片(左頭頂骨)が約2万年前、他に2点も約1万8千年前及び約1万5千年前のものと確認された。

さらに国立科学博物館が、これらの人骨10点の母系の祖先を知る手掛かりとなるミトコンドリアDNA分析した結果、国内最古の人骨(約2万-1万年前)とされた4点のうち、2点はハプログループM7aと呼ばれる南方系由来のDNAタイプであることが明らかとなった。

これまで、直接測定による日本国内最古の人骨は、静岡県浜北区の根堅洞窟で発見された浜北人の約1万4千年前であった。

なお、人骨そのものではなく、周辺の炭化物などから測定した日本国内最古の人骨は沖縄県那覇市山下町第一洞穴で1968年に発見された山下町洞穴人の約3万2千年前のものである。

https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/941b806ea44637d99bde4969c991b1c8

173. 中川隆[-11786] koaQ7Jey 2019年2月28日 12:05:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[195] 報告

第109回 二宮報徳会 A-2宮脇淳子先生講演
中編「かわいそうな歴史の国の中国人」2015.7.26 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=jyAe4tRrue4


に出て来ますが

華南では川を江と書く

華北では川を河と書く

朝鮮では川を江と書く

つまり、朝鮮の稲作文化は長江の稲作民の文化が山東半島から朝鮮西岸沿いに海路を伝わったもの

弥生文化も朝鮮から伝わったものではなく、山東半島から朝鮮西岸沿いに海路を伝わったもの


174. 中川隆[-11748] koaQ7Jey 2019年3月02日 10:29:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[233] 報告

h2t********さん 2015/9/23 13:55:56.
東山天皇のy染色体がD1b系統に属するという記事を目にしたのですが、出典が見つかりません。

ガセなのでしょうか?
それとも、本当に何かの論文に記載されていた記事なのでしょうか?

後者の場合は詳しい出典含めて教えて下さい。


ベストアンサーに選ばれた回答
zev********さん 2015/9/24 00:43:12

ガセネタでしょう。
そもそも、皇室の方々はDNA情報なんて、公開してませんので。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q12150648267

_____


tuo********さん 2014/8/23 23:31:16.

天皇家の遺伝子D1bはものすごい繁殖しているんです。
それに反論できない。ので、わたしも困っているのです。
具体的には、(D1b−M125)のY染色体遺伝子です。
重要なことです。

歴史の真実を知らなければならない。


ベストアンサーに選ばれた回答
hea********さん 2014/8/23 23:54:22.

天皇家のY染色体のタイプがD1bだというのはネットの情報ですね。
これは全くの捏造ですよ。
誰も天皇家のY染色体のタイプなんか知りません。
もし調べた人がいるとしたら、どのように調べたのか興味ありますね。
でも、ある意味怖い気もします。
https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q10134574290

175. 中川隆[-11747] koaQ7Jey 2019年3月02日 10:30:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[234] 報告

2013年02月18日
◆ 伏見宮で男系維持は不可能

 (旧宮家再興で)男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。しかしそれは不可能だ。そこで得られるY染色体は、天皇家のY染色体ではなく、間男のY染色体である。

 ──
 
 男系維持による皇位継承を実現しよう、という見解がある。たとえば、安倍首相がそうだ。

 《 「女性宮家」白紙に=安倍首相 》
 安倍晋三首相は8日夜のBSフジの番組で、野田前政権が検討した「女性宮家」構想について、「皇統の継承は男系でつないでいくと皇室典範に書いてあり、女性宮家はそういう役割を担うことができない」と指摘した。その上で「もう一度じっくりと見直しをしていかなければならない」と述べ、白紙に戻す考えを示した。
( → 時事通信 2013/02/09 )


 ここで、男系維持というのは、具体的には、旧宮家再興、つまり、伏見宮の系統を復活させることを意味する。

 では、伏見宮の系統とは、何か? 具体的には、次の系統だ。

  → 伏見宮系図
http://www.eonet.ne.jp/~yanaken/miyasama/keizu2.htm


 この系図を見ると、興味深いことに気づく。

  ・ 現存する男子は、非常にたくさんいる。
  ・ 現存する男子は、すべて邦家親王の子孫である。
  ・ 邦家親王は、息子の数が多かった。
  ・ 邦家親王の子孫も、代々、男子が多かった。
  ・ 邦家親王の父である貞敬親王は、女子が多かった。 女子も男子も多かった。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。


伏見宮邦家親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E9%82%A6%E5%AE%B6%E8%A6%AA%E7%8E%8B

伏見宮貞敬親王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E5%AE%AE%E8%B2%9E%E6%95%AC%E8%A6%AA%E7%8E%8B


  
 以上をまとめると、次のようになる。

 「伏見家は、貞敬親王以前 よりも前は、代々、男子が少なかった。ところが、その子である邦家 貞敬親王は、息子の数が多かった。また、その子孫も、代々、子孫が多かった」
 
 つまり、Y染色体の傾向から言うと、次の二つに分類される。

  ・ 貞敬親王以前 よりも前 …… 代々、男子が少なかった
  ・ 邦家 貞敬親王以後 …… 代々、男子が多かった

 このように、Y染色体の傾向がまったくといっていいほど正反対である。このことは、「Y染色体は代々引き継がれる」ということと矛盾する。

 一方、次の事実がある。

 「現在の皇室の系統は、代々、男子の数が少なかった」

 このことは、現存の皇室の顔ぶれを見るだけでもわかる。

  → 皇室の構成図 - 宮内庁
http://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/koseizu.html

 
 浩宮・礼宮の世代では、男子が2名で、女子が5名(皇籍離脱した紀宮を含めれば6名)だ。

 その次の世代では、男子が1名で、女子が3名だ。

 また、大正天皇は、本人がもともと虚弱だった。

 明治天皇は、十分に健康な男子をもうけることができなかった。第1皇子は死産。第2皇子は11歳で夭折。第3皇子は大正天皇だが、虚弱体質だった。また、第1皇女は死産。第2皇女は11歳で夭折。その他、第10皇女までいたのだが、やたらと女だらけで、健康な男子は一人も産まれなかった。(子女の数が多いのは側室がいたから。
→ Wikipedia )
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%98%8E%E6%B2%BB%E5%A4%A9%E7%9A%87#.E7.9A.87.E5.AD.90.E5.A5.B3


 ──

 以上をまとめると、次のように言える。

  ・ 現在の天皇の系統は、代々、男子の数が少ない。
  ・ 貞敬親王以前 よりも前の伏見宮も、代々、男子の数が少ない。
  ・ 邦家 貞敬親王以後の伏見宮は、代々、男子の数が多い。

 このことから、次のように推定できる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった」

 一方、生物学的に、次の事実がある。

 「突然変異というものは、ほとんどが、不利な形質を帯びる。有利な突然変異というものは、百万回に1回、または、それ以下である。ごく稀な例外を除いて、有利な突然変異というものは起こらない」

 この二つを合わせて考えると、次の結論となる。

 「邦家 貞敬親王の時点で、Y染色体に、大規模な変化が起こった。それはほとんど突然変異といっても良いくらいの、大規模な変化であった。しかるに、それは突然変異ではなかった」

 このことから得られる結論は、一つだけだ。

 「邦家 貞敬親王のY染色体は、天皇家の代々続くY染色体ではなくて、外部からもたらされたものである」

 要するに、そのY染色体は、邦家 貞敬親王の親のY染色体ではなく、邦家 貞敬親王の親の間男のY染色体なのだ。(推定)

 そして、そのY染色体が、現在の伏見宮家に広範にひろがっている。つまり、伏見宮家のY染色体はすべて、邦家 貞敬親王の親(貞敬 邦ョ親王)の間男のY染色体なのだ。

 そして、安倍首相の言うように、伏見宮家から天皇を出すとしたら、それは、天皇の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということではなくて、間男の血筋を引き継ぐ男子が天皇になるということなのである。

 つまり、日本の天皇は、間男の子孫に乗っ取られてしまうわけだ。

 ──

 ここまで読んで、疑問に思う人がいるだろう。次のように。

 「宮家ともあろうものが、間男の存在を許すはずがない。宮家の妻があっさりと不倫をするはずがない。また、その機会もなかったはずだ」

 これはその通り。にもかかわらず、現実には間男がいた。とすれば、論理的には、次の結論しかありえない。

 「間男の存在は、宮家の当主(貞敬 邦ョ親王)の公認の下でなされた」

 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王には、どうしても間男の子を生ませる必要があった」
 
 これを換言すれば、次のようになる。

 「貞敬 邦ョ親王は、自分には男子ができなかった。このままでは次の世代で宮家廃絶とならざるを得ない。そこで、宮家廃絶を防ぐために、自分の息子ではない男子を、自分の息子であると偽った」

 このように考えると、それの裏付けとなりそうな事実が見つかる。

 (1) 貞敬親王は、1776年に生まれて、1811年に結婚した。
 (2) その子である邦家親王は、1802年に生まれた。
 (3) 邦家親王は、1817年に、光格天皇の猶子となり親王宣下を受けた。

 つまり、貞敬親王は 1811年に結婚したが、次世代に当たる邦家親王は、正妻の子ではなくて、結婚の9年前に生まれた子である。その邦家親王は、当初は(親王宣下を受けていないので)親王の地位を得ていなかった。15歳のときになって(つまり父親が結婚してから6年もたってから)親王の地位を得た。そのとき、父親である貞敬親王は、41歳になっていた。

 このような経緯は、かなり異例である。

 
 では、どうしてこういうことになったのか? もっとも有力な説は、次のことだろう。

 「貞敬親王は、35歳のときに結婚して、多くの女子をもうけたが、男子はできなかった。そこで男子が生まれない場合を考慮して、他の男の息子である邦家親王を(本当は自分の子ではないのに)自分の子であると偽って、親王宣下を受けさせた。

 そのまま年数がたったが、女子ができるだけで、もう一人の男子はどうしてもできなかった。

 そのあと、邦家親王に万一の事態が起こった場合に備えて、第2皇子としての守脩親王を(親王宣下のもとで)息子にした。ただしこちらは、邦家親王とは父親が異なるので、Y染色体は虚弱であり、男子を残すことはできなかった」

 ──
     ※ 以下が正しい。

 なお、もう一つ、別の仮説もある。それは、その一世代前に間男がいた、という仮説だ。

 そもそも、貞敬親王の父親である邦頼親王は、1733年に誕生し、1787年に 54歳で結婚した。その息子である貞敬親王は、父が 43歳のときに誕生したことになる。父が未婚の状態で。

 これもまたかなり不自然だ。とすれば、貞敬親王そのものが、邦頼親王の息子ではない可能性も、十分にある。(邦頼親王に間男がいて、その間男の息子が貞敬親王だ、というわけ。)

 もしそうだとすると、貞敬親王の息子である邦家親王は、間男の息子の、そのまた間男の息子だ、ということになる。(ニセ嫡出子の、そのまたニセ嫡出子。)


《 公式の歴史 》 
   邦頼親王 ── 貞敬親王 ── 邦家親王 ── 男子多数

《 裏の歴史 》 
   邦頼親王 ……(断絶)
    間男  ── 貞敬親王 ……(断絶)
           間男  ── 邦家親王 ── 男子多数
 

 ともあれ、こうして、最後には間男のY染色体から、「男子多数」が誕生した。それが今の伏見宮家の、多数の男子である。

 そして、安倍首相の方針に従えば、そこから将来の天皇が誕生することになる。つまり、間男の系統が、日本の天皇の血統となるのである。


 [ 付記1 ]

 上記の話を読んで、右翼が「けしからん! 皇室を冒涜している!」と思うかもしれないが、勘違いしないでほしい。

 そもそも、伏見宮家は、正統的な皇室ではない。傍系の宮家にすぎない。傍系の宮家を冒涜したとしても、それは正統的な皇室を冒涜したことにはならない。
 また、私は心情的に、皇室を冒涜したいわけじゃない。むしろ、正統的な皇室の純粋性を守るために、間男の血統がまぎれこむことを阻止しているのだ。
 私の言説に反対する人々は、天皇家が間男に乗っ取られることを目的とする人々であり、北朝鮮のスパイだろう。


 [ 付記2 ]
 本項の見解を、「ただの仮説だろう」と見なす人もいるだろう。
 なるほど、現段階では、ただの仮説にすぎない。しかし、これは実証可能な仮説だ。実証するためには、次のことをすればいい。

 「現在の皇室の男子(浩宮・礼宮・天皇など)のY染色体と、伏見宮家の男子のY染色体を、DNA検査する。Y染色体のハプロタイプを調べることによって、同一の系統かどうかを確認する」
 
 つまり、DNA検査をすれば、伏見宮家の男子が、皇室の系統を引くか、間男の系統を引くかが、はっきりとする。
 特に、次のようになる可能性が大きい。

 「伏見宮家の男子は、いずれも同一の系統に属するが、現在の皇室の系統とはまったく異なる」

 この場合には、次のように結論できる。

 「伏見宮家の男子は、邦家親王(または貞敬親王)の段階で、外部の男子の血統(Y染色体)に乗っ取られた」

 こういう結論が出る可能性が高い。
 
 それゆえ、DNA検査をすることを、私としてはお勧めする。そのことによって、次のことが判明するはずだ。

 「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」

 ま、このことが判明したら、大スキャンダルになる。だから、実際には、この DNA 検査はなされないだろう。逆に言えば、この DNA 検査がなされないことで、「伏見宮家は、皇室の血統を引き継いでいない」ということが、暗黙裏に信じられるのである。
( ※ 状況証拠はたっぷりだ。それが本項に記してある。)
  
 ついでだが、私の説に反対する人は、やはり、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。検査をすれば、伏見宮家が皇室の正当な後継者であることを、証明できるだろう。(もしそれが事実であれば、の話だが。)……だから、それが事実であると信じる人は、「 DNA検査をしよう」と主張するべきだ。


   
 [ 付記3 ]
 伏見宮家の人々自身が、皇室への復帰を いやがっているそうだ。孫引きで引用しよう。

 男系維持派は、これまで旧皇族を復帰させるだ何だ言いながら、その男系男子の候補を挙げなかった。4人いるというヤツが多かったが、誰ひとり、誰なのかを言わなかった。

 そんな中、しびれを切らした週刊新潮が、候補として8人の男系男子を挙げた。竹田家から皇室評論家で有名な竹田恒泰(36)とプロゲーマーの竹田恒昭(32)の2名、賀陽家から16歳と14歳の2名、東久邇家から当主系の2歳男子1名、次男家系の4歳と2歳の2名、三男系の8歳1名である。

 賀陽家と東久邇家の人たちは、自分の子供が候補になることについてどうかと訊かれ、「とんでもない話だ」と答えている。

 当たり前の話だ。そもそも、候補である本人たちの意見もなしに、周りの外野がごちゃごちゃ言うことの方がおかしい。
( → 転載ブログ )


 [ 付記4 ]
 本項の裏付けとなる傍証が、もう一つ見つかった。つぎのことだ。

 「邦家親王は、1802年に誕生して、15歳のとき(1817年)に親王宣下を受けたが、1816年には 14歳にしてすでに第1子をもうけている」

 これはきわめて異例なことだ。その親も祖父もかなり高齢になってから子供をもうけたのに、邦家親王はまだ中学生と言っていいぐらいの時期において子供をもうけた。しかも、その後で、親王宣下を受けている。

 ここから推測すれば、次のようになる。

 「邦家親王は、男子をもうける能力があることが証明・確認されたあとで、親王宣下を受けて、皇室に入った」

 親の貞敬親王としては、自分の代で宮家が廃絶することを何よりも恐れていたのだろう。とはいえ、何か対策をしても、次の世代で廃絶するのでは、元も子もない。そこで、次の世代がさらに次の世代を埋めることを確認したあとで、次の世代である邦家親王を自分の子として扱うことにしたのだろう。

 こう考えれば、14歳で第1子をもうけたという(やや)不自然さも納得できる。そもそも、伏見宮は、皇室の直系ではないし、そこから天皇が出るわけでもない。なのにどうしてそれほどにも若いときから淫乱な道を息子に取らせたのかと言えば、宮家廃絶の恐怖が強かったからなのだろう。貞敬親王は、自分には男子ができなかったがゆえに、息子にした邦家親王には、14歳のときから多くの側室を与えて、淫乱な道に進ませたのだろう。多くの美女をはべらせて。
http://openblog.seesaa.net/article/435849777.html

176. 中川隆[-11728] koaQ7Jey 2019年3月03日 22:39:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[255] 報告

<青谷上寺地遺跡>人骨の一部 渡来×縄文系

DNAの解析結果について説明する篠田副館長(右、鳥取市尚徳町で)
 

弥生後期 国立科学博など解析


 鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で出土した弥生時代後期の人骨の一部は、母親が大陸にルーツを持つ渡来系、父親が日本在来の縄文系だったことが分かった。

2種類のデオキシリボ核酸(DNA)を解析した国立科学博物館や県埋蔵文化財センターなどが2日、同市尚徳町のとりぎん文化会館でのシンポジウムで発表した。当時は大陸との間で人の交流が盛んだったことを示すという。

 DNAは、細胞の核にある染色体と、細胞質内のミトコンドリアにそれぞれ含まれており、中でも男性が持つ「Y染色体」は父親から、ミトコンドリアは母親から受け継がれる性質がある。

同博物館の篠田謙一副館長らは昨年、遺跡で見つかった32人分の骨からミトコンドリアDNAを抽出。配列を調べ、31人が渡来系、1人が縄文系であることを突き止めた。

 今年はさらに、渡来系31人のうち、保存状態の良い6人についてY染色体のDNAを解析した。その結果、Y染色体が抽出できた4人中、3人は縄文系で、渡来系は1人だった。

 3人の母親は大陸から日本に渡ってから日本の男性と結婚したか、大陸で日本の男性と結婚後に渡来した可能性があるという。

今後は分析する個体数を増やすなどしてルーツを詳細に調べる計画で、篠田副館長は「人口の増減や混血の状況、個体の特徴などを明らかにしたい」としている。

177. 中川隆[-11075] koaQ7Jey 2019年3月29日 20:14:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[946] 報告
皇族初夜の儀式「三箇夜餅の儀」 _ 朝鮮半島由来のシルトックという餅を使う儀式


厳かに執り行われる皇族の初夜。神武天皇の染色体だか遺伝子だかは、こうして受け継がれていった…


皇族初夜の儀式は束帯と十二単の正式な衣装をまとって宮中三殿の賢所で行う「賢所大前の儀」や、親と子の杯を交わす「朝見の儀」ら、一連の結婚の儀をとどこおりなく終えると初夜を迎えるための準備「入浴潔斎の儀」を行う。

簡単に言えば、風呂に入って身を清めるということだが、花嫁は巫女と呼ばれる女官[正式には神社の娘(処女)だが、実際は皇族に仕える中高年の女性が大半]と一緒に入浴する。

浴室に入ると花嫁は、仁王立ちのまま一切自分の体に手を触れてはならず、巫女が服を脱がせ、体の隅々まで洗う。

隅々というからには外側から触れることのできる内部(耳・口・鼻からアソコ・肛門など)にも手指を入れて清める。

これは暗に花嫁の生殖機能を確かめる意味合いも併せ持つと言われている。

ちなみに花婿も巫女と一緒に入浴し、同様に体を清めてもらうのだが、この時の巫女は花婿にとってみそぎ相手でもあり、すでに生殖機能については確認済みということになる。

みそぎとはつまり筆おろしの意。これは皇族代々の風習で、皇族の直系男子は年頃(15歳から18歳)になるとみそぎを済ませる。正式にはみそぎの段取りを教え込まれた巫女、つまり性技に長けた処女がお相手を務めるが、実際は経験豊富な熟女の女官になる。

入浴潔斎の儀を終えると「初夜装束」と呼ばれる白い着物に着替えて(その下には一切下着をつけない)いよいよ初夜の床入り。これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、平安の時代から続く伝統的な儀式である。

まず、花嫁の歳の数だけの白餅を用意し、四枚の銀盤に乗せる。これを子宝に恵まれた老夫婦(主に子供のいる侍従上がりの人間)が初夜の寝床に運んで供える。新婚夫婦はこの餅をひとつずつ食べてから行為に及ぶ。元々は3日間繰り返すものであったが、近代は初夜のみとされる。要するに初めてのセックスで子宝に恵まれるよう霊力を与える儀式ということらしい。

さらに特筆すべきは、以上の儀式には夫と妻、それぞれの身分を保証する、一組の男女が介添人(仲人夫婦にあたる立場の人で部屋の隅で行為の一部始終を見届ける)として立ち会っていることと、儀式が終了した(性行為を終えた)ということを知らせる露見という、お披露目する点である。

露見とは、寝所の扉を開け壁代と呼ばれる衝立を外し、寝具の上に並んで座る夫婦の姿を廊下で待っていた親族に見せ、行為終了後は再び初夜装束に着替え、寝具(厚手の布団)の掛け布団を外しシーツに処女の証である血がついているところを見せるのが正式な方法である。

さらに皇族には「一世一代の秘事口伝」なるものがある。これは代々の帝が口頭で直接申し送りするもので…その中にはセックスに関する風習も多く含まれており初夜の段取りから作法、体位、出産しない時期の避妊法などが伝えられている。

この儀式、少なくとも大正天皇までは行われていただろうと推測される。それにしても、一般人にとっては驚愕の事ばかりだ。他人に初夜の一部始終を見てもらい、終いには「血のついたシーツ」を見せなければならない。

何れにしても、穢れを基本とした内容は、朝鮮半島からの影響が大きいと思われる。


歴代天皇で妾が一番多いのは、嵯峨天皇で29人。毎日違う女性を相手しても1ヶ月かかる。以下、桓武天皇が26人、清和天皇が25人、亀山天皇が21人、後醍醐天皇が20人となっている。金正日の喜び隊なみなのだ。
http://anarchist.seesaa.net/article/11013180.html


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皇族の性処理はタブー?天皇のセックス事情 2018年12月18日
https://thepartner.jp/3114


最近、小室圭さんと眞子様の婚約発表&延期や、新たな元号の発表でも話題の皇室。外からはうかがい知ることのできない世界ですが、そんな世界だからこそ気になってしまうの皇族のセックス事情。

天皇の初夜の迎え方や、やり方に関して特別なルールがあると言いますが、実際の所どうなのでしょうか。今回は、皇族のセックス・性処理事情について、歴史を踏まえて解説していきます。


天皇のセックスに関するしきたり

皇族には、代々の天皇から口頭で直接セックスに関する申し送りをするしきたりがあると言われています。これには皇室ならではのセックスに関する風習などが多く含まれており、初夜の作法、体位、出産しない時期の避妊法など多岐にわたります。

結婚をして、初夜を迎える者に対して代々申し伝えられているという仕組みです。こうした儀式・しきたりは、主に大正天皇の時代まで続けられていたと言われており、形式に変化はありつつも長い歴史の間続けられてきたと考えられています。

巫女の存在

こうしたしきたりの中でも重要な存在が、巫女です。皇室には巫女と呼ばれる女官が存在し、性において重要な役割を果たしてきました。女官は皇族の世話をおこなう女性たちのことで、性に関するものを含め多岐にわたる領域で役割を担ってきました。

皇室のセックスにおいては、巫女が重要な役割を果たしてきたと言われていますが、たとえば皇族の初夜において巫女がともに入浴するなど、数々の儀式において側には巫女がいたようです。

では、こうした儀式について見ていきましょう。

皇族の初夜の迎え方

皇族のセックスは巫女が手助けしますが、そのための準備や作法など、皇族の初夜はやらなければいけないことがたくさんあります。

初夜の床入りの際に白餅を用意しなければならなかったり、花婿と花嫁、巫女の3人で入浴をする入浴潔斎の儀など、皇族ではない私たちにとっては耳慣れないものばかり。

みそぎ

みそぎは皇室代々の風習で、皇族の直系男子である皇太子が、年頃(15歳から18歳頃)になると、性技に長けた巫女から性に関する技術を学ぶものです。

いわるゆる筆おろしの行為であり、このみそぎを担当した女官が巫女として、皇室男子の花婿とともに入浴をします。

入浴潔斎の儀

この入浴のことを、入浴潔斎(にゅうよくけっさい)の儀と呼びます。巫女とともに風呂に入り、体中を清めてもらいます。この際、花嫁も花婿も巫女とともに入浴すると言われています。

すでに述べた通り、ここで入浴する巫女はみそぎにおいて花婿に性に関する手ほどきをしており、花婿の生殖機能を確認しています。皇室にとって家系を途絶えさせないことは重要な役割のため、入浴潔斎の儀よりも前にみそぎを済まして、生殖機能に問題がないことを確認していることが大事なのです。

初夜装束を身につける

その後、花婿と花嫁は初夜を迎えますが、この時に初夜装束と呼ばれる着物を身に着けます。これは入浴潔斎の儀をすませた花嫁花婿が、初夜のために着る白い着物のことです。

この着物にはその下には一切何も下着をつけないと言われています。

初夜の床入り

いよいよ初夜の床入りですが、これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、初夜の床入りの際には白餅を用意します。

花嫁花婿はこの白餅を食べあうことで、初めてのセックスで子宝に恵まれるように霊力を与えることが願われます。

露見

床入りをへてセックスに至りますが、この際には介添人が、花嫁花婿のセックスの場に立ち会い、一部始終を見届けます。

またセックスが終わったあとは、寝所の扉を開けて、壁代と呼ばれる衝立を外し、寝具の上に並んで寝ている夫婦のシーツに処女の証である血がついているところを確認する役目も果たします。

現在の皇室におけるセックス事情は?

以上、皇室に代々伝わるセックスに関する話を紹介しました。皇室のセックスにおいては、巫女含めて3人で入浴をしたり、他人にセックスを見届けられなければいけなかったりと、一般人には驚きのしきたりが数多くあります。

もちろんこれらの儀式は、歴史的な皇室においておこなわれてたきもので、現在の天皇家において、どの程度まで続けられているかは不明です。一般的に、明治・大正天皇の時代までは儀式が重んじられていたと言われていますが、一部の儀式については現在も残っている可能性もあります。

ただし、人権意識が高まった現在においては、こうした儀式が天皇や皇室にとって負担になっている事実もあり、SPがついていたり、日々の行動が制限されているとはいえ、皇室や天皇も普通の人と同じような生活をすることが目指されていることから、あくまでも歴史的なセックスの儀式・しきたりだと考えていた方が良さそうです。
https://thepartner.jp/3114

▲△▽▼


>花嫁の歳の数だけの白餅を用意し、四枚の銀盤に乗せる。これを子宝に恵まれた老夫婦(主に子供のいる侍従上がりの人間)が初夜の寝床に運んで供える。

>新婚夫婦はこの餅をひとつずつ食べてから行為に及ぶ。

>いよいよ初夜の床入りですが、これは「三箇夜餅の儀」とも呼ばれ、初夜の床入りの際には白餅を用意します。

>花嫁花婿はこの白餅を食べあうことで、初めてのセックスで子宝に恵まれるように霊力を与えることが願われます。

昔、三宅さんから聞いた話 2012-11-16
あのころは、三宅さんに、竹村健一さん、飯島清さんが、


テレビで活躍中だった。


空港まで車で三宅さんを迎えに行った。


高速道路を走りながら車中で、


昭和天皇の話になった。


三宅さんが、日本史の江上波夫さんから聞いた話だと。


あの騎馬民族説の江上さんですね。


そう。


天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが、


昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。


と答えられたと。


三宅さんは続けて、これはいまわれわれが普通に食べている、


もち米からの餅ではなくて、うるち米からつくる。


現在、文化庁は皇室の先祖の古墳を、保存という名目で閉鎖し公開してない。
古墳を公開すると、天皇家のルーツがはっきりするためだ。
と教えてくれた。


昭和天皇ゆかりの話をしたかったようだ。


いま、あのときの顔を思い出しています。


三宅さん、歯切れのいい話で、


日本の左傾化に歯止めを掛けていた。


やすらかにお眠りくださいますように。
https://blog.goo.ne.jp/akirakasan/e/a6f887959603d8e10b513314716d3643

178. 中川隆[-11066] koaQ7Jey 2019年3月30日 07:49:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[955] 報告

天皇陛下との晩餐で、歴史学者の江上波夫さんが昭和天皇に質問したそうだ。
陛下は、オフレコならばと前置きして答えられたそうだ。

Q:先祖は、どこから来たものだと思われますか?

A:朝鮮半島だと思う。

Q:どうしてそう思われますか?

A:皇室の重要な行事のなかで、お供えするもので、シルトックという餅がある。
これが、朝鮮半島由来のものだから、そう思います。


と答えられた。


▲△▽▼


みぽりんの韓国歳時記
シルトック ー古代のお餅ー
http://www.geocities.co.jp/SweetHome/6347/c3.html


近所の市場に、キムチや塩を貯蔵するときに使う瓶を買いに行った時のことです。買い物を済ませてから、そこら辺に並べてある、壺や植木鉢も見物していたのですが、何やら植木鉢のように見える焼き物を発見しました。というのは見た目には植木鉢そっくりなのですが、底の穴が1個ではなく、3個くらいあるのです。

「パンジーを植えたらぴったりだけど、これでは土や小石が水と一緒に流れ出てしまう。一体これは何かしら。」と数ヶ月間考えたのですが、ある日女性雑誌に「シルを使って作るお餅」という特集を見つけました。そしてこの底にボコボコと穴の開いている器が、植木鉢ではなく、「シルトック」という名前のお餅を作るときに使う道具「シル」だということが分かったのです。  

シルトックはこの「シル」の底に、「シルミッ」という底敷きをひき、その上にうるち米の粉を入れて、底の穴を通して上がってくる、高温の蒸気で蒸して作るお餅です。紀元前の青銅器時代の住居跡からも「シル」が出土していて、韓国の最古のお餅と言っても過言ではないと思います。

ーいろいろなシルトックー  

さて一口にシルトックと言っても、歴史が長いだけあって、バラエティーに富んでいて、作る人やお店によっても千差万別、何種類あるのか分からないくらいです。さすが古代のお餅はすごいな、と感嘆してしまいます。   

まずはシルトックの代表格、「ベクソルギ(白雪肌)」。
うるち米の粉に少量の水と白砂糖を交ぜて作るので、出来上がったお餅が真っ白なところから、この名前が付きました。でもいくら上手に作っても、あまりお勧めできる味にはなりません。主材料がお米の粉と砂糖だけなのですから、それも当然のことでしょう。

子供の百日祝いや、一歳の誕生日には欠かせないお餅なのですが、まるで白いブロックの山のように、積み上げられたベクソルギは、食用と言うよりも観賞用で、食欲がグッと落ちてしまいます。

次は、ぱさぱさに煮た小豆とお米の粉を、サンドイッチの様に交互に入れて作るパッシルトック(パッは小豆のこと)です。

普通シルトックと言ったら、これを指すくらい有名で、シルトックの代名詞ようになっています。特にお店の開店祝いには欠かせないお餅なのですが、これも味の方は今一歩で、「あの美味しくない小豆のお餅。。。」などと悪口を言われている、悪名高きお餅です。

5色や7色に見事に層を作ったムジゲトック(ムジゲは虹)も、お祝いの席ではとても人気のお餅ですが、見た目ほど美味しくないのが難点です。今度こそ美味しいはずだと、期待して食べて、失望してしまった人は私だけではないはずです。  

さてシルトックも栗やナツメ、干しぶどう、ユズの砂糖付けなどがたっぷり入ったザッカビョン(雑果餅)や、ヨモギの粉を混ぜて作ったスッkトック(スッkはヨモギの意味)、カボチャ入りのホバクトック(ホバクはカボチャのこと)など、盛りだくさんに具をミックスしたものは非常に美味です。ただどれも出来損ないの蒸しパンのように、口当たりが、ぼそぼそがさがさとしていて、手放しで誉めまくれないのが残念なところです。そして昔ながらのシルトックは、「うっ!何だこれは」の一言で終わってしまう。う〜ん。苦しいところですね。
http://www.geocities.co.jp/SweetHome/6347/c3.html

179. 中川隆[-11062] koaQ7Jey 2019年3月30日 13:14:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[961] 報告

蘇我氏のルーツは渡来人? “古代の大悪人”か時代の変革者か 2018.8.7
https://www.sankei.com/west/news/180807/wst1808070003-n1.html


蘇我蝦夷の墓ともいわれる小山田古墳。墳丘の周囲は石が敷き詰められていた=奈良県明日香村(甘利慈撮影)

https://www.sankei.com/west/news/180807/wst1808070003-n1.html


 「大化の改新」として覚えている方も多いだろう。古代史最大のクーデター、乙巳(いっし)の変(645年)。蘇我入鹿(そがのいるか)が暗殺され、本家が滅亡した蘇我氏。奈良県明日香村では平成27年、この政変で自害に追い込まれた入鹿の父、蝦夷(えみし)の墓ともいわれる小山田(こやまだ)古墳が発掘され、蘇我氏の存在がクローズアップされた。一族のルーツは奈良を拠点とした「倭人」というのが学界では有力だが、「朝鮮半島からの渡来人だった」との新説が打ち出された。文楽や浄瑠璃(じょうるり)では古代の大悪人として語られる一方、時代の変革者ともいわれる蘇我氏。果たしてその実像は−。(小畑三秋)



 天皇の外戚として栄華

 渡来人説を唱えるのは、奈良県文化財保存課の坂靖(ばん・やすし)課長補佐。県立橿原考古学研究所の研究員当時は県内の遺跡発掘を長年手がけ、1年近く韓国国立文化財研究所で研修するなど、日韓の考古学に詳しい。

 新著「蘇我氏の古代学」(新泉社)で坂さんは、「蘇我氏の出自を考古学的に検証すると、飛鳥の開発を主導した渡来人にたどりつく」とし、出身地を朝鮮半島南西部の全羅道地域との説を唱える。「飛鳥時代を切り開くうえで歴史的に大きな役割を担った」と話す。

蘇我氏は稲目、馬子、蝦夷、入鹿が有名で「蘇我四代」と呼ばれる。日本書紀で政治の表舞台に最初に登場するのが稲目。第28代、宣化(せんか)天皇の時代に大臣となり、娘の堅塩媛(きたしひめ)を欽明天皇のもとに嫁がせ、のちの用明、推古天皇が生まれたことで外戚として権力基盤を築いた。

 稲目の子の馬子は聖徳太子とともに政治の実権を握り、第32代、崇峻(すしゅん)天皇を暗殺するなど独裁色を強め、蝦夷・入鹿父子の頃に絶頂期を迎えた。2人は自らの邸宅を「宮門(みかど)」、子供らを「王子」と呼ぶなど、天皇なみに振る舞ったという。



 しかし、中大兄皇子(なかのおおえのおうじ=のちの天智天皇)と中臣鎌足(なかとみのかまたり)が、宮殿の儀式の際に天皇の前で入鹿を殺害、邸宅に逃げ帰った蝦夷も自害し蘇我本家は滅亡した。この乙巳の変を機に大化の改新という政治改革が進められ、天皇を中心とする中央集権国家の道を歩むようになった。

 カギは朝鮮半島南西部「全羅道」

 日本書紀は蘇我氏の横暴をことさら強調するが、朝鮮半島から仏教や先進技術を取り入れて国際国家にしようと尽力した立役者だったとする見方が、研究者の間で広がっている。

こうしたなか、文献だけでなく出土遺物から蘇我氏の姿に迫ろうとしたのが坂さん。「蘇我氏の古代学」の「はじめに」では、「文献資料については専門外だが、あえてここでは大胆に考古学と文献資料を結びつけた。結びつけないと蘇我氏は解明できない」と記し、多角的なアプローチを試みた。

 平成16(2004)年の韓国への1年近い研修では、渡来人の出自を研究テーマとし、現地の遺跡や遺物を丹念に調査。韓国と奈良盆地の土器などを比較・研究した結果、明日香村北部を中心とする飛鳥地域では5世紀半ば以降、朝鮮半島南西部の全羅道とそっくりな土器が多いことに着目した。



 飛鳥地域は5世紀頃、ヤマト政権の中心地ではなかったが、全羅道地域から盛んに人々が渡ってきたことが浮かび上がった。坂さんは「5〜6世紀に密接な関係があった百済と倭国をつなぐ役割を果たしたのが、全羅道を拠点にした交易集団。そのなかで、飛鳥に移り住んだのがのちの蘇我氏になった」と推測する。

 “未開の地”を開拓

 飛鳥地域はもともと湿地帯で住みにくく、5世紀ごろまでは開発も進んでいなかった。しかし、こうした不便な土地を与えられた渡来人たちが、大陸の先進技術を生かして開発。経済だけでなく政治的にも実力をつけ、稲目の時代に権力の中枢に入り込んだという。


「渡来人としての技術と生産力を権力の源泉とし、外交でも実力を発揮。新しい時代を萌芽させたのが蘇我氏だった」と坂さん。明日香村で発掘された国内最大級の方墳、小山田古墳(一辺70メートル)こそが、一族の栄華の礎を築いた蝦夷の墓だと推測する。

 ただし、蘇我氏は渡来人ではなく奈良盆地出身の倭人との説は歴史研究者の間では有力だ。第8代・孝元天皇のひ孫の武内宿禰(たけうちのすくね)を祖とするとの伝承があり、明日香村に隣接する奈良県橿原市には曽我町という地名も残り、この一帯が本拠地だったとされる。



 ただし、こうした説を裏付ける根拠は乏しい。坂さんは「出土遺物を通じて出自をたどる研究はほとんどなかった。遺物から見ると、全羅道の可能性が高い」と指摘。「正史としての日本書紀だけでは歴史は分からない。蘇我氏の果たした歴史上の役割を客観的にみる必要がある」と話した。


https://www.sankei.com/west/news/180807/wst1808070003-n1.html

180. 中川隆[-10586] koaQ7Jey 2019年4月26日 11:28:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1487] 報告

縄文人は戦争を誘発する農耕を拒んだ?
4/25(木) 12:43配信 PHP Online 衆知(歴史街道)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20190425-00010000-php_r-pol



縄文人が水田稲作をはじめていた証拠

長い間、弥生時代は「弥生土器を使用した時代」と考えられていた。しかし、考古学の進展によって、この定義が揺らぎつつある。弥生土器=遠賀川式土器の出現と共に、水田稲作が始まったというかつての常識は、もはや通用しなくなったのだ。縄文から弥生時代への移り変わりがグレーゾーンに入った。近年しきりに耳にするのは、「縄文と弥生の境目がわからなくなった」という話である。

縄文土器を使っていたのが縄文時代で、弥生土器を使っていたのが弥生時代と考えているようでは、もはや時代遅れなのだ。土器は技術が伝承され、文化は継続されるのだから、はっきりとした時代区分はできないというのが、すでに常識となりつつある。弥生土器のような縄文土器があるかと思えば、縄文の息吹を感じさせる弥生土器もある。境界線が、じつに曖昧なのだ。

ならば、稲作をはじめた地域から、弥生時代は始まったと言い換えればよいのだろうか。

ところが、稲作をはじめた地域の人間の使う道具が縄文的な香りを残していたりする。いつから、その地域が弥生時代に突入したのかも、線引きが難しくなってきた。だから、「縄文晩期末にすでに稲作は始まっていた」、「いや、稲作が始まった時点で、それはもうすでに弥生時代だから、弥生時代早期と呼ぶべきだ」と、色々な区切り方が生まれてきてしまうのだ。

昭和53年(1978)から翌年に板付遺跡(福岡県福岡市)の調査が行われ、弥生時代をめぐる学説の迷走は始まったのだ。縄文時代晩期と信じられてきた夜臼式土器の時代の遺跡から、水田遺構と木製の鍬、石製の穂積具(石包丁)、炭化したコメ(ジャポニカ)がみつかった。明らかに「縄文人が水田稲作をやっている!!」という、それまでの常識では考えられない事態に、みな戸惑ったのである。発掘に携わった山崎純男は、これを「縄文水田」と、断言した(森岡秀人・中園聡・設楽博己『先史日本を復元する4  稲作伝来』岩波書店)。

水田遺構は、幹線水路、井堰、出水路、排水路、畦畔など、しっかりとしたものだった。

水田から水が流れ落ち、下の段の水田に水を供給するシステムまで、すでに登場していたのだ。水田のあとには、人の足跡が残されていて、福岡県警の鑑識も協力し、身長164センチという、当時にしては高身長だったこともわかった。縄文時代から継承された生活道具で暮らしながら、新来の水田技術を駆使していた様子が浮かび上がってくる。

ちなみに、遺跡のある「板付」は、福岡空港のすぐ脇で、かつてこの空港は板付空港とも呼ばれていた。それはともかく、夜臼式土器は、刻目をもつ突帯文土器で、縄文土器の伝統を継承していた。興味深いのは、戦後すぐ、板付遺跡で板付1式土器が発見されていたこと、その後北部九州では、夜臼式土器と板付1式土器がともに出土する例が多かったが、板付1式土器は、遠賀川式土器の最古の物と位置づけられていたことだ。遠賀川式土器といえば、弥生前期を代表する土器である。

考古学者はこう判断した。夜臼式土器は縄文時代の終わりに、板付1式土器は、弥生時代の始まりに作られた、というのだ。つまり、板付遺跡は、縄文から弥生への過渡期の遺跡ということになろうか。

一方、昭和54年(1979)に、菜畑遺跡(佐賀県唐津市)で夜臼式土器よりも古い、山ノ寺式土器と同時代の水田が出現したのだ(ちなみに、その後、この水田が夜臼・板付1式まで時代が下ると、報告は変更されるのだが)。また、弥生時代前期と見なされていた石器が、出土していた。

昭和55年(1980)には、曲田遺跡(福岡県糸島郡二丈町)の住居跡から、夜臼式土器よりも古い突帯文土器(曲り田式)と共に、大陸系の磨製石器だけではなく、なんと鉄器まで埋まっていたのだ。

縄文晩期から弥生時代中期にかけて、日本の土器が朝鮮半島南部に流れ込んでいたこともわかってきた。釡山市の東三洞貝塚から、九州の縄文土器が大量に発見されてもいる。

北部九州沿岸部に朝鮮半島の土器がもたらされるようになったのは、弥生時代前期後半ごろだ、しかもその規模はわずかで、先住の民の集落の片隅に、渡来系の人びとが、肩を寄せ合って暮らしていたイメージだ。そして、その後、集落の人びとと融合し、同化していったのである。

この結果、縄文時代晩期末と弥生時代前期が、交錯してくることがわかってきたのだ。縄文時代から弥生時代に切り替わったというよりも、少人数の渡来とともに縄文人が水田稲作を受け入れ、次第に、朝鮮半島からもたらされた文化に染まっていったことがわかってきた。


)の土器の表面に、稲籾の圧痕が着いていたのだ。「本当に稲なのか」と、疑われることもあったが、イネ科植物に含まれるケイ酸の化石(プラントオパール)が、縄文後期中ごろの土器の胎土に含まれていたことから、縄文時代の稲作は、確実視されるようになった。ただし、水田ではなく、陸稲だった。また、縄文後期中ごろから、オオムギ、ハトムギ、ヒエ、アワなどの穀物や豆類の圧痕もみつかっている。

また、縄文系と思われていた突帯文土器の時代に、すでに水田稲作が行われていたのは、北部九州沿岸部だけではない。四国、中国、近畿でも、同じように、水田稲作民が登場していたのだ。

穀物を栽培していた縄文後・晩期の西日本の縄文人を、考古学では「園耕民」と呼ぶ。彼らは川の下流部には住まなかった。たとえば稲作がもっとも早い段階に始まった早良平野でも、園耕民は、川の中流、上流で暮らしていた。縄文人は低湿地を好まない。縄文海進によって海面が高かった時代から続く伝統だ。穀物だけではなく、さまざまな手段で食料を調達する園耕民は、川の上流側を選んだ。

ところが、縄文時代の晩期は冷涼多雨で、下流域に稲作に適した低湿地が形成されつつあった。これは偶然なのか、あるいは、この自然条件があったから、縄文人が生業を変えようと決意したのかどうか、よくわからないが、ここで水田稲作が始まったのは間違いない。

この時代の遺跡からは、水田稲作に用いる新たな道具に混じって、縄文人が陸稲栽培に用いた打製の土掘り具が見つかっている。また、食料も、縄文時代以来継承されてきたような、「多彩な食物(イノシシやシカなどの動物、魚貝類、ドングリ)採取がメインで、米食は補完」と考えた方が正確なのだ。2つの生産方式を並行して行っていた。はじめは従来の食料を補完するために、水田稲作を選択したわけである。

ただし、やがて水田の面積は広がり、採集や狩猟は下火になっていくのである。

そしてもう1つ、縄文から弥生への転換期を考える上で大きな意味をもってきたのが、「いつごろ水田稲作を始めたのか」だった。

かつて、弥生時代の始まりは、紀元前300年から、同500年ごろと信じられていた。

このころ、中国大陸では、春秋戦国という大混乱の時代だったのだ。多くの難民が海に逃れ、日本列島に押し寄せて、弥生時代は始まったと信じられていた。ところが、炭素14年代法によって、弥生時代の始まりは紀元前10世紀後半と考えられるようになり、「稲作を選択したのは縄文人だった」という考古学の証言とも、一致してきた。さらに、稲作はゆるやかに東に伝わっていったと考えられるようになった。

考古学者・金関恕(かなせきひろし)は、『弥生文化の成立』(角川選書)の中で、弥生時代の始まりを、次のように総括する。要約しておく。

(1)イネは遅くとも縄文時代後期に日本に伝わり陸稲として栽培されていた。
(2)朝鮮半島南部とは密接な交流があり、縄文人が主体的に必要な文化を取捨選択した。
(3)縄文人と渡来人は当初棲み分けを果たし、在地の縄文人が自主的に新文化を受容した。
(4)まとまった渡来人の移住は、弥生時代初期ではなく、そのあと。

こうして、「渡来人に席巻されて稲作が広まった」というかつての常識は、完ぺきに覆されたのだ。

弥生文化はバケツリレーで広まった?

くどいようだが、炭素14年代法によって、弥生時代の始まりが数百年古くなった。ちなみに、なぜここまで大きく、年代観がずれていたのかというと、炭素14年代法が確立する以前は、土器編年によって、「おおよその年代」を推定していたのだ。つまり、この土器よりもこちらの土器の方が古い、という、「土器が作られた順番」を正確に把握し、それを並べていき、東アジアの土器と比べたり、出土する地層も鑑み、などなどの作業を積み重ね、年代観は「推定」されていたのだ。しかし、世界中の考古学者、史学者が炭素14年代法を認めるようになったため、日本だけが従来の年代観にこだわっていると(こだわりたくなる気持ちもわかるのだが)、世界の年代観と合致しなくなってしまうのだ。

この結果、稲作の急速な普及という前提は、崩れ去った。征服者が押し寄せてきたのではなく、「バケツリレー」という言葉が使われるようになった。そして逆に、なぜ稲作は、一度東への進出を停滞させたのか、という謎が湧きあがってきたのである。

日本の「農耕社会化」は「弥生化」と呼ぶ。小林青樹は、弥生化に時間がかかった理由を、目に見えない「縄文の壁」があって、文化的攻防が勃発していたからだと指摘している(『弥生時代はどう変わるか』学生社)。

どういうことか、説明しておこう。

小林青樹は、縄文人が壁を取り払い、弥生人になるためには、大きな決断が必要であり、また水田稲作をはじめるには、共同作業をするのだから、集団の同意がなければならなかったと指摘する。また、新しい社会の枠組みを構築する必要もあったと、まず前置きをする。

その上で、「縄文の壁」は、6つの地域に存在したという。(1)南島の壁、(2)九州の壁、(3)中国地方と四国の壁、(4)中部の壁、(5)東日本の壁、(6)北海道の壁だ。このうち、南島と北海道は、弥生時代には突破できなかった。

北部九州でも、水田、環濠集落、金属器、弥生土器すべてが揃うまで、約200年を要している。弥生時代前期の関門海峡の東側では、日常生活でいまだに縄文系の道具類を使用していた。また、板付遺跡を起点にして、関東に弥生文化が到達するまで、400〜500年、最初の水田が北部九州にできてからだと、約700〜800年かかっている。したがって「弥生時代」と一つに括ってしまっているが、その弥生時代の3分の2の時間は、縄文的な暮らしを守ろうとする人たちと、新しい生活を始めた人たちが共存していた時期だったことになる。

この間、兵庫県神戸市付近( 新方遺跡。明石駅の北側)では、弥生前期に、無理矢理近畿側に越えようとした「弥生人」と在地民の間に小競り合いがあったようだ。縄文系の人骨が出土していて、6体の人骨のうち、5体に石鏃が伴っていたのだ。10数本の矢を受けていた。

戦争は農耕とともに始まった

東の縄文人は、なぜ弥生化を拒み続けたのだろう。

広瀬和雄は弥生文化が、日本文化の源流として、次の三つの特性を持っていたと指摘している。端的に弥生時代を表現していて、じつに参考になる。

第一は、水田稲作や金属器の製作・使用に代表される大いなる技術革新で、文明社会のいわば正の側面である。第二は、社会の階層化や戦争や環境破壊など、その負の側面とも言えるものである。第三は、そうした正・負の要素が中国王朝を中核にした東アジア世界のなかで動きはじめる、いうならば国際化である(『歴博フォーラム 弥生時代はどう変わるか』学生社)

かつて、弥生時代の始まりは、文明開化とみなされていた。それが、第一と第三の指摘に当たる。その一方で、第二の負の側面も、ようやく注目されるようになってきたのだ。それは特に、九州や西日本で顕著だった。

北部九州で始まった水田稲作は、大きな社会変革をもたらした。

具体的にいえば、富が蓄えられ、首長(王)が生まれた。弥生時代の到来によってもたらされた「縄文と異なる文化要素」は、水田だけではなく、武器、環濠も重要だった。水田は、それまで園耕民が行っていた農作業とは比べものにならないほど大規模で、人びとの共同作業が求められた。そして、それを指導し指揮する者が集団のトップに立つ。

こうして、弥生化が進むと、戦争が勃発する。コリン・タッジは人類が戦争を始めたのは、農業を選択したからだと述べている(竹内久美子訳『農業は人類の原罪である進化論の現在』新潮社)。おそらくその通りだろう。余剰が生まれ、人口は増え、新たな農地と水利を求め、争いが起きた。日本列島でも、組織的な戦争は、弥生時代から始まったようだ。佐原眞も日本で初めて戦争が起きたのは弥生時代だといっている。神話の中で日本の国土は武器(矛)を用いて作り出された。乱暴者のスサノヲをアマテラスは「弓矢」で迎え撃とうとしている。葦原中国を平定に向かった武甕槌神(たけみかづちのかみ)は剣の神だ。天孫降臨も神武東征も、武人が活躍する(『大系日本の歴史1 日本人の誕生』小学館)。日本神話の神々は、好戦的で弥生的だ。

その上で、戦争を次のように定義している。すなわち「考古学的事実によって認めることの出来る多数の殺傷をともないうる集団間の武力衝突」(佐原眞編『古代を考える稲・金属・戦争』吉川弘文館)だという。そして、戦争の証拠の九割は、農耕社会から出土すると指摘する。

戦争が始まった具体的証拠

さらに佐原眞は、具体的な証拠を、以下の通り羅列する。要点をまとめておく。

A 守りの村=防禦集落(町・都市) 高地性集落 環濠集落 逆茂木など
B 武器 弓矢、剣、矛、戈、武具など
C 殺傷(されたあとを留める)人骨
D 武器の副葬=遺体に副える
E 武器形祭器=武器の形をした祭祀、儀式の道具
F 戦士・戦争場面の造形
その上で、このような考古学資料がみつかる地域は、北部九州から伊勢湾沿岸までの範囲で、環濠集落・高地集落が存在し、ヤジリが発達していること、この地域で戦争が起きていたこと、南部九州・長野・北陸・新潟・東海・南関東は、戦争は知っていたが実際に戦っていたかどうかはわからない社会だと指摘している(前掲書)。

ヤマト建国の直前には倭国大乱が勃発していたが、春成秀爾はその原因を鉄と流通にあったと推理している(『日本史を学ぶ 一』有斐閣)。

抗争が始まったのは弥生中期中ごろで、人口増に伴い、前期の氏族社会が一度分裂し、新たな耕地を開発する段階だった。農業共同体ごとに、高地性集落が形成されるが、その分布域が、銅鐸文化圏とほぼ重なる。高地性集落は防御力が強く、「攻められる側」と、想定できる。この文化圏内では、石製武器や石製利器が原産地集団から交易によってもたらされ、この中で抗争が起きていた可能性が高い。乱は石器を多用する時代に勃発したが、鉄器時代に移行し終わった時点で収束していることに、春成秀爾は注目している。

朝鮮半島南部から鉄を輸入するに際し、見返りの物資がなければ手に入れられない。さらに、石器に比べて格段と効率の良い利器を私的所有することで、「原始的平等で貫かれた農業共同体の真只中に重大な矛盾をもちこんだ」(吉田晶・永原慶二・佐々木潤之介・大江志乃夫・藤井松一編『日本史を学ぶ 1 原始・古代』有斐閣選書)といい、集団内での公平を期すために、他の農業共同体から財を奪ったという。これが倭国大乱の真相ということになる。

いずれにせよ、弥生時代に本格的な戦争が勃発していたことは、間違いない。

縄文人は戦争を誘発する農耕を狂気とみなした?

人類学は、人口の急増を問題視する。穀物の高栄養が、寿命をのばし、幼児の死亡率を下げる。穀物から離乳食を作れるので、乳離れが早まり、多産が可能となる。子供も老人も、労働力としてある程度期待できる。かたや集団移動をくり返す狩猟社会では、子供は足手まといだ。

狩猟社会では、食料の種類は豊富だったが、農耕の場合、資源は単一化する。不作になれば、命がけでよそから食料を奪ってこなければならない。ここで、戦争が始まる……。しかも、土地や水利の奪いあいも起きるわけだから、恨みが恨みを買い、戦争は反覆し連鎖していく恐れもあった。

もう一つ、定住生活の始まりが、戦争を招く可能性がある。苦労してせっかく開墾した土で、人びとは農耕を営む。土地に対する執着が、排他的な発想に結び付いていくというのだ。

ただしそうなると、三内丸山遺跡のように、「定住生活を始めていた縄文人」の場合はどうなるのか、という問題が立ちあがる。そこで、「思想」がからんでくるのではないか、とする説が登場する。

考古学者・マーク・ハドソンの次の仮説がある。大陸ですでに行われていた農耕を、縄文人たちは知っていたはずなのに数千年もの間手を染めなかったのは、縄文社会側のイデオロギー的な抵抗だったのではないかとする。この考えに共鳴した松木武彦は、この「抵抗」は、戦争にも当てはまると考えた。縄文時代、すでに大陸では戦乱が起きていて、朝鮮半島にも迫っていた。しかし縄文人たちは、それを無視している。本格的な稲作農耕と戦争とは、当時の東アジアの地域では、一つの文化を構成するセットをなしていた可能性が考えられる。だとすると、固有の伝統を守りつづける傾向が強かった縄文の人びとが稲作農耕を「拒絶」したことが、それと表裏の関係にあった戦争の導入をもはばむ結果につながったのではないか(松木武彦『人はなぜ戦うのか 考古学からみた戦争』講談社選書メチエ)。

なるほど、無視できない指摘だ。稲作農耕を拒絶したことで、表裏の関係にあった戦争を、たまたま阻むことになったのかというと、むしろ「農業をはじめれば戦争になる」という現実を目の当たりにした縄文人が、「狂気の沙汰」と察知し、だからこそ、稲作を拒み続けた可能性も考えてみたい。縄文的な文化を残した人たちは、なぜかその後、水田稲作を選択しても、「強い王の発生を嫌う」傾向にあるからだ。

ただし、狩猟民族が平和的で農耕民が戦争好きという単純な図式で括ってしまってよいのか、という反省も登場している。

たとえば、世界史レベルで見れば、石器時代にすでに人は戦っていること、英語圏の武器「weapon」は、石製利器を含むこと、縄文人骨の中から殺傷痕が認められるものも見つかっている。

戦争の発生原因を農耕社会の発達や円熟に求めず、社会そのものの複合化や階層化社会の発展段階と結びつける見解もままみられる(森岡秀人『列島の考古学 弥生時代』)

と、慎重な態度が求められている。しかし、日本以外の地域の新石器時代は、農耕社会であり、縄文人も、人を恨めば殺人もしただろうが、組織的な戦闘の痕跡は見当たらない。ここが、大きな意味を持っている。

じつは、ヤマト建国も、この縄文的な発想によって成し遂げられたのではないかと、筆者は疑っている。ヤマト建国の直前まで、日本列島は、「倭国大乱」と中国側に記録されるほど混乱していた。その騒乱を、魔法のように収拾した事件が、ヤマト建国だった。それこそ、縄文的な発想の賜物ではなかったか……。

※本稿は、

関裕二著『「縄文」の新常識を知れば日本の謎が解ける』(PHP新書)
https://www.amazon.co.jp/%E3%80%8C%E7%B8%84%E6%96%87%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%96%B0%E5%B8%B8%E8%AD%98%E3%82%92%E7%9F%A5%E3%82%8C%E3%81%B0%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E8%AC%8E%E3%81%8C%E8%A7%A3%E3%81%91%E3%82%8B-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%96%A2%E8%A3%95%E4%BA%8C/dp/4569842429


より、一部を抜粋編集したものです。


181. 中川隆[-10585] koaQ7Jey 2019年4月26日 11:47:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1488] 報告
>>180 一部欠落

最初から稲作一辺倒だったわけではない

ところで、すでに触れたように、縄文時代にすでに稲作は行われていた。縄文中期末(約4500年前)の土器の表面に、稲籾の圧痕が着いていたのだ。「本当に稲なのか」と、疑われることもあったが、イネ科植物に含まれるケイ酸の化石(プラントオパール)が、縄文後期中ごろの土器の胎土に含まれていたことから、縄文時代の稲作は、確実視されるようになった。ただし、水田ではなく、陸稲だった。また、縄文後期中ごろから、オオムギ、ハトムギ、ヒエ、アワなどの穀物や豆類の圧痕もみつかっている。

また、縄文系と思われていた突帯文土器の時代に、すでに水田稲作が行われていたのは、北部九州沿岸部だけではない。四国、中国、近畿でも、同じように、水田稲作民が登場していたのだ。

穀物を栽培していた縄文後・晩期の西日本の縄文人を、考古学では「園耕民」と呼ぶ。彼らは川の下流部には住まなかった。たとえば稲作がもっとも早い段階に始まった早良平野でも、園耕民は、川の中流、上流で暮らしていた。縄文人は低湿地を好まない。縄文海進によって海面が高かった時代から続く伝統だ。穀物だけではなく、さまざまな手段で食料を調達する園耕民は、川の上流側を選んだ。

ところが、縄文時代の晩期は冷涼多雨で、下流域に稲作に適した低湿地が形成されつつあった。これは偶然なのか、あるいは、この自然条件があったから、縄文人が生業を変えようと決意したのかどうか、よくわからないが、ここで水田稲作が始まったのは間違いない。

この時代の遺跡からは、水田稲作に用いる新たな道具に混じって、縄文人が陸稲栽培に用いた打製の土掘り具が見つかっている。また、食料も、縄文時代以来継承されてきたような、「多彩な食物(イノシシやシカなどの動物、魚貝類、ドングリ)採取がメインで、米食は補完」と考えた方が正確なのだ。2つの生産方式を並行して行っていた。はじめは従来の食料を補完するために、水田稲作を選択したわけである。

ただし、やがて水田の面積は広がり、採集や狩猟は下火になっていくのである。

そしてもう1つ、縄文から弥生への転換期を考える上で大きな意味をもってきたのが、「いつごろ水田稲作を始めたのか」だった。

かつて、弥生時代の始まりは、紀元前300年から、同500年ごろと信じられていた。

このころ、中国大陸では、春秋戦国という大混乱の時代だったのだ。多くの難民が海に逃れ、日本列島に押し寄せて、弥生時代は始まったと信じられていた。ところが、炭素14年代法によって、弥生時代の始まりは紀元前10世紀後半と考えられるようになり、「稲作を選択したのは縄文人だった」という考古学の証言とも、一致してきた。さらに、稲作はゆるやかに東に伝わっていったと考えられるようになった。

考古学者・金関恕(かなせきひろし)は、『弥生文化の成立』(角川選書)の中で、弥生時代の始まりを、次のように総括する。要約しておく。

(1)イネは遅くとも縄文時代後期に日本に伝わり陸稲として栽培されていた。
(2)朝鮮半島南部とは密接な交流があり、縄文人が主体的に必要な文化を取捨選択した。
(3)縄文人と渡来人は当初棲み分けを果たし、在地の縄文人が自主的に新文化を受容した。
(4)まとまった渡来人の移住は、弥生時代初期ではなく、そのあと。

こうして、「渡来人に席巻されて稲作が広まった」というかつての常識は、完ぺきに覆されたのだ。

182. 中川隆[-10519] koaQ7Jey 2019年4月29日 10:15:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1567] 報告
古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3

内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
歴史利用による日本賞賛は、一種の宗教である 2019年3月5日


 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/RCQT9M0397NL/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4886563694

183. 中川隆[-10508] koaQ7Jey 2019年4月29日 13:47:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1578] 報告


「邪馬台国=畿内説」「箸墓=卑弥呼の墓説」の虚妄を衝く! (宝島社新書 296) – 2009/9/10
安本 美典 (著)
https://www.amazon.co.jp/dp/4796673482?_encoding=UTF8&isInIframe=0&n=465392&ref_=dp_proddesc_0&s=books&showDetailProductDesc=1#product-description_feature_div

内容紹介

箸墓の出土物が放射性炭素年代測定で卑弥呼の生きた時代と一致したとの発表で、邪馬台国畿内説がいっきに盛り上がってきました。しかし、そもそもこの発表の真偽のほどが疑わしく、さらに考古学的な事実や文献学的な史実からかけ離れた邪馬台国畿内説には、まったく根拠がないのです。著者は邪馬台国北九州説の立場から、「邪馬台国畿内説、箸墓=卑弥呼の陵墓説」を、舌鋒鋭く粉砕します。

内容(「BOOK」データベースより)

よそおいは「科学的」、内容は「支離滅裂」!歴博の研究グループの「炭素14年代測定法」による「箸墓古墳は卑弥呼の墓説」は、捏造に等しい。


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)

安本/美典
1934年、中国東北(旧満州)生まれ。京都大学文学部卒業。文学博士。産業能率大学教授を経て、現在、古代史研究に専念。『季刊邪馬台国』(梓書院発行)編集責任者。「邪馬台国の会」主宰者。情報考古学会会員。専攻は日本古代史、言語学、心理学。著書多数(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


カスタマーレビュー

hira
筆者の主張を知りたければ、『邪馬台国への道』を読むべき! 2019年3月20日


 本書は、国立歴史博物館の研究グループが、炭素14年代測定法により、箸墓古墳を3世紀半ばの造営と推定できたので、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓が有力だと、発表したことへの批判から、はじまっていますが、結局は、代表作

『邪馬台国への道』
https://www.amazon.co.jp/s?k=%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%B8%E3%81%AE%E9%81%93&i=stripbooks&adgrpid=60278501504&gclid=EAIaIQobChMIj-_P37704QIVVbaWCh1FmQf7EAAYASAAEgKPmvD_BwE&hvadid=338592697130&hvdev=c&hvlocphy=20638&hvnetw=g&hvpos=1t1&hvqmt=e&hvrand=13828832324121605197&hvtargid=kwd-334597022393&hydadcr=16037_11170827&jp-ad-ap=0&tag=googhydr-22&ref=pd_sl_41xwlnckqn_e

で、取り上げられた説の繰り返しが、大半です。

 しかも、それらの説の根拠が、本書であまり記述されていないので、ここでは、それらを次のように、まとめましたが、その中には、前提が怪しく危うい説も、散見できます。


○邪馬台国=畿内説は、成り立たず

 邪馬台国論争は、「魏志倭人伝」に記述された邪馬台国が、どこにあったかよりも、当時の日本列島で、最も繁栄していたのは、どこだったかのほうに、論点が摩り替えられ、本来は、青銅器・鉄器や土器等の出土と無関係ですが、筆者も、それを持ち出しているので、ますます混乱しています。

 「魏志倭人伝」によると、帯方郡〜邪馬台(壱)国間が、1万2000余里、帯方郡〜狗邪韓国間が、7000余里、狗邪韓国〜対馬国間・対馬国〜壱岐国間・壱岐国〜末盧国間が、それぞれ1000余里、末盧国〜伊都国間が、500里なので、伊都国〜邪馬壱国間が、1500余里以内となります。

 1500余里は、対馬国〜壱岐国間の約1.5倍なので、地図上で、どうみても、近畿まで到達できず、九州の北半分が限界なうえ、方位と距離の両方の書き誤りとなれば、「魏志倭人伝」自体の信憑性が、疑問視されるので、邪馬台国=九州北部説とみるのが、妥当です。

 ちなみに、対馬・壱岐の規模は、それぞれ400余里四方・300里四方、「魏志韓伝」によると、韓(馬韓・辰韓・弁韓)の規模は、4000里四方とあり、当時の1里=75〜90mで、1500余里=112.5〜135kmと算出できます。

 邪馬台国を、筆者は、福岡県朝倉市(平塚川添遺跡)付近に、想定していますが、納得できる根拠は、地名を列挙する程度で、希薄です。

○箸墓古墳=卑弥呼の墓説も、成り立たず

 邪馬台国=九州北部説が、妥当なので、箸墓古墳=卑弥呼の墓説は、当然成り立ちませんが、筆者は、歴博の研究グループが、不確実な炭素14年代測定法で、ホケノ山古墳・箸墓古墳等を、3世紀代と推定したことに反論し、4世紀代だと主張しています。

 特に、土器付着の炭化物は、実際より古い年代を示すようで、今後の科学的知見がないと、何ともいえませんが、大和での大型の前方後円墳の林立が、3世紀代からか、4世紀代からで、状況が多少異なり、筆者は、歴博の研究グループが、邪馬台国=畿内説を有利に、導こうとしたと指摘しています。

○天皇の平均在位年数

 筆者は、21〜50代の天皇29人(39代を除外)が、478(21代=倭王武が、宋皇帝に朝貢)〜793.5(50代の在位が、781〜806年と長期なので、その半分を算入)年の316年間なので、天皇の平均在位年数を、約10年(10.88年)としています。

 これは、神功皇后(14-15代の間)を5世紀初め(400年)に、崇神天皇(10代)を4世紀半ば(360年)に、位置づけることを中心に、組み立てられ、5世紀初めは、倭が、朝鮮半島へ渡海し、高句麗との交戦を断続的に開始した年代、4世紀半ばは、崇神天皇陵とされる行燈山古墳が造営された年代です。

 ですが、行燈山古墳=崇神天皇陵といえない等、各天皇の実在性・事績等は、不確定で、それら以前でも、10年/人を微妙に調整しており、崇神の9代前の神武天皇(初代)を3世紀後半(280〜290年)、神武の5代前のアマテラスを3世紀前半(239年)としています。

○邪馬台国東遷説への疑問

 この説は、3世紀前半に、九州北部にあった邪馬台国の一派が、いったん日向へ、そこから3世紀後半に、大和へ移動し、朝廷を樹立したとする主張で、これと整合させるため、筆者は、アマテラス=卑弥呼を3世紀前半に、神武天皇の東征を3世紀後半に、推定したとみられます。

 「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで、筑紫城に居住し、神武天皇から、大和州へ移住したとあります。

 また、「宋史日本国伝」では、初代がアメノミナカヌシ、23代(「新唐書日本伝」を訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 ただし、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 他方、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、移住直後は、まだ統治基盤が落ち着かないと推測されるので、東遷説と結び付けにくく、神武東征の時期が、もう少し古くないと、納得困難でしょう。

 東遷説の時期は、2世紀後半の倭国乱きっかけと、3世紀半ばの邪馬台国と狗奴国の戦争きっかけがあり、筆者には、3世紀前半に、後述の卑弥呼=アマテラス説があるため、3世紀後半を想定していますが、前述の鉄器の出土数の比較を勘案すれば、2世紀終りのほうが、妥当です。

 私は、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみており、17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、天皇の在位期間の平均が、約12年/人となります。

 1〜16代の17人を、12年/人とすれば、崇神天皇(10代)の即位は、4世紀初め(304年)になり、大和に大型の前方後円墳が林立しはじめた時期と合致し、神武天皇(初代)の即位は、2世紀終り(196年)になり、倭国乱後と合致します。

 そもそも、卑弥呼や壱与を輩出した邪馬台国が突然、遷都する理由はなく、大和に九州の影響が、ほとんどないので、もし、あるとすれば、倭国乱で敗走した勢力が、一時日向へ避難し、そこから大和へ進出した可能性で、それなら当時は、準構造船か丸木舟しかないので、東遷でなく、集団移住程度です。

 なお、九州北部(夜須町)と畿内(大和郷)の地名の一致は、天皇による東遷でなく、有力豪族でも成り立つうえ、斉明天皇(37代)が、新羅派兵で(白村江の合戦前)、朝倉宮まで出陣し、約3ヶ月生活したので、その際に命名した可能性も捨て切れず、これだけでは、東遷説の根拠といえません。


○卑弥呼=アマテラス説への疑問

 「日本書紀」では、神功皇后を卑弥呼と同一視しており、筆者は、卑弥呼をアマテラスに比定していますが、そもそも記紀神話で、アマテラスとスサノオの誓約(うけい)は、6種類あり、そのうち、アマテラスが天皇の祖先なのは、「古事記」と「日本書紀」本文の2つです。

 そこでは、5男神(長男が天皇の祖先・アメノオシホミミ)が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘となっています。

 一方、「日本書紀」一書第一・第三と次の段の一書第三の3つは、5男神が、スサノオの息子、3女神が、アマテラス(日の神)の娘となっています(「日本書紀」一書第二の1つは、どちらの子供か、明記されていません)。

 ここから、元々は、5男神が、スサノオの息子で、3女神が、アマテラスの娘だったのを、アマテラスを天皇家の祖先神にするために、記紀神話の主要2ヶ所で、5男神が、アマテラスの息子、3女神が、スサノオの娘へと、改変したとも推測できます。

 よって、アマテラス‐アメノオシホミミ‐ニニギ‐ホオリ(山幸彦)‐ウガヤフキアエズ‐カンヤマトイワレヒコ(神武天皇)の系譜自体の、信憑性が疑問視されるうえ、そもそも筆者が、神代を人代の延長とし、神代でも、平均在位年数を、10年に設定するのは、疑問です。

 「日本書紀」で、タカミムスヒは、アマテラスよりも、天孫降臨の命令を主導しているので、元々は、タカミムスヒが、天皇家の祖先神とされ、天武天皇(40代)の時代に、アマテラスへ転換したとする説が有力です。

 そのうえ、「魏志倭人伝」によると、倭では、卑弥呼‐男王‐壱与と、王位継承されており、ニニギは男神なので、天皇家の祖先神の系譜と、合致しません。

 筆者が、卑弥呼=アマテラス説を主張するのは、「古事記」に登場する地名数から、出雲(2位)を葦原の中つ国に(本文にあり)、九州(1位)を高天原に(本文になし)、比定し、邪馬台国東遷説に結び付けたいからのようですが、すべてをつなげるのには、無理があります。
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184. 中川隆[-10503] koaQ7Jey 2019年4月29日 19:33:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1584] 報告

新書821伊勢と出雲 (平凡社新書) – 2016/8/10
岡谷 公二 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E6%9B%B8821%E4%BC%8A%E5%8B%A2%E3%81%A8%E5%87%BA%E9%9B%B2-%E5%B9%B3%E5%87%A1%E7%A4%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%B2%A1%E8%B0%B7-%E5%85%AC%E4%BA%8C/dp/458285821X/ref=sr_1_13?qid=1556533857&refinements=p_27%3A%E5%B2%A1%E8%B0%B7+%E5%85%AC%E4%BA%8C&s=books&sr=1-13&text=%E5%B2%A1%E8%B0%B7+%E5%85%AC%E4%BA%8C


内容紹介
日本原初の記憶が刻まれた地でありながら、それぞれ別物とされてきた伊勢と出雲を、古代朝鮮の文化と鉄をキーワードにつなぎ直す。

内容(「BOOK」データベースより)
前著『神社の起源と古代朝鮮』から三年―。両者とも日本の起源が刻まれた地でありながら別物とされてきた伊勢と出雲を、「韓神と鉄」をキワードにつなぎ直す思索の旅の物語がはじまる。二大神社の繋がりの謎を解く。

著者について
1929年東京生まれ。 東京大学文学部卒業。跡見学園女子大学名誉教授。著書に、『柳田国男の青春』(筑摩書房)、『島の精神誌』(思索社)、『神の森 森の神』(東京書籍)、『南の精神誌』(新潮社)、『絵画のなかの熱帯』(平凡社)、『南海漂蕩』(冨山房インターナショナル、和辻哲郎文化賞)、『原始の神社をもとめて』『神社の起源と古代朝鮮』(いずれも平凡社新書)、訳書に、レリス『幻のアフリカ』、ルーセル『ロクス・ソルス』(いずれも平凡社ライブラリー)など多数。

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
起源・発祥から消化・吸収へ、外来から土着への進展も必要なのでは? 2019年3月10日


 音楽業界のアーティストの初期のアルバムが、よい曲が多く、高いクオリティーだったのに、しだいにアルバムで、よい曲が少なくなり、クオリティーが低がるのは、多々あることです。

 それは、おそらくデビュー前までの長期間、よい曲をたくさんストックしていたからで、そこから、よい曲をアルバムで出し尽くせば、個人には限界があるので、これまでと異なる新しいものを、短期間で生み出すのは、大変困難になり、これは、出版業界にも、いえることではないでしょうか。

 特に新書は、それが顕著で、続々編にもなると、似たり寄ったりになるのも散見でき、本作は、前々作『原始の神社をもとめて』・前作『神社の起源と古代朝鮮』に比べて、残念ながら、内容が薄いといわざるをえません。

 前々作でも、伊勢が(6章)、前作でも、出雲が(4章)、取り上げられていますが、それらを、朝鮮半島から西日本へ渡来人が流入した総論とみれば、本作では、伊勢・出雲の各論として、ヨリ詳細に、考察してもらいたかったところです。

 筆者は、渡来人を新羅・伽耶系とまとめていますが、それぞれの地域へ、いつの時期(弥生期・古墳期・飛鳥期等)に流入し、何をして、どう地域に溶け込んだのかが、不明なままなので、多少整理してもらわないと、内容の繰り返しになってしまうのではないでしょうか。

 たとえば、伊勢や出雲を、鉄と結び付けたいのであれば、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転したとされているので、それも勘案すべきです。

 鉄器は、1世紀後半〜2世紀に、山陽・山陰・近畿北部まで流入しましたが、畿内までは、あまり流入しておらず、3世紀初め〜半ばに、畿内が、ようやく山陽・山陰・近畿北部と同程度になっています。

 また、鉄器が西日本へ本格的に普及したのは、国外品の使用が、前漢による楽浪郡設置(紀元前108年)以降の紀元前1世紀から、国内鍛造が、おそらく1世紀頃から、国内鋳造が、伽耶諸国滅亡(532年に金官伽耶・562年に大伽耶が滅亡)以降の6世紀後半からです(岡山県・千引カナクロ谷遺跡)。

 さらに、鉄の原料には、鉄鉱石と砂鉄があり、鉄鉱石には、褐鉄鉱・赤鉄鉱・磁鉄鉱があり、褐鉄鉱は、葦・茅等の水辺の植物の根に、水中の鉄分が蓄積し、根が枯渇したものですが、これを原料にしても、磁鉄鉱より格段にもろく、石器より劣るようなので、とても使えないでしょう。

 よって、国内鍛造は、出雲では、弥生後期(2世紀)以降、伊勢では、古墳前期(4世紀)以降で、国内鋳造は、砂鉄によるタタラ製鉄の日本最古の想定でも、4世紀後半〜5世紀前半とみられています(兵庫県・入佐山3号墳の浜砂鉄)。

 そのうえ、倭は、4世紀終り〜5世紀初めから、朝鮮半島へ渡海し、高句麗と断続的に交戦、それ以降に渡来人が、日本列島へ大勢流入したうえ、新羅の実質上の建国が、4世紀半ばなので(それ以前は、12の小国があった辰韓)、鉄関連の新羅・伽耶系神社の創建は、古墳中期〜飛鳥期とみるのが自然です。

 朝鮮半島への仏教伝来は、高句麗・百済が4世紀(それぞれが372年・384年)で、新羅が6世紀と、約200年後なので、そこから、日本列島への流入は、「仏」が百済経由(538年か552年)で、その間の、渡来系の「神」が新羅経由と、推定されています(p.37)。

 一方、高麗の時代・12世紀半ば成立の「三国史記」によると、新羅王の初代が死去し、2代が始祖廟を創建、2代の妹が祭祀したのが、新羅での氏神信仰の起源とみられ、5世紀後半(487年)に、始祖廟が「神宮」と呼称され、これが伊勢神宮の名称や斎宮制に影響されたともいわれています(p.37-39)。

 たしかに、伊勢神宮の創建は、5世紀後半から6世紀後半まで、諸説あるようで、これらから、鉄関連の外来神は、5〜6世紀以後に流入したとも導き出せますが、鉄と結び付けなければ、それ以前も想定できるので、そのあたりが、どうも曖昧なのです。

 ただし、筆者は、新羅・伽耶系神社の祭神が、スサノオ・オオアナムチ・コトシロヌシ等の出雲の神なので、出雲の神も渡来系だとしていますが、祭神は、古代・中世(神仏習合の影響)や近世・近代(神仏分離の影響)等での変更・追加も、多々あるので、それらを精緻に調査してもらいたいです。

 仏教が本格的に普及したのは、飛鳥期〜奈良期で、仏寺に対抗し、神社が社殿化され、その時期の朝鮮半島は、唐勢力の排除(676年)後の統一新羅なので、朝鮮半島からの渡来系をすべて、新羅とみなし、命名された可能性もあり、百済遺民が大勢流入したのに、新羅系神社が大半なのも、気になります。

 私が着目しているのは、百済の王族が、天皇(持統/41代)から、百済王(こにきし)の姓が授与(690か691年)されたのが、百済滅亡(660年)の30か31年後で、高句麗の王族が、天皇(文武/42代)から、高句麗王の姓が授与(703年)されたのは、高句麗滅亡(668年)の35年後であることです。

 つまり、朝鮮の王族が、30〜35年で、大和政権の官僚の一員に取り込まれており、それは、かれらが、中央政府に有益なので、利用したかったからでもありますが、30〜35年経過すれば、渡来系氏族と区別されつつも、渡来人も土着人並に取り扱われ、外来が早急に消化・吸収(日本化)されています。

 ところで、大和政権は、天つ神(天神、天上の神)と国つ神(地祇、地上の神)を区分し、スサノオ・オオアナムチ(オオクニヌシ)・コトシロヌシ(オオクニヌシの息子)は、国つ神ですが、もし、筆者のいう、出雲の神が渡来系なら、外来の天つ神が、外来の国つ神に、国譲りを迫ったことになります。

 しかし、実際には、国つ神は、土着神で、天つ神は、外来神という位置づけですが、記紀神話では、土着の国つ神が、国作りしたよりも、外来の天つ神が、国生みしたほうが、優位なので、もし、外来どうしだったとしても、天皇が、日本列島を統治する根拠となるよう、うまく消化・吸収しています。

 このように、日本は、中国・朝鮮の起源・発祥だけに固執するよりも、それをうまく消化・吸収するのが特徴なので、筆者が今後も、神への祭祀・神社関連の新書を発表するなら、外来から土着への進展の考察も期待します。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R55T1YUOXJ2R0/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=458285821X

185. 中川隆[-10501] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:12:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1586] 報告

ヤマト王権〈シリーズ 日本古代史 2〉 (岩波新書) – 2010/11/20
吉村 武彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/ヤマト王権〈シリーズ-日本古代史-2〉-岩波新書-吉村/dp/4004312728/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

内容紹介
日本列島にはじめて成立した統一国家、ヤマト王権。その始まりはいつだったのか。最初の「天皇」は誰なのか。王宮や王墓の変遷は何を物語るのか──。『魏志倭人伝』等の中国の正史や金石文ほか、貴重な同時代資料に残された足跡を徹底的にたどりつつ、ひろく東アジア全域の動きを視野に、多くの謎を残す時代の実像に肉迫する。(全6巻)


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
吉村/武彦
1945年朝鮮大邱生まれ、京都・大阪育ち。1968年東京大学文学部国史学専修課程卒業、同大大学院国史学専攻博士課程中退。現在、明治大学文学部教授。専攻は日本古代史


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
古墳期の一元的・集権的な世界観から脱却せよ! 2019年2月16日


 本書のシリーズAは、@が弥生期、Bが飛鳥期なので、古墳期を範囲としており、日本列島で、7世紀後半から、律令制を本格的に導入した、中央政府の起源を、ヤマト王権とし、それが分権社会から集権社会へと、移行していった過程を、主に文献学から解説しています。

 したがって、本書では、考古学による、畿内以外の地域の状況は、ほとんど取り上げられていませんが、だからといって、日中の古代歴史書も、正当に史料批判されているとはいえず、ヤマト王権の初期から、大和中心の一元的な世界に偏重しており、現在でも、それが通説化しています。

 しかし、実際の古墳期は、もっと多元的な世界だったので、ここでは、異説を取り上げることで、本書にも問題点が、多々あることを、指摘しておきます。

○倭奴国(p.5-7)

 「後漢書倭伝」で、57年に、後漢の光武帝(初代)へ朝貢し、金印を授与されたのは、倭の奴国ではなく、倭奴国で、それは、「旧唐書倭国伝」に、倭国は、古(いにしえ)の倭奴国なり、「新唐書日本伝」に、日本は、古の倭奴なり、とあるからです。

 また、金印も、漢の委(わ)の奴(な)の国王ではなく、漢の委奴の国王、「隋書俀国伝」で、後漢の安帝(6代)の時代(106〜125年)に、使者を派遣・朝貢したのは、俀奴国、「後漢書倭伝」で、107年に、倭国王の帥升等が、安帝に奴隷160人を献上しているので、倭国=倭奴国=委奴国=俀奴国です。

 そうなると、金印の委奴国は、伊都(いと)国よりも、倭奴国の人偏を省略とみるのが適当で、「魏志倭人伝」には、倭の30ヶ国の他にも、倭種(倭人)の国があり、それらと区別するためか、中国は、匈奴と対照的に、「倭奴」の呼称にしたとも推測でき、57年・107年の後漢朝貢ともに、倭国です。

○邪馬壱国・壱与(p.12、23)と邪馬壱国九州説(p.13-17)

 3世紀後半成立の「魏志倭人伝」では、邪馬壱(旧字は壹)国と壱与でしたが、5世紀前半成立の「後漢書倭伝」では、邪馬台(旧字は臺)国に改変され、7世紀前半成立の「梁書倭国伝」では、なぜか祁馬台国となっています。

 7世紀半ば成立の「隋書俀国伝」では、邪靡堆(やまたい)=邪馬台、7世紀半ば成立の「北史倭国伝」では、邪摩堆=邪馬台と、踏襲されており、本書では、10世紀後半成立の「魏志」の抜粋が収録された「太平御覧」も、邪馬台国のようなので、「後漢書倭伝」で、改変されています。

 一方、壱与は、「後漢書倭伝」「隋書俀国伝」には、記事がなく、「梁書倭国伝」「北史倭国伝」で、台与に改変され、邪馬台国に改変された時期とズレており、どちらか本当かは、不明なので、勝手に改変すべきでなく、正確には、邪馬壱国・壱与です(「隋書俀国伝」を「隋書倭国伝」とすべきでないのと同様)。

 邪馬壱国=近畿(大和)説は、方位の東を南に書き誤ったとしていますが、魏は、倭に派兵しており、方位は、進軍・補給に大切なうえ、万一記載ミスなら、「魏志倭人伝」より後世に成立した「後漢書倭伝」で、狗奴国の方位を訂正・距離を追加した際に、そこも訂正してもよいはずではないでしょうか。

 邪馬壱国=九州説は、帯方郡〜邪馬壱国間を1万2000余里、帯方郡〜伊都国間を1万500余里、伊都国〜邪馬壱国間を1500里以内(対馬国〜壱岐国間の約1.5倍)としており、それを論破しないまま、はるか後世の15世紀初めの地図を持ち出し、邪馬壱国=近畿(大和)説を採用するのは、不充分といえます。

○銅鏡の価値(p.21)

 中国の銅鏡は元々、官営工房で製造されていましたが、やがて政権の庇護がなくなったため、工房が、自立するようになり、後漢末期の2世紀終りには、すでに民間工房の量産品が、中国市場に流通していたので、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、銅鏡の価値が、しだいに低下していました。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは、畿内が、政治の中心になったからではなく、価値の低下を認知していた九州北部が、輸入品を畿内へ、率先して販売した可能性があります。

 「魏志倭人伝」では、238年に、魏皇帝が、倭の卑弥呼へ、紺色地に曲線模様の錦3匹・まだらの花の細密模様の毛織物5張・白絹50匹・金8両・五尺刀2口・銅鏡100枚・真珠+鉛丹各々50斤を授与しており、銅鏡100枚は、五尺刀2口よりも後ろの記載なので、価値があまり高くないともいえます。

 銅鏡100枚は、魏の政権が、複数の民間工房に発注したとみられ、古墳期の銅鏡は、有力者から配布(下賜)されるよりも、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)で、大量入手したと推測できます。

○初代・10代と欠史八代の実在性(p.35-41)
 一書も含めた、記紀神話での、1〜10代の天皇の妻の出身は、次の通りです。

・神武(初代):日向(阿多、紀・記)、神の子孫(紀・記)*
・綏靖(2代):磯城(県主・ハエの妹=紀1・記)、春日(紀2)、神の子孫(紀本)*
・安寧(3代):磯城(県主・ハエの娘=紀1・記)、春日(大間、紀2)、神の子孫(紀本)*
・懿徳(4代):磯城2(県主・ハエの弟イテの娘=紀1、紀2)、皇族(紀本)*
・孝昭(5代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、大和(紀2)、葛城(尾張、紀本・記)*
・孝安(6代):磯城(県主・ハエの娘=紀1)、十市(紀2)、皇族(紀本)*
・孝霊(7代):磯城(紀本)*、十市(紀2・記)、春日(紀1・記)、皇族2(紀本×2・記×2)
・孝元(8代):河内(紀・記)、穂積(物部)氏2(紀×2・記×2)*
・開化(9代):葛城(記)、丹波(紀・記)、穂積(物部)氏(紀・記)*、和珥(丸邇)氏(紀・記)
・崇神(10代):紀伊(紀・記)、葛城(尾張、紀・記)、皇族(記)*

※紀本:日本書紀本文、紀1:日本書紀一書第一、紀2:日本書紀一書第二、記:古事記、*:皇后

 ここで注目すべきは、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(尾張は、高尾張邑=葛城邑なので)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、この間は、親子世代での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、この間は、兄弟世代での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の親子間の皇位継承や、100歳以上の超長寿・神武天皇(初代)即位以降の年代も、捏造でしょう。

 初代から13代までの親子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、親子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に捏造し、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇(10代)も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 よって、2〜9代が、もし、非実在なら、妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明でき、超長寿や特異な名前・事績がないだけで、全否定は、できません。

 崇神天皇は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還しているので、実際には、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、開拓で、流通ネットワークを全国展開した一方、4世紀前半の統治範囲は、大和の周辺地域までとみられます。

 神武天皇は、その始祖なので、編纂の際に、「天下」と装飾され、初代・10代ともに、「はじめてこの国を統治した天皇」と潤色されただけではないでしょうか。
 履中天皇(17代)以後は、旧天皇即位から新天皇即位までの平均が12年で、仁徳天皇(16代)以前は、超長寿なので、仮に、それらの天皇が全員実在し、在位期間を12年/人、履中天皇即位を400年とすれば、神武天皇即位は、196年(2世紀終り)、崇神天皇即位は、304年(4世紀初め)となります。

 崇神天皇の4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期で、筆者が主張する、初期ヤマト王権の4世紀前半とも、ほぼ符合し、神武天皇の2世紀終りは、大和に銅鏡が集中するようになる(漢鏡8期の2・3段階)直前で、大型古墳が大和に出現する直前の時期で、始祖にふさわしいともいえます。

 孝元・開化の2天皇(8・9代)は、それぞれ280年・292年即位と算定でき、河内・丹波出身の妻がいて、3世紀後半に、畿内が、鉄器の出土数で、はじめて九州を逆転したので、それぞれ瀬戸内海側・日本海側の、輸入用の交易ルートを開拓したとも、結び付けられます。

 各天皇の実在性は、疑問視されますが、この程度の人数がいた可能性があり、実際には、親子間でなく、兄弟間での皇位継承が、主流だったと導き出せます。

○日中で古代歴史書での食い違い

 これは、あまり取り上げられていませんが、「日本書紀」神功皇后(14-15代の間)の時代の記事で、「魏志倭人伝」から、人名等を引用したにもかかわらず、次のように、ことごとく食い違っています。

「魏志倭人伝」→「日本書紀」
・238年:倭の使者の難升米・帯方郡長官の劉夏→239年:難斗米・ケ夏
・240年:帯方郡長官の使者の建中校尉の梯儁→建忠校尉の梯携
・243年:倭の使者の伊声耆・掖邪拘→伊声者・掖耶約

 また、「旧唐書日本伝」に、日本国は倭国の別種なり、とあり、日本国の人で、唐の朝廷を訪問した者は、自己のおごりたかぶりがひどく、事実を答えないので、中国は、日本国の人の言葉を疑っている、となっており、日本による、中国への虚偽報告は、有名だったようです。

 さらに、「新唐書日本伝」では、日本国王の姓は、アメ氏で、初代がアメノミナカヌシ、32代まで筑紫城、神武天皇から大和州へ移住したとあります。

 「宋史日本国伝」では、献上された年代記には、初代がアメノミナカヌシ、23代(訂正)までは、筑紫日向宮が、神武天皇からは、大和州橿原宮が、都で、「隋書俀国伝」でも、倭王の姓は、アメ氏、「旧唐書倭国伝」でも、倭国王の姓は、アメ氏となっています。

 それらから、倭国は、九州北部の筑紫政権が中心で、畿内の大和政権は当初、倭国の圏外だったのが、朝鮮半島への派兵で、各地の政権が協力するようになり、白村江の合戦(663年)での大敗後の戦後処理をきっかけに、倭国から日本国へと改号し、大和政権が中心になった、とする説があります。

 これによれば、「魏志倭人伝」と「宋書倭国伝」の倭の五王は、すべて筑紫政権の記事で(邪馬壱国=九州北部説、倭の五王=九州王朝説)、大和政権は、「日本書紀」で、故意に人名等を、一部改変することで、筑紫政権の史実を乗っ取ったとみることもできます。

 記紀神話で、神武天皇は、日向から進出しているので、大和政権の始祖(初代)は、筑紫政権と無関係といえますが、中国には、神武天皇が、筑紫から大和へ進出したように、改変しており、権威・権力が、倭から日本へと、スムーズに受け継いだように見せ掛け、正統性を担保したとも読み取れます。
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186. 中川隆[-10496] koaQ7Jey 2019年4月29日 20:37:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1591] 報告

古代国家はいかに形成されたか 古墳とヤマト政権 (文春新書 (036)) – 1999/4/20
白石 太一郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/古代国家はいかに形成されたか-古墳とヤマト政権-文春新書-036-太一郎/dp/4166600362/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8

内容紹介
ヤマト政権が成立したのは、果して三世紀か、五世紀か、七世紀か。最新の発掘成果をふまえて古代史最大の謎・この国のルーツに迫る


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
経済連携していたところに、古墳文化が流行し、政治連合になったのでは? 2019年2月11日

 本書は、為政者の古墳から、政権の変遷を読み取ろうとしていますが、そうするにあたって、問題なのは、主に次の2点ではないでしょうか。

(1)政治の中心地は、王墓よりも、王宮であること
(2)他地域と比べて、古墳の規模が大きいからといって、そこよりも権力があるとはいえないこと


 (1)について、筆者は、「古墳は本来的に、その勢力の本拠地に造営されるのが原則だった」とし(p.119)、「王宮の位置は、その王の姻族(配偶者の血族)や、時の政権を支えた豪族との関係等、時々の政治情勢に規制される可能性が大きい」としています(p.123-124)。

 王宮の位置は、記紀神話での皇宮(天皇の宮殿)の立地と、天皇の妃の出身地・有力豪族の拠点等から、イメージしているようです。

 大型の前方後円墳(帆立貝式も)が立地する、3世紀前半からの大和(おおやまと)・柳本・箸中・鳥見山古墳群(奈良盆地南東部)は、その付近に皇宮も立地していますが、4世紀半ばからの佐紀古墳群(奈良盆地北部)は、皇宮が立地しておらず、豪族の拠点もなく、先行の古墳もなく、根拠不明です。

 一方、4世紀終り〜5世紀初めからの古市・百舌鳥古墳群(大阪平野南東部・南西部)は、交互に古墳が造営され、その付近に皇宮の一部も立地していますが、これは、初期ヤマト政権の盟主が、大和の勢力から、河内南部と和泉北部の二大勢力連合へと、移動したからとしています(p.123)。

 その根拠は、古市・百舌鳥の両方ともに、巨大古墳に先行する、大型古墳が造営されていたからとしていますが(p.122)、そこに有力豪族の拠点があった痕跡は、発見されていないようです。

 また、4世紀半ばに、柳本古墳群の行灯山・渋谷向山の2古墳が続いたので、王位の世襲制が固定化したとし、5世紀にも、佐紀古墳群でも大型古墳が造営されたので、それらから、佐紀の古墳の被葬者は、古市・百舌鳥の古墳を造営した王の妃+その父の家系の可能性が高いとしています(p.124-125)

 これは、夫が妻の家に通い、その子が妻+その父の家に住む、当時の婚姻の風習を想定しているようですが、それだと、筆者が最初に設定した「その王の姻族」で、古墳が立地していることになります。

 吉備・毛野等、畿内以外の地域で、大型古墳(盟主)が移動するのも、婚姻の可能性があると推測でき、婚姻での祖先を共通にした同族意識も、当初は、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野等の、広域内で発達したとみられます。

 ここまでみると、佐紀古墳群の立地が、根拠不明なことと、古市・百舌鳥古墳群の立地が、先行の大型古墳の存在のみで、その付近に、先行古墳の被葬者の拠点が発見されていない以上、根拠にならないことがわかります。

 そうなると、そもそも、王墓は、被葬者の出身地だという、設定自体が、成り立つとはいえなくなり、王墓も、王宮と同様、時々の政治情勢で決定されていたと、みるほうが自然です。

 豪族の拠点がないとすれば、奈良盆地の、北方の佐紀古墳群は、日本海経由の交易ルートの出入口に、西方の古市・百舌鳥古墳群は、瀬戸内海経由の交易ルートの出入口に、それぞれ立地しているので、皇宮のある盆地へ、アプローチする際の視覚的効果が、相当意識されていることになります。

 「日本書紀」の、崇神天皇(10代)による四道将軍の派遣・平定は、4世紀前半とされ、出発から帰還まで、わずか半年なので、実際は、交易ルートの開拓で、輸入用の丹波・西道の2ルートと輸出用の北陸・東海の2ルートを確保した、次のステップの佐紀古墳群と古市・百舌鳥古墳群の造営といえます。

 (2)について、筆者は、「3世紀後半という、あまりに古い時期に、ヤマトを中心とする一元的・集権的な国家的秩序の形成を構想してしまうと、その後の400年にもおよぶ、長い期間における政治連合の変質過程を、正しく認識するうえで支障がある」(p.19)といっており、これに、私も賛同します。

 しかし、出現期の古墳が、畿内の大和で大型、畿内の山城・瀬戸内の吉備・九州北部の豊(とよ)で中型、九州北部の筑紫で小型なので、広域の政治連合が、畿内の大和を中心に形成され(p.56)、連合の盟主である倭国王は、倭の諸国を代表して外交権・交易権を掌握していたとしています(p.61)。

 そして、出現期古墳を生み出した政治連合の形成の契機が、鉄資源をはじめとする、様々な先進的文物の輸入ルートの支配権を巡る、玄界灘沿岸地域と、畿内・瀬戸内海沿岸地域の、争いにあり(p.57)、それを「魏志倭人伝」での2世紀後半の倭国の乱とし、畿内・瀬戸内連合が、勝利したとしています(p.60)。

 つまり、筆者は、3世紀後半を、多元的・分権的といいつつも、いつのまにか、一元的・集権的な畿内の大和をイメージしており、これは、古墳の大きさと権力の大きさを直結し、邪馬台国=畿内説と、安直に結び付けてしまったのが、原因だといえます。

 ところで、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀初め〜半ばに、畿内が、ようやく瀬戸内と同程度になり、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しています。

 もし、倭国の乱で、畿内・瀬戸内連合が、鉄器の輸入ルートを支配したのなら、逆転するのに約100年もかかったことになり、大幅にズレがあることになります。
 そこで私は、古墳の大きさと権力の大きさが、アル程度比例し、上下(主従)関係が成り立つのは、九州北部・出雲・吉備・畿内・東海・毛野の広域内等、盟主が首長を観察でき、反抗すれば、すぐに戦争ができる範囲内だとみています。

 他方、戦争ができる範囲外では、そもそも首長・盟主が、他地域へ頻繁に行き来しないので、古墳の大きさと権力の大きさの比例を想定するのは、大変疑問で、各首長・盟主は、対等が原則、序列があっても、兄弟程度の関係だったと推測できます。

 ここでの戦争ができる範囲とは、当時は、丸木舟か準構造船しかなく、人や物を多く乗せられず(1艘最大20人程度)、途中で水・食糧等を調達しなければならず、海路で侵攻しても、長期戦で食糧不足になれば、撤退しかなく、それほど戦果が期待できないので、補給が容易な、陸路での侵攻が前提です。

 そうなると、遠方とは、戦争よりも交易でつながり、古墳の規模は、広域外への権力の表現よりも、まず広域内への権力の表現で、何よりも、大型古墳を造営できる財力があったと、みるのが自然で、最初から政治連合ではなく、経済連携があり、そこに古墳文化が流行したと、イメージすべきでしょう。

 出現期古墳・纏向型前方後円墳の規模が、それぞれ箸墓・大和の大型前方後円墳の約1/4・1/3・1/2・2/3・3/4・1/1・6/5倍となっているのは、共通の築造企画が存在しなくても(p.38)、交易で長さ(絹・布等)の単位が統一され、被葬者の財力を勘案し、周囲を真似すれば、特定の寸法に近づくのではないでしょうか。

 3世紀初めを境に、中国鏡の分布の中心が、九州から畿内に移動したのは(p.59)、前漢鏡→後漢鏡→魏晋鏡以降と、徐々に銅鏡の価値が低下したのを、九州北部が認識していたからで、後漢末から、民間工房の量産品が、中国市場に流通していたため、それを九州北部が、率先して商売にしたのでしょう。

 畿内・吉備の土器が、九州北部へ移動し、その逆が、ほとんどみられないのは(p.60)、交易で、畿内・吉備の土器を商品として、九州北部の輸入鉄器と、物々交換していれば、それは成り立ち、それが、5世紀初めからの、和泉での、陶邑窯跡群の須恵器の全国流通につながったとも、いうことができます。

 筆者が、政治連合の1次的なメンバーは、3世紀初めの西日本の邪馬台国連合で、前方後円墳形の墳丘墓を造営し、2次的なメンバーは、3世紀中葉すぎに邪馬台国連合と合体した東日本で、前方後方墳形の墳丘墓を造営したとしていますが(p.69)、「魏志倭人伝」と、安直に結び付けるのは、禁物です。

 私は、大和が、裕福な財力を元手に、鉄器による水田整備・古墳造営+首長霊祭祀(墳丘形式・葬送儀礼)・威信財副葬のセットの、領国統治モデルを、東国に提供・交易したので、ますます蓄財でき、経営力があったとみています。

 5世紀前半には、その利益を、畿内は、国内不戦の意思表示として、巨大古墳造営に、多く投入した一方、九州北部は、国外からの鉄器確保のため、朝鮮半島派兵に、多く投入したとみれば、古墳の規模の格差は、説明できます。

 それが、5世紀後半には、戦況悪化で、鉄器確保の危機になったため、九州北部だけでなく、畿内も、領国統治モデルを維持しようと、巨大古墳を天皇陵のみに制限し、財力を朝鮮半島派兵に、本格投入したと、みることができます。

 ただし、筆者は、2世紀後半に、九州北部の玄界灘沿岸地域が、畿内・瀬戸内海沿岸地域に敗北・衰退し、3世紀半ばに、狗奴国の濃尾(美濃・尾張)が、邪馬台国の畿内に敗北・衰退したと、主張したいため、九州北部・濃尾の大型古墳は、6世紀前半としています(それぞれ岩戸山古墳・断夫山古墳)。

 ところが、九州北部・濃尾には、4世紀にも、全長100m前後の大型古墳が、次のように、散見できるので、その推論は、成り立ちません。

○九州北部
・久里双水古墳(佐賀県唐津市双水):3世紀後半〜4世紀前半・前方後円墳・全長109m
・一貴(いき)山銚子塚古墳(福岡県糸島市二丈田中):4世紀後半・前方後円墳・全長103m
・金立銚子塚古墳(佐賀市金立町):4世紀終り・前方後円墳・全長98m
・黒崎観世音塚古墳(福岡県大牟田市岬):4世紀終り・前方後円墳・全長97m

○濃尾
・青塚古墳(愛知県犬山市青塚):青塚古墳群、4世紀半ば・前方後円墳・全長123m
・白鳥(しらとり)塚古墳(名古屋市守山区上志段味):志段味古墳群、4世紀後半・前方後円墳・全長115m
・昼飯(ひるい)大塚古墳(岐阜県大垣市昼飯町):不破古墳群、4世紀終り・前方後円墳・全長150m
・坊の塚古墳(岐阜県各務原市鵜沼羽場町):4世紀終り・前方後円墳・全長120m
・粉糠(こぬか)山古墳(岐阜県大垣市青墓町):不破古墳群、4世紀終り〜5世紀初め・前方後方墳・全長100m


 以上より、3世紀前半から、濃尾以西で土器の地域差が希薄化し(庄内式)、環壕集落が廃絶したのは、西日本で経済連携ができたからで、そこへ古墳文化が流行し、3世紀半ばから、東日本にも拡大、政治連合化したのは、4世紀終り〜5世紀初めからの、朝鮮半島派兵が、きっかけではないでしょうか。

 経済連携といっているのは、首長・盟主間が、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)の、対等・分権のヨコの関係で、政治連合化すると、支配と服属の、序列・集権のタテの関係もでき、最初は、みんなの自発的な文化摂取だったのが、やがて有力者の強制的な制度摂取へと変容していくのです。

 これまでは、古墳期を飛鳥期につなげようと、「前方後円墳体制」等のように、古墳を制度として取り扱い、タテの関係に偏重してきましたが、統一国家成立前なので、これからは、有力者どうしのヨコの関係も、同時にみていく必要があり、古墳が文化だった原初へ、イメージを遡行させるべきです。
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187. 中川隆[-10489] koaQ7Jey 2019年4月29日 21:20:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1598] 報告

農耕社会の成立〈シリーズ 日本古代史 1〉 (岩波新書) – 2010/10/21
石川 日出志 (著)
https://www.amazon.co.jp/農耕社会の成立〈シリーズ-日本古代史-1〉-岩波新書-日出志/dp/400431271X/ref=cm_cr_srp_d_product_top?ie=UTF8


内容紹介
縄文の集落から弥生の農耕社会へ。稲作の導入を契機とする、日本列島の歴史の大きな分岐点は、しかし、「縄文人から弥生人へ」という単純な交代ではなく、複線としての歴史の始まりであった。北海道から沖縄まで列島全体をひろく視野に、ゆたかな地域性を保ちつつ緩やかに変わってゆく列島の姿を新鮮に描きだす。

内容(「BOOK」データベースより)
「海を越えてやってきた渡来人が、縄文人にかわり、西日本を中心に新しい文化を築いた」という一般的な弥生時代のイメージ。しかし、稲作の導入を契機とする日本列島の歴史の大きな分岐点は、もっと緩やかにして多様なものであった。縄文から弥生への連続性と、地域文化の豊かさに注目しつつ、「複線」としての歴史像を新鮮に描きだす。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
石川/日出志
1954年新潟県に生まれる。1983年明治大学大学院文学研究科博士課程中退。現在、明治大学文学部教授。専攻は考古学

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち3.0
弥生期は、互酬・交易のヨコの関係と、支配のタテの関係の、はじまりである 2019年2月9日


 日本史で、飛鳥期以後は、政治の中心地を時代名とし、古墳期以前は、中央集権が、未整備なので、新規に登場した文化名を使用していますが、縄文期は、定住による縄文土器の出現、弥生期は現在、弥生土器との区別よりも、水田稲作の伝播を優先し、時代区分としています。

 農耕社会が成立したのは、弥生期ですが、本書は、「シリーズ日本古代史」の最初でもあるので、それ以前の、日本列島最古の出土がある旧石器後期と縄文期、それ以後の、前方後円墳が出現した古墳初期も、取り上げ、連続的・相対的に俯瞰しようとしているので、弥生文化自体は、5章中、2章です。

 よって、弥生期を充分理解したいなら、本書は、総論なので、別書で、各論を補充したほうがよいでしょう。

 本書で気づかされたのは、移動生活だった旧石器期は、すべて自給自足といってよく、定住生活になった縄文期も、食糧・道具等の大半が、自給自足ですが、黒曜石・サヌカイト・ヒスイ・天然アスファルト等、貴重な道具を、交流(互酬)・交易で、調達していることです。

 しかも、それは、長距離を一気に移動する、直接交流・交易ではなく、複数の集落間を、中短距離でリレーする、間接交流・交易だったと推測でき、弥生期の交流・交易は、弥生文化圏とともに、続縄文期の北海道・南島続縄文期(貝塚後期)の沖縄等、弥生文化圏周辺の地域へも、一部到達しています。

 縄文期には、集落をまとめるリーダーがいても当然ですが、集落のメンバーどうしは、平等が原則で、集落どうしは、贈与と返礼(互酬)や物々交換(交易)のヨコの関係がありました。

 それが、弥生期には、水田稲作の導入で、リーダーが、集落のメンバーから突出した存在になり、保護(人命・財産の保障)と納税(貢納・労役)のタテの関係が、はじめてできると、リーダーが、集落どうしの交流(互酬)・交易を主導するようになったので、リーダーどうしのヨコの関係になります。

 また、リーダーは、集落どうしの対立を解消したり、同盟で連携したり、抗争に戦勝し、その集落を支配下にすれば、上下(主従)のタテの関係になり、庶民とは格差のある首長ができ、今度は、首長どうしのヨコの関係になり、こうして、タテの関係が重層すれば、高次どうしのヨコの関係ができます。

 青銅器・鉄器は、そのような中での摂取なので、リーダー・首長どうしの互酬(交流)・交易か(ヨコの関係)、上位者(首長)から下位者(リーダー)への授与(下賜)で(タテの関係)、入手したとみるべきでしょう。

 ここで注意したいのは、青銅器・鉄器等の貴重品・舶来品を入手する際に、戦時だと、侵略による略奪も可能ですが、平時だと、自前の工房で製作するか、互酬・交易で調達するか、有力者から授与されるかの、いずれかしかないことで、このうち、製作と互酬・交易には、財力が必要です。

 そして、古墳初期の前方後円墳も、そのような中での摂取ですが、大和に大型古墳が出現するのは、3世紀前半〜半ば、鉄器の出土数で、畿内が九州北部を逆転するのは、3世紀後半と、ズレています。

 それは、大型古墳が、首長と庶民のタテの関係で造営され、対内的な権力の表現である一方、鉄器等の舶来品が、首長どうしのヨコの関係で調達され、財力の表現で、別の力だからです。

 大和は当初、対外的な権力はなく、財力があったので、大型古墳を造営、西の輸入用2方向・東の輸出用2方向に、流通ルートを確保することで、鉄器を普及させ、鉄器による水田整備・古墳造営・威信財副葬のセットの、領国統治モデルを東国に提供したので、ますます蓄財できたのではないでしょうか。

 輸入の場合、売り手側が2者(丹波・吉備)なら、買値の比較ができ、買い手側が有利になり、輸出の場合、買い手側が2者(北陸・東海)なら、売値の比較ができ、売り手側が有利になるからで、こうして大和は、売り買いとも、九州北部より優勢になれ、経営力があったとみるべきでしょう。

 こうして、古墳期には、弥生期由来の支配のタテの関係で、為政者が、リーダー→首長→豪族と、庶民とは隔絶した存在になるとともに、縄文期由来の互酬・交易のヨコの関係で、豪族どうしが、貴重品・舶来品等を取引するようになったと、推測できます。

 特に、銅鏡で、漢鏡7期は(p.202)、後漢が弱体化し、中国の市場に流通していたもの、卑弥呼へ授与された百枚の魏鏡は、民間工房に外注されたもの、三角縁神獣鏡は、日本輸出専用に中国の民間工房が量産したものとみられ、前漢鏡→後漢鏡→魏鏡以降と、銅鏡の価値が低下したのを認識すべきです。

 ヨコの関係については、4世紀終り〜5世紀初めに、倭が朝鮮半島へ渡海・交戦したのも、鉄器確保と引き換えの派兵とみれば、一種の贈与と返礼で、略奪・領土拡大のためというよりも、日本列島での鉄器による水田整備・古墳造営・威信財副葬のセットの、領国統治モデル維持のためといえます。

 さらに、5世紀後半・雄略天皇(21代)の時代にみられる、人制(ひとせい)は、豪族が、天皇に私財で奉仕するかわりに、地位・利得等の恩恵を享受する、一種の贈与と返礼ともいえ、それが、天皇中心の中央集権のタテの関係へと、長期的には発展しましたが、短期的には反抗もあったと説明できます。

 ただし、筆者は、考古学だと、紀元前1〜2世紀に、九州北部で最有力だったのは、奴国・伊都国なのに、「魏志倭人伝」だと、伊都国には代々、王がいるが皆、女王国に統属したとあるので、邪馬台国は、九州以外だとし、畿内説が順当だとしていますが(p.205)、なぜ九州以外なのかが、根拠不詳です。

 邪馬台国=畿内説を主張するなら、九州から近畿までの距離を、どのように統属したのかが、大変疑問で、それぐらいの広域を統治する能力があるなら、すでにアル程度の中央集権化でしょう。

 「三国志・魏志」烏丸鮮卑東夷伝(巻30)には、倭人だけでなく、烏丸・鮮卑・夫餘・高句麗・東沃沮・挹婁・濊・韓(馬韓・辰韓・弁韓)の項目もあり、それらの範囲が推定された、朝鮮半島〜中国大陸東北部〜沿海州周辺の地図が、ネットで散見できます。

 そこで、倭の範囲を、近畿以西の西日本とすると、朝鮮半島の他地域に比べて、倭だけが、異様に広いことがわかり、しかも、朝鮮半島の他地域は、拠点を複数設置し、陸路を整備すれば、反乱があっても、すぐに大軍を派兵すれば、騎馬もあり、一気に鎮圧するのも可能です。

 一方、3世紀の倭は、丸木舟か準構造船しかなく、人や物を多く乗せられず、途中で水・食糧等を調達しなければならず、九州〜近畿間の海路で、大軍は無理、補給も困難、そんな状況で、畿内の邪馬台国が、九州北部の伊都国の一大率の検察に、畏憚する(おそれはばかる)のは、到底納得できません。

 2章で筆者は、「確かな資料に基づく議論と、可能性を探ることとは、厳密に分ける必要があり、確実さの保証のない議論には慎重でありたい」といっていますが(p.58)、5章の古墳初期の最後で、「魏志倭人伝」等の文献学を安直に取り入れ、考古学のみで押し通さなかったのは、残念です。
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188. 中川隆[-10488] koaQ7Jey 2019年4月30日 05:08:31 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1599] 報告

古代国家はいつ成立したか (岩波新書) – 2011/8/20
都出 比呂志 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%AF%E3%81%84%E3%81%A4%E6%88%90%E7%AB%8B%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%8B-%E5%B2%A9%E6%B3%A2%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E9%83%BD%E5%87%BA-%E6%AF%94%E5%91%82%E5%BF%97/dp/4004313252/ref=la_B001I7HGUQ_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1556568374&sr=1-1

内容紹介

日本列島で「国家」はいつ成立したのか。それを解き明かす一つの鍵が考古学の成果にある。集落の構造、住居間の格差、富を蓄えた倉庫の様子など、社会構造の変遷を追っていったとき、邪馬台国は国家なのか、倭の五王の頃はどうか、あるいは7世紀以降の律令体制を待つのか……。諸外国の集落との比較も交え、わかりやすく語る。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
都出/比呂志
1942年大阪市生まれ。1964年京都大学文学部卒業、68年同大学大学院文学研究科博士課程中退。専攻、考古学・比較考古学。現在、大阪大学名誉教授

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0

古代史の学者達は、序列・集権のタテ関係を重視するあまり、対等・分権のヨコ関係を軽視しがち 2019年2月5日

 筆者は、考古学者なのに、本書の弥生期では、邪馬台国=畿内(大和)説を、古墳期では、倭の五王=履中・反正・允恭・安康・雄略の5天皇(17〜21代)説を、無条件に導入する等、文献学を最初から安直に取り入れて解説しており、とても異例で、大前提が、怪しく危ういです。

 本来なら、先に、考古学で事実を確認し、後に、文献学で推測を補強するのが通例であるうえ、邪馬台(壱)国=九州北部説や、倭の五王=九州王朝説が、あるにもかかわらず、なぜそれらを採用していないかは、ほとんどスルーされています。

 卑弥呼の倭が、狗奴国との交戦の際、魏が帯方郡から派遣した援軍は、長年滞在しているのに、方位の東を南と書き誤ったとしたり、倭の7ヶ国が、伊都国の一大率の検察を畏憚しているのに、邪馬台国が、伊都国(放射式)か投馬国(連続式)から、水行10日+陸行1月もかかるとするのは、強引です。

 軍隊にとって、諸国の位置・距離は、進軍・補給等に最低限必要なので、方位等の記載ミスはありえず(書き誤りなら、「魏志倭人伝」より後世に成立した「後漢書倭伝」で、狗奴国の方位を訂正・距離を追加した際に、訂正してもよいはず)、領土統治は、反乱をすぐに鎮圧できることが、大前提です。

 邪馬台(壱)国=九州北部説は、帯方郡〜邪馬壱国間を1万2000余里、帯方郡〜伊都国間を1万500余里、伊都国〜邪馬壱国間を1500里以内(対馬国〜壱岐国間の約1.5倍)としており、それを論破しないまま、邪馬台国=畿内(大和)説を採用するのは、不充分といえます。

 弥生期は、早期・前期・中期・後期・終末期と、5区分し、武器・祭器・環壕(濠)集落・墓地等から、戦争・青銅器祭祀等で、小さな政治的まとまりから、大きな政治的なまとまりへ(リーダーから首長へ)、発展していったと、説明しています。

 紀元前1000〜紀元前800年の早期は、まだ採集を継続していた時代、紀元前800〜紀元前400年の前期は、米の栽培が定着した時代、紀元前400〜紀元前50年の前期は、小国が誕生し、九州北部・吉備・出雲・畿内・東海・関東の各ブロックが出現した時代、紀元前50〜180年の後期は、ブロック間の抗争の時代、180〜240年の終末期は、女王の卑弥呼が君臨した時代と、単純化したいようです。

 ただし、当時は、丸木舟か準構造船しかなく、人や物を多く乗せられず(1艘の乗員は、最大でも20人程度)、途中で水や食糧等を調達しなければならず、海路で侵攻しても、高地性集落等に篭城されての長期戦で、食糧不足になれば、撤退するしかなく、それほど戦果が期待できません。

 よって、陸路で侵攻できる範囲でしか、侵略戦争は、非合理的なので、筆者のいう、弥生後期での、九州北部・吉備・出雲・畿内・東海・関東のブロック間の、中小型船が必要な抗争は、非現実的で、それよりも、遠方とは交易でつながるのが、合理的だったとみられます。

 大型船は、4世紀終り〜5世紀初めから、朝鮮半島からの渡来人が、日本列島へ大勢渡海した際に、多用されたと推測でき、それ以前と以後の戦争は、分けて考えるべきではないでしょうか。

 また、古墳期は、3世紀半ばから、前方後円墳・前方後方墳で、設計の尺度に共通性があるので、地方有力首長達が、中央政府を樹立し、そこでは、相互承認で(前方後方墳が存続する4世紀後半までは)、身分秩序や古墳の形状・規模が、決定されたとしています。

 ですが、古墳初期から、中央政府が、実在していたとするのは、大変疑問で、筆者は、「前方後円墳体制」という用語を提唱していますが、初期・前期の古墳は、各地方首長による、「自発的な文化」だったのではないでしょうか。

 中央政府というからには、地方有力首長達が、寄合していなければいけませんが、その証拠はなく、大和の纏向遺跡に、物(土器)が集積していたからといって、人(有力者)が集合したとはいえません。

 古墳の形状・規模等は、各地方有力首長の自己の権力・財力しだいで、どうにでもでき(遠方からは、攻め込まれにくいので)、交易では、長さ・重さ・大きさの単位を、揃える必要があるので、それが古墳の規模にも、影響したのではないでしょうか。

 そして、古墳中期・5世紀後半の雄略天皇の時代には、人制(ひとせい)等で、中央集権化に取り組み、古墳も、やがて「強制的な制度」へと変容し、その時期からの巨大古墳は、畿内で天皇のみに限定されたとみるのが自然です。

 つまり、最初は、全国各地の首長達の対等・分権社会だったのが、しだいに首長の盟主(天皇)中心の序列・集権社会へと移行し、その反発として、古墳後期・6世紀前半の継体天皇(26代)の時代に、磐井の乱が、九州の北半分で勃発したと位置づけられます。

 そののち、中央集権化は、6世紀半ばの欽明天皇(29代)の時代→飛鳥期・7世紀前半の推古天皇(33代)の時代→7世紀半ばの天智天皇(38代)の時代→7世紀後半の天武・持統の2天皇(40・41代)の時代と、徐々に政敵の皇族・有力豪族が排除され、雄略天皇の時代から、約200年もかかりました。

 中央集権化がゆっくりだったのは、海外から日本列島へ攻め込まれる心配がなかったからですが、白村江の合戦(663年)の大敗後、はじめて危機となり、壬申の乱(672年)で、大和政権の中枢にいた有力豪族達が一掃されたため、天武天皇に権威・権力が集中できました。

 最後の6章に、学者達の、日本列島に国家はいつ成立したのかの議論が、取り上げられていますが、玄人の学者にとっては、大切でも、素人の読者にとっては、不毛で、それは結局、どのレベルの領域で、いつ中央集権化がはじまったかで、見方が変化するからです。

 そのうえ、筆者は、3世紀からの地域国家(筑紫・吉備・出雲・毛野)を、中央政府(大和)の鉄に依存し、自立していないので、独立国家でないと言及していますが(p.177)、それだと、現在の日本も、他国にエネルギーの大半を依存しているので、独立国家といえないことになり、論理破綻しています。

 そもそも、大和が自前で航路を開拓し、朝鮮半島南部から直接、鉄資源を輸入し、それを全国各地へ流通させていた確証はなく、自立・自給自足の概念を持ち込むのなら、日本列島で製鉄できるようになったのは、現時点では、6世紀後半とされているので、初期国家を古墳期とするのと、矛盾します。

 古代史の学者達の大半は、徴税(農海産物等の貢納・労役)・青銅器祭祀・戦争等、ある程度の序列・集権の段階での、為政者から庶民への「強制的な制度」を取り上げるのが普通で、本書もそれを踏襲しています。

 しかし、突出した人物が、出現する前後の起源には、共同体の構成員どうしの、対等・分権の段階があり、弥生初期の庶民にとっての水田稲作や、古墳初期の地方首長達にとっての古墳は、「自発的な文化」だったはずですが、その視点が、欠如しており、それは、想像で補充するしかないのも、事実です。

 序列・集権の発想しかなければ、古墳に副葬された威信財を、上位から下位への授与(下賜)とみなすしかなく、無茶ですが、対等・分権の発想があれば、威信財は、贈与と返礼(互酬)か物々交換(交易)の、流通で取得した可能性もあり、古墳期の銅鏡の大半は、すでに中国市場に流通していました。

 私は、畿内が、3〜4世紀に、舶来品の輸入用として丹波ルートと吉備ルート、舶来品の輸出用として、北陸ルートと東海ルートの、東西2方向ずつに、交易ルートを確保したことで、日本列島の流通を、主導できるようになったとみています。
 そうできたのは、輸入の場合、売り手側が、2者(丹波・吉備)なら、買値の比較ができ、買い手側が有利になり、輸出の場合、買い手側が、2者(北陸・東海)なら、売値の比較ができ、売り手側が有利になるからで、こうして畿内は、売り買いとも、九州北部よりも優勢になれたとみるのが自然です。

 威信財を、筆者は、現代社会での外国製のブランド商品になぞらえ、それを入手することで、仲間意識が形成されたのではと、類推していますが(p.183)、実際には真逆で、仲間への対抗意識から、しばしば収集の量・質ともに、エスカレートします。

 それは、威信財だけでなく、古墳の規模も同様で、大和・河内・和泉・吉備で、5世紀前半まで、大型古墳が林立したのは、対抗意識が激化したのも一因ではないでしょうか。

 ブランド商品の流行は、対等・分権社会だからこそ成立し、本人は、「自発的な文化」という認識で購入しますが、仲間とのヒートアップが懸念され、それを抑止するには、制限が必要です。

 その制限が、5世紀後半の雄略天皇の時代からの序列化・集権化で、古墳には、それ以降、「強制的な制度」が作用したとみられ、これまで古墳で浪費していた、地方首長達の財力を、戦況が悪化していた、朝鮮半島への関与に、投入しようとしたのではないでしょうか。

 筆者最大の誤解は、生活様式が共通するからといって、そこが中央政権の影響範囲だとは、とてもいえないもにもかかわらず、文化と制度を同一視していることで、同じ欧米文化を摂取していても、制度の違う国家は、いくらでも存在します。
 文化の摂取は、利得があれば、対象者が、自発的に取り入れ、対等・分権が前提で、国境も、簡単に乗り越えますが、制度の摂取は、支配者の利得で、対象者へ強制的に取り入れさせられ、序列・集権が前提で、支配者の統治範囲が、国境となり、文化と制度を混同すると、トンチンカンな推測になります。

 高齢な筆者は、戦前・戦中に席巻した、極度に中央集権化された皇国史観を、嫌悪しているようですが、戦後に導入した欧米の理論自体も、秩序的・体系的で、序列的・集権的な性向にあるので、その思想に引っ張られ、そこから対等・分権を、なかなかイメージできなかったのかもしれません。

 近代化以前の中国・朝鮮では、ほとんどが、序列・集権のタテ関係で、成り立っていましたが、近代化以前の日本では、為政者の合議制や、百姓の寄合等、対等・分権のヨコ関係も、同時に重要なのに、古代史の学者達は、序列・集権のタテ関係を重視するあまり、対等・分権のヨコ関係を軽視しがちです。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2RTQBW9GMDZ11?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp

189. 中川隆[-10487] koaQ7Jey 2019年4月30日 07:19:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1600] 報告

〈新〉弥生時代: 五〇〇年早かった水田稲作 (歴史文化ライブラリー) – 2011/9/20
藤尾 慎一郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E3%80%88%E6%96%B0%E3%80%89%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3-%E4%BA%94%E3%80%87%E3%80%87%E5%B9%B4%E6%97%A9%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E6%B0%B4%E7%94%B0%E7%A8%B2%E4%BD%9C-%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E6%96%87%E5%8C%96%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%96%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%83%BC-%E8%97%A4%E5%B0%BE-%E6%85%8E%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4642057293/ref=la_B004LTVZ8C_1_2?s=books&ie=UTF8&qid=1556576285&sr=1-2


内容紹介
東アジア国際情勢、広まりの遅い水田稲作…。「炭素14年代測定法」による衝撃の測定結果で、500年遡る日本列島の全体像を描く。

内容(「BOOK」データベースより)
「炭素14年代測定法」の衝撃が、これまでの弥生文化像を覆しつつある。東アジアの国際情勢、鉄器がない当初の数百年、広まりの遅い水田稲作、村や墳墓の景観…。五〇〇年遡る“新”弥生時代における日本列島像を描く。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
藤尾/慎一郎
1959年、福岡県に生まれる。1986年、九州大学大学院博士課程単位取得退学。現在、国立歴史民俗博物館・総合研究大学院大学教授、博士(文学)


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち3.0
弥生期の先行的な先進文化の摂取と、総体的な流れを追うことに、特化した本 2019年1月28日


 本書は、弥生期の開始が、紀元前5世紀から紀元前10世紀へと早期化し、その期間も、約700年から約1200年へと長期化する際に、研究成果が変更する事態が、取り上げられており、それらを水田稲作・金属器の伝播、弥生期の集落・墳墓の規模・構造、地域別の文化の特色の、3つに大別しています。

 筆者の『弥生時代の歴史』では、九州北部での水田稲作が、紀元前10世紀の開始となった結果、弥生期の見方が、どう変容するかを、通史的な記述の中で、取り上げられており、本書では、少し重なる部分もありますが、学者達の間での論争や、その根拠・経緯等、詳細まで踏み込んでいます。

 このうち、まず、水田稲作・金属器の伝播では、土器等の出土物に付着した炭化物中の、炭素14の放射線の濃度を測定・分析し(加速器質量分析法=AMS)、年代を特定することで(誤差は±20年程度)、九州北部での水田稲作が、紀元前10世紀に開始されたのが、わかったことから、出発しています。

 そののち、水田稲作は、紀元前7世紀に近畿、紀元前4世紀に東北北部、紀元前2世紀に関東へ伝播し、青銅器・鉄器の使用は、おおむね紀元前4世紀からなので、水田稲作の流入後、約600年間は、金属器のない石器の時代だったことも、導き出されています。

 ここでは、特に、九州北部・大阪・東北北部での、水田稲作の伝播の仕方が、次のように、言及されています。

○九州北部
 紀元前10世紀は、中国大陸の中原(ちゅうげん)地域で、紀元前1046年に(本書では、紀元前1027年説を採用)、殷が滅亡し、周王朝が樹立された頃で、中国大陸から朝鮮半島への影響は、まだないので、朝鮮半島南部からの渡来人が、自分達の意志で、水田稲作等を九州北部に持ち込んだとみられます。

 当初は、九州北部の平野の上・中流域に、狩猟・採集・畑作(陸稲も)の在来の園耕民、下流域に、渡来の水田稲作民と、住み分けられていました。

 それが、紀元前9〜紀元前8世紀に、水田に適した土地が、ほとんど開発し尽くされ、環壕集落が出現、対立・抗争もみられるようになり、紀元前7世紀に、園耕民が、水田稲作民化したので(四箇/しか型)、水田稲作が普及するまで、約300年が必要でした。

 水田稲作民が、朝鮮半島南部からの渡来人といえるのは、朝鮮半島系の調理用土器(刻目/きざみめ文土器)を所有していたからで、やがて、刻目文土器は、日本(板付型)と朝鮮(松菊里型)で、変化しましたが、刻目文土器を持ち込んでいない渡来人も、下流域に進出しています(那珂/なか型)。

○大阪
 それから、水田稲作は、紀元前8〜紀元前7世紀に、九州東部・南部・瀬戸内西部、紀元前7〜紀元前6世紀に、神戸・大阪へと、伝播しています。

 大阪(古河内潟周辺)では、在来の園耕民と、外来(香川からが有力)の水田稲作民が、住み分けられ、しばらくそのままで交流し、その約100〜150年後に、園耕民が、水田稲作民化しました。

 尾瀬ヶ原のハイマツの花粉割合から推定した気温変動によると、紀元前8〜紀元前7世紀は、寒冷のピークで、これ以降、しだいに温暖化していったので、水田稲作が、西日本で普及した時期と呼応しています。

○東北北部
 青森には、日本海沿岸経由で、紀元前4世紀に、狩猟・採集の園耕民が、水田稲作を取り入れましたが、北海道南部の影響下にあるので、農工具・祭祀等は、そのまま縄文系を踏襲し、紀元前1世紀に、水田稲作を放棄、狩猟・採集生活へと逆行し、そののちの水田稲作の再開は、6世紀でした。

 東北中部の仙台・東北南部のいわきでも、紀元前4世紀に、狩猟・採集の園耕民が、水田稲作を取り入れましたが、弥生系の組織・体制に改変したので、水田稲作を放棄しなかった(または、できなかった)とみられます。

 以上より、九州北部・大阪では、園耕民が、なかなか水田稲作民化せず、それぞれ約300年・約100〜150年もかかりましたが、いったん先進文化を摂取すると、縄文系の組織・体制を排除したので、水田稲作に依存するしかなくなりました。
 一方、東北北部では、縄文系の組織・体制を温存したまま、水田稲作を取り入れたので、途中で放棄できました。

 これは、贈与と返礼の関係が優勢の、縄文的な平等・分権社会が、保護と納税の関係が優勢の、弥生的な序列・集権社会へと、移行するには、かなりの抵抗があるということで、序列・集権の組織・体制になれば、反乱か衰退がないかぎり、不可逆的で、古墳期には、ますます序列・集権が拡大しました。

 そして、先進文化を摂取するには、園耕民が、自発的に受け入れるための理由があり、私は、それを初穂と出挙(すいこ)の組み合わせだと推測していますが、それで、序列・集権の地域が、優勢になれば、近隣の平等・分権の地域は、その外圧の影響で、水田稲作を受け入れざるをえなくなります。

 こうして、人々は当初、開いた世界で、自発的に水田稲作に取り組み、それが普及・定着すると、やがて、閉じた世界になり、強制的だとも、受け取られるようになりますが、序列・集権の組織・体制になってしまうと、そこを離脱しないと、抜け出せません。

 この連鎖で、朝鮮半島南部から、西日本・北日本・東日本へと、水田稲作が伝播したとみられますが、水田稲作可能な新天地の情報・丸木舟の船団での渡海技術・水田整備までの食糧調達には、海洋漁労交易民の関与が、不可欠なのではないでしょうか。

 なので、渡来人は、ある程度の財産を持参するか、なければ、現地で負債しての新生活になるかですが、ここから、すでに、序列が形成され、保護と納税の関係へと、発展する可能性があります。

 つぎに、弥生期の集落・墓地の規模・構造では、これまで弥生期が約700年間の際には、土器型式の存在期間が、30〜50年で、世代交代を約30年とみれば、同一の土器型式なら、おおむね同時期に存在していたと仮定できました。

 しかし、これから弥生期が約1200年間になれば、存在期間が、30〜150年になるので、炭素14による年代特定で、精度を30年程度に絞り込むか、30〜150年の累積結果として容認するかの、いずれかで、累積数だと、当時の集落・墓地の状況と食い違うので、復元とはいえず、人口の推定にも影響します。

 さらに、地域別の文化の特色では、北の文化・北のボカシの地域・中の文化・南のボカシの地域・南の文化の、5つに区分し、これらが重なり合いながら、数珠つなぎに連続していると、イメージされています。

 また、水田稲作・環壕集落・青銅器祭祀の、3つを指標とすれば、西から東へ、3つが存在する地域(西日本)・水田稲作と環壕集落の地域(東日本)・水田稲作(北日本)のみの地域の、3段階に区分できますが、水田稲作を取り入れた地域が、そのまま、古墳祭祀の地域と一致するのが、わかります。

 つまり、北の続縄文文化・中の弥生文化・南の貝塚後期文化のうち、中の弥生文化が、古墳文化に置き換わっただけで、それは、水田稲作と古墳造営の組織・体制が、同一だから、抵抗なく移行できたと推測できます。

 このように、本書は、弥生期の先行的な先進文化の摂取と、総体的な流れを追うことに特化した、総論なので、筆者の『弥生時代の歴史』とともに、弥生期に関心がある人は、最初に読むのがお勧めです。

 それから、他の本で、各論を読み進め、先進文化の普及・定着や、後行的な中国大陸からの直接の影響を、補完するのがよいでしょう。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R3DK1H6YQL7LDU?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp

190. 中川隆[-10486] koaQ7Jey 2019年4月30日 07:51:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1601] 報告

旧石器・縄文・弥生・古墳時代 列島創世記 (全集 日本の歴史 1) – 2007/11/9
松木 武彦 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A7%E7%9F%B3%E5%99%A8%E3%83%BB%E7%B8%84%E6%96%87%E3%83%BB%E5%BC%A5%E7%94%9F%E3%83%BB%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E6%99%82%E4%BB%A3-%E5%88%97%E5%B3%B6%E5%89%B5%E4%B8%96%E8%A8%98-%E5%85%A8%E9%9B%86-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-1/dp/4096221015/ref=la_B004LREFCM_1_1?s=books&ie=UTF8&qid=1556578152&sr=1-1


内容紹介

この本が対象とするのは、日本列島にヒトが初めて登場した旧石器時代から、人びとが定住を始めて多彩な土器や土偶が登場する縄文時代、稲作が盛んになって列島各地にさまざまな文化が花開く弥生時代を経て、世界的にも類を見ない大規模な古墳が集中してつくられる古墳時代に至る、4万年の日本列島の歩みです。

この4万年は、文字が存在しない、あるいはまだ十分に普及していない時期でした。この時期の社会は、土器や古墳など、ヒトがつくった「もの」が文字の代わりに重要な意味をもつ、文字以前の物質社会でした。そこでは、ヒトがつくる「もの」にさまざまなメッセージや意味が込められるとともに、今度はその「もの」がヒトの行動を規定するという面もありました。いわば、「もの」からヒトの心が見えてくる社会だったのです。

この本は、そうしたヒトと「もの」との双方向的な関係に着目する「認知考古学」という新しい方法論を用いて、4万年の日本列島の歩みを、考古資料という「もの」の分析から綴っています。たとえば縄文時代につくられた、火炎土器に代表される派手な装飾の土器の数々。これはただ当時の人びとの美的感覚を語るものではなく、当時の人びとが土器にそのような派手な装飾を加えなければならない、社会的な必要性があったからこそ生まれたものであり、その必要性とは何かと考えることで、当時の社会が見えてくるのです。

こうした視点から考古資料を見ていくことで、従来なかった、新しい列島像が描かれます。古墳についても、これまでの歴史学では「なぜ5世紀の日本列島にこのような巨大古墳がつくられたのか」という問いに明確な答えは出せませんでしたが、本書では、ある答えが提示されています。その答えが正しいかどうかは読んでご判断いただくとして、読者のみなさんの知的好奇心を刺激する1冊であることは間違いありません。


著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
松木/武彦
岡山大学文学部准教授。1961年愛媛県生まれ。大阪大学大学院文学部研究科博士課程修了。専攻は日本考古学。ヒトの心の現象の科学的な分析・説明による、科学としての歴史の再構築をめざしている

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち4.0
認知考古学での推論は、分権的で自発的な対象者のみに、適用すべきでは? 2019年1月26日


 本書は、日本列島の旧石器・縄文・弥生・古墳期の無文字社会4万年間の歴史を、認知科学(感情・欲望・神・迷信等、心の現象を科学的に分析・説明する分野)の考古学への適用、地球環境の気候変動による影響、未分化な状態から日本国形成までの最初の経緯、の3本柱で、読み解こうとしています。

 ですが、古代以前の日本列島の人々は主に、旧石器時代に日本列島へ流入して縄文期に定住した土着人、弥生期の渡来人、古墳期の渡来人の3種に大別でき、弥生期と古墳期は、中国大陸・朝鮮半島の先進文化を摂取してきたので、物質文化も、海外からの影響を考慮するのが通例です。

 そこから、縄文等の土着文化を深層(基層)、弥生等の外来文化を表層としたり、時代とともに、表層の物質文化は、変化しても、深層の精神文化は、不変だと、主張されることが、多々あり、古代での和魂漢才、近代での和魂洋才のように、縄魂弥才ともいわれます。

 それで、研究者達は、縄文期以前と弥生期以後を、明確に区分し、中国の歴史書等、文字記録(文献史料)があれば、それを物質資料(考古資料)と併用しますが、筆者は、無茶を承知で、物質文化のみを対象とし、旧石器・縄文・弥生・古墳期の無文字社会から、一貫した理論を導き出そうとしています。

 認知科学では、人間は、体だけでなく、脳も進化し、自分達の生存・生活に都合のいい、有利な文化を摂取するとされており、海外から影響されるのも、人々の心が、進化していないと、それを摂取し、定着することは、ありません。

 そうなると、物質文化の普及が、少数か多数か、狭域か広域か、定着の範囲を、重要視すべきですが、日本列島のオリジナルか、中国大陸・朝鮮半島のコピーかアレンジかは、ほとんど無意味になります。

 ただし、中国大陸の先進文化を、日本列島は、自発的・選択的に摂取し、朝鮮半島は、強制的・全面的に摂取してきた傾向にあるので、海外からの影響といっても、強制的・全面的だと、認知科学を信用するのは、無理ですが、自発的・選択的だったからこそ、適用を許容できるのかもしれません。

 本書の要旨は、まず、機能的な実用性を超える、視覚的な象徴性が表現された「凝り」に着目し、「凝り」のある人工物は、人の心を呼び起こし(認知的誘引性)、それが社会的なメッセージとなることがあり(モニュメントは、その一例)、そうなるのは、環境が変化する際に顕著だと、指摘されています。

 つぎに、無文字社会4万年間の、環境の変化(気候変動)を、次のように、分類しています。

・第1寒冷化期(4万年前〜後期旧石器後半・2万年前)
・第1温暖化期(後期旧石器後半・約2万年前〜縄文前期・7,6000年前)
・第2寒冷化期(縄文前期・7,6000年前〜縄文晩期・28,2700年前)
・第2温暖化期(弥生期前半・28,2700年前〜紀元前後)
・第3寒冷化期(弥生期後半・紀元前後〜奈良期・8世紀末)


 さらに、人々は、生存・生活のために、環境の変化(気候変動)に対応しようとしますが、温暖化期と寒冷化期で、それぞれ類似した行動をとる傾向にあると、主張されています。

 温暖化期は、食糧増加による生存・生活の安定・余裕から、人口が増加するとともに、小集団が大集団化し、特定の物質文化が形成され、大集団で既存のアイデンティティを保守したり、子孫に既存文化を伝達する等、標準的になりがちです。

 温暖化期に「凝り」が現れるのは、発展が限界の時期で、それは、周囲の集団に対抗・競合するためで、既存文化の地域色が濃厚化しますが、差異化・差別化は、改善・改良程度です。

 一方、寒冷化期は、食糧減少による生存・生活の不安・危機から、大集団が小集団化し、別地へ移動したり、小集団で新規のアイデンティティを独創する等、流動的になりがちです。

 寒冷化期に「凝り」が現れるのは、衰退が急落の時期で、それは、外からの影響・内からの模索が活発化するからで、新規文化の萌芽である一方、既存文化の地域色が希薄化します。

 そして、温暖化期でも寒冷化期でも、機能・実用を超えた「凝り」に固執するのは、我々には意味不明ですが、その集団が共有する意味があるからで、そこには、人々を結束・連帯する役割があるといえます。

 近代人は(筆者も)、機能的な実用性と視覚的な象徴性を区分しますが、当時の人々は、それらが未分化で、我々が視覚的な象徴性の表現といっている部分も、そこには、社会的なメッセージという、機能的な実用性があると解釈でき、これは、近代的な分析手法といえるのではないでしょうか。

 現代は、機能・実用を超えた「凝り」のある大物(モニュメント、太陽の塔は、その一例)は、生み出しにくい社会になりましたが、小物は、商品の付加価値と位置づけられ、魅力か無駄かの間を、行き来しており、現在でも通用する、着眼点ではないでしょうか。

 なお、本書では、寒暖の変動を、花粉の割合から推定されているようですが(p.231)、屋久杉の年輪炭素同位体比をもとに復元した気候変動では、弥生終末期の3世紀は寒冷、古墳前期の4世紀は温暖、古墳中期の5世紀は寒冷、古墳後期の6世紀は温暖、飛鳥期の7世紀は寒冷、奈良期の8世紀は温暖となっています。

 寒冷の、3世紀には、倭国乱後に諸小国が広域連合としてまとまり、5世紀には、倭が朝鮮半島へ渡海し、断続的に戦争する中で、前方後円墳が特化され、7世紀には、朝鮮半島での戦争が激化するとともに、朝鮮3国や大和で、中央集権化が急速に推進されました。

 温暖の、4世紀には、前方後円墳・前方後方墳・円墳・方墳等、多様な古墳が出現し、6世紀には、皇室・有力豪族間の勢力争いが続き、8世紀には、律令制下で、皇室・有力貴族間の勢力争いが続き、為政者達は、寒冷期には、戦争だから結束し、温暖期には、平和だから乱立している印象があります。

 筆者の指摘で、私が最も注目したのは、後期旧石器時代の、中・小型動物しかいなくなった際に、「オレのヤリ」を誇示・優越するため、ほぼ実用がない、希少な大型動物の狩猟専用の大型尖頭器(打製石器)が、特別視されるようになったことです。

 時代遅れの「無用の長物」になって初めて、社会的なメッセージ性が植え付けられ、この現象は、鉄器が利器として普及すると、武器形青銅器が、祭器化したり、朝鮮式小銅鐸や、中国由来の実用的な小・中型銅鏡が、日本で大型化・祭器化したり、古墳も、日本で巨大化する等、後世にも再現されています。

 私が大変疑問なのは、古墳出現期から、大和で、大型の前方後円墳が造営されたり、銅鏡が多数出土したからといって、学者達の間では、前方後円墳が、大和から流行したとか、大和が、銅鏡を配布していたとか、想定していることで、本書では、そのようには、言及されていないので、共感できます。

 纏向遺跡に、近畿だけでなく、瀬戸内〜東海・北陸の土器が、多数出土するのは、大和の流通域が、その範囲だということで、九州北部と直接の交易は、なかったようで、当時は、このような流通域が、全国各地で重なり合いながら、数珠つなぎに連続していたとみるべきです。

 ただ、本書で忘れ去られているのは、村の酋長や小国の王どうしで、圧倒的な力の差があれば、力の強い者が、弱い者へ、物を授与・配布することは、ありますが、ほぼ対等や、多少の強弱であれば、物は、贈与と返礼(互酬)や、物々交換(交易)で、流通することです。

 当時は、互酬(交流)と交易が、区別されていたと推測できますが、現在は、同類のようにみえ、物の出土の分布から、安直に授与・配布と判断されがちですが、飛鳥期・奈良期の集権社会になる以前の、弥生期・古墳期の分権社会では、互酬・交易は、大半で、授与・配布は、極稀とみるべきです。

 そして、弥生期の墳丘墓の副葬品は、漢・魏からの授与・配布の可能性もありますが、古墳期の5世紀前半までの古墳の副葬品は、漢・魏の滅亡後で、中央集権でもないので、ほとんどが、互酬・交易による調達で、中国の皇帝や大和の天皇からの授与・配布は、わずかな可能性でしょう。

 筆者は、日本列島で古墳が大型化したのを、鉄器等の先進文化輸入の窓口が、諸国の王(大酋長)に集約されたこと、王個人が突出せず、集団の一体性・共同性が尊重されていたこと、古墳造営が単純・容易な技術なので、庶民の集団労働が可能なことの、3つをあげています。

 しかし、大型古墳が、4世紀に、全国で造営されたということは、その時点から、圧倒的な力をもち、庶民から突出した王(豪族)が、各地に出現するようになったということです。

 よって、古墳の規模は、諸国の豪族(王族)が決定しており、庶民の意向が反映されることは、ありえず、5世紀後半から、豪族の古墳の規模が縮小したのは、鉄器が庶民にも普及したので、鉄器の価値(「有り難さ」)が低下したからとするのは(p.333)、あまりにも突飛です。

 また、文字(制度・法典・神話・歴史書・度量衡・貨幣・暦・年号等)が出現し、モニュメントの必要性が低下したからとするのも、こじつけで、庶民に文字が普及するのは、もっと後世で、何より天皇の巨大な前方後円墳が、6世紀も顕在で、為政者の威信を表現する手段として、まだ有効な状況です。

 5世紀後半は、国内的には、天皇中心の集権体制に歩み出した初期なので、そこから、大和の政権が、諸国の豪族へ、古墳の規模を制限したか、国外的には、友好国の百済が相当劣勢で、朝鮮半島の戦況が悪化し、鉄確保の不安から、豪族達が、そちらへ人員を投入したかの、いずれかではないでしょうか。

 つまり、天皇(大王)と諸豪族の関係しだいで、タテ(集権)の関係なら、大和の政権が強制できるので、古墳の規模を制限することもありえますが、ヨコ(分権)の関係なら、豪族達の自発になるので、領国経営の一環として、古墳造営を軽視・朝鮮派兵を重視し、人員を割り振ったとみることもできます。

 このように、弥生期の諸小国の王・古墳期の諸国の豪族等、為政者の登場後は、庶民よりも、為政者達のほうの、認知科学を重要視すべきですが、その前提として、弥生期に、いかに庶民から王が突出し、古墳期に、いかに小国の王達から豪族が突出したのかも、大切です。

 弥生期に、庶民から王が突出できたのは、私の推論ですが、王が、初穂と出挙(すいこ)の制度を導入し、わずかな初穂(律令制下では、収穫量の約3%)を元手に、出挙(利息は、私出挙で100%と高金利、律令制下の公出挙でも50%)で運用すれば、徴税せずに、簡単に財産形成できます。

 初穂は、今秋の収穫直前に、神への感謝のために献上する、最短で充分に生育した稲穂で、祭祀の主催者である王に貢納、出挙は、今春の種蒔期に、高床倉庫の管理者である王が、農耕民に初穂の稲種を貸与し、今秋の収穫期に、利子付で返済させる慣習です。

 もちろん、王は、開墾時・洪水時に水田整備を統率したり、近隣との同盟・戦闘を主導しますが、それらには、能力が必要な一方、初穂と出挙は、能力不要の、弥生期の領国経営モデルといえます。

 古墳期に、小国の王達から豪族が突出できたのは、本書のように、豪族が、鉄器入手の窓口になったからとみられ、鉄器は、開墾時・洪水時の水田整備や、農繁期の田植え・稲刈り等で、作業効率や農産物の生産量が向上できるので、鉄器調達も、能力不要の、古墳期の領国経営モデルといえます。

 弥生期には、農閑期が比較的短かったうえ、抗争していたのが、古墳期には、農閑期が長くなったうえ、抗争が無駄になり、その時間を古墳造営に割り当てられるようになったのでしょう。

 4世紀終り〜5世紀初めから、朝鮮半島へ渡海し、断続的に戦争するようになると、大勢の渡来人が、日本列島へ流入し、朝鮮半島では戦闘(軍事)、日本列島では水田稲作・古墳造営(民政)と、住み分けられたと推測でき、5世紀後半からの戦況悪化で、領国経営モデルが不安・危機となっています。

 ここで注意したいのは、領国経営モデルの導入当初には、為政者が突出しておらず、分権の段階で、弥生期では庶民が、古墳期では小国の王達が、自分達の利益につながるので、自発的に取り入れていることで、やがて、領国経営モデルが定着すれば、強制的だとも受け取られ、集権の段階になります。

 ここまでみると、認知考古学は、関係者が、集権的か分権的か、対象者が、自発的か強制的かも、考慮すべきで、原始社会のように、分権的で自発的な状況が確保されていないと、安易に適用してはいけないのではないでしょうか。

 たとえば、縄文期は、統率者が突出していなかったとされているので、人々は、分権的で自発的といえますが、弥生期は、集団の酋長→小国の王と、集権化されたので、物質文化は、庶民よりも、為政者達の意思の反映とみるべきで、古墳期は、諸国の豪族と庶民の格差が拡大し、豪族は、圧倒的な力をもちます。

 なので、認知考古学での推論は、分権的で自発的な対象者のみに適用すべきで、そうでないと、本書でも多少みられたように、トンチンカンな理由づけになってしまうおそれがあります。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R35E0FR93J8EFU?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp

191. 中川隆[-10485] koaQ7Jey 2019年4月30日 08:19:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1602] 報告

弥生時代の歴史 (講談社現代新書) – 2015/8/20
藤尾 慎一郎 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%BC%A5%E7%94%9F%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%97%A4%E5%B0%BE-%E6%85%8E%E4%B8%80%E9%83%8E/dp/4062883309/ref=sr_1_4?qid=1556579810&refinements=p_27%3A%E8%97%A4%E5%B0%BE+%E6%85%8E%E4%B8%80%E9%83%8E&s=books&sr=1-4&text=%E8%97%A4%E5%B0%BE+%E6%85%8E%E4%B8%80%E9%83%8E


内容紹介

稲作は五〇〇年も早く始まっていた! AMS炭素14年代測定法が明らかにした衝撃の事実をもとに、弥生時代の歴史を書き換える。


AMS炭素14年代測定に基づき、水田稲作の開始は従来よりも500年早かったとした国立歴史民俗博物館の研究発表は当時、社会的にも大きなセンセーションを巻き起こしました。発表時には当時の常識からあまりにもかけ離れていたために疑問を呈する研究者も数多くいましたが、その後、測定点数も4500点ほどまでにと飛躍的に増加を遂げ、現在では歴博説の正しさがほぼ確定されています。

では、水田稲作の開始が500年早まると、日本列島の歴史はどのように書き換えられるのでしょうか。一言で言えば、「弥生式土器・水田稲作・鉄器の使用」という、長らく弥生文化の指標とされていた3点セットが崩れ、「弥生文化」という定義そのものがやり直しになったと言うことです。この3つは同時に導入されたものではなく、別々の時期に導入されたものでした。例えば鉄器は水田稲作が始まってから600年ほど経ってからようやく出現します。つまりそれ以前の耕作は、石器で行われていたのです。また水田稲作そのものの日本列島への浸透も非常に緩やかなものでした。水田稲作は伝来以来、長い間九州北部を出ることがなく、それ以外の地域は依然として縄文色の強い生活様式を保持していました。また東北北部のように、いったん稲作を取り入れた後でそれを放棄した地域もありました。関東南部で水田稲作が始まるのは、ようやく前3~2世紀になってからでした。

とすると、これまで歴史の教科書で教えていたように、何世紀から何世紀までが縄文時代で、その後に弥生時代が来ると単純に言うことはできなくなります。水田農耕社会であるという弥生「時代」の定義は、ある時期までは日本列島のごくごく一部の地域にしか当てはめられなくなるからです。

本書は、このような問題意識の元で「弥生文化」が日本列島に浸透していく歴史を「通史」として描く初めての本です。

著者について

藤尾 慎一郎
1959年福岡県生まれ。広島大学文学部史学科卒業、九州大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。博士(文学)。現在、国立歴史民俗博物館副館長・総合研究大学院教授。専門は考古学。著書に『縄文論争』(講談社選書メチエ)、『弥生時代の考古学』(同成社)、『弥生時代 500年早かった水田稲作』、『弥生文化像の新構築』(ともに吉川弘文館)が、共著書に『弥生文化の輪郭』、『弥生文化誕生』(ともに同成社)がある。AMS炭素14年代測定に基づいて弥生時代の開始を500年遡らせ大きな話題となった国立歴史民俗博物館の研究において主導的な役割を担った。

カスタマーレビュー

hira
弥生時代は難解だ 2019年1月20日


 古代以前の日本史において、縄文時代は、草創期・早期・前期・中期・後期・晩期、古墳時代は、出現期・前期・中期・後期・終末期と、学者間での時期区分が、おおむね一致していますが、弥生時代は、20世紀の古い研究と、21世紀の新しい研究で、ズレているので、大変理解しにくくなっています。

 20世紀の研究は、遺跡から出土する土器の型式から、相対的に年代を推定していましたが、21世紀の研究は、土器に付着した炭化物中の、炭素14の測定・分析(加速器質量分析法=AMS)を追加することで、±20年程度の誤差がありつつも、絶対的に年代を特定することができるようになりました。

 本書では、それにより、水田稲作が、紀元前10世紀に、九州北部へ伝播したと判明したので、弥生時代を再定義していますが、従来のように、早期・前期・中期・後期を使用しており、それも混乱する要因なので、年代が特定できるなら、「何世紀頃」という表記を、メインにしてもらいたいです。

 本書は、素人にもわかる入門書の位置づけなので、地域各々の特徴をテーマにするなら、広域別の変遷とし、先進文化の流入をテーマにするなら、著者の前作『〈新〉弥生時代−500年早かった水田稲作』で取り上げられている区分を、今作でこそ、全面に押し出しても、よかったのではないでしょうか。

 前作では、弥生時代が、紀元前10〜3世紀の1200年間になったので、前半の紀元前10〜紀元前4世紀の600年間は、水田稲作+石器の時代、後半の紀元前4〜3世紀の600年間は、水田稲作+石器+鉄器の時代と、区分されています。

 そのうえ、後半の前半の紀元前4〜紀元前1世紀の300年間は、石器が主・鉄器が副の時代、後半の後半の紀元前1〜3世紀は、鉄器が主・石器が副の時代と区分されており、とても明解です。

 また、本書は、特に、水田稲作・青銅器・鉄器等の、日本各地への流入が、取り上げられており、それらをまとめると、次に示す通りです。

・水田稲作+農工具:
紀元前50世紀に長江下流域、
紀元前30世紀に山東半島、
紀元前11世紀に朝鮮半島、
紀元前10世紀に九州北部、
紀元前8世紀に九州東部・中部、
紀元前7世紀に神戸・大阪・鳥取、
紀元前6世紀に徳島・奈良・伊勢湾沿岸、
紀元前4世紀に津軽(紀元前1世紀に断念)・仙台・いわき、
紀元前3世紀に長野・関東南部

に伝播

・青銅器:使用は、
紀元前15〜13世紀に朝鮮半島、
紀元前8世紀に九州北部(今川遺跡の銅鏃・銅ノミ)、
紀元前4世紀に西日本で銅剣・銅矛・銅戈(か)・小銅鐸等、

鋳造は、紀元前4〜紀元前3世紀に九州北部・中部に伝播、
銅資源は、7世紀に産出

・鉄器:製造(鋳造)は、
紀元前9世紀に黄河中・下流域、
紀元前5世紀に遼東半島(燕)・朝鮮半島北部、
紀元前3か紀元前1世紀に朝鮮半島南部、
6世紀に西日本、

鋳造鉄器の使用は、
紀元前4世紀に西日本(燕から)、
紀元前2世紀に東日本、

鍛造鉄器の使用は、
紀元前3世紀に九州北部、

鍛造は、1世紀に西日本で普及、(紀元前1世紀に石器が衰退)


 ただし、これらは、何ヶ所の遺跡・遺物で判断しているのか、詳細不明な部分もあり、それによって、一所での突発なのか、狭域での先駆なのか、広域での定着なのか、根拠をすべて提示してもらえれば、もっと親切なのに、残念です。

 ここで、一所での突発か、狭域での先駆か、広域での定着かに、注目するのは、狩猟・採集社会では、抗争が異例ですが、水田稲作社会では、抗争が通例だからで、水田稲作が普及すれば、水田整備・田植え・稲刈りや、近隣との利害の衝突・抗争等があり、集団行動・集団生活が大切になります。

 そのため、集団を統率する有力者が、首長として台頭しますが、環壕集落がないのは、近隣との縄張意識があまりなく、有力者の墓がないのは、首長が突出しなくてよい、縄文的な分権社会といえます。

 分権的な狩猟採集社会から、集権的な水田稲作社会への転換は、ある集団が、分権から集権化すれば、隣接集団も、防御・対抗するために、分権から集権化しなければならなくなり、東北北部で、水田稲作を途中で断念できたのは、周囲から孤立し、近隣からの圧迫がなかったからではないでしょうか。

 ところで、本書では、朝鮮半島南部の村から離脱した水田稲作民が、九州北部の平野の下流域に定住し、中・上流域に定住していた園耕民と住み分けたのが、水田稲作の最初だとしているようです。

 しかし、海洋漁労民は、縄文時代から、朝鮮半島〜日本列島の間で交流していたので、かれらの情報で、九州北部の平野に新天地があり、かれらの支援で、丸木舟の船団で渡海し、水田稲作民の水田整備期間には、食糧調達もしなければならないので、陸海両面で、相当の人数が必要になります。

 しかも、日本最古級の九州北部の板付遺跡では、自然を大規模に改変し、石製品・木製品だけで、高度な水田を整備したとあるので、相当の期間がかかり、水田稲作民だけでは不可能でしょう。

 「魏志倭人伝」には、倭人に入墨文化があるとされているので、渡来当初からの、海洋漁労民の関与が想定でき、一大率は、一大(壱岐)国が、交易+統治の拠点として、九州北部に設置したとの仮説を、連想させます。

 なお、本書は、弥生時代の通史という位置づけで、執筆を開始したようですが、研究成果が新旧で変更された、前半の600年間と、後半の前半の300年間は、重点的に取り上げられている一方、後半の後半の300年間は、かなり省略され、弥生時代のすべてを、網羅しているわけではありません。

 筆者は、水田稲作・青銅器・鉄器等の、日本各地への流入の先駆を、テーマとしているようで、紙面の制限があるからか、それらが普及してからの、諸小国の王の出現、王墓とその副葬品、高地性集落の分布、小国と外国との交流等が、多少手薄になっています。

 さらに、水田稲作は、紀元前10世紀の朝鮮半島南部からの流入だけでなく、中国大陸の江南地域からの影響もあるとされ、紀元前5世紀の呉の滅亡・紀元前4世紀の越の滅亡や、紀元前3世紀の秦の始皇帝による徐福伝説が、その候補ですが、それらにも踏み込んでいないので、留意すべきでしょう。

 最後に、後半の後半の300年間において、2世紀後半に、九州北部の諸国(倭)と、近畿中部の諸国は、相互に圏外で、倭国乱は、九州北部周辺の戦争で、終戦で交易が活発化できるようになった3世紀前半から、九州北部が、近畿中部へ、徐々に鉄器を販売しはじめたのではないでしょうか。

 近畿中部は、倭国乱に参戦していないので、米で鉄器を購入し、後漢が衰退しはじめた2世紀後半以降の漢鏡7期は、すでに大量生産され、市場で商品化されていたので、米で銅鏡も購入、威信財とした一方、九州北部は、3世紀前半に後漢が滅亡すると、商売目的で、銅鏡を調達・販売したとみられます。

 大阪平野の池上・曽根遺跡や、奈良盆地の鍵・唐古遺跡では、大勢の人々が生活していたので、かれらの食糧を供給できるほど、近畿中部では、米が大量生産できたと推測できます。

 西日本では、2世紀までに、各地で陸橋付の円形周溝墓・突出部付の円丘墓が出現し、それが、3世紀前半からの、帆立貝式前方後円墳・前方後円墳の登場につながっており、前方後円墳は、大和が発祥というわけではなく、同時多発とみるべきです。

 3世紀半ばのホケノ山古墳・箸墓古墳等は、近畿中部の諸国連合の王墓で、大型の前方後円墳の造営は、大和が顕著ですが、それは、王が米の財力で、農閑期に、水田稲作民を雇用したからで(富の再分配)、周辺諸国への不戦の意思表示として、全国に流行し、交易も活発化したのではないでしょうか。

 よって、近畿中部には、何もなく、関東〜九州の中央なので、中心になったと主張するのには、無理があり、私は、近畿中部の諸国が連合した大和政権が、3〜4世紀に、西方2・東方2の計4方向に、交易(先進文化の輸入と輸出)ルートを確保することで、流通を主導したとみています。

 それらは、輸入のための丹波ルート(日本海側)・西道ルート(瀬戸内海側)と、輸出のための北陸ルート(日本海側)と東海ルート(太平洋側)で、「日本書紀」では、崇神天皇(10代)による四道将軍の派遣・平定ですが、出発から帰還まで、わずか半年なので、実際は、交易ルートの開拓でしょう。

 輸入も輸出も、それぞれ2方向の交易ルートを開拓したのは、輸入の場合、売り手側が2者なら、買値の比較ができ、買い手側が有利になり、輸出の場合、買い手側が2者なら、売値の比較ができ、売り手側が有利になるからで、こうして大和政権は、売り買いとも、優勢になったとみるのが自然です。

 他方、九州北部の諸国が連合した筑紫政権(倭)は、輸入が、朝鮮半島南部ルートの1方向のみなので、価格が一定になり、輸出が、出雲ルート(日本海側)と吉備ルート(瀬戸内海側)の2方向としても(出雲は、朝鮮半島と直接交易していたかも)、大和政権と比較すれば、やや劣勢といえます。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R5DMQWRG5BIKL?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp

192. 中川隆[-10483] koaQ7Jey 2019年4月30日 08:55:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1604] 報告

天智朝と東アジア 唐の支配から律令国家へ (NHKブックス) – 2015/10/22
中村 修也 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%A4%A9%E6%99%BA%E6%9C%9D%E3%81%A8%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2-%E5%94%90%E3%81%AE%E6%94%AF%E9%85%8D%E3%81%8B%E3%82%89%E5%BE%8B%E4%BB%A4%E5%9B%BD%E5%AE%B6%E3%81%B8-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-%E4%B8%AD%E6%9D%91-%E4%BF%AE%E4%B9%9F/dp/4140912359?ref=pf_vv_at_pdctrvw_dp


内容紹介

古代日本に存在した、もう一つの「占領」

663年の「白村江の戦い」に敗れた日本は、唐の再攻撃に備えて防衛態勢を整備し、その後は律令国家建設へ邁進したと言われている。だが、それは本当なのか? 本書は、唐の羈縻政策を軸に展開した当時の東アジア情勢を踏まえつつ、中国・朝鮮側の史料との比較から『日本書紀』を再検証し、これまでの通説に挑む力作。唐の支配体制が、その後の律令国家体制とどのように結びついていったのかを鮮やかに描く。

内容(「BOOK」データベースより)

古代東アジアに起こった一大戦役・白村江の戦。通説では、唐・新羅連合軍に敗れた日本は以後、唐の律令に学び、国家体制を整備していったと言われる。だが、この通説は果たして本当か?敗戦国の日本が、唐の支配を全く受けずに友好関係を保つことが可能だったのか?本書は、中国・朝鮮側の史料、最新の考古学の知見、古今東西の「戦争」における常識など、多角的な視点から『日本書紀』を再解釈。白村江後に出現した唐の日本「支配」の実態、さらに、それがのちの律令国家建設に与えた影響を鮮やかに描く。

著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
中村/修也
1959年、和歌山県生まれ。1989年、筑波大学大学院歴史・人類学研究科博士課程単位取得修了。博士(文学)。現在、文教大学教育学部教授


カスタマーレビュー

hira
史料がわずかしかない日本古代史で、新説か既説かは、そんなに大事? 2018年12月29日


 筆者は、近代のアジア太平洋戦争で、日本が大敗した後、GHQに占領され、再建を指導された経験から、古代の白村江の合戦で、倭+百済遺民が大敗した後を、想像すべきだとし、通説を批判、異説を展開しています。

 異説では、まず、663年の白村江の合戦で、倭+百済遺民が、唐+新羅に大敗後、唐が、九州にも進出し、朝鮮式山城(やまじろ)・水城(みずき)や防(防御地)・烽(ノロシ台)を設置、後世の大宰府の位置には、筑紫都督府も設置し、占領統治するつもりだったと主張されています。

 それは、唐の6度の来日時期の664〜672年の間に、それらが整備されているうえ、唐が、大量の人員を、朝鮮半島から日本列島へと、送り込んだからで、そうなると、それらは、唐や新羅の侵攻を防御する施設でないことがわかります。

 また、667年の近江・大津京への遷都は、大和政権の前方拠点の難波・河内と後方拠点の大和から引き離す、唐の強制で、両拠点の中間の山頂の高安城(たかやすのき)は、唐が、両拠点を監視するためとみられます。

 そのうえ、670年の庚午年籍(こうごねんじゃく)・671年の近江令は、戸籍を作成することで、公正・円滑に徴税でき、671年の水時計(漏刻)の設置は、官僚の勤務管理に有効で、いずれも唐が、直接持ち込んだとみれば、納得できます。

 さらに、唐が、百済の王子の扶余隆を、熊津都督に利用したように、671年の大友皇子の後継も、唐の傀儡政権で、唐の日本列島撤退直後の、672年の壬申の乱での大海人皇子の政権奪取は、その転換とも受け取れ、689年の飛鳥浄御原令は、当時頻繁に通交していた新羅と、唐の制度を折衷したようです。

 朝鮮半島では、642年に、百済は、高句麗と同盟し、新羅を攻撃、新羅は、西部40余城を奪取され、劣勢から、643年に、唐に援軍を要請しましたが、反応なく、647年に、政権の内乱が発生しましたが、鎮圧し、ようやく、648年に、唐と同盟できましたが、654年に、北部30余城も奪取されています。

 そののち、唐は、高句麗を挟み撃ちにするため、660年に、新羅と連携し、百済を滅亡させると、倭は、百済復興のため、援軍を渡海しましたが、663年に、白村江の合戦で大敗、唐は、668年に、新羅と連携し、高句麗も滅亡させ、百済に熊津都督府を、高句麗に安東都護府を設置し、占領統治しました。

 ところが、唐は、新羅も、鶏林州都督府を設置し、統治しようとしたので、670年から、新羅が、唐に反抗・交戦し、唐は、それを鎮圧できず、朝鮮半島の戦況が悪化したので、672年に、日本列島から撤退すると、同年に、壬申の乱が勃発、唐は、676年に、朝鮮半島からも撤退させられています。

 唐は、同盟国の新羅でさえ、鶏林州都督府を設置したので、敗戦国の倭に、筑紫都督府を設置するのも、当然だったでしょう。

 なお、盗作だと酷評しているレビューも、一部あり、学者間のルールは、遵守すべきですが、そもそも史料が、わずかしかない日本古代史では、異説といっても、類似する傾向にあり、それが先行研究に無知だっただけで、異説の積み重ねが、通説になるので、既説か新説かのみに固執するのは、不毛です。

 古代日本の制度・技術・文化も、たかが、中国発祥・朝鮮経由と一蹴することもできますが、されど、独自に変容・洗練されたので、盗作ではなく、固有と位置づけられるので、それと同様、読者は、新説の「藤原鎌足」の12ページ?と、既説の細密な本書の、違いを楽しめばよいのではないでしょうか。

 ところで、「隋書倭国伝」で、600年に、妻子のいる倭王のアメ・タリシヒコ・アホケミが、隋に使者を派遣していますが、女帝の推古天皇(33代)と一致せず、「旧唐書日本伝」で、日本国は倭国の別種とあるので、推古天皇を大和政権、タリシヒコを筑紫政権(倭)とする説(九州王朝説)があります。

 他にも、「日本書紀」と「隋書倭国伝」「隋書」で、冠位12階と内官12等の序列や、遣唐使の訪問年が、食い違っており、「日本書紀」では、608年に帰国した遣隋使の小野妹子が、隋の国書を百済で奪い取られたのに免罪で、「隋書倭国伝」では、九州の地名しか登場せず、不自然です。

 私は、個人的に、九州王朝説(古田武彦)を、本書の説と組み合わせ、白村江の合戦には、大和政権配下の全国各地の豪族達が、参戦したのではなく、各々自立しつつ、相互交流していた、大和政権・筑紫政権等が、協力して参戦したとみています。

 4世紀半ばには、高句麗の南下で、馬韓の諸国が百済、辰韓の諸国が新羅に結束した一方、弁韓は、6世紀半ばまで、諸国(伽耶諸国)のままで滅亡したように、日本列島でも、外圧が強い九州(筑紫政権)、中くらいの近畿(大和政権)、弱い東国と、諸国の結束の度合に差があったでしょう。

 そして、白村江の合戦での疲弊が、九州で比較的大きく、近畿で中くらい、東国で小さかったうえ、合戦後の唐の占領統治も、九州で比較的強く、近畿で中くらい、東国で弱かったと推測できます。

 なので、唐が日本列島から撤退すると、壬申の乱で、反乱軍は、戦力が温存されていた東国を味方に引き入れられたので、大和政権の中枢を一掃できたうえ、新生大和政権は、かなり疲弊していた筑紫政権等も併合でき、国号を日本に改称したのではないでしょうか。
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193. 中川隆[-10482] koaQ7Jey 2019年4月30日 09:25:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1605] 報告

日本古代史と朝鮮 (講談社学術文庫) – 1985/9/5
金 達寿 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E5%8F%B2%E3%81%A8%E6%9C%9D%E9%AE%AE-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%87%91-%E9%81%94%E5%AF%BF/dp/4061587021


内容紹介

「日本古代史は、朝鮮との関係史である」とは、古代史研究家・金達寿の主張しつづけてきたことばである。本書は、地名や古墳・神社などを手がかりに日本各地に現存する古代朝鮮遺跡の発掘に執念を燃やしてきた著者がこれらの事実と、記・紀などに残された高句麗・百済・新羅系渡来人の足跡をはじめ、豊富な文献資料などから「帰化人史観」によってゆがめられた歴史記述を痛烈に批判し、真の日本古代史への道を開示したものである。

著者について

1919年、朝鮮・慶尚南道で生まれ、1930年に渡日。日本大学芸術科卒業。作家・古代史研究家。主著に『金達寿小説全集』『金達寿評論集』『古代日朝関係史入門』『日本古代史と朝鮮文化』『古代日本と朝鮮文化』『朝鮮−民族・歴史・文化−』『わがアリランの歌』『行基の時代』『故国まで』『日本の中の古代朝鮮』『日本の中の朝鮮文化』(学術文庫)などがある。

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
日本人と朝鮮人の区別は、否定的なのに、高句麗系・百済系・新羅系の区別に、肯定的なのは、なぜ? 2018年12月28日


 本書は、巧妙で、それは、韓国出身の筆者が、日本列島の歴史・文化の起源を、ただ、朝鮮半島由来だと力説しても、簡単に受け入れられないのを想定し、日本出身の他者が、そう主張している文章を引用することで、説明しているからです。

 ですが、現在主流でない、皇国史観の記述を引用し、それを批判する等、一昔前の執筆を実感するとともに、当時の日本人と朝鮮人(帰化人)の区別を否定する反面、出身不詳の渡来人を、高句麗系・百済系・新羅系と、安易に断定したり、日本の史実に朝鮮が関与したとする等、行き過ぎも散見されます。

 海で隔てられた、日本列島と朝鮮半島を、区分するよりも、陸で続いた、高句麗・百済・新羅等を、区分するほうが、当時の戦乱もあって、大変困難なのに、矛盾しているのではないでしょうか。

 日本人の文章を引用する中、筆者は唯一、朝鮮人の文定昌の「日本上古史」を引用しており、それは、本書で最も、主張したかったからでしょう。

 そこでは、大化の改新(645年)と孝徳天皇=新羅系、白村江の合戦(663年)と斉明・天智天皇=百済系、壬申の乱(672年)と天武天皇=新羅系、新羅・唐戦争(〜676年)後と持統天皇=百済系と、日本の史実に朝鮮が関与したと指摘しています。

 そこで、「日本書紀」に該当する、その時代や、それ以前の、大和政権と朝鮮諸国の外交をみていくこととし、それらを列挙すると、次のようになります。

 なお、各時代の※印は、筆者が取り上げた記事を、まとめたものです。


●推古天皇(33代、在位592〜628年)の時代
○他国の使者が来訪
・新羅:597・598・610・611・616・621・623年(600・623年:新羅派兵)
・高句麗:595(仏僧)・610・618・625年
・百済:597・599・602年
・任那:610・611・623年(562年:任那滅亡)
○自国の使者を派遣
・新羅:600・623年
・高句麗:601年
・百済:601年
・任那:600・623年
※推古16(608)年9月11日:隋使が帰国、遣隋使が派遣され、8人(南淵請安・日文=旻・高向玄理)が留学
※推古31(623)年7月:唐の学問僧2人・医者2人(恵日)等が、帰国し、新羅使が同行

●舒明天皇(34代、在位629〜641年)の時代
○他国の使者が来訪
・新羅:632・638・639・640年
・高句麗:630年
・百済:630・631(人質)・635・638・640年
・任那:638年
※舒明4(632)年8月:唐使が来訪、唐の学問僧3人(旻)が、帰国し、新羅送使等が同行
※舒明12(640)年10月11日:唐の学問僧2人(南淵請安・高向玄理)が、新羅経由で帰国し、百済・新羅の朝貢使が同行

●皇極天皇(35代、在位642〜645年)の時代
○他国の使者が来訪
・新羅:642×2年
・高句麗:642・643年
・百済:642×3・643年
○自国の使者を派遣
・新羅:642年
・高句麗:642年
・百済:642年
・任那:642年

●孝徳天皇(36代、在位645〜654年)の時代:新羅系?
○他国の使者が来訪
・新羅:645・646・647×2(人質)・648・649(人質)・650・651×2・652・653・654×2年
・高句麗:645・646・647・654年
・百済:645・646・651・652・653・654×2年
・任那:646年
○自国の使者を派遣
・新羅:646・648(学僧)・649年
・高句麗:648(学僧)
・百済:648(学僧)
※645年:乙巳(いっし)の変
※大化3(647)年7月:新羅への使者(高向玄理)が帰国し、新羅の金春秋(のちの29代・武烈王)が、人質に
※648年:新羅の金春秋が、入唐
※白雉5(654)年2月:第3次遣唐使(高向玄理・恵日)が、新羅道を経由

●斉明天皇(37代、在位655〜661年)の時代:百済系?
○他国の使者が来訪
・新羅:655×2(人質)・656年
・高句麗:655・656×2・660年
・百済:655・656・660×2・661年(660年:百済滅亡)
○自国の使者を派遣
・新羅:657年
・高句麗:656年
・百済:661年

●天智天皇(38代、在位668〜671年)の時代:百済系?
○他国の使者が来訪
・新羅:667・668・669・671×2年
・高句麗:666×2・667・668・671年(668年:高句麗滅亡)
・百済:662・663・667・668・671×2年
○自国の使者を派遣
・新羅:668・670年
・高句麗:663年
※663年:白村江の合戦
※天智4(665)年9月23日:唐使が来訪、12人(定恵/じょうえ、藤原鎌足の息子)が、百済経由で帰国(白雉5年2月に記載)

●天武天皇(40代、在位673〜686年)の時代:新羅系?
○他国の使者が来訪
・新羅:672・673×2・675×3・676×2・677・679×2・680×2・681・682・683・684・685年
・高句麗:673・676・679・680・682年
○自国の使者を派遣
・新羅:675・676・677・681・684年
※670〜676年:新羅・唐戦争
※672年:壬申の乱

●持統天皇(41代、在位690〜697年)の時代:百済系?
○他国の使者が来訪
・新羅:687・689・690・692・693・695年
○自国の使者を派遣
・新羅:687・692・695年

※朱鳥元(686)年10月2日:大津皇子の謀反が発覚し、本人+新羅僧の行心(こうしん)等30余人が逮捕


 以上より、まず、当時は、情報収集のためか、全方位外交が通例で、他国の使者が来訪し、自国の使者を派遣するので、他国の使者と自国の使者が一緒だったり、送使が同行することも、多々あります。

 そのうえ、「日本書紀」は、中国とは対等、朝鮮とは優越な関係で、日本が小帝国だと主張したいため、周辺諸国との通交を、朝貢と潤色しがちなので、通交のすべてが、記載されているわけではないと認識しておくべきです(他国の使者の来訪に比べて、自国の使者の派遣が少ないです)。

 つぎに、遣隋使・遣唐使が、日本列島から朝鮮半島へ渡海する際、新羅経由や新羅使が同行と記載されているので(623・632・640年)、そこから、列島の渡来系氏族と半島の政権が結託し、大和政権に関与したとの仮説がありますが、これは、562年に、任那が新羅に吸収されたからではないでしょうか。

 654年の遣唐使出発は、新羅道を経由したとありますが、対馬から旧・任那へ渡海し、そこから百済も経由しないと当然、山東半島(萊州/らいしゅう)には到着できず、665年の定恵帰国での百済経由は、663年の白村江の合戦での大敗後に、唐が百済を占領していたからです。

 645年の乙巳の変の時期には、642年に、百済は、高句麗と同盟し、新羅を攻撃、新羅は、西部40余城を奪取され、劣勢から、643年に、唐に援軍を要請しましたが、反応なく、647年に、政権の内乱が発生・鎮圧、ようやく、648年に、唐と同盟できましたが、654年に、北部30余城も奪取されています。

 つまり、当時の新羅は、半島での戦争に手一杯で、とても列島の内政にまで、干渉する余裕は、なかったとみるのが自然で、劣勢の新羅が、大和政権に使者を頻繁に派遣し、人質も送り込んだのは(647・649・655年)、大和政権が百済を救援しないか、情報収集のためと推測できます。

 そして、663年に、白村江の合戦で大敗し、朝鮮式山城の築造を主導したのは、筆者のいう、百済遺民ではなく、戦後処理で6度も来日し(664・665・667・669・671×2年)、大量の人員を送り込んだ、唐でしょう。

 また、672年の壬申の乱の時期は、670年から、新羅は、唐に反抗・交戦し、唐は、鎮圧できず、戦況が悪化したため、列島から撤退すると、その直後に壬申の乱で、大和政権が一掃、新羅は、676年の唐の半島撤退後もしばらく、大和政権に使者を頻繁に派遣し、唐との関係を注視していたとみられます。

 さらに、持統天皇の時代は、すでに百済が滅亡し、復興も絶望的なので、百済系に影響力があったとは、到底いえず、大津皇子の謀反事件で、飛騨の寺に強制移住させられた、新羅僧の行心と結び付けるのは、いくらなんでも無理があります。
 このように、日本の史実に、朝鮮が関与したとする仮説は、成り立ちそうになく、筆者は、記紀神話の些細な記述を、こじつけ的に解釈する傾向にあり、これは、新興の神道が、教義を創作する際の手法と類似しています。

 筆者は、日本の史実に、朝鮮が関与したと指摘したいようですが、そもそも記紀神話での天皇家自体が、日向からの渡来人と公言しており、大和に侵攻・平定し、政権を樹立・土着できたので、昔の出身地よりも、今の居住地のほうを、重要視しているのがわかります。

 そのうえ、天上の神々(天つ神)の子孫とされる、天皇家や中央豪族は、天から渡来した血統だとし、地上の神々(国つ神)の子孫とされる、地方豪族を、統治してきたので、地へと土着した実績もあると、記紀神話から読み取れるのに、そのような中で、出身のみに執着するのは、不毛です。

 ただし、平安初期に、嵯峨天皇(52代)が編纂させた、古代氏族名鑑「新撰姓氏(しょうじ)録」によると、京・畿内の貴族1182氏のうち、渡来系氏族(諸蕃)が、326氏(漢163氏・百済104氏・高句麗41氏・新羅9氏・任那9氏)・約28%なので、当時も渡来人が、相当数いたと認識しておくべきです。
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194. 中川隆[-10481] koaQ7Jey 2019年4月30日 09:29:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1606] 報告

古代朝鮮と日本文化 (講談社学術文庫) – 1986/9/5
金 達寿 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%81%A8%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E5%AD%A6%E8%A1%93%E6%96%87%E5%BA%AB-%E9%87%91-%E9%81%94%E5%AF%BF/dp/4061587544?ref=pf_vv_at_pdctrvw_dp


内容紹介

本書は、日本独自の文化といわれる神社・神宮の中に、高麗(こま)神社、百済(くだら)神社、新羅(しらぎ)神社など、古代朝鮮三国の名を負った神社が日本各地に散在するのに注目した著者が以来、十数年の歳月にわたり、それらの由来を明かすべく、文献や地名などを手がかりに実地踏査したものをまとめたものである。新羅において祀った祖神廟(そしんびょう)を神社・神宮の原形とみるなど、日本の神々のふるさとを遙か古代朝鮮に見いだした、著者ならではの労作といえよう。


著者について

1919年、朝鮮・慶尚南道で生まれ、1930年に渡日。日本大学芸術科卒業。作家・古代史研究家。主著に『金達寿小説全集』『金達寿評論集』『古代日朝関係史入門』『日本古代史と朝鮮文化』『古代日本と朝鮮文化』『朝鮮―民族・歴史・文化―』『わがアリランの歌』『行基の時代』『故国まで』『日本の中の古代朝鮮』『日本古代史と朝鮮』(学術文庫)などがある。


カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち2.0
朝鮮文化的な見方と日本文化的な見方 2018年12月28日

 本書は、「日本古代史と朝鮮」の続編で、前作は、概論、今作は、各論という位置づけといえます。

 今作も、前作同様、韓国出身の筆者が、日本列島の文化の起源を、ただ、朝鮮半島由来だと力説しても、簡単に受け入れられないのを想定し、日本出身の他者が、そう主張している文章を引用することで、説明しており、日本列島各地の、朝鮮半島の影響のある神社・祭神等が、取り上げられています。

 しかし、それらが、いかに朝鮮半島を起源としているのか、または、いかに皇国史観で解説されているかに、終始するあまり、いかに日本列島で定着していったのか、そこにどのような意味・価値があるのか等まで、ほとんど踏み込んでいないのは、大変残念です。

 たとえば、特定の人物を取り上げ、なぜその人物に魅力があるのかを掘り下げる際に、どこで誰から生まれたかだけでは、その人物を理解できたとは、到底いえず、どう育ち、どう過ごし、どう死に、何を感じ、何を思い、何を考えていたのか等まで、探求するほうが、その何倍も重要です。

 それと同様、日本文化も、その起源は、それほど大切ではなく、それは、その大半が、中国大陸・朝鮮半島・欧米等の海外に由来するのは、自明だからですが、むしろ、日本列島の中で、たんなる模倣でなく、独自に変容・洗練してきたことが、固有の文化が形成されたといえるのではないでしょうか。

 筆者も、前作で、《ネーション(国民)、民族というものは、その風土における長い歴史の積み重ねによって形成されるのであって、原初から「朝鮮人」「日本人」としてあったものではない》といっていますが、朝鮮由来の神社・祭神にも、日本化していく過程があるはずです。

 T‐1章・U‐11章では、紀元4年に、新羅の初代王が死去し、2代王が、初代のために建立した祖神廟を、神社・神宮の起源だと指摘されていますが、それは元々、儒教・道教での、祖先を祭祀する霊廟に由来し、発祥は結局、中国大陸に行き着くので、由来・起源のみに固執するのは、不毛です。

 しかも、大勢の渡来人達が、朝鮮半島から日本列島へと移住したり、その間を往来して交易していたので、伽耶諸国・百済・高句麗・新羅等の文化を持ち込み、朝鮮語の地名・社名にするのも、当然の結果といえます。

 T‐2章では、高句麗の王族が、天皇(42代・文武)から、高句麗王の姓が授与(703年)されたのは、高句麗が滅亡(668年)して35年後で、百済の王族が、天皇(41代・持統)から、百済王(こにきし)の姓が授与(690か691年)されたのは、百済が滅亡(660年)して30か31年後です。

 つまり、朝鮮の王族が、30〜35年で、大和政権の官僚の一員に取り込まれており、それは、かれらが、中央政府に有益なので、利用したかったからでもありますが、30〜35年経過すれば、渡来人も土着人並になったといえるのではないでしょうか。

 ここで注意したいのは、渡来人達が持ち込んだ、先進の制度・技術・文化等が、国境を容易に乗り越えていることで、当時の日本列島は、人種が多様だったのに、古代史を探求する際に、日本人・朝鮮人・中国人等を過度に意識するのは、現代人の近代的な偏見です。

 ところで、筆者は、T‐1章とT‐4章で、朝鮮では、新しい文化を取り入れると、従来のものを否定・滅亡させたり、新旧が対立的で、「あれかこれか」になる一方、日本では、神仏習合・本地垂迹等、新旧が同居・調和するといっています。

 筆者の関心は、各地の神社の起源が、自分の出身地の朝鮮由来とわかれば、それで満足のようで、そこでは、日本と朝鮮を対立させたまま、思考停止・終了しており、これは、朝鮮文化的な見方といえ、筆者が韓国人なので、納得すべきなのでしょうか。

 一方、私は、渡来人達が定住・混血する中で、神社の祭神が、信仰の対象として、日本社会に、どう受け入れられ、融合していったのかにも、興味があり、これは、日本文化的な見方といえますが、本書の内容は、そこまで差し迫っていないので、日本人には、広く浅くみえてしまうのでしょうか。

 日本文化は、「たかが、」中国発祥・朝鮮経由といえば、それまでですが、「されど、」独自に変容・洗練されたので、「盗作」ではなく、「固有」と位置づけられますが、日本発祥といえるものが、希少なのも、事実です。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R1FE45AH1ETTWN?ref=pf_vv_at_pdctrvw_srp

195. 中川隆[-10465] koaQ7Jey 2019年4月30日 15:28:41 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1622] 報告

倭の五王 - 王位継承と五世紀の東アジア (中公新書) – 2018/1/19
河内 春人 (著)
https://www.amazon.co.jp/%E5%80%AD%E3%81%AE%E4%BA%94%E7%8E%8B-%E7%8E%8B%E4%BD%8D%E7%B6%99%E6%89%BF%E3%81%A8%E4%BA%94%E4%B8%96%E7%B4%80%E3%81%AE%E6%9D%B1%E3%82%A2%E3%82%B8%E3%82%A2-%E4%B8%AD%E5%85%AC%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%B2%B3%E5%86%85-%E6%98%A5%E4%BA%BA/dp/4121024702?ref=pf_vv_at_pdctrvw_dp

内容紹介

倭の五王とは、中国史書『宋書』倭国伝に記された讃・珍・済・興・武を言う。邪馬台国からの交信が途絶えてから1世紀後、中国へ使者を派遣した王たちである。当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が争い、倭もその渦中にあった。本書は、中国史書から、中国”への接近”の意図や状況、倭国内の不安定な王権、文化レベルを解読、天皇と五王との比定などを通し、5世紀の倭の実態を描く。

内容(「BOOK」データベースより)

倭の五王とは、中国史書『宋書』倭国伝に記された讃・珍・済・興・武を言う。邪馬台国による交信が途絶えてから150年を経て、5世紀に中国へ使者を派遣した王たちである。当時、朝鮮半島では高句麗・百済・新羅が争い、倭もその渦中にあった。本書は、中国への“接近”の意図や状況、倭国内の不安定な王権や文化レベル、『古事記』『日本書紀』における天皇との関係などを中国史書から解読。5世紀の倭や東アジアの実態を描く。


著者について

河内春人(こうち・はるひと)
1970 年東京都生まれ.93 年明治大学文学部卒業.2000 年明治大学大学院博士後期課程中退.2002 年日本学術振興会特別研究員(PD),博士(史学).現在,明治大学・立教大学・中央大学・大東文化大学・首都大学東京など兼任講師. 著書 『東アジア交流史のなかの遣唐使』(汲古書院, 2013 年) 『日本古代君主号の研究――倭国王・天子・天皇』(八木書店,2015 年) 共著 『古代中国・日本における学術と支配 』(同成社,2013 年) 『藤原仲麻呂政権とその時代』(岩田書院,2013 年) 『梁職貢図と東部ユーラシア世界』(勉誠出版,2014 年) 『日本古代の地域と交流』 (塙書房,2016 年) 『日朝関係史』(吉川弘文館,2017 年) 他多数 翻訳 シャルロッテ・フォン・ヴェアシュア著 『モノが語る日本対外交易史 ―― 七〜一六世紀』( 藤原書 店, 2011年)

カスタマーレビュー

hira 5つ星のうち3.0
国際感覚がなければ、日本古代史は理解できない 2018年8月24日

 4世紀初めから、中国大陸の北半分が戦乱で弱体化し(五胡十六国時代)、4世紀後半から、朝鮮半島北部の高句麗が南下すると、5世紀代の日本列島の倭は、半島南中部の伽耶諸国からの鉄資源確保が圧迫されないよう、半島南西部の百済を救援・参戦するとともに、大陸南半分の宋に朝貢しました。

 本書は、6世紀前半成立の中国の歴史書「宋書」に登場する、倭の五王が、5世紀代に、朝鮮半島や中国大陸と、いかに関係したかを、限られた少ない史料にもかかわらず(限られた少ない史料だからこそ、新書の紙面を埋め尽くそうと)、比較的詳細に検討しています。

 歴史学のうち、文献学は、史料批判が必須で、ひとつの史料を、ただ信用するだけだと、もはや信仰の対象としての宗教的な経典や、文学的な神話の読解になってしまうので、本書は、そうならないよう、なるべく複数の史料を照らし合わせ、諸説ある場合には、丁寧に吟味しているのではないでしょうか。

 特に、「日本書紀」は、国内外の様々な書物をもとに、飛鳥後期・天武天皇(40代)の時代に編纂が開始され(681年)、奈良前期・元正天皇(44代)の時代に完成しましたが(720年)、その間の天武系+藤原系の政権の都合がいいように、潤色された箇所も多々あり、それらは、主に3つに大別できます。

 1つめは、歴代天皇の即位では、血筋が正統性の根拠なので、系譜がつながっているように潤色し(ヤマトタケルの息子の14代・仲哀天皇は、父の死から35年後に誕生していて不自然)、中央豪族達も、天皇家の祖先神の家系か、古来より天皇に奉仕していたと潤色することで、正当性を担保しています。

 2つめは、実際よりも以前から、先進的な制度を摂取したり、朝鮮半島へ派兵・支配していたと潤色しており、そうすれば、日本は先進国だと自負できるとともに、先例が国史にあれば、比較的抵抗なく、その制度や派兵を、受け入れやすくなる傾向にあります。

 3つめは、600年から遣隋使、668年から遣新羅使を派遣しましたが、中国とは対等、朝鮮とは優越な関係とし、日本は小帝国だと主張するため、周辺諸国(高句麗・新羅・百済・任那・伴跛/はえ・耽羅/たんら・呉/くれ・蝦夷・隼人・多禰嶋/たねのしま)との外交を、朝貢だと潤色しています。

 このように、「日本書紀」を、そのまま信用するわけにはいかないので、本書での取り扱いは、最低限にしているのでしょう。

 百済と新羅は、4世紀半ばに、実質上建国されましたが、5世紀代は、中央集権化で先行していた高句麗の南下政策で、百済・新羅・倭が、戦争のために、中央集権化しなければならなくなり、国家体制を、「横」の関係から「縦」の関係へと変容させる最初の時期といえます。

 日本の戦国期には、武家・寺社等の様々な勢力が乱立しましたが、極度に集権的だった織田信長が、やや分権的でもあった延暦寺・本願寺を、最後は制圧し、天下統一しており、戦争に中央集権化は、必須なのが実証されています(余談ですが、白村江の合戦もアジア太平洋戦争も、軍隊は、分権的でした)。

 「横」から「縦」への関係切り替えは、国家間の外交でも適用され、高句麗・百済・新羅・倭は、絶対的な地位の、中国への朝貢合戦を繰り広げ、自国が他国よりも優位な地位を確保しようとするとともに、戦争で劣勢になれば、自国の生き残りをかけて、優勢な他国と同盟し、人質も差し出しました。

 ちなみに、百済が、倭へ人質を差し出すようになったのは、高句麗に大敗・屈服した翌年(397年)からで、筆者は、百済の近肖古(きんしょうこ)王(13代)が倭王へ、七支刀を贈与した時期(372年)には、まだ倭と百済が対等な同盟だったと言及しているにすぎません(p.13-14)。

 百済は、七支刀贈与の同年、倭よりも先に、中国南朝・東晋へ朝貢し、近肖古王が、鎮東将軍(将軍号)・領楽浪太守(楽浪郡の長官)を授与しており、国際的には、倭より上の立場で、391年から、倭+百済+伽耶諸国連合軍は、高句麗+新羅連合軍と、朝鮮半島で、断続的に戦争しています。

 そのうえ、百済は、腆支(てんし)王(18代)も、東晋に朝貢し(416年)、使持節(中国皇帝から委譲された特権)・都督百済諸軍事(軍政権)・鎮東将軍・百済王(民政権)を授与しました。

 そののち、東晋が滅亡、宋が建国されると(420年)、高句麗王は、征東大将軍、百済王は、鎮東大将軍に昇格した一方、倭の讃は、その翌年(421年)に、はじめて宋に朝貢し、官爵(倭国王・安東将軍)を授与しましたが、中国への朝貢は、新羅(377年に前秦へ、高句麗も同行)よりも後発です。

 南朝・宋にとっての百済は、両国で北朝を挟み込む、重要な位置にあったので(高句麗も同様)、それ以降の倭の珍→済→興→武が、都督百済諸軍事を要求しても、宋に却下され、国際的には、高句麗・百済より下の立場のままでした(序列は、上から車騎→征東→鎮東→安東、大将軍→将軍の順)。

 しかも、当時の人質は、日本の戦国期のように、政治の役に立たない女性や子供・老人等だけではなく、政治の役に立つ男性を、連携相手へ差し出すこともあると明記しており(p.44-45)、新羅から倭への人質・金春秋(のちの29代・武烈王)は、当時46歳と働き盛りでした。

 また、新羅は、高句麗(392・412年)と倭(402年)の双方へ、人質を差し出しており、当時の戦況の相当な劣勢が読み取れますが、逆に、その程度の「ゆるい主従関係」ともいえ、高句麗も、宋(420年)と北魏(435年)の中国南朝・北朝両方に朝貢し、北魏の皇帝に指摘されても、中止していません。

 さらに、新羅による、392年の高句麗への人質は、のちの実聖(じっせい)王(18代)、412年の高句麗への人質と402年の倭への人質は、奈勿(なこつ)王(17代)の息子、百済による、397年の倭への人質は、のちの腆支王(18代)、461年の倭への人質は、蓋鹵(がいろ)王(21代)の息子か弟です。

 つまり、将来、政権の中枢に有望な王族を抱え込めば、長年にわたる円滑な連携も期待でき、当時の朝鮮半島と日本列島では、国外的にも、国内的にも、まだ序列(秩序)が明確になっていませんでした。

 そして、5世紀代の倭は、朝鮮半島を実効支配するために渡海したのではなく、軍事援助するかわりに、百済・伽耶諸国が、知識人・技術者(渡来人)や鉄素材・先進文物等を提供する、一種の交易といえ、水田稲作(開墾・治水・灌漑施設の整備)・古墳造営等に、大量に鉄器具が必要でした。

 武士の君臣間での御恩と奉公の関係では、戦勝による領地獲得がないと、主従関係が成立・維持できませんが、ここでは、交易なので、派兵すれば、勝敗にかかわらず、知識人・技術者や鉄素材・先進文物等が取得でき、倭王を窓口に、各地の豪族達へ分配することで、先進文化が発達しました。

 これを突き詰めると、戦時の朝鮮半島では、日本列島から将軍・兵士が流入し、平時の日本列島では、朝鮮半島から農民・職人が流入することで(難民も)、日本列島には「民」による平和、朝鮮半島には「軍」による動乱と二分化し、双方を商人が往来するという構図になっていたのではないでしょうか。

 私達が注意しなければいけないのは、近代日本の極度な中央集権や、「きつい主従関係」の知識(偏見)が抜け切らないため、それを過去にも投影しがちなことで、それは、おそらく古代日本の、いつの時点でも同様で、地方分権から中央集権への過渡期を、段階的にイメージしなければいけません。

 珍が倭の隋ら13人(平西・征虜・冠軍・輔国は、珍の安東と同等の3品で、平西は安東の1級下、征虜は平西の2級下、征虜→冠軍→輔国と各1級下)、済が23人と、連名で将軍号を要求したのも、倭王がまだ、有力豪族達の盟主(代表)程度の存在で、地方分権が濃厚だった証拠です。

 古代日本の中央集権化は、5世紀後半の雄略天皇(21代)の時代→6世紀半ばの欽明天皇(29代)の時代→7世紀前半の推古天皇(33代)の時代→7世紀半ばの天智天皇(38代)の時代→7世紀後半の天武・持統の2天皇(40・41代)の時代と、約200年で徐々に推進されました。

 中央集権化に、このような期間がかかったのは、海外から日本列島へ攻め込まれる心配がなかったからですが、白村江の合戦(663年)の大敗後、はじめて危機となり、急速に推進され、壬申の乱(672年)で、政権の中枢にいた有力豪族達が一掃されたため、天武天皇に権威・権力が集中できました。

 筆者が主張したかったのは、総体的には、倭の五王を歴代天皇に比定するのは、現状では大変困難だということ、局所的には、[1]珍から済への継承での王統移動、[2]武=雄略天皇(21代、ワカタケル)説への疑問、[3]5世紀代の始祖王=応神天皇(15代、ホムタワケ)説です。

 それに、大前提として、まず、武による、宋の皇帝への上表文に、「東のかた毛人55国を征し、西のかた衆夷66国を服し、渡りて海北95国を平らぐ。」とあるため、武の政権は、日本列島の中央付近にあったとみるのが自然です。

 7世紀半ば成立の「隋書」倭国伝には、国造(軍尼/くに=国)120人、9世紀初め〜10世紀初め成立の「先代旧事本紀」には、国造家135氏とあるので、東55+西66=121ヶ国と、おおむね合致します。

 つぎに、5世紀までに造営された、全長200m以上の巨大古墳35基は、大和19基、河内6基、和泉5基と(備前2基、摂津・上野・丹後が各1基)、大半が畿内に分布しており、巨大古墳の造営には、大量の鉄器具が必要なので、鉄資源の確保を主導した倭の五王は、畿内の政権だと推測できます。

 筆者も、3世紀後半からの、大和東側の大和・柳本古墳群→大和北側の佐紀古墳群+大和西側馬見古墳群→河内の古市古墳群+和泉の百舌鳥古墳群の変遷を、取り上げており(p.14-17)、5世紀代の畿内の政権が、大和を既成地の後方拠点、河内・和泉を新開地の前方拠点としたのに、異論ないでしょう。

 [1]については、珍は、安東将軍で、倭の隋は、そのわずか1級下の平西将軍と推測でき、筆者は、珍と済に続柄の記載がないので、そこから倭の隋が、珍と対立する済の勢力だとし、珍の勢力と、済+倭の隋の勢力を、古市古墳群(安東)と、百舌鳥古墳群(平西)に、結び付けているようです(p.95-98)。

 [2]については、筆者は、5世紀半ば造営の稲荷台1号墳(千葉県市原市)出土の鉄剣での「王」を、珍か済と推定し、5世紀後半造営の稲荷山古墳(埼玉県行田市)出土の鉄剣と江田船山古墳(熊本県和水町)出土の鉄刀での、ワカタケルの「大王」とは区別しています(p.98-100)。

 ところが、記紀神話以前の7世紀成立とされる「上宮(じょうぐう)記」の逸文(「釈日本紀」)によると、垂仁天皇(11代)には「大王」、応神天皇(15代)には「王」、継体天皇(26代)には「大公王」が使用されているので、「大王」は、尊称にすぎないと導き出せます。

 むしろ、稲荷山古墳の鉄剣や江田船山古墳の鉄刀での、「治天下」を重要視すべきですが、「治天下」とは、中国皇帝のように、天下(世界)を統治する唯一の王を意味するので、武=雄略天皇説だと、武が478年に宋へ朝貢、臣下と官爵を要求し、宋の権威に依拠するのと矛盾します。

 しかし、雄略天皇は、稲荷山古墳の鉄剣や江田船山古墳の鉄刀により、5世紀後半に、関東南部から九州北部にかけて、統治していたと推測でき、5世紀代で唯一、実在性が確実視されています。

 よって、倭の五王の一人に、雄略天皇が該当しないか、武=雄略天皇なら、国外的には、中国へ朝貢・従属、国内的には、「治天下」の王だと使い分けていたか、当初は、朝貢・従属していたのを、途中で、「治天下」の王へと路線変更したかの、いずれかとみるしかありません。

 ただし、筆者は、倭が中国への朝貢を打ち切ったのを、権力を天皇に集中できたからでなく、宋の滅亡・南斉の権威低下と、王位継承での混乱としています。

 [3]については、「古事記」では、百済の近肖古王から応神天皇へ、横刀(たち)・大鏡が贈与され(「日本書紀」では、近肖古王から神功皇后へ、七枝刀・七子鏡が授与)、百済との外交開始が応神天皇なので、中興の祖的に位置づけています。

 一方、武による、宋の皇帝への上表文での、祖・禰(でい)=仁徳天皇(16代)説もあり、そこでは、讃=履中天皇(17代)、珍=反正天皇(18代)、済=允恭天皇(19代)、興=安康天皇(20代)、武=雄略天皇に比定されています。

 ですが、応神天皇と仁徳天皇は、記紀神話に事績の重複があるので、同一人物説もあり、結局、筆者は、倭の五王を厳密に検討し、比定できないと結論づけたにもかかわらず、記紀神話を安直に持ち出し、5世紀代の始祖王=応神天皇とするのには、到底納得できません。

 それよりも、応神天皇の5世孫が、王統断絶後の継体天皇(26代)で、この家系が、現在まで皇位継承されており、応神天皇を八幡神と同一視され、皇祖神としても崇拝されているだけで、実在性が確実視されていません。

 もし、記紀神話を信用できないとするのなら、実際には、王統移動しているのに、親子間や兄弟間で王位継承しているように、潤色している痕跡を発見するほうが得策で、「日本書紀」での気になる点は、次に示す通りです。

‐允恭の父・仁徳天皇、允恭の同母兄・反正天皇と、允恭天皇から王統断絶(25代)まで、年齢が算定できない(履中天皇以外)
‐反正天皇以前は、皇太子が王位継承していたが、允恭天皇で、はじめて群臣の推挙によって即位(仁徳天皇の即位は、皇太子が自殺したので例外)
‐允恭天皇の名前に、近臣を意味する「宿禰(すくね)」が含まれ、允恭の同母兄の履中・反正の2天皇の「別(わけ)」と異なる
‐反正天皇の事績が、わずかしかない(「古事記」も同様)

 どうも、珍=反正天皇と済=允恭天皇の間に、何かありそうです。

 最後に、文章や巻末の簡素な年表だけだと、全体像が把握しにくいので、中国(北朝・南朝)・高句麗・百済・新羅・倭の欄を別々にした、年表を冒頭に掲載してくれれば、朝貢・同盟・攻撃・救援等の様子が、もっとわかりやすくなったのではないでしょうか。
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196. 中川隆[-10374] koaQ7Jey 2019年5月09日 11:33:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1725] 報告

日本はなぜ「万世一系」を必要としたか
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130602/1370174878


歴代天皇のいわゆる「万世一系」について、真に問わなければならない問題とは何か?

それは、「万世一系」の定義とか、それは事実かどうか、といったことではなく、なぜ天皇は「万世一系」ということになっていなければならないのか、そもそもなぜそんなものが必要だったのか、という問題だと私は考えている。

「万世一系」の天皇を戴く大和民族の一員であることにしか自尊感情の源泉を見いだせないある種の人々(「特定日本人」とでも呼ぶべきか?w)は、幾多の王朝が興亡を繰り返した中国と比較することで自国の優位性を言いたがる。

なので、ここでも中国との比較を通してこの問題を考えてみることにしよう。

■ 疑問1

前回の記事では、武烈―継体間の王統断絶を取り上げた。ここで、日本書紀は、前王朝最後の王武烈を、悪逆非道の暴君として描き出している。


武烈2年: 妊婦の腹を割いて胎児を見た。

武烈3年: 人の生爪を抜き、その手で芋を掘らせた。

武烈4年: 人の頭髪を抜き、木の頂に登らせ、その木を切り倒して、

      登らせた者が落ちて死ぬのを楽しんだ。

武烈5年: 人を池の水を流す樋に伏せ入らせ、外に流れ出てきたところを

      三叉の矛で刺し殺して楽しんだ。

武烈7年: 人を木に登らせておき、弓で射落として笑った。

武烈8年: 女を裸にして板の上に据え、馬を引いてきて交尾させた。

      そして女の性器が濡れていれば殺し、濡れていなければ官婢とした。

これとよく似た例が、中国の史書にも見られる。有名なのは殷に亡ぼされた夏王朝最後の王「桀」、そして周に亡ぼされた殷王朝最後の王「紂」に関する暴虐記事だろう。

『史記』夏本紀34:


桀、徳に務めずして百姓を武傷す。百姓堪えず。

『史記』殷本紀29-30:


(紂は)酒を好み淫を楽しみ、婦人を嬖(へい)す。

妲己(だっき)を愛し、妲己の言に是れ従ふ。

賦税(ふぜい)を厚くして以て鹿台(ろくだい)の銭を実たし、而して鉅橋(きょきょう)の粟(あわ)を盈(み)つ。

(人々を)大いに最(あつ)め沙丘に楽戯す。

酒を以て池と為し、肉を懸けて林と為し、男女をして裸(ら)し其の間に相ひ逐(お)はしめ、長夜の飲を為す。


武烈紀の暴虐記事は、これら中国の先例に倣ったものと思われる。

こうした記事の内容が本当だったのかどうか、それは分からない。しかし、確実に言えるのは、前王朝に取って代わった新権力者にとって、先王の暴虐を宣伝するのは、自らの権力奪取の正当性を主張する上で大変役に立つ、ということだ。

殷の湯王や周の武王と、継体はよく似た立場にいたといえる。ではなぜ、湯王や武王が堂々と新王朝の樹立を宣言したのに対して、継体はあたかも穏当に武烈の後を継いだかのように振舞ったのだろうか?

別の言い方をすれば、継体から始まる新王朝の正史である日本書紀は、なぜ継体を自王朝の始祖として描かず、神武以来の王朝がそのまま継続したかのように描いているのだろうか?

■ 疑問2

武王が樹立した周王朝は、その後しだいに衰退し、やがて形式的な権威を担うだけの有名無実の存在となっていった。鎌倉時代以降、実質的権力を失い、衰退していった京都朝廷とよく似ている。

両者の違いは、周王朝が数百年続いた後、最終的に秦に滅ぼされたのに対して、京都朝廷は曲がりなりにも近代に至るまで存続したことだ。

何がこの両者の運命を分けたのだろうか?

■ 答え

周王朝を廃した秦の始皇帝は、泰山で「封禅の儀」を行い、天と地を祭って、中国全土を統治する皇帝としての自らの権威を誇示した。

この例が示すように、古来中国には「天」の思想がある。そもそも王や皇帝とは、天の命令(天命)を受けて、「天子」として天下を統治するものなのだ。

だから、皇帝が徳を失い、天子にふさわしい存在でなくなれば、他の者が代わって天命を受け、新たな天子となることができる。桀のように、「徳に務めず」民を虐待するような権力者は、倒されても仕方がないとされるのだ。

これが、天命が革(あらたま)ること、すなわち「革命」である。

一方の日本はどうだろうか。

日本には、権力の正当性を主張するための基準となる、このような普遍的原理がない。記紀神話を通して見ても、地上の権力者にその権力の正統性を与える根拠は、天照大神が自らの孫ニニギに対して言ったという言葉、


葦原の千五百秋(ちいほあき)の瑞穂の国は、是(これ)、吾が子孫の王たるべき地なり。爾(いまし)皇孫、就(い)でまして治(しら)せ。行矣(さきくませ)。宝祚(あまのひつぎ)の隆(さか)えまさむこと、当(まさ)に天壌(あめつち)と窮(きはま)り無けむ。

―いわゆる「天壌無窮の神勅」(日本書紀 神代下 第九段)―しかない。

ちなみにこの「神勅」、いかに荘重な漢文調で飾って見せたところで、中身を見れば、自分の子孫だけが可愛いという身内びいきの塊みたいなものであって、そこには普遍性のカケラもない。

このように、権力の正統性を支える普遍的原理がなく、頼れる権威が天照の子孫とされる一族の血筋だけとなれば、どうしても天皇には(内実はどうあれ)「万世一系」でいてもらわなければならないことになる。

この国で新興の実力者が権力の頂点に立つには、継体のように王朝内での順当な継承を偽装するか、そうでなければ天皇から権力の行使を委託される(例えば「征夷大将軍」として)という形式を取るしかなかった。だから、天皇家はいくら落ちぶれても、とりあえず権威を示すそれらしい儀式を行える程度の状態で存続を許された、というよりむしろ、存続させられてきたのである。

結論。天皇が「万世一系」ということになっているのは、日本には権力の正統性を支える基盤としての普遍的原理がなく、権威として頼れるものが神の子孫だという天皇家の血筋しかなかったからである。


※本記事中に引用した日本書紀の読み下し文は、坂本太郎・家永三郎・井上光貞・大野晋校注 『日本書紀(一)』(岩波文庫 1994年)による。
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130602/1370174878

197. 中川隆[-10373] koaQ7Jey 2019年5月09日 11:35:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1726] 報告

2013-05-05
「万世一系」の虚妄
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130505/1367721385

天皇といえば、枕詞のようについてくる形容が「万世一系」。

ある種の人々にとって、天皇家が「万世一系」であることは、何物にも代えがたい至上の価値であり、日本という国を、他国より優れた特別な存在にするものであるらしい。

…バカじゃなかろうか。

当たり前だが、親から生まれて来なかった人間はいない。

皇族であろうがなかろうが、また日本人であろうがなかろうが、人間である以上、誰でも親、その親と辿っていけば、必ず悠久の過去の人類発祥までたどり着く。途中一世代どころか一瞬でも断絶があれば、その人間はいま生きてはいない。人間であれば誰でも、現生人類の誕生以来約25万年と言われる歴史の中を、連綿と命を受け継いで来たのだ。その中で、高々2千年程前のある男が祖先だと称する一族だけが「万世一系」で尊いなどということがあるわけがない。そんなものを崇め奉るのは愚の骨頂である。

「万世一系」など下らぬ妄想。

以上、終わり。

…ということにしてもいいのだが、せっかくなのでもう少しこれに関連する言説を見てみることにする。

一口に「万世一系」と言っても、その考え方は一つではないようだ。中でもとりわけバカバカしいのはこれあたりだろうか。

平沼赳夫オフィシャルホームページ:(強調部は引用者による)


 つまり、男系継承とは「男性天皇が血統の出発点であること」を意味し、反対に女系継承とは「女性から始まる継承」をいう。愛子内親王が天皇となり、その配偶者が皇族でないかぎり、その子が天皇になると「女系継承」が始まるのである。

 「万世一系」というと本家の血筋が永遠に続くことと誤解する人がいるが、それでは「真の一系」にはならないのだ。時には分家からも継承者が現れ、男系で継承が維持されていくことが「万世一系」の本質的意味である。

 飛鳥より遥かに時代をさかのぼった第16代仁徳天皇の男系血筋は、約80年後の武烈天皇(25)で血統が途絶えたため、家系をさかのぼって分家の男系子孫を見つけだし、継体天皇(26)が誕生したという例もある。

 では次にこの男系継承を遺伝子学的に見てみよう。

 人間の男性の染色体はXYであるのに対して、女性のそれはXXであり、それぞれ46対ある。男女が結婚して男の子ができた場合、母の23対のX染色体と父の23対のY染色体をもらう。女の子の場合は、母の23対の×染色体と父の23対のX染色体をもらう。よって男系の子孫にのみにオリジナルのY染色体が引き継がれ、女系の子孫には引き継がれない。女系では「皇統」が護持されないのである。(参考図参照)

 つまり、皇位が男系継承で引き継がれていく限り、男性天皇には間違いなく初代神武天皇のY因子が継承されるのに対し、女性天皇ではY因子の保持は約束されないのである。

 男系継承を護持することは、神武天皇だけでなく、更に遡って二二ギノミコトのオリジナルのY因子を継承することにもなり、このY因子こそ「皇位継承」の必要要件であり「万世一系」の本当の意昧なのである。

平沼によると、「万世一系」の本質とは、天皇家の父から息子へと受け継がれていくY染色体上の遺伝子のことなのだそうだ。代々の天皇(天皇にはなれなかった傍系の男も含む)の肉体は、単なる遺伝子を運搬するための器に過ぎず、息子に「Y因子」を受渡してしまえばもう用済みなのである。もちろん、個々の天皇の人格などどうでもいいわけだ。なんだか、利己的遺伝子仮説の出来の悪い焼き直しみたいな話だ。

これほど歴代天皇を侮辱した言説もないのではなかろうか。

ついでに指摘しておくと、古事記に名前が出てくる各地の豪族のうち、88%は「皇系」、つまり何代目かの天皇の子孫ということになっている。平沼の言うように「Y因子」さえ受け継いでいればいいのなら、男系で続いてさえいれば、そうした豪族たちの誰がどんな手段で天皇になっても構わないことになる。とんだ「万世一系」もあったものだ。

より穏当というか、一般的な説は、日本では歴史の初めから王朝の交代がなく、同じ王統がずっと続いているから「万世一系」だ、というものだ。

しかし、こちらの説も極めて怪しい。

例えば、平沼も言及している武烈(25代)から継体(26代)への代替わりなど、まず王朝交代と見て間違いない。

武烈には子がなく、次の天皇となった継体は、古事記によれば応神天皇(15代)の五世の孫、日本書紀によれば六世の孫、とされている。確かに一応過去の天皇の子孫ということになってはいるが、これほど世代の隔絶した継承は異常だ。それは、以下の系譜と比べてみれば分かる。


桓武天皇

葛原親王1

高見王2

平高望3

平良持4

平将門5

平将門は桓武天皇の五世の孫。継体が天皇になったというのは、平将門が天皇になったのと同じようなものなのだ。

しかも、三国(現在の福井県坂井郡付近)の出身とされている継体の、応神以来の系譜は、古事記にも日本書紀にも書かれていない。(日本書紀は父の名のみ記載。)


 これは記紀の編者が、それらを知らなかったためではなく、それらを書くことが必ずしも名誉とならない、そういう事情を配慮したからではないであろうか。なぜなら、それらの人名は、北志賀(滋賀県)や三国(福井県)の諸豪族にとって、同僚や時として下僚に当る人物として熟知されていた人名だったであろうから。

 このように考えてみると、継体即位の問題性、さらに不法性、それを疑うことは困難なのではなかろうか。

という古田武彦氏の推測(『古代は輝いていた』2)は妥当なものと思われる。実際、応神―継体間の系譜は、鎌倉末期に書かれた日本書紀の注釈書「釈日本紀」に、今では失われた「上宮記」という史書からの引用という形で記載されている。上宮記は7世紀頃に成立したと考えられており、古事記・日本書紀より古い。当然、記紀の編者が知らなかったはずはないのだ。

要するに、武烈死後の混乱に乗じて、出自もはっきりしない、しかし武力や経済力は十分に備えた地方の大豪族が大和に進出してきて次の天皇となったのだ。「万世一系」説に毒されていない常識では、これを王朝交代と呼ぶ。
http://vergil.hateblo.jp/entry/20130505/1367721385

198. 中川隆[-10343] koaQ7Jey 2019年5月11日 18:10:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1765] 報告

日本人のガラパゴス的民族性の起源
15-31. 新石器時代後期の中国北部がシナ‐チベット語族の起源らしい!
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-31.htm


  Natureの2019年4月25日付けの論文で、シナ−チベット語族の起源が中国北部との「中国北部起源説」を支持する旨の系統発生学的な証拠がそろったとの 内容が発表されました。シナーチベット語族の分岐は5900年前頃で黄河域で生じた、と説明している。

しかもシナ語族とチベット−ビルマ語族の分離は西方のチベットと南方のミャンマーに移動した集団と、 東方と南方に移動して漢民族となった集団に分岐した時だったと考えられるらしい。 これは縄文系の兄Y-DNA遺伝子集団であるチベット民族の起源にも触れるため、記事にしました。

  これとY-DNA調査によるガラパゴス史観を当てはめると、
1.揚子江流域で発展した稲作農耕の長江文明集団(Y-DNA「O1」)が、陸稲文化だった
  黄河文明系集団(Y-DNA「O2」)に敗れ、中原から追い出され、北方と南方に逃げた
  ことと一致する。南方に逃げた集団(オーストロアジア語系/越系:Y-DNA「O1b1」
  となった)は現代のベトナムからインドに分布し、稲作農耕民として生活している。
  一方北方に逃げた集団(オーストロアジア語系/呉系:Y-DNA「O1b2」となった)は
  満州あたりまで逃げそこから稲作適地を求め南下し朝鮮半島を経由し日本列島に入り
  弥生系文化集団となり、現代に続く日本人と朝鮮人の稲作農耕民の祖先となっている。
  東方に逃げ台湾に入った集団(オーストロネシア語系/楚系:Y-DNA「O1a」になっ
  た)も存在するが、同時代かどうかはまだわかっていません。

2.この時、西方のチベットに逃げ込んだ集団がチベット語族となったようですが、
  そうすると縄文系日本人Y-DNA「D1b」の兄遺伝子Y-DNA「D1a」を持つチベット人
  (後代に移住してきた漢族は除く)はその当時まで中原付近に居住していたことになり
  ます。
  ところが人類学の最新の研究では現代チベット人やシェルパ族の高地適応はデニソワ人
  から受け継いだと説明しています。そうするとその当時までデニソワ人はチベット
  高原に生き延びていたことになりますが.......?
  もしくは、四川文明は蜀の先祖/古蜀の古代文化と考えられますが、チベット系は中国
  大陸の中部から西部チベット高原に古代から既に広く拡大していたのかもしれません。
  日本語とチベット語の関係はまだ解明されていませんが、民話は、姑娘民話とかぐや
  姫民話など、一部共通するものがありますので、言語学者が古代チベット語を系統発生
  学で研究すると縄文語との近縁性が解明されるかもしれません。
  過去に学習院大学の大野教授が日本語の祖先はドラヴィダ人のタミール語であると発表
  し、今は死説となりましたが、Y-DNA「O1b1」のモンゴロイド系稲作農耕民が現代
  でも70%以上を占める部族がドライダ人集団内にいるため、この死説は弥生人が使っ
  ていた長江系稲作農耕関連の語彙が、遠くドラヴィダ人内に今でも残っていることを
  証明した事になるため、結果として極めて貴重な学説となりました。

3.この時に東方と南方に拡大したのが後の漢民族の母体となるY-DNA「O2」遺伝子集団
  と考えられます。この遺伝子集団は周辺の他の遺伝子集団と積極的に混じり合ったらし
  く、極東アジアのみならず、インドネシアなどのスンダ列島やニューギニアまで、
  東南アジアからオセアニアまで広く分布しています。これぞ極めつけの極東アジア人
  遺伝子のY-DNA「O」は、古代ではかなり活動的な集団だったのではないかと推測でき
  ます。


=======================
それでは、Nature論文のabstructを転記します。興味のある方は原著を是非お読みください。

Nature Letter | Published: 24 April 2019

Phylogenetic evidence for Sino-Tibetan origin in northern China in the Late Neolithic

 The study of language origin and divergence is important for understanding the history of human populations and their cultures.
 The Sino-Tibetan language family is the second largest in the world after Indo-European, and there is a long-running debate about its phylogeny and the time depth of its original divergence.
 Here we perform a Bayesian phylogenetic analysis to examine two competing hypotheses of the origin of the Sino-Tibetan language family: the ‘northern-origin hypothesis’ and the ‘southwestern-origin hypothesis’.
 The northern-origin hypothesis states that the initial expansion of Sino-Tibetan languages occurred approximately 4,000?6,000?years before present(bp; taken as ad 1950) in the Yellow River basin of northern China and that this expansion is associated with the development of the Yangshao and/or Majiayao Neolithic cultures.
 The southwestern-origin hypothesis states that an early expansion of Sino-Tibetan languages occurred before 9,000?years bp from a region in southwest Sichuan province in China or in northeast India, where a high diversity of Tibeto-Burman languages exists today.
 Consistent with the northern-origin hypothesis, our Bayesian phylogenetic analysis of 109 languages with 949 lexical root-meanings produced an estimated time depth for the divergence of Sino-Tibetan languages of approximately 4,200?7,800?years bp, with an average value of approximately 5,900?years bp.
 In addition, the phylogeny supported a dichotomy between Sinitic and Tibeto-Burman languages.
 Our results are compatible with the archaeological records, and with the farming and language dispersal hypothesis of agricultural expansion in China.
 Our findings provide a linguistic foothold for further interdisciplinary studies of prehistoric human activity in East Asia.
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和訳です。

新石器時代後期の中国北部にシナ‐チベット語族の起源があることの系統発生の証拠。

 "言語起源と相違の研究は、人間の集団と彼らの文化の歴史を理解することにとって重要です。
"
 シナ‐チベット語族の言語族はインド‐ヨーロッパ語族の後で世界で2番目に大きいです、そして、 その系統発生とその最初の拡散の時期についての長い年月にわたる議論があります。

 "ここでは、シナ‐チベット語族の言語族の起源の2つの拮抗している仮説、すなわち『北部起源仮説』と『南西部起源仮説』、 を調べるために、我々はベイズ的な系統発生の分析を行います。 "

 北部起源説は、シナ‐チベット語族の最初の拡大が中国北部の黄河流域で、4000〜6000年前に生じ、 そしてこの拡散は新石器時代文化の仰韶(ヤンシャオ)文化 and/or 馬家窯(マジャヤオ)文化の開発と関連している、と説明しています。

 南西部起源説は、シナ‐チベット語族の初期の拡大は、今日でも高い多様性のチベット-ビルマ語族が居住している 中国四川省の南西部もしくはインド北東部で9000年前頃に生じたと説明しています。

 949の語彙の根源的な意味の統計解析による109の言語に対する我々のベイズ的な系統発生の分析は、 シナ‐チベット語族の分岐はおよそほぼ4,200〜7,800年前で平均は、北部起源仮説と一致しておよそ5900年前であった。

 "これに加えて系統発生は、シナ-チベット語族が、シナ語とチベット-ビルマ語族に二分されることを支持しました。
"
 我々の結果は、考古学的な記録と、そして、中国における農業と言語による農業の分散仮説と一致しています。

 我々の調査結果は、東アジアでの有史以前の人間の活動のより学際的な研究に、言語学的な足掛かりを提供します。
 http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-31.htm

199. 中川隆[-10526] koaQ7Jey 2019年5月13日 09:03:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1760] 報告

諏訪春雄通信 854回 (2019年5月6日更新)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html


 Y 日本の女帝

邪馬台国 卑弥呼


倭人は帯方の東南大海の中にあり。山島に依りて国邑をなす旧百余国漢の時朝見する者あり。今使訳通ずる所三十国郡より倭に至るには海岸に循って水行し、韓国をへて、あるいは南し、東し、その北岸狗邪韓国に至る七千余里。


その国、本また男子を以て王となり住まること七、八十年。倭国乱れ相攻伐すること歴年乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大なるも夫婿なく男弟あり。佐けて国を治む王となりしより以来見るある者少なく婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり。飲食を給し辞を伝え居処に出入す。宮室楼観城柵厳かに設け常に人有りて兵を持して守衛す。(「魏志倭人伝」)


邪馬台国の卑弥呼は中国で三世紀ごろに編纂された歴史書『三国志』のなかの『魏志倭人伝』の上掲の記事による。しかし、その史実については議論があり、なかにはその存在自体を疑う説すらある。

たとえば、田中英道氏は

『邪馬台国は存在しなかった』(勉誠出版、2019年)
https://www.amazon.co.jp/%E9%82%AA%E9%A6%AC%E5%8F%B0%E5%9B%BD%E3%81%AF%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%97%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F-%E5%8B%89%E8%AA%A0%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E7%94%B0%E4%B8%AD%E8%8B%B1%E9%81%93/dp/458523408X

で、

邪馬台国も卑弥呼も『魏志倭人伝』以外に記録がない、

邪馬台国も卑弥呼も蔑称である、

『魏志倭人伝』は伝聞をもとに構成された物語である、

日本に卑弥呼を祀った神社が存在しない、ただ一つ存在する神社は昭和57年に建立された、

などの多くの理由をあげて、存在否定論を展開している。

 たしかに、『魏志倭人伝』の記述通りの固有名詞を持つ国や女王が存在したか、どうかには疑問がのこるが、このような国の制度があったことは信じられる。

 日本の女帝とヒメ・ヒコ制 
 

日本の古代に姉妹と兄弟が祭事と政治を分担する統治形態ヒメ・ヒコ制が存在した。地名∔ヒメと地名∔ヒコの名の男女が分担する。

『古事記』・『日本書紀』・『風土記』などには宇佐地方(豊国)にウサツヒコとウサツヒメ、阿蘇地方にアソツヒコとアソツヒメ、加佐地方(丹後国)にカサヒコとカサヒメ、伊賀国にイガツヒメとイガツヒコ、芸都(きつ)地方(常陸国)にキツビコとキツビメがいたことを伝えている。また『播磨国風土記』では各地でヒメ神とヒコ神が一対で統治したことを伝えている。

その史実を反映して、日本の各地に百社近くヒメ・ヒコで一対となる神社がのこされている。これらをすべて虚構と片付けることはできない。

 

 

このヒメ・ヒコ制の根底には東南アジアから東アジア一帯に広まる姉妹の霊性が兄弟を守護するオナリ神信仰がある。

沖縄にオ(ヲ)ナリ神とよばれる、兄弟を主語する姉妹の霊力に対する信仰がある。はやく伊波普猷(いはふゆう)が『をなり神の島』(楽浪書院一九三八年)で、柳田国男が『妹の力』(創元社、一九四〇年)で論じた問題であった。

オナリは、奄美、沖縄、宮古、八重山の諸地域で、兄弟から姉妹をさすことばである。姉妹から兄弟をさすときはエケリという。

オナリ神は呪詛にも力を発揮するが、多くは兄弟が危機に陥ったときに守護してくれる。航海や戦争に出発の際、姉妹は守護のしるしとして、手ぬぐいや毛髪を持たせ、兄弟が危機に陥ったときに、姉妹の霊は白鳥になって現地に飛ぶという。

姉妹は兄弟に対して霊力で守護し、他方、兄弟は姉妹に対し、日常生活で守護の役割を果たす。しかも、家族のレベルを超えたさまざまな上位の祭祀集団にもこの関係をみることができる。根神(ニーガミ)と根人(ニーッチュ)、ノロと按司(アジ)などとよばれる地域の信仰関係、聞得大君(きこえおおきみ)と王などの王権の信仰関係である。

この信仰の源流については、東南アジアに求める説が有力である。オナリ神を最初に学問の課題として体系化した柳田国男は、オナリ神の源流を日本の外に求めることはしなかったのであるが、柳田の影響下に、戦後、この問題に取り組んだ社会人類学者の馬淵東一は、東南アジアとの関係を強調した。(「沖縄先島のオナリ神」『日本民俗学』一九五五年)

さらに、馬淵の教え子の社会人類学者の鍵谷明子氏は長期のインドネシア調査を続け、その成果を『インドネシアの魔女』(学生社、一九九六年)としてまとめた。鍵谷氏は、インドネシアの小スンバ列島のなかのサブ島、ライジュア島という二つの島を二十年近く毎年訪れ、沖縄のオナリ神信仰と一致する信仰を発見した。この二つの島では、兄弟が遠い旅に出るとき、必ず姉妹に知らせ、姉妹はイカットとよばれる手織りのかすりの布を贈る。このイカットには、兄弟を守る強力な霊力があると信じられている。

馬淵・鍵谷両氏の研究によって、オナリ神信仰の源流は、確定したように思われていた。


しかし、と私は考える。日本の古代神話でも、イザナギ・イザナミの国生み神話、天地分離神話、海幸彦・山幸彦神話などの王権神話の重要なものが、東南アジア起源として説明されていたが、私は、二〇〇五年に角川書店から刊行した『角川選書 日本王権神話と中国南方神話』で、これらの神話の原型が中国長江流域の少数民族神話にあることを、多くの実例をあげて明らかにした。同じことが、オナリ神についてもいえるのではないか。

東南アジアに、日本の神話や習俗と類似するものがのこっているのは、多くの場合、中国大陸から左右対称にせり出していったものの、末端残留現象として説明できるのである。

オナリ神信仰をアジア起源とすると、説明のつかないことがある。

沖縄のオナリ神信仰と相似の信仰が本土日本のヒメ・ヒコ制である。もしオナリ神が東南アジア起源なら、本土のヒメ・ヒコ制も東南アジア起源となるのであろうか。

ヒメ・ヒコ制は、すでに説明したように、兄弟と姉妹が政治と神事を分担する統治の形態である。一般に、「地名+ヒメ」と「地名+ヒコ」の名を持つ男女が、一対となって、その地域を支配する原始的な王権のあり方であった。具体例は、『日本書紀』神武天皇即位前紀のウサの国の祖先ウサツヒコとウサツヒメを始め、日本の古代にかなりの数拾い出すことができる。その原型は、卑弥呼とその弟の関係にまでたどり着くことができる。あきらかにオナリ神信仰に一致する。

ヒメ・ヒコ制は女性の霊力に対する信仰である。このような信仰は、中国南部に過去もいまも広がって存在する。

女性が霊力を持つと信じられる理由の一つは、神がかりによる特殊な予知能力を身につけているからである。憑霊型の女性シャーマンである。日本の古代の女王であった卑弥呼、壱与、神功皇后、飯豊女王の四名ともにあきらかに憑霊型の女性シャーマンであった。長江流域には、神が巫女の身体に宿るシャーマニズムの憑霊型が盛んであり、日本の古代の巫女の女王の源流は、長江流域に存在する可能性が考えられるのである。

このようにのべてくれば、邪馬台国や卑弥呼が単なる中国歴史書の著者が創りあげた架空の物語などでないことは明らかである。古代日本に実在した国家制度の正確な記述である。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html

200. 中川隆[-10510] koaQ7Jey 2019年5月14日 06:36:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1777] 報告

韓国人のルーツは? 北方界でない混血南方系
[ⓒ 中央日報/中央日報日本語版] 2017年02月02日
https://s.japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=225352

韓民族のルーツはどこだろうか。人類・考古学界の一部は、韓民族がアルタイ山脈から出発しモンゴルと満州原野を通って韓半島(朝鮮半島)に入ってきた北方民族だと推定している。これらの地域の人々の言語・風習・顔つきなどと共通点が多いというのがその根拠だった。

だが、科学界の判断は違う。2日、蔚山(ウルサン)科学技術院(UNIST)ゲノム研究所によると、韓民族は3万〜4万年前に東南アジア〜中国東部海岸を経て極東地方に流入して北方人になった南方系狩猟採取人と、新石器時代が始まった1万年前に同じルートで入ってきた南方系農耕民族の血が混ざって形成された。2009年、UNISTは韓民族が東南アジアから北東に移動した南方系の巨大な流れに属しているとサイエンス誌に発表したことがあったが、今回これをより具体化した。

その始まりはロシア・ウラジオストクからやや北の『悪魔の門(Devil’s Gate)』という名称の洞窟から見つかった7700年前の20代と40代女性の頭蓋骨だった。

この地域は韓国の歴史において、旧高句麗・東夫餘・沃沮だった場所だ。ゲノム研究所はスーパーコンピュータを利用してこの頭蓋骨の遺伝子を解読・分析した。

DNA分析の結果、「悪魔の門」の洞窟人は3万〜4万年前に現地に定着した南方系人で、韓国人のように褐色の瞳と凹型の前歯(shovel−shaped incisor)をつくる遺伝子を持っていたと発表された。また、彼らは現代の東アジア人の典型的な遺伝特性を有していた。牛乳が消化できない、高血圧に弱く体臭があまりない、乾いた耳あかが出るなどの遺伝子が代表的だ。この洞窟人は現在近くに住むウルチ(Ulchi)族の先祖と考えられている。周辺の原住民を除けば、現代人のうちでは韓国人が彼らに近い遺伝子を持っていることが判明した。彼らのミトコンドリアDNAの種類も、韓国人が主に持っているものと同じだった。

同研究所のパク・ジョンファ所長は「ミトコンドリアDNAの種類が同じだということは母系が同じであることを意味する」とし「2つの人類間の時間的な開きを考慮しても、遺伝子が非常に似通っていると言え、悪魔の門の洞窟人は韓国人の先祖とほぼ同じだと言える」と述べた。

だが、悪魔の門の洞窟人の遺伝子が韓民族のそれとすべて一致したわけではない。研究陣は正確な韓国人の民族ルーツと構成を計算するために、悪魔の門の洞窟人と現存する東アジア地域50カ所余りの人種に対する遺伝子比較を行った。その結果、悪魔の門の洞窟に住んでいた古代人と、現代ベトナムおよび台湾で孤立している原住民の遺伝子を融合したところ、韓国人の遺伝子を最もよく表していた。時代と生存方式が異なる二つの南方系列の融合だったことを発見した瞬間だった。

だが、現代韓民族の遺伝的構成は1万年前の農耕時代の南方系アジア人にはるかに近い。狩猟採集や遊牧をしていた極東地方の狩猟採取人に比べて、稲作をしていた南方系民族が多くの子供を産みスピーディーに拡散したためだというのがその理由だ。実際、狩猟採集を中心に生活していた過去の極東地方部族たちの現在の人口は多くても数十万人以上にはならない。

パク所長は「巨大な東アジア人の流れの中で、技術発達によって、小さな幹の民族が生じて混ざり合いながら韓民族が形成されたものと推定できる」と説明した。UNISTの研究は国際学術誌「Science Advances(サイエンス・アドバンシズ)」1日付(米国現地時間)に発表された。
https://s.japanese.joins.com/article/j_article.php?aid=225352


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韓国人のルーツは「悪魔の洞窟で暮らした新石器人」=研究発表にネットから疑問噴出=「標本2つで出した結論」「おしりの蒙古斑はなに?」
Record china:2017年2月5日
https://www.recordchina.co.jp/b162581-s0-c30-d0127.html


2日、UNISTゲノム研究所は、朝鮮民族は3〜4万年前に東南アジアから極東地方に流れ込み北方人となった南方系狩猟採集民と、1万年前に同経路で入ってきた南方系農耕民族の血が混ざって形成されたと発表した。写真はロシア・ウラジオストク
https://www.recordchina.co.jp/b162581-s0-c30-d0127.html


2017年2月2日、韓国・中央日報によると、蔚山(ウルサン)科学技術院(UNIST)ゲノム研究所は国際学術誌「Science Advances」で、韓民族(=朝鮮民族)は、3〜4万年前に東南アジアから中国東部の海岸を経て極東地方に流れ込み、北方人となった南方系の狩猟採集民と、新石器時代が始まった1万年前に同じ経路で入ってきた南方系の農耕民族の血が混ざって形成されたと発表した。

これまで人類・考古学界の一部では、言語・風習・容姿などの共通点が多いことから、朝鮮民族がアルタイ山脈に始まり、モンゴルと満州の原野を越えて朝鮮半島に入ってきた北方民族であると推定されてきた。

しかし科学界の判断は違っており、2009年、UNISTは国際学術誌「Science」に「朝鮮民族が東南アジアから北東へ移動した南方系の巨大な流れに属している」と発表、今回の発表はこれをさらに具体化したことになる。

その手がかりは、ロシア・ウラジオストクの上方にある沿海地方の「悪魔の門(Devil’s Gate)」という名の洞窟で発見された7700年前の20代と40代の女性の頭蓋骨にあった。ここは韓国の歴史上、かつての高句麗・東夫余(ふよ)・沃沮(よくそ)の地と言われている。ゲノム研究所がスーパーコンピュータを利用してこの頭がい骨のゲノムを解読・分析したところ、悪魔の門の洞窟人は3〜4万年前に現地に定着した南方系人で、韓国人のように茶色い目とシャベル型切歯(shovel-shaped incisor)の遺伝子を持っていたことが明らかになった。また彼らは、牛乳を消化できない遺伝変異や、高血圧に弱い遺伝子、体臭が少ない遺伝子、耳たぶの薄い遺伝子など、現代の東アジア人の典型的な遺伝特性も持っていたという。悪魔の門の洞窟人は近くに住む「ウルチ(Ulchi)」族の先祖とされており、近くの原住民を除く現代人の中では韓国人がこれと近いことが判明した。

UNISTゲノム研究所のパク・ジョンファ所長は「ミトコンドリアDNAの種類が同じであるということは、母系が同じであるということを意味する。長い時間差を考慮しても2つの人類の遺伝子は非常に近く、悪魔の洞窟人は韓国人の祖先とほぼ同じだと言える」と話している。

これを受け韓国ネットユーザーからは、研究方法に関連して「偶然洞窟にたどり着いたのかもしれないし、サンプル2つは少なすぎ」「標本2つの結論か。もっと多い標本が必要な研究じゃない?」というコメントや、「でも、言語は北方系のモンゴル語じゃん。これはなんで?」「おしりにある蒙古斑はなに?」というコメント、「つまり、ウィー・アー・ザ・ワールドってことね。ということは、今後科学がもっと発達したら数十万年前まで研究できるから、また北方系になる可能性もあるわけだ」「朝鮮民族は単一民族ってよく言うけど、これはギャグ」など、異論や疑問を唱えるコメントが多く寄せられている。(翻訳・編集/松村)
https://www.recordchina.co.jp/b162581-s0-c30-d0127.html


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悪魔の門
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E9%96%80


悪魔の門(あくまのもん、Devil’s Gate)は、ロシアウラジオストクの上方にあるアムール川流域の沿海地方(プリモルスキー地方)で確認されている洞窟である[1]。

この洞窟で、朝鮮民族の祖先にあたるウルチ族(Ulchi)といわれる少数民族の人骨が見つかっている[1]。別称、チェルーヴィーヴォロタ洞窟(Chertovy Vorota Cave、血まみれの門の洞窟)。

1.^ また彼らは、牛乳を消化できない遺伝変異や、高血圧に弱い遺伝子、体臭が少ない遺伝子、耳たぶの薄い遺伝子など、現代の東アジア人の典型的な遺伝特性も持っていた

パク・ジョンファ蔚山科学技術院(UNIST)ゲノム研究所長(生命科学部教授)が率いるイギリス・ロシア・ドイツの国際共同研究チームは1日、「中朝国境・豆満江の北にあるロシア・アムール川流域の悪魔の門で発見された7700年前の人類のゲノムを解読した」と明らかにした[1]。

2017年2月2日の韓国中央日報によると、蔚山科学技術院(UNIST)ゲノム研究所の国際学術誌「Science Advances」で、韓民族(朝鮮民族)は、3〜4万年前に東南アジアから中国東部の海岸を経て極東地方に流れ込み、「北方人となった南方系の狩猟採集民」と、新石器時代が始まった1万年前に同じ経路で入ってきた「南方系の農耕民族」の血が混ざって形成されたと発表した[1]。

今まで人類・考古学界の一部では、民族的な風貌などの共通点から、韓国人はアルタイ山脈に始まり、モンゴルと満州の原野を超えて朝鮮半島に移住した北方民族であると推定されてきたが、現在の進歩した科学界の判断は違っており、2009年、UNISTは国際学術誌「Science」に「朝鮮民族が東南アジアから北東へ移動した南方系の巨大な流れに属している」と発表、今回の発表はこれをさらに具体化したことになる[1]。

悪魔の門の洞窟人

韓国人のルーツといえるDNAが、ロシア・ウラジオストクのアムール川流域にある「悪魔の門の洞窟」で7700年前の20代と40代の女性の頭蓋骨から発見された[2]。ここは韓国の歴史上、かつての高句麗・東夫余(ふよ)・沃沮(よくそ)の地と言われている[2]。

ゲノム研究所がスーパーコンピュータで、この頭蓋骨の遺伝子を解読・分析したところ、悪魔の門の洞窟人は3〜4万年前に現地に定着した南方系人で、韓国人に特徴な茶色い目とシャベル型切歯(shovel-shaped incisor)の遺伝子を持っていることが証明された[注 1][2]。悪魔の門の洞窟人は近くに住む「ウルチ族」の先祖とされており、近くの原住民を除く現代人の中では韓国人がこれと近いことが判明した[2]。

UNISTゲノム研究所のパク・ジョンファ所長は「ミトコンドリアDNAの種類が同じであるということは、母系が同じであるということを意味する[2]。長い時間差を考慮しても2つの人類の遺伝子は非常に近く、悪魔の洞窟人は韓国人の祖先とほぼ同じだと言える」と話している[2]。。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E9%96%80

201. 中川隆[-10509] koaQ7Jey 2019年5月14日 06:40:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1778] 報告

縄文人のすべての遺伝情報を初めて解読 2019年5月13日
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20190513/amp/k10011914561000.html

縄文人の成り立ちを調べたところ、遺伝情報のおよそ10%が現代の日本人に引き継がれているほか、縄文人の祖先は旧石器時代の3万8000年前から1万8000年前に、大陸に住む人たちから分岐したと考えられるということです。

台湾の先住民や韓国人、それに極東ロシアのウルチと呼ばれる人々など、東アジア沿岸の南北に広い範囲の人たちと遺伝的に近いことも分かったとしています。


____

およそ3800年前の縄文人のすべての遺伝情報を初めて解読できたと、国立科学博物館などのグループが発表しました。

瞳が茶色で酒に強いといった体の特徴が推定できるほか、東アジア沿岸の南北に広い範囲の人たちと遺伝的に近いことが分かり、日本人の起源の解明などにつながると期待されます。



遺伝情報を解読したのは、国立科学博物館や国立遺伝学研究所など国内の7つの研究機関で作るグループです。

グループは、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘されたおよそ3800年前の縄文人の女性の臼歯から核DNAを抽出し、最先端の装置を作って詳しく分析しました。

その結果、DNAの保存状態が極めてよく、30億対の塩基配列すべての遺伝情報を解読することができたということです。

この遺伝情報から女性の体の特徴を推定したところ、皮膚の色は濃く、髪は細く巻き毛、瞳は茶色で酒に強いほか、耳垢は湿っていることなどが分かりました。

また、北極圏に住む人に多く見られる、脂肪分が多い食べ物を代謝するのに有利に働く遺伝子の変異も見つかり、狩りや漁を中心とした生活の様子が裏付けられたとしています。

さらに、この女性の遺伝情報をもとに、縄文人の成り立ちを調べたところ、遺伝情報のおよそ10%が現代の日本人に引き継がれているほか、縄文人の祖先は旧石器時代の3万8000年前から1万8000年前に、大陸に住む人たちから分岐したと考えられるということです。

台湾の先住民や韓国人、それに極東ロシアのウルチと呼ばれる人々など、東アジア沿岸の南北に広い範囲の人たちと遺伝的に近いことも分かったとしています。

古代人の遺伝情報の分析は、ここ10年余りで急速に進展し、ほかの縄文人でも研究が進められていますが、グループによりますと、すべてを高い精度で解読したのは世界で初めてだということです。

国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長は「今後、古代人の遺伝子研究が飛躍的に進むと期待できる。遺伝情報を公開して、日本人の起源を解明したり、日本人に多く見られる病気がいつから発症するようになったのかなど、さまざまな研究に役立ててほしい」と話しています。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20190513/amp/k10011914561000.html

202. 中川隆[-10506] koaQ7Jey 2019年5月14日 07:03:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1781] 報告

縄文人の起源、2〜4万年前か 国立科学博物館がゲノム解析 2019/5/13
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/


国立科学博物館の神沢秀明研究員らは13日、縄文人の全ゲノム(遺伝情報)を解析し、縄文人が大陸の集団からわかれた時期が今から約2万〜4万年前とみられることがわかったと発表した。日本人の祖先がどこから来たのかといった謎に迫る貴重なデータとなる。詳細を5月末にも学術誌で発表する。

国立遺伝学研究所や東京大学などと共同で、礼文島(北海道)の船泊遺跡で発掘された縄文人女性の人骨の歯からDNAを取り出して解析した。最先端の解析装置を使い、現代人のゲノム解析と同じ精度でDNA上の配列を特定した。

特定した配列を東アジアで現在暮らす人々の配列と比べた結果、縄文人の祖先となる集団が東アジアの大陸に残った集団からわかれた時期が約3万8000年前から1万8000年前であることがわかった。

縄文人は日本列島に約1万6000年前から3000年前まで暮らしていたと考えられている。3000年前以降は大陸から新たに弥生人が渡来し、日本列島に住む人々の多くで縄文人と弥生人以降のゲノムが交わったことがこれまで知られていた。

今回の解析では、国内の地域ごとに縄文人から現代人に受け継がれたゲノムの割合が大きく異なることもわかった。

東京でサンプルを取った本州の人々では縄文人のゲノムを約10%受け継ぐ一方、北海道のアイヌの人たちでは割合が約7割、沖縄県の人たちで約3割だった。

ゲノム情報からは船泊遺跡で発掘された女性がアルコールに強い体質であったことや、脂肪を代謝しにくくなる遺伝子の変異を持っていたことなどもわかった。現代人の様々な疾患について、今回の縄文人のゲノムから説明できる可能性があるという。

古代の人類のゲノムを解析する試みは欧米を中心にネアンデルタール人などで進んできた。縄文人の全ゲノムが読まれたことで、アフリカで生まれた人類集団がどのように東アジアの各地に広がったか研究の進展が期待される。

今後、研究チームはさらにデータの解析を進める。配列を公開して海外の研究機関との共同研究も検討していく。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO44722870T10C19A5CR8000/


 




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コメント


1. 中川隆[-10508] koaQ7Jey 2019年5月14日 06:59:56: b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1779] 報告
▲△▽▼

縄文人の遺伝子は肉食向き ゲノム解析で狩猟生活裏付け 2019.5.13
https://www.sankei.com/life/news/190513/lif1905130030-n1.html

ゲノム解析に基づき復元された縄文女性の顔の像

 縄文人は現代の日本人と比べ肉や魚を消化しやすい遺伝子を持ち、遺伝的な多様性は低いことがゲノム(全遺伝情報)の解析で分かった。国立科学博物館などの研究チームが13日、発表した。縄文人が狩猟や漁労を中心に小集団で生活していたことが遺伝情報からも裏付けられた。

 チームは北海道・礼文島の船泊遺跡で出土した3500〜3800年前の縄文女性の歯から採取したDNAを分析。その結果、肉など高脂肪食の消化を効率的に助けるタンパク質を作るよう遺伝子が変異していることが分かった。アザラシなど肉食が中心の北極圏のエスキモーに多くみられる現象で、現代の日本人にはみられないという。

 また、ゲノムの多様性が低い状態が旧石器時代から約5万年にわたり続いていたことも判明。小集団で生活していたことを示すもので、獲物を求め移動を繰り返す縄文人の生活を反映しているらしい。

 このほか日本人全体ではゲノムの10%、アイヌ民族ではゲノムの70%が縄文人に由来することが分かった。また、縄文人は1万8000年〜3万8000年前に大陸民族から遺伝的に分かれたことも判明した。

 国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長は「縄文人の特性がかなり分かってきた。今後は日本人の成り立ちとの関わりも解き明かしたい」と話している。

 この縄文女性は40〜50歳代で身長140センチ台、瞳は茶色で毛髪が細く縮れアルコールに強かったことなどが既に判明している。チームは昨年、顔の像を復元し、さらに詳しく調べていた。
https://www.sankei.com/life/news/190513/lif1905130030-n1.html


▲△▽▼


人類史「ゲノムでわかる時代に」
縄文人の姿遺伝子で再現 2018/12/14
https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/feature/CO036740/20181221-OYTAT50007/

 年間企画「平成時代〜DNAの30年」最終部となる第4部は、遺伝子研究で活躍する各分野の専門家にその最前線や将来像などを聞く。初回は、古代人の骨に残されたDNAから人類史を解き明かす神澤秀明・国立科学博物館人類研究部研究員(33)だ。

「船泊のDNA解析がうまくいったのは、根気と『骨運』が良かったおかげ」と話す神澤さん(茨城県つくば市で)「船泊のDNA解析がうまくいったのは、根気と『骨運』が良かったおかげ」と話す神澤さん(茨城県つくば市で)


 東京・上野の国立科学博物館で、今年3月に公開された約3800年前の縄文人女性の顔(粘土像)は、少し風変わりだった。

 茶色い目。シミの目立つ、濃い色の肌。細く縮れた髪の毛。まるで見てきたようなこれらの特徴はすべて、昨年解読された縄文人女性の遺伝子データを基にした、国内初の復顔だった。

 「血液型はA型で、耳あかは湿り気があり、もしお酒があるなら強い女性だった。ここまで突き止められたことには自分も驚いた」

 女性は1998年、日本列島の北端にある礼文れぶん島(北海道礼文町)の船泊ふなどまり遺跡で骨が発掘された。骨の形などから高齢の女性とまでは推定され、その後は札幌医科大で長く保管されていた。


 ■□■


 2000年代後半、遺伝子を高速で読み取る装置「次世代シーケンサー」が普及し、ごく微量のDNAも解析可能になった。ただDNAは歳月を経ると分解するため、古代人の骨から採れる保証はない。

 「特に日本のような高温多湿な環境では分解しやすい。船泊は日本列島にある遺跡の中で最も寒く、DNAが残りやすいと目を付けた」。3年前に研究に着手。下あごの骨から抜いた臼歯の中を丁寧に削った試料を使って、試行錯誤を重ねながら解析した。

 その結果、現代人とほぼ同じ高い精度で、全遺伝情報(ゲノム)の99%を解読することに成功した。世界でもトップクラスの成果だ。

 この女性に特有の遺伝子の変異を調べると、脂肪をあまり代謝しない体質とわかった。現代では脂肪からエネルギーを採れないと低血糖などの病気になりかねない体質だが、脂肪が多いアシカなどを狩猟していた船泊の縄文人は、極端な高脂肪食でも健康を保てるように適応した可能性が高いという。

 「これまで想像するしかなかった祖先の本来の姿に加えて、どのような能力を持ち、どのような生活を送っていたのかまで、ゲノムでわかる時代になった」


 ■□■


 生物の高校教師を目指して大学に進んだ。4年生だった08年、古代人のDNA解析を紹介する1冊の入門書に出会う。

 「日本人の起源を自分で解明できたら面白い。人類の歴史にDNAから切り込める可能性に、魅力を感じた」。大学院に進み、古代のDNA解析が先行する海外の論文を読んで手法を学びながら技量を磨いた。

 DNA解析の進歩で、何人ぐらいの集団で暮らしていたのか、どこの地域から渡ってきたのかもわかるようになったという。だが大陸から離れた列島に暮らす日本人のルーツにたどり着くには、日本に残っているDNAだけでは不十分だ。

 「東アジアに広げて解析すれば、稲作などの文化がどのように伝わってきたのかも見えるだろう」。古代史の扉を開く夢は、まだ始まったばかりだ。


 ◇古代人解析から新種発見


 古代人のDNA解析は、2010年に目覚ましい成果が相次いだ。ドイツなどの研究チームは絶滅した旧人・ネアンデルタール人のDNA情報を公開し、現生人類と混血していることを示した。アフリカから6万年前には移動を始めたとされる我々の祖先との間に、子どもを作っていたことになる。

 南シベリアのデニソワ洞穴で見つかった3万〜5万年前の指などの骨は、新種の旧人と判明。全身骨格はなく、DNA解析で“発見”された初の人類で「デニソワ人」と命名された。現在のパプアニューギニアなどに住む人にDNAの一部が残っており、東アジア全体で暮らしていたらしい。

 日本でも三貫地さんがんじ貝塚(福島県)、伊川津いかわづ貝塚(愛知県)などから出た縄文人の骨の解析が進んでいる。


 ◇言語に関わる発見楽しみ


 アフリカで誕生したとされる人類は猿人、原人、旧人を経て現生人類(新人)になったと、学校で習った記憶がある。現生人類以外の人類は絶滅したが、DNA解析で判明した旧人と現生人類との混血は、現生人類の進化が複雑だったことを示している。絶滅した古代人類の能力を、私たちはDNAを通じて手に入れた可能性もある。

 言語の習得に必要とされる遺伝子のルーツが解明されれば、人類がいつどこで言語を獲得したのか、わかるかもしれないという。どんな新発見が広がるか、楽しみだ。(冬木晶)
https://www.yomiuri.co.jp/local/kansai/feature/CO036740/20181221-OYTAT50007/

203. 中川隆[-10474] koaQ7Jey 2019年5月14日 12:01:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1815] 報告

韓国人とベトナム・台湾人の遺伝的祖先はほぼ同じ 2017-02-03
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/26416.html

UNISTなどロシア極東地方の7700年前の古代人の骨、ゲノム分析
 
南方系アジア人、北方系の代替の代わりに融合し遺伝性を持続 
「征服などで古代人遺伝の痕跡が消えた西ユーラシアとは異なる」

ロシア極東の「悪魔の門洞窟」で発見された7700年前の古代人遺骨=蔚山科学技術院提供//ハンギョレ新聞社

 現代韓国人は、ベトナム・台湾など南方とロシア極東地方に住んでいた北方の古代人の遺伝の特性をいずれも受け継いでいることが明らかになった。

 蔚山(ウルサン)科学技術院(UNIST)ゲノム研究所は1日、「イギリス、ロシア、ドイツなどの研究チームと共同で、豆満江(トゥマンガン)上部のロシア極東地方の『悪魔の門洞窟』(Devil's Gate Cave)で発見された7700年前の人間の骨のゲノムを分析した結果、韓国人を含む現代東アジア人は先祖の遺伝的痕跡を持ち続けてきたことが分かった」と明らかにした。

 研究チームの論文はオンライン科学ジャーナル「サイエンス・アドバンシス」2日付(現地時間)に掲載された。悪魔の門洞窟は1973年、高句麗・東扶余・沃沮が位置した場所で発掘され、そこで新石器時代の人間と判明された何躯かの骨が発掘された。研究チームが悪魔の門洞窟人と現存するアジアの数十の民族(ethnic groups)のゲノムの変異を比較してみたところ、洞窟人とベトナムおよび台湾で孤立していた原住民のゲノムを融合した時、現代韓国人の遺伝変異が最もよく表現された。つまり韓国人の遺伝的祖先はベトナム・台湾など南方の古代人と北方の古代人にいずれも接しているということだ。

 ゲノム研究所のパク・ジョンファ所長(生命科学部教授)は「現代西ユーラシア人は、ここ数千年間の多くの人口移動、征服、戦争などで古代狩猟採取人の遺伝的痕跡はほとんど消えた。一方、東アジア現代人は祖先の遺伝的遺産を受け継いだことが明らかになった」と話した。悪魔の門洞窟人は韓国人のように褐色の瞳とシャベル状の前歯を持ち、牛乳をよく消化できず、高血圧に弱く、体臭が少ない遺伝子であるなど、現代東アジア人の典型的な遺伝特性を持っている。東アジア人は遺伝的に「単一民族」であるということだ。

 パク教授は「数万年前に東アジアの狩猟採取人はロシア北方まで進出し、アジア全域に広がって北方系を形成した。そして1万年余り前、南中国系の人々が本格的な農耕社会を構成し、急速に膨張した。しかし、西ユーラシアとは異なり南方系が北方系を代替せず、二つの系列が混合を遂げた。南方系の拡散が北方系より遥かに大きく、現代人の遺伝特性には南方系の影響が大きく現れる」と説明した。

 悪魔の門洞窟人は、近くに住む現代のウルチ族と遺伝的に最も近く、彼らの先祖であると推定されるが、これらの原住民を除外すれば現代人の中で韓国人がこの洞窟人と一番近いゲノムを有するものと分析された。研究を主導したチョン・ソンウォン研究員は「悪魔の門洞窟人のミトコンドリアゲノムの種類が韓国人とほぼ同じであり、洞窟人は韓国人の先祖とほぼ同じだといえる」と話した。ミトコンドリア遺伝子は母親から子に母系血統を通じてのみ伝達され、祖先を追跡するのに役立つ。

イ・グンヨン、オ・チョルウ先任記者(お問い合わせ japan@hani.co.kr )
http://japan.hani.co.kr/arti/culture/26416.html

204. 中川隆[-10461] koaQ7Jey 2019年5月14日 17:56:09 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1830] 報告

平成31年5月13日 独立行政法人 国立科学博物館
高精度縄文人ゲノム の概要
http://www.kahaku.go.jp/procedure/press/pdf/150678.pdf
205. 中川隆[-10285] koaQ7Jey 2019年5月20日 18:35:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2051] 報告

新嘗祭のルーツ

諏訪春雄通信 854回 (2019年5月6日更新)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub50.html

X 奄美の祭祀に見る女性と男性

動かぬ神・動く神に対応するお練りと神アシャギ

沖縄・奄美の行事には踊り手が移動するお練りと祭場を固定する神アシャギの二形態がある。奄美のショッチョガマでも、以前は、前の晩に青年男女が日暮れを待ち、仮装して、太鼓を打ち、三味線を弾いて歌を掛合い、八月踊りをして家々を回るケブリ(家)踊りと称するお練りが夜を徹して行なわれたという。(『おきなわの祭り』)

なぜ祭りの行事に二形態があるのか。神が動かぬ段階では、人間のほうが神の鎮まる聖所を拝んで廻った。お練りの起源である。神のほうで動く段階が到来したときに、人間のほうで祭場を用意して神々の来訪を待ち受けた。神アシャギの起源である。

ショッチョガマ・平瀬マンカイから見えてくるもの

@ 渡瀬ラインで区切られる日本列島の北部温帯地方と対比される南部の亜熱帯地方の民俗行事の本質。

A 大陸の行事を継承した旧暦七月の盆行事とは異なる西域起源の八月正月の豊作祈願と合体した祖霊祭祀の実態。

B あらゆる他界観念の基層にある海への信仰。

C 漁業と農業という二大生業の融合した各種行事。

D オナリ神信仰に代表される女性中心社会から男性優位社会へと推移する過渡期の様相。

E 動かぬ神から動く神へという信仰の変化の実相。

以上の六点を通して、本土日本ではすでに失われた民俗信仰と行事の存在が実感される。

東北大災害の復興を通して明らかになった《祭りや芸能が地域を団結させる》ということ、余った時間と経済力で祭りや芸能を演じるのではなく、祭りや芸能が地域を活性化させ、生活の余力を生むのだという事実が、現在の沖縄・奄美の祭りや芸能からもはっきりみてとれる。


 Y 日本の女帝


邪馬台国 卑弥呼

倭人は帯方の東南大海の中にあり。山島に依りて国邑をなす旧百余国漢の時朝見する者あり。今使訳通ずる所三十国郡より倭に至るには海岸に循って水行し、韓国をへて、あるいは南し、東し、その北岸狗邪韓国に至る七千余里。

その国、本また男子を以て王となり住まること七、八十年。倭国乱れ相攻伐すること歴年乃ち共に一女子を立てて王となす。名付けて卑弥呼という。鬼道に事え能く衆を惑わす。年すでに長大なるも夫婿なく男弟あり。佐けて国を治む王となりしより以来見るある者少なく婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり。飲食を給し辞を伝え居処に出入す。宮室楼観城柵厳かに設け常に人有りて兵を持して守衛す。(「魏志倭人伝」)

邪馬台国の卑弥呼は中国で三世紀ごろに編纂された歴史書『三国志』のなかの『魏志倭人伝』の上掲の記事による。しかし、その史実については議論があり、なかにはその存在自体を疑う説すらある。

たとえば、田中英道氏は『邪馬台国は存在しなかった』(勉誠出版、2019年)で、

邪馬台国も卑弥呼も『魏志倭人伝』以外に記録がない、

邪馬台国も卑弥呼も蔑称である、

『魏志倭人伝』は伝聞をもとに構成された物語である、

日本に卑弥呼を祀った神社が存在しない、ただ一つ存在する神社は昭和57年に建立された、

などの多くの理由をあげて、存在否定論を展開している。

 たしかに、『魏志倭人伝』の記述通りの固有名詞を持つ国や女王が存在したか、どうかには疑問がのこるが、このような国の制度があったことは信じられる。

 日本の女帝とヒメ・ヒコ制 
 

日本の古代に姉妹と兄弟が祭事と政治を分担する統治形態ヒメ・ヒコ制が存在した。地名∔ヒメと地名∔ヒコの名の男女が分担する。

『古事記』・『日本書紀』・『風土記』などには宇佐地方(豊国)にウサツヒコとウサツヒメ、阿蘇地方にアソツヒコとアソツヒメ、加佐地方(丹後国)にカサヒコとカサヒメ、伊賀国にイガツヒメとイガツヒコ、芸都(きつ)地方(常陸国)にキツビコとキツビメがいたことを伝えている。また『播磨国風土記』では各地でヒメ神とヒコ神が一対で統治したことを伝えている。

その史実を反映して、日本の各地に百社近くヒメ・ヒコで一対となる神社がのこされている。これらをすべて虚構と片付けることはできない。

 


このヒメ・ヒコ制の根底には東南アジアから東アジア一帯に広まる姉妹の霊性が兄弟を守護するオナリ神信仰がある。

沖縄にオ(ヲ)ナリ神とよばれる、兄弟を主語する姉妹の霊力に対する信仰がある。はやく伊波普猷(いはふゆう)が『をなり神の島』(楽浪書院一九三八年)で、柳田国男が『妹の力』(創元社、一九四〇年)で論じた問題であった。

オナリは、奄美、沖縄、宮古、八重山の諸地域で、兄弟から姉妹をさすことばである。姉妹から兄弟をさすときはエケリという。

オナリ神は呪詛にも力を発揮するが、多くは兄弟が危機に陥ったときに守護してくれる。航海や戦争に出発の際、姉妹は守護のしるしとして、手ぬぐいや毛髪を持たせ、兄弟が危機に陥ったときに、姉妹の霊は白鳥になって現地に飛ぶという。

姉妹は兄弟に対して霊力で守護し、他方、兄弟は姉妹に対し、日常生活で守護の役割を果たす。しかも、家族のレベルを超えたさまざまな上位の祭祀集団にもこの関係をみることができる。根神(ニーガミ)と根人(ニーッチュ)、ノロと按司(アジ)などとよばれる地域の信仰関係、聞得大君(きこえおおきみ)と王などの王権の信仰関係である。

この信仰の源流については、東南アジアに求める説が有力である。オナリ神を最初に学問の課題として体系化した柳田国男は、オナリ神の源流を日本の外に求めることはしなかったのであるが、柳田の影響下に、戦後、この問題に取り組んだ社会人類学者の馬淵東一は、東南アジアとの関係を強調した。(「沖縄先島のオナリ神」『日本民俗学』一九五五年)

さらに、馬淵の教え子の社会人類学者の鍵谷明子氏は長期のインドネシア調査を続け、その成果を『インドネシアの魔女』(学生社、一九九六年)としてまとめた。鍵谷氏は、インドネシアの小スンバ列島のなかのサブ島、ライジュア島という二つの島を二十年近く毎年訪れ、沖縄のオナリ神信仰と一致する信仰を発見した。この二つの島では、兄弟が遠い旅に出るとき、必ず姉妹に知らせ、姉妹はイカットとよばれる手織りのかすりの布を贈る。このイカットには、兄弟を守る強力な霊力があると信じられている。

馬淵・鍵谷両氏の研究によって、オナリ神信仰の源流は、確定したように思われていた。


しかし、と私は考える。日本の古代神話でも、イザナギ・イザナミの国生み神話、天地分離神話、海幸彦・山幸彦神話などの王権神話の重要なものが、東南アジア起源として説明されていたが、私は、二〇〇五年に角川書店から刊行した『角川選書 日本王権神話と中国南方神話』で、これらの神話の原型が中国長江流域の少数民族神話にあることを、多くの実例をあげて明らかにした。同じことが、オナリ神についてもいえるのではないか。

東南アジアに、日本の神話や習俗と類似するものがのこっているのは、多くの場合、中国大陸から左右対称にせり出していったものの、末端残留現象として説明できるのである。

オナリ神信仰をアジア起源とすると、説明のつかないことがある。

沖縄のオナリ神信仰と相似の信仰が本土日本のヒメ・ヒコ制である。もしオナリ神が東南アジア起源なら、本土のヒメ・ヒコ制も東南アジア起源となるのであろうか。

ヒメ・ヒコ制は、すでに説明したように、兄弟と姉妹が政治と神事を分担する統治の形態である。一般に、「地名+ヒメ」と「地名+ヒコ」の名を持つ男女が、一対となって、その地域を支配する原始的な王権のあり方であった。具体例は、『日本書紀』神武天皇即位前紀のウサの国の祖先ウサツヒコとウサツヒメを始め、日本の古代にかなりの数拾い出すことができる。その原型は、卑弥呼とその弟の関係にまでたどり着くことができる。あきらかにオナリ神信仰に一致する。

ヒメ・ヒコ制は女性の霊力に対する信仰である。このような信仰は、中国南部に過去もいまも広がって存在する。

女性が霊力を持つと信じられる理由の一つは、神がかりによる特殊な予知能力を身につけているからである。憑霊型の女性シャーマンである。日本の古代の女王であった卑弥呼、壱与、神功皇后、飯豊女王の四名ともにあきらかに憑霊型の女性シャーマンであった。長江流域には、神が巫女の身体に宿るシャーマニズムの憑霊型が盛んであり、日本の古代の巫女の女王の源流は、長江流域に存在する可能性が考えられるのである。

このようにのべてくれば、邪馬台国や卑弥呼が単なる中国歴史書の著者が創りあげた架空の物語などでないことは明らかである。古代日本に実在した国家制度の正確な記述である。
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諏訪春雄通信 855回 (2019年5月13日更新) 
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Y 日本の女帝


倭人=越人の習俗

「倭人伝」とあるように、邪馬台国は倭人が創った国であった。倭人の故郷は長江流域である。倭人はまた越人(えつじん)とよばれたこともあり、さまざまなきっかけで朝鮮半島南部、日本、台湾、ベトナムなどに、居住地域を広げていった。

従って、彼らの習俗や信仰は長江流域から、彼らが伝えたものと断定することができる。『魏志倭人伝』が記す邪馬台国の倭人の習俗は、魚を獲る生活、すぐれた航海術、刺青(いれずみ)、断髪、蛇や竜に対する信仰、貫頭(かんとう)衣(い)(すっぽりかぶり頭だけ出す袋型の衣装)、歌垣(うたがき)や妻問い婚、一夫多妻制などであった。これらはすべて、長江流域に広がって住み、古代越人の子孫といわれる少数民族社会に、かつて存在したか、現在も見ることのできる習俗である。

長江南部の女性巫女

ヒメ・ヒコ制は女性の霊力に対する信仰である。このような信仰は、中国南部に過去もいまも広がって存在する。

女性が霊力を持つと信じられる理由の一つは、神がかりによる特殊な予知能力を身につけているからである。憑霊型の女性シャーマンである。日本の古代の女王であった卑弥呼、壱与(いよ)、神功皇后、飯豊(いいとよ)女王の四名ともにあきらかに憑霊型の女性シャーマンであった。長江流域には、神が巫女の身体に宿るシャーマニズムの憑霊型が盛んであり、日本の古代の巫女の女王の源流は、長江流域に存在する可能性が強い。

神功皇后  『古事記』『日本書紀』

一例として神功皇后をみる。

『古事記』仲哀天皇の箇所に次のようにある。

皇后の息長帯日売命(おきながたらしひめのみこと)は、昔、仲哀天皇が西国巡幸なさった時に神がかりをなさった。天皇が筑紫の香椎の宮においでになって熊襲を討とうとなさった時、天皇は神を招き寄せるためにお琴をお弾きになり、武内宿禰大臣は神託を受ける庭にいて、神のお告げを求めた。すると皇后が神がかりして神の言葉を告げられた。

また『日本書紀』仲哀天皇八年九月には

 天皇熊襲征討を群臣に相談された時に神が皇后に乗りうつって神託がある。

とあり、同書神宮皇后摂政前紀九年三月には

 皇后神主となり、武内宿禰に琴を弾かせ、中臣烏賊津使臣(なかとみのいかつのおみ)を審神者(さにわ)にして、神の声を聴く。

とあり、同書神宮皇后摂政前紀九年十二月一書には

 皇后、琴を弾き、神がかりして託宣する。

と記述されている。これらの記事によると、神功皇后は自ら神がかりして託宣を告げるシャーマンである。しかし、『日本書紀』神功皇后摂政前紀九年三月には「神主」とあって祭司でもあった。祭司とシャーマンの区別のなかったことがあきらかである。

稲作民族の女神信仰

チワン族の神話では、人類を生んだ母神は洛甲(らくこう)とよばれる母神である。布洛陀(ふらくだ)とよばれる男神と結婚し、分業して地と天を創った。

リー族では、大地の神を女神(地母)とみなし、毎年の田のすき返しの際に、細心の注意を払って地母を祀っている。また稲魂は稲(とうこう)と稲母(とうぼ)とよばれる夫婦神である。シャーマンには、道公(どうこう)、娘母(ろうぼ)、老人という三種のよび方があり、娘母は女巫のほかに男巫をもこの名でよんでいる。長江流域の男巫が女装する例が多いこととともに、稲作地帯のシャーマニズムが本来は女性の役割であったことに関わる現象である。

トウチャ族では、むかし、混沌から天地を造成したのは、張古佬(ちょうころう)、李古佬(りころう)という二柱の神であった。しかし、この神々も人間を創ることはできず、人間を創ったのは衣羅娘娘(いらろうろう)という女神であった。五穀の神は五穀娘娘とよばれる女神で、五穀を天上からもたらし、農耕を人間に教えた神であった。巫師たちは自分たちを「梯瑪(ていま)」とよぶ。馬死族の神女という意味で、馬は彼らのトーテム(信仰対象)である。

イ族は、収穫後の陰暦十月上旬に、大地の神である地母を祀る地母祭を行なう。地母は大地とイ族の人々、とくに女性の健康を管理している。地母祭は女性の祭りであって、男性が参加することは許されない。参加する女性たちは、三日まえから身を浄める潔斎に入り、男性と別居し、沐浴して祭りを行なう。

また、長江流域でシャーマンの主体を占めていたのは女性であり、男性が関与するようになっても、名称に女性の名を残したり、女装したりする。

中国南部の女性霊力の信仰としてとくに注目されるのが媽姐(まそ)信仰である。媽姐は海上の神、航海の女神であり、その信仰は、中国東海沿岸に始まって、台湾、シンガポール、インドネシア、沖縄にまで広がっている。

媽姐信仰は沖縄のオナリ神信仰とよく似ている。航海に出る男性への女性霊力の加護などの点では相互の交流も推定されるが、オナリ神信仰ほど古く遡ることはできない。十世紀後半に福建省に実在していた巫女の伝承が膨らんだものといわれている。

媽姐信仰自体は新しいが、このような女神信仰の誕生した背景には、中国南部から東海沿岸にかけて広く流布していた航海女神信仰の存在があった。いずれも、航海の安全や豊漁の女神であることに共通性がある。次のような神々である。(川村湊『補陀落』作品社、二〇〇三年)

 

日本  神功皇后 ハナゲ観音 宗像(むなかた)三神 沖ノ島女神 マリア観音 白山比(はくさんひめ) 

韓国  ヨンドン・ハルモニ パリ公主 

中国  媽姐

大嘗祭の本質

大嘗祭の構成は大きく次の二部から成立する。 

A 大嘗宮での新天皇の儀礼 B 宮中での天皇と群臣の饗宴 

Aは女神アマテラスの霊を身につけ、地方の女神を支配する儀礼である。

新天皇の廻立殿の湯浴み、悠紀殿の聖餐・就寝、廻立殿に戻り、主基殿で、悠紀殿と同じことを行う。

湯浴み(禊ぎ)と聖餐(共食)は通常の祭りに同じ。

就寝については以下の四つの説がこれまでに提出されている。

1 亡き先帝と新帝との共寝 折口信夫・堀岡文吉

2 新帝と采女との聖婚 岡田精司

3 死者を葬る喪屋 谷川健一

4 新生児のための産屋 折口信夫・西郷信綱

Bは男性の俗権力の継承である。 

悠紀(東方)・主基(西方)両殿は日本国の象徴であり、全体として南方原理が核心をなし外枠は北方原理で包む儀礼が大嘗祭である。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub59.html

諏訪春雄通信 856回 (2019年5月20日更新)
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub62.html

 Y 日本の女帝



ハニ族新嘗祭フォシージャー 



日本の新嘗祭、大嘗祭に類似する太陽、稲魂が結合した祖霊の祭祀は中国南部の少数民族社会に行なわれている。私の調査した具体例をあげる。まず、ハニ族である。この祭りは次のような特色を備えている。



1 家の祭である。

新嘗の時には家族全員で新穀を食べる。その際、客を招かず、家族以外の人には食べさせない例が多い。また新穀を収めた穀倉は他人に見せようとはしない。



2 女性が主宰する祭である。

 調査した60余の村の内、11の村が「新嘗」は女性家長が主宰すると答えた。男性が主宰すると答えた村は2例であった。



3 新嘗儀礼の中心にあるのは穀霊(稲魂)信仰である。

田畑にいる穀霊を家の中に迎え入れ祖先棚あるいは穀物蔵で休息してもらう。新穀を祖霊、穀霊および天神に供え共食する。新穀を食することは穀霊を食べることに他ならないという観念が今日も残されている。



4 穀霊信仰と祖霊信仰とが結合している。

田畑から迎え入れられた穀霊は祖先棚に安置される。この祖先棚の移動や新設は新嘗の日に行わなければならない。



5 穀霊を保護しているのは聖樹である。

穀霊信仰と聖樹崇拝とは結合している。

 

ハニ族最大の祭は、田植前に行なわれる聖樹祭(アマトゥ)である。稲魂を庇護する天神が聖樹を伝わって降臨すると考えられている。聖樹は村建ての時、村のセンターとして選ばれるものであるが、西双版納(シーサバンナ)では各家で聖樹をもつ村があった。

次はトン族である。



トン族の神嘗祭ジィ・ササセ(聖母祭)



三年ごとの正月一日に小さな祭り、五年ごとの正月一日に大祭がある。聖母は先祖の女神薩歳であり、稲、太陽と三位一体。日本のアマテラスに一致する。儀礼は次のような順序で展開する。



⓵ 聖母を迎える儀礼。

巫師の家の天井裏の祭壇に祀られる聖母の前で祭り開催の許しを乞い、降臨した神霊を鳥竿に載せて村人の待つ広場に移す。聖母のご神体は古傘。



⓶ 聖母と村人の合体。

広場の祭壇に稲束、魚、酒が供えられていて、顔を黒布で覆った八人の男性が巫師の祈祷で神がかりとなって稲束をむさぼり食べる。



B ガ・ゲン。 芦笙舞(ろしょうまい)。

長老を先頭に男性若者が歌舞を演じる。



C ドゥーエィ。男女掛合の歌舞。



この祭りの基本構造は、太陽神、稲魂、女神の三位一体の祖先神を迎え、神と子孫が一体となって稲を共食し、賛美と感謝の歌舞ののち、神を送り返すことにある。


Z 女性演技





アジアの女巫芸能



越南(ベトナム)河内安腐12号の安寿廟。ここで演じられた母道とよばれるシャーマン儀礼である。母道は主役の女性が神前で多様な役柄を演じる。女性はもちろん、男性にも扮する。そのために各種の小道具、武具の類がおいてある。変身は布のなかで介添えが手伝って行われる。神前に用意された幾通りもの衣装を着替え、依りつくものの種類と性格を踊りと演技で表現する。それにつれて男性たちの演奏する音楽も変化する。一つの役が終わるとタバコを吸ってトランスを表現して変身する。



母道はベトナムの祖先神了幸母神を信仰する巫女集団をさしたが、のちに芸能化した。神前で衣装も着替え、歴史上の人物、老若男女の各種の役を、演じてゆく。その演技と舞踊は洗練されていて、人気のスターには追っかけもつく。複数の女性が出演し、休憩時間には菓子も場内に配られる。


この地には、ベトナム人がふかく信仰している女神了幸(柳杏とも記す)聖母の生まれ故郷で、墓がある。歴史上の実在とされる一方、中国道教の最高神玉帝の恋人とも娘とも信じられている。民族の祖先の女神でしかも歴史上の実在とも信じられている点は、日本の皇室の祖先神アマテラスとも通じる。母道は了幸聖母を信仰する巫女の祭祀芸能である。しかし、芸能化が進み世間的に成功した女性が、経費を自分で負担し、神社に奉納する。神がかりすることもないし、神のことばを伝えるえることもない。祭祀の形はとっても、彼女は俳優でもあり、スターでもある。一番の役が終ると頭から布をかぶって変身の過程に入る。狭い幽暗の場所に籠ってての再生である。身体に新しい神がやどり、彼女はその神になりきる。しかし、トランスに入っているわけではなく、すべては意識的に整序されている。



ハノイ市内で見学したベトナムの伝統演劇「嘲戯」。洗練された所作、歌舞、せりふで、時代の政治権力や腐敗した宗教権威などを痛烈に風刺する。使用されている言語は現代ベトナム語にかなり近いという。女性中心の構成で男性はもっぱら道化役でやりこめられる。市内のホテルの一室のようなせまい場所で演じられ、観客席は日本の能舞台と同じく三方から舞台をかこんでいた。楽器は、大太鼓、小太鼓、笛、銅鑼、弦楽器など。演技を終えた役者が楽屋に引っ込むことなく、舞台奥に並んで座って、合唱に加わり、次の出番を待つのも、日本の能舞台に似ている。シャーマニズムの祭祀儀礼から演劇が誕生・進化したという観点に立つと、この演出法は、中国各地やベトナムで見た、神仏(トランス、仮面)、サニワ、音楽、介添えなどの各役を巫師が交代でつとめる儀礼形態に従っていた。



ベトナムとの国境の町、広西チワン族自治区の南山村のチワン族の女巫李鳳招(当時44歳)。チワン語でメバ(女仙)とよばれる。3年の巫病にかかって、巫となる。妹がサニワで、よりつく神は男女さまざまであるが、神名は不明という。商売人たちがベトナムの国境を越える私的なルートがあり、彼女は、かなり自由にベトナムに入って、巫業を行なっている。鈴を鳴らし、弦を弾くうちに神がかりし、鈴を振りながら踊りだした。音楽が、神をまねく依代の一種であることを実感させられた。音にのって神は出現する。



浙江省奉化市桐照郷尹家村の巫女。共産政権下、巫は迷信として存在しないはずであるが、事実は、民衆に浸透して大きな影響力をふるっている。人口300人のこの村には、僮聖とよぶ男巫が一名、巫婆とよぶ女巫が11名もいた。その一人、もっとも評判の高い巫婆が写真の程桃意41歳。結婚して子どもが2名いる。29歳で神の招きの巫病にかかり、全身脱毛し食事も喉を通らない苦しみを体験して、33歳で巫女となった。巫女となってから7年あまりのあいだに5万人もの信者が、病の治療、占いなどに訪れたという。彼女は信者の願いを9割がた満足させ、活き神仙、活き菩薩と呼ばれた。多くの巫女は、タバコ、または線香の煙を吸ってトランスに入るが、彼女の場合、口のなかで「神よ、わが身に宿り給え」ととなえるだけで、あくびをしはじめ、蒼白となって憑依状態になる。託宣は、直接、彼女の口から告げられるが、紙に詩や文字を書いて伝えられることもある。神が去るときもグオゥと奇声を発してあくびをする。



湖南省麻陽苗族自治県の苗族女シャーマン 

 私の友人のトン族の民俗学者林河氏が占ってもらう。その後私も占ってもらったが勝手がちがったらしく的中率は3割くらい。

 覆面を脱いで占いの結果をのべる。
http://home.s00.itscom.net/haruo/sub62.html

206. 中川隆[-9634] koaQ7Jey 2019年6月13日 06:07:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2829] 報告

古代の土器作りは女性の仕事? 指紋から意外な事実
1000年前の土器985片に残る指紋を調査、北米の古代プエブロ文化 2019.06.07
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/060600334/


米ニューメキシコ州プエブロ・ボニートで発掘された650室に仕切られた遺跡。ここは、西暦800〜1200年に栄えたチャコ・キャニオン社会の中心地だった。(PHOTOGRAPH BY PHIL SCHERMEISTER, NAT GEO IMAGE COLLECTION)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/060600334/?SS=imgview&FD=-787263934

 アメリカ古代文化の中心地で発掘された土器を改めて分析したところ、「土器製作は女性の仕事」とされてきたこれまでの常識を覆す結果が得られた。6月3日付けで学術誌「米国科学アカデミー紀要(PNAS)」に発表された。

 米ニューメキシコ州北西部に位置するチャコ・キャニオンは、西暦800〜1200年頃、重要な文化と宗教の中心地だった。ここに住んでいた古代プエブロ人は、粘土を太い縄のようにして、らせん状にぐるぐると巻いて器の形にする「波状文様土器」を作っていた。

 1000年前、こうした土器は女性が作っていたと一般的に考えられていた。というのも、もっと現代に近いチャコ・キャニオンでも、土器製作は主に女性の役割だったためだ。

「現代のプエブロ女性たちは土器を作り、その作り方を娘たちに伝えてきました。ですから、はるか昔の祖先もそうだったのだろうと思い込んでいました」。論文を執筆した米ノースフロリダ大学のジョン・カントナー氏は、そう語る。「けれど、実際には誰が作っていたかを直接見ることはできませんから、考古学者たちも腑に落ちずにいたのです」(参考記事:「古代プエブロに母系支配者、「世襲」の起源に光」)

 波状文様の土器は、親指と人差し指で粘土と粘土を挟んで貼り合わせていたので、粘土には製作者の指紋が残されている。これらの指紋を分析すれば、製作者の性別がわからないだろうか。


https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/060600334/?SS=imgview&FD=1420927604
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/060600334/?SS=imgview&FD=1421851125
研究者らは、土器に残っていた指紋の隆線の幅を計測した。男性の隆線は、一般的に女性のものよりも幅が広い。(PHOTOGRAPH BY JOHN KANTNER)

 論文共著者で、カントナー氏の教え子だったデビッド・マッキニー氏は、そう質問した。マッキニー氏は当時、警察署で働いていた。そこでカントナー氏は、男女の指紋の違いを調べるため、法科学捜査に乗り出した。指紋の隆線が男性の場合は女性よりも9%太いという過去の研究結果を用いて、チャコ・キャニオンのブルーJという発掘現場で出土した985個の土器の欠片を分析した。(参考記事:「真犯人を追う 科学捜査」)

 その結果、47%の欠片に残されていた指紋の隆線の幅が、平均して0.53ミリで男性のものと分類され、40%が平均して0.41ミリで女性または子どものものと分類された。残りの12%はその中間で、「性別不明」とされた。


土器の欠片をさらに年代別に分けてみると、古い時代の土器に残されていた指紋は66%が男性のものだったが、新しい土器には男性と女性の指紋がほぼ半分ずつ残されていた。以上のことから、かつて男性も土器作りに関わっていただけでなく、男性と女性の割合は時代とともに変化したことがわかる。

 この研究は、チャコ・キャニオンでの土器製作者を男女別に示した初の直接的な証拠となった。

「男性または女性だけの仕事だったというわけではないでしょう。土器製作に限らず、当時のプエブロ社会におけるほかの活動にも同様の見方ができるかもしれません。そして、ひとつの社会が労働をどのように分担していたかを考えるとき、まず最初に頭に浮かぶのが、男女別の役割分担という思い込みを見直させてくれる研究です」と、カントナー氏は述べている。


(参考記事:「「男脳」「女脳」のウソはなぜ、どのように拡散するのか」)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/web/17/020800002/021400005/


チャコ・キャニオンで発掘された古代の住居から土器が見つかった。(PHOTOGRAPH BY JOHN KANTNER)

 なぜ男性が土器製作に関わるようになったのか、その理由はこの研究だけではわからないが、カントナー氏は、チャコ・キャニオンが文化の中心地として急速に発展し、周辺地域への需要が高まったためではないかと考えている。

「考古学的記録をみると、非常に多くのものがチャコに流入していたことがわかります。周囲の村々や巡礼者からの贈り物だったのかはわかりませんが、チャコへ運ばれる土器の製作に多くの人が関わりたくなる状況があったのかもしれません」

 ネブラスカ・リンカーン大学の人類学者でチャコ・キャニオンを専門とするキャリー・ハイトマン氏も、興味深い研究結果だとしたうえで、これを裏付けるにはチャコ・キャニオンの別の場所で出土した土器との比較研究も必要だと話す。

(参考記事:「古代アンデスの土器、顔料に爬虫類のおしっこ」)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/16/b/121400252/

「チャコ・キャニオンで見つかったほかの土器との比較分析があれば、もっと正確なことがわかるでしょう。当時起こっていた変化の一部を切り取っただけかもしれませんが、性別に注目した今回のような分析は、当時の男女の役割を理解する助けになります。そして、過去の歴史を知るうえでより豊かで性のバランスがとれた視点を与えてくれるでしょう」

(参考記事:「グランドキャニオンへの旅、絶景&穴場9選」)
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/022600128/


参考ギャラリー:100年前のナショジオ「チャコ・キャニオン遠征」 写真7点(クリックでギャラリーへ)

https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/060600334/

207. 中川隆[-9630] koaQ7Jey 2019年6月13日 08:14:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2833] 報告
日本人のガラパゴス的民族性の起源
2-1. mtDNA ハプロタイプ 2019年5月21日取得ツリー増補版
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-1.htm


2019/6/11
  wikipediaにまとめられている分布地図データなどを借用させていただいて、 視覚的に理解しやすいツリーにしました。wikipediaに多謝です。 またアジアを中心にした居住地データもできるだけ付け加えさせてもらいました。 結局4524行に増えてしまいました。 日本人のmtDNAはかなり多岐にわたっていることが良く理解できます。

mtDNAで見る日本人は、以前から国立科学博物館の篠田健一博士が主張しておられるように、 日本人の約2/3はアジアから南北アメリカ大陸全域の先住民に共通する ハプロタイプmtDNA「M」系に属し、母方の始祖は1名にたどり着きます。

  また残りの1/3は欧米系に多いmtDNA「N」に属し、 日本人はアジア系だけで構成されているのではなく、欧米系も日本人の 大きな構成員であることを示しています。

日本人に意外に多い目鼻立ちのくっきりした 凹凸のある顔立ちの女性・男性はこの「N」系が多いと推測できます。

「N」系も母方は1名の始祖にたどり着くので日本人は2名の母方の始祖を持つ事になります。


2019/5/21
  しかし集めれば集めるほどmtDNAは民族性が乏しく、 特にmtDNA「M」系はアジアから南米最南端まで拡がっており、 アジアと南北米大陸はみな同族になりそうな勢いです。 やはり民族性は分子量が大きくはるかに複雑なY-DNAの分化を追うのが王道のようです。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-1.htm

208. 中川隆[-9385] koaQ7Jey 2019年6月22日 10:50:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3100] 報告
【我那覇真子「おおきなわ」#74】
長浜浩明〜韓国人とは遠縁だった!遺伝子から探る日本人のルーツ[桜R1-6-21] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7CPxmCGtjR0
209. 中川隆[-9356] koaQ7Jey 2019年6月22日 19:34:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3130] 報告

「最新の縄文分析で今明かされる、沖縄のルーツと日本の建国」古代史研究家・長浜浩明氏 2018.02.11 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8q-ZXmoPa-Y


2018/02/11 に公開

沖縄の大本は、縄文時代から九州の人々と同じ先祖を持ち、それは遺伝子、言語から明らかです。また、皇室の大本は沖縄方面からやってきたのであり、神武東征は史実なのです。(長浜浩明氏)

皇紀2678年(平成30年)2月11日(日・祝)
『日本の建国を記念する沖縄県民の集い』記念講演


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因みに、日本人の核DNAの 90% は渡来系で、縄文系は僅か10% です

210. 中川隆[-9301] koaQ7Jey 2019年6月24日 19:27:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3189] 報告

【長浜浩明】韓国人は何処から来たか[桜H26-4-15] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=HsDDzE5Gao4

2014/04/15 に公開


かつては日韓の融和を促進するために「日韓同祖論」が語られたが、今では韓国側が、小中華意識による対日優越感を満足させるために、日本人のルーツは「韓国起源」であると主張し、天皇は韓国人であるとさえ言ってのける。だがそもそも、大陸民族に蹂躙されてきた朝鮮人のルーツの方こそ、よほど入り乱れた不確かなものなのである。今回は、『韓国人は何処から来たか』を上梓された長浜浩明氏をお招きし、これまでとは違った理系的観点から、韓国人のルーツを整理して頂きます。


211. 中川隆[-9300] koaQ7Jey 2019年6月24日 19:28:10 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3190] 報告

長浜浩明氏の嘘は amazon のカスタマーレビューでも指摘されていますね:


古代日本「謎」の時代を解き明かす―神武天皇即位は紀元前70年だった! – 2012/4/1
長浜 浩明 (著)

内容
「大阪平野の発達史」が明かす古代史の真実、「男子は皆黥面文身す」が邪馬台国論争に黒白をつける、「皇紀」を「西暦」に直すと古代史が見えてくる、「韓国の前方後円墳」が覆す騎馬民族渡来説―混迷する古代史界に正気を取り戻す。

著者略歴 長浜/浩明
昭和22年群馬県太田市生まれ。同46年、東京工業大学建築学科卒。同48年、同大学院修士課程環境工学専攻修了(工学修士)。同年4月、(株)日建設計入社。爾後35年間に亘り建築の空調・衛生設備設計に従事、200余件を担当。資格:一級建築士、技術士(衛生工学、空気調和施設)、公害防止管理者(大気一種、水質一種)、企業法務管理士(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


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 日本古代史の研究本には、考古学中心と、文献学中心に、大別でき、考古学中心だと、調査での知識が取得できる一方、文献学中心だと、引用文が多用されていれば、読解での知識が取得できます。

 ところが、本書のように、文献学に傾倒し、いきなりの筆者の仮説や、他者の批判と、それらの根拠の説明だと、もし、その仮説が否定されれば、本自体の存在価値は、ほぼなくなってしまいますが、残念ながら、本書で、肯定できる箇所は、次のように、ほとんど散見できません。

 日本古代史には、著名な学者達の通説でさえ、到底納得できないものが、多々あり、なので、在野の研究者達が、入り込む余地があるのですが、筆者が、本書で諸説を散々批判したわりには(特に3章)、その前提条件が、大変脆弱です。

○1章への反論
 筆者は、神武東征が、河内潟の時代だと主張していますが、次のような理由から、河内湖Tの時代の可能性も、あるのではないでしょうか。

 「日本書紀」神武即位3年前2月11日に、皇軍が、難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いたのは(p.28)、瀬戸内海では現在も、潮流の方向が、約6時間ごとで、鞆の浦付近を中心に、内向きと外向きで、交互に変化するので、その影響と推測できます。

 よって、河内潟や河内湖の、出入口での流出入とは、無関係とみられ、3月10日に、川を遡って、河内国草香村の青雲の白肩津に着いたのも(p.29)、当時は、積載しても、あまり沈み込まない、準構造船か丸木舟なので、押して歩ける水位の水際なら、流れが多少ゆるやかなので、逆らえるでしょう。

 余談ですが、「日本書紀」の訳文には、川と記載されていますが、原文には、川と記載されておらず、「流れを遡(さかのぼ)って」となっており、潟内か湖内の川は、誤訳です。

 そもそも、難波の堀江の開削が着工される5世紀以前に、船で瀬戸内海から大和へ、人・物を輸送する際には、大和川水系を遡上したとみられ、それなら河内潟でも河内湖でも、進入できたはずで、筆者が軍船といっているのは(p.34)、当時まだなかった、構造船を想定したからではないでしょうか。

○2章への補足
 筆者の主張する、邪馬台(壱)国=九州北部説には、私も賛同し、帯方郡〜邪馬壱国間が1万2000余里、帯方郡〜奴国間が1万600余里なので、奴国〜邪馬壱国間が1400余里以内となる説明は、わかりやすいですが(p.54)、入墨の分布が、かえって、わかりにくくしているのではないでしょうか(p.69)。

 私なら、もし、邪馬台国が近畿だと、伊都国設置の諸国を検察する一大率を、畏憚する(おそれはばかる)距離でないこと、もし、「魏志倭人伝」で、方位を書き誤ったなら、後世の「後漢書倭伝」で、狗奴国の位置を、女王国の東1000余里に訂正した際、一緒に訂正するはずとの理由を追加します。

 「魏志倭人伝」に、狗奴国は、倭の21ヶ国の南にあるという記述だけを、筆者が信用するのも、疑問です。

○5章への反論
 本書で筆者は、神武東征を紀元前70年と主張しており、ここでは、葦の根に生成・蓄積される褐鉄鉱を持ち出し、鉄器の導入と結び付けたいようにみえます。

 しかし、日本列島での鉄器の出土数を比較すると、九州北部は、3世紀前半まで、他地域を圧倒し、3世紀後半になって、はじめて畿内が逆転しており、紀元前1世紀の大和は、鉄器の後進地域なので、結局は、何がいいたいのか、不明です。

○4・6章への反論
 100歳以上の天皇が、初期に多数いるので、筆者は、1〜19代に、1年2歳説を採用していますが、そもそも1年サイクルで、農耕民は、稲作・畑作、漁労・狩猟・採集民は、旬の食物を獲得、交易民は、海流を渡海・交易する等、生活・活動しているのに、年齢だけが、1年で2歳になるのは、とても不自然です。

 「魏略」での裴松之の注では、倭人が、正月や四季を知らず、春の耕作と秋の収穫を計って1年としていると、解説しているにすぎず、当時の人々は、朝に、観測点から見て、太陽が東の山々の、どこから昇るかを基準に、自然の暦(夏至・春秋分・冬至等)を算出していたようです(福岡県・平原遺跡)。

 「魏志倭人伝」に、倭人は長寿で、中には100歳・80〜90歳もいるとあり、訳文には、歳と記載されていますが、原文には、年となっており、17代以後で、記紀神話に死去年齢が記載されている天皇には、60〜70歳代も結構いるので、1年で1歳とみるのが自然です。

 私は、「日本書紀」で、100歳以上の天皇が、1・5〜13・14-15代の間・15代、事績に長期間の空白がある天皇が、1・10・11・14-15代の間・16代なので(それぞれ26年・30年・47年・25年・19年間)、父子継承が主流の16代以前は、年代不当、兄弟継承が主流の17代以後は、年代妥当とみています。

 ただし、歴代天皇の全員が、実在したかは、疑問ですが、この程度の人数は、存在していたと仮定し、16代以前だけでなく、17代以後にも、多少の年代のズレが、あったでしょう。

 年代不当の1〜16代の17人は、紀元前660〜400年の1060年間なので、天皇の在位期間の平均が、約62年/人、年代妥当の17〜41代の25人は、400〜697年の297年間なので、在位期間の平均が、約12年/人となり、年代不当の17人を12年/人とすれば、初代・神武天皇の即位は、196年になります。

 この2世紀終りは、銅鏡が、畿内に集中するようになった時期(漢鏡7期の第2段階)であるうえ、大和に大型前方後円墳が出現する直前で、神武が天皇の始祖にふさわしく、河内湖Tの時代になります。

 そのうえ、10代・崇神天皇の即位は、304年になり、4世紀初めは、纏向遺跡の最盛期と一致するうえ、10代の磯城の瑞籬宮・11代の纒向の珠城宮・12代の纒向の日代宮とも符合します。

 一方、筆者が1年2歳説を採用した、1〜19代の20人は、紀元前70〜457年の527年間なので、天皇の在位期間の平均が、約26年/人、20〜41代の22人は、457〜697年の240年間なので、在位期間平均が、約11年/人となります。

 41代までのほとんどは、いったん即位すれば、死去するまで天皇だったので、古い年代で寿命が長いのは、矛盾しています。
 また、16代以前の父子間の皇位継承は、後述のように、3〜6代が兄弟間の皇位継承とみられるので、それ以外の部分の信憑性も疑問視され、筆者のいう、神武天皇の即位を紀元前70年とするのは、無理があると導き出せます。

○7章への補足
 筆者が、闕史八代の天皇の妻に着目したまでは、よかったのですが、その子供達の子孫を、記紀神話で、全国各地の豪族達の始祖に位置づけたのは、後世に天皇へ奉仕した、かれらの正統性を確保するためとみられ、そこに血縁関係があったとまでは、けっして言い切れません。

 むしろ、2〜7代の妻は、「古事記」「日本書紀」の本文と、一書にも記載があるので、そこにも注目すべきで、第1に、2〜7代の妻が、磯城・春日・大和・葛城(高尾張邑=葛城邑としました)・十市と、奈良盆地内の出身で、8〜10代の妻も、盆地内の出身と、河内・丹波・紀伊の出身もいることです。

 これは、初期の大和政権が、まず、地元豪族と結び付くことで、奈良盆地内を確実な勢力基盤にすると、つぎに、河内の瀬戸内海方面・丹波の日本海方面・紀伊の太平洋方面と、大和の周辺地域のうち、輸入用の交易ルートを開拓したとも読み取れます。
 ちなみに、崇神天皇(10代)は、四道将軍を派遣・平定したとありますが、わずか半年で帰還したので、実際には、4世紀初めから、西海(吉備)・丹波に輸入用の交易ルートと、東海・北陸に輸出用の交易ルートの、4方向を開拓し、流通ネットワークを広域整備、統治範囲は、大和一帯とみられます。

 第2に、「古事記」で、2代の妻は、磯城の県主・ハエの妹、3代の妻は、ハエの娘なので、ここは、父子間での皇位継承ですが、「日本書紀」の一書で、3〜6代の妻は、いずれもハエの娘世代なので、ここは、兄弟間での皇位継承とみられます。

 つまり、「日本書紀」の本文が、本当であれば、一書をわざわざ、記載する必要がないので、一書での3〜6代の妻は、史実だとみられ、本文の父子間の皇位継承は、捏造でしょう。

 1〜13代の父子間での皇位継承は、天武天皇(40代)以前まで、兄弟間での皇位継承が主流だったのを、天武天皇以後から、父子間での皇位継承に改変するための前例を、国史の中に、あらかじめ紛れ込ませておいたと推測できます。

 第3に、皇后は、皇族が通例ですが、5代は、尾張の連の遠祖の妹、7代は、磯城の県主の娘、8代は、穂積の臣等の祖の妹、9代は、物部氏の遠祖の娘が、皇后で、その息子が皇太子→天皇になっているので、もし、それらが非実在なら、豪族(非皇族)を皇后にしなくてもよいのではないでしょうか。

 しかも、尾張の連・磯城の県主・穂積の臣は、後世に有力豪族になっていないので、偽装する理由がなく、特に、7代は、皇族妻2人(姉妹)に、息子が4人(姉に2人・妹に2人)もいるのに、非皇族妻の1人息子が、天皇に即位しており、最も捏造したい所が露見しているので、史実が濃厚です。

 第4に、物部氏の祖の娘・イカガシコメは、8代の妻になり、[武内(たけのうち)宿禰の祖父(紀)・建内(たけしうち)宿禰の父(記)]を出産後、9代の妻にもなり、のちの崇神天皇も出産しているので、もし、8・9代が非実在なら、そのような境遇にしなくてもよいのではないでしょうか。

 したがって、2〜9代が、もし、非実在なら、その妻達を、もっとすっきりした系譜や、後世の政権にとって都合のいいように、捏造することもできるのに、そうしておらず、一書を併記する等、苦心もみられるのは、実在したからだとも説明できます。
 闕史八代の実在を主張するなら、この程度の根拠を、提示すべきですが、おそらく筆者は、「日本書紀」の本文(訳文)しかみておらず、2〜7代に一書があるのを、把握していなかったのでしょう。

○8章への苦言
 日本古代史は、東アジアの視点が大切で、中国・朝鮮・日本が、まだ未分化な状態から、徐々に分化していく過程をみるべきなのに、日本・中国・朝鮮等の人種や国家が、分立していたかのように取り上げ、現代の善悪・優劣・尊卑等や、筆者の価値観で、評価するのは、歴史研究者として反則行為です。

 最後の「おわりに」(p.209-292)まで読み進めると、筆者は結局、日中の歴史書等から、史実を探求するよりも、日本賞賛に都合のよい、こじつけ的な解釈が、必要なだけだったと理解でき、天皇の年齢や年代以外は、吟味していないので、日中の歴史書等を信仰の対象とした、新興宗教者といえます。

 中世・近世の日本では、伊勢神道・吉田神道・復古神道等が、記紀神話をこじつけ的に解釈することで、自分達の正当性・優位性を主張していました。

 ここまでみると、どうも、筆者が、神武天皇の即位を、紀元前70年としたのは、新羅の建国が、紀元前57年、高句麗の建国が、紀元前37年、百済の建国が、紀元前18年とされているので、それらに対抗・優越しようとしただけにしか、みえないのは、私だけでしょうか。

 中国・欧米等の建国史は、人工的・作為的な「創造」である一方、日本の建国史として位置づけられる記紀神話は、自然な「生成」を意識しており、だから、神代に数々の一書を併記することで、意図的に曖昧にしているのを、筆者は、無理矢理に確定しているようで、まさに人工的・作為的です。

 それは、最近の右派・右翼系の活動も同様で、日本らしさといいながら、かれらが嫌悪している中国らしく・朝鮮らしく変貌してきているのを、自覚しているのでしょうか。
https://www.amazon.co.jp/%E5%8F%A4%E4%BB%A3%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%80%8C%E8%AC%8E%E3%80%8D%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E8%A7%A3%E3%81%8D%E6%98%8E%E3%81%8B%E3%81%99%E2%80%95%E7%A5%9E%E6%AD%A6%E5%A4%A9%E7%9A%87%E5%8D%B3%E4%BD%8D%E3%81%AF%E7%B4%80%E5%85%83%E5%89%8D70%E5%B9%B4%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F-%E9%95%B7%E6%B5%9C-%E6%B5%A9%E6%98%8E/dp/4886563694/ref=la_B004LVY064_1_3?s=books&ie=UTF8&qid=1556496455&sr=1-3

212. 中川隆[-9299] koaQ7Jey 2019年6月24日 19:52:56 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3191] 報告

長浜浩明の―神武天皇即位は紀元前70年だった! は間違い

長浜浩明は神武東征が河内潟の時代だと主張していますが、河内湖Tの時代が正しい:


河内湖の名残
http://feynmanino.watson.jp/5697_kawachi2.html


邪馬台国とはなんぞや?(43) - altairposeidonのブログ

・古大阪平野の時代:約2万年前
・古河内平野の時代:約9000年前
・河内湾Iの時代:約7000年〜6000年前
・河内湾IIの時代:約5000年〜4000年前
・河内潟の時代:約3000年〜2000年前(BC1050年〜BC50年)
・河内湖Iの時代:約1800年〜1600年前(AD150年から350年)
・河内湖IIの時代〜大阪平野I・IIの時代:約1600年前以降
http://altairposeidon.hatenablog.com/entry/2018/10/11/000000


▲△▽▼


霊(ひ)の国の古事記論54  若御毛沼命の河内湖通過(「神武東征」)時期について
http://hinakoku.blog100.fc2.com/blog-entry-70.html

1.「神武東征」か?

御毛沼命と若御毛沼命(後の神倭伊波礼琵古(磐余彦)命、8世紀に神武天皇と諡(おくりな))兄弟のいわゆる「神武東征」については、史実説と虚構説に分かれ、史実説については、記紀史実説(薩摩半島の山幸彦の子孫の征服説)と邪馬台国東征説・東遷説が見られる。

私の説(『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』、ブログ「霊の国の古事記論」)は、「薩摩半島の山幸彦(山人:やまと)の子孫の傭兵部隊の仕官を求めての移動説」であり、「若御毛沼命実在・東征否定説(傭兵隊移動説)」という「おおむね真実、一部虚偽」という第3の説である。

御毛沼命・若御毛沼命兄弟の移動は「東征」か「傭兵隊の移動」か?


 
 なお、第10代崇神天皇以前、第15代応神天皇以前、第26代継体天皇以前の3つの天皇非存在説についての検討はいずれまとめたいが、私の記紀判断の基準に照らし、神話時代を含めた登場人物については、実在人物をモデルに創作されたアマテラスを除き、ほぼ実在していた人物と考える。

 


2.神話時代の年代論について 

 皇国史観は神武即位を「BC660年」としたが、那珂通世は「AD元年」、久米邦武は「AD6年」、とし、高木修三氏は『紀年を解読する』(2000年)において「BC29年」、長浜浩明氏は『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』(2012年)において「BC70年」とした。

 これらに対して、記紀の年代分析において初めて統計的に科学的分析を行ったのは、安本美典氏である(図参照)。氏は古代の天皇、中世・近世の将軍、中国・西洋の王の在位年数から、古代大王の平均在位年数を約10年とし、神武即位を「AD271年頃」とする統計的な推定を行った。

 30〜40代天皇の即位年の直線回帰による私の追試では「AD277年」であり、私はこの安本説を全面的に支持する。


30〜40代天皇の即位年の直線回帰によるスサノオ大神・大国主神16代の即位年の予測

 なお、この記紀年代の統計的分析において、安本氏はアマテラスより前の王について検討されていないが、私は古事記神話が始祖としている天御中主までの分析を進めた。

 詳しくは前著『スサノオ・大国主の日国 霊の国の古代史』を参照いただきたいが、結論だけを述べると、AD57年の「委奴国王」の遣使、107年の「倭王師升」の遣使、「100余国を7〜80年支配した王朝」、146〜189年頃の「倭国大乱」、100余国のうちの30国をまとめた「卑弥呼」の238年の遣使、弟王との後継者争いで共立された「壱与」の266年の遣使との照合性について検討を行い、「委奴国王」はスサノオ、「倭王師升」は淤美豆奴(オミズヌ)、「100余国を7〜80年支配した王朝」はスサノオ・大国主王朝7代」、「倭国大乱」は大国主の後継者争い、「卑弥呼」はアマテラスと考える。

3.「神武東征」の時期について

 統計的な分析による安本氏の神武即位「AD271年頃説」(私は「AD277年頃」説)について、物証の裏付けはないのであろうか?

 その鍵となるのは、記紀に描かれた若御毛沼らの行動である。その記述は次の通りである。

@古事記:「その国(注:吉備国)より遷り上り幸(い)でましし時、亀の甲に乗りて、釣りしつつ打ち羽挙あげて来る人に、速水門(はすひのと)で遇(あ)ひき。・・・故、その国より上り行でましし時、浪速(なみはや)の渡を経て、青雲の白肩津(しらかたのつ)に泊(は)てたまひき」

A日本書紀:「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ。因りて、名付けて浪速国とす。亦浪花と言う。今、難波というは、訛れるなり。三月の丁卯の朔丙子(十日)、遡流而上りて、径(ただ)に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」

 この「速水門」「浪速の渡」「はやき潮」「遡流而上りて」「草香邑の青雲の白肩津」の記述がその時期を特定する鍵となる。

(1) 「速水門」はどこか?

 古事記の「速水門」は吉備出発後の記述であり、考えられるのは備讃瀬戸か明石海峡であるが、備讃瀬戸には「門」と呼べるような狭い海峡はなく、潮流も緩やかで、地形・海流の両方からみて「速水門」と呼べるような場所はない。「速水門」は幅4kmで両側の山が迫って「門」にふさわしく、潮流の早い明石海峡とみて間違いない。

 古田武彦氏は『古代は輝いていたU』において、明石海峡は「平穏、清明の海」とし、「速水門」に相応しいのは鳴門海峡としているが、これは全くの事実誤認である。四季、何十回と明石海峡を小さな渡し船で渡った私の経験でいえば、明石海峡の潮流は早い。


海上保安庁 六区豆知識「海の流れについて」

 海上保安庁のデータでみると、最大潮流は鳴門海峡10.5ノット、明石海峡6.7ノットであり、備讃瀬戸の3.4ノット、播磨灘の0.4〜0.5ノット、大阪湾の0.3〜0.5ノットと較べると、明石海峡を「速水門」と見るべきである。

 一方、日本書紀は「速水門」を筑紫の宇佐への途中に置いているので、豊予海峡(最大6ノット)になる。しかしながら、豊予海峡は14kmと広く、「門」と言えるような地形ではない。

 また、黒潮に洗われる笠沙半島を拠点にした隼人族(海幸彦)が豊予海峡を越えるのは苦もなかった筈であり、海岸沿いに行けば日向から宇佐、岡水門へと移動するのに迷うこともない。水先案内人を頼む必要があったとは思えない。

 舟で豊予海峡説(最大6ノット)や関門海峡(同9ノット)を越えるのは大変と思われるかも知れないが、下げ潮に乗れば楽々である。私は船折瀬戸(同9ノット=時速17q、村上水軍の根拠地の大島と伯方島の間の瀬戸)を潮流に乗って小型ヨットとカヌーで下ったことがあるが、広い海を早い潮流に乗って移動するのは、狭い川の急流を下るのと較べて何の危険もない。10〜20人乗りの丸木舟の舷側に板を張った重心の重い当時の舟なら、これらの海峡を通過するのに案内人は必要ない。仮に、どうしても下げ潮での通過が怖いなら、潮待ちして、12時間ごとの満潮時か干潮時の停潮期に渡ればよいがそんなことをする海洋民はいないであろう。

 奈良盆地にいて海を知らない日本書紀の編集者達は、若御毛沼たちが未知の海に東征の冒険に乗り出したことを印象づけるために、地形も潮流も舟も知らず、「速水門」を明石海峡から豊予海峡に変えたと見てよい。

(2) 「遡流而上りて」はいつの時代か

 若御毛沼らは2月11日(3月上旬)に吉備をたち、「速水門」を経て、「浪速の渡」を通り、3月10日に「白肩津」に着いたというのであるが、それは史実であろうか、史実ならいつの時代であろうか。孫引きデータで不安ではあるが、以下、検討したい(いずれ、原データにあたりたい)。

 前述の古田武彦氏の『古代は輝いていたU』によれば、弥生・古墳期(約1800〜1600年前:執筆当時から計算しなおすとAD185〜385年)頃の大阪には河内湖があり、若御毛沼らはこの河内湖を舟で進み、「白肩津」に着いたとしている。

 長浜浩明氏の『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』にはさらに詳しい図が紹介されているので、その図とHP「水都大阪」のデータを参考にさせていただくと、河内潟・河内湖・河内平野は、次の4つの時代に区分される。


A 河内潟時代(BC1050〜50):湾口が広い、海水湾の時代

B 河内湖汽水湖時代(BC50〜AD150):干潮時には湖水の水が海に流れ、満潮時には海水が侵入する汽水湖の時代

C 河内湖淡水湖時代(河内湖1の時代、AD150〜350):湾口が狭まって海水の流入がない淡水湖の時代

D 陸地化時代(AD350〜):陸地化が進む時代

 日本書紀は「遡流而上りて、径(ただ)に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」としているが、それはどの時代のことであろうか?

 まず、河内潟時代(BC1050〜50)は、河内潟は満潮時も干潮時も海水が満ちており、広い流路で外海と内海は結ばれ、「遡流而上りて」はありえない。


AD185〜385頃の河内湖(古田武彦著『古代は輝いていたU』)


BC1050〜50の河内潟(長浜浩明著『古代日本の「謎」の時代を解き明かす』)

          
 AD150〜350年頃の河内湖T(前同)


 5世紀以降の大阪平野(HP「水都大阪」より)

 次の、河内湖汽水湖時代(BC50〜AD150)は、「浪速(なみはや)の渡」のあたりで湾口は狭まり、満潮時には上げ潮が湖内に流入し、干潮時には下げ潮が湖内から流出する。

 想定される当時の「河内湖」より大きさがやや小さい浜名湖(日本1の汽水湖)でみると、上げ潮の速さは2ノット(1m/s)、下げ潮は3〜4ノット(1.5〜2.0m/s)で、その潮流の範囲は湾口からわずかに前後それぞれ1qほどの狭い範囲である(伊東啓勝他「インレット周辺の流況特性把握調査」(『水路 第154号』より)。

 この下げ潮の3〜4ノット(1.5〜2.0m/s)というと、軽いカヌーの中速であり、この程度の流れなら簡単に漕ぎ上ることができる。カヌーや競技用ボートが高速で8〜10ノット(4.0〜5.0m/s)程度、26人の漕ぎ手のペーロン船が9ノット(4.5m/s)程度とされているから、汽水湖の下げ潮に逆らっても、特に苦労することもなく遡ることができる。私は琵琶湖の水がただ1カ所流れ出る瀬田川(流速は確かめられなかった)をエイトで何度も往復したことがあるが、軽い性能のいい競技艇ではゆっくり漕いでも楽に流れの速い瀬田川を遡ることができた。

 ただ、浜名湖には流入する大きな川はないのに対し、河内湖には滋賀・丹波・京都・奈良の広範囲な流域から水を集める淀川や木津川、大和川などから流入しており、若御毛沼たちが漕ぎ上ったのが冬の渇水期とはいえ、大阪湾への流出口の水流は浜名湖よりはかなり早かったに違いない。

 若御毛沼らが10〜20人ほどの重い準構造船(丸木舟の舷側に板を張って高くしたもの)を「遡流而上りて」漕ぎ上るとなると、その通過時期はAD150〜350年の河内湖淡水湖時代とみて間違いない。

彼らには急流の浪速の渡を漕ぎ上ったことが強く印象に残り、「遡流而上りて」と伝わった可能性が高い。

 繰り返しになるが、大阪湾と河内潟が広い湾口でつながっていた河内潟時代や、上げ潮のある汽水湖時代には、「遡流而上りて」という表現はでてこないであろう。

(3) 「草香邑の白肩津」はどこか?

 「草香邑の白肩津」については、生駒山麓の日下町を当てる説が多いが、私はそこから2.3qほど下った「枚岡」を比定する。「7」を「しち」「ひち」と発音する例などからみて、「しらかた津」は「ひらかた津」の可能性が高く、この地を奈良の登美・春日への最短距離の奈良街道が通っていたことからみても、白肩津は「枚岡」の湖岸にあった港(津)の可能性が高い。

 その時代は生駒山麓の陸地化が進んだ河内湖淡水湖時代(AD150〜350)ではありえない。その時代が河内湖汽水湖時代(BC50〜AD150)であることは、「白肩津」からも裏付けられる。

 完全に陸地化した後の8世紀の記紀作者が、「浪速の渡を経て、青雲の白肩津に泊てたまひき」「遡流而上りて、径に河内国の草香邑の青雲の白肩之津に至ります」というような文章を創作することができないことは言うまでもない。これらの記述には、8世紀の記紀作者が知ることのできない「秘密の暴露」が見られる。

 以上、「速水門」「はやき潮」、「浪速の渡」「遡流而上りて」「白肩津」という記紀の記述は後世の創作ではなく、若御毛沼らがAD150〜350年の河内湖T時代にこの地にきた実際の体験であることが明らかである。

これは、安本氏の統計的分析による神武即位「AD271年頃説」(私は「AD277年頃」説)を裏付けている。

いわゆる「神武東征」は、卑弥呼時代より後になり、神武即位「BC660年説」「BC70年説」「BC29年説」「AD元年説」「AD6年説」は全て成立しない。

4.「浪速国」の地名由来について

 日本書紀の「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ。因りて、名付けて浪速国とす。亦浪花と言う。今、難波というは、訛れるなり」という若御毛沼による地名命名説話は、記紀や風土記の天皇命名地名の怪しさを示している。

 日本書紀の編集者は古事記の「速水門」=明石海峡を豊後水道に置き換えたために、その代わりに明石海峡を「難波碕に到るときに、はやき潮ありてはなはだ急きに会ひぬ」とし、若御毛沼が「名付けて浪速国とす」としたが、明石は播磨の地であり、この地を浪速と名づけることはありえない。そもそも古事記は「浪速(なみはや)の渡」という地名を載せており、若御毛沼らがこの地に来る以前から、「浪速」「難波碕」の地名があったことは明らかである。

 なお、私は安本美典氏の北九州から奈良盆地への「地名ワンセット東遷」の指摘は重要と考えるが、九州の地名を持ってきた人々は、もっと前のスサノオ・大国主一族であると考える。「地名ワンセット東遷」を「神武東遷」の証拠とすることはできない。

 若御毛沼らの「東征」より先にこの地に「浪速」地名があったことが、それを証明している。

5.「草香邑の白肩津」の由来について

 前述のように「白肩(しらかた)津」は「枚潟(ひらかた)津」であったと私は考えるが、「枚潟」というと、関西の人は淀川を遡った「枚方」と考え、「牧」の当て字から「牧場」のイメージを持つかも知れない。

 しかし、「草香邑の白肩津」となると、「日下(くさか)」の南にある「枚岡」の麓の「枚潟」(平潟)にあった「津」(港)とみて間違いない。この地に、河内国一之宮の枚岡神社があることと、奈良街道が通っていたことからみて、河内湖時代にはこの地が重要な拠点港であったことが明らかである。

 大国主を「国譲り」させて後継者となった「天穂日神」の子の「天日名鳥命、天夷鳥命、武日照命」が「天比良鳥命」とも言われることからみて、「枚=比良」は「日名(夷、日)」と同じであった可能性がある。「はら(腹、原)」「あちら、こちら」の「ら(羅)」は、「はな(鼻)」「ひな(女性の性器=霊(ひ)の宿る所)」などの「な(那、奈)」と同じく、「場所、土地」を示すからである。

 記紀によれば、「ひ=日=霊(祖先霊)」であることから考えると、「比良」は「霊羅」で「霊(ひ)の降り立つ聖地」という意味になる。「天日名鳥命」が「出雲祝神」とも呼ばれていることから考えると、この「枚潟(ひらかた)津」は出雲族の祖先霊(磐霊(いわひ):磐座(いわくら)に宿る祖先霊)を祀る聖地であった可能性が高い。

 若御毛沼らを傭兵として受け入れず、追い返した「長髄彦(ながすね)彦」が「登美能那賀須泥毘古」と書かれていることをみると、「長髄彦(ながすね)彦」(森浩一氏は「長洲根彦」説)はこの地から生駒山を越えた登美にかけて支配した王であり、この地はその交易と祖先霊信仰の拠点であった可能性が高い。

 さらに、「草香邑」は現在、「日下(くさか)」の地名として残っているが、出雲市の日下には、出雲国風土記に登場する古社の「久佐加神社」があり、「草香邑」はこの地からきた出雲族の居住地であった可能性が高い。枚岡神社の所在地が「東大阪市出雲井町」であることや、「青雲の白肩津」という記紀の記述と合わせて考えると、この地が大国主の子孫の王の拠点であったことは確実であろう。


6.「亀に乗ったサヲネツ彦」のいわゆる「神話的表現」について
 古事記には、早水門で「亀の甲に乗りて、釣りしつつ打ち羽挙げて来る人に遇(あ)ひき」に会った、という印象的な記述が見られる。

 この記述から、「神武東征は、亀に乗った浦島太郎伝説をもとに作られた」というような結論を導き出すことはできるであろうか?


 まず「亀の甲に乗りて」は次のような現実的な解釈が可能である。

 第1の仮説は、「亀の形のような幅広型の舟に乗って釣りをしていた漁師」の伝承が、「亀の甲に乗りて」に変わった可能性である。

 第2の仮説は、「亀の甲羅のような板舟(幅広のサーフボード)に乗って釣りをしていた漁師」の伝承が、「亀の甲に乗りて」に変わった可能性である。

 第3の仮説は、「桶の舟(たらい舟)に乗って釣りをしていた漁師」の伝承の「桶」が「瓶(かめ)」に変わり、さらに「亀」に変わって、「亀の甲に乗りて」となって伝わった可能性である。「桶から瓶」、「瓶から亀」への「伝言ゲーム」ミスである。

「浦島太郎伝説をもとにした創作説」が成立するためには、この3つの説を否定しなければならない。

 さらに、「打ち羽挙げて来る人」(打羽挙来人)がある。まず亀に乗って竜宮城に行き来した「浦島太郎伝説引用説」ではこの部分は説明が付かない。しかしながら実際の舟を想定すると、「打羽」は帆船の「帆」となり、合理的な解釈が可能である。「うちわ・うちは(団扇)」の語源は「打ち羽」とされており(『日本語源大辞典』)、この風を起こす道具は風を受ける道具でもある。

 「サオネツ彦」は浦島太郎のように亀に乗った人ではなく、帆を張った「亀型の幅広舟」か「板舟」、「たらい舟」に乗った漁師の可能性が高い。それは、九州沿岸に見られる舟ではなかったために印象深く言い伝えられたものと考えられる。

 若御毛沼兄弟らは、浦島太郎のような空想的な神話上の人物ではなく、釣りをしていた漁師に若御毛沼らが「汝は海道を知るや」と、「浪速の渡」から「白肩津」への水路の案内を頼んだとみるのが妥当である。

7.「神武東遷」について

 以上の検討結果をまとめると、「若御毛沼傭兵部隊東遷」について、次の事実が明らかである。

@ 「浪速の渡」「遡流而上りて」「白肩之津」の記述は、8世紀の記紀編集者の創作ではなく、河内湖淡水湖時代(河内湖1の時代:AD150〜350)の印象的な体験談である。

A 若御毛沼による「浪速国」の地名由来は、日本書紀編集者の創作である。

B 「草香邑の青雲の白肩之津」の地名は、この地の王が出雲の大国主の子孫の可能性が高いことを示している。

C 「亀に乗ったサヲネツ彦」は「浦島太郎伝説」を元にした後世の創作ではなく、実際の印象的な体験談(伝承の過程で変容した可能性が高い)である。


8.神武東遷時期の確定は「邪馬台国畿内説」を否定する

 以上の検討により、若御毛沼傭兵部隊の奈良盆地への移動は「AD271年頃」(私はAD277年頃)より少し前となり、神武即位「BC660年説」「BC70年説」「BC29年説」「AD元年説」「AD6年説」は全て成立しない。
 この結果は大きい。

 邪馬台国畿内説の崩壊である。卑弥呼(248年頃死亡)の時代より、少し後の271〜277年頃に「神武傭兵部隊の東遷」があったことが証明されるからである。

 神武より8〜14代後の倭迹迹日百襲(ヤマトトトヒモモソ)姫(第7代孝霊天皇の皇女)や倭姫(第 11代垂仁天皇の皇女)、神功皇后(14代仲哀天皇の皇后)を卑弥呼(248年頃死亡)とする畿内説の全面崩壊である。

古事記によれば、天照大御神からオシホミミ命―ニニギ命―ホホデミ命―ウガヤフキアエズ命―若御毛沼命(神武)と続くが、アマテラスは「筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原」で生まれ、ニニギ命・ホホデミ命・ウガヤフキアエズ命は薩摩半島の笠沙で死んでいる。アマテラスは大和とは無縁である。

 なお、言うまでもないが、記紀神話創作説や2〜9代天皇の「欠史8代説」を採用するなら、天照大御神や倭迹迹日百襲(ヤマトトトヒモモソ)姫、倭姫などを歴史上の人物として論ずることがそもそもナンセンスである。記紀からアマテラスだけを「つまみ喰い」するような行儀の悪い考古学者やそれをもてはやす朝日・NHKなどのマスコミ人がいることは、この国の知性の崩壊状況を示しているといわざるをえない。  141019 帆人(日向 勤)
http://hinakoku.blog100.fc2.com/blog-entry-70.html

213. 中川隆[-9296] koaQ7Jey 2019年6月25日 19:20:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3203] 報告

奈良盆地の原風景 〜古代奈良湖の残影〜
2013年10月31日 | 奈良大和路散策
https://blog.goo.ne.jp/nambashout/e/1858903decf3df8427ce6f66be8b8ae7

 以前から不思議に思っていたことがある。近鉄奈良線に乗って生駒トンネルをくぐり、奈良まで行く場合の全線の高低差の話である。電車は上町台地の地下(大阪上本町駅)を出て鶴橋方面へやや下ると、あとは平坦な河内平野を真東に進み、やがて枚岡、瓢箪山、石切と急激に高度を上げて、生駒山の斜面をやや北方向に駆け登ってゆく。まるで登山電車並みの勾配を軽快に走る近鉄電車の醍醐味を味わえる区間だ。しかもここらからの大阪市街地の風景は絶品だが、その話はまたにして、やがて生駒トンネルをくぐると再び真東に進路を取り、生駒、東生駒、富雄、学園前と進む。しかし、生駒トンネルを通過すると不思議なことに電車は下降せずにほぼ水平に奈良に向けて快走する。あれだけの急勾配を登ってきたのに。と言うことは奈良盆地の標高は河内平野の標高より高い、ということなのだろうか?

 早速調べてみた。奈良盆地の標高は40mから60mほど。一方、生駒山を隔てた河内平野のそれは1〜3m。やはりこれだけの高低差があるのだ。ちなみに上町台地は一番高いところが38m(大阪城のあるあたり)、天王寺あたりで16mだそうだ。生駒山は642m、二上山が517m、山辺の道の東にそびえる龍王山は517m、三輪山は467mである。奈良盆地はこれらの山塊に囲まれた比較的標高の高い盆地(上町台地よりは高い)であることを認識した。

 現在の河内平野は、かつては河内湖、さらに時代をさかのぼれば上町台地(砂嘴であったという)を挟んんで瀬戸内海とつながった海水湖であった。したがって海抜が0に近いのも理解できるような気がする。やがては流入する土砂で湖底が上がり、干上がって平地になっていった。今は大阪のベッドタウン、日本の製造業を支える東大阪の町工場群、河内のおっちゃん、おばちゃんでにぎわうソウルフルな地域である。もはや河内湖の痕跡も面影もないが、上町台地か生駒山から展望すると確かにここがかつては海、湖であったとしても不思議ではない地形に見える。

 一方、河内平野とこれだけの比高差がある奈良盆地には、かつて古代奈良湖があったとされている。周辺の山々から流入する水が溜まった巨大な盆地湖があったと言うのだ。奈良盆地は東西16km、南北30km、矢田丘陵、馬見丘などはあるものの総面積300平方キロメートルの比較的平坦な盆地である。今は初瀬川、富雄川、飛鳥川、高田川など、枝分かれた150余の小河川が張り巡らされており、そのどれもがやがては大和川に合流し、王寺から亀の瀬と言われる生駒山系と葛城・金剛山系の切れ目、すなわちあの二上山のある穴虫峠のあたりから高低差を一気に下り河内平野に流れ込んでいる。200万年前の二上火山の噴火に伴う地形変化で古代奈良湖の水が河内へ流出し始めたと考えられている。さらに、古代奈良湖は、縄文後期から弥生時代にかけて、地底の隆起や大和川からの流出増(これには農業のための人為的な流路変更も考えられるとする研究者もいる)などにより、水位が下がり続け、やがては干上がって消滅してしまったと言われている。何時頃まであったのかの確認が研究課題となっているが、後述のように様々な考古学、歴史学上の事績、記述にもヒントが隠されているようだ。

 なるほどこういう地形の大きな変遷があったのか。世の中にはこのようなことを研究しておられる先生方もいて、様々な研究成果が発表されている、特に最近は南海トラフ地震の被害想定や、海抜0メートル地帯である上町台地西側の大阪の中心部(難波八百八橋の水の都であった)や、東の河内平野(かつて海。湖であった)の防災対策、亀の瀬地域の大和川の土砂災害対策などの現実的な要請から、古代の地形変動に関する研究が盛んだ。また歴史学の視点からも様々な研究がなされている。私は研究者ではなく、通りがかりの「時空旅行者」なので、その詳細には立ち入らないが、太古の地形が歴史上のいくつかの出来事や風景描写、考古学的な発掘の意味を説明してくれている点はとても興味がある。
 
 いくつかのエピソードを並べると、

? 奈良盆地に見られる縄文遺跡は例外なく標高45m以上の微高地に検出されている。それ以下には見つかっていない。やがて稲作農耕を主体とする弥生時代に入ると、弥生遺跡は標高40mでも見つかるようになる。すなわち、縄文後期から弥生時代にかけて徐々に奈良湖の水位が下がり、湖畔の湿地帯は肥沃な地味で稲作に適していたことから弥生人が定住し始めた証拠だと言う。湖畔に豊葦原瑞穂国の風景が生まれた。

? また、古代の山辺の道がほぼ標高60mの高さで山麓を南北に通っているのは、かつての湖や通行に支障のある湿地帯をさけて形成された証拠だと言う。当初は人々の頻繁な自然往来で踏み分けられた道であったのだろうが、その重要性から権力者により官道として整備されていったのだろう。その後平地に造られた上津道、中津道、下津道より時代をさかのぼる最古の官道と言われるゆえんだ、と。

? 万葉集巻の一に舒明天皇御製の歌がある。
 「大和には群山あれど とりよろふ 天の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原は煙立ち立つ 海原は鴎立ち立つ うまし国そ 蜻蛉島(あきつしま) 大和の国は」
この「海原」はかつて香具山の北にあった埴安の池のことを指している、と唱える万葉集の研究者もいるが、この池も埋め立てられて、今香具山に登っても海や湖はおろか,池もも見えない。6世紀当時ははるか北に奈良湖の姿があったのであろうか。だとすると山と湖と水田で満たされた盆地はさぞ美しい風景だったことだろう。

? 斑鳩の法隆寺の南大門の前に鯛石という1×2メートルの踏み石が表面を露出させて埋まっている。地元ではこの鯛石まで水が来ても大丈夫と言い伝えられている。今見るとどこに水があるのか、という法隆寺界隈だが、創建当時は消滅寸前の奈良湖はこの斑鳩辺りに存在していて、創建時の斑鳩宮、法隆寺は近いところに建っていたのかもしれない。そうなると聖徳太子は飛鳥京へ毎日太子道を馬で通っていたとされるが、実は斑鳩からは船で飛鳥へ渡っていたのではないか。ちなみにこの鯛石のある地点の標高は50mで大和川の水位40mよりは高い位置にある。

 たしかに地形的に見ても、歴史的に見ても、「古代奈良湖存在説」はあまり荒唐無稽な感じではない。現在の奈良盆地の150余の中小河川の大和川一局集中の地形を見ても、かつての大きな水源の存在の痕跡を感じることが出来よう。さらに稲作農耕中心の生産手段と富の所有分配という経済体制、政治的支配機構、社会システムが確立されていったヤマト王権の時代の下部構造には、こうした水運に役立つ古代湖や河川とそれに連なる肥沃な湿地帯、神の権威を感じる甘南備型の山に囲まれた「まほろば」すなわち奈良盆地(大和盆地)が無くてはならなかった。まさにそうしたステージの一角、山懐(山の処)すなわちヤマト(大和)にヤマト王権が成立していったと考えれば、やはりこの盆地の舞台設定は、箱庭的であるが、国家誕生の揺籃としてはパーフェクトな設定ではないかと思う。


https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/1a/e080e77ea19c21ed40a5f43e9b34ad6e.jpg

(奈良湖推定図。この図によれば、縄文遺跡は水辺、湿地帯をさけて山麓の微高地に分布しているが、弥生時代の農耕集落(唐古鍵遺跡など)は湿地帯に分布している。面白いのは古墳時代から飛鳥時代の古墳や宮殿・宮都跡は稲作生産の拠点である水辺・湿地ではなく三輪山の山辺に分布している。やがては湿地の無い盆地南の飛鳥の地に遷っている。この図はネットの図形検索で出てきた図で、あちこちのブログで引用されている。しかし、いくら調べても出典が明らかでない。以前「近畿農政局のHP」に掲載されていたものではないかと思う。作者不詳だがよく出来ているので引用させてもらった)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/25/e8/fe71c8bbed362bd353858b8a95dbed6f.jpg

(奈良湖から亀の瀬を通って河内平野に流出する大和川の構造を示した図。高低差がある分だけ、亀の瀬地区は古代より大和川の流水による地盤崩壊などの災害の多いところであったようだ。奈良湖は最後は斑鳩の辺りに小規模に残り、やがては消滅していったのだろう。これも上図同様、出典が明らかでないがわかりやすいので引用させてもらった)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/66/92/4c34343109fc06091a8b3a8bc9b36947.jpg

(上町台地大阪城付近から展望した河内平野の今。高層マンション辺りが近鉄八尾駅前。かつてはこの辺り一帯は河内湖であった。二上山と左手の生駒山との切れ目あたりが亀の瀬、穴虫峠)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1e/15/0dca563980b9b718dee3cb64dedee8e8.jpg

(山辺の道の背後にそびえる龍王山山頂から奈良盆地を俯瞰する。この一帯に古代奈良湖があったと言われている。正面が二上山、その右側の山稜の切れ目が亀の瀬、大和川が河内平野に流入する所だ。手前の緑は崇神天皇陵。他にも箸墓古墳、景行天皇陵など大型の古墳がずらりと並ぶ大倭古墳群)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/69/67b040beb8603d584f70d66ad61df869.jpg

(龍王山からの二上山の展望。右奥の山向うに,うっすらと河内平野の町並みが見える)
https://blog.goo.ne.jp/nambashout/e/1858903decf3df8427ce6f66be8b8ae7

214. 中川隆[-9292] koaQ7Jey 2019年6月25日 19:24:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3207] 報告
何故、古代史の舞台は奈良盆地なのか?・・・大阪は河内湖、大和は湿地帯だった。
 
何故、古代史の舞台が畿内でも奈良の山奥から始まるのか、そして次第に河内に舞台が移っていくのか、不思議に思われる。
この謎は実は現在の地形を前提に考えているからで、かつて大阪は上町台地のみが陸地で他は河内湖と呼ばれる内海であり、大和は標高60m以下は大湿地湖だったとされている。

縄文中期以降、海退が始まり、次第に陸地が広がって行くという地理学的な前提をふまえると、古代史の舞台が奈良の山奥から始まるという謎も解けてくる。


>奈良盆地の東方の山裾を縫うように、細々と南北に続く道がある。その名を「山の辺の道」という。

古社寺や名所旧跡、古墳などが道沿いに点在し、古代の面影をよく残している・・・

人が住むところに道ができるのは当たり前だが、ではなぜ「山の辺の道」は標高60m〜70mの高度を保ちながら三輪山の山麓をめぐっているのだろうか。

その理由を大和湖の存在に求める学者がいる。

三輪山麓に人類が住みついた縄文前期の約6千年前、大和盆地にはまだ巨大な淡水湖が存在し、その湖岸にできた道が山辺の道の最初の姿だというのだ。


>その後次第に土地が隆起し大和川ができると、湖水が排出されて平野部が広がっていった。土地が干上がるにつれて、人々は平野部へ移り住みはじめ、弥生時代には、平野部の沼地を利用して稲作農耕を営むようになった。

しかし、弥生時代とそれに続く古墳時代を通して、「山の辺の道」は相変わらず大和盆地の東側を結ぶ主要道路でありつづけた。その証拠に、第10代崇神天皇の磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや)、第11代垂仁天皇の纒向珠城宮(まきむくたまきのみや)、第12代景行天皇の纒向日代宮(まきむくひしろのみや)など上代宮跡伝承地は標高60mの線上にある。

http://www.bell.jp/pancho/travel/yamanobe/preface.htm


この大和湖を最初に唱えたのが、樋口清之博士で、博士は神武東征の地も標高60m付近にあることから、神武神話の時代には大和は大湿地帯であったと考察している。

http://somo.seesaa.net/article/32163752.html


宝賀寿男氏は弥生時代の遺跡群も標高50−70mに存在していることと、文献的整合性から神武神話の年代を弥生時代に設定している。

半島、九州の動乱の影響により畿内へと逃げ延びてきた神武にとって、湿地帯故に土木造成次第では農地を切り開くことが可能だった大和の地は、絶好のフロンティアであったのであろう。(勿論、ナガスネヒコら縄文人らの抵抗はあったであろうが、先に入っていたニギハヤヒや鴨族の支援もあって九州で縄文人支配を経験済みの神武にとってはさほど難しくはなかったのであろう。)

以下は、

当時のイメージ地図 リンク
http://somo.seesaa.net/upload/detail/image/2yamatoko-imaji.JPG.html


奈良盆地が都になる必然

何故、奈良に最初の都ができたのか?

古代の高低差地図リンク
http://blog-imgs-42.fc2.com/a/t/a/atamatote/asuka_naniwa_0.jpg


も参照してみてください。


朝鮮半島から攻め入られたとき、生駒山山系を第一の防衛線、奈良盆地を第二の防衛線とし、最後の砦として三輪山を背にして都を築いた、と読めます。

平安遷都はエネルギー問題だった!

―地形で解く日本史の謎リンク
http://shuchi.php.co.jp/article/1794


から引用させていただきます。


-------------------------------------------------

 21世紀の現在の地形から見ると「なぜ、奈良盆地が都になったのか?」が理解できない。

 ともかく奈良盆地は大阪湾から離れていて内陸に入っている。さらに360度周囲は山で、他の土地との連絡も悪い。奈良はどこから見ても交通の要所とはいえない。
(中略)

 なぜ奈良が日本最初の首都になったかを3〜4世紀の地形の上に立ちシミュレーションしてみよう。

 今の大阪平野は、当時は湿地帯であった。大坂湾は上町台地を回り込み内陸の奥まで入り込んでいた。

 また、今の大和川は堺市へ流れている。しかし、奈良時代の大和川は奈良盆地を出ると向きを北に変え、大坂湾に流れ出ていた。堺へ流れている今の大和川は、江戸時代に掘られた人工の水路なのだ。

 奈良が都になる4世紀頃、大坂平野の奥まで海と川が混じる湿地帯が広がっていた。まさに河内と呼ばれた地であった。

 船で瀬戸内海から大坂湾に入り、上町台地を回り込み、大和川を遡ると生駒山、金剛山の麓まで行くことができた。中国大陸から生駒山麓の柏原市まで直接舟で行けたのだ。柏原で小舟に乗り換え生駒山と金剛山の間の亀の瀬を越えると、もうすぐそこは奈良盆地であった。

 この奈良盆地には、大きな湿地湖が広がっていた。その湿地湖を利用すれば奈良盆地のどこにでも舟で簡単に行くことができた。

 奈良盆地全体が、大坂湾の荒波を避ける穏やかな自然の内港のようであった。
 舟を利用すれば奈良盆地は便利がよく、ユーラシア大陸との連絡も容易であった。

 奈良盆地が日本の都になったのは、地形から見て合理的であった。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&t=6&k=2&m=315461

215. 中川隆[-9291] koaQ7Jey 2019年6月25日 19:31:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3208] 報告

 『逆・日本史3』樋口清之著 から
 大和平野標高六〇メートル地点の謎
http://kamnavi.jp/jm/yamato.htm


 石器時代の終わりごろの遺跡が、奈良県全体で、約三〇〇近く発見されている。これらの遺跡は、大和の吉野渓谷から始まり、宇陀・三輪を通って大和平野に降りてくるが、平野の周縁部に広がるだけで、中央の平坦部にはまったくないのである。そして、周縁にある遺跡は、いずれも標高六〇メートルほどの線までである。
 これが弥生文化の一八〇〇年ほど前の遺跡になると、標高五〇メートルの線まで下りてくる。もっとも標高の低い島根山古墳も、やはり標高五〇メートルの線で止まっている。

 これはどういうことかというと、石器時代には標高六〇メートルが、古墳時代には標高五〇メートルが、人間が生活できる極限線だったことを意味している。それ以下の低い土地には何らかの障害があって、人間が住むことができなかった。

 そして、住むことができなかった障害とは、そこに水があったからである。標高五〇メートル以下の土地はすべて、かつては水中であった。つまり、大和湖の湖面が、二七〇〇〜二八〇〇年前の石器時代には標高六〇メートルの線にあり、一八〇〇年ほど前の弥生時代には、標高五〇メートルまで水位が下がったということなのである。

 なぜ、北九州にではなく、大和に都ができたのか

 弥生文化が、おもに西日本で発達し、なかでも大和と北九州に大きな文化圏ができたことはよく知られている事実である。だが、なぜ、大陸文化を早くから受け入れた九州に王朝ができず、大和に日本の古代王朝が誕生したのだろうか。
 それは、大和平野に巨大な湖があり、時がたつにつれて、水位が下がっていったことに大きな原因があったと思われる。

 水位が下がったのは土地がしだいに隆起したからであるが、水が引いたあとの湖畔の土地はよく肥えていて、農業にもっとも適した土地であった。しかも、大和平野は周りを山に囲まれているため、強い風を防ぎ、夏は蒸し暑くて、水田で稲を栽培するのには好条件であった。また、地形が複雑で土地の高低差があり、斜面に恵まれていたことから、大和地方に水田稲作農耕がいち早く発達し、それが大和王朝を生んだのである。

たかばみさん提供奈良湖


 記紀に書いてあることを、学問的根拠もなしに頭から否定してしまうのは、戦前、神話をすべて鵜呑みにして「歴史」としたことと同じくらい滑稽な話である。
 なぜなら、神武天皇の話の内容は、じつは古代の大和に存在したいくつかの歴史的事実の印象や伝承を編集、つまり日本の古代社会の雰囲気を如実に表現した部分が、数多く含まれているからである。

 たとえは、地名である。

 神武天皇は九州の日向を出発し、東へ進んで大和に入ると、長髄彦・兄猾・弟猾・土蜘蛛などの未開人を平定し、畝傍山のふもとの橿原の宮で天皇の位に即いた、ということになっている。

 この長髄彦や兄猾・弟猾・土蜘蛛などがいたという土地や、橿原など、神武天皇に関係のある地名が『日本書紀』や『古事記』などに三三カ所ほど挙げられているが、これらの地名を大和の土地にあてはめると、すべて標高六○メート〜線以上に存在していることがわかる。

 しかも、その土地ほ、大和湖のまわりの小高い所で、縄文式土器の出土する遺跡とぴったり一致しているのである。

 神武天皇伝承が、奈良時代にだれかが勝手につくりあげたものなら、うっかり、標高六〇メートル線以下の、古代においては湖底にあたる地名も出る可能性がある。奈良時代には土地の隆起がいちじるしく、大和潮は幻の湖になっていた。 昔は水位が六〇メートル線にあったなどということは記録に残されていないからである。

 とくに驚くべきことは、神武天皇の都とされている橿原が、ちゃんと存在していたことである。

http://kamnavi.jp/jm/yamato.htm

216. 中川隆[-9287] koaQ7Jey 2019年6月25日 19:34:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3212] 報告

伝承は何年くらい伝わり・残るものか: 2016年12月28日


神話と考古学の間 創元社 (1973)  末永 雅雄, 三品 彰英, 横田 健一
https://www.amazon.co.jp/%E7%A5%9E%E8%A9%B1%E3%81%A8%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E3%81%AE%E9%96%93-%E6%9C%AB%E6%B0%B8%E9%9B%85%E9%9B%84/dp/4422201115


このところ物部氏の出自について、なるべく推測を交えずに語ることが出来るよう
にと様々な本を当たっています。

ただ多くの人たちが関心を持ってきた一族ですので、その量が半端ではありません。
少々時間が掛かります。

そこで今日はそんな調査の中で見つけた一つの説をご紹介します。

タイトルにある「伝承は何年くらい伝わり、残るものか」というものです。

「神話と考古学の間」という末永氏という考古学者と文献史学の先生たちの対談集
で、この点に触れています。

結論から言えばおおよそ400年と言っています。

末永先生という方は故人ですが、橿原考古学研究所の初代所長を務めた方です。
大学を出ずに色々な経験を積んで来られた異色の人物です。
ある時、町史編纂に関わっていました。

その家に伝わっていた話しを調べてみると、数百年前に実際にその通りだったと
いうことに出会われたそうです。

神武天皇は橿原の宮で即位したと伝わりますが、これは作り話しで橿原の宮は想
像の産物とされていました。

ところが昭和13年から始まった末永先生も加わった調査で縄文から弥生時代に
掛けての遺跡が発見されました。

現在の大鳥居の付近では、大きなカシの木の根も出てきました。畝傍山あたりか
ら持ってきた土で、土地の高低を調整し大きな広場を作ってお祭りをしたらしい
のです。その時の一群の土器も出てきました。

末永先生の話では、弥生の終わり頃1世紀辺りと見られる土器も出てきたので
す。

日本書紀には神武天皇が

「見ればかの畝傍山の東南の橿原の地は、思うに国の真中である。
ここに都を造るべきである」

と言われ都造りに着手したとあります。

私は神武天皇の即位年、辛酉を121年と見ています。
調べれば調べるほど奇妙な一致が出てきます。

庶民の家の話しが数百年残っていたとすると、皇家や大きな豪族の伝承などは、
より残り易いと考えていいでしょう。

記紀には考えていた以上に史実が含まれていた可能性があります。
http://newkojiki.com/2016/12/28/%E4%BC%9D%E6%89%BF%E3%81%AF%E4%BD%95%E5%B9%B4%E3%81%8F%E3%82%89%E3%81%84%E4%BC%9D%E3%82%8F%E3%82%8A%E3%83%BB%E6%AE%8B%E3%82%8B%E3%82%82%E3%81%AE%E3%81%8B/


217. 中川隆[-9228] koaQ7Jey 2019年6月29日 09:30:46 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3282] 報告

アホ右翼が大好きな自称日本史研究者 長浜浩明の学説(?)

amazon.co.jp 長浜浩明 本著書
https://www.amazon.co.jp/%E6%9C%AC-%E9%95%B7%E6%B5%9C%E6%B5%A9%E6%98%8E/s?rh=n%3A465392%2Cp_27%3A%E9%95%B7%E6%B5%9C%E6%B5%A9%E6%98%8E


長浜 浩明 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E9%95%B7%E6%B5%9C+%E6%B5%A9%E6%98%8E


R1.05.19 長浜浩明講演会 『邪馬台国はここにある』 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=QsSdvFLFqJI

【我那覇真子「おおきなわ」#74】
長浜浩明〜韓国人とは遠縁だった!遺伝子から探る日本人のルーツ[桜R1-6-21] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=7CPxmCGtjR0


【我那覇真子「おおきなわ」#75】
長浜浩明〜遺伝子が証明!沖縄の先祖たちは、日本本土から移住した縄文人だった[桜R1-6-28] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=BezxJ6uRi1g


【長浜浩明】韓国人は何処から来たか[桜H26-4-15] - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=HsDDzE5Gao4

「最新の縄文分析で今明かされる、沖縄のルーツと日本の建国」古代史研究家・長浜浩明氏 2018.02.11 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=8q-ZXmoPa-Y

長浜浩明


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ほとんどまたは完全に一つの出典に頼っています。(2018年12月)

一次情報源または主題と関係の深い情報源のみに頼って書かれています。(2018年12月)

長浜 浩明(ながはま ひろあき、1947年 - )は、建築家、評論家。

群馬県太田市生まれ。
1971年東京工業大学建築学科卒。73年同大学院修士課程環境工学専攻修了、(株)日建設計入社。

建築の空調・衛生設備設計に従事。2008年退社、評論活動を始める。
一級建築士、技術士、公害防止管理者、企業法務管理士[1]。


著書

『文系ウソ社会の研究』展転社 2008
『続・文系ウソ社会の研究』展転社 2008
『日本人ルーツの謎を解く 縄文人は日本人と韓国人の祖先だった!』展転社 2010
『古代日本「謎」の時代を解き明かす 神武天皇即位は紀元前70年だった!』展転社 2012
『「脱原発」を論破する 今、日本人の知性が試されている!』東京図書出版 2013
『韓国人は何処から来たか』展転社 2014
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E6%B5%9C%E6%B5%A9%E6%98%8E


ハッシュタグ #長浜浩明
https://twitter.com/hashtag/%E9%95%B7%E6%B5%9C%E6%B5%A9%E6%98%8E

218. 中川隆[-9259] koaQ7Jey 2019年6月30日 06:42:22 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3290] 報告

という事で

長浜浩明は基礎学力ゼロの完全なアホだった

という結論で間違い無いです。

しかし、右翼は何故こんな詐欺師の言う事をすぐに信じるのかな?

219. 中川隆[-9258] koaQ7Jey 2019年6月30日 06:50:06 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3291] 報告

右翼がその論拠にしている自称専門家については


チャンネル桜関係者が大好きな自称日本史研究者 長浜浩明の学説(?)の何処がおかしいのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/498.html

西洋美術史の専門家だった(?)田中英道は何時から頭がおかしくなったのか?
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/206.html

自ら 映画『主戦場』 を宣伝してくれる右派出演者たち
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/486.html

朝鮮人認定された天才ジャーナリスト 本多勝一 vs. 詐欺師の似非学者 渡部昇一
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/130.html

吉田清治が詐欺師だというデマを広めた秦郁彦は歴史学会では誰にも相手にされない、資料改竄・捏造の常習犯だった
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/136.html

自称 中国・朝鮮問題の専門家 加瀬英明 : 慰安婦問題の最高権威 吉見義明のことは「知りません」、秦郁彦の『慰安婦と戦場の性』は「読んだことない」
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/488.html

チャンネル桜の常連 西岡力 の悪質な詐欺の手口
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/216.html

220. 中川隆[-9254] koaQ7Jey 2019年6月30日 06:57:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3295] 報告

日本の右翼のバイブル _ ニセユダヤ人 モルデカイ・モーゼ 日本人に謝りたい
http://www.asyura2.com/18/reki3/msg/494.html

221. 中川隆[-9243] koaQ7Jey 2019年7月06日 14:40:58 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3441] 報告

縄文時代の終盤に人口急減 寒冷化か、DNA解析で
6/17(月) 18:55配信
https://mainichi.jp/articles/20190705/k00/00m/040/038000c

 縄文時代の終わりに人口が急激に減少していたことが現代の日本人男性のDNA解析で分かったと、東京大の大橋順准教授(集団ゲノム学)らのチームが17日、英科学誌に発表した。狩猟採集生活の中、寒冷化し食べ物が減ったことが原因で、弥生時代になって稲作が朝鮮半島を経由して伝わり、食料供給が安定すると、人口は急回復したとみている。

 チームは、男性だけが持つY染色体を解析。弥生人の母体となった集団の子孫に当たる現代の韓国人や中国人にない、縄文人特有と思われる型を持った122人について、変異が起きる速度を基に、過去にさかのぼって人口の推移を推定した。

222. 中川隆[-9163] koaQ7Jey 2019年7月09日 13:28:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3520] 報告

3万年前の旅探る航海実験、成功
丸木舟で台湾から沖縄・与那国へ
2019/7/9 12:15 (JST) ©一般社団法人共同通信社


沖縄県・与那国島の港に到着した国立科学博物館チームの丸木舟=9日午前(同博物館提供)

 3万年前、日本人の祖先がどのように海を越えてきたかを探る実験航海に挑んだ国立科学博物館のチームが9日、丸木舟で台湾から200キロ以上離れた沖縄県・与那国島に到着、実験は成功した。

 地図や時計は持たず、星や太陽の位置で方角を判断しながらの旅。流れの速い黒潮を横切り、夜を徹して丸2日近くこぎ続けた。

 エンジン付きの船で丸木舟に付き添ったチーム代表の海部陽介・同博物館人類史研究グループ長(50)は「一時は方向を見失いどうなるかと思ったが、到着でき本当によかった」と話した。こぎ手の5人は疲れているが健康状態に問題はないという。

7日、約3万年前の航海再現を目指し、台湾沖を進む国立科学博物館のチームの丸木舟(同博物館提供)
https://this.kiji.is/521093884475540577?c=39546741839462401


【報ステ】丸木舟で台湾〜沖縄 3万年前の航海再現(19-07-08) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=Ss3SZC3elt4

3万年前を徹底再現! “祖先の道”辿る実験航海(19-07-08) - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=CzTmnWR6r7Y


223. 中川隆[-8941] koaQ7Jey 2019年7月20日 19:10:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3759] 報告
2019年07月18日
「鉄」を軸に古代史を読む〜鉄を運ぶために結束した倭人

「弥生時代は朝鮮半島から渡来人によって、稲作が青銅器と鉄器とともに伝えられた時代」と我々は教えられてきた。最近、これが通説ではなくなりつつある。 稲作は中国から、鉄も渡来人ではなく、倭人が運んできた。 弥生時代の稲作と同様、鉄は九州に伝わってから、それから東に倭人によって運ばれたと言われてきた。途中、中国地方で加工されているのはまだわかるが、九州から運ばれていない筈の鉄器や高度な技術が丹後や北陸にある。どうも、「鉄路」が他にもあったと考えるのが自然であろう。

「鉄」を軸に古代史を紐解いていくと、

「倭人」とは何か?

倭 国大乱による社会変革と日本の古代の活力ある国家像は何であったか?

古墳時代の前方後円墳が何の目的でこれだけ作られたのか?

違った切り口でこれらの疑問を解消していくことができる。

これから数回にわたって「鉄」を切り口に古代史のさまざまな謎に挑戦していきたいと思う。

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以下、長野正孝著「古代史の謎は「鉄」で解ける」を引用しながら展開していきます。

■鉄を運ぶために生まれてきた海洋民族「倭人」

「倭国」は日本だと思われがちだが、実は定かではない。「論衡」や「山海経」で書かれた遼東半島の倭と「後漢書」の楽浪郡を挟んで反対側で活動する倭は距離「が離れすぎているが、中国から見れば一緒である。1世紀頃の中国人の倭に対する認識は、遼東半島以遠の、鉄の交易と漁業に従事していた人種としか見ていない。

港津を繫ぎ交易をする「倭」という民族が朝鮮半島に存在した事実は文献により明らかだが、一つの民族かどうかは疑いがもたれるところである。 考古学的に見ると、朝鮮半島の影響を強く受けた曽畑式土器が、倭人の生活圏と一致していた。倭人は九州、西日本の島嶼部、朝鮮半島西部海域から遼東半島まで活躍していた海洋民族だったのである。

九州の鉄の遺跡で見ると、糸島平野の三雲南小路、平原などが鉄製品の交易の出発点であるといえる。私はこの倭人は同じ人種ではなく、日本海を渡る知恵と技能を身に着けた仲間たちで、海で助け合いをすることが宿命づけられた海洋民族ではないかと考える。 海を渡り、モノを運び、交易をする行為は、人間の大脳新皮質に、常に新しい情報を提供し、天候、潮の流れ、船の技術、体力の情報、人間関係など絶えず総合的に判断し行動する民族であり、そのふるまいを子孫や係累に伝えることで組織として進化していった。 したがって、五世紀頃まで彼らに首都や王の都という概念は無かった。群雄割拠でそれを結ぶ交易こそが「倭国」の実態だったと考えられる。

■倭人はなぜ中国に朝貢し続けたのか?

中国の多くの史書には「朝貢」したとあるだけで、なぜ来たか理由が書かれていない。 時代背景から推測すると、倭人が鉄の交易の莫大な利益を生むために、中国にその交易の権利を守ってもらうのがその目的だろう。 朝鮮半島で鉄づくりが始まってから三百年経った紀元57年に、有名な「倭の奴国の王の金印」が授けられたことが「後漢書」に期されているが金印の意味するところは何であったのか。 紀元25年に漢が建国されて約30年、楽浪郡が高句麗の襲撃を受けてから10年後で、高句麗はこの時期、さらに力を増強しつつあった。光武帝は奴国を味方につけたがったが故に厚遇したと考える。高句麗から圧力をかけられてなお、多くの船で帝都洛陽に来た倭人の交易ネットワークの強靭さに驚いたのではなかろうか。奴国だけでなく、東夷の遊牧民の雄、扶余にも令を尽くしている。

■日本列島は水世界

弥生時代は寒冷化が進んだ小氷河期であった。海の水は急速に沖に引き始めていた海退期で、現在ある全ての都市が水底から浮かびあがり始めた時期で、川と海を結ぶ「水世界」であった。 地球の海水面は約1万9千年前から気候変動などで上昇、下降を繰り返し、日本では一番温暖化が進んだ縄文時代から弥生時代に移る頃の我が国の海水面は、現在より数メートルは高く、沿岸主要都市は海の中で、沖積平野の形成も進んでいなかった。 この時代、弥生人は、遺跡から見る限り洪水や高波を受けやすい大きな川や外洋を避け、谷筋の水路から水を引き、その周辺にはクリ、カシ、クワなどの樹を植え、いろいろなものを食べて生活していた。平野は海の底で国土全体が水世界であり、山地を開墾する灌漑技術はまだ持っていなかった。 古墳が少し高い土盛りになっているのは、水世界の中で、絶えず発生する洪水から避難するためでもあった。 関東平野、濃尾平野、大阪市街地は言うに及ばず現在の平野部分は全て海の底で、船でしか旅ができない状態だった。 陸化が進み始めた潟や湖でも、水際を追いかけ集落も移動した。すなわち、瀬戸内海から当時、時代によって河内潟と呼ばれた河内湖から、比較的簡単に船で琵琶湖や奈良まで移動することができた。淀川水系から琵琶湖まで、大和側経由で当時は奈良盆地まで到達できた。

このような地理的状況から、倭人は現在の内陸部にまでその交易の足を延ばすことが可能であり、日本列島様々な地に鉄がもたらされた。
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/07/3514.html

224. 中川隆[-8898] koaQ7Jey 2019年7月22日 21:45:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3804] 報告
2019年07月11日
人類の誕生から日本人の出生を見る〜日本人には3つの旧人の遺伝子が入っている。
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/07/3509.html

ハーバード大学の日本人論という著書の中で日本人の起源や縄文人について記載がなされています。ハーバードでも日本人の特殊性においてその歴史を見る中で研究しており、現時点では「よくわかっていない」という結論に至っています。最新の人類拡散の研究結果を踏まえて日本人も俯瞰しており、東アジア人の特徴から外れた日本人の由来は研究対象となっています。以下、著書の中から紹介します。ハーバード大学教授のディビッド・ライヒ博士(遺伝学専門で古代DNA分析の世界的パイオニア)です。

人類の誕生から日本人の出生を見る〜日本人の特徴はデニソワ人由来の遺伝子〜3種の旧人の影響を受けている

アフリカから人類が最初に拡散したのは、今から180万年前。これが1回目の「出アフリカ」です。そのグループは少なくとも170万年前までには東アジアに到達していた事が判明しています。中国の雲南省の遺跡から出土した歯を分析したところ、およそ170万年前のホモ・エレクトス(原人)のものである事がわかりました。

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180万年前にアフリカを出たホモ・エレクトスはその後、世界各地でネアンデルタール人、デニソワ人、その他の旧人類へと進化していきます。そして30万年前頃になると、その一部が一度アフリカに戻るのです。これは最近の調査でわかった事です。
アフリカに戻ったグループは、そこでホモ・サピエンス・サピエンス、つまり現世人類に進化します。そしてこの現世人類が再び6万年前にアフリカの外に拡散するのです。

これが2回目の「出アフリカ」です。この集団はアフリカから、中東、ヨーロッパ、アジアへの拡散していきました。 アフリカを出た現世人類が東アジアに到達したのは5万年前です。北京の近郊の周口店の田園洞内からは、4万年前の骨が見つかっていますが、その骨を分析した結果、「田園洞人」は現在の東アジア人とほぼ同じ容姿をしていたと推定されています。
この2回目の「出アフリカ」で現生人類が拡散すると先住民であった旧人類はほぼ絶滅してしまいました。東アジアだけではなく、ヨーロッパ、アフリカ、オーストラリアの人々は皆、6万年前にアフリカを出た現世人類の子孫なのです。

実はDNAの全てがホモ・サピエンス・サピエンスではありません。アフリカを出て東へと拡散していく過程で、旧人類と交雑していたのです。その為東アジア人のDNAにもその名残が見られます。ホモ・サピエンス・サピエンスはアフリカを出てから、現在のヨルダンやイスラエルのあたりで、ネアンデルタール人に出会い、交雑しています。この交雑は5万4000年前から4万9000年前まで続きました。このときの影響が現在の東アジア人のDNAにも見られ、1.5〜2.0%のDNAをネアンデルタール人から受け継いでいると推定されています。

ネアンデルタール人と交雑した集団は、東に進む課程でデニソワ人にも出会います。デニソワ人とは、ロシアのアルタイ地方のデニソワ洞窟で見つかった旧人類で47万年前〜38万年前から4万年前ぐらいまで生存していたと見られています。さらにオーストラリア、ニューギニア、南アジアへと拡散した集団は、アウストラロ・デニソワ人に出会い、交雑しました。アウストラロ・デニソワ人はデニソワ人の一種で40万年前〜28万年前にデニソワ人から分離したと考えられています。最新の論文によれば、北東アジアに向った集団の中にはアウストラロ・デニソワ人に出会った後にシベリアのデニソワ人に遭遇した集団もいたとのことです。東アジア人のDNAを分析してみると0.5%がデニソワ人とアウストラロ・デニソワ人由来である事がわかっています。人類の歴史の中には旧人類であるネアンデルタール人、デニソワ人、アウストラロ・デニソワ人と現生人類が共存していた時期があったのです。

日本人のDNAの98%はホモ・サピエンス・サピエンス、2%は旧人由来です。私の推定では、2%のうち、1.5%がネアンデルタール人由来、0.33%がアウストラロ・デニソワ人、0.17%がデニソワ人由来です。一般的にネアンデルタール人のDNAの割合はユーラシアの東に行くほど大きくなっていくのですが、日本人のDNAはほかの東アジア人と比べるとネアンデルタール人由来のDNAが比較的少なめなのが特徴です。この差異の要因はわかりませんが、興味深い結果だと思います。ph_thubm

リンク
https://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/19/041500228/?SS=imgview&FD=-1092025864

より借用しました

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遺伝子分析が日本人の特徴にどうかかわっているか興味深いですが、割合はわずかながら、3種類の旧人のDNAを備えているというのが特徴として上げられるのかもしれません。日本人はどこから来たのか〜世界的な遺伝子研究の追求テーマになっています。
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/07/3509.html

2019年07月18日
日本の民族の交雑は緩やか、対してイギリスは一気に入れ替わった。その2国の歴史、差異はその後の歴史が示している。
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/07/3517.html


先回の投稿の続編です。同じくハーバード大のライヒ博士の報告です。

「縄文人がどこから来たのか、これは私たち遺伝学者にとって大きなミステリーです。」

ライヒ博士はイギリス人の出自の分析をした知見からこの日本人の起源についても追求するとしています。今後、日本人の研究者との協働で日本人の起源、縄文人のルーツが明らかになるかもしれません。

下記のライヒ博士の報告からも日本人(縄文人と弥生人)の混血は極めて緩やかに推移した事例に該当します。同じ島国でもイギリス人の場合は2度の農耕民の流入で一気に民族が入れ替わっているというケースもあるのです。

以下、博士の報告を紹介します。

>縄文人と弥生人の交配が始まったのは1600年前と推定していますが、この数字はどのように算出されたのですか?

⇒算出方法は、現代日本人のゲノムにおける縄文人:弥生人比率=20:80から逆算していったのです。どこまで遡ると縄文人:弥生人=100:0になるのかがわかれば交配が始まった時期が推測できる。その結果、縄文人のDNA比率が100%になるのは、今から50〜60世代前=1600年前ごろであることが判明しました。
農耕民の流入は一度に起きたわけではありません。日本の場合は非常に長い時間をかけて流入しています。一気狩猟採集民が農耕民に入れ替わったわけではないのです。弥生人は2400年前から1700年前までの間に日本列島に流入してきたと推定されますが、縄文人との交配が本格的に始まったのは、後半ごろ。古墳時代に入ってからです。

>なぜこれほどまでに長い時間がかかったのですか?

⇒農耕民の流入から、先住民の交雑までタイムラグがあるのは、ほかの地域でもよく見られる現象です。狩猟採集民が先住していた土地に農耕民が流入すると、まず数百年〜数千年別々に居住し、その後に交配を始めるのです。農耕民は、穀物を育てるのに適した肥沃な土地の近くに住み、狩猟採集民は魚が取れる小川の近くや、木の実がとれる山岳地域に居住します。生活圏も文化も違う2つの集団の交雑には時間がかかるのです。

ヨーロッパではハンガリー、ドイツ、スペインで、アジアではバヌアツや東南アジアの国々で、同じようなタイムラグがあったことがDNAの解析から明らかになっています。ハンガリーに農耕民集団が到達したのは今から8000年前ですが、先住民に交雑するまで1000〜2000年の時間を要しています。

>特に興味をもっているのは弥生人がどのように日本列島に流入してきたかです。

これを研究していく上では、イギリスの事例が参考になると思います。日英両国ともに島国で、外界から海で遮断されており、独自の文化を築いてきた長い歴史があります。そのため、狩猟採集民がいたところに農耕民が移住してきた過程にも類似点が多いと考えられます。

私たちがイギリス人の古代DNAのデータを解析した結果、驚くべき事実が明らかになっています。イギリスには、大きな農耕民の流入が2回あり、しかもそのたびに既存の集団に一気に取って代わっていたのです。ヨーロッパ大陸からイギリスに人類が流入したのは今から1万4千年前。最終氷期の終わりごろです。彼らは狩猟採集民でした。それまでイギリス諸島に人類は居住していません。最初の大規模な農耕民の流入があったのは、6000年前ごろです。この前後のDNAデーターを解析すると狩猟採集民が農耕民に完全に置き換わったことがわかりました。つまり少しずつ交雑したのではなく、一気に入れ替わったのです。2回目の流入はその1500年後の4500年前です。ロシア方面からの別の農耕民が移住してきて、既存の農耕民の90%を置き換えてしまいました。この2回目に流入してきた人々が、現在のイギリス人の祖先です。私たちはイギリス人の歴史を分析したときに得た知識がたくさんありますから、同じ手法を日本人のDNAの分析にも使えると思います。
日本には優れた遺伝学者、考古学者がたくさんいて、保存状態の良好な骨も多く残っています。日本の研究者と協力して、縄文人、弥生人の骨のDNAを分析できれば、弥生人がどのように流入したのかを詳しく解明する事ができるでしょう。

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イギリスの事例紹介は興味深いです。その後のイギリス人の私権性が極めて高く、19世紀に世界の頂点にまで上り詰めたのは2度のこの時期に流入民が一気に土着民を排除した歴史に由来しているのでしょう。そしてイギリス人自身はその略奪の歴史を表に出さずにひたすら王国を正当化してきたのでしょう。遺伝子学者が過去の遺物からそれを暴いた?というのも事実の事実たる力です。
http://web.joumon.jp.net/blog/2019/07/3517.html

225. 中川隆[-8849] koaQ7Jey 2019年7月25日 10:56:14 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3865] 報告

縄文人直系でなかった西北九州弥生人 ゲノム解析で判明
米山正寛 2019年7月23日
https://www.asahi.com/articles/ASM7J6TNBM7JULBJ01M.html

写真・図版
下本山岩陰遺跡から出土した人骨の一つ。臼歯を用いてDNAを抽出した(国立科学博物館提供)




 弥生時代に現在の長崎県周辺にいた「西北九州弥生人」は、縄文人直系と考えられていたが、実は渡来系弥生人との間でかなり混血が進んでいたことを、国立科学博物館などのグループが人骨に残された遺伝情報(核ゲノム)を解析して明らかにした。日本人類学会の機関誌Anthropological Science(日本語版)に発表した。

 九州の弥生人は三つに大別される。大陸から北部九州にやって来た渡来系弥生人、鹿児島県付近に住んでいた、頭の前後が極度に短いなどの特徴を持つ南九州弥生人、そして、西北九州弥生人だ。渡来系弥生人が在来の縄文人と交じり合う形で、現代の日本人につながる人々が生じていったとされるが、西北九州弥生人は影響をほとんど受けず、顔の彫りの深さや腕の太さなどに縄文人と共通する特徴を残していたと考えられてきた。

 今回、下本山岩陰遺跡(長崎県佐世保市)から1970年に発掘された約2千年前の西北九州弥生人の男女各1体の人骨を対象に、核ゲノムを構成するDNAの変異に注目して遺伝的特徴を解析した。2体はともに縄文人と現代日本人との中間に位置付けられた。縄文人直系と考えられてきた西北九州弥生人も、渡来系弥生人との間で混血が進行していた可能性が高まった。

 解析を進めた科博の篠田謙一・人類研究部長は「この結果をすべての西北九州弥生人に当てはめるのはまだ難しいが、対象となる古人骨を増やせば日本人が成立する過程の詳しいシナリオが分かってくるだろう」と語る。(米山正寛)

226. 中川隆[-8848] koaQ7Jey 2019年7月25日 11:12:42 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3866] 報告

2019年04月27日
篠田謙一『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_39.html


 NHKBOOKSの一冊として、2019年3月にNHK出版から刊行されました。

https://www.amazon.co.jp/%E6%96%B0%E7%89%88-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%81%A3%E3%81%9F%E7%A5%96%E5%85%88%E3%81%9F%E3%81%A1%E2%80%95DNA%E3%81%8C%E8%A7%A3%E6%98%8E%E3%81%99%E3%82%8B%E5%A4%9A%E5%85%83%E7%9A%84%E6%A7%8B%E9%80%A0-NHK%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF%E3%82%B9-No-1255-%E7%AF%A0%E7%94%B0/dp/4140912553


本書は

2007年2月刊行の『日本人になった祖先たち』(関連記事)
https://sicambre.at.webry.info/200703/article_9.html


の改訂版となります。本書は基礎的な解説に分量を割いており、DNA解析による人類集団の移動の推定の限界も指摘しているので、一般向けとして配慮された良書になっていると思います。著者が認めるように、前著刊行後の古代DNA研究の進展には目覚ましいものがあり、当然それもしっかりと取り入れられているため、一般層が日本語で読める遺伝学からの日本人形成論としてお勧めの一冊になっています。

 本書は、現生人類(Homo sapiens)の出アフリカと世界への拡散を簡潔に述べた後、日本列島への現生人類の拡散を詳しく解説しています。著者の見解については、報道や他の著書で読んでいたので、意外な感はありませんでした。ただ、最新の見解の体系的な解説ですから、より深く理解しやすくなっており、有益だと思います。縄文時代よりも前の日本列島の確実な人類遺骸はほぼ沖縄でしか発見されていないので、日本列島の古代DNA研究は縄文時代以降が主流となります。

 本書は「縄文人」について、ミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)の頻度の地域的差異から、均一だったのか、疑問を呈しています。縄文時代と現代の日本列島のmtHgの比較から、現代日本人に継承されているのは、東日本ではなくおもに西日本の「縄文人」のDNAだった、と本書は推測しています。Y染色体DNAハプログループ(YHg)でも、東日本の「縄文人」や「弥生人」は現代日本人によく見られるDであるものの、より詳しくは見ていくと、現代日本人で多いD1b1ではなくD1b2aで、こちらでも、東日本の「縄文人」のDNAが現代日本人にはあまり継承されていない、と示唆されます。

 「縄文人」の現代日本人への遺伝的影響については、北海道礼文島の船泊遺跡の女性遺骸からの高品質なゲノム配列から推定すると、10%程度となるそうです。しかし本書は、現代日本人には東日本よりも西日本の「縄文人」の方がより多くの遺伝的影響を残していると推定されることと、縄文時代と現代のmtHgの比較から、現代日本人における「縄文人」の遺伝的影響は20%程度になりそうだ、と推測しています。西日本の「縄文人」の高品質なゲノム配列の決定が期待されます。

 弥生時代の人類遺骸でもDNA解析が進められています。「渡来系弥生人」のゲノム解析はまだ福岡県那珂川市の安徳台遺跡で発見された1人でしか成功していないそうですが、現代日本人の範疇に収まり、在来の「縄文系」との交雑の進展を示唆します。また本書は、在来の「縄文系」と交雑した「渡来系弥生人」が東進して在来の「縄文系」を吸収していったとすると、現代日本人の比率よりもさらに「縄文系」の遺伝的影響が高くなることから、古墳時代以降の渡来集団の遺伝的影響を想定しています。

 「縄文系」と考えられていた長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡で発見された弥生時代の男女2人は、遺伝的には「縄文人」と現代日本人の中間に位置づけられ、形態から「渡来系」と「縄文系」に分類することの難しさを示しています。なお、下本山岩陰遺跡の2人のmtHgは、男性が「縄文系」のM7a、女性が「渡来系」のD4aとのことです。東北地方の弥生時代の男性は遺伝的には「縄文人」の範疇に収まるため、「弥生人」という均一な集団が存在したわけではない、と本書は指摘します。弥生時代末以降の古代DNA解析は進んでいないのですが、古墳時代に現代の「本土」日本人の遺伝的構成がおおむね形成されたのではないか、との見通しを本書は提示しています。

 本書は日本列島でもおもに「本土」を対象としていますが、沖縄も含む南西諸島と北海道は、「本土」とは異なる歴史・遺伝的構成があるとして、その形成過程を考察しています。南西諸島については、人類遺骸が少なく、不明なところが多分にあるのですが、「本土」の弥生時代から平安時代にかけて、「本土」から南西諸島へと人々が流入していき、在来集団と混合していったのではないか、と推測されています。北海道に関しては、「縄文人」のmtHgの構成が東北以南の「縄文人」と異なることから、ユーラシア北東部の周辺集団と把握されています。

 本書は日本語で読める最新の遺伝学からの日本人形成論で、良書と言えるでしょう。ただ、やや疑問に思ったところもあり、まずはYHg-A00系統がアフリカの(遺伝学的に)未知の「原人」に由来する、との認識です(P56)。その根拠として本書は、YHg-A00系統と現代人の他のYHg系統との推定分岐年代が34万年前頃であることを挙げています。ただ、YHg-A00系統と現代人の他のYHg系統との推定分岐年代については、当初338000年前(95%の信頼性で581000〜237000年前の間)とされていたものの(関連記事)、後の研究では239000年前頃(95.4%の信頼性で321000〜174000年前の間)とされています(関連記事)。いずれにしても、ゲノム解析では現生人類の最も深い分岐年代は35万〜26万年前頃と推定されていますし(関連記事)、現生人類の起源に関して、アフリカ単一起源説を前提としつつも、現生人類の派生的な形態学的特徴がアフリカ各地で異なる年代・場所・集団に出現し、比較的孤立していた複数集団間の交雑も含まれる複雑な移住・交流により現生人類が形成された、との「アフリカ多地域進化説」が有力になりつつあるように思えることを考えると(関連記事)、YHg-A00系統を「原人」由来と想定しなくともよいように思えます。

 次に、現生人類の起源に関して、各地域の「原人」が独自に進化して成立した、とする多地域進化説が1990年代初頭まで人類学では定説だった、との認識です(P154)。そもそも、多地域進化説の最終的な成立が1980年代になってからですし、その時点ではアフリカ単一起源説もすでに提唱されており、激論が展開されていました。中には、1989年の時点でアフリカ単一起源説は疑う余地がないものとされており、多地域進化説を検討しようものなら、たちまち異端扱いされたほどだった、との認識さえ見られます(関連記事)。こちらもまた極端な見解と言うべきで、1980年代半ば〜1990年代後半にかけて、現生人類の起源に関してアフリカ単一起源説と多地域進化説のどちらかが定説として確立していたわけではない、と思います。また、本書の主題ではないので簡略な説明になってしまうのは仕方ないとしても、各地域の「原人」が独自に進化して成立した、と多地域進化説を説明してしまうと、誤解を招くと思います。多地域進化説は、各地域独自の進化を強調しつつも、地域間の遺伝的交流も想定しており、そのため世界全体で、ホモ・エレクトス(Homo erectus)やネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)のような段階を経て現生人類へと進化した、と想定しているからです(関連記事)。まあ、最近読んだ本もそうだったように、現生人類の起源をめぐる議論は激しいものだったので、関わった人々の認識がやや偏ってしまうのは仕方ないかな、とは思いますが(関連記事)。


参考文献:
篠田謙一(2019)『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』(NHK出版)
https://sicambre.at.webry.info/201904/article_39.html

227. 中川隆[-8846] koaQ7Jey 2019年7月25日 12:25:59 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3868] 報告

現代人のゲノムから過去を知る
Y染色体の遺伝子系図解析からわかった縄文時代晩期から弥生時代にかけておきた急激な人口減少
2019-06-17 東京大学
https://tiisys.com/blog/2019/06/18/post-27212/

発表雑誌名:Scientific Reports

論文タイトル:Analysis of whole Y-chromosome sequences reveals the Japanese population history in the Jomon period

著者:Yusuke Watanabe, Izumi Naka, Seik-Soon Khor, Hiromi Sawai, Yuki Hitomi, Katsushi Tokunaga, Jun Ohashi*

発表のポイント

•日本人男性345名のY染色体全長の塩基配列解析を行い、縄文人に由来するY染色体系統を同定した。縄文人由来Y染色体の遺伝子系図解析によって、縄文時代晩期から弥生時代にかけて、急激な人口減少が起きていたことを明らかにした。

•現代人のゲノムデータから縄文時代の人口の変化を推定した。

•本研究の成果は、日本人の形成過程を解明する上で重要な知見となることが期待される。


発表概要

今回、東京大学大学院理学系研究科の渡部裕介大学院生と大橋順准教授らのグループは、東京大学大学院医学系研究科の徳永勝士教授(研究当時)らのグループと共同で、日本人男性345名のY染色体の全塩基配列決定と変異解析を行った。

他の東アジア人のY染色体データと併せて系統解析をすると、縄文人に由来するY染色体の系統が同定された。

縄文人由来Y染色体の遺伝子系図(共通祖先から現在に至るまでの分岐過程)を推定したところ、縄文時代晩期から弥生時代にかけて人口が急激に減少したことが示された。

縄文時代晩期は世界的に寒冷化した時期であり、気温が下がったことで食料供給量が減ったことが、急激な人口減少の要因の一つではないかと思われる。

本研究の結果は、縄文時代の遺跡数や規模などの変化から類推されてきた縄文時代後期・晩期に起きた急激な人口減少を裏付けるものである。

現代日本人のゲノム多様性を調べることで、その由来も含めて不明な点が多い縄文人の歴史、ひいては日本人の形成過程が解き明かされると期待される。

発表内容

現代日本人の成立過程に関しては諸説あるが、日本列島にいた縄文人と大陸から渡ってきた弥生人が混血したとする「混血説」が広く受け入れられている。日本列島人を対象としたゲノムワイドSNP解析においても、この説を支持する結果が得られている(Japanese Archipelago Human Population Genetics Consortium. 2012, J Hum Genet)。しかし、縄文人の歴史についてはいまだ不明な点が多い。

縄文人は、狩猟採集を生業としながらも定住生活を行い、非常に高い人口密度を達成した世界的にも注目される集団である。発見された遺跡数やその規模等をもとに、縄文時代の人口は縄文時代後期・晩期にかけて急減し、弥生時代に入って急増したと推定されている(Koyama. 1979, Senri Ethnological Studies)。しかし、遺跡の発見はそのロケーション等に依存しており、遺跡が無いのか(人口が少なかったのか)、それとも発見できていないのかを判断することは難しい。

今回、東京大学大学院理学系研究科の渡部裕介大学院生と大橋順准教授らのグループは、東京大学大学院医学系研究科の徳永勝士教授(研究当時)らのグループと共同で、日本人男性345名のY染色体(注1)の全塩基配列決定と変異解析を行った。

常染色体と異なりY染色体は組換えを受けないため、塩基配列の違いをもとにY染色体の系統を区別することができる。そこで、日本人男性345名のY染色体の系統解析(注2)を行ったところ、日本人のY染色体は7つの系統に分かれることが示された(図1)。


さらに、韓国人・中国人を含む他の東アジア人を併せて解析した結果、日本人で35%の頻度でみられる系統1は、他の東アジア人集団ではほとんど観察されないことが示された(図2)。

図1. 日本人345名のY染色体の分子系統樹。数値は各系統のブートストラップ値。
図2. 各Y染色体クレードの東アジア集団における地理的分布。
https://tiisys.com/blog/2019/06/18/post-27212/


系統1に属する日本人Y染色体の変異を詳細に解析したところ、系統1はYAP (注3)という特徴的な変異をもつY染色体ハプログループD1b (注4)に対応していることが示された。YAP変異は、形態学的に縄文人と近縁と考えられているアイヌ人において80%以上という高い頻度で観察されることが知られている。渡来系弥生人の主な母体である韓国人集団や中国人集団には系統1に属するY染色体が観察されなかったことも踏まえると、系統1のY染色体は縄文人に由来すると結論できる。ちなみに、同一検体のミトコンドリアDNA (注5)の系統解析も行ったが、明らかに縄文人由来と想定されるような系統は存在しなかった。

次に、系統1に含まれた122人の縄文人由来Y染色体を対象に遺伝子系図解析(注6)を行ったところ、縄文時代晩期から弥生時代にかけて、人口が急減した後、急増したことが示された(図3)。なお、本研究はY染色体を対象としており、厳密には男性の集団サイズの変化を推定したことになるが、男性の数のみが変化したとは考えにくいため、女性の集団サイズも同様の変化を示したと思われる。

図3. 系統1に含まれる縄文人由来Y染色体を用いて推定した集団サイズの変化。 縄文時代晩期から弥生時代にかけて縄文人の人口が減少したことを示している。本研究では系統1のY染色体のみを用いて推定しているため(バイアスがあるため)、相対的な人口の変化を示している。

縄文時代晩期は世界的に寒冷化した時期であり、気温が下がったことで食料供給量が減ったことが、急激な人口減少の要因の一つではないかと思われる。また、その後人口が増加したのは、渡来系弥生人がもたらした水田稲作技術によって、安定した食料供給が可能になったためと考えられる。

本研究では、現代日本人のY染色体データをもとに縄文時代の人口の変化を推定した。現代日本人のゲノムデータを調べることで、その由来も含めて不明な点が多い縄文人の歴史、ひいては日本人の形成過程が解き明かされると期待される。本研究は、混血した集団の祖先集団における人口の変化を推定する良いケーススタディであり、本研究がとったアプローチは日本人のみならず他の集団の解析にも役立つことが期待される。

用語解説

注1 Y染色体

男性がもつ性染色体の一つであり、性別決定に重要なSRY遺伝子を含む。父性遺伝するため、集団遺伝学的研究ではY染色体の系統は父系を反映する遺伝マーカーとして利用される。

注2 系統解析

塩基配列またはアミノ酸配列を比較し、配列間の進化的関係(分岐のパタン)を調べる統計学的手法。

注3 YAP

Y-chromosome Alu Polymorphismの略。Y染色体の長腕部にある約300塩基からなるAlu配列の挿入変異。アフリカ人集団にも観察されることから、アジア人の祖先がアフリカを出る前に誕生した変異と考えられている。

注4 Y染色体ハプログループD1b

Y染色体上の多型サイトの組合せによって分類される系統をハプログループといい、YAP変異をもつハプログループDの下位系統の1つ。

注5 ミトコンドリアDNA

細胞小器官であるミトコンドリア内にあるDNA。母性遺伝するため、集団遺伝学的研究では、ミトコンドリアDNAの系統は母系を反映する遺伝マーカーとして利用される。

注6 遺伝子系図解析

全ての生物において、親の遺伝子が複製されたコピーが子どもに伝わる。したがって、時間を遡って遺伝子コピーの親を辿っていくと、最終的に一つの共通祖先遺伝子に到達する。この過程を表現したものを遺伝子系図といい、遺伝子系図からその集団の人口の変化を推測することができる。

―東京大学大学院理学系研究科・理学部 広報室―
https://tiisys.com/blog/2019/06/18/post-27212/

228. 中川隆[-8845] koaQ7Jey 2019年7月25日 12:58:55 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3869] 報告

2019年05月07日
現代日本人のY染色体DNAハプログループDの起源
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_11.html


 現代日本人のY染色体DNAハプログループ(YHg)では、Dが30〜40%と高い割合を占めています。YHg-Dは現代では珍しいハプログループで、おもにアジア東部の一部地域とアンダマン諸島で見られます。アンダマン諸島ではYHg-Dは高頻度で見られ、アジア東部では日本列島とチベットを除くときわめて低頻度でしか存在しません。そのため、YHg-Dを現代日本人の独自性の根拠とする言説をネットでよく見かけます。とくに、「縄文人」においてYHg-Dが確認されてからは、長期にわたる日本の独自性が強調される傾向にあるように思います。「縄文人」の父系は現代日本人においてもその多くが継続している、というわけです。

 確かに、現代日本人で高頻度なのはYHg-D1b(ちなみに、チベットで高頻度なのはYHg-D1aです)で、これは「縄文人」でも確認されていますから、そうした言説に一定以上の根拠があることは否定できません。ただ、現時点で確認されている「縄文人」およびゲノム解析で「縄文人」の変異内に収まる東北地方の弥生時代の男性は全員YHg-Dに分類されるものの、より詳細に分類できる個体は全員、YHg-D1b2aです(関連記事)。一方、現代日本人で多いのはYHg-D1b1です。YHg-D1bは、D1b1 とD1b2に分岐し、D1b2からD1b2aが派生します。つまり現時点では、現代日本人のYHgにおいて多数派のD1b1は「縄文人」では確認されていないので、弥生時代以降にアジア東部から到来した可能性も一定以上想定しておかねばならないだろう、と私は考えています。

 この問題は十数年前より考えていましたが、少なからぬ人も考えているであろうように、YHg-Dがかつてアジア東部に一定以上の頻度で広範に存在していた可能性は低くないように思います(関連記事)。もちろん、「縄文人」の核DNA解析数はまだ少なく、東日本に遍在しているため、今後西日本の「縄文人」の解析が進めば、YHg-D1b1がかなりの頻度で発見されるかもしれません。ただ、現代日本人のゲノムに占める「縄文人」由来の領域はせいぜい20%程度にしかならないと予想されており(関連記事)、父系の30〜40%が「縄文系」だと多いかな、とも思います。もちろん、あり得ない数値ではありませんし、仮に現代日本人のYHg-D1b1のうち一定以上の割合が弥生時代以降の「渡来系」だとしても、現代日本人の父系の一定以上の割合は「縄文系」だと思いますが。
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_11.html

229. 中川隆[-8844] koaQ7Jey 2019年7月25日 13:04:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3870] 報告

2007年03月30日
日本とチベットの近縁性?
https://sicambre.at.webry.info/200703/article_31.html

 先日このブログで述べた、篠田謙一『日本人になった祖先たち』では、
http://sicambre.at.webry.info/200703/article_9.html

Y染色体DNAの分析にも1章割かれていると紹介しましたが、そこにはY染色体のハプログループについて興味深いデータが掲載されています。とはいっても、このデータは日本人の起源論に関心のある人にとってはよく知られたものなので、目新しさはありません。

 そのデータは、Y染色体のハプログループDについてのものなのですが、現代日本人男性の3〜4割はこれを持っています。しかし、ミトコンドリアDNAのハプログループ頻度で日本と近い韓国や北京の男性は、これをほとんど持っていません。しかしチベット(定義が厄介なのですが・・・)の男性の3割は、このY染色体のハプログループDを持っています。

 このことから、日本とチベットとの密接な関係を論じる人がいますが、『日本人になった祖先たち』で述べられているように、元々ハプログループDが広く分布していた東アジアにおいて、中国や朝鮮では後になってハプログループOの系統が勢力を拡張したのにたいし、日本とチベットではその影響を受けなかった、と考えるのがよさそうです。つまり、チベットでは山が、日本では海が障壁になったのではないか、というわけです。

 ブリテン島やアメリカ大陸の研究事例では、征服があったとされる地域において、土着系と征服系のDNAの割合について調べると、Y染色体(父系)と比較して、ミトコンドリアDNA(母系)のほうが、土着系と思われるハプログループの割合が高いという推定がなされています。おそらく、中国・朝鮮と日本とのY染色体ハプログループ頻度の違いは、有史以降も含めて、農耕開始以降の大規模な征服活動の有無に起因するところが大なのではないか、と推測されます。

 ちょっと考えてみると分かりますが、男性が潜在的に残せる子孫の数は、女性のそれよりはるかに多くなります。また、支配層の男性は複数の妻を持ち、庶民と比較すると多く子孫を残しやすくなります。そうすると、母系の遺伝的構成(ミトコンドリアDNA)には大きな変化がなくても、男系の遺伝的構成(Y染色体)では大きな変化が生じることもありえます。おそらく日本では、縄文〜弥生の変化も緩やかなものだったのでしょう。近年になって提示された、弥生時代の実年代の繰り上げが妥当かどうか、まだ結論は出ていませんが、縄文〜弥生の変化が緩やかだとすると、実年代の繰り上げのほうに分があると言えそうです。

 中国における春秋戦国・魏晋南北朝・五代十国のような、とくに父系の面での大きな遺伝的変化をもたらす人類集団の移動・争乱が日本になかったのは、日本が海に囲まれているからで、やはり海の障壁としての役割は重視しなければいけないのだと思います。もっとも私は、そこから日本孤立論、さらには日本文明独自論を主張するつもりはなく、前近代においては、日本が中国も含む東アジア文明圏の一員だったと考えていますが。

 こうした遺伝データを見て改めて思ったのは、チベットと朝鮮の運命の違いです。『日本人になった祖先たち』でも触れられているように、漢族は遺伝的には多様な集団なので一概には言えませんが、おそらく華北の漢族は、遺伝的にはチベット族よりも朝鮮族のほうに近いでしょう。文化的にも、中国文化の影響度はチベットよりも朝鮮のほうがずっと強かったでしょう。また政治的にも、中華文明の中心地に樹立された政権の歴史的な影響度は、少なくとも清朝の途中までは、チベットにおいてよりも朝鮮においてのほうがずっと強かったでしょう。しかし、現在チベットは中華人民共和国の一地域で、朝鮮は南北に分かれているとはいえ、独立国です。

 両者の違いは、清代以降の政治状況に起因するのですが、19世紀後半には、清朝にも朝鮮の支配を強化しようという動きがありましたから、あるいは朝鮮が中国領土に組み込まれていたかもしれません。しかし、清朝は日本に破れ、朝鮮の独立を公的に認めざるを得なくなり(もっとも清朝は、一時的にせよ直接支配を強めたチベットとは異なり、朝鮮を実質的には支配できていませんでしたが)、清朝末〜中華民国という混乱期においても、朝鮮を新生中国に組み入れようとの言説はなかったようです(あるいは、私の知らないところであったのかもしれませんが・・・)。

 チベットの独立派からすると、歴史的に漢族と疎遠だったチベットが中国に組み込まれていることや、中国政府の抑圧的体質に不満なのでしょうし、モンゴル(外蒙古)が独立国家なのになぜ自分たちが中国の支配下にあるのだ、との思いもあるのでしょうが、政治とは非情なもので、すべての人が満足のいくようにはならないものです。

 一方中国の漢族のなかには、中華民国も中華人民共和国も基本的には清朝を継承しているのに、モンゴル(外蒙古)が独立国家なのは納得がいかない、と考えている人も少なからずいるでしょうが(そうした漢族の人々は、チベットについてはとうぜん中国領と考えています)、ソ連という後ろ盾のあるモンゴル人民共和国を不本意ながらも承認してしまった経緯があるので、現在ではこの問題について公的に不満を表明する人はいないようです。
https://sicambre.at.webry.info/200703/article_31.html

230. 中川隆[-8843] koaQ7Jey 2019年7月25日 13:42:12 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3871] 報告

2019年06月19日
Y染色体DNA解析から推測される縄文時代晩期の人口減少
https://sicambre.at.webry.info/201906/article_38.html


 父系継承のY染色体(厳密にはわずかにX染色体との間で組換えが起きますが)DNA解析から縄文時代晩期の人口減少を推測した研究(Watanabe et al., 2019)が報道されました。

解説記事
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2019/6431/

もあります。

本論文は、現代日本人を北海道のアイヌ、本州・四国・九州(およびそれぞれのごく近隣の島々)から構成される「本土」、沖縄の琉球の3集団に区分しています。私も、これは遺伝的にも文化的にもおおむね妥当な区分だと思います。ただ、言語を中心とする文化的には、本土集団と琉球集団が近縁なのにたいして、アイヌ集団は両集団とはかなり異なります。

 現代日本人の形成過程は、3集団それぞれで異なります。アイヌ集団は「縄文人」を基盤にオホーツク文化集団などユーラシア北東端集団との融合により形成された、と考えられています(関連記事)。本土集団は、縄文人と弥生時代以降にアジア東部から日本列島に到来した集団との融合により形成され、後者の方が現代人にはずっと多くの影響を残している、と推測されています(関連記事)。琉球集団は、在来の集団と中世に九州南部から到来した集団との融合により成立した、と考えられます(関連記事)。縄文人の現代日本人の各集団への遺伝的影響の推定は難しく、ある程度の幅が想定されていますが、アイヌ集団では66%、本土集団では9〜15%、琉球集団では27%です(関連記事)。アイヌ集団が最も強く縄文人の遺伝的影響を受けており、本土集団は、弥生時代以降のアジア東部からの渡来集団の遺伝的影響を強く受けている、と考えられています。

 本論文は現代日本人345人のY染色体の全塩基配列を決定し、28254ヶ所の一塩基多型を解析しました。本論文はこのデータを、3006ヶ所の一塩基多型を用いて解析されたアジア東部大陸部の各現代人集団と比較しました。対象となったのは、韓国人、ベトナムのキン人、中国北部(北京)の漢人、中国南部の漢人、中国のシーサンパンナタイ族自治州のタイ人です。現代日本人のY染色体DNAは異なる7クレード(単系統群)に区分されました。このうちクレード1はアジア東部大陸部で見られず、現代日本人において特異的です。一方、例外も報告されているものの(関連記事)、原則として母系継承のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では、日本人特有のクレードが見られませんでした。

 クレード1の割合は、現代日本人の本土集団で35.34%、全体では35.7%です。クレード1はY染色体DNAハプログループ(YHg)D1bに相当します。クレード1の割合は現代日本人3集団において最も縄文人と遺伝的に近縁なアイヌ集団で81.3%と高く、本論文はクレード1が縄文人由来と推測しています。クレード2および3は日本人も含むアジア東部集団やアジア南東部集団で比較的高く、クレード2はYHg- O1、クレード3はYHg- O2に相当します。クレード4および5はYHg-C、クレード6および7はYHg-Nに相当します。本土集団における各クレードの割合は、クレード2が35.4%、クレード3が19.7%、クレード4が4.1%、クレード5が4.1%、クレード6が0.9%、クレード7が0.6%です。縄文人におけるY染色体DNAの7クレード割合は、クレード1が約70%、クレード2が14%、クレード3が2%と推定されました。本土集団のクレード3はほぼ弥生時代(以降の)移民に由来すると考えられます。

 本土集団のクレード1の122人のY染色体に関して、ベイジアンスカイラインプロット(BSP)分析が行なわれました。これは、組換えのない相同領域に注目してサンプルDNAに関する分岐パターンと分岐年代を推定し、そこから集団サイズの履歴を推定する方法です。縄文時代が始まった直後の12500年前頃以後に男性の有効人口規模はじょじょに増加し、3200年前頃に急激に減少しました。その後すぐ、クレード1の有効人口規模は増加しました。クレード3の68人の分析では人口減少は観察されず、弥生時代の移民が日本列島に到来した時に、深刻なボトルネック(瓶首効果)は起きなかった、と示唆されました。これは、本土集団のゲノムの80〜90%が弥生時代以降の日本列島への移民に由来する、という以前の観察と一致します。

 縄文時代は、草創期(16500〜11500年前頃)→早期(11500〜7000年前頃)→前期(7000〜5470年前頃)→中期(5470〜4420年前頃)→後期(4420〜3220年前頃)→晩期(3220〜2350年前頃)と一般的に区分されています(関連記事)。本論文は縄文時代の始まりを12500年前頃としていますが、これは、土器製作の開始だけでは縄文時代の指標とは言えず、より定住性が高いことなど縄文的な生活様式の定着が指標になる、との見解を本論文が採用しているからでしょう。もちろん、縄文時代もその次の弥生時代も、本土に限っても一律に移行したわけではなく、地域による年代差があったでしょう。なお、北海道が縄文時代に移行するのは本土に遅れて9000年前頃だった、との見解もあります(関連記事)。

 本論文の見解は、縄文時代後期〜晩期にかけての人口減少という考古学的知見と整合的です。以前の研究では、縄文時代後期〜晩期にかけて、気候変動とともに食性が変わった、と報告されており、狩猟採集への依存度の高い縄文人の人口は、寒冷化による食料不足により減少したのではないか、と本論文は指摘しています。本論文の知見は、弥生時代以降の急速な人口増加も示唆します。これは、本格的な稲作の導入により、食料を安定的に調達できたからではないか、と本論文は指摘しています。本論文の縄文時代後期〜弥生時代初期にかけての人口変動の推定は、厳密には男性に限定されています。人類集団の混合が起きる時、一般的に混合集団への遺伝的寄与は男女で異なるので、縄文人女性の人口史は縄文人男性のそれとは異なっていたかもしれない、と本論文は指摘しています。本論文というか一般的な見解に従えば、縄文人の現代日本人への遺伝的影響は、ゲノム解析からの推定よりもY染色体DNAからの推定の方がずっと高そうです。しかし、後述のように、この見解には疑問も残ります。

 YHg-D1bとなるクレード1は日本列島でしか見られず、YHg-D1もアジア東部ではほぼ日本列島とチベット人にしか見られません。中国と韓国でYHg-D1がほぼ見られないことから、YHg-D1系統の分岐と日本列島への拡散経路およびその年代について、現時点では詳細は不明です。本論文は、YHg-D1bの分岐は縄文人の祖先が日本列島に到達する前に起きた、と推測しています。ただ、現代日本人で多数派なのはYHg- D1b1なのに、縄文人では最近まで詳細な解析の可能な個体ではYHg-D1b2aしか確認されておらず(解説記事)、最近になってYHg-D1b2bが確認されました(関連記事)。いずれにしても、YHg- D1b1はまだ縄文人では確認されていないので、本論文でのクレード1がすべて縄文人由来なのか、断定は時期尚早だと思います。

 チベットと日本列島にYHg-D1が高頻度で存在し、その中間の中国と韓国にほぼ存在しないことから、YHg-D1はかつてユーラシア東部に広範に存在していたものの、文献が残っているような時代も含めてその後の大規模な人類集団の移動により、中国や韓国では他の系統に置換された可能性があります。私が想定しているのは、本論文でのクレード1の一定以上の割合が、弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来している可能性なのですが、この仮説は、無視してよいほど可能性が低いわけではないものの、優先順位はかなり低いので後回しにしてもよい、といった水準ではなく、真剣に検証されるべきだと思います。この問題に関しては最近取り上げましたが(関連記事)、やはり現代人のDNA解析だけで過去の人類史を復元するのには大きな限界があり、ユーラシア東部の古代DNA研究の進展を俟つしかないでしょう。


参考文献:
Watanabe Y et al.(2019): Analysis of whole Y-chromosome sequences reveals the Japanese population history in the Jomon period. Scientific Reports, 9, 8556.
https://doi.org/10.1038/s41598-019-44473-z

https://sicambre.at.webry.info/201906/article_38.html

231. 中川隆[-8842] koaQ7Jey 2019年7月25日 14:08:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3872] 報告

2019年06月01日
北海道の「縄文人」の高品質なゲノム配列
https://sicambre.at.webry.info/201906/article_2.html

 北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の「縄文人」の高品質なゲノム配列を報告した研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)が公表されました。

この研究についてはすでに報道されていました(関連記事)。


https://sicambre.at.webry.info/201905/article_24.html

この研究はオンライン版での先行公開となります。現代日本人は大きく、アイヌ集団・「本土」集団・琉球集団に区分されます。現代日本人の起源は人類学・考古学・遺伝学で長く議論されており、縄文人が共通の祖先集団となっていることについては、おおむね共通認識になっている、と言えるでしょうが、縄文人と縄文時代以後の渡来集団の現代人への遺伝的影響度合など、これらの集団はそれぞれ異なる形成史を有する、と推測されています。

 さらに、縄文人の起源についても、形態学ではアジア北東部説と南東部説が提示されており、明確ではありません。20世紀第4四半期以降、縄文人のDNA解析も進められ、まずミトコンドリアDNA(mtDNA)で始まり、その後は核DNAも対象となり、ゲノム規模のデータも報告されています(関連記事)。しかし、高品質とは言えないのでその網羅率は高くなく、縄文人の遺伝的特徴を理解するのに充分ではありませんでした。これまで、縄文人の遺伝的特徴に関しては、本土集団よりも縄文人の遺伝的影響を強く保持していると推測されてきた、アイヌ集団と琉球集団から間接的に推測されてきました。

 本論文は、北海道の礼文島の船泊貝塚で1998年に発見された人類遺骸のうち2個体(F5およびF23)のDNA解析結果を報告しています。放射性炭素年代測定法による推定年代は3800〜3500年前頃です。この2人のミトコンドリアDNA(mtDNA)と核DNAが解析され、mtDNAハプログループ(mtHg)とY染色体DNAハプログループ(YHg)が決定されるとともに、F23の高品質なゲノム配列が得られました(DNA配列の深度のピークは、F5が1倍、F23が48倍です)。DNA解析からF5は男性、F23は女性と推定され、これは形態学的所見と一致します。この船泊縄文人のゲノムデータは世界各地の現代人および古代人と比較され、縄文人の遺伝的特徴がじゅうらいよりもずっと詳細に明らかになりました。

 F5もF23もmtHg-N9b1で、以前の研究と一致します。ただ、両者ともN9b1のサブグループであるN9b1a・N9b1b・N9b1cには分類されませんでした。F5はYHg-D1b2bで、これまで「縄文系」のYHgで詳細に分類できていた個体は全員D1b2aだったので(関連記事)、縄文系としては初めて確認されたD1b2bということになりそうです。いずれにしても、縄文系のYHgでは、現代日本人のYHg-Dにおいて多数派となるD1b1(32.7%、その他のD1bは6.1%)はまだ確認されていないことになります。この問題は最近取り上げましたが(関連記事)、現代日本人で多数派のYHg-D1b1が縄文人由来なのか、それとも弥生時代以降に日本列島に到来したユーラシア東部集団由来なのか判断するには、日本列島も含めてユーラシア東部の古代DNA研究の進展が必要だと思います。

 F23のゲノムから表現型も推測されています。F23の血液型は、ABO式ではA(AO)、Rh式ではRhD+です。ただ、ABO式血液型のAx02のアレル(対立遺伝子)では、縄文人のAx0201とAx0202は現代日本人も含む他集団では稀です。シャベル状切歯の程度はわずかで、歯冠サイズは中間的と推定され、これまでに報告されてきた縄文人の特徴と一致します。ただ、F23に切歯は残っていないので、じっさいに形態と一致するのか、確認できませんでした。F23の髪は細いと推測されています。F23の耳垢は湿性で、これは縄文人も含むアジア北東部集団において多数派だったと考えられています。F23のアルコール耐性は高く、肌と虹彩の色は中間程度の濃さと推定されています。F23の身長型スコアはやや低く、アジア東部の現代人集団と比較して身長が低い、と示唆されます。これらのF23の特徴は、形態学からしてきされていた、低身長、弥生時代以降の農耕民より小さな歯、現代アジア東部集団と比較しての非シャベル状切歯頻度の高さなどといった縄文人の特徴とよく合致しています。

 F23の色素関連遺伝子(MC1R)の多様体からは、ソバカスや深刻なシミ(日光黒子)の危険性の高さが推測されています。また、F23は心筋症や統合失調症と関連した多様体を有していました。F23がホモ接合型で有している、CPT1A遺伝子の多様体(p.Pro479Leu)はF5でも見られます。CPT1A遺伝子は脂肪酸代謝に必須で、F23の多様体は、ケトン性低血糖症や乳幼児死亡率の高さといった疾患、インシュリン抵抗性の低下、身長や体重など体格の低下と強く関連しています。この多様体は北極圏の先住民集団では70〜90%と高頻度で見られますが、他集団ではほぼ見られません。これは、高脂肪食や寒冷環境への適応と関連しており、脂肪の豊富な海生哺乳類を主要な食資源としていたことを反映しているのではないか、と推測されています。じっさい、同位体分析により、船泊縄文人は陸生および海生動物を食べていた、と推測されています。ただ、この多様体の起源がどの集団にあるのか、また北東部縄文人に共通しているのか、まだ明らかではありません。

 F23は現代人と比較してヘテロ接合性が低く、ホモ接合性が高い、と明らかになりました。これは、F23の遺伝的多様性の低さを示します。しかしF23は、長いホモ接合性領域が近親婚による個体と比較して少なく、直近世代での近親婚はなかっただろう、と推測されています。形態学的類似性と抜歯のような共通習慣から、北海道の最北部と南西部では文化的・遺伝的交流があったと推測されており、近親婚が避けられていた、と考えられます。F23の遺伝的多様性の低さと関連して、船泊縄文人集団系統の人口規模は小さく、次第に有効人口規模が小さくなっていったのではないか、と推測されます。具体的には、7700世代よりも前には20000人、7700世代前には10000人、2500世代前には5000人、100世代前には200人と減少していった、と推定されています。1世代を20〜30年と仮定すると、50000年前頃以降に顕著に有効人口規模が低下していったと推測され、これは現生人類(Homo sapiens)のアフリカから世界各地への拡散に伴う創始者効果と対応しているのでしょう。

 船泊縄文人(F23)は三貫地縄文人(関連記事)と同じく、アフリカ人・ヨーロッパ人・サフルランド(更新世寒冷期に陸続きになっていてたオーストラリア大陸・ニューギニア島・タスマニア島)人・アメリカ大陸先住民よりも、ユーラシア東部集団と遺伝的に密接でした。アジア東部集団との比較では、船泊縄文人は他の現代ユーラシア東部集団とは異なっており、現代日本人は船泊・三貫地・伊川津の縄文人とユーラシア北東部集団との間に位置します。船泊・三貫地・伊川津の縄文人は、他の集団との比較で遺伝的に相互に密接な関係にあります。

 船泊縄文人系統は、パプア系統とユーラシア東部系統が分岐し、次に4万年前頃の華北の田园(Tianyuan)男性(関連記事)系統と他のユーラシア東部系統が分岐した後、ユーラシア東部系統とアメリカ大陸先住民系統が36000±15000年前頃に分岐する前に、ユーラシア東部系統と分岐した、と推定されています。ただ、25000±1100年前頃まで両者の間には遺伝子流動があった、と推測されています(関連記事)。漢人と船泊縄文人との分岐は、38000〜18000年前頃と推定されており、この期間に船泊縄文人系統は他のユーラシア東部系統と分岐したのでしょう。なお、アメリカ大陸先住民は、ユーラシア東部系統と田园系統が分岐した後のユーラシア東部系統だけではなく、ヨーロッパ系統と近縁なシベリア南部中央系統(古代ユーラシア北部集団)の強い遺伝的影響を受けています(関連記事)。

 船泊縄文人と遺伝的に比較的近縁な地域集団は、現代人ではアムール川下流域のウリチ人(Ulchi)・韓国人・台湾先住民のアミ人(Ami)とタイヤル人(Atayal)・イゴロット人(Igorot)などのフィリピン人・日本人で、古代人では7700年前頃の朝鮮半島に近いロシア沿岸地域の悪魔の門(Devil’s Gate)遺跡集団(関連記事)です。いずれもアジア東部沿岸圏に存在します。船泊縄文人との遺伝的距離では、漢人は日本人・韓国人・台湾先住民よりも遠く、YHgでは船泊縄文人および日本人と密接なチベット人も、ゲノム解析では他のアジア東部集団と比較して、とくに船泊縄文人と近縁というわけではありませんでした。漢人など多くのアジア北東部集団よりも船泊縄文人と遺伝的に近い現代人集団の中では、日本人が最も近く、ウリチ人がそれに続き、その後が韓国人・アミ人・タイヤル人です。

 注目されるのは、F23が他のほとんどのアジア東部集団よりもオーストラリア大陸先住民と多くのハプロタイプを共有していた、と推定されたことです。アマゾンの一部アメリカ大陸先住民集団にはオーストラレシア人の遺伝的影響が指摘されていますが(関連記事)、船泊縄文人とほとんどのアジア東部集団は、このアマゾンの祖先集団とは近縁ではない、と推測されています。この問題は謎めいており、解明には現代人と古代人のゲノムデータのさらなる蓄積が必要となるでしょう。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と現生人類(Homo sapiens)との交雑はすでによく知られているでしょうが(関連記事)、F23のゲノムへのネアンデルタール人およびデニソワ人の影響は、アメリカ大陸先住民集団やアジア東部集団とほぼ同じです。

 上述のように、船泊縄文人ではmtHg- N9b1とYHg- D1b2bが確認されています。mtHg- N9bとYHg- D1bはいずれもほぼ日本列島にのみ存在し、共通祖先の推定年代は、前者が22000年前頃、後者が19400年前頃です。現代のユーラシア東部集団に遺伝的影響を残していない新石器時代ユーラシア東部集団が日本列島に拡散し、船泊縄文人も含む北部縄文人の祖先になった可能性もありますが、本論文は、北部縄文人を日本列島の更新世集団の子孫という見解を支持しています。

 上述のように、船泊縄文人は、アジア東部沿岸地域の現代人集団と遺伝的に近縁です。これはゲノムデータだけではなく、mtHgでも同様です。これに関しては、アジア東部沿岸地域への最初の移住集団を共有しているか、縄文人系統が他のアジア東部集団と分岐した後の遺伝子流動が考えられます。上述した日本人とウリチ人の船泊縄文人との遺伝的近縁性の高さと、ウリチ人の祖先集団と考えられる悪魔の門集団と船泊縄文人との遺伝的類似性の低さからも、両者の間の遺伝子流動が支持されています。しかし、韓国人やアミ人やタイヤル人に関しては、どちらの仮説がより妥当なのか、判断は困難で、もっと多くのゲノムデータが必要と本論文は指摘します。

 上述のように、船泊縄文人は漢人よりも日本人やウリチ人や韓国人や台湾先住民といったアジア東部沿岸地域の現代人集団と遺伝的に近縁なのですが、漢人よりもさらに遠い関係にあるのが、タイなどのアジア南東部集団です。船泊縄文人と漢人やアジア南東部集団との関係について本論文は、(1)未知の集団とアジア南東部祖先集団との交雑、(2)船泊縄文人系統と漢人関連古代集団との間の分岐後の遺伝子流動、(3)船泊縄文人およびアジア北東部大陸集団の共通祖先とアジア南東部集団との分岐後に、古代アジア南東部集団が大陸部アジア北東部集団と交雑した、という可能性を想定しています。本論文は、カンボジア人における遺伝的にヨーロッパ集団ともアジア東部集団とも等距離にある未知のユーラシア集団からの16%ほどの遺伝的影響から、(1)を支持しているものの、その他の2仮説のさらなる検証の必要性も指摘しています。

 現代日本人起源論との関連では、縄文人とアイヌ・本土・琉球という現代日本の3集団との関係が注目されます。船泊縄文人(F23)のゲノムデータは、アイヌ集団と琉球集団が本土集団より縄文人系統の遺伝的影響を強く保持している、というじゅうらいの見解を改めて支持します。F23で観察されたヒト白血球型抗原(HLA)アレルも、本土集団よりアイヌ集団と琉球集団において高頻度で見られました。縄文人の現代日本人の各集団への遺伝的影響の推定は難しく、本論文もある程度の幅を想定しているのですが、アイヌ集団では66%、本土日本人では9〜15%、琉球集団では27%です。

 じゅうらいの諸研究は、アイヌ集団は縄文人を基盤に、その後のオホーツク文化集団やその他のシベリア北東部集団の遺伝的影響を受けて成立した、と指摘します。これらのシベリア北東部集団は、現代人ではアムール川下流域の集団と近縁と推測されていますが、アイヌ集団の形成過程のより詳細な解明も、アジア北東部の古代DNA研究の進展が必要となります。アイヌ集団に関して、北海道の縄文人との遺伝的継続性を否定し、12世紀頃に樺太から北海道に渡来した、という認識さえネットでは見られますが(関連記事)、本論文により、そうした認識は与太話にすぎないと改めて示された、と言えるでしょう。

 本土集団と琉球集団は、先住の縄文人と後に渡来した人々との混合と考えられます。この後に渡来した集団は、おそらく弥生時代以降にアジア東部から日本列島に到来した農耕民で、現代人では韓国人や漢人と遺伝的に近縁です。もちろん、現代の韓国人や漢人も歴史的に形成されてきたわけで、紀元前9世紀〜紀元後6世紀にかけて日本列島に到来したアジア東部集団の遺伝的構成が、そのまま現代の韓国人や漢人と同じというわけではありません。本土集団における縄文人の遺伝的影響は高くとも15%程度と本論文では推定されていますが、この数字が独り歩きすることは懸念されます(関連記事)。上述したYHg-D1b1の問題からも、縄文人は均質的でありながらもある程度の地域差があり、本土集団に大きな影響を残しているのは西日本の縄文人とも考えられるからです。現代日本人の起源については、日本列島のみならずユーラシア東部の古代ゲノムデータの蓄積が必要で、日本人の私は今後の研究の進展をたいへん楽しみにしています。


参考文献:
Kanzawa-Kiriyama H. et al.(2019): Late Jomon male and female genome sequences from the Funadomari site in Hokkaido, Japan. Anthropological Science.
https://doi.org/10.1537/ase.190415


https://sicambre.at.webry.info/201906/article_2.html

232. 中川隆[-8845] koaQ7Jey 2019年7月25日 16:42:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3869] 報告

2019年05月14日
「縄文人」のゲノム解析(追記有)
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_24.html

 「縄文人」のゲノム解析について報道されました。「縄文人のすべての遺伝情報を初めて解読できた」とのことですので、「縄文人」としては初めて高品質なゲノム配列が決定された、ということでしょうか。この「縄文人」は北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の女性です。表現型では、皮膚の色は濃く、髪は細く巻き毛で、瞳は茶色で酒に強く、耳垢は湿っていることなどが明らかになったそうです。また、北極圏の住民に多く見られる、脂肪分の多い食べ物を代謝するのに有利に働く遺伝子の変異も見つかり、狩りや漁を中心とした生活の様子が裏づけられた、とのことです。

 この船泊遺跡の「縄文人」女性から、現代日本人のゲノムに占める「縄文人」由来の領域は10%程度と推定されています。また、「縄文人」の祖先は、38000〜18000年前頃に、ユーラシア大陸の住民から分岐したと推定されているそうです。「縄文人」は遺伝的には、台湾先住民・韓国人・極東ロシアのウルチ人など、アジア東部沿岸の南北に広範な人々と近いことが明らかになった、とのことです。これらの情報はおおむね、篠田謙一氏の昨年(2018年)の解説記事(関連記事)や今年3月に刊行された著書(関連記事)で明らかにされていたので、とくに意外な感はありません。

 ただ、現代日本人のゲノムに占める「縄文人」由来の領域は10%程度との推定に関しては、まだ確定的とは言えないでしょう。篠田氏の今年3月に刊行された著書では、現代日本人には東日本よりも西日本の「縄文人」の方がより多くの遺伝的影響を残していると推定されることと、縄文時代と現代のミトコンドリアDNAハプログループの比較から、現代日本人における「縄文人」の遺伝的影響は20%程度になりそうだ、と推測されています。今後、「縄文人」やユーラシア東部の古代DNA研究が進めば、「縄文人」がどのように形成されたのか、また現代日本列島にどの程度の遺伝的影響を残し、地域差はどれくらいあるのか、といったことがより詳細に解明されるのではないか、と期待されます。


追記(2019年5月14日)
 国立科学博物館からのプレスリリースが公表されました。船泊遺跡の「縄文人」のゲノム解析に関する論文は今月(2019年5月)下旬に公表予定とのことです。


この記事へのコメント


kurozee 2019年05月22日 14:42

2018年7月、金沢大学の覺張隆史特任助教らが、伊川津貝塚遺跡から出土した約2千500年前の縄文晩期の女性人骨から、「世界で初めて」縄文人の全ゲノム配列を解読したと大学から発表されました。

この全ゲノム配列をもとに,現代の東アジア人,東南アジア人,8〜2千年前の東南アジア人など80を超える人類集団や世界各地の人類集団のゲノムの比較解析を実施したところ,この縄文人女性と現在のラオスに約8千年前にいた狩猟採集民の古人骨のゲノムがよく似ていることが分かったそうです。この論文は同月6日に国際学術誌「Science」に掲載されたとのことです。

この研究では、縄文時代から現代まで日本列島人は大陸南部地域の人々と遺伝的に深いつながりがあることが,独立した複数の国際研究機関のクロスチェック分析によって科学的に実証された初めての研究として位置付けられたとされています。

雑記帳では当時、この件についての記事を書かれましたか?(私は見つけられなかったのですが)

管理人 2019年05月22日 16:35

その研究は、昨年取り上げました。
https://sicambre.at.webry.info/201807/article_11.html

kurozee 2019年05月22日 18:50

すみません、「現代東南アジア人の形成過程」記事でしたね。縄文人ゲノムを手がかりに検索したので探せませんでした。この記事は読んでいました。
縄文人といっても、三貫地、伊川津そして今回の船泊と、時代と地域によってかなり差があるという印象を持っていますが、おっしゃる通り、今後の研究を待ちたいですね。

管理人 2019年05月23日 14:25

時代・地域による違いは間違いなくありますね。それがどの程度なのかということや、形成過程についての研究の進展が楽しみです。

https://sicambre.at.webry.info/201905/article_24.html

233. 中川隆[-8844] koaQ7Jey 2019年7月25日 18:37:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3870] 報告

2019年01月24日
近世アイヌ集団のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_45.html

 取り上げるのがたいへん遅れてしまいましたが、近世アイヌ集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Adachi et al., 2018)が公表されました。現代アイヌ人(と呼ぶと人間人のような意味となって不自然とも言えるかもしれませんが)の形成に関しては、現代日本人起源論との関連で議論されてきました。現代日本人起源論では、二重構造モデルが有力な仮説として認められてきました。更新世の日本列島最初の人類集団は東南アジア起源で、そこから縄文集団が形成され、弥生時代以降の北東アジアから移住者と在来の縄文集団との融合により現代日本人が形成された、と考えられています。

 これはおもに本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」での過程で、沖縄地域と北海道では、縄文集団の遺伝的影響が日本列島「本土」より強く残った、と想定されています。その結果、沖縄でも北海道でも日本列島「本土」とは大きく異なる文化集団が形成されました。これは北海道ではとくに顕著で、日本列島「本土」集団たる「日本人(もしくはヤマト人)」とは言語も含めて文化の大きく異なるアイヌ人が形成された、との理解が一般的です。アイヌ人と日本人とは異なる民族と考えるのが妥当でしょう。文化的観点では、アイヌ的な文化はおおむね紀元後13世紀に確立した、と一般的に考えられています。

 二重構造モデルでは当初、とくに北海道では、前近代において縄文集団の子孫と他地域集団との遺伝的混合はほとんどなかった、と想定されていました。しかし、その後の形態学および遺伝学的研究では、オホーツク文化集団がアイヌ集団の形成に影響を及ぼした、と推測されています。オホーツク文化集団はユーラシア北東部から拡散してきたと考えられており、紀元後5〜13世紀に北海道北部および北東部沿岸やサハリン南部に存在していましたが、北海道では本州の影響を受けた擦文文化の拡散に伴い急速に衰退し、10世紀初めまでにはほとんど消滅しました。オホーツク文化は擦文文化の影響を受けてトビニタイ文化へと変容し、13世紀に始まるアイヌ時代まで続きます。オホーツク文化集団の遺伝的影響とは、具体的には、北海道縄文集団には見られないmtDNAハプログループA・C・Yで、これらはオホーツク文化集団と現代のシベリア先住民集団に見られます。

 これまでのアイヌ人に関する遺伝研究の問題点は、現代人のDNAのみが解析されていることです。そのため、前近代の日本列島「本土」集団(以下、本土集団と省略)からの遺伝的影響の評価はできませんでした。また、これまでの研究の問題点として、対象地域が限定的もしくは不明であることが挙げられます。ほとんどの研究は北海道の平取町の51人の遺伝的データに基づいています。近世アイヌのDNA研究もありますが、標本の地域は明らかにされていません。そのため、これまでの研究ではアイヌ集団の遺伝的地域差の評価ができませんでした。本論文は、北海道全域のアイヌ集団の遺骸からmtDNAを解析しました。全標本の年代は江戸時代(近世)に収まり、通説では、本土集団の大規模な遺伝的影響は報告されておらず、本土集団のアイヌ集団への強い遺伝的影響は、明治時代以降の「開拓」に始まる、と想定されていました。

 本論文は、近世アイヌ集団115標本のうち94標本の配列に成功しました。江本論文は、近世アイヌ集団で観察されたハプログループの地域差を明らかにするために、次の4タイプに分類しました。それは、北海道縄文型(北海道縄文集団で見られるハプログループ)、オホーツク型(オホーツク文化集団に見られ、北海道縄文集団には存在しないハプログループ)、本土型(北海道縄文人とオホーツク文化人には存在せず、現代の本土日本人には現代のシベリア先住民集団よりも高い頻度で見られるハプログループ)、シベリア型(北海道縄文集団とオホーツク文化集団には存在せず、現代の本土日本人よりも高い頻度で現代のシベリア先住民集団に見られるハプログループ)です。

 mtDNAでも、北海道縄文集団と近世アイヌ集団との遺伝的連続性が確認されました。北海道縄文集団の中で最も高頻度のハプログループN9b1は、近世アイヌ集団でも比較的高頻度で見られます。Y染色体DNAでも、この連続性が確認されています。北海道縄文集団と近世アイヌ集団との違いは、北海道縄文集団に見られるmtDNAハプログループN9b4・N9b*・D4h2・M7aが近世アイヌ集団には確認されていない一方で、北海道縄文集団では確認されていない19のハプログループが近世アイヌ集団には見られることです。

 本論文は、この違いが何に起因するのか検証するため、近世アイヌ集団と、東アジアとシベリアの古代および現代の14集団を比較しました。以前の研究では、アイヌ人は北海道縄文集団とオホーツク文化集団を含むアムール川下流域集団との中間に位置します。これは、アイヌ人が北海道縄文集団とオホーツク文化集団との混合により成立した、との見解を支持します。しかし、近世アイヌ集団に見られるmtDNAハプログループの中には、M7a1などのように、北海道縄文集団にもオホーツク文化集団にも見られないものがあります。これは、北海道縄文集団とオホーツク文化集団以外にも、アイヌ人の遺伝的集団が存在することを示唆します。本論文は、本土集団とシベリア先住民集団も近世アイヌ集団に遺伝的影響を及ぼしている、と明らかにしました。

 近世アイヌ集団における各集団のタイプのmtDNAハプログループの割合は、オホーツク型で35.1%、北海道縄文型で30.9%、本土型で28.1%、シベリア型で7.3%となります。オホーツク型の割合の高さも注目されますが、何よりも注目されるのはオホーツク型・北海道縄文型とさほど変わらない本土型の割合で、前近代においてすでに、アイヌ集団と本土集団との混合がかなり進展していた、と示唆されます。シベリア型の存在は、オホーツク文化が北海道から消えた後でも、北海道のアイヌ集団とシベリア先住民集団との間に遺伝的関係が継続していたことを示唆します。

 北海道の近世アイヌ集団を南西と北東で区切ると、北海道型・オホーツク型・本土型・シベリア型の比率には、顕著な地域差が見られました。たとえば、北海道型の比率は北東アイヌ集団の方が高い一方で、本土型の比率は南西アイヌ集団の方が高くなっています。これについては地理的要因が考えられ、形態学的研究とも一致します。オホーツク型とシベリア型の比率に関しては、近世アイヌの両集団間で大きな差はありません。したがって、オホーツク文化集団の遺伝的影響は北海道全域の祖型アイヌ集団に急速に拡散した、と考えられます。

 このように、近世アイヌ集団は複数の起源集団を有しているわけて、アイヌ人もまた「交雑する人類」の例外ではなかったわけです(関連記事)。ただ、例外も報告されているとはいえ(関連記事)、mtDNAは基本的に母系遺伝です。そのため、mtDNAに基づく集団の歴史の解釈には慎重でなければならない、と本論文は指摘します。近世アイヌ集団における、各地域集団の遺伝的影響の比率やその歴史的経緯に関しては、やはり中世と古代までさかのぼって核DNAを解析し、周辺の各集団と比較していかねば、詳細は分からないのでしょう。今後の研究の進展が期待されます。


参考文献:
Adachi N. et al.(2018): Ethnic derivation of the Ainu inferred from ancient mitochondrial DNA data. American Journal of Physical Anthropology, 165, 1, 139–148.
https://doi.org/10.1002/ajpa.23338


https://sicambre.at.webry.info/201901/article_45.html

234. 中川隆[-8841] koaQ7Jey 2019年7月25日 18:52:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3873] 報告
2019年03月11日
アイヌ民族が12世紀ごろ樺太から北海道に渡来した?
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_20.html

 表題の呟きがTwitter上で流れてきました。全文引用すると、


DNA解析により、アイヌ民族が12世紀ごろ樺太から北海道に渡来したのが判明!
北海道の縄文人には、アイヌ民族の特徴であるミトコンドリアDNAのハプログループYがない。
よって、アイヌ民族は北海道先住民族ではない と北海道庁ご認定していた:そよ風
https://sicambre.at.webry.info/201903/article_20.html


となります。その根拠として、

「アイヌ民族は北海道先住民族ではない」と題するブログ記事
http://blog.livedoor.jp/soyokaze2009/archives/51838956.html


が挙げられています。


では、その根拠が何なのかというと、遺伝学的には、アイヌ民族の特徴であるミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループY(Y1)が北海道の「縄文人」にはない、ということです。上記ブログは、「北海道の縄文人とアイヌは全く関係ないと言える」と断定しています。以下、基本的には

近世アイヌ集団のミトコンドリアDNA(mtDNA)解析結果を報告した研究(Adachi et al., 2018)
https://onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1002/ajpa.23338

に依拠して述べていきます

(関連記事)2019年01月24日 近世アイヌ集団のmtDNA解析
https://sicambre.at.webry.info/201901/article_45.html


 確かに、現代アイヌ人のmtDNAハプログループに占めるY1の比率は19.6%で、比較的高いと言えそうです。また、北海道の縄文人ではY1は確認されていません。上記ブログは、江戸時代以降の日本人にもmtDNAハプログループY1が見られるので、江戸時代以前に倭人が北海道に多数いた、と推測しています。しかし、Y1が現代の「本土日本人」に占める割合は0.5%程度で、Y1はオホーツク集団由来と推測されています(オホーツク集団では43.2%)。

 また、現代アイヌ人にも近世アイヌ人にもN9bやG1bといった北海道縄文人のmtDNAハプログループは継承されており、現代アイヌ人では25%以上、近世アイヌ人では30%弱となります(M7a2も含めると30.9%)。もちろん、これは基本的には母系遺伝となるmtDNAのハプログループなので、核DNA解析ではまた違った割合になるでしょうが、少なくとも母系において、現代および近世アイヌ人は遺伝的に北海道縄文人と一定以上のつながりがある、と言えるでしょう。

 そもそも、民族は遺伝的に定義できるわけではない、という観点が上記ブログには欠けています。任意の2集団間、もしくは特定の集団と他集団とを比較すると、遺伝的構成が異なるのは当然です。民族に関しても同様で、ある民族を他の民族と比較すると遺伝的構成は異なり、その民族に固有の遺伝的構成が見出されます。しかし、それは民族という区分を前提として見出される遺伝的構成の違いであって、遺伝的構成の違いが民族を定義できるわけではありません。アイヌ人を遺伝的に云々といった見解の多くでは、論理の倒錯が見られるように思います。

 前近代において民族という概念を適用して歴史を語ることには問題が多い、と私は考えていますが、民族が近代の「発明」ではなく、各集団によりその影響度が異なるとはいえ、前近代の歴史的条件を多分に継承していることは否定できないでしょう。その意味で、前近代において多様な民族的集団の存在を認めることには、一定以上の妥当性があると思います。民族の基本は共通の自己認識でしょうが、「客観的に」判断するとなると、文化の共通性となるでしょうから、文字資料のない時代にも、考古学的にある程度以上の水準で「民族的集団」の存在を認定することは可能です。

 そうした前近代の「民族的集団」の中には、民族は遺伝的に定義できる、といった単純素朴な観念が通用しない事例も報告されています。たとえばスキタイ人は遺伝的に、東方系がヤムナヤ(Yamnaya)文化集団と、西方系が中央アジア北東部からシベリア南部のアファナシェヴォ(Afanasievo)およびアンドロノヴォ(Andronovo)文化集団と近縁です

(関連記事)
2018年10月07日
青銅器時代〜鉄器時代のユーラシア西部草原地帯の遊牧民集団の変遷
https://sicambre.at.webry.info/201810/article_11.html


青銅器時代のコーカサス地域のマイコープ(Maykop)文化集団は、山麓地域と草原地域とで遺伝的構成が明確に異なっており、遺伝的に異なる在来集団による共通の文化の形成・受容が想定されます

(関連記事)
2019年02月07日 コーカサス地域の銅石器時代〜青銅器時代の人類のゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_10.html


 もちろん、スキタイ人のようなユーラシア内陸部の遊牧民集団と、遊牧民が存在しなかったと言っても大過はないだろう日本列島の人類集団とを単純に比較できませんが、民族を遺伝的に定義することは基本的に間違っていると思います。民族はあくまでも文化的に定義された集団であり、任意の2集団間、もしくは特定の集団と他集団とを比較すると、必然的に遺伝的構成が異なる、というだけのことです。これを倒錯させて、遺伝的構成の違いから民族集団を定義することはできません。

 本題に戻すと、上記ブログでは、アイヌ民族が12世紀頃に樺太から北海道に南下してきてオホーツク集団を滅ぼした、と主張されています。その根拠となる、アイヌ民族は北海道縄文人と(遺伝的に)まったく関係ない、との見解が間違いであることは上述したので、それ話は終わりです。しかし、オホーツク文化が北海道から消えた後でも、北海道のアイヌ集団とシベリア先住民集団との間に遺伝的関係が継続していた可能性も指摘されていますので、これを過大評価というか歪めて解釈して、アイヌ人が12世紀頃に北海道に侵略してきた、との与太話が今後拡散されるかもしれません。しかし、オホーツク文化が北海道から消えた後のシベリア先住民集団の北海道集団への遺伝的影響は、母系ではせいぜい6.4%程度で、大きな影響があった可能性はきわめて低そうです。

 なお、上記ブログでは、平取町からは正倉院御物と同じ組成の奈良時代の青銅器が発見されており、奈良時代にすでに天皇の力が北海道にも及んでいた、と主張されています。平取町の青銅器の話についてはよく知りませんが、仮にそうだとして、アイヌが北海道の先住民族だという前提は物的証拠によって完全に覆されている、との評価は的外れでしょう。確かに、正倉院御物と同じ組成の青銅器が北海道にあることを、天皇の「力が及んでいた」と解釈することは、定義次第ではあるものの、できなくもありませんが(かなり無理筋ではありますが)、それを言うなら、弥生時代や古墳時代の「日本」には、もっと強く「中国」の「力が及んでいた」と解釈すべきでしょう。

平安時代の日本の知識層の領域観念(関連記事)
2018年08月29日 佐藤弘夫『「神国」日本 記紀から中世、そしてナショナリズムへ』(前編)
https://sicambre.at.webry.info/201808/article_51.html


からも、奈良時代の日本人には、北海道を「日本」に含めるような概念はなかっただろう、と思います。

 それにしても、与太話にすぎない上記の呟きがリツイート1300以上・いいね1600以上とは残念です。もちろん、リツイートやいいねが賛同を意味するとは限りませんが、多くの場合は賛同だと思います。これを呟いた城之内みな氏のフォロワーは約26000アカウントで、フォローは1674アカウントですから、相互フォローでフォロワーを増やしていったのではなく、呟きの内容でフォロワーを獲得したのでしょう。その意味で、かなり影響力の強いアカウントなのでしょうが、こんな与太話にすぎない呟きにも多数のリツイートやいいねが集まるとは、残念というだけではなく、脅威と考えねばならないようです。


参考文献:
Adachi N. et al.(2018): Ethnic derivation of the Ainu inferred from ancient mitochondrial DNA data. American Journal of Physical Anthropology, 165, 1, 139–148.
https://doi.org/10.1002/ajpa.23338


https://sicambre.at.webry.info/201903/article_20.html

235. 中川隆[-8840] koaQ7Jey 2019年7月25日 18:59:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3874] 報告

2018年07月24日
『洋泉社ムック歴史REAL 日本人の起源』
https://sicambre.at.webry.info/201807/article_37.html


 洋泉社より2018年6月に刊行されました。

https://www.amazon.co.jp/%E6%AD%B4%E5%8F%B2REAL%E6%97%A5%E6%9C%AC%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%B5%B7%E6%BA%90-%E6%B4%8B%E6%B3%89%E7%A4%BEMOOK-%E6%AD%B4%E5%8F%B2REAL/dp/4800314739


本書はおもに、弥生時代までの古代DNA研究・縄文時代研究・弥生時代研究の解説で構成されています。それぞれの執筆者は篠田謙一・山田康弘・藤尾慎一郎の各氏で、期待できそうなので購入しましたが、期待通りに最近の研究成果を知ることができました。とくに、弥生時代までの古代DNA研究の解説では、私が不勉強なため、多くの知見を新たに得ることができ、たいへん有益でした。以下、本書で注目した見解について、備忘録的に取り上げていきます。

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析から、縄文人にはハプログループM7aとN9bが広範囲で見つかっており、現代ではほぼ日本人にしか見られません。ただ、どちらも出現(分岐)年代が3万〜2万年前頃なので、38000年前頃に日本列島に進出してきた人類と縄文人とは直接的な祖先-子孫関係にはなかった可能性が指摘されています。もっとも、あくまでもmtDNA解析に基づく推測ですから、38000年前頃の日本列島の人類集団と縄文人とが、もちろんその後の流入による遺伝的影響はあるとしても、直接的な祖先-子孫関係にある可能性も考えられます。

 縄文人のmtDNA解析数も蓄積されて、地域差が見えてくるようになりました。琉球列島を含む関西以西ではM7aが卓越するのにたいして、北海道・東北ではN9bが多数を占めています。また、サブグループまで分類すると、関西以西と東北・北海道では、M7aでもそれぞれ異なるグループが分布しています。そのため本書では、地域間の人的交流が広範囲に及ぶものではなかったかもしれない、と指摘されています。もっとも、後述するように、遺伝的交流は盛んではなくとも、交易などによる文化的交流はある程度以上活発だった可能性もじゅうぶんあるとは思います。

 また、現代日本人では、N9bが2%程度で、7%程度存在するM7aも、縄文時代の関西以西のサブグループで大半を占めることから、現代日本人に継承されている縄文人のDNAは、おもに西日本の縄文人に由来するのかもしれません。そうだとすると、弥生時代最初期にユーラシア大陸から九州北部に渡来した集団が在地の縄文人と混合し、東進していったために、現代日本人に占める縄文人の遺伝的影響は、西日本系の方が東日本系より高くなったのかもしれない、と本書は推測しています。

 縄文人のゲノム解析も進められており、最近になって、北海道礼文島の船泊遺跡から出土した3800〜3500年前頃の女性のゲノムは、現代人とほぼ同じ精度で解析されたそうです。平均網羅率は明示されていませんでしたが、30倍以上ということでしょうか。この女性の血液型はA型で、耳垢は湿式、切歯はシャベル状ではなく、巻き毛だったことが明らかになっています。これらの表現型はおおむね予想通りでしたが、目の虹彩は茶色で、人骨からの推測通り、身長が低くなる傾向を有する遺伝子が確認されました。

 この女性の両親は近い血縁関係にあり、両親の近縁関係の程度はアマゾンの先住民と同じくらいと推測されています。船泊遺跡からは、新潟県の糸魚川沿いの翡翠や、シベリアで発見されたものと類似した貝製装飾品が発見されていますが、婚姻圏は狭かったのではないか、と本書は推測しています。ただ、こうした狭い婚姻関係が一般的だったのか否かは、もっと縄文人のゲノム解析数が蓄積されないと、判断が難しいように思います。

 船泊遺跡の女性のゲノム解析の結果、福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚の縄文人と同様に(関連記事)、船泊縄文人も現代の東アジア集団とは大きく離れている、と明らかになりました。現代人の集団で船泊縄文人とある程度遺伝的に近縁性を示すのは、アイヌ・琉球・「本土」日本・台湾や沿海州などユーラシア東部圏沿岸地域の先住民でした。本書は、東南アジアからの初期拡散により北上した集団のなかでユーラシア東部圏沿岸地域に居住した人々が融合し、縄文人が形成されたのではないか、と推測していますが、確証するにはユーラシア大陸の古代DNA解析が必要だ、と指摘しています。

 船泊遺跡では縄文時代の男性遺骸も発見されており、ゲノムが部分的に解析されているそうです。この男性もゲノムが解析された女性も、海獣など脂肪分に富む食資源に依存している場合に有利となる、脂肪代謝に関連する多様体を有しており、北極圏の先住民集団も同様です。船泊遺跡ではじっさいに漁撈具や海獣の骨が多数発見されているので、海獣への依存度が高い食生活を送っていたようです。船泊遺跡の男性のY染色体ハプログループは、現代日本人では30%以上存在するものの、中国や韓国ではほとんど見られないD1bでした。しかし、船泊遺跡の男性のY染色体ハプログループは、D1bの中でも現代日本人で多数を占めるサブグループD1b1ではなく、Y染色体でも、北海道の縄文人が現代日本人にはさほど遺伝的影響を及ぼしていない、という可能性が想定されます。

 弥生時代の人類のゲノム解析も進められていますが、縄文系と渡来系という以前からの形態学的分類がそのまま当てはまるものではなく、複雑な様相を呈していることが明らかになってきました。福岡県那珂川町安徳台遺跡で発見された弥生時代中期の女性は、典型的な渡来系弥生人と考えられており、遺伝的には韓国や中国の集団と類似する、と予想されていましたが、ゲノム解析の結果、現代日本人の範疇に収まり、むしろやや縄文人に近い、と明らかになりました。本書は、安徳台遺跡の弥生時代中期の集団が東進し、在来の縄文系と混合していったとすると、現代日本人における縄文人の遺伝的影響はもっと高くなっていると予想されることから、弥生時代中期〜古墳時代におけるユーラシア大陸からの渡来を想定する必要がある、と指摘しています。

 縄文系とされる弥生人のゲノムも解析されています。長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡で発見された弥生時代後期の合葬された男女2人は、縄文人と共通する形態学的特徴を有している、と評価されています。mtDNAのハプログループでは、女性が縄文系と考えられるM7a、男性が渡来系と考えられるD4aと明らかになりました。しかし、核ゲノム解析では、縄文人と現代日本人の中間に位置する、との結果が得られました。上述した安徳台遺跡の事例からも、弥生時代には在来系と渡来系との融合が進んでおり、弥生人は均一な集団ではなく、独自の遺伝的構成を有していた、と言えるでしょう。本書は、弥生時代の渡来系は当初より在来系の縄文人と融合し始め、当時の朝鮮半島には渡来系弥生人と同じ遺伝的構成を有する集団はいなかっただろう、と推測しています。

 また本書は、弥生時代になっても日本列島の大半に縄文系の人々がいたと考えられることから、弥生時代以降もユーラシア大陸から日本列島への流入があり、現代日本人につながる集団の完成は古墳時代だろう、との見通しを提示しています。まだ予備的な研究の段階ですが、古墳時代になると、関東の集団の遺伝的な構成が大きく変わるそうで、古墳時代の日本列島の住民のDNA解析の進展が期待されます。また、飛鳥時代以降の古代DNAの解析も、日本史研究に大きく寄与するでしょうから、今後の研究の進展が楽しみです。


 これまで、先史時代の研究は考古学と形態学が主流でした。近年では古代DNA研究の進展が目覚ましいものの、考古学と形態学でも研究は着実に進展しています。日本列島最初期の土器は北海道では発見されておらず、朝鮮半島最古の土器は1万年前頃であることから、縄文土器は日本列島で開発された可能性が高そうです。また南島地域においては、縄文文化との共通性も相違点も見られ、時期により縄文文化と連動したり離れたりしていたそうです。本書は、他地域との交流はあるにしても、対馬海峡において文化的な境界線を引けることからも(関連記事)、縄文文化の空間的範囲は、現代の日本国の領域と厳密に一致しているわけではないものの、ほぼその範囲に収まる、との見解を提示しています。

 これは形態学的にも言えることで、縄文人の形質は、空間的には北海道から九州まで、時代的には早期から晩期前半までほぼ同一で、世界中で類似した古人骨は発見されていないそうです。そのため、縄文時代には、形質を大きく変化させるような他地域からの人的流入はなかった、と考えられています。それでも、やはり地域差はあり、北海道では地位内の差異が比較的大きい一方で、九州では小さいことが明らかになっており、縄文人の形成過程と関わっているかもしれません。

 縄文時代には定住が進みましたが、その度合いは地域により異なっており、その要因は依存していた食資源の違いだろう、と推測されています。縄文時代の農耕は近年よく主張されるようになりましたが、畑はまだ見つかっておらず、ダイズやアズキなどの作物が確定しただけだ、と本書は慎重な姿勢を示しています。縄文時代には、後期において、墓の分析から、北海道や東北でかなりの階層化が生じていた、と推測されています。しかし本書は、晩期にはこれらの地域で均質化が見られることから、おそらくは人口の少なさが要因で、階層社会は持続しなかっただろう、と指摘しています。

 弥生時代については、本書では紀元前10世紀にさかのぼるとする早期説が大前提となっていますが、まだ議論が決着したとは言えないようです(関連記事)。茨城県と栃木県以北では、水田稲作が行なわれても環濠集落が見られませんが、本書はその理由を、地域の核となる存在がなかったからではないか、と推測しています。水田稲作は、災害にあってもすぐに再開する傾向が強いのですが、東北の北部では、水田稲作が途絶えて数百年再開されませんでした。本書はその理由として、寒冷な気候が要因ではなく、東北の北部には水田稲作が始まっても土偶があることから、何らかの信仰形態・世界観の違いを挙げています。本書では古墳時代についても少し言及されており、九州や近畿では墳丘墓が早くから見られるものの、紀元後には衰退して古墳時代には直結しておらず、古墳時代の直接の起源は、紀元後2世紀半ば〜後半にかけての吉備や出雲にあるのではないか、との見解が提示されています。
https://sicambre.at.webry.info/201807/article_37.html

236. 中川隆[-8834] koaQ7Jey 2019年7月25日 20:27:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3880] 報告

2018年05月27日
縄文時代における九州と朝鮮半島との交流
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_45.html


 以前、当ブログで

山田康弘『つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る』
https://www.amazon.co.jp/%E3%81%A4%E3%81%8F%E3%82%89%E3%82%8C%E3%81%9F%E7%B8%84%E6%96%87%E6%99%82%E4%BB%A3-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%96%87%E5%8C%96%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%83%8F%E3%82%92%E6%8E%A2%E3%82%8B-%E6%96%B0%E6%BD%AE%E9%81%B8%E6%9B%B8-%E5%B1%B1%E7%94%B0-%E5%BA%B7%E5%BC%98/dp/4106037785


を取り上げ、縄文時代における九州と朝鮮半島との交流についても少し言及しましたが(関連記事)、
https://sicambre.at.webry.info/201512/article_30.html


もう少し詳しく同書の見解を取り上げることにします(同書P129〜133)。じゅうらい、縄文時代の日本列島は他地域との交流がほとんどなかった、と考えられてきました。それは、「縄文人」のような形態の人類集団が他地域で確認されず、細かな地域差・時代差があるとはいえ、地理的範囲は北海道から九州まで、時間的範囲は早期から晩期前半まで、「縄文人」の形態はほぼ同一とされてきたからでした。

 しかし、考古学的資料により、縄文時代における九州、さらには西日本と朝鮮半島との交流が明らかになってきました。たとえば、西日本各地に分布する縄文時代前期の轟式土器や曽畑式土器は、朝鮮半島に分布する隆起線文土器や櫛目文土器との類似性が指摘されています。また、轟式土器と曽畑式土器の間に位置づけられる西唐津式土器と朝鮮半島の土器との関係も指摘されるようになっており、相互の土器形式に影響を及ぼす水準で交流があったことは確実とされています。

 朝鮮半島の煙臺島遺跡からは、縄文時代の石器として一般的な石匙が出土しています。縄文時代後期に西北九州で多くみられる石鋸も、朝鮮半島の松島遺跡など南岸部から出土しています。佐賀県の腰岳から産出する黒曜石は、朝鮮半島南岸部からも出土しています。また、朝鮮半島の土偶の中には、縄文時代早期のものとの類似性が指摘されるものもあります。その他にも、縄文時代には珍しくない貝輪・獣歯牙製装身具・土製耳飾りなどが、朝鮮半島南部で出土しています。こうした遺物だけではなく、人類遺骸でも、朝鮮半島と縄文時代の日本列島との交流の可能性が指摘されています。煙臺島遺跡から出土した人類遺骸には、縄文人の形態がよく認められるそうです。

 しかし、近年の研究の進展により、九州を中心とする縄文時代の西日本と朝鮮半島との交流については、一時期の過大評価が訂正される傾向にあるようです。まず、朝鮮半島における縄文(系)土器の出土点数は、在地の有文土器と比較すると0.1%にも満たない、とのことです。また、土器の製作技法・文様の割り付け方法・結合式釣針の製作技法などの比較の結果、縄文時代の日本列島と朝鮮半島との類似性は、同一の文様構成原理や技法で製作されたという水準ではなく、あくまでも視覚的な部分に留まっている、とも指摘されています。見た目は類似しているものの、人間が恒常的に往来して製作技法そのものが伝えられているような状況ではなかっただろう、というわけです。対馬の越高・尾崎遺跡や夫婦岩遺跡などでは、朝鮮半島系の土器が主体的に出土することもありますが、これは特定の時期だけの減少で、他の時期では基本的に縄文土器が出土するそうです。朝鮮半島には縄文(系)土器が主体的に出土する遺跡は存在せず、あくまでも単発的・客体的に出土するにすぎません。

 これまで、縄文時代の日本列島と朝鮮半島の考古学的資料の類似性は、交流の証明としてひじょうに高く評価されてきましたが、再考が必要ではないか、と本書は指摘します。縄文時代の北部九州と朝鮮半島南部との交流はさほど多くなく、南島地域との比較でも少なかったので、北部九州と朝鮮半島南部の間には言語の壁があったのではないか、との見解も提示されています。また本書は、朝鮮半島では土偶はほとんど出土せず、大型のものはないことと、縄文文化でよく見られる呪術具は朝鮮半島では出土頻度が低いことなどからも、縄文時代の北部九州と朝鮮半島南部は文化を共有するという状況ではなく、対馬海峡で線を引くことが可能ではないか、と指摘します。縄文文化がユーラシア大陸からの影響を受けたことは間違いないとしても、縄文文化はおおむね日本列島内に収まっているとの見解にも一理ある、と本書は指摘しています。
https://sicambre.at.webry.info/201805/article_45.html

237. 中川隆[-8832] koaQ7Jey 2019年7月25日 20:54:51 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3882] 報告

2019年05月24日
現代日本人における「縄文人」の遺伝的影響
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_43.html

 現代日本人のうち、人数では圧倒的な割合を占める本州・四国・九州(「本土日本人」)の人々がどの程度「縄文人」の遺伝的影響を受けているのか、という問題については、複数の推定値が提示されています。「本土日本人」のゲノムに占める「縄文人」由来の領域の割合は、福島県相馬郡新地町の三貫地貝塚の3000年前頃の「縄文人」の研究では15%程度(関連記事)、愛知県田原市伊川津町貝塚の2600年前頃の「縄文人」のゲノムも解析したアジア南東部現代人集団の形成過程についての研究では21%程度(関連記事)、北海道礼文町の船泊遺跡の3800年前頃の「縄文人」の研究では10%程度(関連記事)と推定されています。

 これらのうち、高品質なゲノム配列が得られているのは船泊遺跡の「縄文人」なので、これが最も信頼できる推定値とは言えます。では、現代「本土日本人」のゲノムに占める「縄文人」由来の領域の割合は10%で確定なのかというとそうではなく、篠田謙一『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』は、現代「本土日本人」のゲノムに占める「縄文人」由来の領域の割合を20%程度と推定しています(関連記事)。「10%」という数字が、あたかも確定的であるかのごとくネットなどで喧伝される危険性には注意しなければならないでしょう。

 なぜこのような違いが生じるのかというと、ゲノム配列の品質の問題もあるのですが、重要なのは、どの「縄文人」集団が現代「本土日本人」により強く遺伝的影響を残したのか、ということです。『日本人になった祖先たち』は、東日本よりも西日本の「縄文人」の方が現代「本土日本人」により多くの遺伝的影響を残している、と推定しています。その意味で、愛知県の2600年前頃の「縄文人」のゲノム解析から、現代「本土日本人」のゲノムへの「縄文人」の影響が21%程度と推定されていることを考慮すると、西日本「縄文人」のゲノム解析結果からは、現代「本土日本人」のゲノムへの「縄文人」の影響が、25%程度かそれ以上になっても不思議ではないと思います。

 最近当ブログにて、現代日本人のY染色体DNAハプログループ(YHg)で30〜40%と高い割合を占めるDの起源について、その多くが「縄文人」ではなく弥生時代以降の「渡来系」である可能性も考えられる、と述べました(関連記事)。しかし、現代「本土日本人」のゲノムに「縄文人」の中でより大きな影響を残したのが西日本集団だとすると、YHg-Dが西日本の「縄文人」である可能性もじゅうぶん考えられます。これについては、西日本だけではなく、ユーラシア東部の古代DNA研究が進まないと、なかなか確定的なことは言えないでしょう。

 このように、古代の人類集団の現代人のゲノムへの影響については、どの集団を対象とした比較かにより、推定値が異なってきます。古代人のゲノム解析事例はまだ少ないので、「縄文人」のように1個体もしくは2個体からのゲノム配列のみが比較の場合も多く、今後の研究の進展により、数値が変わってくる可能性は高いでしょう。A集団の現代人B集団への遺伝的影響とはいっても、A集団内部のA1集団とA2集団のどちらを比較対象として、どちらがB集団により強い遺伝的影響を残した集団と近縁なのかにより、推定値は変わってくる、というわけです。

 具体的には、たとえばネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)の事例がそうです。以前には、ネアンデルタール人の高品質なゲノム配列は南シベリアのアルタイ地域でしか得られていなかったのですが(関連記事)、その後、クロアチアでも、ネアンデルタール人の高品質なゲノム配列が得られました(関連記事)。非アフリカ系現代人全員の祖先集団が交雑したネアンデルタール人集団は、南シベリアのネアンデルタール人よりもクロアチアのネアンデルタール人の方と近いと推定されており、非アフリカ系現代人のゲノムに占めるネアンデルタール人由来の領域の推定値は、以前よりも高いと見直されました。同様のことが、「縄文人」の現代「本土日本人」への遺伝的影響についても言えるでしょう。
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_43.html

238. 中川隆[-8794] koaQ7Jey 2019年8月17日 15:24:43 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[3948] 報告

2019年08月17日
遺伝学および考古学と「極右」
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

 遺伝学および考古学と「極右」に関する研究(Hakenbeck., 2019)が公表されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。遺伝学は人類集団の形成史の解明に大きな役割を果たしてきました。とくに近年では、古代DNA研究が飛躍的に発展したことにより、じゅうらいよりもずっと詳しく人類集団の形成史が明らかになってきました。古代DNA研究の発展により、今や古代人のゲノムデータも珍しくなくなり、ミトコンドリアDNA(mtDNA)だけの場合よりもずっと高精度な形成史の推測が可能となりました。こうした古代DNA研究がとくに発展している地域はヨーロッパで、他地域よりもDNAが保存されやすい環境という条件もありますが、影響力の強い研究者にヨーロッパ系が多いことも一因として否定できないでしょう。

 現代ヨーロッパ人はおもに、旧石器時代〜中石器時代の狩猟採集民と、新石器時代にアナトリア半島からヨーロッパに拡散してきた農耕民と、後期新石器時代〜青銅器時代前期にかけてポントス・カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からヨーロッパに拡散してきた、牧畜遊牧民であるヤムナヤ(Yamnaya)文化集団の混合により形成されています(関連記事)。この牧畜遊牧民の遺伝的影響は大きく、ドイツの後期新石器時代縄目文土器(Corded Ware)文化集団は、そのゲノムのうち75%をヤムナヤ文化集団から継承したと推定されており、4500年前までには、ヨーロッパ東方の草原地帯からヨーロッパ西方へと大規模な人間の移動があったことが窺えます。

 現代ヨーロッパ人におけるヤムナヤ文化集団の遺伝的影響の大きさと、その急速な影響拡大から、ヤムナヤ文化集団がインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらした、との見解が有力になりつつあります。また、期新石器時代〜青銅器時代にかけてインド・ヨーロッパ語族をヨーロッパにもたらしたと考えられるポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団は、Y染色体DNA解析から男性主体だったと推測されています(関連記事)。そのため、インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡大は征服・暴力的なもので、言語学の成果も取り入れられ、征服者の社会には若い男性の略奪が構造的に組み込まれていた、と想定されています。

 インド・ヨーロッパ語族のヨーロッパへの拡散について以前は、青銅器時代にコーカサス北部の草原地帯からもたらされたとする説と、新石器時代にアナトリア半島の農耕民からもたらされたとする説がありましたが、古代DNA研究は前者と整合的というか前者に近い説を強く示唆しました。こうして古代DNA研究の進展により、一般的にはヨーロッパ人およびインド・ヨーロッパ語族の起源に関する問題が解決されたように思われましたが、本論文は、飛躍的に発展した古代DNA研究に潜む問題点を指摘します。

 本論文がまず問題としているのは、古代DNA研究において、特定の少数の個体のゲノムデータが生業(狩猟採集や農耕など)もしくは縄目文土器や鐘状ビーカー(Bell Beaker)などの考古学的文化集団、あるいはその両方の組み合わせの集団を表している、との前提が見られることです。埋葬者の社会経済的背景があまり考慮されていないのではないか、というわけです。また、この前提が成立するには、集団が遺伝的に均質でなければなりません。この問題に関しては、標本数の増加により精度が高められていくでしょうが、そもそも遺骸の数が限られている古代DNA研究において、根本的な解決が難しいのも確かでしょう。

 さらに本論文は、こうした古代DNA研究の傾向は、発展というよりもむしろ劣化・後退ではないか、と指摘します。19世紀から20世紀初期にかけて、ヨーロッパの文化は近東やエジプトから西進し、文化(アイデア)の拡散もしくは人々の移住により広がった、と想定されていました。この想定には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。イギリスでは1960年代まで、すべての文化革新は人々の移動もしくはアイデアの拡散によりヨーロッパ大陸からもたらされた、と考えられていました。

 1960年代以降、アイデアやアイデンティティの変化といった在来集団の地域的な発展が物質文化の変化をもたらす、との理論が提唱されるようになりました。古代DNA研究は、1960年代以降、移住を前提とする潮流から内在的発展を重視するようになった潮流への変化を再逆転させるものではないか、と本論文は指摘します。じっさい、ポントス・カスピ海草原の牧畜遊牧民集団のヨーロッパへの拡散の考古学的指標とされている鐘状ビーカー文化集団に関しては、イベリア半島とヨーロッパ中央部とで、遺伝的類似性が限定的にしか認められていません(関連記事)。中世ヨーロッパの墓地でも、被葬者の遺伝的起源が多様と示唆されています(関連記事)。

 本論文が最も強く懸念している問題というか、本論文の主題は、こうした古代DNA研究の飛躍的発展により得られた人類集団の形成史に関する知見が、人種差別的な白人至上主義者をも含む「極右」に利用されていることです。上述のように、20世紀初期には、民族(的な)集団は単純な分類で明確に区分され、特有の物質的記録を伴う、との前提がありました。ナチズムに代表される人種差別的な観念は、こうした民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような前提のもとで形成されていきました。本論文は、20世紀初期の前提へと後退した古代DNA研究が、極右に都合よく利用されやすい知見を提供しやすい構造に陥っているのではないか、と懸念します。

 じっさい、ポントス・カスピ海草原という特定地域の集団が、男性主体でヨーロッパの広範な地域に拡散し、それは征服・暴力的なものだったと想定する、近年の古代DNA研究の知見が、極右により「アーリア人」の起源と関連づけられる傾向も見られるそうです。こうした極右の動向の背景として、遺伝子検査の普及により一般人も祖先を一定以上の精度で調べられるようになったことも指摘されています。本論文は、遺伝人類学の研究者たちが、マスメディアを通じて自分たちの研究成果を公表する時に、人種差別的な極右に利用される危険性を注意深く考慮するよう、提言しています。本論文は、研究者たちの現在の努力は要求されるべき水準よりずっと低く、早急に改善する必要がある、と指摘しています。


 以上、本論文の見解を簡単にまとめました。古代DNA研究に関して、本論文の懸念にもっともなところがあることは否定できません。ただ、古代DNA研究の側もその点は認識しつつあるように思います。たとえば、古代DNA研究においてスキタイ人集団が遺伝的に多様であることも指摘されており(関連記事)、標本数の制約に起因する限界はあるにしても、少数の個体を特定の文化集団の代表とすることによる問題は、今後じょじょに解消されていくのではないか、と期待されます。また、文化の拡散に関しては、多様なパターンを想定するのが常識的で、移住を重視する見解だからといって、ただちに警戒する必要があるとは思いません。

 研究者たちのマスメディアへの発信について、本論文は研究者たちの努力が足りない、と厳しく指摘します。現状では、研究者側の努力が充分と言えないのかもしれませんが、これは基本的には、広く一般層へと情報を伝えることが使命のマスメディアの側の問題だろう、と私は考えています。研究者の役割は、第一義的には一般層へと分かりやすく情報を伝えることではありません。研究者の側にもさらなる努力が求められることは否定できないでしょうし、そうした努力について当ブログで取り上げたこともありますが(関連記事)、この件に関して研究者側に過大な要求をすべきではない、と思います。

 本論文はおもにヨーロッパを対象としていますが、日本でも類似した現象は見られます。おそらく代表的なものは、日本人の遺伝子は近隣の南北朝鮮や中国の人々とは大きく異なる、といった言説でしょう。その最大の根拠はY染色体DNAハプログループ(YHg)で、縄文時代からの「日本人」の遺伝的継続性が強調されます。しかし、YHgに関して、現代日本人で多数派のYHg-D1b1はまだ「縄文人」では確認されておらず、この系統が弥生時代以降のアジア東部からの移民に由来する可能性は、現時点では一定以上認めるべきだろう、と思います(関連記事)。日本でも、古代DNA研究も含めて遺伝人類学の研究成果が「極右」というか「ネトウヨ」に都合よく利用されている側面は否定できません。まあ、「左翼」や「リベラル」の側から見れば、「極右」というか「ネトウヨ」に他ならないだろう私が言うのも、どうかといったところではありますが。


参考文献:
Hakenbeck SE.(2019): Genetics, archaeology and the far right: an unholy Trinity. World Archaeology.
https://doi.org/10.1080/00438243.2019.1617189


https://sicambre.at.webry.info/201908/article_32.html

239. 中川隆[-8700] koaQ7Jey 2019年8月23日 09:08:20 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4047] 報告
2019年08月23日
天皇のY染色体ハプログループ
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_44.html

 天皇というか皇族のY染色体ハプログループ(YHg)について、D1bとの情報がネットで出回っており、確定したかのように喧伝されているので、以前から一度調べてみるつもりだったのですが、さほど優先順位が高いわけでもないので、後回しにしていました。

今回、少し調べてみたのですが、査読誌に掲載された論文や、信頼できる研究機関の報告では見つけることができませんでした。もちろん、そうしたものが存在する可能性はあるわけですが、私の現在の見識と気力ではこれ以上検索しても徒労に終わるだろうと判断して、打ち切りました。

 とりあえず、元ネタになりそうな有名人のYHgというサイトを見つけたのですが、そこでは、日本語ブログが典拠とされていました。


Famous people's Y-DNA listed by haplogroup - Eupedia
https://www.eupedia.com/genetics/famous_y-dna_by_haplogroup.shtml


その日本語ブログはもう閉鎖されているので、インターネットアーカイブで該当記事を検索すると、

「皇室は、第113代 東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔内粘膜の解析により、縄文人のD1b(D-M64.1)に属するD1b1a2の系統と言われ」

とありました。「東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔内粘膜の解析」にはリンクが貼られているのですが、インターネットアーカイブで検索しても見つかりませんでした。

 また、2016年5月8日時点での情報ですが、

『天皇家のハプログループについて「第113代 東山天皇の男系子孫 複数名から採取された口腔内粘膜の解析」とあるにもかかわらずリンク先には全くデータは示されていない』

とあります。したがって、東山天皇の男系子孫がYHg-D1b1a2とは確定できないでしょう。もちろん、そうである可能性もじゅうぶんあるとは思うので、否定もできませんが。上記サイトによると、別人の皇族子孫が検査したところ、YHg- D1b1a2b1a1だったそうで、「東山天皇の男系子孫 複数名」の事例と整合的ですが、典拠は明示されていません。

 けっきょくのところ、皇族がYHg-D1bとの情報に確たる信頼性を認めるのは難しいように思います。ただ、上述のように、その可能性は一定以上あると思います。仮に東山天皇の男系子孫がYHg-D1b1a2だとすると、同じく東山天皇の男系子孫である現在の皇族(もちろん、男性限定ですが)もYHg-D1b1a2だろう、と推定するのは合理的です。問題となるのは、「間違い」が起きていた場合です。たとえば、エドワード3世に始まる男系では、どこかで系図とは異なる父親が存在した、と明らかになっています。これは海外の事例ですが、日本でも、同様の可能性が起きていた可能性は否定できません(関連記事)。ただ、その可能性はさほど高いとも思えないので、今回は考慮しません。

 YHg-D1bは「縄文人」由来と推定されており、最近の研究でもその推定が改めて支持されています(関連記事)。したがって、皇族は縄文時代以来日本列島で継続している父系だ、と考えるのは妥当なところです。その意味で、皇族は「縄文系」と言っても、少なくとも大間違いとは言えないと思います。「縄文人」の現代日本人への遺伝的影響は、アイヌ集団では66%、「(本州・四国・九州を中心とする)本土」集団では9〜15%、琉球集団では27%と推定されています(関連記事)。これは北海道の「縄文人」の高品質なゲノムデータに基づいているので、西日本の「縄文人」のゲノムデータが得られて比較されると、「本土」集団における「縄文人」の遺伝的影響はもっと高くなるかもしれません。

 ただ、「本土」集団のYHg-D1bの割合は35.34%なので(関連記事)、父系において不自然に「縄文人」の影響が高いようにも思われます。しかし、皇族がYHg-D1bだとすると、皇族の男系子孫は武士になって日本各地に定着していき、養子も珍しくなかったとはいえ、原則として父系継承だったので、「本土」集団のゲノムでは弥生時代以降にアジア東部から日本列島へ到来した集団の影響が強くても、父系では「縄文人」の影響が強く残ったというか、中世以降に影響を高めて現代のような比率になった、と想定しやすくなります。その意味でも、皇族が父系では「縄文系」だった可能性はじゅうぶんある、と言えるでしょう。

 ただ、ここで問題となるのは、皇族がYHg-D1b1a2あるいはそのサブグループD1b1a2b1a1だとして、「縄文系」と断定できるのか、ということです。現時点では、「縄文人」のYHgはD1b2しか確認されておらず(関連記事)、現代日本人で多数派のYHg-D1b1の祖先とはなりません。もっとも、まだ東日本の「縄文人」しか解析されていないので、西日本の「縄文人」の中にはYHg-D1b1も一定以上の割合でいるかもしれませんし、東日本の「縄文人」でも今後YHg-D1b1が確認されるかもしれません。しかし、現時点で「縄文人」においてはYHg-D1b1が確認されていない、という事実は無視できないと思います。YHg-D1b1が弥生時代以降にアジア東部から到来した集団に由来する可能性も現時点では一定以上ある、と私は考えています(関連記事)。その意味で、仮に皇族がYHg-D1b1a2だったとして、父系では「縄文系」と断定するのは時期尚早だと思います。
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_44.html  


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2019年05月12日
神武天皇のY染色体
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_21.html


 皇位継承にさいして男系維持派がY染色体を根拠とすることについては、すでに11年半近く前(2007年11月)に当ブログで述べましたが(関連記事)、今でも男系維持派がY染色体を根拠とすることもあり、一部?の界隈ではすっかり定着したようです。この問題について当時も今も思うのは、皇位継承のような物語性の強い社会的合意事項に安易に自然科学の概念を持ち込むべきではない、ということです。重要なのは、少なくとも6世紀半ば以降、皇位(大王位)が男系で継承されてきた、という社会的合意(前近代において、その社会の範囲は広くなかったでしょうが)であり、それは自然科学の概念とは馴染まない、と思います。

 男系継承においてY染色体を根拠にしてしまうと、生物学的確実性が要求されるわけで、どこかで「間違い」が起きた場合、それ以降の天皇の正統性が損なわれることになります。もちろん、現実には宮中においてそうした「間違い」が生じる危険性はかなり低いとは思います。ただ、皇位(大王位)の男系継承が6世紀半ば以降としても、すでに1400年以上経過しているわけで、どこかで1回「間違い」が起きた可能性は無視できるほど低いものではないと思います。

 この問題でよく言及されるのは『源氏物語』でしょうが、これはあくまでも創作であり、じっさいに「間違い」が起きた根拠にはできませんし、そうした「間違い」が起きる危険性はかなり低かったのかもしれません。ただ、皇后に仕えて後宮の事情に精通していただろう紫式部が『源氏物語』でわざわざ「間違い」を取り入れたのは、ある程度以上の現実性があったからではないか、とも考えられます。もっとも、『源氏物語』での「間違い」の結果でも、「初代天皇」と生物学的に父系でつながっていない天皇が即位したわけではありませんが。具体的な「間違い」ではありませんが、状況証拠的な事例としては、江戸時代初期の猪熊事件があります。

 現実の「間違い」としては、崇光天皇の皇太子に立てられた直仁親王が、公式には花園院の息子とされていたのに、実は光厳院の息子だった、という事例があります(佐伯智広『皇位継承の中世史 血統をめぐる政治と内乱』P179〜180)。直仁親王が崇光天皇の皇太子に立てられたのは光厳院の意向で、花園院の甥の光厳院が親王時代に世話になった叔父に報いた、という美談として当時は受け取られたかもしれませんが、裏にはそうした事情があったわけです。なお、光厳院は院政を継続するために、直仁親王を皇太子に立てるさいに養子としています。もちろん、直仁親王が光厳院の実子だったのか否か、DNA鑑定がされたはずもなく断定できるわけではありませんが、少なくとも光厳院は直仁親王が実子だと確信していました。もっとも、直仁親王の事例にしても、『源氏物語』と同じく、初代天皇」と生物学的に父系でつながっていない男性が天皇に即位する予定だったわけではありませんが。なお直仁親王は、正平一統により皇太子を廃され即位できず、その子孫が即位することもありませんでした。

 持統天皇以降には火葬された天皇も多く、また飛鳥時代以前には天皇(大王)の陵墓も確実ではない場合がほとんどで、そもそも天皇陵とされている古墳の調査には制約が大きいので、天皇(大王)だったかもしれない人物のDNA解析は実質的に不可能です。また、仮にほぼ天皇と間違いない遺骸のDNA解析が技術的には可能だとしても、じっさいに解析して現代の皇族と比較するようなことを宮内庁、さらには政府が許可するとも思えません。その意味で、Y染色体を根拠とする男系維持派も、その多くは、実質的にDNA解析は不可能だと考えて、無責任にY染色体を根拠としているのでしょう。しかし上述したように、皇位の父系継承の根拠としてY染色体を持ち出せば、生物学的確実性が要求されるわけで、女系容認派や天皇制廃止派に付け入る隙を与えるだけの愚行だと思います。少なくとも6世紀以降の皇位継承が男系を大前提としていたことは明らかで、そのさいに重要なのは、あくまでも皇位継承者が「初代天皇」と男系でつながっているという社会的認知であり、Y染色体を持ち出す必要はまったくないばかりか、有害でしかありません。何よりも、Y染色体を根拠とすれば過去の女性天皇の正統性が損なわれるわけで、父系で「初代天皇」とつながっている、という社会的合意があれば充分でしょう。

 少なくとも6世紀以降の皇位継承が男系を大前提としていたことは、例外がないことからも明らかです。称徳→光仁・称光→後花園・後桃園→光格といった事例のように、前天皇とは血縁関係の遠い人物が即位したことは歴史上何度かありますが、いずれにしても男系で皇統につながっています。また、皇后の在り様からも、8世紀初頭においてすでに、皇位継承が男系に限定されていた、と窺えます。皇后の条件は令においてとくに規定されていませんが(これは、天皇について令で規定されていないことと通じると思います)、妃の条件が内親王であることと、藤原氏出身の光明子を皇后に立てるさいの聖武天皇の勅の歯切れがきわめて悪いことから、皇后には皇族(内親王)が想定されていた、と考えるのが妥当でしょう。これは、6〜7世紀には皇后(大后)の即位が珍しくなかったからだと思います。その意味で、光明子が皇后に立てられたのは画期であり、これ以降、皇后が即位することはなくなります。皇族でなくとも皇后に立てられるという先例ができた以上、皇后を即位させるという選択肢がなくなったのでしょう。

 藤原氏が皇后を次々と輩出し、天皇の外戚となることで権力を掌握したことも、男系での皇位継承を大前提とする体制に順応したと解釈すべきだと思います。藤原氏はあくまでも、娘を天皇もしくは皇位継承の有力者の「正妃」とすることで権力を掌握しようとしたのであって、自身が即位しようという具体的な動きは確認されていません。また、藤原氏出身の女性を母とする天皇は奈良時代以降多いのですが、これを母系的観点から解釈することは無理筋だと思います。藤原氏自身も父系的な氏族であり、藤原氏の娘は基本的に母系ではなく父系により高貴な出自を保証されているからです。

 もちろん、古代に限らず、日本において母方も財産やそれに基づく政治的地位に大きく貢献していますが、それは現生人類(Homo sapiens)において普遍的な、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続ける、という特徴に由来するのだと思います。こうした特徴が人類社会を重層的に組織化した、との観点は重要だと思います(関連記事)。その意味で、古代日本社会を双系的と解釈する見解には一定以上の妥当性があると思います。しかし、少なくとも皇族(王族)や有力氏族は6世紀半ば以降に父系的構造を形成して維持しており、母方も重要だからと言って母系的とは言えないでしょう。支配層の母系継承かもしれない事例としては、9世紀〜12世紀の北アメリカ大陸のプエブロボニート(Pueblo Bonito)遺跡が挙げられていますが(関連記事)、それは古代日本の皇族・有力氏族の地位・財産継承とは大きく異なります。

 そもそも、人類は父系的な社会から現在のような多様な社会構造を築いた、と私は考えています(関連記事)。人類社会において父系的な継承が多いのは、それが長く基準だったからで、「唯物史観」での想定とはまったく異なり、農耕開始以降に初めて出現したわけではない、というわけです。現代および記録上の人類社会では、父系的とは言えないような社会構造も見られます。それはアフリカから世界中への拡散を可能とした現生人類の柔軟性に起因し、「未開社会」に父系的ではなさそうな事例があることは、人類の「原始社会」が母系的だったことの証拠にはならない、と私は考えています。そもそも、「未開社会」も「文明社会」と同じ時間を過ごしてきたのであり、過去の社会構造を維持しているとは限らない、という視点を忘れるべきではないでしょう。人類におけるこうした社会構造の柔軟性をもたらしたのは、上述したように、所属集団を変えても元の集団への帰属意識を持ち続ける、という特徴に由来すると思います。少なくとも現生人類にはこの特徴が顕著に発達していますが、それはネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)など他系統の人類にもある程度以上共通している可能性もあるとは思います。

 最後に話を皇位継承に戻すと、現在の規定において皇位継承が危機に瀕していることは、この問題に関心のある人が等しく認めているでしょう。それでも解決策の検討が具体的に進展しないのは、悠仁親王の存在が大きいと思います。しかし、現行の規定でも数十年後の皇位継承を可能とするには、もはや悠仁親王が男子を儲けるしかなく、それに期待すると言ってしまうような政治家はあまりにも無責任で(関連記事)、政治家失格と言うべきでしょう。これも、政治家をはじめとして有力者には50代後半以上が多く、悠仁親王の結婚と子供が本格的に問題になる頃にはすでに死んでいるか、現役ではないからだと思います。これは解決困難な問題の先送りに他ならず、多くの解決困難な問題を抱える現代日本社会の弱点ですが、現代日本社会でとくに深刻というわけではなく、人類社会に普遍的な事象だと思います。とくに皇位継承問題は、政治家にとって票になりにくい上に、どのような解決策でも影響力があり声の大きな複数の著名人に批判されることになるので、政治家が先送りにしたいという心情はよく理解できます。

 正直なところ、1980年代に小学校高学年だった頃から近年までずっと天皇制廃止論者だった私としては、このまま男系維持派に大きな声を挙げ続けてもらい、天皇制が自然に消滅してほしい、とさえ考えたくなりますが、近年では天皇制廃止論にやや否定的になったので、天皇制の自然消滅を強く願っているわけではありません。なお、小学校高学年から天皇制廃止論者だった私は、当然のごとく改憲を支持しており、日本国憲法第9条も改正して軍隊の保有を明記すべきだ、とずっと考えてきました。これは今でも変わりませんが、少数派の改憲論だという自覚は小学生の頃からあったので、ネットでの匿名での発言以外では、誰かに打ち明けたことはありません。

 現状では、皇位継承の長期的な安定性を確保するには、男系維持の立場からの旧宮家の男性の皇族への復帰か、まだ若い女性皇族がいるうちに女系継承も認めるかのどちらかしかないと思います。皇位継承が長期にわたって男系を大前提としてきたことは間違いありませんが、誕生時には皇族ではなかった男性が即位した事例(醍醐天皇)もあるとはいえ、父系では600年以上さかのぼらないと天皇にたどりつかない人物が、即位はもちろん皇族に復帰することもあまりにも異例の事態で、正直なところ、国民の理解が得られるのか、はなはだ疑問です。少なくとも現時点では、女系継承の方が国民の圧倒的に多くの支持を得られそうです。しかしこれも、愛子内親王への国民の期待によるところが大きく、旧宮家の男性で、人格・知性・体力・容貌に優れた人物がいれば、旧宮家の皇族復帰が国民の圧倒的支持を得られるようになるのではないか、と思います。

 私は、男系による皇位継承は長期にわたって大前提ではあったものの、天皇(大王)の本質としては、時代の変化に柔軟に対応して存続してきたことの方が重要だと思うので、日本が今後属すべき社会の価値観という観点からも、若い女性皇族がまだ複数いるうちに女系継承を認めるべきだと思います。ただ、政府、とくに現在の安倍晋三内閣がそう決断するのは、支持基盤の問題もあって難しいでしょうから、このまま女性皇族が結婚により次々と皇族を離れていき、悠仁親王に息子が期待できないような状況になってやっと、皇室典範の改正により旧宮家の男性の皇族復帰が検討されるようになるのではないか、と予想しています。まあそれでも、天皇制廃止よりはましなのかな、と最近では考えています。
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_21.html

240. 中川隆[-8699] koaQ7Jey 2019年8月23日 09:16:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4048] 報告

日本人のガラパゴス的民族性の起源 Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 ツリー
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-1.htm


日本人のガラパゴス的民族性の起源 mtDNAハプロタイプ 2019年5月取得ツリー増補版
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-1.htm


日本人のガラパゴス的民族性の起源 2018/10/18 日本人の源流考 v1.6
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

241. 中川隆[-8686] koaQ7Jey 2019年8月23日 14:02:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4061] 報告

2019年05月25日
鳥取市青谷上寺地遺跡の弥生時代後期人骨のDNA解析補足


 現代日本人のY染色体DNAハプログループ(YHg)Dの起源について最近述べましたが(関連記事)、鳥取市青谷上寺地遺跡の弥生時代後期人骨のDNA解析(関連記事)について言及するのを忘れていたので、補足します。青谷上寺地遺跡の弥生時代後期人骨に関しては、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析では32人中31人が「渡来系」で、1人が「縄文系」と推定されています。一方、核DNA解析では、父系(YHg)の多数が「縄文系に近い」と分類されたそうです。おそらく、現代日本人のYHgにおいて30〜40%と高い割合を占めているD1bなのでしょう。じっさい、「縄文人」においてYHg-D1bが確認されています。

 単純に考えれば、青谷上寺地遺跡の弥生時代後期集団の社会構造は父系的だったことになります。在来の縄文系集団に、弥生時代以降にユーラシア東部より渡来した人々が主体の集団から女性が「嫁入り」してくような構造があった、というわけです。しかし、現時点で確認されている「縄文人」およびゲノム解析で「縄文人」の変異内に収まる東北地方の弥生時代の男性は全員YHg-Dに分類されるものの、より詳細に分類できる個体は全員、YHg-D1b2aです(関連記事)。一方、現代日本人で多いのはYHg-D1b1です。YHg-D1bは、D1b1 とD1b2に分岐し、D1b2からD1b2aが派生します。つまり現時点では、現代日本人のYHgにおいて多数派のD1b1は「縄文人」では確認されていないので、弥生時代以降にアジア東部から到来した可能性も一定以上想定しておかねばならないだろう、と私は考えています。ただ、予想される「縄文人」の現代日本人への遺伝的影響から推測すると、現代日本人のYHg-D1bが「縄文人」由来である可能性はじゅうぶん考えられます(関連記事)。

 それはともかく、もし現代日本人のYHg-D1b1の多くが弥生時代以降の「渡来系」由来で、青谷上寺地遺跡の弥生時代後期集団の男性もYHg-D1b1だとしたら、青谷上寺地遺跡の弥生時代後期集団は、母系では「渡来系」で父系では「縄文系」ではなく、どちらでも「渡来系」が圧倒的に優勢だったと考えられます。もっとも、青谷上寺地遺跡の弥生時代後期集団のYHgの詳細は報道では不明なので、「縄文系」と推測されるD1b2aなのかもしれませんが。より詳しい情報を得ないと判断の難しいところですが、現時点での報道からは、青谷上寺地遺跡の弥生時代後期集団を、母系では「渡来系」で父系では「縄文系」と単純化するのには慎重であるべきだと思います。

 日本に限らず、自集団の起源論に高い関心が寄せられている国・地域は多いでしょう。一般層の日本人起源論でとくに関心が高いのは、現代日本人における「縄文人」の遺伝的影響のように思います。これに関しては、「縄文人」と現代日本人との連続性を強調する見解と断絶を強調する見解とがネットでは「大きな声」になっているように思われ、迂闊なことを言うと直ちに罵倒・嘲笑を受ける、といった印象さえ私は抱いています。現時点では、日本も含めてユーラシア東部に関しては、とてもヨーロッパのような水準で人類集団の形成過程を論じられる状況ではないと思います。現代日本人の起源の解明には、日本列島だけではなくユーラシア東部の古代DNA研究の大きな進展が必要となるので、それまでは安易に断定してしまわないよう、私も気をつけておかねばなりません。
https://sicambre.at.webry.info/201905/article_46.html

242. 中川隆[-8682] koaQ7Jey 2019年8月23日 16:43:47 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4066] 報告

中国には、なんと日本語を聞き取れる民族がいる!?=中国メディア  2018-08-30
http://news.searchina.net/id/1666373?page=1


 中国メディア・東方網は28日、「中国には日本語を聞き取れる少数民族がおり、日本人の祖先はここから生まれたとの説もある」とする記事を掲載した。

 記事は「日本の歴史上の発展は、中国と深い繋がりを持っている。そして、日本の起源についても中国にかかわる様々な説が出ており、例えば秦の始皇帝の医師だった徐福が祖先といった説や、東南アジアから逃げて来た移民が祖先という説もある。しかし近年、日本の学者が日本人発祥の地として四川省の山岳地帯にある涼山を挙げたのだ」と紹介した。

 そして、日本の歴史学者が長年の研究の末、日本の言語や習慣が四川省の涼山に住むイ族とかなりの部分で似ていることを発見したと説明。実際に現地調査に訪れたところ、現地のイ族の人たちは日本語の発音に違和感を覚えず、一部の発音は日本語とほぼ同じであり、いくつかの日本語の意味も理解できたことから歴史学者が大いに驚いたと伝えている。

 また、現地には「火把節」という1000年単位で伝承されている有名な祭りがあり、これが日本の伝統的な祭りである「火祭」と関係性を持っているとの説も出たと紹介。一方で「現時点でわれわれは客観的な姿勢で更なる研究結果を待たなければならない。完全に否定される説ではないが、同時に日本人の祖先が四川省の山間に住むイ族であると完全に認めることもできないのだ」とし、あくまで仮説の1つにすぎないことを説明した。

 例え一部であっても、日本語に近いような発音体系や語彙を持っている外国の民族があると、何となく親近感を覚えはしないだろうか。実際にイ族の人びとがわれわれ日本人のルーツかどうかは分からないが、ぜひ友好的な関係は深めたいものである。(編集担当:今関忠馬)(写真は、四川省の山岳部。提供:123RF)
http://news.searchina.net/id/1666373?page=1

243. 中川隆[-8681] koaQ7Jey 2019年8月23日 17:23:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4067] 報告

イ族(イぞく、彝族, 拼音: Yízú)は中国の少数民族の一つ。
2010年の第6次全国人口普査統計では人口は8,714,393人で、中国政府が公認する56の民族の中で7番目に多い。


名称

彼ら自身は「ノス」と呼ぶ。もとは「夷族」と表記されたが、清朝時代に、自らも漢民族ではない支配階層の満州人が蛮族を意味する呼称を嫌い、同じ音に「彝」の字をあてた。彝は「祭器」転じて「道徳」などを意味する雅字。「ロロ族」という呼称もあり、かつては自称であったが現在は中国側では蔑称である。「ロロ」とは、イ族自身が先祖崇拝のために持つ小さな竹編み。当て字の「玀猓」では、部首にけものへんを付け加えるなど、多分に蔑視的な要素を含んでいる。但し、漢字を全廃したベトナム側では今日でも差別的な意味合いはなくロロ族(Người Lô Lô / 𠊛盧盧)と呼ばれている。


歴史

イ族は中国西部の古羌の子孫である。
古羌は、チベット族、納西族、羌族の先祖でもあるといわれる。

イ族は南東チベットから四川を通り雲南省に移住してきており、現在では雲南に最も多く居住している。南詔王国を建国した烏蛮族が先祖だと言われている。

精霊信仰を行い、ビモという司祭が先導する。道教や仏教の影響も多く受けている。雲南省にはイスラム教を信仰するイ族の集団もある。ただしそれらは、イスラム教を信仰するイ族なのか、イ語を話しイ族の文化に属する回族なのかは、明確には分別できない。

雲南北西部と四川に住むイ族の多くは複雑な奴隷制度をもっており[1]、人は黒イ(貴族)と白イ(平民)に分けられていた。白イと他民族(主に漢民族)は奴隷として扱われたが、白イは自分の土地を耕すことを許され、自分の奴隷を所有し、時には自由を買い取ることもあった。

また大涼山に棲むイ族にはピモの伝える歌に死後の魂が祖先のいた地へ戻る為の経路を表しているものがあり、それを遡ると長江上流へと行き着くため長江文明を築いた集団の末裔とする説も存在している。


自称

イ族には多くの自称があるが、ノス(黒イ、四川大涼山など)、二(アシ、サニなど)、ロロホ・ララポ(白イ)の三大系統に大別される。このうちノス社会は、かつて大涼山が奴隷制社会であったことや、現在でも族長(家支)が一族の強固な結束力としてあることを特徴としている。なお家支は血統を意味し、始祖から父子連名制によってつながる父系親族集団である(父子連名制)。

葬式

葬式に関しても、ナシ族やプミ族と同様、伝統的には火葬の習慣を持っていた。この習慣は、高原に居住する遊牧民の世界観につながるもので、イ族の出自を考えるうえで参考になるものといえよう。しかし、前近代の世界において火葬を行えるのは、強大な火力を得るために燃料を十分に使用できる豊かな身分に限られ、そうでない人々は、鳥葬もしくは土葬を行った。

使用言語

彝語シナ・チベット語族のチベット・ビルマ語派ビルマ・ロロ・ナシ語群に属するロロ諸語系の彝語を使用。ビルマ語と緊密な関係をもつ。 6種類の方言がある。

彝文字(ロロ文字)と呼ばれる表音文字を持つ。


お祭り

火祭り火祭り:イ族の最大祭りであり、毎年の旧暦6月24日〜6月26日行う。


相撲
イ族には、独自の相撲があり、相撲は彝語でバアジと言い、土俵は無く、地方によって相撲の取り方も違い、ある地方は相手を地面に倒したら勝ちで、ある地方は肩と頭先に地を触れたら勝ち。

競馬
イ族には、独自の競馬があり、競馬をイ語でムジと言う。

自治区域

四川省
涼山イ族自治州
馬辺イ族自治県
峨辺イ族自治県

雲南省
楚雄イ族自治州
紅河ハニ族イ族自治州
寧洱ハニ族イ族自治県
元江ハニ族イ族タイ族自治県
景谷タイ族イ族自治県
景東イ族自治県
禄勧イ族ミャオ族自治県
漾濞イ族自治県
新平イ族タイ族自治県
尋甸回族イ族自治県
南澗イ族自治県
石林イ族自治県
巍山イ族回族自治県
寧蒗イ族自治県
江城ハニ族イ族自治県
峨山イ族自治県
鎮沅イ族ハニ族ラフ族自治県

貴州省
威寧イ族回族ミャオ族自治県
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A4%E6%97%8F

244. 中川隆[-8680] koaQ7Jey 2019年8月23日 17:40:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4068] 報告

イ(彝)族
http://www.gesanmedo.or.jp/uli224.html

 イ族は、総人口が657万8524人(1990年)で、中国の少数民族中第6位、イ語系の少数民族のなかでは最大の人口を有する。雲南省の楚雄イ族自治州や紅河ハニ族イ族自治州、四川省の涼山イ族自治州を中心に、貴州省や湖南省、広西チワン族自治区の山岳丘陵地などに広く分布し、一部はミャンマー、ベトナム北部、タイ北部などのインドシナ半島北部に至っている。

 中華人民共和国成立後に、はじめて1つの民族集団として統一された。すなわち、かつては羅羅、夷人、夷家と呼ばれ、蔑称の夷が通称であったのを彝に改めて民族名称と定めた。わが国においても「夷」を「エビス」とあずまえびす呼び、たとえば東夷といえば、東国に居住する武士のことで、京に住んでいた人々が、その無骨さをあざけって名づけた名称となっている。

言語は多様で、六方言に大別されるが、互いにほとんど通じない。

約1000年前に創作されたという音節文さん字曇文が、ヒモ(宗教職能者)によって伝えられている。

ヒモは太鼓を叩いて精霊を呼び、その精霊と人間との仲介役を果たした。

なおイ文は象形文字を母体とするが、大部分は同音仮借によってイ語の音節を示す音節文字である。叙事詩『阿詩瑪』や格言および祭祀などが、この文字によって記された。

イ族の祖先は、黄河上流地域をその発祥の地とし、その後しだいに南下し、長江上流域の金沙江・岷江の両河川流域に到達、定着したとされる。

漢王朝時代には西南夷、三国時代には南蛮と総称された集団の主力部分を形成していたが、漢王朝時代から唐王朝時代にかけて奴隷制社会に入り、その勢力は強大となった。すなわち、唐王朝時代になると、雲南省東部には烏蕃と呼ばれる集団が、雲南省西部には白蕃と称される集団が形成されていった。

烏蕃は、四川省西部から雲南省の山岳地帯に南進した騎馬牧畜民族で、現在の黒イやナシ族の祖先に該当すると考えられているチベット系の集団の総称である。

一方、白蕃は、祖先がタイ系の水稲耕作民であったと推定され、早くから雲南省のいくつかの盆地に定住した。

このいくつかの集団は、唐王朝時代には大理盆地に最も多く定着したとされ、現在の白イがその末裔とされる。

 その後、烏蕃の一部が征服王朝として、雲南の地に建なんしょう国したのが南詔王国である。

南詔王国が滅亡したあと、分立状態がしばらくつづいたが、そのなかでも黒イの奴隷主階層は、自らの社会を維持するため、周辺の農耕諸民族などに対して、奴隷略奪の抗争や戦争を積極的に行った。そのため、奴隷階層のなかには、白イのほかに、たとえば、タイ系の民族やミャオ族、漢族なども含まれることになった。

 また黒イの男性は、自らのアイデンティティを保持するため、伝統的には、わが国のチョンマゲのような髭(天菩薩と呼ぶ)を結い、その上に黒いターバンを巻くことを常とした。そのため、髭を包んだ部分がふくれて、まるでアンテナのように角状に突き出ている。さらに、男性は黒いチャルワと称しているマントをはおり、正装時には長剣を腰につるした。この集団が黒イと称されているのはこの色によるとされる。また既婚女性も同様に、黒色のターバンを頭に巻いている。なお、黒イ集団は白イなどのイ族の他の集団と通婚しなかった。

 そこで、元、明、清の三王朝は、いずれも黒イを統制・支配することに、たいへん苦労を重ねた。すなわち、黒イ集団を筆頭にイ族は、元王朝時代になるとロロ(躍羅)と称されることになり、元王朝は羅羅斯宣慰司という行政官庁を特別に設置し、彼らの支配を試みた。つづく明王朝時代では、たえずロロが反乱を起こしたので、この反乱を鎮圧しようと、ロロの族長に世襲制の官位を与えて土司と称した。そして、この土司に一定の範囲内で彼らの自治権を認めた。そのうえで、彼らを四川省や雲南省の地方長官の管理下に置くという、いわばアメとムチの政策を実行した。

 さらに清王朝時代では、土司制度を全廃し、清王朝が直接派遣する地方官(流官)による支配、つまり改土帰流政策を強力に行った。この強行策は、四川省大涼山一帯に集結した黒イ集団以外に対してはいちおう成功し、ロロ社会は流官と一体となった地主階層による封建制へと移行した。

 一方、大涼山一帯に集中して居住する他の黒イ集団は、中華民国時代になっても黒イの奴隷主がその支配を強力に維持し、ロロ独立国とさえいわれるほどであった。その当時の様子は、大涼山の黒イ集団の結集地である四川省西昌市に開設されている奴隷社会博物館でも具体的に知ることができる。なお、これら二つの集団がイ族と呼ばれるようになったのは、中華人民共和国成立後のことである。

 イ族には多くの自称があるが、ノス(黒イ、四川大涼山など)、二(アシ、サニなど)、ロロホ・ララポ(白イ)の三大系統に大別される。このうちノス社会は、かつて大涼山が奴隷制社会であったことや、現在でも族長(家支)が一族の強固な結束力としてあることを特徴としている。なお家支は血統を意味し、始祖から父子連名制によってつながる父系親族集団である(父子連名制)。

 家支は数百戸単位で構成される。頭人を代表者とし、慣習法によって、もめごとを調停する徳古や、祭祀を司るヒモ、さらには病気の治療をするスニがいる。そのなかでヒモは、太鼓を叩き、神と人間の仲介をするシャーマンである。大涼山の奴隷制社会は、この家支を基盤として、支配層の黒イ諾蘇と、被支配層の曲諾や奴隷の阿加・岬西の階層に厳格に分けられていた。

 この点を少し補足すれば次のようになる。すなわちノスと呼ばれる黒イ集団は、大涼山周辺に居住するイ族の約10パーセントであった。この黒イ集団に支配される奴隷層は、チョゴ、アージャ、シャシの三階層に大きく区分されるが、白イ集団と総称された。チョゴは最上層に位置するものであるが、奴隷主に隷属しており、移動の自由はなかった。しかし、自らの家屋と子女を所有する権利は認められ、わずかであるが耕地と農具などを所有した。涼山イ族の約五〇パーセントを占めた。アーシャは、奴隷主の管内に家屋を持っていた。奴隷階層としては中間に位置し、チョゴ階層から落ち込んだものや、シャシ階層からはい上がった者も含まれていた。涼山のイ族の約30パーセント強を占めた。次のシャシ階層は家内奴隷で、人身の自由をまったく持たなかった。アーシャとシャシは戦争で囚われたり、さらわれたりした漢族など非イ族の人々も含まれていた。

 なお、イ族は平屋根の木造家屋に住み、部屋はすべて土間形式である。とくに日常生活の中心ともなる部屋には囲炉裏が切られ、鍋荘と呼ばれている。

 生業は、おもに山間部で、ソバ、エンバク、オオムギ、トウモロコシ、ジャガイモを栽培し、ヤギやブタなどの家畜を飼育するが、一部では牧畜も行っている。伝統的な主食はツアンパ(妙ったムギ粉を水で練ったもの)で、チベット族の食習慣に近い。アシ集団に見られる密枝と呼ばれる神木を崇拝する神樹信仰や、祖先祭祀、旧暦の6月24日に開催される火把節がさかんである。火把節は豊作を祈る祝祭で、歌垣も行われる。結婚に関しては、古くからイ族の青年男性は、イトコすなわち自分の両親の兄弟姉妹の子のうち、異性の兄弟姉妹を意味する交差イトコを嫁の候補とする習慣を持っていた。イ族社会にあっては、母親の兄弟は必ず別の氏族であり、同様に父親の姉妹は、他の氏族に嫁ぐのが原則となっていた。そのため、血族のなかでもこれに対して、交差イトコは他人とみなされたのである。親の同姓の兄弟姉妹同士の平行イトコ婚はきびしく禁じられていた。つまり平行イトコ、婚は、同じ氏族間の結婚と考えられたからである。

 葬式に関しても、ナシ族やプミ族と同様、伝統的には火葬の習慣を持っていた。この習慣は、高原に居住する遊牧民の世界観につながるもので、イ族の出自を考えるうえで参考になるものといえよう。しかし、火葬を行えるのは、燃料を十分に使用できる豊かな身分に限られ、そうでない人々は、鳥葬もしくは土葬を行った。

『中国少数民族事典』(東京堂出版 2001年)
http://www.gesanmedo.or.jp/uli224.html

245. 中川隆[-8679] koaQ7Jey 2019年8月23日 18:21:13 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4069] 報告
彜族(イ族)と日本の不思議なつながり?
http://j.people.com.cn/99005/99083/99084/6838753.html


 「日本人の先祖は彜族(イ族)という話を聞いたことがある?」

 私が四川省涼山彜族自治州の西昌市に赴任したすぐの頃、同僚の先生、生徒、知り合いになった人たちから何度も聞かれた質問です。「そうなの?」というのが初めて聞いた時の答えでした。

もちろんイ族の人たちも伝説だと言います。でもイ族の人たちが話す彜語、文化を知ればしるほど伝説だとは分かっていてもイ族と日本との間に何らかの繋がりがあるのかも。という思いがどんどん大きくなってきています。しかも私の顔はまさに「イ族顔」らしいのです。

そんな話を聞いて、単純な私は「日本人と祖先が同じだという伝説がある土地に赴任するなんて、何かの縁に違いない。」などと自信満々に思い、涼山州、そしてここで暮らす人々がますます好きになったのです。私が働いている涼山州民族中学は「イ族の貧困問題を克服するには学力を身につけることが最優先」という州の考えで建てられました。中学と高校の部、そして師範学校が併設されていて、生徒の80%はイ族の子どもたちです。

 今年の2月から6月までの間、民族中学で私は中学一年生に対して日本語の課外授業と師範学校の音楽科の生徒たちにピアノの課外授業をしました。ピアノは私の専門だし、音楽って言葉が通じなくても通じるところがあるので苦労はなかったのですが、大変だったのは初めて経験する日本語の授業。中国語もままならず、しかも日本語を難しいと感じたのは生まれて初めてでした。でも無邪気で(時には元気すぎて一時間「静かにぃーー」って言い続けたこともありましたが……)、何よりも日本と日本語が大好きな子どもたちに助けられて私も楽しく日本語の課外授業をすることが出来ました。子どもたちが一番楽しんでいたのは日本の歌手のCDを聞かせたり、私が習いたてのギターで師範学校の生徒から教えてもらったイ族の歌を披露したり、折り紙をしたり、ゲームをしたりという時間だったと思います。あれ?こう書いてみると授業そっちのけで遊んでばかりいたみたい(笑)でも、子どもたちは日本語の簡単な挨拶と、自己紹介は立派に出来ますよー。

 来学期からはもしかすると私が日本語の課外授業を受け持つことはないかもしれませんが、今は中学生の子どもたちがこれからも日本に興味をもち続けてくれて将来、まだまだ問題が多い中国と日本との関係の中で、どんな形でもいいから架け橋になってくれたらいいなぁと勝手ながら思うのです。

 ピアノの課外授業はほとんど毎日あったので師範学校の生徒たちとは本当に仲良しになりました。年齢が16歳�・20歳の生徒たちなので、私と年齢も近い?こともあって課外授業以外でも一緒に遊んだりすることが多いです。遊びというのは、ほとんど歌とギター。私は学校内にある宿舎に住んでいるのですが、昼休みや夜の夜自習が終わったあとに、よく音楽科の生徒たちが大声で気持ちよさそうに歌っている声が部屋の中まで聴こえてきます。だって彼ら、本当に大音量で歌ってる!その歌声に誘われて私が外に出ると、運動場や木陰で男子生徒がギターを弾いてくれて、女の子たちが歌を聞かせてくれるとか、イ族の言葉(彜語)を教えてくれたりします。ここに赴任して始めたギターも右下に写っている阿里(アーリー)から習ってます。みんな音感もいいし、本当に歌が上手!しかも上手というだけではなく「歌が大好きー」っていう気持ちが彼らの歌から溢れていて、いつ聴いても感動!音楽って上手い下手よりも、やっぱり「好きー」っていうのが一番だと思うから。この音楽科の生徒たちと過ごす時間は私の大好きな時間です。

 もう一つ大好きな時間があります。それは西昌市の中心部からバスで一時間半ほどのところにある昭覚県(しょうかくけん)の碗廠郷(わんしょうごう)という場所にある小学校で、子どもたちと遊ぶ時間です。赴任して一ヶ月後、先輩隊員に初めて連れてきてもらってから、私はこの子どもたちの大ファンになりました!瞳がキラキラして 元気いっぱいで、お茶目で、時には友達同士でふざけすぎて喧嘩になって泣いちゃう子がいたり(笑)そして泣いちゃった子を優しく慰めるのは少し年上のお兄ちゃんやお姉ちゃんだったり。何だろう……上手くいえないけれど、日本が少しずつ失っている子どもたちの風景がここにある気がします。しかし、ここにも大きな問題が……。中国でも日本と同じように小学校と中学校は義務教育ということになっているのにもかかわらず、決められている学費を払えないために小学校にさえも通えない子どもたちが居ることです。農村で暮らすイ族の子どもたちにとって学校に通えないということは、中国語が話せないことにつながります。ここでもやはり貧困から人々が抜け出すためには子どもたちが平等に学校に通えるという環境が必要だと思います。こういう問題を口に出していうのは簡単ですが、いざ「私に何が出来る?」と考えたときに、偉そうなことばっかり言って何も出来ない自分の力なさを実感して悔しくなるのですが。でもここに暮らす人々を可愛そうだとか思う気持ちはありません。そもそも貧困って誰が決めるのでしょう?世間がいう貧困というのは物質的なことだけを指しているだけで、ここに暮らす大人も子どもたちも「貧しい」と周りからは言われているけれど、幸せそうで、よく笑い、朗らかで、心はとても豊かだと思うのです。おばーちゃん達、特に元気がいい!!

 でも一つだけ。やっぱり子どもたちが望むなら学校に通える環境だけはあってほしい。この小学校の子どもたちと遊んでる時に何度か小学校に通えない子どもたちが家の手伝いをしている姿を見ました。その時、学校に通っていない子どもが寂しそうな表情をした気がしたのです。この子どもたちのために私に出来ることは何だろう?それが課題です。私はここに来て子どもたちと一緒にいると彼らの純粋な気持ちが私にまで染み込んでくるみたいで、すごく優しい気持ちになれるし、元気をいつももらっています。いつも彼らからもらうばかりで……。私が彼らに教えたことといえば、この学校のたった一人の先生である馬先生が時間をくれたので日本 といえば、ちょっとした日本語、日本の歌、ドッジボールくらい。その時だって子どもたちと一緒に遊んで私が楽しいんです。そういえばこんな事がありました。先輩と一緒に子どもたちにちょっとした日本語を教えたことがあって、教えた単語は「うし(牛)」「うま(馬)」「ぶた(豚)」「とり(鳥)」そして先輩の名前「さおり(抄織)」私の名前「みお(美緒)」。記憶力のいい子どもたちはすぐに覚えて繰り返し始めました。でも何だか変!教えた順番が勝手に変わり「うし→うま→ぶた→みお→とり→さおり」という風に、明らかに子どもたちは家畜と私たちの名前をごっちゃに。「今度遊びに行ったときに『ぶたー』って呼ばれたらどうしよう。」って先輩と二人笑ったのを覚えています。遊びにいくと子どもたちはお返しに、イ族の言葉や遊びを教えてくれたりします。よくよく考えると民族中学校の生徒にも、ここの子どもたちにも楽しませてもらってお世話になっているのは私の方。

 活動期間は残り1年半。私に元気をくれる子どもたち、そして親切にしてくれる地域の人たちのために一生懸命、私もお返ししないと!と思っています。題名にした「彜族と日本の不思議なつながり?」から話が離れてしまいましたが、イ語の発音の仕方、文法が日本語と似ていて、それが一つの不思議です。発音だけじゃなくて、言葉そのものが似ているものもあります。例えば日本語の「うま(馬)」はイ語で「んぱ」、「いえ(家)」は「いえ」なんです。あと人の名前の文字数。漢族の人たちの名前は二文字、多くても三文字がほとんどなのに対して、イ族の人たちは四文字が多いのです。びっくりしたのは「阿蘇」という名字の人が結構多いこと。私の故郷である熊本に「阿蘇山」という山があります。ここでも縁を感じたりして。

 他に、文化でも日本と似ているところが色々とあるようなので、少しずつ知っていきたいです。いま、イ族の子どもたちや友達からイ語をならっています。イ語は響きが綺麗で聞いていて心地いいです。ここで少し、私の気に入っているイ語を紹介。

 「ありがとう」=「カシャシャ」、「乾杯」=「ジド」、「猿」=「アニョ」

 「幸せを祈る、何事も思いどおりになりますよーに!という意味」=「ズマグニ」。

 ね、なんだか素敵な言葉だと思いませんか??

 いつも私にキラキラ笑顔と楽しさをプレゼントしてくれる子どもたちにカシャシャ!!

 佐藤美緒・四川省涼山彜族自治州西昌市・音楽隊員


http://j.people.com.cn/99005/99083/99084/6838753.html

246. 中川隆[-8678] koaQ7Jey 2019年8月23日 18:51:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4070] 報告

彝人(上)烏里 烏沙


 中国には56民族が住み、それぞれの民族は異なる文化、風習を持つ。彝族の「彝」は「夷」からきている。「夷」は「漢族」の周辺住む未開の民のことで、古代中国では漢族政権の周辺に、東は東夷、南は南蛮、西は西戎、北は北狄などの民族集団が住んでいた。その呼称には差別が入っていると思われ、彝族も「夷」と呼ばれてきた。

 彝族は、中華人民共和国成立後、はじめて1つの民族集団として統一された。その折、かつて羅羅、夷人、夷家などと呼ばれ、蔑称の「夷」が通称であったのを「彝」に改めて民族名称と定めた。漢字のかたちから見れば、「彝」は米も、糸もあることで、豊かさの意味も表している。だが、1つの文字に複数の民族を無理にまとめたのは無理ではなかったかと思う。つまり、雲南省は新中国になるまで、「人種の博物館」といわれ、三百余種の少数民族がいて、そのうち半数以上は彝族系の民族だった。

 彝族のルーツにも、いろいろな説があり、彝族の祖先は、黄河上流地域を発祥地とし、その後しだいに南下して、長江上流域の金沙江・岷江の両河川流域に到達、定着したとされるのが一般的だが、もう1つは、二千年以上前から、彝族の祖先が雲南省の茲茲蒲武(現在の昭通)あたりに居住していたという説がある。しかし、どちらの説も私は納得できない。

 多くの彝語の文献をみると、もともと、彝族の祖先は昔「レ之鹵」に居住していたと思われる。そして、「レ之鹵」は彝語発音で、いまの「成都」のことらしいという説もあり、研究者の間では最近認められるようになった。彝族の人たちは成都平原で生活し、古蜀の王である蚕叢、トー杜ユー宇を彝族の祖先と見なした。蜀は秦に滅ぼされ、彝族の住民たちも追い払われ、民族集団として南に大移動した。そんな歴史を語る彝族の言葉に、「漢来彝走」があり、漢民族とは付き合わないことを意味する。今は主に、雲南、四川、貴州、広西に住んでおり、一番集中している地域は大、小涼山のあたりである。

  近年脚光を浴びた三星堆文明は、これまでの中国文明と違って、誰が造り出した文明か今のところ断定が下されていないが、彝族の祖先が造った文明ではないかという説がある。

 一方、日本では、日本人のルーツをさぐるために、雲南省の彝族居住地に入っていろいろ調べる日本の学者たちもかなりいた。

 彝族については、中村保氏の『ヒマラヤの東』から引用する:

 「太平天国の乱の末期、石達開の軍を苦しめ、長征のとき、義により同盟を結んで紅軍を授けた勇猛をもって鳴るイ族である。が、経済的には今は漢人に従属し、彼らよりもより貧しい暮らしに甘んじており、大半は大涼山の奥深いところに追い込まれているか、あるいは省境沿いの雲南側に住んでいる。」

 「イ族は人種的には漢族やほかの少数民族と異なり、大柄でアラブ系的な彫りの深い顔つきをしている。しかしチベット族、納西族、白族、リス族のような明るさは感じられない。むしろ挫折した無力感と暗さの印象が強い。」

  彝族は支系が多く、今日までも50以上の支系が数えられる。農業、牧畜業、天文、歴法、気象、医薬などの分野で独得の創造が多くみられ、自分の言語、文字を持ち、しかも、いまでも使われている。また1年を10か月、1か月を36日とする独自の太陽暦法があるが、一部分の地域では1年を13か月、1か月を28日とする独自の人体暦法(女性の月経で計算したもの)もあった。

 彝族の総人口が約700万人で、中国の少数民族中第6位、彝語系原語を話すの少数民族(白族 ナシ族ラフ族 リス族など)のなかでは最大の人口を有する。主に四川省と雲南省の省境にある大・小涼山地区と雲南省内に分布し、ついで貴州省と広西壮族自治区の一部に分布し、一部はミャンマー、ベトナム北部、タイ北部などのインドシナ半島北部に至っている。
http://www.gesanmedo.or.jp/uli457.html


彝人(下)烏里 烏沙

 ‘わんりぃ’7月号、9月号の2回に亘って彝族の歴史と階層制度について簡単に紹介した。今回は彝族文化のいくつかの側面を紹介したいと思う。

 中国における数多くの少数民族のなかで、彝族を際立たせているのは、固有の文字の存在だろう。彝語は、シナ・チベット語系のチベット・ビルマ語族に属し、6つの方言グループがある。彝文字には「爨文」,あるいは「是韋(日本語にはない文字、古代彝文字の意味)書」、「羅羅文」などと称する独自の文字があるが、漢字のような表意文字ではなく、日本のひらがなとおなじ表音文字である。

 彝文字の起源は相当古くに遡ることができる。唐代起源説、漢代起源説などがあるが、雲南省紅河県のピモ(宗教の司祭者)である李八玉昆氏が西安から出土した約6000年前の半坡彩陶符号(西安半坡で発掘した陶器、その上、文字を書いてある)を解読したという報告もある。中央民族大学言語所の現地調査では、四川省の彝族には8000余文字があり、貴州省の彝族には約7000の文字がある。雲南省と広西省に住む彝族の彝文字をあわせると、2万文字あると推定されている。

 彝文による歴史、文学、医学、暦学、詩文、占卜、神話などに関する古書も数多く残っており、なかでも涼山に流伝する経典『ネウォテイ』は人類起源を語って出色のものである。

 1956年の調査では、彝人による彝文字の識字率はわずか3%にすぎなかった。彝文字はいわば神聖文字だったので、祭司(彝族の宗教は、自然崇拝、祖先崇拝を中心とした原始信仰)であるピモのみが、彝文字で記された経典を読むことができたのだ。

 彝族の多くすむ四川省の涼山では、1975年に819の標準文字を制定し、学校で勉強できるようになり、かつてピモしか読めなかった文字が、一般の彝族の人たちも読めるようになった。ただ、最近では、彝族の居住地にも中国改革開放の波が寄せてきており、彝族の言葉や文化を学ぶことが就職など将来に役立つという見通しが少ないというのが現状で、涼山の、いや、世界に唯一の彝文学校、四川省彝文学校の入学希望者が年々減ってきており残念なことである。

 彝族と同じチベット系の民族で、大・小涼山の周辺に住むチベット族、プミ族、モソ族などの宗教がラマ教であるのに対し、彝族は、自然や、祖先を崇拝する原始宗教を信仰している。

 彝族の宗教の技能者はピモとスーニーの両者に分けられている。ピモは経典を含め、道理の説ける者でスーニ−は鬼神と交わることのできる者である。ピモの主な役目は、宗教祭祀儀礼を取り行うことであり、とりわけ人が死んだとき、その魂をいかにすみやかに、正しく送ってやるかが重要なことである。一方、スーニ−が頻繁に行うのは、ニツゲ(駆鬼)である。羊皮鼓(楽器、太鼓と似ている)を叩きながらスーニーの神であるワサ神をよぶと、スーニーはトランス状態に陥り、そのカによって病気などを引き起した鬼(ツ)を追い払うのである。逆に鬼に備えることもある。害をもたらす鬼をタコを蛸壺に押し込むように缶に閉じこめてしまうのだ。敵に呪いをかけるショプという儀式はビモもとりおこなうが、スーニー独自の技ものとしては、依頼者(参加者)に幻覚をみせてしまうニョチという技がある。ピモは基本的には世襲であるが、幼いころから学業を積まねばならない。スーニーは重い病気にかかったり、発作を起こしたりがきっかけでなる。突如として山林に入ってしまい、ピモが治療に当たるが、好転しない場合、スーニー神(ワサ神)が附体したと認定されるのだ。社会的地位に関しては、両者とも平民階級の白彝に属するが、ピモは智者として特別視されているようである。

 「口琴で話し、月琴で歌う」、これは彝族の人々が楽器に対してのたとえである。彝族は古代から豊かな音楽伝統を維持してきた。「彝族編鐘」という古代楽器の出土はそれをみごとに証明している。彝族には「笛」、「ピル」、「瓢箪笙」、「大三弦」、「大胡」、「マ−プ」(馬布)、「ソーナ」(噴咽)などの伝統的な楽器があり、これらの楽器を使い、民謡を大幅に採り入れたのが「彝戯」である。

 「彝戯」の歴史はそれほど古くないが、民間には「セ−タイジェ」という彝族の原始的な芝居がある。「セ−」は人、「タイ」は変化、「ジェ」はゲーム、遊びの意味で、人類変遷の芝居である。

 現代音楽においても、しばらく前は「涼山三鷹」、最近では「彝人製造」の(CDやカセットのタイトル)曲比哈日、曲比哈布、(イ果:日本語にはない文字)伍阿木の3人によるグループの歌が各地のテレビ番組でよく放送され、人気がますます高まって来ている。アメリカMTV音楽ネットワークの国際総裁であるWilliamHRelay氏が「いままで中国で聞いた最高の歌」、「彼らは中国の現代音楽をリードしていくでしょう‥‥‥」と言っており、かれらの作品『乞愛者』、『我要ト縺iト繧ヘ日本語にはない文字)』がMTV世界音楽ネットワークに採用されて世界に向けて、放送された。現代中国音楽としては奇跡ともいえるだろう。
http://www.gesanmedo.or.jp/uli459.html

247. 中川隆[-8677] koaQ7Jey 2019年8月23日 19:22:53 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4071] 報告
>>246
>近年脚光を浴びた三星堆文明は、これまでの中国文明と違って、誰が造り出した文明か今のところ断定が下されていないが、彝族の祖先が造った文明ではないかという説がある。


中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となった。

欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。

そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられる。

このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのだろう。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2


248. 中川隆[-8676] koaQ7Jey 2019年8月23日 19:30:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4072] 報告
90年代前半、雲南省では不思議な現象が起きていた。

石林(路南県)という観光地に住むサニ族(イ族支系)のじつに多くの人が日本語を話すことができたのだ。彼らの、とくに女性たちの副業は観光客向けの刺繍などのおみやげ売りだった。

 私自身はそんなにたくさんの刺繍を買ったわけではないが、石林で出会った日本人の青年は、ホテルの部屋のベッド上に、信じられないくらいたくさんの刺繍を山積みにしていた。サニ族は愛想がよくて日本語もうまいので、ついついおみやげを買いすぎてしまったのだ。彼はサニ族にすっかりはまっていた。

 そうやってサニ族にはまってしまった男たちは「サニ男」と呼ばれた。なかには大学の先生も含まれていたほどで(まあ研究目的かもしれないが)、さまざまな日本人がサニ男と呼ばれていた可能性がある。
http://mikiomiyamoto.bake-neko.net/innerl021.htm

249. 中川隆[-8675] koaQ7Jey 2019年8月23日 19:34:57 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4073] 報告

日本人と中国・東南アジアの少数民族の先祖が同族! 2015-07-31
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12056508365.html


@ ミャオ/モン族(呉系弥生人と同系統、Y-DNA遺伝子O系、参考)


{89BAEE4D-9920-4321-BA59-9874A63B7CDB:01}


{26BB3A19-7D70-4D71-90AA-89BF577F72CC:01}
ベトナムの棚田

{F85DAFDA-BBF7-474E-80AB-B96C713CD131:01}
中国貴州省


{C9FF0104-B066-44C4-991A-783B74B8AE54:01}

{DF643479-229F-4EEC-8DF0-E7C58A6DEB65:01}


独自の文字を持たなかった

A チャン族(斉系弥生人や縄文人と同系統、Y-DNA遺伝子D系、参考)


{3960C7F3-8F95-4704-86BD-B276CE2AF59C:01}

{2D4171F6-8D60-4AE5-91F1-82B9C2C5971C:01}


{0D6B99F0-E5B3-481D-BDEB-4892096116ED:01}

豚,羊,牛を家畜とする


{0D1720D0-E19F-4443-B420-525699D54F66:01}

農業に従事し、牧畜業も兼ねる。特に井戸掘りと石造建築物の構造技術に長じる


{766D65D9-5B42-40EC-837F-73F9AD8B0894:01}

{7D9449BC-17D2-4D41-8DDC-9BD88FE10C4F:01}

{912E4503-62B3-4491-BD5E-CDE8301D2C4C:01}

同族、ぺー族が作った大理国

{14E9C76A-09BB-413A-819F-C1CD15575AA9:01}


{C80BEB5B-0319-42D6-8AAC-BF9F98C6B2B4:01}


西夏を建国した羌族の末裔、タングート族は西夏文字を完成させた!


同族のイ族が文字を維持している


日本人とイ族の関係(参考)、、、日本人の新生児の9割以上に現れる蒙古斑が、雲南省の山間部族であるイ族(人口約1000万人)の新生児にも多数確認されている。専門家によると、イ族に日本語を聞かせたところ、聞いたことのないはずの日本語のいくつかの単語に反応を示し、意味を言い当てたといいます。さらに日本語の発音とイ族の発音には共通する部分が多く、初めて聞く日本語の発音もすぐに習得し、流暢に日本語を話したという研究結果もあるそうです。


イ族の現地には「火把節」という1000年単位で伝承されている有名な祭りがあり、これが日本の伝統的な祭りである「火祭」と関係性を持っているとの説も出た(参考)。

{63D16193-ED97-4C3D-A798-D45980140597:01}
ハニ族の棚田(チャン族、イ族と同族)

B 日本の呉系弥生人の子孫の水田(玄界灘文化A)


{D59E101D-011D-4924-968B-07456217DF8F:01}
筑後川流域、鶏足が名物料理


{14996759-3A3B-4278-A9A7-9E37FB54764D:01}
朝倉郡、三連水車

{7454C060-753C-4EC6-92F8-76A18D73346D:01}
有明海のムツゴロウ釣り

{60695305-57AB-4B4B-B1C6-7FF01CE2A4C4:01}

ドジョウ料理、柳川鍋

{3FC7D981-FD60-4018-BC09-CA3E5782E8A2:01}

柳川の風景、まるでタイの水上マーケット

C 日本の斉系弥生人の子孫の棚田(響灘文化@)


{46017430-9F44-41EE-B19B-F77EA8880BF8:01}
山口県長門市、東後田

{516DF062-0E67-4119-A323-581DC0EBA9E4:01}
山口県下関市豊浦町、狗留孫山近くの棚田

{A78454EC-08AE-4CEF-9F15-9F7A315AB11A:01}

山口県長門市、津黄魚港(東後田の近く)


{9B7DF694-2D61-4805-AF6B-C4D901C5B2A0:01}
山口県下関市の田植え

{89956A03-7567-4B93-90D0-5DFB2E3F17F7:01}

下関市福江

{3342B895-EB1B-4A16-874A-5F3AE55B1E81:01}

{BF654093-422E-4B83-AD49-7D8F41204DDE:01}

{DB9468CA-D688-4E9C-B6A4-50C56187C21A:01}


{B24813C3-3671-4354-BF07-4D57350BBBF3:01}
京都府京丹後市 袖志


D 呉越同舟でよく知られた越人もベトナム(越南)に逃れたが、一部、日本に渡来した(呉系弥生人とほぼ同じY-DNA遺伝子O2a、呉系はO2b、参考)。越の国、福井県から新潟県あたりと推定した。


{04C41E82-9605-4B08-AC9B-A02AD026E4D5:01}

新潟県の今

{7616A4F1-0C77-4128-B530-587B6CE3896A:01}
新潟県の昔

https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12056508365.html

250. 中川隆[-8674] koaQ7Jey 2019年8月23日 21:55:39 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4074] 報告


青谷上寺地遺跡で出土した渡来系弥生人の男性は縄文人と同じY-DNA D2を持っていた 2018-12-21
https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12420079127.html


青谷上寺地遺跡で出土した人骨のうち32体をミトコンドリアDNA分析した結果、ほぼ全員の31体が渡来系弥生人であった。そして、その内29体が血縁関係が無かったという。


大陸での争いを避けて、家族を見失ったまま大慌てで渡来した直後で家庭を再建出来ていなかった時期の遺跡であったと想像される。まるで、昭和時代の敗戦で家族を見失って大陸から日本に戻った引揚者の状況によく似ている。


また、「中心部の溝からは、老若男女の人骨が少なくとも109体分、散乱した状態で出土。鋭い武器で切られたり、刺されたりした殺傷痕が残るものもあった。戦闘など凄惨な行為があった」と考えられており、日本列島に上陸した直後までに争いがあったか、傷ついたままで渡海した可能性がある。家庭を作って一つの村を構成してからの争いなら、何人か同じDNAを持つ血族を構成してグループ化していたはずである。


そして、下関市の土井ヶ浜遺跡の弥生人の食生活と比較する為に骨の成分を分析すると、海産物を多く食べるなど、よく似ていた。この食文化は現代まで続いており、また現代日本語の方言のアクセント分布を見ると、出雲地域を除いて、下関から鳥取辺りにまで広がる山陰方言の文化圏の人々となっている。また、下関の綾羅木郷遺跡から土笛が完形品として出土しているが、この土笛は北九州の宗像以東から山陰沿岸に出土して、やはり山陰文化圏を構成していた。


すなわち、土井ヶ浜遺跡の弥生人と同族で、中国大陸の山東半島の臨淄(春秋戦国時代の斉国)で出土した斉国人と同族と言うことになる。この斉国人とは、秦の始皇帝の一族(秦氏)や羌族(現在のチャン族)と男性遺伝子Y-DNA Dの観点で同族であり、また縄文時代の山の民(いわゆる縄文人)が男性遺伝子Y-DNA D2を持っているとされている。


青谷上寺地遺跡の人骨の男性遺伝子の分析は未だこれからとのことで、結論を今の段階では出せないが、男性達は男性遺伝子Y-DNA D2を持ち、全員が原日本語を喋っていたと期待される。


鳥取市青谷町青谷 青谷上寺地遺跡

現代日本語のアクセント分布(wikiより)


追加(2019.3.4)


青谷上寺地遺跡の弥生人は、母系は渡来系で父系は縄文系との結果がDNA分析で判明した。


すなわち、渡来人の男性は日本列島に従来から定住する縄文人と同族であり、男性達はY-DNA D2を持ち、全員が原日本語を喋っていたことになる。


結果を発表した篠田副館長は未だ、渡来系弥生人の男性が元々、日本列島内の在来の縄文人と同じY-DNA D2を持っていることに気がついていない。


参考


@ 弥生人骨、予想覆し「渡来系」大半…鳥取の遺跡


読売新聞(2018.11.18、参考)


鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で見つかった弥生時代後期の人骨について、鳥取県埋蔵文化財センターや国立科学博物館などが実施しているDNA分析調査の中間報告会が17日、同町の市青谷町総合支所で開かれた。大半の人骨のルーツが大陸からの渡来系だったといい、同博物館の篠田謙一副館長は「日本人の成り立ちを知る重要な手がかりだ」と話す。


遺跡からはこれまでに約5300点の人骨が出土。調査では、頭蓋骨約40点から微量の骨を削り取り、DNA分析を行っている。報告会では、母から子へ受け継がれるミトコンドリアのDNA配列を分析し、母系の祖先をたどった調査結果を篠田副館長が説明。市民ら約130人が聞き入った。


篠田副館長によると、九州北部の遺跡から出土した弥生前期の人骨の分析では、在来の縄文系と渡来系の遺伝子が見つかった。当時の人が両方の祖先を持っていたことを示しており、青谷上寺地遺跡の人骨についても、両方の遺伝子が検出されると予想していたという。しかし、今回DNAを抽出した人骨32点のうち、31点が渡来系で、縄文系は1点だけ。DNAの型は29種類に分かれ、血縁関係がほとんどないことも分かった。


青谷は遺跡の発掘調査から、大陸などとの交易拠点だったと考えられており、分析からも、多くの渡来人が入ってきて、交易で栄えていたことがうかがえるという。また、従来の研究では、稲作の普及や定住生活の広がりに伴って弥生後期には日本人の中に渡来系と縄文系が交ざっていたと考えられていた。しかし、今回の調査結果は定説に当てはまらず、篠田副館長は「これまでの説について発展的に考える契機になる」と述べた。


共同研究では今後、細胞核のDNAから父系のルーツについても分析する。2019年3月には、鳥取市内で最終的な研究成果を発表する予定で、篠田副館長は「当時の人々がどのように暮らしていたのかを明らかにしていきたい」。報告を聞いた同市の会社員男性(64)は「青谷でどんな人が暮らし、自分たちのルーツはどこにあるのか、興味をかき立てられた。研究内容に注目したい」と語った。



同町の青谷上寺地遺跡展示館では17日、研究に用いられている人骨5点の展示も始まった。午前9時〜午後5時。月曜、祝日の翌日は休館。無料。終了日は未定。問い合わせは同展示館(0857・85・0841)。(河合修平)

A 弥生時代に謎の大量殺戮? 大量の人骨をDNA分析、弥生人のルーツたどる 鳥取・青谷上寺地遺跡


産経WEST(2018.8.15、参考)


鳥取県埋蔵文化財センター(鳥取市)や国立科学博物館(東京都)などが連携し、鳥取市青谷町の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡から出土した弥生時代後期(2世紀後半〜3世紀)の人骨のDNAを分析する研究を始めた。


弥生後期は、大陸や朝鮮半島からの渡来人と在来の縄文人の混血が進んだ時期と考えられるが、人骨の出土例は全国的にも少なく、DNAが本格的に分析されるのは今回が初めて。日本人の成り立ちの解明につながる成果が期待される。


研究には国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)も連携する。同センターが保管する頭蓋骨など人骨約40点からサンプルを採取。ミトコンドリアDNAを分析して塩基配列の特徴を調べ、世界のヒト集団の特徴と比較し、同遺跡の弥生人のルーツをたどる。


また、血縁関係・親族構造など集落内での人と人のつながりや、髪や瞳の色、直毛か、毛深いかといった身体的特徴の解明も試みる。最終的な研究成果は、今年度末に発表される予定だ。


低湿地にある同遺跡は、大気から遮断されて腐敗菌の繁殖が抑えられたことなどから、保存状態の良い遺物が多数出土し「弥生の博物館」と呼ばれる。中心部の溝からは、老若男女の人骨が少なくとも109体分、散乱した状態で出土。鋭い武器で切られたり、刺されたりした殺傷痕が残るものもあった。戦闘など凄惨(せいさん)な行為があったと考えられるが、その背景は明らかになっていない。


「魏志倭人伝」「後漢書」などの書物には、この時期に「倭国大いに乱る」とする記述もある。同センターでは「大量殺戮(さつりく)の謎にせまれれば、大きな成果となる。『倭国乱』で何が起きたかを示す、唯一の痕跡になる可能性がある」と話している。

B 「安定同位体分析からみた土井ヶ浜弥生人の食性」米田穣(東京大学総合研究博物館教授)


第18回土井ヶ浜シンポジウム 『全容が見えた土井ヶ浜遺跡―土井ヶ浜遺跡発掘調査報告書刊行記念』(2014年3月15日、海峡メッセ下関、参考)


次に14:15東京大学・米田穣教授。東京大学総合研究博物館・研究部放射性炭素年代測定室。ええとC14はいわずもがな、なんと「「同位体生態学を用いた骨化学という新しい分野を開拓する日本で唯一の研究室」」とのこと。理学博士でいらっしゃいますな。土井ヶ浜弥生人の骨の成分から、何を食べていたか調べるそうです。「ナポレオンの毛髪から砒素が」のもっと進んだかたちかな。


まずはお礼、おつかれのところ安定同位体という科学の話。うんまあ、土井ヶ浜シンポジウムは主体が人類学ミュージアムだけあって理系の講演も多いのだけど、たいていの参加者は考古学の話と思ってるものね。ご本人は米に田に穣(みのる)がお名前なので研究テーマとしたと。毎回言ってるだろソレ(笑)

縄文時代から弥生時代への移行は、狩猟・採集から農耕社会への変化でもあると。ヒトがどうやって食物を獲得してきたか、重要だが難しいテーマ。難しい理由のひとつは、遺跡に残る資料が限られること。


例として、北海道網走市のモヨロ貝塚(オホーツク文化)の貝層。残るものとしては土器などの道具で、釣り針があれば魚を捕っていたことがわかる。でも野菜や果実などは消化されて残らない。そこで、食物の証拠が残っているものとして人骨を調べる。コラーゲンというタンパク質。コラーゲンは生前は骨の20%〜25%含まれる。3本の鎖からなり、非常に強い。この骨の化学組成で材料を探っていく。


骨は歯と違い、少しずつ動くので、例えば骨折はなおる。人骨を分析すると、死ぬ10年前くらいからの食物の結果がわかる。注目するのは炭素12と炭素13、窒素14と窒素15。同位体の数値から植物⇔草食動物⇔肉食動物と食物連鎖もわかる。炭素同位体では雑穀類のC4植物、ドングリやイモやコメやムギのC4植物という違いはわかるが、ドングリとイネの比率はわからない。窒素同位体だと貝・魚はわかる。髪の毛にも食生活の変化が記録されている。雑食の女性がベジタリアンの男性と結婚してベジタリアンになると、グラフ的には雑食時の蓄積傾向からベジタリアンな動きにかわり、つまり結婚後は夫と同じような動きになる。


ここから分布図を示してそれがなにをどう表しているか簡単な説明と土井ヶ浜弥生人の傾向がどうかという話。正直、図がないと何がなにやら。とりあえず、今回は土井ヶ浜弥生人32個体中31点から保存状態のよいコラーゲンが見つかってそれを利用。N15とC13では海陸のいろんなものを食べていたことになり、他分野先行研究ともほぼ一緒の結論。


土井ヶ浜遺跡は青谷上寺地遺跡(鳥取県)に似ている。いわゆる北部九州弥生人である隈・西小田遺跡(福岡県筑紫野市)は稲作をしていたが、少し違う。深堀遺跡(長崎県)・大友遺跡(佐賀県)とも逆方向に少し違う。一方、縄文時代の東名遺跡(佐賀県)は水稲がなくても近い。違うところは水稲による差か。ただ津雲遺跡(岡山県)は縄文時代でももっと広範囲に分布するので、いろんなものを食べていると。なお、現代人に比べると海産物をたくさん食べていることになる。


年齢差について。乳児は窒素が高く、母乳による栄養か。どの遺跡でも乳児は窒素が高く、年齢とともにさがる傾向。乳幼児は炭素が低いが、おかゆのせいか。男女差は、男のほうが窒素が高いので、漁労に従事して魚を食べやすかったか。特異なものはなく、極端に偏った食物ではなさそう。個人差は大きくないので身分があって食べ物が違うとかそういうことはなさそう。これからの研究で格差がでるかもしれない。


というところで時間オーバー。うーむ、骨から生前に何を食べてたかわかるとはおそれいったぜ。

C 土笛(参考)


北九州の宗像以東、下関市綾羅木郷遺跡から山陰沿岸に出土する土器が、鳥取県の青谷上寺遺跡からも出土している。


青谷上寺地遺跡で出土した土笛のモデル

土笛の出土地域、下関の綾羅木郷遺跡では完形品が出土している(参考)。


D 斉は秦と同族の民(Y-DNA D2)が山東半島で稲作を身につけ、また海人族からの海の幸と交換する経済を確立していた!この斉は秦に滅ぼされて、海人族と共に日本の山陰沿岸に渡来した(参考)。

E 日本語の起源(参考)

F 古代の原日本語と現代の方言(参考)

G 日本語の起源と騎馬民族(参考)

H 弥生人、母系は渡来系、父系は縄文系か DNA分析で判明


毎日新聞(2019.3.4、参考)


国史跡・青谷上寺地(かみじち)遺跡(鳥取市)で出土した弥生時代の大量の人骨=2世紀ごろ=のDNA分析の中間報告会が2日、同市のとりぎん文化会館であった。国立科学博物館の篠田謙一副館長が、まだ途中段階で不確かだと断った上で「(人骨の)父系の遺伝子は縄文系に近いグループ」に多くが位置付けられると説明した。父系の遺伝情報が分かる「核ゲノム」分析の成果。


全国初となる弥生時代の人骨の本格的なDNA分析だけに、約430人が興味深そうに耳を傾けた。昨年11月の初回の報告会では、母系の遺伝情報が分かる「ミトコンドリアDNA」の分析により、人骨の大半は朝鮮半島や中国大陸などからの“渡来系”が多いとされていた。


当時の青谷地域では多様な遺伝グループが存在したと考えられ、日本人の起源の分析につながる可能性もあるという。今後はDNA分析を進めて各個体の特徴を調べる方針。【園部仁史】

10 <青谷上寺地遺跡>人骨の一部 渡来×縄文系


読売新聞(2019.3.3、参考)

DNAの解析結果について説明する篠田副館長(右、鳥取市尚徳町で)


弥生後期 国立科学博など解析


鳥取市青谷町の青谷上寺地遺跡で出土した弥生時代後期の人骨の一部は、母親が大陸にルーツを持つ渡来系、父親が日本在来の縄文系だったことが分かった。2種類のデオキシリボ核酸(DNA)を解析した国立科学博物館や県埋蔵文化財センターなどが2日、同市尚徳町のとりぎん文化会館でのシンポジウムで発表した。当時は大陸との間で人の交流が盛んだったことを示すという。


DNAは、細胞の核にある染色体と、細胞質内のミトコンドリアにそれぞれ含まれており、中でも男性が持つ「Y染色体」は父親から、ミトコンドリアは母親から受け継がれる性質がある。同博物館の篠田謙一副館長らは昨年、遺跡で見つかった32人分の骨からミトコンドリアDNAを抽出。配列を調べ、31人が渡来系、1人が縄文系であることを突き止めた。


今年はさらに、渡来系31人のうち、保存状態の良い6人についてY染色体のDNAを解析した。その結果、Y染色体が抽出できた4人中、3人は縄文系で、渡来系は1人だった。


3人の母親は大陸から日本に渡ってから日本の男性と結婚したか、大陸で日本の男性と結婚後に渡来した可能性があるという。今後は分析する個体数を増やすなどしてルーツを詳細に調べる計画で、篠田副館長は「人口の増減や混血の状況、個体の特徴などを明らかにしたい」としている。


コメント: 篠田副館長は未だ、渡来系弥生人の男性が元々、日本列島内の在来の縄文人と同じY-DNA D2を持っていることに気がついていない。

11 青谷上寺地遺跡の弥生人の身長は縄文人より高く、渡来系であった(参考)


12 響灘文化、北九州の弥生人とは異なった文化を持ち、山東半島の臨淄辺りから渡来した

https://ameblo.jp/shimonose9m/entry-12420079127.html

251. 中川隆[-8687] koaQ7Jey 2019年8月24日 18:13:23 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4061] 報告

2019年04月30日
古蜀国はどこに行ったか? −三星堆遺跡を見てー
https://inookahikaru.at.webry.info/201904/article_4.html


研究者によると、イ族のシャーマン(ピモと呼ばれる)の使用する経典(代々引き継がれてきた)の文字と遺跡で見られる文字とが一部で一致する。また、死者の儀式でピモが死者の霊に呼びかける時、祖先のいた場所に着くように指示をするが、その行先をたどると、三星堆遺跡の場所になるということだ。以上の調査から、彼らが古代国家の末裔と推測している。

それでは、なぜに彼らがこのように人里を離れた高地に住むようになったか、歴史の経過から説明している。東晋時代に編纂された「華陽国史」に簡単な記述があるとのことだ。紀元前316年に秦が侵入してこの国(古蜀国と名付けられている)を滅ぼしたこと、紀元前2世紀に漢の武帝がこの地に益州を設置して中央集権を強めたこと、さらに諸葛孔明が漢民族による支配を徹底させたとのことである。このように、古蜀国の人々は侵入者により次々と追い払われ、最後には人里を遠く離れた高地にまで逃げ延び、イ族の文化と伝統を守ってきた。 

イ族の学校(涼山州民族中学)で教えていた日本人教師が赴任した時に、イ族の先生や生徒から、「日本人の先祖はイ族という話を聞いたことがある?」と質問されたとのことだ。イ族の人たちの伝承である。実際にイ族の人たちの顔立ちや文化も日本と似ており、親近感を感じたとのことである。

日本では弥生時代に多くの人々が大陸から渡来してきた。渡来系弥生人の一部は長江流域や江南地方から来たことが、最近のDNA分析から明らかになっている。当時の中国大陸では戦乱が続き、さらに秦が拡大して肥沃な土地は侵略の対象になった。そのような状況から新天地を求めた人たちが移動してきたのであろう。したがって、イ族の人たちも渡来系弥生人に入っていた可能性は極めて高い。イ族の人たちの伝承に日本が含まれていることは、大陸に残されたイ族と日本に来たイ族との交流があったからであろう。

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飛び出した目と大きい耳をもつ不思議な青銅製仮面で有名な、中国四川省の成都に近い三星堆遺跡の博物館を訪問した。20年近く前にも知人の案内で短時間見学したが、この仮面の印象は強烈であり、もう一度見たいと思っていたのがやっと実現した。

最初の写真に示した青銅製仮面は、幅が138cm、高さ64cmの巨大な仮面であり、飛び出した目は遠く(未来をも?)を見通す力を示しているのではないかと推測されている。青銅製の頭部像はいくつも展示してあるが、表面に金箔の薄板をつけた頭部像もあった。独特の表情をしており、極めて印象的である。青銅製の人物立像は、台座まで含めると2.6mに達する大きなものである。長い衣装をまとった祭司(シャーマン)の姿であるとの説明だが、顔の表情は頭部像と似ている。

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この遺跡の大がかりな調査は1980年代に始まり、大量に見つかった青銅の仮面、神樹、土器などは大きな反響を呼んだ。中国文明としては黄河文明が最古と考えられてきたので、長江の上流地帯でこのような文明があったことは驚きであり、中国あるいは世界の歴史を書き換えることになった。

文明誕生についての歴史の常識は、近年の新しい遺跡の発見で大きく書き換えられてきた。世界各地での新たな遺跡の発掘により、文明誕生の多様性が認識されて、かつての四大文明という言葉は使用されなくなった。さらに、農業、定住化、都市、宗教、神殿などいう歴史の基本的流れも、ギョベクリテペ遺跡で変更された。東トルコの南部にあるこの遺跡は、紀元前9500年ころ狩猟民が造った巨石構造群(神殿)である(参照 ギョベクリテペ遺跡を見て)。農業と定住化の前に、このような巨大な神殿が建設されたことは、世界中に驚きを与えた。

三星堆遺跡の発掘で大規模な住居や城壁の跡が見つかり、古代王国の都と推定された。紀元前2800年からおよそ2000年近く続いた王国跡である(縄文時代の後期、晩期に相当)。初期は石器と陶器のみであるが、それ以降では青銅器の仮面、神樹(扶桑の樹)、立人像など多様な出土品がある。この三星堆文化は、紀元前800年ころには消えてしまったが、2001年に成都市の中心に近いところで発見された金沙遺跡は、三星堆文化を受け継ぐことが分かった。しかし、それ以降は継続する文化は見られず、歴史から消えてしまった。


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なぜにこれだけ繁栄した古代国家が消え去ったのか、大変不思議でありネットで調べた。その結果、NHKのスーパープレミアム 「秘境中国 謎の民 天頂に生きる 〜長江文明を築いた悲劇の民族〜」(2017年放映)にて三星遺跡についての興味深い話があるとのこと、早速NHKオンデマンドに登録して番組を見た。主な内容は、楽山に近い大涼山の3000m以上の高地に住むイ(彛)族という少数民族についてのドキュメンタリーである。主題は彼らこそ三星堆遺跡の古代国家を担った人々の末裔ではないか、という推測である。


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研究者によると、イ族のシャーマン(ピモと呼ばれる)の使用する経典(代々引き継がれてきた)の文字と遺跡で見られる文字とが一部で一致する。また、死者の儀式でピモが死者の霊に呼びかける時、祖先のいた場所に着くように指示をするが、その行先をたどると、三星堆遺跡の場所になるということだ。以上の調査から、彼らが古代国家の末裔と推測している。

それでは、なぜに彼らがこのように人里を離れた高地に住むようになったか、歴史の経過から説明している。東晋時代に編纂された「華陽国史」に簡単な記述があるとのことだ。紀元前316年に秦が侵入してこの国(古蜀国と名付けられている)を滅ぼしたこと、紀元前2世紀に漢の武帝がこの地に益州を設置して中央集権を強めたこと、さらに諸葛孔明が漢民族による支配を徹底させたとのことである。このように、古蜀国の人々は侵入者により次々と追い払われ、最後には人里を遠く離れた高地にまで逃げ延び、イ族の文化と伝統を守ってきた。 

以上が番組の主な内容であるが、このような苦難の道を長年歩んできても、「人の和を大事にする」という伝統を大事にしている様子に感銘を受けた。さらにネットで調べたら、イ族の学校(涼山州民族中学)で教えていた日本人教師の記事も見つけた。これもまた大変興味深い。教師として赴任した時に、イ族の先生や生徒から、「日本人の先祖はイ族という話を聞いたことがある?」と質問されたとのことだ。イ族の人たちの伝承である。実際にイ族の人たちの顔立ちや文化も日本と似ており、親近感を感じたとのことである。

日本では弥生時代に多くの人々が大陸から渡来してきた。渡来系弥生人の一部は長江流域や江南地方から来たことが、最近のDNA分析から明らかになっている。当時の中国大陸では戦乱が続き、さらに秦が拡大して肥沃な土地は侵略の対象になった。そのような状況から新天地を求めた人たちが移動してきたのであろう。したがって、イ族の人たちも渡来系弥生人に入っていた可能性は極めて高い。イ族の人たちの伝承に日本が含まれていることは、大陸に残されたイ族と日本に来たイ族との交流があったからであろう。

このように調べてみると、三星堆遺跡の数々の青銅仮面や青銅立人像が急に身近に感じられるようになった。こだわりを持ってこの遺跡の展示物を見たいと思ったのは、私の中にも彼らの遺伝子が残っているためかもしれないと、妄想は広がっていく。
https://inookahikaru.at.webry.info/201904/article_4.html

252. 中川隆[-8686] koaQ7Jey 2019年8月24日 18:21:29 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4062] 報告

シリーズ13億人の深層 _ イ族 - YouTube 動画
https://www.youtube.com/results?search_query=%E3%82%B7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%BA13%E5%84%84%E4%BA%BA%E3%81%AE%E6%B7%B1%E5%B1%A4%E3%80%80&sp=mAEB


2016/12/28 に公開


新年1月3日(火)夜11時30分〜第2弾放送決定!
テレビ大阪開局35周年特別企画
「天空家族の7年 〜中国・四川省 標高3000mの希望〜」


シリーズ第一弾 「天空の教室」 (テレビ大阪にて放送)
中国内陸、標高3000mの山奥で暮らす少数民族イ族の家族に密着。貧困から抜け出すため「教育」に全てをかける親とそれを一身に受ける3人の子どもたち。教育、経済、そして家族愛から中国の深層を描くドキュメンタリー。

253. 中川隆[-8685] koaQ7Jey 2019年8月24日 18:43:54 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4063] 報告

天頂に生きる 裏史 2018/02/02

大涼山の山嶺

NHKの「秘境中国 謎の民 天頂に生きる 〜長江文明を築いた悲劇の民族〜」
https://www.google.co.jp/search?hl=ja&q=%E3%82%B9%E3%83%BC%E3%83%91%E3%83%BC%E3%83%97%E3%83%AC%E3%83%9F%E3%82%A2%E3%83%A0%E3%80%80%E7%A7%98%E5%A2%83%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E3%80%80%E8%AC%8E%E3%81%AE%E6%B0%91%E3%80%80%E5%A4%A9%E9%A0%82%E3%81%AB%E7%94%9F%E3%81%8D%E3%82%8B%EF%BD%9E%E9%95%B7%E6%B1%9F%E6%96%87%E6%98%8E%E3%82%92%E7%AF%89%E3%81%84%E3%81%9F%E6%82%B2%E5%8A%87%E3%81%AE%E6%B0%91%E6%97%8F%EF%BD%9E&lr=lang_ja&rlz=1I7AWNC_jaJP826&gws_rd=ssl#spf=1566639800907

という番組を観賞した。この番組は、三千メートル級の山々が連なる大涼山の山頂に暮らす、山岳民族イ族(彝族)を取材したものだが、実に示唆に富む番組であった。以下、同番組を通じて感じたことを、四つの角度から述べてみたい。

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天頂の村を目指して帰路に就く少女

■国家
最初に、中国最古≠フ王朝と云われている殷王朝(商王朝)だが、その祭祀王はシャーマンであった。このあたりについては、すでにブログ記事にしている。


四千年近くの時空を超えて、今日の世界にも神格シャーマンが存在する。今上陛下その人である。つまり、朝鮮族であった遙か太古の殷の祭祀王のDNAを、しっかりと引き継がれておられるのが今上陛下なのである。
青州で思ふ(3)

以下は現在の定説とされている殷王朝の版図である。殷王朝が諸侯に分け与えた封国に、揚子江(長江)の一部が含まれているのに注目されたい。

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次に、以下は同番組で登場した定説の四大文明のイラスト…。

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しかし、最近の研究では第五の大文明≠ニもいうべき、「長江文明」なるものの存在が明らかになりつつある。

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同時に、イ族は長江文明を築いた人たちの末裔である、という可能性が最近の研究で高まりつつあるのだ。その末裔が、長江という肥沃な土地から、何故に大涼山山頂に住むようになったのかというあたりの詳細は、同番組で確認していただくとして、簡単に経緯を述べるとすれば、秦帝国による侵略から始まりモンゴル帝国による侵略に至るまで、侵略に次ぐ侵略を受けた古蜀国の住民は散り散りとなり、一部が大涼山の山頂に逃れたということになる。

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秦の侵攻を受けた古蜀国

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古蜀国から最後は大涼山へと逃れたイ族の一部

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古蜀国侵攻の記述がある中国最古の地誌『華陽国志』

さて、殷王朝の支配者、すなわちシャーマンについてだが、長江文明に属する古代中国の遺跡の一つとして、1986年に発見された四川省広漢市の三星堆遺跡が同番組で紹介されていた。以下はその当時の発掘の模様だ。

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発掘された遺跡の一部を同番組で紹介していたが、最も強い印象を受けたのが青銅立人像、すなわち長江文明を支配していたシャーマンである。

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そして、上のシャーマンの流れを汲んでいるのが、大涼山のイ族のピモ(シャーマン)ということになる。数千年もの時空を超えて、殷王朝のシャーマニズムが大涼山のイ族に引き継がれ、さらには東に位置する日本の天皇にも引き継がれたのだと思うと、実に壮大な気持ちにさせられるではないか…。

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■村落
次に、同番組の中心舞台となった大涼山の最奥地にある、イ族の四季吉村について筆を進めていこう。四季吉村には「ピモ」と呼ばれている上述のシャーマンと、政(まつりごと)を担当する村長がいるのだが、このあたりは現代日本の天皇(シャーマン)と、総理(政)という二体制を連想させるに十分だ。ピモの聖職者としての仕事をテレビを通じて観つつ、村人の精神的な心の拠り所としての存在は村の天皇≠連想させるのだし、村長は今の日本を力強く牽引している安倍総理を連想させるに十分であった。

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「和を以て貴しとなす」は、架空の人物である聖徳太子の言葉だが、「和」を四季吉村の村長が口にしたシーンを耳にした時、亀さんは飛び上がらんばかりに驚いた。日本の東京と中国の四季吉村という、数千キロの距離を超え、現在日本人の物の見方・考え方に相通じるものを、直感的に悟ったからだ。

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■家族
二年前、「秋刀魚の味」と題したブログ記事を書いたことがある。「秋刀魚の味」は小津安二郎監督の映画作品なのだが、同映画で印象に残ったシーンがある。


同映画の公開は1962年11月18日というから、1964年10月10日に開催された東京オリンピックから遡ること2年前、亀さんは小学校の4年生だった。だから、かつての古き良き時代の日本を思い出しながら、懐かしく鑑賞した次第である。なかでも印象深かったシーンが、若夫婦の平山幸一(佐田啓二)と秋子(岡田茉莉子)が暮らしていた団地でのシーンだ。
秋刀魚の味

だから、今回のNHKの番組で最も感動したのが以下のシーンだった。

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家畜番人の娘(16歳)

これは、三千メートル級の山でも夏期には家畜の伝染病が流行るということもあり、近所の家畜をまとめて高地に連れて行き、夏の間の二ヶ月ほどを近所の人たちの代わって、世話をする村人の家畜の番人についてのドキュメンタリーなのだが、ある日預かっていた牛の一頭が行方不明になった。無我夢中で三日三晩探したものの見つからない…。このままでは、35万円もの賠償金を支払わなければならない、という苦境に家畜番人は立たされたのだった。もし牛が見つからなかった場合、山を下りた町に下宿させて勉強をさせていた長女(16歳)、息子(6歳)、末娘(5歳)らを学校や幼稚園に通わせることができなくなる…。悩む父親の姿を見た長女は、自分が学校を辞めて家族のために働く、と決心するのであった。

このあたりは、やはり長女だった亀さんの母を彷彿させるものがある。母は中学校を終えたばかりの叔父が、丁稚奉公に出されるということで、不憫で不憫で仕方がなかったというエピソードを聞かせてくれたものだった。この母の弟を思う気持ち、ブログで記事にして亀さんは以下のように書いている。


叔父は亀さんの母の弟で、小学6年生(12歳)の時に実の母親と死別、長女だった亀さんの母(当時20歳)が、残された弟や妹の面倒を見たのだった。そして、叔父は中学を終えた15歳の春に、親戚の呉服店へ丁稚に出されたのだが、わずか15歳で社会に出る弟を見て、母は不憫でしかたがなかったという。
叔父との別れ

だから、当時の日本と同じ境遇にある四季吉村は、母や叔父が若かりし頃と同じ時代精神を背負っているのだと、画面を通じてつくづく思ったことだった。

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行方不明だった牛は伝染病で死んだことが判明し、賠償金を払わずに済み、安堵する父親の家畜番人

■お金
以下のシーンは、村長の息子が都会に出て大学生活を送る傍ら、村の羊の肉を使った屋台を開いたところ、好評だったので村の羊を都会の名産にするべく、大規模な事業を展開してみたいと相談した時の父親の反応である。

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このあたりは意見の分かれるところだろうが、ホリエモンあたりだったら、間違いなく息子の方を応援するんだろうなと思いつつ、同シーンを眺めていた。このお金についての考え方だが、mespesadoさんが実にE−ことを書いているので、この機会に紹介しておこう。

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http://grnba.bbs.fc2.com/reply/16340424/302/

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実りの秋を迎えた四季吉村


http://toneri2672.blog.fc2.com/blog-entry-1552.html?sp

254. 中川隆[-8684] koaQ7Jey 2019年8月24日 19:12:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4064] 報告

1古代羌族からチベット・ビルマ語族へ

 古代羌族、すなわち現在のチベット・ビルマ語族の祖先は、魂の移動経路に関してとても敏感な人々だった。彼らは羊を追ううちに、アジア中に拡散し、一部はヒマラヤを越え、インド洋にも達した。今も生を終えるとき、シャーマンの導きによって魂は祖先が旅してきた遥かなる道を遡り、原郷に戻る。そこは永遠の安寧が保障された極楽のごとき夢幻境である。

送魂路という観念はとても魅力的だ。われわれも死んだら輪廻転生するのではなく、魂は祖先が歩んできた道を遡り、海を越え、モンゴル草原をへて、アルタイ山脈から天界へ昇っていく、というのならどんなに素敵だろうか。天界には死んだおばあちゃんやおじいちゃんだけでなく、顔も名も知らない祖先たちがたくさん幸せに暮らしているだろう。そこではいさかいも恨みも妬みもないので、平安そのものである。

 こういった観念を生み出したチベット・ビルマ語族とはどんな民族群なのだろうか。

 チベット・ビルマ語族の祖先が古代羌族であることは、歴史的にも、言語学的にも、ほぼまちがいない。しかし彼らの故郷が(多くの学者が信じているように)モンゴルと青海・甘粛の間のあたりと断定していいのか、なぜはじき飛ばされるように拡散していったのか、時期はいつごろなのか、など問題点は多々あるのである。しかもチベット・ビルマ語族が拡散したのは一回きりの話ではなく、当然何度もあったはずであり、一度インド平原に達した彼らがヒマラヤ南麓にもどったというケース(ネパールのライ族の伝承)さえも想定されるのだ。

 考古学的見地から眺めてみよう。青海から甘粛にかけての地域に、馬家窯文化と呼ばれる新石器時代(4000-5300年前)の遺跡が発掘されている。これらの主は古代羌族と考えていいだろう。

 青銅器時代(3000-4000年前)になると、斉家文化(甘粛から青海にかけて)やカユエ文化(青海湖東の湟中県)、寺ワ文化(甘粛)、上孫家寨類型(青海大通県)、辛店文化(甘粛)、諾木洪文化(青海都蘭県)などがつぎつぎと登場するが、どれもやはり古代羌族と考えられる。土器表面の紋様を見るかぎり、高度な文明をもっていたことがうかがえるが、中原の漢族の影響や交流も同時に感じられるのである。

 チベット高原の東部、チャムドでは、カロ(Kha rub)遺跡(4000-5300年前)という謎めいた大規模遺跡が発掘されている。古代羌族はこんなにも早くチベット高原にたどりついていたのだろうか。出土物からは西域やカシミールとの交易も考えられ、古代はわれわれの想像よりはるかに交流が活発に行なわれていたのかもしれない。

 中国の学者は、古代羌族の南下のもっとも早い例は、4、5千年前の雲南・四川にまたがる大敦子および礼州遺跡ではないかと見ている。史記に登場するテン(サンズイに眞)国や夜郎国などはその子孫によって建てられたのかもしれない。また言語学者の推定によれば、中国西北から南下したチベット・ビルマ語族からビルマ人、カレン族、ナガ族などに分離したのは、いまから2500年前と4500年前のあいだだという。つまり紀元前500年頃にはすでに現在の民族がほぼできあがっていたということになる。(賀聖達2003)

 チベット・ビルマ語族がいつ頃ヒマラヤ南麓にやってきたか、定説もなければ有力な説もない。私は、第一陣はすくなくとも3000年前には達していたのではないかと考える。ヴェーダ聖典(紀元前1000年から前500年頃編纂)のなかにキラータという名が出てくるが、後世モンゴロイドを指すことばとなる。

 『ヤジュル・ヴェーダ』ではキラータは穴居人とされ、『アタルヴァ・ヴェーダ』ではキラータの少女が山岳地帯の端で薬草を掘る(摘む?)という記述がある。西チベットやヒマラヤ西北には数十の、あるいはそれ以上の洞窟遺跡群があり、ムスタンの洞窟から発見された動物の骨からそれが紀元前800年頃のものであることがわかったのだ。

 話を中国の古代に戻そう。羌という文字は甲骨文のなかに頻出する。商(殷)王朝と戦って捕らえられた羌人は人身御供、つまり祭祀の生贄とされたのである。この羌人がそのまま漢代以降の羌族と同一とみなしていいかは議論の余地はあるが、中原から見て北方のモンゴル・トルコ系は狄と呼ばれ、西北の原チベット・ビルマ系は羌と呼ばれていたと考えるべきだろう。

 後漢書・西羌伝によれば、西羌(西方の羌族)の始祖は無弋愛剣(ぶよくあいけん)という奴婢であり、河湟地区に逃げてきたあと、農地を開墾した。無弋愛剣はチベット語のBu g-yog yab r-gyal(奴隷の子にして父なる王)に当てられた字だとすれば、西羌とチベット人はきわめて関係が深いということになる。

 後漢書・西羌伝はつづいて無弋愛剣の曾孫がずっと西方のほうへ移動したことを記述していて、チベット学者はこのことを軽視する傾向にあるが、チベット人起源に関する有力な情報であることにまちがいない。

 史記・西南夷列伝には巴蜀西南外蛮夷として、テン(サンズイに眞)、キョウ(工ヘンにオオザト)都、夜郎、スイ(山カンムリに雋)、昆明、シ(徒の右上を止)、筰都(さくと)、冉(ぜん)ボウ(馬ヘンに尨)、白馬などが挙げられているが、これらは古代羌族の後裔だろう。大半が現在のイ族に相当し、一部はチャン(羌)族やギャロン族と考えられる。白馬部落が現在の白馬族(白馬蔵族)に相当するかどうかは議論の分かれるところである。

さて無弋愛剣が定住した河湟地区は前述のように新石器時代にはすでに先進地域であり、送魂路の多くもこの地域を起源地とみなしていて、チベット・ビルマ語族のいわば原郷なのである。

この地区には数多くの羌族系の部落があったが、前漢・後漢の頃のその中でも最も強大だったのは、先零羌だった。先零は現在の西寧をあらわすシリンにあてられた漢音だろう。 後漢書・西南夷列伝はまた四川西北には、六つの夷部落、七つの羌部落、九つのテイ(低からニンベンを取る)部落があると記されている。夷は現在のイ族やナシ族、羌はチャン(羌)族やチベット系民族、テイは古代の巴人や現在のトゥチャ(土家)族などと結びつけられるかもしれない。

 近年注目を浴びている四川盆地の「超古代文明」、三星堆遺跡の主は古代羌族と血縁関係にあると思われるが、より具体的にはテイ族の一種、巴人ではなかろうか。テイ族は低地に住むようになり、遊牧から農耕へと生活をシフトしていった羌族とみられている。上述の青銅器時代の寺ワ文化(甘粛)は羌族からテイ族となった最初期の例である。しかし漢化しながらも民族性を維持したトゥチャ(土家)族やイ族などを除くと、テイ族は長い年月のあいだに漢族と融合し、漢族そのものになってしまった。

五胡十六国時代(304-439)はテイ族の全盛期だった。前秦、成漢、後凉という三つの国がテイ族の国だった。とりわけ華北を統一した前秦は、天下分け目の戦いである383年のヒ水(ヒはサンズイに肥)の戦いに破れなければ、中国統一も夢ではないほどの強大な力を誇っていた。この時代は小国が興亡し、乱立した混乱の時代だったが、漢族と周辺民族が融合した時代でもあった。

 そういったなかで大きな勢力を得たのは、北魏などを建て、隋や唐を建国した(もちろん有力な説にすぎないが)モンゴル系の鮮卑だった。中原に羌族系の国家は成立しなかった(周王朝や秦王朝が羌族系という説もある)が、そのぶん漢化度のすくない吐蕃が成ったのである。
http://mikiomiyamoto.bake-neko.net/sokonroj101.htm

255. 中川隆[-8683] koaQ7Jey 2019年8月24日 19:19:04 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4065] 報告
漢民族の形成の問題
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/2.htm


弥生時代の開始前後の倭人の移住について触れる前に中国大陸で主役を演ずることになる「漢民族(夏人)」が何時、どのように形成されたかが重要な問題として存在しますが、私には手に余る問題です。

しかし日本人の起源について論ずる時、触れずに済ませられる問題ではありませんので、一応現時点での考えを述べさせていただきます。

学生時代に読んだ本の印象で、暫くは5千年前に黄河流域がほとんど無人となり、その後南北より後の中原と称される地域やその東西に移住が行われ、漢民族が形成されたと大雑把にかんがえていたのですが、その場合南北いずれが優位であったかについては、当時の漢語の起源論から「シナ・タイ語族」が存在し、謂わば「原タイ語」の所有者が長江流域下流から北上して淮河流域に達し、更に北上して中原に入り伝説的な「夏」を建国し、「漢民族」の形成の契機となり、その後「東夷」に「北狄」の混じた「殷」(衣、商)が東方から中原を征し、「漢語」が成立し、後に西方から「周」及び同盟の「羌」族が「殷」を征し、その結果(羌はチベット系ですから)「漢字」の一部を正方系のチベット語系言語で「訓」読みし、この結果周以降の「漢語」の語彙が本来のタイ系に近い語彙とチベット系に近い語彙が混在し、「漢語(中国語)」が「シナ・チベット語族」と見做されるような変化を受けたというように考えていました。

また「狄」はチュルク(トルコ)の音訳でT*R*K(*は母音が入る)の音で子音Rが弱化してT*Kの形となったもので、突厥同様の音訳であり、鉄勒はT*R*k、丁零はT*R*で語尾のKの弱化であると考えていました。勿論この説(狄のトルコ起源説)には先人がいますが、いわば民族・種族・部族名が長期的に「保存」されやすいという私の考え方(偏見?)はどうもこの頃に強くインプットされたようです。

南蛮の「蛮」は基本的に苗族を中心とした南方系の諸民族で一部南島語族やオーストロアジア語族系(ヴェトナム人の祖やモン・クメール語話者を含む)も含めた総称であろう(西戎は勿論チベット・ビルマ語族の特にチベット系諸民族を指す)と考えていました。

東夷は勿論満洲・ツングース語群、韓民族、日本民族の祖先だと考えていました。

その後形質人類学・遺伝学の進歩により「漢民族」の形成をもっと北方系及び西方系の要素を中心に考えるべきだと思うようになっていますが、まだ中国の人類学的・遺伝学的データが少なく考えをまとめられない状態が続いています。

特に長江文明を黄河文明の先行と考えるべきか、mtDNAのデータなどから考えられるように、白人を含む西方系の集団の東進(北のモンゴリアを経由して南下する可能性と甘粛・陝西と直進する場合が考えられます)を「漢民族・黄河文明」形成の主役と考えるべきか迷っています。遺伝学的には羌族の太公望呂尚はどうも白人の血が濃かったようですが。

漢民族形成の詳細なストーリーはさて置き、4000年前の寒冷期にユーラシア大陸の東西で、長江・インダス・先史ヨーロッパの巨石文明を滅ぼす民族大移動が起ります。

これは気候の寒冷化・乾燥化を契機として「印欧語族」の大移動(第1次移動)で、印欧語族はヨーロッパ、メソポタミア、インドに現れ、ほぼ時を同じくして「漢民族」も黄河流域に現れます。(「環境考古学のすすめ」安田喜憲、丸善ライブラリー349;「環境と文明の世界史」石弘之+安田喜憲+湯浅赳男、洋泉社)

大三元さんからはヨーロッパなどで起ったことがアジアでも起るはずという考えは・・・というご批判を受けそうですが、気候の変動という共通点から反応の違いはあるとしても洋の東西でほぼ同時的になんらかの広い意味での共通現象が起ると考えて良いのではないかというのが私の昔からの考えで、安田氏の「環境考古学」などの提示にすぐ飛びついたということになります。

印欧語族が黒海周辺よりの中央アジア西部を原郷地として拡散・移動を開始したとすれば、中央アジア東部アラル海周辺からイリ盆地あたりから漢民族が同じ頃東方へ移動を開始したという話が整合性がありそうなのですが、むしろアルタイ語群、とりわけチュルク語派の原郷をこのあたりに比定し漢民族もしくはその前身の一部(周?羌?チベット・ビルマ語族?)はもっと東の甘粛あたりが考えやすいかもしれません。

尚、最近安田氏の一派(だと思いますが)の研究では、どうも日本(を含む東北アジア?)では寒冷期がユーラシアの大部分に比し、300年くらい速く始まり、終わるのはやはり数百年遅いという記事を新聞で読みましたが、詳細不明で私の誤読の可能性もあります。

民族あるいは言語群の形成

5000年前に始まったユーラシア大陸の乾燥・寒冷化が動因となって4000年前の、

ユーラシア西部の「印欧語族のヨーロッパ・中東・インド」への侵入と、

ユーラシア東部の「黄河流域への漢民族の進出と(夏・)殷の建国」

が起こりますが、勿論印欧語族と漢民族の形成以外に他の言語集団ー語族といっても良いでしょうーもこの5000〜4000年前に形成されたと考えられます。

西シベリアからサヤン山脈の北あたりが原郷と考えられる

「ウラル語族」(フィン・ウゴール語派とサモエード語派)、

アルタイ山脈から大興安嶺あたりに原郷地が比定されるいわゆる「アルタイ語族(ウラル語族程成立が定説化されてはいませんのでアルタイ諸言語という表現で、チュルク・モンゴル・ツングース3言語群と朝鮮語を含む)」

の他に陝西〜甘粛あたりの「チベット・ビルマ語族」は比較的異論はなさそうです。

おそらく東シベリアから満洲東部、樺太、沿海州の古シベリア語族(古アジア語族)これは雑多で到底一つの語族として扱うのは困難です。

他にミャオ(苗)・ヤオ系がチベット・ビルマ語族の東方、陝西省あたりに、長江下流域あたりにタイ系の諸民族が形成されたと思われます。

あるいはタイ系はもっと北におり、長江中下流域にはオーストロネシア(南島)語族やオーストロアジア語族(モン・クメール語群、ヴェト・ムオン語群など)が居住・形成されつつあったと考えるべきかも知れません。

漢民族の最初の言語「原初漢語」が何処で形成されたかが問題となります。

前項「漢民族の形成」でも検討しましたように、

河南省(後の中原)で商業ネットワークの共通語としていわゆる「夏人」によって使用され、中原に入った「商(殷)」に継承された(この場合商は東夷の一派であったか?

あるいはチュルク系か不明)と考えるか、「夏」を過大評価せず、「殷」こそが「漢語」を中原にもたらしたか?

に、ついてですが、当面「夏」民族が黄河中下流域の原住民で後の「タイ」族(チアン、プーイー、カム、スイなどの諸族も含む)の祖たる「原タイ族」に極めて近い集団で、中原に進出(というよりも中原の原住民?)し交通の要衝を占めたことから四周のチベット、ミャオ・タオ、チュルク、殷などの語彙も吸収して「原初漢語」(夏語?)を形成したと考えたいと思います(作業仮説ということで、もう少しデータが揃えば当然代わります)。

モンゴリア(蒙古高原)から満洲西部のかけてのアルタイ諸言語群の中に日本語の祖語が形成されたのもこの前30〜20世紀(5000年前=4000年前)の間であり、

現存のアルタイ諸言語のチュルク、モンゴル、ツングース、朝鮮四語群とは別個の言語の一つ(失われたアルタイ系の言語が他にも存在した可能性があります)として存在したと考えられ、おそらく遼寧省の「紅山文化」圏内で成立した可能性が高いと思います。

前20世紀から前16世紀頃にかけての北方諸民族の南下運動で、

@河南省を中心とした中原地域は山西省か河北省あたりから南下(河北省からこうが下流域に入り西進して中原に侵入したか、山西方面より直接中原に入ったかは不明)にて中原に入った殷民族が夏の故地に「商」を建国しますが、

A同じころ河北省・山東省から淮河流域は東夷諸民族の九夷と呼ばれる諸集団が入り、

B一方陝西より南下したミャオ・ヤオ系諸部族は黄河中流からその南方に移住し、

C甘粛から陝西にかけて形成された?チベット・ビルマ語族は南下して四川省に、西進してチベットに東進して陝西から山西・河南に拡がり、「夏」の流れを汲む「周」民族とも混交します。

このチベット系の移動にはさらに西北方からのコーカソイド(印欧語族?)からの圧力がかかっていたと考えるべきでおそらくチベット・ビルマ系の諸部族の一部は印欧語族〜コーカソイド系の支配下に入っていた可能性があり、ロロ族やキョウ(?)族が問題となるでしょう。

元来黄河中下流域から淮河あたりにかけて居住していたタイ系の集団は押されて南下し長江中下流域に移住し、

長江中下流域にいた南島語族やオーストロアジア語族の諸集団も更に南下し、

ついに東南アジアに姿を現し、

一部は先住のオーストラリア・メラネシア系の残存者と混血します。

尚モンゴロイド(シベリアからモンゴリアで形成された)の南下は少なくとも15000〜20000年前に開始されたと思いますが、「語族」の形成は5〜6000年前と考えられ、「南島」「南アジア」語族の東南アジアへの南下開始はその頃と一応考えています。タイ、ミャオ・ヤオ、チベット・ビルマ語族の南下は殷や東夷諸民族の南下と同じく4000年くらい前ではないかと思っています。

日本語の祖語集団、即ち後の倭人は九夷の一派と考えられますが、諸民族とともに南下した集団なのか、内蒙古・西満洲・蒙古高原東部あたりに残ったのかは困難ですが、私はこの時は(前20世紀ころから夏殷交替までの時期)は移動しなかった可能性が高いように思います。

遼河流域に倭人が居住していたか?

「後漢書烏丸鮮卑列伝」に、有名な「倭人国」の記事があります。

即ち、鮮卑を統一した英雄「檀石槐」が、増加した部衆の食糧難を解決するために、後漢の光和元年(AD178)頃、東方の「倭人国」を討って、「倭人」1000余家を得て、これを遼河の支流「烏侯秦水」(老叭河とされる)の沿岸に移して、網漁をさせたというものです。

この記事を信頼すれば、「倭人」と称される集団が、明らかに、後漢に朝貢した日本列島の倭人諸国の他に、鮮卑の領域に存在したことを示しています。即ち「北方遼河周辺の倭人の存在」を疑うことはできず、「倭人江南出自説」を唱える論者には、

@長江流域の倭人の一部が移動して遼河流域にいた、

A列島の倭人が、満洲方面に移住し、鮮卑と接触した、

B「倭人」というのは、単一の民族集団を指すものではなく、出自の異なる「倭人」と称される集団があちこちにいた、

C中国の史書は全く信用できない、

という四つの選択肢のどれかを採らざるを得ません。

勿論、「魏志(三国志)鮮卑伝」では「倭人」ではなく、「汗人」になっているので、

D「倭人」ではまく「汗人」の誤記である。

という選択肢も残っています。

以上の五つの選択肢の内、Cについては、「魏志倭人伝」なども否定せねばならず、日本の古代史像の組み立てにも支障が生じ、且つこのような議論自体、無意味ということになりますから、採用するわけには行きません。

Dの「汗人」説については、三国志の裴松之注に引用された『魏書』(王沈)の記事です。後漢書の范曄よりも、三国志の陳寿の記載の方に信憑性が高いとする論者は多いですが、この「汗人」「汗国」記事は陳寿の記載したものではなく、後漢書の完成より3年前に記載された「注」の記事です。范曄が「裴注」を見た可能性は少ないと思いますが、王沈の『魏書』か「裴松之注三国志」、あるいは『魏略』など他の記録の何れかは見ていたでしょうから、その原文に「倭」でないとすれば 

?

(文字化けする可能性がありますが、例の「サンズイに于」の字です。「汚」の正字とされていますが、以後「水于」と表現させていただきます)

と記載されていたことは、間違いないと思われます。

王沈の『魏書』にはその当時(王沈の生存時)「今に至るも」「水于」人数百戸が、烏侯秦水のほとりに住む旨の記載もありますので、後漢代から晋代まで「『水于』人」〜「倭人」の一支が遼河流域に居住していたという事実を知らせてくれます。

王沈の『魏書』は魚拳の『魏略』と並んで信用ならない「史書」の代表として『史通』に酷評されている(ちくま学芸文庫版「正史三国志」C解説p499、今鷹真氏)ことを考えれば、范曄の「後漢書」の記事をとるべきでしょう。即ち、檀石槐が征した部族の名称は史書にはっきりと「倭」と記載されていたのを、范曄が見たままを記載したか、あるいは「水于」と記載してあったのを「倭」と訂正したか、(あるいは両方ともあったのかも?)の何れかであったと思われます。
http://www.cam.hi-ho.ne.jp/sakura-komichi/kodaishi/hn2602/2.htm

256. 中川隆[-8685] koaQ7Jey 2019年8月25日 07:57:34 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4064] 報告
諏訪春雄通信 15
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa15.htm


長江流域の少数民族社会にひろまっている太陽神信仰以外の信仰をみてゆきます。今回のテーマは「稲魂信仰」です。

 私たちのアジア文化研究プロジェクトには、学習院大学内外の多くの研究者が「プロジェクト参加者」としてくわわっておられます。これまでなんらかの形で私たちの活動に関わりをもたれた方々です。その参加者の一人に曽紅さんという中国の女性がおられます。この方は、現在は学習院大学の中国語講師をつとめていますが、本来は中国雲南省のハニ族の稲作について調査研究をかさね、すでに多くの論文も発表している比較民俗学者です。私の中国調査にもよく同行され、各地の民俗をいっしょに見てまわった方です。

 曽紅さんの研究の核心は雲南省ハニ族の稲作儀礼と日本の稲作儀礼との比較研究です。彼女はそこに多くの共通性を発見しましたが、しかし、なぜ遠く離れた雲南のハニ族と日本とのあいだに稲作にかかわる共通の信仰や儀礼が存在するのかという問いについては判断を保留しています。というよりも、明確なことはわからないというのが曽紅さんの本音のようです。

 彼女の研究の一端を紹介します。
 ハニ族の年中行事のうち、稲作に関係する行事にはつぎのようなものがあります。

1月 五穀祭(穀物神に豊作を祈願する)
2月 ガマツ祭(稲魂の降臨をむかえる) 
3月 苗床祭(稲の苗を祭る) 稲娘の聖婚式(稲魂を水田におろす儀礼) 穀物神と田の神を祭るハォへへ
6月 夏の松明祭(松明の火に照らして稲の多産を祈願する) 水口祭(水田の水口に供物をささげる)
7月 虫送り(稲の害虫駆除の祭り) 稲花酒を飲む(初穂を神棚にそなえ稲籾をいれた酒を飲む)
8月 新米節(ホスザ 稲刈に先立ちあたらしい稲魂と家の神棚にまつってある昨年の稲魂との新旧交代をおこなう)
9月 田の神への感謝祭(主婦は水田の真中で田の神に供物をささげ感謝の歌をうたい稲刈をする) 倉入れ(新旧稲魂の交替の儀礼)
10月 松の飾りと団子飾り(松の枝と稲の籾や若草を入れた竹筒、栗の枝を玄関にかざる。団子飾りは餅花) 年取り(団子をたべる)
    曽紅「ハニ族の年中行事」(諏訪春雄編『東アジアの神と祭り』雄山閣・1998年)

 ハニ族の古い暦法は一年を十ヶ月とします。この年中行事はその暦法によっています。このかんたんな叙述からも、(1)農家の一年の行事が稲作の作業過程とむすびついて進行する、(2)稲の祭りの中心に稲魂信仰がある、(3)稲魂は家の神棚と倉に祭られる、(4)稲魂は新旧交代する、(5)稲は人々の生命力の根源である、など、日本の稲作の祭りと共通の信仰が存在することがあきらかになります。

 家庭の主婦となった曽紅さんは、最近、中国調査を一時休止しています。曽紅さんのあとをうけて、雲南省の少数民族の稲作儀礼調査に目覚しい成果をあげているのが、麗澤大学教授の欠端実氏です。欠端氏とは国際日本文化研究センターのプロジェクトでご一緒し、しばしばお話を聞く機会がありました。
 氏の説の核心部分を引用してみます。

 現在の雲南省においても、穀物が発芽し成長し開花し結実するのは、穀霊の働きによると考え、そのための儀礼を執り行なっている小数民族は多い。アチャン族の穀霊祭は典型的なものとされる。アチャンは、稲には稲魂があって、稲魂を離れると稲は育たず、実も入らないと信じている。したがって、ぜひとも稲魂を祀らなければならないと考えている……ハニにおいても稲魂信仰は強く残され、日本の稲作儀礼と同じ儀礼が今日に至っても守られている。
 「雲南少数民族における新嘗祭」(『新嘗の研究4−稲作文化と祭祀―』第一書房・1999年)

 ハニは現在でも新穀を供える新嘗祭(フォシージャー)を行なっている。期日は一定していないが、おおむね七、八月の龍の日に行なわれる。稲魂(新穀の女神)はとても恥ずかしがりやなので、新穀を刈り取るときにはめでたい詞を唱えて、穀物を収穫する目的と新穀の女神をお迎えする誠意を表明しなければならない。穂がびっしりとつまっていて虫に食われていないものを選ぶ。刈り取った穀物は三本一くくりとし、三束に分けて先祖の位牌の所に掛け、一年中そのままにしておく。ただしお年寄りが亡くなったときにだけ持ち出して焼く。
 新米節のときにはまず先祖に供える。主な供え物としてはご飯である。(同上論文)

 氏はまたハニ族の新嘗祭の特徴をつぎのようにまとめています。

1.家の祭である。
 新嘗の時には家族全員で新穀を食べる。その際、客を招かず、家族以外の人には食べさせない例が多い。また新穀を収めた穀倉は他人 に見せようとはしない。

2.女性が主宰する祭である。
 調査した60余の村の内、11の村が「新嘗」は女性家長が主宰すると答えた。男性が主宰すると答えた村は2例であった。

3.新嘗儀礼の中心にあるのは穀霊(稲魂)信仰である。
 田畑にいる穀霊を家の中に迎え入れ祖先棚あるいは穀物蔵で休息してもらう。新穀を祖霊、穀霊および天神に供え共食する。新穀を食することは穀霊を食べることに他ならないという観念が今日も残されている。

4.穀霊信仰と祖霊信仰とが結合している。
 田畑から迎え入れられた穀霊は祖先棚に安置される。この祖先棚の移動や新設は新嘗の日に行わなければならない。

5.穀霊を保護しているのは聖樹である。穀霊信仰と聖樹崇拝とは結合している。
 ハニ族最大の祭は、田植前に行なわれる聖樹祭(アマトゥ)である。稲魂を庇護する天神が聖樹を伝わって降臨すると考えられている。聖樹は村建ての時、村のセンターとして選ばれるものであるが、西双版納(シーサバンナ)では各家で聖樹をもつ村があった。

欠端実「ハニ族の新嘗―アジア稲作の古層―」(アジア民族文化学会秋季大会発表要旨・平成13年11月11日・共立女子短期大学)


 ここでのべられている雲南省のハニ族の新嘗祭はそのままに日本の新嘗祭です。しかものちに変質してしまった日本の新嘗祭の古代の原型を推定する手がかかりさえのこされています。なぜそのような酷似性がみとめられるのでしょうか。これまでの本通信の注意ぶかい受信者ならば、その理由を容易にかんがえつくことができるはずです。

 欠端氏もまた曽紅さんと同様に、日本との類似性は指摘するがその理由についてはふれられません。雲南省は長江中流域にひろがる湖南省、湖北省などよりもさらに西南に位置し、日本からは遠くはなれた山岳地帯です。ここの稲作が、間にはさまる巨大な空間を超えて注目されるようになったのは、いまから三十年以上もむかしに、照葉樹林文化論(上山春平ら編『照葉樹林文化論』中央公論社・1969年初版)が流行したころからです。雲南省のハニ族の稲作が中国の他の土地に先んじて調査対象になったのは、じつはこの照葉樹林文化論の影響でもあったのです。

 1980年代、アジアの稲作の起源地としては、インドのアッサム州から中国の雲南省・貴州省にかけての高原地帯が有力でした。いわゆるアッサム・雲貴起源説です。この説をささえる重要な根拠は、この高原地帯で日本の農学者渡部忠世博士によって野性の稲が発見され、さらに、3、4000年まえにさかのぼる栽培稲が見出されたことでした。渡部博士の説は、1977年に『稲の道』(日本放送出版協会)として発表され大きな影響を学界にあたえました。

 このアッサム・雲貴稲作起源論のうえに華麗な照葉樹林文化論が強化され、日本の学界をにぎわしたことはご記憶の方も多いとおもいます。照葉樹林文化というのは、西ネパール付近からヒマラヤの南山麓を通り、中国南西部を経て西日本にいたる帯状の地帯にひろがっていた照葉樹林地帯(照葉樹林は、クスノキ、シイ、ツバキなどの、葉は革質で光沢のある常緑広葉樹の林で、日本では九州、四国、関東までの沿岸部に分布します)に生まれそだった文化で、焼畑農耕にもとづく雑穀栽培、ナットウやなれずしなどの醗酵保存食の利用、高床式住居の住居形式などなどの文化複合を形成しています。稲作もまたこのルートをたどって日本に到達したと主張されました。

 しかし、湖南省が稲作の源産地として確定した今日、照葉樹林文化論の骨格はくずれました。ほぼ4000年前の雲南省の稲作は、それよりもさらに4000年以上さかのぼる長江中流域から伝来したものと推定されます。したがって雲南の地にひろまった稲作の祭りや信仰もじつは長江中流域が起源地であったということになります。

 日本の稲魂信仰と雲南省ハニ族の稲魂信仰の共通性は、長江中流域の稲作民の稲魂信仰が東西に伝播したためであるといいきることができます。そして、私たちはすでに、湖南、湖北、貴州などの少数民族社会にその原型となる稲魂信仰を見出しています。
https://www-cc.gakushuin.ac.jp/~ori-www/suwa-f02/suwa15.htm

257. 中川隆[-8675] koaQ7Jey 2019年8月26日 02:44:24 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4074] 報告

◆日本神話の源流 2016年10月28日
https://blog.goo.ne.jp/himiko239ru/e/00c1636e1c904cfe1241e6c4017993ad


 さて、書紀における海幸山幸の説話は本編のほかに一書が第1から第4まである。それぞれに内容がしっかりと書かれていて全部合わせるとかなりのボリュームになり、神代巻の中では出雲神話に次ぐ文量である。このことは海幸山幸神話が神代巻の中でも特に重要な意味を含んでいるということだ。

 文化人類学者の後藤明氏によると、海幸山幸神話には釣針喪失譚、異境探訪譚、大鰐に乗る話、異類婚のモチーフなどが見られ、これらのモチーフは東南アジアや南太平洋にその源流が認められるという。後藤氏が雑誌「Seven Seas」に投稿された記事をもとに少し確認しておきたい。

 海幸山幸神話は弟の山幸彦が兄の海幸彦の釣針を失くしてしまうことが発端になる。これと同じような発端を持つ神話はスラウェン(旧セレベス島)の北端のミナハッサ地方に伝わる話など、インドネシア付近に多く、さらに釣針を失くして探しに行く話は同じくインドネシアのチモール島、ケイ島、メラネシアのソロモン諸島、あるいはミクロネシアのパラウ諸島など南太平洋に連綿と見いだせるという。

 次に大鰐に乗る話。海幸山幸神話の一書(第1)や一書(第3)では山幸彦が海神の宮から戻るときに鰐に乗って戻ったとあり、また一書(第4)では海神の宮に行くときに鰐に乗っている。鰐は古事記の因幡の白兎にも登場する。この鰐は鮫であると言われているが、中国の揚子江流域には淡水性の鰐がおり、東南アジアのマレー鰐もかつては中国南部海岸にまで棲息していた可能性があるらしい。鰐が日本に棲息していたかどうかはわからないが、中国から鰐の知識が持ち込まれて鮫のイメージと融合して定着した可能性があるという。そして鰐のような大きな水棲動物に乗って海上を移動する話はマレー半島をはじめとする東南アジアに多く見つけられる。

 山幸彦は海神の娘の豊玉姫と結婚したが、この豊玉姫は鰐であった。このように人間と動物との結婚は異類婚と呼ばれる。ベトナム、ミャンマー、カンボジアなど東南アジアの王権起源の神話にはこの異類婚が多く、人間の男が動物の女と結婚して息子を作り、その子が新たな王国をつくるというストーリーが一般的だという。

 これに対して、学習院大学の名誉教授で芸能史学者の諏訪春雄氏の説を見てみたい。諏訪氏によると、記紀の天孫降臨神話は朝鮮半島から内陸アジア地域にかけて広く分布する祖神の天降り神話に由来するという定説に対して、南方の長江流域の少数民族社会にも祖先が穀物を持って天から下ったという神話や伝説が流布していることから、天孫降臨神話は北方諸民族の山上降臨型神話によってその骨格が形成され、これに天から穀物をもたらし地上の人類の祖先となる南方農耕民族の神話が融合して誕生した、と唱えた。出雲の根の国神話についてもその由来を長江流域の少数民族の神話や伝説に求めることができるという。さらに諏訪氏は、東南アジアの兄妹始祖洪水伝説の系列に属するとされていた記紀の国生み神話が、実は長江流域に数多く発見される洪水神話に基づくことを論証し、東南アジアで発見される洪水神話もその分布状況から判断して中国から伝播したものである、つまり洪水神話はその源流は長江流域であるとしている。そしてこれと同じ理屈で、海幸山幸神話の原型も長江流域の伝承が取り込まれたのだと主張する。

 諏訪氏によると、海幸山幸神話のみならず日本神話の源流を東南アジアに求める傾向があり、その理由を2つ挙げている。第1の理由は、中国神話の調査が不十分だったということ。中国は幾度も王朝が交替したが、そのたびに新しい歴史が作り直され、前王朝の遺制が破壊されて体系的な神話や伝承が後世に残されなかったということ。第二の理由は、それに比べて東南アジアの研究がはるかに進んでいたということ。しかもその研究のほとんどは欧米の学者によるものだという。欧米の研究者による東南アジア研究が先行し、中国少数民族社会の研究は文献資料を欠くために著しく立ち遅れていた。これによって日本神話の原型を東南アジアに求める傾向が強くなったという。
 
 海幸山幸神話は東南アジアから来たものか、それとも中国長江流域からのものか。東南アジアに由来するとする考えが通説のようであるが、私は諏訪氏の主張に一票を投じたい。神話の源流地とはその神話を書かせた当事者の源流地に他ならないと考えるからである。これまで何度も書いてきたように、記紀編纂を命じた天武天皇の源流は中国江南の地である、とするのが私の考えであるから。
https://blog.goo.ne.jp/himiko239ru/e/00c1636e1c904cfe1241e6c4017993ad

258. 中川隆[-8673] koaQ7Jey 2019年8月26日 02:58:19 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4076] 報告
第109回 二宮報徳会 A-2宮脇淳子先生講演
中編「かわいそうな歴史の国の中国人」2015.7.26 - YouTube
https://www.youtube.com/watch?v=jyAe4tRrue4

に出て来ますが


華南では川を江と書く

華北では川を河と書く

朝鮮では川を江と書く

つまり、朝鮮の稲作文化は長江の稲作民の文化が山東半島から朝鮮西岸沿いに海路を伝わったもの

弥生文化も朝鮮から伝わったものではなく、山東半島から朝鮮西岸沿いに海路を伝わったもの

259. 中川隆[-8667] koaQ7Jey 2019年8月26日 14:23:15 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4082] 報告
15-31. 新石器時代後期の中国北部がシナ‐チベット語族の起源らしい!
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-31.htm


  Natureの2019年4月25日付けの論文で、シナ−チベット語族の起源が中国北部との「中国北部起源説」を支持する旨の系統発生学的な証拠がそろったとの 内容が発表されました。シナーチベット語族の分岐は5900年前頃で黄河域で生じた、と説明している。

しかもシナ語族とチベット−ビルマ語族の分離は西方のチベットと南方のミャンマーに移動した集団と、 東方と南方に移動して漢民族となった集団に分岐した時だったと考えられるらしい。 これは縄文系の兄Y-DNA遺伝子集団であるチベット民族の起源にも触れるため、記事にしました。

  これとY-DNA調査によるガラパゴス史観を当てはめると、


1.揚子江流域で発展した稲作農耕の長江文明集団(Y-DNA「O1」)が、陸稲文化だった
  黄河文明系集団(Y-DNA「O2」)に敗れ、中原から追い出され、北方と南方に逃げた
  ことと一致する。南方に逃げた集団(オーストロアジア語系/越系:Y-DNA「O1b1」
  となった)は現代のベトナムからインドに分布し、稲作農耕民として生活している。
  一方北方に逃げた集団(オーストロアジア語系/呉系:Y-DNA「O1b2」となった)は
  満州あたりまで逃げそこから稲作適地を求め南下し朝鮮半島を経由し日本列島に入り
  弥生系文化集団となり、現代に続く日本人と朝鮮人の稲作農耕民の祖先となっている。
  東方に逃げ台湾に入った集団(オーストロネシア語系/楚系:Y-DNA「O1a」になっ
  た)も存在するが、同時代かどうかはまだわかっていません。

2.この時、西方のチベットに逃げ込んだ集団がチベット語族となったようですが、
  そうすると縄文系日本人Y-DNA「D1b」の兄遺伝子Y-DNA「D1a」を持つチベット人
  (後代に移住してきた漢族は除く)はその当時まで中原付近に居住していたことになり
  ます。
  ところが人類学の最新の研究では現代チベット人やシェルパ族の高地適応はデニソワ人
  から受け継いだと説明しています。そうするとその当時までデニソワ人はチベット
  高原に生き延びていたことになりますが.......?
  もしくは、四川文明は蜀の先祖/古蜀の古代文化と考えられますが、チベット系は中国
  大陸の中部から西部チベット高原に古代から既に広く拡大していたのかもしれません。
  日本語とチベット語の関係はまだ解明されていませんが、民話は、姑娘民話とかぐや
  姫民話など、一部共通するものがありますので、言語学者が古代チベット語を系統発生
  学で研究すると縄文語との近縁性が解明されるかもしれません。
  過去に学習院大学の大野教授が日本語の祖先はドラヴィダ人のタミール語であると発表
  し、今は死説となりましたが、Y-DNA「O1b1」のモンゴロイド系稲作農耕民が現代
  でも70%以上を占める部族がドライダ人集団内にいるため、この死説は弥生人が使っ
  ていた長江系稲作農耕関連の語彙が、遠くドラヴィダ人内に今でも残っていることを
  証明した事になるため、結果として極めて貴重な学説となりました。

3.この時に東方と南方に拡大したのが後の漢民族の母体となるY-DNA「O2」遺伝子集団
  と考えられます。この遺伝子集団は周辺の他の遺伝子集団と積極的に混じり合ったらし
  く、極東アジアのみならず、インドネシアなどのスンダ列島やニューギニアまで、
  東南アジアからオセアニアまで広く分布しています。これぞ極めつけの極東アジア人
  遺伝子のY-DNA「O」は、古代ではかなり活動的な集団だったのではないかと推測でき
  ます。

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それでは、Nature論文のabstructを転記します。興味のある方は原著を是非お読みください。

Nature Letter | Published: 24 April 2019

Phylogenetic evidence for Sino-Tibetan origin in northern China in the Late Neolithic

 The study of language origin and divergence is important for understanding the history of human populations and their cultures.

 The Sino-Tibetan language family is the second largest in the world after Indo-European, and there is a long-running debate about its phylogeny and the time depth of its original divergence.

 Here we perform a Bayesian phylogenetic analysis to examine two competing hypotheses of the origin of the Sino-Tibetan language family: the ‘northern-origin hypothesis’ and the ‘southwestern-origin hypothesis’.

 The northern-origin hypothesis states that the initial expansion of Sino-Tibetan languages occurred approximately 4,000?6,000?years before present(bp; taken as ad 1950) in the Yellow River basin of northern China and that this expansion is associated with the development of the Yangshao and/or Majiayao Neolithic cultures.

 The southwestern-origin hypothesis states that an early expansion of Sino-Tibetan languages occurred before 9,000?years bp from a region in southwest Sichuan province in China or in northeast India, where a high diversity of Tibeto-Burman languages exists today.

 Consistent with the northern-origin hypothesis, our Bayesian phylogenetic analysis of 109 languages with 949 lexical root-meanings produced an estimated time depth for the divergence of Sino-Tibetan languages of approximately 4,200?7,800?years bp, with an average value of approximately 5,900?years bp.

 In addition, the phylogeny supported a dichotomy between Sinitic and Tibeto-Burman languages.
 Our results are compatible with the archaeological records, and with the farming and language dispersal hypothesis of agricultural expansion in China.

 Our findings provide a linguistic foothold for further interdisciplinary studies of prehistoric human activity in East Asia.
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和訳です。

新石器時代後期の中国北部にシナ‐チベット語族の起源があることの系統発生の証拠。

 "言語起源と相違の研究は、人間の集団と彼らの文化の歴史を理解することにとって重要です。 "

 シナ‐チベット語族の言語族はインド‐ヨーロッパ語族の後で世界で2番目に大きいです、そして、 その系統発生とその最初の拡散の時期についての長い年月にわたる議論があります。

 "ここでは、シナ‐チベット語族の言語族の起源の2つの拮抗している仮説、すなわち『北部起源仮説』と『南西部起源仮説』、 を調べるために、我々はベイズ的な系統発生の分析を行います。
"
 北部起源説は、シナ‐チベット語族の最初の拡大が中国北部の黄河流域で、4000〜6000年前に生じ、 そしてこの拡散は新石器時代文化の仰韶(ヤンシャオ)文化 and/or 馬家窯(マジャヤオ)文化の開発と関連している、と説明しています。

 南西部起源説は、シナ‐チベット語族の初期の拡大は、今日でも高い多様性のチベット-ビルマ語族が居住している 中国四川省の南西部もしくはインド北東部で9000年前頃に生じたと説明しています。

 949の語彙の根源的な意味の統計解析による109の言語に対する我々のベイズ的な系統発生の分析は、 シナ‐チベット語族の分岐はおよそほぼ4,200〜7,800年前で平均は、北部起源仮説と一致しておよそ5900年前であった。

 "これに加えて系統発生は、シナ-チベット語族が、シナ語とチベット-ビルマ語族に二分されることを支持しました。 "

 我々の結果は、考古学的な記録と、そして、中国における農業と言語による農業の分散仮説と一致しています。

 我々の調査結果は、東アジアでの有史以前の人間の活動のより学際的な研究に、言語学的な足掛かりを提供します。
 
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-31.htm

260. 中川隆[-8656] koaQ7Jey 2019年8月27日 06:47:02 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4095] 報告

2019年08月27日
中国史の画期についての整理
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_51.html


 画期という観点から、一度短く中国史を整理してみます。そもそも、「中国」とはどの範囲を指すのか、どのように範囲は変遷してきたのか、という大きな問題があります。また、この記事では更新世における人類の出現以降を扱いますが、もちろん、更新世に「中国」という地域区分を設定することは妥当ではありません。考えていくと大きな問題を多数抱えているわけですが、以前から一度整理しようと考えていたので、とりあえず、ダイチン・グルン(大清帝国)の本部18省を基本にします。更新世から叙述の始まる日本通史が珍しくないように、一国史の呪縛は未だに根強く、凡人の私では適切な区分は困難です。今後は少しずつ、より妥当な地域区分や名称を考えていきたいものです。紀元後に関しては、おもに『近代中国史』(関連記事)、『世界史とつなげて学ぶ中国全史』(関連記事)、『中国経済史』(関連記事)を参照しました。なお、西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。

●人類の出現(212万年以上前)

 中国における現時点での人類最古の痕跡は212万年前頃までさかのぼり、陝西省で石器が発見されています(関連記事)。これは現時点では地理年代的にほぼ完全に孤立した事例で、どのように人類がアフリカから中国北西部まで到達したのか、まったく明らかになっていません。また、この石器をもたらした人類系統も不明です。おそらく、アフリカからユーラシア南岸を東進してきた、ホモ・ハビリス(Homo habilis)のような最初期ホモ属が、中国に到達して北上したと思われるので、今後、中国南部で220万年前頃の石器や人類遺骸が見つかる可能性は高い、と予想しています。

●「真の」ホモ属の拡散(170万年以上前)

 雲南省では、170万年前頃の初期ホモ属遺骸(元謀人)が発見されています。(関連記事)。陝西省では、上記の212万年前頃の石器が発見された近くの遺跡でホモ・エレクトス(Homo erectus)に分類されている藍田人が発見されており、その年代は165万〜163万年前頃と推定されています(関連記事)。河北省では170万〜160万年前頃の石器が発見されていますが、その製作者は不明です(関連記事)。212万年前頃の石器を製作した人類が、これら170万〜160万年前頃の中国の人類集団の祖先なのか、現時点では不明ですが、そうではなく、180万年前頃以降に新たにアフリカからおそらくはユーラシア南岸を東進してきた「真の(アウストラロピテクス属的ではない)」ホモ属だった、と私は考えています。人類史において、アフリカからユーラシアへの拡散は珍しくなかっただろう、というわけです(関連記事)。

●後期ホモ属の拡散(60万年前頃以降?)

 現生人類(Homo sapiens)が拡散してくる前まで、中期〜後期更新世のアジア東部には多様な系統のホモ属が存在した、と考えられます(関連記事)。中国各地では中期〜後期更新世のホモ属遺骸が発見されていますが、その分類については議論が続いています。最近、チベット高原東部で発見された16万年以上前となる下顎骨が、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)と確認されました(関連記事)。この下顎骨と中期〜後期更新世の中国のホモ属遺骸の一部とが類似しているため、中国には広くデニソワ人が存在したのではないか、とも指摘されています。しかし、デニソワ人の形態はまだほとんど明らかになっていないので(関連記事)、中期〜後期更新世の中国のホモ属遺骸がすべてデニソワ人系統に分類されるのか、現時点では不明です。デニソワ人系統と現生人類系統との分岐年代に関しては諸説ありますが、早ければ80万年以上前と推定されています(関連記事)。したがって、上述の170万〜160万年前頃の中国のホモ属とは異なる系統が、中期更新世に中国へと拡散してきた可能性はきわめて高そうです。ただ中国では、170万〜160万年前頃のホモ属系統が中期更新世まで存続し、アフリカから新たに拡散してきたホモ属と共存し、交雑していた可能性もあると思います。

●現生人類の拡散(5万〜4万年前頃?)

 中国における現生人類の拡散には、不明なところが多分にあります。中国における石器技術の画期は、35000年前頃となる、石刃をさらに尖頭器や削器などに加工する石刃石器群の出現との見解もあります(関連記事)。しかし、中国北部に関して、石器技術では様式1(Mode 1)が100万年以上前〜2万年前頃か、もっと後まで続き、石器技術の変化は少なく、中国では現生人類の出現と石器伝統の変化が必ずしも対応していないかもしれない、とも指摘されています(関連記事)。じっさい、4万年前頃となる現生人類遺骸(田园男性)が、北京の近くで発見されており、DNAが解析されています(関連記事)。アジア東部におけるデニソワ人と現生人類との交雑の可能性も指摘されており(関連記事)、中国における現生人類拡散の様相には不明なところが多分に残っています。

●農耕・牧畜の開始(10000〜8000年前頃)

 中国の現生人類集団は、農耕・牧畜開始の前後で南方系から北方系へと大きく変わった可能性が指摘されています(関連記事)。これは頭蓋データに基づくものですが、4万年前頃の田园男性に関しては、現代人には遺伝的影響を残していない可能性が指摘されています(関連記事)。しかし、この南方系集団と北方系集団がいつどの経路で中国に到来したのか、現時点では不明です。これと整合的かもしれないのは、現代漢人のミトコンドリアDNA(mtDNA)研究です(関連記事)。その研究では、漢人の遺伝地理的な区分として、南北の二分よりも黄河(北部)と長江(中部)と珠江(南部)の各流域という三分の方がより妥当で、この遺伝地理的相違は早期完新世にはすでに確立されていた、と推測されています。もちろん、核DNAやY染色体DNA、とくに後者ではまた違った遺伝的構成が見られるかもしれませんし、この問題の解明には古代DNA研究の進展が必須となりますが。

●青銅器時代〜鉄器時代(紀元前1700〜紀元前220年頃)

 この間、ユーラシア西方から家畜や金属器などが導入され、中国社会は複雑化していきます。その具体的指標として、性差の拡大が指摘されています(関連記事)。都市国家から領域国家、さらには巨大帝国の出現には、そうした社会的背景があるのでしょう。

●集住から散居(紀元後3〜4世紀)

 それまで、中国の聚落形態は集住(都市国家)が主流でしたが、散居(村の誕生)へと変化し、商業も一時的に衰退します。城郭都市は、それ以前とは異なり行政・軍事に特化していました。またこれ以降、「士」と「庶」の二元的階層が確立していきます。

●唐宋変革(10世紀)

 温暖化により中国社会は経済的に大きく発展し、無城郭商業都市である「市鎮」が出現します。中国では南部の発展が著しく、経済・人口で北部を逆転して優位に立ちます。

●伝統社会の形成(14世紀)

 中国における伝統社会は、14世紀以降に形成されていきます。モンゴルによる中国も含むユーラシア規模の広範な統合は、14世紀の寒冷化により崩壊します。これ以降、「士」と「庶」の間の中間的階層も台頭し、社会はますます複雑化していきます。そのため、中央権力の支配は社会の基層にまで及びませんでした。またこれ以降、南北の格差は前代よりも縮まり、東西の格差が拡大していきます(西部に対する東部の優位)。これは、物流において海路が重要になっていったことと関連しています。また、ダイチン・グルン後期には、沿岸部各地域がそれぞれ外国と結びつくなど、経済の多元化がさらに強くなっていきました。

●中華人民共和国の成立(1949年)

 1840〜1842年のアヘン戦争と1894〜1895年の日清戦争は、ともに中国にとって大きな転機となりました。とくにアヘン戦争は中国近代史の起点として重視されてきましたが、アヘン戦争以後も中国の伝統的な社会経済構造は堅牢で、直ちに大きく変わったわけではありませんでした。中央権力の支配が社会の基層まで届かず、多元的な社会経済構造は、一元化への志向にも関わらず、容易に解消しませんでした。この牢乎として存続する中国伝統社会を大きく変えたのが、共産党政権の中華人民共和国でした。土地革命と管理通貨の実現により、基層社会へと中央権力が浸透し、経済は一体化していき、統合的な国民経済の枠組みが生まれました。中国共産党政権は、まさに革命的でした。


 以上、中国史の画期についてざっと見てきました。現在の私の関心・見識から、更新世の比重が高くなってしまいました。農耕・牧畜開始以降については近年ほとんど勉強が進んでいないので、かなり的外れなことを述べているかもしれず、少しずつ調べていきたいものです。なお、中国共産党政権は革命的と評価しましたが、もはや現在は、「革命的」が直ちに肯定的に評価される時代ではありません。冷戦構造の進展という時代背景はあったにしても、中華人民共和国と「西側」との経済関係はきわめて希薄となり、対外貿易から得られるはずだった先進技術や外国資本を失うことにより経済の活力が衰えた、とも言えます。一方で、そうした事情が、中華人民共和国における強力な金融管理体制と通貨統一を実現させました。「西側」との経済関係が希薄化するなか、共産党政権は物質的な統制を進め、大衆動員型政治運動により反対意見を抑え込んでいきました。物質・思想両面の統制が厳しくなるなかで、逃げ場を失った多くの中国人には、共産党による統治を受け入れるしか選択肢は残されていませんでした。

 そう考えると、統合的な国民経済の枠組みが多くの中国人にとって本当に幸福だったのか、大いに疑問が残ります。購買力平価ベースのGDPでは、第二次世界大戦前はもちろん、その後の1950年でも、中国が日本を上回っていました(関連記事)。本来ならば、購買力平価ベースのGDPで中国が日本を下回るようなことはほとんどあり得なかったはずです。それが、20世紀後半の一時期とはいえ日本に逆転されてしまったのは、明らかに共産党政権の失政だと思います。中国共産党の側に立つ人に言わせれば、「西側」の「敵視政策」が原因となるのでしょう。しかし、政治においては結果責任が厳しく問われるべきで、冷戦が進行していく中だったとはいえ、共産党政権の責任は重大だと思います。

 共産党政権が、中国近現代史において最悪もしくはそれに近い選択肢だったとは思いません。選択を誤れば、中国は今でも内戦に近い状態が続き、経済の発展が妨げられていたかもしれません。当然、現在よりも生活・技術・学術の水準は随分と見劣りしたでしょう。しかし、だからといって、共産党政権が中国近現代史において最良に近い選択肢だったかというと、かなり疑問が残ります。1980年代以降の中国の経済発展には目覚ましいものがあります。これを根拠に中国共産党の統治の正当性を称揚する見解は珍しくないかもしれませんが、現実的な別の選択肢では中国は現在もっと発展していたのではないか、との疑問は残ります。大躍進に代表される中国共産党政権の大失策がなければ、少なくとも、購買力平価ベースのGDPで比較的短期間とはいえ中国が日本を下回るようなことはなかっただろう、というわけです。その意味で、中国共産党、とくに毛沢東の責任は重大だと思います。毛沢東こそ、一時的とはいえ、中国を決定的に没落させた最大の責任者だろう、と私は以前から考えています。率直に言って、共産党政権は近現代中国において、むしろ悪い方の選択だったのではないか、と私は考えています。

 もちろん、中国近現代史において、史実よりも都合のよい選択肢はほとんどなく、中国は一度どん底を経験し、社会・経済を統合する必要があり、毛沢東の功績は大きかった、との見解もあるとは思います。私の見解はしょせん素人の思いつきにすぎないわけですが、大躍進や文化大革命などのような大惨事は本当に不可避だったのだろうか、との疑問はどうしても残ります。1980年代以降の中国の経済発展は確かに目覚ましいのですが、もともと経済規模で日本に劣るようなことはほとんどあり得ない中国が、比較的短期間だったとはいえ、共産党政権下で日本を下回ったという事実は、やはり無視できないように思います。こうした疑問は、中国共産党政権の評価、さらにはその公的歴史認識(体制教義)の検証にも関わってくる問題だと思います。最後に、以下に中国の土地改革について、日本での近年の見解を取り上げます(関連記事)。

 まず、中華人民共和国における土地改革の必然性とされてきた帝国主義および地主からの搾取という認識にたいしては、中華民国期の農家経営について、商品経済化や小農による集約的経営を通じて土地生産性が向上した、との見解が提示されています。また、世界恐慌下の地主による土地の兼併は、全国的かつ長期的にわたる趨勢として確認できるわけではない、とされています。共産党が土地の分配により農民の支持を獲得して内戦に勝利した、との見解も見直されつつあるそうです。1920年代末〜1930年代前半、共産党は土地改革により勢力拡大を図りましたが、当時の共産党組織の脆弱さにより、国民党の反撃や在地の武装勢力の抵抗に遭って根拠地は短期間に崩壊しました。また、土地の分配を受けた農民が必ずしも積極的に共産党軍に加わったわけではなく、既存の雑多な武装人員が傭兵的に編入され、共産党の軍事力を担ったそうです。第二次世界大戦後、国民党と共産党の内戦が再発すると、共産党は土地改革を強く打ち出すようになります。この土地改革で地主・富農からの収奪だけではなく、中農の財産の侵犯が発生し、農業生産は大打撃を受けたそうです。共産党が短期間で多数の兵の徴募に成功した東北地区にしても、土地の分配により農民の自発的な支持を獲得したこと以上に、「階級敵」からの食糧・財産の没収を通じて、新兵の募集や雇用に必要な財を共産党が独占したことを重視する見解が提示されているそうです。
https://sicambre.at.webry.info/201908/article_51.html

261. 中川隆[-8649] koaQ7Jey 2019年8月27日 09:01:01 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4102] 報告

2019年06月30日
mtDNAに基づく漢人の地域的な違い
https://sicambre.at.webry.info/201906/article_61.html

 ミトコンドリアDNA(mtDNA)に基づく漢人の地域的な違いを報告した研究(Li et al., 2019)が報道されました。この研究はオンライン版での先行公開となります。漢人は現代中国人の約91.6%を占める巨大な人類集団です。以前の研究では、漢人の遺伝的多様性の高さが観察されています。mtDNAとY染色体DNAと核ゲノムのデータに基づくと、漢人の間では南北の遺伝的違いが観察されます。しかし、とくにmtDNA研究は、部分的な配列もしくは限定された地域の標本に基づいており、広範な漢人の間で同様のパターンが観察されるのか不明だ、と本論文は指摘します。そこで本論文は、中国のほぼすべての省および同水準の行政区の21668人の漢人のmtDNAの、4004ヶ所の多様体を解析しました。

 漢人のmtDNAハプログループ(mtHg)では、D4が16.46%と最多で、11.19%のB4、9.46%のF1、8.13%のM7、7.12%のA 、6.49%のD5、4.95%のB5、4.29%のN9と続きます。この頻度は中国およびその周辺でも地域により異なります。mtHg-D4は北部および北東部で高頻度となり、B4はおもに南部に分布しています。F1は南部および南西部において比較的高頻度で、北部の一部地域でも高頻度です。M7はおもに南部で見られ、そのうちM7bがおもに広西チワン族自治区と広東省で見られるのにたいして、M7cは台湾で比較的高頻度で見られます。Aは北部と北西部において最も頻度が高く、南部の一部地域でも比較的高頻度です。

 興味深いことに、北部で優勢なmtHgのサブクレードのいくつか、たとえばD4a・D4e・A5は、南部においてより高頻度です。一方、南部で優勢なmtHgのサブクレードのいくつか、たとえばM7aやB4bなどは北部において高頻度で見られ、南北の漢人集団の遺伝的混合を表しているようです。他の比較的稀なmtHgの分布でも、地域差が見られます。M8・Z・Yは寧夏回族自治区において高頻度で見られ、F4は江蘇省と雲南省に分布しています。ユーラシア西部で一般的なmtHg- N2・R1・R0・Uは、中国ではおもに北西部で見られ、ユーラシア東西の遺伝的混合との見解と一致します。方言とmtHgとの強い相関は検出されませんでした。しかし本論文は、Y染色体DNAハプログループ(YHg)と方言の間で、より強い相関が見られる可能性を指摘しています。

 mtDNAデータからは、漢人の遺伝的構成が中国の南北で異なる、との以前からの見解が改めて確認されました。しかし、常染色体のDNAデータに基づく地理的分布とはやや異なり、これは女性の特定の移動に起因するかもしれない、と本論文は指摘します。また、中国中部地域の南方漢人は、北方漢人とより密接に関連しています。一方、南方漢人でも、珠江流域の集団は一つのまとまりに分類されます。これは、漢人を遺伝地理的に区分する場合、南北で二分するよりも、黄河(北部)・長江(中部)・珠江(南部)という3河川流域の集団として三分する方が適していることを示唆します。具体的に漢人のmtHgと中国における地理的分布との相関では、D4は北部、B4は中部、M7は南部において高頻度で確認され、それぞれ黄河・長江・珠江流域の一とよく一致しています。

 本論文は、こうした大河により異なる分布がいつ確立されたのか調べるため、D4・M7・B4に分類される4859人のmtDNAの全配列データを集め、各mtHgの合着年代を推定しました。その結果、D4は41760〜20160年前頃、B4は61490〜29790年前頃、M7は54110〜37560年前頃と推定されました。一方、それらのmtHgのサブハプログループの推定合着年代は、46950〜220年前頃となり、後期旧石器時代から歴史時代への継続的な人口拡大を示唆します。これらのサブハプログループの推定合着年代は、約6割が11500〜5500年前頃となる早期完新世で、2000年前頃以降では4.24%でした。本論文は、とくに黄河・長江・珠江という主要3河川流域の漢人集団の母系の遺伝的構成は、早期完新世には確立していた、と推測しています。

 また本論文は、mtDNAの全配列データセットに基づき、漢人の人口史を推定しました。漢人は全体的に、18870年前頃以降に増加しました。これは、最終氷期極大期(LGM)後の気候改善に伴うと推測されています。その後、漢人で最も急速な増加は9430年前頃に見られます。これは早期完新世における第二の人口増加を反映し、漢人を南北に二分した場合でも、黄河・長江・珠江という主要3河川流域に三分した場合でも同様です。本論文はこれを、黄河・長江・珠江流域における初期農耕の3タイプを反映している、と認識しています。中国の初期農耕では、長江流域のコメや黄河流域のキビがよく知られていますが、6000年前頃となる稲作導入前の、珠江流域を含む中国南部の温帯湿潤地域農耕も近年確認されるようになっています。中国におけるこれら3タイプの初期農耕はそれぞれ、1万年前頃の3河川(黄河・長江・珠江)流域に起源があり、12800〜11600年前頃となるヤンガードライアス期後の気候改善が契機になった、と本論文は推測します。本論文の推定では、この期間に3河川流域で急速な人口増加が見られます。農耕の潜在的な人口増加力は普遍的なのでしょう。本論文は、3河川流域の遺伝的相違は古代農耕の拡大の結果と推測しています。本論文で観察された黄河流域と他の河川流域との遺伝的類似性は、黄河流域からのキビ農耕の北方拡大により説明されています。

 本論文はこれらの結果から、漢人の遺伝地理的な区分として、南北の二分よりも黄河(北部)と長江(中部)と珠江(南部)の各流域という三分の方がより妥当で、この遺伝地理的相違は早期完新世にはすでに確立されていた、と指摘します。本論文はこれに関して、中国における初期農耕との関連を指摘しています。また本論文はこれらの結果から、河川が人類集団の移住の障壁となった可能性を示唆します。現代漢人は母系では、黄河・長江・珠江という主要3河川流域における早期新石器時代農耕民の遺伝的痕跡を基本的に保持しており、本論文は主要3河川流域それぞれの古代農耕の重要性を強調しています。しかし、これは母系遺伝のmtDNAデータに基づいているので、父系遺伝のY染色体DNAデータにより、たとえば中国の初期農耕民の拡大が性的に偏った過程だったのかどうかなど、より詳細な人口史が明らかになるだろう、との見通しを本論文は提示しています。

 本論文は現代人のmtDNAデータに依拠しているので、さらに詳細な人口史を明らかにするには、古代DNAデータが必要となります。しかし、ユーラシア東部の古代DNA研究はユーラシア西部と比較して大きく遅れており、現時点では、大規模データを扱う場合、現代人が対象となるのは仕方のないところだと思います。本論文は、これまでの漢人のmtDNAデータの、部分的な配列や地理的に限定されていたという制約を超えたという意味で、たいへん意義深いと思います。今後、中国をはじめとしてユーラシア東部でも古代DNA研究が進展していくでしょうが、人口史の推測には、古代人のDNAだけではなく現代人のDNAデータも重要となります。本論文は、漢人のmtDNAデータに関して、今後長く基準となりそうな重要な成果を提供したと思います。

 もちろん、本論文が指摘しているように、あくまでも現代人を対象とした母系遺伝のmtDNAデータに基づいた漢人の人口史推定なので、Y染色体DNAデータやゲノムデータ、とくに前者では、また違った人口史が見えてくる可能性が高いと思います。まだ確定的とはとても言えませんが、人類史において、征服的な移住では男性が主体となり、そうではない移住では性差があまりなかったのではないか、と私は考えています(関連記事)。ヨーロッパに関しては、最初に農耕をもたらしたアナトリア半島起源の集団では大きな性差がなかったものの、後期新石器時代〜青銅器時代にかけてのポントス-カスピ海草原(中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの草原地帯)からの移住集団は男性主体だった、と推測されています(関連記事)。中国でも、初期農耕集団の拡大では大きな性差がなく、後の魏晋南北朝時代や五代十国時代などでは、男性に偏った大規模な移住があったのかもしれません。

 本論文は、母系における漢人の遺伝地理的相違が、すでに早期完新世に成立していた、と推測しています。これは、漢人系統においての短くとも1万年近くとなる、一定以上の遺伝的継続性を示唆します。今後、現代人と古代人のゲノムデータの蓄積により、漢人系統が早期完新世集団の遺伝的影響をどれだけ保持しているのか、といった問題も解明されていくでしょう。もちろんこれは、早期完新世に漢民族が成立していたことを意味するわけではありません。そもそも、民族は遺伝的に定義できるわけではありません。任意の2集団間、もしくは特定の集団と他集団とを比較すると、遺伝的構成が異なるのは当然です。民族に関しても同様で、ある民族を他の民族と比較すると遺伝的構成は異なり、その民族に固有の遺伝的構成が見出されます。しかし、それは民族という区分を前提として見出される遺伝的構成の違いであって、遺伝的構成の違いが民族を定義できるわけではありません。

 その意味で、漢民族に限らずどの民族でも、現代に近い遺伝的構成の集団の確立時期をもって、民族の形成期と判断することはできない、と思います。前近代において民族という概念を適用して歴史を語ることには問題が多い、と私は考えていますが、民族が近代の「発明」ではなく、各集団によりその影響度が異なるとはいえ、前近代の歴史的条件を多分に継承していることは否定できないでしょう。その意味で、前近代において多様な民族的集団の存在を認めることには、一定以上の妥当性があると思います。ただ、漢民族のような巨大な集団ほど、前近代における民族の存在を前提とすることには慎重であるべきとは思います。それは、民族成立の指標として、高い比率での構成員の自認が必要と考えているからです。これは、漢民族ほどの規模ではなくとも、「ヤマト(日本)民族」も同様でしょう。漢民族の成立を本格的に論じられるのは精々近代になってからで、「ヤマト(日本)民族」に関しても、どう古く見積もっても江戸時代後期までしかさかのぼらないだろう、と私は考えています。ただ、この問題を本格的に勉強したわけではないので、とても断定的に主張できるわけではありませんし、優先度はさほど高くないので、今後も自信をもって主張できそうにはありませんが。


参考文献:
Li YC. et al.(2019): River Valleys Shaped the Maternal Genetic Landscape of Han Chinese. Molecular Biology and Evolution.
https://doi.org/10.1093/molbev/msz072

https://sicambre.at.webry.info/201906/article_61.html

262. 中川隆[-8644] koaQ7Jey 2019年8月27日 11:25:25 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4107] 報告

2019年02月17日
ユーラシア東部の現生人類集団の2層構造
https://sicambre.at.webry.info/201902/article_32.html


 ユーラシア東部の現生人類(Homo sapiens)集団の起源に関する研究(Matsumura et al., 2019)が公表されました。現生人類(解剖学的現代人)のユーラシア東部への拡散は65000〜50000年前よりもさかのぼる可能性があり、本論文もその見解を基本的には支持していますが、提示されている複数の証拠については、それぞれ疑問も呈されています(関連記事)。本論文は、ユーラシア東部への現生人類拡散の様相を、ユーラシア東部およびオセアニアの合計89集団からの現生人類の頭蓋計測データに基づき頭蓋データから検証しています。対象となったのは、現代人および後期更新世〜1700年前頃の古代人で、後期更新世の現生人類頭蓋は、47000〜16000年前頃のものです。

 本論文はその結果、オセアニアも含むユーラシア東部の現生人類集団が、北方系と南方系に明確に二分されることを見出しました。北方系には寒冷適応の可能性も指摘されています。現代人との比較では、北方系はシベリア集団と強い類似性を示し、南方系はアンダマン諸島・オーストラリア先住民・パプア人と密接に関連しています。モンゴルや中国北部の現代人は北方系に分類されます。ユーラシア東部の現生人類集団の形成過程の検証において重要となるのは、古代人の頭蓋ですが、後期更新世に関しては、中国北部の周口店上洞(Upper Cave at Zhoukoudian)遺跡および南部の柳江(Liujiang)遺跡からインドネシアのワジャク(Wajak)遺跡まで、現生人類頭蓋は南方系の範囲に収まりました。本論文は、後期更新世のユーラシア東部には、まず南方系現生人類集団が拡散してきたと推測し、これを「第1層」と呼んでいます。中国南部でもやがて農耕が始まりますが、5000年前頃までは、狩猟採集民集団が広範に存在していたようです。これら中国南部の14000〜5000年前の狩猟採集民集団は、依然として「第1層」の特徴を保持していました。日本列島の「縄文人」も南方系に区分されます。

 北方系が中国北部以南のユーラシア東部に出現するのは、農耕開始以降です。新石器時代・青銅器時代・鉄器時代のユーラシア東部集団では、「第1層」たる南方系から北方系への置換が確認されます。本論文はこの北方系集団を「第2層」と呼んでいます。「第2層」の拡大に関しては、農耕開始による人口増大が大きな役割を果たしていたのではないか、と推測されています。中国の黄河および長江流域では、9000年前頃に農耕が始まり、キビなどの「雑穀」やコメが栽培されるようになり、やがて複雑な社会構造を形成していき、ついには「国家」が出現します。中国の初期農耕集団は南北ともに、北方系との頭蓋の類似性を示します。黄河および長江流域の最初期の農耕に関して、本論文は「第2層」集団との関連を推測しています。

 アジア南東部において4500〜4000年前頃に顕著な文化的変化が生じた、とされてきました。この見解は、本論文の頭蓋データで改めて補強されます。国南部の5000〜4000年前の新石器時代集団と、アジア南東部の4000年前頃以降の集団と、もっと後のオセアニア(オーストラリア先住民系はパプア系を除いた、ポリネシア系など)集団は、北方系たる「第2層」との類似性が見られます。中国南部の農耕民集団がアジア東南部へと拡散し、やがてはアジア南東部の本土と島嶼部を経て、ついにはポリネシアまで拡散した、という有力説と整合的と言えるでしょう。ただ、アジア南東部の状況は複雑だったようで、「第2層」の拡散が遅れたことと、頭蓋形態に関しては地域差があり、それは「第1層」と「第2層」の混合比率の違いを反映している可能性がある、と指摘されています。日本列島の「弥生人」も「第2層」である北方系に分類されていますが、分析対象となったのは、土井ヶ浜(Doigahama)遺跡など「渡来系」とされる遺跡の頭蓋なので、「縄文系」要素が強いとされる弥生時代の人類遺骸も対象とすれば、また評価も変わってくるでしょう。また、この北方系はアメリカ大陸先住民との類似性も指摘されています。

 本論文は、広範な地域における「第2層」集団の強い類似性から、気候・食性などに起因する収斂ではなく、共通の遺伝的基盤がある、と推測します。つまり、「第1層」と「第2層」は遺伝的に明確に区分でき、早い時期に分岐したのではないか、というわけです。本論文はこれに関して、二つの仮説を提示しています。一方は、「第1層」集団が南方からシベリアへと拡散して寒冷地に適応して「第2層」が形成された、というものです。もう一方は、「第2層」の起源はアジア西部またはヨーロッパにあり、ユーラシア北部を東進してきた、というものです。本論文は、現時点では人類遺骸の少なさのためにアジア北東部の古代人の形態が不明確なので、どちらの仮説が有効なのか、解決できない、と慎重な姿勢を示しています。

 ただ本論文は、さまざまな証拠を考慮に入れて、北方系の「第1層」と南方系の「第2層」は早期に分岐し、前者はヒマラヤ山脈の北を、後者は南を東進してきた可能性が高い、と推測しています。北方経路はあまり明確ではありませんが、「第2層」は45000年前頃にユーラシア西部からシベリアを経由してユーラシア東部へと移住してきて、その考古学的指標は細石刃伝統ではないか、と本論文は想定しています。つまり単純化すると、(中国北部以南の)ユーラシア東部においては、元々は南方系の「第1層」が拡散しており、農耕開始とともに北方系の「第2層」が南下していき、ついにはポリネシアにまで拡散した、というわけです。日本列島も、このユーラシア東部の大きな流れの中に位置づけられます。同じく頭蓋計測データに基づいた研究では、現生人類の出アフリカは複数回で、ユーラシア東部へは、オーストラリア先住民系が最初に拡散した後、ユーラシア東部の多くの現代人の祖先集団が拡散してきた、と推測されており(関連記事)、本論文の見解と大きくは矛盾しないと思います。

 本論文は、これらの見解が遺伝学的研究とも整合的である、と指摘します。アジア南東部に関しては、狩猟採集民集団を基層に、中国南部から、まず農耕をもたらした集団が、次に青銅器文化をもたらした集団が南下してきた、と遺伝学的研究では推測されています(関連記事)。これは、アジア南東部では、南方系を基層に北方系が南下してきて現代人が成立した、とする本論文の大まかな見通しとおおむね整合的です。ただ、本論文でも指摘されているように、アジア南東部の状況は複雑で、後期更新世の中国北部以南のユーラシア東部の現生人類集団は、「第2層」集団による「第1層」集団の置換とはいっても融合が多く、その比率は各地で異なっていたのでしょう。遺伝学的研究では、本論文が南方系の「第1層」とするホアビン文化(Hòabìnhian)集団と、北方系の「第2層」とする中国南部から南下してきた農耕集団との混合比率はほぼ半々だった、と推測されています(関連記事)。本論文でも、アジア南東部本土のオーストロアジア語族集団と、オセアニアにまで拡散したオーストロネシア語族集団は、それぞれ北方系と南方系の中間に位置づけられています。

 私は日本人なので、日本列島における人類集団の形成過程も気になります。本論文は、「縄文人」を「第1層」の南方系、「弥生人」を「第2層」の北方系と位置づけており、有力説である「二重構造モデル」と整合的です。「二重構造モデル」とは、更新世にアジア南東部方面から日本列島に移住してきた人々が「縄文人」となり、弥生時代にアジア北東部起源の集団が日本列島に移住してきて先住の「縄文系」と混血し、現代日本人が形成されていった、とする仮説です。ただ、「縄文人」に関しては、ミトコンドリアDNA(mtDNA)解析(関連記事)でもゲノム解析(関連記事)でも北方系と南方系との混合が指摘されており、単純に南方系とは言えないでしょう。日本列島も含めてユーラシア東部の現生人類集団の形成過程をより詳しく解明するには、やはり古代DNA研究の進展が必要で、この分野の進展は目覚ましいだけに、今後の研究成果が大いに期待されます。


参考文献:
Matsumura H. et al.(2019): Craniometrics Reveal “Two Layers” of Prehistoric Human Dispersal in Eastern Eurasia. Scientific Reports, 9, 1451.
https://doi.org/10.1038/s41598-018-35426-z

https://sicambre.at.webry.info/201902/article_32.html

263. 中川隆[-8632] koaQ7Jey 2019年8月27日 18:57:33 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4119] 報告
縄文人・アイヌ人は 「第1層」D1b2b でアイヌ語を話していた

四川省の涼山に住むイ族・九州縄文人・西北九州弥生人・現代日本人は「第1層」 D1b1 で日本語を話していた

弥生時代後半から古墳時代に朝鮮から日本に移住してきた渡来人は「第2層」 O1b, O2 で百済語、高句麗語を話していた

四川省の涼山に住むイ族=九州縄文人 は「第1層」で Y-DNA は D1 だけど、農耕を取り入れていたからややこしく見えるのですね

埴原和郎の「二重構造モデル」 では

「縄文人」=「第1層」の南方系で寒冷地適応していない古モンゴロイド、狩猟民
「弥生人」=「第2層」の北方系で寒冷地適応した新モンゴロイド、農耕民

としている。

しかし、九州の縄文人=四川省のイ族 は「第1層」の南方系で寒冷地適応していない古モンゴロイドだけど焼畑農耕をやっていたので「3重構造モデル」が正しい

264. 中川隆[-8630] koaQ7Jey 2019年8月28日 10:03:38 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4121] 報告

2018年03月07日
縄文時代と現代日本
https://sicambre.at.webry.info/201803/article_7.html


一つ前の記事で取り上げた、バヌアツにおける人類集団の形成史に関する研究は、日本列島における人類集団の遺伝的構成の変遷と言語の形成過程に関する議論にも参考になりそうだという点でも、大いに注目されます(

関連記事
https://sicambre.at.webry.info/201803/article_6.html


日本列島の人類史における縄文時代の位置づけについては、まだ不明なところが多分にある、と言わざるを得ないでしょう。現代日本社会の「愛国的な見解」においては、縄文時代から現代まで継続する一貫した「日本」が措定され、現代日本社会の「確たる基盤・源流」として縄文時代が賞賛される傾向にあるように思います。現代日本社会の「愛国的な見解」は、皇国史観とも共通する要素を有しているものの、皇国史観において縄文時代はほとんど視野に入っていなかったことを考えると、縄文時代の評価は現代日本社会の「愛国的な見解」と皇国史観との大きな違いと言えるでしょう。そもそも、山田康弘『つくられた縄文時代 日本文化の原像を探る』によると、縄文時代という時代区分が定着したのは第二次世界大戦後で、その前には縄文時代と弥生時代は石器時代として一括して区分されることが多かったそうです(関連記事)。

 現代日本社会の「愛国的な見解」における縄文時代像は、たんなる妄想というよりは、「一国史」的枠組みを前提とした近代歴史学から生じた、偏った一つの方向性を表している、とも言えそうです。この「一国史」的枠組みを前提とした日本史像への反省として、とくに1980年代以降、「開かれた日本列島」という歴史像が提示されてきました。そうした歴史像では、たとえば、朝鮮半島と縄文時代の九州北部との交流が強調されたこともありました。しかし、『つくられた縄文時代』では、両者の交流が一部で想定されたよりも少なく、その理由として言語の違いがあったかもしれない、と指摘されています。東野治之『遣唐使』では、「開かれていた日本」という発想は、常識化した鎖国史観への批判として有効であり、傾聴すべきではあるものの、それに偏ると、日本の潜在的鎖国体質を無視してしまうことになる、と指摘されています(関連記事)。「開かれていた日本(列島)」の強調に、開かれた日本であるべきだ、との願望・思い込みが過剰に投影されていないか、慎重に検証すべきでしょう。

 「開かれていた」縄文時代の日本列島(の一部)という歴史像に行きすぎもあったかもしれないとはいえ、とくに弥生時代以降、日本列島がユーラシア東部の影響を大きく受けてきたことは否定できないでしょう。その具体的な様相は、狩猟採集社会から農耕社会への移行において、人間の移動が大きな役割を果たしたのか、それとも人間の移動をあまり伴わないような文化伝播が重要だったのか、という世界史において普遍的な議論の一部と言えるでしょう。漠然とした印象にすぎませんが、「愛国的な見解」では人間の移動をあまり伴わないような文化伝播が、「愛国的な見解」や「一国史」的枠組みに批判的な「(進歩的で)良心的な見解」では人間の移動が、それぞれ支持される傾向にあるように思います。

 20世紀後半には、弥生時代以降におもに朝鮮半島から多数の人間が日本列島に渡来してきた、との見解も提示され、「(進歩的で)良心的な見解」の側では支持されてきたように思われます。この問題の解決にたいへん有効になるのが、古代DNA研究です。古代DNA研究は、DNAの保存に適した環境であることからも、ヨーロッパが中心地となってきました(近代化がヨーロッパで始まった結果としてのヨーロッパ中心主義という社会的要因もありますが)。古代DNA研究によると、ヨーロッパにおける狩猟採集社会から農耕社会への移行はアナトリア半島の農耕民のヨーロッパへの拡散によるもので、全体的には先住の狩猟採集民集団との交雑・同化がゆっくりと進行していったものの、地域によっては交雑・同化が早期に進行した、とされています(関連記事)。西アジアでは、少なくとも一部地域において、人間の移動をあまり伴わないような文化伝播が農耕の拡大に重要な役割を果たしたのではないか、と示唆されています(関連記事)。狩猟採集社会から農耕社会への移行の具体的様相は、各地域により異なっていた可能性が高そうです。

 本格的な水稲耕作など弥生時代の新規要素の多くがユーラシア東部起源であることは否定できないでしょうが、では、縄文時代〜弥生時代への移行の具体的様相はどうだったのでしょうか。重要な手がかりとなる古代DNA研究では、日本列島の縄文時代の住民は遺伝的には現代日本人に大きな影響を与えていない(アイヌ人と沖縄の人々を除く現代の「本土日本人」に継承された縄文人ゲノムの割合は推定で15%程度)、と推測されています(関連記事)。もちろん、現時点では縄文時代の日本列島の人類の古代DNA解析数は少なく、縄文時代とはいっても、地域・時代による違いはあったでしょうが、縄文時代の日本列島の人類集団よりも、弥生時代以降に日本列島に渡来した人類集団の方が、現代日本人に及ぼした遺伝的影響はずっと大きい、という可能性が高そうです。

 これは、上述した、弥生時代以降におもに朝鮮半島から多数の人間が日本列島に渡来してきた、という20世紀後半に提示された見解と整合的と言えそうです。弥生時代以降に日本列島に渡来してきた人類集団が、縄文時代の先住民をおおむね遺伝的に置換したとなると、縄文時代に現代日本社会の「確たる基盤・源流」を想定する「愛国的な見解」にたいして、「(進歩的で)良心的な見解」の側からの、時として嘲笑や冷笑も伴うような否定論が提示されるかもしれません。

 しかし、上述したバヌアツにおける人類集団の形成史に関する研究は、縄文時代の日本列島の人類集団の遺伝的影響が現代日本社会において小さくとも、言語に代表される文化的影響は小さくない可能性が想定され得ることを示唆しています。バヌアツの最初期の住民はオーストロネシア系集団でしたが、現代バヌアツ人は遺伝的にはパプア系集団の影響力がたいへん大きくなっています。しかし、現代バヌアツ人の言語は、パプア諸語ではなく、オーストロネシア諸語のままです。バヌアツにおいては、遺伝的にはオーストロネシア系からパプア系への置換が起きたものの、言語では置換が起きなかったのではないか、というわけです。バヌアツにおける遺伝的置換がある時期の急激なものだったのか、それとも漸進的なものだったのか、まだ確定的ではありませんし、言語の転換が起きなかった理由については不明です。しかし、これは、日本列島における人類集団の遺伝的構成の変遷と言語の形成過程に関する議論にも参考になるのではないか、と思います。

 上述したように、現時点での古代DNA研究からは、弥生時代以降におもに朝鮮半島から多数の人間が日本列島に渡来してきた、という見解が支持されそうです。しかし、別の解釈もじゅうぶん可能だと思います。弥生時代以降におもに朝鮮半島から渡来してきた集団は日本列島の縄文時代以来の先住民集団よりも小規模で、交易などの必要性から先住民集団の言語が大きな影響力を維持したものの、弥生時代以降の渡来集団は、自分たちが新たに導入した本格的な水稲耕作や戦争文化などにより縄文時代以来の先住民集団よりも人口増加率が高かったため、後に日本列島における遺伝的影響力で縄文時代以来の先住民集団を圧倒した、とも考えられます。弥生時代の開始年代に関する議論は決着がついていないようですが(関連記事)、紀元前300年前頃という一昔前(二昔前?)の有力説よりもさかのぼる可能性は高そうです。そうすると、弥生時代の期間はじゅうらいの想定よりも長くなるわけで、短期間で区切った場合の日本列島への移住者数はさらに少なく推定することも可能ですから、小規模集団の言語が在来の先住民集団の言語を置換する可能性は低いだろう、とも考えられます。

 この想定は現時点では思いつきにすぎず、検証するには、縄文時代および弥生時代以降の日本列島の人類集団のみならず、朝鮮半島も含めてユーラシア東部の人類集団の古代DNA解析数を蓄積していくしかないわけですが、少なくとも現時点では、無視してよいほど低い可能性ではない、と確信しています。もちろん、現代日本語の形成において縄文時代の日本列島(の一部地域?)の言語が大きな影響力を有しているとしても、その言語と現代日本語とは大きく違うでしょうし、弥生時代以降に漢文などから大きな影響を受けた可能性はじゅうぶん想定されます。

 なお、日本語が「系統不明」とされるのは、現代人(Homo sapiens)が現生種のなかで特別な存在とも言えるところがあることと多分に共通しているのではないか、と思います。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)などの他のホモ属各種や、それ以前に存在したアウストラロピテクス属各種など、現代人の近縁種がことごとく絶滅してしまったので、現代人は現生種のなかで特異的なところのある存在になったのではないか、というわけです(関連記事)。現在、消滅しつつある言語が少なくないようですが(関連記事)、過去にも絶滅した言語は多数あったのでしょう。日本語と近縁な言語はユーラシア東部に少なからず存在したかもしれませんが、それらが絶滅してしまったため、日本語は「系統不明」とされているのかもしれません。
https://sicambre.at.webry.info/201803/article_7.html


2018年03月06日
バヌアツの人類集団の形成史
https://sicambre.at.webry.info/201803/article_6.html

バヌアツの人類集団の形成に関する二つの研究が公表され、報道されました。『ネイチャー』のサイトには解説記事が掲載されています。これらの研究はオンライン版での先行公開となります。これら二つの研究は、バヌアツやその周辺地域の人類の古代および現代のDNAを解析し、ゲノム規模のデータを得て、バヌアツの人類集団の変遷を検証しています。両方の新研究の間で共通認識もあるものの、相違も見られます。

 バヌアツで最初の人類はオーストロネシア諸語を話していたと推測されているラピタ(Lapita)文化集団で、最初の移住の年代は3000年前頃と推定されています。これは、5500年前頃に台湾から始まったと考えられるオーストロネシア諸語集団の拡大の一部となります。現代バヌアツ人は遺伝的には、4万年以上前にニューギニア島やその周辺地域に拡散してきたパプア人集団の強い影響を受けていますが、言語はパプア諸語ではなく、オーストロネシア諸語のままです。この遺伝子構成と言語の「不一致」について、言語学や考古学や遺伝学などさまざまな分野で推測されており、今回取り上げる両方の新研究でも検証されています。

 リモートオセアニアの最初の人類集団とされるラピタ文化集団は、台湾から東南アジア諸島を経由してオセアニアへと拡散してきた、と考えられており、両方の新研究においても改めてその見解が支持されています。現代人の遺伝的構成から推測すると、ラピタ文化集団はニューギニア島を経由したさいにパプア系集団の遺伝的影響を受けた、と考えられます。しかし、バヌアツとトンガの古代DNA解析の結果、初期のバヌアツ人とトンガ人には、パプア系集団との交雑の痕跡がほとんどまったくない、と明らかになりました(関連記事)。

 両方の新研究は、新たなDNA解析やすでに刊行されているデータの高品質化により、バヌアツにおける人類集団の遺伝的構成の変遷を改めて検証しています。一方の研究(Posth et al., 2018)は、バヌアツ・トンガ・フランス領ポリネシア・ソロモン諸島から19人のゲノム規模のデータを得ることに成功し、気候条件から古代DNAの解析が困難な熱帯地域でのデータだけに、意義は大きいと言えるでしょう。

 Posth et al., 2018でも改めて、3000年前頃となる最初期のバヌアツ人集団はパプア系集団の遺伝的影響をほとんど受けていない、と明らかになりました。一方で、早くも2500年前頃には、バヌアツにおいてパプア系集団の遺伝的影響を強く受けた個体が確認されています。しかし、パプア系集団の遺伝的影響の強化は唐突というよりも漸進的でした。2500〜2000年前頃には、バヌアツ人集団においてパプア人の遺伝的影響が大きくなりますが、現代人よりは小さく、1500〜1000年前頃にはさらにパプア人の遺伝的影響が強くなり、現代では多少ながらもそれ以上にパプア人の遺伝的影響が強くなっています。これらパプア系集団は、バヌアツにより近いソロモン諸島ではなく、ビスマルク諸島からバヌアツに到来したのではないか、と推測されています。

 Posth et al., 2018では、バヌアツにおけるオーストロネシア諸語集団からパプア系集団への遺伝的置換は、1回の大規模移住でによるものはなく継続的なものであり、ニアオセアニアとリモートオセアニアにおける集団間長距離ネットワークが持続していたのではないか、と指摘されています。また、バヌアツへのパプア系集団の移住には性的偏りがあり、南太平洋の現代人のDNA解析に基づいて推測されていたように、パプア人男性がオーストロネシア諸語集団女性と交雑する傾向にあった、と指摘されています。

 もう一方の研究(Lipson et al., 2018A)は、バヌアツのエファテ(Efate)島とエピ(Epi)島の14人の古代DNAが解析され、ゲノム規模のデータが得られました。このうち、11人分のデータは新たに報告されるもので、3人分は以前に刊行されていたデータのより高品質なものとなります。年代別では、2900年前頃が4人、2300年前頃が1人、1300年前頃が2人、500年前頃が1人、150年前頃が6人となります。これら古代のゲノム規模のデータは、185人の現代バヌアツ人のゲノム規模のデータと比較されました。

 Lipson et al., 2018でも、2900年前頃となる初期には、パプア系集団の遺伝的影響がたいへん小さい(4人のうち最大でも3.9±3.5%)、と明らかになりました。しかし、2300年前頃の1人では、パプア系集団の遺伝的影響は95.8±1.1%となります。バヌアツにおいては、オーストロネシア諸語集団による最初の人類の定着の後、少なくとも一部の島では、急速にパプア系集団への遺伝的置換が生じたのではないか、というわけです。このパプア系集団の直接的な起源地は、地理的にバヌアツにより近いソロモン諸島ではなく、ビスマルク諸島だと推測されています。パプア系集団の遺伝的影響は、1300〜500年前頃の3人ではおおむね90%前後、150年前頃の6人ではそれよりやや低くなり、70〜90%程度です。これは、ポリネシアからメラネシアへ「戻って来た」集団との交雑により、パプア系集団の遺伝的影響がやや低くなったことを表しているのではないか、と推測されています。

 Lipson et al., 2018では、これらの解析結果を踏まえて、バヌアツとその周辺地域では少なくとも4回の大きな移住があったのではないか、と推測されています。第一は、この地域最初の人類であるラピタ文化集団です。第二は、2300年前頃までにこの地域に拡散してきて、先住集団を遺伝的にはほぼ置換した、ビスマルク諸島起源のパプア系集団です。第三は、ポリネシアへと拡散した、第二のパプア系集団とは異なるパプア系集団です。第四は、ポリネシアからバヌアツに「戻って来た」集団です。

 これら両研究には、共通認識も見られます。まず、バヌアツの最初の人類集団は、台湾を直接的な起源地(その前にはおそらく華南、もちろん、究極的にはアフリカにまでさかのぼるわけですが)とする、パプア系集団の遺伝的影響をほとんど受けていないオーストロネシア諸語集団で、バヌアツにラピタ文化をもたらした、ということです。次に、このオーストロネシア諸語集団は、遺伝的にはビスマルク諸島起源のパプア系集団にほとんど置換されたものの、言語的には現代バヌアツ諸語もオーストロネシア諸語集団に区分される、ということです。

 両研究の相違点は、バヌアツにおけるパプア系集団による遺伝的置換の過程です。 Posth et al., 2018では、1回の大規模な移住ではなく、持続的な交流による交雑の結果、パプア系集団の遺伝的影響がバヌアツで漸進的に増加したのではないか、と推測されています。一方、 Lipson et al., 2018では、バヌアツに最初の人類であるオーストロネシア諸語系のラピタ文化集団が3000年前頃に到来し、その後に遅くとも2300年前頃までには、少なくとも一部の島ではほぼ全面的な遺伝的置換が生じるほどに、パプア系集団の大規模な到来があった、と推測されています。

 この食い違いは、この地域の古代DNA解析数の増加により、将来解決されるかもしれません。また両研究では、最初期のバヌアツ人はパプア系集団の遺伝的影響をほとんど受けていない、と推測されていますが、そうだと推測するにはまだデータが少なすぎる、とストーンキング(Mark Stoneking)氏は指摘しています。さらにストーンキング氏は、バヌアツなど熱帯地域における古代DNA解析の成功は貴重な事例なので、過剰解釈される傾向にあるのではないか、と注意を喚起しています。

 バヌアツにおける遺伝子構成と言語との「不一致」については、議論が続いているようです。バヌアツの現代の諸言語にはパプア諸語の影響が見られる、との見解も提示されています。しかし、この見解に否定的な言語学者もいるようです。バヌアツの最初期の人類集団は、バヌアツへの拡散前の相互作用の結果、オーストロネシア諸語と非オーストロネシア諸語の双方を話していたかもしれない、との見解も提示されています。また、オーストロネシア諸語集団の後にバヌアツへと到来したパプア系集団にとって、当時はまだ未分化なところのあったオーストロネシア諸語は、交流の持続していた多様な人類集団間にあって共通語として生き残ったのではないか、との見解も提示されています。

 これら二つの研究は、遺伝学のみならず、考古学・言語学などとの学際的研究の重要性を改めて浮き彫りにした、と言えるでしょう。また、日本列島における人類集団の遺伝的構成の変遷と言語の形成過程に関する議論にも参考になりそうな研究成果という点でも、大いに注目されます。つまり、縄文時代までに日本列島に到来した集団は、遺伝的には現代日本人に大きな影響を与えていないものの(関連記事)、言語では、弥生時代以降に到来した集団よりも現代日本語に大きな影響を及ぼしたかもしれない、ということです。

 これは、弥生時代以降に朝鮮半島などユーラシア大陸東部から日本列島に到来した集団の直接的人数はさほど多くなく、先住集団の言語が大きな影響力を維持したものの、本格的な水稲耕作や戦争文化などにより弥生時代以降の到来集団の方が人口増加率は高かったため、現在では縄文時代までに到来した集団をかなり高い割合で遺伝的に置換した、という想定です。もちろん、縄文時代の日本列島の(おそらくはかなり多様な)言語と、現代日本語とでは、大きく違うのでしょうが。


参考文献:
Lipson M. et al.(2018A): Population Turnover in Remote Oceania Shortly after Initial Settlement. Current Biology, 28, 7, 1157–1165.e7.
https://doi.org/10.1016/j.cub.2018.02.051

Posth C. et al.(2018): Language continuity despite population replacement in Remote Oceania. Nature Ecology & Evolution, 2, 731–740.
http://dx.doi.org/10.1038/s41559-018-0498-2

https://sicambre.at.webry.info/201803/article_6.html

265. 中川隆[-8626] koaQ7Jey 2019年8月28日 13:08:08 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4125] 報告

2015年05月17日
松本直子「縄文から弥生への文化変化」
https://sicambre.at.webry.info/201505/article_20.html

 西秋良宏編『ホモ・サピエンスと旧人3─ヒトと文化の交替劇』所収の論文です(関連記事)。本論文は縄文時代から弥生時代への移行の様相とその要因について検証しています。近年の一般向け書籍でも強調されているので、すでに広く知られつつあるかもしれませんが、弥生文化は縄文的要素と外来要素との融合により成立しました。本論文でもその点は強調されており、さらに、その前提として縄文時代において九州北部と朝鮮半島との間で継続的な交流があり、九州北部をはじめとして西日本側が朝鮮半島の文化要素を選択的に受容していたことが指摘されています。

 狩猟採集社会と農耕社会とでは世界観に大きな違いがあるので、狩猟採集社会が農耕を受容するのは容易ではない、と本論文は指摘します。そこで、なぜ九州北部を先頭に日本列島において水稲耕作という本格的な農耕(縄文時代においてすでに、豆類などの栽培は行なわれていました)が受容されたのか、ということが問題となります。この問題に関しては、まだ明快な解答ができるという段階ではないようですが、本論文では気候の寒冷化が指摘されています。

 弥生時代の始まりには、それ以前の選択的受容と違い、農耕文化の要素が一揃いで出現する劇的な変化が生じたので、朝鮮半島から北部九州への人々の移住があっただろう、と本論文は推測しています。ただ、朝鮮半島からの移住者のみで構成されていると確認できる弥生集落はないので、移住者が縄文集落に入り込む形で本格的な農耕へと移行していったのではないか、とも指摘されています。人骨の分析・比較からも、日本列島の在来の住民が農耕文化を受容していった様相が推測されています。

 朝鮮半島においては、九州北部で弥生時代の始まる前の青銅器時代後期の前半に稲作が普及していき、集落の大規模化や階層化が進行していった、と推測されています。そこに寒冷化が進行したことで、すでに交流もあり情報もある程度以上得ていた九州北部へと新天地を求めて朝鮮半島から人々が移住した、という可能性を本論文は提示しています。さらに本論文は、そうした移住者たちは困窮のあまり九州北部へと移住したのではなく、ある程度以上の社会的地位、たとえば親から領域を継承できないような首長の息子たちを含んでいた可能性もある、と指摘しています。


参考文献:
松本直子(2015A)「縄文から弥生への文化変化」西秋良宏編『ホモ・サピエンスと旧人3─ヒトと文化の交替劇』(六一書房)P110-123

https://sicambre.at.webry.info/201505/article_20.html

266. 中川隆[-8498] koaQ7Jey 2019年9月05日 05:35:40 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4268] 報告
2019.09.01
イネの栽培環境など 弥生人は特性熟知? - 成熟期別に収穫し「多様性」を維持か/橿考研 栽培実験の成果報告

県立橿原考古学研究所は31日、明日香村小原の圃(ほ)場で、弥生時代前期に伝来したイネの品種の特性や伝播(でんぱ)ルートの調査研究を目的とした栽培実験の成果を発表した。生育期間の違う10種のイネを栽培し、収穫期までの栽培期間の特性である早晩性により収量が異なることが分かった。遺跡から出土した籾(もみ)や穂の遺物の分析結果などから、調査を担当した同研究所特別指導研究員の稲村達也・京都大学名誉教授は「弥生人はイネの出穂特性と栽培環境を知ってイネに接していたのではないか」としている。

 イネは九州に伝来し、数百年かけて東北まで伝播したと推定。日照時間が一定より短くならないと花芽を形成しない短日植物のため、九州から東北までイネが伝わるにはそれぞれの気候条件に合った多様な品種が必要という。…
https://www.nara-np.co.jp/news/20190901131923.html

267. 中川隆[-8472] koaQ7Jey 2019年9月09日 06:36:30 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[4305] 報告

2019年09月09日
Y染色体ハプログループDの改訂

 恥ずかしながら、3ヶ月近く前(2019年6月19日)に遺伝子系譜学国際協会(ISOGG)がY染色体ハプログループ(YHg)Dの分類を改訂していた、と先週(2019年9月第2週)知りました。YHg-Dは世界でも珍しく、日本人の「特異性」の遺伝的根拠として、「愛国的な」人々がよく言及しているように思います。そのため、現代日本社会ではYHg-Dへの注目度が高いようで、このYHg-Dの改訂も「愛国的な」人々の一部の間では割と早くから知られていたようです。

 具体的な改訂点ですが、現代日本人で多数派のYHg- D1b1がD1a2aに変更されています。「縄文人」で確認されているD1b2はD1a2bに変更されています。なお「縄文人」では、現代日本人で多数派のD1a2a(旧D1b1)はまだ確認されていません(関連記事)。これは、現代日本人のD1a2aが弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した可能性を示唆します(関連記事)。もちろん、現時点では東日本の「縄文人」でしかYHgは確認されていないので、今後西日本の「縄文人」でD1a2aが確認される可能性は低くないでしょう。しかし現時点では、現代日本人のD1a2aが「縄文人」ではなく弥生時代以降にアジア東部大陸部から到来した集団に由来する、という想定も有力な仮説の一つとして扱われるべきだと思います。なお、チベットで多数派のD1a2はD1a1bに、フィリピンで見られるD2はD1bに変更されています。

 このように変更された理由は、今年6月10日に公開された研究(Haber et al., 2019B)で、じゅうらいはYHg-DE*とされていたナイジェリア人の系統が、YHg-D0と新たに分類されたためだと思います。新たに提唱された分類名なので、既存の分類名を優先して整合的な分類とするため、D0と提唱された系統はD2にされたのだと思います。この研究は、じゅうらいのYHg-Dの名称を変更せずにすむように、D0という分類名を提案したので、そのままにしておけばよいのではないか、とも思うのですが、門外漢の私が的外れなことを言っているだけかもしれませんので、抗議するつもりも、否定してじゅうらいの分類名を使い続けるつもりもありません。


参考文献:
Haber M. et al.(2019B): A Rare Deep-Rooting D0 African Y-Chromosomal Haplogroup and Its Implications for the Expansion of Modern Humans out of Africa. Genetics, 212, 4, 1241-1248.
https://doi.org/10.1534/genetics.119.302368

https://sicambre.at.webry.info/201909/article_24.html


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日本人のガラパゴス的民族性の起源 Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 ツリー
http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-1.htm

日本人のガラパゴス的民族性の起源 mtDNAハプロタイプ 2019年5月取得ツリー増補版
http://garapagos.hotcom-cafe.com/2-1.htm

日本人のガラパゴス的民族性の起源 2018/10/18 日本人の源流考 v1.6
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

268. 中川隆[-11126] koaQ7Jey 2019年9月30日 12:05:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1694] 報告


日本人のガラパゴス的民族性の起源 2019/9/29
0-2. 日本人の源流考
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2


v,1.7  しばらく古人類学の情報収集をさぼっていたら、新しいDNA分析技術が登場し、歯の化石からDNA解析ができるようになっていました。 記事「1-19.メラネシア人のデニソワ人度」を調査の中で、縄文人の中の海洋性ハンターの姿がより理解できる知見がありましたので、Rev.Upしました。

0.はじめに

  当ガラパゴス史観が、Y-DNAとmtDNAの分化のツリー調査を進めて行く中で、ホモサピエンスの歴史自身をもう少し深堀したい疑問が生じてきました。

・何故、ホモサピエンス始祖亜型のY-DNA「A」やY-DNA「B」はその後現代にいたるまで狩猟採集の原始生活から前進せず、 ホモエレクトスの生活レベルのままだったのか?

・出アフリカを決行した結果、分化した古代4亜型の中でY-DNA「D」、Y-DNA「E」やY-DNA「C」などの、 オーストラリア、ニューギニアやアンダマン諸島、アフリカなどの僻地に残った集団も、 現代に至るまで何故「A」,「B」同様、狩猟採集から抜け出せなかったのか?

・彼らは本当にホモサピエンスになっていたのだろうか?我々解剖学的現代人類はアフリカ大陸で ホモサピエンスに進化してから出アフリカしたと思い込んでいるが、もしかすると出アフリカ後に、 ネアンデルタール人との遭遇で現代型に進化したのではないか?

1.ネアンデルタール人の出アフリカから始まったようだ。

  ネアンデルタール人は、ホモサピエンスの亜種か異種と議論されています。 最新の知見では、80万年前頃にホモエレクトスから、ネアンデルタール人とホモサピエンスの共通の祖先と考えられる草創期のネアンデルタール人 (旧ホモハイデルベルゲンシス)が出現し、60万年ぐらい前には出アフリカし、先輩人類としてユーラシア大陸に拡がったらく、 そして40万年前頃にネアンデルタール人の東アジア型のデニソワ人が地方型として分化し、 ホモサピエンスと交雑し出アジアしてメラネシアに拡がったようなのです。

  注:ホモエレクトスの進化型古人類と思われていたホモハイデルベルゲンシスが最新技術による遺伝子解析の結果、 草創期のネアンデルタール人と判明しました。このためネアンデルタール人の出現が、 ホモハイデルベルゲンシスの出現年代とされていた80万年前頃に一気に遡りました。

  注:デニソワ人はあくまでネアンデルタール人に包含されるというのが極最新の見解のようです。

  そして草創期の原ホモサピエンスは50万年前頃には既に出現していて、30万年前頃にホモサピエンス最古のコイサン集団の祖先が出現し、 その後何度も出アフリカを行っていたが、6-7万年前頃の最後の出アフリカが、 我々を含む解剖学的現代人類(Anatomically Modern Human)を形成したようです。 そしてネアンデルタール人は、10-3万年前頃にホモサピエンスと各地で交雑し、3万年前ぐらいには絶滅した、という見解になっています。

この2種類の人類種の分類の見解は研究者によって異なり、亜種扱いの場合は、

  ホモ・サピエンス・サピエンス<===>ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスと分類され、 あくまで別種と考える場合は、

  ホモ・サピエンス<=========>ホモ・ネアンデルターレンシスと分類されます。

  しかし最新の技術は、現代人類の遺伝子の2−4%はネアンデルタール人から受け継いでいることを解明しました。 東アジア人の比率が最も高く、次にヨーロッパ人で、東南アジア人は意外に低いそうです。 その後、現生人類の先祖が、スタンフォード大学の研究では2000人程度の規模で、出アフリカしユーラシアに拡がるまでに、 ネアンデルタール人の歴史は既に60万年程度は経過しており、 その間にネアンデルタール人はユーラシア各地で亜種に近いぐらい分化していたと考えられ、 アジアで発掘されたデニソワ人はネアンデルタール人の東アジア型と考えられ始めています。 しかも研究ではデニソワ人の遺伝子がメラネシア人に6%も受け継がれている、ことまで判明しています。

  またネアンデルタール人にはホモサピエンスの遺伝子が20%も含まれていた、と言う報告まであります。

  これはつまり現代人類は既にある程度の高度な文化を築き上げていたネアンデルタール人との亜種/異種間交雑の結果、 進化の爆発が起こり現ホモサピエンスとして完成したのではないかと考えるのが妥当なのではないかと思われます。

  また大きなトピックスとして、解剖学的現代人類のY-DNA分化ツリーにネアンデルタール人とデニソワ人の亜型がとうとう組み込まれました。 一方、ネアンデルタール人とデニソワ人のmtDNAは解剖学的現代人類には受け継がれていないことも判明しました。
  つまり、ネアンデルタール人、デニソワ人と解剖学的現代人類はY-DNAで完全に直列で繋がっている、と言うことになりますが、 女系を表すmtDNAでは断絶している、と言うことになります。

  ネアンデルタール人とホモサピエンスは異種か亜種かという問題に対し、ネアンデルタール人のY-DNAの変異型も特定され ホモサピエンスのツリーとつながったということは、少なくとも異種ではないという結論になります。 あえて言えば、ネアンデルタール人とデニソワ人の男性はホモサピエンスの男性と亜種ほどの違いもなく、 「頑丈型」と「華奢型」の違い程度に過ぎないため交配しても子孫を残せた、ということになります。

  一方女性に関しては異なり、進化は女性から始まると考えられるため、ネアンデルタール人とデニソワ人の女性はホモサピエンスの女性とは 異種ぐらい異なる進化段階になってしまっていたのでしょう、だからホモサピエンスの男性とネアンデルタール人とデニソワ人の女性の組み合わせでは 子孫が残らなかったのだろうと欧米の研究者は考えているようです。

いやはや遺伝子解析の技術の進歩は目覚ましいものですね。当ガラパゴス史観がRNAとリボソームの研究をしていたころとは 全く時代が変わっています。

2.原ホモサピエンスから現ホモサピエンスへ脱皮したのではないか!

  我々現代人(解剖学的現代類)の祖先は、共通の祖先である草創期のネアンデルタール人からネアンデルタール人が先に進化し 出アフリカした後も進化に出遅れアフリカ大陸に残存していた草創期のネアンデルタール人の中で、 50万年前頃にとうとう草創期のホモサピエンスが出現し、30万年前頃には原ホモサピエンスであるコイサン集団が出現したようです。

  しかも出アフリカは20数万年前頃には既に行われ遺跡が発掘されています。 また最近の発掘調査では、10万年前ごろにはすでにレバント地域に移動していたらしく、8万年前頃には中国南部に到達していたと報告されています。 以前の5−6万年前頃に最終出アフリカしたのではないかという見解が、今は6-7万年頃と遡ってきているのは 今後まだまだ新しい研究報告がある予兆と思われます。

  いずれにせよ、80万年前に現れた草創期のネアンデルタール人(旧ホモハイデルベルゲンシス)が共通の祖先となり、 60万年前頃にネアンデルタール人が先に出アフリカし、50万年前頃に原ホモサピエンスが現れたのだろうと考えられる。

  最新のY-DNAツリーは、

Y-DNA「Adam」からY-DNA「A0000」(デニソワ人)が分化し、
Y-DNA「A000」(ネアンデルタール人)が分化し、
Y-DNA「A00」(コイサン集団)が分化し、更に「A0」、「A」と分化が進み、
Y-DNA「A1b」からY-DNA「BT」が分化し、
Y-DNA「BT」がY-DNA「B」とY-DNA「CT」に分化しましたが、

  この「A」と「B」は原ホモサピエンスの始祖亜型と考えられます。

Y-DNA「CT」が出アフリカし、Y-DNA「DE」とY-DNA「CF」に分化しました。
  これは中近東あたりで先住ネアンデルタール人との交雑の結果と考えられます。
  この「C」、「D」、「E」 は古代性を強く残した狩猟採集民として、近年まで残ってきました。

  注:デニソワ人がネアンデルタール人の地方型として分岐したのは40万年前頃と解析されていますが、 解剖学的現代人類に組み込まれたネアンデルタール人の遺伝子はもう少し後年の集団からと考えられているようです。

 つまりY-DNA「A」と「B」はホモサピエンスではあるが完成形ではない原ホモサピエンスと言っても良いかもしれません。

 西欧列強が世界中を植民地化するべく搾取活動を続けているときにわかったことは、 アフリカ大陸やニューギニア・オーストラリアやアンダマン島の先住民は、 何万年もの間、古代のままの非常に素朴な狩猟採集民の文化レベルにとどまっていた、ということでした。

  研究調査からかなり高度な文化・技術レベルに達していたと判ってきているネアンデルタール人と比べると、 分類学的な現代人類/ホモサピエンスに進化したというだけではホモ・エレクトスとさほど変わらない文化レベルだったという証明でしょう。 つまり脳容積がホモエレクトスより大きくなったり、会話が出きるようになったレベルでは、同時代のネアンデルタール人より華奢な、 しかし可能性は秘めている後発人類に過ぎなかったようです(しかし体毛は薄くなり、前頭葉が発達し、見た目は多少現代人類的ですが)。

  では一体、なぜ解剖学的現代人類は現代につながるような文明を興すほど進化できたのだろうか?大きな疑問です。 一部の王国を築いた集団を除いた、古ネイティブ・アフリカンは大航海時代になっても、狩猟採集民でしかなかったのです。 その後西欧列強と出会わなければ、今でも狩猟採集のままのはずです。

  このことは、文明と言うものを構築するレベルに達するにはホモサピエンスになったというだけではなく、 何か決定的なブレークスルーのファクターがあったはずです。

  ネアンデルタール人と原ホモサピエンスの亜種間交配の結果、進化の爆発が起こったと推測するのが今のところ最も妥当です。

  出アフリカした先輩人類のネアンデルタール人と交雑し、ネアンデルタール人がすでに獲得していた先進文化を一気に取り込むことに成功し、 恐らく人口増加率(繁殖力)が圧倒的に高い原ホモサピエンスの中にネアンデルタール人が自然吸収される形で統合化されたのが 完成形の現ホモサピエンスと考えるのが最も妥当性が高いのです。 (この繁殖力の高さが解剖学的現代人類の勝ち残った理由なのではないか、想像を逞しくすると、交配の結果得た後天的な獲得形質かもしれません。)

  もし出アフリカせずネアンデルタール人とも出会わずアフリカの中に留まっていたら、 人類は相変わらず19世紀ごろのサン族やピグミー族のように素朴な狩猟採集段階に留まっているだろうと容易に推測できますが、 北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 ホモサピエンスが出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。 つまりホモサピエンスが出アフリカし狩猟採集文化から脱し、現代文明にまで至ったのは必然だったということかもしれませんね。

注: 記事「18-4. ホモサピエンスとは人類学上何者なのか」
http://garapagos.hotcom-cafe.com/15-24,17-8,18-4.htm#18-4

で触れたように、最新の研究で、ネアンデルタール人とデニソワ人の Y-DNAの変異型が同定され、恐らく80万年前頃と考えられるようになったY-DNA「Adam」に続き、デニソワ人とネアンデルタール人が 分化のツリー上に配置されるようになったのですが

(「1-1. Y-DNAハプロタイプ 2019年6月版 ツリー」を参照ください)、

http://garapagos.hotcom-cafe.com/1-1.htm

注: 一方mtDNAツリーでは、デニソワ人とネアンデルタール人のmtDNA変異型は全く検出されず、 おそらくデニソワ人女性とネアンデルタール人女性とサピエンス男性との交配では恐らく子孫ができなかったか、出来ても 生殖能力が無かったのだろう、と欧米の研究者は考えています。

  これはサピエンスとネアンデルタール人の男性は「華奢型(きゃしゃ型)」と「頑丈型」の違いくらいしかなく、亜種ほどの違いもなく、 せいぜい地方型の違いくらいで同種であったと考えるほうが最も合理的です。一方進化は女性から始まるので、ネアンデルタール人の女性と サピエンスの女性は異種と言ってよいほど分化し、子孫を残せなかったのだろうと推測できます。

   3.日本列島への最初の到来者は、古代遺伝子集団:Y-DNA「D」と「C」
  注:実はまだ残っている疑問があります。古代性を近代まで残していた古代遺伝子Y-DNA「C」、「D」、「E」は現ホモサピエンスの段階に 至っておらず、原ホモサピエンスに留まっていたのではないか、そしてY-DNA「F」がインド亜大陸周辺でネアンデルタール人やデニソワ人と交雑し、 やっと現ホモサピエンスの段階に進化したのではないかという疑問です。これは極めて大胆な推測ですが、 これに関する知見、否定する知見はまだ全く報告されていません。

  Y-DNA「D1b」を主力とするY-DNA「C1a1」との混成部隊である。

  移行亜型Y-DNA「DE」はさらに古代遺伝子Y-DNA「D」とY-DNA「E」に分化したが、Y-DNA「D」がインド洋沿岸に沿って東進したのに対し、 Y-DNA「E」は逆に西進し地中海南北沿岸に定着し、地中海南岸(アフリカ北岸)に移動した集団はさらにアフリカ全土に展開し、 始祖亜型である原ホモサピエンスの先住民の中に入り込み、始祖亜型Y-DNA「A」と「B」のネイティヴ・アフリカン集団の中に 古代亜型Y-DNA「E」の遺伝子が混在するようになっています。

  注:アフリカ大陸にはその後Y-DNA「R1a」と分化したY-DNA「R1b」がアナトリア、中近東から南下してきて、更に新しい集団として 現在のカメルーンあたりを中心にネイティブアフリカンの一部を形成しています。

  しかし出戻りアフリカしたY-DNA「E」は進化の爆発が進む前にアフリカ大陸に入ってしまったため、また周囲の始祖亜型の部族も同じレベルで、 基本的に狩猟採集のまま刺激しあうことがないまま、ユーラシア大陸で起きた農耕革命など進化の爆発に会わないまま現代に至っているのでしょう。

  ところが地中海北岸に定着したY-DNA「E」は、その後ヨーロッパに移動してきたY-DNA「I 」などの現代亜型と刺激しあいながら 集団エネルギーを高め、ローマ帝国やカルタゴなどの文明を築くまでに至りました。要するに自分たちより古い始祖亜型との遭遇では埋もれてしまい、 文明を興すような爆発的進化は起こらなかったが、より新しい現代亜型との遭遇が集団エネルギーを高めるには必要だったのでしょう。

  一方、Y-DNA「D」は、現代より120m〜140mも海面が低かったために陸地だったインド亜大陸沿岸の大陸棚に沿って東進しスンダランドに到達し、 そこから北上し現在の中国大陸に到達した。 その時に大陸棚だった現在のアンダマン諸島域に定住したY-DNA「D」集団は、その後の海面上昇で島嶼化した現アンダマン諸島で孤立化し 現代までJarawa族やOnge族などの絶滅危惧部族として古代亜型Y-DNA「D」を伝えてきています。 Y-DNA「D」は基本的に古代性の強い狩猟採集民と考えてよく、日本人の持つ古代的なホスピタリティの源泉であることは間違いないです。

  Y-DNA「CT」から分離したもう一方の移行亜型Y-DNA「CF」は恐らくインド亜大陸到達までに古代亜型Y-DNA「C」とY-DNA「F」に分離し、 Y-DNA「F」はインド亜大陸に留まりそこで先住ネアンデルタール人(アジアにいたのは恐らくデニソワ人か?)と交雑した結果、 Y-DNA「G」以降の全ての現代Y-DNA亜型の親遺伝子となったと推測できます。 こうしてインド亜大陸は現代Y-DNA亜型全ての発祥の地となったと考えてよいでしょう。

  もう一方の分離した古代亜型Y-DNA「C」は、欧米の研究者の説明ではY-DNA「D」と行動を共にしたらしく東進しスンダランドに入り、 一部はY-DNA「D」と共に中国大陸に到達し、一部はそのまま更に東進しサフール大陸に到達した。 サフール大陸に入った集団はサフール大陸内で拡大し、海面上昇後分離したニューギニアとオーストラリア大陸に それぞれTehit族、Lani族やDani族などニューギニアの先住民集団やオーストラリア・アボリジニ集団、 つまり共にオーストラロイドとして現代まで残っています。 そして5万年前にはオーストラリアに到達していた集団の遺跡から回遊魚のマグロの骨が東海大学らの調査により発見され、 Y-DNA「C」は沿岸を船で移動できる海洋性ハンター集団だったと考えられます。 従ってサフール大陸に到達したY-DNA「C」集団は更にそのまま船で海に漕ぎ出し、ポリネシア全土に拡大していったようです。 ポリネシアのY-DNAの主要亜型として検出されるY-DNA「C」は、実は縄文の海洋性ハンターY-DNA「C」と同じ亜型です。 日本列島で検出される、海洋性ハンター遺伝子Y-DNA「C」亜型は、現代ポリネシア人と同じ先祖から分離したことになります。

注:一部の日本人の持つ海洋性気質は、このポリネシア人と共通の祖先から受け継いだ気質と言っても差し支えないでしょう。

  スンダランドから北上し現在の中国大陸に入ったY-DNA「D」とY-DNA「C」の混成集団は中国大陸の先住集団として拡大しました。 この時に混成集団の一部の集団は中国大陸には入らずにさらに北上し、当時海面低下で大きな川程度だった琉球列島を渡ったと思われます。 集団はそのまま北上し現在の九州に入った可能性が大。また一部は日本海の沿岸を北上し当時陸続きだったサハリンから南下し 北海道に入り、当時同様に川程度だった津軽海峡を渡り本州に入った可能性も大です。 つまりもしかすると日本本土への入り方が2回路あった可能性が大なのです。

  現在沖縄・港川で発掘される遺骨から復元再現される顔は完璧にオーストラロイド゙の顔です。 と言うことは、スンダランドから北上の途中沖縄に定住した混成集団がその後の琉球列島人の母体になり、 サハリンから南下した集団がのちのアイヌ人の集団になった可能性が極めて大と推測できます。

  さて中国大陸に展開したY-DNA「D」は残念ながら後発のY-DNA「O」に中国大陸の中原のような居住適地から駆逐され、 南西の高地に逃れY-DNA「D1a」のチベット人や羌族の母体となったようです。 欧米の研究者はチベット人の持つ高高地適応性はデニソワ人との交配の結果獲得した後天的な獲得形質と考えているようだ。 そして呪術性が高い四川文明はY-DNA「D」が残した文明と考えられます。 このため同じY-DNA「D」遺伝子を40%以上も持つ日本人には四川文明の遺物は極めて親近感があるのでしょう。

  日本の民話とチベットの民話には共通性がかなりありますが、これらはY-DNA「D」が伝えてきた民話と考えて差し支えないでしょう。

  しかし一緒に移動したと考えられるYDNA「C」の痕跡は現在の遺伝子調査ではチベット周辺では検出されていません。 どうやら途絶えてしまった可能性が高い、もともと海洋性の遺伝子なので、内陸の高地は居住適地ではなかったのかもしれません。。 いやもしかすると火炎土器のような呪術性の強い土器を製作したと考えられるY-DNA「C」なので、 四川文明の独特な遺物類はY-DNA「C」が製作した可能性が極めて高い。そしてY-DNA「D」のようにチベット高原のような高高地に適応できず 途絶えてしまったのかもしれないですね。

  一方スンダランドから琉球列島を北上した集団(Y-DMA「D1b」とY-DNA「C1a」は、一部は琉球列島に留まり、琉球人の母体となった。 しかし、そのまま更に北上し九州に到達したかどうかはまだ推測できていない。 しかし日本各地に残る捕鯨基地や水軍など日本に残る海の文化は海洋性ハンターと考えられるY-DNA「C1a」が そのまま北上し本土に入った結果と考えられる。

  オーストラリアの海洋調査で、数万年前にY-DNA「C」の時代にすでに漁労が行われ、 回遊魚のマグロ漁が行われていたと考えられる結果のマグロの魚骨の発掘が行われ、 当時Y-DNA」「C」はスンダランドからサフール大陸に渡海する手段を持ち更に漁をするレベルの船を操る海の民であったことが証明されている。 このことはスンダランドから大きな川程度だった琉球列島に入ることはさほど困難ではなかったと考えられ、 Y-DNA「C」と交雑し行動を共にしていたと考えられるY-DNA「D」も一緒にさらに北上し本土に入ったことは十分に考えられる。 すべての決め手はY-DNA「C」の海洋性技術力のたまものだろう。

  一方日本海をさらに北上した集団があったことも十分に考えられる。 この集団はサハリンから南下し北海道に入り、更に大きな川程度だった津軽海峡を南下し、本土に入ったと考えられる。 サハリンや北海道に留まった集団は古代アイヌ人の母体となっただろう。 Y-DNA「C1a」は北海道に留まらず恐らく本州北部の漁民の母体となり、Y-DNA「D1b」は蝦夷の母体となっただろう。

  このY-DNA「D1b」とY-DNA「C1a」が縄文人の母体と言って差し支えないだろう。 つまり縄文人は主力の素朴な狩猟採集集団のY-DNA「D1b」と技術力を持つ海洋性ハンターのY-DNA「C1a」の混成集団であると推測できる。 この海洋性ハンター遺伝子が一部日本人の持つ海洋性気質の源流だろう。日本人は単純な農耕民族ではないのだ。

  ところがサハリンから南下せずにシベリヤ大陸に留まり陸のハンターに転身したのが大陸性ハンターY-DNA「C2」(旧「C3」)である。 この集団はクジラの代わりにマンモスやナウマンゾウを狩猟する大型獣狩猟集団であったと思われる。 ところが不幸にもシベリア大陸の寒冷化によりマンモスもナウマン象も他の大型獣も少なくなり移住を決意する。 一部はナウマン象を追って南下し対馬海峡を渡り本土に入りY-DNA「C2a」(旧C3a」)となり山の民の母体となっただろう。 また一部はサハリンからナウマンゾウの南下を追って北海道、更に本土へ渡った集団もあっただろう。北の山の民の母体となったと推測できる。

  この山の民になった大陸性ハンターY-DNA「C2a」が縄文人の3つ目の母体だろう。 つまり縄文人とは、核になる狩猟採集民のY-DNA「D1b」と海の民のY-DNA「C1a」及び山の民のY-DNA「C2a」の3種混成集団と考えられる。
  このY-DNA「C2a」が一部日本人の持つ大陸性気質の源流と考えられる。 Y-DNA「C1a」は貝文土器など沿岸性縄文土器の製作者、Y-DNA「C2a」は火炎土器など呪術性土器の製作者ではないかと推測され、 いずれにせよ縄文土器は技術を持つY-DNA「C」集団の製作と推測され、Y-DNA「D」は素朴な狩猟採集民だったと推測できる。

  この山の民のY-DNA「C2a」が南下するときに、南下せずY-DNA「Q」と共に出シベリアしたのがY-DNA「C2b」(旧「C3b」)の一部であろう。 このY-DNA「Q」はヨーロッパでは後代のフン族として確定されている。このY-DNA「Q」はシベリア大陸を横断するような 移動性の強い集団だったようだ。 シベリア大陸を西進せずに東進し海面低下で陸続きになっていたアリューシャン列島を横断し北アメリカ大陸に到達し Y-DNA「Q」が更に南北アメリカ大陸に拡散したのに対し、

  Y-DNA「C2b」は北アメリカ大陸に留まりネイティヴ・アメリカンの一部として現代に遺伝子を残している。 最も頻度が高いのはTanana族である、約40%もの頻度を持つ。 北アメリカや中米で発掘される縄文土器似の土器の製作者はこのY-DNA「C2a」ではないかと推測できる。

  またそのままシベリア大陸/東北アジアに留まったY-DNA「C2」はY-DNA「C2b1a2」に分化し、 大部分はモンゴル族やツングース族の母体となった。 また一部だった古代ニヴフ族は北海道に侵攻しY-DNA「D1b」のアイヌ人を征服しオホーツク文化を立ち上げた。 本来素朴な狩猟採集民だった原アイヌ人は支配者の古代ニヴフの持つ熊祭りなどの北方文化に変化し、 顔つきも丸っこいジャガイモ顔からやや彫の深い細長い顔に変化したようだ。 現代アイヌ人の持つ風習から北方性の風俗・習慣を除くと原アイヌ人=縄文人の文化が構築できるかもしれない。

4.長江文明系稲作農耕文化民の到来

  さて、日本人は農耕民族と言われるが、果たしてそうなのか?縄文人は明らかに農耕民族ではない。 狩猟採集民とハンターの集団だったと考えられる。ではいつ農耕民に変貌したのだろうか?

  古代遺伝子Y-DNA「F」から分化した現代遺伝子亜型群はY-DNA「G」さらに「H」、「I」、「J」、「K」と分化し、 Y-DNA「K」からY-DNA「LT」とY-DNA「K2」が分化した。 このY-DNA「LT」から更にY-DNA「L」が分化しインダス文明を興し、後にドラヴィダ民族の母体となったと考えられている。 Y-DNA「T」からは後のジェファーソン大統領が出自している。

  Y-DNA「K2」はさらにY-DNA「K2a(NO)」とY-DNA「K2b」に分化し、Y-DNA「NO」が更にY-DNA「N」とY-DNA「O」に分化した。 このY-DNA「N」は中国の遼河文明を興したと考えられているらしい。 このY-DNA「N」は現在古住シベリア集団(ヤクート人等)に濃く70-80%も残されており、テュルク族(トルコ民族)の母体と考えられている。

  しかし現代トルコ人は今のアナトリアに到達する過程で多種のY-DNAと混血し主力の遺伝子は Y-DNA「R1a」,「R1b」,「J2」などに変貌している為、東アジア起源の面影は全くない。 唯一タタール人に若干の面影が残っているが、今のタタール人もY-DNA「R1a」が主力に変貌してしまっている。 Y-DNA「N」はシベリア大陸の東西に高頻度で残りバルト3国の主力Y-DNAとして現代も40%以上も残っている。やはり移動性の強い遺伝子のようだ。

  さていよいよ日本農耕の起源に触れなければならない。Y-DNA「NO」から分化したもう一方のY-DNA「O」は、 中国の古代遺跡の発掘で、古代中国人は現在のフラットな顔つきと異なりコーカソイドの面影が強いと報告されている事は研究者の周知である。 つまり本来の人類は彫が深かったといってよく、現代東北アジア人のフラット/一重まぶた顔は 寒冷地適応に黄砂適応が加わった二重適応の特異的な後天的獲得形質と言って差し支えない(当史観は環境適応はあくまで「適応」で 「進化」とは違うと考えるが、ラマルクの後天的獲得形質論も進化論といわれるので、進化の一部ということにします。 (余談ですが、人類(動物)は体毛が減少する方向に進んでいるので、実は禿頭/ハゲ頭も「進化形態」である事は間違いない。)

  この東北アジア起源のY-DNA「O」は雑穀栽培をしていたようだ。東アジア全体に拡散をしていった。 日本列島では極低頻度だがY-DNA「O」が検出されている。陸稲を持ち込んだ集団と考えられる。 東北アジアの住居は地べた直接だっと考えられる。主力集団は黄河流域に居住していたため、 長年の黄砂の負荷で現代東アジア人に極めてきついフラット顔をもたらしたのだろう。

  一方南下し温暖な長江流域に居住した集団から長江文明の稲作農耕/高床住居を興したY-DNA「O1a」と「O1b」が分化し、 更にY-DNA「O1b1」(旧「O2a」)と「O1b2」(旧「O2b」)が分化し稲作農耕は発展したようだ。 このY-DNA「O1a」は楚民、Y-DNA「O1b1」は越民、「O1b2」は呉民の母体と推測できる。

  長江文明は黄河文明に敗れ南北にチリジリになり、Y-DNA「O1b1」の越民は南下し江南から更にベトナムへ南下し、 更に西進しインド亜大陸に入り込み農耕民として現在まで生き残っている。 ほぼ純系のY-DNA「O1b1」が残っているのはニコバル諸島 (Y-DNA「D*」が残るアンダマン諸島の南に続く島嶼でスマトラ島の北に位置する)のShompen族で100%の頻度である。

  また南インドのドラヴィダ民族中には検出頻度がほとんどY-DNA「O1b1」のみの部族もあり、 越民がいかに遠くまで農耕適地を求めて移動していったか良く分かる。 カースト制度でモンゴロイドは下位のカーストのため、他の遺伝子と交雑できず純系の遺伝子が守られてきたようだ。 この稲作農耕文化集団である越民の子孫のドラヴィダ民族内移住が、ドラヴィダ民族(特にタミール人)に 長江文明起源の稲作農耕の「語彙」を極めて強く残す結果となり、その結果、学習院大学の大野教授が 日本語タミール語起源説を唱える大間違いを犯す要因となったが、 こんな遠くまで稲作農耕民が逃げてきたことを間接証明した功績は大きい。

  一方、呉民の母体と考えられるY-DNA「O1b2」は満州あたりまで逃れ定住したが、更に稲作農耕適地を求め南下し朝鮮半島に入り定住し、 更に日本列島にボートピープルとして到達し、先住縄文人と共存交雑しY-DNA「O1b2a1a1」に分化したと考えられる。 この稲作農耕遺伝子Y-DNA「O1b2」は満州族で14%、中国の朝鮮族自治区で35%、韓国で30%、日本列島でも30%を占める。 この満州族の14%は、満州族の中に残る朝鮮族起源の姓氏が相当あることからやはり朝鮮族起源と考えられ、 呉系稲作農耕文化を現在に残しているのは朝鮮民族と日本民族のみと断定して差し支えないだろう。 この共通起源の呉系稲作農耕文化の遺伝子が日本人と朝鮮人の極めて近い(恐らく起源は同一集団)要因となっている。 北朝鮮はツングース系遺伝子の分布が濃いのではないかと考えられるが、呉系の遺伝子も当然30%近くはあるはずである。 過去の箕子朝鮮や衛氏朝鮮が朝鮮族の起源かどうかは全く分かっていないが、呉系稲作農耕民が起源の一つであることは間違いないだろう。

  長江流域の呉越の時代の少し前に江南には楚があったが楚民はその後の呉越に吸収されたと思われる、 しかしY-DNA「O1b1」が検出される河南やベトナム、インド亜大陸でY-DNA「O1a」はほとんど検出されていない。 Y-DNA「O1a」がまとまって検出されるのは台湾のほとんどの先住民、フィリピンの先住民となんと日本の岡山県である。

  岡山県にどうやってY-DNA「O1a」が渡来したのかは全く定かではない。呉系Y-DNA「O1b1」集団の一員として 混在して来たのか単独で来たのか?岡山県に特に濃く検出されるため古代日本で独特の存在と考えられている吉備王国は 楚系文化の名残と推測可能で、因幡の白兎も楚系の民話かもしれない。 台湾やフィリピンの先住民の民話を重点的に学術調査するとわかるような気がしますが。

5.黄河文明系武装侵攻集団の到来

  狩猟採集と海陸両ハンターの3系統の縄文人と、長江系稲作農耕文化の弥生人が共存していたところに、 武装侵攻者として朝鮮半島での中国王朝出先機関内の生き残りの戦いに敗れ逃れてきたのが、 Y-DNA「O2」(旧「O3」)を主力とする黄河文明系集団だろう。 朝鮮半島は中華王朝の征服出先機関となっており、 長江文明系とツングース系が居住していた朝鮮半島を黄河系が占拠して出先機関の「郡」を設置し、 韓国の歴史学者が朝鮮半島は歴史上だけでも1000回にも及び中華王朝に侵略された、と言っている結果、 現代韓国は43%以上のY-DNA「O2」遺伝子頻度を持つ黄河文明系遺伝子地域に変貌してしまった。

  朝鮮半島での生き残りの戦いに敗れ追い出される形で日本列島に逃れてきた集団は、当然武装集団だった。 おとなしい縄文系や和を尊ぶ弥生系を蹴散らし征服していった。長江系稲作農耕集団は、 中国本土で黄河系に中原から追い出され逃げた先の日本列島でも、また黄河系に征服されるという二重の苦難に遭遇したのだろう。
  この黄河系集団は日本書紀や古事記に言う天孫族として君臨し、その中で権力争いに勝利した集団が大王系として確立されていったようだ。 この黄河系武装集団の中に朝鮮半島で中華王朝出先機関に組み込まれていた戦闘要員としてのツングース系の集団があり、 ともに日本列島に移動してきた可能性が高いY-DNA「P」やY-DNA「N」であろう。 好戦的な武士団族も当然黄河系Y-DNA「O2」であろう。出自は様々で高句麗系、新羅系、百済系など 朝鮮半島の滅亡国家から逃げてきた騎馬を好む好戦的な集団と推測できる。

  この黄河文明系Y-DNA「O2」系は日本列島で20%程度検出される重要なY-DNAである。韓国では43%にもなり、 いかに黄河文明=中国王朝の朝鮮半島の侵略がひどかったが容易に推測できる。 日本列島の長江文明系Y-DNA「O1b2」系と黄河系Y-DNA「O2」系は合計50%近くになる。韓国では73%近くになる。 つまり日本人の約50%は韓国人と同じ長江文明系+黄河文明系遺伝子を持つのである。これが日本人と韓国人が極めて似ている理由である。

  一方、韓国には日本人の約50%を占める縄文系Y-DNA「D1b」,Y-DNA「C1a」とY-DNA「C2a」が欠如している。 これらY-DNA「D1b」,「C1a」とY-DNA「C2a」は日本人の持つ素朴なホスピタリティと従順性と調和性の源流であり、 このことが日本人と韓国人の全く異なる民族性の理由であり、日本人と韓国人の近くて遠い最大の原因になっている。

  一方、日本人の持つ一面である残虐性/競争性/自己中性等は20%も占める黄河系Y-DNA「O2」系からもたらされる 特有の征服癖特質が遠因と言って差し支えないような気がする。

6.簡易まとめ

  日本人の持つ黙々と働き温和なホスピタリティや和をもって貴しとする一面と、 一方過去の武士団や維新前後の武士や軍人の示した残虐性を持つ2面性は、 日本人を構成するもともとの遺伝子が受けてきた歴史的な影響の結果と言えそうだ。


  日本人の3つの源流は、

  ・日本列島の中で約1万年以上純粋培養されてきた大多数の素朴な狩猟採集民と少数のハンターの縄文系、

  ・中国大陸から僻地の日本列島にたどり着き、集団の和で結束する水田稲作農耕民の弥生系、

  ・朝鮮半島を追い出された、征服欲出世欲旺盛な大王系/武士団系の武装侵攻集団系、


  個人の性格の問題では解説しきれない、遺伝子が持つ特質が日本人の行動・考えに強く影響していると思える。 世界の技術の最先端の一翼を担っている先進国で、50%もの古代遺伝子(縄文系、しかも女系遺伝するmtDNAでは何と約67%が 縄文系のmtDNA「M」系なのです。)が国民を構成しているのは日本だけで極めて異例です。 もしこの縄文系遺伝子がなければ、日本列島と朝鮮半島及び中国はほとんど同一の文化圏と言って差し支えないでしょう。 それだけ縄文系遺伝子がもたらした日本列島の基層精神文化は、 日本人にとって世界に冠たる独特の国民性を支える守るべき大切な資産なのです。

7.後記

  これまで独立した亜型として扱われてきた近代亜型のY-DNA「L」,「M」,「N」,「O」,「P」,「Q」,「R」,「S」,「T」は、 現在、再び統合されてY-DNA「K」の子亜型Y-DNA「K1」とY-DNA「K2」の更に子亜型(孫亜型)として再分類される模様です。 つまり独立名をつける亜型群として扱うほど「違いが無い」ということなのです。

  ところがこのY-DNA「K」は、我々極東の代表Y-DNA「O」や西欧の代表Y-DNA「R」や南北ネイティヴアメリカンの Y-DNA「Q」等が含まれているのです。とても遺伝子が近いとは思えないのです。では何故これほど外観も行動様式も異なるのだろうか?

  これらの亜型群は、何十万年の歴史でユーラシア大陸の各地で亜種に近いほど分化していたと考えられている ネアンデルタール人やデニソワ人のY-DNA亜型を受け継いだだけの可能性も十分にあるのです。 西欧と極東であまりにも異なる外観や行動様式などの違いの原因を亜種間の接触に求めるのは荒唐無稽とは言えないでしょう。

  何しろネアンデルタール人もデニソワ人もホモサピエンスも元をただせばホモエレクトス出身で当然Y-DNAもmtDNAも 遺伝子が繋がっているのだから。Y-DNAではホモサピエンス、ネアンデルタール人やデニソワ人は既に1つのツリーに統合され始めています。 しかし、mtDNAは母系の断絶が確認されていて、ホモサピエンスとは繋がっていません。もしネアンデルタール人との接触がもっと遅く、 ネアンデルタール人男性の分化も進んでしまっていたら、Y-DNAの断絶もあったかもしれません。

8.余談

  (極めて余談ですが、北方系極東人の多くは寒冷地適応や黄砂適応を受け、フラット顔になってはいますが、 中国で発掘される古代人骨はほとんどコーカソイド顔であり、フラット顔は後天的獲得形質であることは研究者達が認めています。 日本人にはこの後天的獲得形質を獲得してから日本列島に渡ってきた集団が多かったことを示しています。 日本人の胴長短足は、高身長の弥生系と武装侵攻系の上半身と小柄な縄文の下半身の交雑の結果に過ぎず、日本人に意外に多い反っ歯や受け口も 弥生系の細身の顎に縄文系のがっしり歯列が収まりきらず前に出てしまっただけであり、親知らずは逆に出られなかっただけです。

  また日本人固有の古代的なホスピタリティは、縄文系である古代亜型Y-DNA「D」と「C」(合計で日本人男性の出現頻度約45%を占める) 及びmtDNA「M」(合計で日本人全体の約67%を占める)の固有の特質であり、近代亜型群の特質ではありません。 つまり特に日本人と他の民族との違いのほとんどは、この縄文系遺伝子の伝えてきた極めて古代的な、 狩猟採集民やハンター民の持つ行動様式や思考回路のもたらす結果に帰することは疑いようがありません。

  もし、天孫族や武士団族が朝鮮半島から負け組として追い出されてこなければ、日本列島は徳川時代の高度な文化もなく、 当時世界最大の都市だった江戸もなく、容易に西欧列強の植民地になっていたでしょう。つまり極めて残念なことですが、 日本人の世界に冠たる高度な技術力や文化性は、日本列島の3重遺伝子構造を構成する遺伝子の中で最後にやってきた Y-DNA「O2」(旧O3)がもたらしてきたものなのです、中国や韓国と支配階級が同じY-DNA「O2」遺伝子なのに結果が異なってきたのは、 常に外敵との抗争や侵略に脅かされ、技術や文化の熟成が近代までに確立「出来なかったか/出来たか」の違いなのでしょう。)

9.時代の趨勢

  3.3 Y-DNA「R1b」に書いた文章を復誦します。

  極めて明らかなことは、国・国民が先進的になるには純系民族では無理なのです。辺境民化してしまいエネルギーが低すぎるのですが、 競う共存遺伝子の種類が多ければ多いほど集団エネルギーが高くなり、国の活性度が上がり、覇権に向かうのです。 アジアの中で唯一近代化に成功した日本は縄文系−弥生系(長江文明系)−武装侵攻系(黄河文明系)が交雑し、 武装侵攻系が核になり集団エネルギーを一気に高め、一時はジャパンアズNo1と覇権を握るかもしれないほどの勢いを手に入れました。

  しかし日本が高止まりしてしまった間に中国が、日本以上の複雑な遺伝子ミックスにより集団エネルギーを高め、近代化らしきものに成功し 対外的には日本に取って替わりアジアの覇権を握ったように見えるレベルに達しました。しかし国民一人当たりの生産性があまりにも低く、 日本の1/4以下程度しかなく真の覇者には恐らく永久になれないでしょう。

  その中国も恐らく近いうちに日本同様高止まりするでしょうが、東アジアには日本、中国に代わる国はもはや存在しません。 南アジアのインドはロシアのスラブ系と同じインド・ヨーロッパ系遺伝子が支配する国ですが、中国同様あまりに国民一人あたりの 生産性が低すぎ日本の1/20程度しかなく覇権には届かないでしょう。

  当分の間はY-DNA「R1b」のアメリカとY-DNA「O2」(旧「O3」)の中国が覇権争いを続けるでしょうが、中国も日本もアメリカに 対する輸出で生産性を上げてきたので、アメリカにとって代わることは逆に自滅に向かうためまず不可能でしょう。

  非常に残念ですが、現代世界の構図は、世界の警察官であり輸入超大国のアメリカが太陽として中心に存在し、世界中から生産物を 買いまくり、そのおかげでアメリカの周りに各国が衛星のように回っていられるだけなのです。 水星、金星はEU諸国、地球は日本、火星はロシア、木星が中国、土星がインドという感じでしょうか。

v.1.6  国立遺伝学研究所教授で著名研究者の斎藤成也氏が、2017年10月に核-DNA解析でたどる「日本人の源流」本を出版しました。 その中でやっと海の民にも焦点が当たり、当ガラパゴス史観の「縄文人の一部は海のハンター」史観が 間違ってはいないかもしれない雰囲気になって来ました。 そろそろ時機到来の様相になって来ましたのでガラパゴス史観を総括し、日本人の源流考をまとめてみました。 これはY-DNA及びmtDNAの論文104編を読み込みメタアナリシスした結果得た、アブダクション(推論)です。 追加の着想がまとまる都度書き足します。

  枝葉末節は切り捨て太幹のみに特化して組み立てていますので、異論・興味のある方は、 当史観が集めた論文や、その後に発表されている新しい論文をじっくり読んで是非御自分で源流考を組み立ててみてください。

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飛躍しすぎほぼ空想談

  このコラムの項目2で「北京原人やジャワ原人などのホモエレクトスも出アフリカし、ネアンデルタール人も出アフリカしたということは、 現生人類が出アフリカしたのは人類の遺伝子が導く宿命ではないかとも思われる。」と書いたのですが、 布団に入ってウトウトし始めた時に、突然、”空想の語り部”が降臨してきて グチュグチュと御託言を言い残していったので、忘れないうちに書き留めます。

  何故、ヒトを含む類人猿の進化ツリー前半のギボン(テナガザル)やオランウータンは(東南)アジアにしか棲息しておらず、 進化ツリー後半のゴリラやチンパンジーはアフリカにしか棲息していないのか?

  ヒトがアフリカで発祥したのはチンパンジーとの共通の祖先がアフリカにしかいなかったからなのは極めて明白ですが、 では何故共通の祖先はアジアにはいなかったのか?何故アフリカにしかいなかったのか? この疑問に関する納得できる説明を探してみたのですが、今のところ全く見つかってはいません。

  今のところの進化ツリーでは進化の後半で、ゴリラの祖先になった類人猿はアジアからアフリカに大移動をしたことになります。 要するに、ヒトの遠い源郷はアジアだったから、人は出アフリカしてユーラシア大陸を東に進んだと言うことになります。 つまりサケやウナギが戻ってくるのと一緒で、源郷戻りが遺伝子に埋め込まれているのではないか!? では逆に、なぜ類人猿はアジアからアフリカに移動をしたのか?も依然、極めて大きな謎です。

  とにかく解剖学的現代ヒト族は宿命に導かれ出アフリカし、中東あたりで先輩ヒト族の中東型ネアンデルタール人と交雑し分化し、 インド洋の沿岸に沿って東のアジアを目指し大移動を決行し、古代遺伝子Y-DNA「C」と「D」はアジアに到達しそこで棲息をしてきたわけです。 ところが別の古代遺伝子Y-DNA「E」は、せっかく出アフリカしたにも関わらずまたアフリカに出戻ってしまった。 ということはアフリカに進むことも遺伝子に組み込まれているのかもしれない。

  では残りの古代遺伝子Y-DNA「F」は、なぜインド亜大陸に留まり全新興遺伝子の親遺伝子となったのだろうか? アフリカ大陸でヒト族がチンパンジーとの共通の祖先から分化したように、インド亜大陸で新興遺伝子の共通の祖先の古代遺伝子「F」から 分化したのでしょう、それを実行した最も考えられる要因はアジア型ネアンデルタール人との交雑でしょう。

  インド亜大陸はアフリカ大陸と同様の、進化や分化を後押しするパワーがあるのではないか?誰か研究してくれませんかね!!!!!。
http://garapagos.hotcom-cafe.com/0-2,0-5,15-28,18-2.htm#0-2

269. 中川隆[-10641] koaQ7Jey 2019年10月23日 06:55:00 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2222] 報告

2019年10月23日
縄文人と弥生人の顔と性格の違いまとめ


 3年ほど前(2016年6月11日)に表題の記事が公開されましたが、性格云々の話はともかく、外見の記述に関しては、現代日本社会における一般的な認識に近いと思います。こうした認識は近年になって主流になったというよりは、かなり以前から存在したのではないか、と思います。すでに1980年代に、子供向けの雑誌で、「縄文人」と「弥生人」の典型として有名人が挙げられていて、「縄文人」は吉永小百合氏、「弥生人」は岩下志麻氏でした。なお、「弥生人」で最も有名な卑弥呼は、宮殿に籠って運動不足だっただろうから、淡谷のり子氏のような外見だっただろう、という失礼な一文があったことも記憶しています。

 上記の記事のような「縄文人」と「弥生人」に関する認識は現代日本社会においてかなり浸透していると思われますが、まず問題となるのは、この場合の「弥生人」が「渡来系弥生人」、つまり弥生時代にアジア東部から到来した人々およびその子孫と想定されていることです。そうした「弥生人」の定義は現代日本社会において一般的なので、現代日本人は「縄文人」と「弥生人」の混合で、後者の方が遺伝的影響はずっと高い、といった言説も珍しくないわけですが、やはり、「弥生人」と言う時は弥生文化の担い手と定義するのが妥当なところで、「渡来系弥生人」に限定するのは問題だと思います。

 それは、弥生時代にも「渡来系弥生人」がまず到来したであろう九州において、北西部で「縄文人」的な形態の人類遺骸が発見されており、遺伝的には「縄文人」と現代日本人の中間に位置づけられ、東北地方の弥生時代の男性は遺伝的に「縄文人」の範疇に収まるからです(関連記事)。「弥生人」は形態的にも遺伝的にも多様で、現代日本人の形成過程として、「縄文人」と「弥生人」を対比させ、両者の混合および後者のずっと強い遺伝的影響と説明するのは妥当ではない、と私は考えています。これは「縄文人」についても言えることで、「縄文人」をあまりにも均質な集団として把握することは問題だと思います。

 ただ、あくまでもまだ東日本限定ですし、年代による違いも考慮しなければなりませんが、「縄文人」は「弥生人」よりもずっと遺伝的に均質である可能性が高い、と私は考えています(関連記事)。現代日本人の形成過程に関しては、「縄文人」でもどの地域集団がより大きな影響を残しているのか、弥生時代以降にアジア東部から到来した集団の遺伝的影響の拡大においてどのような地域差と年代差があるのか(現時点では東日本の「縄文人」のゲノムデータしか得られていないので、今後、西日本の「縄文人」のゲノムデータが得られれば、現代日本人における「縄文人」の遺伝的影響の推定値は上方修正される可能性が高い、と私は考えています)、またアジア東部から到来した集団の起源地はある程度限定的なのか、それともかなり多様なのか、大きな移住の波は1回なのか複数回なのか、などといった観点から検証されていくのだと思います。

 ある文化集団を遺伝的に均一と考える傾向については、最近も懸念が呈されています(関連記事)。古代DNA研究の進展により、民族的アイデンティティなどの社会文化的分類は遺伝的特徴と一致する、というような19世紀〜20世紀前半にかけての潮流に逆戻りしているのではないか、というわけです。こうした潮流を強く推し進めていったのがナチスでした。しかし、古代DNA研究でも、ある文化集団における遺伝的多様性が指摘されるようになっており、日本列島でも縄文時代〜弥生時代の古代DNA研究が進めば、既知の集団との比較でとても特有の1集団にまとめられないような、「弥生人」の遺伝的多様性が明らかになっていくのではないか、と予想しています。
https://sicambre.at.webry.info/201910/article_44.html

270. 中川隆[-10640] koaQ7Jey 2019年10月23日 06:57:07 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[2223] 報告

【あなたはどっち?】縄文人と弥生人の顔と性格の違いまとめ
歴人マガジン編集部歴人マガジン編集部
https://rekijin.com/?p=13837


大陸と陸続きだった頃に日本列島に渡った人達が縄文文化を育み、後にやってきた渡来人によって本州では弥生文化が花開く。・・・というのが筆者が学校で習った先史時代ですが、今はどんなふうに教えられているのでしょうか。

最新の研究によると、縄文人は現在で言うバイカル湖、弥生人は長江を起源とする人種なのだとか。
地域が違えば風土が違う。風土が違えば生活が違う。生活の違いは人の姿を変えます。縄文人と弥生人は、対照的な姿をしていたようです。

現在の日本人は75%が縄文人と弥生人の混血と言われていますが、パーツごとにどちらかの特徴が色濃く出ることもあるのだとか。そこで今回は、縄文人と弥生人の特徴をまとめてみました。



目次 [閉じる]
1縄文人の顔の特徴は?
2弥生人の顔の特徴は?
3縄文系と弥生系の違いは性格にも表れる?

縄文人の顔の特徴は?

縄文人男性の復顔図
縄文人男性の復顔図


縄文人は全体的に大ぶりの造形。背は高く四肢や指が長く、体毛が濃いのが特徴です。
顔は輪郭が四角形、眉が太くて目はぱっちりとした二重まぶた。耳たぶが大きくて鼻は広く、唇が厚いとのことです。

弥生人との混血が進まなかった北海道のアイヌや沖縄の琉球人、また九州地方では縄文人の特徴を色濃く残している人が多いようです。
ちなみにこの特徴は西洋人と重なるところが多く、初めてアイヌと出会った西洋人の中には自分たちと同じコーカソイドと思い込んで親近感を寄せた人もいると伝わっています。

弥生人の顔の特徴は?

弥生人男性の復顔図
弥生人男性の復顔図


弥生人は全体的に細く薄く、縄文人と正反対の特徴です。背は低く四肢や指は短く、体毛は薄いとのこと。
顔は輪郭が丸く、眉は細くて目は切れ長の一重まぶた。耳たぶは小さく鼻は細く、唇も薄いとのことです。

長らくこちらが日本人の典型的な姿とされ、美人の基準も弥生人の特徴の方が優勢だったようです。現代でも「塩顔系」と呼ばれる男性が人気だったりしますもんね。

縄文系と弥生系の違いは性格にも表れる?

縄文人と縄文犬の復元模型(国立科学博物館の展示)
縄文人と縄文犬の復元模型(国立科学博物館の展示)

縄文人の祖先は狩猟採集を生業とし、弥生人の祖先は農耕生活を営んできました。こうした生活形態の違いが、現代では性格の違いとして受け継がれている、とする向きもあるようです。

たとえば、農耕にあたっては指導者と人出があるほうが楽になるため、弥生人は秩序だった集団行動を好む。
対して狩猟を基本とした縄文人は少数精鋭かつ対等な関係を好みます。

また、狩猟では基本的に必要な分をその時に手に入れる生活になりがちです。だから縄文人は場当たり的で行動的、かつ失敗してもなんとかなるという大らかな性格が多いのだとか。

対して農耕では長期計画が基本の生活になります。そのため弥生人は計画的で慎重、そして一度の失敗が収穫に直結するため失敗に厳しい性格になるのだとか。
また、世界的に見ると狩猟民はO型、農耕民はA型が多いとか。
上記の特徴の違い、何となく血液型診断と重なるところがありそうです。

以上、縄文人と弥生人の特徴の違いをみてみました。自分や知り合いを当てはめて、縄文系と弥生系どちらになるか考えてみると面白そうですね。
あくまでレッテル貼りやモラハラにならない範囲で楽しみましょう(笑)
https://rekijin.com/?p=13837

271. 中川隆[-11391] koaQ7Jey 2019年11月04日 14:31:45 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1503] 報告

2019年11月04日
注目が高まるY染色体
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_13.html


 皇位継承をめぐる議論でY染色体への関心が高まっているように思いますが、それ以前より、皇位継承とは関係なく、現代日本人の遺伝的構成の特異性を強調する観点から、Y染色体は注目されていたように思います。そうした言説では、現代日本人男性において3〜4割を占めるY染色体ハプログループ(YHg)Dが韓国人や漢人ではほとんど見られないことから、日本人は韓国人や漢人といった近隣地域の人類集団とは遺伝的にはっきりと異なる、と強調されます。これはかなり偏った見解で、父系遺伝となるY染色体限定ではなくはるかに情報量の多いゲノム規模データでは、日本人と韓国人や漢人との遺伝的近縁性は明らかです。また、Y染色体DNAと同様に情報量はゲノム規模データよりずっと少ないものの、母系遺伝となるミトコンドリアDNA(mtDNA)でも、日本人と韓国人や漢人との遺伝的近縁性は明らかです。DNA解析技術が飛躍的に進展したこともあり、近年では、ゲノム規模データによる人類集団間の比較が主流になっています。

 しかし、これはY染色体DNAやmtDNAの解析が無意味になったことを意味しません。どちらも、ある集団の社会構造や形成史を推測するうえで重要な手がかりになります。人類史において移住・配偶の性的非対称は珍しくなく(関連記事)、それがY染色体DNAとmtDNAにはっきりと反映されている場合もあります。たとえばラテンアメリカでは、父系ではユーラシア西部系が、母系ではアメリカ大陸先住民系が多数派を占める傾向にあり、15世紀末以降、ヨーロッパ系の男性が主体となったアメリカ大陸の侵略を反映しています。こうした偏りは、常染色体だけでは解明しにくいと言えるでしょう。また、中国のフェイ人(Hui)の事例は、外来の少数男性がフェイ人(回族)の文化形成に重要な役割を果たした、と示唆します(関連記事)。父系社会の多い現代人において、情報量の多い常染色体DNAデータだけでは分からない歴史をY染色体が提供することも珍しくないだろう、と期待されます。

 とはいっても、当然Y染色体だけで文化や民族を解明できるわけではなく、そもそも民族を遺伝的に定義できるわけではありません。最近では、古代DNA研究の飛躍的な進展とともに、ある文化集団を遺伝的に均一と考える傾向について、懸念が呈されています(関連記事)。この点には注意が必要で、ある地域集団における文化変容・継続と遺伝的構成の関係はかなり複雑なものだった、と考えられます(関連記事)。同じ文化集団だから遺伝的に類似しているはずだ、という見解は問題ですが、一方で、遺伝的継続性が低いから先住集団の文化はほとんど継承されていないはずだ、との見解もまた問題で、たとえば日本列島における縄文時代から弥生時代への移行についても、慎重に検証していかねばならないでしょう。

 具体的には、「縄文人」の遺伝的影響が本州・四国・九州を中心とする現代日本の「本土」集団では低そうなので、縄文文化はその後の「本土」文化にほとんど影響を与えていないとか、「縄文人」や「弥生人」、とくに後者について、均一な遺伝的構成を想定する(関連記事)とかいった主張です。縄文時代から弥生時代への移行の解明に関しても、古代DNA研究が大きく貢献すると期待されますが、そのためには、日本列島だけではなく、広くユーラシア東部圏の古代DNA研究の進展が必要となるでしょう。
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_13.html

272. 中川隆[-12914] koaQ7Jey 2019年11月09日 10:38:32 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-16] 報告

2019年11月09日
北條芳隆編『考古学講義』第2刷
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_20.html

 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2019年6月に刊行されました。第1刷の刊行は2019年5月です。以下、本書で提示された興味深い見解について備忘録的に述べていきます。なお、以下の西暦は厳密な換算ではなく、1年単位での換算です。


https://www.amazon.co.jp/%E8%80%83%E5%8F%A4%E5%AD%A6%E8%AC%9B%E7%BE%A9-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%8C%97%E6%A2%9D-%E8%8A%B3%E9%9A%86/dp/4480072276

I 旧石器・縄文時代


第1講●杉原敏之「列島旧石器文化からみた現生人類の交流」P15〜35
 現生人類(Homo sapiens)の日本列島への拡散が解説されています。日本列島への現生人類の拡散経路としては、サハリンから北海道と津軽海峡を経由する北回り、朝鮮半島を経由する西回り、台湾と南西諸島を経由する南回りが想定されています。本論考は、比較的情報量の多い九州を中心とする西回りと南回りを取り上げています。日本列島では4万年前頃よりもさかのぼる人類の確実な痕跡はきわめて限定的で、後期旧石器時代以降に人類が定着したと考えられます。関東では38000年前頃に、九州でも38000〜36000年前頃には後期旧石器時代が始まります。朝鮮半島と日本列島の旧石器の類似性も指摘されていますが、その担い手となる人類集団の関係については不明なところがあります。ユーラシア東部における現生人類出現の考古学的指標とされる石刃技法については、九州において段階的変遷が想定されていますが、まだ充分には解明されていないようです。南回りに関しては、九州南部と琉球列島との直接的関連はまだ確認されていないようですが、本論考は、石器技術に限らない接触も想定しています。最終氷期極大期(LGM)には、九州で朝鮮半島南部との接触を窺わせる剥片尖頭器が発見されており、海面が低下したことにより交流が活発化していったのかもしれません。本論考は、九州の在来集団が朝鮮半島南部との接触により新たな技術を導入した、という可能性を想定しています。


第2講●中山誠二「縄文時代に農耕はあったのか」P37〜58
 縄文農耕論には長い歴史がありますが、近年では、レプリカ法を用いた土器の圧痕分析など、新たな手法による進展が見られます。本論考は、縄文時代においてクリが人為的選択を受け、ダイズやアズキが栽培化へと向かっていた可能性を指摘します。ダイズの栽培起源地候補はアジア各地に複数あり、日本列島もその起源地の一つだった可能性がある、というわけです。本論考は、こうした植物管理・栽培を、農耕の初源的な一形態である園耕・園芸と評価しています。このように、縄文時代において植物栽培と言えそうな事例が確認されつつあるものの、それが直ちに農耕社会を出現させたのではなく、狩猟・採集・漁撈との柔軟な組み合わせによる生業が確立していたところに縄文時代の独自性がある、と本論考は指摘しています。


第3講●瀬口眞司「土偶とは何か」P59〜84
 土偶については、女神説・地母神説・故意破損説などさまざまな仮説が提示されてきましたが、近年では議論は行き詰っているそうです。本論考は、これまであまり注目されていなかった土偶装飾付土器の分析から、土偶の社会的意味を検証しています。本論考は、土偶とは本来何らかの形で「うつろ」を身体に伴うもので、幾重にも取りつき、取りつかれることで一体の完成した像へと近づくものだ、と指摘します。それを踏まえて本論考は、土偶が時代により変容していった、と指摘します。初期には不完全な胴部だけが可視化され、不完全な東部は観念上存在しても基本的には可視化されない霊的存在でしたが、定住生活への移行に伴いそれが可視化されていき、それには人口拡大も背景にあるかもしれない、と本論考は推測しています。


第4講●瀬川拓郎「アイヌ文化と縄文文化に関係はあるか」P85〜102
 北海道は、旧石器時代→縄文時代→続縄文時代→擦文時代→アイヌ文化期と変遷していき、続縄文時代後期〜擦文時代にかけて、オホーツク文化が併存します。アイヌ文化は考古学的にそれ以前の文化とは大きく異なるのですが、研究の進展に伴い、連続的な変化が確認されつつあります。なお本論考は、考古学的文化に民族名を冠することは問題だとして、アイヌ文化ではなくニブタニ文化と呼ぶよう、提唱しています。本論考は、アイヌ文化に見られる縄文文化の要素として、イレズミ・モガリ・動物祭儀などを挙げています。北海道の動物祭儀に関しては、すでに縄文時代において、自然には生息しないイノシシを本州から連れてきて屠殺し、共食していた可能性が指摘されています。これは、縄文時代の本州にも見られる祭儀でした。本論考は、日本列島において縄文文化が色濃く残るのは、本州・四国・九州を中心とする「本土」ではなく、アイヌ側だと指摘しています。

II 弥生時代


第5講●宮地聡一郎「弥生文化はいつ始まったのか」P105〜122
 弥生時代を食糧生産もしくは稲作に基づく生活が始まってから前方後円墳が出現する前までと定義すると、弥生時代の始まりは刻目突文帯土器の時代に始まる、と本論考は指摘します。なお本論考は、縄文時代における稲作の確実な証拠は今では否定されている、と指摘します。ただ、稲作が始まったのは刻目突文帯土器の時代でもある段階以降とのことです。刻目突文帯土器は系譜的には縄文土器の深鉢そのもので、土器では縄文時代と弥生時代の境界が曖昧となります。しかし、土器の器種構成では大きな変化が見られ、稲作開始の頃より、朝鮮半島の無文土器に由来する壺などが出現するそうです。この時期には墓制も変化し、石剣や玉類や壺などの副葬品が見られます。弥生時代は、朝鮮半島の無文土器文化の影響を強く受けて始まったようです。弥生時代の開始年代をめぐっては議論が続いていますが(関連記事)、以前の定説である紀元前5世紀よりは古いものの、21世紀になって提示された紀元前10世紀までさかのぼる可能性は低い、と本論考は指摘します。また本論考は、弥生時代が日本列島で一斉に始まったわけではない、と注意を喚起しています。さらに、弥生時代とはいっても、西日本と東日本では様相が異なり、東日本の弥生時代には縄文文化の要素が強いことも指摘されています。弥生文化を均一なものとして把握することには問題があるようで、おそらく集団の遺伝的構成もかなり多様だった、と推測されます(関連記事)。


第6講●設楽博己「弥生時代の世界観」P123〜145
 弥生時代の世界観が、生物界・現世の空間世界・観念世界に区分されています。縄文時代の土偶には女性が多いのに対して、弥生時代には男女の偶像であることに関しては、性別分業の狩猟採集社会から男女協業を基本とする農耕社会への転換が背景にある、と指摘されています。また、弥生時代には埋葬からい男性優位の傾向も窺えるようになります。これは、弥生時代にはイレズミが男性だけになったことと関連しており、男性が主体となる戦争の活発化が背景にある、と推測されています。一方で、卑弥呼や壱与の事例から、男性だけが権力を掌握したわけではない、とも指摘されています。土製品や絵画などにおける主要な対象動物は、弥生時代には縄文時代のイノシシからシカへと変わり、これは、シカの角の生え替わりとイネの成長が同一視されたからではないか、と推測されています。また弥生時代には、鳥が重要な動物になったようです。銅鐸については、朝鮮半島の銅鈴に起源があるものの、銅鈴には文様がほとんどなく、銅鐸の文様は縄文土器が手本にされている、と指摘されています。銅鐸には辟邪としての機能も推測されています。空間観念に関しては、地的宗儀から高天原信仰の導入に伴う天的宗儀への転換が指摘されています。弥生時代の墓制から祖先祭祀の存在が推測されており、弥生時代の再葬墓については、縄文時代晩期の延長線上にある、と指摘されています。弥生時代に九州北部で始まる大型建物での祖先祭祀については、「中国」の影響が推測されています。


第7講●北島大輔「青銅器の祭りとはなにか」P147〜164
 弥生時代の青銅器の原材料である鉛の入手に関しては、時期による変遷が指摘されています。一方、北部九州と本州とでこの変遷に関して大きな時期差はなかったようです。鉛の同位体分析による原材料地は、弥生時代の6期区分では、3期までが朝鮮半島産、4期が前漢の華北産、5期は華北産でもさらに限定された領域、6期後半が後漢の華南産と共通しています。この推定に関しては疑問も呈されていますが、まだ解決していないようです。こうした弥生時代の青銅器の原材料入手のさいの対価としては、奴隷(生口)や翡翠・碧玉が推測されています。弥生時代の青銅器に見られる世界観として、銅鐸には身近な自然が多く、九州北部を中心に流入の始まった中国鏡では想像上のものが見られる、と指摘されています。


第8講●谷澤亜里「玉から弥生・古墳時代を考える」P165〜192
 弥生時代には新たな管玉が出現し、その起源地は現在の朝鮮北部〜中国東北部と推測されています。これは、農耕文化とともに導入された、と考えられています。こうした管玉は日本列島において受け入れられ、生産されるようになり、地域社会を横断した原石素材の流通ネットワークが形成されます。弥生時代にはガラス製玉類も出現しますが、日本列島でのガラスの生産は紀元後7世紀後半以降で、弥生時代と古墳時代には日本列島外で製造されたガラスが素材として用いられていました。なお、ガラス製品を伴う埋葬には多くの場合漢系遺物も見られることから、漢王朝からの下賜品と考えられてきましたが、中原地域や楽浪郡ではガラス製玉類が少ないことから、長江中流域との直接的な交渉によりもたらされた、との見解も提示されているそうです。ただ本論考は、ガラス製品以外には長江中流域との交渉を示すような遺物がないことから、楽浪郡経由での入手の可能性が高い、と指摘しています。

 こうした副葬品の状況から、「王」を頂点とする序列が想定されています。漢系遺物の流入は弥生時代後期初頭には一旦途絶えるようですが、その要因として新王朝を樹立した王莽の華夷思想に偏った対外政策が推測されています。またこの時期、日本列島規模で、既存集落の廃絶や特定集落への集住など大きな変化が見られるそうです。墓制でも、この時期に多くの地域で集団墓地の解体傾向が見られるそうです。これ以降、出自集団を単位とした墓地が顕著に見られるようになります。古墳時代前期になると、弥生時代後期には多様だった舶載ガラス製玉類が、銅着色のインド・パシフィックビーズにほぼ限定されるとともに、ガラス製玉類の出土数が減少するなか、近畿中部だけは出土数が増加します。ただ、古墳時代中期になると、種類は朝鮮半島南部と同じく多様になっていきます。弥生時代後期の段階では舶載品の流通を近畿中部が掌握していたとは言えませんが、古墳時代にはその流通経路が近畿に集約されていった、と窺えます。こうした動向に関しては、強大な近畿が他地域を支配したというよりは、他地域が近畿を介して安定的に威信材を入手しようとしたことが背景にあったのではないか、と推測されています。


第9講●村上恭通「鉄から弥生・古墳時代を考える」P193〜218
 日本列島における鉄器の使用は、弥生時代前期末〜中期初頭の九州北部において始まります。骨角器研究により、近畿以東では弥生時代中期後葉までには鉄器を用いての骨角器製作が確認されているものの、当時近畿以東では鉄が希少だったためか、石器と併用され、鉄の利用は限定的だった、と推測されています。これは斧に関しても同様で、石器と希少な鉄器が併用されていました。しかし、木器の研究からは、河内湾沿岸地域における斧の鉄器化は弥生時代中期後葉に完了した、とも指摘されています。日本列島における鉄器の生産はまず九州北部で始まり、日本海側では丹後地方まで、瀬戸内海では徳島県域まで直ちに拡大したそうです。さらに、弥生時代後期後葉から終末にかけては、日本海側では能登半島、太平洋側では三河地方まで拡大しています。また、鍛冶技術は九州北部のものがそのまま拡散したのではなく、多様化していき、そうした中で技術格差も見られるようになりました。

III 古墳時代


第10講●辻田淳一郎「鏡から古墳時代社会を考える」P221〜245
 弥生時代〜古墳時代にかけての日本列島の鏡の特徴は、鉄鏡がわずかで青銅鏡がほとんどであることです。この青銅鏡は、中国(舶載)鏡・三角縁神獣鏡・倭製(仿製)鏡に分類されます。中国鏡は漢代〜魏晋南北朝期にかけて「中国」で製作され、古墳時代の遺跡から出土するのは、おもに後漢鏡・三国(おもに魏と呉)鏡・西晋鏡です。後漢鏡の出土は弥生時代後期以降ですが、九州北部に偏っています。鏡の流通・副葬は3世紀〜4世紀前半にピークがあり、5世紀前半には生産・流通が一旦低調となりますが、5世紀後半に再度活発化するそうです。

 本論考は、銅鏡流通の核となった政治権力を「近畿中央政権」と呼んでいます。古墳時代には、近畿中央政権が独占的に中国鏡の輸入・流通を管理していたようです。古くから議論になっている三角縁神獣鏡の製作地については、全て日本産・全て中国産・日本産と中国産の混在という3説が提示されています。こうした鏡は政治的序列を可視化していた、と考えられています。本論考は、古墳時代前期を通じて、大型の中国鏡と倭製鏡が上位、三角縁神獣鏡や小型の倭製鏡が下位とされていた、と推測しています。また、近畿中央政権から各地に鏡が多数配布された理由として、当時は双系社会で上位層の世代間継承が不安定だったので、代替わりに伴い新たな鏡の入手が必要になった、と推測されて近畿中央政権と各地の権力との政治的相互作用の結果、古墳により可視化されるような広域的な政治秩序が形成・維持・再生産されたのではないか、というわけです。こうした社会状況において、鏡は威信材として機能した、と本論考は指摘します。

 こうした銅鏡の役割は、古墳時代中期に鉄製の武器に取って代わられたようです。しかし、5世紀のいわゆる倭の五王の遣使により、南朝から「同型鏡」が導入され、5世紀中頃以降に再び倭製鏡生産が活発化します。本論考は、同型鏡が南朝で製作され倭国に贈与された「特鋳鏡」と推測しています。この同型鏡群は、古墳時代前期の銅鏡とは異なり、大型前方後円墳だけではなく、中小規模の古墳からも出土しており、近畿中央政権が各地の中間層を取り込もうとした、と本論考は推測しています。古墳時代の倭製鏡は、6世紀前半よりも後には生産が終了したか、大幅に縮小したと考えられます。本論考は、古墳時代の鏡は本格的な国家形成の前段階に属する器物で、前方後円墳の出現とともに始まり、その終焉とともに意義が失われた、と指摘しています。


第11講●石村智「海をめぐる世界/船と港」P247〜269
 本論考はまず、日本人は海洋民だと指摘します。日本列島に現生人類が到来した後期更新世において、対馬海峡も津軽海峡も完全に陸続きにはならなかったため、渡海してきたはずだ、というわけです。日本列島の船は、まず1本の木で造られる丸木舟から始まります。これは縄文時代のものが発見されていますが、木の大きさに制約されるため、大型化できないという欠陥があります。弥生時代には、複数の材を継ぎ合わせて大型化した準構造船が出現し、丸木舟の要素が継承されています。日本の伝統的な和船は、この準構造船から発展して中世に成立します。遣唐使船は朝鮮半島の技術を用いて造られた、と推測されていますが、当時の朝鮮半島には船釘が用いられておらず(日本でも船釘の確実な使用は鎌倉時代以降のようです)、構造的に脆かったようです。

 日本列島において古代に港として利用されたのは、ラグーン(内海)を形成する潟湖地形でした。潟湖地形の周囲には前方後円墳が多く、目印として機能した可能性が指摘されています。飛鳥時代以降、遣唐使船のような喫水の深い大型の構造船が導入されると、入江地形の「深い港」が必要とされます。しかし、当時すべての船がそうした遣唐使船のような構造ではなかったため、潟湖地形のような「浅い港」も引き続き用いられただろう、と推測されています。

 前近代の日本において、日本海は冬場こそ荒れるものの、夏場には穏やかなため、日本列島のハイウェイとして機能してきた、と本論考は指摘します。日本海は、アジア東部大陸部との交通の場ともなりました。一方瀬戸内海は、潮流が速く複雑なため、航海の難しい海域だった、と指摘されています。しかし、瀬戸内海沿岸に目印としての前方後円墳が築かれてきたように、日本海と同じく古代からハイウェイとして機能してきました。太平洋は黒潮のため航海は困難ですが、弥生時代から古墳時代には、紀伊半島沿いの海路が存在した可能性は高い、と指摘されています。本論考は、海洋民が古代において海外の文物に触れられる先進的な集団だった、指摘しています。古代の海洋民として、宗像氏や安曇氏や高橋氏が挙げられています。


第12講●池淵俊一「出雲と日本海交流」P271〜290
 日本海を通じての交流は、すでに縄文時代から存在しました。出雲が日本海交流において特殊な地位を占めるようになるのは、紀元前1世紀となる弥生時代中期後半からしでした。この時代、朝鮮半島に漢の楽浪郡が設置され、九州北部では多数の漢鏡を副葬品とする王墓が出現します。この時期以降、出雲でも朝鮮半島系の土器が出土するようになります。これらの土器の大半は交易用の容器で、移住目的ではなかった、と考えられます。鉄器の出土状況からは、紀元後1〜3世紀には、日本列島における物流の主動脈は日本海だった、と推測されます。本論考は、出雲の九州系土器の出土状況から、出雲は直接的にではなく、伊都国や奴国といった九州北部集団を介して朝鮮半島と交易した、と推測しています。また、弥生時代後期には、吉備が出雲との関係を深めていったことも窺えます。一方、同じ日本海沿岸でも鳥取市青谷上寺遺跡は、九州北部系土器の出土がないことから、直接的に朝鮮半島と交易したのだろう、と推測されています。古墳時代前期前半になると、九州北部の交易拠点が伊都国から博多湾へと移動し、出雲を主体とする山陰系土器が多いことから、古墳時代初期の朝鮮半島交易では出雲が重要な役割を担っていた、と考えられます。この交易において主要な輸入品は鉄素材で、その対価として奴隷(生口)などが輸出されていた、と想定されています。古墳時代の出雲では四隅突出墓というひじょうに特徴的な墓が築かれ、瀬戸内海西部や九州北部の海人集団もしくはそれに連なる人々を配下として、朝鮮半島と交易していた、と推測されています。4世紀前半になると、博多湾で交易の中心だった西新町遺跡が突如として廃絶し、山陰の代表的な津も一斉に衰退します。本論考はこれを、倭王権が九州北部の交易機構を介さずに直接的に朝鮮半島南部との交易路を確立し、出雲のそれまでの対朝鮮半島交易の役割が終了したことを反映している、と解釈しています。


第13講●諫早直人「騎馬民族論のゆくえ」P291〜314
 騎馬民族日本列島征服王朝説(騎馬民族説)は、一般層にも広く知られている仮説で、現在でも支持者は一定以上いるようです。しかし本論考は、騎馬民族説は当初から一貫して、研究者の多くの反応は拒否あるいは冷淡だった、と指摘します。これは一般層、とくに騎馬民族説支持者にはあまり知られていないことでしょうから、新書など一般向け書籍で何度も繰り返し指摘する必要があると思います。ただ本論考は、日本列島において古墳時代中期に、それまで見られなかったウマや騎馬の風習が出現して短期間に定着していった、という事実が騎馬民族説の提唱とそれに対する学界の反応で生まれたことは、騎馬民族説の功績と言えるのではないか、と指摘します。この問題に関しては、韓国における経済発展に伴う発掘調査の進展と中国東北部における新資料の公開により研究が大きく進展した、と本論考は指摘します。これにより、馬具を副葬しない中原地域と、盛んに副葬するアジア東北部(中国東北部・朝鮮半島・日本列島)の対比が明らかになりました。

 日本列島におけるウマは、馬具とともに古墳時代中期にもたらされた、との見解が今では有力です。ただ、それ以前にわずかながらウマと馬具が導入された痕跡も確認されていますが、本論考は、日本列島におけるウマの導入は、どんなに早くても準構造船の出現した弥生時代以降で、古墳時代中期よりも前のウマや馬具の導入は散発的で、それ以降とは規模も質も大きく異なっていただろう、と指摘します。日本列島における初期の馬匹生産地としては、大阪府にある生駒山山麓の蔀屋北遺跡周辺が候補とされています。古墳時代中期の馬具生産については、渡来人の指導下に在来倭人が協業していたのではないか、と推測されています。古墳時代中期に始まった馬匹生産は、100年ほどで東北北部・北海道・南西諸島以外の琉球弧を除く広範な地域に拡大し、定着します。これは、単に交通手段としての利便性だけではなく、ウマの安定的供給源を求めた倭王権と、馬匹生産という新産業に活路を見出した地域首長という双方の思惑を考慮すると理解しやすい、と本論考は指摘します。

 古墳時代の騎馬文化の範囲は、おおむね前方後円墳の範囲と重なります。本論考は、日本列島における初期の馬具の直接的系譜は朝鮮半島南部の各地にあり、特定の地域に収斂しないことから、日本列島の騎馬文化が征服活動によりもたらされたという説明は成立せず、あくまでも日本列島の社会における需要の高まりを前提として、倭がさまざまな地域と主体的に交渉した結果だろう、と指摘します。倭がこの時期にウマを必要とした背景として、高句麗との軍事的衝突が想定されています。


第14講●北條芳隆「前方後円墳はなぜ巨大化したのか」P315〜346
 本論考は前方後円墳の巨大性について、国家形成過程の一環として考えると矛盾する、と指摘します。まず、墳丘規模の拡大は先代墓とに競合を招来し、祖先の神格化を阻みます。次に、支配力から見ると過剰な労働力が投下されていることです。治水などの公共事業に傾注すべきところを、一代限りの墳墓に富を浪費しては、社会の不満が高まっただろうし、国家形成過程の一環として、古代「中国」諸王朝は墳墓よりも祭礼空間としての宮都の造営を優先した、と本論考は指摘します。さらに、前方後円墳おいて規模の格差は明確であるものの、基本構造や副葬品の組成には共通点が多く、中央集権化を志向する王権とは異質な政体の集合体もしくは同盟で、部族同盟だっただろう、と本論考は指摘します。本論考が最も重視するのは、浪費は権力者側に蓄積されるはずの富の放出なので、次世代の親族に資産を残せず、成層化や身分序列の固定化とは正反対の平準化や均等化に向かう、ということです。

 本論考が重視するのは高句麗です。高句麗は漢から冊封され、朝鮮半島を南下し、百済と新羅の形成を促しました。その高句麗が最も敵視したのが倭で、倭も高句麗への対応に負われたことが、前方後円墳巨大化の鍵になる、と本論考は指摘します。さらに本論考が重視しているのは、当時の高句麗と倭がともに首長制社会だった、ということです。高句麗も厚葬で、こうした首長制社会では階層化があまり進展しません。倭も、上層の「大人」、一般層の「下戸」、奴隷の「奴婢」や「生口」といった程度の階層分化でした。こうした社会では、王位が特定の一族に世襲されないことがあり、首長は民衆に対して常に再分配を強いられた、と本論考は指摘します。倭ではそれが古墳の造営であり、おそらくは貨幣としての機能も有していた稲束と稲籾が対価として支払われたのだろう、と本論考は推測します。

 本論考は、当時の推定人口と生産力から、最大級の前方後円墳でも十数年程度で造営可能と推算しています。前方後円墳の巨大化の背景として、首長間の競合と人口および生産力の増加が指摘されています。また、寒冷化と高句麗の南下による朝鮮半島の不安定化による朝鮮半島から日本列島への渡来人の増加が、古墳時代における文化要素の朝鮮半島化を促したことも指摘されています。また本論考は、寒冷化のなか、日本列島の穀物生産量が前代までより相対的に高句麗に対して優位になり、鉄などをめぐる交易で競合関係が強くなったことこそ、倭と高句麗の対立激化の背景にあるのではないか、と指摘しています。本論考の見解は壮大たいへん興味深く、今後も調べていきたいものです。
https://sicambre.at.webry.info/201911/article_20.html

273. 中川隆[-15243] koaQ7Jey 2019年12月02日 12:04:11 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2314] 報告

2019年11月25日
会津地方の支配層の男性は渡来系 喜多方・灰塚山古墳出土 歯や骨格から全身像を復元
https://www.kahoku.co.jp/tohokunews/201906/20190604_63010.html

復元された会津地方の支配者のイメージ(東北学院大提供)


 約1500年前に会津地方を支配した豪族とみられる全身人骨が見つかった喜多方市の大型前方後円墳「灰塚山古墳」に関する講演会が24日、会津若松市の県立博物館であった。人骨の復元に取り組んでいた東北学院大(仙台市)の辻秀人教授(考古学)が調査成果を報告。顔つきは現代人に近く、渡来系集団が大和朝廷とつながって支配していたとの見方を示した。
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 東北学院大文学部の辻秀人教授(考古学)の研究グループは、古墳時代中期(5世紀ごろ)に会津地方を支配した男性の歯から抽出したDNAと全身の骨格から生前の全身像を復元した。男性の姿は現代人に近く、当時の支配層の変遷を知る手掛かりになりそうだ。
 人骨は2017年、辻教授が調査した喜多方市の前方後円墳「灰塚山古墳」の石棺から全身がほぼ完全な状態で見つかった。酸性土壌の国内で、1500年を経過した人骨が見つかるのは珍しいという。
 辻教授はミトコンドリアDNA解析を行う安達登・山梨大教授らに調査を依頼、全身像を復元した。
 男性は身長158センチで、きゃしゃな体形。比較的面長で、鼻の付け根が平らな渡来系の顔つきだった。脊椎に癒着があり、腰痛に悩まされていたことがうかがえた。死亡推定年齢は50代後半。歯のすり減り具合から、固い物は食べていなかった。人骨内の炭素と窒素量からコメのほか、川魚を食べたとみられる。
 辻教授によると、会津地方は、能登半島などを経由してきた渡来系の集団が、大和朝廷の政治的な後ろ盾を得ながら支配していたとみられる。辻教授は「前方後円墳の建設はその現れ。今後の詳細な調査を通じて、縄文人との支配者層の変遷を探りたい」と話した。

 復元像と調査結果は、8日から7月20日まで仙台市青葉区の東北学院大博物館で開かれる開館10周年特別展で公開される。6月8日午後1時から同大土樋キャンパスホーイ記念館で記念シンポジウムもある。連絡先は同大博物館022(264)6920。

274. 中川隆[-15146] koaQ7Jey 2019年12月14日 09:40:35 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-2199] 報告
【我那覇真子「おおきなわ」#100】
竹内久美子〜伝統と科学、皇統はなぜ男系継承でなければならないのか?[桜R1/12/13]

275. 中川隆[-14418] koaQ7Jey 2020年1月17日 11:54:03 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[-1334] 報告

2020年01月17日
古墳時代の出雲人のDNA解析

 古墳時代の出雲人のDNA解析について報道されました。まだ報道でしか確認していませんが、たいへん興味深い研究だと思います。出雲市の猪目洞窟遺跡では1948年に3〜7世紀頃の古墳時代のものと考えられる人類遺骸が発見されています。このうち6人で母系遺伝となるミトコンドリアDNA(mtDNA)が解析され、「縄文系」と「渡来系」がそれぞれ3人ずつだった、とのことです。さらに、この6人のうちDNAの保存状態が良好だった「縄文系」と「渡来系」それぞれ1人ずつの核DNAが解析され、ともに東京都の古墳時代の人類や現代日本人よりも遺伝的に「縄文人」に近縁であることが明らかになったそうです。

 日本列島の本州・四国・九州(およびそれぞれのごく近隣 の島々)から構成される「本土」集団が、遺伝的には「縄文人」と弥生時代以降の「渡来系」集団との混合で、後者の影響の方がずっと大きい、ということはほぼ通説になっています。しかし、「本土」集団の形成過程は一様ではなく、時代・地域による違いが大きかったのではないか、と予想されます。西日本は東日本と比較して、弥生時代以降の「渡来系」集団の影響が早期に大きくなったのでしょうが、西日本でも地域差があり、出雲はその進行が遅れた地域だったのかもしれません。ただ、出雲とはいっても1遺跡での調査だけに、より広くDNA解析が進まないと、一般化できないと思います。
https://sicambre.at.webry.info/202001/article_24.html

276. 中川隆[-13793] koaQ7Jey 2020年3月18日 22:36:36 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1089] 報告

弥生文化のルーツの解明
國學院大學栃木短期大学 日本史学科 教授 小林青樹
https://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/22_letter/data/news_2011_vol2/p-5.pdf


 本研究は、弥生文化の起源を東アジア全体のなかで探 求し、新しい歴史像の再構築を目指したものです。従来の 説では弥生文化の起源は朝鮮半島にあり、それが北部九 州に伝播し、東方の縄文文化に広がったという単純なもの でした。また大陸との関係においては、紀元前108年に前 漢帝国による楽浪郡が設置されなければ、大陸の文物は 流入しないというのが定説でした。しかし国立歴史民俗博 物館によるAMS炭素14年代測定により、弥生開始年代が 従来の説より500年も遡り、その起源をめぐる問題は大きく 変わりました。本研究では、 さらに国内外で年代の見直しを おこない、弥生文化の起源に関わる2つの大きな発見をしました。

 福岡県や佐賀県など北部九州での調査の結果、最初の 弥生土器文様の大部分は、東北縄文の亀ヶ岡式文化の 文様に起源することが明らかになりました(図1)。これが第1 の発見です。分析の結果、土器の粘土は地元産、文様は 東北そのものであり、東北縄文人が北部九州に来て土器 製作に関わったと考えました。また、東北の漆器も多数北部 九州に来ており、ものづくりでの東北縄文文化の影響は計 り知れません。

 第2の発見は、中国北方の青銅器・鉄器文化の再検討 の結果、戦国七雄の一つである燕国の鉄器などの痕跡を 北部九州各地で確認したことです。これまでの定説よりも約 250年前の紀元前4世紀中頃、すでに燕国や東方の遼寧 地域との間に直接的な交流があったことを明らかにしました。

この2つの発見により、弥生文化の成立は、想像を超える遠 隔地とのダイナミックな交流によって達成されたものであるこ とがわかりました(図2)。

 縄文文化と大陸文化が融合した弥生文化は、日本文化 の起源を考える上で重要です。起源の探求は、いずれ中国 北方地域を超え、ユーラシア全体に広がるでしょう。今後は、 歴史学、人類学、神話学、言語学などとの連携が進み、 日 本人と日本文化の起源の研究が深まることを期待します。

図1 東北縄文土器文様から弥生土器文様への変化 この文様は、近畿地方に伝播して銅鐸の文様ともなった。


図2 初期の弥生文化形成にみる2つの大きな流れ
https://www.jsps.go.jp/j-grantsinaid/22_letter/data/news_2011_vol2/p-5.pdf  

277. 中川隆[-13549] koaQ7Jey 2020年3月23日 08:40:16 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1355] 報告
306名無しさん@お腹いっぱい。2020/03/23(月) 00:48:43.27ID:9wBqifY1

日本人の地域差について

核ゲノム解読の結果分かったのは本土日本人の同質性が極めて高いということですが、 僅かに地域差があります。

もちろん地域差より個人差の方が大きいですが、あくまで地域別に平均化した話です。

本土日本人でも琉球民族やアイヌ民族に分類されるゲノムの人もいます。
以前より山間部や僻地に縄文の遺伝子が残っていると指摘されていましたが、それが実証された形です。

日本人のクラスターは渡来系の影響が強い「中央軸」と、比較的縄文の遺伝子が残っている「周辺部分」とに別れます。

今後さらに小さい地域単位ごとに調査していけばこの「中央軸」エリアでも縄文の遺伝子が強い集団が見つかったりすると思われます(特に山間部や島嶼)。

◆中央軸(南関東、関西、愛知、福岡、宮城、札幌)
一般に都市部とされる集団では遺伝的同質性が高く縄文由来の遺伝子が比較的少ない。特に東京人のゲノムは朝鮮民族に最も近い。

◆東北(宮城除く)
出雲人とゲノムが殆ど一致。九州人に次いで琉球民族に近い。ずーずー弁話者の分布と一致。

◆出雲
東北人とゲノムが殆ど一致。東京よりも縄文要素を残している。ずーずー弁話者の分布と一致。

◆九州(福岡除く)
本土日本クラスターの中では最も琉球民族に近い。従って本土日本人の中では最も縄文人に近い位置に来るとされる。また朝鮮半島よりも中国南部の影響を受けている。

https://lavender.5ch.net/test/read.cgi/geo/1576626259/l50

278. 中川隆[-13116] koaQ7Jey 2020年4月02日 12:15:17 : b5JdkWvGxs : dGhQLjRSQk5RSlE=[1790] 報告
関東人と関西人は遺伝子から違う?日本人は8つの遺伝的グループに分かれているという研究 2020/03/31
https://nazology.net/archives/55425


私たち日本人は8つの遺伝的な亜集団にわかれていることがわかった/Credit:Nature Communications
point

日本人は8つの遺伝的に異なる亜集団にわかれている
地域的な遺伝差は身長や薬の効き目に影響する
8つの亜集団の全てが沖縄にルーツを置いている

これまでの研究によって、人種間の遺伝子には少なくない違いがあることが明らかになってきました。

熱さへの耐性、寒さへの耐性、渇きへの耐性、低酸素環境への耐性など、様々です。

医薬品の効き目などもその一つであり、人種によってかなり効果が異なることが明らかになりつつあります。

しかし最近の研究により、同じ国に住む同じ民族でも、地域によって薬の効き目などが異なることがわかってきました。
そのような地域差は文化に由来するものだと考えられてきましたが、十分な科学的根拠は存在しませんでした。

そのため今回、日本人の研究者によって国内における、大規模な地域間の遺伝子の差が調べられることになりました。

予想が正しければ、地域間の遺伝子差は(人種程ではないにしても)身体的な差にも大きく影響しているはずです。

ただ地域差は人種差に比べて違いがわずかであり、これまでのような人間の認識力だけでは区別できません。分析にあたってはAIによる機械学習を応用することになりました。

その結果、日本人は遺伝的に8種類に及ぶ多様な遺伝的グループに分かれていることが判明しました。

日本人は思ってたよりずっと、単一ではないようです。
研究内容は大阪大学の坂上沙織氏らによってまとめられ、3月26日に権威ある学術雑誌「nature/communications」に掲載されました。

Dimensionality reduction reveals fine-scale structure in the Japanese population with consequences for polygenic risk prediction
https://www.nature.com/articles/s41467-020-15194-z

AIによって判明した8つのグループ

関東人と関西人は微妙に遺伝的に異なっているが、沖縄人との違いはさらに際立っている/Credit:Nature Communications

私たち人類はアフリカで誕生した後に、地球上の様々な場所に移住し、その地域にあわせた遺伝的特質を獲得してきました。
そのため、ある人種に効果があった薬が別の人種では効果が薄い、ということが少なくない頻度で起こりました。

しかし近年になって、日本の中でも薬の効果が地域によって僅かに異なることがわかってきました。

これまでは、そのような些細な地域間の医療効果の差は、主に食文化をはじめとした文化的な要因のためとされてきました。

ですが今回、17万人にもおよぶ遺伝データを、AIによる機械学習を応用して調べた結果、同じ日本人の中にも8つの異なる亜集団が存在すると判明したのです。
またこれらの差を二次元の画像に落とし込んで可視化した結果、九州と北海道の一部、及び沖縄の方々の遺伝子が、特にユニークな遺伝子集団を築いていることが判明しました。

地域的な遺伝差が身長差と同じ比率で影響を与えている/Credit:Nature Communications

さらに遺伝的な差が身体においてどのように影響するかを測定した結果、遺伝的な地域差が平均身長の地域差とも一致することがわかりました。
地域の遺伝子の差は確かに僅かですが、それでも身長差のような明白な違いをもたらしていたのです。

このことから、疾患リスク及び薬の効き目の違いが必ずしも、文化的な影響に支配されているのではなく、地域ごとの遺伝的な差にも影響されていることが示唆されました。

日本人の起源解明:8つのグループが全て沖縄の島々に濃縮されていた

沖縄人の詳細な分析を行った結果、8つのグループ全ての遺伝痕跡が内包されていた/Credit:Nature Communications
また、さらに詳細な分析を沖縄グループに対して行った結果、8つのグループの全てが、沖縄の島々に濃縮されていることがわかりました。
これは日本人の8つのグループ全てが、何らかのルーツを沖縄に持つことを示唆します。

これは既存の説、つまり、まず縄文人が南アジアを経由して日本に入り、その後、弥生人が入って全国に拡散したとの説と矛盾しません。
私たち日本人は複数のルーツと、その後の遺伝的な適応の結果、さらに複数の亜集団にわかれていきました。

これらの遺伝的な差は、地域に住む人々の気質にも影響している可能性があります。

関東人と関西人のノリが合わなかったり、旅先でアウェーになったりするのも、遺伝子の違いによる気質差が混じっているのかもしれませんね。

https://nazology.net/archives/55425

279. 中川隆[-12931] koaQ7Jey 2020年4月26日 21:10:59 : YvLw5HeiWD : aXpvOTQ3M1hieWM=[6] 報告


ハイテクが拓く古代研究(下)「日本人の起源」探るゲノム 縄文・弥生の「二重構造」に新説
2020/4/22付│日本経済新聞 朝刊

ハイテクが拓く古代研究(下)「日本人の起源」探るゲノム縄文人や弥生人のゲノム(全遺伝情報)の解読を通じて「日本人」の成り立ちを探る研究が進んでいる。国立遺伝学研究所(静岡県三島www.nikkei.com

縄文人や弥生人のゲノム(全遺伝情報)の解読を通じて「日本人」の成り立ちを探る研究が進んでいる。国立遺伝学研究所(静岡県三島市)の斎藤成也教授を代表に、2018年度に始まったプロジェクト「ヤポネシアゲノム」はその一つだ。

遺伝学者、人類学者に加え、考古学者や言語学者も参加している。「沖縄で見つかっている旧石器時代の人々と縄文早期以降の縄文人は、DNA的には1万1千年前で途切れていると分かったのはほんの数年前。そのミッシングリンク(進化の欠落部分)には考古学者としても興味がある」。考古学的解析班を率いる国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎教授は話す。

古代人のゲノム分析は細胞の小器官ミトコンドリア内のDNA解析から始まった。この手法では母方の遺伝情報しか分からないが、10年代以降、細胞に1つしかない核のDNA分析が可能となった。

「縄文人は遺伝的には現代の世界ではどこにもいない特異な集団」と語るのは国立科学博物館(東京・台東)の篠田謙一副館長。ヤポネシアゲノムでは古代人ゲノム解析班を率いており、鳥取市の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡から出土した弥生後期(1〜2世紀)の人骨のDNA分析を考古班とともに進めた。「縄文系、朝鮮半島・中国大陸からの渡来系と、様々なタイプが埋葬されていた」という。

長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡から出土した弥生後期(1世紀ごろ)の人骨も分析。長崎県周辺にいた「西北九州弥生人」は縄文人直系と考えられていたが、渡来系弥生人との間で混血がかなり進んでいた人たちもいることも明らかにした。「日本列島全体では、混血は弥生時代(紀元前10世紀〜3世紀)で終わったのではなく、古墳時代(3〜7世紀)まで1500年ほど続いたと考えられる」と篠田氏。

プロジェクトの季刊誌「ヤポネシアン」の2020年3月号には、国立科学博物館の神沢秀明研究員による「クラウドファンディングによる古代出雲人DNAの解析」という文章が載った。出雲市の猪目(いのめ)洞窟遺跡の古墳時代とみられる層から出土した人骨を、18年12月から斎藤氏と解析した経緯を紹介するものだ。

調査は出雲出身者で構成する「東京いずもふるさと会」が研究費を負担する形式で進められた。解析の結果、人骨は「現代本土日本人よりも僅かであるが統計的に有意に縄文的であることが明らかになった」と記す。

「日本人」の成り立ちは「二重構造モデル」が定説とされる。最初に日本列島に住みついた人々が採集狩猟中心の縄文人を形成した。弥生時代に渡来した人々が九州に水田稲作を伝え、それが「列島中央部」に広がり、この間に縄文人の子孫と混血を繰り返す。一方、列島の南と北には縄文人の遺伝子を色濃く残す人々がいるとの見方だ。

この説を踏まえ、斎藤氏が打ち出したのは「うちなる二重構造」という仮説。「列島中央部」をいま東海道・山陽新幹線が走る地域とそれ以外に分け、「日本人」の源流を探るものだ。「朝鮮半島に近い出雲に住む人々が、東北などと同様、縄文人の遺伝子を色濃く受け継いでいるとしたら、いわゆる『弥生人』に2種類あったのではないか」と斎藤氏は話す。

「DNAでみると現代日本人と渡来系弥生人は遺伝的によく似ている。DNA分析では親族関係の特定もできるので、縄文・弥生社会の解明につなげたい」と藤尾氏は学際研究に期待を寄せる。
https://note.com/xanqo_10post_jgo/n/ncab79b2a8356

280. 中川隆[-12845] koaQ7Jey 2020年4月30日 06:13:57 : MwB36mQCTo : U29tZTdqMGsxQXc=[1] 報告
日本に大きな影響を与えた朝鮮半島の水田稲作
弥生時代の歴史:第1章〜水田稲作の始まり〜前編
藤尾慎一郎 国立歴史民俗博物館 研究部 教授
https://10mtv.jp/pc/content/detail.php?movie_id=2975


日本における穀物は、朝鮮半島南部(韓国南部)からの影響を強く受けている。そこで、今回は日本の水田稲作を議論する前に、朝鮮半島における穀物の発展の様子を見ていく。出土した土器あるいは遺跡などから、農耕文化とそれに伴う社会制度の発展を考察できる。(全12話中第3話)


●朝鮮半島では日本よりも500年も前に本格的な農耕生活に入った

 それでは、日本で水田稲作が始まるにあたって大きな影響を与えた朝鮮半島南部(現在の韓国)でどのように農耕が始まったのかという点から、話を始めます。

 青森県の三内丸山遺跡で有名な縄文時代の前期と同時代に、朝鮮半島ではアワやキビなどの穀物を栽培していました。当時は、朝鮮半島で新たな発明がなされると、基本的にはすぐに日本、特に九州や西日本に伝わっていました。しかし、どういうわけか日本でアワやキビを栽培していたという証拠は出てきません。これが日本で初めて出てくるのは、水田稲作が始まる紀元前10世紀だと、現在は考えられています。

 つまり、朝鮮半島ではアワやキビを栽培していたにもかかわらず、九州の人々はそうした動向には見向きもせずに採集生活を続けていたという状態が、何千年も続いていたということになります。

 今から約3500年前の紀元前15世紀には、朝鮮半島でも数ヘクタールという大きな畑を作って、そこでコメや麦を栽培する生活が始まります。朝鮮半島では日本よりも500年も前に、本格的な農耕生活に入ったのです。


●朝鮮半島南部の遺跡から出土したもの

 この写真は、ダムの建設に伴い水没する地域の発掘調査を行った際の写真です。この川のそばにある、縦にたくさん線が引いてある場所が畑の畝の跡です。この畑は約3ヘクタールほどの大きさがあります。実際にコメや麦など炭化した穀物も出てくるので、本格的に農耕生活に入っていることが分かります。

 上のスライドにある左写真の下側にあるのは当時の住居です。非常に大きいことが分かります。右写真にあるのは、「石包丁」と呼ばれる収穫具です。昔は、コメが熟す時期は穂ごとに異なるので、熟しているものもそうでないものも取り去る根刈りはできません。そのため、熟しているもののみを摘み取るために、石包丁を用います。

 畝が交差しているものなど、さまざまな畑の形があります。これらの違いから時期が異なることが分かります。

 紀元前11世紀になると、朝鮮半島南部で水田稲作が始まります。本格的な穀物栽培が始まって約400年後のことになります。

 こちらにある写真は韓国で最も古い水田の一つの写真です。釜山の少し北側に位置する蔚山(ウルサン)市で見つかったオクキョン遺跡の水田跡です。これらは一つ一つの区画が数平米と小さい「小区画水田」と呼ばれるものです。谷筋を流れる水を使って、水田稲作を行っていたことが分かります。


●戦い、農耕社会、身分格差の発生の考古学的証拠

 写真は、ここで使われていた道具です。この中で着目してもらいたいのが、土器と武器です。土器の「口縁部」と呼ばれる上の方の縁をめぐるように小さな穴が空いています。これを「孔列文」と呼びます。これと同じ文様が、同じ時期の九州東部や中国山地の縄文土器にも用いられています。

 武器に関してですが、縄文人は武器を持っていませんでした。もちろん、棍棒などでも殺傷は可能ですが、最初から殺傷を目的とした道具を縄文人は持っていませんでした。しかし、弥生人は持っています。武器は、水田稲作と一緒に朝鮮半島から伝わりました。つまり、朝鮮半島で水田稲作が始まった時期に、こういった武器が出現するということが分かるわけです。

 水田稲作が始まって社会が安定してくると、農耕社会が韓国でも成立してきます。その主な考古学的証拠は、周りに壕をめぐらした環壕集落というむらの存在です。この環壕集落には、壕の中にある住居趾と外にある住居趾があります。このことから、内と外にある住居趾に住んでいた人の間には、何らかの社会的な差があったのではないかと考えられています。

 韓国の環壕集落は比較的高い丘陵を取り囲むようなものが多いのです。一方、日本の場合には、このような形の環壕集落の他に、平野の真ん中に多重の壕をめぐらす巨大な環壕集落を持っています。しかし、こうした形の集落が出現するのは数百年後の話になるので、ここでは取り上げずにおきます。

 農耕社会が成立すると、社会的な身分格差が生じます。身分の高い人は非常に価値の高い副葬品とともに大きな墓に葬られます。この写真はそのうちの一つですが、一辺が10メートルほどで非常に大きい、石を盛り上げて作った「槨」と呼ばれる墓です。このように、水田稲作が始まり農耕社会が成立し身分格差が生まれてくると、ものをたくさん持っている身分の高い人...

281. 2020年7月09日 06:14:02 : Mu0g15Rjmc : aWloQXY0NTNQc0U=[8] 報告
2020年07月09日
インドネシアにおける最初の稲作
https://sicambre.at.webry.info/202007/article_10.html


 インドネシアにおける最初の稲作に関する研究(Deng et al., 2020)が公表されました。現代世界においてコメは最重要作物の一つです。インドネシア、より広義にはアジア南東部島嶼部(ISEA)は、人口が2億6700万人以上で、イネ(Oryza sativa)の栽培と消費の主要地域の一つです。長江中流および下流では9000年前頃に稲作が始まり、稲作はその後の数千年でアジア東部および南東部に拡大しました。しかし、ISEAにおける古代稲作の起源・年代・背景についての議論は、古植物分析なしでよく行なわれてきました。こうした問題はとくにインドネシアで根強く残っていますが、最近ではスラウェシ島における稲作の長期記録を報告できるようになりました。

 ISEAは湿潤な熱帯地域のため有機物の保存状態が悪く、古代のコメがほとんど残っていません。これらの事例だけでは、栽培種と野生種を明確には区別できません。ボルネオ(カリマンタン)島のマレーシア領サラワク(Sarawak)州のグアシレー(Gua Sireh)では、放射性炭素年代で4807〜3899年前のイネの籾殻が発見されていますが、土器製作のさいに使用された粘土に自然の過程で入った野生種と考えられています。ルソン島北部のアンダラヤン(Andarayan)では、土器内部のイネの籾殻が見つかっており、放射性炭素年代で4807〜3899年前です。ルソン島北部では3000年前頃の炭化したコメが発見されており、イネのプラントオパールの証拠は、スラウェシ島のミナンガ・シパッコ(Minanga Sipakko)遺跡とその近くのカマッシ(Kamassi)遺跡で報告されています。本論文は、インドネシアにおける稲作の起源を解明するため、西スラウェシ州のカラマ川(Karama River)に隣接する沖積段丘に位置するミナンガ・シパッコ遺跡において、初期の土器が出土する層の調査結果を報告します。

 以前の調査では、ミナンガ・シパッコ遺跡の年代は3800年前頃もしくは2500年前頃と推定されていました。ミナンガ・シパッコ遺跡の最古層で発見された土器の破片は赤くて薄く、フィリピンで発見された最古の土器と類似しており、台湾起源と推測されます。そのため、ミナンガ・シパッコ遺跡の土器はインドネシアで最初期の土器と考えられます。本論文は、放射性炭素年代測定法によるミナンガ・シパッコ遺跡の新たな年代を提示しており、3500〜2800年前頃までヒトの連続的な活動を推定します。

 イネの証拠は、調査対象の層全体で見つかり、最も集中していたのは、最古の土器が見つかった層でした。プラントオパール分析からは、調査対象の層の期間ずっと、イネが栽培されていた、と示されます。さらに、最古の土器が発見された層では、籾殻の痕跡が多いことから、籾殻廃棄の最終段階まで、ミナンガ・シパッコ遺跡で脱穀処理が行なわれていた、と推測されます。ミナンガ・シパッコ遺跡では、イネが栽培され、その後の処理工程まで行なわれていた、と考えられます。

 台湾では稲作の豊富な証拠が4800〜4200年前頃までさかのぼりますが、ISEAでは、3000年前頃以前の稲作の痕跡はわすがで、しかも議論のあるものでした。ミナンガ・シパッコ遺跡の新たな調査結果は、インドネシアにおける稲作の最古で確実な年代を提示します。それは最初の土器の出現とほぼ同時で、3562〜3400年前頃となります。インドネシアにおける赤い土器の唐突な出土は、新たな文化伝統の突然の出現を示唆します。台湾では赤く薄い土器は4800〜4200年前頃までさかのぼり、関連する土器伝統はその後、フィリピン北部で4200〜4000年前頃に出現します。次の数世紀にわたり、この考古学的痕跡はフィリピン中央部および南部とインドネシア東部とリモートオセアニア西部諸島に拡大します。具体的には、ミナンガ・シパッコ遺跡の早期土器は、フィリピンと台湾の初期の赤い土器と形態が最もよく似ています。

 より大きな視点では、この土器の広がりは、台湾・フィリピン・インドネシア東部・リモートオセアニア西縁のオーストロネシア語族集団の現代の地理的分布とほぼ一致します。オーストロネシア語は、前近代において世界で最も拡大した語族です。オーストロネシア語の起源地、古代の移民の動機、分散過程の性質については、1世紀にわたって議論されてきました。本論文の知見は、オーストロネシア語の農耕と関連した拡散および台湾起源を支持します。オーストロネシア語族は最終的に、マダガスカル島からイースター島までの広範な地域に拡散しました。本論文の結論は、アジア南東部の古代DNA研究(関連記事)と整合的です。またさらに新しい研究では、台湾と中国福建省の新石器時代個体群のDNAが解析され、オーストロネシア語族集団の祖型集団が中国南部起源である可能性が指摘されており(関連記事)、これも本論文と整合的です。


参考文献:
Deng Z. et al.(2020):Validating earliest rice farming in the Indonesian Archipelago. Scientific Reports, 10, 10984.
https://doi.org/10.1038/s41598-020-67747-3


https://sicambre.at.webry.info/202007/article_10.html

282. 中川隆[-12049] koaQ7Jey 2020年7月25日 12:51:30 : YLHKqgJkDo : bGdCZGx0emtUSkE=[11] 報告
2019-03-07
「シンポジウム 倭人の真実−青谷上寺地遺跡−」の報告
https://tottoriponta.hatenablog.com/entry/43895651

 先週末の3/2(土)、鳥取市のとりぎん文化会館で開催された弥生時代の遺跡に関するシンポジウム「倭人の真実」に参加しました。会場となった小ホールの座席数は全500席、開演前にはそのほとんどが埋まっており、県民の関心の高さを感じました。

 今回のテーマとして取り上げられた上寺地遺跡の詳細については、wikipediaの「青谷上寺地遺跡」などを見てもらえばよいのですが、発掘物の保存状態が極めて良いことから「弥生の宝庫」とも呼ばれているそうです。今回の講演の目玉は、何と言っても、青谷上寺地遺跡で発掘された殺傷痕のある大量の弥生時代の人骨のDNA分析の結果の公開でしょう。弥生人のDNA分析については、今までは九州出土の人骨のみでの分析が行われてきており、九州以外での弥生人集団の骨の分析は青谷上寺地遺跡が初めてとのことです。このシンポジウムでは、「この上寺地遺跡の分析によって今年が弥生時代の『DNA元年』となった」というような表現が目を引きました。

 国立科学博物館の篠田謙一副館長による講演「DNAが語る青谷の弥生人」の概要を以下に紹介します。最近盛んにおこなわれるようになった古代人骨のDNA分析ですが、その分析対象には、母系を示すミトコンドリア、父系を示すY染色体、全遺伝子の交配度合いを示す核ゲノムの三種類があります。分析の難しさもこの順に高くなります。

(1)ミトコンドリア
 昨年11月の時点で既に公表されていますが、この遺跡の人骨から確認された29の母系系統のうち、縄文人固有の母系を示すハプロタイプはM7aの1系統のみであり、残りはすべて弥生時代になってから大陸から渡来した渡来人に固有の母系系統系統であったとのこと。このことから昨年の時点では、「殺傷痕のあるグループの大半は渡来人で構成され、しかもその構成は多様であり、外部から青谷に来て短期的に滞在していた可能性が高い人々」と解釈されていました。

(縄文人のミトコンドリアハプロタイプの中で縄文人固有なタイプとしては、N9bが58%、M7aが25%、D4h2が9%、合計で92%。現代日本人では、縄文人固有のそれはM7aが8%、N9bが2%であり、合計10%。
 対して、上寺地遺跡での縄文人固有のミトコンドリアハプロタイプはM7aのみの3%。確かに、上寺地遺跡では、現代日本人での比率よりもさらに渡来系の比率が多くなっています。 参考:wikipedia「縄文人」)

(2)Y染色体
 父系を表すY染色体のハプロタイプについては、現在4体の分析が終わっているとのこと。そのハプロタイプは、Oが一体、C1a1が2体、Dが1体。このうちC1a1とDタイプは縄文系かつ日本列島に固有なタイプ。Oタイプはその大半が大陸の漢民族に含まれており渡来系とのことです。つまり、少なくとも4体中3体が縄文系ということになり、ミトコンドリアの分析結果とは相反する結果となりました。まだ分析数が少ないので断定的なことは言えませんが、弥生末期になっても縄文的要素が多く残っていた可能性が高くなってきました。

(3)核ゲノム
 人類の各集団間の混合度合いを推定する手法としては、核ゲノムの分析、すなわち全遺伝子の分析以上に優れたツールはありません。この全遺伝子に関する上寺地遺跡の分析結果については、まだ6体分(Y染色体分析分を含む)しか終了していないとのこと。
 今までの分析結果によれば、青谷上寺地遺跡のそれは意外にも現代日本人の全ゲノム分析結果とほぼ重なる範囲にあるとのこと。この結果は、北部九州の弥生人骨の分析結果とほぼ同様だそうです。
(国立遺伝学研究所の斎藤成也教授の著書によると、現代日本人の核ゲノム全遺伝子に占める縄文人由来の遺伝子は、12%から20%の範囲にあるとのこと。)

 弥生時代の始まりはBC1000年頃、青谷上寺地遺跡の集団人骨は二世紀後半、即ちAD100年代後半のものであり、弥生時代の初めから1200年近くの間、大陸から人が次々に渡来し続けていたとすれば、縄文人と渡来人は既に十分に交じり合っていたと考えてもよいのではないかとのことでした。

 シンポジウムの後半では、篠田副館長、「青谷上寺地遺跡をの弥生人をとりまく古環境」の表題で今回講演をされた韓国慶州文化財研究所の安特別研究員、弥生時代を専門とする考古学者である国立歴史民俗博物館の藤尾慎一郎教授の三者によるパネルディスカッションが行われました。その発言の一部を以下に紹介しておきます。

藤尾 「二世紀半ばは降水量の変動が激しく、青谷平野のように水害の影響を受けやすい地域ではコメの収穫量が大きく変動した可能性がある。飢饉の年には集落間で戦争が起こって大量殺戮の原因となったのかもしれない。この時期は魏志倭人伝にある「倭国大乱」の時期にほぼ重なる。
 この遺跡で発見された大量の人骨は、いったん重なり合うように埋められた後で一度掘り返されており、骨が散乱しているのはその結果。掘り返された理由はよくわからない。」

篠田 「今回のDNA分析結果はまだ解析途中であり確定的なことは言えない。また、渡来人のDNAについては、韓国や中国の古人骨のデータがまだ不十分な状態であり、その進捗を待ちたい。
 現在言えることは、青谷上寺地については、少なくとも当時の韓国南部とはかなり重なるDNAを持っていたのではないだろうかということ。またDNAの構成から見て、当時の北九州と青谷上寺地も同じ位置づけにあったと思う。定住ではなく互いに行ったり来たりしていたのが、当時の各地の住民の姿だと思う。」

安 「当時の上寺地遺跡の周辺には平地に杉林が豊富にあり、住民はこの杉を使って水路の護岸や建築物を整備していた。同様の平地の杉林は湖山池周辺、さらに福井の三方湖付近にもみられる。
 韓国には杉の木はないので、渡来民は青谷の杉林を見て驚いたのではないだろうか。上寺地遺跡の周辺からは、トチ、クリ、クルミ、モモ等の実、アワ、キビなどが出土しており、水田以外にも畑や果樹林があったようだ。」

藤尾 「DNAから見ると、上寺地遺跡は閉鎖的な集落ではなくて、各地との交易の拠点であったと思われる。鉄器、木製品が豊富に出土することもそれを裏付けている。韓国南海岸の勒島(ヌクト)遺跡からは、上寺地とそっくり同じものがいくつも出ている。
 二世紀の後半は、それまでの銅鐸や銅矛などの青銅器を対象とする祭りから、卑弥呼を主とするヤマト王権への祭祀への過渡期。淀江妻木晩田遺跡も二世紀後半が最盛期。これら他の集落との関係が当時どうであったのか、大量殺戮に他の集落が関わっていたのかどうか、大変興味深い。」

 以上で今回のシンポジウムは終了。

 なお、パネルディスカッションのコーディネーターを務めたのは、県埋蔵文化財センターの濱田竜彦係長。各発言者への話題の割り振りは適切、かつ全体の議論の進行管理もスムーズに感じました。事前の調整があらかじめあったのでしょうが、その働きは高く評価されてよいと思いました。

 参考までに、弥生末期当時の青谷平野の想像図を下に示しておきます。現在の青谷平野の状況と見比べてみてください。

・弥生時代の南側から見た青谷平野(想像図)
イメージ 1

・現在の青谷平野
イメージ 2


 上寺地遺跡は、日本海側に多数ある潟湖を利用した交易を主とする集落であり、このような地形を利用した弥生時代の集落は、県内には淀江、東郷池周辺、湖山池周辺等、数多くあります。これらの集落相互の関係はどうだったのか、交易の主導権をめぐって互いに争うことはなかったのかが気になるところです。

 上の想像図は、安研究員が大学院生として日本に留学されていた当時、同女史が青谷で発掘した花粉の分析結果から推定した植生をもとにして書かれたものです。日本に留学していただけあって、安さんは流ちょうな日本語で講演されていました。

 また、今回の分析結果で注目されるのは、この遺跡に限定したことではなく日本全国での傾向として言えることですが、渡来人系も縄文人系も、母系と父系での比率の大小の違いはありますが、ともにかなりの比率を維持しつつ交じり合っていることです。

 ある人類集団に対して別の集団が暴力的に侵略した場合には、その結果として、父系には侵略者側の、母系には被侵略者側のDNA比率が高くなることが一般的であると言われています。中南米地域はその典型例であり、スペイン人を主とする侵略者側は男性がほとんどであり、侵略後は現地のインディオ女性を妻とし、インディオ男性は殺すか奴隷として酷使しました。まだ詳しいデータを見つけてはいませんが、そのような侵略の結果として、現在の中南米の混血系住民の大半の遺伝子では、父系はスペイン系、母系はインディオ系になっているものと思われます。

 13世紀に東アジアから東欧にかけてユーラシア大陸の大半を武力で征服したあのジンギスカンと同じタイプのY染色体をもつ男性が、一説によれば、今日の世界には千数百万人はいる(真偽のほどは不明)と言われているのも、別の例にほかなりません。

 現在の日本人で、父系母系ともに縄文系と渡来系の遺伝子比率で大きな差がないという事実は、大陸からの渡来が暴力的ではなく平和裏に行われたこと、男性集団のみの渡来ではなくて家族を伴ってこの列島へ渡来してきたことを示しているものと考えられます。弥生末期には集落間の抗争がかなり発生したとはいうものの、約三千年前から二千年くらい前までは、我々のご先祖様の片割れである縄文人が、同じくご先祖様のもう一方の片割れである渡来人をおおむね平和裏に受け入れていたという事実は、今後の日本社会の在り方に対して示唆するところが多いように感じました。

 なお、筆者の母親の里は、この上寺地遺跡のすぐそばにある小集落。約二千年近くも昔の話ということもあり、今までは、この遺跡に住んでいた人たちは自分とはあまり関係のない人たちだろうと思っていました。しかし、今回、DNAが現代の我々とほとんど変わらないという事実を聞いて、なぜか急に身近に感じるようになりました。あの大量殺戮された人たちの中には、ひょっとしたら、私自身のご先祖様、あるいはその御家族が含まれているかも知れませんからね!

 最後に、青谷の話題ついでに、当日配布されたパンフの末尾に載っていたコラム二編のタイトルを紹介しておきましょう。著作権の関係があり、ここで全文を載せることは出来ませんが、県の埋蔵文化財センターに問い合わせればパンフ入手は可能なのではないでしょうか。保障はできませんが・・・。

「青谷人の気質」
 最近批判されることの多い、因幡地域固有の『煮えたら食わぁ』精神の擁護論です。今どき珍しい内容。

「青谷の子どもは、ええ子だで」 
 読んでホッコリしました。子供たちへの筆者の視線の温かみを感じました。

https://tottoriponta.hatenablog.com/entry/43895651

283. 中川隆[-11976] koaQ7Jey 2020年8月01日 14:44:20 : gXX2MKPhiY : dVYxWTg3bzVOQWc=[8] 報告
土井ヶ浜弥生人 最終更新: 2019年03月30日
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD

形質は北方新モンゴロイド。

弥生時代の北部九州・山口に分布していた弥生人。頭蓋骨の形質的に純粋な大陸系渡来人だと見られていたが
最新の核ゲノム解析により、少なくとも北部九州弥生人は実は縄文人の遺伝子を受け継いでいることが判明し*1、その割合は東京周辺の現代日本人と同じ1〜2割程度である。

縄文人に近い形質を持つ西北九州弥生人と互いに混血していたようである。
また朝鮮半島南部に進出していた縄文人との混血を経た渡来系弥生人の集団だった可能性もある。
また土井ヶ浜弥生人の居住地域からも西北九州弥生人型の頭蓋骨が発見されており*2、
弥生時代初期段階の縄文系弥生人社会と土井ヶ浜弥生人社会は対立関係になかったと考えられる。

水稲稲作や鉄器を日本に最初にもたらした集団だと考えられている。

核ゲノム解析の結果、現代大和民族のほとんどはこの土井ヶ浜・北部九州弥生人の遺伝子に近いクラスタに属していると判明した。
便宜上、この項目では北部九州弥生人も土井ヶ浜弥生人としているが、厳密には北部九州と土井ヶ浜では微妙に違いがある。
現代日本人の頭蓋骨は土井ヶ浜弥生人より北部九州弥生に近い。
形質
頭型は基本的には短頭(頭の前後が短い)だが中頭も多い。
高顔でのっぺりとした起伏のない顔立ち。
胴長短足で顔が大きく寒冷地適応をしていた。
歯が大きく、噛み合わせは鋏状咬合。
縄文人に比べると比較的身長が高く男で165cm程度。
酒に弱い(ALDH2不活性型・失活型)。
体毛が薄く、髭がほとんど生えない。
髪は直毛。
華奢で骨細な体格。体格に関しては縄文でも北方黄色人種でもないようだ。
唇は薄い。口は小さい。
目は切れ長で小さい。
風習的抜歯を行うなど縄文人の文化風俗も取り入れていたようだ。
ギャラリー

土井ヶ浜弥生人の復元図。
*1 : 安徳台遺跡
*2 : 土井ヶ浜・701号人骨
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD

284. 中川隆[-11968] koaQ7Jey 2020年8月03日 09:18:23 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[4] 報告
朝鮮の無文土器時代
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

朝鮮の無文土器時代の開始は朝鮮における水稲作の開始時期とほぼ一致する。このことから、朝鮮に長江文明由来の水稲作をもたらした人々が、無文土器文化の担い手であった可能性が考えられる。

崎谷満はY染色体ハプログループO1b(O1b1/O1b2)系統が長江文明の担い手だとしており、長江文明の衰退に伴い、O1b1および一部のO1b2は南下し、百越と呼ばれ、残りのO1b2は西方及び北方へと渡り、山東半島、朝鮮半島、日本列島へ渡ったとしている[1] 。

このことから、朝鮮に無文土器文化をもたらした人々はO1b2系統に属していたことが考えられる[1]。O1b2系統は現在の朝鮮民族に20〜40%ほど観察されている[2][3]。

言語系統

朝鮮半島における無文土器文化の担い手は現代日本語の祖先となる日本語族に属する言語を話していたという説が複数の学者から提唱されている。[4][5][6][7][8]

これらの説によれば現代の朝鮮語の祖先となる 朝鮮語族に属する言語は古代満州南部から朝鮮半島北部にわたる地域で確立され、その後この朝鮮語族の集団は北方から南方へ拡大し、朝鮮半島中部から南部に存在していた日本語族の集団に置き換わっていったとしている。またこの過程で南方へ追いやられる形となった日本語族話者の集団が弥生人の祖であるとされる。

この朝鮮語族話者の拡大及び日本語族話者の置き換えが起きた時期については諸説ある。ジョン・ホイットマンや宮本一夫らは満州から朝鮮半島南部に移住した日本語族話者が無文土器時代の末まで存続し、琵琶形銅剣の使用に代表される朝鮮半島青銅器時代に朝鮮語話者に置き換わったとしている。[7][9] 一方でAlexander Vovinは朝鮮半島の三国時代において高句麗から朝鮮語族話者が南下し、百済・新羅・加耶などの国家を設立するまで朝鮮半島南部では日本語族話者が存在していたとする。[5]

無文土器時代(むもんどきじだい)は、朝鮮半島の考古学的な時代区分である。紀元前1500年から300年頃に及ぶ。この時代の典型的な土器が、表面に模様を持たない様式(無文土器)であることから命名された。

農耕が始まるとともに、社会に階級が生じた時代であり、箕子朝鮮、衛氏朝鮮と重なる。朝鮮半島北中部と南部の間では住居や墓制に違いが見られる。時代的には日本の弥生時代と重なり、南部はこれから影響を受けた可能性もある。特に北部九州と朝鮮半島南部には共通の文化要素が見られる。

かつては朝鮮半島における青銅器時代と呼ばれたが、青銅器が出現したのは紀元前8世紀であり、普及したのは末期であるから正確ではない。

葬制としては巨大な支石墓が特徴的であるが、南部では急激に様式が切り替わる、石槨墓や甕棺墓が見出されている。


無文土器時代は櫛目文土器時代に続く時代である。

紀元前2000年から1500年頃、北方の遼河流域から北朝鮮にかけての夏家店下層文化では、支石墓、無文土器や大規模な住居が出現している。

前期

前期は紀元前1500年から850年頃とされる。農耕のほか、漁労、狩猟、採集が行われた。農耕にはまだ石器が用いられた。大型の長方形の竪穴住居からなる集落が営まれた。住居には竈が複数ある場合もあり、多世帯が同居していたと思われる。 後半には集落が大規模化し、集落ごとに有力者が生まれたと見られる。紀元前900年頃を過ぎると小型の住居が普通になり、竈ではなく、中央に囲炉裏のような炉が掘られた。

支石墓、副葬品の朱塗り土器、石剣など無文土器時代を通して続く宗教・葬制上の特徴はこの時代に生まれた。


中期

中期は紀元前850年から550年頃とされる。農業の規模が大きくなり、社会の階級と争いが生じたと考えられる。南部では水田が作られたとする仮説もあるが、陸稲と水稲が雑交している点や水田と確定出来るだけの要素が未だに発見されていない為、定説とはなっていない。 数百軒からなる大規模な集落が出現した。また青銅器が出現し、工芸品の生産や支配者による分配も行われるようになった。

中期無文土器文化は、中部の遺跡名から松菊里文化( ソングンニ)とも呼ばれ、中部で主に発展した。南部へ行くほど異なった要素が増える。

中期後半(紀元前700-550年頃)には青銅器が副葬品として現れた。青銅器は中国東北部に由来すると思われるが、この時期には朝鮮半島中部でも製作が始まっていた。

中期無文土器時代後半の墓には特に大規模なものがある。南岸部は北中部と様式を異にし、多数の支石墓が造られた。一部からは青銅器、翡翠、石剣、朱塗り土器などの副葬品が見出されている。

無文土器文化は農耕文化の始まりであるが、無文土器文化時代を通じて陸稲作はあったものの主要な作物ではなかった。現在までに渤海北部沿岸では当時の水田遺構が見出されていないことから、水田稲作がこの時代に伝わっていたとしても大陸沿いでなく黄海を越えてもたらされた可能性が大きい(日本の水田稲作とは伝播経路が異なる)。北部では大麦・小麦・雑穀などが栽培された。

後期
後期は紀元前550年から300年頃とされる。環濠集落や高地性集落が増え、争いが激しくなったことを示している。特に丘陵地や河川沿いに人口が集中している。集落数は前の時代より減っており、少数の集落への集住が進んだと考えられる。

弥生文化の開始が無文土器文化に影響を与えた可能性もある。特に北部九州では無文土器、支石墓や甕棺墓など、朝鮮半島南部の文化と直接結び付けられる要素が多数見つかっている。これは無文土器時代前期に当たると考えられる。

無文土器時代の終末期には鉄器が出現する。これより後の鉄器時代になると、住居には北方から大陸沿いに伝わったオンドル用の炉(ko:아궁이)が現れる。また中期に北方から伝わった琵琶形銅剣(遼寧式銅剣)の影響の下に細形銅剣(ko:세형동검)が作られ始めた。

終末

普通、無文土器時代の終末は鉄器の出現に置かれるが、土器様式の連続性を重視して紀元前後までを含める説もある。しかし、紀元前300年頃から青銅器が広範囲に普及する。鉄器もこの時期を境に、朝鮮半島南部へも普及していく。このような技術・社会の変化を重視するならば、無文土器時代をこの時期までとするのが適切である。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%84%A1%E6%96%87%E5%9C%9F%E5%99%A8%E6%99%82%E4%BB%A3

285. 2020年8月03日 12:38:37 : eW7LEVJZWc : Q2xaVjcwU2F6SWc=[9] 報告
Japan considered from the hypothesis of farmer/ language spread
https://www.academia.edu/43005029/Japan_considered_from_the_hypothesis_of_farmer_language_spread?email_work_card=title

北九州玄界湾地域への稲作の導入(図1)周りから紀元前1000年は弥生時代の始まりです。
ウェットライス技術はムムンによって導入されました(「素焼き(訳者注:Mumun、無紋)」)朝鮮半島南部からの比較的早い時期の文化移民。
紀元前1000年半島のムムン時代(紀元前1500年から300年)。
これらの移民は弥生ではなく、ムムンでした。

286. 2020年8月04日 16:03:15 : zUMIt4eO2o : UTNkMHU1bDZXVVU=[5] 報告
3.弥生時代の世界情勢

朝鮮半島

弥生時代は、朝鮮半島の無文土器時代(青銅器時代〜初期鉄器時代)から原三国時代に相当します。朝鮮半島では紀元前1500年頃中国大陸より農耕が伝わり、紀元前700年頃には青銅器が、弥生時代が始まる紀元前300年頃には鉄器が伝わり普及しました。後期の無文土器は日本列島でも北部九州地方をはじめとする弥生時代の遺跡から数多く出土しており、弥生時代の稲作農耕や金属文化の流入に朝鮮半島からの人々が関わったことを示唆しています。 吉野ヶ里遺跡でも、朝鮮系の無文土器が多数出土しています。

図:無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

無文土器時代の後期(初期鉄器時代)から原三国時代

写真:朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)
http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

朝鮮系の無文土器(佐賀県吉野ヶ里遺跡出土)

鉄器の普及、特に鉄製農具の普及は生産力を増大させ、やがて半島内に幾つかの部族国家が並立するようになりました。弥生時代後期末の日本列島の様子も記述されている魏書東夷伝には、この頃、朝鮮半島に次のような部族国家があったことが記されています。

・高句麗(現 中国遼寧省・吉林省・北朝鮮北部)
・東沃沮(現 北朝鮮咸鏡北道一帯)
・(朝鮮半島中東部)
・馬韓・辰韓・弁韓(朝鮮半島南部)

これらのうち、朝鮮半島南部の辰韓は鉄を産出し、倭人も鉄を求めて辰韓と交易していことが描かれています。この時代の朝鮮半島の状況は弥生時代の日本列島を考える上で中国大陸と同様、非常に重要です。

http://www.yoshinogari.jp/ym/episode01/jyousei03.html

287. 2020年8月05日 09:09:44 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[6] 報告
水稲農耕と突帯文土器 藤尾慎一郎
https://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/kenkyuusya/fujio/suitonoko/noko.html


T はじめに

U 突帯文土器の学史的研究

V 基礎的事実の確認

W 突帯文土器編年

X 各地の突帯文土器

Y 突帯文土器の地域色

Z 水稲農耕と突帯文土器

[ おわりに

参考文献


 T はじめに

 一.突帯文土器はどのような土器か

 突帯文土器とは、直口縁をもつ煮沸用土器の口縁部や胴部に突帯を貼り付けてめぐらせる文様を主文様とする土器である。突帯には刻目を施すことが多いが、時期と地域によってさまざまなあり方をみせる。刻目を施さない突帯(無刻突帯文)や刻目を施した突帯(刻目突帯文)などの単位文様は、縄文・弥生時代に普遍的な文様であるが、貼り付け突帯がこの時期の主文様となることに「突帯文土器」という名称の由来がある。無刻突帯文や刻目突帯文は壺や粗製の鉢などの他の器種にも単位文様としてさかんに用いられるので、突帯文土器とは煮沸用土器に主文様としての突帯を貼り付けた土器と言い替えることもできよう。筆者はこれまで西部九州の弥生時代早期から前期末までの時間幅に限定して刻目突帯文土器という名称を用いてきた(1)。それはこの地域の突帯文土器が刻目突帯文を主文様とする土器と特徴づけることができたからである。しかし本稿は近畿以西の突帯文土器を対象とするので、突帯上に刻目を施すかどうかが問題になる場合もある。そこで突帯文を主文様とする煮沸用土器を突帯文土器と呼び、突帯文土器の中に刻目の有無で区別できる無刻突帯文土器と刻目突帯文土器が含まれると定義する(表1)。


表1 突帯文土器の定義

突帯文土器 …主文様としての突帯を口縁部や胴部に貼り付けた煮沸用土器
無刻突帯文土器 …突帯に刻目を施文していない突帯文土器
刻目突帯文土器 …突帯に刻目を施文する突帯文土器


 突帯文土器を煮沸用土器にもつ土器のセットが突帯文土器様式である。この様式は現在までのところ水稲農耕に伴う最古の土器様式で、貯蔵用の壺、盛りつけ用の高坏などの新しく出現する器種と、浅鉢や鉢などの縄文時代からある器種からなる。しかし一部の地域や時期によっては縄文時代からの器種だけで様式を構成する例もあって器種構成は一様でない。同じ様式であるにもかかわらず器種構成が異なるのは、水稲農耕を生業とするかどうかが大きくかかわっているからである。
 突帯文土器様式の時期は、弥生時代早期が中心だが、なかには弥生時代前期末まで存続する地域もある。本様式が分布するのは、愛知や滋賀を東限とし、長崎を西限、鹿児島を南限とする地域である(2)。広い範囲にわたって分布するため地域色が強く、広域的に斉一性をもつ浅鉢とは対照的である(図1)。

図1 突帯文土器様式の主要遺跡と分布


 本稿では、近畿以西の突帯文土器を中心にあつかう。尾張や三河などの伊勢湾沿岸の突帯文土器も近畿と同時に成立するが、後述するように突帯文土器様式の甕組成が近畿以西より早く崩壊し、主文様としての突帯文は単位文様に転落して、しかも壺形土器の口縁部の単位文様へと転換してしまう。弥生時代早期の全期間にわたって、突帯文を主文様とする煮沸用土器を器種構成のなかにもつ近畿以西の地域とは明らかに異なる様相をもつ地域である。このような理由から伊勢湾沿岸地域をはずし、近畿以西の弥生時代早期から前期末までの突帯文土器様式と突帯文土器を対象とする。
 U章とV章では、学史を含めた突帯文土器様式の基本的な事実関係を確認したうえで、西日本各地の突帯文土器様式を概観する。地域間の併行関係についてはW章で確認したい。
 X章では、各地の突帯文土器様式や突帯文土器の問題点を検討する。
 Y章では、突帯文土器、突帯文土器様式にみられる地域性を検討して、突帯文土器様式圏内の地域的様式差、地域的小様式圏の識別を試みる。
 Z章では、水稲農耕の開始にあたって突帯文土器の組成に反映された受容形態の差を通して西日本における初期弥生文化の特質について考える。

 U 突帯文土器の学史的研究

 一.編年的位置が確定するまで

 突帯文土器の存在は1920年代から知られていたが、〔大山,1923:23〕・〔後藤,1923:44〕、当時はまだ晩期すら縄文土器の編年の中に設定されていなかった時代で、資料紹介の域にとどまっている。1930年代になると、山内清男は亀ヶ岡式土器が分布しない西日本にも亀ヶ岡式土器に併行する縄文土器が存在することをまず指摘する〔山内,1930〕。さらに山内が1937年に晩期の概念規定をおこなって〔山内,1937〕、突帯文土器を取り巻く環境はようやく固まったのである。
 突帯文土器にはじめて調査のメスがはいったのは、岡山県笠岡市黒土遺跡の調査である。この調査によって山内は突帯文土器の時間的位置づけに見通しをえて、「突帯文土器」という名称をはじめて用いるとともに、弥生式土器の古いところまで残存することを指摘し弥生土器との関係にも注目している(3)。
 突帯文土器と弥生土器との関係について、小林行雄や杉原荘介は福岡県立屋敷遺跡で出土した遠賀川式土器のなかに混じっていることに早くから注目していて〔小林ほか,1938〕・〔杉原,1950〕、遠賀川式土器と年代的に併行すると説く研究もあった。しかし肝心の晩期に属す突帯文土器の型式内容が不明なままであったので、弥生土器との関係の部分だけが先行して研究が進む。北部九州では、最古の弥生土器をみつける手段の一つとして突帯文土器が注目され、突帯文土器と混じって出土する遠賀川式土器の分布が大きな関心となっていたのである。
 山内は、1951年に縄文時代晩期の突帯文土器である黒土BU式を設定するが、内容は不明のままで突帯文土器の型式内容がはじめて明らかになるのは愛知県吉胡貝塚の報告中であった。その内容は、「口外側に點列ある隆帯を有する口縁は単純なものもあるが、外側に隆線を有しその上に刻目文又はハイガイ腹縁の刻目あるものが目立つ」〔山内,1952:22〕というもので、口縁部に刻目突帯をもつ土器の姿が浮かんでくる。山内はこれらの土器群を西日本縄文晩期の新相に位置づけ、三河・遠江以西の地域に多少の差異を認めつつも一連のものが分布するという見解を示したのである。ここに晩期土器としての突帯文土器は時間的・地域的に位置づけられる。


 二.時間的位置づけの変化−縄文時代から弥生時代の土器ヘ−

 亀ヶ岡式土器分布圏にも地理的に近く大洞式も単独で出土する近畿では、遺跡からの出土状況をもとに大洞式との併行関係をにらんだ突帯文土器の型式学的研究が縄文時代の研究者によって進められる。一方、亀ヶ岡式土器分布圏から遠くはなれた九州では、遠賀川式土器と突帯文土器が一緒に出土することに弥生時代研究者の注目が集まり、縄文時代と弥生時代をつなぐ接点の土器として注目されたので、弥生時代の起源を探る研究の中で突帯文土器が研究されることになった。ここに近畿や瀬戸内と九州の間の突帯文土器に対する取り組み方におのずと違いが生じたのである。

 1 縄文土器編年のなかで−近畿−

 近畿で最も古く突帯文土器を注目したのは、「刻目凸帯文土器」と呼称し近畿の縄文土器のなかでも新しい様式に属すと考えた小林行雄である〔小林,1943a:92〕。唐古遺跡から出土した突帯土器は口縁部と胴部に刻目突帯をもつ二条甕に相当する。近畿の突帯文土器は当初、橿原式の一部に位置づけられ〔佐原,1961〕、今でいう二条甕や一条甕、壺というセットがはじめて捉えられた。しかし、橿原式はその後、黒色磨研土器に相当するものとして、突帯文土器より古く位置づけられたので、突帯文土器はふたたび晩期土器編年における位置づけが必要とされる。船橋式はこのような状況の中で設定されるのである〔岡田,1965〕。船橋式は橿原式の精製土器を伴わない点や、第T様式の弥生土器の底部と形態が似ている点から橿原式以降に位置づけられ、弥生土器に時期的に近い土器として理解された。
 晩期土器編年上に位置づけられた突帯文土器の研究は、突帯文土器自身の変化に研究者の目が向けられ第2段階にはいる。外山和夫は、橿原式の黒色磨研土器から突帯文土器が成立する過程を刻目を施さない一条の突帯文土器から、刻目をもつ一条甕をへて、二条甕へといたる変化で説明した〔外山,1967〕。外山が示した変遷過程は、滋賀里遺跡の調査でその正しさが証明される〔加藤ほか,1972〕。滋賀里遺跡の層位にもとづいた晩期土器編年は、突帯文土器を二つに分けている。橿原式の一部にあてられた滋賀里W式は外山の一条甕の段階に、船橋式にあてられた滋賀里X式は外山の二条甕の段階に相当する。
 大まかに段階設定された近畿の突帯文土器は、深鉢や浅鉢を中心にした型式学的な検討の段階にはいる。近畿突帯文土器研究の第3段階である。和歌山県瀬戸遺跡の突帯文土器を検討した中村友博は、深鉢の刻目と口縁部突帯の貼り付け位置との相関性に注目する〔中村,1977〕。突帯文土器の属性分析はここに始まり、家根祥多に受け継がれる。家根は近畿から九州にかけての西日本を対象に、突帯文土器の成立と展開について論じた〔家根,1981・1984〕。家根が注目した深鉢の属性は、器形、口縁部突帯の貼り付け位置、突帯の断面形態、口縁端部形態、刻目の施文法である。これら5つの属性間の相関度をはかることによって、深鉢の変遷を口縁端部の整形と突帯の貼り付け、刻目の施文をいかに効率よく進めるかという製作工程上で捉え、滋賀里W式、船橋式、長原式へと手抜きの方向に進むと説明した。これ以後は各地に根ざした地域色研究に向かうとともに水稲農耕の伝播を意識した研究が進む。近畿突帯文土器研究の第4段階である。
 それまでの突帯文土器研究が、縄文社会の発展を背景とした縄文土器研究の一環として進んできたのに対し、兵庫県口酒井遺跡の調査は突帯文土器研究に大きな影響を与える。水稲農耕がおこなわれていたことを裏付ける証拠を多く出土した口酒井遺跡の突帯文土器を扱った研究が次々に発表される。南博は、甕の器形を重視して系譜を異にする甕の型式組列の復原を目指すとともに、胎土に注目して摂津産と非摂津産の区別をおこない地域によって器種構成が異なることを指摘し、あわせて突帯や口縁部形態をもとに地域色の抽出を試みた〔南,1988〕。浅岡俊夫は一条甕と二条甕の比率の変化を指標に口酒井遺跡出土の突帯文土器を3つに分けている〔浅岡,1988〕。
 基準資料が出そろったところで近畿突帯文土器編年の総括がおこなわれる。泉拓良は晩期を中心に長原式までの突帯文土器様式を対象に、浅鉢の形態変化から3つに大別した〔泉・山崎,1989〕。T期は西日本磨研土器様式の浅鉢の特徴を残し、一条甕単純の段階、U期は逆「く」の字口縁浅鉢で九州系の甕と壺が新しく出現する段階、V期は浅鉢がすでに消滅し皿状浅鉢が主になり、もはや縄文的な浅鉢の形式内構成比が崩壊した段階である。またU期は波状口縁方形浅鉢の違いから二つに細別される。南は、遠賀川式土器と共伴する突帯文土器を中心に、長原式以前の突帯文土器を3つに細分している〔南,1989〕。その方法は浅鉢の組成変化と突帯文土器の型式変化、共伴する遠賀川式土器に注目したもので、大阪湾沿岸地域の漸移的な変化を捉えた。しかし南も述べているように、甕の型式変化は広域編年では使えず、むしろ地域性を抽出する場合に有効との結論に達している点は興味深い。
 また、従来は伊勢湾沿岸地域に含まれ尾張や三河と同じうごきをもつ地域と考えられてきた伊勢地域の突帯文土器編年が発表された〔鈴木,1990〕。資料的にはまだ断片的であるが、早期における二条甕の存在は、伊勢地域が近畿地方と同じ甕組成をもち、いわゆる伊勢湾沿岸地域とは地域差をもつことを明らかにし、前期にいたっても突帯文土器が継続し遠賀川式土器と接触することで弥生化していく状況は、条痕文様式になる尾張や三河地域とは一線を画し、むしろ近畿に近い内容をもっている。早期から前期までを対象に突帯文土器を扱い、水稲農耕伝播の問題を強く念頭において編年を論じる姿勢は評価されよう。

 2 瀬戸内

 日本で初めて突帯文土器の型式として設定された黒土BU式の実態は、長いあいだ明らかにされなかった。坪井清足が明確にした黒土BU式は、器種構成や甕組成、器形、刻目に豊富な内容をもっており細分の可能性も示唆されている〔坪井,1956〕。1950年代の突帯文土器研究は黒土BU式に関する限られた情報をたよりに進められるが〔鎌木・木村,1956〕・〔鎌木・江坂,1958〕、資料不足の観はまぬがれず、黒土BU式が未報告であった影響は計り知れなかった。
 そのような中でも、このような状況を打開しようと、広島県帝釈峡遺跡群の突帯文土器に注目し、黒土BU式の細分をおこなった外山や〔外山,1964〕、瀬戸内全体を視野にいれて旧国別に地域性の抽出を目指した春成秀爾〔春成,1969〕の研究は、当時の制約された状況のもとで時間的・地理的な位置づけに一定の到達点に達していたことになる。
 1980年代になってようやく、この地方の突帯文土器研究に転機がおとずれる。1981年調査の岡山県百間川沢田遺跡である。近畿地方における口酒井遺跡と同様に、突帯文土器と水稲農耕を結び付けるきっかけになったのである。調査者の岡田博は、沢田遺跡の突帯文土器を「沢田式土器」と名づけ、黒土BU式(前池式)に後続し、弥生土器に先行するものとして位置づけた〔岡田,1985〕。これ以後、瀬戸内でも水稲農耕との関係を意識した突帯文土器研究が始まる。
 網本善光は、一条甕から二条甕への変化をもとに黒土BU式を細分しようとしたが、器形がよくわかる資料に恵まれなかったこともあって、実際には口縁端部の刻目文の有無を黒土BU式細分の指標とした〔網本,1985〕。平井勝は器形と文様の相関を定量的に捉え、南方前池遺跡、広江・浜遺跡、沢田遺跡などの突帯文土器を使って23種の深鉢土器文様類型を設定、さらに遺跡毎に文様類型のヒストグラムを作り、瀬戸内の突帯文土器を3群に大別している〔平井,1988〕。

 3 弥生土器との関連の中で−九州−

 詳細は拙稿に譲るが〔藤尾,1990a〕、西日本では唯一、突帯文土器研究が弥生時代の研究者を主体におこなわれ、さらに弥生時代と縄文時代の接点の土器として位置づけられたため、水稲農耕の証拠を求めて古い突帯文土器を求めて遡っていくという方法がとられた。その結果、九州の突帯文土器は弥生土器と共伴する夜臼式と、共伴しない山ノ寺式という二つの土器の型式学的な検討を十分におこなわないまま時間差として細分されてしまったのである。遠賀川式土器と共伴しない夜臼式の存在が、1964年の宇木汲田遺跡の調査で知られていたにもかかわらず認知されなかったのは、夜臼式単純の実態がもう一つ不明であったことが原因だが、板付遺跡の縄文水田の発見によってその内容は明らかになる〔山崎,1979〕。九州の突帯文土器研究はここに型式学的な検討にはいる〔中島,1982〕・〔橋口,1985〕。
 しかし、設定されてから30年以上たっているのに山ノ寺式の型式内容が明らかにされず、それにもまして型式内容が不明な山ノ寺式をあくまでも使用していこうという一部の研究者の存在も、九州の突帯文土器研究を混乱させる原因となった。いずれにしても遠賀川式土器と共伴しない突帯文土器が九州でも発見されたことは、突帯文土器の時間的位置づけを大きく変更することになる。遠賀川式土器と共伴しない突帯文土器の段階に明らかとなった水稲農耕の内容は、玄界灘沿岸に関しては弥生時代前期以降の水稲農耕の実態と比べてなんの遜色も認められず、森貞次郎が弥生文化の指標とした定型化した弥生土器をはじめとして、すべての要素はすでに出現していることが明らかになったのである。このような状況をうけて水稲農耕が始まった段階から弥生時代として認定しようとする動きが活発化し、それとともに縄文時代晩期の土器であった突帯文土器も、弥生時代の土器型式としてその時間的位置づけが変更されることになる。水稲農耕という生業形態の変化と直接に結び付いてその属する時代を大きく変更することになった九州の突帯文土器研究の特色はまさにここにある。晩期の指標である亀ヶ岡式土器に併行する突帯文土器が、社会の変化によってその属する時代を変更させられたことは社会が土器を規定するという考古学の定義にはまる好例といえよう。

 三.弥生時代前期の突帯文土器

 1 近畿・瀬戸内

 近畿の前期突帯文土器ははじめ近畿の中心部から遠く離れた周辺部における縄文土器の残存現象と考えられたこともあって、遠賀川式土器に混在して突帯文土器が出土したという報告は戦前からあったものの注目されず、本格的な研究がはじまったのは、和歌山県太田黒田遺跡の調査以降である〔森・白石,1968〕。同遺跡のSKO1土坑で第T様式中段階の遠賀川式土器と突帯文土器との共伴が確認され、船橋式の後続型式として前期突帯文土器としての太田型甕が設定される。中段階と船橋式の後続型式が共伴することは、古段階と船橋式が共伴することを意味していたので、近畿における弥生文化成立期の突帯文人と遠賀川人との関係についても大きな可能性を残すこととなった(4)。太田型甕は、形態や整形技法の共通性から同じ系統の土器と理解され、胎土中に占める砂粒の量が船橋式に比べて多く肩の張りも鈍化している点から、船橋式より後出すると考えられた。この前期突帯文土器は「太田甕」と命名される。太田甕は後に「紀伊型甕」と再定義される〔佐原・井藤,1970〕。しかし、太田黒田遺跡が和歌山県の紀ノ川流域の遺跡であったことや、近畿の中心部では太田型甕が見つからなかったこと、そしてなによりも研究の主眼が第U様式の紀伊型甕に移ったことで、畿内周辺部には縄文系の深鉢が残存するという理解が定着することになった。紀伊型甕は当時急速に高まってきた第U様式の地域色研究の中で、大和型甕や播磨型甕、近江型甕、和泉型甕などとともに弥生土器研究者によって実態が明らかにされていく。
 近畿中心部で前期突帯文土器が注目を集めるようになるのは、河内の長原遺跡が調査されてからである〔大阪市化財協会,1982〕。長原遺跡から出土した突帯文土器は船橋式に後続する突帯文土器で、第T様式古段階と中段階の弥生土器と共伴することから太田型甕と同じく前期突帯文土器が近畿の中心部にも存在することが明らかになったのである。また和歌山には太田型甕とは別に、県南の日高川流域から田辺湾周辺にかけて「瀬戸タイプ」と呼ばれる前期突帯文土器が、長原式併行からやや新しい時期にかけて存在することが明らかにされている〔中村,1984〕。
 長原式の存在は、河内に遠賀川式土器を使用する集団と突帯文土器を使用する集団が共存したことを意味する。この解釈をめぐってさまざまな説が提出された〔石野,1973〕・〔中井,1975〕・〔寺沢,1979〕・〔森岡,1984〕・〔春成,1990〕。春成は、「すでに水田稲作をおこなっている地域に、遠賀川式土器をもち技術も思想も縄文人とは一線を画す異系統の稲作集団が浸入してきた」と述べ、早期に水稲農耕をはじめた突帯文人と遠賀川人との関係で理解する。森岡秀人は、「第T様式古段階と船橋人が接触をはじめ積極的な交流を通じて稲作民へと急速に変貌していく」とし、非稲作民である船橋式を使っていた集団と遠賀川人との関係で捉える(5)。したがって、近畿には遠賀川式土器を使用する集団と突帯文土器を使用する二つの集団が同じ地域に居住していた河内などの中心部と、突帯文土器を使用する集団が圧倒的に多くを占める和歌山以南の地域があったと言えよう。
 最後に、第U様式以降の縄文系甕と認識されている土器についてふれておく。近畿では第U様式における地域型甕の研究が盛んであるが、これらの甕の出自をめぐって遠賀川式土器に系譜を求めるか、突帯文土器に求めるか大きく議論がわかれている。第U様式の地域型甕が成立するにあたって、前期突帯文土器を使っていた集団が重要な役割を果たしていたのは確実で、たとえば大和型甕が遠賀川式土器の如意状口縁甕からまっすぐに成立したとは考えられず、寺沢薫が示したように遠賀川式土器と突帯文土器との融合によって成立したと考えることができるし〔寺沢,1979〕、「近畿的な成立をたどった弥生系の甕」〔松本,1984:148〕とも考えられ、その出自をめぐっては多くの解釈が可能である。弥生時代中期の土器様式は、斉一性が強かった遠賀川式土器と歴史的伝統が強い各地の個性あふれる土器が融合することで成立したもので、前期に水稲農耕をもたらした移住者集団と在来者集団との接触・交流の結果である。これは九州や瀬戸内でも生じた現象である。そのような意味において、中期の地域型甕の成立は、遠賀川式土器や突帯文土器の片方のみを強調するだけでは理解てきないものであり、両者の協調こそが中期社会成立の原動力だったのである。
 瀬戸内には、逆L字口縁をもつ通称「瀬戸内甕」がある。この甕に縄文的色彩が強く残存していることは20年近くも前から指摘されているが〔今里,1971〕、早期突帯文土器からの型式組列の復原までは至っていない。

 2 九 州

 九州の前期突帯文土器は、板付遺跡の調査によって本格的に注目される。もともと夜臼式と板付T式の共伴は夜臼式が前期に属する突帯文土器であることを意味するが、共伴したのは早期の突帯文土器である。しかしこれ以外に板付遺跡から出土した突帯文土器の中には、夜臼式と形態的には類似するものの器形や器面調整、突帯の貼り付けなどに差異をもつ突帯文土器が含まれており、「板付U式甕形土器E」と分類され夜臼式との関係が指摘されている〔森・岡崎,1961〕。当時、弥生文化研究の中心であった福岡平野は前期突帯文土器様式の分布圏からはずれていたこともあってこの種の突帯文土器の出土も数えるほどであったが、熊本に近い福岡県の南部に位直する亀ノ甲遺跡が調査されるにおよび、甕組成の95%以上を占める前期突帯文土器の存在が明らかにされた。これらは「亀ノ甲遺跡甕形土器C」と分類されその後「亀ノ甲タイプ」として九州の研究者に認知されるのである〔小田,1964〕。
 東部九州でも、大分県佐伯市白潟遺跡の調査によって前期突帯文土器の存在を認識していた小田富士雄は〔小田,1958〕、熊本県加瀬川河底の資料〔乙益,1957〕、鹿児島県東昌寺〔川上,1952〕、長崎県原山〔森,1960〕、熊本県斎藤山〔乙益,1961〕、鹿児島県高橋〔河口,1963〕から出土した土器群に共通する「甕形土器に強く残された縄文系土器の伝統」を認めて、「亀ノ甲式」と「下城式」を九州の弥生時代前期後半における縄文系の土器として対峙させる図式を完成させた〔小田,1972〕。
 その後、前期突帯文土器が主体的に分布する地域の調査が進むと、それまでその存在を指摘するにとどまっていた前期突帯文土器の研究は、早期突帯文土器からの型式組列を復原する段階にはいる。福岡・熊本を中心に前期突帯文土器の系譜を明らかにした西健一郎の研究〔西,1982・1983・1985〕や、佐賀・福岡県南部を対象に早期突帯文土器から亀ノ甲タイプまでの型式組列を復原し、西部九州の前期土器様式は系譜的にみると突帯文系、板付系、折衷系から構成されることを指摘した拙稿〔藤尾,1984〕がある。東部九州でも下城式の系譜を探る研究が高橋徹を中心に進められている。〔高橋,1983a・1989〕。

 V 基礎的事実の確認

 一.器種構成

 突帯文土器様式が成立した当初の器種構成は甕と鉢で、のちに壺と高坏が加わる。ただし西部九州では突帯文土器様式が成立した当初から壺と高坏をもっていた可能性が高い(6)。縄文土器以来の器種構成に朝鮮半島起源の器種が加わっていく過程は、水稲農耕が始まり定着していく過程と密接な関連をもっているのである。


 二.器種の細別

 1 甕形土器

 近畿以西における突帯文土器様式の甕は、系譜や器形、文様の種類が多いので前稿で提示した西部九州を対象にした分類だけでは不十分である。具体的な分類にはいる前に、器形と文様にどのような種類があるか確認しておく。


図2 甕形土器の器形分類図
i) 器形

 屈曲せずに底部にむかって単純にすぼまる砲弾型(A)と胴部が屈曲・湾曲する屈曲型(B〜F)があり、とくに屈曲型は地域によって多くの差が認められる(図2)。
A 口縁部から底部にむかって単純にすぼまる砲弾型で、縄文時代からある深鉢形を呈す。胴部が張るものや直線的にまっすぐすぼまるものなどの違いはあるが、細分はしない。弥生早期の福岡平野に集中してみられる器形で、他の地域ではかなり少ないが、前期になると他の地域でも普遍的な器形になる。
B 胴部の上位で屈曲する器形のうち逆「く」の字に反転するものである。屈曲部分の胴径が胴部最大径になり口径をも上回るもので、西部九州に偏ってみられる器形であることから「西部九州型」と呼ぶ。細かくみれば口縁部から屈曲部までの長さが長いものや短いもの、その部分の形が湾曲するものや直線的なものなどいろいろな形態があるが細分はおこなわない。
 つぎの四つは環瀬戸内地域(瀬戸内海沿岸)に一般的な器形なので「瀬戸内型」と呼ぶ。
C 胴部から頸部にかけて「S」字状に緩やかな湾曲部をもち全体にずんぐりとしている。胴部の文様は胴部最大径より上位に施される例が多い。
D 球形の胴部をもち、上半で反転して外湾気味に立ち上がる頸部をもつ器形である。突帯文土器成立期まで存在する。突帯文が施文されることはない。
E 胴部上位で屈曲する器形のうち、「く」の字に反転して口径が胴部最大径を上回るものである。屈曲部に突帯文が施文されることはなく屈曲部の少し上に突帯を貼り付ける。また頸部に爪形文やへラ描文を施文する甕も多い。
F 球形の胴部をもち頸部が内湾しながら立ち上がる器形である。胴部文様はくびれ部に施される。
 B〜F(Dを除く)は砲弾型Aとならんで弥生時代早期に一般的な器形で、福岡平野を除く西日本では主となる器形であるが、前期まで継続せずきわめて縄文的な器形と考えられる。縄文以来の煮沸具の器形と弥生以降のそれとの違いがなにを意味しているのか興味深い。
ii) 単位文様

 突帯文土器の単位文様には刻目文、無刻突帯文、刻目突帯文があり、また施文される場所には口唇部、口縁部、胴部がある。これらの文様と施文場所が組みあわされて豊富な文様構成をとる。また中部瀬戸内と西部瀬戸内には、突帯文土器以前から継続する有文深鉢の伝統が見られるが、爪形文やへラ描きの直線文を屈曲型甕の頸部に施文する地域的な特徴である。したがって突帯文土器の基本となる単位文様は刻目文、無刻突帯文、刻目突帯文であることを強調しておきたい。
 口唇部、口縁部、胴部にみられる単位文様の組みあわせには理論上口唇部に1種類(刻目文)、口縁部と胴部にそれぞれ3種類で、文様を施文しない場合も一つの文様と考えれば、その組みあわせは32種類に達するが実際には表2にみるように14例が確認されている。瀬戸内や近畿で口縁部から胴部までつながった良好な資料が増加すれば、組みあわせが増える可能性はある。14例のうち、主文様の突帯文を含む11例は突帯文土器に属すが他の3例は突帯文土器が成立する以前から存在した煮沸用土器で、単位文様をまったくもたない粗製深鉢、刻目文を主文様とする刻目文土器である。このように突帯文土器様式の煮沸用土器は、文様系を異にする3つの土器から構成されているのである(表2)。

表2 無文・刻目文・突帯文・刻目突帯文の単位文様と施文部位との組合わせからみた突帯文土器様式の煮沸用土器 図3 突帯文土器様式の煮沸用土器分類図

凡例 無…無文、刻…刻目文、突…突帯文、刻突…刻目突帯文
    ? 今のところ未確認のもの
    ○ 存在が確認されているもの
    ◎ 普遍的に存在するもの 凡例 無…無文、刻…刻目文、刻突…刻目突帯文
    ○ 存在が確認されているもの
    ? 今のことろ存在が確認されていないもの


iii) 文様型(図3)

 さて11例にのぼる突帯文土器の文様型のなかで口唇部と口縁部に注目すると、時間的にも空間的にも普遍化できる四つの基本型がある。
 突帯に刻目を施文しない、いわゆる無刻突帯文土器は早期の環瀬戸内、土佐、西部九州、前期の近畿と西部九州に存在する。量的にまとまっているのは土佐西部で、本稿でも地域型甕という意味の土佐型としてあとで設定することになる。そのほかの無刻突帯文土器は時期や分布地域とも一つのまとまりとして設定することはできず、遺跡でのあり方も刻目突帯文土器と混在しているので、文様型の変異形の一つとして理解している。ただし、突帯文土器成立以前の隆起帯をもつ原下層式のようなものについてはこの限りでなくのちにふれる予定である。
 口唇部に刻目文、口縁部に刻目を施文しない突帯文をもつ文様型は突帯文土器の成立する段階に岡山以西の瀬戸内海沿岸にあらわれる。岡山県前池遺跡、高知県入田遺跡、福岡県長行遺跡、同春日台遺跡では10%前後の割合で存在するが、そのほかの遺跡では数%に満たないことから、やはり文様型の1パターンとして理解しておく。
 口唇部に刻目文、口縁部に刻目突帯文の文様型は、瀬戸内型の器形をもつ甕に最も多くみられ早期の環瀬戸内や土佐西部に分布する。平縁が基本で、岡山や愛媛、周防には口頸部に文様をもつ有文甕が数%の割合で存在する。さらに前期の下城式もこの文様型に属し、豊前及び豊後を中心に分布する。西部九州にこの文様型が少ないのは、西部九州の突帯文土器が瀬戸内や近畿に比べて1段階遅れて成立するからだとする考えがある。西部九州で口唇部に刻目文をもつ甕には刻目文土器やのちに述べる唐津型の突帯文土器があり西部九州においては、口唇部刻目は板付祖型甕と唐津型において最も盛行する文様である。このように早期の口唇部に刻目文をもつ土器には、瀬戸内型の甕に代表される突帯文土器と、西部九州の甕に二大別できる。両者の質的な違いは以下のような点にあると考えている。瀬戸内の甕の口唇部刻目は突帯文土器の単位文様として位置づけられ、主文様としての口縁部突帯の貼り付け位置が上昇するにつれ衰退するが、西部九州の口唇部刻目は口縁部に突帯を貼り付けない甕の主文様として位置づけられているので突帯の上昇の影響は受けず、その後は遠賀川式甕の主文様として発達を遂げていく。これは瀬戸内型の甕が分布する地域と西部九州の間に存在する口唇部刻目に対する位置づけの違いが反映したものと推測されるので、口唇部刻目の有無を時間的関係と直結して考えるのは慎重さに欠けよう。突帯文土器の従文様として口唇部刻目を位置づけた瀬戸内海沿岸と、口縁部に突帯文をもたない甕の主文様として突帯文と対等に位置づけた西部九州の違いをここにみることができるのである。
 口唇部が無文、口縁部に刻目突帯文の文様型は、早期の屈曲型の甕と砲弾型の甕に見られる。前期以降にもこの文様型はあるが、前期は口縁部の突帯が口縁端部に接して貼り付けられるため口唇部に刻目を施文しずらいという物理的な理由もあるのでこの文様型には含めない。平縁が基本である。岡山には20%〜10%の割合で口頸部に文様をもつ有文甕が存在する。
iv) 器種分類

 突帯文土器様式の煮沸用土器には、6つの器形、14通りの文様型から数十通りの組みあわせが存在することになるが、分布や時期などの歴史的親縁性を考慮して次のように分類した。


図4 甕形土器器種分類図


   粗製深鉢 T類(図4)


 縄文土器に一般的な無文の粗製深鉢で器表を条痕・削り・板ナデ調整を用いて仕上げる。弥生時代早期以前と早期に限定できる。器形によって二つに分ける。
 砲弾型粗製深鉢
  西日本全体に分布する。水平口縁が基本だが突帯文土器の成立期には波状口縁や突起をもつ口縁部がわずかに残っている。家根は西部九州の早期に朝鮮無文土器の成形技法でつくられた無文の深鉢「朝鮮無文土器系甕」〔家根,1987:20〕の存在を指摘する。今回の分類基準では粗製深鉢にあてはまることになるが、外傾接合で作られている点など製作技法を考えれば、系譜的に粗製深鉢には含まれない。
 屈曲型粗製深鉢
  器形によって次の二つにわかれる。
   瀬戸内型粗製深鉢 瀬戸内型の器形をもつ。
   西部九州型粗製深鉢 西部九州型の器形をもつ。
  いずれも平縁が主体である。
   刻目文土器 U・V類(図4)
 口唇部や口縁部、胴部に刻目文を直接施文し突帯文をもたない甕で、器形によってU類とV類に分ける。器面調整はT類と同じだが、一部に板ナデや刷毛目調整のあとナデによって丁寧な仕上げをする甕が存在する。突帯文土器成立以前から存在する。
U類 砲弾型の刻目文土器である。西日本全体に分布する。刻目文は口唇部に施文されるのが普通で、まれに胴部にも施文するものがある。また岡山や愛媛には爪形文や半裁竹管文を胴部に施文する甕も見られる。口唇部の刻目文は全面に施文するものと外端部に偏って施文するものがあり、一部の地域でこの施文位置の違いが時期差をもっている。基本的に縄文土器に系譜をもつ土器だが、西部九州には朝鮮無文土器の成形技法でつくられた土器の存在が指摘されている。しかしほとんどの砲弾型刻目文土器は砲弾形粗製深鉢の口唇部に刻目文を施文しただけの違いしかなく、器面調整などはまったく同じだが、西部九州のものだけは丁寧に仕上げるといった特徴をもつ。これらのなかにはやがて口縁部がわずかに外反するものが出現し、板付祖型甕〔山崎,1980〕とか弥生祖形甕〔家根,1984〕と呼ばれる甕へ変化する。将来的には、西日本で一般的な刻目文土器と、西部九州でしか見つかっていない板付祖型甕へとつながる刻目文土器を別の分類として設定する必要も出てこよう。
V類 胴部が屈曲したり湾曲する屈曲型の刻目文土器である。器形による地域差が強い。
 瀬戸内型刻目文土器
  瀬戸内型の器形をもつ。平縁が主体だが波状口縁や山形口縁もわずかにみられる。東部九州から近畿にいたる地域に存在し、特に愛媛から近畿にかけての環瀬戸内には頸部にヘラ描き山形文や縦列爪形文を施文する甕が分布する。
 西部九州型刻目文土器
  西部九州型の器形をもつ。口唇部に一条だけ直接に刺突文を施文するものと、屈曲部とあわせて二条の刺突文を直接に施文するものがある。突帯文土器が成立する段階に存在するが、出土例はまだ少ない。
   突帯文土器 W・X類(図4)
 口縁部から胴部にかけて一条以上の突帯を貼り付けてめぐらす甕である。突帯には無刻突帯文と刻目突帯文の二種類があり、時期と地域によってさまざまなあり方を示し、変異形も多い。器面調整は粗製深鉢や刻目文土器と同じで、のちに板ナデや刷毛目調整を用いるようになる。胴部に突帯文を施文するかしないかで細分できる。
W類 砲弾型の器形をもち、口縁部のみに突帯を貼り付けてめぐらす甕である。時期と地域によって以下の三つがある。
 砲弾型一条甕
  口唇部には刻目文を施文せず、口縁部に突帯文を施文する甕である。平縁しかない。早期と前期を通じて分布するが、分布の中心は西部九州にある。
 下城式甕
  口縁端部から突帯幅一つ分ほどさがったところに突帯を貼り付ける甕のなかで前期の豊前および豊後に分布する下城式の主となる煮沸用土器である。平縁しかない。口唇部に刻目文、口縁部に刻目突帯文をもつものと、口縁部の刻目突帯文だけのものがあり、前者から後者へと時間的に推移する。弥生時代前期以降に限定され、豊前および豊後に集中的に分布する。最近、四国の西半部に位置する中寺州尾遺跡〔大滝ほか,1989〕、斉院生遺跡〔西尾ほか,1988〕、田村遺跡〔出原,1982〕で前期中ごろから後半の時期にこの種の甕が検出されるようになり下城式との関連が注目されるが、本州を除く西部瀬戸内の地域に、前期の突帯文土器として分布する可能性もある。
 瀬戸内甕
  突帯を口縁端部に接して貼り付け刻目を施文する甕で、口唇部刻目はない。形態的に類似する甕は九州にも存在するが、胴部上半にヘラ描き直線文や山形文、刺突文、列点文を施文する点を異にする。前期後半以降の東部九州を除く瀬戸内海沿岸地域を中心に分布し、瀬戸内甕とか逆L字口縁甕と呼ばれている甕である。胴部に多彩な文様を施文する特徴は、早期の突帯文の頸部に文様を多用した有文深鉢の伝統が継承されたものと考えられようか。
X類 胴部が屈曲したり湾曲する甕や、砲弾型の甕の口縁部や胴部に突帯を貼り付けてめぐらす甕である。大きく分けて次の三つがある。
A 一条甕 口縁部だけに突帯を貼り付けてめぐらす甕で、器形は屈曲するか湾曲するかのいずれかに属し、砲弾型の器形をとるものは含めない。器形をもとに三つに細別できる。
 瀬戸内型一条甕
  瀬戸内型の器形をもつ。原則的に口唇部刻目文をもつものからもたないものへと変化する。文様の変異型が非常に多い。頸部に縦列刺突文やヘラ描き山形文をもつ有文の深鉢は、現在までのところ岡山と広島、愛媛で出土している。早期と前期前半の東部九州から近畿にかけての地域に分布する。西部九州を除く西日本の代表的な突帯文土器である。
 西部九州型一条甕
  西部九州型の器形をもつ。平縁口縁が基本である。口唇部の刻目文や無刻突帯文は基本的にみられない。西部九州を中心に分布するが西部九州では中心的な甕とはならず、存続幅も短く突帯文土器の成立期に認められるにすぎない。
 土佐型一条甕
  瀬戸内型の器形をもつ。口唇部や口縁部の突帯に刻目文を施さない無刻突帯文土器である。平縁口縁が基本で、まれに山形口縁もある。無刻突帯文様自体は早期から前期末までのあいだ多用されるが、一条甕の無刻突帯文土器は突帯文土器の成立段階に偏る。甕組成のなかでは、ほとんどの地域で一文様型として存在するだけだが、高知県西部の四万十川流域では土佐型一条甕単純の甕組成をもつ中村T式が設定されている〔岡本,1968〕。大分県の大野川上・中流域でも「無刻突帯文土器」が上菅生B式として設定されている。これらの土器を突帯文土器の前段階として様式設定する意見〔高橋,1980〕もあるが、これについては後述する。
B 胴部突帯甕 胴部だけに一条の突帯を貼り付けてめぐらす甕である。基本的に胴部は屈曲するか湾曲している。刻目突帯文の場合が多い。口唇部に刻目を施すか施さないかによって、時期や地域毎にまとめることができる。
 口唇部が無文の甕
  瀬戸内型と西部九州型の器形がある。量的には非常に少なく、早期の西日本に分布する。愛媛の船ヶ谷遺跡では口頸部に縦列刺突文をもつ有文の甕が出土している〔阪本,1985〕。
 口唇部に刻目文をもつ甕
  瀬戸内型と西部九州型の器形がある。量的には西部九州型が絶対的で、とくに早期末の佐賀県唐津平野に集中的に分布し本稿ではのちに唐津型として設定することになる。
C 二条甕 口縁部と胴部に突帯を貼り付けてめぐらす甕で、胴部形態は屈曲するもの、湾曲するもの、砲弾型のものの三つがあるが器形から二つに細別する。
 瀬戸内型二条甕
  瀬戸内型の器形をもつ。早期後半から前期中ごろの備後から近畿にかけての瀬戸内北岸に分布の中心をもつ。西部九州の影響のもとに成立すると考えられている。平縁口縁で口唇部には基本的に刻目文を施文しない。
 西部九州二条甕
  西部九州型の器形をもつ。早期から前期末の西部九州を中心に分布する甕である。平縁口縁で口唇部には刻目文を施文しない。

  2 壺形土器

 早期の壺に関しては西部九州以外では器種の細別をおこなえる状況にない。西部九州の状況については拙稿〔藤尾,1990a〕を参照していただくとして、西日本の早期段階の壺に限定して系譜の観点から整理してみる。また亀ヶ岡式の壺や、西部九州の縄文後期末から現れるという壺については別の機会に論じるとして、朝鮮無文土器文化の影響を受けて出現した壺と、その壺の影響をうけた土器について考えることにしたい(図5)。

図5 壺形土器系統分類図(縮尺不同)
1.曲り田 2.新町
3.百間川沢田 4.口酒井
〔各報告の原図を改変〕

 A 無文土器系壺形土器

 朝鮮無文土器に直接の系譜をもつ壺(2)である。菜畑遺跡や曲り田遺跡から出土した壺の中には、無文土器そのものと言ってもよいほど外見的によく似た壺がある(1)。後藤直の分類〔後藤,1980〕で言うと丹塗磨研壺U・V類に相当することから考えても、水稲農耕の開始期に無文土器の壺そのものが持ち込まれていたことは十分に考えられる。こういった現象は玄界灘沿岸地域だけではなかったようで、愛媛県松山市の大渕遺跡〔栗田,1989〕や兵庫県伊丹市の口酒井遺跡でも朝鮮半島とのつながりを想定できる壺が見つかり始めている。今のところ、西部九州以外の地域で見つかっている無文土器系の壺は、器高が20〜50cmの中形壺や、25cm以下の副葬小壺に限られている。西部九州にはまだ韓国で知られていない器高50cm以上の丹塗磨研を施した長胴壺を含めて、機能的に分化した壺がセットで存在する。西部九州の縄文社会が、水稲農耕を営むうえで必要な壺を、既存の土器様式構造の中に組み込んだのてある。当初の壺は無文土器との外見的な共通性をみせていたが、すぐに独自の変化をみせ始める。突帯文土器様式の壺である(7)。山ノ寺式や夜臼式の壺は、無文土器の影響を受けて成立し、板付T式の壺が成立するまでのあいだ、貯蔵用・埋葬用・副葬品・祭器などの機能を担っていた。突帯文土器様式の壺の型式変遷については拙稿で詳しく検証したが、今のところ無文土器の影響を受けた壺が成立し、型式変化を続け発達していく状況は西部九州に限定されている。西部九州以外の地域では、無文土器系の壺、すなわち西部九州の突帯文土器様式の壺に影響された動きが認められ、それは在来の深鉢・浅鉢が壺形へと変容するかたちをとる。
 B 縄文系壺形土器

 瀬戸内や近畿の早期にみられる壺は、既存の深鉢や浅鉢が器形を壺型に大きく変容することによって独自に出現する。この壺を縄文系壺形土器と便宜的に呼んでおこう。この変容現象に注目したのが泉拓良である〔泉・山崎,1989:348〕。泉によれば近畿地方で壺が明確になる時期、泉編年の突帯文土器第U様式の壺には、「磨研の著しい小型壺」・「浅鉢と区別しにくい広口壺」(3)・「凸帯のつく大形壺」(4)の三つがあり、このうち1番目の「小型壺」は先述した西部九州系譜の無文土器系壺に相当する。問題となるのはあとの二者である。「大型壺」は瀬戸内型一条甕の口径と胴部最大径が縮小し、頸部をつくりだしたことによって壺型に変容したと考えられるもので、「深鉢変容型」の壺である。「広口壺」は、胴部が「く」の字に屈曲する鉢の中でも屈曲部よりうえの立ち上がり部分が長い鉢の口径と屈曲部径が縮小し頸部をつくりだし器高を高くしたことによって壺型に変容したと考えられるもので、「浅鉢変容型」の壺である。西部九州でも深鉢変容型の壺の存在は橋口達也によって注目されており〔橋口,1979〕、筆者も中・小形壺Eとして設定している〔藤尾,1990a〕。変容型の壺の粘土帯の積み上げ方は縄文土器以来の技法そのままで、頸部と胴部の境は深鉢や浅鉢の屈曲部のつくりと完全に一致している。調整技法も当然のごとく縄文土器そのもので、とくに深鉢変容型の方は条痕やケズリ接法を駆使している。中にいれた物がこぼれにくいように細く締まった口。多くの物がはいるように大きく膨らんだ丸い胴部など壺の形態に近づけることで貯蔵という機能を果たすことがまず要求されたのであろうか。その反面、器表を研磨し丹塗りすることで貯蔵された内容物(種籾)を大切に保存し、生命力を高めるという農耕祭祀的機能は十分に理解されていなかった可能性が強い。これは早期水稲農耕の東進を考えるとき、重要な指標となる。
 西部九州ではこのような縄文系壺はごく少数で、無文土器系壺が圧倒的な優位にたっているが、近畿や瀬戸内では壺の絶対量が少ないこともあって壺の中における無文土器系と縄文系の比率はよくわからない。この比率は近畿や瀬戸内地方の早期水稲農耕の特質と深くかかわっているので、のちほど検証してみたい。


図6 浅鉢と壺の口縁部における外傾接合と
段の形成過程
(津島南は〔藤田,1982〕より引用)
 浅鉢変容型の壺にみられる縄文的な成形技術は、瀬戸内地方の遠賀川式土器に確実に引き継がれている(図6)。瀬戸内地方の遠賀川式の壺に多くみられる口縁部外側の段の出自である。この地方の浅鉢の外反口縁の製作は内傾して立ち上がる頸部に対して外傾接合によって口縁部を貼り付け、接合部の接着をより強固にするために、接合部にあたる口縁部の内面に沈線をめぐらす。この外傾接合は遠賀川式の壺の口縁部の外側に段を生じせしめた製作技術の祖型とは考えられないであろうか。浅鉢を壺へと形態的に近づけるための製作技術が脈々とつながっていたのである。これも縄文人が土器製作にたいして主体的役割を果たしたと考えられるに十分な証拠となりえよう。また、粘土帯を外傾につみあげる際に生じた口縁部の段が、板付T式の口縁部の段に比べて型式学的に先行するとした家根の説は正しい。しかし、夜臼式の壺と板付T式の壺との間に存在する非連続の要素こそ、板付T式を成立たらしめる外的な影響によってもたらされたのは確実である。したがって家根の言うように時間的な前後関係として捉えるのではなく、板付Tでは外的な要因によってもたらされた製作技法によって技術的に到達した壺の口縁部の段を外傾接合によって生じる段で達成しようとした。つまり瀬戸内の人々は外見的にただ模放することによって段を作ろうとしたのである。板付Ua式併行期の佐賀や熊本の壺とまったく同じ対応をみせている。
 縄文系壺形土器は、突帯文土器の分布圏内に全般的に見られるが、中部瀬戸内から伊勢湾沿岸地域にとくに集中しているようである(8)。


図7 鉢形土器器種分類図
(縮尺不同、〔泉・山崎,1989〕から引用)

  3 鉢形土器

 鉢は泉の器種分類に準じ次のようにおこなう(図7)。
T類 口縁部内面に断面カマボコ形の突帯をもつ鍵形口縁の浅鉢である。器形は頸部の長いもの、頸部が短く胴部が丸く張るもの、頸部が短く胴部の張りは弱いが鋭く屈曲するものの三つに分かれる。器面はすべて磨研調整されている。
U類 逆「く」の字形に外反する浅鉢である。波状口縁と平縁口縁があり器面は磨研されている。さらに器形からいくつかに分かれる。
V類 椀形の浅鉢である。器壁は薄く器面は研磨仕上げで丹塗りを施すものもある。

 この他にも、口径が器高をうわまわる鉢形の土器や粗製の鉢形土器も知られているが、今回は鉢を縄文土器に占める精製土器として位置づけるため、鉢T類からV類をもって鉢の代表とする。

  4 高坏形土器

 西日本では西部九州の一部に偏って分布する程度で、中国地方や四国地方以東ではほとんどみられない。また西部九州でも器種構成に占める割合はかなり少なく数%にすぎない。器形的には鉢U類の坏部に脚がつく程度のもので形態的には台付鉢に近く、縄文時代にもとからある器種を変容させ機能的に代用した段階にとどまっており、板付T式以降の高坏との距離は大きい。高坏の出現について家根は北部九州て無文土器とは無関係に成立したと考えている。〔家根,1987〕。


 三.土器の系譜−無文土器系・縄文系・変容系・折衷系−

 この問題は器種どうしのレベルと一つの器種内でのレベルで考えなければならない。範疇としては無文土器系、縄文系、変容系、折衷系の四者が考えられる。
 浅鉢はすべて縄文系としてよいであろう。
 高坏は、壺とならんで水稲農耕にかかわる農耕祭祀用の土器である。無文土器自身が持ち込まれている壺に対して、高坏には今のところ明らかに持ち込まれたと断定できる資料はない。突帯文土器に伴う高坏は形態的にすべて脚付鉢に相当する。浅鉢U類の坏部に脚をつけ、脚との境界部に刻目突帯文をめぐらせただけの土器は、農耕祭祀をおこなううえで用意された代用品といった観が強く壺とはかなり様相が異なる。高坏の系譜は、浅鉢との外見的な共通性からだけでは諭じられないので、成形技法、特に粘土帯の積み上げについての検討も必要になってこよう。脚付や台付の鉢であれば縄文土器のなかにあるので縄文系との位置づけも可能だからである。しかし、縄文の脚付鉢などは東日本に分布の中心をもつので、東日本からの影響で西部九州に成立したものとは考えにくく、無文土器文化の影響を受けて成立したと考えたほうが妥当であろう。つまり突帯文土器様式の高坏は、高坏としての役割を担わせるため縄文の浅鉢に脚をつけることによって高坏に変容させられたものと考えられる。これを無文土器系と呼ぶか、縄文土器変容系と呼ぶかは、製作技法が縄文土器の作り方なのかどうかで異なってくる。
 壺は、縄文土器に固有な器種だが水稲農耕との関係を考えれば機能を含めて外来的な器種と言える。西部九州では先述した無文土器系が圧倒的な割合を占めるが、瀬戸内や近畿では深鉢変容型と浅鉢変容型、そして無文土器系が併存する。しかしその割合はまだ不明である。
 甕は複雑である。従来は突帯文土器様式の甕を縄文系の出自で捉えても大きな問題はなかった。しかし、縄文土器からは出自を考えにくい甕の存在が指摘され始めている。粗製深鉢の一部と板付祖型甕である。特に祖型甕は最近まで弥生時代最古の土器と位置づけられていた板付T式甕の祖型にあたり、山崎純男によって命名された〔山崎,1980〕。この甕は口唇部に刻目文をもち、まっすぐに立ち上がる口縁部が如意状に外反することによって板付T式が完成すると説明されてきた。筆者もこの型式変遷を復原した際にいくたびかの内的・外的な刺激を受けながらも縄文土器の流れの中で板付T式土器が完成すると考えたのである〔藤尾,1987a〕。このような九州の研究者の縄文主体説に対して、家根や春成は疑義を唱える。
 家根は、日本の縄文土器が幅の狭い粘土紐を巻き上げていく内傾接合によって作られているのに対し、祖型甕は幅が広い粘土紐を積み上げていく外傾接合によって作られているため縄文土器の系譜上では捉えられないとし、韓国の無文土器に系譜を求めた〔家根,1984・1987〕。春成も板付祖型甕に刷毛目調整が顕著にみられることなどを根拠に系譜を無文土器に求めている〔春成,1990〕。
 祖型甕の器形は粗製深鉢と同じでも、色調が異なり丁寧な作りをしているという点で他の甕と識別できるのは事実である。今回、祖型甕の系譜を考えるにあたって二つの部分に分けて検討したい。一つは祖型甕の成立に関する部分、もう−つは祖型甕が板付T式へ変化していく過程の部分である(図8)。

図8 弥生甕の成立過程(家根説)
縮尺不同(〔家根,1987〕を改変)
 家根の弥生甕成立のモデルは、無文土器の影響を受けて成立する「朝鮮無文土器系甕」や、丁寧な器面調整を施した刻目文土器など「系譜の異なる伝統の混淆の中から、最終的には朝鮮無文土器に普遍的な製作技法が選びとられ」〔家根,1987:19〕、弥生甕が成立するというものである。家根が日本の縄文土器に影響を与えた無文土器として挙げているのは、韓国慶尚南道晋陽郡大坪里遺跡出土土器(図8−9)である。またその影響を受けて出現した「朝鮮無文土器系甕」として挙げているのは佐賀県唐津市菜畑遺跡出土土器(図8−7・8)などで、これを家根は朝鮮無文土器に類似する甕とした(9)。大坪里の甕は幅広い粘土紐を外傾接合によって積み上げて成形し、外面を磨研ないし丁寧なナデによって仕上げる。菜畑遺跡から出土した深鉢(7・8)は、器形や口縁部のおさめ方に無文土器とは多少の違いがあるとしながらも、粘土紐の幅が広く外傾接合で成形して無文土器的な器面調整を施していることを根拠に、朝鮮無文土器の一型式に由来する深鉢が日本において若干の在地化を遂げたものとした〔家根,1984:64〕。つまり器形と文様を指標にすえた筆者分類の砲弾型粗製深鉢のなかに、縄文土器に由来する粗製深鉢(1)と無文土器に由来し若干在地化した甕(7・8)、双方の技法をもつ甕たとえば内傾接合で擦痕調整をおこなう甕(3)などの複数の出自の存在を認めたのである。また刻目文土器にも縄文土器に由来する(2)と、内傾接合で擦痕調整をおこなう(4)の二者を認めている。家根の祖型甕は、西日本に突帯文土器が出現する以前から存在する刻目文土器とは完全に区別され、朝鮮無文土器系甕(7)が、口唇部刻目文を採用したり、刻目文土器が朝鮮無文土器の製作技法で作られることによって成立する。後者の場合は4のように内傾接合でも器面調整が無文土器の影響を受けていれば祖型甕に含まれる。
 いずれにしても家根の朝鮮無文土器系甕や祖型甕を無文土器系として認識するためには、粘土帯の積み上げ方法と器面調整が決め手になる。内傾接合か外傾接合か、丁寧な調整か粗い調整か、これらの組みあわせによって系譜が異なってくる。縄文系は内傾接合で粗い調整、無文土器系は外傾接合で丁寧な調整、これ以外の組みあわせならば折衷系である。この視点をもとに菜畑遺跡の土器を報告書の記載に従ってみると、次のようになる(表3)。


表3 菜畑遺跡出土の朝鮮無文土器系甕と弥生甕の特徴

朝鮮無文土器系甕 弥生祖型甕
9〜12層 外傾接合で外面タテ条痕,内面ナナメ擦痕が1,あとは内傾接合で擦痕調整。したがってすべて折衷系である。 すべて内傾接合で40%に擦痕,のこりは条痕調整である。したがって40%が折衷系,60%は縄文系。
8下層 外傾接合が4例,条痕のあとナデ消すものが多い。したがって折衷系が目立つ。 外傾接合が9例中7点,これらは擦痕調整。したがって無文土器系が多くなる。
8上層 外傾接合で擦痕が1例,内傾接合で条痕が1例。したがって無文土器系1,縄文系1。 外傾接合は24例中3例,これらはヨコナデ調整へ。したがって無文土器系の率は下がる。


9−12層では朝鮮無文土器系甕も祖型甕も折衷系と縄文系からなり、明確に無文土器系といえるものはない。8下層になると、祖型甕のほとんどは無文土器系になり家根が言うように朝鮮無文土器的な製作技法が選び取られた様相をみせている。もちろん以上のような議論はこの時期の無文土器がすべて外傾接合で、しかも突帯文土器以前の縄文土器が内傾接合であることが前提となることは言うまでもない。
 次に、板付T式土器への変遷過程である。家根説では祖型甕(図8−4)などの「系譜の異なる伝統の混淆の中から、最終的に朝鮮無文土器に普遍的な製作技法が選びとられ」、弥生甕が成立したと述べられているだけで、口縁部の外反がどうして起きるのかなどの背景についてはふれられていない。いずれにしても弥生甕は、成形・器面調整を無文土器から、文様を縄文土器から獲得し普遍化して成立する。この点に日本における初期稲作文化成立過程の内実が反映されていると理解できよう。本稿分類の粗製深鉢や刻目文土器のなかに無文土器に特有とされる製作技術をもつものがどれくらいあるのか、その割合は時間的にどのように推移していくのかという部分を明らかにしなければならない。それが明らかになってから無文土器系甕を粗製深鉢や刻目文土器から分離し設定していく所存である。
 韓国において大坪里以降の無文土器の動きはどうなっているのだろうか。藤口健二は、地域差の問題があるとしながらも、菜畑遺跡の山ノ寺式が欣岩里V式や松菊里T�U式と併行すると解釈している〔藤口,1986〕。欣岩里V式には、口縁端を上外方に引き上げたあと短く外反させた甕が確認されている。また松菊里T式からU式にかけては、甕の口縁部の外反度がまし胴部が外へ張り出し気味になって、プロポーションこそ異にするが細部形態の一部や刻目にも板付T式との共通性がある。外傾接合という縄文土器にはない非連続な製作技術が、器形や文様などの外見的な共通性よりも優先されるのは、製作技術の共通性が人の動きをともなうと考えられるからで、水稲農耕開始期の韓国と日本の関係を理解するには非常に魅力的である。韓国無文土器時代前期の終末段階に共通性をもった韓国と日本の煮沸用土器は、それ以後両国で特色ある道を歩み始める。その結果、外傾接合によって幅の広い粘土紐を積み上げ、同じ器面調整で仕上げるという製作技術を共有し、さらに外反口縁という点では共通しながらも、器形をかなり異にする甕を完成させる。祖型甕が板付T式へ変化していく過程において注目しなければならないのは、出発点が同じであっても母体とする文化が異なっていれば、完成したものに違いが生じるという点である。板付T式の成立を代表とする弥生文化(日本独自の初期農耕文化)が成立するためには、渡来人が持ち込んだ新しい製作技術と在来人がもつ歴史的な伝統の双方が必要条件となるので、どちらか一方を特に強調するのは偏った見方で春成が指摘するように公平な立場とは言えない。その点で前稿は在来人の側に偏って現象を見ていた。大事なのは、無文土器と突帯文土器との接触のなかから弥生甕が成立してくるという点である。
 以前にも指摘したように、祖型甕の変遷過程には二つの大きな転換点がある。一つは口縁部が外反を始めた段階。もう一つは外反化が強度をまして如意状口縁が完成した段階である。これらの契機については、具体的に示しておかなかったが、断続的な外的文化の影響を想定してもよいのではないだろうか。環濠集落の成立も、早期水稲農耕社会の内的発展だけでは説明できない可能性があるからである。
 以上のように、まだ検討課題を残しているとはいえ、板付祖型甕が無文土器の製作技術と突帯文土器の文様を融合させることで生成され、のちに板付・遠賀川系の甕として主要器種となっていく点を考慮すれば「折衷系」するのが妥当と考えられる(10)。したがって、突帯文土器様式の煮沸用土器には、出自を異にする粗製深鉢系、刻目文系、突帯文系、無文土器系、折衷系が存在したのである。


 W 突帯文土器編年

 一.早期突帯文土器編年の現状

 早期突帯文土器様式の編年は、縄文土器研究者が縄文土器の分析手法を用いて、浅鉢の変化を指標に作ってきた。浅鉢は縄文的な習俗と深くかかわっている土器であるから、浅鉢を指標とする編年は、縄文社会の変化をよく反映したものとなり、その性格上広域にわたり地域差も少ないので非常に有効である。しかし突帯文土器に伴う浅鉢は水稲農耕の波及にともなって弥生化していく社会システムに対する縄文側の抵抗を象徴する側面をもつ。鉢はこの時期の精製土器のなかで壺と対局に位置する土器である。壺と鉢が器種構成に占める割合は壺が増加するとそのぶん浅鉢が減少するという相関関係にある。またこの現象は全生業に占める水稲農耕の割合の変化とも強い関連をもつ。水稲農耕が発達すればするほど、種籾の貯蔵を主とする貯蔵機能の充実が要求され壺が増加するが、これだけでは浅鉢の減少を説明できない。水稲農耕の発達とともに浅鉢が有していた機能が社会の中で必要でなくなってきたことを反映したものである。浅鉢が衰退するにいたったプロセスはつぎのように考えられないだろうか。壺は種籾を貯蔵、保存して来期の豊作を祈り、穀霊を祭るという農耕儀礼のなかにくみこまれていた重要な祭具の一つであった。水稲農耕の発達は農耕儀礼の発達をうながし、その一方で縄文的な祭祀および祭具の衰退をもたらす。土偶や石棒の減少はこのような祭祀形態の変化を反映しており、浅鉢の減少もこのような一連の動きのなかで説明できよう。早期においては生業全体における水稲農耕の位置づけは地域や集団によって異なっていた可能性が高いので、壺と浅鉢が器種構成に占める割合もさまざまであった。縄文土器の編年では器種構成に占める浅鉢の比率に関係なく同じタイプの浅鉢を指標に同じ時期と考え、また同じタイプの土器は同じスピードで変化したと考えるのが普通である。土器の型式変化は社会の変化を正確に反映したものではないが、水稲農耕の発達が貯蔵用の壺の発達を早めることは十分に考えられる。
 したがって、この時期に関して浅鉢を指標とする編年は縄文社会がいかにして崩壊していくかをみることになり、結果的に崩壊の速度が同じで全国一律に縄文時代が終了し、縄文的器種構成の崩壊といった視点で弥生時代への転換が説明される。このような方法についてはつぎのような疑問がある。
 i) 縄文時代に特徴的な現象を取り上げ、その消滅を指標にして縄文時代のおわりとし、二次的に弥生時代の成立を考える時代区分上の方法的な問題。
 ii) 縄文時代の一型式の時間幅と弥生時代の一型式の時間幅が同じというわけではないのに、同じ時間幅をもつという前提にたった議論となっている。特に浅鉢が壺なみの速さで変化するという説明もないまま壺と同じように変化すると考えられている。その結果、古い浅鉢と壺や甕が伴うと判断されれば古い浅鉢が残存したものとは考えられずに、浅鉢にあわせて壺や甕の時期が引き上げられてしまう。浅鉢は壺と同じ早さで変化するのであろうか。
 iii) 浅鉢は水稲農耕の発達に対応するように衰退していくが、早期水稲農耕の発達が西日本一律でないにもかかわらず浅鉢の衰退だけは西日本一律で進むと考えられている。したがって西部九州と近畿における浅鉢の変化の早さや残存度を同じと考え、地域毎の差を想定していない。このような疑問をつぎに示すモデルで考えてみたい。A説は西部九州と瀬戸内・近畿の間に水稲農耕の発達度を考慮し、弾力的な浅鉢の変化と残存を想定したものである(図9)。B説は西日本において地域色の少ない浅鉢の変化がどの地域も同じ早さで進んだと仮定したものである(図10)。



図9 水稲農耕開始期の器種変遷
(甕・壺を基準−A説) 図10 水稲農耕開始期の器種変遷
(浅鉢を基準−B説)
 A説では浅鉢一型式の存続幅が突帯文土器一型式の3倍にあたることや、地域によって浅鉢一型式の存続幅が異なることを表したもので、西部九州と近畿・瀬戸内の併行関係が無文土器系壺や二条甕からとれることが表されている。B説では西日本はすべて一律に変化する浅鉢を指標に、浅鉢がなくなる長原式をもって縄文的器種構成の消滅と理解する。したがって板付T式の成立より浅鉢と共伴しない板付Ua式(第T様式)の成立が重視される結果となり、さらに古・中段階の遠賀川式土器と共伴する長原式のおわりごろに第T様式が成立することになって、遠賀川式土器と突帯文土器の時間的な関係が不合理なものとなっている。本稿ではA説の立場に立ち、長期にわたって存続し縄文時代の指標である浅鉢を基準とせず、甕や壺を指標とした時間軸を設定する。甕と壺は水稲農耕社会を維持する基本的セットで、縄文時代になかった壺や新しい形態をもつ甕が器種構成の変化を論ずる際の決め手になる。また地域色を反映しやすい点も好都合である。さらに前期突帯文土器も対象にするためには早期からの一貫した指標で論ずる必要がある。

図11 各地における外来系土器実測図
(縮尺1:8)
(沢田と有田七田前遺跡の
土器以外は各報告からの転載)
 二.西部九州と近畿・瀬戸内の併行関係

 搬入品とまでは言えないが、西部九州で出土した近畿・瀬戸内系の土器と近畿・瀬戸内で出土した西部九州系の土器を使って、先ほどのA説に準じて併行関係を考えてみよう(図11)。西部九州から出土した近畿・瀬戸内系の土器には、有田七田前遺跡〔松村,1983〕の滋賀里Vb式(1)、板付E−5・6区〔山口譲治,1980〕の沢田式(4〜6)がある。板付遺跡の土器は、胴部の屈曲がかなり緩く口縁部突帯の位置も口縁端部に接していることから沢田式に相当するものと考えられ、夜臼T式に比定される層から出土している。有田の場合は滋賀里Vb式相当の刻目文土器が夜臼T・Ua式相当の土器と混ざって出土した。いずれも遺構に伴う一括遺物ではなく包含層の資料であるため厳密な同時性は問えないので、幅をもたせて考えるしかない。一方、近畿・瀬戸内から出土した西部九州系の土器には、大渕遺跡から出土した山ノ寺式相当の西部九州型一条甕(8)、長行遺跡〔山口信義,1980〕出土の夜臼T式相当の砲弾型一条甕(7)、沢田遺跡出土の夜臼Ua式相当の無文土器系壺(10・11)と、砲弾型一条甕(9)がある。以上の点から沢田式は夜臼T�U式の双方と同時性があることになる。このような相反する事実があるかぎり外来系の土器からの結論は出せない。しかし沢田遺跡の無文土器系壺と砲弾型一条甕は、早期水稲農耕の伝播にともなって西部九州から瀬戸内・近畿へ伝わったものであるから、今のところ西部九州より早くこれらが成立することは考えられないので、夜臼Ua式がともなう沢田式は夜臼Ua式よりは遡る可能性は少ない。そうすると山ノ寺・夜臼T式と前池式の関係は突帯文土器を型式学的に比較すると刻目の施文や器形には西部九州と瀬戸内・近畿の間に地域差があって比較する指標とはなりえないが、口縁部突帯の貼り付け位置は有効で山ノ寺式・夜臼T式と前池式はいずれも口縁端部から下がった位置に貼り付けられ差はない。甕の比較からは山ノ寺・夜臼T式と前池式の同時代性を否定することはできない。有田七田前遺跡の滋賀里Vb式も同時代性を裏付ける根拠となっている。ただ、西部九州において一条甕と二条甕の間に型式学的な差があるのは拙稿のとおりで〔藤尾,1990a〕、その意味では前池式が若干古く位置づけられる可能性もある。したがって前回同様に同じ時期に属すものと考え段階差を想定しておこう。浅鉢ではなく壺や甕を重視した併行関係である。


 三.突帯文土器編年

 弥生時代早期から前期にわたる西日本の突帯文土器をT期からX期に大別する。

  T期 突帯文土器の成立

 西日本に突帯文土器様式が成立する。甕は粗製深鉢、刻目文土器、突帯文土器に大きく分かれ、まだ突帯文土器以外の比率がかなり高い段階である。突帯文土器は一条甕を中心として成立し、西部九州や伊勢湾沿岸には砲弾型一条甕も成立する。二条甕の成立は一条甕の成立と時間差をもつとの意見があるが、これがあてはまるのは瀬戸内・近畿で、西部九州ではそれほどの時間差は考えられない。西部九州と東部九州の一部では壺が出現する。突帯文土器様式に属すにもかかわらず、壺をもつ地域ともたない地域がある段階である。壺には無文土器そのものと言えそうな壺と、無文土器が在地化した山ノ寺式や夜臼式に代表される壺の二種類がみられる。西部九州の壺は機能的な分化を完成しており、埋葬用、貯蔵用、副葬用の三つが機能に応じて使い分けられている。浅鉢は鍵形口縁黒色磨研浅鉢(T類)と逆「く」の字口縁浅鉢(U類)が混在する段階である。鉢T類は、西部九州を除く地域で突帯文土器とセットとなるが、西部九州の水稲農耕をおこなっている地域ではセットとならない。山ノ寺遺跡B地点では鍵形口縁の浅鉢と突帯文土器が出土しているが、セットとして認定できるのかどうかは明らかでない。西部九州の突帯文土器は鍵型口縁浅鉢と基本的なセット関係になくただ残存した可能性もある。したがって浅鉢を基準に編年をくめば西部九州の突帯文土器が瀬戸内や近畿に遅れて出現することになる。
  U期 西部九州系突帯文土器の東進
 近畿や瀬戸内に水稲農耕の存在を裏付ける証拠が出はじめる段階である。甕は、西部九州系の砲弾型一条甕が近畿や瀬戸内に少数であるが出現し、沢田遺跡の土坑資料では、突帯文甕の25%を占めている。また二条甕も備後以東の山間部(帝釈峡遺跡群)や瀬戸内海北岸、近畿地方に出現する。四国は二条甕を基本的に受け入れない。また瀬戸内や近畿の深鉢の底部が尖底・丸底・凹底から平底へ転換する。西部九州では、甕の器面調整に刷毛目技法を用いる甕の存在が明らかになり、祖型甕の口縁部が外反化をはじめる。
 壺も、西部九州から東方への波及が活発になる。口酒井遺跡や大渕遺跡に無文土器系の磨研壺が伝播するとともに、その影響を受けて成立したと考えられる在地の壺が既存の器種の変容系というかたちで出現する。深鉢変容型と浅鉢変容型を代表とする縄文土器変容系壺の成立は、瀬戸内や近畿の突帯文人がみせた対応行動の一つとして理解できる。
 浅鉢は西日本全体が逆「く」の字口縁浅鉢の段階にはいる。泉は、この種の浅鉢が波状口縁で方形となる傾向が顕著な段階と、方形を呈さなくなる段階に細別する。この細別は口酒井式から船橋式への変化に対応する。西部九州では菜畑9−12層と8下層段階に波状口縁方形浅鉢が出土している(菜畑遺跡、宇木汲田遺跡1984年調査第\層〔横山・藤尾,1984〕、曲り田古・新式)。したがって浅鉢を基準とする広域編年を使って西部九州と瀬戸内・近畿との併行関係を捉えれば泉の第U様式の下限を夜臼Ua式、中島の夜臼単純、橋口の夜臼式におさえることができ、瀬戸内では岡山大学学生寮〔松岡,1988〕や沢田式が相当する。西部九州と瀬戸内や近畿の併行関係を方形浅鉢からこのように捉えると、甕の型式学的な変化とも一致するが、口酒井や沢田における鍵形口縁浅鉢の量的な存在だけが問題になる。岡大や沢田ではくの字口縁浅鉢の段階に大量の鍵形口縁浅鉢が伴うのである。これは浅鉢一型式の存続幅が甕や壺より長いという先の仮説を裏付けるものである。
 U期は従来の、口酒井式、船橋式、沢田式、夜臼Ua式、中島の夜臼式単純に相当する。

図12 突帯文土器成立直前の煮沸用土器
(粗製深鉢を除く)
(4、6〜8は報告書の原図を改変)縮尺1:10
  V期 板付T式土器の成立と遠賀川式土器の伝播

 西部九州の一角(玄界灘沿岸地域)で板付T式が成立する(11)。板付T式は西部九州の突帯文土器である夜臼Ub式と相互補完的な関係にある。夜臼Ub式は前段階の型式が残存したものでない。特に甕については板付T式甕との機能的な使い分けがはっきりとしている。共伴期の甕組成は、板付T式、二条甕、砲弾型一条甕、祖型甕だが、なかでも板付T式と二条甕主体で前期初頭の煮沸行為は維持されるので、二条甕以外の甕は残存したものと考えても差し支えない。すべての突帯文土器が必要とされたのではなく二条甕だけが必要だったのである。板付T式甕と二条甕の比率は3:4で後者が多い。二つの甕の最大の違いは、口縁部の違いからくる蓋のうけかたと胴部が屈曲するかどうかにある。3:4の比率は、器形や蓋の受け方が違う二種類の甕が使用目的を異にして使い分けられていたことを意味している。板付T式が成立する以前の二条甕と砲弾型一条甕の比率を見ると、玄界灘沿岸地域をのぞく西部九州では二条甕が圧倒的に多く4:1の比率をみせる。東部九州以東でも屈曲のある一条甕や二条甕が圧倒的に多い。しかし福岡平野だけは屈曲する二条甕の比率が低く、1:4から1:7の比率で砲弾型一条甕が最も多くを占める。また屈曲する甕が多いところでは浅鉢が多く壺が少ないという傾向がみられるところから、生業基盤に占める水稲農耕の比重と関係して甕の器形が異なるとは考えられないであろうか。
 壺は板付系がほぼ壺組成を独占するので板付甕と突帯文土器にみられた補完関係は存在しない。
 鉢は器種構成の10%弱を占めるが、縄文系浅鉢の比率は5%弱で少なく古い型式が残存したものと理解できる。
 高坏については資料数が少なくはっきりしたことは言える状況でない。しかし、長脚で大きく広がった坏部をもつ器形が成立しているので、数が少ないといっても弥生土器の高坏として定型化していたと考えられる。
 V期は板付T・遠賀川式文化が西日本全体に伝播する時期として位置づけられよう。しかしその影響をまともに受けた地域もあれば、間接的もしくはほとんど受けなかった地域もあり、これらの複合的な動きの中で前期社会は発展していく(12)。
  W期 前期突帯文土器の完成と中期土器の萌芽
 遠賀川式土器を用いる移住者集団と在来者集団の間に存在した関係が変質し、水稲農耕という生業以外の分野に在来人の伝統が復活してくる。玄界灘沿岸地域を除く西部九州(佐賀・熊本・薩摩)や和歌山の紀ノ川以南の地域ではV期以来の突帯文土器様式が継続し発展するが、そのほかの地域では遠賀川式土器様式に突帯文土器が煮沸用土器として加わる。また地域によっては突帯文土器と遠賀川の甕との比率が逆転してしまう。豊後の下城式、瀬戸内の逆L字口縁甕は前期突帯文土器の代表的な例である。従来の板付Ub式第T様式中段階に相当する。
  X期 前期突帯文土器から中期地域型甕へ
 突帯文系と遠賀川係が接触・交流を重ねた結果、各地に新しい土器が成立する。西部九州では、器形や文様に突帯文土器の特徴を多くもつ遠賀川以西系の土器様式である城ノ越式が成立し、瀬戸内や近畿でもW期に成立した前期突帯文土器と遠賀川式がさらに融合した甕が出現する。いわゆる第U様式の地域型甕である。西日本の中期土器様式は水稲農耕が定着するにあたって、各地域でおこった移住者と在来者との交流の結果が反映されたものなのである。

 X 各地の突帯文土器

 本章では近畿以西の突帯文土器を地域毎に検討する。西部九州についてはすでに編年案を発表しているので、問題点と特色を指摘することにとどめる。

 一.西部九州(図13)

 この地域特有の問題には、突帯文土器の成立、二条甕の成立、山ノ寺式土器と夜臼T式土器の関係、板付T式土器の成立などがある。特に二条甕の成立や板付T式の成立はこの地域を舞台にしたものである。


図13 西部九州の突帯文土器編年図 1(左)、2(右)
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10


 1 突帯文土器の成立

 西部九州は、T期に主要な突帯文土器がほとんど出現する西日本でも唯一の地域である。突帯文土器の主要な甕には一条甕・二条甕�砲弾型一条甕があって、西部九州を除く地域ではまず一条甕だけの段階があり、一時期遅れて二条甕や砲弾型一条甕が甕組成に加わる。西部九州における突帯文土器の成立について議論するとき、近畿・瀬戸内からの影響のもとに出現すると考える意見と西部九州自生説の二つがある。
 突帯文土器が成立する前段階には、西日本全体に刻目文土器と粗製深鉢を煮沸用土器とする土器様式が存在していた。この段階をかりに先T期とする。図12は従来の黒色磨研土器を指標とする様式を煮沸用土器からみたものである。煮沸用土器のなかには少数ながらも隆起帯をもつ土器(4・5)も含まれており、まさに突帯文土器が成立する直前の段階にあたる。この段階の西部九州と近畿・瀬戸内では主となる煮沸用土器が異なっていた。すなわち、粗製深鉢を除くと西部九州は砲弾型の胴部で口唇部刻目文をもつ土器(1)と、西部九州型の胴部をもち口縁部や屈曲部に刻目文をもつ土器(2・3)が大勢を占めていたのに対し、近畿・瀬戸内では、瀬戸内型の胴部をもち口唇部に刻目文をもつ土器(6・7・8)が大勢を占めていた。近畿で口唇部の刻目文が出現するのは滋賀里Vb式中段階(13)、瀬戸内では原下層式〔鎌木・江坂,1956〕、西部九州では晩期Y〔橋口,1985〕、菜畑13層〔中島,1982〕である。また有田七田前遺跡からは、西部九州で最も古い突帯文土器にともなって滋賀里Vb式中段階の刻目文士器が出土していることから考えても(図11−1)(14)、西日本ではほぼ同時に突帯文土器が成立し、少なくとも突帯文土器の成立に関しては近畿・瀬戸内から西部九州への一方的な文化伝播を考えなくてもよいと考える。

 2 二条甕の成立

 前稿では、一条甕と二条甕の型式学的な差を根拠に一条甕の胴部に刻目突帯文をめぐらすことによって成立すると判断したが〔藤尾,1990a〕、突帯文土器の成立にあたって想定したように、刻目文土器と突帯文土器を文様から比較すると、刻目文土器が口縁部と屈曲部に刻目文を、突帯文土器が同じ部位に刻目突帯文をという文様の違いでしかないので、一条甕の胴部に突帯文をもう一条貼り付けて二条甕が成立すると考えるより、むしろ刻目文土器(図12)から二条甕が直接成立すると考えてもよいのではないか。一条甕を介しての二条甕成立だけに固執する必要はないのである。西日本全体の動向からみるとこのような見方が最も妥当と判断されるので、一条甕が単純で出土する遺跡が熊本の上南部遺跡A地点〔富田,1979〕しかないことなど、出土状況からも裏付けられよう。しかし、前稿で指摘したように、一条甕と二条甕の間に存在する型式差も大きいことからしばらく状況を見守りたい。


図14 山ノ寺式と夜臼式の甕組成の変化
(〔藤尾,1987a〕、および各報告の原図を改変)
 3 山ノ寺式土器と夜臼T式土器の関係

 山ノ寺遺跡や菜畑9−12層出土土器に代表される山ノ寺式土器と福岡平野最古の突帯文土器である夜臼T式土器との関係である。まず夜臼T式が板付遺跡G−7a・7b区下層出土土器だけを指しているのではないことに注意を要する。また両様式の甕組成は主体となる甕が異なり、山ノ寺式は二条甕、夜臼T式は砲弾型一条甕を主とする(図14)。この甕組成の違いが二つの土器群を時期差とする考えに大きな影響を与えていた点は否定できない。刺突刻目をもつ二条甕(2)は山ノ寺式分布圏に多く、押し引き刻目をもつ二条甕(8)が夜臼式分布圏に多いことから、二条甕における新旧関係が地域間で言えるとすれば、山ノ寺式分布圏に多く分布する砲弾型一条押し引き甕(5)と夜臼式分布圏に多い砲弾型一条刺突甕(3)との時間差もまた言えることになり、先述した二条甕の成立の問題とも深くかかわってくることになる。したがって、最古の二条甕は山ノ寺式分布圏で成立したあと夜臼式分布圏や瀬戸内・近畿へ広がり、また、最古の砲弾型一条甕は夜臼式分布圏で成立したあと山ノ寺式分布圏や瀬戸内・近畿に広がったと考えられるのである。残存する傾向が強い浅鉢を指標とせず、甕自身の型式学的な操作からこのような結論が導き出せることで、山ノ寺式と夜臼T式は分布を異にする西部九州最古の突帯文土器様式として認められるのである。

 4 板付T式土器の成立

 板付T式土器は、朝鮮無文土器の製作技法や煮沸用土器としての範型にしたがって製作された砲弾型刻目文土器が日本的に変容して成立したものである。したがって、板付祖型甕は縄文土器がすでに変容した土器を指し、晩期最終末の西日本に広く分布する砲弾型刻目文土器は含まれない。粘土帯の接合法や器面調整などの特徴によって系譜を判断しなければならない難しい土器である。板付祖型甕は、突帯文土器と同じくT期に成立し、U期になると口縁部が外反する祖型甕と、直口口縁のまま口唇部の刻目の位置が口縁端部に偏って施文される甕に分かれ、後者は板付T式へは発展しない。中寺・州尾遺跡で出土した祖型甕はまさにこの後者に相当する。祖型甕は西部瀬戸内を含む地域までは分布するようだが、口縁部の外反化をおこした祖型甕は、現在までのところ玄界灘沿岸地域に限定される。V期に成立した板付T式とU期の祖型甕との型式学的な距離は大きく、スムーズな変化と言うよりはもう一つ別の契機を要したと考えられる。それがどのようなものであったのか明らかにできないが、環濠集落の成立にみられるような水稲農耕社会がある一定の水準に達したことと無関係ではない。無文土器の製作技法が導入され、また形も砲弾型で外反口縁という点まで無文土器と共通するにもかかわらず、まったく同じ姿とならなかった事実に弥生文化の本質が含まれているのである。


 二.瀬戸内

 1 東部九州

 福岡県の北東部を響灘にむかって北流する遠賀川から鹿児島県大隅半島までを九州山地の東の際に沿って南北に結ぶ線を西限とする地域で、周防灘や日向灘に面する沿岸部を対象とする。前期における甕組成の違いから豊前と豊後に分けて考える。宮崎と鹿児島東部は早期から前期にかけて一貫した資料に恵まれていないのでその都度ふれることにする。

図15 豊前の突帯文土器編年図
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10
 i) 豊 前(図15)

 この地域は長い間まとまった資料に恵まれず空白地域とされてきたが、近年の調査によって資料が充実しつつあり、これらの資料を扱った晩期土器編年も発表されている〔前田,1989〕(15)。
  先T期
 春日台遺跡〔上村,1984〕の隆帯文土器(10・22)や貫・井手ヶ本遺跡の屈曲型刻目文土器(8)に代表される。定型化した刻目突帯文土器はまだ成立していないが無刻突帯をもち口唇部に刻目文をもたない甕(11)がある程度である。壺はなく鍵型口縁浅鉢がともなう。
  T期
 定型化した突帯文土器の一条甕(23)、砲弾型一条甕(12)が成立する。いわゆる長行式の新しい段階である。粗製深鉢や刻目文土器の方が量的に多く突帯文土器との比率は2:1である。壺が存在する可能性は高いがまだ明確でない。鍵型口縁の浅鉢がともなう。
  U期
 二条甕(24)が出現し一条甕(13)とセットになる。粗製深鉢(3)や刻目文土器はもはやほとんどみられなくなる。中貫遺跡出土土器〔前田,1989〕を標識とする。壺は確実に存在し、くの字口縁浅鉢が伴う。甕の平底化や壺の出現などから水稲農耕が始まったと考えられる。
 V期以降の突帯文土器研究はまだ始まったばかりである。下條信行は下関市綾羅木川下流域の突帯文土器を五期に分けたが、後よりの二期は板付Ua式と前期突帯文土器の共伴期と考えている〔下條,1990〕。今のところ突帯文土器が遠賀川式の甕・壺・高坏にともない、このような共伴現象が瀬戸内の各所でみられることは興味深い。北九州市石田遺跡〔梅崎,1985〕で弥生化した一条甕(16)と、砲弾型一条甕(15)、遠賀川式土器が出土している。福岡県苅田町の葛川遺跡でも突帯文土器を甕組成にもつ〔酒井,1984〕。この遺跡は貯蔵穴型の環濠集落として有名で、前期突帯文土器が遠賀川式土器に伴って出土した。この突帯文土器も中寺・州尾遺跡や田村遺跡の突帯文土器と同様に完全に弥生化している。二条甕はなくすべて砲弾型の器形をもち口縁部に突帯を貼り付け、刻目文を施文している(18)。さらに弥生化が進んだ砲弾型一条甕(17)がわずかながら認められる。表面は刷毛目またはナデ調整仕上げで、また口縁部の突帯は口縁端部から下がった位置に貼り付けてあり、この時期の西部九州の砲弾型一条甕とは外見状異なる。口唇部の刻目文は施すものと施さないものがある。この種の甕は宮崎県檍遺跡でも出土していることから、周防灘や日向灘沿岸に点々と分布するようである〔森,1961〕。
 このようにV期には遠賀川式土器と早期突帯文土器が共伴する例はなく、弥生化した前期突帯文土器が遠賀川式土器の組成に加わっている事実が明らかになっている。行橋市の下稗田遺跡は本稿編年W期以降に主体をおく遺跡でやはり突帯文土器の甕をもつ(19)〔長嶺,1985〕。この甕も葛川遺跡と同じく砲弾型一条甕で口唇部に刻目文をもつものともたないものがある。突帯はやはり口縁端部から下がった位置に貼り付けている。
 豊前の弥生前期は福岡県内に関する限り遠賀川式主体の甕組成をもち、遺跡によっては比率がわからないけれども前期突帯文土器が伴っている。前期水稲農耕の東進ルートの一角に前期突帯文土器が分布することの意味は大きい。この地域の前期突帯文土器の系譜はいまのところよくわからないが、早期の一条甕からつながってくると考えるのが自然であろう。四国西部の弥生前期の状況を考えれば、東部九州から四国西部を含む西部瀬戸内の地域に一条甕系の前期突帯文土器が存在したことは確実で、突帯文土器を伝統的に用いる集団が存在した可能性を強く示唆するのである。

図16 豊後の突帯文土器編年図
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10
 ii) 豊 後(図16)

 この地域の突帯文土器は高橋徹によって集大成されている〔高橋,1989〕。無刻突帯文土器から刻目突帯文土器への変化と、この地域の前期突帯文土器である下城式の成立が豊後の地域的特徴である。
  先T期
 高橋は晩期後半最終末の様式を無刻目突帯文土器の段階とし、黒川式の浅鉢がともなうと考える。つまり無刻目突帯文土器の段階を弥生時代に含めないのである。刻目突帯文土器が成立する直前の段階に無刻目突帯文土器の段階をはじめて想定したのは高橋である〔高橋,1980〕。上管生B遺跡では、無刻突帯文土器(9・10)が口縁部外側に凹線をもつ粗製深鉢と黒川式の鍵型口縁の浅鉢とともに出土しているが、瀬戸内や豊前に一般的な刻目文土器はみつかっていない。現在のところ無刻突帯文土器が刻目突帯文土器と共伴せずに出土するのは高知県西南部の四万十川流域の中村T式と、大野川の上流域に位置する上管生B式に限られている。上菅生遺跡と同じ地域にあり無刻突帯文土器が刻目突帯文土器と混在して出土するネギノ遺跡の無刻突帯文土器には貼り付け突帯とつまみだし状の突帯がある〔橘,1976〕。分類上これらは西部九州型の一条甕に属し、口唇部刻目は施さないなど、甕にみられる型式学的な特徴からは大野川の上流域が西部九州に含まれることは確実で、これは前期における突帯文土器の展開を考えても妥当である。突帯文土器の主文様が突帯文であることからすれば、突帯文土器成立の前段階に位置づけられるのは、刻目のない突帯文土器でなく隆帯文や刻目文をもつ土器である。その意味で瀬戸内の原下層式は隆帯文と刻目文土器(15)からなり、隆帯文と刻目文の関係の中から突帯文土器が成立することを考えれば、突帯文土器成立直前の段階は隆帯文と刻目文土器(15)、精製の無刻突帯の浅鉢の段階として認識したほうがよくそれは西日本全体にあてはまる。そして隆帯文様と刻目文様が融合するところに突帯文土器成立の意味があるのである。
  T期
 突帯文土器の成立をもって豊後は弥生時代早期にはいる。海岸部は瀬戸内型一条甕の地域である(16)。口唇部に刻目文は施さない。大野川上・中流域は西部九州型一条甕の地域で同じく口唇部に刻目文を施さず(3)、二条甕(11)とセットになる鍵形口縁の浅鉢が退化したものがともない泉編年のTからUa式段階に相当しよう。下黒野遺跡〔清水,1974〕では無文土器系の壺がともなうにもかかわらず甕の底部が平底でないという特徴をもつ。
  U期
 海岸部では大分市丹生川遺跡などで夜臼U式の黒色磨研の壺が出土しているが〔鏡山,1964〕、二条甕は発見されておらず、四国の西部と同じく二条甕が伝播しなかった地域の可能性もあるが詳細はまだ明らかでない。早期水稲農耕の伝播ともあわせて興味深い事実である。大野川上・中流域では宮迫遺跡〔清水ほか,1976〕(4)やネギノ遺跡のように二条甕が中心の組成で海岸部とは別の甕組成をとる。壺はまだ明らかでない。
  V期
 豊後に遠賀川式土器が伝播するのは板付Ua式併行期だが、器種構成はまだ明らかでない。 典型的な下城式はこの段階にはまだ成立していない。
  W期・X期
 海岸部で下城式が成立する(18・19)。X期になると大野川の上・中流域や宮崎にも分布が拡大する。下城式は遠賀川式土器の甕とセットになるが比率は不明である。下城式は口唇部の刻目文の有無や突帯上の刻目の比率に地域差の存在が指摘されている〔高橋,1989〕。また豊前や豊後の前期突帯文土器といえば下城式だが、宇佐平野や安心院盆地、日田市地域では西部九州系の亀ノ甲式甕も入っており複数の前期突帯文土器が遠賀川式土器の甕とセットになっている。
 山間部は突帯文土器に壺がともなうが遠賀川式甕はない。駒方B遺跡では、直径が数十cmもあるような大形の甕を使った土器棺葬を営んでいる。口頸部に貼り付け突帯を利用した山形文(13)や特異な形態の甕(7・8)も多く前期突帯文土器はきわめて特殊な展開をみせている。日常土器の器種構成がどうであったかはまだ不明である。


図17 西部瀬戸内の突帯文土器編年図
(周防・安芸・伊予)
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10
 2 西部瀬戸内(図17)

 周防、安芸、伊予地域を対象とする。西予を中心に状況が明らかになりつつあり、その動向は宮本一夫がまとめている〔宮本,1989〕。山口県奥正権寺遺跡〔山本ほか,1984〕、愛媛県船ヶ谷遺跡、同大渕遺跡、同中寺・州尾遺跡を使ってこの地域の突帯文土器を考える。

  先T期
 大渕遺跡土坑資料を標識とし、粗製深鉢、刻目文土器(1・10)、鍵型口縁浅鉢がセットになる。宮本の船ヶ谷式に相当する。
  T期
 船ヶ谷遺跡を標識とし、瀬戸内型一条甕(2・11)と鍵型口縁浅鉢が基本的なセットで、これに大量の粗製深鉢と屈曲型刻目文土器がともなう。早期水稲農耕が伝播する以前の土器相を示す。
 これに対して大渕遺跡は早期水稲農耕が伝播した状況を示す。まだ未報告ということもあって詳細は不明だが最も多くの土器を出土した第5層の器種構成は、過半数を占める瀬戸内型一条甕(13)にわずかな砲弾型一条甕(12)と瀬戸内型二条甕(23)がともなう。また無文土器系の壺がみられくの字口縁浅鉢がともなっている。
 くの字口縁浅鉢や二条甕の存在は、船ヶ谷遺跡より新しい特徴をもっているものの、甕底部の大半が凹底で平底はわずかしか見られないことなどは古い特徴をもっている。大渕の時間的位置づけは西予地域における水稲農耕の始まりを左右する問題なので、本報告をまちたい。ただ大渕で営まれていた水稲農耕のあり方は、限りなく地域的変容を遂げた石庖丁や土偶の存在などもあわせて考えると、瀬戸内の中でも特殊な存在である。
  U期
 大渕遺跡の一部と南海放送遺跡〔宮本,1989〕を標識とする。二条甕(23)は確実に存在するがその数は少なく岡山や近畿の比ではない。大渕遺跡の評価いかんによっては二条甕の出現がT期までさかのぼる可能性もあるが、胴部突帯の破片をみる限りはU期の瀬戸内型一条甕の胴部形態と同じなので、今のところU期に二条甕が出現すると考えておく。
  V期
 中寺・州尾遺跡1号溝出土土器、中山T式〔松崎・潮見,1961〕を指標とする。中山T式が遠賀川式土器単純の組成に対して、中寺・州尾遺跡では突帯文土器と遠賀川式土器が共伴している(16)。遠賀川式土器と共伴する突帯文土器は、瀬戸内型一条甕(15・16・17)と砲弾型一条甕(14)、砲弾型刻目文土器(3)の系譜を引く前期突帯文土器である。小ぶりの木口刻目や、家根分類の小O、小V、小D字刻目をもつ突帯を口縁端部から下がった位置に貼り付ける土器で、U期の突帯文土器より型式学的に新しい。とくに16・17は口唇部の刻目文と刻目突帯文が二重の効果をあらわしており、遠賀川式甕の口唇部刻目の影響を強くうけている。遠賀川式土器の影響がみられる突帯文土器は、遠賀川式土器単純の組成をみせる中山T式の中にもあるので(4)、突帯文土器を使う集団との接触・交流が存在したことは疑いない。
  W期
 古いところでは阿方・片山式〔杉原,1949〕、中山U式などの前期突帯文土器を甕組成に多くもつ土器群を標識とする。突帯文土器には口縁端部に接して突帯を貼り付ける、いわゆる瀬戸内甕(24・25)と口縁端部から下がった位置に貼り付ける下城式にそっくりな土器(18・19)がある。両者は分布を異にしているようで瀬戸内甕は吉備、讃岐、播磨などの中部・東部瀬戸内に、下城式に類似する突帯文土器は伊予、安芸などの西部瀬戸内にみられる。W期の突帯文土器は、少条のへラ描き沈線文(2−3条)や、削り出し突帯文(25)を特徴とする。甕組成においては遠賀川式甕の比率がまだ高い段階である。
  X期
 W期から継続する二つの突帯文土器が甕組成に占める割合を高め、遠賀川式甕との比率が逆転する地域が出現する。瀬戸内甕はヘラ描き沈線と沈線の下方に1〜2列の列点文を組みあわせて多条化し(26)、とくに西部瀬戸内の瀬戸内甕はもっとも多条化傾向が強い。下城式に類似する突帯文土器も多条化するが(20)、瀬戸内甕ほどではなくまた沈線をもたないもの(19)もあって、瀬戸内甕とは明らかに文様構成を異にしている。


図18 土佐の突帯文土器編年図
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10
*入田B式と田村前T・Uは地域を異に
する同じ時期の土器である
 3 南四国(土佐)(図18)

 i) 東土佐
  先T期
 土佐市倉岡遺跡から出土した倉岡T式を標識とする刻目文土器の段階である〔岡本,1983〕。
  T期
 倉岡U式を標識とする。口唇部に刻目文をもつ瀬戸内型一条甕を主とし、半精製の無刻一条甕が加わる甕組成である。U期はよくわからない。
  V期
 新段階になって突帯文土器と遠賀川式土器が共伴する(17)。共伴する突帯文土器は完全に弥生化した前期突帯文土器であることが、入田B式と異なっている。突帯文土器の組成は、一条甕系(14・15)と砲弾型一条甕系(12・13)がある。前者は屈曲の痕跡を胴部に残す器形で、口縁端部から下がった位置に突帯をめぐらし刻目を施文する。口唇部の文様は無文(15・16)と刻目文(14)があり、後者は遠賀川式甕の影響を受けたものである。器面調整は刷毛目やナデ調整である。
 砲弾型一条甕は、口縁端部より下がった位置に突帯をめぐらすもの(12)と、口縁部に接して突帯をめぐらすもの(13)がある。後者の刻目の方が小さく弱々しい。器面調整は一条甕と同様に刷毛目かナデである。
 その後東土佐では遠賀川式甕単純の組成になるが、X期に瀬戸内甕が1点(18)だけ存在するものの基本的に瀬戸内甕の分布域には含まれない。
 一般に口縁端部から下がった位置に突帯を貼り付ける技法は、早期の最も古い段階の特徴だが、四国や東部九州ではかなり新しい時期まで存続し、中寺・州尾遺跡や田村遺跡、下城遺跡から出土する前期突帯文土器は口縁端部から下がった位置に突帯を貼り付けるものがほとんどである。西部九州や近畿など突帯の位置が上昇する前期突帯文土器に対して豊後水道や日向灘をはさんだ地域の地域色と言えよう。
 砲弾型一条甕の中で口縁端部から下がった位置に突帯を貼り付けた甕は、東部九州の下城式と関連が注目される。下城式の最も古いタイプは内湾気味に立ち上がる口縁部をもち、口唇部の外端部に刻目文、口縁端部から下がった位置に突帯を貼り付ける甕である。両者は文様や細部形態に違いがあるので直接に結び付けることはできないが、V期の新段階に瀬戸内の各地で遠賀川式土器と共存していた突帯文土器を基盤に成立してくるもので、地域によって瀬戸内型甕や下城式などのかたちをとった点こそ重要と考える。
 東土佐の甕組成の特徴は、V期新段階における遠賀川式甕と前期突帯文土器との共伴と、二条甕の欠落にある。突帯文土器と遠賀川式土器の比率は約1:1で板付遺跡と同じ相互補完関係が成り立っている。しかし完全に弥生化した突帯文土器と遠賀川式土器の共伴の意味は早期突帯文土器の遠賀川式が共伴する板付遺跡とは質的に異なる。系譜を違える土器の使い分けでは説明できないこの地域独自の事情を反映したものであろう。
 ii) 西土佐
 四国では例外的に二条甕をもち、西部九州的な要素も強い地域である。
  T期
 無刻突帯文土器が刻目突帯文土器と共伴しない中村T式土器を指標とする。器種構成は刻目のない一条甕を主とし、砲弾型無刻一条甕、粗製深鉢、鍵形口縁浅鉢からなり菜畑9−12層に併行すると考えられている。無刻一条甕は瀬戸内型(1)が主だが西部九州型一条甕(4)も10%の割合で存在する。前者がナデ調整で仕上げるのに対し、後者は東部九州と同じヨコ方向の貝殻条痕で仕上げる。器面調整の差が器形差と対応している点は系譜を考えるうえで非常に興味深い。またヘラ研磨で仕上げる精製の一条甕もある。鍵形口縁の浅鉢がともなうことからすれば前池式より古く位置づけることはできず、突帯文土器より古い様式として無刻突帯文土器を考えることができない証拠の一つともいえよう。西土佐の地域的特徴である。
  U期
 刻目突帯文土器の中村U式を標識とする。瀬戸内型一条甕(2)、無刻瀬戸内型一条甕そして西部九州型二条甕(5)の組成で、夜臼Ua式併行と考えられている。西部九州型二条甕が甕組成の中心である。二条甕はT期の西部九州型一条甕と同じく条痕調整である。甕にみられる西部九州的な特徴は早期水稲農耕の伝播を強く窺わせ、またイネ科の栽培型の花粉が高い比率で検出されたことともあわせて、水稲農耕の存在が強く推定されている〔木村,1988〕。伝播ルートについては「大陸から北九州に伝播された稲作は、豊後水道に敷かれた縄文早期からの伝統もつ姫島産黒曜石の交易ルートを通り本地方へ一足飛びに持ちこまれたものと考えられる」〔木村,1988:372〕と説明される。しかし、壺は伴わず打製の石庖丁形石器と大量の打製石斧が目だつばかりである。甕にみられる西部九州的な要素にしてもいまのところ東部九州には分布せず、どの地域からの影響を受けたのか推定できない。
  V期
 有岡式を標識とする。甕の組成は二条甕を主とするようだが、西部九州型か瀬戸内型か判断できる資料は少ない。胴部の屈曲はかなりなくなっており口縁部の突帯も端部に接して貼り付ける。斜行条痕調整である。甕の底部はすでに平底化している。
 新段階は、入田B式を標識とする。入田B式は9割をこえる甕とわずかな壺と鉢からなり、甕をもたない遠賀川式土器の入田T式と共伴する。入田B式の甕組成は瀬戸内型二条甕(6・7)、瀬戸内型一条甕、砲弾型一条甕(3)、無刻の一条甕と二条甕で、瀬戸内型二条甕を主とする。口縁部突帯の貼り付け位置は口縁端部からわずかに下がった位置か口縁端部に接するかでかなり上昇している。器面調整は条痕である。壺は条痕調整があることからみて縄文変容系の可能性がある。
  W期・X期
 突帯文土器は原則的に存在しないが、中村市のツグロ橋下遺跡〔木村,1988〕からは下城式(17)が出土している。
 入田遺跡における突帯文土器と遠賀川式土器の共伴は、中寺・州尾遺跡や田村遺跡にみられるような前期突帯文土器と遠賀川式士器の共伴ではなく、板付遺跡と同じ早期突帯文土器と遠賀川式土器の共伴である点に注目する必要がある。ところが最近になって岡本は入田B式と入田T式との共伴現象を否定し、入田B式を入田T式に先行させる見解を示している〔岡本,1979〕。これは中村市有岡遺跡で入田B式単純の土器群が発見されたのを考慮したものである。早期突帯文土器と遠賀川式土器との共伴現象が玄界灘沿岸地域以外でも見られるのかどうかは、前期水稲農耕文化の伝播と深くかかわってくる問題なのでその展開には注目していきたい。

図19 中部瀬戸内の突帯文土器編年図
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 iii) 中部瀬戸内(備後、備中、備前、讃岐)(図19)
 吉備、讃岐の瀬戸内海沿岸地域を対象にする。1960年代の春成による晩期土器編年の総括〔春成,1969〕以降、藤田憲司の遠賀川式土器成立期の研究〔藤田,1982〕、平井勝の突帯文土器研究〔平井,1988・1989〕によってこの地域の縄文から弥生への転換期の様相は急速に明らかになってきた。
  先T期
 古くは原下層式、最近では谷尻式〔平井,1989〕(1・2)を標識とする。刻目文土器や隆帯文土器の段階である。
  T期
 前池式〔潮見・近藤,1956〕を標識とするが量的に少ないので岡山市広江・浜遺跡出土土器〔間壁,1979〕を使って検討する。器種構成は甕と浅鉢である。甕組成は粗製深鉢、刻目文土器、突帯文土器で、量的には粗製深鉢が最も多い。突帯文土器は瀬戸内型一条甕(3)単純に近く、これに無刻一条甕が加わるのみで二条甕や砲弾型一条甕はまだ出現していない。口縁端部から下がった位置に突帯をめぐらしV字・D字刻目を刻む。頸部と胴部の境界を明確に区分するためにへラで沈線状の段をいれたり、爪形文をめぐらす。中部瀬戸内の一条甕の特色は、他の地域に比べて口唇部に刻目を施文することが多くその比率は50%にも達する。また口頸部にへラや爪を用いて文様をつける有文甕が顕著である。底部は丸底または凹底で注意を要する。
  U期
 岡山大学学生寮や沢田式を標識とする。器種構成に壺が加わる。甕の組成は突帯文土器が主になっていてわずかに粗製深鉢と刻目文土器が伴う。突帯文土器は瀬戸内型一条甕(13)と瀬戸内型二条甕(17)、砲弾型一条甕(4・5)と器種が増加する。口縁部破片が多いので三者の組成比はわからないが、沢田遺跡の土坑資料は二条甕中心の組成である。口縁部の突帯は口縁端部からわずかに下がった位置にめぐらされるようになり、小ぶりになった刻目も登場する。口頸部と胴部の境界があまくなるもの(18)も出現する。口唇部刻目文は一条甕にはほとんど見られなくなり、二条甕はもたないものがほとんどである。二条甕の器形は一条甕とまったく同じで、へラによる段や爪形文が施文されていた部位に突帯を貼り付けて刻目を施文したものである。砲弾型一条甕の法量は、屈曲型の突帯文土器に比べて小形である。また甕の底部はそれまでの丸底や凹底から西部九州の平底へ変化する。壺はまだ数こそ少ないが、小形壺と大形壺がある。系譜的には無文土器系と縄文変容系の二者がある。U期は甕の器種の増加や、底部の平底化、壺の出現にみられるように西部九州から早期水稲農耕が伝播する段階なのである。
  V期
 この地域に遠賀川式土器が出現する。この段階に突帯文土器が存在するのは確実で香川では遠賀川式土器と突帯文土器が共伴する。岡山はまだよくわかっていないが津島南地点〔藤田,1982〕や、香川県大浦浜遺跡〔大山,1988〕では瀬戸内型一条甕の最終末型式と考えられる甕(15・16)や砲弾型一条甕(6・10)が遠賀川式土器とともに出土している。大浦浜遺跡の突帯文土器は、中寺・州尾遺跡と同じく早期突帯文土器(沢田式)と前期突帯文土器からなっている。津島南地点で遠賀川式土器と共に出土した突帯文土器は、二条甕を中心としたものである(19)。胴部は屈曲の痕跡を残しているとはいえ、口縁部は外に向かって大きく開くかたちをとる。沢田式の段階に衰えた口唇部刻目文が遠賀川式土器の如意状口縁の刻目の影響を受けて復活して、突帯の貼り付け位置も再び下がった甕が存在するなど、長原式とは異なった変化を遂げる。しかし砲弾型一条甕は、長原式と同じように変化するので、西日本における前期の突帯文土器は、器種によって個別の変化を遂げることが推定される。
  W・X期
 前期突帯文土器が大量に増加する。逆L字口縁甕として知られる瀬戸内甕(11)が遠賀川式土器と共伴し、そのあと徐々にその比率を増して、X期になると甕組成のなかにおける遠賀川式系甕と突帯文土器の比率が逆転する大浦浜や中ノ浜遺跡〔藤好,1982〕もある。このあり方は早期の突帯文土器様式でなく、煮沸用土器として遠賀川式土器の甕組成に加わるものである。砲弾型の胴部をもつ甕の口縁端部に接して突帯を貼り付け、突帯上面が平坦になるようヨコナデ調整し刻目文を施文する。胴部上位にヘラ描き直線文を施文するのが一般的で、その条数は新しくなるにつれて増加する傾向にあるが西部瀬戸内ほどは多条化しないのが中部瀬戸内の特徴といえよう(12)。また直線文の下位に1ないし2列の列点文を組み合わせて多条化させた甕もある。

図20 近畿の突帯文土器編年図
<各報告の原図を改変>縮尺約1:10
 三.近 畿(図20)

 大阪湾沿岸の摂津、河内、和泉、そして和歌山県を対象にする。

  先T期
 滋賀里Vb・Vc式を標識とする。刻目文土器(1・5)や隆帯文土器の段階である。
  T期
 滋賀里W式を標識とする。器種構成は甕と鍵型口縁の浅鉢である。甕組成は粗製深鉢、刻目文土器、突帯文土器で恩智遺跡や鬼塚遺跡のデータによると粗製深鉢や刻目文土器が高い比率を占める。突帯文土器は瀬戸内型一条甕(6・7・16)単純に近く、二条甕や砲弾型一条甕はまだ出現していない(18)。底部は尖り底気味の丸底で、器面をケズリ調整で仕上げ、口縁部を面取りしたあとに口縁端部より少し下がった位置に突帯を貼り付けて、刻目を施文する。また口唇部に刻目をもつ場合もあり、大振りのD字やV字刻目を施す。滋賀里W式の一条甕の口縁部付近は、家根のいうところの五段階仕上げで作られており、最も手間をかけて作っている。
  U期
 口酒井式、船橋式を標識とする。器種構成に壺が加わる最大の画期である。突帯文土器の組成は一条甕(9)と二条甕(17・21)、砲弾型一条甕(8)である。一条甕と二条甕の比率は口酒井15次のデータによると9:1で一条甕が多い〔泉,1988〕。底部が平底化し新しい煮沸形態に変化したことを窺わせる。しかし、器形は瀬戸内型のままで、四国の西部のように西部九州型はなく、瀬戸内型の胴部に刻目突帯という文様要素だけを受け入れる。瀬戸内と同じ受容形態である。器面調整はT期と変わらず、口縁部を成形した後に口縁端部から少し下がった位置に突帯を貼り付けて刻目を施文するが、口縁端部を面とりしない点と、口唇部に刻目を施文しない点、そして小D字刻みがあらわれる点に変化があらわれる。家根が示した三段階仕上げで作られており、T期にくらべて口唇部刻目と口縁端部の面取りに手抜きがおこなわれている。壺は無文土器系と縄文変容系があるが、前者は小壺に限られ、大形壺は後者の深鉢変容型に相当する。
 この段階の突帯文土器様式にあらわれた一連の変化は、西部九州からの早期水稲農耕の伝播に伴うものであるが、壺にみられた搬入品と変容系の存在は、水稲農耕の伝播形態を考える上で、重要な視点となる。
  V期
 長原式を標識とする。遠賀川式土器が出現する段階である。突帯文土器の組成は二条甕(18・22)と砲弾型一条甕(10・11)で一条甕は消滅している。二条甕と砲弾型一条甕の比率は4:1である。壺には無文土器系と、縄文変容系、大洞系がある。浅鉢の比率は5%以下でもはや縄文土器の組成ではなく、弥生化した前期突帯文土器の組成である。甕は瀬戸内型に混じって西部九州型がわずかに含まれる点が興味深い。胴部下半は削り調整で仕上げるが、胴部突帯から上はナデ調整で、刷毛目を使用しない点が注目できる。


(*)

口縁部の突帯は口縁端部まで上昇することで口縁部の成形と同じ工程でつくることが可能となり、突帯の断面形態がAやB(*)に変化する。刻目は小D、小V、小O字で小振りになる。浅鉢は黒色磨研土器とはいっても焼成と硬度の点でその範疇には含まれないといい、椀・皿形の浅鉢がみられる程度である。これらの突帯文土器は第T様式古・中段階の土器に併行し共伴する場合も多い。


  W期
 河内や摂津の近畿中心部では、突帯文土器を使用する集団が遠賀川式土器を使用する集団と占地を異にして生活を営んでいたが、突帯文土器自身の型式変化については不明な点が多い。水走遺跡出土土器が長原式の後続型式として考えられているが、器種構成は不明である。近畿の中心部から遠くはなれた紀ノ川流域やさらに南の田辺湾の周辺では、突帯文土器(12・19)を使用する集団が存在していたが、それ以外のほとんどの地域では遠賀川式土器を使用する集団との日常交渉の中で前期突帯文土器を使っていた集団は吸収されていったと考えられている。〔寺沢,1981〕。
  X期
 山賀遺跡〔大阪府教委ほか,1984〕で瀬戸内甕が出土しているが(14・15)、甕組成に占める割合は数%にすぎず、瀬戸内地域からの持込みと考えられる。

 Y 突帯文土器の地域色

 一.地域色研究の視点

 弥生土器の地域色研究は、櫛描文様の有無によって区別された九州とか近畿とかの地域単位毎の差を「地域的様式差」として概念化した小林行雄にはじまる〔小林,1943b:122〕。その後、佐原眞が近畿地方の内部における中期弥生土器の地域色の解明をめざし、最終的には旧制の国の単位程度の広さにおける地域差の認識へ進んだ〔佐原,1962・1970〕。都出比呂志も第X様式や第V様式の地域色を抽出するにいたっている〔都出,1974・1983〕。地域色を認識する差異の指標には、「同一の「時間的様式」内における特定の器種の存否、あるいはその構成比、主流を占める文様の種類や施文手法、ハケメやケズリなど調整手法の違い」〔都出,1989:302〕などがあるが、対象とする地域単位の広さのとりかたによって各種のレベルがあり、もっとも有効な指標を探すのは容易ではない。また識別された地域色も特に小さな地域単位のレベルでは、明確な境界線をもってひきうる性質のものでなくなってくる場合が多い。地域色をかたちづくる個々の地域の実態については、土器製作技法の接触頻度の関係から説明され、都出はもっとも接触頻度の高い地域単位を「地域的小様式」と呼んでいる。また弥生土器の地域色の出自についても、すべての出発点が畿内地方において弥生土器が成立した時点に求められている。
 突帯文土器の地域色は、突帯文土器が成立する以前の地域色を反映したものと考えられ、そうした突帯文土器の地域色が水稲農耕開始による社会の変化を受けてどのような影響を受けたのか知ることは、弥生土器の地域色研究の出発点になる。この章は、突帯文土器の地域色を識別し各地域がみせた水稲農耕の受容形態から弥生文化の定着形態を知る基礎作業にあたる。


 二.早期突帯文土器の地域色

 1 早期突帯文土器の地域的様式差

 突帯文土器様式が存在する西日本は、亀ヶ岡式土器様式が存在する東日本と識別できるが、このうち伊勢を除く伊勢湾沿岸地域に突帯文土器様式が存在するのはT期の段階に限定される。それは、主文様だった突帯文様が単位文様として壺や甕に用いられることで条痕文土器様式に取り込まれていくからである。したがって本稿では、近畿以西の突帯文土器の地域色をみていくことにする。この作業は佐原や都出が近畿の弥生土器を対象に地域色を検討した地域的小様式の識別を目的とするものである。まず、突帯文土器様式が分布する西日本には小林が識別したような「地域的様式差」が認められるのであろうか。
 はじめに、突帯文土器自身に目を向けると、近畿以西の突帯文土器には東と西に大きな器形差が存在し明確な線びきができる。すなわち屈曲型の突帯文土器には瀬戸内型と西部九州型という大きな器形差があって、瀬戸内型は東部九州から近畿にいたる範囲に、西部九州型は西部九州に分布するので、瀬戸内型の有無や、西部九州型の有無という指標で識別できる。この東西の器形差は、突帯文土器が成立する以前から存在したもので突帯文土器もその器形差を継承したにすざない。この器形差はすべての突帯文土器が砲弾型になるV期新段階まで存在する。
 器形にみられた東西の地域差を裏付ける指標は他にもある。それらは屈曲型の器形差のように存否で識別できるほど強くはないが、比率で識別できるものである。先T期とT期における屈曲型と砲弾型の構成比率をみる。参考のために粗製深鉢と刻目文土器の構成比も提示した(表4)(19)。すると地域によって構成比が異なっていることがわかる。砲弾型がまさる西部九州と屈曲型がまさる東部九州以東との地域との違いは一目瞭然である。胴部形態は調理対象物の違いや調理具の使い分けを反映すると考えられる指標である。さらに突帯文土器の成立期から二条甕をもつ地域と、途中から二条甕をもつ地域の境界線もここに引くことができる。


表4 先T期とT期における砲弾型甕と屈曲型甕の比率

 このように近畿以西の突帯文土器様式には、瀬戸内型甕と西部九州型甕の存否、屈曲型甕と砲弾型甕の比率、一条甕と二条甕の分布や比率に大きな違いをみせる対照的な二つの地域差の存在が明らかになった。近畿以西の西日本を九州のほぼ中央で東西に二分する地域的なまとまりは、なにも突帯文土器様式に限られたものではない。縄文土器や弥生時代中期の櫛描文の分布においても地域差は存在し、同じところに東西の境界線を引くことができる。都出が弥生時代中期の土器の地域性を論じる際に規定した畿内地方と北部九州地方の関係、「畿内と北部九州という大きい地方どうしの間には土器製作技術の日常的交流は、中期には、ほとんどなかったことが大きな要因として働いているというべきであろう」〔都出,1989:308〕が早期の西部九州と瀬戸内�近畿地方の間にも存在したのである。すなわち突帯文土器様式の地域的様式差は西部九州と東部九州以東の地域の間に認められるのである。

 2 西部九州における地域的小様式

 i) 煮沸用土器の組成

 西部九州における煮沸用土器の組成は、すべての地域で同じ組みあわせを示しているわけではない。西北九州・唐津・福岡平野などの玄界灘沿岸ではすべての煮沸用土器がみられるが、佐賀と薩摩を除く有明海沿岸では祖型甕が欠落する。また佐賀と薩摩に祖型甕があるといっても板付T式へ変化していくタイプではない。その意味で有明海沿岸が板付T式の成立に関与していないことがわかる。有明海沿岸の突帯文土器の文様型をみると、西部九州にはもともとない組みあわせを除けば屈曲型で口縁部か胴部に一条だけ突帯を貼り付ける文様型は欠落し、特に佐賀・筑後・薩摩では多くの文様型が欠落することがわかる。
 このように煮沸用土器の組成からみると西部九州には突帯文土器の成立と展開にあたっての中心と周辺というまとまりが存在したことがわかる。すなわち煮沸用土器の量や変異型が豊富な島原半島や熊本、唐津、福岡平野などの中心地域と、それらに乏しく定型化した突帯文土器ばかりの佐賀、筑後、西北九州、薩摩などの周辺地域である。
 ii) 突帯文土器の甕組成
 T期は砲弾型一条甕が主の福岡平野を除いて屈曲型の甕が主である。U期もT期と同様、甕組成は基本的に変化しない。V期になると有明海沿岸は継続して二条甕を主とするが、玄界灘沿岸は板付T式甕と屈曲型の突帯文土器が共伴する。板付T式甕の器形は砲弾型であるが口縁部が外反するため、調理時の蓋使用に関して突帯文土器との使用法の違いが指摘されている。
 V期の屈曲型突帯文土器は強く屈曲したり湾曲する器形は少なくなり砲弾型の器形に近づいている。早期の突帯文土器の胴部形態は福岡平野をのぞいて屈曲する甕を主としていたことを考えれば、縄文的な煮沸形態の終末的状況といえる。また砲弾型がずっと主流であった福岡平野でもこの時期になって初めて屈曲型の二条甕が主流となり、いままで主だった砲弾型一条甕が激減した理由は、砲弾型一条甕が担っていた役割が同じ砲弾型の器形である遠賀川式甕に吸収されたことを示している。そして二条甕と板付T式甕の共伴は、調理法や調理対象物の面である種の使い分けがおこなわれていたことを意味するのである。
 このように早期の西部九州には、器形をまったく異にする突帯文土器が主流となる二つの地域ブロックが存在する。
 iii) 屈曲型甕の型式学的特徴
 西部九州の代表的な突帯文土器である二条甕を中心に、西部九州内の地域色を考えてみる。表5は、早期に属する西部九州の二条甕を対象に、刻目の施文法、口縁部に貼り付ける突帯の位置、器形という主要3属性がどのような組みあわせを示すか地域別にみたものである。数字は個体数をあらわし、数字を「〇」で囲んだものが各地の各型式のなかで最も多い組みあわせを示し、「△」で囲んだものは各期のなかでその地域にしか存在しない組みあわせであることを示したものである。


表5 西部九州の二条甕にみられる異変

屈痕
屈無





弱 屈曲するもの
屈曲の痕跡を残すもの
屈曲がとれたもの
口縁部突帯の貼り付け位置
口縁部から突帯幅一つ分以上
下がった位置に張り付けるもの
口縁端部からわずかに
下がった位置に貼り付けるもの
口縁端部に接して貼り付けるもの
刻目の施文法
刺突刻み
押し引き刻み
弱く刻むもの
 T期の最も多い組みあわせをみると、薩摩と福岡が一致している他は地域毎に別々で属性レベルでの地域色が強い段階と言えよう。しかし、V期になると各地域とも砲弾型の胴部をもち口縁端部に接して突帯を貼り付け、押し引き刻目を施す組みあわせ(屈無、C、押)が最も多くなっていて属性レベルでは統一されている。このように西部九州の二条甕を属性レベルでみると、地域色が強い段階から斉一的な段階へと移行することがわかる。それでは、T・U期の地域色はどの属性に最も強くあらわれているのだろうか。T期において最も多い組みあわせは刺突刻目で屈曲する器形をもつものだが、口縁部突帯の貼り付け位置に関しては福岡、薩摩はBで新しい傾向をもっている。U期になると福岡だけが口縁部突帯をCに貼り付けるようになり他の地域も、V期になってようやく口縁部突帯をCに貼り付けるようになる。この事実から刻目の施文法と器形が各地域おなじ歩調で変化するのに対し、口縁部突帯をどこに貼り付けるかという点においてはバラツキが多く、特に福岡平野では他の地域よりも早く突帯の貼り付け位置が上昇するという傾向を導くことができる。福岡の突帯文土器が新しい雰囲気をもつ一つの理由である。貼り付け位置が上昇すれば口縁部の成形と同時に突帯を成形することができ、作業工程の簡略化が可能となってくる。
 各期毎の特徴的な組みあわせは、T期は有明海沿岸に、U期とV期は福岡平野に存在する。特にU期とV期の場合にどこが特徴的かというと、U期は器形と口縁部突帯の位置が同じで刻目を異にする(屈痕、C、刺)。V期は屈曲がとれた器形と口縁部突帯の位置Bが同じで、刻目を異にするものと口縁部突帯の位置Cと弱い刻目が同じで器形を異にしており、これらから考えると、刻目と器形に古い要素が残り口縁部突帯が早く変化するという、先ほどと同じ知見がえられる。しかも福岡平野に顕著な点まで一致している。組みあわせの豊富さを見ると有明海沿岸、唐津、福岡のように豊富な地域と、薩摩や西北九州のように乏しい地域があったこともわかる。
 このように二条甕を主な三つの属性に限って属性レベルで検討した結果、西部九州の二条甕が地域色の強い段階から福岡平野主導のもとに口縁部突帯の位置を上昇させることで斉一的な段階へと移行していく状況が明らかとなったり、有明海沿岸・唐津・福岡などの中心地域と、薩摩・西北九州などの周辺地域を識別することができた。

図21 西部九州の地域型甕模式図
 iv) 地域甕の設定(図21)

 西部九州の屈曲型甕の中には、口頸部形態、口縁部突帯と胴部突帯までの間隔、器面調整、器形変化に特徴をもつ地域型甕が存在する。
 福岡平野に特徴的な二条甕は、内湾する口頸部をもち突帯間の間隔は広くアナダラ属の貝殻条痕調整から板ナデ・刷毛目調整へと変化する甕(1)である。また器形は口頸部の形が内湾したまま胴部の屈曲を弱める方向で変化する(2)。この甕は全体的に繊細な雰囲気をもつので新しい印象を受ける。福岡平野を中心に分布し唐津や西北九州地域、薩摩などの外洋に面した地域にも点在している。このような特徴をもつ福岡平野の二条甕を「筑前型」と呼ぶことにする。
 有明海沿岸に特徴的な二条甕は、直線的に内傾する口頸部をもち突帯間の間隔は広い。条痕調整だが貝殻条痕ではなく板や植物質の原体を用いた条痕で、のちに板ナデやナデ調整に変化する(3)。器形の変化は大きな流れが二つ認められる。一つは口頸部が直線的な形態をたもったまま、さらに強く内傾したあと胴部の屈曲を弱めていく変化(4)と、外湾しながら胴部の屈曲を弱めていく変化(5)である。この甕は全体的に粗剛な雰囲気をもつので古い印象を受ける。福岡や唐津などの外洋に面する地域にはほとんど分布せず、内陸的な甕とでも言えようか。このような特徴をもつ有明海沿岸の二条甕を「有明海型」と呼ぶことにする。後述するが前期になると器形は砲弾型になり、突帯間の間隔が広い佐賀(6)や薩摩の甕と狭い亀ノ甲式甕(7)が見られる。刷毛目調整をまったくおこなわないのが有明海型の最大の特徴である。
 唐津平野のU期およびV期の古段階に主となる突帯文土器は、屈曲型の胴部をもち口唇部に刻目文、屈曲部に刻目突帯文をもつ甕(8)で西部九州の他の地域が二条甕を主とするのとは対照的であるうえに、口唇部は特別な手法を用いて整形している。口唇部を端正に面取りし平らな端面を明確に造りだした後、口唇部内面に強いヨコナデ調整を施し、この部分に凹線に似た窪みを巡らすものである(9)。このような特殊な調整をくわえた文様型の甕を「唐津型」と呼ぶことにする。
 以上のような西部九州の地域型甕以外にも、器形や文様、整形技法では明確に識別できないにもかかわらず、土器自身がもつ雰囲気とか表情といったレベルで他とは区別できる土器は存在する。たとえば福岡平野の板付遺跡の甕と有田遺跡の甕は、どちらの遺跡のものか識別できるものがある。このような違いをはたして地域色と言えるのかという問題もあるが、集団毎の違いを反映していることは事実でこのような差異をどのような指標をつかってどのように表現していくかが今後の課題である。
 v) 西部九州における突帯文土器の地域差と甕組成
 これまで二条甕を中心とする屈曲型甕の型式学的検討、地域型甕の抽出、突帯文土器甕組成などの指標を使って地域差を検討してきた。その結果、早期の西部九州は大きく二つのブロックにわかれることがわかった。
  有明海沿岸・唐津・西北九州・薩摩
 屈曲型の甕が突帯文土器の主となる地域ブロックで、地域型の甕として有明海型や唐津型がある。この地域ブロックは二つの地域にわかれる。二条甕の変異型が豊富で煮沸用土器は欠落する器種がないという、いわば突帯文土器の成立と展開にあたって中心的な地域であった有明海沿岸・唐津と、もう一つは二条甕の変異型が乏しく欠落する煮沸用土器が多いという、突帯文土器の成立と展開にあたって周辺的な様相をもつ西北九州と薩摩である。
  福岡平野
 砲弾型一条甕が主となる地域ブロックで、二条甕は筑前型が分布する。筑前型は西部九州の中では口縁部突帯の位置を他の地域に先駆けて最も早く上昇させる土器で、この変化が西部九州の二条甕にみられた地域差を地域差が強い段階から斉一的な段階へと転換させた現動力となったのである。
 以上の二大別は、佐原が畿内第U様式を畿内周辺部と中心部に分けた2大別に対応するのか、もしくは同じ時期の畿内を北部と南部に分けた大別に相当するかのどちらかで、都出のいう地域的小様式には相当しない。

 3 近畿・瀬戸内における地域的小様式

 i) 煮沸用土器の組成>
 この地域の早期の煮沸用土器には、突帯文土器以外にも粗製深鉢や刻目文土器がある。ほとんどの地域では比率を別にするとすべてがみられるが、砲弾型刻目文土器だけはもっている地域の方が少なく近畿や吉備に限られる。しかしそれが祖型甕といえるかどうかといえば祖型甕とはいえず、内傾接合で縄文的な器面調整を施す縄文系に相当する。したがって現状では近畿や瀬戸内に砲弾型刻目文土器はわずかに認められても祖型甕はまったく存在しないと考えられる。
 突帯文土器の組成は、胴部だけに突帯を貼り付ける胴部一条甕は伊予を除いて存在しない他はほとんどの地域でそろっている。また文様型の変異型も西部九州に比べるとより豊富である。
 ii) 突帯文土器の組成比
 近畿や瀬戸内の突帯文土器の中で主体となる突帯文土器を抽出してみよう。T期はすべての地域で一条甕が主になる。U期になると、ほとんどの地域で二条甕が主となるが、豊後・伊予は一条甕のままである。このように主になる突帯文土器をみると、早期の間ずっと一条甕が主になる豊後や伊予と、一条甕から二条甕へと主になる突帯文土器がかわる地域が存在することがわかる。
 iii) 一条甕と二条甕の型式学的特徴
 西部九州ほど細かくは検討できないが、器形や文様および器面調整に若干の地域的な特徴を指摘できる。屈曲型は圧倒的に瀬戸内型であることは前にも述べたが、伊予に西部九州型一条甕が1点みられるのと、西土佐のT期とU期に西部九州型一条甕と西部九州型二条甕がみられ、特にU期には西部九州型が瀬戸内型よりも多くみられる。また当然のこととして西部九州型の器面調整は東部九州的な特徴をみせる。文様は口唇部と口頸部に地域毎の特徴がある。まず一条甕の口唇部刻目文をみると豊後にはまったくみられないのをはじめ、豊前・東土佐・紀伊・畿内では20%にとどまるのに対して、周防・伊予・吉備の一条甕は50%の比率で施文されるという。参考までに西部九州の口縁部に突帯をもつ屈曲型の甕の口唇部にはいっさい施文されない。口頸部の文様も口唇部刻目の動向とほとんど同じで、豊前・土佐・紀伊ではまったく施文されず、豊後・伊予・近畿にわずかみられる他は吉備に偏っており、この伝統は前期突帯文土器まで継続する。
 このように西部九州に近いほど西部九州型の器形と器面調整が多く、文様的にも突帯文以外の文様は施さないという無文化傾向を指摘できた。

図22 近畿・瀬戸内の地域型甕模式図
 iv) 地域型甕(図22)
 iii)の型式学的な特徴をもとに地域型甕を設定してみよう。
東部九州型 瀬戸内型一条甕に属すが、屈曲部には段やヘラ描き沈線はなく口頸部のヘラ描き文や口唇部刻目文を基本的に施文しない甕で、長門・豊前・豊後の海岸部に分布する(1)。
吉備型 瀬戸内型一条甕、同二条甕に属す。文様的に豊富な甕である。屈曲部や湾曲部にはヘラで段をいれたり沈線を巡らしたり爪形文をまわしたりして、口頸部と胴部を明瞭に区別する。口唇部には刻目文を施し口頸部にへラ描きの沈線文をもつ甕(2)である。吉備や伊予を中心に分布し周防や近畿にもみることができる。
 v) 近畿・瀬戸内における突帯文土器の地域差と甕組成
 これまで近畿や瀬戸内を甕組成や屈曲型突帯文土器の型式学的検討や地域型甕を指標に地域差を検討してきた。その結果、早期の突帯文土器は大きく二つに分けられることがわかった。
  豊後・伊予・西土佐
 屈曲型一条甕が突帯文土器の主となる地域ブロックで器形や器面調整には西部九州的な特徴が強くあらわれる地域である。文様的には西部九州的な無文化傾向をもつ豊後や土佐と有文傾向が強い伊予にわかれるが、全体的に西部九州の影響が強く西部九州と近畿や瀬戸内の中間的な様相を示す地域ブロックと言えよう。
  豊前・周防・吉備・近畿
 屈曲型一条甕から屈曲型二条甕へと主となる突帯文土器が転換する瀬戸内北岸の地域ブロックである。器形的にはすべて瀬戸内型に属すが、東部九州型と吉備型にみられるような形態差をもっている。文様的には吉備が最も装飾が豊富で、東や西へ行くほど無文化傾向が強くとくに西部九州に近い豊前や長門ではまったく文様が無いといってよい状況である。

 近畿や瀬戸内でみた二大別は、西部九州でみた二大別と質的に同じで、地域的小様式までには至っていない。


 三.前期突帯文土器の地域色

 1 地域型甕の設定

 前期の突帯文土器にも、器形や口縁部突帯と胴部突帯までの間隔や器面調整、文様の面に特徴をもつ甕が存在する。前期の器形はすべてが砲弾型のため器種的には二条甕と砲弾型一条甕しかない。分布は二条甕が主体の西部九州と一条甕が主体の東部九州・瀬戸内にわかれる。
 西部九州では早期の有明海型二条甕が弥生化したものが主となる。亀ノ甲型や高橋U式として有名な甕で刷毛目をいっさい使用せずナデ調整で仕上げ、刻目文や突帯文、1〜2条の沈線以外はほとんど文様をもたない。前期末には底部が脚台化するという特徴をもつ。口縁部突帯と胴部突帯の間隔が広い佐賀や薩摩の二条甕(図21−6)と、狭い亀ノ甲型(図21−7)があり、特に後者の分布範囲は西部九州全体へと広がっている。このような特徴をもつ二条甕も「有明海型」と呼ぶことにする。
 西北九州に特徴的な前期の突帯文土器は、突帯間の間隔がひろくナデ調整を用い胴部は前期であるにもかかわらず湾曲しており、また口縁部突帯も口縁端部から下がった位置に貼り付ける(図21−10)。甕の組成に占める割合こそ少ないが薩摩にもみられ外洋的な分布をみせる。このような特徴をもつ前期の突帯文土器を「西北九州型」と呼んでおこう。
 大分県の大野川上・中流域には、きわめて地域的な発展をとげた突帯文土器が存在する。これは突帯文を駆使して口頸部に山形文やそのほかの文様を造形するものである(図22−3)。今のところ埋葬用の大形甕しか見つかっていないが、熊本県塔の原遺跡でも見つかっているので阿蘇の外輪山を中心とした山間部に分布の中心をもつ可能性もある。このような特徴をもつ甕を「大野川型」と呼ぶことにする。
 さて前期の突帯文土器の中で最も地域的な特徴をもつのは砲弾型一条甕である。西部九州に分布するのは有明海型で亀ノ甲型や高橋U式として知られている。ただし、これは二条甕より少く甕組成に占める割合も低いので、これから述べる瀬戸内沿岸の砲弾型一条甕とは性格を異にしている。
 豊前の南部から豊後の海岸部にかけて分布する砲弾型一条甕は器種分類でも設定した「下城型」で、口縁端部から下がった位置に突帯を貼り付け突帯の下位には文様を施文しない(図22−3)。口唇部に刻目文をもつものは成立期にみられる程度である。これには刷毛目調整を用いる甕もある。安芸や西土佐、伊予にもわずかではあるが確認されている。
 最後に吉備、讃岐、伊予、安芸を中心に分布する「瀬戸内型」がある。口縁端部に接して突帯を貼り付けるもので突帯の下位にヘラ描き沈線や刺突文、山形文を組みあわせて豊富に装飾する点は早期突帯文土器の吉備型甕の伝統を引いている(図22−5)。なかには沈線の数が十数本にも及ぶものもある。これは刷毛目調整を用いない点に特徴をもつ。西土佐や近畿にもわずかに存在する。

 2 前期甕組成にみられる四つの型

 弥生時代前期は遠賀川式土器の時代と認識されてきた。遠賀川式土器は如意状口縁の甕や壺、高坏をセットにもち、文様や器形に地域色は存在するものの九州から伊勢湾にいたる地域に分布する強い斉一性をもつ土器である。遠賀川式土器が斉一的であることの理由は短期間のうちにおこなわれた集団的・組織的な前期水稲農耕の伝播に求められてきたのである。
 前期水稲農耕の伝播に複数のルートと伝播形態が存在したことは最近の調査で明らかにされつつあり、それは従来の弥生前期観を一掃する内容をもつ。前期水稲農耕の伝播の実体を探る方法の1つに甕組成を調べる方法があり、筆者も遠賀川式甕と前期突帯文土器の組成比が地域によって異なる事実を、前期水稲農耕を開始するにあって各地域がみせた受容形態の差と考え、A・B・Cに類型化したことがある。〔藤尾,1987b〕。Aパターンは、前期を通じて遠賀川式甕が煮沸用土器の主体となる組成で、遠賀川式甕が甕組成に占める割合は90%以上に達する。玄界灘沿岸、周防灘沿岸、近畿地方がみせた前期水稲農耕の受容形態を反映したパターンである。Bパターンは、前期を通じて突帯文土器が煮沸用土器の主体となる組成で、突帯文土器が甕組成に占める割合は90%以上に達する。玄界灘沿岸を除く西部九州地方がみせた前期水稲農耕の受容形態を反映しているパターンである。Cパターンは、前期の中ごろまでは遠賀川式甕が煮沸用土器の主体を占めその比率は90%以上に達するが、後半以降は前期突帯文土器の比率が増し30%から90%に達する組成で、遠賀川式甕と突帯文土器の使い分けがおこなわれる。豊後、安芸、吉備、讃岐、伊予などの環瀬戸内地方がみせた前期水稲農耕の受容形態を反映したパターンである。
 しかしその後の調査の結果、新たな甕組成の存在が明らかになった。前期中ごろに遠賀川式甕と前期突帯文土器が1:1の割合で共伴する現象が伊予や土佐で確認されたのである。遠賀川式土器と突帯文土器との共伴は玄界灘沿岸でもみられるが、玄界灘沿岸の場合は早期突帯文土器との共伴である点が異なるところで注意を要する。また遠賀川式土器と前期突帯文土器の比率にこだわらなければ、共伴する遺跡はもっと増加し、福岡県石田遺跡、山口県綾羅木川下流域、岡山県津島南遺跡、香川県永井遺跡、同大浦浜遺跡、近畿の長原式など東部九州から近畿にいたる広範囲にみられる現象であることがわかる。さらに地域毎に異なったと考えた甕組成は、一つの地域の中でも遺跡毎に異なる場合が指摘されはじめている。たとえば近畿地方の前期遺跡から出土した甕の組成を調べた春成は、長原式だけを出土する遺跡、長原式が主で遠賀川式が従の出方をする遺跡、長原式が従で遠賀川式が主の出方をする遺跡、遠賀川式だけを出土する遺跡が存在すること指摘している〔春成,1990:68−73〕。近畿地方では遠賀川式を使う集団と長原式を使う集団が両極として存存し、それぞれが別の土器を使う集団と交渉・交流するその度合によって煮沸用土器の組成が集団毎に微妙な違いをみせると考えたのである。
 春成が示した四つのタイプと筆者が以前に示したパターンとの対応をはかると、長原式だけを出土する遺跡と長原が主の出方をする遺跡がBパターン、遠賀川式だけを出土する遺跡と遠賀川式が主の遺跡がAパターンに対応し春成の分類が一見きめ細かくみえるが、これは春成が第T様式の古・中段階に限定しているからで、筆者のように前期水稲農耕の伝播の問題を考える場合には長い時間幅で考えることが必要となるので、以上の点を考慮して前期の甕組成を四つに再編成する。
  板付パターン
 遠賀川式土器が出現した当初には、早期突帯文土器と遠賀川式甕が1:1の割合で共伴するが、その直後から遠賀川式甕が主で前期突帯文土器が従の組成になる(約9:1)。玄界灘沿岸がこの甕組成を示す地域である。玄海灘沿岸はV期古段階に早期突帯文土器(夜臼Ub式)と板付T式が共伴する。これ以降は両地域とも遠賀川式土器が主で、亀ノ甲式甕が数%入る程度である。
  亀ノ甲・長原パターン
 前期を通じて突帯文土器が主、遠賀川式土器が従の組成(9:1)である。西部九州の有明海沿岸と薩摩は地域全体がこの甕組成を示す。遠賀川式土器を使う集団は、この地域にほとんど進出しなかったと考えられる。近畿地方の長原遺跡や鬼虎川遺跡などはこの甕組成を示す遺跡で、早期から突帯文土器を使っていた集団の流れをくむ。遠賀川式土器を使う集団との交流において遠賀川式土器が入ってくるに過ぎない。
  今川・唐古パターン
 前期を通じて遠賀川式土器が主の組成を示し豊前・長門・周防と近畿の遺跡はこの組成を示す。遠賀川式土器を使う集団が進出先で営んだ遺跡がこの組成を示す可能性が高い。進出時は遠賀川式土器単純の組成をみせるが、やがて周辺の突帯文土器を使う人々との交流・接触を通じて前期突帯文土器が入ってくるに過ぎない。今までの弥生前期の遺跡の典型的な姿として考えられていた遺跡がこの甕組成を示すのである。
  瀬戸内パターン
 前期の最初の頃は遠賀川式土器単純に近い組成を示すが、後半以降は突帯文土器が3割以上みられる。豊後の海岸部や安芸・吉備・伊予・讃岐の地域的特徴と考えられる。遠賀川式土器を使う人々が進出した先で在他の突帯文土器を使う人々との密度の濃い接触・交流がおこった結果、突帯文土器の比率が高くなったのであろうか。
  土佐パターン
 前期突帯文土器と遠賀川式甕が1:1割合で共伴するが(20)、その直後から遠賀川式甕が主で前期突帯文土器が従の組成になる(約9:1)。東土佐にみられる甕組成である。

 Z 水稲農耕と突帯文土器

 一.土器の地域色と水稲農耕の受容形態(個別的対応)

 前章まで突帯文土器をさまざまな側面から検討してきた。早期には土器製作に関する日常的な接触交流が及ぶ範囲として、西部九州と瀬戸内から近畿という「地域的様式差」と判断できる二つの地域が存在し、さらにそれぞれの地域の中で旧国単位までとはいかないまでも中間的な地域ブロックを識別した。また前期には遠賀川式土器の伝播にともなってそれぞれの地域や集団がみせた受容形態の違いを反映したと思われる四つの甕組成を識別した。西部九州と近畿・瀬戸内の内部には指標のとりかたで幾つもの線びきが可能な地域色が存在する。特に水稲農耕を始めるにあたって地域や集団がみせた個別的な対応、すなわち稲作の受容形態はさまざまであったろう。突帯文土器を対象にした地域色の識別はX章であげた指標がほとんどすべてといってよい。したがって突帯文土器を使って都出のいう地域的小様式に対応する地域色を識別するためには新たな指標をみつけてもちいるか、いまある指標を定量化することが必要である。今回は突帯文土器の地域色の識別をこれまで示したレベルにとどめ別の側面から研究を進める。
 突帯文土器は遠賀川式土器とならんで水稲農耕の開始に深くかかわっている土器なので、各地域が水稲農耕の受容にあたってみせた個別的な対応は、突帯文土器になんらかのかたちで残っているはずである。各地域がみせた個別的な対応という歴史的・社会的背景をもとに突帯文土器の地域色は生じたからである。逆にいえば、当該期における地域色研究の目的は水稲農耕の個別的な受容形態を明らかにすることである。したがって、突帯文土器の組成をもとにした地域性の認定はこの命題にせまるものと考えられる。その際にはX章でみた甕組成や地域甕、型式学的特徴をもとに地域性を認定するが、土器以外の遺物や遺跡自身を含めて西日本を概観しておこう。


 二.突帯文土器以外の指標からみた地域色

 近畿以西の地域に壺が出現する時期をみると、西部九州では突帯文土器の出現時から壺が存在するが、無文土器そのものが存在したり機能差による器種分化をとげた壺の組成が完成している玄界灘沿岸や佐賀平野と、縄文変容系の壺が目だったり器種分化をとげていない有明海沿岸地域がみられる。また豊後も突帯文土器の成立時から壺が存在する可能性はある。豊後以東の瀬戸内・近畿ではU期に壺が出現するが、縄文変容系の比率はかなり高く器種分化も進んでいない。
 石器や木製農具など水稲農耕と直接かかわる農工具はどうであろうか。早期突帯文土器の段階において大陸系磨製石器がセットで存在するのは玄界灘沿岸だけで、またU期の近畿や瀬戸内にみられる石器は石包丁が単独で出土するほかは縄文時代からの石器組成を維持している。これらの地域では大陸系磨製石器がそろうのは前期以降、遠賀川式土器の出現期まで待たねばならず、なかには最後までそろわない地域もある。木製農具は石器に比べて見つかる可能性が少ないが、玄界灘沿岸地域では突帯文土器の成立当初から揃っている。そのほかの地域は香川県林・坊城遺跡でU期相当の木製農耕具が見つかっている以外は不明である。紡錘車や鉄器は玄界灘沿岸に集中して見つかっている。
 このように突帯文土器以外の遺物を指標にすると、最初から水稲農耕にかかわる土器や農工具がセットで存在していた玄界灘沿岸と、一時期遅れて出現するうえにそのあり方はセットでなく単品で存在する有明海沿岸や近畿・瀬戸内が明らかとなった。
 集落や墓は早期段階の遺構が検出された例が西部九州に集中しているので近畿・瀬戸内と比較するには至っていない。ただ西部九州における遺跡のあり方をみると、突帯文土器以前の縄文的なあり方がかなり変化していることがわかる。特に集落に比べて比較的状況が明らかになっている墓の構造を例にとると、朝鮮半島の墓制である支石墓が出現することは言うまでもないが、埋葬専用の壺棺が出現したり墓域が集落とは分離されて造営されるようになり弥生的な遺跡構造がすでに完成しているといえる。


 三.各地の水稲農耕受容形態

 1 指標の説明

 本稿では近畿以西の西日本がみせた水稲農耕の受容形態をできるだけ細かい単位で類型化するための指標に、早期に主となる突帯文土器の種類と類型化した前期甕組成を選ぶ。それはこの二つが最も小さい地域単位で受容形態を識別できる指標となりうるからである。そこで二つの指標を重ねあわせると七つの受容形態を類型化できる。西日本はこの七つのうちのいずれかにあてはまる。その結果、受容形態を共通する地域的まとまりは「地域圏」として認識できる。本稿では地域圏にその地域を代表する型式名をかぶせて呼ぶことにする(表6)。


表6 地域圏の設定

早期の主な突帯文土器 前期甕組成 地  域  圏
砲弾型一条甕 板付パターン 夜臼・板付地域圏(福岡,早良)
二 条 甕 山ノ寺・板付地域圏(唐津,西北九州)
亀ノ甲・長原パターン 山ノ寺・亀ノ甲地域圏(有明海沿岸,薩摩,九州山地)
一 条 甕 滋賀里・長原地域圏(紀伊,畿内の一部)
今川・唐古パターン 長行・立屋敷地域圏(豊前,周防,長門)
滋賀里・山賀地域圏(畿内)
瀬戸内パターン 下黒野・下城地域圏(豊後海岸部)
船ヶ谷・阿方地域圏(伊予)
前池・百間川地域圏(吉備・讃岐)
土佐パターン 中村・田村地域圏(土佐)

図23 各地域圏の内容と壺形土器・大陸系
磨製石器・水田・環濠集落の出現時期
 図23は、各地域圏の内容と壺形土器・水田・大陸系磨製石器・環濠集落の出現時期を示したものである。まず項目の説明をしておこう。
 i)とii)は早期の甕の器形である。i)は突帯文土器が出現する以前の段階と突帯文土器の段階において、砲弾型と屈曲型の胴部のどちらが多いかを示したもの。ii)は屈曲型が西部九州型か瀬戸内型なのかを示したものである。
 iii)は前期甕組成の類型を見たものである。
 iv)は突帯文土器の文様型がどのように分布するか示したもので、「◎」は主となるもの、「〇」は存在するもの、「×」は現在までに出土が知られていないことを意味する。
 v)は壺、水田、大陸系磨製石器、環濠集落の上限が各地においてどこまでさかのぼるか可能性を含めて図示したもので、特に水田については水田址が検出されている場合は格子目であらわし、将来検出される可能性が高い地域は幅広の斜線で表現した。
 以上のようにi)からiv)は甕、v)は甕以外の土器、土器以外の遺物や遺跡を指標としたものであるが、項目はi)からv)の順に地域単位を広くとる指標から狭くとる指標がくるように並べているので、i)とii)で西部九州と近畿・瀬戸内を、iii)以降でそれぞれの内部の地域差を識別できるように配慮した。

 2 西日本の水稲農耕受容形態

 西部九州は日本で最初の水稲農耕が始まった地域だが朝鮮無文土器文化の影響を直接に受けた玄界灘沿岸と間接的に受けた有明海沿岸にわかれる。このような無文土器文化の影響の強弱は、水稲農耕とともに新しく縄文社会に持ち込まれた文化領域を中心にあらわれている。
  山ノ寺・亀ノ甲地域圏
 早期に西部九州型二条甕を主とし前期は亀ノ甲・長原パターンを示す地域圏である。早期と前期の全期間にわたって突帯文土器様式の分布圏で有明海沿岸と薩摩、九州山地が該当する。
 早期は、器種構成や大陸系磨製石器のあり方、支石墓の分布からみて代表的な小地域がある。島原半島と熊本平野は突帯文土器の種類こそ豊富に存在するが祖型甕は欠落する。壺や高坏は定型化してなく大陸系磨製石器も単発的なあり方でセットとしてはいっていない。支石墓は島原半島に存在する。この二つの小地域は西部九州の突帯文土器の成立と展開にあたって中心的な役割を果たした地域と言えよう。佐賀平野は埋葬遺跡から出土した土器をみる限りでは器種構成こそそろっているが突帯文土器は二条甕など定型化したものが目立ち、一条甕や胴部一条甕などは顕著でない。玄界灘沿岸に近いこともあって水稲農耕に関する情報は有明海沿岸の中では多い。薩摩は佐賀平野的な状況である。海を介して玄界灘沿岸との交流があったのであろうか。
 前期は、亀ノ甲型甕が中心となる。壺も高坏もようやく定型化するが石器や木器の完備はかなり遅れ薩摩でV期後半、佐賀、熊本ではW〜X期になる。V期に佐賀でW期に熊本で環濠集落が成立し農耕社会が完成したことがわかる。
 この地域圏は突帯文人が急速に水稲農耕を受け入れたものの玄界灘沿岸からの農耕集団の進出がほとんどなかったため〔後藤,1985〕、突帯文人による水稲農耕が彼らによって営まれたのであろう。
  山ノ寺・板付地域圏
 早期は西部九州型二条甕、前期は板付パターンの地域圏である。西北九州と唐津が該当する。早期は器種構成や突帯文土器ともそろい大陸系磨製石器や木製農具などの農工具も完備する唐津平野と、佐賀平野的なあり方を示す西北九州がある。ただし唐津では木製農具の未製品が見つかっていない点に注意を要する。支石墓はいずれにも分布している。唐津には唐津型甕が分布しV期の甕組成に占める割合は平均60%を超え板付甕との使い分けがおこなわれる。前期、唐津平野では福岡平野とともに農耕社会が発展するが環濠集落はいまだ見つかっていない。また亀ノ甲型甕はX期になるまで入らず前期突帯文土器はない地域圏である。
  夜臼・板付地域圏
 早期は砲弾型一条甕、前期は板付パターンを示す地域圏である。福岡平野が該当する。V期に西部九州型二条甕と板付甕が共伴し使い分けがおこなわれる。突帯文土器の器種も豊富で器種構成や石器組成、農工具も完成しているが支石墓だけは欠落する。
 前期初頭に日本ではじめて環濠集落が成立し集落と墓地も分離して営まれていることから早期からの蓄積をもとに完成・定着した農耕社会の姿をみることができる。W期になって山ノ寺・亀ノ甲地域圏から亀ノ甲型がはいり、のちの遠賀川以西系の土器様式をつくる基盤が固まる。
  長行・立屋敷地域圏
 早期は瀬戸内型一条甕から瀬戸内型二条甕に転換し前期は今川・唐古パターンを示す地域圏である。筑前東部(宗像以東)から豊前北部、長門・周防が該当する。玄界灘沿岸と瀬戸内や近畿をつなぐ中間地帯にあることから早期および前期水稲農耕の伝播を考えるにあたって重要な役割を担った地域圏と思われるが詳細はわからない。V期新段階には遠賀川式土器を使う集団と突帯文土器を使う集団が接触したことを示す、遠賀川式土器と突帯文土器が共伴した遺跡が増加している。しかしその後は遠賀川式土器を使う集団と突帯文土器を使う集団が接触した様子はわずかに認められる程度で、X期になって遠賀川以西系の甕がはいる程度である。
  下黒野・下城地域圏
 早期は瀬戸内型一条甕で前期は瀬戸内パターンを示す地域圏である。豊前南部と豊後の海岸部が該当する。早期および前期の前半までは欠落する器種や農工具も多く、本格的な水稲農耕が始まるのはW期以降と考えられる。
  船ヶ谷・阿方地域圏
 早期は瀬戸内型一条甕で前期は瀬戸内パターンを示す地域圏である。伊予や安芸が該当する。早期は壺の器種分化もみられ器種構成は整っているが、農工具は大陸系磨製石器そのものはなく縄文時代以来のサヌカイト製剥片石器が顕著である。この地域の早期水稲農耕に関する情報のあり方はきわめて選択的で、壺は入っているにもかかわらず農工具は縄文時代からの道具を改変して使っている。前期には前期突帯文土器と遠賀川式が共伴するところもあって、早期からの突帯文人と前期に移住してきた遠賀川人が協同して集落を営んでいることがわかる。このことからこの地域圏では、突帯文土器を使う集団が遠賀川人をうまく取り込んで水稲農耕を発展させていった。このことが突帯文土器の流れをくむ瀬戸内甕を組成的には遠賀川式甕にまさる土器へと発展させることにつながったのである。
  中村・田村地域圏
 早期、前期とも西部九州の影響が強い地域圏である。早期は瀬戸内型一条甕、前期は土佐パターンを示す地域圏である。四万十川流域では西部九州型一条甕、同二条甕の比率が高い。しかしその一方で壺の比率は低く大量の打製石斧が存在することと考えあわせれば、水稲農耕を他の生業にもましておこなっていた可能性は低い。
 V期新段階になって前期水稲農耕が伝播する。四万十川流域では早期最終末の突帯文土器である入田B式と遠賀川式土器が共伴し高知平野では前期突帯文土器と遠賀川式土器が共伴する。しかしこの二つの現象が意味するものはまったく異なる。早期突帯文土器との共伴は一見、夜臼式と板付T式の共伴と同じにみえるが、玄界灘沿岸では環濠集落が成立していることからみれば、水稲農耕社会の内容に大きな開きが予想される。最近は入田B式は遠賀川式土器と伴わないとする意見が出始めているので、入田B式の共伴現象は在来者と移住者の集団差を反映した可能性もある。一方前期突帯文土器との共伴は九州の石材で作られセットで存在する大陸系磨製石器や田村編年の前U期における環濠集落の成立から考えれば、九州から進出してきた遠賀川式土器を使う集団と前期突帯文土器を使う集団がともに生活を営んだものとも考えられよう。
  前池・百間川地域圏
 早期は瀬戸内型一条甕から瀬戸内型二条甕へ転換し前期は瀬戸内パターンを示す地域圏である。吉備や讃岐が該当する。
 早期水稲農耕の伝播の際には情報の断片的な選択にとどまったので大量のサヌカイト製剥片石器と打製石斧からなる石器組成や、胴部突帯という文様だけを取り入れた瀬戸内型二条甕などにこの地域圏の独自性を認めることができる。石器に関しては前期も同様で磨製石器を拒否するという選択的な受容形態に、備讃地域の集団間の強い結び付きをうかがえる〔平井,1989〕。そしてその強い結びつきが遠賀川式の甕さえも組成的に凌賀する瀬戸内甕を生み出す基盤となるのである。
  滋賀里・山賀地域圏、滋賀里・長原地域圏
 早期は瀬戸内型一条甕から瀬戸内型二条甕へ転換して同じ組成をとるが、前期は今川・唐津パターンと亀ノ甲・長原パターンが集団毎にみられる地域圏である。近畿が該当する。前期において一つの地域に二つの甕組成が明らかになったのは遠賀川式土器を使う移住者集団と突帯文土器を使う在来者集団が確認されているからである。早期には水稲農耕の伝播にともなって突帯文土器を使う集団のなかに、水稲農耕を受け入れた人々と、受け入れなかった人々が生じた。ただし、両者の違いは生業の中に水稲農耕が加わるか加わらないかの違いだけで、前者の場合も水稲農耕を中心とした生活に転換したわけではなかった点に注意しておく必要がある。器種構成や石器組成、木製農具のあり方は吉備と同じで選択的である。
 ところがV期新段階の前期水稲農耕の伝播は遠賀川式土器を使う集団の進出をともなっていたので、それまでの集団関係を一変させることになった。すなわち生業基盤の中心に水稲農耕をもつ移住者集団、早期からの水稲農耕民、生業に水稲農耕を加えない集団の三者が同じ地域に占地することになったのである。これらを考古学的に識別するためには、前期突帯文土器と遠賀川式土器の比率や石器や木器の未製品と製品の遺跡毎の分布、土偶の存在などが指標となる。遠賀川式土器単純、もしくは主となる組成が今川・唐古パターンを示せば、遠賀川式土器を使う移住者集団と位置づけられよう。逆に長原式単純、もしくは主とする組成が亀ノ甲・長原パターンを示せは突帯文土器を使っていた在来者集団と位置づけられる。しかしこの集団が稲作民か非稲作民か、または水稲農耕が生業のどの程度まで占めていたかについては農工具や土偶などの遺物から判断する必要がある。
 西日本の中で生業を異にする遺跡の識別が可能なのは近畿地方だけだが、将来的には岡山や四国、九州でも確認していかなければならない。その意味で地域圏として認識してきた七通りの地域圏は、偶然に調査されたある集団差をその地域全体の傾向として代表させてしまった可能性もあるので前提的な作業として理解していただきたい。
 つぎにT期から順をおって甕組成の変化と水稲農耕の広がりを中心に、各地域がどのような対応をみせていくのか検討してみよう。

図24 T期 突帯文土器の成立と水稲農耕の開始
(一条甕と二条甕の分布模式図)
  T期(図24) 突帯文土器の成立と水稲農耕の開始

 西日本に突帯文土器様式が成立する。突帯文土器の成立と水稲農耕の開始は一致せず後者がわずかに遅れる。その関係で基本的な器種構成が地域圏によって異なり、東部九州より東の地域では甕と浅鉢、西部九州では甕、壺、浅鉢、高坏からなる。図には甕と壺、高坏しかのせていない。
 東部九州以東の普遍的な突帯文土器は瀬戸内型一条甕だけで、尖定または丸底の底部をもち口唇部の刻目文やへラ描き沈線で華美に装飾する吉備型甕や、同じ器形だが平底で突帯文以外の文様はほとんどつけない下黒野型甕、刻目をつけない突帯文土器の土佐甕がある。水稲農耕が存在した証拠はまだみつかっていないが、西部九州に近い東部九州や伊予ではこの時期まで水稲農耕がさかのぼる可能性は残されている。
 西部九州では、突帯文土器が成立したときから水稲農耕を営なんでいたと考えられる。しかし水稲農耕の内容は一様でない。山ノ寺・板付地域圏や夜臼・板付地域圏は朝鮮無文土器文化とほとんど同じ道具を使い同じやり方で同じ思想にもとづいて水稲農耕を営んでいた。器種構成には、定型化した無文土器系の壺、組成率の低い浅鉢、祖型甕や朝鮮無文土器系甕といったかたちで反映されている。突帯文土器も西部九州型一条甕、同二条甕、砲弾型一条甕がそろい底部は平底である。一方、山ノ寺・亀ノ甲分布圏では水稲農耕をおこなっていた状況証拠はあるものの、定型化していない壺や高い浅鉢の組成率、セットで揃っていない大陸系磨製石器からみると、突帯文土器を使っていた人々による水稲農耕の姿が想像される。
 突帯文土器の組成は地域圏毎にかなり異なっている。山ノ寺・亀ノ甲地域圏と山ノ寺・板付地域圏では有明海型甕に代表される西部九州型の二条甕が最も多く、夜臼・板付地域圏では砲弾型一条甕が最も多く使われており西日本の中でも異色である。この突帯文土器にみられる甕組成の違いは壺と浅鉢の比率とも相関がある。二条甕が多い地域圏では、壺が低く浅鉢が高い比率をみせるが、砲弾型一条甕が多い地域圏では壺の比率が高く浅鉢の比率が低い。全生業に占める水稲農耕の割合が低く他の生業と同じ位置づけがされていた山ノ寺式分布圏と、他の生業とは一線をかくし水稲農耕に全面的に依存していた夜臼式分布圏の違いを反映したものと考えられる。
 西部九州では突帯文土器の出現時からはじまる遺跡が圧倒的に多く、突帯文土器以前から継続する遺跡はほとんどみられない。逆に黒川式の段階で消滅し突帯文土器の段階までは続かない遺跡も多いのである。水稲農耕の開始や支石墓の出現に代表される外来文化の波及が遺跡の動向に反映されたものであろうがその形態はさまざまであったろう。近畿や瀬戸内の遺跡の消長をみると西部九州とは異なっていることに気づく。これらの地域では突帯文土器が成立する以前から継続して常まれる遺跡が多く、突帯文土器の段階から水稲農耕の状況証拠があらわれる。しかしこれらの遺跡は西部九州のようにそのまま遠賀川式土器の段階までは継続しない。西部九州において晩期末から早期初頭にみられた遺跡の断絶が、近畿や瀬戸内では早期末から前期初頭にかけてみられるのである。このことは早期と前期の二回にわたってみられる水稲農耕の伝播を考えるとき興味深い事実となる。
 T期は縄文時代からの地域性そのままに突帯文土器の文様面に地域色を発現した近畿・瀬戸内と、水稲農耕の開始によって突帯文土器だけにとどまらずあらゆる面に地域色が発現した西部九州が対照的な様子をみせた段階と言えよう。

図25 U期 西部九州系突帯文土器の東進と
早期水稲農耕の伝播
(一条甕と二条甕の分布模式図)
  U期(図25) 西部九州系突帯文土器の東進と早期水稲農耕の伝播

 西部九州で始まった水稲農耕が瀬戸内や近畿に伝わる時期で、これらの地域に西部九州系の要素が強くあらわれる段階である。早期水稲農耕の伝播には伝播ルートや質的に異なった伝播形態が複数存在したとみえて多くの受容形態が存在した。
 近畿・瀬戸内にあらたに出現する突帯文土器には二条甕と砲弾型一条甕があるが、これらのはいりかたは地域圏毎に異なる。豊前南部・豊後・伊予・土佐東部は二条甕をほとんど受け入れず砲弾型一条甕を中心に受容し、周防・吉備・讃岐・近畿は二条甕と砲弾型一条甕を受容する。甕の底部はすべて平底化する。したがって近畿・瀬戸内は一条甕から二条甕に転換する中国・近畿と、一条甕のままの豊後と四国西部がある。壺がこの地域にも出現するのもこの段階で大きな画期だが、器種構成に占める割合はどこも10%程でしかも無文土器系と縄文変容系からなっている。もちろん法量毎の分化も未完成だが無文土器系に小壺が縄文変容系に大形壺が目立つ点は興味深い。大陸系磨製石器はセットで出ることはなく石包丁が出土する程度で、なかには打製の石包丁様石器で代用するところもある。木製農具はまだ一遺跡だけの出土ではあるが弥生的である。早期水稲農耕の受容形態は水稲農耕に必要な道具でも縄文以来の道具で代用できるものは代用するか、若干の改変をくわえることで使用する。どうしても在来の道具でたりないときには新しい道具を受け入れる。早期水稲農耕の実態とふかくかかわる問題である。
 西部九州では、T期とめだった違いはない。壺の比率が増すとともに浅鉢の比率がさらにさがり甕や壺に刷毛目調整が顕著になる。
 近畿・瀬戸内は水稲農耕の伝播にあたって、T期における有明海沿岸となんら変わりないきわめて選択的な受容をみせている。二条甕が出現するといっても西部九州の二条甕が動いたと考えられるのは土佐西部だけで、それ以外の地域の二条甕は胴部に突帯文をめぐらすという文様レベルの情報が動いたにすぎない。瀬戸内型一条甕の胴部に突帯を貼り付けたにすぎず、そこは本来、段や爪形文や沈線文が施文されていた部位なのである。これは大規模な集団によって稲作が持ち込まれたというよりも、大規模な人の移動をともなわない稲作情報の伝播といった形態に近いのではないかと考えている。

図26 V期 板付T式土器の成立と
前期水稲農耕の伝播
(前期甕組成からみた西日本の模式図
/環濠集落は報告の原図を改変)
  V期(図26) 板付T式土器の成立と前期水稲農耕の伝播

 山ノ寺・板付地域圏と夜臼・板付地域圏に板付T式土器が成立する。この時期の器種構成は、突帯文・板付両様式とも甕・壺・高坏・鉢をもっているが、甕と浅鉢は突帯文土器、壺と高坏と鉢は板付T式土器が比率的にみると多い。突帯文土器の組成は二条甕が主でU期まで砲弾型一条甕が主であった夜臼・板付地域圏も二条甕が主になる。つまり早期突帯文土器と板付T式土器の共伴現象は、屈曲する胴部をもつ二条甕と板付T式甕との使い分けによって説明でき、調理対象物や調理法の違いが器形を異にする甕の使い分けを必要としたと考えられる。このようにみてくると板付甕の成立はコメを調理する道具の完成と見なすこともできよう。しかし、その一方で環濠集落を成立させるだけの農耕社会を完成させていながらも、コメ以外の食糧に依存した初期水稲農耕社会の姿をみることができる。早期突帯文土器と遠賀川式土器の共伴現象の中にこそ真実があるのである。この点で四国にみられた前期突帯文土器と遠賀川式土器の共伴現象とは質的に異なっている。夜臼・板付地域圏の共伴現象は稲作の開始から150年をへて環濠集落が出現し農耕社会が成立した社会での現象なのである〔藤尾,1990b〕。
 玄界灘沿岸において、早期の水稲農耕文化を母体にうまれた板付T式文化は無文土器文化の影響なしには成立し得ないが、土器や石器などどれ一つをとってみても無文土器文化の内容と完全に同じではない。玄界灘沿岸は朝鮮半島に接していることもあって昔から結び付きは強く、直接持ち込まれたと思われるものも数多く存在する。玄界灘沿岸から遠くなればそれだけ朝鮮半島の情報も乏しく断片的になるのは当然で、情報の担い手になる集団の規模や接触の頻度が絶対的に低くなるのは想像にかたくない。U期において近畿�瀬戸内にみられる無文土器文化の文物に無文土器系壺があるが、これなどは種籾を入れて移動したものと考えることもできる。とくに農耕具や加工具においては単品の出土にとどまっている。したがって近畿�瀬戸内においては玄界灘沿岸と同質の朝鮮無文土器文化の波及は考えにくく、突帯文人主体の稲作をおこなっていた可能性が高い。
 新段階になると、近畿・瀬戸内に遠賀川式土器が出現し前期水稲農耕が伝播する。今度は早期水稲農耕の伝播の時とは異なり各地でさまざまな受容行動がおこる。山ノ寺・亀ノ甲地域圏には大陸系磨製石器を含む水稲農耕の道具がもたらされるが、板付系の甕だけは10%にみたず甕組成は亀ノ甲・長原パターンである。甕は動かないが道具は動くというこの現象は板付式土器を用いる集団の進出が少なかったことを意味し、突帯文人による水稲農耕が営まれたことを予想させる。
 長行・立屋敷地域圏や前池・百間川地域圏、滋賀里・山賀分布圏では、遠賀川式土器と前期究帯文土器が共伴したり、共伴しなかったりする。遠賀川式土器にともなうのは一条甕系の突帯文土器で、その比率は10%以下である。最近までは晩期の突帯文土器が残存したか持ち込まれたものとの判断が大勢であったが、現在では遠賀川式土器を使う集団の周辺に居住していた突帯文土器を使う集団との日常的な接触・交流によって混ざりこんだものとする説が有力になってきた。つまり従来は時期差と考えたのに対し、同時に存在した集団差と理解するものである。そうであるなら、長原遺跡のような遺跡がこれらの地域にもっと見つかってもいいはずなのに例はまだ少ない。遠賀川式土器を使う集団とは生活基盤を異にするため占地がまったく違うのであろうか。またこれらの地域圏は早期において二条甕を受け入れた地域圏と完全に一致している点も見逃してはならない。情報や人が伝わる場合の最も太いルートなのであろうか。
 船ヶ谷・阿方地域圏と中村・田村地域圏では、遠賀川式土器と前期突帯文土器が共伴する。共伴する突帯文土器は砲弾型一条甕系の前期突帯文土器で、遠賀川式甕との比率は1:1という。夜臼・板付分布圏における前期突帯文土器と遠賀川式土器の共伴は器形を異にすることから使い分けを想定したが、こちらの場合は器形は同じで違うところを探せば蓋の使用法が異なる程度である。しかし、この共伴現象は、早期に突帯文土器を使っていた人々みずから変化させてきた前期突帯文土器と遠賀川式土器が共伴することを意味する。したがってもともとその地に居住していた突帯文人と前期になって新たに進出してきた遠賀川式土器を使う集団との関係が相当強いものであったことを予想させる。もし前期突帯文土器と遠賀川式土器の比率を気にしなければ春成が大阪平野で指摘したように、両集団の日常的な接触・交流で説明できる場合もあろうが、この場合は比率が1:1のため別の説明を要する。移住者もしくは在来者が一方の集団を相当数とりこんだ場合なども想定できようが今のところはこれという回答を持ちあわせていない。
 滋賀里・長原地域圏では、二条甕を主な甕としてもつ突帯文土器様式を有し前期甕組成は亀ノ甲・長原パターンである。長原式を使用する集団は早期に稲作をおこなっていた集団の流れをくむ可能性があるが(21)、生業全体の中では狩猟や採集といった縄文時代からの生業と同じ程度に稲作を位置づけていたと考えられ、最後まで水稲農耕を全生業の中のトップに位置づけることに対して抵抗した集団である。彼らは土偶や石棒といった縄文的な習俗を保ちながらも浅鉢はほとんどもっていない。遠賀川式土器を使う集団とは日常的に接触・交流を保っていたと考えられる。まさに縄文から弥生の過渡期に位置する人々であった。彼らはやがて周辺の遠賀川式土器を使う集団と融合・同化していく。
 前期水稲農耕の伝播は早期水稲農耕の伝播とは根本的に異なっている。水稲農耕関連遺物の組みあわせや集落や墓地の営まれかたからみて、集団的・組織的で大がかりな集団移住が行われた可能性が高い。集団移住の背景については送り手側の事情による意見が多い。集団移住の内容や移動ルート、移住先での突帯文人との接触の仕方はさまざまだが共通しているのは近畿・瀬戸内にもたらされた水稲農耕文化は板付T式文化に代表されるよう文化複合体とはかならずしも同質でないということである。この違いが移住した側に起因するのか移住先の突帯文人との接触の過程で生じたのか即断はできない。前期水稲農耕の伝播に際して受け入れ側の地域や集団がみせた受容形態の違いにかかわってくる。

図27 W・X期 前期突帯文土器の定型化と
中期土器様式の成立
(前期甕組成からみた西日本の模式図
/環濠集落は報告の原図を改変)
  W期(図27) 前期突帯文土器の定型化と中期土器の萌芽

 山ノ寺・板付地域圏、夜臼・板付地域圏、長行・立屋敷地域圏、中村・田村地域圏、滋賀里・山賀地域圏は遠賀川式土器単純の組成で今川・唐古パターンを示す。前期の突帯文土器が存在する地域もあるが、これは地域圏外の亀ノ甲・長原パターンを示す地域や瀬戸内パターンを示す地域からもたらされたものにすぎない。しかし、このようにしてもたらされた突帯文土器は、遠賀川式土器と積極的に融合して中期甕の祖型となる甕を創造し始める。また、前池・百間川、中村・田村、滋賀里・山賀地域圏には環濠集落や方形周溝墓が成立し、前期社会が一定の水準に達して農耕社会が成立する。
 山ノ寺・亀ノ甲地域圏と滋賀里・長原地域圏はV期同様に亀ノ甲・長原パターンを示し、砲弾型二条甕を主な甕とする。各地には佐賀型や亀ノ甲型などの地域型甕が存在する。
 下黒野・下城地域圏と船ヶ谷・阿方地域圏、前池・百間川地域圏は、瀬戸内パターンを示す地域で砲弾型一条甕を主な甕とする。各地域圏には特徴的な地域型甕が存在し、下城型、瀬戸内型甕に代表される。遠賀川式土器一色であった土器様式も弥生土器へと転換を遂げた突帯文土器の登場によって中期土器様式構造の基盤が固まる。これも移住者と在来者の接触と交流の中で理解できよう。
  X期 前期突帯文土器から中期土器へ


 西日本は中期社会にはいる。弥生時代開始の画期が水稲農耕の始まりという経済的なものであったのに対し、青銅器の国内生産や墳墓への青銅器副葬が始まる点は、政治的側面の画期として理解できる。後藤直は「弥生社会が自らの要求に基ずき、自らの中から交渉担当者を選んで彼地へ派遣し、また無文土器社会からのいわば「使節」を受け入れることによって成り立つ関係であった」と表現し、それ以前の無文土器社会から弥生社会へという一方的な関係からの脱却をはかるまで成長した弥生社会の姿を指摘した〔後藤,1980〕。西部九州では前期突帯文土器と板付・遠賀川式の融合による遠賀川以西系土器(城ノ越式)〔田崎,1985〕の成立、近畿における大和型・播磨型・紀伊型・近江型などの中期地域型甕の成立に代表されるように、在来者と移住者の関わりのなかで日本独自の農耕文化=弥生文化は完成するのである。


 [ おわりに

 突帯文土器は、水稲農耕の開始にともなって各地域がみせた対応の実体をもっとよく反映する考古遺物である。したがって各地の突帯文土器に関するさまざまな特徴を検討して地域色を識別することは、各地が水稲農耕に対してみせた地域的対応を知るのに有効な手段である。
 早期に玄界灘沿岸ではじまった水稲農耕は、朝鮮半島に系譜を求められるものであるが、水稲農耕に関する文化複合体のすべてがみられるわけではない。たとえば、煮沸用土器は玄界灘沿岸の突帯文土器を使用した。突帯文土器は縄文土器に伝統的な製作技法で作られていることから、土器作りが女性の仕事であることを考え合わせれば、在来者の関与は間違いない。しかしわずかに無文土器の製作技法で作られた甕が数%の割合で存在する事実は、在来の甕を大量に使用しながらも無文土器的な煮沸用土器も準備されていたことを予想させる。こうして出来あがった土器が板付T式土器であるわけだが、無文土器の製作技法を選択的に採用して作ったとしても、外見や文様はもはや無文土器とは似て非なる土器になっている。そこに実用的な部分は無文土器の技術で、非実用的な部分には在来の伝統がうまく使い分けられて作られた板付T式土器の姿がある。
 早期のうちに九州から近畿にかけての広い地域に水稲農耕は伝わるが、玄界灘沿岸ですべてそろっていた弥生文化の要素は九州以外の地域では部分的にしかみられないにもかかわらず水田が営まれている。大陸系磨製石器や農耕の土器のセットが完全でないところに早期水稲農耕伝播の実態がありいくつかの可能性が推測できる。一つは、水稲農耕の情報が縄文時代から機能していた情報ネットワークにのって伝播した可能性がある。森貞次郎のいう縄文的稲作農耕の伝播である〔森,1982〕。もう一つは、受け入れ側の強い規制が存在し稲作は受け入れても技術や道具、思想などは厳しい選択がおこなわれた可能性である。稲作を中心とする弥生文化に対する縄文側の自己防衛がすさまじかったことがわかる。土偶や高い比率の浅鉢は、縄文的な道具をもちい縄文祭祀を活発におこなうことによって自らの集団の精神的な紐帯を高め引き締めてアイデンティティの確認がおこなわれたことを意味している。いずれにしても、九州以外の地域には早期水稲農耕を受け入れた集団といっても、水稲農耕を生業の基盤にすえ、稲作を中心とした生活に傾斜していく動きはなかったのである。早期から前期に継続する集落がまだ少ない事実もこれをものがたるものと言えよう。
 玄界灘沿岸以外の稲作社会は、前期になっておこるあらたな稲作集団の移住によって成立する。環濠集落を成立させるほどに発展を遂げた玄界灘沿岸は、人口増による可耕地の拡大が早急に迫られていたと考えられる。フロンチィアたちは九州を南下せずに東へ東へと進む。前期水稲農耕の伝播である。遠賀川人が移住先で営んだ集落の土器組成は基本的に遠賀川式土器単純で在来者となんらかのかたちでかかわれば突帯文土器と共伴する。そのかかわりかたの違いは、突帯文土器と遠賀川式土器の組成比で判断できる。田村や中寺・州尾のように1:1の遺跡もあれば、数点の突帯文土器が混じる程度の遺跡までさまざまである。しかし遠賀川人がかかわった在来者はほとんどの場合、早期に稲作を経験していた模様で、それは共伴する突帯文土器がすべて前期突帯文土器であることからもわかる。早期以来の経験が素地にあったことが前期水稲農耕の急激な普及を容易にした原因の一つなのである。
 この段階の遠賀川式土器には地域色はほとんど認められないが早期突帯文土器の地域色がすべて反映されている。玄界灘沿岸のV期新段階の甕が口唇部の刻目を口縁端部の下端に施文するのに対し、それ以外の地域では板付T式甕の特徴である口唇部全面刻目のままである。そして前期末にかけて口唇部全面刻目が使われ続ける。この例は西部九州と近畿・瀬戸内という地域的様式差に対応するもので他にも器形や文様などにみることができる。また如意状口縁の甕は胴部に段や刻目を施文し在来の突帯文土器と盛んに接触する。
 W期に前期突帯文土器の地域型甕が完成するが、遠賀川式甕も地域色が顕著になってくる。この地域色の地域的な単位は、早期突帯文土器にみられた地域色の地域単位とまったく同じであることは興味深い。今川・唐古パターンを示す地域においては、これらの伝統が甕にあらわれるかわりに、壺の文様というかたちになって登場する。木葉文に代表される縄文からの伝統的な文様で華美に飾られた壺である。
 前期末から中期になると、西部九州では遠賀川以西系、東部九州では遠賀川以東系の土器様式が成立。瀬戸内では瀬戸内甕の盛行、近畿でも中期の地域甕が出現する。以上のように近畿以西の西日本では、突帯文系と遠賀川系の接触・交流の結果、成立した折衷・融合系の土器が甕の中心になる。弥生時代中期は、まさに伝統と新しいものとが融合したことで成立したものである。中期は遠賀川式土器の各地における定着形態がもとになっており、それがあとあとまで規定的な役割を果たしたと言えよう。


 横山浩一先生の退官記念論文集を編むにあたり、日本における初期弥生文化の成立という大テーマの中で突帯文土器を扱うことになりましたが、先生のご学恩に報いるだけの内容かどうか不安に思っております。先生のご指導にあずかるようになってから早くも10年の歳月が流れました。時折、九州文化史研究施設の比較考古学研究室に入ってこられては、煙草の煙をくねらせながらのさりげない質問に、ものの見方を教わったことがついこの間のような気がしてなりません。九州大学時代の七年の間、考古学にとどまらない先生のご造詣にふれることができたことは、まことに幸いでした。九州を遠くはなれた関東の地で先生からいただいた多くの教えをもとに、今後とも努力していきたいと思います。
  なお、このテーマを最初に与えてくださった岡崎先生が1990年6月11日におなくなりになりました。先生のご冥福を祈りこの論文を捧げたいと思います。

 最後に、本稿を草するにあたって多くの方々のお世話になり、ご指導、ご教示をいただきました。末筆ながら記して感謝の意を表します。

 浅岡俊夫、安楽勉、泉拓良、岡崎敬、岡山大学埋蔵文化財調査室、小田富士雄、乙益重隆、神谷透、河口貞徳、川越哲志、河瀬正利、木村幾多郎、栗田茂敏、潮見浩、塩屋勝利、設楽博己、下川達彌、正林護、白石太一郎、高島忠平、高田明人、高橋徹、田崎博之、田中良之、谷若倫郎、田平徳栄、出原恵三、中越利夫、中島哲郎、中島直幸、長津宗重、西健一郎、西谷正、橋口達也、春成秀爾、東中川忠美、平井典子、藤口健二、間壁忠彦、松永幸男、松村道博、真野和夫、森貞次郎、柳沢一男、家根祥多、山口譲治、山崎純男、渡部明夫、渡辺芳郎の諸先生、諸氏 (五十音順)


(1990年9月30日 稿了)



(1)  西部九州とは九州を東西に二分した場合の西側の地域を指す。西部九州は北は福岡県の遠賀川から九州を南北に貫く九州山地、南は鹿児島県の錦江湾を境に東部九州と区別される。この地域区分は旧石器時代から九州島に存在した大きな文化史的な区分と一致する〔藤尾,1990a〕。
 また突帯文土器単純段階は水稲農耕を中心とする生産経済にはいった画期として、弥生時代早期と考える立場をすでに明らかにしている〔藤尾,1988〕。
(2)  設楽博己によれば、遠江は将来的に本様式の分布範囲に含まれる可能性が高いとのことである。また突帯文土器の分布をみると、突帯文土器様式の分布範囲よりも北や東の地域にひろがっている。石川県や静岡県で突帯文土器が確認されているほか、群馬県内でも突帯文土器が土器棺として使用されている。しかしこれらの地域における突帯文土器は、在地の様式構造のなかに含まれるのではなく搬入品か模倣品として存在しているのにすぎないので、西日本の突帯文土器様式とは一線を画することができる。ただし、粗製土器である煮沸用土器が移動している事実は、生業(水稲農耕)との関係で注意しておかなければならない。
(3)  1947年、東京でおこなわれた日本人類学会例会において示された見解とのことである〔坪井,1981〕。
(4)  九州では夜臼式土器と板付T式土器の共伴が確認されたものの、近畿や瀬戸内では早期の突帯文土器と遠賀川式土器の共伴は確認されなかった。その理由として両者を時間的な前後関係で捉え、遠賀川式土器と共伴する突帯文土器はまだ発見されていないのだとする意見と、遠賀川式土器は弥生人が使用し突帯文土器は縄文人が使用して同じ地域に住みわけていたと考え、両者は時期的に併行するとする意見があった。したがって太田甕の発見は、T様式古段階と船橋式の年代併行説を浮上させるきっかけになったのである。
(5)  突帯文土器単純期の玄界灘沿岸地域で住みわけが存在した可能性を山崎純男が述べている〔山崎,1980〕。板付遺跡の器種構成は壺を含み浅鉢がわずかに存在するのにすぎないのに対し、板付遺跡南方の油山山塊に所在する柏田遺跡の器種構成は、壺が欠如し浅鉢が縄文的な比率で存在する。つまり、近畿の長原式と遠賀川式にみられた関係は早期段階の玄界灘沿岸にも存在したことになる。また、瀬戸内や近畿でも早期段階に非稲作民と稲作民が住みわけていた可能性は十分にある。
(6)  山崎は、夜臼T式の前に壺や高坏をともなわない突帯文土器が存在した可能性を示唆している〔山崎,1980〕。
(7)  前稿で刻目突帯文系とした壺は今回の無文土器系にあたる。ただし深鉢変容型の中・小形壺Eは無文土器系の範疇に含めない。
(8)  伊勢湾沿岸において深鉢変容型の壺が出現するのは、口酒井式併行期にあたる馬見塚式段階である。時期的には近畿・瀬戸内と同じ時期である。ところが伊勢湾沿岸には形態的には無文土器系に類似した研磨仕上げの中・小形壺が存在している。今のところこの種の壺は近畿・瀬戸内にはみられないことから設楽は西からだけではなく東からの影響を含めるべきと考えている。したがって深鉢変容型とした壺の出自についてはなお議論の余地があろう。
(9)  筆者は大坪里の甕を実見していないのでここでは家根の説に従う。
(10)  韓国にも突帯文土器が存在する。実見した土器は屈曲型甕や砲弾型甕の破片で口縁部に一条の刻目突帯をもっている。刻目はヘラで切り取られたように刻まれていることや、口縁部突帯の位置がかなり上昇していることなどから、板付T式に共伴する突帯文土器に一番近い印象をもった。現状では無文土器の器種構成に一般的な甕であるかどうかわからないので紹介にとどめておく。
(11)  遠賀川式土器の成立については瀬戸内の一部を含めた広い範囲で考えるべきで、板付T式の成立はむしろ九州の西辺部の地域的な現象と捉える意見が出されている。これは、いままで板付T式から板付Ua式に変化する根拠とされていた型式学的特徴に疑問をはさむところから出発している。
 たとえば板付T式壺の底部の特徴である円盤貼付底を在地的な古い特徴の残存とみなしたり、壺の口縁部外側にみられる段を製作技法から考えた場合、口縁端部となる粘土紐の継目を利用して段をつくる瀬戸内の壺から、口縁部外側にあらたな粘土紐を貼り付けてつくる板付T式壺へ技術変化していくものであるため、板付T式が古く位置づけられるのはおかしいというものである。このような型式学的な疑問から出発したあと、「重要な点は、縄文土器の組成を払拭した外傾手法のみによって製作された弥生土器単独の組成がどの地域でいかに出現したかにあり、上述の検討からもそれを福岡平野に限定する根拠はない」〔家根,1987:22〕として、突帯文土器と弥生土器が共伴する玄界灘沿岸地域はこれに該当しないと考える。高橋護〔高橋,1987〕や平井勝〔平井,1988〕の意見は、弥生土器が突帯文土器と共伴すること自体が周辺部の現象だとしてやはり板付T式を完成された弥生土器の姿とはみない。
 家根が山ノ寺式で成立したという複合的土器組成とは、外傾手法による単純な器形の甕、弥生祖型甕、夜臼系の甕、縄文土器本来の深鉢と浅鉢、および新たに独自に成立した高坏という内容をもつ。この土器組成が確認されているのは突帯文土器単純段階においては唐津から福岡平野にかけての玄界灘沿岸地域だけであるが、将来、遠賀川流域や瀬戸内で発見されないとは断言できない。東部九州から西部瀬戸内にかけての地域で山ノ寺式が発見され、それを母体に縄文土器本来の深鉢と浅鉢をもたず外傾手法によってつくられた甕と壺からなる弥生土器単独の土器組成が成立することが確認されれば、家根説はその正しさを証明されたことになる。今川遺跡などの土器組成は遠賀川式土器単純の組成にあたるので、これらの地域で長行式や船ヶ谷式のあとに複合的土器組成が将来発見されるまで静観しよう。しかしその前に若干疑問を提示しておく。
 まず板付T式壺口縁部の段の成立は、西部九州では口縁部外側に粘土紐を貼り付けることによって達成され、その後に粘土紐の継目を利用して段とするものが出現して増加することは層位的に確認されている。家根説ではこれを北部九州西辺部の一地域現象として理解するのであろうか(この問題はV章で検討した)。また板付T式の甕口唇部の全面刻目の出自については祖型甕からの変遷過程を復原しているが〔家根,1984・1987〕、そこで示された外端部刻目から全面刻目への変化は今のところ確認できない。
 家根説では玄界灘沿岸において渡来人と在地の縄文人との協調において成立した複合的土器組成をもつ稲作文化が、口酒井式や沢田式併行期に遠賀川流域から瀬戸内にひろがり、そこで生業基盤を確立し縄文土器の組成を払拭して、今川遺跡を残したような集団に発展したことになろうが、それを可能とする農工具の実態はまだ明らかではない。遺跡の存続幅からみると瀬戸内では突帯文土器の出現以前から継続している集落が多く、これらの集落は遠賀川式出現以前に消滅するか一旦中断する。あらためて遺跡が出現するのは遠賀川式出現時である。なお沢田遺跡では家根説を裏付ける証拠はまだ見つかっていない。
(12)  1970年代までは遠賀川式土器だけを使う集団の遺跡だけが調査され、そこでわずかに出土した突帯文土器は、すべて晩期の突帯文土器が混じりこんだものとの理解が一般的であった。斉一的な遠賀川式土器に覆いつくされてしまうという歴史観が定着する原因はここにあったのである。しかし、近年の調査は突帯文土器だけを使い、わずかに遠賀川式土器が混じる遺跡や、遠賀川式土器をまったくもたない突帯文土器だけの遺跡、突帯文土器と遠賀川式土器が共伴する遺跡の存在が、特別な現象ではないことを明らかにしつつある。遠賀川式土器が西日本を覆いつくすことに文化史的な意味があるように、それと積極的にかかわった集団やまったく関わりをもたなかった集団の存在にも歴史的な意味があるのである。画一的な前期像が一掃されるのもをそう先のことではないと思われる。
(13)  家根祥多教示。
(14)  山崎純男教示。
(15)  北九州市域の早期突帯文土器を三つに分けている。この編年案に示された注目すべき点は突帯文土器の成立を黒川式まで遡らせたこと、無刻突帯文土器と刻目突帯文土器に型式差を認めたこと、この段階を縄文時代晩期終末と認識したことである。
 黒川式相当の突帯文土器(図15−11)は、貫・井手ヶ本遺跡の無刻突帯文土器である。この甕は瀬戸内型と推定される器形をなし口唇部に刻目文をもつもので、粗製深鉢にともなって1点のみ確認されたものである。この文様型の突帯文土器は黒川式相当の遺跡ならどこでも出土するわけではなく、また山口県奥正権寺遺跡では前池式の瀬戸内型一条甕にともなっている。この土器は精製土器に近く、突帯文土器の成立を考えるときの決めてと目されている黒色磨研浅鉢との関係がうかがえるものである。突帯文土器が粗製の深鉢・甕を指す以上、この土器を突帯文土器の中に含めるわけにはいかないと考える。高橋徹もこの種の時は刻目突帯文土器の中には含めず無刻突帯文土器として晩期最終末に位置づけ、刻目突帯文土器の成立から弥生時代早期と考えている〔高橋,1989〕。したがって、突帯文土器の中に含めることが妥当なのかどうかという判断と、前池式と黒川式の併行関係の検討まで想定した議論が必要となろう。
 前田編年では、壺が黒川式段階に出現するとなっている。根拠は南方・上ヶ田遺跡の2号溝の資料である。壺自身は口縁部の外反がかなり進んだものだが、口唇部に刻目がない瀬戸内型一条甕とともなっている。器種構成は突帯文土器が82%でこれに粗製深鉢とかなり崩れた黒川式の浅鉢がわずかにともなうことから考えれば、菜畑9−12層の内容と変わらない。したがって黒川式に壺がともなうと考えるよりも、突帯文土器様式の中で考えた方がよいのではないだろうか。前田は菜畑との関係について、南方・上ヶ田に二条甕がともなわないことを理由に菜畑9−12層より古く位置づけている。しかし、北九州市域の早期突帯文土器の組成を考えれば瀬戸内と同様に、一条甕単純の段階から二条甕の段階へと変遷するので、菜畑9−12層に併行する時期は一条甕単純の時期にあたることもあって二条甕がともなわないのはおかしなことではない。
 東部九州で突帯文土器の成立が西部九州に先行する可能性は高いが、それは黒川式の中で捉えるのではなく突帯文土器様式の中で考えた方がよいと思われる。したがって前田が示した今回の資料だけでは突帯文土器の成立や壺の出現を黒川式の段階までさかのぼらせて考えるのは資料不足といえよう。
 黒川式の次の段階、前田のいう山ノ寺式の段階に二条甕が成立する。中貫遺跡の包含層資料の中に一条甕と二条甕(図15−24)があるが、口縁部破片が多いこともあって全体像はわからない点も多い。一条甕は西部九州型だが口頸部と胴部の調整を違える手法は瀬戸内の手法そのままである。また口唇部の刻目はもはや施文されていない。浅鉢はくの字口縁が出現する。前田はこの資料を山ノ寺式に比定するが壺の内容が不明な点と、菜畑9−12層の土器にくらべて型式学的に新しい特徴をもっていることから山ノ寺式にはあたらないと考える。
(16)  1号溝の突帯文土器と遠賀川式土器はそれぞれ壺や鉢をもちセットで出土していることもあり、調査者はこの現象を単なる混じり込みとは考えていない。突帯文土器様式には谷尻式相当の刻目文土器や前池式相当の一条甕、鍵型口縁の浅鉢、方形浅鉢があり、1号土坑出土土器と同じ時期の土器がある。1号土坑でもこれらの早期突帯文土器と遠賀川式土器が出土しているが、これは出土状況から遠賀川式土器が混じりこんだものと判断されている。しかし1号溝は出土状況からは混じりこんだとは考えられないとされている。常識的に考えればT期の突帯文土器と遠賀川式土器が共伴することはありえない。
 1号溝の突帯文土器の組成は瀬戸内型一条甕が7割を占めるほかは、砲弾型一条甕(図17−14)、無刻一条甕である。二条甕が欠落したり砲弾型一条甕が顕著な状況はU期の大渕遺跡に近い。外傾接合かどうかはわからなかった。伊予に一般的なこの組成は沢田式相当の一条甕と前期突帯文土器の一条甕・砲弾型一条甕である。後者は、V期古からV期新段階に相当しいずれも弥生化が完了している。最近の調査で明らかにされつつある田村や大浦浜の前期突帯文土器と同じ一群である。前期の一条甕は胴部の屈曲はかなり弱まり、口縁端部から下がった位置に突帯を貼り付け押し引き刻目を施したあとヨコナデし、ナデによって器面をそろえる(15〜17)。また遠賀川式土器の影響をうけて口縁部が外反した土器もあり、前期水稲農耕の伝播をうけて四国に成立した突帯文土器なのである。沢田式の新しい部分がV期に残るのは本稿の編年では問題ないので、甕については前池式を除いて遠賀川式土器と共伴したとしても支障はなかろう。問題は前池式相当の甕と鍵形口縁浅鉢である。田村では浅鉢はともなっていないので比較できない。これについては類例を待ちたい。
(17)  田村の共伴現象は次のように理解されている。「したがってそれは、夜臼Ub式が板付T式と共伴するような現象ではなく、弥生化した「晩期土器」が淘汰されずに残存したものと考えられる。ここに九州とも畿内とも異質の、弥生文化受容の姿がみられる」〔出原,1982:472〕。
 本遺跡の前期突帯文土器は、突帯の条数や口唇部文様、器形を指標に分類されているが、口縁部破片が多いこともあって一条甕と砲弾型一条甕との識別が十分におこなわれていないので、報告書の比率では一見、砲弾型一条甕(図18−12・13)の比率が高いようにみえるが、LOC16とLOC25の資料を実見した限りでは一条甕主体の組成をとるようである。型式学的には、口縁部より下がった位置や口縁部端部に接して突帯を貼り付けたあと丁寧な押し引き刻目を施しヨコナデをおこなう。一条甕の器形はもはや屈曲の痕跡がみられる程度で、西部九州V期新の亀ノ甲型甕と同じものとして理解できる(14)。出原の言う「弥生化した晩期土器」とは、このことを指していたのである。
(18)  図20−20は本稿の分類では砲弾型一条甕に相当する。しかし、胴部に段や屈曲部こそないものの器面調整は外面上部がヨコ方向のケズリで、下部はナナメまたはタテ方向のケズリとなっており、明らかに上と下を区別している点で瀬戸内型一条甕の調整技法と共通する手法である。また底部も丸底でU期以降の砲弾型一条甕とは別系統のものとみてよい。近畿から伊勢湾沿岸に分布する甕であろうか。
(19)  「砲」は砲弾型甕を、「屈」は屈曲型甕をあらわす。また不等号で両者の量的関係を表現した。括弧内の数字はこのたび扱った遺跡における比率の最少と最大の幅を意味している。たとえば西部九州の粗製深鉢は8:1から2:1の割合で砲弾型のものが多いという意味である。
(20)  遠賀川式土器と共伴する突帯文土器が早期に属すか前期に属すかの違いは、水稲農耕の開始を考える上でも大きな問題である。しかし、板付と田村は早期突帯文土器と前期突帯文土器の違いこそあれ、ともなった突帯文土器はすべて屈曲型の系譜を引くものである点は同じである。早期突帯文土器か前期突帯文土器かの違いはあるが、前期甕組成の同質性と瀬戸内では唯一、大陸系磨製石器がセットでそろう点、しかも九州の石材を用いている点など、なにかと北部九州との関連がうかがわれる点は興味探い。
(21)  瀬戸内・近畿の早期突帯文人と水稲農耕との関係については二つの見方がある。一つは水稲農耕を他の生業と同じ位置づけにしておいたと考える見方、そしてもう一つは玄界灘沿岸と同じように水稲農耕がすでに生業基盤の中心であったとする見方である。この問題を考える判断基準には農工具の組みあわせや壺と浅鉢が器種構成に占める比率などがあるが、現在のところこれらの指標から得られる仮説は前者の考えに近いとせざるを得ない。

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288. 中川隆[-11949] koaQ7Jey 2020年8月05日 09:41:10 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[10] 報告
神澤 秀明 2019年6月
韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析
https://researchmap.jp/hk-k/misc/21287393

『韓国で、釜山・加徳島の獐項遺跡の人骨(6,300年前:BC4,300年)の核DNA分析を行った結果、縄文人的と判明した。』
とのホットな(学会内部)情報が伝えられた。(2019/11/24)
この情報が、どんな内容で何時 公表されるかに 関心がある。分子生物学者の発表なら早期に期待できるが..


上記の核DNA分析結果は、「韓国加徳島獐遺跡出土人骨のDNA分析」2019/06 で諭文名は検索できるが、
内容は、韓国文化財研究院の論文集でのみ公開されており、日本国内の公共図書館(国会図書館、国立科学博物
館、山梨大学)には所蔵されていない。
推察するに、韓国の新石器人骨が縄文人的であったため、韓国国内で広く公表することを控えているように思われる。
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm

289. 中川隆[-11945] koaQ7Jey 2020年8月05日 09:48:05 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[14] 報告
土井ヶ浜弥生人 最終更新: 2019年03月30日
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD


形質は北方新モンゴロイド。

弥生時代の北部九州・山口に分布していた弥生人。頭蓋骨の形質的に純粋な大陸系渡来人だと見られていたが
最新の核ゲノム解析により、少なくとも北部九州弥生人は実は縄文人の遺伝子を受け継いでいることが判明し*1、その割合は東京周辺の現代日本人と同じ1〜2割程度である。

縄文人に近い形質を持つ西北九州弥生人と互いに混血していたようである。
また朝鮮半島南部に進出していた縄文人との混血を経た渡来系弥生人の集団だった可能性もある。
また土井ヶ浜弥生人の居住地域からも西北九州弥生人型の頭蓋骨が発見されており*2、
弥生時代初期段階の縄文系弥生人社会と土井ヶ浜弥生人社会は対立関係になかったと考えられる。

水稲稲作や鉄器を日本に最初にもたらした集団だと考えられている。

核ゲノム解析の結果、現代大和民族のほとんどはこの土井ヶ浜・北部九州弥生人の遺伝子に近いクラスタに属していると判明した。
便宜上、この項目では北部九州弥生人も土井ヶ浜弥生人としているが、厳密には北部九州と土井ヶ浜では微妙に違いがある。
現代日本人の頭蓋骨は土井ヶ浜弥生人より北部九州弥生に近い。

形質

頭型は基本的には短頭(頭の前後が短い)だが中頭も多い。
高顔でのっぺりとした起伏のない顔立ち。
胴長短足で顔が大きく寒冷地適応をしていた。
歯が大きく、噛み合わせは鋏状咬合。
縄文人に比べると比較的身長が高く男で165cm程度。
酒に弱い(ALDH2不活性型・失活型)。
体毛が薄く、髭がほとんど生えない。
髪は直毛。
華奢で骨細な体格。体格に関しては縄文でも北方黄色人種でもないようだ。
唇は薄い。口は小さい。
目は切れ長で小さい。
風習的抜歯を行うなど縄文人の文化風俗も取り入れていたようだ。


土井ヶ浜弥生人の復元図。

*1 : 安徳台遺跡
*2 : 土井ヶ浜・701号人骨
https://newwikilihct.memo.wiki/d/%C5%DA%B0%E6%A5%F6%C9%CD%CC%EF%C0%B8%BF%CD

290. 中川隆[-11939] koaQ7Jey 2020年8月05日 10:18:18 : pBXIVseBbg : VG00b2F4R3R0eUk=[20] 報告
弥生人DNAで明らかになった日本人と 半島人の起源 ー朝鮮半島に渡った縄文人ー
http://plaza.harmonix.ne.jp/~udagawa/nenpyou/yayoi_DNA.htm

(追加 2019/11/26)
『韓国で、釜山・加徳島の?項遺跡の人骨(6,300年前:BC4,300年)の核DNA分析を行った結果、縄文人的と判明した。』
とのホットな(学会内)情報が伝えられた。(2019/11/24)


九州が握る日本人の謎 古賀英毅
2020/3/13 11:00
https://www.nishinippon.co.jp/item/n/591652/

国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。
「この人たちが渡来したとするならば、混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。
時期は縄文時代まっただ中の6千年前。
渡来はあったとしても混血は必ずしも必要ないということになる。

291. 中川隆[-11698] koaQ7Jey 2020年8月25日 08:06:51 : WTRIxbreSo : SmdhZHJZU2RGaVE=[5] 報告
日本語の起源は朝鮮半島にあり?方言の共通祖先を発見、東大
2011年5月5日 発信地:パリ/フランス [ ヨーロッパ フランス ]
https://www.afpbb.com/articles/-/2798334?act=all

日本語の起源は朝鮮半島にあり?方言の共通祖先を発見、東大


【5月5日 AFP】日本語の方言の多くは約2200年前に朝鮮半島から移住してきた農民たちに由来することが、進化遺伝学の観点から明らかになったとする論文が、4日の学術専門誌「英国王立協会紀要(Proceedings of the Royal Society B)」に発表された。

 日本語は、世界の主要言語の中では唯一、起源をめぐって現在も激しい議論が戦わされている。

 主要な説は2つある。1つ目は、定住が始まった3万年〜1万2000年前の石器時代文化に直接由来しているというもの。この時代は原始的な農業も一部で行われていたが、主に狩猟採集生活が営まれていた。アジア大陸からは紀元前200年ごろに人の流入があり、金属製の道具やコメ、農業技術がもたらされたが、言語発達にはほとんど影響を及ぼさなかったというのがこの説の主張だ。


 もう1つの説は、紀元前200年ごろの朝鮮半島からの人の大量流入が日本の先住文化に非常に大きな影響を及ぼしたとするもので、先住民が大規模な移住を余儀なくされ、彼らの話していた言語もほとんどが置き換えられたと考える。最近の考古学上およびDNAの証拠は、いずれもこちらの説が有力であることを示している。

■方言の共通祖先の年代は?

 さらなる証拠を求めて、東京大学(University of Tokyo)の長谷川寿一(Toshikazu Hasegawa)教授とリー・ショーン(Sean Lee)氏は、数十の方言の年代をさかのぼり、共通祖先を見つけようと試みた。

 この手法はもともと進化生物学において、化石から採取したDNA断片から系統樹を作成し、数百万年前の祖先までさかのぼる目的で開発されたもの。リー氏によると、言語に適用することには異論もあるが、これまでの実験結果などから、言語には遺伝子のような特性があり、代々の継承を通じて進化することが推定されるという。

 2人は、体の部位、基本動詞、数字、代名詞などの主な210単語について、59方言でリストを作成。数千世代にわたり改変されていない、いわゆる「高度保存遺伝子」を見つけ出すのと同じ要領で、他の方言に影響されていない「変化耐性」を持つと思われる単語を選び出し、コンピューターでモデル化した。

 すると、これらの単語はすべて約2182年前の共通祖先に行き当たった。この年代は、朝鮮半島から大量の渡来人が来た時代に当たる。

 リー氏は、農民の流入が始まった時期はこの時期より少し前の可能性があると指摘しつつ、「日本に流入した最初の農民たちが、日本人と日本語の起源に深い影響を及ぼした」と結論付けている。(c)AFP/Marlowe Hood

https://www.afpbb.com/articles/-/2798334?act=all

292. 中川隆[-10605] koaQ7Jey 2020年10月25日 12:21:07 : maeqeulk3U : ai5wQnR4S0NjYVU=[25] 報告
2020/10/14
都道府県レベルでみた日本人の遺伝的集団構造
〜縄文人と渡来人の混血がもたらした本土日本人内の遺伝的異質性〜

渡部 裕介(研究当時:生物科学専攻 博士課程3年生)
一色 真理子(研究当時:生物科学専攻 博士課程3年生)
大橋 順(生物科学専攻 准教授)
https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2020/7056/

発表のポイント
47都道府県に居住する日本人約11,000名の全ゲノムSNP遺伝子型データを解析し、現代日本人の遺伝的構造は各都道府県における縄文人と渡来人の混血の程度と地理的位置関係によって特徴づけられることを示した。
都道府県レベルで日本人の遺伝的集団構造を初めて明らかにした。
本研究により、日本人の形成過程の理解が進むだけでなく、疾患遺伝子関連研究において、適切な検体収集地域の選定が可能になると期待される。

発表概要
今回、東京大学大学院理学系研究科の渡部裕介・一色真理子大学院生(研究当時)と大橋順准教授は、47都道府県に居住する日本人約11,000名の全ゲノムSNP遺伝子型データを用いて、都道府県レベルで日本人の遺伝的集団構造を調べた。クラスター分析により、47都道府県は沖縄県とそれ以外の都道府県に分かれ、沖縄県以外は九州・中国地方、東北・北海道地方、近畿・四国地方の3つのクラスターに大別された。関東地方や中部地方の各県は1つのクラスター内に収まらなかった。主成分分析の結果、第1主成分は沖縄県との遺伝的距離と関連しており、第2主成分は緯度・経度と関連していた。これらの結果は、各都道府県の縄文人と大陸から来た渡来人との混血の程度の違いと地理的位置関係が現代日本人の遺伝的地域差を形成した主な要因であることを示唆している。

本研究は、都道府県レベルで日本人の遺伝的集団構造を初めて明らかにした。今後、不明な点が多い縄文人と渡来人の混血過程の理解が進むだけでなく、疾患遺伝子関連研究において、集団階層化によるバイアスを避けた検体収集が可能になると期待される。

発表内容
研究の背景・先行研究における問題点
現代の日本人(アイヌ人、琉球人、本土人)は、縄文人の系統と、渡来人の系統が混血した集団の子孫であることが示唆されている(Japanese Archipelago Human Population Genetics Consortium. 2012, J Hum Genet)。日本の7つの地域間の遺伝的異質性を指摘した先行研究があるが(Yamaguchi-Kabata et al. 2008, Am J Hum Genet)、中国地方や四国地方の県は含まれておらず、7つの地域に分けることの妥当性を含め、日本人集団の詳細な遺伝的集団構造やかかる構造を生じさせた要因はよく理解されていなかった。また、地域間の遺伝的異質性が不明なため、日本人を対象とする疾患遺伝子関連研究(注1) において、集団階層化によるバイアス(注2) を避けた検体の収集が困難であった。

研究内容
今回、東京大学大学院理学系研究科の渡部裕介・一色真理子大学院生(研究当時)と大橋順准教授らのグループは、ヤフー株式会社が提供するゲノム解析サービスHealthData Labの顧客11,069名の138,688か所の常染色体SNP(注3)遺伝子型データを用いて、日本人の遺伝的集団構造を調べた。まず、個体レベルで主成分分析(注4)を行い、琉球人(主に沖縄県)と本土人(主に沖縄県以外の46都道府県)が遺伝的に明瞭に分かれることを確認した(図1)。なお、本研究に用いたデータにはアイヌ人は含まれていないと考えられる。

図1:日本人11,069名と中国・北京の漢民族の主成分分析の結果。常染色体上の138,688か所のSNP遺伝子型データから各個体の主成分得点を求めてプロットした。

次に、47都道府県のそれぞれから50名ずつ無作為抽出して各SNPのアリル頻度を計算し、中国・北京の漢民族も含めてペアワイズにf2統計量(注5)を求めてクラスター分析(注6)を行った(図2)。

図2:47都道府県と中国・北京の漢民族を対象にしたクラスター分析の結果。日本地図上の番号が各都道府県に対応している。47都道府県を4つのクラスターに分けると、沖縄地方、東北・北海道地方、近畿・四国地方、九州・中国地方に大別された。

47都道府県を4つのクラスターに分けると、沖縄地方、東北・北海道地方、近畿・四国地方、九州・中国地方に大別された。関東地方や中部地方の各県は1つのクラスター内に収まらなかった。このことは、関東地方もしくは中部地方の都県を遺伝的に近縁な集団とみなすことはできず、そのような単位で日本人集団の遺伝的構造を論じることや、疾患遺伝子関連研究の対象検体を収集することは適切ではないことを示している。

47都道府県を対象に主成分分析を行ったところ(図3)、第1主成分は沖縄県と各都道府県の遺伝的距離を反映していた。沖縄県に遺伝的に最も近いのは鹿児島県であった。図2でクラスターを形成した地方に着目すると、九州地方と東北地方が沖縄県に遺伝的に近く、近畿地方と四国地方が遺伝的に遠かった。さらに、f2統計量の解析から、近畿地方や四国地方は中国・北京の漢民族に遺伝的に近いこともわかった。第2主成分は都道府県の緯度および経度と有意に相関していた(緯度:P-value = 3.21 × 10-12、経度:P-value = 2.38 × 10-14)。

図3:47都道府県を対象にした主成分分析の結果。

本研究の結果は、各都道府県の縄文人と大陸から来た渡来人との混血の程度の違いと地理的位置関係が本土人の遺伝的地域差を形成した主な要因であることを示唆している。大部分の渡来人は朝鮮半島経由で日本列島に到達したと考えられるが、朝鮮半島から地理的に近い九州北部ではなく、近畿地方や四国地方の人々に渡来人の遺伝的構成成分がより多く残っていることは、日本列島における縄文人と渡来人の混血過程を考えるうえで興味深い。本土人のゲノム成分の80%程度は渡来人由来であると推定されているが、近畿地方や四国地方には、さらに多くの割合の渡来人が流入したのかもしれない。また、地理的位置も遺伝的構造に影響していることや、沖縄県に遺伝的に近い九州地方と東北地方が互いには近縁でないことから、渡来人との混血時に縄文人は遺伝的に分化していたと考えられる。

社会的意義・今後の予定
本研究では、都道府県レベルで本土日本人の遺伝的集団構造を初めて明らかにした。47都道府県の遺伝的近縁関係がわかったことで、日本列島全域での縄文人と渡来人の混血過程の理解が進むと期待される。また、日本人集団を対象にした疾患遺伝子関連研究において、集団階層化によるバイアスを極力避けた、適切な検体収集地域の選定が可能になると期待される。

発表雑誌
雑誌名 Journal of Human Genetics
論文タイトル Prefecture-level population structure of the Japanese based on SNP genotypes of 11,069 individuals
著者 Yusuke Watanabe*, Mariko Isshiki*, Jun Ohashi (these authors contributed equally to this work)
DOI番号 10.1038/s10038-020-00847-0
アブストラクトURL https://www.nature.com/articles/s10038-020-00847-0

用語解説
注1 疾患遺伝子関連研究
多数の患者と対照の塩基配列を比較する(一般的には、多型のアリル頻度を比較する)ことで、疾患発症と関連する多型を検出する研究。関連多型が明らかになることで、疾患の発症機序の理解が進むだけでなく、各個体の発症リスクを推定することが可能となる。↑

注2 集団階層化によるバイアス
疾患遺伝子関連研究において、遺伝的背景の異なる患者と対照を調べると、疾患とは関連しない多型が見かけ上の関連(偽陽性)を示す可能性がある。統計学的手法によってバイアスを調整する努力もされているが、根本的に解決することは困難である。↑

注3 単塩基多型(SNP)
ヒトのDNAの塩基配列(A/T/G/Cの4種類の塩基による並び)を比較すると0.1%程度の違いがある。塩基配列の違いを多型といい、1つの塩基の違いによる多型を単塩基多型(single nucleotide polymorphism; SNP)とよぶ。↑

注4 主成分分析
多数の変数(多次元データ)から全体のばらつきをよく表す順に互いに直行する変数(主成分)を合成する多変量解析手法の一つ。主成分分析によって次元を削減することで、データ点を可視化することができる。本研究では、個体単位の解析では遺伝子型を、都道府県単位での解析ではアリル頻度を変数として用いた。↑

注5 f2統計量
2つの集団間の遺伝距離を測る尺度の一つ。SNPデータに対するf2統計量は、SNP毎にアリル頻度の集団間差の2乗を計算し、それらの平均値として与えられる。↑

注6 クラスター分析
多数の変数(多次元データ)からデータ点間の非類似度を求め、データ点をグループ分けする多変量解析手法の一つ。グループ分けが階層的になされる階層的手法と、特定のクラスター数に分類する非階層的手法がある。本研究では、階層的手法の一つであるウォード法を用いた。↑

―東京大学大学院理学系研究科・理学部 広報室―

https://www.s.u-tokyo.ac.jp/ja/press/2020/7056/

293. 中川隆[-8956] koaQ7Jey 2020年12月25日 14:59:01 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[20] 報告
日本の中の朝鮮をゆく 飛鳥・奈良編――飛鳥の原に百済の花が咲きました
2015/2/27 兪 弘濬 (著), 橋本 繁 (翻訳)
https://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%AE%E4%B8%AD%E3%81%AE%E6%9C%9D%E9%AE%AE%E3%82%92%E3%82%86%E3%81%8F-%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%83%BB%E5%A5%88%E8%89%AF%E7%B7%A8%E2%80%95%E2%80%95%E9%A3%9B%E9%B3%A5%E3%81%AE%E5%8E%9F%E3%81%AB%E7%99%BE%E6%B8%88%E3%81%AE%E8%8A%B1%E3%81%8C%E5%92%B2%E3%81%8D%E3%81%BE%E3%81%97%E3%81%9F-%E5%85%AA-%E5%BC%98%E6%BF%AC/dp/4000610244


@ 渡来人の故郷、飛鳥

飛鳥と奈良は、日本の中の朝鮮文化を探す旅の核心であり、日本古代文化のハイライトだ。
日本が古代国家に発展する全過程が飛鳥に残っており、彼らがあれほどまでに望んだ古代国家をついに誕生させた場所が奈良である。
飛鳥に行けば韓国の扶余〔百済の都〕が思い浮かび、奈良の古寺を見れば慶州〔新羅の都〕を連想する。

五世紀に加耶から渡った渡来人が日本に鉄と馬そして加耶の土器文化を伝えたことは、「近つ飛鳥」に確かに残っており、
六世紀の百済から渡っていった渡来人の足跡は、飛鳥ではっきりと見ることができる。
百済王室との交流を通じて仏教と文字を受け入れてついに律令国家となる過程を、石舞台、橘寺、飛鳥寺で見ることになる。

韓国人にもよく知られる高松塚古墳壁画を見ると、高句麗文化の影響力がどれほど長く残っていたのかを痛感する。
日本の古代社会に朝鮮半島からの渡来人が残した文化的結実は、飛鳥の北面にある法隆寺に集約的に見られる。
法隆寺は、日本古代文化の精華であると同時に、朝鮮半島では見ることのできない百済の建築と彫刻の姿を見せてくれる。

七一〇年、平城京に遷都すると同時に始まった奈良時代は、日本古代文化の頂点であった。
薬師寺の東塔、興福寺の仏像彫刻、東大寺の大仏、唐招提寺の彫像彫刻は、日本古代国家の爛熟と栄光を誇る。
この頃になると日本は、朝鮮半島の影響から離れて唐文化に直接接するとともに、より国際的な文化となっていく。
それは、統一新羅の文化と似ていながら異なる、日本文化独自の姿であった。

我々韓国人は、東アジアの一員として、隣国日本のこうした文化的成功を評価することにためらう理由はない。


▲△▽▼

日本の中の朝鮮をゆく 飛鳥・奈良編――飛鳥の原に百済の花が咲きました
レビュー 赤尖晶石 5つ星のうち4.0
筆者の専門分野での記述は素晴らしかったが・・・
2015年5月11日


『筆者の専門分野での記述は素晴らしかったが・・・』

仏教美術を中心に日本古来の芸術の特徴や日本人の考え方と、朝鮮の文化や韓国人の考え方とを対比させて論説する文体は、谷崎潤一郎の随筆『陰翳礼讃』を連想させる。特に筆者が専門とする美術史に関する部分は文章が生きており、人を引き付ける力がある。

この筆勢が全編貫かれていれば★5つでしょう。しかし他の部分があまりにも内容が乏しく正確さに欠けるので、本来★3つですが、九州編に比べ日韓の主張を両論併記しようと心掛けている部分も増え、良くなっている部分もあり、おまけして★4つにしました。

(韓国人が読めば全編に渡り『自尊心』を刺激されて、きっと★5つでしょう)

 筆のすべりが過ぎて、史料の確認が出来ていないところもある。例えば同行した金教授の説明と、ことわりが入れてあるが「東大寺転害門(大門)の一方の空いた空間に瑪瑙で作った臼があったからと、『七大寺巡礼私記』という古記録を資料名だけ引用して、内容も無く長々と、しかも勘違いして記述しているようだ・・・これは勘弁してほしい。

この部分は七大寺日記(1106年頃)及び七大寺巡礼私記(1140年頃)そのままに、西面大垣三門、北端門碾磑御門(七大寺日記)・・・碾磑亭一宇、七間瓦屋、置碾磑、件亭在於講堂東食堂之北、其亭内置石唐臼、是云碾磑、以馬瑙造之、其色白(七大寺巡礼私記)「西面の大垣に三門あり、北端の門を輾磑御門と云う・・・碾磑亭という七間、瓦葺き一棟があり、碾磑が置かれている。この建物は講堂(大仏殿の北に位置し、1180年に「平重衡の兵火」で焼失)の東にある食堂の北(講堂の北東、碾磑門のはるか東)にあり、中に石の唐臼が置かれているが、これを碾磑といい、瑪瑙で出来ていて、白色である」と巡礼私記等の具体的で正確な内容をそのまま書いてほしかった。私の考えすぎでしょうか、原文の内容を書かなかったのは・・・唐臼とあったから高句麗の臼ではないのではと、この教授は考えてしまったのではないかと・・・日本語の『唐臼』は、目を刻った石臼のことだのに?

  碾磑亭は現在の龍蔵院付近である。この部分は、後段に筆者が記述している日本書紀610年の記録『高句麗の僧曇徴』を説明する為の導入部分であるが、日本書紀の現代語訳も間違いがあるし、日本人の読む書物に専門外のことには手を出さない方が良いと私は思った。転害門(碾磑御門)の近所で、瑪瑙の碾磑の設置場所の写真なんか撮れないでしょう・・・漢文が読めてないのでしょう。

それと、3年程前に『食堂』跡の遺跡の井戸から巨大な唐臼の破片が出土していますよ・・転害門から相当離れた東側ですが。

 また東大寺正倉院の建築様式が高句麗の桴京だと強弁しているが、徳興里壁画古墳の玄室の絵画でも、井桁組と分かる麻線溝一号墳壁画でも、八清里古墳でも、高床式で屋根が付いていて横木組であるということは分かるが、それ以上の情報は無い。その程度のものなら、時代の古い弥生時代遺跡の穀物倉庫(登呂遺跡。平板を井籠組)にある。正倉院は井籠組の一種の校倉組で、大きな三角形の長尺材を使う甲倉であり、建築が困難な一棟三倉構造をしており、創意と工夫にあふれた巨大な建造物だ。甲倉造りは丸太造りに比べ強度に優れ、丸太では、正倉院の大きさの米倉は建造出来ない。丸木の校倉造は世界各地にあるが、甲倉は日本にしかない日本人の発明であり、稲穀を蓄える巨大な米櫃である。

 正倉の名称、倉庫令、倉の位置の名称は、唐の律令制を手本にしていることから、大和朝廷は唐の正倉に匹敵する堂々たる倉の建築を決めて採用したのが甲倉造りだったのであろう。校倉造りの甲倉の米の収容能力は、校倉造り丸木倉の実に3倍から4倍(斛の記録ではなく正倉の実測値)に達している。

では桴京とは何か?・・・三国志『高句麗伝』無大倉庫、家家自有小倉、名之為桴京。私流に訳すと「大きな倉庫は無く、家には自家用の小さな倉があり、これを名付けて『桴京』という」・・・根拠は壁画とこれだけ。私は話にならないと思った。高床式建物は確かに北方系建築様式でもあり、北方系のアムール川流域の古アジア系民族の夏小屋(冬小屋はアイヌの寒冷地の穴式住居に似る)で校倉式木組みを伴なっている。高句麗の桴京は、北方少数民族と共通で、古アジア系建築様式をルーツにしている小規模な穀物倉で、収容物は米穀より軽い粟等の雑穀や干肉であろう。

  一方南方系の記録は漢時代の貴州と雲南省で、高床式で丸木と推定される校倉造りである。また日本の神社の建築様式には、南方系の高床式と少数民族の屋根組みがみられることから日本には北からも南からも高床式で校倉造りの建築様式は流入する可能性があり、私は、即断は避けるべきであると考える。

 そもそも日本人男性のDNA・Y染色体分布をみると、一番多いのは縄文系のD2遺伝子で、僅差で2番目に多い遺伝子は弥生系のO2b1で、シェアは日本が最大、中国江南が出自の遺伝子とされている。

また日本人の半数が江南出身である証拠は、アルデヒド分解遺伝子の欠如でも証明されている。(日本の場合、残る半数は縄文系でお酒に強い、その代表は日本美人の産地秋田県と南国鹿児島県)

この遺伝子は、突然変異で発生したが、その場所は中国江南であり、世界で一番この酒に弱い遺伝子を持っているのは、日本人で、その日本で弱い遺伝子を持つ人は、近畿・中部・瀬戸内に多い(一番弱いのは三重県、次は愛知県)。余談だが、韓国人はアジア人の中でも酒に強いグループで、『酒に弱い弥生先祖人』とは大きく異なって北方系と華北系が主流であり、飛鳥や奈良の原住民とは関係が薄いということが分かる。筆者ご自慢の青銅器の流入も北から、朝鮮を支配し当時から世界一の製鉄技術を持っていた漢も北から、百済と新羅を圧迫した高句麗も北から・・朝鮮半島の皆さんは、ことごとく酒に強い北方系の人達だ。

この日本の酒に弱い人達は、縄文時代末期から弥生初期に、大陸から直接、稲と、鉄器と、四眠蚕と、潜水漁法(あわび起し)を日本に持ち込んだことが、学術的に分かっている。日本最古の鉄器は中国製だし、日本の史跡出土の、主要なジャポニカ米の遺伝子は朝鮮の遺跡の炭化米には無い。飛鳥・奈良を中心とする大和王権の地に住む人々は、五七五の和歌の旋律を天皇から庶民まで楽しみ、鵜飼の行事とともに歌会始(歌御会)は、現代まで続く宮中行事となっている。漢語がベースの時調のようなものは宮廷行事には当然無い。

当然高床式の穀物倉庫も江南から直接持ち込まれた可能性が強く残る。ちなみに農具の馬鍬も江南の水田稲作民が持ち込んだと推測されている。弥生祖先人は半農半漁民で稲作と鍛冶技術を呉越の地から持って来たようだ。

  朝鮮半島からの帰化人=今来の渡来民を受け入れたのは、心優しい縄文人と江南からの渡来民(弥生祖先人)が平和裏に混交し人口を増やした弥生人の末裔であり、日本は韓国人が作ったという筆者の強く熱い思いを踏みにじるようで申し訳ないが、朝鮮系は少数派ですね。当然、ASUKA(飛鳥、明日香)も韓国語ではなく、大和言葉で十分説明出来ます。藤村由加氏と同じレベルのエピソードを長々と書かれても、多くの日本人は馬鹿馬鹿しく思い、ついていけないだろう。

 
  筆者は、三国志魏志東夷伝の記述を次のように書いている「金海で製造された鉄が楽浪、ワイ(さんずいに歳)、倭に輸出された」と、続けて次のように解説している「当時、倭は鉄を生産する技術がなかった。そのため、加那と倭は、同盟以上の親密な関係だった」これは、漢文を読めていないか、読めているとしたら悪意の誤訳である可能性がある。

 では『三国志魏書』弁辰伝・・國出鐵、韓、ワイ、倭皆從取之。諸巿買皆用鐵、如中國用錢、又以供給二郡。・・『三国志』魏志弁辰(弁韓辰韓)伝にも、国は鉄を産出し、韓人、ワイ人、倭人など皆、これを(辰韓の)許可を得て取りに来る。諸貨の売買には皆、鉄を用いる。中国で金銭を用いるがごとくであり、また(楽浪、帯方の)二郡に供給する。

 少し解説すると、古代加那の製鉄遺跡は出土していないが、製鉄法は「たたら製鉄」で原料は砂鉄だとされている。日本人技術者の分析によると、この地域の砂鉄は日本の砂鉄に比べ不純物が大変少なく良質である。私は、この「たたら製鉄」は、『野たたら』だとすると矛盾は無いと考える。

朝鮮半島にも近代まで野タタラ製鉄の技術が残っていたが、記録によると・・・明治42年、朝鮮咸鏡北道富寧の南東にある抄河洞の輪域川の河原で、極めて原始的な製鉄現場が確認された。その方法は、河原に乾いた砂鉄を60p積み、その上に大量の薪を乗せ、一夜燃やし続けて翌日に鉄塊を拾い集める方法だった(京城の加藤灌覚氏の実見談)。最も原始的な製鉄法である。弁韓・辰韓・新羅で製鉄の伝統を持つ国の話である・・・と、まとめられている。スピネル構造の鉄酸化物である磁鉄鉱が主成分の砂鉄を還元する木炭の記述が無く、時間も短いのも不思議だが、面白い実見談である。

  筆者は、日本人の考え方「朝鮮半島はストローのように技術や文物を日本に伝えただけ」を痛烈に批判しているが、同じたたら製鉄でも日本では技術が大いに発達し、朝鮮半島ではそのまま技術が発達しない原始的野たたらが残る、私はこのような実例によってストロー論が実証されているのだと思った。

  何れにせよ、この原始的製鉄法ならば、製鉄遺跡は残らないし、『皆、許可を得て取りに来る』という表現にも納得出来る。このような倭人の原始的製鉄法に繋がる技術的内容が読み取れる記述を、どうすれば単に輸出と表現出来るのか、私は筆者の見識を疑いたい。

  また『金海で製造された・・』と原文にない箇所をわざわざ挿入した訳は、近年、金海の遺跡から渡海可能な比較的大型の船が出土し『金海人が船で・・』というストーリーを考えたのだろうが、その後の分析で船体素材が杉と楠と分かって日本製の船であったことが分かっているのだが。船の他にも任那加羅の遺跡から出土したのは、古くは大量の弥生式土器、倭国の巴型青銅器、ヒスイ勾玉等遺物が多数、前方後円墳が14基ある。『輸出』の一語では片付けることは出来ない『加那と倭は、同盟以上の親密な関係だった』というのは、倭国の半島進出と支配を認めた言葉だったのかな???

 筆者は韓国の歴史学者の論を採用して、日本の教科書会社が『帰化人(渡来人)』と記載しているのを極右翼と非難しているが、単なる渡来民では、中国系や韓国系の人達は氏姓を称することも出来ないことを理解していない。投化(帰化)していないと戸籍に載らないし、租庸調の義務も生じないし、民を束ねる称号も得ることは無い。そもそも戸籍制度で最初に『王化の民』として戸籍に登録されたのは、帰化した秦氏、漢氏等で『秦人(はたひと)・漢人(あやひと)等、諸蕃(しょばん)より投化せる者を招集して、国群に安置し、戸籍に編貫す。秦人の戸数七千五十三戸、大蔵掾(おおくらのじょう)を以て、秦伴造(はたのとものみやつこ)となす」。』(日本書紀)とある。つまり弥生人の末裔より先に帰化民を優先登録したのだ。

その後、これらは制度化され、『化外人(帰化する前)』⇒『化内人(帰化人)』・・10年の据え置き期間・・⇒『調庸人(公民・平民)』⇒『天皇の民(王民)』となった。(賦役令)・・・後の時代には調庸人(海外の名)から王民(著名な氏姓)を得る為に活動する記録もある。

また筆者など韓国人は、統一王朝になる以前は帰化人ではないと詭弁を弄するが、そもそも中国で夷狄の帰化を含む中華思想が形成されたのは、周辺民族にまで「戦国の七雄」の支配が及び始めた戦国時代のことで、当然のこと統一国家ではない。
 単なる渡来人では、大和朝廷支配の日本では物乞いか夜盗になるしか無いのである。渡来なら日本に渡っただけで、朝鮮人・中国人のままなので、強制送還された渡来人の実例もあったが、帰化だと『申請手続き』が必須で、申請完了の場合、日本人になってしまう。帰化には特典も様々にあり、戸令四十四化外奴婢条には、『凡化外奴婢。自来投国者。悉放為良。即附籍貫。本主雖先来投国。亦不得認。・・・』つまり、朝鮮とか中国で、奴隷身分であっても、日本に帰化したら、良民(公民・平民)の身分で登録しますよ、渡来民のままなら奴婢のままですよ、帰化しなさいという勧誘制度ですね。実際、主従の渡来者のうち、最初に帰化した主人に従う奴婢も、帰化の申請を行って賎民から良民となっている。

  その結果、日本に来た様々な階層の渡来民は、帰化して身分差別の少ない日本人になって共に頑張って、日本という国を作った訳で、帰化人は渡来民と同義ではない。その後、韓国では奴婢身分は、『国家管理の性奴隷』を含め、人口の70%にも達したが、日本では、5%程度と元々少なかった奴婢だったが、非合理な奴隷制度は平安時代には廃止された。日本の国の品格は、日本型帰化制度の採用によって確立されたのですかね。日本の江戸後期の頃まで奴隷制度を1000年も長く維持していた国が経済発展する訳は無い。帰化を渡来と言い換えて、自尊心を満足して、『日本人を教化した』(韓国国定教科書)と満足しているようでは、あまりにも寂しいではないだろうか。

 長々と書きましたが、韓国的で独特な歴史観を除けば良書の部類でしょう。
https://www.amazon.co.jp/gp/customer-reviews/R2KTXNSNYIU3TF/ref=cm_cr_dp_d_rvw_ttl?ie=UTF8&ASIN=4000610244

294. 中川隆[-8952] koaQ7Jey 2020年12月25日 15:51:01 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[25] 報告
日本の古代国家と文化を建設したのは朝鮮からの渡来人(上流階層の人々)であった。

倭国へ移住した人々は大きく二つにわけることができる。一つは「王室を中心とした支配層」であり、もう一つは「下層民(韓半島では生きていけない貧困者など)」である。彼らに共通するのは、朝鮮民族に対して怨恨と敵対心をもっていたということである。

弥生時代以降、倭国原住民と渡来人の人口比は「1対9.6」(埴原和郎説)になるほど、渡来人は圧倒的に増えた。しかし、倭国を変貌させたのは、百済の王族であった。

「白村江の戦い」で新羅に敗れた百済人は倭国へ亡命し、百済再興に夢を託した。倭国を日本と命名し、日本人として再出発したのである。渡来人は「朝鮮隠し」を始め、秦氏・漢氏などは先祖を中国系にしたという。「古事記」「日本書紀」では歴史を造作し、皇室側近が朝鮮と関係のある文書を焼失させた。

つまり、5〜8世紀ごろの渡来人は、朝鮮半島で生きられなくなって倭国へ渡った人々が多かったと言える。日本人が、朝鮮に対して野蛮な行為を働き続けたのは、「朝鮮人が朝鮮人の怨恨を晴らす」という潜在意識のためではないかと言われている。

国を捨て、旧来の言葉を日本語化し、朝鮮半島では生きられなくなって日本に渡った脱落者という認識は、本国の朝鮮人の間にかなり広く見られる。

朝鮮人が日本に渡って二世になると相当に変わり、三世代からは日本人化してしまうように、2000年前から渡来しはじめた朝鮮人の子孫たちは日本人化してしまい、自分たちの祖先は縄文時代の人々に始まる、と思っている者が多い。


飛鳥(あすか) 古代朝鮮語(扶余語)の“スカ”(「村」の意)に接頭語アが付いた。

「飛鳥は日本人の心のふるさとだと言っているが、そこに住んでいたのは朝鮮人であった。(井上光貞・山本健吉)」

【東大の最新ゲノム解析】 奈良県が最もCHB・KOR(渡来人)に遺伝的に近い
>Our analysis indicated that, of the 47 prefectures in Japan, Nara was genetically closest to CHB.

奈良県出身 さんま(朝鮮耳・出っ歯)
https://up.gc-img.net/post_img/2020/01/gbqjWZeoiqTXTGc_y53Ud_3115.jpeg

295. 中川隆[-8944] koaQ7Jey 2020年12月25日 16:03:32 : FSuacswpLw : YmxBMnM2QW1TUC4=[33] 報告
篠田謙一の学説の変化


篠田謙一
昔 「縄文人と弥生人は仲良く混血!」「虐殺はなかった!」
今 「こっち(韓国)に引っ張る 何かがあった・・・」


篠田著書(2007年出版)
「征服による融合では、基本的に(征服者側のオスの遺伝子である)Y染色体DNAの方が多く流入するのです。もし渡来人が縄文時代から続いた在来社会武力によって征服したのであれば、その時点でハプログループDは著しく頻度を減少させたでしょう。縄文・弥生移行期の状況が基本的には平和のうちに推移したと仮定しなければ説明がつきません。また日本のY染色体DNAは、日本の歴史のなかで、その頻度を大きく変えるような激しい戦争や虐殺行為がなかったことを示しているようにも見えます。」


弥生人のDNAで迫る日本人成立の謎(2018年放送)




篠田謙一「実はですね、現代日本人は、もう既に、この辺りだということが分かったんですね。つまり、弥生人って、混血していけば恐らく、混血する相手は、この縄文人になりますから、当然、現代日本人の位置っていうのは、こちらにずれてくるはずなんですよね。ところが、そうならなくてこっちに来てしまったということで、ちょっと考え方を変えなきゃならないというふうに思ったわけですね。つまり、こっち(韓国人)に引っ張る、何かがなければいけないということになるんですね・・・。」
https://livedoor.blogimg.jp/wan_nyan_zanmai-history/imgs/d/0/d0f1e875.png



シンポでは、これまで蓄積されてきた考察を根本から覆すことになるかもしれない発見も明らかにされた。
国立科学博物館の篠田謙一人類研究部長が示した韓国・釜山沖の加徳島で見つかった人骨のゲノム解析だ。

「この人たちが渡来したとするならば、(縄文人と)混血なしで今の日本人になる」と篠田さん。(2020年記事)
https://image.prntscr.com/image/4nIX5f21SPmeJ_Fr-7PyYw.png

296. 中川隆[-8917] koaQ7Jey 2020年12月26日 18:37:40 : PLjQd27PlM : UWhkTlI4NVNUMlE=[9] 報告
東アジアの言語地図 (オハイオ大学の言語学者 J. Marshall UNGER 氏が作成)
https://www.oeaw.ac.at/fileadmin/Institute/IKGA/IMG/events/Unger_2013_handout.jpg

297. 中川隆[-16533] koaQ7Jey 2021年9月07日 15:43:03 : r5z45lvW9w : b2RKcGJ1YVo0ZE0=[31] 報告
雑記帳
2021年09月06日
ユーラシア東部の現生人類史とY染色体ハプログループ
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_6.html

 当ブログでは2019年に、Y染色体ハプログループ(YHg)と日本人や皇族に関する複数の記事を掲載しました。現代日本人のYHg-Dの起源(関連記事)、「縄文人」とアイヌ・琉球・「本土」集団との関係(関連記事)、天皇のY染色体ハプログループ(関連記事)と、共通する問題を扱っており似たような内容で、じっさい最初の記事以外は流用も多く手抜きでしたが、皇位継承候補者が減少して皇族の存続が危ぶまれ、女系天皇を認めるのか父系を維持するのか、との観点から現代日本社会では関心が比較的高いためか、天皇のYHgについて述べた2019年8月23日の記事には、その1ヶ月半後から最近まで度々コメントが寄せられています。

 2019年に掲載したYHgと日本人や皇族に関する複数の記事の内容は、その後のYHgに関する研究の進展を踏まえた現在の私見とかなり異なるので、正直なところ今でもコメントが寄せられるのには困っていました。そこで、ユーラシア東部における現生人類(Homo sapiens)の歴史とYHgについて現時点での私見をまとめて、上記の記事に関しては追記でこの記事へのリンクを張り、以後はコメントを受け付けないようにします。また、現生人類がユーラシア東部を経て拡散したと思われる太平洋諸島やオーストラリア大陸やアメリカ大陸についても言及します。なお、最近(2021年6月22日)、「アジア東部における初期現生人類の拡散と地域的連続性」と題して類似した内容のことを述べており(関連記事)、重複というか流用部分も少なからずあります。


●ユーラシア東部現代人の遺伝的構成

 ユーラシア東部への現生人類の初期の拡散は、とくにその年代について議論になっています。とくに、非アフリカ系現代人の主要な祖先の出アフリカよりも古くなりそうな、7万年以上前となるユーラシア東部圏の現生人類の痕跡が議論になっており、そうした主張への疑問も強く呈されています(Hublin., 2021、関連記事)。仮に、非アフリカ系現代人の主要な祖先の出アフリカが7万年前頃以降ならば、7万年以上前にアフリカからユーラシア東部に現生人類が拡散してきたとしても、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していない可能性が高そうです。それは、非アフリカ系現代人の主要な祖先とは遺伝的に異なる出アフリカ現生人類集団だけではなく、遺伝的に大きくは出アフリカ系現代人の範疇に収まる集団でも起きたことで、更新世のユーラシア東部に関しては、アジア東部の北方(Mao et al., 2021、関連記事)と南方(Wang T et al., 2021、関連記事)で、現代人に遺伝的影響をほぼ残していないと推測される集団が広く存在していた、と指摘されています。現生人類が世界規模で拡大し、最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に代表される氷期には分断が珍しくない中で、更新世には遺伝的分化が進みやすく、また集団絶滅も珍しくなかったのだと思います。

 これは、スンダ大陸棚(アジア東部大陸部とインドネシア西部の大陸島)を含むアジア南東部本土とサフルランド(更新世の寒冷期にはオーストラリア大陸とニューギニア島とタスマニア島は陸続きでした)との間の海洋島嶼地帯であるワラセア(ウォーレシア)に関しても当てはまります。ワラセアのスラウェシ島南部のリアン・パニンゲ(Leang Panninge)鍾乳洞で発見された完新世となる7300〜7200年前頃の女性遺骸(以下、LP個体)は、現代人では遺伝的影響が確認されていない集団を表している、と推測されています(Carlhoff et al., 2021、関連記事)。LP個体の遺伝的構成要素は二つの大きく異なる祖先系統(祖先系譜、ancestry)に由来しており、一方はオーストラリア先住民とパプア人が分岐した頃に両者の共通祖先から分岐し、もう一方はアジア東部祖先系統において基底部から分岐したかオンゲ人関連祖先系統だった、とモデル化されています。LP個体はユーラシア東部における現生人類の拡散を推測するうえで重要な手がかりになりそうですが、その前に、現時点で有力と思われるモデルを見ていく必要があります。

 アジア東部現代人の各地域集団の形成史に関する最近の包括的研究(Wang CC et al., 2021、関連記事)に従うと、出アフリカ現生人類のうち非アフリカ系現代人に直接的につながる祖先系統は、まずユーラシア東部(EE)と西部(EW)に分岐します。その後、EE祖先系統は沿岸部(EEC)と内陸部(EEI)に分岐します。EEC祖先系統でおもに構成されるのは、現代人ではアンダマン諸島人やオーストラリア先住民やパプア人、古代人ではアジア南東部の後期更新世〜完新世にかけての狩猟採集民であるホアビン文化(Hòabìnhian)集団です。EEC祖先系統は、オーストラレーシア人の主要な遺伝的構成要素と言えるでしょう。アジア東部現代人のゲノムは、おもにユーラシア東部内陸部(EEI)祖先系統で構成されます。このEEI祖先系統は南北に分岐し、黄河流域新石器時代集団はおもに北方(EEIN)祖先系統、長江流域新石器時代集団はおもに南方(EEIS)祖先系統で構成される、と推測されています。中国の現代人はこの南北の祖先系統のさまざまな割合の混合としてモデル化でき、現代のオーストロネシア語族集団はユーラシア東部内陸部南方祖先系統が主要な構成要素です(Yang et al., 2020、関連記事)。以下、この系統関係を示したWang CC et al., 2021の図2です。
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 このモデルを上述のLP個体に当てはめると、LP個体における二つの主要な遺伝的構成要素は、EEC 祖先系統(のうちオーストラリア先住民とパプア人の共通祖先系統)と、EEI祖先系統もしくは(EEC 祖先系統のうち)オンゲ人関連祖先系統だった、とモデル化されます。ここでまず問題となるのは、LP個体における一方の主要な遺伝的構成要素が、EEI祖先系統である可能性も、オンゲ人関連祖先系統である可能性もあることです。次に問題となるのは、Wang CC et al., 2021では、オーストラレーシア人の主要な遺伝的構成要素であるEEI祖先系統が、ユーラシア東部祖先系統においてEEI祖先系統と分岐したとモデル化されているのに対して、最近の別の研究では、出アフリカ現生人類集団がまずオーストラレーシア人とユーラシア東西の共通祖先集団とに分岐した、と推定されています(Choin et al., 2021、関連記事)。

 こうした非アフリカ系現代人におけるオーストラレーシア人の系統的位置づけの違いをどう解釈すべきか、もちろん現時点で私に妙案はありませんが、注目されるのは、遺伝学と考古学とを組み合わせて初期現生人類のアフリカからの拡散を検証した研究です(Vallini et al., 2021、関連記事)。Vallini et al., 2021では、パプア人の主要な遺伝的構成要素に関して、EE祖先系統内で早期にEEI祖先系統(というかアジア東部現代人の主要な祖先系統)と分岐した可能性と、EEとEWの共通祖先系統と分岐した祖先系統とアジア東部現代人の主要な祖先系統との45000〜37000年前頃の均等な混合として出現した可能性が同等である、と推測されています。以前は、オーストラレーシア人の主要な祖先系統である、EEおよびEWの共通祖先系統(EEW祖先系統)と分岐した祖先系統を「原オーストラレーシア祖先系統」と呼びましたが(関連記事)、今回は、ユーラシア南部(ES)祖先系統と呼びます。以下はVallini et al., 2021の図1です。
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 非アフリカ系現代人のゲノムにおけるネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)由来の領域の割合に大きな地域差がないことから、非アフリカ系現代人のネアンデルタール人的な遺伝的構成要素は単一の混合事象に由来し、その混合年代は6万〜5万年前頃と推定されています(Bergström et al., 2021、関連記事)。したがって、ES祖先系統はネアンデルタール人と混合した後の現生人類集団においてEEW祖先系統と分岐した、と考えられます。

 Vallini et al., 2021に従うと、ES祖先系統およびEEW祖先系統の共通祖先系統と分岐したのが、チェコ共和国のコニェプルシ(Koněprusy)洞窟群で発見された、洞窟群の頂上の丘にちなんでズラティクン(Zlatý kůň)と呼ばれる成人女性1個体(Prüfer et al., 2021、関連記事)に代表される集団の主要な祖先系統です(ズラティクン祖先系統)。ズラティクンも非アフリカ系現代人と同程度のネアンデルタール人からの遺伝的影響を受けており、出アフリカ現生人類集団とネアンデルタール人との混合後に、出アフリカ現生人類集団において早期に分岐した、と推測されます。

 出アフリカ現生人類集団において、ズラティクンに代表される集団が非アフリカ系現代人の共通祖先集団と遺伝的に分化する前に分岐したと考えられるのが、基底部ユーラシア人です。基底部ユーラシア人はネアンデルタール人からの遺伝的影響を殆ど若しくは全く有さない仮定的な(ゴースト)出アフリカ現生人類集団で、ユーラシア西部現代人に一定以上の遺伝的影響を残しています(Lazaridis et al., 2016、関連記事)。現時点で基底部ユーラシア人の遺伝的痕跡が確認されている最古の標本は、26000〜24000年前頃のコーカサスの人類遺骸と堆積物です(Gelabert et al., 2021、関連記事)。

 話をオーストラレーシア人の非アフリカ系現代人集団における遺伝的位置づけに戻すと、オーストラレーシア人の遺伝的構成要素がES祖先系統とEE祖先系統との複雑な混合に起因すると仮定すると、オーストラレーシア人の系統的位置づけが研究により異なることを上手く説明できるかもしれません。また、オーストラレーシア人でもオーストラリア先住民およびパプア人(以下、サフルランド集団)の共通祖先とアンダマン諸島人とでは、ES祖先系統とEE祖先系統との混合年代が異なるかもしれません。つまり、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団がサフルランド集団の共通祖先とアンダマン諸島人の祖先とに遺伝的に分化した後に、EE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団が、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするそれぞれの祖先集団と混合したのではないか、というわけです。Vallini et al., 2021に従うと、パプア人はES祖先系統とEE祖先系統の均等な混合としてモデル化されますが、アンダマン諸島人の混合割合は異なっているかもしれません。

 仮にこの想定が一定以上妥当ならば、LP個体もES祖先系統とEE祖先系統との複雑な混合により形成されたことになりそうです。LP個体で重要なのは、アジア東部からアジア南東部に新石器時代に拡散してきた農耕集団の主要な遺伝的構成要素(Yang et al., 2020)が、Wang CC et al., 2021に従うとEEIS祖先系統と考えられるのに対して、EEIS祖先系統と早期に分岐した未知のEE祖先系統が一方の主要な遺伝的構成要素と推定されていることです(Carlhoff et al., 2021)。LP個体の年代(7300〜7200年前頃)からも、農耕集団の主要な遺伝的構成要素であるEEISおよびEEIN祖先系統以外のEE祖先系統が、アジア南東部への農耕拡大前にオーストラレーシア人の祖先集団に遺伝的影響を残した、と示唆されます。

 北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(Yang et al., 2017、関連記事)の主要な遺伝的構成要素が、Wang CC et al., 2021でもVallini et al., 2021でもEE(もしくはEEI)祖先系統であることから、ユーラシア東部系集団は4万年前頃までにはアジア東部北方にまで拡散したと考えられます。ユーラシア東部系集団がいつどのようにEW祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするオーストラレーシア人の一方の祖先集団(ユーラシア南部系集団)と遭遇して混合したのか不明ですが、ユーラシアを北回りで東進し、アジア東部に到達してから南下した可能性と、ユーラシアを南回りで東進してアジア南東部に到達してから北上した可能性と、アジア南西部もしくは南部で北回りと南回りに分岐した可能性が考えられます。その過程でユーラシア東部系集団(EE集団)は遺伝的に分化していき、ユーラシア南部系集団(ES集団)と混合したのでしょう。オーストラリア先住民とパプア人の遺伝的分化が40000〜25000年前頃と推定されているので(Malaspinas et al., 2016、関連記事)、ユーラシア東部系集団とサフルランド集団の祖先集団との混合はその頃までに起きた、と考えられます。この点からも、ユーラシア東部系集団が3万年以上前にアジア南東部というかスンダランドに存在した可能性は高そうです。

 ユーラシア東部圏やオセアニアの現代人および古代人集団は、EE祖先系統とES祖先系統との複雑な混合により形成されたと考えられますが、とくに注目されるのは、ユーラシア東部系もしくはアジア東部系集団で、現代人と掻器に分岐したと推定されている古代人集団です。具体的には、中華人民共和国広西チワン族自治区の隆林洞窟(Longlin Cave)で発見された11510±255年前(Curnoe et al., 2012、関連記事)のホモ属頭蓋(隆林個体)と「縄文人(縄文文化関連個体群)」です。隆林個体(Wang T et al., 2021)と愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の「縄文人」個体(Gakuhari et al., 2020、関連記事)はともに、アジア東部現代人の共通祖先集団と早期に分岐した集団を表している、と推測されています。おそらく両者とも、ユーラシア東部系集団とユーラシア南部系集団との複雑な混合により形成され、アジア東部現代人集団との近縁性から、アンダマン諸島人よりもEE祖先系統の割合が高いと考えられます。「縄文人」や隆林個体的集団のように、EE祖先系統とES祖先系統との単一事象ではなく複数回起きたかもしれない複雑な混合により形成された未知の遺伝的構成で、現代人への遺伝的影響は小さいか全くない古代人集団は少なくなかったと想定されます。

 隆林個体と地理的にも年代的にも近い(14310±340〜13590±160年前)の中華人民共和国雲南省の馬鹿洞(Maludong)で発見されたホモ属の大腿骨(馬鹿洞人)は、その祖先的特徴から非現生人類ホモ属である可能性が指摘されています(Curnoe et al., 2015、関連記事)。しかし、おそらく馬鹿洞人も隆林個体と同様に、EE祖先系統とES祖先系統との複雑な混合により形成されたのでしょう。隆林個体やオーストラリアの一部の更新世人類遺骸から推測すると、ES祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団(ユーラシア南部集団)は、形態的にはかなり頑丈だった可能性があります。ただ、ユーラシア南部集団が出アフリカ現生人類集団の初期の形態をよく保っているとは限らず、新たな環境への適応と創始者効果の相乗による派生的形態の可能性もあるとは思います。この問題で示唆的なのは、オーストラリア先住民が、華奢なアジア東部起源の集団と頑丈なアジア南東部起源の集団との混合により形成された、との現生人類多地域進化説の想定です(Shreeve.,1996,P124-128)。多地域進化説は今ではほぼ否定されましたが(Scerri et al., 2019、関連記事)、碩学の提唱だけに、注目すべき指摘は少なくないかもしれません。

 Wang CC et al., 2021では、アジア東部現代人はおもにEEIN祖先系統とEEIS祖先系統の混合でモデル化され、前者は黄河流域新石器時代集団に、後者は長江流域新石器時代集団に代表される、と想定されています。中国の現代人はこの南北の遺伝的勾配を示し、北方で高いEEIN祖先系統の割合が南下するにつれて低下していく、と推測されています。また長江流域新石器時代集団だけではなく、黄河流域新石器時代集団にも少ないながら一定以上の割合でEEC祖先系統がある、とモデル化されています。「縄文人」はEEIS祖先系統(56%)とEEC祖先系統(44%)の混合としてモデル化され、青銅器時代西遼河地域集団でもEEC祖先系統がわずかながら示されています。

 EEC祖先系統がEE祖先系統とEW祖先系統の複雑な混合により形成されたとすると、Wang CC et al., 2021のEEC祖先系統は、オーストラレーシア人の祖先集団の遺伝的構成要素が混合と移動によりアジア東部北方までもたらされた、という想定とともに、オーストラレーシア人の一方の主要な祖先集団となったユーラシア東部系集団と遺伝的に近縁な集団にも由来するか、あるいはその集団に排他的に由来する可能性も考えられます。そうだとすると、オーストラレーシア人関連祖先系統が南アメリカ大陸の一部先住民でも確認されていること(Castro et al., 2021、関連記事)と関連しているかもしれません。南アメリカ大陸の一部先住民のゲノムにおけるオーストラレーシア人関連祖先系統は、オーストラレーシア人の一方の主要な祖先集団で、アジア東部現代人にはほとんど遺伝的影響を残していないユーラシア東部系集団にその大半が由来する、というわけです。アメリカ大陸への人類の拡散については、最近の総説がたいへん有益です(Willerslev, and Meltzer., 2021、関連記事)。


●日本列島の人口史

 日本列島においてDNAが解析された最古の人類遺骸は2万年前頃の港川人(Mizuno et al., 2021、関連記事)ですが、これはミトコンドリアDNA(mtDNA)の解析で、核DNAとなると、佐賀市の東名貝塚遺跡で発見された7980〜7460年前頃の男性となります(Adachi et al., 2021、関連記事)。日本列島における4万年前頃以前の人類の存在はまだ確定しておらず(野口., 2020、関連記事)、4万年前頃以降に遺跡が急増します(佐藤., 2013、関連記事)。この4万年前頃以降の日本列島の人類は、ほぼ間違いなく現生人類と考えられますが、4万〜8000年前頃の日本列島の人類集団の核ゲノムに基づく遺伝的構成は不明です。

 Vallini et al., 2021では、EE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とするアジア東部の初期現生人類は初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、以下IUP)とともに拡散してきた、と推測されています。IUPの定義およびその特徴は石刃製法で、最も広い意味での特徴は、硬質ハンマーによる打法、打面調整、固定された平坦な作業面もしくは半周作業面を半周させて石刃を打ち割ることで、平坦作業面をもつ石核はルヴァロワ(Levallois)式のそれに類似していますが、上部旧石器時代の立方体(容積的な)石核との関連が見られることは異なります(仲田., 2019、関連記事)。IUP的な石器群は、日本列島では最初期の現生人類の痕跡と考えられる37000年前頃の長野県の香坂山遺跡で見つかっていることから(国武., 2021、関連記事)、日本列島最初期の現生人類もEE祖先系統を主要な遺伝的構成要素とする集団だったかもしれません。一方、港川人の遺伝的構成は、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の最初期現生人類集団とは異なっていた可能性があります。

 4万年前頃以降となる日本列島最初期の現生人類の遺伝的構成がどのようなものだったのか、そもそも日本列島、とくに「本土」における更新世人類遺骸がほとんどなく、今後の発見も期待薄なので解明は難しそうです。しかし、急速に発展しつつある洞窟堆積物のDNA解析(Vernot et al., 2021、関連記事)により、この問題が解決される可能性も期待されます。田園洞窟の4万年前頃の男性個体(田園個体)は、現代人にほぼ遺伝的影響を残していないと推測されていますが(Yang et al., 2017)、3万年以上前には沿岸地域近くも含めてアジア東部北方に広範に分布していた可能性が指摘されています(Mao et al., 2021)。したがって、日本列島の最初期現生人類が田園個体と類似した遺伝的構成の集団(田園洞集団)だった可能性は低くないように思います。また、港川人のmtDNAハプログループ(mtHg)が既知の古代人および現代人とは直接的につながっていないこと(Mizuno et al., 2021)からも、日本列島の最初期現生人類が現代人や「縄文人」とは遺伝的につながっていない可能性は低くないように思います。

 日本列島の人類集団の核ゲノムに基づく遺伝的構成が明らかになるのは縄文時代以降で、「縄文人」では複数の個体の核ゲノム解析結果が報告されています。上述のように、そのうち最古の個体は佐賀市の東名貝塚遺跡で発見された7980〜7460年前頃の男性(Adachi et al., 2021)で、その他に、核ゲノム解析結果が報告された縄文人は、上述の愛知県田原市伊川津町の貝塚で発見された2500年前頃の個体(Gakuhari et al., 2020)、北海道礼文島の3800〜3500年前頃の個体(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019、関連記事)、千葉市の六通貝塚の4000〜3500年前頃の個体(Wang CC et al., 2021)です。これら縄文人個体群は、既知の古代人および現代人との比較で遺伝的に一まとまりを形成し、縄文人が時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質な集団であることを示唆しますが、これは形態学でも以前より指摘されていました(山田.,2015,P126-128、関連記事)。

 弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)も、これらの縄文人と遺伝的に一まとまりを形成します(神澤他., 2021A、関連記事)。中国と四国と近畿の縄文時代の人類遺骸の核ゲノム解析結果を見なければ断定できませんが、縄文人が時空間的に広範囲にわたって遺伝的に均質な集団である可能性はかなり高そうです。大友8号は、縄文人的な遺伝的構成の個体および集団が、縄文文化とのみ関連していない可能性を示唆し、これは最近の査読前論文(Robbeets et al., 2021)の結果とも整合的です。Robbeets et al., 2021では、沖縄県宮古島市長墓遺跡の紀元前9〜紀元前6世紀頃の個体の遺伝的構成が、既知の縄文人(六通貝塚の4000〜3500年前頃の個体群)とほぼ同じと示されました。先史時代の先島諸島には、縄文文化の影響がほとんどないと言われています。

 さらに、縄文人的な遺伝的構成(縄文人祖先系統)は日本列島以外でも高い割合で見られます。朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の人類は、割合はさまざまですが、遼河地域の紅山(Hongshan)文化集団と縄文人との混合としてモデル化されます(Robbeets et al., 2021)。そのうち4000年前頃の欲知島(Yokchido)個体の遺伝的構成要素は、ほぼ縄文人祖先系統で占められています。また、大韓民国釜山市の加徳島の獐遺跡の6300年前頃の人類も縄文人祖先系統を有している、と示されています(関連記事)。これらの知見から、縄文人的な遺伝的構成の個体および集団が、現地の環境への適応および/もしくは先住集団との混合により日本列島の縄文文化以外の文化の担い手になった、と考えられます。

 縄文人の形成過程が不明なので、朝鮮半島に縄文人祖先系統がどのようにもたらされたのか断定できませんが、その地理的関係からも、日本列島から朝鮮半島にもたらされた可能性が高そうです。考古学では、縄文時代における九州、さらには西日本と朝鮮半島との交流が明らかになっており、人的交流もあったと考えられますが、この交流を過大評価すべきではない、とも指摘されています(山田.,2015,P129-133、関連記事)。日本列島の縄文時代において、日本列島から朝鮮半島だけではなく、その逆方向での人類集団の拡散もあったと考えられますが、現時点では縄文人にその遺伝的痕跡が検出されていません。しかし、核ゲノムデータが得られている西日本の縄文人は佐賀市東名貝塚遺跡の1個体だけですから、縄文時代の日本列島に朝鮮半島から紅山文化集団関連祖先系統がもたらされた可能性は低くないでしょう。ただ、弥生時代早期の西北九州の大友8号の事例からは、日本列島の縄文人において、紅山文化集団関連祖先系統など朝鮮半島由来のアジア東部大陸部祖先系統(Wang CC et al., 2021のEEIN祖先系統)が長期にわたって持続した可能性は低いように思います。もちろん、西日本の時空間的に広範囲にわたる人類遺骸の核ゲノム解析結果が蓄積されるまでは断定できませんが。

 弥生時代になると、日本列島の人類集団の遺伝的構成が大きく変わります。現代日本人は、縄文人祖先系統(8%)と青銅器時代遼河地域集団関連祖先系統(92%)の混合としてモデル化されています(Wang CC et al., 2021)。Robbeets et al., 2021では、現代日本人は遼河地域の青銅器時代となる夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化集団関連祖先系統と縄文人祖先系統の混合としてモデル化されています。したがって、以前から指摘されているように、弥生時代以降に日本列島にはアジア東部大陸部から人類集団が移住してきて、現代日本人に大きな遺伝的影響を残した、と考えられます。

 ただ、これは「縄文人」から「(アジア東部大陸部起源の)弥生人」という単純な図式で説明できるものではなさそうです。まず、上述のように弥生時代早期の西北九州の大友8号は遺伝的に既知の縄文人の範疇に収まります(神澤他., 2021)。東北地方の弥生時代の男性も、核ゲノム解析では縄文人の範疇に収まります(篠田.,2019,P173-174、関連記事)。弥生時代の人類でも「西北九州型」は形態的には縄文人に近いとされており、遺伝的には既知の縄文人の範疇に収まる大友8号も西北九州で発見されました。一方、弥生時代の「西北九州型」でも長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体は、相互に違いはあるものの、遺伝的には現代日本人と縄文人との中間に位置付けられます(篠田他., 2019、関連記事)。

 縄文人との形態的類似性が指摘される「西北九州型弥生人」とは対照的に、アジア東部大陸部集団との形態的類似性が指摘される「渡来系弥生人」では、福岡県那珂川市の弥生時代中期となる安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)で核ゲノム解析結果が報告されており、遺伝的に現代日本人の範疇に収まる、と示されています(篠田他., 2020、関連記事)。「渡来系弥生人」は、その形態から遺伝的には夏家店上層文化集団などアジア東部大陸部集団にきわめて近いと予想されていましたが、じっさいには現代日本人と酷似していました。また安徳台5号は、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合が高いと推定されています(Robbeets et al., 2021)。同じく「渡来系弥生人」でも弥生時代中期となる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体は、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合がやや低くなっています(Robbeets et al., 2021)。鳥取市青谷上寺遺跡の弥生時代中期〜後期の個体群は、縄文人祖先系統の割合に応じて、遺伝的に現代日本人の範疇に収まる個体から、現代日本人よりもややアジア東部大陸部集団に近い個体までさまざまです(神澤他., 2021B、関連記事)。

 これら弥生時代の人類遺骸は形態に基づく分類の困難(関連記事)を改めて強調しており、それは上述の隆林個体(Wang T et al., 2021)でも示されています。このように、弥生時代の人類の遺伝的構成は、縄文人そのものから、現代日本人と縄文人との中間、現代日本人の範疇、現代日本人よりも低い割合の縄文人祖先系統までさまざまだったと示されます。さらに、アジア東部大陸部集団そのものの遺伝的構成の集団も存在したと考えられることから、弥生時代は日本列島の人類史において有数の遺伝的異質性の高い期間だったかもしれません。

 日本列島におけるこうした弥生時代の人類集団の形成に関して注目されるのが、2800〜2500年前頃の朝鮮半島中部西岸に位置するTaejungni遺跡の個体(Taejungni個体)です。Taejungni個体は、夏家店上層文化集団関連祖先系統と縄文人祖先系統の混合としてモデル化され、現代日本人と遺伝的にかなり近いものの、縄文人祖先系統の割合は現代日本人よりもやや高めです(Robbeets et al., 2021)。これは、現代日本人の基本的な遺伝的構成が、アジア東部大陸部から日本列島に到来した夏家店上層文化集団的な遺伝的構成の集団と、日本列島在来の縄文人の子孫との混合により形成されたのではなく、朝鮮半島において紀元前千年紀前半にはすでに形成されていた可能性を示唆します。

 一方、上述の6000〜2000年前頃の朝鮮半島南端の縄文人祖先系統を高い割合で有する集団は、紅山文化集団関連祖先系統との混合を示しており、現代日本人への遺伝的影響は小さい可能性があります。また、6000〜2000年前頃の朝鮮半島南端の集団も、Taejungni個体に代表される朝鮮半島中部の集団も、現代朝鮮人への遺伝的影響は大きくなく、紀元前千年紀後半以降に朝鮮半島の人類集団で大きな遺伝的変容が起きた可能性も考えられます。朝鮮半島の人類集団は5000年以上前から遺伝的構成がほとんど変わらず、弥生時代以降に日本列島に拡散して現代日本人の遺伝的構成に縄文人よりもはるかに大きな影響を残したので、日本人は朝鮮人の子孫であるといった言説が仮にあったとしても妥当ではないだろう、というわけです。

 夏家店上層文化集団関連祖先系統は、黄河流域新石器時代集団関連祖先系統よりも、アムール川地域集団関連祖先系統の割合の方が高い、とモデル化されています(Robbeets et al., 2021)。アムール川地域集団の遺伝的構成は14000年前頃から現代まで長期にわたって安定している、と示されています(Mao et al., 2021)。また、アジア東部北方完新世集団の遺伝的構造は地理的関係を反映しており、アムール川と黄河流域が対極に位置し、遼河地域はその中間的性格を示し、この構造は前期完新世にまでさかのぼります(Ning et al., 2020、関連記事)。中国の現代人(おもに漢人)は、上述のように黄河流域新石器時代集団と長江流域新石器時代集団との地域によりさまざまな割合の混合の結果成立しましたから、現代漢人と現代日本人との遺伝的相違は、縄文人祖先系統の割合とともに、少なくとも前期完新世にまでさかのぼる遺伝的分化に起因する可能性が高そうです。また黄河流域新石器時代集団は、稲作の北上とともに長江流域新石器時代集団の遺伝的影響も受けていると推測されているので(Ning et al., 2020)、現代日本人は間接的に長江流域新石器時代集団から遺伝的影響(黄河流域新石器時代集団よりも低い割合で)と文化的影響を受けていると考えられます。以下、アジア東部の新石器時代から歴史時代の個体・集団の遺伝的構成を示したRobbeets et al., 2021の図3です。
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 注目されるのは、Taejungni個体も「渡来系弥生人」の一部も、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合がやや高いことです。さらに、高松市茶臼山古墳の古墳時代前期個体(茶臼山3号)は、遺伝的には現代日本人の範疇に収まるものの、現代日本人よりも有意に縄文人に近い、と示されています(神澤他., 2021C、関連記事)。出雲市猪目洞窟遺跡の紀元後6〜7世紀の個体(猪目3-2-1号)と紀元後8〜9世紀の個体(猪目3-2-2号)も、遺伝的には現代日本人の範疇に収まるものの、現代日本人よりも有意に縄文人に近い、と示されています(神澤他., 2021D、関連記事)。

 これらの知見は、本州の沿岸地域となる「周辺部」と「中央軸」地域(九州の博多、近畿の大坂と京都と奈良、関東の鎌倉と江戸)との遺伝的違い(日本列島の内部二重構造モデル)を反映しているかもしれません(Jinam et al., 2021、関連記事)。「中央軸」地域は歴史的に日本列島における文化と政治の中心で、アジア東部大陸部から多くの移民を惹きつけたのではないか、というわけです。都道府県単位の日本人の遺伝的構造を調べた研究では、この「中央軸」地域に位置する奈良県の人々が、現代漢人と遺伝的に最も近い、と示されています(Watanabe et al., 2020、関連記事)。朝鮮半島において紀元前千年紀後半以降に、現代日本人よりも縄文人祖先系統の割合をずっと低下させ、遺伝的構成を大きく変えるようなアジア東部大陸部からの人類集団の流入があり、そうした集団が古墳時代以降に継続的に日本列島に渡来し、現代日本人の遺伝的構造の地域差が形成された、と考えられます。また、この推測が一定以上だとすると、現代日本人における縄文時代末に日本列島に存在した「縄文人」の遺伝的影響は、現在の推定値である9.7%(Adachi et al., 2021)よりもずっと低いかもしれません。


●Y染色体ハプログループ

 冒頭で述べたように、現代日本社会ではY染色体ハプログループ(YHg)への関心が高いようです。現代日本社会でとくに注目されているのは、世界では比較的珍しいものの日本では一般的なYHg-Dでしょう。これが日本人の特異性と結びつけられ、縄文人で見つかっていることから(現時点では、縄文人もしくは縄文人的な遺伝的構成の日本列島の古代人のYHgはDしか確認されていないと思います)、縄文人以来、さらに言えば人類が日本列島に到来した時から続いているのではないか、というわけです。注目されているようです。確かに、縄文人は38000年前頃に日本列島に到来した旧石器時代集団の直接的子孫である、との見解も提示されています(Gakuhari et al., 2020)。

 しかし、上述のように日本列島の最初期の現生人類集団が田園洞集団的な遺伝的構成だったとすると、縄文人にも現代人にも遺伝的影響をほぼ残さず絶滅したことになり、その可能性は低くないように思います。人類史において、完新世よりも気候が不安定だった更新世には集団の絶滅・置換は珍しくなく、それは非現生人類ホモ属だけではなく現生人類も同様でしたから、日本列島だけ例外だったとは断定できないでしょう(関連記事)。仮にそうだとしたら、YHg-D1a2aは日本人固有で、日本列島には4万年前頃から現生人類が存在したのだから、Yfullで18000〜15000年前頃と推定されているYHg-D1a2a1(Z1622)とD1a2a2(Z1519)の分岐は日本列島で起きたに違いない、との前提は成立しません。

 この推測には古代DNAデータの間接的証拠もあります。カザフスタン南部で発見された紀元後236〜331年頃の1個体(KNT004)は、日本列島固有とされ、縄文人でも確認されているYHg-D1a2a2a(Z17175、CTS220)です(Gnecchi-Ruscone et al., 2021、関連記事)。KNT004はADMIXTURE分析では、朝鮮半島に近いロシアの沿岸地域の悪魔の門遺跡の7700年前頃の個体群(Siska et al., 2017、関連記事)に代表される祖先系統(アムール川地域集団関連祖先系統)の割合が高く、アムール川地域の11601〜11176年前頃の1個体(AR11K)はYHg-DEです(Mao et al., 2021)。アムール川地域にYHg-Eが存在したとは考えにくいので、YHg-Dである可能性がきわめて高そうです。これを、日本列島から「縄文人」が拡散した結果と解釈できないわけではありませんが、ユーラシア東部大陸部にも更新世から紀元後までYHg-Dが低頻度ながら広く分布しており、YHg-D1a2a1とD1a2a2の分岐は日本列島ではなくユーラシア東部大陸部で起きた、と考える方が節約的であるように思います。

 上述の現代日本人の形成過程の推測と合わせて考えると、現代日本人のYHg-D1a2には、縄文人由来の系統も、縄文人が朝鮮半島に拡散して弥生時代以降に「逆流」した系統も、アムール川地域などアジア東部北方に低頻度ながら存在し、青銅器時代以降に朝鮮半島を経て日本列島に到来した系統もありそうで、単純に全てを縄文人由来と断定することはできないように思います。その意味で、仮に皇族のYHgが現代日本人の一部?で言われるようにD1a2a1だったとしても、弥生時代以降に朝鮮半島から到来した可能性は低くないように思います。

 YHg-Dはアジア南東部の古代人でも確認されており、ホアビン文化(Hòabìnhian)層で見つかった4415〜4160年前頃の1個体(Ma911)はYHg-D1(M174)です(McColl et al., 2018、関連記事)。上述のように、ホアビン文化集団はユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団との複雑な混合により形成されたと推測され、それは縄文人や隆林個体に代表される古代人集団やアンダマン諸島現代人も同様だったでしょう。縄文人やアンダマン諸島現代人のオンゲ人においてYHg-D1a2がとくに高頻度で、アジア東部北方の古代人でほとんど見つかっていないことから、YHg-Dはユーラシア南部系集団に排他的に由来する、とも考えられます。しかし、同じくユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団との複雑な混合により形成されたと推測されるサフルランド集団ではYHg-Dが見つかりません。

 YHg-Dは分岐が早い系統なので、ユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団の両方に存在し、創始者効果や特定の父系一族が有力な地位を独占するなどといった要因により、大半の集団ではYHg-Dが消滅し、一部の集団では高頻度で残っている、と考えるのが最も節約的なように思います。おそらくサフルランド集団の祖先集団にもYHg-Dは存在し、ユーラシア東部系集団との混合などにより消滅したのでしょう。YHgは置換が起きやすいので(Petr et al., 2021、関連記事)、現代の分布と地域および集団の頻度から過去の人類集団の移動を推測するのには慎重であるべきと思います。

 チベット人ではYHg-D1a1が多く、Wang CC et al., 2021ではチベット人はずっと高い割合のEEIN祖先系統とずっと低い割合のEEC祖先系統との混合とモデル化されています。おそらく、チベット人の祖先となったユーラシア南部系集団は、縄文人、さらには現代日本人の祖先となったユーラシア南部系集団とは遺伝的にかなり分岐しており、YHg-D1a共有を根拠に現代の日本人とチベット人との近縁性を主張するのには無理があるでしょう。Wang CC et al., 2021では、現代の日本人もチベット人もEEIN祖先系統の割合が高くなっていますが、日本人は青銅器時代遼河地域集団、チベット人は黄河地域新石器時代集団と近いとされているので、この点でも、現代の日本人とチベット人との近縁性を強調することには疑問が残ります。

 YHgでも非アフリカ系現代人で主流となっているK2は分岐がYHg-Dよりも遅いので、ユーラシア南部系集団には存在しなかったかもしれません。Vallini et al., 2021では、4万年前頃の北京近郊の田園個体はユーラシア東部系集団に位置づけられ、そのYHgはK2bです(高畑., 2021、関連記事)。Vallini et al., 2021で同じくユーラシア東部系集団ながら基底部近くで分岐したと位置づけられる、シベリア西部のウスチイシム(Ust'-Ishim)近郊のイルティシ川(Irtysh River)の土手で発見された44380年前頃(Bard et al., 2020、関連記事)となる男性(Fu et al., 2014、関連記事)はYHg-NOです(Wong et al., 2017)。古代DNAデータでも、YHg-K2がユーラシア東部系集団に存在したと確認されます。

 YHg-CはYHg-Dに次いで分岐が早いので、ユーラシア南部系集団とユーラシア東部系集団の両方に存在した可能性が高そうです。チェコ共和国のバチョキロ洞窟(Bacho Kiro Cave)で発見された現生人類個体群(44640〜42700年前頃)は、現代人との比較ではヨーロッパよりもアジア東部に近く、ヨーロッパ現代人への遺伝的影響はほとんどない、と推測されています(Hajdinjak et al., 2021、関連記事)。この4万年以上前となるバチョキロ洞窟個体群ではYHg-F(M89)の基底部系統とYHg-C1(F3393)が確認されており、ユーラシア東部系集団には、YHg-CとYHg-K2も含めてYHg-Fが存在したと考えられます。Vallini et al., 2021ではこのバチョキロ洞窟個体群はユーラシア東部系集団に位置づけられ、ルーマニア南西部の「骨の洞窟(Peştera cu Oase)」で発見された39980年前頃の「Oase 1」個体(Fu et al., 2015、関連記事)の祖先集団と遺伝的にきわめて近縁とされます。「Oase 1」のYHgはFで(高畑., 2021)、ユーラシア東部系集団におけるYHg-Fの存在のさらなる証拠となります。

 サフルランド集団のYHgはK2(から派生したS1a1a1など)とC1b2が多くなっており、YHg-C1b2はユーラシア南部系集団に存在したかもしれませんが、YHg-K2はユーラシア東部系集団との混合によりもたらされたかもしれません。それにより、サフルランド集団の祖先集団には存在したYHg-Dが消滅した可能性も考えられます。もちろん、YHgについて述べてきたこれらの推測は、YHgの下位区分の詳細な分析と現代人の大規模な調査とさらなる古代人のデータの蓄積により、今後的外れと明らかになる可能性は低くないかもしれませんが、とりあえず現時点での推測を述べてみました。


●まとめ

 以上、現時点での私見を述べてきましたが、今後の研究の進展によりかなりのところ否定される可能性は低くないでしょう。それでも、一度情報を整理することで理解が進んだところもあり、やってよかったとは思います。まあ、自己満足というか、他の人には、よく整理されていないので分かりにくいと思えるでしょうから、役に立たないとき思いますが。今回は、出アフリカ現生人類集団が単純に東西の各集団(ユーラシア東部系集団とユーラシア西部系集団)に分岐したのではなく、両者の共通祖先と分岐したユーラシア南部系集団という集団を仮定すると、パプア人の位置づけに関する違いも理解しやすくなるのではないか、と考えてみました。

 この推測がどこまで妥当なのか、まったく自信はありませんが、仮にある程度妥当だとしても、まだ過度に単純化していることは確かなのでしょう。現生人類とネアンデルタール人と種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)デニソワ人との間の関係さえかなり複雑と推測されていますから(Hubisz et al., 2021、関連記事)、生人類同士の関係はそれ以上に複雑で、単純な系統樹で的確に表せるものではないのでしょう。ただ、上述のように完新世よりも気候が不安定だった更新世において、現生人類の拡散過程で遺伝的分化が進んだこともあり、系統樹での理解が有用であることも否定できないとは思います。その意味で、出アフリカ現生人類集団からユーラシア南部系集団が分岐した後で、ユーラシア東部系集団とユーラシア西部系集団が共通祖先集団から分岐した、との想定も一定以上有効だろう、と考えています。また今回は、考古学の知見を都合よくつまみ食いしただけなので、考古学の知見とより整合的な現生人類の拡散史を調べることが今後の課題となります。


参考文献:
Adachi N. et al.(2021): Ancient genomes from the initial Jomon period: new insights into the genetic history of the Japanese archipelago. Anthropological Science, 129, 1, 13–22.
https://doi.org/10.1537/ase.2012132

https://sicambre.at.webry.info/202109/article_6.html

298. 中川隆[-16255] koaQ7Jey 2021年9月20日 13:19:15 : 6C6SEMfD1k : YnZQeFh4aHV2cS4=[20] 報告
雑記帳
2021年09月19日
縄文時代と古墳時代の人類の新たなゲノムデータ
https://sicambre.at.webry.info/202109/article_20.html


 縄文時代と古墳時代の人類の新たなゲノムデータを報告した研究(Cooke et al., 2021)が報道されました。日本列島には、少なくとも過去38000年間ヒトが居住してきました。しかし、その最も劇的な文化的変化は過去3000年以内にのみ起き、その間に住民は急速に狩猟採集から広範な稲作、さらには技術的に発展した「帝国」へと移行しました。これらの急速な変化は、ユーラシア大陸部からの地理的孤立とともに、アジアにおける農耕拡大と経済強化に伴う移動パターンを研究するうえで、日本を独特な縮図としています。

 農耕文化の到来前には、日本列島には土器により特徴づけられる縄文文化に区分される、多様な狩猟採集民集団が居住していました。縄文時代は最終氷期極大期(Last Glacial Maximum、略してLGM)に続く最古ドリアス期に始まり、最初の土器破片は16500年前頃までさかのぼり、世界でも最古級の土器使用者となります。縄文時代の生存戦略は多様で、人口密度は時空間により変動し、定住への傾向がありました。縄文文化は3000年前頃となる弥生時代の始まりまで続き、その頃となる水田稲作の到来により日本列島に農耕革命がもたらされました。弥生時代の後には古墳時代が1700年前頃に始まり、政治的中央集権化と帝国の統治が出現し、日本を定義するようになりました。

 日本列島の現代の人口集団の起源に関する長く提唱されてきた仮説では二重構造モデルが提案されており、日本人集団は先住の「縄文人」と後に弥生時代になってユーラシア東部本土から到来した人々との混合子孫である、と想定されました。この二重構造モデル仮説は、もともとは形態学的データに基づいて提案されましたが、学際的に広く検証され評価されてきました。遺伝学的研究により、現代日本人集団内の人口層別化が特定されており、日本列島への少なくとも2回の移住の波が裏づけられます(関連記事)。

 以前の古代DNA研究も、現代日本人集団への「縄文人」と「弥生人」の遺伝的類似性を示してきました(関連記事1および関連記事2および関連記事3および関連記事4および関連記事5)。それでも、農耕への移行とその後の国家形成段階の人口統計学的起源および影響はほとんど知られていません。歴史言語学的観点からは、日本語祖語(日琉祖語)の到来は弥生文化の発展および水田稲作の拡大と対応している、と理論化されています。しかし、弥生時代と古墳時代では考古学的文脈および大陸との関係が異なっており、知識や技術の拡大には大きな遺伝的交換が伴っていたのかどうか、不明なままです。

 本論文は、日本列島の先史時代から原始時代(先史時代と歴史時代の中間で、断片的な文献が残っている時代)までの8000年にわたる古代人12個体の新たに配列されたゲノムを報告します(図1)。本論文が把握している限りでは、これは日本列島の年代の得られた古代人ゲノムの最大のセットとなり、最古の縄文時代個体と古墳時代の最初のゲノムデータが含まれます。また既知の先史時代日本列島の古代人のゲノムも分析に含められました。具体的には、縄文時代後期の北海道礼文島(関連記事)の2個体(F5とF23)、愛知県田原市伊川津町の貝塚(関連記事)で発見された縄文時代晩期の1個体(IK002)、長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡(関連記事)の弥生文化と関連する2個体です。以下は本論文の図1です。
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 下本山岩陰遺跡の2個体の骨格は、「移民型」よりもむしろ「縄文人的」な特徴を示しますが、他の考古学的資料は弥生文化との関連を明確に裏づけます。この形態学的評価にも関わらず、下本山岩陰遺跡の2個体は「縄文人」と比較して現代日本人集団との遺伝的類似性の増加を示しており、大陸部集団との混合が弥生時代後期にはすでに進展していたことを示唆します。これら日本列島古代人のゲノムは、草原地帯中央部(関連記事)および東部(関連記事)やシベリア(関連記事)やアジア南東部(関連記事)やアジア東部(関連記事1および関連記事2)にまたがるより大規模なデータセットと統合され、縄文時代の先農耕人口集団と、日本列島現代人の遺伝的特性を形成してきたその後の移民との混合をよりよく特徴づけることが、本論文の目的です。


●先史時代および原始時代の日本列島の古代人ゲノムの時系列

 本論文は、6ヶ所の遺跡で発掘された14個体のうち、新たに配列に成功した12個体のゲノムデータを報告します。平均網羅率は0.88〜7.51倍です。6ヶ所の遺跡は、縄文時代早期となる愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡、縄文時代前期となる富山県富山市の小竹貝塚および岡山県倉敷市の船倉貝塚、縄文時代後期となる千葉県船橋市の古作貝塚、縄文時代後期の平城貝塚(愛媛県愛南町)、古墳時代終末期となる石川県金沢市の岩出横穴墓です。12個体のうち9個体は縄文文化と関連しており、内訳は、上黒岩岩陰遺跡が1個体(JpKa6904)、小竹貝塚が4個体(JpOd274とJpOd6とJpOd181とJpOd282)、船倉貝塚が1個体(JpFu1)、古作貝塚が2個体(JpKo2とJpKo13)、平城貝塚が1個体(JpHi01)です。残りの3個体は古墳時代末期となる岩出横穴墓で発見されています(JpIw32とJpIw31とJpIw33)。これら12個体で親族関係は確認されませんでした。

 縄文時代の9個体のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)はすべてN9bかM7a系統で、両者は縄文時代集団と強く関連しており、現代では日本列島外では稀です。縄文時代の9個体のうち3個体は男性で、そのY染色体ハプログループ(YHg)はすべてD1b1(現在の分類名はD1a2a1だと思いますので、以下D1a2a1で統一します)で、現代日本人には存在しますが、他のアジア東部現代人にはほぼ見られません。対照的に、古墳時代の3個体のmtHgはアジア東部現代人と共通しています(B5a2a1bとD5c1aとM7b1a1a1)。そのうち1個体は男性で、YHgはO3a2c(現在の分類名はO2a2bだと思いますので、以下O2a2bで統一します)で、これはアジア東部全域、とくに中国本土で見られます。

 本論文のデータをユーラシア東部の人口統計のより広い文脈に位置づけるため、日本列島古代人のゲノムが既知の古代人および現代人のデータと組み合わされました。本論文では、現代日本人集団はSGDP(Simons Genome Diversity Project)もしくは1000人ゲノム計画3期のデータであらわされます。ただ要注意なのは、現代の日本列島全体では祖先からの異質性が存在しており、この標準的な参照セットでは充分には把握できないことです。本論文で分析された他の古代および現代の人口集団は、おもに地理的もしくは文化的文脈のいずれかで分類されています。


●異なる文化期間の遺伝的区別

 f3統計(個体1、個体2;ムブティ人)を用いて、古代と現代両方の日本列島の人口集団の個体の全てのペアワイズ比較間で共有される遺伝的浮動を調べることで、時系列内の遺伝的多様性が調べられました(図2A)。その結果、縄文時代と弥生時代と古墳時代の異なる3個体群のまとまりが明確に定義され、古墳時代個体群は現代日本人とまとまり、文化的変化には遺伝的変化が伴う、と示唆されます。縄文時代データセットにおける大きな時空間的変異にも関わらず、ひじょうに高水準の共有された浮動が12個体全ての間で観察されます。弥生時代2個体は相互に他の個体と最も密接に関連しており、古墳時代の3個体とよりも縄文時代の個体群の方と高い類似性を有しています。古墳時代と現代の日本列島の個体群は、この測定では相互にほぼ区別ができず、過去1400年間のある程度の遺伝的継続性が示唆されます。

 さらに主成分分析を用いて、大陸部人口集団に対する日本列島古代人のゲノム規模常染色体類似性が調べられました。古代人が、アジア南部と中央部と南東部と東部のSGDPデータセットの、現代の人口集団の遺伝的変異に投影されました(図2B)。その結果、日本列島古代人はPC1軸に沿って各文化名称に分離する、と観察されます。全ての縄文時代個体は密集しており、他の古代人口集団やアジア南東部および東部現代人とは離れて位置し、持続した地理的孤立が示唆されます。弥生時代の2個体はこの縄文人クラスタの近くに現れ、以前に報告された遺伝的および地理的類似性を裏づけます(関連記事)。しかし、この弥生時代の2個体はアジア東部人口集団の方へと動いており、弥生時代2個体における追加のユーラシア大陸部祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)の存在が示唆されます。ユーラシア東部の古代人はPC2軸に沿って南から北への地理的勾配を示します。それは、中国南部→黄河→中国北部→西遼河→悪魔の門→アムール川→バイカル湖です。古墳時代の3個体は黄河クラスタの多様性内に収まります。

 ヒト起源配列(Human Origins Array)データセットでのADMIXTURE分析も、縄文時代末以後の日本列島への大陸部からの遺伝子流動の増加を裏づけます(図2C)。縄文時代個体群は異なる祖先的構成要素(図2Cの赤色)を示し、これは弥生時代2個体でも高水準で見られ、古墳時代の3個体と現代日本人では低水準のままです。弥生時代の2個体には新たな祖先的構成要素が現れ、アムール川流域やその周辺地域で見られる特性と類似した割合です。これらには、アジア北東部現代人で支配的なより大きな構成要素(図2Cの水色)と、ずっと広範なアジア東部現代人祖先系統を表すより小さな構成要素(図2Cの黄色)が含まれます。このアジア東部人構成要素は、古墳時代と現代の日本列島の人口集団で支配的になります。以下は本論文の図2です。
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●地理的孤立による縄文人系統の深い分岐

 「縄文人」の他の人口集団からの分離は、以前の研究で提案されているように、ユーラシア東部人の間で「縄文人」が異なる系統を形成する、という見解を裏づけます(関連記事)。この分岐の深さを調べるため、TreeMixを用いて他の古代人および現代人17人口集団と「縄文人」の系統発生関係が再構築されました(図3A)。その結果、「縄文人」の分岐は、上部旧石器時代ユーラシア東部人、具体的には北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体(関連記事)およびモンゴル北東部のサルキート渓谷(Salkhit Valley)で発見された34950〜33900年前頃の女性個体(関連記事)と、アジア南東部狩猟採集民のホアビン文化(Hòabìnhian)個体の早期の分岐後ではあるものの、アジア東部現代人や、3150〜2400年前頃となるのチョクホパニ(Chokhopani)のネパール古代人や、バイカルの狩猟採集民(前期新石器時代)や、極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域の悪魔の門洞窟(Chertovy Vorota Cave)個体(関連記事)や、末期更新世アラスカの幼児個体USR1(関連記事)を含む他の標本の分岐前と推測されます。

 さらに、f4統計(ムブティ人、X;ホアビン文化個体/悪魔の門新石器時代個体、縄文人)を用いての対称性モデル検定により、この系統樹の他の深く分岐した狩猟採集民2系統間の「縄文人」の位置が確証されました。これらの結果から示されるのは、縄文時代開始以降の本論文のデータセットにおける全てのアジア東部個体は、より早期に分岐したホアビン文化個体よりも「縄文人」の方と高い類似性を有するものの、悪魔の門新石器時代個体との比較ではより低い類似性を有している、ということです。これは、以前に提案された「縄文人」をホアビン文化個体関連系統とアジア東部関連系統の混合とするモデル(関連記事)よりもむしろ、ユーラシア東部の異なる狩猟採集民3系統の推定される系統発生を裏づけます。また、検証された全ての移住モデルにわたって、「縄文人」から現代日本人への遺伝子流動が一貫して推定され、8.9〜11.5%の範囲の遺伝的寄与を伴います。これは、本論文のADMIXTURE分析(図2C)から推定された現代日本人の平均的な「縄文人」構成要素9.31%と一致します。これらの結果は、縄文人の深い分岐と現代日本人集団への祖先的つながりを示唆します。

 集団遺伝学モデル化を適用して、「縄文人」系統の出現年代が推定されました。本論文の手法は、ROH(runs of homozygosity)のゲノム規模パターンを用いて、最古にして最良の標本であるJpKa6904で観察されたROH連続体に最も適合するシナリオを特定します。ROHとは、両親からそれぞれ受け継いだと考えられる同じアレルのそろった状態が連続するゲノム領域(ホモ接合連続領域)で、長いROHを有する個体の両親は近縁関係にある、と推測されます。ROHは人口集団の規模と均一性を示せます。ROH区間の分布は、有効人口規模と、1個体内のハプロタイプの2コピー間の最終共通祖先の時間を反映しています(関連記事)。

 8800年前頃となる縄文時代個体JpKa6904は高水準のROHを有しており、とくに短いROH(最近の近親交配よりもむしろ人口の影響に起因します)の頻度はこれまで報告された中で(関連記事)最高です(図3B)。このパターンは、縄文時代個体群で共有される強い遺伝的浮動と相まって、縄文時代人口集団が深刻な人口ボトルネック(瓶首効果)を経た、と示唆します。人口規模と分岐年代のパラメータ空間検索では、縄文人系統は20000〜15000年前頃に出現したと推定され、その後は少なくとも縄文時代早期まで、1000人程度のひじょうに小さな人口規模が維持されました(図3C)。これはLGM末における海面上昇および大陸部からの陸橋の切断と一致しており、日本列島における縄文土器の最初の出現の直前です。

 次にf4統計(ムブティ人、X;縄文人、漢人/傣人/日本人)を用いて、「縄文人」がユーラシア大陸部の上部旧石器時代の人々と、分岐した後から日本列島において孤立する前に接触したのかどうか、検証されました。検証対象の上部旧石器時代個体のうち、31600年前頃のヤナRHS(Yana Rhinoceros Horn Site)個体のみが漢人や傣(Dai)人や日本人よりも「縄文人」と有意に密接です。この類似性は、これら参照人口集団を他のアジア南東部および東部人と置き換えても依然として検出可能で、「縄文人」と古代北シベリア人の祖先間の遺伝子流動を裏づけます。ヤナRHS個体も含まれる古代北シベリア人は、LGM前にユーラシア北部に広範に存在した人口集団です(関連記事)。

 最後に、縄文時代人口集団内の時空間的な変動の可能性が調べられました。縄文時代の早期と前期と中期・後期・晩期で定義される3つの時代区分集団は、古代および現代のユーラシア大陸部人口集団と類似の水準の共有された遺伝的浮動を示し、これら3時代区分における日本列島外からの遺伝的影響はわずか若しくはなかった、と示唆されます(図3D)。このパターンは、f4統計(ムブティ人、X;縄文人i、の縄文人j)で観察される、有意な遺伝子流動の不在によりさらに裏づけられます。縄文人iと縄文人jは、縄文時代の3時代区分集団の任意の組み合わせです。これら「縄文人」は同様に、地理により区分されたさいに(本州と四国と礼文島)、大陸部人口集団との遺伝的類似性において多様性を示しません。「縄文人」内で唯一観察される違いは、本州の遺跡群間のわずかに高い違いで、本州と他の島々との間の限定的な遺伝子流動を伴う島嶼効果を示唆します。全体的にこれらの結果は、縄文時代人口集団内の限定的な時空間にわたる遺伝的変異を示しており、アジアの他地域からの数千年にわたるほぼ完全な孤立との見解を裏づけます。以下は本論文の図3です。
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●弥生時代における水田稲作の拡散

 弥生文化と関連する西北九州の2個体(図1)は、「縄文人」とユーラシア大陸部両方の祖先系統を有する、と明らかになりました(図2)。本論文のqpAdm分析は、「弥生人」が「縄文人」の混合していない子孫である、とのモデルを却下します。これは、この西北九州の弥生時代2個体を「縄文人」系統の一部に分類した以前の形態学的評価とは対照的です。西北九州の弥生時代2個体における非「縄文人」の祖先的構成要素は、日本列島に稲作を導入した人々によりもたらされた可能性があります。まずf4統計(ムブティ人、X;縄文人、弥生人)を用いて、あらゆる古代のユーラシア東部人口集団が「縄文人」よりも「弥生人」の方と高い遺伝的類似性を有するのか、検証されました(図4A)。その結果、黄河流域人口集団も含めてユーラシア大陸部の標本抽出された古代の人口集団のほとんどは、「弥生人」との有意な遺伝的類似性を示しません。黄河流域では稲作農耕が長江下流域からまず拡大しました。長江流域はジャポニカ米の起源地と仮定されています。

 しかし、「弥生人」との過剰な類似性は稲作と文化的関連を有さない人口集団で検出されました。それは中国北東部の西遼河流域の青銅器時代個体(WLR_BA_o)とハミンマンガ(Haminmangha)の中期新石器時代個体、バイカル湖のロコモティヴ(Lokomotive)前期新石器時代個体とシャマンカ(Shamanka)の前期新石器時代個体とウスチベラヤ(UstBelaya)前期青銅器時代個体、シベリア北東部のエクヴェン(Ekven)鉄器時代個体です。この類似性は、他の青銅器時代西遼河個体(WLR_BA_o)と同じ遺跡で発見された別の2個体(WLR_BA)では観察されませんでした。以前の研究でも、WLR_BA_oとWLR_BAでは系統構成要素に大きな違いが観察されていました(関連記事)。この2個体はWLR_BA_o(1.8±9.1%)よりもずっと高い黄河関連祖先系統(81.4±6.7%)を有しており、検証された古代黄河流域人口集団が「弥生人」の有していた非「縄文人」祖先系統の主要な供給源になった可能性は低そうです。

 ユーラシア大陸部祖先系統の6つの可能性がある供給源をさらに区別するため、次にqpWaveを用いて「弥生人」が「縄文人」と各候補供給源の2方向混合としてモデル化されました。混合モデルはこれらのうち3つで確実に裏づけられます。つまり、バイカル湖の狩猟採集民と西遼河中期新石器時代もしくは青銅器時代個体で、高水準のアムール川地域祖先系統を有します。これらの集団はすべて、支配的なアジア北東部祖先的構成要素を共有しています(図2C)。これら各3集団を第二供給源として用いると、qpAdmではそれぞれ55.0±10.1%、50.6±8.8%、58.4±7.6%の「縄文人」の混合率が推定され、西遼河中期新石器時代および青銅器時代個体を単一の供給源人口集団に統合すると、「縄文人」の混合率は61.3±7.4%となります。

 さらにf4統計(ムブティ人、縄文人;弥生人1、弥生人2)により、「縄文人」祖先系統は「弥生人」2個体間で同等と確認されます。これらの結果は、在来の狩猟採集民と移民の西北九州の弥生時代共同体への寄与がほぼ同等の比率であることを示唆します。この同等性はユーラシア西部の農耕移民と比較した場合とくに注目に値し、ユーラシア西部では最小限の狩猟採集民からの寄与が多くの地域で観察されており、その中にはユーラシアの島嶼地理的極限として日本列島を反映している、ブリテン諸島やアイルランドも含まれます(関連記事1および関連記事2)。本論文の混合モデルで用いられた西遼河人口集団は自身では稲作農耕を行なっていませんでしたが、日本列島への農耕拡大の仮定的な経路のすぐ北方に位置しており、本論文の結果はそれを裏づけます。これは、中国北東部の山東半島から遼東半島(朝鮮半島北西部)へと続き、その後で朝鮮半島を経由して日本列島へと到達しました。

 弥生文化が日本列島へどのように拡大したのか、外群f3統計を用いてさらに調べられ、「弥生人」と各「縄文人」との間の遺伝的類似性が測定されました。その結果、共有された遺伝的浮動の強さが「弥生人」の位置からの距離と有意に相関している、と明らかになりました(図4C)。つまり、縄文時代の遺跡が弥生時代の遺跡に近いほど、その遺跡の「縄文人」は「弥生人」とより多くの遺伝的浮動を共有します。この結果は朝鮮半島経由の稲作の導入と、その後の日本列島南部における在来の「縄文人」集団との混合を裏づけます。以下は本論文の図4です。
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●古墳時代の移民の遺伝的祖先系統

 歴史的記録は、古墳時代におけるユーラシア大陸部から日本列島への継続的な人口集団の移動を強く裏づけます。しかし、古墳時代3個体のqpWaveモデル化は、「弥生人」と適合する「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統の2方向混合を却下します。したがって、以前の形態学的研究と同じく、本論文のf3外群統計や主成分分析やADMIXTUREクラスタで裏づけられるように、「古墳人」はその祖先的構成要素の観点では遺伝的に「弥生人」と異なっています。古墳時代個体群の遺伝的構成に寄与した追加の祖先的集団を特定するため、f4統計(ムブティ人、X;弥生人、古墳人)を用いて「古墳人」と各ユーラシア大陸部人口集団との間の遺伝的類似性が検証されました(図5A)。その結果、本論文のデータセットにおける古代もしくは現代の人口集団のほとんどは、「弥生人」よりも「古墳人」の方と有意に密接と明らかになりました。この知見は、弥生時代標本と古墳時代標本のゲノムを分離する6世紀間に日本列島へ追加の移住があったことを示唆します。

 「弥生人」と、「古墳人」に有意により近いと本論文のf4統計から特定された人口集団との間の2方向混合の検証により、この移住の起源を絞り込むことが試みられました。この混合モデルは検証された59人口集団のうち5人口集団でのみ、P>0.05と確実に裏づけられました。次にqpAdmを適用して「弥生人」と各起源集団からの遺伝的寄与が定量化されました。2方向混合モデルは、さまざまな参照セットからの裏づけを欠いていたので、追加の2人口集団においてその後で却下されました。残りの3人口集団(漢人と朝鮮人と黄河後期青銅器時代・鉄器時代集団)は「古墳人」への20〜30%の寄与を示します。これら3集団はすべて強い遺伝的浮動を共有しており、そのADMIXTURE特性では広くアジア東部祖先系統の主要な構成要素で特徴づけられます。

 「古墳人」における追加の祖先系統の起源をさらに選抜するため、「弥生人」祖先系統を「縄文人」およびアジア北東部人祖先系統と置換することにより、3方向混合が検証されました。その結果、漢人のみが祖先系統の供給源としてモデル化に成功し(図5B)、あらゆるあり得る2方向混合モデルよりも3方向混合が大幅によく適合します。「弥生人」と「古墳人」との間で「縄文人」祖先系統が約4倍に「希釈」されていることを考えると、これらの結果から、国家形成段階でアジア東部人祖先系統を有する移民が大規模に流入した、と示唆されます。以下は本論文の図5です。
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 次に、弥生時代と古墳時代の両方で観察されたユーラシア大陸部祖先系統が、アジア北東部とアジア東部の祖先系統の中間水準を有する同じ供給源に由来する可能性について調べられました。「古墳人」の2方向混合により適合すると明らかになった唯一の候補は、黄河流域の後期青銅器時代および鉄器時代個体群(YR_LBIA)でしたが、これは参照セット全体では一貫していませんでした。「縄文人」を除いて「弥生人」との統計的に有意な遺伝子流動を示さない(図4A)にも関わらず、YR_LBIAと「縄文人」との間の2方向混合モデルも「弥生人」に適合する、と明らかになりました。この黄河流域人口集団は、qpAdmにより推定されるように、アジア北東部祖先系統を約40%、アジア東部祖先系統を約60%(つまり漢人)有する中間的な遺伝的特性を有しています。したがって、これは特定のモデルで「弥生人」と「古墳人」の両方に適合する中間の遺伝的特性で、「弥生人」では37.4±1.9%、「古墳人では」87.5±0.8%の流入となります。これらの結果は、単一の供給源からの継続的な遺伝子流動が、「弥生人」と「古墳人」との間の遺伝的変化の説明に充分である可能性を示唆します。

 しかし、より広範な分析では、遺伝子流動の単一の供給源は移住の2回の異なる波よりも可能性が低そうである、と強く示唆されます。まず、ADMIXTUREで特定されたアジア東部祖先系統へのアジア北東部祖先系統の割合は、「弥生人(1.9:1)」と「古墳人(1:2.5)」との間で際立って異なっていました(図2C)。次に、ユーラシア大陸部の類似性におけるこの対比は、f統計のさまざまな形態でも観察され、「弥生人」がアジア北東部祖先系統との有意な類似性を有する、というパターンが繰り返されるのに対して、「古墳人」は漢人や黄河流域古代人口集団を含む他のアジア東部人とは緊密なまとまりを形成します(図5A)。

 最後に、DATESにより「古墳人」における混合年代から2つの波のモデルへの裏づけが見つかります。中間的な人口集団(つまり、YR_LBIA)との単一の混合事象は、1840±213年前頃に起きたと推定され、これは3000年前頃となる弥生時代の開始のずっと後になります。対照的に、2つの異なる供給源との2回の別々の混合事象が想定されるならば、結果の推定値は弥生時代および古墳時代のそれぞれの開始年代と一致する年代に適合し、「弥生人」に関しては「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統との間の混合は3448±825年前、「古墳人」に関しては「縄文人」祖先系統とアジア東部祖先系統の混合は1748±175年前と推定されます。これらの遺伝学的知見は、弥生時代と古墳時代におけるユーラシア大陸部からの新たな人々の到来を記録する、考古学的証拠および歴史的記録の両方によりさらに裏づけられます。


●現代日本人における「古墳人」の遺伝的影響

 本論文で検証対象となった古墳時代の3個体は、遺伝的に現代日本人と類似しています(図2)。これは、古墳時代以降日本列島(の本州・四国・九州を中心とする「本土」)の人口集団の遺伝的構成に実質的な変化がないことを示唆します。現代日本人標本で追加の遺伝的祖先系統の兆候を探すため、f4統計(ムブティ人、X;古墳人、縄文人)を用いて、ユーラシア大陸部人口集団が「古墳人」と比較して現代日本人のゲノムと優先的な類似性を有するのかどうか、検証されました。その結果、古代の人口集団の一部は現代日本人よりも「古墳人」の方と高い類似性を示しますが、そのうちどれも「古墳人」に存在する祖先系統の追加の供給源としてqpAdmでは裏づけられません。意外にも、「古墳人」を除いて現代日本人との追加の遺伝子流動を示す古代もしくは現代の人口集団は存在しません。

 本論文の混合モデル化では、現代日本人集団は「縄文人」もしくは「弥生人」祖先系統の増加がないか、現代のアジア南東部人かアジア東部人かシベリア人に代表される追加の祖先の導入なしに、「古墳人」祖先系統により充分に説明される、と確証されます。現代日本人集団は「古墳人」における3方向混合として同じ祖先的構成要素の組み合わせを有しており、「古墳人」と比較して現代日本人においてアジア東部祖先系統のわずかな上昇があります。これは、ある程度の遺伝的連続性を示唆しますが、絶対的ではありません。

 「古墳人」と現代日本人集団との間の連続性の厳密なモデル(つまり、「古墳人」系統固有の遺伝的浮動がない場合)は却下されます。しかし、「古墳人(13.1±3.5%)」と比較して、日本人集団(15.0±3.8%)における「縄文人」祖先系統の「希釈」はなく、ユーラシア大陸部からの移住により「縄文人」祖先系統が顕著に減少した弥生時代と古墳時代の場合とは対照的です。「混合なし」モデルを伴うqpAdmによる「古墳人」と日本人との間の遺伝的クレード(単系統群)性を検証すると、「古墳人」は日本人とクレードを形成する、と明らかになりました。これらの結果から、歯の特徴と非計量的頭蓋特徴でも裏づけられているように、国家形成までに確立された3つの主要な祖先的構成要素の遺伝的特性が、現代日本人集団にとって基盤となりました。


●考察

 本論文のデータは、現代日本人集団の三重祖先系統構造の証拠を提供し、混合した「縄文人」と「弥生人」起源の確立された二重構造モデルを洗練します(図6)。「縄文人」はLGM後の日本列島内の長期の孤立と強い遺伝的浮動のため独自の遺伝的変異を蓄積し、それは現代日本人の内部における独特な遺伝的構成要素の基礎となりました。弥生時代はこの孤立の終わりを示し、遅くとも2300年前頃に始まるアジア東部本土からのかなりの人口集団の移住を伴いました。しかし、日本列島の先史時代および原始時代となるその後の農耕期と国家形成期に日本列島に到来した人々の集団間では、明確な遺伝的差異が見つかります。「弥生人」の遺伝的データは、形態学的研究で裏づけられるように、日本列島におけるアジア北東部祖先系統の存在を記録していますが、「古墳人」では広範なアジア東部祖先系統が観察されました。「縄文人」と「弥生人」と「古墳人」の各クラスタを特徴づける祖先は、現代日本人集団の形成に大きく寄与しました。以下は本論文の図6です。
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 「縄文人」の祖先的系統は、他のアジア東部の古代人および現代人とは深く分岐しており、アジア南東部に起源があった、と提案されています。この分岐の年代は以前には38000〜18000年前頃(関連記事)と推定されていました。ROH特性を有する本論文のモデル化では、8800年前頃の「縄文人」の分析によりこの年代が20000〜15000年前頃の下限範囲に絞り込まれています(図3)。日本列島は28000年前頃となるLGM開始の頃には朝鮮半島を通って到来できるようになり、ユーラシア大陸部と日本列島との間の人口集団の移動が可能となりました。海面上昇によるその後の17000〜16000年前頃となる対馬海峡の拡大により、「縄文人」系統はユーラシア大陸部の他地域から孤立したかもしれず、それは縄文土器製作の最古の証拠とも一致します。本論文のROHモデル化は、「縄文人」が縄文時代早期には1000人以下の小さな有効人口規模を維持した、と示しており、その後の縄文時代もしくは日本列島のさまざまな島々全域で、そのゲノム特性にほとんど変化が観察されませんでした。

 上述のヨーロッパの大半における新石器時代への移行で記録されているように、農耕拡大はしばしば人口集団の置換により特徴づけられ、多くの地域で観察される狩猟採集民人口集団からの寄与はごく僅かです。しかし、先史時代の日本列島における農耕への移行には、置換というよりもむしろ同化の過程が含まれており、西北九州の遺跡ではほぼ均等な在来の「縄文人」と新たな移民からの遺伝的寄与があった、との遺伝的証拠が見つかりました。これは、日本列島の少なくとも一部が、弥生時代開始期における農耕移民と匹敵する「縄文人」集団を支えていた、と示唆しており、それは一部の縄文時代共同体で行なわれていた高水準の定住に反映されています。

 「弥生人」に継承されたユーラシア大陸部の構成要素は、本論文のデータセットではアムール川祖先系統を高水準で有する西遼河流域の中期新石器時代および青銅器時代の個体群により最もよく表されます(HMMH_MN およびWRL_BA_o)。西遼河流域の人口集団は時空間的に遺伝的には不均質です(関連記事)。6500〜3500年前頃となる中期新石器時代から後期新石器時代への移行は、黄河祖先系統の25%から92%の増加により特徴づけられ、アムール川祖先系統は75〜8%へと激減し、これは雑穀農耕の強化と関連しているかもしれません。しかし、西遼河流域では3500年前頃に始まる青銅器時代に人口構造が変わり、それはアムール川流域からの人々の明らかな流入に起因します。これは、トランスユーラシア語族とシナ語族の下位集団間の集中的な言語借用の始まりと一致します。「弥生人」への過剰な類似性は、古代アムール川流域人口集団もしくは現代のツングース語族話者人口集団と遺伝的に密接な個体群で観察されます(図4)。

 本論文の知見から、水田稲作が、西遼河流域周辺のどこかに居住していたものの、さらに北方の人口集団に祖先系統の大半の構成要素が由来する人々により日本列島にもたらされ、稲作の拡大は西遼河流域の南側に起源があった、と示唆されます。古墳文化の最も顕著な考古学的特徴は、鍵穴型の塚にエリートを埋葬する習慣で、その大きさは階級と政治権力を反映しています。本論文の検証対象となった古墳時代の3個体はそうした古墳に埋葬されておらず、この3個体は下層階級だった、と示唆されます。この3個体のゲノムは、日本列島へのおもにアジア東部祖先系統を有する人々の到来と、「弥生人」集団との混合を記録します(図5)。この追加の祖先系統は、本論文の分析では複数の祖先的構成要素を有する漢人により最もよく表されます。最近の研究では、新石器時代以降人々が形態学的に均質になっていると報告されており、それは古墳時代の移民がすでに高度に混合していたことを示唆します。

 いくつかの一連の考古学的証拠は、おそらくは弥生時代と古墳時代の移行期における朝鮮半島南部からの可能性が最も高い、日本列島への新しい大規模な移民の到来を裏づけます。日本列島と朝鮮半島と中国の間の強い文化的および政治的類似性は、中国の鏡と貨幣、鉄生産のための朝鮮半島の原材料、剣など金属製道具に刻まれた漢字を含む、いくつかの輸入品からも観察されます。海外からのこれらの資源の入手は、日本列島内の共同体間の激しい競争を引き起こしました。これは、支配のための、黄海沿岸などユーラシア大陸部の国家との制度的接触を促進しました。したがって、古墳時代を通じて継続的な移住と大陸の影響は明らかです。本論文の知見は、この国家形成段階における、新たな社会的・文化的・政治的特徴の出現と関わる遺伝的交換の強い裏づけを提供します。

 本論文の分析には注意点があります。まず「弥生人」については、弥生文化と関連する骨格遺骸が形態学的に「縄文人」と類似している地域(西北九州)の2個体のみに分析が限定されています。他地域もしくは他の年代の弥生時代個体群は異なる祖先的特性を有しているかもしれません。たとえば、ユーラシア大陸部的もしくは「古墳人」的祖先系統です。次に、本論文の標本抽出は無作為ではなく、本論文で分析された古墳時代の個体群は同じ埋葬遺跡に由来します。弥生時代と古墳時代の人口集団の遺伝的祖先系統における時空間的変異を調べて、本論文で提案された日本列島の人口集団の三重構造の包括的な見解を提供するには、追加の古代ゲノムデータが必要です。

 要約すると本論文は、農耕と技術的に促進された人口集団の移動が、ユーラシア大陸部の他地域から孤立していた数千年を終わらせた前後両方の期間において日本列島に居住していた人々のゲノム特性を変化させたことについて、詳細な調査を提供します。これら孤立した地域の個体群の古代ゲノミクスは、人口集団の遺伝的構成への大きな文化的変化の影響の程度を観察する、特有の機会を提供します。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は縄文時代と古墳時代の複数個体の新たな核ゲノムデータを報告しており、とくにこれまで佐賀市の東名貝塚遺跡の1個体(関連記事)でしか報告されていなかった西日本「縄文人」の核ゲノムデータを、広範な年代と地域の複数個体から得ていることは、たいへん意義深いと思います。これにより、時空間的にずっと広範囲の「縄文人」の遺伝的構造がさらに詳しく明らかになりました。また、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡の1個体(JpKa6904)の年代は8991〜8646年前頃で、現時点では核ゲノムデータが得られた日本列島最古の個体になると思います。日本列島において更新世の人類遺骸の発見数がきわめて少ないことを考えると、この点でも本論文の意義は大きいと思います。

 本論文でまず注目されるのは、「縄文人」は時空間的に広範囲にわたって遺伝的にかなり均質な集団だった、と改めて示された点です。本論文で分析対象とされていない、7980〜7460年前頃となる東名貝塚遺跡の1個体や千葉市の六通貝塚の4000〜3500年前頃の個体群(関連記事)も、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成します。さらに、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)も、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成します(関連記事)。時空間的により広範囲の「縄文人」の核ゲノムデータがさらに蓄積されるまで断定はできませんが、本論文が指摘するように「縄文人」は長期にわたって遺伝的には孤立した集団だった可能性が高そうです。これは以前から予測されていたので(関連記事)、とくに意外ではありませんでした。縄文時代にアジア東部大陸部から日本列島にアジア東部祖先系統を有する個体が到来し、日本列島で在来の「縄文人」と混合して子供を儲けた可能性は高そうですが、「縄文人(的な遺伝的構成の個体)」のゲノムで明確に検出されるほどの影響は残らなかったのだろう、というわけです。

 一方で朝鮮半島南端では、8300〜4000年前頃にかけて「縄文人」的な遺伝的構成要素が持続していたようで、遼河地域の紅山(Hongshan)文化集団的な遺伝的構成要素と「縄文人」的な遺伝的構成要素とのさまざまな混合割合の個体が存在し、中には遺伝的にはほぼ「縄文人」と言える個体も確認されています(関連記事)。上黒岩岩陰遺跡の1個体(JpKa6904)から、遅くとも9000年前頃までには「縄文人」的な遺伝的構成は確立していたようですから、朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の個体の「縄文人」的な遺伝的構成要素は、日本列島から朝鮮半島に渡った「縄文人」によりもたらされたのでしょう。ただ、この朝鮮半島南端の8300〜4000年前頃の個体群は、日本列島や朝鮮半島の現代人に強い遺伝的影響を残していないかもしれません。

 「縄文人」の起源について本論文は、ホアビン文化個体関連系統とアジア東部関連系統の混合とするモデル(関連記事)よりも、ユーラシア東部系集団において、ホアビン文化集団よりも後にアジア東部現代人の主要な祖先集団と20000〜15000年前頃に分岐した、とのモデルの方が妥当と推測しています。しかし、現生人類(Homo sapiens)とネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)や種区分未定のデニソワ人(Denisovan)など非現生人類ホモ属との混合でさえたいへん複雑で、単純な系統樹で表すことが困難ですから(関連記事)、現生人類集団間の関係を単純な系統樹で表すことには慎重であるべきだと思います。もちろん、現生人類がアフリカから世界中の広範な地域に拡散する過程で、LGMのような寒冷期もあり、集団の孤立と遺伝的分化が進みやすかったでしょうから、系統樹で表すことに合理性があることも確かだと思います。しかし、多くの集団は遺伝的に大きく異なる集団間の複雑な混合により形成されたでしょうから、単純な系統樹で表すことに問題があることも否定できないと思います。

 具体的に本論文の系統樹の問題点として、モンゴル北東部のサルキート渓谷で発見された34950〜33900年前頃の女性個体(サルキート個体)が挙げられます。サルキート個体は本論文の系統樹では、出アフリカ現生人類集団がユーラシア東西系統に分岐した後、ユーラシア東部系集団で最初に分岐した、と位置づけられています。サルキート個体の分岐後のユーラシア東部系集団では、まずパプア人、次に田園個体、その後でホアビン文化集団が分岐し、「縄文人」はその後の分岐となります。しかし、他の研究ではサルキート個体は田園個体と同じ系統に位置づけられています(関連記事)。この違いは、サルキート個体にはユーラシア東部系集団と遺伝的に大きく異なるユーラシア西部系集団からの一定以上の遺伝的影響があるため(関連記事)と考えられます。

 本論文の系統樹は正確な人口史を正確には表せていない可能性があり、「縄文人」が遺伝的に大きく異なる集団間の混合により形成された可能性は、まだ否定できないように思います。より具体的には、出アフリカ現生人類集団のうち、ユーラシア東西系統の共通祖先と分岐した集団(ユーラシア南部系集団)が存在し、ユーラシア東部系集団とユーラシア南部系集団との複雑な混合により「縄文人」もホアビン文化集団も形成され、それぞれの(複数の)祖先集団も相互に遺伝的には深く分岐していた、と想定しています(関連記事)。

 本論文の見解で大きな問題となるのは、「弥生人」を佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることです。本論文でも、「弥生人」を形態学的に「縄文人」との類似性が指摘されている西北九州の弥生時代人骨の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させていることについて、地域もしくは他の年代の弥生時代個体群は異なる祖先的特性を有しているかもしれない、と指摘されていました。じっさい、弥生時代中期となる福岡県那珂川市の安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)は形態学的に「渡来系弥生人」と評価されていますが、核ゲノム解析により現代日本人の範疇に収まる、と指摘されています(関連記事)。同じく弥生時代中期の「渡来系弥生人」とされる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体も、核ゲノム解析では現代日本人の範疇に収まります。現代日本人の平均と比較しての「縄文人」構成要素の割合は、安徳台5号がやや高く、隈・西小田遺跡の個体はやや低いと推定されています。

 弥生時代の日本列島の人類集団は遺伝的異質性がかなり高かったと考えられます(関連記事)。読売新聞の記事によると、篠田謙一氏は「弥生人の遺伝情報は、地域や時代で差があり、現代の日本人に近い例もある。当時の実態を解明するには、解析する人骨をさらに増やす必要がある」と指摘しており、その通りだと思います。安徳台5号も隈・西小田遺跡個体も下本山岩陰遺跡の2個体に先行し、下本山岩陰遺跡の2個体の頃(2001〜1931年前頃)には、少なくとも九州において現代日本人に近い遺伝的構成の集団が存在したわけですから、下本山岩陰遺跡の2個体を「弥生人」の代表として、弥生時代後期〜古墳時代にかけて日本列島にユーラシア大陸部から大規模な移民が到来した、との本論文の見解にはかなり疑問が残ります。

 本論文が検証対象とした岩出横穴墓の3個体は古墳時代終末期となり、年代は紀元後6〜7世紀です。同じ古墳時代でも岩出横穴墓の3個体よりは古い和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号個体(紀元後398〜468年頃)および2号個体(紀元後407〜535年頃)は、核ゲノム解析の結果、「縄文人」構成要素がそれぞれ52.9〜56.4%と42.4〜51.6%と推定されています(関連記事)。おそらく弥生時代だけではなく古墳時代にも、本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」の人類集団にはかなりの遺伝的異質性があり、時空間的な違いがあったと考えられますが、今後同一遺跡もしくは地域内で「古墳人」の核ゲノムデータが蓄積されていけば、階層差も確認されるようになるかもしれません。日本列島における現代人のような遺伝的構造の形成は、古墳時代の後もよく考慮しなければならないように思います。

 本論文は日本列島の人類集団の遺伝的構成において、縄文時代から弥生時代の移行期と弥生時代から古墳時代の移行期に大きな変化を見出し、「弥生人」にはアジア北東部祖先系統の影響が「縄文人」祖先系統に近いくらいの割合で見られ、「古墳人」ではアジア北東部祖先系統が優勢になる、と推測しています。しかし最近の別の研究では、現代日本人の遺伝的構成は低い割合の「縄文人」関連祖先系統と高い割合の遼河地域の夏家店上層文化集団関連祖先系統の混合と推定されており、朝鮮半島中部西岸に位置する2800〜2500年前頃のTaejungni遺跡の個体(Taejungni個体)の遺伝的構成が現代日本人に類似している、と指摘されています(関連記事)。これは、現代日本人の基本的な遺伝的構成が朝鮮半島において形成され、一方で朝鮮半島の人類集団ではその後で大きな遺伝的変化があり、現代朝鮮人のような遺伝的構成が確立したことを示唆します。

 上述のように「弥生人」は遺伝的異質性が高かったと考えられ、中には遺伝的に現代日本人の範疇に収まる集団も存在しました。本論文で提示された古代ゲノムデータとともに、本論文では取り上げられなかった日本列島の弥生時代個体群や朝鮮半島の古代人のゲノムデータも含めて、日本列島の人口史を再検討する必要があると思います。本論文と他の研究を組み合わせて解釈した現時点での大まかな想定は、朝鮮半島において紀元前二千年紀後半〜紀元前千年紀前半にかけて、遼河地域青銅器時代集団的な遺伝的構成の集団と「縄文人」構成要素を高い割合で有する集団が混合して現代日本人の基本的な遺伝的構成が形成され、その集団が弥生時代に日本列島に到来して在来の「縄文人」と混合し(縄文時代晩期に日本列島に存在した「縄文人」の現代日本人における遺伝的影響は数%程度かもしれません)、その後で紀元前千年紀後半以降に朝鮮半島では黄河流域集団に遺伝的により近づくような大規模な遺伝的変化があり、そうした集団が古墳時代から飛鳥時代にかけて日本列島に継続的に到来し、奈良時代以降の日本列島内の歴史的展開を経て現代「本土」日本人が形成された、というものです。


参考文献:
Cooke H. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419


https://sicambre.at.webry.info/202109/article_20.html

299. 中川隆[-16218] koaQ7Jey 2021年9月24日 07:39:24 : 1H0S8K0ZRI : ODR2ai5DRXRaUGM=[4] 報告
“日本人”に第3のルーツ 富山の遺跡から出土した「人骨」が貢献
その他
2021年9月22日
https://www.tulip-tv.co.jp/news/news_detail.html?nid=6111&dd=20210922

 現代の日本人は、縄文人と弥生人がルーツと考えられてきましたが、遺跡から出土した人骨の遺伝情報、いわゆるゲノムデータの解析で「第3のルーツ」をもつことがわかりました。

 この日本人のルーツに迫る研究に富山市から出土した人骨が大きく貢献しているんです。

 県埋蔵文化財センターで日本人のルーツに迫った人骨を見せてもらいました。

 「これが今回分析に使った人骨の側頭骨の、耳の穴になるんですけど、そこから削って粉上にして分析をしたと」(県埋蔵文化財センター・河西健二所長)

 現代日本人のルーツについて新たな研究成果を発表したのは、金沢大学の覚張隆史(がくはり・たかし)助教を中心とする研究チームです。

 遺跡から出土した人骨のゲノムデータを抽出し解析する「パレオゲノミクス」という手法で、今回、縄文時代から古墳時代までの人骨と中国など大陸から見つかった人骨のデータを比較、解析しました。

 「これまであくまで2つの祖先集団を基本にして考えられているものですけど、今回少なくとも3つ、それ以上になる可能性があるという新しいモデルを提示したことが今回の論文のキモになります」(金沢大・覚張隆史助教)

 解析の結果、早期の縄文人は約2万年前から1万5000年前に大陸からやってきた1000人程度の小さな集団で、弥生時代には北東アジアから人々が日本列島に流入し、さらに古墳時代には東アジアに起源をもつ人々と混血していることがわかったということです。

 今回ゲノム解析された国内の12体の人骨のうち4体が富山市の小竹貝塚(おだけかいづか)から出土した人骨でした。

 「これが耳の穴になるんですが、穴の中の部分がすい体。そこに非常にゲノムがよく残っていると」「我々これ10年前に発掘した人骨なんですけど、10年前の技術ではでなかったんです。ところがどうも人骨の場所によって取れるということがわかってきたのがここ数年でありまして」(県埋蔵文化財センター・河西所長)

 富山市呉羽町の小竹貝塚は現在は海岸線から遠く離れていますが、6000年前はすぐそばに潟湖が広がっていて、人々は貝などを採取しながら定住していました。

 北陸新幹線の建設工事に伴う発掘調査で、小竹貝塚からは縄文前期では国内最多となる91体の人骨が見つかりました。

 人骨の保存状態がいいため、今回、縄文人のゲノムの基礎的なデータ作成に貢献しました。

 今回の研究成果について県埋蔵文化財センターの河西健二所長は。

 「古墳時代の人が現代人のほぼ原型、類似しているということがわかったというのは考古学的にはすごく衝撃的」「古墳時代に須恵器が入ってくるとか金属器が入ってくるという大きな動きがあることはわかっていたんです。それが人を伴って来たのかというところはなかなか検証できなかったので、今回古墳時代に血が混じってきているのがわかりましたから、これまでの研究に当てはめながら検証することができるようになる」(県埋蔵文化財センター・河西所長)

 ゲノムデータの進化した解析技術を使って、県埋蔵文化財センターでは今後、小竹貝塚そのものの謎の解明に着手したいとしています。

 「この12号さんは男性なんですけど、今でも亡くなった人の使っていた物を焼いたりするでしょ。そういう行為は縄文時代からあるんですよ。マイ石斧。この人は磨製石斧、これ7点あるんだけど、砥石を一緒に墓で埋葬している」「この方が他の人骨との兄弟関係とか家族関係とか見えてくるとどんどん面白いストーリーが見えてくるんだろうと」(河西所長)

 ゲノムデータの解析が新たな縄文ロマンの扉を開こうとしています。

 研究が進めば保管された91体以上の人骨の1人1人のプロフィールが見えてくるかもしれません。

 「小竹という土地に住んでいた縄文人がどんな人々でどんな生活をしていたのかが知りたいのが一番ですから。あとは人間関係ですよね、どんな親子関係だったのか、男性が何をしていたのか、女性が何をしていたのか、そういったところまでゲノムの解析で見えてくると、もっとリアルな縄文人の生活が見えてくるだろう」(河西所長)

 「縄文人」といえば「小竹貝塚」と言われるように、謎に包まれた縄文人のリアルに迫りたいとしています。

https://www.tulip-tv.co.jp/news/news_detail.html?nid=6111&dd=20210922

300. 中川隆[-15582] koaQ7Jey 2021年11月04日 13:01:50 : ZwZnp6pbIc : T1NDbXVQb25JcUU=[21] 報告
雑記帳
2021年11月04日
弥生時代と古墳時代の人類の核ゲノム解析まとめ
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_4.html


 以前、縄文時代の人類の核ゲノム解析結果をまとめたので(関連記事)、弥生時代と古墳時代についても、当ブログで取り上げた分を同様にまとめます。まず弥生時代について、現時点で核ゲノムデータが得られている最古の個体となりそうなのは、佐賀県唐津市大友遺跡の女性(大友8号)です(神澤他.,2021A、関連記事)。大友8号の年代は2730〜2530年前頃(弥生時代早期)で、mtDNAハプログループ(mtHg)はM7a1a6です。大友8号は、既知の古代人および現代人との比較で、東日本の「縄文人」とまとまりを形成します。詳細を把握していませんが、東北地方の弥生時代の男性も核ゲノム解析では既知の「縄文人」の範疇に収まります(篠田.,2019,P173-174、関連記事)

 弥生時代中期では、九州北部で複数の人類遺骸から核ゲノムデータが得られています。そのうち、福岡県那珂川市の安徳台遺跡の1個体(安徳台5号)は形態学的に「渡来系弥生人」と評価されていますが、核ゲノム解析により現代日本人(東京)の範疇に収まる、と指摘されています(篠田他.,2020、関連記事)。大友8号は遺伝的に「縄文人」と言えるわけです。同じく弥生時代中期の形態学的に「渡来系弥生人」とされる福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡の個体も、核ゲノム解析では現代日本人(東京)の範疇に収まります(Robbeets et al., 2021、関連記事)。一方、弥生時代中期でも安徳台5号や隈・西小田遺跡個体よりも新しく、形態学的に「縄文人」と近いと指摘されている、長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体(下本山2号および3号)は、相互に違いはあるものの、遺伝的には現代日本人と「縄文人」との中間に位置づけられます(篠田他.,2019、関連記事)。以下は安徳台5号と下本山2号および3号の核ゲノムデータに基づく主成分分析結果を示した篠田他.,2020の図2です。
画像

 下本山岩陰遺跡の2個体の核ゲノムは、「縄文人」構成要素の割合が50〜60%程度とモデル化されており、現代日本人(東京)よりもかなり高くなっています(Cooke et al., 2021、関連記事)。一方、現代日本人(東京)と比較しての「縄文人」構成要素の割合は、安徳台5号ではやや高く、隈・西小田遺跡個体ではやや低くなります(Robbeets et al., 2021)。これらの事例から、弥生時代の人類の遺伝的構成は、「縄文人」そのものから現代日本人に近いものまで、地域と年代により大きな違いがあった、と推測されます。

 同一遺跡では、弥生時代前期末から古墳時代初期の鳥取県鳥取市(旧気高郡)青谷町の青谷上寺遺跡で、弥生時代中期〜後期の人類遺骸の核ゲノムデータが得られています(神澤他.,2021B、関連記事)。核ゲノム解析結果に基づく青谷上寺遺跡個体群の遺伝的特徴は、現代日本人(東京)の範疇に収まるか、そこに近く、違いが大きいことです。これは、経時的な「渡来系」と「在来系」の混合の進展を反映しているかもしれません。つまり、青谷上寺遺跡集団は遺伝的に長期にわたって孤立していたのではなく、日本列島外もしくは日本列島内の他地域との混合があったのではないか、というわけです。青谷上寺遺跡の事例からも、弥生時代の人類の遺伝的構成には大きな違いがあった、と改めて言えそうです。

 古墳時代では、石川県金沢市の岩出横穴墓で末期となる3個体(JpIw32とJpIw31とJpIw33)の核ゲノムデータが得られています(Cooke et al., 2021)。この3個体は遺伝的に現代日本人(東京)と類似しているものの、「縄文人」構成要素の割合は現代日本人(東京)よりもやや高くなっています。古墳時代前期となる香川県高松市の高松茶臼山古墳の男性被葬者(茶臼山3号)も、核ゲノムデータに基づくと現代日本人(東京)の範疇に収まるものの、「縄文人」構成要素の割合は現代日本人(東京)よりもやや高くなっています(神澤他.,2021C、関連記事)。島根県出雲市猪目洞窟遺跡で発見された古墳時代末期(猪目3-2-1号)と奈良時代(猪目3-2-2号)の個体でも、茶臼山3号とほぼ同様の結果が得られています(神澤他.,2021D、関連記事)。

 このように、やや「縄文人」構成要素の割合が高いとはいえ、古墳時代には遺伝的に現代日本人(東京)の範疇に収まる個体が、九州に限らず広く東日本でも確認されています。一方で、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号(紀元後398〜468年頃)および2号(紀元後407〜535年頃)の核ゲノム解析では、両者が他の古墳時代個体や現代日本人(東京)よりも弥生時代中期の下本山2号および3号に近く、「縄文人」構成要素の割合は、第1号石室1号が52.9〜56.4%、2号が42.4〜51.6%と推定されています(安達他.,2021、関連記事)。以下は、磯間岩陰遺跡の2個体の核ゲノムデータに基づく主成分分析結果を示した安達他.,2021の図1です。
画像

 このように、古墳時代の近畿地方(畿内ではありませんが)においてさえ、現代日本人の平均よりもずっと「縄文人」の遺伝的影響が高い、と推定される個体が確認されています。現代日本人の基本的な遺伝的構成の確立は、少なくとも平安時代まで視野に入れる必要があり、さらに言えば、中世後期に安定した村落(惣村)が成立していくこととも深く関わっているのではないか、と現時点では予測していますが、この私見の妥当性の判断は、歴史時代も含めた古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。もちろん、現代(Watanabe et al., 2021、関連記事)がそうであるように、中世と近世においても地域差はあったでしょうし、さらに階層差がどの程度あったのかという点でも、研究の進展が期待されます。


参考文献:
Cooke H. et al.(2021): Ancient genomics reveals tripartite origins of Japanese populations. Science Advances, 7, 38, eabh2419.
https://doi.org/10.1126/sciadv.abh2419


Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Research Square.
https://doi.org/10.21203/rs.3.rs-255765/v1


Watanabe Y, Isshiki M, and Ohashi J.(2021): Prefecture-level population structure of the Japanese based on SNP genotypes of 11,069 individuals. Journal of Human Genetics, 66, 4, 431–437.
https://doi.org/10.1038/s10038-020-00847-0

安達登、神澤秀明、藤井元人、清家章(2021)「磯間岩陰遺跡出土人骨のDNA分析」清家章編『磯間岩陰遺跡の研究分析・考察』P105-118


神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021A)「佐賀県唐津市大友遺跡第5次調査出土弥生人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P385-393


神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021B)「鳥取県鳥取市青谷上寺遺跡出土弥生後期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P295-307


神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一(2021C)「香川県高松市茶臼山古墳出土古墳前期人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P369-373


神澤秀明、角田恒雄、安達登、篠田謙一、斎藤成也(2021D)「島根県出雲市猪目洞窟遺跡出土人骨の核DNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第228集P329-340


篠田謙一(2019)『日本人になった祖先たち DNAが解明する多元的構造』(NHK出版)


篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019)「西北九州弥生人の遺伝的な特徴―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』119巻1号P25-43
https://doi.org/10.1537/asj.1904231


篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2020)「福岡県那珂川市安徳台遺跡出土弥生中期人骨のDNA分析」『国立歴史民俗博物館研究報告』第219集P199-210


https://sicambre.at.webry.info/202111/article_4.html

301. 中川隆[-15396] koaQ7Jey 2021年11月10日 16:02:16 : lCCO7qVYNQ : TkZaNEtBbjVhVkU=[29] 報告
雑記帳
2021年11月10日
大橋順「アジア人・日本人の遺伝的多様性 ゲノム情報から推定するヒトの移住と混血の過程」
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_10.html


 井原泰雄、梅ア昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』所収の論文です。ヒトゲノムとは、ヒト(Homo sapiens)が持つ遺伝情報(全DNA配列)の1セットのことです。あらゆる生物の基本単位は細胞で、赤血球以外のヒトの体細胞は核膜で囲まれた球状の細胞核を持っています。細胞核の中に染色体があり、各染色体はヒストンとよばれるタンパク質にデオキシリボ核酸(DNA)が巻きついた棒状の構造をしています。DNAの最小単位(ヌクレオチド)は、塩基と糖とリン酸から構成されています。塩基にはアデニン(A)とグアニン(G)とシトシン(C)とチミン(T)の4種類があり、ヌクレオチドにはそのうち1塩基が結合しています。ヌクレオチドはリン酸を介して鎖状につながっており、DNA鎖と呼ばれます。2本のDNA鎖の塩基同士は水素結合によりつながっており、二重螺旋構造となっています。向かい合う塩基の組み合わせは特異的で相補的な関係にあり、具体的にはAとT、GとCです。DNA鎖における4種類の塩基の組み合わせが塩基配列で、生物が正常な生命活動を維持するための遺伝情報が含まれています。ヒトゲノムは約31億塩基対により構成され、その一部(数%)はタンパク質のアミノ酸配列を規定しており、そうした部位はタンパク質コード遺伝子と呼ばれます。ヒトゲノムには、約25000個のタンパク質コード遺伝子が存在します。


●性特異的遺伝マーカー

 ヒトの細胞核には、22対の常染色体(ヒトは二倍体生物なので44本)と1対の性染色体(女性はX染色体が2本、男性はX染色体とY染色体が1本ずつ)が含まれています。卵子には必ずX染色体が1本含まれますが、精子にはX染色体を含むものとY染色体を含むものがあり、精子が卵子と結合すると、前者ならば女子、後者ならば男子が生まれます。Y染色体は父親から息子にのみ伝わるので、父親の系譜を反映する遺伝マーカーとしてよく利用されます。

 ミトコンドリアは細胞質に存在する細胞小器官で、エネルギー産生や呼吸代謝の役割を担っています。ミトコンドリアもDNAを含んでおり(mtDNA)、核DNAと同様に親から子供に伝わります。受精のさい、父親由来のミトコンドリアは卵子の中に入らないか、入っても破壊されるので、mtDNAは母親からのみ子供に伝わります。この母系遺伝の性質から、mtDNAは母親の系譜を反映する遺伝マーカーとして利用されています。mtDNAは男性も有しており、細胞内のDNA量が多く解析しやすいため、これまでに多くの研究があります。


●SNP

 配偶子が形成されるさい、ひじょうに低い確率ではあるものの、DNA複製エラーによる塩基配列の変化が起きることもあり、突然変異と呼ばれます。突然変異には、塩基置換、塩基の挿入や欠失、繰り返し配列における繰り返し数の増減などがあり、突然変異により生じた新たな塩基配列が、世代経過に伴って集団中で頻度が増加すると、多型として観察されるようになります。ヒトゲノム中で最も高頻度に観察される多型は、SNP(一塩基多型)です。SNPとは、着目する集団において、塩基配列上のある特定の位置に、2種類以上の塩基が存在する部位のことです。SNPの異なる塩基をアレル(対立遺伝子)と呼びます。ヒトの点突然変異(1塩基が別の塩基に置換されること)率は1世代1塩基あたり1.2×10⁻⁸と低いので、大部分のSNPには2種類の塩基しか観察されず、そのほとんどが単一起源と考えられます。単一起源とは、祖先型がGアレルで派生型がAアレルの場合、GアレルからAアレルへの突然変異は過去に1回しか起きていない、ということです。二倍体生物のヒトは両親から相同染色体を1本ずつ受け継ぐので、各SNPに対して3種類の遺伝子型が存在し、たとえばA/GのSNPでは、A/AとA/GとG/Gの3通りの遺伝子型が存在します。

 タンパク質コード遺伝子上にあるSNPのうち、塩基の違いにより異なるアミノ酸となるものを非同義SNP、同じアミノ酸となるものを同義SNPと呼びます。多くのSNPはアメリカ国立生物工学情報センター(National Center for Biotechnology Information、略してNCBI)に登録されており、rsで始まるIDが付与されています。SNPを構成する2つのアレルのうち、頻度の低い方はマイナーアレル、頻度の高い方はメジャーアレルと呼ばれます。NCBIのdbSNPデータベースには、マイナーアレル頻度が1%以上の非同義SNPが101000個以上、同義SNPが89000個以上登録されています(2020年10月27日時点)。

 日本人を含むアジア東部人に特徴的な表現型を示すSNPに、ABCC11遺伝子上の非同義SNP(rs17822931)とEDAR遺伝子上の非同義SNP(rs3827760)があります。ABCC11はABC(ATP binding Cassette)トランスポータータンパク質の一つで、乳腺やアポクリン腺などの外分泌組織で作用するタンパク質です。rs17822931はABCC11タンパク質の180番目のアミノ酸残基がグリシン(Gアレル)もしくはアルギニン(Aアレル)となるSNPで、アルギニンとなるアレル頻度がアジア東部人では高く、A/A遺伝子型だと耳垢は乾燥型に、G/AもしくはG/G遺伝子型だと耳垢は湿った型になります。EDARはエクトジスプラシンA受容体で、胚発生において重要な役割を果たすタンパク質です。rs3827760はEDAR タンパク質の370番目のアミノ酸塩基がバリン(Tアレル)もしくはアラニン(Cアレル)となるSNPで、Cアレルを持つほど毛髪が太くなり、また切歯のシャベルの度合いが強くなります。乾燥型の耳垢と関連するrs17822931のAアレルには、アジア東部人の祖先集団で強い正の自然選択が作用した可能性が高く(関連記事)、それが明瞭な地域差を生じさせた、と考えられます。


●減数分裂と組換え

 生殖細胞系列で起こる細胞分裂の様式は減数分裂と呼ばれ、細胞が通常増殖するさいの様式は有糸分裂もしくは体細胞分裂と呼ばれます。減数分裂が体細胞分裂と異なる点は、染色体の複製跡に姉妹染色分体となり、2回連続して細胞分裂(減数第一分裂と減数第二分裂)が起きることで、最終的に配偶子では染色体数が分裂前の細胞に半分になることです。減数分裂により遺伝的多様性が生み出される仕組みに、非姉妹染色分体間で染色体の一部が入れ替わる交叉(乗換)があり、各染色体あたり約2ヶ所以上(減数分裂あたり約50ヶ所)で交叉が起きます。これにより、新たな塩基配列を有する染色体(組換え体)が子供に伝わることがあります。同一染色体上の2地点間で組換えが起こる頻度が1%以上の時、その2点間の遺伝距離を1センチモルガン(cM)と呼び、ヒトの場合は1.3cMの距離が約100万塩基に相当します。


●ハプロタイプと連鎖不平衡

 ハプロタイプとは、同一染色体上に存在する複数のSNPのアレルの組み合わせです。観察されるハプロタイプの種類数は、SNP部位間で過去に起きた組換えの回数に依存しており、SNP部位が近接している(正確には、遺伝的距離が短い)と組換え率が低いため、理論上の最大種類数よりも少なくなります。観察されるハプロタイプの種類や各ハプロタイプ頻度は集団により異なりますが、遺伝的に近い集団ではよく似ているので、ヒト集団間の遺伝的近縁関係や、ヒトの移住史の推定に用いられます。


 連鎖不平衡とは、同一染色体上の2つ以上の多型間のアレルに関連がある状態のことです。SNP1(AアレルとGアレル)とSNP2(CアレルとTアレル)により規定されるハプロタイプの場合、A-CとA-TとG-CとG-Tの4種類のハプロタイプが存在し得ます。ハプロタイプの頻度がそれを構成するアレル頻度の積と等しくない場合、両アレルは連鎖不平衡の関係にあると呼ばれ、ハプロタイプ頻度の方がアレル頻度の積よりも大きければ正の連鎖不平衡、小さければ負の連鎖不平衡と呼ばれます。A-CとA-TとG-CとG-Tの各ハプロタイプ頻度をh11とh12とh21とh22とする場合、AアレルとCアレルの各頻度はh11+h12とh11+h21です。AアレルとCアレルの連鎖不平衡係数を、A-Cハプロタイプ頻度からアレル頻度の積を引いたD11=h11- (h11+h12) (h11+h21)と定義すると、D11>0ならばAアレルとCアレルは負の連鎖不平衡、D11>0ならばAアレルとCアレルは負の連鎖不平衡、D11=0ならば、AアレルとCアレルは連鎖平衡にある、と呼ばれます。AアレルとTアレルの連鎖不平衡係数をD12、GアレルとCアレルの連鎖不平衡係数をD21、GアレルとTアレルの連鎖不平衡係数をD22と定義すると、D11=-D12=-D21=D22の関係が常に成立します。


●ゲノム人類学

 全ゲノム配列決定技術が実用化されたことで、ゲノム人類学研究において飛躍的な進展がみられています。ゲノム人類学とは、ヒトゲノムの多様性情報から、人類の進化過程や表現型の多様性の基盤となる遺伝因子を明らかにし、ゲノム水準で「生物としてのヒト」の理解を目指す学問分野と言えます。多くの生物種でゲノム解析が行なわれていますが、公共ゲノムデータベースが最も充実しているのはヒトで、データ解析のフリーソフトウェアも多数公開されています。一昔前までは、実験してDNA配列を決定するという、いわゆるwet解析抜きに研究を進めることは困難でしたが、現在ではデータベースのデータを利用したいわゆるdry解析のみで優れた成果を挙げられます。若い人が参入しやすい点からも、ゲノム人類学は今後ますます発展する、と期待されます。


●アジア人の形成過程

 人の進化を包括的に理解するには、より多くのヒト集団の解析が必要なので、大規模な国際共同研究計画が盛んに行なわれています。その一つにヒトゲノム解析機構(Human Genome Organisation、略してHUGO)の汎アジアSNP共同事業体(Pan-Asian SNP Consortium、略してPASC)があります。PASCでは、アジア人の形成過程を明らかにする目的で、アジアの73集団の1808人について、54794個のSNP遺伝子型が調べられています(関連記事)。

 これまで、アジア東部現代人の祖先集団の形成について、二つの仮説が提案されてきました。一方は、アジア東部集団とアジア南東部集団がアジア大陸南部の沿岸部に沿って到達し、一つの共通祖先を有しており、アジア南東部到達後にアジア東部まで北上した、という説です(南岸経路説)。もう一方は、アジア東部に到達した二つの移住経路があり、南を経由した移住の後に、より北方を経由して到達した(アジア中央部を介してヨーロッパ集団とアジア集団をつないだ)移住があった、という説です(南北両経路説)。代表的なアジア集団と、アフリカ集団とヨーロッパ集団とオセアニア集団とアメリカ大陸先住民集団を含めた、29集団を対象とした系統樹解析により、ヨーロッパ集団とアジアやオセアニアやアメリカ大陸先住民の集団とが分岐した後、オセアニア集団とアジアおよびアメリカ大陸先住民集団とが分岐し、最後にアジア東部集団とアメリカ大陸先住民集団とが分岐した、と示唆されました。なお、本論文はこのように指摘しますが、現生人類各集団間の関係は複雑で(関連記事)、遺伝的に大きく異なる集団間の混合により形成された集団を単純な系統樹に位置づけることには、難しさがあるように思います(関連記事)。

 SNPハプロタイプの多様度に注目すると、南の集団から北の集団にいくほど(緯度に比例して)、その多様性は減少しており、アジア集団の祖先は南から北へと移動してきた、と強く示唆されます。アジア東部集団で観察されるハプロタイプの90%のうち、50%はアジア南東部集団で観察される一方、わずか5%しかアジア中央部および南部集団では観察されませんでした。系統樹解析結果も合わせると、アジア東部集団の主要な起源はアジア南東部にあり、南岸経路説の方が有力と言えそうです。

 ネグリートは、アジア南東部からニューギニア島にかけて住む少数民族です。ネグリートは、低身長や暗い褐色の皮膚や巻毛といった特徴的な表現型を持ち、狩猟採集を営みながら孤立して存続してきたことから、その祖先集団や他のアジア集団との関係については諸説ありました。ネグリートは系統樹解析結果では、アジア東部人やアメリカ大陸先住民とともにオセアニア人から分岐しており、ネグリートの一部集団がアジア東部人やアメリカ大陸先住民と遺伝的に近いことから、ネグリートは他のアジア集団と共通祖先を有している、と考えられます。


●47都道府県の解析

 47都道府県の日本人11069個体の138688ヶ所の常染色体SNP遺伝子型データを用いて、日本人の遺伝的集団構造を調べた研究(関連記事)では、47各都道府県から50個体ずつ無作為抽出され、各SNPのアレル頻度が計算され、漢人(北京)も含めてペアワイズにf2統計量を求めてクラスタ分析が行なわれました。f2統計量とは、2集団間の遺伝距離を測定する尺度の一つで、SNPごとにアレル頻度の集団間差の2乗を計算し、全SNPの平均値として与えられます。クラスタ分析とは、多次元データからデータ点間の非類似度を求め、データ点をグループ分けする多変量解析手法の一つで、この研究では階層的手法の一つであるウォード法が用いられています。47都道府県を4クラスタに分けると、沖縄、東方および北海道、近畿および四国、九州および中国に大別されます(図5.9、図のCHBは北京漢人)。関東や中部の各都県は1クラスタ内に収まりません。これは、関東もしくは中部の都県を遺伝的に近縁な集団とはみなせず、そうした単位で日本人集団の遺伝的構造を論じることは難しい、と示しています。以下は本論文の図5.9(本論文の参照文献より引用)です。
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 47都道府県を対象にした主成分分析結果(図5.10a)では、沖縄県に遺伝的に最も近いのは鹿児島県と示されます。主成分分析とは、多数の変数(多次元データ)から全体のバラツキをよく表す順に互いに直行する変数(主成分)を合成する、多変量解析の1手法です。最も多くの情報を含む第1主成分の値から、沖縄県と鹿児島県の遺伝的近縁性が示されます。これは、単に地理的近さだけではなく、奄美群島の存在も影響していると考えられます。図5.9でクラスタを形成した地方については、九州と東北が沖縄県と遺伝的に近く、近畿と四国が遺伝的に遠い、と示されます。第2主成分は、都道府県の緯度および経度と有意に相関しています。以下は本論文の図5.10(本論文の参照文献より引用)です。
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 日本列島には3万年以上前からヒトが棲んでおり、16000年前頃から縄文時代が始まります(開始の指標を土器だけで定義できるのか、開始も終了も地域差がある、との観点から、縄文時代の期間について議論はあるでしょう)。弥生時代が始まる3000年前頃(この年代についても議論があるとは思います)に、それまで日本に住んでいた「縄文人」が、アジア大陸部から到来してきた「渡来人」と混血した、と考えられています。現代日本人の成立については、おもに北海道のアイヌと、おもに沖縄県の琉球人と、本州・四国・九州を中心とする「本土人」から構成される「二重構造モデル」が想定されています。遺伝学的研究により、「縄文人」と「渡来人」の混血集団の子孫が「本土人」で、アイヌや琉球人、とくに前者は当時の混血の影響をあまり受けていない、と示されています。

 「渡来人」の主要な祖先集団の子孫と想定される北京漢人と、各都道府県のf2統計量を計算すると、沖縄県は漢人から遺伝的に最も遠く、近畿と四国が漢民族に近い(最も近いのは奈良県)、と示されました。したがって、図5.10aにおいて、第1主成分の値が大きい都道府県は「縄文人」と遺伝的に近く、値が小さい都道府県は「渡来人」と近い、と想定されます。大部分の「渡来人」は朝鮮半島経由で日本列島に到達したと考えられますが、朝鮮半島から地理的に近い九州北部ではなく、近畿や四国の人々に「渡来人」の遺伝的構成成分がより多く残っており、近畿と四国には、他地域よりも多くの割合の「渡来人」が流入したかもしれません。


●日本人に特徴的なY染色体

 Y染色体上の組換えを受けない領域の塩基配列の違いに基づいて、「縄文人」由来のY染色体を同定できる可能性があります。日本人男性345個体のY染色体の全塩基配列決定に基づく系統解析(関連記事)では、日本人のY染色体は主要な7系統に分かれました。他のアジア東部集団のY染色体データを含めての解析に基づくと、日本人で35.4%の頻度で見られる系統1は、他のアジア東部人ではほとんど観察されない、と示されました。系統1に属する日本人Y染色体の変異を詳細に解析すると、系統1はYAPという特徴的な変異を有するY染色体ハプログループ(D1a2a)に対応しています。YAP変異は、形態学的に「縄文人」と近縁と考えられているアイヌにおいて、80%以上という高頻度で観察されます。「渡来人」の主要な祖先集団の子孫である韓国人集団や中国人集団には系統1に属するY染色体がほとんど観察されなかったことから、系統1のY染色体は「縄文人」に由来する、と結論づけられます。なお、同一検体のmtDNAの系統解析からは、明らかに「縄文人」由来と想定されるような系統は検出されませんでした。


●今後の課題

 日本列島「本土人」の常染色体のゲノム成分の80%程度は「渡来人」由来と推定されており(関連記事)、「縄文人」と「渡来人」の混血割合は2:8程度だったと思われます。縄文時代晩期の人口は8万人程度と推定されており、その居住範囲は日本列島全域にわたっていました。混血割合から単純に考えると、32万人の「渡来人」が渡海して日本列島に流入したことになりますが、この推定値は多すぎると思われます。より少ない「渡来人」が日本列島で優勢になる可能性として、「渡来人」との戦闘により「縄文人」が激減した可能性も想定されます。しかし、「縄文人」由来の系統1のY染色体の割合が現代日本人では35%となることから、仮に大多数の「縄文人」男性が系統1のY染色体を有していても、2:8の混血割合であれば、せいぜい20%にしかならないはずです。戦闘でまず犠牲になるのは男性であることが多く、系統1のY染色体の頻度はさらに低くなるでしょう。この問題も含めて、日本人の集団史には未解明の問題が残っています。


 以上、本論文についてざっと見てきました。現代日本人は先住の「縄文人」と弥生時代以降にアジア大陸部から新たに日本列島に到来してきた「渡来人」との混合により形成された、との見解は現代日本社会においてかなり定着してきたように思います。しかし、近年の古代DNA研究の進展から、その形成過程はかなり複雑だったように思われます(関連記事)。朝鮮半島において、「縄文人」的構成要素でゲノムをモデル化できる個体が8300年前頃から確認されており、2800〜2500年前頃の朝鮮半島中部西岸の個体は日本列島「本土」現代人と遺伝的構成がよく似ています。これらを踏まえると、日本列島「本土」現代人の基本的な遺伝的構成は朝鮮半島において紀元前千年紀初頭には確立しており、この集団が弥生時代以降に日本列島に到来して勢力を拡大した、と考えられます。

 さらに、朝鮮半島では紀元前千年紀後期以降に人類集団の遺伝的構成に大きな変化があって現代北京漢人により近づき、そうした集団が弥生時代後期から飛鳥時代にかけて到来し、日本列島「本土」現代人の祖先集団に遺伝的影響を残した、と現時点では想定しています。47都道府県単位で奈良県民が遺伝的に最も北京漢人に近いのは、古墳時代から飛鳥時代に朝鮮半島から渡来した集団がおもにヤマト王権の中心地域に移住した結果だろう、と推測しています。また本論文では、「縄文人」由来と考えられる系統1のY染色体の割合が日本列島「本土」現代人で高い、と指摘されていますが、そのうち一定以上の割合は弥生時代以降に朝鮮半島から到来した可能性が高いように思います。もちろん、こうした私見も日本列島、さらにはユーラシア東部の人口史を過度に単純化しているのでしょうし、今後の古代DNA研究の進展により大きく見直す必要が出てくるかもしれません。


参考文献:
大橋順(2021)「アジア人・日本人の遺伝的多様性 ゲノム情報から推定するヒトの移住と混血の過程」井原泰雄、梅ア昌裕、米田穣編『人間の本質にせまる科学 自然人類学の挑戦』(東京大学出版会)第5章P78-91

https://sicambre.at.webry.info/202111/article_10.html

302. 中川隆[-15332] koaQ7Jey 2021年11月12日 13:07:09 : JZhKWZY5ss : emliVkpFYTd6RU0=[20] 報告
雑記帳
2021年11月12日
アジア北東部集団の形成の学際的研究
https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html


 アジア北東部集団の形成の学際的研究に関する研究(Nyakatura et al., 2021)が公表されました。日本語の解説記事もあります。この研究はオンライン版での先行公開となります。トランスユーラシア語族、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族の起源と初期の拡散は、ユーラシア人口史の最も論争となっている問題の一つです。重要な問題は、言語拡散と農耕拡大と人口移動との間の関係です。

 本論文は、統一的観点で遺伝学と考古学と言語学を「三角測量」することにより、この問題に取り組みます。本論文は、包括的なトランスユーラシア言語の農耕牧畜および基礎語彙を含む、これらの分野からの広範なデータセットを報告します。その内訳は、アジア北東部の255ヶ所の新石器時代から青銅器時代の遺跡の考古学的データベースと、韓国と琉球諸島と日本の初期穀物農耕民の古代ゲノム回収で、アジア東部からの既知のゲノムを保管します。

 伝統的な「牧畜民仮説」に対して本論文が示すのは、トランスユーラシア言語の共通の祖先系統(祖先系譜、祖先成分、ancestry)と主要な拡散が、新石器時代以降のアジア北東部全域の最初の農耕民の移動にたどれるものの、この共有された遺産は青銅器時代以降の広範な文化的相互作用により隠されてきた、ということです。言語学と考古学と遺伝学の個々の分野における顕著な進歩を示しただけではなく、それらの収束する証拠を組み合わせることにより、トランスユーラシア言語話者の拡大は農耕により促進された、と示されます。

 古代DNA配列決定における最近の躍進により、ユーラシア全域におけるヒトと言語と文化の拡大の間のつながりが再考されるようになってきました。しかし、ユーラシア西部(関連記事1および関連記事2)と比較すると、ユーラシア東部はまだよく理解されていません。モンゴル南部(内モンゴル)や黄河や遼河やアムール川流域やロシア極東や朝鮮半島や日本列島を含む広大なアジア北東部は、最近の文献ではとくに過小評価されています。遺伝学にとくに重点を置いている(関連記事1および関連記事2および関連記事3)か、既存のデータセットの再調査に限定されるいくつかの例外を除いて、アジア北東部への真の学際的手法はほとんどありません。

 「アルタイ諸語」としても知られるトランスユーラシア語族は、言語の先史時代で最も議論となっている問題の一つです。トランスユーラシア語族はヨーロッパとアジア北部全域にまたがる地理的に隣接する言語の大規模群を意味し、5つの議論の余地のない語族が含まれ、それは日本語族と朝鮮語族とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です(図1a)。これら5語族が単一の共通祖先から派生したのかどうかという問題は、継承説と借用説の支持者間の長年の主題でした。最近の評価では、多くの共通の特性がじっさいに借用によるものだとしても、それにも関わらず、トランスユーラシア語族を有効な系譜群として分類する信頼できる証拠の核がある、と示されています。

 しかし、この分類を受け入れると、祖先のトランスユーラシア語族話者共同体の時間的深さと場所と文化的帰属意識と拡散経路について、新たな問題が生じます。本論文は、「農耕仮説」を提案することにより、伝統的な「牧畜民仮説」に異議を唱えます。「牧畜民仮説」では、紀元前二千年紀にユーラシア東部草原地帯で始まる遊牧民の拡大を伴う、トランスユーラシア語族の第一次拡散を特定します。一方「農耕仮説」では、「農耕/言語拡散仮説」の範囲にそれらの拡散を位置づけます。これらの問題は言語学をはるかに超えているので、考古学と遺伝学を「三角測量」と呼ばれる単一の手法に統合することで対処されます。


●言語学

 方言や歴史的な違いも含めた、98のユーラシア語族の言語で、254の基本的な語彙概念を表す3193の同語源一式の新たなデータセットが収集されました。ベイズ法の適用により、トランスユーラシア語族の言語の年代のある系統発生が推定されました。その結果、トランスユーラシア語族祖語の分岐年代は最高事後密度(highest posterior density、HPD)95%で12793〜5595年前(9181年前)、アルタイ諸語祖語(テュルク語族とモンゴル語族とツングース語族の祖語)では6811年前(95% HPDで10166〜4404年前)、モンゴル語族とツングース語族では4491年前(95% HPDで6373〜2599年前)、日本語族と朝鮮語族では5458年前(95% HPDで8024〜3335年前)と示唆されました(図1b)。これらの年代は、特定の語族が複数の基本的な亜集団に最初に分岐する時間的深さを推定します。これらの語彙データセットを用いて、トランスユーラシア語族の地理的拡大がモデル化されました。ベイズ系統地理学を適用して、語彙統計学や多様性ホットスポット還俗や文化的再構築などの古典的手法が補完されました。

 アルタイ山脈から黄河や大興安嶺山脈やアムール川流域に及ぶ、以前に提案された起源地とは対照的に、トランスユーラシア語族の起源は前期新石器時代の西遼河地域にある、との裏づけが見つかりました。新石器時代におけるトランスユーラシア語族の最初の分散後、さらなる拡散が後期新石器時代および青銅器時代に起きました。モンゴル語族の祖先はモンゴル高原へと北に広がり、テュルク語族祖語はユーラシア東部草原を越えて西方へと移動し、他の分岐した語族は東方へと移動しました。それは、アムール川とウスリー川とハンカ湖の地域に広がったツングース語族祖語と、朝鮮半島に広がった朝鮮語族祖語と、朝鮮半島および日本列島に広がった日本語族祖語です(図1b)。以下は本論文の図1です。
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 祖語の再構築された語彙で明らかにされた農耕牧畜単語を調べた定性分析を通じて、特定の期間における特定地域の祖先的話者共同体にとって文化的診断となるような項目が、さらに特定されました。祖語の再構築された語彙で明らかにされた農牧民の言葉を調べた定性分析(補足データ5)を通じて、特定の地域の特定の時間における先祖の言語共同体の文化的診断となる項目がさらに特定されました。トランスユーラシア語族祖語やアルタイ諸語祖語やモンゴル語族およびツングース語族祖語や日本語族および朝鮮語族祖語など、新石器時代に分離した共通の祖先語は、耕作(「畑」や「種蒔き」や「植物」や「成長」や「耕作」や「鋤」)、(コメや他の穀類ではない)キビやアワやヒエといった雑穀(「雑穀の種子」や「雑穀の粥」や農家の内庭の「雑穀」)、食糧生産と保存(「発酵」や「臼で引く」や「軟塊に潰す」や「醸造」)、定住を示唆する野生食糧(「クルミ」や「ドングリ」や「クリ」)、織物生産(「縫う」や「織布」や「織機で織る」や「紡ぐ」や「生地の裁断」や「カラムシ」や「アサ」)、家畜化された動物としてのブタやイヌと関連する、継承された単語の小さな核を反映しています。

 対照的に、テュルク語族やモンゴル語族やツングース語族や朝鮮語族や日本語族など青銅器時代に分離した個々の下位語族は、イネやコムギやオオムギの耕作、酪農、ウシやヒツジやウマなどの家畜化された動物、農耕、台所用品、絹など織物に関する新たな生計用語を挿入しました。これらの言葉は、さまざまなトランスユーラシア語族および非トランスユーラシア語族言語を話す青銅器時代人口集団間の言語的相互作用から生じる借用です。要約すると、トランスユーラシア語族の年代と故地と元々の農耕語彙と接触特性は、農耕仮説を裏づけ、牧畜民仮説を除外します。


●考古学

 新石器時代のアジア北東部は広範な植物栽培を特徴としていましたが、穀物農耕が栽培化のいくつかの中心地から拡大し、そのうちトランスユーラシア語族にとって最重要なのが西遼河地域で、キビの栽培が9000年前頃までに始まりました。文献からデータが抽出され、新石器時代および青銅器時代の255ヶ所の遺跡(図2a)の172の考古学的特徴が記録されて、中国北部と極東ロシアのプリモライ(Primorye)地域と韓国と日本の、直接的に放射性炭素年代測定された初期の作物遺骸269点の目録がまとめられました。

 文化的類似性にしたがって255ヶ所の遺跡がまとまるベイズ分析の主要な結果は、図2bに示されます。西遼河地域の新石器時代文化のまとまりが見つかり、そこから雑穀(キビやアワやヒエ)農耕と関連する二つの分枝が分離します。一方は朝鮮半島の櫛形文(Chulmun)で、もう一方はアムール川とプリモライ地域と遼東半島に及ぶ新石器時代文化です。これは、5500年前頃までの朝鮮半島、および5000年前頃までのアムール川経由でのプリモライ地域への雑穀農耕拡散についての以前の知見を確証します。

 分析の結果、韓国の無文(Mumun)文化および日本の弥生文化遺跡と、西遼河地域の青銅器時代遺跡がまとまりました。これは、紀元前二千年紀に遼東半島および山東半島地域の農耕一括にイネとコムギが追加されたことを反映しています。これらの作物は前期青銅器時代(3300〜2800年前頃)に朝鮮半島に伝わり、3000年前頃以後には朝鮮半島から日本列島へと伝わりました(図2b)。以下は本論文の図2です。
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 人口移動は単形質的な考古学的文化とはつながりませんが、アジア北東部における新石器時代の農耕拡大は、耕作や収穫や織物の技術の石器など、いくつかの診断的特徴と関連していました。動物の家畜化と酪農は、ユーラシア西部では新石器時代の拡大に重要な役割を果たしましたが、本論文のデータでは、イヌとブタを除いて、青銅器時代前のアジア北東部における動物の家畜化の証拠はほとんどありません。農耕と人口移動との間のつながりは、朝鮮半島と西日本との間の土器や石器や家屋および埋葬建築の類似性からとくに明らかです。

 先行研究をふまえて、本論文では研究対象地域全体の雑穀農耕の導入と関連する人口動態の変化が概観されました。手の込んだ水田に投資した水稲農耕民は一ヶ所に留まる傾向にあり、余剰労働力を通じて人口増加を吸収しましたが、雑穀農民は通常、より拡大的な居住パターンを採用しました。新石器時代の人口密度はアジア北東部全域で上昇しましたが、後期新石器時代には人口が激減しました。その後、青銅器時代には中国と朝鮮半島と日本列島で人口が急激に増加しました。


●遺伝学

 本論文は、アムール川地域と朝鮮半島と九州と沖縄の証明された古代人19個体のゲノム分析を報告し、それをユーラシア東部草原地帯と西遼河地域とアムール川地域と黄河地域と遼東半島と山東半島と極東ロシアのプリモライ地域と日本列島にまたがる、9500〜300年前頃の既知の古代人のゲノムと組み合わせました(図3a)。それらはユーラシア現代人149集団とアジア東部現代人45集団の主成分分析に投影されました。図3bでは、主要な古代人集団が5つの遺伝的構成要素の混合としてモデル化されています。その遺伝的構成要素とは、アムール川流域を表すジャライノール(Jalainur)遺跡個体、黄河地域を表す仰韶(Yangshao)文化個体、「縄文人」を表す六通貝塚個体と、黄河流域個体およびアムール川地域個体のゲノムで構成される西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体と夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体です。

 アムール川地域の現代のツングース語とニヴフ語の話者は緊密なまとまりを形成します(関連記事)。バイカル湖とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯の新石器時代狩猟採集民は、西遼河地域やアムール川地域の農耕民とともに、全てこのまとまりの内部に投影されます。黒竜江省チチハル市の昂昂渓(Xiajiadian)区の後期新石器時代遺跡個体は、高いアムール川地域的な祖先系統を示しますが、西遼河地域雑穀農耕民は、経時的に黄河地域集団のゲノムへと前進的に移行するアムール川地域的な祖先系統(関連記事)のかなりの割合を示します(図3b)。

 西遼河地域の前期新石器時代個体のゲノムは欠けていますが、アムール川地域的な祖先系統は、バイカル湖とアムール川地域とプリモライ地域とユーラシア南東部草原地帯西遼河地域にまたがる、在来の新石器時代よりも前(もしくは後期旧石器時代)の狩猟採集民の元々の遺伝的特性を表している可能性が高そうで、この地域の初期農耕民において継続しています。これは、モンゴルとアムール川地域の古代人のゲノムにおける黄河地域集団の影響の欠如は、トランスユーラシア語族の西遼河地域の遺伝的相関を裏づけない、と結論付けた最近の遺伝学的研究(関連記事)と矛盾しています。以下は本論文の図3です。
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 主成分分析は、モンゴルの新石器時代個体群が高いアムール川地域祖先系統を有し、青銅器時代から中世にかけて増加するユーラシア西部からの広範な遺伝子流動を伴う、という一般的傾向を示します(関連記事)。テュルク語族話者の匈奴と古ウイグルと突厥の個体がひじょうに散在しているのに対して、モンゴル語族話者の鉄器時代の鮮卑の個体は、室韋(Shiwei)や楼蘭(Rouran)やキタイ(契丹)や古代および中世のモンゴルのハン国よりも、アムール川地域のまとまりの方に近くなっています。

 アムール川地域関連祖先系統は、日本語と朝鮮語の話者へとたどれるので、トランスユーラシア語族の全ての話者に共通する元々の遺伝的構成要素だったようです。韓国の古代人ゲノムの分析により、「縄文人」祖先系統が朝鮮半島に6000年前頃までには存在していた、と明らかになりました(図3b)。朝鮮半島の古代人について近位qpAdmモデル化が示唆するのは、前期新石器時代の安島(Ando)遺跡個体(非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃)がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統に由来するのに対して、同じく前期新石器時代の煙台島(Yŏndaedo)遺跡と長項(Changhang)遺跡個体は高い割合の紅山文化集団関連祖先系統と「縄文人」祖先系統の混合としてモデル化できるものの、煙台島遺跡個体の解像度は限定的でしかない、ということです(図3b)。

 朝鮮半島南岸の欲知島(Yokchido)遺跡個体は、ほぼ95%の「縄文人」関連祖先系統を含んでいます。本論文の遺伝学的分析では、朝鮮半島中部西岸に位置するTaejungni遺跡個体(紀元前761〜紀元前541年)のあり得るアジア東部祖先系統を区別できませんが、その年代が青銅器時代であることを考えると、夏家店上層文化関連祖先系統として最もよくモデル化でき、あり得るわずかな「縄文人」祖先系統の混合は統計的に有意ではありません。したがって、現代韓国人への「縄文人」の遺伝的寄与がごくわずかであることに示されるように、新石器時代の朝鮮半島における「縄文人」祖先系統の混成の存在(0〜95%)と、それが時間の経過とともに最終的には消滅した、と観察されます。

 Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素の欠如から、現代韓国人と関連する「縄文人」祖先系統が検出されない初期集団は、稲作農耕との関連で朝鮮半島に移動し、一部の「縄文人」との混合がある集団を置換した、と示唆されますが、限定的な標本規模と網羅率のため、本論文の遺伝データにはこの仮説を検証するだけの解像度はありません。したがって、朝鮮半島への農耕拡大はアムール川地域および黄河地域からの遺伝子流動のさまざまな波と関連づけられ、雑穀農耕の新石器時代の導入は紅山文化集団で、青銅器時代の追加の稲作農耕は夏家店上層文化集団によりモデル化されます。

 本州・四国・九州を中心とする日本列島「本土」について、弥生時代農耕民(ともに弥生時代中期となる、福岡県那珂川市の安徳台遺跡個体と福岡県筑紫野市の隈・西小田遺跡個体)はゲノム分析により、在来の「縄文人」祖先系統と青銅器時代の夏家店上層文化関連祖先系統との混合としてモデル化できます(安徳台遺跡個体の方が「縄文人」構成要素の割合は高くなります)。本論文の結果は、青銅器時代における朝鮮半島から日本列島への大規模な移動を裏づけます。

 沖縄県宮古島市の長墓遺跡の個体群のゲノムは、琉球諸島の古代人のゲノム規模データとしては最初の報告となります。完新世人口集団は台湾から琉球諸島人部に到達した、との以前の知見とは対照的に、本論文の結果は、先史時代の長墓遺跡個体群が北方の縄文文化に由来する、と示唆します。近世以前の縄文時代人的祖先系統から弥生時代人的祖先系統への遺伝的置換は、この地域における農耕と琉球諸語の日本列島「本土」と比較しての遅い到来を反映しています。


●考察

 言語学と考古学と遺伝学の証拠の「三角測量」は、トランスユーラシア語族の起源が雑穀農耕の開始とアジア北東部新石器時代のアムール川地域の遺伝子プールにさかのぼれる、と示します。これらの言語の拡大は主要な2段階を含んでおり、それは農耕と遺伝子の拡散を反映しています(図4)。第一段階はトランスユーラシア語族の主要な分岐により表され、前期〜中期新石器時代にさかのぼります。この時、アムール川地域遺伝子と関連する雑穀農耕民が西遼河地域から隣接地域に拡大しました。第二段階は5つの子孫系統間の言語的接触により表され、後期新石器時代と青銅器時代と鉄器時代にさかのぼります。この時、かなりのアムール川地域祖先系統を有する雑穀農耕民は次第に黄河地域関連集団やユーラシア西部集団や「縄文人」集団と混合し、稲作やユーラシア西部の穀物や牧畜が農耕一括に追加されました。以下は本論文の図4です。
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 時空間および生計パターンをまとめると、3分野間の明確な関連性が見つかります。紀元前七千年紀頃の西遼河地域の雑穀栽培の開始は、かなりのアムール川地域祖先系統と関連し、トランスユーラシア語族話者共同体の祖先と時空間で重なっている可能性があります。8000年前頃と推定されるシナ・チベット語族間の最近の関連性(関連記事)と一致して、本論文の結果から、アジア北東部における雑穀栽培化の二つの中心地を、二つの主要な語族、つまり黄河地域のシナ・チベット語族と西遼河地域のトランスユーラシア語族の起源と関連づけられます。トランスユーラシア語族祖語とその話者の遺伝子における黄河地域の影響の証拠の欠如は、植物考古学で示唆されている雑穀栽培の複数の中心的な起源と一致します。

 紀元前七千年紀〜紀元前五千年紀における雑穀農耕の初期段階には人口増加が伴い、西遼河地域における環境的もしくは社会的に分離された下位集団の形成と、アルタイ諸語と日本語族および朝鮮語族の話者間の接続の切断につながります。紀元前四千年紀半ば頃、これら農耕民の一部が黄海から朝鮮半島へと東方へ、プリモライ地域へと北東へ移動を開始し、西遼河地域から、追加のアムール川地域祖先系統をプリモライ地域に、朝鮮半島へアムール川地域と黄河地域の混合祖先系統をもたらしました。本論文で新たに分析された朝鮮半島古代人のゲノムは、日本列島外で「縄文人」関連祖先系統との混合の存在を証明している点で、注目に値します。

 後期青銅器時代には、ユーラシア草原地帯全域で広範な文化交換が見られ、西遼河地域およびユーラシア東部草原地帯の人口集団のユーラシア西部遺伝系統との混合をもたらしました。言語学的には、この相互作用はモンゴル語族祖語およびテュルク語族祖語話者による農耕牧畜語彙の借用に反映されており、とくにコムギとオオムギの栽培や放牧や酪農やウマの利用と関連しています。

 3300年前頃、遼東半島地域と山東半島地域の農耕民が朝鮮半島へと移動し、雑穀農耕にイネとオオムギとコムギを追加しました。この移動は、本論文の朝鮮半島青銅器時代標本では夏家店上層文化集団としてモデル化される遺伝的構成と一致しており、日本語族と朝鮮語族との間の初期の借用に反映されています。それは考古学的には、夏家店上層文化の物質文化にとくに限定されることなく、より大きな遼東半島地域および山東半島地域の農耕と関連しています。

 紀元前千年紀に、この農耕一括は九州へと伝えられ、本格的な農耕への移行と、縄文時代人祖先系統から弥生時代人祖先系統への置換と、日本語族への言語的移行の契機となりました。琉球諸島南部の宮古島の長墓遺跡の独特な標本の追加により、トランスユーラシア語族世界の端に至る農耕/言語拡散をたどれます。南方の宮古島にまで及ぶ「縄文人」祖先系統が証明され、この結果は台湾からのオーストロネシア語族集団の北方への拡大との以前の仮定と矛盾します。朝鮮半島の欲知島遺跡個体で見られる「縄文人」特性と合わせると、本論文の結果は、「縄文人」のゲノムと物質文化が重なるとは限らないことを示します。したがって、古代DNAからの新たな証拠を進めることにより、本論文は日本人集団と韓国人集団が西遼河地域祖先系統を有する、との最近の研究(関連記事)を確証しますが、トランスユーラシア語族の遺伝的相関はない、と主張するその研究とは矛盾します。

 一部の先行研究は、トランスユーラシア語族地帯は農耕に適した地域を越えているとみなしましたが、本論文で確証されたのは、農耕/言語の拡散仮説は、ユーラシア人口集団の拡散の理解にとって依然として重要なモデルである、ということです。言語学と考古学と遺伝学の「三角測量」は、牧畜仮説と農耕仮説との間の競合を解決し、トランスユーラシア語族話者の初期の拡大は農耕により促進された、と結論づけます。


●私見

 以上、本論文についてざっと見てきました。本論文は、言語学と考古学と遺伝学の学際的研究により、(言語学には疎いので断定できませんが、おそらくその設定自体が議論になりそうな)トランスユーラシア語族の拡大が初期農耕により促進され、牧畜の導入は拡大後のことだった、と示しました。言語学と考古学はもちろんですが、遺伝学というか古代ゲノム研究はとくに、今後急速な発展が期待できるだけに、本論文の見解も今後、どの程度になるは不明ではあるものの、修正されていくことも考えられます。その意味で、本論文の見解が完新世アジア北東部人口史の大きな枠組みになる、とはまだ断定できないように思います。

 本論文には査読前の公表時点から注目していましたが(関連記事)、私にとって大きく変わった点は、紀元前761〜紀元前541年頃となる朝鮮半島中部西岸のTaejungni個体のゲノムのモデル化です。査読前には、Taejungni個体は高い割合の夏家店上層文化集団構成要素と低い割合の「縄文人」構成要素との混合とモデル化され、現代日本人と類似していましたが、本論文では上述のように、Taejungni個体における有意な「縄文人」構成要素は欠如している、と指摘されています。

 Taejungni個体を根拠に、紀元前千年紀半ば以前の朝鮮半島の人類集団のゲノムには一定以上の「縄文人」構成要素が残っており、夏家店上層文化集団と遺伝的に近い集団が朝鮮半島に到来して在来集団と混合し、現代日本人に近い遺伝的構成の集団が紀元前二千年紀末には朝鮮半島で形成され、その後日本列島へと到来した、と想定していましたが、これは見直さねばなりません。査読前論文に安易に依拠してはいけないな、と反省しています。当然、査読論文にも安易に依拠してはなりませんが。ただ、欲知島遺跡個体の事例から、朝鮮半島南端には少なくとも中期新石器時代まで「縄文人」構成要素でゲノムをモデル化できる個体が存在しており、そうした人々とTaejungni個体と遺伝的に近い集団が混合して形成された現代日本人に近い遺伝的構成の集団が、その後で日本列島に到来した可能性もまだ考えられるように思います。

 朝鮮半島南端の新石器時代人のゲノムの「縄文人」構成要素が、日本列島から新石器時代にもたらされたのか、元々朝鮮半島に存在したのか、「縄文人」の形成過程も含めて不明で、今後の古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。しかし、朝鮮半島南端の新石器時代個体のうち、非較正で紀元前6300〜紀元前3000年頃となる安島遺跡個体がほぼ完全に紅山文化集団関連祖先系統でモデル化できることから、朝鮮半島には元々前期新石器時代から遼河地域集団と遺伝的に近い集団が存在し、九州から朝鮮半島への「縄文人」の到来は南部に限定されていた可能性が高いように思います。また、主成分分析で示されるように(捕捉図7)、Taejungni個体が現代韓国人と遺伝的には明確に異なることも確かで、古代ゲノムデータの蓄積を俟たねばなりませんが、朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成が紀元前千年紀半ば以降に大きく変わった可能性は高いように思います。以下は本論文の補足図7です。
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 最近の西日本「縄文人」や古墳時代の人類遺骸のゲノム解析結果(関連記事)から、弥生時代の人類集団の「渡来系」の遺伝的要素は青銅器時代西遼河地域集団に近く、古墳時代になると黄河地域集団の影響が強くなる、と指摘されています。この研究は弥生時代の人類を、「縄文人」構成要素の割合が高い長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体に代表させているところに疑問が残りますが、その2個体よりも現代日本人にずっと近い福岡県の安徳台遺跡個体と隈・西小田遺跡個体も含めての、ユーラシア東部の包括的な古代ゲノム研究ではどのような結果になるのか、今後の研究の進展が期待されます。また、日本列島の「縄文人」は時空間的に広範に遺伝的には均質だった可能性が高いものの(関連記事)、弥生時代と古墳時代に関しては、時空間的に遺伝的違いが大きいこと(関連記事)も考慮する必要があるでしょう。

 長墓遺跡の先史時代個体群が遺伝的には既知の「縄文人」と一まとまりを形成する、との結果は、先史時代の先島諸島には縄文文化の影響がないと言われていただけに、意外な結果です。本論文も指摘するように、朝鮮半島の欲知島遺跡個体の事例からも、遺伝的な「縄文人」と縄文文化とを直結させることはできなくなりました。もっとも、これは物質文化のことで、言語も含めて精神文化では高い共通性があった、と想定できなくもありませんが、これに反証することはできないとしても、証明することもできず、可能性は高くないように思います。遺伝的な「縄文人」は多様な文化を築き、おそらく縄文時代晩期に北海道の(一部)集団で話されていただろうアイヌ語祖語は、同時代の西日本はもちろん関東の言語ともすでに大きく異なっていたかもしれません。「縄文人」と現代日本人の形成過程にはまだ未解明のところが多く、今後の古代ゲノム研究の進展によりじょじょに解明されていくのではないか、と期待しています。以下は『ネイチャー』の日本語サイトからの引用です。


言語学:トランスユーラシア語族のルーツは農業にあった

 トランスユーラシア語族(日本語、韓国語、ツングース語、モンゴル語、チュルク語からなる)は、約9000年前の中国に起源があり、その普及は農業によって促進された可能性があることを明らかにした論文が、Nature に掲載される。今回の研究は、東ユーラシア言語史における重要な時期について解明を進める上で役立つ。

 トランスユーラシア語族は、東は日本、韓国、シベリアから西はトルコに至るユーラシア大陸全域に広範に分布しているが、この語族の起源と普及については、人口の分散、農業の拡大、言語の分散のそれぞれが議論を複雑化させ、激しい論争になっている。

 今回、Martine Robbeetsたちは、3つの研究分野(歴史言語学、古代DNA研究、考古学)を結集して、トランスユーラシア語族の言語が約9000年前の中国北東部の遼河流域の初期のキビ農家まで辿れることを明らかにした。その後、農民たちが北東アジア全体に移動するにつれて、これらの言語は、北西方向にはシベリアとステップ地域へ、東方向には韓国と日本へ広がったと考えられる。

 トランスユーラシア語族に関しては、もっと最近の紀元前2000〜1000年ごろを起源とし、東部のステップから移動してきた遊牧民が分散を主導したとする「遊牧民仮説」が提唱されているが、今回の知見は、この仮説に疑問を投げ掛けている。


参考文献:
Robbeets M. et al.(2021): Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages. Nature.
https://doi.org/10.1038/s41586-021-04108-8


https://sicambre.at.webry.info/202111/article_12.html

303. 中川隆[-13628] koaQ7Jey 2022年2月26日 12:47:56 : 7284w1h2Yo : ZEVCUFByRTFDb28=[13] 報告

2022年02月26日
設楽博己『縄文vs.弥生 先史時代を九つの視点で比較する』
https://sicambre.at.webry.info/202202/article_26.html

https://www.amazon.co.jp/%E7%B8%84%E6%96%87vs-%E5%BC%A5%E7%94%9F-%E2%80%95%E2%80%95%E5%85%88%E5%8F%B2%E6%99%82%E4%BB%A3%E3%82%92%E4%B9%9D%E3%81%A4%E3%81%AE%E8%A6%96%E7%82%B9%E3%81%A7%E6%AF%94%E8%BC%83%E3%81%99%E3%82%8B-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%A8%AD%E6%A5%BD-%E5%8D%9A%E5%B7%B1/dp/4480074511


 ちくま新書の一冊として、筑摩書房より2022年1月に刊行されました。電子書籍での購入です。本書は縄文時代と弥生時代とを、生業や社会や精神文化の観点から比較し、単に両者の違いだけではなく、縄文時代から弥生時代へと継承されたものについても言及しています。時代区分は、縄文時代については、草創期15000年前頃以降、早期が11300年前頃以降、前期が7000年前頃以降、中期が5400年前頃以降、後期が4500年前頃以降、晩期が3200年前頃以降で、弥生時代については、早期(九州北部地方)が紀元前9世紀以降、前期(九州北部地方)が紀元前8世紀以降、前期(近畿地方)が紀元前7世紀〜紀元前6世紀以降、前期(伊勢湾地方)が紀元前6世紀へ紀元前5世紀以降、前期(東日本)が紀元前5世紀〜紀元前4世紀以降、中期が紀元前4世紀以降、後期が紀元後1世紀以降となります。


●生業

 縄文時代の農耕の可能性は古くから指摘され、一時は有力とも考えられていましたが、その後の再分析により現在では、イネやアワやキビなどユーラシア東部大陸系穀物の確実な痕跡は、日本列島では縄文時代晩期終末をさかのぼらない、との見解が有力になっています。また縄文農耕櫓では、イネに先立って雑穀が栽培されていたと考えられていましたが、両者はほぼ同時に日本列島に出現することも明らかになってきました。弥生時代の農耕については、かつて発展段階論的に考えられており、水田稲作は粗放で生産性の低い湿田での直播から始まり、灌漑により半乾田での耕作という生産性の高い段階に達した、というわけです。しかし、福岡市の板付遺跡での発掘調査により、最初期の水田は台地の縁にあり、すでに灌漑水利体系という高度な技術を備えた完成されたものだった、と明らかになりました。このように、本格的な穀物栽培は弥生時代に始まりましたが、縄文時代にも、ヒョウタンやウリやアサやゴボウやエゴマやダイズなど、植物栽培はありました。ただ本書は、縄文時代を通じた植物栽培の特徴として、嗜好品的な性格を指摘します。また本書は、縄文時代の食料資源利用技術について、弥生時代と比較して劣っていると単純に言えるわけではない、と強調します。

 本書は縄文時代の栽培も「農耕」と呼び、縄文時代と弥生時代の農耕の質的差を指摘します。それは、縄文時代には農耕が生業のごく一部にすぎず、さまざまな生活道具が農耕用に特化しているわけではないのに対して、弥生時代の農耕は、地域的多様性があるものの、道具と儀礼は農耕用に特化している、ということです。文化要素の多くが農耕に収斂しているか否かが、縄文時代と弥生時代の違いというわけです。弥生時代の農耕について本書は、少ない種類の資源を集中的に開発・利用する選別型と、多くの資源を開発・利用する網羅型に二分しています。縄文時代の生業は基本的に網羅型なので、弥生時代の網羅型生業は縄文時代に由来しますが、ユーラシア東部大陸部の生業は、華南が選別型で華北は網羅型となり、これが朝鮮半島経由で日本列島にもたらされた可能性を、本書は指摘します。

 漁撈については、縄文時から弥生時代にかけての継承の側面とともに、環濠や水田の開発により形成された内水面環境で行なわれていた新要素もあった、と指摘されています。また、貝の腕輪など九州と南西諸島との交易の証拠から、広域的な活動範囲の海人集団の活動も推測されており、本書は、農耕集団の求めに応じての大陸との交通活発化にその要因がある、と指摘しています。狩猟民についても、農耕集団との相互依存関係が指摘されていますが、狩猟民は海人集団のように有力な政治的勢力になっていったわけではなさそうです。


●社会問題

 縄文時代には通過儀礼として耳飾りや抜歯や刺青がありました。耳飾りの付け替えの風習は縄文時代のうちに終了しましたが、抜歯と刺青は弥生時代に継承されました。耳飾りには複数の種類があり、集団間の違いとともに、集団内の地位の違いも示していたようです。抜歯は弥生時代まで継承されたものの、たとえば東海系の抜歯は弥生時代中期中葉に水田稲作とそれに付随する文化の到来とともに、急速に失われていったようです。また抜歯には、大陸系と縄文系の違いもあったようです。刺青については、人類遺骸での判断がきわめて困難なので、文献にも依拠しなければなりませんが、複雑だった縄文時代晩期終末の刺青が弥生時代中期以降に衰退し、紀元後3世紀に再度複雑化するというように、単純な経過ではなかったことが示唆されます。

 祖先祭祀については、縄文時代に定住が進み、竪穴住居の内側や貝塚から埋葬遺骸がよく出土するように、生者と死者の共住により芽生えていったのではないか、と推測されています。定住生活の進展により、資源領域の固定化と、資源の確保や継承をめぐる取り決めが厳しくなっていっただろうことも、祖先祭祀が必要とされた要因と考えられます。縄文時代中期には集落が大型化していき、何代にもわたって同じ場所に居住し続け、集落内部の埋葬小群は代々の家系を示しているのではないか、と推測されています。弥生時代には、縄文時代の伝統を継承しつつも、祖先祭祀のための大型建物が軸線上にあることなど、大陸由来の要素が見られるようになります。

 まとめると、縄文時代は複雑採集狩猟民社会で、定住化が進み、生活技術が高度化したものの、ユーラシア南西部や東部とは異なり、本格的な農耕社会には移行しませんでした。また縄文時代でも、西日本の集落が東日本と比較して小規模傾向であるように、東西の違いは大きかったようです。これについては、落葉広葉樹林帯の多い東日本と照葉樹林帯の多い西日本との違いも影響していますが、東日本は西日本と比較して資源の種類数が少ないため、集約的労働が必要となり、集落規模が大きくなる傾向にあった、とも指摘されています。階層化、つまり不平等は、副葬品の分析などにより、縄文時代にある程度進行していたことが窺えます。弥生時代の階層化の進展は、戦争の発生および大陸との交流増加に起因するところが大きかったようです。本書は縄文時代から弥生時代にかけて、階層構造がヘテラルキー(多頭)社会からヒエラルキー(寡頭)社会へと変わっていき、その最初の画期は弥生時代中期初頭だった、と指摘します。


●文化

 縄文時代の基本的な男女の単位は夫婦と考えられますが、生産単位では性別分業が進行していたようです。弥生時代になると、男女一対の偶像の出現かからも、農耕では他地域と同様に男女共業傾向が強かった、と示唆されます。芸術的側面では、縄文時代の動物の造形が立体的だったのに対して、弥生時代には平板になった、と指摘されています。これについては、森という立体的空間からさまざまな資源を得ていた縄文時代の網羅型生業体系から、大陸の影響を受けた弥生時代の農耕社会への移行が背景にあるのではないか、と指摘されています。

 土器については、弥生時代になって朝鮮半島の無文土器の影響を強く受けるようになったものの、近畿地方では前期のあっさりした文様が、前期後半から中期にかけて文様帯の拡張へと変わるように、一様ではなかったことと共に、弥生土器の形成に縄文土器が役割を果たしていたことも指摘されています。土器の伝播は、縄文時代から弥生時代への移行期において、九州北部から東方への伝播だけではなく、東日本から西日本への伝播もあった、というわけです。弥生時代以降の日本史を、大陸に近い西日本から東日本への単純な文化伝播として考えてはならないのでしょう。

 本書は弥生時代の多様性を強調し、農耕体系にしても、おもにイネを栽培対象として、灌漑による水田栽培を行なう遠賀川文化に代表されるものと、中部地方高地や広東地方の条痕文系文化に代表される、雑穀(アワやキビ)を主要な栽培対象として、畠で農耕を行なうものとでは、農具などの道具も違ってくる、と指摘します。後者は、縄文時代にも見られた複合的な網羅型生業体系で、前者と比較して縄文文化的要素が強くなっています。両者の境界は三河地方あたりで、これは縄文時代晩期の東西の文化の違いを反映しているのではないか、と本書は推測します。縄文時代晩期の東日本が複雑採集狩猟民なのに対して、西日本はそうではありませんでした。縄文時代から弥生時代への移行については、近年飛躍的に進展している古代DNA研究(関連記事1および関連記事2)が大きく貢献できるのではないか、と期待されます。


参考文献:
設楽博己(2022)『縄文vs.弥生 先史時代を九つの視点で比較する』(筑摩書房)

https://sicambre.at.webry.info/202202/article_26.html

304. 2022年8月20日 19:57:02 : 1mt0LFVf3c : aG40M0haaC9KbGs=[1] 報告
日本語のルーツは9000年前の西遼河流域の黍(キビ)農耕民に!
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14019324

金平譲司 日本語の意外な歴史
https://a777777.bbs.fc2.com/?act=reply&tid=14020106


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日本語の原郷は9000年前の「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表
2021-11-13
https://ameblo.jp/yuutunarutouha/entry-12710029028.html

日本語の原郷は「中国東北部の農耕民」 国際研究チームが発表
Yahoo news 2021/11/13(土) 毎日新聞

(いちご有力説でいえば、3000年前、日本に水田稲作をもたらしたのは、青銅器文化を持った中国南方の米作民族で、朝鮮半島の米作は入ってこなかったとされているので、新説だ。天皇家の先祖は、殷の王族末裔の箕子朝鮮の流れを汲み、紀元1世紀初めに半島から松浦半島に到来した。天皇家を含む天孫族は、それ以前にも渡ってきており、それが今回の原日本語族となった可能性がある。縄文語も弥生語もアジアの北から南から重層的に入ってきている。9000年前の「中国東北部の農耕民」が現在の中国人と違う可能性はもちろんある。)


https://ameblo.jp/yuutunarutouha/image-12710029028-15031004815.html


日本語の元となる言語を最初に話したのは、約9000年前に中国東北地方の西遼河(せいりょうが)流域に住んでいたキビ・アワ栽培の農耕民だったと、ドイツなどの国際研究チームが発表した。10日(日本時間11日)の英科学誌ネイチャーに掲載された。


日本語(琉球語を含む)、韓国語、モンゴル語、ツングース語、トルコ語などユーラシア大陸に広範に広がるトランスユーラシア語の起源と拡散はアジア先史学で大きな論争になっている。今回の発表は、その起源を解明するとともに、この言語の拡散を農耕が担っていたとする画期的新説として注目される。

 研究チームはドイツのマックス・プランク人類史科学研究所を中心に、日本、中国、韓国、ロシア、米国などの言語学者、考古学者、人類学(遺伝学)者で構成。98言語の農業に関連した語彙(ごい)や古人骨のDNA解析、考古学のデータベースという各学問分野の膨大な資料を組み合わせることにより、従来なかった精度と信頼度でトランスユーラシア言語の共通の祖先の居住地や分散ルート、時期を分析した。

 その結果、この共通の祖先は約9000年前(日本列島は縄文時代早期)、中国東北部、瀋陽の北方を流れる西遼河流域に住んでいたキビ・アワ農耕民と判明。その後、数千年かけて北方や東方のアムール地方や沿海州、南方の中国・遼東半島や朝鮮半島など周辺に移住し、農耕の普及とともに言語も拡散した。朝鮮半島では農作物にイネとムギも加わった。日本列島へは約3000年前、「日琉(にちりゅう)語族」として、水田稲作農耕を伴って朝鮮半島から九州北部に到達したと結論づけた。

 研究チームの一人、同研究所のマーク・ハドソン博士(考古学)によると、日本列島では、新たに入ってきた言語が先住者である縄文人の言語に置き換わり、古い言語はアイヌ語となって孤立して残ったという。

 一方、沖縄は本土とは異なるユニークな経緯をたどったようだ。沖縄県・宮古島の長墓遺跡から出土した人骨の分析などの結果、11世紀ごろに始まるグスク時代に九州から多くの本土日本人が農耕と琉球語を持って移住し、それ以前の言語と置き換わったと推定できるという。

 このほか、縄文人と共通のDNAを持つ人骨が朝鮮半島で見つかるといった成果もあり、今回の研究は多方面から日本列島文化の成立史に影響を与えそうだ。

 共著者の一人で、農耕の伝播(でんぱ)に詳しい高宮広土・鹿児島大教授(先史人類学)は「中国の東北地域からユーラシアの各地域に農耕が広がり、元々の日本語を話している人たちも農耕を伴って九州に入ってきたと、今回示された。国際的で学際的なメンバーがそろっている研究で、言語、考古、遺伝学ともに同じ方向を向く結果になった。かなりしっかりしたデータが得られていると思う」と話す。

 研究チームのリーダーでマックス・プランク人類史科学研究所のマーティン・ロッベエツ教授(言語学)は「自分の言語や文化のルーツが現在の国境を越えていることを受け入れるには、ある種のアイデンティティーの方向転換が必要になるかもしれない。それは必ずしも簡単なステップではない」としながら、「人類史の科学は、すべての言語、文化、および人々の歴史に長期間の相互作用と混合があったことを示している」と、幅広い視野から研究の現代的意義を語っている。【伊藤和史】


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韓国語の起源は9000年前、中国北東部・遼河の農耕民
Yahoo news 2021/11/13(土) 朝鮮日報日本語版

https://ameblo.jp/yuutunarutouha/image-12710029028-15031005547.html


韓国語がチュルク語・モンゴル語・日本語と共に9000年前の新石器時代、中国東北部で暮らしていた農耕民から始まったことが明らかになった。これまでは、それよりはるか後に中央アジア遊牧民が全世界に移住して同様の体系を持つ言語が広がったと言われていた。

ドイツのマックス・プランク人類史科学研究所のマーティン・ロベーツ博士研究陣は「言語学と考古学、遺伝学の研究結果を総合分析した結果、ヨーロッパから東アジアに至るトランスユーラシア語族が新石器時代に中国・遼河一帯でキビを栽培していた農耕民たちの移住の結果であることを確認した」と11日、国際学術誌「ネイチャー」で発表した。


■母音調和・文章構造が似ているトランスユーラシア語

 今回の研究にはドイツと韓国・米国・中国・日本・ロシアなど10カ国の国語学者、考古学者、遺伝生物学者41人が参加し、韓国外国語大学のイ・ソンハ教授とアン・ギュドン博士、東亜大学のキム・ジェヒョン教授、ソウル大学のマシュー・コンテ研究員ら韓国国内の研究陣も論文に共著者として記載されている。

 トランスユーラシア語族はアルタイ語族とも呼ばれ、西方のチュルク語、中央アジアのモンゴル語、シベリアのツングース語、東アジアの韓国語と日本語からなる。汁などが煮え立つ時の擬声語・擬態語である「ポグルポグル(ぐつぐつ)、プグルプグル(ぐらぐら)」のように前の音節の母音と後ろの音節の母音が同じ種類同士になる「母音調和」がある点や、「私はご飯を食べる」のように主語、目的語、述語の順に文が成り立っている点、「きれいな花」のように修飾語が前にくる点も共通の特徴だ。

 トランスユーラシア語族はユーラシア大陸を横断する膨大な言語集団であるにもかかわらず、起源や広まった過程が不明確で、学界で論争の対象となっていた。ロベーツ博士の研究陣は古代の農業と畜産に関連する語彙(ごい)を分析する一方、この地域の新石器・青銅器が出ると見られる遺跡255カ所の考古学研究結果や、韓国と日本で暮らしていた初期農耕民の遺伝子分析結果まで比較した。

 研究陣があらゆる情報を総合分析した結果、約9000年前に中国・遼河地域でキビを栽培していたトランスユーラシア祖先言語の使用者たちが新石器初期から北東アジア地域を横断するように移動したことを確認した、と明らかにした。

■新石器時代の韓国人と日本人の遺伝子が一致

 今回の「農耕民仮説」によると、トランスユーラシア祖先言語は北方と西方ではシベリアと中央アジアの草原地帯に広がり、東方では韓国と日本に至った。これは3000−4000年前、東部草原地帯から出た遊牧民が移住し、トランスユーラシア語が広がったという「遊牧民仮説」を覆す結果だ。

 ロベーツ博士は「現在の国境を越える言語と文化の起源を受け入れれば、アイデンティティーを再確立できる」「人類史の科学は言語と文化、人間の歴史が相互作用と混合の拡張の1つであることを示している」と述べた。

 韓国外国語大学のイ・ソンハ教授は「各分野の研究結果を立体的に総合分析し、トランスユーラシア語が牧畜ではなく農業の拡大による結果であることを立証したという点で注目すべき成果だ」「韓国の(慶尚南道統営市)欲知島の遺跡で出土した古代人のデオキシリボ核酸(DNA)分析により、中期新石器時代の韓国人の祖先の遺伝子が日本の先住民である縄文人と95%一致するという事実も初めて確認した」と語った。

李永完(イ・ヨンワン)科学専門記者
https://ameblo.jp/yuutunarutouha/entry-12710029028.html


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日本語のルーツは9000年前の西遼河流域の黍(キビ)農耕民に!
2021年11月14日
https://note.com/way_finding/n/n8cbcfaae3dfa

Natureに日本語のルーツについての新しい研究成果が発表されたと言うことで、さっそく読んでみる。

こちらの論文、"Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages(トランスユーラシア語族のルーツは農業にあった)"である。

Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages - Nature
A ‘triangulation’ approach combining linguistics, archaeology
www.nature.com
トランスユーラシア語族というのは聞きなれない言葉かもしれないが、トルコ語、モンゴル語、ツングース語、韓国語、そして日本語の共通のルーツにあたると推定される言語のグループである。

これまでの研究では、トランスユーラシア語族については「紀元前2000〜1000年ごろを起源とし、東部のステップから移動してきた遊牧民が分散を主導した」という説が支持を集めていたという(これを「遊牧民仮説」という)。

これに対して今回の研究成果では、遊牧民仮説に異を唱え、紀元前9000年ごろまで遡る西遼河周辺地域の農耕民(キビ農耕民)こそがトランスユーラシア語を話す最初の人々であったと推定する。なお、西遼河というのは今の中国の東北部を流れる大河であり、キビというのはあの穀物の黍である。

せっかくなので、"Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages"を読んでみよう。DeepLを使えば訳文も一瞬で取得できるので活用させていただく。

トランスユーラシア語族は紀元前2000年の牧畜民?それとも、紀元前9000年の農耕民?
Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages - Nature
A ‘triangulation’ approach combining linguistics, archaeology
www.nature.com
まずAbstractから読んでみる。(Abstractというのは学術論文の概要をまとめたもので、その論文が新たに得た知見が先行研究の知見とどう違うのか、その新たな知見を得るためにどういうデータや資料をどのような方法で分析したのかが書かれている)

この論文が示す新たな知見は次の通りである。

従来の「牧畜民仮説」に疑問を投げかけ、トランスユーラシア言語の共通の祖先と主要な分散は、新石器時代初期以降に北東アジアを移動した最初の農民にまで遡ることができるが、この共通の遺産は青銅器時代以降の広範な文化交流によって隠されていることを示している。

トランスユーラシア語族のルーツについては、従来の説では紀元前2000〜1000年ごろに「東部のステップから移動してきた遊牧民」と考えられていたが、この論文はここに「疑問を投げかけ」るのである。そしてこの説に代わってトランスユーラシア語族のルーツが紀元前9000年ごろの西遼のキビ農耕民にあることを諸々のデータから立証する。

ところでこの新説、なぜ今までは「紀元前2000年ごろの遊牧民の移動」説に比べて、もっともらしさで見劣りしていたのだろうか?

それは即ち、紀元前9000年ごろの西遼のキビ農耕民の姿は、その後の時代の「青銅器時代以降の広範な文化交流によって隠され」たからである。

隠されていたとはどいうことだろうか?

それはすなわち、紀元前9000年ごろの西遼のキビ農耕民から単純なツリー状にトルコ語、モンゴル語、ツングース語、韓国語、日本語を話すグループが分岐した訳ではないからである。単純なツリー状というのは要するに、いったん幹から分かれた枝が、その後もう二度と幹や他の枝と再び一つになることなく、永遠に独立したまま伸びていく、というイメージである。

画像3
図で描くとこのような具合であるが、現実はこんなに単純ではない。「青銅器時代以降の広範な文化交流」とあるように、一度別れた枝はまた幹に繋がるし、別々の枝同士も絡まり合い、その絡まり合った後からまだ新たな分岐が生じ、その分岐がさらに他の枝たちの絡まり合いに絡まり合い、という具合に縺れた網目状になるのである。絡まり縺れた網、毛玉のイメージである。

画像4
この縺れあいの中で幹はいつしか細くなり、ほとんど見えなくなってしまう。しかもここにより太い別の「幹」から分かれてきた他所の枝まで混じり合う。

この辺りの話については、デイヴィッド・ライク氏の『交雑する人類』が詳しいのでご参考にどうぞ。


交雑する人類―古代DNAが解き明かす新サピエンス史
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現代の私たちが直接観察できる言語の話者たちの集団は、一本のツリーの純粋な枝ではなく、特に濃密にきつく絡み合った網ないし毛玉の部分である。この現存する毛玉から、ルーツの残影を復元するのはとんでもなく大変なことである。

この大変な縺れを解きほぐしたのが言語学と考古学と遺伝学を統合した「トライアンギュレーション」というアプローチである。

言語の系統樹の分岐と生業
言語学と考古学(農耕遺跡の分析)の重ね合わせから、次のような知見が得られるという。

まず言語である。

ベイズ法を用いてトランスユーラシア諸語の年代順の系統樹を推定した。その結果、トランスユーラシア語族のルーツである原始トランスユーラシア語は9181 BP (5595-12793 95% highest probability density (95% HPD))、トルコ語、モンゴル語、ツングース語が統合された原始アルタイ語は6811 BP (4404-10166 95% HPD)、モンゴル語-ツングース語は4491 BP (2599-6373 95% HPD)、日本語-韓国語は5458 BP (3335-8024 95% HPD)という時間的な深さが示された(Fig. 1b).

ベイス法というのはデータを分類する手法である。この論文が採用したデータからは日本語、韓国語、ツングース語、モンゴル語、トルコ語の共通のルーツである原始トランスユーラシア語が喋られていたのは今からおよそ9000年ほど前にまで遡る可能性が浮かび上がるという。

下記に図を引用する。参照元は次のページである。

Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages - Nature
A ‘triangulation’ approach combining linguistics, archaeology
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画像1
図の上のaは現代の言語の分布である。緑はトルコ語、黄色がモンゴル語、青がツングース語、紫が韓国朝鮮語で、赤が日本語である。

そして図の下の方bが、トルコ語、モンゴル語、ツングース語、韓国朝鮮語、日本語が、共通のルーツとなる言語(トランスユーラシア語)から分岐していく様子を表している。

まず3が「原始(プロト)トランスユーラシア語」。これは図の中で3の赤が示す通り、西遼河の流域で今から9000年前ごろに話されていたと推定される言語である。

ここから、4「プロトモンゴル-ツングース語」を話すグループと、5「プロト日本語-韓国語」を話すグループが分かれつつ、東西へ、南へと広がって行ったのである。

ここで、なぜトランスユーラシア語を話した人々がキビ農耕民だと推定されるかというと、トルコ語、モンゴル語、ツングース語、韓国朝鮮語、日本語では農耕に関する言葉、食品の生産と保存に関する言葉、定住を示唆する野生の木の実を表す言葉、織布に関する言葉、家畜に関する言葉に、共通の祖語が推定されるのである。

復元された原語の語彙の中で明らかになった農耕民族的な単語を調べる質的分析(補足データ5)により、特定の地域で特定の時期に行われた祖先の言語コミュニティの文化的診断となる項目をさらに特定した。新石器時代に分離した共通の祖語(原トランスユーラシア語、原アルタイ語、原モンゴロ・ツングース語、原日本・朝鮮語など)には、耕作に関連する言葉(「field」、「sow」、「plant」、「growth」、「cultivate」、「spade」)や、米やその他の作物ではなく粟(「millet seed」、「millet gruel」、「barnyard millet」)などの小さな核が反映されている。食品の生産と保存(「発酵させる」「すり潰す」「粉にする」「醸造する」)、定住を示唆する野生食品(「くるみ」「どんぐり」「栗」)、織物の生産(「縫う」「布を織る」「織機で織る」「紡ぐ」「布を切る」「苧麻」「麻」)、そして唯一の家畜として豚と犬が挙げられる。

トルコ語、モンゴル語、ツングース語、韓国朝鮮語、日本語の共通の祖語にまで遡れる時点、つまり9000年前の時点で、既にキビの畑作に関する言葉が用いられていたということは、つまりトランスユーラシア語族の共通祖先は農耕民であったことを示しているといえる。

次に考古学である。

キビの栽培の痕跡に注目すると、ちょうど今から9000年前ごろ、現在の中国東北部の西遼盆地ではキビの栽培が始まっていた。このキビ農耕の文化は5500年前ごろには朝鮮半島に達しており、5000年前ごろにはアムール河流域からロシアの沿海地方にも広まっていた。

4000年前ごろになって、このキビから始まった農耕文化に南方から稲作や小麦の栽培が加わった。西遼のキビ農耕民の文化と、南方の黄河の小麦や長江の稲作農耕文化とが、遼東半島や山東半島のあたりで出会ったらしい。

青銅器時代前期(今から3300年前ごろ)には、キビ農耕に稲作や小麦をも取り込んだ西遼の複合文化が朝鮮半島まで伝わる。

そして今から3000年前ごろになって朝鮮半島から日本に伝わったのである。

ある言語を話す集団がある植物を栽培化したとして、永遠にその作物だけを育て続ける訳ではない。作物と技術は、言語のグループを超えて伝承する。

* *

こちらも図を引用してみよう。参照元は下記のページである。

Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages - Nature
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画像2
図中、赤い矢印は、今から7000年前〜5000年前ごろの新石器時代のアムール族キビ農耕民の東への移動を示す。

また、緑の矢印は今から3500年前〜2900年前ごろの新石器時代後期から青銅器時代にかけて、アムール族キビ農耕民が南方の稲作を取り入れつつ、朝鮮半島へ、さらには日本列島へと移動したことを示す。

対馬海峡の部分に描かれている2900年前という年代は、九州北部で稲作農耕が始まる頃である。

*この辺りの詳細については藤尾慎一郎氏による講談社現代新書『弥生時代の歴史』が参考になる。


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今日の日本語に連なる言語を話していた人々は、今から3000年前ごろに日本列島に到着したのであるが、その時点で言語に関してはトランスユーラシア語族に遡ることができる言語を話し、農耕の技術に関しては9000年前にまで遡るキビ農耕文化由来の要素と、南方起源の稲作文化の要素が複合した文化を携えていたという事になる。

水田を営む稲作農耕を営む人々は、定住性を高め、労働力を集約できるように一箇所に集まって生活し、地域の人口密度を高める傾向にある。一方、キビ農耕民はどちらかといえば居住エリアを広げていく傾向にあったという。

* *

ところで、キビ農耕文化に南方から稲作や小麦の栽培が加わった「4000年前ごろ」といえば、ちょうど「殷」の始まりの頃である。

後に殷と呼ばれることになる王朝を開いた人々は、もともと、おそらく今のモンゴルや遼河流域、ちょうど今でキビや粟を栽培していた人々であると推定されている。それが南に移動し後に、それこそ山東あたりで稲作の文化も取り込みつつ勢力を拡大し、後に「夏」にとってかわった、と考えられる。

上の図の緑の矢印の出発地点、ちょうど赤く塗られたエリアと、緑に塗られたエリアが重なるところであるが、「殷」の発祥の地もまさにこの辺りと推定されることが興味深い。

もともとキビ農耕民だった後の殷の人々が、稲作を取り込んだことによってまさに定住性、集住性を高め、王朝まで建立するに至ったと推定することもできる。

ところで、殷の文化と、その殷を滅ぼした周の文化とでは、大きな違いがあるということを、かの白川静氏が語っている。

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周の文化は今日に連なる中国の文明の直接の祖であって、「合理的」で「鬼神を語らず」の傾向がある。

それに対して殷の文化は「広くいえばシャーマニズム的なものが非常に濃厚」であると白川氏はいう。また殷には「文身(刺青)」の習慣のように、のちの中国では失われながら、いわゆる魏志倭人伝に登場する倭人の習俗には伝わる要素が含まれているという。

こうした点から白川氏は、『詩経』と『万葉』、古の日本と中国の古層との間に、「両者が共通して持っているような原体験の世界というものが見えてくるのではないか」と論ている(『呪の思想』p.21)。

今回の言語の系統樹の研究に依れば、殷の人々と、今から3000年前くらいに朝鮮半島から日本列島へと渡ってくることになる稲作農耕民とは、遡ること4000年ほどには同じ文化の人々であった可能性も高くなる。

もちろん、この場合の「同じ」というのも、孤立した単一の塊という意味合いではなく、すでに遡ること遥か9000年前ごろから、そしてもちろんそれよりもはるかに古い時代から複雑に絡み合い続けた動的な網の目の、一つの結び目というくらいの意味である。


* *

同じ言語的ルーツを持つグループでも、生業が変われば暮らし方も変わるし、人間の集まり方、関わり方なども大きく異なってくる。

そして何より、新たに接触した異言語を話す人々から一連の単語を借り、言語を変化させていくのである。

青銅器時代に分離したテュルク系、モンゴル系、ツングース系、朝鮮系、日本系の各亜族は、米・麦・大麦の栽培、酪農、牛・羊・馬などの家畜、農具や台所道具、絹などの織物に関連する生活用語を新たに挿入している。これらの単語は、様々なトランスユーラシア語や非トランスユーラシア語を話す青銅器時代の人々の間の言語的な相互作用から生まれた借用である。

古いにしえからの言い方を受け継ぎつつも変化し、変化しながらも古からの要素を残す。言語は同一性を反復しつつ差異化し、差異化しつつ反復するオートポイエシスのシステムともいえる。

まとめ
このとてもエキサイティングな論文"Triangulation supports agricultural spread of the Transeurasian languages(トランスユーラシア語族のルーツは農業にあった)"のまとめをあらためて参照しよう。

「トランスユーラシアの言語の起源は、新石器時代の北東アジアでアワの栽培を始めた人々(初期アムール人)にまで遡ることができる」

「新石器時代の初期から中期にかけて、"初期アムール人"の遺伝子を持つキビ農耕民が西遼河から周辺地域に広がる」

「新石器時代後期、青銅器時代、鉄器時代を通じてアムール人を祖先に持つキビ農耕民は、黄河、西ユーラシア、縄文の人々と各地で徐々に混血しつつ、生業にも稲作や、西ユーラシアの作物、そして牧畜を加えていった。」

この辺りの研究は今後もさらに進んでいくことだろう。

なんといっても、農耕という作物との関係で、定住なり、集団生活なりといった人間同士の関係の取り方が浮かび上がり、そうした中で、ある特定の言葉が繰り返し使われる頻度が相対的に高まり、そこが強力な伝搬の中心のようなものになってなって行ったという説は面白い。

◇ ◇

こうした研究成果は、あれやこれやの純粋性とか本質といったことが素朴に実在するだろうとする確信を揺るがせる点で、まさに科学の真骨頂といえるものだと思うのであります。

そしてそして、井筒俊彦氏が書いているような、今日現在の私たち一人ひとりにもまさに「憑依」している「言語的意味分節のカルマ」としての阿頼耶識が、そのごく細く小さな部分を、9000年も前に西遼河で暮らした人々から連綿と変容しつつ伝承されている何かの残滓だということも、大変なことであると思うのです。

https://note.com/way_finding/n/n8cbcfaae3dfa

305. 保守や右翼には馬鹿し[218] lduO54LiiUWXg4LJgs2Ubo6tgrU 2023年6月10日 18:28:43 : c1nXr8h1zq : bkNRM0hZOFlub1E=[9] 報告
<■702行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
雑記帳
2023年06月07日
考古学的観点からの日本語と朝鮮語の起源
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_7.html

 考古学的観点から日本語と朝鮮語の起源を検証した研究(Miyamoto., 2022)が公表されました。本論文は考古学的観点から、アジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大の様相を検証しています。本論文は、日本語祖語と朝鮮語祖語の起源はマンチュリア(満洲)南部にあり、朝鮮半島には朝鮮語祖語よりも日本語祖語の方が早く流入し、その後で朝鮮半島に流入した朝鮮語祖語が日本語祖語をじょじょに駆逐し、一方で日本語祖語は弥生時代早期に日本列島に流入し、「縄文語」をじょじょに駆逐した、と推測しています。この記事では今後の参照のため、当ブログで取り上げていない本論文の引用文献も最後に記載します。「日本語」と「日琉語族」を適切に訳し分けた自信はないので、混乱があるかもしれませんが、本論文の趣旨からすると、まだ日本語と琉球諸語が分岐する前を主要な対象としているので、「日琉語族」と訳すべきところが多いかもしれません。また、考古学用語については、定訳があるのに変な訳語になっているものも少なくないかもしれません。近年の古代ゲノム研究と本論文の知見を合わせて、そのうちアジア東部の古代史をまとめよう、と考えています。以下、敬称は省略します。


●要約

 言語学的観点から、日本語祖語と朝鮮語祖語は、マンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分かれた、と想定されています。年代順では日本語祖語が朝鮮語祖語よりも先に到来した、という言語学的見解が意味するのは、日本語祖語がまず朝鮮半島に入り、そこから紀元前9世紀頃となる弥生時代早期に日本列島へと拡大した一方で、朝鮮半島南部における朝鮮語祖語の到来は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化と関連している、ということです。同じ土器製作技術を共有する偏堡(Pianpu)文化と無文(Mumun)文化と弥生文化の系譜は、日本語祖語の拡大を示唆します。

 一方、移民が遼東半島から朝鮮半島へと移動し、粘土帯土器文化を確立しました。この人口移動は恐らく、燕(Yan)国が東方へ領土を拡大する中での、社会および政治的理由に起因しました。粘土帯土器文化の朝鮮語祖語は後に朝鮮半島へと拡大し、次第に日本語祖語を追い払っていき、朝鮮語の前身となりました。本論文では、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を検証し、とくに土器様式と土器製作技術の系譜に焦点を当てます。


●近年の研究動向

 先史時代における言語拡散がヒトの移住を伴う農耕の拡大と関連している、との見解は、コリン・レンフルー(Colin Renfrew)により初めて提唱されたよく知られた仮説であり(Renfrew1987)、インド・ヨーロッパ語族の拡大は農耕の拡散を伴っていた、と示唆されています。レンフルーは、故地がアナトリア半島南部中央にあった農耕民が、紀元前7000〜紀元前6500年頃までにギリシアへと拡大した、と論証しました。この拡散は、農耕民がヨーロッパへと到達し、インド・ヨーロッパ語族の下位群を形成するまで続きました【現在では、後期新石器時代〜青銅器時代にポントス・カスピ海草原(ユーラシア中央部西北からヨーロッパ東部南方までの草原地帯)からヨーロッパへと拡散した集団がインド・ヨーロッパ語族をもたらした、との見解が有力です(関連記事)】。レンフルーはさらに、移住してきた農耕民と在来の中石器時代の人々との間の3000年以上にわたる交流も論証しました。インド・ヨーロッパ語族がギリシアへ拡大した紀元前7000年頃から、ブリテン諸島へ拡大した紀元前4000年頃にかけてです(Renfrew1987、Reference Renfrew1999)。この仮説は「農耕・言語拡散仮説」と呼ばれることが多く、農耕余剰から生じた人口増加と結びついています。

 ピーター・ベルウッド(Peter Bellwood)も、アジア東部において同様に農耕の拡大は言語の拡大と関連している、と仮定しました(Bellwood2005)。この仮説によると、シナ・チベット語族は黄河中流域において雑穀に基づく農耕とともに起源がある一方で、長江中流地における稲作に基づく農耕民と関連するミャオ・ヤオ(Hmong-Mien)語族はアジア南東部へと移動し、オーストロアジア語族を形成しました。さらに、中国南部で稲作農耕を行なっていた人々が話していたタイ・チワン諸語は、アジア南東部でオーストロアジア語族の一部へと発展しました。さらに、オーストロネシア人は台湾からインドネシアとオセアニアへと南方へ拡大しました。

 一方で、以下の5語族は伝統的に、「アルタイ諸語」と分類されており、つまり日本語と朝鮮語とツングース語族とモンゴル語族とテュルク語族です。近年では、「トランスユーラシア語族」という用語がこれら5語族の記述に使われてきており、地理的には、東方では太平洋、西方ではバルト海と黒海と地中海まで広がっている巨大な語族を指します(Robbeets and Savelyev2020)。ユハ・ヤンフネン(Juha Janhunen)は、トランスユーラシア語族の故地は現在のモンゴル東部とマンチュリア南部と朝鮮半島に位置している、と提案しました(Janhunen and Karttunen2010)。マーティン・ロベーツ(Martine Robbeets)も、トランスユーラシア語族の拡散の背後にある原動力として、レンフルーやベルウッドなどの農耕拡散仮説を支持しています(Robbeets2020)。ロベーツは、大日本語族が遼東半島で話されており、朝鮮半島を経由して稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた、と主張しました(Robbeets2020)。

 著者【宮本一夫、以下、著者で統一します】は対照的に、日本語祖語が朝鮮半島南部から稲作農耕の拡大とともに日本列島へと伝えられた一方で、遼東半島から朝鮮半島への日本語祖語の拡大は稲作農耕の拡大と関係していなかった、と提案しました(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。李濤(Tao Li)も、トランスユーラシア語族祖語、とくにツングース語族祖語の拡散の背後にある原動力としての農耕拡散仮説を批判しました。李濤は、トランスユーラシア語族祖語の拡散における農耕拡散仮説について、考古学的証拠には不確実性と限界がある、と主張しました(Li2020)。李濤も、ロシア極東への雑穀農耕の拡大とツングース語族祖語との間のつながりを示唆しました。(Li et al., 2020、Hudson and Robbeets2020)。

 最近、マーク・ハドソン(Mark J. Hudson)とマーティン・ロベーツは、遼東地区から朝鮮半島への大朝鮮語族祖語の拡大は、朝鮮半島中期新石器時代の紀元前3500年頃における雑穀農耕の拡大と関連していた、と提案しました(Hudson and Robbeets2020)。しかし、金壮錫(Jangsuk Kim)と朴辰浩(Jinho Park)は、雑穀の導入は新石器時代朝鮮半島の櫛目文(Chulmun)物質文化に影響を及ぼさなかったようであり、新石器時代における中国北東部(遼西および遼東地区)と朝鮮半島の土器様式は明確に異なっている、と述べました(Kim and Park2020)。

 著者も、先史時代のアジア北東部には農耕発展の4段階があった、と仮定しました(Miyamoto2014、Miyamoto2015a、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。第1段階は、紀元前3300年頃となる、マンチュリア南部から朝鮮半島およびロシア極東への雑穀農耕の拡大を含んでいました。第2段階は、紀元前2400年頃となる山東半島から遼東半島への水田稲作の拡大でした。第3段階は、石庖丁と平型凸刃石斧(flat plano-convex stone adze)を含む新たな磨製石器と関連する、灌漑農耕の拡大でした。第3段階には、湿田(イネ)と乾田(雑穀やコムギなど)で構成される第三の農耕体系の導入がありました。この灌漑農耕も、山東省から遼東半島を通って朝鮮半島へと紀元前1500年頃に広がりました。最後に、第4段階は、日本の九州北部への灌漑農耕の拡大を含んでおり、紀元前9世紀頃に始まります(宮本., 2018)。アジア北東部における農耕拡大の4段階の発展過程に関するこの理論は、一部の農耕民が気候状態の寒冷化によりもたらされた人口圧に起因して、穀物を栽培するために、狩猟採集民社会の土地に移動し、穀物を栽培した、という理由に基づいています。

 本論文で著者は、考古学的証拠に基づいてアジア北東部における日本語祖語と朝鮮語祖語の拡大を再検証し、とくに土器様式の系譜と製作技術に焦点を当てます。農耕の拡大は、朝鮮半島南部から九州北部への農耕の拡大を除いて、必ずしも日本語祖語と朝鮮語祖語の拡散と関連していなかった、と著者は提案します(Miyamoto2016、Miyamoto2019b)。


●日琉語族と朝鮮語の研究史

 日琉語族と朝鮮語はアルタイ諸語に分類される、とみなす言語学者もいます(Ruhlen1987)。編年体系では、これらは比較的浅い言語であり、日琉語族と朝鮮語は大ツングース語族から分岐した、というわけです(Unger2009)。朝鮮語と日本語との間の背後にある言語学的相互作用は、日琉語族(日琉語族祖語)がまだ朝鮮半島の一部で話されている時に起きました(Janhunen2005)。高句麗の地名データからは、日琉語族と同語族の言語が朝鮮半島で話されていた、と示唆されます。さらに、紀元後8世紀以前の地名に含まれる日本語起源の地名は通常、鴨緑江(Yalu River)の中央部および北部地域、とくに高句麗地区に分布しています(Endo2021)。したがって、日琉語族は元々朝鮮半島で用いられていた、と仮定されていますが、朝鮮半島南端の人々の一部だけが日琉語族を話していた、と示唆した学者もいます。

 李濤と長谷川寿一は、日本語の59の言語変種から得られた語彙データに基づくベイズ系統分析を用いて、日本語祖語の祖語について2182年前頃と推定しました(Lee and Hasegawa2011)。日本語は朝鮮半島で話されていたので、日本語は朝鮮半島の無文文化と日本列島の弥生文化の両方で話されていた、と考えられています(Whitman2011)。さらに、文献学者は、日本語が人口拡散を通じて弥生時代最初期において朝鮮半島から日本列島へと拡大した、と考えています(Whitman2011、Vovin2013、Unger2014、Hudson et al., 2020)。したがって恐らく、日本語は紀元前9世紀頃から紀元後3世紀頃までの弥生時代に、日本列島で話されていたのでしょう。

 マーシャル・アンガー(Marshall Unger)は、日本語祖語と朝鮮語祖語もその1系統である大ツングース語族の故地が山東省から遼寧省に至る渤海湾周辺地域だったならば、ツングース語族祖語話者が北方と北東、最終的にはシベリア東部へと移動した一方で、朝鮮語祖語話者は分岐してマンチュリア南部へと移動したことを意味する、と提案しました。マーシャル・アンガーは、日本語祖語話者が水田稲作の知識を朝鮮半島へともたらし、朝鮮語話者は朝鮮半島へと移動し、日本語祖語話者を追い払った、とも結論づけました(Unger2014)。朝鮮語は細形短剣(朝鮮式短剣)文化の出現とともに、遼寧省から朝鮮半島へと広がった、と考えられています(Whitman2011)。

 マーティン・ロベーツなどは、雑穀農耕の拡大とともに、大日本語祖語が遼東半島から朝鮮半島に至る地域で紀元前3500〜紀元前1500年頃に話されていた、と仮定します。日本語祖語は半島日本語(Para-Japonic)から分岐し、九州へと拡大して紀元前900年頃に農耕を伴う弥生文化になりました(Robbeets et al., 2020)。マーティン・ロベーツの解釈は、日本語と朝鮮語の祖先話者が紀元前四千年紀に渤海沿岸と遼東半島にいた可能性を示唆しています。マーティン・ロベーツはベイズ推定を用いて、日本語と朝鮮語が紀元前1847年頃に分岐した、と示唆しています(Robbeets, and Bouckaert., 2018)。朝鮮半島南部の新羅は、その言語が中世および現在の朝鮮語の直接の祖型で、全ての先行言語を遅くとも紀元後7世紀までには置換しました。

 日本語祖語と朝鮮語祖語に関する言語学的研究によると恐らく、日本語祖語は朝鮮半島で話されており、朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部においてトランスユーラシア語族から分岐し、朝鮮半島へと拡大したのでしょう。日本語祖語は恐らく、稲作農耕とともに弥生時代に日本列島へと拡大したものの、日本語中央方言(Central Japanese)が紀元後4世紀〜紀元後7世紀となる古墳時代と飛鳥時代に古朝鮮語(恐らくは百済語)から強い影響を受けた、と示唆する言語理論が存在します(Unger2009)。これは、弥生文化の開始が朝鮮半島南部の無文文化に強い影響を受け、この地域からの一部の移民が九州北部へと移動した、と考えられているからです(Miyamoto2014、Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Hudson et al., 2020)。日本語祖語が弥生文化の開始期に移民とともに朝鮮半島南部から九州北部へと広がったならば、日本語祖語は無文文化の人々により話されていた、と推測できます。


●考古学的文脈における言語の拡散に関する問題

 九州北部の「縄文人」と「弥生人」の形質人類学的差異はひじょうに明確で、九州北部の「弥生人」は大陸部の(無文文化)の人々と身体が類似しています(中橋., 1989、Hudson et al., 2020)。朝鮮半島南部からの移民が九州北部において先住の「縄文人」と混合し、その結果生まれた「弥生人」は、次第にこの地域で優勢になりました(田中・小澤., 2001)。紀元前9世紀〜紀元前6世紀となる弥生文化の早期には、これらの人々は灌漑農耕の一形態である水田で稲を栽培していました。これらの人々は、新たな石庖丁などの新たな磨製農耕石器、支石墓などの埋葬慣行、朝鮮半島南部の無文文化に属する壺様式である、壺(necked jar)や祖型板付壺土器など様々な土器様式を発展させました。さらに、環状集落と木棺埋葬が夜臼式2期に出現しました。

 九州北部における縄文文化と弥生文化の移行期は3段階に区分でき、縄文時代晩期黒川期から、板付式土器の出現をもたらした弥生時代早期板付1式までとなります(表1)。弥生時代早期の夜臼式1期となる弥生文化の出現は、宇木汲田貝塚で発見された炭化したイネ粒に基づいて、紀元前9世紀〜紀元前8世紀頃となる較正年代で紀元前842〜806年頃(4点の標本の中央値データ)と年代測定されています(宮本., 2018)。これらの段階は、朝鮮半島南部の無文文化からの移民と、九州北部の「縄文人」との間の遺伝的混合過程を表している、と考えられています(田中・小澤., 2001)。以下は本論文の表1です。
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 縄文時代黒川期の紀元前13世紀〜紀元前11世紀頃の寒冷化の最初の期間(宮本., 2017)に、朝鮮半島南部と九州北部との間に短期間の接触があります。田中良之は、朝鮮半島のコンヨル(Konyol)式土器を模倣した黒川式土器の縁の下の点の並びや、貫川遺跡で見つかった石庖丁などの考古学的証拠に基づいて、一部の移民が黒川期に朝鮮半島南部から九州北部へと到来した、と提案しました(田中., 1991)。これは、紀元前1200年頃のより寒冷な気候条件とも関連しています(宮本., 2017)。土器の走査電子顕微鏡(Scanning Electron Microscope、略してSEM)ケイ素分析から得られた証拠により示唆されているように、イネはこれ以前ではなくとも、恐らくはこの時点までに九州に広がっていました。

 黒川式縄文土器は、瀬戸内東部(内海地域もしくは近畿)地域に起源があり、九州北部へと次第に西方へ広がった(縁帯無文土器文化とは異なる)帯文深鉢(banded deep bowl)の拡大を通じてしだいに夜臼式土器へと変わっていき、縄文時代晩期の黒式土器を弥生時代早期の夜臼式土器に置換しました。夜臼式土器は2種類の連続で構成されます。それは、縄文土器様式に基づく深鉢と、無文文化に基づく壺です(Miyamoto2016、宮本., 2017)。夜臼式1期(紀元前9世紀〜紀元前8世紀)と夜臼式2期(紀元前7世紀〜紀元前6世紀)には、無文文化が朝鮮半島の異なる2ヶ所から拡大しました。夜臼式1期には、南江(Namgang River)から唐津と糸島平野まで広がり、夜臼式2期には、ナグトンガン川(Nagtonggang River)から福岡平野にまで広がりました(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。夜臼式2期は、その最初の場所である福岡平野の板付式土器(弥生時代前期)の発達に先行します。したがって、紀元前6世紀〜紀元前5世紀頃には、無文土器に影響を受けた板付式壺が、夜臼式期の縄文土器の深鉢を置換しました。以下では、「移行」期は夜臼式1期および2期を指します。夜臼式は水田稲作の存在のため弥生時代と見なされていますが、完全にそろった弥生文化は板付1式まで固定されませんでした。九州北部における縄文時代と弥生時代早期との間の移行期は、推定300年間です(宮本., 2017)。

 土器の様式と系譜だけではなく、土器製作技術も、弥生時代と縄文時代では異なります。夜臼式1期無文土器文化の影響を通じて壺が追加されましたが、縄文土器の深鉢が縄文時代と弥生時代の移行期には依然として使われていました。板付式壺は弥生時代前期の板付式1期に確立しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。この時点で、土器製作技術は全体的に、縄文時代から変化しました(家根., 1984、家根., 1997、三阪., 2014)。縄文土器に用いられた比較的薄い粘土の平塊(slab)とは対照的に、弥生土器の製作には比較的に広い粘土の平塊が用いられました(図1)。弥生土器の平塊は、その前の平塊の外面に付着されますが、縄文土器の平塊は土器の内面に重ねて付着されました。弥生土器の表面は、木片の端を用いて滑らかにされていましたが、縄文時代晩期にはこの作業を行なうために貝殻が用いられました(図1)。弥生土器は地上にてさほど精巧ではない粘土窯で焼成されましたが、縄文土器は野外で焼成されました(小林他., 2000)。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、縄文土器と弥生土器との間に明確に存在しました。弥生土器の新たな土器技術のこの4点の特性は、無文土器から採用されました。土器製作の新技術が、無文文化により最初に影響を受けた夜臼式ではなく、縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式で完全に確立されたのは、興味深いことです。縄文時代と弥生時代との間の移行期後の板付式土器は、最終的には新たな土器製作技術の4特性から構成されました。以下は本論文の図1です。
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 縄文時代から弥生時代への移行では、土器様式を超えたさせなる文化的変化も明らかです(表1)。水田や新様式の土器や新形態の磨製石器が、黒川期後の夜臼1期の福岡平野で見つかっています(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a、Fujio2021)。その後、環濠集落が夜臼式2期に確立しました。木棺のような新たな埋葬習慣が、夜臼式2期と板付式1期の頃に始まりました(Miyamoto2016、宮本., 2017、Miyamoto2019a)。文化的特性は、夜臼式1期と夜臼式2期の期間に経時的に追加されました。支石墓は夜臼式1期には確立していませんでしたが、その分布は九州北西部を含む唐津と糸島平野に集中していました。しかし、木棺が朝鮮半島から福岡平野にもたらされ、次に夜臼式2期に福岡平野から他地域へと広がりました。副葬品として木棺には磨製石器短剣が伴いました。支石墓と木棺との間の導入と分布の時期の違いは、朝鮮半島での磨製石器短剣の種類による分布地域の違いとともに、朝鮮半島からの文化の二重起源を示唆します(Miyamoto2016、Miyamoto2019a)。したがって、弥生文化は無文文化の二重拡散で確立しました(表1)。板付1式の時までに、灌漑農耕社会が形成されました(宮本., 2017、Fujio2021)。

 弥生文化の確立とともに、板付式土器が生まれたことは、日本列島における独立した農耕社会の発展を意味しました。九州北部における弥生文化の新たな農耕民は瀬戸内海と近畿地方に移動し、そこでは新たな農耕民と先住の「縄文人」が再び混合しました。考古学的証拠は、土地の無文文化と対応する日本語祖語文化が朝鮮半島南部から九州北部へとどのように広がったのか、という問題への答えを提供します。前節では、黒川期に九州北部にイネがどのように広がったのか、水田を伴う稲作は夜臼式期にどのように急増へと広がったのか、説明されました。無文文化に影響を受けた支石墓や磨製石器や土器様式を含む文化的変化が、夜臼式1期に出現しました。したがって、定義上、弥生文化は紀元前9世紀〜紀元前8世紀となる夜臼式1期に始まった、と言うことができます。

 したがって、この知見から、日本語祖語は夜臼式1期に無文文化からの移民とともに九州北部へと広がった、と言うことができますか?無文文化に影響を受けた壺など新たな土器の種類は、九州北部において夜臼式1期に出現しました。しかし、夜臼式1期における多数の新たな種類の壺や他の縄文様式の土器壺は、縄文土器の製作技術を用いて製作されました。無文土器文化と同じ土器製作技術を用いて製作された、壺や板付式壺を含めて弥生式土器は、板付1式期に出現し、その年代は紀元前6世紀〜紀元前5世紀です(宮本., 2018)。著者の見解は、日本語祖語がこの時点で九州北部において「縄文語」を置換した、というものです。

 「縄文人」は夜臼式1期に、栽培穀物保存のための壺と調理用の縄文式深鉢を製作した少数の無文文化移民とともに、九州北部に移住しました(田中・小澤., 2001)。こうした人々は、縄文土器製作技術を用いて、農耕生活のために無文文化の壺を模倣した、と考えられています。しかし、板付1式期には無文文化の土器様式と製作技術が変化しました著者は、「縄文人」が九州北部で「縄文語」を置換した日本語祖語を介して、新たな土器様式と製作技術を教えられたのではないか、と提案します。その後、弥生時代前期には、新たな板付式土器様式と製作技術が福岡平野を中心とする九州北部から、九州北西部と瀬戸内海地域と近畿地域を含む西日本にまで広がりました。この場合、一般的には「縄文人」の子孫とされる九州北西部の「弥生人」でさえ、板付式土器がそうであるように、同じ弥生土器を製作できた、と注目するのは興味深いことです。

 形質人類学的分析は、九州北西部の「弥生人」に属する人骨を、「縄文人」と同じと同定してきました(中橋., 1989)。最近のDNA研究では、紀元後1〜紀元後2世紀の弥生時代末と年代測定された九州北西部の長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体では、「縄文人」と「渡来系弥生人」両方のゲノムを有している、と示されています(篠田他., 2019、関連記事)。しかし、別のDNA研究では、九州北西部の佐賀県唐津市大友遺跡の初期「弥生人」は依然として「縄文人」だった、と示唆されています(神澤他., 2021、関連記事)。九州北西部の初期「弥生人」は遺伝的に無文文化人と異なりますが、無文文化の土器製作技術に基づいて弥生土器を製作できました。これは、九州北西部の初期「弥生人」が、日本語祖語を介して、弥生土器の製作技術について学ぶことができたからです。


●日本語祖語の拡散理論についての考古学的説明

 日本語祖語が弥生文化の開始において九州北部へと拡大し、板付1式期に「縄文語」を完全に置換した、との仮説が正しければ、問わねばならない問題は、どのようにどこから、無文土器文化に相当する日本語祖語文化が朝鮮半島に入ったのか、ということです。この問題を解決するため、初期農耕の拡大とは無関係な文化的接触を説明する、土器製作技術への焦点が選択されます。

 弥生土器と朝鮮半島南部の無文土器との間には、おもに以下の4点の特性の観点で、同じ土器製作技術が存在しました。それは、(a)広い粘土平塊、(b)その前の平塊の外面に付着する平塊、(c)木片の端で土器表面を滑らかにすること、(d)地面であまり精巧ではない粘土窯での焼成です。朝鮮半島南部の無文土器文化は、初期と前期と後期の3段階に区分されます(表2)。初期は、縁帯(band-rim)土器により特徴づけられ、前期はガラクドン(Garakdon)様式とコンヨル様式、つまりヘウナムリ(Heunamri)式と駅三洞(Yeoksamdong)式の土器により示され、後期はヒュアムリ(Hyuamri)式と松菊里(Songgunni)式で構成されます。以下は本論文の表2です。
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 三阪一徳は、朝鮮半島の新石器時代土器と無文土器との間の土器製作技術を分析しました(Misaka2012)。その分析によると、土器製作技術における4点の特性は、初期から後期まで無文土器文化を通じて見られました(図2)。対照的に、新石器時代土器の製作技術にはそうした4点の特性がありません。新石器時代土器と無文土器との間のそうした違いは、縄文土器と弥生土器との間に存在したものと同じです。この場合、初期の土器である縁帯土器は、系譜的に他地域の土器から広がったに違いありません。土器のSEMケイ素分析から、朝鮮半島における稲作は無文文化土器初期の縁帯土器期に始まった、と示唆されます(Son et al., 2010)。金壮錫と朴辰浩は、稲作農耕民の移住は中国北東部から朝鮮半島への言語拡散をもたらした、と示唆しました(Kim, and Park., 2020)。したがって、無文土器の製作様式がどのようには最初に始まったのか、注意を払う必要があります。以下は本論文の図2です。
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 朝鮮半島南部における最初の無文土器は、紀元前1500年頃以降の最初期無文土器文化における縁帯土器です。縁帯土器は、朝鮮半島北部〜中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)土器と関連している、と考えられており(Ahn J2010、Bae2010)、それは、土器の模様と他の側面では家屋計画の類似性のためです。したがって、ゴングウィリ式土器は、最初期の無文土器の縁帯土器と関連している、と考えられています。無文文化は朝鮮半島南部に起源があるものの(Miyamoto2016、宮本., 2017)、比較的広い粘土平塊、外側から付着される粘土平塊、木片の端で滑らかにされることや粗放的な粘土窯での焼成など、無文土器の土器製作技術の起源は新石器時代櫛目文土器では確認されませんでした。

 朝鮮半島北西部では、マンチュリアの遼東地区における偏堡文化の影響(図3-3)が、ナムケヨン(Namkyeong)の櫛目文土器と結びつき、無文文化におけるパエングニ(Paengni)式土器を形成しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。偏堡文化は、前期と中期と後期の3段階に区分されます(Chen and Chen1992)。偏堡文化の初期(図3-1〜3)は、土器編年によると、遼西地区の東側に分布しています。しかし、シャオズフシャン(Shaozhushan)文化の中期層の呉家村(Wujiacun)期は、偏堡文化の分布の周辺に位置する遼東地区に分布します(図3-4)。偏堡文化の中期および後期は呉家村期文化を置換し、遼東地区と朝鮮半島北西部に広がりました(図3-5)。偏堡文化は朝鮮半島北西部の櫛目文土器に影響を与え、櫛目文土器の系列に壺の新様式を加えました。以下は本論文の図3です。
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 偏堡文化により影響を受けた壺(図3-3)は、朝鮮半島西部における新石器時代末期の櫛目文土器ナムケヨン1および2式で構成されます。この事象は、紀元前2400年頃のアジア北東部における農耕化の第二段階とも一致しました(図4)。対照的に、朝鮮半島北部〜中央部では、偏堡文化の影響(図3-1および2)は、鴨緑江中流と上流のシムグウィリ(Simgwiri)遺跡の1号住居で、ゴングウィリ式土器を生み出しました(図4)。このゴングウィリ式土器は、朝鮮半島南部では無文土器の最初期の縁帯土器へと発展しました(Miyamoto2016、宮本., 2017)。以下は本論文の図4です。
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 日本人の学者により1941年に発掘された、遼東半島の上馬石(Shangmashi)貝塚で発見された土器の製作技術に焦点が当てられました(Miyamoto2015b)。分析結果は、以下のような土器製作技術の4点の特性の存在を示します。それは、(a)比較的広い粘土平塊を用いての平塊製作、(b)内面ではなく外面への粘土平塊の付着、(c)木端で滑らかにすること、(d)地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。土器製作技術のこれらの4点の特徴が、新石器時代から前期鉄器時代までの編年体系で偏堡文化期にのみ限られているのは、たいへん興味深いことです(表3)。木端で粘土表面を滑らかにすることは、偏堡文化ではひじょうに多く見られます。偏堡文化における、木端で粘土表面を滑らかにすることと、あまり精巧ではない粘土窯を用いての焼成技術も、上馬石遺跡を除いて他の遺跡でも認められます。これらの結果から、偏堡文化はゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文土器文化における新たな土器製作技術の出現とつながっている、と示唆されます(図4)。以下は本論文の表3です。
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 朝鮮半島の無文土器は、隣接地域の土器様式が、偏堡文化によるこれらの地域への拡散過程と影響を介して、偏堡文化の土器様式へと変化した時に確立しました。したがって、偏堡文化土器で用いられた新たな土器製作技術は、ゴングウィリ式土器への偏堡文化の影響を介して無文土器へともたらされました。このように、土器製作技術の観点で同じ4点の特性を有する土器様式が、朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して、遼東半島の偏堡文化から朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました。そこから、朝鮮半島南部の無文文化と同じ4点の特性を有するこの土器様式が、西日本の弥生文化に広がりました。これら4点の特性を有する同じ系譜の土器様式の拡大は、言語、つまり日本語祖語を媒介しての同じ情報の広がりを示唆します(図5-1)。以下は本論文の図5です。
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 しかし、偏堡文化と縁帯土器との間のこれら土器様式の変化は、約1000年の長い時間を要し、無文土器文化の始まりは朝鮮半島南部で紀元前1500年頃でした。この頃に、磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がりました。したがって、朝鮮半島南部における無文土器文化の確立は、二重の状況で構成されました。それは、アジア北東部における農耕化の第2段階の偏堡文化などを基盤に形成されたものの、アジア北東部農耕化の第3段階における生計活動の変化により確立しました。

 日琉語族はどこに起源があったのでしょうか?日琉語族は稲作農耕の影響により彩られていませんでした。日琉語族にはイネに特化した語彙が含まれていなかった、と考えられています(Whitman2011)。日琉語族にイネに特化した語彙がなかった理由は、日琉語族の起源が恐らくは遼西東部にあったからです。雑穀農耕を伴う初期偏堡文化は、おもに遼西地区東部に分布しています(図3-4)。土器製作技術の分析から、無文土器は偏堡文化に由来した、と示唆されるので(Miyamoto2016)、日琉語族も偏堡文化に起源があった、と提案されます(図5-1)。

 無文文化はその後、紀元前1500年頃に、山東半島から遼東半島を経た稲作農耕社会により影響を受けましたが、無文文化集団は日本語祖語を話し続けた、と考えられます。これは、アジア北東部における農耕化の第3段階でのことです。日琉語族が同じ頃にアジア北東部における農耕化の第4段階での稲作拡大と同じ頃に無文文化経由で九州北部へと広がったならば、縄文時代と弥生時代との間の移行は、伝統的な「縄文語」と日琉語族との間の言語における移行と同じである、と提案できます。このように、少数の無文文化の人々が九州北部へと移住し、「縄文人」と混合した場合、日琉語族も九州北部へと拡大した、と考えられます。さらに、九州北部における在来の「縄文語」と日琉語族との間の移行は、夜臼式土器1期から板付1式土器期への土器様式における移行と同じくらいの時間を要した、と推測されます。「縄文語」は、上述のように人々が無文文化集団により話されていた日琉語族で新たな土器技術を学んだので、同じ過程を経て日琉語族により置換された、とも考えられます。


●朝鮮語祖語の拡散の論についての考古学的説明

 上馬石貝塚遺跡の分析(Miyamoto2015b)も、土器様式が紀元前千年紀半ばに変化したことを示唆します。紀元前6世紀〜紀元前5世紀となる尹家村(Yinjiacun)文化青銅器時代の長首壺(Long-necked pot)と粘土縁壺(clay-rimmed jar)は、遼西地域から遼東地域にかけて分布していました。この新たな土器は遼東半島から朝鮮半島南部へと到来し、初期鉄器時代の粘土帯土器へと発展して、遼東半島の人々が朝鮮半島へと南方へ移住したことを示します(Miyamoto2016、宮本., 2017)。

 移民が遼東半島から朝鮮半島へと移住し、粘土帯土器文化を確立した理由は、より寒冷な気候条件だったからではありませんでした。むしろ、好まれる理論は、北京地域に位置する燕国が燕山(Yanshan)山脈を越えて東方へ侵入したので、当時の社会における社会的および政治的要因だった、というものです(宮本., 2017、宮本., 2020)。燕は遼西地区東部の首長と政治的に接触し、紀元前6世紀と紀元前5世紀には燕国の覇権を押し付けました。尹家村文化第2期における遼西東部から遼東半島への人々の東方への移動は、遼東半島から朝鮮半島への別の移住の契機となりました。この過程で、尹家村文化第2期は朝鮮半島へと広がり、紀元前5世紀頃となる青銅製細形短剣を含む、粘土帯土器文化の確立につながりました。この時点で、農耕集落は考古学的記録から消えました(Ahn2010)。遼西東部に起源があるこの粘土帯土器文化は、明確には水田稲作とは関連していないものの、雑穀およびコムギ農耕と関連しています。

 一方、マーク・ハドソンとマーティン・ロベーツは、朝鮮語大語族祖語は日本語祖語の前に遼東半島から朝鮮半島へ雑穀農耕とともに紀元前3500年頃に拡大した、と主張しました(Hudson, and Robbeets., 2020)。しかし、櫛目文土器と農耕用石器を有する雑穀農耕は、紀元前3500年頃に盛上文(Yunggimun)土器文化に代わって、朝鮮半島の北西部と中西部から南部へと広がりました(Miyamoto2014、宮本., 2017)。農耕用石器を伴う雑穀農耕は、紀元前五千年紀に遼西から遼東半島および朝鮮半島西部へと広がりました(Li et al., 2020)。さらに、土器様式は小珠山(Xiaozhushan)文化火葬土器を有する遼東半島と櫛目文土器を有する朝鮮半島との間で明確に異なります(Kim, and Park., 2020)。したがって、遼東半島から朝鮮半島への言語拡散の理論が、紀元前四千年紀における朝鮮半島南部への農耕用石器を伴う櫛目文土器の拡大と考古学的に関連していた、と考えるのは困難です。

 朝鮮語がこの移住とともに朝鮮半島へと広がり、細形短剣文化を形成した、と考えられています(Whitman2011)。遼西東部地区から朝鮮半島へのこの文化的影響は、中国の戦国時代における燕国によりもたらされた継続的な領土の脅威のため逃げてきた人々を伴う、朝鮮語祖語の拡大を示唆します(宮本., 2017、宮本., 2020)。この文化は、マンチュリアの遼東地区の涼泉(Liangquan)文化もしくは尹家村文化第2期に起源があり、拡大しました。初期鉄器時代は朝鮮語の広がりと関連しているので、朝鮮語の起源地も遼東地区東部にあった、と仮定されます(図5-2)。粘土帯土器文化は、三国時代へと直接的に変わっていく先三国時代文化期に、類似の形態へと発展しました。三国時代の新羅の言語は、確実に朝鮮語です(Robbeets2020)。したがって、朝鮮語祖語は粘土帯土器文化期に話されていました。粘土帯土器文化は、系譜的に無文文化とつながりませんでした。

 このように、日本語祖語は粘土帯土器文化初期に朝鮮語祖語により置換された、と推測されます。日本語祖語は朝鮮半島で話されており、弥生文化の開始期に日本列島へと広がりました。一つの言語の別の言語への置換は、朝鮮語祖語が中国北東部から朝鮮半島へと朝鮮前期鉄器時代に広がった、というマーシャル・アンガーの見解と一致します(Unger2014)。一方、金壮錫と朴辰浩は、朝鮮語祖語が細形短剣とともに入ってきた、というジョン・ホイットマン(John Whitman)の提案(Whitman2011)に疑問を呈しています(Kim, and Park., 2020)。遼寧式短剣を有する中国北東部の遼西および遼東の粘土帯土器文化は、細形短剣が独自に発展した朝鮮半島へ拡大しました(宮本., 2020)。その後、粘土帯土器文化は、中国の燕国と先三国時代となる漢代の楽浪(Lelang)郡より影響受けて、鉄器を製作しました。したがって、粘土帯土器文化の人々が三国の直接的な祖先で、朝鮮語祖語を話していた、との仮定が合理的です


●まとめ

 言語学的研究では、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、と示唆されています(Unger2014、Robbeets et al., 2020)。日本語祖語はまずマンチュリア南部から朝鮮半島へと、次に弥生文化の開始期に九州北部へと広がりました。朝鮮語祖語はその後でマンチュリア南部から朝鮮半島へと広がり、次第に日本語祖語を追い払いました。

 偏堡文化と無文文化と弥生文化の土器は、さまざまな年代にわたって相互に系譜的に関連している、と提案されており、とくに、以下の4点の特性を示す、同じ土器製作技術があります。それは、広い粘土平塊、その前の平塊の外面に付着させる平塊、木片の端で土器表面を滑らかにすること、地面でのあまり精巧ではない粘土窯での焼成です。これらの同じ土器製作技術は、言語を介して継承された、と考えられています。これが、偏堡文化と無文文化と弥生文化の系譜系列が日本語祖語の拡大を示唆している理由です。したがって、偏堡文化の日本語祖語は紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部のゴングウィリ式土器を介して朝鮮半島南部の無文文化へと広がりました(図5-1)。

 日本語祖語は灌漑稲作農耕の拡大とともに紀元前9世紀に九州北部に到達し、紀元前6世紀〜紀元前5世紀の九州北部の板付式土器期に「縄文語」を完全に置換しました。過程として、この言語置換は約300年間にわたって起きました。この場合、人々はその遺伝的構成の観点では必ずしも変化しませんでした。板付式土器を伴う日本語祖語話者は福岡平野から到来して西日本へと移住し、西日本では弥生時代前期に日本語がしだいに在来の「縄文語」を置換しました(図5-1)。紀元前3世紀頃に始まる弥生時代中期の跡には、弥生文化は東日本に依然として存在していた縄文土器伝統とは急速に異なっていきました。それにも関わらず、日本語祖語は紀元後2世紀〜紀元後3世紀となる弥生時代後期から古墳時代の開始までに、これらの地域で在来の「縄文語」をじょじょに置換していった、と考えられています。

 紀元前6世紀と紀元前5世紀に、中国の東周時代(春秋時代)の燕国は、燕山山脈を越えてその領域を拡大し、遼西地区において首長に政治的に影響を及ぼしました。この時から、尹家村文化第2期の移民が紀元前5世紀に遼西東部から遼東を経て朝鮮半島へと向かい、そこで粘土帯土器を確立しました。粘土帯土器自体は、遼東半島の紀元前二千年紀の双砣子(Shuangtuozi)文化期の第2および第3段階に始まりました。遼西東部から朝鮮半島南部への粘土帯土器の広がりは、朝鮮語祖語の経路を示唆します(図5-2)。

 日本語祖語と朝鮮語祖語両方の故地は考古学的証拠に基づくと同じで、両者は近い語族です。しかし、アジア北東部における両言語間の拡散の時間的違いは約1000年で、両言語の広がりは、九州北部の弥生時代開始期におけるアジア北東部の農耕の4番目の拡大を除いて、農耕の人口拡散とは無関係でした。考古学的説明に基づく日本語祖語と朝鮮語祖語のこの拡散仮説は、日本語祖語と朝鮮語祖語がマンチュリア南部でトランスユーラシア語族から分岐した、という言語学的仮説(Unger2014、Robbeets et al., 2020)を必ずしも妨げません。むしろ、拡散仮説は言語学的仮説を支持します。


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関連記事

小林正史、北野博司、久世健二、小嶋俊彰(2000)「北部九州における縄文・弥生土器の野焼き方法の変化」『青丘学術論集』第17集P5-140

篠田謙一、神澤秀明、角田恒雄、安達登(2019)「西北九州弥生人の遺伝的な特徴―佐世保市下本山岩陰遺跡出土人骨の核ゲノム解析―」『Anthropological Science (Japanese Series)』119巻1号P25-43
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関連記事

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田中良之、小澤佳憲(2001)「渡来人をめぐる諸問題」『弥生時代における九州・韓半島交流史の研究』(九州大学大学院比較社会文化研究院基層構造講座)P3-27

中橋孝博(1989)「弥生人 形質」佐原真、永井昌文、那須孝悌、金関恕編『弥生文化の研究 第1巻 弥生人とその環境』(雄山閣)P23-51

三阪一徳(2014)「土器からみた弥生時代開始過程」古代学協会編『列島初期稲作の担い手は誰か』(すいれん舎)P125-174

宮本一夫(2017)『東北アジアの初期農耕と弥生の起源』(同成社)

宮本一夫(2018)「弥生時代開始期の実年代再論」『考古学雑誌』第100巻第2号P1-27

宮本一夫(2020)『東アジア青銅器時代の研究』(雄山閣)

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家根祥多(1997)「朝鮮無文土器から弥生土器へ」立命館大学考古学論集刊行会編『立命館大学考古学論集』第1巻(立命館大学考古学論集刊行会)P39-64
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_7.html

306. 保守や右翼には馬鹿し[219] lduO54LiiUWXg4LJgs2Ubo6tgrU 2023年6月11日 09:58:24 : FliUTcRNEY : Z1dLUVlOVC5zSy4=[1] 報告
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雑記帳
2023年06月11日
日本列島の人類史に関する問題の整理
https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_11.html

 最近、日本列島における4万年以上前の人類の存在の可能性や、日本語の起源などについて考えることがあったので、一度おもに古代ゲノム研究に基づいて関連する情報をまとめるとともに、遺伝学に基づく人類の進化や拡散に関する通俗的な見解について、普段から考えていることも整理します。最近の当ブログの記事は、論文を訳して時に私見も少し付け加えるだけで終わることが多く、自分なりに一度整理しないと、全体像をよく把握できないままになる、と考えたからです。言い忘れたことや欠落している視点は多々あるでしょうが、とりあえず現時点の見解をまとめます。ネアンデルタール人(Homo neanderthalensis)と現生人類(Homo sapiens)との関係や、種区分未定のホモ属であるデニソワ人(Denisovan)についてなど、他にも自分なりに情報をまとめて整理する必要のある問題が多いので、今後少しずつ進めていくつもりです。


●便宜的区分と古代ゲノム研究の通俗的解釈に関する問題

 分類・区分して程度の違いを見出す能力は現生人類でとりわけ発達しており(ネアンデルタール人やデニソワ人に現生人類と同等のそうした能力があった可能性も否定はできませんが)、鉄と銅の違いや鯛と河豚の違いや石材の違いなど、分類・区分は現生人類社会の基盤の一つになっています。重要なのは、そうした区分にどれだけの整合性・妥当性があるのか、ということだと思います。ただ結局のところ、時代や地理や文化や民族などの区分も含めて分類という行為は、現生人類の知的営みにおいてたいへん重要で実用的ではあるものの、あくまでも理解を助けるための手段という側面も多分にあります。現生人類の営みが多くの場合時空間的に連続していることを考えると、対象が現在であれ過去であれ、あくまでも便宜的措置であり、それを絶対視することなく、多くの前提・留保のもとに、ある程度割り切りつつも、慎重に区分してそれを使用していくしかないのでしょう。

 たとえばネットで検索すると、アイヌ民族・文化の成立は13世紀で、北海道の先住民は「縄文人(この記事では縄文文化関連集団という意味で用います)」であるとして、アイヌ文化・民族を縄文文化やその後継と考えられる続縄文文化や擦文文化およびその担い手の集団と明確に区別するような、通俗的見解が散見されます。これは便宜的な区分を絶対視してしまった見解で、現生人類にとって常に警戒すべき陥穽と言うべきでしょう。年表を見ると、アイヌ文化期は13世紀頃以降に始まる、とするものが多いようですが、これはあくまでも便宜的区分・名称であり、この頃に初めてアイヌ民族・文化が成立することを証明しているわけではありません。じっさい、考古学的文化に民族名を冠することは問題だとして、アイヌ文化ではなくニブタニ文化と呼ぶよう、提唱している研究者もいます(瀬川., 2019)。文化と民族の連続性と変容と断絶の評価は難しく、年表の字面だけ見て文化の断絶を想定するのは、論外だと思います。

 古代ゲノム研究の大衆的な受容にも問題があり、まず、古代ゲノム研究は統計的手法に依拠しており、「完全な証明」をできるわけではなく、あくまでも確率の問題ということです(放射性炭素年代測定法などの年代測定法も同様です)。この点を誤解している人はきわめて少ないかもしれませんが、A集団のゲノムはB集団関連祖先系統(祖先系譜、祖先成分、祖先構成、ancestry)50%程度とC集団関連祖先系統50%程度でモデル化できる、というような知見を、B集団とC集団がA集団の祖先だと証明された、と認識している人は少なくないかもしれません。しかし、これはあくまでも、A集団のゲノムにおける祖先系統の割合が、BおよびC集団的な祖先系統により統計的に適切にモデル化できることを示しているだけで、B集団とC集団がA集団の直接的祖先であることを証明しているわけではありません。

 たとえば、現代日本人集団を現代朝鮮人関連祖先系統(91%)と縄文時代個体関連祖先系統(9%)の2方向混合としてモデル化できる、と示した研究(Wang CC et al., 2021)がありますが、もちろん、現代朝鮮人集団が現代日本人集団の祖先のはずはないので、現代朝鮮人集団のような遺伝的構成の集団が朝鮮半島には太古から存在し、現代日本人集団の主要な祖先になった、と考える人は少なくないかもしれません。その研究では、古代人集団を用いて、現代日本人集団は青銅器時代西遼河集団関連祖先系統(92%)と縄文時代個体関連祖先系統(8%)の2方向混合としてモデル化できる、とも推測されています。しかし、これは青銅器時代西遼河集団が現代日本人集団の直接的祖先であることを示しているのではなく、ある集団の直接的な祖先集団を見つけることが困難な古代ゲノム研究において、年代や文化や地理的分布(考古学的知見)も参照しつつ、代理となりそうな古代人集団で検証して、統計的に適切な結果を提示しているにすぎません。

 その意味で、古代ゲノム研究から特定の現代人集団の祖先集団を特定することは困難で、どれだけ近似値に近づけるかが問題となります(これは多くの学問に共通する問題かもしれませんが)。最近の研究(Robbeets et al., 2021)では、現代日本人集団は低い割合の縄文時代個体関連祖先系統と青銅器時代の高い割合の西遼河地域の夏家店上層(Upper Xiajiadian)文化個体関連祖先系統の混合としてモデル化できる、と示されましたが(後述のように、この研究には批判もあります)、夏家店上層文化集団と縄文時代集団が現代日本人の直接的な祖先であることを証明しているわけではなく、それぞれの集団と遺伝的に類似した集団が現代日本人の直接的な祖先集団である可能性は高い、と示しているだけです。ただ、地理分布からして、「縄文人」集団が現代日本人の(影響は小さくとも)直接的な祖先集団である可能性は高そうです。古代ゲノム研究で示される特定の集団もしくは個体のゲノムにおける祖先系統とは、基本的に代理であることを踏まえねばならないでしょう。

 古代ゲノム研究で他に重要な問題となるのは、特定の文化や時代を表す集団が1個体で構成される場合も珍しくないことです。その1個体が特定の文化や時代の集団の遺伝的構成を適切に表している可能性はあるとしても、遺伝的多様性の高い集団ならば、それを適切に反映できませんし、他の地域もしくは集団から流入してきた外れ値個体であればなおさらです。この問題は古代ゲノム研究に今後ずっとついて回るでしょうから、とても無視できません。完新世の現生人類については、今後この問題をある程度回避できるかもしれませんが、ネアンデルタール人など非現生人類ホモ属では、ゲノム解析数の増加を完新世現生人類ほどにはとても期待できません。現生人類とネアンデルタール人の混合についても、非アフリカ系現代人集団の祖先と混合した集団が直接的に確認されているわけではなく、あくまでも代理の個体のうちどれが非アフリカ系現代人集団の祖先と混合したネアンデルタール人集団に近いのか、検証されているだけです(Mafessoni et al., 2023)。

 また上述の問題とも関わりますが、特定の文化や時代といった区分も便宜的なので、これを安易に個体もしくは集団の遺伝的構成と関連づけたり、特定の地域における人類集団の遺伝的連続性を前提としたりするのは危険です。この問題については、世界のいくつかの事例を以前に取り上げましたが(関連記事)、文化と遺伝というかDNAとの関連は多様で、遺伝的構成や片親性遺伝標識(母系のミトコンドリアDNAと父系のY染色体)のミトコンドリアDNA(mtDNA)ハプログループ(mtHg)やY染色体ハプログループ(YHg)を、安易に特定の文化もしくは民族の分類と関連づけることは極めて危険です。これは、ネアンデルタール人が常染色体ゲノムでは現生人類よりもデニソワ人の方と明らかに近縁でありながら、mtDNAでもY染色体でもデニソワ人より現生人類の方と明らかに近縁であること(Petr et al., 2020)からも、強く示されています。

 種系統樹と遺伝子系統樹とは必ずしも一致しないので(Harris.,2016,第2章)、常染色体ゲノムの特定領域であれ、ミトコンドリアであれY染色体であれ、そのハプログループの比較で特定の集団(種、分類群)間の近縁関係を論じるのは危険です。たとえば、近縁なA・B・Cの3系統の分類群において、A系統がB系統およびC系統の共通祖先と分岐し、その後でB系統とC系統が分岐したとすると、B系統とC系統は相互に、A系統よりも形態が類似している、と予想されます。しかし、形態(もしくは表現型)の基盤となる遺伝子の系統樹が種系統樹と一致しない場合もありますから、B系統とC系統はどの形態(もしくは表現型)でもA系統とよりも相互に類似している、とは限りません。

 これと関連して、B系統においてある表現型と関連する遺伝子のあるゲノム領域において、遺伝的浮動もしくは何らかの選択により変異が急速に定着した場合、ある表現型ではB系統は近縁のC系統よりもA系統の方と類似している、ということもあり得ます。じっさい、チンパンジー属とゴリラ属とホモ属の系統関係において、種系統樹ではチンパンジー属とホモ属が近縁ですが、ニシローランドゴリラ(Gorilla gorilla gorilla)ではゲノム領域の約30%で、種系統樹と遺伝的近縁性とが一致しない、と推定されています(Scally et al., 2012)。つまり、この約30%のゲノム領域では、ホモ属(現代人)がチンパンジー属よりもゴリラ属の方と近縁か、チンパンジー属がホモ属よりもゴリラ属の方と近縁である、というわけです。

 この記事の主題に即して具体的に日本列島の事例を挙げると、先史時代の先島諸島です。先島諸島には縄文文化の影響が及ばなかった、と考えられており(水ノ江., 2022)、沖縄諸島が安定していた貝塚時代から農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現し大きく変わったグスク時代に、これらの要素は先島諸島へと伝わり、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏になりました(高宮., 2014)。しかし先島諸島では、グスク時代のずっと前となる紀元前9〜紀元前6世紀頃の個体において、遺伝的にほぼ完全に縄文時代個体と重なる複数の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。考古資料には見えない言語など精神的文化の共有があったのか否か、遺伝的に大きく異なる他集団と共存していたのか否かなど、この事例が意味するところは現時点でよく分からず、日本列島においても文化もしくは民族とDNAとを安易に関連づけてはならない、と示しているように思います。


●4万年以上前

 日本列島では4万年前頃以降に遺跡が急増し(佐藤., 2013)、これ以降の人類の存在と、それが現生人類であることについては、ほぼ異論がないと思います。日本列島における4万年以上前(中期旧石器時代と前期旧石器時代と一般的には呼ばれています)の人類の存在で、2000年11月に発覚した旧石器捏造事件(関連記事)もあり、否定的な人が多いようにも思われます。そもそも、ヨーロッパ基準の前期→中期→後期(下部→中部→上部)という旧石器時代区分が、日本列島も含むアジア東部において適切に当てはまるのか、という問題もあるかもしれませんが、これについては私の知見があまりにも不足しているので、今回はこれ以上言及しません。

 捏造事件発覚後に、日本列島最古(127000〜70000年前頃)と騒がれた(関連記事)島根県出雲市の砂原遺跡の石器については、そもそも石器なのか否か議論となっており(関連記事)、人類の痕跡を示している、との共通認識が考古学研究者の間で確立しているとはとても思えません。それ以外の4万年以上前かもしれない日本列島の遺跡は、岩手県遠野市の金取遺跡です。砂原遺跡の石器については、年代以前にそもそも石器なのか否か、議論になっているのに対して、金取遺跡の4万年以上前とされる石器については、石器であることを疑う見解はないようです(上峯., 2020)。したがって、日本列島に4万年以上前に人類は存在しなかった、と主張するならば、金取遺跡の4万年以上前とされる石器について、その年代が4万年前頃以降であることを証明しなければなりません。

 ただ、仮に4万年以上前に日本列島に人類が存在したとしても、おそらく世界でも有数の更新世遺跡の発掘密度を誇るだろう日本列島において、4万年以上前となる人類の痕跡がきわめて少なく、また砂原遺跡のように強く疑問が呈されている事例もあることは、仮にそれらが本当に人類の痕跡だったとしても、4万年前以降の日本列島の人類とは遺伝的にも文化的にも関連がないことを強く示唆します。仮に日本列島における4万年以上前の人類の存在を仮定するならば、中国で中期〜後期更新世のデニソワ人かもしれないホモ属遺骸が複数発見されていることから(関連記事)、デニソワ人かもしれません。あるいは、絶滅したか現代人の主要な祖先ではないかもしれませんが、中国では10万年前頃の現生人類とされる遺骸が発見されているので、現生人類の可能性も考えられますが、その年代はずっと新しいのではないか、と議論になっています(関連記事)。


●後期旧石器時代

 ここでは、4万年前頃から縄文時代の直前までを指します。4万年前頃以降に日本列島に到来した人類集団については、そもそも後期旧石器時代の人類遺骸がほとんど発見されていないため、推測困難です。この時期で最古級となる遺跡が、長野県佐久市の香坂山です。香坂山遺跡では、較正年代で36800年前頃と、日本列島では最古の石刃石器群が発見されており、初期上部旧石器(Initial Upper Paleolithic、略してIUP)に位置づけられています(国武., 2021)。上述のようにDNA(遺伝的構成)と文化とを安易に結びつけてはいませんが、IUPは遺伝的にはユーラシア東部系集団との関連が指摘されています(Vallini et al., 2022)。

 もう少し具体的に見ていくと、4万〜3万年前頃には、現在の北京付近からアムール川流域とモンゴルまで、北京の南西56km にある田园(田園)洞窟(Tianyuan Cave)で発見された4万年前頃の男性個体で表される集団が存在していたようです(Mao et al., 2021)。これを仮に田園洞集団と呼ぶと、田園洞集団はアジア東部大陸部沿岸にまで広く分布していたようですから、日本列島に到来した可能性も充分考えられます。ただ、現代人には殆ど若しくは全く遺伝的影響を残していないようですから(Mao et al., 2021)、4万〜3万年前頃に日本列島に到来した現生人類集団は、縄文時代集団や現代日本人集団とは遺伝的につながっていないかもしれません。

 日本列島で発見された旧石器時代の人類遺骸は、そもそも本州・四国・九州とそのごく近隣の島々を中心とする日本列島「本土」で発見された更新世の人類遺骸が皆無に近いので、ほぼ琉球諸島に限られています。沖縄県石垣島の白保竿根田原洞穴遺跡では、旧石器時代の6個体のmtDNAが解析され、mtHgはM7aとB4とRに分類されていますが、琉球諸島現代人のゲノム解析から、旧石器時代琉球諸島の人類集団は、琉球諸島現代人の祖先ではなさそうだ、と推測されています(松波., 2020)。他にmtDNAが解析された更新世琉球諸島の人類遺骸としては、沖縄県島尻郡八重瀬町の港川フィッシャー遺跡で発見された2万年前頃の港川1号があり、そのmtHgはMの基底部近くに位置する、と推測されています(Mizuno et al., 2021)。この個体がその後の琉球諸島、さらには日本列島の人類集団と遺伝的につながっているのか否かは、mtHgからは判断できません。


●縄文時代

 縄文時代は、草創期(16500〜11500年前頃)→早期(11500〜7000年前頃)→前期(7000〜5470年前頃)→中期(5470〜4420年前頃)→後期(4420〜3220年前頃)→晩期(3220〜2350年前頃)と一般的に区分されています(山田., 2019)。縄文時代の開始を、土器が出現した16500年前頃とするのか、生態系・石器組成の変化や竪穴住居の定着などに基づいて13000〜11000年前頃とするのか、議論がありますが(関連記事)、草創期を旧石器時代から縄文時代への移行期とする見解もあります(山田., 2019)。

 現時点で解析されている縄文文化関連個体のゲノムデータからは、縄文時代の人類集団は時空間的に広範囲にわたって、既知の現代人および古代人集団と比較して一まとまりを形成し、遺伝的には比較的均一と考えられます(Cooke et al., 2021)。これは、縄文文化がほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、とする考古学的知見と整合的です(水ノ江., 2022)。ただ、mtHgでは地域差が指摘されており(篠田.,2019,P165-170)、核ゲノムでも地域差が示唆されています(Cooke et al., 2021)。とくにmtHgの地域差は、「縄文人」集団の形成過程を解明するうえで、重要な手がかりになるかもしれません。

 このように、「縄文人」集団は既知の現代人および古代人集団と比較して遺伝的に特異な存在と言えるかもしれませんが、ユーラシア東部系集団の変異内に収まっていますし、上述の田園洞集団のように、後期更新世〜初期完新世にかけては現生人類でも、現代人への遺伝的影響が小さいか、ほぼ絶滅してしまった集団は世界各地で珍しくありませんでした(関連記事)。その意味で、現代ではほぼ日本列島にしてその遺伝的痕跡を残しておらず、それもアイヌ集団を除けば遺伝的影響がかなり小さいと考えられる「縄文人」集団も、現生人類の歴史では特別な存在とは言えないでしょう。むしろ、今後ユーラシア東部圏やオセアニアの人類史で問題となるのは、現代人の主要な祖先集団がいつどのような経路で現代の分布地域に到来したのか、ということだと思います。

 現時点で最古となるゲノム解析された縄文時代の個体は、愛媛県久万高原町の上黒岩岩陰遺跡で発見された女性で、較正年代で8991〜8646年前頃となります。この個体のゲノムはすでに典型的な「縄文人」的構成要素を示しており、遅くとも9000年前頃までには、「縄文人」的な遺伝的構成の集団が形成されており、日本列島に存在したのでしょう。ただ、早期の時点で日本列島全域の縄文文化関連集団がすでに遺伝的に比較的均一だったのかは不明です。

 「縄文人」的な遺伝的構成の集団がどのように形成されたのかは、不明です。これについては大きく二つに分けられ、一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部現代人の主要な祖先集団(MAEE集団)の祖先系統と20000〜15000年前頃に分岐した、とするものです(Cooke et al., 2021)。もう一方は、「縄文人」的祖先系統がユーラシア東部系の遺伝的に大きく異なる祖先系統との混合により形成された、というものです(Wang CC et al., 2021)。前者の場合、どこで分岐し、いつ日本列島に到来したのか、後者の場合、いつどこで混合して日本列島に到来したのか、あるいは日本列島で混合した場合、各集団はいつ日本列島に到来して混合したのか、という問題がありますが、現時点ではよく分かりません。以下は、後者の見解を図示したWang CC et al., 2021の図2です。
画像

 愛知県田原市の伊川津貝塚遺跡の縄文文化関連個体(IK002)のゲノム解析結果を報告した研究(Gakuhari et al., 2020)は、遺伝的に古代北ユーラシア人(Ancient North Eurasian、略してANE)に分類される、シベリア南部のマリタ(Mal’ta)遺跡で発見された24000年前頃となる1個体(MA1)関連祖先系統からの遺伝子流動の痕跡がほとんど検出されなかったことから、「縄文人」が南回り(ヒマラヤ山脈以南)でユーラシア西方から日本列島へと到来した、と推測します。ANEはユーラシアの現代人でも東部より西部の方と近く、現代のアメリカ大陸先住民の主要な祖先の一部となりました(Sikora et al., 2019)。

 一方で、同じくANEに分類される、ヤナ犀角遺跡(Yana Rhinoceros Horn Site、略してヤナRHS)の31600年前頃の個体は、日本人や他のアジア南東部および東部現代人と遺伝的に比較して「縄文人」と有意に密接なので、ANEと「縄文人」との間の遺伝子流動が推測されています(Cooke et al., 2021)。これらの知見をどう解釈すべきか、難しいところですが、ヤナRHS個体とMA1との間に直接的な祖先・子孫関係はなさそうですから(Sikora et al., 2019)、MA1と異なるヤナRHS個体のゲノムの祖先系統の一部に、「縄文人」の祖先と共通するものがあるのでしょうか。この問題は、「縄文人」集団の遺伝的形成過程解明の手がかりになるかもしれません。

 結局のところ、「縄文人」集団がどのように形成されたのか、現時点では不明ですが、北海道の礼文島の船泊遺跡で発掘された3800年前頃の縄文時代個体のゲノムデータを報告した研究(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)で、アジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が報告されていたことは注目されます。その後の研究(Wang CC et al., 2021)では、ロシア極東沿岸部のボイスマン(Boisman)遺跡の6300年前頃となる中期新石器時代集団(ボイスマン_MN)のゲノムが、モンゴル新石器時代集団関連祖先系統87%と「縄文人」関連祖先系統13%でモデル化されました。また朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムは、0〜95%の「縄文人」関連祖先系統と、西遼河地域の紅山(Hongshan)文化個体関連祖先系統でモデル化できます(Robbeets et al., 2021)。

 上述のように、現在の考古学的知見では、縄文文化はほぼ現在の日本国の領土に限定されており、他地域との相互作用は低調だった、と考えられており、これらの地域で縄文文化が大きな影響力を有して根づいたとはとても言えないでしょうが、朝鮮半島南岸については、0.1%程度の推定割合ながら縄文土器が出土しており(水ノ江., 2022)、「縄文人」が九州から朝鮮半島南岸へと渡り、さらに朝鮮半島南岸の新石器時代の個体群のゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統から考えると、一定の遺伝的影響を残した可能性は高そうです。

 しかし、これら日本列島外の縄文時代相当期間の個体群のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統が、縄文時代の日本列島の個体からもたらされたものかどうかは、検討の余地があります。最近の研究(Huang et al., 2022)は、先行研究(Wang CC et al., 2021)と同じく「縄文人」祖先系統の形成を、遺伝的に大きく異なる2つの祖先系統の混合としてモデル化していますが、先行研究よりも複雑になっています。その研究では祖先系統の分岐について、ユーラシア東部系が、まず初期ユーラシア東部系と初期アジア東部系に分岐し、初期アジア東部系が南北に分岐して、南部系は南部(内陸部)系と沿岸部系(アジア東部沿岸部祖先系統)に分岐します。「縄文人」関連祖先系統は、アンダマン諸島のオンゲ人関連祖先系統に比較的近い初期ユーラシア東部祖先系統(54%)とアジア東部沿岸部祖先系統(46%)の混合とモデル化されています(Huan et al., 2022図4)。以下はHuang et al., 2022の図4です。
画像

 Huang et al., 2022では、ボイスマン_MNはアジア東部北部祖先系統(71%)とアジア東部沿岸部祖先系統(29%)の混合とモデル化されています。つまり、先行研究で推定されたボイスマン_MNのゲノムにおける13%程度の「縄文人」関連祖先系統は、「縄文人」から直接的もしくは朝鮮半島経由でもたらされたのではなく、「縄文人」のゲノムにおける一方の主要な祖先系統を、ボイスマン_MNも約30%と比較的高い割合で有していることに起因しており、ボイスマン_MNと「縄文人」との直接的な関連はなかったのかもしれません。これは朝鮮半島南岸新石器時代個体群にも言えて、これらの個体のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統は、日本列島の縄文時代の個体からもたらされたものではないかもしれません。

 ただ、ボイスマン_MNには外れ値個体(ボイスマン_MN_o)があり、ロシア極東沿岸のレタチャヤ・ミシュ(Letuchaya Mysh)の7000年前頃となる狩猟採集民1個体(レタチャヤミシュ_7000年前)とともに、そのゲノムの30%程度が「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます(Wang K et al., 2023)。また、上述のように、朝鮮半島南岸新石器時代には、そのゲノムの95%を「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が確認されており、具体的には、後期新石器時代の欲知島(Yokchido)遺跡の個体です(Robbeets et al., 2021)。これら一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でゲノムをモデル化できる個体、とくに欲知島遺跡個体は、その地理的近さと、ひじょうに少ないものの縄文文化の考古資料が朝鮮半島南岸で発見されていること(水ノ江., 2022)から、日本列島の縄文時代の個体が朝鮮半島に到来して遺伝的影響を残した結果かもしれません。

 ただ、ロシア極東沿岸の2個体(ボイスマン_MN_oとレタチャヤミシュ_7000年前)のゲノムが30%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることの意味は、よく分かりません。朝鮮半島南岸も関わる何からのつながりがあったのか、あるいはアジア東部大陸部の南方から北方までの沿岸集団と「縄文人」との遺伝的類似性が、更新世にまでさかのぼる複雑なもので、それも反映しているのかもしれません。この関連で注目されるのは、アムール川流域の11601〜11176年前頃の1個体(AR11K)のYHgがDEに分類されていることです。現代人と古代人の分布頻度から、更新世のアムール川流域にYHg-Eの個体が存在したとは考えにくいため恐らくはYHg-Dで、少ない個体の中で見つかったことは、当時まだ日本列島以外のアジア東部大陸部沿岸にもYHg-Dが現在以上の頻度で存在したことを示唆しており、それは「縄文人」集団の形成過程とも関わってくるかもしれません。

 つまり、YHg-D1a2aは日本列島と(日本列島から流入した)朝鮮半島(南部もしくは南岸)にしか存在せず、「縄文人」の指標となるYHgとするような通俗的見解がネットでは散見されるものの、縄文時代の日本列島から朝鮮半島に渡り、弥生時代以降に日本列島へと「逆流」した系統や、アジア東部大陸部沿岸から朝鮮半島などを経て弥生時代以降に日本列島到来した系統など、現代日本人のYHg-D1a2aでは、直接的には「縄文人」に由来しない割合も一定以上あるのではないか、というわけです。これは、日本人のYHgの詳しい分析と、分布頻度および分岐推定年代の精緻化と、古代DNA研究による裏づけで証明されていかねばならず、現時点では思いつきにすぎないことも否定できません。


●弥生時代

 弥生時代の開始については、言語学的知見も踏まえた考古学的観点から、日本語系統(日琉語族)系統の流入との関わりが指摘されています(Miyamoto., 2022)。それによると、日本語祖語は偏堡(Pianpu)文化の紀元前2700年頃の遼西地区東部もしくはマンチュリア南部の遼河流域に起源があり、紀元前1500年頃に朝鮮半島北部〜中央部のゴングウィリ(Gonggwiri)式土器を介して朝鮮半島南部の無文(Mumun)文化を形成し、この頃に磨製石器を伴う稲作など灌漑農耕が山東半島から遼東半島経由で朝鮮半島南部へと広がり、紀元前9世紀に九州北部へと広がり弥生文化の形成に至って、日本列島在来の「縄文語」系統を(北海道を除いてほぼ)やがて駆逐した、とされます(Miyamoto., 2022)。一方、朝鮮語祖語もマンチュリア南部とその周辺に起源があり、現在の北京付近に位置した、いわゆる戦国の七雄の一国である燕の東方への拡大に圧迫されて朝鮮半島へと移動し、その考古学的指標は紀元前5世紀頃の粘土帯土器(rolled rim vessel、Jeomtodae)文化になり、やがて朝鮮半島から日本語系統を駆逐した、と指摘されています(Miyamoto., 2022)。つまり、マンチュリア南部とその周辺から、まず紀元前二千年紀半ばに日本語系統が朝鮮半島へと到来し、その後で九州北部に広がったのに対して、朝鮮語系統は紀元前千年紀半ばに朝鮮半島へ到来した、というわけです。こうした言語学的知見も踏まえた考古学的見解が、古代ゲノム研究でも裏づけられるのかどうか、以下で整理します。

 弥生文化関連個体群の最大の遺伝的特徴は、その差異の大きさです。弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、MAEE集団(ユーラシア東部現代人の主要な祖先集団)から派生したアジア東部北方系(NEA)集団関連祖先系統と、「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化できますが、その割合が個体により大きく異なり、現代日本人集団の平均10%前後と同等か、それよりやや低いか、20%程度とやや多いか、40〜50%程度と明らかに多いなどさまざまで(Robbeets et al., 2021)、弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性はこうした差異を反映しています。さらに、弥生時代早期となる佐賀県唐津市大友遺跡で発見された女性個体(大友8号)は、既知の「縄文人」と遺伝的に一まとまりを形成し(神澤他., 2021a)、これは、東北地方の弥生時代の男性個体も同様です(篠田.,2019,P173-174)。また、鳥取県鳥取市(旧気高郡)青谷町の青谷上寺地遺跡で発見された13個体も遺伝的差異を示しており、1ヶ所の遺跡でも遺伝的不均一性の相対的な高さが示されています(神澤他., 2021b)。つまり、弥生文化関連個体群のゲノムは基本的に、NEA集団関連祖先系統と「縄文人」関連祖先系統の混合でモデル化でき、現代日本人集団と同様にNEA集団関連祖先系統の割合が高い個体が多いものの、「縄文人」関連祖先系統の割合は10%程度から100%までさまざまとなり(0%の個体群が存在した可能性も考えられます)、それが弥生文化関連個体群の遺伝的不均質性を反映している、というわけです。あるいは、日本列島の人類史上、弥生時代は最も遺伝的不均質性の高い期間だったかもしれません。

 このNEA集団関連祖先系統はさらに区分されています。上述のように、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群は、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統でモデル化できますが、上述のように、このEAN集団関連祖先系統を紅山文化個体関連祖先系統とされています(Robbeets et al., 2021)。一方で、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる、と指摘されています(Robbeets et al., 2021)。これは、朝鮮半島南岸の新石器時代個体群が、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団の主要な祖先ではなかったことを示唆します。しかし、この研究については、競合する混合モデルを区別する解像度が欠けていて、紅山文化個体関連祖先系統と夏家店上層文化個体関連祖先系統は朝鮮半島と日本列島の古代人と遺伝的に等しく関連しており、家店上層文化個体関連祖先系統を選択的に割り当てられた集団は、家店上層文化個体関連祖先系統の代わりに紅山文化個体関連祖先系統でも説明できる、との批判があります(Tian et al., 2022)。

 そもそも上述のように、弥生時代以降の日本列島「本土」の人類集団のゲノムは、高い割合の夏家店上層文化個体関連祖先系統でモデル化できる、と指摘した研究(Robbeets et al., 2021)が示しているのは、現代日本人集団の主要な直接的祖先が夏家店上層文化集団だったことではなく、既知の古代人集団では夏家店上層文化集団が最適な代理となり得る、ということです。したがって、Tian et al., 2022の指摘から、現代日本人集団の主要な直接的祖先は、紅山文化集団や家店上層文化集団と類似しているものの異なる別の集団だった、と示唆されます。これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と親和的というか、少なくとも矛盾はしません。EAN集団関連祖先系統のより詳細で適切な区分と、それに基づく古代人および現代人の集団のゲノムの適切なモデル化には、時空間的により広範囲の、さらに多くの古代人のゲノムデータが必要になるでしょう。

 上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解との関連で注目されるのは、日本列島の弥生時代と古墳時代では、人類集団のゲノムが「縄文人」関連祖先系統とEAN集団関連祖先系統の混合(割合は異なります)でモデル化できることは同じであるものの、後者には違いが見られる、と指摘されていることです(Cooke et al., 2021)。つまり、EAN集団関連祖先系統でも、弥生時代の人類集団の場合には西遼河の中期新石器時代もしくは青銅器時代個体群関連祖先系統(アジア北東部祖先系統)により適切に表され、古墳時代の人類集団の場合には高い割合の黄河流域集団関連祖先系統(アジア東部祖先系統)と低い割合のアジア北東部祖先系統により適切に表されます。ただCooke et al., 2021では、これらの祖先系統がアムール川流域と西遼河地域と黄河流域との間の複雑な相互作用により形成された(Ning et al., 2020)、という大前提があります。弥生時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア北東部祖先系統との間の混合が3448±825年前、古墳時代の人類集団に関しては、「縄文人」祖先系統とアジア東部祖先系統の混合は1748±175年前と推定されています(Cooke et al., 2021)。

 これは、上述の言語学的知見も踏まえた考古学的見解と関連しているかもしれません。つまり、朝鮮半島における紀元前5世紀頃以降の朝鮮語系統の拡大と日本語系統の衰退を遺伝的に反映しているのが、アジア東部祖先系統の割合増加とアジア北東部祖先系統の割合低下で、それが日本列島の弥生時代と古墳時代の人類集団のゲノムにおけるEAN集団関連祖先系統の違いに示されているのではないか、というわけです。ただ、そうした変化が日本列島に反映されたのは弥生時代後期までさかのぼるかもしれませんし、弥生時代以降の朝鮮半島から日本列島への移住の波が、ある程度連続的で一定していたのか、一回もしくは複数回の大きなものだったのかは、もっと時空間的に広範囲の古代人のゲノムデータが多く分析されないと、推測は困難です。ただ、Cooke et al., 2021は、弥生時代の人類集団を、「縄文人」関連祖先系統の割合が高めの長崎県佐世保市の下本山岩陰遺跡の2個体(篠田他., 2019)で代表させており、下本山岩陰遺跡の2個体の前に、現代日本人程度の割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノム有する個体が存在すること(Robbeets et al., 2021)も考慮して、弥生時代の人類集団の形成過程とその差異を検証しなければならないでしょう。


●古墳時代以降

 上述のように、弥生時代は人類集団の遺伝的差異が大きく、それはゲノムにおけるさまざまな割合の「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統により説明できます。Cooke et al., 2021は、現代「本土」日本人集団的な遺伝的構成が古墳時代に成立したことを指摘しますが、弥生時代よりは縮小していたかもしれないにしても、複数の研究から、古墳時代も人類集団の遺伝的差異が大きかった、と示唆されます。現代「本土」日本人集団と同じような割合の「縄文人」関連祖先系統をゲノムに有する個体としては、古墳時代前期となる香川県高松市の高松茶臼山古墳の男性被葬者(茶臼山3号、神澤他., 2021c)や、島根県出雲市猪目洞窟遺跡で発見された古墳時代末期(猪目3-2-1号)と奈良時代(猪目3-2-2号)の被葬者(神澤他., 2021d)が挙げられます。

 一方で、和歌山県田辺市の磯間岩陰遺跡の第1号石室1号(紀元後398〜468年頃)および2号(紀元後407〜535年頃)のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、52.9〜56.4%、2号が42.4〜51.6%と推定されています(安達他.,2021)。後の畿内ではないものの近畿地方において、紀元後5〜6世紀頃においても、このようにゲノムを現代「本土」日本人集団よりもずっと高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる個体が存在することは、日本列島「本土」では古墳時代においても現代より人類集団の遺伝的異質性がずっと高かったことを示唆します。

 現代「本土」日本人集団の基本的な遺伝的構成の確立は、少なくとも平安時代まで視野に入れる必要があり、さらに言えば、中世後期に安定した村落(惣村)が成立していくこととも深く関わっているのではないか、と現時点では予測していますが、この私見の妥当性の判断は、歴史時代も含めた古代ゲノム研究の進展を俟つしかありません。ただ、現在は弥生時代や古墳時代よりも日本列島「本土」人類集団の遺伝的均質性は高くなっているでしょうが、それでも地域差はあり、それは弥生時代や古墳時代と同様に、「縄文人」関連祖先系統とNEA集団関連祖先系統の割合の違いを反映しているのでしょう(Watanabe, and Ohashi., 2023)。

 この点で注目されるのは、古墳時代の日本列島と同時代の朝鮮半島との関係です。朝鮮半島の三国時代の伽耶に関して、その政治的中心地であった金海(Gimhae)の大成洞(Daesung-dong)にある支配者の大規模な3700m²にもなる埋葬複合施設で発見された、紀元後4〜5世紀頃の8個体のゲノムが解析されました(Gelabert et al., 2022)。この8個体は遺伝的に、6個体から構成されるクレード(単系統群)1と2個体から構成されるクレード2に分類されます。クレード1のゲノムは、後期青銅器時代〜鉄器時代黄河流域集団関連祖先系統(93±6%)と「縄文人」関連祖先系統(7±6%)でモデル化できます。クレード2のゲノムは、朝鮮半島中期新石器時代個体100%でモデル化できますが、中国北部集団関連祖先系統(70±8%)もしくは遼河流域青銅器時代集団関連祖先系統(66±7%)と、残りの「縄文人」関連祖先系統でモデル化できます。つまり、クレード2のゲノムは30%前後の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるわけです。

 Gelabert et al., 2022は、朝鮮半島南岸の紀元後4〜5世紀頃の人類集団のゲノムに存在していた「縄文人」関連祖先系統について、朝鮮半島南岸において新石器時代から三国時代まで存続した可能性を指摘しますが、新石器時代以降のどこかの時点で途絶え、弥生時代や古墳時代の日本列島から改めてもたらされた可能性も検証に値するとは思います。これは、朝鮮半島において日本語系統の言語がいつ完全に消滅したのか、さらには伽耶諸国に対する「日本」というかヤマト王権の影響がいかなるものだったのか、という問題とも関わっているかもしれません。つまり、ヤマト王権と伽耶諸国との深い結びつきは、言語的近縁性に基づく根深いもので、日本列島で勢力を拡大したヤマト王権が朝鮮半島にまで影響力を及ぼした、と単純には解釈できないかもしれないことを示唆します。

 また、朝鮮半島南岸に新石器時代以降ずっと、ゲノムを一定以上の割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できる人類集団が存在したとしたら、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は一定以上、朝鮮半島南岸新石器時代集団に由来するかもしれません。つまり、「縄文人」を縄文文化関連個体と規定すれば(この規定は無理筋ではないはずです)、現代の日本列島「本土」集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は、現在の推定(上述のように地域差はもちろんありますが、10%前後)よりずっと少なかったかもしれず、縄文時代と現代との間で日本列島の人類集団では遺伝的にほぼ全面的な置換が起きたことになります。まあ、現代日本人集団のゲノムにおける縄文人的構成要素の割合が平均して10%程度だとしても、全面的な置換に近い、と言えそうですが。

 一方、韓国の西部沿岸地域に位置する全羅北道(Jeollabuk-do)群山(Gunsan)市の堂北里(Dangbuk-ri)遺跡の紀元後6世紀半ば頃となる6個体のゲノム解析結果(Lee et al., 2022)は、これら6個体が西遼河地域青銅器時代集団関連祖先系統、もしくは追加の低い割合の中国南部の福建省の渓頭(Xitoucun)遺跡の後期新石器時代個体関連祖先系統でモデル化でき、「縄文人」関連祖先系統の統計的に有意な寄与が検出されませんでした。ただ、遺伝的な北方の代理を内モンゴル自治区の中期新石器時代個体群へと置き換えると、堂北里遺跡の6個体と韓国の蔚山広域市の現代人のゲノムにおける、少ないものの有意な量の「縄文人」関連祖先系統の寄与が検出されます。しかし、地理的および時間的近接性を考慮すると、西遼河地域青銅器時代集団が古代および現代の朝鮮人にとってより適切なモデルを提供している、と考えられます。つまり、遅くとも紀元後6世紀半ば頃には、「縄文人」関連祖先系統がほぼ検出されないような現代朝鮮人とよく似た遺伝的構成の集団が存在していたわけです。この集団の言語は恐らく朝鮮語系統だったでしょうが、当時の朝鮮半島の人類集団の遺伝的構成の地域差については、もっと多くの古代ゲノムデータが必要となり、朝鮮半島の人類集団における「縄文人」関連祖先系統の消滅時期も現時点では不明です。


●琉球諸島と北海道

 沖縄諸島に関しては、グスク時代の人類集団とそれより前の人類集団とでは形質的にかなり異なっており、近世集団は古墳時代集団や鎌倉時代集団に近い、との形質人類学の研究成果と、上述の、グスク時代に農耕の開始やアジア東部大陸部の陶磁器など外来要素が突如出現した、との考古学的知見から、貝塚時代末期以降に外部、おそらくは古代末期〜中世初期以降の九州本島から沖縄諸島への人類の流入がかなりあったのではないか、と推測されています(高宮., 2014)。上述のように、奄美・沖縄諸島と先島諸島が初めて一つの文化圏となったのもこの頃で、先島諸島においては、紀元前千年紀の個体ではゲノムがほぼ完全に「縄文人」関連祖先系統でモデル化できましたが、近世には琉球諸島の現代人のような遺伝的構成(高い割合のNEA集団関連祖先系統と低い割合の「縄文人」関連祖先系統)の個体が確認されています(Robbeets et al., 2021)。

 琉球諸島の現代人集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統の割合は27%程度と推定されており(Kanzawa-Kiriyama et al., 2019)、古代末期〜中世初期以降の九州本島から沖縄諸島へ到来した人類集団のゲノムが、20%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できるとすると、琉球諸島の現代人集団のゲノムは、古代末期〜中世初期以降の九州本島集団関連祖先系統(80〜90%)と貝塚時代集団関連祖先系統(10〜20%)の混合としてモデル化できそうです。琉球諸語は貝塚時代集団の言語と古代末期〜中世初期の九州本島集団の言語の混合により成立したのでしょうか、基本的には日本語系統に分類されることからも、日本(ヤマト)文化の影響が圧倒的に強かった、と推測されます。つまり、遺伝的にも文化的にも、近世以降の琉球諸島集団について縄文時代(というか貝塚時代)からの強い連続性を想定することは難しいように思います。

 現代アイヌ集団については、「縄文人」集団との強い遺伝的連続性がネットでもよく指摘されており、その根拠は、アイヌ集団のゲノムが66%程度と高い割合の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できることです。しかし、上述のように、遺伝学的研究だけでアイヌ集団と「縄文人」集団との連続性を証明できるわけではなく、考古学など他分野の研究成果も踏まえて初めて、きわめて蓋然性の高い推測になっていることに注意すべきでしょう。また、アイヌ集団の遺伝的な地域差がどの程度あるのか、現時点ではよく分かりません。オホーツク文化関連個体の研究(Sato et al., 2021)から、アイヌ集団は遺伝的に、「縄文人」集団とオホーツク文化集団と日本列島「本土」集団の関連祖先系統の混合でモデル化できる、と提案されています。その関連祖先系統の割合は、ゲノムをほぼ「縄文人」関連祖先系統でモデル化できそうな続縄文文化もしくは擦文文化集団から49%、オホーツク文化集団から22%、日本列島「本土」集団から29%程度です。もちろん、上述のように、この割合には地域差があるかもしれません。

 オホーツク文化集団のゲノムは11%程度の「縄文人」関連祖先系統でモデル化でき、上述のように弥生時代以降の日本列島「本土」集団のゲノムも少ない割合ながら一定以上の「縄文人」関連祖先系統でモデル化できますから、アイヌ集団のゲノムにおける「縄文人」関連祖先系統のうち一定の割合(10〜15%程度?)は、オホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団に由来する可能性が高そうです。もちろん、アイヌ集団の祖先と混合したオホーツク文化集団および弥生時代以降の日本列島「本土」集団にも地域差があったでしょうから、具体的な割合の推測は困難ですが。つまり、ネット上では、現代アイヌ集団のゲノムにおける「7割」という「高い割合」の「縄文人」要素を根拠に、「縄文人」集団から現代アイヌ集団への連続性を主張する見解も散見されるものの、そんな単純な話ではないだろう、というわけです。

 もちろん、上述のように、遺伝というかDNAと文化や民族とを安易に関連づけてはならないことが大前提で、DNAと文化とのさまざまな関連(関連記事)からも、遺伝的影響の大小と文化的影響の大小を安易に関連づけてはならないことが示唆されます。その上で、オホーツク文化が紀元後10世紀以降に擦文文化から人工物や生産・生業技術や居住パターンや生計戦略などの数々の要素を段階的に受け入れ、トビニタイ文化を経て最終的に擦文文化に吸収・同化されていき、少なくとも物質文化側面では、擦文文化そのものと区別がつかないものになったこと(大西., 2019)と合わせて考えると、縄文時代から続縄文時代経て擦文文化期へと続いた北海道を中心に分布した地域集団がオホーツク文化集団に対して優位に立ち、これを同化していった可能性が高そうです。つまり、アイヌ集団の言語は恐らく縄文時代の北海道の(特定の?)人類集団に由来し、その文化・民族性を縄文文化と切断する見解は妥当ではないだろう、というわけです。もちろん、アイヌ集団がオホーツク文化やアジア東北部大陸部の人類集団から大きな文化的影響を受けなかったわけではないでしょう。


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Harris EE.著(2016)、水谷淳訳『ゲノム革命 ヒト起源の真実』(早川書房、原書の刊行は2015年)
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安達登、神澤秀明、藤井元人、清家章(2021)「磯間岩陰遺跡出土人骨のDNA分析」清家章編『磯間岩陰遺跡の研究分析・考察』P105-118
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瀬川拓郎(2019)「アイヌ文化と縄文文化に関係はあるか」北條芳隆編『考古学講義』第2刷(筑摩書房、第1刷の刊行は2019年)P85-102
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高宮広土(2014)「奄美・沖縄諸島へのヒトの移動」印東道子編『人類の移動誌』初版第2刷(臨川書店)第3章「日本へ」第5節P182-197
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水ノ江和同(2022)『縄文人は海を越えたか 言葉と文化圏』(朝日新聞出版)
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https://sicambre.seesaa.net/article/202306article_11.html

307. 保守や右翼には馬鹿し[239] lduO54LiiUWXg4LJgs2Ubo6tgrU 2023年6月16日 23:13:26 : pPPF1fK2NA : L3BWSVRFdm5scGc=[2] 報告
<■178行くらい→右の▽クリックで次のコメントにジャンプ可>
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
橘玲、人類学者・篠田謙一対談(後編)
https://diamond.jp/articles/-/306767

2022.7.26 4:10
「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説

化石となった人骨のゲノム(遺伝情報)を解析できるようになり、数十万年に及ぶ人類の歩みが次々と明らかになってきた。自然科学に詳しい作家・橘玲(たちばな・あきら)氏が、国立科学博物館の館長でもある遺伝人類学者・篠田謙一氏に、人類の歴史にまつわる疑問をぶつける特別対談。後編では、日本人の歴史に焦点を当てる。現在の日本人に連なるいにしえの人々は、いったいどこからやって来たのだろうか――。(構成/土井大輔)


日本人のルーツは?
縄文人のDNAから考える
橘玲氏(以下、橘) 日本人の話題に入りたいと思います。6万年ほど前に出アフリカを敢行した数千人のホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人やデニソワ人などの旧人と各地で出会い、交わりながらユーラシア大陸を東に進んでいきます。その東端にある日本列島に到達した人たちが縄文人になるわけですが、主要なルートは朝鮮半島経由とシベリア経由と考えていいんでしょうか。

篠田謙一氏(以下、篠田) ほぼその通りですね。5万年くらい前、人類は東南アジアから海岸伝いに北に上がってくるんです。そのころは中国大陸の海岸線が今より広がっていて、朝鮮半島も台湾も大陸の一部でした。日本列島は孤立していますけれど、今より大陸との距離は近かったんですね。


大陸で数万年間かけて分化していった集団が、北方からであったり朝鮮半島経由であったり、複数のルートで日本列島に入ってきた。それがゆるやかに結合することで出来上がったのが縄文人だと考えています。

 私たちは北海道の縄文人のDNAを多く解析したんですけども、そこには(ロシア南東部の)バイカル湖周辺にあった遺伝子も多少入っているんです。もしかすると、ユーラシア大陸を北回りで東にやって来た人たちの遺伝子も、東南アジアから来た人たちと混血して、日本に入ってきたのではないかと考えています。

橘 中国も唐の時代(618年〜907年)の長安には、西からさまざまな人たちが集まっていたようですね。

篠田 大陸は古い時代からヨーロッパの人たちと遺伝的な交流があったと思いますよ。例えばモンゴルは、調べてみるととても不思議なところで、古代からヨーロッパ人の遺伝子が入っています。陸続きで、しかも馬がいる場所ですから、すぐに遺伝子が伝わっていくんです。

橘 ということは、長安の都を金髪碧眼(へきがん)の人たちが歩いていたとしても、おかしくはない。

篠田 おかしくはないですね。ただ、それが現代の中国人に遺伝子を残しているかというと、それはないようですけれども。

弥生人の定説が
書き換えられつつある
橘 日本の古代史では、弥生時代がいつ始まったのか、弥生人はどこから来たのかの定説が遺伝人類学によって書き換えられつつあり、一番ホットな分野だと思うのですが。

篠田 そう思います。

「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
弥生時代以降の日本列島への集団の流入(『人類の起源』より)
https://diamond.jp/articles/-/306767?page=2


橘 篠田さんの『人類の起源』によれば、5000年くらい前、西遼河(内モンゴル自治区から東に流れる大河)の流域、朝鮮半島の北のほうに雑穀農耕民がいて、その人たちの言葉が日本語や韓国語の起源になったというのがとても興味深かったんですが、そういう理解で合っていますか?


篠田 私たちはそう考えています。1万年前よりも新しい時代については、中国大陸でかなりの数の人骨のDNAが調べられているので、集団形成のシナリオがある程度描けるんです。その中で、いわゆる渡来系といわれる弥生人に一番近いのは、西遼河流域の人たちで、黄河流域の農耕民とは遺伝的に少し異なることがわかっています。

橘 黄河流域というと、今でいう万里の長城の内側ですね。そこでは小麦を作っていて、西遼河の辺りはいわゆる雑穀だった。

篠田 まあ、中国でも小麦を作り始めたのはそんなに昔ではないらしいんですが、違う種類の雑穀を作っていたんでしょうね。ただ陸続きで、西遼河も黄河も同じ農耕民ですから、全く違ったというわけではなくて、それなりに混血して、それが朝鮮半島に入ったというのが今の説なんです。

 さらに誰が日本に渡来したのかっていうのは、難しい話になっています。これまではいわゆる縄文人といわれる人たちと、朝鮮半島で農耕をやっていた人たちは遺伝的に全く違うと考えられてきたんですね。それがどうも、そうではなさそうだと。

 朝鮮半島にも縄文人的な遺伝子があって、それを持っていた人たちが日本に入ってきたんじゃないかと。しかもその人たちが持つ縄文人の遺伝子の頻度は、今の私たちとあまり変わらなかったんじゃないかと考えています。

橘 「日本人とは何者か」という理解が、かなり変わったんですね。

篠田 変わりました。特に渡来人の姿は大きく変わったと言ってよいでしょう。さらに渡来人と今の私たちが同じだったら、もともと日本にいた縄文人の遺伝子は、どこに行っちゃったんだという話になります。

 両者が混血したのだとすれば、私たちは今よりも縄文人的であるはずなんですけども、そうなっていない。ですから、もっと後の時代、古墳時代までかけて、より大陸的な遺伝子を持った人たちが入ってきていたと考えざるを得なくなりました。

橘 なるほど。西遼河にいた雑穀農耕民が朝鮮半島を南下してきて、その後、中国南部で稲作をしていた農耕民が山東半島を経由して朝鮮半島に入ってくる。そこで交雑が起きて、その人たちが日本に入ってきたと。


篠田 日本で弥生時代が始まったころの人骨は、朝鮮半島では見つかってないんですけども、それより前の時代や、後の三国時代(184〜280年)の骨を調べると、遺伝的に種々さまざまなんです。縄文人そのものみたいな人がいたり、大陸内部から来た人もいたり。遺跡によっても違っていて。

橘 朝鮮半島というのは、ユーラシアの東のデッドエンドみたいなところがありますからね。いろいろなところから人が入ってきて、いわゆる吹きだまりのようになっていた。

篠田 しかもそれが完全には混じり合わない状態が続いていた中で、ある集団が日本に入ってきたんだろうと考えています。

橘 その人たちが初期の弥生人で、北九州で稲作を始めたのが3000年くらい前ということですね。ただ、弥生文化はそれほど急速には広まっていかないですよね。九州辺りにとどまったというか。

篠田 数百年というレベルでいうと、中部地方までは来ますね。東へ進むのは割と早いんです。私たちが分析した弥生人の中で、大陸の遺伝子の要素を最も持っているものは、愛知の遺跡から出土しています。しかもこれは弥生時代の前期の人骨です。だから弥生時代の早い時期にどんどん東に進んだんだと思います。

 ただ、九州では南に下りるのがすごく遅いんです。古墳時代まで縄文人的な遺伝子が残っていました。

橘 南九州には縄文人の大きな集団がいて、下りていけなかったということですか。

篠田 その可能性はあります。今、どんなふうに縄文系の人々と渡来した集団が混血していったのかを調べているところです。おそらくその混血は古墳時代まで続くんですけれども。

 当時の日本列島は、ある地域には大陸の人そのものみたいな人たちがいて、山間とか離島には、遺伝的には縄文人直系の人がいた。現在の私たちが考える日本とは全然違う世界があったんだろうと思います。平安時代に書かれた文学なんかは、きっとそういう世界を見たと思うんです。

橘 すごくロマンがありますね。

篠田 今の私たちの感覚では、わからないものなのかなと思いますね。

弥生人の渡来に
中国の動乱が関係?
橘 中国大陸の混乱が、日本列島への渡来に影響したという説がありますよね。3000年前だと、中国は春秋戦国時代(紀元前770〜紀元前221年)で、中原(華北地方)の混乱で大きな人の動きが起こり、玉突きのように、朝鮮半島の南端にいた人たちがやむを得ず対馬海峡を渡った。

 古墳時代は西晋の崩壊(316年)から五胡十六国時代(439年まで)に相当し、やはり中原の混乱で人々が移動し、北九州への大規模な流入が起きた。こういったことは、可能性としてあるんでしょうか。

篠田 あると思います。これまで骨の形を見ていただけではわからなかったことが、ゲノム解析によって混血の度合いまでわかるようになった。今やっと、そういうことがゲノムで紐解ける時代になったところです。

 古墳を見ても、副葬された遺物が当時の朝鮮半島直輸入のものだったり、あるいは明らかに日本で作ったものが副葬されたりしてさまざまです。その違いが埋葬された人の出自に関係しているのか、ゲノムを調べれば解き明かすことができる段階になっています。

橘 イギリスでは王家の墓の古代骨のゲノム解析をやっていて、その結果が大きく報道されていますが、日本の古墳では同じことはできないんですか。

篠田 それをやるには、まず周りを固めることが先かなと思いますね。「ここを調べればここまでわかるんですよ」というのをはっきり明示すれば、やがてできるようになると思います。


政治的な思惑で
調査が進まないプロジェクトも
橘 古墳の古代骨のゲノム解析ができれば、「日本人はどこから来たのか」という問いへの決定的な答えが出るかもしれませんね。中国大陸から朝鮮半島経由で人が入ってきたから、日本人は漢字を使うようになった。ただ、やまとことば(現地語)をひらがなで表したように、弥生人が縄文人に置き換わったのではなく、交雑・混血していったという流れなんでしょうか。

篠田 そう考えるのが自然だと思います。弥生時代の初期に朝鮮半島から日本に直接入ってきたんだとしたら、当時の文字が出てきているはずなんです。ところがない。最近は「硯(すずり)があった」という話になっていて、もちろん当時から文字を書ける人がいたのは間違いないんですが、弥生土器に文字は書かれていません。一方で古墳時代には日本で作られた剣や鏡に文字が書かれています。

橘 日本ではなぜ3世紀になるまで文字が普及しなかったのかは、私も不思議だったんです。

篠田 弥生時代の人たちは稲作を行い、あれだけの土器、甕(かめ)なんかも作りましたから、大陸から持ち込んだ技術や知識は絶対にあったはずなので。いったい誰が渡来したのか、その人たちのルーツはどこにあったのかっていうところを解きほぐすことが必要だと思っています。

「弥生人」の定説に待った、ゲノム解析で迫る日本人の由来の新説
篠田謙一氏の近著『人類の起源』(中央公論新社)好評発売中!
橘 古墳時代に文字を使うリテラシーの高い人たちが大量に入ってきて、ある種の王朝交代のようなものが起きて、『古事記』や『日本書紀』の世界が展開する。縄文から弥生への二段階説ではなく、縄文・弥生・古墳時代の三段階説ですね。

篠田 そうしたことが、おそらくこれからゲノムで読み取れるんだろうなと思います。

 弥生時代、最初に日本に入ってきた人というのは、現在の我々とは相当違う人だったというのが現在の予想です。それを知るには当時の朝鮮半島の状況、弥生時代の初期から古墳時代にかけてどうなっていたのか、人がどう動いたのかをちゃんと調べる必要があるんですが、難しいんですよ。いろいろと政治的な問題もあって。

橘 国家や民族のアイデンティティーに絡んできますからね。

篠田 現地の研究者との間では「この人骨を分析しましょう」という話になるんですけれども、上からOKが出ないわけです。「今この人骨を渡すのは困る」と。それでポシャったプロジェクトがいくつかあって。なかなか進まないんです。

橘 政治の壁を突破して、ぜひ調べていただきたいです。朝鮮半島は「吹きだまり」と言いましたが、日本こそユーラシア大陸の東端の島で、北、西、南などあらゆる方向から人々が流れ着いてきた吹きだまりですから、自分たちの祖先がどんな旅をしてきたのかはみんな知りたいですよね。

篠田 ここから東には逃げるところがないですからね。

 次に「日本人の起源」というテーマで本を書くのであれば、5000年前の西遼河流域から始めようと思っているんです。

 朝鮮半島で何が起こったかわからないので今は書けないんですけれども、そこでインタラクション(相互の作用)があって、今の私たちが出来上がったんだというのがおそらく正しい書き方だと思うんですよね。

橘 それは楽しみです。ぜひ書いてください。

308. 中川隆[-11766] koaQ7Jey 2024年1月19日 19:56:39 : re2B4g0XOQ : L3NkSzlsTW1nbEU=[4] 報告
"未来へのバイオ技術"勉強会「ゲノム歴史学」斎藤 成也 氏(国立遺伝学研究所) (2023年12月5日開催)「ヤポネシアゲノムの全容と今後〜現代人のゲノム解析を中心に」
2023/12/20
https://www.youtube.com/watch?v=GSGABrc93_k

「ヤポネシアゲノムの全容と今後〜現代人のゲノム解析を中心に」
斎藤 成也 氏(大学共同利用機関法人情報・システム研究機構  国立遺伝学研究所
        ゲノム・進化研究系 特任教授(ヤポネシアゲノムPJ領域代表))

309. 安倍晋三🏺[1] iMCUe5BXjk8mIzEyNzk5NDs 2024年2月13日 15:45:43 : WGb1cUyJCI : ZW90MU5Kb2FzLjI=[1] 報告
おい見つけたぞ千葉ザイヌ!よくも荒らしやがって
三足土器が入ってきてないのに遼河のエベンキ系が弥生人な訳ないだろ!
人種と言語を同一視して決めつける間抜けなんて日本と朝鮮だけだぞw

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