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大和朝廷は漢民族?
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/451.html
投稿者 中川隆 日時 2012 年 10 月 16 日 22:06:41: 3bF/xW6Ehzs4I
 

(回答先: 日本語の母体のY-DNA「D」縄文語がホモサピエンスの祖語かもしれない 投稿者 中川隆 日時 2012 年 10 月 15 日 23:51:41)

極東遺伝子度調査 Y-DNA「O」


  長江文明の楚系と思われるY-DNA「O1a」、
         越系と思われるY-DNA「O2a」、
         呉系と思われるY-DNA「O2b」、「O2b1」及び

  黄河系の「O3」の頻度も併せてまとめました。ただし
   黄河系直系のY-DNA「O3a1」と
   黄河系と長江系の交配で分化した「O3a2」はデータが不十分なので見送りました。

  日本はGlobalで発表された12論文から試算した頻度と、県別のデータがあった5論文から県別の人口比率を頻度試算に盛り込んだ人口比率補正した頻度を合わせてリスト化しました。

  Y-DNA「R1b」と世界の覇権を争っているのが黄河系漢系遺伝子Y-DNA「O3」です。
http://galapagojp.exblog.jp/16668161/


●長江文明系の楚系と思われるY-DNA「O1a」の出現する民族はそれほど多くはありません。台湾の先住民が最も頻度が高く、楚が滅んだ際に長江河口から台湾に逃げ込み、島の中で各部族に別れ先住民族化したようです。他に南下した集団もいたようです。

●長江文明系の越系と思われるY-DNA「O2a」は越が滅んだ際に江南に留まり少数民族化した集団もあれば、更に南下しインドにまで逃げた集団も相当多くいます。ドラヴィダ民族の中のタミール系Asur地域民はなんと64%が越系「O2a」遺伝子になっています。この「O2a」がタミール人に水田稲作農耕系の文化と語彙を持ち込んだため、弥生系日本語彙と出自を同じくする長江農耕民系の単語がタミール語に多く残り、大野教授が日本語の祖先はタミール語と誤解する原因になりました。遺伝子調査による民族の逃避・移動がわかった現在では、残念ながらタミール語祖先説は成り立ちません、同様に東北アジア系騎馬民族(Y-DNA「C3c」)も日本列島には入ってきてはいません。


 日本語の祖先はこれまで書いたようにY-DNA「D2」の話していた縄文語です。現在世界でY-DNA「D」語を祖先にしているのは、わかっている範囲ではチベット語と「D*」100%のアンダマン諸島のJarawa族とOnge族だけです。Y-DNA「D」72%の雲南のPumi族は未調査です。つまりY-DNA「D」語は孤立言語です。遺伝子調査で初めて理解できたことです。しかもY-DNA「D」は人類が出アフリカを果たした際の形質を最も残していると欧米の研究者は述べています。ということは縄文語が最も古いホモサピエンスの言葉を残している可能性もあるのです。Jarawa族やOnge族、Pumi族の語彙を徹底的に追いかければ解明できそうですが、日本の御用学者ではない欧米の気鋭の言語学者が研究してくれるとありがたいですね!

  現代アイヌも日本列島人と同じY-DNA「D2」85%の「D」民族ですが、残念なことにオホーツク文化時代に侵略者だった古代ニヴフ族に征服され、熊祭りなどすっかり古代ニヴフ文化(古住シベリア民文化)に変貌してしまっています。言語も恐らく古代ニヴフ語に変わっているでしょう。丹念に追えば語彙には「D」語の痕跡が残っているかもしれません。日本列島のように「D2」が圧倒的な人口多数派だったなら「D」語が残ったかもしれませんが、人口そのものが少なかった北海道では文化も言語も語彙も古代ニヴフ語に変わってしまっている可能性が大です。

●長江文明系の呉系と思われるY-DNA「O2b」は呉が滅んだあと楚や越の遺民や奴隷を交えて、南下した越とは反対の北方に逃げ満州辺りで「O2a」から「O2b」に分化し、稲作適地を求めて南下し韓半島南部で水田稲作農耕をおこない遺伝子は現在に至っています。韓民族の30%を占めるほど韓半島の農民層として定住・定着したようです。「O2b」は更に水田稲作適地を求めてあるいは中華王朝の韓半島出先機関の圧政から逃れるためか南下しボートピープルとして日本列島に逃げ込みここで弥生文化を花咲かせたわけです。この間縄文遺伝子のY-DNA「D2」と密に交配し「O2b1」に分化し、未分化の「O2b」と併せ日本列島でも韓半島とおなじく30%の呉系遺伝子頻度を現在持っています。「O2b」は基本的に満州族、韓(朝鮮)族と日本人(琉球民族も含む)のみに高頻度で現れる特殊な遺伝子子亜型なのです。

  この両民族の30%を占める呉系度が両国の近さの証明であり、縄文遺伝子を持たない韓国が一方で遠い国の証明なのです。しかしどちらも支配層は見事に黄河系「O3」で同じなのです。ここも近さの証明となります。つまり日本人の50%強は韓族と同じ出自を持つ同根なのです。そして漢民族とも同根なのです。残念ながら! なんでこんなに文化が違うのだろう?約50%弱を占める基層の縄文文化のあることが日本を中韓両国とは全く異なる風土を育んでいるのです。3.11でも称賛された日本人の国民性はY-DNA「D2」「C1」「C3a」(及びmtDNA「M」)縄文人が持つどちらかと言うと古代的な民族性なのです。

  そして「C1」と「C3a」も日本独自の遺伝子子亜型で、「C1」は海洋性ハンターで日本人の一部が持つ海洋性気質のオリジンです。「C3a」は同じハンターですが内陸性ハンターです。過去にはナウマン象を追っていたはずです。やはり一部の日本人の持つ大陸性気質のオリジンです。両者は共に彫深顔のいわゆるソース顔イケメンのオリジンなのです。両者はまた縄文土器の製作者という技能集団で、日本人の技能的民族性のオリジンでもあります。隼人・熊襲・蝦夷等の母体のはずです。しかし縄文人のコアであった圧倒的多数派の「D2」はとりえはなさそうですが黙々と働く勤勉な日本人気質のオリジンなのです。

●現在世界の覇権を狙っているのがY-DNA「O3」です。東ユーラシアからオセアニアまで広く進出しています。ニューギニアのY-DNA「C2」92%のDani 族の残り8%は「O3」です。なんでこんなところにまで進出したのか?なにかメリットがあったのか?拉致されたのか?不思議です。

  ともかく純血を守ろうとした「O3」部族は残念ながら少数民族化してしまいましたが、交配をいとわなかった集団は漢族系として現在アジア諸国の支配層として日本を含むアジア各国に君臨しています。大和朝廷族と武士団族は韓半島での勢力争いに敗れて、武力を持った武装勢力として日本列島に流れて侵略したのですが、狩猟用の戦闘力しか持たなかった縄文・弥生交配集団を武力で征服・支配し神話も乗っ取り、大和朝廷を現在にまで存続させるという奇跡を成し遂げたのです。それを認めてきた縄文・弥生交配集団の何とお人好しなことか!? 

  第二次大戦後に一気に縄文・弥生系と侵略者「O3」系との交配が進んだため、現在の日本人は階級意識が薄れていますが、長い間「O3」は支配集団として、身分が違うと称して、交配を拒んできたのです。支配欲の塊の嫌なやつらですが、支配するプロなのです。だからこそ西欧文明の覇者のY-DNA「R1b」と渡り合うことができるのです。
http://galapagojp.exblog.jp/16672971/

 当ブログで報告している縄文人を構成する3種のY-DNAは「D2」、「C1a」及び「C3a」ですが、遺伝子調査のおまけに、日本人のガラパゴス的民族性の基層を担う縄文文化を構成した上記3ハプロタイプの兄弟遺伝子頻度から縄文人近縁度を調べて見ました。

  Y-DNA「D*」、「D1」、D2」と「D3」及び
  Y-DNA「C1」、「C2」
  Y-DNA「C3a」、「C3b」の
  頻度合計順に並べて見ました。

これでわかることは「C」系縄文人の近縁遺伝子が住むのは圧倒的にオセアニアが多いことがわかります。「D」系はスンダランドから北上し東シナ海-黄海ランドからユーラシア大陸極東部に入り羌族、Pumi族などチベット系諸部族となりましたが、「C」系のかなりの部分がスンダランドをそのまま更に東進したようです。北上組みの中からその後寒冷地適応集団「C3c」~「C3f」が生まれました。

 ●日本人でありながら、中国地方の縄文度の低さは目を見はるものがあります。また長江文明の楚系と考えられるY-DNA「O1a」が突出して多いのも中国地方です。大国主神話の特殊性や吉備の豪族一族などもしかすると楚系の文化・部族なのかもしれませんね。ともかく中国地方は日本の中で特異な遺伝子地域であり、遺伝子的に異なる部族が住み独特の華南系文化を立ち上げていた可能性が極めて高いのです。大和朝廷族が韓半島を追い出され流浪の武装集団として大和に向かった時に先住部族として立ちはだかった可能性は極めて高いと思います。もう少し突っ込んで調べる価値はありそうです。

●日本人のガラパゴス的民族性の核をなすのは、縄文系ではなく侵略者系のY-DNA「O3」です。楽浪郡、帯方郡など中華王朝の出先機関が牛耳っていた韓半島での生存競争を勝ち抜くことができず、流れ者武装集団として日本列島に逃げ込んできた戦闘集団の中で最後に勝ち残ったのが大和朝廷族となり、敗れた集団はその他天神集団となったようです。最後に勝ち残った百済系大和朝廷族の親衛隊からのし上がった戦闘要員の中から平氏が生まれ、高句麗から落ち伸びた戦闘集団の中から坂東武者が生まれ、新羅の落ち伸び花朗集団の中から源氏が生まれ、このような韓半島出自のY-DNA「O3」を中心とする武士団族が縄文-弥生交配集団が居住していた地方を制圧し力を蓄えていったようです。

●日本列島はこうして韓半島発のY-DNA「O3」漢族出自の大和朝廷族と武士団族という侵略者達に征服されたのです。そして漢語で読み書きをしていた少数派の征服者は大多数の縄文-弥生集団をコントロールするために漢語を読み下しできるように「かな・カナ」を開発し、縄文系と長江文明・呉・楚・弥生系の神話を盗み取り自分たちの神話に付け加え、大和朝廷族があたかも古代から日本列島を支配していたように神話を改ざんし記紀をでっち上げてきたのです。

●しかし遺伝子調査が明確になるに従い部族の移動が見えてきた現在、記紀の神話の世界の中でイザナミ・イザナギ神話は東ユーラシア大陸に最初に上陸した部族である羌族を核とするY-DNA「D」族の伝承してきた中国神話の伏羲・女媧神話であることが見えてきました。

●大国主神話は呉系か楚系の長江文明系神話で間違いないでしょうが、どちらかは調査ができていません。

過去の神話学は明らかになってきた遺伝子と部族の動きがわからない時代の研究結果ばかりです。新しい遺伝子情報を基に再構築する必要がありそうですね。

●縄文人のコアを形成する子亜型Y-DNA「D2」の兄弟遺伝子ハプロタイプは親亜型の「D*」と子亜型の「D1」と「D3」になります。
  アンダマン諸島の「D*」のOnge族とJarawa族が縄文人祖形の直系子孫であることはいうまでもありません。戦中、日本軍がアンダマン諸島の「D*」を攻撃するという愚行を犯したのは残念ですが、御用学者ではない気鋭の言語学者が「D*」語、「D1」チベット語、「D2」古代アイヌ語(残っているなら...ですが)と生粋の東北弁や沖縄弁を比較言語学で研究すれば日本語の祖形が「D」語であることは証明されると思います。しかし日本の学会は大かた「O3」系御用学者が牛耳っているので都合の悪い説は隠蔽されます。でもいつかはY-DNA「D」語が日本祖語であることが証明されると願っています。

●縄文文化で土器製作技術や狩猟などを担ってきたと考えられる技術戦闘集団は人口的にはマイノリティだった海のハンターY-DNA「C1a」と陸のハンターY-DNA「C3a」です。「D2」と行動を共にし南方から北上し琉球列島に港川人の遺跡を残し日本列島に上陸したプロトオーストラロイドと考えられる「C1a」に最も近い弟遺伝子「C2」は、スンダランドから北上せず東進しオーストラロイドとして現在ニューギニア各地域や他のオセアニア諸島に分布しています。特にインドネシアに属する西ニューギニアのラニ族とTehit族は「C2」100%の生粋の縄文兄弟部族です。

 一方、陸組みの「C3a」は日本列島には上陸せず、一部の「D2」と共に韓半島からユーラシア大陸の内陸に入り大型動物を追ってまだ温暖だったシベリヤに展開しましたが、寒冷化に従い「D2」は当時陸橋だった間宮海峡を渡りサハリンに入り、やはり陸橋だった宗谷海峡から北海道に入り古代アイヌとなり、一部は陸続きだった根室半島かカムチャッカ半島から陸続きだった千島に入り古代千島アイヌになったものと思われます。一方シベリアまで「D2」と行動を共にしていた「C3a」は「D2」とはそれ以上行動を共にせず寒冷化で南下した大型獣を追って南下し韓半島から日本列島に入ったようです。この時に南下せず新天地を求めてY-DNA「Q」や「R1」と共に当時陸続きだったベーリング海峡を渡り広大な大移動を決行したのが「C3b」になります。彼らは土器製作技術集団でもあったため北米南部から中米にかけて縄文土器似の土器を遺跡として残したようです。

●一方、Y-DNA「C3a」のもう一つの弟遺伝子で、南下もせずアメリカ大陸にも渡らずシベリア大地に留まり寒冷地適応をしながら東北アジアに定着したのが後にツングース族やモンゴル族の先祖となったY-DNA「C3c」です。騎馬民族となった彼らは日本列島にも渡り征服したと言う学説が戦後大ブームになりました、遺伝子解析の結果は見事で、征服したのは北海道の古代アイヌ族であり、本土ではなかったことが明解に証明されました。北海道を征服しオホーツク文化を立上げ現代アイヌ人を北方系文化に変えてしまったのは古代ニヴフ族になります。

  残念ながら現代アイヌにどれくらい「D2」文化が残っているかは全く明らかにはなっていません、というより誰も研究していません。熊祭りなどそれほど東北アジア文化に変えられてしまったのです。現代アイヌ自身も「D2」の風俗習慣はもはや全くわからないでしょう。それでもY-DNAの約85%は今でもY-DNA「D2」であり縄文人「D2」と同根なのです。遺伝子は風俗・文化・言語等環境で変わりやすい表面形質ではわからない不変の血統を明らかにするのです。

●しかし本土の「D2」,「C1a」,「C3a」縄文系も、韓半島での勢力争いで敗れ半島を追い出され武装勢力として日本列島に落ちのびてきた落ち武者Y-DNA「O3」の大和朝廷族や武士団族に征服され、結局北海道の「D2」と同じ”被征服者”の運命を歩むことになりましたが、絶対人口が少なく古代ニヴフ文化に埋もれてしまった北海道「D2」文化に対し、本土では圧倒的多数派だった「D2」縄文集団は現代まで基層の縄文文化を我々現代人が感じる縄文精神文化としていまだに維持できています。3.11の時に世界から称賛された日本人の行動様式はこの縄文精神風土そのものなのです。土地に根付き勤勉で黙々と働き抜くのは縄文気質なのです。

●一方海洋性ハンターとして鯨を追ったりマグロを追いかけたり船を操り海の漁を展開する海洋性気質は同じ縄文人の少数派Y-DNA「C1a」がオリジンです。「C1a」縄文人は海に乗り出す海の民でもあるのです。

●もう一方のY-DNA「C3a」は陸のハンターとして大陸を股に掛ける日本人の大陸的な気質のオリジンなのです。「C3b」は北米大陸まで民族移動を行い、「C3c」ジンギスカンはユーラシア大陸を駆け回りヨーロッパまで届くモンゴル帝国を築きヨーロッパに低頻度ではありますがY-DNA「C3c」遺伝子を植え付けることに成功しました。

http://galapagojp.exblog.jp/16831514/

日本民族 Y-DNA調査まとめ 日本人は三重遺伝子構造の民族だ!


日本人が縄文文化系、呉系弥生文化系及び侵略者漢族系の3大遺伝子起源から成り立つことは完全に証明されたと言って良いようです。

  縄文系はさらに「D2」、「C1」及び「C3」の3タイプから構成されることも間違いないようです。当ガラパゴス史観ではこの3タイプは日本列島で1万年間交配しあい、それぞれ子亜型に分化したため、日本列島独自のY-DNAハプロタイプが分化し、韓半島と遺伝子が大きく異なることが証明されました。
  
  Y-DNa「C1」は現在ニューギニアやオーストラリアでオーストラロイドと称される集団の中の海洋性ハンターで、各地に残る鯨漁などの基地は「C1a」の居住地の名残でしょう。Y-DNA「C3a」も内陸型大型獣ハンターで現在のアメリカインディアン「C3b」(ネイティヴアメリカン)が最も近い遺伝子で九州を中心に日本列島に拡大しています。山岳系集団の起源のはずです。このY-DNA「C」はネアンデルタール度が「D2」より高く、日本列島の彫深・鼻高・面長顔のイケメンの起源遺伝子のはずです。(「D2」はジャガイモ顔です)

  遅れて日本列島にボートピープルとして耕作適地を求めて長江→満州→韓半島から南下した呉系長江人の弥生系のコア遺伝子Y-DNA「O2b」は日本列島に上陸後「D2」と密に交配し、稲作が意外に早く東北まで展開された要因となり満州と韓半島には存在しない「O2b1」に分化し、「D2」もさらに新しい子亜型に分化しています。

  このように日本列島独自のY-DNA遺伝子タイプが日本列島の大半を占めることが、似ているようで実はかなり異なる日本人と韓国人の違いとなっています。しかし「O2b1」に分化していない呉系長江人「O2b」も日本列島には或る程度存在することが韓半島との過去の同一呉系水田稲作農耕文化圏に基づく「近さ」の要因になっています。

  そして日本列島で3番目を占めるのが大和朝廷族や武士団族などの韓半島の中華王朝出先機関から生き残りに負けて日本列島に流れてきたY-DNA「O3」漢族の侵略者遺伝子群です。

  Y-DNA「O3」は黄河文化直系のプロト漢族、「O3a1」は華北の周辺民族との交配で生まれた黄河系(華北系)漢族、「O3a2」は黄河系漢族と長江文化華南系との交配漢族になります。漢族は単独遺伝子ではなく、約50%強の「O3XX」亜型群をコアに現在少数民族となっている「O1」「O2」「F」「P」「NO」N」「C3c」など50以上の民族との交配の結果生まれた複雑な遺伝子構成の集団ですが、支配階級は「O3XX」なので「O3」で代表されます(面白いことに他の遺伝子との交配を嫌った純粋「O3」の少数民族もいるのです)。

  いずれにせよ日本列島で検出できる「O3」の子亜型は全て中華大陸で検出できます。つまり韓半島の「O3」とも全く同じです。つまり「O3」漢族は支配階級として日本列島先住民だった縄文−弥生集団との交配を行ってこなかったことを意味します。あくまで自分たちはエスタブリッシュメントとして先住縄文−弥生集団を見下していたわけです。

  この「O3」は韓半島の支配階級でもあったため、早い話しが韓半島も日本列島も漢族の支配した土地であったことがよくわかります。支配したがり屋、出世したがり屋が「O3」の本性です。政治家や上級官僚などの大半は「O3」のはずです。だから彼らは縄文−弥生の子孫がほとんどを占める田舎の3.11の犠牲者などそっちのけで政争・抗争に明け暮れていられるのです。「O3」は基本的に3.11等興味がなく、気にしているのは増税と原発の再稼働だけなのです。下々の暮らしなどどうでも良いのです。

  日本列島は残念ながら今でも「O3」封建体制のままなのです。自分たちのために政治・統治を行いますが、縄文−弥生が占める下々のことなど知ったことではないのです。それでも縄文−弥生遺伝子集団は基本的におとなしく、黙々と働き、年長者を敬い、和をもって貴しとなす集団のため、俺が俺がの「O3」には支配されるしかないのです。

  もしかするとY-DNA「C1a」だった可能性もある蘇我氏も絶えて久しく、「C1a」国家だったかもしれない邪馬台国も絶えて久しく(以前の記事で触れましたが卑弥呼は「C1a」国家のシャーマンだった可能性があります。ということは邪馬台国は海洋性集団で海辺に存在したのではないかと言うのが遺伝子調査から推測できる予測です)、日本列島は「O3」が支配する土地と変貌しています。

  ここまでくれば、われわれ縄文−弥生交配集団は大人しく「O3」政治家や官僚に巻かれて、FEO3P(極東「O3」経済共栄圏)を同じ「O3」が支配層の、中国、韓国、台湾、ヴェトナム、フィリピン、インドネシアと我が日本で構築し、アメリカ「R1b」が主導するTTPを潰すべきなのです。

  結局今の世界は欧米白色Y-DNA「R1b」と極東黄色Y-DNA「O3」の覇権争いの真っただ中なのです。だけど縄文−弥生交配集団の子孫としては、頭ではその方が日本列島に取っては良いことだとわかっていても、やっぱり「O3」に協力するのは抵抗があるなぁ!

  ●地方別データまとめ

  県別のデータではサンプル数が少なすぎ県民論は追えませんでしたが、地方別になると、地方単位で調査したGlobal論文もあり、それなりに追える場面も出てきました。それでも関西圏などまだサンプル数が少なく、調査結果に偏りがあり過ぎ論じるのは難しいようです。

  Webで関西のGlobalデータを見つけました。このCavalhoデータは亜型の設定がやや大雑把のため他のGlobalデータと比較をしにくいのですが、逆に縄文系、弥生系、侵略者系の大くくりには使えるため加えました。特徴はY-DNA「C」が高めなのです。関西(近畿)圏は和歌山の太地の鯨漁などで予想される海洋性ハンターY-DNA「C1」の居住地、まだ修験道などで予想される内陸型ハンターY-DNA「C3a」の居住地でもあるはずです。Y-DNA「C」が多めなのは充分納得できます。またNonakaデータではなかった「O3」もあり、むしろCavalhoデータの方が納得できるくらいです。

  県民性ではまだ論じることはできませんでしたが、地方性では傾向が見えてきました。

●北海道は、明治維新後の屯田兵など開拓民に縄文系が多かったことが言えます。貧民が多かった縄文系は海外移民と同じ発想で新天地として北海道に開拓民として入ったことが予想されます。当然支配階級の「O3」は厳しい自然の土地には政府の役人以外は行かなかったのではないかと予想できます。

●東北も、縄文−弥生の土地ですが、寒冷地適応系と考えられるY-DNA「NO」、「N1」「N1c1」の比率が最も高く、寒さに強かったため適応できたのでしょう。東北アジアに住んでいた時から高緯度地適応で色白だったはずなので、東北に多い色白美人の要因かもしれません。これまで蝦夷はY-DNA「C1a」ではないかと推測していたのですが、「NO」N1」「N1c1」の東北アジア起源集団も蝦夷の一員であった可能性が見えてきました。この東北アジア集団は韓半島を追い出された「O3」と一緒に対馬海峡を渡ったはずですが、故地に似た気候を求めて日本列島を北上した可能性があります。「O3」は全地方で最低でした。奈良時代、平安時代と支配階級の「O3」は蝦夷との抗争がありましたが、積極的に住むことはしなかったようです。

●関東は意外に縄文系Y-DNA「D2」頻度が高い土地でした。新開拓地の北海道を除くと、沖縄以上の「D2」地方になります。しかも人口比率では日本列島最大なので、縄文系の頻度を押し上げることになります。海や山が充分ではないため縄文ハンター系「C」の頻度は少なく全地方で最低でしたが、人口比率が大きいため実人口数は他の地方より多いはずです。

●中部は、広いため地方としてはまとめにくいのですが、特に大きく取り上げる特徴はないようですが、あえて言えば「O3」の中で最も古い「O3」の頻度が高いことです。「O3」の中でもオリジナルの黄河系が韓半島に多く居住し「O3」の中でも新しい子亜型の進出で韓半島を追い出されたようです。ちなみに「O3」「O3a1」は黄河(華北)直系漢族、「O3a2」は黄河系と長江(華南)系の交配系漢族です。

●関西(近畿)は、まだ特殊なデータしかなくもっと調査が必要ですが、先に書いたように意外に縄文ハンター「C」が多い土地です。しかし大阪、京都、奈良の大和朝廷族が侵略占拠した県のデータがそろうと圧倒的な「O3」地方になる可能性が極めて大です。また当ブログで以前卑弥呼は海洋性ハンターの呪術師で支配者ではなかったかと書きましたが、日本列島の全地方で最も「C」頻度の高い関西か四国が卑弥呼の居住地としては候補地でしょう。もしかすると入鹿、馬子、蝦夷などの名前を持つ蘇我氏はこの「C」遺伝子集団だった可能性は充分にあります。もしそうなら「C1a」だと思いますが...。

●中国は、大国主神話もあり予想された葦原の国通り、弥生系が圧倒的に多い土地です。当然ながら「O3」侵略軍の頭領神武や別の「O3」侵略軍も「O2b」の抵抗にあい相当苦労して山陽道を進軍したはずです。そして「O2b」集団を征服するたびに「O3」支配者を常駐・在地化させコントロールしてきたため、「O3」頻度も全地方最大なのでしょう。その代わり縄文頻度は全地方最低です。最も日本らしくない地方です。

●四国は、やや特異な遺伝子構成でY-DNA「D2」頻度は中国地方に次いで低いのですが「C1」はかなり高く海洋性ハンター漁民が多く住みついた土地であることを示しています。一方「O3」も多いと言うことは、大和朝廷族集団もしくは前後して日本列島にやってきた別の「O3」侵略者集団も瀬戸内海の南北を要所として抑えながら東遷したことを伺わせます。恐らく瀬戸内海側3県と太平洋側の高知県は、もっと詳細データが集まるとはっきりと区別できるのではないかと予想できます。瀬戸内海側は「O3」頻度が高いはずです。

●九州は、
  縄文系Y-DNA「D2」「C1」は南から北上して青森までの行程の通過点だったことと、
  同じ縄文系「C3a」はシベリア→韓半島→九州と大型獣を追って南下してきた到達点
    (列島で最大の「C3a」頻度)です。      
  弥生系にとっては満州→韓半島→九州と耕作適地を求めて南下してきた到達点だった
    がここから日本列島全土に拡大した。
  侵略漢族「O3」にとっては、韓半島を追い出された逃げ込み先で、旧唐書に言う「日本」
    なる上陸拠点を確立した足がかりの土地のはずです。

●沖縄は、北琉球は国内データでは本土とほぼ同じ遺伝子構成であくまで日本列島の一部ですが、  南琉球はどうも違うようです。「O2b1」の土地のようですが詳細なGlobal論文を期待します。琉球全土(特に北琉球)は南から北上してきた縄文系が住みついたためか、関東と並ぶ縄文頻度です。特にオーストラロイドと判明した港川人は当然Y-DNA「C1a」だったはずです。予想通り「C1a」頻度が高い土地です。南琉球はもし国内データ通りの「O2b1」地域なら「D2」との交配で「O2b」→「O2b1」に分化した弥生系が九州から後代に南下し「D2」を駆逐して住み着いたことになります。もし「O2b」なら韓半島から一気に南下し定住したことになります。いずれにせよ「D2」との交配より駆逐を選択したのかもしれません。  

●アイヌ民族は、当ブログで繰り返し触れているように、縄文遺伝子Y-DNA「D2」が85%を占めるのですが、本土が「O3」侵略漢族に征服されたのに対し、アイヌは「C3c」古代ニヴフ族に征服され、お互い被征服民族でしたが、本土では圧倒的な人口だったため先住民化せず、残念ながら北海道では支配者ともども現代アイヌ民族として先住民化してしまいました。これが歴史のあやなのです。同じY-DNA「D2」にも関わらず随分境遇が変わってしまいました。

  ●県別データまとめ

  当ガラパゴス史観はこれまで日本列島全土の遺伝子比率を使用し、琉球とアイヌのみを外出しにして論じてきました。しかし、もし県別のデータがあれば違うアプローチの方法もあるのではないかと考え、これまで参考にしてきたGlobal論文を調べ、その元になった県別のデータが一部入手できましたのでリストにして見ました。

  先にご紹介したGlobal論文の中で県別の調査データが報告されていましたので、御紹介します。このリストを見るとこの程度のサンプル数で民族論が論じられるのかかなり疑問になってきましたが、自分では調査できないので、背伸びせずにガラパゴス的民族性を論じたいと思います。とりあえず縄文系、弥生系、侵略者系と分けて頻度を出してみました。ご参考に!

  最も利用されるNonaka et al.、Tajima et al.とHammer et al.の論文の他にNonakaが参考にしたUchihi et al.とSasaki & Dehiyaの論文が県民と地方のY-DNAに触れていましたので、それらの情報をまとめてリスト化しました。

  日本人の合計データで見ると気がつかなかったのですが、県別(一部都市)で見ると1県あたりのサンプル数は極めて少ないのです。これで何か物を言えるのだろうか?と極めて心配になります。

  このリストで最も疑問なのは大阪で2サンプルしかないにもかかわらず、しかもY-DNA「NO」がそのうちの1件を占めたため、大阪は人口比率の大きいことから頻度にかなり影響をしています。研究者は何故疑問をもたなかったのでしょうか?無作為抽出2人のうち1人が日本人の極少数派に当たるのは宝くじに当たるようなものです。しかも関西圏は全てY-DNA「O3」が検出されていないのです。侵略者大和朝廷族のお膝元にもかかわらずです。

  この論文の著者たちはこの宝くじ的な確立で出現したハプロタイプに何故再調査を行わなかったのでしょうか?目的が日本人全体なので全国で見れば誤差範囲と考えたのでしょうか?

  大阪は天皇陵古墳が存在する土地で大和朝廷族の本拠地でもあったにもかかわらず、です。おまけに平城京の奈良県はサンプル数「0」です。著者はこの特異な場所であるはずの関西圏で一体どんな人を対象にサンプルを抽出したのでしょうか?もし農村部や山間部を中心にサンプルを故意に抽出すれば当然大和朝廷族のY-DNAは出てきません。大阪でうっかり抽出すると近代の韓半島系の出身者を調査する可能性は極めて大です。にもかかわずY-DNA「O3」の頻度が「0」という結果はわざとデータを操作した可能性が大きいのです。関西は圧倒的な「O3」圏のはずだからです。

  地域で最も平均的な頻度分布を持っているのは全国から人が集まっている東京と北海道だと思っていましたが、東京はほぼ予想通りでした。しかし旭川は圧倒的な高縄文度の土地でした。恐らく海外移民組も同じではないかと想像できますが、江戸時代まで抑圧されてきた貧民だった縄文の子孫が多く屯田兵や移民として移住したからではないかと考えると納得できそうです。海外の日系移民のY-DNA頻度を調査できると面白い結果が得られるかもしれませんね。

  この結果は、県単位でサンプルを集めることの大変さと抽出のマジックを教えてくれます。目的が日本列島全体の遺伝子分布と縄文−弥生の二重構造をあぶりだすことだったので、限界があるのは仕方がありません。やはり研究者単位ではなく国が主導して調査をしないと高度な解釈は難しいようですね。

  しかしそれでもこの県別調査で、大和朝廷族や武士団族に代表される侵略漢族のY-DNA「O3」が日本列島にしっかりと根付いていることと、Y-DNA「C3c」に代表される東北アジア系騎馬民族、いわゆるツングース系騎馬民族王朝、は日本列島に全く乗り込んできていないことは改めて明らかになりました。恐らく韓半島にいた中国王朝出先機関の漢族役人たちも韓半島や周囲の先住民族たちと抗争するために騎馬民族的な風習を一部取り入れていた可能性は否定できませんが、あくまで漢族「O3」です。

  縄文遺伝子Y-DNA「D2」と「C1」「C3」は日本列島で10000年もの長期間に渡り交配しお互いに子亜型に分化しています。また4000年前頃から徐々にボートピープルとして満州→韓半島→日本列島に水田稲作の耕作適地を求めて逃げてきた弥生遺伝子の呉系長江系Y-DNA「O2b」も縄文遺伝子「D2」との数1000年の長期間にわたる交配で「D2」は更に新しい子亜型に分化し、韓半島と共通の「O2b」も日本独自の「O2b1」に分化しています。この結果は狭い日本列島で縄文−弥生集団が互いに武装集団・戦闘集団ではないため、意外に敵対せず共存−交配をしてきたことを如実に説明しています。

  ところが、侵略者であった武装集団・戦闘集団の漢族Y-DNA「O3」は、日本列島上陸後1500年は経っているにもかかわらず、日本列島独自の子亜型が全く存在せず、中国大陸にあるそのままの子亜型のみしか検出されません。つまり支配階級はエリート層として縄文−弥生集団を見下し差別し交配を進めてこなかったことを如実に物語っています。「O3」層が縄文弥生集団と交配をするようになったのは階級分化が崩れてきた戦後のことです。戦前はまだ身分の違いとかでめったに交配は起きてはいないのです。今は世界の最先端を担う我が日本ですが、戦前までは「O3」の封建制がまだまだ根強く残っていたのです。

  まだ良く理解できていないのはY-DNA「D1」です。集中的に見つかるのは旭川です。何故でしょうか?まさかチベットからの移民がいたとは考えられませんので、「D2」が全く存在せず「D1」が数%存在する韓半島からの近代の移住者しか可能性はありません。韓半島の「D1」はチベットと同じ「羌」族出自の姜集団になるはずです。或る時期に彼らが近代日本列島に移住し最終地に旭川を選んだのでしょう。もしこの論文の報告に間違いがなければ...ですが。2000年の論文なのでまだY-DNA同定技術が”稚拙”だった可能性は充分にありますが..。

  残りのY-DNA遺伝子ハプロタイプは、韓半島時代の中国出先機関(帯方郡、楽浪郡などで代表される)の「O3」支配下にあった東北アジア系の民族でしょう。特に「NO」「N」「Q」や「C3c」などは寒冷地適応し典型的なフラットフェースの一重瞼だったはずです。
http://galapagojp.exblog.jp/15687326/

渡来した漢族系侵略者・支配階級


日本人の支配階級のY-DNA「O3」


  日本人の原風景に全く無関係で、韓半島から勢力争いに負けて追い出され流れてきた好戦的な戦闘集団が、日本列島に逃れてきて旧唐書にあるように日本なる小さな上陸拠点を恐らく九州当たりに作りそこを足がかりに勢力を増強しながら、先に韓半島から逃れてきていて勢力を持っていた先住「O3」集団や縄文−弥生集団を武力で征服しながら東征を行ったのが大和朝廷族と考えられます。

  韓半島は中華王朝の出先機関が置かれ、Y-DNA「C3c」系のツングース集団や北方系北狄国家などとの戦闘などで負けた集団の一部が、都度断続的に日本列島に逃げてきたものと思われます。日本列島にツングース遺伝子(Y-DNA「C3c」が今まで発見されていないと言うことは、騎馬民族王朝など日本列島には全く来ていなかったことを証明しています。ツングースは負けて逃げるなら北の故郷に向かって逃げるはずで、南下するはずはありません。中華王朝の出先機関が負けた時に逃げ込んできた可能性は大です。

  現在報告されている日本列島のY-DNA「O3」の遺伝子の亜型、子亜型は中華大陸の型と全く同じ (研究が進めば分類は変わる可能性はありますが、まだそこまで研究は進んでいません)だと言うことは、日本列島で「O3」集団は征服した縄文−弥生集団との交配をしてこなかったことを示しています。
 
  これだけ見ても「O3」集団は支配者階級意識の強い嫌な連中だったことが良くわかります。

  しかし、研究が進み「O3」集団も黄河文明系遺伝子だけではないことがわかってきました。長江文明系の血統が小亜型に大量に交配しているのです。中華大陸で長江文明系の集団遺伝子は「O1」と「O2」ですが、現在残っている亜型は意外に少ないのです。つまり長江文明系は周囲の他の遺伝子との交配をあまり進めてこなかったようです。このため中国の少数民族には「O1」や「O2」が多いのです。

  一方「O3」の方は長い歴史で「O1や「O2」とかなり交配を進め小亜型に分化しています。そして少数民族化せずそのまま漢民族の中に取り込んできたようです (「O3」の中にもDerung族のように他遺伝子との交配を嫌った集団も「O3」の故地の江南特に雲南省辺りに残っています。どんな集団にも保守的な守旧派のグループはいるものです。そしてそのようなグループは少数民族化しエネルギーが弱まり、衰退してゆくのです。

  日本人の「O3」亜型の小亜型をご紹介します。日本列島の「O3」合計は約19%です。日本人男性の5人に1人は「O3」なのです。

O3      雲南省あたりで「O2」から分化した亜型 日本列島では2.2%
O3a
O3a1    漢民族の20%を占める。黄河文明の直系の亜型かもしれない。
O3a1c                             日本列島では5.7%もある。 
O3a2    漢民族の35%を占める。長江文明人と交配し分化した長江文明系「O3」
                                  日本列島では3.3%
O3a2b   長江文明の大溪文化(5000年〜7000年前頃)人と交配した遺伝子らしい。
O3a2b1a ミャオ族特有の「O3」
O3a2b1b シェ族特有の「O3」
O2a2b2  ヤオ族特有の「O3」
O3a2c1   シナ―チベット語族特有の「O3」     日本列島では約3.1%
O3a2c1a  漢民族系特有の「O3」           日本列島では約4.6%
O3a2c1b  チベット−ビルマ語系特有の「O3」

  以上を見ると黄河文明人=漢民族ではないことがよくわかります。漢民族は黄河文明人を基盤に長江文明人と交配しながら出来上がり、周王朝辺りから自分たちを固有民族として自覚し始め、漢王朝辺りから漢民族として確立していったようです。中国の漢民族内の頻度的には55%の「O3」の中で、黄河文明系の直系が10%程度なのに対し長江文明との交配系は残りの45%を占め、漢民族は黄河文明系と長江文明系の完全融合体であることが良くわかります。文化的には北方系の黄河系文化が中国の主流となりましたが、遺伝子頻度的には江南系の南方遺伝子系の方がはるかに多いのです。

  では日本列島にやってきたのはどんな「O3」なのでしょうか?まだ答えは出ていませんが、
・坂東武者の先祖と考えられる高句麗の戦闘集団
・Y-DNA「O2b」が非支配層と考えられる、3国によって取ってかわられた3韓の支配層。
・滅ぼされた百済王朝系のエスタブリッシュメント一派+戦闘部隊(平家か?)
・源氏の先祖と思われる新羅の花朗集団
・この中に長江文明交配系「O3」が特に知識層に多く、漢字の発音の呉音を持ち込んだようです。

等など、折につけ韓半島での抗争に負けた「O3」が日本列島に南下してきたものと思われます。長江文明交配系の「O3」が多いため「南下」することには抵抗がなかったものと思われます。

  それでは日本人にもよく見られる、蒙古襞目でフラットフェースの寒冷地適応した新モンゴロイドはどの「O3」なのでしょうか?日本で二重瞼が一重に対し優性遺伝をするところから考えると、長江文明系と交配史文化したY-DNA「O3a2b」は当然フラットフェースですが二重瞼でしょう。原亜型のY-DNA「O3」も故地が江南で寒冷地とは関係ないことを考えると、寒冷地適応型は黄河文明直系と考えられる。Y-DNA「O3a1」と思われますが、しかし黄砂適応もしているはずなので、フラット化/一重瞼化した理由はどちらかはよくわかりません、あるいは相乗効果かもしれません。

  明らかに寒冷地適応をしているのはシベリア系のY-DNA「N1」と「Q1」ですこの両遺伝子は恐らく完璧な寒冷地適応型と考えられます。日本人は良く観察するといわゆる典型的なフラットフェースで一重瞼の新モンゴロイドフェースは意外に少ないのです。モンゴロイドの定義はやはり顔ではなく肌の色なのでしょう。このためフラットフェースでなく二重瞼の集団を苦し紛れに古モンゴロイドと分類して逃げているのです。これなら人種分類など止めてしまえば良い。遺伝子分類だけに統一すればよいのです。しかし白人優越主義を維持したい連中は差別化のためにコーカソイド以外を劣等人種と位置付けておきたいだけなのです。

  大体、遺伝子から見れば、ほとんどの欧州白人どもにもアフリカ系のY-DNA「E」が少なからず混じっており、アラブ・セム系の「J」も混じっており、そもそもメソポタミア文明は「J」によって興されたのです。ヒットラーだって「E」です。これでも「人種」にこだわるのは何故?色白を自慢したいのか?それならラテン系の褐色はどうするのか?矛盾だらけでが、とにかく人種差別と白人優位を守りたいのです。本当にやな連中!
http://galapagojp.exblog.jp/15243803/


「日本」の名称 最古の例か


今朝の朝日新聞で、西安で見つかった678年に亡くなった「祢軍」という軍人の墓誌に「日本」の文字が鮮明に記載されていました。実物は盗掘をされていたそうですが、拓本が古美術市場に流通し研究されたそうです。

  当ガラパゴス史観では、韓半島経由で日本列島に軍事侵攻してきたY-DNA「O3」大和朝廷族が、最初に列島の九州当たりの一角に「日本」という占領拠点を作り、記紀で言う「初国知らす」大王の時代に縄文−弥生交配人が緩やかな連合を組んでいた「倭国」と中国史で呼ばれる本州の中心地を目指し軍事進攻を開始し、大和に占領軍の大本営を築くことに成功し、大和朝廷を興したのです。

  当ブログ管理人のように縄文・弥生交配族の子孫を自認する立場からすると、大和朝廷族一派は勝手に軍事侵略してきた占領軍に過ぎません。その最初の占領拠点が日向であったかは定かではありませんが、軍事侵略者なら上陸地点の豊前辺りに侵略拠点を築くのではないかと疑問を持っています。何故日向なのか?西都原古墳群が(百済系)大和朝廷族の最初の旧跡なのか?上陸協力者の旧跡だったのか?あるいは百済系になる前の侵略軍の基地だったのか?DNA解析ではここまでが推論の限度ですね!

  旧唐書の日本はもと小国で倭の地を併せたりというのが真実に最も近いのではないかと考えられます。その日本は「O3」国家で「D2」「O2b1」が中心の倭とは全く関係ない侵略軍の拠点のことだったと思われます。残念ながらスタートは我が縄文-弥生交配集団の倭の子孫としては面白くない「日本」という名前の出所になってしまいそうですが、これも歴史のなせることで、仕方がないことなのです。「O3」黄河文明集団に極東ユーラシア大陸を追い出され、日本列島まで逃げて来たにもかかわらず、またその「O3」に虐げられてきたのが縄文-弥生遺伝子交配集団なのです。結局これ以上逃げるところがなかったご先祖の「倭国連合体」は「日本」に吸収されたのです。

  いずれにせよ、記紀は後の百済系になった百済系大和朝廷族が自身の過去の歴史を永く見せるためにそれまでの新羅系や物部系、他のY-DNA「O3」先行侵略軍の神話を取り込み、縄文―弥生交配族の神話まで取り込み懐柔のために練りに練って周到に作りあげた書物でしょう。どうであれ占領軍の話なのでどうでも良いことですが...。
http://galapagojp.exblog.jp/14791546/

遺伝子の大移動の復習です:

  古代遺伝子Y-DNA「D」と「C」は行動を共にしスンダランドから北上し、東シナ海-黄海ランドで3手に別れ
1隊は西進し中原に入り先住民族・羌族(Y-DNA「D1」)(「C」はまだ未解析)となったよう。別の1隊は日本海南岸部のほぼ陸橋弧であった日本列島部分に入りブラキストン線(津軽海峡)で留まり石器・縄文人(Y-DNA「D2」、「C1」)となり、残りの1隊の一部は日本海の北岸部を北上し陸続きだったサハリンから南下し北海道や千島列島に分布し原アイヌ民族(Y-DNA「D2」)と古住シベリア族(Y-DNA「C3」)となったようです。

  これらの古代遺伝子は中国神話にもほとんど現れず、共工を始祖神とする羌族としてかろじて留められているに過ぎないもよう。日本神話では全く触れられていない(もしかすると記紀に土蜘蛛とか国巣とか書かれているのがそうかもしれない)。神話をまとめた支配階級・大和朝廷族のY-DNA「O3」から抹殺されたのです。こうして日本人男性の48%を占める古代遺伝子Y-DNA「D2」「C1a」「C3a」の過去は、石器・縄文遺跡という遺跡としてしか残っていないのです。

  このように4種の古代遺伝子のうちY-DNA「C」「D」(アフリカでは「E」も)は遺伝子としてスンダランドで亜型以上に分化せず、古代性を留めたままアジアの先住民族となったのです。(唯一大型獣ハンターY-DNA「C3」の亜型の「C3c」がのちにハンターの子孫らしくモンゴル族の元帝国としてユーラシア大陸を東西に席巻しましたが、そこで終わりました。)スンダランドは古代遺伝子Y-DNA「D」「C」が亜型に分化した場所と思われるのですが、”アジア先住民族”の故郷だったのです。

  そのころ最後の古代遺伝子Y-DNA「F」は留まったインド亜大陸でその後の世界を動かす劇的な変化を遂げたのです。Y-DNA「G」以降の全ての新興遺伝子が「F」から分化してきたのです。インド亜大陸はアジア人どころかほとんど全ての欧米人の故郷にもなったのです。スンダランドはアジア先住民の故郷なのですが、現代アジア人と欧米人の故郷はインド亜大陸なのです。

  では何故「F」のみが更なる分化を遂げることができたのでしょうか?
遺伝子が変異する要因は「破壊する創造者」は4つあるといっています。

・突然変異
・共生発生(Virus+Evolution=Virolution)
・異種交配
・エピジェネティクス=後天的獲得形質(遺伝子そのものは変異せず、発現の仕方が変異する)

  インド亜大陸で「F」に突然変異が生じたか、未知のレトロウイルスと遭遇したか異種交配があったかどれかなのです。まだガラパゴス史観は全く出来ていませんが、妄想すると

  小柄なホモサピエンスは出アフリカ後中東で遭遇した大型化した先輩人類の旧人ネアンデルタール人との亜種間交配の結果、古代遺伝子「D」「E」のYAP組と「C」「F」組に分化しました。似たようなことがインド亜大陸でおきたのかも知れません。アジアには北京原人、ジャワ原人やフローレス人、デニソワ人など原人・旧人が生きていた広大な土地だったのです。新たな亜種間交配がおきたと考えても不思議ではありません。
またmtDNA「M」系列から最後にmtDNA「D」が白血病ウイルスとの共生で分化したと考えれられるように
新しいウイルスと遭遇した可能性も充分にあります。

  「F」が分化した理由はまだ全く想像付きませんが、とにかく特筆すべきなのは結局現代世界を動かしている「R1b」も「O3」も「F」から分化した遺伝子なのです。ネアンデルタール人から受け継いだ肉食系の遺伝子が行動の基礎になったのがY-DNA「R」、サハラで生き延びるために雑食系になった形質を受け継いだのがY-DNA「O」のようです。

  とは言っても人類は60000年近くの時間でかなり交配が進み遺伝子のハプロタイプは連綿と受け継がれていますが、現代に至るまでに交配したmtDNAのハプロタイプによって形質はかなり左右され、特に男系は母親の形質を強く受け継ぐらしいので、Y-DNA「O」と行動を共にしたmtDNAは雑食性が強い女性集団だったのではないかと思われます。アジア最大のmtDNA「D」のような気がしますが、Y-DNAとmtDNAを同時に調査した論文がまだ見つかっていないのでなんとも言えません。
http://galapagojp.exblog.jp/15016028/

遺伝子調査から追う日本語の成り立ち考


  これまでもブログで断片的に触れてきましたが、遺伝子調査の結果だけでどこまで言及できるか、いささか冒険ですが日本語の成り立ちに迫ってみました。

日本語とは、

●ガラパゴス的民族性の基層である古代シーラカンス遺伝子の縄文倭人(文字通り小柄なネグリート)の話していた古代語の縄文語が基層です。特に縄文倭人の多数派のY-DNA「D2」の祖先の「D」が出アフリカ以来話していた言語が縄文語の祖形です。世界でこの縄文語の祖形を受け継いでいるのは日本以外では「D*」100%のアンダマン諸島のOnge族とJarawa族、「D1」「D3」のチベット族のみです。他に近い言語は全く存在しません。このため日本語は古代語の形態のままの孤立言語なのです。もしかするとコイサン族やピグミー族の言語と同様にアフリカで話されていた古代言語の直接の子言語かもしれません。

●縄文語はこれに更に出アフリカ以来数万年行動を共にしたと考えられている土器製作などの技能集団でもあったと思われる沿岸漁労系Y-DNA「C1a」と大型獣ハンター系「C3a」の語彙が重なっている複合言語です。縄文語は日本列島でも石器時代以来少なくとも2万年近くは話され根付いた熟成された言語のはずです。もしかすると西ニューギニアのY-DNA「C2」100%のLani族の漁労採集の言葉に日本語に似た単語があるかもしれません。

●そこに最初の外来文化言語である長江文明系オーストロアジア古語(水田稲作農耕文化の言語)の弥生系語彙が追加され、弥生人Y-DNA「O2b」「O2a」「O1a」は「O3」に極東ユーラシア大陸を追い出されボートピープルとして満州−韓半島南部−北九州と逃げ、これ以上行く先のない日本列島で大多数の縄文人と仲良く共存・融和するために縄文語を受け入れ新しい文化である水田稲作農耕の語彙を上積みしたのです。弥生人が迅速に溶け込んだため、稲作農耕技術は青森まで以外に早く伝播したのでしょう。

  このオーストロアジア古語系「O2b」は呉音を持ち込んだようです。日本列島に越音が残っていないということは呉系の稲作農耕民が北方へ逃れ「O2b」になったようです。当方が以前予想していた百越系の残党=百残=百済は越音ではなく支配層の使っていた唐音を持ち込んだようです。一方陸稲系稲作農耕(O3」系)も縄文晩期頃に日本列島に入ってきたようなのですが語彙上の影響度はまだ全くわかっていません。

  一方、「O2b」の兄遺伝子の「O2a」が東南アジア-東インド-南インドと逃れ、現代ドラヴィダ人に14%以上の遺伝子頻度を残すぐらい交配し、ドラヴィダ語に水田稲作農耕文化の語彙を持ち込んだため、もともと同一だった稲作関連の語彙が日本語とドラヴィダ語(特にタミール語)で似ているのは当然です。またオーストロネシア語系の古単語も古日本語には見つかっているそうですが、それは当然「O1a」が話していたはずのオーストロネシア古語の持っていた語彙のはずです。

●ところが、紀元後になり中華王朝の膨張に伴い韓半島から続々と中華王朝辺縁部の黄河文明系「O3」集団がはじき出されて渡来・移住するようになりました、複数の戦闘集団が前後して列島に日向など各地に占領地を設け、最終的に縄文-弥生交配集団の中心地だった畿内を目指して侵攻し、ある集団が渡来集団同士の戦いを制して大和に占領軍の王朝を築くまでになりました。我が縄文-弥生遺伝子集団は下等な民として扱われたわけです。

  この占領軍のGHQは大和朝廷と称され奈良盆地に置かれ、支配階級は大和朝廷族となり漢語を日常語(母語)として読み書き話し、平安時代に最終的に百済系朝廷族が勝ち残りました。百済は一般民衆は呉音系のY-DNA「O2b」ですが支配階級は「O3」で唐音系だったようです。

  そしてこの2番目の外来語である漢語を母語とする大和朝廷族は先住民の縄文-弥生交配集団を支配・懐柔するため漢語から縄文語へ翻訳するためにかな・カナ文字を開発して読み下し、支配用の当時の古漢語の語彙を列島隅々まで浸透させ一気に列島の支配者にのし上がったのです。そしてできあがったのが正統性を主張し都合のよい経緯を書いた記紀です。こんなものは我々縄文-弥生交配遺伝子集団から見れば進駐軍のたわごと・絵空事に過ぎないのです。無視しましょう!

●一方、武士階級では、高句麗系武士団(坂東武者系)や新羅花郎系武士団(源氏系)など韓半島から渡ってきた武士団族も「O3」漢語派だったため、縄文語に武士団系の語彙がかなり取り込まれたはずです。武士団は地元に根を下ろし地元密着型になり力を蓄え大和朝廷族と覇権争いを繰り広げることになったわけです。

●しかし幕末の動乱期まで日本列島の中で全員が話した標準言語はまだなく、支配階級と一般民衆は同じ言語を話していたわけではありません。幕末から明治の動乱期に第三の外来語である明治新政府系の新作語彙や翻訳語彙や西欧諸国の語彙が洪水のように入り込み、縄文語の文法の上にどんどん上積みされ日本語の祖語に昇華・熟成されたのです。しかしこれでも日本語の完成ではありませんでした。明治の標準語とされたのは明治政府の教育を握った長州閥の山口弁でした。

●日本語が完成したのはほんの60年程度前の第二次大戦後です。あたらしい教育によって今我々が話している現代標準語になりやっと日本語になったのです。日本語の歴史は極めて新しいのです。それまで縄文語にオーストロアジア古語の弥生語語彙と漢語の語彙が上積みされた複合言語だったのです。話し手も階級によって分かれていました。

  以上、語彙は時代と共にどんどん新しい文化のものが追加され古いものは消えて行き、言葉遣いも同時に変化して行きますが、最も基層になっている文法は縄文語、それも古代遺伝子Y-DNA「D」の話していた古代語です。このため地理的に極めて近いはずの朝鮮半島も台湾も極東の諸民族も日本語とは全て言語体系が全く異なるのです。しかし日本語は古い外来語彙をどんどん取り込んできたため、今でも古語の語彙は似ているものも結構あるのです。
http://galapagojp.exblog.jp/14860205/

日本民族の中国化考


  今朝の朝日新聞の記事で気鋭の学者 與那覇 潤氏の日本の西欧化の次に中国化が始まっている、という日本論が紹介されていました。

  なかなか壮大な視点による歴史の解析で、不覚にも当方ガラパゴス史観もタイトルしか知らなかった未読の日本論でした。正に当ガラパゴス史観が主張するY-DNA「O3」連合による極東O3共栄圏構想「FEO3P」の芯になりそうな理論です。

  何故なら、当ガラパゴス史観が主張しているように日本の中国化−正しく言うと漢化−もっと正しく言うとY-DNA「O3」化、は最近始まったことではなく、大和朝廷族や武士団族が韓半島での抗争に負けて半島を追い出され、ボートピープルとして日本列島に戦闘力を持って断続的に流れてきたことに端を発するのです。

  記紀の神武東征に象徴されているように、漢語を話す漢族の端くれだった韓半島を追い出された大和朝廷族は(その頃の韓半島南部は弥生人と同じ呉系長江人のY-DNA「O2b」が民衆層を形成していたはずです)日本列島の恐らく九州に上陸し旧唐書が言うように「日本」なる小さな拠点を形成し侵略遠征を開始し、山陽道に既に割拠していた先陣の「O3」集団や縄文−弥生先住民土着集団を征服しながら大阪平野から奈良盆地を制圧し列島侵略に成功したのです。というより最後に勝ち残った「O3」集団が大和朝廷を名乗った、というのが正しいでしょう。

  記紀神話は、征服した先陣・先住集団の祖先伝承の都合の良い部分を取り込み創りあげたものです。そして確立した大和朝廷は漢語の支配する漢族の官僚が運営する政府でした。その後の日本列島はこの漢族朝廷と漢族官僚が文字通り牛耳ってきた中国化というより漢化されつつあった土地だったのです。

  日本人が漢族大和朝廷支配のもと漢民族に同化しなかった理由は1万年以上に渡る縄文時代とその後の弥生時代で日本列島が人口も含め完全に縄文・長江混成文化の風土が確立していたからです。漢族側が、人口的に大勢であった日本語の文法であるY-DNA「D2」の縄文語に合わせかなやカナを開発したように漢族側が歩み寄ったことが、日本人が漢民族化しなかった理由でしょう。何故歩み寄ったのかは今後の調査が必要です。

  当ガラパゴス史観で繰り返し主張しているように、極東アジアはY-DNA「O3」支配の地域です。中国は55%、韓国は40%、日本は20%の「O3」支配層がその他の遺伝子集団をコントロールしてきました。その他、ヴェトナムもインドネシアも台湾もアジアの新興諸国のエスタブリッシュメント層は押しなべて「O3」です。「O3」は西欧エスタブリッシュメント層のY-DNA「R1b」と対抗できる唯一の遺伝子であり、覇権争いの真っ最中であります。少し前の「O3」は、明治維新以来日本が引っ張ってきましたが、少数民族の「清」化で没落した中国が、ここに来て圧倒的な人口力で「O3」のリーダー国家にのし上がってきました。残念ながら一人当たりのGDPが日本の1/10しかなく真のリーダーにはまだ当分なれませんが、日本と組めば恐らく世界の覇権は握れるはずである、が、互いにそのような思惑はまだないようですが...。

  日本は陳腐なTPPなどに浮かれず、中国との連合を本格的に議論する時期に来ていると思います。とは言っても縄文−弥生交配遺伝子の子孫を自認する当ガラパゴス史観にとって、「O3」は韓半島を追い出され逃げてきた流れ者の侵略者でしかないため本音では認めたくはないのですが、現実は「O3」が支配層になっているのを、時代を巻き戻すことは出来ません。現実に順応しやすいのも縄文−弥生交配遺伝子の特徴なのです。負け犬根性と言ってもよいかも知れませんが、そこまで卑下する必要はないでしょう。
http://galapagojp.exblog.jp/15362496/


日本民族ガラパゴス的概論


12. 日本民族考 まとめ

●日本民族の源流考から

  最新の進化論Virolution「破壊する創造者」のメッセージから、遺伝子の進化・変化は
 1) 突然変異
 2) ウイルスとの共生発生
 3) 異種交配
 4) 後天的な獲得形質(エピジェネティクス)
の4タイプあることがわかりました。
  そして遺伝子そのものが変化するのは1)〜3)の3タイプで、4)は遺伝子の発現を変化させることも学びました。更に比較的短い時間軸で変化をするのは2)と3)であるとわかりました。

  2)で有名なのは白血病の原因となるHTLV-1ウイルス(ヒトT細胞白血病ウイルス1型)です。発見者は日本人医師、分離したのも日本人学者です。これはレトロウイルスの代表例なのです。九州に多く母子感染で特徴的に分布しています。感染地域は他にアメリカ、ペルー、コロンビア、エクアドル、アフリカ、カリブ海地域、オーストラリアのアボリジニ、カナダのイヌイットだそうですが、アフリカとアフリカ出身者が大多数のカリブ海地域とアボリジニ以外はすべてY-DNA「C3」の移動の跡地ばかりです。オーストラリアのアボリジニもY-DNA「C4」なので「C3」で受けた変化が当然受け継がれています。もしかするとY-DNA「C」の亜型への分化にHTLV-1ウイルスが関与したのかもしれませんね。

  一方、mtDNA側から見ると、アフリカも含め全てに共通するのはmtDNA「M」で、日本と南北アメリカ大陸で共通するのはmtDNAから分化したハプロタイプmtDNA「D」です。勿論mtDNA「A」と「C」も共通なのですが頻度が小さいため、可能性は低いのです。

  では、3)の異種交配の可能性はどうでしょうか?
日本列島最古の遺伝子はシーラカンス遺伝子のY-DNA「C1」と「D2」および「C3」です。Y-DNA「C」の最も古い亜型「C1」が日本列島にのみ存在するのは極めて驚きです。

 ・Y-DNA「D」と「C」は一緒に出アフリカする前に既に分化していたという研究者もい
  ますが、大勢は中東で分化したと考えているようです。亜種のネアンデルタール人との
  交配の度合いで分化したのなら大変興味深いのですが....。交配の度合いは果たし
  て「DE」か「CF」のどちらが濃いのでしょうか...?いずれにせよ50000年以上前の
  話です。オーストラリア大陸に人類は50000年前頃には到達していた様なので、インド
  洋の海岸線を東遷した現代人類の移動の速度は想像以上に早かったようです。一気
  にスンダランドの森林・雨林地帯に到達しそこで北と東に更に拡散をしたようです。

    当時陸続きだった日本列島の大陸棚部分に「D2」、「C1」と「C3」が到達したのは
  縄文草創期よりかなり前のことと想像できますが、120mもの海面上昇で、当時の遺跡
  があったとしても全て100m以上もの深い海の中です。「D2」と「C1」はそのままブラキ
  ストン線(津軽海峡)まで到達し、残念ながら海峡に阻まれ、その後東北地方に「C1」色
  の濃い独自の縄文文化を花開かせ、一方「C3」の中心部隊は北進せず九州を中心に
  拡散しHTLV-1ウイルスを定着させたのかもしれません。

 ・一方、「C」と共通の祖遺伝子を持つと考えられている「F」はコーカサスなどインドの
  北部経由で中国江南に進出しアジアの遺伝子であるY-DNA「O」に分化し、「O1a」
  「O2a」のいずれかまたは共に長江文明を開花させ(どれかが楚、呉、越の先祖と考え
  られているようです)、特に「O2a」は水田稲作文化を完成させたと考えられています。

  ところが若干遅れて現れた黄河文明により、中原は漢民族「O3」文化圏となり、「O1」  
  「O2」は江南の異民族として扱われ、最終的に敗れた百越が北と南に逃れたらしいと
  言われ、Y-DNA「O2a」は江南の少数民族に落ち、一部は南インドまで逃れ、ドラヴィダ
  人の遺伝子の14.5%を占める存在になり、日本語のなかの弥生系/水田稲作文化
  系の単語と似た単語がドラヴィダ語に存在する明らかな理由になりました。

  ところが「O2a」は北へも逃れ、欧米の研究者は満洲辺りで「O2b」に分化したと考えているようです。新しいウイルスに感染したか、異遺伝子との交配があったのかは全く解りませんがとにかく分化はしても稲作に適した土地を求めて韓半島部を南下し定着し、韓半島に今でも30%もの頻度を持つ大遺伝子集団を形成しています。ところがもっと稲作に適した土地を求めてボートピープルとして既に列島化していた日本列島の北九州に上陸した「O2b」は、先住民だった縄文集団の「D2」「C3」「C1」と、最初はそれぞれの狩猟採集と水田稲作に適した土地に棲み分けをしながら、異遺伝子交配を進め「O2b1」に分化したはずです。このことが意外に早く東北まで水田稲作が受け入れられ普及した理由ではないでしょうか。

  大物の最後はY-DNA「O3」ですが、黄河流域の黄砂環境や寒冷地適応はエピジェネティクスであって、遺伝子の変化は伴わないそうなので、「O2」から「O3」に分化した理由はまだ全くわかりません。とにかく大規模な異遺伝子との交配がなければ、もしくはウイルスとの遭遇がなければ遺伝子進化はしないはずです。北京原人の生き残りがいたなら面白いのですが、時代が違いすぎます。
  無理やり考えるとその頃中原に先住民としていたのは「D1」および「C3」です。これらの遺伝子との交配の結果とも考えられないことはありません。交配した「O2」集団は「O3」に、「D1」は「D3」に分化し、交配しなかった「D1」集団は当然へき地に追われチベット高原にたどり着き、「C3」集団は北のモンゴル高原まで追われたのではないでしょうか。


  しかし今や世界最大の遺伝子集団となったY-DNA「O3」抜きに日本民族は語れません。何かの本に和泉式部日記の時代の大和朝廷族は読み書きを含め漢語を話していた、完全な漢文化民族だったと、確か女性の研究者だと思いましたが、ハッキリと書いていました。その通りだと思います。

  妄想すると、百済の古名の「百残」は「百越の残党」と言う意味だと面白いですね。そうすれば韓半島の30%も占めるY-DNA「O2b」の存在の意味が理解できるからです。

  いづれにせよ王族と宮廷官僚たちは明らかに「O3」と思われます。新羅に敗れた後、「O3」ボートピープルが日本列島に押しかけ好戦的な「O3」は縄文−弥生交配集団と闘いながら最終的に大和朝廷を興したのでしょう。

  もうひとつ妄想すると、蘇我一族は蘇我蝦夷の名前が占めすように縄文ー弥生系の土着集団だったのではないだろうか。当時奈良という土地の支配者だった縄文ー弥生系が「O3」に負けた歴史を書いたのが占領軍が書いた日本書紀です。縄文ー弥生の子孫を自認する小生から見ると、大和朝廷族は異遺伝子集団の占領軍に過ぎないのです。宮中独特の言葉と言うのはその時代の漢語の名残に他ならないのでしょう。

また脱線してきましたのでこのへんでやめ各論に入ります。                               

●石器時代:

  石器時代にホモサピエンスとは異なる独自の遺伝子の集団が日本列島にいたかどうかは、遺骨が出ないため全くわかりません。  しかし原人や旧人、デニソワ人などが列島に来ていたとしても現代に遺伝子が残っていない以上、現状では来ていなかったと考えるほうが自然です。北京原人辺りが日本に来ていたら面白いとは思うんですが...。

  むしろ5万年前にはY-DNA「C」がサフールランド(ニューギニア・オーストラリア大陸)に上陸していたと欧米の専門家が認めている以上、日本列島に来ていた石器時代人は、オーストラロイドと判明した港川人なども含め、Y-DNA「C1」と考えられます。しかも東海大が加わった研究で判明したように高度な海事技術力を持っていたと考えられる航海可能集団でした。となると、「C」と一緒に移動していたと推測されているY-DNA「D」も石器時代の日本列島に来ていた可能性は大です。しかし技術力から考えると石器を作成した集団はY-DNA「C1」と考えるのが妥当でしょう。いづれにしても現代のY-DNA「D*」100%のOnge族、Jarawa族や「C2」100%のLani族、95%のDani族などがそうであるように古代シーラカンス遺伝子の古代人類は基本的にネグリート、つまり倭人の遺伝子です。

●縄文時代: 

  縄文時代を構成した遺伝子はY-DNA「D2」、「C1」と「C3a」です。しかし土器を作成する技能集団は少数派の沿岸漁労系ハンター集団の「C1」と内陸系のハンター集団の「C3a」です。 特に縄文土器の本格的な発展は陸上大型動物ハンターだった「C3a」が大型動物の肉の煮炊き用で極めたものです。そして呪術性を求めた「D2」のために開発した土器が火焔土器です。「C3a」の兄弟遺伝子でアメリカ大陸に移住をした「C3b」が作成した土器が中米で時おり発見される縄文土器似の土器です。

  縄文時代を構成した3遺伝子はいずれも古代シーラカンス遺伝子特有の小柄な集団、つまり「倭人」でした。当然ですが古代集団の習慣として鯨面文身でした。しかし昨年の発掘で大柄な縄文人がいたことも明らかになったように、中東で大柄なネアンデルタール人と交配したホモサピエンスは大柄な遺伝子を受け継いだ個体が現れ始めていたようです。

●弥生時代:  

  縄文後期には既にY-DNA「O2b」の移動が始まり、晩期水田稲作が始まっていたと考えられます。最初に来たのは真っ先に長江河口を追い出されたY-DNA「O1」集団で熱帯ジャポニカ稲を列島に持ち込んだようです。韓半島にも日本列島より頻度の高い「O1a」が存在すると言うことは韓半島経由で一部が日本列島に南下してきたと考えられます。「O1a」は台湾や、海南島、オセアニアに拡大していったので当然海洋性集団として航海技術は充分にあったようです。

  次に韓半島経由で南下してきたのはY-DNA「O2b」集団になります。黄河文明に長江を追われた「呉民」系が中心だったらしい「O2b」は「O2a」の越民系と別行動をとり、百越などと共にヴェトナム等へ南下した一部を除き大部分が満州経由で韓半島へ、更に日本列島へ得意の航海技術を利用してボートピープルとして渡ってきたようです。

  本来なら先住民の縄文集団と抗争が起きるはずですが、
・縄文集団がまだ呪術時代で好戦的ではなく比較的穏やかな集団だったこと。 
・縄文集団の人口が圧倒的であったこと、
・日本列島(恐らく九州)が水田稲作に比較的適していたこと、
・そして更に逃げる先がなかったこと、
等々で

  弥生集団は縄文集団と共存する道を選んだようです(Global論文ではなく日本語ローカルな論文ですが、南琉球のY-DNA「O2b1」の頻度が高く67%にもなる、と報告されていると言うことは水稲の適地を求めて更に南下した集団もいたようです)。そして食生活に対する稲作の安定性・優位性を認めた縄文集団は逆に進んで稲作を取り入れたようです。このため意外に早く青森まで稲作が進んだと考えられます。縄文人には最先端の水稲技術を受け入れる先取性がこの頃からあったと推測できます。「O1」の熱帯ジャポニカ稲が先に上陸をしていたので受け入れ易かったのかもしれません。

  また視点がやや脱線すると、村上水軍などかつて日本の歴史にでてくる各地の水軍の発祥は、海洋系ハンターだったY-DNA「C1」ではないかと考えていますが、もしかすると長江文明人の子孫である「O1」、「O2」の中の戦闘性のあった一団が、農耕をしながら水軍を持った可能性も充分にあります。

  Y-DNA「C」の持つ土器などの製作・加工技術、Y-DNA「O2b」の最先端の水田稲作技術など、日本列島は技術力を売り物にする(後のガラパゴス技術集団の先駆けになる)集団が当時から技術力を磨いていたのです。そして何も取り柄がなさそうなY-DNA「D2」集団は実はガラパゴス日本民族の持つ「新し物好き」な先取の気質があったようです。

●魏志倭人伝=魏志ネグリート伝考

  当たり前のことですが縄文人の遺伝子はネグリートつまり倭人(小柄な人)です。当時の東アジアに魏志にわざわざ記載されるほど大規模な集団を形成したネグリート=倭人の古代シーラカンス遺伝子Y-DNA「D」、「C」、「F」がいたのは、日本列島、チベット高原、ニューギニア、オーストラリアです。韓半島にも、台湾にも、海南島にもフィリピンにもいませんでした。当然「E」のいたアフリカ、ヨーロッパが魏志に出てくるはずはありません。従って倭人伝に出てくる国家的なまとまりをもった集団としてネグリート=倭人がいたのは日本列島とチベットだけです。

  チベットは吐蕃王国など7世紀ごろから国家的な集団が出てきましたが、2-3世紀はまだ国家的な形態はなく、羌、吐谷渾、氐等のY-DNA「D1」、「D3」諸族が大きな民族集団として中国史に登場してくる状態でした。結局消去法で残るのは日本列島となります。日本列島が倭人=ネグリートの土地であったことは100%間違いありません。しかし卑弥呼のようなシャーマンが集団のリーダーだったかは定かではありません。

  現代でも残っている古代先住民族は集団に必ずシャーマンがいて大きな力を持っていますが、男のシャーマンがほとんどです。日本列島の青森のイタコや沖縄のノロはY-DNA「C1」の古代遺伝子の多い場所なので、女性シャーマンはY-DNA「C1」の信仰だったと思われます。Y-DNA「C1」は本来海事技術力を持つ海洋性ハンター集団です。となると邪馬台国はY-DNA「C1」の集団でマグロ漁や捕鯨基地など漁労に適した海沿いの地域に存在していたと考えられます。つまり縄文人の人口の大部分を占めるY-DNA「D2」国家ではないと言うことになります。

●日本の成立考

  何故百済や伽耶は日本列島の倭と連携をとることが多かったのでしょうか?理由は簡単で韓半島南部に位置したため非支配層がY-DNA「O2b」集団だったからです。ただし支配層は帯方郡などの中国王朝の出先機関から追い出されてきた漢族です。高句麗等の新興勢力との抗争に負けた出先機関の「O3」漢族が韓半島を南下し土着の「O2b」を支配し作ったのが百済でしょう。あくまで漢族支配王国なのです。

  現在北朝鮮の遺伝子調査の報告は全くないため、韓半島北部の様子は皆目わかりません。しかし、日本列島にはないY-DNA「C3c」が南部(韓国)に13%近くあるということは、北部にあった高句麗が「C3c」ツングース族支配の王朝で、中国王朝の出先機関にいた漢族が非支配層である可能性は大です。しかし新羅は百済同様「O3」漢族支配国家で、非支配層も漢族(一部ツングース「C3c」もいたでしょう)でもある王朝ではないかと思います。高句麗は滅んだ後、支配層のツングースは留まったか北へ逃げ、非支配層の漢族戦闘部隊の一部は恐らく日本海側から日本列島に逃げ込み関東に定着し後に坂東武士団を形成したと思われます。

  日本列島に逃げてきた「O3」集団は戦闘集団でもあったようです。旧唐書にあるように九州から日本海沿岸のどこかに「日本」なる上陸拠点を作り、そこを足場に戦力を増強し、日本列島の中心地と考えられていた畿内を目指し侵略軍を進めたのが後に大和朝廷族となった神武東征軍でしょう。我が縄文―弥生混成集団は本来戦闘集団ではなかったため、容易く征服されていったようです。どちらかと言うと手を焼いたのは同じ「O3」で先に韓半島から逃げてきていた同類の戦闘集団でしょう。要するに侵略軍同士で闘い勝ち抜いたのが大和朝廷族だったと言うことです。あくまでも侵略者です。

●侵略者の中の勝者=大和朝廷族

  歴史は勝者がでっち上げる作り話し、と言うのは常識ですがそれでも真実はどこかに隠れていると思われます。記紀は大和朝廷族のでっち上げに等しい物ですが、先住の遺伝子集団の神話伝承を適当に盛り込みいかにも日本列島の正統な王統であるかを謳っています。

  そして「O3」遺伝子戦闘集団同士の抗争で結局最後に残ったのが、百済系の桓武王朝です。途中南北朝に分裂したり、何処からか探し出してきた天皇がいたり、女性天皇がいたりとY-DNA遺伝子が連綿と続いているわけではないのですが、比較的素直・恭順な縄文−弥生交配集団を結局手なずけ列島に居座ることに成功し今に至っています。また傍流だった「O3」戦闘集団の武士団が政権を奪取しましたが、大和朝廷族にせよ武士団族にせよ結局勝者「O3」が歴史を作ってきたのです。

●新撰姓氏録考

  大和朝廷族が勢力を誇っていた平安時代の畿内の勢力図がある程度わかります。さすがに欧米の論文でこれを研究した例はなかったので、自分で調べて見ました。

  新撰姓氏録は平安時代になって平安京と畿内5カ国の815年当時の大和朝廷を構成する大和朝廷族(皇別・天孫)と、大陸系の官僚・技能(諸蕃)集団及び大和朝廷族が日本列島−畿内に侵略・占領軍つまりGHQとして乗り込む前に日本列島に乗り込んできていた先住侵略集団(天神)と弥生-縄文交配土着民の中で大和朝廷から見て無視できない規模の恐らく弥生人の農耕集団が持っていた祖先神(地祇)等が記されています。それでも畿内の情報は過半が登録されていないそうです。その過半の大半は縄文−弥生の子孫達だと思われます。要するに出自を伝承してないことと、政治・祭事的に取るに足らない集団のために無視されているだけなのです。

  とは言っても何か情報を得たいので、現代人が手にしうる1184氏族の始祖情報をマイニングしてみました。 インターネットで公開されている、群馬県立女子大学国文学科北川研究室の労作である新撰姓氏録のリストを基に、当方専門のデータマイニングの手法で素人調査を行ってみました。

  弥生時代の草創期、早期はどんどん遡り紀元前1000年〜800年頃と現在考えられていますが、つまりその頃Y-DNA「O2b1」遺伝子集団、つまり長江文明系水田稲作農耕民はボートピープルとして日本列島に上陸を始めたと考えてよいでしょう。新撰姓氏録が編纂される1800年〜1600年前ごろになります。現在の日本人は1200年前の平安時代の先祖のことでさえ、皇族と貴族と神官等の特殊な家系の末裔以外は全くわかりません。当時よくこれだけの祖先神が集められたものです。もしかすると現代日本人より当時の畿内の日本列島人の方が、まだ日本民族が確立する前なので、それぞれの出自を大切に伝承していた可能性は極めて高いです。

  と言っても結果は悲惨なもので、結局は占領軍の大和朝廷族と官僚・技能集団のことしかわからず、土着化していたはずの縄文・弥生集団に関して得られた知見はほとんどありませんでした。残念ながら815年の畿内の支配層はすっかり大和朝廷族及び関連集団のY-DNA「O3」世界になっており、Y-DNA「D2」や「O2b1」の世界は闇の中のままでした。あえて触れるなら、「地祇」とされた神々の中の大国主命のような高床式弥生系と思われる出雲文化の痕跡が残っている程度でした。

  また調査結果は、皇別の子孫のなんと32%を第8代孝元天皇の系統が占めるという予想外の結果でした。史上あまり有名ではない天皇ですが、特に孝元天皇の三代目の孫と言われる武内宿祢の一統がその中の50%以上を占め最も多いのです。伝説上の人物ですが、それだけ孝元天皇系統は新撰姓氏録を編纂したチームには認められていた実在した大きな存在だったのでしょう。もしかすると百済系初代天皇の可能性が大です。

  次もあまり知られていない5代目孝昭天皇です。ほとんど習ったことがありません。あと祟人天皇、開化天皇と続きます。

  そして不思議なのは15代応神天皇と26代継体天皇の間の10代の天皇は一切子孫が出てこないのです。素直に解釈すれば実在しない天皇なのでしょう。何らかの水増しする必要があったのか、もしくは他(新羅系など)の王朝出身者を取り込むための他の王朝の祖先王を天皇として組み込んだのかもしれません。いずれにせよY-DNA「O3」の中のはずです(縄文―弥生系の王は考えにくいのです可能性はゼロではないでしょうが)。
  
  現在の大和朝廷族は桓武天皇以来百済系に変貌しましたが、第8代孝元天皇以外それまでの48代の天皇家は恐らく百済系ではなかったのだと考える方が自然です。もしかすると敵対していた新羅系の王朝の情報が消された可能性も十分あります。また大和朝廷族が上陸する前に先に日本列島を侵略していた漢族崩れかもしれません。いずれにせよ「O3」占領軍同士の話に過ぎないので、縄文−弥生交配系土着日本人の子孫を自認する当方には全く関係ありませんが....。

●弥生系のもたらしたもの

  日本家屋は湿気対策のため先進国では珍しい高床式住居で、湿度が高い地域出身のオーストロアジア語族の伝統が守られ弥生文化の住居が日本列島庶民の正式な住居として現代まで続いています。縄文文化では住居は地面にべったりでまだ建物とはいえないレベルでしたが、稲作農耕文化を持ち込んだ長江文明の子孫は高度な住居も列島に持ち込みました。いっぽう黄河文明も地面べったり住居で住居レベルはまだ低かった。結局縄文人も「O3」渡来人も湿気の多い日本列島で、先進的な弥生式高床住居を採用したことで、弥生文化は水田稲作以外に高床式住居も日本列島に不動の文化として定着させることに成功したようです。

  出雲大社の典型的な高床式建築はオーストロアジア語族出身のY-DNA「O2b1」の弥生文化の名残の一つで、出雲文化は弥生文化の末裔の1つです。弥生人達を懐柔するために組み込まれたのが出雲神話です。

  では人口的に圧倒的に多数だった縄文人は?神話に組み込むほどの神話を持っていなかった可能性大です。恐らくY-DNA「C」の神話ではなかったかと思われる海幸彦「C1」と山幸彦「C3a」ぐらいでしょう。「D2」はアンダマン諸島を見ても記紀に取り込み懐柔するほどの神話らしい神話は無いように感じます。せいぜい国栖、土蜘蛛扱いでしょう。

● 「日本」の名称 最古の例は?

今朝の朝日新聞で、西安で見つかった678年に亡くなった「祢軍」という軍人の墓誌に「日本」の文字が鮮明に記載されていました。実物は盗掘をされていたそうですが、拓本が古美術市場に流通し研究されたそうです。

  当ガラパゴス史観では、韓半島経由で日本列島に軍事侵攻してきたY-DNA「O3」大和朝廷族が、最初に列島の九州当たりの一角に「日本」という占領拠点を作り、記紀で言う「初国知らす」大王の時代に縄文−弥生交配人が緩やかな連合を組んでいた「倭国」と中国史で呼ばれる本州の中心地を目指し軍事進攻を開始し、大和に占領軍の大本営を築くことに成功し、大和朝廷を興したのです。

  当ブログ管理人のように縄文・弥生交配族の子孫を自認する立場からすると、大和朝廷族一派は勝手に軍事侵略してきた占領軍に過ぎません。その最初の占領拠点が日向であったかは定かではありませんが、軍事侵略者なら上陸地点の豊前辺りに侵略拠点を築くのではないかと疑問を持っています。何故日向なのか?西都原古墳群が(百済系)大和朝廷族の最初の旧跡なのか?上陸協力者の旧跡だったのか?あるいは百済系になる前の侵略軍の基地だったのか?DNA解析ではここまでが推論の限度ですね!

  旧唐書の日本はもと小国で倭の地を併せたりというのが真実に最も近いのではないかと考えられます。その日本は「O3」国家で「D2」「O2b1」が中心の倭とは全く関係ない侵略軍の拠点のことだったと思われます。残念ながらスタートは我が縄文-弥生交配集団の倭の子孫としては面白くない「日本」という名前の出所になってしまいそうですが、これも歴史のなせることで、仕方がないことなのです。「O3」黄河文明集団に極東ユーラシア大陸を追い出され、日本列島まで逃げて来たにもかかわらず、またその「O3」に虐げられてきたのが縄文-弥生遺伝子交配集団なのです。結局これ以上逃げるところがなかったご先祖の「倭国連合体」は「日本」に吸収されたのです。

  記紀は後の百済系になった百済系大和朝廷族が自身の過去の歴史を永く見せるためにそれまでの新羅系や物部系、他のY-DNA「O3」先行侵略軍の神話を取り込み、縄文―弥生交配族の神話まで取り込み懐柔のために練りに練って周到に作りあげた書物でしょう。

●番外編

  蘇我氏は稲目、馬子、蝦夷や入鹿など動植物の蔑称的な名前で記載されていますが、もしかすると縄文−弥生交配一族の可能性が充分にあります。もしそうなら縄文−弥生の子孫を自認する当方にとっては中大兄皇子や中臣鎌足などはとんでもない連中ですが...果たしてどうだったのでしょうか?

  三河の土豪だった松平−徳川家は、新羅系「O3」花郎戦闘集団の子孫「源氏」武士団の子孫ではないのは当たり前ですが、と言っても百済系武士団の子孫かもしれない平氏でもなく、高句麗系武士団の子孫かもしれない坂東武者系でも無く、土着系の縄文−弥生の武士だった可能性もかなり高いのです。
http://galapagojp.exblog.jp/15270404/

隼人、熊襲、蝦夷


● 隼人と熊襲(球磨囎唹)そして蝦夷

  縄文遺伝子の技術者集団だった漁労系ハンターY-DNA「C1」と内陸系大型獣ハンター「C3a」遺伝子は日本列島の各地から検出されていますが、九州や東北にも当然のことながらかなり居住していたと考えられます。

  大和朝廷族の記紀などの情報では、隼人も熊襲も南九州の集団だったようです。

● 隼人考

  Y-DNA「C1」は南方から「D」と共に陸だった東シナ海−黄海ランドを遡り、沖縄には港川人という石器時代の遺跡を残しオーストラロイドと最近判明しましたが、そのまま沿岸部を恐らく漁労に適した海辺で拠点を形成しながら、青森まで北上し津軽海峡(ブラキストン線)に行く手を阻まれ定着したため、現状のデータでは沖縄と青森に今でも「C1」としては列島で最大の遺伝子頻度8%以上を残しています。つまり約12人に1人は「C1」なのです、これは驚くべき頻度と言うことができます。オーストラロイドの遺伝子は意外に多いのです。これらから推察すると海と関連が深いような記述の多い隼人は当然「C1」で海洋性の海の男の原点遺伝子でしょう。しかし同じ「C1」遺伝子は沖縄から青森に至るまで沿岸(特に太平洋)各地に残ってきたはずなのです。本来なら隼人は日本列島各地に居住していたはずです。恐らく風土記を詳細に調べれば隼人と同じ風俗習慣の集団の記載が見つかるはずです。

● 熊襲考

  一方Y-DNa「C3a」は韓半島から大型動物を追って南下して来た陸のハンター集団のため、沿岸部には居住せず内陸部に居住していたはずです。九州に「C3a」としては列島で最大の頻度8%を残しています。熊襲の記述は内陸的なので間違いなくY-DNA「C3a」でしょう。恐らく肥後もっこすの形質は「C3a」ではないかと考えられます。海幸彦が「C1a」なら、山幸彦が「C3a」で、大和朝廷族に恭順的だった海幸彦が記紀で良く描かれ反抗的だった熊襲の山幸彦は負けたように描かれたのでしょう。

  陸のハンター「C3a」にとって大型動物、ナウマン象なども獲物だったはずで、長野県の野尻湖にナウマン象の化石が発見されることから、本州にも動物を追って「C3a」は移住したはずです。しかし沖縄では頻度が低く九州南部で多くは留まったようです。寒冷化し始めたシベリヤで寒冷地適応を若干受けた「C3a」は、オーストラロイドの形質そのものだった彫深でいかつい顔立ちの「C1」に対し、ややいかつさが減りツルっとした端正な彫深のイケメン顔立ちに変化をしていたはずです。交配が進んだ現在と異なり、当時は大和朝廷族や純粋な弥生人の子孫とはかなり異なる顔立ちだったはずです。

  多くの弥生人は居住地域が似通っていた「D」のジャガイモ顔系の縄文主流系とは交配をしていたはずですが、ハンター系の「C」とは居住地域がかなり異なるため、古代には交配はあまりなかったと考えられます。

  「C3a」は「C1」と較べて独立性や独自の風俗習慣を頑なに守り通そうとした集団だったようです。出シベリアしアメリカ大陸に渡る大冒険を行った「C3b」、ユーラシア大陸の東西に大モンゴル帝国を作った「C3c」など「C3」は大陸的な大冒険遺伝子の集団で、支配したがり屋の搾取遺伝子の「O3」大和朝廷族とは全く相容れないのは当然でした。このため大和朝廷族とは衝突を繰り返し、ハンター集団だったため武力もあり、大和側はかなり手こずったようです。

● 蝦夷考

  Y-DNA「C1」と「C3a」は当然蝦夷の構成遺伝子だったはずです。日本列島で他に蝦夷を構成する遺伝子はありません。「D2」は大和朝廷族に対抗するような武力を持てたはずがありません。

  坂上田村麻呂と戦った「阿弖流爲」等の武力から推察すると、「C1」より大型獣ハンターの「C3a」の方が蝦夷の軍事的な中核だったような気がします。従ってY-DNA「D2」だった当時の原アイヌは蝦夷では全くありません。無関係でしょう。では北日本に残る「ナイ」や「ベツ」などアイヌ語似の地名は何処から来たのでしょうか?

  もっと時代が下がったオホーツク文化人のY-DNA「C3c」のニヴフ族が持ち込んだ内陸地系形を表す「C3c」単語と同じシベリア起源の古住シベリア民だった「C3a」が持ち込んだ単語が似ていた、と言うことだと思います。「D2」ではなく「C3」起源でしょう。もし「D2」なら日本中に「ナイ」や「ベツ」など似た地名が大量に残っているはずですが、そうではないので大和化が遅れた北日本にのみ蝦夷の中核だった「C3」の単語がかろうじて残ったのではないかと思います。

●雑考

  「O2b」は庶民の中では上の土地持ち農民、「D2」は狩猟採集が中心の名もない小作人的な下等庶民だったと思われます。この体制は1000年以上続き、農地解放で小作人が農地を持つことが出来たことでやっと「D2」は名実共に名前が持てるようになったのです(苗字そのものは明治維新時に持てましたが、名実ともに1人の日本国民になったのは戦後で、マッカーサーがこなければ、日本列島は未だに支配階級の「O3」と地主の「O2b」がのさばり、「D2」は貧しい小作人のままだったでしょう。)

●補考

  現代アイヌ民族は本当に北海道の先住民族でしょうか?これは非常に政治的に微妙な問題ですが、ガラパゴス史観的には避けて通れない命題です。もしY-DNA「D2」85%、「C3c」15%の現代アイヌ人が先住民族なら、日本列島に住む全てのY-DNA「D2」と「C1a」、「C3a」遺伝子国民も同様に石器-縄文時代から列島に住んできた先住民になります。人口が少なく近代化が遅れ古い文化を残してきたという理由だけで先住民扱いになるのは大いに疑問に感じます。

  現在日本人として扱われている古代遺伝子「D2」「C1a」「C3a」は、侵略征服者が「O3」漢族で、現代アイヌ人の古代遺伝子「D2」は侵略征服者が「C3c」古代ニヴフ族だったと言うだけの違いでしかありません。

  「O3」は大和朝廷族や武士団族を形成し、日本と言う国家を確立するために猪突猛進し、我々縄文−弥生交配族の子孫は従わされて、幸い近代化し今に至ります。一方古代ニヴフ族は「D2」に対し熊祭りなどシベリア民独特の辺境風俗習慣を押し付けましたが、旧態依然のまま近代化できず我々縄文の同胞の「D2」を辺境民族に陥らせた責任は重大です。現代アイヌ人の中の85%を占める「D2」遺伝子グループは同じ「D2」の日本人に同化することが歴史の自然の流れだと感じます。ただし残り15%の古代ニヴフ族直系の子孫「C3c」は望むなら先住民で残ってもおかしくはありません。mtDNAも同様で「M」系は日本人に、20%の「Y」系は古代ニヴフ族直系の子孫として先住民で良いかもしれません。

  しかし漢族の歴史を見ると同じ民族でありながら、「O3」に同化した他遺伝子群は今は完全に漢族の一員で、同化しなかった群は53近くの少数民族として認定され辺境民扱いされています。土地が繋がっていても孤立化を選ぶ集団は必ずいます。しかし北海道はたまたま津軽海峡で隔離されていたため、「O3」の侵略が及ばず辺境に残っただけです。明治以降やっと「O3」の支配が北海道にも及ぶようになった現在、現代アイヌ民族として孤立の道を歩む必要は全くないはずです。日本各地にその土地の古い文化が継承されているように、アイヌ文化は北海道の土地の古い文化として日本文化に同化して残ればよいはずです。

  これは歴史の必然のように感じます。われわれ縄文と弥生のご先祖が共存し交配し同化してきたように、望むなら「C3c」も今からでも同化すればよいのです。「O1a」の文化かもしれない”なまはげ”や”トシドン”だって奇祭です。「C3c」の熊祭りだって奇祭として残せばよいだけです。日本列島は様々な遺伝子が混じり合って出来上がった遺伝子集団です。本州以南には全くない「C3c」が新たに仲間として入って何もおかしくはありません。全てを飲み込むのが日本列島なのです。遺伝子集団とはそういうものです。
http://galapagojp.exblog.jp/15281541/  

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コメント
 
01. 2012年10月16日 22:37:43 : HNPlrBDYLM

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参考HP


日本人の起源
http://www.geocities.jp/ikoh12/index.html

更新世から縄文・弥生期にかけての日本人の変遷に関する総合的研究
http://research.kahaku.go.jp/department/anth/s-hp/index.html

北の異界 古代オホーツクと氷民文化
http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/2002Okhotsk/index.html



02. 2012年10月17日 00:28:12 : HNPlrBDYLM
「海から見た日本列島」
http://www2.odn.ne.jp/~nov.hechima/


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関連投稿追記

サルはなぜサルか 1 _ 日本に何故タイ山岳民族の少女が輸出されるのか?
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/396.html

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http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/287.html

台湾は中国ではないんだけど
http://www.asyura2.com/09/reki02/msg/288.html

宮脇淳子 _ 「世界史はモンゴル帝国から始まった」
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/439.html

イエスのヒーリングは本物のシャーマンには敵わない
http://www.asyura2.com/09/cult7/msg/609.html


03. 2012年10月17日 17:31:25 : HNPlrBDYLM

京都の「おもてなしの文化」 とは
http://www.asyura2.com/09/revival3/msg/231.html


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            乂 : : {: : { f:弋:j!-《 込勿~` 彡''" ,然ミx /ノ.:.:.:j!:.:}
           }: : :゙、 i: { : ゞi、   ̄      :'{仞 ヾY: : : : /: :j!    
          ノ: :} : : : : 乂 ゙、\       {   "ノ: : :/: :ノ     
         ,..:'"  ノ ノ: : ノ: :ヽ ゙ト }}          彡 ィ":,.ィ      
      γ´    ̄ 弋 {    ) j//     っ    ノノ: :人(: :゙、. お客さん!?    
      {     / { ` /  人(,,\      ,..ィ{(〜': : : : : : \
       ゙、    { 人  { //r┴―‐`'''=ニ´ {{ 弋           ヽ
          }   ゙、  \ ヽ  〉、_........_  イ ヾ\ `ヽ、    } ゙; }
         ノ  ,..::''" ̄~7 7⌒`廴   ̄   _〕ミー―--..、ヾヽ  i  j/
      / /::::::::::::::::/ /::::::::::::i ~''''ー‐'''"   __\:::\ヽ:\  j   {
   ,。:'"  f:::::::::::゙、:::::::i i:::::::::::::人   ̄ヾ  "   \::::ヾi::::ハ_   ゝ、.._
  /〃 / j:::::::::::::::゙、:::i i:::::/::::::::\ __,,,,,,,,,,,,,,,,,,,_)::::::゙、::::}ト、 ____ \
 { {{ /  ノ:::::::::::::::::::ヾi !:/:::::::::o::::::ハ≫''"~ ̄弋 ̄ ̄ ̄~ヽ弋ニ/ ,.-― ⌒ヽ__
  \`、 「::::::::::::::::::::::::::::! i/:::○::::::::::j三二==――---==/:::(// / __ _ ヾ\
   )ノ /::::::::::::::::::::::::::::/::::::::::::::::::::::/''"         `::、/"⌒ヾ〈,__// _  }::ハ
    j/::::::::::::::::::::::::::::/::::::::::::::::::::::::::{、__       /゙;. _ ,,,,..-‐'"`‐'":::\ノ:::::::i
    戈:::::::::::::::::::::::::::;':::::::::::::::::::::::::::::::ト、    ̄ ̄ ̄/ ̄ ̄       〉^Y::::::ヽ:::::::i
  /  \:::ヾ::::::::::;;;_i:::::::::::::::::::::::::::::::::l三ミz、__,,..ィ'"          /  }::::::ハ;;;;;;〉
 //   / `''こ ̄_{:::::::::::::::::::::::::::::::::(_,,ィa" ̄"'====------∠__ノ::::::::::}__ノ
 {(廴  〔  }:::::::::::::::!::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::/            ,.ィ'"   ̄`ヽ:::::::::::j!::/
    ̄)ト、ト、 i::::::::::::::::゙、::::::::::::::::::::::::::::::::::人          ,.ィア       )::::::::/イ
        )〉ヽ}\::::::::::::\:::::::::::::::::::::::::::::::::::\       ,,..ィa         ノ::::/:::/


京都人は「O3」人間?

京都人の陰湿さの背景


★京都人は日本人ではありません。

★遺伝的にも朝鮮人であると完全に証明されています。

▼梅原猛(愛知県出身・京都在住の哲学者)
『近畿人は日本人全体からかけ離れて朝鮮人に近い。東大の埴原和郎先生は近畿人は日本人じゃないと言うんだ』

▼国民百科事典(平凡社)
『近畿地方を中心とする関西地方の人々が、朝鮮人的要素を有することは注目に値する』

▼池田次郎(京都大学名誉教授・自然人類学)
『畿内人は韓国朝鮮人と同じグループに属し、日本人から最も離れている』

▼レヴィン(旧ソ連の人類学者)
『シベリア抑留者1万人を調査した結果、近畿人は朝鮮人とほぼ同じだが、東西へ向かうに従い日本人となっていく』

▼岩本光雄(京都大学名誉教授・霊長学)
『畿内人と大陸人、とりわけ朝鮮人は人種的につながっている』

▼埴原和郎(東京大学名誉教授・自然人類学)
『近畿人、特に畿内人は目立って朝鮮の集団に近く、日本人からは外れている』

▼関晃(東北大学名誉教授・熊本県出身)
『帰化人たちは、ほとんど全部が大阪京都奈良に根を下ろしたといってよい』

▼松村博文(札幌医科大学准教授・解剖学)
『畿内人は一番胴長短足の人たちなのです。朝鮮半島の人々も畿内人と同じようだとわかりました』

▼欠田早苗(兵庫医科大学名誉教授・解剖学)
『京都を中心とする近畿地方の人たちは、百済地方の人たちと匹敵するほど頭の形が丸い』

▼網野善彦(山梨県出身・歴史学者)
『以前サントリーの会長が東北には未開なクマソが住んでると言って問題になりましたが、あれは関西人の発想です』

▼手掌紋D線3型出現率から求めた朝鮮人との遺伝的距離 (山口敏『日本人の顔と身体』より)

0.000…朝鮮半島 ←★チョン★
0.007…近畿地方 ←★チョン★
- - - - - - - - - - -
0.012…中部地方
0.035…中国地方
0.035…九州地方
0.038…四国地方
0.048…関東地方
0.068…東北地方

▼各地の男性頭骨の弥生・縄文判別関数値
(池田次郎・京都大学名誉教授による)※数値が高いほど朝鮮に近い

+2.12…畿内 ←★チョン★
+1.08…四国
+0.76…東中国
+0.70…西中国、北東九州
+0.51…関東、東北
+0.40…北陸
-0.87…西九州、南東九州 ←★天皇家★


▼身体的特徴から求めた朝鮮人との遺伝的近似性(小浜基次・阪大教授による)

     頭示数 比肩峰幅 比上肢長 比下肢長
蝦夷人  76.55   23.65   44.60   55.14(小顔・足長の美しい日本人DNA)
東北人  80.16   23.07   44.46   54.33(小顔・足長の美しい日本人DNA)
畿内人  84.98   22.67   43.99   54.23(顔デカ・胴長短足の醜い朝鮮人DNA)
朝鮮人  85.16   22.35   43.30   53.48(顔デカ・胴長短足の醜い朝鮮人DNA)


62 :実名攻撃大好きKITTY:2012/03/10(土) 17:57:52.11 ID:vzRVNzqX0

☆B44-DR13の分布
朝鮮半島   7.0% ←
近畿地方   6.6% ←
関東地方   5.7% ←


★B54-DR4の分布
朝鮮半島   4.4% ←
近畿地方   6.6% ←
関東地方   7.5% ←


☆B44-DR13→近畿で頻度が高い。
『モンゴロイドへの道』(朝日選書)

日本人はるかな旅展(国立科学博物館)

赤色 縄文系の人々
黄色 渡来系の人々(朝鮮半島周辺)

(図1)縄文時代
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_17_01.jpg
(図2)弥生〜古墳時代
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_17_02.jpg
(図3)歴史時代
http://www.kahaku.go.jp/special/past/japanese/ipix/5/img/5_17_03.jpg

赤色→北海道、沖縄、北東北、鹿児島
中間→南東北、関東、新潟、九州
黄色→近畿

仮想混血集団の混血率
http://www.geocities.jp/k_saito_site/abc2.gif

       縄文系 弥生系
中国地方   2    8
近畿地方   1    9
関東地方   3    7

今日朝鮮半島からの大規模な人の移動を示す遺物として朝鮮系の土器に注目されるが、それらの故地や、流入時期、分布状況に際立った特徴のあることが指摘されている。 それによれば、

土器の故地は加耶諸国を中心とし、それらの流入は五世紀中葉から六世紀初頭に限られる時期に最も多いとされる。

また列島内における分布は、畿内の河内、大和にとりわけ多く、吉備、筑紫地方がこれに次ぎ、半島からの地理的な距離にかかわらない偏在性が強く認められる。

(『アジアからみた古代日本』、『橿原考古学研究所論集』九)


67 :実名攻撃大好きKITTY:2012/03/10(土) 22:14:49.76 ID:vzRVNzqX0


▼解剖学者・松村博文先生(兵庫出身)の常識的見解
http://www.frpac.or.jp/rst/sem/sem1721.pdf

『近畿人は胴長短足、朝鮮人も胴長短足』
『近畿人は短頭、朝鮮人も短頭』
『近畿人は乾燥耳垢、朝鮮人も乾燥耳垢』
『近畿人は耳たぶが痩せている、朝鮮人も耳たぶが痩せている』
『近畿人は髭が薄い、朝鮮人も髭が薄い』
『近畿人は一重まぶた、朝鮮人も一重まぶた』
『近畿人は蒙古襞、朝鮮人も蒙古襞』
『近畿人と朝鮮人は歯の形が同じ』


筑波大の原田先生(鹿児島出身)の研究

渡来人は中央権力のあった近畿地区を目指して移り住んだ。だから、そのルートには下戸が多いと推理する
http://27.media.tumblr.com/tumblr_l5mx3u4UoG1qz7zrao1_400.jpg

都道府県別アセトアルデヒド分解酵素活性型遺伝子の保有率上位分布状況
http://www.geocities.jp/k_saito_site/sake.gif

各地方毎のALDH2*1頻度と飲酒量
http://homepage1.nifty.com/koutarou/insyuryou.jpg

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6:名無しさん@涙目です。(WiMAX):2011/10/28(金) 18:06:18.76 ID:RNVRwNQp0
貴族遊びまくり庶民餓死しまくり
貴族が牛車で呑気におでかけする脇道には死体がゴーロゴロ

17:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:13:14.61 ID:j5KVDQzL0
>>6
あいつら死体が道に落ちてたらソッコーで家に帰って清めするだろ

41:名無しさん@涙目です。(アラバマ州):2011/10/28(金) 18:22:19.86 ID:T8Am9NQl0
武家政権になってからは常にトップは色々考えてるし、平時の趣味も座禅や弓矢やら硬派だぞ

53:名無しさん@涙目です。(アラバマ州):2011/10/28(金) 18:26:59.80 ID:T8Am9NQl0
精神を鍛錬して武芸を磨いてたおかげで元に勝ったわけで
貴族の和歌よりはよっぽど役に立つ


210:名無しさん@涙目です。(三重県):2011/10/28(金) 21:53:29.65 ID:5UrmWtqv0
武家政権が一番強固な時代だったしね。
ラッキーだったとしか思えん。
ぬるま湯平安時代とかにやってきたらボコボコにされてたろうな。

28:名無しさん@涙目です。(東京都):2011/10/28(金) 18:15:52.73 ID:+z8ty5Br0
平安時代は和歌とか紫式部とかのほほんとした平和なイメージだけど あれは貴族の話。
一般市民は餓死しまくりで路上に死体が転がっていて政治機能はマヒだから次の時代に武家社会が到来した


37:名無しさん@涙目です。(アラバマ州):2011/10/28(金) 18:20:58.16 ID:T8Am9NQl0
藤原家の奴とか大体和歌詠んでは天皇や上皇にゴマすってるだけで何にもしてないよな


45:名無しさん@涙目です。(長屋):2011/10/28(金) 18:23:39.06 ID:j5KVDQzL0
>>37
あいつら道端に猫の死骸がありましたとかで仕事休むからな
自分とこの荘園管理以外仕事してないな

4 :日本@名無史さん:2006/07/15(土) 10:47:12
平安期の貴族は糖尿病と見られる症状が出ていたらしい。 世界の貴族と同じ。
だが、後に日本の支配者となった武家にはそのような記録はほとんどないはず。


86 :日本@名無史さん:2007/05/02(水) 15:34:48
平安時代の貴族は糖尿病が多い。
史料には「飲水病」と書かれ、水を異常に欲しがる様子が描かれ、糖尿病のことらしい。

後一条天皇、藤原伊周などはこれで死んだらしい。


131 :日本@名無史さん:2007/06/08(金) 02:52:26

NHK 知るを楽しむ 『歴史に好奇心』 教育テレビ 6月7日 午後10:25〜10:50
「藤原道長の食卓・衝撃の偏食」

平安時代、宮廷や貴族の祝宴で出された「大饗料理」は、第一に見せる料理である。

塩辛い「乾きもの」が多く、味付けはいたってシンプルだったが、素材の切り方、盛り付け方には異様なほど神経を使った。

「この世をば我が世とぞおもう」の藤原道長は毎日のように大饗料理を食べ、糖度35パーセントという猛烈に甘い日本酒を愛飲して中年期から糖尿病に苦しんだ。

しかも牛乳を濃厚なチーズ状にしたものにたっぷりと蜜をかけた「道長スペシャル」ともいうべきデザートを手放せず病気を悪化させていく。見栄えは良いが多すぎる塩分と糖分で生活習慣病を頻発させた平安貴族の食生活を描く。


29 : 風吹けば名無し: 2011/10/18(火) 23:28:42.30 ID:kIPo3rgn [3/3回発言]
NHKで平安貴族の食事を再現してて酒がありえないくらい糖分でドロドロだった。
見た目からして糖尿病まっしぐら。

http://engawa.2ch.net/test/read.cgi/ojyuken/1331048080/


04. 2012年10月17日 18:41:24 : HNPlrBDYLM

京都の人間は、笑止な選民思想を持っており、自分は1200年の伝統が醸し出す洗練された人間と勘違いしているが実は野暮ったい田舎っぺそのもの。前述の通り差別(逆も含む)が凄まじく、閉鎖的なムラの論理ばかりが横行し、新住民や新しい文化、気質を受け入れない。住みやすいなんてのは全くの嘘。


「比叡山より東は蛮族の棲み家」

が彼らの口癖。 究極の井の中の蛙!東京って知ってる?

頭の中は坂上田村麻呂征夷大将軍の時代で止まっているらしい。おそらく彼らの世界観は高句麗や唐、せいぜい天竺どまりで、地球が丸いことも知らないのだろう。京都が学術の都というのもガセ。確かに大学数が多いが、殆どが極右、極左で、何も知らないで入学すると変な思想で洗脳され、卒業するときとんでもない人間になってたりする。


人口も、もはや茨城県にも抜かれ停滞気味。それでも京都「府」という特権意識だけは非常にがめつい。


最後に自称雅やかな古都の礼儀作法「三度の辞退」をば。


他県人「どうぞつまらんものですが、召し上がって下さい」

京都人「いいえ、けっこうです」

他県人「まあそうおっしゃらずに、軽い気持ちで遠慮なくどうぞ」

京都人「いいえ、けっこうなんです」

他県人「本当にいらないんですか?」

京都人「はい」

他県人、それならと差し出したお菓子を引っ込めようとする。京都人、突然ブチ切れる。

京都人「何やボケ!そんな謙遜を真に受ける奴がおるかこの田舎者め!わしに食わさんとは礼儀知らずなやっちゃのう!!!」

他県人「・・・・・(唖然)・・・・」


「はるばる田舎からようきやんしたなあ」

「あの、東京から来ました」

「それはそれは」

「はるばる田舎からようきやんしたなあ」(爆


京都で進学・就職後、今関東にいるが、京都気質がぬけず苦労している。

京都では、徹底して相手をこきおろす社会やったから、なかなか他人を信じられない。人間不信、瞬間にして敵・味方を判別、相手を罵倒・威嚇する。この癖は当分、なおらんと思う。


京都に旅行に行ったとき、やたらと「差別をなくそう!」という看板やビラがあり、その時は何のことかさっぱりわからなかった。(東北出身なもので)

事実を知り、ゾッとした。

古都とか日本情緒あふれる・・・なんて優雅なイメージは表だけ、実は非常にドロドロした所だと感じた。京都には住みたくありません


京都生まれ・京都育ちのくせに「この人性格いいな」と思ったら、大抵その人の両親は、他府県出身者。ジジババのころから代々京都生まれの奴に、ロクなのがいない。

「ゆっくりしていかはったらよろしやないの、今おいしいお茶いれまっさかいに。新幹線なんか待たしといたらよろしいがな」

といいながら、後ろにさかさぼうきが立っている。これが最初のサントリーのお茶のコマーシャルです。

これは市田ひろみさんが出演されていたコマーシャルの事です。

「さかさぼうき」とは、長居をしたり、食事の時間になってもなかなか帰らないお客さんがいる時に、玄関や出入口にほうきを逆さまに立てかけておくというもの。


京都の人は本当に恐ろしいですね.

他府県出身で、京都に住んでも何とかなるのは、大学生だけ。一般人は踏み込むべきではありません。

京都の常識は、世間では非常識!!

京都人ほど、高慢ちきで、人間関係において内・外を使い分ける人種を他に知らない。他人を無視するのでも一度無視したら、あいつら何年という期間で無視するやん。ホンネはいわへんし、執念深いし。したたかで、ずる賢くて他人を利用するし。こんな陰湿な常識が、他の世界に通用するか?

大半の人間は、驚いて「あしらう」レベルに到達しいひんで、ただオロオロするだけちゃうか?

ただし、極少数のいい人がいるのも事実。知っている限りでいい人達の特徴は、京都生まれで京都育ちだけど両親が他府県出身のひとたちと、高卒の人達が多かった。京都の私学の附属あがりの金持ち連中及び西陣・祇園の商売人の息子・娘たちは、ホント高飛車にも程がある、根性腐った奴が多かったよ。


オレも京都嫌い。
湯豆腐1000円で売ったり、あんなチャッチい野菜高く売りつけたりする
ボッタクリ商売人は氏んで欲しい。消費者の敵。

オレ、和牛オーナーだったが預託会社が高槻に高級肉の直売店を建てたところ
京都のクサレ食肉団体がカス議員→ゴミ警察に圧力掛けてその店を潰した。
そのせいで預託会社は倒産して金は返ってこなくなった。
金返しやがれカス!


京都駅の八条口にタクシー乗り場がありますが運賃値下げをしたMKタクシーは“村八分”状態にされて乗り場内に立ち入ることを他のタクシーが阻止していた。


新幹線で大坂から東京に帰るとき、自由席だと京都から乗ってくる人が何とか席に座ろうとして、あまりにもあさましいのを何度も見てるからです。でも、京都の人のあの独特の性格は必要悪だと思っています。あの異常なまでの誇りがなければ、他の地方都市と同じようにミニ東京になってしまうでしょう


ヤフーで個人売買していた際に最も嫌な思いをした取引相手は京都人でした。もーずうずうしいったらありゃしない。
京都ではそうかもしんないけど、東京や神奈川は違うんだよ!!
あたしゃずっと神奈川だからさ、そんな京都の常識語られたって知らんよ、もう。

ちなみに取引物は某少女趣味のブランド服。
勝手に電話番号調べてきて「他の人より高く買うから自分に譲ってくれ」と文句たれ。あんまり煩いからそれでOKしたら今度は「東京は知りませんけど京都ではこの服もっと安く買えるからもっと安くしてくれ」だって。
最初と話ちがうじゃん。

「こっちもね、主婦だからたいへんなんですよ。」って知るかもう・・・・。
この態度がまた自分のほうが正当である!!とさも言わんばかり。
あーもうアンタ逝っていいよ・・・・と何度口から出そうになったことか。

この厨房主婦の次の京都人も最悪だった。
それ以来京都人を見る目がかわった。もー逝ってくれ。


京都人の武器はやはり口です。そして彼らに口で勝つのは至難の業です。

彼らはこちらが失敗などして劣勢にあるとき、落ち込んでいるとき、つまり反撃できない状態にある時を機敏に察知して、攻撃してきます。

やり方は「○○ちゃうんけ!」といった言葉をややヒットアンドアウェイぎみにかますことが多いと思います。(あとでむかついてくる)

また、こちらが一般的に優位な立場にある場合は、過去の細かな失敗を適当に誇張して、こちらを蹴落とす世論を構築しようとします。

この行動はこちらも察知できて、しゃくなのですが、そのような細かい事をいちいちとがめることも出来ず、非常にストレスがたまります。

で、一番言いたいのは、このような理不尽な行いも受け止めることです。
彼らが何故このようなことをするのか、道徳的に心の中で批判してみてもこちらのストレスがたまって参ってしまいます。そういうものなのだと受け止めて下さい。

彼らのなれなれしい言葉、親切に心を開かないこと、また、とりあえず下手に出て彼らの弱みを握るチャンスを得ること、これが対策法だと思います。

おれが大学で東京に住んだときはなんちゅう「ばか正直」なやつが多いんやとおもったなあ。普通にしゃべる中で、ちょっとかま掛けても「そうなんだ、ふうん」とかえされて、こまってしもたわ。

私は東京出身だけど、京都で働いてた時によく地元の人に「あんた。素直やねぇ」とよく言われました。バカ正直って意味なのね。ごめんなさいね。関東人の美徳なのよ。

私は、知的でセンスがあって、出が良くて気の利いた会話が出来ても性格が屈折して陰険な人物は最初から(人として)低いと思うけどね。


京都は関西のくせに、隠れ見栄張りが多いね。そのくせして、居酒屋とかで飲んでも、1円単位まできっちりと割り勘にする。このギャップにずいぶんとまどった。見え張りというよりも、やせ我慢に近い。。。

ようするに、せこいくせに、プライドだけは一人前って事。
矛盾してるのに、認めようとせずに、突っ込まれたら急に、流暢な京都弁でさらりとかわす・・これが手口。


京都の富裕層、特に金持ちの商売人(祇園・西陣)が最悪やね。あと、材木屋・漬物屋・かんざし屋とか地場産業の連中。洛南出身の人達は、おそらく京都の富裕層階級の子弟だと思われる。


だから、言ってるやん。京都の金持ちは、根性汚いのが多いって。全員が全員やないけど、私の知っている限りの、京都の有名私学の金持ち連中たちの世界は別世界。ほんまに極悪!!!


ちなみに、私の妹は小学校途中で左京区の学校に転校したが、卒業するまで、いじめぬかれたよ。絶対、よそもんは入れない社会やね。


悪いけど、京都を日本と思ったらあかん、京都の常識は、世間の非常識やしね。

京都は怖くていけないよね…。


自分の知らないしきたりで意思表示されても知らないから、裏で陰口言われるんだろうね。


「あの人、嫌だって言ってるのに居座りつづけてるよ。 だから、東京の田舎もんはやなんだ。」
http://mimizun.com/log/2ch/yasaitr/971890080/


        /          イf它メミー-   ( _  く ̄\
         ィ⌒´/ ̄廴   / {い辷彡ク―- 、 \\  _〕 \ヽ
        f´l |  /  / ハ/ / >=≠=ー-   \ \ヽ __厂ヽ \
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      lノ     ´ ̄ 川  l| |||」|   l|`T 7 ハT | l | | | ::.::.::.::.::.::| |
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    / / 乂  >i:i:i:i/i:i/:i:i/ .::.::い        :. 八 ゝ         l::.::.::.:. i:i:i:i:i:i:i:ハi:i:ハ
   { {   イ:i:i:i:i:i:i/:i:i':i:i:/ .::.::.::|\ \_ノ)  :.            |::.::.::.::l:i:i:i:i:i:i:{:i:}i:i:i:ト、
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8母音は朝鮮から渡来した「O3」人間だけだった

アイヌ語は五つの母音を持つ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%8C%E8%AA%9E#.E6.AF.8D.E9.9F.B3

上代8母音説

橋本進吉氏により提起され、現在迄学界で広く認められている説である。
即ち、上代=奈良期には、母音がアイウエオの5音の他に、イエオについては甲乙2類あり都合8母音であった。
それ故
「キ・ヒ・ミ・ケ・ヘ・メ・コ・ソ・ト・ノ・(モ)・ヨ・ロ・ギ・ビ・ゲ・ベ・ゴ・ゾ・ド」
には甲乙の音韻が2類あり、 都合87(or88)の音があったという。これを上代特殊仮名遣という。

この前提の下、大野晋氏らにより、神代文字批判が行われた。
即ち、イロハ歌(47音)やアイウエオ(50音)は平安期に作られたものであるから、神代文字といわれるものの大半が47字又は50字であることは、これらの文字が平安期以前には遡れないというものである。
 そして、この説が長らく日本国語学界の主流であった。

ところが、最近になって、金沢大松本克己教授や奈良女子大森重敏教授などから、疑問が提起されてきた。 その疑問とは、松本氏「母音の交代現象」、森重氏「連接による臨時合成音」等と言われるが、要は古来日本語は8母音ではなく5母音であり、8母音というのは、渡来人達により漢字の国語化が行われた際の 一時的な虚像であるというものである。
この議論は尚決着は付いていない。

平安期には8母音が死滅していたという事実は重要で、なぜ死滅したのかを明らかにしなければ8母音説は説得力に欠ける事になり、当然8母音説の立場から否定された神代文字は再検討が必要となる。

《古事記における8母音説の検証》
岩波文庫「古事記」を利用して、カミについて「上」と「神」を検証してみると、

訳p =原文p     表記
p48 =p229 夜知富許能 迦微「神」能美許登波
p49 =p229  夜知富許能 迦微「神」能美許等
p50 =p229  夜知富許能 迦微「神」能美許登
p86 =p247  加牟「神」加是能
p138=p272 加牟「神」菩岐
p178=p292 加美「上」都勢爾
p188=p297 加微「神」能美夜比登
p189=p297 加微「神」能美弖母知

わずかこれだけしかないのである。根拠資料数としては余りに少ない。
他は、圧倒的に「上」「神」の文字そのままを用いている。
8母音説の甲乙分類ではなく、単なる意味分類と考えられるレベルである。

現代日本語の母音について考えてみると、いわゆる標準語(江戸、山ノ手弁)
に関しては5母音であるが、方言を見ていくと、 3母音から8母音まで多様である。 この事実も、上代古語が一律に8母音であったという説には否定材料となるであろう。
http://www.interq.or.jp/www-user/fuushi/5-anc/5h-genngo/5h-genngo-a5.htm


琉球語は3母音?

 日本語の母音は「ア・イ・ウ・エ・オ」の5つということになっている。でも果たして大昔からそうだったのだろうか。いや、そうではなくて、奈良時代には「イ・エ・オ」がそれぞれ2種類(甲類と乙類)に分かれており、母音は合計8つあったのだ、というのが国語学界の定説である。その8母音の甲乙の差がなくなって5つになり、そのまま現在に至るとされる。

 その端緒となったのは江戸時代の国学者、本居宣長とその門弟石塚龍麿の研究。二人は単語によって万葉仮名が書き分けられる事実に注目したのである。万葉集は、まだ平仮名の発明されていなかった奈良時代に編集されたから、平仮名の代わりに漢字が(表音文字としても)使われているのは当然だ。ところが、単語によって使われる漢字が決まっている。例えば、同じ「き」でも、「きみ(君)」の「き」と「つき(月)」の「き」では、漢字が常に異なる。それから遥かに時代が下った大正時代、国語学者橋本進吉が彼らの研究を「再発見」し、前者を甲類、後者を乙類として、甲乙の違いは母音の違いだと主張したのである。これが「上代特殊仮名遣い」と呼ばれるものだ。(「国語仮名遣研究史の一発見:石塚龍麿の仮名遣奥山路について」1917)

 さて話は飛ぶが、私はこの夏、生まれて初めて沖縄に行った。せっかく行くのだからと、その前から少し沖縄の言葉を調べておいた。特に興味があったのは母音である。比較的よく知られているように、沖縄の言葉で短母音・長母音の両方が現れるのは「ア・イ・ウ」の3つしかなく、「エ・オ」は長母音だけである。明治時代の言語学者チェンバレンはこの状況を、沖縄語の母音は本来「ア・イ・ウ」の3つのみで、(a-iやa-uなどの)二重母音から「エ・オ」が二次的に派生された、だから長母音だけなのだ、と上手く説明した。(「日琉語比較文典」1895 )

 短母音に限れば、東京方言の「エ」が沖縄では「イ」、「オ」は「ウ」になる。これに加えて、「キ」が「チ」に変わることも知っていたので、「おきなわ」が「うちなー」に、「ごめんください」の意味の「きはべら」が「ちゃーびら」になることもよく納得出来た。また「こころ(心)」は「くくる」、「ことば(言葉)」は「くとぅば」とたちどころに「翻訳」出来るのに大いに気をよくしたりした。

 そうこうしている内に、ある思いがふと胸をよぎった。日本語の母音の原始の姿が沖縄にあるのではないか。つまり、大昔の日本語の母音は、定説である8つどころか5つですらなく、さらに少ない3つだったのでは。沖縄に古い日本語が生き残っていることは、語彙の面で明らかである。上に挙げた(「ごめんください」の意味の)「ちゃーびら」の元の姿「きはべら」は、実は漢字で書けば「来侍ら」なのである。そのまま日本の古語なのだ。

 他にも、いかにも昔の大和言葉だと思う語彙が沖縄にはたくさん残っている。「こども」のことは「わらび」で、古語の「わらべ(童)」だし、「とんぼ」のことは「あきじゅー」で、これは「あきづ(秋津・蜻蛉)」。「あきづ」などは、日本国の別名を「あきづしま(秋津島)」といい、その秋津島は「大和」にかかる枕詞なのだから代表的かつ重要な和語だが、沖縄ではこの言葉がまだ日常生活で使われているとは、感動的ではないか。

 興味深いのは、沖縄から遠く離れた東北地方でも、「イ」と「エ」がうまく区別出来ないとよく言われることだ。例えば「まえ(前)」が「まい」と発音される。前後ろ逆にパジャマズボンをはかないように、お婆さんに「まい」とマジックで黒々と書かれた、と子供時代の想い出を語ってくれたのはヨーク大学で日本語を教える矢吹典子さん。山形のご出身である。

 それやこれやを考えるうちに、日本列島に古くから住みついた縄文人の言葉の母音は3つだけだったのでは、と俄然思えてきた。大陸から朝鮮半島を経て、母音を数多く持った弥生人が日本列島に大量に渡来して来た。そうして母音が3つから5つに増えたが、以前から住んでいた人々は南と北に押しやられて3母音の母音構造を残したと考えたらどうだろう。そんなことを想像しながらカナダに戻り、ちょっと調べてみたのである。

 すると何のことはない、言語学者松本克己がとっくに「原初日本語3母音説」の解答を出していた。(「古代日本語母音組織考 −内的再建の試み−」『金沢大学法文学部論集文学編』22(1975年3月)。松本は、ギリシャ語での同様の例を参考に、甲乙2種の使い分けがあるように見える母音は単に相補的な分布を示すもので、母音が使い分けられていたわけではないと主張。つまり橋本の言う「甲乙2種」は結局音韻的には同一、上代の母音は8つでなく5つであったこと、そしてさらに時代を遡ると「ア・イ・ウ」の3つであったろうと結論づけている。これでチェンバレンと松本の主張が一つに結びついた。

 因みに、世界中に3母音の言語はかなり多いのである。有名な所ではサンスクリット語、それからアラビア語も、その姉妹語であるヘブライ語も同様だ。それら全ての言語で3母音とは「a-i-u」で一致している。ちょうどおにぎりの形をしていて、この3母音は大変安定しているのだ。

 思い起こせば、漢字が初めて日本にもたらされた時、言うまでもなく日本人は文盲であった。万葉集の歌を詠んだのは日本人でも、それを筆記したのは渡来人である。その渡来人の母音体系が、日本語の筆記に影響した可能性は高い。こうした「誤記」の顕著な例がある、それはベボン式ローマ字だ。日本人にとって例えば「た・ち・つ・て・と」は、1子音と5母音の組み合わせだが、英語話者ヘボン氏(本当はヘップバーン(Hepburn)氏で、女優のキャサリーヌ・ヘップバーンはその一族)の耳には、子音は1つではなく3つもあるように聞こえた。日本語本来の音韻体系を無視して「ta-chi-tsu-te-to」と書かれる、誠に不幸な「た行」が生まれたのはその結果である。橋本進吉が「再発見」し、いまだに定説のままの「上代8母音説」とは実は誤りで、奈良時代のヘボン式だったと言えそうだ。  
http://blog.goo.ne.jp/shugohairanai/e/8f6703d7bad22c1fc8237503bd4f473a

「三母音」について(沖縄語の勉強会)

ウチナーグチの母音について、[e]が[i]に、[o]は[u]に変わるので、だから[a]、[i]、[u]の三つしかないのだというような言われ方を、よく耳にすることがあります。これって、ちょっと昔、かの伊波普猷先生が、何かの書物で書いてしまって、それが定説っぽく伝わったので、そう思い込んでいる人たちが多いということらしいのです。

ちなみに、[e]が[i]に、[o]が[u]に変わることを高舌化(高母音化)といいます。[a]と[i]と[u]は、極めて区別しやすい安定した母音なので、この三つしか母音を持たない言語は、アラビア語やブライ語など、世界中にいくらでもあります。

しかし実際は、沖縄語の母音は三つだけではありません。確かに、短母音での[e]と[o]は極めて少ないのですが、皆無ではありません。例えば「蝶」のことをハベル(haberu)というように、[e]や[o]の短母音も存在するのです。
また、連母音[ai]は長母音[e:]に、同様に[au]が[o:]に変わるというのも、ウチナーグチの特徴で、つまり[e]と[o]も、長母音でならいくらでも存在するということですね。

この[ai]→[e:]、[au]→[o:]という変化は言語学的には普遍的な現象で、この変化によって3母音体系から5母音体系に移行した言語も多いのです。サンスクリット語などもそれです。逆に5母音から3母音へ単純化された言語もあり、ウチナーグチもそのひとつだということになっていますが、ということは、ウチナーグチはその後、再び[e]と[o]を、[e:][o:]という形で組み込んだということなのでしょうか。

もともと日本語の母音は8音だったとか6音だったとか、いろいろな説があるのですが、ともかくそれよりもずっと前の紀元300年くらいに沖縄と大和のことばは分化されたというのが、今のところ一番有力な説ではあるらしいのです。しかし、もともと大和の言葉の基本母音は3音であって、だからウチナーグチは、こうした音韻に関しても古い大和言葉を残しているのかもしれないというような試論もないわけではありません。だとすると、大きく変化したのは大和の言葉のほうだということになりますね。でも、この説はちょっと無理があるかな。
http://lince.jp/hito/okinawamap/benkyoukai.html
http://lince.jp/hito/au-oo-uu.html


いわゆる「沖縄の3母音」について、今まで時々書いてきました。何度も言いますが、沖縄語には[a]と[i]と[u]の3母音しかないというのは間違いです。今日は、「沖縄の3母音」というステレオタイプっぽい通説の問題点についてお話したいと思います。

確かにウチナーグチには、[e]と[o]の短母音は極めて少ないということは事実です。また沖縄の言葉が、3母音化という歴史を経てきたことも間違いなさそうです。
ただ、いつごろどのように3母音化が起こったのかは、以前にも書きましたが、正確には分かりません。こうした言語の3母音化という現象は、世界的、歴史的にみて珍しいことではないのですが、日本国の場合、一方に3母音化することのなかった「標準語」というものが存在しているために、それとの比較で、ウチナーグチは日本語の[e]と[o]が、それぞれ[i]と[u]に「訛(なま)った」のだというような印象を生んでいるようです。常に「標準語」を基準にして考えるという発想が、「沖縄は3母音」で、極端な場合は[e]と[i]が欠落したというような思い込みを許している側面もあるのではないのかと思うのです。

長母音を考慮すれば、沖縄語には[e]も[o]も普通にあります。これは、いったん3母音化した後に、その空いた[e]と[o]の席に、別のところから別の音が変化して入ってきたということのようです。
(短母音の[e]と[o]も、その数は極めて少ないが存在します。)

さらに沖縄語の母音は、実は「3母音」どころではなく、声門破裂音などの半母音まで考えれば、日本語より遥かに複雑なのです。日本語を使っている我々が、そうした音を聞き分けることは不可能です。なぜならば聞き分ける必要がないから。(その理由については以前の記事「沖縄語の音韻講座プロローグ」をお読みください。)だから我々は、日本語と比較して、沖縄語に不足しているものしか見ないし、見えないのです。日本語の岸から、対岸の沖縄語を眺めている限り、日本語の方に不足しているものの方は、なかなか見えてきません。ところが対岸に渡って沖縄語を身近に触れたとき、はじめてウチナーグチの音韻の豊富さを知ることができ、むしろ「日本語」が「不足」しているのだということを知るのです。

「沖縄語は3母音」なのではなく、「3母音化」を経験した言語であるということは確かで、そしてそれが、ウチナーグチの「色あい」に大きく影響していることも事実です。しかし、それがあたかも沖縄語が日本語に較べて音の種類が少ないというような印象を生む原因になっているとしたら、それは間違いです。実は逆で、何度も言いますが、音韻に関しては、沖縄語のほうが、はるかに「標準語」よりも豊かなのです。

(余談ですが、世界の言語を見渡すと、日本語は極めて音韻の少ない言語だということが分かります。しかし、音韻が多いのと少ないのと、どちらが優れた言語かということは、一概に言えるものではありません。そのことはいずれまた。)
http://lince.jp/hito/3boin.html#

韓国語と日本語はどちらもウラル・アルタイ・ツングース語族に属し、非常によく似ています。 弥生時代以後の本土日本民族(主として九州・四国・本州に住む日本人を指します)が、東南アジア起源の南方系モンゴロイドと、中国大陸および朝鮮半島起源の北方系モンゴロイドの混血であることは考古学にも生物学的にも証明されつつあります。 そして生物学的には南方系モンゴロイド1〜2割に対して、北方系モンゴロイド9〜8割程度の混血だと言われています。 南方系モンゴロイドの血が濃い日本人の典型としては俳優の緒方拳を、北方系モンゴロイドの血が濃い日本人の典型としては俳優の中井貴一を思い浮かべていただければ、何となく両者の特徴を把握できると思います。

また弥生時代以後も朝鮮半島から絶え間なく渡来人がやって来て、古代日本の歴史と文化に多大な影響を与えました。 このことから、古代日本語が古代朝鮮語の影響を強く受けていることは至極当然だと思われます。 例えば「万葉集」の表記法として有名な万葉仮名は、日本の国文学者によれば日本独自のものだとされ、教科書でもそのように説明されています。 しかし実際には、古代の朝鮮にも「吏読(イドゥ)」と呼ばれる万葉仮名方式の表記法──古代朝鮮語を漢字の音読みと訓読みの音だけを使って表記したもの──がありました。 年代的にみて、古代日本の万葉仮名はこの吏読を真似したものと思われます。

万葉仮名では同じ「イ」「エ」「オ」という母音を持つ音が2つのグループに分けられ、2種類の漢字ではっきりと区別して表記されています。 このため現代の言語学者や国文学者は、多い方を「甲類」、少ない方を「乙類」と呼び、その区別について色々と議論しています。

ある学者は古代の日本には現在の5つの母音「アイウエオ」以外に、さらに3つの母音「イエオ」があったのではないかと主張し、別の学者はそれらの母音は条件異音――前後の音環境によって同じ音が異なる音声として表れる現象――を異なる漢字で表記したものだろうと主張し、また別の学者は文法的な使用法の違いによるものだろうと主張しています。

この一見難解で高度に学問的に思える議論は、韓国語のフィルターを通して眺めますとあっけないほど簡単に答が得られます。 現在の韓国語には10種類の単母音と11種類の複合母音(2種類以上の母音が合成されてできた母音)があり、古代朝鮮語では、さらにもう数個の母音があったと言われています。 古代朝鮮語の影響を強く受けていた古代日本語にも、同じように現在よりも多くの母音があったと思われます。 このことを踏まえ、母音と発声法の関係を図示しますと次のようになります。


※口を大きく開くほど前母音と後母音が
中母音に近づき、区別がしにくくなります。

(1)普通のイ、発音記号で表すと「i」。

日本語の「イ(万葉仮名・甲類のイ)」、韓国語の「イ」、英語の「i(sitのi)」

(2)イとウの中間音、発音記号で表すとmのひっくり返った記号。

古代日本語の「イ(万葉仮名・乙類のイ)」、韓国語の「ウ」。

(3)普通のウ、発音記号で表すと「u」。

日本語の「ウ」、韓国語の「ウ」、英語の「oo(bookのoo)」。

(4)普通のエ、発音記号で表すと「e」。

日本語の「エ(万葉仮名・甲類のエ)」、韓国語の「エ」、英語の「e(getのe)」。

(5)口を半開きにした「ア」、発音記号で表すとeがひっくり返ったもの。

韓国語に少し前まで存在した「ア」、英語の「a(agoのa)」。

(6)普通のオ、発音記号で表すと「o」。

日本語の「オ(万葉仮名・甲類のオ)」、韓国語の「オ」、英語の「o(omitのo)」

(7)エとアの中間音、発音記号で表すと「ε」。

古代日本語の「エ(万葉仮名・乙類のエ)」、韓国語の「エ」、英語の「a(maryのa)」。

(8)口を大きく開けたアに近いオ、発音記号で表すとcのひっくり返った記号。

古代日本語の「オ(万葉仮名・乙類のオ)」、韓国語の「オ」、英語の「o(stopのo)」。

(9)普通のア、発音記号で表すと「a」。

日本語の「ア」、韓国語の「ア」、英語の「a(calmのa)」。

つまり古代の日本語には、「アイウエオ」以外に、ウに近い「イ」、アに近い「エ」、アに近い「オ」の3つの中間音的な母音、つまり乙類の母音があったと考えられ、これらの母音は韓国語には現在も存在するのです。 漢字の韓国語読みではこれらの母音ははっきりと区別して使用されていますので、漢字を知っている韓国人が万葉集を読みますと、日本の専門の学者でなければ区別できない甲類と乙類をごく簡単に自然に区別することができるということです。

古代の日本語に存在した3つの母音が時代が経つにつれて消滅し、現在の5つの母音が残った理由はある程度想像がつきます。 本土日本人は元々南方系モンゴロイドと北方系モンゴロイドの混血であり、当時の日本列島は現在のアメリカのような移民の多い土地でしたから、色々な言語や方言が混在していたはずです。 そして中間音的な母音は色々な言語や方言によって発音が微妙に違いますので、それらの母音は次第に明確な発音の母音に収斂していったと考えられます。

つまり乙類の「イエオ」は普通の「イエオ」に収斂したと考えられます。 このことは前述の母音と発声法の関係図を見ますと納得できると思います。 図からわかりますように、現在の日本語の5つの母音「アイウエオ」は、発音上、非常に区別しやすい音なのです。 現在でも、各地の方言や神社などで使用される特殊な言葉に中間音的な母音が残されていますが、これは古代の名残だと考えられます。

ただし万葉仮名では区別されていたこれらの母音が、奈良時代後期から平安時代になって漢字と仮名で日本語を表記するようになると、表記上は区別されなくなります。 いくら母音が収斂したとしても、わずか50年ほどで母音が完全になくなるわけはないので、これは大きな謎です。

この謎は、それらの中間音的な母音は実は条件異音に収斂していたため、それを話している日本人はそれらの母音を区別していなかったと考えれば解決します。 つまり万葉仮名は朝鮮からの渡来人が吏読を参考にして編み出した表記法であり、奈良時代後期から平安時代になって、ようやく日本人が仮名を発明して自らの言葉を表記する方法を編み出したという説です。

万葉仮名が朝鮮からの渡来人によって書かれたのなら、条件異音を区別することができた彼等が母音を書き分けていたことも、万葉仮名で書かれた文章の中に古代朝鮮語と思われる言葉があることも納得できますし、日本人が書いた漢字仮名混じりの表記法ではそれらの母音が区別されていないことも納得できます。

飛鳥時代から奈良時代の文化の担い手は渡来人が中心だったことを考えると、朝鮮渡来人が日本語を表記するために万葉仮名を発明したことは十分に考えられます。 これはちょうど、幕末にイギリス人のジェームス・カーティス・ヘボンが、日本語を表記するためにヘボン式ローマ字を発明したのと同じような工夫だったのでしょう。
http://www.snap-tck.com/room04/c01/nihon/nihon01.html


05. 2012年10月17日 18:49:13 : HNPlrBDYLM


韓国語の発音と日本語の発音が古代では非常によく似ていて、それが時代とともに次第に音韻変化していった様子は、色々な言葉から確かめることができます。 例えば中国語から取り入れた漢数字の読み方を両方の言語で比べますと、その音韻変化の様子から、これらの言葉が古代中国語から古代朝鮮語を経て古代日本語に取り入れられたということを、何となく実感することができます。

また韓国と日本には、漢数字以外にそれぞれ独自の数え方もあります。 韓国語の「ハナ」は「ハナから(最初から)」という日本語の語源であるという説があり、これは大いに有り得ることだと思います。 外国語の単語の中で、数の数え方は最初に覚える言葉の1つだからです。

例えばこれと似た言葉に「ピンからキリまで」という言葉があります。 これは、ポルトガル語でカルタの1を表す「pinta」が「ピン」となり、十字架つまり10を表す「cruz」が「キリ」となったものです。

また日本独自の数え方も、実は独自ではなく、古代の高句麗の方言が元になっているという説もあります。 古代の高句麗では3は「ミ(mi)」、7は「ナナ(nana)」、10は「ト(to)」と発音したのです。 3才くらいまでの赤ちゃんのことを、日本語で「嬰児(ミドリゴ)」といいます。 これは、古代でははっきりと3才までの子供のことでした。 古代韓国語で周年のことを「ドル」と言い、子供が3才になったことを高句麗弁で「ミドル」と言いました。 これが嬰児の語源と思われるのです。

「三つ児の魂百まで」という言葉があり、七五三を祝うことからもわかりますように、古代の人は3才が大きな区切りだと考えたのでしょう。 古代は数えで年を数えたはずですから、3才児といえば満2才になるかならないかぐらいの頃です。 この頃はちょうど乳離れする時期に相当し、脳細胞が発達して人格が出来始める時期ですから、確かに赤ちゃんから子供に成長する区切りの時期です。

ちなみに「赤ちゃん」の語源は、一般に言われている「生まれたばかりの子供の体が赤っぽいことに由来する」のではなく、韓国語の「アガ(赤ちゃん)」からきているという説の方が納得できます。 生まれたばかりの赤ん坊は新生児黄疸症状が出やすいですから、泣き叫んでいる時は赤ら顔になりますが、静かにしている時はむしろ黄色っぽいのです。

赤ちゃんに関する言葉には、古代朝鮮語が語源と思える言葉が沢山あります。 例えば乳房を意味する幼児語「おっぱい」の「パイ」は、古代朝鮮語で「吸うもの」という意味です。 赤ちゃんにとって母親の乳房は”吸うもの”ですから、「おっぱい」とか「パイパイ」とか呼んだというのは確かに納得できます。 また「乳」も韓国語の「チョッ(乳)」が語源だと思われますし、「おんぶ」は韓国語の「オブバ(おんぶ)」が語源だと思われます。 それから母親が赤ちゃんを叱る時の言葉に、「メッ!」または「メンメッ!」というものがあります。 この「メ」は韓国語で「鞭(ムチ)」のことであり、「メンメ」はその幼児語なのです。 韓国の母親は、子供を叱る時に昔から「メンメでぶつよ!」と脅したそうです。 その言葉が日本にもそっくりそのまま残っているわけです。

その他にも韓国語で高いという意味の「ノップン」が「ノッポ」になったり、口の意味の「イプ」が「いぷ→いふ→言う」になり、耳の意味の「キ」が「聞く」になり、鼻の意味の「コ」が「嗅ぐ」になったりと、韓国語が語源と思われる言葉は非常に沢山あります。 また今まで解読不能だった万葉集の歌が古代朝鮮語で簡単に読めたり、意味のない言葉だと言われていた枕詞が、古代朝鮮語で読むと重要な意味を持っていたり、古代の土地や神の名前が古代朝鮮語に由来していたりと、様々な分野で古代朝鮮語との深い関係が解明されてきています。

日本の言語学者による従来の日本語と韓国語の比較研究では、両言語で同一起源と思われる単語は200程度しかなく、音韻の類似性も少ないため、両言語が同系の言語であることを裏付ける証拠は充分ではないとされていました。 しかしこれらの研究を行った学者の多くは、古い皇国史観にとらわれていたり、アジア蔑視の偏見を持っていたりして、韓国語や古代朝鮮語、さらにはアジア全域の言語に関する認識が不足しているように感じられます。 そのため、アジア全体を視野に入れてその中で幅広く日本語と韓国語の関係を研究するのではなく、2つの言語を単純に比較して、同じ意味で同じ系統の発音の単語だけを取り上げているきらいがあるように思います。

現代の外来語を考えても、「サボる(sabotageの略)」のようにほとんど日本語化しているものや、「トランプ(trump、本来は切り札のこと。原語ではcard)」のように、原語とは意味がズレてしまっているものがありますし、「ナイター」のような和製英語も沢山あります。 遠い将来になってこれらの言葉の語源を研究しようとしたら、この時代における日本と欧米の歴史的関係と、日本語と欧米語に関する幅広く深い知識を総動員しなければ、正確に解明することは不可能でしょう。

しかし韓国語と日本語を比較している言語学者はまだマシな方で、日本の多くの国学者は、韓国語も古代朝鮮語も研究しようとせず、あくまでも日本語の中だけで語源を探し、無理なこじつけをしているのです。 また、日本の考古学者の間にも同じような傾向が見られます。 例えば飛鳥にある有名な謎の遺物「二面石」や「亀石」と同じような石像が、韓国の済州島では大昔から現代まで魔除けとして使われていたり、藤ノ木古墳から出土した馬具や王冠とほとんど同じ物が、随分以前に新羅の王の古墳から出土していたりするのにもかかわらず、それらの起源を日本国内だけに求めようとして謎の遺物扱いしたりしているのです。

古代の日本文化が中国から直接的に受けた影響よりも、朝鮮半島を経由して間接的に受けた影響の方が多いだろうことは、地理的に見ても歴史的に見ても至極当然と思われます。 しかし古代における朝鮮半島と日本との深い関係を認めながら、古代中国が日本の文化に与えた影響は認めても、古代朝鮮が日本の文化に与えた強い影響は頑なに認めようとしない日本の研究者の態度は、僕には全くもって不可解です。 馬鹿げた偏見やわだかまりを捨て、日本の研究者と韓国の研究者が協力し合えば、韓国語と日本語の関係だけでなく韓国文化と日本文化の関係も必ずや解明されることと思います。 そう遠くない将来に、そのような共同研究が行われることを願ってやみません。
http://www.snap-tck.com/room04/c01/nihon/nihon03.html

まあ、縄文人と弥生人が 5母音だったのは間違いなさそうですね。



06. 2012年11月04日 09:32:56 : HNPlrBDYLM

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古代朝鮮・韓民族の形成とニッポン  【ニッポン民俗学】

▼朝鮮人と日本人

 朝鮮人というのも、日本人と同じくらい形成過程に不明な点が多い謎の民族である。ともに、北方的なるものと南方的なるものとの狭間で、両者のせめぎ合いと融合の末に出来上がった国である。日本にも今でも東西(あるいは南北)で民俗や生活様式などに相違が残るが、朝鮮ではそれどころか南北は国境線で分かたれている。この「北緯38度線」は、古代の形勢、すなわち北の高句麗と南の韓族の三国家を彷彿とさせるものである。喩えて言えばだが、今なお北方的なるもの(旧ソ連と中国)と南方的なるもの(日本と「南蛮」米)との狭間にあるかのようだ。

 朝鮮半島では「南北統一」がいま盛んに語られているが、これは新羅による七世紀の国土統一以降、一千年以上唱えられてきた「国土・民族・主権の統合や自己回復」の民族的スローガンの一変種との見方もできる。朝鮮史は、ツングース系契丹族の遼やモンゴル族の元など北方異民族の侵入や支配、そうでないときは宗主国・中国への臣従と、南方からの倭寇や秀吉の侵略、とどめに日韓併合と朝鮮戦争などと、幾多の「自己喪失」で満たされている。

 日本は今でこそ東西に分かたれてはいないが、古代には畿内の西日本政権に対し、東日本は「蝦夷」であり「日本」ではなかった。鎌倉幕府は当初、東日本政権だったし、江戸幕府も関東基盤の政権であった。東西の自然環境の違いが双方の農耕や産業のスタイルをたがえ、そこに適応した生活様式が生まれ、方言や民俗そして感性や思考の違いを生じさせたのであろう。しかしそれだけだろうか。現に、日本化が最も遅れた地域の「日本人」である北海道のアイヌ人と沖縄の琉球人には、本州日本人との文化的差異ばかりではなく、遺伝学的な微妙な差異すら指摘されている。

 朝鮮人形成の解明は、日本人にとって他山の石、いや鏡である。話を先取りしてその違いだけを述べれば、朝鮮人には北方的なるものが、日本人には南方的なるものがより多く残ったということであろう。古代においては、半島南端と列島西端で共有されていた南方的なる「倭」は、その名とともに後ちの日本に引き取られた。後世においては、朱子学の受容にその相違がよく表れている。前者は本家よりも厳格な北方的儒学を打ち立て、後者は南方道教的な人間学へ変質させて怪しむことがなかった。なお、本論では話を古代にとどめることをお断りしておく。


▼南アジア人と北アジア人

 初めにも述べたように、朝鮮半島と日本列島の民族や文化は南北からの渡来で出来ている。正確には知りようもないのだが、幾度にもわたる「交通」(戦争や征服から共存・混血などの人的交流、また文化・物資だけの交易までを含む全交流)の往来があったのだろう。最初に半島や列島に住んだのは、東南アジア方面から北上した原アジア人(古モンゴロイド:南アジア人)である。人口的にはそう多くを想定しなくてもよいだろう。ただし、この南方「交通」ルート(東南アジア−中国・華南−朝鮮西南部・日本西北部)は常にオープンであった。

 次に渡来したのは、北方で長らく氷雪に閉じ込められていた新アジア人(新モンゴロイド:北アジア人)である。彼らは寒さで体質を変化させていたが、同時に文化も寒中で集約的に磨いていたはずだ。およそ一万年前の雪解け(温暖化)とともに、彼らは南進し始める。原アジア人よりも精力的で人口も多かったように思われる。やがて半島や列島に押し寄せたのは、その中のアルタイ・ツングース族系の者たちである。彼らは採集・狩猟・漁撈の民であった。

 朝鮮半島に最初に入ったツングースは、ワイ(カイ)族や貊(ぱく)族と呼ばれる者たちである。彼らは南方から来たアジア人とも「交通」しながら、ほぼ半島全体に拡がったものと思われる。これが朝鮮語の礎を作ったのであろう。一方、考慮しておかねばならないのは、南方ルートからの絶え間ない「交通」である。人の渡来も文化・物資の交易もあった。とりわけ、後ちには南方の焼畑耕作文化が移植されていただろうことは強調しておきたい。


▼半島北部の「中国人」支配

 東アジアの歴史記録は中国に頼らざるを得ない。それによれば、初めて「朝鮮」を名乗ったのは当時の「中国人」である。それは春秋・戦国時代の燕(現北京に都した周の分封国)に隣した「箕氏朝鮮」である。もちろん、半島と中国文明との「交通」はそれ以前からあっただろう。黄河文明のアワを中心作物とした畑作文化が、北西回りで半島に移入されていたことは間違いない。その箕氏朝鮮とは半島北西部までを領土としていたものと思われる。

 実は、箕氏朝鮮がその存在とともに、歴史年代が明白となってくるのは滅亡に関しての記録においてである(『後漢書』)。哀れなものである。戦国末期の燕、秦帝国、そして前漢、と強者が変転する動乱がうち続く中で、旧燕からの亡命者・衛満という者によって箕氏は滅ぶ。紀元前194年ごろ、替わって立ったのは衛氏朝鮮である。しかしこの衛氏も漢の武帝によって滅ぼされ、そこには直轄植民地として楽浪郡などの四郡が置かれる。同108年のことであった。


このように半島北西部には長らく「中国人」が住み、その文化を持ち込んだ。これは紀元後313年、高句麗が楽浪郡を滅ぼすまで継続した。箕氏の到来から数えると、およそ一千年と見てよいだろう。そういう意味で、東日本と同じく、半島北部は「朝鮮人」ではない「異民族」の地であった。その後の高句麗(ツングース族)支配を考えれば、それはさらに続くとも言える。しかし同時にこれは、「では韓民族とは何だ?」という問題を提起し、さらに「民族」というものの歴史性にまで思いを至らせてくれるものでもある。


▼韓民族の「辰国」と「倭人」の登場

 次に、南方からの渡来にもう一度、目を向けたい。南方ルートの出発地は長江やその北の淮河の河口域で、北に山東半島を伝い、やがて朝鮮半島西岸や南岸(それに日本・九州北岸も)に及んでいる。前述のように絶え間ない渡来があっただろうが、春秋・戦国時代の華南での闘争、すなわち呉(南アジア人)と楚(北アジア人)、呉と越(南アジア人)、越と楚、それに小国家も巻き込んだ戦乱は一挙に大流民を生んだ。それは、呉が滅亡した紀元前五世紀の前半から加速したと思われる。

 彼らは半島西岸や南岸にたどり着き、そこで「韓」と呼ばれるまとまりを成した。これを辰国と言う。彼らは稲作と漁撈の民である。内陸と北東部にはワイ族や貊族が居住していた。そして北西部には箕子朝鮮があった。韓族は西南部に集住したが、これが後ちの馬韓となる。弁韓と辰韓は、馬韓地域から海岸伝いの移民によって拡張された「韓」である。辰王は大王として、この三韓地域を支配する馬韓の王であった。

 同四世紀後半、長江河口域での最後の「南アジア人」の国・越が楚に滅ぼされる。おそらくこれを契機に、再び半島に流民が押し寄せる。これが「倭人」である。倭人は弁韓南部と対馬と九州北端を強奪する。黥面文身(入れ墨)した最も海人的要素を残した民として、黄海、山東半島、日韓海峡、それに東シナ海を故地・長江河口まで自由に行き来しただろう。遅れてきた韓人こそが倭人に他ならない。そしてこれが『後漢書』や『魏志』に描かれた「楽浪海中の倭人」であり「馬韓や弁韓の南にいた倭人」である。

 「韓」人や「倭」人とは何か。華南の「越」人である。これは国名ではない。主に長江河口域に住み、稲作と漁撈を生業とし、高床式の住居文化をもつ「越」と呼ばれた諸族である。中華は彼らを「百越」と総称した。「越智」を今でも「おち」と読むが、これは「越」を「wo:ヲ」とかつて発音したことの残滓である。「倭」もまた元は「wo」と発音した。つまり、「越族」とは「倭族」である。日本・北陸地方を「越」というが、もちろんこれもただの偶然ではない。

▼「倭国」王の朝貢と三韓の成立

 紀元前二世紀初め、衛満によって国を追われた箕子最後の準王は、南方へ逃れて馬韓に攻め込み、韓(=辰)王となった。しかしそれは一代で終わり、再び韓人が復位した。半島北西部には箕子のあと衛氏が建国したが、前漢がこれを滅ぼし、楽浪郡が設置されたことは前述の通りだ。そこへ「倭奴国」が朝貢し、蛇の取っ手が付いた金印の下賜を受けたことは有名だ(紀元後57年)。さらに「倭国王帥升」も朝貢している(107年)。

 この頃、すなわち紀元後一世紀ごろ、高句麗が南進し、楽浪郡を圧迫し始める。その東部にはワイ族と貊族がいた。二世紀後半、中国・後漢政権の衰弱に伴い、楽浪郡も衰える。辰国は、馬韓王を共同王として頂きながらも、馬韓・弁韓・辰韓の三韓体制となる。中華帝国の綻びは、周辺国に動揺を与えるのだ。『後漢書』には「倭国で大乱」とも記録されている。後漢末期、楽浪郡南部を帯方郡とし、植民地再建をはかるが、後漢は滅び、魏がその後を継ぐ。その帯方郡へ使節を派遣し「親魏倭王」と信認されたのが卑弥呼である(239年)。

▼百済と高句麗

 さて、半島北方に拡がる満州平原(中国東北部)に目を向けよう。ここも元々は古モンゴロイドが先住していたが、南下した北アジア人に呑み込まれ、混血してツングース諸部族となっていた。ツングースの西方には、遊牧狩猟民のモンゴル諸部族がいた。扶余族はそのモンゴルの一部族で、紀元前二世紀末、満州平原に進み、そこにいたツングース諸族を征服し混血する。北方系の畑作を学んで半農半猟民となり、やがて扶余国を建てた。

 この国は高句麗や鮮卑の圧迫を受けて紀元後四世紀前半に滅亡するが、一王子が逃れて東扶余国を建てる。しかし今度は王位継承問題がこじれて、王子は朝鮮半島に逃れた末、華南に移った東晋の支持をおそらく受けながら、馬韓に攻め込み、同世紀半ば過ぎ、馬韓を制圧してしまう。これが百済の建国である。すなわち、百済とはその王族は扶余族、その住民は馬韓人(倭族)という「二層構造」の国家だったのである。このとき、辰国は解体する。

 次に高句麗だが、この国は紀元前一世紀末、ツングースのワイ族系の部族が建てた国である。徐々に勢力を拡大し、四世紀には現中朝国境の鴨緑江を中心に、扶余国からは満州平原南部を、楽浪郡と先住ツングース部族からは朝鮮北部を奪って、その地を領有するに至る。高句麗には二つの宿命があった。一つはツングース族の「名門」扶余族の影である。高句麗は扶余の後裔と僭称する。もう一つは旧楽浪郡の文化である。華北中国文化を引き継ぎ、半島へ導入する役割を担うことになる。

▼新羅と加羅

 古代朝鮮「三国」のあと一国・新羅は、以上述べてきた通り、韓族主導でツングース族が混血した国である。王族も住民も韓人である。新羅の成立は六世紀初め(503年か)と見られる。同国は辰韓の三氏族の統合体である。すなわち、朴(パク)・昔(ソク)・金の三氏族が辰国の解体以降、並立していたが、それを王統譜22代の金氏・智證王が統一し、この時、国号を新羅としたと見られる。

 後ちに新羅に併呑される加羅(伽耶)であるが、ここは統一領土国家ではなく、都市国家連合的な「連邦」を成した。これは「倭人」が「韓」による統合を拒んだためと思われる。特に、「任那日本府」があったとされる南岸の金官加羅は、中華に「狗邪韓国」とも呼ばれていたように、「韓」と「倭」の二重国家であった。すなわち、韓の加羅連合の一国であると同時に、倭の一国でもあった。この状態は新羅成立前ごろまで続いた。(実はこのあたりに、わが倭国王権の秘密が隠されているのだが、これは別論として述べたい。)

 その後の半島情勢については以前にも記したので簡略にとどめるが、六世紀半ば過ぎに新羅は加羅を併合した後、七世紀後半、唐と連合して百済(および倭国)を破り、唐に討たれた高句麗の半島内領をも掌中に収めて、半島全土を統一支配する(676年)。

▼朝鮮人形成の方向性

 改めて考えたいのだが、これで「朝鮮人」が成立したわけではないことは自明だろう。ここで同時代の日本を想起されたい。壬申の乱(672年)直後の天武天皇の時代であるが、朝鮮と同様に、この頃にはまだ「日本人」は成立していないのである。「民族」という概念の限界を強調しておきたい。

 朝鮮人は、北のツングース族と南の韓族(倭族)の結合として熟成していったことはお分かりだろう。統合は新羅王権によって進められたので、新羅王権の性格が朝鮮人形成の方向性を示唆してくれるはずだ。統一以前の三国時代は、中国の南北朝時代とほぼ並行してあったが、朝鮮情勢はその代理戦争の面もあった。諍いもあったが北朝系文化を担ったのが高句麗であり、南朝系文化を積極的に移入し南朝と友好をはかったのが百済であった。

 地図を広げてもらえれば分かりやすいのだが、南朝に最も近いのは百済であり、言うまでもなくこれは伝統的な「南方ルート」でもあった。では、新羅はどうか。いまや宿敵となった百済に中国への陸路も海路も阻まれ、大陸から見れば最遠の地にあった新羅は、高句麗の強圧もあって高句麗経由で北朝中国文化を受け容れた。中国仏教も二伝あって、それはインドとつながる西域に開いた北魏(モンゴル系鮮卑族の国)の北朝仏教と、閉じて中国化の道を辿る南朝仏教であった。

 つまり新羅は、三国の中では最も韓民族らしい国であったが、その文化は強くツングース・モンゴル系の中国化を蒙った国と言える。因みに百済は、ツングース系王権が支配する韓民族の国であったが、建国時にも後押しがあっただろう南転した中華中国人(漢人)系の中国化が進んだ。(自らも北アジア人である「漢人」は、より北方のアルタイ・モンゴル系北アジア人に絶えず圧迫されて南進し、そこでは南アジア人を圧迫・吸収しつつ、次に北進して北方民族を呑み込むという運動を繰り返して「中国人」となった。)

 実際、新羅王権は、韓人の源流である南アジア人の色を最も濃く残した「倭人」を南海峡に追い落として、倭国に切り捨てる一方、漢人が再び北進して中華の定位置である北方の中原に立った大唐帝国の諸制度・文化(律令・礼式、仏教・儒教など)を忠実に、いや中華以上の精確さで受容していくことで「小中華」たる朝鮮と朝鮮人を練り上げていった(注)。ここに朝鮮人の「北方ルート」の重視、南北バランスの北方優位性が固定されたのだ。

(注)新羅・高麗時代には仏教が国教扱いで、李氏時代になって儒教が国教となった。中華志向は、統一までは便宜的な要素もあったが、後になるほど高まり、中国が北方異民族に支配されたときなぞには、朝鮮こそ中華帝国の後裔と意識された。
http://www.eonet.ne.jp/~mansonge/mjf/mjf-52.html


07. 2012年11月05日 10:21:05 : HNPlrBDYLM

倭国は華僑たちがつくった(岡田英弘説)

以下、「日本誕生の謎を解く本」洋泉社1998年発刊から要約して引用する。


「倭国」という名が中国の史料の最後に登場するのは670年。
「日本」という名がはじめて中国の史料に登場するのは701年。
つまり「日本」が誕生するのは7世紀末、つまり天智、天武、持統のころである。

「日本」誕生以前の「倭国」を含む東北アジアについてのいちばん古い資料は司馬遷の『史記』の「朝鮮列伝」である。それによると前漢の武帝が紀元前108年、古朝鮮を征服し、楽浪郡を含む4群を置いた。この楽浪郡の後漢の墓からは漆器や黄金など豪華な副葬品が多数出土する。楽浪郡の豊かさは同時代の中国周辺支配地の中でも突出したもので、その冨の源泉は日本列島でふんだんにとれた砂金にあったという。(平安時代、仏典を大量に買い付けることが出来たその源泉も日本の砂金にあった。)

楽浪郡は日本から運ばれてくる豊かな鉱山資源に支えられ、中国人商人=華僑の出先機関として発展していった。ところが紀元前後をピークに漢の力は衰弱過程に入る。そのような政治状況の中、倭国における中国の通商窓口として中国の力を分け与えられた倭国王が誕生した。中国の史料に出てくる倭王とは、そのような土着的な支配力を持つもののことではなく、中国側に優位な条件で列島との通商を纏め上げた「弁韓辰韓の華僑と手を組んだ倭人貿易商」のことだったのだ。

この「倭王とは華僑と手を組んだ倭人貿易商」であるということは魏志倭人伝の以下の文章からも読み取ることが出来る。

「国々に市ありて、有無を交易し、大倭をして之を監せしむ」

この文章は、市の監視人は倭人であるとわざわざ述べているが、それは、市を開いているのは倭人ではなく、華僑であることを逆に証明している。

そして、そのような多くの倭王の統制がとれなくなった時、登場したのが「卑弥呼」だった。卑弥呼は遼東の公孫氏軍閥と手を結び、倭人の代表となった。
http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=209312
 


08. 2012年11月05日 11:39:49 : HNPlrBDYLM

日本国の成立は7世紀


岡田英弘著『日本史の誕生』(ちくま文庫、08/06第一刷)
http://www.amazon.co.jp/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%8F%B2%E3%81%AE%E8%AA%95%E7%94%9F%E2%80%95%E5%8D%83%E4%B8%89%E7%99%BE%E5%B9%B4%E5%89%8D%E3%81%AE%E5%A4%96%E5%9C%A7%E3%81%8C%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%82%92%E4%BD%9C%E3%81%A3%E3%81%9F-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B2%A1%E7%94%B0-%E8%8B%B1%E5%BC%98/dp/4480424490


本書の第2章では、邪馬台国の所在地に関して、現在の山口県辺り、関門海峡の近く、と推論しており、極めて説得力がある。魏志東夷伝倭人の項がどういう経緯で成立したか、という三国志・魏志筆者陳寿の置かれた政治的立場にまで配慮・推理して、執筆内容の信憑性を評価して、邪馬台国を西方の大月氏国と対等の大国として叙述する必要性があったから、倭人項に見られるようにわざと遠方の、南洋の国家のごとく書いたのだという。

 そこで著者は、現実の邪馬台国は、秦・漢系の中国語を話す華僑達が牛耳っていた関門海峡付近の小国家に過ぎず、倭人項で詳述された経路の最終部分にあるもう一つの奴(ナ)の国(最初の奴国は、博多にあった由)は、難波津で、ここにその後ヤマトの河内王朝が出現したという。

当時楽浪郡の所在した平壌から、河川を辿る水運で、


漢陽(ハニャン、現在のソウル)→忠州→尚州→釜山

に出て、その後海路を取って対馬、壱岐を経て博多(奴国)に着き、

更に瀬戸内海沿岸の各地の港を経て、最後に難波津に至る


という華僑の交易路があり、邪馬台国の卑弥呼は、そういう華僑の移民達の倭人(現地人)との利害調整役=名誉総領事的な立場であったという。 

 岡田氏は、668年に近江の大津京で即位した天智天皇が本当は初代の「日本国天皇」であり、天智天皇が制定した「近江律令」に、日本国という国号、天皇という王号の双方が規定されていた、と推理している(p.240)。

  オオキミ斉明が百済再興のため派遣した倭軍は、663年の白村江の戦いで唐軍に敗北した。更に唐軍は668年に高句麗王国も壊滅させた。

 そこで倭人達は、アジア大陸から排除され、海中に孤立することとなり、急いで中央政府を樹立して、団結して唐軍侵攻の脅威に備えざるを得なかった。かくして、668年、高句麗滅亡と同じ年に、天智天皇が即位して、初の「日本国天皇」となったのである。

 歴史のある中国文明から独立した日本国は、やはり歴史のある文明国として、中国に対抗して独自のアイデンティティーを主張するための国史を必要とし、天智天皇を継いだ天武天皇が国史の編纂に着手したのである。681年に作業を開始して、39年を経て、720年に『日本書紀』が完成した。内容は、天智・天武兄弟の祖先が、天の神々から正当性を受け継いで、常に日本列島全体を統治してきたと主張して、しかも中国からの影響を全く無視するもの。日本国の建国自体が、中国からの侵略を予防するための措置だったから、そういう風に「事実」とは正反対の主張、記述となった。


岡田英弘氏の『倭国の時代』(ちくま文庫)
http://www.amazon.co.jp/%E5%80%AD%E5%9B%BD%E3%81%AE%E6%99%82%E4%BB%A3-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%87%E5%BA%AB-%E5%B2%A1%E7%94%B0-%E8%8B%B1%E5%BC%98/dp/448042539X

岡田史観は、古代(古墳時代)の華僑社会形成こそが、日本国(及び韓半島の統一新羅国)建国の基盤だった、という意見である。

池橋説

 最近池橋宏氏の『稲作渡来民』説により、紀元前800年頃中国江南地方に発した「越--タイ系民族」(水田稲作技術を発見、完成させた人々)が、ゴンドラ型の丸木船に櫂という原始的な外洋渡航技術で、

山東半島→遼東半島→朝鮮半島西岸を南下→半島南西部から海岸沿いに東へ
→釜山辺りから南下→対馬→壱岐→北九州


という海路を辿って、一種のボートピープルとして日本に到達し、縄文時代に人口が少なかった北九州の沿岸河口部に入植して水田農耕を開始したらしいことを紹介した。

 このシナリオでは、当初は、十数名など、少数の男性のみが、ボートに乗って散発的に、何次にも分かれて日本まで到達し、

北九州の河口部湿地帯に、彼らが得意とする水田を造成し、稲作を開始し
(当初の食糧としては、同じく彼らの得意技の漁労に頼った可能性)、
現地の縄文人女性らと結婚して(この越人と縄文人の混血が弥生人)、

収穫量が豊富な米と言う水性穀物、及び豊富な魚介類という安定した食糧のおかげで、縄文人に比べて圧倒的に大きい人口増加率(年率2%)を記録して、徐々に日本列島各地の同じような河川河口部へと次々に植民地を拡大して、海岸沿いに稲作弥生人として人口を増大させていったらしい。

また、池橋説では、少数の越人移民は男子のみであったことからも、中国語を残せず、倭語の海に同化したという。

 池橋説は、主として近年の発掘調査などの、考古学的成果・科学的手法に依存している。

岡田説では、華商=中国系商人の到来時期を紀元前3世紀以降としているので、本格的な華僑の到来以前の、弥生時代中に、既に中国江南地方の住民(越人)が、日本列島での最初の中国系移民として、弥生時代の人口爆発を引き起こしていた、という学説は、岡田理論の紀元前後における新たな中国系混血達の大量来訪、植民という事件があっても、さほど相互に矛盾する部分はない。


岡田英弘説

 岡田説は、考古学的手法に疑問を呈して、確実な文字資料である中国の公式の歴史書という史料、「広開土王碑」碑文、7世紀頃に関しては信用できる『日本書紀』などを東洋史家として、また中国学学者としての長年の研究成果をもとに推論する形で、全くこれまでの日本史専門学者らが気付かなかった視点から、日本国誕生、建国の経緯を明らかにしたもの。

 岡田氏の画期的な新説とは、東アジア史全体(特に18世紀、19世紀における東南アジアの発展史)に関する同氏の鋭い観察眼から、東アジアにおける文明化のプロセス、すなわち、

華商の来航 → 華僑居留地の形成 → 大食漢の華僑に食糧を供給するため周辺地域の農業生産力が増加
→ 人口増 → 都市の形成 → 経済発展 → 人口増大 → 建国

という化学変化をもたらす触媒・契機が明らかにされたこと。

 岡田説によると、東アジアでは、華商が船で未開地に到来して、地元酋長らを手なずけつつ、根気よく商品を現地人行商を通じて売る努力を重ねる過程で、徐々に現地側の農業生産力(自給自足の範囲・量を超える食糧生産)、特産品生産力(中国製品との物々交換のための商品生産)が増大し、華商がやがて店舗を構えた港湾地域において、徐々に市場が出来、華商達を庇護する現地酋長達の政治力も軍事力も高まって、やがて国家が建国されるという、アジアにおける国家形成の触媒=華商との理論が提示される。

 そして、肝心の日本国形成の契機も、

紀元前3世紀に、北京地区に出現した燕国が、
まず東方に進出して遼東郡を置き、朝鮮半島、日本への進出を開始し、
次いで前漢が紀元前108年、朝鮮北部に楽浪郡、南部に真番郡を設置して、対日貿易ルートを開設したことにあるという。

既に朝鮮半島よりも人口の多かった日本市場が、華商達にとっては魅力だったらしい。

 真番郡経由で、倭国北九州との貿易を開始し、更には瀬戸内海にも華商達が到来して、あちこちの港に華商が根拠地を置き、現地妻を娶って混血の華僑を産ませた。港に面する華僑居留地では、現地酋長が華商・華僑の商売を保護し、取引税を取ったほか、楽浪郡当局からの勧奨に基づき、漢、魏、東晋、宋などに倭国の現地酋長代表が、朝貢使節を派遣した由。

 倭国における華商達を通ずる貿易における利益と秩序を守るため、対日貿易を取り仕切る楽浪郡などの中国側役所が、本国における政権の箔付け、皇帝の権威を中国臣民に誇示するために、倭の使節の朝貢などという儀式・行事を、中国側の都合で、何度もアレンジし、これらが史書に記録として残ったが、名目上「親魏倭王」に任命された卑弥呼も、華商達を庇護する現地の名誉総領事のようなもので、倭国全体を統括するような軍事力もなく、統一国家も未だ無い段階だったという。

 対日貿易の利益を目指して、そのルート上にある朝鮮半島においても、北部中国地方から進出した華商達が、
遼東郡 → 楽浪郡の平壌へ、更に平壌から水路沿いに南下して、対日貿易ルート沿いに都市が発達した。

これら韓半島の都市部には、華商=中国人と現地人との混血で、中国語を話す民=華僑が発生、居住して、彼ら華僑の人口が増えていった。

 また、対日貿易も、これら韓半島の新羅、加羅地方の華僑がまず担当して、北九州から瀬戸内海地方にかけて来航し、これら各地に華僑系の市場、都市(ただし、中国、韓半島における市場・都市は、城壁で囲った本来の中国式の都市=県城であったが、日本では市場、集落はあっても城壁は必要なかったようで、発達しなかった)が形成され、市場を庇護する現地酋長=倭人の酋長の軍事力も増大していった。

 結局、瀬戸内海地域の経済力(首として農業=米と、華僑が種を持ち込んだ各種野菜の生産力、或いは対中輸出商品の生産力)が増大し、瀬戸内海最深部の河内に最初の本格的な倭の政権が出現した(河内王朝)。


池橋説と岡田説の接合は?


(1)国内華僑人口の増大、唐の軍事的脅威が国家建設の原動力:岡田説
  7世紀における韓半島と日本におけるほぼ同時期の、本格的な中央政権による統一・独立国家建設(韓半島には統一新羅、日本列島には日本国)の間接的な背景は、すでに両国とも華僑人口の増大で、文明化、都市化が進展して、中国語を読み書きできる「官僚層」も出現していたこと。また、新羅、倭の両国に、中国の政権から独立した、独立国家の形成を促した直接的な要因として、岡田氏は強大な唐軍の軍事的脅威を挙げている。


(2)華商到来は、既に弥生系人口の爆発があり、市場があったから:池橋説
 他方、華商到来そのものが、現地人人口が既に相対的に多数で、市場があると見込まれたからであり、そのような弥生系人口の増大(弥生時代に日本列島の人口は総数60万人に達したらしい。)をもたらしたのは、池橋説にあるように、水稲耕作農業技術が、越人ボートピープルらによって、早くからもたらされたからだ、といえるのであろう。


(3)唐によるアジア諸国への圧力増大、軍事的脅威が現地側の独立、自衛を決意させた→東アジア情勢全体の動きの中で、7世紀、同時期に朝鮮と日本における「独立国の建国」が成された:岡田説

  要するに、貿易など経済権益の増大のみで満足していた華商中心の東方進出から、軍事力で韓半島のみならず、倭国さえも侵略し、直接支配しそうな危険な政権が、中国本土に出現したことが、白村江の戦いで完敗した斉明女帝の倭国には脅威となり、668年天智天皇が即位すると同時に、国号を倭から日本へ、王号をオオキミ(大王)から天皇へと変更し、唐の制度を真似した官制、戸籍制度などを導入し、国家の「近代化」を図ったのである。

  しかし、国家建設においては、何らかの形での文書作成能力がなければ、あり得ないことだった。アジアでは、文書作成に関し、本来は発音も、文法も異なる異言語同士でも相互理解可能な漢文という文書形式が存在したので、国語・国字が無い状態でも、とりあえずは、漢文を採用することで、官僚組織の形成が可能であった。また、漢文を読み書きできる読書人が生存できるだけの、農業生産力の余力がなければ、やはり国家形成はあり得ない。


(4)日本との交易のため、韓半島も開発され、加羅の鉄塊が貨幣の役割:岡田説

岡田氏は、紀元前も、紀元後も、ほぼ常に韓半島の人口は、日本の人口の1/4〜1/3程度と少なかったので、華商達は人口の多い日本との貿易を重視して、まずは韓半島における華商のための安全な内水航路利用ルート(半島北部では大同江、礼成江、南部では漢江、洛東江を輸送に活用する、水運ルート)上に、城壁で囲った居留地=県城をいくつも作り、華商と現地人との混血人口が増えて、対日貿易拠点として新羅、加羅地方における小国が発達した。特に加羅地方は製鉄業が盛んで、この鉄塊は当時の貿易において、貨幣・決済手段としての役割を果たした、という。

  なぜ日本の方が、人口が多いかというと、韓半島では山地部が多く、また北部は気候が寒冷で、結局米作に不向きで畑作・牧畜に依存する面が大きいかららしい。日本の場合、韓半島に比べれば、広大な平野があり、気候も温暖で、水田米作に向いていたので、池橋説のごとく弥生人人口が増大し、中国人が交易相手を探して到来した頃(紀元前3世紀以降)には、既に人口が多かったと言うことであろう。

  (注:岡田説で中国人とは、今日の漢族というような人種、民族的な意味合いを持たない、文化的概念。都市に戸籍を持ち、漢文の読み書きを出来れば、中国人である。華商と朝鮮半島現地人の混血=華僑とか、韓半島現地混血で漢字の読み書き可能な華僑系の2世、3世、或いは倭人と華僑の混血、なども中国人となれる。人種的に夷狄出身でも、読み書きできる学力があり、都市住民として戸籍を許されるなら、中国人である。)

日本国建国に貢献した秦人、漢人

  新羅、加羅地方の中国系混血=新羅人、加羅人が、早い時期に倭国に到来して秦人(はたひと)と呼ばれた。これに比し、より遅れて倭国に到来した百済人には、元来楽浪郡、帯方郡に居住していたが、高句麗の勢力拡大から逃れて、南方の百済地方に避難してきた中国人・中国系混血が多く、漢人(あやひと)と呼ばれる。秦人・新羅人は前漢の標準語であった陝西方言系(河北・山東方言系)の中国語、漢人・百済人は後漢・魏・晋時代の標準語だった河南方言系の中国語を話したという。

  畿内の河内、大和地方では、新しく百済の滅亡などで大挙到来した漢人・百済人の言語(河南語)が主流で、それより奥地の山城、近江では、漢人より先に到来して平野部の開拓農民化していた秦人の陝西語が話されていたらしい。

  現地人系の倭語は、畿内では平野部に多く入植してきた帰化人系の言語の影響で、語彙も文法も、相当変化してしまったが、生き残っていたという。
  ともかく、河内王朝、その他の倭国の政府機関の確立は、漢人、或いは秦人らの文書能力無しには、成立し得なかったし、韓半島、中国との間の交易も、コミュニケーションも、これら華僑達の漢文能力無しには、継続できなかったであろう。

  しかし、岡田氏によると、中国から独立して、対中鎖国的に日本国家を建国した以上、中国語とは異なる自国語が必要であるから、漢人・百済人達の河南語系の話し言葉を中心に、倭語の単語・語彙を取り入れたりしつつ、新たに人口的に創り出していったのが、万葉集の日本語であるという。要するに、日常語としては漢語を使用していた華僑社会が建国時の豪族、官僚達であるから、徐々に現地人の倭語を学習していたとは言っても、書き言葉の表記方法も、文法も、全てが手探りであったらしい。万葉集にも、日本語表記用として漢字の使用方法が未だ確定しておらず、訓で(すなわち表意文字として)、または音で(表音文字として)、或いは音・訓混合で、というように、書き方が各種混ざっているほか、結局純粋な漢詞のままという例すらあるという。

  ともかく、正式文書は漢文という伝統は、なかなか崩れなかったものの、日本では万葉仮名(漢字を一音のみの表音文字として使用)→漢字の部首を使用して「カナ」を、あるいは草書体から「かな」を、それぞれ工夫・創出する形で、表音文字・和式アルファベットを発明したし、仮名を用いた「国文」文学も早くから発達した。独自の国字と国語での詩文、文学が、対中独立後、早期に完成したこと、また地理的に海中に孤立して、陸続きではなかったことも幸いして、韓国に比べると、日本国の対中自立の完成、発展は早くて、既に9世紀頃には独自文化の確立傾向が見られた、と豪語しても良いのではないか、と小生は思う。


中国大陸からの血液、言語的影響の巨大さ

  そうは言っても、せっかく多くの日本人は、これまで、縄文時代、弥生時代と原日本人のみの時代が長く続き、ようやく飛鳥時代頃に朝鮮半島との交流が強くなり、百済滅亡後辺りに、かなり多数の百済系移民の波が日本に来訪したとはいえ、基本的に縄文時代以来日本においては「異国系の血液」は、さほど流入せず、原日本人の血液が保たれてきたし、日本語も、縄文語→弥生語→奈良時代の古代日本語と、外的な影響はほぼゼロで、自立的に発展してきたように思いこんでいたのが、移民・血統という面でも、或いは言語的影響という面でも、シナと韓半島の双方から、圧倒的と言えるほどの影響を、紀元前から7世紀にいたるまで受けていたことを確認することは、何か無念な心境と言えなくもない。とはいえ、韓国人、中国人の中に、余りにも我々日本人とそっくりすぎる顔貌が多いと、以前から思っていたことも確かであり、結局、1300年前まで、とはいえ、多くの血液と、言語要素が、日本の中に導入されたことを、我々としても理解すればよいのであろう。

朝貢=臣従ではない、友好国程度の意味

  他方で、いくら海を隔てているとはいえ、国境線もはっきりしておらず、日本国家も明白には建国されていなかったような7世紀までの歴史段階で、中国本土---韓半島---日本列島に連なる民間人(華僑)による貿易経路が活発に機能していたらしいこと、これら交易も、中国側では、楽浪郡などの出先官庁(軍司令部)の有力な税収源として存在し、維持されていたことなど、岡田氏の指摘により啓蒙されることは数多い。

  また、朝貢貿易という解釈は全くの誤解であり、中央の皇帝陛下に、楽浪郡その他の辺境地域軍司令官が、自らの傘下にある現地人酋長を招いて、種々お膳立てした上で朝貢させるという行為で、中央政府に「ごますり得点を挙げる」と言うシステムだったことも、これまでの歴史書で読んだことが無く、岡田氏のおかげで初めて知る、目から鱗のすばらしい解説だ。貿易は貿易で、朝貢使節ではなく、華商達によって行われるのだ。

中国における「外交」の意味は、今日でも、現政権の権威付けのために外国使節らが、いかに現政権(現皇帝)に敬意を払い、朝貢してくるかを誇示すること、すなわち対国内宣伝が主目的(例えば台湾でも、未だにそうだという)と説明されると、よく分かる。別段、朝貢=臣従ではなく、単に皇帝陛下の「高徳を慕って、遠方より来たり」(という建前を中国側の所管官庁がお膳立てする)て、挨拶するだけなのだ。邪馬台国の卑弥呼の場合も、本当の意味で臣従したわけでもなく、「親魏倭王」の金印も、「在日名誉総領事」程度の肩書きに過ぎないらしい。

  あの広大な天安門広場、右広場に面したやたらに広大なホールの中で行われる中国首脳と外国首脳の会談風景も、主として写真とかTVカメラに映像を撮影して、国内宣伝用に配信することが目的の、そういう道具立てだと分かれば、あの空々しく見える雰囲気も、なんとなく理解が可能という気がしてくる!!
http://79909040.at.webry.info/200909/article_3.html
http://79909040.at.webry.info/200910/article_1.html


09. 中川隆 2013年3月09日 09:31:31 : 3bF/xW6Ehzs4I : W18zBTaIM6

インド人とは何か?_インドの稲作の起源
http://www.asyura2.com/12/lunchbreak52/msg/680.html

10. 2018年12月18日 03:53:24 : L2cWoCNDJU : Ul7GL0TMEnc[1] 報告
日本人はユダヤ人につかまっている
歴史を正しく教えない

中国はユダヤ人から自由になっている
歴史を好きに教えられる

中国人から日本人の先祖を聞けばいい

そうすると日本人の先祖は越民族

敵に聞く先祖の由来

それは敵が先祖を打ち負かせたからだ

そして今時代は返る

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