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たそがれのプロカメラマン物語  第五章 室町時代へタイムトリップ
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投稿者 五月晴郎 日時 2013 年 9 月 12 日 16:09:33: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: たそがれのプロカメラマン物語  第四章 鎌倉時代 投稿者 五月晴郎 日時 2013 年 9 月 12 日 16:05:18)

http://www.kitanet.ne.jp/~aash/tasogare.html#1-18

第五章 室町時代へタイムトリップ


室町時代とは騎馬民族文化と南宋禅文化の激突時代だった。

オレは、ソファーに寝転んで、天井を眺めながら、藤原日本史と田辺日本史の違いを考えている。ここ二三日、写真撮影の依頼がなかったので、考える時間は、タップリあった。
田辺説によれば、清和源氏は存在しないという。もし、存在するとすれば、それは、藤原北家の藤原良房と藤原良相兄弟の陰謀により、1歳で立太子し、31歳で死去した清和天皇の子、生後3ヶ月で立太子し、9歳で譲位をうけた陽成天皇の「陽成源氏」でなければならないという。
そして、鎌倉幕府を拓いたとする、清和源氏の棟梁の源頼朝の肖像画が、本人ではなく、室町時代の足利直義像であることから、藤原日本史が描く源頼朝の人物像が謎だという。
すると、南北朝に突然歴史上に現れた、室町幕府を拓いた「足利氏」の出自も謎だ。それは、足利氏は、「清和源氏」出自とするからだ。
藤原日本史の鎌倉時代の謎は、それだけではなかった。幕府の警察力が、寺社に及ばないことだ。その治外法権の寺社には、供御人、寄人、神人など出自不詳の奴隷が存在していた、とする。しかし、田辺説では、その寺奴隷は、奴隷などではなく、同業者組合の構成員で、寺社を拠点てしてモンゴル帝国のイスラーム国際商人と国際交易をしていた騎馬民族末裔だ、とする。
鎌倉時代の貧民を、浄土思想で救済したとする鎌倉新仏教僧の存在も、田辺説では、ウソだと言う。その鎌倉新仏教僧は、貧民を救済していたのではなく、その逆で、モンゴル帝国のイスラーム国際商人との交易で潤う東国の騎馬民族末裔に「寄生」していた、とする。勿論、妻帯肉食の破戒僧、親鸞の存在も否定だ。
更に、藤原日本史では、鎌倉時代は、御恩と奉公の、武士ではなく、「武家の時代」だ、という。御恩とは、所領支配を保障すること、或いは、新たに土地給与を行うこと、とする。しかし、田辺説では、鎌倉幕府が存在した関東は、古墳時代から騎馬民族の支配地だったので、軍事・警察力の脆弱な鎌倉幕府に、所領を保障されても、何の保障にもならないとする。
その何の保障もない御恩に対しての奉公とは、鎌倉幕府の緊急時に、騎馬を疾走させて軍役・警備にあたることだ、とする。しかし、関東各地から鎌倉への騎馬が疾走できる軍事道路は、鎌倉時代には存在していない。現在に残る鎌倉街道は、細く曲がりくねっている。その鎌倉幕府の地に到達するには、要所を禅寺に警護された細く曲がりくねった切通しを通過しなければならない。
藤原日本史では、モンゴル帝国による元寇の来襲を述べている。しかし、田辺説では、その二度の「元寇」は、実際は、高麗と南宋国の王族・貴族の亡命大船団だという。この「元寇」以降、日本海沿岸には、多くの異民族が渡来していた。日本海沿岸の村では、隣村との会話が困難なほど、方言や文化が異なっているのは、各異民族船団の渡来によるからだ。
田辺説で、藤原日本史と百八十度異なることは、「悪党」の説明だ。悪党とは、悪い人の集団ではなく、勇者の集団だとする。そして、その悪党とは、現在での警備会社のように、警護を依頼されると、派手な衣装に弓と槍で武装した騎馬武者だとする。鎌倉時代は、国全体を武力で護る律令軍が崩壊していたため、治安が悪いため、金銭取立ての高利貸しの僧侶と、高価な物品をもたらすイスラームの国際商人が、警護依頼主だとする。
そういえば、南北朝で活躍した楠正成も、悪党と云われていた。すると、南北朝に突然現れた足利尊氏も新田義貞も、悪党だったのか。
そんなことを脈略もなく考えている時、パソコンのメール着信が鳴った。急いで、ソファアから飛び起きると、ハソコンを開いて、メールをプリントアウトした。
田辺さんのレポートの概要は、以下のようだ。

室町時代と云うのは、1378年第三代将軍足利義満が、幕府を、平安京大内裏跡の北上の花の御所、室町に移転したからだ。足利義満が、平安時代にかって大内裏があった広い畑の空間を避けたのは、足利氏は、古墳時代の秦氏の祭祀場であった、前方後円墳の跡地の歴史を知っていたからか。
その室町時代は、その花の御所の南下にある大内裏跡に、石仏像や地蔵を破壊して石材として、二条御所を再建した織田信長により、第十五代将軍足利義昭が京都から追放されることにより終焉した。賎民余部(海部)を祖にもつ織田信長は、反仏教派であり、反神道派であった。
花の御所に幕府を移転した足利義満は、明皇帝から「日本国王源道義」の封号を与えられ、日本国王に冊封されたのは、明皇帝は、足利氏を「源」つまり、チュルク系騎馬民族末裔と考えていたからか。中国では、漢姓「源」は、チュルク系騎馬民族拓跋部の支配民族であった禿髪氏を祖とするからだ。
室町時代を経済から眺めると、そこには鎌倉時代と異なる民族が現れる。経済活動の道具として、貨幣がある。平安時代から鎌倉時代中期まで、貨幣は銅銭の宋銭が使われていた。しかし、鎌倉時代中期になると、その銅銭と供に、銀が貨幣として使われていた。しかし、室町時代になると、銅銭の明銭が使われるのだ。何故、鎌倉時代中期から室町幕府が拓かれる前まで、銀が貨幣として使われていたのか。
世界歴史上、貨幣として使われていたのは、金、銀、銅だ。金本位制の流れは、紀元前1世紀ローマ帝国から1204年東ローマ帝国(ビザンチン帝国)までだ。銀本位制の流れは、紀元前6世紀古代ペルシャを端に発するイラン文明国からだ。その金本位制と銀本位制の流れは、紀元6世紀に興ったイスラーム中東世界で合流した。
では、中華地域では、何が貨幣として使用されていたのか。それは、円形、方孔の銅銭だ。中華地域では、金や銀は貨幣としてではなく、装飾用として使われていた。
日本列島の古墳時代初期には、鉄が貨幣として使われていた。
ユーラシア大陸では、騎馬民族は貨幣として銀使用を主体に、金・銅使用が付随した状態に置かれていた。
モンゴル帝国が、1271年興る前、ユーラシアと北アフリカを見渡すと、ほぼ銀が第一の交換手段か価値基準の算定基準となっていた。銀が、モンゴル帝国の基準通貨となったのは、その経済運営には、中華民族ではなく、国際商業勢力としてのウイグルとイスラームが参加していたからだ。
ウイグルとは、チュルク系東突厥を、744年滅ぼした国だが、その国民の多くにはチュルク系騎馬民族がいた。当然、ウイグルには、日本列島の明日香ヤマトを支配していたチュルク系騎馬民族である突厥の国際商人末裔がいた。
イスラームの商人は、ペルシャ語を話すイラン系で、古墳時代の国際交易商人であるソグド商人の伝統を引き継いでいた。
モンゴル帝国時代とは、日本列島では、鎌倉時代中期から南北朝時代までだ。この時代に、日本列島では、銅銭に加えて、銀が貨幣として使用されていた。このことは、銀を貨幣とするウイグルとイスラーム国際商人の、日本列島渡来が示唆される。
モンゴル帝国が興る以前、ウイグルとイスラームの国際商人とは、資金を出し合い、大型資金をつくり、団体で各種の経済活動をしていた。この経済活動を、チュルク語で、「オルトク」、と言う。そのオルトクの実態は、座、組合、会社、企業、と同じだ。このチュルク語のオルトクは、ペルシャ語にもなっていることから、チュルク系商人は、古くからオルトクを行っていたことを示唆する。
鎌倉時代に、寺社を中心に全国各地に短期間に、「座」ネットワークが拓かれていたのは、その陰には、モンゴル帝国から渡来した、ウイグルやイスラームの国際商人の存在が示唆される。鎌倉時代、その日本全国をネットワークした座の存在を、室町幕府では、禅宗文化と武力での壊滅を目指していた。
室町時代とは、騎馬民族文化を支援する足利氏と、藤原氏の流れにある「日野のおんな」を娶らされた禅文化を支援する足利氏との、激突の時代だった。足利氏とは、単一王族ではなく、騎馬民族と同じに、多くの足利氏による部族連合体であった。
鎌倉時代、猿楽として貶められていた秦氏の芸が、京都の前方後円墳跡を避け、花の御所を拓いた足利義満の時代になると、その芸能者の観阿弥・世阿弥親父子は、寵愛された。
猿楽とは、平安時代以前、秦氏が前方後円墳の祭祀場で行っていた、ギリシャ仮面劇を祖とする。秦氏の出自は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅であったので、その秦氏の文化には、ギリシャ文化が流れていた。奈良時代712年ではなく、平安時代812年「古事記」を著わした、万葉語学者の多人長も、秦氏末裔だった。
「古事記」の神話は、720年「日本書記」のウソ物語を否定するため創作した日本神話の素材も、ギリシャ神話であった。多くのひとは、「古事記」は、「日本書記」以前に編纂された、と信じているようだが、「古事記」の記述は、「日本書記」の「ある書に曰く」の文章になぞられている。一般的に、万葉語記述の「古事記」は国内向けで、漢語記述の「日本書記」は海外向けと云われているが、「日本書記」無くして、「古事記」は存在しない。
平安時代、百済系桓武天皇家により、秦氏の芸は、秦楽(しんがく)→申楽(しんがく=さるがく)→猿楽と蔑称されていた。
藤原氏の流れにある三条公忠は、その著書「後愚昧記」で、乞食の芸である猿楽を行う者が、将軍と一つ桟敷で盃を交わすとは、もってのほかだと述べている。この日記の背景は、世阿弥が、足利義満と、秦氏末裔の篤志家が金銭的に援助していた祇園会の鉾を見物していたからだ。
足利氏も、第三代将軍までは、親秦氏だった。しかし、1408年世阿弥の最大の庇護者であった第三代将軍足利義満が死去し、1428年第六代将軍足利義教の時代になると、反秦氏となり、世阿弥の醍醐流滝宮の楽頭職が奪われ、1434年には世阿弥は、佐渡に流されてしまった。
では、何故、乞食の芸をおこなう世阿弥が、1392年南北朝を統一した三代将軍足利義満と、天皇家や京の貴族がその祭りの日に京都を脱出する神輿違えをおこなう、祇園会の鉾を見物できたのだろうか。
その謎解きのヒントは、世阿弥の「阿弥」文字にある。世阿弥の実名は、元清。世阿弥は、通称だ。では、その阿弥とは何か。鎌倉時代から、○阿弥、○○阿弥と通称する人物が多く登場する。その阿弥号を持つ人物は、藤原氏や亡命百済貴族末裔から蔑視されていた。
阿弥とは、インドでは「アミダーバ」で、古代エジプトでは「アトン神」で、太陽神のことだ。藤原日本史では、阿弥陀仏として、「仏」としているが、騎馬民族や太陽信仰民族では、阿弥号は太陽信仰民族であることをアピールする手段だ。
モンゴル帝国は、フビライの時代、国と国との交易ではなく、民間による自由貿易を奨励していた。それは、イスラム系のムスリムとチュルク系騎馬民族のウイグル国際商人が、モンゴル帝国の経済活動を支配していたからだ。
そのモンゴル帝国の国際商人が、銀を基本通貨として、日本列島の資源、絹、砂金、銀、水銀、真珠、医薬品など等を買い入れ、そして、モンゴル帝国からの陶器や書画骨董を売りさばいていたのだ。
モンゴル帝国の税制は、農民から税を集める農本主義ではなく、商業活動に税をかける重商主義なので、他国の土地支配は本来の目的ではない。モンゴル帝国の経済政策は、中央政府の歳入の八割近くが「塩引」の塩の引き換え券の売却によるものだ。そして、一割が商税であった。つまり、モンゴル帝国の経済は、大型間接税により賄われていた。
その間接税を増大させるには、各国でおこなわれていた通過税を撤廃させて、国際交易商人が地の果てまで、交易をおこなうことが出来るようにすることだ。
フビライの時代、各国にあった通行税は撤廃され、ヨーロッパと中国大陸、ユーラシア大陸は、ひとつの市場となり、国際交易商人がモンゴル帝国軍に守られて、地の果てまで行き来した。勿論、鎌倉時代の日本列島にも、国際交易商人が訪れていた。
しかし、フビライの時代が過ぎると、莫大な利益を得ることが出来る「塩引」の引き換え券の他に、闇で塩取引が可能な「私塩」が盛んになってきた。
軍事力が強力な時代では、その闇業者を武力で制圧できたが、国力が衰え、軍事警察力が衰えると、闇商人達は結束して秘密結社により、モンゴル帝国政府に対抗した。そのひとつが、1351年紅巾賊の興隆だ。1368年秘密結社の支配者である朱元樟は、モンゴル帝国を壊滅し、明帝と称した。
1341年塩の闇商人達による、モンゴル帝国での反乱が起こると、モンゴル帝国から日本列島に亡命する禅僧が多くなった。それは、モンゴル帝国と日本列島との国際交易には、禅僧が多数参加していたからだ。その背景は、モンゴル帝国の海洋国際交易システムは、1279年モンゴル帝国に滅ぼされた南宋国の海洋国際交易システムそのものだったからだ。
その軍事警察力が衰えたモンゴル帝国は、アウトローの闇取引を武力で制圧することが困難となっていた。そのためのひとつの政策が、自由貿易の禁止だ。モンゴル帝国と日本列島を自由に行き来していた交易船団は、モンゴル帝国にも日本列島にも母港をもてなかった。この頃現れたのが、「倭寇」という海賊だ。倭寇は、モンゴル帝国の自由貿易から弾き飛ばされた国際海洋交易民だった。
北条鎌倉幕府の税制が、どのようなものであったかの史料が無いように、南北朝の税制も謎だった。それは、藤原氏末裔の「日記」に記載されていないからだ。
室町時代になると、その幕府財政がどのようなものであったか史料で推測できる。
1322年後醍醐天皇は、神人に課税する目的で、洛中の「神人公事停止令」の法を発した。公事とは、寺社が神人から取っていた運上金のことだ。しかし、寺社勢力により、この令は無視された。
鎌倉時代末期には、市場経済の主役は、貴族などではなく、藤原日本史では賎民といわれていた神人だったのだ。それは、盗賊団の中に、多くの貴族が属していたことからも分かる。貴族が経済的に疲弊していたのなら、天皇家も経済破綻状態だった。1352年北朝の後光厳天皇の即位式の費用は、高利貸しである酒屋からの借金で賄われていた。勿論、その借金は返済など無く、踏み倒しだ。
1371年その北朝の後光厳天皇の息子である後円融の即位式も、質素なものであった。奈良時代に、藤原不比等が、藤原の女を天皇に娶らさせる手段としての五節の舞の踊り子も、5名ではなく2名であった。
では、その後円融天皇と同年代生まれの、三代将軍足利義満の経済状態はどのようなものだったのか。
1397年足利義満は、金張りの鹿苑寺(金閣寺)を創建したのは有名であるが、賀茂川と高野川が合流する西側に、高さ約110mの大塔を建設していたことは、藤原日本史では述べてはいない。
更に、平安時代、百済系桓武天皇が、秦氏の支配地にあった巨大前方後円墳を破壊した跡に、大内裏を建設したが、秦氏の神の怨霊を恐れて、鎌倉時代には、その大内裏は跡形も無く、畑と化していた。足利義満は、その大内裏跡を避けるように、荒廃していた北側一帯を大土木建設事業により、花の御所を建設し、1378年足利義満は、室町新第に移った。
では、天皇家や貴族が経済的に破綻状態にある時代に、足利義満による、それらの大土木建設事業資金は、どのようにして調達していたのか。そこに現れるのが、藤原氏や亡命百済貴族末裔から乞食と称されていた「阿弥」号を持つ一団だ。
1368年モンゴル帝国は滅び、明帝国が興った。明帝国の洪武帝は、モンゴル帝国末期に行われた日本列島との自由貿易禁止を強化していく。
明帝国の洪武帝は、周辺諸国に対して、明帝国の冊封下に入り、倭寇禁圧を求める使者を度々発していた。日本列島では、その要請を受諾したのが、当時、足利氏の北朝と対立してした南朝方として九州を制圧していた、後醍醐天皇の息子、懐良親王だった。このことにより、懐良親王は、明帝国に対しての「日本国王」となった。
1372年明帝国から、日本国王冊封を認める使者が到来した時には、日明外交の博多津は、北朝側が制圧していた。足利義満は、明帝国の使者を送り返すとともに使者を派遣し、足利義満を「日本国王」に認めるように要請したが、明帝国はそれを認めなかった。あくまで、懐良親王を「日本国王」とした。
1380年足利義満は、「征夷将軍源義満」名義で日明通交を要請したが、明帝国はこれを認めなかった。1387年足利義満は、「日本国王懐良」名義で、明帝国との交易を図った。なりふりかまわずの足利義満の日明交易にたいする行動の背景には、モンゴル帝国時代の自由貿易では、日本列島で産出する絹製品は、中国大陸では莫大な富をもたらしていたからだ。足利氏の支配地である北関東は、シルクロードの東限であった。
この足利義満による、日明交易の開始に携わっていたのが、祖阿弥、相阿弥などの「阿弥」号を持つ民だった。この日明交易の貿易利潤については、阿弥号を持つ民により管理されていた。
1406年に明帝国から帰国した遣明船には金阿弥が乗船していた。その弟である式阿弥は、「北山殿ノ御倉預」と呼ばれていた。鎌倉時代中期から室町時代初期までの、阿弥号を持つ民は、藤原氏の「日記」にあるように、乞食などではなく、金持ちの国際交易民であった。このことから、モンゴル帝国の自由貿易時代、日本列島では鎌倉時代中期から、東国の遊行する貧民を「南無阿弥陀仏」の呪文で救っていたとする、鎌倉新仏教物語の信憑性が疑われる。
能の中興の祖とされる観阿弥・世阿弥が、足利義満に寵愛された理由が、その「阿弥」号にあることが分かる。足利義満の経済基盤を賄う阿弥号を持つ民は、国際海洋交易の民であったからだ。
では、その三代将軍足利義満の寵愛を受けた世阿弥が、六代将軍足利義教により、佐渡に島流しされたのは、何故か。その謎解きのヒントは、1402年世阿弥による「風姿花伝」にある。
世阿弥は、日本列島の歴史を改竄した藤原氏や亡命百済貴族末裔には、危険人物であった。それは、「風姿花伝」の序を読めば分かる。

それ、申楽延年のことわざ、その源を尋ぬるに、あるいは仏在所より起こり、あるいは神代より伝はるといへども、時移り、代隔たりぬれば、その風をまなぶ、力及びがたし、近比万人のもてあそぶところは、推古天皇の御宇に、聖徳太子、秦河勝に仰せて、かつは天下安全のため、かつは諸人快楽のため、六十六番の遊宴をなして、申楽と号せしより以来、代々の人、風月の景を仮つて、この遊びのなかだちとせり、その後、かの河勝の遠孫、この芸を相続ぎて、春日・日吉の神職たり。よつて和州・江州のともがら、両社の神事に随ふこと、今盛んなり。

世阿弥は、藤原日本史では、「猿楽」と述べているのに、「風姿花伝」では、「申楽」と述べている。世阿弥は、「申」の文字により、「しん楽=秦楽」と暗示した。更に、申楽の祖を、秦河勝としている。秦河勝は、古墳時代(藤原日本史では飛鳥時代)の山背国(平安時代に山城国に改竄)の祭祀者だった。その祭祀者が、秦楽の祖であると、「風姿花伝」で述べている。
この「風姿花伝」が、藤原氏や亡命百済貴族末裔から焚書されないために、推古天皇や聖徳太子などの、藤原氏や亡命百済貴族末裔が「仏教黎明期の飛鳥時代」を創作するために発明した、架空人物を登場させている。
更に、藤原氏の、ユダヤ教に酷似した儀式で神を祀る、奈良時代に創建された春日社や、平安時代に、亡命百済貴族が中国山東半島から導入したシャンワン(山王)神を祀る日吉社を登場させている。7世紀に、西国では終焉した古墳時代では、春日社の三笠山や、日吉社の比叡山の地は、牡牛を屠る儀式を持つ、太陽信仰民族である秦氏の祭祀場だった。
では、秦氏は、祭祀場で、どのような儀式をおこなっていたのか。雨乞いの儀式を歴史的に辿ると、その儀式の様子が、かすかに分かる。
旱魃は、農耕民だけではなく、家畜と暮らす遊牧民にも、最悪の事態だ。その雨乞いの手順を、室町時代から古墳時代まで遡ると、

1、室町時代。神道では、神前で能などの芸能を奉納し、神を楽しませて雨を呼ぶ。仏教では、護摩を焚き、加持祈祷を行う。
2、平安時代から鎌倉時代。それでも雨が降らなければ、山伏(漢訳仏教軍団により山へ追われた武士)が、雨乞いの祈祷を捧げる。武士の祖は、剣舞で怨霊を鎮める武芸者で、祭祀者だったからだ。
3、古墳時代。それでもだめだった場合、滝壺に牛頭を投げ込み、雨乞いをする。

741年の奈良時代から、804年の平安時代にかけて、牛屠殺禁止令がだされていた。それは、古墳時代から行われていた、太陽信仰民族の儀式を禁止するためだ。
その儀式の意味は、牡牛は、太陽神の化身であるからだ。太陽神は、冬至に死に、そこから再生する不死身の神だ。太陽の死(冬至)の日は、太陽神の復活の日である。そこで、太陽神の化身である牡牛を屠ることにより、人工的に太陽神の復活を願うのだ。牡牛の屠殺儀式は、太陽神の復活の儀式だった。
古墳時代の秦河勝の山背国の寺は、蜂丘寺と呼ばれ、太陽神ミトラを祀る景教の寺だ。それを、藤原日本史では、新羅から渡来した弥勒菩薩を安置し、そして、摩多羅神による牛祀りを開催する「広隆寺」と改竄している。ギリシャ・ローマ文化の古代新羅が、漢訳仏教を受け入れた(漢訳仏教軍団の進駐)のは、528年だ。527年から528年の北九州動乱、藤原日本史では筑紫国造磐井の反乱、とは古代新羅王朝の北九州亡命騒動のことだ。
藤原日本史の飛鳥時代のウソは、538年(552年説あり)百済の聖王が仏像及び経論を、欽明天皇に献じたとすることだ。そのウソは、その時代は、明日香ヤマトは、突厥進駐軍の騎馬民族が支配した、古墳時代だからだ。
古墳文化と漢訳仏教文化は、その埋葬方法で対立する。
古墳文化では、主役は死者だ。だから、死者は、騎馬民族文化では再生すると信じられていたため、生前の生活用品を古墳に納める。騎馬民族にとって、古墳は、死者の土の家だ。つまり、土+家=塚だ。
それに対して、紀元一世紀、ギリシャ文化を継承した、秦帝国の母国である元バクトリアの地、ガンダーラで発明されたギリシャ文化を基に発明された大乗仏教は、中国大陸へ東進するうちに、肉食する遊牧民族を蔑視する思想を持つ、菜食主義のバラモン教やヒンズー教の埋葬思想を取り入れ、藤原日本史ではサンスクリット経典と述べているが、ギリシャ語経典から漢訳経典に改竄し、そのギリシャ語の原典を焚書し、漢訳仏教へと変身した。因みに、現存するサンスクリット語経典は、7世紀に漢訳経典から復元されたものだ。
その漢訳仏教思想では、死者は穢れているとするのだ。そのため、死者の穢れを祓うため、死者を燃やしてしまう。つまり、死者は、火に浄化され、浄物(成仏)となるのだ。
すると、藤原日本史で述べているように、天皇家の神を祀るとする中臣神道も、死を穢れとするから、古墳時代には、まだ発明されてはいないことになる。これにより、藤原日本史の飛鳥時代、崇仏派の蘇我氏と廃仏派の物部氏との、父子の二度にわたる神仏戦争も、ウソとなる。
この蘇我氏対物部氏による神仏戦争物語は、6世紀、河内湖の水を上町台地を縦断する大運河を古代エジプトの高度土木技術で掘削し大阪湾に流し、河内平野として支配していた、太陽神信仰民族のギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来の、円墳墓制の「花郎騎士団」と、そして、ユーラシア大陸からリマン・対馬海流により北陸に上陸し、明日香ヤマトに進駐した、北極星を祀る道教思想を持つ、東ローマ帝国と絹馬交易をおこなっていた、方墳墓制の「突厥進駐軍」との戦いの史実を改竄するために、奈良時代に藤原不比等により創作されたものだ。
日本列島で、最初に火葬された天皇は、697年漢訳仏教文化の百済の血の流れにある女帝持統天皇だ。その前の天皇、日本列島初の天皇である、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の流れにある、天武天皇は、686年古墳に生前の姿のまま埋葬された。
「風姿花伝」を著わした世阿弥は、室町時代のひとだ。その著書で申楽の祖を秦河勝とするそのひとは、古墳時代だ。その間、奈良時代、平安時代、鎌倉時代の約700年間がある。その長期間、古墳時代のギリシャ仮面劇を継承していた秦楽は、誰により伝承されていたのか。
世阿弥の本名は、観世三郎元清だ。その父観阿弥は観世三郎清次だ。その父子に共通する「清」とは、「清め」を意味する。「清め」とは、現在では葬式の後に「塩」を振り撒く「キヨメ」を思いおこすが、古代日本列島では、「怨霊」の御霊鎮めのことだ。
その「清め」を意味する「清」は、世阿弥の子から消えて、観世流で「清」の字が復活するのは、江戸時代の11世重清の時だ。
佐渡に島流しにあった世阿弥の血の流れには、四代将軍足利義持が消さねばならないものがあったようだ。因みに、足利義持には、亡命百済貴族の庇護を受けていた天台宗の流れにある母がいた。
世阿弥が佐渡に流された後、世阿弥の後を継いだ次男元能は、伊勢安濃の津で急死したと伝わっているが、「伊賀観世の系図」によれば、禅宗を庇護する足利家の家来斯波兵衛三郎に殺された、とある。更に、この系図によれば、世阿弥の父観阿弥の母は、悪党の楠木正成の妹とある。
その観阿弥・世阿弥父子の猿楽は、奈良豆比古神社(モリ)の支配下にあった。この奈良豆比古神社(モリ)には、曰くがあるらしく、古代から近世を通じて、「春日社」と云うひともいれば、「八幡社」(「はちまん」ではなく「やはた」)と云うひともいた。
春日社とは、藤原氏の神アマテラスオオミカミを祀る社だ。そして、八幡社とは、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の神を祀る社だ。どちらが古いかは、「春日社」は奈良時代の創建で、「八幡社」は古墳時代の神を祀るから、一目瞭然だ。
では、世阿弥が、申楽から開発した「能」とは、何なのか。現代に伝わる能楽堂でおこなわれる「能」は、世阿弥が開発したものではないようだ。
それは、観阿弥・世阿弥父子の活躍した時代を境にして、世阿弥が佐渡に流され、そして、次男が足利家に殺された時代を境にして、観世座、大和四座、近江・丹波猿楽等は、禅宗を庇護する足利家が支配する武家の後援を得て、士分化の道を歩んだ。
その士分化した能楽師は、能楽興行の独占でもって、声聞師の猿楽能を弾圧した。観阿弥・世阿弥父子の時代の猿楽は、声聞師の能面を着ける猿楽とそれほどの差はなかった。
では、士分化した能楽師に弾圧された声聞師とは、何者か。声聞師とは、千秋万歳、曲舞、金皷打ちといった呪術的な芸能に従事する者の名称だ。身分としては、寺社の寄人だ。
鎌倉時代中期の成立とされる「名語記」によれば、散所ノ乞食法師が正月に千秋万歳として様々ノ祝言を述べている、とある。散所者とは、声聞師のことだ。散所とは、亡命百済貴族が支配した平安時代、陸奥国の砂金を簒奪するための唐進駐軍に敗れた、古墳時代の明日香ヤマトを支配していた花郎騎士団と突厥進駐軍の捕虜が、陸奥国から西国に捕虜として連行され、そして、押し込めた捕虜収容所のことだ。
では、何故、捕虜収容所の乞食とされる者が、正月に様々な祝言など述べるのか。
藤原日本史によれば、日本列島古来の神は、国つ神と呼ばれる。そして、渡来の神は、天つ神と呼ばれている。その国つ神とは、天つ神を祀る大和朝廷に滅ぼされた民の神であるとする。
秦氏末裔の多人長が、平安時代に著わした「古事記」の「崇神天皇」の条に、三輪山に大物主神を祀らせただけではなく、坂の上をつかさどる神や川の瀬の神に至るまで祀らせた、とある。これらの神が、国つ神だ。
天つ神を祀る民族(藤原氏)の明日香ヤマトへの出現は、神代の高天原から降臨した天孫族の昔からではなく、645年だ。すると、この時代は西国では古墳時代だから、天つ神軍団に敗れた、国つ神軍団は、仏教徒でも中臣神道派でもないことになる。
そこで、この謎を解く鍵が、世阿弥が著わした「風姿花伝」の「序」にあることがわかる。それは、「かの河勝の遠孫、この芸を相次ぎて、春日、日吉の神職たり」、だ。天つ神を祀る春日も日吉も、古墳時代では国つ神の祭祀場だったからだ。
猿楽(秦楽)とは、怨霊に己の姿を知らせるために、ひとの世の栄枯盛衰の歴史を、無言仮面劇での舞踏と楽曲にて演じ、怨霊の御霊を鎮めることだ。つまり、理不尽にも、天つ神軍団に破れた国つ神の怒りを、国つ神の子孫の芸で鎮めたのだ。
国つ神を祀る、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅系天武天皇の子孫が存命中の奈良時代、国つ神の怒りを鎮める芸である散楽は、散楽戸を設けて散楽生を養成していたが、亡命百済貴族の流れにある桓武天皇の延暦元年(782年)散楽戸が廃止された。その結果、散楽者は名目上大寺社に属して、祭礼などのおり、貴族の援助の下、芸を演じていた。芸とは、神を喜ばすための舞踏や楽曲を奏でることだ。
反藤原氏の嵯峨源氏や醍醐源氏を廟堂から、数々の陰謀で排斥した藤原氏は、傀儡天皇である一条天皇の長保4年(1002年)、奈良時代に藤原不比等が発明した藤原氏の神アマテラスオオミカミを祀る御殿の神座、内侍所の前庭で12月吉日に奏せられる神前神楽を、御神楽と定めた。そして、奈良時代から伝わる神楽を、里神楽とした。御神楽は、神代の昔からのものではなく、平安時代に藤原氏により発明されたものだ。
その里神楽には、古墳時代の秦楽の名残があった。それらは、ギリシャ仮面劇を髣髴させるような、仮面を着けて黙劇風の神話や神社(モリ)の由来を舞うものや、牡牛を屠るミトラ教儀式を髣髴させるような、獅子頭を以って悪魔払いをする「芸」もあった。
律令制度が崩壊した平安時代後期になると、天皇家も貴族も経済的に破綻していたため、散楽者は、名目上属していた大寺社に隷属する立場となり、無料奉仕する代わりに課税の免除を得て、一般人に「芸」を売る者となっていった。このことにより、藤原氏は、芸能者を河原乞食と言っていた。
ヨーロッパとアジア全土を自由交易の場とする、騎馬民族が支配するモンゴル帝国の時代になると、鎌倉時代の日本列島にも、騎馬民族か発明した資本主義形態である「オルトク」が、「座」となつて、カルテルを組織して、同業者による排他的独占継体を樹立した。「芸」を売り物とする集団も、「座」の体制を確立していた。
モンゴル帝国が、1368年滅ぶと、世界的自由交易が終焉した。勿論、日本列島もその例外ではない。モンゴル帝国との自由交易で潤っていた、日本列島各地でカルテルを結んでいた「座」も、衰退していた。
三代将軍足利義満の時代、「阿弥」一族による、日明交易により復活した「座」も、1408年足利義満が死去し、四代将軍足利義持の時代になると、阿弥一族が活躍していた日明交易は廃止された。
「大乗院寺社雑事記」の寛正4年(1463年)の条に、五ヶ所十座の声聞師は、猿楽、アルキ白拍子、アルキ御子、金タタキ、鉢タタキ、アルキ横行、猿飼を支配する、とある。その猿楽には、観世座、大和四座猿楽も含まれる。
呪術者としての声聞師の姿は、六波羅密寺の空也像から偲ばれる。その空也像は、身に皮衣をまとい、鹿の角を付けた杖を持ち、金鼓を打って念仏をすすめて歩く姿を伝えている。
この姿は、何を意味しているのか。殺生禁止・血の禁忌を持つ仏教思想では、獣の皮は「穢れて」いるとする。その穢れている獣の衣を、空也が着ているのは、何故か。そして、杖に鹿の角を付けているのは、何を意味しているのか。空也は、藤原日本史で述べているように、本当の仏教僧なのか疑問が湧く。
騎馬民族は、馬や牛、そして、鹿の皮を利用して、武具や日常製品を作っている。すると、空也は、騎馬民族にその姿をアピールしていたようだ。その根拠のひとつとして、鹿は、騎馬民族の祖、スキタイの聖獣だからだ。
そして、その空也像の口から、「南無阿弥陀仏」の六字の名号が発せられている、とする。「わたしは、仏であるアミさまを信じます。」の意味だ。しかし、この呪文には、腑に落ちないものがある。
「阿弥」とは、太陽神アミダーバ(アトン神・ミトラ神)のことだ。すると、「南無阿弥陀仏」の呪文に、疑問が湧く。それは、「阿弥」とは、太陽神のことだからだ。
古墳時代末期に日本列島の明日香ヤマトに、唐進駐軍と供に侵攻してきた漢訳仏教軍団は、明日香ヤマトを支配していた肉食する騎馬民族、太陽神信仰民族を敵として、明日香ヤマトから駆逐した。
713年漢字二文字で地名・人名を表記させる「好字令」により、騎馬民族が支配していた「明日香」は、仏教文化の「飛鳥」に改名された。
明日香ヤマトを支配した唐進駐軍は、686年百済の血が流れる女帝持統天皇(日本初の仏教式火葬された天皇)の傀儡政権を樹立し、684年唐の皇后武氏が政権を乗っ取り、690年皇后武氏を漢訳仏教勢力が則天武后としたように、漢訳仏教を思想武器とした。この持統天皇誕生と前後して、唐の通訳(籐史・とうのふひと→藤原不比等)が、歴史上に登場した。
唐進駐軍の下、漢訳仏教勢力は、騎馬民族の文化・思想を抹殺するために、太陽神ミトラを弥勒菩薩と改竄したり、そして、反藤原氏となった聖武天皇が太陽神信仰民族の祭祀場である三笠山に鋳造した、太陽神のミトラ像(遍照鬼・鬼とは仏教の敵神)を、平安時代になると遣唐使船を運営していた藤原氏の陰謀により唐に留学した錬金術師空海が、その遍照鬼を「大日如来」の奈良大仏像として改竄した。
「仏」は、太陽神ではない。だから、その「南無阿弥陀仏」の呪文は矛盾をはらむ。その呪文「南無阿弥+陀仏」は、何かの意図を持って、室町時代に「創作」されたようだ。
平安時代、賎民に向かって「南無阿弥」を唱えて遊行していたとする空也の流れを汲む、鎌倉時代の僧形の肉食・妻帯する者達は、太陽神信仰民族にアピールするために、国際海洋交易を行っていた阿弥一族に向かって、「南無阿弥」とだけ唱えていたのだろう。
阿弥一族が国際交易で活躍していた鎌倉時代、そのような姿で、モンゴル帝国との自由交易で潤う、騎馬民族末裔の阿弥一族が支配していた「座」のある都市を訪ねていたのは、仏教思想を広めるためではないだろう。
室町三代将軍足利義満の死後、世阿弥が開発した「能」と同じく、110mを越える大塔や、金箔貼りの鹿苑寺の建立資金を足利義満に提供した阿弥一族の「座」も、抹殺されていた。
藤原日本史では、1571年織田信長が日本列島の金融や流通を支配していた比叡山延暦寺を焼き討ちしたことにより、「楽市楽座」となった、と述べている。しかし、鎌倉時代に発生した「座」は、実際は、室町時代には衰退していた。
では、何故、室町時代初期までは、あれほど盛況だった「座」を、足利義満の死後、どのような組織が、衰退させたのか。
座商人(神人)が、寺社に付属していたのは、寺社の権威をかりて課税免除を得て商売をするためだ。その寺社に付属していた座商人の多くは、天皇家の輿を担ぐ駕輿丁(かよちょう)となり、課税を免除され、身分を兼帯していた者もいた。つまり、座商人でもあり、駕輿丁でもあった。駕輿丁は、その特権を生かして、各種の商売をおこなっていた。
寺社に付属するのと、天皇家や公家に付属するのと比べれば、どちらが商売上有利かは、祇園社の綿座神人が、鎌倉時代初期に南インドとの南海貿易基地である北九州の島津荘を取り上げられ、そして、砂金の産地を代理支配していた奥州藤原氏を滅亡させられたことにより、鎌倉末期には衰退していた藤原氏が復活し、天皇家の祭祀儀式が復活し始めた15世紀初頭には、ひとりしか存在していなかったことで分かる。
室町時代、座が衰退したのは、駕輿丁の存在だけではない。
足利尊氏が、後醍醐天皇を吉野に追い遣り、武家の政権を京都に樹立すると、その後を継いだ、二代目将軍足利義詮が執政すると、畿内近国の守護在京が進んだ。
三代目将軍足利義満の時代、明国との交易を行っていた阿弥一族の資金提供により、廃墟となっていた平安京の大内裏北上に花の御所を建設したことにより、南北朝の動乱で荒れ果てていた京の街は、賑わいを取り戻した。
しかし、足利義満の死後、四代目将軍足利義持になると、日明交易も廃止され、高度土木建設時代に造られた花の御所も、政治の中心ではなくなっていく。そして、モンゴル帝国時代に日本とモンゴル帝国を国際交易のため行き来していた禅僧も、塩密売の秘密結社棟梁の洪武帝が明国を興すと、明国を追われた。
中国大陸の庶民には、豚肉を常食するため、肉食を蔑視する菜食主義のバラモン教やヒンズー教の影響を強く受けた漢訳仏教や禅宗の思想・生活は受け入れられない下地があったからだ。
皮肉にも、南宋を滅ぼした、騎馬民族が支配していたモンゴル帝国時代では、禅宗や儒教などが盛んとなっていた。しかし、モンゴル帝国を倒した明国が、禅宗を弾圧し、儒教を受け入れた結果、そして、自由貿易を禁止した結果、多くの禅僧が、室町時代初期に、日本列島に亡命して来た。中国大陸の禅僧は、鎌倉時代にその拠点を東国に築いていたからだ。
中国大陸で発明された、ヒンズー教のヨーガと漢訳仏教の要素を含む、菜食主義の禅宗は、不思議な宗教だ。中世の宗教には、その宗教の思想根源とする「経典」と、その宗教の象徴としての「本尊」が存在していた。しかし、禅宗には、「経典」も「本尊」も存在しない。只、座り、悟りを得ると証して、瞑想するのみだ。
江戸時代になると、「座禅」だけでは禅寺経営が成り立たないため、「阿弥陀経」や「阿弥陀如来」を導入していた「禅寺」も存在していたが、鎌倉時代から室町時代までの禅宗には、「経典」も「本尊」も存在していないのだ。
その禅寺が、三代将軍足利義満が没し、四代将軍足利義持の時代になると、在京守護の国に創建されて行く。すると、京都と在京守護の国との交通が盛んとなって行く。それは、禅僧の中には、「唐物」の陶器・書画骨董を商う者がいたからだ。
この守護と禅僧の交通路に、神人(座商人)と異なる商人集団が現れた。それが、大山崎油商人集団だ。
中世の商業活動の中心は、比叡山延暦寺だ。その商業活動の中心は、神人・寄人などと呼ばれていた有髪の下級僧侶(?)だ。鎌倉時代では、比叡山延暦寺に所属する、その下級僧侶達は、全国の自由交易を行う商業都市に派遣され、各地で高利貸しを行い、そして、悪党(騎馬武者・日本刀で武装していたガードマン)の武力背景による債権取立をおこなっていただけではなく、さまざまな地方商品を仕入れ、それらを各地に販売もしていた。
しかし、1392年南北朝合体後、比叡山延暦寺をしのぐ勢いで商業活動をおこなっていたのが、大山崎離宮八幡宮の神人集団だ。藤原日本史では、大山崎油座と述べている。
山崎の「サキ」には、特別の意味がある。「サキ」とは、河原、峠などの村はずれの境界の地をさす意味があるからだ。つまり、風俗習慣の異なる異民族の支配地を意味する。中国大陸からの玄関である大阪の難波津と、ユーラシア大陸からのリマン・対馬海流交易の拠点である琵琶湖の大津との中間に位置する、淀川べりの山崎の地は、モンゴル帝国の国際自由交易の時代、栄えていった。
その油商人の八幡宮に「離宮」の二文字を冠しているのは、本宮が淀川対岸に石清水八幡宮があったから、とする。その山崎神人は、鎌倉時代から、荏胡麻油を交易し、八幡神の神前の灯明にもちいれられていいため、権力者から認められる立場にあった、とする。
しかし、藤原日本史のこの説明には、腑に落ちないものがある。何故、油商人は、石清水八幡宮の目と鼻の先の対岸の離宮を、商業基地としたのか。元々、石清水八幡宮には、謎が多い。
藤原日本史では、石清水八幡宮の「石清水」の社名は、男山に鎮座していた石清水水山寺に由来する、とする。「石」の付く寺社には、注意が必要だ。その「石」には、巨大古墳を歴史的に抹殺するトリックがあるからだ。
戦国時代の終わりを告げる戦いの場であった「石山本願寺」の「石山」とは、巨大古墳の石室が多くあった山に建立されていたからだ。この石山本願寺は、藤原氏の流れにある日野氏の蓮如により建立された。では、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)ではどうか。
廟堂の支配を目論む藤原氏は、858年9歳の清和天皇を即位させた。その翌年、藤原氏の陰謀により唐に留学していた空海の弟子行教が、宇佐神宮に参拝した時、神託を受けて、男山に建立したのが石清水八幡宮だとする。この石清水八幡宮には、更に、「清和源氏」(=陽成源氏)の源義家が、御神前で元服したので「八幡太郎」と称した、との物語もある。
更に、「清和源氏」の源頼朝が、幕府を拓く際、石清水八幡宮を勧請して、鶴岡若宮を改め、鶴岡八幡宮とした、とある。因みに、若宮とは、前政権の祭祀場を破壊した跡に創建された「宮」のことだ。
その石清水八幡宮の本宮の宇佐八幡宮にも謎がある。藤原日本史では、宇佐神宮には、応神天皇、比売大神、神功皇后の三柱が祀られている、とする。しかし、応神天皇も神功皇后も、奈良時代に藤原不比等が発明した架空の人物だ。では、宇佐神宮は、何を隠蔽したのか。それは、古代新羅の神だ。
宇佐は、527年古代新羅から北九州に亡命した王族が支配した地だ。その宇佐に、秦王国が興された。608年隋使裴世清は、小野妹子を伴い来朝し、明日香ヤマトで男王アマタリヒコに謁見した旅での途中、北九州で中国と同じ高度の文明を持つ国(秦王国)を見たことを、隋帝に報告していた。その「秦王国」は、明治初期まで、太陽神を祀るミトラ教のシンボルであるマルタクロスを家紋とする、世襲名・弾左衛門を棟梁として関東八州に「風の王国」として存在していた。
奈良時代、藤原不比等は、その秦王国を「豊」の国と改竄したが、769年道鏡の神託事件の時、藤原氏が奈良時代に創建した伊勢神宮ではなく、宇佐八幡宮に和気清麻呂を派遣したほど、その秦氏神の神威が存在していた。
因みに、1586年羽柴秀吉が、織田信長の本能寺での爆殺後、イエズス会から藤原氏に寝返り、太政大臣となり、「豊臣」の姓を用いたのは、秀吉は、「豊」の国(秦王国)が、藤原氏の姓より格上で、日本列島初の王国であったことを知っていたからだ。
石清水八幡宮は、藤原氏の支配下にある。すると、大山崎の油商人は、藤原氏と敵対する存在か。
足利尊氏から足利義満までの時代、神人が経営する高利貸しである土倉酒屋には課税されていなかった。しかし、四代将軍足利義持の時代から、延暦寺・日吉の神人たちは、土倉酒屋役を賦課されていく。しかし、永和4年(1378年)山崎住京神人たちは、後円融天皇から、「紺、紫、薄打、酒麹等諸業商売」への課税の永久免除を認められた。
大山崎油商人は、三代将軍足利義満と後円融天皇との蜜月時代の永和2年(1376年)、経済的に窮乏していた後円融天皇から、山崎神人55人を、住京神人として認めさせていた。この山崎の住京神人は、伊予、阿波、備前、播磨、摂津、和泉、河内、丹波、山城、近江、美濃、尾張の12カ国から商品を集め、京都で売りさばいていた。
これらの12カ国は、古代では騎馬民族秦氏末裔の支配地だった。では、何故、山崎油商人が、それらの地を商業的に支配できたのか。
その謎解きは、山崎神人が行っていた割符(さいふ)にあるようだ。為替や手形などの遠隔地との交易決算の手段は、ユーラシア大陸を商業圏として広域活動していた騎馬民族が発明したものだ。騎馬民族が支配したモンゴル帝国時代、国際的自由交易により、日本列島にも商取引の運営手段のノウハウが持ち込まれていた。それらが、「座」であり「割符」だった。
鎌倉時代、北条氏の武力勢力が、寺社の家宅捜査など出来ないほど脆弱だったため、各地の治安が悪化していた。それを補うように、日本刀を携帯した騎馬武者の「悪党」(悪い集団の意味ではなく、「勇者の集団」の意味)が、ガードマンとして活躍していた。武力が正義の時代、金品の海外輸送を行う商業にも護衛が必要だった。
禅僧が海外交易で活躍していたモンゴル帝国時代、「唐物」が輸入されたと同時に、武装する護送集団も日本列島に「輸入」されたようだ。この頃、平安時代に祭祀道具として発明された、反りのある片刃の刃の薄い「日本刀」が、実戦用に改良され刃が厚くなっていく。何故だ。
この鎌倉時代に、日本列島に現れた武器があった。それは、槍だ。それ以前の長物武器は、薙刀だった。古代にも、長柄の先に金属を付けた槍形態の「矛」もあったが、槍と矛とは異なる武器だ。矛は、刃の部分をソケット状として長柄を差し込む。それに対して、槍には、刃の部分に茎(なかご)があり、長柄に差し込む形態だ。槍は、形態上、怨霊渦巻く平安時代の10世紀頃に登場した、日本刀に類似する。
戦国時代の武将として、斉藤道三がいる。斉藤道三は、下級僧侶から、山ア屋を称した油商人を経て、「槍」を武器として戦国大名に成り上がった人物だ。大山崎油商人集団には、武家の家紋が現れた鎌倉時代に、突然登場した「槍」での武装集団の護衛が存在していたのだ。
鎌倉時代から寺社を拠点に商業活動をしていた座商人(神人)たちは、室町幕府を構成する守護・禅寺・大山崎油商人らを結ぶ商業ネットワークにより、その活動拠点を奪われて行く。
カルテル形態の「座」と、コンツェルン形態の「大山崎油商人」との経済戦争では、談合による同業者組合の「座」は、全国的な「割符」を決済できる「大山崎油商人」に太刀打ちできなかった。
その大山崎油商人と結託した禅僧は、その交易により富を貯え、大袈裟を着て貴族化した。その結果、現代に伝わる能(世阿弥直系ではない能)・茶道(産地当ての博打の闘茶が祖)・華道・造園など日本伝統文化に多大の影響を与えた、肉食を蔑視する菜食主義の南宋禅宗文化の花が咲いたのが、室町時代だ。


室町時代の一揆は、騎馬民族末裔の独立戦争だった。


室町時代も、鎌倉時代と同じほど謎が多い。
藤原日本史では、武家の時代の鎌倉時代が、後醍醐天皇の倒幕により終焉し、そして、その後、後醍醐天皇を臣下の足利尊氏が京都から追い出し、足利氏の室町幕府が拓かれて行くが、後の足利家の内紛により応仁の乱の勃発となり、戦国時代に突入する、と述べている。
しかし、その戦国時代に活躍した、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の出自が謎だらけなのだ。織田信長の三代先の墓は垣内(賎民居住地)にあった。豊臣秀吉の出自(秀吉には姓も苗字もない。「木下」は婿入り先の苗字だ。苗字は生地名だ。秀吉に苗字が無かったのは、日本国生まれでないことが疑われる。)は不明だ。そして、徳川家康は、世良田部落の出自だ。しかし、藤原日本史では、それぞれの出自を取り繕う創作物語を述べている。
その戦国三武将の出自の謎は、どうやら室町時代にあるようだ。それは、源頼朝の肖像画が「ウソ」であったように、昭和時代の歴史教科書には掲載されていた、「清和源氏」とする足利尊氏の肖像画も「ウソ」であるからだ。
鎌倉時代から室町時代(騎馬民族支配国家であるモンゴル帝国国際自由交易時代)にかけての史実は、奈良時代に藤原不比等が「古墳時代」(騎馬民族がユーラシア大陸を支配し、東ローマ帝国と中国諸国、勿論、日本列島も含む、との国際交易をおこなっていた時代)を「飛鳥時代」(藤原日本史では仏教黎明期時代とする)を創作して抹殺したように、足利氏により消されたようだ。その史実抹殺手段のひとつが、琵琶法師が語る「平曲」だった。
南北朝合体11年前、弘和3年(1383年)足利義満は、久我具通から、源氏長者とその名誉職である奨学・淳和両院別当(校長)の地位を奪った。
奨学院は、平安時代の貴族の教育機関だった。しかし、12世紀頃、律令制度が崩壊した結果、貴族経済の疲弊と供に衰微してしまうが、奨学院別当は名誉職として残った。そして、どういう訳か、奨学院別当職は、源氏長者が兼務する慣例となり、藤原色の強い村上源氏が、淳和院別当職と供に世襲していた。
その足利義満の源氏長者としての時代を境として、平家座頭と中院流との関りを示す史料が姿を消し、足利将軍の関与を示す史料が現れる。足利義満は、久我具通から「何」を奪ったのか。
久我家を筆頭とする村上源氏中院流の諸家は、盲目人グループを配下として、「久我家門」と呼称していた。鎌倉時代、この盲目人は、座を構成して、琵琶を奏でて各地を放浪していた。所謂、琵琶法師だ。
琵琶法師と言っても、仏教徒ではない。それは、神人や寄人が、袈裟衣を着ていたから仏教徒と勘違いするのと同じだ。僧籍の者は、免税者で、各国の関所を無賃で通ることが出来る。その為、琵琶演奏者は、神人や寄人と同じに、寺社に金を払いその庇護下の者として、全国各地をまたにかけて商売をおこなっていた。
琵琶法師と言えば、「耳なし芳一」の物語を思い浮かべる。その芳一は、「平家物語」を語る琵琶法師だ。しかし、その「耳なし芳一」物語の普及には、謎があるようだ。それは、その話の舞台が、長門国の「阿弥陀寺」だからだ。
「阿弥陀」(ホトケ崇拝の漢訳仏教)と「阿弥」(太陽神崇拝のミトラ教)とは、平家(私称)と平氏(賜姓)が異なるように、全く別なモノであることが分かれば、琵琶法師が、何故に、「平家物語」を語るのか分かる。
盲僧、琵琶法師の集団は、南都の興福寺に古くから存在していた。その興福寺は、藤原氏の氏寺だ。そして、「久我家門」の村上源氏中院流の盲目人グループも、その流れは藤原氏の支配下にある。更に、真言宗の醍醐寺では、「平家物語」を人の求めにより貸し出していた。真言宗は、平安時代初期、藤原氏の陰謀により唐に渡った錬金術師空海が、開祖だ。
奈良時代から平安時代にかけて、藤原氏は琵琶を奏でる盲目人グループに「何」をさせていたのか。鎌倉時代の久我家は、琵琶法師に「何」をさせていたのか。そして、南北朝終焉前、足利義満の琵琶法師支配は「何」を目的としていたのか。その盲目人の琵琶演奏者は、いつ何処から渡来してきたのか。その謎解きのヒントは、琵琶にあるようだ。
琵琶と言えば、正倉院の五弦琵琶を思い出すが、琵琶には音階を作るための柱(じゅう)により、三種類に分けられる。それは、雅楽琵琶の4柱、平家琵琶の5柱、そして、その伝来が不明の6柱の琵琶だ。
雅楽琵琶は、平安時代、百済系桓武天皇により、藤原氏の影響下にあった奈良文化を否定するために、伎楽を廃止し、俗楽(伎楽)に対する雅楽の演奏の為に、遣唐使により唐から伝えられたものだ。
因みに、奈良時代の伎楽には、伎楽面を着けた無言劇があり、そのルーツは西域のギリシャ仮面劇の継承国バクトリア(後のガンダーラ)が考えられる。それに対して、雅楽のルーツは、日本列島神話時代の古来のものではなく、平安時代初期に、インド・東南アジアからの影響下により発明された楽曲舞だ。
5柱の平家琵琶は、村上源氏の中院流が、「当道座」と呼ばれる同業者組合を組織する平家座頭と関係を結んだ、鎌倉中期に発明されたものと考えられる。それは、「平家物語」のテキストが著わされたのが、1243年だからだ。しかし、現在に伝わる5柱の平家琵琶と異なり、鎌倉時代までの琵琶法師は、6柱の琵琶を使用していた。何故だ。その謎は、その鎌倉時代中期、久我通基が、村上源氏で最初の源氏長者の宣下を受けていたことと関係がある。5柱の平家琵琶と村上源氏による源氏長者の出現は、大いに関係がありそうだ。
では、伝来不詳の6柱琵琶は、いつ何処から誰により日本列島に持ち込まれたのか。
19世紀、ドイツ生まれの冒険家シュリーマンの伝記によると、シュリーマンは、ある酒場で吟遊詩人の語る「イーリアス」を聞くことにより、その物語が史実を語っていると考えた。そこで、「イーリアス」を読み込んだ結果、トロイア市はヒサルルクの丘にあると推定し、そこを発掘することにより、ギリシャ神話にでてくる伝説都市トロイアが実在したことを証明した。
小アジアのトロイアをミュケーナイの遠征軍が攻撃するトロイア戦争を歌った「イーリアス」、そして、その続編の「オデュッセイア」は、紀元前8世紀の古代ギリシャの吟遊詩人ホメーロスにより歌われていた、と伝わる。古代ギリシャでは、「イーリアス」と「オデュッセイア」はギリシャ神話と共に、知識あるギリシャ市民の教養とされていた。その吟遊詩人のホメーロスは、小型の弦楽器を奏で、古代史を語っていた盲目人だった。盲目人の吟遊詩人は、稗史(正史ではない秘史)を語る「語り部」だった。
古代ギリシャ文化は、紀元前4世紀には、アレクサンドルにより、西は地中海諸国から、北インドまでを領国としたアレクサンドル大王領により、中央アジアまで伝来した。
紀元前301年イプソスの戦いで、アレクサンドル大王領は分割され、そのギリシャ文化は、紀元前250年、北インドに興ったバクトリアに継承された。このギリシャ文化継承国バクトリアの衛星国としていた秦が、中国を統一して、紀元前221年秦帝国を興した。
藤原日本史では、蕃族の秦氏は朝鮮半島のギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来し、その出自を秦帝国末裔と述べる。では、その古代朝鮮半島には、盲目人の「語り部」は存在していたのか。
朝鮮半島の北部地方には、盲目の祈祷師「パンスー」が存在していた、と伝わる。パンスーは、仏教系ではなく、道教系の信仰を持つ宗教者であった。この盲目の語り部は、琵琶を使用していた、と伝わる。
東アジアで「漢訳仏教」と熾烈な戦いをしていた「道教」は、日本列島西国での古墳時代末期(東国の渡島(おしま・下北半島)では、小型円墳は鎌倉時代まで築造されていた。)、明日香ヤマトを支配した、日本初の天皇(天皇とは、道教思想による、天空を支配する北極星のこと。地上での支配者は、天子(テングリカガン→テングリ)。)である、古代新羅系の天武天皇が崇拝していた宗教だ。
天武天皇は、伊勢の地に道教の寺院である道観を建立した。そして、684年天武天皇は、八色の姓で、「真人」(天帝である北極星(太一)を護る北斗七星)、「道師」(道教の高僧)など道教思想により「姓」を発案していた。
唐進駐軍が、通訳兼唐帝国代理人の藤原氏(籐氏=唐氏)により、百済系女帝持統天皇の傀儡政権が樹立され、その女帝の孫が天皇になった奈良時代になると、720年に漢文で著わされた「日本書記」物語を創作した藤原不比等により、その伊勢にあった道教の道観は破壊され、その跡に、藤原氏の神であるアマテラスオオミカミを祀る伊勢神宮が創建され、道教の日本列島古墳時代の歴史は抹殺される。
北極星を祀る道教崇拝の突厥進駐軍の軍事都市アスカ(アスカの地名は奈良盆地に2箇所あり、日本列島には分かっているだけでも30余がある。それらの地は騎馬民族文化が残る。)は、明治革命後、藤原氏が廟堂に復活すると、伊勢の仏像を安置する無数の神宮寺が徹底的に破壊され、その跡に、仏教色を排除した神道の伊勢内宮と伊勢外宮が創建されたように、唐進駐軍の支援を受けた藤原氏の軍団により徹底的に破壊され、その跡に、飛鳥寺が移築され、そして、太陽神ミトラを祀る古代新羅から渡来した花郎騎士団の都市イカルガも、徹底的に破壊され、その跡に、法隆寺が移築され、騎馬民族文化の「明日香ヤマト」は、仏教文化黎明の「飛鳥大和」に改名され、犠牲(朝を告げる雄鶏を屠る)により神を祀る道教文化は、鎮護国家のための加持祈祷(釈尊の仏教にはないパフォーマンス。バラモン・ヒンズー教から導入)の漢訳仏教文化に摩り替えられた。
が、しかし、古墳時代に渡来した、盲目人の琵琶を奏でる道教思想を保持する「語り部」は、ユーラシア大陸交易ルートのウラジオストックから日本海沿岸の北陸、琵琶湖を経て、淀川系河川により、朝鮮半島・中国山東半島交易ルートの玄関である難波津(縄文時代・湾→古墳時代初期・湖→湖の岬→ワタ・ナーベ→ローラン→浪速(ナニハ)→奈良時代の713年以降・難波の根拠は、徳島市国府町の観音寺遺跡から、7世紀末ごろの木簡に、万葉仮名(=古代新羅のヒャンチャル+突厥語)で「奈尓波」(ナニハ)とあり、奈良県イカルガ町の法隆寺五重塔の天井板には、8世紀初めとされる落書きに、「奈尓波」とあるから。)への国際交易ルートを含む、山背国を死守していた秦氏の庇護下で生き延びた。
では、何故、奈良時代の藤原氏の氏寺、漢訳仏教の総本山の興福寺に、敵宗教である道教系の盲目人の琵琶演奏者が存在していたのか。その謎解きのヒントは、「地神経」にあるようだ。
「地神経」の「地神」とは、大地の神霊、すなわち地霊を意味する。その地霊の怒りを鎮める呪文が、「地神経」だ。勿論、敵対する漢訳仏教勢力側は、その「地神経」を偽書とする。
では、唐帝国の長安をコピーした平城京の東外側に位置する興福寺で、盲目人の琵琶演奏者が、何故、「地神経」を唱えていたのか。それは、平城京が、巨大古墳群を破壊した跡に建設されたように、藤原氏の氏寺も、藤原氏の神を祀る春日若宮も、巨大古墳を破壊した跡に創建されたことと関係がある。
興福寺には、謎があるようだ。それは、藤原日本史によれば、京都山科にあった山科寺が、飛鳥に移築され厩坂寺となり、それを、710年藤原不比等が、平城京に移築し、興福寺と改名した、と述べている。
明日香は、その出土する遺跡群から、仏教文化ではなく、オリエント文化色の濃い遺構・遺物が出土する。そして、飛鳥は、713年以降の改名だ。すると、その藤原日本史の説明に疑問が生ずる。藤原氏の宗教施設で、不思議なのは興福寺だけではない。春日若宮にも、多くの謎がある。
春日若宮は、興福寺の東の丘の上に建つ。その丘は、現在では春日山と呼ばれているが、平城京が建設される以前は、三笠山と呼ばれていた。それは、三つの古墳の形態を表したものだ。
古墳形態として現存するのは若草山だ。若草山を中心に、北側に東大寺、南側に春日若宮がある。その東大寺の歴史も謎だ。東大寺の前身は、藤原日本史では、8世紀前半の金鐘寺、とする。しかし、東大寺には、仏教の敵、修験者が出入りしていたのだ。反藤原氏となった聖武天皇は、752年太陽神である遍照像を鋳造したのは、その古墳跡だった。では、三笠山最後の古墳は、いつ破壊され、その跡に、春日若宮が創建されたのか。
「百人一首」の七番目に、阿倍仲麻呂の歌がある。阿倍仲麻呂は、717年吉備真備、僧玄ムと供に、遣唐使として唐帝国に渡った人物だ。しかし、735年吉備真備、僧玄ムらは帰朝したが、阿倍仲麻呂は、帰国を希望したが果たさず、宝亀元年(770年)唐で亡くなった。その阿倍仲麻呂が、唐帝国で詠んだ歌がある。

天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に いでし月かも 

この有名な歌は、759年完成の「万葉集」にはない。この歌は、905年完成の「古今和歌集」に掲載され、今日に至っている。
717年三笠の山には、春日山も、春日若宮もない。
藤原不比等が、唐帝国の律令コピーの大宝律令を改竄して、藤原氏一族に有利な律令(養老律令・明治革命まで存続し、昭和20年日本国敗北でGHQにより廃止させられた。)を創作した前年、養老元年(717年)「続日本紀」2月の条には、

二月壬申の朔、遣唐使、神祗を蓋山(みかさやま)の南に祀る、

とある。やはり、717年には春日山も、春日若宮もなかった。
天平勝宝2年(750年)藤原清河は、遣唐使に任じられた。その時の「万葉集」の歌に、春日に神を祭る日に、藤原太后(光明子)の作らす歌一首
即ち入唐大使藤原朝臣清河に賜ふ

大船に ま梶しじ貫き この我子 唐国へ遣る 斉(いは)へ神たち 

大使藤原朝臣清河の歌一首

春日野に 斎(いつ)く三諸の 梅の花 栄えてあり待て 帰り来るまで 

、とある。750年三笠の山の二つ目の古墳は、破壊され平地となっていた。その平地には、三諸はあっても、春日若宮はない。では、三笠山の三諸とは何か。三諸は、「ミモロ」、「ミムロ」とも読める。しかし、そのふたつは異なる。
「ミモロ」とは、「ミ+モリ」で、神が来臨する聖なる場所で、多くは神を祀る「杜」(モリ→713年以降・神社→明治革命後・ジンジャ)のことだ。「ミムロ」とは、「ミ+ムロ」で、洞穴、つまり、古墳の石室のことだ。この「三諸」により、三笠山は、三基の古墳であったことが分かる。因みに、カムナビとは、「カムイ(神)+ナ(の)+ビ(小山)」で、古墳のことだ。
天平勝宝8歳(756年)正倉院の「東大寺山堺四至図」には、春日山の西に「神地」と書かれた空き地がある、と述べている。
「続日本紀」宝亀8年(777年)2月6日条には、
二月戊子、遣唐使、天神、地祗を春日山の下に拝む、
とある。777年には、三笠山の呼称が記載されなく、春日山となっていることから、春日若宮は、756年から777年の間に創建されたことが示唆される。
その間、平城京では、多くのひとびとが、もがき苦しみながら死んでいった。それは、三笠山の、つき固め日干し煉瓦のように硬い古墳の山を掘り下げて原型を造り、遍照像を鋳造した時の、水銀・銅の汚染によるものだ。しかし、当時のひとびとには、鉱毒の知識がない。それらの異変は、地霊の怒り(祟り)が原因と考えられた。
世の中に「怪異」がつづいたとき、祟られる原因持つ者(藤原氏)は、「地の祟り」を鎮めるため、古墳時代の被征服者側の祭祀者(盲目人の琵琶演奏者)に、被征服者の祖神の御霊の怒りを鎮めるために「地神経」の読誦を行わせた。
その根拠として、春日若宮では、春日神四座(藤原不比等は、天帝である北極星から地上の支配者への天命を授けた「テングリ」である「天皇」を、ユダヤ教の絶対神ヤハヴェのように「現御神」(あきつみかみ→明治革命後に「現人神」(あらひとがみ)となる。)とし、正一位勲一等などにより神に序列をつけていた。)が鎮座しているとするが、「日本書記」で藤原氏の祖神とする天児屋根尊が第一座ではなく、武甕槌命(たけみかつちのみこと)であることだ。この神の素性は、藤原日本史では物部氏とする、軍事部族の祖神で、建布都神であるとする。しかし、古墳時代に、物部氏など存在していない。軍事部族とする物部氏とは、713年以降の名で、それ以前は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した花郎騎士団のことだ。花郎騎士団は、イカルガの丘にある古墳で、牡牛を屠り太陽神ミトラを祀っていた。建布都神とは、ミトラ神を歴史的に抹殺するための改名神だ。
百済系桓武天皇の平安時代には、琵琶法師は、散楽の琵琶を弾いて、歌謡や物語を演奏する芸能民であると同時に、「地神経」を読誦する民間経典を奉じる宗教民となっていた。
平安時代も、奈良時代と同じに、「怪異」の時代だった。それは、桓武天皇が、数々の謀略により、権力奪取のために実弟だけではなく、前政権の新羅系天武天皇系の血を絶やしていたからだ。
桓武天皇が拓いた平安京も、平城京と同じに、巨大古墳を破壊した跡に建設された。更に、陸奥国の砂金などを略奪するために、奈良時代以上に、侵略軍団を送り込んだ。しかし、騎馬で後ろ向きに弓を射るパルティアンショットを得意とする突厥+花郎騎士団末裔軍団(蝦夷)を、軍事力で倒せないことを覚った侵略軍団は、敵将アテルイをだまし討ちにして、抵抗する陸奥国軍団(蝦夷)を平定させた。しかし、それに随わないツガルの者達は、鎌倉時代まで抵抗していた。
平安時代、桓武天皇は、奈良時代の文化を否定した。平安朝廷では、奈良時代の歌舞を蔑視して、散楽とし、インド・東南アジア系の雅楽をおこなった。更に、古墳時代、祭祀者であった秦氏を貶めるため、散楽を猿楽とした。
雅楽にも、琵琶(雅楽琵琶)が使用されたが、琵琶法師の琵琶と形態は似ていても、その音色は異なっていた。4柱の雅楽琵琶には、ノイズを発生させる装置がないし、玄を巻く頸が直だ。しかし、6柱の法師琵琶は曲がっている。起源も、雅楽琵琶がインドに対して、法師琵琶はペルシャだ。
その6柱の法師琵琶が、13世紀末の「一遍聖絵」には6柱であったものが、14世紀以降、「平家物語」が上流社会に広められる頃になると、5柱琵琶に改められて行く。何故だ。それは、琵琶法師の「座」を支配する者が、替わったからだ。
鎌倉時代、琵琶法師は、声聞師などと同類の下級の宗教芸能民として、各地の有力寺社に金を払い、納税や関所通過の免税者として各地で活動していた。その声聞師(しょうもんじ)とは、平安末期から始まる中世では、民間の宗教儀礼や芸能にたずさわった法師形の下級陰陽師(おんようじ)で、散所の乞食法師とも呼ばれていた。
声聞師が、琵琶法師と同類と思われた理由のひとつは、6柱琵琶を奏でて活動していたからだ。しかし、鎌倉時代末期の文保2年(1318年)から元徳2年(1330年)と推定される中院通顕の書状には、東寺配下の散所法師(声聞師)が、絵解きの伴奏に琵琶を使用したことに対しての、盲目人の抗議の申し立てが述べられている。
中院とは、平安時代後期から鎌倉時代前期にかけて、家業の単位である「家」成立の趨勢の中で、村上源氏が、唐橋、堀川、久我、六条、土御門、北畠、中院の7家に分かれたものだ。では、何故、村上源氏の中院通顕が、声聞師の琵琶使用を禁止したのか。
律令制度が健在の平安時代初期では、琵琶法師は平安貴族に対して「地神経」を読誦していたが、平安後期には律令制度が崩壊し、その結果、貴族の経済は破綻していたので、琵琶法師は庶民相手の活動となった。それらは、田畑を耕し、舎宅を建て、井戸や池を造り、かまどの土を塗り直すことなどは、大地を侵すことになる。その祟りを鎮めるために「地神経」を読誦していたのだ。しかし、琵琶法師のそれらの活動は表芸で、裏芸は、古代ギリシャの盲目の吟遊詩人ホメーロスのように、簒奪王権の勝者が抹殺及び隠蔽したい稗史を、敗者に語ることだ。
では、何故、1243年「平家物語」が完成しているのに、盲目人の琵琶演奏者が「平家物語」を語るのか。それも、6柱ではなく、5柱の平家琵琶で。
鎌倉時代に完成の「平家物語」は、南北朝では、琵琶法師覚一に伝授されていて、その原本は、惣検校慶一により、太陽信仰民族の「阿弥」一族に経済的に支援されていた足利義満に進上された。
では、盲目人の琵琶法師が、「平家物語」を読めるのか。そして、琵琶法師の「平家物語」は、足利義満以後の歴代の足利将軍によって管理されていく。何故だ。それは、室町幕府を拓いた足利氏の出自が、問題だからだ。
勝者の「正史」(720年「日本書記」から始まる藤原日本史)を語るのではなく、敗者の「稗史」(4世紀の古墳文化から始まる騎馬民族史)を語る盲目人の琵琶演奏者は、古墳時代から鎌倉時代までの稗史を伝承しているはずだ。正史を語る「平家物語」を、盲目人の琵琶法師が語るのは、何故だ。
系図では、足利氏の出自は、源頼朝の曾祖父源義親の弟源義国の後胤とされている。つまり、氏は、一族の名で、姓は天皇が与える一族の称号だ。すると、足利氏は、姓は「清和源氏」となる。
平安末期、源義国の子源義康が、下野国(栃木県)足利荘を領したことから、足利氏は、その先祖の住所の地名の足利を苗字としたようだ。
しかし、藤原日本史系の歴史教科書に掲載されていた、鎌倉幕府を倒した足利氏の中興の祖とされる足利尊氏の長弓を持つ騎馬武者姿の肖像画が、鎌倉幕府を拓いたとする源頼朝の肖像画が「ウソ」であったように、「ウソ」であったのは、何故だ。
系図は、警察隠語で詐欺師のことを「系図屋」というように、全面的に信用できるものではない。まして、歴史学者の一部では、日本列島史の神代の時代から鎌倉時代までの歴史は、応仁の乱で史料が焼失したため、「ウソ」が多いから、まともに論じることは難しい、とすることが言われているほどだ。
その足利氏の出自は、謎だらけの「清和源氏」を祖とする。
その足利氏が拓いた室町幕府では、式楽として「平家物語」が位置づけられていた。それは、群雄割拠する室町時代に、足利将軍が、全国に号令を発することができた根拠のひとつとして、当時の「武士・武官」たちに共有されていた「源平交替」の物語があったからだ。その物語が、琵琶法師により語られた「盛者必衰」がテーマの「平家物語」だ。
室町幕府は、足利氏の単一王家を戴く単核支配構造ではなく、武力が拮抗した多くの部族により構成されていた、寄り集まりの連合組織だ。だから、それらの部族を纏める「源平交替神話」が必要だった。
武士と武官とは全く別の存在だ。しかし、藤原日本史では、鎌倉時代を「武家の時代」とし、武士の歴史を隠蔽した。藤原日本史では、その「武家の時代」を引き継いだのが、室町幕府とする。
しかし、室町時代でも、武家の他に、短弓でパルティアンショットを得意とする「武士」が存在していた。
武士とは、武芸の家系の子孫で、騎射ができることが条件で、特に、先祖が平将門の承平の乱・藤原純友の天慶の乱で活躍した実績が重要であった。しかし、平安時代では、武士は「非職之輩」と呼ばれて、官職の武官と差別されていた。
武士の武芸とは、江戸時代末期に開発された剣道のことではなく、荒ぶる神の御霊を鎮めるためにおこなう宗教儀式の剣舞のことだ。その儀式のために開発されたのが、蝦夷(花郎騎士団+突厥進駐軍)の武器である蕨手刀を祖とする「日本刀」だ。そのことにより、「日本刀」が、武士の魂と言われる由縁だ。
もともとの「日本刀」は、実戦用武器などではなく、祭祀道具だった。その根拠として、現在の刀剣分類として、慶長年間(1596年〜1615年)を堺に、それ以前を古刀、それ以降のものを新刀、幕末以降のものを新々刀とする。古刀は刃が薄いので、折れる、曲がる、刃こぼれする、ので、敵将の首を落とす道具であっても、鎧兜の実戦では使われていなかった。戦国時代に鉄砲が伝来するまでの主力武器は、太刀などではなく、弓矢と槍だった。
そのような視点から、源平合戦を見直してみると、不可思議なことがあることが分かる。
藤原日本史では、源平合戦の発端は、以仁王の令旨により、源頼朝を頭として、治承4年(1180年)平家の目代山木兼隆への襲撃だ。しかし、その襲撃は、多くても30騎以下だった。石橋山の敗戦後、千葉に逃げ込んだ北条氏の婿殿・源頼朝の下には、関東の武士が万騎として集結した。しかし、平安時代の蝦夷が支配する陸奥国への侵略軍大将である征夷大将軍に源頼朝が就くのは、建久3年(1192年)だ。
藤原日本史では、日本列島軍団の棟梁として、征夷大将軍と述べている。しかし、平安時代から鎌倉時代までの征夷大将軍の即位の流れをみてみると、その説明に疑問を感じる。
延暦13年(794年)大伴弟麻呂
延暦16年(797年)坂上田村麻呂
弘仁2年(811年)文屋綿麻呂
天慶3年(940年)藤原忠文
★治承4年(1180年)平家の目代山木兼隆への襲撃・石橋山の敗戦
寿永3年(1184年)源義仲
☆建久3年(1192年)源頼朝
建仁2年(1202年)源頼家
建仁3年(1203年)源実朝
嘉禄2年(1226年)藤原頼経
寛元2年(1244年)藤原頼嗣
建長4年(1252年)宗尊親王
文永3年(1266年)惟康親王
正応2年(1289年)久明親王
徳治3年(1308年)守邦親王
元弘3年(1333年)護良親王
この即位の流れからして、誰が、日本列島の三分の一を知行国としていた「平家」打倒の為に、関東の武士を招集したのか。
鎌倉時代の承久の乱(1224年)にも、不思議なことがある。
承久3年(1221年)後鳥羽天皇が、北条義時追討の宣旨を発したことに対して、北条義時は、朝廷打倒を目指して鎌倉を出陣した。その数、18騎。しかし、北条義時軍への従軍は、北陸道、東山道、東海道の武士団により増員し、京にたどり着くまでに19万騎となっていた。その、北陸道、東山道、東海道の三道は、古墳時代では、明日香ヤマトにつづく道幅12m超の直線軍事道路だった。しかし、平安時代には、道幅を6m程に狭められていた。誰が、三道の武士団を召集したのか。
源頼朝が征夷大将軍に任命された時期、源氏長者の地位にあったのは、村上源氏の源通親だった。源氏長者とは、源氏一族の棟梁のことだ。この源氏長者の地位は、元々は、藤原氏に取り込まれた、公家源氏である村上源氏ではなく、反藤原氏である嵯峨源氏の源信であった。何故、反藤原氏の嵯峨源氏から、親藤原氏の村上源氏に、源氏一族の棟梁の地位が奪われていたのか。
藤原日本史では、源氏の姓は、平安時代の814年、嵯峨源氏が初めとされている。しかし、反藤原氏となった嵯峨源氏は、古墳時代の軍事部族の末裔の多くの女を母とし、嵯峨天皇が、その多くの皇女に「源姓」を与えたのは、藤原日本史で述べているように経済的問題ではなく、藤原王国に対しての、軍事王国である嵯峨王国の樹立を目指していたからだ。
その模範は、騎馬民族支配国家の北魏の拓跋部と禿髪氏の関係だ。支配部族の拓跋部は、漢姓の「元」を名乗った。それに対して、臣下の禿髪氏は、「源」を名乗った。拓跋も禿髪も、元は、チュルクの音訳漢字で、同じ流れにあった。そして、源となった禿髪氏の子孫は、名を漢字一字とした。古墳時代の突厥(チュルクの音訳漢字)の流れにある嵯峨源氏も、713年藤原不比等による古墳時代の人名・地名を抹殺するための「好字令」により、漢字二文字で表す掟を破り、名を漢字一字で表したのは、騎馬民族禿髪氏の歴史を踏まえてのことだ。鎌倉時代のモンゴル帝国のフビライも、その出自を拓跋部とし、「大元」という国号を採用した。
藤原氏により、古墳時代の豪族は、数々の謀略で抹殺されていた。その謀略のひとつが、「夷を以って、夷を制す。」の密告による戦略だ。
古墳時代からの豪族名は、713年の好字令により抹殺された。そして、古墳時代からの豪族は、藤原氏の戦略により、次々と抹殺されていた。
蘇我氏は、672年抹殺。
大神氏は、701年抹殺。
粟田氏は、718年抹殺。
物部氏は、781年抹殺。
石川氏は、798年抹殺。
巨勢氏は、810年抹殺。
多治比氏は、823年抹殺。
布施氏は、826年抹殺。
紀氏は、826年抹殺。
安倍氏は、856年抹殺。
そして、大伴氏は、奈良時代に藤原氏により「伴氏」と改名され、866年古墳時代の豪族大伴氏の末裔である伴善男は、藤原氏の謀略により抹殺された。
源氏一族を支配する源氏長者の規定は、醍醐源氏の源高明が「西宮記」で述べていた。それによると、「王卿の中、弘仁の御後(嵯峨天皇)に触るる人を以って長者と為す。重明親王、参議等は是れなり」、とある。
つまり、源氏一族の棟梁(テングリ)は、嵯峨天皇の末裔でなければならない、と醍醐源氏の源高明は、「西宮記」で述べるのだ。
その醍醐源氏で初めての源氏長者となった源高明は、重明親王と同じ醍醐天皇の皇子で、反藤原氏の嵯峨源氏の源唱(となう)の娘周子を母に持つ、嵯峨源氏の外孫だ。
その嵯峨源氏で、源氏長者の最初と考えられる、左大臣源信(まこと)は、貞観8年(866年)応天門の変での、伴大納言善男の密告により、放火の容疑をかけられて失脚した。後日、その密告が、「ウソ」で、真犯人が伴大納言善男であったことが分かり、ここに、、藤原氏の戦術、古墳時代の豪族大伴氏(夷を以って、)による、反藤原氏の源氏長者の左大臣源信(夷を制す。)の抹殺が完了した。
その嵯峨源氏の外孫である源氏長者の源高明も、969年安和の変で、出自不明の満仲(藤原日本史では摂津国多田荘の出自とする。)なる人物から、藤原氏への密告により、左大臣から太宰員外師に左遷され、失脚した。この満仲なる人物が、鎌倉時代につづく源頼朝の祖、「清和源氏」の源満仲だ。
源氏長者の初代とする嵯峨源氏の源信から、醍醐源氏の源高明を最後として、反藤原氏の源氏長者から、村上源氏の親藤原氏の源氏長者となっていく。南北朝を統一した足利義満以前の源氏長者は、堀川、久我、土御門、中院といった、藤原氏に支配された村上源氏の諸家が交替で、その地位に就いていた。
村上源氏の始祖である源師房は、幼くして父具平親王をうしない、藤原頼通に嫁いでいた姉隆姫に引き取られ、藤原頼通の養子となった。長じてからは、藤原道長の娘尊子と結婚し、摂関家の婿殿となっていた。そして、源師房に始まる村上源氏中院流は、その後8百数十年間、明治革命に至るまで、藤原氏が支配する公家社会に留まっていた。
このような源氏長者の遍歴を考えると、平安末期から鎌倉時代初期までを、5柱の平家琵琶で語る、「清盛流平氏」と「清和源氏」による「平家物語」のお話が、「ウソ」ではないかと示唆される。
禿髪氏(チュルク系騎馬民族)の源姓の祖である源賀の流れを汲む、古墳時代に渡来した突厥進駐軍(チュルク系騎馬民族)末裔の流れにある、平安時代の廟堂を構成していた貴族であった、「公家源氏の村上源氏」と「武家源氏の清和源氏」により歴史上抹殺された、反藤原氏の嵯峨源氏・醍醐源氏の末裔は、何処に消えたのか。
藤原日本史は、色々な物語を創作する。その「ウソ」物語を、日野氏(姓は藤原氏)のおんなを娶らされた室町幕府は、平家琵琶法師を使って宣伝していた。では、イエズス会の軍事支援による織田信長の登場で終焉する日本列島の中世では、「平家物語」から続くとする室町幕府物語ではなく、どのような歴史物語があったのか。
室町時代は、一揆の多発時代だった。藤原日本史では、生活に困窮した百姓達が、ムシロ旗を掲げて農具などを武器として、あるいは、一向衆などと言う狂信的な宗教集団が念仏を唱えながら、悪代官に抵抗したように描写している。が、しかし、日本列島各地で勃発した一揆は、各地の情報連絡が整い、室町幕府の軍事を司る完全武装の報公衆を撃破していたのだ。その一揆の中心に、声聞師と馬方がいた。藤原日本史では、声聞師とは、乞食法師の下級陰陽師ではなかったのか。何故、下級陰陽師と馬方は、各地の一揆を軍事指導できたのか。
鎌倉時代、下級陰陽師である声聞師は、鎌倉長吏弾左衛門頼兼の支配下であったことは、「頼朝公の御朱印」で分かる。その弾左衛門とは、日本列島各国に分散する「風の王国・秦王国」から推挙された人物への世襲名で、秦氏末裔集団の棟梁(長者)のことだ。
弾左衛門は、1590年衰退していたイエズス会を裏切り、藤原氏の傀儡関白となった豊臣秀吉により、世良多部落出自の徳川家康が関東の河口の湿地帯に移封された時、一族で迎入れた時から明治初期まで、関東の穢多一万戸の支配者(秦氏末裔の長者)だ。
では、馬方はどうなのか。
東北地方の北上山系の旧南部領では、近世末まで、律令制で定められた5町1里(約540m)ではなく、5町を小路1里とし、小路7里で大路1里とする、「57の法」を用いていた。
この北上山系は、藤原日本史では奈良時代に始めて陸奥国で金が産出されたと述べているが、古代からの砂金地帯で、唐帝国の傀儡である奈良朝廷の征夷開拓(侵略)以前から、渡来人が多く暮らす地であった。その北上山系で採取された砂金は、古代の運送業者により、道幅12mの古代高速道路により、古代の国際交易センターであった、奈良盆地のツバ市まで運ばれていた。その馬方衆が用いていた「57の法」は、古代朝鮮半島で用いられていたものだ。
古代の物資輸送は、徒歩か牛・馬によると、一般的に考えられるが、古代での遠隔地への物資輸送は、船が主だった。海路では、竜骨構造の外洋船で、河口の津に着くと、平底の河舟で、そして、河舟が航行不能の地では、荷は、馬か人により目的地まで運んでいた。
日本列島各地の川筋や峠には、「丸子」の地名が多く存在する。では、その「丸子」とは、何か。それは、「ワニコ」と「マルコ」の歴史を、713年好字令により、「丸子」の漢字で抹殺していたのだ。
「ワニコ」の「ワニ」とは、古代新羅語で「船」のことだ。そして、「マルコ」の「マル」とは、古代新羅語で「馬」のことだ。つまり、漢字で「丸子」と表示された地域は、「船」と「馬」を扱う運送部族民の居住地だった。この「ワニコ」と「マルコ」の本来の意味が分かれば、河童と天狗の意味が分かる。河童とは、船の民の長者だ。そして、天狗とは、馬の民の長者で、テングリからテング(天狗)となった訳だ。
下級陰陽師や馬方など、或いは、芸能民の非農耕民は、藤原日本史では、ノッペリ顔のモンゴル系民族から見て、鼻の高い、筒袖の服とズボンを衣類とする、チュルク系騎馬民族と比較して、異形異類の民と表現する。特に、肉食する馬・牛を飼育する民族に対しては、嫌悪の意味で、蔑称を付けていた。
6世紀から645年まで、明日香ヤマトを支配し、乳製品のチーズなど食していた突厥進駐軍末裔には、「日本書記」では、蘇我稲目・蘇我馬子・蘇我蝦夷・蘇我入鹿などの蔑称を付けていた。
藤原日本史では、肉食する騎馬民族末裔を、「穢れ多し」の意味で「穢多」と蔑称していたが、その発生時期を、鎌倉時代の日記、書籍類を根拠としている。
しかし、それらの「天狗草紙」などの多くの史料は、藤原氏一族の日記や、母国百済を新羅に滅ぼされた亡命百済貴族末裔の書籍や、モンゴル帝国に滅ぼされた南宋からの亡命禅僧などの著作物なのだ。
藤原日本史が述べる、穢多の蔑称が発生したとする鎌倉時代は、騎馬民族や花郎騎士団の末裔(蝦夷)である「悪党」(勇者集団の意味。武装警備隊)が活躍していたのだ。「穢多」の蔑称が、世間一般に広まるのは、徳川三代将軍徳川家光から始まる、第3百済王朝の江戸時代からだ。
徳川家康ではなく、第3百済王朝が草案した「寺請制度」(藤原日本史では、キリシタン弾圧のためとするが、実際は、騎馬民族末裔の「山の民」を弾圧するためだった。)により、農民(常民)と騎馬民族末裔を線引きし、漢訳仏教や、阿弥陀仏や阿弥陀経を導入した、肉食民族を不可触民・チャンダラー(施陀羅→穢多)と民族差別思想の菜食主義のバラモン教の流れにある禅宗の僧侶達が宣伝員となり、寺を情報発信地にして、庶民に「穢多」の負イメージを布教したためだ。
このことにより、インドのバラモン教による身分差別の「カースト制度」が、釈尊の仏教と百八十度異なる「ニッポン仏教」により、日本版身分制度の「士農工商穢多非人」の呪文が、第3百済王朝の江戸時代に完成する。
その騎馬民族末裔からのしっぺ返しが、1868年の全国的な仏寺破壊の廃仏毀釈運動だ。その最も激しい地域が、薩摩藩の鹿児島だ。薩摩藩の支配者島津氏とは、秦氏末裔で、秦氏(古墳時代)→惟宗氏(平安時代)→島津氏(鎌倉時代から)で、関東の「風の王国」の長者である、弾左衛門とは、両家とも、太陽神信仰民族のシンボルであるマルタクロス、○に+を家紋とする、同族だ。
しかし、その騎馬民族蔑視の歴史に対しての、騎馬民族からの反論史料は、存在しない。
それは、遊牧民は、大抵、自らは民族の歴史・記録を残さないからだ。それに、遊牧民は、自由気ままに移動していると考えられているが、家畜の飼育の為に、決まった地の夏営地と冬営地を移動するため、最低限の生活用品しか携帯しないため、記録書など保持することはなかった。
そのため、遊牧民の記録は、おおむね農耕民や都市民がのこしたものだ。自らの記録を持たない遊牧民のイメージ、不潔、粗暴、凶暴、無知、略奪者などは、農耕民や都市民が残した記録によるものだ。
藤原日本史によく出てくる「山の民」とは、古墳時代、夏営地の「山」と、冬営地の「里」を放牧のため行き来していた遊牧民が、奈良時代、里の冬営地を律令軍に奪われたため、しかたなく、夏営地に常住させられた遊牧民のことだ。
では、遊牧民族の歴史は、分からないのか。
古代ギリシャの歴史家ヘロドトス(紀元前484年〜紀元前425年)は、「歴史」(ヒストリアイ)の全9巻を著わした。その中で、紀元前6世紀のすえ頃、黒海の北側にひろがる大草原に、ギリシャ語で「スキタイ」と呼ばれる集団が現れたことを述べている。そのギリシャ語で「スキタイ」と呼ばれたひとびとは、ペルシャ人達によって、「サカ」と一括して呼ばれていた。漢字では、「塞」(さく)だ。
スキタイ国の構成は、農耕、通商、航海をおこなう都市居住民、商業風の農業経営民、純粋農業民、遊牧民、そして、それらを支配する、天幕生活をする、遊牧民、と述べている。一般に、遊牧民族と思われるスキタイは、地域、生業、居住法をこえた集団であった、と述べている。その5種のひとびとを統合、支配する王族スキタイに因んで、その集団をスキタイと呼んでいる、と述べている。
騎馬民族支配国家の構成としては、現在の、情報力と資本力で傘下企業を支配する総合商社をイメージすると理解しやすい。総合商社と騎馬民族支配国家との違いは、資本力と武闘力とが異なるだけだ。
スキタイが、そのような異種の民を統合できたのは、移動性、集団性、機動性、戦闘性にとんだ、騎馬軍団を保持していたからだ。ただの遊牧民であったスキタイが、騎馬軍団を組織できたのは、ヒッタイト帝国で開発された鉄鍛造技術者末裔を、その集団に取り込んだからだ。
鉄製品の馬具や武器を造るには、「船」や「馬」の大輸送団が必要だ。それは、タタラ製鉄で、鋼1トン得るには、砂鉄12トン、木炭14トン、そして、薪では50トンを必要とするからだ。因みに、タタラ製鉄のタタラとは、古代新羅から日本列島の出雲に製鉄技術が伝わった古墳時代、製鉄民族は、中央アジアのタタールから渡来してきたと信じられていたからだ。
それまでの馬の制御器であった轡は、青銅製で硬いため、馬の生体に合わなかった。しかし、青銅より柔軟で加工が可能な鉄を利用して、轡が製作されたため、スキタイの騎馬軍団は、青銅製の轡で制御された騎馬軍団よりも、移動性、機動性が勝っていた。
しかし、向かうこと敵なしの騎馬軍団のスキタイも、結束連合の要が揺るげれば、連合体はたちまち雲散霧氷する。つまり、遊牧民族支配国は、固定した地域を支配するのではなく、移動を繰り返す「風の王国」なのだ。
紀元前4世紀、マケドニアのアレクサンドロス大王が現れると、スキタイ連合国は衰退に向かった。そして、東方から進出するサルマタイという集団に押され、紀元前3世紀には、スキタイは、歴史上から消えた。
そのアレクサンドロス大王は、アケメネス朝ペルシャ帝国のダレイオスの政策の追随者だった。
ダレイオスは、世界をまるごと組織化するために、海への視野を広げるため、海軍を創設し、帝国全土にわたる統一税制と統一度量衡の施行をし、幅広の幹線道路と駅伝制の整備を行い、経済面における金銀貨幣の鋳造と貨幣経済の本格的導入を行い、そして、政府主導の通商・交易の活性化をおこなった。
ダレイオスから約300年後の、紀元前221年秦の始皇帝は、このダレイオスの国家運営の手法を取り入れたが、道半ばにして、紀元前206年秦帝国は倒れた。これ以後から現在までの、古今東西のあらゆる国家・政権は、このダレイオスの影響下にある。
西方の遊牧国家の原型が、スキタイとすれば、東方の遊牧国家の原型は、匈奴だ。
匈奴の蔑称も、自ら付けたものではなく、農耕民である漢族だ。しかし、その漢族の漢王朝の創始劉邦は、匈奴の始祖冒頓に敗れて以来、ほぼ半世紀間、漢は匈奴の属国として、金・銀・絹などを貢物として差し出して、平和をあがなっていた。
しかし、冒頓単于(ボクトツゼンウ)が現れる以前、匈奴は、モンゴル語で「天幕、宮帳、遊牧宮廷」の意味であるオルドの複数形、オルドス地方に細々と暮らす小集団にすぎなかった。それは、当初の匈奴は、騎乗技術と馬具を欠いていたため、足で歩く遊牧民にすぎなかった。
それが、紀元前4世紀の後半頃、北方から騎馬軍団が、東アジアに渡来すると、東アジアの遊牧民への騎馬技術が広がっていった。この騎馬技術の渡来により、足で歩く遊牧民の匈奴は、機動性、集団戦術を身につけて、急速に軍事化した。それが、騎馬軍団の匈奴だ。

この時期、日本列島は、藤原日本史では、紀元前660年即位した神武天皇からつづくとする神国日本など存在せず、まだ、弥生時代中期の頃だ。この頃、神武天皇が即位したとする奈良盆地一帯は、呪術の重要素材であった、古代の「消毒剤アカチン」としての朱砂の国際的交易センターのツバ市があった三輪山麓(山の麓→騎馬民族語でヤマト)を除いて、耳成山、天香久山、畝傍山の大和三山の「小山」が「小島」となる、一雨降ると湖と化す湿地帯だった。因みに、現在に伝わる神武天皇陵は、「君が代」を国歌と制定した前年、明治20年(1887年)に創造したものだ。

匈奴国家の生活様式は、遊牧文化、戦闘技術の多くは、スキタイの影響を強く受けていた。その騎馬軍団は、「胡服」つまり、筒袖の短い上着とズボンをはき、皮製のベルトをしめ、皮製のブーツの服装スタイルだった。そして、発射器つきの弩弓(いしゆみ)の強力武器を保持していた。
その匈奴軍団の構成は、十進法により、万騎の長が24人いて、24個の万人隊は、所謂漢族国家に対して南面し、左・中・右の3大部隊に分かれていた。その3大部隊は、それぞれ領民と分地を持ち、その3分割された匈奴国家は、多元・多種の人種により構成されていた。因みに、左(東)の指揮官である左賢王は、朝鮮半島北部までもを支配していた。
この匈奴軍団の左・中・右の構成は、遊牧民支配国家に継承され、13世紀の初め、チンギス・カンによるモンゴル高原の国家も、中央(コル)・左翼(ジェウン・ガル)・右翼(バラウン・ガル)で構成されていた。

因みに、古墳時代の7世紀末、日本列島初の天皇(テングリ・カガン→テングリ→天子)である天武天皇による道教思想による「八色の姓」で、明日香ヤマトに出現した「日本国」が、701年漢訳仏教思想による唐進駐軍(史実は、690年から705年までは、漢訳仏教組織を利用し、則天武后が実権を握り、国号を「唐」から「周」と称した。)による傀儡律令国家(=大和朝廷は、690年から周の暦「儀鳳暦」を使用する。)となり、唐帝国の租・庸・調の税制と、法律と罰による政治形態を運営する廟堂が、左大臣・太政大臣・右大臣により構成されていたのは、その律令政治組織の基が、遊牧民族支配国家の「唐帝国」だったからだ。
唐帝国は、その文化から漢民族支配と思われているようだが、北魏(漢姓「元氏」・「源氏」の初め。423年〜534年)から始まり、東魏(534年〜550年)、西魏(535年〜557年)、北斉(550年〜574年)、北周(557年〜579年)、隋(589年〜618年)、唐(618年〜907年)までの支配者は、漢民族ではなく、騎馬民族の拓跋部で、拓跋国家だった。その拓跋とは、騎馬民族「チュルク」の音訳漢字だ。
拓跋部の「部」とは、騎馬民族の血縁、地縁による集団の単位だ。部落とは、それらの部が暮らす集落のことだ。この部落の意味が、肉食を「悪」とする漢訳仏教思想を武器とする王権により、蔑称とするのが、4世紀日本列島の古墳時代から始まる、騎馬民族文化の歴史を抹殺する、720年「周」(唐)の通訳であった藤原不比等(唐の通訳→唐史→籐不比等。姓は籐氏)により創作された「日本書記」を正史とする、藤原日本史の流れだ。

農耕民族や都市生活民の史料の記述からは、遊牧民族は略奪民族のように描写されているが、遊牧民族は、生活必需品や用具・資材など不足する物質は、通常は交易で買い入れていた。しかし、軍事力に裏打ちされた政治力を持つ遊牧民は、みずからすすんで、その牧地内の要所に、集落や都市を営んでいた。
治安の悪い時代では、特に、その遊牧民族の軍事力の庇護を仰ぐため、農耕民、商業民、工業民などは自ら進んで、それらの遊牧民族が営む集落や都市に暮らしていた。
スキタイ国家が、農・工・商業地域を包み込んだように、匈奴帝国も、その支配地に囲郭をそなえた農業地や手工業都市、そして、タクラマカン砂漠に点在するオアシス地域の都市国家をも包み込んでいた。
国家と言うと、広大な領土を持つ組織と思われがちだが、国の正字「國」は、口=囲郭、口=人口、一=土地、戈=武力の合成語で、国とは、城壁や柵で囲われ、武装組織を持つ都市国家を指していた。
13世紀、モンゴル帝国による国際自由交易時代、国家警察力の存在も、庶民からの税取立てをも史料で確認出来ない鎌倉時代(果たして、鎌倉幕府は、東国の民を実効支配していたのか、疑問がわく。)の東国の各地に、城壁や柵で囲われた村(鎌倉時代の村とは、農村ではなく、武芸者末裔の証明としての日本刀を携帯し、部族のシンボルを図案化した「家紋」を付けた金メッキの鎧兜と派手な衣装で着飾る武装騎馬警備員(「役座」の租)の「悪党」が護る都市国家。)が出現していたのは、この匈奴の経営形態が、鎌倉時代の日本列島にも継承されていたからだ。
紀元前3世紀、足で歩く遊牧民の匈奴が、突然、騎馬民族に変身できたのは、スキタイの軍事様式を引き継いだのと、そのオアシス都市を支配下に置いたからだ。
そのオアシス都市は、古代ペルシャ帝国のアケメネス朝(紀元前359年〜紀元前330年)の東辺にコロニーを建設していた「ソグド」(ソグド語の祖語は、アラム語。アラム語は、紀元前722年イスラエル王国が、アッシリア帝国により壊滅された頃のカナンの地を含むシリア地域一帯の国際交易語。鉄器を発明した古代ヒッタイト帝国を祖国とする、チグリス河とユーフラテス河の河口の地ウルから流離う放浪民族であった絶対神ヤハヴェを祀るユダヤ民族ではなく、紀元前13世紀、古代ヒッタイトの契約神(紀元2世紀、ローマ帝国軍に取り入れられ「軍神ミトラ」→紀元4世紀、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅では、ミトラの借字「花」により「花郎騎士団の軍神」となる。)の「太陽神ミトラ」を祀るイスラエル民族末裔(「旧約聖書」では、太陽神バアルと金の牡牛を祀ると描写。)。)と呼ばれる国際交易民の、東西との国際交易の拠点となっていた。
オアシス都市国家を拠点とするソクドの国際商人は、その後、遊牧民族国家と共生し、6世紀には、東西ユーラシアをまたがり支配したチュルク帝国の突厥(6世紀、古墳時代の日本列島をも支配した。)の経済、政治、外交、諜報の協力者として活躍する。
匈奴がオアシス都市国家を支配下に置き始めた頃、谷ごとに分散して居住し、小集団を営む牧畜民、その集団を漢民族は「羌」(きょう・えびす)と蔑称していた。「西戎」(にしえびす)の変種ぐらいにしか見なされていなかった弱小国の「羌」の秦は、ギリシャ文化を引き継いだバクトリアからのソグド商人の渡来で、アケメネス朝ペルシャ帝国のダレイオスの政策を真似た軍事国家に変身し、紀元前221年秦は列国を併合して、モンゴル系ではなく西洋系の碧眼の秦王・政は、始皇帝と称した。
王家という私権を公権にするには、宗教性、神秘性、カリスマ性が必要だ。その神聖視された私権である王家が、近現代の国家が生まれるまで、臣民を支配していた。
では、秦帝国ではどうなのか。秦帝国は、焚書抗儒をおこなっていたので、その頃、東アジアで崇拝されていたと伝わる「儒教」ではないようだ。ましてや、「漢訳仏教」でもない。肉食する騎馬民族を「施陀羅」と蔑称する漢訳仏教が、菜食主義のバラモン僧のナーガルジュナにより「発明」されたのが、紀元3世紀だからだ。
徐福伝説によれば、長生不老の霊薬(水銀薬:水銀は、液体→気体→固体→液体、と変性するため再生(不老不死)し、更に、消毒・防腐の効能のため、霊薬と信じられていた。縄文時代から日本列島の奈良の宇陀は、朱砂(水銀化合物)の産地として広く知られていた。16世紀、ポルトガル国の尖兵イエズス会は、高山ジュスト右近に命じて、宇陀の山奥に教会を建設させていたのは、キリスト教の布教のためだけではなかった。スペイン国によりメキシコで銀鉱脈が発見されるまでは、石見銀山は世界一の銀産出地だった。)を求めた始皇帝は、徐福に童男童女3、000名と百工の技術者を与え、東方の蓬莱山へ船出させたと伝わる。
その蓬莱山とは、日本列島(国号「日本」(イル・ポン→ニッ・ポン→ニホン)が、歴史上に現れるのは、7世紀末)の中央にある山と信じられていた。その徐福は、呪術者の方士と言われているが、道教の士ではないようだ。それは、道教が成立したのは、北魏の時代、漢訳仏教が農耕民族の漢貴族に取り入るために「内道場」を建設し「風紀」を乱したり、そして、深堀や柵を廻らして仏閣を砦として「武器」の保管庫としたことに対抗して、騎馬民族の拓跋部の太武帝が、華北の犠牲を行う土着宗教(道教の租)を保護して、漢訳仏教を弾圧した紀元5世紀だからだ。
この道教を保護する北魏の漢訳仏教弾圧(446年〜452年)から、「日本書記」物語で仏教伝来552年(一説では538年)は「ウソ」で、7世紀、古墳時代の日本列島の明日香ヤマトに、唐進駐軍と共に侵攻して来た漢訳仏教(農耕民族)と、騎馬民族の古墳文化において祭祀を行っていた道教(騎馬民族)との熾烈な戦いが、華北で始まっていた。
私権により東アジアを短期間に統一した秦帝国が、王権を維持するために、儒教でもない、漢訳仏教でもない、道教でもない、どのような宗教を「利用」していたのかは、現在も不明なのだ。
更に、世界遺産の兵馬俑が、秦始皇帝の遺跡と言われているが、秦帝国軍団は、「鉄」の武器で武装していたのに、兵馬俑の地下軍団は「青銅」の武器で武装している。金属史によれば、鉄(溶解度1、200℃)は、青銅(溶解度800℃)より新しい精錬技術だ。これにより、兵馬俑が、秦始皇帝の遺跡ということが疑われる。日本列島の古墳時代に活躍していた、太陽神を祀り牡牛を犠牲とする「秦氏」の祖国と伝わる秦帝国は、未だ、謎の帝国なのだ。
しかし、秦帝国は、紀元前210年始皇帝が急死のため、秦の統一は、紀元前206年で崩れた。これにより、北に逃れていた匈奴の勢力が復活した。その後、匈奴はボクトツゼンウの支配時代となり、漢民族国家の漢から金、銀、絹を貢がせて、その騎馬軍団の軍事力でひれ伏せていたが、漢の第7代目の武帝、劉徹の時、匈奴帝国に対して反撃に出た。この匈奴・漢戦争は、50年近くもつづいた。
匈奴軍団との初戦では苦戦していた武帝の漢帝国軍団も、遊牧国家の弱点を知ることにより、匈奴軍団と互角に戦うことができた。その弱点とは、遊牧民族の軍事権力とオアシス民族の経済力との相互補完の共生関係だ。紀元48年、匈奴帝国が、東西に分裂し、その西匈奴が、紀元1世紀末に消滅したのは、騎馬民族と共生していたタリム盆地方面のオアシス都市国家群を、後漢帝国が支配したからだ。
ボクトツゼンウの支配時代から、漢帝国から匈奴帝国への貢物の金、銀、絹は、オアシス都市国家に持ち込まれ、騎馬民族の生活用品や武器素材と交換されていた。そして、オアシス都市国家のソグトなどの国際商人は、それらの騎馬民族が持ち込んだ金、銀、絹を、シリア王国やパルチア王国のペルシャ諸国家に持ち込んで、その差益を儲けとしていた。因みに、ペルシャとは他称で、ペルシャの住民は、自称イランとしていた。
漢の第7代目の武帝になると、匈奴帝国への金、銀、絹の貢物を中止し、それらの物資をオアシス都市国家に持ち込んで、匈奴帝国の騎馬軍団と互角に戦うために、アラブ種の馬との交換交易をおこなった。
紀元前4世紀、騎馬民族スキタイの軽装備の騎馬軍団と戦っていたアケメネス朝ペルシャ騎馬軍団は、アラブ種馬に鉄製の鎧と冑で武装させていた。その重装備の軍馬の武装形態は、紀元前1世紀に興った、ギリシャ文化を継承したローマ帝国軍にも採用された。そして、そのローマ帝国騎馬軍団の鉄製の馬鎧と馬冑は、紀元356年よりギリシャ・ローマ文化の古代新羅の都市であった慶州の古墳から出土していた。更に、慶州出土と同型の馬冑は、和歌山を流れる紀ノ川河口の古墳からも出土した。
匈奴騎馬軍団の草原馬の体高(蹄から肩骨までの高さ)は約120cm(平安時代末期に陸奥国に突然出現した、アラブ系海洋民族末裔の「平家」が「赤旗」、ユーラシアを支配していたチュルク系騎馬民族末裔の「嵯峨源氏・醍醐源氏」(藤原日本史が述べる「清和源氏」は「ウソ」で、実在しない。清和源氏とは、藤原氏の私兵である陽成源氏を改竄。)が「白旗」を部族シンボルとしていた時期に、ユーラシアから渡来の笹竜胆の「モンゴル部族紋」を旗指しに印す、源義経軍団の馬は、アラブ種馬ではなく、草原馬だった。)に対して、アラブ種馬の体高は約160cmだ。その結果、草原馬を主体とする匈奴帝国の騎馬軍団の優位性が崩れ、モンゴル系とチュルク系の騎馬民族部族連合体は、分裂することになる。
しかし、漢政府も、長期戦争のため国家財政が破綻したため、極度の重税のほかに、貨幣の改鋳、塩・鉄・酒を専売にし、均輸・平準などの物価調節策をとった。これ以降、専売制は、中華国家に引き継がれて行く。
国家財政が破綻した漢帝国は、紀元前87年武帝が死ぬと、その後継者となった昭帝は、漢帝国からの申し出により、匈奴帝国との講和がなされた。このことにより、モンゴル・チュルク系の遊牧世界の匈奴と、農耕世界の漢との二大帝国が、対等の立場で平和共存する時代となった。
しかし、紀元8年、漢帝国の外戚である王莽が、王朝名を「漢」から「新」(しん)と変えると、遊牧民族文化を蔑視する農本主義の儒教思想により国家改革を行い、対匈奴強硬政策に転じた。王莽は、匈奴体制下の烏丸(うがん)や鮮卑(せんぴ)をそそのかし、20万騎の大軍で、匈奴帝国を攻めたが、失敗に終わった。その結果、「新」が滅び、劉氏末流をいただく「後漢」が再興された。
紀元25年、後漢の光武帝は、曲折の後、匈奴帝国との関係を、旧に復し、両国は和親した。その流れにより、匈奴王家と漢王朝との王家どうしの共存、通婚関係により、ひさしい平和共存関係が続いた。
紀元1世紀半ば、匈奴帝国は東西に割れた。東匈奴は、漢帝国との同盟を保持した。その東匈奴と漢帝国は、西匈奴をカザフ草原あたりで撃破した。その後、西匈奴は、歴史上から消え、そして、4世紀後半、フン族となってヨーロッパに現れた。
その東匈奴も、いったん消滅した「漢」が、「後漢」となって再生した紀元1世紀半ばごろ、南北に割れた。その結果、東匈奴の支配下にあったパミール以東のオアシス都市国家は、後漢の支配下となった。
南ヨーロッパでは、紀元前27年アウグスツスが、初代ローマ皇帝となり、ローマ帝国が興った。ローマ帝国では、ソグドなどの国際交易商人が東アジアからもたらす「絹」の需要が高まり、金と同量で取引されるようになったローマ帝国では、東アジアは、憧れの地となっていく。
絹が欲しい「ローマ帝国」と、アラブ種馬がほしい「後漢」との、オアシス都市国家が結ぶ「シルクロード」は、紀元1世紀からと思われているようだが、それ以前、紀元前3世紀から、騎馬民族により続いていた。オアシス都市国家による国際交易は、匈奴から後漢へと、その支配者が替わったのだ。
このローマ帝国と後漢との国際交易時代の紀元1世紀、ギリシャ文化継承国のバクトリアの地であった、北インドの国際交易都市ガンダーラに、突然、数多くのギリシャ語経典(仏教史では、サンスクリット語経典とする。現存するサンスクリット語経典は、7世紀、漢訳経典から復元したものだ。サンスクリット語の租語は、ギリシャ語。)が出現した。これが、所謂、大乗仏教経典と伝わるものだ。初期の大乗仏教は、ガリガリの仏像がギリシャ彫刻の影響を強く受け写実的であったように、多分に、ギリシャ文化色が強かった。
この大乗仏教が発明された紀元1世紀の東西の帝国は、東の後漢も西のローマ帝国も、被支配者の異民族が度々武装蜂起していたように、軍事的に不安定な時期だった。
被征服民の異民族を支配するには、二つの統治方法がある。ひとつは、「武力」で、もうひとつは「思想」だ。その思想統治のひとつとして、「宗教」が最も有効だ。しかし、後漢にもローマ帝国にも、被征服民の異民族を纏められるほどの強力な宗教が存在していなかった。
ロンギヌスの長槍で武装する歩兵軍団を擁するローマ帝国では、谷を埋め峠を切り通し直線道路(昭和時代、田中首相が唱えた日本列島改造論により、日本列島に高速道路を敷設した時発掘された「古代の高速道路」は、谷は埋められ、峠は切り通されていた。更に、路面は版築法(紀元前3世紀に秦帝国が築いた万里の長城も、紀元3世紀の前方後円墳も、この工法で、搗き固められ日干しレンガのようになっていた。)で固められ、側溝も整備されていた。)を敷設する技術や高度土木建築技術はあっても、独自の宗教がなく、その文化の多くをギリシャ文化から引き継いでいた。
紀元1世紀、国際都市となったローマ市には、ユーラシア大陸の東西を結ぶ国際交易商人達が、いろいろな宗教をもたらしていた。そのひとつに、紀元前13世紀、鉄器を発明した古代ヒッタイト帝国における国際交易での「契約の神」、太陽神ミトラがあった。
「契約の神」ミトラは、交易地である広場の「庭」での交易の不正を見守る太陽神だ。このミトラ神が、ローマ帝国時代、敵と対峙する戦場で、ローマ帝国軍団の兵士を見護り、不正なく勇敢に戦って死んだ兵士を、再生させる「軍神ミトラ」へと変身した。それは、太陽神ミトラは、日の出の神、天中の神、日没の神の3神で、太陽神は日没で死ぬが、翌日、再び日の出となって現れるため、「再生の神」として古くから信じられていたからだ。
では、西のローマ帝国から、ソグドなどの国際交易民が渡来していた東の後漢では、どのような宗教が存在していたのか。
紀元1世紀、農本主義の儒教の存在は分かるが、漢訳仏教(3世紀成立)も道教(5世紀成立)の存在は、未だない。それ以前の紀元前3世紀、中国本土を短期間に統一した、ギリシャ文化継承国バクトリアの衛星国の秦帝国での宗教も、分からない。
宗教史では、紀元1世紀のガンダーラで、在家庶民の苦を救うため、サンスクリット語の大乗仏教経典が、釈尊の教えを基に著わされた、と述べている。しかし、近代国家が成立するまで、最も苦しんでいたのは、庶民よりも奴隷だ。
紀元1世紀、大乗仏教が突然現れる以前、北インドでは、アーリア系のバラモン僧により、バラモン(司祭者)、クシャトリア(王族・戦士)、ヴァイシャ(庶民)、シュードラ(奴隷)の身分制度を確立していた。しかし、そのカースト制度から外れる、遊牧民族の不可触賎民チャンダーラも存在していた。
紀元前5世紀、仏教を発明したと伝わる釈尊は、そのバラモン教が発明した輪廻のカルマから逃れるため、人間と死者との中間の「非人」となり、経済活動を放棄して「乞食」することを説いていたのだ。それは、バラモン教では、バラモンは死んでもバラモンとして生まれ変わり、シュードラは死んでも、バラモンには生まれ変われることはなく、シュードラとして生まれ変わる、としていたからだ。この時代では、他のものに生まれ変わるとする「輪廻転生」ではなく、永遠に替わらない「輪廻」だ。
大乗仏教が苦しむひとびとを救う宗教とするならば、そして、釈尊の教えを引き継いだと主張するならば、シュードラよりも、チャンダーラを救済対象とするはずだ。しかし、紀元1世紀、ガンダーラで発明された大乗仏教経典の原典で、そのことを調べることは出来ない。
それは、紀元3世紀、東アジアで、バラモン僧のナガールジュナが、匈奴騎馬民族の勢いがなくなり、漢族の農耕民族が勢いを増した頃合を見はかり、騎馬民族を貶めるために、肉食するチャンダーラを「施陀羅」(平安時代初期、錬金術師空海は、「施陀羅悪人ナリ」と著書で述べていた。)と訳し漢訳仏教経典に挿入し、ギリシャ語経典から漢訳仏教経典を創作し終わると、全てのギリシャ語原典を焚書していたからだ。
では、紀元1世紀の大乗仏教が、今に伝わる大乗仏教かを、知ることが出来ないのか。それは、般若湯を飲み妻帯を許可する、ニッポン仏教の歴史から推測できるようだ。
仏教史によれば、鎌倉時代に、堕落した貴族仏教に対して、庶民救済のための「鎌倉新仏教」が登場した、と述べている。その中で、最も庶民を救ったのが浄土宗と浄土真宗だと述べている。しかし、この浄土宗は、不思議な宗教だ。そして、その浄土宗から派生したとする浄土真宗は、更に、不思議な宗教なのだ。これらの宗教は、果たして、釈尊の教えとする仏教と言えるのか。そして、鎌倉時代の庶民を苦悩から救ったとする浄土真宗(?)は、鎌倉時代には、独立していなくて、浄土宗と思想上敵対する、亡命百済貴族を加持する天台宗の傘下にあった。
藤原日本史では、浄土思想の流れは、空也→法然→親鸞(イエス・キリストと同じに、架空の人物。その根拠は、両名とも、大活躍したとする同年代の史料に、その名の掲載がない。親鸞の場合、決定的なのは、敵宗教を誹謗中傷する日蓮の書に、法然の弟子達の名前の記載があるのに、浄土真宗開祖物語では、法然の第一弟子とする親鸞の名前の記載は、ない。両名の思想や著述物は、本人が著述したものではなく、その弟子達が「伝え聞いたとする」伝聞を記述したとする。そして、両名の実在の証拠としては、イエス・キリストの場合は、マグダラのマリアがイエスの死と復活を見届けたとする。親鸞の場合は、大正10年(1921年)西本願寺の宝物庫から妻であったとされる覚信尼の「恵信尼消息」という書状が発見され、その内容が伝聞と一致するから、とする。更に、「パウロ」と「蓮如」(苗字は日野、姓は藤原氏)の言動の一致には、偶然とは思えないある種の作為を感じる。)、と述べる。そして、その思想の基は、「南無阿弥陀仏」と唱えれば、極楽浄土が約束されるとする。その「南無阿弥陀仏」の意味は、「私はアミ様を信じます。」、だ。
では、その阿弥陀とは、何なのだ。そして、その阿弥陀は、仏教史で述べられているように、鎌倉新仏教時代より今日まで、全ての庶民から慕われていたのか。
昭和50年(1975年)、京都市の地下鉄工事で、二条御所付近から発掘された、頭などを破壊されていた無数の石仏の多くは、阿弥陀仏だった。
この仕業は、永禄12年(1569年)イエズス会の傀儡将軍織田信長が、足利義昭に進呈する二条御所の建築の際に、近畿一帯から基礎石として阿弥陀仏の石像を集めさせ、それを破壊したものだった。何故、織田信長は、多くの阿弥陀の石仏を破壊したのか。それは、織田信長の三代先の墓が、垣内(賎民居住地)にあったからだ。
太陽神アミダーバを、漢訳仏教の阿弥陀仏として改竄し、思想武器として利用した王権は、税を搾取し易い農耕民族を「常民」とし、人工神ではなく太陽や星などの自然神を祀り、移動を常とする騎馬民族や海洋民族を異民族として貶めていたからだ。その織田信長は、アラブ系海洋民族の「平家」末裔の「余部」(海部の蔑称)だった。
宗教に興味がないひとでも、「アミダくじ」のことは知っているし、いちどは行った経験があるはずだ。それは、縦線に任意の横棒を引き、縦線を階段状に末端まで辿って行く「くじ」だ。しかし、「アミダくじ」の租は、放射状の線に、切れ切れの同心円を書き込んでいた。それは、「太陽光線」を表した「くじ」だった。
その太陽神とは、世界共通で、すべてのひと平等に恩恵を与える(遍照)、再生の神だ。つまり、死後の浄土を約束する神だ。しかし、釈尊の教え(仏教)には、浄土など存在しない。それは、釈尊は、肉食する民族をチャンダーラ(不可蝕賎民)とし、輪廻のカルマで苦しめるバラモン僧が発明したカースト制度思想から逃れるため、「乞食」し、「非人」として生きることを説いていたからだ。
3世紀、後漢の時代に現れた漢訳仏教での「阿弥陀」と漢訳される前は、「アミダーバ」で、「太陽神」のことだ。それは、国際交易民がもたらした「契約神」の太陽神ミトラが、弥勒菩薩と漢訳されたのと同じだ。
バラモン僧ナガールジュナが、漢訳仏教経典を「翻訳」(創作)する以前、紀元166年後漢には、ローマ帝国の皇帝マルクス=アウレリウスの使者が渡来していた。西のローマ帝国と東の後漢には、ソグドなどの国際交易商人の他に、ローマ帝国の軍人も渡来していた。とすると、ローマ帝国の軍神のミトラの伝来も考えられるはずだ。
紀元184年後漢に黄巾の乱が起こる。その後、中華本土の各地に割拠した豪族、軍閥たちの中から、曹操、孫権、劉備が浮上した。これらの武将の軍団には、匈奴残党軍も組み込まれていた。
そして、中華での戦いに敗れた軍団の中には、新天地を求めた騎馬軍団もいた。その中には、日本海を渡った騎馬民族も存在した。日本列島は、縄文時代から国際交易をおこなっていたほど資源があることが、東アジアの諸国に広く知られていたからだ。
騎馬民族集団に組み込まれていた、タタラ製鉄をおこなう産鉄民族には、「馬」だけではなく、「船」による広域物流をおこなう民族もいたから、ユーラシア大陸の極東の内海(日本海)など、わけなく渡海できた。
曹操の子曹丕は、後漢王朝の献帝よりゆずられて、華北に魏(220年〜265年)を興した。この魏の史書「魏志倭人伝」によれば、239年邪馬台国女王卑弥呼が、帯方郡に使者を送ったとする。
魏は、ローマ帝国と絹馬交易をおこなっていた後漢の後継国だから、当然、ローマ帝国との交易のため、絹の増産を目指していた。この頃の日本列島の一部は、魏の武将が度々渡来していたほど、中国大陸諸国で絹製品を織るための繭生産の殖民地となっていた。
孫権は、江南に呉(222年〜280年)を興した。
劉備は、四川に蜀(221年〜263年)を興した。
これらの三国が、魏・呉・蜀の三国時代とされるものだ。しかし、その三国の統治年代を比べると、数十年の歴史の一駒だった。
魏は、蜀を併合し、その魏を、武将の司馬氏が奪って、晋(265年〜316年)と称し、呉を倒して、統一王朝となった。しかし、司馬氏の諸王の内乱が、300年に起こると、南匈奴の後裔の劉淵(りゆえん)という王子が浮上した。
南匈奴の王族たちは、匈奴語で「ランテイ氏」で、漢姓では劉氏だった。つまり、劉淵は、匈奴と漢の血を受け継いでいたのだ。その劉淵は、騎馬戦力を保持する山西匈奴王国と連携し、304年匈奴による漢王朝を興したが、310年晋朝打倒作戦のさなか他界した。しかし、311年晋の首都洛陽は、漢王朝の匈奴軍のまえに陥落し、かっての呉の地に、晋とは異なる、東晋が興った。
東アジアの騎馬民族軍団は、匈奴だけではなかった。
紀元1世紀なかば、匈奴国家が南北に分裂した後、モンゴル高原では、ふたつの騎馬集団が浮上した。それらは、匈奴国家成立期に、敵性勢力の東胡の系譜を引く、鮮卑と烏丸だ。
匈奴軍団が、チュルク系とモンゴル系のハイブリッドに対して、東胡とは、ユーラシア大陸の東方に居住するペルシャ系のことだ。漢民族は、西域の民族を総称して、「胡族」としていた。
156年、いくつもの集団にわかれていた「部」の鮮卑に、檀石槐という英雄が現れ、北匈奴の一部も吸収し、東はマンチュリアから西はジュンガリアまでを版図として、鮮卑王国を興した。しかし、181年檀石槐が死ぬと、騎馬遊牧民族国家の宿命どおり、「風の王国」である鮮卑帝国は一気に瓦解した。
東胡の系譜を引く、もう一方の烏丸は、曹操権力に組み込まれ、「烏桓突騎」の機動部隊に変身し、歴史の表舞台から消えていった。
その鮮卑帝国の瓦解直後に、後漢が崩壊すると、魏・蜀・呉の三国が中華再編の争いを繰り広げていた頃、モンゴル高原でも、鮮卑族のそれぞれの「部」が、争いを繰り広げていた。更に、匈奴帝国時代、その支配下に位置していた朝鮮半島でも、魏・呉・蜀の三国時代、馬韓・弁韓・辰韓の三韓時代となり、三つ巴の戦いを繰り広げていた。この頃、日本列島には、魏志倭人伝に記述されていた、卑弥呼の邪馬台国の存在だけが歴史上知られていた。
争いを繰り広げていたそれぞれの鮮卑の「部」とは、拓跋(たくばつ)、宇文(うぶん)、慕容(ぼうよう)、段(だん)、乞伏(きつふく)、などだ。それらの部族名は、漢字音写で、チュルク語かモンゴル語かは分からない。それは、1271年モンゴル帝国が興る以前には、チュルク語とモンゴル語との線引きができないほど似通っていたからだ。
東アジアの歴史は、匈奴・漢の2大帝国時代から、鮮卑・魏晋のまとまりを経て、更に巨大な分裂・再編・統合へと、モンゴル草原と中華とで同時に起こっていく。
東洋史では、4世紀から5世紀のなかばまでを、中華分裂時代の五胡十六国時代と云う。
五胡とは、チュルク・モンゴル系の匈奴、羯(けつ)、チベット系の「てい」、羌(きよう)、そして、鮮卑のことだ。それらの5部族が、前趙、前蜀、後趙、前燕、前涼、前秦、後燕、後秦、西秦、後涼、南涼、北涼、南燕、西涼、夏、北燕の合計16の国家を興し、亡んだから、東洋史では、五胡十六国とするようだ。
漢族ではなく、胡族(ペルシャ系)・チュルク系・モンゴル系が中華を支配していた時代、朝鮮半島では、高句麗、百済、古代新羅が三つ巴の戦いをおこなっていた。そして、372年高句麗には、前秦から漢訳仏教が伝来し、384年百済には、東晋より漢訳仏教が伝来していた。しかし、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅には、528年まで仏教が伝来していなかった。
藤原日本史では、4世紀、日本人の租である倭人が、奈良盆地に大和王朝を樹立し、369年朝鮮半島南端に「任那日本府」を設置していた、とする。しかし、その倭人とは、漢民族からの蔑称で、日本列島住民を示す名称ではなく、「小さくて醜いひと」の意味だ。南方系の文化を保持する倭人は、当時の日本列島だけではなく、朝鮮半島や中華にも「小都市国家」の集落を形成していた。
439年五胡十六国を北魏が統一し、華北に北魏以下の「北朝」、江南に東晋の後を受け継いだ宋朝以下の「南朝」が連続する、南北朝時代とする、中華歴史には、疑問がある。
それは、北魏は、439年より以前から存在していたからだ。北魏は、310年代国(だいこく)と称し、山西北辺、長城地帯にささやかな集団とした、鮮卑拓跋部が結成した国だ。
鮮卑拓跋部の興した代国は、北魏→東魏と西魏に分裂→北斉・北周→隋→唐へと国名が変化するが、それらの国は、すべてチュルク・モンゴル系の鮮卑拓跋系集団が、国家の中核となっていた。中華国家の中で、純粋な漢族王朝と言えそうなのは、漢・宋・明ぐらいだ。
では、何故、それらの国々の支配者が、騎馬遊牧民族の血が流れているとの指摘を嫌がっていたのか。
それは、漢民族が創作した「漢字」(表意文字である漢字には、字自体に華夷の差別思想が内在している。蘇我氏の名前と同じに、騎馬民族名の漢字は、全て蔑称漢字で記述されている。)による歴史物語や、血・肉食禁忌の漢訳仏教思想などで、肉食する騎馬遊牧民族を劣等民族として貶めていたからだ。しかし、それに反論する騎馬民族の文化・歴史を示す書籍はない。
鮮卑拓跋部連合体出身の唐朝は、漢族の出自ではなく、異族である騎馬遊牧民族の出を指摘されるのを嫌がっていた。
南北朝という括り方をした「南史」と「北史」、更には、「隋書」もすべて唐朝で国家編纂されていた。その「隋書」倭国伝には、「日のいづるところの天子、日の没するところの天子に書をいたす。つつがなきや。」、の文面に煬帝は激怒した、とある。
藤原日本史では、この文書は、飛鳥時代に聖徳太子が書かれたもので、隋と対等交易をおこなっていた証拠だ、としていた。しかし、天子を「テングリ」と読めば、その文章が、明日香ヤマトの騎馬民族の王様から、隋帝国の騎馬民族の王様へのご挨拶文であることが分かる。
この文書は、明日香ヤマトを支配した突厥軍団の王から、煬帝は漢族を装っているが、実際は、鮮卑拓跋部の出自であることを知っている、とほのめかしたものであることが分かる。
煬帝が激怒したのは、「日の没するところ」ではなく、「天子・テングリ」(騎馬民族王の呼称)の文字に激怒したのだ。それは、煬帝は、漢族ではなく、異族の出自を指摘されるのを嫌がっていたからだ。
唐朝初期、父太宗(李世民)から息子高宗の支配時代に、南北朝については、王朝ごとに南朝の「梁書」、「陳書」、北朝の「北斉書」、「周書」、「隋書」も編纂された。
太宗期には、「梁書」、「陳書」、「北斉書」、「周書」、「隋書」の五代史が編纂された。そして、646年には、「晋書」が編纂された。
高宗期には、「南史」と「北史」が完成した。
中国正史とされる「史記」から「明史」までの24史のうち、8の正史が、この唐朝初期の太宗・高宗父子によって編纂されていた。
因みに、この父太宗の皇后武氏は、649年太宗が死去すると、息子高宗の皇后となった。そして、684年高宗が死去すると、皇后武氏は、漢訳仏教組織を利用して、政権を乗っ取った。そして、実権を握った皇后武氏は、唐の通訳(藤原不比等)を使者として、唐の律令制度と租庸調の税制、唐帝国と傀儡女帝持統天皇王朝と日時を連動させるための儀鳳暦、そして、漢訳仏教思想により、日本列島の陸奥国砂金の奪取経営に乗り出した。この時代を、藤原日本史では、奈良時代と述べる。
奈良時代に、奈良盆地に点在する巨大前方後円墳を破壊した跡に、平城京が造営されたが、その設計は唐の長安のコピーだ。奈良を訪れる中国旅行者は、点在する仏寺の奈良の都を見学した印象を、まるで西安に来たようだ、との感想を述べるようだ。それは、当然だ。唐から渡来した鑑真が築いたとする唐招提寺とは、「唐の寺」の意味だからだ。
3世紀半ばから6世紀までの騎馬遊牧民族が活躍していたアジア東方の歴史について、唐朝、とりわけ李世民の作為と述作のなかにいる、と言っても過言ではない。
この流れを引き継ぐように、李世民の皇后武氏が、690年則天武后となり、日本列島の騎馬民族が、5世紀半ばから7世紀半ばまでを支配していた古墳時代の歴史を改竄するために、藤原不比等に著せたのが、720年完成の漢字・漢文による「日本書記」だ。その「日本書記」の物語を否定するために、奈良時代の712年ではなく、平安時代の812年完成の「古事記」は、漢字・和文(北方騎馬民族語であるウラル語文法)だ。
キリストと同じに厩で生まれたとする、厩戸皇子(聖徳太子ほか多数の偽名がある。)が活躍していたとする飛鳥時代の物語のウソを知る一部の覚醒したひとを除いて、死者は再生すると信じる4世紀から7世紀末までの古墳時代に、死者を穢れとして燃やしてしまう漢訳仏教が552年(一説538年・日本初の火葬された天皇は、697年女帝持統天皇)に伝来したと信じる多くの日本人は、未だ、7世紀末に30代の壮年として、突然、日本の歴史上に現れた、カスピ海沿岸を支配していた国際交易立国のハザール王国(8世紀、ほとんどの国民は、ユダヤ教に改宗。白いユダヤ人の登場。「旧約聖書」よりも「タルムード」を熟読する。)を租国とする、藤原不比等(藤原日本史で、645年「大化改新」物語で活躍した不比等の父とする中臣鎌足は、架空の人物。その根拠は、「大化改新」は、朝鮮半島の「ヒドンの乱」のコピーだからだ。)の作為と述作(マインドコントロール)のなかにいる、と言っても過言ではないようだ。
藤原氏一族が、日本列島の先住民であった騎馬民族の歴史を抹殺するために創作したものには、「旧約聖書」と「日本書記」の天地創造物語、ユダヤ教の神ヤハヴェと騎馬民族の王テングリの天皇から現御神(明治革命後、現人神に変身)に改竄された天皇は共に絶対神、ユダヤ教儀式と中臣神道儀式、苦しむ民を救うキリスト物語を語るパウロと親鸞物語を語る蓮如などのように、ユダヤ教やユダヤ・キリスト教の思想や物語と酷似するものが多くあるのは、そのためだ。
唐帝国の李世民が、東アジアの歴史を述作した3世紀半ばから6世紀までとは、日本列島では、騎馬遊牧民族が活躍していた古墳時代だ。
その5世紀からの古墳の埋葬物は、鏡や土器製食器などの日常生活物から実戦用鉄製武器・馬具類に替わっていく。そして、日本海沿岸の東北各地の湊を起点として、道幅12mの直線道路の北陸道、東山道、東海道が、近畿一帯で合流し、そこから更に、山陽道、山陰道を経由して、北九州まで延びている。何故なのか。それは、ユーラシア大陸で、新たな騎馬遊牧民族の勃興と関係があったからだ。
藤原日本史では、中国史料にある「倭の五王」の、漢語名の讃、珍、済、興、武が大和朝廷を支配していたとする、そして、奈良時代の713年好字令以降による「倭の五王」の漢字二文字の日本名の仁徳天皇から、反正天皇、充恭天皇、安康天皇、雄略天皇までの4世紀から5世紀にかけて、東ユーラシアでは、鮮卑諸族の南下でがらあきとなったモンゴル高原では、ペルシャ系の東胡の苗裔であったと伝わる柔然(じゅうぜん)という遊牧集団が浮上した。
柔然は、勿論、漢字音写であるが、蠕蠕(ぜんぜん)、茹茹(じょじょ)などとも称されていたが、それらは漢民族による蔑称だ。
402年、社崙(しゃろん)という遊牧民の族長が、外モンゴリアに進出した。社崙は、西はカラ・シャフルから、東は朝鮮半島、北はバイカル湖、南は甘粛の北までの草原統一に成功した。そして、社崙は、それまでの遊牧集団を、匈奴遊牧国家以来の伝統となっていた十進法体系の軍事、行政、社会組織に再編した。
このことにより、モンゴル草原を統一し、遊牧民国家となった柔然の王となった社崙は、みずから、丘豆伐可汗(きゅうとうばつかかん)と名乗った。これが、後のカガン・カンの称号の初出だ。カガン・カンとは、漢民族文化と融合していた、騎馬民族拓跋部が支配する北魏での皇帝を意味した。
この後、カガン・カンの称号は、チュルク・モンゴル系を初めとする中央ユーラシアの騎馬遊牧民族国家において、君主、王侯、首長、領袖を表わすタイトルとなっていく。
柔然国家も、匈奴国家と同じように、タリム盆地のオアシス諸都市を接取した。それは、東ローマ帝国との絹馬交易を見据えての行動だ。
華北の分立国家を、439年北魏がほぼ統一すると、華北上の草原地帯を支配する柔然は、東ローマ帝国との絹馬交易をおこなっていた北魏とは宿敵関係となった。
絹の主な生産地は華南だ。柔然が、絹を求めて華南へ到達するには、宿敵国の北魏の支配地である華北を通過しなければならない。そこで、柔然は、絹を求めるため、中央アジア、チベット、モンゴリア、華北に囲まれた青海地方を経由するルートで、華南と連絡をとることさえしていた。しかし、青海地方に到達するには、広大な砂漠や高峰山脈を越えなければならなかった。そこで、柔然は、華南に至る別ルートを開拓しなければならなかった。
軍事力を持つ遊牧民と経済力を持つオアシス通商民との共生関係は、紀元前2世紀、突然、東ユーラシアを短期間のうちに統一した、騎馬遊牧民族国家の匈奴からあった。その匈奴国家の経済を裏から支えていたのは、紀元前6世紀ダリオスが支配するペルシャ帝国領地に居住していた、アラム語を祖語とするソグド語を話すソクド国際商人が存在していた。国際商人は、取引先を求めて地の果てまでも旅する民族だ。
馬を乗りこなす騎馬民族には、鉄製の轡を製造する産鉄民族が従属していた。その産鉄民族の配下には、鉄製造のための大量の資材を広域から輸送するための、「船」と「馬」による大輸送集団が存在していた。産鉄民族は、鉄資源と燃料である木を求めて、はるか彼方の諸国まで、「船」と「馬」により移動していた。
バイカル湖を船で航行する技術を持つ「船」による物流輸送民族には、極東の、時計の逆周りの海流がある内海(日本海)を航行することは可能だ。ユーラシア大陸の極東の湊ウラジオストックから、日本列島に向けて多くの船団が、日本列島の出雲から東北地方までの湊に渡来していた。
サハリン、北海道、本土、九州、沖縄諸島、台湾などの島々は、柔然の経済を支えるソグド国際商人にとっては、絹生産地の華南に到達するための、ユーラシア大陸と華南を結ぶ、「船」と「馬」の輸送集団の回廊だったのだ。
出雲以北から日本海の東北沿岸には、巨木文化の遺物・遺跡が多く発掘される。出雲では、三本柱を束ねた巨木遺物が発掘された。マスコミでは、それは古代の神殿の柱だと報道していたが、年代的には鎌倉時代のものだった。
その鎌倉時代とは、藤原日本史では、モンゴル帝国の国書を焚書したり、国使を惨殺して国交断絶したように描写しているが、史実は、モンゴル帝国による国際的自由交易の時代で、日本に南宋から亡命して来た禅僧が、国際交易に活躍していた時代だった。禅僧が、モンゴル帝国との国際交易で活躍できたのは、モンゴル帝国の国際海洋交易システムは、ヨーロッパやインドとの国際交易をおこなっていた南宋国の海洋交易シスタムをそのままそっくりモンゴル帝国が受け継いでいたからだ。
因みに、神社(もり)や神殿は、神話時代からのものではなく、古墳時代が終わった、奈良時代に発明されたものだ。その根拠は、由緒ある神社や神殿の下には、古墳の石室が眠っているからだ。一例として、近江の白鬚神社の岩戸社の下には、今でも、古墳の石室が眠っている。白鬚神社の岩戸社は、古墳を破壊した跡に建てられたものだからだ。
その出雲の巨木遺物は、無批判に「日本書記」を日本列島史の基礎資料とするマスコミが述べるように古代神殿の構造物などではなく、古代の灯台の構造物の一部だ。昼は狼煙、夜はかがり火を焚いて、航海の安全を目的に築造されたものだ。日本海沿岸の出雲から東北に向けて、ウラジオストックから渡来する船舶は、それらの古代の灯台を目指して航行していたのだ。
紀元前3世紀、秦帝国の始皇帝を騙して、蓬莱国(日本列島)に3000名の童女や多種の技術者を乗せた竜骨を持つ外洋船により渡航した、徐福が存在していたように、外洋を航海する集団は、紀元前13世紀フェニキアの海洋民族がペルシャ湾から南インドまで航行していたタルシシ船が存在していたように、古来から存在していた。
柔然国家が成長・発展していた頃、5世紀から6世紀なかば、中央アジアでは、エフタル、漢語文献では悒怛(ゆうたん)と通称される、イラン系の言語を使う遊牧民の軍事集団が強大となっていた。
エフタルの本拠地は、アフガン・トルキスタンであったが、更に、インド要地ガンダーラ(古代名アレキサンドリア・紀元1世紀、大乗仏教の無数のギリシャ語経典が、ガンダーラ(アレキサンドリア)で発明されたように、ギリシャ語の「新約聖書」も、エジプトのアレキサンドリアではなく、ガンダーラ(アレキサンドリア)で発明された。ブッダ物語とキリスト物語が酷似しているのは、共に、ガンダーラ(アレキサンドリア)で発明されていたからだ。)には、チュルク語で王子、諸王などの意味のテギンを付けた、エフタル・テギンと呼ばれる王子が率いる軍団が駐留していた。
なお、この頃の、大乗仏教の盛地であったガンダーラは、衰退していた。それは、エフタルによる破壊が原因ではなく、国際交易ルートの変化によるものだった。
こうした状況に、5世紀の末、もうひとつの勢力が浮上した。東の柔然と西のエフタルとの間、アルタイから天山にかけての地域に、高車族による独立の遊牧国家が出現した。
高車族とは、他称で、高々とした車輪の馬車を使用していたからだ。その高車族の中核集団は、チュルク系で、匈奴統一以前の丁零(ていれい)に遡るとされる。高車族は、柔然という遊牧連合体が成立した時、いったん服属されられたが、阿伏至羅(あふくしら)を指導者に西方に移動し、柔然と戦闘状態の北魏と連絡をとりつつ、柔然とエフタルの間隙に独立建国をしたのだ。高車国は、純チュルク系の遊牧民としての最初の国家だった。
5世紀の草原世界は、東のチュルク・モンゴル系の連合体の柔然、チュルク系の高車、イラン系のエフタルの三種の遊牧国家が鼎立していた。
その三国を、東には拓跋国家の北魏、そして、西には重装備騎兵を主要な軍事力としたササン朝ペルシャとが挟み込んでいた。更に、南中国の南朝と、東地中海地域の東ローマ帝国も、その五カ国と角逐しあっていた。

この東アジアと東地中海地域との「絹馬」の国際交易がおこなわれていた5世紀、日本列島では、藤原日本史の基本史料の「日本書記」では、氏とその社会的地位を表わす姓(かばね)が、一定の職務を持って大王に奉仕する親族集団として成立していた、とする。その氏姓の呼称の定着は、まず倭王権力を構成する畿内豪族から始まった、とする。そして、5世紀のトモ(伴)から、6世紀には、部民制が倭国に導入された、とする。
では、その部民制の「部」とは、何か。そして、それはどこから導入されたのか。この問いの答えは、「日本書記」にはない。それは、「日本書記」に書けないのではなく、書かないのだ。書けば、5世紀の東アジアと日本列島とが、騎馬民族を媒介として連動していることが、バレルからだ。
藤原日本史の5世紀の国際的できごとのハイライトは、「倭の五王」の活躍だ。
413年倭王讃、東晋に遣使。
421年倭王讃、宋の武帝より除授。
425年司馬曹達、宋に入貢。
430年宋に朝貢。
438年倭王珍、宋に朝貢。安東将軍の号を得る。
443年倭王斉、宋に遣使。
460年倭王興、宋に遣使。
462年倭王斉死、その子興、宋に遣使。
478年倭王武、宋に遣使。
この年表を見て、何か不思議を感じることはないか。
5世紀の東アジアの歴史図を見てみよう。すると、北方の草原地帯に「柔然」、その下の華北に「北魏」、そして、その下の華南に「宋」が位置していることが分かる。倭の五王は、何故、「柔然」や「北魏」に朝貢しなかったのか。そもそも、倭の五王は、何故、華南の「東晋」や「宋」に度々朝貢していたのか。
華南といえば、「柔然」が絹の交易を望んだ国だ。「柔然」は、華南との交易の為に青海地域の交易ルートを開発するほど、絹の入手を望んでいた。勿論、東ローマ帝国と絹馬交易をおこなっている「北魏」も、そうだ。しかし、「宋」と「北魏」は度々紛争を起こしている。
その「柔然」も「北魏」も騎馬民族の支配国だ。騎馬民族は、ピラミッド型の組織ではなく、小さな集団の連合体だ。その集団のひとつが、血縁・地縁で結ばれた「部」だ。「部」とは、騎馬民族の構成集団の単位のことだ。因みに、「北魏」は、騎馬民族の拓跋部(漢姓元氏。禿髪氏の漢姓源氏の主人格。)が支配者だ。では、「宋」はどうなのか。「宋」は農本主義の国なので、「部」の存在はないに等しい。
藤原日本史で、日本列島の5世紀から6世紀にかけて、部民制が導入されたとの記述は、5世紀から6世紀にかけて、「柔然」の騎馬民族が、シルクロードを行き来するソグドの国際交易商人と伴に、「部族」を引きつれ、日本列島の日本海沿岸の各地へ渡来した史実を、捻じ曲げた物語だ。
その5世紀の日本列島各地では、「北魏」と「柔然」とが覇権を争そっていた東アジアと連動するように、「北魏」の進駐騎馬軍団と「柔然」の進駐騎馬軍団との熾烈な戦いが繰り広げられていた。勿論、朝鮮半島三国の「高句麗」、「百済」、「古代新羅」も、進駐軍により、日本列島各地にコロニーを築いていた。しかし、「日本国の軍団」は、5世紀には存在しない。それは、「日本国」は、7世紀末に創られたからだ。
これらの戦いの結果が、4世紀の祭祀道具が埋葬された古墳から、5世紀から実戦用鉄製武器と実戦用馬具が埋葬される古墳が出現した理由だ。
日本列島は、紀元1世紀以前より、南方系の民族が、水田稲作と養蚕のために渡来していた。その根拠は、水田稲作の技術用語の多くはタミル語で、そして、日本列島に持ち込まれたポンピックス・モリ種の蚕の原産地は、北方ではなく、南方だからだ。
紀元1世紀、東ローマ帝国が絹を金と等価交換で求めたため、日本列島は、東アジアの国々の養蚕の植民地となっていた。温暖な気候で、桑の育成が容易な日本列島では、何処の地域でも、養蚕は可能だ。その結果、東ローマ帝国と東アジアを結ぶシルクロードは、日本列島まで延びていた。その日本列島のシルクロードの終着点は、京都ではなく、群馬県だ。
群馬県は、1872年富岡製糸場が、明治革命の黒幕であるイギリス東インド会社のフリーメーソン組織により開業されたが、古代より絹の集散地として栄えていたからだ。それは、群馬県は、ひとつ山を越えれば、新潟県だ。日本海沿岸の各湊からのユーラシア大陸への海上ルートは、糸魚川の翡翠が中国皇帝へ献上されていたように、縄文の古代から開発されていた。
群馬県が古代から栄えていたとするその根拠は、畿内では標準とされる葺石された古墳が、関東で一番多く存在しているからだ。栃木県24基、埼玉県16基、茨城県8基、東京都3基、千葉県2基、神奈川県0基、しかし、群馬県は、131基だ。
騎馬民族が活躍した古墳時代、高原地帯の群馬県は、騎馬遊牧民族にとって、格好の夏営地だった。そして、冬営地は、群馬県の高原地帯の麓である荒川と利根川(藤原氏の傀儡関白豊臣秀吉により、1590年源氏長者(源氏一族の棟梁。北魏の騎馬民族である禿髪氏を租とする源氏の漢姓は、平安時代に日本列島に導入され、814年嵯峨天皇の皇子達を源氏と賜姓した。嵯峨源氏・醍醐源氏が廟堂を支配していた時代、「表の軍団」の棟梁であった。しかし、藤原氏の陰謀により、嵯峨源氏・醍醐源氏一族が廟堂を追われると、「影の軍団」(野に下った武士→野武士。藤原日本史では山賊とする。)の棟梁となる。藤原氏は、日本列島各地の夏営地の山々に分散した「影の軍団」を支配するために、村上源氏、清和源氏(藤原氏の私兵、969年出自不明の満仲なる人物の密告により、源氏長者の醍醐源氏源高明が廟堂を追放され、ここに、嵯峨源氏・醍醐源氏一族は滅亡し、藤原日本史から姿を消す。清和源氏は、その密告者満仲を租とする。が、史実は、清和源氏とは、清和天皇の皇子、宮中で醍醐源氏の子息を殴り殺した陽成天皇の皇子に「陽成源氏」を賜姓したものを、「清和源氏」と改竄したもの。)などの「公家源氏」と「武家源氏」を発明し、「公家源氏」を源氏長者とした。藤原日本史では、奈良時代より東北の侵略軍団の征夷大将軍を日本国の軍団長とするが、古墳時代から江戸時代まで、日本列島の真の軍団長は、騎馬民族軍団長の「源氏長者」だった。)となる、関東の世良田部落出自の徳川家康が、多くの大河が流れ込む人も住めぬ関東の湿地帯に移封される以前、利根川は、太平洋に流れ込むのではなく、荒川と平行して江戸湾に流れ込んでいた。関八州を支配する「風の王国」である秦王国の秦氏長者である、弾左衛門により、利根川の川筋が変えられた。)とに挟まれた、辛亥年(471年)と銘記ある鉄剣(藤原日本史では、大和朝廷の雄略天皇から杖刀人首のヲワケに下賜された、とする。)が発掘された埼玉古墳群のある地帯だ。
騎馬遊牧民族は、夏営地と冬営地を行き来するため、恒常的建築物を築かない。だから、食生活の基本は、定着民族の炊事場であるカマドではなく、遊牧民族のイロリだ。カマド文化の西国に対して、東国がイロリ文化であるのは、古墳時代から東国が、騎馬遊牧民族の国であったからだ。
藤原日本史で述べる、5世紀の日本列島で活躍していたとする「倭の五王」とは、仁徳天皇、反正天皇、充恭天皇、安康天皇、雄略天皇など713年以降に、藤原不比等により発明された天皇などではなく、騎馬民族史から述べれば、華南の絹を求めた「柔然」の日本列島進駐騎馬軍団の、中世の「悪党」(悪い人達ではなく、勇者達の意味)を思わせる金メッキの馬具と派手な鎧兜で着飾った将軍達のことだった。

そのユーラシア大陸をまたぐ7カ国の角逐状況も、せいぜい半世紀のことで、6世紀のなかば、ほとんど突如として出現したのが、突厥だった。
突厥とは、チュルクの音訳だ。突厥は、アルタイ山の一帯で柔然連合体に臣属していた。しかし、突厥には、「船」と「馬」による広域物流技術を持った民族を随えた産鉄民族を保持していたため、鉄資源の開発を特徴として、広く他の騎馬民族には知られていた。
6世紀なかば、阿史那氏の土門(万人隊長)が中心となって結束を固め、産鉄技術により、柔然と高車との争いの間で浮上した。
その突厥は、まず、柔然とエフタルに挟まれて、弱体化した純チュルク民族の高車を、546年撃破し、併合した。そして、高車や北魏との長期戦で、連合体としてのたががゆるんだ柔然カガンの阿那壊をも、552年撃破し、モンゴル高原からジュンガル盆地一帯を掌中にした。563年、日本列島を含む東ユーラシア大陸を支配した突厥は、西に向かい、重装備騎兵を主要な軍事力とするササン朝ペルシャとむすび、中央アジアを支配していたエフタルを撃破した。
突厥は、ほんの20年にも満たないうちに、東はマンチュリアから西はビザンツ帝国の北、南はヒンドゥークシュにいたる大図版を実現した。
その要因は二つある。ひとつは、突厥は遊牧民だからこそ、そして、人種、宗教などにこだわらない融通無碍の構造だからこそ、短期間で世界帝国を樹立できた。もうひとつは、シル河とアム河の間を本拠地とする、東ローマ帝国と東アジアとの国際交易を行っていたソグド商人達との密接不可分の関係があったからだ。軍事力を持つ遊牧民と経済力を持つオアシス通商民との共生関係は、以前より存在していたが、突厥とソグドの提携関係は、ユーラシア規模で展開されていたからだ。
535年東西に分裂した北魏は、ふたつの拓跋国家となった。それらが、北斉と北周だ。552年突厥帝国を樹立すると、その二つの拓跋国家北斉と北周は、事実上、突厥の属国となった。
突厥は騎馬民族であるので、柔然と同様、連合体であった。チュルク語で、こうした連合体の政治、社会組織の全体を「イル」と言う。「イル」とは、国家とも言えるが、それは、固定した国家ではなく、ひとびとの塊が移動することにより、国家も移動する、言わば、「風の王国」なのだ。
13・14世紀のモンゴル帝国時代、モンゴル語で国家を表わす「ウルス」は、チュルク語の「イル」と同義語だ。
突厥帝国の君候たちが寄り集まった集合体の国家は、単一統制ではなく、それぞれの領袖たちのひとりひとりが、大小規模の属民と領域をもっていた。その属民は、遊牧民族だけとは限らず、オアシスなどの定住地域の都市民、農民、商人、手工業者などさまざまな人々をつつみこんでいた。
しかし、突厥帝国が、ユーラシア大陸の東西をひとつにまとめていたのは、せいぜい30年ほどのことだった。583年突厥帝国は、東西に分裂した。草原世界は、東突厥がモンゴル高原を本拠地とし、西突厥は、中央アジアと西北ユーラシアをおさえていた。
この突厥帝国の東西分裂は、拓跋国家の北斉と北周に幸いをもたらした。568年北周は、突厥王族阿史那氏を皇后に迎えた。突厥の影響下での北斉と北周との攻防戦は、再三の北周側の攻勢が実り、577年北斉の首都は陥落した。
華北統一をなしとげた北周の武帝は、578年突如他界した。そして、その実権は、581年、外戚の楊堅に移った。楊堅は、帝位に就くと、世伝の爵位である随国公に因んで、随朝と称した。
不正な手段で、随の文帝となった楊堅は、北周王室の復活を恐れて、宇文一族を殺害しまくった。対外政策では、強大な突厥と直接事をかまえるのを避け、突厥帝国のひび割れを誘導した。583年突厥帝国が、東西に分裂したのは、随の文帝の離間策の結果だった。突厥帝国の東西分裂騒ぎで動きの取れない間隙を利して、文帝は、南伐に打って出た。その結果、589年中華本土は、政治統一された。
突厥と拓跋国家との関係は、一方が順調な時は、他方が不調になる、ということだった。
随朝は、2代目の煬帝(ようだい)の時、東ローマ帝国と東アジアとの西方交易を掌握する青海地方の吐谷渾(とよくこん)をおさえ、更に、東へ向かい、マンチュリアから朝鮮半島北部の高句麗を討とうとした。しかし、3度におよぶ高句麗遠征の失敗から、618年、随朝は崩壊した。かくして、最後で、最長の騎馬民族が支配する拓跋国家が、618年唐朝として興った。
618年李淵、李世民父子が、駐留地の山西の大原から、随の帝都長安に入り、政権を奪取した時、東突厥の騎馬軍団に支えられていたのは、事実だった。つまり、成立当初の唐朝は、ふたたび強力となっていた東突厥の属国だった。
この史実は、漢民族文化に染まった騎馬民族末裔、唐帝国の太宗となった李世民には知られたくない歴史だった。そのために、李世民と高宗父子は、東アジア、特に、騎馬民族が支配者となって活躍した歴史を改竄した。
南北朝については、王朝ごとに南朝の「梁書」、「陳書」、北朝の「北斉書」、「周書」、「隋書」を編纂した。
太宗期には、「梁書」、「陳書」、「北斉書」、「周書」、「隋書」の五代史を編纂した。そして、646年には、「晋書」を編纂した。
高宗期には、「南史」と「北史」が完成した。
中国正史とされる「史記」から「明史」までの24史のうち、8の正史が、この唐朝初期の太宗・高宗父子によって編纂されていた。

この日本列島をも含む東アジアだけではなく、ユーラシア大陸を支配した突厥帝国と、東アジアの華北を支配していた拓跋国家の北斉、北周、随朝、唐朝との歴史関係から、藤原日本史を覗いて見ると、そこには、物部氏、蘇我氏、聖徳太子、推古天皇などが活躍する、奈良時代に藤原不比等が作述した、飛鳥時代物語の「ウソ」が分かるようだ。藤原日本史で述べる飛鳥時代、つまり、騎馬民族史では、古墳時代後期とは、東ローマ帝国との国際交易の舞台であるユーラシア大陸を支配していた突厥軍が、日本列島で活躍していた時代だった。
突厥が、西魏と通交したと歴史上に現れた545年から、東突厥が、唐帝国軍団に蹴散らされた630年後まで、藤原日本史ではどのような事績があったのか。

552年、百済の聖王、仏像及び経論を献ず。★ユーラシア大陸を支配下に置いた突厥帝国興る。
★568年、東ローマ帝国の返使ゼマルクス、突厥庭(草原の幕屋→幕府。騎馬民族の司令部)に入る。
★581年、楊堅、随朝を興す。
★582年、突厥、随朝に侵入。
★583年、楊堅の作術により、突厥が東西に分裂。
★584年、随朝、突厥を攻撃し勝つ。
585年、崇仏派の蘇我氏との神仏論争の結果、廃仏派の物部守屋、仏寺を焼き仏像を投棄。
587年、蘇我氏、神仏戦争で物部氏を滅ぼす。
588年、蘇我馬子、法興寺(飛鳥寺)着工、596年完成。
★589年、随朝、中国を統一。
592年、蘇我馬子、崇峻天皇を暗殺。
593年、女帝推古天皇即位。聖徳太子、摂政となる。四天王寺創建。
600年、随に使を出す。(「隋書」では、倭国の男王アマタリヒコが、隋帝の煬帝に国書を出したことになっている。)
603年、官位十二階を制定。
604年、憲法十七条を制定。初めて、暦日を用いる。
607年、敬神の詔。国ごとに屯倉を置く。小野妹子を随に遣わす。法隆寺創建。
608年、隋使裴世清、小野妹子を伴い来朝。(「隋書」によれば、「隋使裴世(藤原日本史では、裴世清)は倭国の男王に謁見した、と煬帝に報告した。」、とある。)小野妹子再び入随。
609年、小野妹子帰朝。
★618年、随亡び、唐興る。
620年、天皇記、国記などの撰。
621年、新羅初めて朝貢。
622年、聖徳太子逝去。
626年、蘇我馬子死去。子蝦夷大臣となる。
628年、女帝推古天皇崩御。(812年、多人長(太安万侶は多臣の租)が作成した、奥付に和銅5年(712年)とある、720年完成の「日本書記」の引用文の「一書、一曰、旧本、一本、別本、或本、一伝」にいちいち反論する「古事記」は、女帝推古天皇物語で、わずか40文字程度の記述で終わる。)
★630年、唐帝国軍により東突厥散ず。犬上御田鍬を唐に派遣。遣唐使の初め。
643年、蘇我入鹿、山背大兄王とその一族を滅ぼす。
645年、中大兄皇子、中臣鎌足(藤原不比等の父?)の策謀により蘇我氏滅ぶ。大化の改新始まる。天皇記、国記を蘇我蝦夷が焼く。

藤原日本史の「日本書記」での飛鳥時代のハイライトは以上記したものだ。この藤原日本史を、他の史料で否定することは出来ない。それは、645年蘇我蝦夷が、天皇記と国記を焚書してしまったからだ、とする。
しかし、仏教の黎明期とする飛鳥時代以前の遺跡・遺構から、その藤原日本史の飛鳥時代物語に疑問を投げかけるものが、二箇所で出土していた。
ひとつは、596年完成とする法興寺の遺構だ。昭和31年から翌年にかけて発掘された塔の心礎から、硬玉、碧玉、瑪瑙、水晶、金、銀、ガラス玉(トンボ玉)、金の耳飾などが出土していた。これらの物品は、ギリシャ・ローマ文化継承の古代新羅の都慶州の丸山古墳(円墳)から多く出土するものだ。つまり、日本初の仏寺とされる法興寺(飛鳥寺)は、古墳を破壊した跡に、北九州から移築されたものだ。
そして、もうひとつは、626年死去したとされる蘇我馬子の墓、とされる石舞台古墳だ。昭和8年から2年にわたって発掘調査が行われた結果、石舞台古墳は、周濠を備えた一辺50mの「方墳」であることが判明した。
何故、石舞台古墳は、奈良盆地で多く造られていた前方後円墳ではなく、出雲地域から北陸にかけての日本海沿岸に多く造られていた、「方墳」なのか。発掘調査の結果、石舞台古墳は、6世紀後半から末頃に造られた7つの小円墳を壊して、7世紀前半の造営と推定された。
つまり、これらのことにより、6世紀末期まで明日香ヤマトを支配していた円墳墓制の北九州・瀬戸内海沿岸支配民族が、7世紀前半には、方墳墓制の出雲・北陸支配民族に敗れていた、ということが示唆される。
因みに、「円墳」は、3世紀末から、朝鮮半島南端、北九州、瀬戸内海沿岸を経由して、畿内に多く造られていた。藤原日本史では、古墳時代が終わったとされる奈良時代でも、東国の陸奥国の北上川一帯では、ユーラシアの騎馬民族の武器と同型の蕨手刀(日本刀の租)、ガラス玉や金製品の腕輪・耳飾りなどを埋葬した、多くの小型円墳が造られ続いていた。
藤原日本史の基本史料である「日本書記」によれば、飛鳥大和では、4世紀には、「大和朝廷」により天皇家の墓として巨大前方後円墳が造られていたのではないか。では、7世紀前半に、方墳を築いていた民族は、一体、何者なのか。しかし、「日本書記」は、古墳時代後期の史実を語らない。
この二つの遺跡・遺構から推測できることは、藤原日本史では蘇我氏とされる部族長が、飛鳥大和(騎馬民族史では、明日香ヤマト)地域を支配する以前、古代新羅と通ずる部族が暮らしていた、ということだ。
しかし、古代新羅が、「日本書記」では、621年新羅初めて朝貢、とあるように、それ以前まで国交のない憎き敵国として描かれているのは何故か。
現在の「日本書記」の研究では、「日本書記」は、巻1「神代上」から巻30「持統紀」まで、年代順に書き上げられたものでないことが分かった。「日本書記」は、巻14「雄略紀」と巻24「皇極紀」から書き始められていたのだ。
何故、「雄略紀」と「皇極紀」から書き始められたのかは、藤原日本史での「雄略天皇」の統治時代とは、5世紀、「騎馬民族征服説」が説くように朝鮮半島から北九州へではなく、ユーラシア大陸から日本海沿岸の出雲・北陸を経て日本列島各地への騎馬民族軍団が出現し東国を支配し、そして、「皇極天皇」の統治時代の7世紀半ば(645年)では、明日香ヤマトを支配していた騎馬民族の突厥が散逸されていたからだ。つまり、「日本書記」の企画意図のひとつは、柔然や突厥などの騎馬民族軍団の日本列島渡来の史実を隠蔽することだった。
そのためには、騎馬民族を歴史上から抹殺するトリックが必要だった。それが、騎馬民族突厥を蘇我氏として抹殺する「大化の改新」物語だ。「大化の改新」で幕を開ける孝徳朝の成立を説明するために、始めに「皇極紀」は書かれたのだ。「大化の改新」は、皇極朝の蘇我入鹿の暗殺が契機となっているので、「大化の改新」の経緯は、巻24「皇極紀」から記述されなければならなかった。
その根拠のひとつとして、「暦」がある。「日本書記」には、604年始めて暦日を用いた、とある。そして、持統4年(690年)初めて元嘉暦と儀鳳暦とを行う、とある。
しかし、元嘉暦は、柔然の騎馬軍団とソグド国際交易商人とが日本列島を交易回廊として、「船」と「馬」で往来していた宋の元嘉22年(445年)に施行されていた。そして、その華南の宋の元嘉暦は、まもなく、東ローマ帝国と宋の間を行き来していたソグド国際交易商人などにより、倭国各地にも伝わっていた。
一方、儀鳳暦は、「麟徳暦」と呼び、唐の麟徳2年(665年)に施行され、儀鳳年間(676年〜679年)に「統一新羅」へも伝わり、次いで、初めて「日本国」が明日香ヤマトに生まれ、日本初の天皇である天武朝へも伝来したものだ。それは、つまり、「統一新羅」と天武朝の「日本国」とは、兄弟国だったからだ。
この古い元嘉暦ではなく、新しい儀鳳暦により、巻3「神武紀」から巻13「安康即位前紀」までは暦が推算されている。しかし、巻14「雄略紀」の前史となる康元年以降は、古い元嘉暦を用いている。それは、何故か。
「日本書記」の参考史料は、漢籍の「史記」「漢書」「後漢書」「三国志」「梁書」「随書」「芸文類聚」「文選」「金光明最勝王経」「淮南子」と、唐進駐軍の支配下となった郡司から提出された「墓記」、そして、「日本書記」の文注に引用された「百済記」「百済新撰」「百済本記」などだ。反新羅に絡む百済関連の記事が、平安時代の百済系桓武朝に挿入されていたことは、他の文体に比べて、字音仮名が古色を帯びて異なっていることから分かる。
「日本書記」創作時の参考書籍である、古墳時代の歴史を記した「墓記」は、古墳時代中期の4世紀から5世紀の歴史が書かれていたようだ。それは、丁度、元嘉暦が、ソグド国際商人などにより、日本列島各地で使用されていた時代だ。この頃の日本列島は、戦国の時代でもあったことは、古墳からの出土品により説明される。
この時代の古墳のひとつである、さきたま古墳群にある、前方後円墳の稲荷山古墳から出土の、辛亥年(471年)とある鉄剣銘の一部の漢字アルファベットの表記「獲加多支鹵」(ワカタケル・大王の名)「獲居」(ワケ)「足尼」(スクネ・騎馬民族語で勇者の意味)は、古代新羅語音(郷札・漢字アルファベット)の声調によって、倭国語(ウラル語系突厥語+多国語)のアクセントで表記されている。
この元嘉暦が使用されていた日本列島の諸国が、華南の宋と交易があったことは、その漢字アルファベット(万葉仮名)の発音で分かる。
漢字の発音は、大きく分けると呉音と漢音とがある。呉音は、4世紀〜6世紀の南朝音を母胎としている。それに対して、漢音は、7世紀〜9世紀頃の唐代北方音を母胎としている。それらは、同じ漢字でも、発音が全く別だ。例えば、

呉音:会(エ)人間(ニンゲン)兄弟(キョウダイ)和尚(ワジョウ)
漢音:会(カイ)人間(ジンカン)兄弟(ケイテイ)和尚(カショウ)

などだ。因みに、和尚を、現代では(オショウ)と発音するのは、13世紀、モンゴル帝国に敗れた南宋の禅僧が、鎌倉時代の日本国に亡命し、国際商人となりモンゴル帝国から輸入の書画骨董の売り捌き先の武家社会に、杭州音を伝えたからだ。
呉音と漢音との発音の違いは、呉音の全濁音の有声要素が、漢音では「無声音化」したことだ。そして、呉音の鼻濁音が、「非鼻音化」で濁音となったことだ。このことは、鼻濁音のヅーヅー弁の東北弁と、鼻濁音のない京都弁で説明できる。
日本列島への渡来民族の順序は、鼻濁音民族(出雲民族・東北民族)が先で、非鼻濁音民族(京都民族=亡命百済民族)が、後から渡来したことがわかる。このことは、奈良時代末期までの儀式は呉音でおこなわれていたのに、漢音で即位儀式を行った百済系桓武天皇は、延暦年間(782年〜806年)に、学生や僧侶たちに正音(漢音)奨励の詔勅を下したが、ついに、和音(呉音)を駆逐できなかった。平安時代、高名な学者でも、正音で漢字を読めたとは限らなかった。
平安時代が、民族的にも、それまでの古墳文化と異なっていたことが、発音だけではなく、文字でも分かる。
奈良時代までは、漢字アルフアベット(万葉仮名)に上代特殊仮名遣いの書き分けがあった。87種類の書き分けがあったのが、平安時代になると、50音図の枠組みとなってしまった。平安時代中期になると、47文字とその濁音の合計67音となるが、87音には届かない。だから、平安時代の貴族は、「万葉集」が読めなかった。
その平安時代初期の貴族は、桓武天皇により、唐の山東半島に亡命していた百済貴族を京都に移住させた者達だった。更に、その「万葉集」は、呉音系であったので、平安貴族には外国語の詩のようだった。
因みに、「日本書記」は漢音系で、「古事記」は呉音系だ。その「古事記」の太安万侶の序文は、和文(北方騎馬民族語のウラル語文法)ではなく、倭習の少ない立派な漢文だ。そして、「古事記」が、奈良時代ではなく、平安時代に著された根拠のひとつは、奈良時代にはない、「も」の文字の書き分けがあることだ。812年「古事記」を著わした、太安万侶ではなく、多人長は、平安時代の万葉語学者だったからだ。
このように、「日本書記」を別の角度から見ると、その騎馬民族史隠蔽のカラクリが分かる。
もともと、神ではなく、ひとが創作したもの全てには、少なからずの誤りがある。「日本書記」にもある。それが、日本列島の北陸に渡来した騎馬民族軍団が、明日香ヤマトを目指した歴史を、継体天皇などという天皇を発明して、その隠蔽物語を「日本書記」に挿入したことだ。
その根拠は、「継体紀」の、男大迹天皇曰、「大臣大連・将相諸臣、咸推寡人。寡人敢不乖。」乃受璽符。、の文章だ。この継体天皇が、即位を受諾する様子を描いた文章は、「不敢乖」と記さなければ、即位を拒否する意味となってしまう。
何故、このようなミスを著者は行ってしまったのか。それは、後人により、「漢書」文帝紀の即位記事「寡人敢不承受璽符」を引用したが、挿入著者が、漢文法を良く知らなかったためだ。
しかし、もうひとつの考え方もある。それは、「継体紀」を担当した著者が、「日本書記」のウソ物語を、後人に知らせるために、「継体天皇は即位を拒否した。」、と言うことだ。
では、「日本書記」の飛鳥時代物語がウソならば、古墳時代後期の日本列島では、騎馬民族はどのようにして、臣民を支配していたのか。そのヒントは、「日本書記」にある、「607年国毎に屯倉を置く。」、の記述だ。
藤原日本史によれば、屯倉とは、元々は蘇我氏の経営であったものが、その理由を述べてはいないが、天皇家に進呈され、天皇家の直轄領となった、との説明だ。しかし、この説明は、オカシイ。
騎馬民族史では、日本国の天皇の初は、672年新羅系天武天皇だ。607年には、日本列島の何処にも、天皇など存在していない。更に、約100年間飛鳥大和を、大臣として支配していた蘇我氏などという部族の存在もない。では、ミヤケ(屯倉)とは、天皇家でないとしたら、誰が経営していたのか。そして、それは何んであったのか。
藤原日本史での飛鳥時代の主役のひとり、蘇我氏とは何者だったのか。「日本書記」では、そのルーツを知ることは出来ない。
藤原日本史での蘇我(ソガ)の姓を名乗る最初の人物は、巻12「履中・反正紀」の蘇賀満知宿禰で、次には、巻14「雄略紀」の蘇我韓子宿禰で、その次が、巻18「安閑・宣化紀」の大臣就任を伝える蘇我稲目だ。しかし、その3名のソガの系譜関係について、「日本書記」は、何も語らない。
藤原日本史では、雄略朝に、蘇我氏が3種類の斎倉(祭祀用)・内倉(朝鮮半島からの貢物用)・大倉(国内用)の管理を任された、とある。しかし、この3倉は、屯倉とは、異なるようだ。それは、屯倉の説明では、屯倉とは、大和政権の直轄地のことで、耕作地もあれば、政治的、軍事的拠点でもある、とあるからだ。
その屯倉は、「日本書記」には、全部で60余の名前が記されて、全国的にひろがっているものだ。その全国に屯倉が設置された時期は、前方後方墳が前方後円墳に統一される時期と一致している。何故だ。
藤原日本史の説明では、各地の国造(唐進駐軍の配下となった古墳時代の有力地方豪族)の支配領域を割り取るかたちで、大和王権は、屯倉を全国に拡大していった、と云う。
そして、この全国に屯倉が拡大されて行く以前、大和王権に従属する中央・地方の土着豪族が、大和王権の承認のもとに一定範囲の人民を所有し、それを前提として大和王権に対して各種の奉仕義務を負ったと云う部民制が整備されていた、と云う。
藤原日本史では、飛鳥時代に蘇我氏が頭角を現したのは、その天皇家の経済的基盤である屯倉経営に対する貢献において良く現れている、と云う。
その蘇我氏が関与した主な屯倉とは、白猪屯倉(吉備国)、児島屯倉(吉備国)、韓人大身狭屯倉(大和国高市郡)、高麗人小身狭屯倉(大和国高市郡)、海部屯倉(紀伊国)などだ。その吉備国にある白猪屯倉の設置には、蘇我稲目は何度も訪れていた、と云う。
そして、屯倉では、戸籍が作られ、農地と農民一人一人を正確に把握した農業経営が行われていた、と云う。その屯倉の直接の運営は、白猪史(ふひと=通訳)などに代表される渡来人だった。そして、その渡来人の運営による屯倉では、飛鳥戸○○、春日戸○○のような名前をもつ渡来人が多く暮らしていた、と云う。
その屯倉設置の代表者である蘇我氏には、軍事、高度土木事業、高度建設事業を行う、倭漢氏などの渡来民族が配下として存在していた、と云う。
これらの藤原日本史が述べる屯倉の描写を、騎馬民族史から眺めると、そこには、天皇家の直轄地ではない、遊牧民族が支配する「国」(都市国家)が現れるようだ。
遊牧民族国家は、紀元前7世紀のスキタイに始まる。遊牧民国家は、全て遊牧民族で構成されていたわけではない。草原で暮らす遊牧民族が、その騎馬による武力と情報力とにより、農耕民族、漁労民族、商業民族、手工業民族、祭祀民族(芸能民族)を取りまとめていた集団の塊だ。
この遊牧騎馬民族による国運営の流れに、明治初期まで存在していた、弾左衛門を秦氏長者とする、鎌倉時代まで、長吏、座頭、舞々、猿楽、陰陽師、壁塗、土鍋、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋、などの遊行する芸能民を支配下に置いていた、北関東の「風の王国」がある。
国家警察が存在していない古代、中世では、各個人の武力が正義だった。だから、そのより強力な武力の庇護を求めて、多くの民族が騎馬民族の下に集まってきた。古代、中世から鉄砲が発明される14世紀まで、地上最強の武力は騎馬民族が保持していた。
騎馬民族が支配する草原では、それらの民族を武力で護るために、その集落地に土壁(城)を巡らせた。これが、漢字の「國」の意味だ。國の文字は、土地+人+囲い+武力で構成されている。集落に囲いはあっても、それを護る武力が存在しなければ、それは、国ではなく、村(近世の農村ではない。)や都市だ。
その騎馬民族スキタイの国家運営法は、東アジアの匈奴、柔然、突厥などの騎馬遊牧民族に受け継がれていった。そして、日本海沿岸の出雲や北陸・東北に渡来した柔然や突厥が、古墳時代の日本列島に、軍事・交易路である北陸道、東山道、東海道を敷設し、華南交易の中継地である九州を目指し西進し、その要所要所に都市国家のミヤケを設置していった。古墳時代の日本列島各地にあった、ミヤケとは、騎馬民族が支配した都市国家だった。
騎馬民族国家の歴史が分かりにくいのは、騎馬民族としての歴史書を持たないことと、塊の集団が移動するごとに、その「風の王国」も移動するからだ。更に、単一王朝を戴くピラミッド型ではなく、状況に応じて離合集散する小さな塊の「部」の連合体であることも、騎馬民族の歴史的存在を証明するのに困難が生ずる。その存在を証明できるものは、史料や地上の建築物ではなく、地下の古墳だけだからだ。
だから、藤原日本史のように、ミヤケを屯倉として天皇の直轄領と「日本書記」で記述してしまえば、それで、騎馬民族の支配国ミヤケが抹殺できるわけだ。いまでも、多くの人は、ミヤケを屯倉として、天皇家の直轄地として理解していることからも、このことが分かる。
しかし、藤原日本史も、デタラメニ歴史上の人物を創作していたわけではない。郡司など支配下においた古墳時代の豪族から、その土地の支配者の歴史や「墓史」などを史料として提出させ、それらの史料を基に、藤原日本史を創作していたのだ。だから、その創作人物を、史実の人物に置き換えることにより、その時代の歴史が復元できるわけだ。
蘇我氏を「突厥」に、物部氏を「古代新羅の花郎騎士団」に置き換えると、以下の藤原日本史の物語の史実をあぶりだせる。
全国に分布している蘇我氏の所有する領有地である蘇我部と、物部氏が所有する領有民の物部が、同一国の同一郡内に重複して存在する例が多いいことは、古代新羅の花郎騎士団が、突厥の支配下に下ったことを物語っている。
その花郎騎士団の根拠地のひとつは、鬼が島で有名な、吉備国だ。この吉備国に、蘇我稲目が、屯倉設置のために度々訪れていた、とする「日本書記」の記述は、突厥が、吉備国にあった古代新羅の花郎騎士団の複数の砦を壊滅して、そこに、突厥が経営するミヤケを設置した、と言うことだ。
古墳時代後期の日本列島各地には、藤原日本史が述べる天皇が統治する大和国家など存在せず、騎馬民族が支配する都市国家が存在していたのだ。

630年第二代唐帝となった太宗李世民は、東突厥支配下の鉄勒(てつろく)、薛延陀(せつえんだ)などのチュルク系諸部族が独立運動を起こしたことに漬け込んで、東突厥の旧属民も、独立を志向した諸部も、ひとしく軍事力と経済力で唐朝のもとに懐柔し、唐朝皇帝をカガンとして臣従するよう求めた。
吐蕃とも和親した唐朝は、アジア東方全体を覆うまでに広がり、太宗李世民は、「天可汗」(テンカカン)(チュルク・モンゴル語のテングリ・カガン)との称号を奉られた。テングリとは、天もしくは天神への崇拝により、遊牧民の王に冠されていた。
このテングリが、7世紀末の明日香ヤマトで、天子(テングリ)から天皇(テンノウ)が発明されたのだ。
642年ササン朝ペルシャは、イスラーム・アラブ軍に敗れ、帝国は解体に向かい、ササン朝ペルシャの遺民たちは、唐朝の庇護を求め、唐朝本国に移住した。
唐朝三代目高宗の時代、657年混乱する西突厥にむけて、多種族からなる西征軍により、西突厥は解体した。この結果、唐朝の勢威はパミールの西にまで達することになった。日本の正倉院にもみられるペルシャ文化の香りは、これに起因する。
657年西突厥の制圧、663年百済を滅ぼし、668年統一新羅と連合して高句麗を滅ぼし、674年ササン朝ペルシャの亡命王子ペーローズが唐にやってきた頃を、唐朝の最盛期とする。
しかし、682年東突厥の旧民たちが、唐より独立し、モンゴル高原を中心に、第二次東突厥を再興させた。旧西突厥領の中央アジアでも、トラルギシュ(突騎施)などが、独自の国家形成をとげた。
したがって、唐の世界帝国状態は、25年ほどだった。30年間の突厥の世界帝国のあと、25年間が唐朝の世界帝国時代だった。つまり、唐朝の300年間が、すべて唐帝国であったわけではない。
アラブの言葉は、「遊牧民」の意味だ。7世紀初め、そのアラブが、イスラームと言う狭い意味の宗教を越えて、政治、経済、文化などを引き連れた「文明形態」を取り入れたことにより、アラブ帝国が、中央アジアに出現した。
7世紀末の世界は、東方の中華帝国の性格を深める唐、中央に離合集散を繰り返すチュルク、西方にイスラームの中東、そして、西陲にささやかなビザンツとフランクが連なっていた。

この唐朝が、ユーラシア一帯で世界帝国として活躍する頃、日本列島では、亡命百済王朝の近江軍と、645年明日香ヤマトを追われていた突厥軍と花郎騎士団との連合軍が、美濃で再結集し、内乱が起こっていた。これが、藤原日本史で述べるところの、672年壬申の乱だ。
藤原日本史では、この壬申の乱を兄天智天皇の子大友皇子と、弟大海人皇子との兄弟闘争のように述べているが、天智と大海人皇子とは、血が繋がっているどころか、天智は百済系で、大海人皇子は新羅系で、異民族だった。
更に、天智は、大海人皇子より4歳年下の「兄?」であった。では、藤原日本史は、「壬申の乱物語」で、騎馬民族史の何を隠そうとしたのか。
その答えは、大海人皇子が、少ない手勢で「美濃」を目指したことで分かる。「日本書記」にも、そのヒントが書かれている。
「日本書記」によれば、吉野に逃れていた大海人皇子は、少ない手勢と供に、馬にも乗らずに美濃に向けて脱出した。一行は、出発してその日のうちに、「ウダノコオリミヤケ」で、米を輸送していた伊勢の駄馬50頭と遭遇し、従者の騎馬のために徴発した、とある。
672年騎馬民族の都市国家である宇陀の「ミヤケ」には、伊勢の馬50頭の大輸送集団が存在していたのだ。その大輸送集団は、米を運んでいたと言うが、何処から何処へ米を運ぶのか。伊勢には、東海道が通過する。その東海道を伊勢から西に進むと、美濃国を通過する東山道にぶつかる。その東山道を東に進むと、諏訪(トルファン)に着く、その諏訪から南下すると甲府に行き着くことができる。これらの諏訪や甲府は、ユーラシア大陸を思わせる広大な草原のある盆地だ。
この東山道につながる木曽には、平安時代末期には、源氏の木曽義仲の騎馬軍団、そして、戦国時代には、諏訪や甲府には、源氏の武田の騎馬軍団が存在していた。
その源氏のルーツは、814年嵯峨天皇から賜姓の嵯峨源氏からではなく、423年北魏を興した、騎馬民族拓跋部の太武帝から、同族の禿髪氏へ賜姓された源氏が初だ。禿髪氏あらため源氏は、北魏王室の分族として、拓跋国家の有力家門に変身し、初代源氏の源賀の孫源彪(ひょう)は、北斉において秦州刺史となり、その子源師民は隋にあって刑部侍郎となり、更に、その孫源乾曜は唐朝の宰相まで登りつめていた。嵯峨源氏は、その禿髪氏の源賀をルーツとし、名前を、源信、源融、源綱のように漢字一字としていた。
そんな山奥の沿道に騎馬軍団が存在していたのは、何故だ。
この謎は、古墳が解明する。
古墳時代の実用的馬具の変遷を分析する過程で、長野県や静岡県などの中部・東海地方に、馬具副葬古墳の分布が著しく偏って集中することが分かった。そして、その分布をみると、後の東海道や東山道に当たるルートに、その集中域が形成されていた。
これは、古墳時代の東国には、藤原日本史が述べるように平安時代まで東国は未開の地ではなく、馬が通交できるほどの、版築され整備された広い路があり、そして、中継地には馬が休息するための「駅」があり、古くから、陸上交通に馬が活用されていた状況が示される。
しかし、4世紀から5世紀初期といわれる古墳時代前期の古墳からは、馬具は出土するが、戦闘用武器の出土はない。4世紀後半には、被葬者に馬の頭を供える殺馬供犠がおこなわれていたことは、山梨県甲府市の方形周溝墓から馬一頭分の歯が発掘されていることから分かる。(諏訪では、明治初期まで鹿の頭が神に捧げられていた。)そして、5世紀初期、長野県茶柄山古墳群からは、30頭分余の馬の遺体が出土している。
これらのことから、長野県、山梨県などの一部では、4世紀から5世紀初期には、馬は日常生活のなかで、当たり前に使役されていた、と考えられる。しかし、この時期の古墳群の被葬者集団は、いずれも武力と直接結びつける材料を欠いている。
しかし、古墳時代中期と言われる、5世紀も中頃を過ぎると、従来の甲冑は、短甲であったものが、470年頃からは、可動式の小札(コザネ)からなる桂甲(ケイコウ)が古墳から出土する。これは、本格的な騎馬戦用甲冑で、日本列島各地で騎馬戦がおこなわれていたことが示唆される。
では、桂甲で身を護る騎馬軍団は、何処から渡来して、誰と戦ったのか。
この珪甲は、ユーラシア大陸の騎馬軍団の装備品であった。470年ユーラシア大陸で活躍していたのは、華南との絹交易を求めていた柔然の騎馬軍団だ。すると、日本列島へ渡来した柔然騎馬軍団と戦ったのは、誰だ。
古墳時代前期の古墳からの出土品から、朝鮮半島南部との関わりが認められる。その朝鮮半島南部から渡来の民族は、九州に上陸すると、今までにない古墳を築く。それが、前方後円墳だ。前方後円墳の東進は、吉備→畿内→東海→関東へと広がった。前方後円墳の北限は、岩手県角塚古墳、46mだ。この前方後円墳の東進は、物流ネットワークとして形成されていた。
しかし、その前方後円墳ネットワークと対峙するものが出現した。それが、前方後方墳ネットワークだ。
前方後方墳のルーツは、出雲・北陸の方墳だ。この出雲では、製鉄に欠かせない砂鉄を原料とするタタラ炉の遺跡が発掘されている。一方、前方後円墳ルートでは、製鉄した塊や鉄製の斧が大量に出土している。兵庫県行者塚古墳からは馬具と供に大型の鉄の塊が出土している。大阪府野中古墳からは、縄で束ねた痕跡がある鉄の塊が出土している。
ユーラシア大陸では、古来から、産鉄民族は、鉄製の轡を作るために騎馬民族に従属していた。
古墳時代中期には、産鉄民族が、「船」と「馬」により、砂鉄や燃料となる薪を求めて、日本列島の山々に馬が通交できる幅広の路を切り開き行き来していたのだ。この「船」と「馬」による物流システムは、港湾施設の近くにも、馬具の出土が集中していることで分かる。重い物資の陸揚げなど、水上交通にも馬が活用されていたのだ。
この前方後円墳ネットワークと前方後方墳ネットワークは、暫くは、共存していたが、前方後円墳の民族と前方後方墳の民族は、戦いの末、古墳時代中期になると、前方後円墳ネットワークに統一されていった。
古墳は何も語らない。が、しかし、「日本書記」の歴史とは異なる歴史を示す。古墳時代の、騎馬民族の都市国家ミヤケは、「日本書記」の「屯倉」により歴史上抹殺された。しかし、ミヤケに隣接する山々には、戦闘時の避難先としての、石垣で山裾を取り囲んだ山城の遺跡が、日本列島各地で発掘されている。
室町時代末期、船方や馬方で生活していた騎馬民族末裔は、古墳時代のミヤケ(都市国家)を再興するために、各地の山々で暮らしていた「風の王国」の武士末裔と、古墳時代から続いていた日本列島に張り巡らされていた物流システムのルートを利用して情報を交換しながら武装蜂起を計画した。それが、1485年山城国一揆、1488年加賀一向一揆と、藤原日本史が述べる実態だ。
室町時代、声聞師や馬方が目指したミヤケ(都市国家)とは、騎馬民族国の礎を築いたササン朝ペルシャのダレイオスが描き、秦王国、匈奴、柔然(古墳時代中期)、突厥(古墳時代後期)へと継承されていた王国だ。
それは、国境を越えて世界をまるごと組織化するために、そして、海への視野を広げるため海軍を創設し、国全土にわたる統一税制と統一度量衡の施行をし、馬による物流のため幅広の幹線道路と駅伝制の整備を行い、広域経済を活性化するために金銀貨幣の鋳造と貨幣経済の本格的導入を行い、そして、国境を撤廃するため政府主導で通商・交易の活性化をおこなう、藤原不比等が創作した「絶対神の天皇」により統治する農本主義国家などではなく、遊牧騎馬民族の部族連合による談合支配の「風の王国」だ。
声聞師や馬方は、日本列島で400年間も続いていた古墳時代からの武人末裔だからこそ、最新式鉄砲で武装するイエズス会傀儡軍の長である織田信長が登場するまで、室町時代末期の東国各地では、100年間も続く「風の王国」を維持できたのだ。
因みに、奈良時代約80年間、平安時代約400年間、鎌倉時代約250年間、室町時代約170年間、江戸時代約270年間だ。
藤原日本史の「日本書紀」による4世紀に飛鳥大和を支配していたとする大和朝廷と、713年以降に古墳時代の人名や地名を、「蘇我馬子」(アマタリヒコ)や「諏訪」(トルファン)など漢字二文字で隠蔽した、藤原不比等のトリックに惑わされることなしに、日本語文法(=北方騎馬民族語文法)の基礎を形成し、そして、「たそがれ」などの突厥語を日本語(ヤマト言葉)として定着させた、ユーラシア大陸から渡来した騎馬民族が活躍していた、古墳時代400年間の歴史を知ることなしに、日本列島の歴史を語ることは出来ないのではないか。

田辺さんのレポートは、ここで終わっていた。オレの頭は、その内容が教科書歴史と全く異なることで、理解不能の箇所が多くあり、大分混乱した。一息つくと、幻視をおこない、そのレポートを田辺さんにメールした。


室町時代、足利氏は、日本列島を統治していたのですか?


田辺さんとは、メールを送ってから7日後にコンタクトできた。

「ナベさん、支離滅裂な幻視レポートで、ゴメンです。」
「室町時代の幻視レポートが支離滅裂なのは、想定内です。室町時代も、鎌倉時代と同じように、謎の多い時代ですから。」
「どういうことですか。」
「藤原日本史では、室町時代は、足利尊氏から足利義昭まで、足利氏が日本列島を統治していたよう描写しています。が、しかし、史実はそうではないようです。」
「鎌倉時代には荒れ果てていた京都の室町に、三代将軍足利義満が幕府を拓いたから、足利氏が、室町時代を支配していたということになりますよね。」
「足利権力は、足利嫡統家のみに絞り込まれた単層支配ではないのです。関東公方家はもとより、斯波氏、畠山氏、細川氏、今川氏、吉良氏、仁木氏、渋川氏、一色氏などの一門、分族のほか、姻族の上杉氏、準足利氏と化した山名氏、佐々木氏、赤松氏、土岐氏などの部族の寄り集まりの連合体が、室町幕府の実態だったのです。」
「それって、騎馬民族の匈奴、柔然、突厥の部族連合の特徴ですよね。すると、足利連合軍の構成員は、古墳時代からの騎馬民族末裔なのですか。」
「そうとも言えるし、そうではないとも言えます。」
「どう言うことですか。」
「それは、室町時代の前、モンゴル帝国による国際交易時代、日本列島では鎌倉時代、東国の歴史が全く分からないからです。後鳥羽上皇の宣旨に対抗した北条鎌倉幕府には、朝廷軍に対抗できるほどの軍事力はなかったのです。しかし、鎌倉から出陣した、たった18騎の北条鎌倉軍団へは、古墳時代の軍事・交易路であった、北陸道、東山道、東海道から数万騎が集まり、京到着前には、19万騎となっていたようです。」
「1221年承久の乱ですね。」
「そうです。この東国からの謎の騎馬軍団は、誰により指揮されていたのか分からないのです。」
「藤原日本史では、日本列島を軍事支配した律令軍団の長は、征夷大将軍ですよね。征夷大将軍が、承久の乱を指揮したのでは。」
「それは違います。1221年には、征夷大将軍は存在しなかったからです。「清和源氏」の第三代将軍源実朝は、1219年公暁に暗殺されていたからです。」
「すると、次の征夷大将軍では。」
「源実朝の次の征夷大将軍は、1226年8歳1ヶ月で就任した藤原頼経です。」
「チビッコ征夷大将軍ですか。北条鎌倉幕府は、軍事をマジメに考えてのことですか。」
「その次の征夷大将軍は、藤原頼経の息子で、つぎは、4代続いて親王将軍となるのです。北条鎌倉時代、幕府により、日本列島での軍事支配が本当におこなわれていたのかは疑問です。」
「すると、ナベさんが言うように、1221年承久の乱では、征夷大将軍が存在しないことになりますね。では、誰が東国の謎の大騎馬軍団を指揮していたのですか。尼将軍の北条政子ですか。」
「藤原日本史では、北条政子の尼将軍が東国武士を前に、涙ながらに大演説をし、東国武士団を奮い立たせたように述べています。しかし、平氏の北条鎌倉一族は、上野、信濃を支配していた、源頼朝を取り込んでいた源氏の比企一族など、北条鎌倉幕府に反抗する東国の武士団を、策謀を用いて次々に壊滅していたのです。」
「それでは、東国の源氏武士団は、命を賭してまで、平氏の尼将軍には従いませんよね。すると、征夷大将軍でも尼将軍でもないとすれば、東国の謎の騎馬軍団は、誰が指揮していたのですか。」
「征夷大将軍の意味は、野蛮人を攻撃する軍団の最高司令官のことです。その征夷大将軍よりも、東国の謎の大騎馬軍団を指揮するタイトルがあるのです。それが、「源氏長者」です。」
「「長者」って、昔話に出てくる金持ちのことですか。」
「そうではないです。この場合の「長者」とは、部族連合の棟梁の意味です。「源氏長者」とは、源氏部族連合の棟梁のことです。」
「ナベさんのレポートでは、源氏のルーツは、華北の北魏の時代、チュルク系の騎馬民族禿髪部の源賀ですよね。すると、「源氏長者」とは、源氏一族の「テングリ」と言うことですね。」
「そのように考えられます。その「源氏長者」になるために、「征夷大将軍」を子に譲った武将が、歴史上ふたりいたのです。それは、ひとりは足利義満で、もうひとりが徳川家康です。このふたりには、共通した出来事があるのです。そのふたりが「源氏長者」となる前後して、その支配地では大土木建設事業がおこなわれていたのです。」
「それって、室町時代初期の相国寺の110mの七重の塔と、そして、江戸時代前に、江戸湾に流れ込む利根川を太平洋に流れを変えた大土木事業のことですね。」
「そうです。その室町時代初期の足利義満を、日明交易で、経済的に支えていたのは、謎の阿弥一族です。そして、江戸時代初期の徳川家康を影から支えていたのは、謎の弾左衛門一族です。」
「その謎の阿弥一族には、能の租である観阿弥・世阿弥父子がいますよね。でも、藤原日本史では、阿弥一族も弾一族も、貧乏な賎民のように描写していますよね。」
「貧乏な賎民が、足利義満や徳川家康に経済的援助などできるはずはありません。」
「では、何故、阿弥一族や弾一族は、賎民に落とし込まれてしまったのですか。」
「室町時代初期、阿弥一族は、明国との国際交易の利潤により、足利義満を経済的に支えていたのです。しかし、日野氏(姓は藤原氏)に取り込まれてしまった足利義満の子足利義持は、父足利義満が急死すると、室町幕府政治の中心である室町から去り、日明交易も中止させていたのです。このことにより、阿弥一族は没落していったのです。勿論、阿弥一族の世阿弥もその運命にありました。世阿弥直系の血は、日野の女に取り込まれてしまった足利家により抹殺されたのです。ですから、今日の能は、世阿弥の能とは直接関係がないのです。」
「阿弥一族って、藤原日本史には登場しませんよね。何者ですか。」
「古文書を調べても、阿弥一族のことは分からないでしょう。それは、藤原日本史により、阿弥一族の歴史は、阿弥陀仏の仏教物語で、歴史上消されてしまっているからです。藤原日本史では、色々な歴史物語を創作して、藤原氏に敵対する民族の歴史を消しているのです。」
「それって、どういう意味ですか。」
「阿弥とは、太陽のことです。その太陽信仰民族の阿弥一族を、輪廻転生思想の浄土教の阿弥陀仏の信者として取り込んで、歴史上消していたのは、アラブ海洋民族末裔の「平家」を、「伊勢平氏」として取り込んで、異民族の「平家」を、亡命百済系民族の「平氏」の傍流として歴史上消しているのと同じトリックです。」
「ますます分かりません。」
「カメさん、「平氏」と「平家」の違いが分かりますよね。」
「「平氏」は、天皇から賜ったタイトルで、「平家」は私称ですよね。」
「そうです。平氏は、天皇から賜姓であるので、天皇名ではなく、地域名+平氏、つまり、伊勢平氏などのタイトルは、歴史上ありえません。」
「そう言えば、著名な歴史学者の書物に、「平家物語」ではなく、「平氏物語」と掲載されていましたっけ。誤字と思っていましたが、案外、「平氏」と「平家」の違いが分からないひとも多くいるのでは。」
「相当いると思えます。それほど、藤原日本史のトリックは絶妙なのです。では、武士とサムライの違い、分かりますよね。」
「それは、ナベさんのレポートで理解しました。武士は、日本刀の剣舞により怨霊の魂を鎮める武芸者末裔で、サムライは、貴人を警護する秘書的存在ですよね。例えれば、武士は一匹狼の武芸の職人で、サムライは、サラリーマン武人ですよね。」
「その武士とサムライの違いを、藤原日本史では、鎌倉時代は「武家の時代」、ということで、「武家」の言葉により、武士とサムライとをごちゃまぜにしてしまったのです。」
「そう言えば、「お武家さま」、「おサムライさま」はあっても、「お武士さま」はありませんよね。そして、武家屋敷、侍屋敷はあっても、武士屋敷はありませんね。」
「武士の住処は、屋形というのです。屋形とは、藤原日本史では、室町時代初期に、武家の当主に付けられた敬称、とあります。しかし、本当の意味は、仮住まいの形ばかりの小屋のことです。武士の生活の基本は、遊牧騎馬民族の末裔ですから、カマドの定住者ではなく、イロリの放浪者です。」
「どういうことですか。」
「カメさん、私の室町時代レポートを読んでくれましたよね。ユーラシア大陸の騎馬民族は、各種の民族を束ねていて、被支配者民族は定住しているのですが、その支配者である騎馬民族は、遊牧のためテント暮らしをしていたのです。その支配者のテントが、部族連合の政治を取り仕切る、「幕府」ということです。」
「すると、鎌倉幕府も室町幕府も、その政治形態は、騎馬民族国なのですね。」
「騎馬民族軍事国家の形態は、スキタイがルーツですが、恐らく、古墳時代の日本列島も、スキタイの軍事形態を継承していたと思いますが、その古墳時代の歴史は、藤原不比等が創作した、4世紀に存在していたとする大和朝廷や、そして、聖徳太子による仏教文化黎明期の飛鳥時代により抹殺されているため、断定は出来ません。」
「推測でもいいですから、ナベさんの考えが知りたいです。」
「日本列島での軍事行動を調べてみると、戦国時代の三代先が賎民の織田信長、出自不詳の豊臣秀吉、部落出自の徳川家康の三武将が現れた、伊勢湾近郊の美濃、三河が現れるのです。藤原日本史で述べる、壬申の乱でも、大海人皇子は兵を集めるために吉野から美濃へ赴いたのです。この軍事部族が居住していたと思われる美濃は、古墳時代の高速道路である東山道が通っているのです。」
「東山道って、古墳時代の古代高速道路だったもので、近江←美濃←飛騨←信濃←諏訪←上野←下野←出羽←陸奥、をつなぐ、前方後円墳ネットワークを結ぶ路(幅広の道路)ですよね。そういえば、新羅系の大海人皇子が、672年日本初の天皇に即位すると、明日香ヤマトの防衛が不安であると、部下に、都を移すために諏訪への調査を命じていたのですよね。それに、その孫の長屋王も、藤原のおんなである光明子が皇后となるのに猛反対したため、藤原氏からの陰謀から逃れるため、諏訪への移住を考えていたようですね。」
「733年「出雲風土記」では、大和朝廷により出雲の地を簒奪された出雲族は、その逃亡先に諏訪を択んでいます。東山道は、北陸道や東海道のように、平坦ではなく、山奥の路であるため、その東山道はひなびた村をつなぐ路と思われがちですが、この東山道には、古墳時代では、多くの部族が通交していた証拠に、多くの古墳群が発掘されているのです。」
「でも、それを証明する史料はないのですよね。」
「騎馬民族は、基本的には、歴史書を持たない民族ですが、その部族の伝承は、口承や唄により伝えていたのです。」
「盲目人の琵琶法師ですね。」
「その琵琶法師の座は、鎌倉時代には、藤原氏の配下となった村上源氏の久我家により支配され、そして、室町時代には、日野のおんなを娶らされた足利氏の支配下となっていたのです。鎌倉時代から室町時代まで、琵琶法師は、平氏の北条氏が監修した「平家物語」を語ることは出来ても、騎馬民族の歴史を、公に語ることはできなかったのです。」
「ナベさんのレポートでは、鎌倉時代、久我家に支配される前、琵琶法師と声聞師とは、同じような語り部の営業をしていたようですね。」
「そうです。声聞師とは、道教から派生した陰陽師の流れにあったが、百済系桓武天皇の平安時代には、没落して、庶民相手の芸能者となっていたのです。」
「その声聞師は、乞食坊主の下級陰陽師とも、放下師とも言われていた、賎民ですよね。」
「カメさん、飛騨に行ったことありますか。」
「取材で何度か行っていますが。」
「筑子(こきりこ)って知っていますか。」
「知っています。越中五箇山で、その唄聴いたことがあります。そのコキリコが何か。」
「ユーラシア大陸からの騎馬民族渡来の玄関口である出雲国は、7世紀末には大和王権に侵略され、その渡来住民のタタラ製鉄の産鉄民族は、卑猥な「どじょうすくい」踊りの民に落としこまれているのです。「どじょうすくい」の本来の意味は、産鉄の材料である砂鉄を採取するため、川底の砂鉄を含む土壌(どじょう)をすくうことです。更に、その産鉄を行う「火男」は、「ヒョットコ」にされ、そして、古墳時代の祭祀儀式をおこなう女の「うかれめ」は、「おかめ」にされ、「おかめ・ヒョットコ」の卑猥なおどりの、「農耕民族」の里神楽舞とされてしまったのです。しかし、筑子は、その越中五箇山を通る東山道の馬が通交できるほどの幅広の路が、奈良時代には不破の関所が築かれ、そして、百済系の平安王朝時代には破壊されてしまっていたので、飛騨国は孤立し、その歌詞は、時の権力により改竄されることがなく、現在まで伝わっているのです。その唄の歌詞に、「月見て歌ふ放下のコキリコ 竹の夜声の澄みわたる。」、「烏帽子狩衣脱ぎ棄てて 今は越路の杣刀(そまかたな)」、とあるのです。」
「放下と杣刀に引っかかるものがありますね。放下は、分かりますけど、杣刀って何ですか。」
「薪をとるための、山で使う、刃先がない鉈のような刀のことです。この越中五箇山の住民は、平家の落ち武者などではなく、もっと昔の、平安時代がルーツのようです。」
「その根拠は、何ですか。」
「放下とは、平安時代の律令軍が、陸奥の砂金や東北の絹を簒奪するために侵略し、801年坂上田村麻呂が、東山道を北上して、陸奥国の棟梁(テングリ)であったアテルイを騙して、京都で斬首したことにより、蝦夷の捕虜となった者が、律令軍のために働くことで、捕虜の身分を解放された者のことです。」
「すると、「烏帽子狩衣脱ぎ棄てて 今は越路の杣刀(そまかたな)」、とは、その陸奥国での勇姿から、木こりの身分になってしまったことを描写している、とも考えられますね。」
「そのようにも考えられます。しかし、気になるのは、「烏帽子狩衣脱ぎ捨てて」、の烏帽子です。」
「烏帽子って、平安貴族が被るものですよね。藤原日本史では、武家の鎌倉時代、平安時代から宮中の階位を持つ貴族が冠を着用することに対して、武家が烏帽子を持ち出したのが由来、とありますよね。」
「烏帽子の由来は、もっと古いのです。日本の烏帽子に似たものが、古代新羅の天馬塚古墳から出土しているのです。それは白樺樹皮製です。その材質から、南ロシアやステップルートから、朝鮮半島を経由して日本列島に、烏帽子の原型がもたらされた、と推測できます。」
「日本列島の古墳時代、古代新羅から渡来した民族は、秦氏や花郎騎士団ですよね。」
「そうです。そのルートも考えられます。」
「その白樺樹皮製冠の烏帽子は、何に使ったのですか。」
「冠や冑を被る時、髪の毛を束ねるためと考えられます。」
「ヘルメットのインナーですか。」
「面白い発想ですね。実用性としては、硬い金属性の冠や冑から頭部を護る緩衝具です。」
「それが、武人を表わす烏帽子となったわけですね。」
「鎌倉時代、武家の元服の儀式で新成人の後見人を「烏帽子親」と呼ぶのは、烏帽子は、平安貴族由来のものではなく、古墳時代からの騎馬民族由来のものだからでしょう。」
「烏帽子の原型は、騎馬民族のものですか。コキリコでは、「烏帽子狩衣」と対になっていますよね。藤原日本史によると、狩衣は、平安時代の貴族の平服とありますが。」
「藤原日本史での説明では、狩衣は平安時代以降の公家の普段着とありますが、そのルーツは、騎馬民族の騎馬装束にあります。スキタイから始まる騎馬装束は、筒袖の上着と皮ベルト付きズボンに皮製のブーツだったのです。古墳から出土の武人の埴輪の姿も、筒袖でズボンです。」
「では、平安時代に、その古墳時代の狩衣が、どうして現在の神主が着ている形になったのですか。」
「平安時代、古墳時代の武人末裔が、貴族として存在していたからです。」
「誰です。それは。」
「嵯峨源氏です。」
「嵯峨源氏って、源信の初代テングリを輩出していましたよね。」
「嵯峨天皇は、810年藤原薬子の乱後、藤原氏の支配から独立するため、反藤原氏の地方豪族の娘をむかい入れ、多くの子をもうけたのです。その多くの皇女達に、騎馬民族支配国家である北魏の漢姓に習って、814年「源姓」を賜ったのです。嵯峨太上天皇は、淳和・仁明天皇期に、廟堂独占を目論んでいた藤原氏一族を廟堂から追い出すため、反藤原氏の橘氏、広幡氏、上毛野氏などの娘に生ませた子を、嵯峨源氏として、大納言、左大臣などに就かせていたのです。」
「すると、平安時代、狩衣を着ていた貴族とは、嵯峨源氏一族だったのですか。」
「その狩衣では、参内が一切認められないことから、平安時代中期以降、狩衣には特別な意味があったはずです。」
「狩衣も、烏帽子と同じに、騎馬民族由来というわけですね。ちょっと疑問に思うのですが、平安貴族って、藤原日本史では、馬ではなく、牛車に乗っていたのですよね。狩などしていたのですか。」
「藤原日本史には、平安貴族の狩について、鷹狩はありますが、騎馬による狩の説明はありません。」
「では、鎌倉時代に突然現れた、犬追物や笠懸、そして流鏑馬のルーツはどこからですか。」
「一般的なイメージでは、鎌倉武士は、狩衣に長弓で流鏑馬を行っていたと信じているようです。しかし、テレビなどで放映されている流鏑馬のルーツは、江戸時代、征夷大将軍と源氏長者となった、三代将軍徳川家光から始まる第三百済王朝の江戸時代、騎馬民族末裔を寺請制度により賎民穢多としてイジメていた、享保9年(1724年)倹約令を発した八代将軍徳川吉宗が、小笠原貞政に命じて流鏑馬を制定したことが始めです。その後、将軍家の厄除け奉納の儀式となったものです。」
「現在行われている流鏑馬って、鎌倉時代ではなく、江戸時代がルーツですか。」
「鎌倉時代では、犬追物や笠懸など、実戦的な弓術がおこなわれていたのです。」
「そういえば、流鏑馬で不思議に思っていたのですが、騎射で長弓はないと思うのですが。」
「そうですね。武者絵や合戦絵では、騎馬武者は長弓を携えています。しかし、犬追物や笠懸では、速射を要求されるわけですから、流鏑馬のように、長弓で弦を絞り込む余裕はないのです。」
「すると、ユーラシア大陸の騎馬民族の武器である、小動物の腸を弦とする、木製の短弓ですか。」
「白旗赤旗の源平合戦時に、突然陸奥国に、日本列島には未だ武家家紋が存在していないのに、騎馬民族チンギス汗部族の旗印と同じ笹竜胆の旗印をなびかせて現れた源義経の弓は、短弓だったのです。源平合戦絵には、長弓はあっても、短弓は描かれていません。しかし、短弓でなけれは、素早く移動する獲物を騎射する犬追物、小笠懸などできるはずはありません。」
「その小笠懸って、何ですか。」
「鎌倉時代、北条時宗が10歳の誕生日直前、将軍御覧の小笠懸をおこなっていたのです。小笠懸とは、馬場を右から左に逆送して、馬を走らせたまま身体をひねって、弓矢を右下に向け、近距離に低く立てた的を狙う、武士の射芸訓練の一種です。」
「それって、パルティアン・ショットですよね。古墳時代の陸奥国を支配していた蝦夷が、侵略してくる律令軍団相手に、騎射していたものですよね。」
「烏帽子狩衣を着ていた嵯峨源氏の源氏長者(テングリ)の貴族末裔は、藤原氏の密告陰謀により、866年応天門の変で廟堂を追われ、そして、その嵯峨源氏の流れにある醍醐源氏の貴族末裔も、969年安和の変で廟堂を追われていたのです。」
「すると、ナベさんは、コキリコを唄う飛騨の住人は、その嵯峨源氏、醍醐源氏末裔と考えているのですか。」
「そのように考えています。嵯峨源氏、醍醐源氏で、思い起こすことがあるのです。それは、北条鎌倉時代、パルティアン・ショットを行っていた北条時宗の時代、1219年源実朝が暗殺され、清和源氏三代が滅亡しているのですが、源氏が復活しているのです。それが、後嵯峨源氏です。そして、北条鎌倉幕府を倒したのが、後醍醐天皇です。」
「後嵯峨源氏と後醍醐天皇ですか。嵯峨と醍醐に、何か引っかかりますね。」
「後醍醐天皇には、楠木正成など、多くの悪党(勇者集団)が随ったのです。その悪党の砦は、里ではなく、山地にあったのです。」
「すると、その悪党も、嵯峨源氏や醍醐源氏末裔ですか。」
「そうとは断定できません。それは、鎌倉時代、藤原日本史では、モンゴル帝国と鎖国状態で、国交がないように描写していますが、史実は、南宋から日本列島に亡命して来た禅宗組織がモンゴル帝国で、その勢力を広げ、それにより、多くの禅僧がモンゴル帝国と日本列島との国際交易をおこなっていたのです。因みに、日本の禅寺での日常会話は、日本語ではなく、和尚(ワショウ)を「オショウ」と発音する杭州訛りの中国語です。それは、モンゴル帝国の国際海洋交易システムは、南宋が開発したそのものだからです。そのため、北条鎌倉幕府には、国軍もなく警察力もないので、日本列島は治安が悪いため、日本列島に渡来するモンゴル帝国からの国際交易商人を護衛するため、多くの傭兵軍団も渡来していたからです。この頃、日本列島に現れた最新武器が、長槍です。この後、武士の武器が、弓矢と長槍となっていくわけです。武士の武器と思われる日本刀は、この頃までは、祭祀具であり、実戦武器ではなかったのです。それは、鎌倉期の日本刀の刃が、薄いため、鎧兜には太刀打ちできないことで分かると思います。治安の悪い北条鎌倉時代、悪党とは、それら短弓と長槍で武装する私設武装騎馬警備隊のことだったのです。この頃、現れたのが武家家紋で、それは言わば、武装騎馬警備会社のシンボルマークだったのです。」
「藤原日本史では、北条時宗の時代、モンゴル帝国の国使を追放したり、斬首したため、1274年文永の役、1281年弘安の役の元寇があったと述べていますよね。」
「その元寇物語のウソは、後嵯峨源氏誕生が解き明かします。」
「ナベさんのレポートでは、二度の元寇の史実は、一回目が高麗亡命船団で、二回目が南宋亡命船団ということですね。何故、後嵯峨源氏の誕生が、元寇物語のウソを暴くのですか。」
「後嵯峨源氏となったのは、惟康王です。この惟康王についての史料が絶無なのです。北条鎌倉幕府には、惟康王の記録がないのです。」
「北条鎌倉時代の史料なら、「吾妻鏡」があるはずですが。」
「それが不思議にも、「吾妻鏡」は、1266年(文永3年)で、25歳の6代将軍の宗尊親王が将軍職を追われ、京都の北条時茂の六波羅邸に入ったところで終わっているのです。」
「その何が、不思議なのですか。」
「1266年、惟康王に7代将軍職を受け渡した宗尊親王の辞職の理由が、「新抄」によれば、宗尊親王の正室「藤原宰子」と僧侶松殿僧正良基との「不倫の噂」だったのです。」
「その話、「藤原のおんな」が登場することに、何か引っかかりますね。」
「このような状況で誕生したのが、惟康王の後嵯峨源氏です。惟康王は、1264年鎌倉に生まれ、3歳で従4位下に叙し、同時に、征夷大将軍に任官したのです。そして、7歳の時、後嵯峨源氏賜姓を受けたのです。しかし、24歳で右近衛大将を辞し、親王宣下を受け、二品親王となり、26歳で7代将軍を辞し、上洛し、その後、出家を遂げて、63歳で薨じた、と伝わっています。」
「3歳の、チビッコ征夷大将軍ですか。北条鎌倉幕府は、何を考えいてたのですかね。」
「惟康王は、惟康王→後嵯峨源氏朝臣惟康→惟康親王と変身しているのです。その惟康の将軍在任期間は、文永3年(1266年)3歳から、正応2年(1289年)26歳までの23年間だったのです。」
「ナベさん、その惟康が、将軍在任期間に、例の「二度の元寇」があったのですね。」
「そうです。カメさん、歴史年表を後で見てください。その二度の元寇があったとされる時期に、惟康と北条時宗は、北条鎌倉幕府の中枢に位置していたのです。それは、北条時宗政権は、この惟康を、後嵯峨源氏の将軍として推戴し続けた理由のひとつが、対モンゴル帝国対策だったのです。」
「そのナベさん説の根拠は。」
「モンゴル帝国の国号は、「元」です。このヒントで、カメさんは分かるでしょ。」
「漢姓の「元」の初めは、北魏を興した騎馬民族拓跋部の支配者拓跋氏ですよね。その臣下の禿髪氏が、同族として、「源」の漢姓を名乗ったのですよね。」
「そうです。王族の「元」に対して、臣下の「源」です。藤原日本史は、「源氏」は、日本列島古来の姓と説明しているようですが、「源氏」のルーツは、華北の騎馬民族禿髪氏であるのです。」
「すると、源平合戦の時、源義経が、鞍馬山から奥州ではなく、ユーラシア大陸から奥州へ渡来した、との説もうなずけますね。」
「藤原日本史によれば、宗尊親王が上洛の1年後、文永5年(1269年)大宰府を管轄する筑前守護少弐資能によって、モンゴル帝国の国書が鎌倉にもたらされた、と述べています。そして、このモンゴル帝国の国書は、北条鎌倉幕府により無視され、モンゴル帝国の高麗の使者は帰国した、と述べています。国書は、当然、日本国王である朝廷を司る天皇に届けられるはずです。しかし、当時の王朝は、1221年承久の乱で、後鳥羽上皇は隠岐に、土御門上皇は阿波に、順徳上皇は佐渡に、そして、六条宮雅成親王は但馬に、令泉宮頼仁親王は備前に配流されていたので、承久の乱後、独自の軍事力を事実上喪失していたのです。そこで、藤原日本史では、北条鎌倉幕府は、鎌倉幕府追加法436条で、西国各国の守護に対して、菅国御家人を動員して侵攻に備えることを命じた、と述べています。この、モンゴル帝国の国書と伝わるものが、鎌倉到来から2ヵ月後、前代未聞の執権連交替がおこなわれ、10歳前にパルティアンショットをおこなっていた、18歳の北条時宗が執権、北条政村が連署となっているのです。」
「モンゴル帝国の使者と云われる者が渡来すると、国軍のない朝廷は何も出来ず、北条鎌倉幕府の中枢が、前代未聞の執行部の交替ですか。それも、子供のとき、騎馬民族の騎射をおこなっていた北条時宗が執権ですか。そして、7歳の惟康が、後嵯峨源氏賜姓となるわけですね。何か、おかしいですね。」
「その後嵯峨天皇誕生物語にも、不思議があるのです。藤原日本史によれば、後嵯峨天皇の前の四条天皇は、1242年(仁治3年)内裏の廊下に女官を転ばせようと石の粉を塗ったところ、それに四条天皇の自分が転んで頭を打って12歳で夭折した、と述べています。かくして、23歳まで親王宣下すら受けず、ボロ屋に住まう、阿波に配流された土御門上皇の皇子邦仁王を皇位に就け、1242年後嵯峨天皇が即位した、と述べているのです。」
「後嵯峨天皇誕生物語も、何かありそうですね。ナベさん、話の途中ですが、質問してもいいですか。」
「どうぞ。」
「話は飛びますが、藤原日本史によれば、北条鎌倉幕府を倒し、室町幕府を拓いた足利氏は、後嵯峨源氏ではなく、清和源氏ですよね。清和源氏は、三代で滅んだはずですが。」
「足利氏の系図によれば、足利氏のルーツは、経基→「清和源氏満仲」→頼信→頼義→義家(八幡太郎)→義国→「足利義康」→義兼→義氏→秦氏→頼氏→家時→貞氏→尊氏→義詮→義満、となっていますが、義国から足利義康までの系図が無いのです。」
「それでは、足利氏が、清和源氏の流れにあるとの証明ができませんよね。」
「鎌倉時代から室町時代に興ったとされる、足利氏を含めて、武家の多くは、そのルーツが謎なのです。そして、それらの多くの武家は、そのルーツを清和源氏としているのです。」
「でも、ナベさん説では、清和源氏など歴史上存在していないのでしょ。」
「そうです。その足利氏の系図にもある、経基の孫に当たる源頼信が、永承元年(1046年)石清水八幡宮に奉納した願文には、「先人は新発(満仲)、その先は経基、その先は元平親王、その先は陽成天皇」、とあるのです。」
「藤原日本史では、清和天皇→貞純親王→経基→源満仲→源頼信、となっていますよね。どちらがかが「ウソ」をついているわけですね。オレが以前に見た幻視によれば、ナベさんにはレポートしませんでしたが、源義経の行動が、藤原日本史と異なっていたのです。」
「どのようにですか。」
「藤原日本史では、源義経は、源頼朝の弟ですから、当然、「清和源氏」ですよね。」
「そのようになっていますね。」
「笹竜胆の旗印をなびかせた源義経軍団が、草原馬に乗って奥州から京を目指すのですが、兄の軍事拠点である鎌倉を素通りしているのです。「清和源氏」の同族で、兄弟であれば、援軍として参戦しているのに、素通りはないですよね。更に、源義経は、一度も、源頼朝に謁見していないのです。京での軍事行動では、難波の渡辺党の支配地から、屋島に出陣しているのです。渡辺党は、その租が、反藤原氏の嵯峨源氏の源綱ですね。「嵯峨源氏」の流れにある「醍醐源氏」を密告の陰謀で滅ぼした張本人の満仲が、「清和源氏」の租です。源義経は、「清和源氏」の源頼朝と一度も接触がないのに、敵である「嵯峨源氏」の渡辺党と軍事行動をしているのは、変だと思いませんか。」
「それは、「清和源氏」など、歴史上存在していないことで、そして、源頼朝は、藤原氏の私兵である「陽成源氏」で、それに対して、源義経は北魏の源賀の流れにあるユーラシア大陸の「源氏」で、反藤原氏の渡辺党は、そのユーラシア大陸の流れにある嵯峨源氏の同族であると考えれば、カメさんの幻視が理解できるとおもいます。」
「すると、源頼朝の肖像画が「ウソ」であったように、源頼朝の「清和源氏」も「ウソ」ということですか。すると、その「清和源氏」の流れとする、室町幕府を拓いた足利氏の出自も「ウソ」ということですか。」
「そう考えられます。話を元に戻してもよいですか。」
「どうぞ。」
「藤原日本史では、1274年の文永の役は、モンゴル帝国の国使がもたらした通商要望の国書を無視して、その回答をしないで高麗使者を帰国させたから、モンゴル帝国は、日本列島を攻撃した、と述べています。」
「そのように学校で教わりました。」
「しかし、その物語はウソです。」
「その根拠はあるのですか。」
「史料としてはありません。状況証拠だけです。文永の役といわれる第一回元寇の15年前、1259年高麗は、蒙古により服属されたのです。1260年皇位継承戦争により、第五代モンゴル大カアンの地位をもぎとったフビライは、世界帝国を目指して領土拡張政策を進めるのです。それに対して、服属していた高麗の元宗は、1270年から1273年まで、モンゴル帝国に反旗を翻したのです。これが、三別抄の乱といわれるものです。この乱に敗れた高麗軍の一部が、モンゴル帝国の国書ではなく、高麗の国書を携えて、日本列島に亡命を求めたのが、第一回元寇物語の真相です。」
「なんとなく納得できますすが、教科書歴史では、竹崎季長という武士が、文永の役での恩賞に不満をもち直接北条鎌倉幕府に訴えた、とありますね。その文永の役での活躍を示すため「蒙古襲来絵詞」を絵師に描かせましたよね。」
「そうですね。その絵に描かれているモンゴル軍兵士にしては、その装備が貧弱で、敵を威圧するための武器が、モンゴル軍団が使用している弩(いしゆみ)ではなく、貧弱な弓ですね。そして、その絵で描かれている炸裂弾の「てつぱう」は、モンゴル帝国軍ではなく、南宋軍が開発した武器なのです。その戦闘絵を携えての訴えに対して、後嵯峨源氏の惟康を推戴する北条時宗は、その竹崎季長には恩賞を与えていません。それは、北条時宗は、「元寇」の実態を知っていたからです。」
「でも、元寇は、対馬に上陸し、住民を連行したのですよね。」
「その対馬住民連行物語でも、元寇物語のソウが証明できます。」
「どういうことですか。」
「その元寇の対馬強略物語では、多くの住民は、手に穴をあけられて、綱を通され連行された、と述べています。しかし、この物語は、ありえない設定です。古代から近世まで、国際交易商品のひとつは「奴隷」です。戦争をする原因のひとつに、奴隷獲得がありました。モンゴル帝国は、国際自由交易立国です。そのモンゴル帝国の軍団が、国際交易商品である「奴隷」の体に傷をつけるはずはありえないからです。」
「そういわれれば、第一回元寇には、おかしな話がありますよね。博多湾を襲った元寇大船団は、翌日早朝には、台風のシーズンでもないのに、「神風」のおかげで撤退した、と藤原日本史にはありますよね。」
「第二回元寇物語のウソに話を進めます。藤原日本史では、文永の役の半年後、長門国(山口県)室津に、杜世忠を正使とするモンゴル帝国使者一行が来着し、この一行は、鎌倉へ護送され、滝ノ口の刑場で斬首された、と述べています。そして、北条鎌倉幕府は、第二回元寇に備えるため、博多湾沿岸での石築地築造を命じた、と述べています。これが、今に残る、「元寇防塁」と言われるものです。そして、1279年(弘安2年)、周福らモンゴル帝国使が、またも対馬に到着したが、博多でその一行は斬首された、と述べています。弘安3年(1280年)翌4月に、再来襲があるとの情報を得た北条鎌倉幕府は、守護、御家人に防衛に努めるように厳命した、と述べています。そして、弘安4年(1281年)、モンゴル帝国軍が、博多湾に再来襲し、戦闘2ヵ月後、台風により大打撃を受けて撤退した、と述べています。」
「そのように教わりましたが、何がウソなのですか。」
「それは、モンゴル帝国軍団の戦略・戦術を知れば分かります。その戦略・戦術の基本は、不戦・不殺です。モンゴル帝国軍は、戦わない軍団なのです。」
「でも、実際は、他国を侵略して、世界帝国になるまで領土を広げましたよね。」
「その戦略・戦術は、圧倒的軍団と最新式武器を見せ付けることで、敵側の中枢軍団を寝返りさすことです。モンゴル帝国の戦闘は、言わば、デモンストレーションなのです。」
「その証拠でもあるのですか。」
「モンゴル帝国のフビライは、1267年から、アラブ・インドとの国際交易をおこなっていた南宋国への侵攻作戦を開始したのです。モンゴル帝国軍は、圧倒的な軍事力を見せ付けることで、投降者を歓迎し、しかも、その投降者をほとんど現職にとどめたため、南宋国の精鋭部隊の多くが、モンゴル帝国軍に寝返ったため、南宋国は地崩れをおこして解体したのです。その結果、1276年杭州の南宋政府は、モンゴル帝国に全面降伏したのです。しかし、杭州開城に反対した南宋軍団の一部が、幼帝兄弟を担いで、多くの船で東南沿岸部へ脱出したのです。」
「その南宋国から脱出した大船団が、第二回元寇の実態ということですか。」
「そのように考えています。もし、その大船団が元寇の軍団だったとしたら、当然、難破した船から、多くの最新式武器、投石機、弩(いしゆみ)などが引き上げられるはずです。でも、今のところ引き上げられたのは、陶器類、農機具、種籾の入った壺などです。」
「その二回の元寇物語が語られた時期が、後嵯峨源氏を推戴する北条時宗の統治時代だったのですね。すると、その時期の鎌倉時代の歴史は、藤原日本史が述べているものと異なりますよね。」
「そうです。北条時宗は、文永元年(1264年)14歳で連署に就任し、弘安4年(1284年)34歳で没するまで、執権に在職していたのです。この北条時宗の執権在職期間を覆って、惟康の将軍在職期間があったのです。従来の北条鎌倉幕府の政治は、多くの武家集団による合議制だったのに、この北条時宗期の鎌倉幕府は、得宗である北条時宗による完全な個人独裁体制だったのです。27歳の北条時宗は、鎌倉郊外の山内殿の別荘でほとんど生活し、そこで、寄合と呼ばれる5名、安達泰盛、平頼綱、諏訪盛経、太田康有、佐藤業連による秘密会議で政治をおこなっていたのです。本来は、将軍が承認する本領安堵も、北条時宗が「将軍権力代行者」となっておこなっていたのです。」
「北条時宗は、まるで、騎馬民族を支配する「テングリ」だったのですね。」
「そうです。モンゴル帝国の時代の鎌倉時代は、古墳時代を、日本列島に道幅12mの古代高速道路網をはりめぐらせた初代国際自由交易の時代とすれば、第二次国際自由交易時代だったのです。モンゴル帝国の第5代皇帝フビライは、国際自由交易を目指して、陸海を結ぶ物流ターミナルとして、新都市の大都を造営したのです。その大都には、内懐に港をかかえこんでいたのです。この都の港は、閘門式運河により、中国大陸の各河川とつながり、海港を経て、渤海湾を経由して東は附康国の高麗、更に、日本へ、そして、南は南中国の杭州から更に、東アジア、インド洋方面に海船が航行していたのです。南北中国が、北京、天津、上海の通商都市により、海路でむすばれたのは、このモンゴル帝国時代からなのです。」
「すると、鎌倉時代には、藤原日本史が述べているようにモンゴル帝国と鎖国状態ではなく、多くの商船がモンゴル帝国から来航していたのですね。北条鎌倉幕府の正史とされる「吾妻鏡」が、1266年で記述が突然終わっているのは、北条鎌倉幕府がモンゴル帝国の配下となり、「元」の臣下「源」となった後嵯峨源氏将軍を推戴する北条時宗が、源氏長者(テングリ)となって政治をおこなっていたからですよね。」
「古墳時代後期の日本列島を支配した突厥が、その軍事力と経済力、そして、世界的情報網により、アラム語から派生したソグド語を話す国際交易商人に支えられたように、モンゴル帝国も、イスラームのムスリムと、ソグド商人の末裔であるウイグル国際商人の資金や国際情報提供の支援を受けていたのです。フビライのモンゴル帝国は、単なる軍事国家などではなく、外洋船が西洋と東洋を結ぶ国際海路を行き来する、国際通商経済立国だったのです。」
「すると、鎌倉時代中期も、古墳時代と同じに、船や馬での物流をおこなう国際交易民族でもある騎馬民族が活躍する、国際交易時代にあったわけですね。」
「平安時代末期から鎌倉時代の歴史は、室町時代に改竄されたのではないか、と考えています。」
「どのようにですか。」
「それは、歴史上存在しない「清和源氏」を出自とする足利氏による、「平家物語」と「吾妻鏡」の改竄です。改竄以前の史実は、平安時代末期から、鎌倉時代を経て、室町時代までを、カメさんが幻視した、騎馬民族が活躍していた世界です。国際交易商人の顔を持つ禅宗が、その拠点に、京都、北陸、鎌倉、そして、高崎を選んだのは、何故かを考えれば、カメさんの支離滅裂と思われる幻視の意味が分かると思います。」
「それらは、鎌倉を除いて、古墳時代から絹の国際交易都市だったのですよね。でも、大阪が抜けていますよね。」
「大阪の地史は、縄文時代は河内湾の上町台地の岬で、弥生時代では河内湖の岬で、古墳時代に上町台地に大運河を掘削(藤原日本史の神仏戦争物語では、難波の堀江とする。)したことにより河内湖の水を大阪湾に流したとで河内平野の台地(古墳時代この地は、岬の意味、ワタ・ナーベと呼ばれていた。)となり、巨大古墳群が造られたのです。モンゴル帝国による国際自由交易の鎌倉時代、大阪(難波←浪速←ローラン)は、古墳時代から太陽信仰民族の大陸との交易拠点だったから、新来者の禅宗を受け付けなかったのです。」
「藤原日本史では、飛鳥時代の難波(大阪)に、聖徳太子の七寺のひとつ、四天王寺が建立されていましたよね。太陽信仰民族は、漢訳仏教の布教を許したのですか。ナベさん説では、漢訳仏教公伝は奈良時代からですよね。藤原日本史は、この聖徳太子七寺の創作物語で、何を隠蔽しようとしたのですか。」
「聖徳太子は、架空の人物であるので、その質問には答えられませんが、大阪が、太陽信仰民族=ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来の秦氏の拠点ですから、秦氏の歴史の抹殺だと考えています。藤原日本史の神仏戦争物語では、難波(大阪)を架空の軍事部族の物部氏の拠点としています。それらの、飛鳥時代ではなく、奈良時代に建立された七寺は、古墳時代の太陽信仰民族の宗教施設を破壊した跡に、建立されたと考えられます。」
「そういえば、古墳時代に活躍した秦氏は、中世ではどのようになっていたのですか。」
「カメさん、日本列島の地名や宗教施設名に、百済や高麗(高句麗)が多くあるのに、新羅の名がほとんどないのは、何故だと思いますか。」
「消されたのですか。」
「そうです。古墳時代では、秦氏は前方後円墳ネットワークにより、絹の交易のため、北は岩手県以南から九州まで、船や馬により、ユーラシア大陸と華南との交易回廊としての日本列島を行き来していたのです。この古墳時代の国際交易時期、秦氏はユーラシア大陸から渡来した騎馬民族と交流したことにより、そのネットワークにより北方騎馬民族の言語文法・ウラル語文法が、日本列島に定着したと考えられます。そして、華南との交易で、漢字アルファベットが開発され、漢字は、華南の発音である呉音が使用されたと考えられます。しかし、唐進駐軍と供に藤原氏により、奈良盆地を制圧された奈良時代、その交易回路としての幅広の北陸道、東山道、東海道には、愛発、不破、鈴鹿の関を設置されることにより、農耕主体の定着民族としてのカマド文化の西国と、遊牧・交易主体の遊行民族としてのイロリ文化の東国に分断されたのです。」
「その奈良時代に、唐帝国のエージェントの藤原氏により、中臣神道が発明されたのですね。そして、奈良盆地の秦氏の宗教施設が徹底的に破壊され、その跡に、仏教施設が設置されたのですね。」
「そうです。そして、藤原仲麻呂の独裁政治の失敗により、藤原氏の勢力が衰退すると、下級貴族として隷属していた亡命百済貴族が台頭して、秦氏の支配地であった山背国の京都盆地を簒奪したのです。」
「それが平安京ですね。」
「そうです。そして、平安時代になると、唐進駐軍に軍事的に支援された亡命百済貴族は、京都盆地の東嶺比叡山の秦氏の宗教施設を徹底的に破壊して、その跡に、亡命百済貴族王朝を鎮護する天台宗の宗教施設を設置したのです。」
「天台宗の僧が、秦氏の神、太陽神のミトラ神を摩多羅神としたのですよね。」
「そうです。日本の神は、藤原日本史が述べているのとは異なり、一系ではないのです。古墳時代の秦氏の神、ミトラ神。奈良時代の藤原氏の神、アマテラスオオミカミ。そして、平安時代の亡命百済貴族の神、山王(シャンワン)神です。その平安時代に平野神社(モリ)が造られるのですが、その神社(モリ)に祀られている神は、オール百済の神なのです。その四柱は、今木神、久度神、古開神、比売神ですが、今木神は百済系桓武天皇の母高野新笠の父方の租神で、比売神は高野新笠の母方の租神で、久度神と古開神は朝鮮系の渡来神であるのです。古墳時代からの秦氏の宗教施設が、奈良時代、平安時代に破壊され、そのミトラ神も、弥勒菩薩や摩多羅神に改竄され、抹殺されていたのです。当然、秦氏支配地の各地も簒奪されたのです。それにより、新羅の地名や宗教施設名が消されたのです。秦氏は、亡命百済貴族が支配した平安時代、惟宗氏を名乗っていたのです。そして、新羅の名は、白鬚、磯城、志木、白木、白鳥などに改竄されて、歴史的に抹殺されていたのです。ところで、カメさん、新羅をなんと読みますか。」
「シラギ、ではないのですか。」
「そうではないのです。秦氏は、新羅をシンラと読みます。シラギとは、新羅のヤツラとの意味を持つ蔑称なのです。漢字は、象形文字で、その文字自体で華卑のイメージを表わします。武力的に弱者であった、漢字を発明した漢民族は、武力的に優位にあった騎馬民族に対して、この漢字の特徴を利用して、騎馬民族を凶暴な野蛮人として貶めたのです。紀元前97年司馬遷は「史記」を著わしたのですが、そのなかで、漢帝国から絹、金、銀を貢がせて隷属していた騎馬民族支配国を、蔑称の「匈奴」としたのです。」
「そういえば、中国古代史にでてくる騎馬民族国家名には、変な漢字が使われていますよね。鮮卑、禿髪、烏桓、柔然、突厥などですが。」
「日本列島でも、漢民族の手法が使われていたのです。それが、奈良時代に現われる、陸奥国を支配した蝦夷です。蝦夷とは、鬚のはえた夷、つまり、鬚のある野蛮人の意味です。」
「そういえば、藤原日本史では、蘇我氏(騎馬民族突厥)を悪者とするため、645年蘇我蝦夷が、天皇紀と国紀を焚書したから、それ以前の歴史が抹殺された、だから、720年「日本書記」を著わした、としていますよね。」
「そうです。この漢字による騎馬民族を貶める手法が、鎌倉時代に再び現われたのです。それが、秦氏や騎馬民族末裔を貶めるための、穢多の蔑称です。」
「藤原日本史だけではなく、賎民側からの目線で著わされた「部落史」でも、穢多のイメージは悪いですよね。でも、オレの鎌倉時代の幻視では、部落史が述べているのとは異なり、貧民など存在していなかったんですけどね。多くの遊行民を幻視しましたが、それは貧民などではなく、丁度、昭和時代のバブルに浮かれるひとびとの様子だったのですが。」
「「平家物語」や「吾妻鏡」、そして、藤原氏や亡命百済貴族による「日記」類、禅宗僧の著述物などを史料として復元した、平安時代末期から鎌倉時代にかけての「歴史」は、史実なのか疑問です。カメさんの幻視が、支離滅裂だったのは、教科書歴史で刷り込まれた「歴史」と「史実」とがオーバーラップされたからと考えられます。秦氏は、モンゴル帝国による国際自由交易時代の鎌倉時代に、阿弥一族の国際商人として復活していたのです。」「阿弥一族って、室町時代初期、資金不足の足利義満政権を経済的に援助した一族ですよね。」
「鎌倉時代の天皇家や貴族達は、その経済的基盤である荘園が、武家や武士により簒奪されていたため、貧民のように経済的に困窮していたのです。北条鎌倉時代、藤原氏の経済的基盤であった南九州の島津荘が、秦氏末裔の惟宗氏により簒奪されたため、天皇家の祭祀儀式を執り行っていた藤原氏が没落していたのです。しかし、1368年モンゴル帝国が滅び、儒教国家の明が興る室町時代中期になると、藤原氏が復活したのです。その藤原氏が復活するまで、資金不足の天皇家では皇位継承の正式儀式や後七日、祈年祭、釈奠、加茂祭、月・神、例幣、鎮魂祭、新嘗祭、追儺などの儀式がおこなうことができなかったほど、経済的に困窮していたのです。生活に困窮した、経済基盤のない貴族や公家が、生き延びるため強盗団に参加していたのが、中世の実態だったのです。」
「すると、秦氏末裔の阿弥一族は、平安時代末期から室町時代まで、どのように活動していたのですか。中世の史実は、どのような世界だったのですか。」
「北条鎌倉時代に活躍していた阿弥一族は、穢多の蔑称の発明により歴史的に抹殺されたのです。穢多といわれる太陽信仰民族や騎馬民族が、実質的にイジメられるのは、イエズス会を裏切り藤原氏の傀儡関白となった豊臣秀吉が、1591年士農工商の身分法を定め、農民とそれ以外の民を分離し、全国の戸口調査をさせ、66カ国から太陽信仰民族や騎馬民族末裔を追放した時期からなのです。」
「身分制は、江戸時代からではないのですか。」
「それは違います。農民を権力側の民としたのは、出自不詳の豊臣秀吉の統治時代からです。」
「では、中世の太陽信仰民族、騎馬民族はどうなっていたのですか。」
「それは、カメさんの幻視レポートにあるとおりです。伊勢平氏の平家と清和源氏の源頼朝との源平合戦物語と、鎌倉時代の元寇物語の部分を取り除くと、そこに太陽信仰民族や騎馬民族末裔が活躍した、中世の歴史が現われます。それは、カメさんの幻視レポートにあります。」
「どういうことですか。」
「カメさんの幻視レポートでは、北条鎌倉時代の城の多くは、山にありましたよね。それが、室町時代になると平地に築かれていきましたよね。特に、東国には平地に多く築かれていくのが室町時代でしたよね。」
「そのように幻視しましたが。でも、現在の城とは異なっていました。」
「現在の城のイメージは、石垣の上に天守閣がそびえる建築物です。しかし、その城の出現は、イエズス会の傀儡軍団長の織田信長が、ヨーロッパの城造り思想を取り入れて築城した安土城が初めです。今では天守閣とするのですが、織田信長の城では、自らの居場所を「天主閣」とし、自らを「神」として臣下だけではなく、庶民にも崇めさしたのです。その結果として、「ゼウス」を唯一の神とするイエズス会と、本能寺(←根来寺←種子島←坊津←マカオ←南インド・イエズス会の征服作戦拠点)を拠点として火薬や銃を各地の大名達に密売していた藤原氏との共謀による、本能寺での織田信長爆殺となったのです。」
「織田信長は、明智光秀により殺害されたのではなく、爆殺されたのですか。」
「城の歴史は、その字の如く、土から成る、土壁で囲まれた地が始まりです。ユーラシア大陸での騎馬民族は、被支配者の住民を外敵から護るために、その平原の居住地を高い土壁で囲んだのです。それが、城の始まりです。その平地の城が、山の居住地を護るため、山裾に石垣や土塁、空掘りなどで防御施設を設けたのが、山城です。」
「すると、室町時代には、現在のような城は存在していなかったのですね。」
「そうです。藤原日本史では、鎌倉時代になると、「村」が出現したと述べています。しかし、その「村」のイメージは、現在の「村」とは異なります。現在の「村」のイメージは、豊臣秀吉の兵農分離政策により、農耕民だけの集団地が作られたのが始まりです。それ以前の「村」とは、城で囲まれた「都市国家」のイメージです。」
「國ですね。すると、武装集団が、城を護っていたのですね。」
「北条鎌倉時代は、その税収の史料がないほど、国家警察の存在が疑われるのです。藤原日本史では、西国は、朝廷が支配し、鎌倉幕府の出先機関の六波羅探題が存在し、そして、東国は鎌倉幕府の御恩と俸公により、東国武士団により、全国的に統治されていたように述べています。しかし、織田信長が、イエズス会の入れ智慧により「天下布武」を唱える以前、鎌倉幕府も室町幕府も、国家警察が日本列島を統一する天下国家思想など持ち合わせていなかったのです。そのような国家警察不在の時代に、元寇と言われる、高麗亡命大船団が、対馬海流に乗って日本列島の沿岸各地に流れ着いただけではなく、その4年後には、南宋時代、鎌倉幕府と交易のあった鎌倉に、南宋亡命大船団が押し寄せてきたのです。これらのことが、カメさんの幻視レポートが混乱した原因のひとつです。」
「あの幻視は、元寇ではなかったのですね。すると、治安悪化のため、各地に防衛施設としての「村」の都市国家が出現するわけですね。」
「そうです。この時代、モンゴル帝国の国際自由交易であったので、日本列島にもモンゴル帝国のムスリム商人やウイグル商人が、日本列島が産出する絹、金、銀の交易のため渡来したのです。ウイグルは、チュルク民族を主体としたので、古墳時代に国際交易で活躍していた太陽信仰民族に溶け込んでいた突厥(チュルクの漢音字)末裔とは共通文化を保持していたのです。それらの国際商人が、騎馬護衛隊を引き連れて、日本各地の「村」を、交易のため訪れていたのが、鎌倉時代だったのです。」
「それらの騎馬の護衛隊は、藤原日本史では、「悪党」としたわけですね。」
「そうです。鎌倉時代、その悪党に護衛されていた阿弥号を持つ一族が現われた理由として考えられるのは、そのウイグル商人のモンゴル帝国からの渡来です。」
「どういうことですか。」
「ウイグルは、仏教国だったからです。」
「それって変ではないのですか。ウイグルの主体は、騎馬民族のチュルク系ですよね。仏教は、その肉食する騎馬民族を、施陀羅として蔑視していたのですよね。」
「それは、漢訳仏教のことです。漢訳仏教は、バラモン僧のナガルージュナが、ギリシャ語仏典を漢訳する時、肉食する遊牧騎馬民族を不可触賎民として貶めるため、カースト制度のアウトカーストであるチャンダーラを施陀羅と漢訳したのです。そして、騎馬民族匈奴に隷属されていた漢民族国に取り入れられるために、漢訳仏典に挿入したものです。ギリシャ文化を継承していたガンダーラで発明された大乗仏教には、初期の仏像が、マトゥーラの仏像と異なり、写実的なギリシャ彫刻系であったように、民族を蔑視する思想はなかったのです。その大乗仏教では、無数のギリシャ語経典が発明されるのですが、その中に、再生復活の太陽神を、アミダーバとする経典があったのです。」
「そのアミダーバが、再生復活、つまり、浄土思想の阿弥陀に漢訳されたわけですね。」
「太陽神は、貴賎に関係なく、誰にでも光を与えるため、遍照と漢訳されたのです。阿弥陀とは、漢訳仏教での肉食する民族を蔑視する狭い意味の仏ではなく、民族・貴賎に関係なく恩恵を与える、再生復活の神である太陽神のことだったのです。」
「すると、古墳時代からの太陽神信仰民族である秦氏は、そのウイグル商人と共通の神を崇拝したわけですね。だから、実名の他に、阿弥号を称していたのですね。そういえば、奈良の大仏が、遍照鬼と呼ばれていましたよね。それを、平安時代、藤原氏の影響下にあった錬金術師空海が、大日如来と改竄したのですよね。」
「日本列島の奈良時代に渡来した漢訳仏教は、古墳時代からの宗教関係名を、漢字で隠蔽・改竄していたのです。」
「その説明で、阿弥号を持つ一族の登場が理解できました。では、織田信長が、二条御所を造る時、近隣から石仏を集めさせ、それを破壊して基礎材としていましたよね。その石仏が、阿弥陀仏ということですが、何故、鎌倉時代に石仏が登場したのですか。」
「それは、富は山から産出されていたからです。平安時代、錬金術師空海は、高野山を拠点に、四国に多くの霊場を建設しました。それらの建設地点は、中央構造線上にあったのです。」
「中央構造線とは、伊勢湾から紀伊半島の宇陀、高野山をぬけて、四国を横断し、北九州までのびている断層のことですよね。縄文時代から、その中央構造線上では、呪術の材料として、朱砂の塊が採取できたのですよね。」
「そうです。朱砂は、水銀の化合物です。錬金術師空海は、唐留学で、死の床にあった恵果から密教の経典と法具を買い取り、日本にもたらしたのです。その密教とは、バラモン教の流れにあるヒンズー教と漢訳仏教とを基に、中国で発明された宗教です。密教では、呪文と手印の他、薬物を利用していたのです。」
「薬物って何ですか。」
「それは、水銀と大麻です。それらは、幻覚を起こす薬効があるのです。」
「四国は、古墳時代から大麻の自生地でしたよね。」
「その四国の空海が開設した霊場の近くには、銀鉱山、銅鉱山があるのです。空海の一味は、全国にその足跡がありますが、それらの地には、石清水が湧き出た、との弘法大師の伝説が多くあるのは、鉱脈探索跡から湧き出た水のことです。」
「富が山にあるとの意味が分かりましたが、でも、絹は、山からではなく、桑畑のある平地から産出されるはずですが。」
「絹織物が、蚕の繭を素材としていることが、公に分かるのは、唐帝国の時代からと言われています。絹の製法は、公に知られることを恐れて秘密裏に華南の山奥で産出されていたのです。その絹が、紀元一世紀、ローマ帝国で、金の重さと同等価値として取引されたことにより、華南の商人は、絹製品増産のため、その原料の秘密産地として、山の深い場所が多くある日本列島を目指したのです。」
「そういえば、卑弥呼は、魏に絹を貢いでいましたよね。」
「そうですね。蚕が、華南からもたらされたと考えられるのは、日本列島にも蚕は存在していたのですが、日本列島の蚕とは別種が存在しているからです。それが、華南種のポンピックス・モリ種です。ところでカメさん、「山寺の和尚さん」は、何故、「ワショウさん」ではなく、「オショウさん」なのか考えたことありますか。」
「たしか、呉音では「和尚さん」は、「ワショウさん」ですよね。そして、杭州音では、「オショウさん」ですよね。それが、石仏と関係があるのですか。」
「その山城の機能を持つ山寺と阿弥陀の石仏が、鎌倉時代の中期に突然現われるのです。そして、その山寺のオショウさんが、地蔵信仰を山の民に布教するのです。」
「それっておかしいですよ。杭州は、南宋の海洋通商都市ですよね。だとすると、そのオショウさんは、禅宗ですよね。禅宗は、地蔵などの偶像を崇拝することはないはずですが。」
「歴史的に、日本列島に渡来した宗教は、全て、その思想が変質するのです。禅宗も、その例外ではありません。鎌倉時代、奈良の宇陀地域に、石仏と供に突然現われたものに、磨崖仏があるのです。」
「磨崖仏って何ですか。」
「岸壁に線で描かれた阿弥陀の仏絵です。」
「何のために、宇陀に突然磨崖仏が現われたのですか。」
「移動可能な仏像が石仏だとすれば、磨崖仏は不動の仏像画です。その宇陀の磨崖仏が描かれた地域の近隣には、水銀鉱脈があるのです。水銀鉱脈の近くには、銀鉱脈が存在するのです。」
「磨崖仏の存在は、平安時代の空海の霊場と同じ意味ですか。」
「そうです。その磨崖仏を岸壁に描くことで、その地域一帯を聖地として、禁足地とし、一般人の立ち入りを禁止するわけです。」
「すると、石仏は移動可能な聖地を形成するわけですか。」
「鎌倉時代に石仏が作られた意味は、他にあるようです。」
「石像といえば、藤原日本史で磐井の反乱で有名な磐井氏(騎馬民族史では、古代新羅の花郎騎士団長)の墓といわれる古墳には、石の人像や馬像が飾られていましたよね。それと同じ意味ですか。」
「禅僧は、地蔵思想を広めるのですが、その地蔵は、武士(蝦夷末裔の武芸者)が戦っている時、その武士を見護ってくれる、と説いていたのです。」
「それって、まるで、秦氏の神である、戦場に現われて正義の戦いで敗れた勇者は再生すると伝わる、ローマ帝国軍団(花郎騎士団の「花」は、ミトラの借字)の軍神となったミトラ神と同じですね。」
「そして、禅僧は、山の民に向かって、「善人は往生できる、ましてや、悪人(勇者)ならなおさらだ。」、と説いていたのです。」
「その文句、親鸞が「歎異抄」で唱えた、悪人正機説と同じですよね。」
「カメさん、親鸞は、室町時代に蓮如(苗字日野氏、姓藤原氏・武家の武家屋敷ではなく、武士の屋形や馬借の宿を主な布教地としたのは何故か。)により創作された、架空の人物です。その呪文は、禅宗が、山の民である、太陽信仰民族世界に入り込むために発明した呪文なのです。」
「ナベさん説では、確かに、親鸞は架空の人物であると、鎌倉時代のレポートにありましたが、一般的常識では、親鸞は、浄土真宗の開祖となっていますよね。」
「浄土真宗は、鎌倉時代には存在していなかったのです。カメさん、「浄土真宗」と「親鸞」の文字で、何か感じませんか。」
「何も感じませんけど。」
「その漢字を、カタカナで表示してみてください。」
「ジョウドシンシュウとシンランですよね。」
「そうです。その二つには、共通のものがありますね。」
「シンですか。」
「そうです。秦氏の別称は、シン氏です。秦氏は、シンの始皇帝の末裔です。朝鮮半島に渡来すると、その支配国名は、シン韓(辰韓)、シン羅(新羅)となるのです。そして、シン氏(秦氏)の祭祀は、シン楽(シン→申楽→猿楽)です。」
「すると、蓮如は、秦氏末裔をターゲットとして、浄土シン宗、シン鸞のネーミングを発明したわけですか。そういえば、シンラン(親鸞)とシンラ(新羅)にも共通音がありますよね。」
「浄土シン宗の実際の開祖である蓮如は、その書籍や手紙には、漢字を使用しないで、全て、ひらがなで著わしていたのです。浄土シン宗が、賎民のための宗教ではなかったことは、三代将軍徳川家光から始まる第三百済王朝の江戸時代、秦氏・騎馬民族末裔を差別支配するための寺請制度で、浄土真宗は、その末寺として、民族差別するために専用の穢多寺を造っていたからです。」
「すると、シン氏末裔の山の民は、肉食妻帯するシン鸞が拓いた、「ナムアミダ」(私は太陽神を信じます。)を唱える浄土シン宗を、シン民族のための宗教として受け入れてしまうわけですね。」
「そうです。鎌倉時代中期から室町時代初期にかけて、禅宗は、山の民の抱きこみのために、悪人正機説を唱え、阿弥陀の石仏を山の民の支配地に設置していたのです。しかし、このことは、西国のことで、東国での禅宗の活動は不明です。西国は、民族差別が始まる平安時代から、亡命百済貴族末裔が、比叡山を山城として、京都を支配し、そして、藤原氏は、春日山の麓の興福寺を砦として奈良を支配していたのです。そして、その京都と奈良の地を奪われ山の民となった、秦氏末裔は、淀川河口の上町台地の一角の湿地帯(都市国家渡辺村・世良多部落出自の源氏長者となった徳川家康も、江戸川河口の湿地帯を大土木事業により居住地に変て江戸の町を造成した。)を拠点としていたのです。秦氏は、古墳時代から、治水のための高度土木技術を保持していたのです。だから、淀川河口の湿地帯を居住地とすることができたのです。」
「東国ではそれほど強くない民族差別が、西国で強いのは、そのような三つ巴(三民族)の戦いの歴史があったのですね。」
「平安時代、亡命百済貴族により、賎民に落とされた秦氏末裔は、鎌倉時代中期のモンゴル帝国による国際自由交易により、阿弥一族として復活したのです。それは、富を産出する山と国際交易港の難波(大阪)を支配していたからです。」
「その富を狙って、石仏を作り、禅宗や藤原氏が暗躍したわけですね。でも、室町時代になると、京都の北辺で相国寺の110mの大塔などの大建設事業を行っていた三代将軍、源氏長者の足利義満が存命中は、阿弥一族は活躍していたのに、足利義満が没すると、阿弥一族も没落したのは、何故ですか。」
「古墳時代、前方後円墳ネットワークで日本列島の物流を支配していた交易拠点は、「ミヤケ」です。奈良時代、唐進駐軍の律令国家が古墳を破壊し、その跡に、怨霊封じ込めのための社(神社・モリ)を建てたのです。鎌倉時代から室町時代初期まで、阿弥一族の商業活動の全国ネットワークを支えたのは、各国にある、その結界としての禁足地「モリ」を拠点として、全国的に組織された同業組合としての「座」です。室町時代、その組織を壊滅する組織が、淀川の京都と難波の中間点の山崎に現われたのです。それが、油座です。」
「油座って、油行商の同業者組合のことですか。」
「違います。従来の「座」を、談合による排他的同業者の集まりであるカルテルとすれば、山崎の油座は、各種の座を統合して支配するコンツエルンのような組織です。その油座は、油の他に米や各種製品を行商するだけではなく、為替の決済をおこなう割符のサービス業務もおこなっていたのです。淀川沿いの山崎の大山崎離宮八幡宮を拠点とする油座は、1368年突然その勢力を増大させるのです。」
「油座は、まるで、現在の総合商社のようですね。で、何で、1368年突然その勢力を増大させたのですか。」
「1368年は、国際自由交易を行っていたモンゴル帝国が、朱元璋の軍団に破れ、明が興った年です。そして、同年足利義満が三代目将軍として就任した年です。そして、明は、モンゴル帝国が宗教の自由を認めていたのに対し、儒教を国教とするのです。」
「すると、禅宗は、中国大陸から追い出されるわけですね。」
「モンゴル帝国で、禅宗は国際交易に携わる一方、禅寺を各地に建立して、そこを国際商人達向けに宿坊としていたのです。坊とは、居留地の意味もあるのです。」
「すると、ナベさんは、その油座の商人は、1368年モンゴル帝国から亡命して来た、と考えているのですか。」
「そのように考えています。油座の商人達の商業活動は、モンゴル帝国で行われていた「オルトク」を基本としているからです。」
「オルトクって、金を出し合って企業を興す、資本主義のことですよね。」
「そうです。室町時代、その油座が、従来の同業者組合の座を世間から駆逐して行くわけです。」
「ナベさん、それって変ですよ。藤原日本史では、織田信長が楽市楽座を行うまで、座が存続していたように述べていますが。」
「従来の座は、室町時代中期には壊滅していたのです。」
「でも、座には、座を管理運営していた、祭祀具である日本刀を保持する武装勢力の「役座」や、紛争解決請負業としての武装騎馬警備隊の「悪党」もいましたよね。無武装の油商人により、そんなに簡単に、座が壊滅されたのですか。」
「その役座の日本刀が、室町時代から刃幅が厚くなっていくのは、祭祀具から戦闘具への変化が示唆されます。その油座には、僧侶から油商人、そして、後に武人となる斉藤道三のような、槍の使い手の油座護衛隊が存在していたのです。」
「すると、油座の最新式武器である槍を持つ護衛隊も、モンゴル帝国からの渡来者ですか。」
「鎌倉時代末期から室町時代に現われた武将の多くは、何故、歴史的に存在しない「清和源氏」を出自としていたのかの答えが、そこにあるようです。」
「それって、どういうことですか。」
「足利連合軍の中に、斯波氏がいます。その斯波氏のことを、「老松堂日本録」では、斯波氏の振る舞いは、「ほとんど倭風なく、我が国の謹厚の人と異なり」、とあります。「斯波」を「波斯」と逆に綴れば、ペルシャの漢訳字です。唐帝国の時代、638年波斯寺(大秦寺)が建立されています。674年には、イスラームのサラセン帝国に敗れた、ササン朝ペルシャの王子ペローズは、唐帝国に亡命しています。そのように、中国大陸には、ペルシャ人が多く暮らしていたのです。」
「すると、足利氏を含めて、細川氏、仁木氏、二本松氏、畠山氏、吉良氏、今川氏、渋川氏、石塔氏、一色氏など、「清和源氏」を租とする武家は、モンゴル帝国からの渡来者なのですか。」
「鎌倉時代に渡来した武人には、高麗亡命軍、南宋亡命軍がいますから、断定は出来ません。鎌倉時代末期から室町時代に現われた武人の出自を「清和源氏」としたことは、古墳時代の騎馬民族武人の出自を隠蔽するため、藤原日本史では、蘇我氏、物部氏、大伴氏、安倍氏、巨勢氏、紀氏、多治比氏、大神氏などの氏名を発明し、その租を武内宿禰としたトリックと同じだと考えます。」
「ナベさん、その話の流れから、異民族の地を簒奪する戦略が読み取れますね。異民族の支配地である山へ、魅力ある思想を持って僧侶が現われる。そして、その僧侶住居の寺に魅力ある物品をもたらす商人が現われる。そして、ころあいを見計らって武装勢力が寺に集結し、その異民族の地を簒奪する、ということです。オレが見た幻視では、山奥の砦は、山寺だった。山寺の多くは、石垣に護られていますよね。」
「山寺が、仏教史で述べているように、僧侶の修行の地であるとすれば、神社(モリ)が藪垣や板塀で囲まれているように、石垣や堀などの堅牢な防御施設などなくてもよいわけです。しかし、山寺には、防御施設があるのは、外敵の侵入を阻止する前提で建立されているのです。その山崎の油商人は、阿弥一族の経済援助に支えられている足利義満からの経済的援助を受けられない後円融天皇に近づき、伊予、阿波、備前、播磨、摂津、和泉、河内、丹波、山城、近江、美濃、尾張に商売の許可を得て行くのです。」
「それらの国は、後に、民族差別が激しくなって行くのですよね。」
「そうです。それらの国の山々は、秦氏・騎馬民族の支配地だった処です。禅宗・油座商人・渡来武人連合に簒奪された国の奪還が、藤原日本史で述べる、日本列島西国各地で起こった百姓一揆の実態です。」
「藤原日本史では、百姓一揆は、馬借や声聞師に指導されていた、とするのは、秦氏や騎馬民族末裔の武士に指導されていたことを隠蔽するためだったのですね。」
「藤原氏にとって、秦氏や騎馬民族の歴史的存在は、許すことの出来ないことなのです。それは、その秦氏や騎馬民族の歴史が、公に知れると、聖徳太子の飛鳥時代物語の虚構がバレることにより、カスピ海沿岸のハザール王国の民を租とする藤原氏の出自が暴かれ、それと同時に、日本列島の統治装置としての、藤原氏のための藤原氏による天皇制の秘密が暴かれてしまうからです。目障りな民族を、歴史的、世間的に抹殺するには、その民族を不可蝕賎民、穢多として落としこめるのが最も効率的な方法なのです。」
「藤原氏は、秦氏や騎馬民族を歴史的に抹殺するため、古墳時代の日本列島を支配していた秦氏・騎馬民族と他民族との隔離政策のひとつとして、穢多の蔑称を発明するわけですね。その歴史隠蔽のトリックとしての、藤原日本史の中世に賎民として登場する、芸能民、神人、犬神人、寄人、供御人、河原者、声聞師、馬借などを、秦氏末裔や騎馬民族末裔に置き換えると、中世の実態が浮かび上がるわけですね。鎌倉時代から室町時代初期まで、それらの賎視されていたとする人々は、実際は、国際交易などで経済的に自立していて、決して、放浪・遊行する貧民などではなかったのですね。」
「日本列島の中世は、それらの賎民といわれるひと達が、中世最大の高利貸し組織である比叡山延暦寺出身の破戒僧に随って全国を遊行・放浪していたのではなく、祭祀儀式の費用が捻出できない天皇家や、荘園からの収入が途絶えた公家などの貴族が、貧民の経済レベルで生活していた時代なのです。暗黒の中世とは、天皇家、藤原氏一族、亡命百済貴族末裔にとって、暗黒の時代だったのです。」
「ナベさんの説明で、藤原日本史が述べる室町時代の一揆と下克上の歴史的バックグランドが分かりました。室町時代は、古墳時代からの旧武装勢力と、足利氏などの新興武装勢力との支配権をめぐる激突・拮抗の時代だったのですね。」
「そうです。室町時代は、藤原日本史が述べるように、足利氏が単独で、日本列島を武力で統治していたのではないのです。日本列島史を調べるには、古墳時代から調べなくてはならないというのは、藤原氏や亡命百済貴族や武家が歴史上に登場する以前、7世紀の西国における古墳時代終焉まで、日本列島は、秦氏や騎馬民族により統治されていたからです。しかし、東国の歴史は、鎌倉時代までは分かりません。」
「古墳時代を調べるって言っても、古墳時代の史料がありません。」
「史料がなければ、遺跡や遺物があります。カメさんは、赤羽の岩淵が住まいですよね。」
「そうですが。」
「王子の飛鳥山に行ったことありますか。」
「桜を見に、何度かありますけど。巨石が、無造作にあちこちにあるのを記憶していますけど。」
「飛鳥山は、明日香山で、古墳群の山なのです。1720年(享保5年)長弓による流鏑馬を開発させた、八代将軍徳川吉宗は、明日香山に桜の苗を植えて、庶民のために桜の名所を仕立てた、と述べています。しかし、それは表向きで、桜の植林は、明日香山の古墳群を破壊するためだったのです。」
「だから、飛鳥山には、多くの石室を破壊したため、巨石がゴロゴロとあるのですね。オレの身近にも、古墳時代の遺跡が存在していたのですね。」
「明日香山だけではないのです。赤羽の星美学園は、古墳群の上に存在しているのです。それは、赤羽台古墳群と呼ばれ、6世紀から7世紀の古墳時代後期に築かれていたのです。現在15基の円墳が発掘されていますが、更に多くの古墳が眠っていると推測されています。」
「古墳は、遠い昔のものではなく、オレの身近に存在しているわけですね。」
「カメさん、そろそろ夜明けです。チャットはこれくらいで終わりにしませんか。」
「オレも、なんだか眠くなりました。」
「今、戦国時代の史料を集めています。レポート出来ましたらメールします。」
「よろこんで。」
「では、おやすみなさい。」

オレは、パソコンを閉じるとそのまま寝てしまったようだ。窓の強い日差しに、オレは起こされた。時計を見ると、12時前だった。軽い朝食兼昼食をとると、愛車のトモスで、飛鳥山を目指した。
飛鳥山の駐車場にトモスを止めると、渋沢資料館の立派な建物が目に入った。飛鳥山には、桜の見学で何度か訪れていたが、こんな立派な資料館があるとは知らなかった。遊園地の奥に鉄柵で囲まれたこんもりした地があった。恐らく、それが古墳だ。
やはりそうだった。標識には、飛鳥山1号墳とあった。古墳は、埋め戻されていたので、こんもりとした、盛り土のようだった。
標識によれば、古墳時代後期で、全長31m、3.8mの周溝が発掘され、切石で築かれた横穴式石室には、太刀、刀子の破片、鉄鏃、耳環、菅玉、切小玉、ガラス小玉が出土した、と写真付きで説明されていた。
オレは、石段をゆっくり登った。下から眺めると、盛り土のようだったが、登ると視界が開けた。カメラマンバックから、ペンタックスを取り出し、王子駅方向にレンズを向けた。
晩秋の木漏れ日が、広角レンズを通してオレの目に飛び込んだ。
一瞬、ファインダーに、広い草原を流れる荒川が、幻視として現われた。  

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