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たそがれのプロカメラマン物語  第四章 鎌倉時代
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投稿者 五月晴郎 日時 2013 年 9 月 12 日 16:05:18: ulZUCBWYQe7Lk
 

(回答先: たそがれのプロカメラマン物語  第三章 平安時代へタイムトリップ 投稿者 五月晴郎 日時 2013 年 9 月 12 日 15:56:59)

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源氏が抹殺された鎌倉時代

オレは、真夏の炎天下の由比ガ浜沿道の雑踏の中にいた。夜明け前に、岩淵赤門近くの家を発ち、環八を南行し、国道1号線をひたすら法定速度30kmの愛車トモスで走り続け、鎌倉街道に出て、由比ガ浜に来たのだ。
オレは、カメラマンバックから鎌倉古道マップを取り出し、これからの行動を確認した。本日の鎌倉訪問の目的は、鎌倉七口といわれる切通の観察だ。ルートは、極楽坂切通→大仏切通→化粧坂切通→亀谷坂切通→巨福呂坂切通→朝比奈切通→名越切通だ。
夏の鎌倉の街は車の洪水だ。しかし、超小型バイクのトモスは、ある時はエンジンを吹かし、ある時はペタル漕ぎにより、その渋滞を縫って目的地を次々と走破した。
再び、海岸通りに出ると、飲食店脇の小さな空き地にトモスを止めて、海岸に下りた。海岸は、ひとで埋め尽くされている。適当な空きを見つけると、レジャーシートを敷いて、カメラマンバックを枕に、ゴロッと横たわった。鎌倉までのツーリングは、50ccバイクでは辛い。疲れがドット出た。
ウトウトしていると、先日調べた源義経の謎と、七口の切通により護られていた鎌倉の異様な地形とが、ひとつの仮説として思い浮かんだ。
オレが知っていた、鞍馬山で天狗に剣術を習い、五条の橋で弁慶を負かせたという源義経の幼少の経歴の全ては、史実ではなかった。源義経の史料の多くは、「平家物語」「平治物語」「義経記」「弁慶物語」などの、歴史史料ではなく、物語からのものだ。その中でも必須史料とされる「平家物語」も、13世紀初期から14世紀後期までに、「延慶本」「長門本」「四部本」「南都本」「八坂本」「覚一本」など、内容が微妙に異なる様々な平家諸本が著わされていた。
その諸説ある「平家物語」が述べる不思議は、アラブ系海洋軍団の「平家」を日本列島から駆逐した最大の功労者である源義経が、鎌倉をたった一度だけしか訪れていない、と言うことだ。その一度とは、物語によれば、鶴岡八幡宮の造営に携わった大工への引物馬の手綱を引いたことだ。何故、源義経は、武将として鎌倉に凱旋していなかったのか。
藤原日本史によれば、鶴岡八幡宮の歴史は、1063年源義家が出羽守となり、清和源氏の基礎が固まり、京の石清水八幡宮を鎌倉由比ガ浜に鶴岡若宮として勧請し社殿を創建した。そして、1180年源頼朝が鎌倉小林郷北山に、鎌倉由比ガ浜から、その社殿を遷した、とする。そして、藤原日本史が得意とする前政権の施設を歴史的に抹殺する技術の例によって、その社殿は、1191年焼失し、そして、再建されたのが、石清水八幡宮護国寺とする。すると、源義経が、たった一度だけ鎌倉を、大工に授与する馬を引くためだけに、訪れたとするには、その1180年鶴岡若宮を、鎌倉由比ガ浜から鎌倉小林郷北山に遷した時以外には考えられない。
日本宗教史によれば、若宮とは、奈良時代に三笠山のミトラ教の牡牛を屠る祭事場を破壊して、その跡に、春日若宮(春日大社)を創建したように、前政権の宗教施設を破壊し、その跡に設置された施設であることが多い。そのような視点で鶴岡八幡宮の設置位置を見てみると、その若宮に隠蔽された、前政権の宗教施設が、仏教や道教のものではないことが分かる。
それは、鶴岡八幡宮は、仏教や道教の建築基準の南北軸ではなく、南北軸から東に約30度傾いているからだ。この鎌倉の地には、仏教徒ではない民族の先住者がいたようだ。そもそも鎌倉(かまくら)とは、何を意味した地だったのか。「かまくら」と言われる地は、東北に多くあるようだ。新潟では、雪で造られた祠を「かまくら」と言う。
オレが切通廻りをしていた時、道に迷い込むと、そこには分譲地や宅地などに遭遇した。ある文庫本の対談で、鎌倉の地に住んでいた思い出を語る場面で、鎌倉の地を少し掘ると、そこいらじゅうから人骨が出てきた、と言うのを思い出した。そして、歴史本でも、鎌倉の地は、地獄谷があり、そこは死者の墓場だった、との記述を思い出した。古代の鎌倉の地は、葬送地だったようだ。そう言えば、アラブ系海洋民族を租とする「平家」の京都での拠点も、加茂川東側の死体が流れ着く「ドクロが原」だった。
少し考えてみれば、腑に落ちないことがある。それは、何故、伊豆半島の付け根の石橋山の戦いで破れた清和源氏の源頼朝と桓武平氏の北条時政一行は、伊豆から上総に船で逃れ、そして、東京湾を一周して、北条氏と敵対していた桓武平氏の三浦氏が支配する、未だ切通もない、人も住めぬ葬送地の鎌倉の地に居を構えたのか。
平安末期の鎌倉の地は、三方を山に囲まれ、中央を滑川が流れる湿地帯で、切通がなければ、ひとの住める地ではないようだ。更に、井戸水は硬水で飲料に不向きだ。しかし、ある民族にとっては、鎌倉は適地だった。それは、由比ガ浜には、無限の磁鉄の粉があるからだ。タタラ製鉄を行う産鉄民族には、三方には炭の原料となる森がある鎌倉の地は天国だったようだ。
日本列島に産鉄民族が現れたのは、古墳時代のようだ。日本列島各地に、短期間のうちに相似形の巨大古墳を築くには、高度土木技術や測量技術と供に、土や石を掘り起こすための鉄器が必要だった。その鉄器を日本列島にもたらした民族の中に、騎馬民族がいたようだ。
その根拠として、5世紀後半、竪穴式埋葬に替わって、突然、古代エジプトの埋葬思想と酷似する横穴式石室が現れた。その横穴式石室を持つ前方後円墳に、北九州では、石人・石馬が設置されていく。古墳に、石馬が設置されることは、その被埋葬者が馬と関係が深かったことを示唆する。
そして、北九州の巨大古墳に、石人・石馬が設置されていく頃、近畿では河内湖の干拓が終わり、須恵器の生産が始まった。須恵器を造るには、自然火の800℃ではなく、鹿皮製のフイゴのタタラ踏みにより、人工的に風を送り1200℃の火力が必要だ。その須恵器の出現と同時に、曲刃鎌が現れた。鉄製鎌は、農耕民族が発明したものではなく、古代のユーラシア大陸を支配していた騎馬民族が、牧草を刈るために発明したものだ。
その鉄製鎌は、牧草を刈るためだけではなく、戦闘時には、騎馬民族の武器となる。騎馬民族フン族に荒らされた中世ヨーロッパでは、その鎌は死神の武器として恐れられていた。
更に、鉄製鎌は、武器の他に使い道があった。それは、硬い石を鉄製鎌に打ち付けると、火花が熾る。火を熾すには、木と木を擦りあわす方法もあるが、火打石を使うと、瞬時に火を熾すことが出来るし、雨の日でも火を熾すことが可能だ。鉄製鎌は、騎馬民族の日常生活を支えるための重要な道具だった。
鎌倉の地名と、古墳時代に騎馬民族が日本列島にもたらした鉄製鎌とには、何か関係があるのか。鎌倉は、古来から鍛冶の盛んな地であったようだ。そして、鎌倉時代には、日本刀を大量生産して、実戦武器としてではなく美術工芸品として、南宋に輸出していたと聞く。
火打石で、突然思い出したが、役座映画のワンシーンで、出入りなどの特別な時、役座は家を出る時に、火打石で火花をかけられるのは、何故か。
オレは、とりとめもなく、そんなことを夢想しているうちに、深い眠りに入ってしまったようだ。日の傾きかけた浜辺には、もう喧騒はなかった。

翌朝、パソコンをチェックすると、田辺さんからのメール着信が表示されていた。オレは、早速、プリントアウトした。今回のレポートも分厚かった。今回は、事前に鎌倉を実地検分していたので、田辺さんの説もかなり理解できた。
藤原日本史では、貴族政治の平安時代の次に、武家政治の鎌倉時代としているが、あのような交通に不便な、三方を山に囲まれた狭い土地で、日本列島を、1192年から1333年まで、源氏が支配していたとすることには、オレは納得できなかった。その謎は、田辺さんのレポートで解明された。その概要は、以下のようだ。

藤原日本史によれば、鎌倉時代は武家により支配されていた、とするようだ。すると、平安時代まで、政治の中心に存在していた院(天皇)は、中国大陸での政権転覆により前支配者一族が抹殺されていたように、武家により抹殺されてしまったのだろうか。
しかし、天皇家は、鎌倉時代にも存続していたどころか、明治革命まで生き延びていた。そして、鎌倉、室町、戦国、江戸時代まで、武家の支配者に官位を与え続けていたのだ。
1868年明治革命により、王政復古の大号令が発せられ、幕府の制度が廃止された。それと同時に、藤原氏が平安時代から支配していた摂政・関白も廃止された。その代わりとして、天皇が政治の表舞台に登場する「親政」が定められ、その補佐役として、総裁・議定・参与の三職が定められた。
明治政府の新体制と言われるものは、奈良時代に藤原不比等が発明した、太政官と神祇官とにより政治をおこなう、古代の律令制がモデルだった。
その奈良時代に藤原不比等が発明した律令制は、清和源氏三代が桓武平氏の北条氏により抹殺されて、取って代わった北条氏が、1232年制定した「御成敗式目」などの武家による法令により抹殺されたわけではない。鎌倉幕府を清和源氏から奪った桓武平氏の北条氏は、自ら将軍職に就くことなく、京都から藤原頼経を将軍として招いているほどで、鎌倉時代でも、官位制度は、奈良時代の律令制により執り行われていた。
しかし、明治の律令制は、奈良時代の律令制と異なるところは、二官八省が、二官六省となり、太政官と神祇官とが、明治天皇の政治を補佐していた。その神祇官は、明治天皇の直属機関として、祭政一致の国家を創るため、天皇陵などの陵墓を管理・運営していった。この明治時代に、藤原不比等が720年に創作した「日本書記」を、平安時代に亡命百済貴族が改竄し、初代天皇として神武天皇を発明し、その紀元前660年即位したとする神武天皇の稜が創作された。
そして、全国の「神宮寺」を破壊した跡に、奈良時代には禁足の地であった「神社」と書いて「モリ・ヤシロ」と呼んでいたものを、藤原氏の神である女神アマテラスオオミカミなどを祀る「神社」(じんじゃ)として創建した。そして、全国各地の「神社」(じんじゃ)で、江戸時代末期まで「新宮寺」で「僧侶」により行われていた祭りに替わり、仏教支配から独立した「神主」主催の「お祭り」が始まっていくのだ。
その明治革命後に創建された、神社(じんじゃ)での「お祭り」の神事を実質仕切っていたのは、農耕民族末裔の氏子ではなく、明治革命後に被差別民から「新平民」となった騎馬民族末裔と、平安時代に発生した「武士」から派生した「役座」であったのは、何故だ。藤原日本史では、その歴史を何も語らないし、語れない。
6世紀、日本列島の、北九州からではなく、東北から渡来した騎馬民族突厥の日本列島での歴史を述べるとすれば、日本の皇神アマテラスオオミカミを発明した南インドから渡来した民族を租とする藤原氏や、日本列島の皇族の租である亡命百済民族は、古墳時代末期以降の渡来人だとバレてしまうからだ。
藤原不比等は、6世紀半ばから7世紀半ばまでの明日香ヤマトが騎馬民族に支配されていた史実を抹殺するために、奈良時代に「日本書記」を創作した。そして、騎馬民族の王である天子(テングリ)から天皇となった、北極星(太一)を祀る天武天皇の子孫を抹殺し、天皇を神とする「現御神」の天皇を発明した。その「現御神」が、明治革命で、藤原氏と供に復活したのだ。
しかし、その明治の改革は行過ぎた。絶対権力者「現人神」の天皇直属の神祇官により、騎馬民族末裔徳川家康から王権を奪った亡命百済貴族末裔に支配されていた江戸幕府を支える、仏教支配体制を破壊するため、例えば、興福寺を破壊してその「僧侶」を春日大社の「神主」とした宗教革命の結果、崇仏派の農耕民族末裔と廃仏派の騎馬民族末裔とにより、日本列島に宗教的大混乱が生じ、日本列島各地で大暴動が起こった。そのため、神祇官から神祇省に格下げされていたものが、明治5年(1872年)神祇省は廃止された。廃仏派は敗れたのだ。そして、再び、奈良時代から日本列島を宗教的に支配していた仏教勢力が復活するのだ。
しかし、奈良時代に藤原不比等が、日本列島を支配し同族のハザール民族を移民させるために描いた、祭政一致国家の流れは止められたわけではない。奈良時代に藤原不比等が発明した、「現御神」が、「現人神」となって庶民の前に、白い馬に乗って現れたのだ。
そして、その「現人神」の明治天皇か治める「神国ニッポン」を証明するために、鎌倉時代に、日常会話が中国語の禅宗の僧侶により創作された「元寇来襲物語」での「神風」が、「神国ニッポン」のための宣伝に利用されて行くのだ。
そして、鎌倉時代に浄土真宗を拓いたとされる親鸞が、室町時代からの眠りから、明治の廃仏毀釈運動後の仏教復活と供に目覚めるのだ。「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。」で知られる「歎異抄」は、親鸞の著作ではない。親鸞の弟子唯円が著わしたものだ。その「歎異抄」は、戦国時代の蓮如により禁書とされ、明治時代まで庶民は読むことができなかった。何故だ。
その謎は、「悪人」の言葉の意味にあるようだ。その「歎異抄」で述べる「悪人」は、仏教側が使う「悪い人」の意味ではなく、別の意味があるようだ。それは、騎馬民族に関係があるらしい。それは、親鸞が、流刑後に宗教活動していたのは、崇仏派の農耕民族末裔が支配した仏教文化の百済語系ことばが多く使用されていた西国ではなく、廃仏派の騎馬民族末裔が多く暮らしていたギリシャ・ローマ文化の古代新羅語系ことばと、騎馬民族のウラル語系突厥語が多く使用されていた東国だったからだ。
鎌倉時代は、藤原日本史が述べているような武家源氏の時代ではなかったようだ。では、実際の鎌倉時代とは、どのような時代だったのか。

鎌倉時代と言えば、まず思い浮かぶのは、鎌倉幕府を拓いたとする源頼朝だ。藤原日本史では、その源頼朝は、源氏棟梁だとする。しかし、源頼朝は、1180年石橋山の挙兵で、「平家」配下に破れて以来、一度も戦場に赴いて陣頭指揮をしてはいない。が、しかし、源頼朝は、木曽義仲や源義経などの「源氏軍団」が、平家一門を壊滅すると、それらの源氏の忠臣を抹殺し、1192年後白河法皇より征夷大将軍に任ぜられる。
そして、関東の支配者となった源頼朝は、平安時代を生き延びるために「秦氏」から「惟宗氏」に氏名を替えていた民族に、古来から藤原氏が支配していた南九州の島津荘を与えているのは、何故だ。
この源頼朝の処置により、秦氏→惟宗氏忠久から、明治革命で暗躍する島津氏が興った。この惟宗氏は、関東の上野を支配していた比企氏の丹後局を通して繋がりがあった。それは、島津氏の租忠久は、惟宗氏広言と比企氏丹後局の子であったからだ。
更に不思議は、鎌倉時代に突然現れた島津氏の家紋「丸に十字」は、秦氏末裔の弾家の家紋と同じなのだ。その両家の家紋も、元は「十字」のミトラ教のシンボル太陽を表す「マルタクロス」だった。秦氏と島津氏との関係は、何処から続いていたのか。
何故、源氏棟梁とする源頼朝は、「平家」を倒した「源氏」を抹殺し、その代わりに、秦氏末裔の惟宗氏に、藤原氏の荘園を与えたのだろうか。その、源氏棟梁とする源頼朝と、惟宗氏(秦氏)とには、源平合戦において、何か関係があるのか。

1872年(明治5年)イギリス東インド会社の流れをくむ国際資本により、富岡製糸場が開業されると、「東京日日新聞」「日新真事誌」「郵便報知新聞」が創刊され、その翌年に、政府の公式の布告文を「婦女童幼」にまで知らすべく、「公文通誌」が創刊された。その「公文通誌」は、1874年「在野」をほのめかす「朝野」を新聞題名に選んだ。そして、「朝野新聞」は、もっぱら時事の風刺文を掲載していた。
順調に部数を伸ばしていた「朝野新聞」も、1877年に勃発した「西南の役」での各新聞社との報道合戦に敗れ、部数が激変した。そのため、1889年「朝野新聞」は、「大阪毎日新聞」社長渡辺治に譲渡された。この時から、「朝野新聞」に「徳川制度」の連載が始まった。その「徳川制度」の記事の中に、治承4年(1180年)源頼朝が初代弾左衛門(藤原頼兼?)に、「頼朝公の御朱印」を与えた、とする文がある。その「朝野新聞」の記事とは、以下だ。

浅草区亀岡町(往時は新町と云ふ)に住む弾直樹と云ふ人なん、往昔より穢多の君主と仰がれたる弾左衛門の後裔なりける。抑も弾家の祖先は鎌倉の長吏藤原弾左衛門頼兼(弾左衛門を単名と思ふは誤りにて弾は氏、名は左衛門その姓は藤原なりとぞいふなる)にてその先は秦より帰化し世々秦を以て氏とせり。
抑も我国に於て秦の帰化人と称するものは始皇の子扶蘇の後なり。史を按ずるに秦皇の崩壊扶蘇逃れてかい貊に入り居ること五世にして韓に遷りしが、其の裔弓月君なるもの応神天皇の十四年を以て百二十七県の民を率ぬ、金銀玉帛を齎らして帰化し、大和国朝津沼腋上地を賜ひ、其民を諸郡に分置して養蚕織絹の事に従はしめしに、献る処の絹帛柔軟にしてよく肌膚にかなふを以て天皇特に波多君の姓を賜へりと。
是れ秦の字に「はだ」の訓を付したる所以也。其後この族より秦左衛門尉武虎といふもの出て武勇を以て平正盛に事へたりしが、適ま正盛の女の姿色艶麗いと藹丈けてたをやかなるに掛想し筆に想ひを匂はしてほのめかしけれども、翠帳のうち春なほ浅くて高嶺の花のえも折られず、いよいよ想ひ余りて寧ろ奪ひ去りてもと謀りけることの端なく漏れて正盛の怒りに触れ、日頃股肱としも頼む武虎にかかる不義の振舞あらんとは奇怪なり、いで物見せんとて討手を差向けたるよし。
武虎逸早くも聞きて夜に紛れて跡を暗まし関東は源氏の根拠なれば、屈竟の隠れ処なりとて鎌倉さして落ち延びぬ。此れより武虎は鎌倉長吏(穢多の古称)の頭領と成りて秦氏を弾氏と改め、自ら韜晦しけるとなん。其後治承年間頼朝兵を関東に拳るに及びて、弾左衛門尉頼兼事に預りて功あり左の御朱印を下されける。

「朝野新聞」の記事によれば、「平家」に睨まれて京から鎌倉へ逃れた秦氏は、源頼朝の石橋山の挙兵の時、功を挙げたことにより、「御朱印」を賜ったという。秦氏は、一体何を功したのか。
源義経には謎が多くあったと述べたが、源頼朝にも多くの謎がある。その謎のひとつが、源頼朝の氏である「清和源氏」の謎がある。藤原日本史によれば、源頼朝の祖は、源頼朝←義朝←為義←義親←義家←頼義←頼信←源賜姓満仲←経基王←清和天皇であると言う。しかし、別の系図では、「清和源氏」とは、「陽成源氏」である、と云う。
陽成天皇は、清和天皇と藤原基経の娘高子との間に生まれた子だ。では、何故、「陽成源氏」を「清和源氏」としたのか。その謎解きのヒントは、876年(貞観18年)藤原基経は、9歳の貞明親王を即位させ、陽成天皇としたことにある。
その陽成天皇は、883年(元慶7年)嵯峨源氏の従五位下源朝臣蔭の息子益が殿上に侍っている時、いきなり格殺(打ち殺す)していたのだ。陽成天皇は、お脳の病気で、狂躁性の性格であった。そのため、翌年884年(元慶8年)陽成天皇は退位させられ、陽成院と称された。何故、嵯峨源氏が、清和源氏棟梁源頼朝の祖とする陽成天皇に殺されたのか。それは、陽成天皇だけではなく、その父清和天皇を幼年で即位させた、藤原氏の、嵯峨源氏抹殺計画の流れがあったからだ。
武家を、一般的には、「平家」「源氏」「平氏」と分けているようだが、「源氏」にも、その構成民族により多種ある。例えば、「嵯峨源氏」と「清和源氏」とでは、その構成民族が異なる。嵯峨源氏は、反藤原氏の嵯峨天皇の皇子が賜姓されたものだ。それに対して、「清和源氏」(陽成源氏)は、藤原氏の私兵のような存在だ。
嵯峨天皇は、奈良時代に藤原仲麻呂に反旗を翻した橘奈良麻呂の孫娘清友の子嘉智子を娶った。そして、その側室を反藤原氏の地方豪族の娘とした。だから、嵯峨天皇から賜姓された嵯峨源氏は、その流れからすると、反藤原氏なのだ。
その嵯峨源氏の抹殺を、藤原氏が謀っていた。しかし、藤原氏は、自らの手を汚さない戦術を使い、奈良時代から敵民族を抹殺してきた。その戦術とは、敵の氏族の上が老死するのをずっと待つのだ。そして、その子孫を廟堂高位の座に任用しないことで、抹殺していく。その戦術を使えるのは、奈良時代に藤原不比等が仕掛けた律令制度にある。廟堂への最終任命権は天皇にあっても、その実権は蔭位制により奈良時代以降藤原氏が握っているからだ。
更に、藤原氏得意の「夷を以って、夷を制す。」の密告戦術がある。藤原氏の放った密偵により、相手の動静を事前に察知し、ふとした言葉尻を基に致仕に追い込み、自殺させるか、逆賊の汚名を着せて「法」による裁きの名の基に「死罪、流罪、左遷」とし、社会的に抹殺するのだ。その例は、反藤原氏の長屋王と橘奈良麻呂の抹殺に見られる。
藤原氏の敵が、民衆に紛れる平安朝になると、藤原氏が奈良時代に発明した中臣神道の「ケガレ思想」により、宗教的に、敵民族を抹殺にかかった。その藤原氏からの宗教的攻撃の「ケガレ」思想に対しての反撃が、「キヨメ」思想だった。
平安時代の「キヨメ」は、宗教的な儀式だった。しかし、清和源氏頼朝・頼家・実朝の三代が、桓武平氏の北条氏に抹殺された鎌倉時代になると、「キヨメ」は、「汚い物」を処理する行為となってしまう。何故、そのようになってしまったのか。それは、鎌倉時代に、嵯峨源氏(秦氏)が、清和源氏(藤原氏)に抹殺されたからだ。
嵯峨太上天皇が崩御すると、藤原良房は、幼年の皇太子を立てて、清和天皇として即位させ、国家権威と権力の頂点に立つと、反藤原氏の嵯峨源氏の皇子たちの追い落としにかかった。
866年(貞観8年)藤原良房は、応天門の変により、古墳時代からの大豪族大伴氏と佐伯氏と、そして、嵯峨源氏信を、密告戦術により抹殺した。このことにより、平安京では、藤原氏に軍事的に対抗できる豪族が一掃された。そのため、藤原氏の書いた宣命文や詔勅文は、「現御神」である天皇の「御名御璽」のハンコを押した途端に、その恐るべき権威と権力とが発生した。このことにより、奈良時代に天武天皇の皇子達が平城京を追われたように、嵯峨源氏の元皇子達は平安京を追われていった。
延喜19年(919年)大納言嵯峨源氏昇の没後、藤原氏により、嵯峨源氏は廟堂首脳、大納言以上の地位から追い落とされていく。
そして、平安京の都を追われた嵯峨源氏達は、それぞれの母方の地へ落ち延びていった。嵯峨天皇の多くの側室は、反藤原氏の民族末裔であった。その嵯峨天皇の皇子のひとり、源綱は、母方の生地の河内「ワタナベ」に居を構えた。その地は、古墳時代に、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した秦氏による秦王国があった地だ。そして、その地に、渡辺党を興した。その渡辺津は、平安時代末期の源平合戦の時、チュルク系騎馬民族の源義経が、平家の屋島砦を急撃するための前線基地となった処だ。
渡辺党が興って程なくして、その渡辺の地に隣接する摂津多田の地に、何処からともなく武装軍団が現れた。その頃、伊勢にも海洋民族軍団が上陸していた。それらの軍団の渡来元は何処か。

藤原日本史では、日本列島は四海に囲まれているため、中国大陸から孤立していた、とする。その証拠として、遣隋使・遣唐使は海難に遭いながらも、中国から高度文化を輸入していた、と述べる。しかし、記録上にある遣唐使は、奈良時代から平安初期までに15回ほどだが、遣新羅使は、935年統一新羅が滅ぶまで、毎年のように派遣されていたのだ。
676年新羅が朝鮮半島を統一すると、統一新羅の商人は、同族が古来から暮らす大阪難波津を出先拠点として、日本列島と唐帝国との中継交易を行っていたのだ。だから、日本国の遣唐使船が航海中に原因不明の遭難が起こった時、統一新羅の商船が、日本国の遣唐使を送迎していたのだ。それも、一度や二度ではない。その遣唐使も、894年菅原道真の奏上により中止となった。その理由として、菅原道真は、統一新羅の商人から唐帝国の腐敗した政情を聞き及んでいたからだ。
その菅原道真は、藤原時平の陰謀により、大宰府に左遷され、そこで没した。何故、菅原道真は、藤原氏により抹殺されたのか。それは、嵯峨源氏を格殺した陽成天皇と、次の光孝天皇が、あまりにも、天皇としてその存在が疑われたことにある。
887年(仁和3年)藤原良房の養子藤原基経が、関白となった。関白とは、「関わり白(もう)す。」からきたもので、天皇に替わって政治をおこなう職だ。これ以降、豊臣秀吉を除いて、1869年(慶応3年)まで、関白は藤原氏が独占していた。
関白藤原基経は、近親結婚のため血の流れが悪い光孝天皇の人格を疑い、887年光孝天皇を退位させ、藤原氏と血縁関係のない、宇多天皇を即位させた。その藤原基経が、891年(寛平3年)死去した。藤原氏の重圧から解放された宇多天皇は、廟堂から藤原氏の影響力を排除するため、反藤原氏の勢力を集めた。そのひとりに、菅原道真がいた。
宇多天皇は、藤原基経が没して2ヵ月後に、菅原道真を蔵人頭に抜擢した。そして、廟堂の構成を、左大臣嵯峨源氏融、右大臣藤原良世、大納言宇多源氏能有、中納言嵯峨源氏光、藤原諸葛、参議藤原時平、同嵯峨源氏直、同藤原国紀、同藤原保則とした。平均年齢60歳で、藤原基経の長男藤原時平だけが、32歳だった。
宇多天皇は、藤原氏の勢力を抑えるために、後に、菅原道真を参議とし、891年藤原基経没後から、929年までの39年間、太政大臣、摂政、関白を任命しなかった。それは、藤原氏の横暴を抑えるためだった。
寛平3年(891年)として、「類聚三代格」に、「最近、京に住んでいる庶民や王臣の子ども等、婚姻に名を借り、農商をするとか称して外国(畿外の国)に移住、そのすること土民と同じである。既にずる賢い輩は村里に横行、村役人に対抗して細民をおびやかす。」、とある。この描写は、平安時代の律令制度が緩んだため、多くの王臣の子等が、地方に下り、そこに土着し、高貴なるがため権力を握って荘園を開拓して土豪化し、私財の蓄積に狂奔した様だ。
その時代背景として、平安王朝を軍事支配していた唐帝国進駐軍が、本国が内乱状態のため、その日本列島の統治力が衰えたからだ。唐帝国では、722年から傭兵制度により軍団を組織していた。そのため、唐帝国の軍団は、国への忠誠心ではなく、給与の支払いに左右されていたのだ。
その唐帝国の弱体化を見越して、藤原氏は権勢を伸ばし、その権勢に比例して私財が増加していた。そして、天皇家の流れを汲む「源氏」「平氏」の亜流は、京の都にいてもうだつが上がらないため、そして、将来に望みが少ないその子や孫は、新たな新天地を求め地方の国司となり、蓄財の道を選んだ。平安時代末期に関東に勢力を張った、源頼朝を庇護した桓武平氏の北条氏などもその流れにあった。この頃では、「平家」は歴史的に存在していない。
その結果、唐帝国進駐軍の統治能力がなくなった平安時代中期には、日本列島の大荘園の持ち主は、天皇家、藤原氏、そして、僧兵を擁した大社寺であった。
藤原氏の土地私有は、奈良時代の藤原不比等の時代では近江国12郡94郷であったものが、平安時代の藤原良房の時代には美濃国18郡37郷となり、全国郷数の12分の1の337郷となっていた。
宇多天皇は、そのような藤原氏の私財蓄積に歯止めを掛けるため、菅原道真を中納言へ、そして、従三位とした。その菅原道真は、娘淑子を宇多天皇に女御として差し出した。これに対して、藤原時平は黙ってみていただけではない。
もし、菅原道真の娘が親王を生んだとしたら、外戚権は菅原氏のものだ。しかし、宇多天皇は、寛平9年(897年)皇太子敦仁親王に譲位して、法皇となってしまった。その裏には、中納言菅原道真の影があった。菅原道真には、何かの策があったようだ。それは、敦仁親王を「策を立てて皇太子となす。年9歳」、とあるからだ。
その敦仁親王は、醍醐天皇として即位した。その醍醐とは、古墳時代の明日香ヤマトでは、騎馬民族が好んで食べる「チーズ」のことだ。なぜ、「チーズ」(醍醐)天皇なのか。その謎は、醍醐天皇の母胤子にあるようだ。藤原日本史では、胤子は藤原高藤の娘としているようだが、実際は、藤原高藤が若い時、秦氏末裔が多く住む南山科へ狩りに行った時、雨宿りした時に泊まった郡司の娘の子であった。醍醐天皇の血には、秦氏の血が流れていたようだ。
しかし、醍醐天皇が即位して、899年藤原時平が左大臣、菅原道真が右大臣となると宇多法皇の後ろ盾を失った菅原道真は、統一新羅商人との関係など疑われ、延喜元年(901年)「右大臣菅原朝臣を大宰権師に任じ、道真の子息等それぞれ左降された。」、とあるように菅原道真一族は全て、都から追放された。
何故、一族が追放されたのか。その謎は、菅原氏の祖にある。菅原氏の祖は、土師氏だった。土師氏とは、古墳時代に古墳に祀る埴輪を作る技術集団だった。「続日本紀」には、天応元年として、「土師の先祖は、天穂日命より出ず、専ら凶像の仕事をしていたが、今はその意義もなくなったので、現在住んでいる地名にちなんで菅原と姓を改めたいと願い出て許可された。」、とある。菅原氏の祖は、古墳時代からの氏族だったのだ。
奈良時代直前に渡来した藤原氏にとって、古墳時代に居住していた氏族は、歴史的抹殺の対象だ。それは、それらの氏族末裔を生かしていたら、藤原氏のトリック「現御神」「中臣神道」「伊勢神宮」「女神アマテラスオオミカミ」など、「日本書記」での物語りが、古代からのものではなく、奈良時代に藤原不比等により発明されたものだと暴かれてしまうからだ。
藤原氏にとって、菅原氏一族を抹殺しても、安堵できなかった。それは、宇多天皇が残した勢力が現存していたからだ。それが、醍醐源氏高明だ。
939年から941年にかけて、中国大陸から渡来した傭兵軍団などと結託した、瀬戸内海の海賊藤原純友や、関東の土豪平将門が、その地に新王国樹立を画策して暴動を起こしていた。それらを鎮圧したのが、蝦夷末裔の武人だった。その武人は、功績を認められ、禁足地の神社(モリ)で武芸により怨霊を鎮めていた武芸者の「もののふ」から「武士」として公に認められた。それらの武士は、嵯峨源氏や醍醐源氏高明の下に集結した。が、しかし、まだ、清和源氏(陽成源氏)は、存在しない。清和源氏が歴史上に現れるのは、961年経基王が、清和源氏(陽成源氏)を賜姓されてからだ。
村上天皇の時代、天暦8年(954年)の廟堂は、大納言醍醐源氏高明、以下、源雅信、源重信、源時中と醍醐源氏が就任した。特に、醍醐源氏高明は、康保3年(966年)右大臣、康保4年(967年)左大臣に昇叙された。左大臣となった醍醐源氏高明は、娘を為平親王の妻とした。もし、為平親王が天皇となったとしたら、「外戚権」は醍醐源氏になる。
ここに不思議な「源氏」が現れる。清和源氏を祖とする、源満仲だ。系図だと、清和天皇→経基親王→源満仲(多田新発意)、となるが、生まれは、「父」とする経基親王よりも「子」とする満仲が、藤原日本史での「兄」天智天皇より「弟」天武天皇が4歳も年上と同じように、2年も前なのだ。この不自然さを、藤原日本史では満仲は、経基王の養子になったと説明している。更に、満仲の出自が不明だ。満仲は、突然どこから渡来してきたのか。
清和源氏とする源満仲なる者は、藤原氏に取り入りながら、反藤原氏の橘繁延や、北家の亜流の亜流藤原千晴らと、醍醐源氏高明を奉じて東国に下り、挙兵して藤原氏に対抗することを計画したが、仲間割れして、この秘策が漏れることを恐れ、右大臣藤原師尹に密告した。
安和2年(969年)右大臣藤原師尹は、この源満仲の密告を名目に、醍醐源氏高明を太宰員外師として左遷した。ここで再び、菅原道真を左遷した密告戦術が使われたのだ。この密告の功績により、清和源氏満仲は、969年叙位し、藤原氏の配下となった。
これ以降から鎌倉時代になると、嵯峨源氏、醍醐源氏は歴史上から消え、清和源氏が「源氏棟梁」となるのは、何故だ。
鎌倉時代、嵯峨源氏、醍醐源氏の末裔は、どこに消えたのか。その謎解きのヒントは、清和源氏義家が、「八幡」太郎と名乗ったり、清和源氏義光が、「新羅」三郎と名乗ったりしていることだ。それらの「八幡」や「新羅」は、反藤原氏の秦氏(嵯峨源氏)と大いに関係があるものだ。
何故、反藤原氏の秦氏に関係のある「八幡」(「ハチマン」ではなく「ヤ・ハタ・大秦」)や「新羅」(「シラギ」ではなく「シンラ・秦国」)を、藤原氏の傭兵である「清和源氏」(陽成源氏)が名乗るのか。そこに鎌倉時代の謎がある。

清和源氏とする源満仲は、突然、歴史上に現れ、藤原氏の傭兵となった。では、満仲は、どこから渡来してきたのか。考えられるのは、東アジアのようだ。

鎌倉時代に突然現れた武家家紋と武装集団「悪党」は何処から来たのか。

日本人の中には、鎌倉時代に日本列島に現れた「禅」を、日本古来の「術」と信じているひとがいるようだが、それは違う。禅は、インドのアクロバットのような瞑想術を簡略に改良して中国で発明され、中国人(漢民族の南宋人・インド人)の渡来人がもたらしたものだ。
その禅宗は、日本列島に産地当てのギヤンブルとしての「闘茶」の風習をもたらし、そして、雪隠禅師は、邸宅内に「便所」(せっちん)を設置した。質素な中国渡来の禅寺の造りから、武家屋敷が開発された。そして、床の間に「日本刀」を、そして、中国の山水画の掛け軸を飾る風習が武家に普及したという。鎌倉文化とは南宋文化だったようだ。更に、禅寺での日常会話は中国語だった。鎌倉時代に渡来した禅宗は、日本列島でどのような活動をしていたのか。
狭い鎌倉の地には、禅寺が5寺もある。その鎌倉にある禅寺とは、円覚寺、浄智寺、建長寺、寿福寺、浄妙寺だ。それらの建立位置が不思議だ。それらの禅寺は、山を背景に狭い切通に護られて建てられている。それはまさに、民衆の苦悩を和らげる施設などではなく、戦のための要塞砦のようだ。
南宋から、南宋人やインド人だけではなく、禅寺を護る僧兵軍団も渡来していたようだ。「ようだ。」、と言うのは、鎌倉時代の鎌倉幕府の公式史料が、現存していないため、史料で確認できないためだ。だから、鎌倉時代は、どのような文化・経済活動で、そして、税制で運営されていたのか分からない、謎が多くある時代だ。
1191年栄西は、南宋から帰朝し、京・鎌倉で禅宗の臨済宗を弘めた。その頃の南宋では、儒者が多く排出され、道学の誹議が禁ぜられていた。そして、南宋は、北方の金帝国を滅ぼした元により、1274年北方の都襄陽が陥落し、1297年滅ぼされた。
その頃、日本列島では、一夜にして「神風」により、1274年文永の役、1281年弘安の役と云われる「元寇」が壊滅されたとする。その「元寇」と云われるものは、禅宗側だけの史料により復元されている。元軍・高麗軍10万が来襲したとするには、対馬の隣国の高麗の史料に、「元寇」の記録がないのは何故か。
実は、日本の歴史は、1467年応仁の乱以前は、平安京も鎌倉も炎上壊滅していたため、朝廷や幕府の公式史料が現存していないため、知る由もない。あるのは、日本列島支配を企む藤原氏側の「日記」類や、そして、国際交易・高利貸し・ギャンブル・人身売買などを僧兵の軍事力を背景に行っていた寺社の記録記事だけだ。ましてや、敗者側の史料など何一つないのが現状だ。
だから、禅宗側が述べる「元寇」の「ウソ」を、史料で否定することは困難だ。しかし、禅宗の史料を、「漢民族」対「騎馬民族」との対立図式で眺めてみると、鎌倉時代の歴史の一端が見えるようだ。それでは、唐帝国壊滅時代から遡って、東アジアの歴史を眺めてみよう。

907年唐帝国が滅亡する前後に、モンゴル系のキタイ族とチュルク系の沙陀族が政局の表面に浮上した。唐帝国が滅亡すると、華北の統合の主役はチュルク系の沙陀族となった。その沙陀族は、西突厥の一部を構成した集団の流れにあった。
6世紀から7世紀のユーラシア大陸を支配した突厥は、その民族の体質から、「まとまりやすくこわれやすい」集団だった。日本列島の6世紀半ばから7世紀半ばまでの明日香ヤマトを支配していた突厥進駐軍の母国を、唐帝国により壊滅された突厥は、ペルシャ語で「トルキスタン」、つまり、「チュルクの地」とするような小国として存在していた。
傭兵軍団の沙陀族は、唐帝国の内乱を騎馬軍団の軍事力で鎮定し、その功で、唐帝国から唐朝の国姓「李」を賜り、李国昌と名乗っていた。その傭兵軍の「李」軍団は、黒装束で武装していたため、その騎馬軍団は、「烏軍」と呼ばれていた。そして、唐帝国末期では、もはや政権は、チュルク系沙陀族のものだった。
その頃、6世紀中頃の中東に興ったイスラームのサラセン帝国は、インド北部へその勢力を伸ばしていた。インドを逃れたヒンズー教徒は、唐帝国に救いを求めた。しかし、唐帝国内は、農民の暴動などにより治安が乱れていた。
菅原道真は、この頃の唐帝国内の情勢を、統一新羅の商人により入手していたようだ。
このような不安情勢の中、中国土着の宗教とヒンズー教の瞑想技術が合体して、「禅」が、臨済宗は臨濟義玄により、そして、曹洞宗は洞山良价により、発明された。
唐帝国が滅亡する頃、唐帝国の長城線の北側に、モンゴル系のキタイ族の耶律阿保機が現れた。907年唐帝国が滅ぶと、耶律阿保機は、みずから君主となり「大キタイ国」(契丹国→遼)を称した。そして、916年みすがらを天皇帝(テングリ・カガン)を称した。
その天皇帝の即位儀式は、チュルク・モンゴル系の伝統である天上の神である北極星(テングリ)にかけて、柴を燔き天を祀るものだった。それは、672年日本初の天武天皇の即位儀式と同じだ。
耶律阿保機は、926年渤海国を滅ぼし、東丹国とした。そして、947年後晋を叩き潰すと、中華風の国号として「大遼国」を称した。
遊牧国家の体質として、権力の所在地は、夏営地と冬営地との遊牧移動国の中に暮らす天幕群にあった。つまり、「幕府」である。遊牧国家は、部族結合を基礎単位とする連合体だ。だから、君主の一代ごとに政権や王朝が変動する。その流動性を固定化するために、血の繋がりがない有力者と、仮の父子関係を結ぶ。この義父子関係は、時には、実父子関係よりも強いことがある。その騎馬遊牧民族の義父子関係の流れは、「役座」の「親の血を引く兄弟よりもの。」の「血の杯」の儀式に現存している。
中国の北魏から唐帝国までは、拓跋部などの騎馬民族が漢民族を支配していた。しかし、北魏から続いていた、騎馬民族王朝と異なる国が、中国に誕生した。
960年漢族出身の太祖が、宋を興した。宋王朝は、二万を越える官僚と150万の軍隊を保持していた。しかし、軍事的には、遊牧民族の契丹国に押されていた。そのため、宋は、契丹国に巨額な金、絹の歳幣(年ごとの貢物)を貢いで、契丹国からの侵略を防いでいた。
宋は、その歳幣である金と絹を日本列島から手に入れるため、古来から南海交易を行っていた藤原氏やアラブ系海洋交易民族(後の平家)に、仲介を頼んだ。
弥生時代から、日本列島は、中国大陸への絹・朱砂・真珠の供給地だった。奈良時代に始まる遣唐使船などは、唐帝国の税制により日本列島から奪取された「貢物」を運ぶのが、主目的だった。だから、奈良時代を語る「続日本紀」には、中国の史料には武器の材料として牛角を遣唐使船で送れとの命令書があるが、遣唐使の記録記述が、日本から何を運んだのかが曖昧になっている。
そのため、藤原氏は、陸奥国の砂金を独占するために、蝦夷末裔清原氏と安倍氏の抹殺を企てた。奥州藤原氏への布石は、この時からだ。そのため、陸奥出羽按察使を、藤原氏が独占支配していた。
アラブ系海洋民族は、日本列島の伊勢の真珠や水銀を宋に輸出し、宋銭を大いに貯えた。出自不詳の平正盛が、白河上皇に接近できた理由のひとつが、その宋銭だ。その宋との交易により得た宋銭を、天皇や貴族への賄賂とすることにより、短期間のうちに日本列島の3分1を知行地とした。そのアラブ系海洋民族を祖とする「平家」を、藤原日本史では、「伊勢平氏」としてアラブ系民族の「平家」の歴史を隠蔽・改竄する。「平氏」は賜姓で、桓武平氏は、海洋民族などではなく、亡命百済民末裔だ。
その宋から契丹国に送られた多量の金や絹は、国際交易に転用された。契丹国との国際交易をおこなうために、1032年タングト族、漢族、ウイグル族、チベット族などの多種民族国家の西夏が興った。
1115年渤海国滅亡の地に、ツングース系女真族が、大金国を興した。その頃、契丹国では、権力闘争の内乱のため、女真族により首都が陥落しただけではなく、契丹帝国に従属していた宋も、1126年金帝国に滅ぼされた。その金帝国の実態は、騎馬民族特有の女真族とキタイ族との連合政権だった。
平安時代から鎌倉時代に代わる頃の東アジアの12世紀は、東に女真族の金帝国、中央アジアにキタイ族の西遼国、その中間に西夏、江南には南宋、西アジアには分立するセルジュク朝の諸国家が覇権を競っていた。
それらの国々には、武力を商売としての傭兵軍団が、金のニオイに釣られて、シンボルマークを付けた部族旗をたなびかせて行き来していた。勿論、宋に金、絹を供給していた日本列島も、その例外ではない。
遣唐使船の15回の渡海平均日は、4.1日だ。日本列島と中国大陸とは、藤原日本史の遣唐使船物語で述べているように何ヶ月もかかるものではなく、統一新羅の小型商船が大阪の難波と中国大陸を頻回に行き来していたように、困難な海路ではない。中国大陸の傭兵軍団は、中国大陸の動乱を避けるため、或いは、唐進駐軍が居なくなって強力な軍団が久しく存在しない、日本列島を目指していた。
藤原氏は、「現御神」の「天皇制」を利用して、日本列島を完全支配するために、明日香ヤマトを支配していた民族末裔の「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」の抹殺を実行するため、傭兵軍団を海外に求めていた。その時、藤原氏の前に現れたのが、難波津に渡来した「満仲」の軍団だ。
日本列島から、日本列島の3分の1を支配したアラブ系海洋民族「平家」を駆逐するために、藤原氏と桓武平氏の北条氏が結託して起こした、「源平合戦」が勃発した頃、東アジアのすべてを飲み込む、モンゴルが産声を上げた。
日本列島の東国を、嵯峨源氏末裔や醍醐源氏末裔を「源平合戦」のドサクサ中に抹殺し、百済系平氏の北条氏が支配するために、藤原氏の傭兵軍の「清和源氏」の抹殺を企てていた頃、1206年テムジン(チンギス・カン)は、チュルク・モンゴル系の雑多な集団からなる牧民戦士軍団を率いて外征の旅に出た。
雑多な軍団は、それぞれの部族を表すシンボルマークを軍旗に記していた。因みに、テムジン軍団のシンボルは、源義経と同じ、笹竜胆だ。平安時代末期の「源平合戦」では、「源氏の白旗」と「平家の赤旗」で、日本列島には、源義経の笹竜胆の家紋以外は、未だ武家家紋は登場していない。
騎馬民族は、農耕民族の歴史書により、「蛮族」「血塗られた文明の破壊者」などのレッテルが貼られている。その野蛮な遊牧民の代表が、「モンゴル」だ。しかし、「モンゴ゜ル」は、人種や民族の名前だったのではなく、一地方の集団の呼び名だった。その小集団のモンゴルを、テムジンが支配者となって、他部族を打倒・吸収するうちに、モンゴル共同体が、やがて、大集団を表す「モンゴル」となっていった。それは、1211年テムジンが、華北の金帝国への侵入を始めた頃だ。
モンゴル軍団は、騎馬軍団による怒涛の攻撃により、農家や田畑を荒地として壊滅させるイメージがある。しかし、モンゴル軍団は、戦わない軍団だった。モンゴル軍団が、地上の破壊軍団であったならば、短期間のうちに、西はキプチャク汗国、東は元までの大帝国を築けなかった。
モンゴル軍団の軍事行動は、敵国を壊滅することなくそのまま接収・吸収するために、示威行動だった。敵兵を残酷な刑で殺戮をしていたならば、モンゴル軍団の軍人は、減りこそすれ、増えることはないからだ。
モンゴル軍団が、金帝国や西夏を接収・吸収できたのは、ソグド商人、ペルシャ商人、イスラーム商人などの国際商人達が協力者として暗躍していたからだ。国際商人にとって、国々に分かれて、それぞれに関税を払うより、一国に関税を払うことが商売上有利だからだ。
モンゴル帝国は、1260年を境に、二分できる。それは、前期がモンゴル高原を政治基地として軍事中心に帝国が運営され、東は日本海から西はドナウ河河口、アナトリア、東地中海まで拡大をつづけた時期だ。そして、後期は、クビライによるユーラシア、北アフリカに到る「世界」を結びつける国際通商をおこなう時期だ。
1260年クビライが即位すると、アジア東方を直接の根拠地として世界帝国を建設する。それは、軍事と通商とが統合した、世界史上まれにみる帝国だった。クビライは、国家が主導する自由貿易、重商主義政策とにより、陸海をつうじた空前の「ユーラシア大交易圏」を出現させた。その前提として、クビライは、南中国の南宋を接取した。
南宋は、宋の時代以前、唐帝国の時代に、南インドとの国際交易により開発された海路を利用して、ヨーロッパ→エジプト→南インド→マカオ→中国沿岸→日本列島の国際海洋ルートを確保して、国際交易品の絹、金、銀、水銀、真珠などを交易していた。
その南宋の禅宗の臨済宗は、鎌倉の地に禅寺を設けて国際交易基地として、南宋から、南インドの香木や中国の書画骨董を輸入し、そして、鎌倉の浜砂鉄で造られた日本刀を美術品として輸出していた。寺は、古来から、仏像を安置する処でもあり、国際交易基地でもあった。それは、寺は、治外法権で、朝廷権力が及ばない、ナンデモアリの「聖地」であったからだ。
クビライは、騎馬民族帝国で、歴史上初めて、海への進出を果たした。そのために、クビライは、陸海を結ぶ物流ターミナルを造るために、内陸の大河を結ぶために、高低差数十mの閘門式運河を造った。それらの内陸運河により、中国大陸内部の都市と、高麗、日本、東南アジア、インド洋方面などの諸外国とに海路が直接結ばれた。
1274年、日本列島に文永の役の「元寇」が現れた頃、クビライは、南宋国境線の諸方から全面進行した。その結果、南宋軍の長江中流の要地、鄂州は戦わずして開場した。ここにも、モンゴル軍団の戦術、戦わずして接取する戦術がおこなわれた。
そして、1276年、1281年日本列島に弘安の役の「元寇」が現れる5年前、南宋王朝が壊滅し、南宋軍団は、大船団を組織して杭州から脱出して、東南沿岸を流亡した。その南宋の大船団が、東シナ海の黒潮に乗れば、行き着く先は、黒潮が沿岸を洗う北九州か南九州だ。
「元寇」と伝わる物語は、モンゴル軍団の来襲などではなく、南宋や高麗の大難民船団だった。その根拠のひとつとして、「元寇?」の難破船からは、大量の農具と種籾が詰まった壺が引き上げられているからだ。武器ではなく、農具や種籾を積む大船軍団などあるのか。
クビライが、南宋を攻めたのは、南宋の海洋交易システムを乗っ取ることが、目的のひとつだった。劃して、国際海上交易において、モンゴルは、南宋国の「後継国家」となった。
しかし、その亡国南宋から、日本列島に禅宗のインド僧と供に、騎馬民族差別思想が、鎌倉の地にもたらされた。平安時代の錬金術師空海がもたらした宗教理念の民族差別思想が、インドの禅僧の言葉から直接発せられるのが、鎌倉時代だ。それが、騎馬民族を差別する言葉、チャンダーラ(インド・バラモン教)→施陀羅(平安時代)→穢多(鎌倉時代)だ。
そして、野山に、シンボルマークの旗をなびかせた「悪党」と自称する軍団が現れたのも、鎌倉時代だ。「悪党」とは、「アク党」で、騎馬民族では「アク=勇者」の意味で、つまり、騎馬民族の「勇者党」だ。
日本語の「言葉」には、ポリネシア語、アイヌ語、タミル語、朝鮮半島語(高句麗語・百済語・新羅語)、古代エジプト語、突厥語、中国語(呉音・漢音・唐音)などで構成されている。例えば、「愛娘」(まなむすめ)の「まな」とは、古代エジプト語で、「愛しい」の意味だ。
それらの「万葉語=多民族語」を、漢字二文字の「仏教語」で隠蔽・改竄していたのが、藤原日本史だ。意味の分からない「日本語」にであったら、それらの語源をたどると、意外な歴史が現れることがある。
鎌倉時代は、藤原日本史が述べるように、貧民を救済する新仏教が興った民衆の時代などではなく、モンゴル帝国により南宋が壊滅したために新移民団が中国大陸から渡来した、混乱時代だったようだ。

何故、北条鎌倉幕府はインド僧が多く居る禅宗を保護したのか。

1568年、1560年イエズス会の軍事支援を受けた尾張のゲリラ隊長「藤原信長」は、織田信長として足利義昭を将軍に押し立てて京都に進軍した。そして、織田信長は、「余部」に対して「禁制」の文書を下した。このことにより、「余部」は、織田信長の支配下となった。
「余部」(アマベ)とは、「海部」のことで、海洋民族末裔の賎民のことだ。藤原信長と名乗っていた時代の織田信長の三代先信定の墓が垣内(カイト)にあったように、織田信長の先祖は、アラブ系海洋民族末裔の「平家」だった。垣内とは、別所、散所、湯浅などの地名と同じに、平安時代の百済王権(京都)・藤原王権(奈良)にまつろわぬ民族を押し込めた、神社(モリ)と同じに「結界地」だった。
1534年パリでイエズス会が創立された。イエズス会は、右手に「聖書」、左手に「武器」を持つ、戦闘的教団だった。
イエズス会は、1494年ローマ・キリスト教皇が、ポルトガルとイスパニア王国に与えたトルデシリャス条約で、日本列島はイスパニア王国の支配地として認められたことにより、イスパニアの軍団と供に、1549年藤原氏が隠棲する鹿児島に上陸した。
イスパニア軍団の手先となったイエズス会は、日本列島を支配するために、尾張のゲリラ隊長藤原信長に接近した。それは、藤原信長が、反仏教派だったからだ。藤原信長の祖は、日本列島を実行支配する仏教組織により、賎民に落とされていたからだ。
イエズス会は、藤原信長に最新式の武器・銃と傭兵軍を与え、仏教軍団の壊滅を計画した。それは、戦国時代の支配者は、天皇でもなければ、貴族でも武士でもなく、寺社であったからだ。その寺社勢力を壊滅しなければ、ローマ教皇から認められた支配地・日本列島は、イスパニア王国により支配することが出来ないからだ。
戦国時代の寺社内では、鉄砲製造、弓矢製作、石垣普請、築城などの建築技術など軍需産業を営んでいた。何故、そのような高度技術者が、仏を祀る寺社内に存在したのか。その謎を知るには、古墳時代から奈良時代に遡らなければならない。
巨大古墳を築造するには、鉄器製造技術、石切技術、物資運搬のための運河掘削技術などが必要だ。その技術は、4世紀の日本列島に持ち込まれていた。その古代エジプトで発生した技術は、藤原日本史では紀氏により、朝鮮半島を経由して持ち込まれていた。
6世紀半ば、日本列島の国際交易所のある奈良盆地に、北陸から突厥軍団が進駐し、高句麗・百済・古代新羅のコロニーを支配下に置いた。高句麗、百済は、4世紀から仏教国であったが、古代新羅は、ギリシャ・ローマ文化国だった。
突厥は、騎馬民族で、中国で変質した漢訳仏教を避けた。それは、北魏を興した太武帝も、騎馬民族の拓跋部で、騎馬民族の文化を蔑視する漢訳仏教を弾圧し、北極星(太一)を祀る道教を保護していた。明日香ヤマトを支配した突厥軍団は、高句麗、百済を避け、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅の軍団を支配下に置き、突厥は明日香に、古代新羅軍団の花郎騎士団はイカルガに砦を築き、近畿一帯を支配した。
日本列島は、ユーラシア大陸と中国大陸を結ぶ回廊として、東北から九州まで、道幅12m以上の直線道路が敷設され、各地に駅が設置され、物流の動脈となっていた。「駅」とは、馬偏でもわかるように、馬の中継地のことだ。騎馬民族とは、広域交易民族でもある、商業民族でもあった。
日本列島各地に馬により交易物資が行き来するため、各民族の言葉の文法が、騎馬民族の言葉・ウラル語文法として普及していった。しかし、文法は統一できても、60余カ国に分かれていた各地での民族言葉の統一は、明治革命後までされなかった。
645年唐進駐軍が、明日香ヤマトを攻めた。それは、ユーラシア大陸での、東ローマ帝国との絹馬交易権をめぐって抗争していた東突厥を、唐帝国軍団が、630年散逸させていたからだ。日本列島を支配していた突厥も、その余波を受けて散逸させられた。
672年近畿の山奥に撤退していた突厥と花郎騎士団残党軍に支援された大海人は、近江の亡命百済王朝を倒すと、道教の儀式により天武天皇として即位し、都をわざわざ突厥進駐軍の砦があった地、明日香に定めた。
しかし、686年日本初の天武天皇が崩御すると、684年唐帝国の政権を奪っていた皇后武氏は、再び日本列島支配のため、一人の男を送り込んだ。その名は、藤原不比等。694年藤原京遷都。710年平城京遷都と巨大古墳群を破壊して北上する要塞都市は、山背国を死守する突厥・花郎騎士団残党軍を壊滅するための砦だ。
701年唐帝国は、日本列島を支配するために、大宝律令を発した。それまでの明日香ヤマトは、騎馬民族文化色が強い、部族連合国家だった。各部族長が、血縁・地縁で集まった「部」を統制していた。しかし、大宝律令により、明日香ヤマトの先住民達は、法律と罰とにより、唐帝国皇帝に隷属する身分となってしまった。
この律令制にまつろわぬ先住民族から、唐帝国の法律に従わない「アウトロー」の発生となる。古代には、現在のような「国民国家」などなかった。古代の国家とは、皇帝の制定した法律の及ぶ範囲を国家と言っていた。だから、奈良時代の公務員である仏教僧侶の唱える「鎮護国家」の「国家」とは、「国民国家」などではなく、「天皇」を意味していた。つまり、天皇を鎮護するのが、奈良仏教であったのだ。
奈良王朝にまつろわぬアウトローは、山背国に集結していた。山背国は、中国への玄関である難波と、ユーラシア大陸への玄関である大津との交易路として栄えた国だ。その地は、藤原日本史では秦氏とする民族の支配地だった。
その山背国も、難波宮、長岡京と唐傀儡の奈良王朝の侵攻により、794年亡命百済貴族末裔の桓武天皇により占領されてしまった。平安京の内裏は、秦氏の古墳を破壊した跡に建設された。それは、平城京が、巨大古墳群を破壊した跡に建設されたことと同じに、古墳時代の歴史、古代新羅からの文化と騎馬民族突厥の文化を抹殺する行為であった。
奈良時代には、東北との物資交易のための高速道路であった北陸道、東山道、東海道が、平安時代になると、秦氏の祭祀場であった比叡山に砦を築いた桓武天皇は、北陸道には愛発関、東山道には不破関、そして、東海道には鈴鹿関を設けて、東北との交易を遮断してしまった。
このことにより、西国にいたアウトローは、桓武天皇の百済王朝に対抗する武力が削がれてしまった。アウトローは、その構成員は、古代エジプトの高度土木建築技術とヒッタイト帝国での産鉄技術を保持していた者が多くいた。そして、突厥の騎馬民族の文化も保持していた。騎馬民族は、その歴史から定着し農耕する民族ではなく、夏営地と冬営地を遊行する交易民族であった。
西国に押し込められたアウトローは、桓武王朝の権力が及ばない山地を遊行して生活を営んでいた。しかし、唐帝国での需要が多い銀を日本列島で産出するため、日本列島の山地には、錬金術師達の集団が、金剛杖の武器を携帯して暗躍した。その集団のひとつが、空海の錬金術師軍団だ。
空海は、藤原氏の援助により、1年で仏籍を得て、20年の勉学を義務付けられた学僧として渡唐したのにもかかわらず、わずか旅程を含めても2年たらずで帰朝して、中央構造線上にある高野山に砦を築いていた。それは、水銀鉱脈探索のためだ。
錬金術空海は、アウトローが暮らす山奥に入り込み、水銀鉱脈を探索し、その地を支配するために、秦氏の祭祀場に稲荷社(夷なりのモリ。モリとは古代朝鮮語で、神が降臨する聖地の意味。)を築き、水銀を表す漢字「丹」を木で築き「トリイ」とし、禁足の結界地として王権の介入を阻止していた。
そして、錬金術師軍団は、屈服したアウトローを「聖」として寺奴隷とした。アウトローには、産鉄民族が多くいたので、山奥でタタラ製鉄をおこなっていたため、「火を治める」者として、「聖」(ひじり)と呼ばれていた、有髪の寺奴隷のことだ。
平安時代に発明された、天台宗も真言宗も、奈良仏教の公務員として国(天皇)から経済援助を得られない、私企業であったので、自らの手で収益を得なければならなかった。そのために、天台宗は高利貸しを、真言宗は水銀薬の販売を収益の主としていた。
日本列島史の史料の多くは、寺社史料から復元されているので、寺社に不利な史料は隠蔽・改竄していることが多い。特に、寺経済については、そうだ。
奈良時代の寺院は、鎮護国家道場の国家(天皇)の安全祈願の場で、寺僧は奈良朝廷に奉仕する役人で、国家機構の一部だ。それは、唐帝国を乗っ取って皇后武氏から、則天武后と変身したのは、アルビノ(白色)動物を吉祥として仏教ネットワークを活用して、皇后武氏を女帝にする宣伝技術が成功を収めていた経緯があったからだ。
唐帝国の皇后武氏の指示を受けた藤原不比等は、騎馬民族に支えられていた天武天皇が崩御すると、そのアルビノ動物戦術を、日本列島でもおこなうため、明日香ヤマトにあった太陽を祀り、太陽の化身牡牛を屠るミトラ教の景教寺や、北極星(太一)を祀る道教の観を破壊した跡に、北九州にあった仏寺を移築し、オンリエント文化の明日香ヤマトを、仏教文化の飛鳥大和と改竄した。
そして、藤原不比等は、ミトラ教や道教の歴史を抹殺するために、それらの宗教施設を破壊した跡に、藤原氏の神を祀る中臣神道の宗教施設を創建した。それが、春日若宮だ。春日若宮は、古代からのものではなく、アマテラスオオミカミと同じに、奈良時代に発明されたものだ。
その古墳時代の日本列島史の隠蔽のためには、ミトラ教と道教を祀る民族を歴史上抹殺する必要が、藤原氏にはあった。そのための宗教的武器が、ケガレ思想だ。奈良時代の「ケガレ」とは、藤原王権に逆らうアウトローに対しての思想武器であった。
しかし、亡命百済王朝の平安時代になると、桓武天皇は、秦氏の歴史上の抹殺を謀った。それは、秦氏とは、古代新羅から渡来した民族を祖としているからだ。新羅は、桓武天皇の母国百済を滅ぼした憎き国だ。
日本列島の地図に、百済や高句麗(高麗)の文字が多く認められるが、新羅の文字はそれほど多くはない。何故か。それは、藤原日本史は、新羅抹殺の物語であるからだ。だからと言って、新羅末裔が抹殺されたわけではない。新羅は、白木、磯城、志木、志茂、白鳥など、変名して存続していたのだ。新羅から渡来の秦氏は、百済王朝からの圧力をかわす為に、秦氏から惟宗氏に変氏していた。
平安時代、桓武天皇は、藤原氏の奈良王朝を封印するために、奈良仏教の末寺はもとより僧侶の平安京への移住を禁止した。そして、788年比叡山に延暦寺を創建し、藤原氏の中臣神道に対抗するために、中国山東半島の土着神シャンワンを導入して「山王神」とした。そして、騎馬民族を蔑視する漢訳仏教の「法華経」を、延暦寺の思想武器とした。
「法華経」には、仏敵は皮膚病(ハンセン氏病)となると明記してある。平安京を支配した百済王朝は、アウトローが暮らす部落にハンセン氏病者の世話をさせた。これは、感染魔術だ。感染魔術とは、接触した者は感染するとする思想技術だ。このことにより、アウトローの暮らす地は、反政権の「ケガレ」から、観念的嫌悪の「ケガレ」と変換していった。
しかし、桓武天皇は、その王権簒奪において多くのひとを謀殺していた。そのため、桓武天皇は、怨霊に苦しめられていた。古代では、怨霊は、同族の者でなくては鎮静させることができないと信じられていた。ここにアウトローが、公に再登場する場面が設定された。それが、「ケガレ」に対する「キヨメ」だ。平安時代の「キヨメ」は、怨霊を鎮めるための技術だ。
平安京の内裏は、秦氏の古墳を破壊した跡に建てられた。そして、多くの古墳は、奈良時代から平安時代にかけて破壊されていた。その「キヨメ」を担ったのは、京の治安を護る令外官である検非違使の配下であった。816年反藤原氏の嵯峨天皇は、京の治安のために検非違使を設置した。その検非違使は、警察実行部隊として、蝦夷の捕虜を組織した。それは、蝦夷の祖は、古墳時代の近畿一帯を支配していた民族であったからだ。
平安京の治安は、目に見える盗賊などの他に、目に見えない怨霊からの攻撃を交わすことも要求されていた。古代では、疱瘡やはしかなどの感染症は、祟りだと信じられていた。その祟り神を鎮めるには、芸が必要だ。芸とは、今日の庶民を楽しませる芸事ではなく、神が降臨する「庭」で、神を楽しませる技術だ。それらは、踊り、歌、まぐわいなどである。
陸奥国を支配していた蝦夷は、元々は、明日香ヤマトでの武人であった。唐進駐軍により、愛発関、不破関、鈴鹿関により東国に押し込められた花郎騎士団と突厥軍団の末裔だ。その検非違使の配下となった蝦夷は、怨霊を鎮める芸の為に、祭祀道具を発明した。
それが、蝦夷の武器である蕨手刀を改良した、反りのある長刀だ。後に「日本刀」と呼ばれる。そして、牛・鹿の角を飾った冑に、派手な鎧だ。しかし、蝦夷は、捕虜の身であるので、実戦用の武器を製作できない。刀は、薄刃で曲がる・折れる。しかし、刃が薄いので、風を切るときの音が妖艶だ。鎧冑は、鉄製ではなく、総革製だ。
そのような祭祀道具で武装した「もののふ」は、禁足地である神社(モリ)で、怨霊の魂鎮めのために、剣舞をおこなった。これが、「武芸」だ。「武芸」とは、敵と戦う実戦技術ではなく、「もの=カミ」の僕(ふ)である者が行う、怨霊の魂鎮めのための技術だ。
この「もののふ」を含めたアウトロー達に、転機がおとずれた。それは、奈良時代から平安時代にかけて、日本列島を律令制度で隷属していた唐帝国が、907年滅びたからだ。
この転機に最初に動いたのが藤原氏だ。唐帝国のエージェントであった藤原氏は、律令制度を利用して私腹を肥やしていた。それは、701年唐帝国の律令を基本に作成された大宝律令を改竄して、718年養老律令として、藤原氏のための律令、藤原不比等が太政官と同権を持つ神祇官を設定し、北極星の天帝により地上の支配権を任された天皇を、ユダヤ教の神ヤハヴェのように、現御神の絶対神としたからだ。この養老律令は、明治革命まで施行された。そして、藤原氏と供に、再び、藤原氏が支配する神祇官が明治革命で復活する。
その藤原氏の支配する天皇に権威を与えるのが、仏教組織だ。その仏教組織も、唐帝国が崩壊したことにより、支配地の拡大に動いた。漢訳仏教寺院は、治外法権を利用して、その経済活動を護るために武装軍団を要していた。西国での仏教勢力は、奈良の興福寺と京都の延暦寺とで二分していた。
907年唐帝国が崩壊すると、960年漢民族の宋が興るまで、中国大陸は内乱状態となっていた。日本列島は、藤原日本史が述べるように、海に囲まれているために孤立しているのではなく、海に囲まれているために世界情勢に強く影響されていた。
中国大陸の混乱の影響を受けた日本列島も、王権から寺社が分離し、多くの寺社が武力を持ち治外法権をもって独立し、王権に従わなくなった。貴族も同様に、天皇や院に対する公然たる批判を、日記に記していた。
武力を持った寺社は、要求を満たすために神仏の威を背景に、僧兵が朝廷に押しかけ、王権を威圧する強訴を行っていた。その強訴を行う寺社に、百済王朝(桓武天皇家の平安王朝)により、結界地である河原や神社(モリ)に押し込められていたアウトローが集結し始めた。つまり、中世の寺社では、日本仏教史では黙殺しているが、学僧と賎民とが対等の立場により共生していたのだ。それは、河原の賎民には、学僧にない、経済力があったからだ。
寺社は、他の寺社との武力闘争に勝利するために、その出自を問わず武器を製造できる者や戦闘に優れた者により、僧兵軍団を組織した。このことにより、古代の寺院と異なる構成が、中世の寺院に現れた。それは、学侶、堂衆、聖、神人などの身分による構成だ。
学侶とは、世俗の貴族、武士、富裕民の出自で、寺内でも特権を主張する。堂衆は、雑役を勤める下級僧侶で、武士より下の身分を出自とした。聖は、定住地を持たないアウトローで、寺に定住せずに全国を遊行し、寺院の信仰と権威を背負って、寄付を募ったり、参詣の勧請をしていた。その聖の実状は、山伏と同じだ。
武士は、939年から941年までに起こった天慶の乱で、瀬戸内海の海賊藤原純友と関東の平将門の乱を鎮めた実績により、蝦夷武人を祖とする武芸を行っていた「もののふ」が、公にその騎馬による武力を認められ「武士」と呼ばれたことによる。「武士」は「もののふ」であるが、「サムライ」は「もののふ」ではなく、武装はしているが貴人に侍る秘書が役目だ。
アウトローを取り込んだ寺社は、京都で強訴を繰り返した。摂政関白制度で天皇のロボット化を謀っていた藤原氏に対抗して、1086年白河上皇は、院政を始めた。この院政により、藤原氏のロボットである天皇の権限が、白河上皇に移った。白河上皇は、藤原氏の横暴を阻止する行動をおこなうが、藤原氏は私兵として、出自不詳の満仲なる人物を雇って対抗した。これが、藤原日本史で云うところの「清和源氏」の祖だ。
更に、白河上皇を悩ます存在が、神輿を担ぎ強訴するアウトローを構成員とする僧兵だ。そこで、白河上皇は、加茂川東側のドクロガ原を武力で支配する海洋民族武装団を、私兵として雇った。その白河上皇の私兵を、「桓武平氏」に対抗して、「平家」と呼んだ。白河上皇は、「夷を以って、夷を制す」の戦術により、アウトローの僧兵軍団の強訴を阻止するために、アウトローの海洋民族軍団「平家」を利用した。
平安時代のアウトローとは、奈良時代に藤原不比等が発明した養老律令に従わない者だ。養老律令では、人民は租庸調の税を収めなければならない。そして、太政官と同等の権限のある神祇官が「神」の権威の下に政治に介入する仕掛けを、718年藤原不比等は養老律令に盛り込んでいた。その「神」とは、「現御神」の天皇だ。
百済系桓武天皇が、春日大社の神を支配する藤原氏から独立した平安時代初期、その「現御神」の桓武天皇を悩ましたのが怨霊だ。怨霊は疫病を撒き散らすと、平安貴族や庶民には信じられていた。それは、ほんの数十年前、巨大古墳群を破壊して築いた奈良の都での奇病の流行が、怨霊の存在を信じさせていたからだ。しかし、その奈良の都の奇病とは、遍照鬼(後に奈良の大仏様・大日如来となる。)の鋳造時での銅と水銀による鉱毒が原因であった。
平安時代になると、寺社で僧侶と共生するアウトロー達が、「現御神」の天皇や院を脅すための道具として、その怨霊を封じ込めた神輿を利用したのだ。平安時代の神輿は、「神」を祀るための祭祀道具などではなく、祟り神(前政権の神)を封じ込めた「脅しの道具」だった。だから、神輿には、開かれる窓や戸はない、羽目殺しの窓や戸だ。現在の、由緒正しい神輿も、羽目殺しの戸であるのは、そのためだ。
武士は、元々は「もののふ」で、武芸で怨霊の魂を鎮める(キヨメル)祭祀者であったので、神輿に対しては、表面上は無抵抗だ。サムライも、その祖は亡命百済貴族末裔なので、神輿に対しては恐れを感じていた。しかし、「平家」は、その神輿に矢を射掛けたり、打ち壊しを行っていた。更に、平清盛の子平重衡は、1180年東大寺に火を放って、遍照鬼(奈良の大仏様)を焼いてしまっていた。それは、「平家」は、根っからのアウトローだったからだ。アラブ系海洋民族を祖とする「平家」の末裔織田信長は、神仏の権威など無視して、高僧を火炙りで焼き殺したり、比叡山延暦寺の僧侶全員を打ち首にしたり、そして、高野聖の大虐殺など行っていた、言わば、アウトローの典型だ。
藤原日本史では、平安時代は王朝文化で、国風文化が生まれたとする。しかし、平安時代初期は、唐文化一色だった。しかし、唐帝国の国力が衰えるのと比例して、藤原氏の平安朝廷での権勢が増していた。それは、東アジアの警察国である唐帝国が、907年滅ぶと、中国大陸が小国家の乱立で混乱していたのと同じに、日本列島でも内乱状態になっていたからだ。
日本国の中世は、藤原日本史が述べるように武士の時代などではなく、アウトローが跋扈する大混乱の時代だった。そのアウトロー達は、自らの武装集団を「アク党」と呼ぶのは、「アク」とは、騎馬民族語では「勇者」の意味であるからだ。そのアク党は、寺社を砦として活躍していたのが、日本の中世だ。
そして、「悪僧」と自ら名乗る僧兵も現れるのも、鎌倉時代だ。悪僧の意味は、悪事を働く僧のことではなく、「アク=勇者」とする武闘派の「勇気ある僧」のことだ。
この鎌倉時代に派生した「アク」の意味を取り違うと、藤原日本史の「ワナ」に嵌ることになる。それは、藤原日本史では、日本列島には4世紀から大和朝廷が存在していて、古墳時代の6世紀から7世紀にかけて明日香ヤマトを支配した騎馬民族など、日本列島に存在していなかったとするからだ。
藤原日本史では、貴族文化の平安時代の次に、武家文化の鎌倉時代とする。その武家文化の特徴のひとつに、1232年制定の御成敗式目がある。では、御成敗式目が制定されたため、奈良時代に藤原不比等が制定した養老律令は破棄されたのか。
御成敗式目は、養老律令に従わない者達を取り締まるための法律だ。では、誰が、誰を取り締まったのか。それは、「武家」が、東国の「武士」を取り締まる法律が、御成敗式目だ。では、その「武家」とは何か。
「武士」は、平安時代末期に、古墳を破壊した跡の禁足地の「結界地」の「モリ・神社」で、前政権の怨霊の魂鎮めの「キヨメ」をおこなっていた、花郎騎士団や騎馬民族の突厥武人の蝦夷を祖とする「もののふ」の武芸者だ。では、「武士」ではない「武家」とは何か。それは、「サムライ」のことだ。鎌倉時代、その「サムライ」の頂点に、北条氏がいた。北条氏は、桓武平氏であることから分かるように、亡命百済貴族末裔だ。
つまり、御成敗式目とは、亡命百済貴族末裔の「サムライ」が、古代新羅から渡来した花郎騎士団末裔や騎馬民族の突厥武人末裔の「蝦夷」を祖とする、東国の「武士」を支配するための法律だった。
では、出自不明の「満仲」なる人物を祖とする「清和源氏」の源頼朝が拓いたとする鎌倉幕府は、京都の百済系桓武天皇家を支配下において、日本列島を支配していたのか。
藤原日本史では、歴史の流れを、平安時代から鎌倉時代とするから、日本列島の政権が、京都から関東の鎌倉に移っていたとの錯覚を起こすひともいるが、鎌倉幕府が支配したのは、東国だけだ。西国は、依然、奈良時代に藤原不比等が発明した養老律令が支配する地域だった。
その西国は、藤原氏が支配する奈良の興福寺、亡命百済貴族が支配する大津の比叡山延暦寺が、その宗教的呪縛により支配していたのだ。この宗教呪縛支配は、現在も続いている。
日本列島は、フォッサマグナにより、二分され、古来から異なる民族が暮らしていた。そのフォッサマグナから北側は、風土がユーラシア大陸と同じ草原地帯が多くある。草原地帯は、農耕民族より、遊牧騎馬民族が暮らすのに適した地だ。
6世紀、ユーラシア大陸から渡来した突厥民族が、東国の陸奥国を拠点としていたのは、東北の気候がユーラシア大陸と同じだからだ。当然、東国の文化は、騎馬民族色が濃い。それに対して、西国は、中国・朝鮮半島の影響を強く受けて漢訳仏教文化色が濃い。
ここにひとつの疑問が起こる。それは、鎌倉新仏教は、何故、西国ではなく、東国に興ったのか。そして、インド人の禅僧は、西国ではなく、北陸と鎌倉に渡来したのか、と言うことだ。
藤原日本史が解くように、鎌倉時代は「武家」の時代などではなく、西国の仏教文化と、東国の騎馬民族文化の二極時代だった。藤原日本史が語る鎌倉幕府の歴史に疑問が多くあるのは、源頼朝の肖像画が、室町時代の足利直義の肖像画で、鎌倉時代の「源頼朝のもの」ではないことからでも、分かる。鎌倉時代の幕府の史料が現存していないのも謎だ。
1180年から1266年まで記録した、幕府の記録書「吾妻鏡」があるではないか、といっても、それは、「信長公記」で織田信長と豊臣秀吉の歴史を調べることと同じで、史料としては価値が希薄だ。「吾妻鏡」は、関東の源氏抹殺を企む桓武平氏の北条氏の作文なのだ。
それに、鎌倉幕府の税制が分からないことからも、鎌倉時代が、藤原日本史の解くような時代でないことも示唆される。何故、鎌倉と北陸には、南宋から渡来した禅僧が、中国語で会話していたか。そして、北条鎌倉幕府の国際交易顧問が、中国語を話す禅僧だったのは何故だ。藤原日本史は、鎌倉時代の「歴史の何」を抹殺したのか。
鎌倉時代に始まる「平家落ち武者部落」とは何か。
「清和源氏」末裔の源頼朝、源頼家、源実朝の三代を謀殺した桓武平氏の北条氏が、北条政子を尼将軍とした背景には、東国は騎馬民族文化圏であったからだ。騎馬民族文化では、王であるテングリ(天子)が死去すると、その妻が部族を指揮する。西国の漢訳仏教文化圏では、女は男に生まれ変わってからでないと成仏できないと信じられていたほど、女性蔑視の文化であった。東国が、西国と同じ文化圏であったならば、源頼朝の妻政子は、尼将軍にはなれなかったはずだ。このことからも、鎌倉時代の東国と西国との民族・文化の違いが分かる。
1219年尼将軍となった北条政子は、1221年西国での源氏残党狩りの目的で、六波羅探題を設置した。その結果、日本列島各地に、「平家落ち武者部落」が発生した。しかし、そのアラブ系海洋民族末裔である「平家」の「落ち武者部落」は、沿岸地域ではなく、騎馬民族が暮らす山奥にあるのは何故だ。ここに、藤原日本史による鎌倉時代の歴史抹殺の謎を解明するためのヒントがある。
「源氏」の姓は、藤原薬子の反乱を平定した後、反藤原氏となった嵯峨天皇が、藤原氏の支配体制から独立して、嵯峨王国を築くために、814年嵯峨天皇の皇子の臣籍降下に伴い賜った姓だ。
その源氏姓は、日本国独自の姓ではない。ユーラシア大陸に起こった騎馬民族の拓跋部が、443年北魏を興し、拓跋部の連合の族長の拓跋氏が、部族連合を纏めるために、部族の序列化のために、漢姓導入した時に、「元・みなもと」とした。その拓跋部の同族の禿髪氏(トクハツは、拓跋・タクバツ、突厥・トッケツと同じに、「チュルク」の漢音字)が、拓跋氏の「元」の臣下となった時、拓跋氏から禿髪氏が「源・みなもと」と姓を賜ったことから始まる。嵯峨天皇が採用した「源氏」とは、ユーラシア大陸の騎馬民族の血筋であったのだ。
その「嵯峨源氏」は、一時は、平安王朝の廟堂を支配していたが、藤原氏の陰謀により、奈良時代に新羅系天武天皇の10皇子が抹殺されていったように、次々と廟堂から追放されていた。その「嵯峨源氏」のひとり、源綱は、母親の生地の渡辺津に移り、渡辺党を興していた。その渡辺津には、源平合戦の時、ユーラシアから渡来した、笹竜胆の紋章を付けた源義経の軍団が、「平家」が陣取る屋島に向けて出撃していた。
母親が藤原氏ではない醍醐天皇も、源姓を皇子達に賜った。それが、「醍醐源氏」だ。その「醍醐源氏」の左大臣源高明も、反藤原氏だった。その反藤原氏の源高明も、969年藤原氏の得意の戦術「密告」により、反藤原氏の菅原道真と同じに、太宰員外師に左遷された。その密告者が、「清和源氏」の祖となる、出自不詳の「満仲」だった。
源満仲は、この密告の報奨として藤原氏により叙位された。この満仲による源高明の密告の結果、反藤原氏の軍団「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」は、平安時代の廟堂から姿を消した。それに対して、「清和源氏」は、藤原氏の傭兵軍となり、奥州藤原王国を築くために活躍した。
では、ユーラシアの騎馬民族の流れにある「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」末裔は、日本列島の何処に消えたのか。

藤原日本史では、平安時代の貴族仏教に替わり、鎌倉時代になると庶民のための、浄土宗、時宗、真宗、日蓮宗などの鎌倉新仏教が興ったとされる。しかし、東国の栃木県日光の二荒(ふたら→ニッコウ→日光)や長野県信州の諏訪(スワ←トルファン)のモリ(神社)では、雨乞いの為に神仏に祈っても効果のない時、鹿(牛)の生首が滝壺に放り込まれる呪術が復活していた。この鹿の生首儀式の意味は何か。
4世紀に大和朝廷が興ったとされる藤原日本史で、6世紀から始まる騎馬民族の日本列島史を消したつもりでも、律令制度が行き届いていない地方、東国では、鎌倉時代になっても古墳時代からのミトラ教の儀式の片鱗が生き続けていた。
牛の生首を犠牲とする儀式は、唐帝国から渡来した漢訳仏教布教のため、奈良時代の741年、平安時代の804年に牛屠殺の禁止令が王権から発せられていた。それは、太陽信仰民族の儀式を禁止するためだ。
太陽神を祀るミトラ教では、牡牛は太陽の化身と信じられていたため、太陽が冬至に死に、そして、再生することから、冬至はミトラ教の神が復活再生する聖なる日と定められた。その祭日に、太陽神に捧げるため牡牛が犠牲となる。やがて、冬至に限らず、旱魃の雨乞いの為に、太陽神ミトラに願うために、牡牛の犠牲が捧げられるようになった。しかし、平安時代には、西国では、仏教勢力の地となってしまっていたため、比叡山を祭祀場としていたミトラ神は祟り神の魔多羅神として貶められ、ミトラ教の儀式はすたれてしまっていた。では、西国には、ミトラ教が存在していたとする痕跡はないのか。
新興宗教が、土着宗教を歴史的に消す例は、ローマ・キリスト教がミトラ教を消したことで示すことが出来る。392年ローマ帝国は、ユダヤ教ヨシュア派を国教として、ローマ・キリスト教とした。その目的は、ローマ帝国軍がミトラ教の神を軍神として信仰していたからだ。ミトラ軍神は、太陽神のため、万人を分け隔てなく祝福する。
ローマ帝国の独裁を目論む者には、ミトラ神は不適切だ。そのため、国教となったローマ・キリスト教は、ミトラ教の地下神殿を破壊して、その上に、キリスト教会を建設した。そして、ミトラ教の儀式をローマ・キリスト教に取り込んで、ミトラ教の痕跡を歴史的に消してしまった。
例えば、キリスト教の「クリスマスの日」は、ミトラ教の太陽神再生の日(12月25日)だ。キリスト教の十字架は、ミトラ教の太陽のシンボルであるマルタクロスだ。キリスト教の儀式である、種無しパンと赤ぶど酒は、ミトラ教での屠った牡牛の生肉を食べ、そして、生血を飲む儀式をアレンジしたものだ。キリスト教の儀式から、ミトラ教の儀式を探すのはそれほど困難ではないように、新興宗教(キリスト教)は、土着宗教(ミトラ教)の儀式をコピーすることで、土着宗教を歴史的に抹殺できるのだ。
では、日本列島の中世の西国では、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した花郎騎士団が信仰していたミトラ教をどのようにして歴史的に消したのか。
花郎騎士団の「花」とは、ミトラの借字だ。花郎騎士団は、軍神ミトラを信仰するローマ帝国軍の流れにあった。その花郎騎士団は、古墳時代、河内湾のローラン(浪速→難波)、奈良盆地のイカルガ、京都のウズマサを拠点としていた。
その根拠として、イカルガから発掘された、法隆寺境内の遺構は、南北軸から西に約20度傾いていた。そして、京都の蜂丘寺の遺構も同様だった。この傾きは、仏教の建築基準の南北軸にはあわない。その傾きは、冬至の太陽が射る角度だ。冬至は、ミトラ教の太陽神が復活する聖なる日だ。
奈良盆地の花郎騎士団の砦は、架空の人物である聖徳太子が建立したとする法隆寺により、そして、京都のミトラ教の蜂丘寺は、広隆寺として仏寺に改竄され、歴史的に消されてしまった。しかし、土着宗教を完全に消すことは、不可能のようだ。どこかに、ボロが出る。
その広隆寺の祭りに「牛祭り」がある。その祭りが不思議なのだ。夕闇迫る頃、牛に乗った魔多羅神が、意味不明の経文を小声で読み続け、突然、正面の建物に駆け込んで祭りが終わるのだ。
この広隆寺の牛祭りの神である魔多羅神は、円仁という僧が、838年最後の第15回遣唐使の短期留学僧の請益僧として遣唐使船で渡唐し、9年間不法滞在して仏法経典多数を、847年新羅商船に乗って日本国持ち帰ったとき、一緒に連れてきたものだ、との説明だ。つまり、魔多羅神は、比叡山のミトラ神が祖ではなく、中国の蕃神との説明だ。
この円仁の唐滞在中、845年会昌の仏教弾圧があった。その結果、漢訳仏教僧は、国外追放となった。そして、漢訳仏教僧に化けていたバラモン僧も、国外追放となった。漢訳仏教は、その民族差別思想の偏りにより、騎馬民族色が強い権力者から弾圧を受けることが、歴史上多い。源氏の祖、拓跋氏の北魏の時代、446年から452年にかけて、仏教弾圧があった。
では、その円仁とは、何者か。円仁は、後に、慈覚大師と尊称されたように、最澄が果たせなかった密教導入を完成させた。円仁は、唐に渡り不法滞在中に密教や浄土教信仰などにかかわる経典や法具を持ち帰り、天台宗を密教をも包含する総合的な仏教に改造した。つまり、円仁がいなければ、天台宗の中に密教が深く入り込むことはなかった。
ニッポン仏教は、不思議な宗教だ。仏教とは、釈尊の教えを説く宗教のはずだ。しかし、ニッポン仏教は、釈尊の教えとは異質な宗教となってしまっている。
釈尊の教えの根本は、階級差別のバラモン教思想の輪廻から逃れるため、人間をやめ、非人となることだ。そのためには、一切の経済活動をやめ、乞食として生きることを説いた。しかし、平安時代から鎌倉時代にかけて、現世利益、極楽浄土などの思想を、仏僧が説いているのだ。
その円仁が比叡山に導入した密教とは、現世利益の欲望獲得のための技法を説く、「秘密宗教」のことだ。その密教技法とは、拝火教のゾロアスター儀式から導入した護摩壇での大麻の焚き火、意味不明のアラム語の呪文、意思を伝える手印、インドのバラモン教やヒンズー教の鬼神を仏の守護神として描いた武器を携帯するおどろおどろしい神々の絵、そのような演出効果でのパホーマンスの最後に、マルタクロスの十字を切って密教の儀式が完結する。それは、インドのバラモン教やヒンズー教、ゾロアスター教、ミトラ教、道教、仏教など、各宗派の欲望獲得のための技法を基に、唐で発明されたものだ。
その密教が、「正統仏教僧?」から嫌われていることは、天台宗以外は宗教ではないとする「四箇格言」の「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と唱える日蓮が、比叡山に密教を導入した円仁を批判していることでも分かる。
では、円仁が、広隆寺の牛祭りで、歴史的に消そうとしたのは「何」か。
聖徳太子信仰は、鎌倉時代に一気に花開いた。その前提に、平安時代に「タイシ信仰」を画策した者がいた。平安時代の「タイシ信仰」の対象は、円仁の「慈覚ダイシ」と、空海の「弘法タイシ」だった。それは、供に、欲望成就の技術である「密教」を、日本列島にもたらしたからだ。このふたりの「タイシ」に、もうひとりが加わる。それが、「聖徳太子」だ。
その平安時代に発明された「聖徳太子」は、ミトラ教のミトラ神を祀る、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族の歴史を消すために発明された架空の人物だ。藤原日本史では、603年聖徳太子は、秦河勝に命じて、仏像を祀るために「広隆寺」を建立させた、とする。その仏像の名は、弥勒菩薩。
622年死去したとする聖徳太子が、架空の人物であることは、「隋書」が証明する。608年隋使裴世清は、明日香ヤマトで、藤原日本史が説くように女帝推古天皇ではなく、男王アマタリヒコに謁見していたからだ。
昔の歴史教科書には、その「アルカイック・スマイル」と説明された弥勒菩薩の像が掲載されていた。しかし、そのスマイル像は、ボロボロのアカマツ材で造られた像を、明治時代に改竄修復されたものだ。今では、その弥勒菩薩の元が、仏像であったのか知ることは出来ない。
そもそも、紀元前486年に没した釈尊は、バラモン教の偶像崇拝思想に染まることになる「仏像」の製作を遺言で禁止していたのだ。しかし、紀元一世紀、ギリシャ文化継承国のバクトリアがあった国際交易都市ガンダーラで作られた最初の仏像は、今に伝わる女の柔肌を持ったふくよかな仏像ではなく、ギリシャ形式の写実的なガリガリのブッタ像だった。ギリシャ仏像は、中国で不老不死を説く道教の神仙思想に対抗して、永遠の生を約束する女の肌の仏像へと変身していた。
その弥勒菩薩の「弥勒」とは、梵語で「マイトレーヤ」だ。光の神を表す「マイトレーヤ」は、その元は、太陽神「ミトラ」だ。
では、そのミトラ神の歴史を消した、聖徳太子建立七寺のひとつである広隆寺は、その後、どうなったのか。それは、古墳時代の奈良盆地にあったイカルガのミトラ教施設の歴史を消した、607年創建の法隆寺が、670年に炎上したように、603年創建の広隆寺(蜂丘寺)は、818年に全焼し、創建当時の建物か残ってはいない。かくして、古墳時代には西国で祀られていたミトラ教は、円仁が始めた広隆寺の牛祭りの魔多羅神により、歴史的に消されてしまった。

仏教支配の西国で、ミトラ教の太陽の化身である牡牛を祀る儀式を、歴史的に消した祭りが、広隆寺の牛祭りの他にある。それは、祇園会だ。今日では、祇園祭と言われている。その祇園会には、牛頭天皇が出演していた。今日では、牛頭天皇を牛頭大王としているが、何故、牛頭が祇園会に登場するのか。
古代日本列島の物流は、中国で「南船北馬」と云われていたように、唐文化のコピーであった平安時代の日本列島の西国では「船」を、東国では「馬」により物流を賄っていた。
その西国での祭りの道具に、山車がある。その山車のルーツは、船だ。京都の祇園祭りの山車は船が祖だ。当然、その祭りの主役は、農耕民族などではなく、海洋民族だ。
京都の都を南北に流れる加茂川の死体が流れ着く東岸に、海洋民族が居住し始めたのは、907年唐帝国が滅び、分裂国家を、960年に統一した宋が興ってからだ。藤原日本史では、数々の陰謀により、摂関政治を発明した藤原氏が、平安朝廷を支配しようとしていた頃だ。
960年五代十国と言われた中国の分裂時代を、宋が統一した。宋は、北魏から唐帝国までの騎馬民族支配の国ではなく、漢民族支配の国だ。宋軍団は歩兵120万と言えども、隣国の騎馬民族国契丹(遼)の騎馬軍団とは太刀打ちできない。そこで、軍事力に劣る宋は、騎馬民族国家の契丹に、金と絹を毎年献納することで、友好関係を結ぶことを考えた。
宋が、その金・絹を海外に求めた結果により、日宋私貿易が興った。金と絹を欲しがる宋は、その供給先のひとつに日本列島を選んだ。それは、古来から、日本列島の部族国家から中国の皇帝に、金や絹を朝貢していたからだ。この金・絹交易で潤ったのは、陸奥国を奈良時代から支配下に置いていた奥州藤原氏だけではなかった。
唐帝国が健在だった頃、陸路のシルクロードにより、東ローマ帝国と絹馬交易をおこなっていた。しかし、571年サラセン帝国が興ると、その勢いは瞬く間に東西に及んだ。その結果、9世紀中頃には陸路のシルクロードは、安全な交易路ではなくなってしまった。
その陸路のシルクロードに替わって、ヨーロッパとの国際交易は、南インドを中継港として、海路の交易が盛んになった。アラビアンナイトの千夜一夜物語の素材は、そのアラブから唐への海路を行き来した船員がもたらしたものだ。唐帝国末期には、長安や洛陽には、アラブ海洋商人達が闊歩していた。
宋は、唐帝国の海洋交易システムを継承していた。そこで、宋は、銅を金や絹に換える方法を考え出した。それが、宋銭だ。宋は、アラブ商人や日本列島に居住する商人に対して、宋銭による交易を始めた。
銭や為替は、騎馬民族が発明したものだ。広域交易をするには、現物交換では効率が悪い。そこで、物品と等価を保証する「銭」を発明した。更に、銭も量が増えれば運ぶのに困難だ。そこで、信用「札」としての為替を考えた。
日本列島は、西国と東国とでは、民族も異なれば文化も異なる。西国は、弥生時代から水田稲作が盛んだが、東国は直播だった。西国は、弥生からの農耕民が多く住むが、東国は水田稲作ではない、畠作の民族が住んでいた。租庸調の律令税制でも、西国は米を納めていたが、東国では絹・鉄・特産品などだ。
農耕民族は、物々交換が主で、銭による交易には慣れていない。西国では、987年検非違使をして銭貨通用を強制していたほどだ。平安時代の西国では、明らかに銭を嫌っていたのだ。平安末期、その銭を京都に持ち込んだ者がいた。それは、東国の伊勢湾を支配する、アラブ海洋交易民族だ。アラブ海洋交易商人は、宋との交易で得た宋銭を、日本列島に持ち込み、金や絹を買い漁った。
日本列島の経済を支配するには、京都を支配することだ。それは、平安時代から、京都は物流の拠点だからだ。それは、比叡山坂本の馬借や清水寺の車借などにより、近隣の物資が京都に運び込まれていたからだ。
アラブ海洋商人が、京都で住める場所は、ひとつしかない。それは、加茂川の中洲だ。中世の加茂川の中洲を想像するには、現在の加茂川のイメージを消すことだ。中世の加茂川の中洲は、想像する以上に広かった。
加茂川は、元々は、京都のど真ん中を流れていた。それを、高度土木技術を持つ秦氏が、高野川に合流させたのだ。その結果、小雨でも、加茂川下流は洪水を起こした。だから、その中州に住む住人は、唯のひとではなかった。それは、京都を支配する民族と異なる、異民族の河原者だ。
西国と東国とでは、民族が異なるとの根拠のひとつに、頭長幅指数(頭幅÷頭長×100)がある。それによると、日本人は、長頭、中頭、短頭の三群に分けることが出来る。騎馬文化の東国では、長頭が多い。仏教文化の西国では、短頭が多い。南方文化の九州では、中頭が多い。その短頭の比率が最も多いのが、西国でも、近畿だ。
しかし、短頭が多い近畿に、東国に多い長頭の比率が多い地区がある。その地区とは、被差別部落があった地区だ。京都、大阪、兵庫、三重、奈良、和歌山で、全国部落人口の40%を占める。これに続くのが、岡山、広島、福岡、愛媛、高知だ。このことは、何を意味するのか。ひとつの考えとして、秦氏の旧支配地が考えられる。秦氏は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族だ。
日本列島の隣国で短頭が多いのは、朝鮮半島だ。近畿に短頭の比率が多いのは、朝鮮半島からの渡来民が考えられる。朝鮮半島からの大量移民の実態は、663年百済国滅亡時期と、そして、794年亡命百済貴族末裔である桓武天皇が、秦氏の支配地の山背国を乗っ取り、平安京とした時期だ。桓武天皇は、中国山東半島で亡命生活をしていた百済民を、京都に大量移住させた。その結果、秦氏末裔は、山奥の僻地や河原に住むことになった。しかし、平安時代に惟宋氏と変氏した秦氏は、水田稲作の農耕民族ではなく、各種技術者集団だったので、農耕できる土地でなくても暮らす術を知っていた。そこが、中州の河原でも。
平安時代末期、河原者が住むその加茂川の中洲に、アラブ海洋交易商人が現れ、仏教文化の京都で、インドの仏教寺院の「ギオン」にちなんで、そのケガレ地を「ギオン」と名付けた。
古来から中州は、ひとが住めぬ荒地なのではなく、各種物品の交易地でもあったのだ。古代の交易は、神の見守る広場(庭)でおこなわれていた。紀元前14世紀のヒッタイト帝国では、太陽神ミトラは、異民族の交易を見守る「交易神」でもあった。
平安末期の加茂川の中洲も、交易をおこなう人々で人口密度が高かった。そこにアラブの商人が、大量の宋銭を持ち込んだため、加茂川の中洲は、大変な活況を呈していた。藤原日本史が述べるように、賎民として貶められた河原者は、ミジメな存在などではなかった。祇園会の山鉾のペルシャ絨毯で飾った山車を出すのには、相当の資金がいる。その資金を提供した「有徳人」の多くが、中州の交易で財を成した「賎民」だった。
日本各地にあるギオンでは、今でも祭りに山車がでるのは、その地名を付けた民族が、アラブからインドを経由して渡来した海洋民族だったからだ。
藤原日本史では、その海洋民族が名付けた「ギオン」を、「祇園」として、その渡来海洋民族の歴史を消したつもりだ。しかし、ギオン祭りを調べると、不思議なことが現れる。
祇園社の歴史は、11世紀から始まるとする。その祇園社の正式名は、感神院祇園社と言うそうだ。その感神院祇園社は、寺院かつ神社(モリ)だ。つまり、感神院祇園社は神仏習合なのだ。その加茂川東岸にある感神院祇園社の鳥居が、加茂川の西岸にあるのは何故だ。
鳥居は、神の地を印すものではない。鳥居は、「ケガレ」の結界地を示すものだ。つまり、鳥居の中は、ケガレている、禁足地なのだ。感神院祇園社の鳥居が、加茂川の西岸にあるのは、加茂川の東岸が「ケガレ」地であったからだ。
神を祀る中臣神道も仏を祀る仏教も、血の禁忌であるはずだ。つまり、仏教や神道思想では、血は「ケガレ」だ。それなのに、何故、僧侶が主催するとする祇園会では、牛頭が天皇として祀られるのか。
鹿頭は、東国の諏訪や二荒の神社(モリ)では、神の祭壇に掲げられる。それは、その地が、騎馬民族の地であるからだ。日本民族は単一で、騎馬民族や海洋民族など存在しないで、農耕民族であるとする藤原日本史では、その牛頭天皇が出演する祇園会を、疫病払いの祭りとする。
しかし、その祭りの説明が「ウソ」であることは、祇園会の日に、京都の天皇や貴族は、神輿方違(みこしたがえ)といって、京都の街から避難していたのだ。ありがたい神や仏による厄払いが祭りの趣旨であるのならば、この天皇や貴族の行動を、何と説明するのか。
平安時代末期、感神院祇園社は、比叡山延暦寺の支配下にあったが、それ以前は、興福寺の支配下にあった。延暦寺は、亡命百済貴族の寺だが、興福寺は藤原氏の寺だ。感神院祇園社は、神官ではなく、僧侶が神事をおこなう寺であり神社(もり)であった。しかし、長官代理の執行家は、古墳時代の豪族の紀氏の子孫だ。
紀氏は、4世紀に日本列島に突然現れた巨大古墳と大いに関係がある民族だ。紀氏の拠点の和歌山県を流れる紀ノ川河口には、古墳が多数あり、その古墳のひとつから、朝鮮半島南部から発掘されたと同型の馬冑が出土している。紀氏は、馬とも関係が深かった。
だからと言って、騎馬民族は、朝鮮半島から北九州に上陸して、東北に移動したわけではない。東北の騎馬民族は、ユーラシア大陸から、構造船により、日本列島の北陸や東北に直接渡来したのだ。5世紀からの古墳に、北は岩手県南部から南は九州まで、実戦用の馬具が埋葬されているのは、朝鮮半島からだけではなく、ユーラシア大陸から日本列島各地に、騎馬軍団が渡来していたことが示唆される。
実戦用の馬冑が、紀ノ川河口の古墳と関東の古墳からしか出土していないのは、ローマ帝国軍でも、馬冑・馬鎧で武装した重騎馬騎士の軍団比率は、それほど高くはないと考えられるからだ。重騎馬騎士は、云わば、実戦の兵士ではなく、敵を威圧する存在だ。
藤原日本史では、527年新羅と結んだ筑紫国造の磐井氏が反乱を起こしたと述べているが、その磐井氏の墓と言われているものには、石人・石馬が設置されている。3世紀の日本列島には、馬も牛もいなかったことは、中国の史料に記してある。では、その馬や牛は、自ら、玄界灘を泳いで日本列島に来たのか。
平安時代になると、平安貴族は、馬ではなく、牛車に乗って移動していた。聖武天皇の遺品を納めた、奈良の正倉院には、聖武天皇が使用したと考えられる4組の馬具があるのは、奈良時代までは、貴族だけではなく、天皇も乗馬の風習を持っていたことが示唆される。
感神院祇園社の祭事の執行が、馬と関係が深かった紀氏の子孫がおこなっていた意味は、何なのだろう。それは、祇園会の祭りの趣旨と関係があるようだ。
平安時代、疫病は祟りと信じられていた。祟りとは、理不尽な理由で死の旅にたった者が、その原因を作った者に、怨霊となって仕返しをすることだ。そのために、祟られる者は、祟りを封じるために、その怨霊の封印施設を造った。それが、社(モリ)・神社(モリ)だ。古代では、「宮」と異なり、社や神社(モリ)は、神を祀る施設などではなかった。
藤原氏は、出雲民族末裔の菅原道真を大宰府に左遷して抹殺したため、菅原道真の怨霊を恐れ、その菅原道真の怨霊を封じるために北野社を建立した。平安時代の菅原道真は、学問の神様などではなく、平安貴族を悩ます怨霊であったのだ。
怨霊は、同族の者により鎮められる、と信じられていたため、怨霊封じの祭事の執行は、怨霊の主と同じ民族がおこなっていた。紀氏は、秦氏と同族で、その歴史的流れは、朝鮮半島南部、辰韓に求められる。その辰韓の地に、356年奈勿王により、ギリシャ・ローマ文化の新羅が興った。新羅の国では、漢語を理解できなかったので、中国の皇帝との謁見では、百済の通訳を雇っていたほどだ。朝鮮半島で暮らす百済民と新羅民とは、民族も異なれば、文化も異なっていた。
日本列島でも、奈良時代を支配していた民族と、平安時代を支配していた民族とは、異なっていたようだ。それは、古墳時代から奈良時代初期まで詠まれていた「万葉歌」が、平安貴族には訓読できず、そのため理解できなかったからだ。
日本列島の住民が、単一民族であるとすれば、百年や二百年前の「ことば」が理解できないはずはない。このことから、平安時代の貴族は、奈良時代の貴族の末裔ではないことが示唆される。平安時代の貴族の多くは、亡命百済貴族末裔だ。それに対して、奈良時代の貴族は、新羅系天武天皇の末裔だ。
ギリシャ・ローマ文化の古代新羅では、漢語ではなく、漢字アルフアベットで、ヒャンチャル(郷札)という、漢字を表音文字として使っていた。つまり、万葉仮名だ。その古墳時代から奈良時代にかけての万葉歌の歌が読み解かれたのは、鎌倉時代になってからで、学僧である仙覚という人物がすべての歌の訓読を完成した。
奈良時代の万葉歌を理解できない平安王朝の実態は、百済王朝だった。この平安時代の百済王朝により、「日本書記」の仏教伝来552年を改竄するために、538年百済仏教伝来物語が創作された。実際の、組織的仏教伝来は、奈良時代だった。
その百済仏教伝来宣伝キャラクターが、庶民に普及していた「太子信仰」(慈覚大師・弘法大師)を利用した「聖徳太子」というわけだ。だから、奈良時代の史料には、「聖徳太子」の記述がない。そのための「言い訳」として、「聖徳太子」の生前が、「厩戸皇子」だったとしているのだ。
京都の地は、奈良時代までは、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した秦氏の支配地だった。比叡山も、秦氏の祭祀場だった。奈良盆地の三笠山の秦氏の祭祀場が、奈良時代に藤原氏により春日社が建立されたことで、その秦氏が祀る太陽神ミトラの歴史が消されたように、亡命百済貴族は、平安時代の804年牛屠殺を禁じ、比叡山のミトラ神を宿神である魔多羅神として、その歴史を消してしまった。
しかし、加茂川の河原に住む民族は、その民族宗教の歴史の残像を後世に伝えるため、牛頭天皇を発明した。牛の頭が、祭りの主役であることは、不思議なことだ。しかし、ミトラ教の儀式を知る者には、京都の地は、亡命百済貴族が支配する前、秦氏の支配地であったことは、祇園会の祭事を執行する者が「牛頭を祀る」民族であったことにより理解される。
京都の加茂川の中洲で、交易により財を成すアラブ商人の末裔は、宋銭や買いあさった土地を白河上皇に寄進したため、次の鳥羽上皇の時代、そのアラブ商人の息子は、1132年内昇殿を許されるほど出世した。そのアラブ商人の末裔は、百済系「桓武平氏」に対抗して、一族を「平家」と名乗っていた。
この「平家」による宋交易を苦々しく思っていたのは、南インドから渡来していた藤原氏だけではない。藤原氏は、唐帝国が日本列島を漢訳仏教を思想武器として経営を始めた時期に、南インドを渡来元として現れ、南九州坊津を母港とする祭祀・交易民族だ。藤原氏は、その氏名を「籐氏」と言っていたように、唐帝国と密接な関係を持っていた。630年から始まる遣唐使船の運営は、その藤原氏が関係していた。
その遣唐使の記録が、奈良時代の歴史をカバーする、797年完成の「続日本紀」に完全に記載されていないのは、何故だ。そして、新羅商船は、渡唐で難破することが少ないのに、基本的には四隻で渡唐する遣唐使船は、何故、何隻かは難破するのか。そして、ベトナム沖に漂流した遣唐使船で、藤原氏の関係者だけ生き残って、唐に舞い戻ることが出来たのは何故か。それは、藤原氏は、古来から南インドと九州坊津との南海路を開発していたからだ。日本国の国史といわれる「続日本紀」にその詳しい記述が記録されていない遣唐使船の謎は、謎の多い藤原氏の歴史を知ることにより解明できるはずだ。
藤原氏が、平安中期から台頭したのは、907年に唐帝国が滅亡したからだ。東アジアの警察国家としての唐帝国の国力の衰えと比例して、朝廷での藤原氏の勢力が増大していた。
平安中期になると、唐帝国の軍事力の後ろ盾に護られていた百済系天皇家の土地は、廟堂を支配する藤原氏の策略で、荘園という私有地に侵食されていった。そして、天皇家の繁栄を祈る寺社も、その僧兵の軍事力を背景に、寺社領という私有地を拡大していた。
そこに、宋の商人だけではなく、アラブの商人も、金と絹を求めて日本列島に渡来した。中国との交易は、古来から藤原氏だけではなく、比叡山延暦寺の僧もおこなっていたのだ。延暦寺の僧源信が著わした「往生要集」も、その死に至る描写の生々しさの故、宋にも輸出されていた。
漢訳仏教の元である一世紀に発明された大乗仏教は、ガンダーラの国際交易商人と供に、中国に伝わった。仏教の施設の「寺」(ジ)の前身は、シルクロードから中国に渡来した国際交易商人や僧を取り調べるために造られた建物のことだ。
一般的に、「寺」と言うと、墓が隣接する仏教の施設と思われているようだが、本来は、入国関税事務所のイメージだ。やがて、その入国関税事務所が処理できないほどの国際交易商人や僧が渡来すると、その入国関税事務所に宿泊施設が伴なった。その「寺」(ジ)は、やがて、国際交易商人と渡来僧の宿泊施設となっていった。
国際交易商人と僧は、共生できる。それは、目的が一緒だからだ。未知の「市場」を開拓するため、そのふたりは、「寺」という「砦」を築いて、異民族の国に侵攻していく。
仏教の「寺」の建築物が、堅牢な土塀に囲まれて、更に、深堀を廻らせ、屋根を瓦で被い、境内に大きな鐘を設置し、高層の塔を建てるのは、何故か。平和を祈る仏像を安置するだけであるならば、神社(モリ)のように、木の皮で屋根を葺き、簡単な木の塀でよさそうなものだ。それは、「寺」は、仏像を安置するだけの建物ではなかったからだ。
戦国時代の城は、石組みの上に複数の仏閣を乗せて造られたものだ。瓦は、火矢からの防火となる。大きな鐘は、警報装置だ。高層の塔は、見張り台となる。見方を変えれは、「寺」は、砦なのだ。
中世のその砦には、勿論、国際交易商人がいた。比叡山にも、当然いた。国際交易商人は、中国との交易でもたらした珍しい物品を、寺の門前で販売した。それが、市だ。交易は、神(仏)の見守る処でおこなわれる。その門前の市と対抗するのが、被支配者の河原者が住む中洲の交易地だ。
平安中期以降、907年唐帝国が滅亡したため、京都の警察力も衰えていた。そこで復活登場したのが、賎民と貶められていた、タタラ製鉄、石切り、運河掘削などの高度技術や芸を持った秦氏末裔だ。藤原日本史では、賎民の芸能民の登場とするが、その高度の技術を持つ民族の歴史を語らないし、語れない。
その芸能民の歴史を語れば、騎馬民族が渡来した古墳時代を、仏教文化黎明期の飛鳥時代とし、北九州にあった秦王国の歴史を、奈良盆地の歴史にすり替え、そして、日本国の天皇の始めは672年新羅系天武天皇からなのに、紀元前660年即位の神武天皇から始まる架空の天皇物語を創作していたことが「バレ」てしまうからだ。紀元前660年は、日本列島では、縄文末期だ。そして、その頃の奈良盆地は、一雨降れば、湖となっていた。
その平安時代中期に現れた芸能民の祖とは、明日香ヤマトを支配していた騎馬民族の突厥民族と、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族だ。奈良時代を支配した藤原氏や平安時代を支配した亡命百済貴族が、日本列島の王権の簒奪者であり、賎民と言われた芸能民の祖が、実は、日本列島の王権の流れにあったのだ。だから、平安時代の芸能民は、平安貴族と対等以上の存在だった。その証拠に、芸能民の遊女である「うかれめ」が「局」となり、天皇の子を宿し、その子が、高僧となっていたことは、平安時代末期では珍しいことではなかった。
神社(モリ)は、支配者の王権からみれば、「ケガレ地」だ。しかし、被支配者からみれば、民族の氏神を祀った聖地だ。その「モリ」の語源は、古代朝鮮語で、神が住む処だ。
平安時代初期、その「モリ」では、角のある冑と派手な鎧で着飾った蝦夷末裔が、蕨手刀から改良した片刃の刀により武芸をおこない、怨霊(前政権の神)を鎮めていた。
平安時代初期、まだ唐帝国の警察力が日本列島の西国で健在だったので、武芸者の剣舞を見るために、山背国を追われた被支配者末裔は、聖地の「モリ」に集まることが出来なかった。しかし、唐帝国の警察力が日本列島に存在しない中世では、「モリ」は被支配者の集会所となり、やがて、バザールが開かれる処となっていった。バザールは、広域で暮らす騎馬民族が日をきめて、交易のために集まる祭りだ。この騎馬民族文化のバザールの歴史的流れに、役座が仕切る神社(じんじゃ・明治革命後の呼び名)の祭りの屋台がある。明治革命後、1868年神仏分離令により、怨霊を封じ込める神社(もり)は、氏神を祀る神社(じんじゃ)となった。その神社の祭りを仕切る役座の語源は、鎌倉時代、同業者が集まる「座」での交易を仕切る「顔役」のことだ。
後白河天皇の時代になると、京都の経済を仕切るまでになっていた「平家」は、藤原氏と寺社勢力の交易を脅かす存在となっていた。藤原氏は、その「平家」と、藤原氏の傭兵である「清和源氏」を戦わせることで、「平家」勢力の抹殺を謀った。
それが、1156年保元の乱と、1159年平治の乱だ。「平家」も「清和源氏」もその血族が互いに敵味方になった不可思議な戦いで、藤原氏の意に反して、平清盛に勢力が集中してしまった。武力の頂点に立った平清盛は、更に宋との交易を盛んにするため、福原に国際港を建設した。古来から南海交易をおこなっていた藤原氏は、その「平家」の宋交易独占を許すわけにはいかなかった。
ここでひとつの疑問が湧く。それは、三代先に、死体が流れ着く髑髏ヶ原と呼ばれていたケガレ地の加茂川東岸に勢力を張っていたアラブ系海洋民族の子孫である平清盛が、1167年太政大臣となり、廟堂を支配したことを誰も非難しなかったのか、と言うことだ。
祇園会を「ケガレ祭り」として避ける天皇や平安貴族が、その祇園に居を構えている「平家」の棟梁に対して、嫌悪の態度を示さなかったほど、平安貴族は寛容だったのか。貴族から、賎民の成り上がり者との避難をかわすために、平清盛側は、「平清盛は白河天皇の落胤」との噂を流し、更に、「清盛公のかぶら」を市中に放ち、平清盛の悪口を言った者の家に押しかけ、その家を打ち壊して、批判者の口を封じていた。この「清盛公のかぶら」の活躍により、誰も、平清盛の陰口を言うものがいなくなった。

この「清盛公のかぶら」作戦は、明治天皇誕生にも使われた。イギリス東インド会社のエージェントに画策された明治革命で、九州に隠棲していた藤原氏は復活した。復活した藤原氏は、奈良時代に藤原不比等が発明した「現御神」の天皇を、「現人神」として復活させた。
その「現人神」の天皇が、藤原氏が提出した書類に、天皇印を押した瞬間、藤原氏の作文は、誰も否定することができない「神の書類」に変身してしまうのだ。藤原不比等が発明した「現御神」の天皇は、日本国民の為に存在するのではなく、藤原氏一族のための武器なのだ。
1867年孝明天皇が暗殺される。その第二皇子が即位する。孝明天皇と藤原慶子とに生まれた明治天皇が、実は、長州藩により摩り替えられていた。このことを知っている人物の口封じのために、「清盛公のかぶら」として「役座」が利用された。
役座の無言の威圧により、歴史学者も誰も、明治天皇のすり替えを公に指摘できなかった。「明治天皇のかぶら」である役座は、明治時代初期、裏社会の治安警察として働いていたのだ。現在の刑事用語と役座用語とに、共通用語が多くあるのは、そのためだ。
明治が遠くなった平成では、用済みの役座は、暴力団のレッテルを貼られ、現代の賎民扱いとなってしまった。しかし、役座は、明治時代初期までは、日本国の治安を裏で支えていたのだ。
1868年神仏分離令後、神社(もり)を神社(じんじゃ)として、僧侶ではなく、神主によるお祭りが政府主導で開催された。それ以前の祭りは、神仏習合の神宮寺で、神主ではなく、僧侶により執り行われていた。
その明治革命以後の神社(じんじゃ)での祭りは、現人神天皇を「父」とし、国民を「子」として、日本列島を統治するための、藤原氏の戦略であった。全国一斉に、氏神を現人神天皇として、地域の住民を氏子としてお祭りが開催された。その神輿や山車のパレードでの警備責任者は、役座の親分だった。
江戸時代、相撲は勧進相撲と言われていたように、寺や道路を普請するために寄付を募るための興行だった。その地方興行を仕切ったのは、地方の役座の親分だった。江戸時代の相撲は、スポーツというよりも、芝居に近かった。プロレスにシナリオがあるように、その主催地の出身力士が勝つことにより、寄付金が多く集まるからだ。現在の相撲興行も、地方巡業主催者のことを、勧進元というのは、江戸時代からの興行システムが、現在でも生きているからだ。

「平家」の権力を経済的に支えていた宋交易は、1126年宋が、遊牧騎馬民族の女真族の金帝国により滅ぼされたことにより、一時中断となった。しかし、南に逃れた漢民族は、翌年の1127年南宋を復興した。この南宋には、遊牧騎馬民族を恐れて、漢訳仏教や律宗、禅宗の僧達が逃れてきた。それは、漢訳仏教の経典には、肉食する騎馬民族を蔑視する思想が溢れているからだ。
南宋は、宋の海洋交易システムを継承していた。その南宋の海洋交易システムを、金帝国は狙っていた。南宋の商人も、日本列島の金や絹を求めて渡来した。1133年南宋船が来着すると、鳥羽上皇をバックに内昇殿を許された平忠盛は、院宣と称してその南宋船の貨物を奪い取ってしまった。
「平家」の横暴は、平忠盛の子平清盛にも引き継がれていた。1170年平清盛は、国際港として開発した福原の港で、後白河法皇に宋使を引見させていた。「平家」は、ビジネスのためには、法皇も利用するほどの傲慢さを示す存在となっていた。
この南宋貿易には、禅宗の僧が活躍していた。禅は、インドのヨーガとの関係が深いように、禅宗にはインドの肉食禁止のバラモン僧が多くいた。その禅宗は、唐で発明された。インドと唐とは南海交易で結ばれていたので、アラブ商人と供に、インド商人やヨーガの行者も多く唐に渡来していたからだ。
その禅宗は、禅を広めるためだけではなく、カフェインを多く含む茶を交易品として海外交易に力を入れていた。茶は多量に飲むと、カフェインのため覚醒作用を生じる。この喫茶の風習は、禅宗により、日本列島に持ち込まれた。但し、闘茶という産地当ての「博打」としてだ。博打は、役座の「しのぎ」として発明されたのではない。それは、神事として仏寺で、博打がおこなわれていた。だから、博打でのチップのことを「寺銭」(てらせん)というのは、そのためだ。
金帝国は、南宋を支配下に置くほどの軍事力がなかった。そのため、金帝国は、南宋からの金の歳貢を送られることで、平和を保っていた。しかし、1234年モンゴルの二代目オゴダイが金帝国を滅ぼすと、南宋の国内は混乱した。モンゴル軍は、圧倒的な軍事力を見せ付ける威圧により、戦わずして、隣国を支配下におさめていた。
南宋の李全などは、モンゴル軍に寝返っていたほど、日増しに、モンゴル軍の威圧により南宋の国内が混乱していった。海外交易をおこなっていた禅宗は、その亡命先を求めていた。
その頃、日本列島では、「清和源氏」三代が北条氏の陰謀により抹殺され、尼将軍となった「桓武平氏」の北条政子が、関東の武士を焚き付けて、1221年承久の乱を制して、西国に残存する反藤原氏の「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」を抹殺するために六波羅探題を設置した。その六波羅探題による「源氏狩り」を避けるために、「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」の末裔は山奥に逃れ「平家落ち武者部落」で生き延び、或いは、騎馬民族文化が濃く残る東国を目指した。
その北条政子は、「平家」の厳島神社を接取して、「桓武平氏」の宮とした。このトリックにより、アラブ系海洋民族を祖とする「平家」は、「伊勢平氏」となって歴史的に消されてしまった。
「源氏」や「平氏」は天皇から賜った姓だ。だから、その氏を賜った天皇の名が記される。では、「平家」を「伊勢平氏」とするには、「伊勢天皇」が存在しなければならない。「伊勢平氏」が現れたとする鎌倉時代の歴史は、謎だらけなのだ。騎馬民族文化の濃い東国の史料が、桓武平氏の北条氏による史料や禅宗関連の史料以外に、ほとんどないのも、謎だ。
しかし、反仏教のアラブ系海洋民族の「平家」が、滅んだわけではない。「垣内」(かいと)の部落で賎民の「余部」として生き延び、戦国時代末期、その「平家」の子孫が、織田信長として登場するのだ。
そして、北条鎌倉幕府は、西国の律令制度に従わない東国の武士・百姓(鎌倉時代の百姓とは農耕民のことではない。)を治めるために、1232年御成敗式目を制定した。御成敗式目は、藤原不比等が発明した養老律令に従わない、騎馬民族文化の濃い東国の民を支配するための法律だ。東国の百姓文化が、西国と異なることが、御成敗式目の第42条から推測される。
純粋な農耕民族は、土地にしがみつく。それは、生きるための基盤が、土地にあるからだ。しかし、騎馬民族は違う。騎馬民族は、放牧のため、牧草を求めて、夏は北に、冬は南に移動する。土地に定着していては、騎馬民族は暮らせないのだ。その夏から冬にかけての移動時には、各地で交易をおこなう。云わば、騎馬民族は、遊行商業の民だ。
その東国の百姓の「逃亡した百姓の財産についての」御成敗式目の法律が、第42条だ。それによると、

「領内の百姓が逃亡したからと言って、その妻子をつかまえて家財をうばうことをしてはならない。未納の年貢があるときは、その不足分のみを払わせること。また、残った家族がどこに住むかは彼らの自由にまかせること。」

、とある。この御成敗式目の第42条の文章から、東国では、西国と異なり、百姓は東国を自由に移動していたことが推測される。
その東国では、養蚕が盛んだ。その東国で生産される絹は、南宋の商人が求めるものだ。
比叡山延暦寺は、仏教の顔と、国際交易商人の顔がある。延暦寺の僧は、南宋の禅宗の商人と交易をおこなっていた。それは、延暦寺の僧は、中国語に堪能だったからだ。九州には、南宋との交易のための支店まで設けていた。その南宋交易で得た宋銭を、高利で貴族に貸し付けることにより、日本列島中世での高利貸しの頂点に立った。
しかし、比叡山延暦寺の未開拓な市場があった。それが、東国だ。東国は、騎馬民族文化色が濃い。そのため、血の禁忌・肉食の禁止を説く漢訳仏教が受け入れられなかった。このことは、豚肉を常食する中国庶民に、漢訳仏教が受け入れられなかったことと共通する。
北条鎌倉幕府は、独立した機関ではなく、実態は、京都朝廷の東国支配の出先機関だ。それは、幕府の実質的運営は、京都の朝廷から派遣された中級貴族が執り行っていたからだ。そして、北条政子が1225年没すると、翌年には京都から藤原頼経を将軍として招いていたほどだ。
異民族の民を支配するには、武力よりも、思想武器のほうがよい。平安時代を支配した百済系桓武天皇家は、藤原氏が支配する南都仏教を廃して、唐から天台宗とシャンワン神(後の山王神)を招いて、西国の近畿一帯の先住民を思想的に支配した。しかし、東国では、律令制度の武器である仏教は受け入れられていなかった。
しかし、鎌倉時代でも、東国では天台宗の布教が成功していなかった。わずかに、亡命百済貴族末裔の「桓武平氏」の支配地だけだ。そこに、南宋の禅宗が、モンゴル帝国の攻撃を恐れて、鎌倉幕府に亡命を求めてきた。
これには布石があった。1199年父源頼朝の暗殺、1203年兄源頼家の幽閉による死が、北条氏の陰謀であることを知った源実朝は、鎌倉を脱出する目的で、1216年南宋の仏工陳和卿を引見し、渡宋を企て大船を建造させていたのだ。その3年後の1219年、源実朝は公暁により暗殺されたのも、その影には「桓武平氏」の北条氏がいたからだ。
民族差別思想を含んだ「法華経」を唯一の経典とする天台宗では、東国の民を思想支配できない。そこで目に付けたのが、経典を持たない禅宗だ。北条鎌倉幕府と比叡山延暦寺は、禅宗を日本列島に招いた。その地が、北陸と鎌倉と京都の洛外であったのは、意味があってのことだ。
北陸は、藤原日本史で創作した継体天皇の出身地だ。その北陸には、古墳時代には東北から延びる軍事・交易路としての東山道と同じに、北陸道が通る騎馬民族文化色が濃い地域だ。
6世紀半ば、この北陸に上陸した突厥騎馬軍団は、国際交易地のある奈良盆地の三輪山麓のツバキ市を目指して進軍した。その史実を隠すために、藤原日本史では、北陸出身の継体天皇を発明した。更に、その北陸が、騎馬民族の地であることは、薬草による創薬業が盛んであることで分かる。そして、外科手術に長けた藤内医者は、騎馬民族を祖とする。
鎌倉は、平安時代まで、地獄谷と言われていたように葬送地だった。葬送地は、京都の加茂川東岸と同じに、被征服者の住む地だ。
平安時代初期、桓武天皇の皇子や皇女は、経済的事情で臣籍降下させられ「桓武平氏」となった。その「桓武平氏」も次男や三男は、京では暮らしが立たないため、律令軍の未開拓の地である東国に活路を見出した。その「桓武平氏」の末裔が、千葉氏、上総氏、三浦氏、北条氏だ。その「桓武平氏」末裔が、騎馬民族文化色が濃い東国で支配したのは、常陸から千葉、鎌倉、伊豆にかけてだ。それ以外の地には、異民族の騎馬民族末裔が暮らしていた。
北条鎌倉幕府の地が、三面が山に囲まれ、人工的に掘削された曲がりくねった切通により護られていることには意味がある。それは、異民族である騎馬民族からの襲撃を撃退するためだ。その切通に沿って、砦のように円覚寺、浄智寺、建長寺、寿福寺、浄妙寺の禅寺があるのは、何故か。中国禅宗は、禅だけを修行するだけではなく、少林拳という武術も鍛錬していた。禅宗は、鎌倉の地を護るためには、最適だった。その鎌倉の禅寺では、中国語が日常語だった。鎌倉の町では、ちんぷんかんぷん(珍文漢文)の言葉が、禅僧により話されていた。
京都の洛外は、加茂川東岸の髑髏ヶ原を中心に、騎馬民族末裔と海洋民族末裔に、経済的支配されていた地だ。
南宋から渡来した禅宗が、活動拠点とした北陸、鎌倉、洛外は、どれも騎馬民族色が強い地域だった。
国際交易において、交易優位な国語が、劣位の国語を駆逐する。現在でも、英語で日本企業の会社が会議しているのも、日本の企業が劣位にいるからだ。
その南宋が、1279年モンゴル帝国により滅亡すると、南宋の商人は日本国の禅寺に亡命してきた。その結果、禅寺は、中国との交易センターとしての機能を伴っていった。禅宗が、現在でも、色々なビジネスをおこなっているのも、その流れにあるからだ。
北陸の禅宗が、庶民に広がったのは、禅の思想が受け入れられたわけではない。それは、北陸の禅宗は、騎馬民族が信仰する白山信仰思想を取り入れたからだ。それに対して、鎌倉の禅宗が、インドの民族差別思想を広めたのは、禅僧には、騎馬民族を見下すバラモン僧出身者が多くいたからだ。
平安時代初期に、空海が唐からもたらした、民族差別語のチャンダラー(施陀羅)が、鎌倉時代になると、インドのバラモン僧出身の禅僧により語られることになる。それは、新羅末裔の「武士」を敵民族とする、亡命百済貴族末裔の「サムライ」が望むところでもあった。
藤原日本史では、庶民を救済するために、鎌倉新仏教が広まったとする。しかし、その説明には納得できないことがある。それは、その鎌倉新仏教の開祖は、皆、「法華経」を信ずる比叡山延暦寺出身者であることだ。
中世の比叡山延暦寺は、中世最大の高利貸し組織で全国を支配していた。その支店が末寺だ。仏寺は、仏像を安置する処でもあり、金融機関でもあったのだ。戦国時代での、仏寺への戦勝祈願の実態は、武器の購入や傭兵を集めるための借金のためだった。
中世の金融業者は、返済金を滞納した者に対して、武力をもって対処していた。中世には、そのような暴力による返済方法を取り締まる法律などなかったからだ。堂衆組織の僧兵の主な仕事は、神輿を担ぐ強訴と武力による借金取立てだ。
822年「日本霊異記」が著わされたが、その内容は、借りたものを返さないと仏罰があるぞ、との脅し物語だ。仏教説話で、「ウソをつくな、正直であれ。」、とするのは、高利で貸した金を回収するためのセールストークとも考えられる。
仏教史によれば、その新興仏教の仏は、阿弥陀様だという。では、その阿弥陀様とは、何者だ。そして、王権(亡命百済貴族末裔)から、賎民と言われる芸能民の多くは、阿弥号を付けるのは、何故か。
阿弥号の賎民で有名なのは、1402年「風姿花伝」を著わした世阿弥がいる。その書籍によれば、能の祖は秦河勝だという。その秦河勝が、山背国で建立した寺が、太陽神ミトラを祀る蜂丘寺だ。すると、ミトラ神と阿弥陀様とには、何かの関係があるのだろうか。
阿弥陀の梵名は、アミターバだ。その意味は、無限の光を持つものだ。無限の光を持つものとは、太陽のことだ。つまり、阿弥陀様は、太陽神だ。すると、ミトラ神も太陽神であるので、阿弥陀様とミトラ神は、同じ属性を持ったものであることが分かる。
では、その阿弥陀様は、何処から来たのか。阿弥陀様は、西方にある極楽という仏国土を持つと言う。では、その西方とは、何処か。日本人の中には、仏教は中国で広まったから、その西方極楽とは、インドかチベットと想像しているようだ。しかし、阿弥陀様は、インドで発明されたのだ。
すると、インドの西方は、イランかエジプトだ。イランには、ゾロアスター教の闇の神と戦う光の神であるアフラ・マズダがいる。では、エジプトではどうだ。エジプトの宗教は多神教で、神官が勝手に神々を創作していたが、紀元前14世紀イクナトンは、多神教の神官の横暴を阻止するため、唯一神である太陽神アトンを発明していた。
このエジプトの太陽神アトンは、古代ヒッタイト帝国で信仰されていた、契約の神でもある、日の出の神、真昼の神、日没の神の三位一体の太陽神ミトラを祖としていた。西方にいる阿弥陀様とは、エジプトの太陽神アトンのことだ。アトン(古代エジプト)→アミターバ(インド)→阿弥陀(中国)→阿弥陀様(日本)。阿弥陀如来が、腋持二体を伴い、三神で祀られるのも、その祖が太陽神アトンで、アトンの祖が三位一体の太陽神ミトラであることで理解できる。
鎌倉新仏教の開祖達が、騎馬民族文化色の濃い東国で、阿弥陀様の教えを説いた意味は、東国の民の多くは、星(北極星)信仰民族と太陽神信仰民族とであったからだ。その両民族は、死者再生の思想を持っていた。騎馬民族が、敵の首を落とすのは、勇者(アク)は再生すると信じていたからだ。丸山古墳に、死者を生前の武具で着飾って葬るのは、再生を信じてのことだ。
ニッポン仏教が、釈尊の教えの通りのものならば、現世利益も西方浄土も極楽浄土もない。釈尊は、輪廻転生のカルマから逃れるために、人間をやめて、乞食により非人として生きよ、と教えたはずだ。なのに、鎌倉新仏教の開祖は、釈尊の教えと正反対の思想を広めていた。何が、目的だ。
時宗を拓いた一遍などは、騎馬民族スキタイのシンボル聖獣である鹿の角の杖をつき、鹿皮の服をまとっていたのは、何のためだ。日蓮が布教の時、自らを施陀羅の子だと吹聴したのは、何のためだ。親鸞が、肉食・妻帯したのは、何故だ。そして、東国の民に、「善人なほもて往生をとぐ、いわんやアク人(勇者)をや」、と、「騎馬民族の勇者は、再生復活する。」との騎馬民族のこころを揺さぶる呪文を唱えたのは、何故だ。それらの者が、皆、中世最大の金融業者である比叡山延暦寺の門をくぐっていたのは、何故だ。
ここにひとつの不思議がある。それは、法華経を経典とする天台宗以外の宗派は、すべて批判の対象としていた日蓮が、親鸞についてはまったく記述していないことだ。鎌倉新仏教を述べる多くのひとは、第一に親鸞について述べる。その親鸞は、浄土真宗の開祖といわれているのだ。
親鸞を調べると、多くの謎につきあたる。その謎は、親鸞の実名は、日野範宴で、藤原氏の流れにあることと関係があるのか。
親鸞と言えば、「歎異抄」だが、親鸞の著作ではなく、弟子の唯円が著わしたものだか、その「歎異抄」は禁書とされ中世から近世まで浄土真宗の信者たちも読むことが出来なかった。その禁書扱いにしたのは、蓮如だ。

「それ、人間の浮生なる相をつらつら観ずるに、おおよそはかなきものは、この世の始中終、まぼろしのごとくなる一期なり。我やさき、人やさき、きょうともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしずく、すえの露よりもしげしといえり。されば朝には紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。」

この文章は、浄土真宗の葬儀に参加したひとは、一度は聞いたことがあると思う。浄土真宗が親鸞により拓かれたのなら、その「白骨の御文」といわれる文章は、開祖親鸞のものでなくてはならないはずだ。しかし、その文章は、1262年親鸞が「京都」で死去してから約150年後、蓮如が著わしたものだ。
親鸞がなくなった後、浄土真宗は親鸞の血を受け継ぐ法主を中心に、主に騎馬民族文化の東国で勢力を伸ばしていた。が、しかし本願寺自体は、比叡山延暦寺の門跡寺院である青蓮院の支配下にあったのだ。浄土真宗が、金融業を営む比叡山延暦寺の影響下から独立したのは、本願寺8世の「白骨の御文」を著わした、そして、「歎異抄」を禁書とした蓮如の時だった。
中世最大の高利貸し組織を牛耳る比叡山延暦寺の配下として、親鸞は浄土真宗を騎馬民族に広めたのは、何が目的だったのか。それは、晩年を、騎馬民族文化の強い東国ではなく、比叡山延暦寺が支配する「京都」で過ごし、そこで死去したことが、親鸞が、騎馬民族を京都の仏教組織を牛耳る亡命百済貴族末裔の「民族差別」から救うために、宗教活動をしていたのではないことが示唆される。
東国は、平安時代末期からアラブ系海洋民族の「平家」が宋からもたらした宋銭により、貨幣経済が西国より発達していた。騎馬民族は、元々貨幣経済に慣れていたどころか、貨幣経済を発明したのが、騎馬民族だった。その東国に、南宋の商人が交易を求めて渡来していたのが、鎌倉時代だ。いつの時代でも、「権力」や「銭」に吸い寄せられるのが、生産的経済活動をしない「宗教者」の常だ。
鎌倉新仏教が、被差別民族を解放したように、日本仏教史は述べる。しかし、鎌倉新仏教の開祖は、誰ひとり、民族差別語の「施陀羅」を否定してはいないのだ。日蓮などは、自ら施陀羅の子だと言って、民族差別語を広めていた。それは、東国の民は、西国を支配する民族には、貶めなくてはならない、本国百済を滅亡させた憎き民族だったからだ。
民族差別の権威は、なんと言ってもインドのバラモン僧だ。そのバラモン僧出自の禅僧が、北条鎌倉幕府の要職を占めたのは、南宋交易のためだけではなかった。

田辺さんのレポートは、ここで終わっていた。オレには、田辺さんは他にも、もっと語りたいことがある様な終り方に感じた。

結局、鎌倉時代とは何だったのですか。

目に飛び込んでくる映像が、平安京を俯瞰したものであることが分かるまで、少しの間があった。それは、映像が高速度で展開していたからだ。
加茂川が流れる湿地帯に、巨大前方後円墳が築かれていく。そのための土は、湿地帯の東側を流れる高野川に、大湿地帯の中央を流れる加茂川を合流させ、川幅を広げるために掘削した残土だ。大小の前方後円墳が築かれ、大湿地帯は、瞬く間に居住地となっていた。
その前方後円墳が築かれていた居住地に、中国大陸から渡来した異民族が大阪湾から侵攻して、その巨大前方後円墳を破壊し、そこに大内裏を造営して都が築かれていく。しかし、その都も、現在の京都のように仏寺が都を囲んでいるわけではない。初期の平安京は、人家もまばらな都だった。そこに、中国大陸から大移民団が渡来して、賑やかになっていった。
しかし、唐帝国が滅亡すると、その都が、見る見るうちに荒廃し、大内裏は畑になっていった。都の西半分は、もう、人もまばらな農耕地となっている。東半分と、加茂川東岸が賑やかな居住地となっている。まもなくして、都の東半分も、西半分と同じに、人もまばらな農耕地となっていた。人が暮らすのは、加茂川東岸だ。中世の日本列島の都である京都は、荒廃していた。それに対して、東国は、中国大陸から北陸や鎌倉に国際交易商人達が渡来して、絹や金を求めたため、東国各地の物流が馬により賄われ、活況を呈していた。

今、田辺さんに鎌倉時代の幻視レポートをメールで送ったところだが、学校で教わった歴史と異なる映像を幻視した。その幻視の素は、田辺さんのレポートだ。田辺さんに質問したいことが沢山ある。
三日の後、田辺さんとコンタクトできた。

「カメさん、幻視レポートありがとう。私の史観が映像となって幻視される様は、史料による歴史物語より迫力がありますね。」
「ナベさんのレポートが、幻視の素材ですからね。幻視レポートにも書いたように、藤原日本史では近畿中心に物語っているようですが、西国と東国とは、異なる歴史があったようですね。中世の日本列島を幻視で見た限りでは、西国より、東国のほうが経済活動が活発のようですが。」
「平安時代中期までは、唐帝国の警察力が日本列島の西国に及んでいたので、瀬戸内海は比較的安全であったのが、唐帝国が滅んでからは、瀬戸内海は海賊の巣窟となって、危険極まりなかったのです。そこで、中国大陸の国際商人は、日本列島の東国の陸奥の砂金や東北の絹を求めて、瀬戸内海を避け、北陸や鎌倉を目指したわけです。その中世の国際交易は、主に、禅宗の僧侶が実権を握っていたのです。」
「そう言えば、北陸の若狭湾沖や能登半島沖には、南宋船の貿易船団が見えました。鎌倉沖にも沢山の南宋船団が見えたのも、瀬戸内海の航路を避けたわけですか。」
「そのように考えられます。中世期の平安京の衰退も、その結果だと思います。」
「平安京の衰退は、意外でした。京都は、平安時代から寺に囲まれていたと思っていましたから。」
「京都が、寺に囲まれたのは、1585年イエズス会から藤原氏に寝返って豊臣秀吉となった羽柴秀吉が、1587年荒れ果てていた京都に、聚楽第を建造した時からです。1568年織田信長が、足利義昭を奉じて上洛した時の京都は、寺はもとより、人家もまばらな、一面畑だったのです。」
「それって、本当ですか。歴史書には、入京のことを「上洛」と言っていますが、「上洛」って、どんな意味があるのですか。」
「平安時代初期は、唐文化のコピーだと述べましたよね。平安京に遷都した、亡命百済貴族末裔の桓武天皇は、781年即位する時、それまでは呉音により儀式をおこなっていたものを、唐の儀式により「漢音」によりおこなっていたのです。ですから、平安京も、朱雀大路を境に、西側を長安、東側を洛陽と呼んでいたのです。」
「唐帝国では、西の都京兆府を「長安」、東の都河南府を「洛陽」って呼んでいましたよね。」
「そうです。その日本列島の平安京の都の東側に行くことを、「上洛」と言ったのは、日本列島の「洛陽」に行くことを意味していたのです。」
「すると、賎民の住む「洛外」も、理解できます。しかし、中世では、「洛陽」よりも、「洛外」が隆盛していた意味は、どうしてですか。白河天皇も、「洛陽」ではなく、「洛外」に居を構えていましたよね。」
「平安京の大内裏が、唐帝国が滅んで、内乱時代の中世に突入すると、畑になってしまった意味は、怨霊と関係があると考えられます。」
「どういうことですか。」
「唐帝国は、日本列島を経営するために、前政権の宗教施設を破壊した跡に、都を築いていたのです。」
「694年藤原京、710年平城京、794年平安京は、宗教施設跡に築かれたと言うのですか。」
「そうです。前方後円墳を破壊した跡に、築かれた都が、藤原京、平城京、平安京だったのです。」
「それって、おかしいですね。藤原日本史によれば、四世紀に飛鳥大和朝廷が存在していた理由のひとつとして、奈良盆地に巨大前方後円墳が築かれたから、としていますよね。その前方後円墳を破壊することは、先祖の墓を破壊することになりますよね。矛盾しませんか。」
「確かに、四世紀に大和朝廷が存在していたなら、矛盾しますね。しかし、前方後円墳を開発した民族と、奈良時代を支配した民族とが、異なる民族であったならば、前政権に築かれた宗教施設である前方後円墳は、抹殺すべき対象となります。」
「すると、ナベさんは、奈良時代は、古墳時代を支配した民族とは異なる民族により侵略されていた、と考えているのですか。」
「そうです。古墳を築く民族は、奈良時代になる前に、近畿一帯から排除されていたのです。」
「その根拠はあるのですか。」
「史料としてはありません。しかし、奈良時代から、東国には「エミシ」(蝦夷)が登場し、陸奥国の北側の北上川河岸に、丸山古墳が築かれていくのです。」
「藤原日本史では、7世紀末には古墳築造が終わった、と述べていますが。」
「その北上川河岸の丸山古墳は、奈良時代から平安時代にかけて築かれていたのです。」
「藤原日本史では、前方後円墳の北限は、岩手県の丹沢町の「角塚古墳」の前方後円墳といわれていますが。」
「勿論、丸山古墳は、前方後円墳とは比較にならないほどの規模で、大きくても15m程です。しかし、埋葬品に特徴があるのです。」
「どんな埋葬品ですか。」
「蕨手刀は、当たり前ですが、「志波の蝦夷」の本拠地近くにある長沼古墳からは、ガラス玉1200個、翡翠の勾玉60個、ミカン玉1個が出土したのです。」
「丸山古墳のガラス玉って言えば、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の都慶州の古墳から、多く出土していますよね。古代のガラス器は、ギリシャと交易や戦闘をしていた騎馬民族スキタイが活躍していた、カスピ海沿岸で発明されていたようですね。ガラス玉が、中国大陸での墳墓からの出土がないのに、古代新羅の古墳から多く出土していることは不思議ですよね。」
「不思議と言えば、朝鮮半島の隣国の百済語と古代新羅語では、全く異なる言語であったのです。奈良時代後期の朝廷では、百済民は通訳なしにコミニュケーションがとれていたのに、古代新羅民は通訳を必要としていたのです。その古代新羅語と言えば、東北の言葉には、古代新羅語らしき言葉が多く残っているのです。「山のアスパラガス」と呼ばれる「しおで」は、東北方言では「ソデコ」です。若芽が「牛のオッポ」に似ているため「牛尾草」とも言われていました。では、何故、「しおで」が「ソデコ」と言われたのか。それは、古代新羅語では、「牛の頭」は、「ソ・デゴル」だったからです。」
「その説明では、いまひとつ納得できません。でも、奈良時代から平安時代まで、東北に丸山古墳が築かれて、埋葬品に、古代新羅時代の古墳から出土しているガラス玉があるということは、話が面白くなりそうですね。」
「平安時代の東北は、「みちのく」と言われていたのです。「みちのく」とは、「路の奥」の意味で、それは、近畿の京都からの視点です。平安時代に、北陸道に愛発関、東山道に不破関、東海道に鈴鹿関が設置されるまでは、道幅12mの直線道路が北陸、関東、東北から明日香ヤマトまで続いていて、ひとや物が馬により流通していたのです。」
「その東北の陸奥国を、律令軍が侵略したのが奈良時代から平安時代ですね。」
「藤原日本史では、724年多賀城を設置すると、北上川を侵略経路として、758年桃生柵、767年伊治城、780年覚瞥城、802年胆沢城、803年志波城を設置して、陸奥国を支配下に置いたように記述していますが、その北上川支流には、無数の丸山古墳が平安時代まで築かれていたのです。」
「すると、平安時代の律令軍は、陸奥国全土ではなく、北上川の点と線を支配した、ということですか。」
「藤原日本史の陸奥国征夷物語と、陸奥国の遺跡が示すものとが、大幅にズレでいるので、それが分からないのです。」
「どういうことですか。」
「奈良時代から平安時代にかけての陸奥国には、エミシ(蝦夷)の他に、異なる民族が存在していたらしいのです。」
「アイヌ民族ですか。」
「そうではないようです。蕨手刀やガラス製品が出土する丸山古墳を蝦夷塚古墳とすると、その南限は、岩手県花泉町と宮城県中田町にまたがる丘陵地帯に築かれた「杉山古墳群」です。その「杉山古墳群」を境として南側に、一名「百穴」と言われる「横穴式墓地群」が設置されているのです。その「横穴式墓地群」は、「杉山古墳群」以北には発掘されていません。」
「百穴と言われれば、関東では、東松山の「吉見百穴」が有名ですよね。学校の歴史では、コルボックル説として、小人のアパートなんて先生が説明していましたっけ。何ですか、その百穴とは。」
「その吉見百穴と稲荷山古墳のある「さきたま古墳群」は、それ程の距離がありません。その百穴は、石の小山に無数の穴をあけ、その中に死者を葬ったらしいのです。」
「その民族の祖は、石と砂漠の世界のひとですか。」
「考えられるのは、イランを拠点にして、紀元一世紀のシルクロード交易をおこなっていたソグド民族です。」
「するとナベさんは、イラン系ソグド民族が、古代の日本列島の陸奥国に渡来していたとでも言うのですか。」
「ソグド商人は、絹を求めていたのです。中国で入手した絹を、東ローマ帝国に持ち込むと、同量の金と交換できたからです。」
「紀元一世紀の日本列島に絹があったのですか。」
「日本列島の蚕は小さく、繭も小さいので国際商品としての価値がなかったのです。そこで、紀元2・3世紀の弥生時代末期の日本列島に、南方種の繭を持ち込んだ者がいたのです。藤原日本史では、水田稲作伝播の北九州からの北進を述べますが、養蚕の北進を語りません。養蚕も、水田稲作伝播と同じに、北進していたのです。」
「何故、藤原日本史では、絹の伝播を語らなかったのですか。」
「絹は、日本列島史の裏面を語るからです。シルクロードの東限は、中国ではなく、日本列島の北関東なのです。明治革命の原因のひとつは、日本列島の北関東の絹を、イギリス東インド会社が独占することだったのです。」
「急に時代が飛んでしまって、ついていけません。その根拠はあるのですか。」
「明治革命の総仕上げとして、1869年戊辰戦争が終わって3年後、1872年富岡製糸場と新橋・横浜間鉄道開通は、シルクロードの東限である北関東の絹を富岡製糸場で製品化し、その絹製品を八王子から新橋へ、そして、鉄道で横浜に運び、イギリスへ輸出するためだったのです。紀元一世紀から明治革命まで、日本列島の絹は、国際交易商人を惹きつける魅力的な国際交易商品だったのです。」
「するとナベさんは、奈良時代から平安時代にかけて、陸奥国ではエミシ(蝦夷)とソグド商人とは、住み分けをしていたと考えているわけですか。」
「北は北上川を北限として、九州までひっそりとして存在する「横穴式墓地群」は、国際交易商人のソグド人の存在を示唆するのです。」
「そういえば、6世紀のユーラシア大陸では、商業民族のソグド人は、騎馬民族である突厥の庇護の下、交易路に沿って殖民集落をつくり、通商網をひろげていましたっけ。エミシ(蝦夷)とは、古代新羅系花郎騎士団と突厥武人の末裔だから、奈良時代の陸奥国でも、ソグド商人は、エミシ(蝦夷)の庇護の下、日本列島に通商網を広げていたと考えることも出来ますね。」
「当然です。しかし、史料の大部分は、律令軍団の手先である漢訳仏教組織が作成したものですから、史料として、騎馬民族文化の陸奥国の歴史を語るものはないでしょう。今後の、陸奥国の古墳発掘により、藤原日本史の「ウソ」がバレる日も、そう遠くではないと思います。」
「そう言えば、藤原日本史で、「エミシ」を「蝦夷」とし、「アイヌ」をエゾ(蝦夷)としている理由も、騎馬民族文化の抹殺のためですか。」
「藤原不比等は、713年好字令を出して、日本列島の地名・人名を漢字二文字で表記するようにしたことは、藤原氏より先住していた民族の歴史抹殺手段だったのです。」
「そういえば、ナベさんの説によれば、藤原氏の祖は、ユダヤ教に改宗した、8世紀に滅んだ国際交易立国のハザール王国民ということでしたよね。すると、ソグド商人を配下に置くエミシ(蝦夷)とでは、交易での敵となりますよね。」
「日本列島史の謎と天皇の謎は、「藤原氏の謎」を解くことで解消できると思います。」
「どういうことですか。」
「例えば、奥州藤原氏の滅亡があります。1189年藤原泰衡は、源義経を衣川で殺害し、それに対して、源頼朝が自ら奥州に発向し、藤原泰衡一族を滅ぼしたため、奥州藤原氏は、ここに滅亡した、と藤原日本史は述べています。しかし、養老3年(719年)藤原不比等による陸奥出羽按察使(あぜち)は、明治元年(1868年)廃止まで、藤原氏の支配下にあったのです。」
「何ですか。その「あぜち」ってのは。」
「主な権限は、国郡司の不正糾弾、農桑の奨励、人口の増殖、そして、国司の罷免、抜擢を判断決定する権限、地方行政の監督などです。」
「桑畑の奨励ですか。やはり、絹がでてくるわけですね。すると、陸奥出羽按察使とは、京都が本社とすると、陸奥・出羽の支社長というわけですね。」
「面白い例えですね。そうです。本社に知られなければ、ナンデモ出来る存在です。その陸奥出羽按察使を、奈良時代から明治元年まで支配した藤原氏の意図は、どこにあったのか。」
「やはり、藤原氏による絹と金の独占ですか。」
「絹と砂金を産出する陸奥国、東北の歴史を抹殺・隠蔽する必要が、藤原氏にはあったようですね。」
「すると、陸奥国・出羽国の先住民を謀略により抹殺し、奥州藤原氏の勃興のための地ならしをした「清和源氏」の存在も、藤原氏の発明なのですか。」
「「清和源氏」の不思議は、その系図によれば、清和天皇→貞純親王→961年源氏賜姓経基→満仲(多田新発意)→頼光と続いていくわけですが、父である源氏賜姓経基が、子である満仲より、2歳年下であるのは、どうしてでしょう。」
「年の数え間違えか、養子縁組をしたのでは。」
「養子縁組としても、満仲の生誕や青年期の経歴が不明なのです。壮年期に、突然歴史上に現れたのです。カメさん、これってどう思いますか。」
「どこかの国から渡来してきた、とも考えられますね。」
「「清和源氏」賜姓の961年は、漢民族国家宋が興ってから1年後です。その宋は、強敵国契丹(遼)に、金と絹を貢物として献上する必要が生じたのです。そのため、宋の商人は、金と絹の主な供給先として、日本列島を目指したのです。国際商人には、用心棒として、武装集団の傭兵を雇うことが常識です。ですから、宋からは、商人と供に、武装集団も渡来していたのです。」
「すると、ナベさんは、大阪湾の多田に上陸した武装集団が、「清和源氏」の祖と考えるわけですか。」
「そうとも考えられますよね。しかし、鎌倉時代を表す系図は、応仁の乱後、或いは、江戸時代に発明された物が多いので、ハッキリとは言えません。そもそも、鎌倉時代の歴史の客観的な史料が存在していないのです。」
「でも、歴史本では、色々な史料を引用して物語を発表していますよね。」
「その史料の大部分は、反騎馬民族文化の藤原氏や亡命百済貴族や禅宗のものです。禅宗は、遊牧・騎馬民族のモンゴル帝国に、1279年母国南宋を滅ぼされたため、騎馬民族には敵意を持っていたのです。」
「すると、禅僧は、古代新羅に対する母国百済を滅ぼされた亡命百済貴族と、一脈通じますね。」
「鎌倉時代から、騎馬民族を標的として、賎民差別する運動が発生するのは、そのためとも考えられますね。鎌倉時代から始まるとする民族差別運動は手が込んでいて、各国ごとに蔑称が異なるのです。」
「騎馬民族を落とし込めるための差別語は、「士農工商穢多非人」の「穢多」だけではないのですか。」
「騎馬民族末裔で白山信仰民族が多く暮らす能登、加賀、越中では、「穢多」ではなく、「藤内」が蔑称です。古来から創薬業が盛んな富山があるように、北陸は騎馬民族文化の濃い地域です。そのような地域では、禅宗など反騎馬民族系組織は、騎馬民族が「穢れ多い」などとは、公に宣伝できなかったのでしょう。北陸に南宋から渡来した禅宗などは、布教拡大のために、騎馬民族が信仰する白山神思想を、禅宗に取り入れたほど、騎馬民族色が濃いのが北陸です。」
「国別民族差別語は、他にもあるのですか。」
「平安時代まで蝦夷が支配していた山形県や秋田県では、「らく」が差別語です。反藤原氏の出雲民族が支配していた山陰では、「はちや」です。更に、畿内や瀬戸内海沿岸地域では、「かわた」です。騎馬民族文化の濃い関東では、「長吏」です。」
「「長吏」って、古代中国では、高級官僚の呼称だったのですよね。それが何故、日本列島の関東では、民族差別語になってしまうのですか。」
「洗脳の賜物です。ひとは、一度刷り込まれた情報を換えることが困難な存在です。王権側が、「長吏」=「穢多頭」として「刷り込み」をおこなった結果です。」
「「穢多」の差別語の歴史上の登場は、いつごろだったのですか。」
「十三世紀末、南宋を滅ぼしたモンゴル帝国の国際商人が、日本列島に渡来して活躍していた頃です。」
「二度の「神風」による元寇壊滅により、国交断絶だったのですよね。そのモンゴル帝国の国際商人が、日本列島に渡来していたのですか。」
「1206年テムチンが、ナイマン部を滅ぼして、チンギス汗となれたのは、その影にイスラム、イラン、ソグドなどの国際商人の暗躍があったからです。更に、1260年フビライの時代になると、国際海洋商人の協力の下、ヨーロッパとの国際海洋交易立国を目指し、中国内陸部を巨大運河により、ヨーロッパの港に通じる南北路を築くのです。」
「モンゴル帝国は、遊牧・騎馬民族のため、航海には不慣れだと、学校で「洗脳」されましたけど。数十万の元寇船団は、神風により、二度とも壊滅していたのですよね。」
「1274年文永の役、1281年弘安の役が史実かどうかは分かりません。しかし、モンゴル帝国が、騎馬民族国家で、海洋国ではない、とすることは間違えです。フビライの時代から、モンゴル帝国は、陸路と海路とにより、世界交易をおこなっていたのです。勿論、日本列島にもモンゴル帝国から国際交易商人が、多く渡来していたのです。」
「モンゴル帝国とは、国交がなかったのでは。」
「国交がなくとも、民間交易はおこなえます。日本列島は、海に囲まれているため、どの地域でも、国際交易港となれたのです。」
「そのモンゴル帝国の国際交易商人の渡来を、快く思わなかったのが、南宋交易を独占していた禅宗ですね。騎馬民族により、母国を滅ぼされた恨みは深い。」
「「穢多」の文字が文献上に現れたのが、絵巻物の「天狗草紙」と云われています。絵巻物は、漢訳仏教僧が、その思想宣伝の「グッズ」として利用するものです。平安時代では、地獄の世界を「刷り込む」ために利用されました。その結果、平成の現代でも、地獄世界は平安時代のままです。その「天狗草紙」物語では、鳶の姿をした天狗が、穢多の仕組んだ針の肉片を噛み付いたため、針に刺され穢多に捕まり、首を捻られ殺されてしまうのです。天狗も穢多も、漢訳仏教側の敵なのです。」
「すると、その「天狗草紙」物語は、藤原氏の得意戦術の「夷を以って、夷を制す。」なわけですね。」
「天狗は、山に登った「河童」です。河童の元は、海洋民族の神です。その海洋民族の神が、騎馬民族の穢多に抹殺される物語が、「天狗草紙」のテーマと考えられます。絵物語は、視覚のイメージを伝達するため、文字情報より有力な「洗脳」手段となります。」
「確かに、画像は文字より、洗脳力がありますね。」
「蒙古襲来も、史実として信じられているのは、1293年土佐長隆作と伝わる「蒙古襲来絵詞」のイメージによるのです。」
「九州のナントカという武将が、一騎でモンゴル軍に突撃した絵ですよね。歴史教科書によく掲載されていますね。」
「その絵ですが、本当にモンゴル軍団の襲来の絵だったのか疑問です。モンゴル軍は、戦わない軍団です。武力威圧により、敵側を屈服させ、敵側の軍団を無傷で取り込み自軍に編入することにより、強大に成長してきた歴史があるのです。もし、日本列島に上陸するのなら、南方系弓矢で武装した軍人を少人数上陸させたことは、疑問です。それは、モンゴル軍の歩兵の武器は、弩(ど)という腰弓だからです。その二度の元寇襲来の実態は、一回目が朝鮮半島と中国山東半島からの亡命大船団で、二回目が南宋からの亡命大船団だったと考えています。」
「すると、その「蒙古襲来絵詞」も、源頼朝絵と同じに、鎌倉時代の作ではなく、室町時代の作とも考えられますね。ところで、民族差別語の話に戻りますが、何故、国別に差別語があるのですか。藤原日本史によれば、日本は、大和民族の単一民族のはずですが。」
「考えられることは、民族差別語が発明された鎌倉時代とは、唐帝国が壊滅した後、中国国内が十国に分裂したように、日本列島も各民族により分国されていたと考えられます。」
「藤原日本史では、平安時代末期に「平家」が滅亡し、「源氏」による武家社会の鎌倉時代ですよね。その鎌倉時代を武家が支配するために、1232年51か条の御成敗式目を制定したわけですよね。」
「藤原日本史では、鎌倉幕府の御成敗式目により、武家が日本列島を支配していたと物語っていますが、西国では、御成敗式目ではなく、依然、養老律令が施行されていたのです。御成敗式目は、養老律令の権限が及ばない東国を支配するための法律だったのです。因みに、奈良時代に藤原不比等が制定した養老律令は、明治革命まで施行されていたのです。」
「すると、ナベさんは、鎌倉時代は、養老律令の西国と御成敗式目の東国とでは、異なる法律で支配されていた、と言うわけですか。」
「極端に言えば、平安時代中期に京都の律令軍団が壊滅した結果、60余ヶ国に分裂していたのが、鎌倉時代と考えています。民族差別語が、地域ごとに異なっていたのは、日本列島には、古来から多くの異民族が渡来していたので、各地域ごとに異なる言語が使われていたのです。現在でも、地方に行き、現地の古老同士の会話を傍らで聞くと、何を言っているのか理解できないように、教育により書き文字は全国共通となっても、日常の話し言葉の多くは、古代から伝わったものです。」
「そう言えば、明治革命後の官軍の会議で、各藩の言葉が理解できないため、筆談で会議をしていたようですね。言葉が異なることは、文化も異なることで、それは、民族が異なると言うことですよね。」
「日本列島史の謎は、その「言葉」にあるのです。藤原日本史によれば、日本列島を最初に支配したのは、紀元前660年即位の神武天皇ということになっています。では、その神武天皇は、何語を使っていたのですか。」
「勿論、日本語というのは、間違えですよね。」
「そうですね。「日本」という国が歴史上に現れたのが、7世紀末の新羅系で騎馬民族系の天武天皇からです。もしも、神武天皇が実在していたとしたら、何語を話していたのか分からないほど、日本列島史は謎だらけなのです。日本語が、もし、古代の飛鳥時代から使用されていたのなら、720年「日本書記」、797年「続日本紀」、840年「日本後紀」、869年「続日本後紀」、879年「日本文徳天皇実録」、901「日本三代実録」の6国史といわれるものが、日本語ではなく、中国語で著わされていたのか。カメさん、どう思いますか。」
「そう言われれば、不思議ですね。」
「その国史が中国語だけで著されていたのなら、それなりの理由が考えられますが、更に不思議は、天皇の「おことば」の宣命文が「日本語」となっているのです。」
「どういうことですか。」
「民に語った文章(宣命文)が、中国語文法の主語+述語+目的語ではなく、日本語文法の主語+目的語+述語となっているのです。」
「その日本語文法って、確か、北方騎馬民族のウラル語と共通しているのですよね。」
「そうです。中国語には、「てにをは」の格助詞がないのに、日本語には「てにをは」の格助詞があります。その「てにをは」の格助詞は、ウラル語系の格語尾から変化したものと考えられています。」
「その話、以前、どこかの書籍で読んだ記憶があります。その時、何故、日本語文法が、北方騎馬民族語と共通していたのか理解できなかったが、ナベさんの騎馬民族説を聞いたことにより、今では、理解できます。日本列島の6世紀半ばから7世紀半ばにかけて、騎馬民族が、幅12mの直線道路網により日本列島の流通を支配したことにより、その騎馬民族語の文法が、日本列島に定着したわけですね。経済力の強い言葉が、経済力の弱い言葉を駆逐するわけですね。現在の企業が、日本語ではなく、英語で会議をしていることと似ていますね。」
「教科書の日本史は、その6国史を基礎史料として語られています。私が、教科書歴史を藤原日本史と呼ぶ理由は、その6国史の多くは、藤原氏により編纂されていたからです。「日本書記」は藤原不比等、「続日本紀」は菅野真道、「日本後紀」は藤原諸嗣、「続日本後紀」は藤原良房、「日本文徳天皇実録」は藤原基経、「日本三代実録」は藤原時平を中心に編纂されていたのです。」
「ナベさんの言う、日本史の謎は、藤原氏の謎という意味が少し理解できました。中国語で著わされた国史が、901年で中止となったのは、唐帝国が、907年に滅んだことと関係があるようですね。」
「私も、そう考えます。唐帝国に提出していたのが、藤原氏一族編纂の6国史だったのです。」
「6国史は、唐帝国のエージェントである藤原氏による、日本列島経営報告書とも考えられますね。」
「それは、一寸言い過ぎだと思います。しかし、唐帝国と藤原氏との関係は、大いに考えられることです。6国史に、遣唐使船関係の記述が極端にないのも、藤原氏に不都合な事績を削除していたことが考えられます。」
「遣唐使船は、唐帝国の文化を輸入するためではなく、唐帝国の税制である律令制度により、日本列島から税として集められた物品を、唐帝国に貢ぐのが任務だったとも考えられますよね。陸奥国の砂金や絹の簒奪侵攻を回避するため、その律令軍団に反逆したのが、東国を支配していた騎馬民族ですよね。」
「そうですね。」
「その騎馬民族であるエミシ(蝦夷)は、801年金髪の坂上田村麻呂が、赤毛のエミシ棟梁アテルイをだまし討ちにしたことにより、平定され、811年文屋綿麻呂が、エミシ(蝦夷)を討ったことにより、爾薩体や津刈以外は、律令軍の支配下と、藤原日本史は述べていますが、ナベさんの説では、平安時代まで、エミシ(蝦夷)は、丸山古墳を造り続けていたのですよね。」
「平安末期のエミシ(蝦夷)の支配地は、爾薩体や津刈だけではなかったのです。渡島も支配地だったのです。」
「歴史書では、渡島は「わたりしま」と読み、北海道の最南端のゾウの鼻のような地域ではないのですか。後に、江戸時代に松前藩が置かれた。」
「渡島の読みは、「おしま」で、渡島は当て字です。713年藤原不比等が画策した好字令の漢字二文字で、人名・地名を表わすことにより、前政権の歴史を消していたのです。その「おしま」(渡島)とは、下北半島のことです。その下北半島と津刈半島に囲まれた内海は、ユーラシア大陸との海路となっていたのです。」
「津刈の十三湊は、古代の国際港だったことは最近知りましたが、下北半島は、恐山のイタコしか知りませんでした。その下北半島は、平安時代末期、エミシ(蝦夷)の支配地であり、ユーラシア大陸との窓口でもあったわけですね。」
「藤原日本史では、東アジアからの窓口を、朝鮮半島から北九州、そして、瀬戸内海を経由して、大阪湾としているようですが、しかし、東北の民族も、古来からユーラシア大陸との海路を開発していたのです。リマン海流は、サハリンの南西から沿海州に沿うように南下して、朝鮮半島北東まで到達します。そこから、南下して、対馬海流に乗れば、出雲、北陸、佐渡、新潟、秋田、津刈の十三湊、そして、津軽海峡を通れば、下北半島に上陸できるわけです。東北からユーラシア大陸に行くには、十三湊から北海道西岸を北上すれば、対馬海流の分流に乗れて、サハリンまで行けるのです。サハリンからユーラシア大陸は目と鼻の先です。海流は、海のベルトコンベアですから、海流に乗れば、帆船でなくても、目的地に行き着けるのです。ズーズー弁が東北だけではなく、出雲もズーズー弁であることは、そのリマン海流+対馬海流ルートで解明できると思います。」
「それを聞いて、思い出しました。「騎馬民族征服説」では、騎馬民族が朝鮮半島から北九州に上陸して、大和を征服した、としているのですよね。」
「そうです。それに対しての反論が、北九州や中国地域に、騎馬民族文化の欠片も見られないし、馬産のための「牧」の遺構・遺跡が発掘されてない、です。」
「騎馬民族が、朝鮮半島からではなく、ユーラシア大陸から直接、東北にリマン海流と対馬海流を利用して渡来したならば、魏志倭人伝に、倭国(北九州)には馬牛が存在していなかったのに、6、7世紀の東国では、西国を凌ぐ馬産地となっていたことが説明できますね。」
「古代の馬産は、自然交配で、管理が容易な広々とした草原を必要としていたのです。適地としては、岬です。三十頭から五十頭の雌馬に、種馬として一頭の優秀な牡馬をあてがい、子馬を得ていたのです。そして、優秀な子馬を得るために、牧草の他に、雑穀を飼料として与えていたのです。雑穀は、焼畑農業により収穫していたのです。」
「すると、西国では、焼畑農業ではなく、水田稲作ですよね。馬の飼料など、作れませんよね。それに、東国に比べて、西国には広々とした草原は、多くはないですよね。」
「「日本書記」にも、和銅2年(709年)「出羽並びに渡島の蝦夷87人、馬一千疋を貢す」、とあるように、出羽やおしま(渡島)では、騎馬民族が馬産に励んでいたのです。」
「その東北の騎馬民族は、鎌倉時代には、どうなっていたのですか。」
「藤原日本史では、律令軍に屈服して、俘囚長として、清原氏、阿部氏となったが、「清和源氏」により滅ぼされたことになっています。」
「でも、その「清和源氏」の棟梁の源頼朝三代は、北条氏の陰謀により、抹殺されたのですよね。なんだか、話がうますぎますよね。藤原氏の邪魔者が、次々と消されていくみたいですね。」
「鎌倉時代のことは、客観的な史料が存在していないため、うかがい知ることはできないようですが、南北朝の動乱を描いた、1366年小島法師作と伝わる「太平記」には、野伏の言葉として、その野伏の素性をうかがい知ることができるようです。」
「どんなことですか。」
「その物語によれば、北朝の天皇らの一行を、野伏が襲うのです。そこで天皇の従者が、「この世にただお一人の天皇さまが、とおられるのに乱暴することは何事だ。」、と言うと、野伏らは、「どんな天子であれ、運がつきはてて逃げ出すのを、なにも通るなとは言わない。通りたければ、供の武士どもの馬や物具を身ぐるみおいて、安心して逃げればよかろう。」、と答えたのです。」
「その問答が、野伏の素性と関係があるのですか。」
「従者が「天皇さま」、と言っているのに、野伏は、「天子」と言っているからです。「天子」とは、「てんし」と読むのではなく、「テングリ」です。騎馬民族の王は、「テングリ」なのです。」
「すると、ナベさんは、その野伏は、騎馬民族の素性であると考えているのですね。」
「そうです。中世では、天皇は、院とか天子(テングリ)と呼ばれていたようです。更に、野伏の大将は、上皇や天皇を「院というかイヌとかいうか、イヌならば射て落とさん。」、と矢を放ったりしたようです。但し、「太平記」の物語の中ですけど。」
「野伏と言えば、鎌倉時代に、「悪党」という武装集団が現れていましたよね。その「悪党」とは、何者ですか。」
「「悪」も、「おしま」(渡島)と同じに、漢字による、異民族の歴史消しです。「悪党」は、「アク党」です。」
「どのように違うのですか。」
「アクは、仏教用語の「悪」ではなく、騎馬民族語の「勇者」の意味の「アク」です。その「アク党」は、「綾羅金繍」という派手な衣装に、照り輝くばかりの鎧兜で武装していたのです。そのアク党は、律令制が崩れた中世に、東北から関東に進出してきたエミシ(蝦夷)末裔と考えられます。」
「どういうことですか。」
「角の付いた冑や派手な鎧は、平安時代に神社(モリ)で、怨霊の魂鎮めを武芸によりおこなっていた、武芸者の衣装だからです。その武芸者の祖は、平安時代に陸奥国から捕虜となったエミシ(蝦夷)だったのです。その武芸での剣舞の「かたな」は、エミシ(蝦夷)の武器である、蕨手刀を改良したものです。因みに、「かたな」(片刃)とは、完全ではない「刀」と言う意味です。その武芸者が、唐帝国の滅亡で京都の律令軍が壊滅状態なのを見越して、939年から941年にかけて内乱を起こした武装集団を、騎射や騎馬戦術により殲滅した功績により、「武士」として公に認められたのです。武士の素性は、エミシ(蝦夷)末裔であったのです。」
「そのエミシ(蝦夷)の武士が、鎌倉時代に「野伏」となってしまったというのですね。」
「治安が不安定な中世で、アク党は、「平家」が宋からもたらした「宋銭」により、東国に貨幣信用経済が本格的に進展したため、新たな商工業者、交通運送業者、倉庫業者が広範囲に出現してきたため、その者達の用心棒として、派手な衣装により「勇者」を標榜して、仕事を得ていたのです。アク党の仕事は、何かの訴訟が起きると、それを請け負って、武力でそれを解決していたのです。」
「何か、ヤクザの仕事に似ていますね。」
「ヤクザの本来の意味は「役座」で、同業者組合である「座」を取り仕切る「顔役」のことです。「役座」が発生した鎌倉時代は、貨幣による経済活動が盛んになっていた時代だったのです。そして、平安時代末期から鎌倉時代にかけて始まる中世では、武力が正義だったのです。だから、武装集団は、自らを「勇者」という意味で、「アク党」を標榜していたのです。」
「すると、鎌倉時代に東国で唱えられていたとする「悪人正機説」も、藤原日本史で言うことと異なる解釈になりますよね。」
「「善人より悪人の方が成仏する。」、というノンロジカルな呪文ですね。」
「その文章、英語に訳せないようですね。」
「理論的に破綻していますからね。英語は、ロジカル語ですからね。「善人より、勇者(アク)の方が成仏する。」、ならば、意味が通じますね。英語にも訳せると思います。」
「もし、ナベさんの解説が正解であったら、その呪文は、騎馬民族を鼓舞することになりますね。「アク党は、善人より成仏する。」、ですからね。アク党は、命を賭して武力で訴訟を解決することに励めますね。」
「その呪文の掲載書籍は、浄土真宗の開祖である蓮如により、禁書とされていたのは、藤原氏の流れにある蓮如が、中世の経済活動で活躍する騎馬民族を賎民として貶めるためだったと考えられます。その禁書が、解禁されたのは、明治革命後だったのです。ですから、浄土真宗の信者でも、戦国時代から江戸時代にかけては、その書籍を読むことは出来なかったのです。親鸞の「歎異抄」として宣伝されたのは、明治36年雑誌「精神界」に、連載記事として発表されたからです。」
「明治ですか。「親鸞の歎異抄」宣伝は、藤原氏が復活した明治の軍国主義と関係がありそうですね。でも、浄土真宗の開祖は、親鸞ではないのですか。それ、どういうことですか。」
「親鸞が著わしたとされる書籍は、多く残っているようですが、親鸞が、浄土真宗の教えを東国で説いていたのかは、疑問だからです。」
「その根拠はあるのですか。」
「法華経以外は宗教ではないとする日蓮は、鎌倉時代に活躍した宗教者を誹謗中傷していたのです。法然だけではなく、その無名な弟子までも中傷していたのに、「親鸞」についてはまったく触れていないのです。」
「確か、藤原日本史によれば、親鸞は、法然の愛弟子でしたよね。」
「そうですが、現在の研究では、法然と供に流罪となった、とすることには「疑問符」が付いているのです。賎民を、「南無阿弥陀仏」の浄土真宗の教えにより救ったとされる「親鸞像」は、戦国時代の蓮如により「発明」されたようです。」
「そう言えば、浄土真宗って、ユダヤ教に似ていますね。」
「どういうとこですか。」
「ユダヤ教は、血縁関係者ザドク一派で支配していたように、浄土真宗も何代も続く血族支配ですよね。女犯禁止の仏教なのに、何か変ですねニッポン仏教は。そうそう、親鸞が唱えたとする「南無阿弥陀仏」って、「わたしは、アミ様を信じます。」の意味ですよね。浄土真宗って、仏教は多神教だと思っていたのに、まるで一神教ですね。すると、浄土真宗は、ユダヤ教より、ユダヤ教ヨシュア派の方かな。」
「すると、カメさんは、蓮如が「パウロ」とでも考えるわけですか。」
「大工のヨシュアが実在したかの史料はないのに、パウロが、ヨシュアの言動を民衆に宣伝したことにより、ヨシュアが実在の人物となってしまったのですね。更に、藤原日本史では親鸞の妻とする恵信尼が、マグダラのマリアというのはどうですか。」
「恵信尼の妹に宛てた手紙がなければ、親鸞の実在性が証明できないように、キリストの最後を看取ったのがマグダラのマリアと云われていますね。親鸞もヨシュアも架空の人物と言うのは、面白い発想ですね。そして、「ヨシュアはメシア」をギリシャ語訳して、「イエス・キリスト」ですか。中世の東国の民の多くは、亡命百済貴族が信仰する仏教徒でもなく、ユダヤ教に改宗したハザール民族末裔の藤原氏が支配する中臣神道信仰民族でもなく、「ミトラ神」の太陽神と「太一」の北極星を祀る民族であったのです。それに、中世の東国は騎馬民族末裔が多く暮らしていたため、馬による運送業が発達していたので、西国よりも物流が活発だったのです。それに、西国よりも、貨幣経済が発達していたのです。更に、東国は、新しい鎌倉宗教思想により、貧乏人の賎民を救う必要のある劣悪な環境だったとする、客観的な史料などないのです。」
「でも、部落問題を扱った書籍には、これでもかって程の賎民の絵が掲載されていますよね。その鎌倉時代に発生したとする中世の賎民を描いた絵も、やはり、源頼朝絵と同じに、室町時代以降に創作されたものですか。」
「1467年応仁の乱で、京都の街も鎌倉の街も焼失しまっていたので、鎌倉時代の客観的史料が存在しないので、何とも言えません。しかし、鎌倉時代に騎馬民族末裔の賎民「穢多」がいて、鎌倉新仏教の思想により救われていた、とする藤原日本史の物語は、私には信じられません。そもそも、御成敗式目は、奈良時代に藤原不比等により制定された養老律令に従わない、東国の百姓の活動を取り締まるための法律であったのです。その百姓とは、農耕民の意味の百姓ではなく、百の姓(かばね)である身分を持つ多様な民族の意味だったのです。百姓が、今につながる農耕民の意味となったのは、1588年藤原氏の傀儡である豊臣秀吉による刀狩令と、1591年豊臣秀吉による士農工商の身分法を定めた以降からです。鎌倉時代の百姓とは、武士もいれば、職能民もいれば、金融業者、運送業者など、多士済々、百の姓(かばね・身分)の総表だったのです。」
「すると、藤原日本史で説く、「鎌倉時代は御成敗式目により武士が支配していた時代」って言うのも「うそ」ですか。」
「藤原日本史の鎌倉時代物語が、「うそ」と断定するには、その根拠を示さなければなりません。しかし、藤原日本史の鎌倉時代物語を否定する史料が存在しないのです。」
「でも、歴史本では、鎌倉時代を物語るのに「吾妻鏡」をよく引用していますよね。」
「1180年から1266年までの鎌倉時代の正史としての記録書といわれているものですね。」
「そうですけど。」
「その「吾妻鏡」は、客観的史料ではなく、反騎馬民族思想を持つ亡命百済貴族末裔の桓武平氏の北条氏の作文であることは、ご存知ですか。」
「源頼朝以来の鎌倉幕府の正史ではないのですか。」
「不思議なことに、その鎌倉幕府の正史と云われる「吾妻鏡」には、西国の風俗記録の記述がスッポリ抜けているのです。」
「どのようなことですか。」
「西国の祇園会のことです。祇園会は、西国最大の祭りです。しかし、王権に逆らう賎民による賎民のための祭りですが。」
「鎌倉幕府は、東国だから、西国の文化を知らなかったのでは。」
「そんなことはありません。北条鎌倉幕府は、1221年寺社に拠点を構えた賎民に支配された西国を警察するために、六波羅探題を設置したのです。その六波羅探題に隣接する北上には、祇園会をおこなう民族の支配地だったのです。その洛外にある六波羅とは、平安時代では死体が流れ着く「髑髏ガ原」を語源としていたのです。」
「すると、「吾妻鏡」に祇園会の記述を掲載しなかったのは、何かの意図があると、ナベさんは考えるわけですか。」
「そうです。祇園会の歴史を説くと、古代新羅からの渡来民族の物語が現れるからです。これは、古代新羅からの渡来民族の支配地の「山背国」を乗っ取り「山城国」とし、平安京を支配した亡命百済貴族には、隠蔽しなくてはならない歴史です。」
「どう言うことですか。」
「カメさん、中世に、京の天皇が住まう大内裏が、何故、跡形もなく消えて、農地になっていたのか、考えたことがありますか。」
「ナベさんの鎌倉時代のレポートで、そのことを始めて知りました。オレの幻視レポートにも書いたように、平安京の大内裏の地には、それ以前に巨大前方後円墳があったようですね。」
「京都盆地は、丹後半島からつづく古墳群の流れにあったのです。近畿一帯の古墳発掘は盛んにおこなわれていますが、丹後半島には、未だ発掘されていない多くの古墳群が眠っているのです。藤原日本史では、奈良盆地の古墳を、大和朝廷の墓制としているようですが、丹後半島にも、奈良盆地に匹敵するような王国の存在が示唆されるのです。」
「それは、どうしてですか。」
「リマン海流+対馬海流の日本海の海流ルートが、日本列島に流れ着く先が、出雲と丹後半島だからです。方墳や丸山古墳、高句麗にルーツを持つ前方後円墳は、農耕民族の甕棺に葬る墓制ではなく、遊牧・騎馬民族のものです。ユーラシア大陸を活動拠点としていた民族が、船でリマン海流に乗り南下すると、朝鮮半島の東岸(高句麗・新羅)の地に流れ着きます。その朝鮮半島東岸から、更に船で南下すると、対馬海流に乗り、出雲そして丹後半島に流れ着きます。出雲や丹後半島は、ユーラシ大陸・朝鮮半島東岸との窓口であったのです。」
「それと、祇園会とが関係あるのですか。」
「藤原日本史では、祇園会を開催するのは、感神院祇園社の神仏混交の仏寺としています。しかし、殺生禁止の仏寺が、「牛頭」を「天皇」とする祭りを開催する訳はないのです。」
「そう言われれば、変ですね。やはり、祇園会には、隠された秘密がありそうですね。」
「その「牛頭」を、古代朝鮮語で、「ソ・シ・マル」と言います。」
「牛の頭が、「ソ・シ・マル」ですか。「出雲神話」の主人公の「スサノオの尊」が、確か、新羅の「ソシモリの岳」に天降ったことになっていますよね。古代朝鮮語の「モリ」とは、神が宿る「聖地」の意味ですよね。すると、スサノオは、「牛の聖地」に天降ったというわけですね。」
「そうです。古代日本列島では、「神社」と書いて、「モリ」と読ませたのはそのためです。しかし、奈良時代になると、その神社(もり)は、禁足地となってしまうのです。その「牛のモリ」に天降ったスサノオは、慶応4年(1868年)神仏分離令で、仏寺から神社(じんじゃ)となった八坂神社の祭神となっていたのです。つまり、「スサノオ」は、「牛頭天皇」なのです。」
「日本神話では、新羅出自のスサノオは、悪役として描かれていますよね。」
「六国史は、親百済、反新羅を基本としているようです。」
「どうしてですか。」
「日本初の天皇が、新羅系天武天皇であったからです。その新羅系王権を簒奪したのが、藤原氏と亡命百済貴族であったからです。」
「その根拠はあるのですか。」
「6世紀から日本列島の東国に渡来していた突厥軍団に支援された新羅皇子軍団は、近江に亡命王朝を開いた百済亡命軍団を、672年壊滅させると、その新羅皇子を、天武天皇として即位させるのです。そして、近畿一帯を治めるために、684年八色の姓を制定するのです。その八色の姓とは、真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲置です。」
「それが、何を意味するのですか。」
「藤原日本史では、崇仏派の蘇我氏が廃仏派の物部氏を587年に滅ぼし、そして、593年摂政となった聖徳太子により、仏教が興隆したことになっています。つまり、朝廷は、「神」ではなく、「仏」を祀っていたことになります。」
「神軍団と仏軍団との戦争で、勝利した側が、天皇家を支えることになるわけですね。」
「すると、不思議なことになるのです。それは、天武天皇が制定した姓が、東アジアで死闘を繰り広げていた漢訳仏教の敵である、道教思想に則っているからです。「真人」とは、太一である北極星を守護する「北斗七星」のことです。宿禰(スクネ)とは、騎馬民族語で勇者の意味です。道師とは、道教の師の意味です。」
「すると、天武天皇は、仏教徒ではなく、道教徒であったと言いたいわけですね。でも、藤原日本史では、道教思想は、日本列島に伝来していないことになってるようですが。」
「藤原日本史では、歴史の改竄のための色々なトリックを使っています。そのひとつが、消すことが出来ない「モノ」は、違う「モノ」に摩り替ることです。道教は、「陰陽道」として摩り替えているのです。」
「陰陽道については、安倍晴明ぐらいしか思い当たりません。牛頭と言えば、オレの幻視では、古墳の近くの祭祀場で、屠られた牛頭を祭壇に掲げている祭祀集団が登場しましたが、祇園会と何か関係がありそうですね。」
「大有りです。怨霊に悩む百済系桓武天皇は、近畿一帯での牛屠殺の禁止を、804年に発令していたのです。」
「藤原日本史では、農耕に必要な牛を殺すことを禁止の理由としていますが、別の理由が考えられますね。」
「そうです。単なる、農耕のための禁止なら、農耕には牛と馬が使われていたのに、何故、牛だけを屠殺禁止とした意味が分かりません。それは、太陽神信仰民族の祭祀儀式の禁止のためです。太陽神を祀るミトラ教では、牡牛は太陽神の化身です。その化身である牡牛を屠ることにより、太陽神の再生復活を願うのです。そして、屠られた牛の頭は、太陽神に捧げられ、生き血を飲み、生肉を食べることにより、太陽神と一体になるのです。」
「すると、漢訳仏教思想の、「殺生禁止・血の禁忌・肉食の禁止」とは、ミトラ教の祭祀儀式を封じるための呪文だったとも考えられますね。」
「紀元前5世紀頃に、「仏の道」を説いたとする釈尊の思想には、「殺生禁止・血の禁忌・肉食の禁止」などありません。釈尊は、民族差別思想のバラモン教のカルマから逃れるために「非人」となり、「乞食」として生きることを説いていたのです。しかし、紀元一世紀にギリシャ文化が継承されていた国際都市ガンダーラで発明された大乗仏教は、遊牧・騎馬民族にも信仰されていた時期もあったのです。が、しかし、東アジアに伝来し、「ギリシャ語」から漢訳された時点で、反騎馬民族思想を取り入れていたようです。それは、仏教の敵である、道教が騎馬民族に信仰されていたからです。」
「仏教経典の原書は、ギリシャ語ではなく、サンクスクリット語ではないのですか。」
「大乗仏教の経典が、サンスクリット語で著わされたと言う根拠はないし、証明することは出来ないのです。」
「どうしてですか。」
「それは、東アジアで漢訳されると、原典は全て焚書されていたからです。」
「でも、サンスクリット語の仏典が存在していますよね。」
「それは、7世紀に漢訳仏典からサンスクリット語に復元されたものです。その反騎馬民族思想を持つ漢訳仏教僧侶が支配する感神院祇園社が、河原者が暮らす祇園での牛頭を祀る祭祀儀式を取り仕切るはずはないのです。平安時代に建立された、疫病や厄払いをおこなうとする感神院祇園社とは、牡牛を屠る民族の歴史を隠蔽・抹殺する仕掛けなのです。」
「すると、平安京の大内裏は、その昔、ミトラ教の儀式をおこなっていた祭祀場であったと考えてもいいわけですね。そのように考えると、平安京の大内裏が、中世には跡形もなく農地となっていたことは、奈良の平城京が百年も経たないうちに廃墟となったことと通じますね。」
「奈良の平城京も、巨大前方後円墳を破壊した跡に建設されていたのです。その平城京は、東大寺の遍照鬼を鋳造した時の銅と水銀の鉱毒により、奇病に侵されていたのです。鉱毒の症例を知らない古代人は、それを前政権の祭祀場を破壊したための祟りとして認識していたのです。」
「京都の平安京に遷都されたのは、奈良の平城京の奇病発生から、ほんの数十年後ですよね。平城京の祟りが現実物語として、古代新羅から渡来した民族の支配地を乗っ取った亡命百済貴族に、伝聞されていた可能性が大ですね。」
「そう考えてもよさそうです。奈良時代に始まる古墳を破壊して遷都の結果、平城京を見下ろす東大寺の遍照鬼から発生したとする、怨霊に対するひとびとの恐怖心は、江戸時代まで伝わっていましたからね。」
「どういうことですか。」
「奈良の大像を、藤原日本史ではビ・ルシャナブツとする大仏像と説いていますが、その大像が大仏像であるとする根拠はないのです。大仏であるならば、ひとびとは安心して拝観しますが、江戸時代の「奈良の大仏」は、手から怨霊を発生させると信じられていたのです。それは、平安時代初期に空海が発明した密教の手印呪術の結果です。空海は、その遍照鬼を、大日如来と摩り替えていましたが、庶民は江戸時代まで、その大像から発生する怨霊を恐れていたのです。」
「その根拠はあるのですか。」
「カメさん、東大寺の大きな門に四角い窓が開いているのは何故だと思いますか。」
「分かりません。」
「それは、江戸時代に観光資源目的に、「奈良の大仏」が「創作」されたのですが、誰も、大仏の手から発する怨霊を恐れて、訪れることがなかったのです。その怨霊手印対策として、大きな門に四角い窓を開けて、大仏の顔だけ拝観させていたのです。江戸時代のひとびとは、恐る恐るその大仏を、大門の四角い窓から拝観していたのです。」
「ナベさんは、「奈良の大仏」を「遍照鬼」と言っていますよね。遍照鬼とは、一体何なのですか。」
「「遍照」とは、「太陽」のことです。「鬼」とは、「仏教の敵神」のことです。」
「すると、遍照鬼とは、仏教の敵神の「太陽神」ということになりますね。」
「そうです。」
「すると、遍照鬼とは、奈良時代前の古墳時代に騎馬民族の突厥進駐軍が支配していた明日香ヤマト王権に従属していた、奈良盆地のイカルガを拠点にしていた古代新羅から渡来した花郎騎士団が信仰していたミトラ神とも考えられますね。ミトラ神は、藤原日本史では、新羅から伝来したとする弥勒菩薩に摩り替えられていますよね。」
「そうですね。古代新羅から渡来した民族は、河内湖を干拓して支配地としていたのです。藤原日本史では、その河内国にある「知識寺」に、740年(天平12年)聖武天皇が行幸して、東大寺のビ・シルャナブツを造像するきっかけとなった、としています。」
「でも、そのころの聖武天皇は、藤原氏のロボットから脱却して、都を転々と遷都して反藤原氏勢力となっていたのですよね。そして、聖武天皇が紫香楽宮の都で造像していたのを、藤原氏勢力が闇討ちして火を放って妨害していたのですよね。」
「そうです。その大像が、仏像ではないとの根拠のひとつとして、藤原氏により送り込まれた光明子が、騎馬民族に支援されていた天武天皇の子長屋王の反対を押し切り、藤原四兄弟による長屋王謀殺後、聖武天皇の皇后となり、そして、聖武天皇の鉱毒死の後、光明皇后は、756年聖武天皇の遺品を納めた正倉院から、陽宝剣と陰宝剣を持ち出し、その大像の近辺に埋めていたのです。」
「宝剣は、実戦で使う武器ではなく、敵の怨霊を封じるための王権が所有する祭祀道具ですよね。すると、やはり、奈良の大像は、鎮護国家のための仏像なのではなく、鬼像だった可能性が大ですね。」
「東大寺の「奈良の大仏」の謎は、奈良時代の出来事を記述した、797年完成の正史「続日本紀」には、その造像の制作過程の記述が抜けているのです。」
「でも、歴史本には、752年大仏開眼供養が行われ、聖武太上天皇、孝謙天皇、光明皇后が列席の下、インド僧菩提僊那ほか一万人の僧が招請され、五節の舞、久米舞、楯伏の舞、踏歌、袍袴などの歌舞が盛大におこなわれたとありますよね。」
「その描写は、歴史小説「天平の甍」によるもので、史実ではありません。その開眼供養が行われたとされる頃、聖武太上天皇は、鉱毒により病に臥せっていたのです。それに、その752年には、「奈良の大仏」は完成していなかったのです。「奈良の大仏」の謎は、その造像から修繕、再建を時系列にすると、解けると思います。」
「面白そうですね。」
「☆奈良時代
743年大仏造立の詔が聖武天皇により発せられる。近江国紫香楽宮で、造営準備が始まる。
744年紫香楽宮の甲賀寺に、大仏の骨柱を立てた。
745年大和国平城京で、新たに大仏造立を始める。
747年大仏の鋳造を始める。大仏殿の造営を始める。
749年大仏の鋳造が終わる。螺髪の鋳造を始める。
751年螺髪966個が完成。大仏殿の造営が終わる。(現在の大仏の螺髪は約500個)
752年大仏開眼供養。
755年大仏の鋳掛の完成。
757年大仏の塗金作業が終わる。
771年大仏の光背が完成。
☆平安時代
855年大仏の頭部が落下。
861年大仏の修理完成。
1117年仏師長円が大仏修理。
1180年平重衡が東大寺に放火。大仏が焼かれ、頭部と両手が焼け落ちる。
1181年僧重源が大仏修理を命ぜられる。
1184年大仏の補修が終わる。
☆鎌倉時代
1195年大仏殿完成式が行われた。
☆戦国時代
1567年三好と松永の戦闘により、大仏殿が焼失。大仏の頭部焼け落ちる。
1568年頭部がないので、表面に銅板を張った木製の頭部を設置した。
1569年大仏の損傷部の修理。
1580年藤原孫左衛門が右手を鋳造。
1589年大仏の鋳掛ほぼ完成。
☆江戸時代
1610年大仏殿の仮屋が倒れる。大仏の頭部傾く。露仏となる。
1686年大仏の鋳掛始まる。
1690年頭部の鋳造完成。(現在に至る。)
1692年大仏修理完成。
1709年大仏殿完成。
☆明治時代
1910年明治政府、大仏殿の修理補強をおこなう。
カメさん、この年表を見て、何かを感じませんか。」
「気になるのが、頭部のことです。何故、鋳造された頭部が、何度も落下するのでしょうか。それと、何度も焼け落ちる手も気になりますね。」
「カメさん、首の欠けた地蔵さんを見たことありませんか。」
「出版社カメラマン時代に、取材で山里を訪れた時、時々見かけました。セメントで修理したものもありましたね。それが、「奈良の大仏」と、何か関係があるのですか。」
「全国の地蔵の首が一斉に落とされたのは、1868年明治新政府による神仏分離令の結果、廃仏毀釈運動によるものです。古来から、博打打ちは、地蔵の鼻を賭け事のお守りとしていたのですが、その明治初期の廃仏毀釈運動では、江戸時代に幕府の手先として騎馬民族末裔の賎民をイジメていた仏教のシンボルのひとつとして、その賎民により地蔵の首が狙われたのです。このことは、戦国時代にもありました。「平家」の祖であるアラブ系海洋民族を賎民の「余部」としてイジメていた仏教組織に対して、イエズス会の軍事的支援を受けた、アラブ系海洋民族末裔の織田信長は、二条御所の修復の為に、その基礎石材として、近畿一帯の石像、地蔵を集め首を落とし、それらを利用していたのです。」
「首を落とすことに、何か意味があるのですか。」
「ひとは再生すると信じる民族にとって、首のない胴体は、再生不可能を意味するのです。それは、永遠の死を意味するのです。これは、再生を信じる民族にとって、最大の恐怖でもあり、最大の脅しでもあるのです。」
「すると、大仏の首が、何度も落ちたと言うことは、大仏を信仰する民族を抹殺したい意図があった、と考えることも出来ますよね。」
「カメさん、奈良時代の「奈良の大仏」が、本当に仏像だったとしたら、台風や落雷で、簡単に頭部が落下するような鋳造を、巨大像を鋳造することが出来る高度技術者が、おこなうと思いますか。しかし、もし、その奈良時代の大像が、仏教の敵神、ミトラ神像だったらどうでしょう。」
「でも、「奈良の大仏」は、仏像の特徴でもある、胡坐をかいていますよね。」
「力の弱い宗教組織は、色々な工夫をして信仰心を伝播していたのです。例えば、江戸時代の隠れキリシタンは、仏像の裏にキリストの文字を刻んだり、子を抱く聖母マリアを観音様像として製作して、弾圧者の目を逃れていたのです。」
「そう考えると、「奈良の大仏」の頭部と手が、何度も落下していたのは、江戸時代に創作されて、今日まで伝わる「奈良の大仏」とは異なる「頭部」と「手」があったと考えることも出来ますよね。」
「東大寺の大像鋳造の時期は、唐のエージェントで通訳師の藤原不比等の孫藤原仲麻呂が、政敵橘諸兄を太宰帥として左遷させ、正三位大納言となり、藤原四兄弟の不審死の後に衰退していた藤原王朝を復活させていたのです。そして、陸奥国の金を奪取する目的で、東北侵略を再び開始していたのです。藤原日本史によれば、746年(天平18年)藤原仲麻呂は、東山道鎮撫使を兼ねていて、息子を陸奥守兼陸奥按察使兼鎮守将軍として、「荒夷を教導して一戦も労せずに牡鹿郡に桃生城、坂東の騎兵、役夫、俘囚等を動員して小勝城を造った。」、としているのです。」
「746年に藤原王朝が陸奥国を侵略したのは、東大寺の大像鋳造の翌年ですね。」
「東北の侵略と、東大寺の大像とには、藤原日本史が隠蔽する奈良の歴史があるようです。大像が鋳造される前、741年藤原王朝は牛屠殺の禁止令を発しているのです。」
「それは、やはりミトラ教の儀式の禁止ですか。」
「確信はあるのですが、それを証明する史料がありません。しかし、藤原日本史では、日本国には神と仏が、古来から祀られていて、それ以外の神は八百万の神として説明されていますが、藤原氏の神を祀る春日大社の創建は、756年(天平勝宝8年)以前にはありえないのです。」
「その根拠は何ですか。」
「反藤原氏となった聖武天皇の遺品を納めた正倉院にある天平勝宝8年(756年)作製の「東大寺山堺四至図」には、その春日大社の建立する地は、「神地」とする空き地とあったのです。」
「すると、正倉院の遺品を調べれば、東大寺の大像がミトラ神像であったか分かるかもしれませんね。」
「カメさん、それが残念なことに、794年平安京に遷都した百済系桓武天皇により、正倉院の多くの遺品が焚書・破壊されていたのです。正倉院は、一棟ではなく、数棟あったようです。その正倉院の支倉造りとは、藤原日本史では湿気を防ぐための南方系建物として説明していますが、実際は、北方系の遊牧民族の越冬のための移動式建物構造であるのです。」
「学校では、支倉造りは南方系と教えていたように記憶しています。教育という洗脳は、一歩間違えば、恐ろしいものですね。ところで、桓武天皇の焚書は、何を目的ですか。」
「それは、騎馬民族末裔が多く暮らしていた奈良時代の歴史の隠蔽だと考えています。騎馬民族に支援されていた新羅系天武天皇の皇子長屋王が存命中、騎馬民族が支配する陸奥国の武人は、北極星を祀る長屋王の館を度々訪れていたのです。しかし、藤原四兄弟に長屋王が謀殺された後、陸奥国の武人は、エミシ(蝦夷)と蔑称されていくのです。蝦夷(エミシ)とは、ヒゲのある夷(野蛮人)という意味です。このエミシ(蝦夷)の歴史が理解できなければ、平安時代末期に発生した「武士」が活躍する、鎌倉時代、南北朝、室町時代、戦国時代に到る、天皇を院(「イン」ではなく「イヌ」)とか天子(テングリ)と呼んでいた無政府状態の中世の歴史を理解することが出来ないと考えています。」
「すると、聖武天皇の遺品が焚書されて、奈良時代のエミシ(蝦夷)の歴史が解明できないから、中世の歴史を知ることは無理ですか。」
「勝者の歴史は、前政権の歴史を抹殺・改竄して創作される傾向があります。しかし、遺品や遺構の改竄は、文字の改竄よりも困難が生じます。それは、ひとの手を後から加えると、不自然が現れるからです。視覚を誤魔化すのは困難な作業です。」
「東大寺の大像も、奈良時代の創造時のものは、胴体下部と台座だけですよね。奈良時代の胴体下部と江戸時代の上部の継ぎ目は、一目瞭然ですからね。」
「東大寺の大像製作の謎は、他にもあるのです。それは、どのようにして重量のある大像を鋳造したかと言うことです。藤原日本史では、木造の基礎構造に粘土などで像をつくり、その粘土像を原型として、型を造り、何度かの鋳造で「約2年」で完成させた、としているようです。しかし、ちょっと考えても分かると思いますが、現在の木造の建売住宅でも、基礎工事がシッカリしていないと、数年で家が傾くことは大いにありえることです。」
「そう言えば、「奈良の大仏」の鋳造に関しての書物は、多くありますが、その鋳造地の基礎工事のことを述べてはいませんね。何か、不都合でもあるのですかね。」
「江戸時代に創造された「奈良の大仏」の重量は約250tと言われています。そのような大像を支える台座を含めれば、相当の重量を支える基礎工事をしなければ、数年で大像は傾きます。しかし、奈良時代から、現在に到るまで、台座と胴体下部を含めた大像は、傾いていません。」
「ナベさんは、その謎を、どのように考えているのですか。」
「東大寺の大像は、約2年で鋳造が完成したようです。基礎工事に関しての史料は、何も残っていないことは、そこに、王権が隠蔽したい「歴史」があると考えています。」
「例えば、どんな歴史ですか。」
「その鋳造地には、以前、巨大な構造物が存在していたのではないか、と考えています。」
「具体的には。」
「巨大古墳です。」
「すると、ナベさんは、東大寺の大像は、巨大古墳を破壊した跡に、鋳造したと言うのですか。」
「古墳の破壊ではありません。太陽神の再生、誕生です。」
「その根拠はあるのですか。」
「史料として根拠はありません。しかし、藤原日本史で述べている、仏教僧とする行基の行動を調べると、そこには不自然さが現れるのです。」
「どんなことですか。」
「行基は、貴族以外に接触してはいけないとする僧尼令に違反したと言うことで、弾圧を受けていたのです。奈良時代の唐帝国に指導された仏教僧は、王権のプロパガンダの手段としての存在だったのです。現在で言えば、御用マスコミ記者ということです。そして、仏寺は、大衆を意図的に洗脳する御用放送局か御用出版社ということです。その反御用マスコミ記者として活躍していた行基は、都ではなく山野で活動し、治水や架橋など高度土木事業をおこなっていたのです。しかし、741年小僧行基が、反藤原氏となった聖武天皇と、恭仁京郊外の泉橋院で謁見すると、行基は、大像建立のために山野の民を集めるために奔走するのです。そして、小僧と言われた行基は、後に、法師となっていくのです。」
「何か不自然ですね。」
「その行基の本貫地が、古代新羅から渡来した民族の支配地、河内国であったのです。四世紀末から巨大古墳が築造されていた河内国は、古来から反藤原氏、反亡命百済貴族であったのです。」
「すると、行基は、本当の仏教僧ではなく、古墳時代に古墳を築造していた民族の末裔であった可能性がありますね。その古墳時代の末裔が、三笠山の古墳からミトラ神像を再生させたと考えることも出来ますよね。三笠山には、鶯塚古墳が現存していますよね。」
「そのように考えると、大像の制作の疑問が解けるのです。その疑問のひとつは、約2年で鋳造の完成をしたとする大像の粘土原型の露外での保存のことです。その疑問は、雨風と旱に晒されれば、その巨大粘土原型は型崩れをおこす必然性があるからです。仮小屋で囲うとしても、高さ約15mの粘土原型を囲うには、設置と解体に、それ相当の期日が必要です。」
「そう考えれば、藤原日本史による築像建設説明は納得できませんね。」
「ところが、巨大古墳をくり抜き、大像の原型を掘りぬけば、原型像は、風雨や旱から防ぐことが出来ます。基礎工事も、巨大古墳の重量で土地を圧縮していたため、必要がありません。」
「その説明、オレ納得します。東大寺の大像は、ミトラ神像の可能性は大ですね。」
「可能性は、あくまで可能性です。鎌倉時代の謎は、奈良時代から続いているのです。」
「どういうことですか。」
「平安時代に現れた、「夷語と日本刀」の謎です。」
「日本刀は、武士の武器ですよね。では、その夷語とは何ですか。」
「夷語とは、古代東北のエミシ(蝦夷)の言葉です。」
「古代東北の言葉と言えば、アイヌ語ではないのですか。」
「藤原日本史では、エミシ(蝦夷)をアイヌ民族と混同するように仕掛けている伏しがあるようですが、エミシ(蝦夷)とアイヌとは、全く別の民族です。エミシ(蝦夷)は、馬に乗り弓を射ることが得意です。しかし、アイヌ民族には、そのような戦闘乗馬技術はありません。更に、エミシ(蝦夷)の武器は、ユーラシア大陸の騎馬民族の武器と同型の蕨手刀です。しかし、アイヌ民族には、そのような武器はありません。」
「エミシ(蝦夷)と言えば、藤原日本史で述べる東北の民族は、「日本書記」和銅2年(709年)「出羽並びに渡島の蝦夷八十七人、馬一千疋を貢す。」、とあるように、大和の朝廷と交流があったことになっているようですね。」
「「日本書記」が史実を語っているとすれば、奈良時代の東北には馬を朝廷に一千疋も贈呈できるほどの、馬産が盛んだったと推定できます。」
「でも、藤原日本史によれば、その同年、709年巨勢麻呂がエミシ(蝦夷)を討伐しているのですよね。すると、その馬一千疋は、奈良時代に平定された出羽と渡島の蝦夷からの戦利品ですか。」
「それは違うと考えられます。その根拠として、出羽と渡島のエミシ(蝦夷)は、平安時代まで、古墳を築きながら、平安王朝の律令軍団と騎射戦術で戦っていたからです。しかし、律令軍団に敗れ、帰順したエミシ(蝦夷)は、「俘囚」と蔑称されていくのです。」
「「俘囚」とは、どんな意味ですか。」
「アイヌ語では、「ウシウ」は、「奴隷」の意味ですが、「ふしゅう」は、「捕虜」の意味です。」
「でも、奴隷も捕虜も、囚われの身であるのは同じですよね。」
「平安時代、その「俘囚」の末裔が、「武士」と言われるのです。」
「藤原日本史では、武士の発生は、律令制度が崩壊し、荘園などの私領が広がり、その私領を護るために武装した者が、武士となった、としていますよね。それが、何故、「武士」が俘囚の末裔となるのですか。」
「「武士」の武器は「日本刀」です。その「日本刀」は、平安時代に突如登場するのです。」
「「日本刀」と言うからには、日本の国号が発明された7世紀末頃からの登場ではないのですか。」
「奈良時代の刀剣は、聖武天皇の遺物から調べられます。数多くある正倉院の御物には、後世に紛れ込ました物が多くあるようです。55振りの刀剣類と、5振りの手鉾、72振りの刀子が保存されているようですが、信頼できる聖武天皇の御物は、金銀鈿荘唐太刀、呉竹杖刀、漆鞘杖刀の三点だけです。しかし、これらは、「日本刀」の特徴である湾曲がない、直刀です。」
「何故、奈良時代の直刀が、平安時代に湾曲刀になったのですか。」
「それは、その刀を作った民族が、異なっていたからです。」
「その根拠を教えてください。」
「日本刀の謎のひとつは、製作過程で使われる「言葉」です。文字と言葉とは、どちらが先であるかは、アイヌ民族のように「文字」を持たない民族がいるように、言葉が先で、後から文字が発明されたのです。その「日本刀」の製作過程で使われる「言葉」が、平安時代の都の言葉ではないのです。例えば、「のたれ」、「なかご」、「まち」などです。文字では、「湾れ」、「茎」、「区」です。そして、「日本刀」の素材の鋼は、「タタラ製鉄」により造られるのです。」
「タタラ製鉄の「タタラ」の語源って、古代から中世まで騎馬民族が活躍していた中央アジアの「タタール」のことですよね。」
「そう言われています。いづれにしても、「日本刀」は、平安王朝を構成する民族と異なる民族が開発したようです。」
「すると、考えられるのはエミシ(蝦夷)ですね。武士←俘囚の末裔←俘囚←エミシ(蝦夷)と繋がりますね。ナベさんの説によれば、エミシ(蝦夷)は、6世紀から7世紀の明日香ヤマトを支配していた、ユーラシア大陸から渡来した騎馬民族の突厥軍団とギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した花郎騎士団の末裔と言うことですよね。それに、エミシ(蝦夷)の武器である蕨手刀は、反りがありますよね。日本刀のルーツは、蕨手刀ですか。」
「そう考えています。その「日本刀」で現存する最古のものは、800年代伯耆国の安綱作の名物童子切と云われる長さ約80cmの湾刀です。」
「その日本刀、「清和源氏」の源頼光が、丹波国の大江山の酒呑童子を退治したものですね。」
「それは、あくまでも伝説です。カメさんは信じないかもしれませんが、日本最古の日本刀物語も、「清和源氏」も伝説なのです。」
「鎌倉幕府を拓いた源頼朝の「清和源氏」が伝説ですか。信じられませんね。」
「日本刀が、世界の武器が実用品であるのに、芸術的或いは美術品的であるのは何故でしょう。さらに、日本刀が、前政権の怨霊を封じ込めるための施設として開発された神社(モリ)に奉納されるのは何故でしょう。」
「そう言われれば、日本刀を武器にする武士は、「武芸者」とか「もののふ」とも言われていますよね。古代の「芸」とは、民衆ではなく、神を楽しませる技のことですよね。「もののふ」とは、「もの」とは「神」のことで、「神の僕」との意味ですよね。日本刀を「武士の魂」とする武士のルーツは、祭祀者だったのですか。」
「平安時代に突然現れた日本刀のルーツも、平安時代に登場して鎌倉時代に活躍したとする武士のルーツも謎なのです。」
「それってどういうことですか。」
「例えば、鎌倉時代に始まったと信じられて、武士が行っていたとする流鏑馬は、平安時代の896年宇多天皇が「文徳源氏」の源能有に命じて制定されたとする日本の伝統的な騎射とされていますが、現在テレビなどで知られている騎射技術は、江戸時代に八代将軍徳川吉宗が再興した流鏑馬の流れを汲むものです。平安時代に始まる「文徳源氏」の流鏑馬の技術は、中世後期には廃れていたのです。」
「その説明の意味分かりません。」
「現在に伝わる流鏑馬は、長弓を用い左横の的を射ます。カメさん、これって変だと思いませんか。」
「何処が変なのですか。」
「もしも、流鏑馬のルーツが武士の実戦騎射技術だとすれば、そして、現在に伝わる流鏑馬が、平安時代からの騎射技術だとすれば、何故、的を左横に限定しているのでしょうか。流鏑馬が実戦的騎射をルーツとするならば、的(敵)は左右前後でなければならないと思いませんか。実際に、平安時代まで東北を支配していたエミシ(蝦夷)は、パルティアン騎射と言われている後ろを向いての騎射を行っていたのです。そのためには、長弓ではなく、短弓でなければならないのです。」
「でも、武士の戦闘を描いた「合戦屏風」などには、騎乗の武士は、短弓ではなく、長弓ですけど。」
「カメさん、中世末期から近世の戦闘を描いた合戦屏風は、何時代に描かれたと思いますか。その多くは、室町時代以降に創作された合戦物語を資料として、江戸時代に創作されたものです。」
「すると、合戦屏風絵も、つい最近まで学校の歴史教科書に掲載されていた「源頼朝絵」と同じに「ウソ」なのですか。」
「カメさん、常識的に考えても、2mちかくもある弓で、パルティアン騎射ができると思いますか。」
「ナベさんの説では、武士はエミシ末裔で、その祖は5世紀頃の日本列島東北に渡来した騎馬民族の突厥軍団とギリシャ・ローマ文化国の古代新羅から渡来した花郎騎士団というわけですね。」
「古代合戦絵の信憑性が薄いのは、5五世紀頃の古墳から発掘される馬骨から推測すると、古代馬の体高は約121cmです。体高とは、馬の首の骨から前脚の蹄までの長さです。」
「121cmですか。合戦絵の馬は、どう見てもサラブレット種ですよね。その平均的体高は約160cmですね。古代馬が、サラブレッド種に変身するわけはありませんよね。すると、江戸時代に描かれた合戦屏風は、古代武士を描写しているわけではないということになりますね。」
「古墳から発掘された馬骨から推測すると、古代馬は、ユーラシア大陸の草原馬と考えられます。サラブレッドは、草原馬を新種改良した人工馬です。」
「すると、「魏志倭人伝」によれば、3世紀の日本列島には牛馬がいないと記されていることから、古代武士が騎射していた馬は、5世紀頃ユーラシア大陸から日本列島東北に、騎馬民族がもたらした馬が祖と考えてもよいですか。」
「古墳からサラブレッド種の馬骨が発掘されないかぎり、そのように考えてもよいと思います。」
「平安時代に登場し、鎌倉時代に活躍したとする武士の武器は、弓馬ですよね。では、武士が携帯していたとする日本刀は、何の目的で蕨手刀から開発されたのですか。」
「以前レポートにも書いたように、平安時代の陸奥国平定後に登場した日本刀は、実戦武器としてではなく、祭祀道具として開発されたと考えています。」
「その根拠は何ですか。」
「日本刀が、実戦の武器として使用されたのは、それほど古い時代ではないのです。」
「でも、平安時代を描写したとされる戦闘絵には、日本刀で戦っているものもありますよね。」
「日本刀は、時代が下がれば下がるほど刀の幅が細くなっているのです。現在の刀剣は、慶長年間(1596年〜1615年)を堺に、それ以前を古刀、それ以降を新刀、幕末以降のものを新々刀と分類しているようです。その古刀と新刀との分類は、江戸時代末期に著わされた「新刀弁疑」という書籍によります。」
「慶長年間と言えば、藤原氏の傀儡である豊臣秀吉が、中国の明国を支配する目的で、その進軍路として朝鮮半島を侵略した、第二次侵略戦争の「慶長の役」があった時代ですよね。そして、それ以前の文禄の役の2年前、1588年には刀狩り令が発令されていましたよね。」
「豊臣秀吉の刀狩り令は、名目として大仏建立のためとか喧伝れていますが、鉄製の大仏ではなく、木製の大仏が造られていたことから、実戦用の日本刀を鍛造するための材料集めにおこなわれたのではないかと考えています。」
「だから、慶長年間以降の日本刀は、実戦向きに刃が肉厚になったわけですね。すると、それ以前の古刀は祭祀道具ということですね。だから、日本刀は、怨霊封じ込めの施設である神社(もり)に奉納されたわけですね。」
「状況証拠はあっても、藤原日本史では日本刀のルーツを謎としているのは、日本刀のルーツを解明すると、そこに、鎌倉時代まで東北の一部を支配していたエミシ(蝦夷)が現れてしまうからです。日本刀の特徴のひとつは、湾刀ということです。しかし、初期の日本刀は、刃の中央からの湾曲ではなく、柄の部分の「なかご」と刃との分岐点である「はまち」から反っていたのです。勿論、刃は湾曲していなくて、直刃だったのです。」
「その刀の構造、蝦夷の蕨手刀と同じですね。」
「現在の日本刀の特徴である湾曲刃は、後に開発されたのです。」
「古代の武器について、もうひとつ質問していいですか。それは、現在につながる長弓は、竹製ですよね。蝦夷が、ユーラシア大陸から、五世紀に日本列島東北に渡来していたなら、当然、武器として弓矢を携帯していましたよね。ユーラシア大陸に「竹」は存在していたのですか。」
「竹の原産地は、湿潤な亜熱帯地方です。寒冷地には笹は生育していましたが、笹では、弓を製作できません。」
「すると、寒冷地に暮らしていた騎馬民族の弓は、何から作られていたのですか。」
「木です。北方系の木である梓(あずさ)、槻(つき)、檀(まゆみ)、拓(つみ)などのを原材料としていたのです。」
「木だと、竹と異なり、弓がしなりませんよね。」
「竹製の弓は、しなります。ですから、弦は、多年草である苧(からむし)や麻を松脂でかためたものです。しかし、木製の弓はしなりませんから、弦自体に弾力性が求められます。」
「小動物の腸をよって乾燥させたものですね。」
「カメさん、知っていたのですか。」
「藤原日本史で、中世の西国に現れた賎民を「つるめそ」と蔑称していたとあったので、その「つるめそ」の語源を調べて知ったのです。中世では、弓の弦は小動物の腸から作られていたのですね。その弓の弦を売り歩く者が、「弦を召せ」と連呼していたため、「つるをめせ」から、「つるめそ」となっていったとある本に記されていました。」
「よく調べましたね。私の出る幕がありませんね。」
「これで分かりました。中世初期に活躍していた武士の武器は、刀が蕨手刀から開発された日本刀、弓が、南方系の原材料ではなく、北方系の木と小動物の腸を原材料としていたのですね。馬に到っては、草原馬であれば、江戸時代に描かれた古代武士のイメージが、ガラリと変わりますね。そこに現れるのは、ユーラシア大陸で活躍していてた騎馬民族の武人、勇者の意味の「アク」ですね。すると、藤原日本史で、鎌倉時代から始まったとする武士による流鏑馬のイメージも変わりますね。」
「当然変ります。体高121cmの馬が、2mちかくもある長弓を引けるわけがありませんからね。」
「すると、源平合戦絵にあるように、サラブレッド種の馬にまたがる長弓を携帯していた「源氏武士像」もガラリと変わりますね。そうそう、ナベさんは、レポートで「清和源氏」出自の「ウソ」を述べていましたよね。その根拠は何ですか。源頼朝の肖像画が「ウソ」で、清和源氏の出自が「ウソ」であるならば、鎌倉時代とは、一体どのような時代だったのですか。」
「一言でいえば、桓武平氏の北条氏による第二百済王朝です。」
「では、第一百済王朝は、いつですか。」
「藤原日本史で云うところの第49代光仁天皇から第50代桓武天皇、そして、第51代平城天皇までです。」
「平城天皇の弟である第52代嵯峨天皇は、第一百済王朝ではないのですか。」
「確かに、嵯峨天皇は桓武天皇の皇子であったのですが、そのお妃から側室まで、「藤原の女」を一人も入れていないのです。これは、父親の桓武天皇が、北家の藤原内麻呂の妻永継を側室としたこと、そして、兄平城天皇が藤原薬子とその娘を側室としていたことに比べれば、嵯峨天皇は、藤原氏の影響力を排除したと考えられます。」
「その目的は、何ですか。」
「藤原氏から独立した、嵯峨王国の樹立です。」
「嵯峨天皇のお妃は、橘奈良麻呂の孫橘嘉智子ですよね。その橘奈良麻呂の父橘諸兄は、日本列島古代史を「日本書記」により改竄した藤原不比等の孫藤原仲麻呂により廟堂から排除されていましたよね。反藤原氏の橘氏が、嵯峨天皇の側近ですか。確か、嵯峨源氏賜姓は、814年でしたよね。その4年前の810年には藤原薬子の乱がありましたよね。「源氏」には、何か意味があるのですか。」
「源氏のルーツを辿ると、東アジアで活躍していた騎馬民族に辿りつくのです。」
「源氏って、日本民族のオリジナルではないのですか。」
「源氏のルーツは、5世紀の北魏まで辿りつけます。423年騎馬民族柔然を破った、騎馬民族拓跋部の連合部族は、北魏を興します。しかし、どんぐりの背比べのような部族連合では、広大な北魏の支配地を治められません。そこで、漢民族の支配構造を真似て、部族の序列化を図ったのです。北魏拓跋部の頂点に立つのが、漢姓の「元」(げん)だったのです。」
「日本のは「源」ですが、「元」と「源」は、同じ「げん」ですが、関係があるのですか。」
「414年騎馬民族の禿髪(とくはつ)氏の支配国、河西王国が滅亡すると、その最後の王子破羌が救いを求めたところ、騎馬民族の拓跋部の大武帝は、温かく迎えたのです。そこで、大武帝は、破羌に、「拓跋部と禿髪部は源(みなもと)を同じくす。」、と述べて、「源賀」と名乗るようにとしたのです。騎馬民族の拓跋(たくばつ)も禿髪(とくはつ)も突厥(とっけつ)も、漢民族が騎馬民族「チュルク」(トルコ)を漢語化した民族名です。拓跋部の「部」とは、同族の集団を意味します。」
「でも、その話、嵯峨天皇の時代より、四百年ほど前ですよね。」
「カメさん、桓武天皇は、唐帝国の儀式で、南朝の「呉音」ではなく、北朝の「漢音」で即位していたのです。日本列島の平安京の初期は、奈良時代の「呉音」文化ではなく、唐文化一色だったのです。現在でも、インテリは、日本の歴史よりも、欧米の歴史に詳しいように、当時の平安京では、東アジアの歴史は、支配層には広く知られていたのです。日本の六国史と言われるものが、「日本語」ではなく、「漢語」で著わされていることでも、そのことが理解できると思います。」
「そういえば、嵯峨源氏は、後からの源氏の名が二文字なのに、名が一文字ですよね。これは、禿髪氏の破羌が、姓を源、名を一文字の「賀」としたことと関係があるのですか。」
「私にも分かりませんが、確かに、日本初の嵯峨源氏の名は、一文字ですね。藤原日本史に登場する「清和源氏」は、名を二文字としていますね。」
「「嵯峨源氏」の祖は、拓跋部や禿髪部と同じに、ユーラシア大陸で「草原馬」を駆使して活躍していた騎馬民族なのですか。」
「漢字二文字で、ギリシャ・ローマ文化と騎馬民族文化の日本列島の明日香時代、つまり、古墳時代の古代史を、漢訳仏教文化興隆とする「飛鳥時代」を創作して消したのは、藤原不比等が、713年に発令した好字令です。それ以前の日本列島の地名・人名は、明日香(あすか)のように漢字二文字ではなかったのです。鎌倉時代に、反藤原氏の嵯峨源氏の歴史を消したのは、二文字を名乗る「清和源氏」です。「清和源氏」の発祥は、本は藤原氏の傭兵である、出自不詳の中年の満仲なる人物から始まるのです。」
「系図では、清和天皇→貞純親王→源経基→源満仲→源頼光、そして、陸奥国の砂金を略奪目的とする東北侵略戦争で藤原氏のために活躍したとする、蝦夷末裔の清原氏と阿部氏を謀略を用いて壊滅した源義家と源義光兄弟がいますよね。その兄義家が、「八幡太郎」を名乗り、弟義光が「新羅三郎」を名乗りますよね。これって、何か、歴史の隠蔽を感じるのですが。」
「やはり感じますか。昔から、何故、藤原氏の傭兵であった多田(天皇からの賜姓ではなく、ただの源氏)の「ただの源氏の満仲」の末裔が、反新羅の藤原氏と亡命百済貴族が遺棄する、「八幡」とか「新羅」を名乗るのか、謎とされていたのです。その意味は、嵯峨源氏の歴史乗っ取りと考えています。」
「その根拠は、何ですか。」
「「清和源氏」の「ウソ」の根拠のひとつとして、藤原日本史で「清和源氏」の祖である経基の孫源頼信が、石清水八幡宮に奉納した願文に、「先人は新発(満仲)、その先は経基、その先は元平親王、その先は陽成天皇」、とあるからです。」
「だったら、「清和源氏」ではなく、「陽成源氏」にすればよいはずですね。何か、深い意味がありそうですね。」
「大有りです。陽成天皇は、嵯峨源氏の「源澄」の子「源益」を、宮中で撲殺していたのです。陽成天皇は、狂躁性の持病があったのです。その陽成天皇を即位させたのが、藤原基経です。天皇は唯のロボットにすぎないので、無能であれば、藤原氏には都合がよいのです。しかし、殺人、それも、撲殺では、歴史改竄を得意とする厚顔の藤原氏も、即座に陽成天皇を退位させざろうえません。更に不思議は、「父」である「経基」よりも、「子」である「満仲」の方が「年上」なのです。歴史学会では、その年齢逆転の史実を「養子縁組」によるとしているようですが、私には「ウソ」に「ウソ」を重ねたように思われます。鎌倉時代の先触れの、平安時代末期から、鎌倉時代を支配したとする「清和源氏の出自」は謎だらけなのです。」
「そのナベさん説が史実だとすると、「清和源氏」の氏神が石清水八幡宮とするのも「ウソ」になりますよね。」
「それは、どういうことですか。」
「藤原日本史によれば、石清水八幡宮は、清和天皇の時代に創立されたため、清和源氏の子孫から臣籍降下した諸源氏が、石清水八幡宮を氏神に選んだ、としています。そして、「清和源氏」の源義家が、石清水八幡宮で元服したので、「八幡太郎義家」と名乗ったとしています。しかし、「清和源氏」が「ウソ」で、「陽成天皇」が史実とすれば、石清水八幡宮の創立は「誰」に因るのか、ナベさん分かりますか。」
「八幡の神は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の神です。「八幡」の元来の読みは、「はちまん」ではなく、「やはた」です。それは、漢字の読みによる歴史改竄テクニックと考えられます。」
「「やはた」とは、「や」は、「八で栄える」、そして、「はた」とは「秦」で、秦氏が栄えるための宗教施設ですね。その秦氏は、5世紀頃、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から河内湖畔への渡来ですね。その河内湖は、古墳時代以前、河内湾で、上町台地が岬として存在していたのですよね。ナベさんのレポートにありましたよね。」
「藤原日本史では、難波津としている地域です。その難波には、隠された歴史があるのです。」
「ナベさんのレポートでは、難波←浪速←ローラン、となるのですよね。すると、難波は、シルクロード交易の流れにあるわけですか。」
「その難波には、744年反藤原氏となった聖武天皇が、難波遷都の勅を下していたのです。難波(浪速・ローラン)は、古来から国際港であったのです。」
「ナベさんの説では、古墳時代、藤原日本史では飛鳥時代に、その河内は、藤原日本史では物部氏とする、秦氏の支配地であったのですよね。その河内地域で、嵯峨源氏の流れを汲む源綱が渡辺党を興したのは、古代に秦氏の支配地であったのと関係があるのですか。」
「藤原日本史によれば、「東大寺の大仏」鋳造のヒントは、聖武天皇が、難波の知識寺の仏像を知ったから、としています。しかし、その「東大寺の大仏」は、「遍照鬼」として庶民に密かに伝えられていて、江戸時代まで祟りをすると信じられていたのです。」
「その東大寺と嵯峨源氏とに、何か関係があるのですか。」
「その東大寺は、平安中期の藤原道長が支配していた時代のひとには、嵯峨源氏と関係があった、と知られていたようです。」
「その根拠は、どこにあるのですか。」
「鎌倉時代前の第二藤原王朝の1066年、古代歴史物語として著わされた「大鏡」に、平安時代に幼い藤原彰子が、藤原氏の氏神を祀る春日大社に参詣した際に、春日大社にお供えした供物が、辻風に吹かれて東大寺大仏殿の前まで飛んでいってしまった。この場面に居合わせたひとびとは、「かすがの御まへなる物の源氏の氏寺にとられたるはよからぬことにや」、と言ったとあるのです。」
「その物語から、何が分かるのですか。」
「藤原日本史によれば、「東大寺の大仏」は、難波の知識寺の仏像がヒントであって、その鋳造には河内を根拠地とする高度土木技術を持つ僧行基が協力し、そして、その大仏の開眼のお祝いに宇佐八幡の氏子が神輿を担いで駆けつけた、とあるのです。それらの地域の共通点は、古代新羅からの渡来民の支配地だったのです。つまり、藤原日本史が、秦氏とする民族です。その秦氏は、仏像ではなく、太陽神ミトラ(後に弥勒菩薩として歴史上抹殺)を祀っていたのです。藤原氏の氏神を祀るための春日大社は、三笠山のそのミトラ神を祀っていた「神地」を破壊した跡に、神代の時代ではなく、奈良時代の756年以降に創建されたのです。平安時代のひとびとは、嵯峨源氏の祖が、古代新羅から渡来した末裔であることを知っていたので、そのような言葉を発した、と推測されます。」
「そういえば、ナベさんの説では、漢字二文字での地名の表記は、713年藤原不比等が発明した好字令からで、それ以前の、嵯峨源氏の流れにある「源綱」、改めて「渡辺綱」とする、河内の渡辺津の「ワタナベ」の語源は、古代エジプト語で、ワタは「波」で、ナーベは「小山」を意味し、「岬」とするのですよね。すると、秦氏の渡来は、河内湖を形成する上町台地の先が、岬だった頃の古墳時代前期の時代ですか。その頃の古墳は前方後円墳で、古代エジプトの埋葬思想と同じに横穴式石室に石棺が現れたのですよね。そして、石棺の内寸法は、古代エジプトの長さ単位であるキュビットで割り切れるのですよね。岩手県以南の日本列島各地で造営された相似形の前方後円墳は、古代エジプトの紐による測量技術を駆使したものですよね。難波が、ローランの時代で、一世紀から始まるシルクロードの流れにあれば、当然、その中継地である中近東に伝播していた古代エジプトの土木建築技術も、ソグド商人などの、さいたま県吉見に百穴墓を築いた国際交易商人に伴って日本列島に伝播してくる可能性はありますよね。」
「当然です。古代エジプトの石切技術なくしては、明日香地域に点在する、侵略者の破壊からまぬかれた「謎の石」の説明がつけません。」
「その嵯峨源氏の流れにある、源綱が興した河内の「渡辺党」は、その後、どうなったのですか。」
「一般的な概説では、源綱は清和源氏の武士団を形成した源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国渡辺に居住し、渡辺綱と称した、とか、渡辺綱(935年〜1025年)は、義父の源敦の妻の兄である摂津源氏の源頼光の郎党となり、頼光四天王の筆頭とされた、などとあります。しかし、源氏登場から、源頼光の父とする源満仲の歴史をたどれば、そのような概説が「ウソ」であることがわかります。」
「それって、どういうことですか。ネットでは、そのような概説が多くありますが。」
「そもそも、嵯峨源氏はその登場から、反藤原氏です。「清和源氏」は、藤原氏が創作した、云わば「藤原源氏」です。反藤原氏の嵯峨源氏の渡辺綱が、「藤原源氏=清和源氏」の配下になるわけがありません。」
「そこの経緯の説明を願えませんか。」
「藤原氏からの独立を望んだ嵯峨天皇は、そのお妃から側室まで、橘氏、大原氏、飯高氏、上毛野氏、広幡氏などの「反藤原氏の女」としていたのです。そして、その多くの子供たちに、騎馬民族の漢姓である「源」を名乗らせたのです。嵯峨天皇は、823年淳和天皇、833年仁明天皇を即位させ、自ら太上天皇となり、その二天皇に君臨して、「嵯峨王国」を築いていたのです。因みに、仁明天皇の母は、反藤原氏の橘嘉智子です。嵯峨天皇が、藤原氏から独立するために、淳和天皇即位の宣命文で、「明神」(あきつみかみ)としたのです。嵯峨天皇即位の宣命までは、奈良時代に藤原不比等が発明した、誰も逆らうことが出来ないとする「現御神」か「現神」(あきつみかみ)だったのです。その「嵯峨王国」三代も、嵯峨天皇が、娘潔姫を北家藤原良房に下賜されたことから、滅亡してしまうのです。藤原良房は、仁明天皇と藤原順子とに生まれた子を、陰謀により、850年文徳天皇として即位させるのです。この文徳天皇から昭和天皇に至る80代の外戚占有率は、藤原氏出自の天皇は、75%なのです。」
「その説明で、「天皇の謎」は、「藤原氏の謎」の意味が分かりますね。」
「藤原良房は、更に、廟堂を藤原氏で支配するために、嵯峨源氏の追い落としを画策するのです。それが、858年9歳で即位した文徳天皇と藤原明子の子、清和天皇です。藤原良房は、廟堂を占める嵯峨源氏の左大臣源常、源信、源融を追い落とせないため、自ら摂政という職責を発明し、9歳の清和天皇に代わって、廟堂を支配したのです。」
「何故、藤原氏は、そのような自分勝手な振る舞いが出来るのですか。」
「それは、奈良時代に、藤原不比等が仕掛けた装置、五位以上の貴族の息子は自動的に貴族になれると言う制度(蔭位の制)があるからです。これにより、多くの官僚貴族として藤原氏一族が存在していたのです。そして、藤原氏に敵対する貴族は、藤原氏得意の密告戦術で、廟堂から排除していたのです。」
「すいません。話の途中で、変な質問をして。」
「清和天皇が、15歳で元服すると、藤原良房は、摂政に替わって、関白に就くのです。関白とは、「政治に関り白(もう)す。」の意味です。このように、藤原良房は、摂政・関白の制度を発明して、嵯峨源氏を次々と廟堂から追い出していたのです。」
「すると、追い出された嵯峨源氏は、何処へい行ったのですか。」
「それは、源綱のように、母方の支配地です。藤原良房は、後継者として北家藤原冬嗣の孫藤原長良の子藤原基経を養子としたのです。その藤原基経は、娘二人を清和天皇の女御としていたのです。しかし、嵯峨源氏の源融が、大納言の地位を占めていたのです。藤原基経により、清和天皇は、満28歳で、皇位を9歳の貞明親王に譲さられたのです。これが、例の嵯峨源氏の子息を宮中で殴り殺した陽成天皇です。陽成天皇の母は、藤原基経の同腹の妹藤原高子です。」
「すると、「清和源氏」か「陽成源氏」か分かりませんが、源満仲の流れは、藤原氏になりますよね。だったら、反藤原氏の嵯峨源氏の源綱が、藤原氏の流れにある源満仲の子とする源頼光の配下となることは、何かの作為を感じますね。」
「その「清和源氏」発明の作為のことがハッキリするのが、醍醐源氏抹殺の物語です。」
「醍醐源氏ですか。ナベさんのレポートでは、醍醐は、チーズの意味でしたよね。醍醐の文字は、何か、騎馬民族を想像させますね。」
「古代のチーズは、「ソ」(蘇)と言っていたのです。古代の明日香ヤマトでは、その「ソ」を食べていたようです。味は、砂糖なしの生キャラメルを乾燥したような、ほのかな甘みがあります。」
「ナベさん、まるで食べたことがあるような「ソ」の感想ですね。」
「ええ、ありますよ。現在でも、明日香の「飛鳥寺」の隣にある土産物屋さんで売っています。古代の明日香ヤマトには、牧場である「牧」が存在していたのです。」
「すると、古代の明日香には、遊牧民族が暮らしていたと考えられますね。だとすると、藤原日本史では、聖徳太子が、593年女帝推古天皇の摂政となり、翌年の594年仏教の興隆の詔をしていた、と云うことを、食文化から否定できますよね。仏教は、「獣」を食生活に取り入れる民族を、「畜生」として蔑視していますから。」
「古代明日香ヤマトの文化は、645年以降に、破壊から免れた遺跡や遺物から推測すると、藤原不比等が奈良時代に発明した「アマテラスオオミカミ」を祖神とする中臣神道文化ではなく、古代オリエントや古代西アジア文化でしか説明できない、と私は考えています。」
「そう言えば、出版社時代に取材で明日香を訪れた時、甘樫丘から眺めた「飛鳥大和」の地形の狭さには、少し驚いた記憶があります。あんなに狭い地域に、遺跡が点在していますよね。」
「カメさんが眺めた明日香の里は、古代の地形ではありません。その頃の奈良盆地は、湿地帯を、前方後円墳を築いたり、河船による運送をおこなうため運河を掘削により築いて、宅地化を図っていたのです。現在のような小川のような飛鳥川も、古代明日香では、平底の河船が河内の浪速(ローラン)より運航できるほど川幅が広く深かったのです。このことは、608年(藤原日本史では女帝推古天皇の時代)隋使裴世清が明日香の都まで河船により来訪し「男王」に謁見したとする、隋皇帝への報告書で証明されます。現在の地形は、奈良盆地を囲む山々から、雨降りにより運ばれた土砂で地形が上がったのです。更に、甘樫丘の北端の飛鳥川沿いの水落遺跡から推測すると、明日香の都市は、緊急時には水没するように意図されていたようです。」
「その装置は、明日香一帯を防衛するための、まさに水城ですね。それが史実だとすると、藤原日本史が述べる仏教黎明期とする「飛鳥時代」が薄れていきますね。」
「水城が、明日香を軍事都市と考える、根拠のひとつです。」
「すると、緊急時に短時間に水没する古代の明日香ヤマトの地形は、もっと狭かったのですね。だったら、何故、そのような狭い地域に、5世紀中頃にユーラシア大陸から日本列島の東北に渡来した突厥進駐軍は、6世紀中頃に、軍事都市を築いたのですか。」
「それは、明日香の裏山に通じる宇陀の「朱砂」の簒奪だと考えています。」
「「朱砂」は、古代の「赤チン」で、消毒剤として、祭祀者が呪術(医療)として使用したいたものですね。朱砂は、古代の国際交易では、大変貴重な交易物であったのですね。」
「「朱砂」は、防腐効果に優れていたので、古墳の埋葬者の棺などに塗られていたのです。国際交易民族でもある騎馬民族は、その明日香の「宇陀」の「朱砂」を、侵略者からの防衛のため、三方を山に囲まれた、狭い土地に軍事基地を建設した、と私は考えています。」
「チーズから、話を脱線させてすみません。嵯峨源氏に続いて、藤原氏による醍醐源氏抹殺の話をお願いします。」
「藤原日本史では、897年即位した醍醐天皇は、母を藤原高籐の娘胤子としているようですが、実際は、南山科の郡司の娘だったのです。」
「郡司って、土着豪族のことですよね。その郡司が王権に逆らわないように監視するのが、国司の仕事のひとつですよね。」
「そうです。645年明日香の突厥進駐軍とイカルガの新羅花郎騎士団を、奈良盆地から排除した、唐帝国進駐軍は、その後、騎馬民族に支援されて復活した旧勢力の、日本初の天武天皇が、686年崩御すると、地方豪族で逆らう者は抹殺し、従う者は「郡司」として配下としたのです。」
「すると、醍醐天皇の母には、騎馬民族の血が流れている可能性がありますね。」
「醍醐天皇は、その側室のひとりとして、嵯峨源氏の源唱の娘周子とし、子を成したのです。その子が、醍醐源氏の源高明です。その源高明は、967年左大臣に任命されたのです。騎馬民族の漢姓「源」を持つ嵯峨源氏末裔は、藤原氏の数々の陰謀により、大納言の源昇が延喜19年(919年)没した後、天暦元年(947年)までの約30年間、廟堂首脳、大納言以上の地位を占めていなかったのです。」
「チーズの名を持つ醍醐天皇即位で、騎馬民族末裔の復活ですか。醍醐源氏は、ユーラシア大陸で活躍していた「源」姓の騎馬民族禿髪部の流れにあるわけですね。醍醐源氏は、日本初の「源」姓を嵯峨天皇から賜った、嵯峨源氏の血を受けているわけですから。」
「醍醐源氏の源高明が、967年左大臣となれたのは、その布石があったからです。それは、唐帝国が907年滅亡したため日本国支配のための武力統治機構が崩壊したため、939年から941年にかけて起こった、西国の藤原純友と東国の平将門による「天慶の乱」によるのです。嵯峨天皇が、藤原氏の支配から独立するための令外官としての警察組織の検非違使の配下としての武芸者が、その「天慶の乱」を騎射の戦法で鎮圧したため、「武士」として公に認められたことです。その武芸者の祖は、東北を支配していた騎馬民族のエミシ(蝦夷)です。そして、そのエミシの祖は、古墳時代(藤原日本史では飛鳥時代)に明日香ヤマトを武力支配していたのです。これらのユーラシア大陸の騎馬民族末裔の「武士」の騎射による武力を背景に、醍醐源氏は廟堂で勢力を伸ばし、天暦8年(954年)醍醐源氏の源高明が大納言となり、源兼明、源雅信、源重信、源時中は大納言に就任したのです。以後、30年間は醍醐源氏が重職に就いていたのです。このことに脅威を感じたのは藤原氏だけではなく、平安時代初期に百済系天皇である桓武天皇により、中国山東半島から移民してきた日本皇族の祖とする亡命百済貴族末裔も同じだったのです。」
「醍醐源氏の源高明が左大臣となっても、藤原氏が外戚とする冷泉天皇が存在しているのでは。」
「文徳天皇以降の天皇は藤原氏のロボット天皇ですが、源高明の娘は、為平親王の妻となっていたのです。もし、子が生まれたら、源高明は天皇の「外戚」となります。つまり、藤原氏が得意の戦術により、天皇家が源高明により乗っ取られてしまうのです。」
「そこで、藤原氏得意の密告戦術ですか。」
「そのとおりです。ここに、「清和源氏」の祖となる満仲なる出自不詳の中年男が、突然歴史上に現れるのです。満仲なる者が、「源高明が謀反を起こそうとしている。」、と右大臣藤原師尹に密告するのです。すると、その藤原師尹は、その満仲の密告を名目に、安和2年(969年)左大臣兼左近衛大将源高明を太宰員外帥として、廟堂から左遷し追放したのです。」
「すると、藤原氏の密告戦術に嵌められた醍醐源氏一族郎党は、嵯峨源氏と同じに、騎馬民族末裔の母方の支配地に追放されるわけですね。でもその話おかしいですね。左大臣は、右大臣より格上ですよね。何故、左大臣の源高明が、格下である右大臣の藤原師尹に左遷されるのですか。」
「それは、奈良時代に藤原不比等が、左大臣を実権のない名誉職とし、政治の執行権を右大臣に移行していたからです。何故、「左」が「右」より上位かと言うと、ユーラシア大陸の北域を支配する騎馬民族軍団は、南域の農耕民族軍団と対峙した時、北域に位置する騎馬軍団は鳥の羽ばたきの布陣をしますから、中央が指揮軍団で、東側が左翼軍団、西側が右翼軍団となります。太陽は東から昇りますから、しんがりは左翼軍団となることから、騎馬民族軍団では、左翼が、右翼より格上となったのです。」
「では、騎馬民族が支配していた明日香ヤマトの古墳時代では、「左」が「右」より格上だったのですね。」
「時代は飛びますが、騎馬民族末裔の初代将軍徳川家康・二代目将軍徳川秀忠に替わり、百済系の徳川家光から始まる第三百済王朝となった江戸時代以降、江戸市中から岩槻などの北関東に移動させられた武具を製作する騎馬民族末裔集団は、その武具製作技術を駆使して雛人形を製作するわけですが、その江戸の雛人形の配置は、京都雛人形が「右上位」に対して、「左上位」であるのです。このことは、古墳時代から千数百年経っても、騎馬民族文化が今日まで継承されていたことが示唆されます。」
「ナベさん、窓を見てください。もうすぐ夜明けですね。時間だいじょうぶですか。」
「明日、いゃ、もう今日ですね。今日は自宅学習の日ですから大丈夫です。」
「もう少し質問してもいいですか。」
「どんなことですか。」
「鎌倉時代の芸能民と呼ばれる遊行する集団のことです。歴史本を読んでいても、芸能民の描写が、何か腑に落ちません。納得できないことが多すぎるのですが。特に、東国については。」
「カメさん、30分のコーヒーブレイクしませんか。」
「いいですよ。ハラも減ったことだし。では、30分後に。」
オレは、バソコンから離れ、熱い紅茶とビスケットをパソコンデスクに置くと、田辺さんとのチャットをもう一度見直した。
そして、田辺さんからの鎌倉時代レポートのマーカー箇所を見直した。それらの箇所は、あまりにも教科書歴史と異なっていたため、理解不能か納得できない箇所だ。今の田辺さんの説明で、鎌倉時代の謎が少し解けたように感じた。
そのひとつが、「清和源氏」の謎だ。
藤原日本史では、1219年源実朝が、公暁に殺されたことにより、源氏三代(頼朝・頼家・実朝)で源氏が滅亡した、と説明する。しかし、それは、古墳時代に明日香ヤマトを支配していた突厥進駐軍と新羅花郎騎士団を、明日香に陣取る突厥進駐軍を「蘇我氏」とし、そして、イカルガに陣取る新羅花郎騎士団を「物部氏」に置き換えて、「日本書記」で神仏戦争物語を創作して、歴史上から抹殺したように、反藤原氏の「嵯峨源氏」と「醍醐源氏」を歴史上から抹殺するトリックだ。藤原氏の数々の陰謀により廟堂から追い出された、騎馬民族の流れにある嵯峨源氏と醍醐源氏の末裔は、鎌倉時代にも生きていたはずだ。
嵯峨源氏と醍醐源氏は、正当な天皇の血を受け継いで、廟堂(公卿会議)の左大臣まで登りつめていた。しかし、「清和源氏」は、その祖である源経基が正四位下左衛門佐で、その子とされる満仲から頼朝の父である源義朝に至る6代先まで、大臣・大納言・参議といった廟堂の構成員となった人物は、一人もいない。
「清和源氏」で初めて、権大納言となったのは、鎌倉幕府を拓いたとする源頼朝だった。それも、藤原日本史では、弟とする源義経が、奥州の衣川で藤原泰衡に殺された翌年、1190年(建久元年)だった。
このことから推測できるのは、田辺さんの説のように、「清和源氏」は、藤原氏により創作された「姓」で、その実態は、藤原氏の私兵だったようだ。その根拠として、969年「安和の変」で反藤原氏の醍醐源氏の源高明を密告した「清和源氏」の満仲、そして、1051年「前九年の役」でエミシ末裔の安倍頼時を抹殺した「清和源氏」の源頼義、更に、1083年「後三年の役」でエミシ末裔の清原家衡を抹殺した「清和源氏」の源義家らは、皆、結果として藤原氏のために働いていたのだ。
その「清和源氏」による陸奥・出羽国のエミシ末裔の抹殺での活躍の結果、奈良時代に藤原不比等が、719年に設置した陸奥・出羽国を支配するための陸奥出羽按察使が、明治元年(1868年)まで機能し、藤原氏により独占された陸奥出羽按察使により、藤原日本史では「清和源氏の」源頼朝により藤原泰衡が抹殺されたことにより奥州藤原は三代で滅亡したとするが、奥州藤原王国が明治元年まで存続していた。
藤原氏の私兵「清和源氏」の、花郎騎士団の古代新羅とは縁も所縁もない、源義家は「八幡太郎」、弟の源義光は「新羅三郎」を名乗っていたのは、「八幡」も「新羅」も、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅と関係があり、ニッポンの「武士」の祖である、古代新羅の花郎騎士団を意識したようだ。「清和源氏」の「八幡太郎」と「新羅三郎」が「ウソ」であることは、古代新羅からの渡来民族は、反藤原氏であるからだ。
そんなことを考えているうちに、もう30分が過ぎようとしていた。

鎌倉時代とは、騎馬民族文化の東国抹殺の時代だった。

オレは、パソコンのキーを急いで叩いた。「おはようございます。」への返事は直ぐにはなかった。田辺さんからの返事があったのは、それから二杯目の紅茶を飲み干した後だった。

「カメさん、返事か遅れてすみません。カメさんの鋭い質問に答えられるように、鎌倉時代の芸能民についての史料ノートを調べ直していたのです。」
「いままでは、オレのとんでもない質問にも瞬時に的確に答えていましたよね。今更、ナベさんほどのひとが調べ直すことなんか、ないと思いますが。」
「鎌倉時代は、奈良時代や平安時代にもまして、謎の多い時代なのです。特に、東国については、その歴史を史料を基に語ることは出来ないのです。」
「でも、歴史本には、鎌倉時代は律令国家の基である公地公民制が崩れて、私有領の荘園制度により、農業が貴族や寺社により経営され、守護・地頭が鎌倉幕府の手先として活躍していた、とありますよね。「泣く子と地頭には勝てない。」なんて歴史教科書で述べていましたよね。」
「鎌倉時代を説明する歴史用語が怪しいのです。その「泣く子と地頭には勝てない」相手とする「百姓」についても、現在の「百姓」の意味の概念では、理解できないのです。中世の「百姓」とは、農耕民だけを意味する言葉ではなく、百の姓(かばね)、つまり、多種多様の民の意味であるのです。」
「どういうことですか。」
「藤原日本史では、日本人の原型が紀元前660年から存在し、その原日本人が、朝鮮半島や中国からの渡来人により文化・技術を吸収し、現日本人となった、と述べているようですが、それは「ウソ」です。」
「なんで、そのように断定できるのですか。」
「カメさん、「日本」という国が、いつ頃出来たと思いますか。」
「七世紀末頃でしょ。確かその答えはナベさんのレポートにありましたよね。」
「そうです。「日本国」が成立したのは、7世紀末です。それ以前には、「日本国」がないわけですから、当然、日本列島には「日本人」が存在していないわけです。」
「そう言われれば、そうですね。それ以前の古墳時代、藤原日本史では飛鳥時代、には「日本人」が存在していないわけですよね。すると、飛鳥時代に活躍したとする架空の聖徳太子も、「日本人」ではないわけですね。」
「その七世紀末に成立した「日本国」も、近畿一帯の狭い地域を意味していたのです。当然、その頃の日本列島の東国は、「日本国」などではなかったのです。」
「その根拠は何ですか。」
「言葉です。7世紀末以降の「日本国」である西国の言葉と、東国の言葉には、はっきりとしたアクセントと助詞の区別があるのです。例えば、西国では、「見イ、○○ジャ、広ウ」、に対して、東国では、「見ロ、○○ダ、広ク」、となるのです。」
「どうして、そのような言葉の違いが生じたのですか。」
「それは、支配民族が、西国と東国では異なっていたからです。」
「ナベさんの説では、古代西国の支配層は中国・百済民族で、古代東国は古代新羅・突厥民族ですよね。」
「その言葉の境界線は、恐らく、6世紀には陸奥・出羽国から明日香ヤマトまでが東国アクセントだと思います。それが、686年天武天皇の崩御以降、唐帝国進駐軍による都が、藤原京、平城京、平安京と遷るほどに、西国言葉の境界線も北進し、現在では、新潟県、岐阜県、愛知県の西堺までが西国と東国アクセントの境界線となっています。」
「その説明納得できます。奈良時代、藤原氏に対抗していた、天武天皇の皇子長屋王邸跡から発掘された木簡からは、武蔵、上総、伊豆、美濃などの東国からの名産品が届けられていたと記されていましたよね。そして、長屋王が、父天武天皇が騎馬民族系であるように、邸内に牛を飼い、チーズ(ソ・蘇)を製造していたのですよね。その長屋王が、藤原不比等が唐帝国の則天武后の戦術を真似て、娘光明子を聖武天皇の皇后とすることに反対しているため、729年藤原四兄弟により、長屋王を無実の罪で自害に追い込んだ「長屋王の変」では、藤原氏が、直ちに、美濃(不破関)、伊勢(鈴鹿関)、越前(愛発関)を封鎖したことは、長屋王殺害に対しての東国からの騎馬民族軍団阻止が理由のひとつだったわけですね。」
「状況判断から、そのように解釈できます。古墳時代には、明日香ヤマトからではなく、東北から、北陸道、東山道、東海道の道幅12m級の古代高速道路が、奈良盆地まで敷設されていたのです。それは、軍事と交易の為に敷設されたのです。」
「奈良時代では、西国アクセントと東国アクセントの境界線は、その三関だったわけですね。」
「鎌倉時代でも、そのアクセント境界線は、その三関だったと思われます。その三関以東では、農業の形態も、生活の基盤である炊事の形態も異なっていたのです。藤原日本史では、弥生時代から稲作水田が東進していたように記述していますが、東国では、水田ではなく、直播の陸稲だったのです、つまり、水田作ではなく、畑作や畠作であったのです。律令制度の納税も、西国の「米」に対して、東国では「絹」であったのです。酒造業者が、西国に多いのは、納税で余った「米」の処分だったのです。そして、炊事形態も、西国の「かまど」に対して、東国では「いろり」です。西国では、罪人の家は打ち壊しの対象ですが、その家の基準は「かまど」の存在です。「かまど」のない家は、打ちこわしの対象外だったのです。」
「すると、歴史絵巻にある農作業風景も、西国と東国とでは異なるわけですよね。教科書には、浴衣のような着物を着た女性が、水田で農作業している絵がありますが、それは、日本全国の農作業絵ではなく、西国の農作業絵ですよね。東国では、どのような服装で農作業をしていたのですか。」
「それが、確定史料がないため、全く分からないのです。」
「では、東国では、生活の糧は、何に頼っていたのですか。」
「ヒントがひとつだけあります。先ほど、史料ノートから見つけ出しました。明治時代に発刊された「朝野新聞」の記事です。その記事によりますと、東国には、江戸時代末期まで、「秦王国」が存在していたのです。」
「「秦王国」ですか。ナベさんの説では、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族は、北九州宇佐に「秦王国」を築いていたとするわけですよね。その「秦王国」は、吉備→浪速(ローラン)→山背国→鎌倉→江戸と東進していた、とするわけですよね。その「秦王国」についての記事があるのですか。」
「長くなりますが、「朝野新聞」を引用します。

浅草区亀岡町(往時は新町と云ふ)に住む弾直樹と云ふ人なん、往昔より穢多の君主と仰がれる弾左衛門の後裔なりける。抑も弾家の祖先は鎌倉の長吏藤原弾左衛門頼兼(弾左衛門を単名と思ふは誤りにて弾は氏、名は左衛門その姓は藤原なりとぞいふなる)にてその先は秦より帰化し世々秦を以て氏とせり。抑も我国に於て秦の帰化人と称するものは始皇の子扶蘇の後なり。史を按ずるに秦皇の崩後扶蘇逃れて「かいはく」に入り居ること五世にして韓に遷りしが、其の裔弓月君なるもの応神天皇の十四年を以って百二十七県の民を率い、金銀玉帛を齎らして帰化し、大和国朝津沼腋上地を賜ひ、其民を諸郡に分置して養蚕織絹の事に従はしめしに、献る処の絹帛柔軟にしてよく肌膚にかなふを以て天皇特に波多君の姓を賜へりと。是れ秦の字に「はだ」の訓を付したる所以也。」
「その記事から、何が分かるのですか。」
「秦氏の出自の記述により、秦氏には、ギリシャ・ローマ文化が継承されていたことが示唆されます。」
「どういうことですか。その論拠は。」
「その新聞記事によると秦氏の祖が、秦→扶蘇→かいはく→韓→日本列島の流れにあるからです。秦は、バクトリアの衛星国です。そのバクトリアは、ギリシャの都市国家から興ったマケドニア王国出自のアレクサンドル大王による、西は地中海から東はインド北部までのアレクサンドル大王領の継承国です。そのバクトリアの文化は、アレクサンドル大王領が、紀元前301年イプソスの戦いで分裂した後、雄弁家のプラトン一家の末裔が亡命していたように、ギリシャ文化国だったのです。そして、紀元前3世紀の中国戦国時代には弱小国だった秦が、紀元前221年、突然、中国を統一するのです。それが、秦帝国です。」
「その王が、秦の始皇帝ですね。西安の兵馬俑の秦帝国地下軍団は世界遺産ですよね。」
「その兵馬俑は、近年囁かれているのは、秦帝国とは関係がないようです。」
「その根拠は何ですか。」
「その兵馬俑の近隣は、現在でも発掘中ですが、何を理由かわかりませんが、発掘地域が埋め戻されているようです。」
「それは、秦帝国地下軍団の根拠を覆す遺品や遺構の出現ですか。」
「それは、分かりません。推測のひとつとして、中国史料には、秦帝国の軍隊は鉄製武器で武装していたと記述されているのに、兵馬俑の地下軍団は青銅製武器で武装しているからです。青銅器は、時代的に鉄器よりも歴史的に古いものです。その秦帝国は、中央集権的専制君主制を始め、度量衡制・貨幣制を定めたように、中国的ではなく、ギリシャ的であったのです。」
「でも、その秦帝国は、紀元前206年に滅ぶわけですよね。その秦帝国の末裔が、扶蘇→かいはく→韓→日本列島に流れて行くわけですか。」
「秦帝国の母国バクトリアは、紀元前139年滅び、その地に、紀元前140年に大月氏国が興るのです。その大月氏国も、紀元一世紀には滅び、その地にクシャナ朝が興るのです。そのクシャナ朝の都ガンダーラで、ギリシャ彫刻を彷彿させる写実的なガリガリの仏像を崇拝する大乗仏教が、「ブッダ」の教えとする無数のギリシャ語経典を伴って起こるのです。」
「初期の仏典は、サンスクリット語ではないのですか。」
「サンスクリット語は、ギリシャ語から派生した言語です。」
「初期仏典がギリシャ語ってのは、納得できませんね。初期の仏像って、女性肌のふくよかな像ではなかったのですね。」
「仏像が、しみや皺のないふくよかな女性肌になったのは、大乗仏教が中国にガンダーラの国際交易商人に伴って進出した時、不老長寿の神仙思想の道教に遭遇してからです。この道教が信仰されていた中国の地で、多くのギリシャ語大乗仏教経典は、反騎馬民族である農耕民族の中国人に漢訳されたことにより、漢訳仏教となり、ギリシャ文化を継承していたガンダーラで発明された初期の大乗仏教思想が、百八十度変換してしまうのです。」
「すみません、秦氏とは関係ない質問でナベさんの話の流れを変えてしまって。」
「扶蘇、かいはくの歴史は分かりませんが、韓は、紀元3世紀の三韓時代の辰韓(秦韓)の地に、356年奈勿王により新羅(秦羅・秦の国)が興るのです。奈勿には、外来者の意味があります。その新羅は、高句麗が372年、百済が384年に漢訳仏教を導入したのに、528年まで漢訳仏教を導入していなかったのです。」
「何故ですか。」
「その理由は、史料により提示できません。その新羅は、高句麗や百済と異なり、女王国だったのです。」
「女王国といえば、日本でも、新羅系天武天皇の皇子たちが存命中の奈良時代までは、女王国でしたよね。それが、亡命百済貴族支配の平安時代になると、男王国となってしまったのは、支配民族の交代ですか。」
「その新羅の都慶州の丸山古墳からは、夥しい遺品が発掘されるのですが、そのひとつに、金製の三樹の女王冠があるのです。三樹王冠は、ギリシャ文化の継承を示唆します。因みに、徳川三代将軍家光から始まる第三百済王朝の江戸時代に、騎馬民族末裔の初代将軍家康に寵愛されていた弾左衛門を頭とする秦王国の民は、江戸町の中心地の日本橋界隈から北関東に強制移動させられ、そこで雛人形を製作するのですが、そのお雛様の冠は「三樹」であるのです。そして、新羅の軍団は、花郎騎士団と言われています。「花」とは、太陽神ミトラの借字です。ローマ軍団は、キリスト教が392年ローマ帝国の国教になる以前、太陽神ミトラを軍神として崇拝していたのです。」
「それで理解できました。ナベさんが、675年の統一新羅と区別するために、356年の新羅を、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅と言っていた意味です。でも、その4世紀に渡来した秦王国が、明治初期まで関東に存在していたことは納得できません。藤原日本史にも、秦王国なんて登場しませんよね。」
「秦王国といっても、一般に言うところの王国ではありません。イメージとしては、ギリシャ都市国家です。」
「その都市国家としての秦王国って、どんな王国だったのですか。」
「「朝野新聞」によりますと、明治初期の弾左衛門が支配する勢力は、

関東の穢多無慮一万戸。之れを総轄したるものを弾左衛門といふ。弾左衛門は実に関東穢多の中央政府とも主権者ともいふべきものにて、今当時の実際に就て聞く所一として奇警ならざるはなし。試にそが生活の有様を問へば云く、少なくとも万石以上の一諸侯に比すべしと。その貨殖の有様を問へば云く殆んど東洋の「ロスチャイルド」とも謂ふべき財産ありしと。」
「穢多って、藤原日本史では、貧しい賎民として描いていますよね。賎民の頭が、世界の金融王「ロスチャイルド」の東洋版ですか。」
「その邸宅の有様を問へば云く中爵門大玄関構へにして門外幾百の家は挙げて皆その家来の居宅なりしと。」
「中爵門大玄関構って、格式の高い武家屋敷の門ですよね。それが、賎民の頭の家にあるのですか。弾左衛門って、何者ですか。」
「弾左衛門は、世襲ではなく、日本列島各地に棲息している秦王国の末裔から選出された代議員の談合により、推挙され決定するのです。」
「まるで、ギリシャ都市国家の選挙による党首選びですね。」
「その初代弾左衛門(集房)は、

家康公関東入国のとき乗馬の脚痛を起こせしことありけり。この時弾左を召して沓摺革を作らしめ、且つその支配下の猿引きをして祈祷を為さしめに馬の病頓に快復したりとて褒美の鳥目を賜まはりぬ。左れば、旧幕の頃毎年正月十一日大城の御厩に猿引来りて祈祷を行ひ御台所にて御膳並に鳥目を戴くことの恒例ありしも右の故事に基けりとなり。」
「家康公から弾左衛門に賜った、鳥目って何ですか。」
「お金のことです。」
「賎民の頭が、徳川家康の居城である江戸城に、正月に登城していたのですね。」
「その登城も、籠に乗り、羽織袴、腰には日本刀を携帯していたのです。」
「まるで、大名みたいですね。何故、徳川家康は、賎民の頭を寵愛したのですか。」
「徳川家康は、藤原日本史で述べているような武家松平の出自ではなく、北関東の世良田部落の出自であったからです。」
「その根拠はあるのですか。」
「文献史料では説明できません。でも、徳川家康は、薬草での創薬が得意で、部下が病に掛かると、家康自ら薬草を調合して与えていたのです。創薬は、4世紀から騎馬民族末裔が暮らす北陸でも盛んであるように、騎馬民族の技術なのです。更に、家康は、賎民出自の間者である諜報員から直接情報を聞いていたように、従来の武家とは異なり、賎民と蔑称されていた民とに垣根を設けては居なかったのです。」
「それは家康が、賎民と同族だからですね。その徳川家康は、藤原氏の傀儡関白となった豊臣秀吉により、関東の湿地帯である東京湾河口に、1590年に移封されたのですよね。」
「その河口の湿地帯を住宅地に変えたのは、東京湾に荒川と共に流れ込む利根川の流れを、古墳時代に活躍した秦氏末裔の高度土木技術により、太平洋に変えたことによるのです。」
「川の流れを変えた土地は、古代京都盆地もそうでしたよね。」
「古代の京都盆地は、秦氏の拠点のひとつで、その京都盆地の中央を流れる加茂川を、秦氏の高度土木技術により、東に流れる高野川に合流させることにより、湿地帯から住宅地に変わったのです。現在の北南に流れる加茂川は、人工川です。」
「それで納得しました。徳川家康と弾左衛門の関係が。徳川家康が移封される以前は、関東は秦王国の支配地であったのですね。」
「そのように考えるのが自然です。その都市国家である秦王国は、江戸幕府の行政から独立していて、秦王国独自の徴税権と司法権があったのです。

弾左の家は前にも記する如く、鎌倉時代より彼の二十八番の職業を手の下に属して、虚威を張り、実利を収め来りしが、時移りて世は徳川の代となり三代将軍家光公のとき、二十八番の中、多くはその手を離るることとなり、唯だ一銭職(髪結床のこと)、石切(石工のこと)、紺屋職の三業のみ依然弾左に属して月々冥加金を献納せしに、天明年間白河楽翁公の老中となるに及びて此の三業さへ亦た弾左の絆を離れて独立するに至りしかば、爾後弾左の制を受くるものは自家直轄の穢多社会と非人社会との二者あるのみとなり。」
「ナベさんが言っていた、徳川三代目家光から、初代家康に寵愛されていた弾左衛門が、徳川幕府から排斥されていくのですね。まるで、平安時代に、藤原氏により、廟堂から排斥された、騎馬民族末裔の嵯峨源氏や醍醐源氏と同じですね。」
「漢訳仏教を思想武器とする第三百済王朝の江戸時代から、江戸町の技術者を支配下から独立されてしまった反仏教徒の弾左衛門は、

弾左が其の部下の穢多非人に対する権力をば徴税権と司法権との二種に分つべし。即ち関東八州支配の穢多九千八百五戸より一ヵ年一俵宛の貢米を収納せしめ、此米額三千九百二十石を穫たるが如き非人頭善七より課役と称して毎月一千人の非人を無代価にて徴発使役するの権利を有し、

とし、藤原日本史で云うところの賎民を支配下としていたのです。そして、その司法権は、

弾左の邸宅用部屋の脇に白州の設けあり。弾左が邸第の向側に二千坪余の一構あり。是れ弾左一手の牢獄の所在とす。檻倉(牢獄)は三棟ありて二棟は穢多非人を入るべきものとし、一棟は町奉行所より預りの平民罪囚を入るべき所とせり。

とあるように、徳川家康が存命中に、弾左衛門が警察業務を行っていた流れが分かるのです。」
「弾左衛門は、藤原日本史では、穢多非人だけの頭として描いていますが、徳川家康が存命中は、関東の平民もその支配下に置いていたのですね。すると、古墳時代に、高度土木技術により、岩手以南各地の巨大前方後円墳、運河としての人工河、日本列島を貫く幅12m超の直線道路を建設していた秦氏末裔は、江戸時代初期まで、東国では支配者として活躍していたのに、藤原日本史では、穢多の賎民は、鎌倉時代に発生した、と述べていますが、何か変ですよね。」
「カメさんも、そう思いますか。実は、藤原日本史とは、鎌倉時代までは、日本列島西国史であるのです。日本列島は、西国と東国とでは、縄文時代の古来から、その支配民族の歴史も異なっていたのです。日本列島の歴史が、西国と東国とに融合していくのは、室町時代になってからです。その室町時代以前には、現在に伝わる日本独自の文化はなく、ポリネシア、インド、中国、朝鮮半島、ユーラシア大陸など各国から渡来した言語も異なる民族による、異国文化混交の時代だったのです。
カメさんが描いている鎌倉時代に発生したとする穢多の賎民のイメージは、日本列島全体のものではなく、漢訳仏教文化の西国のものです。穢多の賎民のイメージは、漢訳仏教僧と南宋から亡命してきた禅宗僧が発明したものです。鎌倉時代の東国は、漢訳仏教文化や禅宗文化(軍事都市鎌倉と北陸を除いて)ではなく、騎馬民族文化だったのです。ですから、鎌倉時代の騎馬民族文化の東国には、穢多の賎民が存在していたとは断言できないのです。」
「何故ですか。では、室町時代以前の東国の歴史は、どのように推測できるのですか。やはり、鎌倉時代の東国には謎が多くあるようですね。」
「藤原日本史の歴史改竄のテクニックのひとつは、歴史用語の発明です。そのひとつに、4世紀から7世紀までの騎馬民族による古墳文化時代を、架空の人物である聖徳太子による仏教黎明期の飛鳥時代を発明して、抹殺しているのです。」
「ナベさんのレポートにありましたよね。「日本書記」の552年仏教伝来はありえないということですよね。その根拠は、百済の聖明王の表文に「金光明最勝王経」が用いられているからですよね。」
「そうです。その「金光明最勝王経」が、中国の唐帝国で漢訳されたのが、703年だからです。」
「すると、「日本書記」の百済仏教伝来は、奈良時代の703年以降で、飛鳥時代の552年ではありえないわけですね。」
「普通に考えれは、当然そうなります。」
「奈良時代に藤原不比徒が発明した「日本書記」が、歴史的ウソをついているわけですね。でも、新聞の遺跡発掘記事では、「日本書記」の記述と対比して報道していますよね。それは、「日本書記」の記述に、歴史的信憑性が存在しているからですよね。」
「「日本書記」の記述が創作物語ではなく、先住民の史料を基に、歴史的改竄を行ったため、遺跡や遺構との整合性があるわけです。」
「その史料とは、「日本書記」で、645年蘇我氏が焚書したとする、「天皇紀」と「国紀」のことですか。」
「違います。日本列島での天皇の発明は、672年即位の天武天皇からです。それ以前に、「天皇紀」など存在してはいません。」
「では、その史料とは何んですか。」
「「続日本紀」の記事によりますと、唐進駐軍がもたらした「律令制度」に支配された各国に、「風土記」を作成する目的として、713年に命じた文章があるのです。それは、
郡内に産出する特産品や生息する動植物などは詳しくその種類を記せ。土地が肥沃か否かを記せ。山、川、原野の名称のいわれを記せ。古老の相伝する伝承は、史籍に記載して報告せよ。
とあるのです。しかし、完本として現存しているのは、「出雲国風土記」だけです。」
「713年と言えば、日本列島の人名・地名を漢字二文字で記せ、との好字令がありましたよね。その各国の歴史資料を基に、「日本書記物語」が創作されたというわけですね。それだったら、遺跡や遺構との整合性があるわけですね。では、藤原日本史ての鎌倉時代の歴史改竄はどうだったのですか。」
「それは、支配者としての、武家と公家の歴史用語の発明です。」
「武家とは、貴族階級の官職を持った軍事を主務とする家系のことですよね。そして、公家とは、朝廷に仕える上級官人のことですよね。その武家と公家が、鎌倉時代の歴史改竄のテクニックとなるのですか。」
「亡命百済貴族が支配していた平安時代には、皇族・神族・蕃族の身分がありました。当然、皇族は、亡命百済貴族です。そして、神職としての神族は、藤原氏で、渡来民を意味する蕃族は、秦氏でした。この平安時代の身分を隠蔽するのが「公家」の総称です。藤原氏は、神族から公家に変身したのです。」
「では、武家は、平安時代の何を隠蔽したのですか。」
「武家の初めは、鎌倉殿と呼ばれた、清和源氏の源頼朝です。そこで初めて、清和源氏の源頼朝は、公卿である正四位に任じられたのです。平安時代の武装集団は、源氏、平家、平氏が存在していたのです。しかし、藤原日本史では、1185年平家は、源氏により壇ノ浦の戦いで滅亡したことになっているのです。そして、源氏も、1219年源氏三代目将軍源実朝が、公暁に暗殺されたことにより滅亡したことになっているのです。武家で残るのは、平氏だけです。」
「すると、鎌倉時代の武家とは、平氏だけですね。でも、ナベさんの説では、清和源氏の存在は、ウソなのですよね。すると、鎌倉時代には、清和源氏ではない、「源氏」は生存していたのですね。」
「そう考えています。その鎌倉時代、武家が東国、そして、公家が西国を支配していた、とするのが藤原日本史です。」
「歴史本では、「平家」と「平氏」が区別されていないものがありますよね。極端なのは、平家を、伊勢平氏とするのもありますよね。そして、「平家物語」を「平氏物語」なんてのもありますよね。源氏や平氏は、天皇からの賜姓であるから、その天皇名を付けて、嵯峨源氏や醍醐源氏、そして、桓武平氏となるわけですよね。伊勢平氏を発明した歴史作家の歴史的良識を疑いますよね。でも、源氏は、それぞれの天皇名があるのに、何故、平氏は、全て「桓武平氏」なのですか。」
「その平氏には、出自の謎があるからです。」
「ナベさんの説によれば、源氏は、日本オリジナルな姓ではなく、5世紀に北魏を興した騎馬民族の拓跋部の太武帝が、漢姓の「元」を名乗り、その臣下になった禿髪氏が「源」を名乗ったことを、中国史の「史記」に詳しい嵯峨天皇が知り、「源姓」を騎馬民族の流れにある母をもった多くの皇女達に賜ったことによるのですよね。そして、平家は、唐帝国と国際交易をおこなっていたアラブ系海洋民族が伊勢湾一帯を支配し、宋銭を武器に勢力を京の加茂川一帯にまで伸ばし、白河上皇の私兵となった海洋系武装集団のことですよね。源氏や平家については、色々な情報があるのに、平氏については少ないですね。やはり、藤原氏の出自と同じに、平氏には知られたくない歴史があるのですか。」
「カメさんが知っている「平氏は全て桓武平氏」というのは、一部は正しいけれど、そうではないのです。桓武天皇の皇子達、葛原親王、賀陽親王、万多親王、仲野親王の皇女は、全て桓武平氏となっているのは史実です。しかし、仁明天皇、文徳天皇、光孝天皇の皇女には、仁明平氏、文徳平氏、光孝平氏が存在していたのです。」
「それって変ですよね。仁明天皇、文徳天皇、光孝天皇には、仁明源氏、文徳源氏、光孝源氏が存在しますよね。これって、ナベさんはどう説明するのですか。」
「日本源氏の初賜姓は、814年嵯峨源氏です。しかし、日本平氏の初賜姓は、825年です。この時代の天皇は、淳和天皇ですから、当然、淳和平氏となるはずですが、「桓武平氏」なのです。カメさん、これってどのように考えますか。」
「そう言われれば、変ですね。淳和天皇の次の天皇は、仁明天皇ですよね。その仁明天皇の皇女には、仁明源氏と仁明平氏が存在しますよね。ナベさんの質問には答えられません。ナベさんの考えはどうですか。」
「ひとつの考えとして、源氏の母方は騎馬民族系で、平氏の母方は亡命百済貴族系というのはどうですか。」
「それって、根拠があっての考えですよね。」
「根拠としては、嵯峨天皇は、藤原氏の女や亡命百済貴族の女を避けていたようです。それは、天皇をロボット化する藤原氏からの独立には、嵯峨王国を築かなければならなかったからです。その手段のひとつとして、反藤原氏、反亡命百済貴族の女を側室として子をもうけることです。そして、その子供達に、騎馬民族の漢姓である「源」を賜ることです。」
「そのナベさん説、説得力不足だと思います。」
「嵯峨天皇の皇后は、反藤原氏の橘嘉智子です。その橘嘉智子は、「風容はなはだ異なる。手は膝をすぎ、髪は地に委す。」と「日本後紀」にあるように、平安時代のノッペリとした公家顔の百済系とは異なる人種であったのです。」
「そういえば、嵯峨天皇の皇女は、全員「源姓」でしたよね。」
「そうです。桓武平氏や○○天皇平氏が、亡命百済貴族の流れにあることは、その祀る神から推測できます。そのひとつが、平野社です。平野社を平野神社と書いて、「ヒラノジンジャ」と読むのは、明治以降です。明治以前の平野神社は、「ヒラノモリ」と読むのです。「モリ」とは、古代朝鮮語で、神が宿る聖地です。しかし、藤原氏では、「モリ」は怨霊が隠棲する結界地であるのです。」
「何だか、話が難しくなってきましたね。」
「その平野社の御祭神は、今木神、久度神、古開神、比売神です。今木神は、桓武天皇の母である高野新笠の父方の祖神です。比売神は、高野新笠の母方の祖神です。高野新笠は、百済の王族の流れにあるのです。久度神と古開神は、百済系の渡来神です。」
「すると、平氏が祀る平野社の神は、オール百済系というわけですね。話が、だんだんややこしくなってきましたね。東国の鎌倉時代の賎民の話は、まだですか。」
「源氏、平家、平氏の歴史を知らなければ、藤原日本史の東国賎民の創作話を解明できないので、源氏・平家・平氏の「武家」の裏話を続けさせてください。」
「分かりました。」
「アラブ海洋民族末裔の「平家」の歴史は、鎌倉時代に、桓武平氏の北条氏により抹殺されたのです。そのひとつに、1152年平清盛により社殿を修復された「平家」の氏神を祀る安芸の、インド発祥のベンガラ(赤)染めの厳島神社(モリ)が、騎馬民族末裔の「源氏」の鎌倉幕府を乗っ取った北条氏により、亡命百済貴族の流れにある「桓武平氏」の氏神を祀る社としたことによるのです。そのことにより、源平合戦では赤旗を「平家」のシンボルカラーとしていたものが、鎌倉時代以降になると、赤旗が「平氏」のシンボルカラーとなってしまうのです。」
「そう言えば、「源氏」側の「桓武平氏」の北条氏は、源平合戦では、「白旗」組みでしたよね。」
「そうです。「桓武平氏」は、「白旗」を掲げて源平合戦を戦っていたのです。「桓武平氏」の北条氏は、藤原氏の私兵であった「清和源氏」の源頼朝を担ぎ出して、京を武力支配していた「平家」により山奥に追われた「源氏」一族を結集させて、天皇家を乗っ取った「平家」を日本列島からの武力排除を画策したのです。」
「その源平合戦で活躍したのが、奥州藤原氏により保護されていた源義経ですね。」
「藤原日本史では、源義経は源頼朝の弟となっているようですが、史実ではないようです。」
「それって本当ですか。歴史本には、源義経が、源頼朝の弟で、「平家」との戦いで苦戦する兄が支配する「清和源氏」を助けるために、奥州から数騎で出発したが、鎌倉に着く前には数千騎の軍団になっていた、と述べていますよね。」
「実は、鎌倉時代の歴史は、そのほとんどの鎌倉時代の史料とされるものは、「桓武平氏」の北条氏が鎌倉幕府を乗っ取った後に著わされた創作物語を資料としているのです。」
「1180年から1266年までの歴史を記述している「吾妻鏡」も、亡命百済貴族の流れにある北条氏による創作物語なのですか。」
「残念ながら、そうです。源義経と源頼朝とが、同腹の兄弟ではないという根拠のひとつとして、源義経の出自が不明なことです。」
「歴史本では、幼少の源義経(牛若丸)は、鞍馬山で剣術の修行をして、五条の橋で武蔵亡弁慶と果し合いをしたことになっていますよね。その後、奥州藤原氏に養われたことになっていますよね。」
「その牛若丸物語は、全て虚構のフィクションです。」
「では、ナベさんは、突然源義経が奥州に現れた理由をどう説明するのですか。」
「不思議なことのひとつは、源平合戦で活躍したとされる源義経は、一度も源頼朝が居住する軍事都市鎌倉に入京してはいないことです。そして、「源氏」は、太陽神のシンボルカラーである「白旗」なのに、源義経は、ユーラシア大陸の騎馬民族が用いる笹竜胆をシンボルマークとしていたことです。富士川の「平家」との対陣前に源義経が現れたとする1180年は、漢民族が支配する宋を武力で脅し、金と絹とを献納させていた、騎馬民族の契丹が、騎馬民族の女真(金帝国)により1125年滅ぼされ、更に、1126年北宋が金帝国により滅ぼされ、中国大陸が、農耕民族支配の南朝の南宋と、騎馬民族支配の北朝の金帝国により支配されていた時代背景があるのです。その騎馬民族支配の金帝国で、1155年モンゴル帝国の基礎を築いたテムチンが生まれていたのです。」
「源義経が歴史上に現れた1180年は、もし、源義経がテムチンだとすると25歳ですね。源義経テムチン説の根拠のひとつですよね。」
「もうひとつ加えるとすると、源義経もテムチンも、その戦闘部族のシンボルマークが笹竜胆だったのです。更に、北条氏の傀儡となった源頼朝に追われた源義経残党は、北陸道から奥州藤原氏の都を経て、津軽の十三湊を目指したことです。このルートは、北方騎馬民族のユーラシア大陸からリマン海流を利用しての国際交易ルートだったのです。」
「その源義経と鎌倉時代の賎民の歴史と何か関係があるのですか。」
「源義経は、草原馬軍団の騎射により、1184年「平家軍団」を一の谷の戦いで破ると、船団を組んで敗走し四国の屋島に陣を構える平家軍団を、奇襲するわけですが、近畿一帯の在住軍団で源義経軍団に援助したのは、渡辺津の「源氏」だけだったのです。」
「渡辺津の「源氏」とは、嵯峨源氏末裔のことですか。」
「そうです。平安時代、藤原氏の陰謀により、廟堂から排斥された嵯峨源氏です。その嵯峨源氏末裔の渡辺党は、その末裔から九州松浦党の海洋軍団が派生していたように、国際海洋交易港を支配していたのです。」
「藤原日本史によると、平安末期からの源氏は、「清和源氏」一色ですよね。反藤原氏、反亡命百済貴族の嵯峨源氏や醍醐源氏末裔のその後はどうなっていたのですか。」
「勿論、その末裔は生存していたのです。しかし、藤原日本史上では、抹殺されていたのです。そのトリックが、「公家源氏」と「武家源氏」の歴史造語です。平安時代中期までの廟堂を支配していた嵯峨源氏や醍醐源氏を「公家源氏」とし、そして、誰一人として廟堂の構成員となれなかった「清和源氏」を「武家源氏」としたのです。そして、鎌倉時代を、「公家」の支配から「武家」の支配時代とすることにより、嵯峨源氏や醍醐源氏を歴史上抹殺したのです。」
「でも、江戸末期まで存続していた「公家源氏」の「村上源氏」がありますよね。」
「村上源氏は、清和源氏と同じに、藤原氏の傀儡氏族です。村上天皇は、藤原氏の陰謀により誕生したことが分かれば、それ以上の説明は必要ないでしょう。」
「すると、ナベさんは、反藤原氏の嵯峨源氏や醍醐源氏末裔は、何処にどのようにして存続していたと考えているのですか。」
「その謎解きのヒントが、源義経です。漢姓の「源」は、日本の平安時代の武士からではなく、5世紀の北魏の時代、騎馬民族の禿髪氏が名乗ったのが始めです。禿髪とは、漢民族が発明したチュルクの漢訳です。中国歴代の歴史家により、騎馬民族のチュルクは、拓跋、突厥などと中国では表記していたのです。禿髪も拓跋も突厥も、騎馬民族チュルク(トルコ)であるのです。」
「ナベさんの説では、藤原日本史では飛鳥時代、古墳時代に明日香ヤマトを支配していたのが、奈良盆地の北辺のイカルガがギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した花郎騎士団で、そして、南辺の明日香を突厥進駐軍が645年まで支配していた、というわけですね。そのチュルクである突厥が、藤原日本史では、蘇我氏に改竄されて、歴史上抹殺されたというわけですね。」
「そして、花郎騎士団は、物部氏に改竄です。更に、藤原日本史では、古代新羅から渡来した民族を、「秦氏」として、そのギリシャ・ローマ文化を継承していた民族の歴史を消してしまったのです。」
「秦氏と言えば、先ほど述べた、江戸時代の賎民頭である弾左衛門も「秦氏」でしたよね。その弾左衛門は、江戸幕府と異なる行政機関により、関八州の秦氏末裔だけではなく、平民も支配していたのは、その嵯峨源氏や醍醐源氏と関係があるのですか。」
「源義経の裏面を調べると、何故、江戸時代の弾左衛門が、江戸幕府と異なる「秦王国」を支配していたのか分かると思います。」
「面白そうですね。」
「源義経の出自の資料としては、編纂記録の「吾妻鏡」「百練抄」、軍記物語の「平家物語」「平治物語」「源平盛衰記「義経記」、公家日記の「玉葉」「山槐記」「吉記」、そして、古文書として発給文書がありますが、どれもこれも信憑性に乏しいのです。それは、源義経が、1180年無位無官としての登場から、1189年奥州衣川での謀殺(?)までの9年間しか歴史上に登場していなかったからです。」
「すると、藤原日本史で述べている源義経が大活躍する源平合戦も、創作性が大ですね。」
「源義経は、ユーラシア騎馬民族の部族シンボルマークの笹竜胆を旗印とする草原馬軍団と供に、奥州平泉に突然登場するわけですが、その奥州平泉は、奈良時代から陸奥出羽按察使である藤原氏の傀儡である奥州藤原氏の秀衡が支配していたのです。その藤原秀衡の祖は、「エミシ」(蝦夷)だったのです。つまり、藤原秀衡は、俘囚長であったのです。」
「話がややこしいですね。」
「治承4年(1180年)8月「平家」打倒として「桓武平氏」の北条氏に担がれた源頼朝の挙兵に続いて、9月には騎馬民族国である信濃で木曽義仲が挙兵したのです。そのような状況で、京都を支配していた「平家」朝廷は、鎌倉と信濃を挟撃する作戦として、俘囚長の藤原秀衡に目を付け、藤原秀衡を、1170年に鎮守府将軍にしてから以来のこととして、1180年陸奥守に任命したのです。」
「ちょっと待ってください。話が変ですよ。藤原日本史では、藤原秀衡は、「平家」打倒の源頼朝軍の援軍として、源義経に佐藤継信と佐藤忠信の兄弟を付き添わせたことになっていますよね。」
「先ほども言いましたように、平安時代末期から鎌倉時代の歴史には、客観的史料が存在していないのです。物語や私人である日記を「史料」として復元したのが、藤原日本史の「武家による鎌倉時代」なのです。ですから、これから述べることも、あくまでも、私の「説」です。」
「分かりました。続けてください。」
「源義経が、源頼朝が居住する軍事都市鎌倉に入京できなかった理由が、そのことによりわかるのです。つまり、「平家」の陸奥守である藤原秀衡に雇われた源義経軍団は、当初は「平家」側であったのです。源頼朝は、元は藤原氏の私兵の末裔であったのですが、今や「桓武平氏」の北条氏の婿殿であったのです。」
「すると、ナベさんは、源義経軍団は、京都の「平家」軍団を追い出し、その京都を軍事支配していた木曽義仲軍団を壊滅するために、源頼朝が居住する鎌倉を素通りした、と考えるわけですか。」
「そのように考えています。同盟軍が、同じ釜の飯を食わないことありえません。入京しない、或いは、させない理由は、源義経と源頼朝は、同盟軍ではなかったからです。」
「でも、藤原日本史では、永寿3年源頼朝の御使として、数万騎を率いて宇治路より源義経を入洛させたことになっていますよね。」
「源頼朝が、源義経軍団に、「平家」打倒の命令をしていた、とするのは「吾妻鏡」を資料としているからです。「吾妻鏡」は、婿殿を支配する北条氏の創作物語です。」
「源頼朝と源義経とが主従関係ではない、とするその根拠はあるのですか。」
「文治元年(1185年)後白河法皇は、平家を壊滅させた源義経に、源頼朝を追討する宣旨を発しているのです。」
「それって、学校では教えられていませんよね。でも、結果的に、源義経は、朝廷からも、源頼朝からも追われる立場になりますよね。その背景は、何故だと考えますか。」
「それは、源義経が、元暦元年(1184年)8月から文治元年(1185年)11月まで、左衛門少尉と、検非違使に任じられていたからと考えています。」
「検非違使とは、確か、平安時代初期、反藤原氏の嵯峨天皇が、天皇をロボット化する藤原氏の支配から独立するために、令外官として、816年に設置したものですよね。」
「嵯峨天皇が検非違使を設置した背景には、810年藤原薬子の乱があります。嵯峨天皇は、平城太上天皇を懐柔する藤原兄妹が、藤原氏からの独立を画策する嵯峨天皇を追い落とすための乱を平定した後、嵯峨王国を築くために、814年嵯峨源氏を誕生させるわけです。その嵯峨王国樹立を阻止する者を排除するために、警察機関として、検非違使を設置したのです。」
「検非違使と嵯峨源氏とには、何か関係があるのですか。」
「検非違使の主な任務は、国家反逆に対する警察業務です。その国家反逆のことを、平安時代初期には、「ケガレ」と言っていたのです。」
「「ケガレ」って、「汚い」の意味ではないのですか。」
「確かに、現在では、「ケガレ」は、「汚い」の意味となっていますが、平安時代初期では、「国家反逆」の意味であったのです。その意味が百八十度変化するのが、鎌倉時代なのです。」
「その国家反逆に対する警察処置が、「キヨメ」ですよね。その「キヨメ」は、現在では、「お祓い」の意味に使われているようですね。平安時代では、そのキヨメの武力行使を行う警察業務は、源氏が従事したわけですね。「平家」を壊滅した後、源義経が、その検非違使左衛門少尉となれば、当然、その警察業務を行う組織も、平氏ではなく、源氏ですよね。」
「そうです。そのひとつとして、渡辺津の「嵯峨源氏」末裔が任命されたことが示唆されます。近畿一帯で孤立無援の源義経軍団は、屋島襲撃の基地として渡辺津に結集していたのです。渡辺とは、713年好字令による前政権の歴史を抹殺するための地名で、河内が湾であった頃、上町台地の突端の岬を、古代エジプト語で、ワタ(波)ナーベ(小山)と呼ばれた地域名だったのです。」
「江戸時代、その渡辺村と江戸浅草の弾左衛門とでは、姻戚関係があったようですね。」
「江戸時代まで、渡辺村は役人村と云われていたのは確かです。村と言うと、農村と連想してしまうようですが、第三百済王朝による漢訳仏教思想に支配されていなかった江戸初期までの村は、農村だけではなく、商業、金融業、工業などを生業とする集落であったのです。その渡辺村は、戦国時代末期、イエズス会を裏切り藤原氏に寝返った関白太政大臣豊臣秀吉により、その渡辺津の支配地を追われたことは、1590年徳川家康が江戸湾の湿地帯に追われたことと一脈を通じます。」
「その渡辺村は、どのような村だったのですか。」
「江戸浅草の弾左衛門の政府から類推できると思います。「朝野新聞」の記事によりますと、弾左衛門の政府機関として、

弾左の家従は上役十五人、下役六十五人、小物七十人にて何れも新町に居住し、毎日弾家に勤仕したり。上役は大名にて云えば布衣(御目見)以上の格式にも当りぬべし。しかして十五の内三人は御家老、三人は御用人、三人は公事方奉行、二人は御勘定奉行、二人は大目付、二人は御郡代とも云うべき役割にて関八州支配の政務に与かるべき重役とこそは知らるれ。さて又た下役六十五人は御目見以上の格式にて之を大名に譬ふれば御近習役、御目付、御祐筆、御用部屋、公事方、御勘定方、御郡代手附の類ならん。其の小者七十人は下役に附属して夫々勤め向あり武家に於る同心足軽にも比ぶべし。此の外非職にて革の製造に従事するもの七十五人あり総計二百二十人の家従なり。実に恐ろしき程なりけり。

とあるように、江戸時代の関八州の秦氏末裔を支配していた「秦王国」は、歴然とした都市国家の政府に匹敵する組織を、明治初期まで維持していたのです。」
「藤原日本史には、「秦王国」なんて登場しませんよね。明治時代に発刊されていた「朝野新聞」の連載記事がなければ、一般の人は、弾左衛門の政府なんて知ることはなかったですよね。」
「一般に知られる歴史は、勝者のものです。敗者の歴史は、偽書のレッテルを貼られて葬られてしまうのが現状です。しかし、歴然として、敗者の歴史が日本列島の古墳時代から存在していたのです。それが、騎馬民族の歴史です。」
「鎌倉時代に、平安時代では国家反逆の「ケガレ」や、その取締りの警察業務の「キヨメ」が、「汚い」とか「汚物の清め」や「お祓い」の意味となったのは、何故ですか。」
「それは、鎌倉新仏教の僧侶や、鎌倉時代初期に騎馬民族のモンゴル帝国に侵略された南宋から、日本列島の漢訳仏教王国の西国ではなく、騎馬民族末裔が多く暮らす東国の「北陸」や「鎌倉」に亡命してきた禅宗の僧侶達の漢訳仏教思想やバラモン教思想の庶民への布教の結果です。それらの思想は、肉食する騎馬民族の文化を否定するものだからです。」
「中国で漢訳仏教思想が庶民に浸透しなかったのは、中国庶民は豚肉を常食していたからですか。」
「それは分かりませんが、漢訳仏教は、北魏の騎馬民族である拓跋部の太武帝(漢姓元)の仏教弾圧を初めとして、何度となく弾圧されていたのは、その思想に肉食する民族を「施陀羅=悪」とする蔑視があったからだと思います。」
「するとナベさんの説では、藤原日本史で鎌倉時代に発生したとする賎民穢多の祖は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族の秦氏というわけですか。」
「基本的には、そのように考えていますが、秦氏末裔のすべてが賎民と、藤原氏や亡命百済貴族の漢訳仏教思想やバラモン教思想布教の策謀により貶められたわけではないのです。」
「秦氏は、秦氏ではないのですか。」
「平安時代、亡命百済貴族が支配する京都では、百済の母国を滅ぼした新羅から渡来した民族は、弾圧され、そのために秦氏の一部は惟宗氏に変氏したのです。その惟宗氏は、鎌倉時代になると、源平合戦で活躍したため、桓武平氏の北条氏の婿殿源頼朝が、南九州にある藤原氏の荘園である島津荘を取り上げて、その島津荘を惟宗氏に与えたのです。このことにより、秦氏末裔の惟宗氏は、島津氏となったのです。」
「島津氏といえば、戦国時代から明治革命まで、外国勢力と結託して暗躍していましたよね。」
「そうです。島津氏は、秦氏末裔ですが、藤原氏の戦術に篭絡され、藤原氏のおんなを娶らされることにより、島津氏は、公家源氏の村上源氏のように、藤原氏の流れとなってしまったのです。」
「その秦氏と島津氏が同族である証拠でもあるのですか。」
「「朝野新聞」によりますと、秦氏末裔の弾家と島津氏との関係を述べた記事があります。

華族中の大家として聞こえたる島津家は秦人帰化の後なりと云ふこと世人の知る所となるが、弾左の家系果して前に記せし如く秦人帰化の後ならんには弾左と島津家とは偶々その祖を同ふするものといふべきか。況して弾左の紋所は轡にて替文また五三の桐を用ふると云へば、或は多少の縁故もありしならんか。

とあるように、家紋が同じだとするのです。」
「家紋は、平安時代に貴族の一部が、自家牛車のマークとして使用していましたよね。」
「平安末期の源義経も、笹竜胆の家紋を使用していましたが、武家一般に使用されるのは、鎌倉時代以降からです。」
「島津家の家紋は、○に十の字ですよね。」
「弾家も○に十の字です。」
「家紋は、その祖の歴史をシンボルとしているわけですよね。轡紋は、馬と関係があるのですか。島津家も弾家も、その轡紋で何を表わしているのですか。」
「家紋関連の書籍には、島津家の家紋の意味を色々と述べていますが、そのひとつに、キリスト教の十字説があります。しかし、島津家の家紋は、鎌倉時代からです。ザビエルが、島津家が支配する鹿児島に渡来したのが、1549年ですので、それを根拠にキリスト教の十字説を否定しています。カメさんはキリスト教に詳しかったですね。」
「詳しいという程でもないです。」
「島津家の初期の家紋は、十字だけです。十字の家紋は、騎馬民族末裔の甲斐武田軍団も使用しているのです。」
「武田家紋は、割菱ですよね。どこに十字があるのですか。」
「絵には、地と図があります。地とは、バックの背景のことです。図とは、絵柄のことです。割菱の地と図を替えてみると、そこに、クロスの線が現れます。そのクロスを図とすれば、十字となります。」
「そう言われれば、騎馬軍団の武田家紋の割菱には、十字がありますね。十字は、キリスト教のシンボルでないのならば、何を意味しているのですか。」
「以前、レポートで述べたように、太陽神を祀るミトラ教は、その太陽のシンボルとして、マルタクロスを用いていたのです。しかし、392年ローマ帝国で、軍神として崇拝されていたミトラ教は、「ヨシュアはメシア」と唱える教団に乗っ取られたのです。ローマ帝国のエウゲニウスは、その「ヨシュアはメシア」をギリシャ語に替え「イエス・キリスト」とし、ローマ帝国の国教としたのです。」
「すると、ナベさんは、轡紋の十字は、ミトラ教の太陽神のシンボルマークのマルタクロスだというのですか。」
「現在では、その説をとっています。父と子と精霊の三位一体、そして、十字架やクリスマスの日や種無しパンと葡萄酒の儀式など、キリスト教の教義や儀式の多くは、太陽神を祀るミトラ教のものです。」
「ミトラ教の神は、漢字の「花」に借字して、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の花郎騎士団が崇拝していたのですよね。その古代新羅から日本列島に渡来したのが「秦氏」ですよね。」
「そうです。」
「その秦氏末裔が、賎民の頭である弾左衛門と、華族の中枢である島津家であるわけですね。だから、両家とも、轡紋を家紋としているわけですか。」
「そのように考えています。」
「では、その両家が別の道を歩んだ訳は、何によるのですか。」
「鎌倉時代に、秦氏末裔の惟宗氏は、亡命百済貴族の流れにある桓武平氏の北条氏の婿殿源頼朝より、藤原氏の荘園である島津荘を賜ったように、秦氏末裔の弾家も、源頼朝より書状を賜っていたのです。それが、頼朝公の御朱印です。」
「何ですか。その頼朝公の御朱印って。」
「免許書のようなものです。弾家が、鎌倉長吏として支配できる職種を述べたものです。」
「どんな職種があるのですか。」
「長吏、座頭、舞々、猿楽、陰陽師、壁塗、鋳物師、辻目盲、非人、猿引、鉢たたき、弦差、石切、土器師、放下、笠縫、渡守、山守、青屋、坪立、筆結、墨師、関守、鐘打、獅子舞、箕作、傀儡師、傾城屋、などです。」
「鎌倉時代の弾家は、色々な職種を支配していたのですね。」
「そうですね。しかし、その書状に、湯屋風呂屋とあることにより、その信憑性が疑われているのです。」
「湯屋風呂屋の何が疑われているのですか。」
「以前、西国と東国の歴史文化が異なっていたと述べましたよね。西国では、お湯につかる湯ではなく、蒸し風呂が用いられていたのです。鎌倉時代、西国の文化である蒸し風呂は、東国の一般庶民のものではなかったのです。東国で、お湯につかる「湯屋」が「風呂屋」となるのは、第三百済王朝の第三代将軍徳川家光の江戸時代以降からです。」
「すると、その書状は偽書なのですか。」
「それは分かりません。鎌倉時代の史料の多くは、鎌倉時代の正史と云われる「吾妻鏡」のように、室町時代以降に改竄されているからです。しかし、その職種から、秦氏末裔の弾家が、古墳時代から続いていたことか示唆されるのです。」
「それって、どう言うことですか。」
「鋳物師、石切、土器師は、古墳時代からの技術だからです。これらの技術は、古墳時代に、日本列島に持ち込まれたのです。しかし、その古墳時代の歴史を抹殺するために、古墳時代末期に渡来した藤原不比等は、「日本書記」で「飛鳥時代」を捏造して、騎馬民族の古墳時代の歴史を、仏教文化黎明期の飛鳥時代としたのです。」
「それって、史観の飛躍しすぎではありませんか。その仏教文化の飛鳥時代はなかったとする根拠は、何ですか。」
「説明が長くなると思います。理解不能の時は、質問してください。」
「はい、分かりました。」
「さいたま県のさきたま古墳群にある稲荷山古墳から、馬具と供に、鉄器製作工具が出土しているのです。このことは、鉄器の輸送手段として、馬が利用されていたことを示唆されます。しかし、重量物である鉄器は、馬だけで運搬されていたわけではないのです。現在では、さきたま古墳群は、陸地の真ん中に存在していますが、古墳時代の稲荷山古墳の位置は、荒川と利根川の大川とに挟まれた洲であったのです。」
「利根川は、騎馬民族末裔の徳川家康が移住する江戸時代以前に、秦氏末裔により、京都盆地の中央を流れていた加茂川を東に流れる高野川に合流させたように、川筋を江戸湾から太平洋に変えられていたのですよね。」
「そうです。古墳や遺跡を調べる時、現在の地形を基にすることは、大変危険なことです。その鉄器の輸送ルートは、古墳初期、中期、後期により異なっていたのです。古墳時代初期、鉄器の材料は、朝鮮半島南部から日本列島にもたらされていたのです。」
「古墳時代初期って、4世紀からですよね。」
「そうです。4世紀頃、日本列島では、鉄資源の開発がなされていなかったので、その鉄素材は、朝鮮半島南部から船舶で輸送されていたのです。その船舶による鉄資源の輸送を補完したのが、馬です。古墳時代初期、馬具の出土分布をみると、東山道や東海道に集中域が形成されていることは、馬が陸地輸送の手段として利用されていたことが示唆されます。更に、船が着岸できる国際港である津や浦などの港湾施設の近くの古墳からも、馬具が多く出土していることは、荷揚げの為に、馬が利用されていたことが示唆されます。」
「日本列島に最初に馬が持ち込まれたのは、重い物品の輸送のためだったのですね。」
「古墳時代初期の出土品には、実用品の馬具が多くあるのは、戦闘用ではなく、輸送用としてしたことが示唆されます。しかし、古墳時代中期になると、その馬具の多くは、実戦用となるのは、馬は、輸送のためだけではなく、戦闘用に使用されたことが示唆されます。」
「古墳時代中期とは、5世紀頃ですよね。5世紀の日本列島は、藤原日本史では、南朝の宋に朝貢していた、倭の五王の時代ですよね。」
「藤原日本史では、倭人を、日本列島の住民だけと述べているようですが、倭人は、日本列島だけではなく、朝鮮半島や中国内陸にも居住していたのです。ですから、倭の五王と言っても、畿内の原住人とは断言できないのです。その古墳時代中期になると、朝鮮半島南部から鉄ていや鋳造鉄斧が大規模に流入し始めるのです。」
「鉄ていとは、何ですか。」
「鉄ていとは、肘骨の形をした鉄板です。その鉄ていは、4世紀中頃、古代新羅や伽耶などの朝鮮半島南部地域に出現したのです。そして、6世紀中頃まで朝鮮半島や日本列島で流通したのです。その鉄ていや斧状鉄板は、5世紀中期まで、朝鮮半島南部と日本列島では、同一の発達を遂げていたことは、朝鮮半島と日本列島には同一の流通ルートがあったことが示唆されます。」
「6世紀中期とは、藤原日本史では、527年筑紫国造磐井の反乱、552年仏教伝来と述べている頃ですよね。古墳の出土品によれば、古代新羅との関係が示唆されていますが、藤原日本史の「日本書記」では、古代新羅より、百済の記事が多くありますよね。」
「鉄の国際交易体制が大きく変化し、「鉄てい」などが大量に流通し始めた時期と、「馬」が大量に日本列島に導入された時期とは一致するのです。」
「でも、飛鳥時代、藤原日本史では、金ぴかに飾った馬は、権威を表象する財として、列島の支配者(大和朝廷?)の配下となった地方有力者に賜った「威信財」だと説明していますよね。古墳から多く出土する馬や馬具からすると、馬は威信財ではなく、陸路運送の実用品(?)ですよね。」
「その馬威信財説を覆すために発表されたのが、「騎馬民族日本征服説」です。しかし、その説が発表された太平洋戦争敗戦後の時期には、未だ、さきたま古墳群の発掘がおこなわれていなかったため、学界では否定的に受止められてしまったのです。鉄ていなどの鉄素材や馬具の出土は、北九州よりも、畿内に多くあったからです。」
「「騎馬民族日本征服説」は、朝鮮半島南下から北九州に上陸して、畿内大和を目指した、とするからですね。その北九州には、その痕跡がない、とするのですね。」
「そうです。しかし、馬具の出土する古墳は、長野県、静岡県などの中部東海地方に著しく分布しているのです。そして、群馬県高崎市の積石塚系の剣崎長瀞西古墳群からは、5世紀の朝鮮半島南部に類例が多い、鉄製の轡を装着したままの馬遺体が出土しているのです。更に、その出土品には、朝鮮半島南部製とみられる金製の垂飾付耳飾や韓式系土器があるのです。5世紀、朝鮮半島南部は、古代新羅の支配地だったところです。」
「藤原日本史によれば、朝鮮半島から渡来した秦氏は、絹織物の技術者で、肌になめらかな絹製品を織るから「はた」氏となった、などと説明していますよね。ナベさんの説では、古代新羅からの渡来者は、鉄素材の流通業者の国際交易商人のイメージですよね。でも、何故、4世紀の日本列島に国際交易商人として馬を導入したのに、5世紀の日本列島には、戦闘集団の馬が導入されたのですか。」
「ひとつの考えとして、渡来した異民族集団との、日本列島から産出する国際交易品をめぐっての戦闘が、5世紀からあったからだと考えています。東アジアでは、五胡十六国の戦乱時代から、南朝の宋と北朝の北魏が興った頃です。」
「藤原日本史では、日本列島には資源がないように記述していますが、渡来人は、日本列島の何を求めていたのですか。」
「日本列島に資源がない、などというのは「ウソ」です。縄文時代には、糸魚川沿いの谷間からは翡翠が産出し、中国皇帝の魔除けとされていたのです。更に、岩手県久慈では、琥珀が産出され、バルト海沿岸との国際交易ルートが開発されていたのです。弥生時代の1世紀となると、ローマ帝国が中国南方の絹を金と同価として求めたため、国家が存在していなかった日本列島には、絹生産地として進駐軍が渡来していたのです。中国南部から持ち込まれた繭(ポンピックス・モリ種)は、日本列島の風土に慣れ、日本列島は徐々に絹生産地となっていたのです。紀元一世紀、弥生時代の日本列島では、桑畑開墾のため、鉄器が求められていたのです。藤原日本史では、弥生時代の水田稲作伝来の歴史のなかに、桑畑の開墾の歴史が隠蔽されていたのです。」
「そこに鉄器交易商人として現れたのが、鉄器製作民族ですね。」
「そうです。4世紀の日本列島各地の集団にとって、もっとも重要な物資は、絹製品生産のための耕作に必要な鉄器と鉄素材であったのです。弥生時代から古墳時代にかけて、日本列島には鉄素材を供給できないため、朝鮮半島南部から供給を受けていたのです。そのため、日本列島の各地の津や浦の港湾施設から内陸の大川へ、そして、その大川の浦から更に内陸に輸送するために、馬による鉄物資流通のネットワークが形成されて行くのです。」
「その鉄物資流通のネットワークは、どのようにして広域に広がっていったのですか。」
「その広がり方は、古墳の形態から推測できます。古墳には、大きく分けて、円墳と方墳があります。世界共通の思想では、天は円で、地は方です。つまり、天は丸く、地は四角です。その古墳時代初期の形態は、その原初的物流ネットワークに沿って、前方後円墳型と四隅突出型の古墳が築かれていたのです。異なる型の古墳は、異なる埋葬思想をもった民族がその地に居住していたからです。その二つのルートとは、ひとつは、前方後円墳型の瀬戸内海ルートとして、北九州(秦王国を豊国と改竄)→吉備(秦王国を鬼が島と改竄)→畿内(山背国の秦王国)→東海(鎌倉時代の弾家の秦王国)→関東(浅草弾左衛門の秦王国)、そして、もうひとつは、前方後方墳型の日本海ルートとして、出雲(ズーズー弁言語国)→丹後→越前→諏訪→関東→東北(ズーズー弁言語国)です。」
「何故、二つのルートが存在したのですか。その根拠は何ですか。」
「古墳時代初期、日本列島には二つのグループが存在していたことは、古墳の形態で分かります。それが、「前方後方墳」と「前方後円墳」です。「前方後方墳」の築造は、四角の地を崇める民族同士の連合を意味します。「前方後円墳」の築造は、地と天を崇める異なった思想をもった民族の合意のもとでおこなわれたのです。この二つの異なる形態の古墳を築造していた民族は、武力が拮抗していた時期は、集団間の不可侵の社会システムが機能していましたが、武力の拮抗が崩れると、優が劣を飲み込むことになるのです。」
「古墳築造の流れからすると、前方後円墳側が、前方後方墳側を吸収したのですね。何故ですか。」
「前方後円墳側が、前方後方墳側より、武力に勝ったのは、畿内をそのルートに含んでいたからです。」
「畿内には、何があったのですか。」
「それは、奈良県三輪山奥の宇陀から産出する朱砂です。水銀の原料です。」
「朱砂って水銀化合物ですよね。何に使うのですか。」
「水銀は、道教などの宗教家は不死長生の仙薬として、そして、金銅仏像製作者はアマルガム法の金メッキの材料としていたのです。」
「その水銀素材の朱砂が、奈良の宇陀から産出されるわけですね。」
「そうです。藤原日本列島史の謎を解くには、その宇陀の朱砂と、日本列島で産出される絹の歴史を知ることです。」
「古代新羅から渡来した民族・秦氏は、馬を陸上輸送の手段として、日本列島を支配する各地の異民族と鉄器・鉄器素材を友好的に交易する目論みとして、日本列島各地に前方後円墳を築いていたのですね。その前方後円墳を築く技術が、鉄器製造の鋳物師、石室を造る石切、そして、その古墳を飾る土器師ですね。」
「源頼朝から鎌倉長吏に与えられた御朱印に、関守、山守、川守とあることから、鎌倉時代初期の東国の物流ネットワークは、秦氏末裔が支配していたことが示唆されます。」
「ナベさんのレポートには、古墳時代、幅12m超の古代高速道路が、日本列島に張り巡らされていた、とありましたよね。その古代高速道路では、絹増産を目的に桑畑開墾のための鉄物資などを積んだ馬が、疾走していたのですね。その鉄物資交易の為に、岩手県以南から九州にかけて相似形の前方後円墳が築かれていたのですね。でも、ちょっと気になることがあります。それは、6世紀前半頃の奈良盆地では、突然、前方後円墳が築かれなくなり、替わりに、方墳が築かれたことを、どのように説明付けるのですか。」
「6世紀前半の奈良盆地に前方後円墳が築かれなくなった時期を、藤原日本史では、継体天皇の出現時期とするのです。その突然歴史上に現れた継体天皇には、多くの謎があるのです。」
「「古事記」と「日本書記」とでは、その継体天皇の出自が異なっていることですか。」
「それも、そのひとつです。その謎は、北陸から出兵して、20数年間も「大和侵攻」を、何故行わなかったのか、ということです。」
「北陸は、出雲からの前方後方墳型の交易ルートですよね。前から疑問に思っていたことは、何故、出雲の日常言語が、東北のズーズー弁なのかということです。それは、先ほどのナベさんの説で理解できました。出雲と東北とは、古代交易ルートでつながっていたのですね。」
「出雲は、ユーーラシア大陸の東岸である沿海州沖から、南下するリマン海流を利用した、日本列島への最初の上陸地であったのです。南下するリマン海流は、朝鮮半島付け根で解消し、その朝鮮半島南部から、更に南下すると、北上する対馬海流に乗れるのです。更に、対馬海流に乗り北上すると、出雲、丹後、若狭、越前(北陸)に到達するのです。それらの日本海沿岸の地には、方墳が多く築かれていたのです。」
「大陸からの交易は、朝鮮半島から九州→瀬戸内海だけだと思っていましたが、何故、出雲ルートと北九州ルートがあったのですか。」
「それは、東アジアの歴史を調べれは分かります。東アジアでは、南方の農耕民族と北方の騎馬民族との戦いが、紀元前からおこなわれていたからです。」
「すると、出雲ルートは騎馬民族の交易ルートで、九州ルートは農耕民族の交易ルートというわけですか。」
「基本的には、そのように考えています。九州交易ルートは、東アジアの南方諸国との関係が深く、出雲交易ルートはユーラシア大陸諸国との関係が深かった、と考えています。」
「すると、6世紀前半の奈良盆地で、前方後円墳の築造が突然中止となり、方墳に替わったということは、出雲交易ルートの民族の出現と考えることが出来ますね。」
「前方後円墳は、地と天を崇める民族の象徴です。一方、方墳は、地を崇める民族の象徴です。騎馬民族の王は、テングリ(天子)と呼ばれ、天帝である北極星から、地上の支配権を与えられた(命)ものです。ですから、人民を支配することに失敗すると、天帝から改命されるのです。これが、地上の支配が交代する、つまり、「革命」ということです。」
「すると、6世紀前半の奈良盆地を支配した民族は、前方後円墳を象徴とする民族を、奈良盆地から駆逐したわけですね。」
「騎馬民族は、農耕民族出自の歴史家により、常に騎馬による武力で農耕民族の物品を強奪するように描かれていますが、実際の騎馬民族は、モンゴル帝国軍と同じように、武装威圧により敵国を懐柔し、取り込む戦術を多くおこなっていたのです。平時は、国際交易民族として暮らしていたのです。」
「すると、もし、継体天皇が騎馬民族だとすると、奈良盆地周辺を20年近くも流離っていたのは、奈良盆地と交易をおこなっていたのですか。」
「6世紀の奈良盆地は、生駒山と葛城山との間を流れる大和川が、何年かの間隔でおきる山の滑落で埋まり、奈良盆地を湖にしていたので、奈良盆地の中心地には恒常的な建築物が存在していなかったのです。ですから、大陸からの国際交易商人は、三輪山麓を通る山辺の小道を、水銀素材である朱砂交易路として利用していたのです。その奈良盆地の湿地帯を、住宅地や農耕地に改良するために、秦氏末裔により、運河や巨大前方後円墳が築かれていたのです。」
「すると、継体天皇は、巨大前方後円墳により、湿地帯を改良できるまで、待っていたわけですか。」
「それは分かりません。しかし、継体天皇が武力だけで奈良盆地を支配していなかったことは、奈良盆地の外では、依然として、前方後円墳が築かれていたからです。」
「なんだか、ややこしいですね。でも、ナベさんの説では、天皇は、672年即位の新羅系天武天皇からですよね。6世紀の日本列島には、天皇など存在していなかったのですよね。だとすると、藤原日本史で述べる継体天皇とは、何者ですか。」
「「日本書記」は、720年藤原不比等が、713年地方の郡司から集めた史料を基に、創作した歴史物語です。その歴史物語の「日本書記」に登場する継体天皇の事績は、郡司からの史料を基に創作されたわけですから、継体天皇の事績には、古墳時代の歴史が反映されていると考えることが出来ます。」
「そのヒントが、継体天皇が出立した北陸ですね。」
「古墳時代の北陸は、ユーラシア大陸と繋がっています。継体天皇が現れた時期の東アジアでは、北朝の騎馬民族の北魏が、騎馬民族鮮卑を倒した柔然により攻撃を受けて衰退の一歩手前の状態です。535年北魏は東西に分裂します。その柔然も、チュルク系高車人により衰退し、552年チュルク系突厥帝国が興るのです。」
「ナベさん、鮮卑とか、柔然とか、高車とか、突厥とか、民族の名前が覚えにくいのですが。」
「カメさんも、そのように思いますか。私も同感です。その騎馬民族の名前が覚えにくいのは、そして、騎馬民族の歴史にメリハリがないのは、騎馬民族は基本的には、「歴史書」を持たないからです。その騎馬民族の歴史は、農耕民族の歴史家の史料を基に復元されているので、スッキリした物語にならないのです。それに、騎馬民族は、農耕民族に比べて、離合集散が著しいのは、テングリ(天子)は、天帝により地上権を命じられているにすぎないため、テングリ(天子)の統治能力が衰えると武力抗争が多発するからです。」
「それでは、騎馬民族による騎馬民族の歴史を知ることが出来ないわけですね。ナベさんは、レポートで、6世紀半ばに日本の歴史上に突然登場した、藤原日本史で述べる蘇我稲目とは、ユーラシア大陸の騎馬民族の突厥進駐軍の将軍だとしていますよね。その蘇我稲目の子が崇仏派の蘇我馬子で、587年廃仏派の物部守屋を滅ぼしたことになっていますよね。では、その突厥の将軍とは、何者ですか。何を目的に、古墳時代の日本列島に渡来したのですか。」
「突厥とは、チュルク(トルコ)の漢訳語です。この突厥帝国は、東ローマ帝国と馬絹交易をおこなっていたのです。東ローマ帝国には、ユーラシア大陸の草原馬に比べて、人工種付けにより馬体の優れたアラブ種が存在していたのです。突厥帝国は、そのアラブ種の馬を手に入れるため、絹を求めて、日本列島に侵攻したのです。その交易ルートは、出雲ルートです。」
「ナベさん、その説明にはついていけません。突厥民族が、古墳時代の日本列島に渡来したという根拠は、何ですか。」
「それは、国際交易で使用する「ことば」です。カメさん、日本語の文法をご存知ですよね。主語+目的語+述語です。もし、古代日本列島の住民が、東アジア南方系諸国との交易だけをおこなっていたとすれば、それは、東アジア南方諸国を支配していた中国語の文法である、主語+述語+目的語となるはずです。」
「そうなると思いますが。でも、日本語の「ことば」には、ポリネシア語、タミル語、アイヌ語、朝鮮半島語(高句麗・百済・新羅)、唐語などがありますが。」
「カメさん、日本語の単語には、多くの他国語が存在しますが、日本語の文法は、ウラル語なのです。日本語の文法が、北方騎馬民族のウラル語文法であるのは、何故だと思いますか。」
「そのウラル語を話す民族が、絹を求める国際交易の為に、日本列島に渡来したからですか。」
「古墳時代の騎馬民族の文化は、藤原不比等が創作した「日本書記」の「仏教文化の飛鳥時代」により抹殺されていたのです。それと同様に、鎌倉時代の東国の騎馬民族の文化は、桓武平氏の北条氏が創作した「吾妻鏡」の「武家文化の鎌倉時代」により抹殺されていたのです。」
「ナベさんの歴史観と、学校で教わった歴史とには、相当の断絶がありますね。オレでさえも、ナベさんの史観にはついていけないところがあります。ましてや、一般の人には、ナベさん説は受け入れられないと思いますが。」
「物の見方により、丸が四角に見えたり、四角が丸に見えたりするものです。私の説が、藤原日本史と異なることは、見る角度が、世間と異なるからです。私は、敗者の立場から日本列島史を見ているのです。特に、藤原日本史が隠蔽している歴史には、特に注意して見ています。「仏教文化の飛鳥時代はなかった。」、との根拠のひとつとして、現在の奈良盆地の地名には、「明日香」はあっても、「飛鳥」はありません。何故だと思います。」
「飛鳥時代はなかったからですか。」
「奈良時代に中臣神道を発明した藤原氏により、長い間支配されていた奈良盆地の先住民は、本当のことが言えなくなっていたのです。興福寺を拠点に奈良盆地を侵略した藤原氏に抹殺されないための手段として、先住民は奈良盆地独自の物言いを発明したのです。それが、「○○でおま、」、で話を一瞬停めることです。そして、その一瞬のうちに、相手の顔色を伺い、「す。」にするか、「せん。」にするかを判断したのです。その「奈良盆地の本当の歴史を語れない」先住民末裔が選んだ地名が、「飛鳥」ではなく、「明日香」である意味を考えてください。」
「そう言われれば、現在の地名は、「飛鳥」ではなく、「明日香」ですね。すると、藤原日本史で述べる、「武家文化の鎌倉時代」も「ウソ」ですか。」
「カメさんが知りたがっている、鎌倉時代に発生したとする漂泊する貧乏な賎民という物語、そして、その賎民のこころを救済したとする鎌倉新仏教の布教物語も、疑う必要があります。」
「それって、どういうことですか。」
「室町時代以前では、西国と東国とでは、文化も言語も異なっていたからです。賎民の発生は、日本列島全国ではなかったのです。北海道と沖縄とには、現在に伝わる賎民思想は存在していなかったのです。」
「その原因は、何ですか。」
「その北海道と沖縄とには、歴史的に、漢訳仏教寺や禅寺がほとんど存在していなかったのです。」
「すると、鎌倉時代初期の東国には、真言宗や天台宗は勿論、禅宗の寺もほとんど存在していなかったから、賎民もいなかったわけですか。」
「騎馬民族は、本来、夏営地と冬営地を移動して暮らしていたのです。ですから、炊事のためには、定住を基にした「カマド」ではなく、テントの頂点から紐で吊るす取っ手付鍋による「イロリ」であったのです。西国では、農耕民族が多く暮らしていたため炊事道具は「カマド」で、それに対して、東国では、騎馬民族が多く暮らしていたため炊事道具は「イロリ」であったのです。「漂泊=貧乏」ではないのです。漂泊民は、土地からの収穫により生計を立てていたのではなく、交易により生計を立てていたのです。そのため、移動に便利なために、標準交換物としての「貨幣」を発明していたのです。平安時代、西国では、騎馬民族が経済活動に使用した貨幣を蔑視していたため、米を貨幣代わりにしていたのです。しかし、東国では貨幣が流通していただけではなく、信用取引の「為替」も利用されていたのです。貨幣や為替は、ユーラシア大陸の広域で国際交易をおこなっていた騎馬民族が、経済活動において発明したものです。」
「平安時代末期から鎌倉時代初期にかけた時代では、東アジアでは、漢民族が興した宋が、騎馬民族の契丹に、金と絹を貢ぐために、日本列島に宋銭を多量に持ち込まれていたのですよね。その宋銭により、アラブ系海洋民族末裔の「平家」が、日本列島の三分の一を知行国として支配したのですよね。」
「絹や金は、宋が契丹に貢ぐために求められたため、その対価としての宋銭が、日本列島の西国ではなく、東国に多く貯えられていたのです。つまり、西国の米経済に対する、東国の貨幣経済です。物流の手段も、西国と東国とでは異なっていたのです。」
「物流の手段は、古墳時代から、海外(船舶)→津→河路(河船)→浦→陸路(馬)ではなかったのですか。」
「それが、平安時代、亡命百済貴族が支配する京都では、輸送手段が、古墳時代の北方系生息の馬から、南方系生息の牛に替わるのです。それが、ひとを乗せる牛車(ぎつしや)と荷を運ぶ牛車(ぎゅうしゃ)です。それに伴い、古墳時代に築かれた幅12m超の古代高速道路は、幅6mに改造されてしまうのです。その古代高速道路は、田中角栄首相が唱えた日本列島改造論での高速道路網の建設で、再び現れたのですが、経済優先のため、発掘調査もなく、現在の高速道路建設により破壊されていたのです。古代の高速道路網は、現在の高速道路網と重なることは、古代も現代も、その道路敷設地域が建設地として最適であったからです。」
「西国では、牛車ですか。すると、東国では、馬車ですか。」
「それが、東国では、馬車ではなかったのです。馬に直接荷を乗せて運送していたのです。」
「馬借ですか。」
「その牛車(ぎつしや)の西国も、中世となると、武士が乗馬するようになるのです。」
「中世に、何か変化があったのですか。」
「日本列島の中世は、平安時代末期から始まります。その中世では、宋銭が巷に溢れていたのです。そして、中世に、牛車の西国で、乗馬が始まったのは、漢訳仏教文化の西国での騎馬民族の台頭が考えられます。」
「そういえば、オレ、京都の御所の大内裏が畑に変貌する幻視を見ました。そこは元、前方後円墳が築かれていました。中世に、京都が荒廃していたことと、騎馬が、牛車の西国で再興したこととには、何か関係があったのですか。」
「一般的な京都のイメージとして、平安時代から今日までの千数百年間、御所を中心として、仏寺に囲まれた空間を思い浮かべるようですが、中世の京都は、長安と呼ばれていた右京区は畑になっていたのです。」
「一寸待ってください。何故、右京区が「長安」なのですか。長安は、唐帝国の京兆府のことですよね。」
「では、カメさんに質問します。何故、京に上ることを「上洛」というのですか。」
「分かりません。」
「それは、右京区の長安に対して、左京区を洛陽と言っていたからです。」
「何故、平安京に、唐帝国の都の名前を付けていたのですか。」
「それは、新羅系天武天皇の血筋を抹殺した、百済系桓武天皇は、唐帝国の即位儀式をおこなっていたことで理解できると思います。その右京区と左京区の北辺中央にあった大内裏は、鎌倉時代には跡形もなく、畑に変貌していたのです。カメさんの幻視は、空想ではなく、史実です。」
「すると、中世の天皇や貴族は、大内裏が壊滅していたのならば、何処で暮らしていたのですか。」
「中世とは、平安時代中期まで機能していた律令制度が崩壊した結果の世界です。天皇や貴族は、奈良時代に唐帝国の異民族統治戦術である律令制度により、日本列島西国の先住民を農耕奴隷として、祖庸調の税を納めさせることにより、贅沢な暮らしをおこなっていたのです。日本列島の西国を間接支配していた、その唐帝国が、907年に滅ぶと、唐帝国のエージェントであった藤原氏が、反藤原氏の醍醐源氏を謀略により廟堂から追い落とすことにより、廟堂を独占するわけです。その頂点に、1017年太政大臣となった藤原道長が登場するわけです。」
「その藤原氏が、出自不詳の満仲なる中年男を、藤原氏の私兵として、前九年の役や後三年の役により、陸奥国や出羽国のエミシ末裔の安倍氏や清原氏を懐柔するわけですね。その満仲が、武家源氏とする「清和源氏」の祖となるわけですね。」
「そうです。その藤原氏の「清和源氏」の私兵の暴走を苦々しく思っていたのが、藤原氏と距離を置いていた後三条天皇です。」
「白河天皇の父ですね。」
「そうです。その白河天皇の住まいは、洛中ではなく、洛外であったのです。洛中・洛外とは、洛陽(左京区)の中・外の意味です。」
「洛外って、加茂川東岸のケガレ地ですよね。」
「カメさん、ケガレの意味は、二つあるのを知っていますよね。」
「確か、平安時代までは、王権に逆らうことですよね。鎌倉時代になると、汚いというイメージに変化するわけですよね。因みに、ケガレに対するキヨメは、王権に逆らう者を粛清する意味が、汚物を処理するイメージに変換するわけですよね。」
「白河天皇が洛外に居住していた中世、内裏も大内裏も荒廃した京都では、皇居も公家や武家の屋敷も、不安定に移転を繰り返していたのです。」
「律令制度が崩壊した中世、生活資金を得る手段を持たない天皇や貴族は、生活苦となっていたのですか。歴史本では、中世には貧民の遊行する芸能民の発生と述べていますが、天皇も貴族も生活苦であったのですか。」
「カメさん、一寸待ってください。遊行する芸能民が、貧民であったとする史料は、すべて藤原氏の「日記類」や漢訳仏教僧や禅宗僧の書き記した文章です。遊行するから貧民であるとする根拠はないのです。農耕民族は、土地が資本ですから、遊行=生活手段ナシ、となるわけです。しかし、騎馬民族は、交易民族でもあるわけですから、土地を所有しなくても、生活手段はあるのです。」
「すると、ナベさんは、遊行する芸能民は、騎馬民族末裔と考えているのですか。」
「中世の歴史本を読んでいると、中世寺社の奴隷のように描写する「犬神人」というのが登場するのです。しかし、その犬神人の実態は、武装した警備員のようなのです。その中世の寺社から、石垣普請、庭園築造、弓矢製作、鉄砲生産、築城などの軍需産業が興るのです。カメさん、これってどのように説明します。」
「そういえば、賎民とされる能の創始者である観阿弥・世阿弥は興福寺から、そして、生け花は、延暦寺末寺の池坊六角堂から始まったとされていますよね。興福寺は藤原氏の、そして、延暦寺は亡命百済貴族の寺ですよね。興福寺や延暦寺は、秦氏末裔や突厥民族末裔を「異民族」として民族差別をしていますよね。中世の寺社世界では、何かあったのですか。」
「中世以前の寺社は、国家鎮護を唱えるため朝廷からの資金援助が得られていたのですが、律令制度が崩壊した中世では、寺社は独自でシノギをしなければならなかったのです。古代に創建された東大寺、興福寺、延暦寺、高野山などは、中世になるとその内容が変質していたのです。寺社には、別当、学侶、衆徒と呼ばれる貴族・武家身分出身の僧侶がいたのですが、それらの者には生活力が乏しかったのです。騎馬民族と異なり、銭をケガレ物として認識していたからです。でも、その寺社の空間は、商業民族にはとっておきの場であったのです。それは、治外法権の場だからです。つまり、王権の警察権が及ばないからです。」
「その治外法権の場である寺社に、商業民族が入り込んだのが、中世ですか。その寺社を武装警備するのが、犬神人ですか。」
「犬神人と呼ばれていたから、平民から賎民として差別されていたとは言えないのです。それは、11世紀から13世紀までは、神人は、神人交名が作られ定員が定められていたのです。平民が、賄賂を贈って神人の身分を買っていたことから、神人は蔑視される存在ではなかったのです。それが、第二百済王朝の北条鎌倉時代以降、神人は賎民に貶められて行くのです。」
「鎌倉時代に、何かあったのですか。」
「鎌倉時代にも多くの謎があるのです。その謎を解くヒントとして、1180年から1266年までを記した「吾妻鏡」があるのです。その北条鎌倉幕府の正史とされる「吾妻鏡」には、京都最大の祭りである「祇園会」の記事が片言隻句もないのです。」
「祇園会って、祇園祭りのことですよね。確か、八坂神社ですよね。」
「神社(じんじゃ)の呼称は、明治時代からです。それ以前は、神社と書いて、「もり」とよんでいたのです。その八坂神社は、江戸時代までは感神院祇園社と呼ばれていたのです。そして、江戸時代までは、祇園会は、神主ではなく、僧侶が神事をおこなっていたのです。」
「伊勢神宮の境内には、無数の仏寺が、江戸時代まであったのですよね。」
「そうです。文化とは、すべて祭祀文化であり、王権が替わるとその祭祀儀式も替わるのです。「吾妻鏡」が、京都の祇園会の記事を無視したのは、その洛外の王権の存在を知られたくなかったからと考えています。」
「何です。その洛外の王権とは。」
「祇園会は、11世紀の加茂川東岸の河原から始まったとされています。その地は、死体が流れ着くことにより、「ドクロが原」と呼ばれていた地です。そのドクロが原が、鎌倉時代に「六波羅」と変名されるのですが、王権側からはケガレ地であったのです。」
「河原者とは、反王権側のひとですよね。」
「そうです。その祇園会は、王権側にとっては遺棄すべき祭りであったのです。その根拠として、その祇園会の日に限って、神輿方違(たがえ)といって、天皇や貴族は一時京都から避難していたのです。」
「歴史本では、祇園会は疫病除けの祭りと説明していますが。」
「疫病除け祭りだとしたら、京都に住む天皇や貴族が、その祭りの日に、京都から避難する必然性はないはずです。」
「では、その祭りの本質は何ですか。」
「それは、怨霊の魂鎮めの祭りだったのです。怨霊の祟りとは、政治的敗者が、仇敵個人だけではなく、その仇敵を含む社会に向けられ、その結果として、疫病を流行させると考えられていたのです。」
「何の怨霊ですか。」
「それは、京都御所の大内裏の下に封印されている先住民の神です。」
「先住民の神とは、何ですか。」
「秦氏の神です。大内裏は、巨大前方後円墳を破壊した跡に建設されていたのです。」
「藤原日本史では、秦氏が、桓武天皇の平安遷都のために、その地を寄進したと述べていますが。」
「史実は、秦氏の支配地である山背国を、唐帝国の武力をバックに、百済系桓武天皇が奪い取ったのです。その史実を隠蔽する物語が、聖徳太子の忠臣とする秦河勝の仏寺建立の物語です。秦河勝が、聖徳太子の忠臣でないことは、秦河勝の墓が、京都にはないことで理解できると思います。そして、仏像を安置するための広隆寺とは、秦氏の神である太陽神ミトラを祀る、景教寺の蜂岡寺を破壊した跡に建てられたものです。その秦氏の神であるミトラ神は、摩多羅神と貶められてしまうのです。」
「広隆寺といえば、京三大奇祭のひとつである、魔多羅神が登場する「牛祭り」がありますよね。その広隆寺に安置されていたのが、新羅渡来の弥勒菩薩ということになっていますよね。広隆寺の元が、景教の蜂岡寺であるとすると、やはり、亡命百済貴族による、秦氏の神であるミトラ神の歴史上抹殺が推測されますよね。」
「カメさんも、そのように思いますか。」
「だってそうでしょ。ギリシャ・ローマ文化の古代新羅は、高句麗や百済と異なり、仏教が伝来したのが、528年ですよね。藤原日本史によれば、その時代の527年から528年に、北九州では筑紫国造磐井の反乱があったのですよね。広隆寺の元の神が、太陽神を祀る民族の神ミトラであるとすると、牡牛の屠り儀式が考えられますよね。ミトラ教では、牡牛は太陽神の化身ですから。ミトラ神が弥勒菩薩に、牡牛の犠牲儀式が牛祭りに、百済系平安王権により変換されたと考えられませんか。」
「先ほども、文化とはすべて祭祀文化だと言いましたが、王権が替わればその祭祀も変換されてしまうのです。祇園会は、京都だけではなく、鎌倉、奈良、平泉、博多でおこなわれていたのです。その博多の祇園会は、後に、博多ドンタクとなっていたのです。」
「博多ドンタクの元は、怨霊鎮めの祇園会だったのですか。」
「そうです。その祇園会の祭りの特徴のひとつは、山車です。山車は、元は、船を荷車に積んで引き回していたのです。」
「山車の祖が、船ですか。」
「その祇園会が始まった地は、アラブ系海洋民族末裔の平家の知行地と重なるのです。980年宋の商人陳仁夾が、金と絹を求めて日本列島に来着するのです。それは、漢民族国の宋が、騎馬民族国の契丹(遼)に金と絹を貢ことにより、契丹が宋に侵略しない保障としたからです。」
「その交易に乗じて、アラブ系海洋民族が、大挙して日本列島に渡来したわけですね。」
「アラブ系海洋民族は、唐帝国時代から、伊勢湾の真珠を求めて渡来していたのです。宋に、日本列島の金と絹を持ち込むことにより、アラブ系海洋民族は、その見返りとして宋銭を日本列島に持ち込んだのです。この頃の日本列島の西国では、律令制度が崩壊していたので、税により賄われていた国家警察力が壊滅していたため、法律による正義ではなく、「武力が正義」となっていたのです。」
「藤原氏が、天皇の血筋がない「だだの源氏」を私兵として、陸奥の砂金を独占するため、前九年の役や後三年の役を起こしていた頃ですね。」
「そうです。藤原氏の横暴に対して、後三条天皇は、1072年白河天皇に譲位するのです。その白河天皇は、廟堂を独占する藤原氏を排除するために、1073年院の蔵人所を設置するのです。蔵人所は、秘書業務なので、秘密を藤原氏に漏らさないためです。それに対して、1075年関白に就任した藤原師実は、白河天皇に、摂関家代々の別荘だった洛外の地を献上するのです。1086年白河天皇は、その加茂川東岸の地に白河北殿と南殿の院御所を置き、院政を始めたのです。」
「中世の京都では、洛外が政治の中心だったのですね。」
「その院御所の南側には、10世紀半ばまでは、興福寺末社だった感神院祇園社があったのです。それを、戦争と言う手段で、比叡山延暦寺が強奪したのです。その祇園社の領有は、1070年には、東は東山、西は加茂川西岸の堤、南は五条末、北は三条末までだったのです。」
「中世の寺院には、軍団があったのですね。」
「現在の歴史本では、その軍事組織を持った寺社を、寺社勢力と言うそうですが、その軍事組織の構成員は、僧侶ではなく、神人と悪僧です。その神人や悪僧の出自は、平安王朝が健在だった頃、王朝の手先であった国司の悪政と戦った、先住民の流れを汲む郡司や百姓(農耕民ではない)だったのです。」
「悪僧って、悪事を働く悪者の僧侶のことですか。」
「歴史本では、鎌倉時代に発生した悪党を、そのように描写しているものがあるようですが、鎌倉時代の「アク」とは、仏教用語の悪いヤツの意味ではなく、騎馬民族語の「勇者」の意味です。」
「ナベさんのレポートにもありましたね。「悪人正機説」の説明で理解できました。「普通の人でも往生できるのなら、勇者(アク人)ならなおさらだ。」の意味ですよね。」
「そうです。神人は、神社(モリ)の儀式を司る人ではなく、武器を携行して、寺社の警備をおこなっていたのです。」
「警備と言えば、検非違使と神人は関係があったのですか。」
「大いに関係があったと思います。中世では、祇園社に属する鋳物師は、検非違使により、各種の税が赦免とされていたのです。白河上皇が院政を始めた頃、藤原氏は私兵である「ただの源氏」の武力を行使し、更に、寺社勢力も神人や悪僧の武装集団の武力を行使したため、白河上皇の政治が時として機能しなかったのです。そこで、1095年白河上皇は、それらの武装勢力に対抗するために、北面の武士を設置したのです。その北面の武士として採用されたのが、宋貿易で荒稼ぎをして伊勢湾一帯を支配地としていたアラブ系海洋民族です。そのアラブ系武装集団が、後の「平家」となるのです。ですから、「平家」は、「源氏」や「平氏」と異なり、天皇からの賜姓ではないのです。」
「すると、その白河上皇の私兵である「平家」の日本列島各地での台頭と、祇園会の各地開催が一致するわけですね。しかし、変ですね。祇園会の祭神は、確か、牛頭天皇でしたよね。」
「祇園会の始まりは11世紀です。藤原氏の政治独占から離れた白河上皇に対して、1093年藤原氏の氏寺である興福寺の僧侶が、榊に何枚もの鏡を付けた春日の神木を奉じて入洛したのです。それに対して、1095年亡命百済貴族の神を祀る日吉社の神輿による山僧の強訴がおこなわれていたのです。この頃、祇園会は、洛中を興奮の渦に巻き込んだのです。平安王朝に廟堂から排斥されて加茂川東岸のドクロが原に棲息していた、嵯峨源氏や醍醐源氏の流れにある秦氏や突厥民族末裔が復活したのです。それら民族のシンボルが牛頭天皇です。牛頭天皇は、「日本神話」で悪役のスサノウとリンクします。両者とも、古代新羅と関係が深いのです。」
「祇園社の支配者は、比叡山延暦寺ですよね。その延暦寺は、東国への東海道を行き来する大津馬の運送業者を支配していましたよね。」
「シルクロード東限の関東からの絹や陸奥国の砂金は、海路や陸路で京都に搬入されていたのです。京都は、ユーラシア大陸との日本海交易ルートと、中国大陸との瀬戸内海交易ルートの交差点だからです。この物流を支配していたのが、馬で物資を運ぶ延暦寺と、ベカ車で物資を運ぶ興福寺の末社の清水寺です。藤原氏が支配する中世の奈良は、未だ、馬借の騎馬民族末裔が入り込めなかったのです。」
「白河上皇の私兵である「平家」が、その宋銭の財力で洛外の院御所を支配し、それに対しての藤原氏の反撃が、「源平合戦」ですよね。」
「エミシ末裔の奥州藤原氏に雇われた、笹竜胆を部族印とする源義経は、京都を支配していた木曽義仲軍団を壊滅させると、京都警護の検非違使となるのです。」
「ナベさんのレポートでは、藤原日本史と全く異なる「源平合戦」ですよね。そもそも、源義経と源頼朝は、兄弟ではなく、敵同士というのですよね。平家に懐柔された奥州藤原氏に雇われた源義経は、反源氏ですよね。すると、義経は、何故、雇い主の奥州藤原氏の主人格である平家を滅亡させたのですか。」
「木曽義仲を討った源義経は、その後、検非違使として京都を警護していて、北条氏の傀儡源氏軍団と袂を分かっていたのです。検非違使の初めは、816年嵯峨天皇が、藤原氏や亡命百済貴族から政治的に独立するために創設した令外官です。その検非違使の任務は、嵯峨王朝に対抗する者を取り締まる警察業務です。その警察業務の実務を、放免に任せたのです。放免とは、陸奥国のエミシが捕虜として京都に連行された者です。エミシ武人の祖は、古墳時代の明日香ヤマトを支配していた突厥軍団と古代新羅から渡来の花郎騎士団末裔です。嵯峨源氏は、嵯峨天皇が存命中には、廟堂を独占するまでになっていたものが、嵯峨天皇が崩御すると、藤原氏が復活し、嵯峨源氏を廟堂から追い出すのです。その嵯峨源氏のひとり、源綱が母方の地に帰り、その地名を付けて「渡辺綱」を名乗るのです。」
「屋島襲撃のための基地に、源義経が渡辺津を選んだのは、同族の支配地だからですか。」
「源氏の発祥は、嵯峨天皇からではなく、439年華北を統一した北魏の太武帝(元姓)が、部下の禿髪部に「源姓」を賜った時からです。源姓は、日本列島ではなく、ユーラシア大陸での発祥です。日本海ルートから渡来した源義経軍団は、同族の「嵯峨源氏」と同盟を組んで、西国の支配を目論んだのかもしれません。河内一帯を支配していた渡辺党の配下に、北九州の海岸一帯を支配していた海洋軍団の松浦党が連帯して、平家を壊滅したわけです。」
「源義経は、京都の警察権を持った検非違使の長であったのですね。すると、その配下として、嵯峨源氏末裔の渡辺党を抜擢することになるわけですか。」
「そうなると困るのが、藤原氏と亡命百済貴族末裔の天皇家です。そこで、初めは、源頼朝を追補する院宣を源義経に出していたものを、1185年後白河院は、源頼朝を支配する北条時政が強要する守護・地頭設置を認めたのです。これにより、源頼朝は、謀反人から、全国の警察権を握る公的地位に立ったのです。」
「追う者と追われる者の立場が、逆になったのですね。」
「謀反人の取り締まりを行う惣追補使・総地頭となった源頼朝は、源義経逮捕に奔走しましたが、源義経は近畿地方を隠れ歩き、1187年までの約2年間も逃げ延びることが出来たのです。」
「何故ですか。」
「それは、寺社勢力が、源義経を匿っていたからです。寺社勢力とは、その実態が、元郡司や百姓の反王権側のひとであったからです。中世、王権から寺社が分離し、多くの寺社が武力を持ち、治外法権をもって独立し、王権には従わなかったのです。」
「藤原日本史では、西国を支配した公家の朝廷に対して、東国を支配した武家の鎌倉幕府と述べていますが、史実はそうではないのですね。」
「北条鎌倉幕府は、天皇内裏や京を守る義務と権利を持っていますが、その権力範囲は、旧平安京の部分である畑となってしまっている東京極大路以西に限られていたのです。洛外の祇園社や清水寺などは、北条鎌倉幕府の警察権が及ばない、異界の地であったのです。」
「その中世の寺社では、治外法権を下に、軍需物資を製作したり、高利貸しを行っていたのですね。その反権力勢力の中心が、天皇や貴族を震え上げる祇園会の怨霊祀りを行う地だったのですね。」
「その寺社勢力を壊滅するために、北条鎌倉幕府は、1221年六波羅探題を、祇園社に隣接する地に設置するわけです。」
「それで理解できました。亡命百済貴族の流れにある桓武平氏の北条氏は、母国百済を滅ぼした新羅末裔の嵯峨源氏と醍醐源氏末裔を抹殺するために、六波羅探題を設置して、「源氏狩り」をおこなうわけですね。その追求を逃れるために、嵯峨源氏や醍醐源氏末裔は、山奥に逃れ「平家部落」を創作するわけですね。平家は、海洋民族だから、山奥では漁ができませんよね。」
「藤原日本史による鎌倉時代物語は、疑う余地が大いにあります。「吾妻鏡」が、祇園会の記事を一切掲載しなかったことは、祇園会を開催した異民族の歴史を抹殺するためだったのです。祇園社は、祟り神を祀る処であるため、秦氏の支配地の山背国を乗っ取った百済系天皇家の行幸はなかったのですが、1071年反藤原氏の後三条天皇が、祇園社へ行幸したのです。その翌年、1072年白河天皇が即位したのです。」
「何故ですか。」
「一般的なイメージとして、寺や神社(モリ)を宗教空間、厭世空間、無常空間などの聖域として捉えられているようです。しかし、王権の権力が及ばない治外法権の地となった中世の寺社では、俗世間の経済拠点となっていたのです。そこで行われていた経済活動のひとつとして、高利貸しがあったのです。」
「寺社は、貧民を救うためのありがたい説法を聞く聖地ではなかったのですか。」
「国家警察権が存在しない、無法時代には、毎日の生活することが大切なことだったのです。カメさん、精進落しの意味を知っていますか。」
「菜食料理を食べることですか。」
「違いますね。どのような商売でも、お客様を引きつけるイベントが必要です。古代の仏寺では、在郷貴族を寺に招くために、双六などの博打をおこなっていたのです。中世の庶民が、寺社でありがたい説教を聴くことは「建前」で、「本音」は説法を聴聞した後に、傾城遊びをするためだったのです。」
「何です。その傾城遊びって。確か、弾左衛門の支配下に傾城ってありましたよね。」
「遊郭での「まぐわい」のことです。」
「神聖な宗教空間に、俗世間の悪所施設があったのですか。」
「古代仏寺にもありました。それは、内道場とよばれた、密封された空間です。奈良時代、女帝孝謙天皇は、その内道場で道鏡のありがたい説法を聴聞していたのです。神社(モリ)でも、そのような施設があったのです。巫女を、一般的には、女性と考えているようですが、巫女は、元は「神子」と書き、男神子と女神子がいて、芸能の座を結んでいたのです。その芸能の流れに、江戸時代に発祥した歌舞伎があり、その歌舞伎役者の女は、演劇の合間に「春」を売っていたのです。」
「中世の寺社内では、そんなことをおこなっていたのですか。」
「イエズス会の傀儡軍団長の織田信長が、1571年比叡山延暦寺を焼き討ちしたことにより、祇園社が「感神院は天台宗、本寺なし」、として比叡山延暦寺から独立することにより、寺社勢力が支配した日本列島西国の中世が終わるのですが、その傾城施設は、寺社の近隣に移設して、営業を江戸時代までおこなっていたのです。」
「そういえば、現在の遊郭地の近くには、仏寺や神社がありますよね。それは、そのような歴史があったからですか。」
「中世の寺社に参拝することは、ありがたい説教を聴聞するだけではなかったのです。中世の南都北嶺、高野山、吉野、熊野などの寺社は、大荘園領主で、武力を保持する大勢力で、北条鎌倉幕府と同様の地方権力であったのです。その熊野詣へは、代々の上皇がおこなっていたのです。白河上皇12度、鳥羽上皇23度、崇徳上皇1度、源平合戦の黒幕である後白河上皇は33度も熊野詣でをおこなっていたのです。」
「傾城遊びのためですか。」
「それもあったかもしれませんが、反権力勢力との談合か、生活費のための借金かもしれません。いずれにしても、中世の寺社は、鎮護国家のために存在していなかったのです。比叡山延暦寺の武装集団は、戦闘手柄を記録し、上司に報告し、そして、審査し論功行賞をおこなう軍奉行という役職を備えた武士団と同じ組織構成だったのです。」
「すると、中世の西国には、北条鎌倉幕府の及ばない地が多くあったのですね。」
「北条氏は、亡命百済貴族の流れにある桓武平氏です。平安京は、百済系桓武天皇の支配地だったのです。それが、唐帝国が滅亡すると、藤原氏が支配する地となり、その後、アラブ系海洋民族の「平家」の支配地となっていたのです。やっと「平家」を京都から追い出しても、その後、嵯峨源氏や醍醐源氏末裔が、悪僧や神人となって寺社を占拠していたのです。その悪僧や神人を寺社から追い出す手段が、「清和源氏」三代を暗殺した後に設置した六波羅探題だったのです。しかし、この警察組織もうまく機能しなかったのです。そこで考え出されたのが、騎馬民族国モンゴル帝国に滅ぼされた南宋から亡命して来た禅僧です。1271年元朝が始まると、かろうじて生き延びていた南宋から多くの亡命船団が逃亡を企てたのです。」
「藤原日本史で述べている、1274年文永の役と1281年弘安の役の元寇ですね。」
「その元寇物語が「ウソ」だと言うことは、私のレポートに書きましたので詳細は割愛しますが、それらは、モンゴル帝国海軍の大船団だったのではなく、一回目が高麗の大亡命船団で、二回目が南宋の大亡命船団が実際だったのです。清和源氏三代目将軍源実朝は、父源頼朝や兄源頼家が、北条氏の陰謀により暗殺されたことを知り、南宋に逃亡するために、1216年南宋の仏工陳和卿を引見して、大船製作を命令していたのです。その3年後、源実朝は、公暁に暗殺されてしまったのです。」
「北条氏と南宋の僧との関係は、何ですか。」
「それは、騎馬民族への怨念です。両国とも、騎馬民族に母国を滅ぼされていたからです。北条氏は、西国の寺社を占拠する騎馬民族末裔を排除するために、禅宗組織を利用するのです。」
「その根拠はあるのですか。」
「北条鎌倉幕府は、祟り神である牛頭天皇を祀る祇園社近隣に、中国語を日常会話とする大袈裟を着込んだ禅僧が闊歩する建仁寺の「禅寺」を建立したのです。これに対して、1286年比叡山延暦寺の天台座主尊助は、北条鎌倉幕府に対して、祇園社境内を山僧や神人が定住する聖地だと主張して、北条鎌倉幕府の手先となった禅宗や律宗の僧尼や念仏者の排除を要求したのです。」
「いよいよ鎌倉新仏教の話ですか。」
「カメさんには申し訳ありませんが、遊行する貧民を救済したとする鎌倉新仏教物語の多くは、室町時代以降に創作されたものです。「悪人正機説」で有名な、浄土真宗の開祖とする親鸞の実在性も、現在では、疑問なのです。」
「すると、東国の遊行する貧民を救済したとする鎌倉新仏教僧は、すべてウソ物語なのですか。」
「比叡山延暦寺から派遣された仏僧が、東国で布教(?)していたことは否定しません。しかし、東国の住民が、すべて貧民であったことは否定します。中世の鎌倉時代には、比叡山延暦寺の支配地は、北条鎌倉幕府領よりずっと多く、北海道と沖縄を除くすべての都府県にあったのです。騎馬民族文化国の東国で、騎馬民族の日常生活を「肉食禁止、屠殺禁止、血の禁忌」で否定する思想を保持する漢訳仏教が、すんなり庶民に受け入れられたと思いますか。」
「ナベさんのレポートには、賎民穢多の蔑称は、北海道と沖縄にはなかったのですよね。やはり、その穢多の蔑称と漢訳仏教思想の比叡山延暦寺とには、何か関係があったのですか。」
「比叡山延暦寺の最下層僧侶である「聖」には、鎌倉新仏教の時衆が多くいたことは確かです。」
「平安時代末期に興った浄土思想の仏は、阿弥陀様ですよね。その阿弥陀様って何者ですか。」
「阿弥陀様の前身は、インドではアミダーバと言われ、太陽神であったのです。その太陽神は、西方に浄土国を持っていたのです。」
「インドから西方というと、エジプトですか。」
「紀元前13世紀の古代エジプトには、アメンホテプ4世(イクナトン)の時代、アトン神という太陽神が存在していたのです。そのアトン神の前身は、鉄器を発明した古代ヒッタイト帝国の契約の神、太陽神ミトラだったのです。」
「すると、阿弥陀様は、太陽神ミトラですか。」
「私は、そのように考えています。騎馬民族文化国の東国で、浄土信仰が普及した下地には、太陽神ミトラの宗教思想が、西方浄土の阿弥陀思想に重なったからだと考えています。」
「すると、鎌倉新仏教思想の根源は、太陽神ミトラ崇拝思想だったのですね。」
「騎馬民族文化の東国で、その太陽神信仰思想を広めたのが「聖」です。聖とは、平安時代初期に、水銀を求めて山奥深く探索していた錬金術師空海の金剛杖を武器とする真言宗軍団に敗れた、山の神を祀る産鉄民族の者であったのです。聖の語源は、火治める者の意味で、ヒジリです。太陽神ミトラは、東の山の頂上から誕生すると考えられていたのです。聖は、元々は産鉄民族が祖で、古墳時代に活躍していたのですが、唐帝国進駐軍が、傀儡政府である女帝持統天皇王朝を明日香ヤマトに樹立すると、山奥に追い上げられてしまったのです。」
「何か飛躍しすぎではありませんか。女帝持統天皇って、日本列島で最初の天皇であった天武天皇の后ですよね。」
「その女帝持統天皇の時代に、明日香ヤマトで唐帝国の暦である「儀鳳暦」が始まるのです。そして、日本で初の火葬された天皇が、持統天皇だったのです。その火葬は、古墳埋葬思想を否定するものなのです。その女帝持統天皇統治時に現れたのが、唐の通訳→唐史(とうふひと)→唐不比等→籐不比等→藤原不比等なのです。」
「確か、藤原不比等の父は、藤原不比等が創作した物語である「日本書記」の「大化の改新」で活躍したとする藤原鎌足ですよね。」
「藤原鎌足の実在性も、現在では、否定されています。明日香ヤマトでの古墳時代は、その女帝持統天皇の時代に終わるのですが、東国の陸奥国では、鎌倉時代まで古墳は造られていたのです。」
「すると、聖の祖である産鉄民族は、鎌倉時代の東国では生き延びていたのですね。」
「平安時代初期、錬金術師空海に敗れ、産鉄民族の神を祀る古墳は破壊され、その跡に、みすぼらしい小さな神社(モリ)が建立されるのです。それが、古墳→土の家→塚→じゅか→稲荷です。稲荷社がある境内には、注連縄を捲らされた丸石が多くありますが、それは、古墳に備えてあった丸石です。」
「藤原日本史では、稲荷神社(ジンジャ)は「稲成り」(イネナリ)が語源で、農耕神を祭ると述べていますよね。でも、確かに、藤原氏が廟堂に復活した明治時代に創作された新設神社(ジンジャ)ではなく、古来からの神社(モリ)の境内には注連縄をかけた丸石がありますよね。何です、その丸石って。」
「太陽神ミトラは、初めは東山の頂上から誕生していたのですが、やがて、巌谷の洞窟→石へと誕生処が下界に降りていったのです。古墳に備えられていた丸石は、太陽神ミトラが宿る聖石であったのです。」
「稲荷社の祖が、古墳ですか。何か納得できませんね。古墳時代の日本列島に産鉄民族が現れたと言うと、古墳時代に活躍していた騎馬民族との関係はどのように説明するのですか。」
「それは、テツ(鉄)が、騎馬民族と産鉄民族との古来からの関係を証明します。」
「どういうことですか。」
「テツは、騎馬民族のチュルク語だからです。藤原日本史では、古代のすべての先進文化は、飛鳥時代から仏教僧が中国や百済から日本列島にもたらした、と説明しています。だとしたら、当然、「テツ」の語も、仏教僧が日常使っていた中国語の漢字か、もしくは、仏典の原著とされているサンスクリット語の言葉であるはずです。しかし、サンスクリット語では、鉄はカラ・ローハとかアヤスと言われていたのです。藤原不比等が創作した「日本書記」には、鉄を造る人のことを、天津麻羅と表わしているのです。その麻羅(マラ)は、サンスクリット語では、不浄とか汚物を指す言葉です。」
「その説明と、テツ(鉄)がチュルク語であるとの関係が分かりません。」
「産鉄民族の製鉄作業であるタタラでの作業長は、ムラゲ(マラゲ)と言います。「日本書記」の資料の多くは、713年唐進駐軍の配下となった現地豪族を郡司とし、その郡司から地方の歴史を報告させたものです。つまり、郡司が、唐進駐軍に提出した資料は、日本列島の古墳時代のものです。その資料を基に創作したものが「日本書記」ですから、当然、「日本書記」には、鉄を造る人を天津麻羅(アマツマラ)と記したのです。もし、その古墳時代に、漢訳仏教僧が活躍していたのならば、天津麻羅などの言葉は、「日本書記」には決して掲載されなかったでしょう。それは、マラとは、仏教界の隠語では、「男根」の意味だからです。」
「すると、古墳時代には、藤原日本史が飛鳥時代として述べているように、漢訳仏教僧は日本列島で活躍していなかったのですね。」
「日本列島に正式な仏教僧が誕生したのは、反藤原氏となった聖武太上天皇が支配していた奈良時代の、754年に来朝した唐僧鑑真からの授戒からです。それ以前の総ての僧は、正式な得度をしていない、言わば、私度僧なのです。」
「でも、藤原日本史では、まぎらわしく、552年仏教公伝としていますが、どういうことですか。」
「それは、藤原不比等が、騎馬民族が日本列島で活躍していた古墳時代を歴史的に抹殺するために、飛鳥時代を創作するためです。金メッキされたミニュチァ仏像は、それ以前に日本列島に持ち込まれています。中国の紀元2世紀以降の古墳からは、多くのミニュチァ金銅像が出土しています。日本列島の絹を求める僧形のシルクロードの国際交易商人は、長安や洛陽に多く暮らしていたから、それらの金銅像は僧形の国際交易商人と供に、日本列島に持ち込まれていたのです。」
「では、騎馬民族は、何故、古墳時代の日本列島に渡来したのですか。」
「絹と金メッキのための水銀を求めてです。古代から、奈良盆地の東方の宇陀の朱砂は、国際的に有名だったのです。その朱砂の産する地には、水銀が眠っているのです。大湿地帯である奈良盆地に、4世紀に巨大前方後円墳が築かれたのはそのためです。その三輪山麓のツバ市は、国際的交易所であったのです。」
「奈良盆地ですか。巨大前方後円墳ですか。水銀ですか。藤原日本史には、そのような説明はありませんよね。「宇陀(ウダ)宇陀(ウダ)言うな!」、の語源は、水銀産地の奈良の宇陀のことですか。」
「そのように私は考えています。」
「古墳時代に、宇陀の水銀が、騎馬民族に簒奪されたのですね。」
「アマルガム法金メッキは、騎馬民族が発明したものです。騎馬民族の馬具には、その金メッキされた物が多く出土するのはそのためです。」
「騎馬民族は、古墳時代に日本海を越えて来たわけですね。」
「日本列島には、元来馬が生息していなかったのです。その馬が、日本列島に現れるのが、4世紀からです。巨大古墳が現れた時期にリンクします。」
「その渡来は、日本列島征服のためですか。」
「違います。4世紀から5世紀の古墳からは、武力と直接結びつける材料が発掘されていないからです。このことから、日本列島に大量に持ち込まれた馬は、武力のためではなく、輸送手段のためであったと推測されます。しかし、6世紀からの古墳からは、実戦で使われたと思われる鉄製武器が発掘されるのです。」
「何故、6世紀の古墳から鉄製武器が発掘されるのですか。」
「それは、東アジアの南方の農耕民族と北方の騎馬民族との戦いが、日本列島に持ち込まれたからです。馬を制御するにも、武器を作るにも「テツ」が必要です。騎馬民族の誕生は、馬を制御するための轡の発明が必要だったのです。当初、轡は、青銅製だったのですが、青銅の硬直性のため馬の生体と合わないため、馬を制御するのが困難だったのです。しかし、テツは、青銅に比べて柔軟性があるため、馬の生体に合致したのです。紀元前7世紀に、遊牧民族のスキタイが、騎馬民族に変身できたのは、スキタイが製鉄技術を持っていたからです。その製鉄技術は、紀元前12世紀に、ヒッタイト帝国が、フェニキュアなどの海洋交易民族に滅ぼされたため、そのヒッタイト帝国の末裔が、製鉄技術を持って各地に移動していたのです。」
「ヒッタイト帝国と言えば、太陽神ミトラですよね。当然、スキタイにも、太陽神ミトラが持ち込まれたのですか。」
「それは分かりません。騎馬民族のスキタイの聖獣は、「鹿」です。鹿が、スキタイのシンボルなのです。そのシンボルを誇示する僧が、鎌倉時代の東国に現れたのです。」
「「私はアミ様(太陽神)を信じます」の意味である「南無阿弥陀仏」の呪文で、念仏衆を扇動する空也や一遍上人ですね。」
「鎌倉時代の東国の遊行僧の多くは、鹿の皮を纏ったり、鹿の杖を保持していたのです。カメさん、これってどういう意味か分かりますか。」
「仏教は、殺生禁止ですよね。それなのに仏教僧が、鹿の皮や杖を身につけていたのですね。オレには分かりません。」
「東国の住民の多くが、騎馬民族末裔だとしたら、何故、鎌倉時代最大の高利貸し組織を持つ比叡山延暦寺から派遣された念仏僧が、そのような漢訳仏教思想を否定するような行為をしたのか理解できると思います。」
「念仏僧が、鹿の皮や角を保持することにより、東国に多く暮らす騎馬民族の仲間だとアピールしていたのですね。だって、鹿は、騎馬民族の祖であるスキタイのシンボルだからですよね。」
「東国の遊行する貧民を「南無阿弥陀仏」の念仏で救済したとする鎌倉新仏教僧が、もしも、歴史本に書かれているように、存在していたのならば、その東国での目的のひとつは、モンゴル帝国との日本列島東国産の絹などの私貿易で銭を溜め込んだ、東国の騎馬民族末裔の懐の「銭」だったと推測されます。騎馬民族は、定住する農耕民族ではなく、元来、各地を遊行する商業民族であったからです。」
「藤原日本史で述べているように、鎌倉新仏教は、東国の貧民を救済するために発生したのではないのですね。」
「漢訳仏教思想を、真に布教するためだとしたら、何故、漢訳仏教思想で否定する殺生禁止である、鹿皮や鹿角を布教に利用したのですか。」
「そういわれれば、一遍上人の布教活動を3年間も護衛していたのが、金ピカの豪華絢爛な衣装で馬に乗る「悪党」でしたよね。悪党のシノギのひとつが、武力による不良済の取り立てですよね。現在のヤクザのシノギと似ていますよね。」
「鎌倉時代の東国では、武力が正義だったのです。悪党(アク党)とは、騎馬民族の「勇者」であれば、「悪党」が一遍上人を護衛していた意味が分かると思います。」
「その説明で、「目から鱗」ですよ。その悪党の説明で、北条鎌倉時代の東国は、藤原日本史が述べる、武家が支配していたのではなく、騎馬の悪党が活躍していたことが分かりました。」
「カメさん、その根拠は何ですか。」
「ナベさん、鎌倉に行ったことがありますよね。藤原日本史によれば、鎌倉武士は「御恩と俸公」により、「イザ鎌倉」の時、鎌倉街道を騎馬で疾走し鎌倉に馳せ参じたように描写していますよね。その鎌倉街道から鎌倉の都に入るには、四方に設置された切通しのため、騎馬は疾走できないようです。それは、鎌倉街道は、馬が疾走できるような幅はなく、曲がりくねっているからです。鎌倉街道が、鎌倉への武士の緊急集合のための道路だとするのならば、これって、変だと思いませんか。」
「そういえば、江戸時代初期、騎馬民族末裔の徳川家康は、江戸から小田原まで騎馬軍団が疾走できる幅広の直線軍事道路を設置していましたからね。軍事道路ならば、古墳時代の高速道路のように、幅広の一直線が基本です。」
「そのくねくねした道幅の狭い鎌倉街道のひとつは、府中から八王子に抜けて、桐生までつづいているのです。その桐生は、京都に匹敵する、東国の絹集積地のひとつですよね。」
「江戸時代末期に、明治革命の陰謀組織であったイギリス東インド会社のエージェントは、東国から群馬県に集まる絹の簒奪を目論み、1872年富岡に製糸場を建設していましたね。」
「北条鎌倉幕府の鎌倉は、東国を武家による軍事支配するための基地ではなく、南宋から亡命して来た禅僧により、東国の絹を鎌倉に集積し、由比ヶ浜からモンゴル帝国に輸出していたと考えられませんか。」
「それは大いに考えられます。モンゴル帝国の国際海洋交易システムは、滅ぼした南宋のシステムそのままですから。南宋語がモンゴル帝国の国際交易語だったのです。南宋語を日常会話とする曹洞宗は北陸に、臨済宗は鎌倉に、禅寺の拠点を築いたのは、古墳時代から続いていた北陸道と東海道の物流ルートを押さえるためだった、とも考えられますからね。禅僧の中には、座禅を組むより、国際交易船に乗り、モンゴル帝国に行き来していた者が多くいることも、国際交易のための北陸道と東海道の禅寺設置が考えられます。」
「そういえば、禅僧は、北条鎌倉時代に、日本列島に禅文化をもたらしましたよね。そのひとつが、武家屋敷ですよね。」
「そうです。藤原日本史では、平安貴族が暮らす寝殿造りからと説明しているようですが、簡素造りの禅寺から、武家屋敷が開発されたのです。その特徴のひとつは、平安時代には存在しなかった、室内便所の設置と床の間です。」
「便所は、平安時代の屋敷になかったのですよね。便所が「雪隠」と言われるのは、禅僧に関係があるからですよね。」
「南宋の禅文化により、北条鎌倉文化が拓かれたのは史実ですが、ひとつ不思議があるのです。それは、武家屋敷や侍屋敷はあっても、「武士屋敷」がないことです。」
「武家って、武士のことではないのですか。サムライの意味は、以前ナベさんのレポートで、武装した秘書兼警護使のサラリーマンと理解できましたが、何故、武士屋敷がないのですか。」
「武士は、桓武平氏の北条氏にとって、仇敵だからです。武士のルーツは、以前レポートにも書きましたように、武士(941年天慶の乱後)←武芸者(平安時代初期の検非違使支配下)←陸奥国エミシ捕虜(百済系桓武天皇時代)←明日香ヤマトの武人(645年以前・古墳時代)←突厥帝国進駐軍+ギリシャ・ローマ文化の古代新羅の花郎騎士団(6世紀半ばから645年、明日香ヤマト時代)、となり、武士は、663年桓武平氏の母国百済を滅ぼした民族の末裔であるからです。平安時代までの武士の実態は、亡命百済貴族に仕えるサラリーマンのサムライ(侍)と異なり、巨大前方後円墳を破壊した跡に建設された平安京の廃墟となった大内裏の祀場で、怨霊の魂を鎮める武芸を行う祭祀者だったのです。」
「藤原日本史では、百済系桓武天皇は、新羅系天武天皇の血をひく井上皇后・他戸親王と実弟早良親王を謀殺したことにより、それらの怨霊を恐れた、と説明していますよね。それだったら、それらの怨霊を鎮めるには、同族の者であることが必然ですよね。だったら、何故に、嵯峨源氏の配下としてエミシ捕虜を放免として、怨霊鎮めの武芸者にしたのですか。早良親王は、百済系だから、嵯峨源氏ではなく、桓武平氏の武芸者でなければ、藤原日本史の説明は、説明になってませんよね。」
「長岡京から平安京に移った桓武天皇の近辺に不幸が連続したのは、それらの井上皇后・他戸親王と早良親王の謀殺が本当の原因ではないでしょう。歴代の天皇が住まう、或いは、政治を行う大内裏が、平安末期には農地となっていたこと、そして、その怨霊を鎮める者(武芸者)が、陸奥国のエミシ捕虜であったことを考えれば、ギリシャ・ローマ文化国の古代新羅から渡来した秦氏の支配地であった京都盆地の巨大前方後円墳を破壊した跡に、百済系桓武天皇が、大内裏を設置したことが原因と考えられます。律令制度が崩壊した時を同じくして、京都盆地で、加茂川東岸の髑髏ヶ原に住まう賎民による怨霊鎮めの祇園会が開催されたのは、律令制度内で「キヨメ」として怨霊鎮めを行っていた武芸者が、律令制度が崩壊したため、脅す相手(天皇を含め亡命百済貴族)が京都洛中にはいなくなったからでしょう。」
「やはり、平安貴族達には、奈良時代の平城京の祟りが信じられていたのですね。」
「平城京は、奈良盆地北辺の巨大前方後円墳を破壊した跡に建設されていたのです。そして、太陽信仰民族の秦氏の祭祀場であった三笠山に、反藤原氏となった聖武法皇崩御の756年以降に、藤原氏の神を祀る春日大社が創建され、三笠山は春日山となってしまったのです。その結果が、怨霊による祟りです。因みに、藤原氏が復活した明治革命後、漢訳仏教僧に支配された神仏習合の神宮寺が破壊され、その跡に、春日神社(かすがじんじゃ)が、日本列島各地に創建されていくのです。」
「その祟りとは、実際は、聖武法皇が発願した太陽神像(遍照像)の築造時での、銅と水銀の鉱毒ですよね。」
「古代では、目に見える皮膚病などが病気で、目に見えない感染症や中毒などは、怨霊が原因と信じられていたのです。遍照像(平安時代に空海が大日如来とネーミング)が聳え立つ三笠山の麓の平城京には、無数の鉱毒中毒者が発生していたのです。それは、まさに地獄絵となって語り継がれていたのです。794年平安京遷都ですから、ほんの30年程前の出来事です。」
「それで、オレが以前見た、平安京の大内裏が農地に変貌して行った幻視が理解できました。平安時代、その廃墟となった大内裏で、エミシの武器である蕨手刀から改良した「日本刀」と冑に鹿や牡牛の角を付け、総革製の派手な鎧で武装し、剣舞の武芸により怨霊の魂鎮めを行っていたのが武芸者で、後の武士ですよね。でも、それらの事は、日本列島西国史ですよね。西国の簒奪王権が、古墳を破壊したことにより、怨霊が発生したのなら、東国では、そのようなことがなかったのなら、東国には武士は発生しませんよね。」
「藤原日本史の説明では、律令制度が崩壊し、荘園経営が盛んとなり、その私有地の荘園を護るために、農民(百姓)が武装したことにより武士が発生した、と説明しているようですが、それは歴史の流れを無視した説明です。農民(百姓)が武装解除されたのは、1591年藤原氏の傀儡関白となった豊臣秀吉による、士農工商の身分制度の設置からです。それ以前は、兵農分離などしていなかったのです。」
「すると、鎌倉時代に武士屋敷がなかったのは、武士が武家になったからですか。」
「武士と武家とは異なります。武士は、祭祀者です。しかし、武家は、祭祀者ではなく、幕府の臣です。サムライも、祭祀者ではないため、武士と異なります。サムライは、貴人の秘書業務をこなすため漢字が読み書きできます。しかし、武士は、漢字を読み書きできません。武士は、カタカナを使用していたのです。」
「そういえば、日本語には、表意文字と表音文字がありますよね。カタカナは、表意文字ではなく、アルファベットと同じに、表音文字ですよね。何故、武士は、漢字の表意文字ではなく、表音文字を使用していたのですか。」
「カメさん、「万葉集」を知っていますよね。」
「学生時代「万葉集」には泣かされました。漢字の羅列ですからね。」
「「万葉集」の歌は、漢字をアルファベットとして、つまり、表音文字として詠われていたのです。最後の歌が、奈良時代といわれていますが、次の平安時代には、その「万葉集」の歌が読めなかったのです。「万葉集」が、現在のように読めるようになったのは、鎌倉時代の学僧仙覚の写本からなのです。それは、平安時代の言葉は、奈良時代の言葉と異なっていたからです。平安時代に成立した平仮名には、奈良時代に使用されていた、濁音が長らくなかったからです。」
「奈良時代には、新羅系天武天皇の血が流れる貴族が存在していたのですよね。しかし、平安時代には、百済系桓武天皇により、新羅系天武天皇の血が流れる貴族が抹殺されていたのですよね。すると、奈良時代に濁音文字を使用して歌を詠っていた「万葉集」は、古代新羅の言葉、ヒャンチャル(郷札)が考えられますよね。郷札は、万葉仮名と同じに、漢字を表音文字として利用しているからです。」
「その万葉仮名から、武士が、漢字ではなく、カタカナを使用していた意味が分かります。武士の祖国の古代新羅は、百済が384年仏教を受け入れたのと異なり、ギリシャ・ローマ文化で、女王国だったからです。仏教は、女性蔑視で、女は男に生まれ変わってから成仏できる、などと説いていたから、当然、女王国の古代新羅には、528年まで受け入れられなかったのです。」
「日本列島の明日香ヤマトでも、奈良時代までは、女王国だったのですよね。しかし、平安時代から現在まで、男王国となってしまっているのですね。」
「日本列島には、男王国ではなく、女王国が存在しています。それは、「カカア天下」と云われている地域です。群馬県などは、その例のひとつです。それらの「カカア天下」の国には、騎馬民族文化が多く残っているのです。」
「ナベさんは以前、文化はすべて祭祀文化だと言いましたよね。だとしたら、鎌倉時代に登場した浄土教の僧侶達が鹿の角や皮を身につけていたのも、祭祀文化の流れですか。」
「武士の祭祀道具として、冑に牛や鹿の角を付けていたのです。それが、後に、牛や鹿の角に替わり、色々な角形に変化していったのです。それは、武士の鎧兜が、祭祀道具だったからです。鹿は、以前述べたように、騎馬民族の祖スキタイの聖獣です。武士が、冑に鹿の角を付けた意味は、武士が、騎馬民族の流れにあるからです。鎌倉時代、北条鎌倉幕府と親密な禅宗は、北陸道と東海道に禅寺を設置しましたが、東国の三道である東山道には、長らく禅寺の設置ができなかったのです。」
「何故です。」
「それは、古墳時代から、東山道は、北陸道と東海道を結ぶ騎馬民族の重要な物流ルートだからです。つまり、日本海側と太平洋側を結ぶ道だからです。その中心が、トルファン(諏訪)です。」
「そういえば、明日香ヤマトの古墳時代最後の天皇である天武天皇は、一時、明日香ヤマトからトルファン(諏訪)に遷都するために、部下に下見に行かせましたよね。」
「733年完成の「出雲風土記」によると、大和王権(唐進駐軍)に国譲りされたオオクニヌシノ命の長男は諏訪に亡命しています。それは、諏訪は、騎馬民族の支配地であったからです。」
「しかし、平安時代初期には、桓武天皇に抜擢された坂上田村麻呂率いる律令軍により、諏訪は占領されたのですよね。」
「律令軍により諏訪の古墳は破壊され、その跡に神宮や神社(モリ)が創建されても、山に移り住んだ騎馬民族末裔により、諏訪大社の本殿は建立できなかったのです。それどころか、江戸時代末期まで、諏訪大社では、鹿の生首が奉納されていたのです。」
「神社(モリ)に鹿の生首の奉納ですか。」
「犠牲は、農耕民族にとっては残酷に映りますが、騎馬民族にとっては祭祀文化なのです。騎馬民族に受け入れられた道教は、北極星を神とするため、夜の終わりを告げる鶏を犠牲としていたのです。伊勢神宮創建前の建物は道教の神を祀る道観で、天武天皇が道教の神北極星(太一)を祀るために創建したものですから、伊勢の道観では犠牲として鶏を屠っていたのです。しかし、奈良時代に、藤原不比等が、その伊勢の道観を破壊した跡に、藤原氏の神である女神であるアマテラスオオミカミを祀り、ユダヤ教儀式に酷似した中臣神道儀式を行う伊勢神宮を創建し、道教の犠牲である鶏の屠り儀式を、「コケコッコー」の唱和儀式に替えてしまったのです。」
「それって、騎馬民族に対する、仏教思想の武器である「殺生禁止」ですね。」
「鎌倉時代はともかく、江戸時代まで、東国の東山道近辺の国には、騎馬民族文化が色濃く残っていたのです。」
「すると、鎌倉時代の東国には、藤原日本史が述べるのと異なる社会が存在していたということですか。」
「鎌倉時代の東国の歴史には、藤原日本史で述べているように遊行する貧民の芸能民が暮らしていたのではなく、騎馬民族文化が色濃く残っていたのです。勿論、騎馬民族の経済活動形態の貨幣経済により、馬による物流や高利貸しの金融が盛んであったと推測できます。鎌倉時代の東国は、西国に比べて経済的に豊かであったと推測できます。その鎌倉時代の東国の騎馬民族文化の歴史を隠蔽したのが、室町時代に創作された鎌倉新仏教物語です。」
「「南無阿弥陀仏」の呪文で東国の貧民を救済したとする浄土宗僧が活躍したとする鎌倉新仏教は「ウソ」なのですか。その根拠は、何ですか。」
「日本仏教史の浄土宗の流れの説明では、空也(平安時代)→親鸞(鎌倉時代)→一遍(鎌倉時代)→蓮如(室町時代)、としているようですが、もし、親鸞が、藤原日本史で飛鳥時代に活躍したとする聖徳太子と同じに、架空の人物だとしたらどうでしょう。」
「鎌倉時代に活躍した、専修念仏の浄土宗を唱えた法然の愛弟子の浄土真宗の開祖の肉食妻帯の親鸞が、架空の人物ですか。その説信じられません。」
「レポートにも書きましたように、以前から「親鸞上人架空説」は言われ続けられているのです。もう一度レポートを読み直してください。」
「では、鎌倉新仏教の星のひとりである親鸞は、室町時代に、誰により発明されたのですか。」
「それは、蓮如が疑われます。」
「何を目的に。」
「大阪難波と北陸の騎馬民族文化の抹殺です。」
「そのナベさん説、もう少し詳しく説明してください。」
「カメさん、鹿児島に行ったことがありますか。」
「出版社時代に、取材で何度も行きましたが。」
「鹿児島の街や近郊で、他県と異なることを感じませんでしたか。」
「桜島が、目の前で煙をあげていることですか。」
「そうではなくて、寺の数か極端に少ないと思いませんでしたか。」
「そういえば、寺を見た覚えがありません。薩摩藩は、江戸時代に第三百済王朝にイジメられていたから、寺は多くあったはずですね。1615年から始まったキリシタン弾圧から方向換えして、第三代将軍徳川家光から始まる第三百済王朝の江戸幕府になると、秦氏末裔の賎民穢多をイジメた寺受け制度がありましたよね。薩摩藩には、秦氏末裔が多く暮らしていたのですよね。秦氏は、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅からの渡来者だったので、母国百済を新羅に滅ぼされた亡命百済貴族が支配した平安王朝からのイジメを避けるため、秦氏(古墳時代から)→惟宗氏(平安時代)→島津氏(鎌倉時代から)と変氏したのですよね。」
「江戸時代末期の薩摩藩の神宮寺や寺院の総数は、約1600と言われていました。しかし、明治元年から4年間の間に、すべての寺社は破壊されていたのです。」
「薩摩藩は、長年浄土真宗を禁圧していましたよね。」
「現在鹿児島に寺が少ないから、過去も寺が少なかった、と言えませんね。構造物は、破壊してしまえば、後の人は、その構造物のことを知る由もありません。藤原氏は、先住民の宗教施設を破壊した跡に、藤原氏の宗教施設を創建して、或いは、移築して、先住民の秦氏の歴史を消していたのです。このことが、一点。そして、もう一点は、「ウソ」物語を創作することにより、先住民の歴史を消すことができるのです。「日本書記」にある高天原や黄泉の国の神代物語は、紀元前の物語ではなく、713年に出雲郡司から藤原氏が暗躍した奈良王朝に提出された出雲の神話を基にして、藤原氏により、奈良時代に創作されたのです。藤原日本史を考察する時は、このことを肝に銘じておかなくては、史実の日本列島史を知ることは出来ません。藤原日本史の古代から鎌倉時代までの歴史には、そのような歴史改竄のテクニックを駆使した「ウソ」が多くあるのです。鎌倉時代の穢多が、遊行する貧民ではないことは、江戸時代の人は知っていたようです。カメさん、大塩平八郎って知っていますよね。」
「1837年大塩平八郎の乱、がありましたよね。幕府の圧政から貧民を救済するために立ち上がったひとですよね。その大塩平八郎が何か。」
「大塩平八郎が友人に語ったことを書きとめたものが、「咬菜秘記」にあるのです。その内容は、以下です。

この処に候。穢多ども人間交わりの出来ぬという所が、彼らの第一残念に存する処にて、親鸞という智慧坊主、その処をよく呑み込んで、この方の宗門にては穢多にても少しも障りなし。信仰の者は今世こそ穢多なれ、後の世には極楽浄土の仏にしてやろうと言うを、ことのほか有り難く思い、本願寺へ金子を上げること穢多ほど多き者はなし。

大塩平八郎は、親鸞が実在の人物ととらえているようですが、穢多の経済状態を貧民とはとらえていなかったようです。私は、親鸞は、蓮如により発明されたと考えていますから、大塩平八郎の語ったことは、鎌倉時代ではなく、室町時代と考えています。では、穢多は、どのようにして、多くの金子を手にしていたのでしょうか。その経済活動のひとつに、海外交易が考えられます。蓮如が、宗教活動の拠点とした、北陸と大阪は、古来から秦氏の国際交易港があった処なのです。カメさん、大阪の本願寺を、何故、「石山」本願寺と言うのか知っていますか。」
「冗談ですが、石の山にあったからですか。」
「半分は当たっています。大阪本願寺は、巨大古墳を破壊した跡に創建されたからです。」
「大阪本願寺は、日本一の商業都市である難波を支配することを目論むイエズス会の傀儡軍の大将織田信長との10年戦争を戦っていたのですよね。」
「織田信長の、イエズス会から提供された最新式銃を装備した、鉄砲隊でも、大阪本願寺を10年間攻めても、落城できなかったのです。その訳は、大阪本願寺は、巨石の壁で守られていたからです。その巨石は、その付近の地を掘り起こして調達していたのです。」
「すると、大阪本願寺を破壊した跡に、イエズス会から藤原氏に寝返りをうった羽柴秀吉(1585年から太政大臣豊臣秀吉)が、1583年大阪城を築いたわけですから、大阪城や大阪本願寺も、巨大古墳の地にあったわけですね。」
「大阪城の地は、上町台地といわれ、縄文時代では、まだ大阪湾はなくて、河内湾の岬だったのです。その河内湾は、弥生時代になると、上流からの土砂などが堆積することにより、湾から湖となっていたのです。古墳時代になると、古代新羅から渡来した民族により、古代エジプトの高度土木技術を駆使することにより、その河内湖の水を抜くために、上町台地に運河を掘削したのです。その運河は、難波の堀江といわれるものです。」
「その難波の堀江って、藤原日本史では、蘇我氏と物部氏との親子二代にわたる神仏戦争で、廃仏派の物部氏が、仏像を投げ捨てたところですよね。」
「藤原日本史を考察する上で、注意しなければならないことを忘れていました。それは、地名や人名のことです。漢字二文字による、地名や人名は、古墳時代、藤原日本史では倭の五王時代からではなく、713年(奈良時代)以降に付けられたものです。ですから、古墳時代、藤原日本史では飛鳥時代には、蘇我氏や物部氏などの氏族は存在していなかったのです。その蘇我氏や物部氏の、漢字二文字の氏族名は、713年以降に発明されたものです。漢字二文字の地名や人名を記載する「日本書記」は、古墳時代の支配者を歴史上抹殺する意図で編纂されていたのです。」
「そういえば、ナベさん説では、飛鳥時代などは史実ではなく、奈良時代に藤原不比等が発明した年代としているのですよね。その飛鳥時代の中心人物の聖徳太子が、架空の人物だからですよね。聖徳太子の不実在性は、608年渡来の隋使裴世清が謁見した倭王は、女帝推古天皇ではなく、男王アマタリヒシコだったことにより、証明できますよね。」
「その架空人物の聖徳太子は、藤原日本史では、七寺を建立したことになっているのです。それらは、法隆寺、四天王寺、中宮寺、橘寺、蜂丘寺(広隆寺)、池後寺、葛木寺、といわれているものです。これらの寺を調べると、何故、藤原不比等らが、厩戸皇子(聖徳太子)を発明したのか分かるのです。それは、ミトラ神を祀る太陽信仰民族、秦氏の宗教施設の歴史的抹殺です。」
「ナベさん、それは言いすぎではないのですか。歴史教科書には、そのように聖徳太子建立七寺とありますし、現在でも、それらの寺が存在していますよね。」
「607年創建の法隆寺境内から発掘された若草伽藍遺構は、仏教の建築基準から外れています。法隆寺は、太陽信仰民族の宗教施設を破壊した跡に、奈良時代初期に北九州から移築されたものです。603年創建の蜂丘寺(広隆寺)は、ミトラ教の景教寺です。その景教寺を破壊した跡に、広隆寺が創建されたのです。」
「すると、593年創建の大阪の難波四天王寺も、ミトラ教の宗教施設を破壊した跡に建立されたもですか。」
「現在の四天王寺は、大阪城から少し外れた地にありますが、本来は、大阪城の地にあったのです。その地は、難波と言われていますが、それは、713年以降の地名です。それ以前は、浪速←ローランです。そして、大阪城の地が、以前上町台地からの岬であった頃、その岬は、古代エジプト語で、ワタ(波)ナーベ(小山)といわれていたのです。その岬に造られた湊が、ワタナベ津(岬の湊の意味)です。津とは、大きな船が接岸できる湊のことです。ワタナベ津は、古墳時代から、朝鮮半島や中国大陸との国際交易港だったのです。」
「その上町台地は、古墳時代では、藤原日本史では飛鳥時代、ギリシャ・ローマ文化の古代新羅から渡来した民族の支配地だったわけですか。すると、物部氏は、秦氏ということですか。藤原日本史では、その上町台地一帯は、物部氏の支配地と述べていますからね。」
「先ほども述べましたように、蘇我氏や物部氏など、古墳時代には存在していなかったのです。カメさんは、藤原日本史のトリックに引っかかっていますね。飛鳥時代を外さないと、日本列島史の古代史実は見えません。奈良時代に建立された難波の四天王寺は、巨大古墳を破壊した跡に、建立されていたのです。」
「だから、大阪本願寺は、別名石山本願寺なのですね。藤原氏が、騎馬民族末裔の肉食する秦氏末裔を、チャンダラー(施陀羅)として遊牧民族差別をする菜食主義のバラモン教やヒンズー教思想を取り込んだ漢訳仏教思想で、賎民穢多として、平民から隔離する意図が見えてきました。鎌倉時代に南宋から亡命して来た禅僧の多くは、ヒンズー教の僧侶を先祖としていたのですよね。菜食主義の禅宗は、ヒンズー教やバラモン教と漢訳仏教が融合して発明された、「経典」も「御本尊」ももたないヨーガ修行を基に中国で発明されたのですよね。秦氏末裔を穢多の蔑称でイジメたのは、秦氏が活躍した、古墳時代の歴史を知られると、7世紀末に南インドから南九州坊津に渡来した藤原氏の出自の謎が解けてしまうからですよね。大阪難波の歴史については、理解できました。では、北陸の歴史改竄について、説明を願えませんか。」
「北陸の歴史を知るには、日本海側を「裏日本」、そして、太平洋側を「表日本」というイメージを消さなければなりません。このイメージが刷り込まれたのは、1853年米国使ペリーが、シーボルトが持ち出した伊能忠敬の日本列島図のコピーと供に、浦賀に来航して以来のことです。それ以前は、日本海側が「表日本」だったのです。カメさん、東アジアの地図を手元に置いてください。その地図を180度回転させると、アジア大陸が下に、日本列島が上になると思います。カメさん、その逆さ地図を眺めて、何か感じませんか。」
「不思議ですね。今まで、日本海は広い海だと思っていましたが、逆さ地図だと、日本海は湖に見えますね。そして、南北に無数に広がる日本列島が、東アジアの回廊に見えますね。」
「東アジアは、天山山脈、アルタイ山脈、コビ砂漠を堺として、南に農耕民族、そして、北に遊牧民族が暮らしていたのです。この南の民族と北の民族は、紀元前から交易をめぐって戦っていたのです。南の民族は、農耕地を広げるために北に進出するわけです。遊牧民族は、家畜の餌である牧草を求めて、南北に移動するわけです。そして、紀元一世紀ローマ帝国と後漢が、絹馬交易を始めると、東アジアの地に、ローマ帝国の国際商人が渡来するのです。それは、ローマ帝国では、絹は金と同じ重さの価値があったからです。人間の欲望は、恐怖や不安を打ち消します。ローマ帝国の国際商人は、天山山脈とタクラマカン砂漠との間に交易路を開発したのです。後に、このローマ帝国と中国とを結ぶ国際交易路をシルクロードと呼ぶことは、誰でも知っていることです。しかし、ローマ帝国と中国とを結ぶ国際交易路は、他にもあったのです。それは、黒海のヘラクレア→ヴォルガ川→サマラ→イルクーツク→バイカル湖→ウラジオストク→北京、へ繋がるステップロードです。しかし、ウラジオストクから北京へのルートの中間に、紀元前37年に興っていた高句麗が立ちはだかるのです。」
「ナベさん、これって、北陸の歴史と関係ある話ですか。」
「勿論です。高句麗は、このローマ帝国と後漢との絹馬交易ルートの中継基地として栄えて行くわけです。主な収入は、関税です。この高句麗に高い関税を払いたくないローマ帝国の国際商人は、ウラジオストックから高句麗の領土を通らないルートを開発したのです。それが、日本海の海流を利用した、リマン海流ルートです。日本海には、対馬から北上する対馬海流は知っていると思いますが、日本海には、もうひとつの海流があるのです。それが、沿海州に沿って南下するリマン海流です。ウラジオストクから船を漕ぎ出すと、船はリマン海流の流れに乗って南下し、朝鮮半島の東南に流れ着くのです。3世紀初め、そのリマン海流が流れ着く地に、辰韓(秦韓・秦の国)が興るのです。」
「その話、三韓時代に飛んでいるわけですね。藤原日本史では、卑弥呼の時代ですね。」
「しかし、その辰韓から、北京に向かうために、船を南下させると、対馬海流に乗って、出雲、丹波(たには・後の丹後)、角鹿(後の敦賀)、能登、佐渡、へと流れ着くのです。そして、ウラジオストクに戻るには、対馬海流で北上し、利尻・礼文から北上すると、リマン海流に乗って、行き着くことができたのです。」
「ナベさんの言いたいことは、日本海は時計回りの逆に海流が廻っているということですね。その二つのリマン海流と対馬海流を利用して、ローマ帝国の国際商人が日本列島の日本海側に渡来していたわけですか。その説の証拠でもあるのですか。」
「文献資料としてはありません。しかし、遺跡がこの説を証明します。その遺跡とは、古墳です。朝鮮半島の歴史は、その資料が14世紀に復元されたものですから、史実がどうか分かりません。しかし、地中に埋もれていた遺物は、埋葬された状態であれば、その埋葬されたままであるはずです。先ほどの、ウラジオストクからリマン海流ルートの話で、朝鮮半島南東がその中継地であると述べましたが、356年に興った古代新羅の都であった慶州の古墳から発掘された遺物は、朝鮮半島の高句麗や百済の物と異なる物なのです。それらは、ローマ帝国と同じデザインのアクセサリーや、ギリシャ発祥の三樹の王冠が出土していたのです。」
「例えばどんなものです。」
「ワインカップ、角杯、ローマン・グラス、ローマ帝国軍と同型の脛当、バックル、革ベルト、耳飾、首飾り、腕輪、指輪、武器はすべて鉄製、などです。特に、ローマン・グラスは、朝鮮半島三韓の高句麗や百済には出土していないようです。」
「それらの遺物から想像すると、その古墳に埋葬された人物は、中国文化とは異なるようですね。」
「そうです。古代新羅では、高句麗や百済と異なり、漢字が使用さていなかったのです。漢字を発音記号として利用したヒャンチャルはあったようですけど。」
「そのヒャンチャルって、藤原日本史で言うところの万葉語ですね。」
「そうです。万葉語とヒャンチャルには、共通点があります。どちらとも、漢字を発音記号として利用していることです。古代新羅が、高句麗や百済と異なる文化であったことは、死者を埋葬するための墳墓が異なることです。その築造法は、木槨を多くの小石で被う、「積石木槨」です。」
「そういえば、藤原日本史では、土木事業に狂奔した女帝斉明天皇が、「狂心の渠」っていう大運河を掘削し、その運河を利用して船200隻に小石を積んで、丘を造ったが、石を積むさきから石が崩れた、などと述べていますよね。これって、「積石木槨」の墳墓築造の描写に思えますよね。」
「確かに。藤原日本史の読み方として、672年即位の天武天皇が日本初の天皇であるので、それ以前の天皇の物語は、蘇我氏=突厥進駐軍や、物部氏=花郎騎士団長の物語であるかもしれないと考えてみるのも面白いと思います。」
「北陸の話はまだですか。」
「古代北陸は、ステップロードからの海路での漂着地であったのです。古代北陸は、「裏日本」などではなく、「表日本」であったのです。カメさん、先ほど古代新羅の古墳からの出土物に、角杯をあげました。角杯は、ローマ帝国では、ワインやビールを飲むための器です。その角杯の土器が、岐阜県、福井県、石川県など日本海沿岸の古墳から多く出土しているのです。」
「古代の日本列島にワインやビールなどありましたか。」
「カメさん、恵美押勝を知っていますよね。」
「藤原仲麻呂のことですよね。女帝孝謙天皇をロボット化して、国璽を内裏から持ち出して藤原仲麻呂の私邸を公邸として、藤原仲麻呂の私幣を発行したひとですよね。藤原氏のロボットであった、そして、藤原氏の女である光明子を妻にした、後に反藤原氏となつた父聖武天皇と同じに、道鏡勢力に寝返り打った孝謙太上天皇は、淳仁天皇を廃して、称徳天皇として返り咲いて、反藤原氏となり、藤原仲麻呂を討伐したのですよね。」
「そうです。その時、何故、藤原仲麻呂は北陸を目指したのでしょうか。」
「何故ですか。」
「北陸には、古墳時代に造られた明日香ヤマトから東北の酒田津までつづく北陸道があったからです。この北陸道は、ユーラシア大陸から渡来した騎馬民族の軍事道路でもあり交易道路でもあったのです。古墳時代に、ユーラシアの騎馬民族は、リマン・対馬海流を利用して日本海沿岸に渡来していたのです。そのため、古墳時代、日本海沿岸から上陸した騎馬民族は、東国には多く暮らしていたのです。東国から西国に至るには、北陸道の他に、東山道、東海道があったのです。しかし、645年唐進駐軍が西国に現れ、701年唐帝国の税制により、西国がその唐進駐軍の傀儡政権となると、その騎馬民族の軍事・交易路の三路には、北陸道には愛発関、東山道には不破関、東海道には鈴鹿関が設けられ、西国と東国の分岐となるのです。関西、関東とは、その三関を基準にしているのです。その愛発関の先に、日本海の国際港のひとつである敦賀があるのです。」
「そういえば、その三関は、764年藤原仲麻呂の乱だけではなく、756年反藤原氏の聖武法皇の謎の死去の時、そして、729年反藤原氏の長屋王謀殺の時も閉ざされていましたよね。これって、藤原日本史で述べる蝦夷、ナベさんの説では、突厥騎馬民族と花郎騎士団末裔が武装して、親騎馬民族の王(テングリ)の不審死に抗議するため、東国から西国に攻め上ってくるのを阻止するためだったのですか。」
「それは断定できませんが、考えられることです。その騎馬民族渡来地の日本海沿岸には、騎馬民族の産業のひとつである、創薬業が盛んであったのです。騎馬民族の祖スキタイは、鹿を聖獣としていましたが、その小鹿の角を乾燥して強壮剤としていたのです。この強壮剤は、今日ではロクジョウと言われ、高級ドリンクに添加されています。」
「そういえば、今日でも富山のくすりは有名ですよね。」
「奈良の律令時代、祖・調・庸の他に、北陸からは、黄連、独活、牛膝(強壮剤)、桔梗(せきどめ)、白朮(胃薬)、菖蒲、人参、僕奈、細辛、大黄(健胃剤)、升麻、夜干、黄精(とろろ)、榧子、薯蕷、桃仁、兎絲子(強壮剤)、蜀椒、などの「くすり」が、北陸道により平城京の宮内省の典楽寮に運ばれていたのです。」
「藤原日本史の古代歴史を読んでいると、文化花咲く西国に対して、東国は不毛の地のように描写しているように感じますが、東国では創薬業が古来から盛んであったとは意外です。」
「古代の日本海沿岸には、ステップロードにより、ローマ帝国の文化も伝播していたのです。そのステップロードの中継地である朝鮮半島の古代新羅から、日本海沿岸に渡来したとする根拠のひとつとして、古墳の埋葬品があるのです。それが、敦賀地域の向出山一号墳からの埋葬品です。朝鮮半島慶州の古墳埋葬品に類似した、金銅装武具が埋葬されていたのです。藤原日本史史観の学者は、さいたま県行田市のさきたま古墳群の稲荷山古墳から出土した鉄剣を大和朝廷からの下賜品と述べているように、それは5世紀代の畿内の大王権力との結びつきを示す、と述べているようです。しかし、この敦賀地域の4〜5世紀の古墳には、方墳や四隅突出型方墳などが多くあり、畿内と同型の前方後円墳が見られないと言うことです。」
「すると、4世紀〜5世紀の敦賀地域には、畿内と異なる民族の存在が示唆されますね。4世紀代の古墳には、実戦用武具の埋葬がなかったのに、5世紀になると古墳からは多くの実践用武具が埋葬されていったのは、方墳埋葬文化民族と前方後円墳埋葬文化民族との戦いがあったからですか。」
「埋葬品の種類から考えれば、そのような説には無理がないようです。そのような古代敦賀の歴史を、藤原氏は、反新羅を基準として創作された「日本書記」の物語で、隠蔽したようです。」
「どんな物語ですか。」
「敦賀は、713年以降の地域名ですが、それ以前は、「つぬが」(角鹿)と呼ばれていたのです。「日本書記」の物語によれば、敦賀の地名の起源は、ツヌガアラヒトの渡来があった地であるからとするのです。」
「知っていますよ。そのひと、額に角が生えていたのですよね。」
「第10代崇神天皇の時代、額に角がある人が船に乗って越国の笥飯浦(けいうら)に着いた。そのため、其処を角鹿というようになった。その人の名は、都怒我阿羅斯等(ツヌガアラシト)で、意富加羅国(オホカラ)の王子で、亦の名は干斯岐阿利叱智干岐(ウシキアリシチカンキ)といった、と述べています。この創作名から、「日本書記」物語の「ウソ」がバレるのです。」
「どういうことですか。」
「阿羅斯等と阿利叱智とは、古代新羅では、貴人を表わす意味です。では、都怒我とは何かと言えば、古代新羅の最高官位は、「角干」で、「スプルカン」と発音します。因みに、古代新羅の王は、マリツカン(麻立干)、キョセカン(居西干)、ニシキン(尼師今)、と言います。この「角干」(最高官位)が、日本列島に渡来すると、そのスプルカン「角干」を「ツノカン」と万葉語読みして、その発音を、ツヌガ「都怒我」としてしまったのです。そして、その渡来元の意富加羅国とは、金海の加羅であり、古代新羅の支配地となっていたのです。反新羅の藤原不比等は、古代新羅から、対馬海流により「ツヌガ」に古代新羅の最高官位者が渡来した史実を、「角がある人」の物語を創作して隠蔽していたのです。」
「オレ、てっきり敦賀の語源は、「角がある人」と思っていました。藤原日本史もナナメ読みすると、意外な史実が現れますね。ナベさん説を、初めはトンデモ説と思っていましたが、こうしてオレの疑問点を少しずつ解き明かしているうちに、信じられるようになりました。」
「カメさん、信じるのかってですが、私の説は、あくまでも推測の域をでないものです。それは、文字に残された史料のないことを、推測で述べているわけですから。」
「分かっていますよ。百人居れば、百の歴史があることぐらい。この話の初めは、鎌倉時代の遊行する貧しい賎民の話でしたよね。それが、ナベさん説では、鎌倉時代には、遊行する貧しい賎民など存在しなかった。それ故、東国のモンゴル帝国との国際交易による裕福な騎馬民族末裔に寄生する妻帯肉食する破戒僧はいても、貧民を救済したとする鎌倉新仏教など存在しなかった、と言うことですか。」
「そのように考えています。」
「すると、鎌倉時代はどんな時代だったと推測していますか。そして、室町時代に、藤原氏北家の流れにある日野氏の蓮如が、古代新羅から渡来した民族が住む、大阪難波と敦賀津があった北陸を拠点としていた意味は、やはり、銭集めと騎馬民族の歴史抹殺だったのですか。」
「結論から言えば、そのように考えられます。藤原日本史では、蓮如は、北陸や大阪の賎民を武装組織化して、一向一揆を起こした、と生活に逼迫する百姓の蜂起としているようですが、これは、単なる百姓一揆などではなく、民族戦争と宗教戦争だったのです。」
「一向一揆が民族・宗教戦争ですか。その説聞かせてください。」
「室町時代に頻発する一向一揆の下地は鎌倉時代に創られていたのです。鎌倉時代の日本列島は国際商人が多く渡来して、国際経済活動が盛んであったのです。それは、マルコポーロの「東方見聞録」にあるように、ジパングは黄金の国であったからです。マルコポーロは、1275年フビライに会見、1292年モンゴル帝国を去ったとされています。しかし、マルコポーロは、実際にはモンゴル帝国には行かず、イスラームの国際商人から日本列島の話を聞いたことを記述したものだ、という説もあるのです。」
「すると、黄金の国ジパングの物語もウソなのですか。」
「日本列島には、古代から国際商人が、日本列島が産出する朱砂、水銀、銀、金、銅、真珠、琥珀、翡翠、薬草、絹、などの資源を求めて渡来していたのです。」
「学校で、日本には資源がなく、だから、勤勉に働いて稼がないと、暮らしていけない、などど刷り込まれた覚えがありますが。」
「敦賀津が、ステップロードにより騎馬民族や国際商人達が渡来する地とすれば、難波津は、シルクロードにより国際商人が渡来する地といえます。その敦賀津と難波津は、敦賀→琵琶湖→淀川→難波、とステップロードとシルクロードとの交易路を繋いでいたのです。この敦賀と難波との中継地として、秦氏が支配した京都盆地があったのです。古墳時代以前の京都盆地は、中央に加茂川が流れていた湿地帯だったのです。4世紀から始まる古墳時代に、古代新羅から渡来した民族が、古代エジプトの高度土木技術を駆使することにより、その湿地帯中央を流れる加茂川を、盆地の東に流れる高野川に合流させ、そして、巨大前方後円墳を築くことにより、居住地に改良したのです。」
「平安時代、唐帝国を後ろ盾とする百済系桓武天皇は、その京都盆地にある巨大前方後円墳を破壊して、大内裏を建設したのですね。その結果、桓武天皇は怨霊に悩まされるわけですね。そして、平安時代末期には、その大内裏は農地となり、京野菜が栽培されていたのですね。藤原日本史では、鎌倉時代になると京都の御所である大内裏が農地になっていたなどとは述べていませんよね。唯、王権が天皇から院に移り、加茂川東岸の白河に政の中心が移った、などと苦しい説明をしていますよね。」
「藤原日本史の鎌倉時代の歴史は、桓武平氏の北条氏が作成した「吾妻鏡」を基本史料としています。その「吾妻鏡」は、鎌倉幕府の正史として、1180年から1266年までを記録していますが、京都の記録には、作為があるのです。それは、秦氏の祀りである「祇園会」について一切の記録がないのです。」
「「祇園会」の記録を掲載すると、百済系の北条氏が不利になるからですか。」
「「祇園会」は、ペルシャ絨毯を飾りとする山車や麻多羅神を乗せた牛が練り歩く祀りであるため、その祀りの歴史を知られると、京都盆地が、古墳時代から秦氏の支配地であって、桓武天皇家を「皇族」とし、秦氏を「蕃族」とする、814年「新撰姓氏録」の「ウソ」が、バレてしまうからです。」
「そういえば、北条鎌倉幕府は、京都の治安を護るために、1221年「六波羅探題」を設置したといっても、幕府の警察権は、桓武天皇が支配した、農地となってしまっていた大内裏一帯の「右京」と「左京」で、加茂川東岸のドクロヶ原(後の六波羅)には及ばなかったのですよね。その東岸に「祇園社」が存在していたのですよね。」
「京都の寺院や奈良の寺院や神宮寺にも、北条鎌倉幕府の警察権が及ばなかったのです。」
「すると、鎌倉時代の寺院や神宮寺は、仏を安置する処ではなく、ナンデモありの無法地帯ということですか。」
「藤原日本史では、東国の武士を統率するために、1232年「御成敗式目」を制定した、としているようですが、その掟で、東国の武士を統率できたかは疑問です。それは、高利貸しを、長槍と弓矢で武装した騎馬武者としてガードする「悪党」が、活躍していたからです。」
「ナベさん説では、「悪党」は、「わるい集団」の意味ではなく、「アク」は騎馬民族語で「勇者」の意味で、「勇者の集団」の意味ですよね。」
「そうです。鎌倉時代は、北条鎌倉幕府の警察権がひ弱なため、ガードマンを雇える裕福な高利貸しやステップロードやシルクロードから渡来した国際商人は、その「悪党」を護衛として利用していたのです。鎌倉時代の日本列島には、国際商人が溢れていたのです。それは、ユーラシア交易を可能にした、モンゴル帝国が興ったからです。」
「その説明の意味が、飲み込めません。」
「藤原日本史では、モンゴル帝国とは、政府間の交易は一切なかった、と述べています。その理由として、1274年文永の役で、モンゴル帝国軍が対馬・隠岐を侵し、肥前・筑前に上陸したが、一夜で去った、とし、そして、1281年弘安の役で、モンゴル軍と高麗軍10万が、筑前・長門を侵したが、台風により全滅した、とする「元寇」があったからとしています。つまり、モンゴル帝国は、日本国への侵略を計画、そして、二度も実行したからと述べているのです。」
「ナベさん説では、その二度の「元寇」は、日本列島の支配を目論むモンゴル帝国船団ではなく、モンゴル帝国に滅ぼされた南宋と高麗との王族や貴族の大亡命船団とするのですよね。その根拠のひとつとして、「元寇」の沈没船から、種籾の入った壺や農機具が引き上げられていたからですよね。」
「藤原日本史でのモンゴル帝国のイメージでは、武装した野蛮な騎馬軍団により他国へ侵攻し虐殺の限りを尽くす、というもののようです。しかし、1260年即位のフビライの時代になると、モンゴル帝国は、自由貿易と重商主義政策により、ユーラシア大交易圏を出現させていたのです。マルコポーロが、モンゴル帝国にいたとする1275年から1292年の時期が、そのフビライが統治していた頃だったのです。」
「すると、マルコポーロが見聞したとするジパングは、1274年文永の役と1281年弘安の役の頃ですね。」
「モンゴル帝国の国際交易の基本は、国を相手ではなく、自由貿易であるため、危険を冒してまで、他国を侵略することはなかったのです。その根拠として、イスラーム国を支配下においても、そのイスラーム人を虐殺するのではなく、財務・経済に詳しいイスラーム人を国家運営に参画させていたのです。」
「モンゴル帝国は、他民族でも優秀であれば、国家経営に参加させていたのですか。」
「フビライの時代、1279年南宋国を滅ぼしたのですが、その南宋国のヨーロッパから日本列島までを含む海洋交易システムは、そのままモンゴル帝国の海洋交易システムとして取り込まれ、このことにより、モンゴル帝国の海洋交易は、西はドナウ河口、アナトリア、東地中海から東は日本海沿岸まで広がっていたのです。この南宋滅亡の前に、南宋軍の一部が幼帝をかついで、東南沿岸部を流亡した一部が、黒潮に流されて、北九州に流れ着いた亡命大船団が、1281年弘安の役とする実態ではないか、と考えています。」
「その「元寇否定説」面白いですね。すると、鎌倉時代、南宋の海洋交易システムを利用して、モンゴル帝国の国際商人は、日本列島の日本海沿岸まで渡来していたのですね。それに対して、南宋から日本列島に亡命して来た禅僧が、国際交易船に乗り、モンゴル帝国と日本列島の北陸と鎌倉を行き来していた意味が分かりました。」
「そのモンゴル帝国からの国際商人の多くは、ペルシャ語を話すイスラームです。イスラームといっても、チュルク系です。つまり、古墳時代の日本列島を支配していた突厥の末裔です。」
「モンゴル帝国の国際自由貿易の説明を聞いて、今気付いたのですが、鎌倉時代に爆発的に、日本列島各地に「座」が拓かれましたよね。これって、モンゴル帝国から渡来したペルシャ語を話すイスラーム商人と関係があるのですか。それと、鎌倉時代に突然現れた武家家紋も、モンゴル帝国から渡来した国際商人と関係があるのですか。」
「「座」は、平安時代から、イエズス会傀儡の織田信長が、戦国時代の「座」の多くを統率していた比叡山延暦寺を焼き討ちして、その権力を剥ぎ取り、「楽市楽座」を始めるまで存在していました。座とは、商工業者や芸能民による排他的同業者組合のことです。藤原日本史の説明では、朝廷、貴族、寺社などに金銭などを払う替わりに、営業・販売の特権を認めてもらっていた、とするのです。」
「すると、座を構成するひとが、朝廷、貴族、寺社に金銭を払って特権を購入したわけですか。その説明、おかしいと思いません。鎌倉時代に、日本列島各地に座が爆発的に開かれたのですよね。しかし、その鎌倉時代の朝廷や貴族は、律令制度が崩壊してしまっていたので、税制による収入がないわけですよね。それに、律令軍が崩壊してしまっていたので、その政治権力もないわけですよね。その何もない朝廷や貴族に、金銭を払って営業や販売の特権を得るわけですか。誰ですか、その構成員って。」
「座の構成員は、供御人、寄人、神人です。」
「その人たちって、藤原日本史では、犬神人などと蔑称され、寺社の奴隷のように描写されているひとたちですよね。そのひとたちは、天武天皇の血が流れる他部親王が存命中の奈良時代までは、貴族階級であったのですよね。」
「そうです。新羅系天武天皇家の末裔は、百済系桓武天皇の平安時代になると、没落の一途を辿っていたのです。平安時代に発生する遊行する芸能民とは、祭事場を失った祭祀者の末裔だったのです。古墳時代、太陽信仰民族の祭祀場であったイカルガの宗教施設は破壊され、その跡に法隆寺が移築され、奈良盆地の巨大古墳は破壊され平城京となり、その平城京を見下ろす三笠山の祭祀場は破壊され、その跡に春日大社が創建され、三つの山があったから三笠山なのに、太陽信仰民族の祭祀場があった山は春日山となり、そして、上町台地にあった巨大前方後円墳は破壊され、その跡に四天王寺が、奈良時代に移築されたのです。その結果、古墳時代は「神」に対して行っていた「芸」を、平安時代には「ひと」に対して「芸」を行い、生活の糧として生き延びていたのが芸能民の実態です。」
「だから、平安時代の芸能民である遊女は、天皇の子まで産んでいたのですね。平安時代まで、遊女の子でいることを明らかにしていたのが、鎌倉時代になると、遊女は悪女のイメージに落とされたのは、やはり、北条鎌倉幕府が、反新羅の第二百済王朝だったからですか。」
「鎌倉時代、その芸能民も、座を構成していたのです。その座は、大都市や商工都市を中心として、仕入れの独占や、そして、芸能の独占興行をして、座以外の者を武力で排除していたのです。その仕切り者が、「役座」です。座の構成員の多くは、騎馬民族系であるので、騎馬が得意です。その騎馬により、物流の独占もおこなっていたのです。そして、その騎馬による物流ルートにより、生産地の座と消費地の座とを連携していたのです。室町時代の一揆で、馬借がその中心として活躍した、との下地は、鎌倉時代の座の日本列島ネットワークは、騎馬民族により創られていたからです。」
「すると、鎌倉時代、モンゴル帝国からもたらされた物品は、その座の販売ルートで、日本列島各地に騎馬で運ばれていたわけですか。」
「鎌倉時代の日本列島から、砂金、絹、日本刀などがそれらの国際商人により、モンゴル帝国に持ち出される見返りに、モンゴル帝国からは陶磁器や書画骨董が持ち込まれていたのです。多くのひとは、水墨画のことを「日本画」と言っているようですが、床の間を飾る掛軸の山水画は、宋文化で、日本文化ではないのです。鎌倉時代に南宋から亡命して来た禅僧が、床の間文化を日本列島にもたらしたのです。日本列島オリジナル文化は、室町時代を待たなければならなかったのです。」
「ナベさん、その説明おかしいのでは。藤原日本史では、唐帝国の税制により統治されていた奈良時代は、唐風文化であったが、894年遣唐使の廃止後は、唐帝国の文化から抜け出し、日本独自の文化が発展した。これを国風文化と言う、と述べていますよね。」
「藤原日本史の説明では、その国風文化の中心は、京都の平安京となっています。しかし、11世紀になると、加茂川東岸の賎民が暮らす河原で、河原者による「祇園会」が興ると同時に、京都の大内裏は廃墟となっていくのです。その平安時代中期に現れた国風文化と云われるものは、百済文化色の濃いものです。」
「どうして国風文化が百済文化なのですか。」
「それは、平安時代初期、桓武天皇が、奈良を独占支配する藤原氏に対抗するために、唐帝国の山東半島に亡命していた百済移民を、京都に移住させていたからです。ですから、京都の朝廷に侍る女官は、百済のおんな正座である、片膝立て座りをしていたのです。そして、京都の貴族の多くは、日本語をまだよく理解できない百済移民と通訳なしにコミニュケーションがとれていたのです。因みに、京都の貴族は、新羅からの来訪者とのコミニュケーションには、通訳を必要とてしていたのです。」
「そういえば、平安時代を描写した絵に、片膝座りの女官を見たことがありました。平安京は、亡命百済移民のコロニーとなっていたのですね。すると、やはり、日本文化は室町時代からですか。」
「そうです。日本文化が興るには、鎌倉時代での異民族文化の融合が必要だったのです。」
「日本列島のその異民族文化の融合に、騎馬民族末裔が運営した「座のネットワーク」が貢献したわけですか。それらのモンゴル帝国からの舶来品を販売していたのが神人で、その販売所が寺社というわけですか。まさに、「門前市をなす。」ですね。」
「しかし、その鎌倉時代に騎馬民族末裔の神人が独占運営していた座も、室町時代になると、地方の商工業者が武力を持つ地元領主と結びついて、神人が独占していた座の権威打破が図られていくのです。」
「鎌倉時代、その座の営業で繁栄していた東国の都市に、妻帯肉食する破戒僧が寄生のため、多く集まっていたのですね。では、イスラームの国際商人が多く渡来していた鎌倉時代に、突然現れた武家家紋には、とのような歴史があったのですか。」
「藤原日本史の説明では、鎌倉時代になると本格的な合戦が多くなり、武士にとって武勲を上げる機会が増えた、とするのです。そのため、敵味方を区別したり、自身の手柄を確認させるための手段として、武家家紋が現れた、とするのです。」
「公家の家紋は、平安時代の牛舎に貼り付けたのが始まり、と歴史本で読んだ記憶がありますけど、公家の家紋も鎌倉時代からですか。」
「各公家の家紋が現れるのは、武家家紋より後です。いずれにしても、武家家紋は、鎌倉時代に突然現れたのです。」
「やはり、その藤原日本史の説明もおかしいですね。武士の武勲は、敵将の首を持参することにより、恩賞を賜っていたのですよね。騎馬民族では、勇者(アク)は再生復活する、と信じられていたので、死者が復活できないように、落首していたのですよね。家紋を付けて戦場での活躍場面を査定してもらうことは、それなりの意味がありますが、それなら、何故、平安時代末期、アラブ系海洋民族とチュルク系騎馬民族との源平合戦では、赤旗と白旗だったのですか。笹竜胆のマークを付けていたのは、短弓で騎射する源義経ただひとりでしたよね。」
「その武家家紋のデザインに使われている動植物が、オリエント発祥のものであることは、武家家紋の出現の謎を解く鍵となるようです。」
「家紋の動植物は、日本列島古来のものではなかったのですか。」
「家紋本の説明では、例えば、渡辺氏の三ツ星に一文字を、オリオン座に一文字と説明しています。オリオン座は、オリエントでは狩人星といわれています。では、一文字とは何をデザインしたものでしょうか。」
「家紋本て、一番槍との説明を読んだ記憶がありますが。」
「武士の実戦武器は、1543年ポルトガルが種子島に鉄砲を伝えるまで、日本刀ではなく、弓矢と槍だったのです。日本刀は、平安時代に怨霊の魂鎮めをおこなう祭祀道具として発明されたものですから、合戦には使われていなかったのです。武士が、合戦で日本刀を使っていたとする誤解は、第三百済王朝の江戸時代、中国の京劇(梨園)をヒントに発明された歌舞伎(梨園)の荒事での戦闘場面で、武士の合戦は弓矢と槍であったのですが、狭い舞台では、弓と槍のたちまわりができないので、日本刀を合戦場面に使ったことから、歌舞伎を観劇したひとが、後に、平安時代に発生した武士は刀で合戦をしていた、と勘違いをしてしまったのです。刃が薄く、折れる、曲がる、刃こぼれする日本刀は、怨霊の魂鎮めのための「武芸」で使用するものであったのです。武士の嗜みは、弓術、槍術、そして、馬術であったのです。日本刀は「武芸者」の祭祀道具であるため、ひとの魂を絶つ斬首に使われていたのです。江戸時代までの斬首執行人は、武士の末裔でならなければならなかったのは、そのためです。その渡辺星の一文字は、槍との説明で正解です。では、その槍は、何と言う槍かと言えば、「ロンギヌスの槍」です。」
「何です、そのロンギヌスって。」
「ローマ帝国軍団の槍という意味です。」
「何故、渡辺氏の家紋に、ローマ帝国軍団の槍がデザインされているのですか。」
「その意味は、嵯峨源氏の流れにある渡辺党は、難波を拠点としていたのです。その難波は、古墳時代、ローランと呼ばれ、古代新羅から渡来した民族が支配した地です。古代新羅は、ギリシャ・ローマ文化継承国であったのです。その古代新羅の軍団は、花郎騎士団といわれ、ローマ帝国軍の流れにあったのです。ローマ帝国軍団は、長槍による集団戦法により敵と戦っていたのです。その長槍は、ロンギヌスの槍と呼ばれていたのです。」
「鎌倉時代に突然現れた家紋には、その氏族の日本列島渡来以前の歴史が表わされていたのですね。そういえば、島津家と弾家の家紋は、十字のマルタクロスですよね。マルタクロスは、元々はキリスト教のシンボルではなく、ミトラ神のシンボルですよね。」
「関東の東山道一帯を支配していた武田家の「四つ割菱」にも、マルタクロスが隠されています。」
「すると、武田の騎馬軍団も、古代新羅の花郎騎士団の流れにあるわけですか。太陽神をマルタクロスでシンボルとするミトラ神は、キリスト教がローマ帝国国教となる前、ローマ帝国軍の軍神だったから。」
「江戸時代になると、庶民も家紋を使い始めましたが、鎌倉時代の家紋は、武家に限られていたのは、氏族識別のためだったと考えています。」
「合戦での識別ですよね。」
「それもあるかもしれませんが、武士は合戦を好まなかったのです。争いごとは、にらみ合いの後、「談合」によりカタをつけていたのです。」
「その武士の紛争解決方は、まるで「役座」に似ていますね。」
「似ているはずですよ。役座は、武士の流れにあるからです。」
「鎌倉時代、幕府の警察力が、寺社を治外法権として存在させていたほど、ひ弱だったのです。国家警察が及ばないことは、何でも有りの無法地帯となります。そこでは、知識による法律ではなく、武力が正義となるのです。」
「それで、北条鎌倉幕府は、1232年御成敗式目を制定して、武士を統制したのですよね。」
「そのように述べているのは、藤原日本史で、北条鎌倉幕府が作成した「吾妻鏡」を史料としているからです。以前にも述べたと思いますが、鎌倉時代の日本列島の歴史は分からないのです。それは、客観的な史料がないからです。鎌倉幕府のあった鎌倉の地は、元は、死者を投げ捨てる地獄谷であったのです。三方を小山に囲まれ、前方は海である居住地の狭い鎌倉には、南宋から亡命して来た禅僧が、細く曲がりくねった切り通しの要所に、円覚寺、浄智寺、建長寺、寿福寺、浄妙寺の五禅寺を建設し、敵からの防衛施設としていたのです。戦国時代に織田信長が、比叡山延暦寺を焼き討ちする以前、寺社には僧兵軍団が存在していたのです。その禅寺での日常会話は、中国語だったのです。その禅僧は、北条鎌倉幕府の軍事顧問や貿易顧問をしていたのです。」
「すると、北条鎌倉幕府の経済も、警察力と同じに、脆弱だったのですね。」
「「泣くこと地頭には勝てない」と言うことは、荘園領主だけではなく、北条鎌倉幕府にもいえたのです。鎌倉時代は、荘園領主と地頭とのトラブル続きであったようです。その原因のひとつが、加徴米の徴収です。律令国家が存在した平安時代、正規の年貢のほかに徴収された付加米のことを、加徴米と言っていたのです。律令国家が崩壊していた鎌倉時代、その加徴米が、地頭得分に継承されていたからです。この地頭と荘園領主とのトラブルを解決するために、御成敗式目などの法律が制定されていた、とするのです。しかし、法律は、強力な警察力の後ろ盾がなければ、その施行は無理です。」
「すると、そのトラブル解決は、やはり武力となるわけですね。見えてきました。豪華な衣装で弓と槍で武装する騎馬武者の悪党の存在です。武家家紋は、その訴訟解決業の営業のために現れた、と考えることはできませんか。武家家紋は、現代での、販売促進のための企業のシンボルマークと同じ、と思えませんか。」
「藤原日本史の説明より、納得できますね。北条鎌倉時代は、院(天皇)も貴族も、住民から各種税を徴収する律令制度が崩壊していたので、経済的に困窮していたと考えられます。そのような院や貴族に、合戦で家紋でアピールしても、何の見返りもないことは確実です。私は、家紋の登場は、氏族から部族への、勢力拡大のためと考えています。」
「どういうことですか。」
「氏族とは、血縁・地縁により結ばれた小集団です。部族とは、ある思想の下に集まった大集団です。騎馬民族の組織を見ると分かりやすいと思います。古代新羅では、武力や策謀により勝手に王様になれなかったのです。古代新羅は、6村に分かれていたのです。村と言っても、農耕民族の村のイメージではありません。古代新羅の村は、独立した都市国家だったのです。その村は、血縁・地縁の氏族により経営されていたのです。その6村が談合して、部族の王様を選定していたのです。その古代新羅の初代王奈勿も、356年そのように6村の氏族長の談合により即位したのです。」
「話は飛びますが、その古代新羅の王選定の話、第三百済王朝の江戸幕府にイジメられていた弾家の部族長の選定と似ていますね。弾左衛門は、世襲名でも、生まれによる血統ではなく、日本列島各地に居住する秦氏末裔の代議員から推薦された者が、談合により選ばれていたのですよね。」
「その部族王を選定するシステムが、古代ギリシャの都市国家での党首選びの選挙と似ていることと、そして、古代新羅と弾家とは、似ているはずです。弾家←秦氏←古代新羅←秦←バクトリア←アレクサンドル大王領←ギリシャ、ですからね。」
「ナベさんの話、飛躍しすぎですよ。鎌倉時代からギリシャへ飛んじゃうだから。すると、家紋は、氏族から部族への人集めに使われた、と考えているのですか。」
「そうです。平安時代、唐帝国軍の後ろ盾により、百済系桓武天皇は、東国の突厥進駐軍や花郎騎士団が死守する東北を侵略し、陸奥・出羽まてを支配下としたのです。西国では、祭祀場を追われた秦氏末裔は、芸能民となり、誰の土地でもない、河原を居住地としていたのです。しかし、907年唐帝国が滅ぶと、その秦氏末裔は、11世紀になると京都の加茂川の東岸の死体が流れ着く、ドクロが原を中心に結集し、天皇や貴族を震え上がらせる祀り、「祇園会」を発明したのです。しかし、藤原氏の陰謀により、「夷を以って、夷を制す。」の戦術により、アラブ系海洋民族の平家と、チュルク系騎馬民族の源氏との源平合戦により、その両部族の勢力は壊滅状態となってしまったのです。しかし、1271年東アジアに、騎馬民族国家モンゴル帝国が興ると、日本列島の平家末裔も源氏末裔も、復活の兆しが現れるのです。それは、モンゴル帝国は、自由貿易を標榜していたからです。自由貿易とは、国家と国家との取り決めで行うのではなく、個人により貿易を行うことです。平家も源氏も、国家が平安時では、国際船を繰り出して国際交易民族として活躍していたのです。その平安末期から鎌倉初期まで衰退していた両部族は、鎌倉時代になると、そのモンゴル帝国との交易により、その勢力が復活し始めたのです。」
「その話の根拠はあるのですか。」
「史料としてはありません。ここに鎌倉と京都の大火の年表があるのです。その年表によると、

☆1206年騎馬民族王、チンギス干即位。
1208年京都大火。
1213年京都大火。
1218年京都大火。
1245年京都大火。
1247年鎌倉の浮浪人を追放。
1249年京都大火。
1251年鎌倉大火。
1254年鎌倉大火。
1260年鎌倉大火。
☆1271年フビライ、モンゴル帝国興す。
1280年鎌倉大火。鶴岡八幡宮炎上。
1302年鎌倉大火。
1310年鎌倉大火。
1315年鎌倉大火。
1333年足利尊氏六波羅探題を陥れる。北条鎌倉幕府滅ぶ。

カメさん、この記録を見て、何を感じますか。」
「火付けのゲリラ戦ですか。」
「それでは、京都や鎌倉の滅亡を望む勢力は、誰ですか。」
「京都と鎌倉は、亡命百済貴族末裔の支配地だから、平家か源氏の末裔ですか。」
「京都は、平家の平清盛が支配した地です。しかし、鎌倉は、源氏の支配地だった処です。そして、源氏は、秦氏末裔で、古墳時代、京都盆地を支配していたのです。」
「すると、ゲリラ戦を仕掛けたのは源氏ですか。でも、おかしいですね。源氏の棟梁である清和源氏三代は、1199年源頼朝暗殺、1204年源頼家幽閉後暗殺、1219年源実朝、公暁に殺された、となり、源氏将軍三代が、北条氏の陰謀により暗殺されていたので、源氏勢力は壊滅していたのでは。」
「ここに藤原日本史のトリックがあるのです。清和源氏には、謎が多くあるのです。その謎の清和源氏に、嵯峨源氏が歴史上消されているのです。」
「どういうことですか。」
「清和源氏の祖とされているのが、満仲なる人物です。しかし、満仲の出自が不明なのです。」
「藤原日本史では、摂津多田の生まれ、としていますよね。そして、父は経基、とされていますよね。」
「清和源氏の系図では、清和天皇→貞純親王→源経基→源満仲、となっています。しかし室町時代以降に大幅増補改訂されている「尊卑分派」によれば、父経基より、子満仲は5歳も年上なのです。」
「その出自不詳の満仲は、いつ歴史上に現れたのですか。」
「969年安和の変です。」
「反藤原氏の醍醐源氏の左大臣源高明を、密告により大宰員外帥にさせた事件ですね。」
「その密告者が、満仲です。その満仲は、密告をしたことにより、藤原氏の推薦で叙位されたのです。」
「すると、満仲なる人物は、藤原氏の手先とも考えられますよね。」
「そのように考えるのが自然です。というのは、その満仲なる人物の末裔軍団が、藤原氏が奈良時代から望んでいた砂金の産地、陸奥国を武力で奪うため、大活躍していたからです。」
「1051年前九年の役と1083年後三年の役ですね。」
「その陸奥国略奪戦争で活躍した、源義家と義光兄弟は、何故か、兄は八幡太郎、そして、弟は新羅三郎を名乗っているのです。」
「清和源氏の祖満仲は、出自不詳ではなかったのですか。その子孫が、八幡や新羅を名乗ることは、満仲も新羅と関係があったからですか。」
「ここに藤原日本史での、嵯峨源氏が清和源氏に吸収されていく物語があるのです。その話によると、嵯峨源氏の流れにある源綱は、摂津国多田に清和源氏を形成した源満仲の娘婿である仁明源氏の源敦の養子となり、母方の里である摂津国渡辺に居住し、渡辺綱と名乗り、渡辺氏の祖となった。そして、渡辺綱は、義父源敦の妻の兄である摂津源氏の源頼光の郎党となり、頼光四天王の筆頭となる、としているのです。源頼光は、清和源氏の系図では、清和天皇→貞純親王→源経基→源満仲→源頼光、となっているのです。」
「その話では、渡辺綱は、清和源氏の源頼光の配下ということですよね。でも、その話おかしいですよね。源氏は、天皇からの賜姓であるから、天皇の名が源氏の前に、例えば、嵯峨源氏や醍醐源氏のようにあるわけなのに、多田源氏や摂津源氏なんてアリですか。それに、反藤原氏の嵯峨源氏渡辺氏が、藤原氏の私兵であった満仲の末裔の源頼光の配下となるはずはありませんよね。その満仲は、反藤原氏の醍醐源氏の左大臣源高明を無実の密告で貶めていた人物ですよね。その源高明が、廟堂から無実の罪で失脚した後、藤原道長の栄華につながっていくのですよね。」
「そうです。藤原氏の邪魔者は、「藤原日本史」の物語により、歴史上から消されて行くのです。藤原日本史で、供御人、犬神人、寄人、悪党など説明の曖昧な人物や集団は、反藤原氏の者だと思って差し支えないようです。」
「すると、北条鎌倉幕府時代に活躍していた悪党とは、反藤原氏で、嵯峨源氏や醍醐源氏末裔と考えてもいいのですか。」
「「悪党」とは、固有名詞ではなく、「勇者の集団」という意味ですから、反藤原氏だから、「悪党」ということではありません。武装集団が、自ら「悪党」を名乗るのは、売り込みのための、広告世界でのキャッチコピーのようなものです。この「悪」は、個人の名前にも織り込まれていたほど、鎌倉時代ではポピュラーな言葉であったようです。」
「すると、親鸞という人物が唱えたとする「悪人正機説」の「善人なをもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」も、ずいぶん違う解釈となりますね。」
「そうですね。悪人こそが阿弥陀仏の本願による救済の主正の相機である、と一般的に解釈されているようですが、私はそのようには考えていません。」
「何故ですか。歴史教科書にもあるし、有名作家が「親鸞」を小説で描いて、悪人正気説を説いていますよね。」
「そもそも、南無阿弥陀仏の呪文を唱える浄土宗の教えは、「釈尊の唱えた仏教の教えか。」、との疑問があるからです。」
「どういうことですか。」
「鎌倉時代、浄土宗の教えを受け入れた武士の中には、阿弥陀如来=軍神、と捉えていたようです。武士には、勇者は復活再生する、と信じられていたのです。その勇者復活思想の源は、ローマ帝国軍のものです。ローマ帝国の軍神ミトラは、戦闘場面で降臨し、勇者を復活させる、と信じられていたのです。浄土教の悪人(勇者)往生思想は、武士の思想とダブルのです。」
「阿弥陀如来は、インドでは「アミダーバ」で太陽神ですよね。以前述べた、ナベさんの説では、阿弥陀仏←アミダーバ←ミトラ神、で、全て太陽神である、とするのですよね。」
「カメさん、室町時代に、何故、一向一揆が浄土真宗の信者を中心に、全国で発生したと思いますか。」
「藤原日本史では、一向一揆は、民衆による自治を実現するための戦いであった、と述べていますよね。自治とは、国家に管掌されずに集団を自らの掟により統治する、という意味ですよね。つまり、自治都市とは、都市国家のようなものですか。」
「そうです。その一向一揆の中心に、馬借の存在があったのです。そのことから、一向一揆は、単なる貧民の農民による一揆などではなく、騎馬民族末裔による、室町幕府からの独立戦争と考えられませんか。」
「でも変ですよね。騎馬民族は、肉食するため、肉食禁忌、殺生禁忌思想の仏教信者になるわけないですよね。国際交易で繁栄する騎馬民族末裔の村に寄生した、架空の人物親鸞のような妻帯肉食の破戒僧が、比叡山延暦寺から出ていたのも不思議ですね。」
「その武士を浄土真宗信者にしたトリックが、平安時代に現れた浄土宗です。鎌倉時代には、比叡山延暦寺から独立していた浄土真宗など、存在していなかったのです。浄土真宗が、延暦寺から独立したのは、室町時代の蓮如の時代からです。」
「何だか、藤原日本史にない説なので、面白くなりそうですね。」
「鎌倉時代では、麻多羅神は、阿弥陀如来の守護神だったのです。」
「その証拠でもあるのですか。」
「平泉の毛越寺の常行堂の修正会は、現在に伝わるうちで最も古い形式を残している、と云われています。その毛起寺の本尊である阿弥陀仏の背後の後戸には、摩多羅神が祀られているのです。」
「その毛越寺は、何宗なのですか。」
「天台宗系です。」
「それで、その話の流れが分かりました。」
「どんな流れですか。」
「天台宗は、百済系桓武天皇の命で、遣唐使留学僧として渡海し、805年帰朝した最澄が創めた宗派ですよね。その天台宗の宗教施設は、比叡山に創建された延暦寺ですよね。その比叡山は、古墳時代、秦氏の宗教施設があった処ですよね。つまり、ミトラ神が祀られ、そして、殺牛祭の行われていた処ですよね。」
「そうです。藤原日本史では、殺牛祭の意味を述べていませんが、百済系桓武天皇は、延暦10年(791年)と延暦20年(801年)の二回、その殺牛祭の禁令を出しています。「日本書記」にも、皇極元年(641年)7月25日条に、雨乞いのため「村々の祝部の教えのままに、あるいは牛馬を殺してもろもろの社の神を祭る(いのる)。」、とあります。」
「その殺牛祭とは、ミトラ神の化身である牡牛を屠る、太陽神復活の儀式ですよね。」
「そうです。ミトラ神の牡牛屠り儀式は、古墳時代に終わったのではなく、平安時代にも行われていたのです。つまり、秦氏の祭祀者の存在が、その桓武天皇の禁令で証明されるのです。そのミトラ神を歴史上抹殺するため、京都盆地を乗っ取った亡命百済貴族は、ミトラ神を、摩多羅神としていたのです。そのミトラ神抹殺の物語に、慈覚大師円仁の登場となるのです。承和15年(848年)唐より帰朝した円仁は、「摩多羅神を崇拝しなければ、浄土往生はかなわない。」、と聞いたのです。そこで、円仁は、常行堂に摩多羅神を勧請した、とするのです。このことから、摩多羅神は、ミトラ神から、浄土往生の神となっていくのです。」
「すると、摩多羅神は、阿弥陀仏と同じですよね。だとすると、秦氏末裔の武士には、阿弥陀如来=軍神の式が理解できますね。だって、阿弥陀如来=摩多羅神=ミトラ神=ローマ帝国軍の軍神となるわけですから。」
「北条鎌倉時代、モンゴル帝国の商人と、自由貿易により栄えた騎馬民族の支配地である北陸や大阪難波では、阿弥陀仏信仰が広まるにつれ、その守護神摩多羅神も崇拝されていたのです。中世になると、その摩多羅神は、「玄旨帰命檀」とよばれる勧請の秘儀、つまり、殺牛祭、により阿弥陀信仰の本尊として祀られて行くのです。しかし、第三百済王朝の江戸時代、貞享4年(1687年)徳川綱吉による生類哀れみの令が発布されると、元禄2年(1689年)、沙門霊空が、摩多羅神を血の儀式を行う邪教だと極めつけたことにより、摩多羅神の血の儀式が禁止され、摩多羅神が歴史上抹殺されたのです。」
「ナベさん説を信じるかどうかは、今は分かりませんが、藤原日本史の鎌倉時代がかすんで行くようになってきました。」
「歴史は、その史観により、個人の立場により、色々変化していきますから、多くの人の説を知ることは、歴史世界が広がります。私が述べている歴史は、私個人の史観により構築されたものですから、押し付けることもしないし、また、信じろ、とは言いません。」
「もう一度、藤原日本史の鎌倉時代を読んでみます。」
「そうして下さい。藤原氏が、何を隠そうとしていたのか、分かると思います。カメさん、窓を見てください。太陽が沈みかけていますよ。」
「もうそんな時間だったのですね。」
「今日は、これで終わりにしませんか。」
「了解です。」
「近いうち、また、レポートをメールします。では、さようなら。」
「ありがとうございました。」

オレには、数十分のチャットだと思っていたが、数時間を優に超えていた。しかし、疲労感はない。パソコンをオフにすると、心地よいダルさが、オレを襲った。  

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コメント
 
01. 2013年10月02日 22:14:16 : eI7yXsjS8k
井戸水は硬水で飲料に不向きって、馬鹿じゃねーのか?
ツッコミどころ多すぎて、やる気も失せる。
そのための長文コピペなんだろうな。

02. 2013年10月05日 01:02:25 : y2D6eX286Q
eI7yXsjS8k に一致する情報は見つかりませんでした。

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